閑老人のつぶやき 本について6
私は年取ってから「元キリスト者」を名乗るようになりました。それは「もはや正統的なキリスト者ではない」という程の意味で、これまでこのホームページ上に書き込んできたように、かなり自由にキリスト教にアプローチするということでもあります。私は自分の書斎でのささやかな営みをFIR(Free Institute of Religions)と名づけたのですが、それも意味するところは同じです。これを日本語に直すと「自由宗教研究所」となるのですが、特に「自由宗教」という「宗教」を奉ずるということではありません。しかしそのように受け取られても一向に構わないと考えています。
そのような私にとって前から気になっているのは、従来正統的キリスト教から蛇蝎の如く嫌われてきた、ユニテリアンとかユニヴァーサリストと呼ばれてきた人たちのことです。もしかしたら私はその人たちの立場に近いのではないかと思います。この日本でも明治の頃からその運動は存在していて、それを詳しく取り上げた書物として赤司繁雄『自由基督教の運動 赤司繁太郎の生涯とその周辺』(朝日書林、1995年)があります。この本は著者の父である赤司繁太郎の伝記的記述を中心に、それにまつわる歴史的な出来事を取り上げたもので、この方面の資料としては、余り例がないのではないかと思われる好著です。私も多くのことをこの本から教えられました。ここでは、第一章「若き日々」から、「普及福音教会」と「自由キリスト教」という項の、それぞれその一部を紹介します。
〈普及福音教会
普及福音新教伝道会
繁太郎が「ごく穏健なる宗教上の団体」という「普及福音教会」とはどのような教会であったのか。まず、母体である「普及福音新教伝道会」について述べておこうと思う。
繁太郎を洗礼に導いたスピンナー博士を初代の宣教師として派遣した「普及福音新教伝道会」は一八八四(明治一七)年、ザクセン・ワイマール大公、カール・アレキサンダーを総裁として、スイスのグラルスで牧師をしていたエルンスト・ブース(Ernst Buss)を会長に、スイス、ドイツの自由神学者、牧師らが相はかってワイマールに創設した伝道会である。
会長ブースは一八七六(明治九)年、『キリスト教の伝道とその主義的権能と実際的遂行』(Die christliche Mission, ihre prinzipielle Berechtigung und praktische Durchfurung)(*)という著書を公にし、新しい宗教観、キリスト教観と、それにもとづく新しいキリスト教の伝導について述べ、世人の注意を喚起していた。
* ドイツ、ハイデルベルク大学のWolfgang Schamoni教授が同大学神学部の図書館所蔵の同書をコピー、製本して筆者に送られたものである。
文化的に異なる宗教が世界には多くあるけれども、従来、自然を超越する真理、つまり神の啓示が人間に示された宗教はキリスト教だけであるとしているが、神の光は他の諸宗教にもみることができる。あらゆる宗教の中で、キリスト教こそその頂点をなすものであるが、従来の伝道では異教の人々をキリスト教に改宗させようとするのに急であり、しかも、そこには宗派独自の世界観が介在していた。それゆえに、正しい、真のキリスト教を伝え、キリスト教精神が芽ばえるようにしなければならない。それによってキリスト教へ至る道が開け、ますます神を知るようになる。そのことは宗教の歴史が明らかに教えている所のものである。
この主旨を端的に表現すれば、不純物をとり去ってイエス・キリストの宗教に立ち返って伝道しなければならない(*)。
* (前記注の論文を)東北福祉大学ドイツ語講師山下豊がその一部の大意をまとめたもの。なお、三並ハジメ(艮の上に一を載せた、良に似た字)著『日本に於ける自由基督教と其先駆者』(文書院出版部 一九三五・昭和一〇年九月三〇日)二四三―二四八ページ参照。さらに『東郷坂普及福音教会案内』(同教会発行)参照。
つまり従来の旧い宗教観では、キリスト教以外のすべての宗教は神の啓示は示されておらず悪魔の宗教であるとして、このような暗黒と罪悪の支配にまかされ、放任されている国民のもとに行って彼らを改宗させることが救済することであり、これがクリスチャンの責任であるとしてきたのを、ブースは改めたのである。キリスト教が、神を純粋な精神的、絶対的な原理とし、その本体を愛とする宗教道徳の点において頂点に達している、という認識は従来と同じではあるが、ただそのキリスト教がさまざまな宗派を派生して独自の教義に固執し、それがためにキリスト教が不純化しているので、それをイエスの純正な宗教にただして正しいキリスト教を伝道しなければならないとしているところが、従来のキリスト教の伝道と大きく異なっている点であった。
一日本人留学生の要請
このブースの提唱に賛同して創設された「普及福音新教伝道会」のメンバー三十余名がライン河畔の都市フランクフルトに会合して新しい伝道方法を討議し、伝道地として、インド、中国、日本を選んだ。ところがこのとき、会議に急行し、日本を第一の伝道地とするように懇請した日本の一留学生がいた。のちに東京帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)教授となった和田垣謙三である。和田垣は一八八一(明治一四)年、最初イギリスに留学、ケンブリッジで受洗、その後ベルリン大学に移り、ここで親日家リッター牧師(Karl Heinrich Ritter)の知遇を得た。このリッターは日本からの留学生の面倒をよくみたことで知られているが、ブースの提唱に応じて「伝道会」の創設に加わった一人でもある。和田垣は会議が開かれるのを知り、当時ドイツ駐在公使であった青木周蔵(のちの外務大臣)の後援をえてフランクフルトに急行したわけである。「伝道会」はこの一留学生の懇請を受け入れることにしたのである。
かくして「伝道会」は創立メンバーの一人スピンナーを初代の宣教師として派遣することを決定した。
偉丈夫スピンナー
初代の宣教師として来日したウィルフリード・スピンナー(Wilfried Spinner 1854-1918)(*)は三一歳、六尺豊かな(一メートル八〇センチ余)スイス人で独身であった。「伝道会」の創設には初めから参画して事務的な仕事まで担当していた。
* スピンナーの略歴は、次の二つの「略伝」によって知ることが出来る。
一、「ヰルフリード、スピンネル氏 其略伝」『真理』一九号(一八九一・明治二四年)
二、向軍治「スピンネル先生略伝」 スピンネル著 三並ハジメ(前掲)訳・刊『基督教約説』「附録」(一八九二・明治二五年二月)
一八五四(安政元)年一〇月、スイスのチューリッヒで誕生。父は著名な牧師。チューリッヒ大学で神学を学ぶとともに宗教学伝道事業にも意を用い、インドのバラモン教も研究。のちドイツ、スウェーデン、デンマーク、オランダなどの大学を歴訪。帰国後、かつてツウィングリーのいた教会の牧師に就任。キリスト教関係の古い資料を得るためにしばしば旅行し、特にイタリアを研究。アフリカ、サハラ砂漠まで旅してマホメット教国を視察。一八八二(明治一五)年、普及福音新教伝道会の設立計画に参加、一八八四(明治一七)年、ワイマールに同伝道会が創設されると事務委員の一人となる。一八八五(明治十八)年九月に来日し、イエス自身の福音を中心として日本の道徳宗教上の発展のために伝道、日本に適合したキリスト教の形成に貢献しようとした。一八九一(明治二四)年四月離日。帰国後はザクセン ワイマール大公の宮廷説教者に迎えられた。これは大公領内の諸教会中最高の地位にあった。一九一八(大正七)年八月三一日、六四歳で永眠。
スピンナーは日本に赴任するのに先立ちイギリスに立ち寄り、そこで四ヵ月滞在、宗教の状況や伝道事業をつぶさに視察して日本伝道の予備知識を吸収し、また比較宗教学の創始者といわれるマックス・ミュラー(Friedrich Max Muller 1823-1900)を訪ねている。マックス・ミュラーは普及福音新教伝道会の後援者であり、名誉会員でもある。スピンナーはアメリカを経由して一八八五(明治十八)年九月、日本に着任した。
着任したとはいえ、ひとりの知己も、一つの教会も、一軒の住居さえなく、ひとまず外国人居留地である築地の仮住まいに入った。はじめは無牧のドイツ人のために教会を東京、横浜に組織したり、独逸学協会学校で教えたりしていたが、居を神田駿河台鈴木町の政治家平田東助の借家に移してからは青年たちに自宅でキリスト教の講義をはじめた。
当時の生徒三並ハジメ(前掲)(*)はその模様を記している。
* 三並ハジメの略歴は次の通りである。一八六五(慶応元)年、四国松山市に生れる。同郷の俳人正岡子規とはまたいとこ。一八七九(明治一二)年上京、独逸学協会学校入学、一八八七(明治二〇)年、新教神学校入学、一八九一(明治二四)年卒業。普及福音教会牧師。一九〇〇(明治三三)年辞職して、ただちに陸軍中央幼年学校教授就任、かたわら、独協、慶応義塾の講師。一九〇七(明治四〇)年旧制第一高等学校教授。一九一〇(明治四三)年ユニテリアン協会に加入、同協会統一教会牧師を兼務。同年ベルリンで開催された自由キリスト教国際大会に、内ヶ崎作三郎(当時イギリスに留学中)と共に日本代表として出席。郷里松山に旧制高等学校が設立されたとき、ドイツ語主任教授、のち教頭。一九二三(大正一二)年、上京中、たまたま親友真鍋嘉一郎教授の客室で突然脳溢血、以後闘病生活。一九三七(昭和一二)年四月、月刊の個人雑誌『信仰の真理』を発刊、一九四〇(昭和一五)年九月、第四巻第四二号まで続く。同年一〇月二七日肺炎にて永眠、享年七五歳。葬儀は東郷坂普及福音教会にて。(瓊林子=原田瓊生「三並ハジメ先生個人雑誌『信仰の真理』」『生命の泉』一九三七・昭和一二年五月、第五二号)による
講義は先生の余り広くもない住宅に於てするので、二、三十名に過ぎなかった。先生の講義は、キリスト教の要綱をジステマーテッシ(組織的)にするので、その頃の多くの宣教師の遠く及ばなかった所であった。而もス先生の持論は、宗教と科学の調和する所以を説き、不可思議な聖書の中の物語りを批判して、その信ずるに足らざる理由を教え、教義上に於ても、三位一体説とかキリストの復活とか等に、今日の我等が到底承認し得ざる所の而も普通のキリスト教では中心信仰或は思想となって居るものを遠慮なく批判し去ったのである。併し、先生は、これ等の教義や物語りの中に含蓄する所の宗教味或は宗教的真理は失ってはならない事を、諄々として説き教ゆることを怠らなかった。スピンナー先生の講義は、四、五ヶ月で一巡したろう。そしてそれが再び初めから繰り返されるのだった。聴講の青年は、予備門(のちの旧制第一高等学校)や独逸〔学〕協会学校等の生徒が大部分を占めて居た。講義が一巡し終ると、先生は、此の主張に同意しキリスト教の信仰に生きんとするものは洗礼を受けてはどうか、と相談した。洗礼したものも多くあった(*)。
* 「藤波鑑博士の思出」清野謙次編『藤波先生追悼録』(人文書院 一九三五・昭和一〇年)
講義が一巡して受洗した学生には次のような人々がいる(カッコ内はのちの職務を示す)。
向(むこう)軍治(慶応大学、関西大学教授)、丸山通一(旧制第一高等学校教授)、谷泰吉(医師)、半井(なからい)スナオ(インプット不可、手偏に卜)(医師)、島安二郎(工博)、中村健一郎(彦根高商校長)、司馬享太郎(独協中学校長)、小川尚義(台北大学教授)、藤波鑑(京都大学医学部教授)、長岡文之助(林博、林野局技官)、桜井恒二郎(医博、九州大学教授)、小松原英太郎(文相)、樫田亀一郎(医博、侍医)等々。
スピンナーは自宅のほかにも、三好退蔵(もと検事総長、司法次官)の家で聖書講義を開いた。三好はドイツ留学中にリッターからキリスト教の話をきいてキリスト者になった縁故がある。このような人脈によってスピンナーは、三好、和田垣らとともに小崎弘道(*)を牧師に推して番町教会を設立した。この教会は独協、予備門、桜井女学校(現在の女子学院)、明治女学校の生徒や多くの名士が集まり四、五百の会衆があった。
* 小崎弘道(一八六五・安政三年―一九三八・昭和一三年) 一八七六(明治九)年、熊本洋学校在学中ジェーンズから受洗。一八八〇(明治一三)年、東京基督教青年会を創設、その機関誌『六合雑誌』を発刊。一八八二(明治一五)年、東京第一基督教(のち霊南坂)教会を設立。一八八六(明治一九)年、番町教会を設立。一八九〇(明治二三)年、新島襄のあとを継いで同志社社長に就任。のち日本組合基督教会会長、日本基督教連盟会長などを歴任。
このほかにもスピンナーは植村正久(*)の要請をうけて彼の下谷一致教会でも説教をしており、さらにその青年会でも十数回の講義を行なっている。
* 植村正久(一八五八・安政五年―一九二五・大正一四年) 一八三七(明治六)年、日本基督公会でバラから受洗。一八八〇(明治一三)年、下谷一致教会牧師。一八八七(明治二〇)年、番町一致(のち、一番町、富士見町)教会を設立。一九〇四(明治三七)年、東京神学社(現日本神学校)を開社。
スピンナーのこれらの活動はめざましい進展をみせたが、これと並行してスピンナーの説く自由主義のキリスト教はとうぜん正統派のひとびとの信仰との相違を表面化させる結果となった。
日本に伝えられたキリスト教は、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)との二つの教派に大きく分かれ、そのなかでもプロテスタントは日本基督、組合、メソジスト、聖公会、バプテスト、……などなど歴史的な成立事情によって幾多の教派に分かれ、その教派が定めた信条をもっている。
一八七二(明治五)年三月、日本の横浜で最初に創設されたプロテスタント教会はいずれの教派にも属さず、名も「日本基督公会」と称し、信条も次のように簡単なものであった。
「我等の公会は宗派に属せず、唯主耶蘇基督の名に依って、建つる所なれば、単に聖書を標準とし、是を信じ、是を勉むる者は、皆是基督の僕(しもべ)、我儕(わがせい=われわれ)の兄弟なれば、会中の各員全世界の信者を同視して、一家の親愛を尽すべし。是故に此の会を基督公会と称す」。
ところが惜しいことにこれはきわめて短期間に終わり、正統的キリスト教の各教派はその信仰告白を表す信条への改宗をもってキリスト教の伝道の目標としたのである。
正統的キリスト教の指導的な役割を担ってきた植村正久の福音主義信仰を要約すると、「三位一体(父なる神、子なる神、聖霊の神)の神を信じ、子なる神であるイエス・キリストは人間としてこの世に生れ(イエス・キリストの受肉降世)、人間の罪を贖って(あがなって)十字架の死をとげた(十字架の死による贖罪)」、これがキリスト教であり、この信仰を宣べ伝えるのが伝道であるとしている。この福音信仰はおおかたの正統的キリスト教会がとっている信仰と大同小異である(*)。
* 信仰告白の形式として正統諸教派は「使徒信経」を示しているが、今日でもプロテスタントの教会で通常用いている「讃美歌」の五六六番に「使徒信条」として記している。
これに対してスピンナーの説く自由主義キリスト教では、さきにブースも説いているように独自の教義を伝道することではなく、イエスが示されたイエスと同じ信仰を伝えることであった。スピンナーは述べている。
夫れ吾人の信仰は耶蘇と同じき信仰なり。吾人の信経は耶蘇の最も大なる訓誡なり、曰く「汝、心を尽し、精神を尽し、意(おもい)を尽し、力を尽し、主なる汝の神を愛すべし、又己の如く汝の隣人を愛すべし」。(「普及福音教会機関誌」第一号、スピンナーはこの雑誌に「真理」と名づけた理由を述べ、イエスの言葉をもって結んでいる。この「神を愛することと人を愛すること」を行なうことが永遠の生命を得られる道であることをイエスは述べている)(*)。
* イエスの言葉は新約聖書のマタイ伝二二章三七―四〇節、マルコ伝一二章二九―三四節、ルカ伝一〇章二五―二八節にある。
「神を父とすること、人はみな神の子なるはゆえに互いに同胞として愛しあうこと」がイエスのキリスト教となす中心点である。イエスの信仰、教訓、人格、活動を知るためには聖書によるのであるが、その学問的な研究は容易ではない。聖書本文を言語的、歴史的、哲学的、神学的に研究して、その内容、成立、思想などを詳細に考究する、いわゆる「歴史的批評」(「高等批評」)を要する。しかもこれは聖書以外の様々な文献や他の宗教との交渉もあわせ研究しなければならない。この聖書の本格的な研究はすでにテュービンゲン大学教授バウル(Ferdinand C. Baur 1792-1860)を中心とするテュービンゲン学派によって一九世紀初葉にはじめられていた(*)。
* スピンナーにつづく宣教師シュミーデル、ムンチンガーら、および「伝道会」の神学を「テュービンゲン学派」とする説もあるが、三並ハジメ(前掲)はこれを否定、原田瓊生(ムンチンガーによって受洗)も「東郷坂普及福音教会案内」で「歴史学派」とし、スピンナーはそのなかでも「折衷派」で「その所論は極めて穏健であった」とのべている。また、關岡一成(神戸市外国語大学教授)も「『普及福音新教伝道会』の日本伝道について――明治二十年代前半を中心にして――」(『宗教研究』二六八号、一九八七・昭和六一年六月、日本宗教学会)のなかで「宗教史学派」としている。
「伝道会」の伝道理念、それを実践するスピンナーの伝道方法は、教派中心主義を配してイエスによる真のイエスのキリスト教精神によって日本のひとびとに伝送することと、この学問的な歴史的批評をもってする聖書の研究との二つの方向があった。
人はこの「普及福音新教伝道会」のキリスト教を「自由主義キリスト教」「新神学」などと呼ぶようになった。
隅谷三喜男は『「近代」日本の成立とキリスト教』で次のように述べている。
……ドイツから聖書の高等批評を基礎とする所謂新神学が導入せられて、教会的伝統と神学的素養を持たなかった日本のキリスト教会は一大動揺を受けるに至ったのである。……「普及福音教会」の神学に対しては、当年のキリスト教徒及びその指導者達は自らの信仰を守るべき盾を持たなかったのである。……従来信じ来った信条、信仰が非歴史的なものとして否定されたのであるから、キリスト教徒達の動揺は甚大であった。……従前牧師から教えられたことが誤りであったと、牧師自らの口から聞かされては動揺せざるを得なかった。……
動揺だけではなく、自由主義の伝播することを好まず、その伝道を攻撃し、妨害しようとするものさえあったが、「スピンネル氏は議論を為すがために渡来せしにあらず、宗教界に物議を惹起するが為めに、千里の波濤を越えしに非ず、イエス、キリストの福音を説かんが為めに来れりと、其の使命を守りて抗論を其の儘となしたるが故に宗教界に紛擾を起すの不幸なかりき」と、三並ハジメ(前掲)は「日本に於ける自由主義基督教の進歩」(『真理』一三号、一八九〇・明治二三年一〇月刊)のなかに記している。
世界にただ一つの教会・普及福音教会の誕生
スピンナーの名声をきいて教えを乞い、講演を求めるひとびとも多かったが、既存の正統派の教会の護教による反発、排撃もあり、スピンナーから洗礼を受けた青年たちは、自分たちの教会をこそ組織しその教会堂の建設を切望した。「伝道会」はもともと伝道地で特定の教派的教会を組織しようとする意図はなかったが、スピンナーはこの青年たちの懇請に押されるかたちで重い腰をあげ、ここに「普及福音教会」が誕生した。スイスやドイツには「普及福音新教伝道会」はあっても「普及福音教会」は存在しない。日本ではじめて設立された教会であった。かくして教会堂はその地を本郷区壱岐坂の中腹と定められ、建設が着工された。一八八七(明治二〇)年二月のことである。
この二カ月あと、同年四月、スピンナーは神学校「新教神学校」を自宅で開校した。生徒は三並ハジメ(前掲)、向軍治の二名であった。八カ月あとの一〇月三一日、ルーテルの宗教改革記念日を期して壱岐坂会堂は落成、午前一〇時から献堂式が行なわれ、夜には講演会が催され、当時帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)に招かれていた教育学者ハウスクネヒト(Emil Hausknecht 1852-1927)が来演した。ハウスクネヒトはドイツでも高名な教育学者であり、かねてから親交のあったスピンナーとも提携して日本の教育制度の改良にも努めていた。
翌一八八八年一一月には月刊冊子「普及福音教会叢書」が『万物ハ唯物質ヨリ成ルカ』を初号として発刊され、さらに一八八九年一〇月には教会の機関雑誌として『真理』が月刊誌として創刊された(*)。
* 機関誌『真理』発刊の理由として三並ハジメ(前掲)はその著『日本に於ける自由基督教と其先駆者』に次のように記している。
「……我々の立場は邪教として、常に非難攻撃の的となって居た。例えば巌本善治氏の『女学雑誌』、小崎弘道氏等の『六合雑誌』、組合協会の機関誌『基督教週報』、植村正久氏の『福音新報』などは、時々のトピックスに、或は論文に、我々に攻撃の征矢を放つのであった。先生達は我れ関せず焉の態度を持して寧ろ之を一笑に付して居た。併し青年血気に逸る我々には、どうしても、之を黙殺することが出来なかった。とうとう(スピンナー)先生を動かして、宣伝及び攻防の一機関誌を月刊することになった」。
一八八七年一〇月には、宣教師としてオットー・シュミーデル(Otto Schmiedel)が夫人を伴い、八九年二月にはカール・ムンチンガー(Carl Munzinger)がスピンナーを援助するために来日していた。シュミーデルは専門の聖書学をもっておもに神学校の教授や雑誌への執筆に従事し、とくに雑誌『真理』に掲載された論文はキリスト教界に大きな影響を与え、横井時雄をして「数百の宣教師中聖書批評学を専門とする最初唯一宣教師なり」といわしめたほどとなった(*)。
* 『真理』三九号 シュミーデル送別会の席上での送別の辞。なお同じ号のはじめに「パレル、オットー、シュミーデル」と題してシュミーデルの略歴を丸山通一が書いている。
この機関誌『真理』発刊によって、スピンナーの来日以来の伝道の基礎は完全に整備され、確立したということができる。
雑誌『真理』の発刊を祝う披露の祝宴は一八八九年一〇月二四日、九段坂上の富士見軒で中村正直(敬宇)、青木周蔵(当時外務次官)、寺田勇吉(のち九段精華高等女学校創設)、スピンナー、シュミーデルら、主客あわせて二十余名が参集している。〉
引用はここで中断します。この本の主人公、赤司繁太郎は、スピンナーから洗礼を受けました。東京専門学校の英語政治科に入学し、貧民救済のため政治家になるという志を抱いていましたが、一年で中途退学し、一八九〇(明治二三)年九月、スピンナーの設立した「新教神学校」速成科(通常の修学年数は四年であったが、速成科は二年制であった)に入学し、宗教家として立つ決意を新たにしました。それは十八歳の秋のことでした。郷里久留米の父親は激怒し、仕送りを停止したと書かれています。
この本には数々のエピソードが散りばめられています。例えば繁太郎はスピンナーの影響でレッシングに興味を抱き、神学校在学中の一九歳のとき、最初の著作『烈真具』を著しますが、森鴎外はこの書に「題言」を寄せています。
この引用した個所に描かれている、教会の「正統主義」と「自由主義」の対立は、未だに続いています。自由主義者は正統派によって排除されるという政治力学が今日なお存在しています。使徒信条と三位一体の教義にこそ教会のアイデンティティがあるという信念はそれ程強固にキリスト教徒の心を支配していて、「自由主義者」を多く抱え込んでいる教会(例えば日本基督教団)ほど、問題は深刻な形で露呈してきます。しかし人間が「信じる」者であると同時に「考える」者でもある以上、「歴史的批評的」聖書研究を抑圧したり排除したりすることはできないでしょう。
私はこれまでもこのホームページ上で書いてきたように、三位一体は記号論的(象徴論的)な事態であると受け止めています。指示するものがあれば、同時に指示されるものがあり、そして指示すること(働き)があります。あたかも「光源と媒体と光」のように、その三つを切り離して論じることはできません。小野寺功氏は「三位一体の於てある場所」と言います。私はその「於てある場所」とは、いのち(ゾーエー)ではないかという「仮説」を立てています。つまり三位一体とはいのちにおいて成り立つ記号(象徴)の働きではないのかと考えています。西田幾多郎の言う「無の場所」とは、従って「いのち(ゾーエー)」であるということになります。その意味で三位一体論は普遍的な事柄です。キリスト教に限定して考えるべきことではありません。しかし人間の社会では象徴は実体化・差別化されるという傾向があって、キリストだけが唯一絶対の神の子であるという信仰を生み出します。排他的な真理の主張が生れてきます。そこに落し穴があります。
