閑老人のつぶやき 日本文化における悪と罪
お気づきのように今年に入ってから、私はホームページへの書き込みを続けていますが、人の論文を書き写し、それにコメントを加えるということしかしていません。それ以上のことはできない状態が続いています。私自身が限界に突き当たっているためです。当分はこの状態を続けていくほかはないと思っています。何よりもそれは、私が特定のテーマを自ら追求する研究者ではなく、一人の好事家(ディレッタント)に過ぎないからでしょう。今回取り上げるのは、中村雄二郎の『日本文化における悪と罪』(新潮社、1998年)です。これは論文集です。そのいくつかを何度かにわたって紹介して行きたいと思います。初めに、その「第一章 日本文化における悪と罪――オウム真理教問題にふれて」を取り上げます。この論文は、1996年に「エラノス会議」(ユングとキリスト教 その1参照)でなされた講演で、雑誌『新潮』96年12月号に掲載されたものです。中村雄二郎については、その本を何冊も読み、共鳴するところが多く、私が大いに啓発されてきた著者の一人です。今回取り上げるものがベストとは言えませんが、これまで書き込んできたこととの関わりで、その中からいくつかの論文を紹介することにします。
第一章 日本文化における悪と罪
――オウム真理教問題にふれて
1 〈悪の哲学〉の一環として
私は、一九八九年から五年がかりで雑誌『へるめす』に「悪の哲学ノート」を十回書きつづけ、一九九四年の十一月にそれを単行本として刊行した(岩波書店)。日本の哲学者の一人としてこのような問題を突っ込んで考えることになったのは、かねがね抱き、自分のなかで次第に大きくなってきた次のような自問にもとづくものであった。現代が明らかに〈悪〉がいろいろなかたちで世界中に横行している時代であるのに、普遍的な思考の形態であるはずの〈哲学〉が、〈悪〉の問題に理論的に十分に対処できないのはなぜだろうか、と。
この場合、〈哲学〉というのは、ギリシアから受け継がれた西欧の伝統的、正統的な哲学のことであり、したがって、右のような問いかけは、その中枢をなす西欧形而上学の根本をなす〈存在論〉の性格に大きくかかわることになる。存在の在り様つまり存在性を問う存在論は魅力的な知の形態であるし、人類の知に多くの貢献をもたらしたが、悪の問題に関しては、その弱点を露呈した。なんとなれば、簡単にいって、西欧的な存在論の観点からすれば、善の極致たる神は大文字の〈存在〉にほかならず、それに対して、悪は存在の欠如あるいは〈非存在〉であることになるからである(*)。もちろん、西欧哲学の歴史のなかで、悪がまったく問題にならなかったわけではない。
* このようになった背景には、ユダヤ・キリスト教が世界宗教化の過程で各地の〈異教〉の神々と対決し、それらを〈悪魔〉として脱聖化し、否定的な存在とすることによって、自己の勢力圏に取り込んだという事情があるものと思われる。
△ 「善の欠如」については「ユングとキリスト教 その4」、「ルターの人間学 付論3」を参照して下さい。
だが、そのような悪についての西欧的な考え方たるや、カントの〈根本悪〉Radikalböseの考え方が典型的に示すように、キリスト教的原罪の哲学版であることが多く、この場合悪は、自然的、本能的な欲望の肯定としてとらえられているにすぎない。カントに先立つ大哲学者ライプニッツの〈最善原則〉principe d’optimumの場合も、悪は、その根源を被造物の自然的な本性のうちに持っているとされている。しかしながら、最終的にはかえって神的な予定調和、つまり永遠の真理に含まれ、それを豊かにする働きを持つもの、いわば〈楽曲における不協和音〉のようなものとみなされるのである。
西欧の伝統的・正統的な形而上学の考え方によれば、このように〈悪〉は非存在であるか、あるいは唯一神あるいは最高善に回収されるべきものとなる。だが、このような見方だけによっては、現代のさまざまな悪の問題に理論的に適切に対処できるだろうか。もしも、できないとしたら、新しくその問題を考える手がかりを、われわれはいったいどこに求めたらいいのだろうか。
△ 著者は哲学者として「悪」の問題に理論的に対処しようとしています。その際西洋の伝統的なキリスト教哲学によっては、今日の深刻な悪の問題を十分に解明することはできないと見なしています。
私が悪の問題について新しく考えるようになった一つのきっかけは、インドネシアのバリ島を訪れバリ=ヒンドゥー文化に接したことにある。そこで見た悪あるいは負性の持つ積極的な働きによって一種のカルチャー・ショックを受けたことによる。というのも、バリ島のコスモロジーあるいは象徴的世界において、魔女ランダはたしかに悪魔的な怪獣ではあるが、彼女に対立するのは善なる神ではなくて、善なる男性の怪獣バロンなのである。
そのバロンは、いまでは善なる怪獣として村人たちをランダの魔力から守る働きをしているが、もともとはランダと同族の悪いことをする怪獣であった。したがって、善獣であるこのバロンのうちにもまだ悪のにおいのする怪獣性がつよく残っている。しかも、このバロンとランダとの宿命的な闘いにおいて、ただ単に変幻自在であるだけでなく、いっそう魅力的な振舞をするのは、善なる怪獣バロンではなくて魔女ランダの方なのである。そこには、きわめて根源的な大地母神(magna mater)の生命力と知恵とが見られるわけである(*)。
* 詳しくは、拙著『魔女ランダ考』(一九八三年、岩波書店、〔著作集では第Y巻所収〕)第一章第三節参照。
△ 善と悪とは、バリ島の象徴的神話的世界においては、西洋のように截然と区別されてはいないということでしょう。
他方、西洋の哲学的あるいは思想的伝統のなかで、〈悪の問題〉について考えなおす上で、私に大きな手がかりを与えてくれたものの一つは、ジャンセニスムの開祖たるコルネリウス・ジャンセニウスの流れを引いた〈三つのリビドー〉説である。これは、彼の『アウグスティヌス』(一六四〇年)に由来しているが、パスカルが『パンセ』の断章四五八(ブランシュヴィック版)のなかで引用している次のことばによって一般にも知られている。
いわく、《およそ世にあるものは、肉の欲、目の欲、生の驕(おご)りである。libido sentiendi(感覚のリビドー)、libido sciendi(知のリビドー)、libido dominandi(支配のリビドー)。これら三つの河が潤しているというより、燃え立っている地上とは、なんたる不幸であろう。云々。》このジャンセニウスのとらえ方がまことに興味深いのは、そこにおいてフロイトに先立って、リビドーということばがつよい意味を帯びて使われているだけではない。
それにもまして重要なのは、リビドーが〈感覚〉についてだけでなく、〈支配〉や〈知〉をも含んだ人間能力のもっとも基本的な三つの分野について言われていることである。これらの三つのリビドーのうちで、第三の〈支配のリビドー〉は、いうまでもなくアルフレート・アドラーを先取りしている。また、第二の〈知のリビドー〉は、知は単なる客観的なものではなく、それ自体が欲望の一つの形態であることを示していて、ニーチェの〈系譜学〉やフーコーの〈知の考古学〉の先駆をなしている。
△ 人間を現に人間たらしめているもの、それは肉の欲(感覚のリビドー)、目の欲(知のリビドー)、生の驕り(支配のリビドー)であると言われています。それをそのままに肯定して生きるのが「現世」というものであり、そこに人間の修羅場が展開します。
西洋の哲学的あるいは思想的伝統のなかで、〈悪の問題〉について考えなおす上で私に大きな手がかりを与えてくれたもう一つは、『エチカ』の著者として知られるスピノザの、〈関係の解体〉をもって悪とする考え方である。すなわち彼によれば、自然そのものは善でも悪でもない。悪とはあくまで、自然の一部としてのわれわれの活動力を減少させ、われわれを特徴づける秩序立った関係を破壊するものだ、とされる。いいかえれば、悪が悪とされるのは、ある様態――たとえば、われわれ人間――の特殊的な観点からだけであり、われわれは人間として、悪とはなにかを通常は人間の観点から決めているにすぎない。
△ 〈関係の解体〉とは、私の考える「コミュニケーションの欠如・欠陥」に近いものがあります。その様態が人間の特殊的な観点から「悪」と見なされます。そのような考え方からすれば、善・悪は相対的なものであって、それを判定する絶対的な基準はないということになるのではないでしょうか。人間を特徴づける「秩序立った関係」は固定していて、それは決して変わらない、ということはありえないからです。
さて私は、『悪の哲学ノート』では、およそ以上のような観点から出発し、第一部においては、まず〈悪の魅力と存在の過剰〉、〈生のイリア(▽)と穢(けが)れ〉、〈祓(はら)われる罪と透明化する悪〉、〈「ヨハネ黙示録」と権力本能〉といった諸問題を論じた。エミール・シオラン、ポール・リクール、エマヌエル・レヴィナス、D・H・ローレンスなど(*)の考え方からの示唆を受け止めつつ、議論を展開することをとおしてである。
* これらの哲学者や思想家は現代において〈悪〉の問題を再考する上に重要なヒントを与えてくれたが、なかでも私がつよく惹かれたのは、グノーシスの立場を大きく採り入れた、〈バルカンのパスカル〉といわれるシオランである。その点についてはのちに第3節であらためて述べる。
△ イリア(il y a)、フランス語の「…がある、…がいる」という意味の言葉。中村雄二郎の魅力は、ここにあるような「博捜する知」にあります。バルカンのパスカル、シオランについての言及はその一例です。それもまた「知のリビドー」であると言えなくもないと思いますが…。
次いで、それにのっとって、第二部の「ドストエフスキーと悪」においては、第一部の最後の問題〈「ヨハネ黙示録」と権力本能〉を受けての〈『悪霊』の世界とヨハネ黙示録〉、神の義と人間の救済にかかわる〈「大審問官」と決疑論(▽1)〉、イノセンスの弱さと強さにかかわる〈「パテーマ(▽2)大全」としての『白痴』〉といった諸問題を考察した。
△1 決疑論、casuistique(仏)、casuistry(英):case(事例)と関わりのある言葉で、「良心に関わる事例および行為における善悪の問題の解決」を取扱う方法あるいは理論のこと。神学用語。
△2 パテーマ(pathema)、ギリシア語で、情動、感情を意味する言葉。
このように『悪の哲学ノート』の第二部において、「ドストエフスキーと悪」を扱ったのは、ドストエフスキー問題が私にとって、三十数年来の懸案であったからである。一九五〇年代の終わりに私は「ドストエフスキー――ロシア革命の〈反世界〉」という論稿を書いているが、それ以後、何度も試みたにもかかわらず、うまくドストエフスキーに接近できなかった。また、神の義と人間の救済にかかわる〈「大審問官」と決疑論〉の方も、パスカルのイエズス会との〈プロヴァンシアル論争〉(*)との関係で、私が三十年来課題として持ち続けてきた問題であった。
* 〈プロヴァンシアル論争〉について、詳しくは、拙著『パスカルとその時代』(一九六五年、東京大学出版会)第二篇を参照していただきたい。
したがって、私としては、〈ノート〉というやや自由な形態ではあるが、〈悪の哲学〉という課題に対して、自分なりの回答をかなりの程度まで出すことができた、と思っている。しかしもちろん、それで行なうべき考察がすべて終わったとは思っていない。というのは、とりわけ、そのあとに〈悪の哲学ノート・日本版〉を書きたいと思っていたからである。ロシアの作家への関心もそのこととかかわる。私は、ドストエフスキーについてだけでなく、さらにいっそうチェーホフについて、関心を持ち続けてきた。それは、西欧の哲学や思想の成果を日本での思索によりよく生かす上に、ヨーロッパとアジアにまたがるロシアの思想や文学の媒介が必要だ、と考えているからである。
△ キリスト教においても、西洋のキリスト教を日本のキリスト教に生かす上で、媒介として、ロシアのキリスト教思想に着目すべきだと考える人たちがいます。ウラジーミル・ソロヴィヨフや、ベルジャエフなどの思想家の名前を挙げることができます。
ところが、私が『悪の哲学ノート』を刊行してから四カ月も経たない頃に、日本では、かねてから不気味な集団と思われていたカルト教団〈オウム真理教〉による無差別テロが発生した。世界の耳目を聳動(しょうどう)させた東京での〈地下鉄サリン事件〉である。さらに、次々にこの教団による危険なテロ行為が明るみに出てきて、それが一九九五年の前半を通じて日本社会を一種のパニック状態に追い込んだ。その社会的な後遺症は、今日にも及んでいる。この事件には、一面ドストエフスキーの『悪霊』のテロリストたちの活動と少なからず通じる陰惨さがある。この事件が思想的に多くの問題を含み、重要であるのは、明らかにそれが現代の日本社会のうちにある病根に由来しているからである。
このたいへん根深い〈宗教的〉事件が比較的に身近に起こったため、私としては、「日本人にとっての宗教とは何か」という問題に何年かがかりで考えないわけにはいかなくなった。それは、前々から考えたいと思っていたことだが、いまや新しい意味を持つことになった。そこでこの機会に、その一環として「日本文化における悪と罪」についての考察を他の文化に属する方々に対しても披露することにしたい。
△ 著者の年来の問題意識がオウム真理教の事件によって新たに触発され、エラノス会議での発表という機会を与えられ、一気にその問題を考察することに結びついたと言われています。日本人の心の底に一体何が動いているのかということを考えることは、それほど簡単なことではありません。しかし中村はこの本の前半(五つの章と三つの付論からなる第一部)で、該博な知識に基づいてその問題にアプローチしようとしています。
2 罪の文化と恥の文化
さて、日本文化における〈悪と罪〉について考えようとする場合に、どうしても問題にしておかなければならないことがある。それは、〈恥の文化〉という日本文化の性格づけあるいは規定である。この規定は、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが、その著 The Chrysanthemum and the Sword − Patterns of Japanese Culture(『菊と刀――日本文化の型』原書一九四六年、長谷川松治訳、社会思想社{現代教養文庫})のなかで示し、以後世界的に有名になったものである。むろん、この〈恥の文化〉という規定は、ユダヤ・キリスト教文化の〈罪の文化〉(*)という規定との対比において言われている。
* この場合、罪とはcrimeでもsinでもなくてguiltのことであるから、また次節で述べる罪と罪責性との区別からいって、厳密には罪責性あるいは罪責感の文化と訳さねばならないが、ベネディクトの論議にかかわる箇所にかぎって混同のおそれはないので、〈罪の文化〉と訳しておく。
△ ここで挙げられている英語の三つの語を正確に区別することはかなり難しいと思われますので、この機会に比較的簡潔な説明を行なっているCassell’s English Dictionaryと、やや親切な説明が施されているWebster’s New Collegiate Dictionaryによって、それらがどのような意味を持つか検討してみたいと思います(頭のCは前者、Wは後者)。
C crime [F., from L. crimen (cernere, to decide, cp. Gr. krinein, to separate, krîma, a decision], n. A ground of accusation; a charge; an act contrary to law, human or divine; any act of wickedness or sin; wrong-doing, sin; (Mil.) any offence or breach of regulations.
訳 crime [ラテン語crimenに由来するフランス語、ラテン語のcernere, 決める、ギリシア語のkrinein, 分ける、krîma, 決定]、名詞:告発の理由、告訴(charge)、人間のもしくは神の法に反する行為、不正もしくは罪(sin)の行為、非行、罪(sin)、(軍隊用語)規律の違反もしくは不履行。
W crime n [ME, fr. L crimen accusation, fault, crime] 1: an act or the commission of an act that is forbidden or the omission of a duty that is commanded by a public law and that makes the offender liable to punishment by that law; esp : a gross violation of law 2 : a grave offense esp. against morality 3 : criminal activity 4 : something reprehensible, foolish, or disgraceful〈it’s a 〜 to waste good food〉syn see OFFENSE
訳 crime 名詞 [ラテン語crimen(告訴、過失、犯罪)に由来する中世英語] 1 禁じられた行為あるいはその行為を犯すこと、もしくは公的な法によって命じられ、違反者はその法による処罰を受けるべきものとされる義務の不履行、特に法の甚だしい違反 2 道徳に対する重大な違反 3 犯罪的な活動 4 何であれ、非難すべき、愚かな、あるいは恥ずべきこと〈よい(新鮮な)食べ物を無駄にするのは罪(crime)だ〉。類義語OFFENSE(罪、違反、反則、過失)を見よ。
C sin [A.-S. synn, cp. Dut. zonde, G. sünde, Icel., Dan., and Swed. synd], n. Transgression of duty, morality, or the law of God; wickedness, moral depravity; a transgression; a breach of etiquette, sensible behavior, etc.; *a sin-offering; *the embodiment of sin. v.i. (past & p.p. sinned) To commit sin; to offend (against).
訳 sin [アングロ‐サクソン語 synn、参照:オランダ語 zonde、ドイツ語 sünde、アイスランド語、デンマーク語、スウェーデン語 synd]、名詞:義務、道徳、あるいは神の法(律法)の違反、不正(悪い行為)、道徳的堕落(悪行)、違反(犯罪、罪)、礼儀作法、思慮深い行動などの不履行、(古語・廃語)罪滅ぼしの供物〔いけにえ〕、(古語・廃語)罪の化身。自動詞(過去、過去完了、sinned):罪を犯す、(…に)違反する。
W sin n [ME sinne, fr. OE synn; akin to OHG sunta sin] 1 a: an offense against religious or moral law b: an action that is or is felt to be highly reprehensible〈it’s a 〜 to waste food〉 2 a: transgression of the law of God b: a vitiated state of human nature in which the self is estranged from God syn see OFFENSE sin vi sinned; sin-ning 1: to commit a sin 2: to commit an offense or fault
訳 sin 名詞 [中世英語 sinne、古代英語 synn に由来、古代高地ドイツ語 sunta 罪(sin)と同族] 1 a: 宗教的あるいは道徳的な法に対する違反 b: 大いに非難すべきこととされる、あるいはそのように感じられる行為〈食べ物を無駄にするのは罪(sin)だ〉 2 a: 神の法(律法)の違反 b: 自己が神から疎遠になっている人間本性の損われた状態 類義語 OFFENSEを見よ。 sin 自動詞、sinned(過去・過去分詞)、sin-ning(現在分詞)1: 罪を犯す 2: 違反あるいは過失を犯す。
C guilt [A.-S. gylt ], n. The state of having committed a crime or offence; criminality, culpability; *an offence.
訳 guilt 名詞 [アングロ‐サクソン語 gylt ] 罪もしくは違反を犯してしまったという状態、犯罪行為(有罪性)、(古語・廃語)違反。
W guilt [ME, delinquency, guilt, fr. OE gylt delinquency] 1: the fact of having committed a breach of conduct esp. violating law and involving a penalty; broadly: guilty conduct 2 a: the state of one who has committed an offense esp. consciously b: feelings of culpability esp. for imagined offenses or from a sense of inadequacy 3: a feeling of culpability for offenses
訳 guilt 名詞 [中世英語、過失(犯罪)、罪、古代英語 gylt 過失(犯罪)に由来] 1: 特に法を破り、刑罰を伴う違反行為をしてしまったという事実、概して、犯罪的な行為 2 a: 特に意識して違反を犯してしまった人の状態 b: 特に想像された違反に対する、あるいは不適当であるという感覚から来る咎めの感情 3: 違反に対する咎めの感情。
△ こうして見ると三つの言葉には共通する面と強調点あるいはニュアンスの違いがあることがわかります。それらの違いは常識的に考えられていることと一致しています。一言で言えば、crimeは法律違反(犯罪)、sinは宗教的道徳的に考えられた法への違反(罪)、guiltは違反を犯してしまったということから来る意識状態ということになります。中村は『菊と刀』で言われている「罪」はguiltであり、本当は罪責性あるいは罪責感と訳すべき言葉であると指摘しています。なおcrimeとsinとの区別は、ヘーゲルの言う「抽象法」の成立、あるいは市民社会の登場によって、罪を単に宗教的には規定し得なくなったという事情が背後に横たわっているのではないかと思われます。しかしguiltはその両方に関わる意識状態(感情)である、と考えることが可能ではないでしょうか。本題に戻ります。
すなわち、R・ベネディクトは、その本の第一〇章「徳のジレンマ」のなかでこう述べている。《諸文化の人類学的研究において重要なことは、恥に大きくたよる文化と、罪に大きくたよる文化とを区別することである。道徳の絶対的基準を説き、各人の良心の啓発にたよる社会は、〈罪の文化 guilt culture〉と定義することができる。》しかし、そのような社会の人間であっても、罪のほかに恥にさいなまれることがありうる。たとえば、場所にふさわしい服装をしなかった場合のようにだ。この恥から受ける苦しみは、ときに非常に強烈なことがあり、しかも、罪の場合のように、告解や罪の贖(あがな)いによっては軽減することはできないのである。
他方において、《恥が主要な[社会的な]強制力になっているところでは、たとえ告解僧に対して過ちを公にしたところで、ひとは苦しみの軽減を経験しない。》それどころか、告白はかえってみずから苦労を求めることになる、と考えられている。〈恥の文化〉では、たとえそれが悪行であっても、〈世間に知られない〉かぎり、心配する必要はないのである。したがって、《〈恥の文化 shame culture〉においては、告白するという習慣はない。神に対してさえもだ。》そこでは、儀式は罪を贖うためであるよりも幸福を祈願するためなのである。
△ 幸福を祈願する「ご利益宗教」は「恥の文化」に由来すると言われています。しかし両者の結びつきは、いかなる理由によるのでしょうか。思うに絶対的超越的他者(一なる正義の神、罪を告発するもの)を持たない宗教は、神に対して正直に自己の利益と幸福を祈願すると言えるのかも知れません。そうすると、日本人に適合した宗教は、そのような現世的な宗教(一度生まれの宗教)であると言えるでしょう。
アメリカに移住した初期のピューリタンたちは、一切の道徳を罪の基礎の上に置こうと努力した。それに対して、日本人は、恥から受ける苦しみを道徳の原動力にしている。すなわち、《善行の明白な道標に従えないこと、いろいろな義務の間でバランスを保つことができず、起こりうる偶然を予見できないこと、それが恥である。恥は徳の根本である、と彼らは言う。恥を感じやすい人間こそが、善行のすべての決まりを実践する人なのである。》〈恥を知る人〉とは、あるときは徳の高い人を、あるときは名誉を重んじる人を指している。《恥は日本の倫理において、〈良心の潔白〉、〈神に義とされること〉、罪を避けることが、西洋の倫理において占めているのと同じ位置を占めている。》
△ 今日の日本は、西洋の神を受け入れなかったばかりでなく、「恥を知る」、高潔な人もいなくなって、不道徳な社会になりつつあると言えなくもありません。しかしそれは資本主義社会の特質であって、日本に限ったことではありません。
日本人の生活においては恥が最高の位置を占めている。それは、各人が自分の行動に対する世間の目を気にしているということである。この場合、彼はただ、他人が自分の行動をどのように判断するかを想像しさえすればよく、その他人の意見の方向に沿って行動するのが賢明なのである。したがって、《日本人特有の問題は、彼らは、ある掟を守って行動しているとき、他人は必ずその自分の行動の微妙なニュアンスをわかってくれる、という安心感を頼りに生活するように育てられてきた、ということである。》
△ 他人の理解をあてにして生きるということは、いわゆる「甘え」に通じることです。しかしわかり合えるのは、「内側」の人であって、外に向かって客観性を持った規範を提示するのは困難です。「旅の恥はかき捨て」と言うように、外(他者)との交渉が行われないで済む間だけ、そのような生き方が可能であるというに過ぎません。
このR・ベネディクトの『菊と刀』は、もともと、第二次世界大戦中に、アメリカが対日文化戦略の一環として、〈もっとも得体の知れない敵〉日本の文化を研究したものである。もう少し詳しくいえば、連邦政府の戦時情報局が文化人類学的な研究書『文化の型』(一九三四年)の著者として知られる彼女に委嘱した日本文化の研究である。したがって、かなり特殊な事情のもとになされた研究であり、細かくいえばいろいろな問題がある。『菊と刀』の刊行後、当然日本でこれをめぐって盛んに議論がなされ、しばしば、考察における歴史的観点の欠如が批判の対象になった。しかし本書は、自覚的に〈類型論〉的立場に立ったものとして、顕著な成果を挙げている。とくにそのなかの〈恥の文化〉という日本文化の規定は、以後、日本の思想界に大きな問題を投げかけてきた。あたかも今年は『菊と刀』の刊行後五十年を迎えるが、その提起した問題は少しも古くなっていない。
△ 「類型論」の問題は事柄を類型で割切ってしまうところにあります。「恥の文化」にはあたかも罪意識がないかのように考えてしまうのは、その好例です。しかし事柄を顕著に浮き上がらせるという意味で、「類型論」の効用が認められるべきでしょう。
ここにその要点を列挙しておくと、次のようになる。(1)西欧的な〈罪の文化〉と区別されるものに日本の〈恥の文化〉があり、後者のなによりの特色は、各人が自分の行動に対する世間の目をつよく意識していることである。(2)〈罪の文化〉の基礎が罪責性であるのに対して、〈恥の文化〉は羞恥心が道徳の原動力をなし、恥の基本は誰でも知っている善行の明白な道標に従えず、バランス感覚を欠くことにある。(3)〈恥の文化〉の最高の徳目は〈恥を知ること〉にあり、恥を知る人こそ徳の高い人であって、それは西洋倫理における〈良心の潔白〉に匹敵している。
△ 先に述べたことを裏返せば、ashamedという英語が示すように、西洋人には恥がないと考えるのは間違っています。
ところで、『恥の文化再考』(一九六七年、筑摩書房)の著者である社会学者の作田啓一は、マックス・シェラーに依拠しつつ、恥の文化が持つという特殊な日本的性格を否定して、次のように言っている。恥とは、他人からの一種特別な注視のもとで生ずる、われわれ人間にとっての一般的現象であり、日本文化あるいは日本人だけに見られることではない、と。恥についてのM・シェラーの分析の要点は、われわれが一般的存在(たとえば銀行員)として扱われるはずの状況のもとで個体(たとえば、小学生某の父親)として注視を受けるとき、つまり、〈一般化〉と〈個体化〉という二つの反対方向の志向が食い違うときに羞恥心が生ずる、ということにあった。その上に、世間の基準からいって、できれば隠しておきたいとことを人目にさらすことが加わって、ベネディクトの強調する〈恥の文化〉の恥が成立するのだ、と作田は言っている。
△ 人間性の共通の地盤に降り立って、そこから特定の文化の個性的な傾向を見出そうとする姿勢は、事柄を学問的に理解しようとする者が当然持つべきものです。
また、作田によれば、日本社会において恥が特別の意味を持つのは、歴史的に成立した日本社会の構造上の特質にもとづいている。その特質というのは、徳川幕藩体制が成立した以後の日本の社会では、社会と個人の中間に位置する集団の自立性が弱いことである。すなわち、西欧の中世においては貴族階級、ギルド、教団、自由都市などの諸集団がそれぞれつよい特権と自治能力を持っていたが、日本では中間的な社会集団の力が相対的に弱かった。そのため中間集団は、外側の社会からその成員を防衛するという機能を十分に果たすことができなかった。日本社会は伝統的に家父長的で〈家族主義的〉であると言われているが、その家父長的な家族でさえも、社会に対する成員の防衛機能はきわめて弱い、と。
△ 日本では中間的な社会集団の力が相対的に弱いという指摘は重要です。しかしそれがどうして「恥の文化」を助長することになるのでしょうか。一般化が国全体に拡大して、その中の個人を庇護すべき中間集団の力が弱いとき、個人は全体の傾向に直接さらされてしまうということと、個人の権利主張がまるで悪いことであるかのようにみなされることとは無関係ではないでしょう。そうなると、弱い立場に置かれた者は、そのような自分を恥じて生きるほかはないということになります。つまりこのことは中間集団の絆が弱く、それが「セーフティ・ネット」として十分に機能しないことを意味しています。
この作田の指摘は貴重であり、基本的にはのちに私が論ずる日本文化におけるつよい〈場所の支配〉と密接にかかわる。けれども、私としてはこの〈恥の文化〉の問題を、まずなによりも、〈穢れ〉の問題を媒介にして日本における悪や罪の問題へとつなぎ、展開していきたい。その内容を、あらかじめ簡単に図式化して述べておけば、次のようになる。すなわち、伝統的な日本文化において〈恥〉と〈穢れ〉とは、西欧文化における〈罪責性〉と〈悪〉とにそれぞれ対応している。原初的な悪と穢れとの結び付きは必ずしも日本文化だけに見られるものではない。けれども、とくに日本文化においてはその結び付きがつよい。
△ 著者のここでの関心は「中間集団」についての社会学的考察ではなく、日本の文化における悪と罪の分析にあります。その場合、特に穢れの問題が重要であると指摘されます。(恥)と〈穢れ〉とが日本文化の基底にあるものだと予示されます。
3 穢れと悪と〈悪党〉
さて、多くの側面を持つ〈悪〉の世界を、できるだけ広い範囲にわたって隈なくとらえようとするとき、最初に問題になるのは〈穢れ〉である。それというのも、負性を帯びた多くのもののうち、穢れがもっとも原初的であって、もっとも物質的であると同時に精神的であり、もっとも習俗的であると同時に内面的であるからである。現代の西欧の哲学者たちのなかで、罪や罪責性と結びつけて穢れの問題をとくに鋭く扱っているのはポール・リクールである。彼は現象学を通った解釈学者らしく、悪とりわけ過ちを考察するに当たって、それを一括して概念化せずに、〈穢れ〉と〈罪〉と〈罪責性〉を、悪の三つの契機および段階であると見なしている。
△ リクールについては「象徴の解釈学」を参照して下さい。なお「穢れがもっとも原初的であって、もっとも物質的であると同時に精神的であり、もっとも習俗的であると同時に内面的である」という指摘は重要です。また、穢れ(原初的感覚)が罪の観念を経て、罪責性の意識に達するという思想は、悪、過ちを「内在的超越」的に考察する方法として、たしかに「現象学的」であると言えるでしょう。
リクールの穢れについての考察は、とくにLe symbolique du mal(『悪のシンボリズム』一九六〇年、植島・佐々木訳、渓声社、品切れ)のうちに見られる。この考察は、人類学者のメアリー・ダグラスが『汚穢と禁忌』(一九六六年)において批判しているように、民俗学的には必ずしも十分ではないかもしれない。しかし、通常見逃されやすい穢れの論点を、現象学的な考察を通して見事に浮かび上がらせている。すなわち、彼は穢れの考察を〈汚れ〉を考えることからはじめるが、そこでは、繰り返し、次の事実が強調されている。すなわち、現代人の意識あるいは思考にとっては、穢れは《乗り越えられてしまった》契機であり、今日ではもはや《間接的にしか近寄れなく》なっている(邦訳四七頁)、という事実である。
最初この個所を読んだとき、私はすぐには理解できなかった。間もなく、西欧文化のなかでは穢れの感覚がキリスト教によってすでに昇華されている、という意味であるのがわかった。私にとってわかりにくかったのは、日本ではキリスト教にのっとった葬儀の場合でも、今日なお、会葬者たちに対して、小さな紙で包んだ〈お清めの塩〉(*)をくれるしきたりがあるからである。
* 日本では伝統的に〈塩〉に穢れを祓う力があると考えられ、浄めのために塩を盛ったり、撒いたりするしきたりがある。相撲の取り組みの前に塩が撒かれるのも、勝負の神聖さを誓うためである。
△ 日本ではキリスト教の葬式でも参会者に塩が配られるということは、どちらかと言えば、葬儀社の配慮に属することでしょう。「旧約聖書」のレビ記的な穢れの観念は、既に、イエスにおいて乗り越えられていたと考えられますが、キリスト教がその意味で徹底的に合理化されたのは、特に宗教改革においてでしょう。カルヴァンの葬式に対する態度は、神中心的合理主義が示されているという意味で、典型的であると言えます。日本でも浄土真宗でお焼香のとき、香をおしいただかないという指導がなされます。そこにも、同様の合理化の契機が見出されます。なお親鸞についてはあとで論じられます。
それはそれとして、リクールでは、穢れは〈すでに乗り越えられた〉ものを、言語を介して〈象徴的に掘り起こす〉というかたちで論じられている。このような接近の間接性によって、どうしても穢れの物質的・身体的な側面が希薄になっている。けれども、《いかなる悪も象徴的には汚れである。つまり、汚れは悪の最初の図式である》と言いきっているのは、問題をもっともベーシックなところから押さえていて、さすがである。
△ 「穢れ」は「汚れ」であるというリクールの洞察には、たしかに鋭いものがあります。なおユルゲン・ハーバーマスがかつて来日したおり、日本の異教的でアニミスティックな風習を目のあたりにし、「自分のプロテスタント的良心が大いに刺戟された」と語っているのは、彼がマルクス主義的思想家であるだけに、興味深いところです。
すでに多くの民俗学者や人類学者たちが指摘しているように、日本の社会には、リクールがキリスト教国では乗り越えられたというアルカイック(古代的・原初的)な風習が数多く残っている。現在では産業化の進展により昔ほどでなくなったが、それでも未だにたくさん残っている。けれども、日本文化において穢れの禁忌がいかにつよいかを私が痛感させられたのは、日本史家の勝俣鎮夫の書いた「家を焼く」という文章を読んだときであった。この「家を焼く」というのは、四人の日本史家(網野善彦、石井進、笠松宏至と勝俣)の共著『中世の罪と罰』(一九八三年、東京大学出版会)の一章であり、そこでは次のように書かれていた。
中世の荘園領主たちが自己の領内で行われた犯罪を罰するときに、とった処置のもっとも一般的な形態は、犯人の荘内からの追放と、犯人の住宅の検封・破却・焼却を組み合わせたものであった。後者のうちでは、〈焼却〉がもっとも重要な処分であった。たとえば、二人の男が喧嘩して、一方が相手を殺してしまったとする。その場合に、加害者の家だけでなく被害者の家も、さらには犯人がただ立ち寄っただけの家や、被害者が倒れ込んで死亡した家まで、こうした焼却処分の対象となった。犯人に対して、死刑ではなく追放刑が行われたのも、死刑を執行した場合には荘園内に新しい穢れを発生させることになると見なされたからである。
