閑老人のつぶやき 本について11

     1 被抑圧者の教育学 その1

     2 被抑圧者の教育学 その2

     3 被抑圧者の教育学 その3

     4 被抑圧者の教育学 その4

     5 被抑圧者の教育学 その5

T 被抑圧者の教育学 その1

教育基本法が「改正」されてしまった今日、教育とは何かを考えるために、今や古典的とも言うべき、パウロ・フレーレの『被抑圧者の教育学』(小沢他訳、亜紀書房、1979年)の一部を取り上げてみたいと思います。初めに取り上げるのは第二章「銀行型教育と課題提起教育」です。「学校教育」の問題点を再確認するためです。

一 預金行為としての教育

――非人間化をもたらす教育――

教師―生徒の関係が基本的に一方的に語りかけるという特徴をもっていることは、その関係をあらゆるレヴェルで、学校の内外を問わず入念に分析すれば明らかになる。この関係には、語りかける主体(教師)と忍耐強く耳を傾ける客体(生徒)が含まれている。語りかえる内容が、価値についてであろうと現実に関する経験的事柄についてであろうと、それらは語りかけられる過程で生気を失い、硬直してしまう。教育は、一方的語りかけという病に陥っている。

△ 教師の生徒への一方的語りかけという学校教育の問題については、既に「教育実践の根幹にあるもの」、「社会のゆがみ」、「外国語の授業における共同学習」(翻訳)でも触れていますので、それらを参照して下さい。

教師は、現実があたかも不動で、静止していて、明確に分類された、予言可能なものであるかのように語る。さもなければ、かれは生徒の日常の生活経験とはまったく無縁な話題を、ことこまかに解説する。かれの仕事は、一方的に語りかける内容で生徒を満たすことである。ところがその内容は、現実から切り離されており、内容を生み出しそれに意義を与えることのできる全体性とも絶たれている。こうして、教師の言葉は具体性を失い、空虚な、疎外されまた疎外する饒舌となる。

△ 「英語が話せないわけ」でも、徒弟教育と比較して、学校教育がなぜ失敗することが多いのかを考察しました。

この一方的語りかけ教育の顕著な特徴は、それゆえ、言葉がよく響き渡ることにあるのであって、言葉のもつ変革の力にあるのではない。

△ 言葉は「生成子」であり(「生成子の概念がもたらすもの」参照)、従って現実を変革する力を持っています。

「四×四=十六(し、し、じゅうろく)、パラの州都はベレム。」生徒は四かける四が実際に何を意味するかを知ることもなく、また、「パラの州都はベレム」のその州都の本当の意義を、すなわち、パラにとってベレムはどのような意味をもち、また、ブラジルにとってパラが何を意味しているかを理解することもなく、これらの文句をノートに記録し、暗記し、反覆するのである。

△ 学校教育において個々の知識の単位は「文脈化」されず、特定の知識の体系において固定したものとして提供され、わけもなく受け容れるべきものとして押しつけられます。しかし古典教育において、例えば論語が暗証されたように、テキストを反覆して読誦することに全く意味がないというわけではありません。ただしその場合でも、あとになって、その全体的な文脈と意味が問われることになるのは明らかです。「九九」の暗唱も便宜的には有用です。だからここでは教育の基本的なあり方が問題にされています。

一方的語りかけ(それはつねに語りかける人である教師によるものであるが)は、生徒を語りかけられる内容の機械的な暗記者にする。さらに悪いことに、かれらはそれによって容器、つまり、教師によって満たされるべき入れ物に変えられてしまう。

入れ物をいっぱいに満たせば満たすほど、それだけかれは良い教師である。入れ物の方は従順に満たされていればいるほど、それだけかれらは良い生徒である。

△ 学校教育において「学習者中心(learner-centeredness)」ということが真剣に問題にされたことは、あまりなかったと言うべきでしょう。教師、そしてその教育の背後にある権威こそが、教育の主体であって、生徒はその受容者にすぎません。

教育はこうして、預金行為となる。そこでは、生徒が金庫で教師が預金者である。教師は、交流 communicationのかわりにコミュニケ communiquesを発し、預金をする。生徒はそれを辛抱づよく受け入れ、暗記し、復唱する。

△ 教師はコミュニケ(広報、公式声明)を通達し、生徒はそれに従います。従ってそこには双方向のコミュニケーションはありません。なおコミュニケーションは「教育実践の根幹にあるもの」で示したように、「英語教育の七つの原理」あるいは「教育の七つの原理」の一つで、それもまた「TH図」で示すことができます(「哲学の区分」参照)。すなわち、A)コミュニケーション、B)ソーシャル・インタラクション(社会的相互作用)、C)コンテクスチャライゼーション(文脈化)、D)リフレクティブ・ラーニング(反省的学習)、E)ラーニング・スタイルズ(学習のスタイル)、F)リスニング・ファウンデーション(聴くことが土台である)、G)ラーナー・センタードネス(学習者中心)として示されます。

これが銀行型教育概念‘the banking concept of education’であって、そこで生徒に許される行動範囲は、せいぜい預金を受け入れ、ファイルし、貯えることぐらいである。

かれらには、確かに、自分たちが貯えているものの収集家や目録人になる機会はあるだろう。だが結局は、人間自身がこの(よくても)誤った方向に導く制度のなかでは、創造力、変革の可能性、知識を喪失し、磨り減らされてしまうのである。探究から引き離され、実践から切り離されては、人間は真に人間になることができない。知識は創造 inventionと再創造をとおしてのみ、また、人間が世界のなかで世界とともに、相互に追求する不断の、やむにやまれない、永続的で、希望に満ちた探究をとおしてのみ、生まれてくるものである。

△ 学校教育では知識が生かされないし、現に生かされていないという指摘は、痛烈です。何のための教育であるのかということが等閑に付されているか、暗黙のうちに前提されていて、しかもそれは優等生を除く多くの生徒の現実に即していないからです。

銀行型教育概念にあっては、知識は、自分をもの知りと考える人びとが、何も知っていないとかれらが考える人びとに授ける贈物である。他者を絶対的無知としてみなすのは抑圧イデオロギーの特徴であるが、探究の過程としての教育と知識はそれによって否定される。

△ 知識は貯め込むためのものではありません。それは活用されるべきものです。しかし試験制度は知識の活用を抑制し、本末転倒の結果をもたらします。

教師は、生徒にたいして必然的な対立物として自らを演ずるようになる。生徒の無知を絶対的なものとみなすことによって、かれは自分自身の存在を正当化するからである。

△ 教師の自己正当化の手段はテストです。成績が教育の目的となり、できる生徒は褒められ、学校での「学習」に疑問を抱く生徒は落ちこぼれることになります。

ヘーゲルの弁証法における奴隷のように疎外されている生徒は、教師が存在するのは自分たちが無知だからであると考える。だが、ヘーゲル弁証法の奴隷とは違って、自分たちが教師を教育するということにはけっして気がつかない。

△ 「教える者が一番よく学ぶ」ということが真実であるとすれば、教える教師こそが、一番よく学んでいます。奴隷の主人が奴隷であるように、教える者こそが教わる者であるという逆説的真理に、生徒は気づいていません。

それにたいして、自由論者の教育の存在理由は、統合 reconciliationへ向かって突き進んでいくことにある。教育は、教師―生徒の矛盾の解決から、つまり、両者が同時に教師でしかも生徒となるように矛盾の両極を統合することから始めなければならない。

△ reconciliationは、ふつう、「和解・調停・調和(一致)」と訳される言葉です。和解は神学の重要なテーマです。教師と生徒の間に融和がもたらされるのは、権威主義的で一方的な関係が廃棄されるときです。教師も学ぶ者であり、生徒も教える者であるということが、教育の現場で実現するとき、そこに敵対関係の和解が成り立ちます。フレイレは自らを、和解(融和)を求める自由論者(リベラリスト)である、としています。

この解決を銀行型教育概念に求めてもむだである。そもそもそこにあるはずはない。それどころか銀行型教育は、抑圧社会を全面的に反映している次のような態度と実際上の行為によって、矛盾を維持しあまつさえ刺激しているのである。

1 教師が教え、生徒は教えられる。

2 教師がすべてを知り、生徒は何も知らない。

3 教師が考え、生徒は考えられる対象である。

4 教師が語り、生徒は耳を傾ける―おとなしく。

5 教師がしつけ、生徒はしつけられる。

6 教師が選択し、その選択を押しつけ、生徒はそれにしたがう。

7 教師が行動し、生徒は教師の行動をとおして行動したという幻想を抱く。

8 教師が教育内容を選択し、生徒は(相談されることもなく)それに適合する。

9 教師は知識の権威をかれの職業上の権威と混同し、それによって生徒の自由を圧迫する立場に立つ。

10 教師が学習過程の主体であり、一方生徒はたんなる客体にすぎない。

△ 日本で、文部科学省や各地の教育委員会が推進する学校教育とは、まさにこの「銀行型教育」である、と言っても過言ではないでしょう。

銀行型教育概念が、人間を順応的で管理しやすい存在としてみなしても驚くにはあたらない。生徒が自分たちに託される預金を貯えようと一生懸命に勉強すればするほど、世界の変革者として世界に介在することから生まれるかれらの批判意識は、ますます衰えていく。押しつけられる受動的な役割を完全に受け入れれば受け入れるほど、かれらはますます完全にあるがままの世界に順応し、かれらに預け入れられる現実についての断片的な見方を受け入れるようになる。

△ 世界と自分自身が断片的であるのは、世界が「分割統治」されているためです。その結果、個人は身動きが取れない狭い世界に押し込まれます。

生徒の創造力を最小限に抑え、摘み取り、かれらの軽信をあおりたてる銀行型教育の機能は、世界を解明したいとも思わなければ、それが変革されるのを見たいとも思わない抑圧者の利益に仕えるものである。

抑圧者は自分に有利な状況を維持するために、人道主義 humanitarianismを利用する。

△ 抑圧者は、その抑圧的体制に順応する限り、温情主義的であり、抑圧的寛容とも言うべき態度を示します。それが人道主義の利用と言われるのでしょう。

このようにして抑圧者は、批判能力を喚起し、現実についての断片的見解には満足せず、点と点、問題と問題を相互につなぐ絆(きずな)をつねに探究しようとする教育の、どのようなこころみにもほとんど本能的に反対する。

△ 国家権力が学校教育を掌握し統制しています。そして、「日教組」という教員組合を、その実態以上に危険視し、国家意志に従順な教師以外の存在を閉め出そうとしています。教育の主体は国家であるという思想が、この国に蔓延しています。日教組の教研集会などはあらずもがなの試みであって、それは誰にも求められていないと言いたいのでしょう。教師は上から言われた通りに教えていればよいのです。「ゆとりの教育」=「ゆーとーりの教育(言う通りの教育)」と言われる所以です。

実際、抑圧者の関心は、「抑圧する状況をではなく、被抑圧者の意識を変えること」〔シモーヌ・ド・ボーヴォワール Simone de Beauvoir(一九〇八――。フランスの女性哲学者、実存主義作家。――訳注)『右翼の政治思想』〕にある。なぜなら、被抑圧者はその状況に順応するように導かれるほど、それだけ容易にかれらは支配されるようになるからである。この目的を達成するために、抑圧者は銀行型教育概念とあわせて温情主義的社会活動装置を用いる。その装置のなかで被抑圧者は、福祉受領者という婉曲ないいまわしの称号を与えられる。かれらは個人的ケースとして、つまり、立派に組織された正しい社会の一般形態から逸脱した周辺人 marginal menとして取り扱われる。被抑圧者は健全な社会の病理とみなされるのである。

△ ボランティア活動は体制補完的になりがちです。そしてその限りでそれは「当局」に許容され、推奨されるべきものとなります。それは温情主義的人道主義であって、問題を根本的に解決することを、むしろ妨げるものとなります。

それゆえ、社会はこれらの無能で怠惰な民衆の精神構造を変えることによって、かれらを社会それ自身の型にはめ込まなければならない。これらの周辺人は、かれらが見棄てた健全な社会に統合され組み込まれなければならない。

△ 「自己責任論」は、周辺人が「無能で怠惰な」存在であり、彼らは自分で健全な社会を「見棄てた」人たちであるという思想から生まれてきます。

しかしながら真実はどうかというと、被抑圧者はけっして周辺人などではないし、社会の外側で生きている人間ではない。かれらはつねに内側に、かれらを他者のための存在にした構造の内側におかれてきたのである。解決策はかれらを抑圧構造に統合することにあるのではなく、かれらが自分自身のための存在になれるようにその構造を変革することにある。そうした変革はもちろん、抑圧者の目論見を根底からくつがえすだろう。だからこそかれらは、生徒の意識化という脅威を避けるために、銀行型教育概念を利用するのである。

△ 抑圧者がなぜ上意下達の「銀行型教育」に固執するかと言えば、生徒が自分の主人になり、問題を意識化するのを避けるためである、と言われています。この意識化というのは、フレイレの基本的な概念の一つです。conscientizationの訳ですが、「気づき」という言葉に言い換えてもよいでしょう。「裸の王様」のように、民衆が王様の裸に気づくことは支配者にとって「脅威」です。それを避けるためには、言われた通りに学習し、言われた通りに実践する、素直な生徒をつくっていくしかありません。

たとえば、銀行型の成人教育のやり方では、生徒に向かって批判的に現実を考察せよとはけっしていわないだろう。そのかわりにそれは、ロジャーが山羊に緑草をやったかどうか、などといった瑣末な事柄を大事な問題として取り上げ、ロジャーが緑草をやったのは実は兎だった、といったことを学習するのが重要であると主張する(*)。

* ラテンアメリカ諸国で行なわれている政府の成人教育(識字教育)の非現実的内容を批判している文章。著者の「自由のための文化行動としての成人識字教育」(ペンギン版『自由のための文化行動』一九七二年、に収録されている)のなかには、そのような現実の意識化とはまったく無関係な不毛なテキストの内容例がたくさん例示されている。たとえば、O cachorro ladra.(犬がほえる。)Maria gosta dos animais.(マリアは動物が好きである。)Joao cuida das arvores.(ホアンは木の世話をする。)……といった文章の機械的暗記が学習者に何をもたらすかが、そこでは論じられている。――訳注

△ この訳注で言及されている『自由のための文化行動』は、本書と同じく亜紀書房から1979年に出版されています。なお、教材が退屈なのは意図的に仕組まれているからなのでしょうか。テキストが学習者の生活の文脈(関心、興味点)に即さないということは、往々にしてあることです。それをすべて「生徒の意識化という脅威を避けるため」とするのは、少し飛躍があるのではないかと思われます。ただし「意識化を促進するための教材作成がなされる方がはるかに望ましい」とは言えるでしょう。その教材を再び教師が作成して、それを生徒が受け入れるという関係が持続する限りでは、旧来の関係に変化はありませんが、生徒の関心と成長という要因を無視しない点で、可塑的で開かれたテキストの作成が可能になるでしょう。テキストは固定的で、権威のあるものであると考えることに問題があります。何を教えるかを権力の裁量で一方的に決めるのは間違っています。

銀行型教育方法のヒューマニズムの裏には、人間をロボットに変えようとする意図が隠されている。それはまさに、より豊かな人間になるという存在論的使命の否定である。このことを知ってか知らずにか、当人は善意のつもりでも、自分のやっていることが非人間化にしか役立っていないことに気がつかない銀行員教師 bank-clerk teachersが無数にいる。そして、この銀行型の方法を用いる人びとは、預金それ自体のなかに現実の矛盾が含まれているのを知ることができない。

△ 学校教育についての固定観念を取り払うことはとても困難です。権力はつねに教育を人民統治の手段として利用してきました。一教師がそれを覆そうとすることは、例えば、この日本では「分限免職」をも辞さない果敢な行動ということになってしまいます(増田都子氏の例)。現に我々はそこまで追い込まれています。しかし銀行型教育の行き着く先は、権力の意のままに動くロボットの製造に過ぎないことは明らかです。

しかし、遅かれ早かれ、かつて受動的であった生徒はこれらの矛盾にうながされて、飼い馴らされることや現実を飼い馴らそうとする企てにたいして立ち向かうようになるであろう。かれらは日常の生活経験のなかで、自分たちの現在の生き方がより豊かな人間になるという使命とは相容れないものであるのを発見するであろう。現実との関係をとおしてかれらは、現実が絶えず変革しつづけている過程であることを感じとるであろう。

△ この日本で「政権交代」があったということは現実の矛盾を反映しています。現場での個々の教師の苦闘が何を目指しているのかということが、より明確な形で現れてきたと言えます。「現実を飼い馴らそうとする企て」が何であったかということが、人々の意識にのぼってきたからです。今その先が問われています。

人間がもし探究者であり、その存在論的使命が人間化ということであるなら、かれらは遅かれ早かれ、銀行型教育によって自分たちが閉じ込められている矛盾を知覚するようになり、やがては自らを解放するための闘いに取り組むようになるであろう。

△ 教育の基本的な目標として、私は「実存化=個人化・意識化・人間化」ということを考えてきました。そこにはフレイレの影響もあったのでしょう。人間には「存在論的使命」が与えられているとするのは、一つの予断です。しかし自分たちの日々の苦闘の意義が、一体どこにあるのかを考えてみると、単なるロボット、「機械の部品」ではない生き方とは、人間の人間らしい生き方の「探究」にほかならないと言えるでしょう。

だが、ヒューマニスト、革命的教育者は、この可能性が実現するのを待っているというわけにはいかない。かれの努力は最初から、批判的思考にしたがい相互の人間化を追求しようとする生徒の努力といっしょにならなければならない。かれの努力には、人間とその創造力にたいする深い信頼が満ち満ちていなければならない。これを成し遂げるために、かれは生徒との関係でかれらの仲間 partnerでなければならない。

△ 教師は生徒の敵対者ではなく、仲間であるということを本当に実現しようとすれば、彼は「革命的教育者」になるでしょう。現実の構造は、教師を生徒に敵対させているからです。強制なしには教育も成り立たなくなっているからです。

銀行型教育概念は、このような仲間関係を承認しない。それは必然的にそうなるのである。教師―生徒の矛盾を解決すること、つまり、預金者、命令者、飼育者の役割を、生徒のなかで生徒とともに学び続ける者の役割におきかえること、これによって抑圧権力がくつがえされもしようし、また、このことが解放の大義に役立ったりもするであろう。

△ 文部科学省、東京都教育委員会、「君が代」斉唱時不起立を貫く教師の氏名を報告せよと強要する某県知事のような「抑圧権力」はまだ健在です。裁判所もまた教育行政の命令を正当化しています。教育は「国民」のものではなく、国家のものであるという思想が、硬直した教育観を教師と生徒に押し付けています。それが日本の現実です。そのときには、教師は「預金者、命令者、飼育者の役割」を演ずることになるでしょう。

二 銀行型教育

――教師―生徒、エリート―民衆の矛盾――

銀行型概念では、暗黙裡に人間と世界の二分法が仮定されている。すなわち、人間は世界や他者とともに存在するのではなく、たんに世界のなかにあるにすぎない。人間は再創造者ではなく、傍観者にすぎないのである。

この見解によれば、人間は意識的存在 corpo conscienteではなく、むしろ意識の所有者、現実についての預金を外側の世界から一方的に受け入れるべく開いている空虚なにすぎない。

たとえば、私の机、本、コーヒー茶碗、私の前にあるあらゆる対象物は、私を取り囲んでいる世界の断片として、まさに、私が今私の研究室の内側にいるのと同じように、私の内側にあるといえるかもしれない。この考え方では、意識に向かって開かれていることと意識に入り込むことが区別されていない。だがこの違いはひじょうに重要である。すなわち、私を取り囲む対象物は、私の内側に置かれているのではなく、たんに私の意識にたいして開かれているだけである。私はそれらを認めているが、それらは私の内部にはない。

意識についての銀行型観念からすれば、教育者の任務は、世界が生徒のなかに入り込む道筋を規制することであるというのは、当然である。かれの仕事は、生徒のなかにすでに自然発生している人間化の過程を自己流に組織すること、真の知識とかれが考える情報の預金によって生徒を満たすことである(*)。

* この概念は、サルトルが「消化的」もしくは「慈養的」と呼ぶ教育概念に相当する。そこでは、知識は「でっぷり太らせる」ために教師によって生徒に「食わされる」のである。ジャン・ポール・サルトルの『シチュアシオンT』(「フッサールの現象学の根本的理念:志向性」)を参照。

△ フレイレが「ひじょうに重要である」と言っている違いは、対象が私の中に入り込むのではなく、私の意識が対象に向かって開かれているのだということです。意識の志向性の問題が教育観の相違に関わっていると言われています。人間は意識的存在であり、従って自由であると考えるか、それとも、人間の心は「空虚」であって、そこに知識を注ぎ込み、「世界が生徒のなかに入り込む道筋を規制」しなければならない、と考えるかの違いであるとも言われています。もし後者であるとすれば、生徒は自己理解の自由をすら持たない存在なので、どのような自己理解を持つべきであるかも外から与えられなくてはならないということになるでしょう。「皇国臣民」という自己理解が正しいものとされれば、それは生徒の中に叩き込まれることになります。

そして、人間が世界を受動的存在として受け入れるのであるから、教育は人びとをいっそう受動的にし、世界に順応させるべきだ、ということになる。教育のある人間とは順応した人間のことである。というのは、かれは世界により「ぴったりと適合する」からである。ひとたび実行に移されると、この概念は実にうまく抑圧者の目的にかなう。人びとがどれだけぴったりと抑圧者がつくりあげた世界に順応し、どれだけそれに疑念をもたずにいるかに、抑圧者の安寧がかかっている。

△ 一度その道筋がつけられてしまうと、人びとはそれ以外の生き方を知らない者となります。ひたすら支配者(天皇陛下、キム・ジョンイル、その他)を崇拝する存在に仕立てられます。「教育」がそのような人間をつくり上げます。

支配権をにぎる少数者によって命令される目的(それによって多数者は自らの目的をもつ権利を奪われている)に、多数者が完全に順応すればするほど、それだけ容易に少数者は命令を続けることができる。銀行型教育の理論と実践は、この目的にきわめて効果的な役割を果す。

△ 東京都の公立学校は「石原銀行(新銀行東京)」のような存在であると言うべきでしょう。上意下達の「銀行」型教育の理論が、まさにその通りに実践されているからです。

言葉だけが氾濫する授業、読書の要求(*)、知識を評価する方法、教師と教えられる者とのあいだの隔たり、進級の基準、こうしたおしきせの方法はすべて、考えることを妨げるのに一役かっている。

* たとえば、ある教師たちは生徒に与える読書目録に、本は(全部読む必要はなく――訳者)十頁から十五頁まで読むことなどと条件づける。かれらはなんと生徒を助けるためにそうするのである。

△ 学校というシステム全体が人を考えさせないようにできているという指摘は辛辣です。学校の優等生が実社会で必ずしも役に立たないのは、学校のシステムに乗っていることと複雑な社会的現実の中で生きることとは別物だからです。なお課題図書のページ数を指定するのはよく行なわれることで、特定のテーマとの関連が問題なのであれば、それ自体、決して悪いことではないと思います。読むべき本の冊数が多いときには親切な行為です。本は何でも初めから終わりまで読むという必要はありません。

