閑老人のつぶやき 宗教について

T 滝沢克己の世界・対話の部屋

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Z 状況分析・主題設定・暗号解読

[ キリスト論の理論的骨格

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] 諸悪莫作

T 滝沢克己の世界・対話の部屋

私の宗教観の一端は、WEBページ滝沢克己の世界・対話の部屋で見ることが出来ます。「閑老人」の名前で書き込んでいます。

この欄にも徐々に書いていくつもりですが、取り敢えずはそちらをご覧下さい。(以下、私の書き込みの部分だけを誤記訂正の上転載します。)

無信仰の信仰 No.40 投稿者: 閑老人 02/23/06 12:27
旧約聖書学者、関根正雄は西田、田辺の影響のもとで神は「無」であるという思想を抱いていたようです。関根は哲学者の小野寺功を評価していたと聞いたことがありますが、それもその点からだったと思います。

関根の「無信仰の信仰」という言葉にかねてから興味を持っていた私は、かなり前のことですが、量義治著『無信仰の信仰 神なき時代をどう生きるか』を読んでみたことがあります。しかし私としては今ひとつ釈然としないという読後感を持った記憶があります。(今読み直せば印象が変わってくるかもしれません。)

無‐神論に基づく有‐神論の展開(いわゆる無神論、有神論と区別してこのように書きます)ということは、まだ始まったばかりの課題であって、これから様々なことが論じられてくるのでしょう。先に言及した柳澤桂子『いのちの日記』には「神の前に、神とともに、神なしに生きる」というボンヘッファーの言葉が副題として掲げられています。柳澤はボンヘッファーの獄中書簡集を総括して、「ボンヘッファーは苦しみ抜いて、イエスから脱出した」と書いています。しかし私に言わせれば、「神の前に、神とともに、神なしに」生きたのはイエスその人なのです!

翻って、滝沢の純粋神人学は有‐神論の極限的表現であったのではないかと私は考えています。あるいは無‐神論と有‐神論との接点にあったと言うべきかもしれません。そこに滝沢の「普遍的キリスト論」が位置していたと思います。滝沢はあくまでも「ロゴス」の人であって、そこに彼の強みと弱みがあったと思います。普遍的キリスト論もキリスト論であって、それを「イエスの宗教」と同定することはできません。

ブログに「事事無礙」とありましたが、事事無礙、理事無礙であるためには、ロゴスを放棄しなければならないのではないでしょうか。どこまでもロゴスで割り切ることには限界があると思います。


Re: 無信仰の信仰 No.42 投稿者: 閑老人 02/24/06 14:12
joyさん、レス有難うございます。

思えば、40年も昔、阿蘇の山中でその謦咳に接して以来、滝沢先生は私にとって距離を感じつつ、気になる存在でした。

それってどういうことだろうと、今の時点で色々と書きつけてみたのが、私の投稿(書き込み)でした。

滝沢先生との対話はこれからも尽きないと思いますが、私の書き込みはそろそろ終了すべき頃かなと思います。

終わりに西田の好きだった大燈国師のことばを掲げます。

「億劫に相別れて 須臾も離れず 尽日相対して 刹那も対せず この理 人人これあり」

普遍的キリスト論としての滝沢神人学 No.36 投稿者: 閑老人 02/18/06 10:34
これまで色々と書き込みをさせていただいて、そろそろ私の滝沢先生についての積極的評価を書くべき時ではないかと思うようになりました。

古来、イエス・キリストは全き神にして全き人であると言い表されて来ました。100%神であり、100%人であるとはどういうことでしょうか。私が西田の「矛盾的自己同一」という表現に興味を持ったきっかけの一つはそこにあります。滝沢の不可分・不可同・不可逆についても、私はやはりキリスト論の問題を理解する手がかりとして大いに関心を抱いて来ました。

先に「不可分・不可同・不可逆」を私は「神人の不可侵の同一性=不可逆の二重性・不可分の両義性・不可同の相補性」と定式化すると書きましたが、それもキリスト論に関わっています。しかしこの間の書き込みを通して、それは「神の場における神人の不可侵の同一性=不可逆の二重性・不可分の両義性・不可同の相補性」と言われるべきではないかと考えるようになりました。

「神の場」において、あるいは「聖霊の働き」のもとにあって、不可侵(inaccessible)の「不(in-)」は初めて解除されます。そのとき不可逆か、可逆かという、八木誠一氏などの議論も解決すると考えます。人の側から見れば、それはどこまでも不可逆であると思います。

滝沢の最大の功績は、このキリスト論的な事態が(教会という救済機関を経ないで、直ちに)万人に生起すべき真理であると把握した点にあります。つまり普遍的キリスト論を提示したところにあります。そして同時にそれは聖霊論的な事柄であると私は理解しています。

小野寺功氏(一度だけお目にかかって、親しくお話しさせていただいたことがあります)が、「聖霊の神学」の見地から滝沢の思想に関心を示したことに対して、私は共感を持ちます。

滝沢神人学は普遍的キリスト論であるというのが私の滝沢観です。

Re: 普遍的キリスト論としての滝沢神人学 No.39 投稿者: 閑老人 02/20/06 14:30
joyさんの賛同を得られてうれしく思います。「脱キリスト教的キリスト教徒」であるという意味では、私も「滝沢の徒」ではないかと思います。

「神の場」という言葉は、私の場合、テイヤール・ド・シャルダンの Le Milieu divin から借りたものです。神の場は宗教思想の宇宙論的な展開を可能にする言葉ではないかと思います。宇宙論ということでは、賀川豊彦の『宇宙の目的』が日本のキリスト教界(思想界)で忘れ去られているように見えるのは残念なことだと思います。

テーマから少し離れますが、賀川の「意外な」側面を紹介するために、少し長いですが、『宇宙の目的』の最後の部分を引用いたします。

『宇宙悪よりの解脱救済の道を、昔から人間は三つの角度から考えた。第一はインドの宗教の形式、すなわち、虚無思想である。第二は西欧思想として発達した有神的救済の道である。第三は近代科学思想による宇宙悪の追放である。
私は、この三つの思想はたがいに対立するものではないと考える。これらは人間の意識の上に発生するものである。西田幾多郎博士は、「無」の思想の意識的効用を認めた。代数学的に中世期のクザのニコラスもこの「零」を認めた。近代量子力学のハーマン・ワイルもクザのニコラスと同じ思想を持っている思想家である。虚無は排除してよいが「零」を選択として使用し、思想としての宇宙悪を排除せよと私はいう。また第三の科学的悪の追放も、近代的意味において極力努力する必要があると思う。
しかし、人間の力には限度があるから、人間を生存せしめ、進化発展せしめる力を先験的に準備している宇宙の絶対意志にすべて依存するよりほかに解決の道はないと思う。
宇宙に目的ありと発見した以上、目的を付与した絶対意志に、これから後の発展を委託すべきだと思う。さればといって、なげやりにせよという意味ではない。私は、人間の意識の目覚めるままに、すべてを切り開いていく苦闘そのものに、超越的宇宙意志の加勢あることを見いだすべきであると思う。』

無の場所 No.31 投稿者: 閑老人 02/15/06 16:47
joyさんの…「一旦その構図にはまってしまう」「(還元される)かのような」と言われるところで引いていないでしょうか。そのように傍観している余地はないのです。常に現在の行為に(行為的直感に)立っているでしょうか。ここで立ち止まらなくていいと思います。身構える必要すら、ないということです…という「超越的内在と内在的超越」の項目での新しいレスへの私なりの回答を、新しいテーマで書きます。

西田の「無の場所」、「有の場所」を理解するために、私は無の場所(無言語の場所、非言語世界)、有の場所(有言語の場所、言語世界)ということを考えてみました。

その意味するところは、マイケル・ポラニーの「暗黙知」、「分節知」と重なります。人の顔のように、よく見知っていても、言葉では表現しにくい知を暗黙知と言い、学校の授業で習う知識のようにはっきり言葉で表現できる知識を分節知と言います。この暗黙知については、学習のパラドックスとも言われる次のアリストテレスの言葉が知られています。

「ある種の事柄を行なうためには、人は先ずその事柄を学ばねばならないのであるが、人はその事柄を実際に行なうことによって初めて学ぶのである。」(泳げないから、泳ぎを習おうとしているのに、実際に泳がなければ泳げるようにならないなんて、それでは私はどうしたらよいのですか。)

