閑老人のつぶやき 宗教について 4

     1 加担・連累・結託・習性

     2 神学はいらない その1

     3 神学はいらない その2

     4 放棄と充溢

     5 目標管理的経営と教会の六つの変換モデル

     6 意識変革・社会変革

     7 分け合うことの奇跡

     8 神を見る

     9 自覚・自知・自立の自由

    10 「3Es」の関係

T 加担・連累・結託・習性

〔そして、人びとはおのおの家に帰って行った。イエスはオリブ山に行かれた。朝早くまた宮に入られると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた。「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕(ヨハネ7:53〜8:11)

この箇所は聖書でも〔 〕で囲われていて、異本によっては記載されていないということが示されています。教会で伝承されていたものがおそらくあとで付加されたのであろうとされています。しかしそれがどこまで史実を反映しているのかどうかについては、ここで問うところではありません。

罪を犯すというとき、言うまでもなく、それは、ある社会で、してはならないこととして禁じられている行為をすることを意味しています。ここに出てくる女は、当時のユダヤ社会で石打ちの刑に価するとされている、明らかな罪を犯した者として登場します(売春婦であった可能性もあるでしょう)。

それに対して、「罪なき者、この女を打て」と言われて、ひとりびとり引き下がった者たちにとっての「罪」とは一体何でありえたでしょうか。個人的に罪を犯していても、たとえば姦淫の罪を犯していても、男優位の社会では女だけが裁かれるということもありえます。あるいは何かほかの罪であっても、それが社会的に暴かれていない、隠されているという場合もありうるでしょう。法律的な意味での罪と、宗教的な意味での罪の違いをここで持ち出すこともできるかもしれません。イエスは「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイ5:27〜28)と言いました。あるいは、女の罪を糾弾する者たちは、本当にはその罪を問題にしていたのではなく、日頃から、神でもないのに「罪を赦す」などとほざいているイエスを涜神罪としてひっとらえるか、もしイエスが自分の身をかばうために「石で打て」と言えば、前言をひるがえす不誠実な男として社会的な評判を落すことになる(つまりどちらに転んでも、イエスを陥れることになる)と企んでいたのに、ほかでもない自分たちの罪を問われて、虚を突かれたということであるかもしれません。いずれにしてもこの社会に、「罪」のない、完全な人間など居はしません。

先に私は「PAULの生き方」について書きました。それは参入・覚醒・理解・実存の意味だったのですが、そこでは「罪」の現実は何も考慮されていません。つまり「きれいごと」で終っていました。参入とは、見方を変えれば悪事に加担(take part in)することです。たとえ意図的に悪事に加担するという意識がなくても、日本という国家社会の一員として生きていくということは、今日のグローバルな格差社会、グローバル・アパルトヘイトという文脈においては、壁で囲われた豊かさの中で、結果的に他者を切り捨てて生きているということではないでしょうか。ベトナム戦争、朝鮮戦争という戦争特需によって日本の経済は飛躍的に発展したと言われています。我々はその豊かさに与って今日まで生きてきたのではないでしょうか。つまり体制に加担して生きているということ自体が、既にきれいごとでは済まされない事柄を指し示しています。

テッサ・モーリス=スズキの『批判的想像力のために グローバル化時代の日本』(平凡社、2002年)という本で、私は花崎皋平と徐京植との間で激しい論争があったことを教えられました。以下、それに関わる部分を引用してみます(p.47-49)。

〈九九年五月、六月の『みすず』誌二号にわたり、花崎は加藤典洋の「哀悼の共同体」像を批判し、現代日本社会の再構築のためには、植民地主義の遺産と過去に対する責任負担直視するプロセスを含まねばならない、と主張した。この論考の過程で、また同時に、近年のさまざまな著作(上野千鶴子、岡真理、そしてわたしを含む)によって考察されたポストコロニアルな責任へのアプローチの強さ/弱さを花崎は検証し、厳しく批判した。

この花崎論文は、広範囲にわたる重大な問題提起だったのだが、そのなかでとりわけ問題となったのは、『ナショナリズムと「慰安婦」問題』と題されたシンポジウムでの徐発言にかかわる指摘だった。花崎は以下のようにまとめている。

「彼は国家の補償責任について発言するなかで、日本国家を変えていく一義的な責任者はあなた方日本人であると強調し、日本の旧財閥系企業や今日の大手ゼネコンはほとんどすべてが植民地支配と戦争で大きな利益を得ており、その土台の上に戦後日本の繁栄があり、国家と企業と日本国民とが過去の共犯関係をそのまま持ち越し、現在もその利権を維持している、あなた方の一人一人はその受益者であり、その特権の構造のなかにいるのではないか、そして、戦後補償をさぼっているという現実自体がすでに犯罪ではないか、それを知っているならばすでにそれは責任当事者ではないか、そのことを薄々感じながら現在の生活にしがみついているのではないか、『日本国民としてこの歴史的、現在的な利権の構造のなかにいる日本人は、その日本人としての責任があるのではないか。日本人として責任をとるということはまさにそういうこと』であると指弾している」(『みすず』四五九号、「『脱植民地化』と『共生』の課題」下)。

この論文で花崎は、徐の差別批判の重大性を評価しつつ、しかし徐の主張は、「マジョリティ」と「マイノリティ」、かつて植民地化した者と植民地化された者との対話の可能性を開くのではなく、むしろ拒絶する「糾弾」型であると非難した。

これに対して、たとえば七〇年代からのアイヌ先住権運動活動家たちによって展開されたもの、あるいは、エスニックな差別と性差別のイシューにかかわり『つぶやきの政治思想』で李静和によって展開された、非直接的で詩的言語による対話の形式で、より有意味な「コミュニケーションのモード」が成立しうる、と花崎は示唆した。

これに対し、徐京植は反論を試みた。

「私は、日本国民であるだけで直ちに『共犯者』であるという単純な『指弾』は行なっていない。国家と企業の『共犯関係』によってもたらされた利権構造のなかにある日本国民には被害者に対する政治的な『責任』があるのであり、その『責任』があることを認識しながら利権構造のおこぼれにあずかるために責任を回避するならばそれは『犯罪』ではないか、と述べているのである。なお、『指弾』という用語は花崎氏のものであり、私は用いていない。花崎氏こそが私の論旨を曲解し、自らが単純化した『指弾』に対して感情的な反応をしているのではないか」(『みすず』四六一号「あなたはどの場所に座っているのか?――花崎皋平氏への抗弁――」)。

さらに徐は、「他者からの『糾弾』(これも花崎氏の用語である)に対する応答を『一時の熱』に終わらせるかどうかは、基本的に、問われる側の問題であって、問う側のそれではないだろう」と続けた。〉

ここに「我々は体制に加担して生きている」ということの意味が如実に示されています。

この「加担」ということに加えて、テッサ・モーリス=スズキが同書で、私には「罪」の意識ではなくて、「連累」があるということを述べているので、次にその部分を引用してみます(p.56-58)

〈オーストラリアへの最近の移民たるわたしは、先住民アボリジニに対して過去に行われた収奪や虐殺の悪行と現在のわたしとの関係を考え、わたしには「罪」の意識ではなくて、「連累(implication)」がある、と結論した。現在も生き続ける過去の不正義を是正する「責任」がわたしたちには確実にある。その生き続ける不正義と過去との関係を明瞭化するためには、「連累」という概念が意味を成すのではなかろうか。

わたしの言う「連累」とは、過去との直接的・間接的関連の存在と、(法律用語で言うところの)「事後共犯(an accessory after the fact)」の現実を認知する、という意味である。

この「連累」という概念は、戦前戦中に行われた日本の植民地主義的拡張や侵略の歴史と、戦後世代の日本「国民」との関係においても、また同様に適用しうるものであろう、と考える。

この言葉を、私は加藤(典洋)批判論文で、説明不足のまま短く使用した。その意味にかかわり、花崎皋平『みすず』論文上(一九九九年五月号)でも、より最近の高橋哲哉『ピープルズ・プラン研究』報告(二〇〇〇年三月号)でも問われた。この場を借りて答えておきたい。

「連累」という言葉は、過去との関係にかかわる「罪」という言葉より、ソフトで曖昧なイメージを意味するものではない。別の角度から、より正確な過去との関係を示唆する、とわたしは思う。

たとえば、高市早苗衆議院議員から、オーストラリア連邦首相ジョン・ハワードに至るまで、彼ら彼女らが直接関与しなかった歴史的不正義には、「恥」や「罪」や「責任」の意識を感じる必要性は一切ないと主張している。しかし、そうだろうか?

