閑老人のつぶやき 思想について

T 教育実践の根幹にあるもの
U 社会のゆがみ
V 人称圏(言説空間)

W 階級というセグメンテーション

X 権力と対抗勢力のSPOT分析

Y 出入り自由な空間はない
Z 学習のサイクル
[ 学習の三要素
\ 野蛮な文明
] 判断論
T 教育実践の根幹にあるもの

1.国家中心、資本中心の教育観から学習者中心の教育観へ

「時事について」のページで、教育基本法の「改正」の問題を取り上げました。国家中心、資本中心の教育観が押しつけられようとしている今日、それとは対照的に、英語教育の世界で学習者中心learner-centeredness、学生中心student-centerednessということが言われてきたのを思い出します。元サンフランシスコ州立大学教授、トマス・スコーバル氏の英語教育の七つの原理(私なりにリアレンジしてあります)を参照させていただくと、次のようになります。

@     学習者中心 learner-centeredness、学生中心 student-centeredness
A
     コミュニケーション能力 communicative competence
B
     社会的相互作用 social interaction
C
     文脈化 contextualization
D
     反省的学習 reflective learning、誤りに自分で気づく self-awareness
E
     学習のスタイル learning styles 生活のスタイル life-styles
F     聴くことが土台である listening as foundation

学習者中心原理とは、教師にとって何をどう教えることが教えやすいかということでも、ましてや国家や資本にとって何をどう教えることが望ましいかということでもなく、先ず学習者のwantsやneedsを教育の中心に据えるべきことを意味しています。学習者の成長と置かれた環境に応じて変化するwantsやneedsに焦点を合わせなければ、教育はただの押しつけに転じてしまうのではないでしょうか。

その上で、学習者の他者とのコミュニケーション、社会的相互作用、ならびに学習者が置かれた環境における学習単位の文脈化が、学習活動として展開されることになります。同時に、学習活動の個人的側面として、誤りを一々指摘されるのではなく、その誤りに自分で気づくこと(反省的学習)、また自分の学習のスタイル(たとえば聴覚型・視覚型・運動感覚型、書斎派・フィールド派等々)を知り、意識的にそれを強化したり、時には他のスタイルを取り入れたりすることが奨励されるでしょう。しかし聴くことが言語習得の土台であることが忘れられてはならないでしょう(言葉の四つのスキルは、母国語だけではなく、本来は外国語でも、聞く→話す→読む→書くの順で習得されるべきものです)。

以上は英語教育の原理として考えられたものですが、一般化すれば他教科にも転用できるものではないかと思います。そしてこれらの原理は強制や押しつけがいかに教育になじまないものか、押しつけとしての教育は、実は非育 dis-education、失育 mis-education に過ぎないということを示唆するものではないかと思います。

2.差別・選別教育(競争的学習)から協力的学習へ

ジョン・デューイは「(学校での)ほとんど唯一の成功の尺度は、その言葉の悪い意味で、競争的なそれである…。これが徹底して行き渡った雰囲気となっているため、ひとりの子がもうひとりを助けるのは学校犯罪となってしまった。学校の仕事がただ学業成績のうちにあるならば、相互扶助は、協力と連携の最も自然な形態であることの代わりに、ある者の隣人をその固有の義務から解放する内密の努力となる」と言っています。要するに、これはカンニングのことです。

学校文化を、競争的学習を助長するものから、協力的学習を促進するものへと変えることは、大変難しい問題ではないかと思います。なぜなら学校を取り巻く社会環境がきわめて競争的だからです。しかしその困難な問題に取り組む学校や研究者が世界中のあちこちに存在しているということも事実です。

デイビット・E・クルーギー教授は、その論文「外国語の授業における共働学習」において協力的学習(グループワーク)の基本要素として、以下の七つを指摘しています。

@グループの自律 A責任 B相互作用の諸構造 C積極的相互依存 D社会的スキル(タスク・スキルとメンテナンス・スキル)E配分されたリーダーシップ Fチームづくり

その一々の内容を取り上げる余裕はありません。しかし私がここで指摘したいのは、教育学で研究されるグループワークの理論は、単に教室内で実験されるべきものではなく、社会形成の原理として一般社会に適用されるべきものではないのかということです。学校と社会との間の大きなギャップが埋められないままで、学校でどんなに先進的な教育が行なわれても、その効果ははなはだ心もとないと言わなくてはなりません。

