閑老人のつぶやき 本について7

     1 ルターの信仰論

     2 カール・ヤスパース

     3 高僧伝 空海

     4 ユングとキリスト教 その1

     5 ユングとキリスト教 その2

     6 ユングとキリスト教 その3

     7 ユングとキリスト教 その4

     8 ユングとキリスト教 その5

     9 ユングとキリスト教 その6

    10 ユングとキリスト教 その7

T ルターの信仰論

かつて心を動かされた書物にHJ・イーヴァント『ルターの信仰論』(竹原創一訳、1982年、日本基督教団出版局)があります。それがキリスト教信仰についての根本的な洞察を論じていると思われたからです。ここではその本の最終章(第四章「義」)の「U 新しい義が自分のものになること」の「b 信仰においてキリストと一つになること」(本書の最後の論述)を、例によって全文書き写してみます。

《ところで、信仰は、わたしにとって他なる生命をではなく、わたしに与えられた生命を、また、わたしに贈与され、わたしに定められた義を、キリストにおいてとらえる。そして、キリストは、今、既に、現在している。否、さらに言えば、わたしの義がキリストにおいて、今、既に、現在している。このゆえに、本来キリストは、信仰の「対象」ではなく、むしろ信仰をとおしてわたしの内に生きている。「もしあなたが義認の事柄において、キリストの人格とあなた自身の人格とを区別するなら、あなたは律法の内におり、そこにとどまり、あなたの内に生きている。それはすなわち、あなたが神の前に死んでおり、律法によって断罪されていることである」。ルターは、神の前での義の事柄においてキリストと信仰者の「わたし」とを区別するような信仰を、信仰と呼ぼうとはしない。彼は言う。「そのような信仰をもった人間が見出されうることをわれわれが認めるとしても、そのような信仰においては彼は死んでいるであろう。なぜなら、彼はキリストについての史実的な信仰しかもたないであろうから。そのような信仰は悪魔やすべての不敬虔な者たちももっている(*1)」。史実的なキリスト理解がプロテスタント本来の理解であると考える人たちに対し、そのように考えるところでは、信仰の義と呼ばれるものについてほんのわずかしか理解できないのではないかと、ここで一度われわれは問うてみたいし、また問うことができるであろう。信仰の義と呼ぶとき、ルターがその言葉を史実的理解からどんなに離れて理解しているかを、われわれはこの最後のところでなお見よう。すなわちルターは次のように考える、神の義がわたしの義になりうるのは、ただ「キリストがわたしの内に生きている」ことによると。なぜなら、そのとき、必然的に、「恩恵、義、生命、永遠の救いが現在し、律法、罪、死が遠ざかる(*2)」からであると。それゆえ、信仰は、神あるいはキリストについてわれわれが思い描く何らかの観念とは関係がない。われわれが、神とキリストについて臆説をいだいたり、いだかなかったり、変えたりしうるような、そういう臆説と信仰は関係がない。信仰は、存在、生命、死にかかわる。信仰において「生きているのはわたしではない」。信仰においては、わたしが将来なるであろう新しい人間の生命がわたしの内に宿っている。「信仰は正しく教えられなければならない。われわれは信仰によってキリストと一つに融合され、あなたとキリストから、いわば一つの人格が生じる。この人格は分離されず、絶えずキリストに固着している。あたかもその人格は、『わたしはキリストのようである』と言い、また逆にキリストは、『わたしは、わたしに固着する罪人のようである』と言うかのようである。その結果、この信仰は、わたしをキリストと内的に一つにする。ちょうど、夫が妻と一体となるように。このように、信仰は固定した性質ではなく、言い表わし難いものである(*3)」。

次のことを思い返してみよう。律法は罪とわたしとを互いに近づけたので、ついに両者は、一つのかたち、一つの肉、一つの意志になった。これに対し、神の義はわたしを信仰において主キリストと一つにするので、この両者は、一つのかたち、一つの本質、一つの意志になる。人間が罪とキリストのいずれと一つになるかの決断は「わたし」の内で下される。というのは、いずれにもつかない、中立的な存在はないからである。罪の背後には死が控え、義の内には生命が安らっている。

ルターが喚起したものは、まさに信仰の決断である。彼は、信仰の真正さを示すしるしが、単に教えや教義のうちにあるのではないことを見出した。教えや教義はすべてなお欺きうるからである。人間の「わたし」の内で、人間が自分自身の行ないに対してとる態度において、決断は下される。二つの事柄、すなわち、キリストへの信仰と、善い行ないをもって神の前で何らかのものであろうとする努力とは、互いに宿敵のごとく、徹底して排斥し合う。この二つの事柄のいずれかへ決断が下される。それゆえルターは、彼が「史実的」信仰と呼んだものを憎む。それはキリストについての中立的な、空虚な知識である。それは人間とその生を、律法の義か信仰の義かの決断の前に立たせることがない。それはわたしの死に臨んで獲得され理解された知識ではない。信仰はわたしにとって二通りの現われ方をする。一つは、キリストが、審判に際して、わたしに代わって裁きの場に歩み出た神であること、キリストは、わたしのための神であること、このことをわたしが認識する場合である。他は、わたしがキリストをただ伝え聞いて知っている場合である。「そのように信じる者たちにとって、信仰は、悪魔や断罪された者たちにとってと同じく、役にたたない。なぜなら、受け取られた信仰は、『神のみ子が受苦し、よみがえったことを信じる』と言い、それでおしまいである。しかし、真の信仰は次のように言う。『わたしは、神の子が受苦し、よみがえったことを信じる。また、そのすべてが、わたしのため、わたしの罪のためであることを、わたしは確信する(*4)』」。

ルターはここで、二つの信仰の間の相違を見ている。その相違は、もはや、定式をもってはとらえられない。なぜなら、教義の面から見れば、その二つの信仰は同じことを述べているからである。その区別は、ただ次のような区別である。すなわち、一方の信仰においては、真理がそれ自身においてあり、それはわれわれにとっては真理がないことである。他の信仰においては、神が「あなたのために」あることにおいて真理が現われ、こうして、信仰者の生は、真理と一つになる。

「この『わたしのために』、『われわれのために』ということは、われわれが信じるとき、その信仰を、真なるものとし、単に生じた出来事によって成り立つ他のすべての信仰から、その信仰を区別する(*5)」。「それゆえ、わたしがしばしば勧告しているように、義認についての箇条が、念入りに学ばれなければならない。なぜなら、この箇条の中に、われわれの信仰の他のすべての箇条が要約されているからである。そして、もしこの箇条が正しく受けとめられるなら、残りの箇条も正しく受けとめられるからである(*6)」。》

1 「ガラテヤ人への手紙講義」WA.40.T265, 15.

 同上 285, 20.(ドイツ語の原題引用略、以下同様)

2 「ガラテヤ人への手紙講義」WA.40,T,284, 20.「しかし、義認に関する限り、キリストとわたしとは最高度に結合していなければならない。すなわち、キリストがわたしの内に生き、わたしがキリストの内に生きる(この語り方は驚くべきものである)ほどに結合していなければならない。彼は真にわたしの内に生きているので、わたしの内にある恩恵、義、生命、平安、救いに属するものは何であれ、キリスト自身のものである。しかしまた、信仰による結合と固着のゆえに、キリストのものそのものがわたしのものである。というのは、信仰によってわれわれは、霊においてあたかも一体のようにされるからである。キリストがわたしの内に生きているので、キリストとともに、同時に恩恵、義、生命、および永遠の救いがわたしの内に必然的にあり、また律法、罪、死は必然的に存しない。否、律法が律法によって、罪が罪によって、死が死によって、悪魔が悪魔によって十字架につけられ、のみ込まれ、廃棄されざるをえない」。

  同上229,22.「信仰が義とするのは、信仰があの宝すなわちキリストを現在するものとしてとらえ、もつからである。しかし、キリストがどのように現在するかを考えることはできない。なぜなら、わたしがのべたように、そこは暗闇だからである、それゆえ、心の真の信頼があるところには、キリストがその闇そのものの中に、また信仰そのものの中に現在する」。

  同上546,21.「キリストの、またキリストへの真の信仰は、それによってわれわれがキリストの体の肢体となり、キリストの肉と骨の一部になるのである。それゆえ、われわれはキリスト自身の内に生き、活動し、存在する。だから、信仰についての分派の者たちの思弁は空しい。彼らは、キリストが心霊的には、すなわち思弁的にはわれわれの内にいるが、しかし現実的には天にいると夢想している。キリストと信仰は完全に結合されなければならない。単純明快に、われわれは天にあり、キリストはわれわれの内にあって、生き、はたらくのでなければならない。だがキリストがわれわれの内で生き、はたらくのは、思弁的にではなく現実的に、最も活動的にである」。

3 「ガラテヤ人への手紙講義」WA.T,285,24.「しかし、信仰は正確に教えられなければならない。すなわち、信仰によってあなたはキリストとしっかり結び合わされて、あなたとキリストからあたかも一つの人格ができるようになる。その人格は分割されえず、常にキリストに固着しており、そして言う。『わたしはキリストのようである』と。他方、キリストは言う。『わたしはあの罪人のようである。なぜなら、彼はわたしに固着し、わたしは彼に固着しているから』と。というのは、われわれは信仰によって一つの肉と骨に結び合わされたからである。エペソ人への手紙五章で、『われわれはキリストの体の肢体であり、キリストの肉と骨の一部である』と記されているとおりである。こうしてこのキリストとわたしを、夫婦の結合よりも固く結びつけることになる。それゆえ、その信仰は不活発な状態ではなく、その威力は大変大きいので、それは詭弁家たちの教えのあのきわめて愚かな夢想を闇に葬り去り、すっかり取り除くほどである。詭弁家たちは、形成された信仰と愛の形成について、功績について、われわれの価値あるいは性質について等々、教えている」。

  同上282,18.「キリスト教的義について論じられるべき場合には、自分の人格は全く放棄されるべきである。なぜなら、もしわたしが自分の人格に執着したり、自分の人格について語ったりするなら、この人格に基づいて行ないをする者は、好むと好まざるとにかかわらず、律法に従属するようになるからである。しかしここでは、キリストとわたしの良心とは一体にならなければならない。その結果、わたしの視野には、十字架につけられまたよみがえらされたキリスト以外何も残らなくなる。しかし、もしわたしがキリストを度外視して、ただわたしだけを見つめるなら、わたしについて論じられることになる。そのとき直ちにわたしには確かに次のような想念が生じてくる。すなわち、キリストは天にあり、あなたは地にいる。そのときあなたはどのようにしてキリストに至るのだろうかという想念が」。

4 「ヴェラーとメドラーの博士試験討論の提題」WA.39,T,45,9.

   同上45,31.

5  同上46,7.

6 「ガラテヤ人への手紙講義」WA.40.T,441,29.

「わたしの罪」がいかに解決されるかということについて、ここにはルターによる解答が示されています。現在するキリストがわたしと一つになることによって、わたしは初めて自分の罪から解放されるのだと告げられます。それは「史実的」なキリスト理解ではなく、あくまでも「わたしにとって」のキリストであると言われます。「史実的」なキリストは、いわば実体化・差別化されていて、天上であるか、祭壇のうちにであるか、どこか特定の居場所を占めています。それは同時に「想念」のキリストでもあります。わたしから切り離されたキリストがそこにあります。しかしルターにとってキリストは、いわば実存化・普遍化されていて、キリストとわたしとは「信仰において一つ」になります。ルターにはそれ以外のキリスト理解はありうべからざるものでした。

現存内住のキリストからキリスト教のすべてを理解するという、ルターの徹底した信仰論は、それまでのキリスト教に革新をもたらしました。信仰はそれによって内心の出来事となり、ひとりひとりの信仰が生じることになりました。しかしそのキリストとは一体何であるのかと、敢えて問うことも許されるでしょう。これまで私は「生命論的キリスト教」なるものを模索してきました。その場合には、キリストとは普遍的ないのち(ゾーエー)の象徴であって、必ずキリストと呼ばれなければならないという必然性はどこにもありません。キリスト論は一つの救いのドラマであっても、唯一絶対の救済のドグマではないということになります。信仰の当事者にとっては「絶対的」であるかもしれませんが、その信仰を万人に強制するという意味での「絶対性」はどこにもありません。わたしはそこに救いを見出すということと、だからあなたもそれを信じなければならないということとは、あくまでも別の問題なのではないでしょうか。罪を自覚する人間が救われるには、たとえばルターが発見した信仰論のように、キリストなる救い主に固着するという信仰もあるでしょう。人間が救いを見出すとき、そこには超越しつつ内在するある者の存在にすがるという構造があるように思われます。その構造はキリスト教にだけ見出されるものではありません。その構造の観点から見れば、仏教にもその他の宗教にもそれはあります。

当事者にとっての絶対性と万人にとっての絶対性の混同という事態が、これまでの宗教にはつきまとっていて、それが宗教者の心を硬化させ、宗教間あるいは宗派間の争いのもとともなってきました。自分はどうしたら救われるのかという問題は、他者の問題解決とは直接には結びつかない筈なのですが、問題解決の普遍性を主張する宗教には、どうしても他人を巻き込んでしまうという厄介な事情があります。それはカルト教団だけの問題ではありません。キリスト教はその分派闘争を極限まで展開して、今日漸く「寛容さ」を重んじるようになりつつあります。しかし一部には強固な「原理主義」がなお存続していて、かえってそちらのほうが教勢を増しているという有様です。

救いを説く宗教が救い難く頑迷であるというこの逆説に、何かを信じなければ生きていくことができないという、人間の決定的な限界が示されています。しかし、ルターが再発見した義認の信仰は、キリスト教をその「史実主義」から解放するという点で重大な第一歩を踏み出しているように思われます。神が受肉したという、その啓示の出来事によって、その普遍的真理性が歴史的に証明される唯一の宗教が、すなわちキリスト教であるなどと主張されてきましたが、それこそ「史実主義」の最たるものでしょう。信仰はそのような客観的な保証を必要としないというルターの主張は、信仰以外の何の根拠も持っていないように思われます。単なる主観主義ではないかという嫌疑がかけられることにもなります。しかしそこにこそ「生命論的」な根拠が見出されるべきではないでしょうか。そこに踏み出すための第一歩であると考えてこそ、ルターの信仰論の再評価が可能になるのではないかと思われます。ルターはキリスト教をかいくぐっていのちの真実に肉薄していると言うべきではないでしょうか。ローマ・カトリックのカトリシティ(普遍性)ではなく、全く新しい普遍性を切り開く「端緒」を見出したと言うべきではないでしょうか。

今日、ルターが主張した「万人祭司」(すべての信者が祭司であること、priesthood of all believers)は、すべての民衆(people)が政治の主権者であるという命題に置き換えられなくてはならないときに来ています。そのようなヴィジョンが生まれてきたのは、ルターが火をつけたあの宗教改革があったからこそでしょう。しかし信徒(laity)を民衆(people)へと読み替えるとき、今日展望すべき新たな普遍性の姿が見えてくるでしょう。そこにはきっと世界の民衆が奉ずる多種多様な宗教の共生というテーマも生まれてくるに違いありません。そもそも、イエスの十字架は民衆の受苦の象徴の一つだったのであり、そこから新しい希望のしるしとしてのキリスト教が生まれてきたのではないでしょうか。


U カール・ヤスパース

私はYMCAの主事をしていたので、例の赤三角(レッド・トライアングル)のシンボル・マーク(その昔、ルーサー・ギュリックという人がスプリンフフィールド大学で考案したもの)について、色々と考えたことがあります。それは「霊(spirit)・知(mind)・体(body)の調和のとれた成長」という思想を表しています。既に各所で触れたことですが、中国での徳育・知育・体育の全面発達(「少年宮」という課外活動施設での標語だったと思います)、羽仁もと子の「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」、新渡戸稲造も言及している4H( Hands, Head, Heart and Health)という4Hクラブの思想、またパスカルの「三つの秩序」など、参照すべき事例は昔から数多く存在するように思われました。波多野精一の『時と永遠』では、「自然的生」、「文化的生」、「宗教的生」という形で、人間の生の諸段階が時間の三つのあり方(自然的時間、文化的時間、永遠)との関わりにおいて考察されています。聖書には、「幼な子は、ますます生長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった」ルカ2:40、「イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された」ルカ2:52という、上に述べたことと平行するかに思われる言葉があります。「全人教育」という理念が、上のような考えから生まれてくることにもなりました。ただし、パスカルや波多野の思想では、その三つの段階が価値的に序列づけられていて、永遠に変わらないもの(神の愛)に人間の生の究極的な根拠があるとされています。

そのようなことを考えていく上で、ヤスパースの思想もまた大いに参照されるべきであると気づかせてくれた本に、K.ザラムン『カール・ヤスパース 開かれた地平の哲学』(増渕幸男訳、以文社、1993年)があります。そのことが書かれているのは、第三章「実存の概念」の「二 客観的現存在としての人間と実存としての人間」のところです。そこでその前半の部分を引用してみます。

《人間の自己実現にかんするヤスパースの考えは、あらかじめ彼の実存哲学の哲学的人間学的な基本的概念と呼ぶことのできる思想に取り組むときにのみ、適切に描写されよう。相互関係のうちで互いに異なって存在している存在の諸層、ないしは存在の段階(身体―霊魂―精神というような段階)によって特徴づけられた本質として人間を解釈する伝統的把握と類似して、ヤスパースは人間の四つの存在様態ないしは実現の次元を区別している。すなわち、単なる現存在(ドイツ語表記略)、意識一般(同上)、精神(同上)、そして実存(同上)である。

これらの存在様態に詳しく触れる前に、なおも二つの前置きが必要である。最初の前置きは、四つの存在様態相互の関係にかかわるものである。ヤスパースは、それらを比較して評価するつもりなど毛頭ないとたびたび強調しているが、彼の哲学的人間学的な草案は、連続的に上昇していく段階という考えに方向づけられている。その点については、とりわけ次のような確認が格好の材料を提供してくれる。すなわち、「それにしても序列Rangordung)というものが存在し、それもたとえば、単なる現存在にたいする実存の、精神にたいする実存の、意識一般にたいする精神の、という序列である」(Vernunft und Existenz 理性と実存, 1935, p.84)。このような序列は明らかに一つの「存在の問題」とみなされ、そして比較する評価の問題とみなされるのでないにしても、それでもやはりもろもろの存在様態に企てられた排列は、明瞭な価値の強勢を含んで居る。そのことはもとより、右の連続する存在様態が「本来的な自己存在」(ないしは本来的な人間存在)と同一視されて、人間の生のなかで獲得できる最高のものや、道徳的に最善のものと見える「実存」に向かって整序されるという理由によるのではない。本来的存在様態の「下に」ある存在の段階は、卓越した存在様態に到達ことができるための条件、あるいは前‐段階(Vor-stufen)にすぎない。価値の強勢は、最終的にはまた、最下層の段階がたびたび「単なる」現存在と呼ばれていることに示されている。ここで提示された評価の観点は『哲学』において明白であり、それは『真理について』のなかの包越者の理論ではいちじるしく後退してはいるが、しかしまたそこで完全に除外されているわけでもないのである。

第二の前置きは、現存在という概念に関係している。さまざまな誤解に陥らないように、他の実存哲学者(たとえばハイデガーの現存在の概念)と軽率に並置化するのを避けるために、次のことを念頭においておくことが目的に適っている。すなわち、ヤスパースの諸著作には、常に彼が互いにはっきりと境界づけをしないで、部分的には交差してさえいる「現存在」という言葉のいくつかの使用が見いだされる。この章で詳しく述べる内容としては、以下の三つの意義を区別することが重要である。つまり、ヤスパースは非常に広い意味で「現存在」について語っているが、そのとき彼はこの言葉によって、「世界」のうちに現われてくる経験したり対象になりうるもののいっさいを言い表わしている。その意味で、「世界存在(Weltsein)」をもつことができる思惟する意識はいっさい、また「現存在」をもっている(Von der Wahrheit 真理について, 1947, p.53, Philosophie I 哲学第1巻, 1932, p.72 参照)。Th・レーバーは〔ヤスパースの〕『哲学』における現存在の概念についての研究で、「現存在」にかんするこの広い理解を、「現われてくるもの一般としての現存在」とも呼んでいる(*1)。人間の「現存在」(また「経験的現存在」)が問題であるとき、この言葉は制限された意味で使用されている(Philosophie I 哲学第1, 1932, p.38)。その言葉でもって、科学的に探求できる内在的な人間存在が考えられているのである。この場合、「現存在」は実存の概念と対比した言葉として理解できる。さらに科学的に探求できる内在的な人間の現存在の内部で区別される範囲内で、ここでは「現存在」の重要な第三の使用に出くわすのである。すなわち、ヤスパースが再び「現存在」(すでに述べたように、「意識一般」と「精神」という違った二つの現存在)と呼んでいる、三つの特殊な存在様態に区分されている。現存在にかんするこのような最も狭い意味によって考えられているのは、衝動と本能に制約された人間の身体性である(*2)。

*1 T. Raber, Das Dasein in der “Philosophie” von Karl Jaspers. 学位論文, ベルン, p.30 以下参照

*2 包越者の説の観点から「現存在」のもっと広い意義の強調がどの程度区別されねばならないのかは、より洗練された分析を、それがここでなされうるように、またレーバーが彼の選んだ観点から与えてきたように示さねばならないだろう。レーバーは彼の視点から、究極的に、「生起するもの一般としての現存在」と「主観的現存在」との間だけを区別する。

** 引用者注:本文の訳の最後の方に出てくる『ヤスパースが再び「現存在」(すでに述べたように、「意識一般」と「精神」という違った二つの現存在)と呼んでいる、三つの特殊な存在様態に区分されている』とあるところは、おそらく脱落があって、わかりにくくなっています。『「意識一般」と「精神」という二つの現存在とは違った、最も狭い意味での現存在』とでもしたら理解しやすくなるでしょう。

単なる現存在:ヤスパースの哲学的人間学的な草庵のなかで、「単なる現存在」は、そのうえに他の層が構築される最下位の存在層の働きをしている。その最下層とは、衝動と本能に制約された身体的生命を実現する次元、つまり「生物学的現存在」と呼ばれている。この段階では人間は「単なる生命」であり、しかも人間存在が本質的に豊かな生命の諸機能に制約されている、という意味においてである。衝動と本能とが人間を支配しており、人間は「……鈍い本能の問いようのない直接性のうちで」(Philosophie U 哲学第2, 1932, p.40)自己が庇護されていると感じている。自己意識(ドイツ語表記略)は身体性と同一視することにおいて、右の段階で十分に汲み尽くされる。意図的意識は、最初は「現存在の保持と拡大」という、そのすぐ後の目的に向けられる。そうした段階で支配的であるのは、「……無思慮な生気ある現存在の意志である。しかしまさにこの世で権力と名望と享楽を生み出すものだけが、可視的とさせる狭い視野によって、――現存在の意志は自己だけを欲する。現存在の意志は自分を邪魔するものを強引に押し退けるのである」(Philosophie V 哲学第3, 1932, p.108)。

以上のような存在様態の特徴はまた、人間が純朴な直接性、および疑いなく無頓着であるという状態で生きていることに存する(Philosophie U 哲学第2, 1932, p.24, p.39参照)。とりわけこのことは、世界のうちで安全性と庇護性の感情のうちに現われている。人間存在のこうした段階には、自己省察に基づいているような自己意識は存在しない。それゆえ人間は本来的な自己存在の可能性すら、意識していないのである。ヤスパースはこのような存在様態を、かつて「……まだ決定的な自我ではなく、可能的な自我としてまだ自己省察を欠いているが、それでも私と言うことのできる存在者として、素朴な現存在の意識」(Philosophie U 哲学第2, 1932, p.25)のうちに生きている子どもの生の形式と比較している。

意識一般:衝動的生命的な身体性に最も近い人間の存在様態は、悟性ないしは「意識一般」である。「われわれは、いっさいのものにおける一にして同一の意識として意識一般であり、われわれは対象的となった存在を同一の仕方で思念し、知覚し、感得しつつ、その対象的存在へと向けられるが、そのさい意識一般のそれぞれの作用のなかでは、ある普遍妥当的なものがわれわれにたいしてひらめくという仕方で、その対象的存在へと向けられる」(Von der Wahrheit 真理について, 1947, p.65)。単なる現存在においては、意識は生命に効能のある最も身近な目的を「前に立てる」ように、感覚のうちでしか志向しない意識であるのに、意識一般の段階は、「強制する普遍妥当的な、明晰な倫理的思惟」(Philosophie U 哲学第2, 1932, p.52)へと上昇することを意味する。人間は、自己を単なる現存在として特徴づける、不明瞭な素朴さと確かな状態とから覚醒される。「問うことは、私がそこでは反省することもなく、すでに自己の世界を自明なものとして知っているかのように考える現存在から、私自身を解き放す危機である。私は一つの世界における単なる一つの生命としての現存在から、認識する現存在へと覚醒する」(Philosophie T 哲学第1巻, 1932, p.72, Von der Wahrheit 真理について, 1947, p.64 参照)。

ヤスパースは「意識一般」の存在様態を、かつて「すべての客観的存在の条件としての主観性を意味する自我存在一般(ドイツ語表記略)」(Philosophie T 哲学第1巻, 1932, p.13)とも呼んでいる。ここにはカントからの最も顕著な影響の一つが明らかになる。と言うのは、「意識一般」の概念は、カントの認識論に基づいた「超越論的自我」、あるいは「超越論的意識」の概念に相当しているからである。カントにとってア・プリオリな直観形式と悟性概念とは、経験やあらゆる個人的主観的な特殊性といったすべての内容を度外視して成立する、意識の形式的な構造要因を成しており、認識する主観を際立たせることではじめて対象認識を可能にする。これと同じように、ヤスパースにとって意識一般は、人間を全般的に何か同一のものと考えて、普遍妥当的なものとして受け入れることができるための不可欠の条件を意味している。意識一般の存在様態においては、人間は悟性的存在(Verstandeswesen)として実現されるのである。

** 引用者注:人間が「単なる現存在」、マイケル・ポラニーの言葉を使えば、暗黙知のレベルから、「悟性的存在」、すなわち分節知のレベルに達するには言語が介在しています。「知る人間」は同時に「話す人間」でもあります。語呂合わせをすれば、「話す」は「離す」に通じます。自他の区別、時間や空間の意識など、「意識一般」が成り立つということは、人間が自己を環界から「離す」ことができるからです。カントの「超越論的自我」とは、人間が言語によって自己を環界から「離す」という事態を示しているように思われます。それは、漠然と「自己が庇護されていると感じている」現存在にとっては、危機的な状況でもあります。人間の意識は環界からの分離を意味しています。

