閑老人のつぶやき 明治日本のアメリカYMCA
「明治日本のアメリカYMCA 不首尾に終わった神の働き」
ジョン・セアーズ・ダヴィダン(Jon Thares Davidann)
この論文は、文化史についての新しい理論的な見方を用いることによって、宣教史に適用される方法の革新を提案する。宣教史は典型的には、宣教師のものの見方を取り入れ、そして、通例は宣教師たちが、彼らが住み着いた社会をいかに助けあるいは妨げたかを判断して、改宗させられる文化への宣教師たちの影響を測ることにより、宣教の効果を分析する。宣教師たちは拡張に熱心な国家の単なる腕にすぎなかったのかという問題が提起されてきたので、宣教史研究者たちは、宣教師たちがとがめるべき帝国主義者であったのか、積極的な影響を与えた人たちであったのかを解決しようと試みてきた。しかしこの論争は今にいたるも外国人宣教師の目を通して行われてきている。
そのアプローチから離れて、私は別の方法を用いる。すなわち宣教師だけでなく、回心者にも目を向ける。この方法はそのどちらのグループにも単独には焦点を合わせない。切り離して論じないというだけでなく、比較することもしない。むしろ彼らを相互の関係において考察する。彼らは、同じ自然的かつ文化的な環境において相互作用しながら、全く別の文化的なコンテキストから振る舞っている(1)。このアプローチは、宣教師たちは、彼らと相互作用する回心者や他の現地人たち研究しなければ、十分には研究されえないと提案する。この流儀で歴史を考えることについてはいくつかの先例がある。Eric Wolfは、「ヨーロッパと歴史なき民(Europe and the People without History)」の序文のなかで、個々の社会を孤立させて論ずるのをやめるときがきたと述べている。かえって、違う国々、社会、そして文化は、「相互に連結した過程(2)」に参与するものとして取り扱われるべきである。アキラ・イリエは、外交史を異文化交渉史として研究し、歴史というものを、国境を越えて国際史となるように移行させるべきであると提案している(3)。
新しい文化史は、近年、歴史家たちに歴史に接近するための新しい理論的な道具を与えてきた。ひとつの方法は歴史への「対話的(dialogic)」接近法である(4)。対話法の源泉は、Mikhail Bakhtin(ミハイル・バフチン)の仕事のなかにある(5)。これは特に「小説における言述(Discourses in the Novel)」と題された論文に明らかである。それは「対話的想像力(The Dialogic Imagination)」のなかに出てくる。バフチン、20世紀の前半に著坂有活動を行なったこのロシアの言語学者は、言語は対話的であり、ある特定の時と所でふたりの人のあいだで現実に用いられることを考慮しなければ理解されえないものであると提案している。言語は、従って、特定の歴史的、社会的なコンテキストのなかに置かれていて、それらのコンテキストから切り離されえないものである。バフチンはまた、言語には遠心的で求心的な力がいつもつきまとっていると主張して、言語的統一性という思想を非難する。従って、言語は運動であり、多元性であり、緊張であり、競合性なのである(6)。このバフチンの言語分析を歴史に適用するならば、歴史は、言語を注入したその同じ対話を含んでいるということが示唆される。このような対話は必ず、優勢な言述と対抗的な語りとのあいだの緊張によって特徴づけられた言述を伴っている。あるいは社会的および文化的なグループのあいだの、またその内部での、そして個々人のあいだの、また個々人の内部での、争われた語りを伴っている。あるいはまた、これらさまざまな言述を再吟味する能力をも伴っているのである。
対話法のひとつの可能な使用は、述べ立て(言述)を行なう共同体間の関係を検討することのうちにある。この論文は、対話のうちにあるふたつのそのような共同体、すなわち日本と米国におけるキリスト教青年会(YMCA)のアメリカ人指導者たちと、キリスト教への新しい日本人回心者たちとを調べる。彼らの言述がそこから流れ出てくる問題点というのは、アメリカYMCAが、リベラルな神学に関心を抱き、アメリカ人たちから猛烈に独立していた日本人キリスト者たちに、福音的なキリスト教を押し付けることの困難性ということであった。
対話は言述の共同体のあいだで生起したし、これらの共同体における個々人のあいだで、また個々人の内部で生起したのである。アメリカYMCAのJohn Trumbull Swift(ジョン・トランバル・スウィフト)は、明らかに日米双方の言述の共同体への対話的な関係のうちにある一個人であった。日本に到着後間もなく、スウィフトは回心のプロセスついて、またYMCAが回心の成果をコントロールすることの不可能性について、彼の考えを再整理するよう強いられた。彼は、アメリカYMCAの主導権についての日本人キリスト者の予期せざる反応によって、そうしないわけにはいかなくなったのである。異郷の地にある外国人としてのその立場への彼の自己意識のゆえに、スウィフトはニューヨークにある彼の監督者の推測に異議を唱える言述(述べ立て)の自由を見出したのである。対話のギャップは、彼と米国のYMCA指導者たちとのあいだで発展した。スウィフトは日本の文化的規範を受け入れることへと移行したように思われる。このように重なり合う言述のリアリティのただなかで、スウィフトは生き残るために彼自身の自己定義(アイデンティティ)を再吟味せざるをえなかったのである。
文化的な伝達が、直線的で、一方向的なプロセスとしてではなく、深く層にされた、重なり合う、多方向的なプロセスとして理解されるとき、対話的な方法は、それを用いる歴史家の能力から、その力を獲得するのである。さらに、この対話的方法の使用は、多文化的なアプローチを用いることによって、歴史および国家の伝統的な限界を越えるのである。
京都での、アメリカYMCAの第1回夏季学校は、1889年7月に開かれ、それは目覚しい成功であった。精力的な学生YMCAの指導者Luther Wishard(ルーサー・ウィシャード)がその2週間のカンファレンスを導いたが、それはマサチューセッツ、ノースフィールドにさかのぼる、Dwight Moody(ドワイト・ムーディ)の福音的夏季学校にならうものであった。大勢の日本人学生が参加し(訳注:落合則男『夏季学校一覧』によれば、出席467名)、これらの参加者のうち驚くべき数のものたちがイエス・キリストの福音に回心した。この成功した始まりは、アメリカYMCAにとって日本がまさに刈り入れ時であるという約束を保持した。当然のことながら、(アメリカ)YMCAは日本を本当の「キリスト教」国として20世紀に導くべく準備にあたった。
第2回夏季学校は、しかし、アメリカYMCAの指導者の側に多大の驚きと関心とを引き起こした。(アメリカ)YMCA指導者陣は、もし日本のYMCAが成功した運動となるべきであるならば、日本人指導者が必要であると決定していた、成り行きとして、日本人学生たちが、1890年の夏季学校を計画することが許された。
