閑老人のつぶやき 『YMCA運動再考』
YMCA運動再考
アジアYMCAセミナー(1984.10.21〜26)に参加して
〈この文章のテーマは「信徒運動としてのYMCA」と重なっています。ただし内部向けの文章であるため、やや詳しい論述がなされています。季刊『開拓者 第3号』(1985夏、日本YMCA同盟学生部)に掲載されました。これも私自身の歩みの「総括」の一環であって、私が過去に発表した文章のホームページへの掲載はこれが最後になります。なお、この文章でも付加、誤記の訂正がなされています。〉
はじめに
私は一九八四年十月二一日(日)〜二六日(金)、京都の関西セミナーハウスで開かれた、アジアYMCA同盟主催の「現代アジアにおけるYMCAの新しいヴィジョンに関するアジアYMCAセミナー」という会議に、東京YMCAから派遣されて、全期間参加した。
これはアジア同盟のキリスト教的使命とアジア研究委員会(平田哲委員長)の企画になるもので、アジアの十四カ国から三十数名が参加した。講演、聖書研究、パネル・ディスカッションなどのプログラムに加えて、各国のナショナル・レポートの時間があったが、日本のナショナル・レポートは、平田委員長と同盟の本行(孝司)主事の要請で、私が行った。初め私は日本語で便箋十枚ばかりのレポートを作成し事前に同盟に提出したが、会議ではそれをごく簡単に英語でまとめ、発表した。その後本行主事から、日本語のレポートを何かの形で発表してはとのおすすめを受けた。その時の話で、レポートはもともと英語に直すことを予想し、日本のYMCAを知らない人を念頭に置いて書かれたものであり、また予め送られてきた質問事項に答えるという形を取ったものでもあるので、多少の書き直しが必要であろうということになった。
私がおすすめに従って自分の文章を発表する気になったのは、日本のYMCAの現状に多少の危機意識を持つ者として、できるだけ多くの仲間とその問題を共有したいと考えたからにほかならない。
その危機意識なるものは、この十数年間の、ということはちょうど私のYMCAでの奉職期間に相当するが、その期間のYMCAの変化ということに関わっている。YMCAは変った。それをYMCAは発展したと言って手放しで喜んでいられない側面があるのではなかろうか。そのあたりのことを、すでに作成したナショナル・レポートにもとづいて、発題風にまとめてみたい。
ナショナル・レポートは次の四項目を含むべきことが要求されていた。
一、その国のYMCAの憲法に表明されているYMCAの目的条項の全文。および近年になって顕われた他の基本的声明の記述。
二、キリスト教信徒運動としてのYMCAの理解。
三、YMCAのキリスト教的使命がいかに追求されているかについての具体的な記述。
四、YMCAの世界教会的課題を追求するに当って、その国でYMCAが直面する諸問題。
一の設問に答えるについては、すでに同盟で英訳も試みられていたので、以下の三つを掲げることで事が足りた。
(1) 同盟寄付行為・同盟規則に掲げられた目的条項
(2) 日本YMCA基本原則
(3) 日本YMCA綱領
しかし二以下の設問に答えるには、はなはだ困難を覚えたものである。そしてどうにかまとめ上げたのが、私のナショナル・レポートというわけであった。
A 信徒運動としてのYMCAの伝統的側面
各国YMCAに共通する信徒運動としてのYMCAの形式的特徴、あるいは伝統的側面として、少なくとも以下の四つを指摘することができよう。それを議論の出発点として確認しておくことは無駄ではあるまい。
(a)初めから信徒(レイマン)がイニシアティブを持つ運動である。すなわちノン・クラーリカル(非教職中心的)である。この場合のレイマンは、クラージー(教職・牧師)に対するレイティ(信徒・平信徒)の意味であって、YMCAのレイマン・スタッフの区別以前の問題である。つまり会員もスタッフも、大部分がレイマンであるということを意味する。
(b)インターデノミネーシナルである。これを超教派的と訳すことには異論があるようだが、要するにYMCAは特定の教会に所属する運動ではないということを意味する。初めのうちは、エヴァンジェリカル・テストなどと言って、プロテスタント諸教会に属する者のみがYMCAの正会員とされたが、今日では無教会からローマ・カトリックまでを含む全キリスト教徒、および非キリスト教徒をも包含する開かれた会員制度が採用されている。今度の会議で、インターコンフェッショナル(諸教会の信仰告白のちがいを越えて、あるいはまたいで)という洒落た言い方があることを学んだ。