「連累」とは以下のような状況を指す。

わたしは直接に土地を収奪しなかったかもしれないが、その盗まれた土地の上に住む。わたしは虐殺を実際に行わなかったかもしれないが、虐殺の記憶を抹殺するプロセスに関与する。わたしは「他者」を具体的に迫害しなかったかもしれないが、正当な対応がなされていない過去の迫害によって受益した社会に生きている。

わたしたちが今、それを撤去する努力を怠れば、過去の侵略的暴力的行為によって生起した差別と排除(prejudices)は、現世代の心の中に生き続ける。現在生きているわたしたちは、過去の憎悪や暴力を作らなかったかもしれないが、過去の憎悪や暴力は、何らかの程度、わたしたちが生きているこの物質世界と思想を作ったのであり、それがもたらしたものを「解体(unmake)」するためにわたしたちが積極的な一歩を踏み出さない限り、過去の憎悪や暴力はなおこの世界を作りつづけていくだろう。

すなわち、「責任」は、わたしたちが作った。しかし、「連累」は、わたしたちを作った

したがって「連累」は、心理学的状態であると同時に、継続する不正義の構造に抗した社会的政治的な参加でもある。まさに歴史的暴力に対応するのに政治的に失敗してきたことが、歴史的嘘で塗り固められた差別と排除を生き残らせ、その再生産を許してきたのではなかったのか(差別や排除は、被差別者、被抑圧者に対し暴力を及ぼすばかりでなく、その暴力によって創出された権力構造の位置を有意味なものにするためにも、再生産される)。〉

まさに「加担」と「連累」とは私たちの「社会的罪」の現実を構成していると言うべきではないでしょうか。もし私たちがこの現実に目をつぶり、勃興する「虚無的ナショナリズム」に結託(collusion)して生きるならば、私たちに再び「戦争責任」がのしかかってくるのではないでしょうか。しかし、権力が権力の批判者を不正義とみなし、その者たちの運動を犯罪の「共謀(collusion, conspiracy)」として処罰するとき、加担と連累の現実は暴力的に消去されます。そしてそのようなあり方が「国民」の「習い性」となるとき、かつてと同様に、他国民を蔑視して憚らない傲慢な国民性が生じてくるでしょう。


U 神学はいらない その1

「神学はいらない」と言ったのは賀川豊彦です。私はかなり長いこと「キリスト教後のキリスト教(Post-Christian Christianity)」、「非キリスト教的キリスト教(Non-Christian Christianity)」とでもいうべきものを探究していて、田邊元などが言う第二の宗教改革、キリスト教の再改革(re-reformation)は、そういう形で必ず起るべきものと考えてきました。既成キリスト教は、そのままでは今日の社会に適合しなくなっているからです。その新しい形での「キリスト教」(それはキリスト教的自由宗教、宗教からも自由な宗教と言うべきものでしょう)のあり方を考えていく上で、私は内村鑑三にかなり関心を抱いてきました。しかし最近、賀川豊彦にも関心の目を向けるようになりました。(念のために言えば、それは二人の立場をそのまま支持するということではなく、私の言う「キリスト教後のキリスト教」への分水嶺に立つ人たちとして、注目するという意味です。)

厖大な著述を行ない、また多彩な活動を展開した賀川豊彦を研究することは、それ自体が大仕事であって、私の手に余ります。しかし、別にあせる理由もないので、徐々にそちらにも手を伸ばそうと考えています。その手始めとして、賀川が何を行ない、それがどのように見られていたかということについて、黒田四郎著『私の賀川豊彦研究』(キリスト新聞社、1983年)の「賀川豊彦の神学思想」という章の「V 改革派教会の批判と他の誤解」から、例によって主要部分の「書き写し」を行いたいと思います。その次に、やはり同書によって、「神学はいらない」という本題に入りたいと思います。

〈以上のように賀川先生は南長老ミッションに属するローガン先生とマヤス先生から普通の社会では見ることもできない程に、ほんとうに温かいクリスチャンの愛を豊かに受けて成長し、今まで誰もなし得なかった新川を中心にした救貧活動のために人間わざとは思えないほど働き抜いた。そして救貧と防貧に大きな業績を残した上に、著述家としてもベストセラーになったものを含めて三百冊近い著作を発表して、世界的偉人と崇められることになったのである。

すると世界を驚かすようなその働きに対して、ごうごうたる批判、非難の声があがった。

その第一が先生を育ててきた南長老派のミッション関係から起こった。南長老派の神学者たちが米国において猛烈な反対を起こし、改革派の神学から批判が展開された。それは賀川先生が貧民窟の救済のみならず、当時貧乏だった労働者や農民の組合運動の指導者となり、精神運動のみならず社会運動にまで手を伸し始めたからであった。

ところが一方では『死線を越えて』が国内はもちろん、海外でも十三カ国で超ベストセラーとなり、先生が全世界を揺り動かすような大人物となってしまった。その上、世界的伝道者となり、救貧活動者となり、世界平和運動者となってしまった。さらに1934(昭9)年のデフレで世界経済が不安に陥った時に、超経済大国であるアメリカ合衆国が大統領の名によって「ドクター・カガワの提唱する『協同組合国家による世界平和理論』によって、アメリカ合衆国の経済の建て直しをして欲しい」という要請があった。それで先生は1935(昭10)年の七月から半年間、米国の主要都市で政府主催の「協同組合の運営」についての講習会を開いて、協同組合による不況克服の道を指導して回った。

各地で米国政府の首脳が同行して盛んな経済運動を続けた。昼の間はそのために時を費やしたが、夜は各地で盛んな伝道集会を開いてキリストの信仰によって新しい社会の建設を叫び続けた。その時賀川先生の伝道に猛烈な反対を続けたグループが二つあった。一つは共産党であった。共産党は、暴力革命に反対する先生がどこに行っても猛烈に反対した。

しかしもう一つ最後までしつこく反対したのが、何と先生を若き日に育てた南長老派の諸教会であった。明確な南長老派の神学に立たず、いろいろな教派と一緒になって神の国運動を起こしたり、社会を救うために労働者や農民など非クリスチャンと共同戦線を張ることは不信仰であると、ドクター・カガワの運動を半年間にわたって最後まで猛烈に反対し続けたのである。

賀川先生は世界大戦によって崩壊した全国の教会を再建するために、「新日本建設キリスト運動」を全国的に起こし、1946(昭21)年から三年半、私を連れて全国津々浦々を巡回した。日本の各地にあった目ぼしい教会堂が廃墟と化した時に、この運動がその再建のためにどれだけ大きな貢献をしたか知れない。また戦災ですべてを失っていた時に、全世界から「ドクター・カガワ・イン・ジャパン」という宛名だけで毎日物資やお金がおびただしく送られてきた。そのあるものは私自身の手で各地へ送り届けたが、その莫大な物資やお金がどれだけ当時の諸教会の再建に役立ったかしれない。」

その時も南長老派の人々はやはり神学的に「賀川先生は間違っている」と言って、日本でも賀川先生に対する鋭い批判を続けた。……

南長老派のみならず、他のいろいろな教派の人たちの中にもやはり「賀川先生には神学がない」とか、「あまり非クリスチャンと妥協しすぎるから」と言って、批判したり反対したりする人も多かった。しかし戦争後は戦前に比べて賀川先生もだんだん受け入れられるようになった。〉

賀川豊彦は、当時のキリスト教とマルクス主義とのイデオロギー的な対立状況の中で、両者の板ばさみになって生きた人であると言えるでしょう。マルクス主義に対しては、賀川は一方的にこれを斥けたのではなく、それは病理学(社会問題という症状の分析)としては正しいが、治療学(問題解決の方法)としては問題があるという立場でした。いわば暴力革命という外科手術一点張りの治療法に疑問を感じていました。自身は、1920(大正9)年に『主観経済の原理』、また戦後の1949(昭和24)年に『人格社会主義の本質』という本を書いています。今日風に言えば、賀川流にマルクス主義を咀嚼しつつ、「現象学的社会学」の構築を目指したものと言えるかも知れません。しかしそれらを批判的に吟味することは、これからの私の課題です。


V 神学はいらない その2

前の「改革派教会の批判と誤解」(引用者注:戦後、南長老派の諸教会の名が変わって改革派教会となった)という章に続けて、黒田牧師は「W 唯一の神学講演『実現の神学』」へと筆を進めます。「先生が四十歳で私が三十二歳の年のことである。神の国運動で二人して東北地方を旅行していた汽車の中の出来事であった。突然、『神学はいらないよ』と言い出した。前章で書いたように、神戸神学校出の若い洋行帰りの人たちが、改革派の神学を振り回して、『賀川先生には神学がない』などと非難をしていたので、ふとそう言われたのかも知れない。」

