閑老人のつぶやき 時事について
教育基本法の「改正」案は今国会で上程されるかもしれません。それに反対する立場から、私なりにその問題点を考えてみました。
1.国家の基本法(日本国憲法と教育基本法)を変えようとする「権力」側の意図
根本的に押さえておかなければならない点は、現行憲法と教育基本法の前提としてある、主権在民(人民主権の原理)とそれに伴うべき人民の自己教育権という思想であるであると思われます。そのような観点に立つとき、国家の教育権、言い換えれば教育の強制・押し付け…例、日の丸・君が代問題、教科書検定(特に歴史教育)…は何によって正当化されるでしょうか。まさにその点に「改正」の根本的な意図が潜んでいるのではないでしょうか。
国益、国民意識(国家は一蓮托生の運命共同体である)が強調されています。それが教育基本法「改正」の主眼である「愛国心」の中身ではないでしょうか。しかし過去の歴史的事実(たとえば「侵略」か「進出」かといったことなど)はその観点からのみ取り上げられ、解釈されるべきものなのでしょうか。その点に関して国家の構成員(すなわち「国民」)はすべて同じ考えを持たなければならないのでしょうか。国益とは事実上一体誰の利益のことなのでしょうか。
また近年は、犯罪の多発を理由に(事実として犯罪件数が増えているか否かということとは無関係に)、治安に名を借りた隣組の復活(地域の監視体制の強化、いわゆる監視社会化)が進行しているように思われます。そのような動きは排外主義や差別を煽る傾向、すなわち上記の「国民意識」の強調に結びつく危険性があるのではないでしょうか。その体制に順応しない者は「非国民」扱いされかねないのではないでしょうか。
東京都や杉並区の教育委員会の例に見られるように、入学式や卒業式などで国旗の掲揚や国歌の起立斉唱を義務づけたり、扶桑社版の「新しい歴史教科書」を採択するなど、「反動的」な動きは現実に次第に強まりつつあるように思われます。
しかし同時に学校選択制、学区の撤廃などに見られるように、公教育への市場原理の導入が進められ、また学校管理のために企業と同様の目標管理の手法が取り入れられたりしています。国家主義的な教育(愛国心の強調)とそれとが同時に推進されている現状をいかに認識すべきでしょうか。いわゆる新自由主義と新国家主義との同時進行の問題がそこに見られるのではないでしょうか。
現実には学校間格差が拡大し、選別教育がなお一層推進されているように思われます。教育面でも「格差社会」が歴然と現われているのに、いや、だからこそ、愛国心で国民を統一しよう(締め上げよう)というのでしょうか。
2.三権(権威・権利・権力)の人民からの遊離
三権分立の三権は立法、司法、行政のことです。しかし権威・権利・権力のもう一つの「三権」について考えてみたいと思います。
戦前には、権威は天皇に、権力は為政者に、権利は資本家にあるという国家の体制が存在していました。それは天皇制ファシズムなどと言われてきました。しかし今日の憲法と教育基本法を「改正」しようとする動きは、もう一度そのような体制を復活させ、「三権」の人民からの遊離を企図するものなのではないでしょうか。民主主義が根底から破壊される危険があるのではないでしょうか。
柄谷行人という評論家は『倫理21』(平凡社)という本で、「世界市民的に考えることこそパブリックである」と書いています。言い換えれば、人民に国境はない(民草に垣根なし)ということだと思います。
しかし今日の動きは逆に「公共性は国家に収斂する」という国家主義的な思想を煽る傾向にあります。民主主義的な考えを貫くためには、「世界市民的」な観点に立って、そのような国家主義的な公共の捉え方(滅私奉公の思想)と対決する必要があるのではないでしょうか。
4月8日の地方選が終了して暫くしてから、神奈川県議選で残念ながら落選した立候補者のIさんが拙宅に訪ねて来られました。Iさんは学生時代、学生YMCAの「ミリアム」という女性のグループに属していて、そこから大きな影響を受けた人です。そんな関係で私も応援していたのですが、現実の厳しさを思い知らされることになりました。
そのとき、なんで石原が都知事に三選されてしまったのだろうというようなことも話題になりました。Iさんは「パッチワークをすればわかることなのに」と言いました。私も「みんながそれをやらないところに問題がある」と答えました。ババー発言から三国人発言に至る暴言の数々、東京都教委の暴走、税金の私物化、気ままな登庁時間など、個々の情報は断片的であっても、それをつなぎ合わせていけば、そこに石原という公的人物の姿が浮び上がってきます。情報のパッチワークを行えば、そこにある図柄が浮かんできます。それを歴史的過去、あるいは戦前の事例を参照しつつ判断すれば、石原が都知事として好ましい人物であるか否かは誰にでもわかるはずのことです。しかし、都知事選で投票した人たちの半数以上はそのような判断を行いませんでした。その人たちも自分なりにパッチワークは行っているのですが、その頭に浮かんできた像は、候補者の中で一番実行力があり、頼りになりそうだといったものだったように思われます。三国人発言や都教委の実態などは初めから問題にされていません。
マイケル・ポラニーはある本で、同じレントゲン写真でも、医学生が見るとぼんやりした映像に過ぎない、しかしベテランの医師が見ると、病巣がどこにあるかをはっきりと認識することができる、という例を持ち出していました。だからパッチワークを行うにしても、そこにはそれなりの訓練が必要とされるということなのかも知れません。
石原を支持する人たちから見れば、石原を危険視する者たちこそ、偏った情報に基づいて、歪んだ像をつくり上げてしまっていると言うでしょう。その人たちは都の防災訓練に自衛隊ばかりか、アメリカ軍が加わっていても、何ら問題にするに足りないと思っているのでしょう。そうして見ると、パッチワークを行わないということが問題なのではなく、それが自分の立場に染め上げられてしまっているというところにも問題がありそうです。
煎じ詰めていくと、お上(国、地方自治体など)のやることに間違いはない、それを批判する者たちこそ、偏っていて危険である、政治に期待することは自分たちの暮らしむきがよくなることであって、それ以外のことは本質的な問題ではないという、多くの有権者の「体制依存的な」姿が浮かんでくるのではないでしょうか。その壁は大変大きくて、簡単には乗り越えられそうにありません。自分は勝ち馬に乗っていたい、または大勢には逆らえないという「保守的」な意識が自公政権を支えているのでしょう。
石原は当選後「都民の良識が信頼できるものであることを知った」と言いました。しかし別の人たちは都民の「民度」はその程度のものなのかと失望落胆しました。結果として、国政は勢いづき、憲法改正のための「国民投票法案」が衆院を通過しました。
再びポラニーを引合いに出せば、彼は焦点的意識と従属的意識と言いました。ネット裏で野球を観戦しているとき、試合に気を取られているときには、「ネット」は視野に入ってはいても意識されません。しかしネットそのものに注目すると、今度は試合が視野から遠ざかります。何を焦点とするかによって視野ががらりと変わります。暮らしむきがよくなることだけが問題であるとき、その他の政治的問題は背景に退きます。そのときには短絡的な判断が働いて、「暮らし」を全体の中に位置づけることができなくなります。つまり試合を見ないで、ネットを見ているようなものではないでしょうか。