特に国策を遂行する手段としての教育が、上意下達の学校管理、学習指導要領・教科書の強制を必然化している今日、そもそも「先進的」な教育理論などを実践する余地は全くないのではないのかという思いにとらわれます。学校文化の変革は、教育労働者である教師自身の教育観の樹立、団結と抵抗、および父母・地域社会の理解と協力がなければ達成不可能であるということに加えて、そもそも国家あるいは行政がそれを望んでいないというとてつもない障壁が立ち塞がっています。

労働者中心・生活者中心・学習者中心の社会は、遠い未来の目標として、益々視界から遠ざかっているように見えます。しかしそのままの状況が推移すれば、子どもたちはますます、温もりがなく、抜け道がなく、抜き差しならない状態(三つの「ぬ」が欠けた状態)に追い込まれていくのではないでしょうか。それは「心」と「体」の死を意味しています。


U 社会のゆがみ

いつの時代でも人間の社会はゆがんでいます。そのゆがみを上に述べたこととの関連で三つの観点から指摘したいと思います。

1.コミュニケーションの偏向

人々はマスコミを通じて世界の現実に接していると「思わされて」います。しかしこの間多少なりと社会運動に関わってきて、マスコミがいかに伝えて欲しいと思う情報を伝達しないものであるか、逆に権力者の思惑通りの情報を伝えたがるものであるかを知り、そこには明らかに偏向があると考えるようになりました。

コミュニケーションがなければ、人間の社会は成り立ちません。人々が自分の判断の拠り所とするものはコミュニケーションによって獲得されます。コミュニケーションによって獲得される判断の拠り所には様々なものがあります。マスコミだけではなく、自分が所属する宗教教団の指導者であったり、仲間内で一目置かれている人であったり、学校の教師であったり、親兄弟であったりします。それらを権威と総称してよければ、人間のコミュニケーションには権威が介在していると言うことができます。人々がそこに信を置くことができるという意味で、権威は人々によって承認されているものです。しかし同時にそれがコミュニケーションの流れをつくりあげ、いつしか人々の判断を規制するものとなります。

コミュニケーションの偏向は人々が判断の拠り所として承認する権威によって生まれてくると言えます。そして権力者が宗教を治世に利用したがる理由は、宗教的権威によって人々の判断を方向づけることが容易になるためではないかと思われます。

コミュニケーションのもう一つの側面として、象徴(シンボル)の共有ということがあります。キリスト教の十字架、ナチスのハーケンクロイツ、日本の日の丸、社旗社章と様々ですが、シンボルを共有することによって、人々がある特定の集団への帰属意識を持ち、それによって集団内部のコミュニケーションが促進されます。その意味で人間はトーテム社会から少しも変わっていないのではないかと思わされます。シンボルは差別化の働き(自分たちを他の人たちから区別する働き)を持つと言う意味で、どうしても排他的になります。シンボルを目立たせ、集団内部のコミュニケーションの促進をはかることは、その集団に属さない人たちとの違いを際立たせるという効果を持ちます。

首相の靖国神社参拝は、それによって国民意識を統合しようとする内政的な企図であるのかも知れませんが、どうしてもそれは近隣諸国を刺激するという外交問題を惹起します。それは国内のコミュニケーションの問題としても極めて重大な偏向をもたらすものです。しかし同時にそれが外交問題として、コミュニケーションの甚だしい障害をつくりだしてしまうことは、この間の経緯によって明らかです。

2.社会的相互作用の収束

自民党の憲法改正案などで、国民の権利だけではなく、義務が明記されるべきであると主張されています。一般論としては、権利は義務を履行することの対価として社会的に配分されるものであると言うことができます。しかし人並みに義務を遂行していても、権利は平等に配分されていないということの方が問題ではないでしょうか。たとえば正社員と非正規社員との間では、同じ仕事をしていても給料が違うという問題が指摘されています。またたとえ権利が与えられているとしても、その権利を行使する機会が限定されているということも問題にされるべきでしょう。たとえば男女の雇用機会が均等に与えられるべきであるという法律があったとしても、実際問題としてその機会が平等に与えられてはいないという現実があります。

憲法は国民の義務を定める法典ではなく、国民の権利を守るために権力者の義務(権力行使の限界)を定めるものであるという近代憲法の前提が崩されようとしているのは、見過ごすことのできない重大な問題です。しかしここで私が指摘したいのは、社会的相互作用の結果として、持つ者、強い者に権利が厚く与えられ、持たない者、弱いものに薄い権利と重たい義務が課される傾向が厳然として存在するという事実です。

新自由主義とは臆面もなく資本家の権利を擁護し、労働者の権利を抑圧する体制ではないでしょうか。社会的相互作用の結果として、権利は強い者に収束し、義務は弱い者に収束するという人間社会の傾向性が、再び露骨に表面化しつつあるように思われます。