スピンナーの言う三位一体の「宗教味」とは、詮ずるところそういうことなのではないでしょうか。だから、三位一体論は全く無根拠ということではなく、それはいのちの働きに属していると言うべきではないでしょうか。正統派は三位一体論やキリスト論を神の啓示として受け止め、そのような「説明」を拒否するでしょう。しかし歴史的批評的な聖書研究と「信仰」とが両立するとしたら、私にはそれ以外の道はないのではないかと思われます。その意味で、私は、三位一体論を記号の成り立ちと切り離して論ずることはできないのではないかと考えています。
次は「自由キリスト教」を取り上げます。
〈自由キリスト教
ユニテリアンとユニヴァーサリスト
話は相前後するが、時代は少々さかのぼる。
スピンナーの来日から二年を経た一八八七(明治二〇)年一二月、アメリカ人ナップ(Arthur May Knap)の来日によってユニテリアンの活動が始まった。「ユニテリアン」についてはそれより先、一八八三(明治一六)年にすでに外遊中の矢野龍渓(本名文雄)によって英国ユニテリアン教徒の信仰が『郵便報知新聞』で紹介され、欧米諸国の間にもイエスを神として礼拝しない合理的なキリスト教があることが説かれていた(*)。
* 前掲三並ハジメ(艮に一を載せた字)の著書『日本に於ける自由基督教と其先駆者』四七四ページ。
さらにナップより二年半遅れて、一八九〇(明治二三)年春四月、ペリン(George Landor Perin)によってアメリカのユニヴァーサリスト教会の伝道もはじめられた。
ユニテリアンUnitarianismとは正統派教義の中心をなす三位一体説Trinitarianismに反対して神の唯一性unityを主張し、イエスの神性を否定し、イエスは神ではなく人であるとする教派をいう。
ユニヴァーサリストUniversalistは人間の救済と滅亡とはあらかじめ神によって予定されているという、いわゆる正統派神学の救済予定説に反対して「すべての人はみな最終的には救済される」という普遍救済論(あるいは万人救済説)Universal Salvationを唱えた。このことからユニヴァーサリスト(普遍救済論者)とよばれた。この立場からは当然のことながら正統派にとって重要なイエスによる贖罪の信仰は消え去る。
日本では、これら二つの教派に普及福音教会を加えて「自由キリスト教」と総称されている。それぞれの信仰のあり方、その成立の歴史、発展は異なり、その主張、立場に差異はあるものの、一様に聖書に対して歴史的批評(高等批評)の態度をとってイエスを神とはせず、原罪、贖罪も排して人間イエスの信仰にならう立場をとっている。他の宗教に対しての寛容性という点でも従来の正統的な〔保守的〕キリスト教と異なるので、「自由」とよばれるゆえんである。
ユニテリアンのナップは来日早々、福沢諭吉から晩餐会に招かれたり、福沢の『時事新報』や、先にユニテリアンを紹介した矢野龍渓の『郵便報知新聞』などの賛助もあって、伝道のはじめから順調なすべり出しをした。福沢はべつにユニテリアンでもなく、キリスト教徒でもなかった。みずからも述べているように、どの宗教に対しても信心のこころがあるわけではないが、「滔々たる風俗世界に宗教の必要なるは飽くまでも之を了解して」いるにすぎない。ただ、ユニテリアンについては、「教の目的は人類の位を高尚にして、智力の働きを自由にし、博愛を主とし、一個人一家族の関係に至るまでも、之を網羅して善に向わしむるにありとのこと」であると理解しているので、「余輩宗教不案内の者にも甚だ解し易く、果して其実効を奏せんには、人間至大の幸福これに過るものあらず」としてユニテリアンを支援した。つまりは、個人にとっても、社会にとっても、その品位を高め、進歩をうながすのにふさわしい宗教として積極的に支援したのである。これは一八九〇(明治二三)年三月に創刊したユニテリアン協会の機関誌『ゆにてりあん』に「ユニテリアン雑誌に寄す」と題した「寄書」で述べられたものである。同じ文章のなかに次のようなことばもある。
「ミストル(ミスター)、ナップの言に従えば、ユニテリアン教は必ずしも一派の宗教宗門にあらずして、洋語にしてムーブメントと称し、邦訳語すれば、運動、動勢、運機とも云うべきものなりと云う」。
つまり、ユニテリアンでは「伝道」という言葉を使わないで「宗教的運動」と称し、「宣教師」のかわりに「代表者」と呼び、「天下の宗教は我が交友」であるとして、来日したのも日本人を改宗させるためではなく「朋友を博する」ためであることを強調した。
一八八九(明治二二)年、いったん帰国していたナップの再来日の際にはマコーリー(Clay MacCauley)と、ミードヴィル・ユニテリアン神学校で学んでいた神田佐一郎(*)も加わった。さらにナップは慶応義塾で迎えることになる三人のアメリカ人も伴っていた。
* 神田佐一郎 一八六三(文久三)年、紀州串本に生れる。一八八四(明治一七)年、薬剤学研究のため渡米、素志を変じユニテリアン神学校に学ぶ。ナップの再来日のときマコーリーとともにナップに同行して帰国。ユニテリアンの基礎を置くために活躍。教会設立、出版、出納、庶務の四部門の「弘道会」組織を発展させた。一九一一(明治四四)年家業を継ぐためユニテリアンを辞し、郷里に帰る。
翌一八九〇年はじめ、イギリスの宣教師ホークスも来日。彼はイギリス、ユニテリアンの指導者マルティノー(James Martineau)の友人であった。同年二月、神田、ナップ、マコーリーらが麻布区飯倉町にユニテリアン協会の本部を設置して「惟一(ゆいいつ)館」と称した。翌三月には月刊誌として『ゆにてりあん』を創刊。翌年一〇月には京橋区加賀町に移転した惟一館内に東京自由神学校を開校し、のちに福沢諭吉の命名した「先進学院」と改称した。この神学校は牧師養成が目的ではなく、「神学及び宗教の科学的研究を奨励し、而して其結果を以て、人生の実際に応用せん事を目的」とした。教授したのはユニテリアンの宣教師らのアメリカ人のほかに大西祝、岸本能武太(のぶた)、横井時雄ら、さらに佐治実然(東洋諸宗教)、大内青巒(仏教の根本思想)などの仏教徒までが加わっていた。したがって学生にも僧侶が少なくなかった。
普及福音教会の地盤は確固とし、ユニテリアンの活動も活発になっていた一八九〇年、ペリンが来日し、伝道に着手したユニヴァーサリストも順調に進展した。来日した年の暮には早くも麹町区飯田町に宇宙神教の中央会堂が完成し、翌年九月には「宇宙神教神学校」が開校、教会機関誌『自由基督教』も発刊された。この機関誌は、のちに『宇宙神教』とあらためられた。「ユニヴァーサリズム」をこのように訳したのは中村正直(敬宇)である。
自由キリスト教のいちばん先輩格にあたる普及福音教会は『真理』で三派の機関誌について論評をこころみている。
『真理』ニ載スル所ノ論説ハ常ニ唯余等ノ持論中学術ノモノノミニ限ルコトナレドモ、世人ハ尚オ是ニ由リテ以テ吾等ノ基督教ハ其只神学ニ止マルカト疑ワントスルナリ。『ゆにてりあん』ハ只理論的ノ論説ノミヲ載センコトヲ務ムルモノナルニ、世人ハ尚オ是ニヨリテ以テ「ユニテリアン」教ハ只一種ノ哲学ナルカト疑ワントスルナリ。蓋シ此ノ如ク自由派ヲ以テ専ラ理論ニ偏セルモノナリトナス世人ノ疑惑ヲ解カンニハ実用的自由派基督教新聞発兌(はつだ)スルヨリ外ニ良手段ナカリシナリ。『真理』ト『ゆにてりあん』トハ之ヲ思考力ニ訴ウレドモ『自由基督教』ハ之ヲ心情ニ求ム。『真理』ト『ゆにてりあん』トハ専ラ学者ト与スレ共『自由基督教』ハ又能ク多数ノ人民ヲ諭ス。……『真理』ト『ゆにてりあん』トハ牧師ト俗人トニ示スニ宗教道徳ノ原理ヲ以テスレドモ『自由基督教』ハ此ノ原理ヲ適用スル所以ヲ明ニス。『真理』ト『ゆにてりあん』トハ教会宗派ノ上ニ超然タレドモ、『自由基督教』ハ却テ吾人ヲ宗教上ノ一新団結タル自由派基督教会ノ中ニ置キテ他ノ教会ト相提携セシメント欲ス。……殊ニ此新聞ハ専ラ宇宙神教々会諸子ノ尽力ニヨリテ成リタルモノナルニ、諸子ハ敢テ自ラ専ラニセズ。其面ニ題シテ『自由基督教』ト言イ、其代表スル所ハ一教会ナラズシテ全自由派ナリトハ、誠ニ感嘆ノ至ニ堪エザル所……益々之ヲ歓迎セザルヲ得ンヤ。其時ニ当リテ『ゆにてりあん』モ亦タ其名ヲ改メテ『宗教』ト為シタルハ、是レ皆自由派基督教ガ其共同ノ目的ニ注意シテ宗派ノ小別ニ介意セザルノ好徴ナリトス。……『真理』『ゆにてりあん』『自由基督教』、此三者ハ兄弟ナリ。……
とかく、世間は書かれたものだけを通して全体を判断されがちであるので、自由キリスト教諸派もあるいは理論にのみ傾いていて宗教というよりも一種の哲学であると見られているふしもある。その誤解を解くために機関誌の執筆内容の性格づけを示すとともに、三つの機関誌が協調しあい、長短を補うことによって自由キリスト教の全体像を示そうともしている。
このように三派はそれぞれにその特色を活かしながら協力し、相互の機関誌への執筆、教会間の説教、神学校間の出講など人的交流も活発であった。また各所に講義所を設け、伝道は順調にすすんだ。
最初の卒業生
一八九一(明治二四)年、ユニヴァーサリスト教会は静岡、仙台に講義所を設け、翌年一〇月には静岡に彰栄女学校を開校したが、この年の秋、地方伝道の拠点としての静岡講義所の主任が突如辞任した。そのために後任を急いで決めなければならなかった。繁太郎はこの後任の要請を受けたのである。繁太郎は普及福音教会の新教神学校の一神学生であった。これは繁太郎がユニヴァーサリスト教会の中央会堂で説教したり、機関誌にたびたび寄稿したり、また、宣教師ペリンが繁太郎の『烈真具』に序文を寄せたりして個人的には接触が多かったことにもよるし、一方、普及福音教会の方でも、スピンナーはすでに前年日本を去り、シュミーデルも近く故郷に帰ろうとしていた矢先でもあり、ユニヴァーサリスト教会のたっての求めを断わってまでも新教神学校に踏みとどまらなければならない理由はなかった。このために繁太郎は同年一二月まで新教神学校に在籍し、翌九三(明治二六)年一月に宇宙神教神学校に何の支障もなく移籍し、二月一六日静岡に赴任した。さらに静岡から近い興津のあらたな講義所にも出張している。
この静岡行きはあくまでも臨時のことで、新任が決まった同年七月には、再び東京に戻ってペリンのもとで勉学をつづけた。最終学年の学科はギリシャ語、経典解釈、組織神学、基督教的文明論などであったが、この年の秋九月からは松本亦太郎が心理学を、宗教学は岸本能武太が担当している。松本は日本の心理学界に大きな足跡を残し、岸本は日本最初の近代的宗教学者として名を成した。この岸本の一子岸本英夫はのちに東京大学の宗教史宗教学科の教授となり、第二次世界大戦後、繁太郎の呼びかけに応じて、ともに日本自由宗教連盟を結成した縁故をもっている。
このようにして繁太郎は、新教神学校に二年四ヵ月、宇宙神教神学校に一年六ヵ月と、二つの神学校に在籍すること三年一〇ヵ月で1894(明治二七)年六月二〇日、宇宙神教神学校を卒業した。二一歳である。その最初で一人の卒業式には普及福音教会からは三並ハジメ(前掲)、ユニテリアンからは村井知至(ともよし)が参列した。
村井知至は岸本能武太、安部磯雄らと共に同志社英学校普通科を一八八四(明治一七)年に卒業し、のち岸本はハーヴァード大学、安部はハートフォード神学校、村井知至はアンドーバー神学校に留学し、帰国後はそろってユニテリアンで活躍していた。村井はさらに東京外語の教授となり、一九一六(大正五)年にメドレーとの共著で出版した『英作文English Prose Composition』は広く使われた教科書である。〉
ここに引用した個所では、ユニテリアンとユニヴァーサリストが普及福音教会と協力して、明治の時代に大きな伝道の成果を上げたことが記されています。正統派から見れば、それはあくまでも脇に置いておくべき、キリスト教の傍流の歴史ということかも知れません。しかし今の私から見れば、「自由キリスト教」の運動が日本のキリスト教界の大勢を占めなかったということは、それなりにわけがあるとしても、大変残念なことであったと思われます。宗教というのは、何か特別なことのように思われがちです。そうであって欲しいという人間の願望にも根強いものがあります。だから人間の歴史に特別なことなど何もないのだと主張する「宗教」があるとしたら、それはある意味で人々の常識に反しています。キリスト教に即して言えば、受肉・復活・贖罪という特別なことを真理として受容しない「キリスト教」などは、そもそも宗教ではないということになります。しかし教義を真理として受容するということは、あくまでも解釈の問題です。かくかくこういう意味であるならば、私はそれを受け入れることができるという前提なしに、闇雲にそれを真理として受け入れるということは「妄信」であって、「信仰」ではありません。歴史的批判と解釈という作業を経てなおキリスト教には深い意味があると思うからこそ、人々はキリスト教に関わるのではないでしょうか。田辺元が「死・復活を行ずる」というとき、そこには既にキリスト教の「復活」の教義を越え出るものがあります。ガブリエル・マルセルが「受肉」というとき、それはキリスト教の「受肉」の教義を越えたもっと広い意味が込められています。そのように開かれた解釈に道を閉ざすことは、キリスト教の自殺行為です。批判と解釈という人間にとっては不可避の作業を寄せ付けない宗教は、キリスト教以外にも沢山例があります。それが宗教であると言ってもいいくらいです。原理主義などという言い方がなされます。しかしそういう宗教は決して人間の「平和的生存」を保障することはありません。自分たちに敵対する勢力は「悪魔」と見なされてしまうからです。
明治になって伝えられた「自由キリスト教」諸派(ここでは三派)は、それぞれの歴史的背景を背負っています。一般化して言えば、血で血を洗う宗教戦争や、徹底的に不寛容な宗教裁判や魔女狩りなど、欧米キリスト教の負の歴史があるからこそ、そのような「宗派」も生れてきたのでしょう。しかしこの日本という土壌ないし文脈では、「自由宗教」または「自由キリスト教」の課題は自ら異なってくるでしょう。キリスト教正統派の教条主義と対決することは、この日本では、コップの中の嵐のようなものであって、さほど生産的な意味を持ちません。むしろ何かの形でキリスト教に触発された者として、そこにはどんな意味があったのかと問い続けることこそ、今の私には、教会を離れて行った多くの日本人と連帯し、今後の課題を探る上で、大切なことのように思われます。
平田清明氏が論壇で活躍していたのは、1968〜1969年という、まさに学生運動がかまびすしかった時期にあたります。『市民社会と社会主義』(岩波書店、1969年)に収録された諸論考は、あとがきの初出一覧によると以下の通りです。
序にかえて 「夕鶴」とマルクス 朝日新聞中部本社版 1968年5月4日夕刊
一 市民社会の歴史のなかで 『展望』筑摩書房 1968年3月号 原題「ヨーロッパで考えたこと」
二 マルクスにおける市民社会の概念について 『経済研究』一橋大学経済研究所 1969年7月号
三 市民社会と社会主義 『世界』岩波書店 1968年2月号
四 市民社会と唯物史観 『思想』岩波書店 1968年4月号 原題「範疇と日常語」
五 マルクスにおける経済と宗教 『展望』筑摩書房 1968年11月号
六 キリスト教とマルクス主義 『三田文学』三田文学会 1969年1月号
七 市民社会と階級独裁 『世界』岩波書店 1969年1月号
私のような素人「宗教研究者」にとって、五の「マルクスにおける経済と宗教」には大変重要な問題提起があると思われますし、また私にマルクスのアソシエーション論について初めて目を開かせてくれた、七の「市民社会と階級独裁」のような論文も見過ごすことはできませんが、ここでは取り敢えず六の「キリスト教とマルクス主義」について、紹介とコメントの作業を行なってみたいと思います。
キリスト教とマルクス主義
T 現代と宗教
「“現代人は宗教を必要とするか”という問題が、あたえられました。
あまりにも問題が大きすぎ、また深刻なので、私にはとうてい満足な答を出すことができません。ただ、日頃の経済学史研究のなかで、キリスト教とマルクス主義という問題に遭遇してきた私には、この思想史上の問題が、いま私にさし向けられている今日的問題に対して、解答の一基礎軸をあたえているように思われるので、ここに筆をとった次第です。
私はすでに、本書第五論文「マルクスにおける経済と宗教」において、新約聖書の『黙示録』とマルクスの貨幣認識との関連について論じましたが、その折には、黙示録そのものについて語る余裕がありませんでした。私は、そこで語りえなかったことを、本稿で明らかにすることによって、キリスト教とマルクス主義との関連にかんする多少とも内在的な接近を、試みたいと思います。そうすることが、こんにち私にあたえられた問題に対する何ほどの回答になるか、全くおぼつかないのですが、私にはそれ以外できそうにもないので、お許しねがいたいと思います。
とは言っても、あたえられた問題に対して、はじめから全く身を避けることも勝手すぎるように思われますので、私がここに多少とも理論的に展開しようとしている主題の序説として、現代と宗教という設問についての一つの覚書きを、しるしてみようと心にきめました。」
黙示録とマルクスの貨幣認識との関連について述べるのが、本稿の主眼であると前置きした上で、著者はその序説として、現代と宗教について語り始めます。
「“現代人は宗教を必要とするか”という設問には、現代とは何か、宗教とは何か、という問いが、含まれております。この二つの問いは、結局、人間とは何か、という問題に帰着するのだと思われます。私は、そのような問題がいま提起されるところに、現代日本の問題性があると感ずるのですが、そのような問いを成立させるこの国の現代とは、いったい何なのでしょうか。
もし現代を、電子頭脳と宇宙開発によって特色づけられる機械文明の時代と規定し、そのような意味での現代に生きる人間が宗教を必要とするか、といま問われているのであれば、これに対する回答は、比較的容易であると思われます。そのような文明は、古来どの宗教にもまつわってきた呪術的自然宗教性を廃棄していくでしょう。現代人は、洋の東西において種々の姿をとってきた自然宗教を、必要としません。しかしながら、このような文明がいかに発展したとしても、類と個という全人類史的な基底矛盾が、解決されるわけではありません。宇宙時代になったからと言って、個と類の対立としての人間的な悲しみがなくなるわけでもなく、個に対する類の無情の勝利としての死がなくなるわけでもありません。したがって、この類と個との矛盾の解決を固有の自己課題とする宗教、つまり宗教としての宗教を、さきの意味での現代人は、揚棄することができません。」
ここでいきなり「類と個との矛盾の解決を固有の自己課題とする宗教、つまり宗教としての宗教」という著者の宗教観が出てきます。それは私自身がこれまで探究してきたテーマでもあります。しかし著者が、機械文明が発達した現代では「呪術的自然宗教性」が廃棄されていくとした点に関しては、多少の留保が必要かもしれません。ほかならぬこの日本では、機械文明が発達した現代においても、「呪術的自然宗教性」が濃厚に残存していますし、また靖国神社に代表される「国家宗教」も依然として力を揮っています。戦前の国家神道においては、天皇は現人神として君臨し、あたかもローマ教皇のような宗教的政治的権力を帝国領内で行使していました。今日なお保守勢力はそのような天皇制の復活を望んでいるように思われます。そしてそれが少なからぬ国民に支持されているように思われるという現実を、どのように理解したら良いのでしょうか。
「しかし戦後日本の現時点において、ことさらに現代人は宗教を必要とするかという問題が立てられるのは、日本社会が史上最大の機械文明の時代を迎えたということに基づくのではないでしょう。この一〇年間の驚くべき資本主義経済の発展が、私的個人の社会すなわち市民社会の成立をもたらし、そこにおいて類と個の矛盾を、近代的な姿において、したがってその概念にふさわしい姿において、人々に自覚させているからではないでしょうか。ここではもはや、自然宗教であるかぎりでの古宗教が、顧みられる必要は全くないでしょう。しかし、類と個の歴史的および社会的な諸規定間の矛盾の解決をはかろうとする本来的な宗教は、必要とされるでしょう。社会が、したがって歴史が、この類と個の現実的諸規定間の自己矛盾の人間的展開としてあるかぎり、そのような社会=歴史は、それ自体の補完として、この本来的宗教を必要とし、またそれを展開させていくでしょう。」
ここで再び「自然宗教であるかぎりでの古宗教」という基盤なしに、「本来的宗教」などというものがありうるのかと問うことができるでしょう。人間の社会に個と類との分裂または亀裂がある限り、そこに宗教の発生と伝播の秘密があるということは、自然宗教としての古宗教にも当て嵌まることなのではないでしょうか。しかし著者はあくまでも理念的な要請としての「本来的宗教」について語っています。
「私はここで、本来的宗教とは、個と類との分裂によって規定されるかぎりでの社会に生きる人間が、個において類の再獲得を追求する主観的努力である、したがって、個体としての人間がその生存の根拠を直接に問う意識であり、自己の道徳的決断を直接に用意し促迫する問題関心である、と言います。」
この「主観的努力」ということは、宗教において「求道」と言われてきたことに該当するでしょう。それには神学的哲学的な探究も含まれますし、また「修行」の諸形態をも含意するでしょう。しかし著者はそこに立ち入ることはしません。
「このような意味での宗教が、私的個人の社会において特に必要とされるものであることは、本書の読者には、理解しやすいことでしょう。私的個人そのものが、ほんらい自己矛盾的な存在だからです。そして、この自己矛盾こそが、人間をして、一方では、おのれを具体的に対立的な個別者であると意識させ、他方では、おのれを抽象的に統一的な普遍者であると意識させるのです。この自己矛盾的な意識が、その葛藤を通じて運動するとき、その解決の形態として宗教的象徴の形成をうむことは、ごく自然でありましょう。」
宗教的象徴が、著者が指摘するような意味での人間の生命活動の一環として形成されるということは、その通りだと思います。そこには木村敏が論じているような「生命論的差異」(生命と現実1〜5参照)の問題が介在しています。いわゆる「個別化(individuation)」(個別化について参照)の問題です。またそこには西田幾多郎的な「矛盾的自己同一(contradictory identity)」の問題があると言ってもよいでしょう。それは人間における全人類史的「基底矛盾」です。
「こう私が述べたからと言って、現時点の日本において、既成形態の宗教がもとめられているわけではありません。いまだ宗教としての形式をとらない宗教意識の発生が、現時点において問題になりうると述べているにすぎません。そのような宗教意識に対して、既成宗教がどれだけ答えうるか、そしてまた、宗教批判から出発したマルクス主義が、そのような意識過程をどれだけ捉えうるかが、問題だ、と主張しているにすぎません。」
著者が、このような発生途上の宗教意識を、既成宗教によって既に解決済みの問題だとは見なさないと言っていることは、面白いところです。既成宗教も、そしてマルクス主義も、それにどれだけ答えうるかが問われているのだとして、そのような宗教意識の発生をきわめて今日的な問題として提起しています。全人類史的な「基底矛盾」が今の時代においてこそ露わになってきたということでしょう。
「私たちはここで、機械文明と宗教という問題の根底にある科学と宗教という問題を、顧みておかなければならないでしょう。この問題の骨格を明らかにするために、あらかじめ結論的解答を示しておけば、合理性の科学と非合理性の宗教との問題という形において提起される問題そのもののなかに、じつは、科学そのものの問題が、さらに言えば、科学の合理性それ自体の問題が、伏在しているのです。
以下に、その論点について、できるだけ簡略に述べましょう。」
ここで著者は科学と宗教の問題に話題を転じます。
