閑老人のつぶやき 本について9

     1 国学者の神信仰 その2

     2 象徴の解釈学 その1

     3 象徴の解釈学 その2

     4 象徴の解釈学 その3

     5 象徴の解釈学 その4

     6 象徴の解釈学 その5

     7 象徴の解釈学 その6

     8 悪と往生

     9 歎異抄 その1

    10 歎異抄 その2

国学者の神信仰 その2

四 神道神学とは何か

以上神道神学あるいは神道理論を、自らの専攻とする研究者の業績に従って概観してきた。とりわけ小野神学と上田神学との比較に明らかなように、その方法論において見解の一致をみることは極めて難しい。しかしながら、神道神学に対する研究者相互における共通した認識を探ることも極めて重要であるかと思われる。なぜならば、そのような共通した認識というのは、神道神学とは何か、神道神学という学問をどのように理解するのかという、その問いに対しての指標になってくれると思われるからである。

私見によれば共通する認識の第一として、岸本英夫の『宗教学』(大明堂、昭和三十六年)――有名な宗教研究の四分類――の中での神学の説明によってすでに明らかに論じられているが、神学とは、研究者の信仰を前提にしているということが挙げられるかと思われる。すなわちこれは、小野氏の「我々みずからの神との対決によって」という物言い、あるいは安津氏の神理解に確認されるように、崇拝対象(「カシコキもの」)に対する神秘の感情を分析する立場、そして上田氏が神学をして「信仰検証の学」と規定する認識において共通するものでると思われる。

△ 神学は「研究者の信仰を前提にして」成り立つ学問であるということは、確かにその通りです。

そして第二として、神道神学の課題とは、安津氏が指摘した「歴史の底に流れる日本民族性(文化性)」を追求するということ、すなわち上田氏がより明確に指摘しているように、「一つの信仰が神道信仰であるためには、当然、そのアイデンティティが問われなければならない。〈中略〉それを、理性的・論理的に明確なものとするのが、神学の使命であり、課題なのである」(「組織神学の樹立と神学者の育成―「敬神生活の綱領・解説」をめぐって―」『神道神学―組織神学への序章―』所収、大明堂、昭和六十一年十月、二頁)ということである。このような神道神学に対する認識は、神道を神学的立場から定義するに際して、前提条件として小野氏が言明した、「長い歴史を貫いて変わらざるもの、伝統としての権威に満ちたもの」(「神道の定義と神学」『神道宗教』第三十七号、昭和三十九年十月)を追究することによって、「神道とは何か」が明らかになるとする態度にも確認されるかと思われる。

△ 神道はユダヤ教のような「民族宗教」であるので、そのアイデンティティの追求は、同時に「日本民族性」の追求になるという点に、仏教徒、キリスト教徒、あるいは特定の信仰を持たない者の立場から見た問題があります。また天理教のような教派神道(セクタリアン・シントイズム)もその視野から除外されているように見えます。

このように神道神学の課題を、神道信仰の自己同一性、あるいはアイデンティティを問うことであると規定するのであれば、今後の展望として筆者は、たとえそれがプロテスタントの神学、フリードリッヒ・シュライエルマッハーに淵源するものであれ、上田氏が示した神学の三分野、即ち、信仰の基本構造を明らかにする組織神学、信仰の歴史的展開が示す諸相を、組織神学の立場から神道信仰の正統な展開として受容できるのか、否か、を検証する歴史神学、そして組織神学・歴史神学を通じて明らかにされた正しい神道信仰の立場から、現実が対応を迫る問題に応答する実践神学の諸分野に従って、今後の神道神学が考えられるべきであるかと思われる。なぜならば、こうした神学の方法論は、神道信仰のアイデンティティを問うという神道神学の課題を考える上で、最も有効な方法だと思われるからである。

△ シュライエルマッハーの神学は汎用的であって、他宗教にも適用できるということは、興味深いことです。しかし神学の三分類という理念的要請が、うまく神道に適用できるか否かということは、著者も言うように今後の課題です。うまく行けば、それは文化融合の好例であるということになるでしょう。神道の神前結婚は、キリスト教の結婚式との文化融合(acculturation)の一例であると言われています。

そして展望の第二番目として、周辺諸学との交渉を挙げることができる。従来、安津氏によるウィリアム・ジェームスの「一度生まれ型」、あるいはルードルフ・オットーの「ヌミノーゼ」、それから平井直房氏の「『中今』とその周辺」に確認されるエリアーデの永遠回帰の理論、あるいは加藤玄智の発達史観、こういった宗教学の学説を神道信仰を理解する上で援用してきたこと、あるいは逆に上田氏の業績に見られるように、宗教学の理論に基づいて神道信仰を規定しようとする学説に対して、神学の立場から批判するという、そういう業績が確認される。従前もこのような宗教学と神道神学との交渉というには、神道神学の業績にいくつか見出される。

△ キリスト教神学に於ても、宗教学、哲学、心理学、歴史学、文献学など、周辺諸学との交渉と異同の問題が取り沙汰されて来ました。神道が「神道神学的」に自己の信仰上のアイデンティティを確立しようとする試みは、当事者の要請としては理解できることです。しかしそれが「神道があまりにも神道的になり過ぎる」という結果をもたらすとすれば、つまりそこから神道ファンダメンタリズムというべきものが生れてくるとすれば、部外者としては周辺諸学の実証的研究の興隆を待ちたい気持になります。

しかしながら、神道が祭りの宗教であることを考えるとき、神道神学が古典神話の分析だけでなく、祭祀学、あるいは民族学との関係を重視すべきであるという論文が、『神道宗教』において、岩本徳一氏、薗田稔氏によって発表されてきた。こうした外からの批判に対して、この問題については内からも、例えば、上田氏が「国学の教え」という題目の座談会(『悠久』第三十八号、平成元年七月)において、「神道を研究する人が本格的に民俗学もやって、古典神学を立てた国学者の考え方と、神の理解の原則において、どんな相違があるか研究する必要があると思う」と主張している。いわゆる民俗学ないし祭祀学と神道神学との交渉というのが、今後の課題になってくるかと思われる。

△ 実践的な意味では祭祀が神道のすべてではないのかと私は考えます。それはちょうどキリスト教に於て礼拝(ミサ)がキリスト教のすべてであると言うときと同じ意味に於てです。祭祀がなければ、神道は単なる観念、あるいは学問に於て存在するだけのことです。仮に国学が「基本神道」なるものを明らかにしたとしても、それによって神道が成り立つわけではないでしょう。神道に於て祭祀と民俗が混在しているとしても、それが神道なのであって、それとは区別された意味で「神道神学」なるものが純粋な形で存在し得るとは考えられないことのように思われます。小野氏と上田氏との見解の相違はどうやら国学の評価の問題にも関わっているように思われます。

展望の第三番目としては、当該論考では非常にあらあらに方法論に視点を置いた上で、小野氏、安津氏、上田氏の業績を確認してきたが、とりわけ安津氏は自らの学問を必ずしも神道神学とは言ってはいないけれども、そのような安津氏の業績も、神道神学史の中に位置づけてみる、そのような先学の業績を神道神学史に位置づけてみるという作業にも、取り組まなければならないと思われる。

△ 上田賢治氏の衣鉢を継いで「神道神学」を構想し、その研究を行なうということは、信仰者の神道神学的なアイデンティティを問うという課題から生れてきます。その営為が信仰者の自己限定の試みである限りでは、茫漠たる「民族宗教」に神学的な輪郭を与えるという意味で、積極的な意味を持っています。しかし近代キリスト教とは違って、神道の存在様式は民族の伝統に根差しています。従って神道はそもそも教団としての自己限定を受けつけないという側面を持っています。「国学」という名称自体がそれを示しています。その意味空間が無限定な広がりを持ってしまうところに、神道信仰のアイデンティティの問題があります。民族の伝統に自己定位する「神学」は、仏教やキリスト教という「世界宗教」との対比に於て、「日本人」のアイデンティティを問うという課題と重なり合ってきます。しかしなぜそれが「神学」の名でなされなくてはならないのでしょうか。

五 本書の内容と課題

以上、戦後に於ける神道神学研究の趨勢について、主に方法論に視点を置いた上で論じてきた。結論として、「神道神学」とは、研究者の信仰を前提として、神道信仰のアイデンティティを理性的・論理的に明らかにすることを課題とする学問であると規定した。

「神道神学」を以上の学問内容を備えるものであると認識するにあたり、筆者は、たとえ当時「神道神学」という学問の名称が存在しなかったにせよ、「古道」を論じた近世の国学者の業績は、まさしく今日意味するところの「神道神学」であったと認識している。ちなみに二、三の例を挙げるならば、本居宣長の『古事記伝』三之巻に示された有名な「神の定義」は、神道信仰に於ける崇拝対象をして、「可畏き物」と規定した。それが宣長の神祇に対する敬虔な宗教感情であることは、明らかであろう(第一編第一章「ルードルフ・オットーのヌミノーゼ概念―本居宣長の「神の定義」との比較―」参照)。また天保の四大家に数えられる橘守部は、民衆に対する神霊の実在論証を実行すべく、記紀神話以降の諸書の中から神威・霊異に関する記述を抜粋し、自己の解説を加えた『歴朝神異例』を物した。あるいは幕末の国学者鈴木重胤は、「漢人の祭如在など尤けく云るは遅き談なり、此方の古より神に仕奉る状は、直に顕御前と為て持斎き仰奉れりし也」(『延喜式祝詞講義』国書刊行会版第三、九―十頁)と断じている。

△ 「漢人の祭」や仏教などと区別される、日本の古来の崇拝対象である「カシコキもの」(神威・霊異)に、「神道神学」の根拠があるとされています。

かかる国学者の物言いや著述は、彼等がまさしく神祇に対して敬虔な信仰を抱いていたことを、直接的に示すものであろう。更に以上の国学者は、神道の自立的な立場から、国学以前の集合思想を批判し、研究対象として、記紀神話や「延喜祝詞式」等といったいわゆる「神典」に肉薄し、神道信仰の本質を論ずるに至った。それは、「純神道」、とろわけ神道信仰のアイデンティティを明らかにするにあたり、必須の学的作業であったといえよう。従って、右に挙げた国学者が物した神道関係の業績は「神道神学」そのものであり、あるいは「神道神学」を構成する「組織神学」、「歴史神学」、「実践神学」の基本的資料になるものであったといえよう。換言すれば、すでに上田氏が指摘する如く、こうした国学者の業績は、上述の理由から、「神道神学の現代的展開とその組織化を考えようとする場合にも、最も有効な基礎資料の一つになる」(前出「釋契沖」)といえ、筆者も大いに賛成するのである。

△ 記紀神話や「延喜祝詞式」が「神典」とされるということは、キリスト教神学に於て聖書がそうであるように、それ以上遡ることができない信仰の「典拠」として受入れるということであり、そこに「純神道」の範型を見るということです。まさしくそれは神学的な「物言い」であって、古典に対して「歴史的批判的」なアプローチを試みる立場からは、当然様々な疑問が生じてきます。記紀神話それ自体が既に「習合的」であるということは、「聖書」についても言えることですが、「信仰」はそこに「純神道」を見出し、それはまさに自らの信仰の淵源であると主張します。ここでは古典神話の「正典化」の根拠が国学者の言説のうちに求められていると言うべきでしょう。

本書は、まさしく以上の問題意識に基づいて執筆されたものであり、各国学者の神理解を考察する場合、あるいは信仰の基本構造を明らかにする組織神学の神理解を論述する場合には、共にその根底にある信仰を重視することに基づいて、分析を試みた。

さて、本居宣長の有名な『古事記伝』三之巻に示されたいわゆる「神の定義」がこれ以上に勝る神の定義はない、と評価されながらも、その具体的な意味・内容は従前明らかにされてこなかった。本書第一編「本居宣長の神信仰」では、当該「神の定義」を解釈するにあたり、プロテスタントの神学者ルードルフ・オットーのヌミノーゼ概念との比較を通じて分析した。即ち、オットーの主張するヌミノーゼの契機の一つである“宗教的畏怖”が宣長の「神の定義」の「可畏き物」と意味的に近似するものであることを前提に、当該「神の定義」の具体的な意味・内容を明らかにした。またかかる「神の定義」が、宣長の三十二年に及ぶ古事記研究の過程において、どのように確立されたのか、とりわけ、「神の定義」と宣長の産巣日ノ神信仰との関係について明らかにすることによって、本居神学が中世以来の神道思想に確認される「一即多」の発想を受容しているのか、否か、といった問題について考察した。

△ シュライエルマッハーの神学の三区分に並んで、オットーの「ヌミノーゼ」概念(オットー「聖なるもの」参照―引用者)が、神道神学の学的展開にとって基礎的な位置を占めています。なお、西田幾多郎が多用した「一即多」の「発想」が、中世以来の神道思想との関連で言及されています。

第二編は、本居宣長の古道論を批判した天保期の国学者、橘守部の神理解をめぐって考察した。従前、守部の神典研究は『稜威道別』等に示された神典解釈法「神秘五箇条」の分析に終始してきた。しかし本編では、同じ天保期に執筆された『歴朝神異例』が『稜威道別』と相互補完の関係にあることから、守部神学の課題が当代民衆に対する“神霊の実在論証”にあったと指摘した。更に守部の神学確立過程を見ると、当初本居神学を祖述していた守部は、右に示した神学の課題が明確化するに伴って、荒魂をめぐっての学説を変化させ、最終的に「顕生魂(アラミタマ)」の義であると主張するに至った。当該学説を確立するにあたり、守部の神学成長過程にどのような神学的思考を見出すことができるのか、といった問題を詳述した。

△ 日本語の「たましい」、「みたま」が、どのような場面で、どのように使われる言葉であるのかを考察することは、日本人の宗教観に深く関わるものであると言えるでしょう。著者はそこに「神学的思考」を見出しています。

第三編に据えた論考では、『延喜式祝詞講義』、『日本書紀伝』を代表作とし、博覧強記の国学者と評される幕末の鈴木重胤の神学を分析した。重胤をめぐる従前の研究については、重胤が平田篤胤の没後の門人であり、その後、剽窃問題から気吹舎と対立するに至ったことから、篤胤と重胤との学問の相違を指摘する論文や、個々の学説を対象とする研究を確認できる。しかしこれまで重胤固有の学問方法については、直接的に言及されることはなかった。本編では、『延喜式祝詞講義』や『中臣寿詞講義』等を通じて、重胤が神祇祭祀の起源を神話伝承に求め、結果として神祇祭祀と神話伝承との両側面から神道の本質を議論しようとしていたことを論じた。また重胤の学説が明治期の祝詞研究にどのように受容されたのか、といった問題についても言及した。

△ 神祇祭祀と神話伝承との間には密接不可分な関係があるということは、宗教学の常識です。神話伝承は神祇祭祀という文脈において生き続けます。祭祀という場所がなければ、神話は宙に浮いたものになります。表象は行動に伴います。しかしその逆ではありません。祭祀が持続的に執行されなければ、神話が人々に共有されることもありません。その意味を考えるために、西田幾多郎が使った「ドローメノン」(a thing done)という言葉は示唆的ではないかと思われます。「歴史的形成作用としての芸術的創作」という論文で、西田は次のように言っています。

「祭式を意味するドローメノンというギリシャ語は、我々に教える所が多い。無論すべてのドローメノンが祭式だというのではない。外界の刺激に対して情緒的な反動的動作が皆祭式だというのではない。唯共同的な強烈な情緒的反動の動作が祭式となるのである。原始民族においては、知覚からすぐ行動へである。しかし理性的に発展するに従って、反省の間隙(かんげき)が入って来る。知覚が意識的表象となる。ここに我々の精神的生活が構成せられる。ドローメナからドラマに移り行く。芸術とか宗教とかいうものは単に祭式的ではないが、此処(ここ)にその起源を有つということができる。原始人民が猟とか戦争とかから帰って、同種族の女や子供の前で、篝火(かがりび)を囲んで愉快だった行動を再演する。それが民族の歴史や記念的祭式の始となると共に、それから知識的抽象作用が生れるのである。特殊なる戦闘とか狩猟とかの再演は、漸々抽象化せられ一般化せられ行く。野蛮人の踊というのは、斯く記念的意義を有するのみならず、行動に対して魔法的踊への材料ともなるのである。原始人は戦に臨んで戦争踊を踊り、猟に臨んで狩猟踊を踊るのである。プラトンはこれらの踊においてミメシスを見た。そしてそれを芸術の起源と考えた」。祭式(祭祀)の起源はドローメノンであり、それはドラマ(神話)を伴うということが、ここに明快に示されているのではないかと思われます。

第四編では、まさしく「組織神学」の業績を集めた。第一章「荒魂考」は、荒魂をめぐっての宣長と守部との異なる解釈を、荒魂を祀る祭祀の理念に基づいて、いずれの荒魂解釈が正統な神道信仰に基づき妥当であるのか、といった視点で詳述した。第二章は、宣長が『伊勢二宮さき竹の弁』に於いて主張した、豊受大神をして、「高天原に於て、天照大御神の重く祭らせ給ふ、御食津大神(▽1)」であると規定した“豊受大神敬祭説”をめぐり、内宮権禰宜(▽2)益谷末寿と外宮権禰宜橋村正兌との間で論争が展開されるが、いずれの解釈が妥当であるのか、といった問題を組織神学の立場から分析した。そして第三章は、宣長、守部、重胤、及び明治期の常世長胤等の神学思想は、造化三神(▽3)を神々の主宰神乃至は根源神として規定する場合があるものの、必ずしも中世の神道思想に確認される「一即多」の発想法とは同じでなく、個別神格の独自性を明確に認識していたこと、即ち、彼等の神学が多神同時信仰を示すものであることを分析した。

△1 ミケツオホカミ。御饌都大神とも書く。

△2 権禰宜 ゴンネギ。権(かりの、副)、禰宜(神官の位)。

△3 ゾウカサンシン。「『古事記』の冒頭で天地が分かれたとき、高天原に最初に現れたのが天之御中主神、次に高御産巣日神、神産巣日神。『日本書紀』では第四の一書に、やはり高天原に出現した神が天御中主尊、高皇産霊尊(別名を高木神)、神皇産霊尊。この三柱の神を万物生成の始めとして造化三神と総称する(『神道用語の基礎知識』)。

本書の最後には、補論として、幕末から近代にかけて神宮の古儀復興に尽力した御巫清直の神祇信仰について論じた。当該論考も、神宮祭祀の考証学者として著名な清直の著述の分析を通じて、その根底にある神祇信仰を明らかにするべく考察したものである。

以上の本書に所収した各論考に共通する着眼点は、凡そ次の二つであるだろう。一つは、前述の如く、本書を通じて考察を加えた国学者の学問は、いずれも単なる古典に基づく古代の「復元解釈学」などと表現されるものではなく、神祇に対する敬虔な信仰を前提とする神道神学そのものであったということであろう。例えば、天保期の四大家に数えられる守部の学問は、従前、神典解釈法「神秘五箇条」だけに研究の焦点が絞られた故に、「思弁的若くは哲学的合理派」あるいは「近代神話学的方法論の自覚」等と評価されてきた。しかしかかる評価には、守部の信仰といった視点が欠如していたことは明らかであり、筆者はむしろ、神祇に対する守部の信仰といった側面から彼の業績を分析することによって、はじめて守部の学問の本質を明らかにすることができると思うのである。そうした着眼点は、本居宣長や鈴木重胤の学問を分析する際にも有効なものであり、あるいは信仰について、直接的な物言いをほとんど見出すことができない神宮の考証学者であった御巫清直の学問分析にも必要なものであろう。従って、国学者の神典研究を分析するにあたり、神祇に対する当該国学者の信仰を重視するといった視点は、近世の国学に於ける古道論を分析するにあたり、必須のものであると思われる。

△ 神学は信仰の学である、言い換えれば、広義の実践的な観点に立つべき学問であり、それが著者の「着眼点」であると言われています。「神学」なるものが、それ以外ではあり得ないということは、その通りであると思われます。それは、例えば、カール・バルトの神学に於ても確認されることです。

もう一つは、神道信仰に於いて、当該信仰の内容が、たとえそれが重要な契機であるにせよ、「言語」だけに表出されるものではなく、「行為」(神祇祭祀)や「視覚」(社殿の在り方)等様々に異なる形態によって表出されているとすることであろう。とりわけ神話と神祇祭祀との相互から、神道信仰の本質を論ずるといった着眼点は、臆断ながら、平田篤胤の『古史徴開題記』を一つの契機とするものであろう。その後、かかる視点は、鈴木重胤に継承され、神祇祭祀の起源を記紀の神話伝承に求める学説が主張された。それは、「凡ての事神事より外に古を考る所は無き者ぞかし」との物言いに端的に示されているといえよう(本書第三編第一章「鈴木重胤と神祇祭祀―神学確立過程に関する一考察」参照)。また守部は、記紀神話の本義が神社の故実とも重なり合っていることを主張している(第二編第二章「「顕生魂」説の原由―橘守部の神学」参照)。更に「視覚」という表出形態については、外宮屈指の神学者橋村正兌は、豊受大神の神位をめぐって、別宮をも含めた神宮の社殿の在り方を念頭に置きながら論じている(第四編第二章「豊受大神敬祭説をめぐって」参照)。それは、当該序論にも論じたように、神道神学を立てるにあたり、神祇祭祀と古典神話とのいずれを重視すべきか、といった小野神学と上田神学との方法論上の対立にも関わる問題である。更に、近年のスイスの宗教学者フリッツ・シュトルツが諸宗教を分析するにあたり、いったいどの表出形態が当該宗教において重要な役割を果たしているのか、といった問題を明らかにすることは、個別の宗教を理解する上で重要な視座であることを指摘している。ちなみに、宗教を分析するにあたり、「神話は儀礼の言語的な解釈である」と西洋宗教学に於いて初めて儀礼の重要性を主張した十九世紀末のロバートソン・スミスに対し、すでに十九世紀前半から、国学者の学説に、かかる着眼点を確認できることは、信仰の表出形態が言語のみに限定されるものではない、といった神道信仰の特徴の一つを物語るものであろう。従って、「言語」、「行為」そして「視覚」といった異なる形態を通じて神道信仰は当該内容を表出している、といった着眼点は、今後の神道神学研究に於いて重視されるべきものであると思われる。なお本書の第二編以降の各論考は、こうした着眼点を踏襲している。

△ ここで、先に取り上げた西田の論文でロバートソン・スミスが言及されている段落を、参考までに引用してみます。

「かかるミメシス的祭式から如何にして神が生れるか。ディチュラムボス(ギリシャの春の祭式―引用者)は個人的情緒の発現ではなくして、団体の踊であり歌である。彼らは叫びつつ、踊り狂いつつ、彼らの共同の情緒を発現する。共同の情緒において、彼らは個人の経験以上のものを感ずる。彼らは全然自己自身を失って情緒に一となる。而してこれを投射する。これは神性の素材である。原始的神は表現せられ、形式化せられた共同の狂熱であるといわれる。無論単に狂熱的情緒が一つの人格に結晶するのではないが、実現において踊りの指導者というものが分化せられて尊敬の対象となるのである。遂にはそれが超越的な神ともなるが、ギリシャのクーレーテスの祭式の如きにおいては、神が共に踊るべく呼び出されるのである。神と礼拝者とはなお十分に分化せないのである。宗教は聖なるものに関する祭式の総体であるといわれる。しかし神というものが先ずあって、それから聖なるものが出て来るのでない。全く逆であるという(以上Harrison, Themisによる―テミスはギリシャの正義の女神と考えられているが、もとは社会的意識の強制を意味している、いわば出来上がった神ではなく、すべての神の質料というべき存在、なおHarrisonとはJane Harrisonのこと。「―」以後は引用者の補足)。ロバートソン・スミスも『セム族の宗教』において曰く、キリスト教会的であった近世ヨーロッパ人は、宗教を祭式の方からでなく信条の方から見る。しかし古代の宗教の大部分は信条というものを有たなかった。全く制度と祭式とから成立っていた。例えば、古代ギリシャにおいて、或事が神殿において行われた。それを為さないことは不信心と考えられた。しかし何故にそれが為されなければならないのかといえば、互に矛盾する如き色々の説明を聞くだけであった。多くは唯その祭式が出来た事情の話に過ぎない。祭式は信条と結合していたのでなく、神話と結合していたのである。しかし神話というものも、第二次的なのであった。神話は祭式から導かれたのであって、祭式が神話から導かれたのではない。古代宗教の研究は神話からでなく、祭式と伝統的慣習から始めなければならない、といっている」。

以上、戦後神道神学研究史とそこに見出せる神道神学の方法論に従って、本書の概要及び課題をめぐって論じてきた。繰り返しになるが、本書に於ける国学者の古道論や学説に対する分析は、いずれも神道神学の視点に基づくものである。そうした視座に基づくことによって、上田氏がその方法論を確立した組織神学という学問分野を、例え僅かな一歩でも進捗・展開せしめることができたならば、筆者にとって望外の喜びである。そのことが実現されることを願って擱筆する。

△ 「序論」はここで終わっています。このあと、〈戦後神道神学に関する主な業績とその分類〉として小野祖教、安津素彦、上田賢治各氏の諸論文が掲載され、また〈神道神学に関わる諸論文(神道宗教を中心にして)〉としてその他の神道研究者の諸論文が掲載されています。なお、先の西田の論文の引用のところで言い添えたいと思ったのは、等しく信条に拠って立つ宗教ではあっても、キリスト教のカトリックが「ミサ(行為)」に重点を置き、プロテスタントが「説教(言語)」に重点を置いているということです。宗教的生命ということを考えたとき、どちらが始原的であるかは明らかです。あまりにも言語に重点を置き過ぎれば、宗教的生命は枯渇するでしょう。これから先は、「序論」と重複する部分はありますが、「結論」の紹介に移ります。

結論

国学者の神信仰を、神道神学の視座から分析した本書は、如何なる知見を明らかにすることができたのだろうか。本書のとじめにあたり、研究成果について纏めておきたい。

序章では、これまで「神道神学」に取り組む研究者相互に於いて、「神道神学」という学問を、いったいどのように規定するのか、といった問題に対して、必ずしもコンセンサスは得られてはいない、という現状認識を研究の出発点とした。それ故、神道神学・神道理論を専攻する小野祖教、安津素彦、上田賢治といった各氏の学問、とりわけその方法論を分析し、研究者相互に於ける神学的方法論の違いを明確にするとともに、神道神学に対する共通した認識を明らかにした。それは、研究者の神道信仰を前提として、新党信仰のアイデンティティを理性的・論理的に明確にすることを課題とする学問であるということである。またこのような神道神学理解に基づくならば、近世の国学者、とりわけ「道」の問題を明らかにした国学者の業績は、まさしく「神道神学」そのものであったことを指摘した。

△ 序論(序章)は既に見た通りです。「古道」をそれ以上遡源できない神典に基づくものとするのは、研究者の信仰であって、聖書がそうであるように記紀神話も、実際は多様な伝承の複合として捉えるべきものです。そこには神学的であることの信仰上の限定が働いています。神学はその限りで理性的・論理的であるということに過ぎません。

かかる視点から、国学者の業績を分析したのが本書の特徴であるが、まず第一編では、本居宣長の有名な「神の定義」を分析した。従前、宣長の「神の定義」は、神道神学史上これに勝る定義なし、と評価されてきた。しかしその内容・解釈については、必ずしも明確にされてこなかった。その理由として、「可畏き物」という宣長の言説を如何に解釈するのか、といったことが問題点として挙げられる。そこで、プロテスタントの組織神学者、ルードルフ・オットーのヌミノーゼ概念、とりわけ諸宗教の崇拝対象の特質としてオットーによって詳細に分析された“宗教的な畏怖”と比較し、宣長の「神の定義」の正確な意味・内容を明らかにすることを試みた。また、戦前の著名な日本思想史家であった村岡典嗣は、宣長の思想分析に於いて、宣長の宗教的意識を「神の定義」等に窺える「自然宗教的信仰」と宣長の産巣日ノ神信仰に代表される「敬虔的信仰・絶対的信仰」とに分類し、真に宣長を支配したのは「敬虔的信仰・絶対的信仰」であり、それは宣長の家の宗教である浄土宗に根差していた、と主張した。こうした村岡の学説を、『古事記伝』に示された本居神学の理論、及び『古事記伝』稿本(下書き)と現行刊本との比較を通じて、本居神学の成長過程、とりわけ“御霊の神学”が確立されることによって、「神の定義」と産巣日ノ神信仰とは、精錬された記述に成長したことを明らかにし、村岡説に代表される宣長の宗教的意識を二つの異なる側面から見做す学説を根本的に批判した。

△ 著者は「純神道」、「基本神道」の立場に立つ「神学者」として宣長を見ているということでしょう。その当否については私が判断できることではありません。

次に第二編では天保の四大家の一人、橘守部の神学を分析した。従前、守部の古道論は神典解釈法「神秘五箇条」のみが主に着目されてきた。かかる守部研究の趨勢にあって、戦後の鈴木暎一氏の論考は、豊富な研究資料を駆使して守部の人物像に迫るだけでなく、いったいなぜ守部が「神秘五箇条」を案出するに至ったのか、といった背景までをも明らかにするものであった。第二編第一章では、そうした鈴木氏の見解を受容しながらも、鈴木氏があまり注目することのなかった『歴朝神異例』に着目し、当該書が神典註釈書『稜威道別』と相互補完の関係にあり、当代民衆に対する“神霊の実在論証”といった守部の神典研究の課題を担う一方の柱であることを論証した。またそうした守部の問題意識が、神理解を示すにあたり、どのように作用したのか。こうした問題を、『古事記』を分析するに際し、恣意的解釈を極力避け、文献学と評される本居宣長の神理解と比較することに基づいて明らかにした。更に「顕生魂(アラミタマ)」という概念が守部の晩年に確立したことに着目し、『稜威道別』や『難古事記伝』といった神典註釈書の著述稿本をも網羅して、かかる概念が守部の如何なる神学的発想に基づくものであったのか、といった問題を詳述した。こうした研究を通じて、“現実的な視座に於ける神霊の認識”や“神理解に於ける謹み”といった守部の神理解を特徴づける契機を明らかにすることができた。

△ 著者の「神学研究」が文献学的な意味で実証的であろうとしていることは評価されるべきでしょう。“現実的な視座に於ける神霊の認識”ということは、先に加藤周一氏を参照したとき指摘されていたように、日本人の世界観の「原型」に迫る洞察ではないかと思われます。「神霊の実在論証」という守部の問題意識も興味深いところです。

第三編では、幕末の国学者、鈴木重胤の古道論を分析した。従前の重胤研究は多岐に及ぶものの、最も精力を傾けたのは、谷省吾氏であろう。谷氏の論考は、重胤の学問の固有性、即ち、平田篤胤のように、自ら古史を編纂することに対して、研究半ばで疑義を抱き、以後「延喜式祝詞」や『日本書紀』の註釈に傾斜したことを飽きたかにすることによって、重胤の学説は平田篤胤の学問からの剽窃である、と嫌疑をかけた平田鉄胤に対する反論を中心とするものであった。また、従前の祭祀学研究には、重胤の学説の多くが引用されてきた。本稿は、かかる研究動向を念頭に置きながら、従前論じられることがなかった、重胤の学的方法論を、『延喜式祝詞講義』(『祝詞講義』)や『中臣寿詞講義』といった著述に従って、分析した。即ち、重胤は、古道を論ずるにあたり、神祇祭祀を重視し、神祇祭祀の起源を神話伝承に求め、結果として、神祇祭祀と神話伝承との神道信仰の相互の異なる表出形態から、古道を論じたことを、明らかにした。また、そうした重胤固有の方法論が平田篤胤の学問に刺激を受けたものであることを論証した。更に、重胤の学問をして大嘗祭を通じて天皇が神格化されると主張する論考に対して、上述の文献を精読することによって、重胤は、大嘗祭を、天津日嗣知看す(▽1)天皇の御世始めの御業として認識していたのであり、大嘗祭を通じて天皇が神格化されるといった類の発想は、重胤の思想に一切見出せないことを明らかにした(▽2)。ちなみに、重胤の『祝詞講義』は、明治四十三年國學院大學出版部から『国文註釈全書』の一環として出版された。その背景として、明治期に於ける祝詞研究が如何に重胤の学説を重視していたのか、といったことも明らかにした。具体的には、明治十五年から十六年にかけて刊行された久保季茲著述の『祝詞略解』、とりわけ「伊勢大神宮」の祝詞群の註釈に於ける、『祝詞講義』十三之巻からの夥しい引用を確認した。こうした事例からも、近世の「延喜式祝詞」の研究は、賀茂真淵(『祝詞考』)を嚆矢として、それを本居宣長が部分的に修正し(『大祓詞後釈』等)、鈴木重胤によって確立されたといえよう。

△1 天津日嗣(あまつひつぎ、皇位の継承、また皇位)知看す(知ろしめす、と読むのではないかと思われます、お治めになるの意)。

△2 今日再び宮中祭祀が、皇位継承の問題に関連して、人々の注意を喚起しているように思われます。「大嘗祭を通じて天皇が神格化される」という思想は、特に明治以降に強調されるようになったものではないでしょうか。

次に第四編では、神道の神理解に直接的に関わる論考を収録した。「荒魂考」について、近世国学者によって様々な四魂(▽1)の解釈が示されているものの、とりわけ本居宣長が『古事記伝』三十之巻に示した「荒御魂、和御魂」の解釈と橘守部が『稜威道別』巻四に示した「顕生魂(アラミタマ)」説とに着目し、どちらの解釈が古代神祇信仰に於いて「荒魂」という概念の正鵠を得ているのか、という問題を分析した。その尺度は、「荒魂」という概念を確認できる「仲哀記」、「神功皇后紀」の伝承内容に当該諸学説がどれほど忠実であったのか、そして神社祭祀(儀礼)に於いて荒魂はどのような崇拝対象として認識されていたのか、というものである。かかる視点に従って、神宮の荒祭宮に対する公卿勅使の発遣、あるいは長門国一之宮住吉神社の特殊神事(御忌祭・和布刈神事)を分析すると、荒魂を対象とする祭祀は、荒ぶる魂を和め鎮めるために神事が斎行されるのではなく、むしろ霊験あらたかな神霊の御稜威の発揚を前提とするものであることが明らかになった。従って、守部の「顕生魂(アラミタマ)」説に荒魂信仰の本義が示されていることを論証した。

△1 和魂(ニギタマ)、荒魂(アラタマ)、幸魂(サキタマ)、奇魂(クシタマ)のこと。

次に、本居宣長は、伊勢両宮祭神に関する誤った学説を糾すべく、寛政十年(一七九八)に『伊勢二宮さき竹の弁』を物し、豊受大神をして、「高天原に於て、天照大御神の重く祭らせ給ふ、御食津大神」である(“豊受大神敬祭説”)と規定した。当該学説は、既に二十年前、『古事記伝』十四之巻の浄写を終えた段階に確立していたが、以後、宣長の学説をめぐって、内宮権禰宜の益谷末寿と外宮権禰宜の橋村正兌との間で、神学論争が起った。即ち、末寿は、文献至上主義の立場から、宣長の主張する“豊受大神敬祭説”に何の典拠も見出せないことから、当該学説に反対した。一方の正兌は、「神代の旨(オモブキ)」は、記紀の古伝承や別宮をも網羅した神宮社殿の在り方に表出されているとして、末寿の学説を批判するとともに、“豊受大神敬祭説”を更に展開させた。“豊受大神敬祭説”は、末寿が指摘する如く、確かに明確な典拠を見出すことはできない。しかし宣長と正兌との議論は、文献(言語)だけではなく、外宮先祭という神祇祭祀(行為)、あるいは別宮をも網羅した神宮社殿の在り方(視覚)といった神道信仰の異なる表出形態に目を配っていたことを明らかにした。従って、筆者は、宣長、正兌の主張する“豊受大神敬祭説”に賛意を表するのである。

△ 神学は文献至上主義に立たないと言われているのは興味深いことです。宗教は文献にだけ依拠するのではなく、行為や視覚をも含むものだからです。

更に、国学者がどのような視座から、神道信仰の特質の一つである多神信仰をめぐって、議論しているのか、といった問題を分析した。従前から、国学者の神学に、中世の神道思想に示された信仰理論と同様、開闢伝承の発端に顕現した神を根源神として位置づけ、八百万の神々をして、当該根源神の分身乃至は分霊であると位置づける論理、所謂「一即多」の発想を確認できることは、指摘されてきた。しかし、そうした発想を、必ずしも「道」の問題を論じたすべての国学者が果たして受容していたのか。あるいはたとえ受容していたとしても、当該「一即多」の発想は、神々の系譜を論ずる上で採用されたのであって、個別神格の独自性を否定するものではなかったのではないか。本稿では、かかる筆者の見解を論証するべく、造化三神に対して抽象的・観念的な解釈を退け、神霊の本質を現実的・具体的な霊験に見出した橘守部の神学、本居宣長の“豊受大神敬祭説”、鈴木重胤の新嘗祭(大嘗祭)の理念、そして神社に祀られる祭神の個別性を重視した常世長胤の神学に着目して、多神信仰を前提とする国学者の信仰論理を明らかにした。

△ 神道は多神教であって、その神々を一神に収斂させる必然性はどこにもありません。むしろ「一神教」こそが宗教形態において特殊であるとすべきでしょう。

補論では、幕末から明治にかけての神宮の古儀復興に尽力し、神宮学の泰斗と称される御巫清直の思想をめぐって考察した。これまでの清直をめぐる研究は、主に清直の考証が現実の神宮祭祀にどのように反映されたのか、といった着眼点に基づいて清直の足跡を明らかにするものであった。しかし、清直の考証が如何なる思想・信仰に淵源するものであるのか、といった問題を明らかにすることは、清直の神宮学を理解する上で必須の課題であるにも拘わらず、必ずしもこれまで十分に検証されてきたとは言い難い。本稿は、当該問題をめぐって、神宮祭祀の根源的な主体は天皇であることを主張する「神朝廷」論(▽1)、神宮故実の原由を明らかにするべく遂行された『倭姫命世記』に対するテキストクリティーク、そして豊受大神に関する考証に着目し、それら個々の問題に窺われる清直の学説と先行する神宮学者・国学者の学説とを比較・検討することを通じて、清直固有の思想の分析を試みた。また、清直の神宮学に於ける考証と信仰との関係を分析するべく、明治四年の神宮御改正以降に生起した神宮に関係する問題、即ち、角田忠行によって企図された熱田神宮の社殿改造計画に対する清直の反論、及び、明治五年以降、度重なる御饌殿の神座の変更過程に主張された清直の考証にも着目した。以上の考察を通じて、清直の学問は、神宮の正統な故実(▽2)を明確にすることを課題とするものであること、その論証過程に於いて文献のみならず現実の神宮祭祀や社殿の在り方等、様々の神宮故実の表出形態を網羅するものであること、更にそうした学的営為は、彼の神祇信仰と一体不可分の関係にあったこと、といった彼の神宮学の特質を明らかにした。

△1 神道が天皇の存在と不可分に結びついていること、しかもその天皇の存在が日本国憲法の第一章に規定されているということは、今日再び極めて重たい問題としてすべての日本国民の上にのしかかろうとしています。それは言うまでもなく憲法改正の問題が現実味を帯びてきているからです。そのときに「神道神学」なる学問は政治と無縁であり得るのでしょうか。かつて、1960年代後半に、キリスト教に関して「神学的言説」の政治性が問われたことがありました。神道信仰を積極的に擁護する「神学」の存在は果たしていかなる政治性を発揮することになるのでしょうか。