「かねがね公開の講演の中でもふと、『神学はいらない』と言われることがあった。それは当時若い人たちが、少し理論的にものを考えると、得意になって、『絶対的に』『普遍的に』などという十分わかりもしない難しい言葉を盛んに使って、内容のない話を得意になってしていたからである。私も聞いていて不愉快な思いをよくさせられたので、『神学はいらない』という気持ちもなくはなかったのである。まして前にも述べたように改革派の若い人たちが理論をこね回して、『賀川先生には神学がない』と批判していたので、先生が「そんな神学はいらない」というのも一面から言うと無理のない発言だとは思った。」

「しかし当時は1929(昭4)年で、高倉徳太郎先生の『福音的基督教』が出版されて非常な反響をよんでいる一年後であり、またバルト神学が一般に愛読されていた時であった。私もそれまで六年間神戸神学校講師を勤めていたのを賀川先生の要請で、神の国運動に参加したのであった。それで私も先生に慎重に発言して欲しいと頼んだのである。」

「私は、頭のよい天才的である先生がしっかりとした神学を持っていることもよく知っていた。しかしまた一面日本のクリスチャンには我流の人が多く、自己流に聖書を解釈して勝手な理論をふりまわしている人たちも随分多かった。それで私は、先生自身は神学の必要はさらさらないが、弟子たちには『もっとしっかり神学を勉強しろ』と言って欲しかったのである。それでその時、初めて強く先生の言葉に反対して、『神学の必要性』を主張して止まなかったのである。」

賀川は「そんな神学はいらない」と言ったのではなく、端的に「神学はいらない」と考えていたのではないかと、私は思います。いわばイデオロギーとしてのキリスト教を理論的に支える「ドグマの体系」としての神学を、賀川は既に脱却していたのではないかと思います。それは「事実の子たれ」と言った内村鑑三の思想にも通じるものがあるでしょう。そうでなければ、「非クリスチャン」と一緒に社会運動を起すなどということは、そもそも不可能だった筈です。しかし神の国運動の同労者、黒田牧師から初めて強い反論を受けて、賀川は自分の立場を「神学的に」弁明する必要を感じたのでしょう。そのあと賀川は後にも先にもただ一回の「神学」という題をつけた講演をすることになります。

「(賀川とやりあったのは……引用者)春もたけなわの頃であったと記憶するが、それから約四ヶ月ほども経った1929(昭4)年の七月末に、突然「実現の神学」という講演をされたので、私はびっくり仰天してしまった。」(引用者注:この項の見出しから察すると、それには「化身主義の宗教哲学」という副題がついていたようです。「神学」の講演に直ぐ「宗教哲学」という副題を添えるのは、いかにも賀川らしいところです。)

「その頃先生は毎年七月の末には、先生の作られた奉仕団体であるイエスの友会の夏期修養会を開いておられた。その年は奈良県の有名な史蹟多武峰/トウノミネにおいて開かれたのであるが、突然「実現の神学」という題で主題講演をされたのである。……この講演はいまだ書物の形で公表されていないが、イエスの友会の月刊誌の『火の柱』に、当時賀川先生の講演をよく筆記されていた吉田源治郎先生の筆記によるものが載っている。そのうちから、大体の梗概を記させて頂くことにする。」

以下、賀川のキリスト教についての思想を知るのに便利なので、その梗概のさらに「要点」を記し、( )内にコメントをつけ加えます。

宗教経験の総合としての神学 私は神学を帰納的に取り扱うため、神学を人類経験の宗教心理的総合として考える。そしてギリシァ的な方法の組織神学よりも、むしろ聖書神学の立場をとる。ギリシァ神学を扱うにも、私はその根底にある宗教経験を主に見てゆく。

イエスの宗教経験を基礎とする時、イエスは神をどう見たか? 神を全知、全能、無限、絶対としてでなく、生ける愛の良心の中に示現せられる救わんとする意志として考えたい。それは深い原理をもつ。

(賀川には「イエスの宗教」という視点があります。「神の国運動」はそこに起因すると思われます。それはどちらかと言えば「近代主義神学」の系譜に属するもので、「バルト神学」的な切断の鋭さはありません。賀川はシュライエルマッハーを評価しています。だからカール・バルトだったら決して容認しないであろう、次のような神観が語られます。以下、賀川著『神と歩む一日 日々の黙想』九月二十五日(キリスト新聞社)からの引用。

宇宙生命 私の神は、私の概念や、想像から、製造した神ではない。私の神は私の想像する前に、私をして生かしてくれる、この不思議な生命そのものである。私は、概念や想像を全く棄てることができる。然し生命を棄てることは出来ない。この直感の生命を、私は仮に神と呼んで居る。

それは、宇宙の意志と呼んでも、宇宙の生命と呼んでもいい、その宇宙の生命は、法則と計画を持って、自然を現し、凡ての生物を進化せしめ、その中に私の意識をも型造り、私の良心を、明確に私の生命の起点として据えつけてくれた。そして私の場合には、良心を除いて生命を意識することは出来ず、良心と生命は同一体のものとなって居る。

だから私は、遠い所のことは知らないけれども、宇宙生命の片隅が、良心として、排け口を私の衷に現して居る以上、宇宙生命全体が、矢張り良心そのものである、と考えて差支えない。だから私は、良心のある宇宙生命を、人格神と考えるに少しも躊躇しないのである。「わたしは、日夜、祈の中で、絶えずあなたのことを思い出しては、きよい良心をもって先祖以来つかえている神に感謝している。……」(Uテモテ1:3−5)

賀川は私の言う「良心同一性」のうちに神を感じ取る人でした。「三相の自己」参照。)

一元論の種類 一元論にも二つの系列があり、一つはギリシァ系の主知一元論、もう一つはキリスト教一元論で主情意的一元論あるいは実践的一元論である。キリスト教はギリシァ哲学の影響を受けて、第一世紀、第二世紀頃は主知的一元論をとっていた。しかしその十何世紀も以前から、モーセ、エリヤ、イザヤのごときは、良心宗教の実践的一元論を信じてきた。彼らは良心運動に励んでいるうちに、良心の霊的焦点をもつようになり、神は一つであることを考えて経験的に実践的一元論を発見した。キリスト教はそれを伝統的に継承して来て、われわれが良心生活を送り、良心の責任を感ずれば感ずるほど、実践的一元論がはっきりと理解されて来る。

例えば物質を見る時も、内側にあるものの外部への作用として考えるようになり、創造の意味が了解される。この点外側のみを見る主知的ギリシァ哲学とキリスト教の見方とが異なる点である。セム族の神学はカント哲学に似ていて、実践的理性批判の立場をとっている。良心とその実践を基としてゆくと、一つの不動の神が発見される。われわれがただ主知的に外部の世界のみを見ると、そこには物質的なものの外に何もないが、内側を見ると、そこには生命的なもの、その内容としての愛が理解される。

キリスト教は元来宇宙観を詳しく説明しない。例外としてマルコ第十三章に世の末のことについて少しばかり論じているが、宇宙の構造については何も言っていない。外部的な主知的一元論は時代と共に推移する。しかし良心的に内部的に切り込むものは深くて不変である。それ故、実現の神学は実践神学で、それは実践理性批判を基礎とする。従って実現の神学は、飽くまでも良心宗教を基礎とする。

恩寵の神学としての実現の神学 この立場から宗教経験を基礎とした神学を建設することは可能なのである。ハルナックには前にも述べたようにギリシァ的な主知主義が多分に残っている。そして前述したように、セム族から受け継いだ実践的一元論の見解をとるわれわれは、ギリシァ的な主知主義の神学や唯理的ハルナックの見解にはどうしても満足できない。われわれの考えるのは、実践的な愛の神学である。それは良心生活を基礎とし、良心に映る神を経験しようとする。そこに神の経験が、より新しくせられ、より深められる。それを体系づけたものが実証的神学である。それはまたパウロの恩寵神学でもある。ギリシァ主知主義は、キリスト神学(イエスの宗教思想のことであろう)とパウロ神学の間に区別を立てるが、われわれにはその必要がないと思う。キリストとパウロとが言わんとしたところは外でもない、ただ愛についてであった。しかもその愛は実証的な愛であった。愛を除いてしまえばキリスト教神学は成り立たない。

……

観念の遊戯としての主知神学 神の愛という思想はフィロー(アレクサンドリアのフィロンのこと)の哲学にもある。パウロの言うところの神は実現のある神、即ち愛の神である。従ってパウロの神学は実践的で、神の愛が有限のうちに時間的空間的にあらゆる場合にくい込んで来る。キリスト教神学はかように実践的であるから、主知的なギリシァ神学とはその類を異にしている。ところが神学校では今日でも主知的な神学を教えて、実践的な実現の神学を教えることを忘れた。それで神学校の神学は単なる観念遊戯としての神学に堕落したのである。キリストやパウロは神学を教えなかった。パウロはキリスト愛実現のためにその方法として理論をたてたのであった。愛を深く歴史的にまた宇宙的に味わわんとしたのがパウロであった。そこには恩寵の神学の発展があった。