家にいても、電車に乗っていても、単にそこにいるだけでは、日本の政治は今どうなっているかということは何も感じ取れないでしょう。私たちが政治について判断するのは情報に囲まれているからこそできることであって、しかもその情報は錯綜しています。その中で自分なりに「パッチワーク」を行わなくてはなりません。そのとき、どこに問題の焦点があるのか、それは自分の立場とどう関わるのか、その問題にどう関わったらよいのか、問題を共有できる仲間はどこにいるのかといったことが、次々と問われてくるでしょう。それを政治教育のプロセスと言ってよければ、メディアに触れる以外に、我々「庶民」の身のまわりにはその機会が少なすぎます。政治というと直ぐに「政党・党派」が顔を出します。あるいはマスコミへの露出度だけが判断の基準となりがちです。
選挙戦の敗北という結果を踏まえて、我々が反省し追求しなければならないのは、政治が生活から遊離した現状にあって、草の根から政治教育のプログラムを立て直してゆくことであるように思われます。人々が情報のパッチワークを行うに際してそれを介助する働きは、必ずしも政党の仕事ではありません。
その機会が少なすぎるということは、やりようによってはいくらでも仕事が増えていくということでもあります。政党(組織)、あるいは従来の政治スタイルという殻から発想するのではなく、issue-orientedな、すなわち問題に方向づけられた学習機会を提供するところに、今日の政治的組織の課題があるのではないでしょうか。そしてそれは自分たちの立場を問い直す機会ともなるのではないでしょうか。
参院選に勝利した小沢民主党がテロ特措法の延長に反対しています。ある民放の解説者は、外交を政局に利用するものであると批判していました。日米同盟が日本の不変の外交政策であり、それに異を唱えることは、たとえ野党であっても許されないという判断が働いているのでしょう。政治においては政局に流されれば機会主義(オポチュニズム)であると批判され、政策の一貫性に固執すれば原理主義、教条主義であると言われます。すなわち政局とは変転する政治的状況のことであり、政策とは原理原則に基づく行動計画(綱領)のことを指しています。もし日米同盟(現実的には日本の対米従属路線)が日本の政治の原理原則であって、政局の如何に拘らず遵守すべきことであるなら、アメリカの要求通り憲法を改正し、戦争ができる普通の国家になることが、一刻も早く実現されなければならないこととなるでしょう。そしてもし日本がこのアメリカの期待に背くならば、アメリカは非情冷酷な国家であって、どんな仕返しをされるかわかりません。つまりそれは日本の国益を損なうことになります。
日米同盟を日本の外交政策の基本に据えざるを得ないということが、日本の戦後の政治を大きく規定してきました。たとえアメリカの住宅バブルが崩壊し、アメリカ経済がさらに悪化する危機を迎えたとしても、日本はそのアメリカと心中すべきであって、それ以外に選択肢はないと考えられているのであれば、日本は自発的に属国化を進める稀有な国家であって、アメリカにとってこれほど都合のよい国はないでしょう。それは自分の国の政策を放棄して、ひたすらアメリカに従属することを唯一の国是とすることを意味しています。つまり日本には独立心の一片もないということを意味しています。
沖縄問題も、基地問題も、米軍への「思いやり予算」も、すべて、アメリカから独立することが一度もなかった敗戦後の日本の姿を映し出しています。そして日本の国民が汗水流して稼ぎ出した財産は、今や、アメリカ資本にいいように吸い取られる仕組みが出来上がりつつあります。郵政民営化はその一例に過ぎません。
日本の指導者には、戦争に負けるとはそういうことなのだという諦めが働いているのかも知れません。そしてその中で自分の利得を確保することが唯一の選択肢であると見なされているのかも知れません。その制約の中で日本の軍国主義化を進め、あわよくばアメリカからの独立を勝ち取ろうと考えているのかも知れません。
しかし現在の政局を単にそのようなものとしてだけ理解することは、あまりにも想像力が欠けていると言うべきではないでしょうか。平和憲法を遵守し、それを梃子にして日本の独立をはかり、アジア諸国との友好関係を促進するというもう一つの選択肢もあるのではないでしょうか。そのためには日米安保条約を破棄し、それに代わって、新たに日米平和条約を締結することが目指されなくてはならないでしょう。テロ特措法を延長せず、またイラクへの自衛隊派遣も取りやめるということは、そのような「平和的独立」への第一歩であると考えることもできるのではないでしょうか。
その選択ははたして日本の経済に壊滅的な打撃を与えるものなのでしょうか。アメリカに歩調を合わせ、日本の軍国主義化を進めることだけが、日本の経済的発展を約束するのでしょうか。参院選における民主党の勝利という政局の変化の中で、政策に何が求められるべきかを考えるとき、政治の隠された唯一の争点は、日本の「軍事的独立」か、あるいは「平和的独立」か、ということなのではないでしょうか。
過去の日本は西欧からの「軍事的独立」を目指して失敗しました。その道をもう一度行くことはあまりにも危険です。政策の「軍事的合理性」ではなく、高次の現実主義としての「平和的合理性」を追求するところに、今日の日本の真の政策的課題があると言うべきでしょう(水島朝穂『憲法「私」論』、小学館、2006年参照)。
オルタナティブ・メーリング・リスト(AML)に攝津正氏から以下の注目すべき情報が転送されてきました。新自由主義化、労働法制の規制緩和が進行しつつあるこの社会で、労働者が生存のために自衛する方途としての「生産者協同組合」に関心の目が向くのは、いわば必然的です。それは既に19世紀の半ば、マルクスの生存中に、イギリスにおいて見られたものですが、その流れは以後も連綿として続いてきました。個々の動きとしては、特定非営利活動法人「もやい」のような職のない人たちの連帯の試みが現になされています。このような運動が進展することに私は期待を掛けています。
以下、転載歓迎いたします。
> 日本労働者協同組合連合会の鈴木剛です。 以下、2点のお願いです。
>
@この間の政治情勢の変化を受けて攻勢をかけ、9月15日(土)に下記の集会を行います。ぜひ参加をお願い致します。
> ☆「協同労働の協同組合」法制化を求める9.15市民集会
> 〜市民が担う新しい公共づくりを支える
> 「協同労働」を社会の財産に〜
> ■日時 2007年9月15日(土)午後1時30分〜5時
> ■会場 東京流通センター第一展示場Cホール
> 東京モノレール「流通センター」駅下車
> ■申し込み方法
> 以下のリンク先(集会チラシPDF)の「参加申込書」を印刷し、申込み先までFAXをお送りください。 http://www.roukyou.gr.jp/18_event/2007/img/070915roukyou.pdf
> ■主催「協同労働の協同組合」法制化をめざす市民会議
> ■共催
> 日本労働者協同組合連合会
> ワーカーズコープ・センター事業団
> ワーカーズ・コレクティブ ネットワーク ジャパン
> 協同総合研究所
> 日本高齢者生活協同組合連合会
>
A同法案は議員立法での制定を目指しています。来年5月の国会での上程に向けて、あらゆる団体からの賛同署名をいただきたいと考えています。みなさんの所属団体の署名を検討お願い致します。町内会でも個人商店でも任意団体でも団体なら何でも歓迎です。
> 署名用紙は持参するなり郵送いたします。
> 私のメアド szktks at roukyou.gr.jp まで連絡お願い致します。
>
☆「協同労働の協同組合法」の速やかなる制定を求める請願賛同団体署名のお願い
> 請願者代表
> 「協同労働の協同組合」法制化をめざす市民会議
> (略称:協同労働法制化市民会議)