このように、荘園領主がとった処置は、領地内に発生した犯罪を穢れと見なし、その災気を除去して正常な状態へと回復させるためのものであった。この場合には、行われた犯罪と犯人に対して〈刑罰〉を加えて戒めとするという意識はきわめて希薄であった。日本では、八世紀初め以降にすでに、中国から律令制が導入され、整然たる刑罰体系(大宝律令)が形づくられていた。そのような時代を経ていたにもかかわらず、十三世紀頃の中世の荘園世界にあっては、このように穢れを除去するというのが領主のとった処置の中心であったのである。
私は、この〈家を焼く〉ことによる穢れの除去という歴史的事実につよいショックを受けた。というのも、そこには、犯人の共同体からの追放とともに、家を焼く祓いによって罪の穢れを除去し、さらに犯罪や犯罪者までも〈なかったことにする〉、共同体の集団的意思が働いているのを見たからである。
△ 穢れに対する強い感覚は中世の村落における日本人の精神世界を垣間見させるものでしょう。その感覚は地域社会でその後も永く生き続けてきたと思われます。
ところで、私が「家を焼く」という章によって代表されるような祓いによる穢れの除去につよい関心を持ったのは、〈場所〉の問題と深くかかわっている。犯人の共同体からの追放はもちろん、犯罪に関係したすべての家の焼却も、場所を問題にしている。すなわち、穢れはそれを帯びた場所――人の身体も含めた場所――によって体現されるが、祓いによる穢れの除去は、犯人を共同体から追放するだけでなく、犯人のいた場所そのものを消し去る意味を持っている。そして、このように或る人間の痕跡のある場所を根こそぎ消し去ることは、〈恥の文化〉の一つの極限形態であると言えるだろう。なんとなれば、このような場所の消去は、共同体の強烈なまなざしと集団意思なしにはありえないからである。まことに、共同体という観念的に聖化された場所が、穢れた場所の存在を許さないのである。穢れた場所はあるべからざる場所なのである。
△ 著者の「場所」に対する関心は西田幾多郎の「場所」に関わる事柄として論じられることになります。ここでは、祓い清めが「場所」の聖化と結びつけて考えられています。恥の根底に居場所との不適合(この場合は不浄)が想定されていると言えます。
しかし、もしそうだとすると、リクールが述べているような〈穢れ〉と〈罪〉と〈罪責性〉という悪の三つの段階は、日本文化においてはどこまで成り立つのであろうか。あるいは、もし成り立つとすれば、いったいどのような形態をとるのであろうか。
先に見たように、リクールは《いかなる悪も象徴的には汚れである。つまり、汚れは悪の最初の図式である》と明言している。ここで言われている汚れ(tache)とは穢れ(souillure)とほとんど同義語だから、右の三段階は〈悪と罪と罪責性〉の三段階と見なすことができる。そして、これまでに見てきたように、日本文化においては、このうちの〈悪〉と〈罪責性〉は、しばしばそれぞれ〈穢れ〉と〈恥〉によってとって代わられている。もしもそうだとすると、悪や罪責性ということは日本の社会では意味をなさないことになるのであろうか。もちろん、そんなことはない。
△ souillure(スイユール)の動詞形souiller(スイエ)は「…を汚す」という意味です。そこから「汚染する、けがす(汚す、穢す)、傷つける」という意味が出てきます。tache(タッシュ)は「染み、汚れ」というという意味で、「斑点・まだら」、あるいは「欠点・汚点」という意味にもなります。言われるとおり、両者はほとんど同義です。たとえば、Agneau sans tacheは「けがれなき子羊(イエス・キリスト)」を意味します。
穢れと悪、恥と罪責性とは、それぞれ極限化すれば対立するものの、まったく無関係なわけではないからである。すなわち、穢れと恥とは、それぞれ悪と罪責性の〈より感性的な形態〉であると言えるだろう。たとえば、日本語で或るひとのやり方が〈きたない〉といえば、それは、行なうべからざることをしている意味である。また〈恥を知る〉とは――第2節でR・ベネディクトの分析に依拠して見てきたように――徳の高さや名誉を重んじることを意味している。また彼女が、恥をもって、西洋の倫理の〈良心の潔白〉、〈神に義とされること〉になぞらえられるとしているのも、そこに一種の近さがあることを示している。
△ 穢れと悪、恥と罪責性との間に「近さ」を見る、すなわち単に対立するものとは考えないということは、リクールの考察に導かれているとは言え、著者のすぐれた着眼です。日本人と西洋人という図式的な対立概念の奥にある人間性の共通の基盤への洞察がそこにあります。この指摘は、従って、大変重要であると思います。なお穢れには、単に汚れているというだけでなく、秩序感覚に沿わないという意味もあります。メアリー・ダグラスの『汚穢と禁忌』で取り上げられているように、なぜある動物が穢れていて、他の動物が清いと言われるのかということは、牛のように、食べ物を反芻するとか、ひずめが割れているとかいう、動物に対する分類学的秩序感覚と結びついています。その秩序感覚が人間に適用されれば、人種差別や障害者への差別などの、差別になります。
右に私は、穢れと恥とを悪と罪責性の〈より感性的な形態〉であると言った。そして、このように穢れを嫌い、恥を知るという日本文化の持つ高度の美意識は、悪を避け罪責性を意識する倫理的態度ときわめて近づくのである。そのことをよく示すのは、江戸時代の日本における〈武士道〉が、感性的なものを基礎に置きながら、すぐれて倫理規範化されていったことである。また、だからこそ明治以後の近代になってから、武士道の精神が、西欧におけるキリスト教的な個人倫理に拮抗しうる、また代わりうる知識階級の倫理的支柱になりえたのである。
△ 「明治日本のアメリカYMCA」で取り上げられていたように、サムライ階級の一部がキリスト教に近づくことができたのは、そこに「忠誠心」などの共通する道徳的基盤があったからです。またその根底にはサムライたちの儒教の素養がありました。そのような共鳴盤を持たない「純粋なキリスト教」の布教など、そもそもありえません。
こんどは反対側からその問題を考えてみよう。すると、日本における悪の観念も、存在の否定というよりはつよい感覚性、生命性を帯び、さらには存在の過剰(*)を意味していることがわかるのである。たとえば、日本の中世(十三〜十四世紀)において、まさしく〈悪党〉と呼ばれる異形の戦闘集団が出現して、たちまち一大勢力化した。猛々しく勇ましい、魅力ある野人たちである。この者たちは、求める相手と契約し、戦闘では活躍したものの、一般に狼藉の限りをつくし、人びとから恐れられる存在であった。しかし、これらの悪党の或る者たちは、当時の鎌倉幕府に対する世人の不満を代弁し、人びとの現状打破への期待を担っていたのである。日本歴史上で代表的な〈忠臣〉として知られる楠木正成もこの悪党に属していたことが明らかになった。
* 悪を存在の過剰としてとらえる捉え方については、先に触れたエミール・シオランの著作、とくにその『悪しき造物主』(La Mauvaise Demiurge, 1969)のグノーシス的な次のような考え方にヒントを得た。生きとし生きるものは例外なく悪が支配しており、〈悪しき造物主〉こそ創造の根源である。したがって、明らかに、悪には善よりも存在が多く含まれている。いいかえれば、悪とは存在の欠如ではなくて、〈存在の過剰〉なのである。
△ 「過ぎたるは及ばざるが如し」ということわざがあります。存在の欠如が悪であるとすれば、存在の過剰もまた悪であるということになります。ここには著者のきわめて柔軟な発想があります。何かの観念に凝り固まった思想をもみほぐすことこそ、哲学者の使命であると言うべきかも知れません。中村雄二郎の長大な思想の軌跡は、既に達したところに滞留する怠りに鞭打って、常にその固定観念から脱しようとする努力の現われであると見ることもできるでしょう。それは生きている限り続く、破壊と創造の闘いです。
ここにおいて、思い起こされるのは、第1節で触れた〈関係の解体〉をもって悪とするスピノザの定義である。彼によれば、一般に善とは、自然の一部としてのわれわれの活動力(コナトゥス)を増大しつつ、秩序を形づくることであり、その反対に悪とは、われわれの活動力を減少させつつ、われわれのうちの秩序立った関係を解体し破壊させることであった。スピノザによるこの悪の定義と関連づけていえば、日本の中世で言われた前述の〈悪党〉とは、逞しいエネルギーによって外部から既成の関係あるいは秩序を打破する者たちであった、と言えるだろう。しかも、このような悪党のとらえ方は、単に中世だけの、過去だけのことではなく、今日においても垣間見られるのである。
△ 逞しい活動力で秩序を形成するのではなく、その力を、外から既成の関係を打破することに差向けるというのは、スピノザの定義をねじった言い方です。
たとえば、元総理大臣田中角栄に対する大方の日本人の見方がそうである。彼は、第二次大戦後の日本経済の高度成長期において、きわめて強引に工業化を推しすすめた。〈列島改造論〉と呼ばれたものであり、たしかに工業化の成果は挙がった。ところが彼は、やがてアメリカからのロッキード航空機の購入に絡んだ大疑獄に罪を問われて、失脚するに至った。当時、日本のほとんどすべての新聞や言論界は、挙げて彼を〈巨悪〉と呼んで、盛んに糾弾した。しかし、明らかに日本人の多くは、彼を犯罪人というよりは、やり方は乱暴だったが、思い切って現状を打破した人という受け取り方をしている。まさに中世における〈悪党〉の現代版である。このように日本人の意識の深層では、悪は必ずしも単純に悪いものではないのである。
△ 田中角栄とはスケールが違いますが、ハマコー(浜田幸一)が意外に日本人に受けが良いのは、彼が〈悪党〉だからでしょう。なお、ロッキード事件は、田中追落しのためにアメリカが仕組んだ罠だったという説があります。「陰謀論」の一種であって、真偽のほどは明らかではありません。いずれ歴史が明らかにするでしょう。
4 罪責性と〈悪人正機〉
ポール・リクールが悪を〈穢れ〉〈原初の悪〉と(罪)と〈罪責性〉の三段階としてとらえたことについては、すでに述べた。いうまでもなく罪責性とは罪の意識、つまり罪の内面化であるが、日本文化においてはその局面は、伝統的にはほかのなによりも、仏教思想によって引き受けられており、仏教思想の果たした役割がきわめて大きい。そしてこの場合に、とくに重要な意味を持つのが浄土真宗の開祖で、〈悪人正機〉説を唱えた親鸞の教えである。一般的にいっても、親鸞の著作のうちには〈悪〉にかかわる用語法が並々ならず多い。たとえば、〈五濁(ごじょく)悪時〉、〈十悪・五逆〉、〈三界悪道〉、〈穢悪汚染(えあくわぜん)〉、〈悪業邪智〉などは、彼の主著『教行信証』の最初の二巻に見られる、そのほんの一部に過ぎない。そして、そのなかでも、とりわけパラドキシカルで大きな問題を孕んでいるのが、その語録を集めた『歎異抄』において言われている〈悪人正機〉の考え方である。
△ 穢れ(原初の悪)とその祓いという、日本の宗教的思想の文脈に、明確な罪の意識を持ち込んだのは仏教であり、特に親鸞の思想に注目すべきであると言われています。両者の関連については述べられていないので、やや唐突に仏教が持ち出されてきたという印象は拭えませんが、それが日本思想史の一局面であることに違いはありません。
仏教は日本には、六世紀半ばに、朝鮮半島を経て中国から導入された。それが中世において土着化されて、新しい活力を与えた。そのような日本仏教を担った代表的人物の一人が親鸞である。鈴木大拙は、日本の仏教思想を欧米諸国に紹介して功労のあった人である。彼は、親鸞の開いた浄土真宗を、禅宗とともに〈日本的霊性〉の覚醒をもたらした宗教としている。この大拙の指摘は、あらためて思い起こされるに値しよう。そして、親鸞が企てたとくに重要なことの一つは、善と悪に対するさまざまな既成概念あるいは固定概念を打破することであった。その要点は、ほぼ次の三つにまとめることができる(*)。
* 以下に示すところは、主として早島鏡正著『悪人正機の教え』(一九六七年初版、現在では『歎異抄を読む』と改題されて、講談社「学術文庫」に所収、八四〜九五頁)による明快な把握にのっとりつつ、さらに要点を取り出したものである。
(1)まず、当時の仏教の通常の教えでは、掟や戒律を守ることこそが善であるとされ、それに背くことは悪であるとされていた。たとえば、原始仏教の説く〈十悪〉、つまり、殺生・偸盗・邪淫・妄語・二枚舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・愚癡(愚痴)がそうである。ところが親鸞は、そのような形式的な考え方の虚偽性に気がつき、当時支配的であった南都・北嶺の旧仏教を批判し、みずからあえて〈無戒〉の立場を掲げた。彼は、厳密に〈持戒堅固〉の生活を送るということがいかに難しいかをよく知っていたからである。
(2)次に彼は、仏教で広く教えられている勧善懲悪的な善悪観に囚われてはならないとした。いわゆる〈五悪〉のたぐいの建て前的な徳目化を退けたのもその一つのあらわれである。(五悪とは、阿弥陀仏の究極的な教えを説いた『無量寿経』下によれば、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒の五戒に背くことである。)いいかえれば、彼は〈廃悪修善〉という教えを形式的なかたちで扱ったり、安易なレベルで相対的に善悪の問題をとらえることをきびしく退けたのであり、もっと深く悪の自覚に突き進んだのである。
(3) さらに彼は、仏教の教えにおける手段と目的との転倒をきわめて注意深く退けている。すなわち、親鸞は、相対的な善悪をもって決して手段を越えた目標とすべきではないとした。たとえば、もろもろの善根や功徳を積んでも、手段が目的化すれば、それはかえって、念仏を妨げる行為、悪しき行為になってしまう。つまり重要なのは、我執をきびしく排することであり、信仰の目的はあくまで〈清浄道〉の獲得にこそある。彼によれば、浄土真宗の教えの中心にある〈念仏〉さえもそれを自己満足的におのれの善根とするような根づよい我執が人間にはあるのである。
△ ここに述べられた親鸞の思想の要点は、それがルターの信仰の要諦であると言い換えても、決して的外れではないでしょう(加藤智見『親鸞とルター』参照)。
こうして親鸞は、相対的な世界の善悪は〈自力〉の立場からはどうしても克服することができないこと、結局はそれが〈悪〉の一字に収まってしまうことを見てとったのである。その結果彼は、〈他力〉の立場に立った念仏道に、通常の善悪を超えた境地を見出したのであった。この境地では、ただ単に悪を退けるだけでない。あえて、善そのものも自己否定的に悪の次元においてとらえること、つまり、善を善だとしてそれに囚われることを、実は悪の根源的なあり方であると見なして否定したのである。さらに親鸞は、その最終的な立場を、《無義をもって義とする》ということばによってあらわしている。これは、相対的な意味や善を排するために、言語的媒介までも退けて、阿弥陀仏に直接向かい合うという態度の表明にほかならない。
△ 親鸞の信の世界に立ち現われる阿弥陀仏とは、人間の二元的相対的な世界を包み込む仏の「慈悲」そのものだったのでしょう。人を根本的に生かすものは、人間自身の努力を超えた仏の働きであって、しかもそれは現に「この私」を生かしている力です。
だが、親鸞はなにゆえに人間の業について、悪について、このように、これほどまでに徹底して、突き詰めて考えることができたのだろうか。その秘密を解く鍵は、少なくとも二つある。
その第一は、彼がたじろぐことなくたった一人で仏と向かい合ったことであろう。『歎異抄』の結語のなかにある次のことばは、一般にもよく知られている。《弥陀の五劫思惟の願 [阿弥陀仏が永劫にわたって熟慮された願い] をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。》このことばは、ふつうに解すれば、ただ自分一人だけが仏の本願による救済の対象になる、というのだから、一見、ひどく不遜の言と受けとられかねない表現、危険きわまりない表現である。しかし、親鸞がこのように言ったのは、およそそういう意味ではなかった。それは、なんの仲保者もなくただ一人じかに如来を相手にし、その慈悲をただ自分一人で引き受けるという容易ならぬ覚悟の表明だったのである。
だが、彼がそのような態度をとったことについては、もう一つの要因があった。つまり、秘密を解く鍵の第二として、彼には誰にもましてつよい罪の自覚があった。だからこそ親鸞は、たとえ念仏を唱えたところで、浄土へ行けるか地獄に堕ちるかはわからないとして、いつでも自己の救済を、未決定の深い闇のなかに置いていたのである。いわく、《念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり》(同、第二条)。そして、このようなきびしい罪の意識の彼方に、まさにあの〈悪人正機〉が説かれることになるのである。すなわち、親鸞は言う。《善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや、と。この条一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣 [阿弥陀仏の本願を救いと頼む他力の趣旨] にそむけり》(同、第三条)。
△ 人は「聖なる者」の前に立つとき、罪の自覚が深まります。人は神の現前において、自分が罪人であることを知ると言うべきです。だから、ここに述べられている二つの鍵は密接に関連しています。
ここで〈悪人〉というのは、客観的に罪に問われる悪を行なった人のことではない。そうではなく、わが身の欲望に悩まされて、存在していること自体から苦しみを受け、罪を感じている人のことである。親鸞は、そのようなおのれの在り様をみずから顧みて、次のように述べている(*)。
* 以下の点については、田中教照「親鸞における悪の自覚」(仏教思想研究会編『仏教思想2〈悪〉』一九七六年、平楽寺書店、所収)第四節、第三節に依るところが大きい。
すなわち、『愚禿悲嘆述懐和讃』において、おのれを顧みて述べている。《悪性さらにやめかたし こころは蛇蝎(だかつ)のごとくなり 修善も雑毒なるがゆゑに 虚仮(こけ)の行 [内に虚偽を抱いた行為] とそなづけたる。》また『教行信証』の「信巻」では、《誠に知んぬ。悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して定聚(ぢゃうじゅ)[浄土に生まれ変わる者] の数に入ることを喜ばず、真証の証(さとり)[仏のさとり] に近づくことを快(たのし)まざることを、恥づべし傷むべし》と言っている。いずれも、おどろくほど痛切な表現である。このように親鸞の場合には、その悪と罪の自覚は、単に自力の限界を知り、それを率直に表明しただけではなかった。さらにすすんで彼は、その限界を隠蔽するためにいかなる努力も惜しまない、という人間の煩悩の持つしたたかさ、我執の強さをも鋭く見破り、問題にしていたのである。そのような見地から彼は、我執については、《邪見?慢の悪衆生、信楽を受持すること甚だ以て難し。難中の難、これに過ぎたるはなし》(『正信念仏偈』)とも言っている。
△ 自己のしたたかな悪性(あくしょう)を観取し、救われ難い煩悩の身を抉り出す親鸞の言葉は、日本の宗教史上、あるいは「文学史」上、特筆すべきものでしょう。
そして、このまことにきびしい彼自身の罪の自覚は、さらに、次に見るようなおそるべきことばとなってあらわれるのである。
すなわち、『歎異抄』第一三条において、彼は弟子の唯円に向かって、お前は私の言うとおりにするかと問いただした上で、唯円が仰せのとおりに致しますと答えると、親鸞は、《たとへば人を千人殺してんや [殺してみよ]、しからば往生は一定すべし [浄土に生まれ変わるだろう] と言い放っている。それに対して、唯円は、いくら師のおことばだといっても、自分には一人だって、到底、殺すことができそうもありません、と答えた。すると、それに対して親鸞は、そのように人間はおのれの心を、自分の意のままに制御することができるものではないことを告げて、さらにこう言っている。このように《何事も心にまかせたることならば [心のままになるものであれば] 往生のために千人殺せといはんにすなはち殺すべし [殺すであろう]。》ところが殺せないのは、物事は自分の意のままにはならないからである。したがって、そのような意思だけに頼ろうとする〈自力〉の教えは所詮無力であり、かえって、われわれ一人ひとりを生涯にわたって迷わせるだけではないか。
このように心のあり方というものは、意のままにならない。それは、〈業縁〉[前世からの約束] 次第でどうにでもなるだろう。つまり、もしも業縁さえあれば、そのときには、百人でも千人でも殺すことがある。自分の心の持ち方次第などではないのだ。こうして親鸞は言う。《わが心の善くて殺さぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人を殺すこともあるべし。》およそ人の心というものは、もともとは善でも悪でもないけれども、善にもなれば悪にもなる。人の心根は業縁によって簡単に振り回されるからである。したがって、人は、自己の意思や精進によって善人であるのではない。善人もまたしばしば悪人に変貌する。仏典に親鸞が読み込んだ〈内に虚仮を抱く〉[内心にいつわりを抱く] というのは、まさにそのような人間の在り様を指している、と。
まことに、親鸞において、悪の認識と罪の意識とはおどろくほど徹底している。
△ 人は好んで殺人を犯すのでないとしても、気がついたら人を殺していたということもあります。戦争になれば、善良な市民が百人、千人の人を殺す行為をすることもあります。心がけ次第で、人が善人になったり、悪人になったりするのではなく、殺人は「業縁」であるという親鸞の認識はたしかに徹底しています。著者はここまでを前置きとして、漸く「オウム真理教」の問題に話題を転じます。
5 オウム真理教事件と金剛乗仏教における悪と罪
《往生のためには百人でも千人でも殺すことがありうる》という親鸞が提起したこのテーゼは、日本でも永い間、極端で非現実的な譬え話として受け取られてきた。まさか、そういうことが現実に、とくに現代に起こりうるとは誰も考えていなかったからである。ところがこの現代の日本に、〈ハルマゲドン〉(世界最終戦争)による世界救済を標榜して、多数の無辜(むこ)の人びとを無残に殺傷したカルト教団が出現した。すなわち、オウム真理教が二十一世紀間際に、近代都市東京の真っ只中で惹き起こした〈地下鉄サリン事件〉をはじめとする多くの事件である。
そこで本章の以下の二つの節では、次の諸項目について、要点をまとめつつ、考察を展開することにしよう。すなわち、オウム真理教事件そのものの概観、この教団が教義上もっとも依拠していると称する金剛乗仏教の悪、罪および殺人についての教え、それから、その教えと教団の教義との異同、およびこの事件を発生させた現代日本の一般的な悪の認識と罪の意識についてである。
〈地下鉄サリン事件〉は、一九九五年三月二十日に、東京の地下鉄の二つの線で発生し、オウム教団の実行部隊は、同時多発的に多数の乗客をサリン・ガスによって殺傷した。事件直後の調べでは、死者は十名、被害者は三千人以上に及んだ。当初は、教団側がこの事件への関与を否定する声明を出したため、誰の手によってなされた無差別テロだか、特定できなかった。しかし捜査当局は、三月二十二日から始めた教団の関連施設への度重なる強制捜査を通じて、数々の証拠物件を押収した。それによって、やがて、その他の事件からすでに容疑が濃くなっていたオウム教団の犯行であることを断定するに至った。
オウム教団による〈ハルマゲドン〉計画は、これだけにとどまらなかった。捜査当局の調べが進むと、この教団が、大量の銃、小銃弾、細菌兵器の製造を企て、大型ヘリコプターをロシアから購入するなど、彼らのいう〈地球最終戦争〉の計画を、大分前から次々に推し進めていたことがわかった。そして、〈地下鉄サリン事件〉と直接に関連したことでいえば、その事件以後にも、五月五日には、東京の副都心新宿の地下街の手洗いに、青酸ガスが仕掛けられる事件があった。これは、速い時期に発見されて被害を出さずに済んだが、捜査の撹乱を狙って、一万三千人分の致死量の青酸ガスの発生を企てたものであった。
△ もう十数年も前の出来事ですが、オウム真理教の事件の衝撃は、今でも澱(おり)のように我々の心の底に沈んでいるというべき強烈なものでした(被害者にとっては今なお現実の問題です)。宗教という信念体系が、時として狂信的な状態になりうるということを、この事件は、現代の身近な出来事としてまざまざと我々に突きつけるものでした。
だが、なにがゆえの〈地球最終戦争〉であり、それによってなぜ世界の救済がなされるのであろうか。オウム教団の教祖麻原彰晃の言うところによれば、こうである。現在の地球上のいろいろな情勢からいって、間もなく世界最終戦争が起こるのは必死である。したがって、地球の未来のために、霊的に選ばれたもの、つまり自分たちが、どうしても生き残らなければならない。またそのためには、敵対する者に対して、むしろ先手を打って大量殺戮(さつりく)を行なうことが必要である。この場合に殺戮の犠牲になった者たちは、ふつうに解すれば、無意味に命を落とすことになるけれども、実はそうではなくて、彼らの霊的な地位を高めてやることになるのである。
一般の常識からすれば、これはまことに身勝手で自己中心的な考え方である。だが、それを、オウム教団の教祖麻原は、仏教を中心にさまざまな宗教から採り入れた知見を巧みに折衷し、駆使することで、根拠づけようとした。すなわち、その立場は、ヒンドゥー教のヨーガ、原始仏教、チベット密教の三つを骨格にし、それに中国の神仙道、ヨーロッパの神智学、占星術、ヨハネ黙示録、ノストラダムスの予言書などを取り込んでいる。
そしてその行為の根拠づけ、とくに人びとの大量殺戮に際しては、〈秘密金剛乗〉(*)に拠っていると自称している。すなわち、次節で時期的にその三つの段階を示すように、オウム教団は大筋として、信仰の教義上で次のような移行をした、と称されている。まず、自己自身の救済を中心とした〈小乗仏教〉的信仰から、多くの衆生の救済を中心にした〈大乗仏教〉的信仰へ、次いで、その〈大乗仏教〉的信仰から、いわば絶対的救済を唱えて、あからさまに反社会的な悪を肯定する〈秘密金剛乗〉信仰への移行、である。
* インド密教には、〈金剛乗仏教〉という言い方はあっても〈秘密金剛乗〉という言い方はない。したがって、以下でインド密教を指すときには、オウム教団が好んで使った〈秘密金剛乗〉という用語は使わないことにする。
△ 宗教は人間の心理的弱点に付け込みます。信じやすさは傷つきやすさ(弱さ)の反面であって、与えられた理性を正しく行使しなければ、人間は何でも信じ込んでしまう弱さを持っています。小乗仏教的、大乗仏教的、秘密金剛乗的という信仰の発展段階についての説明は、オウム真理教のシンクレティックな装いに、もっともらしい心棒を通すことになったのでしょう。その教えが多くの若者の心をとらえたのは、「世界最終戦争」が決して単なる杞憂ではなく、差し迫った現実の危機であるという、現代の深刻な不安があるからでしょう。救済を説く既成宗教が、人びとにその具体的な手ごたえを与えられないでいる今日、オウム真理教は極端な宗教的自己主張を試みたのだと言えます。
だが問題は、果たして、本来の〈金剛乗仏教〉信仰が、彼らの言うような意味で、反社会的な悪をあからさまに肯定しているかどうか、である。次にそのことを、〈金剛乗仏教〉信仰そのものに立ちかえって見てみよう(*)。
* 以下の考察については、松長有慶「悪の肯定――タントリズムを中心にして」(前掲、仏教思想研究会編『仏教思想2〈悪〉』所収)に大きく負っている。のちに『松長有慶著作集』(一九九八年、法蔵館)第一巻・第一章・第二節に所収。
△ 松長有慶については、前にその著『高僧伝 空海』を取り上げたことがあります。なおタントリズムとは、「後期のサンスクリット経典の一種で、主として呪術的な力を取り扱うもの(=タントラ)」(Cassell’s English Dictionary)を信奉する立場のこと。
一般に〈金剛乗〉という呼称は、インドの後期密教を、仏教のなかで小乗や大乗と比較して、もっとも高次の教え、ダイヤモンドに比すべき強固な教えと見なすことに由来している。この金剛乗の教えでは、貪(とん、貪欲)・瞋(じん、憎悪)・癡(ち、迷妄)の〈三毒〉は否定されず、かえって肯定的に評価される。仏教では原始仏教以来、一般には、この三毒を否定し、除去することによって解脱への道が開かれると考えられてきた。だが、一切法の空を説く代表的な大乗仏典の『大般若経』においても、かなり遅れて成立した部分になると、その空についても、内容的にいって、否定を通じて肯定へと赴く萌芽が見られるようになる。それが、不空(サンスクリット名は、アモーガヴァジラ)による漢訳の『般若理趣経』などにおいては、さらに積極的な欲望肯定の立場に変わっていくのである。
すなわち、そこでは、一切の人間の自然的な欲望が肯定され、欲そのものが清浄な菩薩の位にふさわしいものであると表明されている。このような欲望の肯定は、金剛乗仏教においてはいっそう積極化する。つまり、貪・瞋・癡の三毒を手にしたままで、それらの煩悩の持つエネルギーを生かして、おのれを大きな生命力にしていくのである。ここでは欲望はもはや、人間の本能にもとづく矮小な欲望などではない。そうではなくて、欲がそのまま絶対の世界に属する清浄な菩薩の位であると見なされることになったのである。
こうして、大乗のうちにすでにあった〈煩悩即菩提〉の考えが、金剛乗仏教になると、貪・瞋・癡の〈三毒〉(*)の実践によって欲にも欲離れにもならない徹底した立場へと赴くようになる。生死にも住せず、涅槃にも住しない〈無住処涅槃〉の立場である。さらにいえば、貪をもって貪を超え、悪をもって悪にうちかつというわけである。一生懸命になって欲を捨て去る努力をするよりも、むしろ、欲の本来持っている生命力を、利他のために方便として生かそうとするのである。つまり、人間的な欲を大きな絶対的な欲に生まれ変わらせることがめざされたのである。
* 原始仏典では、貪(貪欲、lobha)、瞋(憎悪、pratigha, dvesa)、癡(迷妄、moha)を種々の悪を生み出す根源と見なしている。
△ 三毒については、歎異抄 その2、赦しと和解 その2で言及されています。否定を通して肯定に達するという、いわば「弁証法的思惟」が、ここでは、三毒が「清浄な菩薩の位」において肯定されることとして展開されています。煩悩をも「利他のために方便として」生かそうとする徹底的な慈悲の立場が示されていると言えるでしょう。
ところで、そのときに肯定されるのは、貪・瞋・癡の三毒だけではない。金剛乗仏教においては、〈十悪〉の筆頭に位置する殺生もまた肯定されることになる。十悪については、前節でも触れたが、三毒に関連づけてもう少し敷衍(ふえん)しておくと、次のようになる。すなわち、十悪は大別して身・口・意にかかわるものを含み、身にかかわるものには、殺生・偸盗・邪淫、口にかかわるものには、妄語・綺語・悪口・両舌、そして、意にかかわるものには、貪欲・瞋恚(しんに)・愚癡がある。したがって、先に見た三毒は、十悪のうちの〈意〉に属するものである。ところで、右に述べたような方向での殺生の容認には、二つのタイプのものがある。一つは、『理趣経』(玄奘訳の『大般若経』に含まれる「理趣分」を祖形とする般若経典で、真言密教で常時読誦されているもの)のなかに見出されるもので、象徴的な理解を通じて殺生を容認するものである。もう一つは、行為の善悪をその動機に求め、動機を重視することで、殺生を容認するものである。
殺生の容認のうち、前者のタイプの意味するところは、もう少し詳しくいえば、正法を破壊し、有情(衆生)に損害を与える者を象徴的に殺害することや、また、みずからの不善の心を殺害することなら許される、ということである。すなわち、『理趣経』のなかには、経典読誦の功徳を示す有名なことばとして、《三界の有情を殺害するとも悪趣に堕せず、無上正等覚 [この上なく正しく完全な悟り] をうる》というのがある。松長有慶(前掲論文によれば、これまで、一般に日本の注釈者たちは、この〈三界の有情の殺害〉という個所を〈三毒の破壊〉という無難な意味に理解してきた。たしかにこれは、〈殺生〉を真正面からとり上げた特異な個所であるから、注釈者たちが困惑したのも、ある意味ではもっともである。しかし、もしそれを単なる〈三毒の否定〉の意味に解すれば、かえって『理趣経』が本来言わんとするところに反する結果になってしまう。この場合、なにも人びとに対する殺害の容認を表明するのが主な目的ではなく、なにより経典読誦の功徳を極端なかたちで提示しようとするものである。だから、なにもこのように無理な解釈をする必要はないのである。
△ 「象徴的に殺害する」ということでは、禅には「殺仏殺祖」という過激な言葉があります。ここの「三界の有情を殺害するとも」は誇張法でしょう(誇張法については、「意識変革・社会変革」を参照して下さい)。
だが、いっそう大きな問題を孕むのは、後者のタイプの殺生の容認である。このような考え方は、すでに大乗仏教の教えのうちにその萌芽が見られた。たとえば、七世紀に成立した中期密教の代表的な経典『大日経』の場合、その「受方便学処品」第十八の〈不奪生命戒〉を説く個所には、他人の生命を護ること、おのれの身に対するがごとくせよ、と述べられている。しかし、すぐそのあとで、もしも悪業の報いからのがれさせるのが目的であって、しかも怨害の心がなければ、殺生を犯しても許される、ということが説かれている。さらに、善無畏(ぜんむい)によるその注釈『大日経疏』の当該個所になると、方便としての殺生が許される例として、誰かの殺害によってほかの多くの人びとが救われるときや、殺害によってその殺された人に〈出離の因縁〉、つまり迷いの世界を離れる因縁ができる場合を挙げている。ただし、いずれの場合も、大慈悲心がその根底にあることが不可欠の前提とされている。このように、大悲の心、真に他人の利益を願う心さえあれば、殺生そのものも罪悪にはならないというかたちで、条件付の殺害肯定論が説かれたのである。
△ ここで思い出されるのは、ドイツのルーテル派の牧師で神学者の、ディートリッヒ・ボンヘッファーがヒットラーの暗殺計画に加わり、それが発覚して逮捕され、処刑された事件です。あるいはマルクス主義の「暴力革命」のことを考えてみるのもよいでしょう。劣悪な社会を変革するためには武装闘争も辞さないという考え方は、東西の農民一揆などにも見られたもので、場合によっては殺害を肯定せざるを得ないという思想は人間社会の現実を反映しています。絶対的非暴力主義は実行がきわめて困難な思想であるということを銘記すべきでしょう。刑法でも正当防衛の殺人は認められています。不殺生を説く仏教といえども、歴史的現実にあってこのような「決疑論」を論じなければならないところに、同類を殺害する傾向性を抱え込んだ動物としての、人間の深刻な問題があります。
金剛乗仏教の積極的な殺害肯定論は、この方向がいっそう推し進められたものである。それはとりわけ、ヨーガ・タントラの代表的な教えである『秘密集会タントラ』(Guhyasamâja-tantra)のうちに顕著に見られる(*)。
* この『秘密集会タントラ』の内容については、前掲の松長論文でも扱われているが、さらに今回、松長有慶氏ご本人から、未刊行の訳稿をはじめいくつもの関係文献のコピーを送っていただいて、貴重な教示を得た。なお、それらはすべてのちに前掲『松長有慶著作集』第五巻に収められている。
『秘密集会タントラ』の補足部分(「ウッタラ・タントラ」)には、制感、静慮、調息、執持、憶念、三昧という六つの遵守すべき事項つまり〈六支〉が掲げられているが、注目すべきことに、そのなかには禁制と勧制が除外されていて、存在していない。〈禁制〉とは、不殺生、不妄語、不偸盗、貞潔、不所持を説いた道徳的基準であり、それに対して〈勧制〉とは、潔斎、満足、苦行、学習、至上神への帰依といった宗教的な行為の基準である。このようにタントラのヨーガにおいて道徳的な禁制や道徳的な行為の奨励といった項目を欠くことは、高度に神秘主義的なヨーガ観法の特色である。このタントラの成就法の或るものは、世間的に非難される悪徳の行為も、般若と方便を十全にそなえ、他のなにものにも依存しない自生的(自性的)なヨーガの行者にとっては、なんら罪にならず、かえって解脱への道になる、と説いている。こうして或るタントラ書には次のように言われる。
△ タントラの語義として先にCassell’s English Dictionaryを引きましたが、参考までにWebster’s New Collegiate Dictionary を引くと、「後期ヒンドゥー教あるいは仏教の経典の一つで、神秘主義と呪術によって特徴づけられ、特にシャクティの礼拝に使用されるもの」とあります。シャクティとは同辞書によると「あるヒンドゥー教の神のダイナミックな力(エネルギー)のことで、その神の配偶者たる女神がその化身とされる。広義には、ヒンドゥー思想で考えられる宇宙的な力(エネルギー)」とあります。これでも十分とは言えず、見当外れのところがあるかも知れせん。しかしヨーガの行法がある神秘的な力と結びついているということを想定させます。
《他の人が数千年の間、恐ろしい地獄で焼かれるような
その同じ行為によって、瑜伽(ゆが、ヨーガ)者は解脱する。
大方便を具えた瑜伽行者は世間の利を成就し、
あらゆる人びとが嫌悪する所作もなしてならぬことはない。
般若と方便を具えた者にとって、罪といわれるものは存在しない。
金剛薩?(タ) [金剛手菩薩] の化現であるから、金剛者 [ヨーガ行者] は自生であるといわれる。》
また『秘密集会タントラ』にはなんと、次のような突っ込んだ、おどろくべきことばさえも見られるのである。
《阿?(シュク)(あしゅく)金剛を観想して、その手に金剛杵(こんごうしょ)を持つと思え。