銀行型教育者には、極端に肥大した自分の役割がいつまでも無事に続くわけではないということ、人は他者とともに連帯して生きようとつとめなければならないということが、理解できない。人は自分自身を押しつけることはできないし、何もしないで自分の生徒と共存することはできない。

△ 「先生」とたとえ三日でも呼ばれたことのある人間は、採用するなという言葉があります。教師は極端に肥大した自分の役割、いわば過剰な役割を演じています。しかしその役割は学校という特別の空間においてだけ通じるもので、その人の永続的な属性といったものではありません。その役割に安住することは快適ですが、ほかには「何もしないで」、自分の生徒と共存することはできません。

連帯は真の交流を要求するのである。そして、銀行員型教育者が頼りにする考え方では、交流は恐れられ、退けられる。

△ コミュニケーション(交流)が教育の根底になければ、そこには教師→生徒という、一方的なあてがいぶちの関係があるだけです。その関係こそが維持されなければならないとされるならば、当然、双方向のコミュニケーションは忌避されます。

しかし、交流によってのみ人間の生活は意味をもつことができる。教師の思考は、生徒の思考の確実さによってのみ確かなものとなる。教師は生徒のために生徒にかわって考えることも、また、自分の思想を生徒に押しつけることもできない。

△ 教師が教えるのは生徒が学ぶためです。生徒が学ばなければ、教えたことにはなりません。しかし生徒は自ら学ぶのであって、教師は生徒の学びに随伴することができるだけです。本質的な意味では、人は「教える」ことができません。生徒が学んだとき、初めてそこにコミュニケーションが成立したと言うことができます。

確かな思考、つまり、現実にかかわる思考は、孤立した象牙の塔のなかでではなく、交流のなかからだけ生まれる。

△ 思考はコミュニケーションの一環であって、孤立した思考などというものは、本来、ありえないことです。自ら考える者となれというカントの命法は、人や物との関係をよりよいものとせよということであって、独善的になれということではありません。

思想は、世界にたち向かう行動によって生みだされるときにのみ意味をもつ、ということが真実であるならば、教師にたいする生徒の従属は不可能となる。

△ 思考は行動の延長であって、その逆ではないということが真実であるとすれば、自ら行動して何かを感得するのは、生徒自身であって、教師がそれを代行することはそもそもできない筈のものです。生徒を従属させる教育は、人間をある特定の鋳型にはめ込もうとすることであって、フレイレが考える教育の対極にあります。

銀行型教育は、人間を客体としてとらえるという誤った理解から出発するがゆえに、フロムが『人間の心』のなかでバイオフィリー(生命への愛)と呼んでいるものの発展をうながすことができず、逆にその反対物であるネクロフィリー(死せるものへの愛)を生みだすのである。

生命の特徴が、構造化された機能的な成長であるのにたいして、ネクロフィラスな人は、有機体を無機物に変えたいという欲望に、また、生命ある人びとがみな物であるかのように、機械的に生命に接近したいという欲望にかりたてられる。……経験よりは記憶が、生きることよりは所有することが、ここでは重要なのである。ネクロフィラスな人が客体―花や人―とかかわりあうことができるのは、かれがそれを所有するときだけである。したがって、自らの所有にたいする脅威は、自分自身にたいする脅威である。もし所有物を失うとすれば、かれは世界との接触を断たれるのである。……かれは支配を愛し、支配することによって生命を抹殺する(フロム『人間の心』)。

抑圧は、圧倒的な統制であり、それはネクロフィリックである。それは生命への愛によってではなく死への愛によって養われる。抑圧の利にかなう銀行型教育概念もまた、ネクロフィリックである。

△ フロムのネクロフィラスな人についての考察はフロイトを継承しています。フレイレが、死への愛は銀行型教育概念の根底にもあると指摘していることはいささか唐突です。しかし所有と支配への欲望が生きているものへの共感を封じ込め、それをまるで無機物と同然のものにしてしまうということは真実です。

それは、意識を機械的で、静止した、自然主義的な、局限されたものとみることによって、生徒を受け入れ対象に変えてしまう。それはまた、思考と行動を統制し、人間を世界に適応させ、人間の創造力を抑制しようとこころみる。

△ 生徒が「受け入れ対象」、すなわち一種の容器と考えられるならば、それは世界に適応させるべき客体となり、世界を変革する創造的な主体とは見なされなくなります。

人間は、責任ある行動をとろうとする努力がくじかれ、また、自分の能力を発揮できないことに気づくとき、悩み苦しむ。「無力ゆえのこの苦悩は、人間の平衡状態が破られているという事実そのものに根ざしている」とフロムは述べる。しかし、人間を苦しめる行動力へのこの無力感は、以下のことをこころみることによって自分の無力を拒否させもするのである。

(自分の)行動能力を回復すること。だが(かれらに)それが可能だろうか。可能ならどのようにして。ひとつの方法は、権力をもつ個人や集団に服従し一体化することである。(人間は)このような象徴的な参加によって自分が行動しているという幻想をもつのであるが、現実には(かれらは)、行動する人びとに服従しその一部となるにすぎない(フロム前掲書)。

ポピュリストの示威運動は、被抑圧者によるこの種の行動様式の、おそらくもっともよい例である。かれらはカリスマ的指導者と一体化することによって、自分自身が活動的でしかも影響力をもっているかのように感じてしまう。歴史過程に登場するにつれてかれらが示す反乱行為は、影響力のある行動をしたいというかれらの欲求に深く根ざしている。

△ 権力をもつ個人や集団に服従し一体化することによって、あたかも自分自身が活動的で、影響力があるかのように感じてしまうということは、象徴的参加という「代償行為」が自分の無力感を覆い隠してくれるということでしょう。こうして無数の小ヒトラーが、歴史過程に登場することになります。しかし宗教もそのような代償行為の一つであって、その意味では、今に始まったことではありません。

支配権をにぎるエリートが考える治療手段は、いっそうの支配と抑圧であり、それは自由、秩序、社会平和(エリートの平和にすぎないが)の名のもとで実行に移される。

こうしてかれらは――当然それはかれらの観点からであるが――「労働者によるストライキの暴力」を非難し、「ただちにストライキを鎮圧するための暴力を国家に要求する(ことができる)」〔ニーバー Reinhold Niebuhr (1892-1971. アメリカの神学者、牧師。社会主義キリスト者同盟機関誌「キリスト教と社会」の編集責任者。――訳注)『道徳的人間と不道徳的社会』〕。

△ 自由、秩序、社会平和の名のもとで、いっそうの支配と抑圧がもたらされるという、その「代償行為」の顛末は、我々に人間が抱く幻想の根深さという意識を喚起させます。改革の名のもとで一層の格差社会がもたらされたことは、我々の目の前の現実です。

支配の行使としての教育は、抑圧世界に順応するように生徒を教化するというイデオロギー的意図(教育者はほとんどそれを自覚していない)をもって、生徒の軽信をあおりたてる。これを告発するのは、それによって支配エリートがただちに実行を断念するだろうといった無邪気な希望からではない。その目的は、真のヒューマニストの注意を喚起し、かれらが解放を追求するさいに銀行型教育の方法を使うことはできないという事実に気づかせるためである。さもなければ、かれらは、解放の追求自体さえも否定しかねないからである。さらには、革命社会がこれらの方法を抑圧者の社会から受け継がないようにするためである。

△ 支配エリートの「銀行型教育」への執着は、戦後の日本の教育史において確認できることです。彼らが、その弊害を認識し、自らそのやり方を改めるであろうなどと、無邪気に期待することはできません。抵抗勢力が脆弱であれば、彼らは権力を笠に着て上意下達の教育を強化し、それをさらに推進しようとするでしょう。それではそれに対する抵抗の根拠はどこに見出されるのでしょうか。フレイレは「真のヒューマニスト」という言葉を使いますが、それを「真の教育者」と言い換えてもよいでしょう。しかし「革命」という大義を持ち出さなくても、教育のことを真剣に考えれば、「銀行型教育」の非人間性が認識されて来ると言うべきではないでしょうか。そしてあるべき教育が成り立つ社会が「革命社会」であると言ってもよいのではないでしょうか。フレイレは、「革命」の雰囲気に浸ることのできる時代と場所に生きています。しかしそれは今日の我々の意識からかけ離れています。多くの教師たちは「革命」という言葉を聞いて身を退くでしょう。いずれにしても、革命という言葉を一人歩きさせるのは危険です。その上、内実を伴わない革命の大義は、それだけでは、今日もはや、人々の広汎な支持を取り付けることはできないでしょう。一方で「無血革命」などという言葉が今でも使われてはいるのですが……。

銀行型教育を実施する革命社会は、道を誤っているか人間を信じていないかのいずれかである。いずれのばあいでも、それは反動の亡霊に脅かされている。

不幸にも、解放の大義を信奉する人びとは、かれら自身が銀行型の考え方を生み出す風土に取り囲まれ、影響を受けているので、その重大さとそれがもつ非人間化の力に気づかない。

逆説的ではあるが、かれらは解放のために努力していると自分では考えながらも、実際には、この疎外の道具を利用してしまうのである。事実、ある革命家たちは、こうした銀行型教育の実施に挑み反対する人びとに、お目出たい奴、空想家、ときには反動者という烙印さえ押しつける。

△ 旧来の社会主義国家のモデルからすれば、民主集中制という権力の正当化によって、銀行型教育方法による、「正しい理論」の人民への注入を、唯一の解放の手段とみなしたということは、実際にあったことだと思います。そしてそれは、共産主義社会への過渡期の形態であるとみなされていたのでしょう。前衛党神話がそのような理屈を可能にしました。しかし自分たちだけが正しいという主張は、自分の中にもある悪や欠陥を認識しない点で、大変危険な思想であるということが、既に歴史的に証明されています。フレイレの掲げる「革命」の思想は、その意味で、いわゆるマルクス=レーニン主義ではありません。次節では、銀行型教育の対極にある「課題提起教育」が論ぜられます。


U 被抑圧者の教育学 その2

三 課題提起教育

――世界への介在――

しかし、人を疎外しながら人を解放することはできない。真実の解放――人間化の過程――は、人間に別の預金をすることではない。解放とは実践である、つまり、世界を変革するために世界にはたらきかける人間の行動と省察である。

△ 解放とは人間化の過程である、と言われます。人間の潜在能力に信頼して非人間的な世界に働きかける行動と省察が、すなわち、実践としての解放です。

真に解放の大義に身をささげる人びとは、誰かによって満たされるべき空(から)の器(うつわ)といった機械論的な意識概念を容認することはできないし、また、解放の名をかりて銀行型の支配方法(宣伝、スローガンといった預金)を利用することも認めることができない。

△ 人間の意識は宣伝やスローガンといった「注入」、「扇動」の方法によって変えられるべきはない、ということでしょう。

解放に真にかかわる人びとは、銀行型概念を完全に拒否し、それにかえて意識的存在としての人間と、世界に向けられた意識としての意識の概念を採用しなければならない。かれらは、預金をするという教育目標を捨てて、それにかえて世界との関係にある人間の課題を設定しなければならない。

△ ここで再びフッサールの「志向性」(意識とは必ず何かについての意識である)の概念が強調されます。意識は世界に向けられています。

意識の本質―志向性―に相応する課題提起教育‘problem-posingeducation(*)は、コミュニケを拒絶し交流を生み出す。

* 課題提起教育とは、本章で言及されているように「銀行型教育」banking educationに対立するフレイレ教育学の重要概念である。それは、現実世界のなかで、現実世界および他者とともにある人間が、相互に、主体的に問題あるいは課題を選び取り設定して、現実世界の変革とかぎりない人間化へ向かっていくための教育を意味している。ポルトガル語版、スペイン語版では、educaçâo problematizadora, educación problematizadora, フランス語では éducation conscientisanteが使われている。マルクス主義理論の「問題設定(プロブレマティック)」に相応する概念である。――訳注

△ コミュニケ(権威を伴う公式声明)ではなく、コミュニケーション(人々の水平的な交流)を生み出す教育は「問題提起型教育」である、と言われています。それは他の人々と問題を共有し(problem-sharing)、問題を提起し(problem-posing)、問題を解決する(problem-solving)、そのプロセスにある教育である、と言ってもよいでしょう。それこそが、人間を人間化する(make a human being human)という、限りないプロセスとしての教育である、ということになるでしょう。

それは、意識の特質、すなわち、つねに何ものかを意識していること、たんに対象物を凝視する意識だけではなく、ヤスパース Karl Jaspers(一八八三〜一九六九。ドイツの精神病理学出身の哲学者。実存哲学の創唱者。――訳注)のいう「分裂」した意識自体にも目を向ける意識、つまり、意識意識としての意識を実に集約的に示している。

△ 「それ」とは「志向性(intention)」のことです。志向性はトマス・アクィナス以来の伝統的な用語であって、「意識の意識」とは第一志向(intentio prima)に対する第二志向(intentio secunda)、すなわち、反省(省察)を意味しています。

解放教育は情報の伝達にではなく、認識の行為 acts of cognitionに存在する。それは、認識対象が、認識行為の目的になるのではまったくなく、認識者― 一方が教師で他方が生徒―を相互に媒介するような学習状況をいうのである。

△ 解放の教育においては、認識対象を認識すること自体が目的になるのではなく、教師と生徒という、相対する認識者を相互に媒介するような学習状況が先ずあって、認識行為はあくまでもその関係の中でなされるのだ、ということが踏まえられなくてはならないと指摘されています。先ず学習の「場」が問われなくてはなりません。

したがって、課題提起教育の実践は、何よりもまず最初に、教師―生徒の矛盾の解決を要求する。そうでなければ、認識者が協力して同じ認識対象を認めるさいに不可欠な機能、つまり対話関係は、成り立つことはできない。

△ 教師―生徒の関係には矛盾がある、そしてその認識がなければ対話は成立しないのだと言われています。認識者が協力して同じ認識対象を認める際に、その対話関係の樹立は不可欠なものであるとされています。

実際、課題提起教育は、この矛盾を克服してはじめて、銀行型教育の特徴である垂直パターンを破壊し、自由を実践するという自らの機能をまっとうすることができるのである。

対話をとおして、生徒の教師、教師の生徒といった関係は存在しなくなり、新しい言葉(ターム)、すなわち、生徒であると同時に教師であるような生徒と、教師であると同時に生徒であるような教師 teacher-student with students-teachersが登場してくる。教師はもはやたんなる教える者ではなく、生徒と対話を交しあうなかで教えられる者にもなる。生徒もまた、教えられると同時に教えるのである。かれらは、すべてが成長する過程にたいして共同で責任を負うようになる。

この過程では、権威をかさにきた議論はもはや効力をもたない。権威が本当に意味をもつためには、権威は自由の側に立って、自由に反してはならない。ここには、誰かを教えるだけの者も、自分一人で学ぶだけの者もいない。

人びとはお互いに教えあう。世界によって媒介され、また、銀行型教育では教師によって所有される認識対象によって媒介されながら、相互に教えあうのである。

△ 認識対象は教師によって所有されるものではありません。それは世界の現実の一局面であって、人々が互いに共有すべきものです。

銀行型概念は、何もかも二分する傾向をもっているが、教育者の行動についても二段階に区別する。第一段階では、かれは自分の研究室や実験室で授業の準備をしながら、認識対象を認識する。第二段階では、その対象を生徒に逐一説明する。生徒はそれを知ることを求められるのではなく、教師によって一方的に語りかけられる内容を暗記することを要求される。生徒は認識行為といえるようなことは、何ひとつ行ってはいない。なぜなら、その行為が向けられるべき対象は、教師の私有物であって、教師と生徒の両方に批判的省察をうながす媒体ではないからである。

△ 認識対象は教師の占有物であって、生徒はそれについての「説明」を暗記させられるだけであるというのは、いかにも極端で戯画的な描写です。しかし対話的でない教授法の問題点は、生徒を一個の認識者として認めないことにあります。生徒は教え込まれるだけであって、自ら認識する者としては扱われません。

だから私たちは、文化と知識の保存の名目のもとに、実は私たちが真の知識にも文化にも到達できないシステムをもっているということになる。

課題提起の方法は、教師―生徒の活動を二分することはない。つまり、かれがある時点では認識し、別の時点では一方的に語りかけるということはない。教育計画を準備していようと生徒との対話に取り組んでいようと、かれはつねに認識している。

△ 先ず認識し(事前の準備)、次に説明する(授業の実践)という「銀行型教育」の順序(教育計画とその実践)は、認識を教師だけのものとし(わかっているのは先生だけ!)、初めから生徒との対話は度外視されています。それは教師中心(teacher-centeredness)の教育です。従ってその教育計画においては、そもそも認識主体としての生徒のことが考慮されていません。おまけにこの日本では、「学習指導要領」に即した、かつまた学校当局に提出され承認されるべき(!)、教師によるその授業計画が、一方的に生徒に押しつけられ、それが教師自身と生徒のノルマになっています。計画が先行し、授業が「わかる・わからない」は二の次になります。そして落ちこぼれは「自己責任」と見なされます。

かれは認識対象を自分の私有物とはみなさいないで、自分自身と生徒による省察の対象と考えるのである。

このようにして課題提起型の教育は、生徒の省察のなかで、たえず自らの省察を改める。生徒は、もはや従順な聴き手ではなく、今や教師との対話の批判的共同探究者である。教師は生徒に考えるための材料を与え、生徒が発表するかれらの考えを聴きながら自分の以前の考えを検討する。

△ 課題提起型の教育においては、認識対象はすべての人に開かれています。教師と生徒とは、既に垂直的な関係には立っていません。認識対象を共有することによって、彼らは共に、そして互いに、自己省察を深めます。

課題提起型教育者の任務は、憶見 doxa のレヴェルにある知識が、理性 logos のレヴェルにある真の知識によってとってかえられるための条件を、生徒とともに創造することにある。銀行型教育が創造力を麻痺させ抑制するのにたいして、課題提起教育は現実のヴェールをたえずはぎとるはたらきをもっている。

△ 発見 discover という言葉の原義は、覆い(カバー)をはぎ取るということです。真に発見的であることが、知識を知識にするということです。しかし銀行型教育においては、知識は既に確定していて、権威づけられています。従ってそれを授けるのが教師の仕事であり、それを受け入れるのが生徒の仕事になります。どんな瑣末な知識であっても、発見が伴わなければ自分の知識にならないという意味で、銀行型教育は、結局のところ知識を陳腐なものにし、学習を苦痛な義務の履行に変えてしまいます。「教理問答(公教要理)」が利発な子どもたちを教会から離れさせたように、銀行型教育もまた生徒を学校から離れさせると言うべきでしょう。それは生徒から興味(知的好奇心)を奪い取ってしまいます。生徒を学校につなぎ留めるものは、従って、何か別の強制力とか友だち関係のような別の魅力によるものとなるでしょう。学校は本来の機能を果たさなくなります。

銀行型教育は意識を埋没状態におこうとし、課題提起教育は意識の出現と現実への批判的介在に向かって努力する。

△ 銀行型教育は人を眠らせ、課題提起教育は人を目覚めさせると言ってもよいでしょう。教科書の暗記は意識の磨耗であり、発見は意識の出現です。

生徒は、世界の内にあって世界とともにあるかれら自身が関係する問題に多く直面するにつれて、かれらはますます挑戦を迫られており、それに応じなければならないのを感ずるようになるだろう。

かれらは、世界からの挑戦を理論的問題としてではなく、全体的文脈のなかにある他の諸問題と関連しあったものとして把握するがゆえに、そこから生まれる理解はますます批判的になり、かくして疎外されることがほとんどなくなっていく。かれらがその挑戦に応ずることによって、新たな挑戦が喚起され、そこからまた新しい理解が生まれてくる。生徒は徐々に自分自身を現実世界にかかわっている committed者とみなすようになる。

△ 銀行型教育によって育てられた人間は、世界の出来事を個々バラバラの互いに脈絡のつかない状態にあるものと感じます。しかし課題提起教育は、物事を「全体的文脈のなかにある他の諸問題と関連しあったものとして把握する」するように仕向けるということでしょう。この世界に自分と無関係なものは何ひとつとしてありません。

自由の実践としての教育は、支配の実践としての教育とは反対に、人間が抽象的存在で、世界から孤立し、独立し、切り離されているという考えを認めない。それはまた、世界が人間とはかけ離れた実在であるという考えも拒否する。

真の省察が認めるのは、抽象的人間や人間不在の世界ではなく、世界との関係にある人間だけである。この関係のなかで、意識と世界は同時に存在する。意識は世界に先行するのでもなければ、そのあとにしたがうものでもない。

意識と世界とは同時に与えられているのである。つまり、世界は本質的に意識に外的でありながらも、本質的に意識に相対的である〔『シチュアシオンT』(「フッサールの現象学の根本的理念」)白井健三郎訳 人文書院 二七頁〕。

とサルトルは書いている。

△ フレイレは、サルトルの現象学的世界観から基本的な洞察を得ているようです。教育は自由の実践であるという主張も、サルトル的であると言えるでしょう。

チリでの私たちの文化サークルのひとつで、ある集団がコード表示codification(第三章参照)をもとにして人類学的文化概念について議論していた。この議論の最中に、銀行型の基準からすればまったくの無知な農民がこういった。「そうか、人間がいなければ世界はないということがよくわかった。」そのとき教育者は次のように聞きかえした。「議論のための議論になるけれど、地上の人間がすべて死に絶え、地球だけが木、鳥、動物、川、海、星……といっしょに残ったと考えてみよう。……そのばあい、これらはみな世界ではないのだろうか。」

「いやそうじゃない」その農民はきっぱりと答えた。なぜなら「『これが世界だ』という人間が一人もそこにいないから。」

農民がいわんとしたことは、意識の世界を必然的に含んでいる世界についての意識が、そこには欠けているということである。

非我なしには存在できない。反対に、非我の存在に依拠している。意識を存在させる世界は、その意識世界となる。だからこそ先に引用したごとくサルトルはいうのである。「意識と世界は同時に与えられているのである」と。

△ 私がいなければ、世界も存在しないということは、一面の真理を言い表しています。世界を意識する私がいなくなれば、世界はないも同然だからです。

自分自身と世界とを同時に省察しながら、その知覚の範囲を広げていくにつれて、人間は以前気づかなかった現象に注意をむけはじめる。フッサール Edmund Husserl(一八五九〜一九三八。ドイツの哲学者、現象学派の創始者。――訳注)は書いている。

本来の知覚(Wahrnehmen)、すなわち認知(Gewahren)としての知覚において私は、対象たとえばこの紙へ注意を向けている。すなわち私はそれをここに今存在するこのものとして把握する。把握とは取り出して把握することである。言いかえればいかなる知覚されたものもひとつの経験背景をもっているのである。この紙の周囲には書物、鉛筆、インク等々が、ある仕方でやはり『知覚』されて、知覚的にそこに、『直観の野』に在る。けれども私が紙に注意を向けているあいだはそれらはいかなる注意も把捉も――たんに第二次的なるそれといえども――受けていない。それらは現出はしたのであるが、しかし取り出され、それ自身として措定されはしなかったのである。かくて物の知覚のおのおのは一つの背景直観――直観という言葉がすでに「注意を向けている」という意味を含むとすれば、背景直観(Hintergrundsanshauungen)は背景観(Hintergurundsshauungen)と言いかえても良い――の庭をもっている。これもやはりひとつの『意識体験』、約言すれば『意識』、すなわち随伴的に観られたる対象的『背景』の裡に実際に存しているすべてのものに『就いての』意識である(『純粋現象学及現象学的哲学考察』池上鎌三訳 岩波文庫上 一二七〜一二八頁。引用訳文の漢字を若干かなになおした。――訳者)。

