閑老人のつぶやき 宗教について 8
ヤコブと共同体の構築
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△ この世界のあらゆるものは「神の賜物」であるという考えは、「私有財産」に固執する資本主義社会では覆い隠されてしまいがちです。しかし神は最も大切なものを犠牲として要求するという思想には、単にそれだけのことではすまない古代人の感覚が働いているのではないかと思われます。なお世界は「閉じられた系」ではないということが、ここではアブラハムの神信仰との関わりで主張されています。
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△ 著者は「ヤコブの手紙」を、「キリストの身体の文脈」で、読み取ろうとしています。しかし「ヤコブの手紙」には、「イエスの死と復活をメシアの出来事とする」という信仰の表明は見られません。ヤコブには「メシアの共同体〔である教会〕」という思想はあっても、それは「キリスト中心的であるというよりもむしろ神中心的である」と言えるでしょう。ヤコブは「イエスの言葉を知っていて、利用して」いますが、同時に「トーラー〔旧約の律法〕を積極的に承認」しています(『ハーパー聖書注解』、「ヤコブの手紙」序論参照)。このことはヤコブの「実践重視」の思想と関わりがあると思われます。いわばヤコブは、パウロとは逆のアプローチで、教会共同体を構築しようとしていると言えます。ルターが「ヤコブの手紙」を「藁(わら)の書」と呼んだことは有名です。
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△ 神との友情は「世」を脱して生きる生き方(実存の生)を選ばせ、それは「帰属・所有・支配、同その2」という「世」のあり方(現存在)とは対照的な生き方をもたらすと言い換えることもできるでしょう。ここで言われる「妬み」は仏教の「貪愛(とんあい)」に相当するのではないかと思われます。「貪(とん)」は「自己の情にかなう事物に執着する心の作用」であって(広辞苑)、裏返して言えば、それは他者への妬みとなり、そのむさぼりの心が遂には殺人に結びつくと言われているのだと思います。
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△ 教会という宗教的共同体が現出してきたことの意味は、それが「赦され赦す共同体」であるということに見出されています。そこには人々の「新しい回復された関係」があります。人々の歪んだ関係ではなく、「健全な共同体」を構築することが教会の使命であると言われています。しかしそれは「複雑で困難な務め」です。どうやら著者の実践的関心は、従来「魂の配慮(牧会的配慮)」と言われてきた、互いに気遣う関係の構築にあるようです。しかしそれは牧師や司祭だけの務めではありません。
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△ こうして著者は五章の結びの数節に注意を払い、その実践的意義について考察を加えます。著者の関心は「健全な共同体」の構築にだけ向けられます。しかしそれが「抑圧と破壊へと導く妬みの論理」の克服になるとすれば、単に共同体内部の問題には留まらない重要な意義を持つ事柄であると言えるでしょう。
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△ ここで言われる試験(test)とは、基準(試金石)というほどの意味でしょう。教会は「信仰箇条」などの基準を設け、それを受入れない者を排除する傾向を持ちますが、誠実に語るに当って、そのような基準はかえって妨げになると言うべきです。
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△ ここで思い出されるのは仏教の「三毒」です。三毒とは、広辞苑によれば「善根を毒する三種の煩悩、即ち貪欲・瞋恚(しんに)・愚痴。⇔三善根」とあります。三善根とは、「三つの善根、即ち、不貪・不瞋・不痴、また、施・慈・慧」のことと記されています。三毒の個々の意味は、一部、前にも触れましたが、「貪(とん):自己の情にかなう事物に執着する心の作用、貪愛」、「瞋恚(しんい、しんに):自分の心に違うものをいかりうらむこと、瞋」、「痴・癡:おろか。無知。正しい認識の欠如。基本的な煩悩の一つに数えられる」と書かれています。愚痴について、学研新世紀大辞典には「知恵がなく、そのために心に迷いが多く、ものごとに、的確な判断が下せないこと。無明(むみょう)」とあります。愚痴をこぼす(舌を制することができない)のは、無知無明によるということでしょう。ただしヤコブにとって善根とは「神の友」となることを意味するでしょう。
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△ これらの愚痴(ないし破壊的な語り方)は世を友とすることから引き起こされるものであって、真理(知恵)に逆らっています。「施・慈・慧」の三善根がかき消され、自分の利益が中心のものの見方が幅を利かせることになります。