熾盛光(しじょうこう)にあふれ、五種光に満ちた、
仏の威光を思い、そこで金剛杵をもってあらゆるものを粉砕すべし。
身語心の一体化したものは、金剛杵をもってしても破壊されることはない。
最上の禅定を観想すれば、心の悉地(しつじ)を達成することになろう。
これらの秘密金剛によって、一切の衆生を殺すべし。
[殺された] このような者たちは、かの阿? [東方に住むとされる大乗の仏の一] の仏国土において仏子となるであろう。
[以上] 瞋部族の三昧耶(さんまや)[憎悪にかかわる在るべき境地] の真実を知るべきである。》(第九分*「勝義諦の不二なる真実義の三昧耶について」)
* この〈第九分〉というのは、のちに出てくる〈第五分〉とともに『秘密集会タントラ』の前半部分をなす第十二分までに属している。この前半部では、第一分の〈マンダラの諸尊の出現〉、第二分の〈菩提心についての説明〉のあと、第三分以下では、具体的な観法が説かれている。しかしそこでは、攘災の呪法はほとんど影をひそめ、空を主題とする真言の観法が説かれている。なお、後半の第十三分以下第十七分では攘災の呪法が表面化してくる。そして最後の第十八分は、補足部分(ウッタラ・タントラ)に当てられている。
△ 無念無想という言葉がありますが、同時に、瞑想(観想)には「イメージ」を伴うという側面もあります。そのイメージが「力」を喚び起します。「阿?(シュク)金剛を観想して、その手に金剛杵を持つと思え」というのが、そのイメージの一例です。しかし金剛乗仏教では観想が過激化していて、道徳的規範すら超脱しているという側面があるようです。
また、
《無間 [地獄に堕す] 悪業をはじめとする大罪を犯した者さえもまた、大乗の大海の中でも [すぐれた] この仏乗において成就する。
[しかし] 阿闍梨を誹謗するのに熱中する人たちは、[どんなに] 修行しても成就することはない。
殺生を生業とする人たち、好んで嘘をいう人たち、
他人の財物に執着する人たち、常に愛欲に溺れる人たち、
糞尿を食物として取る人たち、これらの人たちは本当のところ、成就するにふさわしい人たちなのである。
行者が母、妹、娘に愛欲をおこすならば、
大乗の中でも最上なる法の中で広大な悉地を得るであろう。
仏、尊者の母に愛欲をおこすけれども、[それに] 執着しない。
そのような分別を離れた賢者に、仏国の位が成就する。》
だが、この集会において一切如来はなぜ〈このような悪語〉を語られたのであろうか。そう問われると、如来は答えられた。
《善男子たちよ、以上のような言葉をけっして発してはならない。[なぜなら] さきの言葉は、かの清浄な法性であり、諸仏の心髄中の心髄である法の義から生じたものであり、それはとりもなおさず菩薩行の句であるからである。》(第五分「普遍なる行の最上なるものについて」、前掲『松長有慶著作集』第五巻、二三〜二六頁)
このことばのあまりの激しさに、それを聴いていた数え切れないほど多数の菩薩たちは、《恐れおののいて、暈倒(うんとう)してしまった》という情景まで、その書には描き出されている。
△ 人間が限りなく罪深く、穢れた存在であるとすれば、菩薩の観法とはその罪を背負い込んでなされるものでしょう。解脱(救い出される)ということが、片々たる心の有様の一つでないとすれば、罪を負った人間が丸ごと肯定されるということであり、そこに瞑想の意義があるということでなければならないでしょう。そうすると強調点は「罪を犯す」ことにあるのではなく、人間の罪深さにも拘わらず、あるいはその罪の根底に降り立って「瞑想する」ことに置かれていると考えることができるでしょう。しかしそこを取り違えれば、上の言葉は大変危険であると言うべきです。ここでは、「宗教的自由」が放埓に走るという歴史的事例に事欠かないということが銘記されるべきです。この先、著者は改めてオウム教団の歩みを「金剛乗仏教」との関わりにおいて振り返ることになります。オウム教団がそれをどのように取り違えたかが問題になります。以下、聖書からの引用。なお、このページでは、旧漢字2字を書き込むことができませんでした(「?」の部分)。
「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである」(Tコリ10:23−24)。
「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう」(ガラテヤ5:13−15)。
6 オウム教団の歩みと現代日本社会の盲点
このようにヨーガ・タントラの教えでは、ヨーガ行者たちに限ってのことだが、たしかに殺人が積極的に肯定されている。オウム教団はとくにその結論だけをとり出して、最大限に利用しようとした。しかし、問題はこの教団が宗教集団としてどのような歩みをしてきたかである。また、彼らがどこまでヨーガ行者の集団に値するかである。そのような見地から、この教団の歩みを見ておこう。
この集団は、一九八四年三月に、まず小規模なヨーガの修行道場をつくり、同年五月に「株式会社オウム」を名乗って発足した。この集団が、やがて世界最終戦争を企て、遂に九五年三月に「地下鉄サリン事件」を引き起こすまでわずか十一年足らずである。その間には、いくつかの重要な節目がある。それを簡単に年譜によって示すと、次のようになる。
第T期
八六年四月 前年末の自己の〈超能力〉に自信を持った麻原がそのグループを「オウム神仙の会」と名乗る。
同年 七月 一行でインドに渡航する。ヒマラヤの奥地で麻原が〈最終解脱〉を体験したと自称する。
八七年七月 グループを「オウム真理教」と改称した。この年、弟子の〈成就〉者の数が急増する。
第U期
八九年八月 東京都に宗教法人として認証され、教団として力をつける。と同時に、この頃から強引な入信勧誘によって、社会との軋轢(あつれき)がつよまる。
同年一一月 坂本堤弁護士一家の失踪事件について、オウム教団が関与した疑惑が強まる。
九〇年二月 政界進出を夢見て、衆議院選挙に幹部二十五人が「真理党」の名のもとに、立候補する。しかし、全員落選し、これ以後反社会性へと傾いていく。
第V期
同年一〇月 当時本拠を建築中の熊本県波野村で、地元住民と軋轢が続出した。
九二年六月 ロシアにモスクワ支部を開設した。それを活動の拠点とし、布教とともに兵器等の購入に利用した。
同年 秋 各地の国立大学で講演した。世界最終戦争が近いことを予言して、多くの大学生の信者を獲得した。
九四年三月 富士山麓の自分たちの施設群が〈毒ガス攻撃〉によって被害を受けていることを主張し始める。
同年 六月 長野県松本の住宅街において、犯人不明のサリン・ガス散布があり、被害者が続出した。
九五年三月 地下鉄サリン事件が発生する。教団はただちに事件と無関係であることを声明した。
右の第T、第U、第Vの時期という段階づけは、オウム教団が仏教の教義でいうならば、それぞれ、第5節で述べた意味での〈小乗的〉、〈大乗的〉、および〈金剛乗的〉な在り様の発足あるいは移行の時期に当たっている。
△ 私が直接「オウム真理教」に接したのは、九〇年の選挙運動をしているとき、麻原の面をかぶった一団が何かを叫び踊っていたのを東京の街角で目撃し、異様な印象を受けたことと、地下鉄サリン事件の直後、神田の町が救急車の音と共に、何かが起こったという緊張に包まれた、その渦中にいたことです。しかしマスコミ報道に接する以外、この事件について、それ以上深く考えようとはしませんでした。さすがに著者は思想的事件としても、この問題を深く抉り出そうとしています。
教祖の麻原は、この種の新宗教の指導者として、知的にも、人心掌握力の点でも、決して凡庸ではなかった。彼は、理論的には、チベット仏教を中心に過去からのいろいろな宗教の魅力を採り入れ、現代的な新しい宗教あるいはカルトのあり方を模索した。あまつさえ、集団としては、短期間の間に、なんと省庁制まで敷いて、日本の国家を敵にまわすような一大擬似国家をつくり上げた。このような急速な躍進はどうして可能であったか。そこには、大別して三つの理由が考えられる。
△ 国家という存在は人為的であって、決してあるがままの運命共同体ではありません。今の日本が、たとえば、北海道、本州・四国・九州、そして沖縄の三つの国家に分かれているとしても、不思議ではありません。「想像」の上では(井上ひさし『吉里吉里人』参照)、日本の国内に別の国家をつくり上げることはいくらでも可能です。しかし「現実」の上では、様々な力学から現在の一つの国家が存在しています。オウム真理教は幻想共同体、と言って悪ければ、作為的共同体としての国家に、もう一つの幻想(あるいは作為)をつけ加えたと言えるでしょう。それは明らかに体制への過激な挑戦でした。
その一つは、第二次大戦後の日本では、それ以前の戦前・戦中期の天皇崇拝や諸宗教弾圧の反動として、また、合理主義思想一辺倒の時代がつづいたため、一般国民の宗教意識があまりにも希薄化したことである。さらに、それとともに、政府や国民がいろいろな宗教団体の反社会的な活動に対してあまりにも無関心、無責任であったことである。その結果、オウム教団は、世界的な歴史の転換期のなかで時代的な閉塞と宗教的渇望をつよく感じていた人びと、とくに若者たちをつよく引きつけ、信者として彼らを集団の内部に引き入れることができた。神秘主義の魅力にたいへんよわく、しかも科学を妄信する、劇画的SFを愛好する世代の若者たちである。いいかえれば、二十世紀後半の日本に生じた一種の〈宗教的空白地帯〉がこの現代の怪獣めいたカルト集団を異常に突出させることになったのである。
△ 無宗教であるということは、別の面から見れば、宗教(あるいは、何かを信じ込んでしまうこと)に対する「免疫」ができていないということを意味しています。その宗教的空白地帯につけ込んで、さまざまな新宗教が跋扈することになります。しかも既成宗教は、布教の努力をしたとしても、既存の体制はそのままにして、人々の常識に訴える、あらずもがなの説教を繰り返して無視されるか、あるいは、新宗教の仲間の一つと混同されて毛嫌いされ、特に若者ものたちの間で益々その影響力を失うことになります。このことは、かつて、キリスト教の「布教」に取り組んだことのある私の実感です。
第二には、一九八〇年代末に七十年間にわたった社会主義体制の倒壊によって生じたロシアの混乱を、この教団が自己の組織の拡大・強化に巧みに利用したことである。この場合、それは、あたかもマルクス主義崩壊後の思想的・宗教的な混乱状態のなかで行なわれた。ロシアでは、すでに多くの新宗教が人心に喰い入ろうとしていた。だが、オウム教団にとっては、そこに食い込み、勢力を拡大するのは比較的に容易であった。アジア的神秘主義と科学性とを兼ねそなえた〈ポストモダン〉の性格によって、それは、つよい吸引力を持っていた。と同時に、彼らは、豊富な資金力によって、放送局を買い取って布教宣伝活動に役立てた。さらには、ロシアの軍部にとり入って、彼らのいう〈世界最終戦争〉にそなえた武器の調達や戦闘訓練に役立てたのである。
△ 公教育において反宗教的合理主義的な教育を行なったロシアで、人々の宗教的免疫力が落ちていたということは、特にソビエト連邦崩壊後の若者たちが、戦後の日本と同様の精神的状態に置かれていたのだということでしょう。しかし怪しく魅惑するものには毒がある、と人々が気づくのは時間の問題です。
最後に第三の理由と考えられるものに、教祖麻原が抱いていたはげしい時間的な切迫感である。残りの時間がないということであった。それは、表向きには世界の破滅に対する危機感ではあるが、実は、それを生み出したのは、病の進行による(と彼自身の考える)生命についての危機感であり、自己の権力意志の崩壊に対する危機感である。人びとの魂のためなどと言いながら、〈最終解脱者〉を自称する彼が、なによりもいちばん恐れていたのは、自己の権力体制の崩壊であり、自己自身の破滅であった。そしてこのような場合、権力意志は破滅願望と表裏をなしている。また、隠れた破滅願望が、権力意志の行使をひどく大胆にしたのである。
△ 三つの理由として挙げられた一と二は、やや客観的な分析です。しかし第三の理由として挙げられたものは、著者による麻原の「精神分析」と言うべきものです。
このようなことを言ったのは、ほかでもない。おそらく多くの人びと、とくに信者たちがオウム真理教に、つまりは教祖麻原に対してつよく感じていた魅力は、この表裏をなす権力意志と破滅願望であり、また隠れた破滅願望による教祖麻原の大胆な権力意志の行使であったはずである。そのような意味でも、信者たちは教祖麻原のうちに自分たちの理想像を見ていた。なぜなら、彼は、隠れた破滅願望をつよく合わせ持つことによって、一見あたかも宇宙生命の強烈さを発揮するかのように見えたからである。一般に、現代のような民主化された世の中にあっては、こうしたかたちの権力意志の体現者は、なかなか見出しがたいのである。
△ 人はなぜスリルを求めるのか言えば、危険とその克服とが表裏の関係にあるからです。あるいは賭け事に人が魅力を感じるのも、喪失と獲得とが紙一重の関係にあるからです。それと同様に、権力意志と破滅願望との間にも、増幅と消滅という裏合わせの関係が見出されるからこそ、人はそこに魅力を感じるのでしょう。打倒される可能性があるからこそ、人は権力者の勝利と権勢を賞賛するのでしょう。それはたしかに民主化された社会では、極端な形では見出しにくいものです。しかし権力と権力闘争は存在しています。
このように見てくると、オウム集団の教祖としての麻原が、いかに現代日本社会の宗教的弱点を鋭く掴んで、それを利用したか、また、いかに社会主義政権崩壊後のロシアの混乱と闇の深さとを宗教的、軍事的に役立てたか、さらに、いかに巧みに自己の権力意志を宇宙的規模で体現しようとしたかがわかるだろう。私が教祖麻原の〈権力意志〉をことさらに問題にするのは、彼の半生を見ると、若いときから終始たいへん権力意志がつよかったからである。それは、向上心や研究心とも結びつくと同時に、世間に対する怨恨あるいは憎悪と結びついている。まさに仏教でいう〈三毒〉つまり貪欲(貪)・憎悪(瞋)・迷妄(癡)の三つと、彼は密接な関係にあったのである。
△ ここで再び麻原と「三毒」との密接な関係という形で、「三毒」が持ち出されています。麻原は「最終解脱者」として「三毒」を根本的に克服したのではなく、むしろそれに絡め取られた半生を送ってきたという問題が提起されています。
三毒のうち最後の迷妄あるいは邪見を意味する〈癡〉であるが、これは、教祖麻原が教団幹部たちとともに、嘘をつき、ことばを弄(もてあそ)び、都合の悪い相手にはひどい悪口を言い、二枚舌を使ったこと、とくに、のちになれば誰の目にも黒白がわかることについて、しらをきりつづけたことに、もっとも端的に表われている。つまり、十悪中の〈口〉にかかわる妄語・綺語・悪口・両舌を恣(ほしいまま)にしたのである。しかも、その〈癡〉の在り様は、しらをきり邪見を抱いているうちに、それが虚言であり邪見であること自体が見えなくなってしまう、ということまで含んでいる。だが、麻原がこれらの三毒と密接な関係にあったといっても、必ずしもいつでもそれに呑み込まれていたわけではなく、それらと懸命に闘っている側面もあった。それはそれとして認めねばならない。
△ 「三毒」を慎むことには「功徳」があると信じられています。それは人間の基本的な生き方というべきものであって、その常識を覆すような過激で法外な生き方があるとしても、それにはそれ相応の理由がなければならないでしょう。
そしておそらく、その闘いの果てに辿り着いたのが、貪・瞋・癡の三毒をはるかに超えて殺生までも肯定する〈金剛乗仏教〉の教えであった。教祖麻原はある時期から、自分が〈最終解脱者〉であることを教団の内外でさかんに公言し、そういう特権的存在として強大な権力を行使しはじめた。そうしたのは、彼が、なによりもそのように強化された権力体制のなかで、自分自身に対してそのように思い込ませなければならなかったからである。そのように自分に思い込ませることによって、はじめて、三毒を持ったままで、さらに十悪の筆頭にある殺生を積極的に肯定する教えを手に入れた、と考えたのである。そして、彼に決定的に欠けていたのは、〈金剛乗仏教〉の教えの大前提にあった〈大悲の心〉であった。
△ 人間をその一切の罪から救い出そうとする如来の「大悲の心」に発する言葉を曲解して、それを捻じ曲げて解することの危険性は、端的にオウム真理教の顛末として示されたと言うべきでしょう。それは悲喜劇とでも言うべき事態でした。生身の人間が「大悲の心」あるいは「神の愛」に生きることはきわめて困難です。しかしそこを飛ばしてはいかなる「革命の大義」も、オルグ(折伏)も、結局は陰惨な権力闘争に行き着くだけです。現実の歴史がそれを物語っています。
7 〈神の報復〉のなかで
オウム真理教事件は、現代の日本の文化状況そのものを反映して、そのなかにはあまりに雑多なものが多く含まれている。一面キッチュ(▽)でありマンガ的であったが、そのことによって人びとの幅広い無意識をとらえ、しかも現代日本の知的世界をほとんど制圧した。すなわち、大多数の宗教学者たちは〈してやられ〉、仏教界をはじめ宗教界の識者たちは、問いの立て方がわからないために、いわば〈手も足も出せなかった〉。わずかにいきいきと対応することができたのは、事件の経過にたえず付き合ってきた社会評論家やルポライターたちであった。現在では、刑事事件の対象としてオウムの裁判は延々としてつづいているのに、多くの人びとはオウム真理教事件そのものを〈一場の悪夢〉として忘れ去ろうとしている。
△ キッチュ Kitsch(ドイツ語)俗悪な作品、きわもの。
〈嫌なことは早く忘れる〉というのも、それはそれで一つの知恵ではあろう。が、私がいちばんおそれるのは、この事件がなんであったかを多角的に検討し、主要な問題点を摘出することなく、私たちの社会がこの事件を忘却の彼方に押し流してしまうことである。オウム教団を単にいかがわしい集団だときめつけ、オウム真理教事件をくだらない事件だときめつける人もいるようである。しかし、こんなに日本の社会や文化の隠れた体質があらわになった出来事も少ないだけに、それに対する究明を放棄するのは、ほとんど知的な自殺行為とさえ言えるだろう。そのように考えて私は、「日本文化における悪と罪」を論じるに当たって、この問題にかなりのスペースを割いたのである。
△ 著者はオウム真理教事件に「日本の社会や文化の隠れた体質」を見ています。見る目を持つ者には、この事件は我々自身の潜在的願望を含めて、日本の社会の暗部にあるものを照らし出す出来事だったということでしょう。
R・ベネディクトのいう〈恥の文化〉ということも、親鸞の説く〈悪人正機〉というこのも、それ自体として日本文化における悪と罪を考える上で不可欠な問題である。それらについての考察の延長上に私がオウム真理教事件を持ち来たったのは、ほかでもない。それらによって後者を解き明かすだけでなく、逆に後者によってそれら前者に新しい照明を当てることができるものと考えたからである。そこで最後に、その点を、日本文化の全体や歴史とのかかわりで、簡単にまとめておこう。
先に第4節で私は、鈴木大拙の重要な見解として、日本の仏教のなかで、中世における禅宗と浄土真宗こそが〈日本的霊性〉をもっともよく体現している、というのを引いておいた。その禅宗についてはもちろんだが、浄土真宗についても、それと、インド密教の一部をなす金剛乗仏教とは、一見、あまりにも隔たりが大きくて、およそ関係がないようにみえる。しかし、悪の問題に対する親鸞の接近の姿勢は、すでに見てきたとおり、実にきわどいところにまで足を踏み入れていることがわかる。それを思うとき、彼のとくに〈悪人正機〉の説には、逆説を含みながらも、明らかにインド密教あるいは金剛乗仏教と繋がるところがあるのがわかる。
△ オウム真理教事件を介して著者が気づかされたこととして、親鸞の悪人正機の説が、一見遠く離れているかに見えるインド密教、あるいは金剛乗仏教とつながりがあるのではないか、ということでした。また禅宗については、ヨーガと坐禅との結びつきということを考えて見るのも、無駄ではないでしょう。
それにつけても思い出すのは、いつぞや金沢を中心とした北陸一帯の宗教分布を調べた折に、浄土真宗の勢力の拡がった地域のベースに、真言密教がつよくあったことである。そのことだけで断定するのは乱暴であろうが、それはともかくとして、親鸞の教えとくに『歎異抄』や『和讃』のあれこれのことばには、密教的なあやしさや危うさと通じるものが多くあり、それが人びとをつよく惹いているのではないないだろうか。かねてから、『歎異抄』は真の親鸞の教えではないのではないかという議論があった。それは、弟子唯円の手によってまとめられた親鸞の語録であるという形式的な側面だけではなく、主著『教行信証』とトーンがちがうことから言われている(*)。言語表現はその形式のちがいによって含意が微妙にちがってくるのは事実である。しかし、だからといって、自著の親鸞だけが真の親鸞だということにはならない。『歎異抄』の場合には、唯円の手によって〈隠れたる親鸞〉が浮上したとも言えるのであるから。
* たとえば石田端麿は編著『親鸞』(中央公論社版「日本の名著」6)の解説のなかで、こう言っている。かつては自分も『歎異抄』によって親鸞を知り、そこにまたとない偉大なる人間を見た。しかしその後、《『歎異抄』によって親鸞を知ったと考えてはならないことを父から教えられた。親鸞を正しく知ろうと思うなら、『教行信証』を読むようにと教えた父の言葉は、いまもわたしの耳朶を離れない。そしていま、それは正しかったと思うのである》と。
△ 『教行信証』は、いわば仏典のアンソロジー(選集)です。そこに親鸞の信仰の典拠があるとしても、そこから必ずしも親鸞の肉声が聞かれるわけではありません。唯円が、親鸞の言葉を正しく聞き取ったか否か、という問題はあるでしょう。しかし『歎異抄』には、経典の注釈以上の、親鸞の生の声が聞かれるという利点があります。『和讃』についても、同様のことが言えるでしょう。
さて、オウム教団の教祖麻原が、彼らのいう〈秘密金剛乗〉にもとづいて殺生の積極的な肯定を説いたとき、その過激きわまる主張に、日本人の多くは当惑した。そこに、チベット仏教にもとづく――としばしば考えられた――まったく新しい異端的な教えを聞いたような思いがした。けれども、そのような殺生や悪についての考え方自体、あるいは少なくともその方向は、歴史的にいって、必ずしも日本人に親しくなかったわけではないのである。そのことは、親鸞の〈悪人正機〉説とだけでなく、先に第3節で見たように、日本の中世で言われた〈悪党〉が、その逞しいエネルギーによって既成の関係あるいは秩序を打破する者たちであったことにも繋がっている。教祖麻原の迫力は、明らかに彼の〈悪党〉的なふてぶてしさといかがわしさによっていると言えるだろう。
しかも、このような悪党のあり方は、単に教祖麻原だけのことではなく、多くの強力な日本的リーダーのうちにも見られる。たとえば、すでに第3節で触れたように、元総理大臣田中角栄のうちに多くの日本人が見たのもそういうタイプであった。それに、田中角栄はただ一人孤立して存在しているのではなく、日本の社会の各界には、実に多数の〈タナカ〉がいる。また、田中が全盛時によくたとえられた日本歴史上の人物、豊臣秀吉は、十六世紀に日本全国の統一を果たして、のちの徳川幕藩体制の基礎を築いたが、いまでも国民的人気がきわめて高い存在である。
△ 親鸞の「悪人正機」説と並んで、著者は再び中世の「悪党」モデルを持ち出します。番長やガキ大将のような存在、あるいは親分(ボス)と言われる者たちが、日本の社会の各所に陣取っていて、少なからぬ社会的影響力を持っているということは、否定できないことです。しかしそれは何も日本に限ったことではないでしょう。そもそも悪を含まない権力などはどこにも存在しません。
オウム真理教事件が日本社会に残した傷跡は、あまりにも深い。そして、この事件が含む問題をどのように受けとめ、どのように乗り越えていくかは、宗教的のみならず、思想的にも哲学的にも、今後の日本にとって大きな課題である。そして、すでに述べ来たったように、この事件にはたしかに、日本の文化や社会の歴史的な事情と深くかかわっているところが多い。しかし同時に、この事件は、たとえば、G・クプルの『神の報復』Kepel, La Revanche du Dieu (1991) という著作が示しているような、世界的規模での宗教的混乱、そのなかでのカルト教団の簇生(そうせい)と事件(カナダやスイスで五十三人が集団自決した「太陽寺院」、一九九四年に世界の終末を設定したアメリカのテキサス州ワコーでの「ダヴィデの仲間」の惨劇など)、また、イスラムのファンダメンタリズムの暴走と、通底しているところがある。そのような宗教・宗派にわたるさまざまな世界的な現象との結びつきのうちに、日本の社会や文化を考えるべき時期が到来している。
△ 人はなぜ「盲信」や「狂信」に陥るのかということは、心理学的な問題であり、かつ人類学的な問題であるでしょう。宗教が望ましい肯定的な側面と共に、毒や危険を含んでいるということを、地球規模で考えなければならない時期に来ているのは、今や誰の目にも明らかになりつつあります。進化論を拒否し、創造科学を主張するアメリカの保守的なキリスト者などは、事実に即して事柄を判断せず、教義を絶対視する点で、典型的です。もしそれがさらに大きな勢力となれば、あらゆる人間の精神活動に影響を及ぼし、害悪を及ぼすこと必定です。権威とドグマは相対化されるべきです。
そこで、最後に、言い残したこととして、日本的な〈恥の文化〉は、悪と罪の問題にどのようにかかわるかということについて、一言しておこう。すでに第2節と第3節で見たように、〈恥の文化〉の特徴は、人びとが絶対的な基準ではなく相対的な基準のうちに生きていることにある。とはいっても、それは、人びとがいつでも相対的な基準による寛容の世界に生きていることを意味するものではない。なぜなら、本来は相対的基準であったものが、あるいは習慣として固定化し、あるいは緊迫した状況のもとでは絶対化して、かえって人びとをつよく強制することがあるからである。そこに、日本社会の画一化の力がある。
△ 「恥の文化」という原初的古代的なものが今日なお存続していることと、天皇制が今も存在していることとの間には、おそらく密接な関わりがあると思われます。政教分離の原則に反するかに見える「宮中祭祀」が公然と行なわれている社会では、そこで絶対的で一神教的な神が祀られているわけではなくても、戦前のように、それを受け入れない者を異端視する傾きを内に孕んでいます。また、日の丸・君が代は、日本の社会を画一化するための意匠であるということができます。
そしてそのことは、罪障性に対する悪のように、恥とセットになっている穢れが感染されやすいと見なされていることと対応している。またそのことは、日本社会ではムード的な共同性が成り立ちやすく、問題によってはきわめて能率的に社会が方向づけられうる一方で、一人ひとりが気がつかないうちに共犯関係のうちに取り込まれ、責任の所在がひどく不明確になるということにもなる。〈恥の文化〉には、当然、長所とともに短所があるが、そのように責任の所在が曖昧になる短所は、高度に恥を知る美的なストイシズム――これは〈良心の潔白〉に通じる――によって、自己に対してはきびしく、他人に対しては寛容であるようなモラルによって乗り越えることができるはずである。
△ 第二次大戦後、「一億総懺悔」ということが叫ばれ、個々の戦争責任が不明確になったことなどは、恥の文化の悪い面が出た事例であると言えるでしょう。著者は「高度に恥を知る美的なストイシズム」によって、そのような恥の文化の「短所」を乗り越えることができるのではないかと述べます。しかし何を契機としてそれが可能であるかについては、言及していません。そのためには、日本人の「内」と「外」との感覚に、国際的な文脈での変化が起こることが必要になるでしょう。ちなみに、アンセルムスの全著作を翻訳した古田暁氏は、日本人の「内」と「外」との感覚は古事記以来変わっていないと言い、その例として、電話の「内線」(英語では逆にextension)や、やくざの言う「シマ」を挙げています。シマは、しめ縄の「シメ」に通じています。
日本の文化は、恥の意識と穢れの感覚を依然として根底に持ちつつ、七世紀以来は中国大陸から仏教思想を受容し、日本化した。その一方で、この一世紀あまりの期間にはキリスト教的な西欧思想を大きく採り入れた。その際に、それらの間にある容易に融和させがたい諸問題を、解決したというよりは緩やかに共存させることで、これまである程度うまく切り抜けてきた。しかし、いまや、世界的にも新しい状況のなかで、ユダヤ・キリスト教からきわめて異端的に見えるグノーシスや金剛乗仏教をも視野のなかに入れて、問題を煮詰め、共通の根底から、広義の〈悪と罪〉の問題をとらえる努力が要求されている。その一翼を担うために、ここに私は、日本文化の観点から〈悪と罪〉の問題について、メッセージを出す試みを行なった次第である。
△ この論文はここで閉じられています。日本が民主党による政権交代を行ない、新しいステージに入った現在、我々がこれまでの国家主義的な攻勢から立ち直って、グローバルな視野から、自分の立ち位置を見直す機会が訪れてきたと言えるでしょう。再び「内」に籠もる危険性を抱え込みつつ、我々自身の生き方を広く深く探ることが求められていると言えるでしょう。この論文はそのための一つの問題提起であると見なすことができます。なおこのあと、《補説》として「エラノス会議について」という文章が添えられています。エラノス会議の「由来と歴史」(日本からはこれまでに、鈴木大拙、井筒俊彦、上田閑照、河合隼雄などの諸氏が加わっています)、著者の会議での講演(フランス語)と、日本語版の元原稿(本論文)との「二つの版の異同」、ならびに会議での「講演への反響」について書かれています。しかしその紹介は省略します。
第一章の紹介を終え、第二章「問い直された日本人の宗教心――脳死問題とオウム真理教事件にふれて」に移ります。これもまた講演のための原稿です。
1 宗教と想像力
「宗教と想像力――世界的な展望」を共通テーマとするこのシンポジウム(*)において、私は標題のようなテーマを採り上げることにした。そこで、この一見限定されたテーマがどのようにして共通テーマにつながっていくか、その筋道と見取り図とを、最初に示しておくことにしよう。
* このシンポジウムは一九九七年五月九日、一〇日の両日アメリカ、ニュージャージー州、プリンストン大学で行なわれた。呼びかけ人は昨年九月以来同大学に客員教授として滞在していた大江健三郎であり(その報告テーマは「文学的想像力と宗教的想像力との間」)、ほかに主な参加者は、トニー・モリソン(開会の辞)、ゴードン・カウフマン(ハーバード大)、池明観(韓国翰林大)、ロバート・J・リフトン(ニューヨーク市大)、テツオ・ナジタ(シカゴ大)、ジャック・マイル(ピュリッツア賞作家)などであり、日本からは私が招かれた。世話人は、同大学の町田宗鳳助教授であった。私がシンポジウムにおいて口頭で報告したのは英語縮約版であるが、英語の元版はやがて、このシンポジウムの記録として公刊されるものに収められる予定である。なお、本稿は日本の読者に向けて、日本語元版をさらに推敲・加筆したものである。
一九八〇年代後半からこの十数年間の間に、私は日本の一人の哲学者として、日本人の宗教心について否応なしに振り返らざるをえない二つの問題あるいは事件に遭遇した。その一つは〈脳死・臓器移植問題〉であり、もう一つは、〈オウム真理教事件〉である。この二つは、一見したところ、それ自体としては相互に関係がないようにみえるが、私にとっては密接に繋がっている。といのも、いずれの場合も、実は日本人の宗教心が〈仏教〉とのかかわりで問われたからである。
△ アリストテレスは、哲学者の資質とは一見無関係と思われるものを一つに結びつける能力である、と言いました。著者は〈脳死・臓器移植問題〉と〈オウム真理教事件〉との間に、日本の仏教との関わりで一つのつながりを見出そうとしています。
すなわち、前者の場合、仏教的な宗教心が、日本人の伝統的宗教心としてクローズアップされ、その立場からしばしば、〈脳死・臓器移植〉に反対が唱えられた。そのとき、私は最初、どうして仏教的な宗教心の立場から〈脳死・臓器移植〉に反対の意見が出てくるのか納得できなかった。個人の生命に関しては、仏教本来の教えは〈輪廻転生〉にあり、キリスト教とはちがった意味で死体を重視しないはずだからである。次に後者の場合だが、世界の耳目を聳動(しょうどう)させた〈オウム真理教事件〉について、この教団に付け込まれるような〈宗教的空白〉が、なぜ日本社会に生じたのか、また、日本の代表的な各宗教、とくに仏教各派が、なぜこのようなカルト教団の台頭に明確に対処できなかったのか、私には不思議でならなかったのである。
後になってみれば、いずれの問題についても、自分がその方面の事情に疎かったからである。しかし、哲学の持つ〈無知の知〉の効用がこのような場合にもありそうだと思ったので、自分の抱いた疑問を持ちつづけることにした。こうして私は、自分の問題として、〈仏教的な日本人の宗教心〉あるいは〈日本の仏教〉とはなにか、それはいかなる特徴を持ち、そこにはいかなる問題があるか、を考えざるを得なくなった。
△ 「無知の知」については、「非専門性としての哲学」を参照して下さい。そのからみで言えば、著者、中村雄二郎は優れた「非専門家」の一人であると言えるでしょう。
ここで、私のこれからの話をよりよく理解していただくため、哲学者としての私の宗教や仏教とのかかわりについて、一言しておこう。私の哲学研究の出発点は〈パスカル研究〉(*1)にあり、そこでの「科学と宗教」、「キリスト教のイエズス会的あり方とジャンセニズム的あり方」の問題は、後々までも私の考え方の参照軸になっている。他方、仏教とのかかわりは、八〇年代に入って私が〈西田哲学〉の重要性に気がつき、内在的な批判と克服を企てるようになってから生じたものである。また、「宗教と悪」の問題についていえば、九四年に出した『悪の哲学ノート』(岩波書店)の後半部分を〈ドストエフスキー〉に当てたほか、昨年八月の「エラノス会議」で「日本文化における悪と罪」(*2)を論じた。
*1 『パスカルとその時代』(一九六五年、東大出版会)
*2 『新潮』一九九六年一二月号に付論とともに掲載。本書第一部(▽)第一章に付論の一部を削って収録。
△ 本書の第一部は日本の宗教について論じた諸論文、また第二部は西田幾多郎を論じた諸論文からなっています。ここで取り上げている第一章、第二章は第一部に属しています。なお、著者が仏教に関心を抱くようになったのは、西田哲学に取り組むようになってからであると言われています。通例、西洋の哲学から出発する日本の哲学者の意識のあり方を示す一例のように思われます。
そこで、この報告に於て私が論じ、主張することの見取り図を箇条書にして示しておけば、次のようになるだろう。
T 〈日本の仏教〉とくに〈仏教的な日本人の宗教心〉は、実はなによりも儒教とのシンクレティズム(折衷主義)のうちに成立している。そして、そのことはとくに、広義にせよ〈仏教的立場〉を自称する、〈脳死・臓器移植〉に対する反対意見に顕著に見られる。
U オウム教団によって付け込まれるような〈宗教的空白〉が生じたのは、なによりも、折衷主義的な日本の仏教の各宗派が教団として成立した後に惰性化し、〈葬式仏教〉化してしまったことによる。また、各宗派は、組織化し教団化していったとき、そこに必然的に帯びざるをえない〈制度化〉や〈権力化〉に目を覆った。そのため、オウム教団の含む〈悪〉の問題に対処することができなかった。
V 折衷主義仏教の一環をなす〈儒教〉の思想は、十八世紀以降の中国大陸・朝鮮半島からの受容の過程において、徳目の中心が他者に対する〈敬〉からナチュラリズムへの傾斜のうちに、より主観的な〈誠〉に移っていった。そのために、詰まるところは、《誠のために他人を殺す》ことも可能になった、という問題が出てきた。
W 折衷主義仏教の一環をなす〈道教〉あるいは老荘の思想は、現代の日本においては、〈天皇制〉や日本仏教の〈本覚思想〉との深い関係に十分に目が向けられないままに、その〈アニミズム〉的な一面が、ディープ・エコロジーなどと関連づけられて称揚されている。日本人の仏教的な宗教心に対して道教あるいは老荘の思想は、一面たしかに内面的な深化をもたらしたが、その反面では批判性や超越性を弱めることになった。
△ ディープ・エコロジーについては「エコロジーの七つの原理」を参照して下さい。
X 儒教は東アジアの諸宗教のうち、実践的な性格がつよく、そのために、経済活動まで含めた〈儒教文化圏〉の提唱が中国や韓国においてなされている。しかし、東アジアの宗教を考える場合には、仏教・儒教・道教の新しい組み合わせをどのように構想し、成り立たせていくかであろう。
△ ここに示された見取り図によって、著者は、東アジアの宗教が、仏教・儒教・道教の組み合わせによって成り立っていることに留意し、それを対自化し、新しい組み合わせの可能性を構想するところに、問題の解決の方向を見出そうとしています。また日本の問題としては、道教的アニミズム的な思想の、天皇制や本覚思想への浸透とその問題性、また「敬」から「誠」への倫理の内面化(心情倫理化)を指摘しています。それが意味するのは、「敬」においては存在した他者性の契機が「誠」において消失し、すべては自己の内面の問題に移されてしまうということでしょう。なお宗教の「制度化」「権力化」はどの世界でも見られることです。しかし、日本の仏教がその傾向性を自ら克服しようとしなかったことから、「宗教的空白」(精神の不在)が生じてきたということでしょう。その問題を、私は、近代化との関わりで「三つのゼーション現象」として論じたことがあります。また永くYMCAの専従職をしていた関係で、YMCA運動の制度化という問題を考えて来ました。それについては「信徒運動としてのYMCA」、「YMCA運動再考」に於て論じています。実は著者自身が身を置いている大学に於ても、この「制度化」、「権力化」の傾向は不可避であり、「教団」とは別の意味で批判的知性の荒廃が進んでいます。