「現代は科学の時代であるとも言えましょう。自然科学の発展が原子力の利用と宇宙の開発を可能にしている時代です。社会科学は、戦前および戦時下の闇の科学であることをやめ、資本主義体制と社会主義体制との内在的および総体的な認識を可能ならしめています。あたかも科学万能の時代であるかのような錯覚さえおこります。しかしこれまでの科学は、人間の外にある対象的な自然と社会を研究してきたのでありました。市民社会という姿で人間の社会形成が進められて以降、自然は人間にとっておのれの外にある、おのれ自身の他者でありました。社会はといえば、それは、個人たる人間の外にある他人のこと、あるいは、おのれの外にある自他の関係でありました。したがって、そのような自然ならびに社会の認識は、対象的な意識活動でありました。この対象的認識の発展として科学の発展がありました。自然科学の発展も社会科学の発展も、対象的認識という性格を離れなかったこと、これはきわめて重大であります。というのは、そのような性格を本来的に保有する科学は、その本来的性格そのもののために、内面的な諸個人の実存的意識をとらえず、個人の自己認識と自己決断の根底に迫らず、したがって個人の思考と行動を直接に突き動かさないからであります。したがって、社会と自然の人間的変革に生きることがないからです。それどころか、今日に至るまで、この科学を利用してきたものは、生きた個人ではなくて、物質化した社会関係(現代では資本)でありました。今日、技術の基礎となる科学を発展させているものが資本であることは、疑問の余地ないところです。この場合、技術とはたんに直接的生産過程に機能する生産技術だけでなく、生産過程と流通過程との双方に機能する管理技術(経営・会計学)を含むこと、さらには社会的分配過程に機能する公的配分技術(財政・金融学)を含むこと、あえて説明を要せぬでありましょう。これらの技術、そしてまたその根底にある諸科学は、それぞれ合理的な自然・社会把握を目指すものであり、それぞれ自然と社会の法則性に関する知識の集積であろうとします。この合理性の追求は、対象的な自然と対象的な社会とともに生きる人間の不可避な営為であります。そのような追求なしに人類の進歩はないと言っても過言ではないでしょう。しかし、そこで追求される合理性が、客観的な法則過程を正しく映し出している場合でも、そこでの合理性は、個人としての人間の外側にあるものとしての自然および社会の対象的合理性であって、生きた人間にとっての合理性ではありません。共同体の解体をつうじて私的個人が現われたとき、かれがおのれの外に見出す自然と社会は、そのような合理性を対象的に備えたものなのであり、したがってまた、市民社会においてこそひとは、合理的な自然科学と社会科学との発展をかちとることができたのでありました。しかしその合理性は、いま述べたように対象的合理性であるからこそ、生きた主体としての人間の根源的意識をとらえ得ないのであり、したがってまた、対象的な自然と社会の自己変革の意識的原動力にならぬものなのです。それどころか、このような対象的合理性の科学によって、自然の人間的本質と人間の自然的本質とがますます疎外されることになります。しかも、この対象的な合理性を、そして対象的認識としての科学を、活用するものが、それ自体社会としての人間関係の対象的存在である資本(その潜在的形態としての貨幣)であり、この資本に包摂されたかぎりでの人間(資本機能としての人間)であるために、この科学による疎外は現実に階級的疎外の内実となっていきます。そのような事態にあって、人間がこの合理的なものへの批判を、合理を超えた非合理の追求という姿をとってまで、押し進めるのは、むしろ当然であります。そこに発生するものが固有の意味での宗教でありましょう。近代の宗教が多かれ少なかれ非合理なものを内包するのは、悟性の未熟未展開にもとづくのではなく、むしろ、近代を特徴づける悟性の展開に内在する非人間性を本来的に批判しようとするからなのです。対象的な自然と対象的な社会が揚棄されぬかぎり、何らかのかたちでの宗教が、科学批判の意味をも持って生起するでありましょう。その場合、科学と宗教との非両立性を主張するのは、愚かなことです。そのような場合には、科学は宗教に替わり得ないのであります。現代ははたして、自然を人間として、人間的本質として、自己のうちにとり込んでいるでしょうか。逆に、自然をおのが外的対象として破壊しているのではないでしょうか。現代ははたして、社会を、社会的個人の内的関係として人間化しているでしょうか。逆に、社会を、貨幣および資本として、対象化し、物神化しているのではないでしょうか。」
著者はここで一気に近代的(対象的)科学的認識を批判するための基礎的な視座を開陳します。そのように人間性が疎外された対象的合理性の世界にあっては、非合理的な宗教が発生してくる必然性があるとさえ言います。資本主義的な近代社会にあって、社会は貨幣、および資本として、対象化され、物神化されていると言います。私が「三つのゼーション現象」で取り上げた近代社会の「世俗化(外在化)・制度化(物象化)・専門化(資格化)」の傾向は、留まることを知らず、今日では大学が新自由主義的に再編され、「競争と市場化に支配される大学」(小倉利丸、「季刊ピープルズ・プラン No.43」2008年夏号)が議論されるところまで来ています。「知の荒廃」が加速的に進行していると言うべき事態がここにあります。
「われわれは、近代科学の合理性が対象的な非人間的合理性と反自然的合理性であることを認識することなしに、科学と宗教というテーマを語ることができないのです。このことをぬきにして、科学だけでは解けないことがあると主張するのは、科学そのものの問題を隠蔽することに他なりません。また、このことをぬきにして、科学以外に宗教が必要だ、と説くのは、宗教の冒涜に通ずるものであります。」
科学的合理性は、対象的実在の一般法則を定立します。それは人間にとって不可避の知的営為であって、それを止めることなどできません。しかしそれは歴史的現実のある局面であって、科学的認識の進歩によって必然的に人間性が向上するわけでも、この世界が平和になるわけでもありません。「分別知=分節知 articulate knowledge」は大いに役立ちますが、反面それを悪用すれば、核爆弾が象徴するように、世界を破滅させる可能性さえあります。だからここでは、科学的合理性に対抗すると見なされている「宗教」が、何をどう把握しているのかが問われることになります。あるいは著者のマルクス的宗教観と科学観が問われることになります。
「対象的合理性の科学が人間的合理性の科学に――社会と自然の変革を通じて――現実に転化しないかぎり、科学と宗教との分離と対立は、不可避でありましょう。科学も宗教も、この時点においては、人間の自己疎外の観念的二形態だからであります。近代科学が、疎外された人間の対象的自己認識であるのに対して、宗教としての宗教は、疎外された人間の主観内的自己認識だからなのです。人間の、対自然および対他人の関係が、現実にすき透るようになり、この対自然および対他人の関係が、共同的個人の自己関係として、この共同的諸個人によって自由に運動させられるようになるまで、科学と宗教は、それぞれ対等な資格で、他からおのれを区別し、その意義をそれぞれ語りつづけるでしょう。それはまことに、人類の前史を特徴づけるものなのだと言えましょう。」
宗教と科学とをそれぞれ「疎外論」的に位置づけ、両者の対立は人類の前史的な段階なのだと言われています。それは見通しとして随分荒削りであって、「共同的諸個人」の自由な運動が可能になれば、その対立が揚棄されると言われても、それもまたマルクス主義的なユートピアニズムなのではないかと言いたくなります。しかし私自身、宗教が掲げる理念は脱宗教的に実現されなければならないと考えてきましたし、この歴史的現実への超越者の外からの介入という想念(啓示概念、「超越的内在」の思想)に疑義を呈してきたという意味では、そのユートピアニズムを著者と共有していると言うこともできます。
「この、科学と宗教との分裂と対立を揚棄する理論的実践的運動を提起した人物こそ、カール・マルクスでありました。彼の理論的活動が宗教批判からはじまって、経済学批判におわること、そしてその青年期においても、その晩年においても、実践的革命家として終始したことも、この国でよく知られております。しかし、そのことの理論的意味内容が十分に認識され、その歴史的意義が深く感得されてきたでしょうか。彼の経済学が、スミス、リカードゥを最良の古典とする市民的対象科学に対する批判であると同時に、市民的宗教の最適応形態たるプロテスタンティズムに対する批判でもあることが、つまり、市民社会における科学と宗教という分裂的意識形態に対する批判であることが、認識され、研究者自身の自己認識のうちに、そして自己変革のうちに、生きたことが、はたして、あるでしょうか。逆に、マルクス経済学そのものを、一個の対象的合理性の科学として誤認し、同時に他方では、宗教が阿片としての役割しかはたさない宗教的現実の腐敗状態に対する批判を固定化させ、科学と宗教とのブルジョア的分裂に輪をかけることに終始してこなかったでしょうか。“現代人は宗教を必要とするか”という問いは、ここにおいて、マルクス主義とは何か、という問いに到達します。私にあたえられたこの現代的問題は、近代科学の対象的合理性に対する批判的な問いであることによって、マルクス主義の思想的現実に対する批判的な問いなのでもあります。
ここにおいてわれわれは、本来のマルクス主義が、キリスト教という宗教と、どうかかわっていたか、を問うべきでありましょう。」
著者はこうして「本来のマルクス主義」なるものを想定して、既成のマルクス主義を批判し、マルクス主義がキリスト教に対する批判、あるいは科学と宗教との分裂的意識形態への批判から生れてきたことが、十分に認識されなくてはならないと説きます。
次に論述は第2項の「キリスト教とマルクス主義との接点」に移りますが、それは次回に取り上げることにします。
U キリスト教とマルクス主義との接点
「日本の精神史において、おのれの死をもかけた思想運動としては、キリスト教とマルクス主義の二つがあることは、よく知られております。遠くは切支丹禁制下の日本キリスト教徒、近くには昭和初期の日本マルクス主義者、そしてまた戦時下のキリスト者。かれらの受難は、日本思想史の偉大な叙事詩のひとつでありましょう。しかし、これまでの思想史研究において、これら両者の抵抗の姿勢がどこで共通しておりどこで相違するかを、明らかにする試みがあまり見られませんでした。とくにマルクス主義研究者の側からの、この問題への接近は、ほとんど皆無といってよい状態ではないでしょうか。
わたくしは、本稿では、日本思想史におけるこの問題点解明の基礎軸を確定するために、ヨーロッパにおけるキリスト教とマルクス主義との関連と区別について、ひとつの試論を提供したいと思います。」
キリスト教とマルクス主義との「抵抗の姿勢がどこで共通しておりどこで相違するかを、明らかにする試み」がこれまであまりなされて来なかったことを踏まえ、両者の「関連と区別」についての試論を提供するのが、この項の目的です。
「わたくしどもがよく知っているように、日本では、キリスト教とマルクス主義とは、あい交わらざる二つの思想でありました(矢内原忠雄・大塚久雄という偉大な例外の場合は別として)。しかし西ヨーロッパでは、マルクス主義はなによりもまず、キリスト教の歴史的存在を前提とし、キリスト教文明に対する批判として自らを確立したものであります。したがってそこでは、少なくとも両者の否定的関連は明白であります。マルクス主義成立の事実史のうえでも、マルクス主義の論理構成そのもののうえでも、この否定的関連を疑うことは、全く不可能であります。逆に日本ではこの否定的関連さえ存在しないことを、私たちは確認しなければなりません。ヨーロッパ精神史のうえで、少なくともひとつの重大な事件であったキリスト教とマルクス主義とのこの関連が、積極的にとらえられることなしに、キリスト教とマルクス主義とがそれぞれ別箇に、この国に導入普及されたことは、その後のキリスト教およびマルクス主義のこの国におけるあり方を決定したともいえましょう。日本における近代の超克が思想的に微力であるのは、ここにひとつの原因があるのではないのかと、私には思われます。」
ヨーロッパの思想文物が個々バラバラに移入され、その全体的連関が把握されないという日本の近代化の問題点は、既に多くの論者によって指摘されているところです。キリスト教とマルクス主義との対立という問題も、今日漸くその全体像が視野に入ってきたということなのでしょう。「近代の超克」という言葉が突然出てきますが、廣松渉の問題意識とも通ずるものがあるかも知れません。
「では西ヨーロッパにおける否定的連関とは、どういう内容をもつものなのでしょうか。わたくしはこれを。両者の関連と区別という悟性的な論点開示の姿で、説明してみたいと思います。
キリスト教はヨーロッパにおいて、私的個人の本来的自己矛盾が生み出した自己認識であり、一方では、市民社会の現実的発展の精神的原動力となった(かの宗教改革―→市民革命―→近代市民社会の発展を想起せよ)のですが、他方では、市民社会の観念的揚棄として自らを確立してきました。この後者があってこそ前者が展開したのであります。市民社会の観念的揚棄の思想こそ、市民社会の現実的発展に寄与したこと、これは、歴史の逆説の典型である、と言えましょう。市民社会の私的排他的な否定面を観念において揚棄しているからこそ、市民社会の個体的主体性の高揚と肯定面を実現してきたのであります。(経済学的には、貨幣物神の成立とその支配が、内面的=抽象的な個人の勤労と節倹というプロテスタンティズムの倫理を生み出し、産業的資本主義への道を現実に用意した、と言えるでありましょう。)つぎに、キリスト教は、市民社会という、近代市民にとっての対象的社会形態を観念において揚棄することによって、人間にとってすでに外的な対象となってしまった自然を、観念の世界においてではあるが、人間的なものにしようとしました。そして、自然をこのように人間化することによって、特殊歴史的な人間のあり方についての批判的意識を鋭くしました。したがって、キリスト教においては、とくにその原始形態においては、また改革期のそれにおいては、未来における最後の審判において裁かるべき現在と、この現在を成立させた過去(すなわち原罪)との、人格的=歴史的な対決が、積極的におこなわれてきました。つまり歴史意識が、キリスト教の中で成立したのでありました。そして最後に、このような歴史意識としての自己意識が、私的個人の自己矛盾を積極的に揚棄しようとするとき、ひとは神の子羊としての同胞社会(共同体)を積極的に建設しようとしました。そしてそのような同胞性の獲得において、人間と自然との再融合を実現しようとしました。したがってキリスト教は、なによりもまず個人の意識でありながら、個人と個人との類的結合を自覚的に実現・推進する社会意識として発現します。いや、より正確に言えば、キリスト教は、個人の意識でありながら、ではなく、個人の意識だからこそ、自覚的積極的な社会意識として発現したのであります。そこに、キリスト教に特有な、内面的宗派性が形成されるのです。
以上わたくしは、キリスト教の特徴を四つ挙げたわけですが、それらはいずれもマルクス主義によって継承されております。ただし批判的継承であること、いうまでもないでしょう。
(以上の四つの特徴は、キリスト教が、その原型において、したがってまたその本来的性格として、被抑圧者の自己解放の運動であったということに、要約されます。少なくともその原型においては、キリスト教は、被抑圧者の立場からの、私的個人批判であり、自然の人間的獲得の努力であり、原罪の展開としての歴史的現在にたいする審判の意識であり、そのための自己防衛的・未来形成的な戦闘の組織でありました。マルクス主義がこれらの点も継承していること、次項であらためて論じたいと思います。)」
ここで著者はキリスト教の四つの特徴を箇条書きにしていないので、やや混濁した印象を与えます。それを整理してみると、以下のようになるでしょう。
1. キリスト教はヨーロッパにおいて、私的個人の本来的自己矛盾が生み出した自己認識であり、一方では、市民社会の現実的発展の精神的原動力となったのですが、他方では、市民社会の観念的揚棄として自らを確立してきました。
2. キリスト教は、市民社会という、近代市民にとっての対象的社会形態を観念において揚棄することによって、人間にとってすでに外的な対象となってしまった自然を、観念の世界においてではあるが、人間的なものにしようとしました。そして、自然をこのように人間化することによって、特殊歴史的な人間のあり方についての批判的意識を鋭くしました。
3. キリスト教においては、とくにその原始形態においては、また改革期のそれにおいては、未来における最後の審判において裁かるべき現在と、この現在を成立させた過去(すなわち原罪)との、人格的=歴史的な対決が、積極的におこなわれてきました。つまり歴史意識が、キリスト教の中で成立したのでありました。
4. このような歴史意識としての自己意識が、私的個人の自己矛盾を積極的に揚棄しようとするとき、ひとは神の子羊としての同胞社会(共同体)を積極的に建設しようとしました。そしてそのような同胞性の獲得において、人間と自然との再融合を実現しようとしました。したがってキリスト教は、……個人の意識だからこそ、自覚的積極的な社会意識として発現したのであります。そこに、キリスト教に特有な、内面的宗派性が形成されるのです。
( )内の文章は、これをさらに要約して、キリスト教は、1.私的個人の批判であり、2.自然の人間的獲得の努力であり、3.原罪の展開としての歴史的現在にたいする審判の意識であり、4.そのための(審判に備えるための)自己防衛的・未来形成的な戦闘の組織であった、としています。
私が虚を突かれる思いがしたのは、2の「自然の人間的獲得の(観念的)努力」という点です。キリスト教の歴史に照らして、それは果たして正当だと言えるでしょうか。従って4の「そのような同胞性の獲得において、人間と自然との再融合を実現しようとしました」という表現についても、果たしてその通りだろうかと疑問に感じました。もしかしたら、それはマルクス主義の立場をキリスト教に投影して考えているからなのかもしれません。旧約の預言書には人間と自然の和解というイメージがあり(イザヤ11:6−9)、福音書のイエスのメッセージにも、大らかな自然の肯定が見られます(マタイ6:25−34)。また中世ではアシジの聖フランシスコのような例もあります。しかし「人間と自然との再融合」という思想が、キリスト教史(特にプロテスタントの歴史)においてどこまで支配的だったのか、私には確言できません。原始キリスト教の時代ならば、あるいはそのような思想が存在したかも知れないのですが……(ローマ8:18−25)。なお、瑣末なことですが、同じく4の「神の子羊としての同胞社会」という表現は、キリスト教に馴染みません。「神の子羊」とはキリストの比喩であって、ここではむしろ「キリストによって神の子とされた者たち」とでも言い換えた方がよいでしょう。
「継承が批判的継承であることは、まず第一に、キリスト教が私的個人の自己矛盾を観念の世界で揚棄しようとするのに対して、マルクス主義がこれを地上において現実に揚棄しようとするところにあります。自然の人間的獲得についても同様です。マルクス主義が、人間主義と自然主義との統一として自己を実現しようとするには、キリスト教にたいする否定的関連においてでありました。つぎに、マルクス主義が、歴史を、共同体(コミューン)―→その解体としての私的所有の社会(市民社会)―→その革命的転換としての、真の共同体(コミューン)の実現の過程として、把握し、この過程を自覚的に促進する運動としてみずからをコミュニスムと名づけたことのなかにも、キリスト教的歴史意識の現実的展開があります。キリスト教が原罪という宗教的名辞を与えたものの中に、マルクスは私的所有を見出したのでありました。キリスト教における失われた楽園は、マルクス主義にとっては、アルカイックな共同体なのであります。審判を通じての楽園の再獲得は、革命を通じての共同社会(コミューン)の再建でありました。そしてそのようなものの実現のための組織は、まさに自己防衛的・未来形成的な集団の形成そのものでありました。『コミュニスト党宣言』にみられるように、勝利の必然性が理論的に確信される被抑圧者集団の自覚的形成、これは、マルクス主義を特徴づけると同時に、マルクス主義の思想的母斑を物語っております。マルクス主義においては歴史意識が現実的基礎を獲得することによって、そこに形成される革命的組織の未来における勝利が、理論的に確証されるのであります。ここに、マルクス主義のキリスト教にたいする否定的関連は、その集約点をみると言ってもよいでしょう。」
キリスト教信仰はまさに観念論であるとしつつ、その観念的形態の「現実的基礎」を獲得したのがマルクス主義であるとされています。キリスト教を思想的母斑としつつ、終末における審判を、被抑圧者集団の未来における勝利へと読み替えたのがマルクス主義であるとされます。しかし、それもまた革命的ユートピアニズムであると言って悪ければ、革命的ロマン主義ではないのかと、疑ってみる必要があるでしょう。「理論的に確証される」と言われますが、その理論の実践には多くの制約が付きまとい、社会主義国であった国々の現状は、見るも無残な状況を呈しているからです。もちろんキリスト教が正しいと言っているわけではなく、キリスト教もマルクス主義もどっちもおかしいところがあると考えてみる必要がありはしないでしょうか。たとえ未来のことであるとしても、問題が「一挙に、全面的に」解決されるなどということはありえない、と考えるべきではないでしょうか。両者に共通するものがあるとしたら、問題解決におけるそのような「終末論的普遍主義」ではないでしょうか。もちろんそのような「希望」があるからこそ、人間は生きられるのですが、それが何を意味するのか、よくよく考えて見るべきでしょう。
「この否定的関連のうちで、とくに、その否定性は社会の階級的構成に対する認識の差となって現われます。キリスト教にあっても、少なくとも古代の奴隷制が、その批判的意識の俎上のぼっていなかったのではありません。中世の農奴制についても同様です。このことは、かの農民戦争が宗教戦争=宗教改革として展開されたことによって証明されております。要するに、旧市民社会の階級的構成がキリスト教によって批判的にとらえられなかったわけではありません。むしろ、旧市民社会の身分的人格的差別にたいする批判的意識は、これを明確に保持していたと言っても、あながち過言ではありません。(古代および中世の階級社会は、近代社会の場合と異なって、形式上=法制上の身分社会の内実展開として現われたことに注意。)しかし、旧き市民社会であれ、ともかく、市民社会の現実の王が貨幣であり、この貨幣が身分的差別を階級的差別に骨化させるものであることについて明晰な認識がなかったこと、これが、キリスト教的市民社会批判の限界でありました。このことについての明晰な認識を欠いていたが故にこそ、すでに観念において身分的差別を揚棄していたキリスト教は、古代および中世の市民社会において、唯一の公認宗教となり、古代の市民的権力と中世の領主的権力の支配の思想にもなりえたのでありました。マルクス主義のキリスト教批判が、階級認識の一点に凝集され、階級認識の論理的始源としての貨幣=物神把握をめぐって展開するのは、偶然ではありません。ただし、念のために書き添えておきます。キリスト教において貨幣にたいする批判的な意識がなかったのではありません。次項において再論するように、貨幣批判はむしろキリスト教に特徴的なものだと言ってよいのです。キリスト教になかったもの、それは、貨幣にたいする批判的意識ではなくて、貨幣こそ当該社会を階級社会たらしめるものだという根本認識なのです。それは原始キリスト教が、共同体の解体を通じて初めて階級社会が出現した時点で、生まれたという歴史的制約によるものでありましょう。類型と段階を異にする諸種の階級社会の変遷として人類史を批判的に考察することのできぬ時点における貨幣認識が、キリスト教の貨幣認識の制約そのものなのです。後代のわたくしたちは、そこにキリスト教の理論的限界を確認すると同時に、その歴史的制約においてであれ貨幣の批判的認識を最初に提供した原始キリスト教の偉大さを、みなければならないでしょう。ほかならぬマルクスが、その貨幣論展開において、その決定的論理基軸を原始キリスト教から、特に黙示録から学んでいるだけに、このことを今日確認することは重要であると思われます。(本書第五論文「マルクスにおける経済と宗教」とくに、そのうちで「V キリスト教批判としての市民社会論」中の「貨幣物神と『黙示録』」の項を参照されたい。)」
ここで著者は「貨幣こそ当該社会を階級社会たらしめるものだという根本認識」が問題であると言い切っています。たとえマルクス主義の立場に立って考えたとしても、そのように断言することは可能なのでしょうか。土地(地代)、労働力(賃金)、統治(税金)、機械などの生産手段(資金)、商品(代金)という形で、たしかに、人間のすべての交換過程を貨幣に還元することは可能です。しかし、だからと言って、「貨幣こそ当該社会を階級社会たらしめる」当のものだと言い切れるものなのでしょうか。私としては、そう言い切ってしまうことにためらいを感じます。貨幣以外に別の媒介項が必要とされるように思われるのです。たとえば、古代社会における、帰属(祭神への貢納・奉献)・所有(元の持主への代償・弁済)・支配(統治者への納税・課役)といった例を考えてみた場合、それは貨幣に還元される関係であるとは言っても、事柄の半面しか見ていないということにならないでしょうか。だから人間関係が貨幣に還元されてしまう社会(資本主義社会)が問題なのであって、それは既に古代社会にきざしている事柄であると言い換えるべきなのではないでしょうか。そして資本主義社会においてこそ、極限的な形で、「貨幣が当該社会を階級社会たらしめる」のだと言うべきなのではないでしょうか。