精神:これまで述べられた単なる現存在と意識一般の両方に基づいている第三の存在様態が、精神(Geist)の次元である。「なぜなら、人間は決して単なる形式的な悟性としての自我でも、単なる生命力としての現存在でもなく、原初的な共同性の暗闇のなかで守られているか、あるいは意識はされるが十分には知られない精神的な全体性を通じて実現されるか、のどちらかであるといった、ある一つの内実の担い手だからである」(Philosophie U 哲学第2巻, 1932, p.53)。ヤスパースは精神的全体性のもとに、「……私の行為のさまざまな限りある目的のうちに」連関を生み出し、「……意識一般の再現のなさに制限づける構成を提供し、可知的なものと経験可能なものとの拡散状態に統一」をもたらすような、一つの理念Idee)を理解している(Von der Wahrheit 真理について, 1947, p.71 参照)。右に引用された二つの箇所は、ヤスパースにとって精神の存在様態が、まずは意味の表象と理念の領域とを形成することを明確にしている。人間は理念の担い手として意味の諸連関を造り出し、包括的な価値の表象と、世界観的に定位する枠組みとによって、もともろの経験や感覚的印象を形成し整理する。これらの価値の表象と世界観的枠組みは、人間の多様な経験を秩序づける意味連関として、人間に仕えるのである。

** 引用者注:人間は単なる「悟性的存在」であることに甘んじることはできません。人間は一つの全体的な意味連関の中に自分の経験や行為を位置づけ、自分が生きる意味を見出そうとします。それが「精神」の次元であると言われています。

実存:上述した三つの存在様態から「実存」への「高揚」あるいは「飛躍」は、すでに繰返し示唆されたように、計画可能でもなく、合理的に洞察することもできない。人間はこの飛躍において、真の人間存在の個人的な代替できない最高の様態(可能性)を捉え、自己の「根源(Ursprung)」における自由に基づいて、自己自身を選ぶのである。

** 引用者注:ヤスパースは人間の「本来の面目」を「実存」という言葉で言い表わしているのでしょう。

右の実存概念の構想を規定してきた最も重要な影響を現前化するならば、まず第一にカントの例の概念を挙げるべきである。つまり、因果的に決定された現象の世界と、因果的には決定されない叡智的な自由の世界というカントの区別が、経験的合理的な現存在(単なる現存在、意識一般、精神)としての人間と、対象にはならない客観化の不可能な実存との間に引かれたヤスパースの区別の、本質的な枠組みの理念を成している(引証略)。人間の二元論的構想のほかに、ヤスパースはカントの哲学から純粋理性の理念(Ideen der reinen Vernunft)にかんする説を受け継ぎ、それからさらにその説をヘーゲル、ニーチェ、キルケゴールの影響のもとに解釈している。』

引用はここまでとします。このヤスパースの所説を、少し視点をずらして見直し、理解しやすくするためには、パスカルの三つの秩序のほか、欲求の階層性で取り上げたマズローの「欲求五段階説」なども参照されるべきでしょう。

私は実存(「脱して生きる」生き方)を「平和意志」とし、また現存在を「権力意志(力への意志)」として、同様に二元論的構成のもとで考えてきました。それはここで解説されているようなヤスパースの思想に負っています。実存は無力さの選択です。すなわち人間の弱さのうちに留まることを意味しています。平和は受苦的存在としての人間の果てしない希求であると言うべきでしょう。


V 高僧伝 空海

欲求の階層性カール・ヤスパースのところで取り上げたように、人間の心の発展段階については色々な考え方があります。そのことを考える上で、見逃すことができない思想に空海の「十住心論」があります。空海について全般的に、しかも平易に書かれた本として、松長有慶師の『高僧伝 空海 無限を生きる』(集英社、1985年)がありますが、その本から空海の十住心の思想について書かれているところを引用します。

十住心

空海の思想の中でも特徴的なものとして、十住心の思想があります。これは、人間の心の発展段階を十種類に分けたものです。

我われの中にある、怠けたくなる心やいい加減なことをしようとする心が、悟りに向かって進んでいこうとすることを、菩提心を起こすといいます。ところが前述の顕教の考え方によりますと、菩提というものがあり、別に心というものがあって、心から菩提へ向かっていくこととなり、これでは、また三劫(さんごう、引用者:とてつもなく長い時間)がかかってしまいそうです。そこで空海の場合、非常に特殊な心の構造を考えだしています。

どのような構造かというと、即身成仏(そくしんじょうぶつ)のところでも述べましたが、菩提とはそのまま心なのだという考え方を基本としています。心から菩提へ向かっていくのではなく、自分の心だと思っているものがひょっと見方を変えると菩提なのだ、菩提がそのまま心である――つまり、菩提即心という構造です。この構造を、十の段階に分けたのが十住心という考え方です。

*  引用者注:菩提とは「(梵語 bodhi 道・知・覚と訳す)煩悩を断じ、不生・不滅の真如の理を悟って得る仏果。仏の正覚の智慧。極楽に往生して仏果を得ること。三菩提(梵語の音訳、完全な悟り)」(広辞苑より)を意味しています。

** 引用者注:このあとも出てくる「顕教」と「密教」との違いについては、英語のexotericesotericという言葉を参照すべきかと思います。エクソテリックとは「公衆への伝授に適った」という意味で、エソテリックとは「特別に秘伝を授けられた人たちだけのために意匠され、またその人たちだけに理解される」(Webster’s Collegiate Dictionary)という意味です。

空海は「秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)」という書物を書きました。これは全十巻という膨大な書物ですが、それを三巻にコンパクトにまとめたのが、さきにも述べた「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」です。天長七年(八三〇)に勅命があって、各宗の学者がそれぞれの教義の綱要書を撰述(せんじゅつ)したという記録が残っていますので、およそこのころの作だろうと思われます。

十住心とは、人間の心のあり方を十種類に分けたものです。いわゆる道徳とか宗教に対して全く無関心な、最低の異生羝羊心(いしょうていようしん)から、最高の秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)にいたる十段階です。このもとになるのは、「大日経(だいにちきょう)」というお経の第一章にあたる「住心品(じゅうしんぼん)」の説で、それを空海流に構成しなおしたのが「十住心論」であり、略論の「秘蔵宝鑰」なのです。すでに弘仁十三年(八二二)に著した「平城天皇灌頂文(へいじょうてんのうかんじょうもん)」の中に、「十住心論」の骨格が書かれています。

第一に異生羝羊心(いしょうていようしん)があります。異生というのは凡夫、羝羊は牡羊(おひつじ)のことです。第一住心は、ですから、本能のままに生きている動物的な人間の心のありさまです。最低の状況です。愚かな者が自分の過ちに気づかず、牡羊のように、性と食のことだけにあくせくしている状態です。

第二住心とは愚童持斎心(ぐどうじさいしん)。愚かな子どもが斎を持す、つまり、誰かに物を差しあげようという気持ちをもつことです。いわゆる道徳心の芽生えです。何かのきっかけで節食(せつじき)を思いいたって、ちょうどまかれた穀物が土や水という縁によって芽を出すように、道徳的な心がやっと芽生える状態です。

第三が嬰童無畏心(ようどうむいしん)です。嬰童とは幼児のこと、無畏とは畏れ(おそれ)をなくす心のことです。宗教心に目覚めて畏れがなくなっていく段階です。宗教心を起こして外道の教えを奉じ、天に生まれて不安が除かれます。それはちょうど、幼児や子牛が母をひたすら慕うようなものです。インドの各種の外道、中国の道教などの精神状態です。

第一住心が欲望のままに生きる現実そのままの状況、第二住心が倫理道徳の状況、第三住心がやっと宗教的な心が芽生えた状況です。

第四住心では、いよいよ仏教に入っていきます。唯薀無我心(ゆいうんむがしん)です。現象世界を構成している五薀(ごうん)というものだけは認めますが、それらが仮に和合し合った現実世界の事物は、すべて実体がないという声聞(しょうもん)の説がこれです。五蘊とは、色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)という術後で示されていますが、色とは物質で、受以下の四はいずれも心のはたらきをいい、それらから成る現実世界は心のはたらきにすぎないから、実体がないのだ、という段階にとどまっている状況です。

第五に抜業因種心(ばつごういんしゅしん)です。根本的な煩悩で苦を起こすもとの無明(むみょう)の種を抜きとり、無智から起こる業(ごう)を除いても、誰にもそれを伝えようとせず、果報を独り占めする縁覚(えんがく)の立場がこれにあたります。自分の苦しみだけを心の中から抜くのですが、その境地を自分一人で楽しんでいる状況です。

この第四と第五は小乗仏教の段階です。第六以上は大乗仏教になるのですが、第五と第六は権(ごん)大乗の段階です。「権(ごん)」というのは、権化(ごんげ)など「仮の」という意味です。いわゆる本当の大乗にはいたっていないけれど、大乗的なものに近づいている段階です。

第六住心は他縁大乗心(たえんだいじょうしん)です。自分に縁のないものにまで悲の心を起こして大乗に入ります。この点は重要です。慈悲の心を起こしても、自分に縁のあるものにだけそれを向けているのでは、大したことはありません。自分に全く関係のないものに対して慈悲の心をおよぼすことが、大乗に入るきっかけとなるのです。その最初は、いっさいの事物は幻や影のように実体がなく、ただ心のはたらきのみが存在するという唯識(ゆいしき)の立場を表します。奈良の六宗の一つの法相宗(ほっそうしゅう)の立場がこれにあたります。

第七住心は覚心不生心(かくしんふしょうしん)です。いっさいの事物は相対を離れた空であると観ずれば、心は穏やかに、安楽になります。空観(くうがん)を説く三論宗(さんろんしゅう)にあたります。三論宗も南都六宗の一つです。この現実世界はすべて実体がないのだ、というところまで精神状態がすすんだ状況です。

第八住心は如実一道心(にょじついちどうしん)です。一道無為心(いちどうむいしん)、如実知自心(にょじつちじしん)、空性無境心(くうしょうむきょうしん)ともいわれます。あらゆるものは対立を離れた一如であり、本来清浄(しょうじょう)であり、主観もなければ客観もない。このような心の本性を知る者を昆慮遮那(びるしゃな)といいます。天台宗の立場です。ここからいよいよ本格的な大乗仏教が始まります。

* 引用者注:昆慮遮那という言葉自体の意味としては、広辞苑に次のようにあります。

「(梵語 vairocana 光明遍照と訳す)〔昆慮遮那経〕大日経の異称。〔昆慮遮那仏〕万物を照らす宇宙的存在としての仏陀の名。密教では大日如来と同じ。昆慮遮那仏は略号にすぎないが別の仏身と見なす説もある。遮那。舎那。遍照。」

第九が極無自性心(ごくむじしょうしん)です。水には定まった性(しょう)がなく、風にあえば波となるように、いっさいのものは固定した性質をもたないという華厳宗(けごんしゅう)の教えの世界です。我われが海をみて、あれは水だ、あれは波だと区別してもしかたがありません。風が吹けば波になるし、静かだったら水なのです。このことは、我われの現象世界と真理の世界の二つの関係にたとえられています。現実世界も理想世界も本来は同じなのですが、あるときは波になり、あるときは水になるものだ、と考えるのです。華厳宗の立場をたいへん高く評価しているわけです。最澄(さいちょう)は南都の仏教より天台のほうがまさっている、としましたが、空海によれば天台が第八で南都の華厳が第九であると、評価は違います。しかし、仏教の哲学的理論としては、華厳宗の立場で終局点に達しています。

その終局点である華厳宗のさらに上に、空海は第十住心として、秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)を置いています。秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)の序論では、ここで前述の、「顕薬(けんやく)は塵(ちり)を払い、真言は庫(くら)を開く」という言葉がでてきます。顕教は塵を払うにすぎないが、密教は悟りそのものに直接ぶつかって、その秘蔵を開くようなものである、というのです。秘蔵が開かれれば秘宝がたちまち現れ、いっさいのものに備わっている価値に目覚め、世界の真実の姿を悟る究極の立場で、真言密教の立場がこれにあたるのです。

この第十の真言密教の立場と第九の華厳の立場とには、紙一重の差しかありません。哲学的、思想的なものは、第九の段階で完成しています。では第十は何かというと、まず自分が飛び込んでいく、ということなのです。体を動かして大乗に飛び込んでいくのです。そうすることにより、現実世界がそのまま理想世界となって現れてくるのです。そして、こういうことを知るのが菩提心そのものなのです。自分の心を徹底的にきわめていくと、自分自身の中に悟りがあるということに気づく。これが菩提心なのです。最終的には、自分の体を動かし、そこへ入っていくことです。

これは、仏教の見方として、たいへん面白いと思います。いままでの各宗の教えを整理しただけでなく、倫理・道徳にまで世界を広げて、十の段階を設けたのです。そして、十住心のうち第九住心までが顕教で、第十住心だけが密教であるとして、いちばん上に密教を置いたのです。これを九顕一密(きゅうけんいちみつ)といいます。

全体を密教で包みこむ

しかし、もう一つひねって、九顕十密(きゅうけんじゅうみつ)の立場があります。第十住心にのぼった密教の目から見ると、一から九までの顕教の段階も、みな密教であるとなるのです。性と食のことだけにあくせくしているような段階でも、道徳的なものに満足している段階でも、天に昇ることを願って神さまを信じているような段階でも、三論(さんろん)も法相(ほっそう)も天台も華厳(けごん)も、みんな密教なのだという立場です。本当の心の目を開いてみると、どんなにつまらない段階のものでも、その中に最高の価値をもっていることがわかる、という密教の考え方です。

十住心を九顕一密としてとらえるだけなら、ごく普通の考え方といえましょう。ここで九顕十密という、幅の広いとらえ方をするところが密教の密教たるところです。「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」では九顕一密の立場が表面に出ていますし、「十住心論」の方は九顕十密の立場から説かれています。「十住心論」は、ほとんど引用文から成っているのですが、順序だてて住心を説明しながら、それぞれの説明のあとに、見方を変えればこれも密教になる、と説かれています。

このように密教というのは、いちおう順番を作っておきながら、最終的には全部を包みこんでしまおう、というスケールの大きさを備えているところがおもしろいと思います。》

引用は一先ずここまでとします。説明が平易で簡略ですが、その分、空海の思想(および仏教各派の宗旨)が十分に伝えられているかどうか心もとないところもあります。しかし十住心論が、心の発展段階を説きながら、同時にそれまでの仏教各派の立場を密教に包摂し、それぞれをその中に位置づけるという構成を持っていることがわかります。ひたすら一道に徹するというよりは、人間の心の発展段階をすべて密教のうちに包摂してしまおうとするところに、空海の思想の著しい特徴(スケールの大きさ)があるということも垣間見えます。そこで先に、「顕教」と「密教」の違いについて、英語の「エクソテリック」と「エソテリック」という言葉を持ち出しましたが、空海の思想に即して密教の特徴を知るために、補足として、この本の「第八章 顕教と密教」(「十住心」もその中の一節です)の最初の部分のいくつかを抜き書きしてみたいと思います。

顕と密

「密教」とは「顕教(けんぎょう)」に対する言葉です。この「顕」と「密」との違いについて説明しましょう。

空海は中国から日本へ帰って、いちばん最初に「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」を書きました。これは、どういう経典をもち帰ったか、自分はどういう勉強をしてきたか、などのことが書かれている帰国報告書です。この中に、自分の新しくもち帰った教えは、従来の仏教に対してどういう特徴があるのか、ということが述べられています。

まず、密教は仏になるのが早いといっています。いままではロバでいくようなものだったけれど、密教は神通(じんつう)によってすぐいきつくようなものだというのです。これが宣伝の第一弾といったところでしょう。

空海は一生の間に、このような密教と顕教の特徴を、いろいろな形で説いています。その一つである「弁顕密二教論(べんけんみつにきょうろん)」は、弘仁四、五年ごろに書かれたものです。これは、顕教と密教にはどういう区別があるか、顕教に対して密教にはどういう特徴があるかということを、はっきりさせたものです。ここでは、そのアウトラインだけを述べておくことにしましょう。

一言でいえば、顕とは「現れている」ことで、密とは「隠れている」ことです。もう少し詳しくいうと、表面的にものをみることと、本質的にものをみることの違いだといってよいでしょう。後略。》

私は「見えない宗教」について若干の考察を試みましたが、密教とは、まさにその「見えない宗教」に直接関わろうとする立場であると言えるかも知れません。

このあと著者は、「見かけと中身」という標題で、「十住心」のところにも出てくる「顕薬は塵を払い、真言は庫を開く」という言葉に触れ、「同じようなことが「性霊集(しょうりょうしゅう)」の巻第九の中に出てきます。御修法(みしほ)というお正月の宗教儀礼を自分にやらせていただきたいという、空海から朝廷へ奏上した上申書があるのです」として、その説明を行ないます。空海には、権力には近づくなと言った、鎌倉時代の道元禅師などとは違って、進んで朝廷に取り入ろうとする姿勢があったようです。

《この中に、おもしろいことが書かれています。「金光明経」を読みながらやっていくいままでの国家安泰の儀礼というものは、うわべだけで本質的なところを少しも掘りおこしていない。だから「金光明経(こんこうみょうきょう)」を中心とする法会を、密教中心の御修法(みしほ)に替えてほしい、というのです。そこで、顕教(けんぎょう)と密教はどのように違うかということを説いているのですが、その中でも、見かけだけは立派だけれど、本当のものごとの奥底に触れていないのが顕教であるとし、ものごとの本質をしっかりつかんで内容が充実している教えが密教であるとしています。この上表文は空海の晩年のものですが、このように密教を宣伝しているわけです。次に、

如来の説法に二種の趣(おもむき)あり。一には浅略趣(せんりゃくしゅ)。二には秘密趣なり。

とあります。仏の教えには二とおりの解釈があって、大ざっぱな、表面的理解だけで満足するのが浅略趣です。一方、ものごとの本質を見とおした深い理解を示すのが秘密趣です。つまり、浅略趣が顕教で、秘密趣が密教であるといっています。

このことのたとえ話が、次に書かれています。

我われの身近に病人がでた場合、まずお医者さんを呼んできます。ところがそのお医者さんが、患者をまえにして、医学が中国でどのように起こり発達したか、どのように薬の性質が分かれるのか、あるいはこの病気の原因は何だろうかと論じたり、薬の効能をしゃべったりしてばかりいて、病人の脈をとろうともしない。顕教(けんぎょう)とはそのようなものだ、とたとえています。理屈ばかりこねて脈をとろうとしない。つまり自分で動こうとせず、偉そうに議論ばかりしている、というのです。

それに対して密教の立場というのは、議論はあと回しにして、まず病人の脈をとり、病気にあった薬を調合して与える。病気を治すことを第一にし、全力を尽くすのです。密教というのは、表面的に格好いいことをいうのを主目的にするのではなく、まず自分の体を動かしてものごとの本質に入っていこうとするものなのだ、というたとえなのです。》

ここで著者は、原始仏教経典の中にも、「毒矢のたとえ」として、似たような話が出てくるとし、空海も釈尊も、同じ内容のことを説いていると言います。しかしその次に書かれていることが、密教の特質として重要だと思われます。

すべてを包み育てる

次に、密教の思想の中で特徴的なものは、包摂といって、ものごとを複合的にとらえていこうという思想です。

密教の特徴は、複合文化、重曹文化だということができます。ありとあらゆるものを包みこんでいこうという性格をもっています。そういう意味では、東洋の文化に共通する考え方です。純粋なものだけを培養して残していくというのではなく、すべてのものを包みこみ、その中の有用なものを伸ばしていくというのが東洋の文化の特徴ですし、密教の中にも、それが端的に表れています。

ですから密教の経典の中には、インド以来の日常生活の習俗などが、ずいぶんたくさん取りこまれています。仏教以外の宗教などもしょいこんでいます。たとえば、真言宗のお寺では護摩(ごま)をたきますが、これは昔からのバラモン教の儀礼です。また、インドのいろいろな民俗信仰の仏さまも取りいれています。これは、曼荼羅(まんだら)をご覧になればおわかりでしょう。

また仏教は、お経の中に医学、薬学、数学、天文学などの自然科学に類するものまで包みこんでいます。お経の中で天文学や数学、土木も建築もやるという幅の広さが、東洋の文化にはあるのです。科学と宗教をはっきり分けて考えた西洋とは、このへんがずいぶん違っています。

包摂と純化

しかし、包みこむだけではしかたがありません。包みこむだけでは、区別がつかなくなってしまいます。そこで、包みこむためには――つまり包摂するためには、純化することが必要になってきます。純化とは、純粋なものだけを取りあげようとすることです。もしも最初から純化しまうのなら、西洋文化と同じです。ところが、密教形成期の仏教というのは、先ず包摂をしてしまい、そのあとからそれぞれの要素を純化していったのでした。この純化は、仏教化ということです。仏教の整理によっていろいろな民族宗教の儀礼を肉づけしたり整理したりしていくとうことです。

こうしないと、バラモン教、ヒンズー教と仏教の見分けがつきません。従来のインドの民衆が信仰していた神がみも、行っていた宗教儀礼も、全部取りこんでいきましょう。そして、そのうえで仏教的な意味づけをしていきましょう。そうすることによって、民族宗教に質的な転換をさせていきましょう、ということなのです。

人間の信仰とか習慣というものは、そう簡単に変えられるものではありません。自分が日ごろ一生懸命信心している神を、そんなものはつまらないからやめて、明日からはこっちの仏を信じなさいと強制されても、誰も従いません。

東洋ではこういう場合、宗教戦争を起こして力で相手を屈服させるなどということはしません。相手の立場を認め、信仰を続けなさいといっておき、そのあとで、あなたの信仰している神の本当のお心はこうなんですよ、と仏教的なものをその中身に詰めこんでいくのです。そうすると、抵抗なくそっちへ移っていけます。低次元だった信仰が、だんだん高められていくのです。東洋の文化には、このような共存を許すという考え方があります。決勝戦をしてどちらか一方を残すのではなく、両方とも認めておいて、だんだん一つのよりよいものに育てあげていこうという方法です。》

このあと、「神仏習合」や「即身成仏(仏になる即身に成仏する)」の話となり、最後に「十住心」を論ずるというのが、第八章「顕教と密教」の構成になっています。

東洋にも、たとえば、ヒンズー教とイスラム教の対立があるではないか、道元が帰国して布教を始めたとき、叡山の僧から迫害されたではないかと、著者の言うことに反論するのは容易です。しかしここに書かれている「密教」的な思想に魅力を感じるのは、私もまた「東洋人」だからでしょうか。このような「包摂」の思想は、しかし、カトリックの一面でもあって、ある人が言ったように、プロテスタントの「分離のエネルギー」とは違ったものがあります。私が魅力を感じるのは、あくまでも「方法」としての密教主義であると言えるかも知れません。人間の文化は複合的重層的であって、純粋なものはそこを通ってしか与えられないということは、その通りだと思います。人間の文化における純粋なもの(本質的なもの)をいかに見出していくかということは、今の時代には今の時代の課題として(往時とは別の課題として)与えられているのだと言うべきでしょう。


W ユングとキリスト教 その1

かつて私が強烈な印象を受けた本に、湯浅泰雄『ユングとキリスト教』(人文書院、1978年)があります。この本は『ユングとヨーロッパ精神』(人文書院、1979年)と「対(つい)」になっていて、学者というのはこのように研究するのであるという模範のような書物です。非専門家の私のような者にとっては、感心するほかはないものです。最近読み直した本に同著者の『身体論 東洋的心身論と現代』(講談社学術文庫、1990年)があります。その本の裏表紙には次のように書かれています。

「“心”と“体”――デカルト以来の近代西洋哲学が幾度となく究明を試みたその問題は、東洋思想の照明を受けつつ、今日最もヴィヴィッドな課題として我々の前にあらわれている。哲学者であり、ユング心理学や「気」の研究の先駆者でもある著者は、現象学、生理心理学との通路を縦横に結びつつ、東洋的「心身一如」論の現代的意義を浮かび上がらせる。海外の思想界に影響を与えた英語版を文庫化」。

著者の思想的軌跡は、私自身の関心と重なるところがあって、このような先達の存在は私に勇気を与えてくれます。ここでは、『ユングとキリスト教』の中のいくつかの章節を断片的に書き写すというこれまでのやり方で、かつて学んだことの振り返りを行ってみたいと思います。初めに本の概要を知る意味で目次を掲げます。

序論 ユング心理学と宗教経験の世界

一 ユングにおける体験と思想
 ユングの生涯と見神体験――思想家としてのユング――深層心理学のキリスト教批判

二 ユング理論の概観
 フロイト批判――無意識と宗教経験――世界内存在の日常的存在様式としての内向性と外向性――心の四機能と身体――集合的無意識の次元――元型と霊性の領域

第一章 原始キリスト教

一 予言者思想の崩壊
 『ヨブへの答え』――義人の苦悩についての従来の解釈――神の二重性格とサタンの役割――旧約における神人関係とその変貌

二 ヘレニズムとヘブライズムの間
 オリエント神話とヨブ記――知恵と聖霊と女性的原理――黙示と人の子

三 新約的人間観の問題点
 ソフィアとロゴス――聖霊の受肉――童貞聖母――ヨハネの黙示――現代キリスト教への提言

第二章 グノーシス主義

一 キリスト教とグノーシス主義
 『アイオーン』――グノーシス主義とは何か――グノーシス研究の問題点

二 グノーシス的宇宙観と人間観
 グノーシス神話の宇宙観――キリストの三重身と人間性――グノーシス体験における深層心理的心像――両性具有の理念――近親相姦タブーの克服

三 キリスト教教義の深層心理学的考察
 善の欠如としての悪――無からの創造

第三章 正統と異端

一 三位一体論の形成
 ニケーア公会議――三位一体論の問題点――バビロン神話とエジプト神話――『ティマイオス』の宇宙論

二 三位一体論における神性と人間性
 東方教会のキリスト論――聖母崇拝――第四者としてのエロスと悪魔――三位一体論と錬金術

三 正統と異端の分岐点
 正統信仰の確立――アウグスティヌスの三位一体論と深層心理学

結び 西洋精神史の光りと影
 メタ・フィジカとメタ・プシキカ――近代精神の栄光と悲惨――鎮魂の精神史

以上の目次によって知られるように、ユングの深層心理学が、同時に西洋のキリスト教の歴史的総括的な考察でもあるということです。その意味で、ユングの深層心理学的視野がきわめて広大であるということがわかります。そこで先ずユングの生い立ちを知るために、序論の一「ユングにおける体験と思想」を引用してみます。

序論には二つの序辞が掲げられています。

私より先に誰がこの毒気立ちこめる誹謗の洞窟へと降りて行ったか? ニーチェ『この人を見よ』

何人も光りを見ることができない今この時代において、光りをたたえ神を説くのは空しい。必要なことは、人びとに光りを見るすべを教えることなのだ。 ユング『心理学と錬金術』

《一 ユングにおける体験と思想

ユングの生涯と見神体験 ユングという人は独特な資質の持主であるばかりでなく、彼の心理学理論は、彼自身の内面的体験と深く結びついたものである。「私は自分自身の無意識の心像に対する強烈な関心を出発点にした」と彼は言っている(ユング、河合他訳、『自伝』2、みすず書房、一一頁)。そこで、本書ではじめてユングを知る読者のために、はじめに、彼の生涯における重要な体験のいくつかについてふれておくことが、彼の考え方を理解するのに役立つであろうと思う。以下は主に彼の自伝によったものであるが、この自伝は、彼の希望によって死後公表されたものである。