3.文脈化の権能

過去の時代を振り返れば、歴史は常に権力者によって編纂されてきたと言うことができます。昔アメリカで、historyとはhis storyであって、her storyではないという話を聞いたことがあります。今、自分が置かれた状況をどのように文脈化するかということは、人間の物語能力 narrative competence に関わっています。しかしそこでも強い者による文脈化が弱い者による文脈化を圧倒するという傾向が見られるのではないでしょうか。私は歴史を基本的にこの文脈化の問題として捉えています。

家永三郎以来の教科書検定の問題は、歴史を誰がどう表記するのかという問題に関わっています。国家が国史をつくり上げるのであって、自虐史的な教科書は子どもたちに教えられてはならないと、文部科学省や自民党の代議士は考えているようです。

民衆は自分の置かれた状況を自ら文脈化する権能を持つという、言ってみれば当然の権利が抑圧されています。私たちは権力者にとって都合の良い歴史を押しつけられるという切迫した状況に立たされています。「新しい歴史教科書」が提起する問題は、まさにそこにあるのではないでしょうか。

 

V 人称圏(言説空間)

社会空間を言説空間として捉えた場合、それは無数の人称が織りなす世界(人称圏)であるということができます。人称は一人称・二人称・三人称、単数・複数、男性・女性・中性とあります(日本語はそれらの区別が曖昧な点に特徴があります)。しかも人称は話者(書き手)によって、相互に転換します。だから人称が織りなす言説空間とは、コミュニケーションが成り立っている世界であるとも言えます。ただしコミュニケーションが成り立つと言っても、程度や種別の問題があって、成功のケースと失敗のケース、協調のケースと敵対のケース、公のケースと私のケース、あるいはそれぞれの中間のケースなどがあります。

この人称圏(言説空間)に力関係が働いています。言説空間が置かれている場はもちろん真空ではありません。それが置かれた場(社会空間)を、一応、公共圏(共有空間)・私有圏(占有空間)・生活圏(環境世界)・市場圏(経済世界)と四つに区分してみます。すなわち人称圏(言説空間)はそれらの輻輳する関係のうちに置かれていると考えてみます。

すると先に社会のゆがみとして捉えた事柄は、私有圏(占有空間)が公共圏(共有空間)を飲み尽くし、市場圏(経済世界)が生活圏(環境世界)を席巻する事態であると言えるのではないかと思います。自由市場(市場の開放)、規制緩和、民営化、小さな政府などが主張される新自由主義とは、歯止めのない私有化、市場化に走らざるをえないという、資本主義の末期的な現象ではないかと思われてきます。それは現代版エンクロージャー・ムーブメントであると言うことも可能でしょう。ネグリ・ハートが指摘するように、それは国家権力(あるいは「帝国」)の、時には軍事力を行使するという、強力な後ろ盾があって初めてグローバルに展開することが可能な資本の運動です。

今日、平和主義や、民主主義の主張が劣勢に立たされているのは、社会的なヘゲモニーを新自由主義に奪われてしまっているからです。すべての社会現象が商品・貨幣・企業集団のダイナミクスに呑み込まれ、それが国家社会を動かしています。今や感情(情動)労働などという言葉も使われるようになりました。看護、介護、サービスなどの業務に携わる人たちの労働の性質を表わしている言葉です。人のことを気づかうということ(ケア)が、今や「商品」とされています。

公共圏(共有空間)、生活圏(環境世界)が背後に退き、私有化・市場化が極限まで進行する世界で、資本に「搾取」される者たちの声は一体どこに反映されるのでしょうか。かつてユルゲン・ハバーマスは理想的発話状況という言葉を使いました。もちろんそんな「状況」は実際にはどこにも存在しません。それは私の言う「脱空間」に相当します(「宗教について」のページの「脱して生きる」参照)。しかし私がそこで触れた「脱国民的中間社会」は、そのような声なき者たちの声を吸い上げる、少なくとも、「可能性」を持っているのではないかと思います。