愛による進化としての宇宙進化論 パウロは突然にこの恩寵を体験した。乱暴者の彼が急に生まれ変わってキリスト愛の運動に加わった。故に彼は自分のようなキリストを誤解していた者が救われたのは、全く神の恩寵によるものだと考え、恩寵を通じてユダヤ民族の歴史を見直し、そこに彼独特の恩寵史観が生まれた。キリストはこうした歴史哲学を示さなかった。キリストにあるものは単なる預言者的傾向である。しかしパウロは歴史を恩寵即ち愛の発展として見たのである。クロポトキンは進化の要素として相互扶助を説いたが、パウロは人間の意識的行動の中に、またユダヤの歴史のうちに、神の恩寵のあらわれを見たのであった。一度失敗したものが、もう一度神の愛によって再生せしめられるというのが、パウロの恩寵史観である。

無限の愛が有限に表現せられる場合に、その方向は一定である。それが予定論である。その実現された愛が先在するというのが先在論である。しかしまたその愛は再生せしめる愛であるというのが復活論である。パウロ神学の予定論、先在論、復活論は要するに絶対の愛と有限の愛との関係に対する説明なのである。

……

しかし無限の愛が、われわれ有限のうちに浸潤して来る。即ち超越の父なる神が有限の中に実現される場合、愛は実現して十字架の形をとる。神が愛を通して人間の肉体の中に実現される。即ち神は化身して、肉体の形をもって表現される。これが愛による倫理的神秘主義である。そして神は超越的の愛であり内在的愛であり表現的愛である。それが父、子、聖霊なる三位一体の信仰である。

……

(化身という言葉は賀川に独特のものです。英語のpersonificationに相当します。辞書には定冠詞をつけて「(ある性質・性格の)権化・化身」とあります。動詞のpersonifyには「(ある性質・性格を)具体化する、象徴する、(…の)権化である」という訳語が載っています。化身は、受肉の教義を理解するための工夫であると思われます。なお「三身論」を参照のこと。)

社会運動の根本哲学としての化身主義 物質生活のうちへ神の愛を翻訳する時それは十字架の形をとる。これがわれわれの社会運動の根本哲学である。初めに愛の表現があった。そしてそれは神と共にあった。私はヨハネ伝第一章一節をこういう風に読む。即ちそれは神の側から人間の側へ飛び下りたことである。ヨハネはこれを「言は肉体となりて我らの中に宿りたまへり」と記している。即ち神の無限の愛が有限の世界に自らを表現し、肉体を通して神が発言(「発現」の誤記か)することを意味する。これは実に思い切った考えである。マルクス哲学は物質のみを見て無限の愛を考えないから、唯物的である。しかしヨハネは単に肉体として考えないで、それを無限の愛の表現として考えた。

……

神学は人生観に対しての神学であるべき筈である。決して宇宙の構造や方法を説明するものではない。ところが今日において、宇宙の物質的な構造と法則を説明する科学と人生観を基礎とする神学はおのずから愛の神学とならざるを得ない。良心によって純粋の愛を直観する所に宇宙意志が認識される。われらの神学はこれで十分である。

宇宙構造を基礎とした主知神学は永久に成立しない。なぜなら宇宙構造の見方は永久に進歩するからである。昔の人は神学を以って引力の法則を説明しようとした。そこにガリレオと法王との衝突があった。神学には宇宙構造を説明する必要はない。われわれは良心を基礎とし、その実践を重んじる。そしてその方面の経験を綜合した実践神学を建設する。新約聖書に宇宙構造の説明はない。良心における神の作用を知ることによって、われわれは宇宙の内部から宇宙の本体を測量することができる。

良心は一つの小宇宙である。良心を見るならばそこに宇宙全体の綜合がある。しかしこれを主知的に理解しようとする時にはいつまでたってもわからないであろう。もし愛を実行し熾烈なる良心生活を送っているなら、その突端に宇宙の力が感電してくる。そしてそこに十字架の神学の可能が発見せられ、もう一度そこに新約の意味をとり返すことができよう。われわれはギリシァ哲学と聖書神学とを混同することなく、愛の歴史の上に神学を樹立しようと試みるものである。それは実現の神学であって、愛の実現によって神に対する認識を深くしようとする試みである。即ちそれはヨハネ第四章八節にある「愛なき者は、神を知らず、神は愛なればなり」の心持ちである。それは愛の行動によって神の認識が可能となることを主張するもので、そこに実現の神学の根本となるべき認識論がある。

(以上によって知られるように、賀川の「神学」は愛一元論とでも言うべきものです。それをキリスト教的に限定された場所、すなわち教会内に閉じ込めないで、「社会運動の根本哲学」としたところに賀川の真骨頂があります。)


W 放棄と充溢

「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。」(マタイ13:44〜46)

「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:39)

人はいのちに生かされていながら、そのいのちを生きていません。ガブリエル・マルセルが言うように、いのちまでが自分の持ち物になっていて、そのいのちを確保するためにあくせくと働いているからです。所有が人間のあり方を規定しています。

Daseinというドイツ語は、ヘーゲルの場合には「定在」と訳され、ハイデッガーの場合は「現存在」と訳されています。私はかねがねそれを人間の所有に規定されたあり方として捉えてきました。つまり所有=定在(現存在)であると考えてきました。

人間は「そこにある(Dasein)あり方」しかできません。すなわち現存在を生きるほかはありません。所有を放棄するということは路頭に迷うことです。ホームレスになることです。いくら「存在忘却」であるなどと言われても、人間は神のようにただ「有って有る者」(出エジプト3:4)ではありません。また種田山頭火や山下清のように誰もが放浪の旅人になれるわけではありません。(イエスは「放浪のラディカリスト」であったと考える人もいます。)

人間のそのような「定住」するあり方、自分の居場所を縄張りで仕切るあり方が、一方では争いの元にもなってきました。人間は常により良い居場所を求めますし、より良い場所は限られていて、すべての人に行き渡らないからです。

道元禅師は「放てば手に満つる」と言ったそうです。まさに「放棄と充溢」です。心持ちとしては確かにそうありたいと思います。乳幼児のように天真爛漫に生きられたらどんなにか良いでしょう。しかし大人になっても天真爛漫である人は良寛和尚のようなもので、世間からは変人扱いされるだけでしょう。それでもそうあり続けるということは、それ自体大変なことだと思いますが……。

天国(神の国)とはどうやら「いのち」のことであるらしいということが、私にも段々わかってきました。しかし現存在とは、そのいのちに生かされながら、そこから疎外されたあり方を意味しています。人間は自分のいのち(現存在)に死ななければ、いのちに帰る(実存する)ことはできません。十字架が意味していることは、そういうことでしょう。しかしそれを単なる「宗教的境地」としてではなく、現実世界でその通りに生きるということはとても難しく、かつ恐ろしいことです。

「覚悟する」ということが単に「悟る」ということではなく、「死ぬ覚悟」を意味してしまうのが、この現実世界です。なぜなら、人間は有限な存在であり、なおかつ世界は現存在=権力意志によって取仕切られているからです。そのとき、その「覚悟」がどちらを向いているかが問われるでしょう。首相の靖国神社参拝を批判して家を焼かれる政治家もいれば、その家に火をつけて自殺を図る右翼もいます。ネグリ・ハートは「公的殉教」と言います。それがないに越したことはありませんが、この世界である種の行動を起こすということは、マハトマ・ガンジーやマルチン・ルーサー・キングのように暗殺される可能性があることを意味しています。

しかしいのちに生かされるということは、聖書にある通り、本当は「喜びのあまり」自分の全財産を売り払っても惜しくない、すなわち自分のいのちを失っても惜しくないと思うということでしょう。その宝を見つけることが、人が生きる目的であると思われます。

「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」。


X 目標管理的経営と教会の六つの変換モデル

「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何事にも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。」(Tコリント9:24〜27)

「……わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後(うしろ)のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。」(ピリピ3:12〜16)

先に「超管理的経営」について書きました。しかし現実の社会では、企業組織がその典型ですが、ある目標を定め、それを達成するための方策を講ずるという意味での、「目標管理的経営」が一般的です。Plan(計画し)、Do(実行し)、See(評価する)が経営の基本であるとされています。そのような組織運営は、おそらく古代社会の官僚制的国家の出現と共に始まったのではないかと思われます。そこにはトップ(国王)がいて、ピラミッド型の行政組織があり、ある特定の目標を達成するために、(その目標が巨大であれば)国家の全組織と全人民が動員(mobilize)されます。