カール・グスタフ・ユング Carl Gustav Jung は一八七五年(明治八年)、スイスのツルガウ州ケスヴィルの牧師館で生れた。父ヨハン・パウロ・アキレスはプロテスタント改革派の牧師であり、父方と母方の伯叔父たちの中にも六人の牧師がいた。聖職者の家庭に育ったことは、彼にとってキリスト教との精神的結びつきを運命的なものにしたと言ってよい。ただしそれは、彼が敬虔な宗教的雰囲気の中で育ったということを意味するのではない。むしろ逆であった。少年ユングは、宗教に対する困惑の中で成長したのである。父は古典語をよくし、青年時代は旧約学者としての将来を期待された人物であったが、家庭の事情から牧師の道をえらんだらしい。貧しい田舎牧師としての生活は、彼にとって苦痛だったようである。「父はその信仰を保とうとして絶望的にあがいていた。……父は精神科医の馬鹿げた唯物論に対して身を守ることさえできなかった(同上、1、一四二頁)」と、ユングはこの父の姿を回顧している(*)。

* 引用者注(以下同様):ユングの父は学者であって、牧師であることに徹し得なかったということでしょう。日本の年号では幕末から明治の時代にかけて生きた人ですが、近代的な知識人の苦悩をもろに感じていたように思われます。知識人にとって信仰は既に自明ではなくなっていたのです。ユングはそれを感知していました。

十二歳の夏、バーゼルのギムナジウムの二年生になってまもなく、ユングは彼にとって決定的な体験に見舞われた。青空にそびえる美しいバーゼル大聖堂を眺めていたとき、少年ユングは突如はげしい不安に襲われた。何か恐ろしいことが怒る、考えてはいけない、と彼は感じた。急いで帰宅したとき、母が何事があったのかと心配したほどであった。三日間、彼はその不安とたたかったが、ついに勇気を出して、自由に考えが浮び出るのに任せた。すさまじい幻視体験が起った。大聖堂の背景をなす青空の遥か上に高く、神の黄金の玉座がそびえていた。そして玉座の下からはおびただしい排泄物が聖堂に落下して、建物をばらばらに破壊してしまったのである。彼はひとりで涙を流していた。ユングがそのとき感じたのは、神は聖書と教会をもこえる存在であるということ、また生ける神は、時として人間の信念と神聖な伝統さえ捨てることを強要することがある、という直観であった。神は恐ろしいものでもあり得る、と彼は感じた(*)。

* ユングは、父の苦境を、逆向きに一挙に照らし出すような「幻視体験」を持ちました。彼は神の現前を体験し、同時に教会の破壊されるべき現実を直観しました。学生のとき、私はノイローゼ状態となり、一種の恐ろしい幻視体験を持ったことがあります。それは、やはり神の現前の感覚と、同時に日米指導者の「悪魔的」な結託に関する幻視を伴うものでした。その体験は長く尾を引き、私のあり方を規定するものでした。それは統合失調症(分裂症)の初期症状であったのではないかと考えていますが、その幻視が全く無意味であったとは思いません。キリスト者の「召命体験」には何かそれに近いものがあると思います。キリスト者には統合失調症にかかる者が多いという指摘がなされているということをも考慮しながら、人間の心の問題として、そういう「現実」もありうるのだということを知っておくのは、大切なことだと思います(「神を知る者の心は何ほどか物狂おしい」トゥルナイゼン…記憶によるので不正確)。

この体験以後、少年ユングは他人に語れない秘密の感情を抱くようになった。自分は人間の間に居るのでなく、孤独の中に神と共に居るという感情であった。教会は苦しみの場となった。父や仲間の牧師たちの会話は、生きた神を知らないものに思えた。十五歳のとき、ミサ(*1)に出席した彼は烈しい失望を感じた。教会には神は居ない! 儀式の中で神について語られはしたが、それは単なる言葉でしかなかった。当時の彼にとって、それは「生涯で最大の挫折の経験」であった。教会に神が居ないとするならば、一体、どこに神を求めればよいのか。ユングは晩年、ある若い牧師に送った手紙の中でこんなことを言っている。自分の考えは、惑星が太陽をめぐるように、常に神のまわりをめぐり、それにひきつけられる。その力に抵抗することは自分にとって最大の罪であると感じられる、と。彼が生涯キリスト教の信仰に忠誠を誓っていたことは疑いがない。ただしそれは、彼がキリスト教に忠誠を誓っていたがために、その信仰に忠実であったということを意味するのではない。そうではなくて、彼は神に忠誠を誓っていたがために、キリスト教の信仰に対しても忠実だったということを意味するのである。この信念は少年ユングの原体験に由来するものであり、思想家としての彼の歩みにとって決定的な意味をもっている。思想家としてのユングによっては、カトリシズムとプロテスタンティズムのちがいは何の意味も持たない。のみならず、東洋の諸宗教とキリスト教の世界観上の差も、生ける神の体験という普遍的な宗教体験の基盤から考えらるべき問題となるのである(*2)。

*1 ユングは改革派(カルヴィニズムの教会)に属していたので、カトリックのミサではなく、プロテスタントの「礼拝」に参加していたと思われます。

*2 ユングの神は、教会を越えており、また西洋的な世界観すらも越える普遍的な存在(体験された普遍的現実)であったという指摘は、とても重要だと思います。

少年ユングの危機を救ったのは彼の母であった。母エミリーはごく平凡な女性であったが、時として、威厳にみちた態度で語ることがあった。ユングはそれを、母の第二の人格とよんでいる。ユングの幻視者的体質は母方からの遺伝によるものである。母は突然に「お前は近いうちにゲーテの『ファウスト』をよまなくてはならない」と言った(*1)。ユングは、ゲーテから出発して次第に哲学書に親しみ始めた。古典ではピタゴラス、ヘラクレイトス、エンペドクレス、プラトンにひかれた。近代の著作ではショーペンハウエルとカントを好んだ。トマスとヘーゲルは好みに合わなかった。バーゼル大学医学部に入学してからも哲学愛好癖はつづいた。スエーデンボルク(*2)、E・ハルトマン、ニーチェをよんだ。「ニーチェの『ツァラツストラ』はゲーテの『ファウスト』と同じく私には重大な体験であった」と彼は言っている。学問的な著書の中でも、彼は、自分はニーチェによって心理学を受入れる準備をした、とのべている(Jung, Two Essays on Analytical Psychology, Collected Works, Princeton, Vol. 7, p. 117.(高橋訳『無意識の心理』、人文書院、一九二頁)。

*1 牧師の妻である母がゲーテの『ファウスト』を読めとユングに忠告し、彼がそれに素直に従ったというのは、面白い話です。

*2 霊能者スェーデンボルクについては、カントも(合理的な立場からですが)問題にしています(参照文献)。ユングがスェーデンボルクを読んだということも興味深いことです。

二十一のとき、父が死に、学生生活は苦しかった。このころにも、ユングは何度か異常な体験をしている。大学卒業の前年、二十三歳の夏休みに、食堂の固いテーブルがピストルを発射したような爆音と共に大きく裂けた。家中の者はびっくり仰天したという。二週間ほどして、ある夜また、耳をつんざくような爆音と共に、籠の中のパン切りナイフが粉々にくだけた。こういう現象は、特異な超心理的素質をもった人間の周囲では――特にその人間が思春期にあるころには――起りやすいものである。ユングは、この現象が真に異常であると言えるのかどうか、冷静に観察した。結局、暗い表情で「それは何かを意味しているんだよ」と言う母の言葉に同意せざるを得なかった(*)。

* 一時期、私も超常現象に興味を持ちました。ベルクソン、ウィリアム・ジェームズといった哲学者も、超心理現象に関心を寄せています。井上良雄氏が『神の国の証人 ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ』(新教出版社、1982年)で詳しく紹介したような、現代版エキソシストというべき出来事、あるいは癒しの現象も、19世紀から20世紀にかけて、ブルームハルト父子(カール・バルトなどに影響を与えた親子二代の牧師)のもとで起りました。ユング心理学の立場に立つ河合隼雄氏は、明恵(ミョウエ)上人(鎌倉初期の僧)の超能力(テレパシー)について言及していたと思います。それらは通常の理性的な理解を越えた問題で、大抵は無視されて済んできたことです。スエーデンボルク(16881772)のような超能力の現象も、当時から知識界に生じたスキャンダルとして片づけられてきました。私は、今は強い関心を失いましたが、そのようなことが起るということそれ自体を否定することはできないと考えています。しかし、その現象を合理的に解明することは、きわめて困難なことです。一つの仮説として、私は「気」について色々と調べてみたことがあります。何かその辺に手がかりがありそうです。

バーゼル大学を卒業するとき、ユングはクラフト・エビングの精神医学の教科書をよんで精神科をえらんだ。その一つの動機は「妄想や幻覚が精神疾患に特異な症状ではなくて、人間的意味をもっていることを示すことにあった」と、彼は言っている(ユング『自伝』1、一六四頁)。ユングが彼自身の体験につよい関心をもっていたことはたしかであるが、彼はそれを自分だけの問題として処理することなく、自分自身をも研究材料としつつ、より一般的な学問的研究の舞台に移して考察してみたかったのである(*)。

* ユングは、母親の言うように、妄想や幻覚などの「人間的意味」を探ろうとしました。そこに彼の学問の出発点がありました。

二十五歳で大学を卒業し、医師国家試験に合格したユングは、チューリヒ大学付属ブルクヘルツリ精神病院の助手になった。院長はオイゲン・ブロイラーである。翌年(一九〇二年)、『いわゆるオカルト現象の心理学と病理学』と題する学位論文によって、チューリヒ大学から学位を得た。この論文は、夢遊病癖と霊媒的素質をもった十五歳の少女についての観察記録である。この少女はユングの母方の従妹に当るらしく、のち人格崩壊におちいって二十六で死んだという。ユングは後年になっても、この論文の中に「私自身の見解の基礎になった決定的体験」があると言っている(Jung, ibid, p.118. 前掲『無意識の心理』一九三頁)(*)。

* 学位論文が彼の学問的方法の基礎を築くことになったということでしょう。

今世紀の初頭は、精神病理学にとって大転換の時期に当っている。ブルクヘルツリ病院はその中心の一つであった。先頭に立ったのはブロイラーである。ユングはルードヴィヒ・ビンスワンガー、フランツ・リクリンらと共に、精神病理学の新しい実権グループをつくった。一九〇三年から始めた言語連想実験は、少壮学者としてのユングの名を有名にした。「コンプレックス」という述語は、彼がこのとき用いた「感情価を帯びたコンプレックス(かたまり)」(ドイツ語表記略)という言葉に由来する。一九〇五年(三十歳)からは、チューリヒ大学医学部の私講師として教壇にも立つようになった。このころフランスから留学していたミンコフスキーは、ユングの鋭い観察から受けた印象を著書の中に書き止めている(ミンコフスキー、村上訳、『精神分裂病』(みすず書房)一一七頁。ユング『自伝』1、一八二頁)(*)。

* ブロイラー、ビンスワンガー、ミンコフスキーなど、今日なお名をなす精神医学者とユングが同じ時代の人であるということを確認するのは、「コンプレックス」という言葉をユングが初めて用いたということと共に、門外漢にとっては大切な教示です。

この時期の精神病理学の中心問題の一つは、従来理解不可能とされてきた精神病患者の症状や言動を、その内面から人間的に理解してゆく道をひらくことであった。妄想や幻覚には人間的意味があるとするユングの確信も、この線にそうものであった。「客体」Objektとしての「病気」Krankheitの分析でなく、「主体」Subjektとしての「病者」Krankeの内面的理解が問題であるとする見地は、近代医学の疾病観・心身観への新しい挑戦であった。ビンスワンガーは後にハイデガー哲学に接近し、ミンコフスキーはベルクソン哲学によってその人間観を理論的に基礎づけようとした。しかしブロイラーとユングはフロイトに注目した。ユングとフロイトの文通や著書の交換は、一九〇五年ごろから始まっている。ユングはフロイトの『夢判断』から感銘を受け、そのころの著作の中でフロイト理論をはっきり弁護した。ユングはそのころ、患者ばかりでなく自分自身の夢についても分析を行ない、夢は意識の態度に対する無意識の補償作用であるという見解を固めつつあった。この考えはフロイトとは方向を異にするものであるが、夢が無意識の理解にとって決定的な重要性をもつという点では、ユングは全くフロイトと同意見であった(*)。

* 哲学におけるフッサールやハイデガーなどの登場と、精神医学において「近代医学の疾病観・心身観への新しい挑戦」が始まったということとが、まさに同時代的な出来事であったということ、すなわちそれぞれ別の領域で形成される思想が時代的に共通する趨勢のもとにあるということは、精神史を理解する上で重要だと思われます。

一九〇七年、ユングはウィーンにフロイトを訪問した。「フロイトは私の出会った最初の、真に重要な人物であった」と彼は語っている(ユング『自伝』1、二一五頁以下)。フロイトはユングを歓迎した。いや、大歓迎したと言うべきであろう。そのころの手紙の中で、フロイトはユングに対して「私の皇太子」とよびかけ、自分の後継者にしようと考えていたらしい。フロイトのそういう態度が、彼の門下生たちの間に快からぬ感情をひき起したのも当然かもしれない。弟子のカール・アブラハムに当てた手紙(一九〇八年五月三日)の中で、フロイトはこう書いている。「どうか忍耐して下さい。そしてあなたの方がもともとユングよりも私の考え方を継ぐことが容易であることを忘れないで下さい。……あなたは私と民族的に同じであることによって、私の知的な体質により近いのです。キリスト教徒であり、牧師の息子であるユングは、大きな内的抵抗に逆らってはじめて、私への道を見出すことが出来るのです。だから彼と私の結びつきは、なおさら価値の高いものなのです。彼の出現によってはじめて、精神分析がユダヤ人の学問に終る危険が除かれたのだとさえ私は言いました(C. G. Jung 1875-1961.「ユング生誕百年カタログ」による)(*)。

* フロイトは、ここに書かれているように、自分の学説がヨーロッパの学会に定着するために、非ユダヤ人であるユングの登場を歓迎しました。しかし同じ目的から、彼の学説が科学的合理的であるという立場を堅持する必要がありました。そういう観点から見れば、ユングの考え方はあまりにも非合理的だと、見なしたに違いありません。次の段落には、それに関わることが書かれています。

フロイトとの関係は一九一三年までつづいた。一九一〇年に国際精神分析学会が創立されたときには、フロイトの意向によって、ユングは初代会長に就任した。二人の関係はうまく行っているようにみえたが、実は最初から、彼らの考え方の間には大きなへだたりが潜在していた。たとえば、性欲や宗教や超心理現象などに対する評価の点で二人の考え方は非常にちがっていた。もっとも、学問上の意見の差だけで友情が失われるというものではないであろう。二人の関係が破れたのは、結局は両者の個性が強すぎたためというべきであろう。一九一〇年には既にブロイラーがフロイトから離れ、翌年にはアルフレート・アドラーがフロイトの許を去った。一九一二年に出版した『リビドの変容と象徴』の扉に、ユングはフロイトに宛てて「不服従の、しかし感恩の弟子より」という献辞を記した。翌年、二人は別れた。フロイトは晩年、「アドラーが出て行ったのは後悔していない。しかし、ユングを失なったのは大きな損失だった」と語ったという(ベンネット、萩尾訳、『ユングの世界』川島書店、九五頁)(*)。

* フランスではフロイトの学説が支持され、ユングの評判は芳しくないと、中村雄二郎氏がどこかで書いていたと思います。それはユングの学説の「非合理性」に関わっているようです。しかしフロイトの学説のユダヤ神秘主義的背景が指摘されていることを思えば、両者の関係には複雑なものがあったと言うべきでしょう(デイヴィド・バカン『ユダヤ神秘主義とフロイド』岸田・久米・富田訳、紀伊国屋書店、1976年、参照)。

フロイトと別れた直後、ユングはチューリヒ大学の職をも辞任した。彼は、アカデミズムの経歴をえらぶか、無意識との対決をえらぶかという二者択一が自分に課せられていると感じ、意識して前者を捨てる決心をしたのである。その後の二、三年、ユングは学問的研究からも離れた。内的な不確実感、方向喪失感におそわれた、と彼は語っている。ユングはこのころ幻覚や悪夢をもしばしばみるようになった。一九一三年の秋、旅行中に彼は、洪水が北海からアルプスの北までおおう光景を幻視した。黄色い大波の中に、文明の残骸や無数の溺死体が浮いていた。幻視は一時間もつづいた。二週間後、同じ幻視がまた起った。翌一九一四年の春から初夏にかけては三度、同じ夢を見た。それは真夏に寒波が襲い、ヨーロッパの大地をすべて凍らせる夢であった。その幻覚と夢は何を意味しているのか全く解釈できなかった。彼は最初、それは何か革命のような社会的事件の予兆ではないかと感じたが、そのようなことはありそうもないと考え直した。結局彼は、自分は精神病に冒されつつある、と結論したのである。しかし、まもなく八月に第一次世界大戦が起ると共に症状は解消した。ユングは考えた。人間の無意識から起る作用には、個人的状況をこえた広い次元にまでつながっている部分があるのではないか、という新しい考えが起った。彼は自分のような経験が他の人びとにも起っているのではないか、そしてそれは人間一般の経験と一致しているのではないか、という問いに直面した。彼が、彼の理論の核心を成す「集合的無意識」の考え方に達したのはこのときである。「すべての私の仕事、私の創造的な活動は、一九一二年に始まった最初の空想や夢から生じている」と、彼は言っている(ユング『自伝』1、二七四頁)。一九一六年(四十一歳)、『死者との七つの語らい』という小冊子を書き上げると共に、ユングはトンネルを脱した。この年、彼は始めて彼のいわゆるマンダラ図形を描き始めた(*)。

* アカデミズムの経歴を選ぶか、無意識との対決を選ぶかという二者択一を前にして、後者を選ぶというところに、ユングの尋常ではない資質が現われています。通常の経歴の中で、いつしか形成される体制順応的な生き方に染まらないで、何か創造的な仕事をなし遂げる人の特質が、ここにあると言うべきでしょう。しかし同時にそれは、ユングが当時、深刻な精神的逼迫(内的な不確実感、方向喪失感)に直面していたということでもあるでしょう。創造的な仕事とは、同時に苦境を打開する(トンネルを脱する)ことを意味しています。なお、「集合的無意識」とは、いわばカントの「意識一般」のさらにその奥にあるもので、表層的な意識の深層には、単に個人的ではない、もっと一般的な集合的無意識の次元(原始的古代的でもあるような精神世界)が広がっているのだということでしょう。ユングは自らの経験に即して、そのような洞察を与えられました。しかし、その考え方の当否は、「科学的」に言えば、直ぐに判断できるものではなく、多くの臨床例に接している精神科医や心理療法家などが、漸く「仮説」として提示できる類いのものです。

一九一七年以後、四十代から五十代の約二十年間にわたる学問的社会的活動は、ユングの心理学者としての声価を不動のものにした。この間に、彼はアフリカの原住民やアメリカ・インディアンを訪問して生活を共にし、ヨーロッパ文明を外から見る仕事にとりかかっている。グノーシス主義や錬金術に関する精神史的研究にも着手していたが、発表は見合せていた。それらは、従来の学界の習慣からいえば心理学者の立入る仕事とは考えられていないし、内容的にも、とても世間の理解は得られないだろう、という気持がつよかったからである。彼に光明を与えたのは、中国学者リヒアルト・ヴィルヘルムとの出会いであった。ヴィルヘルムはプロテスタントの宣教師として長く中国で暮した人物で、欧米では『易経』の訳者として知られている。ヴィルヘルムは曇りのないものの見方をもった真の宗教的精神をそなえた人物だった、とユングは言っている。「ヴィルヘルムとの対話は、ヨーロッパ人の無意識が提出した困難な問題のいくつかを解明してくれた。しかし無意識についての私の研究結果は、彼には何の驚きも引起さなかった(ユング「リヒアルト・ヴィルヘルム」(『自伝』2、付録、二三九頁))。東洋の文化的伝統に親しんだヴィルヘルムにとって、それはいわば熟知された問題だった。ヴィルヘルムは一九二八年に『太乙金華宗旨』という道教の瞑想法の経典を独訳し、ユングに心理学的立場からの注釈を書いてくれるように依頼した。「自分はこの書によって、私の無意識の心理学の歴史上の相対物にめぐり合った」とユングは言っている。また、錬金術に関する研究を公表する勇気を与えてくれたのもこの書物であった、とのべている(Jung, Psychology and Alchemy, CW. Vol. 12, p.99.(池田、鎌田訳『心理学と錬金術』1、人文書院、一四三頁)。ユングは、ヴィルヘルムと会う以前から東洋思想に関心をもっていたようであるが、中国文化に特に関心を寄せるようになったのはヴィルヘルムの影響といえるだろう。ユングの東洋研究は断片的なものであるが、その中には極めて示唆にとむ着眼がある。彼は、自分がヨーロッパ文明の伝統の下にある人間であることをよく自覚していたが、非ヨーロッパ世界の文明を公平に観察し、理解し、ヨーロッパの文明と精神史的伝統を相対化して見ることのできた人物であった。それは彼が単に書斎の思弁のみによって考える思想家でなく、人間の多様な経験に即して考える実践的思想家だったことによるであろう(*)。

* ユングの「思想家」としての特質が、ここに書かれています。彼は心理学者として、ある立場を何か特権的なものとして擁護するという制約から抜け出していたのだと思われます。それは「人間の多様な経験に即して考える」という心の柔軟さがあったということでもあるでしょう。そのとき世間で通用している先入観や常識に捉われている人間には、いち早くグノーシス主義や錬金術に目を向けるなどということは、考えも及ばなかったに違いありません。西洋文明を優越的に考えるということからも自由であったというのは、特に注目に値します。それだけ深い自己変革を遂げていたのでしょう。

一九三三年、ナチスは政権を握った。ドイツ文化の伝統に育てられたユングにとって、これは座視しがたい事態であった。しかし彼は政治評論に訴えるよりも、いかにも彼らしい別の道をえらんだ。この年、オルガ・フレーベ・カプティアン夫人の提唱によって、マジョーレ湖畔のアスコナ村に「エラノスの家」が創設された。エラノスとは、同じような精神的興味をもつ人びとの会合を意味するギリシア語である。彼らは昔からの習慣に従って自分の食料を持参した。エラノスの家は各国の学者たちが集って自分の研究を発表し、自由に討論する目的でつくられた会合であった。その宣言には「現代という不安の時代においては、人をして最も暗い時代の闇黒と破壊を通過することを可能にさせる不滅の創造力を確信することが必要である」とのべられている。第一回のテーマには「東洋と西洋のヨーガと瞑想」がえらばれた。以後、ユングはこの会合のリーダーとなった。著名な参加者をあげれば、アンドレアス・シュパイザー(数学)、アンリ・コルバン(イスラム神秘主義)、ゲルシュム・ショーレム(ユダヤ神秘主義)、ルイ・マシニョン(オリエント学)、フーゴー・ラーナー(教会史)、ハインリヒ・ツィンマー(インド学)、ミルチャ・エリアーデ(宗教学)、エーリヒ・ノイマン(精神医学・神話学)、エルンスト・ベンツ(東方教会史)、鈴木大拙(仏教学)、カール・ケレニイ(神話学・古典学)、ジル・クィスペル(グノーシス学)らの名をあげることができる。錬金術の研究をはじめユングの重要な精神史研究は、多くこの会合で発表された。後に、生物学者アドルフ・ポルトマンはユングを回顧して、「魂の偉大な探求者であるカール・グスタフ・ユングとの出会いは、エラノスの初期には決定的であり、後年ユングが実際に参加できなかった時も、彼の静かな存在と内面的関与は会議の精神に重大な影響を与えた」とのべている。ユングは一九五七年に「この暗黒の時代において非常に長い年月にわたってエラノスから発したヨーロッパ精神の光が、ヨーロッパ統一ののろしとしての役割を果せるよう、より永く生きつづけることを祈る」と書き送っている(ユング生誕百年記念カタログによる)(*)。

* 危機の時代に、創造的な仕事をする学者たちが集って、静かに語らうことに、どんな意味があるのであろうかと問うことができるでしょう。そのためには、一種の諦観と精神の深みからくる希望という、二つのことが必要であると思われます。なだれを打って押し寄せる時代の狂気は、どんなにわめき叫んでも、押しとどめることはできないでしょう。そのとき「最も暗い時代の闇黒と破壊を通過することを可能にさせる不滅の創造力を確信する」ということは、人間の創造力の核心にあるものをつかみ、そこに自らを置き続けることができるならば、そこから新しい時代が開けてくるであろうという希望に生きることを意味しています。それこそが「ヨーロッパ統一ののろし」となり、破壊のあとの創造を準備することになるでしょう。「いかにも彼らしい別の道をえらんだ」という、その「別の道」が意味しているのは、そういうことだったのだと思います。

ユングの価値を認めたのは、ドイツではなくアメリカとイギリスであった。一九三七年、彼はアメリカを訪問し、エール大学のテリー講座で『心理学と宗教』と題する有名な講演を行なった。これはグノーシス主義と錬金術を材料にしたものである。翌年はインド政府の招待でインド各地を訪問した。このころヨーロッパは第二次大戦の前夜にあった。テリー講演の中でユングがナチズムを批判したことがナチス当局の怒りを買い、彼の著書はドイツでは発売禁止となった(ドイツ軍のフランス占領後はフランスでも禁止)。ドイツ軍のスイス侵入の噂があったときには、スイス政府の勧めでユング一家は山中に避難している。(*)

* 思想統制は全体主義の常套手段であって、その勢力が権力を掌握したときには、それに従わないすべてのものが抑圧され排除されます。

第二次大戦が終った後、ユングは一切の社会的活動から退いて、世俗を離れた隠者の生活に入った。彼はチューリヒ湖畔の小さい別荘に籠って、残された人生の時間を惜しむかのようにひたすら西洋の宗教精神史の研究に没頭した。彼は、自分の追求している問題が同時代人に理解されるとは期待していなかった。「私は、自分の著作に対する世間の反応や共鳴をあてにしたことはない。私は誰も聞きたがらないことを言うのを余儀なくされた。私は、自分の言うことが現代人にとって歓迎されないであろうということをよく知っていた」と彼は語っている(ユング『自伝』2、三〇頁)。事実、同時代人で彼の思想を理解し得た人はごくわずかであった。私を理解してくれる読者は将来現われるだろう、と彼は言っていた。その意味でユングは、現代の思想家というよりも未来の思想家、言いかえれば時代から理解されざる予言者であったかもしれない。

一九五六年、八十一歳で大著『結合の神秘』を書き終えたユングは、「私の務めは終った」と言った。一九六一年(昭和三十六年)、彼は八十六歳で世を去った。》

ユングの思想がどのような意味を持っていたかということは、長い時間の中で徐々に検証されていくべきものでしょう。キリスト教をメタセオロジカルに対象化するという私自身の関心からすれば、ユングの深層心理学はその一つの可能性を示すものとして、大変興味深いものがあります。これから少し時間をかけ、湯浅泰雄氏の著書に基づいて、ユングとキリスト教の関係について考えてみたいと思います。


X ユングとキリスト教 その2

ここでは序論の一の残された部分、「思想家としてのユング」と「深層心理学のキリスト教批判」について取り上げます。

思想家としてのユング

ユングは精神医学者・臨床心理学者であると共に、一面において一個の思想家である。精神医学者としてのユングと思想家としてのユングを分けるのは、現代の学界の習慣によるまでのことであって、ユング自身においてはこの二つの面は分つことはできない。彼にとって、医師としての臨床的経験はそれ自体、一種の哲学的思索の場であった。彼は、精神医学者としての仕事と哲学の関係についてこうのべている。