> 会長 笹森清(労働者福祉中央協議会会長)
> 〒171-0014 東京都豊島区池袋3-1-2 光文社ビル6F
> Tel:03-6907-8040 Fax:03-6907-8041
>
請願賛同団体署名へのご協力のお願い
> 御中
> 尊厳ある人間らしい働き方と、連帯協同する地域社会の発展を求めご活躍の各位に、深甚なる敬意を表します。
> 私たちは、労働の人間化と地域の人間的再生の鍵となる「協同労働の協同組合法」の制定に向けた運動に取り組んでいます。このたび、以下に記す請願書の趣旨で、「協同労働の協同組合法」の速やかなる制定を要請するために、請願賛同団体署名運動に取り組み始めました。
> 各位におかれまして、私どもの趣意をご理解いただき、 ご賛同を賜ると共に、本要請を関係者等にご紹介いただくなど、ご支援の輪を積極的に広げていただけるよう、ご協力をお願いする次第です。 2007年7月
>
■発起団体
> *協同労働法制化市民会議
> (取り纏め団体)
> 会長 笹森 清
> *協同労働法制化関西市民会議 (同上)
> 代表 津田直則
> *ワーカーズ・コレクティブ ネットワーク ジャパン
> 代表 藤木千草
> *労働者福祉中央協議会
> 会長 笹森 清
> *日本労働者協同組合連合会
> 理事長 古谷直道
> *日本労働者協同組合連合会センター事業団
> 理事長 永戸祐三
> *日本高齢者生活協同組合連合会
会長理事 兵藤 一
> *特定非営利活動法人.協同総合研究所
> 理事長 菅野正純
>
■発起人
> ・池上 惇 京都大学名誉教授
> ・上村 一 居住福祉推進機構理事長
> ・川村 耕太郎 東京商工会議所元常務理事
> ・鎌田 實 諏訪中央病院名誉院長
> ・鴨 桃代 JCUF 全国ユニオン会長
> ・古賀 伸明 日本労働組合総連合会 (連合) 事務局長
> ・竹内 孝仁 国際医療福祉大学 大学院教授
> ・田中 尚輝 NPO法人市民福祉団体全国協議会専務理事
> ・中川 雄一郎 明治大学教授、日本協同組合学会元会長
> ・中嶋 滋 ILO (労働側) 理事
> ・早川 和男 日本居住福祉学会会長
> ・播磨 靖夫 (財)たんぽぽの家理事長
> ・広井 良典 千葉大学教授
> ・福嶋 浩彦 前我孫子市長
> ・堀内 光子 前ILO駐日代表
> ・松井 亮輔 法政大学現代福祉学部教授
> ・三澤 了 DPI(障害者インターナショナル)日本会議議長
> ・村上 智彦 医療法人財団 夕張希望の杜理事長
> ・横川 洋 九州大学教授、日本協同組合学会会長
> ・横田 安宏 高齢社会NGO連携協議会 (高連協)理事
> ・鷲尾 悦也 (財)全国勤労者福祉共済振興協会理事長(元「連合」会長)
>
■請願の理由
> 出資・労働・経営を一体化した働き方、協同労働は、立法事実となっています。
> 日本における労働者協同組合(ワーカーズコープ)、 ワーカーズ・コレクティブ等の事業は、協同労働に基づくものです。コミュニティ事業に従事する団体も、法人格の存否や種別を超えて協同労働に親しむ働き方をしています。就労を通じて社会的自立、参加をのぞむ障害者および障害者を支援する団体でも、協同労働への共感と期待が広がっています。推定で10万名に達する協同労働のこうした社会的ひろがりは、この働き方が、雇用関係を前提したのでは働く機会を確保できない「社会的に不利な立場にある人々」や、他人に雇われる働き方ではなく自立した働き方を求める人びとに、就労機会および自立の場を提供するものであることを証明するものです。
> 協同労働の協同組合は、労働者協同組合から発展した 新タイプの協同組合です。
> わが国で、協同労働という働き方がマスコミ・行政により注目され始めたのは、ここ10年ほどです。しかし、G7各国はじめ欧州諸国では、協同労働の協同組合の設立根拠法が整備されており、150年の歴史を有しています。
> その法的名称は「労働者協同組合」(アメリカ、カナダ)、「生産労働者協同組合」(フランス)、「生産組合」(ドイツ)など、さまざまです。
> これらの組合は、元来は労働者のみを組合員とするもの(労働者協同組合)でした。ところが、G7各国で、前世紀90年代に働く組合員・利用組合員・自治体を含めた出資者も組合員とする、新しいタイプの協同労働の協同組合が登場してきます。それは、社会的協同組合(イタリア、1991法)、地域利益協同組合(フランス、カナダ、スカンディナビィア諸国、2001法、ドイツ、2006年法)と称される地域的連帯を本旨とし、地域の再活性化をめざす協同組合です。
> 私たちの働き方も、伝統的な労働者協同組合から発展したもので、この新しいタイプの協同組合においてもっともなじむものです。
>
協同労働の協同組合、その4つの要件
> 第一は、設立目的要件です。それは、人々が協同労働の仕組みにより、人たるに値する健康で文化的な生活を確保し、かつ、地域社会での福祉を充実させるために、自発的に就労の機会を創出し拡大するというもので、この組合のアイデンティティにあたります。働く意思のある組合員が、協同で出資し、労働し、経営も管理するこの組合は、市民が共同購入事業を目的として創る生活協同組合法人の設立目的要件や、社会貢献活動を主とするNPO法人のそれと異なります。
> 第二は、運営・管理要件です。
> それは、出資・労働・管理を一体化した働き方を国際的に認められた協同組合原則に則り保障し、併せて「組合員の社会的および文化的関心」(フランス協同法、ドイツ協同組合法)を組合が促進するというもので、この組合のアイデンティティを促進する要件です。
> これは、「組合員への最大奉仕」という伝統的な協同組合観念の限界を超えるもので、員外の理事・監事制度は、この組合では最初から予定されています。
> 第三は、組合員要件です。
> 組合員は、主として働く者から構成され、働く者は原則として組合員でなければならないというものです。このほかに、利用のみの組合員、地域に必要な事業を起し振興するために事業目的に賛同する市民、市民団体および地方自治体も出資組合員となることができる、としています。
> こういった多様な組合員制度は、既存の協同組合法で予定されず、この組合の地域連帯的性格を証し立てるものです。働く組合員についての原則は、企業組合法人における組合員原則と本質的に相容れません。
> 第四は、社会目的を使途とする不分割積立金の管理・ 運用要件です。
> 地域社会の住民 (非組合員) による就労機会の拡大、そのための教育研修、仕事おこし支援および地域福祉事業所の設立など、福祉の向上を目的にして剰余の一部を不分割とし、助成金として拠出し、または不分割積立金に繰り入れ、管理し運用する基金の設定を予定するものです。これは、非営利性を積極的に担保する剰余処分の仕方であり、この組合の社会連帯的性格を明白にあらわすものです。
>
「協同労働の協同組合」法・要綱案
> 上記の要件を支える協同組合社団の仕組みを設計したものが「要綱」案です。
> 総会をもって最高議決機関とし、総会で理事及び監事を選出し、代表理事の執行を監督する理事会など、一般に協同組合社団に要求される諸規定のほか、認証による設立、外部理事・監事を予定する現代的管理の仕組み、解散に際する残余財産の他団体への譲渡などを掲げています。
> 協同労働の協同組合法は、地域で連帯協同の関係を促進する効果をもつものです。
> 既存の協同組合法によったのでは、上述した組合要件は充たされず、またこの組合の本旨を体する団体を設立することができません。
> 自治体の連鎖倒産の危惧される今日、行政サービスにかわるサービス提供を、市民が就労の機会として自発的に活用するだけではなく、その事業を通じ、地域で住民と住民の協同の関係を積極的に促進することが求められています。