客観的に存在してはいたが漠然としか知覚されなかったものでも、もし実際、それが完全に知覚されたばあいには、課題の性格をおびたものとして、それゆえ挑戦を迫るものとして、くっきりと立ち現われはじめる。

かくして人間は、その「背景観」からいくつかの要素を抽出し、それらを省察し始める。これらの要素は、今や人間の考察の対象であり、そのようにして人間の行動と認識の対象となる。

△ 知覚の庭、あるいは感覚野において、あるものをあるものとして、焦点的に取り出すこと、注意を向けることが、ここでは挑戦的な課題であるとされています。ひとりの猟師が獲物を見つけたとき、その獲物は単にそこに存在するものとしてではなく、捕獲すべきもの、すなわち挑戦的な課題として立ち現われています。フッサールにとって紙は、単にそこにあるものとしてではなく、これからそこに論文を書かなければならないものとして置かれている筈です。少なくともフレイレは、フッサールの文章をそのように読んでいるのでしょう。人間があるものに注意を向けるのは、それなりの理由があるからです。「純粋現象学」は、しかし、そこまで取り扱っているのでしょうか。

課題提起教育において、人間は、世界のなかに、世界とともにあり、そしてそこで自分自身を発見する方法を、批判的に知覚する能力を発展させる。かれらは世界を静止した現実としてではなく、過程にある、変化しつつある現実としてみるようになる。

△ アカデミズムにおいて世界はある意味で静止していて、対象は世界から切り離されています。対象を固定的に捉えなければ、精密な認識は得られないからです。しかし現実の世界は、過程のうちにあり、変化しつつあります。フレイレにとってはあくまでも現実の世界が問題でした。現実的世界での、人間の現実的行動こそが問題でした。フレイレは、従って、「応用」現象学者であっても「純粋」現象学者ではありません。サルトルも同様でしょう。当然ですが、彼らの実践的主張は、フッサールの現象学から区別されるべきものです。現象学がいわば彼らの思想形成の契機になったと言うべきでしょう。

人間と世界の弁証法的関係は、この関係がどれだけ知覚されているかということとは無関係に(あるいはそれがまったく知覚されていようといまいと)存在するけれども、人間がとる行動形態は、かれが世界のなかでどれだけ自分自身を知覚しているかに応じて大きく機能を変える。

それゆえ、教師=生徒と生徒たち=教師たちは、省察と行動を二分することなく、自分自身と世界とを同時に省察し、こうして、確かな思考および行動の形態を確立するのである。ここでもまた、現在私たちが分析中のふたつの教育概念と実践が衝突しあう。

△ 「教師=生徒と生徒たち=教師たち」とは、前に出てきた「生徒であると同時に教師であるような生徒と、教師であると同時に生徒であるような教師 teacher-student with students-teachers)」のことでしょう。ひとりの「生徒でもある教師」が複数の「教師でもある生徒たち」と共にある、「コミュニケの伝達」ならぬ、「コミュニケーションの関係にある教育の実践」という意味だと思われます。当然、それは「コミュニケの伝達」としての銀行型教育と「衝突しあう」ことになるでしょう。学校は依然として権威主義的であり、そのような教育のあり方を否定しているからです。そしてその結果、既成の学校教育は、省察と行動を二分し、自分自身と世界とを隔離し続けています。

銀行型教育は(理由は明らかだが)現実を神話化することによって、世界のなかに存在する人間のあり方を説明するいくつかの事実を覆い隠そうとする。課題提起教育は、非神話化の仕事を自らに課す。銀行型教育は対話に抵抗し、課題提起教育は対話を現実のヴェールを剥ぐ認識行為にとって不可欠のものであるとみなす。

△ 銀行型教育は「現実を神話化する」という指摘は面白いと思います。権威は自ら権威であるために神話を必要とし、それによって「いくつかの事実」を覆い隠そうとします。この国はあくまでも「美しい日本」でなくてはならず、過去の事実を暴く行為は自虐的であると見なされます。神話が事実を糊塗するためのものである限り、世界の現実の神話的な描き方は、非神話化されなくてはならないでしょう。

銀行型教育は生徒を援助の対象として取り扱い、課題提起教育はかれらを批判的思考者にする。銀行型教育は創造性を押しとどめ、意識を世界から隔離することによって、意識の指向性を、完全に破壊することはできないにしても飼い馴らす。そうすることによって、より豊かな人間になるという人間の存在論的、歴史的使命を否定する。

△ 人間は何かに向かって行動します。それが意識の「指向性」です。そこには「三一致の法則」(should, could, wouldの一致)があります。しかしそれらは「飼い馴らされる」ことによって、権力にとって無難なものにされます。そのために銀行型教育が実践されると言ってもよいでしょう。それによって、より豊かな人間になるという、人間に備わっている筈の(存在論的)、そして先人たちが実践してきた、そしてこれからも実践されるべき(歴史的)「使命」は否定されます。その意味で、銀行型教育は、非育(dis-education)であり、失育(mis-education)であると言われなくてはならないでしょう。

課題提起教育は創造性それ自体に根ざし、真の省察と現実にたいする行動を喚起し、そのことによって、探究と創造的変革にしたがうばあいにのみ真実の存在たりうる人間の使命に、こたえる。

△ 人間は「探究と創造的変革にしたがうばあいにのみ真実の存在たりうる」という人間観が「課題提起教育」の前提であるとされています。そしてそれは人間の使命にほかならないとされています。その希望が奪われた状態は、従って、非人間的です。

四 歴史的使命としての人間化

要するに、銀行型の理論と実践は静止させ固定化する力であり、人間を歴史的存在として認めることができない。課題提起教育の理論と実践は、人間の歴史性を出発の原点とする。課題提起教育は、何ものかになりつつある becoming過程の存在として、すなわち、同様に未完成である現実のなかの、現実とともにある未完成で未完了な存在として、人間を肯定する。実際、未完成であるが歴史をもたない他の動物とは対照的に、人間は自分自身が未完成であることを知っている。かれらは自分の不完全さに気づいている。この不完全さとそのことの自覚にこそ、一人人間だけの表現としての教育の根がある。

△ 動物には「文化」、あるいは「文明」がないので、環境のなかでそれ自体「完結した」(完成した)あり方をしていると言うこともできます。また環境の変化の中で進化も生じてきました。しかし人間は極めて未熟な状態で生まれてきて、身体的にだけでなく、知的にも絶えず成長し続けなくてはなりません。一人の人間が文化の標準的なレベルに達するだけでも、大変な時間と努力を要します。そこに教育の根があります。しかしその努力は完成することがありません。一つの達成は、他の達成によって乗り越えられます。人間の原動力は欲求不満にあるとさえ言えます。しかし、フレイレは、人間の可能性に対して、根本的に楽天的なように感じられます(「(未完成な)現実とともにある未完成で未完了な存在として、人間を肯定する」!)。そこには文明それ自体の危機という意識はありません。彼は「革命的楽観主義者」の一人であると言うべきでしょう。

この人間の未完成な性質と変化しうるという現実の性質が、教育がたえず進展する活動でなければならないことを不可避的に要求する。

教育はかくして、実践のなかでつくりかえられる。

生きるためには、なにかになることが必要である。その持続〔ベルグソン Henri Bergson(一八五九〜一九四一。フランスの哲学者。直観主義的生の哲学で知られる。――訳注)流の言葉の意味で〕は、不変性変化という対立物の相互作用のなかに見いだされる。銀行型の方法は、不変性を強調し反動的になる。課題提起教育は、よくしつけられた現在やあらかじめ決定された未来を受け入れず、ダイナミックな現在に根をおろし、革命的となる。

△ 持続は不変性と変化との緊張の中で保たれています。その歴史的ダイナミズムの中で銀行型教育は不変性を強調して反動的になります。万世一系という思想はその典型です。それに対して課題提起教育は、未来への可能性を孕んだダイナミックな現在に根をおろし、革命的となると言われています。根本的な変化を認めようとせず、その徴候があれば叩きつぶす守旧派は、銀行型教育以外の教育方法を知りません。

課題提起教育は、革命的将来の可能性である。それは予言的であり、だからこそ希望にあふれ、人間の歴史的本性に合致する。かくしてそれは、人間を、自分自身を乗り越え、前進し、前方を見つめる存在として肯定する。かれらにとって不動性は致命的な脅威である。かれらにとって過去をかえりみることは、自分が何であり誰であるかをいっそう明確に理解し、かくして未来をよりいっそう賢明に築くことができるための手段でなければならない。

△ フレイレは、歴史は絶えざる前進であるという近頃評判の悪い「進歩史観」の持主であると言うべきかも知れません。しかしそれは決定論的な進歩史観ではなく、歴史の進歩は、闘いの中で勝ち取られていくべきものである、すなわち、下手をすれば歴史は最悪の状態にまで後退するという認識をもつ点で、決定論的、あるいは機械論的ではありません。過去の歴史は「自分が何であり誰であるかをいっそう明確に理解」するために必要です。しかし未来は自分たちの手に委ねられています。

かくして課題提起教育は、自分自身の不完全さを自覚している存在としての人間がたずさわる運動、すなわち、その出発点と主題と目的をもつ歴史的運動と一体化する。

運動の出発点は、人間自身に存在する。しかし、人間は世界と離れ、現実と離れて存在するわけではないので、運動もまた人間―世界の関係から始まらなければならない。したがって出発点は、つねにこの場所のこの瞬間に、人間とともになければならない。この場所とこの瞬間が状況を構成しており、人びとはその内側に埋没したり、そこから出現したり、そのなかに介在したりしているのである。

△ 課題提起教育は歴史的運動と一体化します。それは、現在の状況をより望ましい形につくり変えていくための、出発点と主題と目的を持つ運動です。

この状況、つまり、人間がそれを知覚する仕方を決定する状況から出発することによってのみ、人びとは運動を開始することができる。これを確実に行うために、かれらは自らの状態を宿命的で不変なものとしてではなく、限界をもったものとして、したがって、挑戦しうるものとして受け取らなければならない。

△ 運動は個々の状況から出発するのであって、あらかじめそのスタイルが決まっているわけではありません。そこから紋切り型ではない柔軟な運動のスタイルが生まれてきます。状況が「出発点」であり、状況において「主題と目的」が与えられます。「主題と目的」が政党の綱領のように先ずあって、そこから出てくるスローガンが運動を導くのではありません。その点でフレイレは特定のイデオロギーからも自由です。

銀行型の方法が、直接間接に状況についての人間の宿命論的知覚を強めるのにたいして、課題提起の方法は、この状況そのものを課題として人間につきつける。状況がかれらの認識対象になるにつれて、かれらの宿命論を生みだしてきた閉じられた呪術的知覚は、現実を知覚するときでさえもその知覚行為自体を知覚することができ、かくして現実を批判的に客体化することができる知覚に道を譲りわたすのである。

△ 以前「状況分析・主題設定・暗号解読」という文章を書きました。状況を認識対象にすることが、運動の開始を意味します。フレイレは「現実を知覚するときでさえもその知覚行為自体を知覚する」と言います。それが「宿命論を生みだしてきた閉じられた呪術的知覚」を乗り越えさせ、現実を批判的に認識させる道を開きます。運動はそこから始まります。状況は宿命的に与えられているのではなく、変えなくてはならない挑戦として目の前にあります。運動は「乗り越え」であって、単に勢力の増大としての「動員」ではありません。通常の「オルグ」活動は銀行型の方法に従っていて、むしろ「乗り越え」の展望を失わせます。状況の中の個人を員数に変えてしまうからです。

状況についての意識が深められるにつれて、人間はその状況を変革可能な歴史的現実として理解するようになる。諦めは変革と探究のための運動にとってかわり、人間は自分がその運動を統御しているという実感をもつ。

他者とともに探究運動に取り組まざるをえない歴史的存在としての人間が、その運動を統御するのでないなら、それは人間の人間性にたいする冒涜となるだろう(現にそれはそうである)。

△ 運動がかえって人間の人間性にたいする冒涜となる。現にそうなっているということでしょうか。迷い出た一匹の羊の譬え(マタイ18:12−13)が示すように、人間によって統御されない運動は、非人間的な化け物に変わります。

ある人びとが探究過程にしたがうのを他の人びとが妨害するようないかなる状況も、ひとつの暴力である。用いられる手段などはたいして問題ではない。人間を意志決定から疎外することはかれらを客体物に変えてしまうことである。そのことが問題なのである。

△ 人間を客体物(たかが一匹の羊、たった一匹の羊、他の九九匹のために見棄てられる羊)に変えてしまわないということが、運動の質に関わる問題であると指摘されています。しかしそこに問題の真の困難さがあります。

この探究運動は、人間化、すなわち人間の歴史的使命へと向けられなければならない。豊かな人間性は、しかしながら、孤立や個人主義のなかにおいてではなく、交際と連帯のなかで追求されることができる。したがってそれは、抑圧者と被抑圧者の敵対関係のなかでは開化することができない。他者が人間になるのを妨げながら、真に人間として生きることができる人などはいない。

個人主義的にもっと人間として生きようとするこころみは、利己主義的にもっと多く持つこと、つまり、一種の非人間化へ行きつく。とはいえ、持つことが人間として生きるために基本的なことではないなどというつもりはない。

まさしくそれが必要であるからこそ、ある人間の持つことが他者の持つことの障害となることや、ある人間の権力が他者を踏みにじるために強化されることは、けっして許されてはならないのである。

△ 人間の社会の基本的カテゴリーである「帰属・所有・支配(同 その2)」が、人間を非人間化する元凶でもあるということに、課題の困難さがあります。今日の日本では検察や司法の権力が、「ある人間の権力が他者を踏みにじるために強化される」ために行使されているように見えます。それが真実であれば、決して許されることではありません。

ヒューマニストの解放実践としての課題提起教育は、支配に服従している人間は自らの解放のために闘わなければならないという考えを根本にすえる。この目的のために、それは権威主義と人間を疎外する主知主義 alienating intellectualism を克服することによって、教師と生徒を教育過程の主体にし、また、人間の偽りに満ちた現実認識を克服させる。

△ 権威主義は知性を疎外します。教師と生徒とが教育過程の主体となることを許さないからです。「学習指導要領」が法的拘束力を持ち、学校は行政命令の執行の場と化します。それが果たして「教育」なのでしょうか。

世界は、もはやあてにならない言葉で描かれる何ものかではなく、人間化をもたらす人間による変革行動の対象となる。課題提起教育は、抑圧者の利益にはならないし、なることはできない。どのような抑圧的秩序も被抑圧者が、なぜ? と問い始めるのを許すことができないだろう。

△ 我々もまた学校教育の現実において「なぜ?」と問わなくてはならないところに追い込まれています。そしてその問いが許されない状況に置かれています。

革命社会だけがこの教育を組織的に実施できるが、革命指導者はこの方法を採用するに先だって権力を完全に掌握する必要はない。革命過程で、指導者が、あとから本物の革命家らしくふるまえばいいと考えながら、便宜上やむをえない臨時の手段として、銀行型の方法を利用するということがあってはならない。

△ 今は権力の命ずるところに従って、やむを得ず銀行型の教育を行っているが、やがてその時がきたら問題提起教育がなされるようになるだろうと考えるのは、妥協という名の服従でしかありません。それは闘いの放棄であって、状況を悪くするばかりです。しかしそこに今日の問題の深刻さがあります。「革命指導者」の大半が問題の先送りを行っているからです。革命という言葉が極端に響くとすれば、それは、この現実は変えられなくてはならないと考えるか否かの問題である、と言ってもよいでしょう。

かれらは最初から、革命的、いうなれば対話的でなければならない。

△ 革命的であるということは、対話的であるということだと、フレイレは最後に宣言します。申し開きが立たない(「説明責任(accountability)」を果たせない)ということが、今日我々が置かれている状況であるとしたら、革命的であるということは我々自身の透明性を高めるということにつながるでしょう。それはまさに教育の根幹にあるべきものです。


V 被抑圧者の教育学 その3

自由のための教育(解放教育)は、歴史の長い道程の中に位置づけられるものであって、時代により、地域により、様々な課題があるに違いありません。先に我々は、教育の実践方法としての「銀行型教育と課題提起教育」について見ました。我々は銀行型の教育概念に慣らされていて、それ以外の教育方法があるということに気づくことさえしていません。その結果、権力者の思う通りの教育がなされつつあります。この現状に対して、なしうることは極めて限られているように思われます。なにしろ相手は国家や地方自治体の権力であって、「言う通りに」しなければ、分限免職や停職などの処分すら控えています。そして抵抗する教員の数は少なく、じわじわと教育の自由が奪われつつあります。こういう時代に、改めて教育とは何かと問うことは、従って、何ほどかの抵抗の意志がなければ行なえないことです。政権交代が起っても、状況に根本的変化は見られません。しかし何らかの形で抵抗の意志を示さなければ、我々は再び、全体主義国家の暴力の罠の中にはめ込まれていくでしょう。このような岐路に立たされているという自覚のもとに、次に、『被抑圧者の教育学』の第三章「対話―自由の実践としての教育の本質」を取り上げて見たいと思います。そこから、今日の我々に、何らかの示唆が与えられることを期待してのことです。それはまた、抵抗の「拠点づくり」に資するところがあるかも知れません。

一 対話―自由の実践としての教育の本質

人間の現象としての対話を分析しようとするとき、私たちは対話そのものの本質を成すもの、すなわち言葉を発見する。だが言葉は、対話を可能にするためのたんなる道具にとどまるものではない。それゆえに、その構成要素が追求されなければならない。

言葉の中にはふたつの次元がある。省察と行動がそれである。それらは一方が一部なりとも犠牲にされれば、他方もただちにその影響をこうむるほど、根源的に相互作用しあう関係にある。同時に実践とならない言葉は、真の言葉とはいえない(*1)。したがって真の言葉を話すということは、世界を変革することである(*2)。

*1 行動・省察 } 言葉=労働=実践 praxis

   行動を犠牲にすること=空虚な放言 verbalism

   省察を犠牲にすること=行動至上主義 activism

*2 こうした考えのなかには、エルナーニ・マリア・フィオーリ Ernani Maria Fiori教授との話しあいから生まれたものもある。

△ 言葉は実践である、とも言えるのではないかと思います。現に使われている言葉は、それ自体、実践の一部をなしているからです。しかし人間は反省的 reflectiveであって、使っている言葉を、自ら反省し吟味することができます。行動至上主義者(活動家)は、空虚な放言主義者(弁論家)よりはずっとマシです。状況に直接関わっており、またその行動の意義について、必ず反省せざるを得ないからです。しかし、事態が込み入っているときには、ただ行動に訴えることには限界があります。逆効果ということもあるからです。行動と省察とのこの何層にも入り組んだ構造が、人間を複雑な存在にしています。

信頼のおけない言葉は、構成要素が二分させられるときに生まれる。それは現実を変革することができない。言葉が行動の次元を失うときには、省察も自らその影響をうける。そして言葉は、無駄話、空虚な放言、疎外されかつ疎外するたわ言に変えられる。それは世界を告発することのできないうつろな言葉になる。なぜなら告発は変革への積極的関与 commitmentなしには不可能であり、変革は行動なしにありえないからである。

△ ある特定の文脈においては、変革への行動は危険を伴います。状況次第では、行動は地位や身の安全を脅かし、家族をも巻き込む可能性があります。だから変革は行動なしにはありえませんが、そう言い切ることには勇気がいります。独裁体制が一定期間持続するのは、恐怖政治を告発するには大きな危険を伴うからです。

逆に行動が極端に強調されて省察が犠牲にされるならば、言葉は行動至上主義に変えられる。行動至上主義、すなわち行動のための行動は、真の実践を否定し、対話を不可能にする。いずれにしても二分化は、偽りの存在形態をつくりだすことによって偽りの思考形態を生み、それが先の二分化をさらに強めるのである。

△ 行動と省察が二分された状況とは、抑圧的な状況のことでしょう。人間が生きている状況は大なり小なり抑圧的です。そしてそこから自他の分裂、主客の分裂が生じてきます。活動と弁論の二分化は不可避的に生じて来るとさえ言えます。

人間存在は沈黙していることはできず、偽りの言葉によって豊かにされることもない。それを豊かにしうるのは真の言葉だけであり、人間はそれを用いて世界を変革する。人間らしく存在するということは、世界を命名し、それを変えることである。いったん命名されると、世界はふたたび課題として命名者の前に現われ、新たな命名をかれらに求める。人間は沈黙(*)のなかでではなく、言葉、労働、そして行動―省察のなかで自己を確立するのである。

* 私は確かに深遠な冥想による沈黙にはふれていない。そこでは人間は、一見すると世界を離れているように見えるが、それはかれが世界を総体として把えるために解脱するのであって、かれが世界とともにあることにかわりはない。しかしこの種の退却が正しいのは、冥想者が現実に浸っている bathedばあいにかぎられ、退却が世界にたいする侮蔑とそこからの遊離でしかなく、一種の歴史的精神分裂病の結果だとすれば、それは正しくない。

△ 皮肉な言い方をすれば、人間の文化は「歴史的精神分裂病」の所産であると言えなくもありません。円満具足の人間は存在せず、仮にすべてのひとが円満具足であるとしたら、歴史には進歩も発展もないでしょう。だから瞑想によって、ある人がきわめて満足すべき状態に達したとしても、それは歴史的現実に対して「以心伝心」以外の仕方では影響力を持たないでしょう。フレイレは真の言葉に信頼しています。しかし言葉は真と偽とに引き裂かれているというのが現実ではないのでしょうか。

だが真の言葉を話すこと――それは労働であり、実践である――が、世界を変革することであるかぎり、それは少数者の特権ではなくて、万人の権利である。したがって真の言葉を一人だけで語ることはできないし、他者の言葉を奪う命令行動のなかで、他人にかわって語ることもできない。

△ 言葉は平等に万人のものです。しかし有力な言葉の発信者は限られていて、その影響が広く及び、多くの人はそれに従います。その伝達手段は、今日ではマスコミと呼ばれ、人々に多大の影響力を行使しています。それによって人々の精神は豊かにされたかと言うと、逆に自分の言葉を奪われ、心を貧しくされています。言葉を話すことは労働であり、実践であると言われていますが、人間のまっとうな生活から遊離しない真の言葉を見出すのは、今日ではとても難しくなっています。

対話とは、世界を命名するための、世界によって媒介される人間と人間との出会いである。それゆえ、世界を命名しようと思う者とこの命名を望まない者とのあいだには、また言葉を話すという他者の権利を否定する者と話す権利を否定されてきた者とのあいだには、対話は成立しない。自分の言葉を話すという本源的権利を否定されてきた者は、まずこの権利を取り戻し、非人間化という暴挙が続けられるのを阻止しなければならない。