すべて技能(スキル)と言われるものの習得にはこのことが当てはまります。それはラーニング・バイ・ドゥーイングとも言われてきました。西田の「行為的直観」も暗黙知に関わる事柄なのではないでしょうか。

暗黙知は科学の研究において創造的契機となるもので、「創発の暗黙知」などとも言われます。最近読んだ柳澤桂子の『いのちの日記』に紹介されていたアリエティの「内概念」は、ポラニーの「暗黙知」に通じるものがあると思いました。

西田の叡知的世界はいわばこのような「無の場所」の奥底に想定されているもので、そこからインスピレーション(これもスピリットの派生語)が湧き出てくるのでしょう。それすら突き破ったところに「絶対無の場所」(私の言う神の場)があるのでしょう。しかし西田が旧約聖書を念頭に置いて「神を見た者は死ぬ」と言っているように、神の場は人が、そこに、にわかには立ち得ない峻厳な場所だと思います。

「神」でもなく「場」でもない、「神の場」にリアリティがあります。しかし人が神の場に生かされていると感じ、その促しに従って生きるということは、どういうことなのでしょうか。

私が言いたかったことは、神人の第一義・第二義の接触、不可分・不可同・不可逆ということで、果たしてすべてが言い表されているのかというとです。

舌足らずですが、これで終わります。


Re: 無の場所 No.34 投稿者: 閑老人 02/16/06 09:20
joyさんの柔軟性に触れて安心しました(失礼!)。

段々、延原時行氏の議論に近づいているようにも思いますが、私もホワイトヘッド『過程と実在』の例の箇所を念のために引用いたします(山本誠作訳、p.384-386、一箇所訂正)。

「神が恒常的で世界が流動的だというのは、世界が恒常的で神が流動的だというのと同じく、真である。
神が一で世界が多だというのは、世界が一で神が多だというのと同じく、真である。
世界と比べて、神が勝義に現実的だというのは、神と比べて、世界が勝義に現実的だということと同じく、真である。
世界が神に内在するというのは、神が世界に内在するということと同じく、真である。
神が世界を超越するというのは、世界が神を超越するということと同じく、真である。
神が世界を創造するというのは、世界が神を創造するということと同じく、真である。
神と世界とは対照化されて対立するものであり、これらの対立するものによって、創造性は対立のうちにあるあれこれのものを伴った離接的な諸多性を、コントラストのうちにあるあれこれのものを伴った合生する統一性へと転換するという、その至高の業を成し遂げる。…」

「どんな点においても、神と世界とは、それらの過程に関して相互に逆に動く。神は原初的には一である。つまり、神は多くの潜勢的形式の関連の原初的統一性である。過程において、神は結果的諸多性を獲得し、原初的性格はこうした諸多性をそれ自身の統一性へと吸収する。世界は原初的には多である。つまり、自然的有限性を伴った多くの現実的契機である。過程において、それは結果的統一性を獲得する。そしてこの統一性は新たな契機であり、原初的性格の諸多性へと吸収される。こうして神は、世界が多にして一とみなされうるとは逆の意味で、一にして多とみなされうる。いっさいの宗教の基礎である宇宙論の主題は、永続的統一性へと移行する世界の力動的努力の物語であり、そして世界の多様な努力を吸収することにより完成の目的を達成する神のヴィジョンの静的威厳の物語である。」

これらのホワイトヘッドの言葉は、先ずもってその西田哲学との親近性を示すものであると思います。滝沢先生の思想がそれにどのように関わってくるのかについては、今後の私の宿題にさせていただきたいと思います。

気は聖霊である No.21 投稿者: 閑老人 02/05/06 11:22
だんまさん、ご教示有難うございます。新しいテーマについて書きます。だんまさんの列記された事柄に一々応答することは非専門家の私の手に余ります。ここが学会のように滝沢学についての専門的な事柄だけをやり取りする場所であるのなら、これを最後にそろそろ退散させていただこうかなとも思います。それにしても皆さんがもっと遠慮なく書き込みをして下さると面白くなるのですが…。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「気は聖霊である」は門脇佳吉神父の言葉です。禅の修業を積んだ方の言葉として面白いと思い、標題に掲げました。

ヘブライ語のルーアッハ、ギリシャ語のプネウマ、ラテン語のスピリトゥス、そして中国語の「氣(chi)」はいずれも呼吸に関連する言葉です。同時にルーアッハ、プネウマ、スピリトゥスは聖書で「霊」と訳されてきた言葉です。私もそれを門脇神父のように「気」と関連づけて考えたいと思います。

「気」はバイオエナジー(生体エネルギー)であると言ったのは西野流呼吸法の西野皓三です。気は人間の潜在的可能性に関わるものとして注目に値すると思います。

滝沢先生が手かざしで眼の病気を癒されたということも気の働きとして大いにありうることだと私は考えています。

滝沢先生は井上良雄の『神の国の証人ブルームハルト父子』(新教出版社)に大変興味を持たれたようです。父ブルームハルトに起こったことは、どう考えても現代版エキソシストの現象です。それが現代世界で起こったということが面白いところです。それにしてもブルームハルト父子にどうして癒しの力が与えられたのでしょうか。それを直ぐに信仰の問題に結びつけないで考えるとすれば、そこに働いていた力として考えられるのもやはり気ではないでしょうか。

透視、予知、千里眼など、いわゆる超能力も、私は一概に否定できないと考えています。ウィリアム・ジェームズあたりから超能力についての学問的関心が始まっています。それも気の働きと関連づけて考えてみることが出来るのではないでしょうか。

西洋の中世人が信じた天使的存在(スコラの用語では離存形相、separate form)は三次元の世界を超えています。それをいたずらに荒唐無稽な存在ではないと思わせるのも、「気」の働きが否定しがたいものとしてあるからです。

この行き詰まった世界でなお未来に希望を托すことができるとしたら、それは人間の潜在的可能性にかかっています。気は人間の潜在能力に関わるものとして一考に値します。

Re: 気は聖霊である No.24 投稿者: 閑老人 02/07/06 14:10
だんまさん、応答有難うございます。

神学的に言えば天使も被造物であって、神ではありません。気ももしそれがあるのであれば、物理的な現象に類比的な何かであって、神ではありません。ですから門脇神父はかなり思い切った発言をしているわけです。(もちろん今私が言ったようなことはわきまえた上で、敢えてそういったのだと思います。)

三位一体について私は、包摂者(聖霊)・超越者(父)・指示者(子)、あるいは根源(父)・媒体(子)・作用(聖霊)といったような理解の仕方をしています。包摂者は西田的な意味で場所と言ってもいいかもしれません。作用というのはたとえば光で、根源は光源、媒体はレンズであると言うように、これも比喩的な説明です。

しかしそれでは何のことかわからないので、聖霊は気のようなもの(直喩)と言うことは可能でしょう。それを隠喩的に言うと、気は聖霊であるということになります。

Re: 気は聖霊である No.25 投稿者: 閑老人 02/08/06 06:58
昨日は出掛ける前に書いたので、少し補足します。

門脇佳吉師は湯浅泰雄氏などと一緒に人体科学会(中国で始まった気の科学的な研究機関の日本版)をつくった方だと記憶しています。中国で気は医療に用いられていたりするようですが、宗教のある側面を理解するためにも有用ではないかと思います。湯浅氏にはそのような関心があったのではないでしょうか。

三位一体論について、超越者・指示者ということを言いましたが、それは言葉のシニフィアン(指示者)とシニフィエ(超越者)のことであると言い換えることもできるかもしれません。そこにもまた不可分・不可同・不可逆の関係があります。

三位一体論というのは根源的に言葉の成り立ちに関わっている事柄なのではないでしょうか。言葉で言い表しえない神について言葉で表現しようとするとき、三位一体論的な構造が生まれてくると言うべきかもしれません。

なお気に関連して呼吸に言及したのは、禅で調心・調息・調身などと言われるように、気は呼吸の仕方と密接に関わっていると思われるからです。心を調え、息を調え、身体を調えるというのは、禅に限らず、人の生き方の基本だと思います。