魂の救済機関である教会も、組織として存在する限り、この目標管理的経営から自由ではありません。初期キリスト教のユダヤ教的色彩から自由になったパウロは、教会の中のユダヤ主義者と闘わなければなりませんでした。彼にはキリスト教の伝道という目的があり、その前提としての「キリスト者」としての自分の目標がありました。ピリピ書には「あなたがたが違った考えを持っているなら」とあります。しかし、自分の目標とは違うユダヤ主義的思想の持主(割礼などの律法の遵守を主張する人たち)が教会にいれば、その人たちと論争することは避けられなかったし、パウロの主張が通れば、結果的にその人たちは教会から排除された筈です。

イエスの公生涯(神の国の伝道者としての生涯)を仮に「融合・消滅モデル」で考えてみたいと思います。すなわち神と人とが融合(fuse)して、烈しく火花を散らし、燃え上がって、最後は十字架の上でそのいのちが消滅したのだと考えてみます。しかし教会が組織されて、ある特定の宗教思想を掲げるようになると、もうそのモデルでは考えることができないということを意味します。私はそれを「合成・切断モデル」で考えたいと思います。イエスの死後、様々なキリスト教的思想が合成されてきました。パウロの思想もその一つです。百家争鳴、あらゆる思想の混在が許されるというのであれば、話は別ですが、ある傾向の思想が正しいとされれば、それ以外の人たちは異端として教会から排除されます。いわばアナテマ(異端)宣告を受けて、教会の交わりから切断されます。教会は実際その道を辿りました。古代教会は「合成・切断」の歴史です。

しかし中世ともなると、特に十三世紀頃、アラビアからアリストテレス哲学など、当時としては先進的な文明がヨーロッパに移入されてきて、もはや「合成・切断モデル」だけでは済まなくなります。そこで生まれて来るのが、「交差・分離モデル」です。特にアリストテレスの哲学(諸学)によって下から合理的な世界像を築き上げると共に、教会が上から神学によって精神的影響力を行使するという図式です。教会と世俗との分離は既に中世から始まっています。中世に成立した大学は単に神学を教える機関ではありませんでした。既に医学、法学などの諸学の研究が盛んに行われるようになりました。教皇権と俗権(王権)との争いも起るようになりました。

ところが近代になると、「交差・分離モデル」でも治まらなくなります。そこに生まれて来るのが「統一・分裂モデル」です。教会と世俗は分裂し、教会も分裂し、その中で強力な統一が追求されるようになります。教会分裂の中での諸教会の神学的統一があり、世俗権の分裂の中での諸国家の興隆と独立がありました。キリスト教はその世俗的政治的勢力のイデオロギーとして利用されたと言う側面もあります。分裂の時代だからこそ、イデオロギー的な統一が希求されたと言うべきでしょう。

現代になっても教会はその傾向から自由ではありませんでしたが、同時に諸教会の一致と協力が望まれるようにもなります。外国伝道の時代に教会が分裂していることへの反省もありました。しかし世界中の人たちの暮らしや考えに教会がじかに接するようになると、単に諸教会の統合への期待が生まれただけでなく、神学的思想の解体の危機も生じてきました。いわば「統合・解体モデル」の誕生です。また近代科学、実証的諸科学の発展によって、神学は近代思想を自己のうちに統合するよう迫られると共に、神学的思想自体の解体の危機にも見舞われます。だからこそ、諸教会の統合の要求が強まっているとも言えます。さて、この時代に教会の「目標管理的経営」はなお可能なのでしょうか。今も「合成・切断モデル」でやっている教会は別として、教会の中には既に様々に異なる雑多な思想が入り込んでしまっています。この期に及んで、教会を「統一」することなど、とても望めない相談です。「目標管理」と言っても、人々が一致できる領域としては、教会堂を建てるなどの物質的な目標しか残っていないのではないでしょうか。

教会はこの先どうなるでしょうか。もう一度中世的な「交差・分離」モデルに帰るのも一法ですが、それにも余り期待が持てないのではないでしょうか。教会が精神的権威を失いつつあるからです。私が恐る恐る抱く予感は、教会はあのイエスの「融合・消滅モデル」に帰りつつあるのではないかというものです。まだヒューズは飛んでいませんし、火花も散ってはいません。しかしその予兆は垣間見られるのではないでしょうか。そしてその時にこそ教会の「超管理的経営」が可能になるのではないでしょうか。

以上が私の考えた教会の六つの変換モデルです。先に「六区分のキリスト教史」について書きましたが、それとは別の観点からのキリスト教史の総括の試みです。


Y 意識変革・社会変革

「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかってあなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイ7:1〜5)

佐藤信夫は『レトリック感覚』(講談社、1978)の第5章で「誇張法」を取り上げています。そこにピエール・フォンタニエ(Pierre Fontanier)の『ことばのあや』(Les figures du discours)からの誇張法についての説明が引用されています。「誇張法は、ものごとを、度を越して拡大しあるいは縮小し、それらを、あるがままの状態よりもはるかに高い程度に、あるいは低い程度において提示するものである。ただしそれは、だますためではなく、まさに真実そのものへ導くためであり、信じがたいことを語ることによって本当に信じるべきことをはっきりさせるためである。」(第1巻、第2部、第2章)。

イエスの「山上の説教」には誇張法とおぼしき言辞が散見されます。上に掲げた有名な言葉は明らかに誇張法です。梁とは広辞苑によれば「上部からの荷重を支えるため、或いは柱を緊束するために架する横臥材の総称。うつばり」とあります。お馴染みの建築資材です。それが目のなかにあるというのは、誇張法以外のものではありません。

佐藤はフォンタニエの説明の「ただし」以下の後段を強調しています。それは「だますためではなく、まさに真実そのものへ導くためであり、信じがたいことを語ることによって本当に信じるべきことをはっきりさせるため」のレトリックです。

しかし誇張法の評判が悪いのは、往々にして、権力者が「だましのテクニック」としてこれを用いるからです。国民は「郵政解散にいのちをかける」と言った時の宰相の言葉にしびれ、これを支持しました。誰もそれによって共謀罪の成立や、憲法・教育基本法の「改正」や、防衛庁の省への格上げや、集団的自衛権の行使などにお墨付きを与えたつもりはなくても、国政は加速的にそちらに傾きつつあります。

鶏と卵の話ではありませんが、意識が変わるためには社会が変わらなければならず、社会が変わるためには意識が変わらなくてはなりません。そのためには人々が権力者の「目のうつばり」に気づく必要があるのではないでしょうか。ひたすら謙虚に「自分の目のうつばり」を意識し、反省することも大切なことではあるでしょう。しかしイエスは誰に向かってこの言葉を発しているのでしょうか。

「国民の責務」が強調され、憲法は「国民をしばる」ものでもあるなどと言われています。それは尤もだとひたすら恐縮している間に、国民は権力者の「思う壺」に嵌ってしまうのではないでしょうか。誇張法は何を大写しにし、どこに焦点を合わせるかということに関わっています。一部の不穏分子や「三国人」の危険性に焦点を合わせるのか、権力者の「野望」に焦点を合わせるのかによって、視野は大きく変わってきます。

威丈高な政治家やその追随者が幅を利かせつつあるこの時代に、その先に本当に「美しい国、日本」があるのかどうか疑ってかかる必要があります。他国と戦うために必要とされる愛国心は、歴史が証明するように、欺瞞と強制によって形成されます。人々にそれを見抜く力がなければ、権力者が指弾する「自分の目のうつばり(愛国心の欠如)」ばかりを気にする恭順な国民が生まれて来るでしょう。それはあたかも、ある宗教教団の信者がひたすら「自分の信仰の欠如」ばかりを気にして、その教団の指導者に恭順に従うのと似ています。その先には「日本教」という[カルト集団]の出現が待ち構えています。


Z 分け合うことの奇跡

「さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、『ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください』。イエスは答えて言われた、『あなたがたの手で食物をやりなさい』。弟子たちは言った、『わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか』。するとイエスは言われた、『パンは幾つあるか。見てきなさい』。彼らは確かめてきて、『五つあります。それに魚が二ひき』と言った。そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。みんなの者は食べて満腹した。そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。パンを食べた者は男五千人であった」(マルコ6:30〜44、並行記事マタイ14:15−21、ルカ9:12−17、ヨハネ6:5−14)。

松村克己はその著『イエス』(弘文堂、1948年)において、この「五千人の給食」の物語についてかなり詳しく論究しています(p.54-59)。その昔、荒井献氏が「かつて日本で書かれたイエスに関する研究書でまともなのは松村克己の『イエス』だけである」と言っておられたように記憶しています。序文によるとこの本は1941年に執筆の「手を染め」、1948年の1月に漸く脱稿したもので、田邊元に捧げられています。この記事について松村がどのように解釈しているか、そのまとめの部分だけを以下に引用してみます。