私は、われわれ心理療法家(サイコセラピスト)が実際上哲学者ないし哲学的医師であるべきであり、われわれは既にそうなのだという事実を否定できない。ただし、われわれの仕事と大学で行なわれている哲学の間には非常な差があるので、われわれもしぶしぶそのことは認めるのだが……。われわれはそれを発生状態における宗教とよんでもいいだろう。というのは、生の根底を支配している広大な混沌においては、哲学と宗教の間にははっきりした区別などないからである。また心理療法的状況には多様な印象や情動的混乱を伴う救いようのない錯雑があるので、思考を体系化するだけの余裕もない。したがってわれわれは、哲学者と神学者に提示できるような、生から引き出された明快な指導原理なども持ち合せていないのである(Jung, Psychotherapy and a Philosophy of Life, CW. Vol. 16, p.79.)(*)。

* 近頃は、「臨床の哲学」とか「現場の哲学」という言葉が用いられることがあります。そういう意味では、学界の様子も大分変わってきたと言うべきでしょう。

ユングにとって臨床的治療の場は、患者という一個の人間の魂の内奥から展開してくる光景を冷静に観察しながら、患者との「対話」を通じて、そこに呈示された新しい経験の意味について、我と汝が共に考えてゆく共同作業の場である。それは言葉の元来の意味における「弁証法 ディアレクティク」であると言えるかもしれない。そういう経験と考察の蓄積にもとづいて、医師は人間本性に関する洞察を次第に獲得してゆく。それは人間性に関する一種の哲学的思索と言ってもよいのではないか。ユングはこのように、精神医学の仕事が一種の哲学的ないし神学的性格を帯びたものであることを主張せずにはいられなかったのであるが、同時に、その仕事が伝統的意味における哲学や神学とは全く性質の異なったものであることも認めざるを得なかった。現代の学界では、アカデミックな哲学は精神医学や臨床心理学を「哲学」とは認めていない。西欧の哲学界は今日でもユングを哲学者とは認めていないし、わが国でも、彼はフロイトの流れをくむやや風変りな精神医学者の一人としてあつかわれているにすぎない。私はそこに現代の哲学界あるいは思想界のあり方について一つの疑問を感じているのだが、この点について論じるのは現在の問題ではない(*)。

* 和辻哲郎の弟子である湯浅泰雄という哲学者が、こうしてユングの研究をしているということ自体が、アカデミックな哲学に対する一つの挑戦であると言えます。

ユングを西洋精神史の研究に向わせるに至った基本的な動機は、右の引用文の中にもある程度うかがわれる。彼は青年時代、ゲーテの『ファウスト』とニーチェの『ツァラツストラ』によって心理学にみちびかれたと語っているが、精神医学者として自分の理論を形成してゆく過程で一つの問いにぶつかった。それは、西洋精神の過去の歴史において、深層心理学的な問題について考えた先例は果してなかったのかという問いであった。

私は、自分の内的経験についての歴史的な予示の事実を見出さねばならなかった。すなわち私は、「私のこの前提が歴史的にみて、既にどこかに生じているだろうか」ということを自らに問いかけねばならなかった。もしそのような事実を見出せなかったら、私は自分の考えを具体化してゆくことが決してできないであろう。従って、私の錬金術との出会いは私にとって決定的なものであった。それは私がその時まで欠いていた歴史的な基礎を与えてくれたからである。分析心理学は基本的には自然科学である。しかしそれは他のどのような科学よりも、観察者の個人的先入見に影響される。従って分析心理学者は、その判断において、少なくとも未熟な失敗を犯したくないと欲するなら、できるかぎり歴史的及び文学的な類比し得るものに頼らねばならない(ユング『自伝』2、三〇頁)(*)。

* 一般的に言えば、自分が考えていることは既に誰かによって考えられたことではないのかと、その先例を調べてみることは、ものを考える上でのいわば「基本原則」のようなものです。それを確認できれば自分の視野が広がり、またその考えに「歴史的な基礎」が与えられます。同時にそれは自分の「先入見」から脱する方法でもあります。

ユングはこのような考え方から古代のグノーシス主義を研究し、さらに中世の錬金術について研究したのであった。こうして彼は、深層心理学そのものを西洋精神史の流れの中に位置づけてとらえたのである。ユングの見方に立ってみれば、深層心理学の成立は単に現代における一つの新しい学問の誕生を意味するに止まらず、その誕生と発展それ自体が、西欧精神史の伝統的文脈の中でその意義を問わるべき重大な歴史的事件を意味する、と考えられるのである(*)。

* 人間が人間自身をどう考えるか、自分をどのようなものとして理解するかということ、それ自体が、歴史的限定の中に置かれています。フロイトやユングなどによって無意識の精神領域への知識が切り開かれたということは、それ自体が「重大な歴史的事件」であり、その歴史的意義が問われるべき新しい人間理解の問題だということでしょう。それは同時に、人間の過去の歴史を、その新しい目で捉え直すということでもあります。

私のみるところでは、思想家としてのユングにとって最大の課題は「ヨーロッパ精神の本質はいかなるものか」という問いであった。彼はその問いの手がかりをキリスト教精神史の伝統に求め、古代から現代に及ぶ西洋精神史の重要な諸局面について考察した。彼は深層心理学者としての新しい眼をもつことによって、そこに従来の精神史研究が看過していた重大な問題点を見出すに至ったのである(*)。

* ヨーロッパの精神史を規定してきたキリスト教の伝統について、あるいは西洋精神史の重要な諸局面について、ユングは、深層心理学の立場からの見直しを行なうことになります。それは当然、これまでの精神史研究が見過ごしてきた「重大な問題点」を見出すという結果をもたらすものでした。

深層心理学のキリスト教批判 ユングの問題意識は、今日からみれば、彼に先立つ先駆者たちによって育てられたものとみることができる。深層心理学はその学問史的発展の過程において、キリスト教批判に深い関係をもってきた。深層心理学の先駆とされるのは有名なニーチェの「怨恨 ルサンチマン」の説である。ニーチェは『道徳の系譜』その他の著作において、ユダヤ=キリスト教的道徳の本質は、強力で圧制的な支配者に対する「賤民」たちの怨恨と憎悪の感情を道徳的に正当化したものであると説いた。貧しき者・虐(しいた)げられた者の幸福と栄光を説き、富める者・力ある者が天国に至ることはむつかしいとする世界観は、無力な賤民たちの怨恨感情を逆説的に理論家したものである、と彼は言う。このような心理的メカニズムは、個人的状況の中でも起り得るであろう。たとえば社会から不当に差別され軽蔑されている人びと、あるいはそう思いこんでいる人は、社会的な力をもった人びとを憎み、彼らは悪人であり、自分は無実の善人であると思うであろう。こういう心理が極限化すれば、自己の周囲の人間はすべて敵であると信じる神経症的妄想におちいる。集団の場合にもこれと同じ心理的メカニズムが発動する。たとえば資本主義興隆期に起ったマルクス主義イデオロギーは、肥え太ったブルジョワを悪の権化とし、無産階級を罪なくして虐げられる善人であるとみなした。それによって、資本家への憎悪と怒りは道徳的に正しい感情であると結論されるに至る。マルクス主義は「神なきカルヴァン主義」などと評されることがあるが、西欧精神の伝統はこうして、怨恨と憎悪を正当化する道徳的論理的手段としての「イデオロギー」を世界中にばらまいたのではないのか。これがニーチェの問いである(*)。

* ルサンティマンについては、『チャタレー夫人の恋人』の著者、ローレンスも問題にしていたように思います。キリスト教には確かにそういう一面があります。マルクス主義についても、心理的には、その要素がなくはないと思います。しかしそれだけで割切ることは、事柄の一面しか見ないというそしりを免れないでしょう。強い者と弱い者との関係が、そのままでよいということにはならないからです。「還元主義」的にすべてをそれによって説明してしまうのが、「深層心理学」の目的であるとするなら、逆にそれは物事を余りにも単純化しすぎていると言うべきでしょう。

フロイトもまたユダヤ=キリスト教の伝統を攻撃した。彼は『人間モーセと一神教』に代表されるように、キリスト教道徳の本質は集団的神経症であると規定した(フロイト、土井、吉田訳、『幻想の未来』フロイド選集8、日本教文社)。彼がユダヤ=キリスト教道徳の中心観念とみたのは、自己の犯した罪に対する悔改め Reue お感情である。それは峻厳な「父なる神」ヤハウェの審判に対する恐怖が、古代ユダヤ民族の精神的遺伝体質となったためであると彼は考える。フロイトの論証は方法論や文献学の面からみるとお粗末なものであるが、古代ユダヤ教の精神構造の基本的特性は正しくとらえているといえるであろう。現代の文化人類学や比較宗教学では、宗教のタイプを意志的な父性宗教 paternal religion と情緒的な母性宗教 maternal religion に分けることがあるが、前者の典型とされるのはユダヤ教・イスラム・キリスト教などである(松本滋「父性的宗教と母性的宗教」UP、一九七四年八・九月号参照。松本氏は、和辻哲郎や石田英一郎の研究を手がかりとしつつ、フロイディズム的見地から、この分類を提唱している)。それらはいずれも道徳法則への絶対服従を説き、これを破ることを神に対する罪として罰する傾向を示している。道徳法則の立法者・命令者としての絶対の神は、心理学的にみればフロイトの超自我に通ずる特性を示している。超自我は、幼少年期に道徳規範のきびしい遵守を命じる父の圧力が心理的に固着したものである(*)。

* フロイトは、『人間モーセと一神教』の中で、ヤハウェとは、エジプト王族のモーセが、砂漠の聖地ミディアンで信仰されていた一地方神(元のヤハウェ)に、エジプトの一神教的太陽神アトン(イクナトン)の性格を纏わせたものだ、と主張しています(フロイトは、二人のモーセ説を示唆しているので、論証はさらに複雑になります)。「方法論や文献学の面からみると」、その論証は「お粗末」であると言えるかも知れません。これについては、マックス・ヴェーバーの『古代ユダヤ教』(内田芳明訳、岩波文庫、上巻)の第一章一〇節「連合戦争神の受容とその特徴」が参照されるべきでしょう。その節から一個所だけ引用すれば、「ヤハウェがモーセの礼拝組織によってイスラエルの軍事的連合(Kriegsbund)のために新たに受容された神であったということは、二つの大きな資料集のうちでほかならぬ、このばあいではむしろより古い資料たる、いわゆる「エロヒスト」(Elohist)がすこぶる明瞭に述べている」(p.300)とあります。フロイトとウェーバーの論証の方法は大きく異なりますが、ヤハウェの歴史がモーセから始まるという点では、両者の主張は一致しています。それは、今も「一神教」を信じている人たちにとってはきわめて重大な問題です。(フロイトの説については、その本が手もとにないので、佐治芳彦『縄文の神とユダヤの神 人類の二つの選択』徳間書店、1989年、によりました。)

もう一人、ユングより後輩であるが、キリスト教批判を行なった深層心理学者としてエーリヒ・フロムをあげることができる。彼は『自由からの逃走』において、近代プロテスタンティズムの倫理の基底に潜在する自己の無力に対する不安感と、強力な他者(既成の権威)に対する憎悪の感情とを明らかにし、そこに現代のナチズムや大衆民主主義(マス・デモクラシー)の歴史的先例を見出そうとしている(*)。

* かつてピューリタン的信仰に浴した者として、上に書かれている通りかどうかは別として、そこには神信仰から来る独特の衝迫感があったことを思い出します。その信仰には、他者もまた救われなくてはならないという、強い使命感が伴っていました。

ニーチェ、フロイト、フロムのキリスト教批判の内容は、一般の思想史研究者にも広く知られている。これに対して、ユングのキリスト教に対する見解は一般にはあまりよく知られていない。これにはいろんな理由があるようである。第一にユングの著作はきわめて難解なことで定評があり、またその研究対象も古代から現代に至る広い範囲に及んでいるので、簡単には見通しがつけにくい。さらに、西洋宗教史に関するユングの諸研究は、かなり高度の専門的予備知識がないと理解できない特殊な主題をとりあげたものが多い。たとえばグノーシス主義や錬金術の研究などである。専門のユング研究者の中にさえ、ユングの錬金術研究を評して、「彼は世人のかえりみない風変りな研究に没頭した」という程度の批評を下している人がいるくらいである。たしかに錬金術の研究は一般の精神史研究からみれば風変りなものであろうし、またその理解や評価には専門的知識が要求される。多くの読者はその壁にはばまれて、ユングがそういう研究を通じて一体何を言おうとしているのか、というところまで理解するに至らないで終ってしまうようである(*)。

* グノーシス主義や錬金術など、その研究対象が世人に奇異の感を与えるということが、一つにはユングが広く理解されない原因です。しかし、ユングはそれによってヨーロッパ精神の基底にあるものを探り出そうとしたのでしょう。

壁はそれだけではない。ユングのキリスト教精神史に対する基本姿勢は本来両義的である。ニーチェやフロイトの批判は、キリスト教精神史の底流に潜在している暗黒面を暴露しようとするものであり、その批判はストレートである。しかしユングの場合はそうではない。彼は一方においてニーチェ以来のキリスト教批判が呈示した問題を明確に受けとめながら、他方では、そういう批判そのものが一面的で限界をもつものであることをはっきり知っている。彼はキリスト教精神史の暗黒面と光明面とを、共に冷静にみつめようとする。その意味においてユングのキリスト教批判は、現代において西欧の宗教的精神を再生し復活させる道を模索しようとする悲願をこめた批判ともいえるものである。その点、彼の議論はきわめて屈折しており、結論の明快さを欲する一般の読者からは、その真意がどこにあるのかつかみがたい印象を与える。「ユングは一体キリスト教の擁護者なのか、それとも反対者なのか」という疑惑や不満の声が、彼の生前、しばしば神学者や教会関係者から発せられたのもそのためである。しかしユングは、そういう二者択一的な明晰さを求める態度には断じて妥協しない。そういう態度は、真に思索する精神には程遠い知性の衰弱に外ならないからである。そしてまたヨーロッパ精神は、自己の体内にひそむ暗黒の歴史について徹底した自己反省を行なわないかぎり、新しい再生への道を見出すことはできないであろうからである(*)。

* キリスト教史における暗黒面を容赦なく暴き出しながら、しかも自分はカトリックであると宣言する本にポール・ジョンソン『キリスト教の二〇〇〇年』上・下巻(別宮貞徳訳、共同通信社、1999年)があります。自分が所属する団体や自国の歴史における暗黒面に蓋をして、一面的に美化する態度は「知性の衰弱」を物語るものであって、それ自体、決して美しいとは言えません。自国の歴史における暗黒面を抉り出すことを「自虐史観」などと言うのは幼稚さの証拠であって、しかもその裏にはきわめて攻撃的な凶暴さを隠し持っています。それは野蛮が大手を振って通ることを歓迎する態度です。この世界の物事が両義性(ambiguity、曖昧さ)を持つことに耐えられない脆弱な精神は、自己主張のために有形、無形の暴力を振るうことになります。

西欧の思想界では、ニーチェ以来のキリスト教批判は、必ずしもそのままには受入れられなかったように見える。ニーチェは今日では実存哲学の先駆者の一人とみなされており、彼の怨恨説は水平化された近代の大衆社会のあり方に対する批判の意味をもつものとして受けとられている。フロイトについても同様である。精神医学の開拓者としての彼の功績はひろく認められているものの、西欧の知識人たちは、彼のキリスト教批判はキリスト教精神の本質にふれるものではないと考えているようにみえる。精神史的にみれば、それはせいぜい十九世紀末のオーストリア帝国に代表されるような、形式化したブルジョワ道徳の仮面を剥いでみせたものと言い得るに止まる、と。このように西欧の哲学界や思想界は、彼らのキリスト教批判を近代西欧文明の暗黒面に対する告発であると解釈し直すことによって、彼らに思想家としての意義と役割を承認しながら、彼らの批判そのものはキリスト教精神の核心にふれるものではないという評価を下してきた。要するに、責めらるべきものは近代の文明と道徳なのであって、キリスト教的ヨーロッパの精神的伝統ではない。西欧の思想界はそう言いたがっているようにみえる(*)。

* 今日ではキリスト教界の相当数の人たちが、ヨーロッパ・キリスト教史の根本からの反省が必要であると考えているように思われます。ニーチェ風に言うならば、西洋的仏教と東洋的キリスト教の出現というべき、西洋と東洋との「相互浸透」が生じているように見えます。その帰趨を明確に見通すことができないとしても、キリスト教的ヨーロッパの精神的伝統が行き詰まっているのは明らかであって、それは今日の日本のキリスト教界の低迷という形でも現われています。

思想家としてのユングにとって最も重大な疑問は、おそらくこの点にあったのではないかと思う。一体、ヨーロッパの近代文明とキリスト教精神の伝統とは、どういう関係におかれるべきものであろうか。ここには、われわれがまだ十分に明らかにし得ないでいる精神史のある謎が隠れているのではあるまいか。たとえばマックス・ウェーバーは、『世界宗教の経済倫理』に関する有名な諸研究を通じて、西欧近代社会の精神構造がユダヤ=キリスト教的伝統と本質的なつながりをもつことを主張している。彼は近代社会を形成した精神史的原動力をプロテスタンティズムの倫理に求め、さらにその遠い源泉を古代ユダヤ教の予言者倫理に求めているのである。いうまでもなくウェーバーはヨーロッパ近代を基本的に肯定する見地に立って右の歴史的関連を主張したのであるが、ニーチェ以来のキリスト教批判は、逆に近代を告発する見地に立ちながら、ウェーバーと全く同じように古代におけるユダヤ=キリスト教的精神の構造と近代プロテスタンティズムの倫理をとりあげ、これに対してはげしい批判の矢を集中してきたのである。しかしこれまでのところ、両者の観点は社会科学と精神医学という専門学科の溝にへだてられて、議論は全くかみ合うことのないままに放置されている。ユングが取組もうとした課題は正しくこの点にある、と私は考える(*)。

* フロイトとウェーバーという二人の巨人が取り組んだことは、これまでのところは、互いに噛み合うことなく、精神医学と社会科学という専門学科の壁に阻まれてきました。その両方を包み込むような、いわば精神=社会科学(サイコ・ソーシャル・サイエンス)というべき総合的な学問が生れてくるとしたら、そこにこそ今日の学問的課題があるということでしょう。しかしユングもまたフロイトと同様に精神医学者であったのであって、キリスト教に対するスタンスの違いはあったとしても、精神科学と社会科学とを総合する見地に立っていたわけではありません。だから問題は依然としてその先にあると言うべきでしょう。ウェーバーは、宗教社会学的な視野から、宗教と社会との同時的な研究を遂行しました。ユングの精神医学的な精神史の研究には、むしろそれを補完する意味があったと言うべきでしょう。


Y ユングとキリスト教 その3

ここでは、これまで取り上げてきた「心の発展段階」に関わる、グノーシス主義の思想が論述されている個所を引用してみます(三つの秩序欲求の階層性高僧伝 空海カール・ヤスパースの項、参照)。それはグノーシス主義の「三つの身体の区別にもとづく人性論」ということに関する論述で、以下は第二章「グノーシス主義」の「二 グノーシス的宇宙観と人間観」の「キリストの三重身と人間性」と題する部分です。

グノーシス主義的宇宙観では宇宙は三つの世界から成っているが、この宇宙観は彼らの人間観に対応している。大宇宙が三つの秩序から成っていると同様に、小宇宙である人間界も三つの秩序に分かれている。グノーシス主義者はまず、一般の異教徒を第三の物質界にのみ属する「肉的人間」(サルキコイ)あるいは「質料的人間」(ヒュリコイ)であるとみなす。次に、キリストに対する信仰をもつだけの人間、すなわち一般のキリスト教徒は、第二の中間界にまで至り得る「心魂的人間」(プシュキコイ)である。そして秘密のグノーシスをもつ人間のみが、究極のアイオーン(*1)界に至り得る「霊気的人間」(プノイマティコイ)である。ただし異教徒もキリスト教徒もグノーシス主義者に改宗することはできるわけであるから、原理的に言えば、この三つの性質は本来すべての人間に可能性としてそなわっていることになる。すなわち人間は、アカモート(*2)に由来する霊的要素、デミウルゴス(*3)に由来する心理的要素、および地上の物質に由来する肉的要素の三つから成っている。グノーシス主義者は創世記にみえるカインとアベルの物語をひいて、人間はすべて霊的なアベルと、肉的なカインと、中間的なセツの三つの要素をそなえていると主張する。

*1 「アイオーンという言葉は長い期間(劫、永遠)を意味するギリシア語であるが、それから転じて、永遠な生命をもつ霊的存在(神々)をも指す(p.156)」。

*2 「第二の中間界は、アイオーン界の外側にとり残された最後のアイオーンであるソフィア(アカモート)が、キリストから形を与えられることによって形成する世界である(アカモートは「智恵(ホクマー)」の複数形である。ここにはオリエント的な智恵の観念が入っている)(p.159)」。

*3 デミウルゴスの説明としてはやや長いのですが、グノーシス主義の思想を瞥見する意味もあるので、該当する個所を、以下に一段落そのまま引用します。

「正統キリスト教がグノーシス主義を異端とみなした直接の理由は、グノーシス主義者が旧約の神と新約の神とを区別し、前者は第三の物質界の創造者にすぎないと解し、後者のみが究極のアイオーン界の主宰者であると解したところにある。元来旧約の神ヤハウェはしばしば「妬む神」「怒る神」などとよばれ、人間の罪を告発して審くきびしい性格の神である。これに対して新しい福音を告知する新約の神は、人間の魂の苦悩に救いをもたらす愛の神である。グノーシス主義者はこの点に着目して、旧約の神を人間を苦しめる一種の邪神・悪神と解する。彼らはこの神をしばしばヤルダバオトJaldabaothとよんでいる。ヤルダバオトは物質界の創造者であると共に、悪の力をもつアルコーン(高官)たちを従え、地上の人間の運命を支配し、アイオーン界にある究極の光と善の神の存在を、人間の目からさえぎり、見えないようにしている神である。グノーシス主義者はギリシア哲学をとり入れて、このヤルダバオトを、プラトンの『ティマイオス』にみえるデミウルゴスとしての神と同一視した(デミウルゴスとは、ものを造る工匠のことである)。先に言ったように、この時代の東方世界ではプラトン主義の影響がつよかったが、特にこの時代の知識人が重視したのは『ティマイオス』に見える宇宙創成神話であった。そこにはデミウルゴスとしての神が、天上のイデア界にかたどって混沌たる形なき質料から世界を形成したと語られている。グノーシス主義者は旧約創世記の天地創成神話に対して、このプラトンの説明に従って独特な解釈を施したわけである。このようなグノーシス主義者の宇宙観には、先に言った「反現世的二元論」すなわち世界を感覚的次元と霊的次元の二領域に分け、霊の世界の優越を説くという二元的宇宙観がよくあらわれている(p.157-158)」。

彼らのキリスト観はこのような人間観と対応している。いわゆる「御子の三重身」threefold sonshipの説である。救い主としてのキリストは本来アイオーン界に属する存在(イエス・ソーテール)であるが、物質界の悪に支配されて神を見失なっている人間に救いの智恵(グノーシス)を与えるために、マリアの子イエスとして、肉の身体をとって地上に生れてきたのである。したがって彼らの主張によると、総督ポンテオ・ピラトによって処刑されたのは肉的人間としてのイエスにすぎず、真のキリストはそれ以前に彼の肉体から去ってアイオーン界の父の許に帰っていたので受難しなかったのである。要するに、「人の子」として受肉したイエスは、三つの世界に対応した三つの存在様式をもっているわけである。バシリデス(?―130)の言うところでは(Hippolythus原書からの引証、略)、第一の子の性質は父と同じく最も微細で霊妙な存在であって、父と共に天上にある。第二の子の性質はより粗大で、第一の子より少し低い存在である。そして第三の子は形なき状態の中に深く沈んでいて、その性質は浄化されることを必要とする、という。要するに、神性の受肉としてのイエス・キリストは、マリアの子としてもっている身体の物質性の中に、永遠な霊的アイオーン界の種子を隠しているのである(*)。

* 一見奇異な感じを与えるキリスト論ですが、「心理学」的に見ると、人間が肉体、精神(湯浅氏は心魂と言います)、霊性へと次第に向上していくプロセスが、「御子の三重身」の説に托されている、と解することができます。YMCAではかつてすべてのプログラムは「霊・知・体」(mind, body and spirit)の三重(threefold)の側面を備え、その上これに社交性(sociability)を加えたfour-fold programでなければならない、と主張されたことがあります。鈴木栄吉というかつてのYMCA主事は、これを「全人教育」と訳しました。ルーサー・ギュリックという人が、スプリングフィールド大学で学生たちと一緒に考案した、例の赤三角のシンボル・マークで表現される思想(霊・知・体の調和のとれた成長)には、長い歴史的背景があることがわかります。

この御子の三重身の説は、明らかに、右に言った人間性における三つの区分――霊気的人間・心魂的人間・肉的人間――に対応している。すなわち物質的人間の肉体は、その闇の底深く、霊的な本性を宿している。彼らの言うところでは、「霊気(プノイマ)」は「心魂(プシュケー)と物質(ソーマ)」の中に「種子」として「蒔かれ、成長するもの」、あるいはそれらと共に「形成され、教育され」るべき「乳児」なのである(荒井献『原始キリスト教とグノーシス主義』岩波書店、1971年、一五一頁)(*)。

* 荒井献氏の本は未だツンドクで読んでいません。これから読まなければならない本の一冊として、ずっと書棚に鎮座しています。なおプノイマ(プネウマと読むべきではないかと思います)を「霊気」とするところに、湯浅氏の一つのこだわり(「気」への関心)が感じられます。

ところで精神史的に見た場合、右の三重身の説はどんな意義をもつものであろうか。前章で説いたように、ユングの解するところでは、原始キリスト教の人間観は万人が「神の子」ないし「人の子」(*1)であると主張するものであった。福音書のイエスは人間性の「原型」paradigmを示すものであって、イエスと他の人間との間に本性上の差はない。言いかえれば、「聖霊の受肉」はすべての人間に与えられている普遍的な先天的可能性を意味する。心理学的に言えば、「受肉」とは肉的身体の中に霊的次元とのつながりが先天的に潜在していることを意味する。これがユングの解釈であった。このようなキリスト観=人間観は、右にのべたグノーシス主義の三重身の説と同じ基調に立っている。後者では新しくプラトンの宇宙論やグノーシスの観念が入ってきているために議論が複雑になってはいるが、三つの存在様式をもつという点に即して言えば、キリストと一般の人間との間に本性上の差は何もないのである。両者はいずれも、肉的身体の底に霊性の「種子」を宿した存在である。言いかえれば、人間性の本質は「聖霊の受肉」たるところにあるのである(*2)。

*1 「人の子」は「終末時に天から現れる審判者・救済者で、人間的でありつつ身分上は神の子である。イエスが自分のことを人の子と称したかについては多くの議論がある……」(八木誠一『イエスの宗教』岩波書店、2009年、28ページ)。