(c)組織運営が民主的である。教会との関連で言えば、各個教会主義を取る会衆派(組合派)やバプテストなどの教会政治の形態と良く似ている。だから形式的には今でも会員総会に意思決定の基礎が置かれている筈である。
今回の会議でまたしても教会とYMCAの関係が問われ、韓国のカン・ムンキュウ氏の挑戦的な発題がなされたが(それをここで取り上げられないのは残念である*)、要は今ここで私が列記した形式に、いかに実質を盛り込むかということにかかっているようにも思われる。
* 「YMCA―教会関係についての展望」と題するこの発題を、私はあとで翻訳した。それは『アジアにおけるYMCAのキリスト教使命』(日本YMCA出版部、1988年)という小冊子に掲載されている。
B 目的・基本声明から見た信徒運動としてのYMCA 日本YMCAの自己理解
一九六九年、世界各地で学生運動のかまびすしい折から、ノッティンガムで世界総会が開かれ、「パリ基準」がはたして現代世界におけるYMCAの目的を明示する文書であるか否かということが、特に青年参加者によって厳しく問われた。この総会後、世界同盟は各国YMCAに対して世界YMCAの結合の基準たる「パリ基準」の再研究、再検討を要請し、日本YMCA同盟にも「パリ基準」再研究・再検討委員会(松村克己委員長)が組織された。
この世界的な動きが集約されて、一九七三年の「カンパラ原則」の採択に至るのであるが、日本ではたまたまこの動きと並行して、日本YMCA同盟といくつかの大都市YMCAが、(戦時中に特設され認可された)維持財団から、(現行法規による)財団法人へと法人格を変更することに伴う規則改正等の動きがあり、この両方の動きが重なり合って、先に言及した三つの基本文書(@改正された同盟寄付行為・同盟規則、A日本YMCA基本原則、B日本YMCA綱領)が、新たに登場することとなる。
この三つの文書の成立の事情、およびその内容を私なりに分析して、いくつかの問題点を指摘してみたい。いわばそこに信徒運動としての日本YMCAの自己理解が示されていると思うからである。
(a)改正前の同盟寄付行為(および同盟規則)においては、「パリ基準」本文がそのまま目的として掲げられていた(ただしこれは戦後のことであって、戦中の世界同盟脱退決議に対する反省から、世界同盟結合の基準である「パリ基準」が強く意識されるようになった結果であると聞く)。それが一九七六年(昭和五一年)に以下のように改められた。「この法人は、加盟キリスト教青年会の団結と発展を図ることによって、青少年の育成に資すると共に、世界のキリスト教青年会と連帯して国際協力を促進することを目的とする」(改正された同盟規則もほぼ同文)。
ただし同盟規則第二条(組織)2項に「この同盟は、パリ基準を承認し世界キリスト教青年会同盟および世界学生キリスト教連盟に加盟する」とあり、また同じく第七条(加盟の資格(2)項)に「会則の前文または本文中にパリ基準本文をかかげるかまたはその会の目的と事業がそれに一致することを明示したもの」とある。つまり加盟青年会に対しては会則の前文または本文中に、「パリ基準」をかかげることが要求されている。
なお前述した通り、東京・大阪などいくつかの加盟青年会においても、ほぼ同時期、寄付行為および会則の改正が行われた。
(b)日本YMCA同盟は、一九七三年のカンパラ世界総会を経て、一九七五年、「パリ基準」の改訳と「カンパラ原則」の翻訳を完成し、同盟総会で承認を得た。これは一九六九年のノッティンガム総会後、同盟に組織された「パリ基準」再研究・再検討委員会のひき続く働きの結果であったと記憶する。
パリ基準の旧訳(永井三郎訳と聞く)は、段々目にする機会が少なくなるので、ここに引用しておく(ただしYMCAダイアリー資料編には旧訳も併記されている)。
「YMCAは聖書に基づいてイエス・キリストを神とし救い主として仰ぎ、信仰と生活とを通して、その弟子となることを望み、また青年の間に神の国を拡張するために協力することを願う青年を結合することを目的とする」。
新旧の翻訳のちがいに目を留めると、旧訳が直訳的であったのに対して、新訳はかなり意訳的である。ここでは重大な変更箇所二点のみを指摘する。
1)for the extension of his kingdom を旧訳では「神の国を拡張するために」と訳しているのに、新訳では「イエス・キリストの精神が広く…生かされるよう」と改められている。この度の会議でも、パリ基準の「神の国」が重要なキーワードとして議論されたことを考えると、それを「精神」と訳したことに対しては、いささかの疑義なしとしない。