>表記の法律の速やかなる制定により、この組合に法人格を与え、組合員と組合員の協同、組合員と利用者との協同、組合員と地域の人々との協同に立脚するこの組合を、地域振興の仕組みとして法認されんことを要望する次第です。
>
衆議院議長 殿
>「協同労働の協同組合法」の速やかなる制定を求めます。
> 2007年 月 日
> 住 所
> 電話番号
> 団 体 名
> 代表者職.氏名 (押印)
> この署名は、表記の国会請願以外に使用いたしません。
>
参議院議長 殿
>「協同労働の協同組合法」の速やかなる制定を求めます。
> 2007年 月 日
> 住 所
> 電話番号
> 団 体 名
> 代表職.氏名 (押印)
> この署名は、表記の国会請願以外に使用いたしません。
> 以上
2007年9月15日、東京流通センター第一展示場Aホールで行われた、「協同労働の協同組合」法制化を求める9・15市民集会に参加してきました。午後1時半から5時までのやや長い集会でした。主催した「協同労働の協同組合」法制化をめざす市民会議は2000年11月に設立された団体で、集会では先ず2007年7月から市民会議会長の職にある笹森清さん(労働者福祉中央協議会会長)の開会挨拶がありました(なお市民会議初代会長は大内力氏)。千葉県知事堂本暁子さんによる「市民が主役の地域再生と新しい公共づくり〜「新たな公」への千葉からの挑戦〜」と題する記念講演がありました。市民が主役となる分権型社会の構築、中央集権から地方主権へという、地方自治に関する「千葉方式」に基づく力強い訴えがありました。また各方面から「協同労働の協同組合」法を求める声が寄せられ、9人の人たちがそれぞれの現場を踏まえた切実な要求を語りました。その中ではグッドウィルユニオン執行委員長の梶谷大輔さんの派遣労働の実態についての訴え、障害者インターナショナル日本会議議長の三澤了さんの障害者自立支援法についての批判などが印象に残りました。(ワーカーズコープ/労協)センター事業団FUSSA地域福祉事業所の山口由希子さんの、児童館に来る、不登校・「不帰宅」の中学生の実態についての話は深刻で、日本の社会がそこまで壊れているのかという感慨を持ちました。
この「協同労働の協同組合」法制化をめざす市民会議は、事務局長の古村伸宏さんの話では、日本労働者協同組合連合会(ワーカーズコープ)の流れと、生活クラブ生協から生れてきたワーカーズ・コレクティブの流れが合流し、それに他の運動が加わって結成されたもので、この間各方面に法制化の働きかけを行ってきました。今回の市民集会はこの運動が現今の政治的変化の中で愈々キックオフの時を迎えたことを感じさせるもので、参加者の数も今までになく多く、全国から1,000人に及ぶ人たちが参集しました。市民会議はこの先2年以内に法制化を実現する目標を立てています。
●「協同労働の協同組合」法制化を求める9・15市民集会 宣言
協同労働の協同組合法の中身については、既に転送されてきた資料の中に「請願の理由」が述べられています。そこで先ずこの日採択された宣言を以下に紹介したいと思います。ここに法制化の運動の基本的な思想が語られています。
「今日ここに集まった私たちは、働く意思のある人々が協同で出資し、共に働き、経営にも主体的に参加する「協同労働の協同組合」の法律が、一刻も早く制定されるよう強く訴えるものです。
私たちの国では、まともに働く機会が得られない人や、働いても働いても生活保護水準以下の生活を余儀なくされているワーキング・プアと呼ばれる人々、また電話一本で日々働く場を転々とせざるを得ない日雇い派遣労働など、「働く」事が虐げられ、軽んじられています。協同労働の協同組合は、人たるに値する働き方、ディーセント・ワークを実現し、社会をよりよくしようとする市民の主体性・自発性を基礎に、人と人との結びつきを強めながら、仕事をおこし地域をつくる「新しい働き方」です。
多様な働き方という言葉は、有期契約労働、パートタイム労働、派遣労働、日雇いアルバイトといった、明日の生活設計ができず、働く機会が一方的に打ち切られる不安定な働き方にゆがめられて広がっています。こうした不安定な働き方に従事せざるを得ない労働者は、労働者総数の35%、1,700万人にも達し、その8割は年収200万円以下のワーキング・プアである言われています。こうした人々は、社会保障を受ける権利も脅かされ、健康で文化的な最低限度の生活すら保障されていません。多様な働き方とは、多くの低所得層を生み出し、固定化し、明日という言葉から輝きを奪い去っています。格差と貧困が固定化され、労働が商品化され使い捨てられる時代の真只中に、私たちは生きています。
労働とは、人が生きていくための条件をつくり出す仕事を通じ、自然の息吹を感じ、対話し、人と人とがつながりを深めていく、コミュニケーションの手段です。労働を通じて、人と人との持続可能な社会関係や、自然と人間との年々歳々繰り返される再生可能な関係がつくられ、人間が生涯にわたって成長・発達するに不可欠な営みを得ています。しかし今、労働の価値は軽んじられ、ひたすら使い捨てと商品化の傾向を強めています。労働の人間的・社会的価値の軽視・無視は、自然環境を破壊する愚弄も伴いながら、人間存在そのものを脅かしています。
こうした時代にあって、全ての人が人間らしい生活を営むための必要を充たす働き方を求め、仲間と資本を持ち寄り、力を合わせて働き経営もするしくみを通じ、社会参加する権利が保障されるべきです。協同労働の協同組合の法制化は、新しい枠組みで働く権利を保障することで、脅かされえいる基本的人権や生存権を、市民の自発的な労働の営みを通じて守り高める役割を担うものです。
働いても明日の生活すら見通せない条件の下では、人と人の豊かな社会関係は成り立ちません。それは、人間が人間として生きていく社会の破壊でもあります。より良い労働条件を求めて、人と人が生き残りをかけて相互に反目し、孤立し、排除する姿は、格差と貧困を一層深刻化し、社会の混迷を生み出します。私たちは、国会議員のみなさんと立法を責務とするみなさんが、労働を巡るこうした惨状を直視し、社会再生の政策実行と制度化の重要な課題として、「協同労働の協同組合」の法制定実現の決意を固めて頂けるよう、強く訴えます。
全ての人が、働くことを通じて成長・発達し、働くことを通じて人と社会とつながり、社会連帯と協同の文化を根づかせる主体者となっていく道。その実現をめざす「新しい働き方」=協同労働を、社会の共有財産として法制度化し普遍化する運動を、全国の隅々に、法制化の時を展望して。
2007年9月15日」
●「協同労働の協同組合」とは
当日配布された『人と人のつながりを取り戻し、コミュニティの再生をめざす「新しい働き方」――「協同労働の協同組合」法制化を求めて―― 2007夏』という色刷りのパンフレットには、MAIN POINT(骨子)として、約30年間、協同労働を追求してきた「日本労働者協同組合連合会」の定めている自己規定が掲げられています。
協同労働の協同組合とは 定義/DEFINITION
働く人びと・市民が、みんなで出資し、民主的に経営し、責任を分かちあって、人と地域に役立つ仕事をおこす協同組合で、「協同労働」とは、働く人どうしが協同し、利用する人と協同し、地域に協同を広げる労働です。
協同労働の協同組合がめざすもの 使命/MISSION
1. 人のいのちとくらし、人間らしい労働を、最高の価値とします。
2. 協同労働を通じて「よい仕事」を実現します。
3. 働く人びと・市民が主人公となる「新しい事業体」をつくります。
