閑老人のつぶやき 思想について 6
先に小森龍邦の著作に基づいて「自由権・社会権・生存権」について考えました。それと結び付けて、人間の社会の基本的カテゴリーとして、帰属・所有・支配ということを少し考えてみたいと思います。
人間の身分というのは社会的帰属の問題であり、階級対立は所有の如何に関わり、権力は当然のことながら支配の態様の問題です。
人間はこの三つのカテゴリーから自由ではありません。社会的分業が進み、社会の仕組がどのように複雑になっても、人間は何かに帰属し、何かを所有し、何かを支配することによって自己の存在を確保しようとします。
宗教はこの人間の条件を脱出する試みであると言えますが、結局は別の形の帰属・所有・支配を人間の社会にもたらしただけであると言うことも出来るでしょう。それでは革命が起これば人間は自由・平等・友愛の理想を実現できるかと言えば、過去の社会主義的実験からすると、それもまた困難であることが明らかになったと言えます。
帰属(身分)に対して自由、所有(階級)に対して平等、支配(権力)に対して友愛を、人間の社会の理想として対置しても、現実はいつもそれを裏切る方向に傾くということが言われなくてはならないでしょう。たとえば帰属においては排除の問題、所有においては占有の問題、支配においては抑圧/不正の問題が常に惹起されます。
帰属・所有・支配は人間の生き方そのものに関わっています。だから人間の生き方に直接関わるような、そういう問題を一挙に解決することなど、およそ不可能であると考えた方が現実的であると言えそうです。
しかし「属さない」者、「持たない」者、「従わされる」者の存在は人間とはどういう存在であるかを、裏側から照らし出します。特に新自由主義とグローバリズムのこの時代には、人間のその野蛮な本性が、再び剥き出しになってきたと言うことができます。
こういう時代に理想を掲げるということは、同時にそれは「受苦者」の切実な要求でなくてはならないでしょう。理想とは現に苦難を受けている民衆の叫びと一つのものでなければならないでしょう。それは教科書検定に抗議する沖縄の人たちの叫びであり、「薬害肝炎訴訟原告団」の叫びであり、不安定労働者のユニオンの要求でなければならないでしょう。帰属・所有・支配の現実を打破するものは「受苦者の連帯」です。人々を否が応でもその現実から脱却せしめるものは、人々が共有する苦難であって、単なる理念ではありません。自由権・社会権・生存権の権利の要求は、いつの時代でも、そのような民衆の叫びとして表現されて来たのではないでしょうか。
「生きさせろ」という生存権そのものに関わる要求がなされている今日、自らが加担している帰属・所有・支配の体制を抉剔するという苦しい作業が、眼下に待ち受けています。しかし苦しくても、それを回避することはできないでしょう。
国家主義的な戦争遂行体制が人民統治の有効な手段であり、経済的な苦境を脱するための究極の打開策であると見なされるときには、問答無用の暴力的支配が再びこの社会を覆うことになるでしょう。それは破局の招来であって、問題解決ではありません。そのような事態を避けるためにも、今我々に問われているのは、自己の帰属を越える民衆の連帯への展望でしょう。平和のためにボーダーを越えることが、今我々のひとりひとりに求められているように思われます。
かつて哲学という学問を少しかじったお蔭で、私が考えることはどうしてもその色合いを帯びることになります。しかし私は専門の哲学研究者ではありません。むしろ非専門家であることに居座っていると言った方がよいかも知れません。もちろん専門家の仕事を無視しては非専門家も存在することはできません。アマチュアも専門家の示すお手本を必要としています。そのような非専門家(素人)であることの意味は、自分が関わるそのことが生業/なりわいではなく、常に一般人・生活者の立場で専門家の仕事を消費したり、受け止め直したりするというところにあります。「生涯初心」などという私のモットーも、そこから生れて来ることになります。そのような意味での非専門家が存在しなければ、専門家の存在は宙に浮くことになってしまうでしょう。学会の中でしか通用しない専門家の議論にも意味があるでしょう。しかしそれを普及させる必要があるとき、非専門家を説得する必要が生れて来ます。特に哲学という学問は、その性質上、常に非専門家の存在を念頭に置かなくては成り立たないのではないかとも思われます。否、むしろ、哲学自体が専門の研究に対する非専門的な関わりであると言うべきかも知れません。そうなると哲学者とは須らく非専門家であるということになります。つまり非専門性としての哲学とは、「無知の知」の今日的ない言い直しであるということになるでしょう。
現在、山之内靖の『受苦者のまなざし』を読んでいます。その本の注にフォイエルバッハの次のような言葉が引用されているのを見つけました(p.517)。
〈「個体であるということはもとよりたしかに『自我主義者』であることである。しかし個体であるということは同時に、そしてもとよりいやおうなしに『共産主義者』であることである」という自己規定の中には、フォイエルバッハの論点がまことにくっきりと曇りなく示されているといえよう(「人間と自我――シュティルナーの批判の批判――」『キリスト教の本質』岩波文庫、下、所収、三五五ページ、独語文献の引照省略―閑老人)。このような立場に立っていたからこそ、フォイエルバッハは思弁的理性の中で抽象的思考を肥大させるに止まっていたアカデミズムを嘲笑して「学問とは本質的に怠惰な理性がもっているところの害にはならないがしかしまた役にも立たない遊び道具」なのだとのべ、自己の著作を貫く思想を特徴づけるものは、抽象的な思弁の中から一般的な真理なるものを引き出すという意味では「再び思想なのではなく」、生きた歴史的事実なのだと主張したのであった。このような立脚点からは、当然に「哲学者の最高の熟練は哲学者の自己棄却である」という主張が現われてきたのであり、哲学者や特別な専門学者ではなく、「一般人」を対象として、「対象が許す限りの最高の明晰さ・単純さ・明確さ」をもって書くことを自分のおきてとしている、という自覚も生じていた(『キリスト教の本質』「第二版への序言」)。〉
ここに言われる「共産主義者=コミュニスト」とは、文字通り、コミューナルな(公共の、共同の)事実に立って考え、実践する者という程の意味ではないかと思われます。今日的に言えば、「共に生きる」ことを重んじる者ということになるでしょう。コミュニズムが、資本主義世界を徘徊する「妖怪」となってから、その原義は著しく歪められてきたと言うべきでしょう。いずれにしてもフォイエルバッハの言う「哲学者の自己棄却」ということ、つまり具体的な個人になりきることによって、同時に「共産主義者」であることが、今日なお「哲学」が目指すべきことのように思われます。