△2 著者は度々「正統な」という言葉を使います。正統な神道信仰の伝承という意味でしょう。しかしその正統性が、たとえば、教派神道を暗黙裡に排除するかのような概念であるとき、それは単に「神学的」な問題に留まらないでしょう。信教の自由というものが前提されている限り、「正統な神道信仰」といえども、数ある諸宗教の一つに過ぎません。民族宗教としての神道宗教が抱えている大きな問題は、それが自らを抑制することを知らなければ、他宗教の信徒や、そもそも宗教的信仰を持たない人たち、あるいは日本国内に居住する他民族に対して、容易に抑圧的になり得るという点です。そのことは依然として日本の現在と将来の問題として重大かつ深刻であり続けています。

以上の諸論考を通じて、本書は、国学者あるいは国学の学統を継承する神宮学者の神信仰を分析した。恐らく本書の問題点は、各国学者あるいは神宮学者のかかる神祇信仰が確立された時代背景、あるいは国学者の学説の契機となる神宮や神社の祭祀や故実、言うならば制度の問題を、より幅広く俯瞰し、かかる視座も交えて国学者の神信仰を論ずるべきであったことが指摘されよう。その問題を今後の課題とすることにして、擱筆としたい。

△ 神道思想史は、単に神道内部の問題としてではなく、丸山真男が指摘していたように、時代の全体的な連関の中に位置づけられるべきものでしょう。たとえば、荻生徂徠の学が国学にどのような影響を与えたのかといった問題です。著者の言う時代背景がそのような問題をも包含するものであることを願いたいと思います。


U 象徴の解釈学 その1

先に「国学者の神信仰」において「神道神学」なる学問が存在するということを取り上げました。神道の世界で神学的な体系化の試みがなされるのは、ある意味で必然的であると言えますが、同時にその営みには問題が孕まれていると言わざるを得ません。どのような文脈で神話が活性化されるのかということを考えるとき、神道信仰には民族主義の制約が色濃く反映されてくるからです。神学的アプローチだけでは問題は解決しないということを、この間、私は色々な形で問題にしてきました。問題の焦点の一つは、どうやら神話をいかに解釈するかということであるように思われます。その問題を論じた本の一つに久米博著『象徴の解釈学 リクール哲学の構成と展開』(新曜社、1978年)があります。この本については既に「宗教の倒錯」などで言及しました。ここでは日本の神話が取り上げられている二つの論文を紹介したいと思います。初めに取り上げる「古代日本人における罪の観念」は、「あとがき」によると、著者の滞仏中に執筆された博士論文を基にしたものであるようです。著者はリクール哲学の日本への紹介者として知られていますが、もともとはヴァレリーを研究するフランス文学の研究者でした。ストラスブール大学に留学し、そこでリクールの哲学を初めて知ったと書かれています。

古代日本人における罪の観念

――日本神話解釈の試み――

1 神話解釈の方法論を求めて

一 神話の克服と再生

悪はなぜ存在するのか、悪はどこから来たのか、という問いかけは、はたして正しい問題提出の仕方であろうか。正しく問うことが、哲学のはじめであるとすれば、このような問い方は、おそらく、神話的である、といわねばなるまい。事実、人類は太古より、神話の形で、飽くことなくこの問いをみずからに発し続け、そして神話的にその解決をみいだそうとしてきた。なぜなら、悪はすでにそこに在るから。悪こそ罪や苦悩として、人間の痛切な現実であり、情念の体験なのであるから。しかも、悪は客観的、合理的な学問や思惟によって、完全に対象化することはできない。その意味で、悪の問題はいかなる哲学、学問にとっても、試金石なのである。

△ 著者の日本神話を研究する意図は、罪や苦悩として経験される、人間の痛切な現実としての悪が、古来神話として表現されてきたことを踏まえ、その「悪の神話」を哲学的、学問的に理解しようとすることの一環であると言われています。著者はその方法論を模索してリクールにたどり着きました。

「はじめに神話ありき」とヴァレリーはいう。事物・現象のそもそもの起源や原因を探求するとすれば、必ずや神話に行きつく。絶対のはじめ、という観念そのものが、すでに神話的なのである。すべて問いかけは、哲学的であれ、神話的であれ、答えを要請する。未知の存在や現象を前にして、人はまずそれの説明を求める。そしてもっとも説明力があり、安堵させる説明とは、その絶対の起源に溯って説明することであろう。だが、始原はまた終末を暗示する。神話の循環的思考にあっては、始原をたずね求めることは、終末を予言することである。

太初に一連の出来事が起り、そのために人間は現在の状態になった、というのが神話特有の説明形態である。そのもっとも素朴な形が、いわゆる起源神話である。呪術や儀礼と結びついて、起源神話は人間の経験に刻みつけられる。だが、知性が少しでも精度を増せば、神話の荒唐無稽さは、一瞬にして消滅する。人間の精神発達史は、一面、神話克服の歴史であった。神話は迷信とされて、その権威を剥奪された。ところで、問題はこの脱神話化の作業によって、人間の精神は完全に神話性から脱却できたか、神話的思考から根本的に解放されたか、である。

もし神話とは、ヴァレリーが定義するように、「ことばを原因とすることによってのみ存在し、存続する一切のものの名」であるなら、人間は宿命的に神話と絶縁することはできないであろう。神話が次々に廃絶される一方で、その死灰から絶えず神話は再生しているのである。人間にほとんど本能的な神話化作用というものを認めないわけにはいかないだろう。人間の生きている現実は、ミュトスを一切排除して、ロゴスによって全的に表現されることはできない。したがって、脱神話化とは、ミュトスから擬似ロゴスを排して、神話を神話として認めることでなくてはならない。

神話の克服と再生の循環過程は、また、信仰と理解の循環として解することができよう。人は常に何かを信じようとしている。だが理解なき信仰は盲目である。反省的思考は、信仰を強め、確かにするために、信仰の理解を求める。しかし理解の厳密な要求が信仰までも廃絶しようとするとき、人は信仰に立ちもどろうとする。信仰なき空虚に、人は耐え得ないからである。信じるために理解し、理解するために信じる、ここに神話の創造的解釈の要諦があろう。

△ 著者はキリスト者として「知解を求める信仰」という命題のうちに留まっているように見えます。「信仰なき空虚に、人は耐え得ない」と言います。それは、ある特定の神話的空間に、信仰と理解の循環という形で留まり続けるということを意味するでしょう。それが人間の宿命であると「観念」されているのでしょう。私は「判断論」ですべての言明は推定の域を出ない、そして人間の判断の根底には信念としての依拠があると述べました。ヴァレリー的に言えば、だからこそ人間は「神話」と絶縁することはできないということになります。唯物論や科学主義といえども、それが信念体系としてのイデオロギーという「神話」であることに変わりはありません。しかしそのことは、人間が必ず「…主義者」、「…教徒」でなくてはならないということを意味するのでしょうか。

神話的思考は、西欧近代の合理主義的思考の対極にある、“未開人”の思考として捉えられてきた。すなわち、レヴィ=ブリュールのいわゆる「前論理的思考」から、レヴィ=ストロースのいう「野生の思考」にいたるまで、それは否定的に、また肯定的に評価され、定義されてきた。神話的思考の発見は、まず、未開人社会の発見であった。しかし、J・G・フレイザーが、古典的ギリシア世界の神話・宗教・儀礼の底に、いわゆる未開社会において支配しているのと同じ、“非合理な”原理を発見するに及んで、神話的思考は非西欧的世界の専売ではなくなったのであった。神話的思考は化石となった遺物ではなく、また未開人のみが占有しているものでもない。深層心理学が描きだしてみせる世界は、近代人の奥底に息づいている神話的世界そのものである。

とすれば、現代人を神話的人間と理性的人間とに、宗教的人間と非宗教的人間とに、整然と区別することは不可能である。世俗化現象が広範に滲透しつつある現代世界にあってなお、純粋の非宗教的人間は、純粋の宗教的人間よりも稀であろう。表層の世俗化にもかかわらず、払拭できないでいる深層の宗教的人間の残滓が腐臭をはなっている、というのが現代人の多くの、いつわらざる姿ではないか。近代的合理主義の所産としての文明が、音を立てて自壊しようとしている今、現代人が何を信じ、何を拠りどころとしているのかを、あらためて検討してみる要があろう。

△ 合理主義は言語観の問題です。理性なるものが言語の外にあるということではなく、言語使用に於て徹底的に論理的であろうとするとき、いわゆる合理主義が生れてきます。しかし日常言語が多義的である限り、徹底的に合理的であろうとすれば、人工言語の世界、あるいは数学の世界でそれを求めるしかないでしょう。日常言語が使用される現実世界では、合理主義的な考え方にも限界があります。しかし近代的合理主義の所産は「自壊」しつつあるとは言っても、科学的でかつ合理的な思考がなければ社会生活も成り立ちません。だから問題は何が合理主義を支えているのかという、社会の成り立ちにあるように思われます。たとえば新自由主義は、個々に合理的な政策を実施するとしても、全体としては、合理的であるとは言えないでしょう。市場の自己調整(要するに自由放任主義)と民営化、また小さな政府という「神話」が新自由主義的思想の根底にあって、それは単に部分的に合理的であるに過ぎません。だから崩壊しつつあるのは「神話」の方です。

周知のように、E・カッシーラーは、遺著『国家の神話』において、両次大戦間にドイツで、神話的思考がいかにして政治的イデオロギーの中に復活し、合理的思考を制圧していったかを追求し、解明した。他方、強制収容所で刑死した、ドイツの神学者ボンヘッファーは、その同じ現象を捉えて、「歴史の神話化」と表現し、そしてそれに死をもって抵抗したのであった。

△ ここでも問題は合理的思考を制圧した「神話」の方にあって、合理的思考そのものに責任を帰すことはできないでしょう。どうやら著者は現代人といえども、神話的思考から自由ではないということを強調したいようです。

類例を外国に求めるまでもない。わが国において八世紀の記紀編纂は、まさに「歴史の神話化」「神話の歴史化」の意図を含んでいたのであり、また明治期の近代国家成立は、「国家の神話」の意図的な復活であった。為政者は、たとえば紀元節のように、神話的伝承の再興を、国民的統一のための手段として用いた。そして一九六七年の紀元節復活(▽)は、“歴史の神話化”の再開を示すものにほかならない。

△ 言うまでもなく、2月11日の「建国記念の日」のこと。

この問題を、個々の政治学や歴史学の観点から追求するだけでなく、精神史上の出来事として、それを生み出す神話的風土をあらゆる角度から解明する必要がある。今さらふりかえってみるまでもなく、日本人の生活の中に神話的思考や習慣は根づよく支配しており、合理化された生活様式の底に、非合理的な、時に呪術的な要素さえひそんでいるのである。とはいえ、いわゆる近代主義化の遂行によってのみ、それらを批判的に克服できるであろうか。批判的克服とは、神話的・非合理的要素の完全な抹殺、廃棄ではない。神話は民族の遺産として、否定すべからざるものである。むしろ神話が擬似歴史として利用されるのを可能にする神話的風土こそ、彫刻されねばならない。そのために、神話は神話として認められねばならないのである。G・ギュスドルフもいうように、「神話を発見する人間、神話を神話として受け取る人間は、すでに神話から解放されている」。神話を神話として認めることは、神話をしてその真理を開示させることである。“偶像”としての神話が破壊されたのちに、“象徴”としての神話が再興されねばならない。すなわち、非神話化による再神話化がなされねばならない。

△ 私は神話を「偶像化」することを、神話の実体化・差別化と表現してきました。その傾向は宗教に付きまとっています。しかし神話を「象徴」として再興するということを、神話の実存化・普遍化と言い表わしてきました。神話的表現によって人間のいかなる経験や欲求が開示され、また隠蔽されているのかということを考えることが、非神話化による再神話化というものでしょう。象徴が象徴として再び生きることになるからです。しかし神話を神話として受け取ることによって、本当に神話から解放されるのでしょうか。

二 象徴としての神話

神話とは、何よりも、無償のものである。それは恣意的で、気まぐれな説話である。人間に、架空の物語をつくる、作話能力を認めるなら、神話はまさにそれの所産である。しかし、神話は単なる説話とは違った役割をおびている。原始人は未知の現象を前にして、悪の苦悩の中において、それに何らかの原因を、理解できる説話の形で賦与することによって、不安を和らげたいと思う。それが人間の精神の最初の動きである。原因を理解したいという、性急な欲求をみたすには、たとえ偽りの観念でも、もたないよりはましなのである。だが、単に現象の起源を説明するだけの起源神話は、イェンゼンもいうように、事物や現象の本質的認識を含んだ、真正神話とは区別されねばならない。この両者の本質的差異は、神話の形にではなく、主題に、また主題を扱う仕方そのものに求められる。

△ 人間には作話能力、あるいは物語能力(narrative competence)があります。人間には想像力(imagination)があると言ってもよいでしょう。そして古来、人間は様々な説話を生み出してきました。しかし人類の数多くの神話の中で、殊更、真正神話などと言われるものがあるのでしょうか。「聖書の神話」は格別であるということなのでしょうか。

とすれば、神話による事物の本質的認識とは何か。絶えず不安と苦しみと死に曝されている人間存在に保証を与えること、人間を自然の中に根づかせ、自己と環境について最初の認識を得させることである。ただし、その認識は、主観的な価値をもつだけである。客観的知識が、神話の似而非科学性、擬似歴史性を論破、否定するのはたやすい。だが神話が原始人に、主観的ながら世界観を与えてくれる機能を、何物も奪うことはできない。それが可能なのは、神話自身、けっして破綻することのない、固有の論理を有しているからである。神話はすぐれて始原の時にかかわる。絶対のはじめに、一連の出来事が起り、その結果、現在の事態、人間の状態がもたらされた、と神話は説明することにより、神話は現実の存在、事物に照応しているからである。

△ 神話固有の論理ということについては、西田が考えたような「述語的論理」、あるいは言語の「隠喩的」成り立ちといったものが指摘されなくてはならないでしょう。その問題について詳細に論じたものに、中村雄二郎の諸著、『述語的世界と制度 場所の論理の彼方へ』(岩波書店、1998年)などがあります。

神話はこのように始原を語ることによって、祖先の生活を追体験し、過去を現在と未来に結びつける。それが神話の喚起力であり、エリアーデはそれを「想起」(アナムネシス)と呼ぶ。その喚起力は言語の賜物である。

△ 言語のお蔭で、人間には超時的(トランスクロニック)な喚起力が与えられていると言うべきでしょう。神話的想像力によって、人間は世界の始原(アルケー)に思いを馳せ、また未来を予想します。神話は人間の心に居場所(神話的意味空間)を与えます。

もっとも原初的な言語も、すでに象徴言語である。言語は単なる伝達のための記号ではなく、S・K・ランガーも言うように、「言語とはシンボル体系のきわめて高次の形式である」(▽)。水や火や天などは、“聖なるもの”の象徴的表現となることができ、夢や幻想も、詩や神話も、広義の象徴的表現とみなされる。逆に人間は、夢や詩の想像力の産物に導かれて、壮大な象徴の世界に入ることができる。

△ この言葉は、S.K.ランガー『シンボルの哲学』(矢野他訳、岩波書店、1960年)、133ページに出てきます。なお、この本は単なる「哲学書」ではなく、シンボルについての百科全書的知識が凝集されているとでもいうべきもので、聖礼典や神話の起源、音楽や芸術の意義にまで及ぶ広範な議論が展開されています。

かくて、神話は説話の形で展開する象徴の一種である、と定義できよう。神話的象徴のもち啓示的機能は、根源的な人間経験をあらわにし、人間と聖なるものとの関係を発見し、表現する。神話のもつ、この象徴としての力は、次の機能をもっている。第一に、神話は“神代の模範的な歴史”において、人類を全体的、包括的に捉える。人類はそこで、具体的な普遍として、原人として表わされる。第二に、神話によって、人間の経験は普遍性と歴史性をおびる。たとえば、罪の経験は、悪のはじめと終りの神話によって方向づけられる。第三に、神話はその存在論的な力によって、人間の本質的存在から、人間の歴史的実存への関係をつけようとする。つまり人間の本性と現実態との不一致を説明しようとする。

△ ここに書かれていることは、「原人アダム」の神話を想定して考えれば理解しやすいでしょう。

象徴はアレゴリーと異なり、解釈に先行する。そして、象徴としての神話の啓示する意味は、直接的には理解されない。それは、ただ象徴解釈の作業によってのみ、理解される。つまりミュトスの中の潜在的なロゴスを明るみに出す作業である。

△ 「アリとキリギリス」はアレゴリー(寓喩、寓話)であって、初めから勤勉と怠惰についての教訓が示されていることが明白です。しかし「失楽園」の神話にあっては、解釈の作業を経なければ、そのロゴスを取り出すことはできないという意味でしょう。

ここで、象徴としての神話がどのようにして発生し、意味を啓示するかという問題を、ポール・リクールにしたがって考察してみよう。リクールは悪の象徴表現を、現象学的方法によって解明することを試みている。

△ 象徴解釈は一種の暗号解読です。しかし、解読されるべきコードが初めから固定しているわけではないところに、暗号解読との違いがあるでしょう。神話のロゴスは多義的であって、一義的に規定されているわけではありません。

象徴発生には、原始的段階から、より思弁的な段階まで、次の三つの次元が区別される。

第一は宇宙的な象徴発生の次元である。天、地、日、月、水などは「聖の顕現」(ヒエロファニー)であって、人はそこに聖なるものを読みとる。「もの」としての象徴的表現が、「ことば」としての象徴的意味の母胎となる。

第二の発生次元は、夢や幻影に関する象徴である。白昼夢も含んだ、夢の心的象徴であり、この夢や幻影は神話的なものと共通点をもつ。フロイトが象徴というとき、しばしばこの幻夢的(オニリック)なものに限った。ユングは神話を集合的無意識として捉え、そこに神話類型をみいだそうとした。またフロムは夢や神話を象徴的言語として解釈する。夢において、象徴の「宇宙的」機能は「心的」機能へ、コスモスはプシケーへ移行するのである。

第三は詩的想像力による象徴発生の次元である。ここで発生するのは「詩的象徴」である。リクールは詩的想像力に関して、「表象としてのイマージュ」と、「ことばとしてのイマージュ」を峻別する。なぜなら、詩的想像力とは、架空のもの、非現実的なもののイマージュを形成する能力に還元されてしまわず、表象的イマージュは、ことばの力の媒介物、材料としてのみ役立つからである。それに対し、詩的イマージュは、象徴が言語から発生する瞬間に捉える。「表象としてのイマージュを貫いてくる、ことばとしてのイマージュ、それが象徴である」。

象徴の力は言語の力として発揮される。象徴の生命は意味の創造にこそある。とすれば、詩的象徴は言語の発生とかかわることによって、意味を創造することができるのである。

△ ここでは、象徴の多元性、あるいは多重性ということが、指摘されています。「もの」と「こころ」と「ことば」という、三つの次元が摘出されています。詩人が「ことば」としての「生きた隠喩」を作り出すとき、彼は言語の発生に関わっています。

リクールがフロイトの象徴解釈を批判するのは、フロイトはその象徴を、摩滅し類型化した「沈殿した象徴」に限り、それを一義的固定的に翻訳するにとどまっている点である。象徴は「意味の曙」である。伝統的な象徴を再びとりあげて、それを新しい意味の媒体とすることができる。それゆえ、リクールにとって、解釈の真の課題は、「象徴をその創造的な瞬間に捉えること」である。

△ フロイトは、象徴を「死んだ隠喩」、「使い古された隠喩」に還元することによって、そこに科学的合理性を見出そうとしたということでしょう。それは一義的、固定的な暗号解読の作業であって、人間をメカニカルに捉えるという結果を招来します。そうなれば、たとえば、人間の所業はすべて性的欲動によって説明されることになります。

象徴はまた、その精錬度、抽象度に応じて、三つの層に区別される。

第一度の象徴としての原初的象徴は、象徴的言語によって表現される。人間の根源的な経験それ自体は沈黙し、晦昧さの中にとじこもっている。それを直接的に表白することばは、すでに象徴言語なのである。告白は象徴を介して、つまり間接的で比喩的な表現によってなされる。象徴は経験の媒介者であり、それによって経験の意味が啓示される。

いったい、象徴的表現とは何か。それは意味の二重性ないしは多重性をもった表現である。まず第一次の、字義どおりの意味、「意味するもの」(シニフィアン)があり、次に第二次の志向された意味、「意味されたもの」(シニフィエ)が表現される。この二つの意味の連関に、象徴のゆたかさが存する。たとえば「汚れ」という言葉は、物質的な「汚れ」をとおして、道徳的な「穢れ」がめざされ、志向される。

△ 日本語では「汚れ(よごれ)」を「汚れ(けがれ)」と読ませます。フランス語では別の言葉ですが、リクールは両者の同一性を見ています。それはともかく、ここで言われているのは、象徴的表現が言葉の多義性に関わっているということでしょう。

第二度の象徴は、第一度の象徴の解釈としてあらわれる。最初の象徴は「意味の母胎」であって、さまざまな解釈が可能である。神話は第二度の象徴としてあらわれる。第一度の象徴に新たな意味の段階をつけ加えるものは「説話」である。神話は説話という手段によって象徴的機能を発揮するのである。それは神話が表現しようとするものが、すでにしてドラマなのであるから。「人間の経験の隠された意味を開示し、発見するものは、この原ドラマである」。

たとえば、罪の意識が解釈されて、罪の神話を構成する。“追放”は第一度の象徴であり、神話ではない。だがアダムとエヴァの楽園追放の物語は、第二度の神話的説話である。

第三度の象徴は、もっと合理化され、抽象化されたもので、第二度の象徴の解釈としてでてくる。たとえば、アダムの堕罪神話が神学的用語に置きかえられて、「原罪」という教義をうむ。

△ 私は先に神学とは「聖書の神話に枠づけられた思惟」であると書きました。それは、第三度の象徴としての、「教義」に関わる思惟であると言い換えることができるでしょう。そしてその「教義」が権威主義的キリスト教を成り立たせてきました。

こうして、原初の象徴言語、神話、高度の思弁は、完結した円環をなし、解釈によって循環する。この三段階の象徴は、第一次から順次に精錬した結果であり、逆に象徴を溯って解釈しなおしていくことによって、根源的な経験にたどりつくことができよう。とはいえ、いきなり「原罪」という観念にとりくんで、そこから出発するのは、正しい解釈に導かない。リクールはそこで現象学的方法によって、原罪という観念をカッコに入れて、判断中止し、人間の意志という、純粋に経験的なものから出発する。

「原罪の観念は、はじめにではなく、キリスト教的な罪の経験の円環(サイクル)の終点に存する」。

△ 神学的思惟は「完結した円環をなし」ています。それがキリスト教的コスモスを構成します。リクールが自らの思想に現象学を取り入れたのは、キリスト教的固定観念(教義)をカッコに入れて、人間の意志(志向性)という、「純粋に経験的なものから出発」し直すためでした。しかしリクールはフランスでは少数派のプロテスタントとして、あくまでも「ことば」に立脚する思想家であるということもできるでしょう。

三 非神話化と解釈学

ルドルフ・ブルトマンが一九四一年以来おこなった「新約聖書の非神話化」の提唱と試みとは、神学の領域のみにとどまらぬ、重大な問題提起として、広範な議論をまき起した。ブルトマンは、新約聖書の世界像は神話的表象をおびており、救済の出来事は神話的世界のものである、という認識に立脚する。そして、この神話的世界像を、信仰の名のもとに、盲目的に受け入れるよう要求するのは、「知性の犠牲」を強いることである、とする。事実、新約聖書には、キリスト教本来のものでない、後期ユダヤ教的黙示文学や、グノーシス的贖罪神話に由来する、神話的世界像が存在する。ブルトマンによれば、神話的表現様式によって、「非世界的・神的なものは、世界的・人間的なものとして現われ、彼岸的なものが此岸的なものとして現われている。たとえば神の彼岸性は、空間的隔たりと考えられている」。だが、新約聖書の神話像に含まれる、この超自然的・彼岸的なものこそ、宣教の使信(ケリュグマ)なのであり、このケリュグマ理解のために、非神話化という操作が必要なのである。非神話化とはブルトマンによれば、神話を批判的に「解釈する」ことにほかならない。

△ 私は、長い間、カール・バルトのブルトマン批判に拘束されていました。啓示という、動かし難いリアリティが先行しているのであって、聖書の「使信」はそこからのみ正しく聴かれるという「図式」に嵌っていたと言うべきでしょう。「その事柄(ザッヘ)」に即してこそ「神学」という学問が成り立つという観念は、私の中で次第に色褪せてきました。しかし私がかつてバルトのうちに読み取ったと思った「そのもの」、いわば「神のまこと(神のピスティス)」と言うべきものについて、非神話化との関連でもう一度考え直してみたいという気持もあります。それは「非神話化という操作」が、結局、何を目指しているのかということと関連しています。

結局ブルトマンの非神話化は解釈の問題にかかわる。リクールはその問題を受けとめつつ、かれ自身の解釈学的立場をあきらかにする。ブルトマンが、神話(Mythos)と、神話論(Mythologie)とを区別したのに対応し、リクールはブルトマンのいう非神話化(Entmythologisierung)に、二つの機能を指摘する。すなわち、一般的に非神話化(Démythisatuon)といわれるものは、非神秘化(Démystification)と、非神話論化(Démythologisation)とに区別することができる。

「一方において非神話化するとは、神話を神話として認めることだが、それは神話を放棄するためである。その意味において、それは非神秘化といわれるべきである。……他方、非神話化するとは、神話を神話として認めることだが、それはそこから象徴的な本質を解き放つためである。その意味で、それは非神話論化といわれるべきである」。

△ 非神話論化とは、神話を「神話論的にではなく」語り直すということでしょう。神話の神話的ロゴス(擬似ロゴス)を、その「象徴的な本質」において捉え直すということでしょう。そこから「広義の」キリスト教哲学の展望が開かれます。

とすれば、ニーチェ、マルクス、フロイトらがおこなってきたのは、何世紀も人間を束縛し続けてきた偶像(イドラ)からの解放をめざす、非神秘化である。それに対する非神話論化は、神話のまとっている擬似ロゴスを拝することによって、象徴の啓示的な力の回復、再獲得をめざす動きであり、宗教現象学者たちによって推進されている。

△ 宗教現象学がめざすものは、「脱宗教的」に宗教の本質を捉え直すことであると言ってもよいでしょう。それは神話が元来持っていた啓示的な力を回復するためになされます。フッサールの現象学にも、そもそもそのような企図があったのではないかと思われます。バルトなどがキリスト教は「宗教ではない」と言うとき、同様の洞察があったのではないかと思われます。しかし啓示される当のものを再び「キリスト」と言うか、「道(タオ)」と名づけるか、あるいは「いのち」と呼ぶかは、人によって異なるでしょう。

リクールはこうして、ブルトマンの非神話化を、非神話論化として解し、そしてそれを広義の聖書解釈学の流れの中に位置づける。

そもそもキリスト教には、常に解釈学的問題が存している。なぜなら、キリスト教はケリュグマから、根源的なことばから発し、そのことばは、書かれたもの、すなわち聖書をとおして伝えられているからである。キリスト教固有の解釈学は、ケリュグマと聖書との関係に、つまり書かれたことばを、生きたことばに再興することに基づいている。キリスト教の歴史を解釈学的観点から眺めると、そこに三つの主要な根がみいだされる。

第一の根は、新約聖書そのものが、旧約聖書の霊的解釈であり、理解である、という点にある。イエス・キリスト自身が、旧約聖書の釈義であり、釈義者なのである。

第二の根は使徒パウロである。パウロはキリストの受難と復活という光に照らして、イエスの生涯を解釈した。

第三の根は、新約聖書そのものの解釈にかかわる。神の言であるものは、聖書そのものでなく、イエス・キリストである。福音書は初代教会の信徒の最初の解釈にほかならない。したがって、問題は聖書テキストの解釈によって、ケリュグマを理解することにある。このために批評的方法を聖書解釈に適用し、狭義の聖書釈義が発達する。宗教改革者やブルトマンの解釈はこの第三の根に属する。

かくて、聖書の非神話論化は、解釈学的問題に帰結し、リクールの神話解釈も、非神話論化に促されて、やはり解釈学的問題に到達する。しかしリクールは解釈学の問題を神学の枠にはとどめない。あえて、異種の解釈学的立場との対決を求め、その止揚をはかるのである。

△ リクールは哲学者として、キリスト教の聖書解釈の歴史に根差しつつ、「狭義の神学の枠」を踏み越えようとします。そこから神学的聖書解釈という課題に収まらない展望が、自ら開かれてきます。聖書解釈はより広い文脈に置き直されます。

リクールは象徴言語の解釈という観点からフロイトを論じる。精神分析が対象とするものは、夢であれ、神経症の症状であれ、あるいは儀礼、神話、芸術であれ、要するに解読を要するテキストとみなされる。象徴言語の解釈という点で、精神分析は、宗教現象学と共通の課題を担っているわけである。言語という広大な領域で、両者はともに象徴に関与する。そしてそこは、さまざまな解釈学が対立する、「解釈学的場」なのであり。

△ 「宗教現象学」について書かれた研究書としては、たとえば、棚次正和『宗教の根源 祈りの人間論序説』(世界思想社、1998年)があります。

およそ解釈学には、二つの相反する動機がある。一方は懐疑の意志であり、厳密さの願望である。他方は聴従の意志であり、服従の願望である。リクールはその相反する要素を、「解釈学の争い」として捉える。すなわち、前者は幻影や偶像の破壊をめざす、還元的解釈学であり、後者は意味の想起、象徴の再興をめざす、回復的解釈学である。そしてリクールはこの両者の止揚をめざす。

△ 人間の精神は、信念(肯定)と懐疑(否定)とのバランスの上に成り立っています。常に何かを信じ、何かを疑いつつ、その往還の運動によって、時代の思潮あるいは各人の個性が生れてきます。ここで言われる聴従とは信頼を意味するでしょう。信頼なき聴従は、強制された服従を意味するに過ぎません。

リクールはその解釈学を、カントの「象徴は考えるものを与える」という命題から出発させる。すなわち、それの意味するところは、「象徴は与える。しかしその与えるものは、思考の対象であり、思考に必要なものである」ということである。それゆえ、ここにおいて解釈学は哲学である。神話=象徴が哲学者に考えるべく与えたものを、哲学者は哲学的ロゴスに転写するのである。かくて、神話解釈は現代思想の一翼となることができる。

象徴の啓示するあらゆる意味を汲みつくそうとし、あるいは象徴の富を神話から哲学に奪い返そうとするのが、リクールの解釈学であるとすれば、一義的、一回的解釈というものはありえない。先に、信仰と理解の循環運動を述べたように、象徴から解釈へ、解釈から象徴への循環運動は、歴史においてくりかえされているからである。いわば解釈の歴史性である。たとえば、エディプス神話は、ソフォクレス以来、フロイトやレヴィ=ストロースにいたるまで、しばしば解釈の対象とされてきた。この解釈の歴史性を無視することはできない。そもそも、神話が古代から現代まで伝えられてきたということは、それだけ解釈を経てきたということではないか。聖書の例をとるまでもなく、神話解釈は必然的に、解釈学的作業となってくる。

リクールはその見地に立って、レヴィ=ストロースの構造主義的神話解釈の限界は、それが通時性よりも共時性を重視している点にあることを指摘する。口誦でなく、書かれた神話はとりわけ、記者や、編纂者の解釈を蒙っていよう。それゆえにこそ、解釈を経てきた象徴の理解は、高度の解釈学的理解であることが要求されるのである。

△ 現代哲学の課題は、大枠に於て、解釈学的存在論(存在了解)、類型論的構造論(理性批判)、人間学的倫理学(実存分析)に区分されます(「哲学の区分」参照)。リクールは、解釈学に自分の課題を見出しますが、それは類型論的構造論としての構造主義的理性批判の仕事を無用にするものではありません。人間の精神と社会は共時的構造というべきものを有していて、神話の研究に於てもそのアプローチは有効だからです。しかし構造主義は解釈学や人間学に対する反動という面も持っていて、すべての問題をそこにだけ限定してしまいがちです。それは合理主義の極致です。

四 悪の神話と解釈

悪の神話は、ほとんどすべての社会に存在する。神話は悪の発生を語り、そして次の大問題に、いかにかして答えようとする。

「神に創造された、この善なる世界に、悪はなぜ、どのようにして生じたのか」。

これはすぐれて神話的主題である。悪と創造の問題は、単純な二元論には還元されず、むしろ弁証法的課題であろう。悪は現にそこに存在するのであるから、善なる神に対する悪の存在がどのような関係にたつか、さまざまに考えられてきた。たとえば、それは本性的に悪である、あるいは、創造されずに、善なる神と独立に存在している、あるいは善なる神よりも劣った存在である、などと。

神話は常に始原という観念にとり憑かれている。悪がそこにある以上、神話は何とかしてその起源を、その発生を説明しなければならない。だが、これは単なる起源神話によっては不可能である。なぜなら悪の神話は、悪を前にしての苦悩から出てくるのであり、その苦悩は単なる説明によっては解消されないからである。悪は原始人にとって、かれと聖なるものを結びつけている絆を断とうと脅かすものである。原始人はその苦悩や不安を、神話によって祓おうとする。人間の原初の状態、基本的な状態、それは無垢の状態である、と想定される。それが現在の状態、すなわち悪に穢れ、罪に染った状態に、いかにして移行したか、それを神話は説明せねばならないのである。

△ 神話は「擬似ロゴス」であると言われますが、それは言語と想像力が可能にする仮想であると共に、悪の問題に対する最初の心理療法であると言えるかも知れません。

しかしながら、この悪の問題に、はたして有効な解答を与えうるか、という疑問が提起されよう。たとえば、E・ボルヌはその著『悪の問題』の中で、次のように否定的にそれに答えている。

「なぜなら神話はその問題に、問題をもって答えることしかできないからである。悪を説明するために、神話は常に、それ以前の悪に訴えてきた。悪が人間の中に現存することを説明するのに、神々の中にそれをみいだしてきた。この悪循環は、夢に固有の論理であり、理性への嘲弄である」。

これに対しては、神話自身が反論するであろう。神話はこの悪循環を、みずから断ちきっているのである。というのは、神話は悪の起源を物語るだけでなく、その終末をも語るからである。劫罰の神話は、常に救済の神話との関係において位置づけられ、救済の神話が劫罰の神話に意味を与えている。換言すれば、罪の神話は贖罪の観点からのみ意味を持ってくるのである。

悪の終り、すなわち終末論の視覚は、悪循環を断って、人間と聖なるものとの関係を、再び結びつけてくれる。悪のはじめと終りの神話は、とくに、清めの儀式と贖罪の儀式とに、密接に関連しあっている。この二つの儀礼は、神との関係を保つために、一切の罪、穢れを祓って、心身を清めたいという、倫理的、宗教的な必要、願望にこたえるものである。そして一般に、罪の意識が強ければ強いほど、贖罪の儀礼は熱心におこなわれる。J・カズヌーヴもいうように、「真の儀礼のめざすものは、ある場合には、不浄を除くことであり、またある場合には、超越的な聖なる力に人を結びつけることである」。

儀礼のしぐさと、神話のことばとが一体化するとき、この二つを超えて、一つの範型が表現される。人は儀礼においてその範型をくりかえし、模倣する。それによって、始原の行為に参加するのである。このように儀礼と結びついた神話は、はじめと終りを含む全体性を意味しようとする。また、この場合の神話はとりわけ劇的性格をおびる。痛切な罪責意識から発生した悪の神話は、必然的に贖罪と救済のドラマとなるのである。かくして、意味の全体性と、宇宙的なドラマという二つの要素は、悪の神話を解明する二つの鍵となる。

△ 著者は、神話が儀礼と不可分であるという洞察を、多くの宗教学者と共有しています。そして「意味の全体性」と「宇宙的なドラマ」という二つの要素が、悪の神話を解明する「二つの鍵」であると指摘します。

リクールはその著『悪の象徴学』(『意志の哲学』参照―引用者)において、悪のはじめと終りの神話を四つの類型に分類し、それらを一つの神話サイクルとして分析している。その中で中心的な神話類型としてとりあげるのは、「人間の堕罪」の型、すなわち、アダム神話である。リクールによれば、アダム神話は、他の悪の神話に対して、規範的な価値をもつという。悪の神話のあらゆる本質的な観念がそこにみいだされるからである。さらに、「アダム神話はすぐれて人間学的神話である」とリクールは言いきる。アダムとは「人」の意であるが、数ある「原人」神話のすべてが、アダム神話と同じではない。アダム神話のみが、規範的価値をもち、またすぐれて人間学的神話であるのは、次の三つの特質をそなえているからである。

第一に、この神話は悪の起源を、現在の人間と同質の条件をもった祖先に結びつける。つまりアダムの条件は、われわれの条件なのである。堕罪以前のアダムは、以後のアダムより優越しているように見えるが、実は「堕落」の象徴は、この神話本来の象徴ではない。

第二に、アダム神話は、善と悪の起源を二分するという、思いきった試みである。この神話の意図は、悪の根本的な起源に根拠を与え、それによりさらに始原の、善なる事物の起源を区別することにある。アダム神話のもつ人間学的性格の本質は、この(ラディカル)と始原的(オリジネール)との区別にこそある。カントが後に、人間性の中における根本悪という問題として、哲学的考察しているものを、アダム神話は、神話的な時間・空間の中で表現しているのである。

第三に、アダム神話は、アダムすなわち最初の人を中心に据えて、他の人物像をそれとの関連において位置づけ、従属させている。これはアダム神話の「普遍化の機能」を示す。新約聖書でパウロが、「第二のアダム」「アダムにおいてすべての人が罪を犯した」などの言い方をしているのは、この普遍化の好例である。

△ アダム神話が規範的であるのは、それが@人間の条件を示していること、A根本悪が示され、始原の状態に対比されていること、B「普遍化の機能」を持つということの三つが提示されているからである、と言われています。

さて、以上のような特質をふまえて、アダム神話の解釈をリクールは試みている。すでに述べたように、新約聖書において、イエスやパウロはアダム神話をそれぞれに解釈しているのであり、解釈の歴史性を考慮せずには、いかなる解釈も意味をもたない。その点に関して、リクールの解釈は、とりわけ、原罪観念の解釈と、終末論的解釈とにおいて、その特色が鮮かに発揮されている。

アダムすなわち最初の人、という神話的形象は、歴史のはじめにおける人間の単一性を集約的に表現している。アダムの行為は、唯一の人間の、唯一の行為を示す。「アダムにおいて、われわれはひとりであり、である」。

アダムが禁断の果実を食べる。この出来事において悪が生じる。善として創造された人間が悪をなす、という人間の両義性が、ここであらわになる。神は人間を、有限な自由として措定する。そして人間の曖昧さは、神の禁止によって明瞭になる。禁止・掟のもとにある生活、これこそ罪を犯し得る人間の生活そのものである。ここで禁じられているのは、人間自身が善悪の区別の創始者となる自律性そのものなのである。人間の堕落した自由は、権威を禁止として立てる。これはまさに、堕罪は人間の堕落であると同時に、律法・掟の堕落でもあることを示している。それゆえにパウロは、「いのちに導くべき戒めそのものが、かえって私を死に導いた」(ローマ書七・一〇)というのである。

アダムの行為によって悪が生じ、ここに、一方で無垢の時が成就し、他方で呪いの時がはじまる。創造の物語の中に、堕罪の物語が挿入されたのである。成就した創造の中に、悪が生じるという、この不条理、この難点をいかに解釈すべきか。

△ 権威を禁止として立てるということ、それこそが「神の律法」と言われるべきものでしょう。それは人間の堕落した自由が招き寄せる、「堕落した」律法であると言うほかはありません。そこには善と悪との分裂があるからです。