2 隠されていた儒教
日本の仏教が折衷主義的色彩の濃いものであることは、私とてもまんざら知らなかったわけではない。しかし、私がそれを明確に認識するようになったのは、〈脳死・臓器移植〉問題にあって、仏教家・仏教学者たちの発言が意外なほど必ずしも〈仏教的〉ではなかったことによる。
まず仏教学界の長老、平川彰の日本学術会議第一〇〇回総会(一九八六年四月)における講演「脳死をめぐる諸問題」での発言を見てみよう。平川は次のように述べている。
わが国の宗教学者や仏教学者の間では、脳死の判定や臓器移植に関して、未だコンセンサスは得られていない。そこで、〈日本人の宗教心〉から見てこれらの問題がどう受けとめられているか申し述べたい。この〈日本人の宗教心〉のなかには、仏教も入るが、むしろ仏教が伝来する以前から日本人が持っている宗教心、現在も日本人の心のうちに生きている宗教心である。
日本人の場合、〈心〉という語がこころもからだも示すように、こころとからだを一つに見る考え方が強い。もっとも、インドの仏教ではこころとからだとは別の語で表わしていたが、仏教が中国に入ると、両者の区別は失われている。他方日本語の〈魂〉の方も、精神的な意味とともに肉体的な意味がある。先祖の祀りに際して、礼拝や読経だけでなく、供養の食物を捧げる仕来たりがあるが、それは、死者の霊魂にも身体があるように扱うからである。日本人が死体に対して、宗教的に特別な感情を持って拝むのは、〈死ねば仏になる〉と思われているからである。だが、このようなことは、仏教の教理からは説明できない。
△ 「たましい、こころ、からだ」については「ルターの人間学 その4」で言及したことがあります。なお「死ねば仏(神)になる」という考えは、日本人の精神的古層に属する相当に古い、伝統的な死生観を反映しているのではないかと思われます。
仏教学者の平川は、このように〈日本人の宗教観〉のうちには仏教の教えだけでは律しきれない伝統的な死体重視の思想があると説くのである。
もう一つは、やはり仏教学者たる藤井正雄の「脳死と臓器移植――生活仏教の立場から」(九二年二月、梅原猛編『〈脳死〉と臓器移植』朝日新聞社、所収)での発言である。
いわく、〈生活仏教〉とは、〈教義仏教〉との対比で言われている。後者が、教義・儀礼・教団の三本柱から成る正統的な仏教であるのに対して、前者は、受容に際して民間宗教との混淆のなかで構築された仏教である。前者としての日本仏教は次の三つの特徴を持つ。一、インド仏教・中国仏教・朝鮮仏教とは異質な独自の存在である。二、中国仏教・朝鮮仏教の影響を受けながらも、わが国の土着信仰と習合した二重・三重の構造を持つ。三、仏教の受容に際しては、〈仏教の民俗化〉と〈民俗の仏教化〉をともに含んでいる。他方、教義仏教においては、身体そのものに執着する考え方は存在しない。捨身は菩薩行としての布施行だからである。これに反して生活仏教では、死体は成仏の主体なので、葬儀の際にも棺に向かって弔辞が読まれる。日本人の下意識にとっては、死体はモノではなく、しばし霊とともにあるので、意識や感情を持つものとされるのである。
このように藤井正雄の場合も、生活の場での〈日本人の宗教心〉を、仏教と民俗宗教との混淆状態のうちに見ている。
△ 世界宗教といえども民俗とは無縁に特定の地域に土着できないということは、歴史が証明しているように思われます。キリスト教、イスラム教などの強固な一神教では、民俗を一掃してしまうという面もありますが、それにも限界があると言うべきでしょう。若いときからキリスト教に関わって、私も「生活の場」ということを強く意識させられてきました。その全体を特定の原理に従わせるなどということは、とても困難なことであって、それを強行しようとすれば、さまざまな軋轢が生じてきます。なお日本人が死者や葬儀に関わるときの態度は、先頃、「おくりびと」という映画が評判になり、記憶に新しいところです。それが現に日本人の生活の一面をなしています。
〈脳死・臓器移植〉問題との関連で、〈日本人の宗教心〉を具体的に扱おうとする以上、二人の仏教学者が、教義としての仏教だけでなく、人びとの現実の仏教信仰の在り様のなかに深く入り込んでいる伝統的な霊魂観や身体観を大きく考慮に入れていること、そのこと自体は、まったく正しい。しかし、この種の議論に接してきて私が不思議に思ったのは、どうして〈仏教〉と〈伝統的な心身観〉だけが問題にされるのか、であった。たとえば、『孝経』のうちに見られる《身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり》のような儒教的な身体観が歴史的に日本人につよい影響を与えてこなかった、とは到底、考えられない。
そのような疑問を感じていたときに、私が出会ったのが、刺激的な加地伸行の儒教論『沈黙の宗教――儒教』(一九九四年、筑摩書房)であった。加地は述べている。
儒教を〈沈黙の宗教〉と呼ぶのは、儒教が一見宗教らしくない宗教だからである。そして、宗教らしくないために、儒教と深いかかわりを持つ事柄が、仏教的であるとか日本固有のものだとか見なされてしまう。たとえば、墓参りや祖先祭祀は、本来的には仏教的なものでも、民俗信仰によるものでもない。そのような風習の根底にあるのは、原儒教に由来するシャーマニズム的な〈招魂再生〉である。この中国の仕来たりは、仏教が中国に導入されたとき仏教にも採り入れられたのである。
△ 墓参りや祖先祭祀が儒教のうちに見られるとしても、日本の古来の風習をすべてそこに帰してしまえるかどうかは、なお検討の余地があります。儒教が日本のシャーマニズム的な風習に親和的な面があったとは言えても、儒教とは別に、日本人には日本人の(ただし、いかなる「日本人」であるかがさらに問われるでしょう。網野善彦『「日本」とは何か』参照)、霊魂観があったと言えるからです。しかしそれは古代史に属する問題です。
すなわち、この墓参りの墓や先祖供養の位牌の成立も、儒教の教えに拠っている。それらの前提になっているのは〈死者の魂〉である。これはこの世にとどまっていると見なされる霊のことであり、すぐれて儒教的なものなのである。むろん〈死者の魂〉の存在は仏教も認めている。しかし、本来の仏教の場合には、死者の魂は四十九日を過ぎると来世に転生し、なにか別のものになってしまう。この世あるいはその周辺にとどまっていることはない。〈草葉の陰〉(墓地)などにいないのである。
△ 卒塔婆(シュトゥーパ)の起源と墓との関係について調べてみるのも面白いでしょう。「位牌」が儒教に由来するという指摘は貴重だと思います
加地によれば、《儒教の発生はシャマニズムにある》。なかでも中心になっているのが、この〈死者の魂降ろし〉である。そして、それとともに、魄(魂だが、肉体を司り、死後も地上にとどまる)を呼び戻す。それらを依代(よりしろ)たる神主(しんしゅ)に依りつかせて、〈この世〉に死者を再生させる。つまり〈招魂再生〉の行為である。こうして、死者の命日が来ると招かれて、神主に依りついた魂魄は、その儀式が終わると、元の場所へ、つまり、魂は天上へ、魄は地下へと帰っていく。そのあと神主については宗廟へ、あるいは祠堂や住居内の祠壇へと移し、安置する。このようなものが儒教の祖先崇拝の大筋である。
△ 神主(しんしゅ)は人形のようなものなのでしょうか。
また、〈孝〉というと大部分の人は、親に対する子の絶対服従の道徳と考えている。しかし、それは不十分な理解でしかない。東北アジアの人びとはこの世を五感いっぱいに生き、愉しいと思っているので、死の不安やおそれに対して儒教は、孝という観念で死後の〈慰霊〉を教えたのである。つまり、招魂再生の儀式によって、懐かしいこの世にふたたび帰ってくることができる。そのような死生観と結びついて生まれた観念こそ〈宗教的孝〉であり、子の親に対する服従といった〈道徳的孝〉をはるかに超えている。この宗教的な孝とは、現代のことばでいえば、〈生命の連続の自覚〉であり、〈永遠の現在の自覚〉である。
△ この「宗教的な孝とは、現代のことばでいえば、〈生命の連続の自覚〉であり、〈永遠の現在の自覚〉である」という指摘は斬新です。人は「たましい」において死者(祖先)とつながり、また現在に生きるものとされている、ということになります。
加地は『沈黙の宗教』において、さらに、儒教と仏教の融合は日本に先立って中国で行なわれたこと、とくに仏教の導入に際して、儒教の祖先祭祀を採り入れる必要があり、そのために仏教行事のうら盆会の経典として『盂蘭盆(うらぼん)経』のような偽経(厳密にいうと、これには異論がある)がつくられたことまで明らかにしている。輪廻転生という仏教本来の教義からすれば、墓も、祖先崇拝も葬儀も必要がないはずである。だが、その三者がなければ、東北アジアの人びとを納得させることができなかった。中国仏教にあっては、そのような祖先祭祀を認めるために、『盂蘭盆経』という偽経をつくらねばならなかった。日本仏教では『盂蘭盆経』のような工夫はいっそう自然に受け入れられたのである。ここから仏式の葬儀も、内容的には儒教的なものになっている。
△ 先にも述べたように、私は、日本人の死生観の根底にあるのは儒教的なものであると言い切ってしまうことに疑問を感じます。しかし儒教的な要素が日本人の思想に深く入り込んでいるということについては、疑問の余地がありません。東北アジア地域、あるいはもっと広く「太平洋西岸地帯」の人々の生き方や考え方と、従来「日本的」と見なされてきたものとが、どのようにつながっているのか、よく考えてみるべきでしょう。
3 宗教的空白と〈宗教権力化〉の仕組み
このように見てくると、日本の仏教の主流が次第にいわゆる〈葬式仏教〉になっていったのは、一つには、日本仏教が死生観において、〈輪廻転生〉を説くインド仏教から離れていき、儒教的に祖先崇拝を重視するようになった結果であることがわかる。葬式仏教は日本社会において、ある意味では、たしかに仏教を生活化し、日常化する上に役立った。
△ 仏教が土着の過程で「葬式仏教化」してしまったということは、それが儒教化であるかどうかはともかくとして、厳然たる事実です。
けれども、その反面では、教団組織の強大化やその時代の政治権力との癒着をもたらした。かつて平安・鎌倉時代(八世紀から十四世紀はじめ頃まで)に最澄、空海、法然、親鸞、一遍、日蓮、道元などは、日本仏教を創設し、新しい宗派を開いた。そして当初の教団が保っていた世俗の権力や生との緊張関係や精神的なきびしさは、保たれるべくもなかった。すなわちそれらは、時代の経過のなかで、やがて、僧侶のみならず、信者の生き方からも次第に失われてしまった。その時々に各宗派のなかに多くの革新者が出たが、大勢を動かすことはできなかった。
△ 仏教だけではなく、今日ではキリスト教も、その儀式の一部が人々の生活に馴染んで、「結婚式キリスト教」と化しつつあるという一面があります。それはこの日本社会で教会に「結婚式」という縄張(シマ)が与えられたことを意味しています。
第二次大戦後の日本では、一般国民の宗教意識は著しく希薄化した。それに戦前・戦中の時期に強かった天皇崇拝や宗教弾圧(とくにキリスト教や新興宗教弾圧)に対する反動としてであり、また、合理主義思想一辺倒の時代がつづいたためである。そして、宗教意識の空洞化にさらに拍車を掛けたのは、教団を〈公益法人〉と見なすことでなされた、「宗教法人法」による教団の特権化であった。とくに税法上の数々の優遇措置は、多くの教団組織をなによりも、富裕な団体にするのに役立った。その上さらに、〈信教の自由〉の観点から、宗教法人は、監査や審査を受けることを免れているのである。
△ 宗教法人の特権が悪用される場合があるということは、様々な「霊感商法」の事件によって示されています。また参詣の観光化、年中行事化(新年の参拝など)は、入場料やお布施(賽銭)などによって、有名な寺社の主要な収入源になっており、教団を財政的に潤しています。しかしそこに示される人々の「宗教心」の中身が問われます。
オウム教団は、一九八四年に小規模なヨーガのグループとして結成され、五年後の八九年には東京都から宗教法人として認証され、その特権を手に入れている。それからさらに六年足らずのうちに、世界最終戦争(いわゆるハルマゲドン)を企て、〈地下鉄サリン事件〉を惹き起こして世界の耳目を聳動(しょうどう)させる巨大な集団にまで膨れ上がった。ロシアをはじめ世界各地に支部を持ち、省庁制を敷いて日本の国家を敵に回すような巨大な集団である。つまり、オウム教団もこの「宗教法人法」の特典を最大限に活用したのである。
△ 「信教の自由」とは信仰の中身を問わないことを意味しています。ある特定の教団の宗教的主張に対して、その教えに接する者が自分の中に明確な判断の基準を持たなければ、たやすくそれを受け入れる可能性があります。人間が催眠術にかかるということは、誰でも暗示にかかりやすいということを意味するでしょう。それは人間の精神の弱点(盲点)と言うべきものであって、知能の優劣の問題ではありません。傍から見て奇妙と思われることでも、信じてしまった人には真実以外のものではありません。
オウム教団の外報部長として活躍し、一時日本のテレビのスターにさえなった上祐史浩は、既成の宗教に対する感想を問われて、次のようにテレビで言い放っている。自分にとって《神社や仏閣は、単なる風景にすぎなかった》と。これは、オウム教団が犯したさまざまな犯罪行為とは別に、既成宗教とくに神道や仏教諸派の惰性化した現状に対する痛烈な批判になっている。ここで〈単なる風景〉とは、表情を持たず、なんら語りかけてこないものを指しているからである。
△ 既成宗教は、場所、建物として存在しているが、何も語りかけて来ないということは、一つの極論でしょう。しかしそれが空漠たる現代の「風景」であることを誰が否定できるでしょうか。それは「遺物」として存在しているに過ぎません。しかし宗教が原理主義的に強硬な自己主張を行なうことに比べれば、その方がまだましであるという皮肉な見方も成り立つでしょう。そこには実に困難な課題が横たわっています。
さらに、それらとともに、戦後の日本では、政府や国民がいろいろな宗教団体の反社会的な活動に対して、まさに《触らぬ神にたたりなし》の諺よろしく、あまりにも無関心、無責任であった、ということがある。その結果、オウム教団は、世界的な歴史の転換期のなかで、時代の閉塞と宗教的渇望を感じていた人びと、とくに若者たちをつよく惹きつけ、信者として彼らを集団の内部に引き入れることができた。神秘主義の魅力にたいへんよわく、しかも科学を妄信する、劇画的SFを愛好する世代の若者たちである。いいかえれば、二十世紀後半の日本に生じた一種の〈宗教的空白地帯〉が、この現代の怪獣めいたカルト集団を異常に突出させることになったのである。
△ 「宗教的空白地帯」の間隙を突いて、戦後さまざまな新興宗教(新宗教)が簇生してきました。既成宗教では満たせない「宗教的渇望」に応えることが、それらの「宗教」の存在理由だったと言えます。オウム教団はその中の突出したカルト集団として急成長し、破壊的な結末をもたらしました。
オウム真理教事件は、現代の日本の文化状況そのものを反映しているため、そのなかにあまりにも雑多なものが多く含まれている。一面キッチュでありマンガ的であったが、そのことによって人びとの幅広い無意識をとらえ、しかも現代日本の知的世界をほとんど制圧した。すなわち、大多数の宗教学者は《虜にされる》か《してやられる》かされ、仏教界をはじめ宗教界の識者たちは、問いの立て方がわからないために、いわば《手も足も出せなかった》。
△ 人々と時代の「問題を共有」し、「問題を提起」し、「問題を解決」するために行動すべき人がいるとしたら、それは誰のことでしょうか。政治家でしょうか、思想家でしょうか、宗教家でしょうか。「宗教的空白地帯」という言葉に意味があるとしたら、そのような人物がなかなか見当たらないということにこそ、その真の意味があると言うべきではないでしょうか。「世界的な歴史の転換期のなかで」、人々がなすすべを知らず、徒らに孤立を強いられている状況にあって、解決の緒口を見出すのは、誰にとっても困難きわまりないことです。ひとり宗教学者や宗教界の識者の無能を責めることはできません。
どうしてこうなったのであろうか。私の見るところでは、おそらくそれらの人びとが、〈悪〉の問題に対処するすべを知らなかったからである。宗教の核心の一つをなす〈罪障性〉guiltyとは悪の自覚のことである。自己のうちの悪の問題への問いかけがないところには、他者の行なった悪に対処する方途はありうるはずがないのである。そして、宗教的な悪のもっとも典型的なものは、内面的な罪の意識にかかわるものよりも〈宗教の権力化〉であろう。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』のなかの「大審問官」の部分で扱ったような〈宗教の権力化〉のことである。
△ 権力は人間が集まるところに遍在しています。家庭で、職場で、学校で、また、宗教教団の中で、権力が伴わない人間関係を見出すことは困難です。しかし「宗教の権力化」は、本来は権力を克服すべきはずの宗教において、結局は、権力がその教団を支配するという意味で、問題が極端な形で現われてくると言うことができます。
宗教の権力化については、私は大略次のような仕組みから成り立っているものと考えている。すなわち、
一、宗教は内面の信仰の問題であるにとどまらず、集団的・制度的な側面を持たざるをえない。
二、しかも、この個人の内面にかかわる〈深層の現実〉と社会的な〈制度的現実〉は、しばしば互いに入れ換わる。つまり、本来は心の深層に関わる信仰上の営みが、なまなましい政治的・経済的な意味を持ち、また逆に、本来は表層のなまなましい政治的・経済的な振舞いが、擬似的にもせよつよい宗教的意味を帯びて人びとの心をとらえるという事態が生じる。
三、どうしてか。一つには、D・H・ローレンスがその『アポカリプス論』において鋭く指摘したように、人間は集団化するとき、そこに必ず権力欲が入り込み、いかなる聖者も権力欲という悪と無関係ではありえない、ということがある。
四、それだけではない。私のいう〈逆光の存在論〉の観点からすれば、宗教の深層的・内面的なものから表層的・制度的なものへの反転は、われわれの自我を照らし出し、自我に充当していたものが、超越的で根源的な原理から現世的で有効的な原理へと、苦悩を伴う正当なプロセスを経ずに反転することである。しかも、この二つの原理は現実にはひそかに混ざりやすい。
五、どうしてだろうか。というのも、われわれ人間は、自我のエネルギーを充当し、現実世界を意味づける自然的な生命力の原理(宗教的にいえば煩悩や邪欲)を温存したままで、その後ろ盾として宗教本来の、超越的で根源的な原理からの照射やエネルギーの充当を手に入れることがあるからである。
六、なお、これは一般に、宗教的権力者に見られるところだが、興味深いのは、政治的な権力者であっても、その権力がカリスマ性のつよい場合には、宗教権力者と同じような構造が出現することである。
このような〈宗教の権力化〉の仕組みを、日本の宗教界や仏教界がどれだけ認識し、また、どれだけ自己自身の問題として自覚していたかは、甚だ疑わしい。そして、先に述べた〈宗教的空白〉とこの〈宗教の権力化〉とは互いに表裏をなし、補完し合っているのである。
△ 「神の友」であることと「世の友」であることは決して両立しないとしても、「神の友」でると称する者が、実際には「世の友」であるということは、人間の歴史の中で繰り返し、繰り返し立ち現われ、暴かれてきました。人間が権力を離れて生きるということは、ことほど左様に困難であると言えます。他者を従わせることと、他者に仕えることとの間には、大きな壁が立ちはだかっています。そのことを自覚しない宗教者は、結局は宗教を自己の権勢の道具にしているに過ぎません。論考はさらに続きます。
4 儒教の日本化と〈誠〉の優先
オウム教団事件について、全体の経過をリアルタイムに見守っていた一人として、私があらためて考えさせられたのは、信者たちの圧倒的多数が、教祖麻原彰晃の言動を絶対視し、いささかも疑いの念を持っていなかったことである。さらには、明らかに嘘だとしか思えないことについて、幹部たちがしらを切りつづけていたことである。
たとえば、九五年四月初旬の段階で、すでに警察の科学捜査班の調査によってオウム教団によるサリン製造の事実がほとんど確実になった。ところが、テレビの記者会見の席上でそのことを追及されても、オウム「科学技術庁」のトップ村井秀夫は、顔色一つ変えずにその事実を否認した。あるテレビ司会者は、《村井さんの目は澄んでいた》ので《まさか嘘ではあるまい》と言っていた。この〈目が澄んでいる〉ことを潔白の根拠とすることは、日本ではいま始まったことではない。そして、実際に潔白だったこともあるにはある。しかし、村井幹部の場合には〈目が澄んでいて〉も、明らかに虚偽の証言をしたのである。
私がこのことにこだわるのは、〈誠〉のために〈嘘をつく〉だけでなく、〈他人を殺す〉こともできるということが、〈誠の倫理〉の極限にはあるからである。そして倫理におけるこの誠という徳目の優先は、日本儒教の特色であるだけでない。西田幾多郎は明治以後の、つまり近代日本の最大の哲学者とされているが、彼がその『善の研究』(一九一一年)において善の徳目の筆頭に掲げたのもなんと〈至誠〉であった。そういうものとして、儒教日本化の在り様と、徳目における〈誠〉の優先について、少しく立ち入っておこう。
△ 我々は「国学者の神信仰 その1」において、小野祖教氏が、「まこと」を神道信仰の本質を指し示す原理として認識していたことを見ました。
論文「日本の儒教」(『易と中庸の研究』一九四三年、岩波書店、巻末付録)において、中国思想史家武内義雄は、逸早く次のように指摘している。日本の儒教は、最初のうちは中国の影響下に〈五経〉中心の教えであったが、中世以後になって〈四書〉中心の儒教に転換した。江戸時代のはじめに現われた林羅山や山崎闇斎の朱子学もその流れを汲んでいる。しかしその後、伊藤仁斎が出るに及んで、〈四書〉のなかから『大学』と『中庸』とを排して『論語』『孟子』を中心にした新しい儒教が組織された。
△ 四書:儒教の経典たる大学・中庸・論語・孟子の総称。五経:儒学で、聖人の述作として尊重する五部の経書、すなわち易経(周易)・詩経(毛詩)・書経(尚書)・春秋・礼記のこと、「ごけい」とも読みます。「四書五経」と呼び慣わします(広辞苑)。
そして――と武内はつづける――その教えの根本に〈忠と信〉が置かれた。次いで大阪の儒学塾「懐徳堂」では、『論語』や『中庸』を典拠とする新しい儒教が構成され、ここに仁斎の〈忠信主義〉が転じて〈誠主義〉の教えとなった。この〈忠信〉とか〈誠〉とかいう文字は、中国の経典から出たものだが、中国では近世儒教はこれらよりもむしろ〈持敬〉とか〈致良知〉とかいう語に重きを置いた。このように日本独自の儒教で〈忠信主義〉や〈誠主義〉がつよく表われたのは、おそらく、儒教のうちから〈日本固有〉の道徳に一致する部分が強調されたものと考えられる、と。
△ ここに「日本固有」の道徳と言われていることに注目すべきでしょう。
武内が明示したこの基本線を、相良亨「徳川時代の儒教」(『誠実と日本人』一九八〇年、ぺりかん社、所収)によって補っておくと、次のようになる。
まず、林羅山や山崎闇斎による日本の朱子学は、それぞれに、儒教からできるだけ異端的なものを取り除き、正統的な聖人の教えを取り出そうとしたものであった。彼らはともに、自己を律するにきびしく、したがって、もともと朱子学が重んじていた〈敬(つつしみ)〉をもって聖人の教えの要としている。とくに羅山では、〈窮理〉つまり万物に共通する客観的な規範が求められた。
△ 朱子学:宋の周敦頤・程明道・程伊川などに始まり、朱熹(しゅき)に至って大成した儒学。理気説と心性論とにもとづき、格物致知を眼目とする実践道徳をとなえ、人格・学問の成就を図るべきを説く。江戸幕府は、官学として保護し、林羅山を招いて本郷湯島に聖堂を建て幕臣の子弟を学ばせた。中国の蔡元定・黄幹・真西山・許呂斎・胡敬斎、わが国の藤原惺窩・林羅山・木下順庵・室鳩巣・山崎闇斎・柴野栗山・尾藤二洲らを朱子学派と呼ぶ。宋学。(広辞苑)
それに対して伊藤仁斎が推し進めたのは、「四書」とりわけ『論語』とその注釈書たる『孟子』だけを儒教の権威ある基本テクストとすることであった。彼によれば、人倫は活物であり、理によって律しようとするのは、それを死物として捉えることである。仁斎が〈忠と信〉を人倫の根本に置いたのも、〈敬〉の立場が持つ外面性を退けて、他者に対して忠実かつ信頼関係を保つという心の在り様を、倫理の基本としたからである。
△ 伊藤仁斎:名は維驕iこれさだ)。別号古義堂。江戸初期の儒学者(1628-1705)。初め朱子学を批判して古学を唱えた。京都堀川(ほりかわ)で門弟3,000人を集め、のち堀川学派と呼ばれた。主著「論語古義」。(学研新世紀大辞典)
また、仁斎とほぼ同時代の山鹿素行は、〈敬〉の意味を認めながらも、それに飽き足らず、羅山の〈窮理〉を相対化して、〈格物〉つまり万物にそれぞれある理法を重視した。そして、人間関係における内面の〈已(や)むことを得ざるの自然〉として〈誠〉をとらえている。彼は〈誠〉をもって、なによりも《自ら欺かぬ》ことだと言っている。このような日本儒学における〈誠〉の重視は、明治維新を推し進めた幕末の志士たちによって〈至誠〉としていっそう主観化されていくのである。
△ 山鹿素行:江戸前期の儒者(1622-1685)。初め朱子学を学んだが、伊藤仁斎らと古学を提唱。官学である朱子学を批判したため、一時赤穂(あこう)藩へお預けとなったが許された。以後兵学を講じ、武士道を重んじた。著書「聖教要録」「中朝事実」。(学研新世紀大辞典) 「新撰組」が日本で依然として人気が高いのは、その「誠」の旗標に示される浪士たちの心情(忠誠心)に共感が寄せられるからでしょうか。
そこで、こんどは、西田幾多郎の『善の研究』における〈至誠〉の意味と位置を見てみよう。『善の研究』第三篇の「善」において、西田は従来の倫理学の諸説を次々に批判してから、自説を展開していく。そこで批判されている諸説とは、〈直覚説〉〈他律的倫理学〉〈合理説又は主知説〉および〈快楽説〉である。それらに対して、西田は、自説を〈活動説〉と名づけている。この立場に立つとき、基本的には《善とは我々の内面的要求即ち理想の実現》であり、〈意思の発展完成〉であることになる。彼はその立場を敷衍して次のように述べている。
人生の目的を幸福にあるとし、それに達するのは快楽の追求ではなく〈完全な活動〉であるとする考え方は、淵源をプラトンやアリストテレスに発している。世のいわゆる道徳家たちの多くは、善の持つこのような活動的側面を見落としている。彼らは義務や法則を重視して、いたずらに自己の要求を抑圧し、活動を束縛することを善の本性であると見なしているのである。これは、かえって善の本性に悖(もと)っている。真正の幸福は厳粛な理想の実現によって得られるからである。また、ひとはしばしば、自己の理想の実現を利己主義と同一視している。しかし、〈最も深き自己の内面的要求の声〉ほど人生において厳かなものはないのである。
△ この「活動説」に立つとき、そこから、たとえば「フロー体験」で取り上げたような問題が生じてきます。
では、この〈理想〉とはいったいどこから起こってくるのだろうか。意志は意識のもっとも深い統一作用であり、自己そのものの活動であるから、意志の原因となる本来的要求あるいは理想は、〈自己そのもの〉の性質から生じる。意志の発展完成はただちに自己の発展完成であり、善とはつまりは〈自己の発展完成〉である、と言うことができる。われわれの意識は単一の活動ではなく、種々の活動の総合であり、複雑な要素を含んでいる。自己とはその全体に付けられた名前である。しかも、この自己というのは知・情・意を含んだ〈人格的自己〉であり、〈宇宙的統一力の発動〉でもある。
△ 西田は明らかに主知主義ではなく、主意主義の立場に立っています。日本の思想家で、主知主義の立場に立つ人もいますが、そのような人はあまり多くないと言えるのではないでしょうか。その意味で西田は近代日本の代表的な哲学者であると言えるでしょう。また、日本で思弁的論理的に一貫した観念的体系を構築する思想家が現われないということには、日本語の性質も大いに与っているのではないかと思われます(「現実嵌入型言語」参照)。そのような傾向のうちには、当然、短所と共に、長所も見られるべきでしょう。
西田はこのように、善をもって自己の内面的要求を満足させるものとしたが、その最大の要求は人格の要求であることから、〈人格の実現〉をもってわれわれにとっての〈絶対的善〉であるとした。この〈人格〉の強調には、明らかにカント倫理学の影響が見られるが、西田の理論がカントの祖述にとどまらないのは、彼がその〈純粋経験〉の立場からのみ、人格への接近が可能であるとしているからである。すなわち彼は、《我々の全人格の要求は我々が未だ思慮分別せざる直接経験の状態に於てのみ自覚することができる》と述べてから、次のようにつづける。
△ ここには西田の参禅体験から来る理解が示されていると思われます。
人格とはこのような場合に《心の奥底より現はれ来つて、徐に全身を包容する一種の内面的要求の声》である。人格そのものを目的とする善行とはこのような要求に従った行為でなければならない。これに背けば自己の人格を否定したことになる。《至誠とは善行の欠くべからざる要件である。》至誠が善であるのは、そこから生ずる結果のためではなく、至誠はそれ自身において善なのである。ここにすでに〈至誠〉という用語が重要な意味を込めて使われているが、さらにすすんで、西田はこう言っている。
△ M・ウェーバーの言葉を借りれば、西田の倫理観は「心情(心術)倫理」的であって、「責任倫理」的ではありません。菱木政晴氏の言葉を使えば、西田の思想は「境地主義」(『非戦と仏教』参照)であって、行為の「結果」に重点が置かれていません。
《自己の内面的必然とか天真の要求とかいふのは往々誤解を免れない。或人は放縦無頼の社会の規律を顧みず自己の情熱を検束せぬのが天真である考へている。併し人格の内面的必然即ち至誠といふのは知情意合一の上の要求である。知識の判断、人情の要求に反して単に盲目的衝動に従ふの謂ではない。自己の知を尽し情を尽した上に於て始めて真の人格的要求即ち至誠が現はれてくるのである。》
では、〈個人の至誠〉と〈人類一般の最上の善〉とが衝突するときには、どちらを取ったらいいのだろうか。西田によれば、そのような迷いが起こるのは〈至誠〉の意味を正当に理解していない結果にすぎない。もし〈至誠〉という語を〈真に精神全体の最深なる要求〉という意味に用いたならば、それはただちに人類愛に結びつくので、両者の衝突は起こりようがないのである。
△ 西田の哲学者としての出発点に「至誠天に通ず」という思想が見られるということは、十分に考慮されなくてはならないことです。それは「日本人」の生き方に関わる問題です。ほかならぬこの私自身にもある、そのような考え方の限界が認識されなくてはならないでしょう。それではその思想の落し穴はどこにあるのでしょうか。
このように西田では〈至誠〉は、幕末の志士たちのきわめて主観化=主体化された〈至誠〉にくらべてはもちろん、江戸時代の儒教の〈忠と信〉や〈誠〉よりもいっそう複雑かつ射程の大きいものになっている。しかしそれでも、発想の出発点にあった直接性への傾斜は、他者や制度についての考察における西田哲学全体の弱点と無関係ではない。この点は、私自身が『西田幾多郎』(一九八三年、岩波「二十世紀思想家文庫8」)を書いて以来、直接間接に問題にしてきていることであるが、相良亨も前掲『誠実と日本人』(一九八〇年)のなかで、やや違った角度からだが、はっきり問題にしている。
△ 制度は客観的であり、また可変的です。人の集まりが惰性化し制度化するという側面への目配りが失われると、「至誠」は主観への傾斜を一層強めることになります。至誠は天に通じるかも知れませんが、地は何も変わらないという結果を招来するでしょう。所与のものとしての制度が、あたかも自然の秩序のように見られてしまうからです。
相良は、右の著書の「まえがき――〈誠実〉の克服を求めて」のなかで、こう書いている。《私が「誠実」は克服されなければならないと思うに至ったのは、私にとって他者とは何かということがはっきりと問題とされはじめた時からであった。伝統的な「誠」「誠実」、あるいは「誠心誠意」には、真の他者性が自覚されていないのではないかと思いはじめた時からであった。》また、それに先立って中央公論社版「世界の名著」19『朱子 陽明学』の月報(一九七八年)においては、相良は、《われわれは、われわれの生き方として、ただ「誠実」だけでよいのか。何か、確固とした理法の存在を、何らかの形において追求しないでよいのか。「誠実」においてわれわれは嘘もつくし、時に人を殺すことも出来る。これでよいのか、云々》とまで述べている。
△ 他者、あるいは外なるものの自覚において、相良は「確固とした理法の存在」を求めています。グローバルな意味で、それはどこにも存在しないとしても、今の時代に「誠の論理」だけで生きていけないことは明らかです。正義と民主主義の名において多数の者を殺戮する戦争が、まだこの世界で行なわれています。人は「誠実」に人を殺すことがあるという指摘は、決して日本人に対してだけ当てはまる問題ではないでしょう。力が正義であるような今日の世界で、自爆テロを決行する人は、「誠実」にそれを行なっているのではないでしょうか。人間の悲惨がそこに示されています。
私は一九八三年当時、日本儒教思想史を十分視野に入れていなかったため、江戸時代の儒教思想と西田哲学との〈誠〉におけるつながりも、この相良の指摘も知らなかった。しかし、右に見たことから明らかなように、西田哲学での善の徳目における〈至誠〉の優先は、それ自身日本のナチュラリズムとの混淆によって成り立っていた江戸時代儒教思想の〈誠〉の重視とつながっていたのである。
△ 著者が『西田幾多郎』を執筆したときには、まだ日本の儒教思想史における「誠」の重視も、相良のそれに対する批判も知らなかったということでしょう。それにしても著者は、この「誠実」を英語で何と表現したのでしょうか。 sincerityでしょうか。それともhonestyでしょうか。私自身は、この言葉をintegrityと捉えてきましたが(「LIFE論再考」参照)、それには「完全」の意味もあるからです。しかし大意に差はないでしょう。誠実であることは、徳目として決して無用であるとは言えません。しかしその限界を弁えなくてはならないでしょう。その関心は自己に向けられているからです。
5 基層としての道教的自然とその功罪
仏教的な〈日本人の宗教心〉や〈生活仏教〉の背後に〈儒教〉が隠れていたことについては、先に第2節において述べた。ところが実は、そこに隠れていたものは儒教だけではなかった。さらにその背後には〈道教〉が隠れていたのである。原儒教がシャーマニズムから発生したとすれば、おなじくシャーマニズムから発生した道教の自然は、とくに日本人の宗教心の基層をなしている。しかも道教は、日本の天皇制や、かつて本居宣長などの国学者によってこれこそが純粋に日本的なものとされた〈神道(しんとう)〉と密接に関わっている。
△ 原儒教や道教がシャーマニズムから発生したということと、日本人の精神生活の古層にはシャーマニズムがあったということとは、互に親和的であって、両教が抵抗なく受け入れられたのは、古代的自然観に共通するものがあったからでしょう。道教と神道とを、直ちに同一のものとしなくても、少なくともそのようには言えます。
そこでまず、道教と、純粋に日本的なものとされた〈神道〉との関係を考えよう。日本の〈神道〉が多くのシナ思想の要素を含んでいたことについては、一九三〇年代に書かれた津田左右吉(そうきち)の連作論文「日本思想に於けるシナ思想の要素」のなかで明言されている。ただし、津田は、用語としては中国の文献からの借用を認めながら、内容上では、日本の独自性の主張を残している。
ところで、津田の『日本の神道』(一九四九年、岩波書店)によれば、〈神道〉の主要な語義は六つある。(1)《古くから伝へられて来た日本の民俗的風習としての宗教信仰》、(2)神の権威、力、神そのもの、など。(3)神代の説話の解釈・教説など、(4)特定の神社の教説、(5)政治的・道徳的規範としての〈神の道〉、そして(6)いわゆる宗派神道、である。このうち(1)の使い方は『日本書紀』などの古代文献に見られ、仏教に対して〈日本の民族的宗教〉を指す用語として普及し、(3)以下の用法の源になった。
△ 「古くから伝へられて来た日本の民俗的風習としての宗教信仰」を特定することは、大変困難です。というのも、それは後から付け加わったものとの「混交状態」としてしか存在しないからです。従ってそれは類推の範囲を出ません。
ところがこのような津田のとらえ方に対して、日本史家黒田俊雄は、他の多くの古代文献に依拠して、〈神道〉とは〈仏の法〉に対して〈神の権威、力、神そのもの〉を指すと解釈すべきであるとし、総じて日本の古代・中世では、〈民族的宗教〉という意味での〈神道〉という語はなかったと主張している(*)。この黒田の説が説得力があるのは、〈神道〉を習俗的次元のものとして、〈神仏習合〉の容易だった根拠としているからである。たしかにこの考え方にたつと、《神道が原則的に世俗的世界から離れることができない》理由もわかるのである。
* 黒田俊雄「〈神道〉の語義」(岩波「日本思想体系」第一九巻月報、一九七七年五月)