2)文中の初めの方に出て来る関係代名詞whoが、文の最後までかかるのか(旧訳)、文の途中で切れるのか(新訳)という、構文上の理解のちがいがある。その点で新訳は不自然の感を免れない。「青年を結合する」(新訳では「青年たちをひとつとし」)ということが、「パリ基準」本文中の、(関係代名詞で括られる)三つの従属文に対する、主文として位置づけられるべきであろうと思われるからである。(この理解ではwho以下が「青年」にかかる従属節とみなされる。従って本文全体は以下のように図示される。「YMCAは…@聖書に基づいてイエス・キリストを神とし救い主として仰ぎ、A信仰と生活とを通して、その弟子となることを望み、Bまた青年の間に神の国を拡張するために協力することを願う…青年を結合することを目的とする。」*1)
*1 採択されたもともとの英文は以下の通りである。
The Young Men’s Christian Associations seek to unite those young men who, regarding Jesus Christ as their God and Savior according to the Holy Scriptures, desire to be His disciples in doctrine (*2) and in their life, and to associate their efforts for the extension of His Kingdom amongst young men.
*2 会議で採択された英文ではfaithではなく、doctrineとなっていた。しかし仏文では初めからfoi(信仰)であった。どういう経過でこの相違が生じたかついては、明白な記録が残されていない。
(c)日本YMCA基本原則は一九七六年に制定された。これはその前文にうたわれているように、創立百周年を迎えるに際しての、日本YMCAの使命についての共通理解の表明であるが、同時にカンパラ原則の日本の運動における主体的な捉え直しという側面もある。それに対して、日本YMCA綱領は、少なくとも私の理解するところでは、同盟寄付行為・同盟規則改正により、その目的条項から「パリ基準」本文が削除されたことに関連して、改めてその精神の継承を確認するために、基本原則採択の翌年、一九七七年に採択されたものである。なお、同年、現行規則による第一回日本YMCA大会が開催された。
当時から私は、基本原則と綱領と、屋上屋を重ねるような印象を受けたのであるが、綱領の方はあくまでも「パリ基準の精神を継承し」という一文に力点が置かれていることに気づくに及んで、当時の中川秀恭同盟委員長の顔などを思い浮かべながら何となく釈然としたのである。
(d)以上、同盟寄付行為・同盟規則の改正、「パリ基準」の改訳、日本YMCA基本原則・日本YMCA綱領の制定とたどって来たのであるが、その意味するところを以下にもう少し展開してみたい。
1)日本YMCA同盟は、個々の主たるYMCAにおいても同様であるが、財団法人としての側面と、加盟青年会(あるいは会員)によって構成される会員組織体(法的には任意団体)としての側面との、二重性によって特色づけられる。一方は寄付行為により主務官庁に対応し(同盟の場合は、文化庁宗務課から、文部省青少年課に移管)、他方は寄付行為細則としての同盟規則(あるいは会則)による規定を受けている。
一九七六年の同盟寄付行為および規則の改正は多岐にわたっており、もちろん目的条項の変更に止まらないが、こと目的の改正に関する限り、YMCAが宗教団体とみなされると、公的助成を受けにくいという理由が存在したと思われる。しかしそれが財団法人としての認可を受けるための必要条件であったとは必ずしも言えないであろう。だからそこに当時の担当者の主体的判断が介在したと言うべきであろう。ともあれ同盟寄付行為および規則を見る限り、YMCAがいかなるキリスト教的使命を担うかということへの、直接的言及は見出されなくなったのである。
次に同盟規則改正の方に目を留めると、重要な変化のひとつとして、たとえば議決機関としての同盟総会の廃止ということがある。代って現行規則では、同盟の「事業」のひとつとして日本YMCA大会を開催する(その規定は内規に定める)こととなった。このことが、同盟の意思決定に関わるレイ・リーダーの参加の後退ということと、必ずしも直接に結びつくとは思われないが、少なくともそれが同時に生起した事態であるということは、注目されて然るべきであろう。またこの間、同盟事務局会議(主事会)の意思決定上の役割の後退と、財団常務理事たる同盟総主事の権限の増大という、もうひとつの変化が起ったということも指摘されるべきであろう。
