閑老人のつぶやき 思想について

     1 「なにぬねの」のストラテジー

     2 理想の空論 その2

     3 生命、情報、組織、環境

     4 生成子の概念がもたらすもの

     5 三一学の構想

     6 ソーシャル・グルプワーク

     7 構えと人生

     8 JAPな生き方

     9 歴史的現実の七つの因子

T 「なにぬねの」のストラテジー

このホームページ上で、個々には既に触れたことなのですが、まとめて書いたことはないので、一応書き留めて置きたいと思います。「なにぬねの」のストラテジー(戦略・方策)とは、この資本主義社会(ビジネス社会)に生きていくための心得のようなもので、それを裏側から捉えれば、なぜ人間の生が「平準化」されてしまうのかということについての、一つの見通しを与えてくれるのではないかと思います。しかしこれはちょっとした「言葉遊び」であって、一つの参考として考えたまでのことです。

なまえ・なかま・なかみ これについては一つの項目として既に書きました。論理学的な問題として考えれば、名辞・集合・指示対象(意味)と言い換えることもできるでしょう。特に問題なのは「なかみ」です。五感を満足させるもの、その性質と分量において欲求を満たすもの、商品の使用価値、耐久性、健康や環境への影響の度合など、様々な「なかみ」が問われることになるでしょう。労働力が(労働市場において)商品化される社会では、人間のなかみも、あたかも「商品」であるかのように評価の対象になります。そのような傾向のもとでは、ある人間に「レッテル」を張ってすませる(その人間は、何のなかまであるかという判断を優先させる)という、安易な思考態度も生れてくるでしょう。一人の人間のなかみが、まともにそれとして評価されることがなくなるでしょう。

にんき・にんずう・にんむ 人や物ににんきが集まるということは、ポピュラリティーの問題です。つまりどれ程のにんずうを獲得できるかの問題です。人が問題である場合には、たとえばにんきのある政治家ということを考えてみた場合には、その人が遂行しつつあるにんむは、得票数に比例して投票者の利益を代表していると言い切れるでしょうか。その人のにんきは、にんむ遂行能力や実績を表わすものなのでしょうか。にんきはあるが実のところ(隠れて)国益に反した行動を取るということだってあり得ます。マスコミの扇動で、にんきが先行してしまうことには、大きな危険があります。ポピュリズムには落し穴があります。また、ある「プログラム」が、どの程度そのにんむを遂行しうるのかと問うことは、にんきにたぶらかされないための判断基準になります。にんむは「使命」と言い換えてもよいでしょう。それはにんきのあるなしの問題ではありません。

ぬくもり・ぬけみち・ぬきさし 新自由主義、資本のグローバリズムは、ぬくもりのない社会を現出させます。派遣労働者のことを考えればわかるように、ぬけみち(他の選択肢)がなく、ぬきさしならない状態(身動きがとれない状態)に追い込まれます。その人から柔軟性(ぬきさしできる状態)が失われます。湯浅誠氏は「溜め」のない状態という言葉で、これを言い表わしています。いのちのぬくもりが感じられない社会には、ぬけみちがなく、そのような社会では、人はぬきさしならない状態に追い込まれるということができます。湯浅氏の言う「すべり台社会」では、一度落ちたら、二度と這い上がれないという傾向が強まり、切り捨てと排除の論理が幅を利かせます。セーフティ・ネットが主張され、ベーシック・インカム(すべての人が生存に必要な収入を保証される制度)が議論されても、現実はその逆を行っているように思われます。

ねうち・ねだん・ねらい これも一つの項目として書いたことです。利潤の獲得が唯一のねらいである社会では、交換価値(貨幣単位で表示される価値)が使用価値に先行します。何を売るかが問題ではなく、売れるかどうかが問題になります。また金融経済(利殖経済)が実体経済に優先することになります。あるもの(プロダクト)のねうちは、ただねだんの問題に還元されます。高ければ良いものだということになります。しかし経済が破綻しかかれば、デフレ・スパイラルが生じ、その逆の傾向が生れてきます。人々は安いものに群がるようになります。どこにねらいを定めるか(目標設定)ということが、ただ利潤の獲得でしかない社会では、何か大切なことが見落とされてしまうような気がします。

のうりょく・のうき・のうりつ 資本主義社会では、人間ののうりょくは、客観的な指標で測られます。一つはのうき(納期)、つまり仕事をいつまでに仕上げるかということが、非常に重要な意味を持ちます。ものづくりには締め切りがあって、あるものを丹念に時間をかけて仕上げるという名人業は、きわめて例外的で伝統的な職業にだけ見られるものになります。だから「正確かつ迅速」な生産という意味での「のうりつ」がものを言うことになります。正確でも遅いとか、速くても不正確ということは嫌われます。その点では、人間は機械に勝つことができません。小説ですら、人々が好む場面や筋をコンピュータでつなぎ合わせたものが、アメリカのドラッグストアで売られたりします。こういう社会では、人間ののうりょくの切り詰めが起ります。人間から夢が失われてしまいます。学校がこのような「のうりょく」観だけで教育を行なうとしたら、その結果、画一的で、精神の貧困な人間が生れてくるでしょう。言われたことを、その通り、できるだけ早く仕上げるということだけを求める教育は、結局は使いものにならない人間を生み出すだけでしょう。人間の「のうりょく」とは何であるかをよく考える必要があります。

ここに素描したような社会でたくましく生きていくのは、とても大変なことです。問題を考える鍵は「なかみ、にんむ、ぬくもり、ねうち、のうりょく」にあります。実質的価値がそこにあります。なぜならそこには「いのち」とのつながりがあるからです。なぜ人々が「生きにくい」、「生きづらい」と感じるかと言えば、今日の社会では、この「なかみ」以下のことが十分に考慮されていないからではないでしょうか。人間の生存よりも資本の生き残り(勝ち残り)が優先される社会では、人間的な「なかみ」が切り捨てられることになります。「なかみ」のある社会、人間が人間化される社会を実現するのはとても難しいことです。しかし「なにぬねの」のストラテジーを逆手にとって、もっと生きやすい社会をつくり出していくことは、今日の社会の重要な課題ではないかと思われます。