「キリスト教とマルクス主義との否定的関連については、最後に、キリスト教の運動が観念における同胞社会の実現において成就するのに対して、マルクス主義の運動が、地上における共同社会の建設を目的とするがために、これを妨げる一切のものとの闘いを現実的に行なうということをあげなければなりません。キリスト教の運動が、キリスト教の自由を確保するうえで妨害物となる政治的権力あるいは貨幣的権力にたいして、自己防衛的に闘うことはあっても、それは本来、精神運動として特徴的に自己を形成してきた運動でありますから、政治権力に対して、また貨幣的権力に対して積極的に闘いをいどむというということは、ありません。これにたいしてマルクス主義は、それ自体、一箇の思想運動でありますが、その思想運動性は、現実の社会=歴史の必然的展開の一所産であり、またその一形態そのものでありますから、それを妨げる一切の政治権力に対しても、いわんやその直接的対立物である資本の権力に対しても積極的な闘争を挑むものであります。ヨーロッパの近代において政治的民主主義が確立すると、キリスト教はもはやおのれに対する直接的抑圧者を最終的に失い、その究極的対立物であるはずの私的所有すなわち市民社会の否定面に直面しながら、この私的所有=市民社会に対する批判の完成を成就しないことこそが、マルクス主義をしてキリスト教にかわる被抑圧者解放の運動の推進者として自認させたのでありました。」
ここで「キリスト教の運動が観念における同胞社会の実現において成就する」と言われています。自己が生存する現実社会の矛盾が実践的に止揚されるということがキリスト教の救済の目的ではなく、それはどこまでも精神的な解放に留まっているということでしょう。これに対してマルクス主義の運動は、「現実の社会=歴史の必然的展開の一所産」であると言われます。キリスト教が市民社会において自足してしまったところで、マルクス主義は「キリスト教にかわる被抑圧者解放の運動の推進者」となったと言われます。その指摘はおおむね正しいでしょう。しかしマルクス主義はキリスト教の組織論の悪い面を引継いでいます。それはセクト主義の問題です。私は以前から社会的現実の問題として、「抑圧・分裂・対立・離反」ということを考えてきました。抑圧のあるところには、必ず分裂と対立とがあり、それは離反という根源的事態から生じて来るという程の意味です。イエスが闘っているところに、イスカリオテのユダが現われてきます。あるいは解放の運動には、常に、正統と異端の問題が発生してくると言うべきでしょう。マルクス主義の運動もその問題を乗り越えてはいません。そして正統的マルクス主義(スターリニズム)は無残にも敗北しました。だからキリスト教をマルクス主義に代置するだけでは何の解決にもなりません。かつて賀川豊彦は、マルクス主義は「病理学」としては正しいが、「治療学」としては甚だ問題があると言いました。「暴力革命」という外科手術一点張りの治療法では、社会病理を根本的に治すことはできないという意味でしょう。
今日なお、キリスト教もマルクス主義も、社会的現実に果敢に挑戦しています。この社会の反動的現実が、キリスト教を活性化させているという面があります。また『蟹工船』が広く読まれているように、マルクス主義が、再び注目されるような社会意識が生れてきています。キリスト教もマルクス主義も、いずれも、この社会の少数派として、しかし根本的な問題を提起してきました。ただし残念ながら、両者共、過去の問題を引きずったままの状態でいます。だから今日求められているのは、社会的連帯をセクト主義の中に閉じ込めないで、人々の幅広い結集を獲得していくことではないでしょうか。そのための柔軟で、かつ強靭な戦略(運動論)を構築することが急務の課題なのではないでしょうか。
次は「黙示録の意義」を取り上げます。
V 黙示録の意義
「わたくしはすでに、新約聖書の黙示録が、マルクスの貨幣論展開において重大な意義を有することを、指摘しておきました。これまで黙示録とマルクス主義との関連については、マルクス的革命論は黙示録の千年王国的幻想だ、というような反マルクス主義的姿勢からの否定的言及が、あっただけでした。そしてこれに対するに、マルクス主義擁護派は、マルクス主義は黙示録には無縁なものだ、と反駁したのでありました。このような議論の応酬が皮相浅薄であることはマルクスおよびエンゲルスの諸文献そのものが証明しております。マルクスの『資本論』第一篇が、けっして否定的な意味においてではなく逆に肯定的に黙示録に言及していることは、本書の第五論文がすでに明らかにしているところであります。わたくしは今あらたに、エンゲルスがその死の前年に書きとどめた『原始キリスト教の歴史によせて』こそ、彼にとっての思想的遺書であり、マルクスの死の一年前にマルクスとの合意のうえで執筆した『ブルーノ・バウアーと初期キリスト教』とともに、今日、キリスト教とくに黙示録とマルクス主義との関連を探究するうえで、重大な文献であることを指摘します。晩年のエンゲルスは、マルクス死後その遺した仕事を完成するという点で重要な役割を果たしているのでありますが、同時に、歴史把握においても『資本論』編纂という事業においても、仔細に観察すれば、マルクスの歴史把握あるいは理論展開の真意から離れているところもあって、今日では、新しく発掘されつつある文献資料の吟味を通じて再検討されるべき人物であります。(この点、初期エンゲルスが、その初期諸論稿の仔細な再検討を通じて輝かしく再登場するのと、ちょうど対照的であります。)しかし、ともあれ最晩年のエンゲルスが『原始キリスト教歴史によせて』という論稿を「ゾツィアル・デモクラート」に寄稿してキリスト教とマルクス主義との「接点」を論じたのは、初期マルクスが、かの『ユダヤ人問題』を「独仏年誌」に発表することをもって、ガリア、ゲルマニアの地に登場したこととともに、キリスト教とマルクス主義との関連を黙示しているものであるといえましょう。」
このように前置きして、著者は、本題に入る前に、エンゲルスがキリスト教あるいは黙示録に触れている論文を紹介します。
「黙示録そのものにはいるまえに、キリスト教についてエンゲルスが、次のように述べていたことを指摘しましょう。
「ローマの世界帝国を征服し、文明化された人類の大部分を一八〇〇年にわたって支配してきた宗教を、偽善者たちによってかき集められた背理の集合だと、単純にわりきって、かたづけることはできない」(『ブルーノ・バウアーと初期キリスト教』)。
この言葉は、宗教は阿片だとしか知っていないマルクス主義にとっても、また、宗教=阿片なるテーゼに反対する反マルクス主義者にとっても、自己反省の一資料ではないでしょうか。初期マルクスが一八四〇年代初頭において、バウアー的思想地平を越えようとして、宗教を阿片だと語ったとき、彼マルクスが同時に何を語っていたか、私は、本書第五論文においてすでに説明しておきました。いま一八八二年、ブルーノ・バウアーの死にあたって、エンゲルスは、バウアーによる聖書の批判的研究の意義を評価して右のように語ったのでありました。そして、『原始キリスト教の歴史によせて』の結びの一節において、キリスト教文献における黙示録の意義を次のように書き残したのであります。
「キリスト教の生成過程から生まれたこの最古の作品が、われわれにとってとりわけ価値が多いのは、それが、キリスト教にあたえた――強いアレクサンドリア的影響のもとで――ユダヤ教の貢献を、そのまじりけない形で示しているからである。後年のものは、すべて西ヨーロッパ的・ギリシャ=ローマ的付加物である」。
エンゲルスにとっては黙示録は、ユダヤ教のキリスト教への転化を媒介するロゴス(言葉)でありました。そしてそこにこそ原始キリスト教の思想的精髄が宿っている、と考えられたのであります。彼はこの論稿において、原始キリスト教が後代のキリスト教と異なる点を、やや性急に、列挙しております。黙示録には、福音書と異なって、三位一体説がないこと、聖霊が一つでなくて七つあり、イエスがモーセと同格者近いものとされていること、原罪についての直接の言及がないこと、信徒の闘争意欲と勝利感が横溢した姿で描かれていること、宗教的改革者間の厳しい分裂と内部抗争が描かれながら、世界宗教への道が、外的儀礼をもたないことによって用意されていること、血の復讐が肯定的に描かれていること、最後の審判が神自身の行事であってキリストの御業とされていないこと、洗礼が問題となっていないこと、これらがエンゲルスの指摘しているものです。このような指摘は、後代の内面性に徹した、そして時の権力のもとで市民権を得ていく、さらには、支配の思想とさえなっていくキリスト教との直接的対比の観点から、なされていて、黙示録への内在が稀薄なように私には思われます。しかしこのエンゲルスの指摘は、黙示録ぬきの後代キリスト教の伝統的雰囲気を批判するという一つの意味があったのではないかと思われます。」
エンゲルスの論稿がこのように紹介され、著者は愈々本題に進みます。しかしこの先展開される「バウアー=マルクス的黙示録解釈」が、どこまで正確に黙示録を解釈したことになるのでしょうか。それを判断する手掛かりとして、先ずは、キリスト教の側の一般的な理解を示したいと思います。そのために『ハーパー聖書注解』(J.L.メイズ編、教文館、1996年)を開くと、ヨハネの黙示録の「著作の理由と目的」および「黙示録の解釈」の項目には、次のように書かれています(David E. Aune執筆、山田耕太訳)。
著作の理由と目的
「ヨハネは、明らかにローマの権威によって迫害されている、アナトリア地方の七つの教会のグループに宛ててこの黙示録を書いた。一人のキリスト教徒は公に処刑され(2:13)、そのうえ多くの人々が処刑された可能性があり(6:9-11, 20:4)、ヨハネはさらに他の人々もおそらく処刑されるのではないかと思っている(2:10, 6:11)。状況はそれほど厳しかったのであろうか。それとも、ヨハネは過度に悲観的な状況を描いたのであろうか。後64年と250年の間にはキリスト教徒に対するローマ帝国の公式の迫害はなかったが、恣意的な迫害は確かにあった。ネロの迫害以降、キリスト教徒であることは、犯罪の共謀者であるのと等しく見なされた。そして、キリスト教徒は(他の宗教グループとは違って)、ただ単にキリスト教徒であるがゆえに罰せられた(タキトゥス『年代記』15.44.5、プリニウス『書簡』10.96.2-3)。キリスト教徒の罪は、自分たちの信じる神以外のいかなる神への礼拝を拒むこと、すなわちギリシア人「無宗教」と名付けた排他主義にあった。異教の神々や神格化された皇帝への犠牲の捧献を拒否することは、人々と神々との調和した関係を持つ人々にとっては脅威と見なされた。キリスト教徒が迫害されるか否かは、地方長官や、(おそらくさらに重要なことに)公の意見の熱烈さに基づいていた。ローマ法においてキリスト教徒を非難する法的根拠となったのは、単に任意の告訴人(ラテン語delator〔デラトール〕「密告者」)がいたこと、キリスト教徒であること自体が非難の理由となったこと、さらに地方長官がこの非難に基づいて人々を罰しようとしたことであった。
それゆえ、黙示録の主要な目的の一つは、迫害されているキリスト教徒に慰めと励ましを与えることであった。ヨハネはこれを二つの方法で行った。すなわち、自分自身の命を犠牲にしてさえもイエスの証言に忠実なキリスト教徒の将来が、祝されたものであることを啓示することによって、さらに彼らを迫害する者への神罰が必然的であり、切迫していることを読者に確信させることによってである。ヨハネの黙示的メッセージも、キリスト教徒と彼らの異教的環境との間で、あらゆる種類の文化的適応を断罪する。」
黙示録の解釈
「黙示録は現代の欧米の読者が最も違和感を感じる書である。古代のユダヤ教やキリスト教の黙示文学は極めて象徴的であり、その象徴は奇妙である。例えば、黙示録で、小羊は屠られており、七つの角と七つの目をもっているかのように見える(5:6)。また、海からの獣は七つの頭と十の角をもっている(13:1)。このようなグロテスクなイメージと現実との顕著な相違は、このような幻が象徴的で神話作用的な意味をもつことを示唆している。しかも、黙示文学の用語は同じ意味をもつ別な言葉の表に分類できる暗号ではない(下線は引用者)。黙示思想家の特別な才能は、葛藤と勝利、苦難と保証の古代的象徴を用いながら、特定の歴史的状況の厳しい現実を新しい基調に転換することによって、それらを普遍化する力に見られる。したがって、海から上がってくる獣は、ローマ帝国を表すが、さらにローマ帝国以上のものを表すのである。正確に言えば、その当時はローマ帝国によって演じられ、それ以前は他の国々によって演じられた、宇宙的ドラマにおける敵対的な役割をも表すのである。それゆえ、黙示録は文学的に古典である。というのは、それは人間の経験を包みこむばかりでなく、その経験に文化を超えた、しかもキリスト教的な意味を与えるからである。」
ここで下線を引いた部分が注目されるのは、「バウアー=マルクス的黙示録解釈」がまさに黙示録の用語を暗号として解読しようとしているからです。ただし上の解説でも「海から上がってくる獣」がローマ帝国を表すとされているように、黙示録の用語の暗号的側面を全く否定したら、そもそも解釈が成り立ちません。従って解釈、あるいは暗号解読の当否は、「著作の理由と目的」をどのように把握するかという問題、またはその作品をどのような文脈に置いて理解しようとするのかという問題にも関わってきます。このように前置きした上で、愈々、著者が「バウアー=マルクス的黙示録解釈」を紹介する部分に移ります。以下、かなり長くなりますが、その部分を続けて引用します。
「私はいま黙示録ぬきのキリスト教と書きましたが、黙示録は、新約聖書の全文献のうちで、少なくとも異質な何ものかをもち、聖書の王といわれるかのカルヴァンさえその注釈を敢えてしなかったものであります。この黙示録のなかに、『資本論』のマルクスは、おのれの貨幣論展開の一枢要点を見いだしたのでありました。それは単に、経済学体系のうちの、一論理次元にすぎぬ貨幣論の論理的支点が、見いだされたということでなく、広く歴史認識の一基礎軸がそこに見いだされたということであります。この点をエンゲルスは積極的に語りだしておりません。いま、マルクスが注目していた黙示録の箇所を中心にして、この文書に特徴的な思考を浮彫りにしてみれば、次のようになるでありましょう。
幻覚の記述ともみえる象徴的叙述の重畳をもって、現在の審判と未来の告示をおこなうこと、これこそ黙示録の黙示録たるゆえんであります。現在の、地上での大いなる都バビロンの崩壊と、未来での、聖なる都エルサレムの出現。黙示録を貫く赤い一本の糸は、これであります。
バビロンの都とは、なんでしょうか。それは、「多くの水の上に坐っており」、「七つの山の上にある」淫乱の都ローマのことです。それじたいが一個の共同体から生まれながら、その共同体=国家的所有の内包する私的所有の発展のために、地中海的世界帝国となったローマのことです。このローマは、「七つの頭と十の角をもった獣」の上にのった「大淫婦」として黙示されております。七つの頭とは、七人のローマ皇帝すなわちアウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ、ガルバ、オットーであり、十の角とは、ローマ帝国の属領となった諸共同体=国家の王のことでありましょう。そして、ここに「獣」とは、一般に貨幣のことであり、特殊にはネロ貨であります。(このことを、「獣の名、またはその名の数字、六六六」という黙示録の記述の解読によって明らかにしたのは、ブルーノ・バウアーでありました。)この獣は、人類の敵サタンの黙示的表現である一匹の「竜」から、地上支配の力と権威とを与えられたものであります。七人のローマ皇帝は、この貨幣たる獣の人格的表現であり、その頭脳であります。また、十人の共同体=国家の王は、この貨幣=獣におのれの共同体を売り渡し、共同体の人間と自然を貨幣関係に投げこんだ共同体首長である、と考えられます。これらの皇帝と王とを人格的表現とする貨幣、すなわち獣は、その本性上、あらゆる者に身をゆだね、そこに、貨幣関係としての世界関係を作りあげます。そこに成立する貨幣関係としての世界関係こそ、「大淫婦」なのであります。この貨幣関係が、人間の特殊歴史的な社会関係であり、人間と自然の双方を汚すところの交通関係であること、言うまでもないでしょう。黙示録は、この意味での貨幣関係を「姦淫」と黙示します。(ここに姦淫とは、後代のカトリック教が定式づけたような婚姻外の性的交渉であるであるよりか、またユダヤの律法が禁止していたエジプト的近親結婚であるよりか、さらにまたエンゲルスが解釈したようなユダヤ人と異教徒とのあいだの性的交渉であるよりか、ひろく前期的暴利商業として特徴づけられる貨幣関係のことであります。この前期的な貨幣関係にもとづき、それに制約されているような、上記の性的交渉がすべて、姦淫とみなされていること言うまでもありません。)したがって黙示録は、バビロンの都ローマを「姦淫で地を汚した大淫婦」と断罪するのであります。また「地の王たちは彼女と姦淫をおこない、ぜいたくをほしいままにする」と書き留めるのであります。
このバビロンの都には、いま説明した意味での「大淫婦」と「地の王」がいるのですが、これ以外にこの「大淫婦の淫行によって富裕になる地の商人たち」があります。そして最後に、「獣〔=貨幣〕の刻印を受けた者、この獣の像を拝む者」がおります。したがってまたそこには、あらゆるものが「商品」の形をとってあふれております。金、銀、宝石、真珠などの奢侈品は言うまでもなく、ブドー酒、麦、牛、羊、馬、車などの生活必需品も、商品の姿で存在します。それどころか「奴隷(slave)」も「人の魂(souls of men)」も、商品として売買されております。これらの「商品」こそ「富」なのであり、これらの商品を所有することこそ、富裕なのであります。(マルクスの『資本論』をひもといたことのある人は、誰しも、富が商品として現われることを批判的に記述した、『資本論』冒頭の、かの有名な一節を思い起こされるでありましょう。)
このようなバビロンの都の君臨にたいして、神が怒るのは当然でありましょう。神はこの大淫婦すなわちバビロンの都に「血の復讐」をおこない、これを滅ぼします。
このバビロン崩壊の過程およびその後の人類史の段階的展開は、いかにも黙示録にふさわしく象徴的に啓示されています。
(1) 神による血の復讐としてのバビロン崩壊は、かの大淫婦がのっていた獣(貨幣)とその十の角(王)の反逆という形態で進められます。「十の角と獣とはこの淫婦をにくみ、みじめなものにし、裸にし、彼女の肉を食い、火で焼きつくす」のであります。その結果、この反逆した王と貨幣との直接的支配が地上に出現します。他方、この崩壊の日に、これまでの殉難者および忠信なる使徒には復活の栄光が与えられ、「これらの人々が、神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年のあいだ支配する」のであります。この千年の支配が、観念における支配であることに留意すべきであります。しかし、この観念的支配が意味しているものは重大であります。なぜならば、現に生きている人間の忠信なる魂を、復活した人々が直接に支配することによって人間存在の過去と現在、個と類との分裂を揚棄する観念的保証が得られるからであり、また、より本質的には、真の王たる支配者=神が、自然をして、人間にとっての聖なる「花嫁」にする用意、すなわち、自然の人間的本質と人間の自然的本質との分裂を揚棄する観念的な準備を、おこなうからであります。とはいっても、そもそもの初めにおいて獣におのが力と権威を与えた竜が、まだ生きていることを、見うしなってはなりません。この点はかの千年王国なるものの理解にとって重要です。この竜は、バビロン崩壊の日にとらえられ、「そこ知れぬところ」に投げこまれて、その入口を封じられているにすぎません。
(2) いまや地上の現実的支配者となった獣と地の王たちは、地上に生きる忠信なる者に戦いを挑むにいたります。そして敗れます。王は死に、獣(貨幣)と「にせ予言者」(貨幣のイデオローグ)はとらえられ、「生きながら硫黄の燃える火の池」に投げこまれます。ただし、獣とにせ予言者は死滅するのではなく、「日夜くるしめられる」のであります。勝利した忠信者は、すでに古代的な王をもたず、また、獣(=貨幣)としての貨幣をもたずに(かの竜が地底にひそめられているからです)、おのれの社会を建設してまいります。しかし彼らのうちに、迷いが生まれないわけではありません。神へのつまずきがないわけではありません。
(3) バビロン崩壊の日から千年たつと、かの竜が、すなわちサタンが「獄から解放される」のです。そして、地の四方にある諸国民に呼びかけ、「海の砂のように多い」群勢を招集して、「聖徒」たちとその都を包囲します。このことはしばしば、黙示録理解で忘れられがちなので注意する必要があります。いうまでもなく黙示録の神は、これらの軍勢を罰します。天からおりてきた火が「彼らを飲みこむ」のです。つまり彼らは、煉獄の火に苦しむのであります。そして、かの竜はといえば、それは、かの獣とにせ予言者が投げこまれている「火の池」に投げこまれるのです。
(4) そして同時に、このときまさに、「聖なる都、新しいエルサレム」が現われるのです。そこには、バビロン崩壊の日に復活した人は言うまでもなく、その後の社会において、かの獣と王とにたいして戦った忠信なる者も、また、そのなかで迷いの生まれた人も、いるのです。そして最後に、竜と戦った聖徒たちは言うまでもなく、聖徒たちを包囲攻撃した報いとして煉獄の火を浴びている人でさえ、この聖なる都に入ることができるのです。
黙示録が語る世界史の段階的展開は、およそ以上のようなものです。しばしば誤まり伝えられているように、単純粗野な千年王国論でないこと、明らかであります。以上に私の展開したことのうち、(2)と(3)をここで再読していただきたいと思います。(キリスト教徒による千年支配とは、観念のうえでの支配であり、現実には「地の王」と「獣」(=貨幣)に対する闘いを端緒的にふくみ、そして、かの「竜」との闘いを用意する過程であります。この点にくれぐれも注意。)(2)と(3)に含意されていることを読みとったうえで、かの先年のあとに現われでる竜の行動に留意してください。それは、聖徒たる人間の最初にして最後の敵であります。そのような、人類の敵としての竜とは、いったい何でしょうか。それは、かの獣(貨幣)に力と権威を本源的に与えたものでした。そのようなものとは、いったい何でしょうか。それは、「商品」なのです。商品こそ、おのれ自身が商品でありうるために、おのれの同類たる他の一商品を、貨幣とするものであります。商品こそが、その価値としての力と権威を、他の一商品の使用価値すなわち自然形態に与え、この商品をして、貨幣物神たらしめるものなのです。
この、竜は商品である、と言う認識にたって、右に展開した(1)、(2)、(3)を読みなおしてください。竜=商品、獣=貨幣という理解にたって再読してください。崩壊以前のバビロンは、前期的=古代的商業を成立させる貨幣が君臨している都=帝国でありました。崩壊後の(1)の時点では、この貨幣を成立させる商品が、眼に見えぬ地の底にひそめられている半面、貨幣が支配者として前面におどり出ています。そして、(2)の時点においては、この貨幣が火の池に投げこまれます。しかし、地の底にひそんでいた商品がいまや(3)の時点においてあらゆる国民をひきこんで、人類に対決します。そして、この商品が揚棄されるとき(4)には、貨幣もまた最終的に揚棄されるのであり、この商品→貨幣のうちにおのれを失ってきた人間が、最後に、あるがままの人間として、つまり「アーメンたる者」とともに、立ち現われるのであります。そこでは「神が人とともにすみ、人が神の民となる」のであります。そしてこのとき、古き天地は消え、「新しき天と新しき地」が人間にとっての「花嫁」として、現実に現われるのであります。それゆえに人は、「いのちの水」と「いのちの木」の実を、「代価なしに」つまり「自由に」我がものとして獲得し、それをもって生きるのです。つまり、自然の人間的本質と人間の自然的本質とが直接に統一・融合するのです。また、そこでは、人は神とともにあり、神が人とともにいるのですから、人は神の民として、いのちの自然のうちに生きるのですから、つまり個が類との統一を直接に獲得・実現しているのですから、個と類との対立としての悲しみもなければ、個に対する類の無情の勝利としての死もないのです。したがってまた、キリスト者の「支配」もないのです。そこでは、人間性に対立した合理性はすでに消えておりますが、人間性に両立した合理性は生きています。人は、そこでは貨幣という価値の尺度ではなく、「人間の尺度」すなわち「御使の尺度」をもって、ものを測ります。その測りざおは、かの竜=商品が、そしてかの獣=貨幣が権威と力をもっていたときと同じく、金でできております。しかし、この「金の尺度」は、すでに、貨幣としての価値の尺度ではありません。自然形態としては同じ金なのですが、その現実的な存在理由がまったく異なるものなのです。それは、あるがままの金であり、その自然的有用性が人間的に活用されるものであります。金と同じく他の一切のものが、かつて栄華(私的所有の支配者)の象徴であったすべての珍貴品が、あるがままの自然物に、人間にとっての物に、つまり人間にとっての非有機的富に転化しているのです。