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△ 福音書には「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24、並行ルカ16:13)と書かれています。
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△ 「誠実な語り方は、五章一二節で以下に続く様々な語り方にとってきわめて重要なので、挙げられている」という訳にはわかりにくいところがあります。五章一二節は「さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。天をさしても、地をさしても、あるいは、そのほかのどんな誓いによっても、いっさい誓ってはならない。むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる」という箇所です。これは福音書の「また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじでさえ、白くも黒くもすることができない。あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである」(マタイ5:33−37)というイエスの言葉に照応しています。この「誓うな」ということが前提となって、五章一三節以下(ジョンソンがここで論じていること:苦しんでいる時の祈り、賛美の歌、罪の告白、隣人を正すことなど)の勧めが初めて意味を持ってくるということなのでしょう。
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△ 人生の浮き沈みの荒波の中で、いついかなるときも、「神の友」たろうとする者たちの集まりが、教会共同体であると言われているのでしょう。
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△ ここにも著者の「牧会的関心」が前面に出ています。しかしここに書かれていることは、病人への塗油が今日の教会でも広く行われているという意味ではありません。福音書には有名な「ナルドの壺」(マルコ14:3−9)の物語があり、中近東などでは油を塗るという行為が一般的になされていたと思われますが、今日の教会では、カトリック教会の七つのサクラメント(洗礼・堅信・聖体・告解・終油・叙階・婚姻)の一つとして「終油」(臨終の床にある者に司祭が油を塗ること)が実践されているくらいではないかと思われます。ここに書かれていることは、従って、シンボリカルに理解する必要があるでしょう。ともあれ聖体拝領(ミサ)や塗油という言葉には、どこか「呪術的」な響きがあります。信仰なるものを、「からだの変化」を伴わない、精神的な領域に追い込んできた近代世界で、教会は再び「身体への配慮」を取り戻すべきであるということが、「塗油」との関連で強調されています。しかし、著者の言う「塗油の力」が何を意味するのか、よく吟味してみる必要があるでしょう。そこにある種の「力」が働くであろうことは否定できないからです。その力は聖職を叙階するときの「按手礼」の「按手(手をおく)」にも見られるべきものでしょう。イエスは幼な子に「手をおいて」祈りました(マタイ19:13)。
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△ 執り成しの祈りについては前にも触れたことがあります。「主よ、願わくは〜のために祈らせ給え」、「主よ、憐れみ給え(キリエ、エレイソン)」と祈ることです。それは他者のための祈りです。世界は自我の境界(内なる我々の領域)に限定された「閉じた系」ではないという思想がなければ、そもそも「執り成し(intercession、仲裁、調停)」の行為は無意味です。敵も味方も共に立つ地平が見失われている限り、闘争だけが問題解決の唯一の手段となります。自己と他者との間にある壁を取り除こうとすることが執り成しであり、また和解(reconciliation)です。それは自他が共に立つ基盤へと降り立って、そこに働く根底的意志に従うことを意味するでしょう。現実世界のこととしては、それがいかに困難であるとしても、そこに「神の論理」があります。だから問題はキリスト教共同体を作れば、それでよいということではありません。外(他者)へと開かれた姿勢がなければ、「内なる共同体」を健全に保つこともできないでしょう。なお、この段落の終わりに出てくる場所を作るということについては、「場の中にいる」を参照して下さい。