U 理想の空論 その2

理想の空論」で、現下の日本の、四つの困難な政治的課題について述べました。理想の空論としたのは、それを阻む勢力の強大さということが念頭にあったからです。繰り返して述べれば、@アメリカからの独立、A官僚支配からの脱却、B地方自治の確立、C産業民主主義の樹立の四点です。いずれも主権の本当の在り処は「人民」にあるという思想によっています。しかし既得権を持つ者たちはそれを手放したがらないという観点からすれば、この権力支配の現実は容易に覆るものではありません。ところがこの日本で政権交代が起って、少し様子が変わってきました。

植草一秀氏は「悪徳ペンタゴン」(悪徳の五角形)という言葉を使います。私の言葉で言い直せば、人民主権の原理を阻む勢力の正体は、@アメリカ帝国主義の世界戦略に従属し、この国をその支配下に置く者たち、Aこの国の明治以来の官僚支配を堅持したいと考える者たち、B従って人民主権の一つのあり方である地方自治を抑圧し、政治を国家主義的に一元化しなければならないとする者たち、C労働者の福祉を犠牲にしても、産業界をひたすら利潤の獲得をめざすべきものとし、それによってのみこの国が立ち行くと考える者たち、D上記の体制を正しいこととして、その宣伝の手段であるマスコミを最大限に利用する者たち、ということになります。いわゆる政官業外電の結託です。外(外国勢力)はアメリカ、電(電波)はマスコミを意味しています。

権力の実態がこの悪徳ペンタゴンにあるとすれば、それに少しでも逆らえば、権力闘争が生じてきます。検察と司法は人民の側に立つのではなく、この体制を維持するために存在しているようにさえ見えます。このような支配の体制が、政権交代によって少し崩れかけているというのが、今日の状況なのではないかと思われます。場合によっては、この国にとても大きな変化が訪れてくるのではないかと予感させるものがあります。

従って、我々としては、マスコミの宣伝に踊らされることなく、悪徳ペンタゴンの動向を批判的に見据え、この国がどこをめざして行くべきかを、人民主権の観点に立って考え、実行して行かなくてはならないでしょう。言い換えれば、悪徳ペンタゴンの行末は戦争であり、それに対抗する者たちの願いは平和です。それは依然として「理想の空論」であるかも知れません。しかし戦争に行き着くような国民統治のあり方に迎合しているだけでは、この国の未来に希望はありません。「友愛政治」を空論に終わらせないために、我々人民は、下からの地道な努力を求められています。


V 生命、情報、組織、環境

この世界が世界として現象しているとき、それは当然、人間にとって世界はかくあるものとして現れているということを意味しています。特に科学・技術の発達によって、人間は世界認識の強力な手段を獲得してきました。しかしそれによって人間が動物としての自己の本性を越え出てしまったわけではありません。特に今日では文明の発達と自然の破壊ということが、人々に深刻に意識されるようになってきました。この時代にいかなる世界の認識が求められているのでしょうか。そして、いかなる人間の世界が構築されていくべきなのでしょうか。膨大な、かつ分断された知識世界をいくら泳ぎ回っても、それに対する解答は得られそうもありません。そこでいかなる「視角(基本的視座)」でものを見るかということが大切になってきます。それについて最近触れた言葉で興味深いと思われるのは、「生命、情報、組織、環境」です。人間の世界を基本的に、かつトータルに把握するための視座として、それは有力であると考えられるからです。

生命(活動)、情報(記号)、組織(関係)、環境(場所)という視座によって得られる世界認識は基本的であり、また総合的です。そこからすべてのことを見ていこうとするとき、初めてそこに今日の世界像が獲得されるのではないかという思いを強くします。そのことが書かれている書物は、清水博著『生命を捉えなおす』(中公新書、1990年)です。増補が加えられる以前の初版は1978年に出ています。その本の全体を紹介することは私の手に余るので、「あとがき」だけを以下に紹介することにします。清水博氏は「生命関係学」、「場の生命論」を専攻している自然科学者で、東京大学薬学部教授などの経歴を持っておられます。なお、伊丹敬之著『場の論理とマネジメント』(東洋経済新報社、2005年)は清水氏の業績に大きく依存しています。

あとがき

生命、情報、組織、環境はそれぞれ大きな問題群です。しかもこれらは互いに関係し合っています。本書はこの四つの問題群を「生命的な関係の自律的な形成」という観点に立って総合的に捉えていこうとする立場に立って書かれています。

物質の法則が強く支配している細胞から、それでは理解できない複雑な人間の社会や組織まで、さまざまなレベルの多様な生命システムには、その特殊な性質以外に普遍的な「生きている状態」があり、このことはさまざまなシステムの情報処理のパターン(論理)に共通性があることを反映していると思われます。この「生きている状態」とはどのような状態だろうかと、私は心に思いつづけてきました。そして現段階でそれに答えるとすれば、「生きている状態にあるシステムは情報を生成しつづける」ということになるでしょうか。私はここに生命の普遍性、つまり物質レベルの法則性の上からは異なるさまざまな「生物」に共通する「生命の論理」の原点があると考えています。

技術畑では情報意味のキャリア(担体)のことを情報またはシャノンの情報と呼んできましたが、ここでいう情報は、このキャリアによって運ばれる情報の意味内容のことです。それはたとえば言語というキャリアによって伝えようとする話の内容に相当します。遺伝子の場合でも、DNAの分子構造というキャリアによって伝えられる意味内容があり、それにしたがって生物の遺伝形質が決まります。また大脳では、どのような意味内容を持つ情報がつくられるかということが問題の核心であり、これを避けては大脳の理解は進みません。