「みんなちがって みんないい」の金子みすゝさんが出てきたので、少し驚きました。だんまさんはきっと心のやさしい人なのでしょう。

超越的内在と内在的超越 No.18 投稿者: 閑老人 02/04/06 13:21

ところで西田は『場所的論理と宗教的世界観』で、これからの宗教は超越的内在ではなく、内在的超越の方向で進まなくてはならないという主旨のことを述べています。

超越的内在が、上(神)から下(人)への真理の開示(すなわち啓示)であるとするなら、内在的超越は下から新しい秩序が立ち上がってくること(創発、発現、emergence)であると理解することも可能ではないでしょうか。イエスのことを神の受肉(神が人になったということ)であるとみなすか、イエスにおいて新しい「愛の秩序(パスカル)」が立ち上がってきたとみなすかの違いです。

バルトが超越的内在(啓示)、西田は内在的超越(創発)の方向で宗教を考えているとすれば、滝沢はどちらから宗教を見ているのでしょうか。

両者の交差点(接点)に滝沢が居るのかもしれません。それが神人の接触と言われる事態であるのではないでしょうか。

失礼な言い方をすれば、滝沢はそこで「固まってしまって」いるような気がします。西田哲学がダイナミックスであるとすれば、滝沢神人学はスタティックスであるという印象を、私はどうしても拭うことが出来ません。

どなたか私のこのような見解を正して下されば幸いです。

Re: 超越的内在と内在的超越 No.29 投稿者: 閑老人 02/13/06 17:26
joyさんのレスに気づきませんでした。

「原事実が絶えず起こる不可逆的事態」をご指摘になりましたが、一旦その構図にはまってしまうと、それが何を意味しているのかさらに問うことは不可能になってしまうのではないでしょうか。「良心」の事柄として、理解できなくはありませんが、滝沢先生およびシンパの方々の、一切の問題がそこに還元されるかのような論じ方が気になります。

良くも悪くも、そこで「止まってしまっている」と言えるのではないでしょうか。

矛盾的自己同一 No.16 投稿者: 閑老人 01/28/06 13:38
西田の「矛盾的自己同一」を英語で言い表わすならば、それはcontradictory identity または identeity through contradiction ということになるでしょう。

私は以前からこの「自己同一(identity)」をエリック・エリクソンがはやらせた「アイデンティティ」とう言葉、つまり「日本人としてのアイデンティティ」などと言うときの「アイデンティティ」と重ね合わせて考えてきました。

帰国子女のことを例に取るならば、帰国子女は、日本人であって外国人のようである、外国人のようであって日本人であるという、「矛盾的自己同一」の問題に逢着します。いわばエリック・エリクソンの言う「アイデンティティ・クライシス」にぶつかります。滝沢流に言えば、自分の中に、「日本人であること」と「外国人であること」との、「不可分・不可同・不可逆」の関係が持ち込まれてきます。

アイデンティティは帰属に関わる問題です。昔話のこうもりは、鳥の仲間に属するのか、けものの仲間に属するのかという問題で、どちらからも仲間はずれにされてしまいます。だからこうもりは「矛盾的自己同一的」存在です。

今日、国際化(グローバリゼーション)の流れの中で、再び、「日本人としてのアイデンティティ」、「日本という国のアイデンティティ(国体・国柄)」が強調され、排外主義の傾向がつよまっています。

しかしもう一方では、「平和のためにボーダーを越える」必要が人々の間で認識されつつあります。宗教とか、国籍とか、ジェンダーとか、言語とか、文化とか、世代とか、職業とかいう「帰属とアイデンティティ」を越えて、人々が手をつなぐ必要性が意識されるようになりました。そのとき人々は「矛盾的自己同一」の問題を抱え込むことになります。

西田も、西洋哲学と東洋人(日本人)である自分との間で同じ問題に逢着したのでしょう。それは日本の近代化=西洋化の宿命でもありました。そしてその問題の解決のために、帰属とアイデンティティを越える「絶対無の場所」を求めることになったのでしょう。酒井直樹氏は「無徴の場所 unmarked place」という言葉を使っていますが、日本人であるとか外国人であるとか、男であるとか女であるとか、徴づけられない(マークされない)場所から事柄を捉え直す必要を、西田も痛切に感じていたのではないでしょうか。

滝沢先生が教会への帰属の問題に拘ったのも(結局は洗礼を受けましたが)、やはり同様の問題があったからだと思います。

西田哲学の理解の仕方として邪道であるかも知れませんが、私はそういうところにその今日的意義を認めたいと考えています。人間を特定の集団に帰属する「単体」として捉えるのではなく、「複合的」な存在、ハイブリッドな存在として捉えることの大切さと言い換えることも出来るでしょう。滝沢神人学も人間をハイブリッドな存在として捉えているのではないでしょうか。

雑感 No.15 投稿者: 閑老人 01/23/06 13:06
だんまさんの「マニアックな」投稿に直接応えるものではありませんが、それに多少関連して、前から気になっていたことを書いてみます。

@田辺元は、よく「死・復活を行ずる」と言います。これは「死・復活を信ずる」というキリスト教の立場を一歩進めた境地で、私はある意味で評価しています。いわば自己否定(死)を介しての自己実現(復活)と言ったところでしょうか。しかし滝沢先生は田辺のそのような否定媒介的な思想がお嫌いだったように思われます。西田を支持し、田辺を退ける滝沢先生のお考えは何を意味しているのでしょうか。直接無媒介の真理に関わるということなのでしょうか。

A鈴木亨の「存在者逆接空」は滝沢先生のお考えに近いものがあるでしょう。しかし不可逆と逆接との異同が気になるところです。それを解明するのは至難のことですが…。

B小野寺功の「三位一体の於てある場所」は西田哲学との格闘の中から生まれてきたものです。無(無ー神)が有(有ー神)に転ずるそのとき、神は三位一体論的に思念されると私は解釈しています。西田も自己の立場から三一論的思惟を肯定していたと思います。

「対話の部屋」が少し寂しいので、またまた要らざることを書いてしまいました。ご容赦下さい。

第一義の接触と第二義の接触 No.12 投稿者: 閑老人 12/06/05 12:20
先に滝沢先生の神人の第一義の接触と第二義の接触について、私には依然として不明であると書きました。

それを理解するために、このように考えてみたらどうかということについて書いてみたいと思います。

先ず滝沢先生のお考えを「神の場に生きる」と言い換えて見たいと思います。そしてアリストテレスの用語を転用して以下のように考えて見ます。

@神の場に生きることの第一現実態(すべての人は神の場に生きているということ)。これを第一義の接触とみなす。

A神の場に生きることの第二現実態(神の場に生きることが現に実践されているということ)。これを第二義の接触とみなす。

B神の場に生きることの可能態(未だ求道の段階にあるということ)。

C神の場においては可能態は現実態である(求道は既に神の場にあってなされているということ)。

以上です。

ご参考までにアリストテレス『心とは何か』(講談社学術文庫)にある、訳者桑子敏雄氏の、「終局態(エンテレケイア)、実現態(エネルゲイア)と可能態(デュナミス)」についての解説の一部を引用いたします。

《「エネルゲイア」と「エンテレケイア」とは「デュナミス」と対をなすことばであって、「デュナミス」は「能力」「可能性」を意味する。訳語としては、ほぼ一貫して「可能態」を用いた。他方、「エネルゲイア」は、その能力が発揮されていることである。アリストテレスがしばしば用いる例でいえば、大工は家を建てる能力をもっているが、つねに建てているわけではない。その能力は実際に家が建てられているとき発揮されている。そのときに能力はエネルゲイアになっているわけである。
また、大工になりたいと思っている者は、まだ大工ではないが、その能力を獲得する可能性をもっていて、すでに大工になっている者から家をつくる技術と知識とを学ぶことができる。しかし、たとえば犬や猫、ましてや木や石は学ぶことはできない。言い換えれば、人間ははじめから建築する能力を獲得する可能性をもつ。こちらの可能性が実現し、家を建てる能力がそなわった段階をアリストテレスは、「第一のエネルゲイア」、「第一のエンテレケイア」と呼ぶ。そして、実際にこの能力が発揮されている状態が第二のエネルゲイア、エンテレケイアである。
可能性が実際にそなわっている状態と、その能力が発揮されている状態の二つをアリストテレスは「エネルゲイア」と呼ぶわけであるから、私はこのことばを「実現態」と訳した。それは文字どおりには、能力が「はたらきのうちにあること」を意味する。》