神にかたどって創られたという人間の被造物性は、人間性の無垢の証しである。神話的表象にしたがえば、無垢の状態が、出来事によって、罪の状態に変るのであるが、この二つの状態は、継起としてでなく、同時的な、折り目として理解すべきである。すなわち、無垢のあとに罪が起るのでなく、ちょうど紙を二つ折にしたように、罪の出来事は、一瞬に無垢の状態を終らせ、一瞬に罪に堕ちさせるのである。人の被造物性と、悪への堕落との間に、裂け目ができたわけである。被造物として、始原的に人間は善であるが、根本的な悪に陥りやすいのである。神話は罪に堕ちることを、どこからか発生した出来事として物語ることにより、「根本悪の偶然性」という概念を人間学に提示する。

△ 「根本悪の偶然性」ということは、悪は抽象概念ではなく、あくまで具体的な出来事であるということを意味するでしょう。悪は一瞬に生起する出来事であって、取り返しのつかない形で人間を罪の状態に陥れます。

こうしてアダム神話において、最初の人間の最初の罪を物語ることによって、罪が単一的に集約され、根本悪が偶然性において捉えられ、被造物としての人間の善と歴史的な人間の悪とが、同時的に重ねあわされ、出来事によって二つに分たれたのである。このリクールの解釈は、カントが「人は善にさだめられ、悪に傾きやすい」という定式で表現したところと一致する。

△ 人間が無垢の状態にあるということは、善も悪も知らないということを意味します。そのとき人間は信頼のうちに安住しています。だから善悪を知る(禁断の果実を食べる)ということは、社会生活の規範が人間を律するようになるということにほかなりません。「人は善にさだめられ」ているということは、善と悪との二元対立を知ったあとの言辞であって、歴史的に制約された人間の条件を示すものでしょう。

リクールはさらに、アダム神話に悪の終末の神話を求める。「罪の象徴それ自身は、贖罪に対する信仰からふりかえって考察することによってのみ、完全となる」。

新約聖書は「最初の人」を「来るべき人」、「人の子」、「第二のアダム」という終末論的表彰で、再びとりあげる。「人の子」は終末の人であり、「神のかたちにつくられた」最初の人への応答である。イエスはみずからを「人の子」という三人称で呼ぶ。「人の子」は「地上で罪をゆるす権威をもっている」(マルコ福音書二・一〇)だけでなく、すすんで代りに苦難を受ける「苦難の僕」であり、「多くの人のあがないとして自分の命を与える」(マルコ福音書一〇・四五)のである。

他方、パウロも、第二のアダムをもって、「このアダムは来るべき者の型である」(ローマ書五・一四)とする。第二のアダムは、第一のアダムの罪をあがなう者としてあらわれる。「ひとりの罪過によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである」(ローマ書五・一八)。

罪の終末論的象徴は、「赦し」の象徴である。第一のアダムを理解するには、第二のアダムまで行かねばならない。創造のかけめとして罪が発生したなら、罪のゆるしとは、新しき創造にほかならない。第一のアダムの解釈としてでてきた第二のアダムという神話的形象により、救済史的展望が確立したのである。

△ ここで紹介されている限りでのリクールの説は、さほどユニークでも、厳密でもありません。新約聖書の成り立ちが説明されているに過ぎません。しかし第二のアダムの神話(キリスト神話)は、第一のアダムの神話がなければ生れて来なかった、というのはその通りであって、その意味で、キリスト教は「ヘブライ語聖書」の救済論的補完物であるということを示しています。アダム神話に規範性を見るのは、先に挙げられた理由によるというだけでなく、リクールがキリスト者であるということでもあるでしょう。「ひとり」が、同時に「みんな」であるということ、それこそはキリスト神話の普遍主義的特質であると言うべきでしょう。著者もまた一人のプロテスタントとしてこれを書いています。

以上において、リクールの解釈学的方法を素描してきたが、この方法にそって、日本神話を解釈すればどのような帰結が導きだされるか、というのがこの試論の課題である。もとよりキリスト教と神道とはきわめて異質の宗教である。だが、もしリクールの主張するように、アダム神話はすぐれて人間学的神話であり、規範的価値をもつならば、アダム神話との関連において、日本神話を解釈することは可能なはずである。いくつかの留保はつけつつも、これはけっして無意味な試みではないだろう。

△ こうして漸く著者は「日本神話解釈の試み」に取り掛かります。それについては次回以降に取り上げることにします。


V 象徴の解釈学 その2

2 日本神話解釈の試み

一 記紀神話解釈の問題点

本論が対象とする神話は、記紀神話である。記紀神話のおびている特殊性によって生じる解釈上の問題点について、まず考察しておかねばならない。

もしイェンゼンの区分に従って、真性神話と擬似神話の区別を立てるならば、記紀神話は神話としての真正性を主張できるだろうか。夙に柳田国男は、神話は本質的に口誦のものであるとの見地から、いわゆる神話時代から一千年後に編纂された記紀神話に真正性を与えることを疑問視している。他方、津田左右吉は、神話というよりも原歴史であり、天皇家の神的起源を示すための政治的道具であるとして、宗教性をそこに認めることを拒んでいる。

たしかに、八世紀にいたって記紀が編纂された事情は、記述された神話に歪みや修正が加えられていることを十分に想像させる。朝廷の編纂事業であるからには、記紀神話が高度の体系化された政治神話の性格をおび、そこにおいて神話の歴史化、歴史の神話化がなされていることは事実である。としても、記紀神話が原歴史でないことはいうまでもない。もとの神話が、どのような改変を受けても、やはり神話としての真正性を失ってしまうものではない。たとえ口誦の神話でも、それを伝える人の解釈は経ているのである。書かれた神話は、それが書かれた時代の“現代文学”なのである。記紀神話に八世紀の同時代人の解釈がなされていることは、きわめて当然である。それを単に神話の歴史化とのみすべきではないだろう。逆にそこに解釈の歴史性をみるべきである。

前述のように、リクールは、構造主義的方法は未開社会のように共時性が強く働いているところにおいては有効であるとしても、「共時的観点は、神話の実際の社会的機能にしか到達しない」と指摘した。それに対してレヴィ=ストロースは、古代インドの伝説神話集や日本の記紀のように原歴史的古代文献は、編纂者の意図的な解釈を受け、知的操作を経ているゆえに、自分の構造主義的方法の適用は留保すべきである、と答えている。

それに反し、解釈学の立場からすれば、意図的な解釈、知的操作というようなものは、それなりの意味をもってくるのである。ちょうど聖書学者が、新約聖書の各福音書記者の編纂意図や思想などをあきらかにすることによって、根源的な宣教の使信を捉えようと試みているように、八世紀における記紀の編者の解釈があきらかにされるならば、それはより原初の神話のすがたを浮彫りにすることになるのではないだろうか。少なくともそこに八世紀の人びとの解釈があり、その思想の反映があるはずである。また、通時性に重点をおいた解釈によって、伝承や伝統の意味をあきらかにすることが必要である。それがリクールのいう「歴史的なものの歴史的な解釈」である。

△ ある特定の文書に成立時期が異なる資料が混在しているとき、それに対して構造主義的、共時的な分析を加えることは困難です。聖書学において編集史、様式史などの方法があるように、その文書に対して歴史学的文献学的な分析を行わなければ、その文書の成り立ちは見えて来ないでしょう。丸山真男の言う「ラッキョウの皮むき」がなされなければ、その文書の核となるものは見えて来ません。つまり文書の歴史的な層を見分け、それらがどのように重なり合っているかを知らなくてはなりません。解釈はその操作の過程に伴うものなのですから、「歴史的なものの歴史的な解釈」ということになります。

本論攷の主題は、神話解釈をとおして、古代日本人の罪の観念を探ることである。その場合、神話にどれだけ古代人の信仰が反映されているかが問題である。いわば神話の宗教性である。記紀神話に政治=宗教的色彩が濃厚であるのは事実である。いわゆる祭政一致の思想によって、皇室儀礼に政治的意味が賦与され、そしてその儀礼に根拠を与えるのが神話であった。そして逆にそのために、儀礼に基づいた、神話の再解釈がなされていることもたしかである。だがそのことは、記紀神話が儀礼といかに深い関係にあるかを例証するものである。たとえば、記紀神話と延喜式祝詞では、確実に照応している部分がある。皇室儀礼は主要な神話の核をなしている。いわゆる高天原系神話群は農耕儀礼を中心としており、その中でアマテラスはあきらかに稲の司祭者としての性格をもっている。その性格は子孫としての天皇に受け継がれ、万葉集などにも、天皇は穀物の収穫の責任者としてあらわされている。とすれば、皇室儀礼は政治性の表現であると同時に、宗教性の表現であるともいえる。

ただし、神話と儀礼との連関からのみ、神話が古代人の信仰生活の中に生きていた、と結論するのは問題であろう。神話研究上のいわゆる儀礼主義によって、神話と儀礼を固定的に結びつけて考えるのは妥当でない。ただ、神道の場合、神話や祝詞などのほかに、経典がなく、教義が明確でない、という例の「神道不測」の問題がある。民衆的次元の信仰と、国家神道の間に、あまりに落差がありすぎるという事情もある。体系的教義を欠くゆえに、神道が儀式宗教になってしまっている。それゆえ、もっぱら儀礼との関連において、神話の宗教性を論じなければならないところに、神道思想の特色と、また限界をみるのである。

△ 神道研究上の問題点が、ここに簡略に示されています。「祭政一致」のイデオロギーを除くと、神道は多様に習合しまた拡散していて、その信仰の核となるものを限定しにくいところに、神道の神道たる所以があると言うべきかも知れません。日本文化を「風呂敷」に譬えて見るならば、それは何でも包み込んでしまいます。だから、包まれるものに着目するのではなく、包む風呂敷の方に目をむけるべきであるということになります。しかし、だからと言って、風呂敷に何の特色もないということではないでしょう。

次に、神話中の神々が、強い人態的性格(anthropomorphisme)をおびていることの問題がある。日本神話に特徴的なのは、カミと称される霊格が、ごく少数の例外を除いて、はじめから人間の形態をもって登場し、半獣神、動物神はほとんどないことである。このことは、たいていの神話にある、正統的な人類起源神話を日本神話はもたないことと関連していよう。すなわち、最初の神が神々を生み、神々の子孫は神であり、また人である。神と人とは同一視されてはいないが、神と人とを識別するものは明瞭でない。死後に人が神となるという思想はあるが、神がいかに人になるかは示されない。ただし、神の子孫は人であり、人の祖先は神であるという思想は強くあらわれている。このような系譜的観念は、日本神話にきわめて旺盛である。神々の歴史は、連続的に人間の歴史につながっている。『新撰姓氏録』をみれば、各氏族は争って神々を自分の祖先にいただき、神々の子孫であることを誇っている。また神話は神々がどの氏族の祖先であるかを語るのに、実に熱心である。神と人とが連続的に考えられ、人間と絶対的に隔絶した超越神という考え方は、全くない。

△ ここに書かれていることからして、日本の神は「祖霊」であると言っても間違いではないでしょう。「氏神」(支配者の神)、および、それと区別されるものとして、敢えてつけ加えれば、「産土神 ウブスナガミ」(生れた土地の神、民衆の神)が、日本の神を考えるときの重要な手掛かりであると言うべきではないでしょうか。その神が仏教と習合していわゆる葬式仏教が生れてきたのでしょう。祖霊崇拝にこそ、日本文化の特色があると言えます。しかしそれは何も日本に限ったことではありません。

「カミ」の語源について、まだ定説はなく、より原始的な霊格である「チ」や「タマ」との関連も不明である。神々は神々を次々に生み、“化成”させ、それらが「八百万の神」を形成している。神々相互の関係は相対的で、明確な主神の性格もない。開闢神話における始原神は記と、紀の本文および六つのヴァーションにおいて、いずれも異なっている。記と紀の第四書で第一神とされているアメノミナカヌシは、実際に祀られた神というより、思弁的な造化神とみられる。

天地創成神話において注目されるのは、紀の第三書と第五書である。

始有神人焉(第三書)

便化為人(第五書)

すなわち、初めてなった神を、「神人」または「人」と記しているのである。武田祐吉校注によれば、「神人」とは「人の形をしてゐる神。神が人間性を有してゐることを現してゐる文字」であり、「人」とは「底本等多くカミと訓してゐる。人の形を成した意である」と説明されている。だが、神の人間性というのは語義上からもおかしいし、神が人態性を有することを示すために、人と表記したのなら、どうしてこの二つのヴァーションだけに、人の字を用いているのであろうか。ただ、はっきりしていることは、神ははじめから人の形をして化生した、ということである。日本神話は創造型神話でなく、産出型であり、第一神といえども創造神ではなく、天地の中から化生したのである。つまり、カミよりも偉大な、産出する霊力は、神格化されないでいる。カミはヒトの上にあって、霊力をもった存在であるとしても、カミとカミとは相対化され、カミとヒトとは連続的に考えられている。したがって人類起源神話を必要としなかった。神々のドラマには、あたう限り人間の条件が投影されており、それは原人ドラマとして解釈されるのである。

△ 日本語のカミとアイヌ語のカムイとの類縁性が指摘されます。日本語のカミがアイヌ語のカムイとなったという説もあるようですが、音韻変化の観点から言えば、KamuiKamiとなることは容易に想定できても、その逆の変化を考えることはより困難ではないかと思われます。仮にカムイがカミとなったのだとすれば、日本語のカミという言葉は相当古いと言わなくてはならないでしょう。日本の先住民族(縄文人?)が用いていた言葉が、そのまま日本語に取り入れられたと考えることもできるからです。しかし記紀神話の神が人態的性格を有しているということは、この列島に新しく渡来した民族の世界観を色濃く反映しているのではないかと思われます。記紀神話は、その基調において、時の支配者=新渡来人のものであると考えられるからです。その観点からも日本の神話は東アジアの他の地域の神話と比較されるべき必然性を持っています。

二 スサノヲ神話の解釈

スサノヲを中心とする罪と贖罪の神話、それが本論で解釈の対象としようとする主要な神話である。高天原におけるスサノヲに関する一連の神話をとおして、なぜ、いかにしてスサノヲは罪を犯したか、いかなる罪を犯したか、スサノヲは誰に対して有罪であるか、どのようにして罪を購ったか、を知ることができる。いうまでもなく、神話の中でスサノヲはとりわけ、複雑な性格、矛盾した属性を負わされている。スサノヲが高天原系神話群と出雲系神話群との接点に位置しているところから、スサノヲの行動に、後代の作為をみる神話研究者は少なくない。だがそのことは、一連の悪の神話に、道徳的な意味を探ろうとするのを妨げるものではない。そこには悪の発生が語られ、スサノヲはみずからの行為について、真に有罪である。かれは罪を犯し、それによって罰せられたのである。そこでスサノヲ神話を、正統的な、罪と贖罪の神話とみなすことができよう。

△ スサノヲ神話は「正統的な、罪と贖罪の神話」であると言われています。ここで神話の正統性と言われるのは、オリジナル(始原的)で、人類の原初の経験が表現されているということなのでしょうか。そのテーマは罪と罰、そして贖罪です。

禊祓の神話

スサノヲ神話に先立って、イザナギの禊祓の神話があり、その結果として、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの三貴神が生れることになる。古事記によれば、黄泉の国から帰ったイザナギは、「吾はいなしこめ(▽1)、しこめき(▽2)、穢き国にいたりてありけり。吾は御身の禊せむ」といって、日向で禊祓をする。これはふつう、禊祓の儀礼の起源神話とされている。

△1 「いなしこめ」を調べていませんが、「往なし(去なし)込め」のことでしょうか。

△2 「醜めき」と表記されます。

ここでまず、黄泉の国が、「しこめき」「きたなき」と形容詞を重ねて表現されていることに注目される。わが国の古代で、不浄、汚穢として忌まれたものは数多くあったが、なかでも死穢、血穢、産穢の三つは、もっとも忌むべき穢れであった。とはいえ、この神話で死の国の穢れが強調され、イザナギが当然のように禊をするところに、古代人の強い忌みの思想というものを、私たちは感ぜずにはいられない。「きたなき」ということばの背後に、半ば身体的で、半ば道徳的な汚染の恐れ、畏怖がこめられており、そしてその感覚は現代人にも無縁ではない。

△ 仮に黄泉の国を、征服者がまだ征服されていない国を見たときの感覚、としてみたらどうでしょうか。古事記は「天皇の世界の物語」とされているのですから。

この神話を禊祓の儀礼と結びつけて考えるとき、イザナギの禊の過程で生れた神々の名を無視することはできない。古事記によれば、

「初め中つ瀬におりかづきてすすぎたまふ時、成りませる神の名は、八十禍津日(やそまがつひの)神。次に大禍津日(おおまがつひの)神。この二神はその穢繁国(けがらわしきくに)にいたりし時の汚垢(けがれ)によりて成れる神なり。次にその禍(まが)を直さむとして、成れる神の名は、神直毘(かむなおひの)神。次に大直毘(おおなおびの)神。次に伊豆能売(いづめの)神」。

ここでいう禍(まが)とは、語源的に曲(まが)るであり、凶、悪、曲、邪を意味し、それに対する直(なお)びは、曲に対する直で、禍を直して、吉、善、正、福に転じる働きをするもの、と解される。なぜ「けがれ」によってマガツヒノカミが生れねばならないのであろうか。大殿祭や御門祭の祝詞にも、これらマガツヒノカミとナオビノカミの名は称えられて、罪咎をナオビノカミの力によって正すよう祈願されるのである。禊祓の儀式を、宗教的不浄を清めるための洗浄式の一種と考えるなら、マガツヒノカミとナオビの神は、この儀式の二面を表わしているのであろう。本居宣長は特にこの二神の働きを重視し、これを善神と悪神の対立と解し、善神は悪神に勝つ(『くず花』)と結論づけるのであるが、これを善悪の二元論と解釈するのは、当を得ない。なぜなら、この二神は、もっと呪術的な役割をおびているとみられるからである。松村武雄はこれを、「触穢思想に基く駆除儀礼と、清浄思想に根ざす招迎儀礼との対立しつつも相繋がる関係」(『日本神話の研究』二)と解している。

この二神はおそらく、洗浄式の二つの機能、すなわち祓いと、清めを表わしているのであろう。マガツヒノカミは祓われるものであると同時に、祓うものである。一般に祓いの儀式において、祓うものと祓われるものとは、しばしば同一化される。

スサノヲ神話の、いわば序曲をなすこの禊祓の神話に、古代人の忌みの思想と祓いの思想は、すでに姿をあらわしているのである。

△ まつりごと(祭事=政事)の語義が示すように、古事記を単に宗教的に考えるだけでなく、政治的に捉えることも大切ではないかと思われます。いわば古事記をいかなる文脈に置いて考えるかの問題です。そのとき、初めに中つ瀬に降り立って…、成りませる神の名が、なぜ「マガツヒノカミ」であるのかという問題は、別の観点からも捉えられることになるのではないでしょうか。

アマテラスとスサノヲの争い

古事記によれば、イザナギの禊の最後で、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの三神を生み、それぞれに高天原、夜の食国(▽)、海原を統治するよう命じる。しかしこの三神出生と三界分治に関して、記と紀の本文と各書ではかなりの相違がある。まず三神の血縁関係については、最初から三つ組(トリアーデ)をなしていたとすることには疑問がある。なぜならスサノヲは他の二神と、あまりに異質である。紀の本文によれば、スサノヲは蛭子のあとに生れた第四子である。いずれにしても、これら三神は二次的に関係づけられたものであろう。スサノヲははじめから荒ぶる神としての性格と役割をもたされ、アマテラスと対比され、差別されている。この両神は、姉弟というより、対立関係におかれていることに意味がある。

△ オスクニと読むのでしょう。オス(ヲス)国とは「治めている国」のこと。

三神分治に関しても、アマテラスの統治するところが、高天原、天上または天地であるのに対し、スサノヲに割り当てられるのは、根の国、海原、または天の下である。要するにアマテラスは天上に送られ、スサノヲは根の国ないし海原に逐われるのであり、この二つの世界の対立が、そのままアマテラスとスサノヲの対立を象徴しているのであろう。

アマテラスとスサノヲの本性についても、記紀の叙述には差異があり、矛盾をはらんでいる。

まずアマテラスについていえば、名称の問題と職能の問題がある。アマテラスはほかに、オオヒルメムチ、オオヒルメという名称をもっている。またアマテラスには、太陽神、皇祖神のほかに、女性祭司としての職能も負わされている。ヒルメの語源については、女性太陽神を意味する「日女(ヒルメ)」説と、太陽神に仕える霊巫を意味する「日妻(ヒルメ)」説とがある。いずれにしても、アマテラスははじめから統一した性格や職能をもっていたのでなく、時代とともにアマテラスの変貌がおこなわれたことが、最近の研究によって推定される。したがって個々の神話によって、多少とも異なる性格をおびている。スサノヲとの争いにおけるアマテラスには、機を織り、田を作りなど、女性祭司としての色彩が強い。少なくともスサノヲとの対立は、太陽神と暴風神の争いとは考えられない。

同じことはスサノヲの側からもいえる。この英雄神は、造化神や自然神としての職能も、ヴァーションによっては負わされている。また出雲族の主祖神としたり、暴風雨神としたりする解釈もある。要するに。スサノヲの名のもとに、さまざまな性格が複合されている。だが少なくとも、アマテラスとの争いにおいて問題になるのは、スサノヲが本質的に悪神かどうかである。スサノヲは出世時から、荒ぶる神としての性格を与えられている。記紀や万葉集で、一般に悪神を表わす語は、「邪神」「邪鬼」「鬼神」「暴神」「姦鬼」「荒神」「荒振神」「ちはやぶる神」などがある。だがこれらの語はスサノヲには冠せられていない。一方、スサノヲの性格を表わす語は、日本書紀に、「性好残害」「勇悍安忍」「性勇健」「暴悪」「武健」などがある。だがこれらは、スサノヲを「悪霊の化身」(西郷信綱)とするような属性ではない。原田敏明によれば、紀で「悪神」またはこれに類する文字を用いるようになったのは、後代のことで、原初的には。「荒ぶる神」を用いた。荒ぶる神の原初形態は、ただちに悪神ではなく、むしろ剛健な神、ちはやぶる神、人間社会と和合しない神、離反せる神、畏るべき神であったという(『日本古代宗教』)。スサノヲはそのような意味での荒ぶる神であったろうが、本質的な悪神とすることはできない。

△ 日本神話の原型(複数)を取り出し、それらの神話を構成する要素(神話素)を特定するという作業はきわめて困難です。編集史的(作品史的)に、それらが「天皇の世界の物語」の文脈の中に置かれているということが言えるだけです。しかしそうは言っても、個々の神話の輪郭とその固有の文脈をある程度描き出すことは可能でしょう。

アマテラスとスサノヲの対立は、神話的表象としては、善悪の二元的対立、日神と暴風雨神の対立などではなく、柔美に対する剛直、にぎあらとの対立としたほうが適切である。このように両神の関係を考えるなら、それは姉弟の血縁関係であることを、必ずしも要しない。しかし系譜観念の旺盛な日本神話にとって、両者の関係を姉弟関係として表現することは、けっして不自然ではない。それならばこの両神はなぜ争わねばならないか。それは両神の性格からよりは、神話の文脈から導きだされてくる。

両神の争いを述べるいくつかの挿話の中で、天の岩戸籠りは、種々の理由で、原初的な形でこの神話の中にくりこまれていたとは考えられず、少なくとも、スサノヲぬきでもこの挿話は解釈可能であろう。そこで、高天原における両神の争いを劇にみたてるなら、次の三幕より成る。第一幕は「誓約(うけひ)」、第二幕はスサノヲの乱行、第三幕はスサノヲの追放、である。

争いの動機として、記紀に共通して述べられている説明は、スサノヲが根の国に追いやられるのを不満として泣きいさち、アマテラスに暇乞いしようとして、高天原に上るのを、アマテラスはその意図を疑い、警戒しつつ待ち受ける、ということである。天の安河でスサノヲを迎えたアマテラスは、誓約(うけひ)をすることによって、邪心なきことをスサノヲに証明させる。

△ 著者が注目するのは、アマテラスとスサノヲの対立の劇的構成です。それは三幕からなっています。

序幕から顕著にあらわれているのは、アマテラスとスサノヲの描写にみられるきわだった差異である。スサノヲは八拳(やつか)鬚をはやして、泣きいさち、ために「青山泣き枯し」「山川踏みとどろかし」、という荒ぶる神の形相で高天原に上ってくる。それを迎えるアマテラスは、男装をして、武具をとり、「堅庭は向股(むかもも)に踏みなづみ、沫雪(あはゆき)なす蹴(く)ゑはららかして、いつのをたけびふみたけびて待ち問ひ」という様に描かれる。これはあきらかに、古代の武将の姿や女性風俗の投影である。アマテラスが古代人に、このように具体的なイメージを抱かせた事実は、「アマテラスの誕生」が比較的新しかったことを推測させる。いずれにせよ、神話のこの場面では、アマテラスを中心に展開し、スサノヲはその対立者としての役割を負わされているのである。

スサノヲは昇天の意図をアマテラスに、「善き心ならず」「悪心あり」と疑われる。それに対しスサノヲは、自分に「邪心なし」「黒き心なし」「濁心なし」と主張する。そこでアマテラスはスサノヲに、「心の清明」「赤き心」「清き心」「明浄」を証しするよう求める。ここに対立しているカテゴリーは、善、赤、清、浄に対する、悪、黒、濁、邪である。赤き心、黒き心などは、抽象度の低い表現というより、真摯な告白言語と解すべきではないだろうか。リクールもいうように、根源的な経験を直接的表白することばは、すでにして象徴言語なのである。

天の安河で両神が対決し、「うけひ」をする。「うけひ」はどのような意義を、この神話の中でもつのか。「うけひ」の結果、数かずの氏族の祖神が生み出されたのは、この神話の本来の意図ではあるまい。うけひによって証明されたのは、スサノヲが悪神でない、ということであった。次の段階に移行するために、つまりスサノヲが悪を犯すには、ここでその潔白さを証明しておく必要があったのである。もしスサノヲがはじめから悪神であるなら、かれの行為はすべて悪であり、“罪を犯す”ことにはならない。スサノヲが罪を犯すのは、それ以前の状態で、邪心なきことが証明されたからである。スサノヲは黒き心が生じて悪をなすのであり、そこに自由意志の問題と、悪の偶然性の問題がひそんでいると解釈されるのである。

△ 著者は「アダムの神話」と類比的なものをこの神話に見出そうとしています。それが「自由意志の問題」であり、「悪の偶然性の問題」です。古事記に於ては「数かずの氏族の祖神が生み出された」という系譜的な関心は決して小さいものではないと思われますが、著者の関心は、神話に悪の根源性を見出すということにあります。

スサノヲの乱行

「うけひ」に続くスサノヲのアマテラスに対する乱暴の動機を、神話は十分に説明していない。古事記によれば、スサノヲはうけひに「勝さびて」するのであり、紀の一書によれば、スサノヲはアマテラスの良田を妬んでするのである。しかしこれらの説明は説得力を欠いている。他の紀の一書によれば、アマテラスはスサノヲの乱行のあとに、「汝なほ黒き心あり」として天の岩戸にこもってしまう。つまりアマテラスの側からすれば、スサノヲは依然として黒き心の持主なのである。加害者たるスサノヲに即していえば、うけひの後に、黒き心が生じたのであり、結局、これは「悪の偶然性」を証しするものである。

△ 「悪の偶然性」とは、悪は因果連関によって必然的に生じるというよりは、「たまたまなされることによって生じる」ということでしょう。たとえば、不遇をかこつものがみな法を犯す者になるわけではなく、そこには自由意志が介在しているということでしょう。そして日本の神話はスサノヲに「悪の起源」を見出しています。しかしそこには、人類の始祖アダムに見出されたような、「ひとり」が「みんな」という論理が明確に示されているわけではないという気がします。なかんずくそれは人ではなく神の物語なのです。その点に関しては、リクールの考察はたしかに鋭いと言えるでしょう。

明瞭な動機はなくとも、スサノヲは徹底的に加害者で、アマテラスは、それに寛容な態度をとりつつ、あくまで被害者の立場にとどまる。この対照に、神話編纂者の意図がうかがえる。

スサノヲのなした悪業は、大祓の祝詞で、天津罪とよばれているものである。記紀を通じて出てくるものを列挙すると、次のようになる。

(1)畦放(あはなち)(2)溝埋(みぞうめ)(3)樋放(ひはなち)(4)頻蒔(しきまき)(5)串刺(くしざし)(6)絡縄(あぜなわ)(7)斑駒(ふちこま)(8)生剥(いきはぎ)(9)逆剥(さかはぎ)(10)屎戸(くそへ)

このうち、(1)〜(7)は農業、特に田作妨害を指し、(8)〜(10)は蚕織妨害を指す、とも解釈できる。しかし(10)はアマテラスの新嘗殿になされたものであり、(1)〜(9)は新嘗祭のための豊田作りと神衣織りに関係しているとすれば、全体は新嘗祭(▽)にかかわり、新嘗儀礼の神聖を冒す行為とみなすこともできる。

△ 念のため記せば、「新嘗祭(にいなめさい)」について広辞苑には次のように書かれています。「(シンジョウサイとも)天皇が新穀を天神・地祇にすすめ、また、親しくこれを食する祭儀。古くは陰暦一一月の中の卯の日に行われた。近時は一一月二三日に行われ、祭日の一とされたが、現制ではこの日を「勤労感謝の日」として国民の祝日に加えた。天皇の即位後に初めて行うものを大嘗(だいじょう)祭という。にいなめまつり。」

他方、折口信夫は、「天津罪」と称されているものは、実は万葉集に雨障・霜禁・霜忌などと書いて、アマツツミと訓ませているところの「雨つつしみ」「ながめ忌み」であり、つまり五月の田植え時の慎しみ、呪的禁忌である、と解釈している(『古代研究』)。換言すれば、田荒しの禁忌が、新嘗儀礼の禁忌に結びついたものである、というのである。

これらの罪の一つ一つを検討してみると、不明の点は多いが、全体として、定型化したもので、国津罪とともに、祝詞その他に出てくるのである。この天津罪、国津罪は、かなり古くから罪のリストをつくりなしていたのではないだろうか。ただし、大祓の祝詞では、天津罪に関して、スサノヲの名は出て来ない。ということは、天津罪とスサノヲの結びつきは、必ずしも本源的でないとみられる。アマテラスのほうは、この神話で、あきらかに新嘗祭の祭司の役割を担っている。そして新嘗儀礼の祭司は天皇なのである。延喜式によれば、新嘗の儀式は月歴十一月におこなわれた。十月は神無月で、すべての神々は地上にいないとされ、いかなる祭もこの月にはおこなわれなかった。柳田国男によると、十一月の新嘗祭をむかえるために、農民は神無月には、厳しく忌みを守り、神をけがすような一切の行動をひかえ、ひたすら禁欲したという。

結論として、スサノヲが犯した罪は、新嘗儀礼の禁忌であり、忌みに関係している。つまりスサノヲが犯したのは、すでに罪とされているものである。それを犯すことは罪とされた禁忌を、アマテラスに対して犯したのである。その罪は、結局、アマテラスの神聖さをけがすものであり、スサノヲは涜聖者として、アマテラスに対置されたのである。それゆえ、スサノヲの犯した罪の種類はさほど重要ではない。スサノヲが禁じられていたものを、みずから、あえて侵犯したことが、肝腎の点なのである。それと同時に、禁じられたものを犯すことによって、スサノヲの罪は、客観的な事実となる。そこでその罪は当然、購われねばならない。罪と贖罪とは、分ちがたく結びついているのである。

△ 著者は日本の神話に罪と贖罪の「範型」を見ます。しかしそれは農耕民族が生み出した神話であって、その生活が色濃く反映されています。ここで注目すべきはアマテラスの神聖さは、新嘗儀礼の禁忌に結びついていること、そしてその儀礼を執り行う祭司は天皇であるということです。また「スサノヲが禁じられていたものを、みずから、あえて侵犯したことが、肝腎の点なのである」とありますが、そのように罪が客観的な事実となると言うとき、禁忌はいかなる法規範性を伴うものなのでしょうか。著者は天津罪、国津罪の「罪のリスト、罪の種類」はさほど重要ではないと言いますが、逆にそこに問題があると言わなくてはならないのではないでしょうか。

スサノヲの追放

八百万の神々は共に議して、スサノヲに罪を贖わせる。すなわち、千座置戸(ちくらおきど)を負わせ、鬚を切り、手足の爪を抜いて、「神逐(かむやらい)」をする。紀の一書には、具体的な祓具(はらえつもの)を挙げている。この祓いは、記紀編纂時におこなわれていたものと同じである。祓いは、身についた穢れを、物体や肉体の一部とともに捨てることで、鬚や爪は、その凶棄物の一種である。また、祓いは時代とともに刑罰的性格をおびた。千座置戸は、財産刑の一種である。

なぜスサノヲに祓いが課せられるか。スサノヲを贖罪山羊(スケープ・ゴート)とする解釈が一般的である。贖罪山羊は贖罪の儀式の一部である。旧約聖書レビ記によれば(▽)、罪祭の日、牡山羊の頭に両手をおいて、イスラエルのもろもろの子孫の悪事と罪をいいあらわし、その山羊をもろもろの悪や罪とともに、人なき野に送るのである。この場合、罪の告白が不可欠の条件であり、その罪が山羊とともに祓われる。

△ レビ記についても書かれていて、この論文との関係で重要と思われる本に、メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』(塚本利明訳、思潮社、1995年)があります。

同様の例は、古代ギリシアのファルモコスにもみつけられる。

しかしながら、贖罪山羊は、祓の儀式でいう、形代(かたしろ)、凶棄物に相当する。スサノヲは根の国へ追放されはするが、形代そのものではない。スサノヲはあくまでも、みずからの罪を贖う者である。神話の意図は、ここでスサノヲに贖わせることにある。スサノヲの乱行と祓いとは、一直線につながっている。罪を犯すべく定められたスサノヲは、また、それを贖うべく定められている。

贖罪とは究極に、赦しによる和解である。紀の一書で、「ねがわくは姉の天津国にてらしたまひて、まさきくましませ。またわが清き心をもてなせる児(みこ)たちも姉に奉らむ」とスサノヲがいうのは、悔いあらためと和解を願う気持のあらわれと解せる。だが、これは記紀神話の中心思想とはなりえなかったのである。

△ 著者は「悔いあらためと和解」のテーマを聖書の神話に限定せず、日本の神話のうちにも求めます。それで気づかされるのは、著者が根本的とみなす神話的な主題(すなわち赦しによる和解)を、特定の神話に限定しないで、日本の神話のうちにも見出そうとする姿勢です。ここには同じ土俵をしつらえた上で、ある任意の神話を考察しようとする著者の方法論的意図が見受けられます。聖書の神話を規範とするという点で、キリスト教中心的になる惧れはあるとしても、一歩踏み出した解釈法であることに違いありません。

三 大祓祝詞の解釈

記紀神話におけるスサノヲに帰される罪は、「六月晦大祓」(▽)の祝詞に天津罪として、再びでてくる。そのほかに国津罪が挙げられ、これらについて考察することは、古代人の罪観念を知るうえに不可欠である。

△ 「みなづきのつごもりのおおはらえ」と読みます。

祝詞と神話

祝詞の本質は、ことばに内在すると信じられた霊力、すなわち言霊(ことだま)に基づいた祈りであり、ことばによって神を動かそうとする祈願である。一般に祝詞は、神話的叙述部と、祈願的叙述部とより成る。神話的叙述部は、神話の形で儀礼の起源を説明する。祝詞の役割は、神話と儀礼を結びつけることである。神話と違って、祝詞は儀礼の起源を説明するだけでなく、その儀礼のめざすところが実現するよう祈願する。エリアーデもいうように、「原初の出来事の単なる記念だけでなく、それの強化」なのである。この神話的叙述部は、神々によってなされたことの強化を祈願するのに対し、祈願的叙述部は、これから神々に実現してもらおうと祈願するのである。これもまた神話的主題をもち、説話の形をとるゆえに、松村武雄はこれを「潜在的神話」と呼ぶ。神々に訴え、祈ることばは、おのずと象徴言語でなされるが、それがさらに説話の形をとる、それがリクールのいう、第二度の象徴としての神話であろう。

△ ここで定型化した祝詞ではなく、祝詞とはそもそも何であったかということを考えるために、少し脱線して、前出の『神道用語の基礎知識』の中から「神懸かりの言葉としての祝詞」という解説部分を引用してみます。祝詞は、どうやら神道の「儀礼」の中心的な部分を構成していると思われるからです。

《祝詞(のりと)とは宣説言(のりときごと)というのが本居宣長(もとおりのりなが)の解釈である。古語における「のり」は、宣言するという意味合いの「宣(の)る」、また、馬に乗る、調子がいいという意味での乗っているという意味の「乗り」、また「祈り」の「のり」とも共通する言葉であろう。つまり、神霊、あるいは霊威が乗り移り、神懸(かみが)かり状態になって言葉を宣言する、宣り聞かすのが祝詞の発祥だということである。

本来、祝詞は人間が創作した言葉ではなく、神霊の訪れにおいて自然に発露した霊的告知あるいは啓示である。その祝詞の担い手は古代においてはシャーマン的な人物、とくに古代日本では女性がその役割を果たしたが、やがて古代律令体制が整理されるに至って男性神主、男性神職が神社運営の中心をなすに至り、祝詞は人間から神に向かって祈請する定形的詞章となっていく。シャーマン的、巫女的人物が神懸かりになって宣り伝える言葉ではなく、定期的に定まった、整備された儀礼において文字に記された言葉が読み上げられるようになった。これは祝詞における一大変化であるといえるだろう。

祝詞は本来、神懸かりの言葉であり、その神霊とシャーマン的人物との交歓によって生み出される言葉であった。その祝詞の即興的、神懸かり的な要素が払拭され、現在の神職の唱える定形的詞章にまとめられるようになるのは、古代律令体制以後のことである。それが最初に文字に記録されたのは『延喜式(えんぎしき)』においてであった。

『続日本紀(しょくにほんぎ)』以下の六国史(りっこくし)の中で宣命(せんみょう)といわれる天皇の詔勅があるが、この天皇が臣下に対して宣り聞かせる詔勅、宣命は、平安時代にまとめられた『延喜式』祝詞と共通の定型詞章である。したがって、天皇における宣命や祝詞の起源は根源的に一つのものであったが、やがて天皇が臣下へ向かって命ずるものと、神職が神に向かって奏上するものとの二つに分化するようになったのである。『延喜式』祝詞において、最後が「……と宣る」という言葉で終わる祝詞と「……とかしこみかしこみ白(もう)す」という祝詞が二つの形式に分かれる。「宣る」祝詞と「白す」祝詞の二種類がある。おそらく「宣る」形式の祝詞のほうが古い起源をもつのであろう。神懸かりとなって神の言葉を伝える古い祭祀における祝詞のあり方が、その言葉の中に散見できるのである。

沖縄に残る髪歌「おもろさうし」などを見ると、古代の祝詞の特色をある程度復元してみることができよう。「おもろさうし」は、ただの唱える言葉であるよりも、ひとつの歌謡として歌われるものであった。おそらくは祝詞もまた単なる言葉を語り聞かせるというよりも、歌として歌われるものであったのではないか。歌とは「訴える」という意味をもつと解釈されているが、神々と人とのあいだに、ある意思が訴えられ、歌われるものが、祝詞や歌の始まりであろう。神と人との言葉の交歓の中に祝詞や歌があったといえる。