「生物」は情報のキャリアをつくりそれを使って意味を伝えます。そこで問題は、どのようにして意味とキャリアとがつくられ、どのように両者が結合されるかです。さらに意味とキャリアとは互いに依存し合っているかどうかも問題です。この情報の生成は生物的組織の創造性、柔軟性、発展性、老化と死などにも深く関わっています。その理解には、キャリアの生成を含めた「情報生成の原理」と(情報科学の分野でのニュートンの運動方程式に当たる)「情報の生成方程式」とが必要ですが、これらは現段階の科学や技術ではまだ明らかになっていません。そこでこの情報の生成の原理と論理をつかむために、「関係子とその集まりのダイナミックス」を考えていくのが本書の立場です。

大脳の新皮質の一般的な特徴として、ハイパーコラムと呼ばれる自律的な「ユニット・プロセッサー」を単位とする複雑な構造がありますが、さまざまな生命システムの中には、論理的性質ではこのハイパーコラムと共通性をもつ要素が存在しています。この論理的相似性をもつ生物的要素のことを、本書では関係子と呼んでいます。関係子はそれぞれ自律性と個性とを持って活動する能動的な要素であり、その集まり(組織)がつくる「関係の場」の中で「場の情報」として情報が生成されます。つまり「場」はさまざまなレベルの関係子の集まりが持つ「情報の生成装置」なのです。したがってこの「場」の中の関係子の活動を記述する非線形方程式から、上記の原理と生成方程式、そしてその解の法則的な性質が導かれる可能性が期待されます。場の重要な特徴の一つは、それが情報の散逸システムになっているということです。ミクロレベルの情報が絶えず生まれ、散逸されていきます。そしてその散逸の過程で一部の情報が統合されて、マクロレベルの情報が生成されます。これが場の情報です。

関係子の集まり(組織)では二種類の情報が生成されるというのが本書の主張です。第一は場の情報の生成で、これを関係の方から見ると、「場」の状態を各関係子に伝え、関係子が全体と調和する形で自律的に自己制御をするために必要な情報ということになります。第二は「意味とその境界を決める情報」の生成で、これによって「全体」の範囲が決まります。そして各関係子は場の情報(操作情報)によってこの全体に場所的振舞いを知ります。また境界の生成には、関係子の集まりを一つの巨視的関係子として含む「さらに大きな場」の中で生成される情報のフィードフォワードが必要になります。つまり意味の境界の生成を考えていくと必然的に「環境」にぶつかります。その環境は単なる物質的環境ではなく、トポス的または場所論的な環境です。ここで関係子群が新しい意味を生成しつづけるためには「複雑で開放的な環境」がつくられていることが必須の要件になります。本書は科学の立場から初めて意味という問題に迫っていく試みの紹介でもあり、実験や計算による論証性と論理の客観性とを大切にしながら、生命の側から「意味と知」を追い求めていくことになります。このようにしてロゴス的論理性とパトス的論理性(そして「西洋」と「東洋」)を融合する新しい知の発見の使命を自然に背負ってしまうところに、科学的アプローチをとる本書の大きな特徴があります。(後略)』

科学的で野心的な試みというものがあるとすれば、まさに本書に書かれているようなことを指すでしょう。特に注目されるのは、著者がその主張の「汎用性」を指摘していることです。第一章「背景となること」の最後には次のように書かれています。『さらに本書では、細胞(ときにはその下のオルガネラのレベル)から、組織、器官、個体、社会、生態系等に至るさまざまな系に固有の生きている状態が存在するという観点に立って、生きている状態の統一的な理解を考えてみようという立場を取ります。本書はこのように生きていることの共通原理を考えていくものですから、その結論や考え方は、さまざまの生命現象の理解ばかりでなく、身近な社会や政治や経済の問題にも応用がきくと思います。』

本書の立場は分子生物学のようなアトミスティックな生物の研究を評価しつつ、それだけでは「生きている状態」の解明には結びつかないとし、たとえば進化論のようなマクロな仮説には別のアプローチが必要とされるとしている点にあります。その科学的論証には、私のように自然科学にさほど親しんで来なかった人間には難解なところが多々あります。しかし、ゲシュタルト心理学プリゴジンの「散逸構造」などについての議論を含むその「総合的」なアプローチは魅力的であり、「生命の科学」についての広い展望を与えてくれます。特に私のように「理想主義的(観念論的)」にものを考えてきた人間には、そもそも人間とは何かということを見直すよい機会になります。「あとがき」で著者が掲げる「生命、情報、組織、環境」という視座は、宗教を捉え直す上でも有益ではないかと思われます。宗教の「社会的関心」(「キリスト教という神話」参照)とは、生物としての人間の環境への原初的で知的な適応の試みのことである、と見なすことも可能だからです。