このような私の考えをご批判くだされば幸いです。

Re: 「不可逆」と「逆対応」につて No.7 投稿者: 閑老人 11/01/05 12:55
私は滝沢協会の会員でもなく、専門の研究者でもありませんが、何もレスがないのはさびしいことですので、全くの私見を述べます。

@第一義、第二義の接触ということそれ自体が私には依然として不明です。ヨハネによる福音書の冒頭に、「初めにロゴスがあった。ロゴスは神と共にあった」と書かれています。いわばそれが神人の第一義の接触ということなのでしょうか。滝沢先生はよく太初のロゴスという言葉を使われたと思いますが…。

A不可逆ということでは、西田も「人から神に至る道はなく、神から人に至る道しかない」とどこかに書いていたと思います。

B逆対応という西田の用語も私は正確に理解しているとは言えません。しかし勝手に「イエスの宗教」とキリスト教とは「逆対応」するなどと考えています。その意味は、以下の通りです。

ア)先在のロゴスの受肉(キリスト教)→生後の受肉(イエスの宗教)。イエスは生涯のある時期に神人一体の境地に立たれたということ。

イ)死後の復活(キリスト教)→生前の復活(イエスの宗教)。イエスは生涯のある時期に古い自己に死んで新しい自己に生きるという境涯に立たれたということ(ナザレの大工の子イエスが神の国の宣教者に生まれ変わったということ)。

ウ)贖罪の死(キリスト教)→贖罪の生(イエスの宗教)。イエスは罪びととして差別された人たちと同じ低みに立って、彼らと共に生きた方であるということ。

エ)キリストの信じる者への現存内住(キリスト教)→イエスは生身の人間(ただの人イエス!)でありながら、永遠の生命(神のいのち)を逆説的に生き抜いた方である(イエスの宗教)。その神のいのちはキリストを信じるか否かに関わらず、今も万人の足下に厳然として働いている。

私はこれを「逆対応の仮説」と呼んでいますが、滝沢先生の思想に触れなければ、こんな考えは生まれて来なかったでしょう。(特に『聖書入門 マタイ福音書講義@〜D』三一書房に啓発されて、こんなことを考えるようになりました。贖罪の生については、その通りのことが書かれていたと思います。)

なお私はかねてから滝沢先生のお考えを以下のように定式化しています。

神人の不可侵の同一性=神人の不可逆の二重性・不可分の両義性・不可同の相補性。

これは西田の絶対矛盾的自己同一に照応するものでしょう。

それはもはや頭で考えて理解されるようなものではなく、キリスト教的に言えば、聖霊論的に験証(experimentation)されるべきものではないでしょうか。

Re: 滝沢の貨幣観、お金観とは? No.4 投稿者: 閑老人 06/19/05 18:46
滝沢先生とはご生前に多少の面識があった者です。

先生の貨幣観について私は詳らかではありませんので、直接それに関することを申し上げるのではなく、私見を述べさせていただきます。先ず最近ふと目にとまった先生の文章を引用します。

「私のここに試みた批評が、専ら哲学としての「弁証法的唯物論」の「物質」概念に関するものであって、資本主義社会の一般的運動法則を明らかにしたカール・マルクスの経済学に関わるものでないことは、私が敢えて断るまでもなく、注意深い読者にとっては既に自ら明らかなことであろう。」(『西田哲学の根本問題』こぶし書房163ページ)

イデオロギーとしての哲学を離れ、「現実的で実証的な学」を志向したマルクスは、実は「弁証法的唯物論」、「史的唯物論」という言葉を一度も使ったことがなかったという指摘がなされています。(『マルクスと哲学』田端稔著、新泉社、2004年)

それで私は滝沢先生の上の言葉に「お!」と思った次第です。

ところで貨幣とは交換価値として固定化した、金銀に代表される
商品のことであり、モノの使用価値(有用性)から遊離した価値尺度(労働時間と稀少性の度合いによってその価値が定まる)であるという言い方が一応(!)成り立つとすれば、滝沢先生が説かれた「真理」は、貨幣価値によって量られるような「商品」でしょうか。それともそのもの(思想)の使用価値でしょうか。

そのどちらでもないパーソナルな「共有価値」と言うべきものではないでしょうか。しかしそれとお金とどんな関係があるでしょうか。答えは依然として「汝ら神と富とに兼ね仕うること能わず」ということにあるのかも知れません。

もっとも滝沢先生は銀行の果たす合理的な役割についてどこかで論じておられましたから、貨幣の持つ積極性について、先生ご自身が論じておられないとは限りません。

閑老人のつぶやきでした。

 U 脱して生きる

宗教は人の帰属とアイデンティティーを究極的に決定(けつじょう)します。聖書に「わたしたちの国籍は天にある(ピリピ3:20)」と書かれている通りです。つまり地上の何にも帰属しないという意味で、国籍は天にあると言われており、そこに究極的な安住の場所があるということなのでしょう。しかしそう言いながら、キリスト者はこの地上で特定の教団に帰属しています。そして「キリスト者」としてのアイデンティティーを確立しようと日々努めています。天がキリスト者だけのものであるとすれば、そしてある特定の教団に帰属する者たちだけに開かれているとすれば、その努力にも首尾一貫性があると言うべきでしょう。

 

キリスト教に限らず、そのように「古典的」な宗教観が未だに多くの人たちの心を支配しているように思われます。だからこそ未だに宗教間対立が絶えないということにもなるのでしょう。しかし宗教がそこで固まってしまっているとしたら、そういう宗教が明日の世界の担い手になるとは到底思えません。あるいはそのように固化した(凝り固まった)宗教に明日はないと言うべきでしょう。

 

「本について」のページで私は「宗教は世界に脱入・脱融すべきである」と書きました。私はその立場を「地の塩の神学」と称しています。つまり塩が塩の塊である間は何の役にも立ちません。塩は溶けて、食べ物に染み込んで、初めてそれに味をつけたり、防腐剤の役割を果たしたりします。それと同様に宗教はこの世界に溶けこんでしまわなければ、何の役にも立たない、あるいはむしろ有害であるとさえ言うべきではないでしょうか。

 

教会に行かなくなってから、私は自分のことを「元キリスト者」である( I am an ex-Christian.)などと言ってきました。キリスト教の外( ex- )に立つ者だという意味でもあります。そして西田幾多郎の言葉を使えば、「平常底」に生きる者でありたいと念願してきました。平常底(平常的であること)を英語に言い直せばcommonplace(ありふれたこと、陳腐なこと)になるのではないかと思います。しかしそこに人間の真実があるのではないでしょうか。

あるいは「キリスト者」であることを離脱して、できれば「イエスに従う者たち(followers of Jesus)」のひとりとして生きる者でありたいという、願いと姿勢の変化があったと言うべきかもしれません。そのような者として、冒頭の「わたしたちの国籍は天にある」というパウロの言葉を捉え直してみたいと思います。

 

1.脱空間と実空間

 

人間の世界の「実空間」は生き物としての人間のテリトリー(縄張り)によって仕切られています。その意味で人間の世界からボーダーを取り払うことは絶望的に困難であると思われます。

 

実空間、現存在=権力意志が支配する世界、ネグリ・ハートの言い方を借りて「生権力」が支配する世界と言ってもよいでしょうが、その世界を脱して生きる、すなわち脱空間に生きる(実存=平和意志に生きる)ということが、人間に(あるいはこの私に)どこまで可能かということが、今日の世界で切実に問われているような気がします。「国籍は天にある」ということの意味はまさにそこにあるのではないかと私には思われます。そしてそれこそが唯一真正な宗教的課題であると思われるのです。

 

脱空間とはユートピア(無の場所)であると言うこともできるでしょう。(ユートピアとは、トポス=場所にユーという否定の接頭辞がついた言葉、つまり「無の場所」であると、鈴木亨氏がどこかに書いていたと思います。)しかし理想は脱空間に存するのではないでしょうか。

 

2.理想と現実

 

さる問題学の先生が(失礼ながらお名前を失念しました)「問題とは、理想と現実とのギャップであり、その人(々)にとって解決すべき事柄である」とその著書に書いています。そして問題を次の三つに分類しています。