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△ 「神への信仰の証しのゆえに」、すなわち、その信仰が真実であることが明らかになるからこそ、この信頼は告白と祈りに力を与える、ということでしょう。執り成しの祈りには力があるということが、「古い秩序」の状態を克服することとの関連で主張されています。言い換えれば、教会は「新しい秩序」としてこの世に出現して来たのだと言われています。より大きな(より包括的な)共同体がそこから生れてきます。しかし教会は、その信頼にも拘らず、依然として傷つきやすさ(vulnerability)を免れることはできません。ここで言う「新しい秩序」ということに関しては、「三つの秩序」を参照して下さい。
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△ ヤコブの「聖職位階制的でない共同体理解」は、人間の共同体の一つのモデルであることができるでしょう。少なくとも著者は、今日の教会の変革の可能性を「ヤコブの手紙」のうちに見ようとしていると言えます。しかしそのような教会は、アメリカにおいてではなく、たとえば中国の「家の教会」(非合法の教会)として、当局の取り締りにも拘らず、人々の広範な支持を得ているという皮肉な現象があります。
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△ 西洋近代のキリスト教は、赦しということを「個人の赦す意志を発展させること」だと理解することによって、かえってキリスト教の赦しから注意を逸らしてきたのではないかと指摘されています。「キリスト教的生の他の実践に携わる」ということが何を意味するかは、次節で取り上げられます。しかし、キリスト教の赦しは、個人の意志以上の何かであると示唆することによって、著者は「共同体」全体の活動に目を向けます。
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△ 赦されること、そして赦すことが何を意味しているかを見出すということは、人間にとってきわめて困難な課題であるというほかはありません。しかし全く赦しのない世界を想像してみればわかるように、誰もが裁きあう世界には希望がありません。裁きと排除の論理は、遂には自分自身を滅ぼすことにつながって行くでしょう。著者は、赦しは奇跡であるのかと問いつつも、なおその困難な課題(キリスト教共同体における赦しの問題)に応えようとします。次に「赦しと形成」が論じられます。
赦しと形成
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△ 神の恵みは能動と受動とを包み込む「場所」であって、その働きが感得されるのは、キリスト教的共同体の諸活動の直中においてであると、言われているのでしょう。しかし、赦しは、多様に文脈化され複雑に絡み合った人間の生活において、その基調音として鳴り響いているのであって、特定の「信仰」だけがそれを聴き取るということではないのではないでしょうか。赦しがもしあるとすれば、それはいわば無条件に差し出されています。キリスト教はその表現形態の一つであるに過ぎません。
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△ 我々の生は、その諸々の活動において、「神の国の市民」として訓練される機会が与えられているということを意味しているのであって、決して自己目的的ではないということでしょう。苦難、病、そして罪の直中においてさえ、共に生きることを学ぶとき、我々は神の恵みに浴することができると言われているのでしょう。
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△ 終末論的な希望と絶えずつきまとう思い出(追憶、回想)の中で、歌は人々を支え、神の赦しの中に生きさせる可能性を提供するのだと、ここから著者は、歌あるいは音楽と人間の救いとの関わりについての論究に取り掛かります。
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△ 歌(そして踊り)は人類の共同体と共に昔からあったものです。歌はそれに加わる者の「能動的受容性」(「受容的能動性」)において、新しい「声の共同体」(社会的空間)を作り出します。しかし歌は救いといかに関わるというのでしょうか。
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△ 「赦され赦す共同体」とは、「執り成しの共同体」であると言い換えることもできるでしょう。その実現に当たって求められているのは、即興演奏のことを考えてみればわかると言われています。私は「東洋思想」の発見の最後のところで、あるべき共同体について、「ひとりがみんなを代表し、ひとりひとり自立し、互いに他を仲介し、絶えず刷新されて行く」ような共同体のことだと述べました。それは「即興の曲を奏でるジャズ・バンド」に近いとも述べました。「即興演奏」は、この場合、比喩(類比)として用いられています。比喩を拡げれば、それは試合中のサッカー・チームの動きにも喩えられるでしょう(伊丹敬之『場の論理とマネジメント』東洋経済新報社、2005年参照)。