なお、著者が構想する生命関係学とは「さまざまな種類の多義性を持つ要素(多様性のある性質を持つ要素)である関係子が互いに協力しあって、状況に応じて性質の異なる動的なネットワークをつくりながら、不確定な変化をする環境の中で自律的に自己制御をしていく原理を解明しようとするものです。その根本的な問題意識は、生命システムは環境の中で絶えず情報を生成しつづけるということです」と言われ、また「関係子自身が一つのミニシステムであり、新しい情報を生成する性質を持っている場合があります。このような関係子が集まると多義的な戦術ばかりでなく、多義的な戦略、多義的な目標をつくりだして行動することができるシステムをつくりことができます。私は、少なくとも、哺乳動物や人間の大脳には、このような性質があると考えています。この場合の関係子は単一のニューロンではなく、多種多様なニューロンからつくられた複雑なミニシステムです」とも言われています。そして、この「関係子」は、「日本で生まれた概念なので、その英語名がなく「ホロン」とも呼ばれていますが、これはケストラーが唱えたホロンと混同されやすいために、適切な名前があれば教えていただければと願っています」と書かれています。「あとがき」には中村雄二郎氏から「メディオン」と呼んだらどうかと提案されたとあります。しかし著者の記述から浮かんでくる「関係子」のイメージからすれば、素直にそれを「生成子(ジェネラティブ)」と呼んでもよいような気もします。この関係子(生成子)という概念は、ライプニッツのモナド(単子)を越える多産的な概念ではないかと思われます。なぜならそこに生命発現の基本的なシステムが示されているからです。


W 生成子の概念がもたらすもの

前項で清水博の『生命を捉えなおす』を取り上げました。生命、情報、組織、環境という概念が、そこでは基本的な視座を提供していました。そして「関係子」という言葉がキーワードとしての役割を果たしているのを見ました。私はその議論の全体を十分に把握するところまでは行っていません。しかしどうやら関係子という生命の仕組(システム)が、環境との関わりにおいて、自ら情報を生成し続けるという基本的な構想があると言うことができそうです。また私は、関係子は、「生成子(ジェネラティブ)」と言い換えることもできるのではないかと考えました。いわば生成子はジェネレーター(発生させるもの)の働きをしているということになります。しかし生成子をジェネレーターと言わず、敢えてジェネラティブ(a generative, generatives)と呼ぶのは、何かそれを発電機のようなものとして考えてしまうのを避けるためです。

この生成子という言葉を使うことが許されるとすれば、それは、これまで私が考えてきた「世界観的原図式」との間に関わりを見出すことができるのではないかと思い至りました。その「図式」とは、人間を原複合(優劣複合)・基礎集団(利益集団)・生活圏(市場圏)として考えてみるということなのですが、思想の側面から見れば、それは原論理・(観念の)核集合・感覚野ということになります。そして生成子は、この原複合、あるいは原論理である、と見なすことができるのではないかということに気づきました。

生成子は無数無限に存在して生命界を形成し、生物という現象を生じさせています。その中から人間が出現してきて、様々な思想までも形づくるようになりました。しかしその様々な思想というものも、決して無秩序に形成されてきたのではなく、例えば様々な宗教にもそれが生み出されてくる仕組が存在するのではないかと考えるのは、決して唐突なことではありません。仮に神話には神話の生成子(神話素と言うべきもの)があって、そこから種々の神話的な語りが生まれて来るとすると、ある特定の神話体系の神話素を見出すことは、とても重要になるでしょう。そして神話づくりに働く論理(原論理)はレトリックと深い関わりを持っているということができそうです。

清水氏の著書は、私に、宗教を含めて人間の思想をやがて科学的に解明することができるのではないかという希望を抱かせます。しかしそれはアトミスティックな還元論に陥ってしまうようなものではなく、「生きている状態」を総合的に把握することができるような、新しい研究法の開発を伴うべきものです。そのとき、この生成子という概念が、どこまで主導的な役割を果たすことができるか、まだ不分明です。しかしそこに重要な手がかりがあると言うことはできそうです。


X 三一学の構想

かつて、私は三一学なるものを構想していました。それは身のほど知らずの願望の一種であって、神学・哲学・科学の統合学習というほどの意味でした。神学なるものが真理探究の学として前提されるとしても、それは哲学や科学の研究と矛盾せず、三者は一体のものとして成り立つべきはずのものである、と考えたからです。しかし今から思えば、それは神学なるものを否定する結果以外のものをもたらしませんでした。だからと言って、あのカール・バルトのように、神学が自律的な学問として成り立つと主張することも、もはや不可能であると言うべきでしょう。我々は、賀川豊彦のように、断固として、「神学はいらない」と言うべきなのです。

しかし三一学を、仮にTrinitarian studies of Christianity and all disciplinesと言い表すとすれば、すなわち、キリスト教とすべての学問の「三一論的」研究とするならば、それは別の意味でなお可能であろうと考えます。その場合、「三一論」とは、これまでこのホームページの諸処で試みて来たように、概念構成の方法を意味しています。つまり、それは、ある種の弁証法というべきもので、便宜的に、三角形で表示される、三分肢の(概念の)枠組みを作ってみるということを意味します。例えばこのページの最初に示した「なまえ、なかま、なかみ」のようなことです。人間の思考形式として、二分法から三分法へという図式の展開があり、それは物事を整理する上で、ある程度、役に立つのではないかと考えられます。その発展の一形式が三、三、七の「TH図」になります(「哲学の区分」参照)。この「三角形で考える」方法は、あくまでも思弁的であって、実証的なレベルで何も付け加えるものを持ちません。情報整理の上での一つの工夫と考えられるべきものです。

そもそも、今日、哲学という学問は、情報整理以上の意味を持ちうるでしょうか。膨大な知識の海の中で、ある種の指針を得る方法が哲学であると言えなくもありません。絶対の真理などというものはどこにもなく、その都度、我々にとって真実と思われるものを確認してゆくことが出来るだけです。個別科学の着実な研究の成果がなければ、学問なるものは発展することができません。「信仰」が壮大な世界観を与えてくれるように見えたとしても、それは幻想であって、私自身、その幻想にさんざん振り回されてきたという面があります。人間はある種の「信念」がなければ生きてゆくことが出来ません。しかしそれは、必ず何かの宗教を信じなくてはならないということではなく(信じたければ信じてもよいのですが)、むしろ人間は信念なしには生きてゆけないから、「信仰」も生まれて来るのだと考えるべきことのように思われます。