 

起る問題(見える問題):既に起ってしまった問題、これから起ることがはっきりしている問題。問題処理と、問題の事態への対応に追われる毎日。

探す問題:もっと良くしたい、もっと良くなりたいという、改善の欲求を持たなければ生まれてこない問題。

創る問題:誰も問題にしないことを問題にする。原因と法則の発見、あるいは新しい解決手段の発明に導く、創造的な問題意識。

 

社会生活において平和・人権・福祉、あるいは正義と平和・自由と人権・生活と福祉という理想のトライアングルを追求することは、現実において常に裏切られる傾向を持ちます。そこに社会の根本的な問題があります。トライアングルと言ったのは、そのうちどれか一つを欠くと、他の二つも成り立たなくなってしまうからです。

 

パウロの言う「天」を私はそのような理想の在所であるとみなしています。

 

3.セパ(世直し講)の提唱

 

戦争をする国家は正義と平和、生活と福祉、自由と人権を侵害します。戦争は人間の文化目的を破壊します。しかし戦争が常態化した世界で、日本の指導者もまた改憲によってこの国を再び戦争ができる国にしようと企んでいるように思われます。

 

改憲を阻止するために私たちにできることは何でしょうか。もうかなり前のことになりますが、カトリック正義と平和協議会の松浦悟郎神父が「ピース9」という組織をつくられたときの方法に大きな示唆を受けたことがありますので、先ずそのことを取り上げてみたいと思います。

 

先ず現行憲法を守ろうという意志を持った人たちが2〜3人集まります。そして憲法についての勉強会や話し合いを行ないます。そして仲間を増やそうと努め、メンバーが6人になったらグループは二つに分かれます。それぞれのグループが6人になったら二つに分かれるということを繰り返して、グループの数をどんどん増やしていきます。子どもでも仲間になれます。グループには自分たちがつけた名前があり、また通し番号を持ちます。事務局は学習資料や憲法グッズなどを各グループに配布し、また全体のグループ数を掌握します。

 

この組織論に啓発されて、私はセパ(SEPA)の組織論ということを考えました。セパとは6人になったら二つにセパレートするということであり、また改憲をねらう国家主義的な体制からセパレートしているという意味でもあります。同時にセパはグループの単位を表わす言葉でもあります。私が松浦神父のアイデアにつけ加えたことは、一桁のセパの集まり(最大45人までの集まり)を「小会」と言い、二桁のセパの集まり(最大495人)を「中会」と言い、三桁以上のセパの集まり(500人以上)を「大会」と言って、規模が大きくなるにつれて集まりの頻度が少なくなるが、地域毎にセパの集会、小会、中会、大会の集まりを積み重ねていくというものです。もちろん全国大会も開かれるでしょう。

 

これは「細胞分裂」の組織論です。どのような組織であっても、またどのような目的のためにも、仲間を増やすために利用できる組織論ではないでしょうか。

 

私はセパにもう一つ別の意味を持たせています。それは、同時にサンガ(S 僧伽=仏弟子の集団)であり、エクレシア(E イエスの弟子の集団)であり、ポリティカル・パーティー(P 政党)であり、アソシエーション(A 市民的結社)であるような集団(SEPA)ということです。つまり理想を追求する所属を超えた集団という意味です。

 

かつて蓮如の時代、荘園制度の終わりの時期に、自衛のための地縁的な組織(惣)を打ち破って、念仏集団としての講が爆発的に広がるということが起りました。そのときの真宗の組織は大体のところ、講→道場→寺という重層的な構造を持っていたようです。今日の時代も隣組という地縁的排他的な同族主義が強まろうとしています。そのときセパという自発的結社(ボランタリー・アソシエーション)が平和のために爆発的に広がっていくということが起らないものでしょうか。私はそのようなセパを世直し講と称したいと思います。

 

私には時代が脱国民的中間社会の創成と一層の強化を求めているように思われます。脱国民的中間社会とは、教会などの宗教団体、労働組合、協同組合、NPO・NGO、各種市民グループなど、国家主義的な言説にたぶらかされない自立的な諸集団のことを言います。それらを束ねる結集軸ができつつあるようにも思われますが、まだ不十分です。社会に反戦のバリケードを構築する課題はまだ十分に達成されていません。国家=資本複合体(政官業の癒着構造)と対決し、日本をより民主的な国にしていくために、より一層の努力が求められています。私たちは大変困難な状況に追い遣られていますが、なお諦めないであらゆる可能性を追求していくべきだと思います。


V 社会空間論から見た宗教

 

「思想について」のページで「人称圏(言説空間)」について触れました。それを社会空間論として論じてみたのですが、社会空間についてはさらに様々な論点からの考察が可能だと思います。それをこの「宗教について」のページで展開してみたいと思います。

 

@ 祝祭空間・批評空間・実働空間

 

祝祭空間とは文字通り「祭り場」のことです。祭りにおいては日常生活の秩序が超えられています。普段では見られない珍事や面白いことが起ります。ハーヴィー・コックスが自分の子ども時代を思い出して、田舎のお祭りで町長さん(警察署長だったかもしれません)が賭博場を開いたりしたと書いています。祭りは日常生活の秩序を超えているとともに、コンヴィヴィアルな雰囲気に満たされています。コンヴィヴィアルとは文字通りには「共に生きる」ということですが、普通には「ドンチャン騒ぎの」、「祝宴気分の」という意味で使われます。(マイケル・ポラニーも科学的認識論として「コンヴィヴィアル」という言葉を使いますが、その場合には「相互親和的」などと訳されています。)

 

福音書を見る限り、イエス運動はこのコンヴィヴィアルな空気に満ちていたのではないかと、私は考えています。宗教の起源(あるいは根源)に何を見るかということには色々な議論があることでしょう。私は祭りにその一つの起源を見出せるのではないかと考えています。いわばそれは人々の「共生空間」の再現です。日常生活が支配―被支配の関係に織り上げられている「実空間(ケ)」であるとすれば、祭りはもう一度人々を「共生空間」へと連れ戻す「脱空間(ハレ)」であると思います。

 

柄谷行人の議論に触発されて考えたもう一つの「脱空間」に批評空間があります。批評は「実空間」から距離を置かなければ生まれてきません。現実から一歩離れたところで批評が成り立ちます。外国で暮して初めて日本が見えてくると言われるように、自分が置かれている場所に判断の基準を置いている間は、批判的にものを見る目は育ってきません。実際に身体を外に運ばなくても、現実から精神的に距離を置くこと、すなわち想像力を働かさなくては、現実に批判的に対峙することはできないでしょう。

 

「実空間」、あるいは「実働空間」は、現実にこの私を拘束している場所です。実際にはそこを離れて生活していくことはできません。しかし人々がそれを意識化(conscientization)し、それは不動の現実ではなく、変えることのできるものだと考えるようになるキッカケは、上に述べた「脱空間」(祝祭空間と批評空間)にあるのではないでしょうか。

 

A 象徴世界(精神圏)・情報世界(公共圏)・生活世界(親密圏)

 

言葉は象徴(シンボル)の一種です。しかしそれは示差的な体系として複雑な網目を織りなしています。先ずその言葉についての私見を述べます。しかしここでは言語学の厄介な議論に立ち入るいとまはありません。

 

言葉は言葉としてもともと一つのものですが、その様態から分類して、象徴言語・情報言語・生活言語に区分することができるのではないかと、私は考えています。

 

象徴言語とは、宗教の言語、詩の言語、あるいは文学作品の言語などのことです。それは客観的な事実を指し示すための言語ではなく、人間のイマジネーションを触発する言語、あるいはイマジネーションから生まれてくる言語のことです。それは最も原初的な言語の様態ではないかと思われます。

 

それに対して情報言語とは、事実を伝達するための言語のことです。そこでは言語が担う情報量が問われますし、それが伝える事実が真理であるか、それとも虚偽であるかということも問題になります。今日の世界では、この情報言語が溢れかえっていて、人々は情報の海に沈んでしまうのではないかと思われるほどです。

 