1890年の春、夏季学校を計画するために指名された日本人学生の委員会は数回会合した。彼らは、会合にスウィフトを含めたが、スウィフトに対して、第1回夏季学校とは対照的に、夏季学校は全く日本的になるであろうことをきわめて明確にしたのである。最初のそれは、彼らの好みに対して、あまりにも外国的で、福音的にすぎていた。スウィフトは企画委員会に対してドイツ人ユニテリアンを招いて話をさせることを思いとどまらせたけれども、委員会は夏季学校に対する彼のほとんどの提案を拒否した(7)。第1回夏季学校は福音主義に集中していた。しかし第2回は実質的には福音主義を無視して他の知的で社会的な問題に集中した。講義は、植村正久による「詩篇の詩」(訳注:『夏季学校一覧』では「聖徒之交」)から、木村清松による「物理学の諸問題」(同:『一覧』になし)、嶋田三郎閣下による「成功と失敗、政治的識見にあらざる」(同:『一覧』では、「名声非于立志之標準」)に及んだ(8)。第2回夏季学校への科学、美学、そして政治学の投入は、第1回夏季学校の四つのテーマときわだった対照をなしていた。その四つのテーマとは、すなわち「個人の働きのための聖書の研究」(同:『一覧』には、ウィッシャルド「一個人伝道に於ける聖書の応用」がある)、「祈りのキリスト教事業との関連」(同:『一覧』には直接該当する講義はない。ただし山鹿旗之進「信仰の祈」がある)、「聖霊に仕える」(同:『一覧』には宮川経輝「聖霊をして憂へしむること勿れ」、田村直臣「聖霊を受けよ」がある)、「青年と学生のための事業の方法」(同:『一覧』には、浮田和民「基督教の教育主義及び青年の特質」、小崎弘道「教育ある人を導く方法」などがある)…であった(9)。
明らかに、日本の学生たちは、個人主義的で、私事化され、救いにとりつかれた、正統的福音的キリスト教に、ほとんど関心をもたなかった。結果として、回心には、ほとんど関心をもたなかった。その代わり、彼らの関心は、社会のなかへのキリストの内在を強調する、リベラルなキリスト教へと向かった。この焦点は、立ち代わって、社会的行動主義、キリスト教の存在を検証する合理的な科学の研究、そして歴史的文献としての聖書の高等批評をあおりたてた(10)。
それどころか、導入的な講義を行なった、卓越したキリスト者、横井時雄は、夏季学校は日本人キリスト者にとって彼らの精神的独立を宣言する機会であると宣告したのである。彼は述べた。「その教会統治と慣習の形態における欧米に関しては、我ら[日本人キリスト者]は、ただ批判的にのみ受け入れ、あるいはためらうことなく彼らのアプローチを拒否するであろう。代わって我らは、日本におけるキリスト教の成長と進歩をつくりあげるにあたって、我々自身の歴史、慣習、そして思想に依り頼むであろう」(訳注:原注にあるように、これは第2回夏季学校報告書の序文の一部であって、『一覧』によれば、夏季学校で横井は「欧米漫遊所感」を語っているだけである)。横井の名言は、アメリカの宣教師たちからの独立の宣言であり、キリスト教が日本で成功するためには日本独自の文化的な刷り込みを必要とするという言明以外の、何ものでもなかった(11)。
カンファレンス中の日本人キリスト者たちの振る舞いはやはり独立と、夏季学校の独自に日本的な性質についての日本人の断固とした態度とに傾いていた。このことは、アメリカ人講師のひとり、Bishop Newman(ニューマン主教)が彼の講義に遅れてきたという出来事によって、鮮やかに例示された。参加した者たちは、しばらく待ってから、次の主題へと進行した。ついに、ニューマンが到着し、若い日本人講師を遮って、すぐに話すことを望んだ。企画委員会は短い会合をもち、日本人講師に終わりまで話させることを決めた。そこでニューマン主教は、彼が年上であることが彼に優先権を与えるものと考えたので、猛り狂ってしまった。スウィフトはあとで書いている。「もし主教の願いが受け入れられていたならば、青年会全部が退去したであろうと、皆に感じられた」(12)。ニューマン主教は侮辱を与えられた。彼は、日本のYMCAと日本人キリスト者についての不快な物語を携えて、米国に帰った。夏季学校を指導した日本人キリスト者たちとすれば、外国人宣教師たちと対等に扱われることを大変真剣に望み、そして手続きの統制を奪う外国人のいかなる試みにも憤慨したまでのことである。
この出来事はアメリカ人指導者たちの意識に残り、キリスト教についての彼らの想定に挑戦し、日本の外国人宣教師の役割について問題を投げかけた。1890年の夏季学校は、日本におけるアメリカYMCAの願望と、日本のYMCAキリスト者たちの目標と、両者のあいだに横たわる深い亀裂とを明瞭に描き出したという点で、日本のYMCAにとって分水嶺であった。夏季学校は、明治期における日本人キリスト者たちの猛烈な独立と神学的リベラリズムとをあらわにした。そしてそれは日本での宣教のためのアメリカYMCAの矛盾した目標をあらわにした。アメリカYMCAの指導陣は、日本のYMCAが現地の指導陣によって自活することを欲しながら、日本人が、福音的神学と、アメリカYMCAが個々の青年会で使っている会則とを、取り入れるようにと期待していた。人は、アメリカYMCAの指導者たちが、1889年の夏季学校における早い成功で感じた、喜びと力とを想像することができる。人は、同じく、日本人キリスト者たちが、神学の上でも、また、日本のキリスト教の執行順序と方向づけを誰が統制するのかという実際的な事柄についても、キリスト教を大変違ったやり方で解釈しているということを知ったあとで、アメリカYMCAの指導者たちが感じた、肝をつぶすほどの驚きと混乱とを想像することができる(13)。アメリカYMCAの指導者たちは、彼らが単一方向的な独話に関与していると思っていたが、現実に起こっていたことは彼らと日本人キリスト者たちとの多方向的な対話だったのである(14)。
その上、独立した日本人キリスト者ということが絶えず露呈してくることによって、日本にいるアメリカYMCAの指導者たちの願いや目標と、ニューヨークにある本部のそれらとのあいだに、顕著なギャップが生じてきた。特に、日本に派遣されたYMCA主事、ジョン・T・スウィフトは、日本のキリスト教の独自の地位とコンテキストのゆえに、YMCA事業についての彼の幻を調整するように強いられていると感じたのである。リベラルな日本人キリスト者たちと、ニューヨークの保守的な北米YMCA同盟とのあいだで、交渉せざるをえなかったので、スウィフトはついに本部の見解から遠く離れてしまったということを認めるにいたったのである。彼が日本の文化に魂を奪われてしまったということも明らかになってきた。結局、スウィフトは、YMCA連絡主事であることをやめ、また日本宣教のためのYMCAの幻の偽善性を拒否して、日本文化の一部となることを選んだのである。日本のYMCAの会員たちは、その立場から当然、YMCAが(アメリカ)本部の目標ではなく自分たちの熱望を反映することに、固執したのである。その過程で、彼らは、YMCAの宣教の努力を生じさせた、世界の隅々にアングロ‐アメリカンのキリスト教文明を広げるという、拡張主義の言述を混乱させたのである。日本人はキリスト教を受け入れたが、アメリカYMCAが決して是認しなかった、そして予測することも、統制することもできなかった仕方で、彼らの信仰を解釈し、行動に表わしたのである。
明治時代の日本人キリスト者たちは、独自かつ独立の日本的キリスト教という幻を、大きな部分で保持した。なぜなら、彼らはサムライの社会階層に属していて、それが19世紀日本の政治と文化とを支配していたからである。明治日本のすべての新しい回心者たちのほとんど三分の一はサムライ階層の出であった。事実、1868年から1878年までの明治維新の最初の十年間のほとんどすべての新回心者たちはサムライであった(15)。