前に「学習のサイクル」について触れました。「パフォーマンス(遂行)・コンピタンス(能力)・コンフィデンス(自信)・プリファランス(趣向)の循環」のことです。それを別の角度から捉えたものとして「フロー体験(最適経験)」という考えがあります。ある意味でそれはモンテッソーリの「敏感期」にも通じる考えです。その問題を、広汎かつ実証的に論じたM・チクセントミハイ著、今村浩明訳『フロー体験 喜びの現象学』(世界思想社、1996年)によれば、フロー体験についてたとえば次のように書かれています。
行為と意識の融合(pp.67-69)
〈ある状況のもとで挑戦目標を達成するためにすべての能力が発揮されねばならない時、注意は完全にその活動に吸収される。その活動がもたらす情報以外の情報を処理する心理的エネルギーは残されていない。すべての注意は必要な刺激に集中している。
その結果、最適経験が生じる時の最も普遍的で明瞭な特徴が現われる。つまり、自分のしていることにあまりにも深く没入しているので、その活動が自然発生的、ほとんど自動的になるということであり、現在行っている行為から切り離された自分自身を意識することがなくなるということである。
演技がうまくいっている時にはどのように感じるかについて、あるダンサーは次のように表現する。「注意の集中がとても完全になるのです。迷うこともなく、ほかのことなど考えません。自分のすべてが自分のしていることに完全に包み込まれるのです。……エネルギーは大変滑らかに流れます。リラックスしていて、気持が良くて、エネルギーに満ち溢れます」。
あるロッククライマーは岩壁を登っている時どのように感じるかを説明している。「自分のやっていることに夢中になっている〔ので〕活動それ自体から自分を切り離して考えることはありません。……自分のしていることから切り離して自分をみるなどということはありませんね」。
小さな娘と一緒に過ごす時間を楽しんでいる母親。「この子が夢中になるのは本を読む時です。そして私たちは一緒に読むのです。この子が私に読んで聞かせ、私がこの子に読んで聞かせますが、これは周りのことからまったく切り離される時間です。私は自分のしていることに完全に没頭しています」。
チェスプレイヤーは勝ち抜き試合での対局について言う。「……注意の集中というのは呼吸のようなものです――息をしているかどうか考えたりすることはありませんよね。たとえ屋根が落ちてきたとしても、ぶつからなければそれに気づかないでしょう」。
我々が最適経験を「フロー」と呼ぶのはこのような理由による。この短い単純な語は、一見苦もなく行われているようにみえる動作の感覚をよく表わしている。詩人でもあるロッククライマーの次の言葉は、我々やその他の研究者が数年にわたって集めた数千の面接結果にもあてはまる。「ロッククライミングの神秘感は登るということの中にあります。岩の頂上に着いて終ったと喜ぶ。しかし本当は永遠に登り続けることを望んでいるのです。書くということが詩を意味づけるように、クライミングを意味づけるものは登るということなのです。自分自身の内にあるもののほか、征服すべきものは何もありません。……書くという行為が詩を正当化します。クライミングも同じです。自分が一つの流れであることの認識ですね。フローの目的は流れ続けること、頂上やユートピアを望むということではなく、流れの状態を保ち続けるということです。登るということではなくたえまのない流れなのです。この流れを保つために登っているのです。クライミングにとって、登ることそれ自体以外に考えられる登る理由などありません。それは自分との対話なのです」。
フロー体験は努力を必要としないように見えるが、とんでもないことである。それはしばしば大きな身体的努力、または高度に訓練された知的活動を必要とする。それは熟練した能力が発揮されなくては生じない。わずかな集中の弛みがフローを消してしまうが、フローの継続中は意識は滑らかに動き、一つの行為は次の行為へと滞りなく続いていく。普通有の生活では自分のしていることへの疑いや問いかけにたえず妨害される。「なぜこんなことをしているのだろう。何かほかのことをすべきではないだろうか」。我々は繰り返し自分の行為の必要性について疑問を投げかけ、それを行うことに批判的な評価をする。しかしフローの状態にある時は、その動作は魔術のように我々を前へ前へと進めるので、それを省みる必要はない。〉
以上の記述によってフロー体験とはどういう状態であるのかを瞥見することができます。それは誰にでもあることです。善悪の問題ではなく、その人の生き甲斐に関わる問題です。ある人は博打に打ち込んでいるとき、フローを感じるかも知れないし、ある科学者は大量殺人兵器の開発に取り組んでいて、それを感じるかも知れません。それは人間の生のある側面を示しています。それらは一見個人的な行為のように見えますが、同時に社会的行為でもあります。流行現象もあり、また時代による趣向の変化もあります。しかし、それは周りの状況から切り離されているという特徴があります。たとえ戦時下にあっても、人はそれぞれの仕方で何か打ち込む対象を見出し、それによって喜びを感じるかも知れません。人間の文化というものは、そのような形で存続してきたのではないでしょうか。
戦争が起りかねない状況にあっても、また社会的格差が拡大し貧困層が増大しても、なぜ人々が政治的な意味で立ち上がらないかと言えば、自己の生の充足が第一の目的であって、それ以外の事柄が視野に入って来ないためではないかと思われます。だからいくらフロー体験について多面的に分析しても、そこからは社会変革の展望が切り開かれてくることはないでしょう。たとえいのちの流れを妨げるものがあっても、人々の関心事は自分の生の流れにあって、どうにかして生き抜いて行こう、できればそこに喜びを見出して行こうと考えてしまいがちです。だから政治的なものは、フローを妨げる日常のバリアと同様に、自己の視野から閉め出されてしまうのではないでしょうか。ここには個人的生活と社会的生活との分裂という問題があるように思われます。人々が汚い問題の処理は政治家に任せておこうと考えるとき、政治は汚いものでしかなくなります。また逆の意味で、政治的な体制変革が起ったとしても、必ずしもそれは人々のこの分裂した状態を解決するものとはなりません。いかなる体制変革(革命)も強制(暴力)を伴います。そして強制(暴力)には個人的生活の消去があります。ここに社会変革のアポリアがあると言うべきでしょう。社会変革とは個人を実現するために個人の犠牲を求めるものだからです。しかしそのあと真に充足した個人の生活が成り立つかどうかは保障されてはいないのです。
ここで山之内靖『受苦者のまなざし』の脚注から今度はマルクスの言葉を引用してみたいと思います(p.521)。