生活言語とは、通例では人々の母国語と重なるもので、子どものときから習い覚え、今もそれによって生活している言語のことです。しかし生活言語は学習言語と対比されることもあります。生活言語は、今述べたように、子どものときから無意識に身につけた言葉、あるいは人々がそれで日常生活を送っている言葉のことですが、学習言語とは書き言葉と共に学校で習う抽象的な言語のことです。学習言語はほぼ情報言語に相当するということができます。生活言語と学習言語とは、生活言語が学習言語の下地となり、学習言語が生活言語を豊かにするという関係にあります。

 

言語のこの三つの様態に照応するものとして、私は象徴世界(精神圏)・情報世界(公共圏)・生活世界(親密圏)ということを考えています。人々はこの三つの世界に住んでいて、その間を行ったり来たりしています。あるいはその三つの世界が相互浸透して人それぞれの独自の世界をつくり上げていると言うことができるでしょう。

 

象徴世界(精神圏)、あるいは宗教が、今も重大な意味を持っていて、人々の生活世界を隈なく支配している地域もあります。あるいは日本のように、大変世俗化しているように見える国でも、支配層が再び天皇制のシンボル体系を強化して、「国民」を再び国家神道的に染め上げようとしているかに思われる国もあります。

 

ここで私が指摘したいのは、情報あるいは情報言語は「公共圏」に属するということです。象徴言語においては、その語るところが事実であるか否かは問われません。精神的価値だけが強調されます。しかし靖国神社を参拝する首相の「心」の発言は、歴史的事実の問題として他国から指弾されます。つまりそれは情報世界(公共圏)の事柄でもあることを免れません。心、あるいは内面的な価値を強調する政治家の意図が、公共圏において暴かれるという事態が起ります。

 

「心」を強調するとき、自分の心と他人の心を区別しないで、いわば一視同仁に、日本人であれば分かる筈だと、国政の代表者として決めつけるのは、既に心の問題を越えた、政治的な謀(はかりごと)にほかなりません。それは日本人にも色々あるという国内の諸多性を無視するとともに、近隣諸国あるいは外国という諸多性(他者性)をも配慮しない、全く独りよがりな暴言です。

 

生活世界(親密圏)、あるいは自分が慣れ親しんだ世界に埋没していていると、首相のこの発言の異常さに気づきません。首相の靖国神社参拝は日本人なら当然のことだという言説が広く受け入れられてしまうのは、日本の社会で、表面的には情報が溢れかえっているようでも、情報世界(公共圏)が確立していない、あるいは事実が事実として伝えられていない、事実が情緒的な反応によって染め上げられているということを示すものではないかと思われます。


W LIFE論再考

 

私は今の時代はとても抑圧的であると感じています。自分の内面の自由が圧迫されているという感覚を持っています。そのような「内部感覚」や「胸騒ぎ」がどうしても私の心から離れません。恐らくそれは権力が嵩(かさ)にかかって人々の自由を拘束しようとしていることと無関係ではないでしょう。共謀罪のことを一つ考えただけでも憂鬱になります。対米従属的な日本の外交のことを考えても陰惨な気持ちになります。

 

そのような抑圧があるところには、必ず人々の間に対立・分裂・離反の現象が見られると私は考えています。権力と「人民」との間の対立だけのことではありません。抑圧があるところでは、人民の内側にも対立・分裂・離反が生じてきます。

 

この抑圧・分裂・対立・離反の現実に抗して、抑圧の根源に迫り、それに抵抗することはとても勇気のいることだと思います。多くの人たちが体制に順応しているとき、権力側の行動(反動的な政策)に対抗するためには孤立をも辞さない覚悟が求められます。東京都の公立学校で、君が代斉唱時に不起立を貫く先生たちの行動には身につまされるものがあります。簡単にはできないことだと思います。(高橋哲哉氏は、ある集会で、その人たちのことを、不敬事件の内村鑑三の系譜を継ぐ人たち、良心の自由のために闘う人たちであると語っていました。)

 

今まで私はキリスト者として極めて観念的に人間の解放について考えて来たのではないかと反省しています。抑圧・分裂・対立・離反の現実に抗して、抑圧されている人たちが自らの解放・統合・融和・一致を勝ち取っていくプロセスは極めて多難です。それは観念の世界で(心の問題として)解決できる代物ではなく、権力の攻撃に実際に身をさらして、闘いながらつかみとって行く過程を意味しています。

 

かつて私は、キリスト教はLIFEであるなどと考えたことがありました。それはキリスト教の教義を、救済論→解放(自由、Liberty)、創造論→統合(誠実、Integrity)、和解論→融和(友愛→Fraternity)、教会論→一致(平等、Equality)において考えるということで、英語の頭文字をつなぐとLIFEになります。(フランス革命のスローガン、自由・平等・友愛はキリスト教がなければ決して生まれて来なかったでしょう。)

 

今まさにその私の思想が試されているように思われます。観念的に表象していたことを現実に適用することの困難さを痛感しています。


X 狭き門

 

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」(マタイ7:13−14)

 

人は先ず現状肯定の自己実現の道を歩きます。才能や環境に恵まれた人にとっては、その「門は大きく、その道は広い」と言うべきでしょう。しかし多くの人にとっては、現状肯定の自己実現の道を歩くこと自体が険しく、多難な道を行くことです。この世の中でどうにか安定した地歩を占め、そこで生き抜いていくことが精一杯というところでしょう。しかし、皆が歩いているその道が結局は滅びに向かって進んでいるとしたら、どうでしょうか。大抵の人は、そんなことは考えてみたくもないという反応を示すのではないでしょうか。しかし、もしそれが本当だったら、踏んだり蹴ったりだと言いたくなるのではないでしょうか。

 

きわめてわずかな人たちは、現状否定の自己変革・社会変革の道に進みます。ある種の宗教家や、革命家の姿が思い起こされます。しかし大抵の場合は「笛吹けど踊らず」(マタイ11:17)で、社会の多数派は彼らにつき従おうとはしません。多くの人たちは「滅びが目前に迫っている」という彼らの警告に耳を傾けようとはしません。この世の指導者と言われる人たちが何とかやってくれるだろうという期待を抱き続け、少しでも暮らしやすい社会を望むだけです。あるいは「赤信号、みんなで渡れば恐くない」と思っているのでしょう。

 

そもそも現状否定の自己変革・社会変革の道とはどういうことでしょうか。その道筋はついているのでしょうか。そこに本当に命にいたる門があると言えるのでしょうか。「もうひとつの世界」は目前に示されているのでしょうか。そんなことを言われても途方に暮れるばかりです。何しろ社会主義革命という壮大な実験も、今では、とてつもない高価な犠牲を強いた幻想だったことが明らかになっているのではないでしょうか。

 

自分の全財産をなげうってでも獲得すべき宝があると言われても、それはまだ「畑の中に隠されて」(マタイ13:44)います。そんな冒険的な生き方をするよりは、今持っている財産を後生大事に抱えて生きていく方が、よほど安全で確実というものです。

 

宗教家や革命家は断定したがります。「ここがロドスだ、ここで跳べ」。しかし断定する本人がどこまでわかって言っているのでしょうか。その先の保障は何も与えられていないのです。今生(こんじょう)が「滅びにいたる広い道」であると言われても、もうひとつの「命にいたる細い道」は相変わらず閉ざされたままなのではないでしょうか。

 

Y 超管理的経営

 

「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者はすべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」(マルコ10:42〜45)

 

今日のゆがんだ社会を人間の実相に即して見るならば、そこには優劣複合・利益集団・市場圏のダイナミクスが見られます。

 

優劣複合(superiority-inferiority complex)とは、常に人より優れていたいと思い、そのためにかえって自分の劣っている点も同時に意識せざるをえない、人間のあり方を示しています。そこから「SPOT分析」の必要性も生じてきます。

 

そのような人間のあり方(心の持ちよう)から、自分の利害得失によって集団を形成するという性向が生まれ、利益集団(企業集団)が現われてきます。利益集団が活動する場は市場圏です。ヒト(人的資源)・モノ(物的資源)・カネ(財的資源)・コト(情報資源)の交換によって利潤を獲得することが、利益集団の目的であり、この世界はもっぱら市場原理が適用されるべき場と化していきます。

 

仮にそうではない人間のあり方を想像してみるならば、それは原複合・基礎集団・生活圏といったものになるでしょう。

 