東アジアの他の地域のキリスト教の始まりは違っていた。韓国は、日本で起こったのと同様に、社会の上層からの回心を経験したが、中国と台湾のキリスト者たちは典型的に地位の低い家族からきた。韓国では、回心者たちはキリスト教が彼らの国家に対する日本の占領への効果的な抗議となることを希望した。中国と台湾では、しかし、キリスト教は西洋志向の帝国主義者の冒険として、なおある疑いの目で見られていた(16)。この態度は日本にも存在したけれども、身分を解かれたばかりのサムライの関心とつり合わされていた。
キリスト教は、いくつかの理由で、これら元サムライの注意を引いた。歴史家Irwin Scheinerは大部分の回心者は明治維新によって地位を奪われたサムライであったと主張する。彼らは、王政復古の第一線にあった長州と薩摩藩出のサムライには残された政治権力と社会的地位を失った。彼は、彼らが「新しい政治秩序から外されている」と感じていたと主張する。Scheinerは、これら身分を解かれた若いサムライが、明治の支配的な少数独裁者たちへの対抗から、一部、キリスト教に改宗したのだと主張する(17)。
キリスト教は、社会にあるサムライにとって、高姿勢の宗教的リーダーシップとしての代わりの形態の地位と力とを提供した。さらに、それは西洋起源のものであり、西洋的な事物は明治時代初期には非常な尊敬を受けていた。横浜バンドの田村直臣はのちにこう回想している。「私は依然としてナショナリストであり、キリスト教の霊的な意味を理解していなかった。私がキリスト教に関心を抱いたのは、単にそれが文明国の宗教だったからであり、仏教や神道よりもずっと近代的で文化的だったからである。そういうわけでキリスト教だけが我々にヨーロッパの文化をもたらしてくれたのである」(18)。
彼らが日本を活性化するために西洋諸国を調べたとき、支配することに慣らされており、益々成長するナショナリズムの感覚を感じていたサムライは、日本の未来にも関心を寄せていたのである。彼らは進歩と国家建設についての西洋的な概念を受け入れた。熊本の少年たちが、彼らのアメリカ人教師である、Captain L. L. Janesから受け取ったメッセージは、国家としての日本は、キリスト教を受け入れる場合にのみ、西洋諸国の進歩の隊列に加わることができるというものであった(19)。彼らの目前にある西洋諸国によって具体化された文明の理想によって、日本人キリスト者たちは、日本のなかの西洋キリスト教はこの文明化するプロセスの本質的な部分であると感じたのである。このようにして、キリスト教は日本が世界のなかの強大で、尊敬される国となることを助けることができた。
若いサムライがキリスト教を単に戦略的に利用していたように見えたとしても、ほとんどの回心は真心からのもので、苦痛を伴う決断であった。回心する決断は、若いサムライにとって、重大であった。1876年の、熊本近くの花岡山山頂での不名誉なリバイバルのあとで、新しい回心者たちの家族は、彼らが信仰に導かれることになった熊本の国立学校をやめるようにと、彼らに命じたのである。維新の指導者横井小楠の息子、横井時雄の場合には、彼の母は彼の回心による恥のために自殺しかねないほどであった(20)。キリスト教に回心するにあたって、若きサムライは彼の家族の願いに背いたのである。彼は、子としての忠誠という伝統に背いて、ひとりで行動した。キリスト教は、サムライたちに、彼らの新しい信仰と旧い伝統とのあいだでの決断を迫り、根本的な新しい選択のためのコンテキストを与えたのである。
同時に、キリスト教は彼らの伝統的な価値のいくつかを継続して維持することを許した。「他の神々に仕えてはならない」というキリスト教の戒めは、彼らの大名へのひたむきな忠誠というサムライの義務に訴えるものがあった。武士道倫理がサムライ階級に自己犠牲を命じたのと同様に、キリスト教も信仰者の自己犠牲に固執したのであった。キリスト教とサムライの価値観のこの結びつきは、日本人回心者たちに、日本のとてつもない変革のときにあたって、文化的な連続性を提供したのである。明治維新はサムライたちのあいだでの伝統的な封建的諸関係を一掃した。これらの青年たちは彼らの主君への全き忠誠を学んで育ったのである。維新は主君―家来の関係を廃止した。サムライがかつて維持していた最も重大な関係の代わりに観念的な空白が残った。キリスト教はこのつらい空白感を満たしたのである。熊本バンドの海老名弾正は、キリスト教以前には、「彼がいのちを与えることのできる」何ものもなかったと主張している。キリスト教によって、海老名は神にいのちを捧げたのである(21)。このように、新しい日本人回心者たちは、彼ら自身の文化的な想定を通してキリスト教を解釈した。
若いときからサムライに教え込まれた儒教のイデオロギーは、社会の公僕たることを強調した。キリスト教は日本人にこの概念を用い続けることを許した。サムライ出身者がリベラルなキリスト教に特に関心をもったのは、それが、社会を改革し完成するために働く、社会のなかのキリスト者の役割を強調したからである。YMCA宣教師たちはこの関心にはっとさせられた。なぜなら社会的キリスト教は米国ではまだその緒についたばかりだったからである。日本人キリスト者たちは明治日本でパブリック・サービスの倫理をつくるためにキリスト教と儒教とを結合した。新しい日本人キリスト者たちは、近代化の社会的政治的諸問題に取り組むパブリックなキリスト教を予見したのである(22)。
彼らの政治権力への関心、指導者としての役割の受容、そしてパブリック・サービスへの献身のゆえに、日本人回心者たちは、キリスト教信仰のうちに育ったのではあるが、間もなく西洋諸国への文化的依存の問題に敏感になった。アメリカYMCAは1890年代に日本のYMCAの会員制の問題に直面するが、これを予表する出来事があった。札幌農学校でキリスト教に回心した若きサムライ、内村鑑三は、アメリカから派遣されたメソディスト教会との関係を断ち、1881年に独立教会を発足させた。彼は、日本は独自、独立のキリスト教を必要とすると主張している。内村によれば、「日本的キリスト教のみが日本を救うことができる」(23)。
日本での反外国的感情は1880年代、そして1890年代に向けて、外国人に対して暴力を用いる青年たちによる土着の政治的結社という形をとりながら、非常に急速に成長する(24)。この発展は、部分的には、1858年に始まる西洋列強とのあいだで取り交わされた不平等条約に反対する、一般的な政治的抗議の結果である。これらの条約は、日本が西洋諸国から輸入した製品から徴収しうる関税を制限し、また、事実上は外国人は外国人のための領事館の法廷で裁判されることを意味する、治外法権を許可した。多くの日本人が長いあいだこれらの条約に憤慨し、それらの廃止を強く要求した。しかし、これらの条約が取り交わされたとき、ただ段階的にのみ関税の制限が減らされ、外国人にはなお領事館の法廷で裁かれることを許した(25)。日本のキリスト教の独立と反外国的な感情とが結びついて、YMCA宣教師たちと日本人キリスト者たちとのあいだの緊張をつくりだした。