△ 「民族的宗教」としての神道が強調されるようになるのは、国家のアイデンティティが意識されるようになってからのことでしょう。しかしそのときには、神道は既に唐国の思想風俗によってたっぷりと装われていました。
天皇制と中国の道教の関係については、今日では、日本における本格的道教研究のパイオニア福永光司によって、〈天皇〉の名称や天皇家の儀礼、色のシンボリズムなど、多くの点で、古代天皇制が中国の道教から学び、そのつよい影響下に自己を形成したことが、明らかにされるようになった(*)。ただし、文化に関する淵源や影響関係は、それ自体では価値の上下を意味するものではない。このような研究を私が重視するのは、従来あまりにも事実を事実として認めたがらないことが多かったからである。それどころか、事実を歪曲しては日本が本家であり、中国の神道(しんどう)は日本の神道(しんとう)が部分的に伝わったものだとするような倒錯的な主張さえ、かつては江戸時代の国学者(平田篤胤)によって説かれたことがあるのである。
* 福永光司「天皇と紫宮と真人」(『道教思想史研究』一九八七年、岩波書店、所収)
△ 「事実を事実として認めたがらない」ということが、宗教的原理主義や国家主義的な言説の特質です。歴史的事実を率直に認識することを抑圧し、神話的原理に固執すれば、健全な判断を狂わせ、自己中心的な行動に拍車をかけることになります。往々にしてそれは暴力的な自己主張となり、敵対者を抹殺するところまで行きます。
他方、道教の老荘思想がそれを採り入れた中国仏教を経て日本仏教に与えた影響については、〈本覚思想批判〉というかたちで問題にされている。本覚思想とは、日本天台宗を中心に発展していった思想である。その要点は、(1)覚と不覚の二元的対立を持ったと見られる現実の彼方に、そのような現実を越えた不二・絶対の世界を究明すること、(2)次いで、その世界から現実に戻り、二元相対の諸相を不二・本覚の現われとして肯定することにある。いいかえれば、現実にあるさまざまな二元的対立を固定的、実体的にとらえるのではなく、永遠の相のもとに不二、一体のものとしてとらえた上で、現実をあるがままに認める態度である。
この論法は、仏と凡夫、迷いと悟りにも当てはめられ、凡夫こそ現実に生きた仏の姿であるとする〈凡夫本仏論〉が唱えられた。また、日常の生活や行為のほかには取り立てて〈修行〉の必要はないとする主張までなされた。大乗仏教的な〈悉有(しつう)仏性説〉(万人が悟りの本性を持つ)から、〈草木国土悉皆成仏論〉(誰でもそのままで成仏でき、その真理に気づいたとき、草木や土石まで悟りの姿を示すようになる)へと変貌したものである。この本覚思想は、仏教哲学の理論としては、禅の奥義にも通じるところがあり、日本の中世の文芸や芸術の深化に貢献した。また、ある意味では信仰の究極的な在り様にふれているので高い価値があるが、その赴くところ、とかく、安易な現実肯定に陥りやすい。
△ 本覚思想は、キリスト教的に言えば、「万人救済論(ユニヴァーサリズム)」であると言えるでしょう。キリスト教では、それは異端ですが、日本の仏教では堂々と主張され、日本の文化に影響を与えました。しかし「安易な現実肯定に陥りやすい」という欠点は、その後の日本人の精神生活に影響したと思われます。
このような本覚思想は、一方では〈大乗仏教の集大成〉、〈仏教哲理のクライマックス〉(田村芳朗)として評価された(*1)が、他方では、以前から、中世の保守的な〈顕密体制〉の基盤をなすもの(黒田俊雄)として批判されてきた(*2)。さらに最近では、中堅の仏教学者たち(袴谷憲昭、松本史朗など)によってあからさまに〈非仏教〉の刻印を押されるようになった。現実に対して批判的、超越的であった仏陀の教えに悖るというのである。私個人は、なにがなんでも《仏陀本来の教えに戻れ》(▽)という類いの最近の論者たちの主張には賛成できない。
*1 田村芳朗『鎌倉新仏教思想の研究』(一九六五年、平楽寺書店)
*2 黒田俊雄『日本中世の国家と宗教』(一九七五年、岩波書店)
△ これもまた、キリスト教的に言えば、「イエスに帰れ」という主張に近いとも言えます。しかしただそれだけで問題が片づかないのは明らかであって、なぜ「教理」が生れてきたのか、それがどう機能してきたのかを批判的に検討する必要が生じて来るでしょう。
もっとも、一九八〇年代末から九〇年代前半にかけて、そのように、一部の仏教学者たちから、〈本覚思想批判〉が苛立たしげに相次いで起こったことの意味は、あらためて考えてみる必要がある(*1)。その主張はいささか一方的であり粗雑ではあった(*2)が、いまから振り返ってみると、オウム教団が付け入るような日本仏教の堕落、あるいは日本人の宗教心の弛緩を敏感に感じたからなのかもしれない。
*1 袴谷憲昭『本覚思想批判』一九八九年、大蔵出版、同『批判仏教』九〇年、同社、松本史朗『縁起と空』八九年、同社、同『禅思想の批判的研究』九四年、同社。なお、八九年は、オウム教団が宗教法人の認可を得た年であり、九〇年は教団が衆議院選挙に大量出馬した年、九四年は富士山麓の教団施設が〈毒ガス〉を受けていると主張しはじめた年である。
*2 私自身、奇妙かつ理不尽なかたちで、〈本覚思想批判〉の動きに巻き込まれたので、それについて、とくに日本の読者のために追記しておこう。事情はこうである。右の袴谷『批判仏教』が刊行された直後にその本が私のところに送り付けられてきた。そして、開いてみたら、序説においてなんと二十数ページにもわたって、私を〈本覚思想〉に与(くみ)するものとして批判・攻撃しているのである。私は呆気にとられ、なにを根拠にそういうことが説かれているのかと思って、論拠を探ってみた。すると、なんのことはない。私が『場所』(一九八九年、弘文堂)その他のなかで、G・ヴィーコの思想を評価しているのが〈本覚思想〉に与するものだというのである。たしかに十八世紀初頭のイタリアの思想家ヴィーコは、当時イタリアでも流行していたデカルト主義の〈クリティカ〉を退け、〈トピカ〉(場所論)を説いた。また、私自身はそのヴィーコの思想を重視した。それは、単純化されたデカルト主義が不当に無視したレトリックの伝統を正当に評価し、ひいては〈クリティカ〉(批判主義)に陥りやすい論理の無内容化を避けるためであった。むしろ、ロジックそのものの内容回復をめざしてであった。さらにいえば、日本で多く見られる無自覚な〈場所(トポス)の支配〉の自覚化を促すものであった。ところが、この論者(袴谷)が反応したのは、もっぱらクリティカに賛成しているか、それともトピカに賛成しているか、ということであった。せっかくの中堅の仏教学者の、広い思想領域への発言であったが、それがあまりにも一方的でかつ粗雑であったので、応答する気になれなかった。非生産的な批判・攻撃であったのを私は残念だと思っている。
△ 著者の『場所』を読んだことがありますし、その昔『思想』誌上でもヴィーコを論じていたのではなかったかと思います。私はかねてから、論理学に対する修辞学という問題の立て方は、西田の「対象論理」に対する「場所的論理」、あるいはカントの「一般論理学」に対する「超越論的(先験的)論理学」の対比を思わせるもので、フッサールの「現象学的還元」にも通じる事柄ではないかと考えてきました。オブジェクティブ・ロジックだけでは生きた思考を掬い取ることができず、必ずメタロジックが必要とされると言い換えてもよいでしょう。それは、論理的思考によっては生の具体性に接近できないという、ごく基本的な問題に関連しています。しかしレトリックにあふれた宗教的思惟(本覚思想)を批判的に克服したいと考えている若手の仏教学者にとっては、逆に「クリティカ」(論理的思考)こそが望ましいと考えることにも一理があります。ヒトラーがレトリック(弁論術)を重用し、多くのドイツ人がたぶらかされたように、その働きに「無自覚」、無防備であることはたしかに危険です。そのとき論理的な思考は重要な武器になります。
この節を閉じるにあたって、道教あるいは老荘思想とアニミズムおよび〈ディープ・エコロジー〉との関係について、一言しておこう。アニミズムとの関係でいえば、道教あるいは老荘思想の教える〈無為自然〉の考え方は、たしかに、アニミズムを見直させるところがある。
そして、まずこのアニミズムは、実は、第1節でふれた〈脳死・臓器移植〉の問題においても、その否定の根拠になった。というのも、日本では〈脳幹死〉よりも〈全脳死〉、〈全脳死〉よりもさらに〈細胞死〉へと、死の認定の基準が拡がっていくことで、脳死が否定されたからである。脳死に関するもっとも明快な考え方は、アングロサクソン流に大脳の機能の不可逆的停止を意味する〈脳幹死〉をもって生理的な人間の死と見なすことである。ところが、アニミズムの考え方は、思考力や判断力の不可逆的な停止ではなく、細胞の生存の停止の方向に生理的な人間の死の基準を拡げた。そして結局は、境界線を決められなくなり、問題を先送りすることになったのである。
△ アニミズムはレトリカルな思考法の原初形態であると言えます。「もの」にさえいのちを見出すその思考法は、「対象論理」的な、「脳死」は人の死であるとする判断に抵抗し、近代医学のメカニカルな生命観に違和感を覚えさせます。
また、道教あるいは老荘思想の教える〈無為自然〉の考え方は、技術文明による自然破壊に対する根本的批判であるディープ・エコロジーにたしかに通じるところが多い。たとえば、W・ハイゼンベルクが『現代物理学の自然像』のなかで引いている『荘子』「天地篇」の「〈機事(からくりごと)と〈機心(からくりごころ)〉の話〉がある。いたずらに機械の便利さに頼れば、機械に心を売り渡し、精神の自由と生命感覚を失うことになるだろう、という話である。しかし私には、到底〈無為自然〉の思想が、ディープ・エコロジー運動そのものを担いうるとは思われない。むしろ必要なのは、自然環境の保全に使命感を持った多くの人びとがアニミズム的な生命感覚を保持しつづけることであり、今日衰弱している世の人びとのアニミズム感覚をつよく活性化させることであろう。
△ アニミズムは「いのちのつながり」についての原初的感覚であると言うこともできるでしょう。機械論的世界観がさらに普及し、アニミズムは単に原始的な思想であるとして、それを排除することが、この世界をよりよいものにしていくと考えるのは、世界の現状に照らして必ずしも正当であるとは思えません。今日、アメリカ・インディアンやアイヌや、オーストラリア、ニュージーランドのアボリジニーなど、先住民族の知恵に学ぼうという主張がなされているのも、そのことと無縁ではありません。最近亡くなった構造人類学者、レヴィ=ストロースのいう「野生の思考」のエコロジカルな意味について考えてみるのも、決して無駄ではないでしょう。カルヴィニストやマルクス主義者は、そのような考え方を拒否するでしょう。しかし、「先の者はあとになり、あとの者は先になる」(マルコ10:31)のが、今の時代の特徴であると言えなくもありません。
6 儒・仏・道シンクレティズムの行方
一九九四年の秋、或る日中シンポジウム(「市場経済と文化」)に出席のため北京に滞在した折、二つの面から現代の中国と東アジアにおける〈儒教〉の新しい意味と役割を感じる機会があった。一つは、北京大学の哲学部に招かれて現代哲学について意見の交換をしたとき、〈マルクス主義以後〉を模索する中国の哲学関係の学者たちに、〈宗教の再評価〉の中心として儒教に本格的に取り組んで行こうとする姿勢が見られたことである。もう一つは、われわれのシンポジウムとほとんど同じ時期にやはり北京で元シンガポール首相のリ・クァンユーを中心にして、新しく形成されるべき〈儒教経済圏〉をめぐるシンポジウムが開かれていたことである。
もっとも、この二つのことは、別々につよく印象づけられただけで、当時、私自身にとっては、それ以上に問題にはならなかった。ところがその後、いろいろなかたちで、伝統的な日本人の宗教心のなかにある〈儒教的〉なものを顧みざるをえなくなった。徳川時代以来わが国では、体制的な教学となった儒教はむしろ〈儒学〉として、つまり宗教というよりは〈経世済民〉の学あるいは倫理・道徳の教えとして考えられることが多かった。仏教との対比でいえば、そういう傾向がつよい。しかし、そのようにとらえたままでいいのだろうか。
こうして私は、第2節でその一部を示したように、まず加地伸行『沈黙の宗教――儒教』を手がかりにして、宗教らしくない宗教である〈儒教〉を見直すことになった。次いでその延長上で、第5節で示したように、福永光司『道教と日本思想』を手がかりにして、原儒教と同じくシャーマニズムに由来する〈道教〉の儒教や仏教とのかかわりに目を向けるようになった。そして道教は、日本の〈神道〉や天皇制とも密接に関わっている。先ほどは言及できなかったが、〈鬼道〉と呼ばれるシャーマニズムのなかから、紀元前六世紀に現われるのが、儒者の祖としての孔子である。孔子の『春秋』の注釈書『春秋左氏伝』には、のちに道教の教えのうちにも認められる〈魂魄論〉と〈鎮魂論〉の原型が見られる。だから道教と儒教の両者は原初形態では混淆していたことがわかる。
やがて、巫術(ふじゅつ)的であった鬼道が、一方では道教の内部において老子の〈玄〉や『易経』の〈神道〉(むろん、中国思想のそれ)の教えになるだけでなく、他方では、孔子の弟子たちによって政治的・社会的に秩序づけられ、儒家あるいは儒教の経典として整理され、体系化されていく。その儒教の礼典の中枢をなすものは『周礼』であり、ここにおいて儒教は、国家宗教として存在を確立することになる。
△ 過去において、中国の思想が日本の精神史において重要な影響力を持ったとしても、今日の日本において儒教や道教が生きて働いているということは、少なくとも目に見える形では、確認することが困難です。しかし現代中国では儒教を見直す動きがあり、道教的民俗的信仰も地方に行けばなお盛んであり、都会の仏教寺院も参拝する人で溢れています。それは革命中国のイメージを持っている人には驚きであり、中国の宗教政策が緩和されていることを確認させるものです。
このように見てくると、最初に触れた〈マルクス主義以後〉の指導思想としての儒教、および〈儒教経済圏〉の考え方が、互いに結びついて持つであろう展望が、かなりよくうかがえるようになる。すなわち、儒教とは、宗教であるとともに経世済民の実学である。また、東アジアのいわゆる〈儒教経済圏〉とは、純粋に儒教的なものを意味するのではなく、中国自身のなかでの歴史的事情と実態が示すように、儒・仏・道の三教を共通のベースとして持っているものなのである。
儒教の国、韓国の研究者、金日坤(キム・イルゴン)は、その著『東アジアの経済発展と儒教文化』(一九九二年、大修館書店)において、来たるべき時代の東アジアの経済と文化を多角的に問題を論じた(←下線の部分、ママ)。彼はそのなかで、産業倫理としての儒教の持ち得る意味を、次の四点にわたって挙げている。すなわち、(1)生産においては勤勉の道徳があった。(2)消費においては倹約、倹素の道徳があった。(3)流通においては誠実の道徳があった。(4)分配においては共生の道徳がある、の諸点である。そして、さらに、以上の四つに加えて、儒教文化圏では、欧米社会の自立自営という自立の道徳よりは、家族、民族の共同体の存続と発展が重要な最終目標になると思われる、とも言っている(第七章「儒教的資本主義の精神」)。
△ このように指摘されてみると、我々が失ってしまったと感じているもの、あるいは、望ましいと考えているものは、少なくとも「儒教的でも」あったということがわかります。しかし「欧米資本主義」の流儀はそのような伝統を破壊してきました。
たしかに、これからの東アジアの産業の動向を考えるとき、それらの点は、わが国とも密接に関連することとして、大いに注目し、検討すべき問題であろう。しかし、問題は果たして〈儒教〉だけで片づくであろうか。すなわち、ここでは、三教のうち、もっぱら儒教が前面に出されている。が、少なくとも東アジア全体を問題にするかぎり、何らかのかたちで儒・仏・道の三教を視野に入れ、その新しい結合の可能性を探るべきであろう。
△ 著者は、精神的な「資産」としての三教を、なお何らかの形で継承すべきものと考えています。それらを過去のものとして捨てて顧みないという立場もありえます。しかし、そのときには、自己の立脚点が果たして何であり、三教がどのような意味で棄却されなくてはならないのかが問われるでしょう。そして非西欧世界において「近代化(西欧化)」とは、どういう意味であったかが、改めて問われることになるでしょう。
その点で、いまあらためて想起されるのは、かつて八世紀末に、日本における真言宗の開祖たる青年空海が『三教指帰(さんごうしいき)』を書いたことである。彼は、そこで、仏教を儒教や道教を(ママ)合せて問題にしている。自己のなかでの思想の到達点として、仏教の優越性を示すためであったとはいえ、三教を合せて論じているのである。
すなわち、彼はこの書において、儒教を代弁する〈亀毛(きぼう)先生〉、道教を代弁する〈虚亡隠士〉、それに仏教を代弁する〈仮名乞児(かめいこつじ)〉という三人の人物を登場させる。まず〈亀毛先生〉が忠孝・立身出世などの世間道徳を教える〈儒教〉の有意義なことを説くが、次に〈虚亡隠士〉がその欠けたところを補い、超えるものとして、長生久存・昇天の術を教える〈道教〉を説く。そして最後に、〈仮名乞児〉が登場し、それら両者をもって未だ不十分なものとする。そして、それらに代わるに、三世因果の理法を明らかにして衆生に働きかける実践活動つまり〈仏教〉を説くのである。
興味深いのは、巻末に置かれた十韻二十句の冒頭で、《日月の光はくらき夜の闇を破り、儒・道・仏の三教(さんごう)は愚かなる心をみちびく》と書いているように、簡単に三教の優劣を決めるのではなく、三教それぞれの特徴を生かそうとしていることである。
△ ここで思い出されるのは「全真教(ぜんしんきょう)」です。手元の『岩波小辞典哲学』には、その説明として、「王重陽(1113-1170)を開祖とし最近まで大きな勢力があった庶民道教の一。旧い道教の貴族的な呪術・儀礼主義を脱却し、個人生活における性命の内観と戒律を根幹とし、社会人としては慈善行為と世俗道徳の履行をすすめた。中国民族の道教的な福禄寿の要求を儒教の五倫五常道徳と仏教、とくに禅とに結合した宗教で、中国思想史の長い問題であった三教一致が庶民の間で実現したもの」とあります。これは中国的なシンクレティズムであり、空海の「三教指帰」は仏教に基づいていますが、この場合は、道教を基盤にして「三教一致」を説いています。
歴史的には、これらの三教は東アジアにあってはいろいろな混ざり方をして成立した上で、固定化して、各国の文化を形づくっている。しかし、それらの文化を真に活性化させるためには、想像力によって三教を共通のベースとしつつ、それらの新しい結合のヴィジョンを創出しなければならないだろう。
だが、想像力とは、なにも、無から有を創り出すことではない。あたかも、J・デューイは、その〈宗教論〉である《A Common Faith》(1934)のなかで、次のように明言している。すなわち、《新しいヴィジョンは、無から生じるのではなく、可能性すなわち想像力をもって、古きものを新しい目的に役立つ新しい関係のうちに見ることから生じる。》いまこそ、そのような想像力を存分に働かせるべきであろう。
△ 東アジアに共通する精神的資産としての三教を、著者は「新しい結合のヴィジョンによって」活性化させる必要を説いています。いわば、伝統と革新というテーマを追求する上で、過去の文化を形成した因子(三教)が、これからも重要な働きをすると見なされています。しかし、かつてのように時の権力者が仏教や儒教などを「国策」として導入した時代とは異なり、一体その思想を誰が担うのかという問いが生じてきます。「宗教的空白」は担い手の不在を意味するものであるとしたら、精神的価値が「蒸発(エヴァポレイト)する」この時代に、どのようにして「新しいヴィジョン」が立ち上がってくるのでしょうか。果たして三教の「新しい結合」は実際に生じてくるものなのでしょうか。我々日本人のこれからの生き方の問題として、この講演草稿は、未だに漠たる提言に留まっているという印象を受けます。座標軸を失ってしまったかに見えるこの時代に、「想像力をもって」、創造的に生きることの困難さを改めて思い知らされます。
第一部第五章の「恥の文化と非寛容」に飛びます。ただし前半は第一章と重複する部分が多いので、後半のみを取り上げます。この論文は、あとがきによると、一九九七年三月末に、パリで開かれたAUC(Académie universelle des cultures)の「非寛容について」と題するシンポジウムでの報告です。AUCというのは、エリー・ヴィーゼルが中心になり、U・エーコ、P・リクール、J・ルゴッフ(▽)などの協力のもとに、フランス政府の後援で、毎年シンポジウムを開催している民間のアカデミー(学術・文化団体)のことです。この報告は識者の関心を惹き、リクール氏の求めで、一・五倍ぐらいの長さに書き加えられたとあります。以下、その第3節からの紹介を行ないます。
△ J・ルゴッフ フランスの歴史家。『煉獄の誕生』などの著書がある。
3 〈恥の文化〉から見た〈非寛容〉
さて、R・ベネディクトの〈恥の文化〉論では言及されていないけれども、〈恥の文化〉の基礎をなしているのは、多神教的な宗教観である。そこでは、一神教的な絶対的価値が存在していないため、自分とちがう立場にあるものに対して比較的寛容である。少なくとも、一神教的な宗教に見られるようなあからさまな非寛容は起こりようがない。だから、逆に一神教的世界で激しい非寛容に出会うと、私なども、ひどくおそろしい思いがする。たとえば〈湾岸戦争〉のときの経験がそうである。
一九九一年一月から三月まで、つまり、ちょうど〈湾岸戦争〉がたけなわのとき、私はスロラスブール大学に客員教授として招かれ、当地に滞在した。
そのときに、緊迫した日々が続いたことを忘れることができない。イラクのS・フセインがユダヤ=キリスト教連合軍を相手にしてイスラム原理主義を貫こうとしたやり方、またそれに対して多国籍軍とくにイスラエルが一歩も譲らず、〈世界最終戦争〉になるのではないかと危惧した。ミサイルによる細菌弾・毒ガス弾と核爆弾の応酬がイラクとイスラエルの間で行なわれる寸前まで行ったからである。〈恥の文化〉に属する一人の日本人として、私がいちばんわからなかったのは、どうしてそんなに自分たちの立場を絶対化できるのか、ということであった。
かつて私は八〇年代の中頃に、イタリアのナポリを訪れたとき、飛行機のなかで読んだイタリア語の風刺新聞の記事に、こういうのがあった。《ロシアとアメリカがこの世になければこの地球はどんなに過ごしやすいだろう》と。それによって、当時世界の超二大国であった米ソの対立が南ヨーロッパの一般庶民のこころに大きな不安の影をなげかけているのを知った。米ソの対立による〈世界最終戦争〉に自分たちは巻き込まれたくない、ということのメッセージであった。
米ソの冷戦体制は終わり、〈湾岸戦争〉による危機も無事切り抜けた。そして未だに続いているのが、中東地域を中心として世界各地でくすぶりつづけている宗教的対立を根に持つ民族紛争である。民族的・宗教的対立の、つまりは非寛容のなによりの怖しさは、どんなに小規模の小競り合いであっても、最終的には自分の死に世界を道づれにするおそれがある精神構造である。核兵器や〈貧者の核兵器〉と呼ばれる細菌爆弾などが以前に比べるとはるかに入手しやすくなったいま、非寛容はいつでも世界全体を破滅に追い込む可能性を持っていることである。
△ 父ブッシュの湾岸戦争のときから、9・11以後の、子ブッシュの「対テロ戦争」を名目にしたイラク、アフガン戦争が始まり今日に至る世界情勢は、イスラエルのガザ支配にも有効な解決を見出せないまま、日本も深く巻き込まれる形で進展しています。著者は「非寛容」というテーマに即して、この現実世界での「恥の文化」のあり様を考察しようと試みます。日本は多神教的文化に属するから、他に対して寛容であるとは言い切れないところに、問題の根の深さがあります。
4 〈恥の文化〉のなかでの非寛容
〈恥の文化〉においては、〈罪の文化〉のような激しい非寛容はない。しかし、そこには別種な非寛容がある。そのことを次に見てみよう。
先に触れたように、〈恥の文化〉の特徴は、人びとが絶対的な基準ではなく相対的な基準のうちに生きていることにある。しかしそれは、人びとがいつでも相対的な基準による寛容の世界に生きていることを意味するものではない。なぜなら、本来は相対的基準であったものが、あるいは習慣として固定化し、あるいは緊迫した状況のもとでは絶対化して、かえって人々をつよく強制することがあるからだ。そこに、〈恥の文化〉の画一化の力がある。
そのことは、日本社会ではムード的な共同性が成り立ちやすく、問題によってはきわめて能率的に社会が方向づけられうる一方で、一人ひとりが気がつかないうちに共犯関係のうちに取り込まれ、責任の所在がひどく不明確になるということのうちに見られる。
このことが顕著に見られるのは、一九八〇年代末から九〇年代初頭にかけての日本経済の異常な拡張・肥大化、いわゆる〈バブル〉化と、その〈バブル〉がはじけたあとで近年次々に露わになった大手の証券会社や都市銀行の首脳部の経営者としての無責任ぶりである。彼らは、十分な担保もとらず、しかも、回収できる確固とした見通しもなしに時代の流れにうまく乗って利益をえようとし、巨大な額の貸付をした。その一方で、一般市民の預金者たちを蔑(ないがし)ろにして、一部の大手の得意先の投機による多額の損失を非合法に補填してきたのである。しかもそれは、もっぱら、共犯関係による、自分たち自身の利益と保身のためであった。
では、第二次大戦後一九六〇年代の日本の〈経済成長〉期において、安定と繁栄に向けて日本経済を強力にリードしてきた経済界の首脳たちを支えていたものはいったいなんであったか。それは、〈恥の文化〉によって育てられた、国民や社会に対する責任感であった。そのことを思えば、〈バブル〉以後に表われたものは、同じ〈恥の文化〉のあられもないもう一つの面であった。つまりは、個々人が自己に対するきびしさと緊張感を失った〈恥の文化〉にほかならない。
日本の文化は、恥の意識と穢れの感覚を依然として根底に持ちつつ、七世紀以来は中国大陸から仏教思想を受容し、日本化した。その一方で、この一世紀あまりの期間にはキリスト教的な西欧思想を大きく採り入れた。その際に、それらの間にある容易に融和させがたい諸問題を、解決したというよりは緩やかに共存させることで、これまである程度うまく切り抜けてきた。
△ R・ベネディクトの分析に基づく著者の日本文化についての見立ては、今日もなお、日本の文化は、その基底においては、「恥の文化」として特徴づけられるというものです。恥の意識と穢れの感覚が、我々日本人の生き方の基本にあるということは、仏教も、またキリスト教も、そのような日本人の生き方を変えるところまでは行かなかったということを意味しています。それらはむしろ「日本化」されてしまいました。なお、「恥」の定義については、先に作田啓一氏がM・シェーラーの説を引いているのを見ました。言葉を換えれば、それは「場に対する不適合の感覚」であると言えます。日本人は場に適合して生きようとするのであって、その生き方に「絶対的」な基準があるわけではないということになります。生きる場は常に多様だからです。
しかし、いまや、世界的にも新しい状況のなかで、多くの新しい難問に逢着している。
一つは、共同体に対する個人の〈帰属〉がもたらす問題である。この帰属の前提としてあるのは、日本の場合、国土が四方海に囲まれ、そこにほぼ共通の言語を持った民族が多数棲み、永い歴史のうちに、単一の文化圏を形づくってきたことである。古くまで遡(さかのぼ)ったり、細かく見たりすれば、民族的にも言語的にも海外との往来や混淆があった。それでも、まわりの海によって国家的な同一性や文化的同一性が守られてきたということの意味は大きい。というのも、まわりの海によって自然的に〈区切られた場所〉がもたらされたからである。
△ 先に古田暁氏が、日本語の「内」と「外」との感覚は古事記以来変わらないと言い、また「シマ」は「シメ」に通じると述べたことに言及しました(同氏の講演によります)。「家内安全」の家内は、妻をも意味する言葉だったりします。そして「区切られた場所」は縄張をも意味するのであって、それがやくざの「シマ」になります。日本では「帰属」の問題が、単に社会集団への帰属ではなく、場所的限定をより濃厚に持つということは、日本が四方海に囲まれた島国だからであるというのが、著者の見解です。なお帰属の問題については、「帰属・所有・支配」、「同その2」で触れたように、それは人間の「現存在」の基本的カテゴリーというべきものであって、世界中どこでもその形態に差はあっても、人間の社会的あり方を形づくっています。身分、門閥、階級、職業、地位、人種あるいは性差などの、帰属の如何によって、人間は差別(区別)されてきました。
このような地理的・歴史的な条件に加えて、日本では、政治的・社会的にも一種の君主制である〈天皇制〉が古代以来維持されてきた。天皇制が国家的同一性と文化的同一性によって守られるとともに、逆にそれらを強化する働きをし、同一性・統一性を内面化することになった。日本において天皇制が単なる政治制度ではなく、文化概念の性格をつよく帯びているのも、このような事情によるのである。
天皇制が積極的な意味をこめて文化概念であると言ったのは、一九七〇年に四十五歳で〈自己劇化〉の果てに自決した作家の三島由紀夫である。彼は六〇年代の末に『文化防衛論』を書いたが、それは当時、彼が、なによりも、共産主義的な革命が日本に及ぶことを危惧し、〈天皇制〉をもって守るべき文化的価値、日本の〈歴史的連続性・文化的統一性・民族的同一性の他にかけがいのない唯一の象徴〉だと考えたからである。
そして興味深いことに、彼はこの本のなかで、R・ベネディクトの『菊と刀』にも触れ、一面その見解を評価しつつも、不十分なところがあるとしている。すなわち、ベネディクトのように《倫理的に美を判断するのではなく》、むしろ《倫理を美的に判断して文化をまるごと容認す》べきことを説いているのである。(もっとも、いまは立ち入れないが、だからといって、三島は、単純な国粋主義者なのではない。そのことは、彼がG・バタイユの〈エロス論〉を高く評価し、みずからも『サド侯爵夫人』というすぐれた戯曲を書いていることからもわかる。)
他方では、この〈文化概念としての天皇制〉は、日本文化と日本人に対して目に見えないが並々ならぬ拘束力を持つものとして、西洋文化における〈ロゴス中心主義〉になぞらえることができる。日本において哲学や思想に携わる者が自国の文化を批判的に客観化して考察しようとするとき、天皇制の問題にこだわらざるをえないのは、そのためである。
天皇制はしばしば〈主体なき権力〉あるいは〈空虚な中心〉と呼ばれることがある。それは、天皇制においては権力が主体的なものとしては表われないからであり、実体的な中心をなさないからである。しかし、その同じ在り様を、いっそう適切には〈場所的権力〉と呼ぶべきであろう。なぜならそれは、場所の持つ根底性と捉えにくさをそなえているからである。
△ 学生時代、私はある集会で、「天皇制はへそのゴマである」という不謹慎な発言をしたことがあります。それは、あってもなくてもよいが、あまりいじくりまわすと「腹膜炎」を起こすという程の意味でした。天皇制を国体(国家的同一性)の中心と見なす思想は、今も根強く存在していて、それに異を唱える者は身の危険すら感じるということは、この日本の深刻な現実です。著者は「場所的権力」という言い方で、それが「日本人」の帰属の問題に密接に関わっていることを示唆しています。
他方、帰属と表裏をなす〈排除〉についていえば、排除において一般に、場所はいっそうその隠された性格をあらわにする。というのも、場所はおのずとそれに帰属する者と帰属しない者とを分かつからである。前者に対しては自己の内部にある者として庇護し、多くの恩恵を与えるが、後者に対しては、外部にあるよそ者、場違いな者、およそ存在するに値しない者として、ひどく冷ややかに扱うのである。
△ 先に述べた「内」と「外」との感覚が強く働くということでしょう。
この場合、場所に帰属しない者というのは、場所の内部における支配的な者への反抗者や敵対者のことではない。場所の内部にあるかぎり、どんな反抗者も敵対者も、支配的な相手と共通の前提を持っており、そのかぎり、相手を根本的に脅かすことはない。そこでの争いや勝負には、なにがしかの共通のルールがあるからである。場所の外部に決定的に追いやられるのは、そのルールを認めない者たちなのである。
△ 左翼のデモに浴びせられる「日本から出て行け」という罵声は、お前たちは日本人としての共通の(しかも暗黙の)ルールに反しているという意味なのでしょう。
しかもその排除の際には、ルールを認めない者たち、否定する者たちがもともと存在しなかったかのように、振舞われる。彼らの存在を意識しないでいられることが〈場所〉の勝利なのであり、場所の勝利こそ、場所の内部で行なわれる相対立するものたちのあらゆる争いや勝負に先立つのである。場所の勝利が沈黙のうちに、なにもなかったかのごとく行なわれることは、ある場所に帰属しない者たちは、その場所内ではことばとともに存在を失わせられることを意味している。
△ 在日韓国・朝鮮人は「見えない人々」であると言われることがあります。場所が支配する世界では、見えないはずの人たちが見える形で自己主張することは不快であり、それ自体が糾弾の対象になってしまいます。現在の民主党政権は永住外国人への参政権の付与を検討していますが、少なからぬ日本人がそれに反対しています。それはまさに「場所的権力」の自己主張であると言えるでしょう。その意味で、天皇制は日本人ひとりひとりの生き様に関わる問題であると言うことができます。
日本の社会においては、支配的な価値への帰属や従属は、あからさまにではなくソフトに要求される。誰か特定の人間によってはっきり命令されるのではなく、《みんながそうするから、そうした方がいい》というような仕方である。先に私は天皇制について〈場所的権力〉という性格づけを行なったが、それはさらにいえば、場所的な帰属を要求する権力、反対する者たちを一定の場所(この場合には社会そのもの)から排除するような権力のことである。だから、支配的な価値への帰属や従属はソフトな仕方で行なわれても、その反面において、天皇制にかかわる支配的価値に対して根本的な批判でも行なうと、なんと、《そういう人間は、日本から出て行ってほしい》などと明言する者までが出てくるのである。
むろん、今日の日本は、〈場所の支配〉のうちに安住することはできない。場所の支配は、たしかに過去においては、日本の社会と文化のアイデンティティを確立し、維持するのにきわめて有効であった。しかし、諸外国やその文化という他者との間で開かれた対話を行なう上で、つまりは真の自立を達成する上で、大きな障害になるからである。そして、その場所の支配がどのような構造を持ったものであるかを、明確に認識することなしには、場所の過剰な支配から脱し得ないであろう。だからこそ私は、根本的な問題に経ち返って、いろいろな仕方で、日本における場所の支配の在り様を明らかにしようとしたのである。
△ 日本の人口が減少し、若年労働力が不足していき、益々外国人の労働力に依存しなければならない事態が予測される中で、なおも場所の支配に固執し、どこかの知事や元首相のように、排外的な言説を主張し続けるならば、日本の将来はきわめて危ういものになるでしょう。日本人が自らの「自立」を目指す上で多くの困難が予想されます。しかしいつまでも「お上に逆らわず」、「長いものには巻かれる」生き方に安住していることはできません。今、日本は「他者」に対して開かれたあり方を、外部的客観的要因によって強制的に迫られています。そのとき自分の立ち位置を冷静に判断することがなければ、再び戦前の誤りに陥るほかはないでしょう。
5 今日の〈非寛容〉問題への三つの提言
1 〈恥の文化〉の長所と考えられるのは、多神教的な価値の相対化である。そしてその観点にはっきり立つとき、人類共通の貴重な文明の遺産を破滅させないために、いろいろ重要な〈義務〉の間でバランスを保つことが容易になるだろう。そして、文化相対主義的な観点からこそ、人類の連帯感を強めるべきである。
2 いまや人類は、文化の持つ相対的性格を自覚することによって、宗教的狂信や独断的非寛容によって紛争へと転化し、発火する原因になりそうなものを、地球上の〈それぞれの文化を持つ同胞への配慮〉から早めに取り除くべきであろう。
3 人類を破滅させるおそれのある核爆弾や最近爆弾などについていえば、それらに対しては、国際的機関による管理を〈人類の眼〉を持つことで強化すべきであろう。ここで〈人類の眼〉というのは、最初から抽象的に想定された普遍的なものではない。そうではなくて、相対主義的な観点からの深まりのなかで得られるべきものである。
△ 著者はここで文化的相対主義を標榜しています。しかも次第に深められてゆくような「人類の眼」を持つことによって、その観点をより普遍的なものにしていくべきであると提言されています。このような漸次的アプローチは、世界の問題は一挙には解決されないという現実主義に基づくものでしょう。逼迫する危機を前にして、いかにも手ぬるい提言であると見なされるかも知れません。しかし人類の「進歩」があるとすれば、そのような緩慢な形でしかありえないということは、歴史が示していると思われます。そして独断的非寛容の問題の解決という課題は、平和を希求する者たちの、まさに眼前に横たわっています。私は、キリスト教に永く関わってきた者として、著者の言う文化的相対主義を無視することはできないと、痛切に感じています。
