閑老人のつぶやき 『キリスト教の哲学的理解』について
1 その1 序文と目次
2 その2 緒論 懐疑と信仰 /第一章 宗教哲学への途(其一)
3 その3 第二章 宗教哲学への途(其二)
4 その4 絶対論理学(其一)
5 その5 絶対論理学(其二)
6 その6a 絶対論理学(其三)
8 その7a 絶対論理学(其四)
10 その8 世界観への展望
11 その9 絶対否定としての死
12 その10a 創造と審判
14 その11a 宗教的人間
16 その12 律法と預言者
17 その13a 完成と成就
19 その14a 罪の人間学
21 その15a コイノーニア
23 その16 マルチュリアの歴史論理
24 その17 〔結論〕―パウロに於ける体験の問題
中村獅雄『基督教の哲学的理解』(教文館、1938年) その1
キリスト教信仰の「圏域内」にあって、キリスト教について誠実に思索した日本人の一人に中村獅雄がいます。私はその著『基督教の哲学的理解』を知るだけで、この人については、そのほかのことを知りません。その思想が、松村克己という神学者・宗教哲学者に影響を与えたということと、この人は牧師ではなく、旧日本基督教会の信徒であったようだという記憶があるだけです(*)。その昔、この本を読んで感銘を受けました。しかしその内容はほとんど忘却の淵に沈んでいます。一度はキリスト教哲学を学ぼうと志した者として、今の時点で、もう一度それを捉え返すことは、私の前進にとっては必要な作業です。なお、キリスト教哲学の研究は、中世哲学の伝統を継承するカトリックに一般的なことであって、プロテスタントでは通例は神学か、聖書学の研究がなされます。その意味で、中村獅雄は珍しい思想家であると言うべきでしょう。
* コトバンクから中村獅雄の略歴を転載します。
1889‐1953
明治-昭和時代のキリスト教思想家。
明治22年1月22日生まれ。40年明治学院在学中に受洗する。東洋宣教会聖書学院(現東京聖書学院)にはいり伝道にあたる。のち白鳳社、仏蘭西書院を経営するが破綻(はたん)、以後はキリスト教哲学の研究につくした。昭和28年1月15日死去。63歳。東京出身。著作に「信・望・愛」「主の祈講解」など。
出典:講談社 この辞書の凡例を見る(C)Kodansha
2009
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。
この本について取り上げることは、木村敏著『時間と自己』の「書き写し」以上の時間と「紙幅」を要することになりますので、新しい項目を設けて書き続けて行こうと思います。先ずこの本に何が書かれているのかを示すために、「読者各位へ」という前書きに相当する部分を紹介し、さらに目次を掲げたいと思います。漢字、仮名遣いについては適宜、現代風に改めます。(この本には、私のホームページ・ビルダーでは入力できないような難しい漢字も多数含まれています。)なお賀川豊彦についても、いずれ項を改めて取り上げて行く予定でいます。
読者各位へ 本書著作の動機は、三年前、「聖書に於ける矛盾思想」と題する小冊子を公けにした時にまで溯ります。当時篤志の方方から、聖書の矛盾即ちパラドクスに関して種々質疑をいただき、これに対し多少とも問題の本質に触れた解答を以て酬いたいと念願するに至りました。その場合、パラドクスを論理的に基礎づける為めには、これと反対の性質をもちながら、然かもこれと同時的に働くアナロギア(比論)をも充分に説明せねばならぬことに気づいたのです。
アナロギアとパラドクスの論理こそは聖書の思想的動脈であり、福音真理の歴史的展開に於ける指導原理を闡明するものと私は信ずるのです。ところが、此種の論理は伝統論理学の圏外にあり、後者の相対的なるに対し、これは絶対性に於て作用するという特質を持ちます。依って、解説詳かならぬ憾はありますが、数章を此問題の基礎工事に費やしました。
とは申せ、この著を理屈のための理屈に捧げようとは思いません。凡ての場合、理論は福音の理解に必要にして充分な限度に止まるべきです。その点所謂宗教哲学と称えられ来った学問の基督教的意義に就いて、私は懐疑的ならざるを得ないのです。
ここに考える基督教哲学の典範は、ロマ書を中心とする偉大な思想構築の建設者である使徒パウロに先ず指を屈すべきでしょう。ヨハネ福音書やヘブル書の筆者達もまた彼と並ぶべきです。彼等は道楽や衒学気分から理論を弄ぶことはしませんでした。その態度は真剣そのものです。理性は信仰の戦の武器となさねばなりません。
右のような心もちで筆を執りましたが、その出来ばえは自分にとっても甚だ不満足で、各位の御期待に背くことになりました。切に御寛恕を請い、なおこの上叱正と示教を仰ぎ度く存じます。
昭和十三年十一月 著者
基督教の哲学的理解目次
緒 論 懐疑と信仰
第 一章 宗教哲学への途(其一)
第 二章 宗教哲学への途(其二)
第 三章 絶対論理学(其一)
第 四章 絶対論理学(其ニ)
第 五章 絶対論理学(其三)
第 六章 絶対論理学(其四)
第 七章 世界観への展望
第 八章 絶対否定としての死
第 九章 創造/クティシスと審判/クリーシス
第 十章 宗教的人間
第十一章 律法と預言者
第十二章 完成と成就
第十三章 罪の人間学
第十四章 コイノーニア
第十五章 マルチュリアの歴史理論
第十六章 〔結論〕――パウロに於ける体験の問題
以上からも察しられるように、この本の中心テーマは、聖書における「絶対論理学」としてのパラドクス(逆説)とアナロギア(比論、類比)の研究です。松村克己はこれを「根源的論理」と呼び、パラドクスよりもアナロギアに比重を置いて考察しています(『根源的論理の探究――アナロギア・イマギニスの提唱――』岩波書店、1975年)。いずれにしても、今日の研究スタイルからすれば、聖書におけるレトリック(修辞学)の用法を、パラドクスとアナロギアを中心に据えながら、個々のテキストに即して綿密に論証するという形を取るでしょう。しかし、中村獅雄はこれを「絶対論理学」としてキリスト教哲学の中心に据えて本書を執筆しました。
「絶対」という言葉はヘーゲルや西田幾多郎の哲学などで重要な位置を占めています。しかし私としては、この用語の使用はできるだけ避けるべきではないかと考えています。そこに既に著者と私の視点の移動があります。それが何を意味するかについては、このあと本書の内容を紹介しつつ、明らかにして行きたいと思います。
緒論 懐疑と信仰
緒論では27ページにわたって、懐疑と信仰、あるいは理性と信仰について縷々論じられています。しかし著者の言わんとするところは次の点にあるように思われます。
「然しながら、斯くの如く、信仰と不即不離な関係を保ち、相克のうちに一脈の霊犀相通ずるような(*)高次の理性は、習俗的に定義され来った理性、乃至は合理主義的に限界づけられて居る理性に於てその構造と機能とを見出すことは出来ない。ここに理性の意味は拡充されねばならぬ。この事は論証の進むにしたがい、その展開がおのずから瞭かにされるであろう。此処にはただ、斯様に拡充された高次元的理性は信仰の不可欠な伴侶であることの諒解を求めるに止めよう。
懐疑は信仰の疾病であると我々は教えられ来ったが、真面目な懐疑は寧ろ信仰の薬であるといわねばならぬ。信仰に対して理性の与える訓練として考えられる懐疑は、魂の健全を保障し、恩寵に生長するの途を拓くものといえよう。我々は深く疑い、深く信ずべきだ。よき懐疑は魂の種痘である。」
* 霊犀:〔李商隠の詩〕犀の角は中心に穴があって両方が通ずるから、人の意思の疎通・投合するたとえ(広辞苑)。
ここにこの書の優れている所以が示されています。しかし信仰とは暗に「キリスト教信仰」であることが前提されています。だからそこにこの書の限界があるとも言うべきでしょう。今日では、理性に対してだけではなく、信仰に対しても「高次の信仰」であることが求められているように思われるからです。いわば神学(セオロジー)に対しても、メタセオロジー、エコセオロジーであることが要求されているように思われるからです。しかしこの点に関しては、あとで論ずる機会があるでしょう。
第一章 宗教哲学への途〔其一〕 準備としての人間の問題
「極めて当然且つ看易い事柄のようでありながら、その実甚だ明瞭を欠き、また等閑に附せられ易いのは、宗教は人間だけが有するものだという一事である。随って、人間とは何であるかについて若干の準備的思索を行うことなくしては宗教哲学は皆目わからない。
それは何でもないことのように見えて、其実頗る重要な点である。我々は神に就いて考える、然し神御自身に就いてではない。神自体の何たるかを考えてみても、それは徒労であり、また無意味であろう。人間との関連に於ける神だけが吾等の思惟の限界内に入り来るのである。そして、我々はそれだけで満足せねばならぬ。此限界を踏み越えれば、却って空疎な思弁に堕するのみであろう。ところが、此のわかり切ったような事が、必ずしも世の哲学者や神学者に充分弁えられて居たとは限らない。そのため、神とは何ぞや、其属性は如何、というような種類の問題が際限なく提出され、しかもそれらの問題が宗教哲学又は組織神学の中心部位を占めるというような現象を生じたことも一再に止まらなかった。然し筆者は斯様な研究に大して期待を持ちえない。それはいくら追究しても、結局思弁的遊戯の範囲を出ないことを思うからだ。そして、唯だ神を人間に関連して考え、また人間を神に関連して考え、徹頭徹尾人間を離れないのが、我々の語ろうとして居る宗教哲学である。それ故、従来の宗教哲学が屡々定石のように考えていた、諸宗教の分類、汎神論とか、多神教とか一神教とかいう詮索から本書は出発しない。それらは神を人間から抽象して考える方法であり従って、対人関係から遊離している。
……
然し乍ら、宗教哲学への基礎工事の一部として、人間の性格及び立場は宜しく充分に検討されるべきである。但し此処には人間の構造性という論理的問題に我々の観察を限定しよう。
人間の論理的構造を考えるに当り、我々はざっと次のような三様の関係に於てこれを考察することが出来るとおもう。
1 自然に対する人間
2 人間に対する人間
3 神に対する人間 」
ここから著者はこれら三様の関係における人間の考察に取り掛かります。著者はこのとき既にキリスト教信仰における「神に対する人間」を前提にしています。あとでわかるように、神を超越的他者と呼んだり、超越的実在と呼んだりするステップを踏んではいません。既にキリスト教的神人関係に生きる者として自己限定を行ない、その範囲内で「宗教哲学」について論じています。著者が諸宗教の分類から始めないというのは、そういう意味でもあります。その「ひたむきさ」がこの本の特質であり、また限界でもあります。
「自然に対する人間は自然の一部分を形造り、自らを自然物としてその全体たる宇宙的自然に関係づける。此関係は法則性によりて特質づけられ、科学として体系化される。科学的法則は関係の鮮鋭なることを特徴とし、また生命とする。関係自体は必ずしも鮮鋭ではあるまい、否な決して鮮鋭ではあり得まい。精密科学と呼ばれて居る一連の研究部門に関心を持つ人は皆これに気付くのである。然し、それにも拘らず、これを鮮鋭化して表現しようと試みるところに科学の存在理由がある。」
自然に対する人間を論じようとするとき、いきなり科学の問題を持ち出してくるというのも普通ではありません。しかし著者の関心はそこにあるということなのでしょう。もしかしたら著者は多少なりと自然科学(特に物理学)の研究に携わった人であるかも知れません。信仰の世界に「ひたむきに」入り込んでしまうのは、意外にも自然科学者などの種族に見られる特徴の一つです。
「如何にして其鮮鋭さを獲るかは本書の思索範囲外に在って、ここに一々論及する暇はないが、それには科学構成の根本規約があり、公理を措定し、仮設を導入し、数学的方法と処理とを適用するというような、様々の周到な用意手段が予じめめぐらされるのである。それでも尚、関係の錯綜が記載叙述の多義を余儀なくするに至るや、数学的確率の算定に拠り、あくまでも法則的一義化を貫徹せずば已まない。
また他の一面に於て、科学の対象として与えられたるものにはこれに先だちて既に若干の加工が施され、特殊な抽象化が完了されているとも考えられよう。此加工工程は大部分人間の科学的本能とも称すべき無意識の心の働きに属する。今後の科学批判はその隠れた精神の働きを明るみに持ち出し、これを分析し整理して、従来考え及ばなかった点にまで論理の基礎工事を組織化するという重大な任務に進むであろう。我等としては、今の場合、法則性が現在の科学の所有する形に於て既成物として自然に恒存し、ただ人間の発見を待って居ると考えるような素朴観に対し全然没批判的不見識に陥らざらんだけの準備を我等自らに要求するに止める。」
著者は「科学的本能とも称すべき無意識の心の働き」に言及し、また自然法則についての素朴実在論的な見解に陥らないようにとの注意を促します。この指摘は正鵠を射ていると思われます。
「一方、個々の科学としては、其内容形式共に今後一層洗練されることによりて、更に純化された法則性を発揮することを期待し得るであろう。法則は其純粋な形に於ては、殆んど言語的表現を許さない。記号の特に選ばれたるものだけが辛うじて表現の具としての用に耐うるのである。現今記号(主として数学的)と共に盛んに用いられている科学的言語は、厳密にいえば、純粋科学の道具であるよりも、寧ろその応用に属するものが多い。応用性は理論と共に発達するが、其表現は却って理論に先んずる。現在の科学は、これを概観すれば、未だ尚応用を主とした段階をあまり出て居ないとも云えよう。それ故言語が重要な役割を務める。
マックス・プランクが、科学に於ける擬人性からの離脱を唱えたのは、今世紀の新物理学の出発と其動機を同じうするというべきであろうが、この擬人性の脱却は畢竟言語の排除及び、記述性と説明性の拒否を含意するものである。そして此事は科学の純粋化的方向に対して有意義なることは申すまでもない。
とはいえ、他の一方に於て、純粋化と呼応しつつ、応用化も発展せねばならぬ。これは離脱とは反対に、擬人化の更に強き徹底と広き活躍を意味する。而して其道具/メヂウムとして、言語は主要な位置に置かれることになるであろう。応用化は純粋化と背馳するものではなく、科学の本質的価値を貶下する訳でもない、却ってこれを高める。それによりて科学に於ける人間性が強く主張され、またそれによりて他科学との関連が緊密にされる。そして此事は科学進歩に偉大なる推進力を供するものといえよう。
如上の二方向、即ち純粋化と応用化とは、科学が二つの世界、即ち自然対人間の世界と人間対人間の世界とに跨って位置することを示唆するものでなければならぬ。ここに、純粋化に於て其規準となる法則性に対し、応用化に於てこれに照応する心の働き――隠れたる論理作用――をアナロギア(比論)と名づけよう。」
ここで著者は科学における純粋化と応用化とのニ方向を指摘します。この純粋化とは記号論理学が言語の「モノ化(reification)」を前提とすると言われるように、「モノ化」のことではないのかという感想を持ちます。いわば科学が、「モノになってモノを見る」ところまで、徹底純化されなくてはならないと言うことであるかも知れません。これに対して、応用化において言語が重要な位置に置かれるということは、言語がそもそも比喩であるということから来るものと思われます。比喩は言語の一部の機能なのではなく、言語そのものが比喩の働きであるということは、言語学的に承認されつつある見方であると思います。そして本文において、ここで初めて出てくるアナロギア(比論、類比)とは比喩の働きを意味しています。著者は言語そのものがレトリカルであるという認識に到達しているのではないかと思われます。なお、先に「神学はいらない(その2)」で言及したpersonificationという言葉は「化身」という意味も持ちますが、通例は「擬人化」という意味で用いられます。言語とはそもそもが「擬人化」の働きであると言えるかも知れません。ここで「自然に対する人間」についての記述は終わります。
「アナロギアは謂わば人間性の論理である。人間対人間の関係的存在、即ち社会生活、の骨肉となり、循環系統ともなる。骨肉に該当するアナロギアを求めるならば、それは人格であり、循環系統に匹敵するアナロギアを求めるならば、言語においてそれが見出されるであろう。」
アナロギアに実効性を持たせている行為者(エージェント)、すなわち発話の主体を、著者は「人格」(personificationを行なうperson)と呼ぶということでしょう。ここから著者は「人間に対する人間」についての叙述に入ります。
「人格とは人間対人間の関係に於て個人の中核を形成する部位である。それは社会的に見て、互いに孤立した存在といわねばならぬ。それゆえ、これを繋ぎ、其有機的連関を司る器官と機能とがなくては死物に過ぎない。一人格は他の人格と応答すべきものである。その思想感情を表白し、意志を疎通せしめる器官が言語にほかならぬ。尤もここでは言語の意味を広義に用いたい。語る言葉や文字的表現を含むは勿論、それ以外でも、意志伝達の機関は凡てこれを包含するものとして、普遍的に解するのである。今若し、此処に言語なき社会を考えるならば、それは血液なき人体の如きものと想像し得べく、其社会は恐らく須臾も其存在を保つことは出来まい。
次に言葉は本質的に多義であることを指摘したい。意味の限定は或程度まで可能であるが、一義化ということは殆んど不可能であり、またたとえこれを為し得たとしてもその時に言葉は言葉の性質の大部分を失わねばならぬ。多義性にこそ言葉の存立の意義は存するのである。それでは此多義性は混然として其言葉の中に押し込められているかというにそうではない、多少共整備された論理組織を有するのである。但しそれは文法を指すのではない。言葉の相互的連関によりて生ずる微妙な組織的関係を指すのである。而して基督教哲学において重要な意義をもつアナロギアとパラドクスと雖も、やはり斯様な言葉の論理にほかならない。」
文法と区別される言葉の論理とはレトリック(修辞法・修辞学)です。三木清や松村克己においては意識化されていたレトリックについて、著者は未だ「概念としては」把握していないのではないかと思われます。しかし言葉の多義的現象を正確に把握しています。なおキリスト教哲学にも関わることとして、レトリックの問題を研究したのは、フランスのプロテスタント哲学者ポール・リクールです。リクールは特に隠喩理論について独創的な研究を行ないました。ポール・リクール、久米博訳『生きた隠喩』(岩波現代叢書、1984年)は、アリストテレスの隠喩論から議論を展開しています。(言葉が隠喩として別の言葉に代置されるとき、それは類似の発見をもたらします。わたしはそこにアナロジーの働きをみたいと思います。椅子の「脚」のように使い古されて語彙化した隠喩は「死んだ隠喩」と言われます。言葉の多義性はそのようにして生じてきます。)
「……此意味に於て、言葉は人と人との間の思想意志感情の伝達機関たるに止まらず、言葉自体が恰も人性を具え、人格を保つかのように想像し得る高度の階梯を考え得るに至った。斯様な階梯は或程度まで芸術に於てこれを窺うことが出来よう。文学は言わずもがな、音楽、絵画、彫刻、建築等、みな広義の、そして高度の言葉に属し、これに依って、作者は心の奥底から人に語りかける。中にも音楽の如き、説明性の欠乏――全然ではないが――故に、却って言葉の奥に潜む示唆性を力強く発揚し、文学的言葉の表し得ない微妙の境地を語ることが出来る場合があろう。それは畢竟アナロギア活動の自由なる結果、心より心、人格より人格への働きかけが極めて鋭敏化するからである。」
後半の記述は、中村雄二郎の『共通感覚論』(岩波書店、1979年)でも参照しない限り、理解できない物言いです。著者はアナロギアをセンスス・コムニス(共通感覚、英語のコモン・センス、普通は常識と訳されます)にまで拡張して考えているということでしょう。緒論の「懐疑と信仰」においても「常識」の重要性を指摘しています。(共通感覚について最初に取り上げた人もアリストテレスです。)
「……若し更に進んで宗教の領域に至るならば、言葉は真に最高の段階に昇ったと云えるであろう。(芸術もそれが深い思想信仰と結べばやはり最高階に立つ)。その文学的又は口述的表現には説明が伴わない訳ではないが、それは凡て従属的地位に置かれる。此場合強く働く所のものは示唆性であり、アナロギアであり、そして、その示唆が重複し、交錯し、参差(*)たるところに人間的真理は見事なニューアンスを形造って具現されるのである。」
* 互いに入りまじるさま(『新選漢和辞典』小学館)。
ここから著者は「神に対する人間」の領域に進みます。ここで著者が宗教を最高位に置くことに対して、宗教→哲学→科学という、オーギュスト・コント的な人間の精神の発達史を頭に描く人は抵抗を感じるかも知れません。キリスト教哲学とは、畢竟、キリスト教信仰の弁証論であるということに、私も同意します。しかしキリスト教の教義をそのまま肯定し得ない私も、宗教を単に原始的心情として切り捨ててしまうことにはためらいを感じます。人間の連帯性ということ、人間の共生関係の可能性ということを考えるとき、宗教に蓄えられている「知恵」を一概に否定することはできないと考えるからです。
「以上は宗教を人間対人間の領域内での現象として考えた場合である。然らば、此関係は神対人間の関係に於ても其儘妥当するであろうか、それとも何らかの変化が其処に生ずるであろうか。神はペルソナ的存在として考えられている。その神的ペルソナと人間的ペルソナとの交渉に於て、やはりアナロギアが妥当すべきは想像するに難くない。基督教史をひもといて、その思想化の経路を辿るとき、ひたすらアナロギアに基づいて安定せる宗教観を樹立し、或はこれに則って様々な制度組織を編成しようと企てた努力の集積を其処に見ることが出来る。神は万物の創造者として、恰も陶工が土を以て器物を作るように森羅万象を作ったということも一個の著しきアナロギアである。神は人間の父なりという思想に至りては更に偉大なるアナロギアを見出すであろう。また神の国は様々の卑近な自然及人間生活の現象に喩えられる。それは譬喩であるから、解る人には解り、解らぬ人にはいつ迄も解らない。それは頭脳だけで解かれる問題ではない。人間の全性全機能の調和的な作用即ち活きた人格の裡に於てのみ悟られる事柄である。
然し、かくの如く宗教をアナロギア論理に還元し、これによりて、其様々の現象を理性的に裏づけてゆくことが出来るならば、それは人間対人間の境域と少しも異なる所がないではないか、という見解から、自然の勢いとして宗教のヒューマニズム化傾向が現われることは極めて看易い理である。自由主義基督教が多分に此傾向を有つことは申す迄もない。」
著者は「宗教の論理」としてアナロギアが重要な役割を果すことを認めます。しかしそれだけでは不十分であることを示唆します。また著者は前に引用を省略した個所でも、畢竟人間を究極的存在と見るヒューマニズムの立場には立たないことを表明しています。どこまでも正統的なキリスト教の立場に立って、キリスト教哲学の構築を試みるということでしょう。その理由は以下に示されます。なお私が考える比喩とアナロギアの類縁性ということは、この個所で如実に語られていると思います。
「言葉のアナロギア論理は、人間の思想意志感情を表現し、其行為をも解明することに於て極めて有効であるが、然しその機能は人間の領域だけに限定されているのではあるまいか。人間を超越する神に対し、どれだけの有効性を発揮し得るであろうか。斯様な疑念は必然哲学上の難問を喚び起すであろう。理智的に考えても、実践上の課題としてみても、アンティノミーが様々な形で行く手を遮るであろう。我々はこれに衝き当って、人間の能力の限界を示され、茫然として為すところを知らない。
とはいえ、それらの哲学的アンティノミーは、ペルソナとしての神に触れた人間を捉える一個の実存的アンティノミーに較べては、その切実さ深刻さに於て、物の数ではないことを知るであろう。それは思想感情だけのそれではなく、全人格を揺り動かすようなアンティノミーだからである。これ即ち基督教的「罪」と呼ぶ所のものであって、単に法律的乃至道徳的なヒューマニスティクな意味でなく、一語以て神人関係の全般を覆い得るような決定的意義を含む。ここに宗教哲学への第一の鍵がある。此鍵を忘れては、如何ほど周到な用意を以てしても、基督教哲学の堂に入ることは所詮不可能といわねばならぬ。罪意識に於て、人はヒューマニズムに別れを告げ、新しい旅に上るのである。
然るに、この不思議な関門を通る人は、罪が更に大なるアンティノミーである「死」と緊密な連関を保つのを見て、更に驚きを新たにせねばならぬ。死は人間的にのみ解すれば、唯だ万事の終焉として手軽く取扱われるが、神対人間の関係に於ては、死の謎は深い神秘に包まれて居り、またそれにも拘らず、其現実性と威迫力に於ては強烈無比であり、人間にとり絶大なる恐怖である。これを一個の問題として考えた時、其解釈は蓋し容易なる業ではない。」
著者はカント的なアンティノミー(二律背反)の問題から実存的アンティノミーに移行し、いきなり神人関係における罪と死の問題を持ち出します。ここで神とは、「アブラハムの神」、「イサクの神」、「ヤコブの神」、すなわちイスラエルの族長たちの神であるのか、フロイトによれば、モーセがエジプトから持ち来ったとされる一神教の神であるのか(『人間モーセと一神教』フロイト全集『宗教論』日本教文社、所収)、それともイエスにとっての神であるのか、あるいはパウロの神であるのかということは、一切不問に付されています。ここでは自分の罪と死の根本的な自覚の契機としての神(多分にパウロ的な神)が、キリスト教の伝統に即して無批判に前提されています。いわばテキスト遊離的かつ状況捨象的に、いきなり神人関係における罪と死の問題を持ち出すという点では、著者は旧来のキリスト教的意識を一歩も越えてはいません。しかしそのように指摘することは、もちろん罪と死の問題が人間にとってどうでも良いことだということを意味してはいません。
「さて斯様なアンティノミーに対し、言葉は如何なる形をとるべきであろうか。アナロギア形式に於て、言葉は凡てを調和する要素として考えられ来ったが、我等がここに当面しつつあるアンティノミーに対しては、言葉は到底協調の任に堪えない。これに於てか、類比性に対立する新しい表現様式がパラドクス(逆説性)という形で言葉の上に現われる。パラドクスとは自己のうちに解釈を含まざる言葉である。アナロギアはそうではなかった。それはよし説明に於て不充分の場合でも、何等かの解釈性はこれを欠いては居なかった。然るにパラドクスはこれを自らにもたない。而してこれをもたないところにパラドクスの宗教哲学に於ける異常なる重要性が潜んでいるのである。
ここにパラドクスというのは、肯定と否定とが同一事の言語的表現に於て並置対立される形を指す。それは肯否二つの命題の対立の場合もあるし、前提と終結との齟齬として表わされる場合もあり、其形式は多様である。凡てのアンティノミー的意味と、思想の矛盾と、表現の齟齬とを含む形式である。
アナロギアは連続的であるが、パラドクスは連続の切断である。これを越えて進もうとすれば飛躍するよりほかに途はない。宗教的パラドクスは、それ故飛躍の原理を内蔵するに非ずんば無意義無価値であるといえよう。飛躍の原理を含むが故にこそ、我々は罪と死の深淵にのぞんで狼狽することなく、沈着を以て善処することが出来るのである。」
ここで本文においてパラドクスの語が初めて登場します。レトリックとしてのパラドクスについては、佐藤信夫著『レトリック認識 ことばは新しい世界をつくる』(講談社、1981年)の第5章「対義結合と逆説」(p.133-165)に、多くの文学作品の表現を題材として、詳しく論じられています。これを読んでも、著者はレトリックとしてのパラドクスについてほぼ正確な認識を持っているように思われます。なお、佐藤信夫は上の本に加えて『レトリック感覚 ことばは新しい視点をひらく』(講談社、1978年)を著わしています。両書は、私のようなレトリック初心者には必読の文献です。二つとも文庫本に収まっていると思います。参考までに佐藤が「対義結合と逆説」の最後の部分で言語表現の《逆説》と論理の《逆説》について論じているところを引用します。
「《逆説》、パラドクスということばがレトリックの専用語でないことは、言うまでもない。
たとえば論理的《逆説》とは、あるひとつの命題から必然的に、ふたつ以上のたがいに矛盾し合う帰結が導き出されてしまう、厄介な事情をさすだろう。とすれば、そもそも元の命題のなかに、じつは対義的事項がひそんでいたのだ、とでも想定しなければぐあいが悪い。そう考えてみれば、論理の《逆説》もまた、内在的な対義結合と呼べないこともない。
ただし、言語表現の《逆説》は、矛盾し合う対義的事項を積極的に連立させることによって、認識をかろうじて造形しようとするこころみであるが、それに対して論理の《逆説》においては、困ったことに対義的事項が連立してしまう……のである。どうやら向きがちがうようだ。」
著者はこの章の結論として次のように述べます。
「これを要するに、第一第二第三の各世界は皆重要である。宗教哲学に志す人はそのいずれに対する理解にも欠けて居てはならぬ。而して特に第二のアナロギアの世界は、第三世界への準備として充分に親炙し、其論理性の洞察と活用に於て練達して居ることを要する。それには思想的にその論理の微妙さを捉えるに止まらず、体験的にも人間生活に揉まれ抜いて、性格的にキメが充分細かになって居なければいけない。世の苦労を知らぬ人に基督教がわからないのはその故である。これは世智に類することのように思われるが、その実哲学的に理解しようとする場合にも強調すべき点だと思う。
かくして後始めてパラドクスを学ぶことが出来る。アナロギアを伴わないパラドクスは意味をなさず、又パラドクスを知らずしてアナロギアの真意に徹することも出来ぬ。両者は唇歯輔車(*)の間柄である。」
* 唇歯輔車:(輔はほお骨、車は歯ぐきの意)唇と歯との関係のように、相互の利害関係が最も密接で、一方が亡びれば他方も立ちゆかぬような関係(広辞苑)。
著者はどうやら「自然対人間」の世界に法則性を、「人間対人間」の世界に類比性を、そして「神対人間」の世界に逆説性をあてがっているようです。この逆説性の強調ということは、のっけから罪と死が出てくるところからも窺えます。
第二章 宗教哲学への途〔其ニ〕 神学と宗教哲学
「以上の考察は、基督教の成立について、その学的構成の可能性如何を吟味する為に予め試みてみた準備工作に過ぎない。然らば基督教の学的構成ということは実際上果して可能であろうか。
此質問に対し、いま現に神学(並びに宗教哲学)という学的所産が実際歴として存在するではないか、と却って反問を受けるかも知れない。けれども此反問は当方の質問の要旨に副うては居ない。我々が学的可能性を問う場合、その学的構造の性質と内容とに対する若干の批判的解答を要求するのである。」
ここで著者は、キリスト者としての自己の「宗教哲学」が「神学」という一個の「学」に逢着しているという現実に踏み込みます。否、「神学」が著者の目の前にあったからこそ、「宗教哲学」を志すようになったというべきでしょう。
「我々はここに一命題「神学は一個の学なり」を取り上げ、その意味する所の如何なるものかを考えてみよう。
神学は学なりとは、それが人間の構築した所のものであることを意味する。人間の構築せるものは人間の理性の働きを俟って始めて出来るのである。無論それは超人間的主題に関連するであろう。啓示を基礎とすることが主張されるであろう。然し、学としての編成と組織化は我々の理知的機能の発動によらずして到底出来得べきものではない。
これは解りきったことのように見えて、その実そうではない。という訳は、神学に関して昔から極めて根強い偏見又は謬想がいろいろな形で基督教会の中にはびこって居たからである。私はその両極端を示す二見解を左に提出してみよう。
一、神学は全然特殊なる学にして、他の諸学と関連せず、独自の性質と領域とをもつ。それは神から啓示された智慧であって、人間の智慧は全くこれに与らない。
二、基督教にとりて神学は何等啓発性をもたない。ただ不信の世界に対して基督教の真理を弁証する為にのみ有効である。
右の二見解は何故に間違っているか。それはこうである、(一)はあまりに神学の位置を高め過ぎた為、反って贔屓のひき倒しとなったきらいがある。これによって神学は地上に立つ脚を切り去られた。神学を権威づけるため天降り式に考えさせることは大衆に向っては時として効果的であろうが、そのこけおどしは多少事理に通じた者には何の迫力をも感じさせないであろう。
これに対し、(二)は神学の存立意義をあまりにも稀薄にしてしまった。そこには信仰よりの神学の遊離がある。その結果は信仰を損うと共に、神学を堕落させるに過ぎないであろう。
それでは、右の二見解はいづれも極端に走り過ぎたのであるから、何とか其処に工夫を凝らすことにより、これを綜合して一個の中庸道を打開し得そうなものに思うであろう。が、実際には、偏見と偏見の結合は両者の欠点のみの結合に終り、却って一層頑強悪性な思想組織を作り出すのである。
両偏見の結合の一形態は恐らく次の如く表現されるであろう。「神学は理性の所産ではない、神より来る智慧にして、人間は一切これが形成に関与せず、随って人間の信仰も唯これを享受する以外には何等連繋する所がない。故に神学は神聖にして冒すべからず、その教うる所に抵触するあらゆる議論は凡て異端にして、如何なる真理をも含まない。それらは徹頭徹尾拒否さるべきもの、而してそれらを排撃し、其論者を迫害するは神に忠なる者である。異端撲滅の武器たることに於て、神学は最高度にその有効性を発揮し、而して神学を奉持する者(教会)の権威は其有効性が高ければ高い程それに比例して此世に宣揚される。神学は人間的批判や省察から超越すればする程、その威迫力を増すものである」。
斯様に偏見謬想の乗冪を累加することによりて生ずる妄信狂信の類は厄介至極な産物であるが、然し不幸にして、それは種々な形態のもとに基督教の歴史に織り込まれた著しい現象の一である。此種の謬見に多少なりとも影響されない信徒及教団は稀であるとさえ云えるかも知れない。それ程微妙に頑迷と不寛容の精神的毒素が光栄ある教会の間に混入し浸透しているのである。」
ここで著者が遭遇し問題にせざるを得ない「神学」とはいかなるものであるかが示されています。著者はさらにこのような思想がキリスト教史においてどのような害毒を流し続けたかについて論じます。そして言います。
「私がかく言うのは決して神学の地位を貶下せんが為ではない。それどころか、私は神学をして再び諸学の「女王」たる栄冠を戴かしめんことを熱願する者なのである。然し学界に君臨せしめることは霊界に圧制を許容することではない。否、霊界に下婢として仕えてこそ却って彼女の女王としての美をなさしめる所以だと思う。過去数世紀間は試練の時代で、彼女はつぶさに浮世の辛苦を嘗めさせられた。その結果彼女は今やあらゆる虚栄から目覚め、また一切の虚飾を捨て去ることが出来た。
勿論神学は権威の問題を検討する。然し権威自体は神にのみ属することを知らねばならぬ。若し神学の帰結を楯にとって権威を僭用する者あらば、恰も法律の研究者が他人を裁き得ると自任するが如く不都合である。地上の裁判が主権者の名に於てのみ行わるるならば、天に属する審判は唯神の御名によりてのみ行われねばならぬ。教会と神学とが人を審くことは絶対に有り得べからざることである。」
私が最初に、著者が、キリスト教信仰の「圏域内」にあって、キリスト教について誠実に思索した日本人の一人であると言ったのは、神学の謬見をはっきり自覚しつつ、なおキリスト教信仰の中に留まって、この困難を打開しうると考えている人だからです。そのようなことは不可能であると「達観」した哲学者としては、たとえば『哲学的信仰』の著者、カール・ヤスパースがいます。しかし、『基督教の哲学的理解』の著者は、なお「正しいキリスト教信仰」に期待をつなぎます。
「この怖るべき謬想を排除せん為我々の執るべき方法は唯一つ、即ち神学を遊離状態から再び信仰と合致せしめ、両者に於ける関係の緊密を図るよりほかはない。人或いはこれを以て自明の理、当然の事となすかも知れない。しかし実際は其自明が今日まで未だ充分自明ではなかったのである。
此方法の見透しを一言でいうならば、信仰のうちに神学性を見出し、これを正しく叙述することにある。この神学性という性質はどんな素朴な信仰、子供の信仰のうちにも存する、信仰の本質的成分である。
尤も、ここにいう信仰とは、普通考えられるよりも遥かに広い自由な意味を有し、希望や愛の領域をも包括する、一言以て蔽うならば、信仰とは神に対して正しき関係に置かれたる人間性一切の把握を意味する。かように人間性の全部を投じて神学するとき、初めて真の神学が現われるといえよう。随って其神学は真の意味において人間的であり、而して其中には人間の全責任が含まれて居らねばならぬ。これ先に人間を離れて神学は存しないと述べた所以である。神対人間の関係の中にこそ神学の生命と任務は存するのであって、信仰の対象たる神を人間から引き離して考えた時には、いつも前述の謬見に捉われ、悪性のメタフィジクが生じ、其結果正しい信仰を枯死せしめることになる。」
著者の思想は神人関係を前提にして成り立っています。そこに著者の信仰があります。しかしそれは滝沢克己におけるような「神人の原関係」といったようなものではなく、どこまでもキリスト教信仰のうちに留まっています。これは著者の暗黙の前提になっています。そこから出ないで済んでいるというところに、著者の誠実さと、同時に限界が示されています。著者は既にキリスト者となった自分を疑うことはしません。そこから神人関係という言葉がストレートに出てきます。
「然らば、全人格的なるものが神に対する関係に於て働く真実なる信仰に於て、右の謬見と区別される如何なる特性が見出されるであろうか。私は其特性は此信仰が常に対自的反省によりて裏づけられているということに於て見出されると思う。いま仮に、信仰の問題をはなれて一個の行為を考えてみても、それが真に人間的であるためには、行為は意識的であるのみならず、反省的であり、その反省は全人格的に責任をとらるべきである。況や信仰――それは神に対して行い得る人間の思想及び行為の凡てである――に於て全人格的後ろ盾を要するは言う迄もない。無反省の信仰、本能的衝動的乃至感情に偏寄した信仰は無意味且無効である。」
ここから著者は、緒論で既に語られていた信仰と理性について、神学との関わりに於て論じ始めます。第二章の本論はここから始まります。
「これに於て、信仰は研究上二面に分割して考えられることになろう、即ち行動面と反省面とがそれである。但し行動といっても、律法的行為ではない。同様に、反省というも、観念化のそれを意味するのではない。もっと自由無礙な心の働きであって、これをここに理性の名を以て呼ぼうと思う。あたかも我々は信仰を最も広く自由に解するように、ここにいう理性にも、やはり通常神学的或は哲学的に考えられ来ったよりも遥かに広汎にして自由なる意味内容を要求する。たとえば信仰と理性との対立というような点に関しても、両者が各々独占排他的な領域を支配する意味ではなく、その支配する領域は同一であって、唯其機能が異なるというように解したい。斯かる理性は勿論人間的であるけれども、それだけに止まらず、神に関連する人間の心の働きともなり、従って啓示と相容れぬ対立的存在という見方は排除されることになる。
神学者の謬想は、理性を正しく取扱い得ない所から起る場合が多い。或人は合理性のたがにこれを押籠める。又或人は理性の働きをひたむきに否定しようとする。その結果啓示は理性以外の方法で理解されることになる。これは一種の悪性なる神秘主義と云わねばならぬ。」
私が「理性・体験・功績・啓発」の項で述べたように、理性とは「言葉の秩序」のことであるとするなら、神学者といえども、言葉で神の啓示について語ろうとする以上、決して理性から自由にはなれません。著者は信仰に近づきうる理性、またそれと同時に信仰を批判弁別しうる理性を求めます。
「いま、理性を同時に二個の様相に於て観ることにより、斯かる傾向から神学を救い得る見込は立たないであろうか。其一は理性を信仰に近づけるのである。近づけて信仰の裏附けとなし、更にそのうちに織り込んでその本質的な成分にまで醇化する。
これに対立する他の一つの観方は信仰と理性とを其職能に於て分別づけることである。同一領域を両者が取扱うに拘らず、其職能に於ては、はっきり独自性を発揮させるのである。一個の裁判事件に当り法官と弁護人はそれぞれ他に掣肘されない独自の立場を確守するように、信仰と理性とは各々他に影響されない地位を占め得なければならぬ。
斯様に二個の観点を同時に有することは、漫然と神に関する学であると考えられ易い神学の本質と機能とを決定する上に何等かの手がかりを与えないだろうか。元来神学は先述の如く、たしかに一個の学に相違なく、随って理性の構築物たることも疑いなき所である。同時に神学は信仰の学であるということもまた極めて妥当的である。若し「神」学は「信」学なりという主観性の浪漫的潤色に意が充たないというならば、その人は「信仰」に於て解せらるる内容を更に客観的に充足する途をとればよいではないか。」
著者は信仰には二つの面があるということを、行動面と反省面、信仰的理性面と批判的理性面という形で提示し、それは神学に反映されるべきものであるとします。
「神学が信仰の学であるならば、右に指摘した信仰の二面も当然神学に於て反映されて居なければならぬ。即ち、理性が信仰に織込まれ同化することにより神学は一方に行動面をもち、他方、信仰と理性とは対立しつつ相関的に作用し、互いに支持し合うことにより、神学は其反省面を有するということになる。」
ここで著者の言う行動面とは、信仰の積極的神学的展開面であるということが明らかになります。そのことは著者がキリスト教的かつ学究的な世界に居を定める人であって、教会的に限定された「実践観」のうちに留まっているということを示しています。
「右の考察に於て、理性が信仰に対して占める地位が頗る微妙なるものであるあることを見出すであろう。理性は信仰の中にありて働き、また外に在りてこれに働きかける。信仰を支持する為にそれが必要であると共に、又信仰はこれによりて仮借なき批判を蒙らねばならぬ。信仰と理性とは融和し且つ対立する。建設の為に協働するが、また破壊的に相克する場合もある。
それ故、ただ漫然と神学を考えてはならぬ。人は屡々その中に或は調和共鳴し或いは矛盾撞着する両者を見、その端倪すべからざる千態万姿の僅か一辺にのみ触れて軽々しく斯学を論評し、又は茫然自失為す所を知らざるに至るのである。」
キリスト教信仰の混迷は理性の役割分担によって解決すると著者は考えているようです。著者は未だ今日の歴史的批判的聖書学の多彩な展開に触れてはいません。信仰と理性との破壊的相克がさらに極まった今日、なお如何にしてキリスト教信仰の「行動面」を堅持し得るかが問われています。
「我々は斯様な混迷に陥らざるよう心掛けねばならぬ。而して、此場合危険を避けて正しく神学することを志す為には、右述の二様相を我等の神学の端緒に於て二個の根本的な様相又は傾向として充分に理解することが必要であると思う。第一傾向に於ては、信仰の行動面が取り入れられる。即ち、そこでは信仰と理性とは調和に於て働き、其統一された作用は信仰の行動性として現われる。そこでは純粋な信仰的要素が理性をリードするように見える。
これに対し、第二傾向は信仰の反省面に立脚するものであり、其処では純粋な信仰の作用と見ゆるものは絶えず理性の監視と批判のもとにあり、そのため、信仰の奔放性と理性の妥協拒否に因る両者の相克が基調をなすのである。今第一傾向を神学本来の姿と見るならば、第二傾向は前者と関連を保ちつつ展開する思想建築として有意義また不可欠なる存在と認め得るであろう。私は基督教哲学なる名称を此方面の攻究に与えることを以て妥当と考える。それは神学的性質を保有しつつ、同時に独自の性格と機能とを具え、神学の掣肘を受けない自由の天地を逍遥する。とはいえ徒に神学を非議横説するものではない。否、時として神学を否定する所に却ってこれを補佐し又進展せしめる重要な役割を演ずるのである。
このように解せられたとき、基督教哲学なる研究部門は、従来の所謂宗教哲学とは甚だしく面目を異にすることを見るであろう。況や科学現象として信仰問題を取扱う宗教学的諸部門とは、更に遠く隔たって居ることを記憶せねばならぬ。」
ここで漸く著者が宗教哲学と言いつつ、実はその内容は著者の言うキリスト教哲学であることが明らかにされます。しかしこのような自己限定それ自体がどこまで理性の要求に適っているものなのかについて、著者はそれ以上問うことはしません。要するに著者が言いたいことは神学に反省を要求するということなのでしょう。
「斯様に二傾向に分つとはいえ、基督教神学と基督教哲学との分界線は到底くっきりと引くことは出来ない。哲学を用いざる神学はなく、神学から独立した基督教哲学も考えられぬ。既述の刃先と刀身との如き関係はその儘これら両者の関係に当て嵌まるであろう。どこまでが刃先どこからが刀身と分つことは出来ない。切るには刃先が肝腎であるとはいえ、刀身全体がこれに関与するのであるから。
斯く両者共全体的相互関連に於て意義を見出すのであるが、然し其傾向に於ておのづから区別が存する。この「傾向」という語は漠然たるきらいがあるが、我々は漸次これを鮮明にすることが出来よう。当面の問題は神学と基督教哲学との分界線に沿うて若干の示唆的観察を試みることに存する。」
ここから著者は神学とキリスト教哲学の区別という本章の本題に入ることになります。
「先ず、神学が教義の定立から出発するものであることを注意しよう。元来、教義は科学に於ける公理公準に喩うべき位置を神学に於て占めている。然るに、科学的公理は常識上では自明の理のように考えられているが、神学的教義の場合には斯様な常識が存しない。随って、教義の依って以て立つべき根拠の闡明が強く要求されねばならぬ。」
この先、教義についての論述が長く続きます。
「今ここにプロテスタントの立場、即ち聖書こそは求められる唯一の典拠であるという立場をとりて考うるに、聖書はいかなる形また意味に於て教義を含むものであろうか。それに就いては種々の場合が考えられるにちがいない。聖書中の辞句が殆どそのまま教義として採用される場合もあろうし、また聖書に示された事実が教義化される場合もあろう。或いはまた断片的記載を綜合し消化して一個の教義にまで濃縮する場合もないことはあるまい。これらいづれの場合に於ても聖書テキストの教義化に当って心得ねばならないのは、テキストが解釈されるべきものだということである。ところで解釈とは何か。それは単純な説明ではない、そこには原テキストを多義的に叙述し得るという容認が含まれて居らねばならぬ。教義化は一面に於て多義性を限義化せんとする企図ではあるが、それは原則的に云って、全く一義化される所まではゆかない。随って教義自らも亦解釈上の多義性を容認せざるを得ないのである。
公理的提言とも云うべき教義がなお且つ多義的ならざるを得ないということは、神学の論理的構造を考えるに当り、頗る重要な点である。其処には精密化学の公理に見る如き一義的構造が与うる所とは全く異なる一種独自の学的性格を神学に附与する何ものかが見出されねばならぬ。
次に、教義は孤立しては意味をなさないということに注意を向けたい。この事は別な言葉を以てすれば、諸教義が連関して一個の体系を形成することを意味する。而して此体系を考えることなくしては各教義の多義性を意味づけることが出来ないというような独自の有機関係が其処に発見されるであろう。更にこれを換言すれば、各教義の多義的構造性は諸教義が全体として有する体系的構造性と或る一定の論理的連関を保つものなのである。
多義的要素はそれ自体不安定な存在であることを免れない。然し斯く不安定なる要素が集合して一個の体系を形造るということは、それらの要素に安定を与える結果を生ずると見ることが出来よう。謂わば其処には自由と統制とが完全に両立し、且つ相互的に活かされ合って居る訳である。これは学的構造上最も精妙な形態であって、我等は至上の論理的性格と機能をそのうちに認めることが出来る。これは自然科学及人文科学の段階に於てはまだ見出し難い。
斯くの如き体系は完全に余蘊なく記述し得るやというに、それは出来ないと答えねばならぬ。学的に考えてこの体系はその背後に存する生活――神によりて直接に原理づけられたる基督者的な――の射影として此実体を写影する限り、亦其意味に於て完全なのである。それ故各教義も亦絶えず此生活に照応されてのみ自らの意味を保持することが出来ると考うべきであろう。
基督者の生活を欠くるところなく教義化しようとすれば、如何に多数の教義を以てしても到底充分ではあり得まい。然るに体系として此生活を考うることにより、若干個の撰び出されたる教義の動的連繋により、生活の全野を蓋わんと試みるのが神学である。恰も数名の内野手外野手の緊密な呼応的活動によって、たとえボールがどこに打ち込まれても完全な防御を期する野球の守備の如くである。
体系はここに一個の階級的編制を作るという事実が観察されるであろう。即ち、撰び出された若干の教義のうちから更に或る教義を択んで主役に据え、これに関連して、その他の教義を微妙な階梯に編制すべく有機的に排列する。これによって神学課題の第一は遂行された訳である。そこに到る迄には当然多くの批判検討が行われたことは申すまでもないがそれらは論議の表面に現われず深く潜んでいることを特徴とする。」
著者は先ず、聖書の解釈は言葉の多義性に関わっているということ、そして聖書を典拠とするキリスト教の教義はその多義性を免れないということを指摘します。また教義は一個の有機的連関を形づくっていて、それは「神によって直接に原理づけられた」キリスト者の生活という実体を写影する限りで意味をなすということを説きます。そこに「キリスト者としての」、著者の知的誠実さ(intellectual integrity)と「ひたむきさ」が表わされています。著者は、「自由と統制とが完全に両立し、且つ相互的に活かされ合って居る……学的構造上最も精妙な形態」のうちに「至上の論理的性格と機能を……認めることが出来る」と言い、それは「自然科学及人文科学の段階に於てはまだ見出し難い」と言います。そこに「絶対論理学」が予示されています。しかし自然科学は別として、神学と人文科学とを切断することは、キリスト者としての著者の「予断」であって、そこには著者も認める「飛躍」があります。著者は神人関係の絶対性という「観念」のうちに生きています。
「教義体系の有機性は、いづれの教義一個に接するとも、そのうちに他の凡ての教義への連繋機能が保蔵されて居り、それらが時に臨み順序を以て基督者の心に浮び来り、その全生活に反響を起すような組織を形造っていることによって察知し得るであろう。此事は神学が一面に於て基督者生活の射影たることを表わしている。同時に他の一面に於て神学は聖書の射影であるともいえよう。而して生活の射影としてはその規矩たる任務を意味し、聖書の射影としてはその概括たる意義を有する。
何故に聖書は概括を要するかと云えば、一には聖書が浩瀚な文書であることもその理由であろう。次にその言葉の多義的なることもたしかに一理由を形造る。基督者が教団生活を有することも亦主要な理由に算えられねばなるまい。基督教の対世界的態度の宣明ということも亦これを必要とするであろう。
これらの諸理由はまた生活の規矩としての神学の任務に関しても云い得るところである。即ち、信仰の単純、言行の清明、信徒相互間の心の一致、対世間的態度の明徴等は何等かの神学的組織なくしては到底行われ難い。
右の事情は教義を権威づけるに充分であろう。同時にその権威は絶対的なものではなく、変更補修を拒むものでもないことを瞭かにする。恰も法律が枉ぐべからざると共に其改訂の可能なるが如きものである。
而して更に教義の体系である神学も、同様な意味に於て権威づけられ、また何程でも改訂補修し得られるのであると思う。」
ここで著者は教義と神学の権威に触れ、ただし教義と神学が絶対的な権威なのではないと書き添えます。それは至極当然な結論です。しかし権威という以上は、権威の源泉である絶対的な権威が前提されています。
「右の考察を準備として、我々は神学の隠れた側面、即ち其批判面に触れることが出来る。此場合、解釈の多様性が先ず問題化されるであろう。尤もここに謂う解釈とは単なる理論ではないことを予め注意したい。その表現は命題的であり、理論によりて支持せらるる観あるも、その背後に全人格的支持を要するのであり、これなきものは到底真の解釈とは云い得ないのである。」
先に私が「思弁・解釈・実証」の項で述べた云い方を持ち出せば、解釈は構文論と意味論のレベルに留まることなく、さらに語用論・実践論のレベルに達しなくてはならないということでしょう。そこに解釈者の人格がかかっています。
「聖書の言は福音的基督教にとり絶対而して唯一の典拠である。所謂インスピレーションの主張は此原理の上に立つものであって、かの「逐字」霊感説の如きものでさえ其精神に於ては同感すべき点があると思う。科学的な云い方をすれば、聖書の言に究極のコンスタントが措定されて居る。若し読者の誤解を惧れないで言うならば、其一句一句は、たとえ瞭かな誤謬を含んで居る場合でさえも真理であると主張されるべきだと思う。合理主義者の考えるように、聖書は従来のままでは信じ難い、それは科学的、哲学的或いは神学的に検討し尽され、謬想、誤記其他一切の不備の点が整理され是正された時に始めて信ずるに足ると為すのは一見堂々たる見識のようであるが、実は百年河清を待つ類であって、最も肝腎な点を逸して居ると云わねばならぬ。彼等の合理主義そのものが既に無制約的不変者を要求するということを先ず反省すべきである。」
著者は先ず福音的キリスト教(プロテスタント)の聖書観に立って、聖書は絶対かつ唯一の典拠であるということを肯定します。このあとで批判的考察がなされますが、その前に一言すれば、聖書(正典、キャノン)という思想自体がフィクショナルであり、それが絶対かつ唯一の典拠であるということを言わしめるのは、聖書信仰とも言うべき信仰であって、聖書の諸文書それ自体に何らかの客観的根拠があるためではありません。究極のコンスタント(無制約的不変者)が求められるとしても、それが聖書でなければならない必然性は、既にそのような信仰に入った者によって肯定される必然性であって、それ以外の必然性はどこにもありません。その点、著者には旧来の曖昧さが残っています。
「然るに斯様に無条件に享入れることを我等に強要するとまで思われる聖書は「言葉」より成るものである。言葉は多義的である、また後に述べるように、一個の言葉と雖も無限の拡がりをもっている。これは解釈を要する、非常に広い意味の解釈を要する。この事態に直面して、我々は執るべき態度に迷わざるを得ない。そうだ、私はこの矛盾を認める。然し我等は許容し得ない矛盾と共に、また容認しうる矛盾の存在を知るものである。如何なる矛盾が許容し得べきものなるかは、やがて明らかになると思うが、聖書に於て遭遇する矛盾は主として後者に属するのである。
此矛盾の指摘は、信仰とそれを裏付ける理性の働きの二重性を読者に示唆し得たかと思う。それは更に進んで、主として実践において活かされる信仰生活と、其反省であり再吟味である神学的思想との両面性に於てその姿を顕わすのを見るのであろう。その一方は途轍もない冒険であり、他の一方は万遺漏なきを期する算測である。これらの両面を具有しないでは深く福音の真理を探ることは難しい。」
ここに書かれていることは、従来の信仰と理性に関する議論と本質的に何も異なるところはありません。しかし、たとえそのような形であれ、それを突き詰めて行くところに著者の誠実さがあります。以下も同様です。
「再び教義の問題に帰ろう。真に聖書に立脚せる教義は一面に於て無条件な信奉を迫り、『何故に』と問い返すことを許さない絶対命令として我々に臨むのである。そのためには利害得失を考うる暇は勿論なく、時としてはみすみす犬死の愚と思われることさえも敢えてせざるを得ない場合も生じる。然しそれと共に、他の一面に於て、其教義が如何に聖書に立脚するや、聖書の或章句は如何に解釈すべきや、其教義は如何なる意味において或格段なる場合に適用すべきや、等々の質疑が際限なく繰り返され又検討されねばならぬ。」
次に著者は、ここから進んで、神学の学的境界の問題に移ります。
「併しここに一個際立った疑問、即ち、斯かる無数に提出される質疑に対する検討と答弁とが凡て神学を形造るのであるかという疑問が生ずる。勿論此種の研究が凡て神学に多少とも関連していることは否定し得ないが、それはまたあらゆる他方面の思想的働きに連繋されていることも認めねばならぬ。そしてそれらと神学との間に区画線を引くことは不可能事である。
私は神学を以て凡ての学的労作に微妙緊密に関連をもつものと信じて居る。哲学も然り、その他の思想的所産も皆孤立したものではないが、神学は特にそれら一切の冠ベン(冕)をなすべきもののように思う。さればこそ神学の領域に縄張を施すことは難しいのである。
然らば神学は己が欲するままに自由勝手に振舞って差支えないかといえば、決してそうではない。立憲政治が場合により施政者に或範囲の絶対権力を附与しても、それが常に民意の反映を意味するように、神学に於ても、独断専行が許される訳ではなく、一切の思想的批判と処断とがその背後に存しなければならぬ。世の智慧を超越するが故に、神学は独自の光明と能力とをもち、これによりて他をほしいままに統御して差支えなしと考える時に、神学は自己の墓穴を掘りつつありと思わねばならぬ。」
ここに著者は教義と神学の信仰における特権を認めつつ、同時にそれは諸学との関連において絶えず批判吟味されるべきものであるとします。信仰と理性とは著者において矛盾相克するという面もあるかも知れませんが、むしろそれは著者のアンビバレント(両面価値的)な態度を形成していると言うべきでしょう。
「これを要するに、神学教義の基礎たる聖書は言葉であり、言葉は当然何等かの解釈を要求する。随って、教義は一面絶対命令としての性質をもつに拘らず、他面ごうも(毫も)この被解釈性を拒まない。ところが、解釈は理性(広義の)に訴えることを意味し、理性の働きは、究極に於て、諸般の学的労作の綜合たる哲学に依存せねばならぬ。故に、哲学を離れて神学的教義は存立し得ないという主張が成立つであろう。
かように、教義は哲学批判を拒まないばかりでなく、却って批判を受けることにより、その意義を闡明し、且つこれに依って常に溌剌たる状態を保つことが出来る。一面から見れば、批判は神学に於て補修改変を容るる余地あるを示し、また他の一面から見れば、耐えざる批判によりて教義は常に立証され、其現実的有効性は批准されるのである。
教義が批判されるという言い方は誤解を招くかも知れないが、それは科学的公理や現行法律が批判を受けると同じ意味に解すべきであろう。公理は一面に於て批判を超越し、自己の科学組織において不動の地位を占め、其思想展開に絶対権能を有するけれども、同時に公理は不断の試練を蒙り、且つ思想展開につれて生ずる凡ての問題に対し責任を負わねばならぬ。科学の当面するあらゆる問題は常に公理体系の或部分が如何なる反応をそれに対して示し来るかの省察を根底に於て含んでいる。それはまた、公理の一部の抜き差しが全学的組織にどのような影響を及ぼすかを考慮のうちに置いて居る。また法律に於ても、各判決に対する法の適用は、畢竟法そのものの試験にほかならぬ。
斯かる適用による有効性の試験が神学に於ても断えず行われて居らねばならない。そしてそれが教義の有効性の立証であると共に批判なのである。これは決して教義の権威を害するものではない。否、却って立証的側面に於て、始めて其権威は常に活かされて居るということが出来よう。」
原理原則論としては確かにその通りであると言えるでしょう。しかしたとえば先在受肉・復活昇天・贖罪再臨・現存内住という「教義」を、今日まで神学はどのように立論して来たでしょうか。著者は、この章では、教義についての具体的論証には触れないで(あとで一個所だけ出て来ます)、基礎的考察に止めています。
「若し学的領域という表現を用うることが許されるならば、神学と宗教哲学とはその領域を略ぼ同じうすると云いたい。唯両者の相違は我等のこれに対する態度如何に存する。即ち神学は権威を以て人間の魂に迫り、我等をしてこれに対する然り否の態度を決定せしむべく挑戦する。これに反し、基督教哲学に於ては、我等は舞台の上に顕われないで唯だ批判を加える。斯かる関係にある両者は不即不離にして、相互扶助的なる存在というべきだろう。神学に批判を加うれば基督教哲学となり、その哲学を以て魂に挑戦すればそれは神学となる。挑戦なき神学は批判なき哲学と共に味を失いし塩である。」
ここでは片や挑戦、片や批判という形で、神学と哲学が役割分担しつつ一体化しています。「その哲学を以て魂に挑戦すればそれは神学となる」と言っているように、著者は自己のアンビバレンス(神学と哲学との両面価値性)を基本的には「哲学」で解決しようとしているということではないでしょうか。
「ここに注意すべきは、教義の我等に対する挑戦に於て見出される一特質である。それは、教義が魂に迫撃し来る場合、屡々単独の姿で現われることである。勿論その背後に教義の全体系が控えて居ることは云う迄もないが、鋭い切れ味を示すのは教義がただ一個の命題として我等に決断を迫る時に於てである。然り又は否の回答は斯かる単独の尖鋭な一義的教義に対して返されねばならぬ。刀剣はその総ての部分において必血を注いだ鍛冶が行われて居なければならないが、併し殊に肝腎なのは其刃先である。最後的研磨がそこに要求される。教義に要求されるところも亦それであって、それは切れなければ何にもならぬ。どんな格言であり、智慧であり、或は麗句であっても、魂の決断性を賦与するものでなかったら、其教義は教義として無用の長物となろう。
ドグマの尊厳は此切れ味に存する。教義は飾り物ではない。高く祭り上げて礼拝すべきものではない。一指を触れてならぬ意味の神聖さはその中には存しない。それは用いられ試みられて、実証され、それによりて始めて其尊厳性を確立する所のものである。」
著者の言う「挑戦」とは「決断を迫る」意味であることが示されます。「魂の決断性を賦与するものでなかったら、其教義は教義として無用の長物」であると見なします。また「それは用いられ試みられて、実証され、それによりて始めて其尊厳性を確立する」と言います。いわば、教義はその意味での「実践理性」に属するものとされます。著者は既に自分の立場で教義を限定しています。決断を迫るものでなければ教義ではないのです。
「宗教哲学も同じ教義を取扱う点に変りはないが、此処では其切れ味を試すことはせぬ。それが果してよく切れるだけの性能を具えているか否かを検討し、また切った後の刃のこぼれを調べることもする。それには刃先だけでなく、刀全体、その用いられた条件等が凡て考察のうちに這入る。
例えば此処に『人は凡て罪人である』という命題をとるに、それは一個の教義として見られるであろう。しかしそれがキリスト教的教義として活かされんが為には、当然個人銘々の自意識に訴えて決断を迫らなければならぬ。これに無関心の人に対しては教義としての意味をなさない。然しこの同じ命題を宗教哲学の課題として見るとき、事態はおのづから異なるであろう。それは倫理学的、社会学的、法学的、生理学的、等々あらゆる科学的観察とこれに基づく帰納とを根拠とし資料とする一哲学的問題であって、これに対し、研究者たる自己が如何なる決断的態度をとるべきかに就いては強く問われることはない。」
教義の一例として「人は凡て罪人である」という命題が選ばれたということは偶然のことではないでしょう。それは著者の「宗教哲学」の基本に関わるものである筈です。ここから著者は、人によっては批判の対象となる、「神―罪―救い」というキリスト教の伝統的な図式(基本教義)の中にある人だと想定することも可能です。しかし著者の面目は、その命題が「倫理学的、社会学的、法学的、生理学的、等々あらゆる科学的観察とこれに基づく帰納とを根拠とし資料とする一哲学的問題」であるとするところにあります。
「これに依ってみれば、教義命題は、神学的純教義として、直截端的に我等の決断を迫る場合と、及び、然らずして、批判的に検討されるべき課題として考えられる場合との両面の存することが認められるであろう。先に、教義が「試」される、又は「実証」されると云ったのは、この両面を含むのである。一は実践的信仰に於ける決断に於て、また一は批判性の思索的検討に於てこれを見る。但し、両者は分離して作用する訳ではない。信仰の実践中に批判あり反省ある如く、批判にも信仰が底在し、実践が伴わねばならぬ。」
ここで再び実践と批判の相即性が確認されています。次に著者は教義命題の成立に関して論じます。
「さて、然らば、教義命題が如何なる機縁により、又如何なる道程を経て、我等の前に現われるか、ということが、次に問わんとする所である。
教義は超越者の啓示に基くものである、故に、其の起源は神秘の雲に蔽われ、これを云々するさえも赦し難き冒涜である、というふうに思う人も無いとは限らない。しかしそれは明らかに誤解である。教義は未だ究極のものではない。其奥にある啓示の事実を解釈し更にそれを凝縮したものが教義である。事実は神的なるも、解釈は人間的である。然しその人間的媒介を通じて、神の事実的能力が人間に働きかけることはまことに可能であって、それだけに我等は解釈について特別に慎重な考慮を要求されるとも云えるであろう。
ここに神的なるものと人間的なるものとの二重性を教義に認め得たならば、一方に神学的傾向を生じ、一方に哲学的傾向を生じたといういきさつは会得できるであろう。教義はこれ等両傾向の交互的相関作用或は同時的影響の練磨を経来って、始めて今日の我等の課題となったものであると思う。」
著者は啓示の事実性を認め、その上で教義の神的な面と人間的な面との二重性を指摘し、神学的傾向と哲学的傾向の両方向がそこから生じたと言います。しかし啓示がなぜ聖書に限定されなくてはならないのかということは、著者の問いの外にあります。次に著者は、教義の形成に関わる哲学的批判の有意義性を説きます。
「恰も科学に於て、公理の出現に先だち、多くの準備的考察が試みられ、其応用が様々に講ぜられ、而して後徐々に公理規定の本建築の基礎工事が着手されるように、教義の場合でも、数多き宗教経験が反覆せられ、種々の疑点に逢着し、而して後に可及的に一義化された命題として定着するのである。此長い道程に於て、教義は幾度となく思想的旋回を行い、烈しい哲学批判の火を潜らねばならぬ。そして其批判が一面破壊的又分解的なると共に、他の一面に於て建設的又綜合的であることは、それが教義を系統づける為に極めて重要な作業たることを示すのである。
既に教義が系統づけられてから後と雖も、各教義は決して完全に鮮鋭な思想像にまで焦点されて居る訳ではない。それは一々教理学的な論議の諸系統によりて基礎づけられ、其適用に当りては場合場合によりて複雑な条件に支配される。これは神学的たると共に哲学的作業である。例えば「神在り」という命題が教義的に確立された後と雖も、「神」「在り」の思想は如何に規定せらるるやは時と場合により決して一様ならず、無限に多様のニュアンスを含むことを認めざるを得ぬ。此変意性を格段なる場合に適合するように規定する為には、蛇の如く慧からんことが要求せられ、随って哲学的に最高の努力が駆使されねばならない。されば神学的思索には、哲学的に高度の訓練を経た頭脳が必要である。天降りの教義、鵜呑みの教義は危険極まりない。」
さて、「烈しい哲学批判の火」を潜って、この21世紀の世界で、「キリスト教教義」がいかなる形で存立しているかを問うとき、そこに寥々たるものを感じるのは私だけでしょうか。しかし著者はおそらく書くべきことは書いたという解放感からでしょう、精神史における神学と哲学との関わりについて、やや一般的に次のように述べます。