そういうわけで、私の「三一学」の構想は、初めに考えたものとは違って、大きく崩れてきました。赤岩栄牧師は『キリスト教脱出記』という本を書きました。私も私なりにこのホームページでキリスト教からの脱出を試みてきたと言えます。しかしそこには「無信仰の信仰」(関根正雄「聖書の信仰と思想」参照)と言うべきものがあって、私が何か懐疑のどん底に沈んでいるという意味ではありません。特定の宗教を意固地に信じるという心理状態から次第に解放されるのは、決して「悪い」ことではないと思います。

イデオロギーと言われるものには何かそういう面があって、それは宗教を名乗らなくても、例えばマルクス主義者の心理状態などにも見られることではないかと思います。「信念」は大切ですが、それは必ずしも教条主義的になることを意味してはいません。人はそういう心理状態に陥りがちだということを自ら戒め、自分にできることをその都度実践していくのが、目下のところ私の生き方の目安であると言うべきでしょう。


6 ソーシャル・グループワーク

私は自分の書斎での営みを勝手にFIR(自由宗教研究所)と名付けたのですが(FIR・ACORN参照)、その関心の裏側には常に社会問題が存在していました。人間に宗教がつきまとうのは、人間の精神の根底に「信」があって、社会事象にはいつも、信じて従うか、疑うか、あるいは裏切るかという問題が介在してきます。だから、宗教を研究するということは、常に人間の社会の成り立ちを研究するということに結びついてきます。

人間の社会は、一般に生物の社会に共通する側面や類人猿の社会行動から示唆される側面があると共に、人間が文化を持っているために生じて来る固有の側面があります。人間が何かを信じる動物であるということは、文化による自然からの乖離に関係しているのではないかと思われます。そこから人間の行動には、動物にはない創造性が見られると共に、常に自分の行動を根底から支えるものを求めるという特性が生じてきます。だから人間の社会行動は、他の動物とは違って、意識と言語を介して、常に不安定な状態のうちにあると言ってもよいでしょう。人は何かしら拠り所を求めざるを得ない存在です。

宗教を研究するということは、人間の社会的集団行動(ソーシャル・グループワーク)を研究するということを、同時に意味しています。この場合のソーシャル・グループワークということは、グループワーク(小集団活動)の特定の技法を意味するのではなく、人事全般、すなわち人間の社会に関わるすべてのことを意味します。人間は自らの社会行動を意識化しなくてはなりませんが、それは自らの行動をソーシャル・グループワークとして意識化することを意味するでしょう。ソーシャル・グループワークを、そのように、人間の社会的行動の意識化・対自化のことであると広く考えてみれば、その概念は包括的であり、有意味とされる人間のすべての行動を含むことになります。

ある特定の時代の宗教の研究は、必ずそれを担った人たちのソーシャル・グループワークを研究することを、同時に意味することになるでしょう。宗教社会学という学問はまさにそのような問題意識から生まれてきたように思われます。しかしその研究は、マックス・ウェーバーのような知的巨人によってのみ遂行されうるものでしょう。

ここで我々がなすべきであるのは、そのような広範囲にわたる研究ではなく、企業でも、政党でも、サークル活動でも、自分が所属する団体の活動をソーシャル・グループワークの観点から見直してみるということです。そこにいかなる力学が働いているかを対自的に捉え直してみるならば、そこから大きな利益が得られるでしょう。経営学という学問は、そのような試みの一つであって、「会社」の経営にだけ限定して考える必要はありません。家庭の経営学があってもよいし、サークルの経営学があってもよいのです。そして、その理解が深まれば、それは有史以来の人間の行動様式に結びついていることに気づかされる筈ですし、自分が何をしているかについての理解が深められるでしょう。

現在、賀川豊彦の「人格社会主義の本質」の紹介の作業を続けています。その中で賀川が強調している「社会連帯意識性」も、ソーシャル・グループワークの観点から捉え直してみるべきではないかと思われます。いきなり「社会連帯意識」を持てと言われても戸惑いますが、それはそもそもソーシャル・グループワークが成立つための精神的契機であると考えれば、接近しやすくなるというものです。

私は長年YMCAの主事として働きました。YMCAでは、過去にソーシャル・グループワークのプログラムが強調された時代があります。それはグループワークの技法という、限定された意味での理解の仕方であって、社会的現象のすべてをそこから捉え直すという意味ではありませんでした。しかしそれは民主主義的な社会を形成するための基礎づくりであると信じられていました。

宗教も、政治も、経済も、人間のソーシャル・グループワークであることに変わりはありません。そこにどんな行動様式があり、いかなる争いや競い合いがあり、また解決の手段として、いかなる方法が採用されているかを見れば、その社会の様子をうかがい知ることができます。検察や裁判所や行政組織や、マスコミまでもが、かなり「偏向」しているのではないかと疑われている今日、そのソーシャル・グループワークの実態を突き止めて、よりよい方法に改めて行くことが求められています。

猿の社会と変らないボス支配が今日も続いていると言うのであれば、人間には人をだます知恵が与えられているだけに、より悪質な社会が生まれて来るでしょう。猿のソーシャル・グループワークではなく、人間のそれであると言われるためには、一体、そこに何が付け加えられなくてはならないのでしょうか。


Z 構えと人生

この頃、世の中に生きるのは「構え」の問題だと感じています。人には様々な構えがあります。宗教家としての構え、学者としての構え、商売人としての構えと、人は構えることによって、それぞれの課題をこなしています。構えを取り去ったら、人には何が残されているでしょうか。自然体という言葉がありますが、自然流(じねんりゅう)に生きているのは、幼児か老人か、それともなければ余程の達人でしょう。虚構という言葉があるように、構えにはどこか「わざとらしさ」がつきまとうものです。