『古事記』における歌謡の起源は、須佐之男(すさのお)命の「八雲(やくも)立つ 出雲八重垣(いづもやへがき) 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」という短歌形式の歌謡に始まる。これはおそらく後代の仮託であろうが、ここにみられる「や」という言葉の繰り返しのように、ある特定の音が繰り返し歌われ、唱えられるということには重要な意味があり、それは祝詞の特質を表しているといえる。

祝詞が歌として歌われたということは、このようなある繰り返しのリズムと調べのなかで神懸かり状態となりトランス状態となって、繰り返し詞章が歌われるなかで、新たな即興的なものが発現してきたと考えられる。この繰り返しの部分が定型詞章にもなっていくのであるが、中国南部に伝わる古代の歌垣儀礼などにおいて、即興的に歌が作られ、交歓される儀式や儀礼が残されているのは、古代における祝詞や歌のありようを考えるときの重要な材料となる。

『延喜式』に記載された祝詞には、「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに」のように繰り返される詞章と、あるひとつの言葉を形容するために必ず用いられる詞章の二種類が特徴として見受けられる。繰り返し歌われる部分、またある特定の語を導くために唱えられる言葉などが組み合わされることによって、ある荘重な気分や意識の高揚がもたらされる。こうして伝承された繰り返しの言葉の中に、新たに即興的な、その場その場における神の意思や願いが組み込まれていったのであろう。祝詞はそうした神と人との言葉の交歓をとどめたものである。したがって、それは宗教的な言語であると同時に、いわゆる芸術的な言語でもある。つまり、儀礼の言葉であると同時に詩的言語ともいえるのである。宗教と芸能の起源はひとつのものであると考えられるが、祝詞はそのような宗教と芸術との一致する根源的な神聖言語の様相をとどめるものであろう。

古代における宗教の儀礼言語のなかに、また、呪(のろ)いやトコヒなどの呪詛(じゅそ)的言語と、祝福の祝い、ことほぐ祝福言語の二つの系統がある。『古事記』における山幸、火遠理(ほおり)命の「淤煩鉤(おぼち)、須須鉤(すすぢ)、貧鉤(まぢち)、宇流鉤(うるぢ)」などの言葉は、呪いを発する力によって相手を屈服させる呪的言語であるが、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」のような言葉は、祝福的な言語であると考えられる。呪文と祭文、呪詛的言語と寿歌的言語の二系列を見てとることができる。》

△ 宗教の淵源ということを考えるとき、ここには極めて示唆的な洞察が述べられていると思われます。人が群れ集うとき、そこには「祝祭空間」というべきものが成り立ってきます。それは神と人とが共生(交歓)する「神話的」空間でした。祝詞には宗教の原初的形態が影を留めているということでしょう。ここから本文に戻ります。

大祓祝詞の場合、神話的叙述部には記紀神話に照応する神話が語られ、祈願的叙述部では、独自の神話的形式で祈願する。

大祓祝詞は次の四つの部分に分けられる。

(1)導入部

神官が列席する廷臣にむかって、この儀式の目的は、廷臣たちの犯したくさぐさの罪を祓い清めることである、と宣言する。

(2)神話的叙述

天孫降臨後、代々の天皇が大和の国を平定するまでも物語って、平和な御代を讃え、現在の歴史を聖なる歴史に結びつける。

(3)くさぐさの罪の列挙

地上に人々が増えるに従って、人々の犯す罪を増した、として天津罪八、国津罪一四を数えあげる。

(4)罪の祓い

この罪をいかにして祓い清めるかを、神話的説話の形で述べる。中臣氏が祓の儀式を執行し、祓の祝詞を唱えると、天津神、国津神がそれを聞いて、罪穢をことごとく祓い清める。急流の瀬にいるセオリツヒメはそれを海に流す。海にいるハヤアキツヒメはそれを呑みこんでしまう。それを、根の国の門口にいるイブキドヌシが地下の根の国へ吹き放つ。根の国にいるハヤサスラヒヒメはそれを、どこへともなく吹き散らしてしまう。

ここでいう天津罪とは、記紀神話でスサノヲに帰される罪であるが、祝詞ではスサノヲの名は見えない。天津罪、国津罪の区別は、天津神、国津神の区別とともに論議の対象になるところであるが、この場合、罪の本質に関して、両者に差異があるとは考えられない。天と国とは、かなりレトリカルな区別であり、天津罪と国津罪とは、出典の違いではないだろうか。

△ キリスト教にあるような「神の国」(教会の権威)と「地上の国」(世俗の権力)との峻別という観念が存在しないところに、神道の神道たる所以があります。

延喜式祝詞だけでなく、大神宮儀式帳、古事記などに挙げられている国津罪の種類をすべて網羅して、類別すると、次の三群となる。

(1) 生膚断・死膚断・白人・胡久美

(2) 己母犯罪(上通婚)・己子犯罪(下通婚)・母与子犯罪・子与犯罪・畜犯罪(馬婚・牛婚・鶏婚・犬婚)

(3) 昆虫乃災・高津神乃災・高津鳥乃災・畜仆志・虫物為罪・川入・火焼

この三群は本居宣長によれば、それぞれ、穢・悪行・災を表わしている。第一群は身体的な穢れ、不浄に関係しており、生者を傷害した場合の血の穢れや、死者の穢れ、また皮膚病の穢れなどを指している。これらは道徳的な罪過ではないが、不浄聖として、タブー視され、忌まれたものであろう。たおえば旧約聖書のレビ記でも、癩病や白癬に罹った者は不浄とみなされ、その清めに関して、じつに詳細な規定がなされている。

△ 穢れや忌みの観念は人類に汎通的なものの一つであろうと思われます。

第二群は近親相姦、不義の姦淫、獣姦などを指している。くりかえしや対句に富む、祝詞特有の表現は、ここにもあらわれている。このような姦淫の戒めは、どの民族や社会にもあるが、ここで注目されるのは父に対する罪が、挙げられていないことである。これはレビ記の戒めと対照的である。古代日本に母系制社会が存在したことを暗示するものであろうか。

第三群は災厄に関するもの、まじないに関するものである。災厄は、その原因が不明な場合、畏怖の対象となったものと推測される。いずれにしても、この群の罪は、ごく古い時代に定められたものであろう。

こうして数えあげられた天津罪、国津罪が、古代日本人の罪としたものすべてを網羅しているわけではないのはいうまでもない。きわめて多様性を示しているのは、これらの罪の観念が一度にできあがったのではないからであろう。大祓の祝詞が最初に形をとったのは七世紀の中頃といわれるが、これらの罪は異なった時期に成立し、もっとも早い時期のは、呪術時代に溯り、未分化なままの観念が後世まで存続したものと考えられる。

しかしながら、根本的には「つみ」の語源から論じるべきであるが、ここでいう「つみ」とは、罪という文字を用いたことによって意味の重複が生じているのである。つまり「つみ」は、罪が意味するような道徳的、倫理的な違反行為をのみ指すのではなく、むしろ禁忌に近い観念として理解さるべきであろう。

△ 「つみ」の語源を探索することは、かなり困難でしょう。「積み」「詰み」「摘み」などの同音語を考えても、まるで見当がつきません。それらの言葉とは、そもそもアクセントが違うようにも思われます。「つ・み」とすべきなのかも知れません。しかし著者の指摘には鋭いものがあります。それは日本人の道徳性に関わる問題です。あるいは日本には聖書の律法(神の法)のような明確な規定は存在しなかったと言うべきかも知れません。

天津罪、国津罪は、祝詞のほかに、二、三の文献にこのままの形で出てくるところから、これらの罪は定式化して、儀式的に唱えられたものであろう。祝詞の中で、これらの罪が唱えられるとき、罪を告白する際の、悔いあらための調子は感じられない。罪人を非難する調子でもない。ただ、「のこる罪はあらじと祓え清めたまふこと」を祈願するだけである。罪を告白するのは、罪の赦しを求め、購おうとするためである。しかし大祓祝詞に一貫しているのは、罪や穢れ一切の清め、祓いの思想である。

このことは、大祓祝詞の最後の、罪の祓いの部分で著しい。清め祓いの役目を、神々が分担している。清めは、流れや海原という、水の浄化力を形象化して表現している。祓いは流出や吹き払い、という物理力を形象化して表現している。全体は、早瀬から、大海原へ、それから地底の根の国へ、という壮大なヴィジョンにおおわれている。そこには暗い、陰鬱な様相、雰囲気はなく、むしろ楽観主義的である。この点でスサノヲ神話とは異なる。罪を購わされるスサノヲの姿は、記紀では陰惨に描かれているのに対し、祝詞では、罪を贖うという思想自体が、表面にあらわれていないのである。罪はもともと、「成り出でむ天の益人(▽1)らが過を犯した」ものであるが、他方では、「ここだく(▽2)の罪出でむ」と述べている。つまり、罪は生じてきたのである。そこから、罪を贖うというより、罪を清め祓うという考えが、前面にでてきたのであろう。その意味で、大祓の祝詞は、祓いの思想の典型的表現とみなされる(▽3)。

△1 「あめのますひと」と読みます。

△2 「ここだく」あるいは「ここだ」。幾許と書き、こんなに多く、こんなに甚だしくの意味(広辞苑)。

△3 贖いの思想は、スサノヲの神話には見られたとしても、大祓の祝詞においては祓い清めの思想が前面に出てきているという指摘には、考えさせるものがあります。南太平洋の諸民族には「贖い」の思想はあるのかなと、早瀬や海原(「水に流す」)また楽観主義的という言葉に触発されて、ふと考えてみたくなりました。

祓の儀礼

祓の儀礼は禊の儀礼と対をなして実修されるが、はじめは禊に対して、副次的な位置にあった。やがて徐々に、祓はその性格を変え、個人的におこなわれていたのが、公的に、社会的におこなわれるようになり、宗教的、道徳的性格が刑罰的性格をおび、贖罪というより社会的制裁の様相をおびるようになる。そしてついには、禊にとってかわるのである。

語源的に、ハライは罪穢れの「祓い」であると同時に、罪を贖うための「払い」である。これはそのまま、祓の儀礼のもつ二面を表わしているのである。すなわち「清め祓い」としての祓と、「贖い」としての祓である。

△ ハライには「追い払う」の「払い」と、「支払う」の「払い」があります。贖うとは、購うとも書いて、その場合は代価を払うという意味になります。

「清め祓い」としての祓の儀式の原型は、形代(かたしろ)などの祓えつもの、凶棄物に穢れをうつして、それを水に流し、それによって祓うことである。大祓の祝詞では、罪を流れや海原に流そうとするイメージがでてくる。神道には、水の洗浄力に対する信仰がある。水の機能は二重である。一方では穢れを清め、他方ではそれを流し去る。それは感覚的であると同時に、象徴的である。祝詞の中のセオリツヒメ以下四柱の神々は、清めと祓いの機能の神話化である。

△ キリスト教の「洗礼」にも水の象徴的機能があります。

「贖い」としての祓は、罪に応じた「贖い物」をさし出すことである。スサノヲの千座置戸(▽)はこれの一種であり、馬などの財物が「贖い物」として要求されるようになる。この贖いとしての祓が時代とともに重視され、宗教的色彩がうすらいで、刑罰的傾向が強まる。これが濫用されるに及んで、大化二年に禁止令がでる。

△ 「ちくらのおきど」、多くの台にのせた祓物(はらえもの)。上代、罪の償いとして科したもの(広辞苑)。

古代ギリシアにおける犠牲には、二つの方式があったといわれる。すなわち、do ut des(貰うために捧げる)とdo ut abens(祓うために捧げる)である。祓の儀礼は、この後者に相当しよう。“祓うために捧げる”のが、時代とともに贖い物に重点がおかれるようになり、本来の呪術的宗教的意義が、刑罰的、習俗的なものに変質する過程は、祓の儀式の堕落にほかならない。その変質の過程には、仏教の影響、陰陽道の流行などもあずかっていようが、時の政治権力の政策もまた、促進要因となったに違いない。ひたすら罪の祓い清めを懇願する大祓の祝詞は、このような風潮を敏感に先取りし、鼓吹したのではなかったか。罪を流し去り、吹き払うという形象化には、仕組まれた作為の印象を禁じ得ない。いずれにせよ、禊祓の美的自然主義をもって、原始神道の中心思想とする本居宣長流の考え方をもってしては、罪の問題の一面しか捉えられない。結論的にいえば、祓いの思想が、罪観念の未成熟をもたらしたのである。

△ 著者は禊祓の刑罰的習俗的変質に祓の儀式の「堕落」を見ます。また、祓いの思想によって、「罪観念」の未成熟がもたらされたと言います。さらに本居宣長流の、禊祓の美的自然主義によっては、「罪の問題の一面しか捉えられない」ということは、まさにその通りでしょう。論考は半分に達したところですが、ここで中断します。


W 象徴の解釈学 その3

四 罪の象徴の解釈

穢れの象徴

人間性のうちにひそむ悪の可能性が現実態になったとき、良心によって、悪を犯したという罪責意識が生じる。だがその経験それ自体は盲目であり、それ自身の中に閉塞している。その情念をことばによって告白することにより、経験は客観化される。告白によって、ことばと経験が出会い罪責意識はロゴスの光に照らされる。その「告白の言語」は、すでに象徴言語である。象徴は意味の二重性のうちに存する。象徴の力は、その二重性を解釈する作業によって発揮される。

△ 人間の経験は「ことば」によって客観化され、ことばの「意味」の二重性、あるいは多重性によって、解釈されるべきものとなります。象徴の力は、言葉の多義性を解釈する作業によって発揮されます。そこに人間の自己理解が関わっています。

イザナギが黄泉の国から逃げ帰ったとき発した、「吾はいなしこめき、しこめき、きたなき国にいたりてありけり」ということばの中で、「しこめき」「きたなき」は象徴言語として用いられている。死の世界の恐怖やまがまがしさが、これらの醜や汚の言語で表現されたのである。

この原始的な表白言語の意味は、より高次の言語によって解釈され、媒介される。「穢れ」や「罪」がそれである。過ちを犯したという意識、あるいはスサノヲについていわれた、「黒き心」「濁心」などの意識は、「穢れ」ということばによって、総合的に表現される。これは物質的な穢れと、道徳的な穢れとをこの一語によって表わしたものである。つまり、物質的な穢れという第一の意図、すなわち“意味するもの”をとおして、罪に穢れた状態を狙うのが第二の意図、“意味されるもの”である。

△ ここでは記号(意味するもの)とその指示対象(意味されるもの)の二重性の問題が、第一の意味(物質的なヨゴレ)、すなわち意味するものを通して、意味されるものすなわち第二の意味(道徳的なケガレ)が、解釈によって可能になるという、意味論的二重性へと高次化されています。たとえば「黒い」ということばによって表現されるものがそれです。黒い土、黒い水の「黒」は物質的な意味ですが、「腹黒い」は道徳的な意味で使われます。記号論的にはここにかなりややこしい問題が潜んでいるように思われます。

日本語において、「穢れ」はイメージゆたかで、比喩的な意味を数多く含んだ語である。それは、悪・醜・凶・不良・卑などを象徴的に表現する。そこから、「穢れ」は禁忌を意味するようになる。死・血・傷・病・出産などに関して、無数の「穢れ」が存した。死のみならず、喪に服している者さえ、「穢れ」といわれた。さらに古代日本人は、道徳的行為に関して、この語を用いるようになる。悪をなすことは、「穢れ」を身につけること、過ちを犯すことは、「穢れ」に染むことであった。穢れの世界は、倫理的なものと、物質的なものとが分化する以前の世界であり、倫理的穢れと、物質的な穢れとを判別することはむずかしい。

△ 古代人にとっては、そもそも道徳的と物質的との、言葉の二義性が存在しなかったと言われているのは、大切な点だと思います。

しかしながら、「穢れ」とされたものは、それ自体穢れているからというより、穢れとされたから、穢れているのである。穢れは、また聖なるものであって、浄聖と不浄聖の二面をもつ。穢れは聖なるものとして、畏怖され、忌まれている。穢れが穢れとされるのは、つまり物質的な穢れが倫理的な穢れに転置されるのは、他者のことば、他者の視線、つまり禁止によってである。この禁止は特に儀礼によって表明される。

△ 穢れには民族また地域によって異同があります。何を穢れたものとするかということには、かなりの恣意性があります。しかひとたび穢れとされたものには、禁忌によって、永続性が与えられます。また穢れが同時に聖とされるということは、その近づきがたさによるものでしょう。畏れは近寄れないということを意味しています。穢れには、浄聖と、不浄聖との二面があるということは、聖なることも同様に、畏れであり、近づけないこと、不可侵性(inaccessibility)であるからだと思われます。

「穢れの象徴表現を展示するものは、儀礼である。儀礼は象徴的に禁圧する。そうして、穢れは象徴的に悪に染ませるのである」

とリクールはいう。イザナギの禊祓の神話、黄泉の国のイザナミの描写は、穢れの象徴表現とみなされる。記紀神話の主なものは、こうして神態(かむわざ)に対する神言(かむごと)の役割を果している。

△ 儀礼と言わないまでも、穢れを穢れとする「行為」が、穢れの観念を強化し、穢れを象徴的に禁圧的なものにするということでしょう。神態(祭祀)において神言(神話)が役割を演ずるのは、行為における表象の役割に相当するからでしょう。

さて、悪・醜・凶・不良・卑としての穢れに対立するのは、善・美・吉・良・貴としての「清さ」である。あるいは「荒魂(あらたま)」に対する「和魂(にぎたま)」である。これは善と悪の二元論ではない。穢れと清さは対立するというより、対照であり、対(つい)をなしている。イザナギの禊の際に生れた、マガツヒノカミとナオビノカミは、これら均衡しあう二つの作用をあたわしている。この二つの価値を神話的に体現しているのは、スサノヲとアマテラスであろう。荒ぶる神としてのスサノヲは、粗暴であり、野卑である。それに対するアマテラスは、柔和であり、高貴である。二元論的対立というより、審美的対照を思わせるのである。もしエルベ・ルソーのいうように、「道徳的二元論は、否定と批判において強くあらわれ、肯定において弱い」のであるなら、古代日本人の道徳思想は、肯定的であり、楽観主義的であるといえよう。

△ 古代日本人の道徳思想は強く二元対立的でなく(つまり否定的批判的ではなく)、その意味で、対立的というよりは対照的であり、弱く二元対立的である(つまり肯定的である)と言われているのは、大変興味深いところです。「和をもって貴しとなす」という道徳観は古代からのものであるということになります。しかしそのような同調的な生き方の問題点は、以前から指摘されています。単なる付和雷同を意味してしまうからです。

罪の象徴

穢れと清さの対立は、古代日本人の価値観の表明である。それをもって日本人に善悪の観念がなかったとすることはできない。一般に論じられているように、古代日本人の罪観念は、「罪穢れ」というように、穢れと区別されなかった、と結論するのは正しくない。なぜなら、そう言いながらも、罪と穢れをはっきり識別していないからである。罪と穢れの隔りを正しく理解することが、まず必要である。

△ 文意が少し不明確ですが、「罪と穢れをはっきり識別していない」のは、古代日本人の方ではなく、それが「一般に論じられている」というときの、その論者たちのことを言うのでしょう。一般論として日本人の罪認識が問われるということでしょう。

穢れの象徴は、外的な接触というイメージから発するのに対し、一般に罪の象徴は、「それる、ずれる」というというイメージから出てくる。両者を区別するものは精神的空間である。罪においては、それは神との個人的な関係、すなわち「神の前」である。「神の前」というカテゴリーから、新しい宗教経験が発してくる。穢れと罪の違いを、旧約聖書において考察してみよう。

旧約のヘブル語には、罪をいいあらわす抽象語はなく、そのかわり、罪を比喩的に表現している具体語の束がある。このことは罪の象徴表現を知るうえに好都合である。まず、ハッターという語は、的をはずれる、正道を踏み違える、という意味。アウォンは、曲った道、まっすぐでない行為、違反の意味。マアルは不忠実を表わし、ペシャは反逆を意味する。これらに共通しているのは、道をはずれる、反逆、不従順ということであり、要するに、神と人との関係の断絶を意味する。旧約の神は、人と契約関係にある。その契約を人の側から破ることによって、神との関係を断つこと、それが罪の原義である。罪が、こうして人格関係にかかわるのに対し、穢れは人格関係を含まない。根本的な人間の状況は、人が「神の前」にあること、契約関係が結ばれていることである。この契約の破棄をもって、罪と定めるのである。この罪の存在的客観性が、人間の主観性の中に移されると、そこに神と人との対話関係のドラマ化が生じる。関係の断絶を、人は「怒りの神」として表象するのである。

△ ここで罪が「関係の断絶」であると言われていることに注目したいと思います。神が「表象」されることによって、その「断たれた関係」が宗教的に強調されますが、問題の焦点は人格関係の「断絶」にあるのであって、「神」にあるのではありません。しかしそうは言っても、罪の感覚に超越者との(否定的)関わりが自覚されてくることは否めません。たとえば「怒りの神」は、その神話的表象の最たるものでしょう。

さて、日本語の「つみ」を、祝詞や書紀で「罪」と書きあらわしたために、意味の重複を招くようになった。つみの語源をさぐってみると、本居宣長は古事記伝三十に述べているように都美(つみ)は都々美(つつみ)の約った語で、つつみは、古語に「つつみなく」「つつまはず」などいう場合のつつみと同一であって、もろもろの悪しき事をいう。

△ 先に私は「つみ」の語源を探索することは、かなり困難であろうと書きました。ここには本居宣長の説が紹介されています。この説が正しければ、「つみ」のアクセントが他の「積み」「詰み」「摘み」などと異なることも説明されます。「罪」はコミュニケーションの問題であると考える私にとっては、「つつみ隠す」の「つつみ」に「つみ」の語義があるとすることは、とても興味深い指摘であると思います。しかしここでもまた超越的なものとの関わりの感覚が働いています。

この「つつみ」という根から、「つつしむ」「つつむ」という語がでてくる。「つつしむ」は、悪しき事のないようにすること。「つつむ」は悪しき事をあらわすまいとして隠すこと。ここから、『大言海』にあるような、「神ニ対シテ、恐ルベク慎シムベキ事ヲ、犯スコト」という意味がでてくる。したがって「つみ」は「つつむ」「つつしむ」というイメージにおいて理解される。悪しき事をつつみ隠し、しないように慎しむ、という意味から、逆に、つみを犯すとは、慎しみを犯すこと、という意味に理解される。

他方、「つつしみ」「つつみ」は古代において、物忌み、斎戒を意味した。そこで「つつしむ」とは、物忌みをする、斎戒をする、の意である。すなわち、つみを物忌みとの関連において理解することが必要なわけである。つみが、罪として、道徳、習慣、法律に違反した行為、あるいは仏法で禁じたことを破る行為、などを意味するようになる以前に、つみは物忌み、または忌みとかかわっていたのである。そこで、つみを犯すことは、狭義には、物忌み、斎戒に背反することを意味する。

物忌みとは、宗教的戒律遵守の一種である。それは儀式や祭に参加するために、一定期間精進潔斎して、ある種の食物を断ち、禁欲して、自宅にこもることである。それは特に、平安時代において、さかんにおこなわれたという。柳田国男によると、祭に参加するには、物忌みをまもること、つまりつつしむことはきびしく要求され、そのために、忌屋を建て、その中に籠って、数日間、物忌みをしたという(『日本の祭』)。まつりの語源は、神の前に待坐(まつろい)することで、「籠る」ということが、祭の本体であった。「籠り」の内容をなす物忌みは、地方ごとに何十級と、あらゆる段階ができているほどに厳重になされた。もし物忌みを破れば、神々は怒って罰すると信じられていた。神々の復讐は「たたり」として恐れられていた。物忌みを破ることは、神々との関係を断つことなのであった。

「まつり」「こもり」は、要するに、心身を清めて、神を迎え、神前にはべることである。神に供物を捧げ、祭の最後に、直会(なおらい)と称して、神人ともに食事をした。この聖餐は、神と人との絆を強化するものであると信じられた。こうして物忌みとは、神にふさわしくあるよう精進潔斎する、清浄式であり、禊祓の儀式の一種であると考えられる。

△ 神道が「まつり」の宗教であると言われるとき、その「まつり」には当然地域共同体の存在が前提されています。それは日本の社会の「近代化」と共に失われてきたものです。神の前に「まつらい」、「こもり」のあとに「なおらう」という、その感覚は遠い昔のことであって、今日ではその形骸だけが残されています。それと共に日本人の「つみ」の感覚も薄らいできたと言うことができるでしょう。それは人々の連帯(あるいは絆)の感覚が失われてきたということでもあるでしょう。

さらに、忌みという語について検討してみよう。松岡静雄著『日本固有民族信仰』によると、イやユは神聖観念を表わす、一種の接頭語で、たとえば、イツキ、イワイ、イミなどがある。イツキは神祇に奉仕する者を意味し、イツキノミヤ(斎宮)などと用いられる。イワイは浄化を意味し、そこから斎祀、祝福の義が生じた。

イミには大別して三つの語がある。

第一のイミは斎身(イミ)で、司祭者を意味する。

第二のイミは神聖を見るという意で、接頭修飾語として用いられる。イミドノ(斎殿)、イミヒ(忌火)、イミヤ(忌矢)など。

第三のイミも、原義は神聖を見るであるが、もっぱら忌の字をあてる。モノイミ(物忌み)は斎戒の意。イミコトバ(忌語)、イミナ(諱)は禁忌を意味し、これから転じて、イミキラウ、イマワシ、イマイマシなどの語が派生した。

このように神聖観念をあらわす同一語根から、清浄、祭祀、斎戒、戒律、禁忌、嫌悪などの語義を生じた。このことから、忌は、アゴス(ギリシア語表記略)、sacer, tabouなどの語に比較し得る神聖観念であり、したがって、聖なるものがもつ相反する二面、祝斎と忌避とを同時に表わすのである。

△ イミは「イ・ミ」、すなわち「斎・」であり、また「神聖をる」という意味であるという指摘は、日本人の宗教観の根底にあるものを指し示しています。それは聖性の表現であり、同時に禁忌(タブー)を表わすものでもあります。

それゆえ、「つみ」とはおよそ神聖なるものをけがすこと、忌みとされたものを犯すこと、と理解される。さらに神にとって好ましくないもの、病や災禍も、つみとされるようになったのであろう。実際には、つみを犯すとは、禁忌を侵犯し、つつしみ、斎戒を守らぬことである。禁忌の侵犯は、何を意味するか。それによって神との関係が断たれ、神にふさわしくなくなることが重要なのである。つみを恐れるとは、神との絆が断たれることへの恐れであった。神の前の感情を表わすのに、古代人は「かしこ」という語を用いた。また、カミの上に、ハヤ、チハヤブル、アラブルなどの接頭修辞語をつけて、畏怖の感情を表わした。神に対する感情は、畏敬、慎みと、恐れ、忌避というアンビヴァレンスであった。

△ 本居宣長の「かしこきもの」という神の定義には、上のような、アンビヴァレントな感情が込められているということになるでしょう。それは「かしこ」にあるものへの感覚であって、近づきがたさを表わしています。

神の神聖さを冒すことだけでなく、神職者の斎身(イミ)を犯すこともつみとされ、その禁を犯した者は、罪科に応じて、大祓・中祓・小祓を課せられたという。しかしここにおいては、すでにつみは罪となったのであり、つみの自律性は、他律性に変化して、刑罰的様相をおびるようになる。

△ 「つみ」が「罪」として他律的になるということは、人々の関係が社会制度化(律令国家化)されていくということを意味するでしょう。

このようなつみの観念は、神話においてどう表現されているか。すでに考察したように、罪と贖罪の神話、罪のはじめと終りの神話は、スサノヲの所業として語られる。スサノヲがなした、いわゆる天津罪は、前述のように、新嘗祭の忌みに関するものであり、直接にはアマテラスに対する涜聖行為である。忌みを犯すことが、神の神聖さを侵すことであるというのを、アマテラスに対するスサノヲの乱行として、表現されたのである。スサノヲに帰されたつみは、古代社会において、つみとされていたものであった。つみとされていたものを犯したゆえに、つみである、というのは同語反復である。しかしスサノヲ神話は、けっして天津罪の起源神話でもなく、つみの種類を列挙するだけの神話でもない。また、新嘗祭の忌みに関する特殊神話でもない。スサノヲ神話が私たちに啓示するものは、つみを犯すとは何か、という問題についての古代人の観想である。そしてこの問題に関し、スサノヲ神話は、その「普遍化の機能」を果しているといえよう。

△ 著者はこうしてスサノヲ神話に立ち帰ります。

さて、本論の第1部において、リクールのいうアダム神話の普遍性、規範性が、スサノヲ神話に対して、どのように発揮されるか、という問題を課した。リクールがアダム神話を「人間学的神話」と呼ぶのは、次の理由からである。

「すべての時を代表する時によって、は具体的な普遍として表示される。アダムは人を意味する。アダムにおいて、われわれはすべて罪を犯した、とパウロはいう。かくて経験はその特殊性を免れる」。

△ 神話という超時的(トランスクロニック)な象徴によって、経験の特殊性は普遍性へと高められます。「すべての時を代表する時」とはそういうことでしょう。

すでにみたように、記紀神話において、神々の表現は、まことに人態的であり、人格神的である。自然神、動物神のかわりに、それぞれの氏族の祖神とされる神々にみちている。人間はすべての神々の裔であり、逆に神々の劇には、もっとも人間的な性格や行動を、神話は賦与している。このことはスサノヲにおいて顕著である。スサノヲは出雲地方の祖神とされているが、スサノヲの負っている条件や行動は、人間の条件と行動の反映にほかならない。たしかに、スサノヲには荒ぶる神としての属性は与えられているが、絶対的な悪神でも悪鬼でもない。人間性は絶対的な悪ではないように、スサノヲの邪悪さも、本質的な属性ではない。「うけひ」はそのことを証明したのである。「うけひ」によって「黒き心」なきことを証した後に、罪に移ったのは、まさにスサノヲに発生した悪心によってであり、そのことは、かれの「罪の犯しやすさ」を示している。罪の犯しやすさは、人間のおかれた状態である。人は悪に傾きやすい。そのようにスサノヲは罪に堕ちたのである。

△ 自分は「性善説」でも「性悪説」の立場でもなくて「性弱説」の立場を取ると言った人がいます。一時、金子郁容氏が流行らせたVulnerability(弱さ、傷つきやすさ、または非難されやすいこと)という言葉が人間の性(さが)を言い当てています(『ボランティア もうひとつの情報社会』岩波新書、1992年)。

アダム神話の場合、罪の出来事は、一瞬のうちに、それ以前の無垢の状態を終らせて、罪の状態に陥らせる。エヴァや、蛇という悪の化身によって、アダムはみずから神の掟を侵す。「人は善に定められ、悪に傾きやすい」という人間の条件をアダムは例証し、また、どこからか発生した出来事として物語ることにより、「根本悪の偶然性」を表現している。

スサノヲの場合、無垢の状態は「うけひ」によってつくられ、爾後に、出来事によって、罪の状態が来る。それは悪心が生じるという、悪の偶然性を示していよう。スサノヲに帰せられたつみは、忌みを犯すことであった。その忌みの存在すること自体が、人間に完全な自律性の欠けていることを示している。大祓の祝詞では、天津罪、国津罪ともに、すべての人びとの犯すものとして、数えあげられている。つまり、スサノヲが犯したのは、すべて人びとが犯す罪であり、スサノヲが罪を犯した条件は、すべての人びとが身に負っている条件である。かくて、スサノヲにおいて、すべての人が罪を犯した、ということができよう。そこにスサノヲ神話の普遍化の機能と、人間学的意味がある。そしてそれらは、次の贖罪の神話によって、完結するのである。

△ ここまで来て著者の論点が、アダム神話とスサノヲ神話をほぼ完全にダブらせているということが見えてきました。アダム神話と同様に、スサノヲ神話も「普遍化の機能」において見られています。パウロにならって「スサノヲにおいて、すべての人が罪を犯した」とさえ言います。きわめて踏み込んだ解釈であると言うべきでしょう。また著者は「悪の偶然性」という自己の思想をここで再確認しています。

五 贖罪の象徴の解釈

罪の描写は、罪からの救いと希望の言葉の裏返しである。救済の神話が劫罰の神話を位置づけ、それに意味を与える。贖罪という終末論的観点に立って、罪の神話に意味が出てくる。

△ 著者の認識枠は明らかに「キリスト論的(救済論的)」であると言えるでしょう。

古代日本人において、罪と贖罪とは、分ちがたく結びついていた。忌みを犯すことがつみであるなら、物忌みすることは、つみを祓うことである。物忌みのために、忌屋にこもって、精進潔斎すること、これは禊祓の一種であった。斎戒は神をむかえるために、心身を清めることであるが、その行為自体が、顕在的、潜在的に罪の告白と悔いあらためをなしている。つみの語源が、斎戒を意味するつつしみに関連しているとすれば、つみの観念は消極的に定義されている。そのかわり。つみは、はじめから贖罪観念につながっていたといえる。事実、古代日本人にあって、そのような贖罪観念は、きわめて旺盛で、強かった。その証左は、古代において、忌み、禁忌とされたものが、実に多数で、多様であったことである。このことは、禊祓の対象となるものが多種多様であることと対応する。つまり忌みと祓いとは相関し、平行していたのである。

△ 著者は、忌みと祓いの「相関性」とその「多様性」に、古代日本人の贖罪観念の旺盛さを見ます。それだけ「つみ」意識が強かったということになります。

贖罪の思想は、いつ頃からでてきたのであろうか。日本書紀の本文に、「髪を抜きてその罪を贖はしむるに至りき」とある。津田左右吉は、この贖いという観念を、神話編纂者の思想に帰しているが、八世紀の文学作品にその文字は見えるところから、この観念はすでに広まっていたのであろう。少なくとも、贖いとしての祓いは、刑罰として、当時、広くおこなわれていた。

広義の贖罪の方法は、禊、垢離(▽)、祓などがあったが、なかんずく、祓いは贖罪の中心的方法であった。祓いは、清め祓いであり払いである。つまり、すでにみたように、清めとしての祓いと、同時に贖いとしての祓いがなされた。

△ こり。神仏に願をかけるとき、水をあびて、身心を清めることをいう。水垢離。

ここで旧約聖書における贖罪の仕方をみてみるなら、それには、ガール、ペダー、コフェルの三つの方法があったという。それらはいずれも、身代金や財物をさしだして、贖う仕方であった。E・ジャコブによると、

「これら三つの贖罪の方法に共通の観念は、交換という観念である。人はあるものを与え、そのかわりに、別のものを貰おうとする。罪の場合には、人は罪を新しき生命に変えるのである」。

これは、前述した、犠牲の二つの方式のうちの、do ut des(貰うために捧げる)の方式に相当する。しかし祓いによる贖いは、もう一つのdo ut abeas(祓うために捧げる)方式に一致する。それは祓いが、もともと忌みにかかわっており、そして忌みは、R・スミス(▽)が「聖なる事物との一切の接触は、危険な側面をもつ」といっているように、聖なるものの、アンビヴァレントな二面をもっているからである。

△ ロバートソン・スミスのことでしょう(「国学者の神信仰 その2」参照)。

大祓の祝詞で祈願される、ことごとくのつみの追放は、祓いの思想の神話的形象化となっている。問題は祓いの強烈なヴィジョンが、罪責意識や、神の前の慎みまでも、吹きとばしてしまっていることである。これは国家的行事となった大祓の必然の帰結であろうか。祓いの儀礼の質的変化がその底にあることは事実である。

スサノヲ神話においても、神話編纂時におこなわれていた祓いがそのままスサノヲに課せられていることからみて、編纂者の解釈が前面に出ており、また当時の思想が反映していることが認められる。しかしながら、罪を犯したスサノヲが、罪を贖うのは、神話的論理では当然の成行きであり、その点に、編纂者の改変の跡をみることはできない。スサノヲ自身は、あくまで罪を贖う者であり、贖罪山羊のように、祓われる者ではない。

△ ここで著者はスサノヲ神話に「罪の贖い」の思想を見ています。

ここで再びアダム神話との比較を試みてみよう。新約聖書は第一のアダムに対し、第二のアダムという形象を提出する。第二のアダムは第一のアダム、すなわち人の犯した罪を贖う者としてあらわれる。そしてイエスを、「来るべき人」「苦難の僕」という終末論的象徴において解釈する。

しかしスサノヲは第二のアダムではない。西田長男は、スサノヲをすべての人の罪を贖う者として、「代受苦」という仏教的概念によって解釈する。だがスサノヲは、いわゆるman of sacrificeではない。あくまで第一のアダムにとどまる。つまり、「すべての人がスサノヲにおいて罪を犯したように、すべての人がスサノヲにおいて罪を贖う」のである。スサノヲは「多くの人の贖い」として贖ったのではなく、みずからの罪を贖ったのである。スサノヲに投影されているのは、ふつうの人間的条件である。

△ スサノヲは第一のアダムであって、第二のアダム(キリスト)ではなかった、という点が、もう一度確認されます。

それよりもここで問題とされねばならないのは、それがどのような意味をもった贖いであるか、ということである。紀の一書では、スサノヲは根の国に追放される際、アマテラスにむかって、悔いあらためと、赦しをいいあらわす。それは神に赦しを求め、神と和解するための贖罪である。だが、これが記紀神話の中心思想をなすにはいたっていない。大祓の祝詞において、赦しと和解という思想はみいだせない。そこでは、罪の祓いを神々に依頼し、懇願しているだけである。もし、罪を犯すことが、神と人との絆の断絶であるなら、贖罪はその回復でなくてはならない。罪の告白と悔いあらためは、その回復を願うしるしである。罪と贖罪の問題は、神と人との関係という角度から考究されねばならない。原始神道に、神との和解というような教義を性急に求めるのは不当であるとしても、古代日本人の宗教意識を探るには、結局、神と人との関係の問題をあきらかにすることが必要となる。

△ 古代日本人に「罪と贖罪」の思想がなかったわけではないのですが、神と人との関係の問題として、それが結局はどのような形を取ったかが問われています。

六 罪の観念と罪の意識

古代日本人には穢れの観念が強く支配しており、罪の観念はそのかげにあって、十分に発達することができなかった、というのがこれまでの説であった。しかし私たちは本論において、穢れの象徴と罪の象徴とを区別しようとし、そこから「つみ」の観念をひきだそうと試みた。どんな民族や社会にも、罪の観念は存在しよう。問題はそれが存在するか、しないかよりも、それが個人の中にどのように意識され、はたらいているかである。そこで罪の観念と罪の意識を区別することからはじめよう。

△ 罪の観念が「罪の意識」として「個人の中にどのように意識され、はたらいているか」ということが問題であると言われています。

何が罪であるかという観念は、原始的なタブーの段階から、どんな未開人にも存在している。一般に、掟、律法、禁忌という形で、罪は人間生活を規定している。ファン・デル・レーウは、罪の観念と自我意識とが平行していると主張する。

「アダムは堕罪によって、はじめて自分が裸であるのに気がつく。意識をもつこと、それは自分の罪の状態を実感することである。自己を意識する者は、放蕩息子のように、人間の本質そのものに、つまり罪に到達する」。

罪の観念と自己意識が平行している場合は、罪の観念の内面化を促す。すなわち、個人による罪の発見であり、罪の告白である。しかし、罪がタブーというような集合的、共同体的表象にとどまり、あるいは、律法、掟として制度化し、習俗化している場合には、共同体による罪の強制はあっても、罪の個人的な意識は稀薄である。パウロ的な言い方をするなら、「律法は人を罪の奴隷にする」。罪あるゆえに律法が存在するのでなく、律法あるゆえに罪が生じる、という逆の現象が起きてくる。律法が真に宗教的になるのは、罪の観念の内在化、意識化によってである。それは律法や掟の他律を自律に変換することである。