政治的権力は理論的には「人民(政治的主体としてのピープルを敢えてこのように呼びます)」に委託されたものです。従って本来は人民に対して応答責任(レスポンシビリティ)、説明責任(アカウンタビリティ)を負っています。しかし今や政治的権力は私有化・市場化の守護者ではあっても、人民の代表者とは言えないものになっています。政治的権力の正当性(最近なぜか「正統性(オーソドクシー)」という言葉が使われます)は限りなく薄弱になっています。それにも拘わらず、その権力は「人民」に支持され、益々強大になりつつあるように思われます。しかし社会空間に公共圏(共有空間)、生活圏(環境世界)を取り戻すこと、すなわち、いのちを取り戻し、いのちを回復する運動は、いのちの叫びとして必ず巻き起こってくるでしょう。現に世界中でそのきざしが見えています(ネグリ・ハートならば、これを「生政治的運動」と言うでしょう)。

 

W 階級というセグメンテーション

経営学のマーケティングの基本を私は「四つのチ」として捉えています。それは実践主体の戦略の問題です。

「四つのチ」とは、「サーチ」=セグメンテーション、「キャッチ」=ターゲット & フォーカス、「マッチ」=ウォンツ & ニーズ、「ニッチ」=ポジショニングのことを言います。たとえば「労働市場」というマーケットで就職活動中の学生のことを考えてみます。

@      サーチ(search) 就職活動をするにあたっては、業種、職種、会社の規模、給料、福利厚生面のサービス、通勤距離、社風などにわたって、就職先のセグメンテーション(細分化)が行われなくてはなりません。いわば網を張る行為です。あるいは対象をサーチするとは、暗闇の中で、探しているものをサーチライトで照らすようなものであるとも言えます。

A      キャッチ(catch) 会社調べ(細分化)と会社訪問(実地験証)などによって目標が見えてきます。段々と対象が絞られてきます。対象が捕捉(キャッチ)される段階です。

B      マッチ(match) 現実に採用、就職に漕ぎつけるためには、就職試験・面接の段階で、自分のウォンツ&ニーズと会社のウォンツ&ニーズがマッチしていることが確証される必要があります。いわばお見合いです。マーケティングとは「売り手と買い手の双方が満足できる価値を生み出す」活動のことです。この段階でまさにそれが問われます。

C      ニッチ(niche) 就職活動とは要するに社会の中での「自分の居場所を定める(positioning)」行為です。それがマーケティングの目標であると言えます。いわば自分の適所(ニッチ)の発見と獲得です。

このようなマーケティングの理論を社会変革の実践に当てはめるのは少し乱暴な話です。社会変革とはそのような(たとえばマーケティングという)現実社会の活動の前提自体を問い直し、変革する行為だからです。しかし階級というセグメンテーション、階級闘争という文脈化も実践主体の戦略の問題である点では変わりがありません。資本家、労働者、地主、農民などというのは社会のセグメンテーションの一つであって、視点を変えれば(あるいは視点が変われば)さらに様々な細分化や再細分化が可能になる事柄です。今日、労働者階級というセグメンテーション、資本家と労働者の階級闘争という文脈化は果たしてどこまで現実的な適合性(レレバンス)を持っているのでしょうか。

ネグリ・ハートの『マルチチュード』で、社会変革の主体が人民であるのか、大衆であるのか、労働者であるのか、それとも「マルチチュード」であるのかという議論がなされています。新自由主義、資本のグローバル化という資本の「暴力」に対して、これに対抗する主要かつ有力な主体は、やはりどこまでも産業(工場)労働者とその組合でなくてはならないのでしょうか。

社会変革の実践においても、レベルが一段上がったところで、やはりサーチ=セグメンテーション、キャッチ=ターゲット & フォーカス、マッチ=ウォンツ & ニーズ、ニッチ=ポジショニングが問われるのではないでしょうか。ネグリ・ハートの「マルチチュード」は新しい階級理論の提示だと思います。実践主体がそのように定位される(ポジショニングされる)、あるいは再定位されることによって、そこからどのような社会変革の展望が開かれてくるかという問題だと思います。いずれにしても「閑老人」の出る幕ではないと一喝されてしまいそうな問題ではありますが…。


X 権力と対抗勢力のSPOT分析

 

先ず、企業経営の指針として行われるSPOT分析(強みと弱みの自己分析)について私なりに理解したところを書いてみたいと思います。

 

SPOTとはstrength(強み)、problem(弱み)、opportunity(機会)、threat(脅威)のことです。これを一種の座標軸に置いて考えてみます。縦軸は、上が過去、下が未来、中心が現在であるとみなします。横軸は、左がプラス、右がマイナスであると見なします。そして上限の左(過去から現在までのことで、プラスの象限)に強みを置き、その右(過去から現在のことで、マイナスの象限)に弱みを置きます。また下限の左(現在から未来にかけてのことで、プラスの象限)に機会を置き、その右(現在から未来にかけてのことで、マイナスの象限)に脅威を置きます。