「古来偉大な神学者は例外なく同時に又偉大な哲人であった。又深い哲人は同時に深い神学者であったことも争い難い。たとえばカントは敬虔派の両親より生まれ、死に至るまで其深き感化のもとにあり、ヘーゲルは神学校に学び、卒業論文に基督伝を書いたようなのは其一例である。神観まで頂高しない哲学組織は到底永き検討にたえず、また、徹底した人生観世界観をもたぬ神学は概念と空想の産物に終るであろう。神学と哲学とは究極に於て相即し、融入し合うものである。
哲学は智を愛することであるという時、そこには既に神学の香がするではないか。この愛は智の為に智を弄ぶソフィストのそれであってはならない。人生の真善美を求める智に対する真剣な愛である。而して真善美を単なる概念的所産に求むる程度に満足することなく、超越的人格に於けるそれらの具現にまで昂揚して考える時、此愛は聖い焔を発して燃えるであろう。これ向上する哲学が自然の傾向として神学に導かれる所以である。」
最後に著者は、今までの議論を箇条書きにして整理します。
「右述の諸点を要約すれば、
(1) 神学と哲学とは硬い区画線によりて境界を分つことは出来ない。
(2) 両者は唇歯輔車の関係にあり、一方がその存在理由を有する限り、必ず他方がこれに伴うのである。
(3) 神学的教義は権威を有つ。併し此権威は決して天降り的に信奉者に押しつけられるべき性質のものではない。圧制によって効力を発揮するものではない。その前に理論的納得が要求される。少なくとも理性的方面より来る疑惑の妨害物は排除されねばならぬ。
(4) 教義に立脚する実践行動は理論的基礎付け並びに方針の確立を要求する。勿論ここにいう理論とはアカデミックな煩瑣な理論を指すのではなく、賢明にして整頓された方策に基く理智的見透しを意味する。妄信は教義の自殺に過ぎない。
(5) 宗教は事実に立脚する。但し此事実は後章に述べる如く、常識的な所謂単純な事実とは異なり、感覚に訴えるとか、自明の理とかいう訳ではなく、無限に複雑な内容と形態とを具えて居なければならぬ。それは教義化されて始めて我等の魂に触れる力となるような事実である。(これは誤解をうけ易い言い方であるが、私の意のある所はやがて理解されると思う。)而して此教義化の仕事の少なくとも半ばは哲学的思索検討の結果に俟たねばならぬ。
(6) 聖書の真理は理性の働き、即ち哲学的思惟によらずしては充分に把握し得ない。たとえ無学者でもよい、これを掴み得た人は一個の哲人であると云えるだろう。
(7) ここに云う神学及び哲学に対し、従来の論理とその伝統的方式は全く無能である。此境域の究明には新しい論理が必要とされる。それは理性の働きを従来の束縛から解き放つことを意味する。尤も或点まで此事業が既に進められ来ったことを否む理由はない。我等に課せられた問題は、これを整理し、展開し、一層大なる自由の天地を理性の為に拓くことである。」
これに附言して、著者は次のように書きます。
「此章の結びとしてなお一言を添えよう。
神学も基督教哲学も共に教義を中心として立論するとはいえ、前者は教義を信条的に視、後者はそれを公理的に視るという両傾向の存在することはこれを認めなければならぬ。これを言い換えれば、神学はどこまでも信仰を論拠とし、基督教哲学は理智を根底とする。
然しながら、信と知との差別は習俗的に考えられるような簡単なものではない。信は知の彼岸にある、知らざるが故に信ずる、というように解せられ易いが、更に進んで考えるならば、知の根底に信があり、信は知への第一歩と見ることも出来よう。信ずるとは知ることである。知のない信はなく、信の伴わぬ知もない。知は信の前にも後にもある、同様に信も知の前後に在る。
然るに、信はまた知と対比されることも真である。信は知に於てでなく、不知に於て生まれるとも言い得るであろう。斯かる矛盾問題は後章に於て繰返し論ずる筈であるが、今神学と哲学の関係を瞥見するに当り、右述の如き両者の交渉を認めて置くことは無益ではないと思う。」
知の根底に信があるということは一般論として私も認めます(「判断論」の項参照)。問題はそれを神学、キリスト教哲学に限定する、その仕方にあります。何度も指摘するように、この点で著者は一貫してキリスト者であって、その他の者ではありません。次から、愈々「絶対論理学」の各章に入ります。
第三章 絶対論理学〔其一〕 言葉の世界
「あらゆる道理の根底には論理があると云ったならば、人々は、それは当然だといって笑うかも知れない。然し、道理という考えを推し拡めて、いわゆる理論/レーゾンの知らざる道理/レーゾンの世界、たとえば情意の世界、非合理の世界、更に奥へ進んで超合理的世界というような領域に想い到った時、そこに存在する論理を発見することは、否――そこに論理の存在することを確認するさえも――やさしい事ではない。なぜとなれば、其処には従来行われ来った論理学は最早用をなさず、却って邪魔物になって居り、随って全然新しい性質と機能とを具えた別の論理学が改めて出現しなければならぬからである。斯かる新論理学がどのような形容を具えて現われるか、今後の哲学者がこの重大な、そして困難な、しかし非常に輝かしい責務をどのように果してくれるか、我々は楽しみにしてそれを期待するのである。
ところが一方ではそんな悠長なことは云って居られない程事態は切迫し、此論理学に対する要求は今や痛切に感じられ始めた。宗教という学的に未開拓――全然とは勿論云うべきではないが比較的に云う――の地に鋤鍬を入れようとして、我々は農具そのものの不備欠乏にはたと困惑したのである。たとえ不完全でもよい、此場合何か役にたつ論理が欲しい。以下此章に略述するところは即ち斯かる要求の一部に応えようとする試論である。」
著者が期待する新論理学とは、実は古来存在していて、言語学者たちによって新しく見直され、研究されつつある「レトリック」のことであるという見通しについては、既にこの書き込みの「その2」に記した通りです。しかし著者は実質的にその世界に入り込みながら、「概念として」は明確にそれを把えないまま、宗教哲学に用いられるべき「絶対論理学」を構想することになります。
「宗教の哲学、これを一言にして蔽えば、絶対なるものを論ずることに帰する。そこに用いられる論理は絶対論理学と称うべきであろう。恰も新しい物理学で絶対解析学というような数学を必要とするように、此処に我々はこの種の論理学を求める。然し、既に前に断ったように、絶対の境地へ合理性の地盤たる科学的法則の世界から一跳びに躍入することは出来ない。是非共その中間に人間的世界を足継ぎ場として設定し、三段跳びの形をとることにせねばならぬ。論理は、随って先ず科学的に洗練されると共に、人間の問題を処理しうるような機能を与えられねばならない。その上で最後の跳躍が絶対界に向って試みられるのである。それ故我等は先ず準備として人間性の論理を省察しよう。若しも其省察が我等を導いて人間性の奥底に潜在する更に深いものにたとえ僅かなりとも触れしめることになれば望外の幸福とせねばならぬ。」
既に著者は1.自然対人間の世界(科学的法則性)、2.人間対人間の世界(擬人的類比性)、3.神対人間の世界(飛躍的逆説性)という形で、自らの思索の方向を示していました。以下、著者は形式論理を越える「アナロギアの論理」へとおもむろに論述を進めて行きます。それは著者の言語論でもあります。
「普通、形式論理学の教うる所に従えば、論理の基本要素は概念と命題とであるが、概念は既に型に嵌め込まれた思想であり、幾重にも加工を経た特殊な論理的産物である。少くとも、それが一義的意味を有するものとして規定されていることに於て、其処に到るまでの理性の加工的作業――その大部分は無意識か半意識的に行われたかも知れない――の並大抵でなかったことを想像することが出来る。概念は可及的に一義世界、即ち法則によりて規定せられ得べき科学領域を作り出す為に最も重要な要素ではあるが、人間性及宗教の世界に於ては、一義性の用は頗る限定されている。寧ろ多義性――尤も単なる多義性ではないが――に於て、辛うじて人間生活及び宗教の本質と其作用とが髣髴される状態である。我々はそこに到る手段として、先ず概念を単なる「言葉」にまで溶融し還元するの途をとろう。
次に、命題に於ても、それが概念関係を規定するに止まる限り、その関係は単純素朴な存在の一形態――包摂と呼ばれる――を脱し得ず、随って、到底宗教的存在は愚か人間的存在をも活描するに足りない。此場合、これを言葉の作り出す関係、即ち文法的関係並びに意味と意味との交渉の生ずる関係にまで還元するならば、むしろ其の微妙なニュアンスは、錯綜せる諸関係を解明するに遥かに好適であると思う。」
著者がここで言っていることは、科学的概念と命題の「一義的」制約を離れて、「日常言語」の「多義的」レベルに戻ってこそ、宗教的存在と人間的存在の解明に取り掛かることができるということです。そこで考察の手がかりとなるものは「文法的関係並びに意味と意味との交渉の生ずる関係(すなわちレトリック)」です。
「ここに於て、言葉の論理とは如何なるものか、を我々は考えて見たい。
言葉の単元、即ち形式論理に於ける概念に匹敵すべきものを先ず取り上げてみよう。ところが、此処に一個の問題に突き当たる、というのは、言葉は常に何ものかの表現でなければならない。言葉が言葉自らを表現するということは出来難い。つまり、言葉はそれ自体に於て実質的ではなく、実質が別に存し、其表現となった場合、始めて言葉は自己の存在理由を見出すのである。自らが実質的でないということは、言葉が実質として別に存する所のものの写影であるという見方を許容するように見える。例えば書籍という実質が先ず存し、これに対してこれに対し書籍という言葉が生ずるというように考えるのである。ところが実質としての書籍とは何ぞやを訊ねる時、問題は決して簡単に片づかない。それは紙とインキとだけでないことは云う迄もないが、更に意味を有する文字を記したものにして、その意味を伝えんとする作者又は記録者と、これを伝えらるべき読者を予想し、それは更に斯かる人間の何たるやの疑問を中心として解明を要求する問題を無限に提示するであろう。して見れば、紙とインキで出来た物体としての書籍は斯かる無限に展開する問題と其解明の厖大なる意味体系の一指標/インデクスたるに過ぎないことを見出すであろう。この思想的又は意味的組織は任意に其展開の中途に於て切断することが出来よう。それは便宜的裁決に支配せらるる常識の行うところであり、また個別科学の行うところである。然し中途に於ける切断は哲学的には許されない。これを許すことは本質への探究を中絶することを意味し、此断絶は哲学精神の死滅を意味するからである。」
言語は一個の「示差的体系」であって、あるものが本と呼ばれるか、bookと呼ばれるかは、たまたまその言語で他の語と区別されるその語として位置づけられているだけで、それが「本」あるいは「book」と呼ばれなければならない必然性はどこにもありません。しかし言語体系の中の一指標に過ぎない「語」の組み合わせ(文)によって、無限の意味が生じてきます。意味の単位は語ではなく、文です。あるいは「文」として言語を使用することによって初めて「語」の意味が限定されると言うべきでしょう(一語文も文です)。著者は日常言語の語として限定された「意味的組織」の連関を、中途で切断することなく、無限に探究することを哲学に求めます。しかし果してそれは何を意味しうるのでしょうか。
「右のような訳で、哲学は一個の言葉へ反映された本質、即ち表現された実体を索ねて、其の無限に展開する意味の体系をどこまでも追究する。しかしどこまで追究しても、究極の実体にぶつかることは出来ない。所謂らっきょうの皮むきであって、他から区別し得るような独立孤隔された実体は発見されないであろう。一個の言葉に対する実体は寧ろ其言葉を中心として波紋のように無限に拡がってゆく意味の体系自体に存する。そしてここに謂う「意味」とは其言葉との交渉によりて生ずる関係にほかならぬことを見出すにちがいない。これを要するに、言葉が表現であるということによりて一個の言葉が何か一個の限られた事実を表示すると考えるのは実際生活の要求から生ずる常識観としては有意義であるが、哲学的には全くとるに足らぬ素朴観なのである。一つの言葉は他のあらゆる言葉との関係、而して更に其関係の二重関係三重関係、無限関係によりて自己の表現性を保持し、自己の意味を繋留し得るのである。この錯綜を極めた言葉の関係、そしてそれの生ずる微妙に暈(ぼ)かされた意味の陰翳と諧調の中に整然たる論理的体系と脈々たる生命の鼓動を発見するのが哲学の任務である。尤もここにいう言葉は文法的乃至言語学的規定に拘束されるべきでなく、極度の論理的純化又は洗練を経ることが必要である。この事は論述を進めるにつれて明らかになると思う。」
著者は、自分が言う言葉とは語であるのか、句(フレーズ)であるのか、文であるのか、段落であるのか、あるいはそれ以上の文脈のことであるのかという言語学的な詮索はしません。しかしここには言語に対する著者の鋭い観察眼が示されています。ただし著者が哲学の任務として特化する言葉の論理的純化あるいは洗練の仕事が、実はレトリックに関わる「言語学的」な課題でもあるということは既に指摘した通りです。しかし著者が以下のように述べるとき、「言葉」はもはや言語の領域を超えて、広義の「シンボル」というべきものに拡大されています。著者が先に音楽にもアナロギア活動を見出したことに、私は「共通感覚」を引き合いに出して、これを理解しようとしましたが、『シンボルの哲学』において音楽(あるいは芸術や宗教など)を論じたのはS.K.ランガーです(矢野他訳、岩波書店、1960年)。しかし著者はここで先ず「道具としての言葉」に自己の視野を限定して言います。
「言葉に純粋な論理的処理を施すに先だち、我々は先ず道具としての言葉の用に充分なる理解を持つことが肝腎である。言葉の用をなす範囲は実に広い。精密科学に於てこそ記号が有効に用いられるけれども、其有効圏は非常に限られている。科学領域の大部分、人間生活の全部から、宗教の殆ど凡てに亘って、概ね言葉の支配下にあると云っても差支えないと思う。言葉を広義に解するならば、数学の記号もやはり言葉であり、また人間が相互間の意伝達の用に供する形象的表現の大部分をも亦この範疇に含ましめることが出来よう。ここに斯様に自由な解釈を言葉に対して与えて頂きたい。
斯くも重要な道具であるに拘らず、我等は兎角言葉の位置を軽蔑し勝ちである。それは実質を掴むまでの方便に過ぎないと思われ易い。尤もそれで実質が簡単に掴めるのならばよいが、前に申した如く、それは常識的、日常生活的便宜の範囲を出ない。ところが言葉に於て認められる道具性は後に至って方便即本質の哲学問題を妊むほどの重要さを持つのであって、それだけでも亦充分慎重な取扱いが要求される訳なのである。」
次に人間社会および宗教と言葉との関係を論じます。
「いったい言葉によらないで表わされ又は規定される関係があるだろうか。それはあるとしても、単純且つ原始的関係に限られて居るであろう。包摂関係の如きその一とされている。これには言葉も用いられるけれども、本来図式的な関係に過ぎない。其他計測的比較によりて規定される関係があり、これらは記号的表現によるから言葉を用いないとも主張されるだろう。然し人間社会及び宗教の関与する関係に至りては遥かに複雑である。人間社会の諸関係も既に錯綜微妙を居るが、宗教のそれは更にこれ等を超越すると云えるであろう。而して其関係は言葉によりて表わされる。尤も人事でさえも時としては言語が最早用をなさず、筆紙に描出し得ないことが少くない。宗教に至りては、殆ど全く言語道断の域とも思われる。然し我等はその場合にも未だ言葉を捨てない。何となれば、言葉の論理は言葉直接の表現よりも深いものであり、表現が断絶した所にもなお其論理は活躍の機能を失わないからである。黙した言葉あり、逆用された言葉もある。それらは時として言葉本来の意味から離れ、表現し得べからざるものを表現する為に著しく歪曲又は酷使されるとさえ思われる場合もある。」
ここから漸く著者は、宗教哲学への途〔其一〕で予示されていた、1.自然対人間の世界(科学的法則性)、2.人間対人間の世界(擬人的類比性)、3.神対人間の世界(飛躍的逆説性)について、その解明に取り掛かります。なおここで著者が図式的な関係に過ぎないとする包摂関係(あるいは排除関係)は、命題の本質に関わることであって、それは基礎的事態としてどこまでも言葉の働きにつきまとっています(「判断論」参照)。
「言葉は徹頭徹尾人間的所産であって、これをホモ・ファーベルの作った道具のうち最傑作の一に数えることは誰しも異論あるまい。然し多くの道具は自然征服の為に用いられるに対し、言葉は主として社会的生存の建設的目的を達せんが為に作られた。この区別は軽視してはならない。という訳は対自然的関係は其意味が単純であって、殆ど一義的規定を行うことが出来るのに反し、対人的関係は非常に複雑で、また多義的である。言語は対自然的にも利用されるけれども、これは主として補助的に用いられる。其処では支配権を有するのは法則性である。法則性は計測関係による精密性を理想とし来った。説明的法則も考えられないではないが、それらは未だ法則として充分の洗練を経ざるものである。そこでは、言葉は成るべく少く用いられる程尊い。言葉の記号化が完成すれば、それが一番結構なこととされて居る。言葉はそれ故屡々借物のように視られて居る。
ところが、一たび人間的関係の世界へ、また更に進んで宗教の世界へ踏み入るや、最早万事法則性を以て律する訳にはゆかない。ここでは言葉が主権を握って居る。そして言葉は法則を以て抑えることも縛ることも出来ない。」
著者は一貫して言葉の多義性は対人関係の複雑さから来るという想定のもとに議論を進めます。しかし言葉の多義性は実は対自然関係の複雑さからも来ています。人間は自然科学的な関心によってのみ自然に対しているのではありません。このことは著者も直ぐあとで認めます。しかし上のような論じ方は、おそらく自然科学的世界観に対して宗教を弁証したいという動機が、近代人としての著者の心の奥底にあるためでしょう。
「それでは言葉の主権はどういう具合に働くものであろうか。それは言葉が人間の意識構造と其動作を最も的確に表現し得た場合に於て最も有効であると答えることが出来よう。この有効な表現を擬人法という名を以て呼ぼう。擬人法が言葉に生命を与え、擬人化が言葉をして生活の上に効果を及ぼさしめて居ることは偉大なる事実であって、此場合充分の穿鑿を要求するものと云わねばならぬ。
少しく反省をめぐらすならば、対自然関係に於てさえも、擬人化の行われている範囲は予想外に広く、法則化と雖も此影響外に出ることは出来ないことを見出すであろう。言語が用をなす範囲は悉く擬人法の有効射程だといって差支えあるまい。一方超人間的交渉の世界たる宗教の領域に於ても、擬人法は本質的にこれと契合し、言葉はやはり其道具として少なからぬ威力を発揮する。尤も此場合擬人化という云い方は不充分或は不適当であるかも知れない。擬人化は言葉の人格化にまで進むと云うべきであろう。但し斯様な語法には誤解の危険があり、殊に宗教科学的に浅薄な解釈を与えられる虞れなしとしない。相当警戒を要する所以である。」
宗教科学は浅薄であるというのは著者の「信仰」が言わしめる予断であって、取り上げ方が違うということができるだけです。しかしここに言葉は基本的に擬人化の働きであるという著者の優れた洞察が示されています。
「さて、擬人化及び人格化ということを更に考えてみるに、それらは人間以下又は人間以上の存在に対する関係に於て我々の理性が施した一種の論理的工作と視ることが出来ると思う。今此工作に人間対人間の対話関係のあらゆる表現法を融合し、これを包括して論理学的に取扱ったものが即ちアナロギア(比論)である。
既説の如く、科学法則にもアナロギアは頻繁に用いられてはいるが、その本舞台は何といっても対人間関係に存する。人間社会に於ける言語的交渉は、その大部分がアナロギアだとさえ云い得るであろう。斯く言えば反対を受けるかも知れない。然し、言語の本質が多義的であり、その組成が連想の網状組織より成ることを記憶する人は、我々の日常会話はもとより、凡ての談論が著しく比論によりて綾どられて居るのを発見し、蓋し想い半ばに過ぐるものがあろう。」
この「比論によりて綾どられて居る」という言い方を「比喩によって綾どられている」と改めるならば、既に述べたように、著者が言葉の綾・文彩(figure)を取り扱うレトリックの領域に入り込んでいるのだということを確認することができます。それは以下の論述によって明らかになります。
「勿論アナロギアだけではない。言葉にもやはり直接的描叙法が謂わば骨格を形造り、随ってアナロギアの任務は、寧ろ主としてそれを更に肉づけ血を通わせるにあるとも主張され得よう。人間と人間との交渉は自然を環境とし、人間自体が一面に於て自然的存在として固定的状態にあるのだから、此主張も真理を蔵しない訳ではない。然るに、今、超自然的存在たる宗教的対象との交渉に於て人間を顧みるならば、譬喩比論の役割は更に遥かに中心的なることを見出すであろう。アナロギアを用いずしては、其処では殆ど何等の叙述をも行うことが出来ない。例えば神と人との関係は如何様に説明されるかを考えてみるに、それは造り主と被造物との関係であるか、君臣の関係であるか、父子のそれであるかいづれにしても、人間生活に関連した比喩に於て、その説明し難き関係をわずかに髣髴し得たに過ぎない。」
次に著者はアナロギアが擬人的であるということの説明に入ります。
「アナロギアは擬人的であると述べた。それはどのような意味をもつのであろうか。些か心理学的解説をここに試みることも徒爾ではあるまい。先ず感覚性ということを考えてみよう。擬人的性質を最も的確に示し、且つアナロギアの具体例を示す上に於て、感覚性の考察は最も屈強な示唆を与えるものと思う。感官の齎す印象に就いて心理学の教うる所に従うならば、単純な感覚は幼少時のほかは極めて稀であり、成人の場合には、通常頗る複雑な構造を有するものであるという。この事は我等が少しく自己の感覚印象を反省するならば、容易に首肯し得ることであろう。直接に感官を通じて伝達される神経の興奮に際し、少しでも重要と認めらる刺戟は、直ちに眠れる記憶の豊富なストックから、其場合有意味なる多数の記憶像を喚び醒まし来り、更にこれ等の一切を無数の連想網に査照せしめて後、始めて一人格としての自己がこれに対し如何に反応すべきかを決定するを常とする。今若しこの心理現象を論理的に省察するならば、其処には多数のアナロギア系統の交渉が行われ、新しき比喩像が作り出され、其像は更に現実の諸像と錯繍して無限の変化を生ずるのを見るであろう。
それ故我等が物を見又は聴くというような場合、実は斯かる無数の連想像を感覚像に重合して視、又は聴くのである。」
ここでは感覚像と連想像の重合(重ね合わせ)ということが、擬人化の心理学的な根拠であるとされています。ある感覚印象を直ちに無数の記憶像と連想網に「査照」させるということ、つまり「自分の連想網に引きつけて」感覚印象を処理するということが、擬人化(personification)と呼ばれているように思われます。
「次に、アナロギアの働きは一種の感覚が他種の感覚と交渉することによりて殊に著しくなる事実が認められる。而して一種の感覚像が他種の感覚像に代ってこれを示唆し叙写しようとする場合に、此事は殊に際立って顕著であることを発見するであろう。この場合、代表する形像を名づけて代表せらるる形像の象徴という。」
比喩(直喩、隠喩、換喩…)は一応、ある言葉の別の言葉による代置、転用であると見なすことができます。佐藤信夫は『レトリック感覚』で、川端康成『雪国』の次の表現を例に挙げています。「駒子の唇は美しい蛭の輪のやうに滑らかであった」(直喩の例)。著者の言い方に従えば、「蛭」(という感覚像)は「唇」(という感覚像)の「象徴」であるということになります。これは極端な例ですが、著者は言葉の根底に感覚像を置き、一が他を代表する働きに言葉の象徴性を見出しています。
「言葉は複合的感覚像或いは其変形である。それは記号化し、伝習化して居るとはいえ、その変化が既に象徴性を言葉に附与して居ることは疑いない。
言葉の発足点は感覚像である。それを説明する著しい一例はその模倣性に於て見得るであろう。即ち言葉は模倣から始まる。小児が言葉を学ぶのは口真似に依るのであり、それは又動作や形状、大小強弱等の表情の模倣である。更に文字に於ては、象形文字が形態の模倣に基くことは云うまでもない。模倣は感覚像に基く身体的近似化であると共に、やがて精神的近似化となり、思想的類推となり、遂に種々の形を複合せる類似体にまで結晶する。
この類似体は即ち象徴にほかならない。象徴は視聴触味嗅等凡ての感覚的示唆性を吸収し且つ利用する。惹いては感覚の記憶像更に感覚を超えた思想像の諸形相に交渉を拓く。而して言葉は斯かる象徴或いは象徴を担う媒質/メディウムとして代表的なる存在である。象徴必ずしも言葉ではないが、然し少くとも言語的でなければならぬ。ここに言葉の驚くべき応変性があり、而して又ここにその本質的な論理的意義がある。」
著者の言う論理とはシンボルの働き全体を蓋う広汎なもので、その問題にアプローチするためには、当時としても象徴(シンボル)について論じた波多野精一とか、エルンスト・カッシラーとか参照すべき哲学者の著作があったと思います。しかし著者の問題意識は広汎であっても、資料の参照という点ではどうやら限定されていて、どこまでも自分の思索を貫くという趣があります。あるいは「キリスト教哲学」の構築という自分の目的に邁進しているという印象を与えます。言い換えれば、著者は専門の学者とか研究者ではなく、独創的なキリスト教思想家だったのでしょう。
「我々は更に、言語のもつ尚一つの性質である表現性を考えねばならぬ。右に叙べた象徴性が言語の含蓄的且つ求心的な側面を形造るに対し、表現性はその発出的また遠心的な側面を示して居る。前者は「像」として、又静的存在としての言語であるが、後者は恰も波動のように、他へ向って働きかける動きとしてのそれである。一は固定的、一は発散的であるといえよう。」
ここに書かれていることなどは、どこか独りよがりな印象を与えます。しかし象徴性がラングとして、また言語の体系として蓄蔵された状態にある「言語」あるいは「象徴体系」のことであり、表現性がパロールとして、現に使用されている状態にある「言語」のことであるとするなら、理解できなくはありません。そういう、ソシュール言語学に通じるようなひらめきを示すところが、著者の特質ではないかと思われます。
「所で、今若し、言語における右の両性質と、これに伴う二重性に就いて更に省察を進めるならば、言語が人間そのものの性質を説明する論理的構築物として極めて有能であるという事実を我々は発見するであろう。即ち、例えばここに人格性を考えるとする。それは個人人格に於て若干の固定性を有すると共に、また社会全面に発出して、全く限界を設けないとも云えるであろう。凡て他者と相関的関係にあり自らははっきり中心をもつに拘らず、其人間的輪郭の大きさ広さ等を動きのない存在として示すことはせぬ。されば、人格は任意に限界づけが出来る(固定性)と共にまた全然出来ない(相関性)とも云えるのである。この一見矛盾的な性質は人間学的問題の種々な方面に適用されるべきものであって、たとえば所有権の如きものも、其範囲は一定の限界規定を行うことが可能なると同時に、その規定自体が固定し得ない性質のものであることをも発見する。知らず識らずの間に我等は極度に微妙で敏感なスライディング・スケール(*)を用いてあらゆる世間の問題を批判し評価しつつある訳だ。」
* スライディング・スケール:〔経済学〕スライド制、順応定率制(賃金・税などを経済状態に応じて上下させる方式)
この著者の思想を理解するために、丸山圭三郎『ソシュールを読む』(岩波セミナーブックス2、1983年)から、ソシュールの以下の言葉を引用します。
「人が語るためにはラングの宝庫がつねに必要であるというのも事実であるが、それとは逆に、ラングに入るものはすべてまずパロールにおいて何回も試みられ、その結果、持続可能な刻印を生み出すまでくり返されたものである。ラングとはパロールによって喚起されたものの容認にすぎない。
今ここで問題となったラングとパロールの対立は、それがランガージュの研究に投げかける光の故に非常に重要である。この対立を特にはっきりと感じさせ観察可能にさせる一つの手段は、ラングとパロールを個人の中で対立させてみることである。(……)そうすれば、このラング、パロールという二つの領域が殆んど手にとるようにはっきりと区別されるのがわかるであろう。ディスクールの要請によって口にされるすべてのもの、そして個別の操作によって、表現されるものはすべてパロールである。個人の頭脳に含まれるすべて、耳に入り自らも実践した形態とその意味の寄託、これがラングである。
この二つの領域のうち、パロールの領域はより社会的であり、もう一方はより完全に個人的なものである。ラングは個人の貯蔵庫である。ラングに入るもの、すなわち頭の中に入るものはすべて個人的なものである」(p.88)。
この引用によっても、著者はパロールとラングという言語(ランガージュ)の二重性に気づいていると言うことができるのではないでしょうか。
「斯かる固定と流動との随時適用の行われる理由は甚だ複雑であり、またその運用は繊細に段階づけられている。これを論理的構造と機能に於て正しく秩序的に処理しようとすれば、その具体的方法は言葉の論理学的研究にこれを求めねばならぬ。
言葉の論理といっても、無論これを文法と同一視することは出来ぬ。文法は此場合只一個の参考資料に過ぎない。言葉の論理を考えるに当っては、先ず言葉が自らの論理的性質によりて一種の構造性を与えられて居るという事実を観察せねばならぬ。」
著者は殆んど構造主義的洞察というべきものに近づいています。著者の言う論理とは構造(ストラクチャー)のことではないのかとさえ思わされます。
「言葉の論理的性質の第一は、そのネビュラ構造に於て窺うことが出来る。これは比喩的に便宜上附けた名称に過ぎないが、その意味は、一個の核と覚しきものが中心に存在し、これを囲繞する謂わば流動的な体質が、中心に近づく程固定的であり、外部に拡がるに随い稀薄になる構造を指していうのである。此構造は本書の重要な思想の一であるが、我々は言葉の問題から徐々に解明の機会を求めよう。また、やがてそれが人事百般から宗教の根本義にまで適用される事実の観察に移ろうと思う。」
ここで初めて著者の独自の用語であるネビュラ(nebula、星雲、星雲状態)という言葉が登場します。いわば認識の辺縁としての暗黙知(tacit knowing)にも繋がる洞察がここに示されているのではないかと思われます。
「言葉の論理の主要部を形造るアナロギアは、これを概念を基礎とする形式論理と比較する時、其処に鮮かな対照が見出されるであろう。概念論理は、そのアリストテレス的規定に基き、主として包摂性による限定作用に依拠するものであり、其結果は、意味成分を保存する目的から、内外を画線によりて分界する可分性の量的空間体を想定し、これを媒質として、其中に意味を浸染せしめることにより、辛うじて意味の揮散を防ぐ方策を講じたのであった。それ故、形式論理学に於ては、最早意味そのものを論究する希望は断たれ、唯意味を浸潤せしめたと考えられた媒体によりて間接にこれを論じうるに過ぎない。そして、此場合、意味は包摂関係によりて、謂わば平面的に規定されることとなり、随って、本来多次元的に豊富な意味内容は、ただ一義的性質にまで圧縮され――或いは投影され――てしまった。」
既に佐藤信夫の、レトリックと論理の「逆説」は「向きがちがう」という言葉を引用しましたが、あくまでも構文論的なレベルで推論形式を扱う形式論理学と日常言語の意味論とを同列に論じることはできません。著者が「文法」を自分の思想にとって余り役に立たないと見なすのも、同じ問題に繋がっています。記号論はそもそも構文論・意味論・語用論の「多次元的」な言語の現象に関わるもので、意味論に関わるということは、形式論理や文法(すなわち構文論)を目の敵にしてもよいということではありません。役割(向き)の違いに過ぎません。なお既に指摘したように、包摂関係は命題の成り立ちに関わる事柄であると同時に、言語現象のすべてに関わる基本的な事態でもあります。だからそれは、たとえばヤスパースの「包括者/包越者(das Umgreifende)」や、務台理作が西田哲学に基づいて論じた「つつみ・つつまれる関係」(『場所の論理学』)などへも繋がる重要な意義を持っています。著者はその点を見落としています。
「これに対し、アナロギアの論理は、この種の媒体を斥け、意味の表現体である言葉によりて意味関係を処理しようと試みるのである。此場合、言葉もやはり媒体の性質を有するものとして、意味の自由なる活躍に対し、種々な拘束を課する傾向を脱し得ないが、この種の抑圧の弊は大体に於て概念化と軌を一にするものであり、これを論理思索から除去することが可能である。」
言葉との格闘が言葉という媒体の制約によるものである以上、形式論理的な概念化を「斥け」たからといって、「意味の自由なる活躍」がそれ程簡単に達成されるとは思われません。しかし著者は、非形式論理的な、言葉の「論理的な」展開に期待を繋ぎます。
「形式論理の媒体は単一の性質をもつ。即ち素朴的空間の類比が示すような、無限可分にして等勢、ただ量的に大小の比較が出来、関係的に内外の差別が存する単一即全体的存在である。これに対し、言葉の世界は、多数の、性質を異にし、意味に於て多様なる単体「ことば」の集合である。この多数性と多様性は言葉の世界、そしてアナロギアの世界を造る上に是非共必要なのである。何となれば、各単元たる言葉は独立に自己の意味を保持するとはとは云え、其独立性は形式論理の如く孤立することを許さない。それは他の言葉への関係に依存する相互的従属性によりて均衡を保つことを要する。伝統論理学に於ても、概念を基礎とすることにあきたらず、命題を根底とする傾向を生じたのは、此道へ一歩を転じたるものとして、若干の進歩を其処に認むべきであろう。然し、命題の取扱うのは僅か数個の単元間の関係に過ぎない、また推論式もやはり此範囲を出ること遠くない。多数意味要素の複雑な有機的集合がどのような関係を形造るかは、所詮伝統論理学の処理し能わざる問題である。それでは、言葉の論理に於て、此集合が如何に処理されるべきであるか。」
形式論理は一面「支配の論理」であると言うことができます。記号に一義的規定を与え、推論の法則性を見出すということは、言葉を推論の「道具」としてモノ化する方向でのみ取扱うことを意味しています。言葉はその意味での「記号」(媒体/手段)となります。それは概念の関係に依拠する伝統論理学が「命題論理学」になったところで、基本的には変りません。言葉の意味現象は、そのような形式論理によっては捉えられないということは、言葉の多次元的な構造から言って確かなことです。しかし形式論理が人間関係の場に適用されると、人間の「多数性と多様性」が捨象されて、言葉は一元的支配の道具となります。「お前たちは日本人である。日本人であるならば、日本の国を愛するのは当然である」とか、「お前は日本という国家の公務員である。公務員であるならば、国家の方針、国策に従うのは当然である」という「論理」は、形式論理的に考えても破綻があるのではないかと思いますが(即ち現行憲法の「公理」と矛盾している)、そのような「形式論理」が政治的指導者によって好まれるのは、そこに「支配の論理」という側面があるからです。そのように考えれば、形式論理の外に言葉の論理を求めようとする著者の意図は、「多数性、多様性」の容認のために必要であると見なすことができます。しかしヒトラーがレトリック(弁論術)を意図的に利用したとされているように、言葉を多次元的に把握するだけでは、問題の真の解決には繋がりません。問題がより具体的になるというだけです。しかし言葉の政治性ということ(現実のドロドロした問題)は著者の問題意識の外にあります。
「此際注意を要するのは、言葉といっても、我々が現に使用しつつある言語をそのまま究極の標準としてはならないことである。ここには言葉を其純粋な形と意味に於て考えたい、という訳は現用の言葉には種々論理的に見て不純な加工が施されて居るからである。」
言葉を形式論理でもなく、日常言語でもない、純粋な形と意味において考えるとは、どういうことでしょうか。そのような「純粋な言語空間」を求める著者の意図が、宗教の論理(絶対論理学)を追究しようとする著者の基本テーマと結びついているということだけは、確かなことのように思われます。
「純粋な言葉は個性を有し、他の如何なる言葉を代用することによりても表わし得ない独自の意味を包蔵すると云えるであろう。然し此包蔵された意味はそれ自らは隠されて居る。これを表現するに非ずんば意味としての性質を発揮しない。そしてその表現は、他の言葉との相関関係に於てのみ行われるのである。それも他の一個の言葉との関係では充分でなく、他の凡ての言葉との相関関係に於て、始めてその包蔵する意味が発揚され、表現される。謂わば一つの言葉は他の一切の言葉と命題的に結ばれて居ることにより、意味が発現するのである。これを言葉の相互依存性と名づけることが出来よう。」
純粋な言葉とは、宗教の領域にアプローチするために想定された、「現象学的理念」であると言えなくもありません。
「これを要するに、宗教的思惟の基礎となるべき言葉の論理に於ては、形式論理に見るが如き、概念と命題とが原始要素を形造るという思想は受け容れられないものである。概念は法則定立を目的とする思弁性に適合させる為に特に加工された抽象的意味要素であって、意味そのものの純粋性は其処には見出せない。概念は意味を含んでは居るが、本質を示さず、ただ意味の媒介要素に止まるのである。此媒体を首位に置いた結果、意味の有する本来の構造性と具体性と活性とは形式論理から取り去られた。とはいえ、斯様な加工も、法則性に見るような一義的確実さを目的とする場合には必要である。而して、人間生活に於てはもとより、宗教の世界に於ても、この加工が利用される途は決して少くはない。然し、それは凡て副次的性質のものに過ぎないことも留意せねばならぬ。溌剌たる宗教思想及び体験の把持に当りては、斯かる加工による抽象性、平板性、及び内容の稀薄と作用性の欠乏が、却って妨げとなることが多いのである。
概念は所謂論理学諸原則の支配下にある。これ等は概念のために其一義性を約束するけれども、その代償として意味そのものは極度に萎微せしめられた。随って、宗教の境域に於て無力なるは勿論、日常生活の常識世界に於てさえも概念の有効範囲は極めて制限されていると云わねばならぬ。」
著者が形式論理の妥当範囲を承認しつつ、それが「事象そのもの」(意味の有する本来の構造性と具体性と活性)を把握する途ではないと言っているのは、明らかです。
「斯様な概念とは異り、我等の要求する単元要素は(a)非常に多義的である。(b)意味はこれ等要素の或集合体によりて相互的に保持される。故に各要素の孤立を許さない。(c)要素間の関係も亦意味要素である。即ち形式論理学に於て単なる繋辞に過ぎない関係が最も微妙な意味を表すことになる。我等は関係の関係を考え、更にまたそれの生ずる関係を考え、これを無限に進めることが出来る。その場合、関係せしめられた凡ての要素は決して抽象によりて捨棄せらるることなく、全論程を通じて悉く無限に随伴し、又断えず参照されるべき機会を有する。それ故、一個の高次関係要素は意味の一系統を統率するものである。(d)意味要素を「言」と名づける。但し、ここにいう言は必ずしも文法的思想に捉われたる日常語の言と一致するものではない。それの論理的に純粋なるものである。(e)言は(c)に於て指摘した統率性を有する。同時に、それは他の凡ての言によりて制約されるものである。これを言の被制約性と名づけられよう。統率性と被制約性とは言の個性を保障し且つ支持する。
(f)統率性は他を代表する意味を有つ。すでに表現と呼び来った思想のうちに代表の意もおのづから含まれて居るといえるであろう。」
ここに著者が「純粋な言葉」と呼んでいるものの構造が六点に亘って示されます。それは言葉の動的ネビュラ構造とも言うべきものです。あるいはソシュール的なラングであるとも言えます。そして著者は「純粋な言葉」の意味要素を「言(コトバ)」と名づけます。
「要するに、一個の個性を有する言が他の凡ての言と常に断えず交渉しつつ意味を展開し行くところに言葉の論理の特質が存する。
此場合、普通にいう「言葉」はあまりに習俗化して居て、充分に意味要素としての姿態と機能とを示さない。今ここに別な考え方を援用するならば、純粋な言葉は光に比すべき特徴をもって居るということが出来よう。聖書に於ては、光は屡々言と共に偉大な比喩の双璧を形造っているが、これは決して偶然ではないと思う。創世記劈頭には「神光あれと宣ひければ光ありき」と録されている。またヨハネ福音書の冒頭にもロゴスは光と殆んど同一視されて居る、「言に生命あり、其生命は人の光なりき」。
光は形を顕わすものである。言は表現し光は映現すると云えよう。言を光珠にたとえるなら、一珠のうちに他の一切の珠の姿が映現し、その映現した像は更に他の珠に反映し、その反映した影像は復たさきの珠の影像中に累現し、斯くして無限に累現を続けることが出来ると考えられよう。これは華厳経中帝釈天因陀羅網の比喩であるが、我等の言葉の論理の一面は極めて良く、そして美しく、この事事無礙法界中に描き出されたるを見るのである。
ここに重要なることは、一光珠のうちに他の一切の珠影が宿るという点である。つまり一つの言は言の世界の凡ての言によりて意味が生じるのである。此事は伝統論理学の知らざりし、絶対性の理解への鍵を供するものであると私は考える。伝統論理学は此点に於て全く無能な存在である。例えば一命題が真であるという場合其命題は必ず或条件の下に有効なのであって、或る時、或る場所等々の制約が当然導入されなければならぬ。而して制約は制約を要し、無限に溯る。無条件の命題は其処には存立を許されない。」
無限に累現を続けるということが、なぜ無条件の命題が存立するということになるのか、宗教の論理がなぜ「絶対的」でなければならないのかということに、私は根本的な疑問を持ちます。たとえば聖書の言葉と華厳経の言葉を並置しておいて、なぜ絶対と言うことができるのでしょうか。
「我等は絶対性を取扱い得る論理学を要求する。それは量の思想によりて導入された束縛的機械化的条件化的な規矩から自由でなければならぬ。随って包摂関係は此処では全然無力である。」
絶対性についてはなお検討の時を持つことにして、再三指摘するように、包摂関係にも「高次」の包摂関係があるということを認めなければ、そもそも宗教的な比喩すら成り立ちません。「言は光である」、「言は光のようなものである」という比喩が成立つとしたら、そこには、著者自身が解釈している通り、「言」と「光」とを「包み込む(comprehend)」了解、あるいは「包握/抱握(comprehension)」がなければならないでしょう。しかし著者には形式論理的に限定された包摂関係しか念頭にないのではないかと思われます。
「絶対性の論理は常に一切、全部、凡て、ということを問題の根底に置き、これ等を離れては決して徒に論理を働かすことをせぬ。一個の言又は光珠は他の凡ての言又は光珠と或関係にあるということが此際必要である。二個三個の格段な関係に於ても、その背後には必ずこの「一切」が控えて居るのが此論理の特徴である。そしてこの「一切」は旧論理学の「凡て」ではない。形式論理学の「凡て」は限界づけられた「凡て」である。絶対論理のは無限の凡てである。その区別は推論式が恒に仮説を前提又は予想することによりて明らかであろう。絶対論理は仮説性の形の場合でも、その背後には、いつも無制約なるものを恒に想定し、而してこれあるが故に、例えばドグマの権威の如きも、その論理的意義が確立されるのである。」
ここに絶対性の論理の根底にあるものとして、一切、全部、凡て、あるいは無制約的なるものという言葉が出て来ます。著者は限界づけられない「無限の凡て」に関わるものとして絶対論理学を構想しています。それによってドグマの権威の論理的意義が確立されると言います。ここで木村敏が『時間と自己』の「祝祭の精神病理」で取り上げた、ニーチェとドストエフスキーの例を参照することも無駄ではないと思います。著者も宗教の問題として、この後同様の問題に取り組むことになるからです。
〈「祝祭において、そして生のイントラ・フェストゥム的契機において、個々の自己存在の個別性は根底から疑問に付される。
『ディオニュソス的なものの魔力のもとでは、単に人と人との靭帯が再び結び合わされるばかりではない。疎外され、敵視され、あるいは抑圧されていた自然さえも、家出息子である人間との和解の祭を再び祝うのである。……ベートーヴェンの歓喜の頌を一幅の絵に変えて、幾百万の人が怖れおののいて大地にひれ伏すさまを、ひるむことなく空想してみるがよい。そうすれば、ディオニュソス的なものに近づくことができる。……いまや一切の人がすべての隣人と結ばれ、和解し、融け合うだけでなく、完全に一つになる。まるでマーヤのヴェールが引き裂かれて、この神秘に充ちた根源的一者の前にぼろ切れのようにはためいているようだ。歌い、踊りながら、人間はより高次の共同体の一員として姿を見せる。歩くことも話すことも忘れ、踊りながら空高く舞い上って行く……』(ニーチェ『悲劇の誕生』、ハウザー版著作集第一巻、24〜25頁)。
「いったい彼は何を泣いているのだろう? おお、彼は無限の中より輝くこれらの星を見てさえ、歓喜のあまりに泣きたくなった。そうして『自分の興奮を恥じようともしなかった』。ちょうどこれら無数の神の世界から投げられた糸が、いっせいに彼の魂へ集まった思いであり、その魂は『他界との接触』にふるえているのであった。彼はいっさいにたいしてすべての人をゆるし、それと同時に、自分のほうからもゆるしをこいたくなった。おお! それは決して自分のためでなく、いっさいにたいし、すべての人のためにゆるしをこうのである。『自分の代わりには、またほかの人がゆるしをこうてくれるであろう』という声が、ふたたび彼の心に響いた」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、米川正夫訳、全集12巻、429頁)。
「ディオニュソス的な自然との合一において、「一切の人がすべての隣人と結ばれ」、「完全に一つに」なり、「自身の体は一人身ではなく、みんなのために生き、生かされていること」が感じられ、「いっさいに対してすべての人をゆるし」、「すべての人のためにゆるしをこう」という、日常的な「言葉で言いあらわしがたい」この境地において、自己はもはや個別的自我としては成立しない。しかしそれによって自己が消滅してしまうのではない。「無数の神の世界から投げられた糸が、いっせいに彼の魂へ集まった思い」において、自己はいわば森羅万象が一点に集中する収斂点となる。この収斂点において、永遠の現在が現前する。ここでも、現在とはあくまで自己自身のことである。いままでといまからという有限な個別性の規定から解放された永遠のいまにおいて、宇宙大に拡大した自己が、根源的一者としての自然との和解の祝祭に酔いしれる。」〉
また著者のあとの記述とも関わるものとして、山之内靖の『受苦者のまなざし』の次の記述をも参照すべきでしょう。
〈『歴史哲学テーゼ』のベンヤミンは、明らかに『ゴータ綱領』をめぐるマルクスの批判的評註を念頭において語っている。この批判的評註を基準として『俗流マルクス主義』と対峙している。ベンヤミンは、危機の時代に『瞬間的』に姿を現わす歴史的リアリティに注目するよう呼びかけた。その『瞬間』において構造を顕在化する『モナド的結晶』を捉えなければならない、と主張した。しかし、その『瞬間』に姿を現わす『構成的原理』は、同時に、地球における全生命系の時間という超人類史的観点と連なっていたという点で『メシア的な時間のモデル』と重なるものであった。この神秘主義的な響きをともなう『瞬間』と『永遠』のつながり――その『モナド的結晶』――において語られたのは、十七世紀いらい支配的であり続けた『世界像』の転換を求める声であった。そこで響いているのは、十七世紀に始まる近代という時代そのものの終焉を告げる音曲であった。〉
しかし以上の引用からもわかるように、著者が「絶対論理学」として構想し、キリスト教のドグマの権威を論理的に意義づけるものとしている「事柄」は、果してその枠に収まり切るものなのでしょうか。
「論理学の特質として、凡てを相対と見た時、始めて絶対を論じる準備が出来たのである。恰も物理学における相対性原理の出現が、却って世界像の規定に絶対性を与える素地を造ったようなものである。何か動かし難い所与を措定し――例えば旧物理学の絶対空間の如き――これに執着するとき、最早絶対への道は塞がれる。いま我等の論理学は言葉を意味的単元と定めたが、それは各自、他の言に依存するものであり、若し他から関係が断たれたならば、其意味は全く失われる。概念は自らの衷に意味を保持しまた含蓄した。言は然らず、斯かる意味での保持体ではない。若し条件ということを考えるならば、各自は一切に条件されている。そしてそれが取りも直さず無条件であり、また絶対なのである。この側面は言の統率性によって表わされているのを我等は見た。一切による制約はとりも直さず一切よりの解放である。これが絶対論理の第一特質にして、それが最初の論理要素たる「言」に於て既に具現されて居るのである。」
著者は「一切による制約はとりも直さず一切よりの解放である」と言います。そしてそこに「絶対論理の第一特質」を見ます。そして絶対論理の意味的単元としての「言」にそれが具現されていると言います。著者にとってはすべてを相対と見ることが、すなわち絶対を論じる準備になります。これは吉本隆明の言う「関係の絶対性」といったものでしょうか。あるいは「あらしめられてある」相対的存在の反転として「絶対(あってあること)」があるということでしょうか。著者はどこまでも「絶対」にこだわります。
「而して此処に、如何にして絶対を把持すべきかの鍵が秘められて居る。即ち絶対とは非常な努力を以て能う限り資料を集めた結果漸次これに近接するというようなものではない。斯様な常識観で絶対を把握することは全く不可能事である。如何に苦心を払っても、本来が質的に絶対性を欠いて居るのだから致し方がない。絶対には謂わば急所又は「カン」どころがある。それは極めて小さなものであり、隠れたものである。それは決して捉えるに困難ではない。唯隠れているのと、人が絶対なるものを知らないが故に掴めないのである。
人間には、無限をそのまま把握する能力はない。絶対をさながらに体験しようと試みても、それは出来ない相談である。彼は有限の裡に生まれ、相対のうちに労する運命に置かれている。たとえ彼が物識り顔に無限を喋喋し、軽々しく絶対を論評したとしても、それは空疎なる大言に非ずんば他愛なき妄想に過ぎず、これに依って得る所は高々一種の自己陶酔に過ぎないであろう。我々は斯くの如き傾向に捉われてはならぬ。
人生は有限であり、相対である。然らばその有限と相対に於て、人間はいつまでも呻吟し続けねばならぬのであろうか。無限と絶対とを如何ほど考えてみても、それは一片の夢想に終らなければならないであろうか。ここに当面の問題が横たわる。今若し、その有限に閉ざされたるまま無限に参入し、相対に縛られたるままに絶対を体得するの方途が掴まれたとしたならば、その時こそは人間の期待し能う唯一の「道」が発見されたということが出来るであろう。」
ここに書かれている「有限に閉ざされたるまま無限に参入し、相対に縛られたるままに絶対を体得する」ということが著者の宗教哲学の眼目です。「絶対」という語に疑義を抱く私としても、暫くは著者の論旨に従って、その展開を見るほかはありません。なおこの章の最後の論述として、著者は「論理的把握」が意味することについて考察を加えます。
「我等はここに論理的把握とは何を意味するかを課題として考えてみよう。それは常識的に云って、事物を或る秩序に於て認識することに始まるのである。然らば秩序とは何であるか、その単純な形は如何。それは事物間に区別を設けること、即ち若干の群に分類することに存する、と答えられよう。そして分類は事物間の類似を認めることによりて始められるということが附言せられるであろう。これは確かに本当である。類似の認識は分類を可能ならしめる。この点伝統論理学も、我々の考えつつある絶対論理学も軌を一にする。ところで、然らば何によりて類似が認められるかと更に追究する時に、忽ち我々は論理の岐路に立つことを気付くのである。伝統論理学の教うる所に従えば、事物はそれを形成する属性の総和であり、それら属性のいずれかを比較の基準として採択することによりて事物間の類似如何を識別し、且つこれに拠って分類を行い得るというのである。然し、此際問題となるのは、属性の事物自体に対する本質的関係の如何である。つまりその関係の緊密であるかないかに準じて、分類の本質性と有効性とが決せられる。
これに依って見れば、属性の識別と摘出に先立って、属性の事物全体に対する本質的関係の如何が問われ、更に此関係を明らかにする為に、事物そのものの組成に就いての知識が予め想定されていることが主張されねばならぬ。これを言い換えれば、つまり、事物の構造体としての組織が先ず綜合的に予見せられ、而して後、この体系への指標/インデクスとして其属性の一つが撰び出されたことになる。されば、属性は事物の類似識別の規準、又随って分類の規準であるように一応は見受けられるのではあるが、それには該属性を標識として撰び出す論拠が先ず問われることを見のがしてはならぬ。さもなくて、属性に於て事物が漫然と示されると考えるのは本末顛倒である。
ここに一聯の事物があるとして、それに対する分類の仕方は幾通りも見出されるであろう。その属性が多ければ多いだけ、分類の仕方も多い。然しそれらの悉くが事物の本質に即した分類であるかと云えば、決してそうではない。その大多数は、たとえ実際上役にたつものと雖も、学的見地からは徐々に排除されるべき運命にある。実験的自然科学に於て、
分類の人為性が断えず自然性によって修正され置換される如きはその一例である。この自然性というのは、つまり分類される事物の本質的構造と想定される所のものを指すと云えるであろう。
然しこの本質的構造は端的に把握し得るような鮮鋭な形像を保ち、また的確に規定し得べき一義的意味を有するかといえば、決してそうではない。その構造は茫漠として捉え難く、その意味は多様にして且つ錯綜して居るのを常とする。この点、科学者は、若干個の簡単な公理的又は仮設的規定を以て究極のものと見做し、そこから出発するが故に、その悩みは少ないといえよう。然るに公理を有せざる哲学はここに非常な苦痛を経験せねばならぬ。
それ故、秩序を掴む第一歩として類同を求め、分類を施さんとする場合、これを哲学問題として考えようとするならば、頗る慎重な態度を要する。それには先ず「事物」を一旦思想的に溶解して後、これが再構成を試みなければならぬ。事物性は常識の所産である。それは極めて巧緻な組織体ではあるが、その構造は未だ素朴にして厳密なる学的検討には堪えない。事物的構成体は、ある格段な領域に於ては妥当するけれども、他の領域に対しては不適合であるように組立てられている。我等はそこに施されている特殊加工を見出し、これを排除することを努めねばならぬ。それが為には、謂わば論理学的微分を事物に対して行うことによりて事物の根元に達し、それに依って事物を組成する意味的単元を突きとめることが第一に緊要である。」
以上、要するに、著者は自然科学的分類と哲学的分類の異同を論じ、事物の常識的組成を溶解し、事物を組成する意味的単元を突き止めることが哲学の課題である、ただしそこには科学におけるような公理や仮説は存在しないと言っているのだと思います。またそれは事物の秩序(構造)を把握するために必要であるとされています。
「斯様な意味的単元は、これを我々の慣用する物質的連想から、単に顕微鏡的微小体と解し易いのであるが、それは謬見に過ぎない。また此場合、旧論理学の抽象性に基づく外延内包の方式を混入することも警戒せねばならぬ。単元は全体に対し、その一小部分又は単位を形造るに過ぎないが、同時に全体に対して自己の存立理由を主張する。その主張には二方面があり、一は全体に向って自己を働きかけしめることであり、一は全体を自己に於て反映することである。各単元は他の一切の単元に影響を及ぼすことによりそれらを支配すると共に、またそれら一切によりて影響され、全体の意味的運命を自己の裡に宿し、且つ担うのである。其処には各単元に就いて、それが他の一切の単元との間に連繋する関係が存し、その関係は更に新しき単元として新しき関係を生じ、斯くて無限に関係の関係を縁起するということが含意されている。」
この「絶対論理学的」世界像は、このあと出てくるように仏教的な「縁起」の思想に近いものがあります。
「以上の如き意味世界構造は、近くはライプニッツのモナドロジーを想起せしめ、遠くは印度の華厳思想に於ける事事無礙法界を連想せしめることは既に述べた。ライプニッツのモナードは「宇宙の活ける鏡」と呼ばれ、また華厳経に於ける帝釈天のインダラ網の寶珠は、各珠皆他の一切の珠影を宿し、その珠影中に更になお一切の珠影は累現せられ、三重四重とこれを累ねて極まる所を知らずとされた。これ等は壮美玄妙の詩想であり、且つ高度に洗練せられたる論理学的基本原理を示唆するものとして、深遠なる意義を蔵するものといわねばならぬ。さりながら、その発展を将来に期する絶対論理学的世界像がどこまでこれ等偉大なる先蹤に随うか、又どこでそれらと分袂せねばならないかに就いては多少後章に於て触れる所があろう。我等はここに一瞥し来った意味世界から兎も角も若干の論理性を摘出し来って以下の思想的展開に備えねばならぬ。」
こうして「絶対論理学」は〔其二〕の「意味の構造」に移ります。
第四章 絶対論理学〔其二〕 意味の構造
「旧来の論理学は中途よりの出発である。根本的論理要素と目されている概念、命題及び其背後に実存すると考えられている事物的存在の如きは畢竟常識による加工品に過ぎない。而して此加工に当っては、論理の純粋性は顧みられて居なかった。さればこそ、さきにそれを解体し溶融し、而して後純粋なる論理的再構成を行うの必要あるを示唆した次第である。そこで、当面の課題として、我々は旧論理学とは反対の方向に、真の源流を突き止めるべく溯航することが要求される。そして、そのためには、真理性とか実在性とかいうような、論理的に重要な思想も一応は考慮の外に置き、単に「意味」の純粋な形態の把握が兎に角先ず第一に試みらるるべきであろう。何となれば、真理とか実在とかいう思想が不純且つ歪曲されたる論理の上に立たしめられることは容易に可能であり、然もその事が当面の研究に致命的影響を及ぼし得ることがはっきり予察されるからである。
純粋論理学(絶対論理学)は要するに意味の学である。」
第三章の「言葉の世界」の議論は錯綜していました。著者が言葉の多面的な現象を視野に収めた上で、絶対論理学への道筋をつけようとしていたからでしょう。しかしここで改めて「純粋論理学(絶対論理学)は要するに意味の学である」という提題が示されます。先にも「純粋な言葉」をめぐる論述がありました。ここでそれは「意味の学」という形で再論されることになります。著者のいう「絶対」とは、上に示される限りでは、あたかも音感の勝れた人に「絶対音感」があるように、「絶対意味」、「純粋意味」の世界があるのだと言っているように思われます。著者が使う「絶対」という言葉の意味は、ただそれだけでなく、絶対という言葉も「多義的」ではないかとも思われますが、「純粋意味世界」に著者の思索の手がかりがあるのだということは確かです。
「我々は先ず意味要素の究極的単元を想定し、それが如何なる形態と構造性を示すかを考察して見たい。此単元は既説の如く言葉の性質をもつ。然し習俗化された言葉ではなく、其純化された形であって、これを辞書的に考えてはならない。
ここに謂う「意味」は恐らく不可定義的であろう。思想であり、物であり、関係、組織、実質、力、作用、力の対象等々凡てを含み、然もそのいずれでもない。漠然としているが、其漠然が却って純粋性と根源性とを示すものでなければならない。我々は斯様な「意味」の世界を少しく考えることに於て、純粋論理学又は絶対論理学の性質と構成とを左に垣間見たいと思うのである。」
ここから十四点にわたる著者の「意味」についての考察が述べられます。
「一、意味世界は意味単元より成り、而して単元は多数である。各単元は意味的個性を有し、各自性質を異にす。この特有なる性質は、一世界中に存在する凡ての単元にそれぞれ独自の存在意義を附与する。随って、一単元は他のいづれの単元によりても代換することは出来ない。」
この「意味単元」は、私が「範疇論」で述べた、言説空間に内在する、性質と分量との担い手としての「単子」に近いものがあると感じます。
「二、これ等多数の単元は二種の集合体を形成することを得。その一は共同の一単元に意味が関連するという条件に基き、二個又は二個以上の単元が互に代換し得ると規約されるような集合体である。これを群と名づける。
群の構造は、譬えていえば幾何学的円(又は球)の如きもので円周上(球面上)の各点は一個の共有中心点より等距離で在る。一円周上(球面上)の凡ての点は中心に対し一個の群を造ると云えよう。群の各員は同じではないが其中心に関して互に等しいのである。
集合体の第二は、意味的一単元が他単元に働きかけた場合、或者は他よりも親しさを有し、各員は親疎の階梯に準じて排列されることに存する。これを意味の系列と名づける。再び幾何学的比喩を以てすれば、一直線上の各点が起点より一々異なる距離に在ることが此集合の態様を示唆するであろう。
群と系列の二集合形態は、各単元に対して意味世界に存する凡ての単元を定位するであろう。それは次の波紋の比喩の如くである。」
著者は言語学(記号学)における連合と連辞の区別を語りません。しかしここで言われる集合とは「連合関係(rapport associatif)」のことではないかと思われます。丸山前掲書(p.168-169)によれば、連合単位とは同系列の要素群のことです。つまりソシュールも連合関係(記憶の倉庫)に関わって群化(groupement)、群(groupe)という言葉を使います。ただし著者のように群と系列を区別するのは二次的問題です。
「三、意味世界の空間的方式或は図式は無数の輪状または球状をなして水面上又は空気中に拡大する波動の比喩を以て多少説明することが出来よう。今仮に、池に石と水面の接触点を中心として環状波が生じ、波紋は漸次拡大し池水の全面を蔽うに至るであろう。また空中放電の場合を考えるならば、スパークの起った一点を中心に電波は球状をなして無限に拡がると想定し得るだろう。そしてこれらの場合、水面又は空中の凡ての点がその波動輪又は球膜のいづれかの一個に属すると看做すことも出来よう。
ここに意味世界を考えるに当り、一個の単元即ち言に於て論理的行動が起されたとしたならば、それによりて他の一切の言は右述の波動輪にも比すべき無数の群のいづれかにそれぞれ帰属せしめ得ることが考えられるであろう。」
ここに著者の「記号学的」世界像の一端が示されています。著者の言う「論理的行動」とは「記号的行動」と考えても良いのではないかとさえ思わされます。
「四、一単元は他の一切の単元を自己に於て反映す。即ち「宇宙の活鏡/ミロア・ヴィヴァン」である。
五、一単元は他の一切の単元によりてその意味内容を支持せらる。
反映と支持は同一事を二つの異なる立場から見たものである。反映を空間的立場、支持を時間的立場と名づけよう。」
反映とは言葉の「連合関係」、支持とは言葉の「連辞関係(rapport syntagmatique)」であると、一応は言えるのではないでしょうか。連合とは記憶の倉庫(という空間)の内部が参照されることであり、連辞とは言述(言説)の単位として、メロディーのように時間的に継起(連鎖)することによって、その「意味」が把捉されるものだからです。その二つの事柄(連合と連辞)は同時的に生起します。
「読者は右に於て、各単元がいづれの他の単元を以てしても代換し得ずという原則と、及び、それが群を組織することにより、代換し得るという原則との間に矛盾を認められたであろう。然るに絶対論理学に於けるこの矛盾は、公理科学の場合とは異なり、此体系を毀傷するものではなく、却って特性づけるのである。その矛盾が如何なる論理的意義を有するかは、章を追うて瞭かにされるであろう。」
ここで著者はアナロギアとパラドクスに関わる問題を予示しているように思われます。
「以上は意味世界の静的観察である。客観的に観た意味現象とも云えよう。これに対し、意味の動的方面を考えることはできないであろうか。
動的に考える為には、単元の多数性より出発せる静的観察とは逆に、一個の単元から出発し、その単元の他に働きかける影響を究明するのである。尤も、既述の波紋による説明は動的ではないかと質されるであろうが、比喩の主眼は波動性にあるのではなく、親疎遠近感による群の排列を示さんとするに存した。
動静の区別は寧ろ論理的性質に関すると云うべきであろう。簡単にいえば、静的性質は一対多関係に於て存し、動的性質は一対一関係に於てこれを認めることが出来る。右の波紋比喩に於ては一単元対群の問題であった。これは静的である。ところが動的関係は一騎打ちである。常に一個の意味要素から出発すると共に、その関係の相手も一個でなければならぬ。それ故、若し群に対して動的に作用する場合には、その群はこれを形成する一員によりて代表されることを要する。動的関係は凡て個対個でなければならぬ。また逆に、個対個の関係によりて、それが動的なることを識り得るであろう。所謂「我と汝」の関係はこれに近い。これに反し、一対多ならば、それは静的である。」
ここに書かれていることは、直ぐには理解できないような事柄です。「常に一個の意味要素から出発すると共に、その関係の相手も一個でなければならぬ」、それが「一騎打ちの動的関係である」ということは何を意味するのでしょうか。もし連合関係は一対多という形での記憶の群化(grouping)、あるいは「貯蔵庫」として静的であり、連辞関係は一対一的に辞項を結合することによって動的であるという風に理解してよければ、理解できそうな気もします。しかし著者がここで考えていることは、むしろレトリックの問題ではないかと思われます。一つの意味単元ともう一つの意味単元とが結びつくということは、リクールの言う「生きた隠喩」が成立するということです。例の川端康成の表現を借りれば(あれは直喩でしたが)、芸者駒子の「唇」(特定の人物の顔の一部)が「蛭」(環形動物ヒル網に属する一つの生き物、または、他の生き物ではないその生き物)に譬えられるということは、そこに一対一の動的な関係が成立するということではないでしょうか。
著者の観点からは少し外れますが、丸山圭三郎が前掲書において「静態と動態」について論じているところ(p.273-374)を、参考までに引用してみます。
「そもそも、すべての動き、運動には二項の対立が必要であり、静的な一元論や二元並置論と力動的な二項対立を峻別すべきであろう。体系内においては一切の辞項termeが他の辞項との相互関係に置かれること、また体系自体が自己の内部に対立物を含み、これによって自己否定運動を起して乗り越えることこそ、ソシュールの考えていた「均衡状態に置かれた力/フォルス・アン・エキリーブル」としての静態statusと「動きつつある力/フォルス・アン・ムーブマン」としての動態motus(断章番号1338および手稿11、12参照)であった。この関係と関係づくりの間に見られる弁証法的運動は、ラングすなわち〈構成された構造〉とパロールすなわち〈構成する構造〉の間の動きでもあり、共時的視点から見た静態的体系と、通時的に捉えた「偶発事としての出来事の体系への組み込み」でもあるのであって、コトバは差異の体系であると同時に互いに差異化しあい自己を組織化している〈動くゲシュタルト〉にほかならない。そうしてみると、シニフィアンとシニフィエが互いの存在を前提としてはじめて存在するのと同じように、ラングとパロールも、共時態と通時態も、互いの存在があってはじめて存在し、相互間の運動過程から生れる存在なのであって、まさにこの意味でこそ、コトバはラングであると同時にパロールであり、制度としての構造であると同時に歴史であると言えるのであろう。ソシュールのとった立場は、二項対立の弁証法を包み込んだ、〈力動的一元論〉なのである。」