罪の意識化という面から、たとえば大祓の祝詞をみるなら、そこにおいて数多くの罪は列挙されており、それを神々の力にすがって祓い清めようとする祈願はある。だが、罪そのものに対する態度は示されていない。大祓は六月と十二月の晦(みそか)におこなわれる、国家的行事である。村落共同体的な規模の信仰や儀礼が国家大に拡大されたとき、そこに起ったのは、信仰生活が個人化し、内面化するのとは逆の過程、つまり、その形式化、習俗化、制度化であり、要するに宗教意識の停滞、その希薄化であったのではないだろうか。以下にその原因を探ってみよう。

△ 日本の「宗教改革」は神道自身の「内在的超越」によって起ったのではなく、外国の宗教(仏教、道教、儒教)の移入によってもたらされました。それに対して神道は、習合あるいは純化という形で対応(自己防衛)してきましたが、日本人の宗教意識はかえって根底からの変革を伴うことなく、そのまま残存してきたと言えます。外からもたらされる動揺に対しては、いつも内なるものを保ち、そのあり方を許す限りで、外のものを受容し、結局は一貫して変わらないまま、伝統的因襲的意識が存続してきました。

忌みの思想

古代日本人の生活において、忌みと呼ばれる一種のタブーが、いかに生活のすみずみにまで、根深く支配していたか、現代人の想像にあまるものがあろう。否、そういう現代人にしても、農村と都会とを問わず、依然として、忌みを無視しえない生活を送っている。それだけに、忌みは生活の深部に滲透しているわけであるが、それは習慣の問題にとどまらず、いわば忌みの思想として、生活意識を潜在的、顕在的に支配しているのである。

△ 日本人の意識で一貫して変わらないものは「忌み」である、と著者は言います。忌み嫌われる対象は多々あるとしても、結局それは「外」から来る穢れです。穢れには汚れたものだけでなく、秩序感覚に逆らう「異形」のものすべてが含まれます。「差別意識」も、そのような忌みの感覚から生まれて来るのだと思われます。

古代人の忌みの種々相を全体的に把握するのは困難であるが、その原理は、斎(い)みと忌みの二面から捉えられる。斎みは、物忌み、斎戒として、神事に慎しむことである。それに対し、忌みは、禁忌として、忌避することである。この両者とも聖なるものに対する態度を示しているが、一方は積極的であり、他方は消極的である。重大なことは、積極的な斎みよりも、消極的な忌みが、生活を次第に規制していって、本来の宗教的意義が失われていったことである。図式的に説明すれば、一方では斎みと禊ぎの組合せがあり、他方には忌みと祓いの組合せがある。そして後者が、前者に優越しておこなわれるようになっていったところに、神道の儀式化、習俗化の原因をみることができよう。

△ 「斎み」が退き、「忌み」が優越的になったという指摘には鋭いものがあります。神道の儀式化、習俗化の原因もそこに求められています。

斎みは祝斎(いわい)であり、とりわけ祭において、神をむかえるために精進潔斎し、そのために禊ぎがおこなわれた。神と人とが絶対的に不連続とは考えない神道思想において、祭は神と人との親しき交わりの場であり、時であった。特に農耕生活や祖先崇拝と結びついた神々は、人びとにとって、親しいものであったろう。けれども、そうした信仰生活は、村落共同体という枠内で、農耕儀礼や呪術と結びついていたものである。他方、律令国家の成立により、八世紀初頭の「大宝令」、次いで「延喜式」によって、神祇制度が体系化した。原始神道から、皇室神道へ、原始神から国家神への変貌がおこなわれたが、信仰生活の内実は変らず、習俗として、行事として定着するのみであり、両者のギャップは増大していった。

△ 「両者のギャップは増大していった」とあるのは、村落共同体の信仰生活と神祇制度化した国家の行事とのギャップということでしょうか。それとも斎みと忌みのギャップのことでしょうか。文意がやや不明なところがあります。

忌みのほうは、死穢の忌みをはじめとして、生活のあらゆる面、あらゆる次元にわたって、時代とともに多岐、煩瑣になるばかりであった。それにともなって、祓いの儀式がさまざまな形で実修された。両者は相まって、穢れに対する感覚だけを発達させていった。積極的な神礼拝と対比される、消極的な、穢れを祓い清めるだけの礼拝が、重要な位置を占めるとき、信仰生活の堕落が起る。これは日本仏教の広範な滲透によっても、根本的にくいとめることはできなかった。その理由を、高取正男、橋本峰雄はこう説明している。

「その穢れと斎みの観念をもっぱら内面化しようとしたところに、日本仏教の歴史的な役割があった。しかし日本仏教は力不足で、穢れを内面化する反面には、神道が未分化のまま保っていた外的対象の穢れ、忌み避けるべき禁制、祟(たた)りをなす呪物という側面を、かえって無媒介的に独立させ、神道の政治的性格ともあいまって、それを持続増殖させる結果をまねいた」(『宗教以前』)。

こうした忌みの因襲化を促進した要因の一つに、祓いの儀式の濫用がある。

△ 仏教は日本に未だ「土着」していないという話を聞いたことがあります。因襲化した神道宗教の「底力」というべきものが、依然としてこの日本の社会の基調をなしています。同時に「神道の政治的性格」がその傾向を助長させています。

祓いの思想

罪の祓いの思想は、罪の赦しの思想と根本的に対立する。「神の前」にある、というのが宗教的人間の根本的状況であるなら、罪とは神と人との関係の破綻であり、断絶である。たとえば、旧約の詩人が次のようにうたうとき、

「わたしの不義をことごとく洗い去り、

わたしの罪からわたしを清めてください。

わたしは自分のとがを知っています。

わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、

あなたの前に悪いことをおこないました」(『詩篇』五一)、

これは一見、罪の清め祓いの祈願と同じようであるが、大祓の祝詞と基本的に異なるのは、そこに罪の自覚と、告白とがあり、罪の赦しを求める声があり、そして告白の対象が明確なことである。神と人との関係は、対話関係である。神の言は、神の召し(vocation)であり、人の言は、祈願(invocation)である。罪の自覚は、対話関係を回復しようとし、罪の赦しを祈願するのである。

△ ここで敢て「非神話化」を試みるならば、「罪の自覚」と「神信仰」とはコインの両面のように表裏一体であって、神が現前するとき、人は罪を自覚します。その意味で、神は罪と同義であるとさえ言えます。「対話関係」と言われますが、もちろん、神の声が実際に聞こえるわけではありません。それは心の状態であって、人はそれを神の前と言い表しているに過ぎません。聖なるものの前で、人はコミュニケーションの根本的な欠如を自覚せざるを得ません。「つつみ隠して」いる「つみ」が暴き出されるのは、人がそのような心の状態になったときです。その経験から離れて、「神」がどこかにいるわけではありません。だから神は「良心」の相関者であると言えます。

罪の祓いに欠けているのは、罪を告白すべき対象を明瞭に自覚することである。平野仁啓著『古代日本人の精神構造』によると、『万葉集』の神事関係の歌に、記紀の神々はほとんど登場せず、神々の固有名詞がきわめてわずかであり、しかも、もっとも多い名称は「天地の神」であるという。たとえば、

天地のいずれの神を祈らばか愛(うつく)し母にまた言問はむ(大伴麻与佐)

といった歌が端的に示しているように、「天地の神」とは、むしろ、祈願の対象でなく、信仰の昏迷をあらわしているのである。

△ 特定の名を持つ神の実在が問題なのではありません。信仰の昏迷とは、意識の拡散のことであり、逆に明瞭な意識が神を特定させるに至ると言うべきでしょう。

さらに根本的には、神道信仰の本質、形態における受動性、消極性が指摘できよう。古来、神々は海のかなたから訪れてくるもの、天から降りてくるもの、と信じられた。人びとは神を待ち、迎えるのであり、そのために戒慎するのが、信仰態度であった。こうした信仰の本質的受動性、消極性が、忌みと祓いの思想を発達させ、信仰を習俗に変質させていったのであろう。

△ 逆に「能動的、積極的」な信仰とはどういうものでしょうか。罪の赦しを強く求めるような信仰のことでしょうか。「求めよ、そうすれば与えられるであろう」というイエスの言葉が思い出されます。

他方、祓いの思想は、政治的意図をもって強化されていった。高取・橋本著前掲書によると、死者に対する忌みは、庶民の間では、はじめはさほど強くはなかったが、平安時代の貴族たちが、それを強制的に広め、滲透させた。律令国家成立にともない、貴族たちはみずからの聖性を保つために、さまざまな忌みをつくり、それを祓うための手段が、神道、陰陽道、また仏教などによって、さまざまにこしらえあげられ、民間に流布されていったのである。

△ 信仰が「受動的、消極的」であるということは、神道信仰の本質であるというよりは、それが「あてがいぶちの」信仰であるということを意味しているのかも知れません。

また梅原猛は、天武天皇の時代に大祓の行事が国家的事業となった事実に注目し、天武、持統の宗教改革は、禊祓の神道成立による、刑罰権の強化、罪の免除とそれにともなう税の徴収権、政府の支配権の確立であった、と断じている(『塔』10)。

以上のような要因によって促進される、祓いの思想の強化、祓いの力への盲目的信仰は、宗教意識の停滞、信仰生活の頽廃をもたらし、神仏習合への拍車をかけるのである。

△ 日本人の古来の信仰生活ということを考えるとき、種々の民間信仰に支えられているという側面と、国家によって仕向けられた側面との二面からの考察が求められるでしょう。いずれにしても諸宗教の混在ということがその特質なのだと思われます。

明確な教義をもたない神道は、外来宗教、とりわけ仏教、儒教、陰陽道と習合し、教義をとり入れることによって、体系化が試みられ、いくつかの神道が成立した。だが、当然ながら、根本的に体系化することには成功していない。それを妨げている要因の一つは、神道に内在する、むすびの思想といったものではないだろうか。記紀神話において、太初神や主神について一致をみないのは、注目に値する。記のアメノミナカヌシにしても、高次の思弁神と考えられる。主神、あるいは皇祖神として、アマテラスのほかに、タカミムスビも無視しえない。のみならず、アマテラスは高天原では、オオヒメムチとして、祭司的役割を演じている。つまりアマテラス自身の祀る神が、さらにいるわけである。最高の絶対神の背後から働く神の存在が想定されるのである。

ここで産霊(むすび)の神に注意しよう。記紀神話では、アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビを造化三神とし、むすびの働きをこの三神に帰している。むすびは、生成、生殖、豊饒など多様な働きを意味する。古代信仰において、ムスビノカミへの信仰は盛んであり、氏族は争って、種々のムスビノカミを祖神とした。日本神話は創造型神話でなく、産出型神話である。国土も神々も、すべて混沌の中から産出し、化生する。産霊(むすび)信仰とは、農耕呪術と結びついた、こうした生産力信仰ではなかったか。最高神の背後にあって働く神、アマテラスが祀る神とは、ついに神格化されず、神話にも登場しない、この産霊ではないか。神道にほとんど偶像がなかったことも示差的である。古代人は神々をとおして、この産出力に信仰を捧げていた、と考えられないであろうか。

とすれば、古代日本人の宗教的状況は、「神の前の存在」としてでなく、「自然の前の存在」として定義するのがふさわしいであろう。この場合の自然は「所産的自然」ではなく、「能産的自然」、つまり自然の産出力そのものであり、神々はその「自然」の媒介者にほかならないのである。

こうして、古代日本人の宗教的状況を、「自然の前の存在」として捉えるとき、その信仰のありようを、的確に理解できよう。他面、このことは日本の古代宗教に「父」の象徴が不在である事実を説明してくれる。旧約聖書においては、強烈な「父の像」が、深い罪の悔いあらためをひきおこす。とすれば、逆に、その「父の像」の欠如が、古代日本人における罪意識の未成熟となってあらわれたのであろう。

△ むすびの神についての考察によって、著者はこの論文を閉じます。古代日本人の神は「母なる大地」に「あれます」のであって、自然の産出力こそは「隠れた神」であったということでしょう。だからその自然を創造する一なる神などというものは想定外であったということでしょう。しかしその楽観主義的信仰は、罪意識の未成熟を伴うものでもありました。日本人の宗教意識については、なお論ずべき多くの問題があるように思われます。しかし著者のアプローチによって切り取られた古代日本人の信仰の断面は、我々に一つの示唆を与えてくれていると思います。次は同じ著者の「刑罰神話の解釈と古代法」の紹介の作業に移ります。この論文を補足する関係にあると思われるからです。


X 象徴の解釈学 その4

刑罰神話の解釈と古代法

――日本神話解釈の試み――

1 刑罰神話解釈の問題

古事記、日本書紀に叙述されている、スサノヲに帰される罪とそれに対する制裁をめぐる神話、あるいは延喜式大祓祝詞で唱えられるくさぐさの罪とその祓いの儀礼などは、日本人の原初的な法意識や刑罰の原始形態を知るための重要な史料、学問的な根拠として扱われ、そこから、神法から俗法への発展を説明するのが通例となっている。たしかに、記紀などの文献には、七―八世紀の編纂時の制度や思想が濃密に反映していること、また政治的意図をもって体系化や組織化がなされていることを考慮するなら、記述された神話、伝承を法制史の史料とすることは当然である。しかしながら、「神法から俗法へ」といったような連続進化的説明には、われわれは根本的な疑問を抱かざるをえない。なぜなら、そこで前提されているのは神話から歴史への連続性、つまりは記紀編纂者の「神代史から人代史へ」というのと同質の連続性だからである。しかし、記紀神話を、神話の形をまとった歴史ではなく、逆に歴史の形をとった神話(実はそれが神話というものであるが)として、つまり神話的思考や観想の産物としてみるならば、記紀神話から史的根拠をひきだそうとする前に、まずそれを真正神話として扱い、神話解釈の手続きを経ることが必要なのではないだろうか。何よりもまず、神話と歴史との連続でなく、断絶をこそ認識することである。

△ 神話から歴史への連続性という史観は、今日「新しい歴史教科書をつくる会」などにも見られる保守的な立場であって、そのような考え方は、実は保守的なキリスト教神学にも見出されるものです。神話と歴史との断絶の認識ということは、知的に誠実であろうとする者の「知のモラル」と言うべきものです。その上で神話には神話の解釈手続きというものがあるということを弁えるべきでしょう。

神話は一回的に記述されたものではなく、その都度解釈されながら伝承されていったものである。スサノヲに科される制裁には、編纂記述者の解釈による同時代的装いがもとわされている。しかしそうした装いをとりさっても、より原初的な神話の観想は生き残っていよう。適切な解釈の方法によれば、われわれは神話にひそむ神話の論理をとりだすことができ、それによって神話が現代のわれわれに啓示する意味をみいだすことができるであろう。

太初において、法はどのようにして人間に与えられたか、このような罰はどのようにして罪を消滅させるのか、なぜこのような犠牲が懲罰と浄罪に価するのか、などを物語る神話を「刑罰神話」(le mythe de la peine)と名づけるなら、スサノヲ制裁神話を、この範疇に入れることができる。そして刑罰神話として解釈することによって、この神話のもつ宗教的意味を、あるいは完全に非神話化された法制史的意味をあきらかにすることができるのではないだろうか。

△ ここで著者はスサノヲ神話を「刑罰神話」の範疇に入れることによって、その解釈を試みようとします。

ところで、刑罰神話は他の制度や文化の起源を物語る神話と異なり、いくつもの逆説ないしアポリアを含んでいる。すなわち、それは荒唐無稽な神話にもかかわらず、罪と罰の弁証法という合理性を含んでいる。罪の代価は罰であるという刑罰の論理をぬきにして、刑罰神話はありえない。罰は何故に罪を消滅させるのか。この刑罰の浄罪的機能は神話に属する。もしその浄罪過程を問題視するや、刑罰はその有効性を喪失してしまう。このように刑罰神話は、表面的な合理性の背後に、深遠な理性・理由をひめているのである。

そこでまず刑罰神話の解釈をめぐる問題について考察することが必要となる。一九六七年一月ローマ大学で、「刑罰神話」をテーマとして国際哲学コロキウムが開かれた(*1)。われわれはそこにおいて、この問題についてもっとも包括的に考察したポール・リクールの「刑罰神話の解釈」(*2)に沿って、解釈上の諸問題を整理し、次にその観点から、スサノヲ制裁神話の解釈を試みてみよう。

*1 Le mythe de la peine, Colloque international organisé a l’Universite de Rome par le Centre international d’Etudes humanists et par l’Institute d’Etudes philosophiques de Rome, sous la présidence de Enrico Castelli 7-12, Janvier, 1967.

*2 Paul Ricoeur, Interprétation du mythe de la peine, in Le mythe de la peine, Aubier, 1967, pp. 23-42, et in Le conflit des interprétations, Seuil, 1969, pp. 348-369. 本論文における引用は後者のSeuil版によった。

一 刑罰の論理のアポリア

刑罰は悪の結果であると同時に、常に悪の超克である。刑罰なき悪は、希望なき悪のままにとどまる。刑罰によって赦罪へ、したがって悪の排除へと進むことができる。

神話のカテゴリーの中に、この刑罰概念をおくことほどに逆説的なことはない。罪は罰に価する、とは普遍的な良心の認めるところであり、「罪の報酬は死である」と使徒パウロはいう。刑罰概念は何よりも合理的である。しかし刑罰の論理は、その合理性のゆえに、「合理性のアポリア」をはらんでいるのである。

この合理性は、あきらかに異質な二つの契機の間に、必然的関係を課する。ラテン語のpenaはもともと、殺人の罪を贖うための代価であり、そこから一方で、補償、復讐、賠償を意味し、他方では処罰、懲罰、刑罰を意味する。すなわち刑罰は、身体的、精神的苦痛を蒙ることであり、他方では、他者の意志によって苦痛を科すことである。刑罰の意味は、科せられた苦痛(mal)と犯された悪(mal)との間の等価性に存している。この等価性が刑罰のラチオナレ(理拠となるもの)を構成する。罰は罪の代価であり、贖いなのである。そして罪びとは、罪と罰の等価性を強いる意志に服従している。

しかしこの刑罰のラチオナレは悟性にとって、同一性をもっていない。その理由は第一に、罰を蒙ることと、罪過を犯すこととの間に、何の共通性があるのか。身体的苦痛はいかにして道徳的悪に釣合い、それを償い、消滅させるのか。第二に、刑罰を科するのと蒙るのとは、裁く意識と裁かれる意識として、二人の違った主体にそれぞれ存する。この両者を同一の意志として考えなければならない。悟性にとっての、この二元性においてしか、刑罰の理性はあらわれない。

そこにおいて、刑罰の論理の第二のアポリアが生じる。悟性がこのように分割するものを、神話は「聖なるもの」における一として考えなければならない。聖なる宇宙において、穢れは、禁止の網目によって規定されている秩序に対する侵害である。浄めの式とは、穢れに働きかけて、穢れを廃棄する儀礼である。刑罰はこの廃棄の契機である。聖なるものの秩序において穢れを廃棄できるような刑罰は、贖罪と呼ばれる。贖罪は聖なる宇宙におけるラチオナレとしての位置を占める。

贖罪がアポリアとなるのは、そこにおいて神話と理性とが同時に到来するからである。刑罰神話は、他の起源神話と同様、法は最初に人間にどのようにして与えられたか、このような懲罰がなぜ穢れを消すのかを、説話の形で語る。しかしこの場合、説話の形式は、法という内面的形式の、外面をなすものにほかならない。神話はそこで理性となっているのである。しかし神話の理性は、観念の論理でなく、力の論理である。刑罰を通して、穢れの力は、浄めの力によって消滅される。贖罪の力をつくりだすのは、この神話的理性である。かくして刑罰は、神話と合理性とが不可分の一体となっている「神話(ミト)=論理(ロジック)」にわれわれを直面させる。

△ ここでアポリア(難問)が生じてくるのは、神話は単なる報復や復讐という力と力の対決に刑罰の論拠を求めるのではなく、聖なるものの侵犯とその償罪という神話的理性に刑罰の論拠を置くからでしょう。しかしそこにも「浄めの力」という別の力が想定されています。罪びとの穢れは浄化(聖化)されなくてはなりません。

このアポリアを刑法と宗教の二方向に展開させて、さらに第三と第四のアポリアが生じる。刑罰神話における神話と理性の同一性は、聖なるものと法律との間の類縁関係として表現される。すなわち、一方では、聖なるものはたえず法律的行為を聖化し、他方では、法律は聖なるものをたえず法制化している。聖なるものが法律を聖化するのは、もっとも世俗化された社会でもみられる。罰を罪の代価たらしめようとする刑罰の論理、犯した悪を蒙った苦痛によって廃滅させる刑罰の機能を理解せずに、刑罰の量を罪の大きさに比例させても無益である。悟性に従って贖罪神話を排除して、刑罰を合理化することは、同時に刑罰からその原理を奪うことである。

△ 刑罰は罪過に対する社会的制裁(報復)であると割切ることは、刑罰によって「罪を償う」という思想を排除します。そこに更生という観点が入り込む余地はないでしょう。しかるに「罪の償い」という思想は贖罪神話に属しています。

日本語では宗教的な罪(péche)も、犯罪(crime)も、ともに「つみ」で表わされるが、刑罰の面からみた聖なるものと法との近縁性は、神学面で、刑罰神学というものをつくりあげる。たとえば、キリストの受難は、一連の法的場面でつづることができる。キリスト論は、贖罪と義認という二つの水路を通って、この刑罰神学の、すっぽりはまりこむ。「かれはわれわれに代って、古き罪の代価を支払った」という「義人の死」は、身代わりの犠牲として理解される。しかしこの刑罰的解釈は、キリストの十字架の秘義を十二分に汲みつくさない。パウロのいう「義認」という新しい神学用語によって、それは再解釈される。義認は、人間が被告として罪に定められる裁判に関連する。そして恩寵はこの法律的文脈においては、無罪として表現される。義認された者とは、その信仰が義として数えられたものである。

△ イエスの死の解釈から新しい神話、第二のアダムの神話、すなわちキリスト論が生れてきました。そこに贖罪と義認の二つの水路が開かれました。贖罪の神話は義認の神話によって再解釈され、人は、信仰によって義とされた罪びとという新しいあり方を提示され、そこに活路を見出すことができるようになりました。キリスト論とはまさに更生の神話=論理(ミト=ロジック)であると言えないでしょうか。

そこで第五のアポリアとは、刑罰の論理にもっとも反するところの、恩寵の無償性であり、しかもそれこそ根本的に刑罰の論理を肯定するのである。

△ 恩寵が刑罰の論理を肯定するとはどういうことでしょうか。神の恵みのもとにあって、人は刑罰を受入れつつ、刑罰を越えているということなのでしょうか。

二 刑罰神話の非神話論化

このように神話と不可分の刑罰を、非神話化(démythisation)ならぬ非神話論化(démythologisation)(*1)すること、あるいは刑罰を非宗教化することはいかにして可能であろうか。リクールはヘーゲルの『法の哲学』に拠ってそれをおこなおうとする。刑罰神話が罪と罰の神話的論理(ミトロジック)であるとするなら、刑罰を非神話論化することは、刑罰が神話なき論理であるような根源的な場に、刑罰の論理をもってくることである。その根源的な場とは、ヘーゲルによれば抽象法であり、刑法はその一面をなす。この領域は「自由意志」あるいは「具現した自由」の領域である。抽象法の概念の基礎をなすものは、人格である。したがって法の命令は「人(Person)であれ、そして他人を人として尊敬せよ」である(『法の哲学』§36)(*2)。

*1 リクールは、神話を廃棄して非神秘化する「非神話化」と、神話を神話として認めて、その象徴的本質を開示しようとする「非神話論化」とを峻別する。

*2 ヘーゲル『法の哲学』の引用の訳は仏訳により、高峯一愚氏訳(創元文庫版)を参照した。

刑罰の論理がこの抽象法の枠内に入るには、次の二つの条件を前提とする。第一に法的人格は自分の意志を事物に外在化すること、第二に契約によって意志と意志との間に外的関係を結ぶことである。この二つの条件下で法の違反、法の侵害が可能となる。

「法としての法に加えられる侵害は、出来事としてはたしかに、外的積極的実存であるが、その実存は否定を含んでいる。この否定性を顕わすことは、その侵害の否定である」(§97)。

刑罰の概念は、犯罪の否定そのものからでてくる。「それ自体否定的な意志としての犯罪は、それ自体の否定を含意している」(§101)。犯罪の否定が刑罰なのである。したがって肝要な点は、「犯罪が害悪をもたらすものとして廃棄されるのでなく、法としての法を侵害するものとして廃棄されるのだということ、そして犯罪が有し、廃棄されるべき実存は何か、ということである」(§99)。

犯罪者を罰することは、それ自体が正義だというだけではない。それによって犯罪者は、法を侵害することによって、法を定立する理性的存在として認められるのである。そこでヘーゲルは次のようにいいきる。

「この意味で、刑罰は犯罪者の法を含むとみなすことによって、犯罪者を理性的存在として尊重するのである」(§100)。

△ 以上、ヘーゲルの『法の哲学』における言葉がいくつか引用されています。それらの言葉を理解しやすくするために、高峯一愚訳と、長谷川宏訳の『法哲学講義』、あるいは、三浦和男訳『法権利の哲学』とを参照したいと思います。なお、長谷川訳は、ヘーゲルの法哲学の実質的な最終講義(1824-25)を、聴講生グリースハイムが克明に筆記した講義録で、講義用の手引き(教科書)であった高峯訳の『法の哲学(法哲学要綱)』(1821年)とは別のものです。後者は「主文」、「注解」、「増補部分」(ヘーゲルの欄外メモおよび聴講生のノート)からなっています。〈 § 〉以下の番号は、『法哲学要綱』の主文の配列に従って付されている「節」の順番を表しています。

§36 ここではヘーゲルの「肉声」に近づくために、超訳で名高い長谷川訳を§35から引用してみます。これは「第一部 抽象的な正義(法)」の初めの方に出てきます。

§35 自立した自由意志に共通するのは、自己を意識しているという以上の内容をもたぬ、形式的で単純な、個としての自己関係である。そのかぎりで、主観は「人格」である。人格の意味するところは、このわたしがあらゆる面で(内面のわがまま、衝動、欲望においても、外面の目に見える形においても)完全に特殊で有限な存在でありながら、まったく純粋に自分と関係し、そのなかで、有限な自己を、無限で、一般的で、自由な存在として知る、ということである。(▽ 以下はヘーゲルの「講義」の部分です。)

人格として私は自由であり、同時に、ただのこの人です。わあしは、この個人であり、この時間に、この空間に、縛られ、偶然に左右されて生きているが、しかもなお、自由であることを自覚している。そうした二つの面をふくむのが人格です。人間は貧しく、みじめで、たよりない存在だが、にもかかわらず、自分の自由と自主性について無限の自己意識をもっている。わたしは自由な存在として尊敬されることを要求します。人格のうちに対象化されているのは、わたしが、この世を生きるこの個人として自由であり、広がりのある、思考する存在だということです。このように極端と極端がつながるのは、精神のなかではじめて可能なことです。精神とはおそるべきもので、いわゆる健全な常識からすると狂っているといわれかねないが、このように正反対のものを結びつけるのは精神で、その力は偉大です。わたしは道端の石ころのように力なく、はかない存在ですが、弱い存在でありながら、自分のことを無限に自由だと自覚しているのです。

人格とは、このように高貴なものだが、しかし、まだ抽象的です。わたしは自分のことを「この人」と見、「この人」と定義するしかなく、そのようにただここにあるというだけでは、自由な存在というもう一つの内容にふさわしくない。この矛盾はわたしの担うものではあるが、わたしの解決するものではなく、両者を調和させ一体化させるには、理性的なものの登場を俟(ま)たねばなりません。

奴隷や未開民族が人格となっていないのは、かれらが思考しないからで、子どもの場合も同じです。

人格というのは、無限の価値をもつことばだが、いまだ抽象的な概念であって、軽蔑の意をこめて使われることもある。人格としての人間とは、人格という以上の内容をもたず、身分や地位とは無関係な、人格と定義する以外にはない存在ですから。

人格の対極にある「物」にも二つの面がふくまれます。物は、人格との対比では、くだらないものだが、逆に、物こそが肝心で、思い込みや意見や反省や批評はどうでもよい、とも考えられる。物こそが執着すべきもので、そのときの物は、その概念にふさわしい客観的な存在です。その点からすると、自由な人格が、当初は、この物のうちでしか形をとらない、というのも、理にかなっています。

§36 人格は権利能力をもち、抽象的・形式的な権利(法)の概念をなりたたせる、抽象的な土台である。したがって、法(権利)の命令は「人格たれ、そして、他人を人格として尊重せよ」となる。(▽ 以下もヘーゲルの「講義」の部分です。)

人格のないものに権利(法)は適用されない。自由であるかないかは絶対的なことですから。動物は生きた存在ではあるが、自由な存在ではないから、尊重すべきものではありません。カントに時代には、権利(法)の最高原則についてやかましく議論され、法(権利)の命令なるものも提起されました。汝は人格として存在し、人格として他にたいし、自由を自覚する、人間存在であって、おのれの自由と人格性を自覚しなければならず、それが万人の義務である、というのがそれです。

§97 ここでは§97の「本文」の長谷川訳と高峯訳とを以下に掲げてみます。

長谷川訳 法(権利)そのものの侵害が起こったとき、それは外界に目に見えるものとして存在するが、その内実はむなしいものである。このむなしさは明示されねばならず、侵害の否定が目に見えるものとして存在することが、その明示である。このように、侵害を破棄して自己を回復する必然性をもつことが、法(権利)が現実的だということである。

高峯訳 法としての法に加えられた侵害はなるほど積極的な、外的実存ではあるが、しかしこのような実存はそれ自身においては無である。この侵害が外的実存として無であるゆえんを明示するとは、同じく実存に現われて、かの侵害を否定することであるが、――これが法の現実性であり、すなわち法が自己を侵害するものを否定することによって自己を自己と媒介するという、法が持つ必然性である。

§101 引用された文は『法の哲学』の「本文」ではなく、「注解」の部分に出てきます。ここでは引用の範囲を少し広げて、今度は三浦和男訳の『法権利の哲学』と高峯訳とを、以下に掲げます。

三浦訳 それはともかく、報復の表象のうちに主要な難問をもちこんだのは、同(平)等性をどう限定するかであった。しかしいずれにせよ、刑罰の限定がその質的・量的性状から見て正当であるか否かの問題は、この事柄そのものにおける実体的事態を知って後にくる問題である。刑罰の細目的な限定のために、刑罰における一般面とは別の原理が模索されねばならないのはたしかだとしても、この一般的なものはあくまで変更を受けるものではない。ともかく、概念そのものは、総じてまた特殊態に対しても根本原理を含んでいなければならないものものなのだ。しかし概念のこの限定とは、犯罪が即自〔本来〕的には無いものでしかない意思なのだから、刑罰として現象する自分の否定を、自分自身のうちに含まざるをえない、というかの必然的関連のことである。さて、理解力にとっては、内的な同一性は外在的定在においては同〔平〕等性としてしか目に映らない。そこで、犯罪の質的・量的性状とその揚棄は、外在態の分野に帰属させられるのである。といっても、ここでは、どもみち、絶対的な限定は不可能である(四九節と比較せよ)。絶対的限定などは有限態の範囲ではどこまでも単なる要請の域を出ないのである。そこで理解力はますます躍起になってこの要請の限界を定めざるをえなくなる――これは〔事実〕極度に重要なことである――が、この要請はどこまでも無限に向けてつき進み、ただ永遠につづく接近を許すのみである。

高峯訳 しかし同等性という規定は報復という考え方に一つの重要な難点をもたらした。けれどもその質的量的性状に応じて刑罰規定を正当ならしめるということは、そもそも犯行自身の実体性よりも後の問題である。たといわれわれがこの犯行自身を一そう詳細に規定するために、刑罰の普遍的性質を規定する原理以外の他の諸原理を探索せざるをえないにしても、この普遍的なものはその普遍的であるがままの本質を存している。しかし概念そのものはがんらい特殊者に対しても根本原理を含むものでなければならない。けれどもいま概念によって刑罰に与えられる規定はまさに、犯罪とはそれ自体において無なる意志であり、したがって自己の否定を、――刑罰としてあらわれる自己の否定を、自分自身のうちに含んでいるものであるという、あの犯罪と刑罰との必然的な連関である。この内的同一性が、外面に具体化しては悟性に対し同等性として自己を反映せしめるものなのである。ところで犯罪およびその廃棄の質的量的性状は外面性の領域に属する。そしてこの領域においては、もとより何ら絶対的規定なるものはありえない(四九節参照)。絶対的規定は有限性の分野においては単に一つの要求にとどまり、悟性はこれを絶えず限界づけねばならない。このことが最も重要な点である。しかもこの要求は無限に前進して単に永遠に続く接近を許すにすぎない。

§99 ここで引用された文も、「本文」ではなく「注解」の部分に出てきます。そこで、前項同様、三浦訳と高峯訳との当該部分を掲げます。

三浦訳 ところで、現に見られる現象としての刑罰や、刑罰と特殊な意識との関連に対しては多種多様な考慮が必要であるし、これら考慮は(威嚇され、矯正されるべき等の)表象がもたらす結果に関わる。だからこれら考慮は、それなりに適切なところで、しかもなかんずく刑罰の方式に関してのみ、本質的な意味で考察されるべきものではある。しかしそれはあくまでも、刑罰が即かつ対自的に〔どの面でも〕法権利的に正当だという根拠を前提しているのだ。この論議においてひとえに問題なのは、犯罪が、しかもそれが害悪を生む行為としてではなく、法権利そのものとしての法権利を侵犯する行為として揚棄されるべきだということである。そのうえで、犯罪がどのような現存在をもっていて、どのような現存在が揚棄されるべきなのか(これが除去されるべき真の害悪である)、またそれがどこに存するのかが、本質的な点なのである。この点に関して概念が明確に認識されていないかぎり、刑罰観においては混乱が支配せざるをえない。

高峯訳 現象としての刑罰やそれが特殊な意識に対してどのように関係するかについての諸考慮、また表象に及ぼす諸結果(威嚇したり匡正したり等)に関する種々の考慮は、それぞれの立場において十分本質的に考察すべき問題であり、しかも特にもっぱら刑罰の方式に関して然りである。がしかしこれらの考慮は刑罰が即而対自的に正しいという基礎づけを前提としている。この問題を考究するに当ってひとえに肝要な点は、まず犯罪が廃棄されるのは害悪をもたらすものとしてではなく、法としての法を侵害するものとしてであるということであり、次に犯罪が持つ実存で、かつ否定されるべき実存がどの実存かということである。この実存が除去されるべき真実の害悪であって、それが何処に存するかが本質的な点である。これについての概念が明瞭に認識されないかぎり、刑罰説には混乱が支配するのをまぬがれないのである。

§100 ここで引用された文も、「本文」ではなく「注解」の部分に出てきます。

三浦訳 そのうえさらに、個々人の同意があろうと無かろうと、国家は犯罪の概念を、つまり犯罪に含まれる即かつ対自的に合理的な事態を通用させなければならない。それだけでなく犯罪者の行為のうちには、個別者意思活動という形式的な合理的性格も含まれているのである。刑罰はこの点で彼に固有の法権利を含むものと見なされる。とすれば、そこでは犯罪者は合理〔理性〕的存在として尊重されているのである

高峯訳 さらに犯罪者の行為のうちには、単に犯罪の概念、すなわち個々人の同意の有無にかかわらず即而対自的に犯罪であるという合理性、これこそ国家が主張すべきものであるが、このような犯罪の概念が含まれているのみでなく、また形式的合理性、すなわち個々人の意欲もまた含まれている。刑罰がそのうちに犯罪者自身の法を含んだものと見られること、ここに犯罪者が理性的存在として尊敬されるゆえんがある

△ ヘーゲルの諸訳書からの引用はここまでです。以下、本論に戻ります。

ここにおいて刑罰の理性は神話を含まない。なぜなら、それは合理的意志という概念に立脚しているからである。刑罰の論理は、それが意志の論理に、換言すれば、自由の歴史的決定に還元される限りにおいて、神話なき論理となる。そこにおいては、刑罰を道徳化することも、まして神格化することもできない。

逆に神話がはじまるのは、道徳的意識が、刑罰の論理を内面性の論理の領域に転置しようと試みるときである。ヘーゲルはその問題を『精神の現象学』で扱う。もはや犯罪でなく悪を、法の侵害でなく道徳的悪を問題にしようとすれば、無限の主観性のアンチノミーに陥る。すなわち、抽象法や客観的道徳の支えを欠いた悪の意識は、あまりに「主観的」にすぎて、客観的論理を展開できなくなる。悪を、法の侵害としてでなく、不正な意図として廃絶しようとすれば、裁く意識と裁かれる意識との、苛烈な葛藤に入りこむのである。意識の内面性は悪となり、反省と悪とは同じ根源をもつ。悪の意識は、もはや罪の代価としての懲罰には解消されず、その彼方に超越しなければならない。それが裁く意識と裁かれる意識の同等化、すなわち「赦し」であり「和解」である。

△ 神話が始まるのは、刑罰の論理を内面化することによってであると言われます。また罪の意識あるいは悪の意識は、裁く意識と裁かれる意識との同等化、すなわち赦しと和解によって可能であると言われています。これは「裁く者(父)」と「裁かれる者(子)」とが等しく神であるという、キリスト論的な「ミトロジック」を反映する言い表しであるのではないかと思われます。抑圧・分裂・対立・離反の現実が根本的に揚棄(止揚)されるという期待が実現するのは、あの「出来事」とその「完成」としての終末においてであり、その期待自体が救済論的終末論的な希望という神話に属しています。裁く意識と裁かれる意識に分裂した意識が解決を見出すのは、その神話的空間においてであり、赦しと和解という「同等化」はそこにおいてのみ可能であるということになります。解放・統合・融和・一致の祈願がそこから生れてきます(「LIFE論再考」参照)。

こうして神話なき刑罰の論理は、抽象法に立ちかえることによって、かえって「贖罪神話の広大な浜辺」(*)をあらわにする。だがそれは神話なき理性の逆としての。「理性なき神話」であろうか。換言すれば、刑罰の非神話論化は、神話の解体をもたらすのであろうか。リクールはそれを否定する。神話の解体を再解釈することによって、新たな意味を賦与することが、そこで課題となるのである。

* Paul Ricoeur, op. cit., p. 360.