おそらくこのことは、個々のYMCAの会則改正の動きなどを丁寧にたどる必要があろうが、加盟YMCAの同様の変化に呼応するものとして把握されるのではなかろうか。その変化を名指して、一九七六年頃を境とする、YMCAのより一層のインスティテューショナリゼーション(制度化)ということもできようし、ある者はこれをセキュラリゼーション(世俗化)の流れの中で理解するかも知れない。
いずれにしても、YMCAの目的というものを、YMCAのキリスト教的使命との関連でいかに捉えるかということが問題になると同時に、YMCAを会員組織体と見る限り、同盟規則あるいは個々のYMCAの会則が、いかに実質的に機能しているかが問われるであろう。もし仮に、そのどちらもが空文化した時、YMCAには何が残されているであろうか。問うまでもないことであろう。
2)そこでYMCAのキリスト教的使命の遂行ということについて、我々には最近二つの歴史的文書(綱領と基本原則)が与えられたということに、自然と目が行くこととなる。この二つの文書とも、YMCAの「使命」、あるいは「現代的使命」をうたっている。ここではその内容のひとつひとつを取り上げる余裕はないので、その特徴とも言うべきものを大づかみに捉えてみたい。
両者共、先ず、「われらの運動を一つに結び合わす中心がイエス・キリストであるというパリ基準の精神を継承し(綱領)」、「われわれが主イエス・キリストにあって希望をいだき、神の同労者として求められている日本YMCAの使命について共通の理解をもち(基本原則)」と、YMCAのよって立つ基盤を明示している。
しかしその趣旨を全体において見るならば、どちらにおいても、YMCA活動の具体的目標との関連が強く留意されている。その意味では、事柄の性質上、日本YMCA基本原則の方が、抽象化され、理想化されたレベルにおいてではあるが、日本のYMCAの現実的活動をより多く反映している。そして綱領と基本原則とに示された諸価値は、キリスト教に基礎づけられながらも、より一般的で誰とでも共有しうるものである。
換言すれば、そこでは、今日的な意味があり、かつ非キリスト者とも共有しうる、キリスト教的な価値が標榜されているということになろう。それはカンパラ原則と共通する傾向であり、またおそらくパリ基準の「神の国」を「(イエス・キリストの)精神」と改訳した方向とも一致するものであろう。
これを先に言及した世俗化との関連で言えば、キリスト教的使命の世俗的価値への翻訳と、それらの価値の実現へ向っての努力の表明と言い直すこともできよう。この大筋の方向についてはおそらく誰も異論はないのではなかろうか。問題はおそらくその「翻訳」が成り立たないような事態になった時に生ずるであろう。
つまりYMCA固有のキリスト教的使命についてのヴィジョンが見失われた時(それを新しく問い直すことが今回の会議の目的であったが)、その支えを失って、綱領や基本原則でうたわれる諸価値も有名無実となるということが起らないであろうか。実はここから先にさらに問うべき問題があるように思うが、それに深入りすることは小論の目的を超えてしまうことを意味する。
ただ我々がそのようなヴィジョンを見失った時に、綱領や基本原則がただの「壁かけ」となるというばかりでなく、その時には我々の遂行する諸事業が、個々に自己目的化するであろうということを附言しなくてはならない。
C 日本のYMCAの現状
この度のナショナル・レポートでは多少なりと触れたのであるが、我々が共有する日本のYMCAの現状について、ここで詳論する必要はない。
最近、日本YMCA大会で、東京YMCAの井口延主事が発題し、その資料として「YMCA発展の過程」というチャートが配布された。すなわち第一ステージ(草創期)のムーブメンタル・アソシエーション、第二ステージ(事業拡大期)のインスティテューショナル・アソシエーション、第三ステージ(維持・発展期)のコーポラティブ・アソシエーションという、YMCAの歴史的発展の三段階が、二ページにわたって図示されたものである。大変便利な図解であるので、早速これを利用させていただけば、事業がより一層拡大し、業界内の競争に巻き込まれ、経営化・企業化が促進し、正面からYMCAの経営戦略が問われる第三ステージに入って、(あたかも運動体としてのYMCAを改めて問い直そうとするかのように)日本YMCA基本原則と日本YMCA綱領が採択されたという事実を指摘すれば、今ここでの目的は達せられる。