 

強みと弱みは、過去から現在までに自分(自社)が何を行ってきたか、あるいは行ってこなかったによって形づくられたものです。機会と脅威は、現在から未来にかけて横たわっているもので、機会をつかみ、それをうまく生かせば強みを増し、脅威を回避できず、それを蒙れば弱みが増します。

 

この四つの象限にそれぞれ自分(自社)にとっての強み、弱み、機会、脅威を具体的に書きつけていきます。また同様に他者(他社)、あるいはライバルにとっての強み、弱み、機会、脅威を具体的に列挙します。これは競争社会における自己分析の手法であって、自分(自社)の強みを極大化し、また弱みを極小化するための方策を講じるためのものです。

 

これをたとえば「改憲勢力」と「護憲勢力」との拮抗関係の問題として捉えたらどうなるでしょうか。権力側の強み、弱み、機会、脅威、また護憲運動側の強み、弱み、機会、脅威について、個々具体的に事実を列挙し、そこから戦略を立てることが可能になるのではないでしょうか。

 

現に体制側の危機(脅威)、たとえば国家財政が破綻しかねない状況は、革命党の機会であるとみなしている人たちがいます。この日本で現実に左翼革命が起るのか、また革命後の展望は与えられているのかという問題はさて措いて、それを主張する人たちは、自分たちなりにSPOT分析を行っているわけです。

 

そこには、いかなる社会像を望ましいと考え、またそこに向かっての変革のプロセスをどう展望し、それがどこまで必然的であるとみなすかという問題が存在します。しかしいわゆる「市民運動」と「左翼運動」との乖離はどうして生じて来るのでしょうか。また左翼(党派)の四分五裂の状況をどう理解したらよいのでしょうか。これは対抗勢力側のSPOT分析の問題です。あるいは対抗勢力側の弱みであると言ってよいでしょう。

 

Y 出入り自由な空間はない

 

この世界に出入り自由の空間があるとしたら、インターネットのヴァーチャルな空間か、公園や公共の輸送機関などでしょう。しかしインターネットもいつ管理の対象にされるか分からないという不安は既に人々に共有されていますし、公園からホームレスが排除されるという現実もあります。駅構内の活動も制限されています。

 

国境というボーダーは厳しく保安管理され、外国人の入国希望者は入国管理法によって出入りがチェックされています。「テロ対策」を口実に入管法がまたも「改正」されようとしており、日本に入国する16歳以上の外国人から指紋など個人識別情報の提供を義務づけるばかりか、採取した指紋を永久に保存するという方針が明らかになっています。

 

入鉄砲出女を監視する江戸時代の関所よろしく、このグローバル・アパルトヘイトの時代には飛行場などでの出入国管理が益々厳しくなっています。また国境ばかりでなく、アメリカでは特定の居住地域全体を塀(壁)で囲うところが増えているということですし、日本でも監視カメラの設置箇所が増えたり、町内会の防犯パトロールが強化されたりして、監視社会化の傾向が強まっています。

 

大学の立看はある種の風物でしたが、法政大学の例に見られるように、それもまた撤去を要求されたりしています。それに抗議する学生グループが、威力業務妨害あるいは学外者の校内立ち入りを理由に警察によって逮捕されるという事件も起りました。かつて全共闘運動の時代に「解放区」などというのがありましたが、今や学生たちは飼われた羊のようにおとなしく大学当局の指示に従うべき存在とされているようです。

 

この時代を特徴づける言葉は「セキュリティ」です。それは外国に対しては「安全保障」となり、国内に対しては「治安維持」となります。現代はいわば安全保障=治安維持の体制が強化されている時代です。それは新自由主義と資本のグローバル化を推進することによって必然的に生じて来る体制であって、その根底には私有財産あるいは私的所有権の保護という動機が働いています。

 

しかし私有財産といい私的所有権といっても、それは既得権のことです。獲得することもあれば喪失することもあるプライベートな所有を制度として保護するということは、格差を是認するという結果を招来します。セキュリティとは格差を堅持し、その体制を擁護するという意味であって、そこから排除された人たちのセキュリティのことではありません。一部の特権階級あるいは少数者のセキュリティが、まるで多数者のそれであるかのように主張されています。しかしそこでは(武藤一羊氏が言うように)「民衆の安全保障」が顧慮されていません。

 

ネグリ・ハートは「封建時代の再来」と言っています。民衆の出入りが一々「関門」でチェックされる時代は封建的であると言っても差し支えないでしょう。今や出入り自由な空間はどこにもないと言うべき時代が到来しつつあります。