△ 「神話なき理性」がそれ自体「神話」と化するということが、人間の精神の現実です。イデオロギーは現代世界の神話であって、それが事態の根本的な解決に結びつくと見なすのは、それを信奉する人間の「信念」に基づいています。啓蒙の時代を経て、マルクス・レーニン主義の台頭とその顛末を見た現代世界で、「神話の解体を再解釈する」ということは、人間の希望をいかに取り戻すことができるのかという問いに関わっています。

三 刑罰神話の再解釈

刑罰神話の非神話論化が、刑罰の論理を法律言語によって表現することであるなら、刑罰神話の再解釈とは、刑罰の論理をさらに別の象徴言語によって表現することである。しかしその場合の象徴は、より原始的な象徴を解釈し、合理化して、第二度の神話を、つまりは合理化された神話をつくりだすことである。「神話なき理性」でも、「理性なき神話」でもない、この合理的神話は、まさにその象徴性によって、ゆたかな意味を啓示してくれる。

△ 問題は「合理化された神話」をつくり出すことにあると、著者は言います。

法律的メタファーに対比されるのは、ユダヤ=キリスト教においては、神とイスラエルの「婚姻」という抒情的なメタファーと、「神の怒り」という悲劇的なメタファーである。古代イスラエルが、いかなる法律よりも根本的な概念である「契約」(ベリース)において表現した関係を、これらのメタファーは非法律化することを可能にする。「契約」の主題は、あらゆる法律的比喩を容易にするが、他方、「契約」の意味は、法的関係を無限に越えて、生きた契約、運命共同体、創造の関係を示す。同様に、イザヤやホセアの「婚姻」のメタファーは、法的比喩では捉えきれず、またどんな法も制度化できなかった、恵みの賜物、愛の契約を含み、表現する。刑罰神話が転置されねばならないのは、合理化された神話に固有の、恵みの領域であり、そこにおいて非法律化された罪は、法の侵害ではなく、神との存在論的「分離」を意味する。

△ 「分離」という「存在論」的な事態を、神話は「契約」という説話に基づいて表現します。そのとき「分離」は「離反」になると言えます。しかしその根底には恵みの領域があるのだと指摘されます。

「神の怒り」という象徴は、「婚姻」という抒情的象徴と一見両立しないようである。しかしこれが刑罰の論理と根本的に異なるのは、その神の顕現的性格(テオファニー)によってである。刑罰というアノニマスな法と違って、「神の怒り」の象徴は生ける神に対面させる。これは「婚姻」象徴と同じサイクルをなして、生ける神との出会いの、前者は夜の面を、後者は昼の面をあらわすのである。「契約」(ベリース)が単なる契約以上のものであり、罪が単なる背反以上のものであって、存在論的分離の象徴であるなら、神の怒りはこの同じ分離の別の象徴であって、脅威、激しい破壊として体験されるものである。

△ 神話、あるいは象徴が、人間の「存在論的分離」の激しい体験を反映している限りで、それは「生ける神との出会い」として表現され、また理解されます。

このように罪が超法律的な意味をもつなら、刑罰もまた罪そのものにほかならない。罪の刑罰(peine)は、苦痛(peine)としての罪そのもの、すなわち神との分離そのものである。

このような刑罰の比喩は、しかしながら、依然として表象やイメージの枠内にとどまる。等価の論理を論破するには、新たな論理、キルケゴールのいう「不条理の論理」が要請される。すなわちパウロのいう罪過に対する「恵みの賜物」の法則であり、それが等価的刑罰の経済学を無効にするのである。

△ 「目には目を、歯には歯を」という、刑罰の等価的(経済学的)論理を無効にするのは、「不条理の論理」としての「恵みの賜物」であると言われます。

パウロの論理は、同一性の論理からすれば、まったく逆説的である。

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ書六・二三)。

それは断罪の極から憐みの極へ、一挙に移ることである。罪過と恵みが対比され、両者は「まして」と「満ちあふれ」の論理によって媒介される。

「しかし恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人びとに満ちあふれたはずではないか」(ローマ書五・一五)。

このような逆説的な「不条理の論理」は、刑罰の論理のさまざまなアポリアの解決を暗示するものであろう。リクールは次のように結論する。

「神の義の“まして”と、神の恩寵の“満ちあふれ”を理解する者は、すでに刑罰神話と、そのみかけの論理とは縁を断っているだろう」(*)。

* ibid., p. 368.

△ パウロが到達した「神の恵み」の論理は、あくまでも第一のアダムと第二のアダムの神話に基づいています。しかしそこに展開される「論理」はパウロの経験に即したものであることを否定することはできないでしょう。パウロはこの「まして」ということを発見することによって、恵みの「満ちあふれ」に浴したのでしょう。「まして」は「いわんや」です。そこには「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(『歎異抄』)というときと、同じような逆説が働いているように見えます。ここから論述は本論の「スサノヲ制裁神話の解釈と古代法」に入りますが、それは次回に取り上げることにします。


Y 象徴の解釈学 その5

2 スサノヲ制裁神話の解釈と古代法

一 スサノヲ制裁神話における祓と刑

記紀神話における、アマテラスとスサノヲの高天原での争いから、スサノヲ追放にいたる一連の神話は、さまざまな角度からの解釈が可能である(*)。本論においてわれわれは、刑罰神話という視点から、特に古代法との関連において考察し、そこからどのような解釈がひきだせるかを試みたい。

* 筆者は先に、罪と贖罪の観点からこの神話を解釈した。「古代日本人における罪の観念」本書二六八頁以下参照。

周知のように、スサノヲの受けた制裁に関しては、歴史学者や神話学者だけでなく、法学者たちからも、論考の対象とされており、とりわけ、天津罪・国津罪の問題、祓と刑の問題については、さかんに論争されている。そこでわれわれはまず、それらの論点をとりあげて検討することからはじめよう。

最初に、刑罰神話として解釈すべき神話を、どのように規定すべきであろうか。なかに、あきらかに異質とみられるヴァーションまでも含んでいる記紀神話の場合、それは単純容易な作業ではない。しかし、神代史において個々の神話をつないでいる論理、あるいは全体の流れといったものに注目するなら、三貴神出生からスサノヲ追放までの経過は、記紀本文と紀の諸一書を比較して、次の要素にまとめることができる。

(1) 三神出生、および分治

(2) スサノヲの不満(なきいさち)、高天原へ昇る

(3) アマテラスとスサノヲの誓約(うけひ)

(4) スサノヲの乱行(天津罪)

(5) 天の岩戸籠り

(6) スサノヲ制裁、追放

終始(1)から(6)までを貫いているのは、スサノヲの根の国追放のモチーフであって、最後の追放にむかってすべての記述が集中し、伏線がいたるところに張られている。それはとりもなおさず、いわゆる高天原系神話の中で、スサノヲが台風の目的な存在だということであり、事実、スサノヲの性格、行状を述べるのに、多くの筆が費やされているのである。

△ いわゆる高天原系神話において、スサノヲが「台風の目」的な存在であることに注意が向けられます。スサノヲはいわば「焦点化」されていると言うべきでしょう。

スサノヲのとらえ方

スサノヲをどうとらえるか、どのような霊格として定義するかは、記紀神話解釈上の要めである。それはスサノヲに関する記述や描写が複雑多岐で、時に矛盾しあっているからである。少なくともいえることは、素神は悪神なりとか、暴風雨神なりとか、一義的に定義しえないことである。このように、スサノヲを統一した像に表象できないのは、それがいくつかの要素、性格の複合したもの、時代とともに進化、変貌していったことを暗示するものであろう。

△ 日本神話が複合的な要素からなるという視点は重要だと思われます。

スサノヲの名の義についても諸説あり、その職能に関しても、雨、水、農耕と関係づけられて叙述され、たしかに暴風雨神的要素も含み、他方、祖神や造化神としての役割を負わされている。アマテラスにおいて、名称と職能について、あきらかに二つの起源が区別できるように、スサノヲにおいても、複合と進化の跡を認めずには、以上のことを説明づけられないのである。

スサノヲにおいて顕著に表出しているのは、荒ぶる神、畏るべき神的な性格、形相である。たとえば古事記では、「八拳(やつか)鬚むねのさきにいたるまで泣きいさち」と描写され、紀の一書では、「青草を束ねた笠蓑をきて」高天原を逐われるなど、グロテスクな姿が強調されている。またスサノヲの性格を表現するのに、日本書紀では、「性好残害」「勇悍安忍」「性勇健」「暴悪」「武健」などの語が用いられている。これらはスサノヲの自然神としての出自を示すものであろう。だからといってスサノヲをevil godと結論づけてしまうことはできない。

原田敏明氏によれば、「荒ぶる神」は原初的には、剛強な神、ちはやぶる神、離反せる神、拮抗する神などを意味したという。

「したがって荒ぶる神は直ちに悪神ではなく、あらゆる神がなんらかの意味で、剛強なる畏るべき神として、すなわちちはやぶる神として荒ぶる神であったといえる」(*)。

* 原田敏明「悪神に関する古代観念」『日本古代宗教』中央公論社、一七三頁。

スサノヲの性格、属性を、このような意味での荒ぶる神としてとらえてみよう。神話のコンテキストでは、アマテラスとの対比、対照において、それがいっそう強調されているのである。両者は善悪二元論的というより、審美的ともいうべき対照をなしている。一方が優美、柔和なら、他方は剛強、粗暴であり、つまりはにぎあらの対比である。それは単に文学的修辞の問題にはとどまらない。

△ その対照は「審美的」であって、かつ単に「文学的修辞」の問題にとどまらないとは、どういうことでしょうか。感性的ではあるが、人間の善悪についての根本問題に関わっているということなのでしょうか。

高天原における両神の争いは、著しく劇的性格をおびている。そのドラマでは、スサノヲの行為について、いちいちその動機や理由が説明されており、他の神格以上に、人態性が賦与されている。ということは、スサノヲ神話を、神々のドラマというより、至上神アマテラスに対して罪を犯し、贖う人間のドラマ、すなわち一種の原人神話として解釈し、そこから人間学的な普遍的意味をひきだす可能性を示唆しているのである。これをアダム神話になぞらえるなら、スサノヲは悪の化身としての蛇ではなく、すべての人間の条件を負わされたアダムである。すなわち、神の掟に背いて罪を犯し、一瞬にして無垢の状態から失墜するのである。大祓の祝詞で、「成り出でむ天の益人等が犯しけむくさぐさの罪事」として、スサノヲに帰せられる罪が列挙されるのも、スサノヲ神話が原人神話であることを例証するものである。

△ スサノヲ神話に、アダム神話と同様の原人神話を読み取ろうとするところに、著者の一貫した視座があります。

アマテラスとスサノヲの、天の安河における「誓約(うけひ)」の挿話もまた、このことの援証である。「うけひ」によって証明されたのは、スサノヲに「黒き心」すなわち悪しき意図のないことである。逆にいえば、スサノヲが罪を犯すのは、その自由意志によってであり、決定論的なさだめによってではない。幼な子のイノセンスは決定されているが、真のイノセンスは自由である。堕罪がイノセンスの喪失であるなら、刑罰はそれの回復を願うものである。

△ イノセンスとは、ある意味で「融通無礙」であり、心に「滞り」のないことを意味しています。理想的な対人関係のもとでは、人は威嚇したり、隠蔽したり、独占したりする必要はありません。子どもが「無垢」であるのは、親の庇護のもとで生来の欲求に従って生きているからですが、成長するにつれて、人は自分と他人のうちに善と悪とがあることを知るようになります。争いや駆け引きがいわば生存のための必要悪として人間の生き方を規定するようになります。著者は「一瞬にして」ということにこだわりますが、自覚が一瞬に到来するとしても、あるいは犯罪は一瞬になされるとしても、社会生活を営む以上、人間は悪から遠ざかることはできないとも言えるのではないでしょうか。

「うけひ」の後、「勝さびに」スサノヲはアマテラスに対して、数かずの乱行を働く。紀の一書ではその理由を、アマテラスの耕す田に対する妬みとして説明している。しかしこれらは罪を犯す理由として十分とは思われない。しかしここで肝腎なのは、罪の出来事が一瞬にして無垢の状態を終らせ、一瞬にして罪に堕ちさせたことであり、そのことは悪の根本性とともに偶然性をあらわしていよう。この罪に対して罰が科されるのである。

△ どうやら著者は、人間の「現存在」における罪一般の問題ではなく、「実存」的境位としての罪を問題にしているようです。すなわち「この私の罪」、「この私の悪」が問われる限りでは、それは一瞬の出来事であると言えるからです。そしてそこに「偶然性」としか言えない不条理の感覚が働いています。その感覚からすれば、この私が存在すること自体が「偶然」であり、不条理です。著者は、神話のうちに、「実存の論理」を見出そうとしているとも言えるような気がします。

こうしてわれわれはスサノヲ神話が、刑罰神話としての要件を充たしていることを確認できたのである。

△ 日本の刑罰神話のうちに、その「実存的要件」を見出そうとするとき、そこにどんな問題があるかということが、著者の関心事であるように思われます。

天津罪・国津罪

古代社会における罪の観念と刑罰とを知るうえに、この二つの罪の分類と例示とは不可欠の史料である。それが重要な史料であるのは、記紀の神代史のみならず人代史においても、また古語拾遺、延喜式祝詞、皇大神宮儀式帳などにも、相互に補いあい、照応しあう形で出てくるからである。しかしこのような史実性は、まさにそのゆえに神話解釈にとっては必ずしも幸いな結果をもたらさない。というより、神話性と史実性とを区別することに厳密で細心でなければ、われわれはたえず一種のエウヘメリズム(▽)に陥る危険にさらされているのである。

△ 要するに「神話を合理的に扱い説明する立場」ということでしょう。元来の意味は、シシリアのメセニアのエウヘメルス(紀元前300年頃)によって唱えられた理論で、古典の神々は単に民族的な王や英雄などが神化されたもので、彼らの超自然的な偉業は現実の出来事の伝承が単に誇張されたものである、という考え方のことを言います。そうすると、神話には必ず史実的な裏づけがあるということになります。

はじめにスサノヲと天津罪の関係について考察してみよう。

記紀においてスサノヲに帰せられる罪は、各書を合計すれば十種類ある。そのうち八種類が記紀以外の、祝詞や儀式帳において、天津罪として分類されている。逆に記紀でその八種をすべて含んでいるものは一書もなく、一番多いもので五種である。大祓の祝詞でも、スサノヲの名に言及されていないところから、スサノヲが犯したゆえに天津罪とされたのでなく、天津罪というカテゴリーに入る罪のいくつかが、スサノヲに帰されたのであろう。

スサノヲがなしたとされる悪行は記紀を総合すると次のようになる。

(1)畦放(2)溝埋(3)頻蒔(4)串刺(6)絡縄(7)斑駒(8)生剥(9)逆剥(10)屎戸

このうち(1)〜(7)は農業、特に田作妨害を指し、(8)〜(10)は新嘗儀礼にかかわる蚕織妨害を指すものと解される。ここから井上光貞氏は、農耕的共同社会の社会秩序を乱す罪と、呪術宗教集団の祭りをけがす罪とに大別している(*)。しかしながら記紀神話のコンテキストでは、(1)〜(10)はいずれもアマテラスを対象にしてなされたのである。すなわちアマテラスの耕作する田や、アマテラスの新嘗殿になされたもので、それらはいずれも新嘗祭のための農田作りと神衣織りに関わっているとすれば、全体は新嘗祭の神事、祭儀の涜聖行為であるとみなされる。このことは、スサノヲに科される祓と刑とに関して重要な意味をもっている。

* 井上光貞「古典における罪と制裁」『国家の思想』筑摩書房、五五頁。

△ ここでスサノヲの罪が「涜聖行為」であることに注意が向けられます。

スサノヲの犯した悪行は、いわゆる天津罪に尽き、それのみが罰の対象、と考えられがちであるが、神話の叙述の順序に従えば、スサノヲの悪行の結果として生じたのは、アマテラスの岩戸籠りであり、ために暗闇が天地をおおい、よろずの災いが起ったのである。天の岩戸籠り神話自体は、原初からこの形で神話全体の中にくりこまれていたとは考えられず、またその解釈も、日蝕神話であるとか、鎮魂儀礼であるとか、区々である。しかしアマテラス対スサノヲという関係からみれば、この神話は重要な意味をもっているのである。つまりアマテラスに対して罪を犯し、涜聖行為をなしたということが肝腎なのであって、それにくらべれば、罪の動機や内容は二次的であるといえよう。

国津罪をリストにすれば一四種類にのぼり、それは生膚断、死膚断といった殺傷罪、己母犯罪、己子犯罪といった近親相姦罪、畜仆志、虫物為罪といった呪詛の三つに分類される。国津罪の統一的理解を困難にしているのはその中に、白人、胡久美といった穢れに関するもの、昆虫乃災、高津乃災といった災厄に関するものまで含まれていることである。井上光貞氏はこれを「罪の災気」ということで説明づけている。すなわち大祓の儀式において解除の対象となるのは、「人の犯した罪そのものでなく、人の犯した罪の災気と天災との二つである」(*)というのである。しかし、天津罪・国津罪の概念を、祓の対象という点からのみ規定するのは問題であろう。松岡静雄氏や高柳真三氏は、ツミという語の意味からこれを説明している。すなわちツミという語は同時に刑であり、動詞のツミナヒはその意味で用いられた。そこで国津罪は罪にあたるものと、刑にあたるものとを含んでいるとする。

* 同、五九頁。

「国津罪の中の疾病や災厄とみられるものは、漢語によって表明された天刑・天罰・冥罰などの観念に通じるもので、罪ではなく罪の報いを示したものと考えることは不自然ではないであろう」(*)。

* 高柳真三「上古の罪と祓および刑(三)」『法学』第十五巻第三号、三八頁。

たしかにツミの語義は、現代語においてもはなはだ包容性に富む。ツミの中に狭義の穢れや災厄、罪と罰とが含まれるとすれば、それは単に原始人が未開ゆえに、それらの観念を区別しなかったからであろうか。否である。原始人ほど、聖潔と汚穢に敏感であり、それを区分するのに明確な体系をもっていたのである。M・ダグラスによれば、聖潔と汚穢とは象徴的構造をなし、両者の関係は秩序と無秩序の関係として捉えられるという。穢れは、秩序の体系づけの副産物として、必然的に生じる。穢れは本質的に無秩序なものであり、禁忌とされる。それゆえに禁忌は危険なもの、異例なもの、場違いなものである(*)。われわれは天津罪・国津罪を、そのような意味での禁忌のリストと考える。それは浄聖・不浄聖の両者を含めて、神聖観念に関係している。したがってツミを犯すとは、およそ神聖なるものをけがすこと、禁忌を侵犯し、つつしみを守らぬことである。こうして、禁忌は秩序外の異例なもの、危険なものという観点に立てば、国津罪の中に、穢れや災いに類するものが含まれているのもふしぎではない。

* Mary Douglas, Taboo and danger. 塚本利明訳『汚穢と禁忌』思潮社。

天津罪・国津罪はそれぞれ出自を異にし、恐らく古くから定式化していたからこそ、いくつかの文献に出てくるのであろう。しかしそれは石母田正氏がいうように、「限定的なものでなく例示的なものであった」(*)。たとえば、同じように穢れや近親姦に関する禁止を詳細、厳密に規定した、旧約聖書『レビ記』の「きよめに関する規定」と比較するなら、国津罪のそれは、例示的、断片的にすぎる。だが重要なのは、「誰に対して聖であり、あるいは穢れているか」ということである。レビ記では、「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(十九・二)と宣言されている。神話のコンテキストにおいては、誰が誰に対して罪を犯したかが肝要なのであって、それゆえ刑罰神話解釈の立場からは、スサノヲと天津罪の結びつきに、第一義的重要性を与えることはできない。反対に、スサノヲがアマテラスに対して罪を犯したことを、単に天津罪の由来を述べるための説明だからとして軽視することはできないのである。

* 石母田正「族長法と王法」『国家の思想』四二頁。

△ ツミの神話的コンテキストというものを考えたとき、アダム神話のように聖なるものとは何(誰)であり、初めに誰がそれを犯したのかということが問われるでしょう。日本の神話においては、しかし、聖性の担い手は一者に限定されてはいません。アマテラスはヤハウェのような絶対的な神格であるとは考えられません。聖なるものが必ずしも一者に収斂しないというところにこそ、天津罪・国津罪が限定されない理由もあるのではないでしょうか。ヤハウェ神話の限定的排他性から考えれば、日本神話はその点で漠としていて、焦点を定め難いところがあるのではないでしょうか。その意味で「聖なるもの」の境界が曖昧で、聖性はネビュラ的に拡散していると言えるのではないでしょうか。だから古歌にも「何ごとのおはしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」と歌われているのではないかと思われます。しかし著者はその問題には触れません。

スサノヲに対する祓と刑

八百万の神の共議の結果、スサノヲは祓除(はらい、解除)を科され、神逐(かみやら)いされる。紀の本文によれば、「科すに千座の置戸を以てし、遂に促(せ)め徴(はた)りつ。髪を抜きてその罪を贖わしむるに至りき」と述べられる。

科される祓除としては、祓具を供進させる千座置戸と、爪や髪を抜く、の二種類がある。後者はあきらかに罪による汚穢の辞去として、禊と同じ意味をもった浄めの儀礼であるが、千座置戸は、後世におけるような一種の財産刑とみなすべきか、あるいは清祓のための供儀と解すべきかについて議論がわかれている。

いずれにしてもこれらが祓の儀礼にかかわるものであることにはほぼ諸説一致している。問題はそれに神逐いを加えたものをどう解釈するかである。果して、中田博士がいうように、「千座置戸を科し爪髪を抜かしむるは即ち解除にして、放逐は即ち刑罰なり」(*)といえるかどうか。

* 中田薫「古法と触穢」『法制史論集』第三巻、一二〇六頁。

瀧川政次郎氏は、はじめ『日本法制史』では、神逐いは「ハライに加えて俗法的刑罰が科せられた」(*)ものとしながら、後に『日本法制史研究』では、神逐いをハライの一種とし、ハライの中でももっとも重いものとした。

* 瀧川政次郎『日本法制史』角川書店、七七頁。

石尾芳久氏はスサノヲ追放を、大祓の行事で、精霊(クサヒトカタ)に罪穢をうつして川に流し、疫病と不慮の死を除くための儀礼になぞらえ、スサノヲを象徴的蒭霊(▽)と解して、むしろ神逐いこそ祓の儀礼なりとする。「このようにみてくると、素戔鳴尊追放の神話も大祓の行事という宗教的儀礼に深く関連すること、むしろそのような宗教的儀礼の立場に立って伝承され記録された史料であることが判明するのである」(*)。

* 石尾芳久「天津罪国津罪再論」『国家の思想』七六頁。

△ 蒭は俗字、芻霊(すうれい)とは、草をたばねて作った人形のこと、殉死の代わりに死者の墓に入れる(『新選漢和辞典』小学館)。

他方、高柳真三氏は、祓除と神逐いとをはっきり区別する立場をとり、神逐いは刑罰であるとする。それがスサノヲに科せられたのは、祓除だけでは罪を償うのに足りないからであり、神逐いは「血縁的社会をこえた社会全体からの放逐」(*)を意味する公的制裁方法であったとしている。

* 高柳真三、前掲書、四一頁。

井上光貞氏はやはり、神逐いだけが刑罰であると主張する。すなわち、祓具の供進は、祓という宗教的行事をおこなうための祓具を犯罪者に科すことで、これは財産刑であっても、祓という行事の随伴物であり、ウェーバーのいう外部的刑罰としての賠償制ではない。スサノヲの犯罪に本来的に対応する世俗的制裁は神逐いであり、共同体からの追放なのである。井上氏はそこでスサノヲに対する二つの処置をこう説明する。「その一つは、犯罪者スサノオの犯した罪の災気の汚染から集団を清浄ならしめ、それによって、集団の生命を更新せしめる祓の呪術的儀礼であり、他の一つは、犯罪者スサノオを集団から追放し、それによって、集団の平和を恢復しようとする追放刑=神夜良比である」(*)。

* 井上光貞、前掲書、六六―六七頁。

以上の論争の根本的な前提となっているのは、スサノヲが受けた処置ないし制裁は、宗教的制裁と世俗的刑罰から成る、という考えである。その上に立って、千座置戸が祓であるか賠償刑であるか、神逐いが祓であるか刑罰であるか、と議論しているのである。また、祓除だけではスサノヲの犯した大罪に足りないので、さらに神逐いを科したという考え方もそこから発している。これは刑罰神話のもつ合理性という、逆説的性格に起因するものであろうが、いったいどのような根拠で罪と罰の方程式を求めるのか、スサノヲの受ける懲罰を何ゆえに宗教的制裁と世俗的制裁とに分けなければならないのか、われわれは根本的疑問を提起せざるをえない。おそらく法制史的観点から、世俗的刑罰の起源をこの神話から探ろうとするために、このような帰結がでてくるのであろう。事実そのような探求は、M・ウェーバーの「法社会学」の中の概念や、古ゲルマン法を適用して試みられている。

△ 神話解釈に一種の「エウヘメリズム」を持ち込むことには注意が必要であると、先に著者は述べていました。一見合理的な解釈が神話を理解し損なうこともありえます。

石尾芳久氏は「天津罪国津罪論考」において、ウェーバーにしたがって「内部的刑罰」の類型と「外部的刑罰」の類型を導入する。前者は共同体内部の成員にむけての制裁で、後者は共同体防衛のための氏族と氏族間の制裁あるいは復讐である。そして石尾氏は、解除は賠償刑であり、したがって「呪術的『刑事手続』と『復讐』、すなわち『外部的』刑罰を意味する」(*)と結論する。

* 石尾芳久『日本古代法の研究』法律文化社、一七頁。

これに対する反論は、石母田、井上両氏から出された。

石母田氏は、天津罪は共同体の秩序に対する外部からというより内部の成員からの侵害と解するほうが妥当であるとする(*)。

* 石母田正、前掲書、四五頁。

井上氏は前述のように、共同体からの追放こそ、共同体内部の成員にむけての内部的刑罰であるとするが、井上氏はさらに、ミッタイスの『ドイツ法制史概説』から、古代ゲルマン法の区分を導入する。そして神逐いは、一切の共同体から排除される「平和喪失」に相当するものと解している(*)。

* 井上光貞、前掲書、六六頁。

こうした論争をみても、前述の疑問はいっそう深まる。たしかに上代の刑罰として記録に残っているものの一つに追放刑は入っており(*)、解除は後代になればなるほど賠償刑の別名となった事実はある。だからといってそれを神話的記述の中にそっくり反映させることが許されるだろうか。それは神法から俗法でなく、その逆コースであり、神話を現実化しているだけではないだろうか。神話を解釈する立場からは、どうしても神話のコンテキストから離れることはできないが、石尾氏や井上氏のいう「共同体」とは、具体的に何を指すのであろうか。それは高天原のパンテオンであろうか。としても「八百万の神の共議」を、ゲルマン古法における集団員全員の共議に対応づけるのは牽強付会と思われる。

* 石井良助編『法制史』山川出版社、二六頁。

以上のような論議は、天津罪国津罪に相当する罰は何か、という問題をめぐってなされている。しかしわれわれは高柳氏の次の証言を無視することはできない。

「祓の料物を科せられる犯罪は、上記のごとく殆んど神事・祭儀に関するものばかりであり、天津罪や国津罪に数えられている罪は、どういう取扱いをうけているか、もはや直接には何らの消息をものこしていない」(*)。

* 高柳真三、前掲書、四九頁。

そこでわれわれは、祓の儀礼についてさらに検討してみる必要がある。

祓はまず、禊祓と一口にいわれる洗浄儀礼である。記紀神話では、黄泉国から帰って来たイザナギが日向で、身につけている衣類や持物を投げ棄てて、瀬の中に入って黄泉国の汚穢をすすぐ、というのが禊祓の起源神話とされる。とすれば、スサノヲに科せられた祓は、刑罰としての祓と考えられ、事実、それは大祓の儀式の起源神話とされている。この二つの神話において、罪穢れを祓う根本義は変らないが、その機能に変化があることは否めない。それは祓という語自体すでにその両義を含んでいるからである。祓すなわち「払い」であり、汚れの払いであるとともに、物品をもって罪穢れを贖償する払いである。

△ ハライの二義性(汚れを払う、金を払う)ということは、経済的行為の宗教的起源ということを考えあわせると、興味深いものがあります。それは課税および納税行為(献品・献金)の起源でもあるでしょう。たとえば、新嘗祭には、穀物の豊穣祈願という形での、新穀の献上という意味が込められていたと思われます。

鈴木重胤氏によれば、祓には「自為る波良比と侘(▽1)より負する波良閇と二の差別」があり、「波良比は散(ハララ)かす義にて、罪にまれ穢にまれ遠く霽(▽2)かし遣る由なり」「波良閇は令(セ)レ 祓(ハラハ)の約りたる言にて侘に令(セシム)るを云ふ、罪咎有る人に負する祓など是なり」(*)と定義される。

* 鈴木重胤『延喜式祝詞講義』第二、鈴木重胤全集第一一、二一〇頁。

△1 「た」と読む。「他」と同義。

△2 霽(はら)かし、と読むのでしょう。霽は「はれる(晴れあがる)」の意。

後者の意味の祓を、井上氏は祓という行事の随伴物としているが、解除(ハライ)という財産刑としての祓そのものは本来の祓でないとしても、贖償の意味の祓は、祓の本質をなしている。後代、私刑として盛んにおこなわれるようになった解除は、大化二年、勅命によって禁止されるわけであるが、それだからといってこれを、石尾氏のように、外部的刑罰とすることはできない。

△ 律令国家の統制という観点からは、たとえば豪族による「私刑」(祓の行為の私物化)は禁止されなければならなかったでしょう。

スサノヲに科せられた千座置戸や爪髪を抜く祓は、いずれも苦痛を与えるものであり、罪を贖わしめるものである。したがってそれは単なる呪術的儀礼ではなく、ラテン語のpoenaが身体的苦痛と懲罰の二義をもつ意味において、罰であり贖罪なのである。

それならば神逐いは何であろうか。これも罰の一つではあるが、これは祓と結びつけるよりも、スサノヲは高天原に昇ってくる直前に、父イザナギから、根の国への神逐いを命じられたのと関連して考えるべきである。

こうして、すべては刑罰神話という観点からスサノヲ制裁神話を解釈することにかかっているのである。

△ スサノヲ制裁神話の「すべて」を刑罰神話としていかに解釈するかが問題なのであると言われます。ここから論述は「刑罰神話としての解釈」に移ります。しかしその問題については次回に取り上げることにします。


Z 象徴の解釈学 その6

二 刑罰神話としての解釈

スサノヲ制裁神話を俗法の起源神話として解釈できるか、あるいはそれはあくまで宗教的観想に貫かれた神話として解釈すべきか、という点をめぐって論議がなされてきた。もしも記紀神代史のテキストが、たとえば、旧約聖書の「律法」(トーラー)の書といわれるものに比較できるようなものなら、それは法制史の有力な史料となることができよう。古代イスラエルにおいては、イスラエルの契約共同体、いわゆる十二支族の宗教連合によって法律集成がなされ、モーセ五書とよばれる律法の書が成立した。その中には世俗的な法規定、祭儀規定、禁止、命令、習慣、道徳、慣習法など、世俗法から宗教法にいたるまで、広範な内容が含まれている。だが記紀の神代史においては、そのような法観念や法そのものを見いだすことはできない。なるほどわれわれは記紀のテキストに、編纂時の制度や習俗の投影をみることはできる。しかしそのゆえに、ともすればわれわれは神話の詭計、詐術のとりこになるおそれがある。個々の記述に歴史的現実性が含まれているからといって、神話的記述全体に歴史的現実性を与えてしまうのは、あたかも昆虫の擬態を自然の事物そのものと錯覚してしまうのに似ている。そこで神話を神話としてとらえるには、微視的視点ならぬ、巨視的視点から、神話自体の論理を洞察することが要請されるのである。

△ ここで著者は前節で論じたことを総括しています。

われわれははじめに、リクールの所説にしたがって、刑罰神話というものについて考察し、そこに刑罰の論理のいくつかのアポリアをみた。そこで、スサノヲ神話に即して、刑罰の論理のありようをとりだしてみよう。

第一に、罪と罰の等価性の論理である。罪の代価は罰である、とするなら、スサノヲの犯した罪には、どのような罰が相当し、釣合うのか。ある人は祓除だけでは足りないので追放刑を加えたと考える。ある人はそこから祓除をさしひき、または神逐いをさしひく。つまりわれわれはそこに刑罰の合理性を導入して、加法や減法をおこなうのである。しかし神話の語るところに素直に聴従するなら、祓除も神逐いも、ともに罪に対する罰であって、そこに世俗的制裁と宗教的制裁との別をみるべきではない。悟性の眼をもってしては、罪と罰のラチオナレは洞察しがたいのであり、さらに、宗教的制裁の機能を考慮せずに、俗法的観点から罪と罰の等価性を問題にしても無意味である。

△ 法制史家の盲点は神話をまるごと神話として見ないところにあります。

そこで懲罰、贖罪の問題につきあたる。懲罰はなぜ罪を消滅させるのか、そこに刑罰神話の神話たる所以がある。刑罰は贖罪の力をつくりだす。「聖なるもの」の力によって、刑罰は罪穢れを浄めてくれる。スサノヲに科せられたのは結局は贖罪であり、浄罪である。農耕妨害が世俗的制裁に相当し、祭事妨害が宗教的制裁に当る、というのは贖罪のラチオナレについての無知である。

法は社会秩序の維持をめざすが、法の力は、いかに非宗教化しても、「聖なるもの」によって聖化されている。スサノヲへの制裁が、八百万の神の共議によって決定されたのを、世俗的共同体の集団的意志とみなすのは、素朴にすぎよう。それは共同体というより、宇宙大の規模で考えるべきである。八百万の神を通して啓示されるのは、至上の聖なる意志ではないだろうか。和辻哲郎氏の、祀る神と祀られる神の区分に即していえば、それはけっして神格化されない、祀られる神の意志と解釈することは不可であろうか。姉と弟との争いという説話的な形をとってはいるが、スサノヲに科せられるのは、個人的復讐ではない。スサノヲ制裁が、天の岩戸籠りの直後になされるのは象徴的である。そこにおいて働いているのは、宇宙的秩序を回復しようとする、聖なるものの力である。

△ 「けっして神格化されない」とは、特定の神として名指されてはいないということでしょう。しかしそこには古代人の宇宙的感覚が働いていて、「聖なるもの」の宇宙的秩序の回復の力が働いていると、著者は考えます。

ツミという語によって、われわれは宗教上の罪も、犯罪も、あるいは罰までも表現する。あらゆる宗教を通じて、神は審判者であり、人は被告であり、有罪者である。そこから刑罰神学が生れる。スサノヲ神話と大祓祝詞の照応は、津田左右吉のいうように、祓の原初的な呪術としての意義がうすれ、かわりに、宗教化、道徳化の過程をたどり、贖罪の意味をしだいに明確にしたものとみることができる。まさにスサノヲにおいて、「天之益人等」は罪を犯し、スサノヲにおいて罪を祓うのである。しかしながら原始神道はこの刑罰の神学を贖罪の神学として深化させることをしなかった。ひたすら儀礼としてそれを外面化させることに専念したのであり、贖罪が財産刑的解除に堕落していった原因もそこにある。とはいえ、スサノヲ神話は、もっと深い秘義を含んでいるのではないだろうか。

△ ここで「刑罰の神学を贖罪の神学として深化させる」という言葉が使われていることに注目すべきでしょう。神話と神学の相関性が示唆されているからです。

その問題に着手する前に、われわれはスサノヲ神話を解体し、非宗教化して、刑罰の論理を神話なき論理に還元できるかどうかをみてみよう。

△ 再び著者は「神話の論理」(実存の論理)を「刑法の論理」(現存在の論理、近代的な抽象法の論理、神話なき刑罰の論理)に還元できるか否かを問います。

われわれはさきに、スサノヲの行為に「自由意志」を想定できることを確認した。スサノヲが犯したという、いわゆる天津罪は、タブー的性格をもって、ツミとしてすでに確定していたものであるから、ヘーゲル流にいうなら、犯罪者のうちに、法を侵害することによって法を定立する理性的存在を認めることができよう。

しかしながら、すでに論じたように、天津罪は神事にかかわり、忌みとつつしみとに関するもので、純粋に刑法の対象となるものではない。同じことは国津罪にもいえ、それは大祓の対象とされるような「つみ」あるいは穢れであって、高柳氏がいうように、「反社会的でありしたがってまた違法的であるというごとき現実性によるのではなく、神祇による清め祓いをよび起す、罪の起源的な名目であった」(*)のである。

* 高柳真三、前掲書、五三頁。

また、井上氏が主張するようにスサノヲへの真の刑罰は神逐いに尽き、それのみが世俗的刑罰であるといえようか。注意すべきは、神話の文脈では、スサノヲは二度神逐いの宣告を受けているのであり、最初は、命じられた海原、または根の国行きに不満で泣きいさち、ためにイザナギに追放を宣せられたのである。この二度の神逐いはどう解釈すべきか。スサノヲは結局、根の国へ降ることになるのであるから、二度の神逐いは一つのものとみなすことができる。つまりはイザナギへの反逆、アマテラスへの反逆が神逐いを生じさせたのであり、反逆は神の怒りを招く。天の岩戸籠りも、その怒りの表現とみられる。スサノヲへの罰はその怒りの結果である。このように追放さえも宗教的なカテゴリーに属し、刑罰の比喩と考えるべきである。

△ 神話の文脈では刑罰は「神の怒り」という隠喩的表現を伴い、その怒りの結果として追放という刑罰が科せられるのだと言われています。

神逐いは、アダムの楽園喪失と同じく、宗教的意味を啓示する。アダムは地上に堕ちて、労働と苦痛の現実的この世的な人間的条件を身に負うのであるが、スサノヲも出雲の国の藪の川上に降り立ち、地上的生活をはじめる。その意味で、これまた一つの人間学的神話とみられなくはない。いずれにしても、神と人との関係に、人と人との俗法的関係をもちこんで、非宗教化や世俗化をはかることは、意味のないことといわねばならない。

△ 神話は神話であって、いきなりそこに今日的、俗法的関係を持ち込むのは見当違いであるということでしょう。著者は一貫してアダム神話とスサノヲ神話の類比に訴え、そこに人間の宗教的実存的境位の開示(啓示)を見出そうとしています。

こうしてスサノヲ神話における罰の問題は、宗教的範疇のものと考えねばならないとすれば、それは単なる刑罰の論理によって解明することはできず、新たな論理をまたねばならない。

三 刑罰の論理から恵みの論理へ

一般に原始的段階の呪術、宗教では、罪も穢れも災厄も未分化であるとされる。スサノヲの爪や髪を抜かせる祓除も、そうした呪術的段階のものといえるだろうか。しかし六月大祓(▽)の祝詞に盛られた思想は、けっして原始的なものではない。そこで大祓の祝詞にそって、罪の穢れの祓いをみてみよう。

△ 「六月晦大祓(みなづきのつごもりのおおはらえ)」のこと。

延喜式祝詞の後半で、地上に人々が増すにつれて、人々の犯す罪も増したとして、くさぐさの罪を列挙したのち、その罪をいかにして祓い清めるかが、神話的説話の形で述べられる。はじめに中臣氏が祓の儀式を執行し、祓の祝詞を唱えると、天津神は天の岩戸を開いて、国津神は山の上に坐して、それを聞きとどけてくれ、地上から一切の罪穢れを祓い清めてくれる。すると急流の瀬に坐すセオリツヒメはそれを海に流しやり、海にいるハヤアキツヒメがそれを呑みこんでしまう。根の国の門口にいるウブキドヌシはその罪穢を地下の根の国へ吹き放つ。根の国のハヤサスラヒメはそれをどこへともなく吹き散らしてしまう。延喜式大祓祝詞の特徴は、文中に呪術的名残りをとどめながらも、罪穢を神々の力をかりて祓うよう祈願し、また神々も祓いの機能を分担している図式が明瞭なことである。水や風のイメージが生き生きと全体を貫き、そのヴィジョンのうちに、神々の加護を祈願するのは、贖罪思想の発達とみることができる。そこに出てくる神々は、イザナギの禊の際に成り出た、ナオビの神やイヅメの神のような、単に名のみの神でなく、そこに人格性を賦与できる神々である。

△ 著者は延喜式祝詞のうちに「贖罪思想の発達」を見ようとします。しかし祓いの機能分担による、神々への人格性の賦与ということはもう一つ釈然としません。以下の論述はそれに補足を加えようとするものでしょう。

スサノヲが受けるのは、漠然とした神々の復讐でも、まして天罰とか祟りとかでもない。スサノヲは誰に対して罪を犯したのかが明瞭だからである。全体としてスサノヲ神話の特徴は、神々のドラマとして展開するところにあり、そのドラマに登場する神々は、単に名のみの神々を除けば、自然神、動物神でもなく、原始的マナイズムの神々でもなく、人格神なのである。宗教観念の発達とともに、神々も生成進化することを忘れてはいけない。アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの三神のうち、ツクヨミのみは最後まで自然神的性格をとどめているが、アマテラスにおいては、太陽神から皇祖神への道を進み、原田敏明氏いうところのSun-GoddessよりもGreat-Glorious-Goddessとしての色彩を強めてくる。スサノヲはすでにみたように、その内性、職能ともに、もっとも複雑であるが、自然神から人格神へ、荒ぶる神から出雲の祖神へと変貌をとげている。高天原から追放されたスサノヲが、根の国の入口とされる出雲国に降り、安住するのを、高天原系神話と出雲系神話の接合と説明したり、あるいは「神々の流竄」と解釈する説もある。しかし記紀神話のコンテキストに執するならば、スサノヲは祓の儀式の「カタシロ」のように追放されたのでなく、そこから地上的生活がはじまる、いわば再生の契機をなすものと考えねばならない。スサノヲが退治する八岐の大蛇は、ほかならぬスサノヲのdoubleであるとする解釈もある。おそらくそうした原スサノヲ神話というべきものがいくつか存在していたのであろうが、それがアマテラスとの交渉のうちに、いちじるしく人文的要素を強めていったのであろう。

△ ここでは「人態的」という語の代わりに「人文的」という語が使われています。神話の神々が自然神や動物神ではなく、人格神であるということに、著者は神々の生成進化を見ようとしているのでしょう。

湯浅泰雄氏は、ヤマトタケルの東征伝説の背景に、宗教改革ともいうべき精神的状況の変化があったとして、次のような注目すべき見解を提出している。「そこに山河の荒ぶる神から氏族の祖先神へ、マナから人格神へ、『畏怖の信仰』から『加護の信仰』へ、という思想的変化が読みとれるのである」(*)。

* 湯浅泰雄『神々の誕生』以文社、六二頁。

スサノヲに科せられたのは、いずれも苦痛を与えるものであり、それゆえに、それは懲罰なのである。しかしそれは単に罪の代価としての罰であるだけでなく、同時に、罪を消滅させるもの、罪を贖うものである。罪によって生じた無秩序を償い、負債を返さなくてはならない。紀の本文に、「贖其罪(其の罪を贖う)」とあるのは、軽視すべきでない。罪とは、神との関係が断たれた状態とするなら、罰はその関係の回復を願うという、積極的な意味をもつ。罰が浄罪であるのは、信仰によってであり、そこに刑罰神話の神話性がある。そこで刑罰はまた、罪の赦し、神との和解の契機である。復讐が懲罰と本質的に相違するのは、後者はイノセンスの回復を願わせるからである。

△ ここにもユダ=キリスト教的な「贖罪思想(贖罪神話)」と日本の神話との重ね合わせが見られるように思います。その観点から見たとき、記紀神話にはいかなる問題があるのかということが、著者の一貫したテーマなのでしょう。なお「赦しと和解」については、改めて取り上げる必要のある重要な問題であると思われます。

アマテラスとスサノヲとの争いにおいて、アマテラスは対照的に優美と柔和を表わし、暴に対するに愛をもってする。天の岩戸から再び姿を現わして、世に光明をもたらすのは、アマテラスの赦しを象徴的に証しするものであろう。刑罰の論理が人と人との論理であるなら、それは完全に世俗化し、非宗教化して、法の論理となる。それに対し、リクールがいうように、刑罰の論理をも包み込む、恵みの賜物の論理は、「神の論理」というべきであろう(*)。それは罪と罰の等価性を求める刑罰の論理にもっとも反する、「満ちあふれる恵みの論理」である。満ちあふれる恩寵の無償性こそ罪を赦すものである。これが刑罰神話の究極にあるもの、刑罰神話を内側から破るものであるといわねばならない。

* Paul Ricoeur, Interprétation du mythe de la peine, in Le mythe de la peine, p. 54.