4. すべての人びとが協同し、共に生きる「新しい福祉社会」を築きます。
協同の労働・経営・運動のための指針 原則/PRINCIPLE
第1原則 働く人びと・市民が、仕事をおこし、よい仕事を発展させます。
第2原則 すべての組合員の参加で経営を進め、発展させます。
第3原則 「まちづくり」の事業と活動を発展させます。
第4原則 「自立と協同と愛」の人間に成長し、協同の文化を広げます。
第5原則 地域・全国で連帯し、協同労働の協同組合を強めます。
第6原則 「非営利・協同」のネットワークを広げます。
第7原則 世界の人びとと連帯して「共生と協同」の社会をめざします。
全組合員経営・コミットメント経営 経営理念/MANAGEMENT CONCEPT
全組合員経営とは、出資し、自ら主人公として成長していこうとする組合員の努力を基本に、事業所において、情報の共有、話し合い、よい仕事、健全経営、仕事の拡大など、一つひとつの取り組みを着実に発展させながら、自治能力を高め、事業所が全面的に発展していく経営戦略です。
このページに図解と共に以下のことが示されています。
労働者協同組合・ワーカーズコープは、〔出資〕〔労働〕〔経営〕を、組合員全員が三位一体のものとして担い合う、日本で唯一の協同組合です。
労働者協同組合/ワーカーズコープ=@労働・A経営・B出資
「3つの協同」が、私たちがめざす日常活動の基本です。
地域再生と市民自治・社会連帯の創造=@利用者・家族との協同・A地域との協同・B働く者どうしの協同
〔主な事業内容〕
以下のような事業内容が挙げられています。
・介護・福祉関連 ・協同組合間提携 ・弁当配食サービス ・廃棄物処理 ・総合建物管理 ・食・農関連 ・販売・売店 ・建設・土木関連 ・環境緑化リサイクル ・運輸・交通関連 ・講座関連 ・出版・映画関連 ・産消連帯関連
●既存の法人のしくみとの比較と不都合
上の資料の別のページに、生協・企業組合・NPOという既存の法人のしくみが示され、それらが協同労働の協同組合の働きにとって不都合であることが指摘されます。
協同労働の協同組合の目的
この法律は、市民が協同労働による事業を行なうための組織に対し法律上の能力を与えること等により、市民による自発的な就労の場の創出活動を推進し、併せてこれらの者による地域社会の発展に貢献する活動の促進を図り、もって国民経済の発展と国民生活の安定に寄与することを目的とする。(「要綱案」第一 総則、一 目的)
生協・企業組合・NPOの目的
生 協 「国民の自発的な生活協同組合組織の発達を図り……もって国民生活の安定と生活文化の向上を期することを目的とする」(消費生活協同組合法第1条)
企業組合 「中小規模の商業、工業、鉱業、運送業、サービス業その他の事業を行なう者、勤労者その他の者が相互扶助の精神に基づき協同して事業を行なう……これらの者の公正な経済活動の機会を確保し……もって自主的な経済活動を促進し……経済的地位の向上を図ることを目的とする」(中小企業等協同組合法第1条)
N P O 「特定非営利活動を行なう団体に法人格を付与すること等により、ボランティア活動としての特定非営利活動の健全な発展を促進し、もって公益の増進に寄与することを目的とする」(特定非営利活動促進法第1条)
企業組合法人との相違
企業組合法人は、「他人に雇用されない」組合員の協同事業組織です。しかし、「他人を雇用する」ことによって組合員が資本を蓄積し、経営のノウハウをつちかう仕組として役立ってきました。営利企業のしくみの上に協同組合のしくみが上乗せされたもので、これは、組合の事業に参加する人々の「労働を通じて力を共に発揮する」しくみにはなりません。
「NPO」法人との相違
現行の「NPO」法人は、構成員の様々なニーズを実現するものではなく、社会貢献を目的としています。また、非営利活動が中心であり協同事業組織のしくみとしては不十分です。協同労働は労働を通じて社会参加し、地域社会が必要とするニーズを充たす事業活動のしくみです。社会貢献活動としてそれを行なうものではありません。
「一般社団法人及び一般財団法人」との相違
公益法人制度改革関連法案が成立しました。これを非営利基本法として意義づけることができれば、協同労働の協同組合を、非営利の協同事業組織として、その個別法で設計することが可能であるかに思われます。
ところが、各種の公益事業法人に関する法律を一括しただけのもので基本法にはあたりませんし、不特定多数の者の利益を実現するという公益の範囲内で非営利性を意味づけただけです。これでは、新旧の協同組合のしくみと相容れません。また、働く者が事業経営を行なうしくみとも無縁です。
市民性・事業性・社会性を重ね合わせた制度
協同労働の協同組合は、地域社会の利益・組合員の利益・就労の創出を基本とします。働きたい、働かなければならない人々にとって、その所得を形成することは当たり前の暮らしの条件であり、社会参加の前提です。無業者、障害者、高齢者、女性など「社会的に不利な立場に置かれている人々」にとって、積極的に社会に参加するためにも、普通に働き所得を得ることは大事なことです。
協同で働く機会を創り上げ、普通の市民として生きるためのしくみが、この協同組合であり、ほかの法人格の市民性・事業性・社会性を重ね合わせたものといえます。
以上で、資料からの引用を終えます。
社会起業家(ソーシャル・アントレプレナー)という言葉があります。この協同労働の協同組合の構想は、いわば地域社会全般にわたって一般市民に社会的起業の「法的」能力を持たせようとする点で画期的です。協同労働を社会資本とするという斬新な思想がここにあります。資本が雇用を創出しますが、その資本を労働者自身が持ち寄り、事業の経営も組合員全体によって民主的に行なわれるということは、労使の対立が初めから存在しないということを意味しています。その仕組が法制度として認められれば、NPO法以上に今日の社会を変えてゆく動因となるであろうことは間違いありません。もしそれが制度的に定着すれば、たしかにそれは「第二次産業革命」であると言っても過言ではありません。しかしその思想は民衆の生きる権利の主張と行使の当然の帰結であるとも言えます。雇用されなければ生きていくことができないにも拘らず、その就労機会が益々限定されてきているという現実にあって、民衆自身が自ら生きていくための自助努力の主張が「協同労働の協同組合」であり、今やそれを法的制度として国に認めさせようとする運動が起こっています。そこまで「国民」が追い詰められているということでもあります。「国家」にはたしてそれを拒否する理由があるでしょうか。もしあるとすれば、それは既存の資本、既得権を持つ者の存在を脅かすという点にあるのではないでしょうか。従ってこの運動の帰趨は、国家がどこを向いて政治を行なっているのかということに掛かっているとも言えます。今日の政治家が言う通り、本当に目線を国民の上に置いて政治を行なおうとするのであれば、この運動を否定する理由はどこにもない筈です。そのような意味で、私はこの「協同労働の協同組合」法制化の運動に注目しています。
この欄で「協同労働の協同組合法」制定の運動について取り上げましたが、その後の動きに触れ、その法案に対する重要な指摘を行なう記事が、インターネット新聞「JanJan」に採り上げられていますので、それを紹介します。
http://www.news.janjan.jp/living/0809/0808315930/1.php