新しき聖都エルサレムは、このように記述されております。
栄華のバビロンの崩壊から聖なるエルサレムの出現にいたるこの黙示録の叙述は、それじたい貨幣にたいする批判的考察の展開であり、貨幣論の歴史理論的展開なのであります。ということは、商品と貨幣との運動において展開する私的所有の運動を世界史的に考察批判したことにほかなりません。このことが理解されなかったのは、黙示録が、まさに黙示的に、あるいは、いわばイソップの言葉で、書かれているからでありました。一八四〇年初頭において、ブルーノ・バウアーやD・シュトラウスの研究によって、かの獣が貨幣であると知られたとき、マルクスはかの竜を商品として解読していました。というのは、アダム・スミス等の古典経済学が、商品こそ貨幣を生み出すのだ、とマルクスに教えていたからであります。
私が右に説明したような、バウアー=マルクス的黙示録解釈が、正当であるかどうか、私は確認するすべを知りません。ひろく、キリスト教神学の研究者から、私への批判をふくめた教示をえたい、と思います。ただ、私としては、そのような解釈が、少なくとも、黙示録に内在してその意義を探ろうとするものだ、とだけは言いたいのです。
私のような理解にたいして厳しい違和感を覚えるキリスト者も多いことと思います。信仰の書に理論的な解釈をくわえるのは、信仰を冒涜することであるかも知れません。しかし私がここで言いたいのは、この偉大な信仰の書が世界史の理論的認識と実践的な展開のうえで、右に述べたような姿において、生きてきたし、今日も生きている、ということに他なりません。」
以上が、著者によるバウアー=マルクス的黙示録解釈、というよりは、マルクス=平田的黙示録解釈の展開です。この長い引用を行なうときに前置きしたように、この解釈の鍵は一種の「暗号解読」にあります。すなわち、ここでは、獣=貨幣、竜=商品という解読がなされています。果たしてそれが本当に黙示録の著者の意図であったかどうかということについては、私自身、明確な判断を下すことはできません。私に言えることは、ここにはバウアー=マルクス的な黙示録の「読み込み」があるということだけです。貨幣論の展開に当たって、バウアー、シュトラウスの黙示録研究が、マルクスに重要な示唆を与えたということだけは確かなことでしょう。しかしそれと黙示録の著者の企図とは別問題に属します。しかしそのような解釈が可能であるのは、象徴の曖昧さ、あるいは両義性に由来しています。象徴はもともと「どちらにも取れる」という曖昧さを持っています。あるいは宗教的象徴というのは「人間の経験を包みこむばかりでなく、その経験に文化を超えた、しかもキリスト教的な意味を与える」(前掲、『ハーパー聖書注解』)からです。だからそこに貨幣論における「人間の経験」を読み込むことも可能になります。さらに私が「貨幣とキリスト」、「キリストは象徴として復活した」で取り上げたように、キリストも、貨幣も、いわば「文化記号論的」な事態として通底しているという、根本的な問題も介在していると思われます。しかしそのような言い方をするからといって、決してマルクスの貨幣論、商品論を貶めるつもりはありません。今日の「金融資本主義」の現実、そのていたらくを見れば、誰しもそれは黙示録的事態の発現であると言いたくなるのではないでしょうか。貨幣物神と商品とが人間性を抑圧し、社会的現実を著しくゆがめているのは確かであって、そこに反論の余地はないと思われます。
問題はその先にあるでしょう。「聖なる都エルサレム」は、依然として「黙示」に留まっていて、人類は未だに「前史的」な段階をうろついています。類と個とは分裂したままで、人間の悲しみが絶えることはありません。人類史の長い(宇宙史的過程からすれば短い)道筋を「自然の人間的本質と人間の自然的本質とが直接に統一・融合する」状態へと差し向けて行くことが、人間の使命であり、またそれが成就されるべきであるとしても、それは人間には手に負えない課題であって、それを成し遂げるにはあまりにも重すぎる負荷が負わされているのではないかとさえ思われます。
著者は最後に「マルクス主義と宗教」を取り上げます。その紹介は次に回します。
W マルクス主義と宗教 ――結語にかえて――
「われわれ極東の日本人が、西ヨーロッパに成立したマルクス主義を根底的に理解するためには、西ヨーロッパ人の原思考に立ち戻らねばならないことは、方法論的に殆ど自明であります。ところがこれまで、マルクス主義の多少とも発生的=内在的な研究としては、かの三つの源泉、すなわちドイツ古典哲学・イギリス古典経済学・フランス社会主義の研究が挙げられるだけでありました。しかしこれらが、いずれもキリスト教的な伝統にたつ思想であり理論であること、言うまでもありません。ヘーゲル、スミス、サン・シモンといったような、それらの代表者が例外なくキリスト教的伝統に生きた人物であることは、この国ではすでに常識になっています。しかし、ことマルクス主義となると、それは唯物論であって、一宗教たるキリスト教とは無縁なものだ、と考えられがちでありました。たんに日本だけでなく、中国においても、ロシアにおいても、そのように考えられてきました。
この自明な研究手続きを怠ったことが、今日この時点で、ひとつの復讐をうけているのではないでしょうか。ロシアと中国において、段階と類型を異にするとはいえ、社会主義が確立したかに見えるとき、そこに発生した中ソ対立は、そしてまたチェコ事件は、社会主義とは何かという思わざる問題を、日本および世界の知的世界に喚び起こしました。それは、いったいマルクス主義とは何か、という問題でもあります。」
官製の「史的唯物論」、「弁証法唯物論」なるものがひととき世界を席捲し、まるでそれが何でも解明できる真理であるかのように喧伝された時代がありました。しかしそれが社会主義諸国の知的世界において、いかに抑圧的に機能したかということについては、今日ではくどくどと述べる必要のない事柄に属します。プロレタリア独裁の「教義」が党による専制的官僚的支配を可能にしたという歴史の皮肉についても、縷説する必要はありません。そういう事態の発生を許した「マルクス主義」なるものに疑いの目が向けられるのは当然です。著者は、マルクス主義とはそもそも何かという根本的な問いによって、その問題を乗り越えようとします。
「マルクス主義とは何か。それは、マルクス的なコミュニスム(コミューン主義)である、と本書の随所において私は語ってきました。このコミューン主義とは、まず第一に、貨幣発生以来人間が獲得してきた合理性を、人間性を喪失した合理性でなく、つまり対象的合理性ではなくて、人間的合理性に揚棄すること、対象的自然を人間的自然にすることであります。したがってまた、人間を真に自然にすることであり、自然科学を人間科学にすると同時に、人間科学を自然科学にすることでもあります。この揚棄・転換の論理的現実的基礎は、私的所有の揚棄そのもののうちにあります。この私的所有の最適応的形態としての貨幣を揚棄すること、またこの私的所有を根源的に生み出す商品生産そのものを揚棄すること、しかもこの揚棄を、商品と貨幣との運動のなかで、この運動の自己矛盾性そのものの展開として成就することこそ、マルクス主義の核心であります。このことは、黙示録の語る世界史的展開を現実的科学的に実現するものではないでしょうか。しかも、黙示録が、その時代的制約性のゆえに展望しえなかった世界史の具体的展開のうえで、かの黙示を生かすものではないでしょうか。貨幣の資本への転化、私的所有の資本家的私的所有への転化という世界史の段階において、この資本の運動それ自体の自己矛盾の展開そのものとして、資本の揚棄、貨幣の揚棄、商品の揚棄を実現することこそ、マルクス主義のいわば真骨頂でありましょう。市民社会が資本家社会として完成の度を最高度に高めた時点において、この市民社会を、資本主義的な機械文明を、そして私的個人の内的自己矛盾を、揚棄する思想と行動こそ、マルクス主義なのです。」
ここにも、前に述べた「荒削り」な見取図が描かれています。それは原理的な見通しとして語られているに過ぎません。現実的に言って、それが何を意味するのかということが、各論的に問われなくてはならないでしょう。著者の言うことを理解するためには、知識とは何かという「知識論」の問題として、これを言い換える必要があるように思われます。マイケル・ポラニーが言ったように、知識とは、すべからく「個人的知識(personal knowledge)」である、あるいは「人称的知識」であるとしてみた場合、その知識が国家と資本への奉仕に、あるいは権力への奉仕に回収されてしまう現実にあって、そのような私的所有と化した知識(private knowledge)の次元を、個人的知識が同時に公的社会的知識であるような次元へと押し上げていくことの可能性が問われている、としてみたらどうでしょうか。教育が市場化され、知識が商品化されてしまうこの時代に、より普遍的な知のあり方が求められています。しかし「国益」(国家と資本の利益)に還元されてしまわないような知の探究が、資本の運動に抗して、どのように組織されることができるのかと問うてみれば、それがいかに困難な課題であるかが了解されるでしょう。マルクス的に言えば、知識の「個体的所有の再建」を可能にする条件が、この資本主義社会において自己矛盾的に、かつ潜在的に整えられつつあるということが、明確な見通しとして与えられなくてはならないでしょう。インターネット社会(情報化社会)はそれを可能にする条件の一つであると思われますが、それは未だ初発の段階に留まっています。
なお、著者が、コミュニスムとは「貨幣発生以来人間が獲得してきた合理性を、人間性を喪失した合理性でなく、つまり対象的合理性ではなくて、人間的合理性に揚棄すること、対象的自然を人間的自然にすることであります。したがってまた、人間を真に自然にすることであり、自然科学を人間科学にすると同時に、人間科学を自然科学にすることでもあります」と述べていることについては、そこにマルクス主義的オプティミズムが介在しているように思われます。あるいは人間の自然本性への根源的な信頼があると言うべきかも知れません。しかしこれも、現実的には、遠い目標として据えられているに過ぎません。学問の現段階においては、人間科学(人文科学、社会科学)と自然科学とは遊離したままであり、知識は益々専門化細分化され、それを統合することは、益々困難になりつつあるように見えます。つまり著者の言うことが「お題目」としてしか響かない現実があります。しかし人間はいつの日か、単に知識の「学際的なつなぎ合わせ」としてではなく、諸学を真に統合することができるようになる、という希望を失ってはならないでしょう。それはマルクス主義的エンサイクロペディストの野望であると言うべきかも知れません。しかし諸学が人間自身の営みである以上、将来それは思いもかけぬ形で実現するかも知れません。そのときには、おそらく著者が言うように、貨幣と商品との人間に対する支配も終わりを告げていることでしょう。
「わたくしは、本稿のTにおいて“現代人は宗教を必要とするか”という設問について、一つの覚え書きをしるしておきました。機械文明と宗教、市民社会と宗教、科学と宗教という論点設定で、わたくしなりの結論めいたものを書きとどめておきました。現代の科学が、現代の機械文明・市民社会・私的個人の肯定面をのみ見て、そこにおける対象的合理性の追求に埋没するかぎり、そのような科学に対する批判として、人間の実存に直接たち向かおうとする宗教が必ず現われ出ることを、わたくしのひとつの結論としてきました。その場合の宗教は、古宗教の復興ないし改革のかたちをとり、あるいは伝統的教理の新解釈という姿をとって、現われ出るでありましょう。(というのは、宗教としての宗教は、既成の宗教形態における教理や儀礼を、たんに受動的に受けいれることではなく、既成宗教の形態において意識されていた私的個人の自己矛盾を、おのれ自身の内的矛盾として、つねに新たに自覚することだからであります。)これに対して、マルクス主義は、そのような宗教の無用を主張するのでしょうか。」
宗教とは「私的個人の自己矛盾を、おのれ自身の内的矛盾として、つねに新たに自覚することだ」というのが、著者の宗教観の核心にあるものです。その限りでは、宗教的意識がこの現実世界で消えてなくなりはしないでしょう。
「すでに述べたようにマルクス主義は、資本主義という社会形態のもとでの発展し高次化した機会文明・市民社会・私的個人の肯定面を継承発展させ、その否定面を廃絶させようとする現実的な思想と行動であります。つまり、現代の機械文明・市民社会・私的個人を揚棄しようとする理論と実践であります。それは、みずからを科学として確立しようとするものでありますが、その科学性は、対象的合理性の理論的獲得のみのうちにあるのではなく、この対象的合理性の人間的合理性への転化を現実的にかちとろうとするものであります。したがってそれは、近代市民的悟性の所産を継承するものではありますが、たんにそれに終るものでなく、人間的理性の、そして人間的実践の所産そのものであり、人間的にして自然的な理性と感性の発現そのものであろうとしているものです。それゆえに、それは、対象的合理性にたいする人間的批判としての宗教と抽象的に対立するものではありません。しかしながら、マルクス主義は、そのようなものとしての宗教を必要とする現実的基礎を揚棄しようとする思想と行動であることを、自ら宣言しております。このことは、マルクス主義だけが揚棄されることのない思想と行動だ、ということを意味するのではありません。その逆です。独自の思想と行動の体系としてのマルクス主義の存在理由を消滅させるべく、みずから用意しているものだ、と言ってよいでしょう。」
ここに書かれていることは「マルクス主義的ヒューマニズム」とでも言うべきものです。もしこの「目線」に欠けているものがあるとすれば、「宗教は心霊上の事実である」(西田幾多郎)ということについての感覚、および人間の罪性についての自覚でしょう。だからここには極めてまっとうなことが書かれていますが、それだけで問題が解決しないことは歴史が証明していると言うべきです。著者は「宗教を必要とする現実的基礎を揚棄しようとする」思想と行動ということを端的に主張します。そしてその可能性についてきわめて楽観的な姿勢を保っています。しかし、我々に今日必要とされているのは、社会的実践の必要性とその人間的限界という、「両にらみ」の、いわば複眼的な視野でしょう。人間には限界があるという自覚がないところでは、手放しの「ヒューマニズム」が宗教に置き換えられるだけのことであって、その結果は必ず自己を裏切ることになります。しかし著者は、マルクス主義そのものの思想的限界という認識に、あと一歩のところまで、近づいているように思われます。
「マルクス主義が、マルクス主義そのものの死滅を用意している思想だ、ということを私はかさねて述べておきたいと思います。マルクス主義が階級社会批判の体系であるかぎり、この体系は、階級社会の現実的揚棄のなかで死滅します。同じくマルクス主義が市民社会批判の体系である以上、市民社会の現実的揚棄のなかでこの体系は死滅します。それは、宗教が客観的に、真実に揚棄されるのと同じ時点でありましょう。なぜならば、宗教は、特にキリスト教という名の宗教は、旧新の市民社会に、そして資本家社会にその客観的基礎を有しているのだと、マルクスにとっては考えられているからにほかなりません。宗教に対する批判は、宗教を必要とする社会の揚棄であるほかはない、とマルクスが語ったこと、そしてマルクスが、市民社会=資本家社会の理論的実践的揚棄に彼の生涯を捧げたことが、このことを教えているのではないでしょうか。おのれの思想と行動だけが宗教を揚棄して生きのこる唯一の体系だとマルクスが考えていたように想像するのは、愚かにもほどがあると言えましょう。」
キリスト教批判とは、キリスト教に内在し、かつそこから離脱する、往還の行為である、と言えます。近代におけるキリスト教批判は、そのような「内在的超越」の行為であったという面があります。だからそれは必ずしも「宗教を必要とする社会の揚棄」という動機に結びついていたわけではありません。歴史学や生物学(進化論)などの学問の発達が、それを可能にしたと言うべきでしょう。その意味で著者はキリスト教批判をマルクス主義に引き寄せて、かなり図式的にとらえています。つまりキリスト教の動静が内在的に把握されているわけではありません。しかしそこから「おのれの思想と行動だけが宗教を揚棄して生きのこる唯一の体系だとマルクスが考えていたように想像するのは、愚かにもほどがある」と、マルクス主義を相対化する端緒を獲得しているのは注目に値します。
「ところが不幸にして、これまでのマルクス主義者は、マルクスがおのれの思想と行動の科学性を強調したことを誤って理解し、マルクス主義的科学を対象的合理性の科学と誤認してきました。そのことによって、科学と宗教との分裂と対立を、ますます深めてきました。しかし、そのような科学であるならば、マルクス主義は、けっして宗教を揚棄しえないものであり、いわんや宗教に替りうるものではありません。マルクス主義は、ほんらい、人間的科学としておのれを実現することによって、対象的合理性の科学と主観的非合理性の宗教の双方を、揚棄しようとするものでありました。このことは、対象的認識の科学をたんに排除することでなく、また、主観内的自己認識の宗教をたんに否定することでもありません。現実の社会的個人にまといついている経済的・社会的・法的諸規定を、あるがままの物象的な関連に補足しようとする対象的科学の成果を、最大限に批判的に摂取すると同時に、類と個の矛盾という人類史的矛盾の揚棄をおのが課題としている宗教が提起する問題を、おのれの人間科学的展開の根底に生かしきることであるほかありません。この人間的営為は、私的諸個人がその自己矛盾の揚棄をもとめて、その階級的制約を突破する変革を主体的に促進させるものであると同時に、この変革の過程そのものにおいて真に遂行されるものでありますが、その場合に決定的に重要なことは、「現実の個体的人間が抽象的公民を自己のうちに取りもどし、個体的人間のままで、その経験的生活・個体的諸関係において〔直接に〕類体となる」ことであります(『ユダヤ人問題』)。「人間が、その『固有の力』を社会的な力として認識し組織し、したがって社会的な力を、もはや政治的な力の姿で自分自身から切り離さない」ことであります(同前)。もしも、これとは逆に、個体的人間がその社会的な力を国家という対象的存在に疎外するのであるならば、そのような諸個人がどうして、対象的合理性としての科学を揚棄しうるでしょうか。揚棄するどころか、科学の対象的合理性を発展・深刻化させることしかできないでしょう。国家の疎外と科学の疎外とは、つねにパラレルであります。宗教の疎外がこれに不可避にともなうこと、自明であります。」
著者が最後に述べていることは、閣僚による靖国神社の公的参拝問題、新自由主義的大学経営と文部科学省による大学の経営管理の強化、宗教団体の政治化あるいは政教分離原則の棄却という、日本の現実に照らして考えた場合、深く考えさせるものを持っています。それは、個々人の「社会的な力」が疎外されて、対象的規制的権力として、また個々人に敵対する力として覆い被さっている姿ではないでしょうか。
「このことの認識を欠くとき、マルクス主義が、恐るべき自己変質の道を、識らぬまに歩みだすことは、明らかでありましょう。対象的科学として自己を固定したマルクス主義は、それ自体、国家の理性に転落し、しかも、それ自体、国家宗教に堕落するでありましょう。(われわれはこの点の批判的認識を、最後まで保存しなければなりません。資本家的私的所有揚棄の時点において、社会主義国家の形成が不可避であるにしても、この国家の必要のゆえに、右の点についての批判的認識を捨てさってはならないのです。捨てさるどころか、これを積極的に保存することこそ、社会主義国家にふさわしいことなのであります。すでに死滅を開始しているものとして構成されるべき社会主義国家なるものは、その死滅的本性をつらぬくためにも、右の批判的認識が公式の自己認識として確立していなければなりません。現実の社会主義国家が、これとは逆の道を歩んできたことは、あまりにも大きく、あまりにも深刻な不幸なのではないでしょうか。)」
マルクス・レーニン主義なるものが、社会主義諸国家において、一個の「宗教的信条」と化してしまったこと、それは確かに歴史の不幸であったと言えます。著者の言う「批判的認識」がどこまでも貫かれなくてはならないというところに、人間の歴史的かつ前史的な現実があります。社会主義国家が実現したからといって、そこで安心してはいられないのです。マルクスが遠望した「現実の個体的人間が抽象的公民を自己のうちに取りもどし、個体的人間のままで、その経験的生活・個体的諸関係において〔直接に〕類体となる」ということは、人間の社会においてにわかには実現し難い目標であることを肝に銘じなくてはなりません。そこを見誤ると、大きな不幸を招来することになるでしょう。
「このような自己誤認と他人欺瞞の不幸からおのれを解放するためにも、マルクス主義は、それが本来もっていた、キリスト教との緊張した関連を、あらためて問いなおしてよいのではないでしょうか。本稿が、そのような根底的問題への接近のよすがとなれば、幸いです。」
こうして著者は筆を擱きます。これを書いている今、国土交通相の問題発言(成田農民は「ごね得」、日本は「単一民族国家」、日教組は「ガン」)とその責任を取っての辞任が報じられています。日本が、キリスト教批判、マルクス主義批判以前の、きわめて非民主的な状態に留まっていることを痛感せざるを得ません。「自己誤認と他人欺瞞」は、この日本では、そのような形で現出しています。前途の多難を思いつつ、ここで一先ず「キリスト教とマルクス主義」の紹介の作業を終らせていただきます。
先に紹介した『自由基督教の運動』(自由基督教の運動 その1、その2)には三つの付録がついています。
1 大西祝について
2 社会民主党宣言
3 木下尚江と赤司繁太郎
……の三つです。大西祝(ハジメ)(1864-1900)は、日本の哲学の草創期にその才能を発揮し、三六歳の若さで、惜しまれて亡くなった人です。「正統的キリスト教には強い批判を示し、ユニテリアンに親しみ、さらには日本の精神風土に適合した日本人の自由キリスト教の確立をめざしていた」大西の哲学的業績が、ここでは簡略に述べられています。また、木下尚江も、ユニテリアンとの関係が深く、「生命論的キリスト教」とでも言うべきものを主張した人で、その思想は引用された以下の文章に示されています。
「宇宙に充満する神の愛を感じた時、最早死というものは無いでしょう。愛は生命(イノチ)でしょう。生命は愛でしょう。基督は実に人類が直に此の愛の生命を実現する為めに、吾々の眼の鱗を取り払う為めに出で給うたのだと信ずるのです。故に我等の心が既に死というものに打ち勝たなければ、基督の愛の教は解得(エトク)されるもので無い。肉体の復活なんてことは、死に打ち敗けて居るものの得手勝手な発明だ」(小説『霊か肉か』)。
ここで紹介するのは、付録2の「社会民主党宣言」です。安部磯雄(やはりユニテリアン)の筆になるこのやや長い文章を孫引きで紹介するのは、単なる懐古趣味ではありません。今日の日本と世界の現実にあって、「社会主義」あるいは「社会民主主義」の可能性を再考するために、その主張に改めて耳を傾けたいと思うからです。
〈付録2 社会民主党宣言
日本における最初の社会主義政党といわれる社会民主党(Wikipedia)は安部磯雄、木下尚江、片山潜、河上清、幸徳秋水、西川光二郎の六名によって一九〇一(明治三四)年五月二〇日に結成された。このうち幸徳を除く五名はキリスト教社会主義者であった。けれどもこの党は即日禁止された。したがって、「宣言」だけが歴史に残された。この宣言書の起草者は安部磯雄である。片山哲元首相は、「阿部磯雄苦心の作であって、なかなかの名文である」(『安部磯雄伝』)と記している。キリスト教社会主義の立場にいた赤司繁太郎もこれを読んで賛同していたかも知れない。そのような意味で全文を掲載しておく。