*2 ここに紹介されているユングの解釈は、一般のキリスト教的理解に反することですが、私は全面的に賛同します。大乗仏教でも、釈迦牟尼仏は衆生の救済のために、いわば「天から天下った」とされます(受肉と同事参照)。しかし、釈尊は「一般の人間との間に本性上の差は何もない」と言われても、仏教徒が奇異に感じないであろうように、イエスもまた一人の人間だったのです。その一点で私の考えは正統的キリスト教に反しています。しかしそこにこそ今日のキリスト教再生の鍵があると思います。

後代のキリスト教の正統教義では、キリストは唯一の受肉した「神人」God-manすなわち「子なる神」であって、一般の人間とは本性的に異なった存在である。この考え方に馴れている読者は、ユングの右のような解釈を異端的なものと感じるかもしれない。しかし少なくとも正統教義が確立する紀元四世紀以前の時点では、ユングのような解釈もたしかに可能であった。ここではその一例としてオリゲネスをあげておきたい。先にふれたように彼は、グノーシス主義の影響を受けつつ東方教会の神学を確立した教父である。彼はまず、人間の信仰と救済に次の四つの段階を区別する(有賀鉄太郎『オリゲネス研究』全国書房、三五五頁以下)。第一は無信仰の民で、頽廃した無神論を信じている人びとである。第二は異教の哲学者たちで、彼らは万物に宿るロゴイの根源である優れたロゴスに参与していると信じている(これは新プラトン主義者やストア主義者を指すのであろう)。第三の段階は「単信者(ハプルステロイ)」である。彼らは一般のキリスト教徒で、十字架につけられたイエス・キリストしか知らない。つまり肉となったロゴスのみをロゴスのすべてと考え、肉に従ってのみキリストを信じている人びとである。そして最後の第四段階は「霊的人間(プノイマティコイ)」あるいは「完全人(テレイオイ)」である。これらの人びとは、ヨハネの言う「太初に神と共にあった」ロゴスにあずかる人びとである。以上の四段階の区別は明らかに、グノーシス主義者が区分した異教徒(肉的人間)・キリスト教徒(心魂的人間)・グノーシス主義者(霊的人間)の三段階の区別をとり入れたものである。ただギリシア哲学に造詣が深かったオリゲネスは、異教の哲学者たちを無信仰の民にややまさるものと考えて四段階に分けたのである。彼はさらに、ロゴスの受肉としてのイエス・キリストは、三つの身体をもっていると言う。ロゴス的身体、プシュケー的身体、そして処女マリアから生れた肉的身体である。ロゴス的身体は感覚の眼でみることはできない。「信仰を得たと考えられている多くの人びとはロゴスの影に師事しているのであって、開かれた天に在す真の神的ロゴスに師事しているのではない(有賀、同前、三八三頁)」。この三重身の説は、グノーシス主義における「御子の三重身」の説のそのままの焼直しである。御子の三重身は人間の三つの存在様式と対応していたが、オリゲネスの場合も同様である(*)。

* 教会の権威、具体的には公会議の決議が定めた正統性の基準が、今日までキリスト教を支配してきました。正統か異端かということが、キリスト者の信仰を強く拘束してきました。それはプロテスタントの信仰にも濃い影を投げかけてきました。しかしグノーシス主義の真理契機(ユングが見出したその心理学的洞察力)を受入れるならば、これまでの正統・異端という固定観念から自由にされた、より深く、より広い宗教が生れて来るように思われます。なおオリゲネスの思想は広大かつ複雑であって、ここに書かれているように単純化されてしまえるとは思えません。しかしその思想の多くがのちに異端として斥けられたのは、のちの正統派から見れば、そのグノーシス主義の克服の仕方が未だ不徹底であると見なされたからかも知れません。浅学にして不詳です。

オリゲネスはここで「祈り(プロセウケー)」あるいは神の「観想(テオーリア)」を説く。「観想」は主の霊と融合することによって、われわれの「心魂(プシュケー)」がロゴスと結ばれ「霊気(プノイマ)」に変化してゆくことである。明らかに、彼のいう「テオーリア」は「グノーシス」の言いかえである。これによってわれわれの魂は御子が父を知るように、父なる神を知り、父と合一し、御子と同じく「神を直視する者」(アウトプテース)となる。「御父が『唯一神(ホ・テオス)』であり、御子が『神(テオス)』である如く、われわれは『神々(テオイ)』となるのである(有賀、同前、四〇八頁)」と彼は言う。ここでは霊的認識(グノーシスないしテオーリア)に即して、キリストと一般の人間は同じ神的本質をもつということが明確に主張されている。後の西方教会の教義にみられるように、キリストを一般の人間から隔絶された唯一の「神人」God-manとし、人類の歴史上ただ一度だけ起ったロゴスの「受肉」であると解釈するような考え方はみられない。古代東方教会の神学を代表するオリゲネスがこのような考え方をとっていることは、原始キリスト教の人間観の中に、ユング的解釈を容れ得る可能性が十分にあったということを裏書きしているであろう。

* ここでもオリゲネスのグノーシス主義的側面が強調されています。しかし「神人」という言葉を最初に用いた人が、ほかならぬオリゲネスであったということにも留意すべきでしょう(園部不二夫『著作集第三巻』キリスト新聞社、1980年、169ページ)。問題は東方教会に絶大な影響を与えたとされるオリゲネスの、その東方的性格が何であったかを見定めることにあると思われます。しかしここに書かれていることには共感を覚えます。まさにそこに(西方)キリスト教の問題があると思うからです。

ユングの解釈に従えば、原始キリスト教の人間観は霊肉の一致を主張するものであり、グノーシス主義の人間観はこの流れをくむものである。こういう解釈は、グノーシス主義を霊肉二元論の極端化と解釈する神学者の古い見方とは正反対である。どうしてこういう正反対の解釈が出てくるのであろうか。ここには宇宙観と人間観の関係に関する厄介な問題がある。グノーシス主義者は、宇宙論においては感覚界と心霊界を分つ二元論(厳密にいえば三世界論)をとっている。キリストは本来アイオーン界に属する存在であって、肉のイエスはロゴスの影にすぎない。この点から言えば、彼らの論理はたしかに霊肉二元論の極端化であり、キリストの肉体に本質的意味を認めない仮現論Docetismの先駆であるとも言える。しかしグノーシス主義の宇宙論には、先に言ったように、新プラトン的汎神論につながる「流出(エマナチオ)」の考え方がつよい。この流出論理から言うと、霊的次元と物質的次元とは、光から次第に闇へと移行してゆくようにゆるやかに相互滲透し合っている。彼らが霊の世界と肉の世界の間に、両方の要素が入り混った中間界を設定したのもそのためである。肉体の底に霊性の種子が宿っているという彼らの人間観は、その意味において、肉を罪の源泉とする後のキリスト教の正統教義とは異なった人間観に向う萌芽をはらんでいる。キリスト教の正統教義学はやがて宇宙論から流出論的な汎神論の要素をぬぐい去り、人格神による「無からの創造」という唯一神の観念に達する。これによって神は、被造物としての宇宙を人間をこえた絶対的超越者となってゆく。同時に、神性と人間性は全く断絶する。そのとき人間の身体性は超越的な神性とは全く無関係になってしまうから、身体はもはや何の価値も認められなくなるであろう。それはただ、罪の源泉としての単なる「肉」でしかなくなるのである。この点からみると、神学者の古い解釈とは逆に、正統教義学は霊肉分離的人間観の方向に向うものであり、これに対してグノーシス思想の流れは霊肉一致の人間観に向うものであったと解釈されるのである(*)。

* 聖書的キリスト教的人間観は霊肉一致の思想であっって、グノーシス主義的二元論の立場には立たないと言われてきた常識に反して、ここではその逆のことが言われています。キリスト教の歴史を見れば、確かに肉体蔑視ではないかと思われる側面が、多々見受けられるのも事実であって、著者はその淵源をキリスト教正統教義の成立に見ています。この世界(宇宙と人間)から隔絶した唯一絶対の神という観念が、キリスト教の正統的神学を規定してきたとすれば、ユングはまさにその思想に挑戦しているのだということでしょう。この指摘が正しければ、キリスト教は絶対的観念論となるほかはありません。

さてユングは、グノーシス主義者の言うキリストの三重身の説に対して次のような解釈を下す。彼は、マリアの子としての肉のイエスが「無定形」アモルフィア(ギリシア語表記略、以下同様)「無知」アグノーシア「無思考」アノエートンのうちにあると点に注目し、これらの言葉は、心理学的に解すれば無意識を意味していると言う(Jung, Aion, CW. Vol. 9-ii, p. 119.)。つまり救い主(ソーテール)としてのキリストは、無意識の暗黒の底に眠っている霊的で内面的な「全体的人間」の完全性を象徴している。したがって完全人としてのキリストは、心理学的にみれば人格の心的全体psychic totalityとしての「本来的自己」Selfを指示していると言う。彼の言う本来的自己は、序論でのべたように、宗教的にいえば「霊的本性」と言ってよい概念である(*)。

* 「救い主(ソーテール)としてのキリストは、無意識の暗黒の底に眠っている霊的で内面的な「全体的人間」の完全性を象徴している」という言葉は、正統的キリスト教のキリスト論から逸脱しています。しかし救い主についてのそのような「心理学的」的解釈にこそ、キリスト教を根底から理解し直す鍵がひそんでいるように思われます。

ユングは、キリストが本来的自己を象徴するということの意味を、次のような図(*1)によって説明している。キリストは、マリアの子イエスとして肉身をもつひとりの歴史的人格であるかぎりにおいて、一回的個別的な存在である。しかし同時に、神性の受肉としての子なる神であるかぎりにおいては、永遠で普遍的な存在である。この二つの契機の結合において「聖霊の受肉」という考え方が生れる。このことは、すべての人間が、亡びゆく肉体をもつ存在者として歴史的個性をそなえた一回的個別的存在であると同時に、自己の生の根拠をなす種的生命の本質において、永遠で普遍的な霊的次元とつながっていることを意味する(Jung, ibid, p. 115.)。これが人間本性の基本構造である(*2)。

*1 十字、あるいは縦横の座標軸を描いて、縦軸が永遠的(上)、一回的(下)の線を、横軸が普遍的(左)、個別的(右)の線を表わします。その交差に「人間本性の基本構造」が示されます。つまりそれはすべての人間に該当することです。

*2 このキリスト論はグノーシス主義的であって、正統的排他的なキリスト論の観点に立てば、直ちに断罪されることになるでしょう。「...かく言う者は、呪わるべし」(昔の公会議決議の末尾に出てくる常套句、アナテマ、破門制裁)。

ここで注意すべき点は、普通の状態では、人間の本来的自己が物質性・肉体性と結合し、その中に眠っているということである。グノーシス主義者はこれを「種子」「乳児」などという言葉で表現した。右にも言ったように、マリアの子としての人間イエスは無定形(アモルフィア)・無知(アグノーシア)・無思考(アノエートン)の中にあると言われている。このことは、肉体と結びついた無意識のくらい影の衝動的領域によって、霊的次元とのつながりが隠されていることを意味する。ユングの言うところによれば、パウロが人間は肉的身体をもつかぎり善を為そうと欲しても為し得ず、常に悪に向かおうとすると言ったのは、肉体の欲望を支配する無意識の諸力を言ったものである。またイエスがその福音において「汝ら天の父のごとく完全なれ」と言うのは、そういう肉的諸力の支配から脱して内なる魂の底に見出される完全な本来的自己に向うべきことを説いたものである。グノーシス神話において、十字架の苦難に当ってキリストがその肉体を去ってアイオーン界へ帰ったとされていることは、深層心理学的に解釈すれば、無意識領域の諸力が自覚にもたらされ、自我がそれを統御することによってそれらの力の衝動的支配から脱し、完全な本来的自己の次元へと近づいてゆくことを意味するのである(*)。

* ここには、西田幾多郎的に言えば、超越的内在のキリスト論(啓示のキリスト)から内在的超越のキリスト論(創発、emergenceのキリスト)への、視点の転換があります。キリストは覚知(グノーシス)という事柄それ自体を指す言葉となります。

東洋思想に親しんでいるわれわれ日本人にとって、こういうグノーシス的人間観はわりに理解しやすいものであろう。大乗仏教の場合、本来的自己を象徴するのは「仏性」の概念である。「仏性」は古くは「如来蔵」タターガタ‐ガルバ(サンスクリット語表記略、以下同様)とよばれたが、これは如来となるべき種子がすべての人間に蔵されているという意味である。「蔵」の原語ガルバは胎児・子宮・母胎を意味する。つまり潜在的可能性である。仏性は人間性の中にある霊的で永遠な本性を示しているが、その本性はふつうは単なる可能性として「無明」アヴィヂャーすなわち肉体にそなわった「煩悩」クレシャの底に眠っている。この無明の闇をこえる手段が瞑想行を通じて得られる悟りの智恵(「慧」ジュニャーナ)である。これは霊的認識としてのグノーシスに類似した観念である。仏教学者コンツェは大乗仏教とグノーシスの思考形態の間に多くの類似点を認めているが、彼が最初にあげている根本的な類似は、霊的認識としてのグノーシスと瞑想による「慧 ジュニャーナ」のみが魂の真の救済をもたらすという考え方である(Conze, Buddhism and Gnosis, Bianchi (ed.), The Origins of Gnosticism, p. 652.)。コンツェはこの外にも多くの類似点をあげているが、ここでは心理学的に興味のある次の点のみを紹介しておこう。グノーシス主義では霊的認識としての「智恵」(ホクマー=ソフィア)を重んじたが、大乗仏教の場合、これに当るのは「般若波羅蜜」プラジュニャーパーラミター(彼岸に至る智)である。そしてソフィアが女性化されたように、大乗仏教のタントラには「般若(プラジュニャー、智慧)は母であり、それは世界の万物を生み出す」とのべられている。ユング流に言えば、これらは個性化(*1)過程における太母(*2)のみちびきを指しているものと解されよう(*3)。

*1 個性化 individuation 個別化について参照

*2 太母 great mother 地母神(聖母崇拝の心理的根底にあるとされるもの)

*3 宗教を深層心理学的に解明するということは、ここに書かれているように、特定の宗教に帰属しているという「意識の垣根」を取り払う意義を持っています。しかし特定の宗教を固く信ずる者の立場からすれば、それは冒涜的で、非難されるべきものと見えるでしょう。心理学者、あるいは「学的」に宗教を論じる者は、脱宗教的に宗教を論じているということになります。宗教的実践の立場からすれば、それはどうでもいいことであると言われるかも知れません。そこには大きな溝があります。


Z ユングとキリスト教 その4

湯浅泰雄氏のユングについての著述を、あと2〜3回取り上げてみたいと思います。ここでは第二章「グノーシス主義」の第三節キリスト教教義の深層心理学的考察の「紹介とコメント」を行ないます。

われわれは次に、グノーシス主義の宇宙観および人間観と比較することによって、キリスト教の宇宙観と人間観について考えてみることにしたい。キリスト教の教義は使徒たちによってその基礎がおかれ、その後代々の教父たちの手で理論的なみがきがかけられていったものである。正統教義の確立過程における教父思想とグノーシス主義・新プラトン主義の関係を考える場合、われわれはひろい意味におけるキリスト教形而上学のあり方に注目する必要がある。ここでキリスト教形而上学というのは、後代の神学用語でいう自然神学と倫理神学をまとめた言い方である。一般の哲学用語でいえば、キリスト教の信仰を根底においた理論哲学(存在論)と実践哲学(倫理学)である(*)。

* かつて私はクロード・トレスモンタン(Claude Tresmontant、トレモンタンとは読まないと教わりました)というカトリックの人が書いた『キリスト教形而上学の主要観念』というフランス語の本を読んだことがあります。昔の公会議の記録に基づいてキリスト教思想の要諦を論じた本です。「キリスト教形而上学」というのは、プロテスタントには馴染まない言葉です。そのような勉強からずっと離れていた者として、久しぶりになつかしい言葉に出会ったという感じがします。

古代形而上学の世界では、理論哲学ないし存在論 Ontologie は自然学つまり宇宙論を基礎にして展開される。存在論の目的は、宇宙に存在するもろもろの存在者の存在様式を研究することであり、その究極の目標は、一切の存在者の第一原因である神の存在のあり方を明らかにすることである。この点に関するキリスト教形而上学の基本命題は、いわゆる「無からの創造」creatio ex nihilo の教義である。この命題によって神と宇宙(自然)の関係が原理的に決定される。これに対してキリスト教的倫理学の基本をなす考え方は、いわゆる原罪ないし根源悪の思想である。それは厳密には、倫理学というよりも人間本性論(人性論)とよんだ方が適切であろうが、倫理学的問題をとりあげる場合の基本的公理に当るものである。古代キリスト教の教義では、それは「悪とは善の欠如 privatio boni である」という基本命題であらわされている(*)。

* 以前にも書いたことですが、「無からの創造」の論理的帰結は、創造の前には、神だけが「存在」していたということを意味するほかはありません。そうすると神のみが存在していて、宇宙が無であるということは、一体、どういうことであるかが問われるでしょう。しかし「有神論」はこの(神は超越的に自存するという)観念を、どこまでも維持するということを意味するでしょう。「善の欠如」という思想には、その神=万能の神が悪を創る筈がないという、「神義論」的動機が働いていると思われます。創造神話を「形而上学化」することには、どうしても、そのような「無理(強弁)」が伴います。旧約聖書の「神話」をそのままの形で合理化することはできません。神話はあくまでも神話です。

われわれの研究にとって重要な意味をもつ一つの問題点について、ここであらかじめ一言しておきたい。それは、古代形而上学の考え方においては、宇宙論と人性論、つまり存在論と倫理学の間に密接な理論的対応関係があったという点である。近代思想は自然法則と倫理法則、物理的physicalなものと道徳的moralなものを全く異質な存在様式をもつものとして分けてしまうが、古代思想の世界では両者は理論的に分離されていない。自然(フィシス)という言葉は大宇宙としての外なる自然を意味すると共に、小宇宙としての内なる自然、すなわち人間の本性human natureを意味する。物理的自然の存在様式は、心理的自然(人間性)に関する主体の経験を投影して理解される。たとえばグノーシス主義の世界観においては、三つの世界から成る彼らの宇宙論と、三つの身体の区別にもとづく人性論は不可分の関係にあった。したがってわれわれのここでの目的は、「無からの創造」という存在論の基本命題と「善の欠如」という倫理学の基本命題の関係を、グノーシス主義および新プラトン主義との関係に即して明らかにすると共に、その意味を深層心理学の観点から考えてゆくことである(*)。

* 「三つの身体の区別」については、前回取り上げました。ここから愈々キリスト教の「基本命題」(倫理学的命題:「善の欠如としての悪」と、存在論的命題:「無からの創造」という、二つの照応する思想)についての考察がなされます。

善の欠如としての悪 ユングが重視しているのは右の倫理的基本命題である。「悪とは善の欠如である」というこの定義はさしあたり、「実体」ウシア、スブスタンティア(原語表記略)としての悪は世界に存在しない、ということを意味する。もっと簡単に言えば、「悪とは本来存在しないものである」と言ってもよいであろう。この定義と表裏一体の関係にあるのが、神は最高善Summum Bonumであるとする定義である。最高善というのはさしあたり、悪の要素を全く含まない純粋な善と解しておけばよいであろう。つまり神を理論的に最高善と定義すると共に、神の被造物としての世界の中には実体としての悪は存在しないということを論証してゆくのが、教父たちの神学研究の目標であった(なおこの場合の「世界」は、現代人が考えるような感覚的経験の世界だけでなく霊的世界をも含む)。こう言っただけではまだ問題の意味が十分のみこめないと思うが、まず右の教義が確立するまでの経過を、哲学史を参照しながら簡単にのべておこう(ユングからの引証略)(*)。

* 問題は、キリスト教哲学ないしキリスト教形而上学の煩雑な議論に関わっています。著者はそれをかいつまんで説明しようとしています。

悪を「善の欠如」とする定義はふつうオリゲネスに始まるものといわれているが、実質上これに近い考え方はそれ以前からみられる。二世紀の教父イレナエウスは、神の光の充溢(プレローマ)の中には暗黒や空虚があってはならないし、また神やキリストは矛盾を含むものであってはならないから、神は一切の悪を含まない最高善であると主張している。このように神を最高善とする場合には、神は世界における悪に対して一切の責任がないと考えなければならない。神は世界における一切の善きものを造った造物主であり、一切の善なるものの究極の根拠である。したがって悪は神から来たものではありえない。とすれば、悪が世界に存在している(かのごとく見える)という事実はどう解すればよいのか。世界は神が造ったものであるが、しかもその世界には、現実に悪が存在しているのではないだろうか。教父たちは「善の欠如」という定義によって、この難問に解決を与えようとしたのである。大バシリウス(33079)は、神は「悪」カコン(ギリシア語表記略)の作者ではなく、また悪はそれ自身において存在するものでもないと主張する。言いかえれば、悪は実在(オン)でもなければ、実体としての本質(ウシア)をもつものでもなく、単に善の「欠如」ステレーシス(ギリシア語表記略)という消極的状態を意味するにすぎない。より積極的に言えば、悪とは徳に反する人間の魂の「性向」ディアセシス(ギリシア語表記略)である、と彼は言う。後代の根源悪の思想の萌芽がここにあらわれている。後に定式化された「すべての善は神より、すべての悪は人間より」Omne bonum a Deo, omne malum ab homine. という考え方はここから生れてくる。このような論法は、クリソストモス(354407)やディオニシウス・アレオパギタ(五世紀)らによって更にみがきがかけられた。古代教会最大の教父アウグスチヌス(354430)もマニ教との論争においてこの問題に立ち入っている。アウグスチヌスによると、世界には神や天使のように何らの悪しき要素も含まない純粋な善きものは存在しているけれども、何らの善き要素も含まない純粋な悪というものは決して存在しない。ふつう悪といわれているものは善のより劣った段階にあるもの、すなわち善きものが欠如した状態なのであって、悪しきものそれ自体が善きものの外に自存しているわけではない。言いかえれば、それらは善さの程度ないし分量が劣っているためにふつう悪とよばれているにすぎないのであって、その本性上から言えばやはり善なのである。また人間のあり方に即して言えば、悪とは、意志の誤った決定によって物を悪しく用いることである。つまり悪は「実体」として存在しているわけではなく、罪の本性をもつ人間の意志の「作用」が生み出した仮象にすぎないのである。さらにトマス・アキナス(122474)は、善は存在するが悪は存在しないという命題をアリストテレス形而上学の形相―質料の関係から論証し、存在と善を論理的に等置する形而上的善metaphysical goodの理論を最終的に完成した。彼の考え方では、神や天使のように質料を全く含まない形相(純粋形相)は存在するけれども、形相を全く含まない純粋な質料(第一質料prima materia)は、単に考えられるだけであって、形をそなえた実体として存在することはできない。したがって形相的なものが善であり、質料的なものは悪であるとすれば、悪は実体をもった本性上の存在ではあり得ないことになるのである(*)。

* 上の説明によれば、キリスト教正統派はいわば「悪仮象説」を徹底的に主張しているように見えます。最高善としての神が最高に実在的であるとすれば、この世界はその本性に与って、本来善きものとして存在している。その善の「欠如態」が悪であるということになります。ユングは、善悪についてのこのような思想の、心理学的な意味を問うているということになります。

近代的なものの考え方に馴れているわれわれには、教父たちがなぜこんな議論に熱中したのか、よくわかりかねるであろう。またこういう穿鑿は哲学史家にまかせておけばよいことで、現代人とは何の縁もないことと思われもしよう。しかしもうしばらく忍耐して、この問題の意味するところを考えてほしい。これは現代にまで及ぶ西洋の精神史と人間観の伝統に深くかかわる問題であって、決して今日のわれわれにも無縁な問題ではないのである(*)。

* 西洋の精神史的伝統というものは単に過去の問題なのではなく、現代の世界情勢にも関わるヴィヴィッドな問題であるということに、著者は注意を促しています。

教父たちの議論の一つの動機は、グノーシス思想と対決しこれを打倒するところにあった。グノーシス主義の考え方では、物質界は悪神デミウルゴスの創造と支配の下にある世界であるから、悪は明らかに実体としてこの世界に存在しているものであった。これに対して善は、アイオーン界の善なる光の神に由来するものとして、悪神の影の中に隠れつつもやはり同様に存在している。つまりグノーシス思想では、善と悪は、互いに対抗しながら一体化して世界を動かしている二つの力なのである。ピリポ福音書には

光と闇、生命と死、右と左はお互いに兄弟である。それらをお互いから引き離すことは不可能である(§10)(荒井献『原始キリスト教とグノーシス主義』、一九二頁)。

と記されている(*)。

* 善一元論か善悪二元論かという問題がここに提起されます。しかし善悪のどちらをも根本において実体としては捉えない仏教のような立場もあります。

歴史的にふり返ると、グノーシス思想の栄えたエジプトには、もともと善悪二神を兄弟関係におく有名なオシリス神話の伝統があった。この神話では、兄の悪神セトSethが善神である弟のオシリスOsirisを殺して、その死体をナイル河に投げこむ。オシリスの妹でありまた妻である女神イシスIsisは、夫のバラバラの死体を集めて死からよみがえらせる。こうして再生したオシリスとイシスの間から生れる子がホルスHorusである。ホルスは「王

(ファラオ)」の権威と権力を象徴する鷹の神である。母神イシスは「母なるナイル」をあらわし、万物を死からよみがえらせる生命の力を象徴する。ユングはこの神話のより古い形を探索しているが、それはもっと単純な形である(ユングからの引証略)。紀元前二三〇〇年ごろのペピ一世時代(第六王朝)のピラミッド・テキストに双子神の讃歌がある。それによると善神ホルスと悪神セトは双子の兄弟であって、二人が協力して人間の魂を天国への階段へみちびくのである。また別のテキストでは、両者は光の神と闇の神としては対抗する関係にある。ホルス(=オシリス)とセトは相反する二つの力――光と闇、創成と破壊、秩序(コスモス)と混沌(カオス)、再生と死、善と悪――を象徴する(*)。

* 神話は人間の想像力=物語能力(narrative competence)の産物です。しかし、それは単に古代人の稚拙な想像力の所産なのではなく、同時に人間の根源的な心理過程の表出でもあります。ユングの着眼点はまさにそこにあったのでしょう。

ユングは、エジプト神話にあらわれたこの主題がグノーシス主義に影響したものと推定している。彼がその例としてあげているのは、第四代のローマ法王クレメンス一世(ローマのクレメンス)に帰せられている『クレメンス偽書』(クレメンス説教集Clementine Homilies)である。この書は、イエスの死後エルサレムの原始キリスト教団から離脱してヨルダン川東方に逃れた最古のキリスト教異端エビオン派Ebionitesに関係の深い外典である。エビオン派はグノーシス主義の影響をつよく受けたユダヤ人キリスト者の一派であるが、彼らはキリストとサタンが共に神の子であり、また兄弟であるという信仰を奉じていたという(シャルト『古代経典におけるサタンの形』からの引用、ドイツ語引証略)。クレメンス偽書はこの信仰の流れを伝えて、紀元二世紀ごろ成立したものと推定されている。この書では、善と悪は神の左右の手であって、神は左の手によって人間を裁いて殺すと共に、右の手によって人間を愛し生かすと説かれている(ユングからの引証略)。神はまた人間のために二つの「王国(バシレイア)」と二つの「時(アイオーナ)」を定めた。すなわち、現在を象徴する地上の王国と永遠の未来を象徴する天上の王国である。前者は亡びゆく悪に定められた過ぎゆく時間の王国であり、後者は光明と善に定められた永遠の王国である。この二つの王国が善悪左右の手をもつ神によって定められたということは、善と悪が常に対立し、相争う関係にあるにもかかわらず、共に神に由来する一体不可分のものとしてとらえられていることを意味している(*)。