■ 労協法案について 「協同出資・協同経営で働く協同組合法」(労協法)制定の動きが活発化しつつあります。2000年に設立された「『協同労働の協同組合』法制化をめざす市民会議」を中心として、各地で活発に地域市民集会が実施され、また今年2月には「協同出資・協同経営で働く協同組合法を考える議員連盟」が発足しています。日本においては、農協や生協などの協同組合がその目的と根拠法に基づき法人格を持ち経営されていますが、労働者協同組合は、その根拠法を持たないことから「人格なき社団」としての経営を強いられ、あるいは便宜的にNPOや企業組合等の法人格を選択しての経営を行っているようです。 労働者協同組合は、労働者が出資金を出し合い、労働者が協同経営を行い、自ら労働に従事する、出資・経営・労働の合一した「新しい働き方」として注目を集めつつあります。筆者は労働者協同組合がその根拠法を持つことに反対するものではありませんが、市民会議の提案する法案(素案)を精査すると、法案が「労働を商品としない」との労協の本旨に相反するのではないか、ワーキングプアの新たな火種となりかねないとの不安を禁じえません。率直なところ、学識者が労協の労働現場を知らずに起草したのではないかと感じます。 ■ 労協法案第2章第5条(従事組合員等の法的地位)における労働者性の軽視 市民会議のサイトに法案骨子および法案素案が掲示されています。労働者協同組合は、前節にて記載の通り、出資・経営・労働の合一を特徴とするものですが、市民会議による法案には、出資・経営の強調の一方での「働く人」の労働者性の軽視が見られると感じます。 法案(素案)第2章第5条「従事組合員等の法的地位」によれば、「(1) 雇用保険に関しては、従事組合員を(中略)同法を適用 するものとし、労働者災害保険法に関しては(中略)同法を適用するものとすること」とされ、ここにおいてはその他の、労働基準法をはじめとする労働法は一切その埒外とされています。 法案骨子の「従事組合員の労働者性」を読むと、「『ワーカーズ協同組合』法人は、『バランスを持った人間らしい働き方』を理念としており、その最低保障のため、組合法人を<使用者>、従事組合員を<労働者>として、法の保護下におきます」とあります。「最低保証のため」に「法の保護下にお」くということにご注目願いたく思います。つまり、労協法案における「労働者」の定義は、「雇用保険法」および「労災保険法」におけるものに限定され、労働法における「労働者」としての権利は上記2法を除いて保証しないということです。労働基準法、労働組合法、労働者派遣法、最低賃金法等における労働者の権利を保証はしないとのこと。 明治大学経営学部専任講師の小関隆志氏がネット上にて労協関連論文データベースを公開されていますが、1999年の労協法案第1次案の段階においても、労協研究者から労働者保護規定が不十分との指摘がなされています。また、その一方では「(労協内において)労働組合の結成は問題ないが、団交やストはできない。団交やストを認める憲法の考え方を再検討すべき。」(上記DB記載による。『協同の発見』91号・野川忍氏)との恐るべき主張もなされています。 昨今、非正規労働者の「請負偽装派遣」「日雇い派遣」や、正規労働者の「名ばかり管理職」、あるいは「偽装個人事業主」がワーキングプアの温床として告発されていますが、そこにおいては、労働者の権利を守るものとして労働法が最大限に活用され、さらには個人事業主についてもその労働実態に応じて労働者性が認められています。労働法は、労働者を文字通り、命を繋ぐだけの「最低限の保証」から、人間的尊厳のある生活・仕事に従事できるように歴史的につくられてきたものですが、労協法案には、これに関する目配りが一切無いと考えます。 法案の指し示すところは、「バランスを持った人間らしい働き方」とは相反するものです。 ■ 労協法案第1章第8条(登記)は「偽装労協」を産み出すか? 第1章第8条を見ると、法人としての労協の設立は、既存の協同組合の認可制とは異なり、登記によるものとされています。つまり、普通の会社登記と同じ事です。これは労働者協同組合の設立を容易たらしめるものであり、「新しい働き方」としての労協の拡大には肯定的に捉えるべきと思いますが、前節にて指摘した労働者性・労働法軽視の条文案とあわせて考えるならば、「労働法の縛りのない経営を容易に設立可能である」との結論が導き出されます。 比較的容易に設立可能とされた法人格として特定非営利活動法人(NPO法人)が思いつきますが、圧倒的多数の真面目に活動をするNPOの存在の一方で、NPOを隠れ蓑にした、いわゆる「偽装NPO」の存在も告発・報道されています。また、「働き方の多様化に対応する」と称した99年「改悪」労働者派遣法が大量の非正規雇用を産み出しワーキングプアとして社会問題化していることも周知のとおりです。2000年よりの介護保険制度の導入においては、コムスン等の営利企業が介護保険市場に大量参入し、長時間労働・低賃金・利用者軽視の温床となったことも合わせて指摘したく思います。 市民会議の法案骨子および素案を読むに、これでは労協法は「雇用・被雇用の立場を超える」どころか「雇用以下の労働条件」で働く根拠法となりかねないのではないでしょうか。最悪のケースとしては「偽装労協」の発生さえ予想されるというのは考えすぎでしょうか。 ■ 労協の労働現場で何が起きているか 2003年の地方自治法の改定により指定管理制度が導入されました。労働者協同組合も、ワーカーズコープ労協センター事業団により設立されたNPOワーカーズコープによるものを中心に各地で公の施設の指定管理者として選定されています。JANJANにてもEsaman氏の記事にて報じられていますが、NPOワーカーズコープが指定管理者として選定された名古屋市の施設「なごやボランティアNPOセンター」の第2次指定管理選定においては前管理者が「到底できないような価格で提案を行い、文字通り仕事を『かっさらっていった』」とされており、労働条件の切り下げを暗示させます。指定管理の選定者である名古屋市の顔色をうかがう中で、当該NPOセンターでは、労働組合や職員に対するパワーハラスメントも行われているようです。 また、1994年には、センター事業団の生協職場への進出について全国生協労働組合連合会より、事業団の「雇用・被雇用の関係が無い」との主張について、「労働者から団結権・団交権を奪い、自発的・自主的に働かせるという、雇用者にとって都合のよい話」「内外の労働者の賃金・労働条件を抑制する」との指摘もなされています(前述の小関データベースによる) 労協内部でも「雇われ者根性の克服」と称して、労協労働者の経営者的側面を過大に強調することが行われているようです。このようなことを知るに、市民会議提案の労協法案が、このままでよいのか、との危惧を大きく抱くものです。 ■最後に 1999年に日本労働者協同組合連合会が発行の「21世紀への序曲・労働者協同組合の新たな挑戦」に中西五洲・元日本労協連理事長がよせている文章で、労協運動の問題点として「労働者協同組合を私物化する誘惑は根強いものである。この被害を受けている範囲は予想以上に広く深い。これを防ぐ最良の手だては、民主主義である」とされています。 現在の労協運動の弱点として、政府による90年代末以降の新自由主義政策に対応した形での運動ということを感じるものです。しかしながら、それと同時に、新自由主義政策のもとであくなき営利追求に走る企業に対して、労協運動が有効なオルタナティブたりえることも、筆者はまた期待するものです。 そもそも、労協運動は、労働運動の中から発生した運動であり、願わくば、労協運動が経済民主主義・労働者の権利の保障というその原点に立ち戻り、労協法にも労働者保護の観点が反映されることを望みたいと思います。 関連サイト 「協同労働の協同組合」法制化をめざす市民会議 ワーカーズコープ労協センター事業団 <労働者協同組合研究のまとめ>(明治大学経営学部専任講師・小関隆志氏による) (あわせて大原社研より公開されいている小関氏の論文も参照されたい) 関連記事: 各地で高まる市民による新しい働き方をつくる法制を求める声―「協同労働の協同組合」法制化 「協同出資・協同経営で働く協同組合法」制定へ超党派議連 『KY解雇』が発生? 名古屋市の施設の指定管理者交代のその後 労働者の味方の筈のワーカーズコープが組合つぶし? 名古屋NPOセンター |