△ 教育は人間に自分の言葉を与えてきたでしょうか。もし教育もまた自分で語る言葉を奪ってきたのだとしたら、それは教育と呼ぶことができるでしょうか。

言葉を話し、世界を命名することで、人間は世界を変革するのだとすれば、対話こそが、人間が人間としての意義を獲得するための方法となる。したがって対話は人間として生きるために不可欠なものである。対話とは出会いであり、対話者同士の省察と行動がそこでひとつに結びついて、変革し人間化すべき世界へと向かうのだから、この対話は、けっしてある者の観念を他者のなかに預金する行為に還元されたり、たんに議論の参加者によって消費される観念のやりとりになることはできない。それはまた、世界を命名することにも真実を探求することにも積極的に関与せず、己れの真実を押しつけることにのみ汲々としている者たちの、敵意に満ちた論争的討論でもない。対話は世界を命名する人間同士の出会いなのだから、ある者が他者にかわって命名する関係になってはならない。それは創造行為であって、他人を支配するための狡猾な道具になってはならない。対話に支配があるとすれば、それは対話に加わる人びとによる世界の支配であり、人間解放のための世界の征服である。

△ フレイレは、まるで創世記の昔に生きた人類の始祖のように、あるいは、言葉を覚え始めた子どものようにこの世界に対しているかのようです。命名し、また対話する人間の本源性に立ち返って、人間が人間らしく生きる世界を想像しているのでしょう。対話は、貯金や消費の行為ではなく、その意味でまさに創造的で人間的な行為でなくてはならないと考えているのでしょう。そこに「革命」を説くフレイレの優しさを感じます。

二 対話と対話的教育

しかし対話は、世界と人間に対する深い愛がなければ存在しえない。創造と再創造の行為である世界の命名は、愛の息吹を吹き込まれないかぎり不可能である(*)。

* 真の革命家は、革命を、その創造的解放的本質ゆえに愛の行為として認識しなければならないと、私はますます強く確信している。私にとって革命とは、革命の理論――それゆえ科学――なしには不可能であるが、さりとて愛と両立しえないものではない。それどころか、革命は人間が人間化を達成するために行うものである。まったくのところ、人間を革命家になろうとかりたてる深遠な動機が、人間の非人間化にあらずしていったい何であろうか。という言葉が資本主義世界によって無理にゆがめられているとしても、それは革命の本質的性格が愛することであることを妨げるものではないし、また革命家が生命への愛を肯定することを妨げるものでもない。ゲバラは(「ばかげたことのように思われる」おそれを承知のうえで)それを肯定してためらわなかった。『ヴェンセレーモス』(チェ・ゲバラ著、ジョン・ゲラッシー編集、一九六九年――訳注)のなかにかれの言葉が引用されている。「ばかげたことのように思われるかもしれないが、私に言わせれば真の革命家は強い愛情によって導かれるのだ。この資質を欠いた本物の革命家がいたらお目にかかりたい。」

△ この世界は変えられなくてはならないと革命家に思わせるのは、世界と人間に対するその愛のためである、とフレイレは明言します。その意味では、すべての人間が革命家でなければならず、革命的主体として世界と人間に関わるべきである、ということになるでしょう。そのとき「反動家」とは一体何者であるかが、逆に問われるでしょう。

愛は対話の基礎であると同時に、対話そのものでもある。それは当然責任ある主体の課題であり、支配関係のなかでは存在しえない。支配は、愛の病理、すなわち支配者のサディズムと被支配者のマゾヒズムを示してくれる。愛とは恐れの行為ではなく、勇気に満ちた行為である。したがって愛は他者への積極的関与である。被抑圧者のあるところ、愛の行為は必然的にかれらの大義、すなわち解放という大義への積極的関与である。そしてこの関与は、愛することであるがゆえに対話的である。愛は勇者の行為である以上、感傷的であろうはずがない。自由の行為である以上、愛は大衆操作の口実に役立つのではなく、他の自由の行為を生み出さなければならない。そうでなければ、それは愛ではない。抑圧状況の一掃によってのみ、その状況によって禁じられた愛を取り戻すことができるのである。もし私が世界を、生命を、そして人間を愛さなければ、私は対話に加わることができない。

△ フレイレにとって愛は対話と同義です。対話は愛の交換(交流)です。

また対話は、謙譲を欠いても存在しえない。人間は世界の命名によってたえず世界をつくりかえるのであるが、その命名行為は傲慢な行為であるはずはない。学び行動するという共同の課題に取り組む人間の出会いとしての対話は、対話の当事者たち(もしくはそのなかの一人)に謙譲が欠けたそのときに、破棄されるのである。もし私が他者をつねに無知と決めつけ、おのれの無知には気づかずにいるとしたら、どうして対話に加わることができようか。もし私が自分を特別扱いにして他者をたんなるそれら its としかみなさず、かれらのなかに別の Is を認めないとしたら、どうして対話に加わることができようか。もし私が、自分こそはまことの人間集団の一員にして真理と学識の所有者、自分以外の者はすべてこいつら these peopleなんとも下劣なやつら the great unwashed でしかないと考えるならば、どうして対話に加わることができようか。もし私が、世界の命名はエリートの仕事であり、歴史の舞台への民衆の登場は回避さるべき退歩の兆候であるとの前提から出発するならば、どうして対話を行うことができようか。また私が他者の力添えにたいして心を閉ざし、あまつさえそれを腹立たしく感ずるとすれば、あるいは自分がとってかわられることを恐れて弱腰になるとすれば、どうして対話などありえようか。

△ この「もし・・・、もし・・・」とたたみ掛ける論法は、パウロの「愛の賛歌」(Tコリント13:1−14:1a)の冒頭部分を思わせます。もし教会から自立したキリスト者がいるとしたら、それはフレイレのような人を指すでしょう。なお、フレイレの「命名」とは、概念化(conceptualization)のことであると言ってもよいでしょう。意識化とは概念化であり、そのものを「名指す」ことができるということです。命名は名指し(naming)です。なお、このことに関しては、「基礎訓練の大切さ」を参照して下さい。

自己満足は対話と両立しない。謙譲を欠いている(もしくは喪失してしまった)人間は、民衆のもとを訪れることができないし、世界の命名にさいしてかれらの協力者となることもできない。己れをほかのだれもがそうであるように、死すべき者として認めることのできない者は、出会いの場からまだ遠く隔った地点にいる。出会いの場には、まったくの無学者も、完全無欠な聖人もいない。ただ、現在知っていることよりも多くの事柄を、ともに学ぼうと努めている人間たちがいるだけである。

△ 学ぶとは共に学ぶことである(共学)と言われています。

対話にはさらに、人間にたいする力強い信頼が必要である。つくり、つくりかえ、創造し創造しなおす人間の能力にたいする信頼。より豊かな人間になるというかれの使命(それはエリートの特権ではなく、すべての人間が生まれながらにしてもつ権利である)に対する信頼。人間にたいする信頼は、対話にとっての先験的な必要条件である。対話的人間は、たとえ面識がなくとも他者を信ずることができる。

△ 信頼を裏切ることが人間の社会の現実であるとしても、その社会ですら信頼がなければ成り立って行かないということも、もう一方の真実です。他者への不信(猜疑)と権力に対する恐怖(崇拝という名の恐怖)を煽る社会は、どこか間違っています。そのような社会は、いつかは崩壊します。フレイレの革命的楽天主義は人間に対する信頼に根ざしています。しかし先験的必要条件とは、「信頼せよ」という命法であって、それがそのまま、この社会の現実なのではありません。そこに信と不信の弁証法があります。革命的教師は、いわば、信頼に値する社会に向って「フィードフォワード」するのであって、現実がそのまま信頼できると保証するわけではありません。その根底にある信のことを、普通、人は信仰と呼んでいます。そして信仰は未来への希望を伴います。

しかしかれの信頼は底の浅いものではない。対話的人間は批判的であり、人間には変革力が備わっていることを知ってはいるが、具体的疎外状況のなかではそれが十分発揮できるとはかぎらないことも心得ている。にもかかわらずこの可能性は、人間にたいするかれの信頼を打ち砕くどころか、自分が応じなければならない挑戦としてかれをとらえる。創造力と変革力は、たとえそれらが具体的状況のなかで挫かれようとも、かならず再生するという確信がかれにはある。そしてその再生は、無償にではなく、奴隷労働が、解放闘争のなかで、またそれをとおして、生活に潤いを与える解放された労働にとってかわられるときに行われるのである。この人間への信頼がなければ、対話が温情主義的大衆操作へと退化する茶番劇になるのは避けられない。

△ 「無償にではなく」ということは、創造力と変革力は、「解放闘争のなかで」、闘いによって再生されるという意味でしょう。

愛と謙譲と信頼に根ざすとき、対話は対等の関係になり、その論理的帰結として参加者相互の信用が生まれる。対話――愛と謙譲と信頼に満ちたもの――が相互信用の空気を生まず、そこに参加する人びとを世界の命名のなかでいっそう親密な協同関係に導かないとすれば、それは言葉の矛盾であろう。逆にそのような信用は、銀行型教育の方法である反‐対話のなかにはまったく存在しない。人間に対する信頼は対話のための先験的要件であるが、信用の方は対話によって確立されるのである。だからもし信用が生まれなければ、その前提条件が欠けているとみてよい。偽りの愛、偽りの謙譲、人間にたいする浅薄な信頼からは、信用は築かれない。信用が生まれるか否かは、当人が他者に示す目的が、どれほど確かで具体的な裏づけを持っているかにかかっている。つまりそれは、当人の言葉が行動と一致しないかぎり、存在しえないのである。言うことと行うことが別であったり、自分の言葉をいい加減に扱っていたのでは、信用に水を差すことになる。民主主義を賛えながら民衆を黙らせるのは茶番であり、ヒューマニズムについて論じながら人間を否定するのは虚偽である。

△ この段落の初めの文を、愛と謙遜と「信仰」に根ざすとき、対話は対等の関係になり、その論理的帰結として参加者相互の「信頼」が生まれる、と言い換えれば、それは教会という宗教的共同体の言説となるでしょう。しかしフレイレは、人間に対する信頼を対話のための「先験的」要件としています。そして、対話によって確立されるものを「信用」であるとしています。この信用は、従って、対話のための「経験的」要件としての「信頼」であるとしてもよいでしょう。「信頼」には先験的要件としての信頼と経験的要件としての信頼(信用)がある、ということになります。この経験的要件としての信頼を築くことは、我が身を振り返って考えてみても、そんなに簡単なことではありません。言うはやすく、行なうは難しであって、言行一致を貫くのは至難のわざです。

さらにまた、対話は希望がなければ存在しえない。希望は、人間が未完成であるからこそ生まれるのである。そこから人間は、たえまない探求、すなわち他者との親交においてのみ遂行しうる探求へと出立する。希望の喪失は、一種の沈黙、世界の否定、世界からの逃避である。不正な秩序の産物たる非人間化は、絶望ではなく希望にとっての根拠である。不正によって否定された人間性のあくなき追求が、そこから始まる。しかし希望は、腕をこまねいて待つことのなかにあるのではない。闘うかぎりにおいて、私は希望につき動かされる。そして希望を持って闘うならば、私は待つことができる。対話は、より豊かな人間になろうと努める人びとの出会いであるから、希望を喪失した雰囲気のなかでは続けることができない。参加者たちが自らの努力から生じるものを一切期待しないとすれば、かれらの出会いはむなしくて不毛な、官僚的で退屈なものとなろう。

△ ここでも親交(communion)という宗教的用語(キリスト教では聖餐式のこと)が、世俗的な文脈で使われています。そして対話(親交)は、希望を抱く人々の出会いであるとされています。なお、ここで「希望は、人間が未完成であるからこそ生まれるのである」とされているのは、興味深い指摘です。未完成であるということは絶望ではなく、希望の根拠であり、そこから人々の探求が始まるという積極的な姿勢が示されています。

最後に、真の対話は、批判的思考を含まないかぎり存在しえない。その思考は、世界と人間との不可分の結びつきを認め、その二分化を許さない思考である。現実を動かないものとしてではなく、過程や変容としてとらえる思考である。行動と切り離されず、危険を恐れることなく、たえず時間性 temporality のなかに没頭する思考である。

△ 過程や変容のうちにあるものとして現実に批判的に関わる思考は、行動において鍛えられます。批判的思考は「時務」(三木清)に関わる思考です。世界の現実から遊離せず、しかも人間と世界との関わりを「動かないもの」とは見なさない思考です。

批判的思考は閉ざされた naïve 思考と対比される。閉ざされた思考は「歴史的時間を重さとして、過去の獲得物や経験の堆積として」(友人の手紙より)みる。そこから現われる現在は、標準化された秩序整然たる現在でなければならない。閉ざされた思考の持ち主にとって重要なことは、この標準化された今日への順応である。批判的考える者にとって重要なことは、人間をたえまなく変革することである。ピエール・フュルター Pierre Furter はいう。

目標は、もはや、保障された空間にしがみつくことによって現時の危機を除去することではなく、空間を時間化することであろう。私にとって全世界は、ただ順応しうるだけの稠密な存在を押しつける空間としてでなく、私の働きかけに応じて形を成す範囲、領域として現われる。

閉ざされた思考にとっての目標は、この保障された空間にしがみつき、それに順応することにほかならない。こうした時間性の否定によって、閉ざされた思考はその思考自体をも同時に否定するのである。

△ ナイーヴな(素朴な)思考とは、教科書の歴史記述をその通りに信ずるような思考のことを言うのでしょう。そこには「保障された空間」が広がっており、その結果として、順応すべき「今日」が与えられています。しかしそれは考えることの放棄、思考の否定であると、フレイレは言います。

批判的思考を要求する対話だけが、同時に批判的思考を生み出すことができる。対話がなければ交流はなく、交流がなければ真の教育もありえない。教師と生徒の矛盾を解決しうる教育は、両者の認識行為が、かれらの媒介対象に向けられる状況において行われる。こうして、自由を実行する教育の対話的性格は、教師=生徒が教育学的状況のなかで生徒=教師と出合うときに始まるのではなく、前者が何について後者と対話しようかと、最初に自問するときに始まるのである。そしてこの対話の内容の問題こそが、教育プログラムの内容の問題にほかならない。

△ 何について教えるかということが、権威によって予め定められていないということが、「自由の実践」としての対話的教育の特質です。しかもそれは「教える」内容ではなく、対話の内容であるとされています。それは当局(権威)が、最も嫌う教育の方法であると言ってよいでしょう。しかし当局が欲する銀行型教育によって保障される「学力」とは、一体何を意味しているのでしょうか。

三 教育プログラム編成の基礎としての対話

反対話的銀行型教育者にとって内容の問題は、生徒に講ずべきプログラムの問題にすぎない。つまりかれは自分のプログラムを組み立てることによって、自分の問いに解答を与えるのである。対話的な課題提起型の教師=生徒にとって、教育プログラムの内容は、贈物でも強制されたものでもなく、生徒に預けられるわずかな情報でもない。それは、かれらがさらに知りたいと思っている事柄を、組織だて、系統づけ、発展させて、諸個人に再提出したものである(*)。

* マルロー Malraux(一九〇一〜一九七六)との長い対談のなかで毛沢東は次のように断言した。「ご存知のように私は長い間ずっと次のように公言してきました。つまり、われわれは、大衆から支離滅裂なまま受けとったものを、明瞭な形にしてかれらに教えなければならないと」(『アンチメモワール』一九六七年 パリ)。この言葉のなかには教育のプログラム内容の組み立て方にかんするこの上なく対話的な理論が含まれている。プログラム内容は、教育者その生徒にとって最善であると考えるところにしたがって考案されうるものではないのである。

△ 課題提起教育(問題提起型教育)は、問題を共有し(problem-sharing)、問題を提起し(problem-posing)、問題を解決する(problem-solving)プロセスです。問題は、先ず教育者によって考案されるようなものではなく、既に「大衆」が重く抱え込んでいるもののことを言います。「教育者(革命家)」はそれを大衆と共有し、「明瞭な形にして」、大衆に投げ返し(問題を提起し)ます。それは、意識化、概念化(命名)のプロセスでもあります。しかし解決の方向が、既定の路線として、大衆の頭ごなしに与えられているわけではありません。従来の革命理論の問題はそこにあったと言うべきでしょう。

真実の教育はBのためにAによって行われたり、BについてAによって行われたりするものではない。それは世界、つまり両者に感銘を与えたり挑みかかったりして、それについての見解や意見を生ぜしめる世界に媒介されて、BとともにAによって行われる。不安や疑惑、希望や絶望にみちたこれらの見解のなかに、教育プログラムの内容を組み立てるときの基礎となる重要なテーマが含まれている。素朴に理解されたヒューマニズムは、立派な人間の理想像をつくりたいという願いにかられて、現実の人間の具体的、実存的、現在的状況を見落とすことがままある。ピエール・フュルターの言葉を借りれば、真のヒューマニズムは「私たちの全き人間性の自覚の発生を、条件および義務として、状況および企図として認めることにある」。私たちは、銀行型の流儀で労働者――都市労働者であれ農民であれ(*)――を訪ねて、かれらに知識を与えたり、私たち自身が編成したプログラム内容に含まれる立派な人間のモデルを押しつけたりすることはけっしてできない。

* 通常、植民地状況のなかに埋没している農民は、ほとんどへその緒のように自然界と結ばれており、それとの関係においてかれらは自分を形成者 shapers としてではなく、構成要素であると思っている。

△ 「全き人間性」という理念も、西洋的であり、かつ神学的であると言えます。しかしそれは上から与えられるものではなく、その自覚の発生は、人間の条件および義務として、状況および企図として認識されるべきものであるとされます。理念的に提示されるものも、それが誰によってどこから何のために発せられる言葉であるのかを吟味すべきでしょう。もしそれが宗教的理念であれば、その射程は「修養(修行)」の範囲のものであり、世界の変革という主題に対しては限定的な意味しか持たないものとなるでしょう。

多くの政治・教育計画が失敗してきたのは、立案者が自分の個人的な現実観にしたがってそれらを企画し、明らかにそのプログラムが対象にしているところのある状況のなかにいる人間を(それらの行動のたんなる客体としてはともかくも)、いまだかって考慮に入れたことがないからである。

△ 「期待される人間像」と名づけられようと、「プロレタリア的人間像」とうたわれようと、具体的な状況の中にいる人間を考慮に入れたものでなければ、その教育計画は失敗に終わるということでしょう。政治計画や教育計画が現実の人間を考慮せず、理念や権力者の意図が先行するものであれば、それは所詮頓挫することになります。たとえ、ある種の現実を反映しているとしても、それは世界観の一方的な押しつけに過ぎません。

真のヒューマニストである教育者と本物の革命家にとって、行動の対象は自分たちが他者とともに変革すべき現実であって、他者そのものではない。抑圧者とは、人間を教化し、変えられては困る現実に人間を順応させるために、かれらに働きかける者のことである。しかし残念なことに、革命行動に対する民衆の支持をえようとして、革命指導者が、銀行方式によるプログラム内容の立案に、すっかり魅せられてしまうことも少なくない。かれらは自分の世界観に一致はするが、民衆のそれとは無縁のプロジェクトを携えて、農民や都市大衆に接近する(*)。

* 「文化活動家は人民のために奉仕する高度の熱意をもち、大衆に結びつくべきであり、大衆から遊離してはならない。大衆に結びつくには、大衆の必要と自発的意志にしたがわなければならない。大衆のためのすべての活動は大衆の必要から出発すべきであり、たとえ善意ではあっても、個人的願望からは出発すべきではない。多くのばあい、大衆は、客観的には、ある種の改革を必要としているが、かれらの主観においては、なお、そのような自覚がないのであり、大衆が、なお決意をくださず、なお改革を望まないかぎり、われわれは辛抱強くまたなければならず、われわれの活動を通じて、大衆の多数が自覚をもち、決意をくだし、自ら改革の実行を望むようになるのをまって、その改革をおこなわなければならない。さもなければ、大衆から遊離することになるであろう。……ここに二つの原則がある。その一つは大衆の実際の必要ということであって、われわれの幻想から生まれた必要ではない。他の一つは大衆の自発的意志ということであり、大衆自身が決意することであって、われわれが大衆にかわって、決意をくだすことではない」(毛沢東選集第三巻「文化運動における統一戦線」より。邦訳、三一書房第七巻所収)。

△ 今日、権力者は「マスコミ」を手中にしています。「大衆」の意識はマスコミによって左右されがちです。それがどんなに威力を発揮するかは我々が目の当たりにしていることです。そのような状況で、大衆から遊離しない「文化活動家」のあり方とは一体どういうものでありうるでしょうか。どこが活動の場なのでしょうか。

かれらは、自らの基本目標が、民衆の奪われた人間性を回復するために、民衆とともに闘うことにあって、かれらの側に民衆を抱きこむことにあるのではない、ということを忘れている。民衆を抱きこむという用語は革命指導者の語彙(ごい)にはない。それは抑圧者のものである。革命家の任務は、民衆とともに、解放し解放されることであって、かれらを抱きこむことではない。

△ 運動は「エンクロージャー・ムーブメント」になりがちです。「囲い込み運動」としてできるだけ多くの人員を自らの陣営に取り込む(抱きこむ)ことが、その目標となりがちです。しかしそこからは民衆の自発性や創意が奪われる傾向があります。

支配者としてのエリートは、その政治活動のなかで銀行型概念を用いて被抑圧者の受動性を助長する。この受動性は、被抑圧者の意識の埋没状態と一致している。支配者としてのエリートはそこにつけこんで、自由への恐怖をいっそうかりたてるスローガンでもって、かれらの意識を埋めつくすのである。これを行うことは、真に解放的な行動の筋道とは相容れない。解放行動とは、抑圧者のスローガンを課題として提示することによって、被抑圧者がそのスローガンを自己の内から放逐するのを助けることだからである。要するにヒューマニストの課題は、あれこれの集団のスローガンを宿している被抑圧者を実験台にして、自分たちのスローガンを抑圧者のそれと闘わせることなどではまったくないのだ。反対に、抑圧者を内に宿している二重の存在でいるかぎり、けっして本当の人間になることはできないと、被抑圧者が自覚するようになる、これを理解することこそヒューマニストの課題なのである。

△ 自分の中に「抑圧者のスローガン」がどれだけ深く埋め込まれているかに気づくことが、「本当の人間」になろうとする「ヒューマニスト」の第一の課題であると言ってもよいでしょう。自己批判が伴わないで他者を「導く」ことなどできません。

この課題は次のことを意味する。すなわち革命指導者が民衆を訪ねるのは、救いのメッセージをもたらすためではない。それは民衆との対話をとおして、かれらがおかれている客観的状況とそれについてのかれらの自覚、つまり自分と世界、自分がそのなかで、それとともに存在するところの世界についてのさまざまな知覚の水準に精通するようになるためである。民衆が抱く独自の世界観に重きをおかない教育的政治的行動プログラムから、積極的効果は期待できない。そのようなプログラムは、たとえ善意から生まれたものにせよ、文化侵略となる(この点については第四章で詳細に分析する)。

△ 上から与えられる「救いのメッセージ」に、人間が解放される根拠があるのではないと言い切ることは、それ自体「革命的」です。宗教指導者や革命指導者などの言うことに解放の根拠はない、しかし民衆自身の自覚のうちに解放のプロセスを見出すべきであるという主張は、今日なお新しいと言うべきでしょう。なお「自分と世界、自分がそのなかで、それとともに存在するところの世界についてのさまざまな知覚の水準に精通するようになるため」と指摘されていることは大切です。それこそは教育の目標だからです。次の節では「生成テーマとその教育プログラム内容」が論じられます。