* キリスト教正統派の立場からすれば、異端の教説は奇異であって唾棄されるべきものでしょう。しかし人間の心理的過程の見地からすれば、そこには興味深い洞察が秘められていると言うことができます。

なおユングの言うところでは、クレメンス偽書にみられるような信仰の形態は、中世ユダヤ教の神秘的経典であるカバラの伝統の中につづいている(ユングからの引証略)。カバラでは、二人の「救世主(メシア)」――苦しむメシア・ベン・ヨセフと勝利のメシア・ベン・ダビデ――を一体のものとしてとらえている。メシア・ベン・ヨセフはサタンが石の上で生み落した反キリスト的性格のメシアであって、終末の日に死んで、メシア・ベン・ダビデから天上のエルサレムに新しい生命を与えられるのである(*)。

* ユングの視野の広さには驚かされます。それは、人間の心の働きを偏見なく見つめる、精神医学者の目を持っているからでしょう。

このようにグノーシス思想の流れでは、善と悪は共に人間をこえた神的な力としてこの世を支配しているものと考えられる傾向があった。したがって悪は、善と同じく実体として存在するものと考えられたのである。これに対して教父哲学の流れでは、――ヨハネの黙示録が悪魔を地底の獄に閉じこめたことに象徴されるように――世界から悪を抹殺して善なる神のみの支配下におく論理へと次第に向って行ったのであった(*)

* 悪を抹殺することができると考えることは、ブッシュ前米国大統領に見られたような、硬直した攻撃性を呼び起こし、世界をもっと危険な状態に陥れてしまうことを意味するのではないでしょうか。それは根源悪(原罪)というキリスト教教義にも逆らっています。あるいは、自分は既にキリストによって罪から根本的に解放されている、と考えてしまうところに、ある種のキリスト者が陥りがちな短絡的思考があると言うべきでしょう。それにしても、人間の悪とは一体何なのでしょうか。

ユングは、このキリスト教的論理の発展史の中に西洋精神史のその後の運命を見る。「グノーシス主義によって発せられた『悪はいずこより来るか』という古い問いは、キリスト教世界では答えられていない」と彼は言う(ユング『自伝』2、一八二頁)。深層心理学の見地からすれば、善と悪の根源を共に人間をこえた神的力に帰するグノーシス思想は、人間の本性に対する一つの洞察を示している。ユングはこれを、上のような図形(*1)によって説明している。心理学的にみた人間の本性においては、精神と肉体(物質)、したがってまた合理性と情緒性は一体不可分の関係にある。グノーシス思想はこの関係を神話的に投影して、善神と悪神、あるいはキリストと反キリスト(悪魔)を一体不可分の関係にあるものとしてとらえたのである。神話的表象としての悪神・悪魔は、深層心理学的に言えば人間性の「影」の部分、すなわち肉体と結びついた無意識領域の衝動が投影され、実体化されたものである。言いかえれば人間の本性は、善と悪、精神性と物質性、神性と悪魔性の結合において存在しているのである。このような視点に立ってみると、グノーシス的人間観が深層心理学の見方と深くつながってくるのに対して、教父哲学における「善の欠如」という命題は、人間の肉体性や無意識過程の諸問題を倫理学の体系から、したがってまた人間性の本質から理論的に排除してゆく傾向をもつものであったと言えるであろう(*2)。

*1 座標軸を描いて、縦軸が善(上)と悪(下)を、横軸が精神的(左)と物質的(右)を表わします。それぞれの関係が切り離しがたいものであることを意味します。

*2 悪の淵源に対する問いに対して、キリスト教世界では答えられていないというのは、「善の欠如」という思想が、結果として問題を根本的に見据えることを妨げてきたということでしょう。神中心に秩序立ててものを考えてきたが、結局それは人間性を精神の深みにおいて見る目を曇らせて(抑圧して)きたということでしょう。

倫理学の立場からユングの議論に解説を加えると、この問題は既にギリシア哲学において、プラトンとアリストテレスの間で萌芽的な対立をみせている。プラトンは『ティマイオス』の中で、悪を肉体の病気に比すべき「霊魂(プシュケー)」の病気であると言っている。人が悪を犯すのは彼の意志によるのではなく、肉体的な欠陥や教育上の無配慮の結果である(『プラトン全集』第十二巻、岩波、一六五頁)。たとえば体液の作用のような遺伝的要因も考えられる。彼の考えでは、人間の霊魂の神的部分である「理性(ヌース)」は、肉体と結合することによって愚か(無力 アヌース)になってしまっているのである。このプラトンの見方はそのまま現代の精神医学の見方につながっている。深層心理学の立場から言えば、無意識領域の力は意志の支配から独立して自律的にはたらき、理性をふりまわすものだからである。プラトンは、意志の努力や理性の力だけではどうにもならない悪しきものの力が、事実として、自立的客観的に存在していることを認識している(*)。

* もともと倫理学者である著者は、ここで深層心理学的な知見に対して哲学的な解説をつけ加えます。

これに対して『ニコマコス倫理学』第三巻第五章にみえるアリストテレスの議論は、右のプラトンの見解に対する反論らしい(野町啓『初期クリスト教とギリシア哲学』創文社、一三一頁以下参照。高田三郎訳『ニコマコス倫理学』上、岩波文庫、二六六頁、注18ではソロンの影響かとされているが、野町説に従う)。アリストテレスによれば、徳すなわち人間の善い「性向(ヘクシス)」は「霊魂(プシュケー)」の訓練によって、われわれの自由な意志と責任において形成されるものであるが、悪徳もまた同様にわれわれの責任に属する。虚弱や不具によって肉体的に悪しき状態に生れついた人間は倫理的に非難されるべきでないが、大酒や放埓によって盲人になった場合のように、「身体に関するもろもろの悪しき性向のうち、われわれの責任にもとづくものは非難される」と彼は言う。アリストテレスの見解は日常的な道徳的判断にもとづいている。一般的に批評すれば、善と悪は共に人間の自由と責任に帰せられるとするアリストテレス的見方は、正常で健全な一般市民の倫理観に合致するものであり、日常的経験の立場に立っているものと言えよう。これに対してプラトン的見方は、理性の力だけでは処理し難い精神錯乱や遺伝的犯罪者のような限界状況に妥当するものとも言えよう。ただし人間がそういう限界状況に追いこまれることがあり得るという事実は、人間本性の考察にとって重要な意味がある。深層心理学はそういう限界状況下におかれた人間の研究から、理性や日常的自我意識の立場からとらえ難い人間本性の闇をさぐってゆこうとする。プラトン主義の人間観はそういう見方とつながってくるのである(*)。

* ここでは悪が具体的には悪徳や犯罪に結びつくということが言われています。しかし「正常で健全な一般市民」が、戦時には別人のようになるということ、そして戦争が必ずしも異常なこととは見なされていないという事実を考えてみると、正常と異常との境目は普段我々が考えているように明確なものではないということに気づかされます。

一般的に言えば、グノーシス思想と教父哲学の対立は、プラトン的見方とアリストテレス的見方を倫理学の領域から宗教や人間本性の領域にまで拡大したようなところがある。わかりやすく言えば、悪を「善の欠如」と定義する教父哲学の思考態度は、善をすすめ悪をしりぞける道徳意識の要求(すなわち人間的な当為Sollen)に従って神のあり方を考えていると言ってよい。神は人間をこえた最高の人格である以上、悪とは全く無縁な最高善でなくてはならない。従って神の造った世界には悪が存在してはならない。これが彼らの考え方である。このように考えてゆくならば、人間の本性に関しては、永遠な神の世界につながる「霊」の側面にのみ価値が認められ、悪へ向うおそれのある「肉」の側面はその価値を否定されなくてはならない。こうして霊肉の二元性が強調され、身体は人間性の本質にとって無価値なものとみなす傾向が生れてくるのである。心理学的にみれば、このような思考態度は、日常的経験の次元に基礎をおく「意識」の論理に従って無意識領域の問題をも律してゆこうとする態度を示している。これに対してグノーシス的人間観は、道徳と宗教を質的に次元の異なるものとみる考え方にみちびいてゆくであろう。道徳は日常的経験の場に基礎をおく自我意識に支えられて成立つものであるが、宗教経験の世界はそういう「意識」の論理をこえた地点から始まる。無意識領域には、人間の意志の支配をこえた自立的な力が作用している。それは人間の本性において、「霊」の領域から来る力が「肉」と不可分に結合していることの結果である。ここでわれわれが為すべきことは、むしろ道徳的意識の要求を撤回して、心の深層領域からひらけてくるそのような力のあり方をありのままに体験し、認識してゆくことである。そこには悪魔的な力も神的な力も共に否定しえないものとして存在している。霊的認識としてのグノーシスはそういう内なる世界の探求なのである(*)。

* 宗教は、日常的自我が定立する道徳律を越えた、「無意識領域」に関わるという著者の見解が、ここに示されます。このような宗教観は現代的なもので、かなり一般的な傾向を表わしています。「神」を立て、そこからすべてを律していこうとするキリスト教が、なぜ今日あまり受入れられないのかと言えば、それが人々の経験から離れてしまっているからです。あらゆる観点から言って、説得力を失いつつあるからです。それでも信じる人たちは熱心な教条主義者か、または習慣的に教会に通う人たちに限られるでしょう。ユングは、この危機を打開するためにこそ、自分の研究に意味があるのだと信じていたのだと思われます。しかしその説は、ある意味で当然のことですが、教会によって受入れられるものではありませんでした。そのギャップに、かえって問題の深刻さが現われています。正統的教義の行き詰まりとその打開という、キリスト教固有の問題は、ユングにとっては西洋的精神の再生という大きなテーマに関わるものでしたが、人々がその問題に真剣に取り組むようになるのは、まだまだ先の話であるということなのかも知れません。

無からの創造」については次回に回します。


[ ユングとキリスト教 その5

以下、「無からの創造」を取り上げます。この部分は、ユングの思想の解説というよりは、前の「善の欠如としての悪」に照応すると見なされる「無からの創造」に関して、著者の古代思想史についての知識が開陳されています。その問題はかねて私自身が関心を持ってきたことなので、かなり長い文章ですが、著者の言うことに耳を傾けたいと思います。

近代的なものの考え方に馴れたわれわれには、古代の教父や哲学者たちの議論はすぐには理解しにくい。これは次の二つの点に主な理由があるようである。第一は精神と物質についての考え方である。近代人はデカルト以来の心身二元論に馴れている。と言っても、べつにわれわれみんながデカルト哲学について知っているという意味ではない。われわれは心と身体、あるいは精神と物質というものがお互いに異質なものであって、物質は精神をもたず、逆に精神とは物質的にとらえ得ないものであると思っている。木や石には心はなく、逆に、心というものは見ることも触れることもできない、と私たちは言う。しかし古代の人間にとってはそうでなかった。彼らにとって精神と物質は、いわば相互に滲透し合っているものであった。精神(霊魂 プシュケー)はいわば一種の微細な物質、甚だ微妙で感覚されにくい物質だったのであり、逆に物質は(生物も無生物も含めて)すべてそれぞれに特有な霊魂をもつ存在だったのである。この場合、古代思想の世界では、ギリシア哲学特にプラトンの伝統に従って、精神的なものが「形相 エイドス」とよばれ、物質的なものが「質料 ヒュレー」とよばれていた。そして一般の常識では、精神的なものは善であり、物質的なものは悪であると解される傾向にあった。もっとも形相=善、質料=悪という関係が理論的に確立されていたとは言えないが、そういうふうに考えてゆくのが当時の人びとの一般的なものの考え方だった、とは言えるだろう。たとえば紀元二世紀のローマの哲学者ケルソスCelsusはキリスト教批判の書をあらわしたことで知られているが、彼は悪の原因を人間の自由意志(ギリシア語略)によるものでなく、質料が悪の原因であると主張している(Origenes, Contra Celsus, W, 65. 有賀『オリゲネス研究』、前掲書、二四五頁。野町『初期クリスト教とギリシア哲学』、前掲書、第五章参照)。またプロティノスも、「質料」と「悪」と「非存在 メー・オン」を等しいものとみなしている。こういう考え方は教父たちにも影響を及ぼしている。たとえば二世紀の教父ヘルモゲネスは、質料そのものは善でも悪でもないが、悪の原因となり得るものであると主張している。先に言ったように、古代人にとっては自然的なものと道徳的なもの、物理法則と道徳法則の性質のちがいはそう明確なものではなかったから、存在論における形相―質料の関係と倫理学における善―悪の対立は、何らかの形で理論的に関係づけられる傾向があったのである。教父たちが善は存在するが悪は実体として存在しないと主張する場合、この「実体 ウーシア としての存在」という表現は、右のような考え方に即して理解しなくてはならない。つまり当時の常識的見方では、善も悪も一種の微細な物質、言ってみれば一種のガス状物質みたいなものであって、いわばもろもろの存在者の自然的性質として、さまざまな事物の中に濃淡さまざまの度合で含まれていたのである。これに対して教父たちは、ふつう悪なるものと言われているものは実は善の程度のより劣ったもの、つまり善の分量が少ないことを意味するにすぎない、と解釈したのである。グノーシス主義者はこれに対して、善なる物質とはもともと異質な悪なる物質が存在している、と考えたのであった。教父たちからみれば、そういう善悪二元論は、世界に唯一の善き神以外の支配者を認める異端的な考え方に他ならなかったのである(*)。

* 初期キリスト教思想は、ギリシア哲学との折衝の中で、またグノーシス主義との対立の中で形成されたものです。かつてハンス・ルディ・ウェーバー(かつての世界教会協議会の指導者の一人)は、直接その話を聞いたときだったと思いますが、キリスト教はもう一度初期のキリスト教思想形成期に立ち帰って、自己の神学的立場を再吟味すべきであると述べていました。キリスト教は今とは別の形であり得たと考えることは、とても大切なことだと思います。なおキリスト教史について私はかなり杜撰(ずさん)な総括を試みたことがあります(「六区分のキリスト教史」、「目標管理的経営と教会の六つの変換モデル」参照)。後の方で述べた言葉で言えば、初期キリスト教の「合成・切断モデル」の、思想の合成の仕方の再吟味は、今日のキリスト教にとって、益々その必要性を増していることのように思われます。ここでの議論はその問題に関わっています。

古代の哲学論争が理解しにくい第二の理由は神の問題である。この時代の人びとにとって神の存在は全く自明の真理であった。たとえて言えば、現代のわれわれにとって、人間性の尊厳という理念が疑い得ない真理であるようなものである。教父たちやグノーシス主義者は言うまでもないが、ストア主義や新プラトン主義の哲学者にとっても、神が存在することは疑いのない事実であった。問題はただ神の理解の仕方にあった。彼らの議論は、神の存在を――明示的にせよ、暗示的にせよ――あらかじめ前提した上で、その存在の仕方をいかに規定してゆくかという点に向けられていた。たとえば神は単数か複数か、また神と世界の関係や善と悪の関係はどう考えてゆくべきか、といった問題である。教父たちの考えでは、神が存在することが明らかであり、またその神がみずからの中に一点の悪しき要素も含まない最高善であるとするならば、一見世界に存在しているかのごとくみえる悪の根拠は、人祖アダムの堕落によって罪の本性を負った肉的人間の意志以外にあり得ないことになる。「善の欠如」という定義が生れてきた理由はここにある(*)。

* 神は「単数」である、また神が最高善である限り、世界の悪はアダムの堕罪による、人間の肉的意志(原罪)に起因するというキリスト教思想は、旧約聖書の創世記の神話に基づいています。それが絶対的真理であると見なされるならば、その思想が権力を握れば、それを認めない思想は弾圧され、抑圧されることになります。ローマによって迫害されたキリスト教が、ローマの支配者の思想になるという逆転が生じたとき、ヨーロッパ精神史の運命が決ったと言えるでしょう。

ここでわれわれは、キリスト教形而上学の今ひとつの基本命題である「無からの創造」について取り上げておく必要を感ずる。「善の欠如」の教義は倫理学の基本命題である。これに対して存在論の観点に立つ場合に、キリスト教思想の中心を占める役割を果したのが「無からの創造」という教義である。この二つの教義は人間観と宇宙観の対応によって表裏一体の関係にある。そして「無からの創造」という教義は、被造物としての宇宙を超越した唯一の絶対的人格というキリスト教独特の神観念を確立するのに決定的な役割を果したものである。ただしユングはこの問題には全くふれていないので、以下は私の注釈である(*)。

* 著者がなぜ、ユングが「全くふれていない」、二つの教義の対応関係に気づいたのかということを考えてみると、著者が『東洋的無』(久松真一)の思想に触れている「東洋」の哲学者だったからであると、言えるような気もします。

前にのべたように、宇宙観の考察に当って当時の思想家たちに大きい影響を及ぼしたのは、プラトンの『ティマイオス』である。そこでは、デミウルゴスとしての神が天上のイデア界を望みつつ、混沌たる「形なき質料 アモルフォス・ヒュレー」から世界を「形成 デミウルゲオ」したと語られている。プラトンはこの話を、「神話 ミュトス」つまり一種の象徴的比喩であるかのように語っているのであるが、その理論的意味をどう概念化してゆくかということが当時の思想界の中心課題であった。グノーシス主義者は、デミウルゴスの世界形成のモデルとなった天上のイデア界を新約的愛の光にみちたアイオーン界と解釈し、彼が質料から形成した物質的世界は、旧約の創世記神話に対応するものと解釈した。このグノーシス的宇宙観に対する批判を通じて、教父哲学における「無からの創造」という論理と、新プラトン主義における「根源からの流出」という論理が分れ、対立してくる。もっとも、両者は共にグノーシスの善悪二神説をしりぞける点では一致している(*)。

* 神話、つまり一種の象徴的比喩の理論的意味を、どう概念化してゆくかということが、当時の思想界の中心的課題であったということは、科学的知識が未だ確立していないその時代には、それが知識人の最先端の課題であったということでしょう。しかし人文科学の世界では、当時と似たり寄ったりの議論が今も続いていると言えなくもありません。

教父哲学はどのようにして、「質料からの形成」にかえて「無からの創造」という論理に到達したのであろうか。キリスト教史家の教えるところでは、二世紀の教父殉教者ユスティノスやアテナゴラスはまだプラトンの考え方を援用して、神は「質料」から世界を「形成 デミウルゲオ」ないし「制作 ポイエオ」したと説いている(有賀『オリゲネス研究』注10、第二部第五章参照)。プラトン的立場をこえる手がかりを与えたのは、「非存在」(メー・オン)の概念である。メー・オン(ギリシア語略)はパルメニデス以来の有名かつ難解な概念であるが、わかり易く言えば、それは光に対する闇・生に対する死・重さに対する軽さ……といった消極的存在性を指示する言葉であった(コーンフォード『宗教から哲学へ』東海大学出版会、二四七頁以下。ケレニー『神話と古代宗教』新潮社、二六一頁以下)。プロティノスは「質料」と「悪」を「メー・オン」と同一視し、ストア哲学(ケルソス)でも悪の起源をメー・オンに求めている。このような考え方はキリスト教に影響を与え、二世紀の外典『ヘルマスの牧舎』になると、悪は質料と近い関係にあるという理由から、質料はメー・オンの一種であると解釈している。こうして「質料」が「非存在」と同一視されれば、「質料からの形成」は今や「非存在からの形成」を意味するに至るであろう。三世紀に入ると、オリゲネスやテオフィロスはさらに一歩を進めて「非存在 メー・オン」を「無」(ウーク・オン)という言葉におきかえた。ウーク(原形はウー、ギリシア語略)という言葉は論理的な否定、つまり「……でない」notを意味する。オリゲネスは「神は存在しないもの(ウーク・オン)から存在するもの(オンタ)を制作した」(ギリシア語略)と言う。最後に彼らは、「形成 デミウルゲオ」あるいは「制作 ポイエオ」という言葉に代えて「創造」(クティゾー、ギリシア語略)という言葉を用いることにしたのである(*)。

* 古代哲学は思弁的に高度の発展を遂げていました。たとえばプロティノスについては、かつて私が読んだ本として、出隆の『プロティヌスとアウグスティヌスの哲学講義』新地書房、1987年)があります。高度に進んだ当時の思想界にあって、キリスト教を哲学的に弁証していくという課題は、それ自体きわめて知的な挑戦でした。教父たちは真っ向からその挑戦に応え、キリスト教信仰を哲学的に基礎づけようと努めました。「無からの創造」という思想も、そのような思想的格闘の中から遂に生み出されたものであると言えます。それはキリスト教という宗教の新たな段階を画するものでした。

教父哲学がこの神学論争の過程で最大の論敵としたのはグノーシス的宇宙論であった。二世紀のグノーシス主義者ヴァレンティノスは、悪を含んだ物質的世界を造ったものは、純粋な善なる神とはちがった存在(デミウルゴス)でなくてはならないと主張した。教父イレナエウスはこれに対して、世界に存在するものはすべて、存在の形態のみならず素材もまた万能の神が生ぜしめたものでなくてはならないと反論した。この反論を理論的に裏づけてゆくために、教父たちは「質料」という言葉を「非存在」から「無」に、また「形成」と「制作」という言葉を「創造」におきかえて行ったわけである。これら一連の概念のおきかえを通じて、キリスト教の神は今や質料から宇宙を形成した神ではなく、から宇宙を創造した神へと、いわば格上げされるに至ったのである。このようにキリスト教の神が質料を含めて一切を無から創造した神であるとすれば、それは粘土から形をこね上げたプラトンの神やグノーシス主義者の神よりもはるかに偉大な絶対的存在である筈である。これによってキリスト教の優位は論理的に証明された、と彼らは主張したのである(*)。

* キリスト教の優位性が「論理的」に証明されたということが、実際にはいかなる帰結を伴うものであるかが問われることになるでしょう。(なお「質料」と「形相」については、ヒロ・モルフィズム参照のこと。)

このように考えてくれば、「善の欠如」という倫理学の基本命題と「無からの創造」という存在論(宇宙論)の基本命題が、論理的に表裏一体の関係にあることがよくわかるであろう。当時の人びとが究極の絶対的存在としての神を考えた場合には、まず第一に理論的要請として、神は一切万物の存在の究極の根拠であり、第一原因であらねばならぬとする考え方があった。簡単に言えば神は万能でなければならない。第二に倫理的要請として、神は最高善であり、一切の善きものの根拠であり原因であらねばならないとする考え方がある。くり返すようだが、この二つの要請は教父たちのみならず、新プラトン主義者も、またグノーシス主義者も(究極の神に関しては)承認していたのである。ところがこの理論的要請と倫理的要請とは、実は論理的に両立しにくい関係にある。まず理論的見地に立つ場合は、プラトン的な「質料からの形成」よりも、教父的な「無からの創造」の考え方のほうが、神の万能という点については理論的に徹底している。「質料からの形成」は、当時よく用いられた比喩で言えば、陶工が粘土を用いて器具を制作するように、神が「質料」を用いて万物を「形成」したというのであるが、そうすれば当然、万物がその存在の形態(形相)を与えられる以前の「形なき質料」が、神と共に、あるいは神よりも先に存在していたと考えねばならない。神の万能という理論的要請を認めるかぎり、教父哲学の論理はプラトン的論理にまさる。ところが具合の悪いことに、この考え方に立つと、今ひとつの倫理的要請がうまく満足させられない。なぜなら当時の人びとの一般的常識では、世界に悪が存在していることは明らかであり、また悪なるものは何らかの形で質料的なるものと関係があると考えられていたからである。したがって神が質料を創造したとすれば、神は悪をも造り出したと考えなければならず、最高善であるべき神の中に悪しきものの種子があったことになってしまうからである。紀元二世紀末ごろ西方教会で行なわれたテルトゥリアヌスとヘルモゲネスの論争は、教父哲学にとってこの問題が重大なジレンマであったことを示している(有賀『オリゲネス研究』、前掲書、二九七頁)。ヘルモゲネスは教父であるが、プラトン的形成論に近い考え方をとり、「無からの創造」の教義に反対した。彼の言うところでは、神がもし無から世界を創造したのだとすれば彼は最も善き世界を造った筈であるが、現実の世界は明らかに多くの悪を含んでいる。これは神の善意志をはばむものが限定を加えているからであって、神はやはり「質料」materiaから世界を造ったのである。質料そのものは善いとも悪いともいえないけれども、それは少なくとも世界の悪ないし不完全さの原因をなしている、とヘルモゲネスは言う。この主張に対してテルトゥリアヌスは、そういう議論は、神を悪に対する責任から免れさせようとして、かえって神を必然の奴隷にしてしまうものだと攻撃している。「必然の奴隷」というのはいかにもテルトゥリアヌスらしい極端な言い方だが、その意味は、もし質料が神と共に、あるいは神よりも先に存在していたとすれば、神の万能、すなわち唯一絶対なる神が何ものにも制約されない自己の全く自由な意思と決断によってこの世界を創造したという考え方が否定されてしまう、ということである。要するに教父哲学の大勢は、究極の絶対的存在としての神を考える場合、理論的宇宙論的要請をまず第一におき、倫理的人性論的要請は第二においたのである。極端に言えば、倫理的要請を犠牲にしても理論的要請を徹底させる方をえらんだと言ってもよいであろう。倫理学において、善は存在するが悪は存在しないという、常識にとってはいささか詭弁的に聞える議論が生れてこざるを得なかったのはそのためである(*)。

* 倫理的人性論的要請を犠牲にしてでも理論的宇宙論的要請を先行させたということが、キリスト教のその後の展開を方向づけたと指摘されています。前に、キリスト教は絶対的観念論とならざるを得ないであろうと言いましたが、そのことと関連しています。それは、また、森有正の日本語論を取り上げたとき(「現実嵌入型言語1〜5」参照)、西洋の言語は構文自律的傾向が強く、それに対して日本語は文脈依存的傾向が強いと書いたこととも関係しているように思われます。現実に押し流されないで理論的要請を徹底させるということは、たしかに西洋思想の強みなのですが、その反面、その思想で現実を征服しようとする強引さがつきまとっています。現実を理論で割切ることには限界があります。しかしそれは哲学という思弁的学問の限界であるとも言えるでしょう。