D 運動再構築への展望
この度の会議では、YMCAの制度(インスティテューション)あるいは組織構造(ストラクチャー)は、YMCAに課せられた使命を追求する手段である。ところが現状はオーバー・インスティテューショナリゼーション(過剰の制度化)であって、運動的側面を強化する必要があるということが、話し合われた。それが日本のYMCAの現状に照らして、何を意味するかということは、今までの私の叙述を通して、多少なりと明らかにされたのではなかろうか。
しかしYMCAの発展のこの段階で、何を今さら運動なのか、そもそも運動の名において一体何をしようとするのかという問いが、当然発せられるであろう。一九六〇年代後半以降の、施設の拡充、職員の増大、教育事業・体育事業を中心とする事業の拡大と急成長という背景の中で、たとえば信徒運動としてのYMCAを問う視座や姿勢そのものが、どこかに置き忘れられてしまったかのように見える。そのような現状からは、既に敷かれてしまったその路線をただひた走る以外に、YMCAに選択の余地は残されていないかのようにも思われる。私自身その中で職を得ている者としてそこに抗しがたい現実の圧力を感受せざるを得ない。
だから運動体としてのYMCAを再構想することは、あたかも個人的趣味の問題として片づけられる可能性もある。自ら制度化の流れに加担しながら、それを越える視点を模索することは、自己矛盾ですらある。そんな時間があったら、その分目前の仕事に専念した方が、職業人として余程整合的な生き方というものであろう。今日の時点でなおもYMCAの理念を問い続けるということは、特に専従職にとっては、そのような無力な立場に身を置くことを意味するのではなかろうか。
従って現実のYMCAで有能な職業人たろうとしつつ、またその立場を放棄しないで、なおYMCAの理念をも追求し続けようとする者は、不可避の内面的葛藤に直面するであろう。そして外面的には、単なる現実追随主義者たることに甘んじなくてはならない。少なくとも抵抗の拠点をただ内面にしか置かない者は、そうならざるを得ない。
だからYMCA運動再構築への展望などと言っても、具体的な行動提起といった形のものではなく、それを考えるための基本的な筋道と言った程度のものにならざるを得ないであろう。
先ず問題にアプローチするに当って、それを考える基本的な姿勢とでも言うべきことに言及しよう。
(a)ひとりになること。離れて見ること。あるいは立ち止って見ること。
このことについては、数年前、東京YMCAで詩人の島崎光正氏の講演を聞いて啓発されたのであるが、身体障害者は否応でもそのような視点に立たざるを得ない。いわゆる健常者が優位を占める社会に身体障害者が貢献する途は、ほかならぬハンディキャップによって持たざるを得ない視点の中に求められる。つまりそれはひとがなにげなく通り過してしまうところで、貴重な宝を発見する能力を意味する。
しかしそれは、もちろん身体障害者に限って与えられるものではない。フッサールは現象学的還元という自らの哲学的方法を、宗教者の回心にも比したが、彼にとって「素朴実在論」を乗り越えるためのその方途は、島崎氏が指摘する身体障害者固有の視点にも通ずるであろう。我々にとって、「ひとりになる」、「離れて見る」、あるいは「立ち止って見る」ということは、単なる「現実追随主義者」に堕さないための、〈超越論的な〉自己認識を意味するであろう。
(b)今自分のしていることを掘り下げること。
これは(a)で触れたことの一層の展開である。掘り下げるということは、一応内面への下降を意味する。しかしそれは単純に外面を捨象するのではなく、外側のリアリティを内側のリアリティとして捉え直す作業である。ある事柄を納得のいくまで、反芻しつつ理解しようとする作業とも言い得る。それはまた事象をあらゆる角度から捉え直す作業でもある。だから掘り下げるということは、換言すれば、反省とか、省察という語で言い表わすことができよう。
(c)脈絡をつけること。あるいは内側からのつながりを見出すこと。
上の作業の帰結として、一見無関係と見られる事象相互の間に密接な連関を見出すにいたる。思考の発見的類比的機能とも言うべきもので、それは言語の本性的に隠喩的な機能によって可能とされる。しかしそれは人の「アシ」と机の「アシ」との間に見られるような死んだ隠喩、使い古されて語彙化した隠喩ではなく、詩人の創作に見られるような「生きた隠喩」(P.リクール)を行使することを意味する。