構えに関連する言葉を広辞苑で調べると、次のようにあります。

かまえ【構】@つくり。くみたて。構造。A組立てて作ったもの。特に、屋敷。Bかねて用意すること。支度。準備。C江戸時代、一定地域から追放し、立入を禁止する刑。Dこしらえごと。また、計略。Eみがまえ。身体のそなえ。ことに、武道の姿勢。また、すべて言行のそなえ。F漢字の部首の名称。「くにがまえ」、「もんがまえ」などの類。

きがまえ【気構】何事かを予期して心に待ち受けること。用意。心構え。

こころがまえ【心構】心にかけて待ち受けること。心の用意。覚悟。心がけ。

みまがえる【身構える】敵に対して、迎えうつ姿勢を整えてかまえる。

いえがまえ【家構】家の造り方。やづくり。

もんがまえ【門構】門を構えつくること。また、その門の様子。「門構えが立派だ」。

みせがまえ【店構・見世構】店の構え方。商店のこしらえ。

こうして見ると、「構え」には英語のposturereadinessと共通する意味もあるようです。手元の英和辞典には、postureの意味として、@姿勢、ポーズ、A心構え、態度とあります。また動詞の意味としては、〔しばしば悪い意味で〕(気取った)姿勢〔ポーズ〕をとる、気取る、と書かれています。readinessの意味としては、@準備〔用意、支度〕ができていること、A進んですること、Bすばやいこと、敏速、容易、とあります。

人は何者かとして「構えて」生きて行かざるを得ません。構えがなければ一家をなすことはできません。しかしその「構え」にはどこか本物でないという「うさんくささ」がつきまといます。「白く塗りたる墓」(マタイ23:27)と言うほど極端でなくても、外側はさも美しく、内側は醜いということは、誰にでもあることのように思われます。構えなしには生きて行けませんが、その構えはしばしば人を裏切ります。せめて看板をいつわらぬ商売をしようと努力することが、プロフェッショナルとしての人の望ましい生き方であると言うべきでしょう。政治家も、ジャーナリストも、官僚も、国民を裏切ることに痛痒を感じていないのではないかと思われる昨今、その「心構え」に疑義を呈することは、我々国民に欠かすことのできない心がけではないかと思われます。


[ JAPな生き方

JAPと言っても、Japanese(日本人)の「蔑称」ではありません。Journalistic, Academic and Politicalの「別称」です。誰しもが何ほどかジャーナリスティックであり、何ほどかアカデミックであり、そして何ほどかポリティカルです。しかしインターネットの普及によって、その可能性が飛躍的に増大したのではないでしょうか。インターネットは仮想的、あるいはヴァーチャルな空間ですが、その情報伝達の迅速性、相互性によって、人の意識に効果的に働きかけます。誰でも自分のブログを開いたり、ツイッターに登録したりすれば、その日から、単に情報を受け取る人ではなく、同時にほかの人に情報を伝達する人になることができます。現に見られるように、インターネットはあらゆる方面で利用されていますが、私が特に注目しているのは「JAP」の領域です。

新聞を購読しなくても情報に接することができ、本を買わなくても相当の知識を取得することができ、また政治的な集会に参加しなくても、種々の政治的な状況を把握し、自分の意思を表明することが、インターネットによって可能になりました。いわゆるマスコミもかなりの程度それを実現してきました。しかしインターネットは情報伝達の手段として、従来の新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどに比べて、その迅速性、双方向性、オーディオ・ヴィジュアルな総合性、各人の参画度という点で、技術的に飛躍的な進歩を遂げています。こんなことはかつてなかったことであり、その影響力にははかり知れないものがあります。人類は印刷技術、電波送信技術に加えて、コンピュータによるデジタルな情報処理技術を手中にしたのです。しかもそれは世界中に広がっています。

仮にインターネットによって切り開かれた社会を a virtual JAP society と呼ぶとすれば、それに参加する人たちは、単に意識の上で影響を受けるだけでなく、それは行動の面にも現われてくるのではないでしょうか。現に検察の動きやマスコミの報道を批判して、小沢一郎氏を支持する昨年来のデモなどは、インターネットがなければ考えられなかったことでしょう。まだその影響力はきわめて限定的であるとはいうものの、今後の可能性の問題として見れば、それがどこまで広がっていくか、はかり知れないものがあります。

なだいなだ氏は「老人党」というヴァーチャルな政党を立ち上げました。それは画期的な試みでした。しかし現在の状況はさらに進展しています。「JAPソサイエティ」はさらに拡大しています。もっと多くの人びとがインターネットを通じての「JAPな生き方」を身につければ、現実の社会も確実に変わっていくでしょう。私としてはそれが世界平和の実現に貢献するものであることを願いたいと思います。伝達される情報が虚偽ではなく、事実である限り、人びとは決して戦争(他国の人を殺す行為)ではなく、平和に向かって行動するはずだと信じているからです。


\ 歴史的現実の七つの因子

今日の日本の「歴史的現実」というものを考えようとするとき、植草一秀氏が唱えている「悪徳ペンタゴン(悪徳の五角形)」はなかなかに示唆的です。それは既得権益層の悪徳をえぐり出すためのもので、五つの勢力からなるとされています。すなわち氏は政官業外電の五つの層を摘出します。政(政治)、官(官僚)、業(財界)、外(外国、アメリカ)、電(電波、マスコミ)が、既得権益層として国民の生活を圧迫しています。その考えをさらに展開するために、私は持論である「TH図」をここにも適用してみようと考えました。そこから「悪徳ペンタゴン」ならぬ「七つの悪徳」を考えることができるかもしれません。そのとき残る二つの層は何であるかと言うと、それは宗教と教育になるでしょう。これをTH図に当て嵌めるならば(「哲学の区分」など参照)、A 宗教、B 財界(経済)、C 政治、D 教育、E マスコミ(報道)F 官僚、G 国家(アメリカに従属する国家)となります。いわば、その七つの因子が、歴史的現実を規定しているのではないかと考えてみました。