注)セキュリティおよび私的所有権

 

セキュリティおよび私的所有権については、やや厄介な問題があります。上に述べたこととの関連で、ネグリ・ハートの『マルチチュード』(下)の一部を、「本について」のページに引用することにします。ご参照下さい。


Z 学習のサイクル

 

「なせばなる なさねばならぬ なにごとも ならぬはひとの なさぬなりけり」(上杉鷹山)

「ある種の事柄を行なうためには、人は先ずその事柄を学ばねばならないのであるが、人はそれを実際に行なうことによって、初めて学ぶのである。」(アリストテレス)

「人は欲するだけの頭のよさをもつ。」(アラン)

「学ぶとは意欲するすべを知ることである。」(同上)

 

学習理論においてパフォーマンス・コンピタンス・コンフィデンスの「学習のサイクル」ということが言われます。先ずそれをやってみる(パフォーマンス)、やればできるようになる(コンピタンス)、できれば自信がつく(コンフィデンス)、自信がつけばまたやってみたくなる(パフォーマンス)という循環にうまく乗っかれば、人は何事かを達成することができるようになります。学ぶとは、要するに今までできなかったことができるようになるということにほかなりません。

 

私はこれにプリファランスを加えて、パフォーマンス・コンピタンス・コンフィデンス・プリファランスのサイクルということを考えています。「自信がつけばまたやってみたくなる」という事態をプリファランスとして捉えて、それをパフォーマンスと区別したまでのことです。得意科目というのがこれに当たります。

 

しかしこの学習理論で背後に退いているものがあります。私たちは学習を単独の行為(孤独な営み)と考えてしまいがちですが、それはロビンソン・クルーソーの神話に過ぎません。学習意欲は個人の内面からひとりでに湧き出てくるものではなく、それ自体既に社会的な関係の中に置かれている欲求です。そもそも考えるということ自体が社会的相互作用の所産です。「全くひとりで考えているやつがいたら、そいつは気狂いだ(アラン)」。つまり学習は社会的な行為であるという側面があるにも拘わらず、ともするとそれが見落とされてしまいます。

 

ネグリ・ハート流に言えば、言葉それ自体が〈共(the common)〉に属していて、言語能力(linguistic competence)は個人の属性と言うよりも、人間という「種」の属性と考えるべきものです。それにも拘わらず学習を全く個人的な行為とみなしてしまいがちなのは、学習が競争的な環境に置かれているからにほかなりません。

 

学校教育がきわめて競争的、競合的な環境のもとに置かれていて、競争に勝ち抜く人材の育成こそが望ましいとされているところでは、学習は本来「共働・共学・共認」の関係においてなされるべきであるという主張は、単なる理想論として一蹴されてしまうでしょう。知識や技能はあくまでも個人の私的所有であるとされていて、それが個人の経済的な利得に結びつく社会環境では、どうしても学習は「所有的個人主義」のものさしで考えられることになります。

 

「できる・できない」ということが、個人の「特異性」の問題としてではなく、直ちに「優劣」の問題とされてしまうのも、競争的な社会環境の然らしめるところです。昔アメリカで、何かのハンディキャップを負っている人たちは、ほかの人より「劣っている」のではなく、differently able なのだという話を聞いたことがあります。

 

そのようにいつも「その人」の立場に立って考えるということがなければ、学習を〈共〉的な環境に置き直すことはできないでしょう。

 

プリファランスという言葉は確かに「好きなもの(得意科目)」という意味を持ちます。しかしほかに、何を「優先」させるかという意味でも使われます。つまりプライオリティの意味でも使われます。学習とは、「所有的個人主義」にプライオリティを置いてなされるべきものではなく、先ずは〈共〉から与えられたものを〈共〉に返す、つまり公共的社会に貢献するためになされるべきものでしょう。それこそが「学習成果の社会的還元」というものではないでしょうか。

 

[ 学習の三要素

 

学習の三要素とは態度・知識・技能のことです。

 

態度 「学習のサイクル」の項でアランの言葉を引き合いに出したように、態度あるいは意欲は学習に先立つもの、あるいはそれに伴うべきものとして、学習の成立要件とも言うべきものです。渇きを覚えていない馬を水辺に連れて行っても、水を飲ませることはできません。自己のうちに欲求が生じる、すなわち自分に欠けているものを充足しようとすることは、学習の基本前提です。

 