このような姿勢でものを考えることの実例は、おそらく渡欧後の森有正氏の諸著作の中に見出すことができよう。そしてこのような思考態度を堅持することによって、今まで見逃していたこと、自分と関係ないと思っていたことが、自分の身近なものとして見えて来るというようなことが起るであろう。今まで気づかなかったことに気づくようになるであろう。いわば経験の名に値する経験を重ねていくことが可能となるであろう。
YMCA運動について自ら考えようとするに際しても、以上述べた方法が適用されるべきであろう。つまりYMCAが「運動」であるということは、自分がやっている仕事の外に、何かそれらしいものを殊更考えるということではなく、今自分がしている仕事に、私が挙げた三つの方法を適用してみることによって、次第に理解されてくることのように思われる。
だから先ず「ひとりになる」勇気を持つことが、いささか逆説的であるが、YMCA運動について考える時の、先決問題であるように思われる。このことは、おそらく、地方の小都市YMCAで総主事としてひとりで頑張っているような方には、直観的にわかっていただけるのではなかろうか。
以上はまがりなりにも私が実践してきたことである。次に私ができないでいること、あるいは次の段階として、私がなすべきであると考えていることを述べよう。
それはコア・グループ(核集団)をつくることである。この度の会議でも、YMCAの中にコア・グループをつくる必要性について語られていたので、意を強くしたのであるが、問題を共有し、問題を提起し、問題を解決する、真の仲間づくりが、YMCAの未来を形づくる鍵となるであろう(ちなみにYMCAお得意のグループワークは、仲間づくりとも、共同作業とも読める言葉である)。
この度、先の会議の報告書を読んでいて気づいたことであるが、コア・グループという言葉は、会議では、ラテン・アメリカの解放の神学の紹介を通して知られるようになったキリスト者基礎共同体(Christian Basic Community)とほぼ同義の言葉として用いられていたようだ。私自身、パウロ・フレーレの課題提起型教育という思想(『被抑圧者の教育学』)の影響を多少なりと受けていたので、コア・グループなどということを考えるようになったのであるが、YMCAの教育的活動と、より具体的な政治的な行動との間には大きな乖離があり、両者が結局は一点に収斂してくるということは、まだ理念的な把握を越えるものではなく、正直なところ私自身まだ煮詰められた立場に達してはいない。
なおフレーレ自身の用語では、このコア・グループに相当するものは、識字教育運動の中で組織される、文化サークルという名の討論集団である。いわゆる先進国である日本の、しかもYMCAという組織の中で、コア・グループをつくるという時には、フレーレの言う意識化 conscientization のプログラムとは、当然ベクトルを異にする課題が生ずるであろう。特にその課題を信徒運動という文脈の中で、より限定的に捉えるならば、当面の課題としては対話の実践を通しての「開かれた教会形成」といったものになるであろう。それはキリスト教とYMCAについての、より権威主義的でない、自由な討論に対して開かれた場を、YMCA自体の中に組織していくという課題である。
そしてその討論は、参加者個々人の生活に根差したものである時にのみ、有効性を持つであろう。しかしその討論の場が仮にも「コア・グループ」と呼ばれるためには、たとえそのベクトルを異にしようと、フレーレの言う意識化に呼応する質が獲得されていかなくてはならないであろう。先に問題共有・問題提起・問題解決と言ったが、YMCA運動再生への展望を切り拓くような討論の質は、対話を通しての参加者相互の自己変革によってのみ保証されるであろう。
最後に、私にとって近頃気になる言葉について述べ、拙文を終わらせたい。
それはたとえば次のようなところに出て来る。「共に生きる(社会の環境をつくりだすために)」(日本YMCA綱領)、「(キリストに示された愛と奉仕の生き方を多くの人と)わかちあい」(日本YMCA基本原則)。つまり共に生きるという言葉、および分ち合うという言葉である。
家族が共に生きる、家族が分ち合うというのは当然であろう。だからこれらの言葉が、たとえば国際協力キャンペーンのスローガンとして意味をなすためには、一見無関係と思われる他者と共に生きる、あるいは分ち合うという現実が既に成り立っていることの発見、あるいはそのより良き実現へ向っての意識の喚起ということでなくてはなるまい。