△ フランス語ではpeineは苦痛を意味すると共に、刑罰のことでもあります。刑罰神話の究極に、神の論理としての「恵みの賜物の論理」があると言うとき、その「満ち溢れる恵み」は、刑罰神話を「内側から破る」ものとして逆説的に提示されています。恩寵論がそのような形で哲学的に提起されることと、「非神話論化」とは密接不可分の関係にあるのでしょう。「赦しと和解」の説話(神話)はキリスト教徒の究極の拠り所であるのではないかと思われます。しかしその使信は、どこまで、またどのような形で、普遍的でありうるのでしょうか。その「論理」は、今の時代に、どのようにして保持されうるのでしょうか。ここでは神の恵みの「満ち溢れ(プレローマ)」ということを、この現代世界で語り、またその論理を生き抜くことの意義と可能性が問われているように思われます(「満ち溢れ」について、私は「放棄と充溢」などで少し考えたことがあります)。

さて、スサノヲ制裁にまつわる刑罰神話を解釈して、贖罪と赦しの教義の神話的表現と結論することは、日本神話の場合、牽強付会にすぎるだろうか。原始神道のその後の発展過程において、罪の観念はありながら、それが罪の意識として内面化せず、忌みの観念や習俗のみが発達して、いたずらに祓の儀礼をはびこらせていったのであり、したがって赦しと贖罪が中心思想をなすにいたらなかったことは事実である。しかし湯浅氏が「畏怖の信仰から」「加護の信仰」へと表現したように、おそらくは仏教の影響もあって、その思想は記紀編纂時に、すでに形成されていたこともまた事実であろう。

われわれがスサノヲ制裁神話に表われた赦しと恵みの思想を強調したいのは、他方にそれと対立する、神々や怨霊の祟り、という観念が根づよく存在しているからである。祟りは神の明確な人格的表象を伴わず、リクールのいう刑罰の神格化であり、贖罪としての刑罰の対極にある、復讐としての刑罰である。神々の祟りを恐怖する思想は上古より広くおこなわれ、記紀、風土記、その他の文献に、その神話伝説はきわめて多い。延喜式祝詞には、祟る神をうつす「遷却祟神」の祝詞がある。ひたすら祭ることによって、神の怒りをしずめ、なだめて、祟りを免れようとするのは、結局、畏怖の宗教、恐怖の宗教に属しよう。

こうしてわれわれは記紀神話の中に、赦しと恵みの宗教と畏怖の宗教との併存を指摘することができる。併存というのは、それが二元論的対立として自覚されず、それゆえに対立が克服されなかったからである。そこにわれわれは古代日本人における宗教的思惟の停滞をみざるをえないのである。

△ ここで著者はその論考を閉じます。「古代日本人における宗教的思惟の停滞」として、ここに指摘されていることは、残念ながら、現代日本人の姿でもあるのではないでしょうか。しかし著者が注意深く論究しているように、それは、宗教としてキリスト教が進んでいるとか、神道が遅れているとかいう問題ではありません。端的にそれは日本人の思想が問われていると言うべき事柄です。未だに死刑制度の支持者が圧倒的多数を占め、冤罪があとを絶たず、人権意識が稀薄であるのは、ある意味での「畏怖の宗教」「恐怖の宗教」が権力の中枢に巣食っているからではないでしょうか。著者が、キリスト者としてここまで踏み込んで神道に取り組んだことは、大いに評価されるべきでしょう。日本の社会の停滞性がどこにあるのかを考えようとするとき、この論文は一つの示唆を与えてくれると思います。しかし私としては宗教的思惟の成長は同時に市民的意識の成長を伴うという、別の面からの考察も必要ではないかと考えます。


[ 悪と往生

ひとりひとり、ひとり」を書いたとき、種田山頭火の句にどこで触れたのか、思い出すことができませんでした。ところが先日、山折哲雄『悪と往生 親鸞を裏切る「歎異抄」』(中公新書、2000年)を開いたら、その句が出てきました。そこでそれが引用されている章の全体を紹介することにします。初めに放哉の例の句が出てきます。その取り上げ方を、上田閑照氏のものと比べてみるのも面白いでしょう。

八 「親鸞一人」の位相 放哉・山頭火・虚子・茂吉

無類に孤独な「ひとり」

せきをしてもひとり

誰でも知っている尾崎放哉の句である。

かれは一高、東京帝大を出て生命保険会社に勤めたが、長つづきしなかった。酒に溺れ、厭人癖をつのらせて辞めてしまう。自由律俳句の荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の『層雲』に参加し句作に専念するが、会社を飛びだしたあとは家族を捨てて各地を放浪した。

胸を病んでいた。京都、兵庫、福井の寺々を転々として無一物の寺男となり、最後に小豆(しょうど)島に渡った。その地の南郷庵に落ちつき句作三昧に入るが、大正十五年(一九二六)息を引きとる。四十二歳だった。右に掲げたのはその最晩年の南郷庵時代のものだ。

その会社を飛びだしたあとの放浪の生活を、親鸞の比叡山を降りたあとの人生と重ねてみることができないわけではない。親鸞もまたその生活の大部分をほとんど聖(ひじり)同然の状況のなかで送っていたからである。孤独な草庵の暮しも二人の生き方にふさわしい。

川端康成(かわばたやすなり)の最後の作品「隅田川」に、つぎのような場面がでてくる。東京駅の通路で不意に、街頭録音のためのマイクをつきつけられるところだ。

「季節の感じを、ひとことふたことで言って下さい。」

「若い子と心中したいです。」

「心中? 女と死ぬことですね。老人の秋のさびしさですか。」

「咳をしても一人。」

「なんと言いました。」

「俳句史上最も短い句ださうです。」

川端康成もその晩年、「一人」になりたかったのだろう。「一人」になって女と心中したかったのかもそれない。しかし、かれは結局、独りで自死した。心中の相手の若い女がかれのかたわらに横たわることはなかった。

放哉の「ひとり」はおそらく川端康成の、あの異様に光る眼を釘づけにしたのであったろう。考えてみれば、放哉ほど、「ひとり」を作品のなかに登場させた俳人――否、近代の文学者といってもいい――は、ほかにいないのではないだろうか。その放哉の、無類に孤独な「ひとり」が、私を親鸞の「一人」へとむかわせる。

放哉の「ひとり」をもうすこし眺めてみよう。

こんなよい月を一人で見て寝る

たった一人になりきって夕空

淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る

臍に湯をかけて一人夜中の温泉である

月夜風ある一人咳して

ここでは、個我などという堅い殻はすでに破られてしまっている。夕空にのぼる月を一人で見ている放哉に、個の自覚などなかっただろう。「淋しいぞ」とつぶやく独りの空間がひろがっているだけだ。ゆっくり開いて見る五本の指が、生々しい自分である。わが臍に湯をふりかけ、ひとり温泉につかる自分を幻想している。たった一人になりきってはいても、夕空がひろがって見えてはいても、腹の底から立ちのぼってくる寂寥感はいかんともしがたい。

「淋しいぞ」は、ひょっとすると放哉にとって「地獄」のとば口に立つ気持をいったものかもしれない。かれにとっての「地獄は一定すみかぞかし」の風景だったのかもしれぬ。

放哉に自己を捨てろと教えたのは、いったい誰だったのだろうか。俳諧の道にすすみでて地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう、とかれは思っていたのではないだろうか。あるいは、その道を歩いていって、浄土に行きつくか、そのまままっさかさまに地獄に堕ちるか、「惣じてもて存知せざるなり」と思っていたかもしれない。

夜、一人で月を見ている放哉がいる。風が吹いている。肺が痛み、さそわれるように咳がでる。

月夜風ある一人咳して

である。月と風に見守られた一人が、そこにいる。しかしそれが、いつのまにか、

せきをしてもひとり

をはじきだした。月も風もすでに消え失せている。昼と夜の区別もきれいに蒸発してしまっている。放哉という個我が雲散霧消している。放哉が放哉自身の存在を剥ぎとっているのである。「月夜風ある一人咳して」には、まだ放哉がいる。「放哉一人」がいる。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」の「親鸞一人」にそれは対応するかもしれない。

だが、それが「せきをしてもひとり」になると、そこにはもはや「一人」しかいない。「放哉一人」がいるのではない。ただ「一人」がいるだけだ。「せきをしてもひとり」とつぶやいたとき、放哉はすでに親鸞の先を歩いていたのかもしれない。「放哉」が破滅して「一人」だけがとりのこされた物寂しい光景である。それにくらべるとき、「親鸞一人」の親鸞は放哉の破滅を免れている。最後の一線だ、断崖絶壁の上に立っている。立ち竦(すく)んでいる。「一人」の変奏である。「一人」の転回である。「一人」の世界の不思議な奥行きである。

△ 親鸞には未だ、宗教者として、「弥陀の五劫の思惟(しゆい)の願」を案じ、「地獄ぞ一定(いちじょう)すみかぞかし」と思い定める、「神話的表象」が伴っていました。道元禅師といえども、その点では変わりがないでしょう。仏法僧の「三宝に帰依する」仏教徒だったからです。しかし、真の宗教者はその先を見ているのではないでしょうか。放哉は「親鸞の先を歩いていたのかもしれない」と言われていますが、放哉に見られる「一人」の変奏、「一人」の転回は、非宗教的であるが、同時に宗教の奥底、その機微に触れていると言うこともできるでしょう。不治の病が放哉をそこに導いたのでしょう。

途方もない静寂

放哉の「せきをしてもひとり」にいち早く反応したのが種田山頭火(たねださんとうか)だった。

放哉居士の作に和して

鴉(からす)啼(な)いてわたしもひとり

鴉が啼いて、わたしの「一人」が胸をつきあげてきたのか。鴉もひとり、わたしもひとり、つまり同行二人ということか。大正十五年の『層雲』に発表された句であるという。ほとんど同時期といっていい。放哉のその句に接したとき、山頭火は思わずわが膝を叩くような気分だっただろう。かれもまた家族のもとから遁走した漂泊の俳人だった。山頭火は放哉より三歳年長だったが、句の上では放哉を先輩とみなしていた。最後は四国に渡って松山の草庵で死んだが、昭和三年七月には小豆島に行き放哉の墓に詣って(▽)いる。

△ 「まいって」、墓参りの「まいる」でしょう。

山頭火の句集をすこしでもみればわかることだが、その作品にも「ひとり」の姿がくり返しあらわれる。まるで放哉の「ひとり」によって、全身はおろか魂まで奪われてしまったようだ。

ひとりで蚊にくはれている

蚊帳の中まで夕焼の一人寝てゐる

張りかへた障子のなかの一人

「ひとり」が、そこに投げだされている。蚊に食われている。蚊帳のなかで寝ころんでいる。張りかえた障子に囲まれてつくねんとしている。宇宙の中につまみだされた「ひとり」であるいっていいだろう。放哉の「ひとり」が自己を剥ぎとる求心型とすれば、山頭火の方は自己を外に解放する遠心型だ。

さくらまつさかりのひとりでねてゐる

食べるだけ食べて一人の箸をおく

桜の樹の下で酒をのみ、正体なく眠りこけている。たらふく食べて、一人の箸をおくと、途方もない静寂が室内を満たす。山頭火の「ひとり」はいつのまにか背景の自然をくっきり映しだしている。放哉のとは、同じ「ひとり」でも「ひとり」の風景が異なる。放哉のひとりは存在の一粒だが、山頭火のひとりは宇宙の一粒だ。それが、

せきをしてもひとり

鴉啼いてわたしもひとり

に、じつに対照的に表現されている。

△ 「ひとり」の諸相というべきものがあります。放哉は求心的であり、山頭火は遠心的であるということを、著者は「存在の一粒」と「宇宙の一粒」という言い方で区別します。「(ひとり)いる」ということに焦点があるのか、「(ひとり)どこに」ということに焦点があるのかの違いであるとも言えるでしょう。

親鸞の「一人」も、自己を剥ぎとっていく「ひとり」だったと思う。そして同時に、その自己を宇宙に放っていく「ひとり」でもあったのではないだろうか。阿弥陀如来の「五劫思惟の願」をよくよく考えれば、ひとえに「親鸞一人」だけのためであることがわかる、とかれはいっている。この全宇宙の中で阿弥陀如来と親鸞だけが向き合っている。阿弥陀如来の救いの手が親鸞の全身を押し包んでいるのだ。阿弥陀如来を宇宙そのものと考えれば、親鸞の存在はほとんど宇宙の一粒と化しているではないか。その存在はケシ粒のような「ひとり」の存在である。

△ 仏法(阿弥陀如来)が宇宙意識を遮る遮蔽物(存在の皮膜)でないとすれば、それは宇宙そのものであるということになります。

ひるがえってその「親鸞一人」の申すことは、法然の仰せが真であるからには空しいはずがない、ともいう。自分の考えはすべて法然の思想のなかに包摂されているということだろう。その法然の思想は、善導の思索が虚言でない以上、善導における真実性をそのまま体現しているというほかがない。親鸞を含んだまま法然の存在がいっしょに善導の世界に吸収されていく。その善導の全存在がさらに釈尊の「説教」へ、そして最後に弥陀の「本願」へと包みこまれている。その全体のつながりがいわば入れ子構造になっていて、その中心をなす核の部分に親鸞の一粒がたたみこまれている。

親鸞のたった一人の存在が法然の側に吸いあげられ、善導、釈尊、阿弥陀如来の世界にしだいに包摂されていく光景、といっていいだろう。そこには自己自身の存在を剥ぎとろうとする人間の強烈な意志がはたらいているというほかはない。「ひとり」になろうとする自己抹殺の衝動といってもいい。その意志は、放哉や山頭火がめざしていたものと、それほどかけはなれたものではなかったのではないだろうか。そのはてに地獄に堕ちるならば、堕ちてもいい、――放哉や山頭火も、そう心のうちでつぶやいていたのだと思う。

△ 宇宙意識は直ちに開示されるものではなく、師資相承の授受を経ているということは、宇宙意識における歴史の介入ということを意味するでしょう。人間の意識は縦のつながり(垂直的宇宙意識)を可能とするために、横のつながり(水平的歴史意識)を必要とすると言うべきでしょう。その二つのつながりが交差するところに「ひとり」の人間が存在しています。しかしその「ひとり」は我執を離れたところに存在するのであって、俺が俺がという「自己」主張とは対極にあるものだと言われているのだと思います。

親鸞の「弥陀の五劫の思惟の願……」は、自己を宇宙の彼方に放とうとするかれの精神の遠心力を示す言明であった。それに対して「……法然のおほせまことならば……」の方はその自己を包んでいる皮を一枚一枚剥ぎとっていく求心力の運動であったといっていいだろう。その双方向の思考のヴェクトルが、

鴉啼いてわたしもひとり

せきをしてもひとり

に反映している。――そういえないだろうか。

△ 宇宙意識の遠心力と歴史意識の求心力との思考のヴェクトルが成り立つ場としての「ひとり」とは、「人格」であると言ってもよいでしょう。若かりし頃、私は「人格は無心であり、存在の無限なる模倣である」などと考えたことがあります。宇宙における存在の模倣は、無心なる人格において可能になるとすれば、その「無心」は「自己を包んでいる皮を一枚一枚剥ぎとっていく」結果として与えられるものなのでしょう。

尾崎放哉も種田山頭火もともに親鸞の徒であったと私は思う。親鸞の「ひとり」を介して、その心の運動が放哉や山頭火の俳諧の道に通じていたのだと思う。

△ この言葉が「我田引水」であるかどうかは、よく吟味されなくてはならないことだと思われます。

西方浄土

話題を転じよう。そういえば高浜虚子(たかはまきょし)の句にも「ひとり」がでてくる。放哉や山頭火にようにひんぱんに出現するのではない。稀(まれ)に登場する。たとえば、これはよく知られた晩年の作である。

虚子一人銀河と共に西へ行く

死を目前にした虚子がいかにも堂々と面をあげて銀河のなかにいる。胸を張っている。空をわたる華やかな銀河、――その流れにのって、おれは西方浄土へ赴くのだという。

かつて西行(さいぎょう)法師は、月の移ろいとともに西へ行くとうたった。むろん西行にかぎったことではない。西方浄土をのぞんだ歌人はおびただしい数にのぼる。虚子の心境もそれと大きく変ることはなかったのだろう。ただ、月とともにではなく「銀河と共に行く」といっているところが、いかにも虚子流である。

虚子流ではあるけれども、むろんそれはかれのいう客観写生とか花鳥諷詠とかいうものの枠から外れるものではなかったであろう。ただここで私がいいたいのは、たんにそのような事柄ではない。目あてはいうまでもなく「虚子一人」といっている「一人」の方だ。

この「一人」はさきにみた放哉や山頭火のいう「ひとり」とはよほど違う。いってみれば天空の銀河系のただなかに屹立している「一人」である。虚子という一人の男が胸をはって、堂々と西に向かって歩を運んでいる。それを見て、地下に眠っている西行ならば、満月のような男の一人旅、と皮肉って微笑をうかべたかもしれぬ。もしもそうだとすると、この句を発想したときの虚子の気分は、ほとんど

われ一人銀河と共に西へ行く

というほどのものだったのではないだろうか。「われ一人」というかわりに「虚子一人」と洒落のめしたのかもしれない。あるいはそういい換えて、はにかんでいたのかもしれぬ。

みての通り「虚子一人」の一人は、自立した個人の一人である。自意識の刺(とげ)を隠した「一人」である。傲然たる自己が顔をのぞかせてもいる。放哉や山頭火が呼吸をしていた風景とはまったく異なった世界を、虚子が生きていたということだ。一人は一人でも、そのあいだには天と地ほどの懸隔が横たわっているというほかはない。いうまでもないことだが「親鸞一人」の一人からへだたること、およそ無限の距離といってもいいだろう。

△ 著者は「近代的個我(エゴ)」なるものに疑惑の目を向けています。いわば、一枚一枚皮が剥かれていく自己ではなく、あるがままの自己を貫徹し、また自己主張を行う「俺様意識」に対して、嫌悪感を持つといった感じなのでしょう。

ほとんど同じことが、斎藤茂吉(さいとうもきち)の場合でもいえるはずである。茂吉の「一人」はどのような顔をしているか。

ひとり来て蠶(かいこ)のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり

つつましく一人し居れば狂信のあかき煉瓦に雨のふる見ゆ

はるばるも山峡(やまかい)に来て白樺に触(さわ)りて居たり独(ひと)りなりけれ

夕凝(ゆうこ)りし露霜ふみて火を恋ひむ一人のゆゑにこころ安けし

くらがりの中におちいる罪ふかき世紀にゐたる吾もひとりぞ

かいこ部屋に立つ「ひとり」の心中に「我が寂しさ」が巣食っている。そして、精神病棟の裏側にひそむ狂信の気配にじっと立ちすくむ自己の姿。山峡をたどり露霜をふむ一人も、自然のなかにいて心の安定をえている。

たとえば、第二首目は

つつましくわれ一人きて狂信のあかき煉瓦に雨のふる見ゆ

と読みかえても、一向に差しつかえないだろう。

同じように、第三首目も

はるばるも山峡に来て白樺に触りて居たりわが命なりけれ

とすり換えたとしても誰も怪しまないはずだ。その変更によって茂吉の歌の世界はおそらくいささかも揺らぎはしないからである。要するにかれのいう「一人」はつねに「われ一人」であり、その「独り」も「わが命」とほとんど等価の関係におかれている。

そして、第五首目の「吾もひとりぞ」がくる。この「ひとり」が一個の罪深き自我の仮の姿であることはもはやいうまでもないだろう。くらがりにひとり凝然とたたずむ近代自我である。「虚子一人」の一人に隠されている自意識の刺と別のものではない。それらの罪深き自我や自意識のありかが、一見するに親鸞のいう罪深きひとりの存在と重なるように思われるかもしれないが、いうまでもないことだがこれほど似て非なるものはないといわなければならない。

△ 「いうまでもないことだが」と言って著者が見ているものは、「自己の皮むき」という否定性を経ない自意識のことなのでしょうか。たとえ「罪深き自我」が意識されているとしても、そこに留まっている間は、その「一人」は「現存在の殻」を破って存在しているわけではありません。自己が根本的に問題視されてはいません。

法然の門をくぐる

親鸞にとってだけではなかっただろう。おそらく放哉や山頭火の目からしても、虚子と茂吉は同じ穴のむじなと映っていたにちがいない。放哉も山頭火も、短歌を凝縮したものが俳句、俳句をさらに痩身にしたものが自分たちの自由律俳句、と思っていた。とすれば茂吉や虚子の「一人」には、まだまだ贅肉がつきすぎているとみていたわけだろう。近代自我であれ伝統自我であれ、そんなものはみんな剥ぎとってしまおうという衝動にかれらはとり憑かれていた。その米粒のように、砂塵のように希薄化してしまった「一人」、――その行きついたさきが、

せきをしてもひとり       放哉

いつも一人で赤とんぼ      山頭火

だったのだろう。

△ 一本の竿の先に止まっている赤とんぼ、そのように軽く、澄明で、自在な存在になれたら、きっとそこに自己の望ましいあり方があるのでしょう。

親鸞における「親鸞一人」はどうだったのだろう。親鸞も自己をしだいに凝縮していった。贅肉をおとし痩身になろうと悪戦苦闘した。そのような自己を剥ぎとっていったはてにつかまれたのが「親鸞一人がためなりけり」であった。

むろん知られているように親鸞には法然という師があった。法然という師の存在なくして自己はありえなかったとまで、親鸞はいっている。かれに師というものがあるとすれば、それは法然の存在をおいてほかにはなかったのである。しかし最後に、親鸞はさきにも論じたようにそのかけがいのない法然と自己を同一視し、その内部世界に融けこんでいった。法然のなかの師という観念を抹殺し、師弟の関係そのものをのり越えていった。法然の信心も親鸞の信心も究極は同じであるという確信をもつにいたったのだ。

そこにいたるまでの過程をみてみよう。親鸞の心の軌跡をたどってみなければならない。自己の存在を一枚一枚剥ぎとっていく精神のプロセスである。それは法然と親鸞の出会いの意味をさらにつきつめて探ることにつながるであろう。

親鸞が法然の門をくぐったのが二十九歳であったということは、すでにのべた。かれは九歳のとき、比叡山にのぼって出家している。だから法然の門に入るまでの二十年間、山の上で修行と学問の生活に打ちこんでいたことになる。

その親鸞が、ようやく人生の転機にさしかかろうとしていた。人生の転機というのは、裏を返せば、迷いに迷っていたということである。山にとどまるべきか、山を降りるべきか、について迷っていたのだ。

かれが、京都の六角堂に百日のあいだ籠りの生活に入ることを決意したのも、そのときの不安と動揺に解決を与えようとしたからである。そして、九十五日目の暁方がくる。そのとき、観世音菩薩が聖徳太子となって姿をあらわし、お告げをのこして消え去った。それは一瞬の出来事であったが、親鸞はそのまま六角堂を抜けでて、黒谷(くろだに)に草庵をかまえる法然のもとに身を投じた。

そのことを親鸞自身が、主著の『教行信証』のなかに書きとめている。自分はそのとき「雑行(ぞうぎょう)」(旧仏教)を捨てて、「本願(ほんがん)」(念仏門)に帰したのだ、といっている。

のちになって親鸞の妻、恵信尼(えしんに、一一八二〜?)も、娘の覚信尼(かくしんに、一二二四〜八三)にあてた手紙のなかで、そのことを印象深げに語っている。法然のもとを訪れた夫の親鸞は、その日から、照る日も降る日も通いつづけるようになった、と書きしるしているのである。

親鸞の人生に大きな影響を与えた法然の存在が、妻、恵信尼の記憶のうちにも消えることなく生きつづけていたことがこれでわかるであろう。そしてその鮮烈な記憶を、恵信尼は娘の覚信尼に伝えた。

親鸞と法然の出会いは、こうして歴史をこえ地域をこえてひろがっていき、ついには神話的な出来事として人びとの心をとらえるようになるのである。

ほんらい師というものは、その人間が大きければ大きいほど、多くの弟子に対して平等の愛をそそいでいるであろう。むろん弟子たちには、いろいろな個性をもつものがいる。知のかったもの、不言実行型のもの、素直なもの、我の強いもの、などさまざまである。しかし師というものは、そのような弟子たちのさまざまな個性に応じて、その芽を伸ばそうとするであろう。法然も、そのような師の一人であったにちがいない。

それならば弟子の方はどうであろうか。事情は、師の場合とはいささか異なるはずだ。いくら師が多くの弟子たちに平等の愛をそそいでいるからといって、弟子の方まで、その平等の愛をうけとる一人であると思って満足してしまうならば、そのような弟子は結局は平凡な弟子であるというほかはないからである。

△ 法然との出会いは親鸞に決定的な影響を与えました。それを焦点の一つとして、鎌倉仏教と言われる諸潮流が澎湃と起ってきたということは、西洋の宗教改革に先んじてこの日本で宗教改革が起ったというべき事態だったのではないかと思われます。親鸞の妻帯はルターを思わせるものがあります。しかし政治的武力的弾圧が強くその上にのしかかり、徳川三百年の幕政のもとで、日本人の精神的改革は頓挫してしまったとも言えるでしょう。そこに今日の仏教の「飼い馴らされた」姿があります。ともあれ法然は、少なくとも親鸞にとって、井上洋治神父のいう「イエスのような」存在(『法然』参照)であったのでしょう。

『選択本願念仏集』の書写

見込みのある弟子というものは、師に対してもっと情熱的な接し方をするものではないだろうか。あるいはもっとわがままで、貪欲なのではなかろうか。極端なことをいえば、師の愛は自分にだけそそがれている、師の全存在は自分のためにこそあるのだ、と思いこんでしまう、そういうところがないであろうか。

それは、あるいは錯覚であるかもしれない。自分勝手な思いこみといわれるかもしれない。しかしながら、そのような錯覚や思いこみに情熱的にかかわるとき、弟子は師とともに師の世界を深く生きることになるはずだ。親鸞はまさに、そういう意味における情熱的な弟子であったと私は思う。そこが師、親鸞に対する弟子、唯円の態度と、法然に対する親鸞の生き方の異なる点であった。絶対随順する親鸞と、「歎異」の歎きをもらさずにはいられなかった唯円との、大いなる違いである。

△ 親鸞はよき師にめぐり会い、そして一途な信仰の人になりました。そのことによって初めて見えてくる世界があります。

親鸞は、法然の門に入ってから四年後に、師の深い愛情と信頼にふれる経験をしている。師、法然の主著である『選択本願念仏集』を書写することが許されたからである。それのみではない。師みずからの筆で書かれた経文の一節や、「釈(しゃく)綽空(しゃくくう)」という自分の法名までもらっている。そのうえ、師の肖像画を模写することを許されているのである。

そのことが、親鸞にとってはよほど嬉しかったのであろう。よほど忘れがたい感激の体験だったのであろう。かれは、そのときの喜びと感激を、『教行信証』のあとがきのなかにつぎのように書きのこしているのである。

その教誨(きょうけ)をかうぶるひと千万なりといへども、親(しん)といひ疎(そ)といひ、この見写(けんしゃ)をうるともがらはなはだもてかたし。……これ決定(けつじょう)往生の徴(ち)なり。よりて悲喜のなみだをおさへて、由来の縁をしるす。

〈訳〉師、法然上人から、『選択本願念仏集』の教えを受けたものは千万人もいるけれども、しかしこの書物を見たり写したりすることを許されるのはきわめて難しいのだ。……だからそれを許された自分は、もはや浄土に往生することができたも同然である。いまあふれる涙をおさえて、そのことをここに記すのである。

師を追慕し、あふれでる涙をおさえ、忘れがたい記憶を記している親鸞の素朴な姿が、そこにある。『選択本願念仏集』の教えをうけた者が「千万人」もいた、というのはむろん誇張であろう。だがこの誇張は、たんに文を飾るためのものではなかったはずだ。それは何よりも、師の主著を見たり写したりするのが、ごく限られた者にしか許されていないことを強調するための表白であったからである。

むしろこのときの親鸞は、千万人のうち自分一人だけがそれを許されたのだ、と主張したかったのではないだろうか。そのことを誰はばかることなく、声を大にして叫びたかったにちがいない。

もっとも、のちに伝えられた記録によると、『選択本願念仏集』を師からひそかに手渡されたものは六人であったという。この書物は、当時の支配的な政界や宗教界にとっては危険な文書であり、公開をはばかる信仰の書であった。そしてそうであればこそ、法然は弟子のうちでももっとも信頼のおける六人の者に、それをひそかに与えたのであろう。

つまり親鸞は、その六人のうちの一人であったということになる。入門してからわずかに四年という時点で、そのような破格のことがおこなわれた。

しかしながら親鸞自身の気持からすれば、六人のうちの一人、ということではとうてい満足できるようなものではなかったはずである。かれはむしろ、千万人のうちの一人である、と思いこみ信じこみたかったのではないか。さきにあげた『教行信証』のあとがきは、そのような親鸞の熱い想いをそのまま伝えているように思われる。

親鸞は、師に対するこのような情熱的な傾倒のなかで生きていた。そしてその絶対随順の姿勢が、さきにもふれたことだが、あのよく知られたつぎのような無私の覚悟へと昇華していった。『歎異抄』第二条に出てくる「地獄一定」の一節である。

たとひ、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をまうして、地獄にもおちてさふらはゞこそ、すかされたてまつりて、といふ後悔もさふらはめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

〈訳〉たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄に堕ちたとしても、自分は後悔しない。念仏以外のことをやっていて仏になることができるのに、たまたま念仏をしたため地獄に堕ちたというのなら、後悔の気持もおこるだろう。だが自分には、念仏以外のことはとてもできそうにないから、地獄に堕ちて生きていくほかに道はないのである。

この『歎異抄』の言葉は、これまでいろいろな人びとによって引用され解釈されてきた。親鸞の信仰や思想の本質にふれる文章であるとされてきた。私もまた、そうであると思う。ただ、あえていうならば、右の文章は親鸞の信仰や思想を語っているというよりは、むしろ親鸞の人間そのものをあらわしている言葉ではないだろうか。すなわち念仏と往生の問題をいっているとうよりも、師と弟子のあいだに結ばれる関係の、究極のあり方をいっているのではないかと思う。そしてその究極のあり方は、その必然の結果として師と弟子の関係性そのものを超えてしまうだろうというのが、さきに論じたことだった。

△ 著者のこの結論について、ガブリエル・マルセルの「創造的忠実(fidélité créatrice)」という言葉を思い合わせるのも無駄ではないでしょう。師の教えを墨守するだけではその教えの真髄は枯渇してしまいます。常に新たに創り出していくことによって、その教えが初めて保たれていくという逆説が、ここでも成り立つと思われるからです。あるいは逆に師の立場からすれば、教師の役割は生徒がその助けを必要としなくなるようにすることであるということになるでしょう。しかしそこには師弟の相互信頼があります。しかし信頼、あるいは忠実の否定として「裏切り」があります。人間の根深い問題がそこにあります。著者はこの本で「裏切る弟子」の問題を論じ、内村鑑三と弟子の問題を取り上げて、内村と親鸞との親近性を指摘し、また親鸞の弟子、唯円と、イエスの弟子、ユダとを比較することすらしています。ちなみにマルセルも裏切りを問題にしています。

阿弥陀仏の化身

いま私は、右に掲げた文章においては親鸞の人間そのものが問題にされているということをいった。そして同時に「念仏」の比重よりも「法然上人」の方がはるかに大きく語られている。親鸞はここで、念仏によって地獄に堕ちてもいい、といっているのではない。そうではなくて、法然上人のいうことなら、それによって地獄に堕ちてもよい、といっているのである。

親鸞が選択しているのは、念仏ではなくて法然である。さらにいえば「仏法」ではなくて「人間」を選択しているのだといえよう。

そのように確信をもっていい切ったとき、親鸞は師の愛情と信頼が自分一人にだけ集中的にそそがれている、と思わずにはいられなかったはずである。その師の愛情と信頼を全身でうけとめようとしたとき、かれの口から「地獄は一定すみかぞかし」という言葉が自然につむぎだされた。その「地獄」といういい方のうちには、ほとんど言葉にならない歓喜の感情があふれているではないか。「一定すみかぞかし」という澄んだ声調には、師に献身する純な感情がほとばしっている。

しかしながらよくよく考えてみると、法然に対する親鸞のこのような態度は、阿弥陀仏に対する信頼の態度とほとんど紙一重であったということにもわれわれは気づかされる。自分に対する法然の信頼が千万人のうちの一人に対するものであったように、阿弥陀仏もまた千万人のうちの一人に対する慈悲を自分にそそぎかけてくれている、とかれは確信していた。

その確信のなかから、おそらく『歎異抄』の末尾に登場するあの「親鸞一人」が表白されることになったのである。くり返して引用すれば、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。

〈訳〉阿弥陀が久遠の昔に立てられた衆生救済の願というものも、せんじつめると、まったく自分一人のための願であった。阿弥陀仏は自分一人を救うためにこの世に出現されたのだ、そのありがたさよ。

親鸞は法然を想い、法然の教えをきいているとき、師と二人だけの世界を夢みて生きていたといえよう。そのような夢を生きることだけが、かれにとっては現実というものの唯一のあかしであった。同じようにかれは、阿弥陀仏を慕い、その誓願に想いをかけるとき、その阿弥陀仏と二人だけの世界を信じ、そのことに自分の全生命を燃焼させようとしていたのである。

もしもそうであったとするならば、親鸞にとって法然はそのまま阿弥陀仏の化身だったのであり、阿弥陀仏はまたそのままの姿で法然の変化(へんげ)であったということができるだろう。いってみれば、法然と同行二人のなかの「ひとり」、阿弥陀仏と同行二人のなかの「ひとり」だったのである。その「一人」は、自己の羽織る外衣を一枚一枚剥ぎとっていくはてにあらわれてきた「一人」だったのではないだろうか。外衣を剥ぎとることによって、はるかその後景に阿弥陀如来や法然上人のシルエットが浮上してくるような「一人」のたたずまいであった。

△ 上の記述によって、「信の二重性」とも言うべき「構造」について考えさせられます。具体的な「この人」への信が、同時に阿弥陀仏という久遠の存在への信を伴うということは、人間の「信」が個別の事柄であると同時に、それを超えた根本的な事態であるということを示唆しているからです。逆に言えば、根本的な信がなければ、個別の事柄への信も成り立たないということになるでしょう。阿弥陀の衆生救済の願は、この世界を原初的に肯定するための不可欠の法門(ロゴス)であると言うべきでしょう。著者は「夢」という言葉を使います。それが現実を超えた現実を示唆するものだからでしょう。言うならば、神話的空間の在所がそこにあります。

話はふたたび元にもどるが、そのような親鸞の「一人」の彼方に、さきにのべた虚子の「一人」が蘇るようなことはまずおこらないだろう。「虚子一人銀河と共に西へ行く」の「一人」が立ちあがってくることは考えられない。同様に、茂吉の「一人」もそこに肩を並べて登場するようにも思われない。「くらがりの中におちいる罪ふかき世紀にゐたる吾もひとりぞ」の「ひとり」がみえてくるはずもない。同じ「罪ふかき」人であった親鸞の眼球に、そのような茂吉の「ひとり」が映っていたようにはとても考えられないのである。