原複合とはいのちの原複合のことであり、競争的な対人関係によってゆがめられていない人間の、もともとのあり方を意味しています。そこから基礎集団(base group)が生まれ、そのような人間たちが生きる場としての生活圏が形成されていきます。

 

もちろんそれはユートピアであって、想像上の世界に過ぎません。しかし仮にそのような社会を想定してみるならば、そこでは人が人を支配するという意味での管理の必要性は生じて来ないでしょう。そこでは、ひとりがみんなを代表し、ひとりひとりが自立し、またひとりが他のひとりを仲介して、その人の問題をみんなで共有し、ひとりひとりの関係が常に刷新されていく社会が生まれて来るでしょう。

 

そのような社会は、いわば社長(上司)のいない会社、指揮者のいないオーケストラのようなものです。その社会でも経営は必要とされるでしょう。しかし、その経営はいわば超管理的経営(trans-managerial administration)といったものになるでしょう。ひとりが万人のため、万人がひとりのために存在し、また働く社会では、人が人の上に立つ必要はなくなるからです。そのような社会は、交換価値によってではなく、共有価値、あるいは〈共〉によって成り立つ社会であるとも言えます。

 

平等は、永遠の相のもとで(sub specie aeternitatis)見た、人間社会の理想です。その理想がにわかに実現することはないでしょう。しかしそのような希求が人間の社会からなくならないのは、それがいのちの「原基」に根差す願望だからではないでしょうか。


Z 状況分析・主題設定・暗号解読

 

「あなたがたは、雲が西に起るのを見るとすぐ、にわか雨がやって来る、と言う。果してそのとおりになる。それから南風が吹くと、暑くなるだろう、と言う。果してそのとおりになる。偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか。たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。わたしは言って置く、最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来ることはできない。」(ルカ12:54〜59)

 

自然現象(天地の模様)を正しく見分けることができるのは、自分の利害得失の判断によってその現象を左右することができないからです。雨が降ってほしいと思っても晴れが続き、晴れてほしいと思っても雨が降ります。しかし事が社会現象(今の時代のこと)であれば、たちまち人の目は曇り、その判断力は鈍ってしまいがちです。たとえ正しいとされていることでも、自分の利害に直接関わっていて、その判断次第で自分に損失を招くものであれば、人は何とか言い逃れようとします。それどころか、黒を白と言いくるめることは、今や政治の世界の常套手段と化しています。

 

自分の非を自分で認めることは困難です。ましてや世の不正と闘うことなどは、自分の生活を顧みない行為であって、しようと思ってもなかなかできることではありません。だから正しいことを自分で判断することは棚上げして、世の中の大勢に従っている方が無難であるということにもなります。カントは世間のほとんどの人たち(ほとんどの男性とすべての女性!?)は自分で考えていない。それは為政者にとって大変都合のよいことであると、『啓蒙とは何か』で述べています。

 

しかし社会現象は複雑であって、「単刀直入」に斬りこむわけには行きません。「自分で考える」ことはそれほど簡単なことではありません。また社会はこのように進むべきだと考えても、実際にその通りになるわけでもありません。しばしば、もどかしい思いをさせられます。時勢には逆らえない側面もあります。

 

イエスの場合、今の時代(アイオーン)を見分ける根拠は、来るべき時代にあったと思われます。もう一つの世界(神の国)がまさに来たりつつあったからこそ、その切迫した状況のもとで、激しい行動へと駆り立てられたのでしょう。自分を訴える者と和解するということは、神の裁きと神との和解を暗示しています。

 

しかし、私たちの場合、状況が切迫していると感じられるのは神の国が到来しつつあるからではありません。端的に権力悪(国家悪)というべきものを見せつけられ、ファシズムと見紛う言説が横行しているからこそ、危機感を抱かされています。私たちの状況分析に超越的視座は入り込んでいないように思われます。

 

果してその通りでしょうか。人はなぜ危機意識を持つのでしょうか。全く状況に埋没していたら、危機意識など生まれて来ないのではないでしょうか。

 

カントの場合には「超越論的統覚」(端的に言えば「目覚めていること」)が働いていたと思われます。カントが「自ら考える」というときには、そこに「実空間」を越える視座があったと思われます。ただ「自分で考えろ」と言ったわけではないと思います。現実から距離を置いて批判的にものを考えろということだったと思います。

 

政治的社会的な問題に関わろうとするとき、私たちには状況分析(contextualizing)・主題設定(theming)・暗号解読(decoding)の作業が求められます。それは何か特別の作業というわけではなく、たとえば雑誌の編集者が毎号苦労させられているような作業のことです。あるいは牧師が毎週、説教づくりに苦労するときにも、この作業が求められます。何かのシンポジウムを企画するときも同様です。

 

この作業は、現実から距離を置く行為であると同時に、現実に深く参入する行為でもあるでしょう。時代が解読を求める暗号(コード)は身近なところに潜んでいます。「時代を見分ける」ということは、基本的にはこの暗号を解読することだと思います。マルクスは「商品」という暗号を解読しようと努めました。

 

暗号解読は必然的に主題設定と状況分析を伴います。今の時代を見分けるということは、その作業の全体に関わっています。それを行なう主体は「自分」のほかにはありません。しかしその「自分」は歴史の中の特異点であるとともに、常に他者とのコミュニケーション、相互作用のうちに置かれています。解読されるべき暗号は時代の中に潜んでいます。また自分のテーマ、自分の状況を他者のそれと切り離して論じることは不可能です。

 

ある人は「ひとりで闘い、共に闘う」と言います。「ひとり」は同時に「共に」であるという、その地平が切り開かれていくとき、様々な運動が生起します。その担い手、行為の主体(エージェント)は、一であって、同時に多です。私はあなたであり、あなたは私です。ネグリ・ハートの「マルチチュード」はそのような超人称的、あるいは無人称的主体であるように思われます。イエス運動は、イエスの運動であると同時に、イエスにつき従う「群集(マルチチュード)」の運動でもありました。

 

ネグリ・ハートが、マルチチュードは永続的な現在と歴史的不在との二つの異なる時間を生きる、あるいはマルチチュードは「常に―既に」と「いまだ―ない」という奇妙な二重の時間性を帯びているというとき、現実から距離を置きつつ、現実に参入するということに通じる、ひとつの政治的なスタンスが示されていると思います。


[ キリスト論の理論的骨格


キリスト教の教義の根幹にはキリスト論(Christology)があります。イエスの宗教からなぜキリスト教が発生したかということを歴史的に跡づけることは私の手に余る問題です。しかしキリスト論の理論的構造(骨格)について以前から考えていることがありますので、それについて触れて見たいと思います。


先在受肉 「初めに言があった」(ヨハネ1:1)と記されているように、先在のロゴスの受肉という思想はヨハネによる福音書から来ているように思われます。神が人になったというこの受肉の教理が、キリスト教の大前提として永くキリスト教徒の心を支配してきました。見ようによっては、この教えはキリスト教が初めから言葉の出来事であったということを示すものであるとも言えます。

復活昇天 十字架につけられたイエス・キリストが三日目に死人のうちよりよみがえり、弟子たちに顕現したのち、昇天したという教理も、福音書の記述から来ています。そして今や「全能の父なる神の右に坐して」(使徒信条)います。

贖罪再臨 「使徒信条」よりのちに制定された「ニケア信条」では、「われらのためにポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ」とあります。「われらのために」、すなわち「われらに代わって」十字架につけられたという贖罪死の思想が現われています。そのキリストは「かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人とをさばく」(使徒信条)ために再び来られる(再臨)ということは、そのときに贖罪の業が完成するということを意味しているのだと思われます。

現存内住 イエス・キリストは今このときにも説教と秘跡(サクラメント)において現存し、信ずる者たちのうちに聖霊の働きによって内住しておられるということが、キリスト教徒の礼拝の意味であると思われます。言い換えれば、イエス・キリストは今も神と人との仲保者(仲介者)として働いておられるということが「聖なる公同の教会」(使徒信条)の存在理由とされて来ました。


これを整理するならば、キリスト論の下降面が先在受肉であり、上昇面が復活昇天であり、(歴史的)統一面が贖罪再臨であり、実存面が現存内住であると言うことができると思います。「キリストのからだなる教会」と言われるように、キリスト論は、教会論と切り離しがたいものとして、このような理論的構造のもとに存続してきたのだと思います。