教父哲学の「創造」の論理に対して、新プラトン主義の「流出」の論理は、この場合、倫理的要請ないし人間本性についての考察に重きをおいていると言えよう。この時代の倫理学は、現代的に言えば、深層心理的体験のあり方と不可分なものであり、意識と無意識の全体を含めた霊魂(プシュケー)の善きあり方、あるいは悪しきあり方について考察する人間本性論という性格をもっていた。たとえばプロティヌスの言う「一者 ト・ヘン」としての神は、プラトンの言う純粋無垢な善美のイデアの性質をそなえたものである。プロティヌスの考えでは、そういう究極の根源からさまざまの段階に分れる重層的世界(叡智 ヌース、心魂 プシュケー、自然 フィシス、質料 ヒュレー)が次第に「流出」してきたのであるが、これらの世界はその根源から遠ざかるにつれて、ちょうど光源から遠ざかるにしたがって次第に闇が濃くなるように、下位の世界ほど、善美なるもの・形相的なものの力が弱くなってくるのである。この考え方は理論的にみれば弱点がある。それは形の上ではいちおうグノーシス的二元論を克服した神一元論、つまり世界の一切のものの存在の根拠を善なる神に帰する考え方であるといえるが、潜在的には二元論の残滓がある。光源から遠ざかってゆく下位の世界の究極には、善美の神と対比されるような闇の原理がやはり考えられているのではないか、という疑問が当然起ってくるからである。また「流出」がどういう理由で起ったかということも説明しにくい。「創造」の論理が神の自由な決断を明示できるのに比すれば、「流出」は一種の理由なき必然論に近づく。流出論理というものは元来、汎神論的な霊的作用(霊気、聖霊、精霊など)の信仰にもとづいて生れてきたものであるために、神の存在形態を人格的に固定して表現しにくいところがある。プロティヌスが神を「一者 ト・ヘン」というような非人格的表現におきかえたのもそのためである。非人格的な存在には自由な決断もあり得ない。けれども流出論理は、現実の世界に悪が存在しているにもかかわらず世界の究極の根源である神は最高善である、という事態を説明するには説得力がある。物質的世界は神から遠く離れたものであるが、われわれ人間は神に近づくにつれて次第に善美なるものに近づいてゆくことができるという考え方は、人間性の真実な姿を示している。プロティヌスは、霊魂の純化によって人間は「叡智 ヌース」の領域に達し、さらに「脱我 エクスタシス」に入って「一者」と合して永遠の生命を得ることができると言う。つまり流出論理は本来、心の内面的体験に基礎をおく人間本性論なのである。教父哲学の宇宙論が外なる自然 フィシス に即して神のあり方を追求する「形而上学」(メタ・フィジカ)であるとすれば、流出論理に基礎をおく新プラトン主義やグノーシス主義の宇宙論は、内なる自然つまり霊魂 プシュケー に即して神のあり方を追求する形而上学である。それはメタ・フィジカに対してメタ・プシキカ、つまり霊魂 プシュケー の彼岸(メタ)を求める形而上学ともよぶべきものであろう(*)。

* キリスト教は魂の現実から離れて、「創造」の論理に走ってしまう傾向を有するという指摘は重要です。キリスト教形而上学(神中心主義)の問題がそこにあります。しかし、そのような思想的傾きにおいて、「外なる自然」に即した客観的実在論が生まれ、また西洋の世界でこそ自然科学が発展できたのだと考えることも可能でしょう。

以上のように、教父哲学における「無からの創造」と「善の欠如」という二つの基本命題は、論理的に不可分な関係に立っている。キリスト教の正統思想が確立されてゆく過程は、この場合、理論的宇宙論的要請を第一義におき、倫理的人性論的要請を第二義とするものである。言いかえれば、唯一で万能な超越的絶対的人格という神の理念を明確にしてゆくことが教父哲学の基本的要請であって、そこから出てくる論理的に必然的な結果として、彼らは「善の欠如」(悪は存在しない)という命題をえらんだのである。彼らの思索を動かしている根本的動機は、形而上的思弁の領域において理論的徹底性をあくまで追求してゆくという態度である。そのためには、彼らは心理的経験の現実――人間の世界には善と悪が共に存在するという現実の経験――から遊離することも辞さなかったのである。ここから、論理的思考の必然性は経験的実証の相対性をこえるという西洋哲学の伝統的思考が生れてくる(*)。

* 先にも述べたように、西洋思想の絶対的観念論あるいは絶対論的論理学的傾向というべきものは、教父哲学の思考態度に既にその萌芽があったということでしょう。

「善の欠如」の教義によって、悪の問題に関する論理的解決は与えられた。しかし論理的解決は超個人的な知的思弁の問題であって、それによって個々人の現実生活の場における心理的解決が与えられるわけではない。ユングは東洋思想について論じた論文の中でしばしば、西洋精神史の伝統には形而上学と心理学の分離がみられると言っている(Jung, Psychological Commentary on the Tibetan Book of the Great Liberation, CW, Vol. 11. p. 475 ff.)。深層心理学的観点からみて重要なことは、ひとりひとりの個人の魂の病気の治療という心理的解決を通じて、一歩一歩人間の本性を認識してゆくということである。個人の心の内部において内的衝動と精神的要求が葛藤を生ずる場合、必要な解決の理想は、肉的なる衝動を克服して霊的なる次元に近づくことである。ただしこの場合、意志の努力だけでは完全な解決は与えられない。なぜなら肉的要求は、人間が肉体をもって世界に生きているかぎり逃れ難いものであるから。この事実そのものは、教父哲学もグノーシス主義も承認していた。正統派教義の歴史では、パウロからアウグスチヌスに至る人間観、すなわち人間は人祖アダムの堕落によって、肉の身体と共に神にそむく罪の本性をもつに至ったという原罪観に、そういう考え方があらわれている。近代のカントの根源悪の思想も、遠くそういう人間観の系譜を引いている。これに対してグノーシス主義の場合は、そういう罪への傾向性を単に人間の本性に帰するに止らず、神話的に、物質界の人間が邪神デミウルゴスの支配下におかれているからだと解釈する。言いかえれば彼らは、悪には人間の意志以上の力がはたらいている、と主張したのである。この神話的表象は心理学的にみて重要な意味がある。人間以上の力が人間に悪を犯させるということは、深層心理学的に解釈すれば、自覚的な理性や自我意識の支配をこえた無意識領域の影の力が人間を動かし振りまわすということを意味する。正統派的人間観の場合は、悪に向う性向は基本的に人間自身の意志と責任に、すなわち「意識」の責任に帰せられるのであるから、解決の道は非常にせばめられ、自我は大きな重荷を負わされることになるのである(*)。

* 普段は快活に振舞っている、ある滞日中のヨーロッパの女性が、たまたまひとり道を行く姿を見かけたとき、大変深刻な顔つきで、苦悩を顔ににじませているといった風情で歩いていたので、ハッとさせられたことがあります。人間には誰しもそういう面があるのですが、よく言われる西欧の「個人主義」というのは、自我に「大きな重荷を負わせる」という点で、良くも悪くも独特なものがあると思わされます。

最後に一言つけ加えておこう。教父哲学の立場でもグノーシス主義の立場でも、人間が自己の意志的努力だけで肉的人間の境地を離脱し得ない点は同じである。では救済の道はどこにあるのであろうか。この問題は恩寵と自由意志の関係として、その後長く西洋精神史の上に展開されてくる問題である。その後のキリスト教思想の伝統においては、言うまでもなく救済の道は神の側から与えられる恩寵にあるのであって、人間の自由意志にはよらない。グノーシス思想の場合、この問題は論理的な明確さを欠いている。というのは、グノーシス主義においては、光の神からの啓示による救済という考え方と共に、人間が霊的認識の「種子」を育てることによって完全人に近づいてゆくという考え方をとるからである。後者の見地を強調してゆけば、一種の自力救済的な考え方に近づく可能性がある。グノーシス主義と仏教の類似が指摘されるのもこの点なのである。グノーシス主義者にとっては、イエスのみちびきによる上からの救済と、霊的認識(グノーシス)による完全人への道は区別できない。そこにはいわば、他力救済的傾向と自力救済的傾向が未分のまま混在している(*)。

* 「自然の恵み(自然的恩寵)」と言われるものと、殊更「神の恵み(啓示的恩寵)」と言われるものとの間に、いかなる違いを見出すべきでしょうか。私に言えることとして、神の恵みとは、内面的に感じ取られる、ある霊的な「力」のことを指すのではないか、と考えます。つまりそこにも「心理学」的な問題が関わっているように思われます。そして「恵み」と言われる以上は、自分の努力以上の「力」がそこに働いている、という感覚があります。それを「他力」と呼ぶか「自力」と呼ぶかは、微妙な問題です。「救済」を心の問題に限定してしまうことにためらいを覚えつつ、宗教の中心問題と思われるこの問題について、これからも考えてゆきたいと思います。

中世以降に現われてくる異端的思想の中には、何らかの形でグノーシス的な自力救済的傾向がつきまとってくるのであるが、ここではふれない。教父哲学がグノーシス主義に対して全面的勝利を収めた直接の理由は、ローマ帝国によるキリスト教の公認以後、救済や恩寵の問題が哲学論争の次元から世俗的協会制度の問題に移行してしまった点にある。ローマ・カトリック教会は、後にマタイ福音書(一六・一七以下)のいわゆる「鍵の伝承」にもとづいて、ペテロの業の後継者である「公同(カトリック)」の教会のみが、救済と恩寵に至る唯一の普遍的な機関であると主張するに至る。ここから、正統と異端の明確な区別にもとづく西洋精神史の新しい局面が展開してくるのである(*)。

* 教皇権(ペテロ以来のローマの司教権)の伝承(天国を開く「鍵」の伝承)に基づく正統的教会が唯一の救済機関であるという教義が、ローマ帝国という世俗的権力の公認によって強固なものとなり、その後の西洋精神史に絶大な影響力を持つことになりました。第三章では「正統と異端」の問題が取り扱われます。そこにはユングの四位一体quaternityの説も紹介されていて、大変興味深いものがあります。しかしここでは取り上げず、次に「結び 西洋精神史の光と影」に進みたいと思います。


\ ユングとキリスト教 その6

以下、「結び 西洋精神史の光と影」を二回にわたって取り上げます。この章には次の序辞が掲げられています。「宗教改革以来、あらゆる現代人は、ローマ時代以来慎重に築き上げられてきた教会という防御壁を広範囲にわたって失なっており、その結果、世界の破壊の根源である灼熱地帯へ一歩ずつ近づいています。 ユング『心理学と宗教』」

メタ・フィジカとメタ・プシキカ

正統信仰の理念が確立して以後、西洋の精神史は正統的表面流と異端的低層流に分れてゆく。従来われわれが西洋精神史について教えられてきたのは、正統信仰の系譜を中心としたその表面流である。これに対して、ユングが注目しているのはその陰にかくれた低層流である。彼が重視したグノーシス主義や錬金術の流れは、従来の精神史研究では異端的思想としてほとんど無視されてきた。彼はそういう影の精神史を発掘することによって、西洋精神史の全体像を再構成する必要を説くのである(*)

* ここでは詳しく取り上げなかったユングのグノーシス主義や錬金術の研究は、西洋の精神史的「全体像」を再構成するという、余人のなし得ない卓抜な着眼によるものでした。精神の動と反動、表層と低層の全体的な運動の中に、西洋精神史を理解する途があるのであって、ただ正統的な立場に立ちさえすればよいというものではありません。

私はこの表面流と低層流をメタ・フィジカとメタ・プシキカという言葉であらわしてみたい。メタ・フィジカという言葉が西洋における形而上学の伝統をさすことは、あらためて説明する必要もないであろう。メタ・プシキカという言葉は私の造語である。メタ・フィジカという言葉が外なる「自然(フィシス)」の彼岸(メタ)を目指す形而上学であるとすれば、メタ・プシキカという言葉は、人間の内面的な魂(プシュケー)の根底を探求することを通じて、その彼岸を目指そうとする形而上学を意味する。こう言っただけでは甚だ乱暴なわり切り方になってしまうが、これは事態を簡明に示すためのさしあたりのキイ・ワードにすぎない(*)。

* メタ・フィジカの原義は「(タ)・メタ・(タ)・フィジカ」、フィジカのあとの、という意味です。すなわち物理学あるいは自然科学の研究のあとに来る、という意味です。元々は、アリストテレスの著作集の、フィジカ(という著作)のあとの著作につけられた名称ですが、自然学(フィジカ)よりも「高次の」(次元を探究する)学問、という意味に用いられるようになりました。その意味での「メタ」の用法が一般化しています。

ユングは東洋思想と西洋思想を比較して次のように言っている(Jung, Tibetan Book of the Great Liberation, CW. Vol. 11, p. 475. ; do, Secret of Golden Flower, CW. Vol. 13, p. 42 ff, p. 47 ff.)。東洋の形而上学は、西洋的意味における「形而上学(メタ・フィジカ)」としては理解しかねるものであるが、それを心理学としてとらえ直せば重要な意味がある。そこでは「形而上学的なもの」が人間経験の可能な範囲に入ってくるからである。東洋では「心」Seele, mindは元来形而上的意味を担った概念である。しかし西洋では、中世以来このような考え方は失なわれている。要するに、東洋思想の伝統では形而上学と深層心理学とは常に一体であり、したがってそれは、ふつう言う意味でのメタ・フィジカの観念にあてはまらない、とユングは言うのである。彼がここで東洋思想の例としてあげているのは、仏教や道教のような瞑想修行の方法を基礎にもつ哲学思想である。私はユングのこのような指摘から、これらの東洋思想を「形而上学」とみなす場合には、それはメタ・フィジカとよぶよりもメタ・プシキカとよぶ方が適切ではあるまいか、と考えるのである。したがってメタ・フィジカとメタ・プシキカという対比は、西洋思想と東洋思想のある一面を対照的に比較するための用語法であるが、この概念を用いるとすれば、西洋の精神史でも中世以前には、形而上学と深層心理学を一体不可分にとらえるメタ・プシキカの流れがある形で存在していたとみることができるようである(*)。

* 東洋思想では「形而上学的なもの」が人間経験の可能な範囲に入ってくると指摘されているのは重要です。西洋の形而上学では、人間経験を越えて、たとえば神の存在が論証されるような、徹底的に合理的な思考形態を「形而上学」と呼ぶのでしょう。

西洋の形而上学の歴史がアリストテレスの『メタ・フィジカ』から始まるというのは今日の常識的見方であるが、このような見方が確立したのは中世以後のことである。メタ・フィジカという書名は元来アリストテレスがつけたものではなく、前一世紀にロドスのアンドロニコスがアリストテレスの著作を整理した際に、この書を『フィジカ』(自然学)の後においたことから命名されたものである(『アリストテレス全集』第十二巻、岩波書店、訳者解説、七〇〇頁)。これによって形而上学は、外なる自然の存在様式の探求を通じて、存在一般の意味を探求する学という性格をもつようになる。ただし、古代精神史の世界ではアリストテレスは重視されていなかった。古代から中世前期にかけて宇宙論の中心を占めたのは、これまでものべてきたように、プラトンの『ティマイオス』であった。西洋精神史においてアリストテレスの権威がプラトンにとって代るのは、十三世紀のトマス・アキナス以後のことである(*)。

* トマスがアリストテレスの哲学に基づいて『神学大全』を構築し得たのは、それ以前にアラビアを通じて、アリストテレス哲学の全容や、進んだ科学的知識などが紹介され、ヨーロッパの知的世界が、いわば地殻変動を起していたためです。そのアラビアの文明がヨーロッパに流入するようになった背景には、十字軍の遠征(11世紀〜13世紀)があったことを見逃すことはできないでしょう。

元来、プラトンの宇宙論は――前章までにのべたように――人性論と一体不可分の関係にあった。プラトン哲学における「形相」と「質料」は、外なる大宇宙を構成する二つの原理であると共に、小宇宙としての人間における「霊魂」と「肉体」の関係に照応するものであった。フィシス(自然)は外なる自然であると共に、内なる自然すなわち人間の本性 human nature をも意味した。教父哲学は宇宙論に関して「無からの創造」の教義を形成したが、これによって造物主である神と被造物としての宇宙の間には絶対的な断絶が生れた。質料から世界を形成するプラトンの神にとっては、まず質料が彼の前に与えられていなくてはならないし、また質料に形を与えるためのモデル(形相)が必要であるから、神は形相と質料をこえた存在ではない。哲学的に言えばこのことは、形而上学(神の学)と自然学(宇宙の学)が分離しておらず、論理的に同じ次元にあることを意味する。アリストテレスの場合でも、『形而上学』の論理と『自然学』の論理の間にはっきりした次元の差はない。ギリシアの神々はキリスト教の神のように自然を超越した存在ではない。これに対して「無からの創造」という教父哲学の宇宙論は、形而上学と自然学が論理的に別の次元に属するという主張を意味する。ここでは、自然に関する経験的研究を通じて形而上的な神の存在のしかたを理解することは原理的には不可能になってゆく。いわゆるメタ・フィジカの理念はここから出発するのである(*)。

* ギリシア神話とはモデルが異なる、古代ユダヤの聖書の神話に基づいて、ギリシアの形而上学を換骨奪胎するという果敢な試みが、教父哲学の伝統を形づくりました。絶対的超越的他者という神観念が、ここから生れてきました。

教父哲学のこのような神観と宇宙論は、古代世界ではまだ絶対的な権威を確立していなかった。プラトンの宇宙論については、新プラトン主義に代表されるような汎神論的傾向の解釈も有力であった。それに従えば、最低の質料を含めた宇宙万物の中には、最高の「一社」から発する神的な光が遍在している。このような宇宙観は、ロゴス(あるいは聖霊)の力が万物の中にはたらいているとするヨハネ的ないしグノーシス的見方と微妙な近さをもっている。したがって新プラトン的人間観に即して考えてゆけば、われわれはこの肉体(物質)の中に霊魂(霊性の種子)を発見し、それを育ててゆくことによって神性の次元に近づいてゆくことができる筈である。要するに、フィシスを通じてその彼岸(メタ)に至ることがメタ・フィジカという言葉の意味するところだとすれば、プラトン的メタ・フィジカは元来、外なるフィシスを通ずる道と、内なるフィシスを通ずる道の二つを指し示していたのである。前者は狭義のメタ・フィジカの道であり、後者はわれわれの言うメタ・プシキカの道である。教父哲学の発展と正統信仰の理念の確立は、その後の西洋精神史の流れにおいてメタ・フィジカの考え方が表面を占めてゆく歴史的分岐店になった。それと共にメタ・プシキカの流れは、精神史の低層流になってゆくのである(*)。

* 正統教義の確立が「メタ・プシキカ」の道を抑圧し、それは西洋精神史の低層としてのみ存在する傾向(流れ)が生じてしまったということが指摘されています。

われわれは以下に、精神史の二つの流れがどのように交錯して行ったかという点について、概観を試みておくことにしたい。精神史の表面流と低層流は、古代から中世までは、ほぼバランスを保ちつつ動いていたとみることができよう。グノーシス的傾向を帯びた低層流は、精神史の表面に現れようとすれば異端視されざるを得ないが、それはふつう底辺の民衆信仰と結びついた形で陰に潜在しているにすぎなかった。中世までのキリスト教は、そういう異教的あるいは異端的傾向を黙認する寛大さをそなえていたと言ってもいいであろう(*)。

* キリスト教がヨーロッパ世界に広がったと言っても、民衆の精神世界の隅から隅まで正統派の思想が浸透するということを期待するのは、実際的には無理な相談というものでしょう。土俗的な民衆信仰はヨーロッパ世界の底流に生きつづけます。

教父哲学の完成者アウグスチヌスは、プラトン哲学の影響を受けつつ、「内なる道」にもとづく神学を体系化することによって、初期教父哲学の論理が志向する「外なる道」をやわらげた。精神史的にみて、これは注意すべき点であろう。アウグスチヌスの体系は東方のプラトン主義的思想をとり入れることによって、正統信仰の論理に矛盾する可能性のある異端的ないし異教的な要素をも、キリスト教のわく内に吸収し得たからである。異端的要素とは広義におけるグノーシス思想、すなわちメタ・プシキカとしての霊的認識の道である。人間性の心理学的考察にとって重要なことは、神性と人間性の緊張関係から生れる恩寵と自由、あるいは他力救済と自力救済の関係である。神性の隔絶を主張する正統信仰の立場に従えば、人間は罪の本性を宿した肉的身体を有する存在なのであるから、彼岸からの恩寵によらないかぎり救済には与り得ない。これに対して人間性の中に神性の種子が潜在することを認めるグノーシス的立場は、肉と暗黒の領域をこえて内なる眼をひらく努力をつづけるときに、われわれは聖なる至高の光を認めるに至るであろうという。アウグスチヌスはむろん正統的な恩寵の論理を基本にしている。しかしそれにもかかわらず、「精神の訓練」exercitatio animi によって「精神のまなざし」を内に向けよという彼の主張は、自己の努力が彼方からの光に出会うときに、はじめて神と人間の間に真の「愛(カリタス)」のきずなが確立されることを説いている。神学上の論理はともかくとして、人間の心理的本性から言えば、何らの努力もなきところには恩寵もまたないであろう(*)。

* アウグスチヌスは教父的伝統を受け継ぎ、西方神学の土台を築いた人として、正統的神学者、制度的教会の擁護者としての顔を持つ反面、内面性を重視する、神秘的とも言うべき側面も併せ持った人であったと思われます。後の側面を強調するならば、パスカルやルターのような、「正統的」カトリック的立場からは異端視される信仰理解も生れてくるでしょう。しかし、この両面がなければ、実際には、正統的信仰といえども立ち行かないでしょう。信仰は「論理」だけで成立っているわけではありません。

アウグスチヌスと異端的低層流とを区別するのは聖母崇拝の理念である。彼は聖母崇拝を黙認したけれども、これについては何も論じなかった。その意味では、彼は断固たる霊肉二元論に立っており、エロス的要素には何の価値も認めていない。この要素はより底辺の民衆信仰と結びついた錬金術的世界観の中に隠れている(*)。

* 聖母崇拝と錬金術とは、ユングの心理学にとって重要な意味を持ちます。聖母崇拝について、私はここでの紹介の作業をはしょっています。ただし、錬金術については、このあと、著者は簡単な説明を行ないます。なお、それについての詳しい論述が、もう一冊の『ユングとヨーロッパ精神』という著書の方にあります。

ここでは錬金術についてくわしく説明する余裕がないので、ごく簡単に言うことにする。錬金術師は元来、孤独の中で瞑想し、神に祈りつづける人間であった。なぜなら物質変成作業の成功は、神の助力によってのみ可能だったからである。彼らの実験工房は隠修士が瞑想する密室にひとしい。彼らは、そういう瞑想から生れる深層心理的体験のイメージを物質変成作業の過程に投影しつつ、自然のあり方について思考した。彼らの主観的目標は、物質の変成によって通常の黄金とはちがった高貴な黄金を抽出することにあった。彼らはそれを「永遠の水」aqua permanens,「万能薬」elixir,「第五元素」quintessence,「メルクリウス」などさまざまの象徴的表現でよんだが、最もひろく知られている表現は「賢者の石」lapis philosophorum である。「石(ラピス)」とは粗大な物質の中に閉じ込められた霊的存在、霊妙な一種独特の霊的物質ともいうべきものであった。これを抽出することは、「物質」の中に潜在しているその「霊性」を救済することを意味する。したがってそれは、肉的身体の中に閉じこめられた霊魂を救済しようとする神のわざに類比される。後代の錬金術(たとえばパラケルスス派)では、しばしば「賢者の石」をキリストに類比している。つまり「石(ラピス)」としてのキリストは、肉の身体の中に潜在していた霊的キリストの身体なのである(この考え方はグノーシス主義の三重身の説の流れをひくものである)。こういう考え方にもとづいて、錬金術師はしばしば、彼らの作業をミサの儀礼形式によって理解しようとしたのであった。

物質編成作業の基本理念は、男性原理(硫黄)と女性原理(水銀)の結合、すなわち肉による化学的結婚を通じて粗大な物質がいったん死んだのちに、霊的物質として再生し復活することにある。いわば粗大な物質の死を通じて、その中に潜在していた霊的物質が新しく形成されてくるのである。彼らはこの過程を「黒化(ニグレド)」から「白化(アルベド)」をへて「赤化(ルベド)」に至る過程としてとらえた。死からの再生によって獲得される「賢者の石」は、両性具有的なヘルマフロディテ的存在とみなされた。したがってそれは、肉の死から復活したキリストの霊的身体に類比されたのである。心理学的にみれば、彼らの投影体験は、無意識の暗黒領域の探求を通じてエロスを浄化し、その彼岸に至ろうとする試みを示している(*)。

* この二つの段落にわたる簡単な説明は、西洋の錬金術に心理学的な照明を与えたものです。しかし錬金術に対して、一般的にはどのような説明がなされているのかを知るために、手元の『学研 新世紀大辞典』から、以下に該当個所を引用してみます。

錬金術 銅・鉛・スズ・鉄などの卑金属から金・銀などの貴金属の製造、さらに不老長寿薬の創製にまでおよぶ原始的な化学技術。alchemy。⇒古代エジプトの冶金技術とギリシア哲学の元素思想とが結びついて誕生したもので、万物はごく少数の根源物質(水銀・イオウ・塩)からなるという考えに基づく。ギリシア時代末期には、占星術や医術が加わっていっそう神秘性を増し、不老長寿薬や万能薬の製造にまで及び、18世紀の近代化学の誕生まで、実に1,000年以上も続いた(*)。東洋における錬金術(錬丹術)は中国で発達し、その歴史は西洋よりはるかに古く、BC 5世紀ごろといわれ、最初は不老長寿の霊薬の探究に始まり、黄金がその重要な成分の1つであると考えた。

* ここに「1,000年以上も続いた」とあるのは、2,000年以上のことでしょう。

時代の新しい転回点に立っているのはトマス・アキナスである。彼が活躍した十三世紀は、十字軍戦争以来、新しい異質な文明の衝撃がイスラム世界から流入してきた時代であった。彼は、スペイン生れのアラビア人哲学者アヴェロエス(アラビア名イブン・ルシュド)を通じてアリストテレス哲学を学んだ。アヴェロエスのアリストテレス解釈は新プラトン主義の影響下に立つものであったが、トマスはそこからプラトン的要素をぬぐい去ることによって、中世神学の基本をアリストテレス哲学におき変えるに至ったのである。メタ・フィジカの理念が正式に確立するのはこのときからである(*)。

* トマスが活躍した13世紀は中世哲学、スコラ哲学の全盛期であったと言われます。信と知、啓示と理性、神学と哲学、神と世界、普遍と個物など、キリスト教哲学の主題が包括的に論じられるようになるのは、これ以降のことです。