それを私なりに捉え直すと以下のようになります。

宗教:宗教についてはこのホームページで種々考えてきました。取りあえず、宗教とは根本的理由(fundamental cause, primary cause)あるいは大義(cause)に関わるものとすることが可能でしょう。禅仏教はこれを「無」と捉えますが、それをも含めて人間の生の根本的理由に関わる事柄を宗教とみなすことにします。しかし見方を変えれば、宗教を人間の帰属に関わる問題であるとすることも可能です。トーテム社会以来変わらない人間の本性として、人間は必ず何かに帰属しなくては生きていけない存在であるということがあります。家族、部族、村落に始まって、国家や種々の組織、また性、人種、言語、職業、門閥、階級など、人の所属は区分の仕方によって多様に分かれます。しかし宗教ほど人の所属を根本的に決定するものはありません。もちろん現代では無宗教の人も沢山いますが、それもまたその人の信念体系であると考えるならば、そこに宗教と同じ働きを見出すことも可能です。人間には居場所があり、処を得ることがその人の信念と密接に関わっているとみなすことができるでしょう。アブラハムは「行き先を知らずして」家郷を離れました。しかしそれは「神の約束」に従って決行されたことでした。そこに重要な意味があります。寄る辺がない生も何かに根本的に依拠することによって意味が与えられます。既成宗教は今日人々に根本的な満足を与えるものではなくなりつつあります。それでもなお諸宗教が力をもつのは、それが生の意味に関わることだからでしょう。しかし、一旦何かの宗教に帰属すると、人は逆にそれによって拘束されるようになり、そこからしかものを見ることができなくなります。過去に国家神道が力を揮ったのは、明らかに天皇制が宗教の役割を負ってしまったからです。大和魂が強調され、人間の多様な生が消去されてしまいました。宗教によって問題が根本的に解決されるのではなく、人を活かす宗教が、同時に人を殺すものでもあるということを肝に銘ずべきです。特に宗教が反動的に政治的な意味をもってしまうことに、大いに警戒心をもつべきであると言わなくてはなりません。

経済:人間の生は何かを所有することによって保証されます。経済という交換の行為も、所有があってこそ成り立ちます。そして所有が貨幣に代置される資本主義社会では、貨幣を持つことによって、初めて何かを取得する権利が生ずるということが大きな比重を占め、金を持たなければ何もできないという状態が一般化します。しかも貨幣が利子を生み出し、投資が利潤をもたらすことによって、貧富の格差が助長されます。利率が抑制されている現在の状況では、金融取引に代る、様々な形での投機的な衝動が人々を動かしています。戦争ですら経済活動に組み込まれ、生産が増大すれば、環境の破壊や資源の枯渇といった弊害ももたらされます。交通渋滞によるガソリンの消費量の増加でさえ、GDPの数字を押し上げます。そのようなまるで癌細胞のような経済活動の自己増殖性が問題にされてきましたが、人々はなお「景気の回復」に期待をかけています。環境の保全すらビジネスの対象となり、経済成長によってのみ問題が解決すると未だに信じられています。科学技術の研究も経済効果という観点でしか評価されない傾向が一般化しています。そして今日では失業、倒産、派遣労働というような社会問題が多発し、日本だけでなく世界各地で政情不安をもたらしています。所有とは、要するに既得権の問題であるということを、この頃強く感じさせられます。だからこそ、その既得権に属さず、それをこれから獲得する機会を待つだけの若い人たちが、不況のときにはその機会を狭められ、不利な境遇に置かれることにもなります。いわゆる世代間格差が不可避的に生じてきます。

政治:政治は統治(governing, ruling)の問題です。そして国家の統治は官僚と軍隊(警察)による統治という側面があるのを見逃すことはできません。「法治国家」においてその統治は、合法的に、すなわち法に則ってなされるという建前があります。その建前が、まさに建前でしかなかったことが、この間の日本の政治的状況において明らかになってきました。政治主導は名ばかりで、官僚による統治がその実態であることが暴かれてきました。また検察の横暴とそれを裁判所が追認することによる冤罪のケースも、数え切れないほど存在するのではないかと疑われています。そして何よりも日米同盟の名のもとに日本の政治的権力構造が二重権力化していることに、特に政権交替以後の民主党の変節によって多くの人々が気づき始めました。普天間基地の移設やTPPの問題はその典型的な事例となっています。属国という言葉が使われますが、いわば日本はアメリカの半植民地とされており、自己決定権を大幅に奪われています。仮にエジプトのように民衆が蜂起すれば、米軍基地の存在は、日本の民衆にとって最大の脅威となるでしょう。米軍基地はほかならぬ日本にとって敵対的でありうるという現実が隠蔽されてきました。しかし日本の独立にとって、日米同盟という傘は、日本という国家の支配の構造を形づくっています。独立していない国家は決して民主的ではありえず、いびつな支配―被支配の構造が生れて来るということを認識すべきでしょう。財務省が主導する消費税の増税政策は、何よりもそのいびつさを物語っています。大企業だけが得をしても、民衆は益々疲弊してしまうからです。政治は決して国民の生活を第一に考えているわけではないということが、すなわちこの国の支配の構造を照らし出していると言うべきでしょう。