〈政治的国家の成立(=市民革命)がもたらす解放の限界を繰り返し強調しながらマルクスがその論点を次のように要約しているのは注目すべきであろう。ここにはフォイエルバッハの哲学的命題がしだいに根深くマルクスに受容されてゆく様を読み取ることができると同時に、この命題が、はっきりと国家の廃止という次元で生かされていることも判るのである。「現実の個体的人間が、抽象的な公民を自己のうちに取り戻し、個体的人間のままでありながら、その経済的な生活において、その個体的な労働において、その個体的な関係において、類的存在となったときはじめて、つまり人間が自分の『固有の力』を社会的な力(gesellshaftliche Kräfte)として認識し組織し、したがって社会的な力をもはや政治的な力の形で自分から切りはなさないときにはじめて、そのときにはじめて、人間的解放は完成されたことになるのである」(「ユダヤ人問題によせて」『マルクス・エンゲルス全集』第一巻、四〇七ページ)。〉
「共同社会主義」というのは私の造語です。それについて、今、私の頭の中にあるのは、コミューナリズム、コミュニタリアニズムという二つの言葉です。そこで先ずこの二つの言葉について辞書にあたってみました。
コミューナリズム(communalism)については、Cassell’s English Dictionaryによると、「コミューンあるいは町や地区の自治体による政治の理論」とあります。ただしコミューナリスト(communalist)はcommunard(元はフランス語)と並べられていて、「パリ・コミューンの一味、コミュニスト」という限定された意味になるようです。コミューナルという形容詞には「コミューンに関わる; 公共の使用あるいは利益のための; パリ・コミューンに関連する; コミュニティあるいはコモンズ(公共財)に関係する」という意味があるようです。なおその元となっているコミューンという言葉には、「フランスとベルギーにおける、市長と評議会によって統治される小さな行政区域、またコミューンの住民あるいは評議会のメンバー」という狭い意味が掲げられています。
コミュニタリアン(communitarian)という形容詞については、Webster’s New Collegiate Dictionaryに、「協力的で、場合によっては集産主義的(collectivist)な、小さなコミュニティ内の社会組織に関係する」と書かれています。それを標榜する立場がコミュニタリアニズムであるということになります。
つまりこの二つの言葉(コミューナリズムとコミュニタリアニズム)が示唆するような形で、いかにしたら「共同社会」を実現することができるのかということが、今日の社会で再び切実に問われつつあると、私は考えています。私のそのような問題意識に関わる表現として、花崎皋平氏の言葉を以下に引用してみます。
「近代は、個人を、地域的宗教的共同体、職業的組合団体などの中間団体が上下関係で束縛してきた秩序から解放し、自由な個人を人権の主体として析出した。しかし、その個人の自由な行為は、世俗的物質的な欲望の追求を無制約に許すかぎり、すべての共同性を拘束として否定する傾向をはらんでいた。同時に、孤立した個人として生きることを選んでも、実際には、非人格的なシステムとしての資本や貨幣に頼ることを余儀なくされ、あらたな拘束と支配に隷属する結果を招く。このような拘束と支配からどのようにして自由になるか。システムの内側から、共同性を回復し、存在者の間の調和を保ち、循環する生命の秩序への歩みを始められるか。社会的な課題としては、近現代の文明が破壊してきた共同性を自由な諸個人の連帯として創出することができるか。そういう課題が私たちに突きつけられているといえるだろう。端的にいえば、私たちは共同性と個人ということについてもういちど深く考える必要に迫られている。この問題は、近代において、私的所有によって侵食され失われた公の場を回復することを課題とする現代思想と社会運動によって提起されている。近年、環境社会学がコモンズ(公共財)に着目していることは、その問題意識の現れである」(「ピープルネス」へ ―存在論の文脈で― A /『季刊ピープルズ・プラン』40号、2007年秋、p.162)。
花崎氏は当該論文で、オギュスタン・ベルクの風土学と生命的世界(主として石牟礼道子の生命世界)を取り上げています。その文脈から切り離して上の文章だけを引用しました。しかし人間がどうしたら「システムの内側から、共同性を回復し、存在者の間の調和を保ち、循環する生命の秩序への歩みを始められるか。社会的な課題としては、近現代の文明が破壊してきた共同性を自由な諸個人の連帯として創出することができるか」という指摘こそ、私が「共同社会主義」という言葉で表現しようとしたことと重なります。それこそがコミューナリズム、あるいはコミュニタリアニズムという言葉で私が模索していることにほかなりません。
現代の思想がどうやらその問題に収斂しているらしいと、私も漠たる印象を持っています。しかしそれは言うまでもなく、とても難しい問題で、危機的状況が逼迫しているにも拘わらず、直ぐには解答を得られそうもありません。
かつての「共産主義(中央集権的社会主義=スターリニズム)」とは違った形で、この資本主義世界のただ中で、どうしたら諸個人の間の共同性を回復することができるのか、私も及ばずながら考え続けてゆきたいと思います。
先に書いた「帰属・所有・支配」の補足として、私が考える「三権」(権威・権利・権力)の問題とそれとを重ね合わせて考えてみたいと思います。
帰属は権威と関わる事柄です。たとえば日本国に帰属する者は「国民統合の象徴」である天皇の権威に服属すべきであるという、明治憲法に「法制化」され、ある意味で現憲法に受け継がれた「国体論」に関わる言説が、未だに根強く保守派の心情を支配しています。表向きは民主主義を装っても、万世一系とか、祭政一致とかの思想が強力な力を発揮するところには、基本的に民主主義を否定する原理が孕まれていると言うべきしょう。自民党の改憲案で天皇は「元首」であるとされるとき、そこには民主主義を否定する大きな危険が潜んでいると言えないでしょうか。また天皇のアトリビュート(属性・附随するもの)として「三種の神器」が主張されるとき、王冠が王権に属するように、そこに帰属の問題が象徴的に表現されているとも言えるでしょう。