この先著者は静動の区別に関わる九点にわたる考察を展開します。それは著者自身のキリスト教哲学の論理構成であって、独自の言語哲学と言うべきものです。
「六、一対一なる動的関係は、その作用の結果として、一個の新しい意味要素を生ずる。此複合要素は原単元と常に連関すると共に、またそれらより独立した存在である。そして複合は右の過程をいつまでも続けることにより、無限に拡大し、遂に世界全体をして錯綜を極むる網状組織たらしめる。然し、もとより、それは混沌を意味するのではなく、却って高度の論理構造を示すものであり、斯かる構造のうちにこそ宗教の超越的合理性が存するのである。」
先に見たように、「生きた隠喩」の生成、あるいは言語の比喩的網状組織のうちに、著者は宗教の超越的合理性を見ようとしているということでしょう。
「七、これに由って観るに、一個の単元又は複合要素が意味的動態に於て在るとき、それは意味世界全体を代表するものである。静態に於ける映現性は動態に於ける代表性となる。而して其関係対象も亦代表性を発揮する。されば、一個の関係が結ばれたる場合、其関係に於て世界全体がこれに参与し、しかも二要素を通じて二重に参与する。静態に於ける支持性は動態に於ける参与性にほかならぬ。」
ここに映現性(静態)と代表性(動態)、支持性(静態)と参与性(動態)という「二項対立」が示されます。それは著者の思弁的構成であって、それがどこまで「実証的」たりうるか否かは別の問題です。次も同様です。
「八、映現性(静)と代表性(動)とは、いづれも同時的な拡がりに於て考えられ、これを空間的と名づける。支持性(静)と参与性(動)とは、これに対し時間的性質と呼ぶことが出来よう。即ち、静、動両態ともに空間時間の二種の排列を有する。」
著者の言い方に従えば、映現性(一単元によるすべての単元の反映)の動的(実践的)様態が代表性(一つの単元が実際に選択されて世界を代表する)であり、支持性(すべての単元による一単元の内容の支持)の動的(実践的)様態が参与性(二要素の結合という関係が実際に成り立つと、その関係に世界全体が参与する)であるということができます。先述したように、前者は連合的/空間的に思念され、後者は連辞的/時間的に思念されているということができるでしょう。
「九、意味が動態に入ることは、要するに意味世界に変化を起すことであろう。但し我々が習慣性から自然科学的に考える変化とは其意味を異にする。自然現象に於ては、変化されない以前の姿相は変化と共に全然消え去ると見るのを通則とするが、此場合には進展を意味する。即ち、以前の姿は保存されつつ、唯その表現を異にして開現するのである。」
ここに意味世界における「創造的保全(conservation)」、「創造的忠実(fidelity)」の根拠を見ることも可能でしょう。G.マルセルの思想がその一例です。
「十、意味的動態に入ることは一つの作用を生ずることである。此作用は決定を行う。決定はその空間的、時間的の二表現に準じ、空間的なるを限定、時間的なるを規定と呼ぶことにしよう。」
なぜ空間的な決定が限定と呼ばれ、時間的な決定が規定と呼ばれるのでしょうか。これも連合関係における決定は意味的空間的限定であり、連辞関係における決定は構文的時間的規定であるとすることによって理解できるように思われます。なお私自身は、限定は実践的であり、規定は理論的であると考えてきました(「哲学の七つのターム」参照)。
「十一、限定は空間的作用であり、代表性の活躍する舞台である。随って、代表される一叢の群が其処には引合わされる訳になる。而してそれらの群は親疎近遠の階梯を作って中心要素を囲繞するのを見るであろう。
十二、規定は時間的作用であり、参与性によって特徴づけられる。空間化に於ては作用要素の「自」性が主張され、これに対する「他」性が推定されたが、自は他を圧して無限に拡大する傾向が見られた。謂わば自己は厚い衣を幾重にも着るのである。これに対し、規定作用の時間化に於ては、自性は限りなく収縮し、赤裸々となり、自己の領域は全く失われるに至る。自己規定は、斯様に自己を一点に収斂することによりてのみ可能である。そこに始めて時間の働きが感ぜられる。」
この「十二」の項目で著者が見ているものは一体何なのでしょうか。空間化においては自性が拡大し、時間化に於ては自性が収縮するとはどういうことでしょうか。ここで空間化とは、意味的拡がり(意味空間)においては作用要素(意味単元)の自性が主張され、それが他を圧して無限に拡大する傾向があるという具合に理解してみたいと思います。象徴は無限個を代表することができます。それに対して、「規定作用の時間化」において自性は限りなく収縮し、「自己の領域は全く失われるに至る」ということは、連辞の成り立ちに関わっているのではないでしょうか。意味の連辞的排列には時間(時制)が関与しています。そこでは意味の自性の拡大ではなく、時間の一点にまで意味の自性の収縮(自己規定)がなされます。参与性(支持性)とは、意味の自性の時間的連辞的自己規定のことであり、想像力(意味空間の拡がり、「連合野」とでも言うべきもの)とは逆の方向に作用します。換言すれば、時間化とは意味の他性に直面することであり、意味の自性を滅却する方向で働きます。著者が見ている時間化とは、意味的空間における想像力(イマジネーション)の対極にあるもの、すなわち意味的時間における「実現力/理解力」(リアライゼーション)なのではないでしょうか。
「十三、意味的時間は常識的見解による連続感の如きものではなく、瞬間の把握に於てこれを認め得るのである。さらば瞬間は如何にして捉えられるかといえば、それは「切断」に於てのみ可能となる。連続感の停止に於て却って時間化が行われるのである。これは不可解の事に思われるが、この停止は動きの極に於て窺われるものと解すべきであろう。」
理解は瞬時に訪れます。その切断の瞬間に却って「時間=自己」が実現します。著者はその機微に触れているのではないかと思います。
「十四、ここに『無』が始めて顕われる。論理的無とは何もかも無くなることではない。自己規定が行われる場合自己に於て顕われる状態を指していうのである。自己が滅却することではなく、自己に於て他者が如何に働くかを見んが為に、自己が其機能を停止するのである。そのとき、自己の支持者なる一切の他者が参与者として自己を通して働き出でるのである。」
自己が無になるとき「実現力/理解力」が働き出ます。そのときにこそ「存在の無限なる模倣」が可能になります。一切の他者が、意味的動態における参与者として、自己を通して働き出ます。意味単元としての自己(自性)は、(想像力における)代表的空間的「限定」において拡大し、(実現力/理解力における)参与的時間的「規定」において縮減します。ちなみに西田幾多郎は時空を含めて「限定」一点張りで思索した人であるような印象を持ちます。
第四章はここで終わります。
第五章 絶対論理学〔其三〕
自我とその作用
第五章は「自我とその作用」および「未来と他者」に分けられます。先ず、「自我とその作用」から見て行きます。
「以上略述し来った『意味の世界』は、一面よく純粋な論理構造を保有すると共に、他面実存在世界の具体的様相を我らに示唆せんとするものである。伝統的論理に基く思惟方法によれば、論理的なるものは抽象的また観念的であり、具体的なるものは非論理的而して非合理的であると看做され来った。然るに我々は斯様な傾向を以て論理の歪曲乃至観念論的貧困化となし、これを排除せんとするものである。純正なる論理は常に具体性を保有せねばならぬ。具体的なるものを非合理と呼ぶことは――現今の流行として――これを許すとしても、それを以て論理の圏外の事象視することは一種の思想的に卑怯なる態度或いは哲学精神の裏切りにほかならない。」
著者は具体的なものを「論理的」に考察するために、前章「意味の世界」において「純粋な論理構造」を解明しようとしました。そこには、西田幾多郎が「対象論理」を越える「場所的論理」を構築しようとしたことと、一脈通じるものがあるでしょう。しかしそれは、今日風に言えば、「対象論理」を越える「メタ論理」の探究と言い換えてもよいものではないかと思われます。それは(宗教言語を含む)日常言語の使用に関わる領域の論理的考察であって、必ずしも「絶対論理学」などと大袈裟に構えなくても済む事柄であると思います。(言語には「対象言語」と「メタ言語」という形で、相対的な階層性があるということは、バートランド・ラッセルの「階型論(theory of type)」以来の「哲学的常識」です。)それは兎も角、著者はその考察に基づき「自我」の問題に取り組むことになります。
「論理の抽象的取扱の跡を看るに、それは単純にして抽離された原始要素――概念――を先ず取り出すことを心掛け、且つそれに成功せるやに見えた。ところがその実この成功は論理学の活性を奪い去るという悲しむべき結果を生じたのである。精神の自由活動に関する限り、アリストテレス論理の命運は尽きた。然し此事を気付かなかった後世の哲学者神学者等の立場に至りては更に気の毒なものがあったと云うべきだろう。我々はその覆轍を踏んではならない。」
再三指摘するように、仮にアリストテレス論理の命運が尽きたとしても、それは形式論理(対象論理学)の役割が終わったということではありません。著者が期待する「論理」とはその向き(役割)が違うということに過ぎません。それはデジタル時計とアナログ時計の違いのようなものであって、今日の数学的論理学とコンピュータ科学との関連を見れば、「形式論理」が死滅したなどと到底言えるものではありません。
「論理学的要求として、無論我等は論理世界の単元にまで分析を進める必要を感じたが、其場合、世界からこれを抽離することなく、どこまでも全体との系統的関連に於てこれを処理する態度を失ってはならない。意味世界と其単元とは此態度から生れた思想である。」
私はこれを「対象論理」から「メタ論理」への移行として捉えます。著者の言う「絶対論理学」は「メタ・メタ論理」であると言えなくもありません。
「我々は具体性ということをいつも念頭に於て論究を進めよう。ところで、具体性とは如何なることかと問われたならば、何と答うべきあろうか。或人は感覚に訴うる事象と答え、又或人は連想の広範囲に亘り、且つ内容の豊富複雑なる事象を指すと返事するであろう。然し、これ等は謬っては居ないまでも、未だ論理的ではない。此際論理的見解と常識乃至科学的見解とは必ずしも一致するとは限らぬ。後者に於て具体的と考えられる所のものも前者に於ては抽象的かも知れず、更に其逆の場合もないとは保し難い。論理的にいえば、全体が個体に映現されて居るという意味単元の性質こそ具体性の根本的要請である。然し、それだけでは充分とは云えない。如何に映現されているかが説明されねばならぬ。この「如何に」を説明することに於て具体性の特質が見出されるのである。我々は此「如何に」の特性を便宜上名づけて「ネビュラ構造」と呼び、以下の論述に用うることとしよう。要するに、或る意味的事象に於て此構造が見出されたならばそれは論理的に見て具体的事象であるといえよう。これを欠くならば、如何に常識上具体的と見えても抽象的なるを免れまい。」
著者はここで「全体が個体に映現されて居るという意味単元の性質こそ具体性の根本的要請である」ということと、具体性が「いかに映現されているか」ということに関して、「ある意味的事象に於てこのネビュラ構造が見出されたならば、それは論理的に見て具体的事象である」という二点を指摘します。これは著者の根本思想と言うべきものです。
「これに由って観れば、具体の『体』は物質的とか感性的とかいうことではなくて、体系的ということに帰する。そして、其処には分析と綜合が同時に行われるという特性が見出されるであろう。」
体を具えるということが「具体」であって、通例それは感覚的に確認できるという意味で使われます。しかしその「体」が体系的ということに帰するということは、著者独自の思想です。あるいは著者は、現象学的に「還元」された世界でものの本質を捉えようとしているということなのかも知れません。「純粋」とか「絶対」とか「モナド」とかの言葉遣いは、少なくともフッサールに親和的であると言えます。
「ネビュラ構造の性質に就いては前章の意味組織の叙述がこれを含むのであるが、我々は徐々にその具体的機能の展開を種々な相貌に於て目撃するであろう。此構造は全体的世界に於て見出されると共に、各単元に於ても、また単元の複合要素に於ても顕われ来るものである。
モナドロジー世界や事事無礙法界は此点示唆する所多いのであるが、然しそれは我々が其処に止まって満足するという意味ではない。それらはよき発足点を供するも、満足なる帰結にまで導くものではない。従って我々の要求する世界を与えるものではない。それ故ネビュラ構造は独自の方向に進まねばならぬ。因陀羅やモナードの世界は絶対性を暗示はしたが、それを我等に体得せしめるものではなく、唯朧ろげに想像せしめるに過ぎなかった。然るに我々は絶対に於て、又これに即して生きなければならぬ。勿論朧ろげな想像だけでも洵に壮美にして、人の魂を奪うに充分ではあるが、我々の目ざすのは、『目未だ見ず、耳未だ聴かず、人の心未だ想わざりし』世界である。それは眺望し観照するだけの世界ではなく、我々自らその中に突入し体験して見なければ充分ではない。」
著者の思い描く「絶対」がモナドロジーや事事無礙法界の「累現」の世界と親縁性を持つということは、既に述べられていました。著者は「我々自らその中に突入し体験」すべきものとして、それを提示します。それは「絶対の所与」として我々に与えられるべきものであると言いたいのでしょうか。
「諸君は恐らく絶対論理学の根本要素として挙げ来った意味単元なるものの性質に就いて充分理解の焦点を合わせ得ない憾みを持たれたことと思う。それは概念であり得ず、また「物」の範疇にも入らない。それは極めて想像的な哲学的閑人の夢想の所産のように思われたかも知れない。ところが、実際は、この意味単元ほど卑近な、感覚的な、具体的な存在はないのである。私は此単元の要求する諸条件にぴったりと適合する典型的一例を諸君に呈示しよう。それは即ち「自我」である。
自我――それは何と諸君に近く親しみある存在ではないか。私は必ずしも哲学的自我とでも名づくべきむづかしい観念的所産を指すのではない。諸君は銘々に自我を持つと感ぜらるるであろう。飲み食い、笑い怒り、悦んだり悲しんだり愛したり憎んだり、興奮したり眠かったりするあの自我である。それを知らない、感じない、という人は先ずないであろう。これ程具体的な実存的な存在は他に求め得まい。そして、その自我こそ、絶対論理学的単元の代表的好例としてここに推奨せんとするところのものである。」
こうして著者は漸く絶対論理学の意味単元としての自我という問題に入ります。このあとは暫く、これまで自我がどのように考えられてきたかについて、「著者の観点からの」やや詳細な論述が続きます。
「ところで、そのような溌剌たる自我を諸君は如何に取扱おうとせらるるか。先ず諸君はそれを手ごろな形に取り纏めようと試み、而してそれが結局徒労に帰するを気づかれるであろう。という訳は、斯様な取り纏めの努力は畢竟自我を概念として凝結せしめるか又は物として固定せしめるかよりほかに方寸は立たないからである。君の自我は或特定の瞬間、無数の条件の下にかかる凝結固定をなし得たと思われるかも知れない。しかし次の瞬間にはそれは既に再び鎔けるか或は気化し去っているのに驚くであろう。個人的自我は我等銘々が自覚し且つ自ら実験し得る境域である。今ここに自己とは何ぞやと問うならば、それは多数の円環的限定によりて制約せらるるを見出すであろう。即ち肉体があり、所有財があり、家族があり、交友があり、組合があり、社会国家民族、人類というような制約的存在が、悉く皆自己を限定するものとして我等の周囲に在る。更に規定的にこれを考えるならば、それらの円環は親疎の段階に準じて排列することが出来る。尤も其排列は時に応じて様々に変化し得るものではある。例えば、肉体の如きは最も自己に近き存在と通常考えられては居るが、時としてはこれを疎隔して取扱う場合もないではない。高度の道徳的行為、乃至宗教的境涯に於て、肉体及び物質的関係は斥けられる場合も多々有り得る訳である。」
ここに既に意味単元の円環的限定、親疎の排列的規定という表現が出て来ます。
「人或は次の如く言うかも知れない。右の円環的限定と其親疎の段階的序列は自己に属するものであって、自己自体ではない。自己は自同性によりて自らを保持する恒存的存在ではないか。其円環を除き去った中心に不変の自我が見出されるべきであると。然し、此抗議者は自ら自己検察を試みることにより、自己の構造が恰もらっきょうの如く、皮を剥いでも剥いでも芯と覚しきものに逢着しないことを気付くにちがいない。或人は自我の限定を自己の肉体に求める。これは日常生活に於てまことに便利な限定に相違ない。物質的なる我と精神的なる我との会合線として、此一線を扼することは自我観をして有効且つ安定な地歩を占めさせることである。
然しながら、今少しくこのデリケートな物心の平衡を破り、精神的な自我を強調する場合には、肉体の物質性は忽ちにして自我との本質的脈絡を失い、自我の限界外に押し出されてしまうであろう。その結果如何なる変化に対しても同一性を失わないような自我の限界が追求せられ、為に限定域縮小の過程が無限に進められるであろう。但し、これはらっきょうの皮むきで、この過程をどれほど進めても、その芯には達せず、随って捨離し難い恒存的限界線を確保することは到底望めないのである。
それと同時に、また一方には、肉体が自我の付随物に過ぎないにも拘らず、なお自我の本質的部分と認められる立場の依然として存すること及びそれが充分正当視される根拠を有することを発見する人は、右とは反対の方向に、即ち自我に属するあらゆる環境的事物を順次に自我に吸収消化せしめることによりて、自我の領域をどこまでも拡大させてゆくことが出来よう。
斯くの如く、我々は自我をして意味の中心的一点にまで収斂せしめることも、或はまた全宇宙一切の世界を抱合せしめりことも共に可能である。我々は機に臨み時に応じて、如何ようにも限界を設け、自己限定を行うことが出来る。」
ここに著者は自我の伸縮自在性を指摘し、自我の自同性という芯を確定すること(らっきょうの皮むき)の不可能性を論定しています。
「従来精神史上繰返し試みられ来った哲学的努力は、斯様な端倪すべからざる自我を何れかの程度と段階に於て固定し、それを以て自我の真の姿であるとなすことに存した。その極端に達したのは唯我論に於てであり、この思想によれば、自我は全宇宙大にまで拡がってこれと合致するに至った。以下、或者は人間の集団たる社会有機体に限界を置き、或者は肉体的個人を根基とし、乃至は肉体的存在に含まれたる何ものかであるとし、更に、一切の固定化を不備と感じて、自我の現実性を放棄し、単にこれを一個の原理として措定することを以て満足するような思想系統を生じて、限定の段階は千態万様の型相を呈するに至った。
然し、斯くの如き努力は要するに皆アリストテレス論理の規範に則って自我を処理しようとしたアカデミックな試みの数々の表現に過ぎない。少なくとも此論理の強き影響から脱却しては居ないと思う。自我を哲学的に扱う為には、そこには何かこれを感触し得べき形に凝結する必要を認めるのが通有の傾向である。然し、中には此企図を試みた末に絶望した人々も少なくない。その人々は観念論的に自我を溶解して、自我を何事にも適合し、しかも何事に対しても充分有効ならざる観念的所産に還元するの途をとった。自我をしてわずかに認識に関する機能と役目を担わしめるに止まることとなり、為に自我の他の重要なる側面、即ち意欲し情感する自我は全然関心外に除去されるに至る。こうなっては、最早哲学思想のヴィタミンは殆んど残らない。
我々の要求は、自我が具体的実在でありながら、円融無礙にして、固定されることなく、しかも特殊の場合に臨んで、自在に限定を行い得る応変性を具有することにある。
斯かる自我は従来の哲学に於て未だ満足すべき取扱を受けた経験に乏しいのではあるまいか。近代哲学は自我の問題を其基調としたに拘らず、これに充分な論理的処理法を講じて居なかった憾みがあるように思う。」
ここから漸く著者は自我についての独自の思想を展開することになります。
「人或は、このような自我論が宗教哲学に何の本質的関連を有するかと問うかも知れない。私は暫くの辛抱をその人に願う。無論自我を論ずるのが此書の究極の目的ではないが、自我を以て絶対論理学的性質と機能とを説明する典型的モデルと看るが故に、その看点からこれを論ずるのが当然の筋道と考えられるのである。
さて然らば自我の意義は如何。我々は先ず自我の意義は限定と規定の両作用によりて生ずることを注意したい。自我は自らを一個の原子よりも小なりとすることも出来、また宇宙の大を以てしても尚未だ自らを容るるに足らずと考えることも出来るような存在である。これ即ち限定作用の行う所であって、時に応じて伸縮自在となす働きである。然し限定作用だけでは自我は量的存在に過ぎず、未だ質的内容を欠いている。随って意味をもつに至らない。意義づけをなす為には質的なる意義づけの作用を行わねばならぬ。これ即ち規定作用である。規定は自我を自我以外の存在に対して関係づける。限定に於ては異種異質的他要素を度外視するが、規定は自我を質的一単位と見、他に無数の自我と同類の要素が存在して、それらに対する関係に於て自己の存立が意義づけられると観ずるのである。
然しながら、自他を対立せしめるとはいえ、規定は限定作用と同時に働くものであるから、自他関係のうちにおのづから親疎の別が生ずるを免れない。たとえば、自ら住んで居る家は他人の家よりも親しみを持ち、自己の肉体の一部なる片腕は、これを切断しても自我を失うことはないに拘らず、自己の机や椅子とは比較にならぬ重要さを感ずるであろう。斯様に規定限定は相関的に働き、自我世界を親疎、遠近、乃至価値軽重の微妙なニュアンスに暈化(うんか)することになる。これがさきに指示した自我のネビュラ構造を形造るのである。」
著者はここで限定を量的に、規定を質的に把握しています。これは独自の用語法であって、他に例を見ないのではないかと思われます。いずれにしてもここから自我のネビュラ構造の解明が試みられることになります。
「自我のネビュラ構造はまことに不思議な、捕捉し難く端倪し難い存在である。とはいえ、何人もそれに就いて実は相当な経験と知識を有して居るにちがいない。唯それが従来の論理学的尺度に合わず、科学の網で掬えない性質のものなるが為に、充分に把握し得なかった次第なのである。
絶対論理学はこれを把え得るものでなければならぬ。此目的の為に我々はここに空間及時間の方式を導入しよう。但しこの空間及時間は心理的、物理的又は数学的なそれではない。後者はよき示唆を与え、よき比喩を供し、思想訓練上貴重な準備的役目を果すものであるとはいえ、それをここに考える絶対論理学的空間及び時間と混同してはならない。カントの形式的時間空間も、たとえそれが我等を啓発したことに於て偉大なる貢献であるとはいえ、此場合未だ掲げて以て範となすには甚だ物足りない。
此処にいう空間及時間は、右述のネビュラ構造に於ける親疎、遠近、軽重の感じから直接に示唆されるような、いわば単なる感覚性を以て我々に訴える所のものである。一面に於てネビュラの座標系となり、意味の次元を形造ると共に、一種の形式に止まらず、一種リアルな存在として認められねばならぬ。それは理智的であると共に情意的であり、論理的なると共に心理的でもある。ちょうど我々の視覚に映ずる遠近法が透視的/リニアーにして又濃淡/エーリアル(aerial)であるように、時空のパースペクティヴもこれを連想せしめる二性質を保有している。」
フッサールの極めて煩瑣な現象学的自我論に多少なりと触れた者にとって、ここに提示されているネビュラ構造としての自我論は単純明快です。しかし問題の立て方は基本的には近似していると言うべきでしょう。最後のパースペクティヴの問題については、メルロ・ポンティの『眼と精神』における次の記述が参考になると思われます。
「……ところが、ほかならぬ画家たちは、遠近法のいかなる技法も正確な解決ではありえないこと、実在の世界のどんな点も損うことのない投影法、したがって絵画の基本的法則となるに価するような投影法というものは存しないことを知っており、そして線遠近法(リニアー・パースペクティヴ)は到達点であるどころか、かえってそれこそは絵画にいろいろな道を開く出発点にすぎないことを、経験によって知っていた。事実、そこから出発してイタリア人は直接に対象描写の道を選んだが、北方の画家たちはいわゆる高空間・近空間・斜空間……の道を選んだのだ」(滝浦・木田訳、みすず書房、p.277)。
ここで言われている高空間・近空間・斜空間…とは、すなわちエーリアル〈空間的〉・パースペクティヴであると言えるでしょう。
「限定と規定の両作用が自我定立の為に共働する結果として、右の如きパースペクティヴが現われるが、それは通常我々の意識のうちに次のような段階を形造って居る。即ち先ず中核の一点として、自我の本質又は実質というようなものが存し、これを囲繞して、自我に属する所のもの即ち附随体とでも称すべき一地帯が存し、更にこれを囲繞して無限に拡がる境域が、自我に何等かの交渉を有し、その厚薄多少によりて遠近を形造る関連体を以て組成されて居ると考えられる。斯様に本体、附随体、関連体の三重に分たれるものの、その各々には更に限りなき親疎の階梯が設定せられ、しかもそれは自我の刻々の動きによりて絶えず変化してやまない。而して各領域は極端の場合、凡て自我のうちに取入れて考えることも出来(自我限定)、或は其反対にただ中核的一点を残して、余の凡ては他者であるとも思惟し得られる(自我規定)。然し平常の場合には附随体及関連体は自我にしてまた自我に非ざる中間性を帯びている。」
ここに自我のネビュラ構造が「本体、附随体、関連体の三重に分たれるもの」として示されます。そして著者の観点から「各領域は極端の場合、凡て自我のうちに取入れて考えることも出来(自我限定)、或は其反対にただ中核的一点を残して、余の凡ては他者であるとも思惟し得られる(自我規定)」という、自我の伸縮自在性が提示されます。
「このようなネビュラ構造は所謂合理的世界とは著しく事情を異にし、後者の論理即ちアリストテレス論理及び其影響下にある伝統的論理では全然処理し得ないところのものであると思う。さきに人間対人間の世界が人間対自然の世界と根本的に異なる論理を必要とすることを述べたのは此理由によるのである。対自然関係に於て我等が構成する科学の体系即ち合理世界では、肯定否定の別は画然と区別されてあり、而して此区別の上に思惟の原則は成立するとされて居るのに、右に考え来った人間対人間の世界に於ては、此区別は斯かる簡単な基礎の上に据えることが不可能である。」
著者は、形式論理が適用されない複雑な人間対人間の世界を見据えています。そのとき著者の眼前にあるものは自我のネビュラ構造です。
「限定作用の肯定する所を規定作用が否定することもあり、またその逆の場合もある。いな、両者は逆に働くのが常態であるといえよう。しかも、両者は一緒に働くから、肯否は錯綜して一種のニュアンス状態――恰もコロイドが固体と液体との中間にあるように――が生ずる。このニュアンスを合理世界に投影すれば確率性の境域を作るが、それは極度に抽象化されて居て、到底ニュアンスの真の姿を伝えることは出来ない。」
著者は自我の拡大の方向に空間的量的限定を見、縮小の方向に時間的質的規定を見ます。しかも両者は一緒に働くので、そこからニュアンス状態が生じて来ると言います。そして合理的抽象的世界において、このニュアンスを捉えることはできないと付言します。換言すれば、対象論理では捉えられないメタ論理の世界があるということでしょう。
「肯定否定の根拠は決して浅いものではない。それは自我に源を発する。旧論理学が一命題について、其概念の客観的関係に於て行うところの肯否断定の背後には常に自我の働きが隠されていることを知らねばならぬ。それが如何に客観的事実と解せられる場合でも、一命題の真否は所と時とによりて制約せられて居り、そしてその制約には自我が中心位置を占め主権を握っているのである。肯否の断定は一種の解釈であると言えよう。而して解釈者は自我に他ならぬ。」
私見では、肯定否定の判断は、「自我」によってなされる包摂・排除の働きから来るものであって、それは生理的とも言うべき働きです。いわば薬になるもの(自己を生かすもの)は包摂され、毒になるもの(自己を殺すもの)は排除されます。そこに同定(肯定)・異化(否定)の生理的根拠があります。だから肯否判断が解釈であるとしても、それは何も高尚な精神的働きであると考える必要はありません(「判断論」、「範疇論」参照)。
「此光によって論理的判断を考えてみるに、ここに三個の立場が可能である。一はアリストテレス論理学のそれであって、事物の客観的性質のうちにおのづから存する包摂関係によりて、人はこれを正しく観察すればよい、肯否いづれかへの判断規準は客観的関係のうちにおのづから備えられて居るとなすのである。二はこれと反立する立場であって、万事は主観的自我の意のままに肯否自由たるべしと考える。この見解は個々の場合には無稽に見えるけれども、哲学的立場として「人間は万物の尺度なり」というプロタゴラス以来の人本主義にまで徹底してみれば、中々に根強い基礎を我々の心に占めて居ることを否む訳にはゆかない。
第三の立場は本書の立場であって、それは右両者いづれとも異なり、肯否判定は同時的であると見る。此見解により一種中間的なニュアンス領域が生じたのである。それは肯否判定の作用が失われたことではない。両方共有効に行われるのであるが、我々の意識はこれを暈化して感ずるのである。然し、暈化状態のうちに、両者の作用はやはり厳然として行われて居なければならないのは勿論であり、其処に特殊な論理学的検討が要求されるのである。」
「限定」と「規定」とが同時的に働くところに、著者の肯否判定の同時性という主張の当面の論拠があります。そこにニュアンス領域が生じて来ます。
「今右の三個の立場を更に進んで説明する為には、さきに少しく示唆を与えて置いた空間性と時間性の両論理的性質を導入して考える必要があろう。アリストテレス論理及びプロタゴラス論理は時空的性質をなるべく抽離して問題を処理しようとした試みである。前者は空間的、後者は時間的傾向を多分に有するが、元来は時空は相関関係に於て作用するものであり、一を抽離すれば、他は機能の大部分を失うを免れない。それ故アリストテレス論理は「準」空間的包摂観念に拠り、プロタゴラス論理は「準」時間的評価規準に則ることとなった。両者共に実際上種々の利便を有するとはいえ、結局哲学的には中途半端に終り、甚だしい不徹底のそしりを遁れ得ないであろう。
然し我々は他説に対する批評は割愛し、専らこのニュアンス系統たるネビュラ構造の闡明に移ろう。問題の鍵は空間時間の論理性に存する。我々は両者の区別を忘れないでも、両者の働きの相関的密接さは兎角看のがし易い。時間として感ぜられた事も忽ち空間化され、また空間的に把握せられたる事物も直ちに時間化される。そしてその事が自我の生きて働く証左である。」
ここから自我に関わる空間と時間についての結論的な部分の論述が始まります。
「自我は空間的と時間的との二様相に分析されるであろう。これは意味単元の裡にも既存する二重的組織であるが、自我に至って始めてその機能がはっきり我々に認められる。自己意識に於て反省面として自覚される静的様相は即ち空間的な拡がりを形成するが、これに対し、情意的に自己を動化する方面が厳存し、これは時間的一点に凝成する。
然し、静動は比較的また相対的の言葉に過ぎない。時間の動は空間に対して言われるが、更に高度の存在し、そして、それは自我に於ける空時両要素の作用化に於て認められることを注意したい。
作用化は後述すべき自我対他者に於て一層顕著に認められるのではあるが、個人我に於ても行われない訳ではない。恰も陰陽の電極が接触して発するスパークの如く、又は投ぜられた石が水面を衝撃して生ずる波紋の如くに考えられよう。此譬を自我の場合どう用いるのであるか。我等は既に自我を結晶した固形物のように考えることの無稽を見来った。それは池水比ぶべき一要素と投石に喩うべき他の一要素との衝撃から生起する。今仮に池水的なるものを空間性自我要素、投石的なるものを時間的自我要素と名づけて見よう。但しここに空間時間共にやはり比喩的に解せられたい。両者共に未だ単独では自我を形造るに至らない。恰も精子と卵とが別々に存する間個性的人間を作らないようなものである。然るに両者が遭会するや其処に自我の作用態が生じ、随って波動的に伝播するネビュラ構造が生ずる。此作用態自我を空間的に見れば自意識であり、時間的に見れば「今」に於ける決断的我れである。鮮明なる自意識をもつことは的確に現在を捉うる人にして始めて可能であり、「今」をはっきり掴み得た人は高度の自己省察を行うことが出来る。」
ここに「作用態自我を空間的に見れば自意識であり、時間的に見れば『今』に於ける決断的我れである」という「比喩的」な表現が出て来ます。木村敏の著述で「時間」と「自己」との密接な関連について見ましたが、著者は今における決断的我が時間的であり、それに対して自意識は「空間的」であるという独自の見解を打ち出しています。
「然らば自我の動化に於て生じた作用態とは如何なるものであろうか。これを論理的にいえば、肯定と否定との問題に帰着する。此問題も亦、伝統論理学に於ては極めて平凡化されているが、純粋論理学は此処に極めて重大な一性格――倫理的とでも呼ぶべき――を発見する。自我の肯定及び否定作用は人間の死活問題であると解せられるほど重要な意義を蔵する。そして、これ等の作用は空間と時間の折衝に於て明かに認められるであろう。
今試みに我々は自我を先ず空間的に拡がったネビュラとして観望しよう。それは微妙な段階を作るニュアンスに於て暈かされて居るが、無限に拡がる広ボウ(袤)を有する。そこに肯否の判定を企てようとしても、ただ親疎遠近の別か乃至はアリストテレス流の人工的な内外の区画を設けるよりほかはあるまい。ところが一たび時間に於て私が目覚めたとき、此広漠たる自我世界は忽ち「今」という一瞬間点に収斂する。それは峻厳を極めた不思議な山テン(巓)/山頂の一突角の如きものである。私はその尖点上に立って後を見れば、いま足跡を印したばかりの地点は早や過去という奈落の底に沈んで再び踵をかえす由もなく、然らばと前方に目を転ずれば、一歩先は未来の雲に遮られて途も定かでない。その場合私は漠然たる自我肯定から突如として否定する自我、といわんより否定された自我を見出すであろう。無に極限すると感ずる自我を諦観するのみである。」
ここに著者は「空間的肯定的」、「時間的否定的」という自我論を提示します。つまり空間を自我の自己拡張的/肯定的作用に帰し、時間を自我の自己縮減的/否定的作用に帰するという著者のかなり断定的な把握が示されます。
「斯様に、空間に対し、時間は猛烈な否定を以て臨む。此場合最早肯否の別は内外の区画による包摂関係の如きものではあり得ない。この量的区別に対し全然異質なる否定である。
この異質なる否定は時間そのものが質的であることを認めずしては理解することが出来ない。ところがこれを認めることは相当に困難であって、兎角充分に行われないのである。時間は一本の線か一筋の流れのように想像され易い。それは通例事象の持続態或は変遷の形式に過ぎないものとして解せられる。斯様な時間に就いて、たとえ過去現在未来を説くことあるも、それらは線の区分以外の何ものでもなく、一種量的又は尺度的制約に支配され、それ以上一歩も出ることが出来ない。」
時間は質的かつ否定的であり、空間は量的かつ肯定的であるという著者の思想は、何かそのような、「時間は猛烈な否定を以て臨む」と言わせるような、宗教的体験とでもいうべきものを想定しなければ、にわかには理解できないことではないでしょうか。時間は空間化された形でしか表象されえないということであれば、木村敏も再三説いていたように納得できることです。しかし著者には時間に対する特別な感覚があるのでしょう。
「ここに重要な点がある。時間は自我に於て、また自我を通じて意識された時に始めて純粋に質的なのである。自我から抽離して考えた時間は一筋の流れに帰してしまうほかはあるまい。それが物理的時間また形而上学的時間である。然るに自我性が基準的範疇となって時間を考えた時、その過去現在未来は単なる区分ではなく、性質的にそれぞれ顕著な特色を帯びて自我を意義づけることになる。哲学的に自我を活かす途は、実に時間の自我に対する機能を見出すことに存すると云うべきであろう。」
この叙述に関する限り、著者は木村敏の『時間と自己』で論述された、現象学的時間論に正確に照応する時間の捉え方をしていると言うことができます。
「右述の如く、自我は絶えず『今』と呼ばるる瞬間点上に立ち、これを自覚することに於て自らを見出し且つこれを活かすと共に、また世界を認識することが出来る。多くの人は『今』なるものが、間断なく変転しつつある世界又は環境の一裁断面を視まもることに存すると考えるであろう。然し斯様な見方は既に自我的活性を帯びた時間から抽離した準時間に適用すべきものだと私は思う。『今』は独自な論理的作用を有することによりて哲学的に重要なのである。
『今』は自らを主張することによりて絶えず一切の現実に「過去」の刻印を打つ。而して、この刻印は必ず自我的立場を通じて打たれるのである。それは論理的に見るならば、純粋なる否定にほかならない。それはあらゆる有を一瞬にして無に化すともいえよう。これ程大なる否定は容易には他に見出し得まい。しかもこの驚くべき否定が自我によりて刻々転瞬の間に行われつつあるのである。
さりながら、『今』は否定するのみに終るであろうか。決してそうではない、それは同時に肯定でもある。今という瞬間を肯定するのである。今を意識するということは、とりも直さず論理的に純粋且つ基本的な肯定を行うことであろう。因みに、デカルトのコギト・エルゴ・スムはこの肯定性を表すものとして解した時始めて重要な哲学上の一基石となるのではなかろうかと私は考える。此場合、自我のコギトに於ける肯定は主観とか客観とかの問題であるよりも、寧ろ一世界を作りこれを支配する自我がスムに於て現在的に肯定されたということに他ならない。純粋な時間的観察のもとには『今』の一瞬に於ける否定より肯定への切り替りは極度に顕著な事項なのである。」
今は過去の否定であるだけではなく、今という瞬間を肯定することでもあると言われます。その表現の鋭さは、「一世界を作りこれを支配する自我がスムに於て現在的に肯定されたということに他ならない」という言い方で極まります。著者が見る純粋に論理的な世界とはそのように突き詰めたところに開かれる世界のことであると言えます。
ちなみに、そのように突き詰めて考えることのお手本であるフッサールを引合いに出せば、「ホール(Hohl: Lebenswelt und Geschichte, 1962)はヴァン・ブレーダの論文(Van Breda: Husserl et le Probleme de Dieu)において、フッサールがいつも人格的神を信じ、自らをキリストとして感じていたというフッサールの個人的な宗教心に触れていることを示しているが、それと同時に、それもまた決して哲学的なテキストに基づく議論ではないが、解明には役立つだろうと述べている」(山本万二郎『「生命界」概念を中心とするフッサール後期思想の展開』泉文堂、p.399、1963年)ということです。
「然し時間は刻々に移る。斯かる尖鋭な肯否の、応接に暇なき瞬間的対立は久しく人間の耐え得る所ではない。随ってそれは危機に於てのみ切実明瞭に意識されるけれども、通常は此対立の宥和策が講ぜられている。それは即ち、肯否間の論理的断絶に対する連続性の嵌入手段であって、時間性に対する空間性の充填によりて施工される所のものである。つまり、空間が時間の基体乃至は裏打として用いられるという意味に解せられるであろう。通例「物」又は「形態」という思想が現われて、この「つなぎ」の役割をつとめる。自我は何等かの形態を有する、そして、其形態は時の流れにしたがい徐々に変化することはあっても、それは連続的変化であって、突変することはない、突変は恐らく自我を破壊するであろう、というように解せられるのである。この見解は我々の根強い常識であって、又実際生活上重要な意義をもつ。但し、哲学的人間は此実用性の裏を見抜かない限り真理に徹することは出来ない。」
木村敏は「こと」と「もの」との存在論的差異と言いました。著者もまた時間が「モノ化」されている、空間化されているということに着目しています。
「時間はこれを抽象的に考えると一筋の流れに比すべき連続性の形式であり、空間には却って無限分割の可能性が附与されている。然るに、これを純粋論理学的な観点から看る時は、却って時間は自我によりて無限に切断せらるる性質に於て其意義を有し、空間はその反対に、この無限に切断せられたる断層を連繋する機能に於てその重要な任務を見出すのである。斯様に、この見解が所謂心理主義的立場のそれとまさに逆の位置を占めることはまことに興味ある現象だと思う。」
時間を切断と捉え、空間を連続と捉えるところに著者の思想の顕著な特質があります。
「一たび時間的に切断され、それが更に空間的に連繋されたとき、その具体化は進展する。具体性はそれ故、時空両原理の処理を経、それが自我によりて統括されたものであって、現実存在と呼ぶところのものもこれにほかならない。
時間的断片は刻々着到する新しき「今」によりて過去の境域に置き去られるが、それらは空間化の作用によりて連絡結合され、一体を形成する。しかしそれだけに止まっては藻抜けの殻のような存在であって、唯忘却の堆塵に埋むべきものとなろう。たとえ一形体をなしたとしても、その具体性は未だ貧しく、況や活性に至りては全く存しない。
自我に於て働く空間性はよく死したる過去を保存する。記憶に於てまた物質に於てそれは腐朽と散逸とから防護されている。然しながら我等に最大の意義を有するのは活きた過去である。活きた過去又は活かされた過去――これを正当な意味で歴史と呼ぶ――は時間によりてその活性をもう一度回復したものでなければならぬ。而して、それはただ「今」に関連することによりてのみ可能である。言い換えれば、過去の形体性は「今」の積極面即ちその肯定作用に対し強い影響を与えるものでなければならぬ。一たび否定されて死んだ過去が再生して現在に働きかけることが要求される。ここに空間化の保存的意義が存し、それが論理的に非常に重要なのである。
空間化は必ずしも万事を残りなく網羅することを要せず、また年代順日付順に事物を排列することを要しない。自我は歴史編成上大なる自由をもつ。「今」に於て活かす為に其編成は無数の方法と排列とを有するであろう。しかし其方法が多く試みられるうちにおのづから独特の形体化を行い、伝統性の色彩を帯びるに至るものである。(但し伝統性の問題は更に複雑であって、別に論じたいと考える。)」
時間と空間とが合体する具体的な地平に、著者は歴史を見ます。空間的に保存された過去が今において活性化されることが、歴史を編成することであると言われます。ここには著者の慧眼があると言うべきでしょう。
「以上に於て、自我の有するネビュラ構造とその歴史的パースペクティヴは僅かながら照明し得たと思う。それは謂わば現在を中核としてスパークを発し、而してそのスパークは歴史の世界に拡散し、かくして過去を遍路し来った意味的電波は現在に於て再び自我に集中する。自我の反省と発展的活動には斯様な拡散と収斂の二重性が考えられるのである。」
こうして著者は「自我とその作用」の項目を終え、次の「未来と他者」の問題に移ります。私の「紹介」の作業は一旦ここで中断します。
「以上、過去より現在の問題に及んだが、いまや我等の自我は二個の未知者に面接する。そしてそれらに対する自己の態度決定を行わねばならなくなった。その未知の二者とは、1、未来であり、2、他者である。先ず未来の問題を考察しよう。
『今』は二重に考えられる。否定せらるる『今』は過去に属し、肯定せらるる『今』は未来に属する。それ故過去に向ってパースペクティヴを有するならば、未来に対しても何等かのパースペクティヴの領域が拡がって居ると考えられないであろうか。未だ現われない所のものは全然未知だとしては済まされない。何となれば自我の存立は肯定的な面を除去する能わず、そして肯定はその根底に目的或は希望をもたねばならぬからである。目的や希望は未来に生きる。それを失った時に自我は死なねばならぬ。未来なき自我は死せる自我となるほかはあるまい。」
否定される今は過去に属し、肯定される今は未来に属するという「割り切り方」は、著者の思弁から来るもののように思われます。それは今を「単純化」しているように見えますし、著者の「論理的要請」から来ているようにも思われます。しかし「人間は希望を食む生き物」です。著者の言うとおり、何の希望も目的もなければ、人間は生きていくことができません。アウグスティヌスの言うように、未来は期待において存在します。またもし否定されるべき今があるとすれば、それは過去を背負っていると言うべきでしょう。
「しかし、未来は目的と希望だけで代表させることは出来ない。目的は如何に完全であっても、主観面だけに止まる。客観的目的なるものは無意味の言である。
我々はここに未来の具体的内容を規定する論理性を問わんと欲する。これに対する自然的常識並びに科学的見解は、過去よりの惰性によりて動く世界への信頼に根底を求める。それは空間性に依拠する限りなき連続と果てしなき反覆である。一定不変の法則性が永劫に亘って働くものとして要請される。
右の見解は真の未来性に触れたものと見ることは出来ない。それは過、現、未の時間性から抽離した物理的工作であって、実際生活上役立つものではあるが哲学的解釈としては未だ甚だしい不完全の域を脱せぬと云わねばならぬ。
不完全のみならずこの見解は人間の自由に対し実に致命的影響を与えた。というわけは、それが暗黒な運命観――過去は償い難く、その意義は変え難いという宿命思想――にまで彼を陥れたからである。これに異論を挿むことさえ世の物笑いとなるほど、此常識は我等の間に徹底して居る。時間は何ものをも呑み尽す怪物に譬えられ、これに対して自我は全く無力であると想われるに至った。
ところが絶対論理学的観点に立つとき、時間自体には斯様な性質も権能も存しないことが明かにされる。試みに時間の既往的方面を代表する歴史の真意に就いて少しく省察するならば、それが等勢同一な物理的時間の単なる記載ではなく、巨細に集められた素材中から必要にして充分なだけの記録を摘出し、これに解釈を加えたものなることを知るであろう。しかし乍ら、此摘出の按配や解釈に当って一定の方針がなければならず、而して此方針を与え運用を掌るものは自我の独特な立場と其構造でなければならぬ。」
ここには「歴史とは過去との対話である」というE.H.カーの有名な言葉にも通じる著者の見識が示されています。
「時間はみづから過去や未来を有するものではない、自我が時間を分割してこれらを作り出すのである。現在性もやはりそうである。ストップ・ウォッチで計る瞬間というようなものは自我的性質の稀薄さ故に、此処では大して意味を認め得ない。自我が自我を強くそして深く意識した時が真の現在である。それは何分の一秒というような時間を意味するのではなく、又何月何日というような歴時性と必ずしも交渉をもたない。何分或は何日或は何年間続こうとも、自我に即する限り現在であり、さきより述べ来った「今」の性質と働きとを具えて居る。」
「自我が自我を強くそして深く意識した時が真の現在である」という著者の時間論が「現象学的」であることは、今や明らかではないかと思います。それは木村敏が縷々論じていたことと重なります。
「斯様な『今』は過去の空間化されたパースペクティヴをもつことは既述した。それは今によりて活かされると云った。然らば『今』の如何なる性質又は機能によりて活かされるのであろうか。そこに未来の意義がこれを闡明する鍵として横たわっている。
ここに若し自我の立場である『今』の位置を定めないで時間を考えてみるならば、過去と未来とは全く分界線を引くことの出来ない混沌状態に在るといえるであろう。因果律によりて固定した事象系列を造るのが歴史であると人々は思っているが、それは実際に於ては極めて偏寄した見方に過ぎない。此処に自我の独自な論理的特性が窺われる。即ち、自我は歴史系列の何れの点にでも自らを定位することを得、過去と未来とにそれを分つことが出来る。而してこれは過去の歴史のみではない、実に将来に関しても云い得るのである。
過去は未来を孕むものである、又未来は過去を含むものである、というような表現のうちにたとえおぼろげでも過去未来の相即融通性を認め得るであろう。我等はどんな旧い昔にでも自我を運んで『今』の切断を行うことにより、過去のうちに未来を発見することが出来る。同様に未来に此切断を行うことにより、未来のうちに過去を作り出すことも出来る。歴史的人間とは斯様な者であると思う。」
ここでは「想像上」の時間的「定位」が論じられています。著者によれば、歴史的人間とは過去あるいは未来と、現在との「同時性」に生きることができる者のことです。
「未来は『今』に連結することによりて意義を生ずる。ただ漠然と行く手を眺めるということは、未来を意味しない。恰も漫然たる既往が過去を意味しないのと同じである。未来の真髄となる所のものは既に現在に於て把握されて居らねばならぬ。
その把握は目的の確認とその実現の予想又は予期とに於てその半面を見ることが出来よう。しかし更に重要なのは他の半面を形造る決断に於て発見されるであろう。心理的に見て、前者の理智的なるに対し、これは情意的と云われないこともないようにも思われるが、決断ということはもっと基本的な論理的意義をもつ。それはつまり、時間を分界して過去と未来とに区別する作用に他ならない。
単に時間を過去未来に二分すると云ったのでは未だ充分ではあるまい。それは畢竟自己限定せる世界を二分することに帰する。この世界は自我に属するものであって広義の自我にほかならない。而してそれ故にこそ任意に切断し得るのである。」
ここで、目的の確認と予期に加えて、決断が「基本的な論理的意義をもつ」と言われます。その意義は時間を過去と未来とに分界することに求められます。しかし単に時間を過去未来に二分するだけでは、自己限定的空間的に二分するに過ぎないので、自我が関与していないとも指摘されます。通俗的に解すれば、入院して手術を受けるか否かという決断や、社運を賭してある事業の実施に踏み切るか否かという決断など、人生の岐路に立つ決断のことを言っているのでしょう。最後の「この世界は自我に属するものであって広義の自我にほかならない」という言明は「現象学的独我論」とでも言うべきものです。
「『今』に立脚した自我は過去と未来とに微妙なパースペクティヴによりて整頓された二個の対応世界を見透す者として、次に掴もうとする新しき『今』に対し、その計画を立てねばならぬ。その為に彼は遠近法的親疎に排列された円環組織の検討を必要とする。一寸先は闇という見方もあるけれども、彼は此パースペクティヴに於て出来るだけ堅実な方針を樹てる。最初に彼が用いて方針の骨組となすものは或は法則的自然の反復的確実性であるかもしれない。その場合これを表わす円環は自我に最も近接せる位置を占めるであろう。併し法則性は決して無制約的ではない。無数の条件によって支配される。それ故たとえ法則は不動と仮定しても、個々の場合に現われる自然現象は無限の階梯を含む蓋然性の支配下にある。いま若し、更に進んで対人間的関係を考えるならば、其処には全然法則性を適用し難い無数の因子が伏在し、それに対しては、唯自我の決意と思慮の如何が実現の可能性を決定すると考えられる場合が多い。これを要するに、将来の見透しは蓋然性と可能性との交錯するニュアンスのうちに存すのである。而して斯かるニュアンスの把握を可能ならしめるのは、これに対応する過去経験のニュアンスでなければならぬ。
これを要するに、現在点に立つ自我は一個の宇宙的ネビュラ世界を支配するものである。然るに、右に観察し来ったように、それは過去と未来とに分割せられた。そして、其分割は『今』に立つ自我の決意と実行の為に行われた。漠然と考えられ表象された現在は一つの抽象であって、何等の論理的意義をも含まないものであるが、斯様に自我の論理的構造を二分する切断者として考えられた『今』は深い意義を蔵するものと云わねばならぬ。そして、自我が高度の意識性に達して居れば居る程、『今』の意義は重要さを加える。何となれば、自我のネビュラ構造が完全であればある程、分割によりて生じた二個の新しいネビュラ世界は其対応が鮮明であり、『今』に含まれた契機性は力強いからである。此対応によりて生ずる実践的論理作用が即ちアナロギアにほかならぬ。」
ここで著者は、「将来の見透しは蓋然性と可能性との交錯するニュアンスのうちに存す」ると言い、「斯かるニュアンスの把握を可能ならしめるのは、これに対応する過去経験のニュアンス」であると指摘します。そして「此対応によりて生ずる実践的論理作用が即ちアナロギアにほかならぬ」と言います。著者はアナロギアを過去と未来とに(実践的に)橋を架ける論理として構想しています。形式論理的同一性によっては取仕切れないニュアンスの世界に対応するものがアナロギアであると言われています。なお私は「範疇論」で様相範疇=実然性(必然性・偶然性)・蓋然性(決定性・可能性)について述べました。それは著者の前段で示された認識に近似しているという感想を持ちます。
「これに由りて観れば、時が自ら展進し、旧きものを葬り、新しきものを絶えず生ずるという考えは未だ粗笨の域を脱せず、哲学的価値の乏しい程度の常識に過ぎないことが明らかであろう。時間は自我――目醒めたる自我――ありてこそ創造的なのである。自我は時間の中に隠された『今』を捉える。『今』に於て自我のネビュラ世界を見出し、更にこれを分割する。分割された二世界は対応する。其対応の中に自我は実行への契機を発見する。かくてこそ時は躍進の原理となるのであって、若し斯様な自我が存在しないならば、時間はただ単純な形式の機械的反覆を以て終始するほかはあるまい。自我を離れて考えられた自然は、唯際限なき無意味の繰返しであり、死んだ時間の残骸に過ぎない。」
この「自我のネビュラ世界」を提示し、かつ過去と未来との「分割された二世界」を観望し、しかも両者はアナロギア的に対応していると見なすところが、自我論についての著者独自の視点ではなかろうかと思います。
「アナロギアは決して反覆を認めないのではない。否反覆の上に建てられた論理的構築である。然しそれは機械的反覆ではない。アナロギアに於て、活きた自我は時間を活かすのである。アナロギアは希望の論理ということが出来る。単なる機械性に堕し易い反復性は『今』の契機に於て無限の可能性を装薬(*)されるのである。」
* 銃・砲の弾丸を発射するため、銃・砲の薬室内に装填する火薬(発射薬)。広辞苑。
経験の反復的蓄積がアナロギア論理を豊かにするということでしょう。ここから先は著者の実際的自我論が暫く続きます。
「自我なき人間、又は低度の自我に満足して居る人間にとりては、時間は退屈で単調な流れである。然るに、目醒めた、高度の自我を有する人間には、時間は恰も弾丸の如く彼の自覚を貫き、これを二つに分裂せしめる。即ち過去と未来がそこに生ずる。一個のネビュラ構築は二個のネビュラとなった。これによりて、時間は平調な流れから渦と化する。裂かれた一方の自我は他の自我を慕い且つこれと争う。「饗宴」に於けるアリストファネスの太古人間は、問題こそ別ながら、此場合満更縁もゆかりも無い話ではないように思う。
自我は斯様に二つに分裂することによりて始めて動態に置かれ、活きるものとなる。実践的人間はこの『今』に立脚するまでは出来上がっては居ないと云うべきであろう。
低い常識によりて考えるところの人間は通例一種の限定された自我である。それは時間と共に流れる人間である。彼はいつも漠然と想念された現在にある。背後に過去を有し、前方に将来を有するが、其過去の自我は死んだ残骸であり、未来は唯想像にだけ存する自我であった、両者共に何等の実体を具えない。
右の如き自我には分裂もなく、内的相克も意想のほかである。随って其処には動的な論理も存在し得ない。アナロギアは全然考えられない訳ではないが、それは低級に止まっている。
斯様な常識的人間は主として肉体生活に基礎を置いて考えられる。肉体は徐々に変化する物的組織として時間の流れに流されて行くという条件に当て嵌まり易い。然しそこには高度の自我意識は到底期待し得ないであろう。半ば動物的自意識に止まる訳である。自我意識の高さは過去と未来のけじめの明瞭さによりて測ることが出来る。其区別と意義とを明瞭明確に掴んだ人は高度の自我性を獲た人であり、論理的瞬間点上に立つ人である。
高度に達した自我とは、限定性と規定性とを完全に掌握し、自由にこれを活用する溌剌さを具えた自我であって、其活動は空間的であると共に、また時間的である。それ故、若し実存性という言葉を以て表すならば、未来も過去も実存する。唯未来は未だ現われないだけ、過去は既に潜在化して居るだけのことである。その未来も過去も任意に取り出して自我の上に働かせ得る所に真の人間の自由が見出される。尤も、然し、任意に取出すと云っても、物を嚢中から取り出すのとは異なり、ここでは過去を未来に、また未来を過去に働かせることなのである。それ故その働きが敏活であらんが為には過去と未来の分裂隔離が充分でなければならず、またその対応関係が整頓されねばならぬ。」
「未来も過去も実存する」とは著しい表現です。また著者は自我論としてこれを展開するために、自我には何の社会的障壁もないかのような印象を与えます。人間の自由は高度の自我意識によって達成されるかのように書かれています。著者には「純粋自我論」を実生活に適用したときの困難さがまるで視野に入っていないかのように見えます。著者の言う実践とは何であるかが問われます。しかしこの疑問はもっと先の論述によって確認すべきことでしょう。ただし事が個人の意識のあり方の問題であるとするなら、「過去と未来のけじめの明瞭さ」ということは傾聴に値するものを持っていると言えるでしょう。第五章はここで終わります。なおこの項は「未来と他者」と銘打たれていますが、「他者」の問題は次の章の「アナロギアとパラドクス」で論じられることになります。
第六章 絶対論理学〔其四〕 アナロギアとパラドクス
「以上、未来を自我に属する又は属すべきもののようにして取扱い来った。然し少しく実存的に考えるならば、未来自体はまだ自己に所属すると言い切ることは出来ない。自己の未来ではあるが、然しそれはまた他者である、という、一見不可解の矛盾らしきものがあって、更に解決を要求してやまない。
そこには自他の思想に就いての習俗的常識による偏見及び時間の本来の性質についての理解の不足がある。既述の如く自他の別は包摂関係によりて決定することは出来ない。自己限定を行ったとき、他は自己に摂取せられ、これを空間化と呼ぶのである。これに反し、自己規定作用に於ては、自は他の制約下にあり、これ即ち時間化である。然し自我としては徒に他の制約下に甘んずるものであってはならぬ。空間的自我の一族を引具して時間的自我に挑戦する。この川中島が即ち『今』であり、味方勢は過去、敵は未来である。それ故、他と云っても、限定作用により自に於て表現された他であり、自といっても、規定作用により他によりて表現された自である。
されば、過去は凡て自我に属し、未来は凡て他者に属すということが出来よう。然し、未来は自我の存立に必須的意義を有し、これによりて始めて自我の過去を活かすことが出来るという意味に於ては、やはり自我に属するとも主張されるのである。
逆に、自己に属すると思うとき万事は過去の性質を帯び、他者に属すと看做すとき万事は未来性の特徴を具える。」
木村敏の『時間と自己』を知っている我々としては、「未来は凡て他者に属す」という「分裂病親和的」な表現に接しても驚くことはないでしょう。著者の言う川中島としての「今」は、空間的限定作用としての過去(自我)と、時間的規定作用としての未来(他者)が、互にせめぎ合う場として思念されています。
「自我に於ては限定と規定の両作用が交錯し、時空の両表現が相融入し合う。このことは過去に未来が孕まれ、未来に過去が含まれて居ることを説明する。過去に於て未来は目的として、期待予想として、この萌芽が見出される。また未来に於て、過去は伝統として、また様々の形象性として働くであろう。
『今』に立脚する自我にとり、未来は不明また不可測である。然るに我々は行動者として未来に対し多少の見透しを必要とする。戦わんとせば、先ず敵状を偵察せねばならぬ。既に科学的見透しに就いては、その法則的反復性が若干の保障を与えるかに見える。然しそれは当面の問題である自我の行動に就いては何の保障にもならない。此場合一寸先は闇である。我々は別な方途に於て行路の指針を求めなければならない。」
ここから著者の「未来と他者」についての哲学的探究が始まります。
「それでは何処にこれを求むべきであろうか。
自我が絶えず行うてやまざる自己限定と自己規定の両作用はついに自にして他、他にして自なる一個の複雑なネビュラ構造を生ぜしめる。それは一家庭の小から国家民族の大に至るまで諸階梯を含むところの「社会」にほかならない。豊富にしてニュアンスに充ちた性格と機能を備えたこの構成体こそはまさに我等の求むる規準を与えるところのものである。」
自我の「自己限定と自己規定の両作用はついに自にして他、他にして自なる一個の複雑なネビュラ構造を生ぜしめる」、それが「社会」であるという著者の主張は、現象学的な「相互主観的共同性」の領域への著者流の踏み出しであると言えます。
参考までに、著者とは論じ方が全く異なるとはいえ、フッサールの一文を引用してみます。
「人間性、或はその豊富な本質に属する共同性の構成は以上のことによってまだ完結されはしない。しかし以上の最後の所で打ち立てられた意味での共同性から出発して、代表象的他我経験の仲介によって、他の自我の中に入り込む所の自我作用、即ちあらゆる人間的人格的交通(menschliche personale Kommunikation)を打ち立てる社会的作用(soziale Akten)という性格を有する特殊な自我人格的作用、の可能性を理解することは自明的に非常に容易である。かかる作用をその色々な形態の下に於て念を入れて研究し而してそこから出発して先験的見地から総ての社会性の本質を理解せしめるということは重要な問題である。客観的世界の内部に於て、本来の共同性即ち社会的共同性と共に、特有な精神的客観性として社会的共同体の種々異なる型が、可能なる階層的順序をなして構成されるが、その中には高次の人格性という性格を有する優れた型がある」(『現象学序説――デカルト的省察録――』第五の省察 モナド論的相互主観性としての先験的存在領域の開明/第五十八節 高次の相互主観的共同性の志向的分析論に於ける問題の排列、自我と環境(p.168)、山本万二郎訳、創文社、1954年、太字‐原文傍点‐訳書)。
「自我に対立する他者が、時間的に見て未来性を有することはさきに述べた。この同じ他者が、一方空間的観察によれば、現在に於て自我を形造ると共に、自我を囲繞する所の社会そのものである。斯様にして、社会は、他者として現在において自我に対立すると共に、自我の未来を形成する可能性を帯びて、此処に出現したのである。
過去は自我に属する。過去に於ける他者は自我の裡に同化されている。しかし現在の他者は未来の可能性に於て自我に面接するものとなった。此可能性が行動の規準として『今』に立脚する自我に働きかけるのである。それは強い倫理的性格を有することにより、『義務』として自我に感応し、更に、自我と馴染むに随い、『良心』として自己の裡に常存する規準として覚知されるに到るものである。
他者に対する義務感と其実行に於て、自我は未来に一歩を踏み出すものとなる。彼はこれによりて『今』を正しく捉えた者となり、時間の於て生きる者と呼ばれる。
ここにいう義務は、従来の倫理学的窮屈さを脱却した自由な意味を要求することは云う迄もない。これを社会意識と云ってもよい。其道徳性は充分広義に解すべきである。同時に、真正の宗教は未来を領域として希望に生き、其実践に於て倫理的規範を逸脱することは出来ないという黄金律は、右の理由により説明されると思う。」
ここで著者は「現在の他者は未来の可能性に於て自我に面接する」と言い、この可能性が「強い倫理的性格を有することにより、『義務』として自我に感応し、更に、自我と馴染むに随い、『良心』として自己の裡に常存する規準として覚知されるに到る」と言います。自己と他者との関係において、私は良心と義務と自我を析出しましたが(「三相の自己」参照)、著者はそこに時間を導入することによって動きを与えています。未来の可能性における他者が、「自我と馴染むに随い」、良心となるという言い方はフロイドの「超自我」を連想させます。未来の可能性とは他者の自我に対する行動期待とも受け取れます。
「ここに於て、『今』の意味の重要さに我々は省察を新たにする。過去と未来の分界点ということは単なる数学的一点ではない。過去を統括してこれを活かすと共に、また未来に備える。それは自我の中核を形造り、空間と時間との論理的整理を司る。後章に述べるように、基督教精神は『今』に立脚するものであり、信望愛というような心の働きは皆此切実なる瞬間に生きるのである。
然らば『今』はどのような論理的意義を有するか、これを究明することが当面の問題である。ここに先ず対応性ということが注意されるであろう。『今』は二つの世界の分界点として、両世界を対応的関係に置くものである、過去と未来とは性質に的全く相異なる存在であり、両者は連絡をもたない。それを唯連絡しようとするのは『今』の機能ではない。寧ろ其反対の断絶作用を行ったのである。とはいえ、その断絶に於て成立する一種の連絡がなければならぬ。それが即ち対応関係に於て見出されるところのものである。
対応関係は科学的抽象空間に於ても重要な論理的性質として考えられよう。しかし自我世界に於て行わるる対応に至りては、空間と時間、自己と他者、の性質を異にする領域間に存する対応であって、其意味の深さと複雑さは科学に於けるそれとは比較にならない。科学は対応に於て事象の反復性を説く。既往に起った事象は将来にも起ると考える。これは法則性の上に立つ科学世界には根本的要請の一であるが、我々は当面の場合これをその儘許容することは出来ない。異質世界に同様又は類似な事象が繰りかえす由はないからである。科学的に云う場合には、過去も未来も性質的意義をもたざる抽象空間的区別に過ぎない。此種の対応は此処には無意義に等しい。性質を異にし、其間に断絶があってこそ対応は有意義と云えよう。
それは空間的関係に在る事象が時間的関係に在る事象と対応することに於て存立する。また其逆であってもよい。斯かる対応関係に於て我々はアナロギアを見るのである。アナロギアは文学的表現としては比喩であり、論理形式としては類推であり、その他種々の形をとることができよう。アナロギアは極めて自由な形と働きとをもつ為、宗教哲学の利器として測り難い効果をあげるものであるが、同時にこれに随伴する危険として其凡俗化があり、濫用があり、論推の鋭さを鈍化せしめるという弱点があるので、此点警戒を要する。
さりながら若し、宗教的天才によりてこれが縦横に駆使された場合には、其効果の素晴らしさは測り知られざるものがある。寧ろ、アナロギアなくしては宗教的思惟も理解も全然成立たぬと断言して差支えないであろう。」