「果然群衆の間に大きな感激の波が捲き起った。自らの食物を以て他の危急を救おうとするイエスの行為を眼前にして、いままで彼等の心に蓄積された数々の言、諸々の教えは生きて動くかと思われる。携えた食糧を持つ者は誰一人これを己のものと云わず、凡てを人人の前に開いて偕にこれを頒とうとする。強いて人々に食わせようとする。彼等も亦既に天よりのパンを豊かに心に受けて空腹を感じないのである。イエスを中心として一大饗宴が開かれた。宛ら(サナガラ)天国の宴を彷彿せしめるが如く、人々は心身ともに飽きた。充ち溢れる思いと力とは何ものかに向って爆発しようとする。イエスは弟子たちに命じてもはや食しようとしない食物の余りを無駄となり遺棄されないように集めさせた。無慮五千人の人々は飽食して、五つのパンと二つの魚の残りは十二の筐(カゴ)に満ちた。人々はこれを奇蹟と呼んだ。これをしも奇蹟と呼ばずして何をか奇蹟と呼ぶ。併しそれは少量のパンと魚とが不思議な仕方で膨れ出したのではない。自然の秩序が破られたのではない。自然の秩序が道徳的な秩序の働くに依って異常な姿を展開しただけである。併しそれはまさしく異常な出来事であって奇蹟と呼ばれることを妨げない。その動力はイエスの人格の秘密と之に呼応し共鳴した人々の心の秘密にあると云うべきであろう。

イエスが何を為したか、ということと、人々がこれを如何に受取り如何に解したか、ということとは別である。そして両者を結びつけているものは行為に依って表現されまた人人に理解されるイエスの心と、之に応ずる人々の心とである。心と心との接触・交渉・共同・結合、そこに信仰は動き且つ生きる。奇蹟はそれを基盤として生れたのである。自然に関する奇蹟物語として福音書に示されているものは殆んど凡て、右の例に見るように道徳的秩序・精神的領域に於いて行われたことが物的秩序・自然の領域に移されて語られるに到ったと解されるものである。……」。

このように「想像を逞しくする」こと、あるいは「憶測する」ことが、どこまで的を射ているかが問題になるでしょう。この物語が「伝承の層」のどこに位置づけられるかによって、おのずからその史実性が問われるからです。しかし松村が言うように、人々が乏しい食糧をそこで分け合ったとするなら、「分け合うこと」それ自体が奇跡であるということはできるでしょう。サルトルの言う「稀少性」(「サルトルのマルクス主義」参照)において、奪い合い闘い合うことが人間の現実であるとするなら、人々の間に乏しい食物を分け合うという出来事が生ずるのはまさに奇跡的であり、そのような出来事を成立させた動因としてイエスという存在があったとするなら、古代人がその出来事をイエス自身が行なった奇跡として理解することは大いにありうることです。この現実世界において人々が分け合って暮すことは今でも奇跡的です。その奇跡を生じさせる元のところにイエスの生き様があったということはできるでしょう。キリスト教信仰の根幹に「コイノニア(分かち合うこと)」があるというとき、そこには何らかの意味でイエスの生が反映していると思われます。


[ 神を見る

〈宗教的多元主義ということを私はいつから考え始めたのだろうと振返ってみると、身近に接した高木幹太牧師や松村克己の影響、滝沢克己や八木誠一の諸著作、大学の一年先輩である間瀬啓允が翻訳したJ・ヒックの諸著作など、色々なことがあります。しかしそれを私自身の考えとしてはっきり口に出したのは1986年頃のことです。というのもその年の夏に刊行された『季刊開拓者』第7号(日本YMCA同盟学生部)に、私がYMCAのチャペル・アワーで学生たちに話した「神を見ること」という講話の原稿が掲載されているからです。そこで私は自分の考えとして宗教的多元主義について語っています。それが初めてのことだったと思います。以下はその文章の転載です。〉

「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1:18)。

神を見る

このヨハネによる福音書に既に明確に出ているキリスト教の根本思想は、人は神を見ることができないということ、そしてひとり子なる神だけが、本当の神をあらわしたということの二点であります。神を見るとはラテン語で visio Dei と申します。英語の vision of God に当ります。日本語では昔「見神」などという言葉が使われました。漢字では「見る・神」と書きます。見神体験などという使われ方をします。この「神を見る」ということは、たとえば皆さんが古代のキリスト教思想の大成者アウグスティヌスの『三位一体論』をご覧になると、終始一貫基本的なテーマとして追求されていることが、おわかりになるでしょう。フランスのデカルト後の哲学者マルブランシュは、「物を神のうちに見る」(vision en Dieu)ということを追求しました。この vision というフランス語には、英語も同様ですが、目に見えること、幻という意味のほか、見神、神の姿を見ることという意味があります。日本では昔、綱島梁川というキリスト教思想家が、「見神」ということを問題にしました。つまり「神を見る」ということは、宗教の根本的なテーマのひとつであるということができます。ただしお手元の英和対訳聖書では、「神を見た者はまだひとりもいない」というところは、“No one has ever seen God.”と書かれています。to see God という言葉が使われていて、別に vision という言葉が出てくるわけではありません。

キリスト教の古代の異端とされているグノーシス主義は(その中にさらに色々な立場があるわけですが)、たとえば、神々のあいだに色々と格づけを行ない、キリスト者が唯一神と崇めている創造神(すなわち天地創造の神)やそのひとり子なる神(すなわちイエス・キリスト)は、はるかに下のランクに位置づけられたりします。それはグノーシス主義特有の瞑想の体験から生れてくるものです。だからグノーシス主義の立場では、人間が修行をすることによって、自分で神を見る(あるいは神を知る)ことが可能なわけです(このキリスト教グノーシス主義は、キリスト教正統派によって、徹底的に弾圧され、見る影もなくなってしまいましたが、1945年に偶然発見されたナグハマディ写本の研究によって、近年その多様な思想が明らかになってきました)。グノーシスという言葉は、英語では、gnostic という形容詞の形で、今も使われています。g-nostic と書きますが、最初の g- は発音されません。語源の意味は知るということ、すなわち深い知識、あるいは神認識を意味します。gnostic の反対語は agnostic で、不可知の、つまり知ることができないという意味です。

不可知論(agnosticism)などという哲学用語として使われます。キリスト教は、神のひとり子なるイエス・キリストを通してのほか、本当の神を知ることができないと主張するのですから、ある意味での不可知論の立場を取ると言えるでしょう。「この人を見よ」という言葉がありますが、キリスト教では、キリストを見ることが、神を見ることであり、それ以外に神に至る道はないと信じられています。

啓示と受肉

神のひとり子を通して本当の神があらわされたということを、キリスト教では啓示と言います。拝啓の啓に示すと書いて、啓き示すという意味になります。つまり人間に隠されていた神の真理が啓き示されたということを表わします。英語では revelation ですが、隠されたものがあらわになる、暴露されるという意味です。動詞は reveal です。

このキリスト教の根本命題が、昔からキリスト教の学者たち、普通、神学者と呼ばれますが、その人たちの頭をさんざん悩ませてきました。なぜならキリスト教は神が人になったということを信じます。これを、肉を受けると書いて受肉、身を托すと書いて託身、英語で incarnation と申します。英和辞典には肉体を与えること、人間化、具体化、実現、権化、化身などという訳語が出てきます。つまりこの教えは、イエス・キリストは、100%神であられたが、同時に歴史上の人物として、ユダヤという特定の場所に、100%人としてお生まれになったということを、意味しております。これを一体どうやって人に説明したらよいでしょうか。十一世紀の昔、「神はなぜ人となり給いしか」と問うた、アンセルムスという神学者がおりました。それともそれはそもそも信仰の事柄として、最初から説明の努力を放棄すべきことなのでしょうか。二世紀から三世紀頃のカルタゴの神学者、テルトゥリアヌスという人が言ったとされている、「不合理なる故に、我は信ず」という言葉が知られています。

受肉ということは、天地が創られる前から神と共におられた方が、ということは神がふたりおられるということではなく、一なる神の、人間にあらわされるもうひとつの側面と理解すべきものだと存じますが、その神が、聖霊、聖なる神の霊(神のもうひとつ別の側面あるいは働き)によって、処女マリヤより人としてお生まれになったという教えにほかなりません。あのクリスマスでおなじみのテーマです。ここからキリスト教は、イエス・キリストは、100%神であり、同時に100%人であるという矛盾した教えを抱え込むことになったのです。ちなみに天地創造の父なる神(造り主)と、人間のもとに降り給いし救い主、御子イエス・キリストと、人間のうちに働きかける慰め主・助け主なる聖霊は、同じ一なる神の、人間にあらわされる三つの異なる側面、三つのペルソナであるということを、キリスト教では三位一体(Trinity)と申します。これはこれで、その昔、東西教会を分裂させる程の、神学的な大問題であったわけです(聖霊は父と子との双方から働き出るのか、それとも父のみからかというのが、その時の論争点でした)。