しかしこの問題はもちろん天皇制に限られるわけではありません。キリスト教の教会員はキリストの権威に服属すべきであるとされて来ましたし、かつての共産主義においてさえ共産党員はマルクス・レーニンの権威に従うべきものとされて来たのではないでしょうか。つまり人間が何かの集団に帰属するとき、そこには権威の問題がつきまとうのではないでしょうか。だから人間は特定の権威に服属するよう強制されるべきではないという主張がなされたとしても、トーテム社会以来の人間の傾向性として、人間の社会から権威を消去するのはとても難しいことであると言わなくてはならないでしょう。マイケル・ポラニーが言うように、科学者集団においてすらある特定の科学的言説とその担い手に権威が帰せられています。だからこそ人間の自由、帰属によって差別されない自由は、直ぐには達成されない理想に留まっているのではないでしょうか。
保守主義が強力なのは、人間は何かに帰属せざるを得ないし、そしてそこには常に権威が介在しているからでしょう。しかし近代国家というものを考えた場合、このように一律に特定の権威を全成員に強制することには無理が付きまといます。思想・信条の自由を抑圧しないで、日本国民全員に天皇を崇敬するよう求めることは困難です。今日、特に東京都で突出している公立学校の教員に対する、式典での君が代斉唱時に起立を強制する行政の指導は、背後に天皇制の問題があるからこそ、深刻な問題となっているのだと言うべきでしょう。単に中立的な業務命令と服務の問題ではありません。かつての公務員は「天皇の官吏」であると見なされました。つまり公務員は国民に対する公僕なのではなく、天皇制を「公け」の制度とする国家の官僚として、国民の上に「君臨」していました。その制度は統治者にとって大変都合の良いものであっても、国民にとっては自由の束縛以外のものではありませんでした。だから、ある特定の権威、それが「天皇」であろうと「キリスト」であろうと、はたまた何であろうと、それにひたすら服属すべきであると主張されるときには、それによって成員の自由が束縛されるのだということを肝に銘ずべきです。つまりその集団の成員には「権威」に逆らうことが許されていません。
次に権利の問題です。権利は所有の問題です。今日の法律でももちろん私有権が保証されています。権利は所有から発生するのであって、それは他から奪われてはならないものとされています。しかし所有が無制限に認められているわけではありません。「公益」に反して何かを所有することは認められていません。そこから公益とは何であるかという問題が生じてきます。大麻や銃の不法所持は罰せられます。それでは三里塚のある特定の農民は、飛行場建設という「公益」に反して、「不法」に農地を所有していると見なされるでしょうか。既に農地として耕作されていた土地を、「国家」は「公益」の名で農民から取り上げる「権限」を持っているのでしょうか。所有が制限されるというとき、そこにあるべき公益とは、どんな根拠に基づくのでしょうか。もし権利が封建時代のように「元首」から贈与されたものであり、それを与えるか取り上げるかは、元首の意向に基づくというのであれば、国家は元首の名によって、それを行うことができるでしょう。つまり元首の意向こそが公益であるということになります。しかし仮にも「国民主権」を掲げているのであれば、公益とは国民多数の利益であるとされなくてはならないでしょう。そうすると国民多数の利益のためには、ある特定の権利、所有は放棄されなくてはならないということになるでしょう。しかし飛行場建設用地の選定に恣意が働いていて、なぜそこに建設されなければならないのかという明確な理由が示されていないのであれば、そもそもその初発の段階で、「公権」が「私権」を制限する根拠が薄弱になります。公益の名によって国家が何をしてもよいということであれば、それは民主主義の体をなしません。
ここで所有とは何であるかということが問題になります。所有の対象として、生命、財産、配偶者、家族、家系、職業、地位、知識、思想、技術、容姿、才能など、人が「持つ」とされるものには色々あります。ただしガブリエル・マルセルが指摘したように、はたして私は、私の「いのち」を「持つ」と言えるだろうかということが問われなくてはならないでしょう。配偶者についても、同様のことが問われるでしょう。いのちや人生の伴侶や、家族などが「持ち物」であれば、私はそれを自由に処理してよいということになります。しかし、それらはどう考えても、「持ち物」ではありません。その上、権利とはひとまずは所有権のことであるとしても、それはなぜ保障されるべきであるのか、なぜ「私有権」が保護されなくてはならないのか、それを明確に説くことも困難です。なぜなら所有が公益によって制限されるべきであるとするなら、どうして有り余る財産が保護され、殆ど何も持たない者が放置されていて良いのか、その説明がつかないからです。つまり既得権だけを保護する法律は公益ではなく、私益にだけ関わることになるからです。
どうやら権利の問題は資本主義社会における法の問題に帰着するように思われます。その根底には資本と労働の問題があると言うべきでしょう。つまり資本主義社会で主張される公益とは、結局は資本という私益の増大のことであって、特に新自由主義的な政策を是とする社会では、直接に利潤を上げない「公共の福祉」への支出は極力削られる傾向にあると言えるでしょう。そのような社会では弱者の権利は軽視され、国民あるいは資本に使役される労働者の「義務」だけが強調されるとも言われなくてはならないでしょう。
最後は権力、つまり支配の問題ですが、国民の国家への帰属(愛国心)を強調し、権利に見合う義務の履行を憲法にまで書き入れようと試みる趨勢のもとでは、権力とは大多数の国民にとって恐怖の対象ではあっても、国民生活の保護者とは言えないものとならざるを得ません。国家が国民を恐れるのではなく、国民が国家を恐れる体制が強化されることになるでしょう。私が「三権の人民からの遊離」とした事態が本当に実現してしまうことになります(「教育基本法の改正について」参照)。権力の源泉が「国民」ではなく、大資本にあるとしたら、このグローバリズムの時代には、資本はひたすら海外で利潤を上げようと奔走し、国民は疲弊してその資本を国内で支える能力を喪失します。結局のところ、新自由主義とは「棄民政策」であるほかなく、「愛国心」の強調(国家主義)とは矛盾しています。そして国家主義は国民の反抗を抑圧する「口実」に過ぎないものとなります。
今日の日本がこのような方向に動いているのだとしたら、そのような国家=資本複合体のあり方の危険性が、今こそ、より多くの国民に感知されるものとならなくてはならないでしょう。日本は今極めて危険なところに突入しつつあるように思われます。
正当だと思っても、その実現がきわめて困難な課題があります。日本が今日直面している課題はそのようなものであって、突破口はなかなか切り開かれてきません。たとえば次のような問題を掲げてみます。
1)アメリカからの独立