第一部は第五章までの五つの論文から成っていますが、付論として、さらに三つの論文が添えられています。あとがきによると、その「1」は、雑誌『仏教』(29号、法蔵館、九四年一〇月)に掲載されたものです。ここには著者の宗教観が示されており、また「逆光の存在論」への言及があるので、紹介することにしました。
一
この六月(一九六五年六月 ▽)に京都でのシンポジウム(平安会議)で、〈コンピュータの父〉といわれるマーヴィン・ミンスキーと一緒になったところ、その席上で彼がショッキングなことを主張していた。それはこういうものだった。
△ 雑誌に掲載された年号(九四年)と「一九六五年」は、随分かけ離れています。いつそのシンポジウムが行なわれたのでしょうか。詳細は不明です。
現在の医学では、また、自然のままの生命では、どんなに長生きしても人間の寿命は、せいぜい百二十歳ぐらいが限度である。しかし、人間は、また自分は、もっと長生きすることを望んでいる。これまではその方法がなかったけれど、近未来には、老廃した器官を人工臓器の移植によってとりかえ、さらに、それが出来ない器官については、ナノテクノロジー(超微細技術)によってコンピュータを埋め込み、強化・再生させることで、二百歳でも三百歳でも生きられるようになるだろう。
△ 近代医学の前提に立てば、ミンスキーは当然のことを言っているに過ぎません。
この場合ミンスキーは、健康による長生きを、開拓時代のアメリカを象徴する発明家・実業家ベンジャミン・フランクリンの教えにしたがって、人間の〈幸福〉の三つの条件の一つとしている。すなわち、フランクリンは、健康と富と知恵を以て幸福の三条件としているのだが、来たるべき世紀においては、〈コンピュータ技術の発達〉がこれらの三つを関連させて実現させるだろう、とミンスキーは言うのである。
このミンスキーの話が私にとって少なからずショッキングであったのは、直接的には、現代の先端的な技術主義が、人間の自然的寿命を超えて、古代の中国の皇帝のように〈不老長寿〉の願望を抱くようになったことである。サイボーグ的な不老長寿願望の奇怪さのゆえである。ふつういう意味では長生きするのは望ましいことであるが、それまで無理をして長生きするのは、生命そのものの本質に即していると言えるだろうか。医療倫理で言われている〈クオリティ・オブ・ライフ ▽〉などを持ち出す以前の話である。
△ 生命は、単に「長生き」などの「量」(クオンティテイ)の問題としてではなく、充実した生を生きるという意味での、「質」(クオリティ)の問題としても捉えるべきであると考えるのは、ごく自然の成り行きでしょう。一時、「生活の質」という言葉が流行りました。しかしその考えがどこまで掘り下げられたのでしょうか。
このように、ミンスキーの話は、彼自身は意識していないが、期せずして、生命とはなにか、生きているとはどういうことなのか、どういう生が望ましいのか、といった根本的な問題を現代の先端的な技術主義から問いかけてきたことになる。
△ 現代の先端的な技術が、改めて医療倫理、生命倫理の問題を鋭利、かつ深刻なものにしてきたということは、著者の指摘する通りです。
だが、ここで、問題はそれだけにとどまらない。というのも、間接的には、人間の〈幸福〉についてのこのミンスキーの考え方は、アメリカの開拓時代を象徴する発明家・実業家、いやアメリカ型の哲学者であるといってもいいベンジャミン・フランクリン――事実彼は「アメリカ哲学会」の創設者でもあった――に負っていると述べられ、したがって、フランクリンの考えと結びついている(*)からである。
* ただし、あとになって、NHK・TV第3チャンネル《未来潮流》で「自分とはなにか」(一九九七・一・四放送)という番組をつくったとき、ボストン近郊のMITにミンスキーを訪ねたことがある。私としては、その問題についてもっと詳しくミンスキーの考えを聴こうと思ったのである。ところが、実際には、彼とフランクリンの宗教や倫理との関係は大変素朴であり、それほど突っ込んだものでないことがわかって、いささか拍子抜けがした。しかし、それがアメリカ的なプラグマティズムというものかもしれない。
最初にその結びつきを知ったとき、私が驚かされたのは、そこにアメリカの楽天的なプラグマティズムの精神伝統のつよさであった。そのままのかたちではなく、いささか変形されているにしろ、精神伝統がたしかに受け継がれている。あるいは、フランクリンの考え方はミンスキーにとって自己の技術主義の大きな支柱となっている、という点であった。
ところがその後、気になって、有名な『自伝』によってフランクリンについて少し調べてみたところ、当然ながらそこには、生きているとはどういうことか、どういう生活が望ましいか、といったことが興味深い仕方で扱われていた。また、それだけでなく、背景となる宗教的な立場も示されてことがわかった。こうして私は、難しい問題を抱え込むことになった。というのも、すぐれて現実家である彼の宗教的立場は、ふつうの意味で、宗教について、あるいは宗教とはなにか、をとらえようとするとき、たいへんとらえにくいところに位置しているからである。
けれども、かえってこういうところから問題に入った方が、宗教の隠された意味や役割が明らかになるのではないか、と私は思ったのである。
△ ミンスキーの発言からフランクリンについて調べ始めるというところに、自分の中で未だつながっていない事柄(プラグマティズムと宗教)に関して、納得のゆくつながりを見出して行こうとする著者の、哲学者としての姿勢があります。そのような研究姿勢は、アカデミックな哲学者にはなかなか見られないもので、アカデミズムとジャーナリズムの橋渡しを行なった三木清などの衣鉢を継ぐものかも知れません。
二
そこで、最初に触れたミンスキーのフランクリンへの依拠の仕方を、彼自身のことばによって見てみよう。「コンピュータは人類に何をもたらすか」というシンポジウムの基調講演を、彼は次のようなことばではじめている。《幸福とは何でしょうか。これは非常に定義し難いものです。なぜなら、何を欲しいと思うかは人によって様々だからです。しかし、誰もが欲しいと思っているものがあります。ベンジャミン・フランクリンはそのいくつかを短い詩に表現しました。》
こう述べてから「早寝早起き、それは人を健康にし、裕福にし、賢明にする」という短詩の一句を引き、さらに次のように敷衍する。《良い知恵がなければ健康も富も役に立ちませんが、フランクリンはすぐれたアイデアでいろいろな分野で活躍しました。(略)フランクリンは非常にビジネスに長けていました。もし裕福で賢明であったとしても、体が弱くてやりたいことができないのも困ります。その点、フランクリンは長寿でした。二焦点眼鏡をはじめとした彼の数多くの発明は、人間の生活を快適に、また効率よくする上で重要な貢献をしたのです。》
ところで、フランクリンの自伝は《百万人の生活哲学としてひろい影響を与えた。》(平凡社『哲学事典』)と言われるものだが、そのなかで何個所かにわたって、彼の宗教観をかなりあけすけに述べている。それは内容的に言ってもお座なりではなくて、なかなかユニークなものである。
△ フランクリンの『自伝』は、日本ではさしずめ福沢諭吉の『福翁自伝』のようなものだったのでしょう。
基本的には彼は、神(むろんキリスト教の)を信じ、神に感謝している。生涯を振り返ってこう書く。《わたしの仕合わせな生涯は神のお恵みによるものだと、このさい言っておきたい。(略)信じていればこそわたしの上に神のお恵みがかかるだろうと考えるのはおそれ多いことだが、このように信じることで、これからも神のお恵みが、わたしの上にかけられて、余生に幸運が与えられるだろうし、また万一他の人と同じような逆境が与えられても、それに堪えていくことができるだろう。》(鶴見俊輔訳、以下同)
しかし、若い頃には、宗教心の篤い両親が彼を非国教派プロテスタントの方向へ導こうとしたにもかかわらず、その意向に容易に従わず、十五歳になったばかりのころに天の教えそのものに疑問を持つようになり、一時は理神論者になっている。もっとも、やがてその教義は、《本当のことを言っているかもしれないが、あまり役に立たないものではないか》と思いはじめる。そして彼は、《人間生活を幸福なものにするには、人と人とのやりとりに真実とか清廉とかいうものをもってすることが、一番大切なことであると信じる》ようになり、〈天の教えそのもの〉には価値を認めなくなるのである。
とはいっても、彼は、社会生活上では長老派教会(カルヴァンの流れを汲む教会)に属し、その教会員として宗教的な雰囲気を身につけて育ってきた。ところが彼には、《この宗派の教義の中にある、神の永遠の意志、神の選抜、定罪などの教えは不可能に思えたし、またほかの点で信じられぬものがあった。》そのため、宗派の集まりには早くから出席しなかった。しかし、だからといって、彼は宗教上の教義をまったく持たないというのでもなかった。こうして、次のように続ける。
《たとえば神の存在、神が世界を創造し、その摂理にしたがってこれを治め給うこと、神のもっとも喜ばれる奉仕は人に善をほどこすこと、霊魂の不滅、すべての罪は現世においても来世においても罰せられ、徳行はまた報いられること、などといったものは決して疑ったことはない。このようなものはすべて宗教の本質であると考えられるし、わが国のあらゆる宗教にも見られることである。だからわたしはすべての宗教を尊敬した。》この部分は、フランクリンがいちばん真っ向から宗教の本質を問題にし、宗教を肯定した言葉である。
ただし、彼は、そう述べてからすぐ、なんと次のように付け加える。《宗教はその本質以外には、人間の道徳性を鼓吹したり、うながしたり、または強めたりするようなものがなく、かえって人間を分裂させ、互いに不和にさせる信仰箇条が多少交ざっているので、ひとつひとつの宗教によって尊敬する度合も違えてはいた。わたしは悪い宗派もいくらかは役に立つこともあるのだという意見を持って、すべての宗教を尊敬していたから、ほかの宗教について、そのいだいている信仰を弱めるような議論はいっさい避けるようにしていた。》
△ フランクリンが「宗教」と言うとき、それはキリスト教諸教派のことであって、それ以外の「宗教」が視野に入っていたとは思われません。そしてその諸教派の教義の本質は、いわば「共通の信条」であり、自分がその中で育てられてきたものとして、決して疑ったことはないと言っているのでしょう。しかしその「本質直視」の観点から言って、現実に存在する諸教派には、程度の差はあっても、余計なものが付きまとっていると考えたのでしょう。ただし「宗教」は「役に立つ」という観点から概ね肯定されています。
まさにプラグマティストの面目を示したことばである。そして、プラグマティストといえば、右に出てくる《宗教はその本質以外には、人間の道徳性を鼓吹したり、うながしたり、または強めたりするようなものがなく》という宗教への不満を充たすものとして、彼がつくり上げたのが、リチャード・サンダースという名まえで売り出して大当たりをとった『貧しいリチャードの暦』である。これは、暦の中の特殊な日と日との間にできる小さな余白を諺のような文章で埋めたものである。
それらの文章は主として、《富を得る手段として、勤勉と節約とを説き、そうすることによって徳も身につくようになるのだ》とするようなものであった。というのも、《一例として、「からの袋は真っ直ぐには立ちにくい」という諺でも使われているように、貧乏な人間ほど常に正直に暮らすのはむずかしい》からである。
△ 健康を土台として、勤勉に働き、節約し、富を得、徳を身につけるという生き方は、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフの「原型」と言うべきものです。しかし、その生き方がどこで、どのように崩されてきたのかを検討しなくてはならない時期が、遠の昔に訪れています。まさにプラグマティズムの楽天主義が問われてきたと言うべきでしょう。
このようなわけで、フランクリンの宗教に対する態度は、一方で〈宗教の本質〉として《神の存在、神が世界を創造し、その摂理にしたがってこれを治め給うこと、神のもっとも喜ばれる奉仕は人に善をほどこすこと、霊魂の不滅、すべての罪は現世においても来世においても罰せられ、徳行はまた報いられること》などを堅く信じる半面、道徳に関しては〈天の教え〉にはよらず、《ただあらゆる事情から考えて、そういう行為が人間の本性にとって悪いことだから禁じられるのであり、よいことだから命じられるのではないか》とするものであった。
そこには、まぎれもなくフランクリン流の宗教的な考え方と生き方がある。けれども、ここから直接に、ひとはなぜ宗教心を持つのか、幻想といわれようとも宗教に対して人々がなぜつよい願望を抱くか、その原理あるいは仕組みを解き明かすことはできない。というのも、フランクリンの場合に見られるのは、その仕組みがいわばブラック・ボックスに入れられたような宗教のあり方だからである。しかし、もし、われわれがその仕組みを明らかにしようとすれば、それは、フランクリンの場合にも妥当するものでなければならないであろう。そういうものとして、のちにふたたび触れることにしたいと思う。
△ 「ブラック・ボックスに入れられたような宗教のあり方」というのは、根本的真理とされたことについては、それ以上その中身を問わない態度であると言い換えることも可能でしょう。ただそれを信じる結果が、たとえば人間の生活に役に立っているか、あるいは道徳を高めることになっているかを問うのは、プラグマティックな真理観です。しかし、道徳的な戒めがすべてそこから出てくるとされてはいません。道徳は「そういう行為が人間の本性にとって悪いことだから禁じられるのであり、よいことだから命じられるのではないか」という別の判断基準が導入されています。そういう意味では、プラグマティズムの宗教観は人間中心的であって、神中心的ではありません。
三
では、ひとはなぜ宗教心を持つのか、幻想といわれようとも宗教に対して人びとがなぜつよい願望を抱くか、というその仕組みを、私自身はどういうところから考えようとするのか、その端緒をどこに求めようとするのか。私はそれを、われわれ人間の生命力がいわば〈逆光を浴びた〉ときに気がつき、意識するものとしてとらえることにしたい。通常、われわれ人間の生命力はみずから発する光によって世界を照らし、秩序づけ、意味づけている。
だが、ひとがひとたび、なにか挫折感を感じたり、病を負ったり、また死に直面したりすると、そのとき、これまで生命力の発した光によって照らし出された眼前の世界は実在性を失い、無意味化してしまう。われわれ人間のそのような在り様をよく示しているものに、チェーホフの短編『わびしい話』がある。(これは従来『退屈な話』と訳されてきたが、以下に見られるように、生の倦怠にもましてその無力化を描いたものである以上、『わびしい話』という表題の方がはるかにふさわしい。)
△ 「生の無力化」ということなら「心細い話」とでもすべきでしょう。
この短編の主人公のニコライ・ステパーヌイチ某は、学者として一点非のうちどころのない輝かしい過去を持った老教授である。彼はあるとき、自分を中心に秩序立てられていた見慣れた眼前の風景が一変したのに気がついた。それに応じて、気分もこれまでの王様の気分から奴隷の気分に変わった。女優の夢に破れた愛する養女のカーチャから、必死に生きていく助言を求められても、それに応えることができなくなった。
そして、そのような自分の状態の変化を、彼は次のように判断するのである。《私の思想、感情そして事物の観念には、それらをすべて総合して一つの全体とする共通の要素がまったく欠けている。(略)私の批判や、私の想像が描き出すさまざまの画面のなかに、共通の観念とか、生ける神とか名づけられるものを見出すことはできない。そして、もしそれがないとすれば、つまりなんにもないわけである。》
ここにすでに〈共通の観念〉が〈生ける神〉と言い換えられているのも興味深いが、先を急ぐまい。それよりもこの段階で確認しておきたいのは、彼の思想、感情、事物の観念などの〈すべてを総合して一つの全体とする〉共通の要素の喪失、つまりはイメージや意味の凝集力としての生命力の衰退によって、自分を中心に秩序立てられている見慣れた世界の風景が解体され、無意味化するという事実である。
われわれは通常、自分にとっての見慣れた風景は、個人的なものではなく、人びとに共通したもの、つまり共同主観的なものだと思っている。たしかに個人的なものといえども約束事に基づいている以上、共同主観的なものによって支えられている。だが、しばしば、その共同主観の基礎の上に個々人の生命の持つイメージや意味の凝集力が大きく働いていることが忘れられている。われわれの一人ひとりが生きているということは、個々人の生命の持つイメージや意味の凝集力によって世界を意味づけ、秩序づけていることである。そこではわれわれの一人ひとりは、まさに王国の主であり、まさに〈王様〉なのである。
△ 世界が世界として現象しているのは、私がここに生きているからであり、私の生命力が減退すると、世界の様相が違って見えてくるという基本的な事実を、著者はここで確認しようとしています。チェーホフはそれを鋭く観察しています。
ところで、生命力の衰退によって、自分を中心に秩序立てられていた世界が解体され、無意味化するとき、おのずとわれわれの自我は、その存在根拠を失って、自己の足元に底無しの虚無の深淵を見ることになるだろう。一般に宗教的な意識の出発点としていわれる〈虚無の自覚〉とは、この段階のものにほかならない。しかし、より立ち入っていえば、その虚無の自覚とは、人間の生命力がみずから発する光を失って、反対におのれが〈逆光を浴びる〉ときに生ずるものなのである。
△ 生の昂揚と衰退によって世界の現われが違ってくるということと、「逆光を浴びる」ということとは、直ぐには結びつきません。それは何を意味するのでしょうか。著者は唐突にこの言葉を持ち出してきたという印象を受けます。
いや、もともとわれわれの人間の個体あるいは生命体は、受苦的な(パトス的な)、ヴァルネラブルな存在である以上、世界や外界を自己の光によって照らし出す以前に、すでになにものかから働きかけを受け、その光によって逆に照らし出されているのである。ただ、自己あるいは生命体に力がみなぎり、それによって世界や外界を秩序づけ、意味づけているときには、そのように自己や生命体が働きかけを受け、照らし出されていることに、気がつくことが難しいのである。
△ 光の比喩によって著者が意味することは多義的です。人間の欲求や知性や言語などによって、この世界が意味づけられ、秩序付けられていると、一応は解することができます。しかし「光によって逆に照らし出されている」とはどういうことでしょうか。ここには、著者のその事柄についての何らかの経験(理解)が反映されていると思われます。しかしその意味は未だ漠としています。ただ、仏教やキリスト教などで、光の比喩が用いられていることに留意すべきでしょう。それは「無量光」であったり、「神はわが光」であったりします。なおヴァルネラブルということについては、「象徴の解釈学 その3」などで言及しましたが、辞書には「傷つきやすい、弱点(弱み)のある、《攻撃・誘惑・非難などを》受けやすい」とあります。
そのことに気がつくのを妨げるものを、仏教では〈煩悩〉(貪・瞋・癡・慢・疑・見など)といい、キリスト教では〈邪欲〉(肉欲・好奇心・権力欲など)というが、これらはすでに、人間の生命力の発現にほかならぬものを価値・方向・光線の逆転によって宗教の側から捉えなおしたものにほかならない。そのことを私が強調するのは、なぜかといえば、宗教を考える場合、宗教をいたずらに閉域に閉じ込めないためには、最初の前提として自然的で日常的な人間個体の〈生命力の発現〉を置いた方が、いいと思うからである。
△ 人を人として生かす力は、個体の生命力である以前に、何か、もっと根本的なものとして与えられているという洞察は、これまでは宗教的に表現されてきました。著者は光という表現によって、そのことを指し示そうとしています。しかし、光線が逆向きになるという「逆転」が生じるのは、宗教という「閉域」においてのみなのでしょうか。著者は、もっと広い場面、あるいは自然的で日常的な文脈で、そのことを問い直そうとしているのではないかと思われます。なお、ここで「邪欲」(concupiscence)という言葉が出てきます。しかしそれは古典的な用語(の翻訳)であって、キリスト教で、今日も多用されているというわけではありません。今は「罪」という言葉で済まされていると思います。
先に私は、《もともと人間の個体あるいは生命体は、受苦的な、ヴァルネラブルな存在である以上、世界や外界を自己の光によって照らし出す以前に、すでになにものかから働きかけを受け、その光によって逆に照らし出されている》と言った。そのことの自覚はまず、われわれ人間にとっては〈有限性の自覚〉、自己の存在の卑小さに対する自覚だということになる。
たとえばパスカルが、『パンセ』の有名な断章(ブランシュヴィック版、断章三四七)において、人間の個体あるいは生命体を、大自然のほんのささやかな力によってその存在が脅かされる、か弱い〈一本の葦〉に譬えたのは、しかも、その葦を〈考える葦〉としてとらえたのは、そのことを言いたかったからである。
けれども、自己の無力や存在の卑小さに対するつよい自覚は、逆光の存在論ともいうべきものを要請し、自己を超え、自然界を超えたものに新たな生命力の源泉を求めることになる。存在の卑小さについての自覚といえば、死や不治の病はそのような自覚をもたらす代表的な契機であり、とりわけ、《ひとはなぜ死ぬのだろうか》という素朴な、しかし切実な問いかけのうちに、人間の存在の不条理な在り様がもっとも端的に示されている。
△ 「逆光の存在論」は、ここでは、卑小な人間の「要請」であり、「自己を超え、自然界を超えたものに新たな生命力の源泉を求める」、人間の求めであると言われています。
そして、この〈逆光の存在論〉こそ、宗教についての多くの言説をパラドキシカルなものにし、通常の語法とは異なる特別な語法を生み出すことになったのである。たとえば《無分別の分別》(鈴木大拙)や《不合理なるがゆえにわれは信ず》(テルトゥリアヌス)のような語法である。
△ こうして著者は「逆光の存在論」という視点から宗教の考察に取りかかろうとします。それは著者の宗教哲学のキーワードであるということになります。
四
そこで、私のいう〈逆光の存在論〉そのものに、もう少し立ち入ることにしよう。
すでに見たように、もともと受苦的でありヴァルネラブルである人間の個体あるいは生命体は、世界や外界を自己の光によって照らし出す以前に、すでになにものかから働きかけを受け、その光によって逆に照らし出されている。ところが、ひとはおのれの持つ自然的な生命力に依拠しているときには、ほとんどそのことを見ようともしないし、また、見ることもできないのである。
ところが、その自然的な生命力の有限性が自覚されるとき、人間の個体あるいは生命体は、純粋な仕方で受苦的、感受的になり、なんの妨げもなく自己への働きかけを受け取ることができるようになる。つまりそれは、もはや、有限な自然的生命力に依拠した個体ではなくなる。そしてむしろ、無限に豊かな感受性を持ち、他者から無限のエネルギーや生命力を受け取り、吸収できるような個体になるのである。
では、そのエネルギーや生命力はいったい何から得られるのであろうか。あたかもわれわれ個々人の自然的な生命力そのものが、大自然とくに太陽からエネルギーを得、生命力を鼓吹されているように、有限性の自覚の上に立った受苦的な自己が、エネルギーと生命力を存分に受け取るのは、宇宙の超越的で根源的な原理あるいは存在である。ここで、超越的であるというのは、それが有用性の原理に基づく現実的世界を超えているからであり、また、根源的であるというのは、それがわれわれ個々人の存在を根底から支えているものだからである。
△ 私を生かしている超越的で根源的な原理(あるいは存在)というものがある、という点について、著者は肯定的であるように思われます。それは自己の生命力が横溢しているときには気づかれず、自己の有限性の自覚の上に立つとき、初めてその「力(エネルギー)」が感受されるとも言われています。それはあたかも太陽のようなエネルギーです。しかしそれは必ずしも太陽のように直証的に感受されるエネルギーではありません。
そのような存在や原理は、人間の観点あるいは人間的語法でいえば、われわれ人間が要請したものになるであろう。よく知られているように、『キリスト教の本質』においてフォイエルバッハは、《神学の秘密は人間学である》と喝破し、宗教における《神とは、人間のもっとも主体的でもっとも固有な本質が分解されて、選び出されたものである。》したがって、《神が主体的、人間的であればあるほど、人間はそれだけいっそう自己の主体性と人間性とを疎外することになる》と敷衍している。
すなわち彼によれば、人間における善いもの、望ましいもの、豊かなものが純化されて、それが〈神〉として外在化されるとき、それらの本質をみずから疎外した人間は、およそ邪悪で、堕落した、貧しいものにならざるをえない。いいかえれば、《神を富ますためには、人間が貧困にならなければならず、神がすべてであるためには、人間は無でなければならない》ということになるのである。そして、その結果、宗教では、神の持つ完全性、永遠性、全能性、神聖さといった属性に対応して、人間については、それぞれ、不完全性、一過性、無力さ、罪深さが当てられることになってしまうのである。
このように超越的な宗教に対するフォイエルバッハの批判は、まことに鋭く、つよい説得力を持っている。そして彼のこの批判は、マルクス主義の唯物論的な宗教の否定に一直線に結び付くように見えるが、必ずしもそうではない。彼自身、この『キリスト教の本質』の序文において、《私の著書が否定するのは、ただ単に宗教の非人間的な本質に対してだけであって、宗教の人間的な本質に対してではない》と明言している。
また、右のような観点から、フォイエルバッハは、人間が意識を持った存在であることの意味を重視している。そのことによって、動物が単に一重の生活を送るのに対して、われわれ人間が二重の生活を送るからである。つまり外面生活と内面生活の二重性であり、その結果として人間は、同時に〈われ〉であり〈汝〉でありうるし、その上、自己自身を他人の立場に置くことができる。というのも《人間にとっては、単に自己の個体性が対象であるだけでなく、自己の類(ガットゥング)や自己の本質もまた意味を持った対象だからである。》まことに、動物と区別された人間の本質は、単に宗教の根底であるだけでなく、宗教の対象でもあるのである。
△ フォイエルバッハについては、山之内靖氏の著書『受苦者のまなざし』に触れて少し取り上げたことがあります(「非専門性としての哲学」、「フロー体験」参照)。
ここには、宗教の原理あるいは仕組みが、立ち入ってみごとにとらえられている。人間的話法からすれば、これで十分であろう。しかし、宗教の仕組みがこれによってとらえきれているとは私には思われない。これだけではまだ、宗教において重要な意味を持つ価値の根本的な転換が解き明かされていないからである。その価値の根本的転換をなによりもよく示すものは、生命(生)の変質、有限の生命から永遠の生命への転換である。
△ 価値の根本的転換という事態が実際にありうるのだということを想定して、著者は、それこそがフォイエルバッハに欠けているものである、と言います。フォイエルバッハの宗教批判にも拘わらず、なぜ宗教がこの地上にはびこってくるのか。それは単に人間的な願望にすぎないのか。それとも何か、それなりの根拠のあることなのか。その点に関して、著者の見解には保守的なところがあります。以下にある通りです。
そして、それを可能にするのは、有限なこの世の生への、永遠の死を媒介にした、絶対他者からの照射であり、つまりは宇宙の超越的で根源的な存在からのエネルギーと生命力の充当である。この場合、なぜ〈永遠の死〉が媒介になるのかといえば、〈有限なこの世の生〉を自覚するとは、永遠の死に直面することだからであるし、永遠の死に直面するとき、われわれ人間の個体は、はじめて、〈純粋な受動性〉が得られるようになるからである。まさに、この純粋な受動性が時間性を超えて、限りないエネルギーと永遠の生命を受け取るようになるのである。またそのとき、ひとは、真に自己たりうるし、真の人格たりうるのである。
△ ここには「絶対他者」という言葉も出てきます。
その点について、西田幾多郎もこう言っている。《自己の永遠の死を知るもののみが、真に自己の個たることを知る。》それだけが真の個体であり、真の人格である。まったく死なないものは、一回的なものではない。繰り返されるもの、一回的でないものは個体ではない。《永遠の否定に面することによって、我々の自己は、真に自己の一度的なることを知るのである。故に我々は自己の永遠の死を知る時、始めて真に自覚するのである。》(「場所的論理と宗教的世界観」)
いまこのように西田のことばを引いたのは、なにも彼の宗教観全体に安易に依拠しようというのではなく、このような個所とそれに続く〈逆限定〉とも〈逆対応〉ともいわれる考え方のうちに、私がもっとも共感するものがあるからである。
すなわち、彼によれば、相対的なものが絶対的なものに対するのが死である。われわれの自己が神に対するときもやはり死が問題になる。それはわれわれの自己が無となることである。《我々の自己は、唯、死によってのみ、逆対応的に神に接するのである。》《我々の宗教心と云うのは、我々の自己から起るのではなくして、神又は仏の働きである、自己成立の根源からである。》この西田の〈逆対応〉の考え方が、右に述べてきた〈逆光の存在論〉と多くの点で相通ずるところがあることは、容易に見て取れるだろう。
△ 人間は死する者であることによって、一回的個体的な生の自覚に達するということが、「逆対応」、「逆限定」の事態として把握されています。その自覚に神または仏が関与しているということが、その立言の裏にあります。有限の個の自覚が、同時に、神または仏の呼び声であるとされるとき、初めて、人間の宗教心には「超越的で根源的な」根拠があると言うことができます。このフォイエルバッハと西田幾多郎の間にあるものにこそ、宗教について考えるときの一つの分岐点があるということは、たしかなことでしょう。しかしそれは日本人の伝統的な宗教心からストレートに出てくる問題なのでしょうか。むしろ、きわめて近代的西欧的な個の自覚に関わっているのではないかと思われます。だからこそ著者が「もっとも共感する」と言うことができたのではないでしょうか。
五
ところで、宗教は、第一義的には個人の内面の問題ではあるが、それだけにとどまらず、否応なしに集団的・制度的な問題たらざるをえない。そのことは、よく知られている。さらにいえば、個人の内面にかかわる深層の現実と制度的な社会的現実とは、しばしば互いに入れ換わることがある。社会的な現実を、客体化され物質化されたものとして、深層の現実に対して表層の現実と呼ぶならば、深層の現実がかえって表層の現実の働きを持ち、表層の現実がかえって深層の現実の働きを持つことがある。
△ 著者がここで提起している問題は、「意識変革・社会変革」の問題として私も少しだけ取り上げたことがあります。また私も、宗教の自由な研究という課題は、不可避的に社会集団の研究に結びつくと考えてきました。著者は、深層の現実と表層の現実という形で、この問題の考察に取りかかります。なお、深層と表層という捉え方は、井筒俊彦の問題の立て方に通じるところがあります(『意識と本質』、『意味の深みへ』など参照)。
それは、もう少し詳しくいえば、次のようなことになる。すなわち、本来は心の深層にかかわる宗教上の営みが、なまなましい政治的・経済的な意味を持ち、また逆に、本来は表層のなまなましい政治的・経済的な振舞いが、擬似的にもせよつよい宗教的意味を帯びて人びとの心をとらえるという事態が生じる。それは、ふつういう意味で、宗教がおのずと政治性や経済性を持ったり、政治化したり経済化したりすることや、逆に、政治や経済がおのずと宗教性を持ったり、宗教化したりすることを含むけれども、それだけにとどまるものではない。
とくに宗教に見られる、このような深層の現実と表層の現実との反転はどうして起こるのであろうか。また、そのような事態は、私のいう〈逆光の存在論〉の観点からは、どのようにとらえられるのであろうか。次にそのことに少しく触れておきたい。
△ もっぱら「深層の現実」を「意識の形而上学」として探究した井筒とは異なり、著者は「深層の現実と表層の現実との反転」を問題にします。
まず、宗教の持つ集団的な性格は、いかなる宗教も人びと相互の心の触れ合いや愛による結びつきを重視していることと無関係ではない。互いの心を確かめ合い、強化する〈愛の共同体〉は宗教の理想の一つでさえあるだろう。それはコミュニズムの本来の理想でもあった。また先に見たように、フォイエルバッハが宗教的価値の源泉を人間の〈類的本質〉に求めたことも、その点についてのすぐれた洞察である。
しかし、D・H・ローレンスが『アポカリプス論』において鋭く指摘したように、集団化の赴くところ、そこに必ず権力欲が入り込み、いかなる聖者も権力欲と無関係ではありえない、という事実がある。レーニンにしてもイエスにしてもそうなのだ、と彼は言っている。いわく、《ひとは一人になったとき初めてキリスト教徒たりえ、仏教徒たりえ、またプラトン的な精神愛の徒たりうる。キリストや仏陀の像がその事実を証明しているではないか。他の人びとと一緒にいるとただちに差別が生じ、ちがった水準がつくられる。イエスも他人の前に出るや否や、一貴族になり、また指導者になる。またレーニンも粗末な服を着た暴君である。》
△ 「ひとは一人になったとき初めてキリスト教徒たりえ、仏教徒たりえ、またプラトン的な精神愛の徒たりうる。…。他の人びとと一緒にいるとただちに差別が生じ、ちがった水準がつくられる」というのは、たしかに鋭い指摘です。
深層の現実と表層の現実との反転という問題については、以前に私は、言語的な知である比喩論中の〈提喩 ▽〉モデルを使って、その仕組みの解明を試みたことがある(「〈場所の論理〉を超えて」、『思想』一九九四年一月号)。それはそれで一つの展望を切り開くことができたものの、考察がいかにも形式的でありすぎたという思いがつよかった。そこで、〈逆光の存在論〉によって若干の裏付けをすることにする。
△ 「提喩」の意味について、先ず、佐藤信夫の名著『レトリック感覚』の中から、一応、デュマルセの古典的な定義の部分を引用することにします。「一応」と言ったのは、「提喩」(シネクドック、シネクドキー)の定義には、その説明だけでは済まない、かなり厄介な(人によっては面白い)議論がからんでいるからです。
「古来、提喩はいつも換喩とからみ合うかたちで、あるいは換喩と抱き合わせで検討されてきたことばのあやである。提喩の表現――というよりも提喩的認識――の実態を分析するためにはたしかに両者を比較検討することが好ましいので、ここで私たちは、前の換喩の章でも意見をたずねてみた十八世紀のデュマルセの見解を参考にしてみたい。
『比喩論』(第二部、第四章)によると、提喩は換喩の一種であるが、ただし、《いっそう多いもの》を《いっそう少ないもの》のかわりに、あるいは逆に《いっそう少ないもの》を《いっそう多いもの》のかわりにもちいて表現する……という特殊な形式だということになる。そして彼は、提喩に四つの種類をあげている。
1、《類による提喩》。――「たとえば人間たちと言うかわりに《やがて死ぬべき者たち》と言うような場合であるが、《やがて死ぬべき者》ということばは、やはり、私たちと同様にいずれ死ぬべき宿命をもつ動物たちをも含んでいるはずだ。」すなわち、より小さい集合としての種をあらわすためにもっと大きな集合としての類の名をもちいる表現のことである。
2、《種による提喩》。――「それは、その本来の意味においてはある特殊なひとつの種をあらわしていることばが、類の意味にもちいられるような場合である。たとえば、性悪な人間をときには《盗人》呼ばわりすることがある。」
3、《数の提喩》――複数のかわりに単数表現を、あるいは単数のかわりに複数表現をもちいたり、また、ある特定の明細な数のかわりに概数をもちいたりするような場合。
4、《全体のかわりに部分を、また部分のかわりに全体を》もちいる提喩。――「たとえば、ときには《頭》によって人間の全体を意味する場合がある。そうして、《ひとり頭につきしかじかの額を支払った》などと、誰でも言う。」
と、デュマルセの説明は換喩の場合と同様に、論理的に整然としているわけではないが、その後の多くの辞典類の定義に直接間接に影響をおよぼしている点でも、近世における古典レトリックの代表的な考えかたと見てよい。」
なお、「換喩」の意味については、上掲書該当個所の最初の数行を引用してみます。
「おおざっぱに単純化して言うなら、隠喩が類似性にもとづく比喩であったのに対して、《換喩》とは、ふたつのものごとの隣接性にもとづく比喩である。換喩に該当するヨーロッパ語はメトニミー(メトニミー)――かたかなでは仏語・英語同形となる――。
たとえば、肌の白さに着目して、ある王女に「白雪」という名前をつけるとすれば、それは隠喩型の命名だが、いつも赤いシャプロンをかぶっている女の子を「赤頭巾」というあだ名で呼ぶのは、換喩型の名づけである。」
このレトリックについての知識が、どのようにして「深層の現実と表層の現実との反転」に関わるかについては、著者の『述語的世界と制度』の序論でかなり詳しく論じられています。ここでは、以下にその一部を記すにとどめます。
「さて、この深層の現実と表層の現実、内的な現実と社会的な現実との相互反転は、さらにすすんでは、隠喩的なものの換喩化、および換喩的なものの隠喩化としてとらえることができる。