過去と未来、空間と時間、自己と他者という性質の異なる二つの領域間には対応関係があると言われ、著者はそこにアナロギアを見ます。また「アナロギアは文学的表現としては比喩であり、論理形式としては類推で」あると言われます。先に私は、著者が「概念としては」レトリックについて把握していなかったのではないかと書きましたが、このくだりを読めば、それを訂正する必要があるようです。あとから「修辞」という言葉も出て来ます。ただしソスキースが『メタファーと宗教言語』で書いているような、比喩とアナロジーとはカテゴリー的に区別されるべきであるという認識は示されていません。私はその本の紹介のところで、それについて「訂正/再考」したいと書いたのは、ソスキースのように言い切ってしまうことにもためらいを感じるからです。ここから著者は改めてアナロギアについて論じることになります。
「自己対社会の関係は最初漠然たる自我対他者の交渉から出発すると考えられよう。ところが、自己限定と自己規定の二作用により、空間時間に於ける自己表現は進展し、ネビュラ構造としての個人的自我意識に目覚める。然し斯かる自我展開は論理的活動の結果たることを看過しては到底正解し得ないものであり、而して其論理はアナロギアにほかならぬ。此場合『今』に於て過去を把握し、未来への行動を起さしめる為には、過去と未来との対応が先ず考慮される必要があり、而して此対応はアナロギアによる処理に俟たねばならぬ。
アナロギアの活動は先ず関係要素間に相似性を認めることから始まる。然しながら同時に其処には必須条件として異質性が認められねばならぬ。異質にして相似なるネビュラ構造体が、漠然と認識されて居た他者のうちに識別されることは自我展開を顕著ならしめずには措かない。一個の人間が自己に似た他の一人を見出すということは彼の未来を彼に顕示し、彼の人間としての生存意義をさとらしめ、人間的行動を起さしめる。
そこには自己より他人への働きかけがあると共に、他人から自己への働きかけが認識されるであろう。此相互的働きかけの手段となるものがアナロギアである。そして、斯かるアナロギアの相互的活動に於てその主体をなし又客体をなす者を名づけて人格という。」
ここに「一個の人間が自己に似た他の一人を見出すということは彼の未来を彼に顕示し、彼の人間としての生存意義をさとらしめ、人間的行動を起さしめる」と書かれていることは、自己が他者なしには存立し得ないということを、時間に即して把握した著者の慧眼であると言えます。また「斯かるアナロギアの相互的活動に於てその主体をなし又客体をなす者を名づけて人格という」とありますが、ここには人格を「人称」としても捉える視点があり、秀れた見識であると思います(person=人格/人称)。
「他人格はこれをアナロギアによりて了解し得た限りに於て自我の過去を形成する。而して、これに対して行動を起した時自我にとりては未来の未知境に躍入することになる。これは冒険的性質をもつのではあるが、対手の人格も亦自人格に向ってこれに似た態度にあることを類比的に論断することにより、アナロギア理解は累進する。そこに意志の疎通が生じ、同情が生じ、他人格の尊重が生ずる。」
自我の対他関係にアナロギアを見るということは、著者の独自な見解ではないかと思われます。そこには極めて鋭利な洞察が働いています。
「一人格は他人格を映現することに於て自己のネビュラ構造を精妙ならしめると共に、それが直ちに家庭、部落、都市、国家、民族、全人類へというように影響を拡大してゆく。高度のアナロギアは実に人格と人格との交渉に於てのみ存立し、人格なくしてアナロギアなく、アナロギアなくして人格は存立せぬ。通常、アナロギアは文学的修辞的にのみ解せられ易く、その論理性は兎角曖昧のうちに葬られるが、それでは人格性の意義は到底理解されないであろう。
アナロギアは文学的表現として最も有力な修辞法ではあるが、これを以て専ら想像にのみ訴える手段と解し、現実性の稀薄な精神作用と視る傾向を一般人は脱し得ない。これは大なる錯誤である。その現実的性質こそ強調されねばならぬ。勿論それはファンタジーを喚起する働きには相違ないが、然しその奥に人格を揺り動かす真剣な作用がなければならない。」
この論述によって、著者がレトリック(修辞法)としてのアナロギアを明確に把握していることが今や明らかになりました。私の即断と不明を恥じるのみです。しかも著者はアナロギアをレトリックの根底に働く最も重要な「論理」として捉えています。1938年の時点で、聖書解釈の根底にレトリックを据えた人は果たしてどれだけ居たでしょうか。
「想像性と少しく性質を異にするアナロギアに同情性がある。これは主として情緒的に働くものとして感情の境域に閉じ込めて看ようとする傾向がある。だがこれも甚だしき偏見である。これまた人格に根ざすのであって、人格と人格との関係は同情によりて始めて成立するというべきであろう。」
同情性(sympathy)をもアナロギアとして見るということに、著者のアナロギア理解の、「ニュアンス」としての広がりが示されています。著者の「論理」は感覚に根差したものであると言えます。
「これに由って観ればアナロギアは、空想的な取りとめのないような悠々たる気持から、肉体的苦痛などの感覚にさえも訴える同情の如き痛切な心の働きまで、精神作用のあらゆる段階種類に亘るのを知るであろう。これを心理学的に定義又は定位するだけで満足することは出来ない。それは主として論理的に考えてのみ意味を捉えることが出来よう。そして其論理性は人格要素の導入に於て始めて瞭かになる。人格は自らの裡に異質の二重性を抱合するものであり、其両極的対立の構造がアナロギアを可能ならしめるのである。」
ここに述べられている「人格は自らの裡に異質の二重性を抱合するものであり、其両極的対立の構造がアナロギアを可能ならしめるのである」という把握に、先に述べたように著者の独自性があります。アナロギアは人格性のレベルで働く論理であるとされています。また「これを心理学的に定義又は定位するだけで満足することは出来ない」とする著者は「現象学」と「心理学」の区別に想到していると言えます。
「一人格自らの裡に於ても、自己に対してアナロギアの働きかける効果は予想のほかである。これ、人格の認識は自他の対立並存がその人格中に在ることを認むることに発するからに相違ない。過去と未来、観想と行動、物質と精神、というような異質的対立は自己の裡に存立し得るものであり、その関係はアナロギアによりて規定される。過去に経験したことを未来に於ても相似的に経験すべしと想定するのもそれならば、多少の変化を予想するのもそれである。また、行動に於て実現しようと欲することを先ず心裡に於てプランを立て、期待と予想の心像を作り、そのプログラムに準じて実行に移る場合にも、やはりアナロギアがこれを先導する。更にまた、我々は物質界に現われる様々な現象から精神的事象を論推する。これも同様アナロギアに属すると云えよう。
斯様に一人格に於てもアナロギアは活動し得るのであるが、此人格性が低ければ其活動の範囲は狭く、単調な反覆に終り、高ければ広く又自由である。そして人格性なき所には全く働かない。」
著者の言う「人格性」とはホモ・ロキエンス、すなわち「言葉を話す人間」の特性であるとしたならば、アナロギアは言葉の性質そのものに関わっている筈です。だから人格性が高いということは、言葉の能力が高いということに通じるのではないでしょうか。「一見無関係と思われるもの、最も遠いと思われるものどうしを結びつけるところに、哲学者の資質がある」という意味のことを述べたのは、ほかならぬアリストテレスだったと思います。その哲学者の資質も言葉の能力に関わっているでしょう。そして形式論理が言葉の「デジタル」的な側面であるとしたら、アナロギアは言葉の「アナログ」的な側面であると言えなくもありません。異質なものの間に対応関係を見出すアナロギアの「論理」とは、要するに「アナログ論理」のことなのではないでしょうか。
「さりながら、一人格内に限られて居ては、アナロギアは充分の活躍を演ずることが出来ない。それは人格対人格の関係を動的に規定するものとして始めて其機能を充分に発揮し得るのである。
人格と人格との関係は断絶せる二存在間の関係であって、此関係に於てこそアナロギアは充分にその驥足を伸べ得るのである。しかし此場合にも過去に於て蓄積された空間化資料からプランが組立てられることは単独の人格の場合と同様である。否寧ろ、単独人格の場合は他人格との相関によりて相当な訓練を経たる後に於てのみ可能であると云うべきであろう。人格的交渉の蓄積及び其醇化は歴史となり伝統となって保存されて居り、而してこれがアナロギアの基礎を形造るのである。
言語はアナロギアに於ける最大の武器というべきであろう。これを記述の具と見るだけでは未だ肝腎の点に触れていない。言語が作り出した概念の如きもアナロギア論理に依存するのであって、これを従来の形式論理学的に考えても其起原も真意義も説明出来るものではない。」
歴史と伝統とを無視すれば単独人格も成り立たないということは、保守主義者が喜ぶ言辞です。しかし「人格的交渉の蓄積及び其醇化」が歴史となり伝統となったということは、紛れも無い事実です。その意味をどのように限定するかというところに保守と革新の区別が生じてきます。革新とは歴史と伝統の単なる切り捨てを意味するものではありません。なお、概念の起原にアナロギア論理を見るということは、人間の知性が基本的にはアナログ的であって、形式論理的デジタル的知性はその後から生じてきたということを意味しています。それは分節知(articulate knowledge)に対する暗黙知の優位性を示しています。著者の指摘はその意味で肯定できると思われます。
「アナロギアの根本形式は、時間に於ける前後関係に依拠するものである。実験科学では、これを主に因果関係として取扱い来った。例えば種子と収穫との関連の如きは最も一般的なる類例として挙げ得るだろう。然し、純粋のアナロギアに於ては、自然科学の場合とは事態を異にし、その因果関係は相似でありながら、取扱わるる事象間には性質上の差異が認められねばならぬ。此場合、物質的因果よりも、寧ろ精神的因果というようなものが考えられるのである。」
ここで「一般的類例」と言われているものは「モデル」に相当するでしょう。科学における因果関係をアナロギアの一例とするということは、著者が「純粋アナロギア」におけるモデルと科学的因果関係におけるモデルとを同一の視野に収めていることを意味しています。その違いは、物質的因果と精神的因果の性質上の区別に求められます。
科学におけるアナロギアの問題については、参考までに、ソスキース『メタファーと宗教言語』から次の一文を引用してみます。
「ハレは『理論の中心にある概念の生成は……類比の問題である』ことに同意する。すなわち理論を構築することは適切な類比を作り上げることであり、そしてこの類比はモデルによって提供される。さらに、モデルはメタファー的理論用語の材料である。たとえば気体の粒子モデルは、ビリヤードボール間の機械的関係にあてはまる、速度、衝撃、屈折などの用語を生み出す。ハレはこうした投射はその時に観察できない実体や関係を記述する際に有益であるのみならず、観察不可能であるにも拘わらず、われわれが真の実体あるいは状態であると考えたい実体や関係について議論する上でも有益であると主張する。それらは科学において「超越的に真」とされる対象、あるいはカテゴリーである。電磁気の性質や下位意識の働きといったことがらが含まれるのも、このカテゴリーである。
科学的実験について満足のいく説明のどれをとってみても、モデルを理論から簡単には引き離せないように見える。モデルまたは類似物は、理論の活気ある部分、いうなればその投射的能力の尖端を形成し、従って、説明的で叙述的な目的には不可欠である。」
著者のアナロギアについての論述に戻ります。
「勿論アナロギアを広義に解するならば、それは必ずしも時間的でなく空間的だけでもよい。科学に於て広く行われるような数式的形態による場合もあろう。事象の形態、機能等皆有効に用いられ得るといえよう。しかしそれにも拘らず時間の有効性は独特な位置を占める。それは何故であろうか。そこには生産的な意味が含まれ意志活動が示唆されるからであると思う。生物学的因果が大なる役割をアナロギアに於て占めることは其一例証となすことが出来る。されば、無生物が問題となる場合でさえも、そこには擬人化があり、乃至はこれを動かす意志が背後に想定されるのを常とする。即ち其処には一種の仲介的性格が見出されるであろう。そしてそれは常に人格的である。人格は時間に於て働くものであるから。」
著者がここで見ようとしていることは、端的に言えば、イエスの種まきの譬えのような、聖書におけるアナロギアではないかと思われます。そこでの比喩は擬人的であり、これを動かす意志が背後に想定されています。ただしソスキースが述べているようにアナロギアは科学においても仲介的説明的(interpretative)な役割を果します。この先、著者はアナロギアにおける歴史の問題にかなりの紙幅を費やします。
「かくて我々はアナロギアに関する一大問題に接触することとなった。それは歴史の問題である。人間は歴史を有す。恐らく人間のみが真の意味で歴史をもつ者であって、神にも又動物にも歴史はないであろう。歴史性というものが人間を特徴づけるとも言えるかも知れない。宇宙万物は歴史をもつといわれるけれども、それは人間に関連を有する限り有意味な言葉である。例えば科学の歴史に於て、たとえ表面に現われないでも、その歴史の中心を形造るものは人間であることは少しくその歴史の性質を反省する人には容易にさとり得る所であると思う。
次に、歴史は言語表現による記録なることを記憶したい。世には言語を用いない記録が少なくない。記号のみによる記録、例えば統計表の如きもある。絵画や写真の如きも亦立派な記録たり得る。けれどもそれらは凡て歴史の中枢的位置に上ることは出来ない。補助的な記録であり、資料又は証拠として其本質的価値を発揮する。しかし歴史自体は言語的表現によらなければならぬ。その理由は、一言にして云えば、歴史はアナロギアの上に立つものだからである。アナロギアはこの場合解釈と云う言葉で置き換えてもよいであろう。其処にはアナロギアを用うる主体、即ち解釈者の存在が予想されて居る。そしてその主体、解釈者は自我的人格にほかならない。
第三に指摘すべき歴史の特質は、それが単なる過去の記録に止まらずして、将来に対する意義ありて始めて歴史と称することが出来るという点である。将来なき人間ならば歴史は全く無意味であろう。それは必ずしも、過去の経験を利用して将来に資するという功利的動機からばかりとは限らない。更に重要な意義が其奥に潜んでいる。
その重要な意義とは即ちさきに自我の分割として論究したことが暗示するところのものであって、それはこうである。複合ネビュラを充分に消化し得た自我は自らを二分する。そして、決断的『今』に立脚して、未来に具えんが為にその一半である過去を沈澱固定せしめる、その過去が即ち歴史である。その固定には多様の方法と形態とが自我の要求に応じて存立し得るであろう。そして其要求の内容は将来に対する自我の企図如何によりて決する。」
著者はここで「1.恐らく人間のみが真の意味で歴史をもつ」、「2.歴史は言語表現による記録である」、「3.歴史の特質は、将来に対する意義ありて始めて歴史と称することが出来る」という三点を指摘します。人間は自らが有限であることを自覚する存在であり、かつ文字言語を有するということと、人間が歴史を持つということは、木村敏の『時間と自己』で見たように、本質的な関わりを持つものなのでしょう。著者はそのことを自我の時間的分割として把握しています。
「歴史は反覆すると云われている。しかしそれは同一事象が周期的に回帰すると解しては深い意義は見出されない。過去の事実のアナロギアが未来の運命を決する、そのアナロギアを生み出すところに歴史の根本意義が存する。アナロギアは此処では即ち解釈である。だが、解釈は自我の血の通ったものでなければならぬ。何年何月何日某所に斯く斯くの事件があったというような記録も、それ自体では死物である。斯かる事実の穿鑿のみに浮身をやつすようでは真の史家史学者では無く、一種の技術家以上に出ない。或いは懐古的好尚にとらわれ、あるいは骨董趣味に転落する虞れが多い。それらは真の歴史精神を逸しているのである。
歴史の理想的な形態は、それが過去の事象の記録たるに止まらず、それらの各事象が連関して一個の体系を造り、而して、此体系は中心(又は焦点)たる現在的自我を媒介として未来に其反映的一体系を見出し、両体系の事象は各々自己の対応者を反立する体系中に有することに存する。」
ここに著者のどこまでも現在を中心に据える歴史観が示されます。現在的自我を媒介として、過去の体系が未来にその「反映的一体系を見出し、両体系の事象は各々自己の対応者を反立する体系中に有する」という構造が、著者の考える現象学的な歴史意識(歴史精神)です。それが現象学的であるというのは、たとえばフッサールの次の記述を参照すれば、ある程度明らかになると思われます。ただしフッサールの思索は著者とは違い、手が込んでいますし、そこには過去と未来との対応関係という思想も、ましてやアナロギアとか、ネビュラという言葉も見当たりません。代わって地平という言葉が使われます。
「……普通の意味でのすべての歴史学的な問題設定や呈示は、すでに普遍的な問題地平としての歴史を、表明的にではないがやはり潜在的な確信の地平として前提にしているのであり、この地平にはあらゆる漠然とした無規定性が背景としてつきまとっているのだが、やはりこの地平こそがあらゆる規定性の前提なのであり、つまりは規定された事実を求め、確定しようとするあらゆる意図の前提なのである。
歴史学的に見て、それ自体において最初のものはわれわれの現在である。われわれはいつもすでにわれわれの現在の世界について知っており、われわれがそこで、いつも未知の現実の果てしなく開かれた地平にとらえられながら生きている、ということを知っている。地平についての確信としてのこの知は、学んで得られた知でもなければ、また、いつかは現実的であったが、いまはただ背景に退き、沈みこんでしまった知だというわけでもない。地平についての確信は、すでにあったからこそ主題的に解釈されうるにちがいないのだし、それが前提にされているからこそ、われわれは、自分がまだ知らないことを知ろうと望みもするのである。すべての無知は未知の世界にかかわるのだが、この未知の世界もやはり、世界として、つまりすべての現在の問い――したがって、そこにはとくに歴史的な問いも含まれる――の地平としてあらかじめわれわれにとって存しているのだ。このとくに歴史的なというというのは、共同化された相互関係というかたちで世界の中で活動し、世界の恒常的な文化的様相を新たに変えてゆくものとしての人間に向けられた問いである。のみならず、この歴史的現在がその背後に歴史的過去をもっており、それがこの過去から生じきたったものだということ、そしてこの歴史的過去は、それぞれかつてあった現在として、伝承されてきたものでもあれば、またおのれ自身から伝統を産み出すものでもあるような、相互に他の過去から生じてくる多くの過去の連続体なのだということをも――このことについて、われわれはすでに論ずる機会をもった――われわれは知っているのではなかろうか。現在とその現在のうちに含蓄されているすべての歴史的時間が、歴史的に統一されてゆき、一つのものになってゆく人類の――その生殖的連鎖関係と、いつもすでに開化されてある状態から出発して、さらに開化されてゆくさいの(共同作業によるものであろうと、互いに顧慮し合うことによるものであろうと)不断の共同化によって統一されてゆく人類の――それであるということをも、われわれは知っているのではなかろうか。こうしたすべてのことによって、普遍的な〈地平としての「知」〉Horizont-WWissenW、潜在的ではあるが、その本質構造に則して体系的に顕在化されうる〈地平としての「知」〉が告知されているのではなかろうか。すべての問いがそこへはいりこんでゆくことになる地平、そしてすべての問いにおいて前提にされている地平、これこそがここで大きな問題になるのではなかろうか。したがって、われわれは、歴史主義が妥当させている諸事実をあらためてなんらかの批判的吟味にかける必要などはない。その事実性の主張そのものからしてすでに、もしそれが意味をもつべきだとしたら、歴史的アプリオリを前提にしている、というだけで十分なのである」(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(付録二 「幾何学の起源について」、p408-409、細谷恒夫・木田元訳、中央公論社、1974年)。
さて著者はさらに歴史について語ります。
「これに対し、歴史は個性を有する人間が独自の条件と環境のもとに唯一回的に行動した諸事象の記録であって、それは反覆されるのでもなく、対応的事象を将来に期待すべきものでもない、と我々は抗議されるであろう。この歴史観は歴史そのものに即して考える間は正しいといえよう。然し人間的立場、自我を中心とする広い体系化的立場から批判的に見るならば、斯かる見解はあまりに狭隘に過ぎる。」
ここに「人間的立場、自我を中心とする広い体系化的立場から批判的に見る」と書かれていることは、フッサールの「地平としての〈知〉」に相当しないでしょうか。
「然し、私は更に、右の史観が主観的再編成であって、仮作的要素乃至虚構的傾向を含むという非難を蒙るかも知れない。だが、かような非難は当らない。何となれば、歴史の編成は主観的であるが、編成される資料は客観的事実であるから。そして、主観的と云っても、それは気まぐれでも独断でもなく、一定の論理に支配されて居らねばならぬ。史的編成には、先ず資料の選択がある、次に其排列がある。それらは多数の方法の採択を可能ならしめる。今或る一事象が選び出されたとして、これが他の事象との連関は如何にして決定されるか。それは普通因果関係又は制約関係として排列される。随って其事象の原因又は前項として無数のP1P2P3P4……あり、又それの結果或いは後項として同様に無数のS1S2S3S4……がある。歴史を平面的に且つ限定的に考える間は――例えば政治史、戦史、経済史というように――此事の重要性ははっきり判らない。ただ自我を中心として考えた人間の歴史を捉えた時に、此事は始めて問題化されるのである。其場合、各事象は皆悉くネビュラ構造に於て考えられ、それは他のあらゆる事象と何等かの連関を有するものとして自らの存立を意義づけて居る。」
著者には「歴史的アプリオリ」という用語はありません。その代わり「一定の論理に支配されて居らねばならぬ」という言い方がなされます。
「それは無限に多義的である。その多義的なものを把握することは、つまりこれを解釈することでなければならぬ。然らば解釈とは何であるか。これを明瞭ならしめるために、我等は歴史的事象がネビュラ構造に於て考えられて居るという点を充分に省察して見たい。それは自我に対する関係に於て、他の自我即ち自分以外の人間との関係に似ていると考えられよう。限定を行った自我は他の同様な状態にある自我との交渉に於て、両者共に閉鎖された存在として、其理解は容易でないことを既に看来った。他人が我に働きかける時も、我は唯受動的にこれを享け入れることは出来ない。其処に解釈を用いる。さきに述べたように、人と人とは言語によりてわずかに理解し合うのである。而して先方の言葉は、我々に於てこれを解釈する。その解釈の如何が理解の性質と程度とを決定するのである。ところで、歴史の場合でも此事が云い得るのではあるまいか。歴史的事象も、その大部分は資料化した形で我等に与えられる。即ち記録化されて居る。記録は文字即ち言語である。言語は既に多少の解釈を経たるものであるが、更に我等はこれを再解釈することによりて歴史に接触し、これと交渉を生ずるのである。」
ここにはフッサールの言う「不断の共同化によって統一されてゆく」歴史的時間という思想は見られません。しかし「解釈」とは「共同化」の作業であると言うことはできるのではないでしょうか。言葉は共同化されることによって初めて活性化されます。
「更に、歴史的事実には一種夢幻的な暈しが伴うことを見出すであろう。この暈かされた部分が中々に軽視を許さない大切なものを含んで居るのである。昔は夢を解く話が沢山あったが、あのうちに歴史的解釈に一種の暗示を与えるものが潜んでいるように思う。旧約聖書のヨセフやダニエルは立派な歴史精神の体現者であったと云うことが出来よう。
それのみならず、夢は其解釈に未来性を含むを常とした。即ち、起らんとする何事かに就いての予察を動機として居る。歴史解釈に於ても、此動機は常に重要である。否、圧倒的に優勢であると云ってよいであろう。予知先見の機能を喪っては歴史精神は亡びる。」
夢は潜在意識の現われです。その暈かし(ネビュラ)の中からある形象(意味)を読み取ろうとすることは、解釈という行為の本質に根差しています。そしてそれはこれから起ることについての予知に関わっています。
なお夢の解釈ということについては、『ユダヤ神秘主義とフロイド』(デイヴィド・バカン、岸田秀・久米博・富田達彦訳、紀伊国屋書店、1976年)の次の個所を引用してみます。ただしここには夢の「予察」については触れられていません。
「解釈されない夢は、読まれない手紙のごとくである(これは三世紀においてR・ヒスダに由来すると考えられる)。これに関連して、フロイドが自分の本を『夢判断』(Die Traumdeutung)と呼び、その見解の説明を次のようにはじめていることが思い起こされる。
私が本書のために選んだタイトルは、私が夢の問題に対するいかなる伝統的アプローチに従う気になっているかを明らかにしている。私が目前に据えた目標とは、夢が解釈し得るということを示すことである。……夢は解釈し得るという前提に立つと、ただちに、私は支配的な夢理論と衝突することになる。……なぜなら夢を『解釈する』ということは、夢に『意味』を与えることであり、すなわち、夢を、われわれの心的行為の連鎖のなかに、ほかのものと同等な妥当性と重要性をもつ一つの鎖として組入れ得る何ものかと見なすことであるからである。すでに考察したように、科学的な夢理論には、夢を解釈する問題がはいり込む余地はない。……素人の意見は昔からずっと別な態度を取ってきた。……素人は、漠然とした感じに導かれて、どうのこうの言われようと夢には、隠された意味ではあるが、意味がある、夢はほかの何らかの思考過程の代理となっているはずである、この隠された意味に達するには、この代理作用を正しくもとへ戻しさえすればよい、と考えているように思われる。」(p.287)
「この隠された意味に達するには、この代理作用を正しくもとへ戻しさえすればよい」というフロイドの言葉はアナロギアに通じています。著者は言います。
「此場合用うる論理はアナロギアを措いて他にこれを求めることは出来ない。過去より未来への飛躍はただアナロギアに於てのみ可能だからである。それは事象の細目の穿鑿とは別事である。史的事実の穿鑿は解釈の必須要素たる未来性をもたない。それは解釈の準備として緊要であるけれども、解釈とははっきり区別すべきものである。解釈は細目に囚われずして、事象のネビュラ構造を掴む。そしてこれを掴んだ時に、それは過去という枠框から自由に取離すことが出来る。尤もそれを自由に取はずすと云っても、唯漫然と過去から遊離せしめて、その事象を永遠化する、或いは普遍的真理と認めるというような祭り込みの態度では面白くない。それによりて歴史はミイラにされる。過去からの遊離は未来に対する現在の待機を意味するものでなくてはならない。
ここに言う遊離は更に切断、隔絶を意味する。それは一事象が他の事象から抽象された或は離脱したことではない。一応時間的に絶縁されるのである。過去の事象が同じく過去に属する所のものから離れようと結合しようと、それは史的技巧に関する問題に過ぎない。心理連想や、歴史の形態学的研究の結果として自由にこれを行い、依って以て歴史の形容を整備し充実することは出来るが、それは解釈ではない、未だ歴史の精神に触れて居ない。解釈には時間の絶縁が必須条件である。そして、その時間は単なる推移的時間を指すものではない。質的に異なる時間への飛躍を意味する。即ち中間に自我が現在点として介入されなければならぬ。自我は一個のレンズに喩うべく、そのレンズを通じて未来のスクリーンに投影された過去像のみが真に歴史的意味を有するのである。」
過去像が歴史的現在を通して未来に投影されるところにのみ、著者は歴史的意味を見出します。そこに働く論理がアナロギアであると言われます。「解釈には時間の絶縁が必須条件である」ということは、現象学的還元にも通ずる著者の歴史へのスタンスであると見なすことができます。第六章の論述はまだ続きますが、歴史に関する部分が終わったところで、紹介の作業を一旦中断します。
〔第六章 つづき〕 ここから自我と他我の関係の問題に移ります。
「右の歴史的解釈の理解は、転じて、我等を人と人との関係の理解に導き到らしめることが出来ると思う。今迄歴史的事象として考え来ったものは過去に属した。我等が次に考えるのは同時的に並列された人と人との交渉、その応答であるが、然し此場合に於ても、さきに指摘したように、応答は自我を中心として過現未の時間的経過をとると云うべきものなのである。他人は我と同時的存在と考えられるけれども、他人の我に対する働きかけは自我に於て過去、少なくとも現在完了として受け取られる。而してそれに対する我の反応は未来に属する。他人の我に対する働きかけは言語を以てする。自我はこれを解釈することによって始めて答えることが出来るのである。だが其解釈はただ言語的解釈に止まったのでは充分でない。言語を発生しめた主体たる人間を解釈せねばならぬ。真意は屡々言外にある。素養ある人々の交際に於ては、多くの語られざる言が聴かれ、録されざる字が読まれる。そして、それは好奇心からするのではない。自我が先方の言葉に対して答える必要に迫られた解釈なのである。」
自他の関係にも時間と言語が介在しています。歴史解釈と同様、そこにも解釈が働きます。
「此処に到って、自我は始めて己の支配下にあるアナロギア能力の全機能を発揮することを学ぶのである。というのは、これまで専ら自我を中心とし、自我本位にばかり物事を解釈し来ったのが、今や自我に対立する他の自我を、アナロギアによりて認識せざるを得なくなったのである。これまでは自我に話しかける主体を一個のネビュラ構造として認めていたとはいえ、それは恰も過去の歴史的事象に於けると同様、自我本位に解釈して支障を生じないものと想定されて居た。ところが、今や自我は答弁を要求される自己を発見する。その要求は自我と同列にあり、同等の権限を有する者から発せられたという自覚が伴って居る。ここに於て、その語る相手に対し、自我と対等の位地がアナロギアによりて与えられることになる。而して此アナロギアは、自分から先方へ離しかけた場合、先方からの応答があり、その応答のうちに自己の最初の意図が反映されて居るという相互作用を見出すことにより、一層強化されるであろう。」
著者は自他の対話のうちにも終始アナロギアを見ようとしています。
「斯くの如く、言語の仲介による応酬の反覆に於て、自我は自らに対立する他の自我を発見し、其処に人格という思想が現われたのである。他者よりの話しかけ――これを意思表示と呼ぶことも出来る――に対し、その言葉を正しく解釈することは、畢竟その他者の人格を認めることに帰着するであろう。それは又同時に自己の人格を認知することでもある。」
人格/personという思想が現われるということは、言語活動において人称/personが成立するということでもあります。人称は、対話において、我(一人称)が汝(二人称)になり、汝(二人称)が我(一人称)になるという形で、相互に転換するところに特質があります。それは自他の人格を認めるということの、言葉の上での成り立ちを意味しています。要するに言葉がなければ、人格もありません。
「他人は我の如き者であるという断定にまで到達せしめるアナロギアは恐らく人間の論理活動中最高なるものの一つであろう。他人の人格的存在、即ち彼の位地、権益、財物、名誉、品位、感情等々、に対して、自己のそれらと同程度の関心と尊敬と支持と保護と進展とを意図し得た時に、アナロギアの完成せる段階に達し、人は始めて人格的存在として自己を確認することが出来、また他人もその人を斯く認めるのである。」
他人の人格的存在を認めたとき、人は始めて自らを人格的存在として確認することができるということは、言葉とその根本的な機能としてのアナロギアにおいて可能になります。著者はそこに「人間の論理活動中最高なるものの一つ」を見出しています。
「認識は此高度に達した時に最早単なる観想の域を超えて居る。欧州語が多少此区別を設け、Cognition, Erkennen, Connaissance等に対しRecognition, Anerkennen, Reconnaissance等の語彙あるはこれを示すものといえよう。更に、人格対人格認識は全意識的であるというに止まらない、実践性をも含んで居ることを見逃してはならぬ。換言すれば、それは未来性を蔵して居るのである。自我は決断的な現在点に立脚し、他人格よりの働きかけに対し、常に的確な又適切な応酬の準備が出来ているべきものということが出来よう。」
著者が挙げている欧州語の例は、日本語であれば、「再確認」、「再認識」、「再発見」などと言うときの「再」に当るでしょう。なお、著者は実践性とは未来性を蔵するということであると考えています。それはすなわち自我が「決断的な現在点に立脚」するということでもあります。人格対人格の認識は全意識的であり、かつ実践的です。
「正しい意味での社会的存在としての人間は、右の如き人格具体者の集団でなければならぬ。それは深い倫理性に根ざしている。かような人格の社会的展開は一方に於て、家庭、村町市、組合、国家というように外形的に発達すると共に、他方これを道徳性によって内面的に裏づけ充実して行く。それは空間的に拡がると共に、時間的に自らを整理し、結晶する。これ等の複合ネビュラ――相互的な人格的認識と行動との結実であるところの――が即ち正しい意味での文化である。それは歴史の上に立つものであるから、様々な伝統となり、或いは精神的に思想化し、或は象徴的に形象化して、我等の上に複雑なる働きを及ぼして居る。そして、これ等凡ての指標とも代表ともなるものが、即ち言葉なのである。」
フッサールであれば「相互主観的共同性」と言うであろうことを、著者は「複合ネビュラ」として構想します。自我論から共同性へという両者に共通の問題の立て方がそこにあります。しかし、なぜそこから「正しい意味での社会的存在」、「正しい意味での文化」という言い方が生まれて来るのでしょうか。絶対論理学、純粋論理学という言い方とも関連する何らかの規範意識が暗々裏に働いているためではないでしょうか。
云い換えれば、人間は言葉を有し、それを道具として活用したことにより、遂に人格性にまで達し得た。同時に人格性を掴もうとする努力は先ず言語的表現に於て結実し、更にそれを培養してついに目的を達したとも云えるであろう。」
言葉がなければ人間の人間的意識、あるいは自覚は生れてきません。人格性は言語的表現の培養によって形成されます。同時に著者は、言葉は道具であるという思想を抱いています。その道具によって達成される目標は人格性を掴むということだと言われます。
「言語より人格性に至る途中に於て多くの段階の性格性が考えられるようになった。そして、『もの』が性格的に見られるようになったということは、包摂論理が実存在論理に推移し来ったことを意味するものとして、看過し難い重要な経過を示している。」
著者は初めに包摂論理(形式論理)があったかのような書き方をしています。しかしそれは言葉による抽象の所産であって、「もの」は(包摂論理的に)分類されるようになります。しかし人類は先ず言葉によって「もの」を性格的に把握していたのではないでしょうか。それは言語の発生をどのように捉えるかということに関わっています。
「性格は擬人化の成果であって、星雲構造を有する。これを空間的パースペクティヴに於て見た時、社会が現われ、又時間的パースペクティヴに於て見た時、歴史が現われる。これを言い換えて、事物が社会性と歴史性を有する場合、これを性格的と名づけると云っても宜しい。」
性格は擬人化の成果であるということは、その通りだと思います。しかし社会意識、歴史意識の発生がそれとどのように関わるのでしょうか。「事物が社会性と歴史性を有する場合、これを性格的と名づける」ということは何を意味するのでしょうか。集団や民族によって事物が別様に把握されると言うのであれば、それは集団や民族の個性の問題です。そのことと言葉によって事物が性格的に把握されるということとは、一応切り離して考えるべき事柄ではないでしょか。
「言語乃至文化というようなものも、性格的に見たとき、始めて其真義を掴むことができると思う。人格と人格との交渉が絶えず其根底に働いて居なくては、言語も文化も、一塊の塵埃に帰するよりほかはない。」
ソシュール的なパロールとラングの「力動的一元論」ということを考え合わせれば、著者の言い分も首肯できなくはありません。しかしそれが性格的であるとはどういうことでしょうか。「性格は擬人化の成果である」、「言語より人格性に至る途中に於て多くの段階の性格性が考えられる」、「事物が社会性と歴史性を有する場合、これを性格的と名づける」という先の言葉と考え合わせると、著者はどうやら人格→性格→事物という、人格に焦点を定める星雲(ネビュラ)構造を念頭に置いているように思われます。
「旧来の論理学もアナロギアを無視していた訳ではない。否アリストテレスその人が既にこれに異常の注意を払い、中世に至りては、アリストテレスの下ヒ(婢)ancilla Aristoteliaeたることを光栄と感じたアキノのトマスに於て哲学的努力は顕著なる業績を示した。然し、これを通観するに、遺憾にも、それは論理的方法以上に出ない。その背後にアリストテレス大王の形而上学的実体が厳然と控えて居り、この実体を把捉する手段としてのみアナロギアは働くものとする見解を脱し得なかった。この見解に縛られて居る間は到底絶対論理学的アナロギアに達することは出来難いのである。
我々は斯様な覊絆を脱せねばならぬ。アナロギアは絶対自体の論理として、その作用に於て絶対なるものが把捉せらるべきである。されば、アナロギアが対応に於て存立するという場合、前項と後項とは旧論理学のような分析によりて得らるる概念であってはならない。両者共に関係要素を中心とする事象性を有たねばならぬ。それは普通因果関係に於て考えるのを便宜として居る。事象性はまた歴史性であるとも云えるであろう。然し此処にいう歴史は必ずしも日付をもつ実記録という意味ではない。創作でも寓話でも此資格を具備し得られぬ理由はない。要はそれが未来に対して働きかける力を有するか否かにある。これを有するものは歴史であり、アナロギア的事象要素である。
前項既に斯くの如く事象性を欠く能わず、後項も無論亦同様でなければならぬ。さればアナロギアは二個の事象の対応より成る一個の実存性体系なのである。これを連繋し統括するのが即ち自我である。自我は対応を生起せしめる主体であって、過去と未来との二事象間に自らを定置し、即ち現在に座を占め、これを綜攬する。これ即ちネビュラ体にほかならぬ。絶対論理学的にこれを全体的構成と名づけることが出来よう。斯かる全体は時間的であり、前項と後項即ち始原と終局を有することによりて特徴づけられる。」
ここに与えられた三つの段落を繋げて考えると、やはりそれぞれの段落に出て来る「到底絶対論理学的アナロギアに達することは出来難い」、「アナロギアは絶対自体の論理として、その作用に於て絶対なるものが把捉せらるべきである」、「絶対論理学的にこれを全体的構成と名づけることが出来よう」という表現が気になります。ここで著者が問題にしていることを、別の観点から、多少なりと浮び上がらせるために、やや煩瑣になりますが、フッサールの言葉を引用してみたいと思います。以下はすべてエドムンド・フッサール著、ルードヴィヒ・ランドグレーベ編、長谷川宏訳『経験と判断』(河出書房新社、1975年)からの、かなりアトランダムな引用です。
「一般的に、法則の形式をとって、われわれはこういうことができる。自我の一切の知覚および経験は、その志向的対象にかんしてつながりあい、(矛盾する場合でさえも)ひとつの時間と関係している。そして同様に、相互に理解しあう一切の自我主体の一切の知覚および経験は、その志向的対象にかんしてつながりあっている(訳書傍点、以下同様)―― 一切の主観的時間のうちに構成される客観的時間と、その時間のうちに構成される客観的世界をつうじて、つながりあっている、と。
それぞれの経験(たとえば、それぞれの想起)が同一自我や同一の自我意識のながれにぞくする他の経験と(たとえば想起がそのときどきの現実の知覚と)どのようにつながりあい、どのようにして全体としてすべての経験がひとつの時間のうちに結合されるかを完全にあきらかにするのが、いうまでもなく、現象学の中心問題である。そして、この時間があらゆる可能な自我とその経験を支配するものとみなされる必然性もまた、現象学的に理解されねばならない。
意識のながれを問題とするとき、われわれはある意味ですでに無限の時間を前提としているので、その時間をいわばみちびきの糸として意識から意識へとさかのぼったり前進したりするのである。ひとつの意識が現実にあたえられ(あるいはあたえられうるものとして表象され)、それが必然的に前方にながれていくとき、その意識を想起し、記憶のなかで統一的な意識のながれを形成する可能性がうまれてくる。この困難な問題、そしてとくに、対象の絶対的な時間規定の把握や、客観的時間のなかでの対象の位置の構成がどのようにおこなわれるか、また、一般にこの客観的絶対的な時間のつながりが主観的な体験時間のうちにどのようにあらわれるか、といった問題は、もっとつっこんだ時間意識の現象学においてとりあげるべき重要な主題である」(p.52-153、「第三十八節 自我と自我圏にぞくするあらゆる知覚や定立的再現によって志向される対象の、感性の形式たる時間にもとづいた必然的連関」より)。
「さまざまな空想世界の内部で、個別化された時点や時間持続などは相互にどう関係するのだろうか。われわれはそれぞれの要素にかんして、同等だとか類似しているとかはいうことができるが、同一だとはけっしていうことができない。意味をなさないからである。したがって、そうした同一性を前提とするような、つながりのうえでの撞着も生じようがない。たとえばあるおとぎ話にあらわれるグレーテルとべつの話のグレーテルが同一人であるかどうか、一方について空想され言明されたことが他方について空想されたことと一致するかどうか、ふたりに血縁関係があるかどうか、といったことを問うのは意味がないのだ。それを確定できるのは――問をひきうけることはすでに確定することなのだが――ふたつのおとぎ話がおなじ世界に関係している場合にかぎられる。ひとつのおとぎ話の内部でそうした問を発することができるのは、もともとそこにひとつの空想世界が存在するからであり、空想がとだえ、それ以上こまかい規定をあたえることができなくなるとともに、問もまたむろんなくなるほかはない。そして、規定を恣意的にくだす権限(あるいは必然の連鎖のなかで規定を実現していく権限)は、空想の統一を継続していくという意味での空想の展開いかんにかかっている。
現実の世界には空想のはいりこむ余地はなく、すべてはあるがままのすがたで存在している。空想の世界は、空想の加護があたえられるかぎりで「存在し」、それによってそのありかたもきまってくる。空想にはおわりはなく、あらたに規定するという意味での自由な形成をゆるさないものはない。だが他方、空想の「統一」を構成するつながりのうちには、本質上の制約がいたるところにあるので、それは看過されてはならない。その制約がどんなかたちであらわれるかといえば、空想の統一は自由なひらかれた場面で進行するが、にもかかわらず、その進行過程で「可能な世界」はそれにぞくする空想時間の包括的な形式によって統一される、という点にあらわれるのだ。
以上のことからつぎの帰結がでてくる。つまり、個体化や個物の同一性、さらにそれにもとづく可能なものの同定は、現実の経験世界の内部で絶対的な時間位置にもとづいてのみ可能である。その点はここでは簡単にふれるにとどめたい。個体化の理論の展開はいまわれわれの意図するところではないのだから。要するに、空想経験のあたえる対象は一般に本来の意味での個別対象ではなく、空想世界の統一が確保されたところになりたつ擬似個別対象ないし擬似同一対象にすぎないのである。だから、判断論を基礎づけるという作業にあたっては、あらかじめ中立性の領域を排除しておくのがただしいことになる。判断論はまさに究極の明証性をあたえる個物の経験とともにはじまらねばならないが、そうした個物の経験は、空想のなかはもちろん、一般に中立的な意識のなかでは成立しないからである。
にもかかわらず、空想経験がわれわれの考察の視野のうちにはいってくるとすれば、その根拠は、空想経験が現実経験およびそこで遂行される規定と単純に平行関係にあるという以上のものだからである。だから、定立性の領域でうちたてられたものをここで単純に擬似的なものに翻訳すればそれでじゅうぶんというわけにはいかない。むしろ、知覚対象と空想対象とのあいだにはつながりがないのにもかかわらず、そこになお、経験のなかにあたえられる個別対象を(相対的に)規定するのにやくだつ、直観的な統一が可能なのだ。ここになお可能となるこの統一を問いつめていくと、直観の統一にかんする広義の概念――これまでうちたてられたものより広義の概念――にいきあたり、さらに、もっとも包括的な関係のありかた、つまり、知覚対象であれ空想対象であれ、そうした直観的統一のうちで統一される一切の対象のあいだの、可能な同等性ないし類似性の関係のありかたにいきあたる」(p.159-160、「第四十節 空想を空想世界の統一へと収斂させることによってうまれる、空想のなかでの時間的統一とつながり。個体化は現実経験の世界の内部でしか可能ではない」および「第四十一節 自我の知覚対象と空想対象とを直観的に統一する可能性の問題」より)。
「比較的対象がいまここにあるかどうかいに関係なく純粋にその本質内容にもとづいて形成される比較の関係に対立するのは、現実の関係、つまり、関係項の現実のむすびつきにもとづく関係(事実の関係)である。それは個別対象のあいだにのみ成立しうる関係である。それを基礎づける最下低の統一は、ひとつの時間内での現実の結合による統一で、その場合、結合される対象はこのひとつの時間のうちに絶対的な時間的位置をもっている(第四十節参照)」(p.170、「第四十三節 結合の関係と比較の関係」の「(b)もっとも重要な結合関係(現実的関係)の構成」より)。
「これまで論じてきた類似性や同等性にかんしては、具体的な類似性ないし同等性、すなわちたとえば淡紅色の屋根が深紅の屋根ににているという場合のように、具体的対象の類似がかんがえられていた。この具体的な類似性とは区別されるものとして、転用された類似性がある。これは類似の部分にかんする類似性で、対象全体の類似、端的な類似ではない。それは、具体物ないし全体が、もともとそこに編入される契機がにているために類似性にあずかる、という特有の関係である。
類似が具体的なものであれば、つまり、具体物がそっくりそのまま、その全体の内容からして類似し。具体物として「かさなりあう」のであれば、いうまでもなく、そこここに区別できるそれぞれの契機もたがいに類似している。もっと正確にいえば、ふたつの具体物を「対応する」契機にわかつことができ、それを一定の秩序で整理すれば、それぞれ一対となった契機はたがいに類似しているのだ。したがって具体的な類似は部分的な類似に分解される。だがその場合、全体は部分が類似している「がために」類似しているのではない。これに反して、転用された類似性の場合には、部分の類似が全体に「転用された」にすぎない。そこには特殊なかさなりあいが生じている。全体は部分がかさなりあうことによって必然的に特有の相互関係にはいる。部分がかさなりあいの感性的統一を有しているがゆえに、全体そのものはあらかじめ感性的統一を獲得する。こうして、とりわけ類似の結果がこの二次的な「類似性」にむすびつけられているからこそ、全体についても類似性を問題とすることができる。特殊なかさなりあいには、「たがいを想起させる」ような類似性連想が対応している。ひきよせられた想起の連想(Aによって想起されたB)のなかで、この「……によって」という契機が与えられ、同時に、Aは「αのゆえに」Bを想起させる、ということになる。想起の傾向はαからα′へ、つまり関係を基礎づけるものへとむかう。だがαは、具体物として原初的にあたえられるAのもとにのみあたえられ、α′は、これも原初的にあたえられるBのうちにしかあたえられないから、またしても転用によってAとBのあいだに想起の関係がうまれる。これは現実的な想起の関係だが、それはただ、α―α′という基礎的な関係に基礎づけられてはじめて成立するのである。
この関係はまた、むろんつぎのようにもとらえることができる。つまり、具体物の類似は現実の類似とみなされるが、ただこの類似はまさに変様された性格をもつもの、αの類似に「基礎をおく」類似だ、というように。そうすると、全体的ないし具体的な類似と部分的類似は類似性の様相がことなることになり、一方の様相についてはすべての契機を部分的類似として一義的に整序することが可能だが、他方の様相はたんにいくつかの契機を類似の契機としてうかびあがらせるにすぎないことにある。そこでつぎの区別が必要となる。
一、具体的全体の全体的類似性ないし純粋な類似性。
二、部分は純粋に類似しているが、具体的全体は純粋に類似していないという、部分的類似性。
ふたつの内容が純粋な類似の関係にたつのは、一方の直接的な部分が他方のそれとすべて類似している場合である。不純な類似性とは、非類似の構成要素によってよごされた類似性のことである。
純粋な類似性には段階がある。しかしこの段階性は、不純な部分的な類似性の非本来の、非連続の段階性とはべつものである。後者の段階性は、純粋な類似性をもつ部分がませばますほど完全度がたかまるが、そこでもまた、それぞれの部分のもつ、全体の類似の「おおきさ」をきめる力の強弱に応じて区別が生じうる」(p.179-180、「第四十五節 全体的な類似性と部分的な類似性(ある点にかんする類似性)」より)。
以上のフッサールからの引用において、「対象の絶対的な時間規定の把握や、客観的時間のなかでの対象の位置の構成がどのようにおこなわれるか、また、一般にこの客観的絶対的な時間のつながりが主観的な体験時間のうちにどのようにあらわれるか」、「個体化や個物の同一性、さらにそれにもとづく可能なものの同定は、現実の経験世界の内部で絶対的な時間位置にもとづいてのみ可能である」、「それを基礎づける最下低の統一は、ひとつの時間内での現実の結合による統一で、その場合、結合される対象はこのひとつの時間のうちに絶対的な時間的位置をもっている」と言われる個所で、「対象の絶対的な時間規定の把握」、「この客観的絶対的な時間のつながり」、「現実の経験世界の内部で絶対的な時間位置にもとづいてのみ可能である」、「結合される対象はこのひとつの時間のうちに絶対的な時間的位置をもっている」の「絶対」とは、果たして何を意味するのでしょうか。絶対的な時間位置ということは、時間の中で現われては消えていく具体的事物の「かけがえのなさ」と切り離せないものとして思念されているのでしょうか。それは我々の著者が「絶対論理学」ということとの間に、何らかの関連を見出すことが可能な事柄なのでしょうか。
なお引用の最後の段落でフッサールが類似性について述べていることは、我々の著者がアナロギアとして論じていることと重なるものがあると思います。ここで本論に戻ります。
「人格は右の如き全体性の把握によりて成立する。されば人格はアナロギアの唯一の駆使者たると共に、アナロギアありて始めて人格は成立するとも云い得るであろう。アナロギアなくして人格はなく、また哲学的自我というものも考え得られない。右に比すれば、アリストテレス論理学の考えるアナロギアはこれをかすかに反映する影像に過ぎないであろう。」
著者はアナロギアの意義をこのように確認した上で、次に、漸くパラドクスの問題に取りかかります。
「アナロギアは時間的前後の自認の上に立つ。これによりて過去と未来は質的に区別される。但し始原と終局に関してはアナロギアははっきりした認識を与えるとは云えないであろう。それらは唯ぼんやり認められるに過ぎない。寧ろその漠然たるところにこそこの論理作用の特徴が見出されると云えよう。即ちネビュラ構造の縁暈/リンブス(limbus)が表わされるのである。この点次に示されるパラドクスの論理作用と強い対照をなす。
自我の働きではあるけれども、アナロギアに於て自我は受動的立場にある。自らは其中心に関係要素として「置かれた」という立場にありて推理を行う。意志的な働きは勿論与って居るのではあるが、表面には現われず、専ら理智をして表面に働かしめる。自我の占座する「今」は目立たぬよう隠れている。
然るに、これと反対に、自我が主座を占める論理作用がパラドクスに於て見られる。其処ではアナロギアの場合とは逆に、意志的行動が顕著に現われ、「今」の演ずる役割が主位を占めることを見出すであろう。
アナロギアは時間に対し、その順序の防護者のように見える。過去と未来の秩序を保って謬らない。所がパラドクスは時間を瞬間によりて寸断し、これを殺傷して省みないかに見える。但し実は両者の共働によりて真の時間が窺われるのであるが、其説明は後章にゆずろう。」
著者が再三論じている、アナロギアは過去と未来との間に働くということ、そしてここに出てくる、パラドクスは時間を瞬間によって寸断し、殺傷して省みないということ、またアナロギアは理智的であり、パラドクスは意志的であるということは、通常の修辞学的な理解をはみ出しています。その意味するところが何であるかは、さらに先に進んだところで判断するほかはありません。
「如上の観察に於て見るように、アナロギアの活動区域は広汎である。必ずしも宗教に限った訳ではなく、人間と人間との交渉に於て間断なく行われ、また科学の領域に於てさえ、擬人化に於てその適例を見出すことが出来る。然らば宗教は人間世界の現象に過ぎないものである、別に宗教の領域を事々しく新に考える必要はあるまい、と或人は抗議するかも知れぬ。
此抗議は一部分正しいということが出来よう、宗教の論理は人間生活の論理から出発するのであるから。人間的論理に通ぜざる人には宗教は解らない。その論理の洗練によりて悟道への端緒を捉えるのである。然しながら、人間生活に於けるアナロギアは未だこの洗練に於て充分でない。不純であり、多くの夾雑物を含んで居る。それのみならず、更に重要な事は、アナロギア論理はそれ自体孤絶され独立した存在としては甚だ不完全であるという点にある。アナロギアはこれと相補的性質を有し、これと相関的に作用する他の重要なる論理、即ちパラドクスとともに考察されねばならぬ。
然るに、パラドクスは人間生活に於ては未だ充分に其機能を発揮しない。それは宗教の領域に至り始めて自由な活動を示すのである。それ故、人間生活の論理たるアナロギアは宗教への準備として軽からぬ役割を演ずるにも拘らず、自己単独では宗教の領域で作用することが許されない。勿論この領域こそアナロギアが真に偉大な働きを縦横に発揮する舞台なのには相違ないが、その為には相手方となるべきパラドクスとしっくり取組まねばならぬ。これ等二論理はその作用が想反しているが、それでいて相調和し、各自他の欠陥を補うの観がある。
アナロギアとパラドクスは双翼両輪の関係を持すということが宗教を特性づけるものである。人間生活及び人間を中心とする世界を平俗に常識的に見て居る間はアナロギアの働きだけで満足し得るも、その世界から一歩を踏み出そうとすれば、最早それでは如何とも為し難い。」
著者はここでアナロギアとパラドクスが宗教を考察するときの二つの主要な「論理」であり、特にパラドクスは宗教の領域においてこそ「自由な活動を示す」と言います。そこに著者の「宗教哲学」の論理的骨格が示されます。しかしここで宗教哲学の論題を離れて、参考までに、レトリックとしての逆説についての説明を、佐藤信夫の『レトリック認識』(講談社、前掲)から二個所引用します。
〈古来、《対義結合》のあやに対する定義は、その表現形式にかんしてはほとんど変様がない。その、ごく平均的な説明を、たとえば十八世紀フランスの標準的な概論書、ジャン=バティスト=ルイ・クレヴィエの『フランス語レトリック』について見る(……)。
「《対義結合》はあるひとつのものごとについて相反するふたつのことがらをともに肯定する、あるいはともに否定する“あや”として定義される。あきらかに、それはいわゆる“逆説”と呼ばれるものである。たとえばキケロは友情のもついくつかのすぐれた特質をほめたたえて次のように言った、『友は、不在であってもそこに存在し、赤貧のなかにあっても富裕であり、弱く病身であっても強健であり、そして、たとえ死んだのちにもなお生きている』。そこに述べられている命題はすべて矛盾をふくんでいるように見えるが、すこし考えてみれば真実であると判明する。なぜなら、ふたりの友はじつはおなじひとりの人格をかたちづくるものであって、その結果、一方の人物のなかに存在しないものもその友である人物のなかに存在することになるからだ。」(p.135-136)〉
〈《対義結合》をそのまま《逆説》の同義語としていたクレヴィエの『フランス語レトリック』による定義は、私たちがすでに見たとおりである。そのほかの教科書のたぐいも、多くのばあい、《逆説》と《対義結合》は、交換可能な同義語か、あるいは類義語であった。また、二十世紀なかばに、ルネサンス期英語圏のレトリックについての丹念な研究を発表したシスター・ミリアム・ジョージフは、『シェイクスピア時代のレトリック』のなかで、《逆説》に対して広義と狭義のふたつの定義を記録している(第三部、七・五)。
「《逆説》は十六世紀にはふたつの意味を持っていた。(1)一般に受け入れられている意見とは逆の言表であり、その驚異性、奇異性、信じがたさによって意表をつくもの、(2)あきらかに自己矛盾的な言表、である。」
と、これは当時のいくつかの概論書による定義を集めて煮しめた記述だから、味もそっけもないのはやむをえまい。ともかく(1)は広義の、そして(2)は狭義の(対義結合にほぼひとしい)《逆説》にほかならない。ミリアム・ジョージフ女史はすなおにふたつの定義をならべているが、実際問題としてそれらふたつの用法がほとんどおなじ原理に帰することは、私たちがすでに検討したとおりである。
ふたつの《逆説》とは、つまり、意見ないし思想として見たばあいの反=通念(広義)と、その具体的な表現としての対義結合(狭義)とである。相違は視角にある。(p.160-161)〉
このように「逆説」についての説明を引用したところで、私としては、我々の著者が言うアナロギアを「類義結合」、パラドクスを「対義結合」と呼んで見たくなりました。人間の言語活動を根本から捉えるために、この二つの「論理」が析出され、特にそれが宗教的言語活動に適用されるのだと理解してもよいでしょう。またそれを時間論/自我論と結びつけるところに、著者独自の見解が示されることになるのだと思います。このあと五点にわたって、アナロギアとパラドクスの対比が試みられます。
「パラドクスは一面に於てアナロギアを扶助するものである。しかし其機能に於て両者は反対であるのを常とする。依って我々は左に両者の質的対比並びに作用上の交渉に就いて若干の観察を試みたいと思う。
第一の観察としてアナロギアは静観的である。思想化的体系化的である。そこには組織はある、が動きがない、生命がない。これに反し、パラドクスは寧ろ組織の破壊者であり、思想化を止断する。しかしそれは同時に動的原理、いな飛躍の原理として、アナロギアに翼を与うるものである。一方、飛躍は前途の見通しや、動力源の準備や、若干の滑走的中間行程をさえ必要とする。アナロギアはパラドクスに対し準備的役目を果すものとも云えるであろう。
さきにアナロギアを論じた際、それを以て動的論理であると做した。然るに今これを静観的反省的となすは甚だ了解し難い態度だと云われるであろう。その理由はこうなのである、アナロギアは人間世界に於ては立派に行動の論理なのだが、一層高次の行動性の前には其動性は無に帰し、他の一面である反省と解釈の機能のみが存在理由を保つことになるからである。例えばモーセ律は道徳的行為の規範として、人間的立場から見て、活きたる原理であるが、パウロは福音的信仰(パラドクス的な)の更に高い次元に属する活性原理の体得者として律法を死の法と呼ぶに至った。此事は右の事由の理解をたすけるであろう。」
ここで初めて、律法を死の法と呼ぶに至った、パウロの福音的信仰はパラドクス的であるという著者の理解が例示されます。
「第二の観察として、両者はともに現在に座を占めることを注意しよう。これいづれもが自我の態度決定を時間的に表す原理としてそうでなければならぬ。とはいえ、アナロギアに於て考えられた現在は漠然たる性情を呈することを我々は既に看来った、そしてそれが却って此原理の特性を如実に示すことも注意した。アナロギアの現在性は唯それが過去と未来を区別し得ればよい。その区別は質的に瞭かなるを要すると共に、主体的自己の時間的所在を両者の中間なるニュアンス中に半ば韜晦するの状がある。そこに現われる自我は行動的ではない、反省的である。決断的ではなく、解釈的である。それ故他者に対し旗幟鮮明なる自己を示す要がない。寧ろ互に性質を異にする過去と未来との両域に出来るだけ自己を適応して、その状況を充分に見届けることが重要事である。それによって始めて過去と未来の対応を遺憾なからしめることが出来る。
斯様に、アナロギアに於て、自我は勿論主体ではあるが、主動的位置には立たぬ。ぼんやりと想念されて「現在」のうちに自らを潜める。その現在性は連絡的要素として、又繋辞的存在として時間的に示唆されるに過ぎない。アナロギアの与えた解釈に於て自我は勿論責任を有するが、その解釈は多義的可能性を有するが故に、その責任も亦意志的尖鋭性をもたない。「あれかこれか」の決断ではなく、可能なる幾つかの解答が並存する。いな寧ろそれらが一体系を造るといった方がよいであろう。
このニュアンスの現在性に対し、パラドクスは、尖鋭なる瞬間に収斂したる現在の一点に生きるものである。瞬間は現在の極限化であって、「有る」又は「在る」ということの時間的意味は此一点に於て論理的に凝結せるの観がある。それはのっぴきならぬ即刻である。而してアナロギアに於て後方陣地に潜んでいた自我は、今やパラドクスによりて最前線に乗り出し、自我が臨める当面の危機に対する処置に全責任を以て決断を与える。
斯様に、アナロギアは過去と未来の裁別者としての現在性を作用せしめるが、その現在性は裁別することにより却って両者を連繋する。これに反し、パラドクスは現在性の極限たる「今」の一瞬点によりてこれを切断し、連続を不可能ならしめる。
パラドクスの掴む「今」即ち論理的瞬間、即刻、というものはさきにも注意した如く、これを物理的又は数学的意味に於ける極小時間と混同してはならぬ。一瞬といっても、それは必ずしも肉体的又は心理的に経験される刹那感の伴うところのものとは限らない。それは論理的用語である。但しそれは同時に心理的或は物理的であってはならぬということではない。要はその論理性を見失わないにある。
パラドクスは謂わば時間の微分を行うことに始まる。「今」とは時間の論理的微分商に他ならない。ここに先ずアナロギアの「現在」の漠然たる組成と著しい対照を認めて置きたい。「今」は徐々に展開し来る意味内容を一挙にして総括する働きをなす。これを考える場合、「今」が心理的に特性づけられることの可能性を想起することは有意義であろう。即ち「現在」が主として理智に訴えるのに対し、「今」は専ら意志に訴える。心理学的に考えるならば、決意と切断は多少共時間的極限感に触れずしては実現されない実現されないことを暁るであろう。人間は長い思慮の時と短い決意の時を要する。思慮短ければ不測の禍を招き、決意長ければ機を失う。勿論ここにいう長短は相対的ではあるが、そのうちにおのづからアナロギアによる反省考慮の徐進的展開とパラドクスに基く切断決意の急調な綜核との対比を窺うことが出来ると思う。」
著者はパラドクスの「今」をアナロギアの「現在」から区別します。これは独自の用語法であって、元々パラドクスの語義にそのような「切断決意」が含まれているわけではありません。アナロギアは理智的、パラドクスは意志的というという「意味の限定」も、著者の宗教哲学的要請から来るものと考えるべきでしょう。
「第三に見出される両者の対比は一見奇異に感ぜらるる所のものである。即ち、アナロギアに於ては、既述の如く、過去が先ず前項として示され、これに対する解答として未来が現われるが、パラドクスに於ては、其順序が逆転し、先ず未来が現われて自我に迫り、自我はこれに対し却って自己の過去を以て答えるという現象を生ずるのである。温故知新はアナロギアの方式であるが、パラドクスは知る原理ではない、行う原理、しかも、知るが故に行うのではなく、思慮ありて後の決意ではない。それと逆に、先ず決意が促され、行動が起され、而して後に思慮や知解がこれに伴うのである。これらの消息は常識では不可解であろう。それは解釈性の範囲を超えたものと云えよう。
アナロギアの場合に於ては、設問に対する解釈の自由が返答に於ける自我の任意性を保障した。然るに、パラドクスに至るや、返答を迫るものは他者であり、未来である。その返答は然りか否かで、其中間は許されない。然も、それは伝統論理学の拒中律の如きものではなく、行動に現わるる然りか否かでなければならぬ。未来よりの設問に対し、自我はこれを悟ることを以て安如たる訳にはゆかぬ。是非共全人格を挙げての「あれかこれか」の絶体絶命の行動に出ねばならぬ。しかし其行動たるや、知らずして為す行動であるから、非常な冒険に違いない。これ後章に論ずる信仰に他ならない。アブラハムは神より出発の命令をうけ、往く所を知らずして此命令に従った、それが信仰であり、パラドクスの特性を表するのである。
ところで、斯く峻厳な絶対命令を以て迫り来る他者即ち未来的なるものとは何であるか。それは他人に於ても多少認められるであろうけれども、他人は自我と或程度まで生活をともにし歴史を共有するものとして、専らアナロギア的交渉の範囲に属する。パラドクスが作用する為には他者は斯様な人的要素を清算し尽した絶対他者でなければならぬ。他人は寧ろ過去的性質を有するものであり、この絶対他者に至って始めて未来的存在ということが出来る。尤も何故に絶対他者が未来的であるかは自明の問題ではない。それは後述を期することにし、ここには一例として、「天国は近づけり、悔改めよ」の聖句を挙げよう。「天国」又は「神の国」の未来性は別に論ずるとして、それが「来るべきもの」ということは瞭かであろう。この未来的なるものが我等にチャレンジし、決断を迫るのである。アナロギアは過去が我等に呼びかけ、未来を以てこれに答えることであった。斯様に両作用の時間的関係は互に倒逆している。
ここに道徳と宗教との別を見出すことが出来るであろう。即ち、世俗道徳では過去よりの声が呼びかける。律法主義もやはりそれである。然るに、神の声は未来から響く、此点を逸しては基督教の理解には到底達することができない。」