W 被抑圧者の教育学 その4

四 生成テーマとその教育プログラム内容

教育的政治的行動プログラムの内容を編成するためには、民衆の願望を反映している現在の生きた具体的状況から出発しなければならない。私たちは一定の基本矛盾を利用しながら、この生きた具体的な現在の状況を、たんに知的水準においてだけでなく、行動の水準においても、民衆に挑み、回答を迫る課題として、かれらに提起しなければならない(*)。

* 真のヒューマニストが銀行型の方法を用いることは、右翼が課題提起の教育に取り組むのと同じように自己矛盾である(右翼は終始一貫しており、けっして課題提起の教育を用いることがない)。

△ 右翼、あるいは保守の教育スタイルが銀行型であるということは、ある特定の信条を金科玉条のものとし、その権威に従うことに最大の意義を見出しているからです。だからそれを「教え込む」以外の教育方法を知りません。

私たちは、現在の状況についてただ講ずるだけであってはならず、民衆自身の頭を占めている問題、疑問、希望、不安と、ほとんどないしはまったく無縁のプログラム――抑圧されている意識の不安を現実につのらせることさえあるプログラム――を民衆に提供してはならない。私たちの役割は、私たち自身の世界観を民衆に語ることでも、おしつけることでもない。民衆の見解や私たちの見解について民衆と対話すること、それが役割である。さまざまな行動のなかで表現されるかれらの世界観は、世界におけるかれらの状況を反映しているということを理解しなければならない。この状況を批判的に自覚していない教育的政治的行動は、情報の注入 banking か荒野の説教か、どちらかの危険を冒す。

△ 「保守的な左翼」という矛盾したあり方が実際にありうるということは、現に我々が目にしているところです。「大義」が先行して、民衆の状況に根ざしていないのであれば、その大義は「権威」と化し、民衆操作(プロパガンダ)の口実となります。

教育者と政治家が話をしても理解されないことが多いのは、かれらの言葉使いが、聞き手の具体的状況に波長を合わせていないからである。したがってかれらの話は、疎外され、かつ疎外するたんなる巧言にすぎない。教育者ないし政治家の言語(政治家が、言葉のもっとも広い意味で、同時に教育者たらねばならぬということは実は明白だと思われる)は、民衆の言語と同様、思考なしには存在できない。そして言語も思考も、それらがかかわるあるひとつの構造なしには存在しえない。効果的に交流するためには、教育者と政治家は、その構造的諸条件を理解しなければならない。民衆の思考と言語は、そのなかで弁証法的に形づくられるからである。

△ 政治も教育もコミュニケーションの実践であるという点で、同じ根から生じてきます。だから、政治家は同時に教育者であると言えます。そしてコミュニケーション(交流)が効果的であるためには、言語と思考の「構造的諸条件」を知らなければならないと言われます。言語の構造とは通例、文法のことですが、フレイレはもっと広い意味で考えているようです。言語と思考が「関わる構造」と言われているからです。

私たちは、人間を媒介する現実と、その現実について教育者と民衆が抱く意識にこそ、教育プログラムの内容を求めなければならない。民衆のテーマ世界(*) thematic universe――かれらの生成テーマ generative themesの複合体――と私がよんできたものの探究によって、自由の実践としての教育の、対話の幕は切っておとされる。

* 意味のあるテーマ meaningful thematics という表現も同じ意味内容で用いられている。

△ 人間を媒介する現実についての「意識」に、教育プログラムの内容があるということが、先ず指摘されます。そしてそれはテーマ世界の探求となるであろうと予告されます。ここにある生成テーマ generative themes という概念に、私は特に興味を持ちます。なお「meaningful thematics」は「有意的主題論」とすることもできるでしょう。テーマ学というべき実践的学問がそこから生まれてきます。

その探究の方法もまた対話的でなければならない。つまり生成テーマを発見すると同時に、このテーマについての民衆の自覚をうながす機会を与える方法でなければならないのである。対話的教育の目的が解放にある以上、探究の対象は(人間がまるで解剖学的断片であるかのように)人間であるはずはない。対象は、人間が現実に言及するために用いる思考―言語、かれらがその現実を知覚する水準、生成テーマの源泉であるかれらの世界観である。

△ 民衆の世界観(宗教、風俗、思考様式など)は生成テーマの源泉であると言われています。人間が「生きている状態」、その現実を知覚する水準は、解剖学的な分析の目からは捨象されています。そしてそこでは「解放」が主題となることはありません。

生成テーマについてのさらに精確な叙述(それによって最小のテーマ世界 minimum thematic universe の意味するところも明らかになろう)のまえに二、三の予備的な考察を行っておくことが不可欠だと思われる。

生成テーマという概念は、勝手な思いつきでもなければ、証明されるべき作業仮説でもない。もしそれが証明されるべき仮説なら、最初になされるべき探究は、テーマの性質を問うことではなく、テーマ自体の存否そのものを問うことであろう。そのばあい、私たちは、テーマをその豊かさ、意義、多様性、変転(私の『自由のための文化行動』を参照されたい)およびその歴史的構図において理解しようとするまえに、まずそれが客観的事実であるか否かを実証しなければならないであろう。そしてそののちに、ようやく私たちはその把握に歩を進めることができるであろう。批判的懐疑の姿勢は正当であるとはいえ、生成テーマの実在性は、自分自身の日常の生活経験をとおしてばかりでなく、人間―世界の関係とそこに含まれる人間と人間との諸関係の批判的考察によっても証明することが可能だと思われる。

△ 生成テーマということの実在性について著者は確信を持っています。だからその概念は、単なる思いつきでもなければ、証明されるべき作業仮説でもないと言います。しかしそれは確信に裏づけられた「作業仮説」であると言うこともできるでしょう。著者の長年の実践と省察によって獲得された一個の洞察であるとも言えます。それが何であるかは、以下の叙述を通して次第に明らかになっていくでしょう。

この点はもっと注目してしかるべきところである。完全ではない存在物のなかで、唯一人間だけは、自分の行動だけでなく、自己それ自体をも省察の対象とすることができる。このことは、いいふるされていると思われるので、たぶんご存じだろう。人間はこの能力において動物と一線を画している。動物はその活動から自己を切り離すことができず、それゆえに自己省察ができない。この一見表面的な区別のうちに、その生活空間内のそれぞれの行動を限界づける境界線が横たわっている。動物の活動は自己の延長であるから、その活動の結果もまた自己と切り離すことができない。動物は目標を設定することもできず、自然の変革にそれ以上のいかなる意義を与えることもできない。さらにこの活動を遂行するか否かの決定権は、かれらにではなく、その種に属している。したがって動物は、基本的に自らのなかに閉ざされた存在である。

△ 生成テーマについて論じるに当たり、フレイレは先ず、人間と動物との違いについての考察に取り掛かります。人間と動物との違いについて私は「野蛮な文明」で取り上げたことがあります。人間の基本的な特徴として、@直立二足歩行、A道具(→機械)を使う、B言葉(→記号)を使う、C火(→自然のエネルギー)を利用するということがあります。このうちフレイレが着目しているのはBの「言葉を使う」ということです。人間が自分を省察の対象とすることができるのは、言葉を話す存在だからです。意識と言語とが、どのような関係にあるのか、まだ十分に解明されていないと言うべきですが、「意識化」とは、人間の場合、「言語化」であるという側面があるのを否定することはできません。動物にも意識や感情はあるでしょうが、それを言葉で表現することはできません。

動物は自分の力で決定することも、自分自身やその活動を対象化することもできない。自分で設定した目標ももたない。何の意味も与えることのできない世界のなかに埋没して生きている。今日と明日を欠き、重くのしかかる現在に身をゆだねている。したがって動物は非歴史的である。その非歴史的生活は、言葉の厳密な意味において、世界のなかで生ずるのではない。動物にとって世界は、自分 I としてひき離しうる非我 not-I とはならない。歴史性をもった人間世界は、自らのなかに閉ざされた存在にとって、たんなる環境でしかない。動物は、自分のまえに立ちふさがる外形から挑戦を迫られることはない。かれらはただ刺激を受けるだけである。かれらの生活は、危険を冒すといった類のものではない。なぜならかれらは危険を冒すということを自覚していないのだから。危険は省察によって認識される挑戦ではなく、危険を知らせるサインによって気づかれるにすぎない。したがってかれらには意志決定にもとづく応答の必要がない。

△ 人間の言語も初めは「危険を知らせる」、あるいは獲物の存在を知らせ、仲間を集めるなどの「サイン」だったと思われます。ここで言われている「気づき」は言語化されない(原初的)意識化ということでしょう。しかし言語が環境から分離し、それ自体の意味によって形成されるようになると、人間にとっての「世界」が立ち現われてきます。世界は歴史として物語られ、意味づけられるようになります。そして人間は意思決定しなければ生きていけない複雑な環境(社会)をつくり上げます。それは、人間が生存の闘いで動物より優勢であるということを示しますが、価値的に動物に優っているということではないでしょう。戦争や環境破壊などの現実を見れば、誰が人間であることを誇れるでしょうか。フレイレには「ヒューマニスト」の限界があるようにも見えます。

その結果として動物は、自己を主体的に表明することができない。かれらの非歴史的条件は、かれらに生活と対峙することを許さない。対峙しない以上、かれらは生活を築きあげることができない。またかれらは、自分が生活によってそこなわれることを知ることもできない。その環境 prop(▽) としての世界を、文化と歴史を含む意味と象徴の世界へ拡げることができないからである。けっきょく動物は、自らを動物化するためにかれらを取りまく外形を動物化することはなく、またかれら自身を非動物化する de-animalize することもない。動物は森にいるときでさえ、動物園にいるときと同じように、動物らしく自らのなかに閉ざされた存在にとどまっている。

△ propは文字通りには「支えるもの」という意味です。世界は生活を支えるものであると同時に、その生活が損なわれる場でもあります。人間は、動物とは違い「文化と歴史を含む意味と象徴の世界」に住むために、人間化と非人間化とがせめぎ合う不安定で危険な、開かれた世界に棲息していると言うことができるでしょう。よく言われるように、人間は天使になることもできれば、悪魔になることもできます。

これとは対照的に、人間は自分の活動と自分の位置する世界を自覚している。かれらは自分の設定した目標にしたがって行動し、自分のなかに、また世界および他者との関係のなかに決定の軸をすえる。そして自分たちがもたらす変革によって、その創造的な存在を世界に浸透させるのである。動物とは違い、かれらは生きるだけでなく、存在するのである(*)。

* 英語では、生きる live という用語と存在する exist という用語は、語源とは反対の意味をもつようになった。ここで使われているように、生きるの方はより基礎的な用語であって、ただ生き延びることだけを意味し、存在するの方は、転成する becoming 過程のなかにより深くかかわることを意味している。

△ 通例は「ただある」という意味でexistが、「より深くかかわる」という意味で live が使われているのに対して、フレイレは逆の言い方をしているということでしょう。人間の「ある―もつ」世界に、「なす―なる」という「転成」の意義が加わるとき、「実存する」という企投的冒険的な生き方が生じてくると言い換えることもできるでしょう。

かれらの存在は歴史的である。動物は、時間のない平板で画一的な環境の上に、自らの生をまっとうする。人間は、自らがたえずつくりかえ、変革しつつある世界のなかに存在する。動物にとってこことは、かれらが接する棲息区域にすぎない。人間にとってこことは、単なる物理的空間のみならず、歴史的空間をも意味する。

△ 人間にとっての「ここ」とは、多様に意味づけられる場所であるのに対して、動物にとっての「ここ」は、彼らの生命活動の場所(環境)に過ぎないということは確かにその通りです。人間の居場所は多義的に規定することができます。

厳密にいって動物には、ここそこ明日昨日は存在しない。かれらの生活が自己意識を欠いており、全面的に決定づけられているからである。動物は、ここそこが定める限界をこえることはできない。

△ 人間にとってもここや、そこや、今の限界は存在しています。それは人間にとっても生の基本的な条件です。しかし動物に比べてその範囲は飛躍的に拡大しています。人間の活動範囲は今や地球規模に拡大しています。

しかしながら人間は、自分自身を、したがって世界を自覚しているので、つまりかれらは意識的存在であるので、限界による決定と自らの自由との弁証法的関係のなかに生きている。人間は、自己を世界から切り離して対象化し、自分の活動からも自己を切り離す。そして自分自身のなかに、また自分と世界、自分と他者との関係のなかに、自らの決定軸をすえる。このことによってかれらは、自らを限界づける状況―「限界状況」limit-situationを克服する(*)。

* アルヴァロ・ヴィエイラ・ピント教授は、ヤスパースに見られる元来悲観的な側面をぬぐい去った概念を用いて、「限界状況」の問題を明快に分析している。ヴィエイラ・ピントにとって「限界状況」は、「可能性がなくなってしまう通過不能の境界ではなく、あらゆる可能性がそこから始まるところの現実的境界」である。それは「存在と無を分離する境ではなく、存在とより人間的な存在とを分離する境である。」

△ 人間は、宿命論的に思惟された限界状況(生老病死、根源悪など)を、根本的に克服することはできないでしょう。しかし存在を、より人間的な存在にしていくという意味で、目の前にある限界を乗り越えようとすることはできます。

この限界状況がひとたび解放の足枷や障害として理解されると、それらは背景からくっきり浮き彫りになり、所与の現実の具体的歴史的局面として、その真の本質が明らかになる。人間は与えられたものを受動的に受け入れるのではなく、否定し圧倒することに向かう行動によって挑戦に応じるのである。これをヴィエイラ・ピントは「限界行為」limit-actsとよんでいる。

△ ピント教授の言う意味での「限界状況」における「限界行為」とは、たとえば、東京都教育委員会として立ちはだかる「教育の壁」という挑戦に応じ、教育を、より人間的な教育にしていく行為である、ということを意味するでしょう。

したがって絶望の雰囲気は、限界状況そのものからひとりでに生み出されるのではなく、所与の歴史的時点で、それが足枷として現われようが、克服し難い障害として現われようが、その限界状況を人間が認めるしかたから生まれるのである。批判的認識が行動のなかに体現されるとき、希望と自信の雰囲気が広がり、それが人間を励まして、限界状況を克服するこころみに向かわせる。この目標は、限界状況が歴史的に見い出されるところの、具体的歴史的現実にたいする行動をとおしてのみ達成できる。現実が変革され、これらの状況が廃棄されるそのとき、新しい状況が現われて、それがさらに新しい限界行為を喚起するだろう。

△ 変革は一度なされたらそれで終わりになるのではないという指摘は重要です。しかし今日教育界に広がっているのは、「希望と自信の雰囲気」ではなく、ペシミズムの雰囲気ではないでしょうか。それは我々が状況に押し流されているためでしょう。先日、ある定期刊行物に(大学における)「ペシミズムの組織化」という言葉を見出しました。その言葉は、一体、何を意味するのでしょうか。

動物の環境としての世界は、その非歴史的性格ゆえに、限界状況を含まない。また動物は、限界行為を行う能力を欠いている。それを行うには、世界に対する決定の態度、つまり世界を変革するために行われる世界からの分離とその対象化が要求されるからである。動物は有機的に環境に縛りつけられているため、自分自身世界と区別することがない。したがって動物は、歴史的な限界状況によってではなく、環境によって全面的に限界づけられている。そこで動物にふさわしい役割といえば、環境に関係することではなく(そのばあいには環境は世界となるだろうから)、それに順応することである。このように鳥や蜜蜂や獣が巣をつくるとき、かれらは限界行為すなわち変革的応答から生まれる生産物を創造しているのではない。かれらの生産活動は、挑戦を迫るというより、たんなる刺激にすぎない物質的欲求の充足に従属しているのである。「動物の生産物は直接その物質的身体に属するが、他方、人間は自分の生産物にたいし自由に立ち向かう」と、マルクスは一八四四年の草稿(『経済学哲学草稿』)のなかで述べている。

△ 「世界を変革するために行われる世界からの分離とその対象化が要求される」という箇所は重要です。世界に埋没しているだけの状態からは、世界を変革するという、世界に対する決定の態度(決断)は生まれてきません。

生物の活動の所産であって、その刻印を受けてはいるが物質的身体には属さない生産物だけが、状況に意味の次元を与えることができる。この状況はこうして世界となる。このような生産の可能な生物は、必然的に自分自身を自覚する自分自身のための存在であり、自分の関係する世界のなかに介在することなしには、けっして生きることができない。まさにこの生物が存在しなければ世界も存在しないのと同様である。

△ 「まさにこの生物が存在しなければ世界も存在しない」と言われます。この生物、人間が、この地上に出現したことによって、世界は「世界」として初めて対象化されることになりました。「状況に意味の次元を与える」ことができるのは、言葉によります。言葉がなければ、「自覚」も生まれては来ないでしょう。

行動が限界行為とはならないために、自分自身から分離したものとしての生産物を創造できない動物と、世界にたいする行動をとおして文化と歴史の領域を創造する人間との相違は、人間だけが実践的存在だ、という点にある。実践的に生きるのは人間だけである。実践は、真に現実を変革する省察と行動として、知識と創造の源泉である。実践をともなわない動物の活動は創造的ではない。人間の変革活動は創造的である。

△ この地上の生物の中で人間だけが実践的、創造的です。世界は人間によって変革されます。人間の行動は「限界行為」であり、変革活動です。

人間は、まさに変革的創造的存在として、現実との永続的関係のなかで、手に触れることのできる物質的商品だけでなく、社会制度、観念、概念をも生産する(*)。

* この点についてはカレル・コシーク Karel Kosik 著『具体的なものの弁証法』(花崎皋平訳、せりか書房、一九七七年)を参照。

△ 人間は「知的生産」に携わることができます。人間の際立った特徴がそこにあります。だからこそ教育が人間にとって不可欠のものとなります。

同時に人間は、たえまない実践をとおして、歴史をつくり、歴史的社会的存在となる。人間は、動物とは対照的に、時間を過去、現在、未来に三次元化することができるので、その歴史は、かれら自身の創造物の刻印をうけながら、諸時代が画される連続的な変革過程として発展する。これらの諸時代は、人間をそのなかに封じ込める閉ざされた期間、静的区画ではない。もしそうであれば、歴史の根本条件、すなわち連続性は失われてしまうだろう。逆に、諸時代は、歴史的連続性の力学のなかで、相互に連関しあっているのである(*)。

* 歴史の時代の問題についてはハンス・フライヤー Hans Freyer(一八八七〜一九六九、ドイツの社会学者――訳注)の『現代の理論』Theoria de la Epoca Actual(一九五六年)を参照。

△ 歴史は「諸時代が画される連続的な変革過程として発展」します。弥生時代の稲は、今も日本人の食生活を支えています。しかし赤米はコシヒカリではありません。

時代を特徴づけるものは、対立物との弁証法的相互関係のなかで、それを実現しようと競いあう観念、概念、希望、疑問、価値、挑戦の複合体である。完全な人間化を妨げる障害とともに、こうした観念、価値、概念、希望の多くの具体的表現がその時代のテーマを構成する。

△ 時代のテーマは「観念、価値、概念、希望の多くの具体的表現」であり、その複合体であるとされます。

これらのテーマは、対立し正反対でさえある他のテーマを暗黙のうちに含んでいる。それらはまた、実行され成就されるべき課題を指し示している。このように歴史的テーマは、けっして孤立し脈絡のない静的なものではない。それらはつねに、対立物との弁証法的相互作用のなかにある。また、これらのテーマを人間―世界の関係以外の場所に見いだすこともできない。ひとつの時代の相互に作用しあうテーマの複合体が、その時代のテーマ世界を構成する。

△ 人間は「テーマ世界」(thematic universe)のうちに生きているという指摘とともに、フレイレの「生成テーマ」についての論述が始まります。

弁証法的矛盾のなかにあるこのテーマ世界に直面するとき、人間も同じように、相矛盾する態度をとる。つまりある者は構造を維持しようとするし、他の者はそれを変えようとする。現実の表現としてのテーマ間に対立が深まるにつれて、テーマと現実自体が神話化されるようになり、非合理とセクト主義の雰囲気が確立する。こうした雰囲気は、テーマから、そのより深い意義を流し去り、そのすぐれて動的な側面を奪い取るおそれをもっている。このような状況下では、神話を生む非合理自体が基本的テーマになる。それと対立するテーマ、つまり批判的で動的な世界観は、つとめて現実をあばき、神話化の仮面をはがし、人間の課題、すなわち人間解放のための永続的現実変革を完全に実現しようとする。

△ この日本では「建国記念の日」というまさに神話的な制度が制定されており、それを奉祝する行事が行われています。なぜその行事が毎年仰々しく執り行われ、報道されるのか、またそれを批判するグループが対立して集会を持つのか、その対立のなかに、今日の日本が置かれている一つの具体的な状況があります。

つまるところ、テーマ(*)は、限界状況を包摂すると同時に、そのなかに包摂される。そしてテーマの示す課題限界行為を要求する。

* 私はこれらのテーマを生成的 generative と呼んできたが、それはそれらのテーマがどのように把握されようと、またいかなる行動を喚起しようと、それらが再び多くのテーマとして花開くと同時に、その花開いたテーマが成就されるべき新たな課題を要求する、という可能性をはらんでいるからである。

△ 「建国記念の日」あるいは国会議員や閣僚の「靖国」参拝の問題は、この日本の限界状況であり、そしてそれは、その現実に批判的に対峙する人たちの限界行為を要求します。そこに見出されるべきテーマとは何なのでしょうか。なお生成的ということに関しては、「生命、情報、組織、環境」、「生成子の概念がもたらすもの」」、および「神の国は「生成子」である」を参照して下さい。

テーマが限界状況のかげに隠れてはっきりと把握されないばあいには、テーマに対応する課題が、つまり歴史的行動の形で現われる人間の応答が、真にまた批判的に成就されることはありえない。このような状況では、人間は限界状況をのりこえ、そのかなたに状況と矛盾する未検証の可能性があることを発見することはできない。

△ 現在の状況と矛盾する未検証の可能性の発見は真実のテーマ設定によって可能になります。そこにテーマ設定(theming, themination)の重要性があります。

要するに、限界状況は、直接間接にこれらの状況から利益をえている人びとと、それらによって否定され押えつけられている人びとの存在を、同時に含んでいる。否定され押えつけられている人びとが、これらの状況を存在と無との境目としてではなく、存在とより人間的存在との境目として認識するようになると、かれらは、いっそう批判的な行動を、その認識に内在する未検証の可能性を実現する方向へ向け始める。他方、現在の限界状況の利益にあずかる人びとは、未検証の可能性を、絶対に実現させてはならないゆゆしき限界状況とみなして、現状を維持するために行動する。したがって歴史的環境における解放行動は、生成テーマにたいしてだけでなく、テーマの認識のされ方にたいしても合致しなければならない。このことはさらに、意味のある主題 thematics の探究が必要であることを示している。

△ 状況を、存在と無との境目として宿命論的に受け止めるのではなく、存在とより人間的な存在との境目として受け止めることが、人々を「解放行動」へと向かわせます。そのとき、「有意的主題論」としてのテーマ学が重要な役割を果たすことになります。(しかし権力者は、いつの時代にも、状況を存在と無との境目として、すなわちゆゆしい限界状況として受け入れることを、人々に要求します。「お国のために死ぬ」覚悟が求められ、逆に国家に反逆する者は死を以て罰せられるということが、「見せしめ」として強行されます。戦争状態は、従って、政治的支配が究極的に行き着く先です。)