しかしこと音楽に関して言えば、公立学校での「君が代」問題に象徴されるように、それは「同化(assimilation)」の手段としても用いられることに注意すべきでしょう。その場合、在日外国人や思想信条を異にする者の存在は無視されます(彼らにも同化が強制されます)。カントが述べているように、絵画はそれを見たいときに見ることができますが、音楽はその場に居合わせる者の耳に否応なく飛び込んできます。ましてや歌を共に歌うことが強制されるとき、それに従えない者の苦痛はより大きくなります。讃美歌について言えば、日本のような異教社会ではキリスト者が多く集まる会合にたまたま居合わせた非キリスト者が、それが歌われるときに感じる孤立感、違和感のことを考えてみるのも無駄ではないでしょう。それについては『宗教と哲学の根本にあるもの――波多野精一博士の学業について――』(岩波書店刊、1954年)に、田中美知太郎が次のように書いています(旧漢字は新字体に改めます)。
「波多野先生の思想とか、学問とかいふものの全体のうちにあつて、ギリシアの思想や学問が、どのやうな地位を占めてゐたかを、私なりに調べてみようと思つて、さて実際の仕事に当つたところ、それが思ひのほか困難なものであることを知らねばならなかつた。その困難のよつて来るところは、いろいろあると考へられるが、その最大なるものは、先生の根本的立場が、私の理解や同情から、なほ遠いところにあるためではないかと思はれる。先生の思想を解説する人間としては、私は不適格者なのである。私は先生の三周年を記念する会合が、同志社のデントン・ハウスで催された時、その席に招かれ、来会諸氏の感想を聞き、先生の愛誦されたといふ讃美歌合唱をも、はじめて耳にすることができたのであるが、その時私は、私がそれまでに全く接触することなしに過ごして来た他の一面が、正にそこにあるのだといふことを、痛切に感じなければならなかつた。私は全くの異教徒なのである。そして先生の愛誦されたといふ讃美歌についても、何も知らず、その合唱にも加はることができず、沈黙して、その外に立たねばならなかつた。しかもこのキリスト教徒の立場こそ、先生の根本の立場であつたと言はなければならない。これに対して私の立場は、先生が文化、人間、哲学、イデア主義などを代表するものとして、最後には徹底的に否定されなければならなかつたところの、ギリシアの学問と思想をよりどころにするものなのである。先生の思想のうちにあつては、自然から文化、文化から道徳(愛)、あるいは主体から自我、自我から人格というやうな段階の、中間のところに、哲学的文化体系の存在が、一応は過渡的に認められるであらうが、しかし私は、それをそのまま私の見方とすることはできない。私には、先生の根本的な立場が、すぐに私自身のものとはならず、無理な思想的飛躍を試みても、未熟な理解に裏切られて、滑稽な猿芝居を演ずるだけに終らなければならないであらう。しかも全体的な理解なしに、先生の思想全体のうちにおける、ギリシア思想の地位をはつきりさせるといふやうなことは、無意味なことであり、また不可能なことなのである。私は学生時代に立ちかへつて、先生の全面を知ることなしに、むしろ無遠慮、無鉄砲なやり方で、言はば先生に議論を吹きかけるよりほかはない(*)。人間の文化、特に哲学は、いつたい何の意味をもつてゐるものなのか。それは空の空なるものに過ぎないのか。結局において、人間は自分で自分を救ふことができず、哲学は究極の立場となり得ないのであらうか。私はこの種の問題について、先生の教へを仰ぎたいと思ふのであるが、幼稚な議論は、恐らく先生ばかりでなく、読者諸賢をも苦笑させるだけのものかも知れない」(下線は引用者)。
* 拙稿「ひとつの私的回想」―波多野先生と古典研究―「哲学研究」四〇六号参照。
△ 引用した箇所は、上掲書所収の「ギリシア思想の批判――哲学は自立できるか――」という田中論文の冒頭部分です。音楽(歌)には、趣味嗜好の問題だけではなく、場合によっては、思想の問題もからんでくるということの好例でしょう。そのような重大な保留を付した上で、即興演奏が、あるべき共同体の一つのモデルになりうるのだと言うべきでしょう。そしてそれが達成されるためには、ひとりひとりのメンバーの「訓練」(熟練)が要請されるということに注目すべきでしょう。もとの論文に戻ります。
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△ 著者が考えている教会という共同体の姿は、決して既存の諸教会のそれと異なるものではありません。しかし諸活動の誠実な実践とそのための訓練に強調点が置かれていると言うべきでしょう。それは伝統的な「信徒の訓練」の延長上にあるものです。赦しとは、何か観念的なものではなく、教会の諸活動に真摯に参与することによって我々自身が作り変えられ、その結果、我々が「発見する」ことになるものである、と言われているように思われます。赦しは、パウル・ティリッヒに従えば、受容の受容(acceptance of acceptance)、すなわち、我々が受け入れられているということを、我々自身が受け入れることができるということによって、現実のものとなるのでしょう。それは「場の中にいる」ということの別の言い方であるように思われます。教会は事実としてそのような「場所」になるべきだと言われているのでしょう。共に歌を歌うことはその表現手段の一つであるということになります。しかし、そのような交わりの「場」自体が、一つの幻想であると指弾される弱さを、教会は常に抱え込んでいます。