最初のYMCA宣教師たちが日本に到着したとき、アメリカ人たちは一般的に、アジア諸国のなかでも日本は、文明国へと変容することに対して最も見込みがあると信じた。特に、明治維新直後は、アジアにおける文明国に対するアメリカ人の希望は大きかった。アメリカ人は実際には日本人についてほとんど何も知らなかった。一度日本の人々の可能性についての最初の印象がしぼんでしまうと、アメリカ人たちは彼らの文化的、人種的優越性という憶測を新たにした。すべての宣教師たちがこのように感じたわけではないが、彼らは確かにこの種のカテゴリー化に免疫ができていたわけではなかった。事実、その時代のふたりの宣教師著述家たち、James DennisとA. B. Simpsonは、共に、日本人について独りよがりで、感覚的で、不道徳であると、あまりかわいらしくない記述を行なっている。それらは明らかに文化的、人種的優越性の態度を証拠立てるものである(26)。
米国における宣教(伝道)の領域は、1880年代に、Dwight Moody(ドワイト・ムーディ)がマサチューセッツ、ノースフィールドで、大学生のための夏季協議会の運営を開始したとき、押し上げられた。国際的に有名な福音伝道者、ムーディは、学生YMCAのリーダー、Luther Wishard(ルーサー・ウィシャード)に、学生協議会を指導するようにとの提案に説得された。ウィシャードは、ムーディの評判が学生運動に即刻の成功をもたらすであろうと感じた。ムーディは、大学生のあいだの福音伝道が実際に米国中の大学で大規模の回心へと導くことができると確信するようになった。その上、彼はYMCAの会長として奉仕していたので、この団体の福音的事業にはきわめて熱心であった。幾分は意図せざる結果として、宣教(伝道)が第1回協議会の焦点となり、100人の学生たちが宣教事業への誓いを立てた。この、年一度の協議会は、宣教に専心するようになり、1887年までには、19世紀後半の最も成功した宣教組織のひとつである、学生ボランティア組織を起こしていた。この協議会はYMCAが宣教の領域に入り込むことへの主要な起動力となった。スウィフトが宣教事業へとその生涯を捧げたのは夏季協議会においてであった(27)。
YMCAは、1887年のノースフィールド協議会での宣教の誓いを受け止めたあと、数ヶ月以内に、インドと日本というふたつの違った国々に、アメリカのブランチを創設した。YMCAは英語の教師を派遣し、それぞれの国へのアメリカ人主事を任命した(28)。表向きは日本政府によって国立の学校で英語を教える教師として雇われ、日本に行くようにと選ばれた三人の若いアメリカ人たちは、福音を説き、日本人に伝道するためにもやってきたのである。スウィフトは三人のうちのひとりであった。
スウィフトは1861年、コネチカット、コルチェスターで、初期ピューリタンたちの子孫として生まれた。彼の父は医者であった。スウィフトはイェール大学に入学し、1884年に卒業した。コロンビア法律学校に1年間通い、次の2年間をニュージャージー、オレンジの青年会でYMCA主事として過ごした。オレンジにいるあいだに夏季協議会に参加し、宣教師となる献身をした。このときにはスウィフトは宗教的にリベラルな人ではなかった。彼の見解は一般的にはYMCAの立場と一致していた。その立場というのは、20世紀初頭に会員たちの一部によって挑戦されるまで続いた、正統的で、福音的なものであった。
スウィフトは日本人について特に何の知識もなかった。それで多分彼は、YMCAが青年会を設立することに決めた最初の国だったので、日本を選んだのであろう。到着後間もなく、ニューヨークの北米YMCA同盟は彼を日本のYMCAへの外国人主事として任命した。スウィフトはただちに日本語の勉強に取りかかった。そうしなければ回心させることはほとんど不可能であると悟ったからである。知的でかつ真剣であったので、スウィフトは熱情をもって宣教の召命に応えたが、その熱情は、彼が乗り出してしまった、複雑で混乱させる性質をもつ異文化間の経験によって、偽りであることが示されたのである(29)。
日本での最初の数年間、スウィフトは日本人を参加させることに熱心であった。彼は仲間の宣教師に書き送っている。「彼ら(日本人)のリーダーシップのもとで仕事をし、彼らに責任を与える必要がある」と。彼はこの気持をもち続けた。次のように相当開かれた心の持主であることを示しつつ……。「我々はいつも、我々とは非常に違った人たちのために仕事をしているのだということ、そしてやっかいごとは往々にして我々が彼らを理解できないことのうちにあるのだということを、心にとめなくてはならない」(30)。このような先見の明は日本にいる宣教師たちのあいだでめったに見られるものではない。スウィフトは、違っているということを、人種的階層秩序の上に置き換える代わりに、それを尊重した。本当に、彼は、外国人宣教師たちの拡張主義的メンタリティの性質を理解しようとするとき、非常に重要な人物である。外国人宣教師たちが、日本人を西洋にコントロールされ、西洋に支配された形のキリスト教に回心させることに熱心であるのとは違って、彼は、彼が理解できない文化のなかでの一外国人として、彼自身の役割に鋭敏であった。大半の人たちは、彼ら自身が日本人を理解しているかどうかを問うことはしないで、むしろ、文化的に劣っているとみなす日本人が、アメリカのキリスト教を理解しつつあるかどうかを知ろうとしたのである。
1890年、スウィフトは、反外国人感情の波のなかで、日本にいる外国人たちをふたつのグループを構成するものとして、部類分けするところまで行っている。初めの部類は、「日本人キリスト者たちを信頼せず、独立への彼らの現在の欲求は、この国のキリスト教の将来全体を脅かすものであると感じている」人たちから構成されている。「次の部類の人たちは、万事これを、彼らのすべての歴史において彼らを特徴づけてきた、独立への国民的精神であるとのみ見なす。その人たちは彼らにおいて、外国人へではなく、キリストへの熱烈な献身を見る。そして彼らこそがその同国人をもっとも良く理解しており、また我々は彼らと日本の教会とを、我々の継続する統治にではなく、神の導きと支配とに委ねなくてはならないと感じる」(31)。日本人キリスト者の状況へのスウィフトの理解と感受性は、しかし、次の2〜3年のうちに厳しく試されることになった。
1890年の第2年目の夏季学校は、自律の問題への日本人キリスト者の感情の深さを示した。日本人全体の反外国的感情という局面、日本人キリスト者たちの外国人宣教師たちからの激しい独立という短いが首尾一貫した歴史、そして日本人会員に夏季学校を計画することを許すという(アメリカ)YMCAの決定が、第2回夏季学校終了後のアメリカYMCAの危機をつくりだした。
この夏季学校へのアメリカ側のリアクションは困惑から気まずさへ、そして激しい憤りにまで及んだ。公式の報告書は夏季学校の積極的な側面を強調し――効果的に運営された、参加者が多かった――、そして問題のある側面を小さく扱った、いわく、福音主義の欠如、主題が多岐にわたりすぎていて、かつ世俗的だったなど(32)。スウィフトはニューヨークへの彼の手紙で、日本人には、(アメリカ)YMCAが好むものではなく、それとは別のキリスト教を追求する権利があると述べている。スウィフトは、「我々はある国の神学を決めることはできない。だからそれに関与するのは我々の仕事ではない」と書いている。スウィフトは、しかし、困難な立場にあった。なぜならほとんどの宣教師たちはこの点について彼に同意しなかったし、彼のニューヨークの上司とて同様だったからである。スウィフトは述べた。「我々の青年会の兄弟たちの幾人かは、夏季学校が明白に証拠立てた新神学へと向かう傾向によって不必要に怯えさせられるかもしれない」(33)。事実、彼らは、新神学がその一部であるリベラルなキリスト教の、日本のキリスト教への侵入に怯えさせられたのである。発足間もない外国伝道委員会の長、Robert McBurney(ロバート・マクバーニー)は、スウィフトにYMCAの立場を思い出させるために一冊の福音的神学の書物を送り、第2回夏季学校についてのスウィフトの報告にある感想のいくつかは、「わが国で誤解されるであろうし、幾人かの我々の友人たちもまた、日本人のキリスト教生活をある疑惑の目をもって見る危険のうちに置かれるであろう」(34)と、彼に示唆を与えている。スウィフトは彼の報告で非常に狭い路線を行った。すなわちもし北米同盟が夏季学校に資金援助しないと決めるなら、彼は夏季学校へのYMCAの援助を容易に撤回することができると提案したのである。