近頃は学校でこの態度(意欲)も評価の対象とされています。学習成果と一応切り離して、学習課題に意欲的に取り組んだかどうかを評価するということは、一見親切なように見えますが、危険をはらんでいます。教室という密室的な環境では、学習者の態度(意欲)は教師の指示に従順であったか、反抗的であったかということと切り離して考えることが難しいからです。また特定の学習課題を離れて、学習者の態度(意欲)を評価するということは、その人を部分的に評価するのではなく、全体的に評価しようとすることです。学習態度は家庭環境、生活環境や友人関係などと複雑につながっていて、それまで評価の対象とすることは、結果として人間を差別・選別することになりかねません。内申書が進学や就職に影響するのであれば、さらに重大な問題を引き起こします。

 

教育基本法が「改正」されれば、そのうち、国家に対する忠誠心、愛国心が評価の対象とされることになるでしょう。既にそのような傾向が学校現場に現われてきています。国のために学ぶということが責務とされ、学習目的の大前提とされるならば、学習態度はそれを基準にして評価されることになります。ネグリ・ハートが指摘するように、そこには国家による〈共〉の簒奪という問題があります。つまり公教育が国家主義的な教育と同一視されてしまいます。

 

知識 ここで言う知識とは、言葉ではっきり表現できる知識、分節知(マイケル・ポラニー)のことです。いわばデジタルな知識です。それは左脳(論理脳)の働きであるとも言われています。その意味での知識は抽象的思考能力の所産です。情報化社会にあっては、知識が社会的生産力の根幹に関わっていて、ピーター・ドラッカーはつとに知的労働の重要性を指摘していました(それはネグリ・ハートの言う「非物質的労働」の一部です)。ポスト工業化社会においては、特定の分野の知識に精通することが、社会的成功の大前提となっています。知識は益々専門化され、特定の資格と結びついて、それが労働者の雇用条件となっています。今日の学校はこのような状況によって規定されています。

 

学校のカリキュラムという「知の編成」は益々「社会的有用性」を尺度としてなされるようになってきました。古典教育は益々影の薄いものとなりつつあります。そのような傾向のもとで、人々が大局を見通し、批判的にものを考えることは、とても困難なものとなりつつあります。情報量の増大が人々を考える人間に育てるのではなく、かえって特定の政治的プロパガンダに流されやすい状況をつくり出しています。

 

技能 技能はマイケル・ポラニーの言う暗黙知に属します。自転車に乗れる人は乗り方がよくわかっています。しかしそのバランスの取り方を言葉で正確に説明しようとすると、とても厄介なことになります。バランス方程式を持ち出さなければ、正確に語ることはできません。自転車に乗るロボットをつくる目的でもなければ、それは不要というものです。人の顔を見分けたり、メロディを聞き分けたり、言葉で表現しにくいがよくわかっている知のことを暗黙知と言います。それはアナログな知であって、右脳(音楽脳)の働きであると言われています。(「学習のサイクル」の項の冒頭に掲げた、アリストテレスの「ニコマコス倫理学」に出て来る言葉は、暗黙知あるいは技能の習得について一般的に妥当する事柄を述べたものです。)

 

言葉の四つのスキル(聞く、話す、読む、書く)も、もともとは暗黙知として習得されるものです。人が母国語をいつの間にか習得してしまうのは、それが暗黙知だからです。生活言語は暗黙知として習得される言語を基盤としています。他方、学校で書き言葉とともに習う学習言語(分節知)は、生活言語に根差しながらも、抽象能力の発達(7〜8歳頃)によって初めてその習得が可能になるものです。しかし今日では、知育偏重教育のあおりを受けて、幼稚園児に抽象的思考能力を課す英才教育が行われています。

 

人間の知能の発達は、もともと石器時代以来の道具の使用によって可能になったものです。その意味で暗黙知が知能の基底をなしています。暗黙知は最先端の科学研究においても働いているもので、それが人間の「才能」の秘密を解き明かすものではないかと思います。もし知育偏重が技能軽視の風潮をつくり出すとしたら、それは根本的な間違いを犯すことになるでしょう。


\ 野蛮な文明

 

人間を他の動物から区別する基本的な特徴には以下の四つが考えられます。

 

1.        直立二足歩行

2.        道具の使用→機械の使用

3.        言語の使用→記号の操作

4.        火の利用→エネルギーの利用

 

道具・言語・エネルギーの利用を私は「文明の三要素」と呼びたいと思います。しかし人間の文明は戦争によって発達してきました。飛行機と言い、コンピューターと言い、人工衛星と言い、すべて戦争とともに発達した機械です。コンピューターに至っては、機械の使用、記号の操作(演算)、電気エネルギーの利用と、文明の三要素をすべて兼ね備えています。そして今や「電脳」によってつくられたハイテク兵器が戦争で使われています。