それとの関連で思い出されるのは、数年前の学Yの集会で花崎皋平という哲学者が、「共感を二人称的関係から三人称的関係へと拡大する」と述べている点である。氏はこの受苦的共感、人の痛みを自分の痛みとする compassion の中に、我々が第三世界へと関わる基本的視点を見出している。私は、雑誌『大学キリスト者』(一九八二年八月号)で、この講演を読み、イエスの「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」という問いかけ(マルコ三・三一〜三五)の意味を理解したのであった。
ちなみに中村雄二郎著『共通感覚論』(岩波書店)でも、この共感の問題が少しだが大切な問題として触れられている。私はナショナル・レポートでも、最後にこのことに言及したのであるが、この「共に生きる」、「分ち合う」ということをどこまで自分のものとし得るかによって、たとえば韓国の「民衆の神学」(会議では徐洸善教授の聖書研究があった)と、我々との関わりも見えて来るのだと思う。
忌憚のないご批判をいただければ幸いである。
(附)新しい幻――YMCAの新たなヴィジョンを求めて
昨年十月、アジアYMCA同盟が主催する「現代アジアにおけるYMCAの更新されたヴィジョンに関するセミナー」という会議が、京都で開催された。たまたま東京YMCAからは私が出席させていただき、久しぶりに秋の古都を楽しむ機会などを与えられたが、この程その報告書がホンコンから送られてきた。
韓国の「民衆の神学」で知られる徐洸善教授の聖書研究などがあり、色々と刺戟されることが多い会であったが、私にはインド・バンガロールの神学校の教授クリストファー・デュライシング博士(と言っても若々しい方であったが)の、パネル発題が印象的であった。報告書をひもといてみると、たとえば次のような表現に出会う。「キリストを証しするということは、異なる信仰を持つ人たちとの対話的関係を包含しているのであり、それを通して我々自身の信仰理解と実践が、多面的に豊かにされるのだという確信――」。
博士は、キリストに示されたすべてを包み込む神の愛が、我々に我々自身の自己理解の更新を迫るのであり、その帰結としてたとえば上のような確信が与えられるであろうと言う。あるいはまた次のようにも主張する。「アジアの異なる信仰を持つ人たちの、神話や象徴や物語の積極的な価値に対する、日増しに増大する評価」。それがアジアのキリスト者たちが直面する、自己理解の更新に関わるテーマだと言う。
これを神道と仏教の国わが日本のキリスト者の現実に適用したらどういうことになるであろうか。日本の民衆と連帯するために、日本のキリスト者は、民衆の持つ異なる信仰に由来する神話、象徴、物語を、積極的に評価しようとする姿勢を持っているのであろうか。博士は、ちょうど使徒行伝第十章でペテロが三度も同じ幻を見、遂に異邦人伝道への目を見開かされたように、今日のキリスト者は、他宗教に属する人たちと、神の促しにおいて兄弟として出会うべきであると主張するのである(初出『目黒ワイズメンズクラブ会報/一九八五年三月号』)。
資料(『聖書から学ぶ日本YMCA基本原則』から転載)
パリ基準(カンパラ総会の決議文)
一九七三年七月十八日から二十五日までカンパラに参集したわれわれ第六回世界同盟総会(注、新しい規則による第六回目の総会)の代議員は、原則と実際活動において一つであることを強く感じ、ここに、
一八五五年に採択されたパリ基準を、世界YMCA同盟を創立し継続させてきた信念と目的とを明確に言いあらわしてきたものとして承認し、
世界同盟を構成する各国YMCA同盟および準加盟団体は、それぞれ特有の組織と活動の仕方において完全な自主性を保持しながら、その間には一致が存在していることを認め、
以下にかかげるパリ基準を今後世界同盟に加わる各国YMCA同盟を承認する基準とすることを決議する。
世界YMCA同盟の働きと証のゆるぎない基盤は、一八五五年パリで、神の導きのもとにこの同盟を創立した各国YMCAの代表者たちによって当時採択されたあの基盤である。すなわち、
「われら世界のYMCAは、イエス・キリストを聖書に従ってわが神わが救い主と仰ぎ、信仰とその生活において彼の弟子でありたいと願う青年たちを一つとし、イエス・キリストの精神が広く青年の間に生かされるよう、その努力を結集する(注、パリ基準の新訳)。」