関わりをもった日本人キリスト者たちは概してその成果を喜んだ。ひとりの日本人YMCA会員、村上直次郎は、米国の学生YMCAの雑誌The Intercollegianに、この催しを記述する手紙を書いた。彼は、保守主義者と急進主義者の双方の見解の弱点が指摘されたと言い、それを成功と呼んでいる。それで彼はバランスがよくとれた夏季学校だったと感じたのである(35)。夏季学校を計画した委員会は、催しを資金援助したことに対して、スウィフトに感謝状を贈り、彼らがそれを計画し、そして彼ら自身でそれを実施することを許したことに対して、彼らの感謝を表明した(36)。
1894年のように、ある年には、リベラルなキリスト教が議事を支配し続けたという徴候はあったものの、(アメリカ)YMCAは1890年代を通じて夏季学校を援助し続けた。1894年の夏季学校の指導者たちは、海老名弾正、内村鑑三、植村正久のような卓越したサムライ出のキリスト者たちを含んでいた。海老名は開会説教を行ない、夏季学校は超教派的で、リベラルであると主張した(37)。(訳注:『一覧』によれば、海老名はこのとき夏季学校校長。「力の顕現」と題する説教を行なっている。)
第2回夏季学校の結果は、アメリカYMCAの宣教方法のうちに矛盾があることを明らかにした。その発端から、YMCA外国宣教プログラムはそれ自身が手を引くことができるようになることを希望していた。YMCA指導者たちは、信頼の置ける日本人キリスト者ができるだけ速やかにそのYMCAでリーダーシップの役割が取れるように、訓練することを欲した。北米同盟、アメリカYMCAの統治機関は、1890年に行なった決議で、「外国宣教分野でのアメリカの代表者の主要な目的は、青年会事業の原理と方法において現地のキリスト者青年を訓練し育成すること、そして現地の自立的なキリスト教青年会を据えつけることであるべきである。それは単にこの召命のための基礎を置くことでもなければ、また彼らが結果としてこの事業でアメリカの僚友となることでもない」(38)。自給の原理への(アメリカ)YMCAの注目は、しかし、単に部分的にのみ、自立の原理という輝かしい理想のためであるにすぎない。1890年代の不況下のYMCAの財政的状況により多くの原因があった。その外国宣教の努力の初めから、北米同盟は外国事業のために十分な財政的責任をとることはできないこと、そしてこの事業のための資金は一般会計から支出されるべきではないということを強調した。これは暗に(アメリカ)YMCAが宣教師たちを独力で援助する意図がなかったということを意味した。
原理においては褒められるべきであるが、実際には自給と自治は(アメリカ)YMCAにとっていらだたしいジレンマとなった。日本におけるアメリカYMCAの指導陣は、自立の原理に基づいて、1890年に日本の学生たちが2回目の夏季協議会を計画することを許したとき、彼らはその結果に衝撃を受け、困惑させられたのである。
日本人のリーダーシップを督励しながら、(日本各地の)青年会をアメリカ的原理によって見守られるようにするという、スウィフトのジレンマは、続く2〜3年というもの、さらにひどくなった。1892年、彼は北米同盟に、東京帝国大学YMCAはYMCA会員資格としてのエバンジェリカル・テストを放棄したと書いた(39)。エバンジェリカル・テスト(福音主義基準)は米国のYMCAにとっての会員資格の要件であった。それは各個青年会の活動的な会員は誰でもキリストの神性と三一性とを公に宣言する福音的教会に属さなくてはならないと、言い表わしている。それは19世紀のYMCA基準の根本原則であった。なぜならそれがYMCAを福音的なプロテスタント諸教会と同じ神学的基礎の上に置いたからである。(アメリカ)YMCAはそのほかの福音的プロテスタント主義と一致して働くことを欲した。つまり青年たちを、彼らが教会の外で過ごす六日間も、キリスト教的性格を保ち育てることができるようにするという使命を担ったのである。世紀の変わり目を過ぎてからやっと、アメリカYMCAの会員たちは、会員資格の要件を問題にし始めたのである。その要件はついに1931年に打ち切られたのである(40)。
帝国大学青年会がエバンジェリカル・テストを拒否するということは、日本にいるアメリカYMCAの指導者たちにとって、事実、非常に深刻な問題であった。疑いもなく、この問題は、YMCAが会員制の規則によって逸らされることなく、近代化に伴う差し迫った諸問題に取り組むことを欲する日本人にとっても、等しく深刻であった。スウィフトがこの出来事について北米同盟に書き送ったとき、彼らの返答は、彼らが日本の状況の深刻さについて理解を欠いていることを示した。その返信は、北米同盟はエバンジェリカル・テストについて何の権限ももたないと主張した。4年に1度のYMCA総会だけが権限を有していた。アメリカYMCAの指導者たちが、エバンジェリカル・テストを拒否し、変更することの適切さについて方針を検討しているあいだ、日本人キリスト者たちは、そのあからさまな拒否による、アメリカYMCAの指導性からの独立を主張し続けた(41)。
この出来事の結果として、スウィフトは一時的に東京の神田地区における学生青年会のためのYMCAビルディングの建設を中止した。1892年の終わり、米国のYMCAに報告して、彼は日本のどのYMCAも、各個青年会のためのアメリカの基準に合致するところはひとつもないと判断し、彼が仕事を始めてから、わずか20人の回心が起こったのみであると述べた。彼は、日本のYMCAが、歩くことができるようになる前に、走るように強いられていると不満を述べた。「私は、『青年会の数』だの、『会員の数』だのと、要求がましい質問で圧力をかけられていると感じるのはきらいだ」(42)。
スウィフトと米国本部とのあいだの関係は、彼が日本のために現地の指導性という原理に従うことによってアメリカYMCAの目標を実行できないと知ったとき、緊張したものとなった。1897年までには、彼は「私自身と同盟とのあいだに非常に重大な見解の相違」があるように見えると率直に述べるようになった。1897年の初頭、彼は引き続き、数通の手紙で、あからさまに以下のように述べた。「正直に申し上げて、日本における事業へのあなたがたの方針を、私はながいこと疑ってきた」。1897年、彼の不快感の中心にあったものは、同盟が日本にもっと沢山の宣教師を送ることに熱意がなかったことである。1897年の春、彼は同盟にもっと多くの宣教師を要求したが、彼らは現地の指導性という原理に訴えて、初めは消極的に反応した。スウィフトは、1890年に、日本人キリスト者たちのあいだに自助の精神を涵養しようと試みたとき、何が起こったかを鮮明に思い出した。第2回夏季学校は、一般にアメリカYMCAにとって、特にスウィフトにとって、深い困惑であった。さらに、エバンジェリカル・テスト事件と多くの日本人キリスト者たちの激しい独立への態度とは、スウィフトに、もしこれらの日本人が日本におけるYMCAの支配を獲得したら、それは破局に終わるであろうことを確信させた。彼はこのことを北米同盟に伝えようとした。