日本は対米従属路線にはまり込んで、そこから脱却できずにいます。基地問題、思いやり予算、高額な軍需費のアメリカへの支払、郵政民営化に象徴される新自由主義的政策へのアメリカの高飛車な要求への追随、日米軍事同盟の強化と憲法第九条廃棄へのアメリカの圧力などを考えると、日本はアメリカの属国であって、独立国ではないという思いを強くします。本当は日米安保条約を廃棄して、日米平和友好条約を締結すべきであると考えても、今日の日本でそれを実行することはきわめて困難であるように感じられます。日本の政府は、アメリカに従属する以外の選択肢はないと考えているのではないかと思われます。しかしこの路線は日本がアメリカの戦略の一部に組み込まれて、結局は戦争に巻き込まれていくことを結果するのではないかと危惧されています。
2)官僚支配からの脱却
行政のあらゆる側面での官僚支配とその問題性については、漸く多くの人々に意識されてきたように思われます。一旦収められた税金は国民から負託されたものではなく、官僚の差配のもとにあるという思い上がり(特権意識)が支配的で、官僚はいわば「国家意志」の体現者として振舞っています。しかし、それがいかに恣意的で、出鱈目であるかということが、今日あらゆるところで露呈しています。官僚機構は自己保存に熱心ではあっても、それが国民へのサービス機関であるという意識が稀薄で、行政機関として十分に機能していません。また防衛行政と教育行政とを見れば、国民が主権者ではなく、国家意志が先行すると考えられているのではないかと思わざるを得ません。官僚の目線は権威主義的で、未だに上意下達の支配の貫徹を理想としているとしか考えられません。米軍の再編に伴う基地の建設や移動、あるいは愛国心教育の強調などに、その姿勢が示されています。結局のところ、官僚支配とは民主主義の否定に行き着くことになりかねません。背後には国家権力があって、行政はアメ(褒賞)とムチ(懲罰)による抑圧機構と化してしまいます。岩国の市長選や東京の教育行政に典型的に見られるような光景が展開します。各所に破綻を来たしているにも拘らず、官僚の支配はさらに強化され、それによって日本の民主化の足かせとなっています。
3)地方自治の確立
地方自治体の財政的疲弊ということに並行して、地方自治そのものが危機に瀕しています。道州制への移行や地方分権の推進という主張がなされますが、それが果たして「地方自治」を促進するものになるのか、それとも地方自治体の国家への一層の従属を意味することになるのかを、十分に検討しなくてはならないでしょう。住民投票の政治的根拠が疑われるような傾向のもとでは、地方自治はさらに後退することになるでしょう。地方自治は民主主義の学校であると、上原公子前国立市長は言いましたが、今日の地方自治体の現実は、いわば国政の縮小版といったもので、住民の自治意識は稀薄であると言わざるを得ません。地方自治体は国家の政策に逆らうことができるという思想自体が、きわめて危険なものと見なされることになるでしょう。地方自治は「主権在民」の当然の帰結なのですが、それが近代国家の存立とどのように関わるのかということについて、まだ明確な指針が示されていません。しかし地方自治の思想がなくなれば、国家主義的な政策は易々と遂行されることになり、地方自治体は単なる国家の下請け機関となってしまいます。
4)産業民主主義の樹立
以上の三点に劣らず、その実現が困難であるのは、「産業民主主義」の樹立です。その意味は、一言で言えば、あらゆる産業における「経営と職場の民主化」ということになります。日本の企業の内部にはそもそも日本国憲法は通用しないなどという指摘がなされますが、労働者の権利はことほど左様に無視されがちです。そもそも資本主義社会にあって「経営と職場の民主化」を推し進めるためには、資本家と労働者との対抗関係が想定されなくてはなりません。経営者や政治家の一部に労働組合の存在自体を悪と見なす考えがあります。これなどは真っ向から「産業民主主義」を否定するものであって、「労使協調」の名のもとに、資本の論理を優先させるだけの結果になりかねません。また、今日の非正規労働者の問題は、労働者の権利主張が極端に無視された結果です。そうでもしなければ経営が成り立たないという言い分が一方にあります。しかしその問題を解決するために、ただ労働者にだけしわ寄せを行なうことは、結局のところ、労働者は使い捨てられる存在に過ぎないということを示すもので、資本が、つまり金がすべての社会を是認することを意味するでしょう。そのような社会が永く続けば、それこそ「革命」を招来することになるでしょう。人間はいつまでも使い捨てられ、あるいは過労死に終る運命に甘んじていると考えることはできません。だから問題を根本的に解決しようとするならば、資本と行政は労働者敵視(酷使)政策を廃棄するほかはないでしょう。経済的に疲弊した国民は消費者として資本を支えることもできないのは明らかです。税や社会保険などを負担する能力も失うことになります。今日の世界では、資本を単なる私利であると見なすことはできません。企業の経営に当たっては、資本の代表者だけがそれに関わるのではなく、労働者や消費者などを含むもっと幅の広い参画が求められるでしょう。産業は民主化されるべき必然性を持っています。企業はその存立のために「大義」を必要としています。
以上の四点は密接にからみ合っています。標題を「理想の空論」としたのは、その実現がきわめて困難であり、現実はその逆の方向に動いているように思われるからです。個人の力ではどうしようもない問題がそこにあります。しかし問題の所在がこのように示されるとするならば、人々はそちらに向かって努力すべきでしょう。さもなければ、この日本の社会が崩壊してしまうからです。
先に、基本権(基本的人権)としての自由権・社会権・生存権について考えました。それは天与の権利であるというよりは、人民の側の不断の闘いによって「勝ち取られて」ゆくべきものです。その権利主張の表現形態、実現のための方途が抵抗と団結です。人民の側の抵抗と団結がなければ、基本権は無視され、棄却されてしまうでしょう。
選挙による間接民主主義は政権の大枠を構成しますが、間接民主主義は「現場」の問題を個々に解決するものではありません。むしろ現場の問題をさらに深刻にしてしまう場合があるのは、間接民主主義が権力者のカモフラージュであり、デマゴギーが政治の常套手段と化しつつあるからです。間接民主主義は行政権力を正当化しますが、一旦正当化された権力はむしろ人民の意向に逆らうと言っても過言ではない現実が存在します。現実の場面における抵抗と団結は直接民主主義の主張であって、それは権力者が忌避するものです。社会組織を権力者の思惑通り順調に運営するために、その成員(すなわち市民、労働者)の「抵抗と団結」はあってはならないものと見なされがちです。