* 段落末尾の文に句点が附されている場合とそうでない場合があるので、句点をつけることに統一しました。( )内は引用者(閑老人)による補足です。〔 〕は原文のルビ、または元々の補足です。なお上記Wikipediaの記事によれば、「即日解散」ではなく、二日後に解散を命じられたようです。
如何にして貧富の懸隔を打破すべきかは実に二十世紀に於けるの大問題なりとす、彼〔か〕の十八世紀の末に当り仏国を中心として欧米諸国に伝播〔でんぱ〕したる自由民権の思想は、政治上の平等主義を実現するに於て大なる効力ありしと雖〔いえど〕も、爾来〔じらい〕物質的の進歩著しく、昔時〔せきじ〕の貴族平民てふ階級制度に代ゆるに富者貧者てふ、更に忌むべき恐るべきものを以てするに至れり、抑〔そもそ〕も経済上の平等は本にして政治上の平等は末なり、故に立憲の政治を行ひて政権を公平に分配したりとするも、経済上の不公平にして除去せられざる限りは人民多数の不幸は依然として存すべし、是れ我党が政治問題を解決するに当り全力を経済問題に傾注せんとする所以なりとす。
今や我国における政治界の有様を見るに、政治機関は全く富者の手中に在るものの如し、貴族院が少数の貴族富豪を代表するは言ふまでもなく、衆議院と雖も其内容を分析すれば悉く地主資本家を代表せるものにあらざるはなし、されば今日の国会を称して富者の議会といふも決して誣言〔たわごと〕にあらざるなり、然れども記憶せよ国民の大多数を占むるものは田畠に鍬鋤〔くわすき〕を採る小作人、若〔もし〕くは工場に汗血を絞る労働者なることを、彼等は何が故に参政の権を有せざるか、何が故に自己の代表者を議会に送ること能はざるか、是れ果して彼等が無智無識なるためか、将〔は〕た亦富者に比して彼等の道徳劣等なるが為か、否々決して然らざるなり、彼等は資産なきが為に其得べき所の権利を得る能はず、其受くべき教育をも受くる能はざるなり、彼等に生計の余裕を与へて教育を受くるの途を得せしむるは当〔まさ〕に富者の務むべき所にあらずや、彼等の為に政治上の権利を伸長するは当に政党の為すべきことにあらずや。
然るに今日の政党なるものは全く富者に使役せらるゝ所のものにして決して多数人民の意志を代表するものにあらず、今や国民の多数を占むる労働者小作人は無学無識にして、殆んど富者の一顧にも価せざるべしと雖も、彼等は実に財富の生産者なるが故に、将来の社会組織に於て重要の地位を占むるに至るべきは論をまたず、而して彼等をして其得べき地位を得せしむるは即ち社会全躰の利福を増進する所以なりとす、我党は茲に多数人民の休戚〔きゅうせき、喜びと憂い〕を負うて生れたり、然れども貧民を庇して富者を敵とするが如き狭量のものにあらず、而して其志す所は我国の富強を謀るにあれども、然も外国の利益を犠牲に供して顧みざるが如き唯我的のものにあらず、若し直截に其抱負を言えば、我党は世界の大勢に鑑〔かんが〕み、経済の趨勢〔すうせい〕を察し、純然たる社会主義と民主主義に依り、貧富の懸隔を打破して、世界に平和主義の勝利を得せしめんことを欲するなり、故に我党は左に掲ぐる理想に向って着々進まんことを期す。
(1) 人種の差別政治の異同に拘はらず、人類は皆同胞なりとの主義を拡張すること
(2) 万国の平和を来す為には先づ軍備を全廃すること
(3) 階級制度を全廃すること
(4) 生産機関として必要なる土地及び資本を悉く公有とすること
(5) 鉄道、船舶、運河、橋梁の如き交通機関は悉くこれを公有とすること
(6) 財富の分配を公平にすること
(7) 人民をして平等に政権(参政権)を得せしむること
(8) 人民をして平等に教育を受けしむる為に、国家は全く教育の費用を負担すべきこと(幼稚園から大学に至る教育の無償化)
是れ我党の理想とする処なれども、今日これを実行するの難きは素より論を待たず、故に我党は左の如き綱領を定めて実際的運動を試みんことを期す。
(1) 全国の鉄道を公有とすること
(2) 市街鉄道、電気事業、瓦斯(ガス)事業等凡て独占的性質を有するものを市有とすること
(3) 中央政府、各府県、各市町村の所有せる公有地を払い下ることを禁ずること
(4) 都市に於ける土地は挙げて其都市の所有とする方針を採ること、若しこれを速かに実行する能はざる場合には法律を設けて土地兼併(私有地の拡張のことか)を禁ずること
(5) 専売権は政府にてこれを買上げること、即ち発明者に相当の報酬を与え、而して人民に廉価に其発明物を使用せしむること
(6) 家賃は其家屋の価格の幾分以上を徴収する能はずとの制限を設くること
(7) 政府の事業は凡て政府自らこれに当り、決して一個人若くは私立会社に受負はしめざること(民営化の禁止)
(8) 酒税、醤油税、砂糖税の如き消費税はこれを全廃し之に代ふるに相続税、所得税及び其他の直接税を以てす(消費税の撤廃)。
(9) 高等小学を終るまでを義務教育年限とし、月謝を全廃し、公費を以て教科書を供給すること
(10) 労働局を設置して労働に関する一切の事を調査せしむること
(11) 学齢児童を労働に従事せしむることを禁ずること
(12) 道徳健康に害ある事業に婦人を使役することを禁ずること
(13) 少年および婦女子の夜業を廃すること
(14) 日曜日の労働を廃し日々の労働時間を八時間に制限すること
(15) 雇主責任法を設け労働者が服役中(服務中)負傷したる場合には雇主をして相当の手当を為さしむること
(16) 労働組合法を設け労働者が自由に団結することを公認し、且つ適当の保護を与ふること
(17) 小作人保護の法を設くること
(18) 保険事業は一切政府事業となすこと
(19) 裁判入費は全く政府の負担となすこと
(20) 普通選挙法を実施すること
(21) 公平選挙法を採用すること(少数者の意見を勘案する選挙法のこと、詳細不明)
(22) 選挙は一切直接とし且つ無記名とすること
(23) 重大なる問題に関しては一般人民をして直接に投票せしむるの方法を設くること
(24) 死刑を全廃すること
(25) 貴族院を廃止すること
(26) 軍備を縮小すること
(27) 治安警察法を廃止すること(集会、結社の自由)
(28) 新聞条例を廃止すること(言論、出版の自由)
我党は此の如く社会主義を経とし、民主主義を緯として其旗幟〔きし〕を明白にせり、然れども世或いは此二大主義に対して誤解を有するものあらん、彼等の中或者は社会民主党てふ名を以て頗る過激なるものと思ふならん、我党は何故に斯る党名を選び斯る綱領を公にするに至りしや、吾人は之に対して幾分か説明する処なかるべからず、抑も現社会の組織は何を以て根拠とせるかといふに、言ふまでもなく個人競争主義にして、其結果金権も政権も一方に集注し、多数の人民は為に奴隷の如き位置に立たざるべからざるに至れり、昔は労働者何れも簡単なる手道具を以て生産に従事せしが故に、彼は資本家の力を借るを要せず、全く独立の生活を営み得しと雖も、今や器械の発明益々精巧を極め、数百万円乃至数万円の金を投ぜざれば容易に之を購うを得ず、茲に於てか労働者は続々自宅工業を廃して工場工業に従事し、其器械に対するの有様は恰も魚の水に於けるが如くなれり、故に労働なるものは一の商品と同じく、需要供給の法則に従って其価額を有することとなれり、一朝需要の途絶えて工場閉鎖せらるゝに及べば、数万の壮丁は手を空くして飢餓の苦境に陥らざるべからず、是れ豈に現社会組織の不完全なるが為にあらずや。
夫れ自由競争の名は甚だ美なりと雖も、吾人の組織せる社会に於ては全く競争を許さゞる多くの事情あるを奈何〔いかん〕せん、世には独占事業と称するものありて、人一たびこれを占有すれば何人〔なんびと〕もこれに向って競争を試むること能はざるなり、彼の都会に於ける大地主の如きは其適例にして、彼は其土地の為に一臂〔いっぴ〕の労を施さゞるも、人口増殖し、都市膨張するに従ひて、其財産は数倍乃至数十倍するに至るべし、都会の土地が往々一坪幾十円若くは幾千円の価格を有するに至るは、全く土地が独占的性質を有し競争を許さゞるの結果にあらざるはなし、其の他鉄道の如き、電気および瓦斯〔ガス〕事業の如き、何れも独占的性質を有するものにして、政府が鉄道の競争線を認可せざるも、一都市に二個の電気会社および瓦斯〔ガス〕会社を見ること稀なるも、其理由は全く茲に在り、故に独占的性質を有するものゝ私有を許すは、即ち少数者を特に庇保〔ひほう、庇護に同じ〕する所以にして、其不公平たること素より論を待たず、凡〔およ〕そ社会の進歩発達に従ひて地価の騰貴すべきは経済学上の原理にして、何人も之を拒む能はざるべし、然るに其利益を社会全体に帰せずして、特〔ひと〕り之を地主に与ふるとは何等の不公平ぞや、是れ我党が土地を始として、鉄道、電気、瓦斯等苟くも独占的性質を存するものを挙げて公有となさんことを主張する所以なり。
然れども経済上の難問は此等の事業を公有にするだけにては解釈せらるべきにあらず、何となれば普通の生産事業も近時漸く独占的性質を現さんとするに至りたればなり、彼のツラストが如何に広く流行するに至りしかを見よ、是れ生産事業に於て競争の行はるべからざるを示すものにして、経済界に於ては最早競争主義に換ゆるに協同主義を以てするの兆候を見(あら)はしたるものと言ふべし、然れども吾人はこれを以て已(すで)に発達の終極に近づきたるものとは考ふる能はず、生産者の協同は甚だ喜ぶべきが如しと雖も、彼等は自己の間に競争者を有せざるが故に、其物品の価額を上げて其利益を独占するを得べく、斯くて消費者は全く彼等の犠牲とならざるべからざるなり、彼の米国の「スタンダード」石油会社を見よ、今や彼国に於ける石油の一手販売を為しつゝあるが故に、彼は競争者の恐るべきものを有せず、茲に於いてか瓦斯と電気とに衝突せざる範囲内に於て、石油の代価を引上ぐるは彼の勝手になし得る所となれり、彼が一昨年に於て一億一千万弗の資本に対する八千万弗の利益を得而して其株券の相場も現今額面の五倍に達し居ることは決して怪しむべきことにあらざるなり、近時人々の話柄〔話のたね〕となり居る合衆国鋼鉄会社の創立の如き、其協同資本は十億弗にして世界第一の会社と称せらる、此等の生産事業が将来経済界に於て、如何なる影響を及ぼすべきかは最も見易きの事にして、資本家と労働者の区劃益々判然し、金権及び政権の分配が益々不公平になりゆくは火を睹〔み〕るより明なりとす、労働は土地及び資本の助を借らずしては財富を生ずる能はず、然るに地主と資本家は生財の二要素を占有し、労働者が其生産物の大部を彼等に納むるにあらざれば其使用を許さざるなり、多数の人民が貧困の境遇に在る豈に怪しむに足らんや、我党が土地鉄道の如きものゝみならず、凡て生産に必要なる資本、即ち製造所の如き、若くは間接に生産に必要なる凡ての交通機関を公有にせんことを主張するは全く是が為にして、土地、資本、労働の三者を協同一致せしむるは人民多数の幸福を増進する所以なりと信ず、社会主義は決して資本及び土地を無視せんとするものにあらず、唯資本家と地主を全廃せんことを期するものなり、資本と土地を公有にせんとするは、労働者をして自由に此等を使用せしめんとするに在りて、或種の資本家及び地主の如く、労働より生ずる滋養分を吸収する処の寄生虫を除去せんとするに在る。
更に進んで社会主義は分配を公平にせんことを目的とす、蓋〔けだ〕し生財組織の不完全なる現今の社会に於て、配財の不公平に行なわれつゝあることは当然の事にして、吾人が先づ生財組織を改めんとするは、其目的配財を公平にするに在るなり、吾人熟々〔つらつら〕現社会の有様を通観するに、人々の受くる報酬は必ずしも其人の勤怠賢愚〔きんだけんぐ〕には依らざるなり、故に人生の禍福は殆んど運命に依りて定まり、恰も富籤〔とみくじ〕を引くが如き観あり、人の此世に生るゝや、其富家の子たると貧家の子たるとは一に運命に依りて定まるにあらずや、幸にして富家に生れたるものは充分なる衣食住の供給を得、稍〔ようや〕く長ずれば贅沢なる教育を受け、更に活劇社会に立つに及びては、啻(ただ)に父祖伝来の資産彼を助くるのみならず、彼等の地位と信用は亦幾多の便宜を彼に与ふるなり、然るに貧者の子は之と異なり、衣食住の不足なるは言ふまでもなく、普通の教育さへも満足に受くる能はず、其競争場裡に立つに及びてや、彼には資産もなく地位もなく、信用もなし、彼は実に空手を以て自己の為に活路を開拓せざるべからざるなり、人若し出発点を同くして競争を為すと言はば是れ真の競争に相違なきも、この世に生れ出づると共に已(すで)に其出発点を異にしたるものを捕え来りて、これに競争を試みよと言はば、誰かこれを以て残酷なりと思はざるものあらんや、然れども現社会の所謂自由競争なるものは一として此種の競争にあらざるはなし、資本家及び地主は独占的事業てふ金城鉄壁に依り、労働者は空手にて之に対抗せんとす、其勝敗の数予め知り得べきにあらずや、而して其所謂地主資本家なるものは一朝社会の風雲に乗じて僥倖〔ぎょうこう〕を博したる者にあらずんば、何等の功績〔こうせき〕もなくして父祖の資産を相続したるものなり、是豈に公平ある配財と言ふべけんや、我党が最も重要なる主張として掲ぐる所のものは即ち公平なる配材に在りて、現社会より僥倖なるものを駆逐し、出来得る限り人々をして正当なる分配を受けしめんことを期す、彼の凡ての消費税を減少し、若くは全廃し之に代ふるに相続税、所得税及び其他の直接税を以てするが如き、何れも公平なる配財を実行するの手段にあらざるはなし。
要するに社会主義の抱負は何人も職業を与ふるの保証をなし、公平なる配財法によりて充分なる衣食住の供給をなし、疾病老衰等に対しては丁寧なる手当を為すに在り、故に社会主義の実行せらるゝ社会は即ち一大保険団体にして、人民は子孫の為に若くは自己の病傷老衰の為に貯蓄を為すの必要あらず、唯自己の力に応じて其職務を全ふせば、社会は彼に幸福なる生涯を送らしむことを保証すべし、人或は社会主義を誤解して全社会の財産を没収し更に之を全人口に平分するものなりと思へり、然れども是れ誤謬〔ごびゅう〕にして殆んど吾人の一顧にだも価せざるものといふべし、若し一国の全財産を全人口に平分せば、一人の所得は驚くべきほどの小額ならん、誰か斯る小額の資産を以て安慰なる生活を営むを得んや、社会主義は決して一国の土地及び資本を分配せんとするものにあらず、唯生財機関たる土地及び資本を公有として、其により生ずる所の財富を公平に分配せんと欲するのみ、而して一人の所得は果して幾何〔いくばく〕なるべきかこれを清算すること能はずと雖も、現社会に於ける生産が自由競争の為に如何に多く其額を減ぜられつゝあるかを想えば、社会主義の実行せらるゝ日に於て、其生産の大に増加すべきは決して疑ふべからざるなり。
斯くの如く生存の根本たるべき衣食住即ち財富を公平に且つ充分に分配することを得ば、人々が享〔う〕くる所の幸福をして比較的公平ならしむることは敢て困難なることにはあらざるべし、吾人は先づ人々をして平等に教育を受くるの特権を得せしめざるべからず、若し吾人の理想を言はんか、義務教育の年限を少くとも満二十歳までとなし、全く公費を以て学齢の青年を教育するに在り、然れども是れ現社会制度の下には到底実行すべからざるものなるを以て、我党は高等小学卒業までを以て義務教育年限となし、無月謝制度を取り、且つ公費を以て教科書を与ふることとしたり、教育は人生活動の泉源にして、国民たるものは誰にても之を受くるの権利を有するものなれば、社会が公費を以て国民教育を為すは真に当然の事なりといふべし、吾人が此の如く人々の生活と教育とを勉めて公平にせんと欲する所以のものは、貧富の懸隔の因て生ずる所多く此二点に存するを信ずるが故なり。
抑も人の生を此世に享〔う〕くるや素より貴賎貧富の差別あるべき理なし、況んや貴族と平民の称号を用ゆるに於ておや、貧富の懸隔は現今の経済組織より自然に発生し来りたる所なるを以て、尚ほ幾分か忍ぶべき所あり、然れども貴族制度の如きは全く人為的にして、自らを尊大にし他に侮蔑する所の虚栄心より出でたるものなれば、我党は民主主義の精神に依り、大にこの貴族主義を排撃せざるべからざるを信ず、故に階級制度を全廃すべきは勿論の事なりと雖も、先づ其第一着手として貴族院の廃止を断行するは自然の順序なりといふべし。
次に民主主義が極力反対せんとするものを軍隊主義なりとす、今や世界の諸強国は軍備に忙〔せ〕はしく、単に腕力によりて事の是非曲直を決せんとす、故に国際上に於ては道徳の制裁なく、殆んど白昼公然盗を為すの観あり、是れ啻に人類同胞主義の敵たるのみならず、民主主義発達の上に大なる妨害を与ふるものなり、夫れ軍備を拡張する表面の口実は外寇〔がいこう〕に備ふるに在りと雖も、其裏面の目的は全く他に在り、諸強国が軍備を増加するは弱国を強迫して市場を開かしめ、以て其貨物の販路を拡めんとするか、若しくは内国に於ける民主主義の発達に備へんが為なり、是れ即ち資本家てふ階級を保護せんとするものにして、平民たるものはこれが為に実に堪え難き程の租税を負担しつゝあるなり、世界の最強国は軍備の為に二百七十億弗の国債を起せり、而してこれが利子を払ふだけにても、三百万人以上の労働者が常に労役に服するの必要ありといふ、之に加ふるに幾十万の壮丁は常に戦役に服して不生産的生涯を送らざるべからず、彼のドイツの如く最も軍隊熱に病める国に於ては、壮丁の多分を兵卒として徴集するが故に、田野に耕耘〔こううん〕する所のものは、半白〔しらが〕の老人若くは婦女のみなりと云ふ、噫これ何等の悲惨ぞや、戦争は素これ野蛮の威風にして、明に文明主義と反対す、若し軍備を拡張して一朝外国と衝突するあらんか、其結果や実に恐るべきものあり、我にして幸に勝利を得るも、軍人は其功を恃〔たの〕みて専横に陥り、終に武断政治を行ふに至るべし、是れ古今の歴史に照らして明なる所なりとす、若し不幸にして戦敗の国とならんか、その惨状素より多言を要するまでもなし、兵は凶器なりとは古人も已に之を言へり、今日の如く万国其利害を密にせるに当り、一朝剣戟〔けんげき〕を交へ弾丸を飛ばすことあらば、其害の大なる得て計るべからず、茲に於てか我党は軍備を縮小して漸次全滅に至らしめんことを期するなり。
人或は社会民主党を以て急劇なる説を唱へ、危険なる手段を採るものとなさん、然り吾人の説は頗る急劇なりと雖も、而も其手段は飽くまでも平和的なり、吾人は絶対的に戦争を非認するものにあらずや、国際の上に於て已に然り、況んや個人の間に於ておや、彼の白刃を振い爆裂弾を投ずるが如きは、虚無党或は無政府党の事のみ、我社会民主党は全然腕力を用ゆることに反対するが故に、決して虚無党無政府党の愚に倣〔なら〕うことをせざるなり、由来大改命を行ふに当りて、腕力の助を借りしこと少からざりしと雖も、是れ時勢の然らしむる所にして、決して吾人の倣ふべき所にあらず、我党の抱負は実に遠大にして、深く社会の根底より改造を企てんとするにあれば、彼の浮浪壮士が採る所の乱暴手段の如きは断じて排斥せざるべからず、吾人は剣戟よも鋭利なる筆と舌とを有せり、軍隊制度よりも尚ほ有力なるべき立憲政体を有せり、若し此等の手段を利用して吾人の抱負を実行せば、何ぞ白刃と爆裂弾との助を借るが如き愚を為すを要せんや、吾人が茲に政党の組織を為す所以のものは、即ち文明的手段たる此等の政治機関を利用せんとするに在り。
帝国議会は吾人が将来に於ける活劇場なり、他年一日我党の議員国会場裡に多数を占めなば、是れ即ち吾人の抱負を実行すべきの時機到達したるなり、然れども、吾人が已に陳べたる如く、今日の議会は全く地主資本家の機関にして、彼等は之を濫用して自己の便宜を謀るの手段とせり、茲に於てか多数の人民は議会に於て自己の代表者を有する能はず、空しく手を拱〔きょう〕して富者の為す所に任せざるべからず、噫これ立憲政治の目的ならんや、然らば如何にして多数の人民に政権を分配すべきか、これを為すの途〔みち〕一あり、即ち選挙法を改正して普通選挙法を断行すること是なり、選挙権にして一たび多数人民の手に帰せんか、彼等は最早自己の利福に達すべき第一難関を通過したるなり、之に加ふるに公平選挙法を採用して、少数者の意見をも代表しうるの途を開かば、社会民主党員の数如何に僅少なりと雖も、尚ほ数名の代表者を議会に送るを得べし、故に我党は其目的を達する最初の手段として、先づ選挙法の改正を絶叫せんと欲す。
然れども教育なき人民に選挙権を与ふることは多少の危険なきにあらず、彼等にして自治制に慣れざる限りは、或は選挙権を濫用することもあらん、殊に今日の如く貧者が全く富者に圧抑せられ居る場合に於ては、彼等は必ず資本家たる人の意向に従ひて投票せざるを得ざるべし、されば彼等に選挙権を与ふるの途を講ずると共に、彼等に適当の教育と訓練を与ふるは国家の急務なりと信ず、吾人は政府が人口の大部分を占むる労働者及び小作人の為に、必要なる保護を与ふることを要求すると共に、彼等が自由に団結し得るの法律を定めんことを望む、団結は労働者の生命にして、彼等の為には唯一の武器なり、彼等はこれに依りて自治の精神を養ふのみならず、幾多の教育と訓練を受くるを得べし、然るに資本家は往々にして彼らの団結を嫌忌し、甚しきに至りては其団結に加入するものを解雇すること少からず、彼の関西紡績業者の如き、自らは鞏固〔きょうこ〕なる団体を造りながら、労働者が団体を結ぶことには極力反対しつゝあり、故に労働者にして其規則に触るゝあれば忽ち解雇の刑に処せらるゝのみならず、彼は決して紡績業者の団体に加入せる会社に於ては其位地を得ること能はざるなり、此の如きは飽くまでも労働者を無智無学の境遇に置き、而して之を牛馬の如くに酷使せんとするものにして、吾人は人道の為に、且つ経済発達の為に断然之を排撃せざるを得ざるなり、之を要するに、我党は労働組合法なるものを設け、治安に妨害なき限りに於ては自由に労働者の団結を許し、彼等をして自助自衛の途を講ぜしめんことを期す。
吾人の主張は当に以上陳べたるが如し、我党は実に時勢の必要に応じ、此の如きの抱負を以て生れたるなり、見るべし、社会主義は個人的競争主義、唯我的軍隊主義に反対するものにして、民主主義は人為的貴族主義の対照なることを、之を概言すれば社会民主主義は貴賎貧富の懸隔を打破し、人民全体の福祉を増進することを目的となすものなり、噫これ世界の大勢の趣く所にして人類終極の目的にあらずや。
(出典:高野善一編著『安部磯雄――日本社会主義の父――』『安部磯雄』刊行会・昭和四五年刊)〉
今まで、種々の観点からキリスト教について考え、また私なりの批判を試みてきました。そして私がたどり着いたのは、メタセオロジー(生命論的神学)、あるいはエコセオロジー(全宗教の神学、神の場の神学)と言うべきものでした。それはかなり大げさな物言いであって、あたかも私が全宗教を俯瞰しているかのような誤解を与えかねません。しかし、勿論、私にそのような浩瀚な知識があるわけではありません。それでは基本的にどのような立場に立っているかと言えば、私は人間にとっての「修行」あるいは「修養」の根源的な類似性に立脚していると言うべきではないかと思います。その立場を示す上で、佐保田鶴治・佐藤幸治編著『静坐のすすめ』(創元社、1967年)は、私に基本的な視座を提供してくれた本であり、大切な典拠の一つとなっています。それで、この本について多少の紹介を試みたいと思います。
なお、カトリックの立場から書かれたものですが、ほぼ同趣旨の本に、門脇佳吉著『瞑想のすすめ 東洋と西洋の総合』(創元社、1989年)があります。
初めに本書の目次を掲げれば、以下の通りです。
T 静坐のすすめ
一、静坐のすすめ 釈 宗演
二、黙思 新渡戸稲造
三、静坐の医学 村木 弘昌
U 静坐のいろいろ
一、概観 佐藤 幸治
二、岡田式静坐法 曽我 了雲
〔付〕岡田式静坐法の人びとの手記
「生命の神秘」「自然の名医」より 小林参三郎
「静坐十年」より 相馬 黒光
三、藤田式息心調和法 村木 弘昌
〔付〕息心調和法を組織するまで 藤田 霊斎
四、二木式腹式呼吸法 二木 謙三
〔付〕万病を通りぬけた体験 二木 謙三
五、インドの静坐(ヨーガ) 佐保田鶴治
六、中国の静坐(気功療法) 梁瀬 成一
七、日本式の坐 佐藤 通次
八、日本の心学その他における静坐 佐藤 幸治
九、キリスト教の黙想 カルメル会一神父
一〇、仏教における静坐 佐藤 幸治
V 静坐の手引き
一、静坐の原理と手びき 佐保田鶴治
二、静坐問答 佐保田鶴治・佐藤幸治
〔付録〕静坐年表
〔付録〕参考書ならびに道場
この本から適宜内容を拾い出して行きたいと思います。先ず佐藤幸治氏の「はしがき」を引用します。
《本書は静坐を広く――歴史的にも地理的にも――概観するとともに、静坐の原理を明らかにし、その手引きを試みたものである。
静坐は禅の重要な基礎でもある。しかし禅以外の人にでも、静坐は大いに役立つ。禅をまともに受け入れることはできないと思われる中共でも、慢性病の療法として国家が静坐をすすめている。静坐は、儒教でも、道教でも、昔から使われてきている。西洋の黙想も、またこれに通ずるものをもっている。静坐は健康をもたらし、心を平安にし、その働きを高める、万人の幸福のためのものだといってよい。