第三の対比において漸く著者の言おうとするパラドクスの意味が明確に示されます。絶対他者としての神が未来から我々に決断を迫るということに、著者のパラドクス理解が示されています。しかしこの言明が成り立つためには、聖書の中のアブラハム自身に起こったこと、またイエスの説教を聞いた群衆に起こったであろうことが、今の我々にもそのまま適用しうるという前提がなければなりません。それが前提されている場所とは、教会の説教にほかなりません。教会では聖書の記事がまさに今の我々に決断を迫るものとして説き明かされます。あるいは、その場所が教会でなくても、聖書がその前提のもとに読まれるということがなければ、神の声が我々に響くということはありません。つまりそれが著者の言う信仰です。著者の言うパラドクスとは我々に全人格的な決断を迫る信仰の論理です。まさに「あれかこれか」です。
「第四の対比もやはり時間的特性を表すものであって、端緒と終末の問題に関する。アナロギアに於ては、事象の端緒があって而して後に終末が来るが、パラドクスに於ては先ず終末が存し、然る後に端緒が現われる。端緒を《 、終末を 》で表すとせば、アナロギアは《 》、パラドクスは 》《 の形をとると云えよう。《 》の中間に存する自我は反省的現在に立脚するもので、《 》は一個の全体的世界を表す。これに対し、 》と《 との中間にある自我は「今」の瞬間点に立つものであり、 》《 を《 》中に嵌入することにより、世界を切断すること次の如くであろう《 》《 》。かくして一世界は無数の瞬間的小世界に寸断することが出来よう。それらの小世界はいづれも全体性を有し、各自みな他を反映することさきに述べたモナッド的曼陀羅の如くであろう。
一個の磁石を二つに切断すると、その切口が新たに磁極となって二個の磁石が生ずる如く、全体的事象を「今」によりて切断した結果は二個の全体的事象を生じ、而して此過程は無限に続けることが出来る。」
第三の論点が「聖書的」であったとすれば、第四の論点においては、一転して「モナド的曼陀羅」の世界が示されます。この二つの論点に共通するものは、恐らく「永遠の今」とでも言うべき世界観でしょう。
「第五の対比は肯定否定の問題に係るものである。解釈の原理なるアナロギアは是を是とし、非を非とすることを本領とする。これに対し、パラドクスは是非を同時的に宣言する特徴を有する。
即ち、アナロギアは反映であり解釈であるから、物事を素直に受入れ、みだりに自己の主張を表面に立てない。ところが、パラドクスは常に自己の過去を否定することから出発する。右に挙げた「悔改」はその一例である。然しその否定が否定だけに終らず、更に大なる肯定に転換する所に此論理作用の特性がある。否定肯定は一瞬間に同時的に含まれて居り、唯其順序は既述の如く否定が先んずる。」
第五の論点で、パラドクスに関するレトリカルな認識が初めて示されます。ただしそこにも著者特有の時間論/自我論が加味されています。「悔い改め」が著者の考えるパラドクスの適例として挙示されます。アナロギア(類義結合)とパラドクス(対義結合)という判断の二つの類型が、著者特有の現象学(時間論/自我論)と結び合わされて、そこから宗教哲学(キリスト教哲学)が展開されるという構図が次第に明らかになってきたと言うべきでしょう。こうして漸く「絶対論理学」の全容が明らかになったところで、著者は次章の「世界観への展望」に移ります。
第七章 世界観への展望
「以上自我の立場から絶対世界を看望し来った。それを今度は世界観的立場から見たならばどうであるか、ということが此章の課題である。
それは既に意味世界の曼荼羅的表現に於て其概観を得たのであるが、アナロギアとパラドクスの論理作用に就いて得たる所を基礎として、ここに観察を新にする訳である。
絶対論理学的立場から見た世界は一個の全体を形造るといえよう。然し、その全体性はアリストテレス的全体、即ち他との関連から隔離されて自存する全体、という意味に於て承認することは最早出来なくなった。それは他との無限の関係――相関関係――によって支持され且つ意義づけられる相互依存の一世界、即ちネビュラ構造の名を附したところの論理世界についてのみ云われ得るのである。
然らば全体はこの論理世界そのものに就いてのみ云い得るのであろう。だが此世界を全体として掴もうとしても、これを量的に掴むことは不可能である。何となれば、一面に於て、それはネビュラ構造の世界であり、劃線を用いて内外を分つことが出来ず、又一面に於ては、たとえ区画づけが出来ると仮定しても、その世界の外は何であるか、全く不可知だからである。否寧ろ、世界の外を考えることが此世界の存在意義を奪うことになる、と云う方が適当であろう。前に注意したように、此世界を包摂的に考えることが既に根本的に謬って居る。それによって此世界の特性は失われるからである。是非共これは質的にのみ思惟されねばならぬ。」
既に指摘したように著者は「包摂」を量的にのみ把握していて、質的包摂のネビュラ世界という思想に思い至っていません。ネビュラは包摂的体系であるということが指摘されるべきでしょう。それは「無限抱擁」の世界です。参考までにヤスパースの言葉を『哲学とは何か』((林田新二訳、白水社、1986年)から引用してみます。
「世界と超越者。存在それ自身である包越者、包越者としてのわれわれのあり方によって包越されている包越者は、世界ならびに超越者と呼ばれる。
自然的な態度からすれば、この両者が最初の存在である。それらはわれわれ人間が産み出したものではなく、われわれの行なう解釈によって単に解釈されたというだけの存在ではない。われわれ人間は世界内の些少な一部であり世界の中で消滅してゆく過渡的なものであり、また、実存としてはわれわれ自身によってではなく超越者によって措定されたものであるということを自覚しているが、世界と超越者は、このようなわれわれを生み出すものなのである。
存在それ自身である包越者は同時に、いかなる仕方においてもわれわれにとっての客体となることのない存在でもある。
われわれはこの世界のなかをあらゆる方向に進んでゆき、この世界のなかで、認識できる事物を際限なく見いだしてゆく。しかし全体としての世界そのものは理解できないし、それにふさわしい仕方で思惟することもできない。つまり世界そのものはわれわれの知の対象ではなく、研究のための課題としての理念であるにすぎない。
だが、超越者については研究ということがまったく成立しえず、われわれは、――比喩的な言い方をするなら――この超越者によって触れられるとともに、他面では、すべての包越者の包越者である他者としてのこの超越者に触れるのである。」(p.283)
著者は「質的に見た」この世界について次のように言います。
「それでは質的に見た此世界はどのように解せられるか。それは先ず第一に世界が多くのネビュラを含む一個の大ネビュラとして考えられる。第二にそれは性格づけられる。これは既述の如く、人格の自我規定作用によりてである。これによりてネビュラは方向性を生じ、随って動的になったと云い得るであろう。単にネビュラとして漠然と思惟されたのでは未だ静的であって、動化していない。所が、この動化により、さきに示唆して置いた系列性と順序性は具体化し、活性を帯びる。働くネビュラとなる。言い換えれば、それは時間的となり、過去、現在、未来の三時相を具備する。そして其処にアナロギアの論理は作用する。」
ここで言われる「世界が多くのネビュラを含む一個の大ネビュラ」ということは、ヤスパースの言う「すべての包越者の包越者」にも匹敵する表現であると思われます。
「世界が全体として時間化される、ということは一見当然過ぎることのようであるが、その実甚だ軽からざる問題を我々に課する結果になった。常識からすれば、時間の流れが世界に底在し、万物はその流れに浮かんで居るように考えられよう。古典哲学の時間観は斯様な素朴常識から充分脱却することが出来なかった。カントに至って、時間形式の主観性を洞察し得たところに彼の偉大な貢献を見出すが、其主観性に於てまた自我の客観化作用が存し、時間が客観化されるという点にまでは到達していない。主観は常に現在点に立脚する。それが世界を過去と未来とに分化することに於て、即ち時間化することに於て、時間は主観の所産であると云い得るであろう。然し、斯く二分された事象が自我に働きかけることに於て、時間は最早主観の支配下には居ないのである。
斯様にして、自我は主観的に時間を導入することにより、事象(歴史)を却って客観化し、而して自我をこれに対立せしめる結果を生じたことに於て、主観的自我にさえも客観性を附与することとなった。質的世界がここで問題となるのであるが、通俗哲学は自我をここまで連れ来ることによりて自己の任務を終ったものと考えるかも知れない。然しそれは充分の自己満足を以て終わったかといえば、決してそうではない。実は甚だしい不満足がそこに感ぜられたのである。という訳は、哲学的自我が質的に世界を追究することに於て、漸く時間性に其本質をやや窺い得る見込がついた時に、それによって世界の全体性を見失うという大犠牲を払わされたことを自認せざるを得なくなったからである。此代償は決して小さくない。
究極に於て自我哲学は透徹せる世界観を掴むことを断念しなければならないが、さらばと云って、自我哲学の貢献を無視し、素朴なままの世界観哲学に復帰することの愚なるは今更繰返す迄もないであろう。我等は自我哲学をどこまでも活かすべきである。そして更に其上にこれを超越する世界観を掴まなければいけない。そこに宗教哲学の使命があると云うことが出来ると思う。」
ここで著者が見ている自我哲学(近代哲学)の問題は、「哲学的自我が質的に世界を追究することに於て、漸く時間性に其本質をやや窺い得る見込がついた時に、それによって世界の全体性を見失うという大犠牲を払わされたことを自認せざるを得なくなった」と言い方で示されています。このことは「自我は主観的に時間を導入することにより、事象(歴史)を却って客観化し、而して自我をこれに対立せしめる結果を生じたことに於て、主観的自我にさえも客観性を附与することとなった」という表現と関連しています。しかしここで著者が問題にしていることは、それだけでは説明不足です。そこで主客の分裂ということを、著者とは別の観点から考察しているヤスパースの言葉を、これも参考までに、前掲書から引用してみます。
「1 意識とは、主観と客観への分裂という根本現象である。すなわちわれわれ人間は、もろもろの対象を思念しながらその対象に対して意識をもつのである。われわれと対象との関係は、対象相互間のいかなる関係にも比すべくもない独特の対立関係である。
この主客分裂のなかに出来することのないものは、われわれにとってはあたかも存在しないかのように思われる。この分裂がなければ、われわれは何ものをも思考することができない。われわれが何について語ろうと、その語られたものは、そのように語られることをつうじてこの分裂のなかに入りこむのである。
現実的であるものは、意識のなかでわれわれにとっての現象となる。無意識的なものや意識を伴わぬものも、意識のなかでのもろもろの現象にもとづいて開示される。或るものは、それが意識にはたらきかけ意識のなかで姿を現わすかぎりにおいてのみ、われわれに対する現象の一様態なのである。
このような主客分裂は、存在するものと存在しうるものとのすべてがわれわれに対して現象としてあらわれる場である。こうした場としての主客分裂が確認されることによって、われわれには同時に、この分裂のなかに現われてくる一切のものの現象性ということが意識されるのである。
すべてのものが現象してくるこうした場を根本的に開明することが問題である。すなわち、そこにはどのような現象がいかなる意味において存在するのか、また、いかなる根源的に異なる次元においてそうした現象がそこに立ち現われるようになり、そのことによってわれわれにとって存在するようになるのか、ということが開明されるべきである。
2 主観と客観とに分裂していながらこうした現象の場となるようなものを、われわれは包越者と名づける。
包越者を眼前に描き出そうとする場合、われわれは包越者を、包越者自身が――その実際の現実に反して――あたかも客体となりうるかのように、もしくは、客体という形で眼前に思い浮かべることのできる主体ででもあるかのように思惟することになる。こうした思惟過程を、免れがたいものとして承認するとすれば、次のように言うことができる。
まずわれわれはこの包越者を主体の側から考えてゆくが、この場合の包越者は、われわれがそれであるところの存在、あらゆる存在様態がその内側に現われてくるような存在であって、つまり、われわれの現存在、意識一般、精神である。次に、この包越者を客体の側から考えるならば、包越者とは、われわれがそのなかに置かれそれをつうじて存在しているような存在、つまり世界であるということになる。
けっして終結したものではなくそれゆえ閉鎖されてはいない浮動的なものたるこの包越者の全体は、内在の存在と呼ばれる。この内在的なものからの飛躍によってのみわれわれは、主体の側における包越者が実存という自己存在であり客体の側においては超越者という包越者が存在するような地盤へと踏み入るのである。
以下、こうした包越者の諸様態(意識一般、現存在、精神、実存――世界、超越者)を描き出してゆくことにする。」(p.266-268)
ヤスパースはこうして全部で七点にわたって包越者の諸様態について論じます。私としては、「主観と客観とに分裂していながらこうした現象の場となるようなものを、われわれは包越者と名づける」と言われる、その「場」という言葉に注目したいと思います。我々の著者もこれから宗教哲学の領域に踏み込みますが、そのアプローチはヤスパースとは異なります。その論旨はどこまでもアナロギアとパラドクスに基づいています。
「宗教哲学は、世界を質的全体に於て観ることから出発する。我等は既に其世界がネビュラ構造を有することに於て、その謂わば空間性を看、また其世界が自我によりて過現未の分化対立を生じたることによりてその時間性を看来った。今や空間性と時間性との綜合或いは止揚としての質的全体性を掴む方法を講じなければならぬ。
これを行うに当り、古来試みられた思弁方法は、先ず世界を有と見、次にこれを収容するに足るだけの思想的基体「無」を導入して「有」をこれに浮遊させて見るのである。勿論此場合有無の関係は暫定的であり、ただ補助思想として援用されたのである。一種の作業仮説と考えられよう。これによりて少なくとも空間化的要求に一応の満足を与え、その間に無の思想に内容を与え、これを深化することにより、此方法を固定し永久化しようとする努力が払われた。原始哲学の時代から此企図は反覆され、現代にまで及んでいる。
更に此努力は時間的説明に向けられ、そして、無から有が生じた始原と、有から無に還元する終局が説かれた。しかしそれだけでは単なる思弁遊戯に過ぎない。そこでは時間はその活性に於て少しも考えられていないからである。既に枯渇し去った量的工夫を一歩も出て居ない。これを活かそうとすれば、更に根本的に世界の構造性を反省せねばならぬ。
無から有が生じたと聞かされても、人間の理解には届かない。元々無は有の抽象によりて措定されたるが故である。有から思弁的に拵えた無から、どうして有が出て来よう。若し出て来るならば、その有は更に一層技巧的な加工品にちがいあるまい。
要するに、今や問題は斯様な捉われた立場から飛躍して、一個の超越的観点に到達せんことである。現状を打開し、離脱した見地を獲た時に始めて世界を達観し得るであろう。此意味に於て、宗教は未来に重大な関心を置くというのは正しい。とはいえ、来世とは現世と全然かけ離れた存在で、ただ想像を逞うすることによりてのみ種々と心に描き出されるような荒唐無稽に近い世界と思うのは非常な謬である。基督教は来世に就いての確信なくては到底成立しないのではあるが、其来世は現世を厭離しこれを解脱することによりて得られると軽々しく考えてはならぬ。少なくとも基督教哲学の関与する限り、現世に即して考える。現世を超越するということは、浮世の生活を無価値としてこれを蔑視することではない、その反対なのである。アナロギアとパラドクスは我々の現下の生活さながらの裡に行われなければならない。」
著者もヤスパースと同様、「今や問題は斯様な捉われた立場から飛躍して、一個の超越的観点に到達せんこと」を望みます。しかしその道具立ては「包越者(包括者)」ではなくて、アナロギアとパラドクスにあります。
「自然に於ては、物質又はこれに類する要素が無限の延長を有する連続的時間を通じて世界を形成するものと想像され、其仮定のもとに思想が体系づけられ来った。これ法則性の世界である。そして、この世界の論理は有と無の範疇によりて処理される。なお、有と無との間に無数の段階は考えられるが、それらは皆量的に定位されるところに法則性の特質が見出されるであろう。
ところが生命現象を注視するに至って、其処に未知要素なる生と死とが導入された。尤もこれ等要素は非常にニュアンスに富み可撓性を有するところから、自然的理解をも許容することが出来る。そして、それは生と死に対し有と無のアナロギアを適用する結果となった。更に進んで、生命を特徴づける発育生長の性質は有非有の綜合としての「成」によりて若干の解明が与えられるように見える。
然るに、更に一歩を進めて、これ等有、非有、成等の思想の本質の何たるやを追求した時、一を説明するに互に他を以てする循環論に陥るより他はないであろう。生、死、生長等もやはり同様で、生とは生長状態にあるもの、死とはその状態の否定されたるものというように説明する。
斯様な循環論はアナロギアまでで止まる人間的常識論理の限界を示すものである。漫然たる世界観に始まって、自我活動の意識にまで達したものの、自我意識は却って自我を閉じ込める檻となってしまった。人間は自己を知ることによりて、そこに驚くべき世界を発見したが、やがてその世界の知識は彼をして堅固な超え難い城砦に幽閉される自己を見出さしめるに過ぎなかった。如上の循環論は動物園の豹が檻の中をぐるぐる廻って居る状を連想させるような人間のあがきを示すに止まるであろう。
此窮境を遁れる為には、人間はもう一度自我の離脱を図らねばならぬ。といって、再び素朴な世界観に還ることは不可能でもあり、また望ましくもない。今は自我意識の立場を跳台として跳躍するより他はないであろう。そして、其処に新たな世界観が求められねばならぬ。」
著者は「現象学的自我論」の堂々巡りに気づいています。しかしそこを踏み台として新たな世界観を求める以外にないと思い定めています。今さら「素朴な世界観」に戻ることは不可能だからです。
「離脱の第一の試みは世を遁れることであった。然しそれは動機が浅薄であり、且つ往々功利的(消極的ではあるが)でさえもある。
要するに、此種の欲求は世界を離れんとするするにあって、肝腎の自我を離れることの考慮が欠けているのである。
離脱は第二段に入って始めて有効となる。それは自我よりの離脱である。然し、これとても、横着な思索的工夫に堕しては野狐禅の類と化し、始末におえぬ結果になるであろう。故にそれは是非共、熱烈な論理的要求にまで高められねばならぬ。即ち自我からの離脱は他者への傾注によりてのみ可能である。此原則は道徳的であると共に、宗教への最初の関鍵と見ることが出来よう。
とはいえ、それは最初のものである故に、また最後のものであると主張してはならない。ヒューマニスティックな宗教論は此点無謀な独断を敢えてするように思われる。
他者とは此場合主として他の人々即ち隣人を指すのである。然し、さきに述べたように、他人はやはり自我の限定域内に存するのであって、自我規定的には他者であると共にまた限定的には自己に属する。また外界と呼ばれている自然の如きも、広義の自我中に内包されることは言を俟たない。ここに於て、自我よりの離脱を行わんが為には、是非共これに先だち、まず全自我に非ざるもの、即ち絶対他者を定立せねばならないのである。」
ヤスパースが「超越者」というところを、著者は「全自我に非ざるもの、即ち絶対他者」を定立します。「絶対他者」は宗教哲学的に定着した用語であると思われます。ここで参考までに波多野精一『宗教哲学』(岩波書店、1944年)から短く引用してみます。
「要するに、他者性超越性が人間の働きに於て成立つ間、主体の自己規定として自己超越乃至自己否定として成立つ間は、それは種々の美辞麗句を以て適当に称揚せられ得るにせよ、結局自己実現――自己享楽――自己壊滅の道程を続けるものである。他者そのものが、それの深き秘密の奥底より真の超越性を啓示することがなかったならば、「あなた」よりの新な言葉がわれ等に語りかけるのでなかったならば、この窮状は到底救われぬであろう。かくして吾々は高次の他者「全く他なるもの(*)」絶対的他者、真に人格的なる神の面前へと導かれる。」(p.205)
* das ganz Andere ルドルフ・オットーの言葉。
「絶対的他者の面前へと導かれる」とは一体どういうことであるのかということが、さらに問われなくてはならないでしょう。しかしここでは著者の論述に従って、「紹介」の作業を続けていくことにします。
「ここに於てか、アナロギアはあらゆる資源を動員して絶対他者を探求するであろう。先ず空間的にそのアンテナを働かせた結果はどうであるか。それは空間性の両理背反に引かるるのみならず、自我の限定性を理解した時に、結局努力の無益なるを暁るよりほかはあるまい。
期待されるのは此場合寧ろ時間性にある。先ず因果関係のアナロギアが活躍するであろう。物理及生理現象のあらゆる可能性があさり尽されるであろう。然しそれらは事象の始原にまで辿りつくことが到底不可能なることを間もなく暁らしめるのである。これアナロギアの論理的性質が本来物事を鋭くその端緒に於て捉えるように出来て居ないからである。アナロギアは因果のみならず、凡ての場合に於て閉鎖系列のほかは産み出すことが出来ない運命にあることを知らねばならぬ。
ここに於て、最後の切札として人間意志のアナロギアが用いられる。無から有を生ずるということは思弁性論理の考え得ないことであるが、しかし創造性というものがまた別に意志の方面から考えられ、多くのアナロギアにより、人間の創意から、殆ど無から有が生じるが如くに新しきものが生産されてゆくと考えることは既に常識である。例えば、新型の機械を考案した、或は独特な構想の文学乃至美術的作品を産出した、或いは又子供が生れたというような場合、それはそれらを産出した人々の創作と見ることは無理であるが、少なくとも意志的に、或意味に於ける無の状態から有が創造された、無数の原因中の一部に何か人間が寄与するところあったと解釈して差支えない事情が生ずるのである。斯様な現象は人間及彼を中心とする宇宙が嘗て存在せざりし時代とそれらの生産とを類推せしめ、これを行う意志の持主として絶対他者を想定せしめるに至った。この想定は人間の最大発見、とまではゆかないでも、その発見への貴重なる準備的段階の獲得と称することを得ると思う。陶工が任意の形に土器を作るように創造主は人間を作り得るという比喩は使徒パウロもこれを用いて居る。然し如何程有効であっても、アナロギアは解釈以上の働きを為すことは不可能であって、我々は此限界を見失ってはならない。随って、如何に巧妙にアナロギアを駆使し得たとしても、人間的制作性から世界創造の事実にまで溯ることは断念せねばならぬ。」
絶対他者に至ろうとするとき、アナロギアには限界があるということは、さらに次のように確認されます。
「かくしてアナロギアの解釈的有効性は充分認められるに拘らず、その絶対論理作用としての限界性は「始原」の問題に接触することに於て遺憾なく露呈されることになった。その事は、また惹いては、人間が漠然自覚する被造物意識が遂に何等意義ある結実を齎さないという絶望の諦めにまで導くことを如何ともなし得ないのである。畢竟我々は被造物の側に立つ者として、創造者並びに創造の事実が如何なるものであるか、殆ど想像もつかないことを告白せねばならぬ。恰も小児が自分は如何にして生れしかを知らないようなものである。
次にまた、始原に対する人間の関心は、それが思弁に止まる限り、主として一種の好奇心に導かれるかも知れない。然るに当面の問題は斯かる閑人の物好きな態度によりて解釈することは不可能である。問題の性質が根本的に異なって居る。此処には真剣な態度が要求される。ところが不幸にして、人間は自己の始原を知ろうとする場合此真剣味を持つに至らない。」
こうして著者は始原とは反対の終末に考察の対象を移します。
「然し、彼は始原に関しては斯くも不真面目又は好奇的態度を脱し得ないに拘らず、少なくとも唯一度だけは彼の一生涯に於て真剣な心的態度に帰る機会に見舞われざるを得ない。それは始原とは反対の極端に位する終末に於てである。人はこれを死と呼ぶ。若し死の事実――普遍的にして必死な、自己の生きることと切り離して考え難い――に対して冷淡であり得る人があるならば、その人は宗教哲学的には全然無縁の人として諦めるよりほかはない。だがその実、斯様に無縁の人は変質者か或る特別な事情の下にある人以外には殆んど見出し難いであろう。死が自己又は自己に近き者を訪れたことを覚った時に、一種名状し難い真面目さが襲うて来るのを感ずるのが人間通有の心持であろう。
何人も死を恐れる。堪え難い不安を其の期に及んで感ずる。果してそれが貴いのであるか。然り貴い。けれども、それだけに止まるのでは何にもならないと思う。如何なる匹夫と雖もそこまでは行ける。それを機縁として、宗教精神の把握に志す限り死の自覚は貴い。その恐怖さえ、此機縁に人の心を向けしめることに於て貴い。死の恐怖は屡々売僧の方便に悪用されるとしても、その悪用の故に、これを全般的に排斥するのは謬っているといわねばなるまい。宗教哲学は微妙な心の動きに重要な契機を掴もうと志すものである。但し、一方、此感情を重視するの結果、此感情によって直ちに絶対他者に近づき得るとなすのは一種の卑俗な心理主義に堕した考え方であって、未だ人間的アナロギアの殻を破るに至らない浅薄な思想のように考えられる。」
死が宗教哲学の重要なテーマであることは言を俟ちません。ちなみに宗教哲学者、波多野精一は『時と永遠』(岩波書店、1943年)において、死について一章を割いて論じています。その一部を引用すれば下記の通りです。
「要するに、死に対する関心もそれの理解も否それの観念そのものさえも、文化の段階に昇ることによってはじめて可能にされる事柄ではあるが、しかもそこに留まっただけでは死の実相は到底捉え難い。厳密にいえば、文化の世界には生のみあって死は無いのである。かくて吾々は事柄の更に深き根源に考察を向け、文化的生の基体である自然的生へ時間性の根源的体験へと遡るべく促される。死は直接的体験の事柄ではないが、それにも拘らず、時間性の直接的体験にまで自己省察を向けることによって、はじめて自らの意味をもつ特異の独立の事柄として成立ち又理解されるのである。
死は自然的時間性、時の不可逆性、の徹底化である。主体のその都度の現在だけではなく、全き現在の即ち生の全体の壊滅、無への没入が死である。統一的全体的主体にとって存在の維持者である実在の他者との交渉が断たれ、従って根源的意義における将来が無くなることが死である。対手を失った主体、将来の無き生、これが死である。吾々はすでに、根源的時間性において現在が過去へと存在を失いつつ、しかも将来より補給されるを見た。絶えず非存在へと過ぎ去りつつしかもなお現在が成立つのは、将来があり他者との交渉があるからである。存在の補給路が全く断たれたる現在、全く孤独に陥った主体、去るあるのみ待つもの来るものの全く無くなった生は滅びる外はない。主体のかくの如き全面的徹底的壊滅こそ死である。」(p.82)
我々の著者は死についてさらに次のように論じます。
「何故に人間は死に直面して真面目ならざるを得ないか、という問題は単に恐怖心の心理分析や、常識的比喩や、乃至功利的動機から解釈しようと試みても、充分なる効果は期待し得ないであろう。然らば如何なる意味に於て死への関心は重視されるべきなのだろうか。それは仮に「無」として生命の彼方に措定したところのXに対する正しい態度を喚起する機縁となるからである。
正しい関心又は態度と云っても、決して単純ではない。我等は徐々に此問題の中に進み入ろうとするのであるが、宗教哲学的検討は専らその論理的構造を明らかにすることに存する。右の場合、「死」の示唆するところは一種深刻なる否定であることを先ず注意したい。」
ここに言われる「仮に『無』として生命の彼方に措定したところのXに対する正しい態度を喚起する機縁」という言い方は、どこか「正しい信仰」という言葉を想起させるものがあります。しかし著者はおもむろにキリスト教信仰の弁証へと入っていこうとしています。そのためには「死」という関門を潜らなくてはならないのでしょう。
「否定の原始的な形は包摂論理に於て見る所である。其処では、限定外に置くことが即ち否定することである。しかし此種の否定は今の場合何の意味をもなさない。次に群の論理に於ても、否定はやはり働いている。段階づけには差別が底在し、その差別のうちにはおのづから否定的要素が認められ得よう。しかしこの種の否定もやはり全体性をリリーフ(*)として浮上がらせる力はもたない。我等の「死」によりて求むる所は我等の知る又は所有する全存在を一度否定し尽し、それによりて、反ってそれを真の全体性に於て再び把握することの出来るような否定でなければならぬ。」
* レリーフ 浮き彫り。 なお、ここで群の論理とあるのは数学の群論(group theory)のことでしょう。
「そのような否定は以上の如き相対的な世界には存しない。それは絶対を考えることによりて始めて見出し得る所の絶対否定なのである。絶対は両極端に於て考えられる。一は全宇宙的存在として、存在するもの一切を抱合した世界である。これを形而上学的絶対と名づけることが出来よう。しかしこれは唯考えて見るだけの世界に過ぎない。斯かる一切性を掴み得たと仮定して議論を立てたならば、其世界について幾分でも知ることが出来はしまいかというヤマが其処には掛けられて居るのだ。独断と抽象化とを野放図に濫用することによりてのみ此種の思索を進めることが出来よう。更に其処には、物質的に型式化された実在観が動機の奥に潜んでいる。」
ヤスパースであれば、客体的包越者である理念としての世界というところを、著者は「ただ考えて見るだけの世界」として斥けます。
「以上は否定を全く無視した絶対の考え方である。これに対し、否定を極度に活用せんとする「一切空」の方法がある。斯様な謂わば涅槃的方法は、実在を零にまで圧縮するとも考えられるし、実在から心頭の滅却によりて逃避するとも考えられる。更に、ヨリ高き実在の為にヨリ小なる実在を拒否するとも考えられよう。
この最後の、意志的に拒絶するということに、否定の更に深い性質が見出されると思う。これを無と観ずるだけでは未だ主観に捉われている。意志的であり、随って行為にまで進まねばならぬ。既に我等は現実存在を如何に処理せんかという所まで来て居る。これに対し、単なる主観的否定は全く無力であり逃避である。宗教は屡々この逃避を試みたが、これによりて得られる消極的な悟りはどう見ても大して価値ありとは思われない。」
著者は仏教的な「空」の思想にも満足しないということでしょう。
「否定の問題を考えるに当り、先ず改めなければならぬ点は、否定する我を背景に潜めて置く卑怯な態度である。右の主観的否定は此醜陋さを示している。現実存在に対する否定はやはり同じく現実存在を以てせねばならぬ筈だ。其処には当然争闘が行われるであろう。否定は宣戦であり、争闘であるべきだ。プラスの力に対抗するマイナスの力が考えられねばならぬ。」
仏教的な「空観」が「否定する我を背景に潜めて置く卑怯な態度である」かどうかは、見る人によって異なります。しかしキリスト教を含めて宗教は「現実逃避のアリバイ」であってはならないという意味であるとすれば、著者の言う通りでしょう。
「所で、そのマイナス要素は然らば何処からこれを齎すべきであるか。第一に示唆される答として、これを抽象的に現存在の外から持ち来るという考えがある。併し此素朴思想が包摂論に捉えられていることは既に見来った。斯様な相対的な空間的図式による考え方は此処では全く意味を失っている。」
何度も指摘するように「全く意味を失っている」という言い方に著者の思い込み(著者の自分の思想への思い入れ)があります。しかし「宗教」から空間的表象を排除すべき理由はどこにもありません。「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか」(詩篇第一二一篇1節)。著者自身も「然らば何処からこれを齎すべきであるか」と問うている通りです。
「ここに於て、我等は現存在の働きのうちに相克的に働く二つの力を認めようとする試みに着手する。これは現存在を矛盾的構造に於て把握しようとすることにほかならぬ。
此把握は最も代表的な場合として、道徳的葛藤に於て試みられる。これは良心問題であり、善悪の両要素が心裡に於て相争うことの認識である。誰しもロマ書七章に於ける悩めるパウロを連想するのであるが、それは改めて後に論ずるとして、兎に角道徳的に此把握が意図されるということは、宗教に対する道徳の地位を規定するものとして重要な意義を含むといえよう。
此矛盾は現実の上に働きかけるものであり、思弁的矛盾からはっきり区別して考えるべきである。その意味に於て、この種の苦闘を経て来た人は物事を実存的に視ることを学び、観念論的に思想を弄ぶことの愚を覚るであろう。そして、これを覚ることが宗教哲学への重要な準備の一つである。」
ここで「道徳的葛藤」、すなわち「モラル・ディレンマ」について書かれた、佐野安仁・吉田謙二編『コールバーグ理論の基底』(世界思想社、1993年)から、次の文章を引用します。それは著者のここでの議論と決して無関係ではないでしょう。
「結局、状況に完全に埋没できず、しかし神の視点に立つことができないことで、人間は常にディレンマのうちに投げ出されている。人が人であるかぎり、人はディレンマのうちに自己を見いだすしかない。あるいは同じことだが、ディレンマのうちに自らを見いだすことが人であることの根源的事実である、といってもよい。したがってモラル・ディレンマとは、人間の根源的事実性を自らにひきうけるという実存的決意の道なのである。多くの難題を抱えながら、モラル・ディレンマを用いるコールバーグ道徳教育論が積極的意味をもちうる真の理由がここにある。
だからといって、コールバーグ理論の新展開のためにモラル・ディレンマの克服不可能を予断するというのは、転倒した発想というべきだろう。コールバーグの枠組で世界内存在と超越という実存的ディレンマが克服できないのは、その枠組自身が出口なしのディレンマを構成しているからなのかもしれない。人が世界内存在として構造論的かつ動態的に閉じているかぎり、合理性の迷宮からの出口はありえない。しかしそれが原理的に不可能なのは、超越の志向するその先を、人間の生と世界とに対する外部と想定せざるをえないからではないのか。するとむしろ、理性のディレンマからの出口を理に対する他として外部へ排他的に措定すること自身が、理性機能の合理性を暗黙的に絶対化してそこに依拠するという理性の立場からの見方なのである。その事態を、かつてブーバー(Martin Buber)は次のように表現した。
人はこの世界にとどまるかぎり、神を見いださない。といって、この世界から出ていっても、神を見いださない。全存在をあげて汝へと赴き、すべてのこの世の存在を汝のもとへもたらそうとする人は、求めて得がたい汝を見いだすであろう。
「我と汝」との出会いは合理的に条件づけられるものではないが、しかも現実に生起しうる、とブーバーは言う、ディレンマからの出口はディレンマのうちにはないが、ディレンマの外にあるのでもない。にもかかわらず、構造として閉じられた人間の生が、その閉塞性のゆえにそれを突き抜ける可能性をもつ。つまり、まさに一つの逆説として、実存的ディレンマからの出口は、実存的ディレンマの中にとどまりつづけることのうちにある。この意味でモラル・ディレンマに定位する道は、直進的にではないが、逆説的にディレンマからの出口に通じているのである。それはいったい、どのような道なのか。それは、端的に課題としていえば、さまざまなモラル・ディレンマを手引きとして、他なるものである大人と他なるものである子どもとの、さらに他なるものである人と人との出会いを志向する道徳教育の道ということができよう。しかし、そのときモラル・ディレンマは、目標に至るための単なる方法や置き去りにされる手段ではなく、出会いの生起のために徹底してひきうけられるべき、生の実存的境位を意味する。このようにして、オープンエンドを堅持するモラル・ディレンマの道徳教育論として捉え直されるとき、コールバーグ理論は、人間の実存的様相に深く結びついた開放性を企図する、より開かれた理論へと展開しうるのである」(p.162-163)。
我々の著者はこの矛盾についてさらに論じます。
「とは云え、この矛盾は未だ準備の域を脱しない。善の為に苦闘する人は尊敬に値するが、彼をそのまま宗教人と呼ぶことは出来ない。彼はどこ迄も「悩める人」として生活し続けつつ、ついに救いを掴み得ないで終るかも知れない。それはラオコーン的苦闘というべく、其性質に於て絶望的である。それは予想に反し、決して終局に導かない永劫に亘る争いなのである。憎悪より憎悪へ、怨恨より怨恨へとはてしがない。ただ徒に呪詛を重ね血で血を洗うばかりである。我等は此種の矛盾をヒューマニスティックな矛盾と名づけよう。そこには理想が示されて居り、進歩も向上もあり、常識的に考えて、いつかは解決の光明を仰ぎ得ると思われるのであるが、それでいて決して満足な解決が与えられることはない。その進歩は相対的であり、その有効範囲は意外に狭い。
ここに於てか、矛盾の更に高い形態と性質が存在し得るや否やが問われるであろう。若し存在するならば、それは自己の外、即ち「他」より来って自己と世界とを制圧し、それによりて、あらゆる人間的争闘――高度の道徳的闘争より低級な利益や情痴の葛藤に至るまで――に終局を齎すような矛盾でなければならぬ。それは絶対的矛盾とでも呼ぶべきものであろう。ここにいうパラドクスは即ち斯かる矛盾の論理的形式を指すのである。」
ここに著者の言うパラドクスは「絶対的矛盾」の論理的形式であると言われています。
「ところで、右に云った「他」とは何であるか。この場合、現存在以外から来るという素朴的見解は既に整理されてしまった。そしてここに絶対他者の思想が全然新しい基礎の上に措定される必要を生じた。絶対他者は自我に対して内在的真理なると共に、また自我とは全く隔絶して居らねばならぬ。
これを処理するに当り、空間性に基く「内外」の別は行詰ったが、唯一つ残された方途として、時間性に基く「自他」の関係が、量に対する質的区別並びに交渉の原則として、絶対他者を定位せんが為に再検討されることになったのである。
時間的他者とは如何なるものであろうか。それは空間的内外の別にわずらわされず、ただ未来性に於て現在の自我に迫るところのものである。既説の如く、自我は絶対的に考えて、未来をもたない。自我の未来が有ると考えるのは、アナロギア的想像であって、この想像は解釈的方便としてこそ甚だ有意義ではあるが、それ以上一歩も出ないのである。未来は他者の支配下にあって、自我は何等の発言権をもこれに対して与えられていない。我等が多少とも自己の将来に就いて楽観し得るのは、自我の延長又は拡大としての他人を承認する社会組織の存在によるのであって、これは人文的に解する限り其意義は保持されるが、当面の問題としては、全く其存立の理由を失っている。」
「未来は他者の支配下にあって、自我は何等の発言権をもこれに対して与えられていない」という言表は、前にも述べましたが「分裂病親和的」です。しかしイエスの次の譬はこの事態に照応するでしょう。「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」(ルカ12:16〜21)。
なお我々の著者の上の論述と多少なりと関連すると思われる波多野精一の言葉を『宗教哲学』(前掲書)から引用してみます。
「然しながら、幸いにも文化は事実上単独には存在しない。それは事実上実在の土台の上に実在の背景の下に立つ。又自ら立ち行き得る為にこの事を必要とする。すなわち、第一にそれは、絶え間なき生滅の中に於て、可能的自己としての他者の枯れぬ泉を得るが為、実在的他者を必要とする。次に同時にそれは、実在的他者との直接的衝突を避ける為の緩衝地帯として、間接的には実在者と実在者との共同でなければならぬ。実在的他者との関係は、人間性と文化との本質的特徴ではないが、それの発育の地盤として欠く可からざるものである。さて生のこの第二の仕方に於て、『時』はいかなる姿を示すであろうか。実在的他者との関係に立つ限り、前の場合(「純粋の人間的文化的生の姿として、『時』は将来より過去への方向を取る。否そればかりではない、将来は実は現在である故、過去へと向う現在、無へと向う有、こそ時の本質的性格である」ということ…引用者)とは反対に、時は将来へと向う。主体(自我)は中心に立つことに変りはないが、その主体、従って現在は将来への方向を取ることに於て本質的性格を示す。主体(自我)は自己がいかにとも左右し得ず、従ってただ彼方より来るを待つ外なきものとして、実在的他者と関係する。これが即ち『将来』である。この『将来』は主体の処理に委ねられる可能的自己としての将来、現在に対して何等独立の意味をもたぬ、かの将来とは正反対に、『現在』の一契機に堕されることを飽くまでも拒む他者を代表する。換言すれば、ここでは、『時』は他者への動向としての生の基本的姿である。可能的自己との関係に於ては時の情調は『悲哀』、一切の帰無に関する悲哀、であるに反し、この第二の関係に於ては、来るものを待つことが時の体験の基本的態度となる。『希望』こそそれの情調というべきである。実在者との交わりに生きる限り、日常現実の生活もつねに将来へと向う。逆に、将来より何ごとかを待望する限り、自然も文化も実在的意義を有する。」(p.256-257)
しかし波多野のここでの「実在的他者」とは異なり、我々の著者の「絶対他者」は、先のイエスの譬の神の如く、烈しい否定を以て迫ります。
「この未来存在たる絶対他者は現実に対する激しい否定者として臨む。然るに矛盾は否定の行わるる所に生ずる。今既に肯定生活に対し、これを否定する要素の導入によりて人生は矛盾と闘争とのちまた(四つつじ)となって居る。ここに此状態を止揚して進展と調和とを作り出すべく綜合作用が現われる筈であるのに、絶対世界に現われる止揚者は強い否定を以て解決を遂げんとする。アウフヘーブングは否定の後に来るものと考えられ易いけれども、宗教哲学のアウフヘーブングは否定に於て現われねばならぬ。尤もそれは単なる否定ではない、相対的否定を含む人間的世界に対する其再否定である。
再否定であるから、それは新しい肯定とも見られる。また現に行った否定の極度に強化されたものとも考えることが出来る。更に、相対よりの超越によりて、それを綜合すると解することも不可ではない。然しそれらは凡て人間的レベルから加えた解釈に過ぎないのであるから、あまりこれらに捉われて絶対的否定性の威力を減殺させないように注意すべきである。
我等は否定に二段の階梯があり、その二重の論理的手続きを履むことにより始めて絶対世界に接触し得ることを心得て置きたい。最初の否定は人間的であり、それはアナロギア論理に属する。即ち、相似性によりて組織立てられた世界に於て、そのネビュラ構造のニュアンス、程度の諧調に於て否定は微妙な陰影となって作用して居る。此種の相対的否定がなくては、アナロギアは存立し得ない。それ故この矛盾はアナロギアの中に含まれているということが出来る。これに対し、絶対否定はアナロギアの否定を意味するものであって、これと対立の位置に在る。但し此否定はアナロギアなくしては否定の意義を失うのであるから、絶対論理に於てもアナロギアの重要性はやはり完全に保たれて居る訳である。寧ろアナロギアを絶対論理にまで高める為の否定であるとさえ見ることが出来よう。そして此否定作用はパラドクスの論理にほかならない。」
これで「世界観への展望」の章は終わります。ここまで来て、著者の言う「絶対論理学」とは、人間が神(絶対他者)に対するときの論理(言語表現の様態)なのであろうという推察が可能になったと思われます。しかしその「論理」がどこまでの射程距離を持ちうるのかということについては、著者の論述に即しつつなお熟考すべきことのように思われます。次に著者は「絶対否定としての死」について論じます。
第八章 絶対否定としての死
「今絶対否定を表わす為に「死」という言葉を撰ぼう。この無気味にして微妙なる表現に含まれたる論理的意味を掴むのが此章の意図である。我々は「死」に於て三重の見解が存立すべきを右によりて想像し得るであろう。その第一は自然的な見方で、生物は死すべきものと做すのであるが、これは此処に論ずる必要はない。第二はアナロギア的解釈であり、それによれば、死は自己の裡に内存して作用するマイナス要素が同じく内存するプラス要素との相克の結果その当然の終結として到来するところの状態である。これに就いては、倫理的な見方が最も明かな洞察を与えるであろう。宗教的には律法的色彩を多分に帯び、「罪は我等の肢体に働きて死の為に実を結ばせたり」等の使徒パウロの語は一面に於て此解釈を許容するものと思う。それは生物界に見る普遍的現象を比喩として援用する。その死は老朽腐敗枯萎の漸階的過程をとり、いつとはなしに死に到るのである。
これに対し、第三の見解はパラドクス的と呼ばれるべきであろう。それに従えば、死は因果的に自己から生ずる結果ではなく、絶対他者から賜わる宣告であり、処刑である。それは鮮鋭なる一個の瞬間点に於て完了される。生理現象であってもよいし、因果的に考えられた生活上の諸態に属するも可、しかもそれらは事理自然の帰結として其処に到達したのではなく、自己ならざる絶大の能力より出ずる不可抗不可避な命令に基くと解せらるるのである。」
ここに「絶対否定としての死」とは、「絶対他者から賜わる宣告であり、処刑である」とあるように、キリスト教的な神観念に基づく立言です。その観念に呪縛されている限りにおいて、著者は「キリスト教哲学者」であると言うべきでしょう。それはパラドクス的な死の「解釈」であると言われています。「自己ならざる絶大の能力より出ずる不可抗不可避な命令に基くと解せらるるのである」という言い方のうちに、それもまた解釈であることが表明されています。つまり「絶対他者」という観念は万人に妥当すべき絶対性を持つという思想も、一つの相対的な解釈の所産ではないかと疑うことが可能です。そもそも「宣告、処刑、命令」という語自体が比喩的表現であって、アナロギア的であることを指摘すべきでしょう。そこには「非論理的」な飛躍と臆断があるのではないでしょうか。
「第一の見解は措いて問わず、第二と第三、即ちアナロギアとパラドクスの与うる見解は斯様に矛盾するのである。然し此矛盾は今強いてこれを解決する方法を講ずべきではない。たとえこれを試みても無益であろう。何となれば、これに用うる方法は取扱う問題よりも低次元に属するからである。寧ろ此矛盾を以て、宗教上の重要問題に於て今後遭遇するであろうところの凡ての矛盾の一例を示すものとしてここに記憶して置きたい。」
著者の言う「生物界に見る普遍的現象を比喩として援用する。その死は老朽腐敗枯萎の漸階的過程をとり、いつとはなしに死に到る」というアナロギア的死の理解と、「それらは事理自然の帰結として其処に到達したのではなく、自己ならざる絶大の能力より出ずる不可抗不可避な命令に基く」というパラドクス的理解とは矛盾しており、それは宗教上の矛盾として最後まで残ると言われています。同時に「これに用うる方法は取扱う問題よりも低次元に属する」という指摘に注意すべきでしょう。それは「絶対論理学」も万能ではないという告白にほかならないでしょう。
「此矛盾の論理的説明は、これを準備的に試みるならば、両者が次元を異にするということによりて為し遂げられるであろう。アナロギアは空間性の原理、またパラドクスは時間性の原理であることは既に指摘した。両者の交錯状態に於て我々が思惟する為、一方を以て他方を律する結果を生じたのである。
死の問題に於ても、アナロギアはこれを時間に即して考えることは出来ない。その為し得る所は空間に於て比喩せられたる時間的形態を用い得ることに尽きる。然しそれはまた空間性の長所でもあるといえよう。時間的にスパークの如く現われては消える瞬間も、空間的には複雑な組織と豊富な諧調を持つものとして表現されるのである。されば死に対しても、その過程を漸階的に叙述し、傾向的に解釈するのである。この点パラドクスの、予表なき、唐突な、期待に絶する来臨と著しい対照を示すというべきであろう。」
「アナロギアは空間性の原理、またパラドクスは時間性の原理である」という著者の見解は、前に出てきた自己限定は空間的で、自己規定は時間的であるということと同様、一種の「思弁的構成」であって、著者はそのように考えるという用語法の域を出ないと思われます。しかし時間は「空間に於て比喩せられたる時間的形態」として空間的に表象されるほかはないということ、そして時間は「スパークの如く現われては消える瞬間」であるということは、確かにその通りであると言うべきでしょう。また時間性の原理としてのパラドクスは「予表なき、唐突な、期待に絶する来臨」であるという言い方は、それがレトリックの域を越えて、出来事としての意味を持たされているということなのかも知れません。著者はさらに死のアナロギアについて論じます。
「アナロギアは死を解釈するに当り、生―死の対立を以てし、これを有―無の思想に当て嵌める。人生は有として発生し、無にまで消滅の過程を辿ると考える。死は解体であり、亡失である。我々の感覚域から遠ざかることである。然しそれだけでアナロギアは満足しない。解釈した結果はそうなるか、視野から消えた後どんな状態に在るか、等々の疑問は尽きないであろう。だが、それらの疑問はアナロギアだけでは決して氷解することはあるまい。
いな斯様に帰趨が不可解なだけではない。無に帰するという思想的根拠が、少しくこれを追求するとき、全く薄弱であって、一種の常識的説明に過ぎないことを見るであろう。例えば物質の消滅ということに就いても、現代の科学者はそれが果して可能であるかどうかを知らない。物質の破壊に対し科学は何等かの説明を寄与するであろうか。今日原子の破壊が実験室内の極めて小規模な研究に於て成功したからといって、それが物質の壊滅を暗示するに足りるであろうか。否人間は物質の破壊どころか、それを支配する法則に寸毫の混乱を与えることすらも出来ない。原子を解体し得たりとするも、それは物質の破壊ではなくて其形態の変化に過ぎない。原子は辛うじて或程度まで破壊し得ても、電子並びにその同類要素に至っては、其正体は容易には掴めず、変幻出没、奔放不羈、古詩人の考えた、かのレビアタンも物の数ではない。電子という廿世紀のレビアタンの前に、人間はただ恐れ入るばかりである。人間が自然を克服するなどという戯言は少しく事物を現代的な眼で正視する人には到底恥かしくて云えるものではない。此点、即ち消極的意味に於て科学が宗教に貢献するところは少なくないと云えるであろう。人間には創造能力がないように終末づける能力もない。ただ為し得るのは物に変形を与える、それも自らの意志に従ってではなく、どこまでも法則性の支配の下に僅かばかりの歪曲に似たことを行うに過ぎないのである。
斯様な訳で、アナロギアは無を突きとめるだけの能力がない。これ、アナロギアはどこまでも自我の作用であり、自我が自らを処理し尽すことが不可能事だからである。無から有を考えることが出来ないと同じく、有から無を来たらせることも人間能力のよくせざる所といわねばならぬ。」
かくて著者はアナロギアの限界は自我の限界にほかならないと結論づけます。
「勿論アナロギアが死に就いて連想する所は消滅のみではない。虚無に帰するという観想を中心或は枢軸として、種々雑多な思念感情が渦巻くのである。また単に消滅感といっても、肉体的なるものと精神的なるものとはおのづから質を異にする。そこから非常に微妙な、洗練された感情の若干を抽離することに、芸術は成功する。またそれらの感情を基礎として宗教哲学の建設も考えられるであろう。孤独感とか、物のあわれとかいう類である。斯様な感情の全部がアナロギアの所産であるとは云えないまでも、主としてアナロギアに依存することは認めねばならぬ。これはヒューマニズム宗教哲学の立場として充分尊重すべきではあるが、これを基督教的に観察するときは、此立場は未だ宗教の真髄を逸するものと看做さざるを得ない。ヨリ重要なパラドクス面がそれに欠けているからである。
ヒューマニスティクな死の理解の根本的欠陥はそれが専ら空間性論理の所産にして、時間性を持たないことに原因する。尤も時間がないのではない、純粋の時間ではなく、空間化された時間がある。アナロギアは到底真の時間に触れることは出来ない。パラドクスが時間性を導入し、その切断作用を以て死を現実化するまでは此不満は充たされないであろう。」
アナロギアには「純粋の時間ではなく、空間化された時間がある」という把握は、木村敏の『時間と自己』で見たように、著者の鋭い視線が働いています。それをアナロギアとして捉え、パラドクスに時間的切断作用を見るところに著者の独自性があります。
「純粋に時間的であるとは、言い換えれば、純粋に質的なことである。人間の終末として死は質的に考うべきである。これを量的に考えてもわからない。それは絶対者の意志と行為に属する。絶対は量によりて表わせない。量を導入した時、絶対を見失うのである。量的に考えた週末は高々形態の破壊に止まるのみであろう。人間は自己の力で死ぬことが出来ず、他人によりて殺されることも出来ない。極めて狭義に、且つ分析的に、肉体の死を以て死そのものを代表せしめるように習慣づけられているけれども、我等は更に深い意味の死を探りつつある。斯かる死は「賜わる」べきものと思う。創造者のみが死を賜うことが出来る。そしてその死は質的に解すべきである。」
木村敏であれば「こととものとの存在論的差異」というところを、著者は、時間は質的であって、量的ではないと言います。そして絶対とは質的に理解されるべきことであって、死もまた質的に解すべきことであると言います。また死は「絶対者の意志と行為に属する」とも言います。これはストレートな著者の信仰の告白であって、著者は「創造者」をそのようなものと考えているということにほかならないでしょう。
「純粋なる質的解釈を終末について下すことを理解した時に、我等は始めて「切断」の意味の闡明に進むことが出来る。
死によりて無に帰するということが事実上不可能であるのみならず、斯かる思想そのものが謬って居る。死と無に帰する事とは元来が別事である。尤も両者を結合して考えることは常識になってはいるが、宗教的な見方からすれば、それは無根拠の主張と云わねばならぬ。死を肉体的死の如く狭義に解することなく、人間的存在性に対する一個の変化として考えるならば、此事は瞭かであろう。例えば個人の生存は其人物の責任を必然的に伴っている。人が去っても責任は残る。法律上では免除を余儀なくされるが、道徳的には難しく、宗教的には一層難しい。
そんな訳で、一個の人間的存在は決して簡単に片付けられるものでなく、自分で自分の始末をつけ得ない所に、被造物としての永遠の悩みと嘆きを持つのが人間の悲劇的存在なのである。若し死が万事に終焉を齎すものならば、人生の悲劇性はその棘を失うであろう。死なんと欲して死に得ざるところに煩悩の業火が燃え続くのである。
斯くの如き状態を死と呼ぶことも出来る。それはアナロギアに基くヒューマニズムの立場に於てである。此場合死は希望なき永遠の暗黒裡の死闘を意味する。これを地獄と名づけても差支えない。「此処に入る者よ、希望を捨てよ」とダンテは陰府の門に録されたのを読んだ。其処に入る死者は無意識、不活動になったのではない。鋭く論難し合い、激しく角逐し相克する人々である。彼等に於て普遍的に欠けているのは善意でもなければ、理想に対する憧れでもない。唯一つ、希望の欠乏だけが彼等に共通の現象である。」
人間は自分で死ぬことができない、「死なんと欲して死に得ざるところに煩悩の業火が燃え続く」とするところに、著者の死生観があります。死は絶対者の権能に属するのであって、「アナロギアに基くヒューマニズムの立場」は所詮「希望の欠乏」をもたらすと言います。「死によりて無に帰するということが事実上不可能であるのみならず、斯かる思想そのものが謬って居る」というのは、著しい、あるいは極端な表現であって、絶対者の前に立つ著者の境涯を表わしています。
「罪を母胎として生れ来る死は実に斯くの如きものである。そして罪とはこれを広義に解すれば、被造者が自己の被造性を忘却し去ったことに根源を有する。自我のアナロギアだけで生死の問題に当面した時、人間は安息の死を希うてこれを得る能わず、徒に懊悩するのみである。」
ここで唐突に「罪」という言葉が出て来ます。パウロは「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ6:23)と言いました。著者の念頭にあるのは、罪の代価としての死というパウロ的な思想であって、それをストレートに表明していると言うべきでしょう。「自我のアナロギア」は自己中心的であって(著者の言うヒューマニズムの立場)、それだけでは生死の問題を解決することはできない、なぜなら「自己の被造性を忘却し」ているからだという論法は、著者がこの段階で既にキリスト教の立場に飛躍していることを物語っています。そもそも創造と被造という言葉自体がアナロギア的あって、聖書的な世界観の反映です。それを絶対の論拠とすることは特定の信仰の表明にほかなりません。
「ヨブは義人であった。然し、大能者と顔と顔とを合せるまでは自己の被造性を知らなかった。苛烈な人生苦の試練を通じて、彼は死に面したが、それはアナロギア世界の死である。「わが日は機(はた)の梭(ひ)よりも迅速なり、我れ望む所なくして之を送る」(ヨブ記七章六節)、「死を望むなれども来らず」(三章廿一節)に到りて、人間最小の希望も容れられざるを彼は知った。彼の親しき友は今や彼を攻むる敵である、そして、人間は自己のうちに斯かる友と敵とを同時に有するのである。
ヨブは人間的アナロギアによりて全能者を知ると自認自負していた。然し最後に彼は被創造意識に目醒めることによりて自己の無知を自覚し、創造主なる全能者に向い、「我れ知る、汝は一切の事を為すを得給う、また如何なる意志にても成し能わざるなし。無知をもて道を蔽う者は誰ぞや、斯く、われは自ら了解せざることを言い、自を知らざる測り難き事を述べたり」と懺悔し、塵灰の中に平伏して神を拝した。そこにアナロギアの世界から、パラドクスの世界への転向が彼に於て成った。」
パラドクスの世界への転向とは「大能者と顔と顔とを合せる」ことであると言われます。それが「被創造意識に目醒めること」であるとも言われます。そこに著者はパラドクスの論理的意義を見出しているということでしょう。ここで著者の論旨から少し外れますが、参考までに「絶対」という言葉を多用した西田幾多郎の言葉を引用してみます。
「相対的なるものが、絶対的なるものに対するということが、死である。我々の自己が神に対する時に、死である。イザヤが神を見た時、「禍なるかな、我亡びなん、我は穢れたる唇のものにて、穢れたる唇の民の真中に住むものなるに、我眼は万軍の主なる王を見たればなり」といっている。相対的なるものが絶対者に対するとはいえない。また相対に対する絶対は絶対ではない。それ自身また相対者である。相対が絶対に対するという時、そこに死がなければならない。それは無となることでなければならない。我々の自己は、唯、死によってのみ、逆対応的に神に接するのである、神に繋がるということができるのである。対象論理学はいうであろう、既に死といい、無というならば、そこに相対するものもないではないか、相対するということもいわれないではないかと。しかし死ということは、単なる無ということではない。絶対といえば、言うまでもなく、対を絶したことである。しかし単に対を絶したものは、何物でもない、単なる無に過ぎない。何物も創造せない神は、無力の神である、神ではない。無論、何らかの意味において、対象的にあるものに対するとならば、それは相対である、絶対ではない。しかしまた単に対を絶したものというものも絶対ではない。そこに絶対そのものの自己矛盾があるのである。
如何なる意味において、絶対が真の絶対であるのであるか。絶対は、無に対することによって、真の絶対であるのである。絶対の無に対することによって絶対の有であるのである。而して自己の外に対象的に自己に対して立つ何物もなく、絶対無に対するということは、自己が自己矛盾的に自己自身に対するということであり、それは矛盾的自己同一ということでなければならない。単なる無は、自己に対するものでもない。自己に対するものは、自己を否定するものでなければならない。自己を否定するものは、何らかの意味において自己と根を同じくするものでなければならない。全然自己と無関係なるものは、自己を否定するともいわれないのである。形式論理的にも、類を同じくするものほど、互に対照をなすもの、相反するものであるのである。自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるかぎり、自己は絶対ではない。絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。而して自己の中に絶対的自己否定を含むということは、自己が絶対の無となるということでなければならない。自己が絶対的無とならざるかぎり、自己を否定するものが自己に対して立つ、自己が自己の中に絶対的否定を含むとはいわれない。故に自己が自己矛盾的に自己に対立するということは、無が無自身に対して立つということである。真の絶対とは、此の如き意味において、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神というものを論理的に表現する時、斯くいうのほかにない」(『場所的論理と宗教的世界観』1946年初出、岩波文庫『自覚について』所収、1989年、p.326-328)。
第二次大戦末期(1945年4月頃)に西田はこの最後のまとまった論文を書き、敗戦の日(8月15日)の約二ヶ月前に世を去ります。上の引用によって知られることは、我々の著者とは違い、西田は「我々が神というものを論理的に表現する時」神自身が絶対矛盾的自己同一的であると言っていることです。しかし自己同一(アイデンティティー)ということを、我々の著者に従ってアナロジカル・アイデンティティー(類比的類義的同一性)とパラドクシカル・アイデンティティー(逆説的対義的同一性)において考えるとすれば、西田もまた後者に宗教哲学的、「論理的」意義を見出していたということができるでしょう。しかし、また、我々の著者がキリスト者として聖書の神に排他的な絶対性を見出しているかに見えるのに対して、西田がキリスト教に理解を示しつつ、仏教の般若の思想にこそ、その論理が見られるとしているところが違っています。引用した段落の直ぐ後で、西田は次のように言っています。
「神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によってあるものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有であるのである。絶対の無にして有なるが故に、能わざる所なく、知らざる所ない、全智全能である。故に私は仏あって衆生あり、衆生あって仏があるという、創造者としての神あって創造物としての世界あり、逆に創造物としての世界あって神があると考えるのである。斯くいうことは、神を絶対的超越と考えるバルトなどの考に戻るかも知れない。キリスト教徒からは万有神教といわれるかも知れない。しかし此にも対象論理的に神を考えるものの誤謬があるのである。しばしばいう如く絶対とは単に無対立的なものではない、絶対否定を含むものであるのである。故に絶対に対して立つ相対とは、単に絶対の部分とか、その減少せられたものとかいうのではない。それならば、絶対はやはり無対立的である、而してそれは最早絶対ではない。絶対は何処までも自己否定において自己を有つ。何処までも相対的に、自己自身を翻えす所に、真の絶対があるのである。真の全体的一は真の個物的多において自己自身を有つのである。神は何処までも自己否定的にこの世界に於てあるのである。この意味において、神は何処までも内在的である。故に神は、この世界において、何処にもないとともに何処にもあらざる所なしということができる。仏教では、金剛経にかかる背理を即非の論理を以て表現している(鈴木大拙)。所言一切法者即非一切法是故名一切法という、仏仏にあらず故に仏である、衆生衆生にあらず故に衆生であるのである。私は此にも大燈国師の億劫相別、而須臾不離、尽日相対、而刹那不対〔億劫相別れて須臾も離れず、尽日相対して刹那も対せず〕という語を思い起すのである。単に超越的に自己満足的なる神は真の神ではなかろう。一面にまた何処までもケノシス的でもなければならない。何処までも超越的なるとともに何処までも内在的、何処までも内在的なるとともに何処までも超越的なる神こそ、真に弁証法的なる神であろう。真の絶対ということができる。神は愛から世界を創造したというが、神の絶対愛とは、神の絶対的自己否定として神に本質的なものでなければならない、opus ad extra〔外に向っての働き〕ではない。私のいう所は、万有神教的ではなくして、むしろ、万有在神論的 Panentheismusともいうべきであろう。しかし私は何処までも対象論理的に考えるのではない。私のいう所は、絶対矛盾的自己同一的に絶対弁証法的であるのである。ヘーゲルの弁証法も、なお対象論理的立場を脱していない。左派において、万有神教的にも解せられた所以である。仏教の般若の思想こそ、かえって真に絶対弁証法に徹しているということができる。仏教は、西洋の学者の考える如く、万有神教的ではない」(前掲書、p.328-329)。
さて、西田からの引用はここまでにして、我々の著者の論述に戻ります。
「被創造意識といえば、これを心理的に分析するだけで満足せんとする傾向あるは遺憾である。何となれば、心理分析は自我を対象として行うのであって、自己反省の域を出でず、アナロギアの限界内に蟄居すべく折角の飛躍を退嬰せしめるものだからである。それは無論反省を喚び起すけれども、そこに止まってはならない。新しい世界への開眼であり、極度のコペルニクス転回でなければならぬ。
此意識の反省面だけを考えても、その転回性は鮮やかに覚知することが出来よう。手近い一例として日毎の糧をとろうか。これを人間的に考えれば、我々の労役に対する当然の報酬を以て買い求めて飽食すべく、誰憚るところなく享受する権利の行使である。然るに被創造意識に目覚めたる者にとりてはそれだけでは物足りない。そこに大きな空虚を感ずる。日毎の糧は恩恵であり、これを享くるに値せざる者に対する創造者の愛の現われである。我々には権利としてこれを食すべき寸毫の理由も存せぬ。
我々は現に右の矛盾せる両面の理解感情を具えている。殊に後者を有せざる人は高い人間情操を欠く人として、我々の風上に置くを肯んじない程である。
尤も、或人は言うであろう、我々は斯様な矛盾を認むるに吝かではないが、後者即ち感謝情操というような方面もやはり純然たる人間的アナロギアの所産ではないかと。なるほど此情操は微妙なニュアンスに暈かされているために、斯様な解釈も或程度までは進めることが出来る。然しその背後に被創造意識を認めない限り、其解釈は平板化してしまうのを免れ得まい。
この事を逆にして、凡ての感謝感恩の情はその根底に被創造意識を有すと言うことも出来ると思う。恩知らずは人格として唾棄すべきのみではなく、宗教的センスの欠けた人と云わねばならない。道は近きにあり、日々三度の食事に於てさえも宗教は心ゆくばかり味わわれ得るのである。」
著者は人間の感謝感恩の情の根底に被創造意識を見ます。確かに感謝感恩ということはキリスト教にも見出される宗教の基本的な特徴の一つであると言うことができます。しかし著者がその情操を普遍化するとき、それはいかなる意味で「創造者」に帰せられるのでしょうか。あるいは著者が暗黙のうちに前提しているキリスト教の神観はどこまで普遍的であると言えるのでしょうか。著者が次に挙げる例は特にキリスト教的であると言うことができます。