今日、警察、検察、裁判所による不当逮捕、不当判決と見なすべき事例が多発しているのは、権力者の側に、デモや組合活動などの直接民主主義的な権利主張は「犯罪」であるという判断が働いているためではないかとさえ思われます。いわばそれが政策(「国策」)となりつつあるのではないでしょうか。直接民主主義的な権利主張とはすなわち直接行動的な権利主張、抵抗権と団結権の実際的な行使であって、それは権力によって取り締まりの対象とされがちです。それは社会の治安を乱す行為であると判断されてしまう傾向があります。しかし警察権力が憲法に照らして不当な弾圧を強行しつつあると見なされるときに、人民がこれに抵抗し、団結してその不当性を糾弾しなければ、結局はその不当な「政策」が正当化され、合法化されてしまうことになるでしょう。
選挙だけが人民に与えられた唯一の政治的意思表示の機会なのではありません。あたかも選挙によってしか政治的意思を表明することができないかのように考えられているのは、為政者によるそのような誘導が働いているからにほかなりません。そしてマスコミが権力者の思惑に従い、権力者に都合が良い情報しか流さず、虚偽が事実であるかのような言説が横行しているときには、選挙はむしろ真の政治的争点を逸らすものでしかないと言われなくてはならないでしょう。人民は単に政治的参加の「幻想」を与えられるに過ぎません。その結果は人民の自殺行為(民主主義の否定)に行き着くことさえあるのです。
基本権は長い歴史の中で勝ち取られた人民の抵抗と団結の成果です。それはもちろん選挙によって具体的に実現されるべきものです。しかし選挙だけがそれを保証するのではありません。間接民主主義は直接民主主義の裏づけを必要としています。個々の現場で基本権が蹂躙されていて、「民主主義的」な選挙だけが行われているというのであれば、そこには大きな欺瞞があります。具体的な生活の場面、労働の場面で、抵抗権と団結権が行使されなければ、民主主義は絵に描いた餅に過ぎないものとなります。
米国産牛肉の輸入問題を契機とする韓国のローソク集会は数十万の人々を呼び集めました。それは実に目覚しい動きです。そこに人民による直接的な権利主張の格好の例があります。当局の取り締りを凌駕する人々のそのような結集にこそ、民主主義が生きて働いていると言うべきでしょう。権力にとって、人民のそのような直接的な示威行動は「悪」であるかも知れません。しかし人民によるそのような意思表示の機会がなければ、政治は為政者の思惑通りに動くものでしかなくなるでしょう。
この間、基本的人権は「自由権・社会権・生存権」から成るということについて少し考え、またそれを帰属・所有・支配(「帰属・所有・支配」、「帰属・所有・支配 その2」参照)という人間社会の基本的カテゴリーから考察してきました。しかしここでは、2008年4月17日の、例の「イラク派兵違憲判決」によって、別の角度からそれを考えてみたいと思います。
法廷で実際に読み上げられた「自衛隊イラク判決理由の要旨」の見出しによって、判決の骨組みを示せば、判決は以下の四点から成っています。
1 自衛隊のイラク派遣の違憲性について
2 平和的生存権について
3 控訴人らの請求について
4 控訴人天木直人に特有の損害賠償請求について
今、ここに取り上げるのは、「平和的生存権について」の部分です。初めに逐次「要旨」を掲げ、次に「判決文」によって適宜それを補います。そのあと、補足や私の見解を述べる必要があれば、それを書きつけるという段取りで行きます。
〈2 平和的生存権について
(1)控訴人らの主張する平和的生存権は、現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であるということができ、単に憲法の基本的精神や理念を表明したに留まるものではない。〉
「判決文」には、この結論を述べる前に次のように書かれています。
〈憲法前文に「平和のうちに生存する権利」と表現される平和的生存権は、例えば、「戦争と軍備及び戦争準備によって破壊されたり侵害ないし抑制されることなく、恐怖と欠乏を免れて平和のうちに生存し、また、そのように平和な国と世界をつくり出していくことのできる核時代の自然権的本質をもつ基本的人権である」などと定義され、控訴人らも「戦争や武力行使をしない日本に生存する権利」、「戦争や軍隊によって他者の生命を奪うことに加担させられない権利」、「他国の民衆への軍事的手段による加害行為と関わることなく、自らの平和的確信に基づいて平和のうちに生きる権利」。「信仰に基づいて平和を希求し、すべての人の幸福を追求し、そのために非戦・非暴力・平和主義に立って生きる権利」などと表現を異にして主張するように、極めて多様で幅の広い権利であるということができる。〉
ここで「平和的生存権は、現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利である」と言われていることは重要です。そして控訴人らの「表現を異にする主張」を、平和的生存権はそのように「極めて多様で幅の広い権利」であるとして大らかに受け容れています。
憲法前文の「平和のうちに生存する権利」という言葉が出てくる段落全体を、念のために引用すれば、以下の通りです。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。
この憲法前文の「平和のうちに生存する権利」は「単に憲法の基本的精神や理念を表明したに留まるものではない」と言われ、「全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利である」とされています。憲法判断が「統治行為論」として忌避されてきた流れの中で、「平和的生存権」を「判決文」の中でこのように明確に立論するということは、極めて著しいことであると言わなくてはなりません。
〈(2)法規範性を有するというべき憲法前文が「平和のうちに生存する権利」を明言している上に、憲法9条が国の行為の側から客観的制度として戦争放棄や戦力不保持を規定し、さらに、人格権を規定する憲法13条をはじめ、憲法第3章が個別的な基本的人権を規定していることからすれば、平和的生存権は、憲法上の法的権利として認められるべきである。〉
人格権を規定する憲法13条とは下記の条文を指しています。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。
また憲法第3章は「国民の権利及び義務」と題されていますが、各条項に見出しをつければ、以下の通りです。