〔日本の青年たちの特異性による、彼らの責任というものについての早熟な想定、特に他国から受け取った、従来の慣例を無視して行動することの素早さ、それは学生青年会を全国的な組織にまとめ上げることへとつながるのであるが、そういったことが危険を伴わないという事実を、あなたがたは知らされるべきであると感じる。他の宣教地域では、ケアされないそのような組織は単に前進することを止め、ゆっくりと後退するということであるかもしれないが、我々にとっての危険は彼らが間違った路線を進み、キリスト教組織のなかで確かに有害な要素となるということである(43)。〕
スウィフトの見解では、北米同盟が現地の指導性という自立の原理を引き続いて支持することは、日本の新しい学生YMCAにとって災厄を招きかねない。もりとん、アメリカのYMCAに災厄であったものは、外国の支配に反対する日本人キリスト者たちによって偉大な成功と見られたであろう。自立は、気高い理想ではあるが。(アメリカ)YMCAが、日本の青年会に関して、米国に由来する規則と神学を強めようとし続ける限り、端的に実行不可能であった。真の自立は、日本人が、どの規則を守るべきであるか、どういうタイプのキリスト教を実践すべきであるかを決定できるということを意味していたであろう。事実、日本のYMCA会員たちは、エバンジェリカル・テストと第2回夏季学校で、これをしたのであった。彼らはこれを実行したが、ニューヨークのアメリカ人指導者たちは不賛成であり、ある形態の帝国主義を実践しながら、1890年代を通じて、自立的な宣教という信奉し続けたのであった。彼らは自立的なプログラムがアメリカの基準を受け入れることをも欲したのである。スウィフトはこれが実質的に不可能であることを知っていた。
もっと多くの宣教師をという訴えが1897年に同盟に送られたとき、手紙はスウィフトによってだけでなく、学生青年会のふたりの日本人指導者たち、両名とも発足間もないキリスト教主義大学の学長であったが、本多庸一と井深梶之助によっても書かれたのであった(44)。スウィフトによれば、この訴えが完全に拒否されたのであったならば、日本の慣習に従い、彼らの面目を保つために、彼は辞職を強いられたことであろう(45)。スウィフトは明白に、彼の滞在のあいだに、日本的価値のいくつかを受け入れるようになっていた。実際には米国からGalen Fisher(ゲーレン・フィッシャー)が学生青年会を指導するよう任命されたので、彼らの訴えは部分的には成功した。しかしスウィフトは、本部との戦いに疲れていたし、貧弱な健康にも悩んでいたので、いずれにしても辞任したことであろう。辞職願のなかで、北米同盟との相違のゆえに、彼は数年のあいだ辞任するよう圧力を感じたと述べた。スウィフトは、日本の状況についての彼の認識を同盟が共有するよう望んだだけ、彼とニューヨークの指導者たちとのあいだの隔たりが大きくなるということを、よく理解していた。「数百マイルの厚みをもつ盾の両面を見ることに慣らされた者たちにとっては、それ(日本の状況)について同じ見方をするなどということは、常に困難であるということを、私は恐れる」(46)。彼は米国に帰り、イェール神学校で神学を学び、それから日本に戻った。彼は東京の帝国大学で教鞭をとり、残る生涯を日本で働いて過ごした。彼は1928年に東京で亡くなり、横浜にある外国人墓地に葬られた。
スウィフトは、日本のYMCA会員たちのあいだで、何か民衆的な英雄といった存在となった。今日にいたるまで、彼の墓には、YMCAの会員たちによって、週に一度、生花が供えられ、新しい東京YMCAの会館(訳注:1980年に改築され、その後手放された神田美土代町の会館)のなかには、元のYMCA会館からの一室がジョン・スウィフトを記念する部屋として保存されている。米国の上司への彼の自覚的で、率直な手紙のすべてが、日本の経験によって彼がどんなに変えられてしまったかということを、直截に述べるというよりは、暗示しているのである。回心の経験は、スウィフトにとって、キリスト教の救いについての彼のメッセージによって彼が変えた日本人の魂ということだけではなく、日本での彼の異文化間の経験によって彼自身の魂が変えられるということでもあった。
反外国的な感情は時とともに薄れていき、1900年までには外国人はもう一度日本の歓迎されるようになった。新しい学Y主事、ゲーレン・フィッシャーが、スウィフトの地位を継承した。彼は直ちにすべてのYMCAをアメリカの基準に到達させた。彼は早くに、日本の主事(訳注:専任の有給職員)たちがアメリカ流にYMCAを指導すべきであるならば、彼らはアメリカYMCAの指導者たちによって回心せしめられ、訓練されなくてはならないであろうことをさとった(47)。世紀の変わり目の直後、フィッシャーは会員数が増大し、すべての青年会がアメリカYMCAの原理に従っていると報告した。もちろん、このときまでにリベラリズムについての神学的な議論がアメリカのYMCAのなかで始まっており、だからどちらの原理を日本のYMCAが受け入れたかどうか、もはや明確ではなかった。
1900年までに日本人キリスト者はさまざまなグループに分裂していた。あるYMCA会員たちはアメリカYMCAの指導に従うことに完全に満足していた。たとえば、丹羽清次郎、東京YMCA主事は、井深や本多、学Y指導者たちと一緒に、アメリカYMCAの原理に忠実であり続けた。日本人キリスト者のもうひとつのグループは、独自に日本的なタイプのキリスト教に取り組むようになった。このグループは、小崎弘道、海老名弾正、内村鑑三、植村正久そして田村直臣のような卓越した人たちを含んでいて、そのほとんどの人たちが1894年のYMCA夏季学校の参加者であった。彼らは東京の指導的な教会の牧師となり、世紀の変わり目にあって日本人キリスト者の最も影響力のあるグループを構成した(48)。横井時雄と金森通倫もこのグループで卓越していた。というのもふたりとも、1890年代に、日本のキリスト教を、その正統性と社会問題に本腰を入れることの不可能性のゆえに、厳しく批評する書物を書いたからである。神学的に保守的であってもリベラルであっても、これらすべての人たちは、キリスト教についての彼らの経験を独立して統御することを、1890年代における彼らの最も重要な使命と見なした。
この歴史からある結論が引き出される。スウィフトの辞任は彼の二文化間の綱渡りが彼に与えた緊張を示唆する。彼は宣教師のあいだではまれな開かれた心の持ち主であったけれども、日本人キリスト者をプロテスタントの福音的キリスト教の神学とイデオロギーに従わせるための、米国からの大変な圧力を感じた。多くのアメリカのキリスト者たちは、キリスト教はひとつの不変の形態で実践され、伝達されるべきであるという彼ら自身の想定を拘束服として着込んでいた。しかし日本人の経験は、スウィフトに、キリスト教は多様なやり方で、多くの違った結果を伴って、解釈され、実践されうるということを示した。