「斯様に食物に就いて二重の解釈が我々に存する如く、人生の他の方面にもこれに類する二重性を見出すことは困難ではない。結婚の如きもその好例に属する。男女互にその配偶を撰ぶに当り、出来るだけ合理的方法に訴えてその選択を行うであろう。この点、園芸家が苗木を撰び、或いは婦人が衣服の布地を撰ぶこととさえ、たとえ程度の差こそあれ、方法に於て類似していると云えよう。然るに、家庭を作るや否や、他の解釈――前のが平面的ならば、これは立体的とも称すべき――新しい考えが導入される。それは即ち配偶は人間以上の智慧と能力によりて我に授けられたという解釈である。近代的でないといってこれを笑う人もあろうが、家庭の神聖視の根底には此思想が、たとえ無意識であっても、潜んでいることを発見するにちがいない。
結婚に就いて、そこまで到り得ない人でも、自ら児を儲け、更に其経験から自己の親を思うようになれば、家庭的関係に動物学的解釈だけでは済まされないもののあることを何人も肯定せざるを得なくなるであろう。」
家庭の神聖視の結果、ローマ・カトリックでは未だに離婚が禁じられていることは周知の通りです。同じ理由から姦通は罪であると見なされて来ました。その根底に神の前に生きる者のあり方、すなわち「キリスト教倫理」なるものが存在することは確かです。
「かくして解釈の転回即ち二重性の定立により、アナロギアはパラドクスとの交錯域にまで導かれる。随って、其処に現われた思想は其根底に被創造意識を潜めている。然し未だ此意識が表面に現われるには至らない。此事はパラドクスの特徴たる終末性の働きが明瞭に示されて居ないことによりて知られるであろう。これさきに是等の思想が該意識の反省面を示すに止まると述べた所以である。」
ここで「解釈の転回即ち二重性の定立により、アナロギアはパラドクスとの交錯域にまで導かれる」と言われていることに、どこまでもパラドクス的切断(二重性の定立)のうちに事柄の真実を見出そうとする著者の宗教思想が表わされています。この先、著者は死のパラドクス構造について論じます。しかし、それを紹介する前に、このような著者の死生観(近代の日本人が直面した西洋的な神観念)とは異質な死生観、「古代的」な死生観に触れておくことも無駄ではないでしょう。
「縄文人の生命と死についての感覚
縄文人の自然尊重――自然崇拝のアニミズムは、その縄文人の生業である狩猟・採集・漁撈においてもはっきり表れていた。彼らが、その収穫の対象とした動・植物に対しても、自然の「食物連鎖」を破壊することをしなかったことについては、すでに述べたとおりである。
だが、縄文人を含めて、古代ユーラシア大陸の狩猟民には、この「食物連鎖」についての洞察以外に、もう一つ独自の狩猟観があったことが、日本列島においてもっとも縄文的な性質をとどめているといわれるアイヌによって明らかにされている。
すなわち、それは一章でもふれた「イオマンテ」の祭にうかがわれるものだ。すなわち、彼らは、神々(精霊)は人間の前に出現するときは、さまざまな「外装」をつけてくる、たとえば、山の神ならクマの「外装」をつけて現われ、人間に贈り物としてその毛皮や肉などを提供し、人間に喜ばれて天国に還るというのだ。つまり、狩りの獲物は人間に対する神々の贈り物だという意識である。
この贈り物に対して人間は、その頭蓋骨を幣場に飾り、弊/イナウを立て、食べ残した骨や内臓の一部を弊場のうしろに積み立て、さらに酒やご馳走をそなえ(その精霊の喜びそうなお土産をたくさん持たせ)、熊の霊を天国に丁重に送り還す。すると天国にもどった神/カムイ(精霊)は、自分が地上でいかに歓待されたかを語る。それをきいた他の神々も、それぞれシカなどの「外装」をまとって地上に現れる……。この「物送り=精霊送り」がイオマンテである。
このイオマンテの習俗は、中欧からシベリア沿海州、さらに北米のエスキモー、中米のマヤにわたって見られるという。おそらく縄文人の貝塚も、いわゆる塵(ごみ)捨て場などではなく、このイオマンテ(物送り)の遺跡ではないかという意見が最近見られるようになってきている。
もちろん、このイオマンテの観念も、アニミズム的なものであるが、また「食物連鎖」の関係も、縄文人にとってはアニミズムから直観されたのであろう。
すなわち、縄文人は、自然の一環としての人間であるかぎり、自分自身も、「時」がいたれば、その「食物連鎖」の一環に加わることを知っていたらしく思われる。たとえば、彼らが遺体を風葬にしたり、土葬にすること、さらには後世、死後、遺体をただちに埋葬せず、モガリの期間をおいて腐敗の進行を放置しておいたのも、たんなる埋葬儀礼というよりは、むしろ遺体自体を「食物連鎖」のサイクルに参加させるという、意味ないし配慮がそこにあったのではあるまいか。
現に事実、ヒマラヤ地方(ネパール)の人々の鳥葬を観察した文化人類学者の川喜田二郎氏の報告によると、まず肢体はバラバラにされ、人体のすべての肉が「鳥が食べやすいように」するという。したがって、鳥葬は、死体の遺棄とは本質的に異なるものということになる(川喜田『鳥葬の国』光文社)。
私は、アニミズムは、ここまで徹底しなければ本物ではないと考えている。つまりこの徹底した自然の循環/サイクルへの参加――。照葉樹林帯から日本列島に渡来した縄文人のアニミズムは、その意味においても本物だったといえるのではあるまいか。おそらく土葬の場合も、たんに「母なる大地」に還るというよりも、それは自分たちが知らず知らずにふみ殺してきた虫たちに、自分の肉体を食べさせよう……という意図がおそらくはたらいていたのではあるまいか。
縄文人の骨が、バラバラの状態で発見される事例/ケースが多いが、これを従来の食人習慣/カニバリズムで説明するよりも、私はネパール的鳥葬の習慣から説明したほうが、より分りやすいのではないかと考えている。
なお、縄文人の、人間による人間以外の生物の生命を断つ行為(仏教でいう「殺生」)である狩猟についての心理的なひだは、おそらく宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」に、もっとも端的にうかがえるのではあるまいか。
主人公の猟師の「豪気な小十郎」は、熊を殺して生活をたてている。彼は、熊を鉄砲で射つたびに、その熊に「熊。おれはてまへを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめへも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していくだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしてるんだ。てめへも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次は熊なんぞに生れるなよ」という。
だが、小十郎は、やがて「熊のことばだってわかるような気がした」。ここにおいて、つまり、熊と言語を共有するようになったとき、彼と熊のあいだには完全に差別がなくなる。
そして、彼は、さいごに熊に殺されることによって、その殺生のバランスを回復する。小十郎の遠ざかりゆく意識は、熊のこういう言葉をきいた。
「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」。それをきいたとき、小十郎は「死んだ」と思った。彼には「ちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた」。
「これが死んだしるしだ。死ぬときに見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。
「それからあとの小十郎の心情はもう私にはわからない」。
これは『遠野物語』よりも縄文的な物語である。小十郎の生命のトータルにおけるバランスの回復。この感覚こそ、きっと日本人の宗教的心情のエッセンシャルなものである。
おそらく後世、仏教が入ったとき、西欧人には、とうてい理解不能な、菩薩行としての「捨身飼虎」の観念を日本人がそのまんまなんらの抵抗感もなく受け入れ、また仏教の精髄を「山川草木悉皆成仏」としてとらえたのも、縄文人のこの生命観を受けついでいたからであろう。」(佐治芳彦著『縄文の神とユダヤの神 人類の二つの選択』、徳間書店、1989年)
佐治が指摘するように日本仏教の基底にもアニミズムがあるのだとすれば、我々の著者の主張しつつあることは、何かそれとは異質な、西洋的近代的な自我観、道徳観であったというべきでしょう。それは次のような言説として提示されます。
「被創造意識は感恩の情として反省せらるるに先だち、絶体絶命の責任感、強烈無比な畏怖感情として我等を圧倒する。而して、その責任感は果さざりし義務に対する自責の念また悔恨の情である。然し自責と悔恨だけでは何等絶対論理的な働きをなすに至らない。それらは中途半端であり、人間的である。而してそれをどこまでも徹底した時に「死」に収斂するのである。」
絶対者なる神との対峙が人を死に至らしめるという、西田も見ていた事柄が、ここで強調されているように思われます。ただし著者は、西田とは異なり、直ちに神の自己相対化についても語ることはしません。あくまでも人の死にこだわります。
「然しながら、その死と雖も、それだけでは無意味であって、これに対応する他の半面が存してこそ始めてパラドクスとして其論理性が成立するのである。然し此問題を検討するに先だち、死の思想の複雑性を充分に了解する必要から、一応その分析を試みて見たいと思う。
死のパラドクス構造は、死の見解のパラドクス的対立によりて瞭かに窺うことが出来る。「未だ生を知らず、安んぞ死を知らんや」と言った人はたしかに賢者であったといわねばならぬ。人生のアナロギアに没頭せる間は到底死のパラドクスに進む無謀を敢てし得ないであろう。
これを神学的課題と見るとき、そこに終末論の偉大且つ難渋な思想が横たわって居るが、此処ではそれに直接触れたくない。只数個の点について、死の見解がパラドクス構造に於てのみ把握される事実を指摘するに止めよう。
とはいえ、アナロギアが其処に働かないという意味ではない。それどころか、事実アナロギアは死の思想をめぐって最も活発に又自由に作用するのである。万物の帰趨として此思想が撰ばれていることは、其連想区域を極度に宏大ならしめた。だが、それにも拘らず、アナロギアだけでは如何ともすべからざる一点に達せざるを得ない。死は文法的比喩を以てすれば、「 . , ; : 」から 「 ? ! 」のいづれの機能をも有して居る。人生の物語に於て、唯一個結尾のピリオドを除いて、他のあらゆる終止記号は次に来る語句に関連する。死の思想も、人類或は万有生命の最後の終焉を除いて、他の凡ての場合その意義が問われ、そしてそれは次に来るべきものの何たるやによりて答えられる。これパラドクスの要求する終末而して後に端緒という条件を充たす所以である。」
ここで初めて著者の言う死のパラドクスとは「終末而して後に端緒という条件を充たす」ものであるという指摘がなされます。
「勿論錯綜を極めたる思想「生」に対する「死」であって、それは文法的又は幾何学的に考えられるものではなく、無限のニュアンスに於て意味づけられて居ることは言うまでもない。然しそれらはおのづからパラドクス的対応に於て存することは容易に認められよう。一方に、人は死すべきもの、と考えられると共に、また、人は徹底的に死する者とは信じ得ない性質をもって居ることは、さきに述べたように、最低の物質的解釈にまで譲歩した場合でさえも明らかに示される。更に死は最も忌むべき罪の結果と考えられるかと思えば、それはまたたぐいなく甘美な安息とも見られている。死は一切の終焉なりと或人が云えば、他の人はそれは睡りに過ぎない、死者はやがて皆甦ると主張するであろう。何人も死についてそれが何よりも確実な事実であることを認めるが、同時に其内容に至りては全く不可解で、これを説明し能わず、結局、未だ生を知らず、安んぞ死を知らんやと告白せざるを得ない。
斯くの如く、死のパラドクス構造は、その一面を見ただけでは此事実の真相に触れることが出来ない。是非とも弁証法的に見る必要がある。而して此場合肝腎なことは、斯様に意味のニュアンスから両極性の見方に転ずると共に、死に於て示されたる論理的転換性を把握することに存すると思う。それは否定と肯定との共存である。
さきに看来ったように、肯定否定の作用形態如何は各種論理学を特徴づけるものである。法則性論理学に於ては、アリストテレス的思惟の原理に準い、肯否は決して共存するを許されなかった。然るにアナロギア論理学に至れば、両者は程度の差、段階の別にまで溶解されてしまった。更にパラドクス論理学に進めば、右に注意したように、然りと否の裁断は同時に下されるのである。
肯否判断が同時的である、しかも同一の命題同一の事実に対して下される、ということは合理性の到底承服し得ざる所であろう。それはたしかに科学的事実に対してはそういわざるを得ない。また人間生活の数多い問題に於ても同様である。ただ宗教の領域においてのみは、この同時性の原理が問題全体への鍵となるのである。といっても、これを抽象的に取扱ったのでは殆んど得る所はないといってよい。死という最も具体的な事実、切実な経験に即してこれを悟るよりほかはないのである。
肯否定同時性は時間の論理的性格を示すものである。時間が瞬間にまで極限し、人がこれを現在点として把捉し得たときに、その一点は謂わば+/プラスと−/マイナスの両極的性質を帯び、そこに立脚する人間はそれらによりて明かに二重に性格づけられることとなるのである。平素の比較的無自覚なる生活に於ては両極的性質は彼の衷に微妙なニュアンスを形成して混和して居るけれども、一たびこのような純粋なる現在点上に立った際、彼は鮮やかにこれを自覚し且つ体現するものとなる。つまり彼は死生の関頭に立つといえよう。過去と未来とが連続的時間として考えられた習俗性は此処では完全に捨棄せられ、過去は死、未来は生そのものとして受入れられる。
これを別な言葉でいえば、過去及び未来の時間的性格が人格化されたと云えよう。即ち過去が死を、そして未来が生をそれぞれ表わすことになる。」
著者がここで言おうとしていることは独自の時間論であると思われます。死生の関頭に立つ人が現在点を人格化して捉えたときに、過去が死を、未来が生を表わすと言われます。しかし今死のうとしている人にとっては、過去は生きてきた時間、未来は死に瀕している時間なのではないでしょうか。「ただ宗教の領域においてのみ」、これを捉えることができるということは、そこには逆転があると言いたいのでしょうか。
「またこれによりて、時間は質的に一個の截別――たとえば物の表裏というように――を行われたということも出来るであろう。元来、アナロギアによりて予め連続性の原系列としての時間形式が意識の布地に謂わば下絵として描かれているのであるが、超越論理学的の時間はその上を生命の太い繍糸で刺繍を施しているようなものである。糸は各瞬間に裏をくぐり、その結果表と裏とに二様の模様が描き出される。未来の希望を顕わす表面と、これを支持しつつ視界から隠れる過去の記憶の裏面とである。そしてこれら二つのぬいとり模様は決して同一ではなく、異なっている。と共に、またぴったりと対応するものでなければならぬ。
表と裏とは、これを一般の例よりすれば相対的であって、互に否定し合う筈であるが、更に絶対時間の見地から看れば、未来は常に究極的肯定、過去は常に究極的否定の性質を帯びる。」
ここで言われていることは、たとえば「過去=否定されるべき現世」、「未来=肯定されるべき来世」という具合に、現在の根底に「生命の太い繍(ぬいとり)糸」としての、また「究極的肯定」としての未来=来世が働いているとでも言わなければ、理解できないような事柄ではないかと思われます。それが「超越論理学的の時間」、「絶対時間の見地」と言われているのではないでしょうか。
「尤も此場合、未来は善であり、過去は悪であるという風に考えてはならない。否定されるということは必ずしもそれが悪なることを意味しない。随って、善き過去も勿論存在する。それは否定されつつも、抹殺されてはならない。斯かる善き過去はこれを保存すべきである。死の性質を帯びつつ、それは再生の希望を荷うべきである。然り根本的な悪さえも、善きものの存在を意義あらしめる為に保存せねばならぬ。そして、斯様な必要から、一切の過去は空間性に於て保存されるのである。されば、過去は純粋時間的に死せしものなるも、これはまた空間に於て睡って居るということも出来る訳である。」
「一切の過去は空間性に於て保存される」という言い方は、著者のユニークな思想から来ています。しかしそこにキリスト教的、あるいはメシヤ的な「再生の希望」が込められていると言うべきでしょう。
「空間化された過去とは何であるか、それは即ち歴史なのである。歴史は死んで葬られ、好事家の骨董趣味に辛うじて存在意義を見出す記録類を指すのではない、未来を支持するものとして、あらゆる瞬間に潜在する、空間化された事実である。それは必要の場合、何時でも再生出来るように準備されて居らねばならぬ。然らざる記録は単なる物語に過ぎないが、これに反して、此条件を充たすものは、たとえ模糊たる記憶や伝説の断片であっても、厳然たる歴史存在として取扱われるべきであろう。」
歴史は「あらゆる瞬間に潜在する、空間化された事実」であるというところに、著者の歴史観があります。しかしそのように言い切る著者の視野の広がりが問われるでしょう。著者がキリスト教的に限定された「歴史」しか見ていないかも知れないからです。
「既に、死は論理の具体化であると述べた。私は更に、死はまた個人人格にとり、全体としての世界に接触する唯一の機会であると言いたい。それまでは世界の一部として、殆ど無自覚に世界の内にのみ存在した個人が、その世界を去らんとする刹那に当り、始めて自己対世界の見地に立つことが出来、彼は図らずも全体としての世界を一転瞬の間に把握するの機会を与えられるのである。
この事は、世界が自我に於て反映せらるるものであるという既述の事実と照応せしめて考うべき点であると思う。勿論、自我と世界とを同一視するの危険は呉々も避けねばならぬが、自我に於て世界のプランを見出すことが絶対論理学の根本的要請に属することは、これまでの叙述によりて読者の納得せられたことと考える。ところで、此プランは自我が+−/プラスマイナスの要素を具えた一人格であるように、今や他者として自我に対立する世界がやはり一個の人格として+−の二面を具え、それに対して自我は訣別せんとしつつあることを感ずる意識に於て反映されて居ると見ることが出来よう。」
ここの「自我に於て世界のプランを見出すことが絶対論理学の根本的要請に属する」ということは、今までに明確に述べられていたとは思えません。また「此プランは自我が+−/プラスマイナスの要素を具えた一人格であるように、今や他者として自我に対立する世界がやはり一個の人格として+−の二面を具え、それに対して自我は訣別せんとしつつあることを感ずる意識に於て反映されて居る」というのはわかりにくい表現です。「此プラン」という主語がどの述語にかかるか不明だからです。さらに「それに対して自我は訣別せんとしつつあることを感ずる意識に於て反映されて居る」という言い方も不明確です。
ところで著者の言う「世界のプラン」を「世界の目的」と理解してよければ、先の言葉は「自我に於て世界の目的を見出すことが絶対論理学の根本的要請に属する」となります。この表現は、もし世界に目的があるとするなら、それは自我においてしか見出すことができない、と言い換えることも可能でしょう。このことと関連してフッサールの、1931年6月3日のアルブレヒト宛の、次のような手紙の一節を引用してみます。
「あらゆる問のうち、最高のもの、あらゆる人間が直ちにその本来の厳密な真正な意味において把握し理解することの出来ないような問は、形而上学的な問である。すなわちそれらの問は生と死、「自我」と人類として客観化した「我々」の最後の存在、すなわち目的論に関係する。目的論は究極的に先験的主観性とその先験的歴史性にもどり導く。そうして当然最高のものとして、この目的論の原理としての神の存在と自我に対する神の存在の意味とが問題となる。すなわち最初の絶対的なものの存在すなわち私の先験的自我と私の中に開示される先験的全主観性――神の「作業」の真の場所――の存在に対する神の存在の意味が問題となる。「我々の」世界としてのこの世界の「構成」は神の作業に属し、神からいえば世界の構成は、我々の中における、我々の先験的な最後の真の存在における、不断の世界創造である」(山本万二郎『「生命界」概念を中心とするフッサール後期思想の展開』既出、p.321)。
この文もわかりにくいのですが、「人類として客観化した「我々」の最後の存在」、「先験的全主観性――神の「作業」の真の場所――の存在に対する神の存在」、「我々の先験的な最後の真の存在における」を、それぞれ「人類として客観化した「我々」という最後の存在」、「先験的全主観性――神の「作業」の真の場所――という存在に対する神の存在」、「我々という先験的な最後の真の存在における」という具合に、同格の「の=という」に置き換えて読むべきなのかも知れません(蛇足ながら、今日では「先験的」は「超越論的」、また「生命界」は「生活世界」と訳されています)。
我々の著者も続いて世界について論じます。
「巷説によれば、死によりて人は自己の弱さと頼りなさを知るが故に、真に信頼すべき永遠的存在者を求むるに至るのであるという。それは謬っては居ない、然し、俗論たるを免れないと思う。苦しい時の神頼みであって、多数人の場合には事実ではあろうが、其処に生ずる宗教心は極めて低級且つ利己的ならざるを得ない。死が純真な宗教心への機縁たり得るのは、これを迎えることにより、他者を知ることが出来るからである。今や此危機に際して、これまで自我の限定域として親しみ来った「世界」が自我に対立する存在として「他者」となり了っているのを認めることになった。人間は死の危機を除いてのほかには真に「他者」を認識する機会を発見することは難い。今迄は、自我の限定域は自我の意志によりて、どこまでも拡大することが出来た。随って、相対的ならざる絶対の他者は夢想だにせざりし存在であった。然るに「死」はその拡大の限界を示した。此機会は甚だ貴重である。但し何等究極的意義を有するものではない。何となれば世界は単に切断によって他者を関係的に示唆するに止まり、他者としての内容を有せざるが故である。それ故、その関係と雖も全然消極的なるを免れない。不安であり、恐怖であり、絶望である。というのも、つまり、この場合、世界はただ過去的存在として現在の自我へ対立するのであって、其処には未来がないからである。人間のあらゆる能力を動員した結果、彼は宗教の門外まで来たが、最早一歩も前進することが出来なくなった訳である。
宗教は此点から出発するものである。消極的に示唆された「他者」は真の絶対他者の影として認められよう。その絶対他者が示現された時に此危機は積極的内容を得るのである。而してそれにより、パラドクスは満足な働きを為すことになる。但しその絶対他者が如何にして示現せらるるやは宗教自体の問題であって、本章には属しない。論理学は仮設的にそれを措定することを以て足れりとせねばならぬ。」
著者は「人間は死の危機を除いてのほかには真に「他者」を認識する機会を発見することは難い」と言います。そのとき初めて他者としての世界が問われるのだと言います。しかし「消極的に示唆された「他者」は真の絶対他者の影として認められ」るに過ぎないとも言います。ちなみに『時と永遠』(既出)の著者、波多野精一は、「死」について論じた第四章の最後に次のように述べています(p.84-85)。
「死は時間性の徹底化である。従って時間性の克服は死のそれにおいてはじめて完きを得、逆に又死の克服は時間性のそれによってはじめて成就される。ここよりして次の事どもが帰結される。第一。時間性及びそれに基づくこの世の苦悩はややもすれば死そのものによって克服されるが如く思われ易い。死をもって生の一種の形とする思想がいかに根強く人心を支配しているかを思えば、この考え方感じ方が通俗的に揮う勢力は首肯かれるしかしながらそれが全く錯覚に過ぎぬことは上の論述によってすでに明かにされた。尤もその思想の一理あるは許容すべきであろう。死は他者よりの離脱として主体にとってはたしかにこの世を去るを意味する。死は或る意味においてはたしかに時間性及びこの世の苦悩よりの解脱である。ただ惜しむべきはその解脱は同時に解脱する筈の主体の壊滅を意味することである。世の悩みは主体の自己主張の抑圧否定に基づくとすれば、死は却ってこの世の悩みの徹底化というべきである。ここより観れば、世の悩みこそむしろ死の前兆又は先駆と解すべきであろう。
第二。吾々は時間性の克服である永遠性は同時に死の克服でなければならぬこと、又死の克服は永遠としてのみ成就されることを知る。生の継続に過ぎぬ不死性の観念が、永遠性の又従って死の克服の要求に副わぬことは、すでにここよりしても明かである。永遠性の正しき理解を求むべき方向もすでにここに指し示されている。主体の現在が将来を失うことが死であるならば、永遠は過去がなく将来のみある現在である。それと連関して、死は他者よりの完き離脱であるに反し、永遠は他者との生の完全なる共同でなければならぬ。孤独は死を意味し、永遠は愛としてのみ成立つのである。」
我々の著者は、自己の「論理」によって、この「絶対的否定としての死」の章の締め括りを行ないます。
「人間は死に於て、自我の限定作用を喪うことになった。然し自我規定性は活動することが出来る。彼は自己固有の内容を失うけれども、絶対他者に対する関係の規定に於てこれを償うものを発見せんとする。内容なく、唯関係のみをもつということは、端初性を示す。それは此場合絶対他者が自我に働きかける端初を意味するのであって、再度の創造ということに他ならない。
斯様に、人間は終末を味わって後始めて端初に触れることが出来る。アナロギアのみにより、人間生活中に真の端初を求めようとしても、全然不可能である。終末の対位点としてのみ、而してパラドクスによりてのみ、捉えられるのである。そして、此事は終末も亦端初を予想することによりてのみ把握し得るという原則に導くであろう。
パラドクス切断とは以上の如きものである。その終末は死、端初性は更生と呼ばるべきであろう。勿論肉体の生死はこれを示唆する程度に止まるのである。
この切断は時間の特性を形造る。それ故、純粋なる時間に生きる者は幾度となく自己の生活にパラドクス切断を行うことが出来る。使徒パウロは我日々死すと言って居る。これは又、日々復活することを意味した。切断によりて生じたる生活の断片は質的には一個の完全体であり、端初と終末によりて整備される。完全体とは即ち創造者のプランを忠実に顕映するものの謂いである。」
死においても「自我規定性は活動することが出来る」とは著しい表現です。著者は波多野のように死は「主体の壊滅を意味する」とは考えていないかのような言い方です。ともあれ著者は「終末も亦端初を予想することによりてのみ把握し得る」という、自己のパラドクス論理を示唆することによってこの章を閉じます。
第九章 創造と審判/クティシスとクリーシス
「自我を中心として考えられた人間が若し哲学的人間と呼ばるべきであるならば、神対自我の相関関係を中心として考えられた彼は絶対的人間と称することが出来よう。斯かる人間は偉大なる王者たると同時に蜉蝣にも劣るはかなき小蟲であり、悲惨極まる境遇に沈淪しつつ、しかも想像に絶する尊貴と栄光とが彼を待つ不可思議な存在である。その不可思議さを優れたる哲学者は往々垣間見る機会をもった。例えば「わが上なる星辰の天、わが裡なる道徳律」の如き寸言に洩らされて居る驚嘆の情がカントの哲学を高め深めたことは非常なものである。とはいえ、それは未だ瞥見の程度を出て居ない。絶対的人間の全貌は絶対論理学の指導なくしては窺知し得ない。」
絶対他者に対する関係のうちにある人間が「絶対的人間」と呼ばれるのでしょう。しかしそれは甚だしい表現であって、普通は使われません。たまたまこれに匹敵する言葉として、サルトルが思想誌『現代』の創刊号(1945年10月)で次のように述べているのを、長谷川宏著『同時代人サルトル』(河出書房新社、1994年)の中で見つけました。
「われわれは人間が絶対者であることをたからかに肯定する。が、人間はその時代、その環境、その地上において絶対者である。千年の歴史もほろぼすことのできない絶対的なものとは、人間がこの境遇のもとでこの瞬間になした、とりかえしのつかぬ、比類なき、この決意である。……われわれは不死を追いかけることによって永遠者となるのではない。われわれは、世紀から世紀へとうけつがれていくほど無内容で空虚な、やせほそった原理を作品のうちに反映させたから絶対者になるのではなく、自分の時代のなかで情熱的にたたかい、自分の時代を情熱的に愛し、時代とともに完全にほろびることをうけいれたからこそ絶対者となるのである。」(p.52)
サルトルは「神なしに」絶対者として生きる決意(人間がこの境遇のもとでこの瞬間になした、とりかえしのつかぬ、比類なき、この決意)について語ります。しかし我々の著者は「絶対的人間の全貌は絶対論理学の指導なくしては窺知し得ない」と言います。どこまでも「神の前で、神と共に」生きようとする、その決意が人間を絶対者にすると言いたいのでしょう。「絶対論理学」が「世紀から世紀へとうけつがれていくほど無内容で空虚な、やせほそった原理」であるなどとは毛頭考え及ばないことなのでしょう。この章以降、本書の後半は著者の「キリスト教哲学」についての論述となります。
「人間は極めて豊富な内容と広汎な版図とを有する存在には相違ないけれども、アリストテレスの統治域を離脱した彼方のピスガ的展望に於ける絶対性の一瞥は我々をしてヒューマニズムの領域をまことに狭隘なるものと感ぜしめ、その思想的資源の著しい貧寒を歎ぜしめるに充分である。されば、此不満を除かんが為には是非共ヒューマニズムの殻を破らなければならぬ。其処に宗教の絶対世界が眼前に開け来るであろう。ところで、然し、その殻を破るとはどういう意味であろうか。
俗見に従えば、宗教は直ちに墨染めの衣を連想せしめるような味気ない逃避世界のことどもであって、人間性よりの離脱を示すものである。しかしそれはひどい間違いだと思う。我々は宗教に於て、人間の有する多くのものを喪うように見えるが、その実尊貴なるものは結局に於て何一つ失うことはない。のみならず、却ってそれらは始めて真価を発揚するに至るのである。それ故、私は人間的立場から一歩の退去でも肯んずることは出来ない。たとえ論程がどの方面に発展したとしても却って此立場を固守するであろう。
或人は言う、基督教哲学の中心問題は、神学の場合と同じく、神に就いての問題である。従って神が論議の中心となるべく、其結果はおのづから人間を貶蔑することを意味するであろうと。これは一見極めて殊勝な態度のようであるが、実は似而非なる謙遜であり、其結果も憐れむべきものが多い。宗教哲学に於て神が論議の中心であるべきは論を俟たない、とはいえ、神を考え又論ずるのは誰であるか、人間ではないか。その考える人間を度外視して唯徒に神の名を呼び神に就いて考えるというのでは、問題の内容は全く空虚に帰し、思弁の為の思弁に堕落してしまうばかりであろう。中世神学以来幾度となく斯様な敬虔な遊戯が繰返され、識らずして神を愚弄する意外な結果に陥っている。我々としても此点余程の戒心を要すると思う。殊に基督教を哲学的に取扱うという場合、呉々も神をもてあそぶことのないよう慎まねばならぬ。
それでは、どうしたなら議論の空漠化を防ぐことが出来るであろうか。それは先ず、人間である我等をはなれて、神自体だけを考えることが我々にとりて不可能であるという点を忘れないにある。此書の初めに注意したように、人間と、人間の棲む此宇宙に最も緊密な関係を有する神に於て、我々の思索は始めて正しい出発をすることが出来る。同時に、人間的立場を忘れては此思索は全然無意味無効果であることに留意せねばならぬ。
斯くて我々は人間を超越する神の問題を考えようと志しながら、人間的立場よりの離脱を試みることは断念することになり、却って此立場への固執を決意するに到った。我々のこの決意は果して宗教、特に基督教の哲学の許容する所であろうか。
これに就いて聖書は明らかな答を供し、我々の右の見解を充分に支持するであろう。聖書はその冒頭に於て神とは何ぞやというような問題を持ち出しては居ない。神と人間との交渉に於て先ず筆を染めている。その既述はほかならぬ「創造」に関してである。」
著者はヒューマニズムを斥けながら、人間的立場を離れて神を論ずることは空疎であると言います。しかしキリスト教哲学者として当然のことであるかのように聖書と神の創造について論じようとします。既にそこに飛躍があるのですが、著者には歴史的批判的聖書学についての視野は全く欠落しています。聖書が人類にとって普遍的な真理を包蔵しているとしても、それはいかなる意味においてであるかを、さらに問い進めることはしません。聖書は神の「啓示」の書として既に前提されてしまっています。キリスト者にとってそれは当然であるとしても、非キリスト者の目には鼻持ちならない独善的態度と映るでしょう。私にもそれは「絶対論理学」の独りよがりのように思われます。
「神の天地創造が聖書の劈頭に記されているが、これは正しい出発点を示して居るというべきだ。勿論ここに謂う天地はその後の叙述が示す如く、人間中心の天地であって、主人公たるべき人間がそこには神に対して立つことになる。されば神を論ずる場合、我等は人間に対する神をのみ論ずるのである。人間に縁なき、又は人間から抽離された神は不可解であり、強いて此無謀な思索を敢行しても、空疎な概念遊戯以上に出ることは出来ない。
基督教は神を思想する。然し彼を単に超越的存在、絶対者、悠久なる生存者という風に純思弁的に抽象しては考えない。これはさきに示唆した如く、多数の宗教哲学者や基督教の組織化を志す思想家の兎角陥り易い誤謬である。現にこれによりて解釈し又は立証し得られた基督教的真理は一つも存しないではないか。このことは特に強調する必要があろう。何となれば斯様に思弁的に試みられた廓大(拡大)は存在性の実質の上に何等新しき内容と意義とを加えるところがないからである。恰も引伸ばした写真が原板以上に新しい細部を加えないようなものである。」
一般論としてはその通りであると言えるでしょう。しかし天地は「人間中心の天地」であるという思想は、先に見たフッサールの「人類として客観化した「我々」という最後の存在」という表現にも通じる、極めて西洋的なそれであって、ヒューマニズムと根を同じくするものです。サルトルの先の「絶対者」宣言もキリスト教の裏返しであるという側面があります。著者もその意味では極めて西洋的な人間観の持ち主です。
「神を思想しようとすれば、抽象化とは反対の方向へ、即ち我等の住む現実よりも更に高い「濃度」の現実性、一層充実せる具体性に向って考察を進めなければならない。これが宗教哲学に対して課せられた新しい方法論の一面である。」
著者は、神はさらに高い濃度の現実性、一層充実した具体性であると言います。著者のことを西洋的な思想の持ち主であると言いましたが、神をそのように思念することは、もしかしたら、日本人が西洋の神に対面したときに抱く、かなり共通する思想傾向ではないかとも考えられます。内村鑑三や賀川豊彦のことが念頭に浮びますが、ここでは波多野精一の『宗教哲学』(既出)の一文を引用してみます。
「さて今まで述べ来ったことが真としたならば、経験的世俗的実在に於てと同様に宗教的実在に於ても、それの「あり」、其の存在は本質的に事実性を意味し、従ってあらゆる証明、導き出し、根拠附け、あらゆる理屈、を超越して、単純に自己を定立するものでなければならぬ事は明らかであろう。事実性をあらゆる真理性の根源乃至規範として主張し、存在について語る限り、事実性の範囲に留まろうとする立場を事実主義――実証主義――Positivismus(定立主義)と呼ぶならば、宗教の立場――宗教に就いて反省し論議する理論乃至哲学のそれではなく、宗教そのものの立場――は事実主義と名づけられねばならぬであろう。高次の実在主義は高次の事実主義(実証主義)を必然的に要求する。この事の必然的帰結として、神の存在の証明は不可能事の無謀なる企図として根底より覆されねばならぬ。カントが、歴史的に与えられたる諸種の証明の論理的欠陥を指摘するに止まらず、進んで存在そのものが絶対的定立として全く証明の領域外に立つことを、換言すれば、実在性を意味する存在は概念的表象的内容に属し得ず、従って、彼の用語によれば、存在判断は綜合的でなければならぬことを、明かにしたことは――今ここに立ち入って論じ難き種々の欠点や誤謬のあるに拘らず――彼の卓れたる識見の一に数えられねばならぬであろう。」(p.30)
我々の著者は次のように言います。
「それならば神を現実者として、具体的存在として考えるにはどうしたらよいのであろうか。それには、やはり人間から出発しなければならぬ。そして、思索を進めるに当り、人間の裡にある現実性と具体性とを失わないように努めねばならぬ。抽象化的宗教哲学は、惜しみなくそれらの栄養分を捨て去って、概念の繊維のだしがらを珍重する愚挙に出たことに於て、最初から方法を間違えて居た、と云うべきであろう。我等は人間性を極度に高調せねばならぬ。人間性なき宗教、人間性の充実せぬ宗教はついに低き宗教でしかあり得ない。
然しその言葉は猛烈な反撃を蒙る惧れがないであろうか。人間性の高調は神を人間のレベルにまで下げようとする不遜を敢てする者である、然らずんば、世俗に迎合する一種の人間教を編出そうとするものである、というような抗議をうけるかも知れない。
斯様な反対論は少しく性急に過ぎると思う。人間から出発するということは、必ずしも人間中心論を意味しない。ただ此出発に於て、人間を離れて神を考えることは不可能であるという一事を規定するのである。人間と縁のない神、或いは人間を全く捨て去った神、人間の上に唯全く超然として冷やかに彼を見下ろす神、斯かる神がたとえ如何に尊貴であろうとも、我等は彼を知ることは出来ず、また知る必要もない訳である。
それ故、どうしても人間を根拠として出発しなければならない。然し、此場合に謂う所の人間とは何であるか、そこに慎重な考慮を要する。」
あとで見るように人間性の高調とは人間性の手放しの肯定ではありません。しかし著者には、神をどこまでも人間との関わりにおいて考察すべきだとするその主張が、そのままキリスト教哲学として成立するという「楽観的な」見通しがあるように思われます。
「我等は勿論神に対する人間を考える。外的自然に対する、若しくは他動物に対する人間というようなものを考えるのではない。今、神に対する人間に於て、二様の彼を思惟することが出来るように思われる。一は客観的に見たる総体的人間である。他の一は主観的に自我として見たる個人的人間である。或いは右両者の中間をとりて考えることも出来よう。宗教に対する思索は、これらのうちいづれかに偏した人間について行われる傾向を警戒せねばならぬ。
我等はこれらいづれの立場にも拘泥してはならぬ。主観客観に分析されない以前の、或いは既に分析されて居るなら両面を再融合した後の全体的人間をかんがえねばならぬ。ところが、斯かる人間を把握することが既に容易ならざる問題である。
人間は、これを限定して量的に、空間的に見るとき、大は人類全部を含む集団即ち社会として考えられ、小は個人或いはそのうちの或る人間を形造るに必要な一点的な部分にまで収斂して考えられもする。他方、彼を質的に、時間的に規定せんとして、主観客観の別を立て、主観を無に等しき点より発せしめ、これを拡充して宇宙大に至らしめることも出来る。然しそれらを打って一丸とし、全体としての人間を見るということは、唯哲学的に人間を考えただけでは出来得ないのである。それには神に対する存在としての人間である彼を眺めなければならない。」
ここに「主観客観に分析されない以前の、或いは既に分析されて居るなら両面を再融合した後の全体的人間」という言葉が出て来ます。この観点は西田の「主客未分以前」や、ヤスパースの「包越者」を思わせる、一個の哲学的課題であると言えます。しかしそのあと著者の独自の視点が加わります。人間を「量的に、空間的に見るとき、大は人類全部を含む集団即ち社会、小は個人或いはそのうちの或る人間を形造るに必要な一点的な部分」が考えられ、「質的に、時間的に規定せんとして、主観客観の別を立て、主観を無に等しき点より発せしめ、これを拡充して宇宙大に至らしめる」という言い方がそれです。主客の別が「時間的な規定」であるとするのは、なかなか理解しがたい事柄です。「時間とは自己である」という現象学的時間論を俟って、初めて了解されるような事柄なのかも知れません。その上で著者は人間を全体として考えるためには「神に対する存在としての人間」を見なければならないと言います。超越者との関わりという観点がなければ、人間を全体として捉えることはできないということでしょう。
「彼は被創造者として、創造者の前には絶対に無力であり、束縛し尽されて居る(マタイ伝五章三六節、六章二七節*)。これは彼が自己を中心として考えた場合の、限定と規定に於て完全に自由であるという思想と対蹠的に反立する。然し、ここに重要な点として、創造思想の徹底は、創造者たる神をして被創造者たる人間の自由を全く神の手に収めしめるという思想に到達させる。神は絶対自由であり、そしてそのことは、人間の自由を一旦保留し、更にこれを神の自由として用いしめることに於て示される。言を換えていうならば神は人間の自由意志に於て働くと云うことも出来よう。人間の側より見れば、彼は自己の自由を少しも失っては居ない、しかし其自由は神の自由なる権威によりて全く束縛されて居る。而して此矛盾に於て、神に対する人間の存在意義を捉うる把握点が見出されるのである。」
* 「また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない」(マタイ伝五章三六節)、「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」(同六章二七節)。
「斯様に、人間は自己限定性及び自己規定性に於て、完全に自由なる自己を意識しつつ、同時に、神に対する自己の被創造性及び被審判性に於て完全に束縛せられたる自己を発見する。勿論此処に謂う自由も束縛も後に述べる基督者的自由及び束縛とは全く異なるのではあるが、然しこのディレンマの両角をよく押え得た人があるならば、其人は人間的偉大を体現した人として、相倶に人生と其智慧とを語るに足る哲人と呼ぶことが出来よう。然し、そこまで目醒めた人は、悲しいかな、極めて稀有な存在である。斯かる人は我等が地上に期待し得る最大の珠宝であり、至宝である。」
ここに「神に対する自己の被創造性及び被審判性」という言葉、すなわち神人関係において人間を規定する〈被創造性および被審判性〉という言葉が出て来ます。一般には自由と束縛の問題は、精神の自由(自由意志)と出来事の因果的継起(運命)との関わりの問題として提起されます。あるいは自由と束縛のディレンマは、個人対社会の問題として意識されます。それを「人間の自由は神の自由なる権威によって束縛されている」と受け取る人は、近代世界では特に「極めて稀有な存在」でしょう。それは宗教的に「浮上」した意識が言わせることです。あるいはその世界に入り込み、そこに「沈潜」する者にしか理解できないことです。しかし著者は一転して次のように言います。
「基督者のうちには私が斯様に唯人間を説くを聞いて、これを「異教的」となし、これをにがにがしく思う人もあるかも知れない。然し私は答える、その人は絶大なるヒューマニスト、イエスを思うべきであると。福音書に匹敵すべきヒューマン・ドキュメントは世に嘗て現われたことがないと思う。いや其処には人間の強烈な否定があるではないかと抗弁されるか。そうだ、その通りだ。君は君の抗弁を抗弁自らによって無力ならしめて居る。強い人間の肯定があればこそ、その否定の峻烈さがあるのだ。誰か十日間絶食した病人と角力を取って快しとするか。そうではあるまい、自分よりも力の勝れた人に打克ってこそ愉快なのである。此事は福音の理解に於て心得るべき点と思う。最初から人間を軽蔑し否定する者はパリサイ人か、偽善者か、然らずんば独善主義者である。
然らば、何故に斯く、人間の偉大と共に弱小が説かれるのであるか。それは哲学的人間の未だ解し得ざる所であろう。唯神との関連に於て考えられた人間に就いてのみ、此事が深遠なる問題となるのである。然らば其関連は何によりて、また如何にして生ずるや。これ即ち創造の問題にほかならない。」
ヒューマニズムの立場に立たないと言っている筈の著者が、イエスのうちに「絶大なるヒューマニスト」を見ます。そして「強い人間の肯定があればこそ、その否定の峻烈さがあるのだ」と言います。その上で「ただ神との関連に於て考えられた人間についてのみ」、「人間の偉大と共に弱小が説かれる」のだと言います。人間の「偉大」と「悲惨」とを同時に説いたのはパスカルです。そのトーンは我々の著者のそれとは少し違っているように思われます。たとえば次のように言われています(以下、松浪信三郎訳『パスカル パンセ』河出書房、「世界の大思想8」、1965年)。
「人間の偉大は、人間が自己の悲惨なことを知っている点において、偉大である。樹木は自己の悲惨なことを知らない。それゆえ、〔自己の〕悲惨を知るのは悲惨なことであるが、しかし人間が悲惨であるということを知っているのは、偉大なことである」(397)。
「人は意識しなければ、悲惨ではない。壊れた家屋は悲惨ではない。悲惨なのは、人間だけでしかない。『われは艱難/なやみに遭いたる人なり』(エレミヤ哀歌3:1)」(399)。
「偉大と悲惨。――悲惨は偉大から結論され、偉大は悲惨から結論されるので、或る人々は悲惨の証拠として偉大を用いただけに、それだけ痛切に悲惨を結論し、他の人々は悲惨そのものから偉大を結論しただけに、それだけ強く偉大を結論した。一方が偉大を示すために言いえたすべてのことは、他方にとって、悲惨を結論するための議論にしか役立たなかった。というのも、人は高所から落ちれば落ちただけ、それだけいっそう悲惨であるからである。他方の場合は、その逆である。彼らは果てしない輪を描いてたがいに追いかけあっている。たしかに、人間は光を多くもつにしたがって、人間のうちに偉大と悲惨を見いだす。要するに、人間は自己の悲惨であることを知っている。それゆえ、彼は悲惨である。なぜなら、彼は事実、悲惨だからである。だが、人間はまさに偉大である。なぜなら、彼は自己の悲惨であることを知っているからである」(416)。
「人間のこのような二重性はきわめて明らかなので、われわれには二つの魂があると考えた人たちもあるくらいである。単一の主体が、極度の自負から、たちまちにして恐るべき失意の底へ転落する、などということはありえないことだ、と彼らには思われたからである」(417)。
「彼が自ら誇るならば、私は彼をへりくだらせ、彼がへりくだるならば、私は彼をたたえる。かくして彼が自己を不可解な怪物であると認めるまで、私はいつまでも彼にいいさからう」(420)。
「宗教の認識から私を最も遠ざけるように思われたこれらすべての相反は、真なるものに最もすみやかに私を導いてくれたものである」(424)。
我々の著者はこのあと漸く本題に入って「創造」について論じます。
「創造とは何であるか。此質問の検討に当り、第一に典拠とすべきは言うまでもなく、創世記に於ける叙述である。兎にも角にも、「元始に神天地を創造し給へり」の一句を以てせる聖書劈頭の言こそ、難問打開の鍵でなければならぬ。この神秘にして深遠なる創世の記述をここに一々解釈しようとするものではないが、我々は是非共必要な数個の点を取りあげ多少の考察をめぐらして見たい。」
こうして著者は創世記冒頭の記述(創世記1:1〜2:4a)から七つの特徴を取り上げます。この「創造物語」が今なお「キリスト教世界」の世界観に甚大な影響を与えているのは、聖書が「神の言」すなわち「啓示の書」として信じられてきたということに加えて、そこでは人間と世界の「存在理由」に関わる「古代世界の神話」が究極的に合理化され、普遍化されている(非神話化されている)という側面があることを見落としてはならないでしょう。いわば神(ヤハウェ)への信仰によって古代オリエントの「神々の神話」(このテキストの素材)の非神話化がなされているという側面があります。しかし我々の著者はいきなりこのテキストの「構造分析」に取り掛かります。
「此冒頭の記述に於て著しい諸点は、然らば何であるか。
1.
元始に神が天地を創造せる事
2.
神の言による創造
3.
神は創造の結果を善しと見給う
4.
分離としての創造
5.
展開的完成としての創造
6.
神の像
7.
安息
これらはいづれも最初の僅かな記述から容易に摘採し得る非常に特徴ある表現である。」
これらの七つの点はいずれも「神学的」に重要な要素として古来議論の対象となってきたということができます。著者はこれらに説明を加えます。
「1 元始 これは人間を中心とし首位に据える宇宙にとりての元始である。そして元始ある宇宙は必然終末を持たねばならぬ。一見これは自明の理の如くに思われるが、宇宙と其人間とを全体性に於て把捉する為に大切であり、アナロギアは此規定の上に働くものである。」
物事には始めと終りがある。物事を全体的に捉えるということは、それを始元と終末において把握することであると言われます。そして聖書の創造物語が宇宙の始元に説き及んでいるということは、宇宙とそこに置かれている人間とを全体性に於て把捉するための根本的な規定であるとされます。しかもこの物語は「人間を中心とし首位に据える宇宙にとりての元始」について述べているのだと指摘されます。著者はこのような宇宙観、人間観に対して何の疑問も差し挟んでいないように思われます。
「2 神の言、難解なる表現である。言とは何であるか、又言が如何にして天地創造に於ける主動要素であるか、等の疑問は聖書全体によりて始めて答えられるべき事項である。聖書自体が神の言と称せらる、同時に聖書を解く鍵でもある。それは宣言であり能力であるのみならず、人格的である。それは精緻なるプランを有する。単なる計画ではなく、ネビュラ構造の高度の論理性を具備する。最後に、言の人格性は神が人に呼びかけ、人これに答うる応答性を予想する。哲学的人間はこの言に接して人対人の生活から人対神の生活に入り、絶対的人間たるの途を示される。」
宇宙の根底にロゴスの働きを見るということは、翻って言えば、宇宙は言葉によって分節されているということを意味します。言葉が人間の世界をつくり上げています。混沌とした宇宙は、言葉によって秩序づけられています。「神の言」を実体化して、そこから宇宙が創成されてきたと捉えるのは、神話的、ないしは形而上学的思惟であって、そこからしか「絶対的人間」は生れてきません。「ネビュラ構造の高度の論理性」とは人間の言葉の特性でありえても、「神の言」の特性ではありません。
「3 創造の結果を「神善しと見給う」たということは、これを論理的に看れば、絶対的肯定を意味する。この肯定たるや我々の所謂肯定の如き単なる理性的性質のものではなく、全性格的の満足である。それは絶対に完全な所産に就いてのみ云い得る。その完全は必ずしも究極的完成を指すものではない。完全には段階が存する。究極の成果から見て多くの未完成の階梯があり、而かも未完成なりに完全であり得るのである。これを不都合と思わるる読者もあろうが、其真意は章を重ねるに従って明瞭になることと信ずる。」
この世界を根源的に「よい」と見るか、それとも「わるい」と見るかによって、人のこの世界への対し方が違ってきます。様々な否定的現実があるにも拘らず、世界は根本的にはよいものであると考えることは信念に属しています。存在の原初肯定は信念の問題です。しかし聖書にそう書いてあるから、そこに世界(創造の結果)の「絶対的肯定」があるという言い方は独断的です。聖書をそのように「特権化」する思想は異邦人には無縁です。著者はキリスト教に定位して自らの「論理」を語っているに過ぎません。
「4 創造の一面は実に光と暗とを分ち、天の上の水と下の水とを分ち、地と海とを分つというような分離作用であった。それは顕著なる対立状態に世界を置くことである。我々は此対立に於て、肯定に対する否定の導入を見出すのである。神の聖業は通り一遍の肯定ではない、それは常に否定によりて裏づけられて居る。善しと見給う大肯定の中に斯かる肯否の対立が含まれていることを留意すべきである。但しここに顕われた否定は未だ謂わば胚種に過ぎない。大肯定に対する大否定はやがて来らねばならなかった。」
世界には確かに明暗、昼夜、高低、長短、強弱、深浅、天地、海陸、乾湿、晴雨、美醜、快苦、善悪、聖俗、生死、老若、男女など、対照される二極的な現実があります。世界が混沌から秩序へと転成するのは、人間の言葉=分別がそのような「分離作用」を行うからです。それを「神の聖業(みわざ)」と見るのは古代ヘブライ人の信仰です。しかし現代人がその通りに信じなければならない理由はどこにもありません。
「5 創造は徐々に完成される。漸階的であり、秩序的である。一気呵成でなく、充分の時間的パースペクティヴを要し、歴史をもつ。」
もし「神の創造」ということが言えるとしたら、創造は今もなされつつあると解するほかはないでしょう。ベルクソンの「創造的進化」という思想がそれに当ります。テイヤール・ド・シャルダンは、宇宙はオメガ点(キリスト再臨の時)に向かって進化し続けていると言いました。著者はそのことを言いたいのでしょうか。しかし人間の現実は進化の頂点に立っているにしては、あまりにも悲惨です。その悲惨な現実にも拘らず、人間の存在には意味があるのだと言えるでしょうか。
「6 神の像としての人間の問題が如何に激しい論争を捲き起こしたとしても、我々はその渦中に此処では立入らないのを賢明とするであろう。ただ神の像に模して人間が創造されたという表現が如何に驚くべく優れたる内容と修辞とを含むか、又それが如何ばかり人間の光栄を顕すかを想起すればよいのである。絶対論理学的見方を以てすれば、神を反映することであり、また神に反映することである。」
イマーゴ・デイ、すなわち人間は神のイメージ(似姿)であるという思想が西洋の精神史を根強く支配してきました。いわば神の擬人化を逆向きにさせた思想です。神を人に似せることから、人を神に似せることへの逆転です。著者はそれを「神を反映することであり、また神に反映することである」と言います。鏡像の比喩を用いれば、人が神を映すことであり、また逆に神に人が映されることです。神の像をこのように相互性において捉えるところに著者の創意があると言えるでしょう。
「7 最後に、創造の大業畢りて神安息に入れりと記さる。これ「元始」に対する「段落」を示すものである。これによりて宇宙の完成が宣言された訳である。」
神が「そのすべての作業を終って第七日に休まれた」ということはイスラエルの安息日を基礎づけるものです。その「段落」に神の創造の業の本来の目標を見るということは、人間の側からすれば、神への称賛(神礼拝)が人間の生活の目標であるということを意味しています。この思想がキリスト教を経て世界に甚大な影響力を持ったことは明らかです。七日(1週間)のうち1日は休むということがすっかり定着しています。
ところで、田川建三は、意外にも(!?)、『キリスト教思想への招待』(勁草書房、2004年)という本を書いています。その章立てを見れば、「第一章 人間は被造物」、「第二章 やっぱり隣人愛」、「第三章 彼らは何から救われたのか」、「第四章 終れない終末論」となっています。その第一章の冒頭を引用してみます。
「人間は被造物である。自分で自分を造ったわけではない。造られた存在である。神によって造られた、という。しかし、たとえ神なんぞ存在しないとしても、人間が被造物であるという事実に変りはない。その意味では、人間は自分自身の主人公ではない。自分で自分を好きなように左右できるわけではないからだ。人間は、自分自身にかかわるこの事実に対して、謙虚でないといけない。しかし、我々の時代の人間は、まさに、この事実に対する謙虚さを失っている。いつの間にか、人間のことは人間が好きなように動かしてよいのだ、と思いはじめている。これはひどい思い上りではないのか。
人間だけでなく、この世界、この自然世界の全体は、被造物である。神によって造られた。たとえ、神なんぞ存在しないとしても、この事実に相違はない。被造物は自分の意志で自分をこのように造り上げることができたわけではない。あくまでも、造られた存在である。自然世界が造られた存在だということは、創造主によって造られたのである。たとえ、創造主なる神なんぞ存在しないとしても、人間が神になりかわってこの自然世界の主人公になってよいわけはない。また、なれるわけがない。人間はこの事実に対して謙虚でないといけない。しかし、我々の時代の人間は、まさに、この事実に対する謙虚さを失っている。
被造物である人間は、与えられたこの大自然の中に生きている。生かしめられている。この生も、まわりの環境も、いただきものである。いただきものは、感謝していただかないといけない。しかし我々の時代の人間は、人間が主人公だと思い込むとともに、この感謝を失いつつある。かくして、人類はみずからの責任で、滅亡へと向いはじめている。
我々は今はもう、神様のことなんぞは考えなくていいけれども、古代人の考えた創造信仰をもう一度謙虚に受けとめなおす必要があるのではなかろうか」(p.3-4)。
田川はまたこうも書いています。
「ともかく、神が天地万物を創造した、と信じようと思えば、神がすべての人間を創造したということも信じねばならぬ。とすれば、視野はいやでも広がる。自分の民族のことだけを考えている視野からでは、天地万物全人類の創造の信仰は生れ難い。すべての人間が同様に神によって造られたのであるならば、民族絶対主義なんぞ、けしとんでしまう。神の前ではみんな同じなのだから。旧約聖書の中で、創世記一章以外に創造信仰が目立って出て来るのが第二イザヤである、という事実は、偶然ではない。第二イザヤは、いわゆる捕囚期の時代に、ユダヤ民族以外の多くの人間を直接見て生きていた人である。ユダヤ民族を超える世界を見ていたのだ。もちろん、旧約聖書のすべてが、またこれを正典として信奉していたユダヤ教徒のすべてが、神は創造主だと思っていただろう。しかしそれはいわば頭の中での周辺の位置に置かれていて、常にそこから発して世界を考える、というようなことはしていない。せいぜいのところ、時たま、文字通りほんの一言、神を「天地の主」と呼ぶ程度の言葉遣いが出て来るだけである(創世記14・19、24・3ほか)。世界のすべての人間が同じように創造された、また人間をとりまく大自然のすべてが創造された、という広大な視野の創造信仰は、民族主義にこりかたまった旧約聖書の中では、やはり周辺の位置にしか見出されないのだ。それだけにますます、創世記一章がいかにすぐれているかが見えてくる」(p.7-8)。
ここで我々の著者の論述に戻ります。
「以上はアナロギア論理に導かれて我等が推測する創造である。人は創造の思想に於て始元又は端初ということについて多少識るところ有るべきを期待するであろう。ところが、アナロギアが単独で作用する場合、始元に就いて何等知識を与えるものでないことは既述の通りである。人間の創造は神に於ては深遠無比なる計画の現れとして明かなる事実であろうけれども、被造物たる人間の側からはただアナロギアによりて朧ろげに推測揣摩するのみである。アダムは土から造られたと録されて居る。土は感性と悟性の欠如せる条件を表徴する。エヴァはアダムを眠らしめた上で造られたという。土といい睡眠といい、人間に於ける創造性に対する無知識を示すものにほかならぬ。被造物たる人間には、自己の作られたという事実は解し難い。恰も生れたての赤ん坊が自分の誕生を意識し得ないが如く、造られし者には、創造その事は経験の外にありて、到底これを感ずることも想起することすらも許されない。若し感ぜられる方法がありとすれば、それは何等かの再反省又は再経験によるよりほかはないであろう。さもなくて、ただ神は果して人間を造ったのであるか、然らば何故に我を造ったか、どうして此のように造ったかと疑い或は愚痴をこぼしても、それはパウロが陶工とその作品に譬えたように、結局何等の解決にも導かないし、斯かる質疑を生ずることが既に被造物の自らの分際をわきまえないことの沙汰だとさえ云えるであろう。さもなくば、唯徒に憶測を逞しうする結果になる。そしてこれも宗教哲学の一陥穽に属する。」
今日の科学的知識から見れば「神話的知識」は人間の無知識を示すものです。しかし科学的知識も、「神の創造」ということについては、何の手がかりも与えてくれません。著者はそれをアナロギア論理の限界であるとし、「神の創造」という思想それ自体を斥けようとはしません。しかし聖書の天地創造の思想もアナロギア論理の所産であると見なします。
「尤も彼は人間的立場からのみ観て、自由意志を有するものであり、その意志の展開により低度の創作性を表現し得るであろうが、絶対世界に少しく目覚めたる人にとりては、それは洵にはかない自慰か気休めに過ぎない。また無からの創造という類の思想をいくら試みても、それは頭脳の遊戯以上に出ないことを悟るであろう。元来哲学に於ては、創造ということを無から有が生ずることと解するのが通例であるが、斯く云う場合、有とか無とかいう考え方が既に多くの概念化的抽象又は加工を受けて居るということを充分に注意せねばならぬ。創造という思想は決して単純ではない。否非常に複雑である。それ故、分析によりてこれを把捉し得ると思ったならば、恐るべき間違いの原因となるであろう。無から有が生ずるということだけをいくら考えて見たところで、その考えには内容が与えられまい。それは唯アナロギアの根底を少し許りつついたに止まる。又生物学的に創造を思索して見たとして、生殖とか生長とかいう作用や現象をどれだけ精細に観察したとしても、無から有という結論に達し得ず、唯これを多少共非連続的に見て、嘗て一定の区域内に存せざりしものが新たに生じたという事実をぼんやり認めるに過ぎまい。物質的に見れば、やはり連続的現象以外の何物でもなく、そこに何等の創造性を示唆するものも認め得られないであろう。」
かくて著者はおもむろにアナロギアからパラドクスへの論理的展開をはかります。しかし以後の論述は相当長くなるので、紹介の作業は一旦ここで休止します。
「事情斯くの如きであるならば、人間は金輪際創造に就いてはその模糊たる当て推量だけで満足せねばならぬものであろうか。此疑問に対し聖書のパラドクス論理は解答を与えるであろう。
パラドクスの示唆は既に創造に於ける分割性(4)に於て提供された。即ちアナロギア世界は偉大なる肯定ではあろうけれども、そのうちに否定が謂わば陰性に於て含まれて居る。而してそれは更に時間性の導入(5)によりて準備を進められたとも云えるであろう。而して今や創世記は如何にして絶大なる否定が人間に入り来ったかを悲愴無比の劇詩を以て示さんとして居るのである。
その大否定は二つである。
1 人間は神の意志を否定した。
2 神は人間を否定した。」
著者は創造物語から失楽園(創世記第三章)へと筆を進めます。
「1は叛逆であって、聖書に謂う罪である。2は人間に終末を与える所のもの、即ち死である。
罪と死とは非常な大問題であって、これを神学的に取扱うが如き企図は此処には断念するほかはない。唯此問題に含まれた哲学的意味はあまりにも重大にして、若干これを略描することなくしては此場面を通過することを許されないであろう。何となれば罪と死の境地こそは現在の我々人間の立脚点にして、我々の宗教的スタートは此処から切られるのだからである。スタートに於て間違っていたならば、全コースを棒に振らねばならぬ。基督教信仰の出発点は輝かしき創造に於てではなく、忌わしき罪の諦視と詛わしき死の苦悩の体験からなのである。」
著者は罪と死の現実から出発すると言います。これは救いという神の勝利の「現実」から出発するバルト神学的アプローチとは対照的です。
「第一に罪ということ、これを如何に定義すべきか。その根元は神に背叛せる人間の意志に存するということが出来よう。しかし罪の全貌を窺うことは決して容易な業ではない。その構造は完全にネビュラ的であり、罪人の人格を中核として個々の末梢的行為、口舌の微細な動きにまで現われる。罪自体を客観化し、これを一個の巨大な人格として視ることも可能とせられる。抵抗し難き巧智の誘惑者――蛇――として創世記はこれを戯曲化して登場せしめた。威容厳しき大魔王たり、せんけん(嬋妍)たる天使の姿をもとり、その装う千変万化の姿は全く端倪すべからざるものがある。これを道徳的範疇の中に収めて考えることは最も無難の方法なるが如きも、狭隘な人間的倫理学にこれを閉じ込めることは不可能事である。神対人間の、謂わば絶対倫理学にこそ解せらるべきである。
或人は言うであろう、人間は罪を自覚することにより、これを心裡に把捉することが出来るではないかと。なるほどそれは可能であり、我々は自意識に於て自己の罪を感知することが最も有力な資料となるのではあるが、これとても、罪の甚だ狭い一面に過ぎない。罪は氷山のように、大部分は意識の閾下に潜在する。罪の根は我々の気付かない心の奥底に隠れて居る。その根深さはこれを掘り返そうと志す人を茫然自失せしめるに充分である。此事に留意しないところに所謂心理主義的又は体験主義的基督教の浅薄さがあると云わねばならぬ。
更に重要な注意は罪が個人意志にのみ限定し得ない点に向けられねばならない。人間は単独でのみならず、集団(社会)人として、尚また歴史人として罪を負う者である。ここに至って、我等は罪の何たるやを一括して考えることを全く断念せしめられる。
罪のパースペクティヴの描写はなおも続けられ得よう。それは動機に存し、また結果に認められる。結果は更に新しき罪の原因となる。其意味に於て罪は活きている(ロマ書七章九節*)、が、それは又死の値であるとも録さる(ロマ書六章廿三節*)。人間的には活き、神に対しては人間の死を意味するものと言うべきであろう。」
* 「わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ」(ローマ7:9〜10a)。
* 「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23a)。
人間の現実は総じて罪の支配のもとにあるということは、著者の言う通りであると思います。自分自身のこと、この日本の社会の諸々の現実のこと、今世界で起っていることを考えれば、誰しもそのような結論を下すほかはありません。問題はそこで神を持ち出す著者の「宗教哲学」にあります。目下のところは、それによって著者が何を言おうとしているのか、さらに問い続けていくほかはないでしょう。
「更に、罪は死と結んで、いよいよ深刻な相貌を呈する。神は人間に死を賜うのであるが、それは外部的にばかり考えてはならない。同時に内面的経過をとるものと解すべきである。即ち、死は罰として下さるる行刑なると共に、また罪の必然的成果として自然に罪行為から帰結される過程なのである。
斯くして死は罪に浸潤し、生にまで織込まれて居ることが見出される。死も亦ネビュラ構造を有することが察知せられるであろう。死は同様にネビュラ的な罪と対応関係に在る。両者は形体となり陰影と添うて居る。罪の犯さるる所、死はこれを濃く隈どり、死の存するところ、罪の屍臭が発散されずには済まない。