キリスト教の教義(dogma)は、このように啓示とか、受肉とか、三位一体とか、あるいは復活などというような、普通にはにわかに受入れ難い矛盾した教え(doctrine)から成立っています。高校生の時に洗礼を受けてキリスト者となった私も、これらのことについて実は散々頭を悩ませてきました。大学で哲学などという風変わりな勉強をすることになったのも、そのことと決して無関係ではありません。そして実際に西洋の哲学を学んでみて、西洋の哲学者、神学者あるいは文学者などが、過去二千年のあいだ、まさに今日に至るまで、この問題(キリスト教の根本問題)に、賛否いずれの立場を取るにせよ、いかに膨大なエネルギーを費やして取組んできたかということを知り、心強くもなり、また驚きもしたものです。

今の私は(段々そういう人が増えてきているようですが)、キリスト教は必ずしも唯一絶対の宗教ではないという考えに、傾きつつあります。だからキリスト教を他の宗教と比較したり、歴史学や心理学などによって批判的に検討したりすることに、段々抵抗を覚えなくなってきました(実は散々抵抗した挙句のことなのですが……)。だから現在の私は、キリスト教に対する初めの愛を失って、段々すれてきたと言ってしまえばそれまでですが、いわゆる偏狭な、偏った考えから段々自由にされてきたという良い面もあるわけです。

宗教的真理とは

今も私は、たとえば受肉(incarnation)というキリスト教の教えを、大切な宗教的真理であると考えることには変わりがありません。しかし、私の考えでは、その教えは必ずしも排他的な真理ではありません。つまりそれのみが正しくて、その教えを受入れることが、直ちに、他の宗教を信じる人や、そもそも全く宗教を信じない人を見下す結果になったり、その人たちを何が何でもキリスト者にしなければならないという結論に導くとは考えないということです。私はこの受肉というキリスト教の教理(教え)を大切に思うと申しましたが、実は私は、宗教的な真理を言い表わす時には、キリスト教に限らず、このような矛盾した言い方は避けられないのではないか、という考え方をしつつあるのです。つまりキリスト教のみならず、世の色々な宗教が、似たような矛盾した物の言い回し、あるいは合理的にはにわかに正否の判断がつきかねるような言い方によって、あることを語っており、それによって、我々に、とても大事なことを教えてくれているのだと考えるようになりました。なぜこのような矛盾した言い方が出てくるかと言えば、宗教には、一般的な形として、神を通してのほか、神を見ることができないという、根本的な制約があるからなのです。言うならば、人から神に至る道はなく、神から人に至る道しかないからなのです。神を見るためには、一般的に言って、@言葉を通して神を見る、A存在を通して神を見る、B自己を通して神を見るという、三通りの方法が考えられますが、そのいずれの場合にも、もし神がそれらを通して働きかけて下さるのであればという前提があります。神の、人に対する、そのような働きかけを、神の恵みと申します。つまり、結論として、神を通して神を見るほかはないのです。信仰は神の恵みによって与えられるものだからです。そしてひとたびそれが何を意味するかを理解するならば、神を通して神を見るということは、我々の魂の奥底をゆるがすような、生命の根本に関わる真理である、ということが見えてくるのではないでしょうか。しかし同時に、今ここで問われるのは、諸宗教が語っていることのうち、いずれが正しいかということ(真理問題などと言われますが)、まさにそのことにほかなりません。それについては、我々は余程慎重に構えてかかるべきであると、言わなくてはならないでしょう。なぜなら、ある木が良い木であるか、それとも悪い木であるかということは、実を結んでみるまではわからないという、あの、イエス様が教えて下さった判断基準以外のものを、我々は一切持ちあわせてはいないからなのです。

他宗教から学ぶ

私自身は、幾人もの先達に導かれて、仏教やイスラム教、あるいはユダヤ教などについて書かれたものから、大変多くのものを学び取ることができるまでに、段々と自分自身を変えられてきましたし、これからもひとりのキリスト者として、他宗教から学んでいく気持ちを失いたくはありません。残念ながら、そのようには考えないキリスト者がまだ大勢いることも事実です。そしてキリスト教には(他の宗教も同様ですが)、そのようには考えさせない排他的な性格がつきまとっています。しかし今日では、かなり多くのアジアのキリスト者あるいは宗教者が、私と同じような考え方をしているということも、もう一方の現実としてあるのです。マハトマ・ガンジーはその先駆者のひとりではないでしょうか。私は、少なくとも、キリスト教を一方的に相手に押付けるという、一部のキリスト者の態度(過去に西洋のキリスト者が異教徒に対して取ってきた態度、あるいは非西洋人がそれを真似する態度)は改めるべきだと考えます。キリスト教も、歴史上多くの誤りを重ねてきたのですから、そのことを率直に認めなければなりません。そして今、アジアのみならず、世界中のキリスト者たちが、他の宗教から学ぶことによってこそ、自分の誤りにも気づかされ、また自分自身についての理解も深められるということを、漸く自覚しつつあるように思われます。

先日、新聞に、ローマ法皇がローマにあるユダヤ教会(シナゴグ)を訪ね、ユダヤ教の指導者(ラビ)と抱合っている写真が掲載されておりました。この一枚の写真に、私は、時代の変化を表わす、象徴的な出来事を見る思いがしたものです。事実、法皇はその時、キリスト者が、キリストを殺害したという理由で、今なおユダヤ人を憎み軽蔑するのは、神学的に全く根拠のないことであると明言したと、報道されています。

宗教的多元主義

このようなお話をすることによって、私は、キリスト教も諸宗教の中のひとつに過ぎないし、歴史上の働きも功罪相半ばするのだから、触らぬ神にたたりなし、敬して遠ざけておいた方が無難ですよと、申し上げているわけではありません。むしろ皆さんがこの学校でキリスト教の授業を受け、またチャペル・アワーに出席することは、大変有益なことであると信じます。キリスト教には、一見取りつきにくい面もありますが、また一方、理解が深まれば深まる程、それが汲尽しえない慰めと歓びとをもたらす宗教であることを発見されるのではないかと存じます。そのことは私自身の経験に照らして、真実であると申し上げることができます。だから私が申し上げたかったのは、物事には良い面も悪い面もあるということ、そしてキリスト教も例外ではないということなのです。また、ひとつのものを見るためには、たったひとつの見方でなくて、いろいろな物の見方をすべきであり、キリスト教に対しても、まさに同様の態度を取るべきであるということを、申し上げたかったのです。宗教は必ずしも過去の遺物ではないということは、今日の世界の動向が物語っているところです。キリスト教および諸宗教に、どのような態度で接したら良いのかということを、これからも私は皆さんと共に考え続けて参りたいと存じます。ひょっとしたら、今は、諸宗教のあいだの対話により、新しいスタイルの宗教が生れつつある時代なのかも知れないなどと、私は考えたりしております。事実、近頃来日したアメリカの神学者ハーヴィー・コックスは、宗教的多元主義(religious pluralism)という言い方で、今日の時代を特徴づけています。宗教的多元主義とは、他の宗教(あるいは自分とは異なる立場)に対して寛容であり、また他の宗教(あるいは自分とは異なる立場)との対話を重んじつつ、その対話を通してこそ、自分自身の信仰を深めていこうとする立場であると、言って良いでしょう。まさにアメリカの社会は、そしてこの日本の社会も、そのような宗教的多元主義の格好の実験場であると言っても過言ではありません。

少し個人的な考えを述べ過ぎたのではないかと恐れます。最後に聖書をもう一箇所引用致します。

「神を見たものは、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」(Tヨハネ4:12)。


\ 自覚・自知・自立の自由

「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、私が言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3:5−8)。