まず、隠喩的なものの換喩化とは、転義において、表象(代理)関係によってしかとらえられず、表現できないものを、隣接関係によってとらえ、表現することである。そのような傾向は、《われわれの精神的なものを表わす語はすべてその起源では換喩的であった》という前述のバークの指摘が示すように、換喩そのもののなかにあるが、この場合とくに隠喩的なものの換喩化というとき、隠喩的なものとは、単に精神的なものではなく、述語的世界に解き放たれることによって深化され、逆説性を増したものを指し、したがって、それだけ、その客体化・物質化は特別なレヴェルと力を持つことになる。こうして、たとえば、心の深層にかかわるような宗教的な営みが、政治的な場あるいは空間のなかで一種異様な意味を帯びる、ということが起きるのである。
他方、換喩的なものの隠喩化は、転義において、隣接関係によってとらえられ、表現されるものを、表象(代理)関係によってとらえ、表現することであり、ここに、もともと換喩的なものに含まれていたイメージ群が、隠喩化されることによって著しく増幅され、華麗なる神秘性を獲得することになる。この場合、そのイメージ群は、客体的・物質的なものの背後に、それと緊張関係を保って、隠れたかたちで換喩的もののうちに含まれていたために、それだけいっそう、客観的な現実とは距離を持ったものと、ひとは感じるのである。たとえば、即物的でなまなましい政治的、経済的な振舞いが、擬似的なものにせよ宗教的、芸術的な場あるいは空間において、しばしば強い意味を帯びて人々の心をとらえるのは、そのためである。」
この記述を理解するために、福音書のイエスの振舞いや、そのたとえ話のいくつかを思い出してみるのもよいでしょう。なお、ここには出てこない「提喩」について、著者は換喩(隣接関係)と隠喩(表象representation関係)とを統合する働きであると考えています。それについては以下のように書かれています。
「さて、いま提喩と換喩と隠喩の関係をこのようにとらえたのは、比喩論自体の問題としてだけでない。それらをヤコブソンやレヴィ=ストロースが換喩と隠喩について行なったように、人間的事象解明のモデルにしようとするためである。もっといえば、制度論的思考にかかわる社会的な現実と深層の知にかかわる内的な現実との関係の解明のためである。そしてその際、手がかりになるのは、『メタヒストリー』(Hayden White, Metahistory, 1973)においてヘイドン・ホワイトが企てた歴史認識における〈四つの主要な比喩〉のモデル化である(The Theory of Tropes, p.31 et seq.)。
すなわち、ホワイトが〈四つの主要な比喩〉というのは、換喩、隠喩、提喩および反語法(アイロニー)であるが、最後の反語法は他の三つと同列に並べられているわけではない。彼は、一口にいうと、換喩の働きを還元的なもの、隠喩の働きを代理(表象)的なもの、提喩の働きを統合的なもの、と見なしている。厳密には私の考えとまったく同じではないが、基本的にはちがっていないので、手がかりにすることができる。まったく同じではないというのは、彼が提喩の働きを統合的なものとするとき、それは比喩の内部についてであって、私のように換喩と隠喩をも統合するという観点は彼にはないからである。
ホワイトによれば、歴史認識における論議の組立て方は、換喩的な観点に立つものは〈機械論的〉(客観的・物質的)であり、また、隠喩的な観点に立つものは〈形態論的〉(象徴表現的)である。それらに対して、提喩的な観点に立つものは〈有機体論的〉であると彼によって見なされている。有機体論はもともと機械論と象徴論(ロマン主義)の両方の要素を持ったものである。したがって、ここからも、提喩的なものが換喩的なものと隠喩的なものとを統合する働きを持つことがわかる。他方、反語法(アイロニー)的な観点に立つものは、ホワイトによって〈コンテクスト的〉であると見なされている。そして、この反語法がコンテクスト的というのは、それが比喩というよりメタ比喩であり、比喩による認識や表現の自覚的な相対化であることによるのである。」
ホワイトの「メタヒストリー」は、私が考える「メタセオロジー」に通じるところがあり、興味深いものがあります。以下、本題に戻ります。
逆光の存在論の観点からすれば、深層的・内面的宗教から表層的・制度的宗教への反転とは、われわれの自我を照らし出し、自我にエネルギーを充当していたものが、超越的で根源的な原理から現世的で有効的な原理へと正当なプロセスを経ることなく反転することにほかならない。だが、ここで厄介なのは、この二つの原理が宗教の本質からいえば峻別され、相容れないにもかかわらず、現実には非合法的に混淆しやすいことである。
その理由の一つには、宗教の本質にもかかわる避けがたい共同性が挙げられようし、もう一つには、きびしい修行を経たり、篤い信仰心に基づいたものとはいえ、生身の人間の営みとして現世的で有効的な原理を拒否しきれない弱さが挙げられるだろう。
しかし、宗教の仕組みあるいは構造ということからいえば、それらにもまして重要なのは、我々の自我へのエネルギーの充当と現実世界を意味づけ秩序づける自然的な生命力の原理(宗教的にいえば煩悩や邪欲)が温存されたまま、その後ろ楯として宗教本来の超越的で根源的な原理からの照らし出しやエネルギーの充当をひとによっては手に入れうる場合があることだろう。これは一般に、宗教的権力者に見られるところだが、興味深いのは、ふつういう意味では政治的な権力者であっても、その権力がカリスマ性のつよい場合には、宗教的権力者の場合と同じような構造が出現するということである。
△ 今話題の邪馬台国の卑弥呼などは、宗教的権力者が同時に政治的権力者であることの好例でしょう。しかし「祭政一致」が今日の政治の理想として語られるのは恐ろしいことです。それはファシズムにつながりかねないからです。そのときには「社会の三層化」(「同その2」)が主張されるべきでしょう。one dimensionalな社会は危険です。
話が飛躍するようだが、ここで思い起こされるのは、この文章の初めの方で見たベンジャミン・フランクリンのことばであり、そこには、《宗教はその本質以外には、人間の道徳性を鼓吹したり、うながしたり、または強めたりするようなものがなく、かえって人間を分裂させ、互いに不和にさせる信仰箇条が多少交ざっているので、一つ一つの宗教によって尊敬する度合も違えてはいた。わたしは悪い宗教もいくらかは役に立つこともあるのだという意見を持って、云々》とあった。
この個所に触れて、先に私は《プラグマティストの面目を示したことばである》と書いたが、その後になって気がついたのは、同じプラグマティストである哲学者のジョン・デューイが、その『宗教論――誰でもの信仰』において、それとよく似たことを言っていることである。
すなわち、デューイは説いている。宗教についてのこれまでの考え方の誤りは、宗教的なものを超自然的なものと不可分に考えたことであり、その結果、宗教はひどく人びとの信頼を失うようになった。宗教においてむしろ重要なのは、人びとのうちに潜む〈経験の宗教的要素〉であり、それはつまり、心の平安と確実性をもたらすように生活を調整し、方向づける諸条件のすべてである。ここで〈調整〉とは、世界との関係でわれわれの存在全体のうちに、総体的で根本的な自己変容を生じさせることであり、〈方向づけ〉とは、人びとに普遍的で永続的な価値を確信するようにさせ、理想を追求するようにさせることである。
このようなわけで、プラグマティズム的な宗教の考え方は、宗教の超自然的で超越的な側面を排する、あるいは少なくとも括弧に入れることによって、歴史的・伝統的な宗教の陥りがちな難点を回避したのであった。けれども、この種の宗教にもあながち問題がないわけではない。それというのも、このように生活化され水平化された宗教は、ともすればさまざまな社会現象と結びついて、擬似宗教化し、スター化したさまざまなカリスマを生み出すからである。
△ 宗教が人間の最終的な「帰属」を提供する結果、人間の間に深刻な分裂をもたらし、また人間の通常の理解力を越えた「信仰箇条」を強制して、人々の健全な知性を抑圧することは、宗教の害悪と言ってよいものです。喜んでそれに従う人たちがいるのも事実ですが、「ひどく人びとの信頼を失うようになった」ことも否定できません。私自身、宗教へのプラグマティックなアプローチに魅力を感じますが、それだけで問題が解決しないことも明らかです。私の言う「脱宗教的宗教」においては、プラグマティックであると共に、宗教における超越的な側面を、単に排したり括弧に入れたりするのではなく、「なぜ」そのような言説が生れてくるのかを執拗に問い続ける、クリティカルな姿勢も求められてくるのでないかと思われます。しかしそれは今のところ既成宗教の外にある孤独な作業です。
しかしそれよりも、最後にここで問題にしたいのは、この文章の冒頭で示した現代の先端的な技術からの問いかけ、マーヴィン・ミンスキーの所説から私が引き出した問いかけである。それは、近未来において、《生命とはなにか、生きているとはどういうことなのか、どういう生が望ましいのか》というものである。このような問いかけに対して、果たして、ミンスキーの依拠したようなフランクリン的な道徳的宗教観やデューイのような経験主義的宗教観によって十分対処できるのだろうか。
サイボーグ的な不老長寿が問題になるようなところでは、明らかに、彼らのプラグマティスト的な宗教観の有効射程は超えられてしまっている。そこでは、さらに、フォイエルバッハの生の二重性の考え方をも超えて、逆光の存在論を組入れた宗教の見方から、《どういう生が望ましいのか》があらためて考えられなければならないだろう。
△ 現代の機械論的生命観は、生命科学の発展によって、生命を極端に対象化するところまで来ています。遺伝子組み換え、臓器移植はその一例です。その思想に対処するには、これまでの宗教観は、それが何であっても全く無力であると言えなくもありません。あたかもそれは物理的な暴力に対する「平和思想」のようなものです。著者の「逆光の存在論」の内容は、以上の記述によっては、まだ十分に明らかであるとは言えませんが、はたしてそれはこの時代にどこまで有効なのでしょうか。
ミンスキーのサイボーグ的な不老長寿の願望では、たとえば生と死の二重性に基づく個々人の生命の有限性が、時間的にも存在論的にもまったく自覚されていない。そのことを考慮に入れるならば、近未来において人間とサイボーグの共生の時代が来るにしても、いたずらに長寿だけが望まれることになろうとは思わない。むしろ、自然的生命の限界を見極めた上で、生死の充実に向けて古今の宗教の知恵が生かされるようになるだろう。
△ 古今の宗教の知恵は、そのどれかの宗教に帰依するという観点からではなく、今この時代の生き方の指針として、大いに参照されるべきでしょう。しかしどこかに、頼りになる、究極の解答がころがっているわけではないと考えた方がよさそうです。
その点で、〈逆光の存在論〉から見てとくに重要だと思われるのは、一重あるいは平面的な生の単なる時間的延長ではなく、生と死の二重性の持つ豊かな可能性を十二分に生かして、人間一人ひとりが、充実した瞬間瞬間、いわゆる〈永遠の今〉を燃焼させることである。サイボーグによって象徴される現代文明は、人びとの日常生活に未曾有の物質的繁栄や便利さをもたらしたが、その中で飽き足らなさを感じることこそ人間の証しなのである。
△ 過去は「過ぎ去って」、記憶の中にしかなく、未来は「未だ来ない」で、期待のうちににしか存在しません。「現に在る」、今、この時においてしか生を知覚するすべはありません(アウグスティヌス)。その今を充実して生きるために、生と死の二重性において、死する者として生きる、人間の人間らしい生き方が求められているということでしょう。著者自身は「逆光の存在論」のうちに、自らの生き方の基軸(指針)を見出しているようです。しかし単なる「健康な生」というone dimensionalな生き方ではなく、生と死のtwo dimensionalな生き方が示唆されるその向こうに、さらに考えなければならないことがあるように思われます。
〈場所の論理〉と天皇制の深層 その1
この本の第二部は第六章から始まっていて、西田幾多郎に関する諸論考から成っています。ここではその第九章のみを取り上げ、紹介の作業を終えたいと思います。全体は十章から構成されています。あとがきによると、第九章は第八章「〈場所の論理〉と〈演劇的知〉」と共に、九六年一月、オーギュスタン・ベルク氏のイニシアチーヴのもとに、パリの社会科学高等研究院(EHESS)で開かれたゼミナール「場所の論理と人間の営み」《Logique du lieu et l’oeuvre humaine》での報告の日本語版です(初出『世界』九六年六月号)。
1 日本文化の構造的特質解明のために
ここで私がめざすのは、〈場所の論理〉との関係でなによりも日本文化の深層をできるだけ客体化し、そこにある特徴と問題点を立ち入って示すことである。「〈場所の論理〉と天皇制の深層」と題したが、〈日本文化の深層〉を示すのにあえて〈天皇制の深層〉という表現を使ったのは、日本における天皇制とは単に政治的あるいは法律的制度であるだけでなく、文化概念としていっそう重要な意味を持ち、日本文化の構造的特質を体現しているからである。
すなわち、ここで文化とはものの感じ方、思考方法、行動様式の総体であり、だからこそ、かつて一九五〇年代に中国文学者の竹内好は日本社会においては《一木一層にも天皇制が宿っている》と言ったのである。この〈天皇制〉という言い回しは、日本では最初一九三〇年代に左翼の側から批判、攻撃の対象として言い出され、広まったものであるが、右の竹内の発言を経て、もっとニュートラルな意味で一九六〇年代に三島由紀夫によっても言われている。政治的にいえば三島は右派に属するとはいえ、次のような彼の天皇制の捉え方は、ニュートラルな性格を持っている。〈文化概念としての天皇制〉という言い方をはじめてしたのも三島であった。
すなわち、三島は言う。日本文化の特色の一つに《コピー即オリジナル》というのがある。そのことは、二十年ごとに行なわれる伊勢神宮の式典〈式年造営〉の行事を見てもわかる。また天皇自身についても、《各代の天皇が正に天皇その方であって、天照大神とオリジナルとコピーの関係にはない》のが〈天皇制の特質〉である、と。なお、この《コピー即オリジナル》の考え方は、のちに述べるように、西田の〈永遠の今〉の考え方と深くかかわるのである。
△ 「済んだことは水に流す」という言葉が示すように、オリジナルなものが過去の一点に固定されているのではなく、常に新たに現在として蘇生してくるということは、木造の家に住み、クリアカットな四季に恵まれた日本人特有の感性なのかも知れません。年号は日本人のそのような時間感覚に適合していると言えます。ただし一世一元の年号(元号)は明治以後に定められたものです(広辞苑「年号」の項参照)。
私自身は、〈文化概念としての天皇制〉を、日本の哲学がなによりも、はっきり客体化してとらえ、徹底的に〈脱構築〉すべき対象と考えている。西欧の現代哲学が〈ロゴス中心主義〉をその脱構築の対象にしたようにである。その点について、先に私は『術語集』の「ロゴス中心主義」の項目中で次のように書いたことがある。
《ロゴス中心主義と脱構築というのは、たしかに西欧文化の根幹にかかわる重要な問題である。そして私たちにとっても、明治以後西洋文化をこれだけ取り入れてしまった以上、その問題は決して他人事ではない。けれども、さらにその先に考えるべきは、私たちにとって脱構築の対象とすべきもの、私たち日本人の考え方を根本的に支配するもの、西洋文化での、ロゴス中心主義に当たるものはなにか、ということである。それは何と言っても文化概念としての天皇制であろう》と。
〈ロゴス中心主義〉の脱構築が言語の問題と深く関わるように、〈文化概念としての天皇制〉の脱構築においても、日本語論が大きな位置を占める。また、〈場所〉の問題が言語論と結びつくのは、〈存在根拠としての場所〉の主要な一つが〈言語的トポス〉にほかならないからである。
△ 「現実嵌入型言語」のところで、私は、西欧語は比較的「構文自律的」な傾向を持つのに対して、日本語は比較的「文脈依存的」な傾向を持つと書きました。そこからすれば、ロゴス中心主義は「構文自律的」な西欧語と密接に関わるのに対して、日本語で「場所の支配」が問題になるのは、その「文脈依存的」な性質によると言えるでしょう。
2 場所の論理と日本語の構造
西田幾多郎にあって〈場所〉への接近は、意識(自覚)の働きの根拠づけを、判断の形式に即して論理化するかたちで行なわれた。というのも、〈純粋経験〉における自覚の深まりは、その心理主義的な色彩を払拭しておのれの立場を論理的に基礎づける新しい認識論を要請することになったからである。『働くものから見るものへ』(一九二七年)の後半で打ち立てられた〈場所の論理〉以来、西田幾多郎の哲学は〈西田哲学〉と呼ばれるようになった。
△ 初めて「西田哲学」と呼称したのは左右田喜一郎です。
すなわち、ここに彼は、これまでの正統的な西洋哲学の共通の前提であった主語論理主義の立場から述語論理主義の立場へのコペルニクス的転回を行なうとともに、それを通して、すべての実在を述語的基体つまり無によって根拠づけ、無の場所を有の欠如ではなく無底にして豊かな世界として捉えたのであった。それと同時に、この場所の論理(述語論理)は、明治維新以来西洋文化を大幅に受け入れてきた近代日本人に、新しい展望を開いた。というのも、近代日本人は、西洋的な主語の論理(有の論理)をある程度身につけてきたものの、それだけでは釈然としなかった。そのときに、述語論理(無の論理)は、権利上、主語の論理と同等の資格を持っていることを明らかにしたからである。
△ 西田における述語が繋辞(コプラ)のことであるのか、目的語を含む述語一般のことであるのか、それとも述語の中心的機能を担う動詞のことであるのか、私にはまだ不明確なところがあります。仮に「動詞」であるとすれば、西洋の論理が主語としての「名辞」に基づく「有の論理」であるのに対して、「動詞」に基づく論理は、初めに、生起する事態(たとえば「鳴る」)があり、あとからその原因となるもの(「鐘」)が付け加えられる構造である、と言ってよいでしょう。その場合、「述語」が無であると言われるのは、「鐘」は「何か」として同定されるものであっても、「鳴る」には、聞く者、聞かれる音、そのこと生起している場所と、混然一体、主客未分の趣があって、無限定な拡がりの中で生起しているという面があるからでしょう。日本的な芸術である俳句などは、初めに「名辞」から入ろうとする者には恐らく作れないでしょう。先ず「無」になってその「場」に没入することが求められます。句会で題を課されても、一旦はそれを忘れることが必要になります。「柿くえば鐘がなるなり法隆寺」という句に拡がりと余韻を感じるのは、主語論理的には不分明な「情景」がそこに描かれているからです。「私が食い、私が聞く」などという野暮な表現は見当たりません。
ところで、ここで注目に値するのは、西田の〈場所の論理〉の追究が、期せずして〈日本語の論理〉を明らかにしていたということである。これは、西田自身が直接には日本語についてなんら立ち入って論じていないだけに、いっそう注目に値する。西田の〈場所の論理〉が〈日本語の論理〉を体現していることを私たちに気づかせてくれたのは、すぐれた国語学者、時枝誠記(もとき)の『国語学原論続編』(一九五五年)に要約された日本語文法論である。時枝は、日本の伝統的な言語理論を踏まえつつ、ソシュールの言語理論を批判的に摂取して、日本語を通しての最初の本格的な言語理論をつくり上げた。その核心をなすのは〈言語過程説〉と呼ばれるものである。
そこではまず、時枝理論の前提をなす日本の伝統的な言語論について、簡単に触れておこう。ヨーロッパの言語学では一般的に言語を〈物〉としてみる傾向がつよいが、それに対して日本には古くから〈言〉を〈事〉と同一視する考え方がある。このように言と事とを同一視するとき、言語は働き(作用)、とりわけ〈心の発動〉と見なされる。そして、この〈事としての言語〉の考え方の上に、時枝の〈言語過程説〉が築かれている。
△ 時枝はあとから出てくる「詞」と「辞」の区別について、江戸後期の国学者、漢学者、鈴木朗(朖、あきら)の説によるなど、日本の伝統的な言語論を参照しています。
それは、もっとも端的には〈言語によって人間を取り戻そうとする〉、あるいは〈言語を人間の行為の一つ〉として観察し、すべてを〈言語主体の機能に還元〉しようとする学説とも、時枝自身によって要約されている。そして、ここでなされている〈人間〉や〈言語主体〉についての強調は、構造主義によって批判された〈人間中心主義〉や〈意識主体〉の考え方と結びつくものではない。むしろ反対であり、それは西田の〈行為的自己〉の考え方に結びついている。(念のために述べていけば、行為的自己は、西田において無あるいは場所の自覚へとつながるものなのである。)
時枝誠記の言語過程説のなかで、とくに西田の場所の論理と結びつくのは、言語活動の基礎としての〈場面〉の考え方である。時枝によれば、〈場面〉とは、物理的な場所(空間)と無関係ではないが、場面は空間を充たす内容をも含んでいる。しかも、それは、場所を充たす事物や情景へと《志向する主体の態度、気分、感情をも》含んでいる。だから、《場面は純客体的世界でもなく、又純主体的な志向作用でもなく、いわば主客の融合した世界》である。私たちの具体的な言語体験が見られるのはこの〈場面〉である。
△ 著者が時枝誠記のうちに西田と共通する考え方を見出すのは、先ずは、「行為的自己」(言語過程説)と「場所」(場面)のうちにおいてです。
さらに、この〈場面〉についての考え方は、時枝において、日本の伝統的な言語理論の考え方に基づいて具体化され、ここにおいて言語(文)は、客観的表現つまり〈詞〉と主体的な表現つまり〈辞〉の統一としてとらえられている。すなわち日本語の文では、〈詞〉つまり客観的表現はいつでも〈辞〉つまり主観的表現によって包まれるかたちで、統合されているものと見なされている。
たとえば、山、川、犬、走る、などが前者つまり〈詞〉に属するのはもちろんだが、それらだけでなく、主観的感情を客体化し、概念化したもの、つまり嬉し、悲し、喜ぶ、怒るなども〈詞〉である。本居宣長門下の国語学者鈴木朖(あきら)は、前者を〈物事を指し表はすもの〉、後者を〈それを働かす心の声〉と見なしている。一般にヨーロッパ語では、この詞的表現と辞的表現という両者は、しばしば合体されて一語として表現されているが、それに対して日本語では多くの場合、別々の語として表現されている。
△ ヨーロッパ語では名詞(代名詞)の格変化などにより助辞(particle)を必要としない場合が多いのに対して、逆に日本語では多くの場合それが求められるということに、それぞれの特質が見出されるということでしょう。
こうして日本語の文は、次に図示するような〈入れ子型構造〉をとることになる。すなわち、一般的にいって、インド=ヨーロッパ語では、主語+述語や関係代名詞などによっていわば外側へと開かれたかたちで構築される文が、日本語では入れ子型に内側に包み込まれるのである。たとえば「これが今朝彼女が摘んだ花です」は、それぞれ次のようになるわけだ。
△ 「外側へと開かれる」、「内側に包み込まれる」という彼我の対比は興味深い指摘です。「内」と「外」との日本人の感覚が言語的構造からも解明されるからです。
[[これ]⇒が [[今朝]⇒0 [彼女]⇒が 摘ん]⇒だ] 花]⇒です
[These]+[are]+[the flowers] = [which]+[she]+[picked]+[this morning]
△ 四角で囲まれた部分(詞)を [ ](半角大カッコ)に直してあります。⇒は、辞が詞に添えられていること、「0」は辞が不在であることを意味します。
このような統辞論の基本構造から、一般に日本語の特徴として、次のいくつかのことが言える。
(1)一般に日本語では、文の全体が幾重にも最後に来る辞(主体的表現)によって包まれるから、大なり小なり主観性を帯びた文、感情的な文が常態になる。
△ 最後の「です」は、0であること(いわゆる「体言止め」)、あるいは「だ」、「だよ」、「なんだ」「なのよ」、「よ」、「ね」などと、種々に言い換えることが可能です。
(2)日本語の文では、文は辞によって語る主体とつながるだけでなく、その主体のおかれた状況つまり場面とつながる。だから、聞き手は話し手の置かれた状況(▽)に考慮を払うことがつよく要求される。つまり、場面の拘束が大きい。こうした文と場面との密接な関係から、対人関係の感情にかかわる複雑な敬語法が発達したのである。
△ 話し手が聞き手の置かれた状況に考慮を払うという逆のことも要求されます。つまり聞き手と話し手の関係や、そのときの状況(気分)がそれぞれの「辞」に反映します。
(3)日本語の文は、入れ子型の構造を持っているだけでなく、内側のそれぞれに詞と辞という主客を重層的に含んでいるから、体験的にことばを深めるには適している。しかしその反面、客観的、概念的な観念の世界を構築するのには多くの工夫を要する。
△ 学問的な言い回しと日常的な感覚が遊離しがちなのは、日本語に限ったことではありませんが、日本語の表現が主観的になりがちなのは言葉の構造によります。
(4)日本語の文では、詞と辞の結びつきから組み立てられる構造によって、真の主体は辞のうちにただ働きとして存在している。だから、文法上の形式的な主語は、あまり重要でないことになる。
△ 以上の考察を西田哲学に結びつけるとしたら、西田の言う「述語」が「ソクラテスは人間である」の「である」(繋辞)のことではないかという議論に目を向ける必要が出てきます。しかしその繋辞の理解が、もし日本語の「辞」を無意識に反映するものであるとしたら、「無の場所」とは時には0でもありうる「辞」のことであるということになります。すると西欧語の「繋辞(コプラ)」にとらわれている間は、西田の述語の論理がなぜ「無の場所」と関わってくるのか、明確には理解できないということになるでしょう。「辞」は、「つつむもの」としての「場所」に関わり、それに応じて同じ辞でも、格(体言と用言との意味的関係の在り方…小池清治)の多様な変化を伴うことになります(小池清治については現実嵌入型言語参照)。たとえば、場所や時間に関わる「に」であっても、「公園に桜の木がある」、「六時に駅で会う」、「兄が弟に本を買いに行かせた」、「父にはよく遊んでもらった」、「父に相談する」、「頂上に着いた」、「貧乏に苦しんだ」、「ポスターを壁に貼る」、「佐藤は医者になった」など、その「場所的限定」の仕方は一様ではありません。辞はさまざまな意味的関係(方向性)を持ちます。まさに「一即多」の多様性を持つと言うべきでしょう。しかし主語と述語の関係は、そのまま詞と辞との関係ではないということに、問題のわかりにくさがあったと言うべきことなのかも知れません。著者のこの着眼(西田哲学と時枝文法の類似性)にはさすがのものがあります。ただし時枝の統辞論は必ずしも国語学の主流ではないようです。
3 日本語の基本動詞〈なる〉
右に私は、西田の〈場所の論理〉と密接に結びつくものとして、時枝誠記の日本語論に依拠し、日本語の統辞論の基本構造を見てきた。日本語によるものの捉え方やあらわし方にどのような特徴があるかを示すためである。ところで、このような統辞論の基本構造とも深くかかわり合いながら、日本人のものの捉え方やあらわし方の特徴を言語的に示すものとしての〈なる〉がある。
△ 統辞論(統語論、構文論)が特定言語の特質を解明する鍵であるということは、どうやら間違いがないでしょう。日本語の統辞論の基本構造とも深く関わるものとして、著者は、次に「なる」という動詞に着目します。
私がこの基本動詞の〈なり〉について考え続けてきているのは、なぜかといえば、次のような理由による。すなわち、かつてハイデガーはその実存主義について語った際に、サルトルの〈見る―見られる〉まなざしに照応する冷ややかな〈イリヤ〉という存在の在り様に対して、大地の恵みにのっとった贈与的な、豊かな〈エス=ギープト〉という存在の在り様を対置した。また、それに対して、こんどは、そのハイデガーの〈エス=ギープト〉を批判して、レヴィナスが、彼のいうところの他者性のつよい、非情の〈イリヤ〉を積極的に打ち出した。それらのフランス語およびドイツ語の基本動詞との対比が私の念頭にあったのである。
△ フランス語の辞書には il y a (…がある、…がいる)に続く語句は、その場で初めて話題にされる事物なので、原則として不定冠詞・部分冠詞のついた不特定の名詞句であると書かれています。何かがそこにあるというだけの意味です。非情のイリヤと言われるのも、そのためでしょう。それに対して、ドイツ語の es gibt も同様に何かがある(生じる)という意味ですが、gibt(与える、贈るという意味の geben の三人称単数現在形)には、たしかに贈与の意味があります。
そこで、日本語の〈なり〉であるが、このことばには二つの側面があり、それぞれが次のような性格を持っている。
(A)格助詞の〈に〉に動詞の〈あり〉のついた〈にあり〉の転化した助動詞。そして意味的には、@事物や動作・状態などについて、説明し断定することをあらわす。〈である〉あるいは〈だ〉。A場所などをあらわす語に付いて、そこに存在することをあらわす。(『広辞苑』)
(B)成り・為り・生りなど、時が自然に経過していくうちに、いつの間にか状態・事態が推移し、ある別の状態・事態があらわれ出るときに使われる動詞。そして意味的には、@なにもなかったところに、自然になにかがかたちを成してあらわれる。Aある状態が自然に変化していって、別の状態に至る。B物事が成長発展して、そのものとして完成された形に至る。C事柄が自然に成就すると表現することによって、高貴な人の行為をあらわす。(『岩波古語辞典』)
このように同じく〈なり〉でも、(A)は助動詞であり、(B)は動詞であって、この二つの〈なり〉を簡単には同一視できない。だが、ともに動作と状態にかかわり、また、場所的性格をつよく帯びている。とくに〈ある〉ということばには、これまで隠れていたものがあらわれ出るという意味もあるので、両者を関係づけて論じる。いずれもフランス語の〈avoir lieu〉や英語の〈take place〉のように場所にかかわる事物の生起を指しているのである。
〈場所にかかわる事物の生起〉といえば、現代では日本語の文でも、英語やフランス語のように〈主語+述語〉のかたちをとって、たとえば《彼は、人びとを、食事に招く》という言い方をしないわけではない。というより、英語をはじめとする近代ヨーロッパ語の影響のもとに再編成された今日の日本語では、このような言い方はもっともまっとうだとさえ言えるだろう。
だが、もう少し立ち入ってみると、このような言い方は本来の日本語的な表現だとは言えない。むしろ、たとえば、《彼の、家で、一席、設ける》、あるいは《彼の、家で、宴会が開かれる》という言い方の方が本来の日本語的な表現である。つまり、〈招く主体〉の彼ではなくて、出来事の起きる〈場所〉の方を明示する言い方である。さらに、古い日本語の敬語による言い回しでは、たとえば、《何々天皇におかせられては、何処どこに行幸された》というように、高貴な人の行為は〈主体〉の行為ではなく、場所における出来事として表現されるのである。
したがって、〈なり〉が〈に+あり〉に由来すること、また〈なり〉のうちには〈に+あり〉が潜んでいることを忘れてはならないだろう。そして、(B)つまり生成の〈なり〉を考える場合にも、〈に+あり〉と全く別のものとして考えるべきではない。そのような観点から、生成の〈なり〉について、丸山真男の論文「歴史意識の〈古層〉」を一つの手がかりに、もう少し見てみよう。
△ 日本語の「なり」が助動詞と動詞の二つの意味を持つこと、しかしもともとは「に+あり」が「なり」になったものであることに、著者は注意を喚起します。日本語における「場所の支配」ということを考えるきっかけがここにあるということでしょう。なお丸山真男の「古層」については「国学者の神信仰 その1」を参照して下さい。
丸山は言う。国学者の本居宣長は『古事記伝』(一七九八年)のなかで、〈なる〉という古代語に三つの区別があったことを指摘している。第一は《なかりしものが生り出る》こと、第二は《このものにかわりて他のものになる》こと、第三は、《なすことのなりおわる》こと、である。それらは生・変・成の意味であるが、さらに、化・為・産・実の意味を含んでいる。
ところで、世界の諸神話にある宇宙の創成論には、その発想の根底に、三つの基本動詞が見られる。すなわち〈つくる〉と〈うむ〉と〈なる〉である。その三つを一応区別した上で、それぞれに宇宙創成論を対応させると、(1)人格的な創造者の手になるもの、(2)神々の生殖によるもの、(3)もっぱら内在的な発露によるもの、という三つの型が得られる。これらのうち、両極にあるのは、主体の客体に対する働きかけが明白な(1)と、自生的、自然発生的な(3)であり、両者の間に〈うむ〉という中間的な行為にもとづく(2)が位置する。
というより、神話的な宇宙創成論の中心は、もともと(2)にあったのだが、ある文化では〈つくる〉ことへの傾きが大きいため、〈うむ〉はその方向に引っ張られ、他の文化では〈うむ〉と〈なる〉の間により大きな親和性が働いている。前者の典型は、ユダヤ=キリスト教的な世界創造神話であり、後者の傾向のとくに顕著なのは、〈なる〉の発想の根づよい日本神話である。というのも、八世紀はじめに書かれた『古事記』や『日本書紀』において見られる国生みは、動物的ないわゆる国生みではなくて、むしろ植物的な発生・成長の趣きがあるからである。
△ 宇宙創成論の(1)、すなわちユダヤ=キリスト教的な世界創造神話がいかに強力に、その文化圏に属する人たちに作用しているかは、日本人の想像を絶するものがあります。たとえ日本人であっても、キリスト教徒はなお頑なにそれを信じています。原初的思考のモデルは、後々まで強く影響力を持続させるということなのでしょう。
すなわち、『日本書紀』の本文の冒頭に出現する神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)であるが、その情景は、《天地の中に一物(ひとつのもの)生(な)れり。かたち葦牙(あしかび)の如し。すなはち神と化為(な)る》と書かれている。しかし、〈なる〉としての現実の捉え方がいっそうはっきり出ているのは、十二、三世紀の一連の歴史文学のなかである。そこでは、《昔より成り行く世界を見るに》とか、《吾国の成り行くやう》とか、《世になりまかるさま》などとある。そして、〈なる〉には、やがて仏教思想の受容によって、成長増殖のオプティミズムだけでなく、うつろいの空しさの感覚も込められるようになるのである。
また丸山真男は、日本人の歴史意識の古層にある〈なる〉や〈なりゆく〉の在り様が、〈つぎつぎ〉や〈いきほひ〉という概念と結びついて働くことを明らかにしている。この場合には〈なりゆく〉は、〈つぎつぎ〉の連続的な無窮性によって強化されるとともに、〈いきほひ〉の初発性によってたえずエネルギーが充填されることになるのである。
こうして丸山は言う。《「つぎつぎになりゆくいきほひ」の歴史オプティミズムはどこまでも(生成増殖の)リニアーな継起であって、ここには凡そ究極目標などというものはない。まさにそれゆえに、この歴史の古層は進歩ではなくて、生物学をモデルにした無限の適応性としての進化の表象とは奇妙に相性があるのである。》日本では、明治期にダーウィニズムが入ってくるや、保守、革新を問わず、抵抗なしに受入れられ、蔓延したのもそのためである。
△ 日本人の歴史像の基底に「つぎつぎになりゆくいきおい」という思考のモデルが存在するという丸山の指摘は、未だに強固に「ダーウィニズム」に抵抗するアメリカの保守的なキリスト教などとは違って、目標管理的(戦略的)な思想に弱く、「なりゆき」に任せる日本人の強みと弱みとを明らかにします。
しかしこの場合、古層における歴史像の中核をなすのは、過去でも未来でもなく、〈いま〉である。そして過去は、それ自体無限に遡及(そきゅう)しうる生成であるから、〈いま〉の見地から具体的に位置づけられる。こうして、〈なる〉と〈うむ〉の過程として観念されたものとして、過去は、不断に新たに現在し、したがって、現在は全過去を代表するようになる。
△ 誰にとっても「生きている」とは、「今生きている」ということであって、文字通りの意味で過去を生きることはできません。しかし日本人にとって今が意味を持つのは、何か超越的な過去の契機(たとえば創造の時点、救済の時点など)によるのではなく、連綿と続く歴史の現在としての、現世の今しかないという感覚においてなのでしょう。
この丸山の分析からわれわれは、〈なり〉(B)のうちにひそむ世界と事物の捉え方として、次の諸点を取り出すことができる。
(1)主客の分離および対立が明確な〈つくる〉の立場とちがって、〈なる〉の立場では、主客の同一性や不可分性が主張され、心身についても一元論となるほか、唯物論と唯心論とがしばしば混ざり合う。
(2)〈なる〉の立場では、行為とは内在的な力の発現にほかならないので、自足性がつよい反面、超越の契機が弱く、他者の他者性に対する意識が薄い。また、倫理が美意識から独立せず、美意識によって包まれるので、広義の美的生活を享受するには向いているが、倫理は制度的に媒介された社会性を持ちにくい。
(3)〈なる〉の立場では、成り行きと今が第一義的に考えられるから、新しい現実に順応しやすい反面で、責任の所在が曖昧になりやすい。また、生々流転を自然と見なすこととの近さから、受動的なかたちで進化論的な考え方や弁証法的な考え方が受け入れられる。
(4)〈なる〉の立場では、個別的な世代間の時間的なつながりを持つ〈うむ〉の立場よりも、没時間的な場面あるいは場所の支配がつよい。だから、いっそう個が集団のなかに没しやすい。