生成テーマは、普遍から特殊へと同心円上に位置づけることができる。時代を画するもっとも広範な単位には、普遍的な性格を有するテーマが含まれている。そしてそのテーマは、大陸的、地域的、国家的等、さまざまなはばをもつ単位をつらぬいている。私は、私たちの時代の基本テーマは支配というテーマだ、と考える。このことは、達成されるべき目標がその対立テーマである解放にほかならないことを意味している。この苦悩にみちたテーマ設定 themination こそが、私たちの時代に、先に述べた人類学的性格を与えるのである。人間化を達成するには非人間化をもたらす抑圧を排除することが前提となる。そのためには、人間が物に還元されている限界状況をぜひとも克服する必要がある。

△ 文化人類学、哲学的人間学と言われるときの人類学、人間学は、英語ではどちらも、同じ「anthropology」です。ここではテーマ設定には人間学的な性格が与えられるとした方が理解しやすいでしょう。先に、動物との比較で人間の特性が論じられた部分が、その人間学的考察にあたります。「人間が物に還元されている限界状況」を克服すべきであるという考えは、人間の人間らしさ、人間の特性の考察に基づいています。フレイレは、解放というテーマこそが、今の時代の普遍的なテーマであると言います。

比較的小さな円のなかでは、同じ大陸や異なる大陸間の諸社会に特徴的なテーマと限界状況が見い出される。それらの社会は、これらのテーマや限界状況をとおして、歴史的類似性を共有している。たとえば低開発、これは依存関係と切り離しては理解することのできないもので、第三世界の社会に特徴的な限界状況を表わしている。この限界状況が示す課題は、これら客体としての社会と中心社会(*)metropolitan society との矛盾関係を克服することである。この課題が、第三世界にとって未検証の可能性となっているのである。

* 中心部 metropolis と衛星 satellite は、ドイツ生まれの新進経済学者アンドレ・グンダー・フランク Andre Gunder Frank の用語である。かれは、世界資本主義体制を先進資本主義諸国からなるメトロポリスと低開発の第三世界からなるサテライトの二つに分けてとらえ、そこからAALA(▽)地域の構造的依存を説明する。なおかれの用語ではないが、周辺部 periphery もサテライトと同じ意味で一般的に使われている。これらの用語は最近の依存理論の中心的概念として広範に用いられるようになっている。(改行)フレイレの metropolitan society, satellite society, dependent society などの用語は、この依存理論を下敷きにしている。――訳注

△ AALAとは、言うまでもなく、Asia, Africa, Latin Americaを指しています。

時代の単位のはばを比較的大きくとれば、そのなかでは、どの個別社会も全世界的、大陸的、あるいは歴史的に類似したテーマのほかに、それ自体の個別テーマ、それ自体の限界状況を内包している。さらにいっそう小さな円のなかでは、地域や小地域に分割された同一社会内にテーマの多様性が見られる。そしてそれらの地域や小地域は、すべて社会全体と関係をもっている。この多様なテーマが、時代のさまざまな小さな単位を構成する。たとえば私たちはひとつの国家単位の内側に、「同時代的ならざるものの共存」という矛盾を見い出すことができる。

△ この日本の社会は「同時代的ならざるものの共存」という点では、古代の遺制から、現代的なテーマに至るさまざまなものが共存している、極めて特徴的な社会であると言えます。そこに矛盾の深刻さがあると言うべきでしょう。

こうした小さな単位のなかでは、国家的テーマの真の意義が把握されることもあるし、されないこともある。それらのテーマは感じられるだけかもしれないし、感じられないばあいさえある。だが小さな単位内にテーマが存在しないということは、絶対にありえない。ある地域の諸個人が生成テーマを把握しなかったり、その把握のしかたに歪みがあるという事実は、人間がいぜんとして抑圧のなかに埋没しているという限界状況をものがたっているにすぎない。

△ かつて私は、学生運動の中で「問題が問題にならないことが問題だ」と感じたことがあります。フレイレによれば、それは「人間が依然として抑圧の中に埋没しているという限界状況を物語っている」ということになります。

五 生成テーマの探究とその方法

一般に限界状況をまだ総体として把握してはいない被支配者の意識は、副次的現象をとらえるにすぎない。そしてかれは、限界状況に固有の抑制力をその副次的現象のせいにする(*)。

* 農民のそれとは異なるにせよ、中産階級の諸個人もしばしばこの種の行動形態を示す。自由への恐怖が、かれらに根本的なものを覆い隠す防御機制と合理化とを生ぜしめ、偶然性を強調して具体的現実を否定させる。ある問題にぶつかり、その分析をすると限界状況をどうしても認めざるをえなくなるといったばあい、かれらはえてして議論の周辺にとどまり、問題の核心に迫ろうとするこころみをことごとく妨害する。かれらがもっとも重要であると考えてきたものが、実は偶然の産物であり、二義的な事柄でしかないことを基本的命題によって指摘されようものなら、かれらはいっそう困惑してしまう。

△ 限界状況を総体として把握するということは、行動と省察とを通して与えられてくるもので、誰にとってもそんなに簡単なことではありません。しかし米軍基地の騒音の問題を例に取れば、それは日米安保条約の一つの帰結です。ところが問題を騒音などの「被害」に限定して住民運動や訴訟を起こすということが行われています。それはそれで日本政府への必要な訴えであり、賠償や補償などの成果が得られますが、それによって騒音などの問題が解決するわけではありません。日本の国民は長くその状態に甘んじて(埋没して)いて、「外国の軍隊による国防」というレトリックに有効な批判を加えることができないでいます。いつまでその状態が続いていくのでしょうか。騒音や米兵の犯罪などの「副次的現象」(被害)は、アメリカからの日本の独立によってのみ根本的に解決されるものであり、それが達成されない限り、問題はいつまでも続くでしょう。それどころか、状況はさらに深まっていて、日米同盟の名目で、日本がアメリカの戦争に加担するところまで進んでいます。それによって、一体、日本の誰がどのような利益を受けるのでしょうか。兎に角、アメリカが戦後日本の限界状況を「総体として」規定していることは明らかです。それをいかに乗り越えるべきかが、今、問われています。

この事実は、生成テーマの探究にとって非常に重要である。人間が批判的な現実理解を欠き、現実を断片的にとらえて、それらの断片を相互に作用しあいながら全体を構成する要素として認識しないならば、かれらはその現実をほんとうに知ることはできない。それをほんとうに知るためには、出発点を逆にしなければならないだろう。つまりかれらはまず現実状況の全体的な見通しを立て、次にその構成要素を分離独立させる。そしてこの分析によって全体をいっそう明瞭にとらえる必要があるのである。

△ 全体的な見通し(漠たる全体把握)→構成要素の分離(孤立化、isolation)とその分析→(各要素の関連づけによる)より明瞭な全体把握、という順序によって物事を認識する仕方が提示されています。それは循環的な方法論であって、絶えず修正され、認識はその都度より明瞭になっていきます。この方法論は、フレイレの他者と世界に開かれた姿勢に関係しています。それがフレイレの理解する弁証法です。

個人の文脈からみた現実の重要な局面を提示するこうした努力は、テーマ探究の方法論にとっても課題提起型教育にとっても等しく有効である。かれはその局面の分析によって、相互作用している多様な構成要素を認識できるようになろう。一方、それ自体相互作用しあう諸部分から成りたっているその重要な局面は、現実総体のなかの局面としてとらえられねばならない。こうした重要な生きた現実の局面の批判的分析によって、限界状況にたいする新しい批判的態度をとることができるようになる。現実の把握と理解は改められて、新たな深みを獲得する。最小のテーマ世界(相互作用している生成テーマ)に含まれている生成テーマの探究が、意識化の方法論で実行されるとき、人間はそれによってはじめて自らの世界についての批判的態度を獲得するか、あるいは獲得し始める。

△ 現実の重要な局面は最小のテーマ世界(minimum thematic universe)から構成されており、そこに含まれている生成テーマの探究が、意識化の方法論として実行されるべきであると言われています。それが実際に何を意味するかについて、フレイレの言うところに、なお耳を傾けなくてはなりません。

しかしながら現実が不透明で理解しがたく、人を封じ込めるものとして把握されるばあいには、抽象化によって探究をすすめざるをえない。この方法で大事なことは、具体的なものを抽象的なものに還元するのではなく(もしそうであれば弁証法的性格の否定となろう)、両者を省察の行為のなかで、弁証法的相互関係にある対立物として維持することである。思索のこの弁証法的運動は、具体的でなまの現実のコード化された coded 状況(*)の分析のなかで、あますところなく示される。

* 生きた現実状況のコード化は、その状況を表示したものであり、相互に作用しあういくつかの構成要素を表わしている。解読とはコード化された状況の批判的分析である。

△ ここで論じられていることは、マルクスの言う「下向法」(現実の中からコードとしての抽象的観念を獲得する)と「上向法」(それらの抽象的観念を再び現実との関連において、解読すべきコードとして捉え直す)とも関わりがあるでしょう。

それを解読する decoding するためには、抽象的なものから具体的なものへと向かう必要がある。部分から全体へ戻る必要がある。さらにその主体は、客体(コード化された具体的な生きた現実状況)のなかで自己を認識し、その客体を、他の主体といっしょになって、そこに自己を発見する状況として認識する必要がある。解読がうまく行われれば、コード化された状況の分析のなかで生ずる、抽象から具体への往復運動によって、抽象的なものは捨てられ、かわりに具体的なものの批判的認識が行われるようになる。そのとき具体的なものは、もはや不透明で理解しがたい現実ではなくなっている。

△ 考えるということは、具体から抽象へ、抽象から具体への往復運動を行うことです。それによって現実に存在する具体的なものの批判的認識が獲得されます。

コード化された生きた現実状況(生きた現実の具体性を抽象的に連想させるスケッチや写真)を提示されると、人はそのコード化された状況を分割する傾向がある。解読過程でのこの分割は、私たちが状況描写とよぶ段階にあたる。それによって脈絡のない全体のなかの部分間に、いとも容易に相互作用を発見できるようになる。この全体(コード化された状況)は、以前には散漫にしか把握されなかったが、思索の流れがさまざまな次元から全体へと戻ってくるにつれて、意味を獲得し始める。しかしコード化は生きた現実状況の表示なのであるから、解読者は、表示から具体的状況そのものへと入り込んでいく。かれはこの状況のなかに、この状況とともに自分があることを発見するのである。人が客観的現実に直面し、その現実がもはや袋小路ではなく、人間が応じなければならない挑戦という真の様相を呈するようになったとき、なぜその行動が以前とは違ってくるのかということは、こうして概念的に説明できるのである。

△ コードはスケッチや写真でもよく、その状況描写によって、自分も巻き込まれている具体的状況が客観化され、その現実が人の応ずべき挑戦という様相を呈するようになる、と言われています。それが暗号解読 decodingの過程です。

解読のすべての段階で、人間は自己の世界観を客観化する。そしてかれらが、宿命論的に、動的に、あるいは静的に世界について考え、世界と向かいあっているうちに、かれらの生成テーマが見つけ出される。生成テーマを表現しない集団、つまりテーマの不在を意味しているようにひとつの事実は、逆に非常に劇的なテーマ、すなわち沈黙のテーマを暗示している。沈黙のテーマは、限界状況の圧倒的な力の前に声も出せなくなっている構造を示すものである。

△ 生成テーマとは何であるかについて、フレイレが自己の現実に即してでもいいから、それこそ「具体的」に何か言ってくれるとよいのですが、この論文ではそれがなされないために、非常に回りくどい印象を受けます。我々は、この時代の普遍的なテーマである、抑圧からの「解放」について聞かされているだけです。しかしそれは民衆自身が自ら発見すべきものであって、予め、それが何であるかについて言うことはできないと考えているからなのでしょう。従って我々はその方法論だけを聞かされることになります。

私は、生成テーマが、現実と絶縁した人間、人間と断ち切られた現実、さらには人間のいない土地などに見い出されるはずのないことを、ふたたび強調しなければならない。それはただ、人間―世界の関係のなかでしか理解されえない。生成テーマを探究するということは、現実についての人間の思考と現実にたいする人間の行動、すなわち人間の実践を探究することにほかならない。ここで提起する方法論が、探究者と民衆(通常かれらは探究対象とみなされる)に共同探究者として行動するように求める理由は、まさにそこにある。人間は、自己のテーマの探索に積極的姿勢をとればとるほど、現実についての批判的自覚をますます深め、それらのテーマを明確にしながら、当の現実をわがものにしていく。

△ よく「問題意識を持て」と言われます。それは自分のテーマを探究せよということでしょう。そして、そのテーマが「人間―世界」の関係の中で有意味であれば、生成的に、それはその後の学問研究や思想形成の土台になるであろうということでしょう。フレイレは、そのことを民衆教育の文脈で語っているのだと思います。

民衆自身の有意義なテーマを追求するばあい、民衆を探究者に加えるのは感心できない、と思う人がいるかもしれない。かれの考えはこうである。民衆のでしゃばりによって(これは自分の教育に大きな関心を抱いている、いや抱いているにちがいない人びとのでしゃばりであることに注意せよ)調査結果が穢され、そのために探究の客観性がそこなわれてしまう。このような見解の背後には、テーマが本来の客観的純粋性をたもったまま、人間の外側にまるでのように存在しているという誤った前提がある。実際には、テーマは、具体的事実にそくして、世界との関係のなかで生きる人間のなかに存在する。同一の客観的事実も時代の小単位が違えば、異なる生成テーマの複合体を喚起することがありえよう。したがって所与の客観的事実と、その事実にたいする人間の知覚と、生成テーマとのあいだには、ひとつの関係があるのである。

△ アカデミズムの世界では、「調査結果」は業績として、客観的評価の対象となります。あたかも、その研究の「客観的純粋性」が存在しているかのように扱われます。しかし、現実の世界では、「同一の客観的事実も時代の小単位が違えば、異なる生成テーマの複合体を喚起すること」がありえます。生きている現実は、一人の学者や教育者の判断を越えて、それ自身の運動を展開しています。その場合、指導者意識や専門家意識は、かえって運動や教育の妨げになるとさえ言うべきでしょう。学者の専門的調査や判断が、かえって公害などの認定を遅らせるということはよくあることです。同様に、教師や指導者の「専門家意識」が、生徒や民衆の成長と自立を妨げているという現実があります。

いうまでもなく意味のあるテーマは、人間によって表現される。そしてある時期の表現は、テーマが指示する客観的事実についての知覚のしかたが変われば、以前のものとはちがってくる。探究者の観点からみて大事なことは、人間が所与のものをありありと心に描き出す契機を発見すること、さらに、探究を行う過程で、現実をとらえる方法になんらかの変化が生じていないかどうかを確かめること、これである(もちろん客観的現実は変わらずにある。その現実についてのとらえ方が探究の過程で変わるとしてもそのために探究の有効性がそこなわれることはない)。

△ フレイレは「知覚の仕方」を強調しています。知覚の仕方が変われば、テーマの表現も前のものとは違ってきます。また現実を捉える方法も、いつも同じであるというわけではありません。変わらないということが重要なのではなく、その変化について常に確認を怠らないことが大事であるということでしょう。そして所与のもの、与えられた現実を、ありありと心に描きだす契機(おそらく映像、録音、寸劇、集会の持ち方などのこと)を発見することにも、注意を向けています。

私たちは、意味のあるテーマに内在する願望、動機、目標が、人間の願望や動機や目標にほかならないことを理解しなければならない。それらは、どこかそこら辺に静的なものとして存在するのではない。それはたえず生起し続けているのである。それらは人間自身と同じく歴史的である。したがって、人間と切り離して把握することはできない。これらのテーマを把握し理解するということは、それらを体現する人間とそれらが指し示す現実との双方を理解することである。だが、これらのテーマを体現している人びともまた、それらのテーマを理解することが必要である。こうしてテーマの探究は、現実にめざめ自己にめざめるための共通の努力になり、それが教育の過程あるいは解放をめざす文化行動のための出発点になるのである。

△ 人々は無意識のうちにも問題を共有しています。それがテーマを体現しているということの意味でしょう。しかし、必ずしもそれを問題として自覚し、意識しているわけではありません。そこから「これらのテーマを体現している人びともまた、それらのテーマを理解することが必要である」と言われているのでしょう。テーマ学(thematics)としてのテーマの探究は、こうして意識化のための共通の努力になり、教育の過程あるいは自由のための文化行動のための出発点になると言われています。フレイレは、次に、この論文の最後として、「生成テーマの探究と意識化の実践」を論じます。


X 被抑圧者の教育学 その5

六 生成テーマの探究と意識化の実践

探究にとってのほんとうの危険は、探究対象と仮定される者自身が、自分も共同探究者であることに気づくと、かれらは分析結果を穢すおそれがあるという点に存在するのではない。反対に意味のあるテーマから民衆そのものへと探究の焦点を移すことによって、民衆を探究対象として扱う、これが危険なのである。この探究は、教育プログラムを開発するための基礎となるべきものである。そして教師=生徒と生徒=教師は、そのプログラムのなかで同一対象についてのかれらの認識行為 cognition を結びあわせるのである。だから探究そのものもまた、行動の相互作用性にもとづいていなければならない。

△ 教師がテーマを探究し、生徒がそれを受け入れるのでもなく、テーマを探究する生徒を教師が探究対象とするのでもなく、相互に同一対象についての認識を結合することが、教育プログラムを開発するための基礎であると言われています。教育とは相互作用、相互行為 interaction であって、それは事の初めから、教師自身を生徒との相互関係のうちに置いて実践されるべきものであることを意味しています。教師の意図が先行することは、フレイレの考える教育ではありません。これについては、student-initiativeという言葉が想起されるべきでしょう。民衆は教育の「対象」ではありません。

テーマの探究はけっして機械的行為に還元できない。それは人間の領域で生じるものだからだ。追求し認識し、それゆえ創造する過程として、それは探究者に、意味のあるテーマのつながりのなかで諸課題が相互に浸透しあっていることを発見するように求める。探究がもっとも教育的であるのは、それがもっとも批判的になされるばあいである。もっとも批判的であるのは、それが部分的で個別化された現実の見方という狭い枠から離れて、現実総体をつかむことに固執するときである。したがって意味のあるテーマの探究過程は、テーマ間の結びつきへの関心と、これらのテーマを課題として提起することへの関心と、それらの歴史的文化的脈絡への関心を含んでいなければならない。

△ 透徹した立場から言えば、世界の出来事や現象で、自分と無関係なものは何もない筈です。しかし現実のある差し迫った事柄が、別の事柄と結びついているということを発見するのは、一個の認識のプロセスであって、初めから分かっていたわけではありません。現実総体は常に課題として提起されていると言うべきでしょう。ここで「脈絡への関心」と言われていることは、「文脈化 contextualization」の課題を意味しています。

教育者が民衆進呈するためにプログラムを作成することはありえない。同様に、探究者がテーマ世界そのものを探索するための行程を策定し、その予定した地点から出発することもありえない。その立場に立とうとする教育と探究は、ともに、言葉の根源的意味において、共感的活動でなければならない。すなわちそれらは、交流と現実の共同経験とから成り立っていなければならない。その現実とは転成する becoming ものの複合体としてとらえられるものである。

△ 現実は生成する(転成する)ものの複合体であると言われています。この現実世界は「生成子」(「生成子の概念がもたらすもの」参照)の複合体であり、生成子もまた、構成要素からなる複合体です。生成テーマが、コミュニケーションと共同経験とを通して探究されるべきものであれは、それは行程表の通りに進んでいくこと(学校教育の前提!)に「待った」をかけます。それは共感活動を通して相互に確認されるべきものです。学習の単元は本来そのような生成テーマであるべきものです。学習指導要領によって定められた学習単元は、あてがいぶちのテーマであって、学習者の関心を初めから度外視しています。従って興味を持てる者だけがそれについてゆくことができます。教師と生徒との敵対関係は、そのようにして生じてくると言うべきでしょう。

科学的客観性と称して、有機物を何らかの無機物に、転成しつつあるものを固定したものに、生を死に変える探究者は、変化を恐れる人間である。変化を否定はしないが望みもしないという人は、変化のなかに、生の徴候ではなく、死と衰退の徴候をみる。かれは変化を研究したいと考える。だが、それは変化を押しとどめるためであって、変化をうながし進展させるためではない。しかしながら、変化を死の徴候と見るとき、また硬直したモデルをつくりあげるために民衆を受動的な探究対象とするとき、かれは、生の破壊者たる自己の本性を露わしてしまう。

△ ここに言われる「科学的客観性」は決して無用ではありません。分子生物学は有機物を何らかの無機物に見立てなければ成立しないでしょう。しかし、それだけでは、生物の「生きている状態」を捉え切れないということも確かなことでしょう(『生命を捉えなおす』参照)。フレイレは生きたものを生きたものとして見る立場に固執しています。なぜなら、そうでなければ、民衆を受動的な研究対象とするような見方が生れてきてしまうからです。そして民衆を「操作」の対象とする思想が幅を利かせることになるからです。

くり返していおう。テーマの探究には民衆の思考、つまり現実をともに探求している人間のなかでしか、またそのあいだでしか生まれぬ思考についての探究が含まれている。私が他者にかわって、あるいは他者なしで考えることはできないし、他者が私にかわって考えることもできない。たとえその思考が迷信に満ちた素朴なものであるにせよ、民衆が変わりうるのは、行動するなかで自分たちの憶測を再考するばあい以外にはないのである。自らの思想を生み出し、それに働きかけることこそが変革の過程とならなければならない。だがそれはけっして他者の思想を吸収することではない。

△ 「自らの思想を生み出し、それに働きかける」というときの、「それ」とは、「現実」に働きかけるという意味であるように思われます。しかし「それ」とは「思想」のことであるとすれば、そのとき「思想」は対自化されていて、自己吟味の対象になるという意味になります。そしてその思想は、どんなに評価されているものであっても、他者の思想をそのまま「吸収する」ことではないとされているのは、大切な点です。思想は自分たちの状況と実践の中で、手ずから形成されるべきものだからです。

状況のなかに生きる存在としての人間は、自らが時間―空間条件のなかに根ざしていることを発見する。それらの条件は、人間を特徴づけると同時に、人間によって特徴づけられもするからである。かれらは、状況から働きかけを迫られる度合に応じて、自らのおかれた状況性 situationality を省察するからである。そしてかれらが、自らの存在を批判的に省察し、同時にそれに批判的に働きかければかけるほど、かれらの存在はその重さを増すだろう

△ 人間の尊厳というべきものがあるとしたら、それは初めから属性として備わっているものではなく、状況のうちにある「自らの存在を批判的に省察し、同時にそれに批判的に働きかける」ところに見出されるべきものでしょう。それが「存在はその重さを増す」と言われていることの意味でしょう。

状況性を省察することは、存在条件そのものを省察することである。つまり批判的思考をとおして人間は、状況のなかで、生きていることを互いに発見するのである。この状況がもはや人を封じ込める不透明な現実、あるいは人を苦しめる袋小路であることをやめ、人間がその状況を客観的課題状況として把握できるようになる、そのときになってはじめて、積極的関与が可能となるのである。人間はその埋没状態から脱却する。そして現実のヴェールがはがされるにつれて、そこに介入する能力を獲得する。現実への介入は、歴史的自覚にほかならず、脱却からの一歩前進を意味している。それは状況の意識化の所産である。意識化とは、脱却のさいに必らずみられる自覚的姿勢の深化である。