アラビアから流入した錬金術の世界観は、新プラトン主義と結びついていた。新プラトン主義の宇宙観はプロティノスに示されているように、最高の「一者」から最低の「質料」に至るまで、宇宙の万物は連続的に相互滲透しつつ存在しているという「流出(エマナチオ)」の論理に立っている。したがって最低の存在者である卑賤な物質の中にさえも、最高の存在から流出してくる霊性の種子がかくれている。錬金術師はそういう信念にもとづいて卑賤な物質の中から霊妙な「賢者の石」を抽出しようとしたのである。端的に言えばそれは、万物は霊的な力にみちみちているという汎神論的宇宙観に裏づけられた物質観と言ってもよいであろう。これに対してスコラ哲学に代表されるアリストテリコ=トミズムの基本的思考様式は、「形相」と「質料」、すなわち霊的原理と物質的原理の二元対立を強調している。トマス哲学における「存在の類比」analogia entis の論理は、最高の存在である神から最低の存在である物質に至るさまざまの存在者の存在様式が、それぞれに本質を異にするものであり、単に「類比」によって結びつけられ得るにすぎないと主張するものである。したがって精神と物質、霊と肉は、原理的には相いれないのである。西方世界における霊肉二元的思考様式の伝統がこのような形で再認識されつつあるころ、新プラトン主義と錬金術に代表される異端的潮流は、中世後期から盛り上ってきたさまざまの異端的民衆運動と呼応する形で、次第に精神史の表面に登場し始めていた。最も有名な例は十一世紀から十四世紀までヨーロッパ各地に流行したカタリ派であるが、この運動はマニ教の流れを引くものである。精神史的にみて注目すべき点は、これらの異端的運動が底辺の民衆層から起ってきたということと、それが禁欲生活に基礎をおいた霊的信仰の性格を帯びていたことである。そこに、広い意味におけるグノーシス的=新プラトン的な霊的志向が潜入してくる可能性がある。中世史家が説いているように、アシジの聖者フランシスコの運動さえも、当時の教会権力からは異端視されかねない要素をはらんでいた(堀米庸三『正統と異端』中公新書、参照)。フランシスコ会の運動には十二世紀の神秘家フローラのヨアキムの思想的影響がつよいが、ヨアキムはヨハネ黙示録の解釈にもとづいて歴史を父の時代・子の時代・聖霊の時代に三分し、今や子の時代は終ろうとし、地上の権力がすべて刷新される聖霊の時代が到来するであろうと予言した人物である。ヨーロッパの民衆は、遠い海鳴りのように近づいてくる歴史の大変動をどこかで感じとっていた。彼らの魂は霊的終末論に引き寄せられつつあった。十三世紀から始まるイタリア・ルネサンスは、錬金術と新プラトン主義に代表されるこの低層流が、ついに表面化するに至った段階を示しているのである(*)。

* 正統的キリスト教こそは万人を一致に至らせる究極的な原理であり、すべての人々は教会の権威に服さなければならないという「公式的見解」は、常にその足元から崩れ去る可能性を持っています。人々の精神を導くということが、根本的には何を意味するのかがいつの時代でも問われてきます。ひとたび確立したかに見えた権威のある教説も、時代が変われば人々を掌握する力を失い、人々は再び自分たちの生き方を別の形で探り出そうと努めます。人間はその繰返しの中で生きてきました。西洋と向き合いつつ生きてきた我々日本人も、天皇制以外に国民を統一する原理はない(ほかに選択肢はない)という、旧態依然とした指導者のイデオロギーに今日再び直面しつつ、自分自身の生き方を見出すように迫られています。あてがいぶちの生き方ではなくて、自分で自分の生き方を探り出すということは、そんなに簡単ではありません。しかしかつての道を再び歩み出すことに危惧を覚える以上は、現代日本のサイコ・ソーシャルな現実を見据えつつ、我々「民衆」の連帯の絆を探り出すという課題を放棄することはできません。そのとき、我々自身はいかなる「人性論」と「世界観」とを持つのかということが、改めて問われてくるでしょう。迂遠な課題のようですが、そこを避けて通ることはできないでしょう。


] ユングとキリスト教 その7

この本の「紹介」の作業も漸く最後の段階にたどり着きました。結びの章の後半は「近代精神の栄光と悲惨」と題されています。

ルネサンスと宗教改革に関する錯綜した動きをここでくわしく追うことはできないが、どうしても言っておかねばならないのは、次のような点である。ウェーバーの影響を受けたトレルチは、ルネサンスと宗教改革の精神的異質性を強調した(トレルチ『ルネサンスと宗教改革』岩波新書、参照)。この指摘自体は正しい。社会経済史的にみて、ヨーロッパ社会の近代化を決定的にしたのは宗教改革であってルネサンスではない。しかしウェーバー=トレルチ流の対比は新しい誤解を生み出した。トレルチは、ルネサンスと宗教改革をギリシア精神とキリスト教精神の対立としてとらえ、西洋の精神史は、この二つの基本潮流の対抗関係によって形づくられてきたものと解釈する。通俗的用語法における「ヘレニズム」と「ヘブライズム」の対立という図式である(これを更に俗流化すれば、ルネサンスは人間の感性ないし肉体の解放であり、宗教改革は霊的精神の復興再生である、という対比になる)。このような図式化はわかり易いだけに俗流的誤解もひろまりやすい。ここに欠けているのは、ルネサンスが、古代以来西洋精神史の深層に潜在していた異端的低層流の上昇を意味するという認識である。言いかえればルネサンスとは、教父哲学によって正統信仰の理念が確立して以来ずっと均衡を保ってきた表面流と低層流のバランスが崩れ、底辺からの上昇流が精神史の表面流と激突するに至った大変動の過程を意味しているのである(*)。

* ヘレニズムとヘブライズムのような形で物事を図式的に捉えることは、認識が簡便に整理されるという点で便利ですが、そこからは、何か大切なものが見落とされてしまうということに注意しなければならないでしょう。

ルネサンスの精神史的問題点は、宗教改革と対比するよりも前に、スコラ哲学に代表される後期中世神学の大勢と対比して考えてみなくてはならない。思想史の表面流は十三世紀以降アリストテレス的二元論の方向に向いつつあったが、これに対して低層流からは新プラトン主義的汎神論が上昇しつつあった。ただし両者はまだいずれも、キリスト教的世界観のわく組みの中で動いていたのである。トレルチはルネサンスを官能の栄光化だと言ったが、これは誤解を生む言い方である。官能は単純に栄光化されたのではなく、肉体の中にも神性が宿るという意味において肯定されたのである(ミケランジェロのダビデ像は、肉体の中に宿る神的な力を表現している)。したがってルネサンス芸術は、物質の中に霊性の遍在を認める新プラトン的ないし錬金術的世界観と重なり合っている。その中にひそむ異端的傾向に対してカトリック教会は警戒的であったが、それが人文主義的な知識階級の運動に止まっているかぎり、強く干渉することはなかった。この形勢を一変させたのが宗教改革である。ここで特に注意すべき点は、カトリシズムとプロテスタンティズムが主観的には烈しい対立抗争をくり返しながら、客観的には、共に異端的底流の抑圧者として協力する結果になったことである。この事態を象徴的に示しているのは恩寵論の問題である。ルターは、恩寵が神の側からのみ与えられるものであって、人間の努力は無にひとしいと主張した。カルヴァンの予定説はその結論を論理的に徹底させたものである。カトリック教会も、この論理が正統的なものであることは認めざるを得なかった。宗教改革の嵐の中でひらかれたトリエント公会議は、サクラメント(秘蹟、典礼)における「事効」の理論を正統的なものと判定し、「人効」の理論を異端であると決定した。人効とは、サクラメントの効果が、それを授与する聖職者個人の人格的資質によって決定されるという考え方である。この人効の考え方は錬金術の中に深く入り込んでいた。なぜなら、錬金術師は瞑想を通じて深層意識の領域に入りこむことによって神の霊的カリスマを受け、物質の中から霊魂を救済する力を与えられるからである。これに対して事効の考え方は、教会という制度を通じてはたらく神の恩寵の力のみが霊魂を救済する力をもつと主張する。したがってカトリック教会の主張は、制度論を別にすれば、その基本的論理においてプロテスタンティズムの恩寵の論理と同じ原則に立っているのである(*)。

* 事効論と人効論の対立は既に古代教会にあったものです。迫害の中でころんだ司祭が執行するサクラメントは有効であるか、それとも無効であるかということが、そのときの争点でした。アウグスチヌスなどの正統派は、恩寵を制度論的に把握することによって、事効論の立場に立っていました。その教義は、教会がローマ帝国に公認されたあと、富裕層を含む、実に雑多な人たちが教会の門をくぐるようになった事態に対応するためにも、有効でした。人効論は倫理を強調し、信徒に厳格な生き方を求めることによって、教会の包容力を失わせてしまうからです。トリエント公会議は、プロテスタントに対抗するために、この教義を改めて確認したのだと思われます(「教会の外に救いなし」!)。

このようにして新旧両勢力の競合が恩寵の論理を徹底させる方向に動いたことは、異端的低層流に対して決定的に不利に作用した。新プラトン主義や錬金術は、物質の中に霊性が、また肉体の中に神性が潜在すると考え、深層意識領域の探求を通じてわれわれがそういう宗教経験の次元に達し得ることを主張したのだが、人間の側からの努力は一切無効であると決定されたために、それらの思想は完全に異端とみなされるに至った。この結論を社会的次元において徹底しようとしたのが、近世科学に対する教会権力の弾圧であり、また民衆信仰に対する宗教裁判であった。近世科学は新プラトン主義及び錬金術の世界観を母胎として生れた。その代表者は、ジョルダノ・ブルーノ、コペルニクス、ケプラーなどである。地動説が告発されたのは、それが大宇宙における天と地の差別を消滅させ、世界をどこにも中心のない混沌の中に引きずりこむと共に、人間観の面では小宇宙としての人間における精神と物質、霊魂と肉体の差別を無視する霊肉一元論的人間観へとみちびくからである。また民衆信仰の底辺には、古代以来の異教的信仰の流れが聖母崇拝などの陰にかくれて潜在していた。その蒙昧な底辺の世界には、精霊や悪魔が天使や神とごたまぜになって生きつづけていたのである。異端審問から発した宗教裁判は、ありとあらゆる手段を駆使してそういう異端的信仰を絶滅しようとした。迷信深い民衆は、魔女裁判の名によって、悪魔が住む死の世界に送りこまれた。こういう動きは最初カトリック教会の側からひき起されたものであるが、やがてプロテスタント陣営にも波及して行った。初期プロテスタンティズムには、トレルチも強調しているように、悪魔・悪霊の存在への信仰(確信)(ドイツ語略)がつよい。それは中世よりも烈しくなっている。悪魔の存在を絶滅することは、神の正義を地上に実現する道である。したがって呪術はすべて追放されねばならない。ウェーバーの言う「呪術の追放」(ドイツ語略)は、プロテスタント的立場からの異端告発である。その典型的パターンは、ルター派によるアナバプティストに対する弾圧や、新大陸におけるピューリタンのモルモン教徒迫害などにあらわれている(*)。

* アナバプティストの弾圧やモルモン教徒の迫害を、「呪術の追放」という観点から見るのは、少し疑問のあるところです。前者は「再洗礼」という行為に現れる信仰至上主義の行き過ぎへの批判、後者は一夫多妻制に対するキリスト教倫理からの反発があり、呪術の問題ではなく、根本に教義的な問題がからんでいると思われるからです。ここで指摘されていることで重要なのは、互いに正統性を競う「党派闘争」が、民衆一般に対して、また自陣営の構成員に対して、抑圧的に機能するということです。魔女狩りや異端審問などに見られる集団ヒステリー症状は、対立の激化の心理的反映と見ることも可能ではないかと思われます。いわば「粛清の心理学」という広い文脈から見れば、現代にも起り得ることであって、浅間山荘事件などの例を考えて見るのも無駄ではないでしょう。そのときには悪魔や魔女は別の形で顔を出すということが出来そうです。なお「近世科学は新プラトン主義及び錬金術の世界観を母胎として生れた」ということについての、思想史的意義づけについては、さらに綿密な検討が必要とされるでしょう。

西欧精神世界はこのようにして、新旧両派の争いが巻き起す宗教的情熱によって完全にキリスト教化された。異教的低層流は、西方世界の歴史において古代以来はじめて一掃されるに至ったのである。プロテスタンティズムは、中世の異教的キリスト教から原始キリスト教に復帰することを旗印にしたが、それは右の意味において正しい。しかしプロテスタンティズムは実は、原始キリスト教さえものりこえて、旧約の予言者的ヘブライズムにまで戻っていたのである(トレルチはプロテスタンティズムを「予言者的キリスト教」とよんでいる)。したがってプロテスタンティズムは、異教的エロスの香りのする聖母崇拝の理念を断乎として切り捨てたのである。このようにして、古代カトリシズム以来の正統教義学の論理がついに民衆の底辺まで到達したとき、そこには一体どのような光景が展開してきたであろうか。意外なことに、それはキリスト教的精神の衰弱であり、啓蒙的近代から始まる世俗化のはげしい波であった。キリスト教的論理の徹底は、なぜキリスト教的精神を衰弱させ、世俗化を促進させる結果にみちびいたのか。この謎は精神史の表面に現われた意識の論理によってはとけない(*)。

* かつて「超保守的」とも言うべきキリスト教宣教論の本を読んでいたとき、そこにはたしか「中間領域」という言葉が使われていたと思います。「中間領域」とは、キリスト教を当該社会に伝道するに当って、その「橋渡し」になるような、既存の精神的領域という意味であって、いわば土俗的信仰が根強く存在するところでこそ、キリスト教の福音が、より効果的に伝播されるということを言い表わしたものです。仮に「純福音」なるものがあるとしても、それを受入れる、ある種の「共鳴盤」を必要とするということでしょう。それを一切取り払ってしまったら、キリスト教も成立たなくなってしまいます。余りにも純化されたキリスト教は、もはや宗教として存続することもできなくなるという教訓は、何事かを示唆しています。つまり人間の経験によって与えられる種々の教訓を切り捨てて、啓示された真実の神にのみ従うという教説は、殆んど宙に浮いていて、もしもそれだけに拘れば、キリスト教は、一時は人々の心をつかんでも、結局は形骸化して、宗教としての永続性を保つことができなくなります。プロテスタント世界は、「呪術」を追い払うことによって、自己の宗教的基盤を掘り崩し、世俗化への道を切り開いたと言われていることは、良くも悪くも近代の宿命を言い当てています。

ウェーバーは、プロテスタンティズムの倫理の基本的特徴を、日常的次元における倫理的実践を宗教と直結した点に求めている。人間が神と結ばれる道は、サクラメントのような儀礼形式(呪術)ではなくて、自己の良心において神を信じ、良心の判断と論理に従って世俗的経験の世界において行動するところにある。心理学的にみれば、このことは、日常的自我意識のあり方を一切の判断の基準とし、それをこえた非日常的世界経験の領域に入りこもうとする試みを迷信的呪術として拒否することを意味する。悪魔とエロスがうごめく無意識の世界に近づいてはならない。ウェーバーは、このようなプロテスタンティズムの倫理が近代世界における西欧精神の優越を立証する原動力となったと考えている。『世界宗教の経済倫理』に関する研究の最初に、彼は「普遍的意義と妥当性をもつ文化現象はなぜヨーロッパにのみ生れたのか」という設問をかかげている(Weber, Ges, Aufs z. Religionssoziologie I, Vorbemerkung. S. I. 湯浅「世界宗教の経済倫理と深層心理学」日本倫理学会編『マックス・ウェーバー』以文社、参照)。彼がそういう文化現象の例としてあげているのは近代法・近代科学・資本主義などであるが、彼はプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の関連を明らかにすることによってこの問いに答えようとした。東西の諸宗教に関する彼の広汎な研究の基礎には、右の設問にも明らかなように、非ヨーロッパ世界は、人間性にとって普遍妥当的意義と価値をもつ文化をかつて一度も生んだことがない、という確信がおかれている。これは、近代史における西欧の力の優位という客観的事実によって裏づけられた見方であるが、ウェーバーはヨーロッパ近代の光の面のみを強調しているとも言えよう(*)。

* はたしてウェーバーはヨーロッパ近代とプロテスタンティズムを肯定的にのみ捉えていたのかという点に関しては、おそらく議論のあるところでしょう。しかし功罪を含めて、ヨーロッパ近代が、世界に波及する普遍性を持っていたということ自体を否定することはできません。今はその先が問われている時代であると言えるでしょう。

このようなウェーバー流の近代主義とヨーロッパ中心主義の見方に対して、ユングは断乎として反対する。彼は、宗教改革によるサクラメントの否定が西欧世界の近代化に決定的役割を果したという事実認識の点では、ウェーバーと全く一致した見解をとっている。ただしウェーバーが、西欧世界はこれによってついに普遍的意義と妥当性をもつ人間的理念に到達し、非西欧世界に優位するに至ったと考えるのに対して、ユングは逆に、西欧近代は人間性にとって何か本質的なものを見失なってしまったのではないか、と診断するのである(Jung, Psychology and West, CW. Vol. 11. p. 536 ff. 浜川訳『人間心理と宗教』日本教文社、九一頁以下)。彼がサクラメントの問題を重視するのは、さしあたって言えば、それが民衆の日々の生活における苦悩や罪の意識をやわらげ、解消するための心理療法の役割を果していたからである。インドのヨーガについて論じた論文の中で、ユングは、ヨーガに比較し得る西洋の文化的業績として、告解とミサに代表されるカトリック教会の儀礼と現代の心理療法の二つをあげている(Jung, Yoga and West, CW. Vol. 11, p. 536 ff.)なぜサクラメントと心理療法は同じ意味をもつのであろうか。それはこの両者が、無意識下に抑圧されたくらい情念を解放することによって、心のゆがみを解消し浄化する効果をもつからである。フロイトの自由連想法は患者の意識下に蓄積された情念を吐き出させる技法であるが、聴罪司祭が信徒の罪の告白をきいて、これを神の名によってゆるすことは、心理学的にみて全く同じ意味をもっている。要するに、教会の典礼形式やこれに伴う音楽・絵画などの芸術的手段は、無意識下に生じたくらい情念を鎮静し、浄化するための心理療法的技術の集大成という意味をもっていた。このような情念のはけ口を一切否定し、無意識領域からの力の噴出をすべて日常的自我意識の統制と抑圧の下に封じこめようとしたのが、ピューリタニズムに代表される道徳的厳格主義である。こうして近代的自我は意識の経験をこえた非日常的経験の領域を一切抹殺したのである。デカルトのコギトの哲学から始まる近代の自我意識の哲学はその記念碑である(*)。

* 近代合理主義は、無意識下の情念を抑圧することによって成立っていると指摘されています。ピューリタン的な「禁欲主義」はそのような生き方の典型を形成したと言えます。「これみな神の栄光のため」というのがピューリタンのモットーでした。そして教会堂内の絵画や彫刻などは、偶像崇拝的であるとして撤去されました。ユングは心理学的な観点からこれを批判し、むしろカトリックの教会建築やミサを評価したということでしょう。近代ヨーロッパに対する批判は、同時に伝統的キリスト教の心理学的な意味での再評価に結びついていました。ミサについての詳しい論述は『ユングとヨーロッパ精神』の方でなされています。告解(赦しの秘跡)の制度も、同様に高く評価されました。告解を支える決疑論的(casuistic)な議論をそのまま肯定できないとしても、信徒が自分の罪を司祭に告白し、その罪がキリストあるいは三位一体の神の名によって赦されるならば、そこには大きな心理的効果があるであろうということは、誰にも否定できません。ユングは公平にそれを認め、自我意識が無意識を完全に統御するという、合理的な生き方の危険性を見ています。なお告解について日本語で読める本としては、ジャン・ドリュモー『告白と許し 告解の困難、13‐18世紀』(福田素子訳、言叢社、2000年)があります。

けれども、非日常的経験の領域すなわち無意識領域の力は、論理によって抹殺されても事実としては存在している。その力は意識の表面に出ることを赦されなければ、意識にとって思いもよらない別の形で表面化してくる。これが神経症に示される無意識のメカニズムである。近代の精神史では、このメカニズムは次のような形であらわれてくる。ピューリタン的厳格主義が肉的身体の価値を否定したことは、逆に世俗化した性の解放への要求を生み出した。ピューリタンの祖国アメリカは、なぜフロイディズムの王国となったのか。性の解放とはキリスト教的論理の徹底によって価値を抹殺された身体の復権要求であり、肉体の精神に対する復讐である。ルネサンス・プラトン主義は肉体の中にも神性が潜在すると主張して、身体性がなおキリスト教的世界観のわく内に存し得ることを申し立てたのであるが、新旧両教は共にそのような人間観を異端として拒否した。したがって逃げ場を失なった身体は、その中にある神性の種子を抹殺し、キリスト教的世界観のわくの外に逃れて、赤裸々な肉そのものに変身せざるを得なかった。なぜなら、身体が宗教性と結びつこうとするかぎり、キリスト教的世界の中に止まることは決して許されないからである。宗教的世界観の尾を切りすてて完全に世俗化した肉体に化してしまえば、もはやキリスト教的論理の追求を受けなくてすむ。人間機械論や唯物論の身体観はこうして生れてきた。近世科学もまた同じようにキリスト教的論理の追及を逃れようとした。それは新プラトン主義や錬金術の世界観と結びついているかぎり、異端として、また悪魔的迷信として告発を受ける。ニュートンはその晩年錬金術に熱中したが、世人の非難を恐れて、死に至るまでその研究を秘したという(バヴィロフ『アイサック・ニュートン』邦訳、一七〇頁、拙論「近世科学における日常的経験の意義」、『倫理学年報』第九集、参照)。それくらいならば逆に、一切の宗教性をぬぐい去って完全に世俗化された科学に変身してしまえば、異端視されることもないであろう。要するに、宗教の世界には近づかない方がよい。そこから逃げ出しさえすればよいのだ。こうして身体性・物質性と近代科学とは、手をつないでキリスト教世界観の外に逃亡し、自由な成長をとげてゆく。言いかえれば、中世までのキリスト教はその正統的論理を民衆の底辺まで徹底させることなく、ヨーロッパ的人間の心の奥底にひそむ異端的魂を黙認し、それを馴化してゆく寛大さと知恵を心得ていた。しかし宗教改革の純粋な情熱はそれを許さず、徹底的なキリスト教化に進んだために、逃げ場を失った異教的魂は宗教的論理の外に逃亡してしまった。だから近代社会の世俗化は、キリスト教精神の衰弱から生れたのではない。逆にキリスト教精神の徹底がヨーロッパ的人間の魂の世俗化を余儀なくし、その結果がキリスト教精神の衰弱と枯渇になっていったのである(*)。

* 近代ヨーロッパの世俗化は、キリスト教があまりにもキリスト教的になり過ぎたために、その反動として起ったのだと、著者は指摘します。異端的魂を包摂し馴化(じゅんか)するという寛容さを失ったキリスト教は、結局は自らの宗教性をも衰弱させることになるということは、必然的に、そもそもキリスト教とは何であるのかという問いを起させます。近代文明のキリスト教からの逃亡(世俗化)ということは、単にキリスト教の側からそれを見ていたのでは、決して理解されることはないでしょう。

心理学的にみれば、この事態は次のような過程を意味している。日常的意識の次元との交流の道をふさがれた無意識領域の力は、くらい情念となって蓄積し、どこかに現われようとする。しかし宗教的儀礼形式はその価値を否定され、あるいは空洞かされているために、そこで情念が宥和される道は閉ざされている。したがって無意識領域からつき上げてくる力は、禁欲的労働(資本主義化)に没頭することによって発散させるか、戦争や革命のような暴力的形態をとって解放させる外はない。西欧近代の精神史は、その表面をみれば理性と自我意識の勝利の歴史を意味するが、裏面からみれば、そういう暗黒の情念の理性に対する復讐の歴史なのである。ユングは、近代ヨーロッパ世界は宗教改革以来、民衆の集団的情念の噴出をコントロールする手段を次第に失なって行ったと言う。近代史におけるヨーロッパの力の優位は、そういう暗黒の情念の世界支配であるとも言える。彼は、近代ヨーロッパは二つの顔をもっていると言う。「われわれ(ヨーロッパ人)の視点から植民地化とか異教徒への宣教、文明の拡張などとよんでいるものは別の顔をもっている。つまり残忍なほどの集中力で遠くの獲物を探索する猛禽類の顔つきであり、海賊、夜盗といった悪人どもにふさわしい相貌である(ユング『自伝』2、六九頁)」。今や近代世界を支配しているのは、キリスト教世界のわくの外に逃れた異教的魂である。それはあの「金髪の野獣」blond beast たちが崇拝していた古代ゲルマンの戦いの神ヴォータンの叫びである(Jung, Wotan, CW. Vol. 10.)。ヴォータンはついにヒトラーにのり移った。殺せ! 悪魔と肉をたたえよ! それがキリスト教の神の名によってその存在を圧殺された異教的魂の復讐なのである。ユングは第二次大戦終了直後に書いた「破局のあとで」と題する文章の中で、キリスト教とヨーロッパ的人間は不可分の運命共同体なのであり、キリスト教は彼女の子が犯した罪に対して、頭に灰をまき、上着を引きさいて悔い改めねばならない、と説いている(*)。

* ヴォータンは今やアメリカに「移住」して荒れ狂っているように見えます。我々としては近代日本の、そして戦後の「属国」日本で再び表面に顔を出しつつある、異教的野獣性が、一体何に由来するのか、よくよく考えてみるべきときに来ています。最後に著者は、「鎮魂の精神史」と題された短い文章で、この本を閉じます。

ここまで書いてきて、私はようやくユングの精神史研究の謎がとけてきたような気がする。ユングのえがく精神史は、いわば死者たちの鎮魂のための精神史である。歴史の舞台には、勝利者があれば必ず敗北者がある。光の精神史の裏面には影の精神史がある。ユングは、栄光の歴史の影に怨みをのんで消えて行った無数の死者たちの鎮魂のために、その精神史を書いたのである。『死者への七つの語らい』の冒頭に、彼はこう書いている。「死者たちは探し求めたものを見出せず、エルサレムから帰ってきた。彼らは私の家に入り、教えを得ることを願った。そこで、私は教えを説き始めた(ユング『自伝』2、付録)」。この小冊子は、彼がフロイトと別れた後、彼自身の独自な思索を形成する機縁となった独白的文章でつづられている。彼の西洋精神史研究は、グノーシス主義者バシリデスの名を借りたこの作品から始まっているのである(*)。

* 歴史には表面に現われる「栄光の歴史」と、陰に消される「影の歴史」があります。影にこだわる歴史が「自虐史」と言われるとすれば、栄光の歴史は「自慢史」と呼ばれるでしょう。自慢すべき歴史があるに越したことはありません。しかし、それが歴史の影の面に目をつぶって、光の面だけを見るという一面的な態度から来るものであるとすれば、そこには大きな落し穴が待ちかまえています。そのような態度は精神の尊大さを物語っています。尊大であるということは、大抵のところ夜郎自大の俗物根性を示すに過ぎません。事実に直面する謙虚さを失えば、我々は再び道を誤ることになるでしょう。

ユングが提出した問いは荒削りながらまことに重い。西洋精神はその歴史的原点であるイエスに帰って、二千年にわたる精神史の光と影をたどり直してみなくてはならない。少なくともそれは、ローマ帝国の権力と結合して正統と異端を分つ論理を確立した以前のあり方に戻らなくてはならないであろう。真の信仰とは世俗の王者を拝跪するものではなく、茨の冠をつけた無名の王を拝するものでなくてはならないからである。その時代、西方世界には多くの宗教・宗派・学派が並存し、神々の平和がなお生きていた。現代と通ずるところがないでもない。

歴史の歯車を逆転させることは不可能である。しかし、歴史に対する反省からわれわれの未来を考えてみることは可能であろう(*)。

* キリスト教のコンスタンティン体制は終ったと言われて久しいものがあります。帝国に公認された宗教をそのまま継承するのではなく、あのイエスに帰って、キリスト教史の光と影をたどり直すことは、今日のキリスト教が「自慢史観」に陥らないための不可避の課題であると言えます。「日本人キリスト者」は、二つの自慢史観の挟み撃ちにあっていると言うべきでしょう。ここで本書の紹介の作業を終えます。

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