以上見てきたことから明らかなように、植物の成長・増殖に起源を持つ〈なる〉の立場は、単なる生成発展ではなくて、基盤あるいは場所への依存度が大きい。また、そこにおける過去や未来に対する〈いま〉の特権化あるいは優越は、西田のいう〈永遠の今〉と明らかに呼応している。
△ ここには「つくる」=人間モデル、「うむ」=動物モデル、「なる」=植物モデルとも言うべき類推が働いているように思われます。日本人の世界観に「うむ」というモデルが不在であるとは言えませんが、どちらかと言えば、「なる」のモデルが優先していて、場所的限定を受けやすいとされています。その類推の当否は別として、日本人の感覚(美学)には、「つくる」あるいは「作為」に対する忌避感があり、「つくろわない」で、無為自然、自然法爾(じねんほうに)に生きることを、望ましいと考えるようなところがある、とは言えるでしょう。「つくりもの」はにせものを意味しています。
4 〈エス=ギープト〉および〈イリヤ〉との対比で
このように日本語の〈なり〉は、西田哲学の〈場所〉や〈永遠の今〉の重視と密接な関係を持っている。では、その〈なり〉をハイデガーのいうドイツ語の〈エス=ギープト〉やレヴィナスのいうフランス語の〈イリヤ〉と比べるとき、なにが明らかになるだろうか。
ハイデガーがその『ヒューマニズムを超えて』(一九四九年)のなかで、サルトルの『実存主義はヒューマニズムなり』(一九四七年)にふれて、自己の用語としての〈エス=ギープト〉とサルトルの〈イリヤ〉とのちがいを強調したことはよく知られている。
すなわち、ハイデガーは言う。サルトルは《われわれは、まさしく人間だけが存在しているような或る地平にいる》と言っているが、私はむしろ《われわれは、まさしく原則的に存在があるような或る地平にいる》と言いたい。では、その地平とはなにか。地平とは存在そのものにほかならない。
こうして彼はことばをつづける。《『存在と時間』では、わざとそして慎重に、存在〈がある〉(il y a l’Etre: es gibt das Sein)と述べられている。この〈がある〉〈il y a〉は“es gibt”を正確に翻訳してはいない。というのも、ここで〈与える〉ところの〈それ〉は、存在そのものであるからだ。しかし〈与える〉とは、与えながら、その真理を保証する存在の本質を言うのである。この存在の本質それ自体でもって開かれたもののなかへ自己贈与するのが存在そのものなのである。》
つまり、ハイデガーの〈エス=ギープト〉は徹底的に自己贈与であり、それはまさに存在の豊かさを含意している。それに対して、レヴィナスの〈イリヤ〉はまったく反対に、不毛性と恐怖を表わしている。彼は〈イリヤ〉の非人称性を強調する。それは無でもなければ存在でもない。むしろ〈遍き不在〉なのである。レヴィナスは『時間と他者』のなかで、彼のいう〈イリヤ〉とはなにか、それはわれわれになにを突きつけるかを、次のように書いている。
《あらゆる事物、存在、人間の無への回帰ということを想像してみよう。われわれは純粋な無に出会うだろうか。このようにあらゆるものを想像上でこわした後に残るのは、なにか或るものではなくて、イリヤという事実である。》《事物と存在とのこの破壊のあとには、非人称的な〈実存すること〉の磁場があるのだ。》
このようなレヴィナスの観点からすれば、ハイデガーは、他者を集団性、連帯性のうちに〈相互共同存在〉として見出している。しかし、他者をそのように認識するならば、他者との一体化、他者との同化を経て、全体性に融合し、ひいては他者の消滅をもたらすだろう。つまりそれは、他者絶滅の哲学であり、暴力の哲学である。
こうしてレヴィナスは言う。《他者はハイデガーでは、相互共同存在、互いに共にある存在、という本質的な状況のうちにあらわれる。ここで、共にという前置詞は、関係をあらわしている。》しかしそれは、関係であっても、隣り合わせの関係であって、向かい合いの関係ではない。《われわれとしては、他者との根源的な関係は〈共に〉という前置詞によって表わされるべきではない、ということを明らかにしたいと思っている。》
△ 「共に」という言葉は安易に使われがちですが、よく考えれば、他者と自己との間には亀裂があります。人間は相互共同存在であって、しかも共同してはいません。つながりつつ、引き裂かれているのが、人間というものでしょう。特に現代人は牧歌的な共同性のうちに生きているのではなく、他者から乖離した孤絶した自己に直面しています。「共に」という言葉の裏にあるものを、レヴィナスは凝視しています。
さて、ここにレヴィナスによって主張されたような他者との絶対的な断絶の思想は、すぐれてヘブライ的な思想である。先に私は、世界の諸神話にある宇宙創成論には、その発想の基底に(1)〈つくる〉と(2)〈うむ〉と(3)〈なる〉という三つの基本動詞が見られる、と言った。これら三つのうちで、(1)の〈つくる〉においてつくるものとつくられるものとの断絶がいちばんきびしい。それに比べると、(2)の〈うむ〉は、母と子の関係や母なる大地ということばが端的に示すように、贈与的であり豊穣であって、融和的である。
△ レヴィナスはユダヤ人だから、その思想がヘブライ的であるということはその通りでしょう。しかし事柄は三つの基本動詞という類型論では片づかない面があるのではないでしょうか。しかし著者はその観点から論を進めます。
この〈つくる〉と〈うむ〉の二つは、それだけ考えると、たしかに対立しているが、いずれも他動詞として行為の主体と対象を持っている点では共通している。そして、この(1)の〈つくる〉がレヴィナス的な〈イリヤ〉に対応しているのに対して、(2)の〈うむ〉に対応するものはなにか。
ハイデガーの〈エス=ギープト〉とは、彼自身の規定によれば〈与える〉こと、それも〈自己贈与〉である。この〈自己贈与〉の強調によって、彼のいう〈エス=ギープト〉は一見〈うむ〉とちがうようにみえる。しかし、〈うむ〉こと自体が母性的な無償の行為であり、生むものと生み出されるものとの一体性がつよい。それに、もともとエスとはフロイトとラカンのエスも示しているように、母性性が顕著である。さらに、先に見たように、レヴィナスも、ハイデガーの他者を目して《全体性に融合し、そのうちに解消する》ものだと言っている。それゆえ、(2)の〈うむ〉に対応するのは大局的にはハイデガーの〈エス=ギープト〉であると言っていいだろう。
では、(3)の〈なる〉に対応するものはなにか、といえば、まさに日本語の〈なる〉である。(3)の〈なる〉の思考方法の特色は、すでに見たように、主客の同一性や不可分性が〈うむ〉以上につよく、いっそう内在的かつ自足的で、変化する歴史よりも〈永遠の今〉が重い意味を持ち、行為は内在的な力の発現であるとされることにある。つまり、〈エス=ギープト〉の豊穣な自己贈与性よりもさらに自然的であり、アニミスティックである。そして、そのような〈なる〉を体現する思想は、哲学的には超越の契機を欠き、倫理的には責任の所在が曖昧で、制度を媒介にした社会性を持ちにくい。
△ 著者はここで日本語の「なる」に注目し、先ずその弱点を指摘します。
その意味で、〈なる〉(に+あり)の思想は、西欧の伝統的な哲学の観念からすれば、ハイデガー的な〈エス=ギープト〉以上に〈反形而上学的〉、いわゆる〈反哲学的〉であることになる。そしてそれは、今日、二つの点で哲学に対して貢献しうるものを持っているものと思われる。一つは、この原初的な〈なる〉にも一つの論理があることによって、西欧の伝統的な〈哲学の知〉を相対化することができるからである。もう一つは、この立場の論理的徹底が、主語と反対の極にある述語の検討をもたらし、主体の論理と反対の極に、西田の〈場所の論理〉を生み出し、さらに〈述語的世界〉という問題領域についての考察を要請するからである。
(なお、私は自分の現在の理論上のもっとも中心的な仕事として、連作「述語的世界と制度」を一九九四年以来、毎年、雑誌『思想』に掲載している。)
△ 「なる」論理の現実の姿ではなく、その可能性を探究するという意味では、「神なき」時代の哲学にとって、それが、一つの重要な意味を持つであろうことは疑いの余地がありません。なお、私はこれまで「ある、もつ、なす、なる」を四つの基本動詞として考えてきました。ある(being)、もつ(having)、なす(doing)、なる(becoming)は、いわば生きることの四つの相であって、そこに人間の生があります。しかしその具体相を詳しく検討していくことは、これからの仕事(宿題)として残されています。よく生きることが可能であるのは、この四つの基本動詞の具体的な掘り下げにかかっているのではないかと思いますが、それは個々人によって異なる課題となるでしょう。その変数は多様であって、一様の解決はありません。しかし、共通の危機的状況の中で、一致する課題も見出されてくるでしょう。いわば「ある、もつ」の共時的性質と、「なす、なる」の通時的性質の組み合わせによって、人間の生の現実が規定されています。しかし「つくる、うむ、なる」の三つの基本動詞とは違った意味で、そこからも考える手がかりが得られるのではないかと、今はまだ漠と考えているに過ぎません。
5 日本文化の深層と〈永遠の今〉
ところで、西田において〈場所の論理〉の展開として一九三〇年代はじめに出てくる概念で、〈日本文化〉のつまりは〈天皇制〉の深層と深くかかわるのは、〈永遠の今〉と〈絶対矛盾的自己同一〉である。『働くものから見るものへ』において、西田は、独自の〈場所の論理〉をうち立てたのち、その〈場所〉を、絶対無の自己限定として否定的に転換させ、発展させた。ここに書かれたのが、論文「私の絶対無の自己限定といふもの」であった。そしてそこでは、絶対無は自覚の根源をなす非対象的な意識であるとされ、〈永遠の今〉とも言い換えられている。
また、「永遠の今の自己限定」(一九三一年)において西田は、場所的弁証法の立場から、〈永遠の今〉の意味するところを明らかにするとともに、永遠の今の考え方によって、ヘーゲル的な過程的な弁証法がどのように超えられていくかを、次のように述べている。すなわち、永遠の今とは、絶対無の自覚的限定であり、そのようなものとして、どこでも始まり、瞬間ごとに新たに、いつでも無限の過去、無限の未来を現在の一点に引き寄せることができる。時間とは永遠の今の自己限定にほかならない、と。
西田の愛弟子で批判者の三木清も「西田哲学の性格について」において、後期西田哲学における〈永遠の今〉の概念を重視し、《西田哲学は現在が現在を限定する永遠の今の自己限定の立場から考へられてをり、そのために実践的な時間性の立場、従って過程的弁証法の意味が弱められてはゐはしないかと思ふ》と言っている。
△ 「永遠の今の自己限定」は、「ある」ということをぎりぎりまで問いつめたとき、そこに開示される自覚の構造であるとも言えます。「ある」は無の基底において、無の自己限定として、個々に「ある」のであって、過程的にAからBが生じるという「論理」によっては、今「ある」ことを説明することはできません。ハイデガー的に言えば、今ここにあるのは「存在の自己贈与」であるとしか言えない側面があります。「ある」ことの根拠を問いつめたとき、理由なしに「ある」としか言えないからこそ、「無」が語り出されてくるのでしょう。対象的にAがBになるという形では捉えられない「存在」の測りがたさから、「無の自覚的限定」(としての今あること)という表現が生まれてきます。言い換えれば、それは、「永遠の今の自己限定」ということになります。しかし今私がここにいるということは、過程的対象的には、私は誰某の子として生まれ、かくかくしかじかの経歴を踏んでここにこのようにしてあるとしか言えません。だから「実践的時間性の立場」から、西田哲学は宙に浮いているように思われても致し方がない側面があります。
他方、西田において、〈場所の論理〉の場所あるいは無は絶対化されるだけでなく、さらにそれは〈まず弁証法的一般者〉として捉えなおされる。この弁証法的一般者というのは、容易に想像できるように、マルクスからの刺激を受けて考え出された概念であり、西田自身によって、次のように言われている。
すなわち、ふつうわれわれ一人ひとりは、それぞれの独立した内面世界を持ちつつ、外面的世界を通して相交わるものと考えられている。しかし、個物は環境のうちで、環境に限定されてはじめて存在するのであり、また逆に、環境も個物によって限定されて存在するのである。いいかえれば、私と汝とは同一の環境たる一般者によって限定されていることになる、と。この場合、一般者が弁証法的一般者と呼ばれたのは、それが媒介的な働き、相反するものを総合する働きを持たねばならなかったからである。
△ 西田は弟子たちの左傾化(代表格は戸坂潤)に直面し、彼らとの「対論」によって、マルクス主義的な言説から「刺激」を受けます。それが西田の弁証法理解に影響したことは否めません。単に形而上学的ではすまされない現実的課題を抱え込んでいたと言えます。しかしあくまでも自己の論理展開を貫こうとしたところに、その思想的葛藤がありました。一般者(場所)は「環境」という具体性を帯びたものとして把握されることになりますが、資本主義社会の現実にそれ以上踏み込むことはなかったと言うべきでしょう。
さて、この〈弁証法的一般者〉から〈行為的直観〉を経て出てくるのが、〈絶対矛盾的自己同一〉という概念である。この〈絶対矛盾的自己同一〉であるが、これも、次のような弁証法の考え方を基礎としている。すなわち、いわゆる判断論理つまり形式論理の立場からは弁証法というものは考えられない。そこでは思惟はどこまでも連続的であって、思惟のそとに出ることができないからである。ところが、弁証法の見地に立てば、自己意識におけるわれわれの自己の自己同一は、対象と作用という相反するものの自己同一、つまり矛盾的自己同一だということになる。
そして、われわれの生きること自体が、自己矛盾を含んでいる。したがって、われわれは、自己自身の根底において絶対の矛盾に出会うことになる。この絶対には、われわれは近づくことはおろか、向かうことさえもできない。しかしながら、単なる超越的なものは絶対ではない。《絶対は我々がそれに於てあるもの、否世界がそれによって成立するものでなければならない。それは絶対の無なると共にすべてがそれによって成立するもの、私の所謂絶対矛盾的自己同一といふものでなければならない。》(「歴史的世界に於ての個の立場」一九三八年)
△ 西田が「絶対の無」と言うとき、西洋の神観に対峙しつつ、それを無として捉え返すという形而上学的思弁が働いています。だからこそ「世界がそれによって成立するもの」と言われもします。しかしそこには、神ならびに自己を矛盾的自己同一(contradictory identity)として捉える鋭さと、現実から観念的世界に飛翔する危うさとが同居しています。絶対は相対に対するとき絶対ではない、ゆえに神は絶対矛盾的自己同一的であるというのは、一個の思弁であって、それ以上のものではありません(「Here I am.」参照)。
こうして西田は、絶対矛盾的自己同一の論理が対象とする具体的実在界を〈歴史的世界〉と呼び、論文「国家理由の問題」において、ヘーゲルの国家観を〈個物否定の全体主義的立場〉に囚われたものとして退け、自己の〈一即多、多即一〉の立場を打ち出した。と同時に彼は、『日本文化の問題』を書いて、ほかならぬ天皇制を矛盾的自己同一の論理によって基礎づけようとした。
そこにおいて、彼は次のように述べている。すなわち、何千年来皇室を中心に発展してきたわが国の文化のあとを顧みると、まさに《全体的一と個別的多との矛盾的自己同一》をよく体現している。全体的一としての歴史に主体はいろいろと変わった。古代の蘇我氏、藤原氏、それから鎌倉幕府、足利幕府、徳川幕府と次々に変わった。しかし《皇室は此等の主体的なるものを超越して、全体的一と個別的多との矛盾的自己同一として自己自身を限定する位置にあった。》わが国の歴史では、《皇室は何処までも無の有であった、矛盾的自己同一であった。》そして、このような皇室を中心とした日本文化の特色は、《主体から環境へと云ふ方向に於て、何処までも自己自身を否定して物となる、物となって行ふことにある。》
このように西田は、〈絶対矛盾的自己同一〉の論理にもとづく〈絶対無〉の顕現を日本の皇室のうちに見た。西田はその絶対無を超越的であるとともに内在的であるとしたが、しかし、そのような性格が相対的、対象的な現実とどのように関わるかを明確にとらえていなかった。そのために、皇室という到底、厳密な意味では絶対無ではありえないものを〈絶対無〉と見なすことになったのである。つまり、西田の指摘は、カテゴリー・ミステーク、あるいは少なくともきわめて一面的な断定になったのである。
△ 西田がこの論文を執筆した当時、京都学派は軍部からマークされていました。従って西田の「カテゴリー・ミステーク」が、ある圧力のもとでなされたという事実を否定することはできません。しかし「場所の論理」が、そのような適用を可能にしたということは争えない事実です。哲学的思弁と歴史的現実との乖離あるいはその上での癒着が、戦前の緊迫した状況で無残に露呈した事件として、この論文は「反面教師」とされるべきものでしょう。戦前、一部のキリスト教徒が特高から「天皇陛下とキリストとどちらが偉いか」と質問されたという逸話は、「カテゴリー・ミステーク」の最たるものです。それは思考のショート(短絡)と言うべきもので、今後決してあってはならないことです。
6 形式的純粋化と〈歴史の終わり〉
〈文化概念としての天皇制〉あるいは〈日本文化の深層の仕組み〉との関係でいえば、西田の概念のなかでより普遍性があり説得力があるのは、〈絶対矛盾的自己同一〉よりもむしろ〈永遠の今〉の方である。これは、〈なり〉の論理の一つの重要な表われであるだけではない。その上、形式的な純粋化ということを通して、先に言及した三島由紀夫のいう〈コピー即オリジナル〉論にも、上山春平の律令制の捉えなおしによるすぐれた天皇制論にも、さらに、A・コジェーヴの示唆的な〈日本論〉にもつながるからである。
三島の〈コピー即オリジナル〉論とは、次のようなものであった。すなわち、伊勢神宮では〈式年造営〉の行事にしたがって、その社は二十年ごとに新築されるから、素材は二十年ごとに新しいものに代わるが、形は原型を保っている。つまりそれはコピーでありながらオリジナルである、というわけだ。天皇自身についても、各代の天皇は皇祖天照大神の単なる子孫(コピー)ではなく、彼ら自体が直接皇祖を体現しており、その意味で各代の天皇(コピー)がそのままオリジナルである、ということになるのである。
他方、西田のいう〈永遠の今〉とは、彼によれば、絶対無の自覚的限定であり、そのようなものとして、それはどこでも始まり、瞬間ごとに新たに、いつでも無限の過去、無限の未来を現在の一点に引き寄せることができる。したがって、伊勢神宮の〈式年造営〉において二十年ごとに造られる社の建物は、永遠の今を表わしているのである。また個々の天皇の場合も、歴史を超え直接皇祖とつながることによって、永遠の今を表わすのである。
△ この説明は前に紹介した別の論文にも出てきました。著者も確認していた通り、「永遠の今」とは「絶対無の場所」であって、無にして有の根源である「神」の位置に置かれた西田特有の概念です。従ってそれは神宮や天皇という「有」に限定されるものではなく、万有が永遠の今の自己限定として現象(顕現)しています。しかし西田自身がそのような「カテゴリー・ミステーク」を行なったという意味では、著者の類推にも一理あります。そして天皇は特に明治以降「現人神」として崇められた歴史を持ちます。
次に、日本における〈律令制〉と天皇制との関係であるが、歴史哲学者の上山春平は述べている。律令制はたしかに中国からもたらされたものであるが、日本に受容されてまったく変容し、形式化して天皇制と一体化するに至った、と。すなわち、律令制は、通説では、中国から受容されてきわめて限られた時期に〈律令制〉時代をつくり出したと考えられている。そしてその場合、律令制とは、《律令および格式その他の法に基づき公地公民制を基盤とする中央集権国家体制》、つまりそれは、中国風の律と令を中軸とする法体系を持ち、法体系にもとづく公地公民制があり、その上に中央集権的な国家機構が成り立っているものになる。そのような考え方によれば、狭義の〈律令制〉は、七世紀半ばから形成されはじめ、八世紀の初頭に一応完成し、十四世紀ごろまで続いたことになる。
だが、天皇制との関係ではるかに意味深いのは、広義の〈律令制〉の方であり、この観点に立つとき、律令制の存続期間は十九世紀後半の明治維新までつづくと見なされる。つまり、《八世紀の初頭につくられた律令が、ほぼ原型のまま国家法として存続し、律老にもとづく国家機関が、著しくその機能を縮小しながらも、形式上は原型に近い形で存続し、その機関の原点には、律令君主としての天皇が、一貫してその地位を世襲してきたのであった。》
なお、一見、瑣末なようにみえるが、広義の律令制が極端に形式化して、根強く存続していた証拠として、興味深い話がある。それは、幕府の支配下にあった全国の大名たちが、それぞれの家格に応じて、律令の官位令にもとづく官位と、それに相当する律令的官職を与えられていたことである。また、江戸場内の公式の場では、相互に官職名で呼び合う慣わしになっており、また、参勤交代の道中などでも、宿屋の本陣には律令官職名を表示していた。だから、江戸時代の大名たちが、正式の肖像画を描かせるときにも、衣冠束帯の律令官人の姿を描かせるということにもなったのである。
このような形式化された〈律令制〉の在り様にも、〈永遠の今〉の考え方があると言えるだろう。
△ 日本文化の特質として「形式の永続性」と言うべきものがあるという点では、律令制をその好例として挙げることができます。しかしそれは必ずしも「永遠の今」に結びつけて論ずべきことではないでしょう。遺制が遺制であるに留まらず、なぜ永く存続するものとなるのか、天皇制はなぜ日本人にとって永続的価値を有するのかという点に関しては、「永遠の今」という視点からではなく、何か別の見方から考察すべきことのように思われます。しかし「形式化」に日本文化の特質があるという指摘は重要です。
他方、コジェーヴの〈日本論〉というのは、彼が『ヘーゲル読解入門』(一九四七、一九六二年)の第二版の注として書いたものである。コジェーヴはヘーゲルの『精神現象学』についての第十二回講義のなかで、人間的な歴史と時間をそれぞれ非時間的な自然と空間とに対比し、《時間である人間はまた空間的自然のうちで消滅する。なぜなら、この自然は時間の後にも存続するからである》と述べた。右の注は、第二版の際にその個所に付けられたものである。
この第二版の注で彼は述べている。第一版の注で自分が書いたことには、かなり曖昧な点があった。それを訂正すると次のようになる。〈歴史の終末〉においては人間はただ動物として生きつづけるのだから、〈芸術・恋愛・遊びなど〉がそのまま存続するとは言えない。そのとき、芸術・恋愛・遊びなどもまた、動物のように自然的なものにならざるを得ないだろう。と自分は第一版の注で書いた。そう書いたときには、人間の動物状態への回帰は、まだ現実の問題としては考えられなかった。ところが、その後すぐ(一九四八年)に、自分は、ヘーゲル=マルクス的な意味での歴史の終末が現実に訪れていることに気がついた。それは、ロシアのソヴィエト化、中国の共産化の現状を知ったこと、および、アメリカの発展が〈階級なき社会〉をほとんど実現したこと、による。
自分は、一九四八年と五八年との間にアメリカとソ連を幾度か旅行して、ロシア人と中国人はまだ貧乏だが急速に豊かになりつつあるアメリカ人であるように思った(▽)。つまり、アメリカ的な生活様式が〈ポスト歴史〉時代にふさわしい生活様式である、と考えるようになった。ところが、その後(一九五九年)こんどは《日本に旅行してみて、その点についての考えが一変したのである。》
△ この文には脱落があるように思われます。「階級なき社会を実現しつつあるのは(急速に豊かになりつつあるアメリカ人である)」と読むべきでしょう。しかしそれは一時の幻想であったことが、今や明らかになりつつあります。
こうしてコジェーヴは言う。
日本で自分が見たのは、比類のない社会であった。《日本は、三百年来、〈歴史の終末〉の時代、つまり内乱も対外戦争もない時代における生活を経験しなければならなかった唯一の社会である。》日本の貴族(公家・武士)たちは生命を賭するのをやめたが、さればといって、労働するようになったわけでもなく、それでいてその生き方は決して動物的ではなかった。〈ポスト歴史〉的な日本文明が辿ったのは、〈アメリカ的な道〉とは正反対の道であった。
《なるほど日本には、〈ヨーロッパ的な〉あるいは〈歴史的な〉意味での宗教も道徳も政治も、存在していなかった。しかし、そこでは、純粋状態の〈スノビズム〉が〈自然的〉あるいは〈動物的〉な所与を否定する諸々の規律を創り出した。》これらの規律は有効性の点で、〈歴史的な〉行動から生まれた規律や強いられた労働から生まれた規律よりもはるかにすぐれている。だから、《近代になって始まった日本と西洋との交流は、結局のところ、日本人がふたたび野蛮化するのではなく、(ロシア人も含めて)西洋人の〈日本化〉をもたらすであろう。》
ところで、《どんな動物もスノッブではありえないから、〈日本化された〉ポスト歴史時代は、すべて独特に人間的であることになろう。》およそ人間的であるためには、人間はなんらかの意味で、主体として客体に対立し続けなければならない。つまり、〈ポスト歴史時代〉の人間は、与えられたものについて、〈内容〉から自由になり、〈形式〉をその内容から引き離す作業を続けなければならない、ということだ。自己を純粋な形式と化することによって、おのれのすべての内容に対立させなければならないのだ、と。
コジェーヴの日本論は、今から三十七年前のものである。その後にソ連社会主義の倒壊などの大事件があったから、問題の前提が大きく変わった。しかしそれでも、そこには、今日なおいろいろと刺激的な論点が含まれている。そしてたしかに、日本社会が手放しに過大評価されているところなどは、そのままに受け取りがたい。しかし、そうはいっても、そこには、多くの重要な問題が投げかけられている。とくに私にとって注目したいのは、〈純粋状態のスノビズム〉という日本文化の特色の捉え方である。
〈純粋状態のスノビズム〉を彼がどういう意味で言ったかは、なんら説明されていないので、詳しいことはわからない。それを私は、《積極的に〈流行に敏感だが流行に巻き込まれない態度〉を示すもの》と解するのがいいのではないかと思っている。コジェーヴの主張の力点はなによりも、〈形式〉の純粋化および〈内容〉から自由になった〈形式化の徹底〉ということにあるからである。
△ 芭蕉の「不易流行」のように、著者は、流行を追いつつ基本的には変わらない形式に着目しているのでしょう。しかし「純粋状態のスノビズム」を、「超越的契機を欠いた現世主義」としてみたらどうでしょうか。ヨーロッパ人が考えるような「神」がいなくても、もちろん人間が動物化するわけではありません。特に徳川三百年の鎖国の体制は日本人の性格形成に大きな影響を及ぼしました。「純粋状態のスノビズム」はそこに胚胎したということができます。規律は、その状態で、益々形式化することになったと言えるのではないでしょうか。内容を離れて形式に帰結する江戸時代の日本人の生き方は、今日の日本人の生き方に影響を及ぼしています。コジェーヴはそのことに気づいたのでしょう。
このコジェーヴの日本論については、厳密にいえば資料その他の問題があるだろう。しかしそれでも、日本文化の根本的な特徴として〈形式〉の純粋化および〈内容〉から自由になった〈形式化の徹底〉を見たこと、それを彼のいう〈ポスト歴史〉時代のあり方と結びつけたことは、きわめて示差的であった。彼はとくに〈文化概念としての天皇制〉を意識していたわけではなかった。しかし彼の日本論は、明らかに、〈律令制〉の形式化としての〈天皇制〉の問題とはもちろん、西田の言った〈永遠の今〉の問題とも結びついている。彼のいう〈歴史の終末〉とは〈歴史の非歴史化〉つまりは一種の〈永遠の今〉にほかならないからである。
△ 「歴史の終末」とは、革命や根本的な変化を知らない、持続する体制を意味しているのであれば、「天皇制」はまさに歴史の否定であると言えます。しかしその「形式」にいつまで日本人は安住していることができるのでしょうか。太平洋戦争の悲惨な敗北によっても失われなかった日本の「国体」に、日本人は最後までしがみつき、外国人からどのように見られようと、それを排外的に主張し続けていくのでしょうか。そうなると最早それは単なる「形式」ではないという気がしてきます。
7 帰属と排除に触れて
以上のように、日本文化の深層構造を〈場所の論理〉および日本語とのかかわりでとらえるとき、その顕著な特色として、次の諸点を挙げることができる。
一、統辞論から見た場合、〈詞〉が〈辞〉によって包まれる構造を持つ日本語では、感情的な文が常態になるとともに、人間関係が密接で場面や場所による拘束がつよい。したがって日本語は、体験的に思索を深めるには適している反面、日本語の世界では主体が顕在化しないし、観念と経験との分裂が起こりやすい。
△ 「観念と経験との分裂が起こりやすい」というのは、経験は経験であって、観念的な表現はそれとは別物と考えられやすいということでしょう。いわゆる「建て前と本音」が分かれてしまいがちなのは、日本語の構造によるところが大きいということになります。鳩山由紀夫首相の「友愛」が宙に浮いた言葉のように受け取られてしまうのも、そのためであると言えるかも知れません。
二、フランス語の〈イリヤ〉、ドイツ語の〈エス=ギープト〉との対比でいえば、日本語の〈なり〉は、場所的な〈に+あり〉を背景に持ち、〈イリヤ〉に比べてはもちろん、〈エス=ギープト〉に比べても主客の同一性がつよい。また日本語の世界では、いつでも〈今〉が第一義的に考えられるから、新しい現実に容易に順応できる反面、過去と未来につながる責任の所在が曖昧になりやすい。
△ 西田幾多郎は「我、花を見る、このとき花は我、我は花である」と言いました。このような表現は、主体の意識が明確な西洋人にはおそらく容易には理解されないでしょう。花はこれ花、我はこれ我であって、どこにも共通点がありません。
三、基本動詞〈なり〉、つまりは〈に+あり〉によって表現される日本の知は、自我へのこだわりが少なく、容易におのれを空しくすることができる。そのようなものとして、人間の知の基本的なあり方の一つをなしているだけでなく、西洋の伝統的な〈哲学の知〉を相対化する働きを持っている。
△ 西洋的でないからと言って、「日本の知」が全く考慮に値しないということではないと、著者は西洋的な「哲学の知」を相対化する柔軟さを持っています。
四、日本文化は、いろいろな分野を通じて形式の純粋化および形式化の徹底によって成り立っており、またそれらによって支えられている。そういうものとして日本文化は、たえずこの〈今〉という立場に立ちながら、歴史を超えた持続性を持つことができた。
△ 日本の稽古事は、先ず「型」(形)から入ります。著者は「形式化」と「今」とを結びつけて論じますが、両者は一応別のことだと考えるべきでしょう。しかし形式の持続性が、今の繰り返しであるとすれば、そこには祭儀が反覆されるのと同じような、「今」の顕現があると言うこともできます。神話は祭儀において、祭儀が執り行われるその都度、現在の出来事となる(エリアーデ)という意味で、形式の伝承に文化的生命があるとみなすことができるからです。しかしそれは日本の文化に限定されません。
そこで最後に、これらの諸点と密接に結びつくこととして、日本の社会あるいは日本人の対人関係における〈帰属〉と(排除)の問題に触れておこう。そこにおいて、〈文化概念としての天皇制〉の見えにくい働きがあらわになるはずである。
〈に+あり〉の原理に貫かれた日本人の人間関係において、帰属が並々ならぬ意味を持つのはもちろんであるが、その中心をなすのは共同体に対する個人の帰属である。その際、日本語という言語的共同体や日本語を使うという言語的アイデンティティは、日常の言語使用を通じて、その帰属を確認し、強化せずにはおかない。
共同体に対する個人の帰属の前提としてあるのは、日本の場合、国土が四方海に囲まれ、そこにほぼ共通の言語を持った民族が多数棲み、永い歴史のうちに、単一の文化圏を形づくってきたということである。古くまで遡ったり、細かく見たりすれば、民族的にも言語的にも海外との往来や混淆があったとしても、それでも、まわりの海によって国家的な同一性や文化的同一性が守られてきたということの意味は大きい。というのも、まわりの海によって自然的に〈区切られた場所〉がもたらされたからである。
このような地理的・歴史的な条件に加えて、日本では、政治的・社会的にも一種の君主制である〈天皇制〉が古代以来維持されてきた。天皇制が国家的同一性と文化的同一性によって守られるとともに、逆にそれらを強化する働きをし、同一性・統一性を内面化することになった。日本において天皇制が単なる政治制度ではなく、文化概念の性格をつよく帯びているのも、このような事情によるのである。天皇制はしばしば〈主体なき権力〉あるいは〈空虚な中心〉と呼ばれることがあるが、その同じ在り様を、いっそう適切には〈場所的権力〉と呼ぶべきであろう。
△ ここでの指摘も、既に紹介した別の論文でなされています。
他方、帰属と表裏をなす〈排除〉についていえば、排除において一般に、場所はいっそうその隠された性格をあらわにする。というのも、場所はおのずとそれに帰属する者と帰属しない者と分かつからである。前者に対しては内部にある者として多くの恩恵を与える(▽)が、後者に対しては、外部にあるよそ者、場違いな者、存在するに値しない者として、冷ややかに扱うからである。
△ いわゆる「身内意識」のことですが、地域によっては都会から転勤などで越してきた者を「旅人」扱いするところが、まだあるのではないかと思われます。
この場合、場所に帰属しない者というのは、場所の内部における支配的な者への反抗者や敵対者のことではない。場所の内部にあるかぎり、どんな反抗者も敵対者も、支配的な相手と共通の前提を持ち、そのかぎり、相手を根本的に脅かすことはない。そこでの争いや勝負には共通のルールがあるからだ。場所の外部に追いやられるのは、そのルールを認めない者たちである。
△ この場合の、帰属の内部における争いとは自民党における派閥間の抗争のようなものでしょう。共産党や社民党(すらも)がしばしば外部扱いされるのは、共通のルールからはみ出している部分があるからだと思われます。そうすると「共通のルール」というのは、政治的にだけでなく、経済的にも、「保守的」(つまり支配者に都合がよいもの)であるということになります。これまでの日本は、政・財界の指導者にとって都合がよいルールによって取り仕切られてきたと言えるのではないでしょうか。
しかもその排除の際に、ルールを認めない者たち、否定する者たちがもともと存在しなかったかのように、振舞われる。彼らを意識しないでいられることが場所の勝利なのであり、場所の勝利こそ、場所の内部で行なわれる相対立するものたちのあらゆる争いや勝負に先立つのである。場所の勝利が沈黙のうちに、なにもなかったかのように行なわれることは、ある場所に帰属しない者たちは、その場所内ではことばとともに存在を失わせられることを意味している。
△ 日本には「少数民族」は存在しないという政治家の発言が、北海道のアイヌの人たちによって批判されたことが思い出されます。
日本の社会においては、支配的な価値への帰属や従属は、あからさまにではなくソフトに要求される。誰か特定の人間によってはっきり命令されるのではなく、《みんながそうするから、そうした方がいい》というような仕方である。先に私は天皇制について〈場所的権力〉という性格づけを行なったが、それはさらにいえば、場所的な帰属を要求する権力、反対する者たちを一定の場所(この場合には社会そのもの)から排除するような権力のことである。だから、支配的な価値への帰属や従属はソフトな仕方で行なわれても、その反面において、天皇制にかかわる支配的価値に対して根本的な批判でも行なうと、なんと、《そういう人間は、日本から出て行ってほしい》などと明言する者までが出てくるのである。
△ マルクーゼの言う「抑圧的寛容」は、この日本では天皇制の問題として現われていると言うことができるでしょう。しかし「抑圧的寛容」ということに限って言えば、それは日本だけに見られることではありません。
むろん、今日の日本は、〈場所の支配〉のうちに安住することはできない。場所の支配は、たしかに過去においては、日本の社会と文化のアイデンティティを確立し、維持するのにきわめて有効であった。とはいえ、諸外国やその文化という他者との間で開かれた対話を行なう上で、つまりは真の自立を達成する上で、大きな障害になるからである。そして、その場所の支配がどのような構造を持ったものであるかを、明確に認識することなしには、場所の過剰な支配から脱し得ないであろう。だからこそ、ここでは、根本的な問題に立ち返って、日本における場所の支配の在り様を明らかにしようとしたのである。
△ 若い頃、私は研修のために、インドに二、三ヶ月滞在し、自分の視野にアジアが全く欠落していたということを痛感したことがあります。それ以来、日本と「教会」を開くということが私の問題意識に入り込んできました。大したことは何もできませんでしたが、ここで著者が指摘していることは、まさにその通りだと共感します。我々、日本人が「内なる天皇制」を剔抉(てっけつ)し、真の自立の方途を探ることは、益々現実的な課題となりつつあります。今、政治の変化の時節に、改めてその課題を意識させられます。再び日本が「場所の支配」に衝き動かされることのないようにと願うものです。