△ 「PAULの生き方」で書いたように、人間は、状況に参入(participating in)すると共に、そこから脱却することによって、覚醒(awakening)し(状況を意識化し)、それによって、自己の置かれた状況とその中の自分とを理解(understanding)し、真に生きる(living)、あるいは実存することが可能になります。それは、再び状況に参入する(よりよく生きる)ことを意味しています。その循環に人間の歴史形成的な生き方があります。状況に埋没する生き方は歴史形成的ではありません。

このように、歴史的自覚を深めるすべてのテーマの探究は、まさしく教育的であり、他方、真実の教育はすべて思考の探究を行う。教育者と民衆の思考を探究し、それによって、ともに教育されればされるほど、かれらはより多くの探究を続けていく。課題提起型の教育概念では、教育とテーマの探究とは、同一過程の異なる契機にすぎない。

△ 教育を、既存の知識を受動的に貯蓄することと理解すれば、テーマの探究は教育とは無関係の、無駄な行為と見なされることになるでしょう。そんなひまがあったら、かわりに、少しでも多くの知識を貯め込んだ方がよいとされるでしょう。

銀行型教育方法の反対話的かつ非交流的預金とは対照的に、課題提起型教育方法のプログラム内容は、すぐれて対話的であり、生徒の世界観によって構成・組織される。そこには生徒自身の生成テーマが見い出される。したがってその内容はたえず発展し、自己更新する。探究によって明らかになるテーマ世界に働きかけるのは学際的チームであるが、そのなかでの対話的教師の任務は、はじめは民衆から与えられたテーマ世界を、こんどはかれらに再提出する re-present こと――講義としてではなく、課題として再提出することである。

△ 対話的教師による問題提起(problem-posing)とは、民衆自身の生成テーマを、それとして、民衆に再提出することであると言われています。そのとき、あらゆる知識が利用されることを妨げられません。学際的チームの役割はそこにあります。すると解放教育には、学際的チーム―対話的教師―自己教育の主体(テーマの探究者)としての生徒(民衆)、という組織構造のあることがうかがわれます。あるいは、助言委員会(advisory committee)―文化活動家―民衆、という組織を考えてよいかも知れません。

たとえば識字率の低い農民地区で、ある集団が成人教育計画を整える責務を負っているとしよう。その計画には、識字運動の段階と識字後の段階が含まれる。前段階では、課題提起型教育は生成語 generative word を探究する。識字後の段階では、生成テーマが探究される。

しかしここでは、生成テーマや意味のあるテーマの探究にかぎって考察することにしよう(*)。

* 生成語の探究と利用については私の『自由の実践としての教育』を参照。

ひとたび探究者が作業地域を決定し、二次的情報源によってそこにかんする予備知識を獲得してしまうならば、かれらは探究の第一段階に着手しているのである。はじめのうちは、どんな人間活動も最初はみなそうであるように、ある意味ではあたりまえともいえる困難と危険がともなっている。もっともそれらが、地域の人びととの最初の接触で明らかになるとはかぎらないが。探究者はこの最初の接触で、かれらが地域にいる目的について話しあえるような、気軽な会合に応じてくれる人びとを、納得のゆくだけ民衆のなかから獲得する必要がある。この会合でかれらは、探究の理由、およびそれがどのように実施され、何に使われるかを説明する。さらにかれらは、探究が、相互の理解と信用関係なしには不可能であることを説明する。もし参加者が、探究とそれに続く過程との双方に同意してくれれば(*)、探究者は、参加者のなかから助手として働いてくれる志願者を募集する。

* ブラジルの社会学者マリア・エディ・フェレイラ Maria Edy Fereira が(未公刊の著作のなかで)いうところによれば、テーマの探究が正当化されるか否かは、ひとえに、それが真に民衆に属するものをどれだけかれらに返すかにかかっている。すなわち、それが、民衆について学ぶこころみではなく、挑戦を迫る現実をかれらとともに把握しようとするこころみを、どれだけ表現するかにかかっている。

△ この段落で述べられていることは、企業活動のいわゆるマーケティングに相当します。従って探究者を調査員、探究を調査とすれば理解しやすい面があります。提供される教育プログラムが成功するために、当該地域の住民の Wants & Needs にどこまで応えるかが問われると言い換えてもよいでしょう。行政の統計、地域に学校などの公共施設がいくつ存在するかなどの二次的情報源(資料)の調査に続いて、住民のインフォーマルな集会が開かれ、調査の理由が説明され、協力してくれるボランティア(志願者)が募られます。そこから既に「テーマの探究」が始まっています。

これらの志願者は、地域生活に関する一連の必要資料を収集することになる。しかしながら何よりも大切なことは、これらの志願者が、積極的に探究に加わることである。

一方探究者は、自らその地域を訪問し始める。そのさい、けっして自分を押しつけてはならず、自らの目にするものに理解ある態度と共感を示す観察者として行動しなければならない。探究者が、自分たちの認識を支配する価値基準をもって地域を訪れることは、あたりまえであるが、それはけっしてテーマの探究を、自分たちの価値基準を押しつけるための手段に変えてもよい、ということではない。これらの価値基準のなかで、テーマを探究されている人びとが共有するようになってくれればよいと思われる唯一の側面(探究者はこの資質を備えているともくされている)は、世界の批判的認識である。そこには現実に接近し、現実のヴェールをはぐための正しい方法が含まれているからである。しかも批判的認識はけっして押しつけられてはならないのである。こうしてテーマの探究は、その出発点からして、教育的な仕事として、文化行動として現われる。

△ 「世界の批判的認識」、世界を世界として対象化して捉えること、埋没した意識に安住しないことが、探究者の要件とされています。そしてその姿勢は、民衆もまた共有すべきものです。その批判的認識に特徴づけられているからこそ、「テーマの探究」は、初めから教育的な仕事、文化行動として現われると言われています。

訪問中、探究者は研究地域に批判的にねらいを定めるのであるが、それはまるで地域が、巨大で独特な、解読されるべき記号 code であるかのようである。かれらは地域をひとつの総体としてとらえ、訪問を重ねるたびにかれらに印象づけられた部分的局面の分析によって、地域の分割を試みる。この過程をとおして、さまざまな部分の相互作用のしかたについてのかれらの理解は広くなる。そしてそれは、のちにかれらが総体そのものを見通すうえでの助けとなるだろう。

△ 探究者は地域全体を解読すべき一つの暗号(codeとして捉え、訪問を重ねることによって、地域のセグメンテーション(分割・区分)を試みます。そして区分された要素の相互作用の仕方を理解します。セグメンテーション(市場区分)は調査の基本的な技法で、それもマーケティングの用語になっています。

この解読段階で探究者は、あるときは直接にまたあるときは住民とのさりげない会話によって、地域生活の一定の契機を観察する。かれらは、一見重要でないと思われる項目も含めてあらゆる事柄を、つまり民衆の話し方、生活様式、教会や仕事におけるふるまい方をノートに書きとめる(▽)。かれらは民衆の慣用句を、つまりかれらの表現、語彙、統語法(かれらの不正確な発音ではなく、かれらの思考の組み立て方)を記録する(*)。

* ブラジルの小説家ギマランエス・ロサ Guimarães Rosa は、作家というものが民衆の発音や文法的にくずれた語形ではなく、かれらの統語法、すなわちかれらの思惟構造そのものを、いかに確実にとらえることができるかを示す好例である。実際、(このことはかれの作家としての類まれな価値をけっしておとしめるものではないのだが)ギマランエス・ロサは、ブラジル内陸地の住民がもつ意味のあるテーマのとりわけすぐれた探究者だった。パウロ・デ・タルソ Paulo de Tarso 教授は、目下、『大いなる奥地――その小径』Grande SertãoVeredas の作者の著作について、ほとんど顧みられなかったこの側面を分析する論文を準備中である。

△ 記録に当たっては、「ノートに書きとめる」のではなく、情報の断片を一つ一つ別個にカードに書きとめ、あとでKJ法によって整理する方法があります。KJ法はフィールドワークの技法であり、全体像を浮かび上がらせ、テーマを探究する上で便利な手法です。しかしそれは思考の原理そのものに基づいています。

さまざまな環境のもとで地域を観察することは、探究者にとって不可欠である。たとえば畑仕事、地方団体の集まり(参加者のふるまい、言葉使い、役員と会員との関係に着目する)、婦人と青年の果す役割、余暇、勝負事、スポーツ、家庭(典型的な夫婦、親子関係に着目する)での民衆との会話などである。地域調査の初期において、探究者はいかなる活動といえども見逃してはならないのである。

探究者は、観察訪問がすむそのつど、専門の探究者とその助手が行った予備調査の結果を検討するために、簡単な報告書を作成し、チーム全体で討論すべきである。この検討会は、助手の参加をうながすために当該地域で開くべきである。

検討会は、独特な生きた記号を解読する第二の段階である。各人が自分の解読論文のなかで、ある種のできごとや状況をどのように認識し、感じているかを述べるとき、その人の解説は、他のすべての解読者が一心に打ち込んできたと同じ現実を再提出することによって、かれらに挑戦を迫るのである。このときかれらは、他者の考察を通して自分のそれまでの考察再検討する。こうして個々の解読者によってなされる現実分析は、対話的に、かれらすべてを分離された全体へと戻す。この全体は、ふたたび探究者による新たな分析をよびおこすひとつの総体となり、ひき続いて新たな批判と検討の会が開かれることになろう。住民の代表は、すべての活動に探究チームの一員として参加する。

△ 暗号解読の第二段階は「検討会」です。ここで情報が共有され、どこに問題があるかが確認されます。しかしこの「探究チーム」はどのような人たちであるのかを問うべきでしょう。かつて「セツルメント」活動が盛んな時代がありましたが、イメージとしては、そんな感じが伝わってきます。あるいはもっと別のイメージでは「山村工作隊」のような感じでしょうか。それがいかなる組織であるのか、調べてみる価値があります。

その集団が全体を分割し、再統合させていくにつれて、かれらはますます地域住民をとらえている主要矛盾と副次的矛盾の核心に迫っていく。これらの矛盾の核心を見極められれば、探究者はこの段階でさえ教育行動のプログラム内容を編成しうるかもしれない。事実、内容がこれらの矛盾を反映していれば、その地域の意味のあるテーマがそこに含まれていることは、疑問の余地もなかろう。そしてこれらの観察にもとづく行動の方が、上からの決定にもとづくものよりもはるかに成功しやすいであろう、と確言することができる。しかし探究者は、この可能性にけっして惑わされてはならない。基本的に重要なことは、これらの矛盾の核心(それはより大きな時代の単位である社会の主要矛盾を含んでいる)をまず把握することから始めて、住民がそれらの矛盾をどの程度自覚しているかを研究することである。

△ 主要矛盾、副次的矛盾に関しては、毛沢東の『矛盾論』が参照されるべきでしょう。その「矛盾を住民がどの程度自覚しているかを研究すること」が肝要であると指摘されています。人間の世界は矛盾に満ちていると知ることが本当の出発点になります。矛盾とは抑圧・分裂・対立・離反の現実であると言ってよいでしょう。

これらの矛盾は、本質的に、限界状況を形づくり、テーマを含み、課題を指示する。もし個々人がこれらの限界状況にからめとられて、そこから自己を分離することができないならば、これらの状況に関するかれらのテーマは宿命論であり、テーマの示す課題は課題の欠如にほかならない。したがって限界状況とは、個々人のなかに欲求を呼び起す客観的現実であるとはいえ、こうした状況についてのかれらの意識水準こそが、かれらとともに探究されなければならないのである。

△ 「問題が問題にならないという問題」は、事態が宿命論的に受けとめられていることを示唆するものです。そしてそれは状況についての「意識水準」の問題です。

具体的現実としての限界状況はひとつでも、民衆の住む地域の違いによって、また同一地域内であっても地区の違いによって、テーマと課題が正反対の形をとることがある。したがって探究者の基本的関心は、ゴルドマン Lucien Goldmann(一九一三〜一九七〇、ルーマニア生まれのフランスの哲学者――訳注)のいう「現実意識」real consciousness と「可能意識」potential consciousness の理解に当然しぼられるべきである。「現実意識というのは、経験的現実の諸要因がこの可能意識の実現に対して向けたり加えたりする多種多様の障碍や逸脱の産物である」(L・ゴルドマン『人間の科学と哲学』清水幾太郎・川俣晃自訳、岩波書店、一三六頁)。

△ shouldcouldwouldの「可能意識」は、多種多様の障害や逸脱によってその実現を妨げられ、「現実意識」を形成します(「三一致の法則」参照)。

現実意識とは、限界状況をこえたところにある未検証の可能性 untested feasibility をとらえられないことを意味している。未検証の可能性は、現実意識(または現在の意識)の水準では実現できないが、これまで気づかれることのなかった生命力を発現させる検証行動 testing action をとおして実現することができる。未検証の可能性と現実意識との関係は、検証行動と可能意識(▽)の関係と同じである。ゴルドマンの可能意識の概念は、ニコライ Andre Nicolai のいう実行可能な未知の解決策(*)に、また私たちの用語では未検証の可能性に等しい。

* A・ニコライ『経済行動と社会構造』Comportment Economique et Structures Sociales, パリ、一九六〇年を参照。

△ 「未検証の可能性と現実意識との関係は、検証行動と可能意識の関係と同じである」の文意は、誤記でないとすれば、理解するのが困難です。

それと対比されるものが実行可能な既知の解決策および現に実行された解決策であり、それはゴルドマンの現実意識と一致する。したがって探究者が、探究の第一段階で矛盾の複合体の概要を把握しうるからといって、教育行動のプログラム内容を体系化する権限が、かれらに与えられるわけではない。その現実認識は、かれらだけのものであって、まだ民衆のものではないからである。

△ 現実認識とは「矛盾の複合体の概要を把握」することです。問題学あるいはテーマ学の核心は矛盾を把握することです。ここでの矛盾とは「理想と現実とのギャップ」であると言ってもよいでしょう。そしてその現実認識を民衆自身のものとするところに教育行動の目的があります。すなわち民衆自身が探究者となるべきです。

探究の第二段階は、矛盾の複合体の把握をもって始まる。探求者は、つねにひとつのチームとして行動しながら、これらの矛盾のなかからいくつかを選び出し、テーマの探究に使われるコード表示 codification を開発するだろう。コード表示(スケッチや写真*)は、解読者が批判的分析を行うさいに、かれらを媒介する対象物である。

* コード表示は口述のものであってもかまわない。このばあいには、それは実在する課題を示す二〜三の単語から成っていて、そのあとに解読が続く。チリにある農業開発研究所INDAPのチームは、テーマの探究でみごとにこの方法を使いこなした。

△ 状況を暗号化する(codify)とは、いわば「時のしるし」(マタイ16:3)を見分け、それを「しるし」として提示することです。状況を映し出す「しるし」はさまざまな記号として表示されます。そして暗号解読(decoding)がそれに続きます。

だからこれらコード表示の準備は、視覚教材をつくるための普通の原理とは異なる、別の原理に立脚して行われなければならない。

第一の要件。これらのコード表示は、かならず、自らのテーマを検討している個々人がよく知っている状況を表現しなければならないこと、したがってかれらが状況と、状況にたいする自らの関係をたやすく認識できなければならないこと、これである。探究過程であろうと、その次の段階であろうと、意味のあるテーマがプログラム内容として提示されるばあい、参加者にとって疎遠な現実の絵を提示することは、許されない。そのような方法が参加者の埋没状態に発する、より基礎的な方法に先行することなどありえない(もっとも、疎遠な現実を分析する個々人が、それを自らの現実と比較し、各自の限界を発見できるという点で、それは弁証法的ではあるが)。つまり個々人は、自分の置かれている現実を分析する過程のなかで、自分のこれまでの歪んだ認識を自覚することによって、新たな現実認識に到達するのである。

△ 「そのような方法が参加者の埋没状態に発する、より基礎的な方法に先行することなどありえない」という文も理解しにくい面があります。参加者とは無縁な絵(情景描写)を提示することが、「参加者の埋没状態に発する、より基礎的な方法」、すなわち参加者がよく知っている状況を表現した絵を提示することに先行してはならない、という意味なのでしょう。つまり参加者は「埋没状態」にあるということが前提されています。埋没状態とは、「歪んだ認識」を持っているということでもあります。このことが教材作成の普通の原理とは異なる、別の原理に基づいているということの意味なのでしょう。しかし生徒の生活とは無縁な通例の学校教材にどういう生産的な意味があるのでしょうか。フレイレが「意味のあるテーマ」(有意的主題論)と言うとき、銀行型教育では生徒にとって無意味なテーマが扱われている、という批判が込められていると思います。銀行型教育では「より基礎的な方法」、すなわち教育の土台が無視され、歪みが放置されています。

コード表示の準備にとって、第二の基本的な要件は、それらのテーマの核心がはっきりしすぎても、難しすぎてもいけないということである。はっきりしすぎるばあいは、たんなる宣伝文句に変質してしまい、はじめからわかりきっている内容を述べるだけで、ほんとうの解読は行われない。難解にすぎるばあいは、パズルや推理ゲームになる危険がある。コード表示は、生きた現実の状況を表現するのであるから、その複雑さを簡潔に表わすべきであり、宣伝文句のもつ洗脳的傾向を避けるために多様な解読可能性を提供すべきである。コード表示はスローガンではない。それらは認識対象であり、解読者の批判的省察が向けられるべき挑戦対象である。

△ 「生きた現実の状況を表現する」コード表示として、たとえばイエスの「譬え話」を挙げることができるでしょう。それは「多様な解読可能性を提供」します。しかしそれは「解読者の批判的省察が向けられるべき挑戦対象」であって、その挑戦を受けとめる者、すなわちそれを聞く者の批判的省察を促します。

解読過程での多様な分析可能性を提供するために、コード表示は、扇形テーマ thematic fan として編成されるべきである。コード表示は、解読者の省察をうけるばあい、他のテーマに向かって開かれているべきである。この開放性は、テーマの内容がはっきりしすぎても難しすぎても生まれない。開放性は、対立しあうテーマ間に存在する弁証法的関係を認識するうえで欠かすことができない。したがって生きた現実状況を反映するコード表示は、客観的にひとつの総体をなさなければならない。その諸要素は、全体の構造のなかで相互に作用しあわなければならない。

△ コード表示は、テーマが扇状に開かれた形として編成されるべきである、すなわち、ひとつひとつのテーマが孤立しているのでなく、相互に作用し合うものとして編成されるべきであると言われています。コード表示は、生きた現実状況を反映するものですから、当然それは、個々のテーマが相互に関連し、時には(弁証法的に)対立し合う状態を生み出します。なおコード表示の編成とは教育プログラムの編成を意味するでしょう。

解読過程で、参加者は自らのテーマを具体化することによって、世界についてのかれらの現実意識を明らかにする。このようにして、かれらは現に分析中の状況を実際に経験しながら、自分たちが過去どのように行動していたのかを知り始める。その結果、自分たちの以前の認識について認識するにいたる。かれらは、この自覚に到達することによって、現実を異なったしかたで認識するようになる。自らの認識の視野を広げることによって、かれらは背景を自覚しながら、現実のこれらふたつの次元のあいだの弁証法的関係を、いっそうたやすく発見する。

△ 以前と以後の弁証法的関係と言われていることに「意識化」の働きがあります。それは、意識の意識、古い意識を対象化する新しい意識の出現を意味しています。

解読作業は、以前の認識についての認識以前の理解についての理解を刺激することによって、新たな認識の発現と新たな理解の発展をうながす。新たな認識と理解とは、系統的に教育計画の開始へと引き継がれる。そしてこの教育計画は、未検証の可能性を検証行動に変える。同時にそれは可能意識が現実意識にとってかわるときでもある。

△ 意識変革が現実に生起するということは、ここに書かれているような事態を指すのでしょう。教育計画が事実その通りに進展するならば、まさにそれは革命的です。

コード表示の準備で、さらに必要とされることがある。それはコード表示が、できるかぎり包括的な矛盾を表現すべきだ、ということである(*)。

この忠告は、ホセ・ルイス・フィオーリ José Luis Fioriが未公刊の草稿の中で行ってくれた。

したがってそこには、研究地域の矛盾の体系を形づくる他の矛盾も含まれていなければならない。これらの包括的なコード表示がそれぞれ準備されるときには、そこに含まれている他の矛盾も同時にコード化されるべきである。包括的なコード表示は、他の矛盾のコード表示の解読との弁証法的な関係によって、明晰に解読されていくだろう。

△ コード表示においては包括的な矛盾が表示されるということは、問題提起が断片的なものではなく、個々の問題が相互に関連しあっている形で提出される、と言い換えることもできるでしょう。

この点については、ガブリエル・ボーデ Gabriel Bode が、私たちの方法にとって実に貴重な貢献をしてくれた。かれは若いチリの公務員であり、政府の研究所のなかでもっとも重要なもののひとつである農業開発研究所(INDAP)に勤務している(*)。

* つい最近までINDAPは、経済学者であり真のヒューマニストでもあるジャック・チョンチュル Jaques Chonchol(チリのアジェンデ政権時代の農業大臣――訳注)の指導下にあった。

識字後の段階でこの方法を用いているうちに、ボーデは次のことに気づいた。農民が議論に興味をもつようになるのは、コード表示がかれらの切実な要求と直接結びついているばあいだけだということである。教育者が解読のための討論を他地域の話にもっていこうとするばあいと同様に、コード表示が少しでも的をはずれているばあいには、沈黙と無関心しか生まれなかった。他方、かれはまた、コード表示(*)を農民の切実な要求にしぼったばあいでさえ、かれらが必らずしも議論に系統的に専念できず、話がしばしばわき道にそれて、けっして統合にいたらない、ということにも気づいた。

* これらのコード表示はフィオーリの定義にいう包括的なものではなかった。

△ 再び脇道に逸れるならば、イエスの譬え話は「コード表示」(状況の暗号化)だったのであり、イエスは神の国の「探究者」だったのだと考えてみると、イエスの「教師像」が浮かび上がってくるように思われます。そのとき「神の国」は未検証の可能性であって、かつイエスは、その検証行動を行ったのだと考えてみることもできます。

農民たちはまた、自分たちの切実な要求と、その直接間接の原因との関係をほとんどといっていいくらい認識できなかった。かれらは、その要求を生み出した限界状況をこえたところに存在する未検証の可能性をとらえられなかったのだ、といえよう。

そこでボーデは、異なる状況を同時に映写する実験を行うことにした。この技術こそ、かれのあずかって力のあった点である。最初にかれは、非常に単純な生きた現実状況のコード表示を映写する。この最初のコード表示をかれは本質的なものとよぶ。それは基礎的な核を表現し、補助的コード表示へと広がる扇形テーマに向かって開かれている。本質的コード表示が解読されたあとで、教育者は、参加者の参考のために映像をそのままにして、ひき続きそのわきに補助的コード表示を映写する。本質的コード表示と直接関連のある補助的なそれによって、かれは参加者のいきいきした関心をつなぎとめておく。かれらはそうすることによって統合にいたることができるのである。