 

人間の世界では文明だけが偏頗に発達してきました。人が人を支配し、人が自然を支配するために文明が発達してきました。あるいは侵略と搾取のために文明が発達してきたと言うべきかもしれません。その「野蛮な文明」の時代は原子爆弾の発明によって極点に達しています。しかも核保有国は拡散の傾向にあります。

 

人間のサブシステンスの条件として基本的に人口・資源・環境の三つが考えられます。しかし文明の発達によって、今や人口の爆発・資源の枯渇・環境の破壊が生じています。今は60数億の人類が今世紀中には100億に達するであろうという予測が立てられています。そうなればエネルギー資源、食料資源などの資源はさらに枯渇し、環境は益々破壊されることになるでしょう。地上から戦争が絶えることもないでしょう。

 

人間は「野蛮な文明」とともに滅びに直進しているかのようです。はたして人間は「野蛮な文明」を「平和な文明」に切り替えることができるのでしょうか。

 

人類絶滅の危機を回避するには、言ってみれば、万人共働社会、資源共有社会、持続可能社会が実現しなくてはならないでしょう。しかし新自由主義(市場原理主義)と資本のグローバル化は明らかにそれとは逆の道を進んでいます。滅びへの動きを加速させています。あるいは一部の人間が生き残るために、大多数の人間が切り捨てられつつあると言うべきかもしれません。それは「パワー・エリート」の最後の悪あがきのように思われます。

 


] 判断論

 

判断は生き物としての人間の営みの一部です。

 

人間の思考には、単に言葉(記号)の操作(演算)の問題としてなら、昔から言われてきたように、表象(記号)の結合(肯定)・分離(否定)という側面があります。しかしそれは思考の回路(論理学)の問題です。日々の生活を営んでいる人間の判断(命題)には、記号(言葉一般)として抽象化される以前の、ある種の様態があります。

 

判断をその「様態」に従って区分するならば、信念(依拠)・言明(推定)、同定(包摂)・異化(排除)、評価(程度)・測定(効果)という具合になるのではないかと思います。

 

信念というのは殊更に何かを信じるということではなく、人間が何かを発語するときには必ず信・不信が伴うということを意味しています。人の発言は信用されることもあれば、不信の目で見られることもあります。それは不可避の問題です。人間が言葉を話すということは、騙したり騙されたりする可能性があるということを意味しています。言葉を話すということは見えない何かに依拠することです。言葉は、仮に事実についての言い表しであるとしても、事実そのものではありません。言葉を話す人間は、いつも何かに依拠して、あるいは何かを信じて生きています。唯物論者は唯物論的な信念体系に依拠しています。それは人間の宿業というべきものです。

 

だから信念を取り除いて言明それ自体を取り上げれば、いかなる言明といえども、すべて推定の域を出ません。明日の朝、再び太陽が昇るということは、ほぼ100%確かなことでしょう。しかし明日も私は生きているであろうという言明は、それよりも確度の低い言明であると言わざるをえません。事実その通りであるかどうかについては、100%確かであると思われることから、きわめて疑わしいものまで、確度の違いはあっても、信念を除去して言明としてみる限りは、それらはすべて推定の域を出ません。

 

判断のもう一つ重要な側面は、あるものを同類として包摂し、他のものを異物として排除するという、生理的とも言うべき働きです。何かを何かとして同定し(A=A)、他のものから区別する(A≠B)ということは、基本的には包摂・排除の働きに属します。同定(包摂)・異化(排除)という人間のこの思考形式が未だに強大な力を揮っていて、それが争いの元になっています。国家とか、民族とか、宗教とか、党派とか、帰属とアイデンティティをめぐる問題は、みんなこの思考形式に結びついています。

 

常に何かに働きかけている人間にとって、判断の他の重要な側面は、仕事の程度を評価し、その効果を測定することです。テスティングの問題です。仕事の程度を評価する(「いい仕事をしていますね」)ということは、質的判断であって、習熟度に関わります。それに対して、仕事の効果を測定するということは、量的判断であって、達成度に関わります。テストの問題としては、前者はプロフィシエンシーと言われ、後者はアチーブメントと言われます。しかし一々テストをしないまでも、人間は常に何かの品定めをし、行動の効果を見計らって生きています。

 

信念(依拠)・言明(推定)、同定(包摂)・異化(排除)、評価(程度)・測定(効果)の判断論とは、人間の生の実相を示すものにほかなりません。


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