教育:教育は同化(社会化)のプロセスです。従って教育は学校だけに限定された事柄ではありません。学習の機会はあらゆるところに存在します。しかし近代社会においては、高度に発達した複雑な知識を習得するために、学校が必要とされています。学校教育は、一人の人間が社会に出るために避けては通れないものとなっています。その学校教育を、国家(すなわち国家=資本複合体)の要請に応じうるものとすることが、民主主義教育の対極をなすものとして再び浮上してきています。学校の式典における国歌・国旗の問題は、教育もまた上意下達の国策遂行の一環として位置づけられるべきであるという、為政者の強い意志の現われです。学習者中心の教育観は廃棄され、ひたすら国策に同化する人材の育成が望まれています。しかしそれは学習者に自ら考えることを放棄させるもので、ただ上から与えられる知識を受け入れ(パウル・フレイレの言う銀行型教育)、上から示される指針に素直に従う人間の育成が望まれていることを意味します。学校は「小国民」を育成する場所で、それ以外の選択肢は存在しないかのようにみなされることになります。学校がまるで軍隊の教練を行うような場所となります。このような教育がいかに危険で、自滅的であるかということは、既に実証済みのことと思われます。しかし為政者にとっては、それ以外の選択肢は考えられないものとなっているのでしょう。教育の世界でも民主主義は名ばかりのものとなっており、学習指導要領が権威を持たされて教師と生徒の上に覆いかぶさっています。特に国家主義的な歴史教育・公民教育が復活しつつあることに注意を払うべきでしょう。学校教育は再び危機に瀕しています。「日教組」がなぜ敵視されるかと言えば、そのような国策遂行の教育観に逆らう存在とみなされているからです。

報道:言葉は人間をどちらかへと導きます。言葉は人間を誘導すると言うこともできます。道に迷ったとき、他人の助言は大きな助けとなります。しかしその言葉が常に正しいとは限りません。報道は、世界で起っている情報を伝えますが、そこにも編集という取捨選択が働いていて、伝えられる情報が常に正しい指針を与えてくれるという保証は、どこにもありません。近頃、マスコミが「マスゴミ」などと言われるのは、その編集方針が上からの情報を垂れ流すだけで、決して中立公正ではないということが明らかになったからです。巨大なメディアがスポンサーや広告主によって支えられている以上、その報道が常に公正であるということはありえないことです。偏った情報提供がなされるということは十分にありうることです。この間インターネットが大きな役割を果たしてきたのは、マスコミの情報を是正批判する働きをしているからです。編集されない生の情報はそれだけでは人を正しい方向に導くとは言えませんが、マスコミによって与えられない判断材料をいち早く提供するという意味で、今後はさらに重要な意味を持つことになるでしょう。マスコミの誘導に乗らない、乗せられないという、自主的な判断の材料になるものとして、これからはさらに重要な意味を持つことになるでしょう。情報革命という現に起りつつある事態は、権力の情報リークを民衆の情報リークに切り替えていくという「情報戦争」を惹起します。ウィキリークスはまさにその象徴です。そして旧来のマスコミは権力の監視下にあるものとして、益々不審の念をもって見られることになると思われます。

官僚:古代国家の成立とともに、既に官僚による国家の統治は存在し始めたと言えます。官僚制は国家の神経組織のようなもので、それは巨大な組織の管理が重要な意味を持つにつれて、あらゆる組織に浸透する一般性を持つに至ったと言うこともできます。その意味で、管理社会の存在は社会の官僚制化を意味するものとなります。従って「官吏は管理である」という側面があります。この組織の管理という経営の課題は避けては通れないものです。しかし官僚制は権威主義を随伴することによって硬直化する傾向を持っています。それは社会の足枷になってしまい、社会変化に即応できないものとなります。管理は基本的には事物の配列(arrangement)に関わるもので、managementの基礎はarrangementであると言うことができます。そして一旦成立した組織形態は、インフラストラクチャーとして、その社会のあり方を決定づけます。社会の構成員の多様性が一元的な管理のもとで規律化され、抑圧的なものとなります。官僚制の行き着く先は、個々人がコード番号で呼ばれ、行動が定められた規則によって束縛される社会です。行政の「許認可権」が社会の隅々にまで行き渡り、個人の自由はきわめて制限されたものとなります。軍隊の隊列のように、命令のもと、全体が「右へならえ」する社会を考えれば、極端な官僚制化が意味するものを理解することができます。たとえ民主主義社会であっても、この官僚制化または管理社会化を避けて通れないとすれば、今日、その仕組をいかに柔軟なものにしていくかが問われています。官僚主義は人々の創造性に逆らうものであって、決して社会の進歩を約束するものではありません。それは社会の形骸化をもたらします。

国家:今日の世界は「国家」という体制のもとにあります。国家は他の国家に対峙して、互にその力を競い合っています。社会の諸力は国家に集積(integrate)されます。国家の体をなさない社会集団は、部族社会のような特定集団として周辺化され、それもまた国家の支配下に置かれています。国家は、上に略述してきた宗教、経済、政治、教育、報道、官僚を束ねる存在であって、国連のような国家を越える国際機関も、強大国の存在とその拒否権によって十分に機能してはいません。国家間の競合が今日の世界の現実を規定しています。そして日本という国家は、第二次大戦に敗れた結果、アメリカの支配下に置かれ、未だに独立を果たしていません。米軍基地の存在がそれを如実に物語っています。現在のTPPの問題は、単に軍事的でなく、経済的にも、日本がアメリカから独立し得ない国であることを示すものでしょう。今日の日本の体制(レジーム)は、そのようなものとして目の前にあります。社会の歴史的現実は複雑であって、単純には規定できないものですが、このようにそれが「七つの因子」によって構成されているとみなしうるなら、ある程度の見通しが与えられるのではないでしょうか。しかしその歴史的現実は個人の手では動かしようがない巨大さと複雑さとを持っています。仮にそこに「七つの悪徳」をみるとしても、その是正の方途は容易には見出されないでしょう。人類が国家を越え、世界の平和を実現する体制を構築していくには、なお多くの努力と時間とが必要とされているというほかはありません。しかし国家を越える文明の構築こそ人類の課題であることは確かです。

homepage