日本国民の要件(第10条)、基本的人権の享有(第11条)、国民の自由及び権利(第12条)、個人の尊重等(第13条、前掲)、法の下の平等(第14条)、公務員の選定及び罷免に関する権利等(第15条)、請願をする権利(第16条)、国等に対する賠償請求権(第17条)、奴隷的拘束及び苦役からの自由(第18条)、思想及び良心の自由(第19条)、信教の自由(第20条)、表現の自由(第21条)、居住、移転及び職業選択等の自由等(第22条)、学問の自由(第23条)、婚姻及び家族に関する基本原則(第24条)、生存権等(第25条)、教育に関する権利及び義務(第26条)、勤労の権利及び義務等(第27条)、勤労者の団結権等(第28条)、財産権(第29条)、納税の義務(第30条)、(刑罰の)適正手続の保障(第31条)、裁判を受ける権利(第32条)、逮捕に関する手続の保障(第33条)、抑留及び拘禁に関する手続の保障(第34条)、住居等の不可侵(第35条)、拷問等の禁止(第36条)、刑事被告人の権利(第37条)、刑事事件における自白等(第38条)、遡及処罰等の禁止(第39条)、刑事補償を求める権利(第40条)。
今回の判決では、これらの「国民の権利と義務」が「平和的生存権」の具体的保障、あるいは個別的な裏づけとして論及されており、従ってそれは「憲法上の法的権利として認められるべきである」とされています。「平和的生存権」をこのように総括的な地位に置き、その法的権利性についてそこまで踏み込んだ判断を下したということは、この判決の顕著な特徴であると言うべきでしょう。
〈(3)そして、この平和的生存権は、局面に応じて自由権的、社会権的又は参政権的な態様をもって表れる複合的な権利ということができ、裁判所に対してその保護・救済を求め法的強制装置の発動を請求し得るという意味における具体的権利性が肯定される場合があるということができる。例えば、憲法9条に違反する国の行為、すなわち戦争の遂行、武力の行使等や、戦争の準備行為等によって、個人の生命、自由が侵害され又は侵害の危機にさらされ、あるいは、現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるような場合、また、憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には、平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして、裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる場合があると解することができ、その限りでは平和的生存権に具体的権利性がある。〉
「判決文」では、続いて以下の補足的立論がなされています。
〈なお、「平和」が抽象的概念であることや、平和の到達点及び達成する手段・方法も多岐多様であること等を根拠に、平和的生存権の権利性や、具体的権利性の可能性を否定する見解があるが、憲法上の概念はおよそ抽象的なものであって、解釈によってそれが充填されていくものであること、例えば「自由」や「平等」ですら、その達成手段や方法は多岐多様というべきであることからすれば、ひとり平和的生存権のみ、平和概念の抽象性等のためにその法的権利性や具体的権利性の可能性が否定されなければならない理由はないというべきである。〉
この「平和的生存権について」の最後の段落で、初めて「自由権」、「社会権」という言葉が出てきます。「平和的生存権は、局面に応じて自由権的、社会権的又は参政権的な態様をもって表れる複合的な権利ということができ」ると書かれています。基本的人権において基底的権利としての「平和的生存権」は、局面に応じて自由権的、社会権的態様をもって表れると言われています。ここに「社会権的又は参政権的」とあるのは、社会権が同時に参政権であることを意味しているということでしょう。しかし参政権とは、単に選挙権・被選挙権のことを意味するだけでなく、より広い意味で、また様々な場面で、国民が政治に参加する権利のことを言っているのではないかと思われます。
しかし国民が「裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求める」行為は、「平和的生存権の主として自由権的な態様の表れ」であると言われています。国民が一個人として国の違憲行為に異議申し立てをする権利が、「平和的生存権」の自由権的な態様の表れであると言われているのでしょう。平和的生存権をそのような法的権利性や具体的権利性において承認していることこそ、この判決が持つ画期的側面であると思われます。
この判決は、現憲法が存続する限り、一つの明確な規範を提示していると言えるでしょう。しかしそれが国民の広汎かつ強力な支持を獲得しているようには見えないところに、理想では括れない社会の現実があります。自由権・社会権・生存権としての基本的人権は、現憲法によって保障されています。そしてそれは平和な社会においてのみ実現可能な権利であって、この判決が指摘するように、戦争は人間のすべての権利を破壊してしまいます。しかし日本国憲法の理想は、現実主義者の「正論」によって激しい挑戦を受けています。またロスト・ジェネレーションの青年たちは「希望は、戦争」と叫んでいます。この時代に、現憲法の理想を堅持することは、とても困難なことです。理想が高ければそれだけ、現実社会の矛盾が露呈してきます。しかし戦争は何の解決ももたらすことはなく、核時代の現代世界では、なおさらその悲惨さだけが浮かび上がってきます。戦争は万人から平等にその希望を奪うからと言って、そこにだけ窮状からの解放と平等を見ようとするのは、絶望した人間の「破壊の衝動」でしかありません。
「イラク派兵違憲判決」は、この時代に理想を語ることの意味とその問題性を、私たちに改めて法廷の場で突きつけるものでした。この判決を護憲論者の自己満足に終わらせないためには、理想の高邁さと現実の悲惨さとのギャップを、この自分に差し向けられた問題として、あるいは私たちひとりひとりの生き方と切り離せない問題として受け止め、その解決に向かって努力するほかはないでしょう。
人間の基本的な生き方というものを考えた場合、宗教は大いに参照されるべきでしょう。しかしそれは宗教以前の事柄であって、今日までは宗教としてそれが考えられてきたのだと言うべきことのように思われます。その人間の生き方の中心にあるものはどうやら瞑想と呼ばれるものであって、「静坐のすすめ」で取り上げたようなことです。
静坐(瞑想)を人間の生き方の中心原理とした場合、そこから次の三つの原理が生まれてくると思われます。一つは気づきです。気づきとは瞑想によって与えられる知恵であると言ってもよいでしょう。それを私は統覚原理(apperceptive principle)と呼びたいと思います。統覚という言葉はカント哲学の訳語であって馴染まないので、「明覚」とすべきかもしれません。はっきり覚知するというほどの意味です。次に戒めというものが考えられるでしょう。人間は戒めを離れて正しく生きることは不可能です。それは規制原理(regulative principle)と言うべきものです。しかしそれをあまり難しく考える必要はなく、ゲームのルールのようなものだと見なしてもよいでしょう。そしてもう一つの生き方の原理というべきものは、気遣いです。この気遣うということに人間の実践に伴うすべてが含まれます。この気遣いは生成原理(generative principle)と呼ばれるでしょう。すなわち、そこから何かが「生み成される」、あるいは「生み出される」と理解されるからです。生産的な実践、あるいは何かを遂行するところには、この気遣いがあります(「気づきと気遣い」参照)。