なおも進んで死の思想の複雑性を考察するならば、各人各様の特殊な銘々の立場にしたがい、其意味のニュアンスはそれぞれ独自な効果を露呈するであろう。或人はこれを肉体的乃至生物学的にのみ解するが、他の人は精神的状態にまでアナロギアを進展せしめて考えるであろう。或人は絶対の静止をこれによりて想像するが、また或人は活劇の頂点に於て死を見出そうとするであろう。一切が無に帰することがそれであると主張する人もあれば、死こそ最も強力なる有であると観ずる人もあろう。」
著者は死の思想の多様性を認めつつ、死と罪についての宗教的な意味の探究に取り掛かります。問題はそこにどこまで普遍的な意義を見出すことができるかにあるでしょう。
「斯様な死の本質は然らば何であるか。それは肉体の死ではあり得ないことは既に述べた。我々は死の思想を、此処では、その絶対性に於て考えつつある。生来の儘なる人は、死の何たるかさえも理解し得ないといわねばならぬ。死はただ生命の終りとして、漫然と念頭に上るに過ぎず、此事実の真意は少しも把握されて居ない。然るに、我々が絶対性に於て考える場合、死とは畢竟神を離れ去った人間の状態そのものを意味するのである。創造主との特殊な関係を絶縁した人間は死に於て在るというべきであろう。而して、我々がその死を経験する、或は味わうとは、神に対する自己の現在の立場の認識にほかならぬ。
その特別な認識を心理的に見て、異常な不安、恐怖、戦慄などの深刻な感情によってこれを彷彿するような危機意識と見るもよい。然しその辺に停止して居ては何にもならぬ。それらは指標ではあっても、未だ立場の認識そのものにまでは立到って居ないからである。のみならず、不安意識はまた屡々利己心に動機する場合があろう。例えば刑罰を恐れる感情の如きものである。斯様な感情はその道徳的レベルが至って低い。
真に死として認識される自我の立場は、神に対しての立場であり、而してそれは神に対抗し、叛逆者の地位に座するという自覚である。それは死自体を表わす状態の味わいであると共に、「罪成りて死を生む*」と記されたような、死に至る過程として、星雲的暈かしに囲繞され、実質と作用との二面性を有する。此ニュアンスが罪と罪の構造という言葉によりて示される。罪は実質であると共に、自我の態度でもあり、意図でもあり、又行為でもある。格段の行為に就いても云い得るが、それは背後に潜む罪の本質を指標するものとして、換言すれば神への叛逆の事実を反映するものとして見たときに、始めて真の意味が窺われるであろう。それは単なる道徳的評価とは根底を異にすることを忘れてはならない。絶対的評価として、此処では「罪の価は死なり」という断定が下される。罪は生きて居るが、神に関連して考えるならば、それは死でなければならぬ。此処にいう死とは論理的意味に於て考えられ、絶対否定を指すのである。」
* 「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」(ヤコブ1:15)。
著者にとってはキリスト教的立場に立つことが「絶対」と言われます。死の現象学は常に絶対者なる神を伴うと言うべきでしょう。それは次の文章によっても示されます。
「仏教で大死一番此否定に達し得るとなして居るが、仏教、殊に禅に於て説かれているところは、寧ろ死への意志的断行を意味するのではあるまいか、己が主になっているように思われる。基督教的死は斯かる自己を殺す意味の死をも含まない訳ではないが、更にまた自己の現在の状態と立場の認識をも含意する。即ち神による自我の状態の発見である。神の光により、神に対立する自己の立脚点の如何なるものなるかを如実に示されることである。人間は唯死を要求せられて居るのではない、死の中に在ることを自ら発見することを要求されて居るというべきであろう。此場合、自力他力の表現法もあながち無意味ではあるまい。死は自力で来らせるという自殺的側面もあるが、その前に、それよりも一層根本的な、絶対性を持つところの、他力でこれを発見する、既に自己が死そのものに一致して居ることを認めるという観照的側面が注意されねばならぬ。此側面を認めること、即ち的確な診断を自己に下すことは極めて重要であって、基督教の理解に対し根本的意味を有つ。それは死は具体的現実性を有するということである。単なる行為ではない。行為であると共に、更に深き意味に於て、それは実質なのである。斯様な、死の二重性を逸しては、問題の把握は到底困難であろう。」
著者の死と罪についての考察はさらに長く続きます。しかしここで「気分転換」をはかる意味で、パウル・L・ランツバーグの『死の経験』(亀井・木下訳、紀伊国屋書店、1977年)の中の「キリスト教の死の経験」の章から、これも相当長くなりますが、引用を行なってみます。ランツバーグは、ユダヤ人としてナチスに捕えられ、収容所で若くして亡くなった悲劇的な現象学的哲学者(マックス・シェーラーの弟子)で、カトリック教徒でした。この引用個所のあと、ランツバーグはカトリックの神秘家の思想を取り上げて論じます。我々の著者には見られないカトリック的な特質です。しかし引用する部分は我々の著者の思想を「側面から」照射する手がかりになるでしょう。
「キリストは、彼を信じる者に、死からのまったく新しい解放をもたらした。キリストは、死の手の及ばず、しかも人間の関与しうるような精神の国を啓示することによって、さまざまの密儀が予感していたものを成就し、プラトン主義が先取りしていたものによりどころを与えた。この新しい宗教に捕えられた人間は、可死的な生を転換しのり越えることができる。なぜなら、いまや死の彼方に、永遠に存立する生の、したがって本来ただひとつその名に値する生の可能性が存在するからだ。こうして、人間の人格が、神の永遠性に関与できるほど緊密に、人格的な神と結びついて生きる可能性が開かれたのである。キリストの出現と彼が示した例によって人間の状況がこのように現実に転換することを思想的に表現した死と生の弁証法は、キリスト教的思想家のすべてにひとしく見出されるものである。
われわれはまず、この考えの筋道を追ってみよう。人間の地上の生というものは、どこまでも可死的なものである(1)。この生がおびている時間性は、本当の現前というものがこの生においては築かれることができないように出来上がっている。瞬間ごとに世界は崩壊する。瞬間が生れては死んでいく。現在の実存が持続し自分を実現しえないうちに、過去が未来を食い尽くしてしまう。この世における「現前」のただひとつの場であり状況である瞬間、したがってまた現実的実存のただひとつの状況でもある瞬間は、時間の中で、時間をつらぬいてすべっていく。「まだないものから、ひろがりをもたないものをとおって、すでにもうないものへ(2)」すべっていく。具体的には、時間は一様なものではなく、そのつど三つの潮の干満において展開される。そして、たがいに分離できないこの三つの時相は「魂の中にある三つのなにか」であり、魂に属している。それは「記憶、直観、予期」という、魂の三つの能力に対応するものだ。聖アウグスティヌスが『告白』の第十一巻で行っている時間の分析は、それがどんなにプロティノスの影響を受けているにしても、ヨーロッパの哲学において独自なものである。それは、その深い意味から言うと、なによりもまず、特別な種類の時間性を特徴とするこの地上の「世界」の存在論的分析であり、そして同時に、その形而上学的構造の分析なのである(3)。
安定することのない人間の魂は、たえまなく未来にむかってゆき、可能的な現在をすぐさま踏み越え、瞬間ごとに過去を背後に残す。この不安定性と無常性は、われわれの時間感覚基礎づけるだけでなく、この世の生というもの(saeculum)が根をおろしている必須の基盤自体を傷つけ、損うものである。われわれの具体的時間が押しとどめられることなく動いていくのは、魂のこの不安定性のためである。われわれが永遠性にまったく関与していない限り、関与していないというそのことによってわれわれ自身がこの時間、過去から非実在的な現在を経て未来へ動いていくこの時間なのだ。他方、永遠性は、その本質において神と同一である。それは恒常性であるとともに純正の現在である。「ディステンチオ」、すなわち記憶・直観・予期への人間精神の分散が、存在を下落させ、持続的で純粋な永遠性の現在からこの世の死すべき時間への移行を示すのに対して、現前する対象への精神の純粋で持続的な集中としての志向/インテンチオンは永遠性を定立する(4)。こうして人間の可死性は、われわれのもっとも内的な固有本質に属し罪の結果およびその報いとしてわれわれにつきまとうことを決してやめないあの不安定性という根底から生じるのだ。われわれの人格はその生のどんな瞬間にも、一方では記憶を、しかもとりわけ悔恨にみちた記憶をもつことなしには、また他方ではくりかえし新しい希望を抱くことなしには、存在することができない。人間は瞬間ごとに世界の中のあるもの、自分自身の中のあるものに別れを告げ、そして瞬間ごとにすでに新しい出会いと転換を迎える。時間的な生を構成している原子とも言うべきものはそれぞれ、死と、死に対する闘いの傾向とを同時に含んでいるのだ。「このようにわれわれは生き、そしてつねに別れを告げる(5)」。キリスト教徒の時間は、聖アウグスティヌスが解釈しているように、神を求めることによって自分の存在を求める魂の時間なのである。「なぜなら、あなたは私たちをあなたにむけてお造りになり、私たちの魂は、あなたのうちで安らうまで、静まることがないからです(6)」。
ヘラクレイトス、プラトン、プラトン主義者たちもすでに、この世界のはかなさについて思索したし、客観的な意味での世界から出発してではあるが聖アウグスティヌスと似た仕方で、それを解釈していた。しかしいまやキリスト教徒にとって、永遠性の側にあるのはもはやたんなるイデアの世界ではない。そこにあるのは一個の人格、すなわち、絶対的な存在であると同時に、恩寵によって人間をみずからの永遠性に関与させ、受肉に示された自由で無限な愛の力で人間を変えてしまうことのできる人格なのである。
人間は、死の彼方で、そして死がむしろ経験的な誕生よりも高次のかつ真正な意味での誕生になるという仕方ではじめて、三位一体的な神の永遠性に完全に関与することができる。この世の生というものが実際には死であるとすれば、これに対して、本当は生であるような死を見出さなければならないのだ(7)。――いまや永劫の罰こそがただひとつ現実の死、ただひとつ無限の死であることになる。なぜならこの罰こそが生の源泉からの取り返しのつかない離反であり、永遠な生に関与する可能性の決定的な喪失だからである。これに対して、地上の死によって至福の観照を享受する生へと生まれ出る聖人は、永遠の生に、ただひとつ完全な現前性である神の現前性に到達する。死者の精神的人格は、決して無と化してしまうわけではない。それは地獄なり天国なりにおいて、本来の死ないしは本来の生という決定的な存在の仕方に到達するのである。正しい者は存在に関与するようになり、罰せられる者は悪魔とともに死をこうむることになる。悪魔自身も、死がその身分なのだから、いつわりの不死性しかもっていないのだ(8)。ルチフェル(*)は、キリストとともに死なないということのために、果てしない死をこうむっている。それは、伝説のあのさまよえるユダヤ人が、十字架にそむいたために、無限にではないが、久しいあいだ死んでいるのと同じである。
* ルシファー。神に反逆する堕落した天使の頭領。サタン、悪魔。
基本的にキリスト教一般に通じるこの弁証法をここでわれわれが素通りできなかったのは、この弁証法が実際にキリスト教の死の経験に対応しており、もともと、この経験に含まれる価値の転換を根本的に明らかにしようとする努力から生み出されたものだからである。この弁証法は、プラトンの弁証法がソクラテスに始まりアカデメイアに受けつがれた現実の哲学的な生き方の延長でありその解明であったように、キリスト教的な生き方の延長でありその解明である。なぜなら、キリスト教の約束がもつ力も生きた経験に結びついているからだ。だから事実、地上の生のただなかにおいても経験的な死の始まりが、苦行などのように、肉体や肉体的な衝動から精神を部分的に解放するさまざまな方法によって、獲得されるのである。しかしそれとともに、真の生、永遠の生も神の恩寵によってすでにこの世で或る程度現前することができる。聖トマス・アクィナスはこれを「永遠の生の始まり」(inchoatio vitae aeternae)と呼んでいる。これは、死に対する人間の態度や感情の転向にむかう傾向をひき起こさずにはいない初期的転換である。死に対する不安は、可死的な生に対する不安や神なき生とその決定的終結の可能性に対する不安に転換しようとし、生への執着は、真の「生」への執着に転換し、さらには経験的な死をのり超えることによってそれを自分の中に含み込む永遠性への愛に転換しようとする。いまや人間は、一方ではある種類の死を避け、他方では別の種類の死の実現を求める。人間にとっていまやもっとも大事なことは、本質的にどのように死ぬかということなのだ。なぜなら死は実際、真の生への、あの「始まり」の完成への入口となりうるし、またなるべきものだからである。このような転向は、本当にキリスト教徒になろうとしている人すべてにおいて、なんらかの程度遂行されるものである。しかし、明らかに、それが完全に成就されることは決してない、あるいはほとんどない。」
注(1)「死せる生と言うべきなのか、それとも生ける死と言うべきなのかわからないあのもの」(アウグスティヌス『告白』第一巻第六章)。
(2)『告白』第十一巻第二十一章。こうした考え方全体の中に、存在を現前性とする古代の、とりわけプラトンの理解が現われている。こうしてアウグスティヌスは、彼がどんなに完全にキリスト教徒であるにしても、やはり――トレルチの確かなテーゼが指摘するように――古代の人間であり思想家なのである。
(3)この点については、W. Verwiebe, [Welt und Zeit bei Augustin], Leipzig 1933と、とりわけ、M. Guiton, [Le temps et l’eternite chez Plotin et St. Augustin], Paris 1933も参照せよ。
(4)「ディステンチオ」という決定的な概念は、例えば「時間は一種のひろがり/ディステンチオネムである」(『告白』第十一巻第二十三章)、「時間はひろがり/ディステンチオネム以外のなにものでもない。しかしなにのひろがりなのか、私は知らない。もしも魂自身のそれでないとしたら不思議です」(同第二十六章)という箇所に現われている。これと対をなす概念は、例えば「現在の志向/インテンチオが未来を過去へ投げわたす」(同第二十七章)という箇所に現われている。しかし決定的なのは、例えば「(神は)分散/ディステントゥスせずに緊張/エクステントゥスして、分散/ディステンチオネムではなく集中/インテンチオネムによって」(同第二十九章)という箇所である。『告白』の三つの部分(第一〜九巻、第十巻、第十一〜十三巻)自身が三方向への「ディステンチオ」に対応している。この三つの部分は、言わば人生の瞬間の総和を、この三方向に目をむけながら表現しているのだ。この点については、[La vie spirituelle] juillet-aout 1936 に載せた私の論文 [La conversion de St. Augustin] を参照せよ。
(5)ライナー・マリア・リルケ『ドゥイノ悲歌』第八歌。
(6)『告白』第一巻第一章。
(7)「お顔を私にお隠しにならないように。お顔を見るために、死なないために、私の死ぬことを」(『告白』第一巻第五章)。――これに対するこだまが、やがてスペインの神秘主義から響いてくる。「私は死んでいないので、死んでいる」。
ランツバーグからの引用はこれで終わります。我々の著者がこのようなキリスト教の死生観に本質的につながる思索を展開していることは明らかであろうと思われます。しかし、極端に引用の少ないその文体は何を意味しているのでしょうか。ここで我々の著者の論述に戻ります。
「死と罪の両思想が交錯して、一種のニュアンスを作って居ることは既に述べた。更に死と罪との二つの思想は相関的に働くことによりて、絶対否定の論理的構造を明かならしめると言うことが出来よう。今試みに、死を空間的に、一個の実質と見るならば、罪は行為に於ける其時間的表現である。つまり、死が生きて働くのが罪にほかならぬ。即ち如何に微細な罪悪行為に於ても、死の実質は如実に表徴されて居る。若しまた、罪を空間的に実質と見るならば、死はこれを傾向づけ、評価し、運命づけると考えられるところに、その時間的見解が存する。これを云い換えて、両者は体験と味解の交錯と考えることも出来よう。即ち罪の体験は死の味解を生じ、死の体験は罪の味解を生ずる。斯様にして、両者は静と動と、空間と時間との両面性を交互に担うことによりて、極度に微妙な陰翳に暈かされた否定の論理構造を明かにする。」
罪と死とは、「静と動と、空間と時間との両面性を交互に担う」と指摘するところに著者の創見、あるいは独自の思考法があります。
「罪を犯す者は死ぬ可き者であると共に、死のわざを為す者として既に死したる者である。死につつある者は死者なのである。死は極限値にまで無限の収斂性を有するといえよう。
罪に於て人は死の体験を得るのである。死は静止であると考えることは聖書的ではない。死は活動して止まざる否定原理である。人間は其活躍を自己の裡――個人的にも社会的にも――に感得し得る筈であって、此感覚こそはつまり罪意識である。此感覚は死の構造と働きとを心に映写して見せてくれる。
この体験の代表的叙述として、ロマ書第七章を挙げることは誰しも異議なき所であろう。そこには「死の体(*)」が投げ出されている。その死はどのような形態で存在するのであろうか。屍のように動きなく横たわって居るのだろうか。否、それは猛烈な心的葛藤の舞台を指すのである。其処に相克する善悪二要素について見るに、その悪要素に対して闘う道徳的人間を認めただけでは、事は一個の凡庸な倫理問題と化してしまうであろう。斯かる平板な説明を超え、内的葛藤そのものに於て死を見出すという解釈がパウロの意図に近いのではあるまいか。」
* 「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7:24)。
「しかし罪と死との関連は、両者が交互に実質であり又作用であるという観察に止まったのでは、未だそこに非常な物足りなさが感じられる。罪と死との二重性的相関を考究することは、自己の立場に就いて具体的な認識を準備せしめるが、ここに謂う認識は、かの平面的相対的な人間性の認識とは質を異にし、絶対的意義を有する筈である。それ故、罪といい、死と云っても、人間的限界内に於ては未だ其真意を汲み得ない。唯人間的アナロギアによりて浅薄化され平板化された概念に止まっている。尤も我々はこれ等の思想を得たことにより、その絶対的意義に到る貴重な手がかりを掴んだのであるから、これを無駄にせぬよう心がけ、徐々にその高次元化を図らねばならぬ。かような高次元化は、それではどんな方法によって行われ得るであろうか。
それは唯神に対する人間を考えることによりて行なわれるであろう。罪は本質的に神に対する罪であり。又死は神の手より賜う所のものと解するのである。然し、ここに思想の混乱を避けねばならない。我々が此処に考えつつある死は決して自然に来るものではない。自然死の思想は世俗的経験性に根ざしたもので、宗教上では無価値である。同様に罪に就いての自然観による見解、即ちこれを過失又は誤謬と見る考え方、乃至は律法的背反となす見方、いづれもこれ等は無力と云わねばならぬ。基督教的立場よりすれば、死は創造者の下す判決であり、その行刑である。又罪意識のうちには創造者が行刑に対し決して冷然たるを得ない心境が反映されて居らねばならぬ。これを聖書は神の「怒り(*)」と呼ぶ。つまり神の怒を感ずるのが真の罪意識であるといえるであろう。人間は不覚にも、人間に対する此の怒を感ずることに於て始めて神の心に触れたのである。
神の怒り、それは神に叛ける人間に対しては審判を意味する。而してそれは時間的図式に於て我々の意識に現われる。即ちこれを現在として見れば、罪に対して審判は下されつつあるを感じ、過去に就いて云えば、既に死を賜わったのであって、我等は死の体を担いつつあるを感ずる。」
* 「モーセはアロンに言った、『……彼らのために罪のあがないをしなさい。主が怒りを発せられ、疫病がすでに始まったからです』(民数記16:46)。
「すなわち彼ら自身の目にその滅びを見させ、全能者の怒りを彼らに飲ませられるように」(ヨブ21:20)。
「心に神を信じない者どもは怒りをたくわえ、神に縛られるときも、助けを呼び求めることをしない」(ヨブ36:13)。
「われらはあなたの怒りによって消えうせ、あなたの憤りによって滅び去るのです」(詩篇90:7)
「それゆえ、わたしの身には主の怒りが満ち、それを忍ぶのに、うみつかれている」(エレミヤ6:11)。
「主はねたみ、かつあだを報いる者、主はあだを報いる者、かつ憤る者、主はおのがあだに報復し、おのが敵に対して憤りをいだく」(ナホム1:2)。
「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:36)。
「あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである」(ローマ2:5)。
「また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった」(エペソ2:3)。
著者は聖書の神に「縛られて」(ヨブ36:13)います。そしてそれを「絶対」と称します。それは著者の信仰の表明であって、既に「論理(言葉の秩序)」を越えた事柄です。あるいはそれは「縛られた者の論理」であると言うべきでしょう。(論理というものは須らく縛りをかけられていると言ってしまえば、それまでです。)そして、ここで漸く「審判」という言葉が出て来ます。
「斯様に、審判の神は冷々淡々としてこれを下すのではなく、憤怒の激情を以てこれを為すのである。怒る神は作用する神であり、作用する神は変化する神である。勿論変化すると云っても人間的意味に於てではなく、人間に対する示顕に於て変化――新しき出来事として――するのである。人間が罪意識によりて悩む如く、神も悩むのである。人間が一種の猛烈な矛盾的抗争を心に経験するように、神も亦極度の矛盾を経験しつつある。而して神の場合に於ては、単に苦痛としてこれを受動的に味わうのではなくして、何等か人間の意想に絶するような積極的な、アクティヴな方途に出づるという別な面の存することを認めねばならぬ。審判ということの意味が、人間にとり根本的に矛盾する――正反対になる――程に思われる他の意味的反面が其処に現われるであろう。これに関しては、後章に論ずるつもりであるが、此処では唯、神の矛盾が人間における如き心的経過たるに止まらず、力強き現実性を帯びて人間に迫り来るという事を記憶したい。即ち神自らにおける「変化」は人間の運命に於ける空前な変転となって現われる。」
神の変化、矛盾を説くところが、著者の凡庸ならざるところです。「神も悩むのである」という「神の痛み」の神学者、北森嘉蔵を思わせるような言葉も出て来ます。
「支那の賢者は「未だ生を知らず、安んぞ死を死らんや」と言った。聖書的見解は此の常識的な考えを逆転する。「未だ死を知らず、安んぞ生を知らんや」でなくてはなるまい。死を味わい終末的審判を受くることによって、始めて始原的創造の意味の理解に進み得るのである。審判に於て、人間は始めて自己が被造物であったという事実に気づき、又それによりて、創造とは何ぞやという問題に目覚めるのである。神を識らずして創造を説くは愚の骨頂である。尤も、人間の文化に於ても、思想や芸術に創作が無いのではない。然しそれを神の創造と比較するならば、月光が太陽の光の反映であるよりも更に更に微弱な光に過ぎない。而して又、多少の創作性を認めるということも、一種の創造神観が背後に存せずしては全く不可能に帰するであろう。」
著者はまるで神を知っているかのような口ぶりです。「神を識らずして創造を説くは愚の骨頂である」と言います。しかしそれは単に著者が聖書に依拠しているという信仰の表白であって、それ以上のものではないでしょう。心理学者ユングのような例外はありますが、「私は神を知っている」という人はめったにいません。「多少の創作性を認めるということも、一種の創造神観が背後に存せずしては全く不可能に帰する」ということも、著者の予断ではないでしょうか。それとも非キリスト教世界には創作ということがないとでも言いたいのでしょうか。もっとも「創作」という言葉は「創造神観」の産物であるかもしれません。なお終末を知って初めて創造が理解される、あるいは、死を知って初めて生が理解されるという考え方は、著者のアナロギアに対するパラドクスの優位という思想につながるものでしょう。今やそれが「審判」という言葉で言い表されます。
「真に創作し得る人とは、多少共自己の被創造性を暁り得た人でなければならぬ。而して、其処に到るまでに、其人は何等かの形で死を経て居らねばならぬ。終末を経験することにより、はじめて端初を掴み得るのである。尤も創作という思想と言葉の濫用甚だしき今日の状態に此事はそのまま当嵌まると言う訳ではない。私は唯純粋な創作性について此言をなすのである。」
西洋文明の偉大さの源はそのキリスト教信仰のうちにあるという認識は内村鑑三などにも見られるものです。「純粋な創作性」ということで著者は何を言いたいのでしょうか。科学や芸術の目覚しい発展がキリスト教文明において可能になったということを言いたいのでしょうか。魯迅は中国には「精神」がないと喝破しました。日本に模造品、まがいものが多いのはキリスト教の「精神」がないためであると、著者もまた言いたいのでしょうか。しかしキリスト教文明の予断的独断的性格に触れた者には、もはや、手放しのキリスト教礼賛、西洋文明礼賛に走ることはできない相談です。
「被創造意識と被審判意識とは殆ど同時に人間に与えられる。いな、同時といっても、直観的には、後者が前者に先だつと云わねばならない。まず力強き審判の衝撃に見舞われることによりて始めて自己が創造せられたる者なることを気づくのである。ところが、此事態を一たび反省する段になると、其順序は逆転し、被創造を先置し、而して後に審判の事実をこれに対して定立し、斯くしてこれをアナロギアの(( ))形式に整理する。此場合創造は未知にして、唯推論の結果たるに過ぎない。随って此配列は純粋に時間的ではなく、準時間的な形の空間性を示すものと云うべきであろう。
この反省に基くアナロギア構造を創世記劈頭のアナロギアと比べるならば、これを以て人間的世界構造又は自然アナロギアと呼ぶことが出来よう。被創造被審判者の側からの再構成である。其処には神の創造に似たる凡てのものが含まれて居るが、それ等は皆否定的性質によりて特徴づけられることになった。完成に対し破滅が、又神の像に対して反逆者の像が更にまた安息日に対し恐怖が、それぞれ対立することになった。それ故、神を知らざる時の自然的人間世界は何等咎められる所なき無垢な存在であるが、審判によりて神を感知した時に、これは罪悪に穢された擬似世界として覚知されるのである。
とはいえ、「怒りの神」に於て、人間が自己の被審判性を覚知し、惹いては被創造性を省察し得るに至ったということは、兎も角もアナロギアの著しい飛躍といわねばならない。神の擬人的理解は、怒という人間的感情よりの連想の媒介によりて発芽したと見るべきであろう。
創造に於ける神は擬人的アナロギアに超越する神である。然るに人間の心情に感響する神はアナロギアの有効範囲にある存在である。前者は天地もただならぬ遠きに在ます神、後者は我等の心にいと近き神である。」
著者は「怒りの神」が擬人的表現であることを認めます。しかしそれによって「人間が自己の被審判性を覚知し、惹いては被創造性を省察し得るに至ったということは、兎も角もアナロギアの著しい飛躍といわねばならない」と言います。「創造に於ける神は擬人的アナロギアに超越する神である」として、表現を超える神に「言及」します。
「斯くして、二つの全く相反する見方が神について可能であり、且つ必要となる。無限に遠き神、我等を思いやることなき神は我等に怒を発する神ではあり得ないし、又我等にとり考えることも出来ず縁もゆかりもなき神である。然し同時にその反対に、ただ人間的でばかりある神は到底創造主審判者としての神ではあり得ない。どうしても二個の正反対な考え方が同時に我等の神について要求される。」
キリスト教では「隠された神(Deus absconditus)」と「顕わされた神(Deus revelatus)」という言い方がなされます。神についての「二個の正反対な考え方」が両立するのは不可避的であって、そこに「被造物」である人間の限界が示されています。
「神は存在するという。然し我等が、石が存在する、或は幾何学的図形が存在するという意味乃至其抽象化に於てこれを思惟しても到底神の存在性に触れることは出来ない。被造物存在から創造者且審判者の存在への飛躍の道がないからである。
そこで、存在性に基く類推は断念を余儀なくされる。従来の宗教哲学はこの道を何とかして進みたいと無理を押して来た。そして得る所は無かった。如何に精妙な論理によりて組立てられたとしても、それは神の形状は三角なりや円形なりやと問うような幼稚な考えと不成功の点に於ては撰ぶところがない。否、議論が精妙なだけそれだけ禍は却って大きい。
それ故、存在性から出発することは思いきらねばならぬ。そして、たとえ漠然として居ても、アナロギアの根底を探る意味を以て、人間に似た神を考える。其相似は外貌や形態に於てこれを求めず、その心の底――即ち存在性を最も遠ざかった点――或いはこれに拘泥しない点――に於て求めるのである。
我等は右よりの帰結として神のペルソナという考えに到達するであろう。それは人間のペルソナからのアナロギアの最高の飛躍と云うべきである。」
ペルソナ(persona)とは、周知のように、もともと演劇で使用される「面(マスク)、仮面」を意味する言葉です。それが「行動の場における社会的役割を指す言葉」に転じ、そこから人(パーソン)、人の性格(パーソナリティ)という意味が生じてきたと思われます。西洋哲学では神の「位格」(ペルソナ)とも訳され、三位一体の個々の位格(父、子、聖霊)を指す言葉としても用いられます。著者はそこに「アナロギアの最高の飛躍」を見ます。ただしこの本にはなぜか「三位一体」、「聖霊」という言葉は出て来ません。
「斯く、ペルソナは存在的形態に於て考えられず、アナロギアの論理形態に於て考えられる。既説の如く、存在的に神と人との関係を考えても不可解である。たとえ神が人間の原因となったというようなことが証明されたとしても、それは神に就いても人間に就いても何等示す所はないであろう。神人関係を明かにするものはペルソナの関係でなければならぬ。此意味に於て神と人とは相似であると云える。神が御像の如く人を創造し給うたとあるのをアナロギアは斯様に解するのである。
「汝自らを知れ」に於けるソクラテス転回は偉業である。しかしその自己は唯自己内省を行うことによりて知り得るものではないという所までアナロギアは迫った。神との対坐によりて始めて被創造被審判の己を知る糸口を掴むのである。
さて、然らば神のペルソナは如何なるものであるか。人間のアナロギアを以て、神は人間の偉大なるもの、無限大なるもの、と考えることによりて神に到達し得るであろうか。否それは出来ない。擬人性は斯様に濫用されてはならぬ。それは低きを以て高きを測ることである。低次元を以て高次元を揣摩憶測してはならぬ。神に似せて人間が創造されたということは、其方向を逆にして、神は人に似たる者なりという考え方を保障するものではない。創造者と被造物、絶対者と有限的存在、宇宙の創造主なる全能者と自己の生命を寸陰も延べ得ない無能者、この対照に於て人間より神へ逆方向をとる方途は見当らないのである。
此事情に気づかない我等は、屡々簡単にアナロギアを以て此逆方向を溯行しようとする。そして、人間のそれを極度に偉大化した能力、知性、徳性等を神に属せしめることによりて神の性質の再組立を行おうと試みる。然しさきにあげた写真の引伸ばしの譬えのように、原画(人間)に無い性質がこれによりて現われることは期待し得ないであろう。
逆方向の不可能性ということは我等に時間性を示唆する。アナロギア的に自己の拡大引伸を試みるのは、謂わば空間的方法である。そこには時間性の考慮が全く欠如して居た。人間は創造されたものとして時間的存在である。神と人間とのアナロギアは空間的であって、この原理だけでは人は神を識ることはできない。其処に時間性を司る新原理が更に導入されねばならぬ。
此原理を用うることなくして、神の超越性と内在性を考えた場合、それは空間的に捉われて到底活きた宗教に触れることが出来ぬ。これは宗教哲学者の陥り易い穽である。
創造と審判とは時間的経過であることは既説の如くである。超越性内在性共に創造審判の面を無視して居たのである。後に述べるように、超越性も内在性も、時間的原理によりて活かされた時に――所謂ヨハネ思想はこれを最もよく伝える――真に福音的となることが出来る。
斯くして、アナロギアの限界が明らかにされる。神は人間に似たるペルソナであることは疑ないけれども、両者の関係を問う時、其処に断絶がある。両者の交渉を考え得る途がない。人間は全く神から捨てられた、呪われた存在である。このことに対しては、若しアナロギアの論理を我々が有たなかったならば、却って冷淡であり得たろう。然るになまじいにこれを知って居るばかりに、それが自己の立場の絶望的状態を照らし出す結果となった。」
著者の思索は難渋を極めています。ペルソナに「アナロギアの最高の飛躍」を認めたそのあとで、空間的に限定されたアナロギアの思想の不備を説きます。しかし「『怒りの神』に於て、人間が自己の被審判性を覚知し、惹いては被創造性を省察し得るに至ったということは、兎も角もアナロギアの著しい飛躍」であったと、著者は創造と審判もアナロギアであることを既に認めていたのではなかったでしょうか。「逆方向の不可能性」ということは、神については一切の人間的思惟は断たれているということではないでしょうか。
「だが我等は最後に、もう一度訊ねることを許されたい。それは絶望状態にちがいない。人間的見地からすれば、全く手の下しようのない処にまで落ち込んで居るが、今若し神が、創造者にして審判者たる神が、再び其創造の御手を揮い給うことがあり得るとしたならば、どうであろうか。人間の絶望に於て、ただそこにのみ一縷の希望がかけられ得るのではあるまいか。アナロギアは自らの無能を感じた時に、此希望を生み出した。」
著者は絶望のうちにあって、なお神による希望を見出そうとします。
「絶望は如何なる時よりも、死に臨んだ時に痛感される。死を単に肉体的生命の終焉と見た時、斯様な絶望感は起らない。若しもここに全然肉体以上の思慮を有せざる野蛮な人間があるならば、その人は死の絶望、恐怖に於て著しく我等と異なり、これに対する微妙にして深刻なる悲劇的感情を殆ど欠如しているであろう。未開人、現に満支の匪賊のうちにさえ、殆ど死の恐怖をもたない人間がいくらも居るというではないか。要するに、高度の自覚を持てばもつほど、死の前に人間は一層怯懦になることは疑いないと思う。」
人間が「文明化」されると、孤絶した「個」の自覚を持つようになるということだけは確かでしょう。「死の絶望」は疎外された個の自覚であって、キリスト教は人間のそのような意識に対応しています。著者の問題意識もその一点に収斂しています。それは「高度の自覚」であり、「未開人、現に満支の匪賊」のうちには見られないとするところに、キリスト教徒たる著者の「立ち位置」が無意識に反映されています。
「死の恐怖、それは強ければ強いほど貴い。深刻なら深刻に徹してほしい。何となれば、そこにこそ人間の立場(神に対する)の正視が存するからである。死に於て人は生の現実に触れる。而して、たとえ未だ創造そのものを解し得ざるまでも、自己の被創造性を暁るに至る。又審判を通じて、神の姿が人間のそれの如きものでなく、其背後にはかり知るべからざる聖慮の潜むものあるを感ぜしめる。
此気持と感情とはアナロギアに対するパラドクス論理に対して我等を準備せしめる。死が万事の終わりならば、死について深く考え悶えることは全く無意味に帰するであろう。然るに基督教は終末に於て始原を見出すものである。死は出発であり、門出である。
尤も此種の言表は暗黒な人生の終末に対する一片の気安め、或いは阿片として受け取られるかも知れない。事実そうなる場合が多いのである。だがそれは、高い真理を極めて低い段階に引降ろして、これに世俗的功利観による実際的解釈を加えたものに過ぎない。尤も御利益観に堕し易いからといって、それに含まれた凡ての意味を無視することも愚かしいことであろう。我々は寧ろ此低階梯に於ても既にパラドクス論理が活きて働くのを充分の関心を以て観察すべきである。」
著者はどこまでも死にこだわります。神と人間との唯一の接点、パラドクス的な結合がそこにあると言いたいのでしょう。
「肉体の死を中心として考えられた死は、死の思想のうち最も素朴な部類に属する。随って、これに付随してのみ考えられた宗観は低調でしかあり得まい。ところが、これに審判の思想が添加された時に、死は深化されることを我々は既に視来った。審判は罪の決算である。勿論罪だけに限らないが、死を以て報いられるのは罪の成果を中心として行われる審判でなければならぬ。また、此審判観は自然的因果並びに社会制裁思想によりても補われることに於て、極めて理解に入り易い、ともいえよう。されば、死は罪に対する刑罰として、当然且つ正当なる帰結と考えられる。
勿論右に関連して、報償観が力強く働くのは事実である。即ち悪に対する刑罰として死が課せられると共に、善業に対する報酬が何等かの形に於て、死を機縁として与えられると考えるのである。此思想は一種の中間的立場を表す。死を乗越えた先に生を認めることに於てパラドクス論理の若干の生長も其処に見られるし、同時に人間中心的且つ功利的正義観道徳観への著しい妥協も見遁し得ない。此融通性は宗教哲学的に見て、貴重な要素を含むが、それだけまた純粋性と徹底性を損う憾みがないでもない。報償思想は鋭い批判を経て、其の御利益思想的残滓を処理し尽くさねばならぬ。しかし、其処に若干パラドクス思想の萌芽が含まれていることは看遁してはならぬ点である。
肉体的死の後に更に一種の霊体的生が予約され、それがヨリ高い存在形態として人間に与えられるという思想はパラドクス論理を満足する上に、兎も角も重要な一歩を踏み込んだ考え方である。然しそれだけを独立の思想として宗教的に見る時、それは未だ充分に深い宗教意識を基礎づけることが出来ないことを見出すであろう。ヨリ高い存在形態と云ったところが、其内容に於て空疎茫漠たるを免れ得ないからである。」
著者は「肉体的死の後に更に一種の霊体的生が予約」されるということに「兎も角も重要な一歩を踏み込んだ考え方」を見ます。死後の生という宗教的思想に一定の価値を見出すということでしょう。しかしそれだけでは「その内容に於て空疎茫漠たるを免れ得ない」とも言います。
「ここに於てか、其内容を整備する上からも、肉体的存在の終焉という以上に死の意義を拡充せねばならぬ。審判――人間は全く無力無能なる者、ただ自己の罪に於ては全責任ある者として神の前に立ち、絶対に正しい判決に服従せしめられる――に於て死は人間に臨むという思想によりてのみ問題の深化は期待されるであろう。而して注意すべき一事は、此場合存在そのものの拒否即ち無に帰するという考えは殆ど消沈し、これに代りて、存在の諸段階が審判の具体的表徴として出現し来ることである。これは審判思想がパラドクス構造を有するが故であることを我等は認め得るであろう。即ち審判は先ず終末を与え、而してこれに直接して端初を与えるものである。」
著者はここで死・復活というキリスト教的な思想を暗示しているように思われます。終末が端初であるという神の行為に、人間の唯一の希望があるということでしょう。裏を返せば、人間には何の希望もないということを意味しています。
「勿論其処には功罪思想の不純な要素を混入し易いことを注意せねばならぬ。功績観が不純なる如く、功徳と対比される罪障も同様に不純である。此罪障思想は消極的又は否定的功績と称すべく、既述の審判に関連せる罪意識とは厳重に区別せねばならぬ。此混淆は宗教思想を汚濁する大なる一原因たることを免れない。
たとえ功罪の段階性が人間的に有意義であるとしても、神の前には全然無意味であるのみならず、却って甚だ厄介な邪魔物である。
要するに、功罪思想は人間の自律性に拠ってこの難関を突破しようとした最後の試みである。それは失敗に帰したけれども、これが失敗では信仰は成立たないと考える人もあり、其心情は無理からぬことと同情される。併し基督教の態度は此場合断乎として審判の遂行に対する妨害物を掃いのける。正義の為には人間は滅亡の運命に陥るともこれに甘んぜねばならぬ。ただ其時始めて、「人よりに非ず、又人に拠らず(*)」即ち啓示的なるものが現われたのである。」
* 「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、……」(ガラテヤ1:1)。
こうして漸く「創造と審判」の章が終わり、次の「宗教的人間」に移ります。
第十章 宗教的人間
「神に於ける創造の仕事の完成は安息であった。人間に於ける生活の仕事の終局は死であった。これは一個の重大な歴史的段階を示す。然しながら、その死は万事の終焉又は一切が空虚となるという意味ではなかった。ここに第二段の人生の幕が開かれたのである。即ち、アダムが子を儲けたことにより、堕罪、而して死を負う人間の生活が始まった。斯かる人間は、これを論理的に看て、どのような存在であろうか。」
著者はどこまでもキリスト教の「文法」に即して人間を把握しようとします。神に創造され、罪に陥った人間を思索の出発点にします。
「我々は、斯の人間が最早さきに延べた哲学的人間でないことを見るであろう。彼は一度び自己の創造者としての神を識ってしまった。たとえ神に背いたとはいえ、最早自らを到底神と無関係に考えることは出来ない人間となったのである。これ即ち宗教的人間である。彼は神に背くことによりて、智慧の実を喰らい、これによりて自己に自由意志の存するを知った。此意志を心ゆくまでに働かせることにより、人間は他の被造物を支配しこれに君臨する資格と能力を有することをも覚知した。とはいえ、同時に、自己が神の前には殆んど無に等しい存在であり、既に死刑の宣告をうけたる最も憐れむべき生物なることをも自認せざるを得なくなった。この偉大にして同時に無力、尊貴にして同時に塵芥の如き自己の認識が、宗教的人間の論理の根底を造るものなのである。
この論理世界は神と人間とを二個の中心として有する楕円に比せられる。その根本原理はアナロギアとパラドクスにほかならない。我々は先ずアナロギアが宗教的人間によりて如何に用いられるかを概観して見よう。」
神を知ってしまったということは「入信してしまった」ということを意味します。それ以上でも以下でもありません。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1:18)と言われている通りです。ただし聖書で使われる「知る」という言葉は、「男が女を知る」というときの「知る」であって、単なる知識ではなく、コミットメントの意義が含まれています。「宗教」にコミットしてしまった(自己投与してしまった)人間に働く論理が、神と人間を二個の中心とするアナロギアとパラドクスであるということが、ここでもう一度確認されます。楕円形の比喩を用いたのはたしか内村鑑三ではなかったかと思います。
「人間を除く他の一切の被造物は神に背くことが出来ない。人間だけが背叛を敢てした。背叛によりて、彼は自己の自由を識ったのである。自由は勿論極めて善きものである。人間の尊貴の究極の保障である。然るに彼はこれを罪の経験に於て始めて覚ったということは惜しんでもあまりあることと云わねばならない。」
神に背叛するということは、アランなどが言う「自分を裏切る」ということとどこが違うのでしょうか。長谷川宏は無神論者サルトルについて次のように書きます(既出『同時代人サルトル』p.136-137)。
「樹木には自由はない。不自由もない。樹木は自由でも不自由でもなく、ただそこにある。そのありかたを、身動きできないと否定的にいうのも、充実しきっていると肯定的にいうのも可能だが、いずれにせよ、それは、あるがままのすがたで、そこにある。
意識存在としての人間はそのようには存在しない。なにかを意識するということが、人間を世界からも自己からも「無」によってへだてるからだ。人間と世界、および、人間と自己とのあいだの、この「無」のすきまが、人間の自由を保証する。意思の自由とか、選択の自由とか、行動の自由とよばれるものは、すべて、人間が「無」の力によって世界および自己から身をひきはなしうるところにはじめてうまれる。すきまのない存在の全体連関から無によって疎外されていることが、意識をたえざる不安や欠如や失敗の可能性にさらしているとすれば、おなじ無による疎外が、自由な選択や行動を可能にするのである。
人間存在が自由であるのは、人間存在が十分に存在していないから、たえず自分自身からひきはなされているから、自分の過去が自分の現在や未来から無によってきりはなされているからである。……人間が自由であるのは、人間が自己ではなく、自己への現前だからである。あるがままにある存在は自由ではありえない。自由とは、まさしく人間の内奥にあらしめられている無である。……かくて、自由はひとつの存在なのではなく、人間の存在、つまり、人間の無なる存在である。
自由がこのように人間の核心に位置づけられるとすれば、つぎのようないいかたにも、なんら奇異なところはない。
人間は、ときに自由で、ときに奴隷的だということはありえない。かれはまるごと自由であり、つねに自由であって、さもなければ存在しない。
自由がゆとりや気楽さやよろこびにつらなるようなものとして提示されるのではなく、自由すら、当の意識にとって重荷になるようにあらわれるのが『存在と無』なのだ。」
我々の著者は自由の他の半面としての責任について論じます。
「とはいえ、此の深刻な経験は、たとえ朧ろげであり稀薄ではあっても、彼に自由の他の半面たる責任観念を植えつけたことは否むことが出来ない。此自由と責任の観念は、彼が「生めよ、殖えよ」の生産原理により、子を産むという第二段の生活に入るに及んで彼に強く作用し始めた。」
しかしサルトルは責任について次のように書きます。
「わたしは世界になげすてられている。が、水にうかぶ木ぎれのように、敵意に満ちた宇宙に受動的になげだされてあるというのではなく、わたしは、自分が全責任を負う世界にいきなり単独で助力なしにまきこまれ、しかも、どうしようと一瞬たりともこの責任をまぬかれないのだ。わたしは、責任をまぬかれようとする欲望そのものに責任があるのだから。世界のなかで受動的にふるまうこと、ものごとや他人にはたらきかけるのを拒否すること、それもまた、自分をえらぶことなのである」(前掲書p.153)。
この引用のあと、長谷川宏はサルトルの無神論について述べています。
「いいわけはゆるされず、外からのたすけもなく、むろん神のすくいやゆるしやなぐさめもなく、みずからの主体性を唯一のたのみとしてこの世界に生きようとすること、それが、サルトルにとって無神論的に生きるということだった。
キリスト教的な超越神の支配を身近に感じないわたしたちから見れば、この意識主体の思いつめかたにはなにか異様なものが感じられるが、そこまで思いつめなければ無神論の確たる拠点をつくりあげることはできない、とサルトルは考えた。意識主体にかかる責任のおもさは、神のいない世界の混沌と無秩序のふかさに見合うもので、ふかい混沌と無秩序のなかに「無」をかかえこむ個としてたちつづけることが、無神論の出発点であった。キリスト教の文化と意識がひろくゆきわたる社会では、自己の主体性へのそのような執着が異端の思想たらざるをえないことを、サルトルは痛感していたにちがいない。……」(前掲書p.154)。
我々の著者は「キリスト者」として更に論じます。
「人間が児を産むということは決して創造ではない、然しそこには相当に自由意志の働きが感ぜられ、殊に育児を中心とする家庭生活、更にその複合なる社会生活に於て、人間は一緒の創作性に似たるものを体験する者である。自己の創意の含まれた生活の営みに於て自己の相似像を持った後継者を育て上げ得るという事態の認識は、彼をして「神の像」に対しアナロギアを作用せしむる根底を供するものと云うべきではあるまいか。
子を持って知る親の恩というが、自己の経験し来った生産現象によって、漠然ではあっても、神は単に無から有を造るに止まらず、人間に対して父の如き関係にあるということを類推するようになるのである。これは唯神学的にのみむずかしく考えるべき問題ではないと思う。何人も宗教人間としてアナロギアを働かせ得る範囲内にある。」
著者には神はなぜ母ではなく父でなければならないのかという疑問があるとは思われません。ここには極めて「素朴な」信仰が表明されているように思われます。
「神は人間の父なりというアナロギアは何人にもまさって、イエスにより最も力強く表現された。それは特殊な教養や経験を予想されない自然人的民衆に対する言として解せられるべきものと思われる。
神は人間の父なり
というテーゼは基督教に於ける最も根本的な原理である。而してそれはアナロギア論理の典型的活用を示す。しかのみならず、其模範はイエスによりて枚挙に暇なき程与えられた。四福音書中イエスの言に含まれた「父」――天の父を意味する――なる語は殆んど二百に近く、ヨハネ伝だけでも百二十回に達する。しかもそれは常に最も重要なる言葉の中心を形造っている。即ち山上の垂訓、代表的な譬喩、受難期等である。その或ものは意味あまりにも深遠にして、愛弟子等にも当時不可解であってろうが、然しそれらの言は多くの場合低き教養の庶民に向って発せられたのである。その理解には学者やパリサイ人の学殖を俟たず、普通人の常識以外には何等準備する所を要せざることを留意して置きたい。但し、これを論理的に看る時、それはアナロギアの働かない人には不可解なるを免れぬ。アナロギアは難しい推理法ではなく、健全なる常識に含まれている所のものである。」
かくて著者は「父」のアナロギアについて筆を進めます。
「イエスの天父に関するアナロギアは、(1)神は万人の父なり、(2)特殊の意味に於て神はイエスの父なり、の二種に大別することができると思う。いづれも独自の説き方であって、証明でなく、説明でなく、聴者の心に端的に迫り飛躍を要求する論法である。(2)の方は此処には触れず、専ら(1)について述べよう。
『汝等のうち、誰がその子パンを求めんに石を与え、魚を求めんに蛇を与えんや。然らば、汝等悪しき者ながら、善き賜物をその子らに与うるを知る。まして天にいます汝等の父は、求むる者に善き物を賜わざらんや』(マタイ伝7章9〜11節)。
親子の情愛よりのアナロギアによりて、神と人との関係が此処に強く示唆されている。而してこの聖書の重心は一見「善き賜物」にあるように感ぜられるが、それは神の父性に対する人間の信仰へ導く媒介として用いられていることも容易に了解し得るであろう。
イエスの右の言意を反映するものにヘブル書の左の文がある。
『神は汝等を子の如く侍らいたまう。誰か父の懲らしめぬ子あらんや。凡ての人の受くる懲戒若し汝等に無くば、それは私生児にして実の子にあらず。また我等の肉体の父は我等を懲らしめし者なるに尚お之を敬えり。況して霊魂の父に服いて生くることをせざらんや』(ヘブル書12章7〜9節)。
『空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず。然るに汝等の天の父はこれを養いたまう。汝等は之よりも遥かに優るる者ならずや……今日ありて明日炉に投げ入れらるる野の草をも神は斯く装い給えば、まして汝等をや、ああ信仰のうすき者よ』(マタイ伝6章26〜30節)。
右の聖言は
創造主たる神は同時に人間の父なり
なるテーゼのアナロギアを示すものである。前のアナロギアは人間生活からの連想によるものであったが、これは更に自然的環境よりの連想が加わって居る。
右の二個のテーゼは神の第一性質を我々に教える。それは宗教哲学的には意外と感ぜられるであろうような、誰にも理解し得る性質、即ち創造性及び父性というものにほかならなかった。ここで難しい概念的属性を期待した人は失望するかも知れない。その人は、第一、父性というような思想が漠然として居るのに抗議するであろう。然し実は其漠然さが重要なのだ、それはアナロギアを特徴づけるからである。
創造という考えは元来漠然として居た。ネビュラ構造を有するアナロギアは漠然たる間に漸次要領を得るところにその貴さがある。創造思想は父性によりて定義に重要な一歩を進めた。そして、科学的定義は抽象化の犠牲を払うことによりて行われるのであるが、此アナロギアに於ては意味は却って具体化し、その内容は一層豊富になりつつある。」
著者はイエスにおいて創造思想に「天父」の思想が加わったことを評価します。ただし「特殊の意味に於て神はイエスの父なり」ということを、なぜここで取り上げないかは不明です。聖書への言語論的ないしはレトリカルなアプローチにおいて、当面はイエスの「心裡面」にわたる議論は避けるということなのかもしれません。
「さて、神が父なりというテーゼは、然らば如何に発展すべきであろうか。私は尚も山上の垂訓から引用しよう。
『汝らの仇を愛し、汝等を責むる者の為めに祈れ、これ天にいます汝等の父の子とならん為めなり。天の父はその日を悪き者の上にも善き者の上にも昇らせ、雨を正しき者の正しからざる者にも降らせ給うなり。汝等己を愛する者を愛すとも何の報を得べき、取税人も然するにあらずや。兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることかある、異邦人も然するに非ずや。然らば、汝等の天の父の全きが如く汝等も全かれ』(マタイ伝5章14節〜48節)。
ここに我々は第三のテーゼに到達する、曰く、神が父ならば、凡ての人間は神の子たらざる可らず、而して人々は互に兄弟たらざる可らず。
右の聖言によりて展開され来ったアナロギアは漸くその論理性の秘密を披露し来った観がある。即ち神の完全性に対応する人間の完全性が呈示されている。人間の完全性といえば、これをあまりに無造作に取扱う傾向に我々は陥って居ると思う。人間が神の前に完全であるということは単に道徳的に品性を練磨するというような、それ程簡略に考えらるべきことではない。絶対的人間学というような考察が其処に要求されるのである。」
キリスト教の「創造論」の根底にあるものは「汝等の天の父の全きが如く汝等も全かれ」という命法であることは著者の言う通りです。私はこれをintegrityという言葉で表わしています。辞書には「完全、無疵」という意味のほかに、「高潔、廉直(honesty)」という意味が記されています。私はこれを誠実と称しています。しかし「全き人間」になるということは、見果てぬ夢であって、著者が次に述べるように破れを伴っています。
「今、右に引用し来った山上垂訓よりの三句に含まれたアナロギアに就いて若干の観察を試みるならば、それらは凡て父なる神とのアナロギアに於て人間の性質と立場とを認識せしめんとする奨励である。前二者に於ては他の被造物との比較に基いて人間の尊貴の省察が要求され、最後の例に於ては、神との比較に準拠して彼の斯かる完全者たる特別な地位の確保が要求されている。前者では既に到達せる状態の受動的反省、後者ではその確保の為の能動的実践が説かれている。
右のテーゼによりて我々の反省し実践した結果は
神は父なりと雖も、人は最早子たらず
という事また
神に背くことにより、人は互に憎み合うものとなれり
ということである。
「父よ、我は汝の前に罪を犯したり、今より汝の子と称えらるるに相応しからず」という蕩児の懺悔(ルカ伝15章21節)はその儘人間各々の懺悔でなければならない。また「悪意と嫉妬とをもて過す者、憎むべき者、また互に憎み合う者」(テトス書3章3節)であるとは我々の偽りなき告白でなければならない。」
ここで著者は再びアナロギア論理の限界を説きます。
「此破綻と絶望は何を意味するか。人間の論理としてアナロギアだけに依頼することの結果を示すものにほかならない。此論理の根本的重要さは勿論それによりて少しも減ずるものではない。しかしアナロギアを単独に用いることは堕罪の人間には最早不可能になったのである。此論理の作用と並行して、パラドクス論理が働かねばならないことが、これによりて明かにされたと云うべきであろう。
アナロギアは人間を基拠として、下から上に向う論推法であると此場合言い得るであろう。現に人間は、自己の自由意志的な制作性――極めて相対的且つ狭義の――から神の創造を推論し、子を持つ親の僅かばかりの心理的経験から神の無限の父性愛を推察しようと試みる。それは言うまでもなく大切な心の働きではあるが、しかし到底擬人的習癖から蝉脱することは出来ない。ここに於て、上より下に降る実質的論理が必要とせられるのである。
此論理はパラドクスに於て見出された。そして此論理は、既に天地創造の時に於てアナロギアと共に行われて居たことも我々は注意し来った。すなわち分離作用がそれである。殊に、始元に於て混沌/カオスが既存するものとして記されて居るのは我々の理解を絶するのではあるが、然し、それが此世界に先だって存した世界の残骸――神の審判の結果――を暗示すると見る解釈もあながち根拠なき想像として一笑に附する訳にはゆかないように思う。何となればパラドクス論拠に立脚するかぎり、審判は創造と背中合せの態勢をとるからである。先ず終末が与えられ、これに対し間髪を容れずして端初が現われるのである。」
創造神話を神の言葉(絶対論理)として受け取ることの限界がここに示されています。誰が言ったのか、「此世界に先だって存した世界」という表現は、「科学的」にも興味深いと思いますが(ビッグバーン以前に存在した宇宙――ホーキング)、それは神話の解釈とは別の問題です。ただし論理には結合(肯定)と分離(否定)の両面があり、それがアナロギアとパラドクスにも反映していると理解することは正当なことでしょう。「先ず終末が与えられ、これに対し間髪を容れずして端初が現われる」というのは、一貫して主張される著者独自の思想です。終わりから始めを見るというこの思想(パラドクス論理)について、著者はさらに論じます。
「斯かる端初と緊密に連繋せる終末こそは、聖書思想の具体的展開に於て次に検討せらるべき課題でなければなるまい。
上より来る論理と言えば少しく奇矯に響くであろうが、要は人間の意想に超越する真理が事実の具体性を以て我等の上に不可抗的に臨み来ることである。我々は既に、「死」が斯くの如き性質を有することを見た。然し死は一面的に過ぎない。突如として不可避的に臨み来ることに於て、よく神の超越的命令の厳粛を想見せしめるが、未だ具体性に於て全く欠けて居る。それはパラドクスの示唆とはなるけれどもパラドクスの完全な作用には至っていない。
それでは何処に斯かる具体的思想――事実――が見出されるであろうか。これを求めて我々はやはり新約聖書にまで進まねばならぬ。さような偉大な思想また事実――即ち天より降る超越的事象――として新約に顕わるる所のものが三つある、神の子の降生と聖霊の降臨と神の国の到来がそれである。
私はここにこれら重要な然し難解な事項に一々立入る意思はない、唯、これら三者は緊密に相関連する事項であって、三者の連繋により一個のネビュラ的全体が構成されることを注意するに止める。随って、神の子の降臨によりて神の国は到来し、神の国の到来はキリスト又は聖霊の降臨という中心事実なくしては考え得られないということは当然想定されねばならぬ。それは思想として見れば極度のニュアンスを伴う。例えば神の国を一義的に定義しようと試みるような神学的無謀は極度に警戒されなければならない。」
先に私はこの本には「三位一体」、「聖霊」という言葉が出て来ないと書きましたが、それは訂正されなくてはならなくなりました。「聖霊」は、主題的には論じられていないと言うべきだったでしょう。なお著者は「神の子の降生と聖霊の降臨と神の国の到来」という三つの思想(事実)を「人間の意想に超越する真理が事実の具体性を以て我等の上に不可抗的に臨み来る」ものと捉えています。そこにキリスト教成立の三つの要素(事実)を見るということでしょう。
「斯く思想而して事実が意味の微妙なヴァリエーションをもつにも拘らず、その来るや、いつも我等の意想に絶する超越的方法と形態を以て人間に臨みまた迫り来るとされているのはどういう訳であろう。或は疾風迅雷的に形容され、或は盗賊の深夜に襲うさまに譬えられる。或は既に来れるに人々これに気付かず、唯少数者のみ特殊な能力を授けられたることによりてこれを感知するように記されている。風の如く、鳩の如く、焔の如く、天を裂き地を揺り動かし、突如として人間に降りかかり、運命のように強く、我等に有無を云わせない。
その表現は勿論比喩であり、アナロギアである。然しアナロギアの本来と反対な性質がそこに示唆されていることを見遁してはならない。即ちいづれの場合でも「人よりに非ず、人に由るにも非ず」という性質が力強く主張されている。啓示性と呼ぶ所のものが即ちそれである。」
キリスト教の成立の当初に「何かがあった」ということは否定できないものがあります。近年私は、啓示は創発(emergence)であると考えてきました。すなわちそれを新しい秩序の立ち現われ(創発)であると見なして来ました。それは人の側(当事者)からすれば、衝迫であり、覚醒であり、気づきであり、召命であり、回心であるような「何か」です。それを上からの出来事と捉えるか、内心の事柄と見るかは、人によって異なるでしょう。啓示は、それを受ける人間の変化を伴いつつ、歴史において生起します。
「啓示はネビュラ的意味構造を有し、或は思想であり、或は事象であり、随ってそれは主観的経験に暗示される場合もあり、又は客観的に歴史化現実化する場合もある。然しここでは其論理性のみを考究するのであるから、これに関する広汎な問題は一切割愛しよう。
啓示を一般と特殊とに分つのは現時一部神学者の行うところであるが、論旨の批判は別問題とし、我々はこれを論理的区別として襲用することが出来る。即ち、啓示はアナロギアに訴えると共に、パラドクス的であり、前者を一般的、後者を特殊的と呼ぶことが出来よう。ここに注意すべきは、自然と恩寵との対立思想から導かれた啓示観が、兎もすれば啓示と理性とを隔離せしめる傾向を生ずることである。若しそこに考えられた理性がアリストテレス的基礎に立脚するものならば此傾向は首肯せらるべきであろう。然し我々は最早絶対論理学的基礎の上に立つ者として、啓示の理性的理解の可能性を信じ、これをパラドクス論理によりて探究しようと志す者なのである。」
啓示もまたネビュラ的意味構造を有すると言われます。著者もまたそれがある種の秩序の立ち現われであると見なしていることになります。フッサール的に言えば、啓示は地平を有するということになるでしょう。著者はさらに一般啓示はアナロギア的であり、特殊啓示はパラドクス的であると言います。ここで啓示、一般啓示、特殊啓示について、「神学」的にはどのように考えられているかの一例として、『キリスト教神学辞典』(M・ハルバーソン編、野呂芳男訳、日本基督教教団出版部、1960年)の「啓示」の項目を引用して見たいと思います。
「啓示 Revelation
“啓示”(ラテン語 revelatus ギリシャ語 apokalypsis)は、文字どおりには隠された神秘の“覆いをとること”を意味する。カトリックにしろプロテスタントにしろ、スコラ主義的思想においては、“啓示神学”は、“自然神学”といつもきまって対照され、理性にとっては近づきがたく、自然の表面のどこにもはっきりとは書かれていないような、神についての真理の覆いを権威的に取り去ることを意味している。トマス・アクィナスは啓示を、“人間の知性をこえているが、目に見えるような仕方で現わされたものでなく、我々の信仰を対象として伝えられた神の真理”と定義した(Summa Contra Gentiles, TX, chap@)。カルヴァンは、聖書において確かに神が“その聖なる口”を開きたもうていると語るが、しかし、このようにしてあらわにされたことが、すべての秘密をなくしはしないことをも確かに承認する。啓示は、主がそこで語られる時に、シナイには雲も雷もないことを意味しないが、しかしただある程度の明確な意味が、神から人間にまで達することを意味する。
最近のプロテスタント神学においては、自然神学と啓示神学との間にたてられた古いスコラ主義的差異が一般に疑問視されている。そして啓示についての新しい考えが、宗教的知識のもっと合理主義的でない理論に根拠をおいて現われてきた。この見解に従えば、宗教的啓示は信じられるべきものとしての、神についての命題を伝達することにおいて成立しているのではない。それは、出エジプトやバビロニア捕囚やキリストの生のような、具体的な歴史的出来事を通しての、神と人との対決から成り立っている。そのような出来事に現わされていることは、“神についての真理ではなく、生ける神ご自身”である(Temple, Nature, Men and God, p.322)。神は出来事を摂理に従って導く。神は預言者的な解釈者たちに霊感を与えて、その出来事の意味を正しく評価させ、他の人々にはこの意味を明らかに示すような仕方でそれらを記録するようにと霊感を与える。そして最後に神は、これらの出来事の中に神ご自身の現在があったことを、聞き手や読み手の目を開くことにより、また、彼らに対する神のことばに対して彼らの内側の耳を開くことによって知らせる。すべての世界的推移の中のあらゆる出来事が、神的意味を潜在的に含んでいる(“一般啓示”)のであるが、人間歴史、なかんずくイスラエルの歴史におけるある解決の鍵を与えるような出来事(“特殊啓示”)は、あらゆる出来事の意味をあらわし、神の主な計画に我々の目を集中させるので、これらの出来事に直面することが、その神の計画への奉仕に呼び出されることであるという性質をもっている。このことは、キリストの生という出来事において、著しくまた独自的に真実である。キリストにおいては、神の行為と、その行為についての意味の預言者的な解釈とが、全く一致するのである。それゆえに、ここで我々は“肉体となったことば”に出会うのである。
すべての啓示概念は、霊感についての概念を含む。啓示についてのスコラ主義的概念は、一般に聖書についての絶対的逐語霊感説を伴った。神は聖書において命題的に語り、そして神は全知であるがゆえに、聖書のあらゆることばが誤りなく真実であるにちがいない。(このようなスコラ主義的な考え方に対して)神が事件の中において行為したもうという説は、他の意味合いを持っている。神が、出来事の意味を通して我々に対決するゆえに、その意味を力強く伝える記録や説明はどれでも、それが実際に無謬のものであろうとなかろうと、神の霊感をうけていると言いうる。聖書はこのようにして神の真実の啓示を伝えることができ、そしてその著者たちは神の霊感をうけた解釈者たちでありうるのである。もちろん、同時に彼らは全く人間的であり、誤りやすいのであるが。
この見解に従えば、神についてのキリスト教以外の啓示といえども、必ずしも除外されはしない。たいていの宗教は、ユダヤ教やキリスト教の信仰のようには、歴史における神の現存というような意識を持っていない。しかしもし神が真実に歴史の中に現存しているならば、神は全歴史の中に現存し、その意味がかすかにしか認められないような出来事の中にも行為しているに違いないのである。キリストにおける決定的啓示にまで導くものとしての準備的啓示として、あるいは、キリストにおける主要啓示を、異なった文化環境の中で異なった仕方で適用し解釈しうることを可能にさせるものとしての第二次的啓示として、これらのかすかな啓示を理解することができるのは、上に記述された見解の一つの可能な結果なのである。