むしろ「親鸞一人」の一人をつきつめていけば、それはさきにみた放哉や山頭火がめざした「一人」の世界に近づいていくであろう。なぜなら「地獄は一定すみかぞかし」の一人は自我をかぎりなく稀薄にしていく放哉の「一人」の境涯にほかならないからであり、あるいは山頭火のように自己を宇宙のかなたに放り投げてしまう「一人」に近似しているからだ。さきにそのような放哉の生き方を「存在の一粒」といい、山頭火のそれを「宇宙の一粒」といったけれども、「親鸞一人」のひとりも「地獄一定」のひとりも、そのような「存在の一粒」であることに至福を感じ、「宇宙の一粒」であることに無限の解放を覚える人間のあり方であったと思う。

△ 先に私はそれが著者の「我田引水」であるか否か、吟味を要すると述べました。親鸞の生き方が放哉や山頭火の生き方に通じるかどうかということは、私には未だに判然としません。しかし自分の羽織る外衣を一枚一枚剥ぎとっていく生き方は、晩年に「余は何者でもない」(何者でもない私参照)と言った内村鑑三の生き方と照らし合わせて、それが一つの求道の姿勢なのであろうと言うことはできます。「かの人いかに」(ヨハネ21:21)という問いは捨てて、「あなたは、わたしに従ってきなさい」(ヨハネ21:22)という言葉に従うところに、一途な信仰があります。親鸞はその言葉通りの信仰の人だったのでしょう。そしてそこにおそらくは外衣を一枚一枚剥ぎとっていく人間の生き方があるのでしょう。


\ 歎異抄 その1

先に「悪と往生」のところで、親鸞は一途な信仰の人であったのであろうと、書きました。そこでそのことを考えるために、野間宏『歎異抄』(筑摩書房、1969年)の第七章「一筋の道を歩む」の部分を引用してみたいと思います。しかしその前に野間宏が仏教をどのように考えていたかを知るために、巻頭にある「現代にいきる仏教」を取り上げます。

現代にいきる仏教

人間の根元にふかくかかわる思想

わたしは日本仏教のいろいろな宗派に多くの関心をもっています。かなり前から、ふたたび仏教書をあつめだしたのですが、意外にいまの仏教書はありきたりのものばかりで、明治のころに書かれたような力づよい仏教書はきわめてまれであることを知りました。むかしのものも東京ではもとめられず、どうしても京都まで出かけていってさがさねばならない。ほんとうの仏教書を手ぢかにもとめられなくなってしまったということは、仏教が現代生活にあわなくなっている証明にもなるのでしょうか。

わたしがいま日本仏教のなかでいちばん関心があるのは、やはり浄土教、そのうちの浄土宗と浄土真宗、それから浄土教からわかれて生まれ出た日蓮宗といった系列です。とくに平安から鎌倉にかけてこの教えをひろげた人たちの生き方につよくひかれます。そうした人たちが、もういちど日本に生きないかぎり日本の仏教はほんとうのものにならない、とおもわされるのです。

△ 我々は「本当の仏教」の再現ということに期待を寄せることができるでしょうか。仮にそのことが可能であるとして、それは「仏教」という形を取るべきものなのでしょうか。それは「本当のキリスト教の再現」という期待に対しても同様に言えることなのですが、現代の困窮はそこまで深まっていると私自身は考えています。

仏教は日本の思想のなかで、わたしが考えているかぎりでは大衆をとらえた唯一の思想だとおもいます。外国から日本にはいってきた思想系列は、だいたい五つほどです。中国からはいってきた儒教、オランダからの蘭学およびヨーロッパの科学――これは医学とか工学その他のもの――それからキリスト教、マルクス主義、そして仏教です。このうちなにがいちばん日本人のこころをとらえたかといえば、この科学の方はいま別にしてやはり仏教でしょう。マルクス主義はたくさんの労働者をとらえているが、なお仏教が日本の国民ぜんぶをとらえたほどのひろがりにはなっていない。

△ 思想と言われるものが「外国から日本にはいってきた」、すなわち外来のものであって、自前の思想と言われるものは、神道を思想と言ってよければ、幅広く普及したものとしては、それ以外には見当たらないということでしょうか。野間は「大衆をとらえた」思想と言っていますが、そこに大切な視点を見出しているのでしょう。

このように、なぜ仏教は日本人の魂のすみずみにまでひろがりえたか。われわれはそのことをもう一度しらべなおす必要があるようです。

仏教もいわば最初は天台というかたちで比叡山の大学の講堂のなかにあって、ぜんぜん大衆のものではなかった。貴族を中心にした宗教にすぎなかった。それが国民全体のものになりえたのは、鎌倉期の、法然、親鸞、日蓮、道元といった人たちの努力によるといえます。しかしいまはこういう人たちの仏教の考えかた、その信仰の仕方、あるいはまたその人たちの大衆へのほんとうの接し方が現在も仏教にあるのかどうか。これをまず調べなければならないとおもうのです。

わたしが京都のお寺をまわってみて、いつも感ずることは、いかに寺院が観光客をお寺にみちびき、お寺を栄えさせるのに腐心する企業体となっているかということです。

もっとも、わたしは、このことをたんに非難めかしていっているのではない。むしろ、それほど観光客が寺院に出入するきっかけこそは、仏教が大衆に普及するきっかけであるにちがいないと考えるのです。が、実際には、それはかならずしも仏教が大衆のなかにはいっていくきっかけとはなっていない、という結論を出さざるをえません。

△ 仏教寺院が、少なくとも外向けには、単に儀礼化して、葬式や法事を行うだけの場所となり、あるいは参拝と観光とをないまぜたような形で人を集める場所となって、人々に何か大切なことを訴えかけているようには見えないところに、今日の仏教の姿があります。人々は寺院と神社の参拝を区別していないのではないかとさえ思われます。そして人々が神社仏閣に参詣する動機は「ご利益(りやく)」や「ご加護」ではないでしょうか。大衆が求めているのは、そのような「安全安心(セキュリティ)」の宗教ではないかと思われます。それ以上のことはそもそも欲してはいないのではないでしょうか。

先年、わたしは『わが塔はそこに立つ』という小説を書きました。ある一人の大学生がいた。その大学生の家庭は父親と母親が在家仏教徒であったから、小さいときから仏教思想をそそぎこまれ、いずれは在家仏教徒として父親の跡を継ぐように育てられた。ところが、だんだん大きくなり、学問をするにつれて、仏教に対する疑いがでてくる。唯物論的、あるいは無神論的な方向に自分の思想がむかっていく。それは仏教にある地獄とか極楽とかいう思想そのものに疑いをいだいたことにはじまっている。そこで思想的には仏教とは反対の方向にむかっていくが、どうしてもむかいきれない。そしてからだの半分は仏教のなかにとどまっている。そういう大学生が、鎌倉期において親鸞はいかに生きたか、親鸞の生き方をもう一度仲立ちにして現代に生きることはできないだろうか、と考える。そして仏教をもう一度現代のなかで考えなおそうとする。――簡単にいえばこういう作品です。

△ 著者は主人公の青年期の思想的葛藤を描いたと言います。真理とか正義とかに敏感になるのは青年期であって、通例人は年をとるにつれて、鋭敏な感受性を失ってしまいます。あるいは激変激動の時代ならば、人々は真剣に物事の真実を追求したいと思うでしょう。また、ちょうど鎌倉期がそうであったように、自分の魂の救いということに強烈な関心を向けるかも知れません。しかしそれが人々の心の常態であるとは思えません。いつかは、そのような関心も薄らいでしまうでしょう。「思想」というものは常態を逸脱したところがあって、生涯にわたってその思想的関心を持続させることは稀有であるという側面もあるのではないでしょうか。そして今や人類そのものが青年期を脱しつつあるのではないかと思われます。つまり「思想」が流行らない時代になりつつあります。「阿弥陀如来の本願」などと言っても、その思想が爆発的に人々の間にひろがるなどということは考えられないことです。それが21世紀の現実というものでしょう。

思想というものは、ひろいこと、ふかいことと同時にその思想がほんとうにおおくの人々のこころをとらえることによってはじめてその価値が証明される。思想はおおくの人々のこころをとらえ、生きる・死ぬ・愛する・憎むという人間のもっとも根元にあるはたらき、あるいは状況に最深のところから関係するものです。日本においてこれまでもっともよくそうした価値を証明したのは仏教だといってよういでしょう。

△ 仏教は「これまで」は多くの日本人の心を捉えてきたと言えます。しかし「これから」も同様に日本人に影響を与え続けるでしょうか。

庶民大衆の心のなかに生きた親鸞

では、なぜ仏教が日本人のこころをとらえたのか。それをわたしは鎌倉期における仏教のなかに探らなければならない、と考えているのです。

鎌倉期というと、貴族から武家政治にうつっていく大きな変動期です。現代であれば、資本家階級がなくなって労働者階級の時代になる、といったような大きな意味をもっているわけです。その意味で、いまの日本とじつによく似ているのです。

日本における変動の時期は三回ほどあった。平安から鎌倉へいく時期と、戦国時代、それから明治維新。そのなかでも現代といちばんよく似ている時期は、平安から鎌倉期へうつるときです。そして、その時期に生まれた思想が、いまもなお日本の国民のなかにひろがっているのです。

△ 野間は、現代と鎌倉期との間に類似性を見ます。そしてそこに鎌倉仏教を顧みるべき理由を見出しています。仏教再生の鍵がそこにあると見ているのでしょう。しかしそれは単にその時代の仏教に帰るということを意味するものなのでしょうか。

文学作品でいえば『平家物語』とか『方丈記』とか『徒然草』とかが生まれている時期ですが、当時のインテリゲンチャのなかで、さらにふかい思想をもっていたのは、やはり仏教徒ではなかったかとおもいます。そのなかでも親鸞という人は、年がすすめばすすむほど思想のふかまっていく人でした。そういうふかまりは日本人にもたいそうめずらしいものだとわたしは考えます。

親鸞という人間を前へおいて考えるとき、ひじょうに希望が湧いてきます。彼の活動は非常に息が長く、著述生活に入ったのはようやく晩年に近くなってからです。『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』は四十歳近くから書き始め七十五歳に完成。『浄土和讃(じょうどわさん)』『高僧和讃(こうそうわさん)』を書いたのは七十五歳。『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)」は八十五歳。『歎異抄』は彼自身の書いたものではないが、彼の七十歳から八十二―五歳ぐらいの話。『末燈抄(まっとうしょう)』は書簡集ですが、年代のわかっているものでいえば、八十歳から九十歳近くにかけて書いています。

△ 親鸞の著述活動が主として晩年になってからのものであり、しかもそれは彼が長命であったから可能になったということは、たしかに一驚に値します。

この親鸞はわかいときに比叡山で学問をした。しかし位はそれほど高くないので労働をしながらの学問であった。二十九歳までそうしていたが、仏教は山のなかや、大学のなかなどにはないと考え、ついに寺をでて法然の弟子になった。それでも四十五歳まではほとんど勉強できなかったとおもいます。というのは、なにぶん、大きな戦乱時代であって、道端に飢えている人たちが数多くころがっていたのです。やがてすこし落ちついてきたのですけれども、親鸞の時代は全体としてやはりたいへん生きにくかった時期だったとおもいます。

△ 親鸞は「たいへん生きにくかった」時代に生きた人であり、自らも島流しに遭うなどの苦難を経た人であるということは、忘れてならないことでしょう。

この人はいつも奥さんに養ってもらっています。奥さんに食べさしてもらっている。歴史家によると二度奥さんをかえています。二度目の奥さんである恵信尼の手紙が大正十年に発見されたのですが、この手紙から親鸞がどういう暮しをしていたのかがはっきりしてきました。歴史家の服部之総氏が研究したのです。恵信尼は二十人ほどの奴隷をもっていた。その恵信尼のおかげで親鸞はようやく安定した生活に入り、その周囲の農民に仏教をつたえていくことができるようになるのです。それまでは貴族相手であった仏教がこうして農民のなかにはいっていったのです。二十人もの奴隷をもっているというのはたいしたことのようですが、それほどでもなかったようです。手紙には、自分の使っている者も、食べものがなくて家に閉じこもっている、ということなども書かれています。このとき親鸞四十五歳ぐらい。わたしは、親鸞はこのころにはじめて日本人の庶民大衆のこころがどういうものであるかがわかってきたのではないかとおもう。そして親鸞は自分の考えるところが、この庶民のものであり、庶民のものにならなければならず、また庶民によってはじめてその支えを得ることができると考えたにちがいないとおもうのです。

△ 野間が重視しているのは、仏教が庶民のものであり、またそうでなければならないということです。親鸞を評価する視点はそこにあります。

しかし、まだそのころの著作にはそれほどすぐれたものはない。ほとんど書いていませんし、また書く時間などなかったでしょう。しかし、この時分常陸(ひたち)の農民と接触しそのなかに深くはいっていくことによって、外国から輸入された仏教をはじめてほんとうに日本のものにしていく道を発見したのではないかとおもうのです。常陸の農民たちというのは、もとは新潟にいて、そこで暮しが立たず借金をふみたおしたり、近所のものをかすめとったりして村にいられなくなり、山をこえてにげてきたものなのです。

親鸞がとり組んだ性と権力の問題

『歎異抄』に、罪が深ければ深いほど成仏できるという言葉がありますが、この言葉は親鸞がたんに観念的に考えて使った「罪がふかい」という言葉ではありません。実際に親鸞のまわりにいたのは、罪人ばっかりだったといってもいいとおもいます。戦乱で、どろぼうをしなければ生きられない、あるいはまた人を傷つけなければ生きられなかった。そういう人たちが、自分の目のまえにあらわれてきたときに、そういう人たちのこころのなかへ、自分の思想を生かすのにはどうするか。

この問題ととり組まなければ、当時の日本人ととり組めなかった。そのことをほんとうに見出していったのは親鸞四十五歳ごろだったようにかんがえられます。それでも、まだ当時はほんとうに本を読む生活にははいりえていない。親鸞が本格的に著作生活にはいっていくのは、もうすこしあとで、恵信尼と別れて単身京都にのぼっていってからです。おそらく五十歳の半ばをこえてからではなかったか、と思います。

京に帰って親鸞は『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』をしあげました。ところが、『教行信証』は漢字ばかりの文章で、大衆にはまったく読めないむずかしい作品です。ちかごろ、日本の文壇では純文学と大衆文学が問題になっていて、作家はたくさんの週刊誌に書くのにおわれるため作品の内容が低下している、したがって文学は停滞しているといわれている。内容をふかめようとすれば、むずかしすぎて大衆に読まれない。大衆に読まれるようにすると、内容が浅くなってつまらなくなる。これは文学の問題だけではなしに思想の問題でもある。仏教においてもしかりだとおもいます。親鸞もこうしたことに苦しんだのではないか。

△ 親鸞が大衆の生活に直に触れ、そこに人間の問題があると心底考えさせられたことと、それとは一見縁遠いように見える『教行信証』の執筆に取り組んだということとは、深いところで繋がっているのだと指摘されています。

親鸞は『教行信証』を完結したときにそういう問題にぶつかったのではないかとおもいます。かれは最後には漢字をすてて大衆に読みうるひらがなの世界にはいっていく。それはとうぜんそうした苦しみ、悩みのはてにゆきついたことでありましょう。そこでかれは和讃を書いた。つまり、当時は字が読めない人が多かったので歌によってひろめようとした。親鸞が『教行信証』を完結せずにそこのところまで行きえたかどうか、最初からいきなりほんとうの大衆化が可能であったかどうか、それは疑問である。やはり『教行信証』を書きあげて、そのささえでもって自分の思想のふかさ、ひろさ、の問題を解決しえたがゆえに、ほんとうの大衆化ができたのではないかとおもう。

そういう形で和讃の時期をすぎ、『歎異抄』『末燈抄』の時代にはいって、ついに浄土教を日本ぜんたいのものにしえたとおもいます。

△ 親鸞の思想の表現上の変化は、もちろん計算されたものではなかったでしょう。そこには親鸞がそうせざるを得なかった、いわば「内的必然性」があったと思います。そしてその道を一途に歩み切ったところに親鸞の偉大さがあるのでしょう。

こういう生涯のなかで――わたしはわざと二つのことを抜かしておいたのだが――じつは親鸞には性の問題があった。親鸞は性の問題にすさまじくなやまされた。生涯をつらぬいてこの問題になやんでいる。それは法然なんかにはないことです。法然の顔はわたしの好きな顔です。育ちがよくて、温和な、やさしい、まるい顔です。親鸞の顔は癇癖がでていて、とくにわかいときの顔はきつい、いやな感じです。

△ 人間にとって「性」がいかに深刻な問題であるかということは、フロイトを持ち出すまでもなく、世間の出来事を一瞥し、自分自身を顧みれば了解されます。

当時の仏教徒の書いたものを読んでみると、いかに夢のなかで女性との対話を深刻にやっているかに、おどろくのですが、親鸞は、どうしてもその苦しみをたちえない。そしてどうしても戒を犯しそうだというその瞬間に観世音菩薩が夢にあらわれてきて、お前が女犯をするならばわたしがその相手になってあげようというので救われる。こういう救われかたはつごうよすぎるようですが、シュールレアリズムが夢をだいじにしているように、むかしの仏教徒も夢をだいじにしたのです。

じつはわたし自身は子供から大人になる時期に、仏教徒があまりにもこの夢のことをだいじにするのでそれがいやになったものです。しかし夢と現実とをどうむすびつけていくかというとき、たんなる迷信におちいる場合もあり、夢がかえって現実を飛躍させるものになる場合もある。親鸞の場合は、性の問題のたかまりは法然に会う二十九歳前後が最高潮であって、そののち妻帯を公然と宣言するという形でいちおう解決されています。

△ 夢は深層心理に関わるということを考えあわせると、仏教徒が心の問題に取り組むのに、夢を重んじたということは、それなりの必然性を持っています。

つぎに天皇によって島流しにされるということから、権力の問題がでてくる。親鸞の最大の作品である『教行信証』のいちばんうしろのほうにそのことが書いてあります。「主上臣下(しゅじょうしんか)、法にそむき義に違(い)し、いかりをなし、うらみをむすぶ。……罪科をかんがへず、みだりがはしく流罪につみす。あるひは僧儀をあらため、姓名(しょうみょう)をたまふて、遠流(おんる)に処す。予はそのひとつなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず、このゆへに禿の字をもて姓とす」と。主上というのは天皇、臣下は貴族。上下が仏法に違(たが)い義をなおざりにしている。そうしてみだりがましくわれらを処刑し、遠流に処し、僧籍をうばった。したがって、自分はもはや僧でもない、俗でもない、愚禿なのだ。日本の仏教徒のなかで天皇をこれほどはっきりと非難しそれに抵抗していたのは親鸞一人です。それを今の仏教徒はかくしてしまっているのではないか。それをはっきりと知っている人もありますが、それが深刻な問題とはなりえていない。

親鸞はセックスの問題と国家権力の問題に直面し、ほんとにわかい人といっしょになってそれを解こうとした。そしてまったき形で解ききったとはいえないにしても、その大きな道を開いた。そこにわかい人々、庶民のこころをとらえた原因があったのではないか。

△ 野間は「性と権力」という極めて現代的な問題を突き出しています。そしてその問題を親鸞のうちに読み込んでいます。上に引用された親鸞の言葉は、たしかに今日の世情をも突いていると言うべき鋭さを持っています。

再び現代によみがえらすべき仏教

仏教が日本に入ってくる時期の問題を書いた作品に『日本霊異記』という書物があります。「異」という字は「おそれる」あるいは「力を発揮する」という意味もあるようです。それを読んでみると、仏教がいたるところでいろんな悪神を封じこめていったことが書いてある。それは当時の日本の思想からみればどうすることもできない不合理なものが社会に沢山あって、その正体を見破ることにおいて仏教のほうが他の諸思想より一段先きんじており、そうした非合理なものを合理的なものに変えてその正体をはっきりさせていったことを示すのです。つまり人間の進歩は、自分の目のまえにあり、体のなかにあり、あるいは天体のなかにある非合理なものに目をそそいで、そのなかのカラクリをあきらかにして合理的なものにしていくことです。これは簡単なことだとおもうのですが、これを仏教がはじめてしらせたわけです。

人間は自然と社会によってできている。そして非合理的なものが自然のなかからも社会のなかからもでてくる。仏教思想はこの両方からでてくる非合理的なものをはっきりと解明して大衆のものにした。多くの化けものをほこらのなかに封じこめてひじょうにひろい道を日本のまんなかにつけた。しかしそれはまだ日本全土のすみずみまでにはゆきわたらなかった。それをすみずみまでゆきわたらせたところに鎌倉仏教の大きさがある。そういう仏教をもういちど現代によみがえらせる必要があるのではないか。そうしないかぎり仏教は生きかえらないだろう。

△ 西洋の宗教改革において、キリスト教や俗信の中にあった「非合理的なもの」が取り払われ、「畏怖の宗教」が封じ込められていった過程は、日本では仏教思想の大衆への伝播のうちに見ることができると言われています。しかしその「非常に広い道」は単なる合理主義ではないでしょう。それは心の問題だからです。

仏教に末法思想というものがある。そしてその末法万年は、日本では藤原道長という日本で最大のぜいたく者といわれていた人の子藤原頼通が六十歳になったときといわれている。仏法はすたれ、あらゆるところで堕落頽廃がおこる。そういうときに藤原頼通は、これはたいへんなことになった、自分はどうしても生きながらに極楽にゆきたいというので宇治に平等院をつくり、そこに有名な定朝という彫刻家に阿弥陀如来をつくらせて、その傍に自分が坐ることによって安心感をえようとした。しかし、この阿弥陀如来像の傍には頼通は坐ることが出来たが、家来はそのお寺の壁の向こう側に坐り、農民ははるか池の向こうに坐ってその阿弥陀如来を見なければならなかった。それであるのに、この寺院が平等院と称せられているからまったくあきれはてるのです。

仏教はひじょうにおおきな働きをしておおくの化けものを封じこめていたにかかわらず、この時代にはいまだ全国民のものになりえなかったのです。そういう仏教を、法然、親鸞、日蓮、道元という人たちを中心とする集団がひろげていったのですが、そういう努力、それを説いた説き方をもういちどよみがえらさなければなりません。また末法思想というものを今日に生きかえらさねばならない。

△ 今の時代は「末法」の世であるという感覚は、この世界で起っている出来事の集積が人々にそのように感じさせるということでしょう。日本は果たして「法治国家」であるのかということを疑わせるような様々な出来事、貧しいもの年老いたものを捨てて顧みない政治、貪欲な利益の追求、環境の破壊、敵国やテロの脅威を煽るだけの愛国主義、その他もろもろの出来事が、今は末法の時代であると感じさせるのではないでしょうか。いわば世も末という感覚が、野間がこれを語っている1960年代末の時代感覚につながって、またそれがさらに深まった形で、人々の心にのしかかっています。そのような末法感覚は、問題は小手先の「改革」によって解決されるようなことではなく、その奥にもっと根深いものがあると人々に感じさせる何かです。

キリスト教のほうには終末観、最後の審判の日がくるという思想があるが、仏教にもそれに似て、しかもちがうものがある。現代における非合理的なものはなになのか、これをはっきりとらえて、仏教の思想によってそれを大衆と一緒に解くことです。

わたしたちはやはり外国の文明、思想、文化は勉強しなければいけないと思うし、ある面で日本の近代は西欧文明によって断ちきられてきたとおもう。しかし、なおかつ、そのからだの底にはむかしからつたわっているものがずっとうごいているのです。

現在の問題は、それを放り出すのではなしに、これがどういうふうにうごいているのかをみつめつづけながら、もう一回日本人のこころをとらえなおすことです。それによって、はじめて日本の思想、あるいは日本人というものの世界における位置も、あきらかになってくるのではないかとおもいます。

△ 野間が問題にしているのは、日本人の心の問題であり、またその変革の問題であると言えるでしょう。鶴見和子の言う「内発的」な変革が伴わなければ、どんな制度的改革ももとの木阿弥に帰してしまうでしょう。その観点から野間は親鸞の仏教に着目していると言うことができます。次は第七章「一筋の道を歩む」を取り上げます。


] 歎異抄 その2

第七章

一、念仏者は(*1)無礙(むげ)の一道(*2)なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者(ぎょうじゃ)には天神地祇(てんじんちぎ、*3)も敬伏(きょうぶく)し、魔界外道(まかいげどう、*4)も障礙(しょうげ)することなし。罪悪も業報(ごうほう、*5)を感ずることあたはず、諸善(しょぜん)もおよぶことなきゆへなりと云々。

*1 念仏者は 「は」は「者」のルビとしてあったものが助詞の位置におさまってしまったもの。者を「は」と読む例は古典にときどき見受けられる。

*2 無礙の一道 礙はじゃま、妨害。一道は他に比較するもののない絶対の道・方法。

*3 天神・地祇 天の神、地の神。仏教の天神(梵天 ぼんてん・帝釈天 たいしゃくてん・四天王など)、地祇(堅牢地神 けんろうちじん・竜王など)はもちろん、日本神道の天つ神、国つ神をも指す。

*4 魔界・外道 魔は修道の障害をなすもの。界は世界・境地。悪魔の世界にあるものの意で、悪魔。外道は仏教以外の宗教信者や思想家。

*5 業報 過去の行為の報い(結果)としての現在のありかた。

一、念仏というのは、何ものもさまたげることの出来ない道である。そのわけはというと、信心をもって念仏するものには、たとえすべてを支配する天地の神々であろうと、深く敬服し、また、すべてに妨害や反逆をもって対する悪魔や異教徒であろうとも、この念仏道に障害を与えることはできないからである。また、われわれが犯した罪悪に対して、必ずその報いとしておこるはずの悪い結果すらも、苦とは少しも感じられず、また、どんな自力の善もとうていおよばない、念仏とはそういうすべての束縛から完全に解放されたところのものだからである。――このようなお言葉であった。

一筋の道を歩む

私はこれまで、大きな戦乱と非行の世に生きた親鸞とその『歎異抄』を、大きな戦乱と非行を体験し、さらに核戦争におびやかされている現代に生きる人間の眼をもって、見直そうとしてきた。この私の立場を、頭に描きながら、引きつづき読んでいただきたいと思う。

△ 「歴史は過去との対話である」(E・H・カー)という言葉は有名です。野間は現代に生きる者の熾烈な関心を以て親鸞に対峙しています。

親鸞は戦乱のなかに生きて、人間の上にいやおうなしに落ちかかって来る戦災、貧困、死、病気など、末法(まっぽう)の世のあらゆる困難を身に徹して知り、それとともに人間の心に動く欲望と、そこから起る迷いとを、自分の心をきわめることによって明らかにした。親鸞は決して人間の心の問題だけを、また信仰の問題だけを考えたというようなことはない。……親鸞は人間にせまって来るあらゆる問題を考えぬいたのである。……親鸞は人間の生活とはなれて信仰を見るなどということは決してなかった。しかも親鸞は現在の生活問題をとりあげる人たちが、人間の心、意識の問題を問うのに方法を持たないのとはちがって、心の問題を問いつくして行くのである。

△ 私はこの問題を「意識変革・社会変革」のところで少し考えたことがあります。

例えば私たちがすすめた戦後文学のなかで、大きな問題として問われる性の問題にしても、親鸞はすでに自分の問題として問いつめている。その妻帯(さいたい)は、親鸞が性の問題を問いつづけて、得た思想に支えられて行われたものである。当時すでに僧侶(そうりょ)の妻帯はかなりの範囲でひろがっていたのであり、別に親鸞がその最初の実行者というわけではない。妻帯の例は日本仏教史をみれば多くとりだすことが出来る。それにもかかわらず親鸞の妻帯がつねに問題にされるのは、親鸞が妻帯の問題を考えつくして、それを解き、そこに一つの明確な新しい思想をつくりだしたからである。そしてそれは仏教における女犯(にょぼん)の問題に新しい解決を与えることによって、仏教を大衆のものとする力を生みだしたのである。

△ 親鸞の愚禿というあり方(僧にあらず、俗にあらず)と、妻帯の問題とを切り離して考えることはできないでしょう。

私はこの妻帯の問題については後で、別個(べっこ)に書きたいと考えているが、親鸞が聖道門(しょうどうもん)をしりぞけ浄土門(じょうどもん)をえらんだ時、すでにこの問題をその立場から如何(いか)に解(と)くかが、その上に課せられたといってよい。法然にしたがって、戒律によるのではなく、ただ念仏一つによって救われると考え、念仏を行(ぎょう)じたのであるから、妻帯の問題、女犯の問題もまた当然念仏によって解かれなければならないものなのである。

△ 念仏の行者たることは、人間の生活のただ中で実行されるべきものであって、戒律を守る修道生活(聖道門)を離れた、「平常底(commonplace)」の信行に生きるということでしょう。それはたしかに仏教の大衆化の起点となるものでした。

そして親鸞はこの女犯の問題、性の問題を念仏によって解こうとして性欲と念仏の関係を考え、つきつめて行ったにちがいない。人間の根深くあり、如何にしてもたち切ることの出来ないこの欲望の内容を親鸞はきわめようとする。この欲望をともなった性なくしては人間は生命を次代に残すことが出来ない。しかしこの欲望によっていたるところに多くの犯罪と非行がつくられることを親鸞は戦乱のなかにあって、はっきり見たのである。そして仏教で女犯(にょぼん)とされているものと、性欲とをこえることによって、仏の道を歩くことの重要なことをいよいよ知らされる。しかしこの欲望をおさえることなどほんの少数の人間のほかに出来るものではないことを、親鸞は自分の肉体に照らしてよく知っているのである。すればこの女犯をこえるのもまた念仏によるよりほかにないことが、その身にひしひしとせまるように明らかになって来るわけである。念仏は煩悩がさかんで罪深い人間に、人間を超えて仏たらしめる、大きな力をもったものだからである。

△ 冒頭の『歎異抄』の言葉から女犯の問題を持ち出すのは明らかに野間の読み込みです。しかし親鸞の生涯に即してそこに書かれている言葉を理解しようとすれば、それは一個の鋭い解釈であって、決して見当外れではありません。しかしそこに性欲の「昇華」という問題もからんで来るのではないかと思います。

もちろん親鸞はこのように考えて、念仏によって女犯をこえて行くのである。しかしただこのように書いて行くと、念仏によって性欲をこえて行くことが非常に簡単な、やさしいことのように見えるが、実際はそのように簡単なものでもやさしいものでもない。私は親鸞が念仏によって女犯をこえて行くことを考え、問いつめていった時この念仏というものはまったく狭い一筋の歩きがたい道であって、そこを真直(まっす)ぐに歩ききることが如何にむつかしいかをはっきり知ったと思う。

△ 念仏(浄土門)は易行道であると言われます。たしかにそこには「難行苦行」はありません。しかしだからと言って、その道が文字通り簡単で易しいと言い切ることはできません。それはルターの「信仰のみ」についても言えるでしょう。信仰は依然として「狭い門、細い道」(@マタイ7:13〜14、参照:Aルカ13:23〜24)であって、そこから入ること、またそれを見出すことは、そんなに簡単ではないでしょう。

以下、聖書の引用:@「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ7:13-14)。 A「すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから」(ルカ13:23-24)。

「念仏(ねんぶつ)は無礙(むげ)の一道(いちどう)なり」という言葉は、そのさがしあてることのむつかしい一筋の道、つまり僧にあらず俗にあらずという、あるかなきかの道をさがしあてて、真直ぐにつきすすんで来た親鸞の内から出された、力強い美しい言葉である。……念仏をさまたげることなど、何ものにも出来ない。念仏はなにものにもさまたげられることなく、信心(しんじん)の行者(ぎょうじゃ)をして一筋の道を真直ぐにすすませ、浄土に行かせる、というのである。信心の行者というのは、本願を信じて念仏する人であるが、親鸞のこの言葉をきいて、自分の心の支えを得ないような信心の行者はいなかったにちがいない。

△ 弥陀の本願(原初の肯定)に生き切るということは、美しく、力強く人を生きさせる信心の道であり、誰にもそれを妨げることはできません。

しかし、これはまた実におそろしい言葉である。「念仏(ねんぶつ)は無礙(むげ)に一道(いちどう)なり。そのいはれはいかんとならば、信心の行者(ぎょうじゃ)には天神地祇(てんじんちぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界外道(まかいげどう)も障礙(しょうげ)することなし」という風にずっと読みくだしてしまえば、そこに念仏の一筋の道を真直ぐに歩いてきたひとの強い、力のこもった言葉を感じるのであるが、この言葉を振りかえりその一筋の道のまわりにあるものを考えてみるならば、この言葉はおそろしい言葉となって読むものにせまって来る。一筋の道をとりかこんでいるもの、それは戦乱・非行・貧困・死・病気などであり、さらにまた貪欲(どんよく)・愛欲(あいよく)・憎悪(ぞうお)・執着(しゅうじゃく)などであって、これらのただなかを一筋のじつに細い道を一歩も踏みはずすことなく真直ぐに歩いてきた親鸞のすさまじい姿が見えて来るからである。

△ 肯定の強さは否定の強さを伴うということを考えたとき、親鸞の言葉は読む者に恐れを感じさせるということでしょう。それは反面から見れば、ヴィア・ドロローサ(苦難の道行き)と言うべきものであって、親鸞の生き方のすさまじさを想起させます。

この一道が一筋の白く光った道であって、広さはほぼ四、五寸というまったく細く狭い道であることは、明らかである。しかもその一方には火の河が、片方には水の河が流れている。……この一道について親鸞は『教行信証』の信巻(しんのまき)にはじめの方に、一つの譬(たと)えを出して、説明している。原文は漢文で読むのはむつかしいから現代語訳から引用するが、これは浄土を願う一切の人々のために信心をまもり異見(いけん)のさまたげを防ごうとして出された譬えなのである。

△ こうして野間は、親鸞のいわゆる「二河白道(にがびゃくどう)」の譬えを取り上げ、一筋の道について、そのイメージを描き出そうとします。なおこの譬えは親鸞自らのものではなく、広辞苑によると、〔観経疎散善義〕貪瞋二河の比喩(ひゆ)。おそろしい火の河、水の河にはさまれて幅のせまい一条の白道がある。火の河は衆生の瞋恚(しんい、仏教の三毒の一、自分の心に違うものをいかりうらむこと)、水の河は衆生の貪愛(とんあい、三毒の一、自己の情にかなう事物に執着する心の作用)、白道は浄土往生を願う清浄の信心で、いかに水・火におびやかされても白道を進めば西方浄土にいたり得ることを説いたもの、と書かれています。( )内は付記。以下、その詳細が記されます。

「ここに一人の旅人がいる。西に向かって百千里の遠きに行かんとしている。ところが中途に二つの河があった。一は火の河で南にあり、他は水の河で北にある。二河ともにその幅、広さ百歩、然し深さは底なき深さで南北に辺際(へんざい)なく延びている。水火二河の中間に一の白く光った道が見え、道の広さはほぼ四五寸、東岸より西岸に通じ、その長さは河幅にひとしく百歩である。百歩の道に北よりは水河(すいか)の波浪(はろう)がこもごもよせて道を洗い、南よりは、火河の火焔(かえん)が魔の舌の如く来って道を舐(な)めている。水火が交錯して休む間のなき情況である。こうした情景の中を歩みつづけた旅人は、今や人影のない空曠(くうこう)の沼沢(しょうたく)へたどり着いた。ふと気がつくと、多くの群賊悪獣(ぐんぞくあくじゅう)がこの人の独りであるのを見、この人を殺さんとして競(きそ)い迫ってくる。死の恐怖におののいたこの人は西に走りつづけたが、突如(とつじょ)として前にこの河が横たわっているのを見たのである。そこでその人が念(おも)うのに、この河は南北にはてなく続き、中間には極めて狭小な一つの白道があるのみである。両岸の隔(へだた)りは遠くはないが、わたる手だてを見出し得ない。これでは今日必ず死なねばならないであろう。回ろうとすれば群賊悪獣が逼(せま)って来る。南北に避けようとすると悪獣害虫が襲いかかる。まさに西して道を進もうとすれば、水火の二河に堕ち込むに違いない。惶怖(こうふ)が極(きわ)まって言葉も出ないのである」(結城令聞訳)。

ここに述べられているような多くの危険のただなかにある広さ四、五寸の極めて狭い一本の白道が念仏の道なのである。この一本の道がはっきり見えないようでは、親鸞の念仏が如何なるものであるかを、見ることは出来ないにちがいない。文章はさらに次のようにつづいている。

「この時更(さら)に念(おも)うに、回るも死、とどまるも死、行くも亦死、一として死を免(まぬが)れ得ないなら、寧(むし)ろ道を尋(たずね)て進もう。既にこの道がある、必ずわたり得るであろうと。この念いが浮んだその時、東の岸に忽(たちま)ち人の勧(すす)める声がしたのである。汝、ただ決定(けつじょう)してこの道を尋ね行け、決して死ぬようなことはない、若(も)しとどまるならそれこそ死である、と。また西の岸の上空よりも人の喚(よ)ぶ声がしたのである。汝、水火に堕ちることを畏(おそ)れず心に仏を念じて直ちにきたれよ、必ず汝を護(まも)り続けるであろう、と。この人、このすすめとかのまねきを聞き、即時(そくじ)に身にも心にも道を尋ね進もうと決定し、疑いひるむことなく直進したのである」。そして忽(たちま)ちに西の岸に達して永く諸々(もろもろ)の危難(きなん)を離れ、善友と出会い共に安泰(あんたい)を喜んだのである。

この東岸は火宅(かたく)の人生、西岸は弥陀の宝国(ほうごく)。群賊悪獣が詐(いつわ)り親(した)しむのは、われわれの肉体、精神、環境を構成している諸要素のこと。空曠(くうこう)の沼沢(しょうたく)とは、つねに悪友と共にして真の善友に値(あ)うことのないこと。水火の二河とは、人間の貪(むさぼ)り愛する情を水に、怒り憎しみの情を火に喩(たと)えたもの。水火の中間の白道(びゃくどう)とは、人々の貪りや怒りの煩悩の中に生ずる、浄土を願うこころのこと。親鸞はこのように説明している。この文章によって、「念仏は無礙の一道なり」という言葉を見るとき、それが実に恐ろしい言葉であることが明らかになる。そして本願を信じて念仏を行じる人には、天の神、地の神も敬伏(きょうぶく)し、悪魔や外道思想も妨げることは出来ない。その罪悪もむくいを受けず、どんな善行も及ばないという次の言葉の内容が、いかに恐怖にみちたものであるかも解(わか)るのである。

△ 念仏の行は反転すれば恐怖に満ちていると野間は言います。信心は水火の煩悩の中で仏の呼び声を聞くことであり、一心にその声に従うことを意味するからでしょう。

このさまたげることのない道は限りないさまたげにとりかこまれており、一歩を歩むことも出来そうもない狭い紙のように細い道なのである。それは身をおく場所もないような位置である。しかしこの道はただ浄土を願う心さえあれば見出せるし、その心をもって念仏すればいかに多くのさまたげにとりかこまれていようと、それを真直ぐにすすむことが出来るし、さらにいかなるさまたげも力をふるうことが出来ず、ひとはその狭い一道の上を歩いて、自分の願うところに行けるというのである。権力者により流罪の刑を受け、戦乱と非行をくぐりぬけて愚禿と名のる親鸞が、すさまじい愛欲そのもの、それにもとづく女犯の問題を追及した時、親鸞はこの譬(たと)えの通りはげしい体験をしたにちがいないのである。私が、これが力強い美しい言葉であると同時に実に恐ろしい言葉だという理由である。

△ 「このさまたげることのない道は限りないさまたげにとりかこまれて」いるという、野間の言葉に触れて、私は福音書の以下の言葉を思い出しました。親鸞の歩いた一筋の道、その信行の意味するところを、福音書のイエスの譬えと重ねてみると、先に引いた「狭い門、細い道」も同様ですが、そこには深いところでつながっている何かがあると思わされます。

「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」(マルコ4:3〜9)。

homepage