これを整理すると以下のようになります。
すなわち生き方の中心原理=静坐(瞑想)、統覚原理=気づき、規制原理=戒め、生成原理=気遣いとなります。私はこの四つの原理を、キリスト教や仏教などの宗教の骨格をなすものと受け止めています。しかしそれを宗教的に考える必要はありません。むしろ宗教をそこから捉え直すべきではないかと考えます。宗教には余計なものが数多くつきまとっているので、この基本的な原理が見えにくくなっています。
気づきと戒めと気遣いが人間の生き方のすべてを覆います。だからそれは「基本原理」と呼ばれます。人間がその通りに生きたら、世の中はどんなに住みやすくなることでしょう。しかし人間の生き方は限定されていて、その原理は自分が居る場所でだけ通用するものになりがちです。その原理は自分の仕事や、身のまわりの人間関係にだけ適用されて、より普遍的な原理として自覚されることがありません。それをより普遍的な原理として捉えるためにこそ、静坐(瞑想)がなされると言うべきでしょう。
賀川豊彦は、社会には「文化目的の達成、生活の安定・変化の許容・労働力の保全、成長の保障・選択の自由・法的規制の遵守」という目的あるいは達成すべき課題があると述べました(「目的的世界の七つの要素」参照)。これはこれで大切な指標です。しかし個人生活に照準を合わせて、もっと単純な生き方の原理として示せば、「気づき・戒め・気遣い」が、人間が生きる上での指標となると言えるのではないでしょうか。人間はこの原理に基づいて成長すべき存在です。これらの原理は家庭生活でも、仕事でも、学問研究でも、その他の社会活動でも、何にでも適用される個人の生き方です。そしてこれを実行するならば、各人それぞれの気づきと戒めと気遣いとが見出されてくるでしょう。
上に述べたことは、人間のポジティブな生き方というものをあまりにも単純化していると言うべきかも知れません。しかし人間の生き方は、そもそもごく単純なものなのではないでしょうか。問題はその実践の如何に関わっています。各人各様にこの原理に基づいて、よりよく生きていくところに個人の成長と社会の発展とがあるでしょう。
「ユングとキリスト教 その2」のところで、精神科学と社会科学との総合という問題に触れ、精神=社会科学(サイコ・ソーシャル・サイエンス)というべき学問が生れるべきではいのかと書きました。その先例は既にエーリヒ・フロムなどに見られるものですが、このような主張がなされるためには、人間の生はサイコ・ソーシャルな現象であるという、ある意味では当然の、一個の前提が確認されなくてはならないでしょう。
社会心理学という学問がありますが、それは個人心理学に対する社会心理学ということであって、必ずしも精神科学と社会科学との総合という広い意味で理解されてきたわけではないと思います。人間の精神性と社会性とを同時に視野に収めるということは、この間、このホームページ上で様々な形で論じてきたことにつながっています。マルクス主義者が階級意識を論じるとき、そこにも精神性と社会性の同時性についての洞察があるのですが、その議論に限定されない形で、ニーチェやフロイトの問題提起なども受け止めて、それを精神=社会科学的な問題として再提起することが、今日、必要とされていることのように思われます。マックス・ウェーバーはやはりその偉大な先駆者として屹立していると言うべきでしょう。心の問題は社会の問題とは直接につながらないという「常識」が支配しているところでは、人間に対する洞察が歪められてしまうと思います。
サルトル(サルトルのマルクス主義参照)が「現象学」と「弁証法唯物論」とをある意味で総合しようと企てたところにも、同じような問題意識があったでしょう。ひところ現象学的社会学という試みが注目されたことがあったと思いますが、それもまた人間の生のサイコ・ソーシャルな側面への着眼であったとも言えます。現象学は心理学ではないという議論は承知の上で、敢えて結びつけて言えば、そこにも似たような問題意識があったのではないかと思われます。新約聖書学の世界では、G.タイセンの「文学社会学」の方法論が、荒井献氏や大貫隆氏によって紹介されています。これもまた聖書学へのサイコ・ソーシャルなアプローチであると言えなくもありません。聖書テキストという文学表現も一個の精神・社会現象だからです。
精神=社会科学(サイコ・ソーシャル・サイエンス)という学問が、そのような形で成り立ってくるとして、その成果に基づいて、次には精神=社会分析(サイコ・ソーシャル・アナリシス)という作業が試みられることになるでしょう。精神分析は決して精神の分析だけに終るものではなく、クライアントの社会生活を考慮に入れた「社会分析」がなされなければ、十分であるとは言えません。そしてその精神=社会分析の作業は一人の患者・クライアントに対してなされるだけでなく、ある特定の社会事象を考察するときにも適用されることになるでしょう。たとえば、なぜ今の日本で声高に愛国心教育が強調されつつあるのかということについて、この精神=社会分析を試みるということが可能ではないかと思います。つまりそれは批評活動につながってきます。
この日本では、専門性によって分断された知性が、社会的圧力によって沈黙を強いられるということが起っています。その壁を取り払うためには、学問の世界で、精神=社会科学というべき総合の試みがなされなくてはならないでしょう。一箇半箇の知識の断片がものを言うのは、その知識が、この現実世界の精神=社会的な文脈の中に置かれたときです。秀れた知性が狭い専門性の中に閉じ籠もっているとうこと自体、精神=社会分析を試みるべき問題なのだと思われますが、その専門的知識を広い文脈の中に置き直すためにこそ、精神=社会科学という総合的な知識が求められると言うこともできます。
今日、時代の急激な変わり目の中で、インターネット上では、多くの人たちによる精神=社会分析が事実としてなされ、一つの批評空間を形成しています。一つの有力な言説空間として、それが生かされるためには、より多くの人たち、特に知識人の参画が求められています。その議論に方向性を与えるものは、自分たちのしていることが、結局のところ、精神=社会分析であるという自覚ではないかと思われます。