アメリカのYMCAが日本に関して経験した混乱は、アメリカ人宣教師たちが、現地の回心者たちがより多くの自律を要求し、宣教師の指導者たちが彼ら自身の人種的、文化的想定というものにより多く気づくようになった1900年以後、世界中で直面した問題を先取りするものであった(49)。1890年代に、(アメリカ)YMCAは、夏季学校のための財政的な援助と東京会館プロジェクトを打ち切ると脅かして、日本人の独立を鈍らせるという不成功な試みを行なった。しかし(アメリカ)YMCAは、日本のYMCAに少なくともある影響を及ぼすということを希望して、その宣教事業の財政的な援助を継続した。
明治時代の最初の20年間の日本におけるキリスト教の劇的な成功は、日本人は文化的な回心によって傷つけられやすい(攻撃されやすい)ということを示唆する。現実には、事情は全くその正反対である。多くの日本人はキリスト教をきわめて容易に受け入れたが、多数の回心者たちは米国の福音的キリスト教に付随するイデオロギーと神学とを受け入れるのをためらい続けた。彼らは外国人宣教師たちに指図されるキリスト教を持つことを拒んだ。
これらの日本人キリスト者たちは西洋諸国には望ましくない多くのものがあると信じたし、西洋の問題をまねることを欲しなかった。彼らは西洋の進歩という概念を受け入れ、キリスト教は彼らをこの方向に導くと感じた。彼らは西洋諸国の進んだ文明に参与することを欲したが、キリスト教を、儒教的価値観やサムライの武士道倫理という伝統的なイデオロギー的パターンのある部分に適応するとも見たのである。日本人キリスト者たちは、彼らがそれとともに育った価値や倫理への内なるあこがれと、彼らの力や地位への欲求とのあいだで、キリスト教のなかにおあつらえの衣服を見出した。ふたつとも日本にある彼ら自身のためであり、そして世界にある日本のためであった。キリスト教は日本と世界における力と地位とを提供し、また過去の日本と未来の日本とのあいだに大いに必要とされるつながりを形づくったのである。
(原題:The American YMCA in Meiji Japan: God’s Work Gone Away. 掲載誌:Journal of World History, Vol. 6, No. 1, Copy Right 1995 by University of Hawaii Press.)
原注
(1) Jammes Merrell, The Indians’ New World: Catawbas and Their Neighbors from European Contact through the Era of Removal (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 1989), p.8. 私のアプローチは、研究者は共通の「世界」あるいは共通の物理的、文化的な環境という視点から、異文化接触についての彼らの考えを方向づけなおすものだというMerrellの提案に近い。しかし、この共有される環境という意味は、非常に異なる文化的なコンテキストと並置されなくてはならないし、まさにそこから、接触しているそれぞれのグループは、彼らのものの見方や認識を引き出してくるのである。
(2) Eric Wolf, Europe and the People without History (Berkley: University of California Press, 1982), pp.3-4.
(3) Akira Iriye, “Culture and Power: International Relations as Intercultural Relations”, “Diplomatic History 3” (1979): 115; Iriye, “The Internationalization of History”, “American Historical Review 94” (1989): 1-10; Iriye, “Culture”, “Journal of American History 77” (1990): 99-107.
(4) Dominick LaCapra, Rethinking Intellectual History: Texts, Contexts and Language (Ithaca: Cornell University Press), pp.17-18; Lloyd S. Kramer, “Literature, Criticism, and Historical Imagination: The Literary Challenge of Hayden White and Dominick LaCapra”, in The New Cultural History, ed. Lynn Hunt (Berkley: University of California Press, 1989), p.103.
(5) LaCapra, Rethinking Intellectual History, pp.312-13; Kramer, “Literature, Criticism, and Historical Imagination”, pp.112-14.
(6) M. M. Bakhtin, The Dialogic Imagination: Four Essays, ed. Michael Holquist, trans. Caryl Emerson and Michael Holquist (Austin: University of Texas Press, 1981), pp.18-20. 以下も参照のこと、Kramer, “Literature, Criticism, and Historical Imagination”, pp.102-103, 113-14, 117.
(7) Letter, Swift to Wishard, Correspondence and Reports, 9 February 1891, p.5. この論文のすべての第一次資料は、ミネソタ大学(セントポール)のYMCA of the USA National Archivesで入手したものである。以下、YMCA Archivesとして引用。
(8) YMCA Archives: Swift, Report, “The Japanese Summer School of 1890”, Box J3, p.8.
(9) YMCA Archives: Circular No.1, “First Summer School, 1889”, Box J3, p.1.
(10) John D. Pierson, Tokutomi Soho, 1863-1957: A Journal for Modern Japan (Princeton: Princeton University Press, 1980), p.405.
(11) YMCA Archives: Yokoi Tokio, “Jobun” in Dainikai Kakigakko Happyo (Tokyo: Uchida, 1891), pp.5-6.
(12) YMCA Archives: Letter, Swift to Wishard, 9 February 1891, p.5-6.