ガブリエル・ボーデの偉大な功績は、かれが、本質的コード表示と補助的コード表示の弁証法によって、首尾よく総体の意味を参加者に伝えたことにある。現実のなかに埋没し、ただ要求を感じているだけであった人びとは、現実から脱却し、自らの要求の原因に気がつく。このようにしてかれらは、いっそうすみやかに、現実意識の水準をこえて可能意識の水準へといたることができる。

△ 「もうひとつの世界は可能だ(Another world is possible.)」ということが理解されるのは、現実から脱却し、自らの要求の原因に気がつくときであると言われています。新約聖書には「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイ7:7)と書かれています。切実な要求が道を切り開きます。

ひとたびコード表示が用意され、ありとあらゆるテーマの側面が学際的チームによって研究されると、探究者は「テーマ探究サークル(*)」において解読のための対話を開始するために、地域に戻り探究の第三段階にとりかかる。

* それぞれの「探究サークル」は二〇名を上限とすべきである。研究されつつある地域や小地域の人口の一〇%が参加しうるのに必要な数のサークルがなければならない。

△ テーマ探究の第三段階は地域の中に愈々「探究サークル」を組織することです。

前の段階で用意された材料を解読するために行われるこうした議論は、あとで学際的チーム(*)がそれを分析できるように、テープに録音される。

* 後日行われるこうした分析のための会合は、探究を手伝ってくれた当該地域の志願者と「テーマ探究サークル」の参加者数人とを含むべきである。かれらの参加は当然の権利であると同時に、専門家の分析にとって不可欠の助けとなる。専門家の共同探究者として、かれらは調査結果について専門家が行う解釈を修正したり、承認したりするだろう。方法論的観点からすれば、最初から共感的関係にもとづいて行われる探究は、かれらの参加によってさらに確かな裏づけをもつことになる。すなわち、民衆の代表が、解放の文化行動である教育行動のプログラム内容を編成する過程で、最初から最後まで、つまりテーマの分析の段階にいたるまで批判的に参加し続けることができるのである。

△ 文化活動家(教育者)は専門的研究者と民衆とを橋渡しする存在です。民衆が準備の最初の段階から教育プログラムに参加し続けるところに、「銀行型学校教育」とは異なる、解放の文化行動としての教育行動の特質があります。

解読の調整者として活動する探究者に加えて、さらに二人の専門家―心理学者と社会学者―が会合に加わる。かれらの仕事は、解読者の重要な、もしくは一見重要とは思われないような反応に着目し、それを記録することである。

△ 専門家として心理学者と社会学者が会合に加わるとされているのは、興味深い点です。解読の過程は心理的、かつ社会的であるという理解があるためでしょう。

調整者は、解読過程のあいだずっと、一人ひとりのいうことに耳を傾けるだけでなく、コード化された生きた現実状況とかれらの回答の双方を課題として提起しながら、かれらに挑戦しなければならない。テーマ探究サークルの参加者は、その方法論に含まれている浄化作用によって、自分自身と世界と他者についての一連の感想と意見を具体的な形で表わす。おそらく違った環境にあれば、それらが表出されることはないであろう。

△ 眼前に与えられている現実を対象化するということは、実際に行われることはあまりないのではないかと思われます。そのような環境が与えられなければ、それについて自分の感想や意見を述べる機会もないでしょう。その方法論に浄化作用が含まれているために、参加者は今までとは違う、テーマ探究者としての自分を発見します。

サンチャゴで行われたテーマ探究の一例をあげよう。長屋住いの人から成る集団が、道を歩いている酔払いと街角で立話をしている三人の若者が写っている場面について議論をした。参加者たちは次のように論評した。

「生産的で国に役立つのは酒びたりの奴だけだ。かれは一日中低賃金で働いてから家に帰る。いつも家族のことで気をもんでいる。家族の欲しがるものをそろえてやれないからだ。かれだけが労働者だ。おれたちと同じく、かれは誠実な労働者でもあり、酒びたりでもある。」

アルコール中毒の諸側面を研究しようと考えていた探究者(*)がいた。かれが自分で作成した質問用紙を参加者に配布したとすれば、おそらく右のような答えは出てこなかっただろう。直接質問されたとすれば、かれらは酒を飲むことさえ否定したかもしれない。だがかれらが理解できて、その場面のなかに自分たちの姿を認めることができる生きた現実状況のコード表示の論評では、かれらは自分たちの感じるままをいったのである。

* 精神科医のパトリシオ・ロペス Patricio Lopes のこと。かれの仕事については『自由の実践としての教育』でふれている。

このような意見表明にはふたつの重要な側面が含まれている。ひとつは、かれらが安い給料しかもらえないこと、搾取されていると感じていること、酔払うこと――現実からの逃避として、無力からくる挫折感を克服するこころみとして、究極的には自暴自棄的な解決法として酔払うこと、この三者の関係を言葉に表わしたことである。もうひとつは、かれらが酔払いを高く評価することが必要だと述べたことである。かれ「だけが国のためになる奴だ。なぜならかれは他の者がおしゃべりにうつつを抜かしているあいだも働いているからだ。」酔払いをもちあげたあとで、参加者たちは、酒を飲まずにはいられない労働者、つまり「誠実な労働者」として、自らをかれと一体化させる。

これにひきかえ、アルコール中毒はいけないと説教し、これらの人びとにとっては徳の表現たりえないものを徳の手本として提示する、道学者先生(*)の困り切った姿を想像してみたまえ。

* R・ニーバー Reinhold Niebuhr『道徳的人間と不道徳的社会』を参照。

どのようなばあいでも、正しい方法は唯一状況の意識化だけであり、それをテーマ探究の当初からこころみるべきである(いうまでもなく意識化は、状況のたんなる主観的認識の水準にとどまらない。それは行動をとおして人間に、自己の人間化を阻むものとの闘いを覚悟させる)。

△ ここに「状況の意識化」とはどういうことであるか、具体的に示されています。暗号を解読するということは、生きた現実の批判的認識であるということの例示です。道徳家は、この状況に立ち入ることをせず、人々に上から徳の手本を押しつけます。

農民との別の経験のなかで、野外作業を描写している状況の討論全体をつうじて終始変わらないモチーフが、賃上げ要求と、この特定の要求を獲得すべく一致団結して組合づくりをすることの必要性にあることに、私は気がついた。この期間中には三つの状況が議論されたのであるが、そのモチーフはいつも同一であった。

△ 闘いの組織化(一致団結した組合づくり)ということは人々の切実な要求に基づいています。しかしそのモチーフ(主題、テーマ)を権力者は忌み嫌います。

ところで次のような教育者を考えてみたまえ。かれはこれらの人びとのためにかれの教育プログラムを編成した。それは「水が井戸にある」ことを学ぶための「健全な」教科書を読むことから成り立っているというわけだ。しかし正確にいえば、この種のことは教育のなかでも政治のなかでも終始起こる。なぜなら、教育の対話的性格はテーマ探究とともに始まる、ということが理解されないからである。

△ 教育者や政治家は人々にトリヴィアルな(当たり前の)真理を示す傾向があります。それに従っていれば秩序が保たれるからです。しかし人々が直面している問題は、それによって一向に解決しません。そもそも教育や政治が対話的であろうとすることは、人々の意識を目覚めさせ、危険な結果を招きかねません。テーマ探究(問題がどこにあるのかの発見)は、その人たちにはあらずもがなのことであって、人々は黙って言うことを聞けばよいのです。秩序形成派は「水が井戸にある」という真理に固執します。「教科書」はその真理を教える健全なテキストとして扱われ、そこからの逸脱は許されません。しかし他方、個別科学はトリヴィアルな真理の積み上げであるという側面があることを無視することはできません。公理がなければ幾何学は成り立ちません。だから問題は議論の水準にあると言うべきでしょう。個別科学はいきなり矛盾に満ちた現実総体に関わるものではないからです。そこに現実を問題にするということの「学問的な」難しさがあります。

ひとたびサークルにおける解読が完了すると、探究は最終段階に入り、探究者は自らの調査結果の系統的学際的研究に従事する。解読期間中に録音されたテープを聞き、心理学者と社会学者がとった覚書を検討しながら、探究者は、期間中になされた証言のなかではっきりとした形で、あるいは暗黙のうちに語られたテーマを整理し始める。これらのテーマは社会諸科学にしたがって分類されるべきである。なぜ分類するのか。それはプログラムを練りあげるときに、諸もろのテーマを別べつの範疇に属すものとして理解するためではない。ひとつのテーマを、それを関連づける社会諸科学のひとつひとつに固有な視点から検討するためだ、ということにほかならない。たとえば開発というテーマ、これはとりわけ経済学の分野にふさわしいものであるが、それ以外の諸学を排除するものではない。このテーマは、社会学、人類学、社会心理学(文化変容と、態度や価値観の変容――開発の哲学にとって等しく重要な問題――に関する分野)からも焦点が当てられるだろう。それはまた政治学(開発を左右する決定に関する分野)や教育等々の角度からも光が当てられるだろう。このように、ひとつの総体を特徴的に表わすテーマへの接近方法は、けっして固定的なものではない。もしもテーマが、現実の他の諸側面との相互浸透という実り豊かな形で探究されたのちに、今度はその豊かさを、したがってそのエネルギーを、狭い専門性の枠にはめて取扱って殺すようなことにでもなれば、それこそ実に残念なことである。

△ 当然のことながら、現実は学問のためにあるのではありません。逆に、現実の多様な側面を浮び上がらせるために、諸科学はそれぞれの仕方で貢献すべきです。そのときには、自ら「探究者」である「調整者(coordinator)」が重要な役割を果すことになるでしょう。しかしここまで来ると探究チームの働きはかなり大掛かりなものとなります。

ひとたびテーマの区分けができると、各専門家は、学際的チームに自分のテーマを解析するためのプロジェクトを提出する。専門家は、テーマを解析しながら基本的な核をさがし出す。学習の諸単元を構成させ、順序立てながら、テーマの概観を与えてくれるのはこの核にほかならない。個々の専門のプロジェクトが議論されるとき、他の専門家たちは助言を行う。これらの助言はプロジェクトに組み込まれるか、テーマについて書く小論文のなかにとり入れられることになろう。文献解題のついたこれらの論文は、「文化サークル」で働くことになる教師=生徒を養成するときの貴重な資料である。

△ テーマについての専門的な分析は、「探究サークル」から「文化サークル」へ移行するときに、教育プロジェクトや小論文として、教師養成の資料となります。それにしても、このように専門家を動員するテーマ探究の仕事は、場合によっては、それこそ革命政権が樹立されなくては実施できないほどの予算と時間の配分とを必要とします。教師の養成についても同様です。一体、どれだけの規模のプロジェクトが想定されているのでしょうか。どうしても解放教育を実施する「母集団」とその裾野の広がりが問われることになります。おそらく日本とはきわめて異なる状況があるのでしょう。

意味のあるテーマを解析するこの営みのなかで、チームは、前の探究のあいだにじかに民衆から提示されることのなかったいくつかの基本的テーマを含める必要性を認めるようになる。これらのテーマの導入が必要なことはすでに明らかであるし、教育の対話的性格からしても妥当である。教育プログラムの編成が対話的であるかぎり、教師=生徒もまた以前には思いつかなかったテーマを含めることによって、そこに参加する権利をもっている。私はこの種のテーマを、その果す役割に照して蝶番(ちょうつがい)のテーマ hinged themes とよぶ。それらは、プログラム単位内のふたつのテーマ間に隔りがあればそれを埋め合わせて、それらをなめらかに結びつけることもあれば、全体のプログラム内容と民衆がいだく世界観との関係を説明することもある。したがってこれらのテーマのひとつが、テーマの諸単位のはじめに置かれることがある。

△ 民衆によって提出されたテーマに加えて、新しいテーマが導入される必要性があり、それらは蝶番のテーマと呼ばれます。それらはテーマの分析によって明らかになった欠落部分であって、その部分を埋め合わせることによって、テーマおよびプログラムの全体性および一貫性が補強されます。

人類学的な文化概念は、こうした蝶番のテーマのひとつである。それは、順応的存在としてではなく変革的存在として世界のなかに、世界とともにある人間の役割を明らかにしてくれる(*)

* 文化の人類学的な分析の重要性については『自由の実践としての教育』を参照。

△ 人間の文化への理解を深め、広い視野から捉え直すためには、文化人類学的な考察が極めて有用であることは、今日益々明らかになりつつあります。民衆が持つ特定の世界観、たとえばカトリックの信仰は、「文化の人類学的な分析」という文脈に置き直されることによって、その意義が明らかにされるべきものでしょう。

ひとたびテーマの解析がすむと(*)、次にはそのコード化の段階がくる。すなわち、それは、各テーマとその表現に最適の交流経路を選ぶことである。

* プログラム全体は、相互関係にある諸単位からなる総体であり、それらの単位もまたそれ自体としておのおのひとつの総体をなしていることに留意されたい。(改行)諸テーマはそれ自体としておのおのひとつの総体を成しているが、それらはまた、相互に作用しありながらプログラム全体のテーマの単位を構成する要素でもある。(改行)テーマの分解とは、総体としての諸テーマを基本的核を探しながらバラバラにすることである。そしてそれらの核がテーマの構成要素である。(改行)コード化の過程では、生きた現実状況の表示物のなかにある分解されたテーマを再統合するこころみがなされる。(改行)解読を行うとき、個々人はコード表示を分解して、そこに含まれる諸もろのテーマを把握する。弁証法的な解読過程はそこで終るのではなく、分解されてバラバラになった全体を再統合することによって完成する。こうして全体は一層明瞭に理解される(また、生きた現実状況を表示しているその他のコード化された状況とその全体との関係も、同じように明らかになる)。

△ コードは「コミュニケーションの通路(交流経路)」です。コード化の過程では、分解された諸テーマが再統合されてゆきます。テーマの諸単位はいわば「生成子(生成テーマ)」であって、分析と総合の弁証法によって、次第にその意味と位置づけが明らかになります。「生きた現実状況」の把握のためには、この注に書かれているような「弁証法的循環」の手続きを経なければならないでしょう。

コード表示は、ひとつの経路によるものであっても、複数の経路によるものであってもかまわない。単一の経路によるものでは視覚(絵や図表)、触覚、聴覚の経路のいずれかを利用し、複数の経路によるものでは多様な経路を組み合わせて利用する(*)。

* コード表示

(a) 単一経路……視覚経路(絵・図表)

          触覚経路

          聴覚経路

(b) 複合経路……諸経路の同時使用

絵か図表かという経路の選択は、コード化される材料によるだけでなく、交流したいと望む相手が文字を知っているかどうかということにも左右される。

テーマのコード化がすんだあとで、教材(写真、スライド、映画フィルム、ポスター、教科書等)が用意される。チームは(教材にするために――訳注)いくつかのテーマあるいはそれらの諸側面を題材にして、外部の専門家にインタビューを申し入れ、それを録音してもよい。

たとえば開発というテーマをとりあげてみよう。チームはさまざまな学派の経済学者を二人ないしそれ以上訪ねて、かれらにプログラムの説明をし、聴衆にわかりやすい言葉づかいで、その主題についてインタビューに応じてくれるように頼む。その専門家たちが引き受けてくれれば、一五分から二〇分のインタビューをテープに録音する。それぞれの専門家が話をしているあいだに、かれの写真をとってもよいだろう。

録音したインタビューを文化サークルに提供するばあい、まずはじめにそれぞれの話し手が誰で、どんな本を著わし、これまで何をやってきて、現在何をしているか、ということを紹介する。そのあいだ、かれの写真がスクリーンに映し出される。たとえばもし話し手が大学教授ならば、参加者の大学観や大学に期待することについての議論が、この導入部分で行われてもよかろう。参加者集団にはすでに、録音インタビューを聞いたあとで、その内容についての討論を行うことが知らされている。録音インタビューは聴覚経路によるコード表示として機能しよう。その後チームは、討論中の参加者の反応を当の専門家に報告する。こうしたやり方は、知識人、すなわちたいていは善意の持主なのだが、民衆の現実からかけ離れていることの少なくない知識人を、民衆の現実に結びつける。それはまた同時に、知識人の思想を聞いて批判する機会を民衆に与えもする。

△ 学者や知識人と言われている人たちを民衆に結びつけるために、今日ではさまざまな機会が与えられています。しかし「民衆」が主体となり、ただ知識人の話を拝聴するだけでなく、自分たちのテーマについて、知識人の発言を聞き討論する機会はそれほど多くはないと言うべきでしょう。マスコミなどを通して単に受身に知識人の話を聞くのではなく、民衆自身による学習の場を設定し、知識人の発言をそこに位置づけることが、この場合、重要なポイントになります。解放教育は基本的に民衆の自己教育です。

テーマや核のなかには、簡単な劇形式で提示されるものもある。そこに含まれるのはテーマだけであって、解答はけっして含まない。劇形式は、コード表示としての、討論すべき課題を提示する状況としての役割を果す。

△ 簡単な劇形式(寸劇)の採用は問題提起のためであって、その中に解答を含んでいてはならないと注意されています。それは討論のための状況を設定します。テーマやその核となるテーマは、劇の中で具体化されます。

さらに別の教育方法――それが銀行型でなく課題提起型教育方法で実行されるかぎり――としては、雑誌記事、新聞、本の各章(節で始まっている)の朗読と討論がある。録音インタビューのばあいと同じく、参加者集団が討論に入る前に著者が紹介され、そのあとで内容が討論される。

これと同じやり方で、特定の事件を取りあげている新聞の社説を分析することもぜひ必要である。「同じ事実も、新聞が違うとどうしてこんなに違った解釈になるのだろう」と、いったように。こうすることは、批判精神を育てるのに役立つ。その結果、民衆は新聞やニュース放送にたいして、コミュニケを受けとる受動的対象としてではなく、自由を追求する意識的主体として反応するようになる。

△ 今日では民衆(人々)のマスコミ批判はインターネットを通してなされています。

教材がすべて整えられるとき、そこには当然小さな手引書が添えられるべきだろうが、教育者チームは、民衆にかれら自身のテーマを、系統的かつ拡大した形で再提出する用意ができる。民衆のなかから生まれたテーマは、預金される内容としてではなく、解決されなければならぬ課題として、かれらのもとに戻るのである。

△ 手引書(マニュアル)が、再び教師と生徒(民衆)を縛ることがあってはならないでしょう。問題提起型教育では、民衆自身のテーマが、系統的かつ拡大された形で、民衆に投げ返されます。そして問題を解決すべきなのは民衆自身です。

基礎教育を行う教師の第一の任務は、教育運動の概括的プログラムを提供することである。民衆はこのプログラムのなかに自らの姿を見い出すだろう。それはかれらにとって疎遠なものではない。なぜならそれは、もともとかれらが源になっているものだからである。同時にまた教育者たちは、(教育の対話的性格にもとづいて)プログラムのなかに、蝶番のテーマがあることとその重要性を説明するだろう。

△ 民衆自身のテーマを展開するために導入される蝶番のテーマは、民衆の意識化を促すためのもので、余計なものではないということが説明されなくてはなりません。その説明がうまくいかなければ、それは唐突に提出された「異物」になってしまいます。

たとえ教育者たちが、先に述べた予備的なテーマ探究を実施できるだけの資金をもたないとしても、かれらは状況についての最小限の知識で、探究されるべきコード表示として使えるいくつかの基礎テーマを選ぶことができる。したがってかれらは初歩的なテーマから始めて、同時にさらに進んだテーマの探究にも着手することができるのである。

△ テーマ探究のための予備的活動を支える資金がなくても、その原理が把握されれば、それを実践することは十分に可能であると指摘されています。

これらの基礎テーマのひとつが、人類学的な文化概念である。私は、これを中心的で不可欠なものだと考えている。農民であろうと都市労働者であろうと、読み方を学んでいようと識字後のプログラムに名を連ねていようと、より多くのことを(道具としての意味で)知ろうとするかれらの出発点は、その概念に関する討論である。かれらは文化の世界を論じながら、現実についての意識水準を表現する。そこにはさまざまなテーマが内在している。かれらの討論は現実の他の諸側面にも話が及び、現実はますます批判的にとらえられるようになる。こうした諸側面はそれぞれに別のテーマをたくさん含んでいる。

△ 人間には「文化(カルチャー)」があるということが、教育における基礎的なテーマであるとされます。動物には文化というべきものがありません。文化について議論すれば、そこから話は現実の他の側面にも及んでいくであろうと言われています。

過去の経験から私は次のように断言することができる。すなわち文化の概念は、そのほとんどすべての範囲にわたって想像力豊かに議論されるならば、教育プログラムのさまざまな問題 aspects を提供することができる、ということである。さらに文化サークルの参加者との何日かの対話のあとで、教育者は「私たちはこのほかにどんなテーマや問題 subjects を議論したらよいだろうか」と、参加者に直接たずねてもよい。一人ひとりが答えるにつれて、その回答は記録され、ただちに課題として参加者集団に提起される。

△ 日本の場合、文化一般ではなく、「因襲的文化」という概念が議論の出発点になるべきでしょう。それが未だに抑圧的に機能しているからです。そしてそれこそが文化人類学的に探究されるべきでしょう(「日本文化における悪と罪」参照)。

参加者のある者はたとえばこういうだろう。「私はナショナリズムについて話したい。」すると教育者は「よろしい」と答えて、提案を書きとめながら付け加えていう。「ナショナリズムとは何だろう。ナショナリズムに関する議論が私たちの興味をひくのはなぜだろう。」私の経験によれば、ある提案が課題として集団に提起されるときには、新しいテーマが現われてくる。たとえば、ある地域で三〇の文化サークルがある晩一堂に会したとしよう。そこで、もしすべての調整者 co-ordinators (教育者)がこの方法で事を進めるとすれば、中心になったチームは、きわめて変化に富んだテーマの研究材料を手に入れるだろう。

△ かつて日本の大学には「サークル活動花ざかり」と言われる時代があり、色々な名の文化サークルが存在していました。しかし人々はいま「解放」の目的でサークルをつくる必要を感じてはいないように思われます。しかし「学会」のような専門研究者の集まりではなく、一般人が課題を意識して集まりを持つ必要は減じていないでしょう。

解放教育の観点からみて大事なことは、自らの提案や仲間の提案のなかになんらかの形で表現される思考や世界観を論議することによって、人びとが自らの思考の主人であると感じるようになることである。この教育観の出発点には、自らのプログラムを提示できる道は、民衆とともに対話的にプログラムを探究する以外にはありえないとの確信がすわっている。だからこそそれは被抑圧者の教育学を創出する目的にふさわしいのである。被抑圧者の教育学は、被抑圧者とともに構築されなければならない。

△ 人々は家庭、教会、学校、会社など、自らの所属する集団や団体にその考え方を規定されていて、必ずしも「自らの思考の主人である」とは言えない状態にあります。その上、マスコミが偏向した報道によって人々の批判的思考力を奪っています。その観点からすれば、日本で「解放教育」の必要性は決してなくなってはいません。むしろ、現実について批判的な認識を持つ人たちの減少によって、状況は悪化しつつあるという側面があります。公教育が国家主義的管理主義的側面を強めている今日、フレイレの『被抑圧者の教育学』から学ぶべきことは多々あるように思われます。かなり昔の本ですが、その一端をここに紹介したのは、そういう理由からです。日本の「限界状況」は、日本人の「限界行為」によって乗り越えられてゆかなくてはならないでしょう。

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