「その他のことがらについての意見の相違は、それ自体としていかに重要であっても、そのことによって世界同盟を構成する加盟および準加盟YMCAの間の友好的な関係をそこなうものであってはならない(注、パリ基準の後文の一部)。」
カンパラ原則
パリ基準は、キリストがYMCA運動の中心であること、したがって(YMCAが)すべてのキリスト者を一つに結ぶ世界大の交わりであることを言いあらわしている。と同時にこの基準はさらに、信仰、年齢、性別、人種、社会状況の違いを越えてあらゆるひとびとの参加を求める開かれた会員制を指向している。
パリ基準は個々のYMCAの会員制を規定することを意図したものではない。会員制は、世界同盟を構成している各国YMCA同盟の裁量にゆだねられている。
またパリ基準は、次のことを明らかにしている。すなわち各国YMCA同盟は、世界同盟がパリ基準の精神と矛盾しないと認めるかぎり、自由にそれぞれが奉仕の対象としているひとびとのニードや願いに、より直接に応える独自の言い方でその目的を表現することができる。
今日の世界のなかにあるYMCAの現実に照らしてみるとき、パリ基準を再確認するということは、すべてのYMCAとその会員たちに、神の同労者として次のような使命の自覚を促す。
1. すべてのひとびとに、平等な機会と正義とが実現されるように努力する。
2. ひとびとの間に愛と理解にみちた人間関係が可能になるような環境をつくり出し、それをまもっていくように努力する。
3. YMCAの中に、また社会のさまざまな組織や団体の中に、誠実さ、豊かさ、創造性が生かされるような状況をつくり出し、また維持するように努力する。
4. キリスト教的経験の多様性と深さが具体的に示されるようないろいろなリーダーシップと新しい型のプログラムを開発し、育てていくように努力する。
5. 全人としての成長のために努力する。
日本YMCA基本原則
一九八〇年、われわれは日本に最初のYMCAが創立されてから一〇〇周年をむかえる。新しい世紀をひらこうとするこの時に当り、われわれは、この運動を日本の地に起こし導いてこられた神の恵みと、その導きに従ってこの運動を展開してきた先輩たちの努力に対し、感謝の思いを新たにしつつ、今日までの働きの評価と反省に立って、次の一〇〇年への展望を開くことが急務であると痛感している。
一九七六年五月、日本YMCA同盟第三七回臨時総会に参集したわれわれは、初心にかえって、われわれの立つ基盤としてのパリ基準とカンパラ原則を再確認するとともに、以下の日本YMCA基本原則を採択し、一致して運動の展開をはかることを決議する。
それは、今日の困難な諸状況にもかかわらず、われわれが主イエス・キリストにあって希望をいだき、神の同労者として求められている日本YMCAの使命について共通の理解をもち、その実現に向ってともに努力することへの決意の表明である。
YMCAにつらなるわれわれは
1. キリストに示された愛と奉仕の生き方を多くの人とわかちあい、人間性の回復と用語のために努力しているひとびとと連帯する。
2. 人間の生命を大切にし、健康な心と身体をつくり保持する体育活動を幅広く展開する。
3. 家庭や学校との協力をつよめ、青少年のゆたかな知性と人格の向上をたすける教育活動をすすめ、これを生涯を通しての学習活動にまで発展させる。
4. 広く青少年の参加を求め、ボランティア活動を推進し、奉仕の精神を養い、ひとびとの間に自発性と連帯感がよみがえるように努力する。
5. 会員相互の交わりを通して誠実さ、創造性、豊かな感受性を養い、それらが生かされる社会環境をつくりだすことに貢献する。
6. 歴史に対する深い洞察と世界的な視野に立って。平和と公正を求め、その実現のために各国のひとびとと協力する。
一九七六年五月二十二日 第三七回同盟臨時総会
日本YMCA綱領
1. われわれは、われらの運動を一つに結び合わす中心がイエス・キリストであるというパリ基準の精神を継承し、カンパラ原則に示されているその現代的使命の達成を期する。
2. われわれは、世界に広がる会員相互の連帯をとおして、世界の平和と新しい時代の秩序を築くために、責任と自由と奉仕に生きる人間の育成を目ざす。
3. われわれは、とくに青少年を中心とする社会教育活動に力を注ぎ、共に生きる社会の環境をつくり出すために、生涯にわたる協力と奉仕の活動を、広く、すべての人びとに訴える。
一九七七年九月十九日 日本YMCA同盟綱領作成委員会起草
一九七八年十月二十一日 日本YMCA同盟常務委員会決議