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△ ここから著者自身に関わる三つの事例が述懐されます。
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△ 「十字架に付けられ、蘇らされたキリストの刻印を押された共同体における」赦しと交わりの文脈というものがある、と著者は言います。そして歌うことの実践が、そのような共同体における「習慣として展開されるなら」、その文脈において我々の生は強力に配置し直されるのだと主張されます。そのような「文脈」は確かに西洋文化の一部であって、人々はそこで生き直す力を与えられてきたのだということを否定することはできません。著者は「信仰」を「実践」の文脈に置き直すことによって、もう一度、教会の生命を賦活させたいと考えているのでしょう。
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△ ここに出てくる指導者、聖人が単数で、定冠詞が付されているとしたら、それは聖者、イエス・キリストのことを指すでしょう。我々は、能動的受容者(能動的受け手)となることによって、神の恵みに与るように招かれており、イエスはその導き手であると言われているのではないかと思われます。
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△ 著者は赦しを実践、訓練、学習の文脈に据えることによって、赦しが生きられる社会的空間の創出に目を向けようと呼びかけています。そのような関心から「ヤコブの手紙」が高く評価されることになります。私としては、この論文が、身体的訓練を伴う修行に、教会がもう一度目を向ける契機になるのではないかとも考えます。信仰箇条を基準として、それを受け入れない者を裁く共同体から、教会が真の赦しの共同体になることができるとしたら、ここで著者が論じていることは大いに示唆に富んでいると思われます。なお著者の言う「十字架に付けられ、甦らされたキリストの刻印を押されて」ということを、私は「イエスの死を、いつもこの身に負っている(Uコリ4:10)」と解したいと思います。信仰の秘義があるとすれば、まさにそこにこそ見出されるでしょう。
『また言われた、「神の国は何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」』(マルコ4:30−32)。
先に生命発生のシステムとしての「生成子」について書きました(「生成子の概念がもたらすもの」参照)。人間の社会においても、もしそれを明確に把握することができれば、そこから、いわばその「小さな種」が大きく成長してゆくことを見ることができます。小さく始めた事業が、大企業に成長するという話は、決して珍しくはありません。
神の国は、どこか別世界にあるのではなく、この地上で、あのからし種のように大きく成長してゆくべきものです。私はイエスの神の国の譬え話について、一体どのように理解したらよいのだろうかと、長い間考えさせられてきました。しかし「生成子」の概念に到達して、ようやくその意味がわかるような気がしてきました。
イエスやブッダやムハンマドのような一個人から世界宗教が生まれてきたように、生成子というものは、社会的現実のうちにも働いていて、時にそれが世界的な拡がりの中で発展して行くということが起ります。今日の世界で、何が社会的生成子であるのかということは、簡単には見出されないでしょう。しかし、もしそれが発見されれば、それは爆発的にこの世界に拡がってゆくに違いありません。
人類の歴史はそのような形で発展してきたのではないでしょうか。世界の片隅のどこかで起ったことが、またたく間に世界中に拡がってゆきます。その元にあるものを「生成子」と呼んでもよいでしょう。生成子という「発生させるもの」があり、それによって世界の姿が一変します。この地上には多くの苦しみがあります。しかし、同時に、ある「力」が働いて、その運動が「福音(よきおとずれ)」として世界中に拡がってゆくということが、実際に起ります。例えば、フレミングがアオカビから抗生物質(ペニシリン)を発見したことによって、人類はどれだけ恩恵を受けたことでしょうか。
「からし種」は至るところに潜んでいます。しかし、それがそれとしてはっきり認識されないだけのことです。宗教的偏見を取り去って、イエスの言葉に触れるならば、そこには明確な知恵が示されているのではないでしょうか。「神の国」はからし種のようなものです。ひとたびそれが地上に蒔かれるならば、それは大きく枝を張って、その陰に空の鳥が宿るほどになるでしょう。