中共の静坐療法、すなわち気功療法の本に、日本の岡田式や藤田式の静坐法のことが書かれている。日本では現在これを知っている人は少なくなったが、明治の末から大正にかけて静坐法のブームの時代があった。これが、最も有力な指導者であった岡田虎二郎氏の急死をきっかけとして下火になり、多くの人がその関心から去ったが、まだその命脈は続いている。そして、その真理性にはさらに深いものがある。
静坐は身体をととのえ、人格を向上させる基礎工作として、東洋三千年の知恵であり、今日の科学より見てもすぐれたものである。しかし、伝統的な禅などにも、また、一時最も流行した岡田式静坐法などにも、なお弱点がないとはいえない。いま、われわれはこれを補正し、今後の世界における静坐の根本を示そうとしたのである。その点、岡田虎二郎の直弟子であり、さらに岡田式などの弱点をも補うことになるヨーガの、学行兼備の権威者、佐保田鶴治博士の協力を得ることができたことは、このうえないしあわせであった。
本書は、仏教の釈宗演禅師の「静坐のすすめ」と、キリスト教の新渡戸稲造博士の「黙思」との静坐の必要や、要領や、効果を、非常に広い、特殊の流派や宗教を越えた立場から述べられたものの引用から始まっている。これは五十年以上も前のものだが、その真理は今日でも少しも変わってはいない。むしろ社会の喧騒や人間の自己疎外はいっそう甚だしくなり、それだけ静坐の必要はますます大きくなっているのである。
次に明治の末に起こり、一時は大きな力をもった岡田式静坐法、藤田式息心調和法、二木式腹式呼吸法について、初めの二法は現在の指導者曽我了雲氏と村木弘昌博士とに書いていただき、文献的資料を添え、二木式は適当な筆者がなかったので、私が文献によってその特色を明らかにした。
次に、視野を歴史的地域的に拡大して、インド、中国、日本の静坐の伝統を顧み、キリスト教と仏教の静坐の性格を比較した。インドのヨーガについては、佐保田鶴治博士に平易明快にその要領を説明していただき、中国の現代の気功療法については、現地で見てこられた梁瀬成一氏が紹介されたものを収め、中国の歴史的なものや日本の静坐の伝統については佐藤通次氏の文篇以外に若干私がつけ加えた。キリスト教の黙想については、特にお願いしてカルメル会の一神父に書いていただき、仏教のものは私がまた書き加えた。禅については他の文献も多いので、きわめて簡単に付記するにとどめた。
以上によって、いかに静坐が世界で広く行われてきたものであり、いかに個人の健康から社会生活にまでわたって、人間の幸福に寄与して来たか、またこれからも寄与し得るものであるか、が理解されたと思うので、その原理と具体的な手引きを、またその最適人者である佐保田博士にまとめていただいた。
かつてのわが国における静坐の流行と衰えは、静坐に対するいろいろな疑問をももたせるので、最後に「静坐問答」を加えた。岡田氏の急逝も、静坐法そのものの弱点よりも、その他の無理、不注意がかさなったためであることが、これで理解されると思う。
われわれは現代においてますます静坐の必要は高まっており、これを学ぶことは人びとの幸福のためにも資するところが大きいと思う。しかしそのさい、先ず体操を行なって身体を柔軟にすること、一般の呼吸法等の訓練をも併せ行なうこと、食生活等にも注意することなどの、従来の静坐法の弱点となりやすかったものを補正することに努めた。われわれの考える静坐法を三S式(サホダ・サトウ・ソーゲンシャ)と名づけたら、などという冗談をとばしたこともあるが、むしろ岡田式、藤田式、禅、ヨーガ、気功療法、キリスト教の黙想、新渡戸式の黙思、いずれでもよいが、それぞれの方法の特色(長所と共に弱点をも)を自覚していただいて、ほんとうに日常に役立てていただきたいというのが、われわれ(佐保田・佐藤)の願いなのである。付録として各派の参考文献や各派の静坐グループを挙げておいたのも、この趣旨にほかならない。
われわれは「こころ」というすばらしいものをもっている。現代の科学技術も、釈尊やイエス・キリストの教えも、この「こころ」から生まれたものである。いま世界はいろいろの問題をもち、多くの人命もその間、無意味に失われて行く。この世界の問題を解く一つの鍵は、億万人の心が混乱しないで、その最高の働きを発揮することである。世界のすべての人びとが静坐を学んで、心身をととのえてくれたらと、願わざるを得ないのである。
「静坐のすすめ」をまとめてほしいと創元社から要請されたのは三年ぐらい前だったと思うが、いまようやく先にもあげた諸同志の御協力によって、このような形でまとめることができた。ここに本書のために特別に筆をとっていただいた諸先生方、さらにこのすぐれた人間向上の道を開拓して下さった、二、三千年にもわたる各国諸先人の精進に対して、深甚なる謝意と敬意を表しなければならぬと思う。殊に編集の上にもいろいろ貴重な助言をいただき、さらに重要な部分を自ら執筆していただいた、尊敬する先輩、佐保田鶴治教授に心からお礼を申し上げたい。(改行)昭和四十二年春》
ここに本書の成り立ちが丁寧に書かれています。修行(asceticism、ascetic discipline)とか修養(辞書的にはculture、cultivation of the mind)とか言われることの基礎に、瞑想・黙想(meditation)、観想(contemplation)あるいは霊操(spiritual exercise)があります。ここではそれが「静坐」と言われています。瞑想している人の「形」を捉え、それを表現するところに日本的あるいは東洋的な特徴があるのでしょう。ここにも、かたちから入る日本の文化の特徴があると言えるかも知れません。坐禅などで「調身・調息・調心」と言われるように、静坐の基本は「からだを調える」ところから始まります。しかし禅のように、必ず「結跏趺坐」しなければならないという決まりはありません。それは一種の「固定観念」であって、畳の上に「正坐」しても良いし、それも難しければ椅子に坐ってもそれはできます。その坐る形は、あごを引き、背筋を伸ばし、力まず(リラックスして)、前下方に目をやり、手を膝の上にのせる(あるいは手を組む)といったところでしょう。そして呼吸を調えます。さまざまな呼吸法がありますが、基本は腹式呼吸です。その上で心を調えるというのが、静坐のイロハだと思われます。ただそれだけのことですが、それを日々に実践することによって、心と体の健康が保たれます。しかしそれは単なる健康法ではなく、諸宗教の「瞑想」の基礎にもなっています。しかし、西洋のキリスト教は「頭でっかち」なところがあって、ややもすれば「身体から入る」ことをなおざりにしてきた憾みがあります。現代になって漸くその方面の反省がなされつつあります。
ここでは「T 静坐のすすめ」の初めの部分を引用します。後半の新渡戸稲造の文章は、やや長いこともあって省略しますが、編者の佐藤氏と新渡戸博士との関係が記されているページがあるので、以下にその部分だけ紹介します。
『大正の末、私は京大の学生として京都市公会堂で先生の講演を聞いた。東北出身の私はこれだけの国際人のズーズー弁をきいて心安んずる思いだった。先生の“修養”を初めて読んだのは中学生のとき、山形図書館でであったが、その中の“黙思”に心打たれ、先生の教えに従って三高の生徒に静坐をさせるようになったのは、それから二十年近く後である。数年前、東京女子大に高木貞二学長を訪ね、先生の筆で書かれた英文の額に感銘を受けたが、いまここに縮小してでも掲げることのできることは、喜びにたえない。』
そして東京女子大学会議室にかかげられている新渡戸博士の扁額の文字が写真で掲げられています。「Act in the living Present! Heart within and God o’erhead!(生きた現在に行為せよ! 内に心情、上に神!)」。
私は本書を随分前に読んで、新渡戸稲造はこの額に「God within」と書いたと思い込んでいました。それで「生命論的キリスト教」の項でもそのように書いてしまったのですが、それは記憶違いでした(その部分はあとで訂正しました)。しかしそのように新渡戸を理解することは、あながち間違いではないと今でも考えています。
「静坐のすすめ」という章の前半には釈宗演の文章が短く掲載されています。しかしその前に佐藤幸治氏の前書きがありますので、そこから引用を始めます。
《明治末に、仏教方面から鎌倉円覚寺の釈宗演老師の「静坐のすすめ」が出、キリスト教方面から新渡戸稲造博士の「黙思」が出たことは、今日から見ても興味深く、教えられるところ多いものがある。私のもっている「静坐のすすめ」は、宗演老師の考えにもとづき鈴木大拙居士が書き上げられたものに、宗演門下の棲梧宝嶽師が評釈を加えられたものである。元来「静坐のすすめ」は、徳性涵養法として静坐をすすめたものであったが、棲梧師はさらに、知識錬磨のためにも体育摂生のためにも、これをすすめようとする。宗演老師が禅を表にかかげないで、あえて静坐というのは、儒教やキリスト教にも流れている静坐・黙想にも通ずる真理を説こうとしたからにほかならない。本文にも心理学で有名なジェームズ・ランゲ説をとって、静坐による修養の考え方と合致すると見ているのもおもしろい。ジェームズは、熊などに出遭うと、からだがふるえ、逃げる、そのからだの変化の意識が“恐れ”だと説く。こわいから逃げるのでなく、逃げるから恐ろしいのだ、というのである。『今坐禅の法によって、下腹に常に力が充ち、肺の呼吸が常に一定となり、心臓の鼓動も常に平穏となり、全身の筋肉また常に十分の弾力をもっているとすれば、たとえ恐ろしいものが前に現われても、胸とどろき、顔色を失うようなことがないので、心はすこしも平常のときと変わらず、ゆったりとおちついて、あわてるようなことはないにちがいない。』『西洋の両大博士(ジェームズとランゲ)の説は、東洋の坐禅法の結果を知らず、ただ日常目にする事実から推理したものであり、東洋の坐禅家はその理屈を知らないで、実地に経験したところを伝えてきたのであるが、両者の帰着するところが一である。真理は何処に行っても変わることがないとはいえ、また不思議なことではないか』といっているのである。明治の先覚者の所見にもなかなか鋭いものがあるが、ここには紙面の関係で、棲梧師が坐禅工夫を説明し、さらに静坐の効果をまとめたものを摘記するにとどめようと思う。〔佐藤〕
世界の静坐 釈 宗演
坐禅工夫とは即ち着実の工夫なり。坐禅はもと梵語の禅那(ぜんな)より来る。茲(ここ)に翻(ほん)して静慮(じょうりょ)と曰(い)い、又は正思惟と曰ふ。坐禅とは畢竟(ひっきょう)坐して静かに慮(おもんばか)かるの義に外(ほか)ならず。吾が禅門にては、この依りて、人生の一大事因縁を究明するにありと雖(いえど)も、凡(およ)そ世間百般の事、一として坐して静かに慮かり、散乱の心を防ぎ、軽佻(けいちょう)浮薄の精神を打破するにあらずんば、到底其(その)成功を期すること難かるべし。況んや徳性の涵養の如き、智識の錬磨の如き、将(は)た又(また)胆力養成の如き、是等(これら)重要の事柄に於ておや。静坐は決して吾(わが)禅門にのみ限りたることにあらず、近くは儒書(じゅしょ)にも、大学の道は明徳を明かにするにあり、民を新(あらた)にするにあり、至善に止まるにあり、止まることを知って、而して後(のち)定まり、定まって而して後(のち)静なり、静にして而して後相(そう)能く安(やす)し、安ふして而して後に能く慮ると、されば大学一部は、全くこの静坐のすすめに異ならずと曰ふも、敢へて誣言(ぜいげん)にあらざるべしと信ず。其他(そのた)基督、ヨハネの洗礼を受けて後(のち)、四十日間広き野原に於て黙想に沈み、マホメットはヒラの洞穴に入りて、沈思に余念なかりしが如き、未だ組織的完全の禅定(ぜんじょう)法にあらずと雖も、所謂(いわゆる)静坐にあらずして何ぞや。
静坐の功徳 釈 宗演
静坐なるかな、静坐なるかな。静坐はよく五官をして澄ましめ、知らず識(し)らず、その習慣を得るに至り、静坐はよく仁慈の心を生じて、邪悪の念起こらず、一切の人を見ることなほ自己の同胞の如し。静坐はもろもろの瞋恚(しんに)愚痴および愚かなる希望は、おのずから念頭より去る。静坐は常に五官を注視監督するをもって、罪魔もこれに近づくこと能(あた)はず。静坐は心汚れなく、思い清きをもって、静坐を為(な)すものは、下劣なる情慾の甚だしく起こり来るがごときことなし。静坐は心常に高尚なる思慮に集めらるるをもって、誘惑に陥らず、自我主義に傾くがごときことなし。静坐はよく虚栄の空なることを知るといへども、決して虚無主義に陥らず。静坐は生死の綱いかに細きも、よくこの生死の境涯より脱するの道を知る。静坐は法身(ほっしん)の根本に徹底するをもって、仏の智慧の中に住す。静坐は何物にも誘惑せられるところなきをもって、籠(かご)を出でたる鷲(わし)のごとく、自由にして、何等の妨げらるるところなし。これを静坐の功徳(くどく)となす。》
坐禅を静坐と把握することによって、それを東洋的修行の広がりの中に位置づけたことは、釈宗演老師の慧眼です。明治の末から大正にかけて、岡田式などの「静坐」が流行しますが、この文章もその流れの中にあると言うことができます。岡田式静坐法は、座布団の上に「正坐」することによってなされます。そこに坐禅といわゆる「静坐」との違いがあります。しかしその違いにそれ程こだわる必要はありません。その区別を取り払ったところに、岡田虎二郎氏などの功績があると言うべきでしょう。このあと「静坐の原理と手びき」をとりあげますが、それは次回にまわすことにします。
「静坐の原理と手びき」を取り上げる前に、「静坐のいろいろ」という章の最初に掲げられている佐藤幸治氏の「概観」の文章を引用します。
《現在、最も広くおおやけに静坐を行なっているのは中共だと思われる。一九五五年以来、政府が奨励して“気功療法”という名のもとに静坐を慢性病の治療法として国民に行なわせているとのことである。しかし、これは中国伝統の道教や儒教、漢方医学などに流れている静坐を提起し、これを強調したものといってよい。
日本でも最近、禅やヨーガなどが盛んになってきたようだが、静坐としては、明治の末から大正十年頃まで岡田式静坐法が一世を風靡し、これと共に藤田式息心調和法、二木式腹式呼吸法が喧伝されたのであった。前に取り上げた釈宗演の「静坐のすすめ」、新渡戸稲造の「修養」なども明治の終りのものであることは、このような気運が一般的なものであったことを感じさせる。
岡田式静坐法は、その指導者岡田虎二郎氏が大正九年、数え年四十九歳で急逝されたことから、にわかに影が薄くなったが、しかし熱心な実行者は今日といえども相当数あり、長命の人も少なくない。藤田霊斎氏はハワイにも出かけて指導を続けておられたが、岡田氏より四年早く生まれ、三十七年生きのびて、数え年九十歳で昭和三十二年ハワイで亡くなられ、岡田氏より半年ほどおそく次の年に生まれた二木謙三氏は、岡田氏より生きのびること四十六年、昭和四十一年四月に数え年九十四歳で亡くなられているのである。二木博士は医学者で腹式呼吸法の特別の指導者でなかったため、特別の後継者はないようであるが、藤田式にはなお実行者も少なくない。藤田、二木両氏は、若い頃の自分の病弱を治すため工夫をかさねたもので、その出所も明らかで、その効果を身をもって示されたが、岡田氏のばあいはもう一つ出所が不明のようである。
藤田、二木両氏の工夫には白隠の「夜船閑話」などの影響があり、中国の道教の流れが入っていると考えられる。静坐法の先駆はインドにも中国にも古いものがあると考えられるので、これを一おう探索し、現代の行法(ぎょうほう)を見る必要がある。静坐そのものは宗教ではないが、宗教の重要な行(ぎょう)として用いられてきた長い歴史をもっているのである。ここでは仏教の広い意味での禅と、キリスト教の特にカトリックの黙想を考察することにする。そのほかユダヤ教やイスラム、神道などにも、これに近い行(ぎょう)はあると考えられるが、ここでは、そこまで手を伸ばす余裕はなかった。》
静坐はヨーガや気功とつながりをもっています。しかしヨーガや気功が種々の姿勢や動きを取り入れるのに対して、静かに坐る形のみを重視する点で、坐禅と共通する面を持っています。そこに日本的あるいは仏教的な特質があるのかも知れません。それはともかくとして、静坐は健康法であると共に、長く宗教の行法として用いられてきたということが、ここで確認されているのは大切です。宗教的な「祈り」という行為は、静坐という文脈で捉え直されるとき、もう一度、その深さや豊かさを取り戻すことができるのではないかと思われます。プロテスタント・キリスト教には、この点で、何か欠けているものがあるのではないでしょうか。言葉の裏づけとなる経験を重んずるということは、取りも直さず、静坐(瞑想)を重んずるということでなければならないでしょう。
本書の主要部分は、この「静坐のいろいろ」の章に充てられています。しかしその紹介は割愛します。私の興味を引いたことを一つだけ挙げれば、あの木下尚江が、相馬黒光と共に、岡田虎二郎の「追っかけ」の一人であったということです。木下も最後はキリスト者であることに甘んずることができなかったのでしょう。この点については、木下を責めるよりは、キリスト教の側に反省すべきものがあると、私は感じています。
最後に、かなり長い文章ですが、佐保田鶴治博士の「静坐の原理と手びき」の紹介に移ります。それが本書のまとめの意味を持っているからです。
《1 静坐の基盤――心身一体の理
静坐に興味をもち、静坐のいろいろな教えのなかのどれかにしぼって、静坐を実行してゆく人びとのねらいや目的は、人によってちがっていて、一概にはいえない。或る人はながらく病気や虚弱にくるしんだあげく、静坐によって病弱を克服しようと決意するに至ったであろうし、或る人は自分の性格の弱さやゆがみを反省した結果、その矯正の最善の方法を静坐に見つけたと考えたであろう。さらには、静坐によって得られたひとときの心の平和をこのうえない喜びと感じて、いわゆる禅味の楽しみのために静坐が病みつきになった人も少なからずあるであろう。その他いろいろな目的や希望やねらいをもって、人は静坐に近づくのであるが、方法をあやまらず、そして怠らずに実行するならば、静坐は必ずそれぞれの人の願いをかなえてくれる。バイブルに「求めよ、そうすれば、与えてくれるであろう」とあるが、われわれが静坐に求めるものは、われわれのがわに誤りと怠りのないかぎり、静坐によってまちがいなく与えられるのである。
人が静坐に対して求めるものは、必ず静坐によって与えられる、というだけではない。静坐に対して最初求めていなかったものまでも与えられるのである。最初はただ病気さえよくなればと思って静坐の実行をはじめたのに、病気がなおったという程度とはくらべものにならない高度の健康が得られ、疲労を知らぬタフなカラダの持ち主になったばかりか、頭脳が明晰で感情が温和、明朗玉の如き人格者になったという例も珍しくはない。法華経のなかに有名な三車のたとえ話がある。むかし、インドのさる長者(富豪)に三人の子どもがあった。或るとき、その長者の大邸宅のひとすみから火が出て、数キロ四方もある邸内にギッシリと建てつまった建造物が、みるみるうちに火炎につつまれていった。長者はようやく邸宅の外へのがれたが、そのとき、三人の子どもたちは遊びにほうけて、まだ邸内に残っているのに気がついた。長者はとってかえして、子どもたちに外へ出よと呼んだが、子どもたちは遊びに夢中だし、それに火事の恐ろしさを知らないから、なかなか父のことばにのってこない。力ずくで連れ出すにも今はそのひまがない。長者は思案のすえ、子どもらにこう呼びかけた。『おまえたち、外に出なさい。門の外には、おまえたちが日頃欲しがっていた三種類の車がおいてある。それには羊と鹿と牛がそれぞれつないである。早いもんがちだよ。』この声を聞いて、子どもたちは、われがちに門外へ飛び出した。そこで胸をなでおろした父の長者が彼らに与えたのは、いずれも肥え太ったまっ白な牛にひかせた大型の車であった。このたとえ話のように、静坐は静坐を実行する人の各自の希望や目的をかなえてくれるだけでなく、すべての静坐者にもれなく期待以上のすぐれた結果をもたらすのである。
なぜであろうか? それは、静坐が身心一体という真理をふまえた行法(ぎょうほう)だからである。人間はもともと身心一体の存在である。カラダとココロの分離は死を意味する。カラダだけの人間もなく、ココロだけの人間もない。カラダとココロがもと別々にあって、この両者が結びついて人間ができ上がったのでもない。このことを忘れると、生きている人間というものがわからなくなる。
そうはいっても、カラダとココロは同じものではない。ココロはカラダではないし、カラダを呼んでココロというわけにはゆかない。カラダとココロはハッキリと区別することができるし、また区別しなければならない。しかし、区別できることは分離できることではない。ココロとカラダは区別することはできるが、分離することはできない。ココロとカラダは不可分離に結びついているのである。
それでは、ココロとカラダを分離できない関係に結びつけているものは何か? 両者の間にあって接着剤の役目をしているものはいろいろあるが、そのなかでいちばんたいせつなものは神経組織である。神経は単なるココロでもカラダでもなくて、しかも両者の一面をそなえている。精神―神経―身体という関係で身心一体の人間ができあがっている。もっとも、この三位一体の関係は、きわめて簡単な略図であって、今日の科学の教えるところはこんな簡明な関係ではない。ココロにも多くの種類や段階があるし、ココロとカラダ(主として筋肉組織)の中間には神経(電気性のインパルスを含む)のほかにホルモン、酵素など、さまざまなものがある。それはとにかく、ココロとカラダとはこの中間段階を通路として複雑微妙に交通しあっている。ココロの動きは多少とも必ずカラダに影響するし、カラダの状態の変化はやがて大小ともココロに結果を及ぼさずにはおかない。
この身心一体という真理の上に静坐は成り立っている。静坐はカラダとココロを平等に取り扱う仕方で、完全な身心一体の状態を実現しようとする。静坐はカラダだけの健康やココロだけの安定をねらったりしない。身心一体の完全な健康こそが静坐の目的なのである。身心一体の理からいって、そうした仕方でなければ、ほんとうはココロの安定もカラダの健康も得られないのである。だから、静坐の適正な実行によって得られる結果は、単に健康ということばでは言いつくせないものがある。むしろ、人生の真の幸福と呼ぶべきものが静坐の目的なのである。
静坐の実行がこのようにすばらしい結果を生むのは、ほかでもない、静坐はカラダやココロをととのえ且つ強める前に、まずその中間にある神経などの要素を調整し強化するからである。この中間要素の調整強化ということは、全人的な健康と幸福をきずく上に特に大きな意義をもっている。神経やホルモンなどの中間要素の調整と強化は、カラダとココロの両方へ好影響を与えるだけでなく、カラダとココロをあわせた全人格の調和と強化を来たすのである。頭でっかち型でも動物型でもなくて、明敏で温和、しかも、ねばりがあって、ものおじしない、落ちついた人がら、これが静坐の目ざす理想の人間像なのである。静坐は人間の最高の幸福を保証するだけでなく、人間以上の幸福にさえみちびいてゆく。人間は単に人間的であるより以上の素質をそなえている。ひとりひとりの人間の内奥には、神的なものかくれている。人間は神の殿堂であるといってもよいし、人間の真我は神なのだといってもよい。その神的なものを身心を通じて実現することこそ静坐の最高の目的なのである。》
ここに静坐の原理が示されています。身心一体の人間観は、デカルト的な心身二元論とは対照的です。しかしキリスト教の経典である聖書の人間観は、もともと身心一体であって、デカルト的近代的二元論の方が特殊であると言うべきでしょう。心は「思惟する実体」ではなく、一つの働き、いのちの現われなのだと思われます。なお佐保田博士の言う神的な心の働きを「たましい」と呼ぶなら、人間は「たましい、こころ、からだ」の三位一体の存在であると言うこともできるでしょう。いわゆる霊知体の三分法的な人間観がそこから生れてきます。しかし、その三者も実体的な区別であると言うよりは、たとえば、「祈り、学び、かつ働く」という、人間のいのちの働き(生命活動)にあてがわれる三つの区分に照応していると考えるべきではないかと思われます。中国では「徳育・知育・体育の全面発達」という言葉が使われますが、これもまた全人的な人間観です。パスカルの「三つの秩序」(愛の秩序、精神の秩序、身体の秩序)も、このような理解に従って、「たましいの秩序、こころの秩序、からだの秩序」と読み替えることも可能でしょう。静坐が宗教的な行法に通じると言われるのは、そのような理解があってのことでしょう。
《2 静坐の根本条件
静坐に成功するための第一条件は、カラダとココロを通じて全面的なくつろぎの態勢が持続されるということである。そのどこかにこりがあっては静坐の絶大な恩恵に浴することはできない。長い年月のあいだ静坐の実行をまじめにつづけながら、いっこうにさしたる効果もあげ得ないような人は、くつろぎの条件を欠いているからである。道元禅師は中国で天童如浄禅師から「参禅は身心脱落である」と教えられて悟りを開いたといわれているが、身心脱落とは、まさに絶対的なくつろぎの境地のことだと解してもさしつかえないであろう。