(以下はあるところから求められて書いた「小文」です。)
今、これを書いている時(9月17日)、自民党では総裁選の「カラ騒ぎ」がまだ行なわれています。衆議院は9月24日に臨時国会が召集され、報道によれば早い時期の解散が目され、10月下旬か11月初旬にも総選挙が行なわれるであろうとの予測もあります。与党が参院選で大敗し、また総選挙による信任を経ない総理大臣が、二代続いて無責任に辞任したあと、まるで何事もなかったかのように、自民党の次期総裁戦が演出され、五人の候補者の「政策」が空念仏のように唱えられています。例によって、NHKをはじめとする「マスゴミ」がこれを大々的に報道した結果、自民党の支持率が上昇したと言われています。福田首相の思惑通りに事態が進行してきたかのように見えます。
自民・公明の与党は、物価の高騰も、後期高齢者医療制度も、年金問題も、何もかも、総裁選のカラ騒ぎとその報道によって隠蔽されることをひそかに望んでいたのでしょう。そのような「目くらまし作戦」は、野党が圧勝しても当然の状況であるにもかかわらず、それまでの自民党の劣勢をある程度は挽回したと言えます。しかしここへ来て、農水省による汚染米の食品卸売業者への横流しや農水大臣の度重なる失言、突如として報じられたアメリカのリーマン・ブラザーズの経営破綻や世界的な株安など、のんきに総裁選などをやっていられない状況が持ち上がってきました。
今後、当面する難局に現与党が正面から応えないで、このまま政治的空白が続くならば、それは当然選挙結果に反映するでしょう。しかし、我々の期待通り野党が勝った場合でも、与党の中核を担うべき民主党には、改憲論者がいたり親米派の新自由主義者がいたりして、日本の政治がこれからどうなっていくのか、はっきりした見通しがつきません。小沢一郎代表自身が、アフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)への自衛隊派遣を、雑誌『世界』で公言したこともあり、日本の将来にとって政権交代を手放しで喜んでいいものなのか、かなり不安を感じさせます。しかし、先ずは政権交代を実現して、政治に少しでも風穴をあけることが、小選挙区制下での我々選挙民の限られた選択というものでしょう。問題がその先にあるとしても、政権を長年維持する間に染み付いた、自民党支配下の「政官業の癒着」構造に亀裂を入れることは、とても大切なことであると思われます。
(以下もあるところから求められて書いた小文です。)
アメリカのサブプライムローンの破綻に発する金融危機が世界に波及し、この日本も、株安、円高の経済危機に見舞われています。規制緩和、自由競争を標榜する新自由主義の経済体制が今大きく揺らいでいます。金融機関への公的資金の注入は、これまで散々暴利をむさぼってきた一部の富裕層を税金で救済する策であるとして、アメリカ国民から強く批判されているのは象徴的です。先には、英国教会のカンタベリー大主教が「マルクスは(部分的に)正しかった」と発言して話題になりました。1929年の大恐慌以来の経済危機が到来しつつあるとも言われています。
アメリカの強大な軍事力とドルによる世界支配が、今音を立てて崩れようとしていると言っても過言ではありません。しかし我が日本は、依然として、そのアメリカの支配下にあり、インド洋における対テロ戦争のための給油活動の延長が「国際貢献」の名のもとに正当化され、その法案が今にも承認されようとしています。この期に及んでも、アメリカ経済と日本の経済は一体であり、それ以外に日本の進路はないと考えられているようにも思われます。自衛隊の海外派兵を恒久化する法案も、自民、民主両党が一致して可決する可能性すらあります。それは「国連決議」に名を借りたアメリカの戦争への更なる加担を意味する以外のものではありません。もちろん憲法違反です。
これまで私は次の総選挙での「政権交代」を望んできました。しかし現在の政局を見ると、たとえ政権交代が起こっても、「属国」日本のあり方には何の変化も見られないのではないかという、悲観的な見方が強くなってきました。本当は共産党、社民党を「包み込む」ような、平和勢力を結集する政治の「第三極」が形成されなければならないと思いますが、その展望にも甚だ心もとないものがあります。
資本主義経済の危機は戦争を伴うという20世紀の教訓は、よくよく肝に銘じられなくてはならないでしょう。アメリカの大統領選でたとえオバマガが勝利しても、幻想を抱くことはできません。彼もアメリカ民主党の大統領候補に過ぎません。アフガンでの対テロ戦争の推進やイスラエルに軸足を置いた中東政策、また日本「属国化」政策に変化があるとは考えられません。この難局に当たって、日本の平和と独立を実現する国民的指導者の出現を待望する声もありますが、それもまたはかない期待というものでしょう。
絶望の暗黒の中で希望の火が灯されるとしたら、それはどこで見出されるのでしょうか。自分の無力さをかこちながら、日々の出来事を見つめるばかりです。
民主党政権になって、基地、献金、景気の3Kが難題として突きつけられている、と指摘されています。米軍基地、企業献金、経済成長(景気)という三つの課題にどう向き合うべきであるのかということについて、新政権は必ずしも明確な政策を示しているわけではないということは、確かにその通りではないかと思われます。
これまでの自民党政権は、米軍基地の存在を極東の安全のために当然のことであるとし、世界でも異例の強大な米軍基地の存在を受け入れ、莫大な駐留経費を負担し、また財界の意向に沿う政党として、企業献金をほしいままにし、大企業を中心とする景気回復(経済成長)のみが国家の至上命題であるかのような政策を推進してきました。
3Kは旧来の政治の枠組みだったのであり、それをその通り実践するのであれば、政権が交代した意味はどこにあったのかと逆に問われることになるでしょう。従って新しい連立政権が、この問題に逢着するのは当然のことであると言えます。しかしそれに代わって、いかなる政治が行なわれるべきかについて、明確な指針を示し得ないところに、新政権の直面する困難があります。対等の日米関係、企業献金廃止、国民のための経済という題目を唱えることは容易であっても、いざそれを実現しようとなると、大きな抵抗と財政的な制約が立ちはだかってきます。特にアメリカからの独立と日本経済の立て直しという課題が、新政権に重たくのしかかっています。政権内部にも旧来の政策を維持しようと考える者たちがいることによって、さらに曖昧な側面が生じています。
ここで問題を鮮明にするために旧来の理想主義的な主張を、問いの形で言い換えてみると、@アメリカから独立し、かつ「軍隊を持たない」国家は存立可能であるか、A国家が財界と一体化して、専ら資本の増殖のために存在するあり方を変えることができるか、B成長なき経済(従って搾取なき経済)が存立し、持続することは可能か、という三つの問いが立てられます。最後のゼロ成長の経済については既に様々な議論がなされています。
このような問いを立ててみると、民主党政権の主張は明らかに「理想主義的」ではなく、だからと言って旧来の3K路線でもない、極めて曖昧な位置づけのもとにあるということが理解されてくるのではないでしょうか。問題はその曖昧さの先に何があるかということです。新政権は何を目指しているのでしょうか。