それによって人間の世界に何が与えられるかと言えば、コミュニケーションの永続化です。キリストという象徴(シンボル)が永続的現在として与えられることによって、人間の世界の束の間のコミュニケーションに永続的な保障が与えられます。人間に「不在の現存」(宮本武之助)を供与する象徴が、礼拝において共同化され、その都度活性化されます。キリスト教は根本的な意味で言葉の出来事なのだと思います。


象徴は共同化されることによって活性化されます。しかし共同化・活性化には両面性があります。それが実体化・差別化されるならば、それを共有しない他者は折伏(伝道)の対象となるか、あるいは対立する敵となります。象徴の実体化・差別化とは言葉が物象化されるということであり、人間の世界の抗いがたい傾向として存在するものです。事実、キリスト教史は対立と分裂によって彩られてきました。


共同化・活性化のもう一つの側面は実存化・普遍化です。象徴の実存化・普遍化とは、キリスト論という特殊な表現によって意味されていることに内在しつつ、同時にそこに普遍的な意義を見出していこうとするプロセスのことです。いわば、キリスト教を内から外へと開いていく、内在的超越のプロセスです。


その方向に思い切って踏み出すために私は「逆対応の仮説」ということを考えてみました。先のキリスト論の教義を逆にして考えてみたらどうなるかという、一種の思考実験です。それは以下の通りです。


生後の受肉 イエスはその生涯のある日、あるところで、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)という境地に立たれたということ。

生前の復活 イエスが既に生前に復活しておられたということは、古い自己に死んで新しい自己に生まれ変わるということを意味します。具体的に言えば、ナザレの大工の子イエスが神の国の伝道者イエスになったということを意味しています。

贖罪の生死 イエスは罪人として社会的に差別された人々と連帯して生きたという意味で、贖罪の生を全うされたのであり、そのような生き方の帰結として十字架の死を死なれたのであると考えること(滝沢克己『聖書入門 マタイ福音書講義』参照)。

永遠の生命 イエスは人と変わらない生身の人間でありながら、永遠の生命、あるいは神のいのちを逆説的に生き抜いた方であるということ。


このように考えてみても、実存化・普遍化された意味でのキリスト論と、実は何も変わらないのではないかというのが、私の当面の結論です。


\ 三身論


仏教で言う三身論とは、無作(むさ)の三身のことで、法身(知恵)、報身(生命)、応身(肉体)のことを言います。辞書によれば、「仏をはじめ仏の行者は三身すなわち一身を備えている」とされます。三身は法身・応身・化身、あるいは自性身・受用身・変化身とも言われます。この三身論についてキリスト教の三位一体の教義と似ているという指摘があります。中沢新一訳『ダライ・ラマ、イエスを語る』(角川書店)には、ブッダの三身(さんじん)について、次のような解説があります。


〔ブッダの三身の教義は、完全なる悟り、もしくはブッダの境地の本質についての大乗仏教的解釈を表わしている。サンスクリット語のKayaは「身体」もしくは「体現」と訳される。法身もしくは「真理の身体」は、ブッダの悟りそのもの、究極的な広大無辺な広がりを指す。全ての存在は法身のあらわれであり、それは空と同じものであるといえる。報身は、悟りを得た心の実際のかたちであり、存在の完全なる領域にとどまる。悟りを得た存在のこの微細な体現は、精神的に成熟した菩薩によってしか見ることはできない。ゆえに、我々のようなふつうの一切衆生の益になるためには、ブッダは我々の存在と似た肉体をもって体現するしかない。言い換えれば、我々の知覚できるしるしをとらなければならない。そのような実在のシャカムニ・ブッダのようなあらわれ方が、応身と呼ばれる。

ブッダの三身の教義はよく、キリスト教の三位一体の教義と似ていると言われる。法身が父、報身が聖霊、そして応身が子となる。この三身の働き、そしてこれら三つの関係の本質を調べてみると、ますます似ていることが際立つ。〕


その類似点を明らかにするために、私は三身論を法身(超越者・原初のロゴス・知恵)、応身(指示者・受肉のロゴス・肉体)、報身(包摂者・根源的エネルギー・生命)と言い換えてみました。私見では、これは言葉(象徴)の成り立ちそのものに関わることで、敢えて記号論的三位一体論と呼んでいます。


これを根源(超越者)・媒体(指示者)・作用(包摂者)と言い換えれば、根源は光源、媒体はレンズ、作用は光線であるという比喩も成り立ちます。あるいは根源(放送局)、媒体(受信機)、作用(電波)にたとえることも可能です。ナザレのイエスやシャカムニ・ブッダは受用身(受信機)であるということになります。イエスやブッダをテレビやラジオなどの受信機(受像機)にたとえるとは何事であるかと叱られてしまいそうですが、それは事柄の本質に関わることなのです。


] 諸悪莫作


「しろがねには掘り出す穴があり、精錬するこがねには出どころがある。くろがねは土から取り、あかがねは石から溶かして取る。人は暗やみを破り、いやはてまでも尋ねきわめて、暗やみおよび暗黒の中から鉱石を取る」(ヨブ記28:1〜3)。


ヨブ記は「旧約聖書」(言うまでもなくユダヤ教徒には失礼な言い方)の知恵文学の系譜に属する文書のようです。28章は注解書によればのちに加筆されたものである可能性もあるようです。ヨブは地中から鉱石を取り出す人間の営みに触れて、その能力の高さを示します。またこうも言います。「彼らは人の住む所を離れて縦穴をうがち、道行く人に忘れられ、人を離れて身をつりさげ、揺れ動く。地はそこから食物を出す。その下は火でくつがえされるようにくつがえる」(28:4〜5)、「彼は岩に坑道を掘り、その目はもろもろの尊い物を見る。彼は水路をふさいで、漏れないようにし、隠れた物を光に取り出す」(28:10〜11)。ここに描かれている人間の営みは、単に鉱石を取り出す行為だけではなく、研究室に閉じこもる科学者の姿を思い起させものがあります。


ヨブは言います。「しかし知恵はどこに見いだされるか。悟りのある所はどこか。人はそこに至る道を知らない、また生ける者の地でそれを獲ることができない。淵は言う、『それは私のうちにはない』と。また海は言う、『わたしのもとにない』と。精金もこれと換えることはできない。銀も量ってその価とすることはできない」(28:12〜15)。


「それでは知恵はどこから来るか。悟りのある所はどこか。これはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にも隠されている。滅びも死も言う、『われわれはそのうわさを耳に聞いただけだ』」(28:21〜22)。しかし「神はこれに至る道を悟っておられる。彼はそのある所を知っておられる。彼は地の果てまでもみそなわし、天が下を見きわめられるからだ」(28:23〜24)。「そして人に言われた、『見よ、主を恐れることは知恵である、悪を離れることは悟りである』と」(28:28)。


賀川豊彦は若いときから宇宙悪の問題に取り組み、遂に『宇宙の目的』を書き著わしました。賀川は宇宙悪を宇宙のひずみと考えていたふしがあります。しかし今の私にはかつて大熊信行が取り上げた「国家悪」の問題が、より切実なものとして迫って来ます。人間は同じ過ちを何千回も、何千年も繰り返してきました。人間がさらに進化して「超人間」にでもならなければ、人間の世界から決して戦争はなくならないのではないかとさえ思わされます。それこそ神を恐れぬ人間の所業は止まるところを知りません。


それでもこの世界から奴隷制がなくなるなど、歴史はほんの少しずつでも進歩していると言う人がいます。大塚久雄はかつて「飲んだくれ亭主がカミさんをぶん殴らなくなるだけでも、この世界にキリスト教会が存在する意味があると考えるべきだ」と言ったことがあります。やはり歴史はわずかずつしか進歩しないものだと考えていたようです。


しかし反動の嵐の中で果敢に闘う人たちがいなければ、歴史はそのわずかな進歩も遂げることはできないでしょう。その人たちの希望はただ「キリスト教」のうちにあるともはや断言できない時代に入ってしまった今日、改めて「悪を離れることは悟りである」というヨブの言葉を反芻しています。諸悪莫作(しょあくまくさ)は単に宗教的な悟りの境地であってはならないでしょう。


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