教育の一番基礎にあるものは模倣であり、反復練習と暗誦(記憶)です。小さい頃からのピアノや算盤の練習を考えてみればわかります。ただしピアノの場合は暗譜といい、算盤は暗算といいます。それは人間が何者かとして社会的に自立して行くための土台づくりであり、人類の文化の継承という側面があります。昔の武士には漢学の素養があり、それが明治維新における社会変革の土台となったことは広く知られています。武士の子は小さいときから漢文を暗誦させられました。人間の人間化(to make a human being human)の過程は、このような基礎教育によって与えられます。特に識字教育、または読み書き算盤は社会生活にとって不可欠のものです。江戸時代には寺子屋が大きな役割を果たしました。しかし社会が高度に産業化されるにつれて人間が習得すべき知識の量は膨大なものとなり、それにつれて学校は児童に過大な要求を課し、厳しい競争的環境も手伝って果たしてそれは人間の人間化の過程であるのか、今や疑わしいものとなりつつあります。科学技術立国を目指す現代国家においては、古典教育が脇に押しやられているということも、その傾向に拍車をかけています。また自立(ひとり立ち)という社会的な目標はきわめて不安定なものと化し、生活の基盤は社会変動によって左右されるきわめて脆弱なものであることが、人々に強く意識されるようになりました。たしかに昔からそういう側面はありましたが、今日の社会は特に底なしに不安定な様相を呈しています。

人間ひとりひとりの経済的自立ということを考えたとき、知識や技術を身につけることは不可欠の手段であることは明らかです。しかしそれは社会的交換過程のなかに置かれています。市場経済化された環境のもとではその知識や技術は「売れる」ものでなければなりません。実はここに人々の自立を妨げる最大の要因があります。多くの人々は売れるだけの知識や技術を持ち合わせてはいないからです。従って自立は競争的環境下では強い者、恵まれた者の特権であって、その他の人々は依存的な生活を強いられることになります。人々の自立を促す社会制度は「友愛」、あるいは連帯経済によって可能になります。競争に勝つことが至上命題とされ、資本に貢献する人材となることだけが唯一の生き方とされているところでは、多くの人にとって自立は(失業という)過酷な要求以外のものではありません。このような体制から外れて自給自足の農業を営んでいる人たちが注目されるのは、そこによほど人間らしい生活があるためでしょう。

自立は人々の連帯によって支えられているということ、自分はひとりで生きているのではないという当たり前の事実が閑却されています。そこに新自由主義経済の無理があります。その無理を押し通そうとすれば、それは自ずと暴力的な相貌を帯びてきます。政治は剥き出しの暴力の代替手段であって、敵対関係が前提されています。「平等」はそのような政治的経済的現実に対抗する理念です。自分が置かれている現実を意識化(conscientize)すること、すなわち自分が何者であるかを知ること、自知の課題がここに生じてきます。自己認識は状況的であって、意識は中空に浮かんではいません。しかし平等の理念に照らして、初めて社会の現実が照らし出されます。また自分が何者であるかが意識化されます。

そのとき改めて人間の自由が問われるでしょう。自由は個別化(individuate)されるべき人間の理想です。人間を基本的に突き動かしているものは自由への希求です。自由は普遍的生命の実現(自覚)に関わっています。自由は平等と友愛ということがあって、初めて個人において実現されるべき潜在的価値であるということができます。冒頭にヨハネ福音書を掲げましたが、「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」ということは、普遍的生命の個別化に関わる事柄です。それは自覚されるべきことであって、体制が変革されれば自ら実現されるというものではありません。「新しく生れる」ということは、この自覚(自己実現)にかかっています。「肉」において達成される自由は自由ではありません。そこを見誤ると、自由を実現するはずの政治的運動から専制的支配が生じてきます。「風は思いのままに吹く」と書かれています。自覚は自覚せしめられる(使役の受身)の意味であって、自由とは自分の思いのままになるということではありません。かえって、自分が神の意のままになるという逆説的事態を指しています。

自覚・自知・自立の自由ということは、人間の実存化=個別化・意識化・人間化の課題を指し示しています。その根底にあるものは神のいのち、あるいは普遍的生命です。それは霊的現実であって目には見えません。滝沢克己の言う「自由の原点・インマヌエル(神、我らと共にいます)」とは、その霊的現実(あるいは潜勢態の個別的現実化)を指す以外のものではないでしょう。そもそも人間はひとり立ちし(かつ助け合い)、自分の環境を意識して(差別の現実を知り、その壁を取り払いつつ)、さらに自己の根底(非自己の自己)に目覚めて、自由を実現するようにつくられています。もしそこに信を置くことができないならば、人間から希望が奪われてしまうことでしょう。

なお福音書には「水と霊とから生れなければ」と書かれています。それはおそらく、古い自己に死んで、新しい自己に生まれ変わることを表わす「洗礼」の儀式を暗示しているのだと思われます。


] 「3Es」の関係

「この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、このことが起ってから、きょうが三日目なのです。ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか」。そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた」(ルカ24:13−43)。

私は復活とは「想起」(大貫隆の言う「覚醒体験」)以外のものではないと考えています。生前のイエスがありありと想い起こされるということであって、それ以上のこととして、このルカによる福音書の記事を理解しようとする必要はないでしょう。死者の現存とは、そういうものです。死者の命日に墓参りするとき、生前の姿が髣髴と思い出されるということは誰にもあることです。そこには何かそれ以上のものがあると言えるかも知れませんが、それは「人知ではとうてい測り知ることのできない」(ピリピ4:7)ことであって、古来人間の宗教心を支えてきたものにほかなりません。

この記事を生前のイエスと弟子たちとの関係の想起であるとするなら、そこにはどういうことが考えられるでしょうか。私はこれを三つの点から考えてみたいと思います。

1)アクティブ・エンカウンター(active encounter

先ず、イエスと弟子たちとの間には「積極的な出会い」があったと考えてみます。今まで私は何度か反戦のデモに参加したことがありますが、その度に公安の刑事がデモ隊を取り巻き、デモの隊列にいる人たちの顔を写真に取ったり、メモを取ったりします。デモ隊に加わること自体がまるで悪いことであるかのような印象を与えます。デモ隊と刑事たちとの出会いは「敵対的」であって、その関係をアクティブと称することはできません。監視の眼は抑圧的であって、否定を含意しています。しかしイエスの振る舞い(act)はきっと人に対して受容的かつ肯定的で、人を生かすものだったのではないでしょうか。折あらばその人をおとしめようとする態度とは正反対のものだったのではないでしょうか。

人を生かす、このような出会いを一応アクティブ・エンカウンターと呼ぶとすれば、福音書から察せられるイエスの姿には、まさにそれが感じられます。

2)インタラクティブ・エクスピアリアンス(interactive experience

イエスのそのような生き様から、さまざまな人たちとの相互作用が生れてきます。マリヤとマルタ、ザーカイ、サマリヤの女などの物語が生れてきます。そこには、その人の生を根底から受容し、かつその人を生かし立ち直らせるような、イエスと人々との「相互作用の経験」が息づいています。差別のないところに生まれて来る、イエスと民衆との多産な交流が物語られていると言うべきでしょう。しかし民衆を差別し監視の対象とする権力者の眼から見れば、民衆の間にそのような運動(「イエス運動」)が生まれて来るのはとても危険なことではないでしょうか。権力者は、いつの時代も、「分割して統治する」(ローマ法)ことを治世の常套手段とします。そのような立場からすれば、差別がなくなることは危険であって、そんな運動は弾圧されなくてはならないでしょう。

人と人との間で本当の意味でインタラクティブ・エクスピアリアンスが生れて来るとき、人はそれを友情と呼びます。その意味でイエスは民衆の友だったのでしょう。

3)リフレクティブ・エンリッチメント(reflective enrichment

イエスと民衆との間に上のような関係があったとすれば、それは「あとから振り返って、自分が豊かにされていること」を知るものだったのではないでしょうか。それを思い出す度に、自分が豊かにされるような経験が「復活」と言われるのではないでしょうか。空虚な墓(不在)の経験から、現存のイエスに出会うという意味での「復活」の信仰が生れてきたということは、民衆の間に蓄積されたイエスとの出会いの経験がそれだけ豊かだったからでしょう。福音書の引用した箇所には、「お互いの心が内に燃えたではないか」と書かれています。まさにその経験がイエスの死後によみがえってきたということが、「復活」の意味ではないでしょうか。私としては、それ以上のこととして、復活を理解しようとするつもりはありません。イエスの死が、仮に激越だったとしても、それをほかの人の死とは異なる死、全人類の身代わりの死であるとするのは、弟子たちがイエスの死をそのように解釈したということ、あるいは「のちの信仰」がなせるわざにほかなりません。

このような「3Es」の関係は、本来どこにもあるべきはずのもので、キリスト教に限定して理解されるべきことではありません。しかしキリスト教の「神話的な表象」のうちに、そのような「富」が隠されているということを、率直に認めることに吝かであってはならないでしょう。私がキリスト教のうちに見出したものは、そのような人と人とのあるべき関係です。自分がそのような生き方を裏切ってきたということを「懺悔」しつつ、しかしそこにだけ人の人らしい生き方があるのだと「告白」したいと思います。


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