ところで、くつろぎを得ることは決して容易ではない。くつろぎを得るには、カラダとココロの両面からの工夫が必要であるが、それよりもたいせつなことは、神経の和(やわ)らぎを得ることである。くつろぎの根本は神経の和らぎにある。神経の和らぎを手に入れるには、バランスとリズムという生命の二つのしくみを知ることが必要である。神経組織、なかんずく身心一体の機構の鍵である自律神経は、たがいに対抗的にはたらく交感・副交感の二つに分かれていて、この両神経組織が調和してはたらくときに健康は保証される。さらに左右両半身の神経のはたらきのバランスも健康の維持に重大な関係がある。ところで、バランスは静的なものではない。バランスは、たがいに相反する動きやはたらきの動的なつりあいの上に成り立っているのである。生体のもつバランスは生命のリズミカルな動きそのものだといってもよい。
生命のなだらかな流れの現われである全身的なくつろぎは、バランスとリズムという二つの条件が充たされないかぎり生まれてこないのである。だから、どんな流儀の静坐でも、その技法のどこかで必ずこの二つの条件を充たしている。そうでなければ、くつろぎをもたらすことができないからである。しかし、くつろぎ自身もまた一つのリズミカルなバランスのなかで緊張と拮抗する。静坐におけるくつろぎは、一方では背骨を立てつづける緊張と対抗すると同時に、他方では自分のなかに呼吸や心臓鼓動のリズムにともなう緊張と弛緩のバランスを包んでいる。静坐のくつろぎは緊張を背景とし、且つ内にふくむ総合的な態勢なのである。》
中国の気功では放鬆(ほうしょう)という言葉が使われます。つまりリラクセーションのことです。実存哲学者マルセルの思想でも「寛ぎ」は大切な意味を持っています。また、アインシュタインのような天才は寛ぐことを知っていると言われます。いのちが持つ力を十分に発揮するためには、人は寛がなくてはならないということでしょう。しかしそんなことを言うと、この危機の時代に何で寛いでなど居られようと指弾されるかも知れません。私自身の苦渋もまさにそこに関わっていたと言うべきでしょう。だから寛ぎにはある種の「諦観」「明らめ(あきらめ)」があります。現実からの「切れ」があります。現実の縛りを振って、ひたすら静坐に専念するという「覚悟」があります。実利の観点からすれば、静坐は無用の行為であると見なされるでしょう。その無用の行為を認めることができるか否かということが、思想の分かれ目であるような気がします。祈りにどんな意味があるのか、宗教的修行にかまけることに、一体いかなる社会的有用性があると言うのかという、実際的な観点からすれば至極当然の疑問に、宗教者はいつもさらされてきたと言うことができます。それはごく当たり前の疑問というものです。それでもなお「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」(羽仁もと子)という生き方を選ぶところに、「宗教的」であることへの決意があります。静坐は必ずしも宗教的な行為ではありません。しかし生活の中でその時間を選び取ることには同様の「切れ」がなくてはならないでしょう。何かを放棄しなくては、その行為を選び取ることができません。人は寛いで良い、むしろすべてはそこから始まるのだと考えることが、静坐の出発点です。なお、道元の「身心脱落(しんしんとつらく)」とは「絶対的なくつろぎの境地のことだ」という佐保田博士の指摘は面白いと思います。今までそのように考えたことのなかった私は、何かを教えられたような気がします。それは究極の「切れ」と言うべきものでしょう。
ここから文章は「静坐の手びき」の部分に移りますが、それは次回に取り上げます。
《3 静坐の三要素
生きている人間が身心一体の全一的な存在であるのに対応して、静坐も全体として単一な法であり、道である。しかし、身心一体である生命の単一性がカラダやココロの複雑なしくみをふまえて成り立っていると考えられるように、静坐の道も幾つかの要素から成り立つものとして理解することができる。そういうふうに一応は分析的な立場で考えてみることが、静坐の理解のためには必要なことである。静坐はさいたい坐、呼吸、瞑想の三つの要素からなっている。》
坐、呼吸、瞑想とは「調身・調息・調心」のことです。姿勢、呼吸、静思(沈思)の三つが静坐を成り立たせています。静坐は、形、息、心という三つの要素から成ると言ってもよいでしょう。著者はその一つ一つについて懇切な説明を行ないます。
《〔A〕坐
静坐はその文字が示すように、坐って行なうのが普通である。もちろん本質的には、坐禅儀にもあるように、静坐は行住(ぎょうじゅう)坐臥にこだわらないけれども、通例は坐という形式がとられる。それは坐の姿勢がいろいろな理由から静坐の目的にいちばんかなっているからである。》
ヨーガや気功法を見ればわかるように、身心一如の行法は必ず坐ることに帰着するわけではありません。しかしここでは「坐」が基底的なものとして位置づけられています。茶道、華道、書道など、多くのことが畳の上に坐ってなされてきたところに、日本文化の特質があるのでしょう。坐にはまた人を「落ち着かせる」という意味があります。
《静坐の実修をするには、少なくとも初歩のあいだは、静かな環境をえらぶ必要がある。空気が濁って雑音のやかましいところでは、特別な生まれつきの人や非常に修練の積んだ人でなければ、静坐の心境へはいることはできない。しかし、今日そういう閑静で空気の清らかな環境に日常住んでいる人は極めてまれであるから、一般の人にすすめられることは、一日のうち早朝の時間を静坐にあてることである。それもできない人は、夜おそくの時間を静坐にあてるがよい。静坐の修練に熟達するにつれて、こういう必要はうすれてゆき、ついには随時随所の行住坐臥のなかで静坐に安住することができるようになる。環境についての条件としては、このほかに、風通しが悪かったり、その反対に風が吹きさらしであったり、また極端に暑かったり寒かったりする場所をさけることもあげられる。》
著者は先ず静坐にふさわしい環境に言及します。親切な指摘です。「一般の人」には、いきなり山奥の洞窟で修行するなどということは不可能です。静坐とは、誰もが行なうことのできる修行であるというところに、重要な意味があります。禅寺や何かの道場に通わなくても、いつ、どこでも、誰にでもできる修行が静坐です。
《カラダについては、アルコールの気が残っていたり、満腹であったりしないことが静坐の前提条件である。こういう状態は静坐の心境にはいるのを妨害する。》
これもまた親切な指摘です。静坐の環境的条件に加えて、肉体的条件をととのえることが大切です。常態を保つことが静坐の条件です。
《さて、以上のような環境的および肉体的条件がそろった上で、さらに欠くことのできない条件が二つある。あるいは坐の二原則といってもよい。
(一) 背骨をまっすぐに立てておくこと
(二) 全身がくつろいでいること
この二つの条件はいちおう相反している。なぜかといえば、背骨をまっすぐに立てていることは緊張の状態である。これに反して、神経が和(やわ)らいだくつろぎの状態は弛緩である。この相反する状態がバランスを保って持続されてゆくところに真の静坐がある。緊張ばかりでも弛緩だけでも、正しい静坐の心境に入ることはできない。弛緩の一方へ傾きすぎると、寝こんでしまうことになって静坐の心境から脱落する。
背骨をまっすぐに立てておくには、アゴをしっかりと引きつけ、ウナジを伸ばし立てるという心得を忘れてはならない。この心得さえ充分に実行すれば、背骨はその自然のまっすぐな形を保持することができて、腹や胸のくぼんだ猫背やへっぴり腰にもならないし、その反対に、胸や腹の出た反り身にもならない。背骨がその正常な曲がりを持ちつつ、まっすぐであることが、静坐にとってたいせつな条件なのである。それにはアゴを充分に引くという心得を実行すればよいので、あまり技巧的なことは考えない方がよい。ただし、アゴを引くさいに額は正面を向いていなければならない。下向きでも上向きでもよくない。下向きだと気がめいりがちとなり、上向きだと、とかく気が散りやすい。》
眼を半眼に閉じるということは、この「下向きでも上向きでも」ない状態の自然な結果だと思われます。額(ひたい)は正面を向いていて、目は前下方に向くことになります。
《第二の条件であるくつろぎを得るには、まず安定した坐り方をしなければならない。ヨーガ・スートラにも「坐り方は安定した快適なものでなければならない」とある。アシの組み方は流儀によってちがっているが、いつまで坐っていてもぐらつかず、前後左右いずれへも傾かず、安定した状態にあることが坐法の主眼である。静止した安定の代りに、動的な安定をねらう坐り方もある。動的な安定というのは、ジャイロスコープの原理によって、複雑な動きのバランスの上に成り立つ安定、つまり重心安定のことである。岡田式静坐法で、深くアシを重ねるのは、この動的安定をねらったものといえよう。》
岡田式静坐法では深く足を重ねる「正坐」を行ないます。著者の念頭にある坐はこの正坐のことであって、「椅子に坐る」などということは考えられていません。しかし椅子に坐る「坐法」があってもよいでしょう。その場合には、椅子がちょうど良い高さで、足裏が床にしっかり着いていること、また椅子の背もたれに寄りかからないことが大切になります。それは究極の「易行」と言うべきものです。
《坐の姿勢のなかでいちばんたいせつで、しかもむずかしいのは、肩の力を抜くという点である。肩の力を抜かなければくつろぎを得ることはできない。初めのうちは、背骨をまっすぐに立てると肩に力がはいりがちである。背骨をあくまでもまっすぐに保ちながら肩の力を完全に抜くことこそ坐り方の真髄(しんずい)である。肩の力が充分に抜けているときは、誰かが片方の肩をつまんで軽くゆすぶってみると、両肩ともグラグラとゆらぐものである。それほど肩はゆるんでいなければならない。》
くつろぎとは単なる精神的状態を指すのではなく、文字通り「肩の力を抜く」ことであるという指摘は、とても面白いと思います。
《アシ組みと肩がきまれば、手の置きどころは大して問題ではない。肩に力が入らぬように、手の置きどころとその形の取り方を考えればよいのである。手をどんな形にするとか、どんなふうに組み合わせるとか、その手をどこに置くとかいうことは、流派によってちがうけれども、要は、カラダのどこにも力が入らないようにすることである。
こうして主要な部分の態勢がととのったところで全身から力を抜く。そのなかでも眼筋の緊張をゆるめるのが肝心である。眼の神経をゆるめることは、眼を開いたままでもできるが、初心のあいだは閉じている方が便利である。眼の神経をゆるめることができれば、耳や鼻や口をゆるめることは造作ない。口の内部では、舌を上アゴにつけておくのは舌が無意識に動くのを止めるためだ。舌が動けばココロも落ちつかない。ヒタイのしわもとれてこなければならない。首から下では、肩の緊張のゆるむにつれて胸、胴の筋肉の神経も和らいでくる。かくして、全身にくつろぎがゆきわたるのである。》
ついでに言えば、全身の緊張をゆるめるために、横たわるという姿勢はさらに効果的です。事実、臥床(とこ)につき眼を合わせる前に行なわれる「内観の法」というのがあります。それを解説している伊豆山格堂氏は「臥禅」という言葉を使っています。それによれば、内観とは、要するに「坐禅の場合と同じく、身体の緊張を解き、ただ下腹部に自然に力が充ちるように工夫」することです。下腹部とは気海丹田のことを言います(伊豆山格堂著『白隠禅師 夜船閑話(やせんかんな)』、春秋社、1983年)。
《ところで、坐の要領はわかっていても、カラダはなかなかこの要領どおりになってくれない。平素の不自然な姿勢が習慣づいてしまっているからである。カラだのどこかにこりがあったり、背骨が左右に曲がっていたり、ねじれていたりすると、静坐の正しい姿を保つことはできな。カラダの調子が悪くても、くつろぎの状態を得ることはむずかしい。もちろん、坐り方の練習そのものが全身の調子をととのえるのに役立ちはするけれども、神経をととのえ、カラダの調子をよくする手段として、坐法のほかに特別な体操を利用するのは、静坐に成功する近道である。この種の体操は単なる筋肉運動とはちがって神経を和らげととのえることを主眼としている。外形は体操であっても、内実は静坐の坐法と同じものなのである。つまりは、坐法の展開されたものにほかならない。こういったものが、ヨーガの体位法や禅宗のきんひん(経行)や中国の太極拳(たいきょくけん)などである。これらの体操はまた健康法として独立の価値をもっている。》
この種の体操で一番簡単な方法に、両足を肩幅の広さに開いて立ち(柔道の自然体)、力を入れず(全身をリラックスさせ)、からだを左右に回す(からだの左右へのねじりに連れて、手が自然に左右に振れ、からだに纏いつく)というのがあります。これは中国の気功にもありますが、西野流呼吸法で「華輪(かりん)」と呼ばれる準備運動の最初の動作です。
《〔B〕呼吸
静坐の三つの要素のなかで、呼吸は特に生体のリズムと深いつながりをもっている。呼吸は心臓の鼓動とならんで、カラダの生命のリズムを高度に代表している。そのうえ呼吸は自律神経と密接な関係をもっているので、呼吸をととのえることは、静坐の最も重要な部分をなしている。
静坐中の呼吸はリズミカルであると同時に長くて静かでなければならない。イキがはずんであらあらしくては、ココロの落ちつきは得られない。静坐中の呼吸はあくまで静かであるべきで、イキの出入が止まっているかと疑われるほどに静かなのがよく、鼻のさきに軽い羽のようなものをかかげても、それが少しも動かない程度などと説かれている。》
ここで呼吸は鼻で行なうということが暗黙の前提になっています。特に吸息は塵埃を吸入しないために鼻で行なうべきものとされています。鼻での呼吸が困難な人を除いて、呼吸は口ではなく、鼻で行なうべきものでしょう。
《静坐中の長い呼吸は、自然の傾向として、相対的に短い吸息と長い呼息とから成っている。比較的短い吸息の方は自然的で、軽くなければならない。力を入れて吸うのではない。イキを出し終わったときに自然に入ってくるのにまかせる程度である。これに対して、イキを出す呼息の方は静かに長くつづけられる。このときは腹部から胸の下部へかけて軽い緊張がある。軽くて短い吸息と長くてやや重い呼息とがリズミカルに交替してゆくうちに、カラダのくつろぎが完全になり、呼吸を忘れ、カラダを忘れて、ココロがカラダの意識から解放されたとき、静坐に成功する基礎はできあがったのである。》
ここに言う静坐の場合は別として、からだの動きを伴う呼吸法では、吸息を意識的に長く行なうことがあります。従ってここに書かれていることは必ずそうしなければならないというものではないでしょう。一つの呼吸法が示されていると理解すべきです。
《静坐に必要な呼吸の長さというと、少なくとも一分間に六呼吸以下でなければならない。ところが、通常人の呼吸は一分間に十二から二十、平均十八といわれる。だから静坐中の呼吸の長さは自然のままでは得られない。といって、静坐中に呼吸の長さを調整していては、ココロにくつろぎをもたらすことはできない。それで、呼吸の仕方は静坐とは別に練習する必要がある。藤田式息心調和法やヨーガのプラーナーヤーマや気功法などで特別に詳しく呼吸の仕方を説いているのはこのためである。これらの呼吸法の練習はそれ自身でもカラダの健康に大きな貢献をする。呼吸の適正な練習は、横隔膜と肋骨の動きを拡大して肺活量を大きくするだけでなく、胸部から腹部へかけての自律神経に好い影響をあたえるからである。また、呼吸練習の或るものは、血液のなかへ取り入れる酸素の量をいちじるしく増大する。》
長い呼吸を行なうことが呼吸法の基本であり、そのためには練習が必要になります。
《呼息と吸息とは一つのリズムを構成するが、この二つのイキのあいだに休息のひまをはさむことは、気管のはたらきをととのえ、且つ新しい空気と気管内の残気との交替を完全にする。だから、理想的な呼吸は呼息―止息―吸息―保息の四段のイキから成っている。そのなかで保息、つまり吸ったイキをそのまま止めておく段階を充分に引きのばすのがヨーガのクムバカである。律動的な呼吸を練習していると、特別な性質のエネルギーが発生してくることがある。このエネルギーは心霊的経験や霊能を生む。》
ここで言われる「特別な性質のエネルギー」は通例「気」と呼ばれます。呼吸法と「霊能」とはつながりがあるということは、洋の東西を問わず、昔から知られていました。なお、息を止める、溜めるということについては、それを行なうべきでないと言う人もいます。呼吸の「方法」はそのように人や場所によって異なり、一律のものではありません。時と場合によって、各人の工夫が必要とされているということでしょう。
《〔C〕瞑想
静坐のいちばんたいせつな要素は瞑想である。瞑想といえば、通例目を閉じて、もっぱら思念に沈潜(ちんせん)するということであるが、しかし、静坐におけるココロの作業には必ず瞑目が必要だというのではない。ここではただ静坐におけるココロの作業を一般的に瞑想と呼んだだけである。》
瞑想では必ず目が閉じられなくてはならないということはありません。
《ところで、瞑想の本質的内容は一般に無念無想とか精神統一とかいうことばで言われている。この二つのことがらは別のものではない。精神が統一されてゆくプロセスは、ココロの動きが次第に弱まり、雑然として現われては消え去る想念が減じてゆくプロセスにほかならないから、その行きつく極限は無念無想の状態であるということになる。無念無想ということばはよく使われることばであるが、その本当の意味を正しくつかむことはかなりむずかしい。無念無想はしばしば忘念忘想と混同される。もしも精神統一の練習が単に意識をぼんやり(昏沈、こんちん)させるものであって、無念無想が気絶した場合の心理状態と同じものにすぎないとしたら、瞑想ということは大して価値のあるものではないといわなければならない。精神統一の過程は催眠術のそれに似ている。一部の人たちは瞑想を自己催眠という概念のなかへ取り込んでしまおうとする。ところが静坐を説く人の多くは、静坐の瞑想における心境は催眠術にかかった場合のそれとは根本的に違っていることを強調する。催眠術の場合は、被術者は強度の受動状態におちいるけれども、静坐の場合は、自己意識は働かないが、その強い感受性のうちに確固とした主体性がひそんでいる、という。瞑想に習熟した人は他人の催眠的暗示にかかることはあり得ない、と静坐党は主張する。》
瞑想が単なる忘念忘想のプロセスでないとすれば、それは「強い感受性」(微細なものへの鋭敏な感覚と言うべきもの)を伴う、ある種の覚醒のプロセスであると言うことができるかも知れません。それは催眠や暗示とは別の心理状態です。
《静坐は通例の自己催眠ともちがっている。自己催眠はせいぜいのところ、自分が自分にあたえた暗示を深層心理の内部へ定着させる程度のことしかできない。ところが、静坐の瞑想に沈潜して深い精神統一の状態に達するならば、その状態から目ざめたのちに、人はしばしば一種の知恵、つまりさとりを持ちかえっていることに気づく。それはことばで言いつくすことのできない内容をもっていて、この不可説の内容を解きほどいてみると、限りなく広くて深い知恵のことばが流れ出る。無念無想といっても単に意識内容の絶無ということではないことがわかる。時には、この状態から超心理的なココロの働きが生まれることもある。》
ここまで来ると、著者は、そこに達した人でなければわからない境地に入り込んでいます。しかしそれが静坐(瞑想)の功徳として説かれていて、特定の宗教(たとえば禅宗)だけが与えうるものとはされていません。そこに静坐の真に「大乗的」あるいは「俗人的」な意味があります。静坐は宗教でなくてもよいのです。つまりそこに神や仏が出てこなくてもよいのです。かつて静坐が流行したのも、そのためではないかと思われます。
《瞑想の心理過程は単純なものではない。それを分析して幾つかの段階に分けることができる。完全な瞑想は四つの段階から成る。
(一) ココロを不動の状態へとみちびく心理作業――凝念(ぎょうねん)または止念の段階。
(二) ココロを自由に遊ばせながら、しかもそのあいだに調和と統一とを維持する心理作業――禅思または静慮(じょうりょ)の段階。
(三) 自己意識がすべて消え去って、意識対象が意識の全領域を占めている心理状態。外見上は気絶したのと同じ状態を示す――三昧、またはトランスの段階。
(四) (三)の段階のなかから通常の意識とは次元のちがった意識が突然に、無意志的に現われてくる境地。今日のことばでは知的直観とでも名づけるべきもの、いのりなどもその深い段階ではこの境地に似ている――悟、証、またはさとりなどと呼ばれる段階。》
この四段階は、明らかに坐禅などのプロセスに照応しています。坐禅をモデルとして瞑想の各段階が考察されていると言えます。しかし瞑想のプロセスはおそらくは多様であって、必ずこの通りの段階を経ると窮屈に考える必要はないでしょう。あくまで参考にとどめるべきものであると言えます。しかし瞑想がそのような精神的深みを持っているということに気づくのは、とても大切です。その感覚は現代人の多くが失ってしまったものですが、そこから今日の「心の病」が生じて来るのではないかとさえ思われます。
著者は最後に「静坐と日常生活」を論じて稿を閉じます。
《4 静坐と日常生活
静坐を実行するには、毎日きまった時間に日課として行なうのがよい。たとえ短時間でも毎日きまった時間に行なってこそ静坐の効果はあらわれる。ときどき思い出したように坐るのでは、長い時間しびれをきらして坐ってみても、はかばかしい効き目はない。つまり静坐を生活のなかへ条件づけ、生活のリズムに織り込んでいってこそ、静坐によって莫大な利益をあげることができるのである。
しかし世の中には、静坐のために忙しい一日の何分の一かを費やすのを惜しむ人も少なくない。それは静坐に費やす時間が何倍かになってかえってくることを知らないからである。試みに、静坐に費やす時間を惜しむ人が実際はどのくらい時間の無駄使いをしているかをしらべてみるといい。忙しくてたまらんということを口ぐせにしているような人でも相当の時間を浪費しているものである。早朝の数十分、寝る時の十数分を静坐にささげることができない人は滅多にないであろう。静坐にいささかの時間をささげることによって、一日の時間がどんなに愉快に、そして要領よく、秩序立って、有効適切に使えるようになるかを考えたならば、静坐に費やす十数分ないし数十分が惜しいなどとはいえたものではない。道元禅師の
いたずらに過ごす月日は多けれどみちをもとむる時ぞすくなき
という歌は常人のあり方をあらわしている。
静坐に習熟し、静坐の根本をつかむことができたならば、忙しい生活活動のさなかにも静坐の心境に没入することができるようになる。このようなことを「ココロのドアをしめる」という。はげしいことばのやりとりや、つきつめた思慮のさなかに、一瞬「ココロのドア」を閉じて、瞑想の世界にはいりこむことができるならば、ココロにゆとりができて、無益な争いや、出口のないどうどうめぐりの思案に落ちこまないで、当面しているむずかしい問題の解決の糸口を見つけ出すことができよう。これが動中の静といわれるものである。動中の静は、このようにあざやかな形で経験されなくても、平和な性格と、明晰な英知という形で現われ、人の生活にゆとりとねばり強さをもたらさずにはおかない。日常の生活そのものが静坐のおもむきをもつことになるわけである。この場合の生活は静坐の延長なのである。「平常心これ道」というのは、かような境地を指している。
かように生活のなかへ静坐が延長してゆくためには、静坐そのものが単なる居眠り坐であってはならない。静坐のうちに力動的な因素を含んでいてこそ、静坐者の生活に精力的なおもむきが出てくるのである。軽はずみや盲(めくら)滅法ではなく、調和があって力強く、挫折(ざせつ)することのない活動こそ、静坐者の生活内容でなければならない。静中の動があって、はじめて動中の静は生まれるというものである。》
「ココロのドアをしめる」とは、私が先に「切れ」と言ったことに相当します。静坐者には日常生活からの「切れ」が求められます。しかし「ココロのドア」をしめることができない理由は、単に忙しさだけではありません。もっと根本的な問題として、人の罪障感や、負債(負い目)の意識があります。その意識が瞑想に入ることを妨げます。だから禅などでも、初めに「懺悔滅罪」の行がなされます。しかし、その問題に入り込むことは、別の大きな問題を呼び込んでしまうことになります。ここでは、人間の罪責をも包む大いなる者の憐みに信頼して、人は初めて瞑想の境地に入ることができるのだということを述べるにとどめたいと思います。