基地、献金、景気は旧来の自民党政治の特徴であって、新政権が課題として背負い込んでいるものです。景気回復という課題は別として、基地と献金については、それを撤廃する方向に向かうべきものです。しかし米軍基地のない日本の軍備という問題(場合によっては憲法改正に行き着く問題)がその先に控えています。また景気回復(経済成長)ということに関しては、資本主義そのもののやっかいな問題があります。経済成長と国民の福祉の両立を目指すケインズ主義的な経済政策が、今日なお成り立ちうるものであるか否かが問われていると言ってもよいでしょう。
米軍基地がない、企業献金が行なわれない、景気の低迷がないという目標は、それぞれが理想的な状態を指し示しています。しかし新政権の先行きは不透明です。これらの3Kは克服すべき課題であるとしても、特に基地と景気については、甚だ心もとない面があり、また企業献金については、皮肉にも小沢民主党幹事長の疑惑として取り沙汰されています。いずれにしても3Kの克服ということが、新政権の課題であるということは明らかです。日本がこのような課題を抱え込んだまま、さらに泥沼にはまり込んでいくのか、それとも打開の道が切り開かれるのかが問われています。
再び3Kの自公政権に戻ることは全く愚かな選択です。それによって、唯一の利点と考えられる、「企業」の景気がよくなるという保証すら与えられるとは思えません。しかし鳩山連立政権が現下の困難な状況にどこまで効果的に立ち向かえるかも不明です。我々「国民」としては兆しかけた希望の芽を摘むことなく、新政権の行方の、その先について自ら問い、学習し、行動してゆくべきなのでしょう。
この日本で折角政権交代が実現しても政治の世界は相変わらず混迷状態にあって、この先どういう展開が待ち受けているのか甚だ不透明なところがあります。「理想の空論 その2」で書いたように、「悪徳ペンタゴン」がこの日本を支配しているからです。そこで少しでも課題を明確にするために、五つの政治的課題を提示してみたいと思います。
@独立自衛の国家
現憲法に照らして、日本の軍備を一切放棄するということも、一つの政治的選択肢としてあるでしょう。世界平和は人類究極の理想です。しかしその前に、外国の基地が存在して、日本の軍隊(自衛隊)がその指揮下にあるような現状は異常であると捉えることが、先決問題であると思われます。独立自衛の国家という当然のことが、この日本では、敗戦以来長きにわたって阻害されてきました。日米安保条約から日米同盟へと、日米関係が深化しつつあるということは、日本の「属国化」(対米従属化)がさらに進行することを意味しています。従って、日本のアメリカからの独立ということが、第一の政治的課題として浮上してきます。恒久平和はさらにその先の課題です。
A行政審査の徹底
この間、検察・司法を含めて、日本の行政が「法治国家」の名にふさわしくない隠匿的な体質を露呈してきました。官尊民卑の風土がそれを助長してきたことは否めません。漸くその実態が暴かれつつあります。しかし、ここへ来て、その反動も目立っています。検察権力が時の政権に打撃を与えるという構図は、官僚は政治家の上にあり、官僚が国家の舵取りをしているという意識の象徴であるようにも思われます。それは明治以来の官僚制が、途絶えることなく今日まで存続してきたことを意味するでしょう。しかし国家および地方の行政は、国民によって監視されなくてはなりません。その仕組みが存在しないために、あるいは、十分に機能していないために、官僚による不正や腐敗が横行し、勝手気ままに税金が私物化され浪費されてきました。今や、行政(と司法)のあらゆる側面が審査の対象になるべきです。
B地方自治の確立
地方主権などという言い方がなされますが、この国の中央集権的な体質は強力であって、地方自治は名目化しています。国民の主権者意識はなお希薄で、ポピュリズムが影響力を発揮しやすい土壌があります。有事法制の制定以来、「安全安心まちづくり条例」なるものが各地に施行され、防災防犯に名を借りた住民の「動員」が加速しています。それは下からの国防の体制づくりであって、国旗国歌法の制定と公教育への式典の強制と並んで、国家主義的な国民統治が進行していることを示しています。しかし最近沖縄県議会は米軍基地の県内への移設に反対の決議を下しました。それこそは地方自治の試金石です。そこには国防の名のもとに外国の軍事基地を一地域の住民に強制するという矛盾が露呈しています。岩国では利益誘導という国家の策動が功を奏しましたが、沖縄の矛盾ははるかに深刻で、もはや経済的補償という旧来の政策が通用しないところまで来ています。
C組合活動の奨励
日教組の教研集会に対する右翼ならびに自民党の政治家による攻撃が端的に示すように、組合活動がまるで悪であるかのような暴力的な印象づくり許容されてきました。新政権が誕生してもその姿勢はきわめて曖昧で、依然として民主主義的な教育が危機にさらされています。一般論として言えば、組合の結成と活動は民主主義的な社会の土台の一つです。労使の対立関係、利害の相反がある限り、組合は労働者の不可避の防衛手段です。それが否定されれば労働者は使い捨ての「物」でしかありません。たとえ、雇用主が国家や地方自治体であっても、公正な雇用関係が補償されているわけではありません。国家の政策は常に正しいと無条件に前提されるのは、全体主義国家と同然の思想です。公立学校の教員は黙って上司の言うことに従えというのは、行政命令のはき違えであって、「銀行型教育」(被抑圧者の教育学参照)の強制にほかなりません。権力者が組合づくりやその活動を奨励することはないでしょう。しかしそれは労働者の当然の権利です。同様に、視野を広げて、消費者協同組合や生産者協同組合の結成と発展なども奨励されるべきでしょう。資本の利益だけがこの社会の形成原理ではありません。新政権は労使の対立を曖昧にしました。しかしそれは決して問題の解決ではなく、その先送りでしかありません。問題は伏在しています。
D情報公開の促進
この間、マスコミの報道は事実についての「客観的」な伝達を行うものではなく、多分に偏向していることが明らかになりました。コミュニケーションの偏向ということは社会的現実であって、「社会のゆがみ」のなせる業です。多くの事実が隠蔽されていて、我々は虚偽の報道に踊らされています。従って権力に情報公開を迫ることは、被統治者の重要な闘いの一部になります。戦後の日米関係史は、多くの事実が隠蔽されてきたことの好例です。社会のあらゆる側面に隠蔽された事実が山積しているに違いありません。そのような広い意味で、情報公開の促進がなされなくてはならないでしょう。マスコミが信頼できないとしたら、我々にできることはインターネットや、批判的研究・評論の活用でしょう。今や、日本では三木清が初めて言った「公共圏」を創設することが、再び新しい課題として浮び上げっています。それは隠蔽され捏造される事実を暴き出し、我々にとっての事実を発見するための、伝達経路と手段をつくり出していくことを意味するでしょう。すなわち公共圏とは情報が公開され、また討論される場であると言ってもよいでしょう。
以上、新政権が誕生して改めて浮かび上がってきた課題を列記してみました。新しい政権は過渡期の姿を示していて、旧政権の政策とここに示された課題とを併せ持っています。その曖昧さから、一挙に「だから革命が必要だ」という結論に飛躍するのではなく、漸次的に、ねばり強く、この五つの課題を追求していくことが、我々にとっての現下の政治的課題であると、私には思われます。