(13) Jonathan Spence, To Change China: Western Advisors in China, 1620-1960 (Boston: Little Brown, 1969), pp.55-56. Spenceも中国というコンテキストで、宣教師たちが彼らの目標を達成することに挫折したと指摘している。
(14) Akira Iriye, Pacific Estrangement: Japanese and American Expansion, 1897-1911 (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1972), p.17. イリエによれば、アメリカ人たちは、彼らのメッセージが、米国から日本に一方的に流れる、単一方向的なものと見なしていた。
(15) Irvin Scheiner, Christian Converts and Social Protest in Meiji Japan (Berkeley: University of California Press, 1970), p.8. サムライとは、1868年の王政復古に先立つ時代に、支配的な地位を占めていた、男性の少数エリートグループである。日本の異なる地域を支配したさまざまな派閥が維新を越えて互いに争った。
(16) 台湾と韓国の場合については、A. Hamish Ion, The Cross and the Rising Sun: The Canadian Protestant Missionary Movement in the Japanese Empire, 1872-1931 (Waterloo, Ont.: Wilfred Laurier University Press, 1990), pp.168-69, 273. 中国伝道については、Jane Hunter, The Gospel of Gentility (New York: Yale University Press, 1984), pp.230-33.
(17) Scheiner, Christian Converts, p.50. Fred Noltehelfer, American Samurai: Captain L. L. Janes (Princeton: Princeton University Press, 1985). Noltehelferは、Scheinerが、禄を奪われたサムライの権力と地位の喪失を誇張していると主張する。彼によれば、すべてのサムライは、日本の急速な近代化を進めるにあたって、自分たちが大切な経歴をもつことをよくわきまえていた。それは、あるサムライがほかのものたちよりも維新後により多くの権力を獲得したということとは、別の問題である。維新に参加しなかった者たちは、成功と権力へのより長い道のりをたどるはめになったというまでのことである。
(18) Scheiner, Christian Converts, p.46に引用されたもの。Tamura Naoomi, Shinko Goju-nen, (Tokyo, 1926), p.300からの引用。日本人名については、ここでは姓を先にする日本語の語順に従っている。
(19) Noltehelfer, American Samurai, pp.139, 185.
(20) Ibid., p.201.
(21) Scheiner, Christian Converts, pp.94-95.
(22) Ibid., pp.137, 138.
(23) Tatsuo Arima, The Failure of Freedom: A Portrait of Modern Japanese Intellectuals (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1969), p.27から引用されたもの。
(24) YMCA Archives: Letter, Swift to Monroe, Correspondence and Reports, 19 December 1889, p.1.
(25) Otis Cary, A History of Christianity in Japan (Chicago: Fleming H. Revell, 1909), pp.213-14.
(26) Akira Iriye, “Minds across the Pacific: Japan in American Writing (1853-83)”, in Papers on Japan, 2 vols. (Cambridge, Mass.: East Asian Research Center, 1961), 1:21-33; William Hutchison, Errand to the World (Chicago: University of Chicago Press, 1987), pp.110-18. Errand to the Worldに引用された人種的かつ文化的な特徴づけについては、以下の文献からのものである。James Dennis, Christian Mission and Social Progress (New York: Fleming H. Revell, 1907), p.380; and A. B. Simpson, Larger Outlooks on Missionary Lands (New York: Christian Alliance, 1893), pp.541-43.
(27) James F. Findlay, Dwight L. Moody: American Evangelist, 1837-99 (Chicago: University of Chicago Press, 1969), pp.344-52.
(28) C. Howard Hopkins, History of the YMCA in North America (New York: Association Press, 1951), pp.300, 316-17.
(29) YMCA Archives: Unpublished Memorial to John Swift, 1928, pp.1-2.
(30) YMCA Archives: Swift to R. S. Miller, Correspondence and Reports, 17 January 1890, pp.1-2.
(31) YMCA Archives: Letter, Swift to Morse, Correspondence and Reports, 7 August 1890, pp.2-3.
(32) Swift, “The Japanese Summer School of 1890”, pp.3-4.
(33) YMCA Archives: Letter, Swift to Morse, Correspondence and Reports, 26 August 1890, pp.1-2.
(34) YMCA Archives: Letter, McBurney to Swift, 10 December 1890, pp.3-4.
(35) Murakami Naojiro, “A Letter from Japan”, The Intercollegian 13 (1891): 62-63.
(36) YMCA Archives: Letter, Swift to Wishard, 9 February 1891, p.5.
(37) Kimura Keinosuke, “Sixth Annual Meeting of the Christian Summer School”, Foreign Mail 1 (September 1894): 15-20.
(38) YMCA Yearbook, 1890 (New York: Association Press, 1891), p.43.
(39) YMCA Archives: Letter, Swift to Morse, Correspondence and Reports, 27 January 1892, p.2.
(40) Hopkins, History of the YMCA in North America, pp.512-14.
(41) YMCA Archives: Letter, Morse to Wishard, Foreign Letterbook, 13 October 1892, pp.2-3.
(42) YMCA Archives: Letter, Swift to Wishard, 14 April 1892, p.2.
(43) YMCA Archives: Letter, Swift to Murray, 5 February 1897, p.4; Swift to Wishard, 5 October 1897, p.1; Swift to International Committee, 4 March 1897, p.1.
(44) YMCA Archives: Letter, Ibuka Kajinosuke and Honda Yoitsu to International Committee, 4 March 1897.
(45) YMCA Archives: Letter, Swift to Morse, 6 January 1898, p.4.
(46) YMCA Archives: Letter, Swift to Murray, 5 February 1897, p.7.
(47) YMCA Archives: Galen Fisher, Monthly Report, Correspondence and Reports, September 1903, p.5.
(48) Scheiner, Christian Converts, pp.110-17. Scheinerは、このグループの活動と、伝統的な日本の社会秩序、キリスト教、および西洋化についてのその革新的な思想を、わかりやすく論じている。
(49) 以下参照のこと。Clifton Phillips, “Changing Attitudes in the Student Volunteer Movement of Great Britain and North America”, in Missionary Ideologies in the Imperialist Era: 1880-1920, ed. Christensen Torben and William Hutchison (Aarhus: Forlaget Aros, 1982). 以下も参照のこと。Hutchison, Errand to the World, pp.110-18, 129-36.
〔筆者のダヴィダン氏は、本論文執筆当時、ミネソタ大学の教員でした。現在どこにおられるかは承知しておりません。この論文は、サンフランシスコ州立大学のトマス・スコーバル教授(当時)がたまたま入手し、訳者宛に送って下さったもので、1995年に翻訳しました。この度、字句を訂正した上で、ホームページに「載せる」ことにしました。なお別項の『文脈の中のジョージ・ウィリアムズ』は著者のビンフィールド氏から直截翻訳の許可をいただきましたが、この論文については、ダヴィダン氏とついに連絡をとらないままに終わっていることをお断わりしておきます(著作権侵害になります!)。なお、ダヴィダン氏は、この論文の執筆とほぼ同時期のことだと思いますが、同じテーマについて単行本を出しておられるようです。手許にないので詳しいことはわかりません。〕