Walter M. Horton
参考文献
J. Baillie and
H. Martin (editors), Revelation.
J. Baillie, The Idea of Revelation in Recent Thought.
H. R. Niebuhr, The Meaning of Revelation. 」
我々の著者も上に引用したような「キリスト教中心史観」に立っていると思われます。しかし自己のアナロギア/パラドクス論理をどこまでも貫こうとする点にその独自性があります。その「有効範囲」を見きわめることが我々の課題です。
「因みに、自然と恩寵の問題に対し、卑見を挟むことが許されるならば、私はこれは理解の問題であるよりも、人間の神に対する態度の問題として重要な意義を有すると思う。ただ理解のみを固執するならば問題は紛糾して止まる所を知らないであろう。自然神学的立場の危険は人間の能動性――自由意志――の働きを無条件に許すことに存する。今、例えば「神の国」に就いていうならば、人間の努力によりて神の国が地上に徐々に建設されると信ずるのは自然神学的であり、これに反して、衷心から「御国を来たらせ給え」と祈る者は恩寵の神学の側に立つ者である。自然神学的立場の非聖書的なるはいう迄もない。尤も、神の国は地上に於て徐々に展開するという側面も存し、聖書的に支持せられるので、其処に思想的混乱が生じ易いことも認めねばならぬ。但し此発展観は人間主義的神国建設思想とは厳重に区別せらるべきである。
神の国は天より降り来るのである。而してその国に王たる神の御子は勿論天より降生せねばならぬ。天開けてこそ聖霊は来るのである。而して此事がパラドクス論理の特質を最も力強く又美しく表現する。」
著者は恩寵と自然という二分法を受け入れて、その上で自然神学的立場を斥けているように思われます。啓示される恩寵(恩恵)はパラドクス的にのみ人間の世界に到来するのであって、そこには人間の努力は一切関わらないと言いたいのでしょう。著者はそのような「プロテスタント正統主義」の立場から一歩も踏み出してはいません。
「これを要するに、父なる神の思想はアナロギア論理の基礎となり、子なる神の思想はパラドクス論理の基礎となるのである。天の父は人間の父性からのアナロギアによりて朧ろげにこれを暁るに止まる。下より上に向う論理としてそれ以上に出ることが出来ない。これに対し、神の子の信仰及び彼を中心とする思想は白日の光の如く煌煌たるものがある。「未だ神を見し者なし、唯だ父の懐裡にいます独子の神のみ之を顕し給えり」(ヨハネ伝1章18節)の語はこれを示す。
斯くして聖書はパラドクス論理に具体性を供することとなった。我々が死の理解に於て此論理の消極面を察知し得たが、それだけでは未だ単なる否定に過ぎなかったものが、ここにはその具体性を以て更に積極面を顕わし来ったのである。」
再三言うようにこれは著者の信仰の表明であって、それをパラドクス論理の具体化として理解するということにほかなりません。「神の子」という表現自体が、たとえその方向が上から下への運動(啓示の運動)として思念されているとしても、アナロギアの所産です。パラドクス論理に「具体性」を供した途端に、それはアナロギアになると言うべきではないでしょうか。しかし啓示はパラドクシカルであるという捉え方に著者の創意があります。問題はそれが何を意味しうるかにかかっています。この先著者は、宗教的人間を社会的存在として見たときに現われる特性について論じます。しかし「紹介」の仕事はここで一旦休止します。
「以上我等は神に対する人間を主として個人的に観察し来った。今若し此宗教的人間を社会的存在として看たらば、どのような特性を彼は顕わすであろうか、これ次の課題である。
個人的立場から見る時、人は被審判、次いで被創造のパラドクス意識に目覚めることにより、兎に角神を認め、また自己の神に対する地位を認め得たということが出来よう。然し、それだけで正しい信仰がかち得たといい得るか。否、それは未だ主観的信仰の域を出て居ない。それは実体的信仰の個人に於ける反省であり、映照であるに過ぎぬ。写真によって実物を或程度迄想像出来るけれども、写真は写真に止まり、実物の用はなさぬ。或人が瞑想によりて神を知り又自己を知ったとてしても、それは斯様な写真の程度を出ないであろう。
神の人間に対する正しき関係は誰れ彼れの個人が悟に入るということではない、現実に救われることである。そして此現実性は個々の誰れ彼れの神との交渉だけで満足することは出来ぬ。人類全体、即ち人間というものの救を問題とすべきである。されば、個人として我々銘々が神に対する関係を考える場合、その個人は共同体としての人間の一員としての交渉でなければならぬ。所謂独善は許されない。」
フッサールにおいて見たように、著者もまた神と「人類全体」との関係を問います。その拠り所はあくまでも「聖書」です。著者はなお「実体的信仰」に人間の救いがあるという想念(想定)のもとに「論理展開」を試みます。
「とはいえ、漠然と全体的人間を問題にするの不可能なることは既に述べた通りである。神に対する人間は絶対的人間でなければならず、絶対的人間とは個人によりて代表せらるる全人類なることを要する。聖書はアダムなる一人物を挙ぐることによりて、彼が人類の父祖であることと共に、人間を代表する者と做して居る。その他の主要なる人物に対しても此代表性は皆該当するのであって、差違は程度又は範囲の問題に過ぎない。
ところで、代表性を云々するからには、代表せらるる共同体がその背後に控えて居る筈である。創世記の記者は「エホバ神言い給いけるは、人独りなるは善からず、我れ彼に適う助手を彼の為めに造らん」と録した。斯くて神は野の獣と空の鳥を造り、而して後に女を造れりと述べて居る。夫婦は二人格であるけれども、一体であるとも記した。アダムとエヴァは全人類の父母となるべきものとして、ここに全人類共同体の型が示されたと看るべきであろう。二人は各自独立の意志見解を有したであろうが、然し神への叛逆という最大事に於て合意し一致的行動をとった。聖書の絶対論理に従えば、斯かる場合に於て、人間の神に対する関係は又人類全体として並びに各個人に於て同様に成立し、その個人は各々全体を代表するものなのである。」
ここで初めて「代表性」という言葉が出て来ます。聖書の神話的表現の「事実性」ということは、もちろん問題にはなりえません。しかしひとりの人間が全体を代表しているという思想それ自体は、それが「絶対論理」であるかどうかは別として、熟考に値します。私も「ひとりが全体を代表し、ひとりひとりが自立し、互いに他を仲介し、絶えず刷新されていく」関係に、人間の理想と現実を見ようとしてきました。
「此代表性の論理を究極まで導いたのは使徒パウロであって、ロマ書第五章の偉大な論述はこれを基礎とした。
『夫れ一人の人によりて罪は世に入り、また罪によりて死は世に入り、凡ての人罪を犯しし故に、死は凡ての人に及べり。……アダムは来らんとする者の型なり。然れど恩恵の賜物は、かの咎の如きに非ず。一人の咎によりて多くの人の死にたらんには、況て神の恩恵と一人の人イエス・キリストによる恩恵の賜物とは、多くの人に溢れざらんや(*)』云々。
右のうち、恩恵の半面は後章に残された問題であるが、しかし罪も救も共に代表性の論理を無視しては理解し得ないものであることをここに留意せねばならぬ。」
* ローマ5:12〜15
この代表性ということは、単に宗教的にのみ考察されるべきではないでしょう。それは、人間に言語が与えられているということと無関係ではないでしょうし、生命現象としても考えられるべきことでしょうし、なかんずく今日の社会では商品・貨幣・集団の力学のうちにこの代表性の「論理」を見出していくべきであろうと思われます。
「この代表性なるものは、神に対しての人間関係に於て生ずるものである。此性質を人間対人間の相互関係に映照した時に、これを連帯性と呼ぶことが出来よう。それは勿論神に対する責任に於ける連帯なのであるが、代表性と連帯性とは同一事の二重性を異なる面に於て示すものということが出来ると思う。
二者の特性は次の如くに区別することが出来よう。代表制は時間的にして実行的である。これに対し、連帯性は空間的而して反省的と見るべきだ。代表性は能動的であり、連帯性は受身になってその事実を認めることに存する。
即ち、罪に関していう時、アダムは我等の代表者であり、我等は彼に連帯するのである。同時に、我等はアダムの位置に立ち、パウロのように、「罪人の中にて我は首/かしらなり」と告白することも出来る。」
代表性と不可分の関係にあるものとして「連帯性」という言葉が登場します。両者は人間の罪の現実を映し出します。アダムに仮託された人間全体の罪性を認識する限りで、著者の言い分は正しいと言うべきでしょう。しかしここにも代表性は時間的で、連帯性は空間的であるという、著者の「思弁」が入り込んでいます。
「右の論旨から、我等は次のテーゼに導かれる。
人は各自神の前に他の凡ての人を代表す。」
人は他のすべての人を代表するということは、言葉を換えれば、人間が行ないかつ考えることで、この私と無関係なものはひとつもないということを意味しています。それが神の前に立言されるテーゼであるのか、それともマルクスやサルトルのように神なしに立言されるテーゼであるのかが、まさに問題にされるべき事柄です。しかし有神論であろうと、無神論であろうと、この「洞察」を事実として充足しようとしていくところに「哲学」という学問が生まれて来ると言えるでしょう。そこからエンサイクロペディスト(百科全書派)も生まれてきますし、西田幾多郎のように万有在神論(panentheism)を唱える人も出て来ます。だから代表(representation, representative)の意義が問われます。
「代表の思想は人間相互に於て既に存し、権利と義務の具体化として、社会生活上最も重要な機能を有する。我々はそのアナロギアに翼を与えんとするものである。
人間社会に於ける代表性は如何なる場合でも多くの制約により拘束せられ、為に一面的又は部分的であることを免れ得ない。そして、それはまた集団の総意乃至は多数の意志によりて左右せらるることに於て複雑な量的条件化を受けて居る。デモクラシーはそれにほかならない。而して此場合最も危険なることは此量的条件化が自らの横暴によって代表性の本質的意義を奪い去る虞の存することである。即ち衆にして愚なる意志が寡にして賢なる意志を蹂躙することが極めて可能なることである。尤も、衆愚は衆愚なりにその代表性を充分表示しそうなものと一応は考えられるが、衆愚には代表性の根底をなすところの選択に対する明察と自由意志が働かない。その為、自然的代表性はあっても、目的的代表性は欠けている。
我々は質的代表性のみを重んずる。そしてそれは自由意志の存在を先決問題とする。完全な自由が社会に存した時に始めてそこに真の代表性が発揮される。ところが人間社会では、この自由が低度にしか存しない。随って代表性も不完全である。
然るに、右のテーゼは此質的代表性をその最も純粋な形に於て示さんとする。各人が凡ての他の人間を代表する、しかも其人が唯人間であるという以外に何等の資格や特殊条件を要せずして此性質を有する、ということがここに要求せられる。然しこの要求は人間社会だけを考えたのでは無力であろう。たとえ、万民は平等なりというような稀薄な理想主義的観念によりてこれを支持しようとしても、現実がこれに伴わないから、意味は洵に浅い。これに反して、「神の前に」人間を考えた時、彼は完全なるべき性質を有する、換言すれば即ち自由意志を付与せられて居る人間、しかし同時にまた完全に神の自由意志の儘に動かされる被造物として、二重性的に把持せられて居るのである。一例を挙げて此立場を説明するならば、人は人なるが故に尊貴であると云っても、これを閉鎖せる人間の領域だけで考えた場合、ついに何等積極的内容を得ることが出来ない。ところが、神の被造物として人間が解放された時に、事態は異なって来る。神の創造なるが故に人間の尊貴が強く主張されることが出来る。その主張は倫理的「ゾルレン」よりも更に高位にあらねばならぬ。此処ではゾルレンの根拠が徹底的に追求される。そこに把捉されんとするは一種の超越的存在でなければならぬ。ゾルレンはその中から随時射出する性質と見られる。若しゾルレンに止まるならば、そこに考えられた人間は有徳有識の存在であって、更にこれを実践し得る自由意志を具備するであろう、然るに超存在に於て人間は唯の人間に還元される。彼のまとうあらゆる衣冠、装飾、才能、地位はもとより、其徳性や品位までも剥ぎ去って赤裸な姿にかえし、そして其処に人間の尊厳を認めよ、と要求する。此要求は聖書――特にイエスの言行――が我等に迫る所のものである。ここに到りては最早ソクラテスも追従し得ない境地である。ギリシャ的人間は真善美を纏うた時に始めて其尊厳が認められた。福音では然らず、その価高き衣装をぬぎ捨て、赤裸々な人間として神の前に立たねばならぬ。アダムとエヴァは始めはそうであった。その時始めて人間の尊貴が顕われる。試みに聖書、殊に四福音書をひもとくなら、その中には随処に斯様な赤裸々の人間が見出されるであろう。福音記者等が裸像を描くことの巧みさはミケランジェロも三舎を避ける(*)。といっても、それは肉体像ではなく、魂の裸形を指すのである。学者、パリサイ人、祭司、富める者等々は皆厚い衣服を纏う者である。これに対し、みつぎとり、娼婦、貧しき寡婦、罪人等々は皆裸の人間である。十字架上のイエスに至っては言う迄もない。」
* 三舎を避く 〔左伝〕(九〇里の外に退く意)相手をおそれはばかって避ける(広辞苑)。
福音書のイエスに照準を合わせて論じる限り、著者の言うことは極めて「まっとう」です。しかし「裸の人間」が我々の視野に入ってくるのはどうしてでしょうか。イエスの場合には確かに「人の子」という超越的存在が人間を見る視座を「射出」していたということができるでしょう。「超存在に於て人間は唯の人間に還元される」ということの「ことわり」、あるいは意味がここで問われるでしょう。
「斯様に、人間は世の財宝の何物にも頼む所を失った時に、彼が唯人間たるの故に、他の凡ての人間の代表者たり得る。而して此種の有資格者のうち最も典型的なのは幼児である、「いと小さき者」である。彼等が人間の代表者であり、天国に居る者に最も似て居り、これを躓かす者は禍なのである。
それでは何故にイエスによりて「子供を我に来らせよ、彼等を止むる勿れ」という言葉が発せられたか。それは子供が純粋性を多分に蔵する人間である、自ら頼む所を知らざる――即ち「謙る/へりくだる」と訳されて居る――人間であるという点に其理由が存するのであると思う。即ちイエスによりて、小児は人間の代表者として撰ばれ、又小児に於て人間は神の被造物としての尊貴を賦与せられた次第なのである。私がイエスは最大のヒューマニストであると言ったのは此理由に基くのである。
斯くして、幼き者に純粋な人間の代表を認めるということは、ここに我々の論ぜんとする代表性の一面が示されて居ることを意味する。それは即ち典型性である。小児に於て、何をも纏わない赤裸々の人間を認める。その小さき一人を躓かす事は人間全体に対する罪であり、そしてそれは畢竟人間を造りし神の業を破壊するものとして、神に対する罪である。神の前にありては、人間の前に於てとは異なり、全民族全人類を代表する者は大英雄でなく、大政治家でなく、大思想家大芸術家でもなく、実に無心無垢の嬰児なのである。」
イエスには「女・子ども」に対する差別意識がかけらもなかったらしいということは、福音書によって確認されることです。なぜイエスが「いと小さき者」に限りない尊厳を認めたかということは、多々解釈がありうるところです。私見では、イエスは子どものうちに純粋ないのちの発露を見出していたためではないかと思われます。人間の社会の実相が、ゆがんでいる、あるいはひずんでしまっているとすれば、子どもはまだ社会悪に完全には染まっていない存在として、大きな可能性を秘めています。子どもの潜在的能力、可能性を抑圧することは、社会のあるべき未来を否定することです。
「尤も元来は有心無垢の完全なる人間アダムに於て此の典型性は存したと云うことが出来よう。然るにアダムの堕落は此特権を彼より剥奪する運命に立到らしめた。彼は最早赤裸の人ではなく、衣服を纏うて神の聖顔を避ける身となったからである。
然らばアダムの代表性は悉くさっぱりと除き去られたかというに、決してそうではない。彼の神に背いた罪は深い禍根を残さないでは置かないのである。即ちアダム的代表性はネガティヴの性質を帯びるに至った。人間の代表性は明朗な典型性だけではなく、即ちここに罪の責任を担う連帯性が人間的代表制の暗黒面を占めることになった。勿論我々は今直ちに神学的問題たる「原罪」を取扱う意図はもたない。然し、代表性のテーゼを満足せしめる意味に於て、各人は神の前に人間の罪を代表して立つ、即ち神に於て、人間は連帯責任の運命的覊絆の下に置かれたということを承認しなければならない。但し此承認は若干の重要なる制約の下に於てのみ行なわるべきものである。此連帯としての代表性は後に詳述する機会があるであろう。」
アダムの堕罪という神話的な表現がなぜ普遍的な「代表性」を持ちうるのでしょうか。人間には善悪を知る知恵が与えられていると共に、その反面として禁忌を犯す自由も与えられています。しかし禁忌を犯す、悪を行なうということは、そこにコミュニケーションの障害が生じて来る(神の前に顔を隠す)ということでもあります。カインとアベルの物語が示すように、人間の「遺伝子」は殺人を抑制するようには働きません。人間は禁じられている筈の殺人も犯します。堕罪は人間の普遍的な条件であって、そこに人間の「栄光と悲惨」があります。人間は実際には「天知る、地知る、我知る、君知る」という境涯に生きていません。人間の社会には多くの秘め事(スキャンダル)があり、またそれを暴き出すことに多くの人は喜びを感じます。足の引っ張り合いが生じます。アダムが人間の代表であるということは、その神話に人間の現実が反映されていることを意味しています。
「更に代表性の第三の特質として、其贖罪的側面が、連帯的側面に対比すべく指摘されるであろう。然し此場合に到りては、最早各人が無条件に他人を代表するとは云い難い程問題は重大且つ微妙であって、これまた後述を期せねばならぬ。要するに、我等はここに人間が各自神の前に個人を代表することと、それが典型性、連帯性、贖罪性の三要素に分析せらるることを留意して置きたいと思うのである。」
かくて著者は、幼児の典型性、罪の連帯性、そして贖罪性という代表性の三つの要素を摘出します。しかし「ここに人間が各自神の前に個人を代表する」と言われるとき、著者の念頭にある「神」とは何であるかがなおも問われるべきでしょう。
「右のうち、典型性は創造主たる神に対応し、連帯性は審判者たる神に対応すると云うことも出来よう。更にまた此二重性に於て人間の権利と義務が基礎づけられるとも頷かれ得るであろう。」
無垢なる幼児の「典型性」に対応するのが創造主たる神であり、罪の「連帯性」に対応するのが審判者たる神であると言われます。しかも著者は典型性に人間の権利を、連帯性に義務を基礎づけるものがあると見なしているように思われます。
「さきに、人間は先ず審判の神として神を識ったことを述べた。代表性の場合に於ても、それは先ず責任として感ぜられる。これは人間の行動一切に関するものであるが、特に罪意識と緊密に結合している。自己の犯した罪に対する自覚は無論自己の責任として感ぜられるのであるが、その内容と構造とは決して簡単ではない。罪の責任は第一に神に対するものではあるが、第二には他人(隣人)に対するものである。そして隣人に対する罪は再び神に対する罪に融合してしまう。殆んど両者の区別はつけられなくなる。これによりて次の附帯テーゼが成立する。
神を離れて隣人なく、隣人を離れて神は解らない。
隣人という極めて含蓄に富んだ表現は、宗教的人間を微妙なパースペクティヴに於て示唆する。道はこれを遠く求むる要はない。隣人、いと小さき者に対する態度と行為は其儘神に対する態度と行為にほかならないのである(マタイ伝25章40節*)。」
* 「すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』」。
ここで「神を離れて隣人なく、隣人を離れて神は解らない」と言われています。神とは、すなわち対隣人関係の相関者として、関係として常在しつつ不可解であり、不可解でありつつ関係において常在するものであるということでしょう。逆に言うならば、「神が解る」ということは、隣人に対する自己の関係を常に規定するものとして「解る」ということでしょう。そのとき隣人が具体的であるように、神もまた具体的関係において「現前」しています。それではそのとき思念される神とは一体何なのでしょうか。
「以上宗教的人間の略描は、此章を終るに当り、最後に「隣人」性の組成するその不思議なる世界に就いて些少の叙述をここに試みることを無意味ならしめないであろう。それは聖書の語る「神の国」である。然るに、これを思想的に把握しようと試みるとき、我々はその事態の錯綜が到底簡単な処理を許すものでないことを暁って茫然自失せんことを惧れる。その構造がパラドクスに準拠するとはいえ、そのうちにアナロギアを包蔵し、アナロギアのうちに更にパラドクスを認めるであろう。この複雑性を把握し得るか否かが真の歴史解釈の成敗の決するところである。而してそれは取りも直さず、救拯の神慮――これを啓示と名づける――の理解の鍵にほかならぬ。」
著者は隣人性から一転して「神の国」の考察に筆を進めます。「隣人」性の組成するその不思議なる世界、すなわち「神の国」と言われているように、両者を不可分の使信であると見なしているからでしょう。
「この錯綜状態も唯の混沌と思ってはならない。混沌たるが如くに見えて、その実整然たる論理的秩序を有するのである。これ即ちネビュラ構造と名づけ来ったところのものであって、それは神的人格を中心とし、その時空的展開は無限のニュアンスに暈かされたる体系を形造る。而してそれは絶対他者より人間の世界に対して発せらるる使信であり、啓示である。しかもそれは単なる教訓や思想ではなく、実在的世界なのである。ここに二個の世界の接触浸潤が行われる。その関係は決して単純には考えられ得ない。啓示世界は此の世に入り来るや極微の芥子種や酵母の如く小なると共に、それはまた此世を蓋う無限大の実存性とも考えられる。パラドクスは更に新たなるパラドクスを生んで、窮るところを知らない。啓示自体がパラドクスであるように、その作用するところ、随処にパラドクスを生ずるのである。
我等はネビュラ構造の実例に就いて遠くこれを求めるまでもない。手にある聖書こそその典型的存在である。福音が旧約という大なる背景また母胎をもって生れた新約であるという事実が何にもまさってこれを説明するであろう。既述の如く、旧約即ち律法と預言者は福音の縁暈である。律法は来たらんとする善き事の影と言われている。また預言者はバプテスマのヨハネの偉大を以てしても、野に叫ぶ「声」に過ぎない。
とはいえ、その縁暈は永いイスラエルの歴史に於て徐々に中核的存在たる来るべきメシヤに向って求心化の過程を履みつつあった。而してメシヤたるイエスの出現に到ったのであるが、然しイエスに於てさえ、彼の教説に於て多くの縁暈的方向が説かれ、ついに十字架と復活の究極的事実に至るに及んで真に中核化が成就されたと見ることができると思う。ところが、そのネビュラの一見模糊として捉え難き観ある部分と雖も、これを信仰の立場に於て諦観するときは、そこにおのづからそれぞれ中核的実存在が認められ、而してそれらは根本的中心真理を映現して已まざるを知るであろう。」
ここにウィリアム・ジェイムズの『根本的経験論』で見た「中核(kernel)―縁暈(fringe)」という図式が「啓示」に適用されていることは明らかです。ただし著者がジェイムズの所説を知って、この説を展開しているのかどうかは不明です。
「イエス教説のネビュラ的機構は「神の国」思想に於て遺憾なく現われて居る。彼に於ける神の国即ち天国はアナロギアとパラドクスの凝集せるものにして、言辞の平明なるに拘らず、其真義は世俗には全く隠されているというべきである。これを正解する者に於てすら、時と場合により、同一の真理が多義的面貌の異なれる様相に接するのである。とはいえ、それは空漠にして風を捉うるが如き取りとめなき言葉ではない。否却って、その切実さ、真剣味は聴者の胸を貫く利刃である。然し、斯かる鋭き挑戦にもかかわらず、其処に何ものか焦点のぴったり合わない観がないではない。それはイエスに於てさえ、啓示は当時未完成であったからである。啓示が十字架と復活に於て完了せられんが為には、福音書に於けるイエスの言は多くの場合準備的であり、旧約的でさえもあるといえよう。というのは、彼は屡々旧約的表現を以て新約を釈義せる如き場合があったからである。「われ律法また預言者を毀つために来れりと思うな、毀たんとてに非ず、反って充実せん為めなり」(*)。それは「プレローサイ」である、満たさんことである。充満には時を要し、準備を要し中途の段階的過程を要する。此場合、「彼未だ栄をうけざる」時を考慮の外に置いてはならない。」
* マタイ5:17
著者は、「啓示が十字架と復活に於て完了」されるという正統的キリスト教信仰の立場に立ちながら、なお生前のイエスに「未完成」の側面があったと指摘します。この視点は微妙であると言うべきでしょう。なぜなら正統的な信仰は十字架と復活の啓示を生前のイエスにまで溯らせて捉えてきたからです。すなわち福音書を額面通り受肉した神の言動の記述と見てきたからです。ここから、福音書に垣間見られる生前のイエスの言動と、十字架と復活の「啓示」との連続と不連続の問題が問われてきます。いわゆるイエスかパウロかという問題もそこから生じてきます。しかし著者には両者の間に亀裂や裂け目を見る意識は存在しないと言うべきでしょう。
「福音書は神の国即ち天国に就いて多数の譬喩を伝えて居る。イエスは譬喩に非ざれば此問題を語り給わなかった。科学的記述は勿論、平面的な哲学的説明も此事に対しては全然不可能であって、それは只アナロギアに於てのみ語られる。然しそのアナロギアは人間的にのみ考えて理解し得られるかといえば、決してそうではない、一種謎のような不可解さが其根底に存する。何故であるかといえば、それは神の国が絶対他者から来臨するものであって、人間の所産ではない、随って、それはパラドクスの性質をもつからである。とはいえ人間はそれに対し無関係没交渉であるかといえばそうではない。それどころか心の奥底でこれを渇求し熱望して居るのである。彼は自ら神の国に入るか入らざるか、究極の運命に面して居る。これに入る準備が渾身の努力を以てなさるべきである。ここにアナロギアは大なる役割をもつと云えるであろう。
然しながら、アナロギア能力の過信は許されない。神の国がパラドクス構造であることをこれによりて蔽うてはならぬ。否、むしろ、アナロギア、パラドクス両者の相関作用に於てのみ神の国と其義とは闡明せらるるものなのである、換言すれば、これら二個の論理作用の会合点が神の国であると云うことを深く留意せねばならぬ。
アナロギアの特質はその展開性にあるといえよう。それは連想の翼にのり、どこまでも飛翔し進展して止まるところを知らない。これに対し、パラドクスはその停止を意味する。かような両作用の行わるる神の国は、内から外へと拡散し展開すると共に、外から内へと収斂し中核化するものである。」
アナロギアとパラドクスの両作用が「内から外へと拡散し展開すると共に、外から内へと収斂し中核化する」啓示のネビュラ構造を形作っていると著者は言います。すなわちそれは単に人間の言語の働き(論理作用)なのではなく、「絶対他者からの来臨」に呼応する、人間の側のいわば歴史的受容器(受け皿)として捉えられています。
「神の国が人間の歴史に於て展開し来ったといえば、或人々は直ちに自然神学と関連づけてこれを考えるであろう。然しそれは非である。歴史の裡に神の啓示が徐々に実現されるということは、これを自然の進化と同一視すべき何等の根拠をも供するものではない。自然は人間を囲繞して其環境を造り、神の国は絶対他者より降り来るのである。突如にしてしかも徐々たる来臨である。
歴史的に見た時、神の国は低度の解釈、即ち地上の政治的組織体とのアナロギアに於て専ら考えられる所から始まるのである。そしてそれは展開する。ヘブル民族の場合に於ては、民族的桎梏を遂に打破する迄に至った。然しその場合単なる万有神教的な思想に到達したかと云えば、決してそうではない。展開が或る段階に達した時はこれと共に働いていてしかも隠れていた収斂の作用が既に顕われつつあった。即ち神の国ネビュラの中核をなすべき神人格が徐々に具体化されつつあったのである。
斯様にメシヤ王国とメシヤ人格とは両々相俟って歴史的に展開し又収斂するのである。」
イスラエルの歴史に神の啓示を見るという点では、著者の思想はあくまでも正統的な信仰の域を出ません。しかしそこに「神の国ネビュラ」の展開と収斂を見るというところが独創的です。そしてその展開と収斂の大元(中核)に、「メシヤ王国とメシヤ人格」があるとされます。キリスト・イエスの出現に啓示の究極的実現を見るということでしょう。
「歴史の性格は連続的にして、漸階的に発展するものと考えられている。然しそれは一側面たるに過ぎない。他の側面は断絶的、又突発的である。即ち前者はアナロギア、後者はパラドクスの版図に属する。但し両者の働きは人間史上では明瞭でない。神人史に於て始めてこれを窺うことが出来るというべきであろう。
既述の如く中心化過程は預言者性格に於てその準備と影像とを見た。然し歴史の突然性に於てそれは真の中核的メシヤ人格に頂高する。即ち「時満ちて」なのである。
時満つるということは「月満ちて」嬰児が生れることとアナロギアが通じない訳ではない。母胎中に徐進的生長の経過を辿って居た小生体が突如母胎をはなれ、従来とは著しく異なる環境中に産れ来る如く、歴史の母胎中から神人格も生れ出るのである。此の際そこには断絶がなければならぬ。連続性が歴史の固有な又不可欠な特質であると信ずる人には、斯かる断絶は難解であろう。然し真の歴史は此断絶性をもやはり重要な特質として含まねばならぬ。」
「神人史」という歴史観に立つとき、初めて歴史における「断絶性」が理解されると著者は言います。「時満つるに及んで」、歴史上に新しい秩序(構造)が、突如として生まれて来るという著者の歴史観が披瀝されています。しかしそれは自然史的過程と全く断絶した事態なのでしょうか。まさにそこに根本的な問題が横たわっています。仮に神人史という歴史的過程が考えられるとしても、人間という自然史的過程の一所産でもある存在から、その自然的側面を捨象してしまうことは、やはり偏った見方であるというべきではないでしょうか。問題は宗教史上の出来事を神の啓示と見なす著者の「予断」のうちにあります。その断定がなければ「絶対論理学」が生まれて来る余地もないでしょう。「宗教的人間」についての著者の論述はここで終わり、次の「律法と預言者」に移ります。
第十一章 律法と預言者
「旧約即ち「律法と預言者」は新約への道を備えるものであることは縷説を要しまい。而してこの事は基督教哲学の考察に当って重要な意義を有する。何となれば、哲学こそは此の「道程」に就いて最大の関心を抱くものであるから。道程は即ち絶対論理と其展開を指すのである。それは生ける歴史の流れである。一方に於て論理を踏み固め、他方、歴史の脈拍に触れることなくしては、決して神人関係を具体性と生の躍動に於て掴むことは出来ないであろう。」
著者が「縷説を要しまい」という、その「道程」こそが、今日、キリスト教の存立に関わる重大な問題になっています。しかし著者は、旧約と新約に関する、キリスト教の「固定観念」に縛られていて、そこから自己の論理展開を試みます。
「先ず律法を考えてみる。律法は勿論旧約の根幹をなすものであるが、その論理的性質を知る為には、これに対する新約の態度を見るに如くはない。然るに、其の態度はというと、新約は律法に対し、肯定と否定両様の論断を下している。これは著しい現象といわねばならぬ。パウロの行った否定は爆撃痛烈を極め、為に我々はややもすれば全面的に旧約律法を糾弾する態度に導かれる虞れもないではない。但しそれは絶対論理的否定の精神に立脚するパウロの意図を充分に汲み得ない所から起った過誤であると思う。
これに反し、律法に対する肯定はイエスの言に於て最も鮮明である。この一事からイエスとパウロは対蹠的ではないまでも両立を困難とする立場を占めると速断する人も無いとは限るまい。然しこれも亦肯定の真義を弁えない人の軽挙であると云わねばならぬ。視点を更えて観るならば、却って右とは反対に、イエス程の律法破壊者はなく、またパウロに於てこそ比類なき律法精神の遵奉者を発見するであろう。」
イエスとパウロは、それぞれがそれぞれの仕方で、律法に対峙しているということは、著者の言う通りでしょう。しかし律法との対決の仕方については、イエスが具体的実践的に道を開き、パウロは「死・復活」の使信によって、その対決の場面を抽象的に観念化したという違いがあるのではないでしょうか。その抽象化・観念化の極みが著者の言う「絶対論理学」であると言うべきでしょう。
「ここに於て、我等の問題は、律法が如何なる意味に於て肯定されるべきであり、または否定されるべきであるかに存する。而してその為には、先ず一応律法の論理的構造を吟味せねばならぬ。
律法は神の意を伝うるものであることを第一に記憶して置きたい。而して神の意は二重に解せられるものである。一は愛として端的にこれを示し、一はその愛が人間の叛逆に対し如何なる形態を以て顕われるかを示す。前者は創造の動機をなせる神意であり、後者は審判に於けるその特殊な表現である。人間としては、前者はアナロギアに於てのみ覚知し得る所であり、後者はパラドクスとしてのみ享け納れられるべきものである。即ち神の創造的愛は天父の慈愛として、人間が自己の父性愛から連想し帰納し得る所なるも、その認識は下より上へ、極めて狭くして低き経験を以てするが故に、到底甚しき不完全不明瞭を免れることが出来ない。これに対し、「怒」に於て顕われた神慮は上より下へ来るものであって、その顕現は突発的であり、人間の自然的理解に絶する啓示的性質のものである。神より事実として示されて始めて感知し得るのである。然し、その時まで人間は安閑として待つよりほかはないかというに、決してそうではない。人間の側にもやはり準備がなければならない。
旧約律法は斯様な準備として人間に与えられた。これその半面である。律法の師伝的資格(ガラテヤ書3章24節*)はそこに見出されよう。それは我等を訓練して呉れるけれども啓発する能力はもたない。上よりの事事が顕われるまで人間に其本質的意味はわからない。ヘブル書には「律法は来らんとする善き事の影にして真の形に非ざれば云々」(10章1節)と記されている。ここに「来らん」は未来への待望と共に、上より下へ、即ち「人よりに非ず神より来る」の意がそこに読み取らるべきだと思う。」
* 「このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである」。
審判、あるいは神の怒りこそは「上より下へ来るもの」であり、パラドクスとしてのみ受け入れられる啓示的性質のものであるとするところに、著者独自の思想があります。なお「師伝」は仏教の言葉ですが、ユダヤ教の教師が弟子にタルムード(モーセ五書に含まれない律法の集成)を伝授するのは師伝的であると言えます。律法は何の啓発的能力も持たないとするのは、キリスト者である著者の予断(偏見)です。ただしここで言われていることは、律法(神によって選民イスラエルに与えられた法的規範)そのものをどう捉えるかという問題であって、もちろんタルムードの話ではありません。
「斯くの如く、律法は複合的存在である。一は人間の準拠すべき行為の軌範であり、一は神の行わんとする行為の影像である。軌範はアナロギアとして、被造物たる人間の行うべき道を示し、影像はパラドクスとして、罪を犯した人間の善処すべき道を示している。」
軌範はアナロギアであり、影像はパラドクスであるという、著者特有の「思弁」がここに加わります。人間が「そのもとで」、それに従って生きるべき規範として、そこには下から上へのアナロギアがあり、それに従い得ない人間に「下される」罰、あるいは償いの規定としては、上から下へのパラドクスがある、すなわちそこに神の行おうとする行為の影像を見るという、双方向的な律法観が示されていると言えます。神人関係の、下から上へ、また上から下へという方向の二重性と、相互の往還のうちに、律法が位置づけられていると言うべきでしょう。それが律法は複合的存在であるということの意味でしょう。
「「われ憐憫を好みて、犠牲を好まず」(ホセア書6章6節)、これイエスによりても屡々援用された言であって、旧約批判の最も力強い表現の一つである。神は愛の模倣を奨励し給う。それは人間が自ら親としてその児孫によりて経験せる所よりしても、アナロギアによりてこれを覚知し、これを行い得る筈である。自己の努力により、「心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思を尽す」(ルカ伝10章27節)ことによりて人間的可能性の範囲に於て、律法を遂行し得る筈である。神が親しく創造せる人間を愛する如く、人も神を愛し又人々互に相愛すべきである。律法精神はこの「如く」にある。即ちアナロギアである。
憐憫が右のようであるに対し、犠牲は上より来るものとして、パラドクス構造を有し、堕罪の人間の行為範囲以外に属する。然らば何故にモーセ律法は犠牲の問題即ち祭祀に就いての事項をあれ程までに重要視したのであるか。それは「来たらんとする善き事」に対し人間をして準備せしめる為にほかならぬ。準備、そして訓練は具体的真理を受入れる場合特に必要である。そして、それはアナロギアに於て行わるるのである。犠牲は神の行うところ、これに対し、人間はその模倣によりて此訓練を学ぶのである。即ち神のパラドクスを人間のアナロギアに於て受入れ、これに修練するという制約のもとに此事は意味を有する。若しこれを逆用し、犠牲によりて人間が神の前に自己の功績を数え立てることになれば、律法は百害あって一利なく、人間は救拯の希望なきものとなるであろう。」
ここでのっけから「犠牲は神の行うところ」であるという、極めてキリスト教的な犠牲観(逆転された犠牲観)、あるいはパラドクシカルな犠牲観が示されます。
「だが律法は人間が犠牲を献ぐることにより神に嘉納せらるることを教えるではないか。然り、そうである、そしてそれは正しい。但しそれは神への模倣として正しいのである。これに先行するものとして神の犠牲が存せねばならぬ。その影像としての犠牲の祭が人間によりて施行せられるのである。その祭自体には何の功力をも伴うものではない(ヘブル書10章参照*)。犠牲は常に上から下への方向性を失ってはならぬ。これが逆行した場合、行為による義と聖書は呼ぶのである。パウロの爆撃せるは此の忌むべき詛わるべき謬想であった。行為による義なる思想そのものは洵に結構である、但しそれは創造された儘の人間、叛逆を知らざりし以前の人間にのみ通用さるべき原理であって、堕落以後の人間には最早効力を喪って居る。彼に対しては先ず此のアナロギア原理に代うるにパラドクス原理を以てせねばならぬ。然る後にアナロギアは其効力を回復することは期待し得るが、これに先だっては無駄である。」
旧約のうちに新約の影像(予型)を見るというキリスト教的に逆転した発想が著者の立脚点であって、それは「神の犠牲」が真実である場合にのみ意味をなします。
「旧約の犠牲奉献を中核とする祭祀はついに新約に於ける聖晩餐に到って其究極に達した。それは極めて重要な意義を有するけれども、これを以て義とせられんための行為と見做してはならぬ。前者に於て古ユダヤ人は躓き、後者に於て一部の基督者は躓いた。聖餐式は如何に森厳であっても、人間の執り行う行為以上のものではない。陪餐の功徳によりて救われることは出来ない。これは神に属するパラドクス原理を人間の手中に奪わんとするものである。それは「我が記念として之を行え」というイエスの命に従って行わるべきもの(コリント前書11章25節)、即ちアナロギア原理によるべきものである。聖き犠牲は神にのみ属し、神のみこれを行い給う。人間は此パラドクスを模倣し、記念し、感恩し、また其恩寵に対する感銘を広く他人へ頒つ為にこれを行うべきであるが、そのアナロギアより一歩を踏み出す者は「宜しきに適わず」、「主の体と血とを犯す」ことになるのである。ここに律法の限界が示されていると私は思う。」
パラドクス原理は「神に属する」と言い切るところに、どうやら著者のキリスト教哲学の核心があるようです。しかし人間のロゴスの一部である「対義結合」を神のロゴスとして捉え返させるものは、人間の側の飛躍であり、信仰にほかなりません。
「律法と預言とは対蹠的存在として考えられることは稀ではない。また預言者は律法の職業的奉仕者たる祭司と屡々反立的関係にさえ置かれる。斯様な視方は真理がない訳ではない。唯然し、同時に両者の連関をよく考慮せねばならぬ。律法を与えたモーセは同時に偉大なる預言者であった。律法の一面は隠されたる預言である。語られざる言葉である。堕罪の人間にはパラドクスたる啓示は無条件には解らない。これが理解の為アナロギアに於て人間が隠微のうちにこれを悟り得る心の準備を行うよう、律法の一部として、日常生活、民族生活に精妙に織り込まれたのが即ち祭祀である。祭祀は犠牲を中心とするものであるが、これを行うことによりて、個人的には、自己に予備知識が体得されると共に、社会的には、やがて啓示が与えられた場合、これを他人に伝達する修練を積むことが出来る。」
犠牲という言葉に続いて、ここで預言および預言者という言葉が登場します。また著者はあくまでもキリスト教中心的に、心の準備あるいは予備知識としての祭祀と犠牲について語ります。その意味で、旧約は新約によって完成されるというキリスト教、あるいは正統的プロテスタンティズムの基本線を忠実に辿っています。
「然しながら、人間は祭祀の意義を逆用したがる傾向をもって居る。犠牲が何か人間に功徳を帰するものであるかのように解釈しようと試みる。これは恐るべき誘惑であり、そして、此謬見に破邪の痛棒を加えるのが預言者の第一の任務である。それは律法の形骸に対しての激烈な排撃に相違ない。
然らば預言者とは専ら現状打破を任務とする爆弾的革命児の謂いであるか。いな、問題はそれ程簡単ではない。預言者を規格づけること、また預言者自体が何であるかを定義することは決して容易な業ではない。我々は例により、先ず此課題の論理的構造に関する数個の要点を観察して見たい。」
一般的に言って、祭司的人間(仲保者、司式者)には、しばしば預言者的人間(単独者、批判者)が対比されます。これに王的人間(代表者、権力者)を加えれば、旧約聖書における指導的人間像の三類型が成立します。それは単に古代イスラエルにのみ成立した人間類型であるというよりは、共同体におけるリーダーシップのあり方を示唆するものであると言うべきでしょう。これを私は、代表し、自立し、仲介し、刷新する、〔すべての〕人があるべきあり方として捉え直してきました。著者はここで独自のやり方で預言者性についての考察を試みます。
「第一に、人間は個人であると共に集団であるという定則にまで振返って見よう。ところで、アナロギアは集団に関するものであることは、それが模倣性に根ざす事実により、既に読者の認められた所であろうと思う。然るにパラドクスなる啓示は主として集団的ならずして個人的であるという特質を有する。これは聖書の示す顕著なる原則の一である。必ずしも一個人とは限らないが、たとえ集団の場合でも、他集団から区別されて、一個人視される。ユダヤ民族がイスラエルなる個人名によりて呼ばるるが如きそれである。普遍的でなく個別的、瀰漫的でなく集中的、ということが啓示の与えられる表徴として必ず指摘される聖書的現象である。これは啓示が常に神の意志に基く選抜性と関連すること、人よりに非ず、人に由らずの原則に拠ることを示すものである。
然し、啓示は個人を対象とはしても、個人を究極の目的とするとは限らない。否、却って「民一般に及ぶべき」性質のものと見るべきである。或る個人が啓示に接した場合、其人は自己だけの関心事としてこれを享けてはならない。彼は集団をその背後に持つ代表者として始めて此光栄(而して苦痛)に接するのである。預言者は斯様な代表性を一身に担う典型的人格なのである。
人間は凡て此代表性を有し、殊に基督者たる者は、個人として神に対する関係に入るのではあるが、しかし彼が人類全体の代表者であることを免れ得ない。この意味に於て、普遍的預言者性ということも、所謂普遍的祭司性(*)と同様充分云い得ると思う。各信者は個人として自己のみならず、他人の為に「負債を担う」心がけを要求されるのである。」
* いわゆる「万人祭司性」、priesthood of all believersのことと思われます。
「とはいえ、神の選抜には、やはり段階がある。特に重要なる啓示に対しては重要なる中核的人物を撰び、これを担わしめる。凡ての基督者は皆小預言者であり、而して、特別なる召命に聖別された人々の間にありても、大小の階梯が存することは否み難い。」
神の選抜にも階梯があるというのは面白い言い方です。これを人間の側から言い直せば、信仰にも階梯(段階)があるということになるでしょう。
「預言者に於て認められる著しい特徴の一つは、その時間性である。預言者は時間的存在である、即ち歴史を有する、という点に於て律法と鮮やかな対立を形造る。律法に於ては時間は無視された。それには動きなき伝統はあるが、活きた歴史はない。それは普遍的なるも、無制約的である。これに反して、預言者的存在は無数の条件によりて其意義を制約される。預言者は格段の人間集団又はその責任者に対し其格段な情勢に於て立たしめられる。恐らく世に個性的存在として、預言者人格に比すべきものはあるまい。何々に対して「遣わされる」の語が旧約では屡々用いられた。其場合、時と処とが明確に規定されて居なければならぬ。普遍性に立脚する律法に於ては斯かる明確性は見出し得ないで、唯漫然なる反覆があり、祭司等は同じ献物を毎年繰返した(ヘブル書第10章11節*)。然るに、預言者に対する啓示は「何々の時、何誰に臨めるエホバの言」である。それはミスティクな神人交会では説明出来ないような、はっきりした目的と意味内容とを有した。この事はネビュラ構造から見れば、その中核的組織に観察を進めたものと云えるであろう。」
* 「こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない」。
たしかに預言者的人格は「時務」(三木清)に呼応するものであると言うことができます。預言者は歴史における中核(kernel)的存在として、歴史的諸事件を意味づけるべき意味の焦点を形成します。その言葉は具体的であり、かつ危機的(批判的)です。預言者は特定の使命(遣わされること)を帯びています。イスラエルにそのような人間類型が存在したということは、やはり特筆されるべきでしょう。預言者はいわば歴史の「キー・パーソン」(市井三郎)です。その存在によって歴史の意味が「開明」されます。
「律法は人間の自然性に基く創意から出発したアナロギア論理によりて実践されるものであった。これに対し、預言は天より来るものであって、神的要素が圧倒的地位を占め、神の意志を伝うるもの、啓示を担うものである。随って、自づから普通の言葉とは区別されるべき内容をもたねばならぬ。此内容は或いは歴史批判であり、或いは倫理的教訓であり、其他様々の形をとり得るであろう。しかしそれらは貴重ではあるが、未だ啓示の衣装に過ぎない。言葉の裏に隠されて居るもの。語られたる所の背後に黙々として潜むものこそ啓示の本質である。否両々相俟って啓示を形造るというのが一層正しいであろう。
言葉としての預言は先ず其アナロギア構造が顕著な特徴を形造っている。神の意志を伝えるにアナロギアは唯一の方法と思われる。我等は此事に関して無数の例を聖書から引照することが出来る。
然しアナロギアだけに止まるならば、それは教訓であり、警告ではあり得ても、啓示としては未だ不充分であろう。これと反対な働きをなすパラドクス構造が現われ、両者が交錯して限りなきニュアンスを作り出すときに、始めて我等は其処に潜むものが容易ならざる存在であることを暁るのである。
所で、それだけでよいか、と云えば、未だ充分でない。否、画龍に点睛を欠く憾みがある。預言はそれを語る人物、預言者ありて始めて意味を生じる。言葉は彼の人格から自然に流露し湧出するのでなくては死物である。セリフの暗誦では俳優になってしまう。ここに於て、啓示の種子は先ず預言者的性格又は人格のうちに植付けられた、と云わんよりは寧ろ啓示は彼の人格に宿ることによりて、これを不思議な不可解な構造に変化したと云う方がもっとよく妥当するであろう。啓示の研究は預言者のペルソナの研究から始めなければならない。」
著者は預言者を衝き動かすものを「啓示」として捉えています。「神を知る者の心は何ほどか物狂おしい」と言ったのは、たしかトゥルナイゼンだったかと思いますが、啓示を「内在的なものとしても」捉える著者の思想には面白いものがあります。
「預言者の人格の研究は、彼が神の代表者であるという処から考えて行けるであろう。然しそれだけでは未だし、彼は人間の代表者として神に対座しつつある者である。ここにさきに指摘した「代表性」は検討を受ける位置に立った。
実に預言者は神と人間とを代表する者である。我等は先ず、人間の代表性の問題を再考して見たい。預言者は先ず神の啓示を受くる者として人間を代表する。処で此場合此代表性は自己の自由意志により志願して代表するのではなく、又他人に推薦或は選抜されて代表するのでもない。斯かる種類の代表性は神の前には全く無価値無意味である。神が彼を撰び、而も屡々彼の意志に反して、無理往生に代表たるべく任ぜられるのである。
此代表性はさきに述べた、人は何人も人類全体を神の前に代表するという意味の代表性と如何なる関連を有するであろうか。両者は別に異なるのではない。基督者は銘々皆預言者的存在でなければならぬ(使徒行伝2章17節*1)。ただ預言者に於ては代表制の意識が謂わば濃縮され、精神的のみならず肉体的にも罪戻感(*2)が鮮鋭でまざまざと自覚されて居る。そのためには、彼の心に民族意識が痛烈に焼付けられて居るのを常とする。尤もここに云う民族心は排他的意味に於けるそれではなく、神に対する民族感である。民族としての神に対する罪戻の自覚である。而して預言者は此自覚を持つと共に、自己が民族の代表者として、神の前に特に責任を感ずるのである。預言者たる資格の一部は斯かる民族意識に根ざす代表性の自覚に存すると云うことが出来よう。」
*1 「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」(預言者ヨエルの言葉)。
*2 ザイレイカン、戻(レイ)も罪と同義。
神の前に民族を代表する者として立たされるのが預言者であり、そのとき預言者には「罪戻感が鮮鋭でまざまざと自覚されて居る」というのは、聖書の記述に即して見る限り、その通りです。しかしそこから「人は何人も人類全体を神の前に代表する」という結論に行き着くためには、踏み越えて行かなければならないステップが何層にもわたって存在するでしょう。聖書の神を信じるということが、著者にそのような普遍的な立場に立つことを促すとしても、現実には何層もの壁が立ち塞がっています。
「ここに民族意識について一言することも無駄ではあるまい。預言者的意味に於ける民族観は一般的意味とは異なり、特殊な神観に立脚する民族観である。他民族に対する自民族というような相対的に制約されたものではなく、神と其民――撰ばれたる民――という関係が基礎をなして居る。聖書に云うイスラエル民族は、一面に於て他の諸民族と相対的な意味も勿論有るけれども、それは第二義的であり、其根本義は神ヤーヱに対する民族である。それが選民であるということは、預言者自らが選ばれたる者であるという自覚と共通し、選民意識なくして預言者意識なく、又預言者意識なくば選民意識も消失する程緊密な関係に両者は置かれてある。
右によりて明らかなる如く、預言者は愛国者や憂国の志士と其精神に於て相通ずる点少なからずと雖も、それだけに止まる者ではない。彼は神に対する憂国の士であり、随って民族の為にとりなしを為すものではあるが、しかしこれだけではない。それは彼の神の代表者としての側面を見ることによりて明かにされる。」
選民イスラエルの「神」を特別視(絶対視)するところにユダヤ=キリスト教的意識が生まれてきます。著者もまたそこから一歩も踏み出さない者として(だからこそ「キリスト者」なのですが)、代表の意義について論じます。
「神の代表者としての預言者は実に不思議な存在である。人或いは彼が神の代表者たる資格証明を要求するであろう。ところが彼は一片の証明書をも提示することは出来ないのを常とする。尤も例外はあるが。彼の言葉と彼の存在そのものによりて「神よりか」「人よりか」の代表資格を決定しなければならぬ。此決定は主観的と客観的との両側面がある。主観的には、ヤーヱの言我に臨めりという直観的な出来事であって、預言者自身に対して絶対に真であるにも拘らず、他に対しては証明とはならない。客観的方面は民族的輿論である。「彼等民を怖れたり、そは民等彼(洗礼者ヨハネ)を預言者となせばなり(*)」というように、社会的認識に其承認が存した。時として、預言者の存命中此承認を得ない場合も少なくはない。生時は虐待して置いて、死んでから大きな墓を建てることもある。預言者の死によりて此事が明かになる場合もある。」
* 「しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから」(マタイ21:26)。
ここに「人或いは彼が神の代表者たる資格証明を要求するであろう。ところが彼は一片の証明書をも提示することは出来ないのを常とする」という言葉の、現代版残照とでも言うべきものを、長谷川宏『同時代人サルトル』(前掲書)の中の、サルトルの以下の言葉に見出すことができるでしょう。ただしこの場合は預言者を知識人と読み替えます。
「われわれ知識人が、知識の代理人であり、彼の内部における普遍的なものと階級的個別主義との矛盾が、彼をうながして、普遍化を目ざす恵まれない階級の運動に参加させるのだということ、彼は緊張のなかで、大衆との連帯責任のなかで、彼の知識人性を生き、その大衆の目的をわかちもつのだということを知りました。残るのは、やはり、そんな状況のなかにあってさえ、彼は「だれからも」委任状を与えられていないということ、労働者階級からも怪しい目で見られ、支配階級の目にも裏切り者と映り、知識人は、結局それから脱出できないながらも、組織的に自己の階級を拒否し、修正され、しかしいっそう深化されたかたちで、自分自身の矛盾を民衆政党の内部にまで再発見するということです」(p.78)。
「知識人は、孤独のなかでしか、彼の矛盾に満ちた状況を生きることができないのであり、その孤独とは、不断に「追放」の身でありながら、不断に大衆の側に立とうとする努力をいう、とりわけ有益な孤独なのです。なぜならば、もしこの孤独から脱出しようとするとき、知識人は知識人でなくなってしまうのですから。知識人がもっとも役立ちうるのは、単称的普遍として、つまり単なる学問の人としてではなく、以上述べた矛盾を生きる学問の人としてなのであり、この孤独、この「半追放」のような孤独のなかでこそ、知識人は、彼が奉仕しようとする人びとにもっとも接近することができるのです」(p.80)。
「知識人はだれの委任状も受けとっていない、いかなる権力も彼にその地位を与えていない、という事実によって特徴づけられているといわねばなりません。そのような人間として、知識人は、なんらかの決意の産物ではなく、異様な社会の異様な産物なのです。だれも彼の登場を懇請せず、だれも彼を認めません」(p.81)。
預言者もまた「単称的普遍」です。預言者が「神の代表者」であるということは、言葉を換えれば、誰からも委任されていないということを意味しています。誰も彼に資格証明を発行することはありません。我々の著者はさらに続けます。
「預言者を神の代表として民が享入れるか否かということは、民が預言者の言葉を神よりの言として享入れるか否かに存する。その承認だけで預言者の任務は終ったのである。彼は畢竟唯の人である。神の言を担ったということは彼自らの功績ではない。止むを得ずして行った、といわんよりは寧ろ行わされたのである。然し、又それと共に、彼は神の器として無限の価値を与えられた者である。彼は自己の衷に、自己が朽ち果つべき土の器であると共に、永遠なる神の器であるという矛盾した二つの自覚を持つであろう。
彼は不思議な存在である。然しこれを二重人格として説明し去ろうと試みるのはあまり浅薄に過ぎる。成る程宗教心理学的に低いレベルに於ける観察として、巫女口よせなどの神憑りの如き、時として外部的に類似の観を呈する点も無いではあるまい。少しく事の真相を見得る人には、然し、それは問題にはならない。唯、ここに「宿る」ということ、神の言が預言者に降り、それが彼の裡に宿る、永遠者がはかない有限の存在のうちに宿る、ということは宗教哲学への鍵として、看過してはならない。」
預言者を「巫女口よせなどの神憑り」と同列に論ずることはできないと言いつつ、著者は永遠者がはかない有限の存在のうちに「宿る」ということのうちに、「宗教哲学への鍵」を見出しています。ここで参考までに波多野精一の『宗教哲学』(前掲書)から内容的に照応すると思われる部分を引用して見ます。
「……宗教の立場は、前にも述べた如く高次の実在主義であり、其の対象は超越的絶対的なる聖なる実在であることと――而してそのことと連関して、その主体は極度の自己集中を遂げつつ人格的存在の頂点に登りつめたことであることとは、宗教的意識に経験的世俗的意識とは明かに区別される際立った特質を与える。第一に、啓示の体験はもはや無自覚的には行われ得ない。それは必ず自覚に上され、しかもあらゆるよきもの、貴きものを超越して、生に最高の又究極の意味と価値とを与える所のものとなる。宗教に於ては実在そのものが価値であると既に真理は、ここよりしても理解されるであろう。次に、以上のことと連関して、宗教に於ては啓示に対して吾々が受身であるという意識があらわにまた著しくなる。最も徹底的なる相に於ては、この意識は絶対的受動性のそれとなる。人間のあらゆる才智も能力も特権も神が自己を与えるはたらきに対しては全く無に等しきものとなる。信ずるというもこの場合人格をうち込んでの受け入れ、又は服従の外のものではない。絶対的依属感情というシュライエルマッヘルの定義は、特に宗教のこの特徴を適切に言表わしたものであろう。徹底的なる平等主義はこの傾向の必然的帰結である。然しながら、他面より見れば、宗教及び其の対象は、経験的世俗的意識に対して、全く類を異にするという意味の超越性を主張する故、啓示は、宗教に於ては、退いて単なる背景に潜み得るが如き日常平凡の事柄ではなく、特別の人に特別の場合に特別の内容を以て行われる非常非凡の傑出したる出来事となる。それと同時に、体験にも本源的原型的のものと、派生的随従的のものとの差別が生ずる。神に対しては誰よりも先に自己の受動性と無価値とを痛感する者が、むしろしか痛感するが故に、他の人々に対しては、導く者与える者支配する者として己が優越を明かに意識することともなる。この傾向の趣くはては、特殊性個性の極み、従って歴史に於て現われる特殊の一人格、に於て絶対的なる永遠なる実在そのものの自己啓示を体験することであろう。
啓示の種類、それの種々相については、今は深入りする暇が無い。最後に述べたものは化身(Inkarnation)という類に属し、神が人と成るというを特徴とするが、これにも種々特殊の相が成立ち得る。一層主観的なるものには、神託や霊感(Orakel, Inspiration)、照明や直覚(Erleuchtung, Intuition)、エクスタシスや神憑り(Ekstasis, Enthusiasmus)などもあり、団体により個人により類や特質を異にする。しかしながら其等すべてに共通であり、而して其等に啓示と呼ばるべき資格を与える特質としては、特に先ず受動性の自覚を挙げねばならぬであろう。啓示は受くべきもの授かるべきものである。換言すれば、神は自ら天より降るものであって人が地に引きおろし得るものではない。尤も啓示を受ける為には人は準備を要する。全人格の極度の緊張は宗教的体験の必須の制約でなければならぬ。然しながら宗教が純真さを保つ限り、人の力人の働き、すべて人間的なるものがいつしか終りを告げて、絶対的権威を以て臨む神的実在に我々がはたと行き当るところが、いづこにかなければならぬ。啓示に際しては、人はあらゆる抵抗もかい無きものとなり、あらゆる好悪もないがしろにされつつ、全人格を挙げて否応無しに、思いがけもなき光、真/まこと、福い、生/いのちのうちに拉し去られる趣がある。かかる場合にこそ意志的人格的体験に於て与えられる神の実在性は特に顕著に見られるのである。偉大なる宗教家達にとっては啓示は必ずしも好む道、嗜む業ではなかった。彼等が其の天職の門出に際して躊躇の色を示しがちのことや、悪魔の誘いの伝説が彼等の新しき生の物語に纏わって居ることなどは、意味深きことどもである。啓示は彼等にとっては無限の光栄と歓喜とを宿す運命――兎に角運命であった。ここに吾々は発心、回心、召命等の宗教的現象の真の相を瞥見する」(p.26-28)。
シュライエルマッハーの絶対的依属(依存)の感情とは、言葉を換えれば、(この世の)何にも依存しないということを意味するでしょう。しかしそこには何か「覚知」の働きとでも言うべきものが介在しているようです。ところで、我々の著者は預言者の使命についてさらに論を進めます。
「繰返して述べたように、神に叛き去った人間は創造主たる神を教えられても到底神を信じない者となり下がってしまった。預言者の言葉も、それ故、創造主、父なる神を教うることは最初の意図ではない。先ず彼は審判の神をつたえる。神は其民イスラエルを叱責し、神を忘れ叛き去ったことに対する当然の刑罰が災難や死や滅亡の形を以てまさに民族の上に臨まんとしつつあることを厳かに宣告する。
然しながら、正義の神の意志がその民に徹底した時に、預言者の語調は転換せざるを得ない。今度は希望が、新生が宣べられる。その旗印は救いであり自由である。そして、それには民族的と個人的の二方面がある。民族的救いをはなれて個人的救いなく、個人的自由なくして、民族的自由はない。預言者は斯かる救と自由の構造――星雲的な――に就いて親切な教師でなければならぬ。それは抽象的議論でなく、具体的事実ではあるが、其超越性と絶対性とは「民の心鈍くして」中々に理解され難い。ここに預言者の苦衷がある。否、預言者自身さえも此事については断片的知識しかもたない。そして彼が言葉に於ける説明性に於て不充分なることは、其事実性に於て彼に内攻する。救の内容、自由の真相は彼等に於て決して明白な形態をとっては居ない。何となれば、それは新創造を意味し、神のほかこれを知悉することは不可能であるから。それは未来に属する。現在に於て始められるけれども、完全な実現は将来を俟たねばならぬ。斯様に不明であることが啓示の星雲性のニュアンスを形造る。言葉のアナロギアが此ニュアンスを示唆する。而して其中核は待望のメシヤの人格に存せねばならぬ。メシヤは審判者にして再建者である。そしてメシヤの使命は民族的であり又個人的である。」
預言者の救いと自由の告知と希望において、遂にメシヤの到来が、啓示のネビュラ構造の中核として待望されるようになる。それは神による新しい創造であると言われます。
「預言者が自己の体験に於て預言者精神を完全に味得しえた時に、メシヤ――ヤーヱの僕――の性格的実質に就いての思想は画期的革命を経て居る。それは、メシヤが審判者であり再建者であると共に、彼自身が審判であり、再建そのものである、という思想である。彼自身が一個の宇宙である。正義も愛も外的表現に於てこれを看るのはそもそも末であって、具体的事実中の最も具体的なるもの、即ち神の「ペルソナ」に於てこれが行われる、しかも時間に入り来って其ペルソナがこれを遂行するという思想にまで預言者は導かれた。自然的現象として審判と再建とを看る見解はここに全く整理し尽された。創造の何たるかを知らない人間が先ず自然的アナロギアに於て審判と共にこれを考えたことは当然ではあるが、それでは未だ創造の真意に触れ得ない。預言者等も最初はメシヤが唯一個の人間として自然歴史的変革を行うことを想見したのであるが、その変革思想は漸次に深化され、遂にパラドクス論理を其純粋な形で具現するに至った。それは即ち、歴史に終末を与え而してこれに端初を新たに賦与するの途は神のペルソナの問題であるということである。然し、それと同時に、その変革はどこ迄も人間に於て、人間の間に於てのみ行わるべきことである。ここに「神の僕」の預言思想は熟成した。」
著者は第二イザヤの「主の僕」の預言に極まる預言の系譜を一気に論じています。そして「歴史に終末を与え而してこれに端初を新たに賦与するの途は神のペルソナの問題である」と指摘します。それは、「正義と愛」は堕罪の人間の手によっては遂に実現しえないという、絶望の表白でもあるでしょう。著者のこのような「キリスト教的意識」を先取り的に照明するために、中沢洽樹『苦難の僕 イザヤ書53章の研究』(新教出版社、1964年)の最後の部分を引用して見ます(それ自体、私の目には、既に「古典的表現」であると映るのですが……)。
「第二イザヤ以後五百年の歴史において、世界は果たしてこの苦難と栄光のメシヤを見たであろうか。それらしい者が幾人かあったことは後期ユダヤ教の歴史、殊に最近発見された死海文書によって示される。しかしそれらは、いずれも世界史的意義をもたずに終わった。ただわれらの主イエスのみが、この苦難と栄光のメシアの二面を一身に具現しえた真の救世主であった。この意味において、キリスト者が旧約のメシア預言の究極の成就をイエスにおいて見ることは正しいであろう。しかしユダヤ人はこれを斥け、自らの歴史的存在を苦難のメシアに擬して栄光のメシアを将来に待ち望む。それはあたかもわれわれがキリストの再臨として待ち望む主の日である。曲折はあっても〈未だ〉なる者を待ち望む直線的な終末論と、ひとたび実現し〈再び〉来らんとする者を待ち望む交叉的終末論といずれが正しいか、終わりの日に「知恵はおのが業/わざによって正しいとされる」(マタイ11・19)であろう」(p.227)。
思えば、「主の来臨を待ち望む」というユダヤ=キリスト教のメシア意識には異様なものがあります。しかし「来臨」を、人類が類として一挙に変えられる瞬間と理解したらどうでしょうか。その時まで、人間の悲惨な現実に終止符が打たれることはないとしたら、私たちはひたすらその時を待ち続けるしかありません。問題は、その時まで、人間自身の手によってこの世界が破壊されるままに委ねるのか、それともそのような希望に向って世界を再建する仕事に今から着手していくのかということにあります。その点で旧来のキリスト教は「上空飛翔的」であって、現実逃避的傾向が強かったのではないでしょうか。しかしここでは我々の著者の言うところに暫く耳を傾けたいと思います。
「「神の僕」の先駆者として預言者が現われた――「神昔は預言者を以て云々(*)」――しかも相当に永い時代に亘り「様々の方法」と、形式と性格とを以て現われたということは啓示の歴史性、即ち其時間的構造性を完成する上に甚だ必要なことである。」
* 「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」(ヘブル1:1〜2)。
「預言者は「様々の方法」を用いる。彼は先ず言葉を担う者である。言葉は、これなくしては甚だ隔離されて居る人と人との間に意志を伝達する最も微妙精巧な道具である。それは模倣によりて習得され、更に個人性格の与うる変曲によりて無限に多様又微妙な意味のニュアンスを備える。預言者の神の言を伝うるや、決して鸚鵡の暗誦ではない。ここに巫女、神憑りと雲泥の差異がある。彼は自己の人格を通じて神意を語る。されば、言葉には人物が露呈されて居る。神の感化の下にある人格として、預言者が第一に要する特質は此人格性である。これが完全に表現されるならば、言葉は二の次で差支えない。ここに於てか、沈黙によりて語る言葉というものが現われる。」
聖書あるいはキリスト教が人類の思想に「人格主義」を刻印したと言うことはできるでしょう。しかし預言者も一種の「神憑り」ではないでしょうか。それは波多野精一が冷静に論じていた通りです。しかし著者は、もはや言わずもがなのことですが、キリスト教への思い入れ、あるいは信仰によって既に思索の方向を決めてしまっています。なおキリスト教と人格主義との関わりについては、エマニュエル・ムーニエ『人格主義』(文庫クセジュ、1953年)、三嶋唯義『人格主義の思想』(紀伊国屋新書、1969年)があります。どちらも相当前に出版された、カトリックの哲学者が執筆したものです。
「神の意志は到底人間の言葉を以て完全に表現し得るものではない。若し強いてこれを用うることが要求されるならば――而してそれは止むなき要求である――その言葉は特別な酷使をうけ、或いは圧縮され、或いは歪められ、内容を無理に詰め込まれ、逆用され、其他様々の方法が講ぜられるよりほかはない。アナロギアは幾重にも積みかさねられ、パラドクスは縦横に駆使される。聖書に於ける重要な一つ一つの言葉は凡て複雑無比な構造を有することを忘れてはならぬ。白い太陽光線がプリズムによりて分解され様々の色彩を顕すように、それらの言葉は人生のいろいろな立場により、これを味わう人の性格如何によりて屈折を異にし、様々の意味を顕わし来るものである。言葉は斯様に人格によりて始めて享けられる。文ぞ人なれ、言葉そのものがペルソナ的性質をもつ。さればこそ高い言葉は高い人格でなくてはわからないのである。
斯様な観察は神のロゴス観に於て我等を扶けるであろう。永遠なる神の時間への自己降下と投入、歴史に於ける自己展開ということはロゴス思想を以てすることが大胆ではあるが然し最も適切な試みである。
以上、我等は言葉から人格に導かれた。右の光によりて考うるに、斯かる人格はアナロギアとパラドクスによりて始めてその構造を窺い得るようなロゴス性を有して居る。たとえ不完全ではあっても、預言者の人格はそれであり、それは歴史的展開によりて遂にメシヤに頂高するロゴスの時間的構造である。」
永遠者の時間への自己降下、自己投入、歴史における自己展開のロゴス性は「アナロギアとパラドクスによりて始めてその構造を窺い得る」とされます。このようにして著者はどこまでも「絶対論理」についての自己の見解を貫きます。そして預言者の人格は、たとえ不完全であっても、「遂にメシヤに頂高するロゴスの時間的構造である」とされます。
「今若しアナロギア論理のみにより、パラドクス論理を除外して神を考えたならどうであろうか。斯かる神は到底人間にとりて不可知な無限に遠き神であろう。たとえ彼を父と呼ぶとも、それは人間と絶縁せる父であって、人間に近づき語りかける神ではない。彼は人間を審判する神でさえもない。創造者ではあっても、其創造は人間には何をも意味しないであろう。それは人間と動的関係に入らぬ神である。隠されたる神であるのみならず、人間と没交渉に自らを置く神である。
アナロギアのみを高調する結果誤謬に陥る傾向があるのは憂うべきことだと思う。たとえば、一部の基督者の考える神は近づき難き神である。勿論近づき難き神という考えと態度とは決して斥くべきものでないばかりでなく、我等が常にもたねばならぬ心構えである。神に狎れる、父の恩愛に安価なセンティメンタリズムをもち込むことは最も悪い。然しあまりに近づき難い一方に偏すると、其処に躓きが生ずる。一部のカトリック的過誤と通常考えられる所のものも其処に根ざすのである。即ち、近づき難きが故に神以外の仲保又は仲介者を立ててこれにすがることになる。聖母マリア、諸聖人の群等を崇拝するのはそれである。此種の崇拝は人間的に見て美点がないではないが、神御自身に対する余所余所しさを一方に伴う処に非常に戒心を要すると思う。同時にそれは結果に於て神に狎れることにもなり、全く人間化した宗教がアナロギアによりて組立てられることにもなる。
無限に遠き神はまた無限に近き神で在さねばならぬ。これはアナロギアによりて理解し難い。然るにパラドクスが其処に働き、隠れたる神はまた啓示の神であることを我々に教える。穢れたる人間が其栄光まばゆき御姿を拝することも出来難い、聖にして、近づき難い神は、同時に我等をして、有りのままに憚らずして恩寵の御座に進むことを拒み給わないばかりでなく、それを千秋の思いで待ち給う神で在す。恐怖と戦慄の感情は信頼と喜悦とに交錯する、またそれらによりて代換される、また融和される。
此矛盾はこれを純思想的に考えても不可解であろう。ただそれが特殊性格に於て具体的に現われた時にこれを感受することが出来る。その性格は我等が最も著しく預言者に於て見出す所のものである。それによりて、ペルソナが斯かる矛盾を消化し、却ってこれを動力となして自らを活かす機関であることを発見する。此意味に於て、人格性の意義は宗教的に甚大であると云わねばならぬ。
それ故、預言者はただに言葉を以て救い主の来臨をアナウンスするのみではない、彼の独自なパラドクス的ペルソナを以てメシヤに先行し、道を直くし、処を備えるのである。」
ここに著者のアナロギアとパラドクスの論理は一つの頂点に達しているかの印象を与えます。神はパラドクス的にのみ人間に近づくことができると言われます。最も遠い者は、同時に最も近くにいる者であるという「対義結合」がここに表明されています。
「旧約が律法と預言者とに分たれて居るということは何か偶然の結果であるかのように見てはならないと思う。祭司制度に対し別に預言者の厳存した事は、イスラエルの歴史に両者の並立が深い本質的意味をもっていたことを示唆するに違いない。随って、律法と預言者とのプレローシスを自己のケノーシスによりて齎せるイエスは、両者に於ける二つの人格性――祭司と預言者との――の高次綜合が自己に於て完成されることを意識して居給うたことと思う。大祭司としての人格と任務との完成は同時に至高預言者的人格に対する要求を満たすものでなければならない。大祭司としての人格と任務との完成は同時に至高なる預言者的人格に対する要求を満たすものでなければならない。単に大祭司としてのみ見ることは、未だメシヤとしてのイエスの半面を見ることである。他の重要な半面を看過してはならない。」
律法と預言者のプレローシス(成就)を自己のケノーシス(空しくすること)によってもたらしたというキリスト論、あるいは祭司と預言者との高次綜合が自己に於て完成されることを、著者はイエスが「意識して」いたことと見なしています。ここに著者の「古典的」なイエス像が顔を出しています。
「但し旧約的祭司性がその儘イエスに当嵌まらないように、旧約的預言者的規格もその儘彼に適用することは出来ない。然し、最高度に醇化せられたる形態に於て、イエスの裡に是等の旧約的両面を視ることは、我等の新約的アナロギアの当然要求してやまざる所である。即ち、彼の祭司性が、神に対する人間の代表者としての彼を示すように、彼の預言者性は、人間に対する神の代表者としての彼を顕わすということが出来よう。
天に昇りしキリストは祭司性の説明し得る所であるが、天より降りしキリストは未だ説明し得ない。それは彼の預言者的特性たる、遣わされし神の御子たることによるほかはないのである。
以上は第一に認められる両者の区別であるが、更に第二の重要な区別は左の如くに言い表せると思う。即ち、祭司性に於て認めたる完成は、代表的人格の個人的完成であったのに対し、預言及び預言者性の成就は、神の国を単位とし、メシヤ人格は王者としてこれに君臨する。これを人間的に観るならば、民衆は、前者にありては、遥かに後方又は下方から大祭司を仰ぎ見、または彼の先導する跡を追うのみである。これに反し、後者にありては、民衆は救い主を囲繞し、彼を自己達の集団の中心に迎えている。前者は人間の為に、後者は人間と偕に、働き給う救い主をそれぞれ顕わすものといえよう。前者は人間の到底達し難い至聖所に立てる触れ難いキリストにして、後者は我等と倶に飲食し、くつろいで語り合い給うキリストである。」
こうしてこの章は「素朴な」キリスト信仰の告白によって終わります。なお著者は王・預言者・祭司のいわゆる「キリストの三職」を、祭司と預言者として二元的に捉えています。この先、著者の論述は益々キリスト教的な色彩を濃厚にしてゆきます。
第十二章 完成と成就
「旧約の完成は新約の誕生を意味するものとして、旧約の運命に関し二重の見方を生ずる。一は旧約は使命の完了によりて死滅せるものと見、一は新約的生命へ復活せる者と見る。是等はいづれも可能にして、且つ必要である。
旧約の完了はイエス・キリストである。随って、キリストの死は旧約の死を意味する。然し、キリストの誕生に於て新約は生れ、同時に旧約は去ったともいえるであろう。それ故、キリストの地上生活は旧新約交錯の時期である。随って福音書に記された内容は、或は旧約的に、或は新約的に解釈せねばならぬ、いな、両方を同時に適用せねばならぬ場合さえ少なくないであろう。随って、そこにはアナロギアは幾重にも重複して限りなきニュアンスを生み、パラドクスは交錯して、謎の如き思想的渦巻を現出している。その既述も、どこまでが現実で、どこまでが譬喩か、けじめの附け難い所も少なくない。これに軽々しく「科学的」メスを揮う者は必ず原意を汲むに失敗し、また、これと反対に、一切を盲目的に信ずる者も真理への悟達を逸する。それは神話たるべくあまりに事実に即し、歴史たるべくあまりに普遍に亘る。聖書解釈学は是非共我等の間に再び組織化されねばならぬが、その暁、斯学の中枢的課題と努力の重要なる部分は四福音書に集まるであろう。今ここに、極めて真面目なる意図からイエス伝を書こうと志す人あらば、彼は早晩深刻なる失望に於て筆を折るか、又は「小説」に逃避することに於てわずかに小さき満足を見出すよりほかはあるまい。とはいえ、此事はイエスの史実性を奪うかといえば決してそうではない、却って愈々これを確認せしめる結果となるにちがいない。イエス神話説の如き、若干の真理を示唆しつつも、自己の本体に就いては、その独断と迷妄を覚るのが当然の落ちであろう。
人間は四福音書に於て始めて真の歴史を視せられたのである。これは所謂歴史に比すれば、その「素」となるものというべきであろう。その濃度は余りにも高い。この源泉に汲み来った活水の一滴がよく一切の歴史を活かす力をもっている。」
著者のキリスト教哲学はあくまでもその「教義」に拘束されています。しかし一方で「イエス伝」の史的構成が不可能であることを率直に認め、またドレウスの「キリスト神話」説のように、イエスの史実性を一切認めない立場にも「若干の真理を示唆」するものがあることを認めます。四福音書の研究は確かに「歴史学」の難題中の難題であり、その解釈学は焦点の定め難さによって際立っています。ただし著者はそのアポリアに分け入ろうとはせず、直ちに「キリスト教信仰」の高みへと飛翔します。
「この事を考究するに当り、イエスの完全者Summaとしての性格が対象となるであろう。しかし、それと同時に、而してそれに先だって、イエスの完成者Summusとしての性格が検討されねばならぬ。イエスの歴史に於ける完成者ことと並びに完全者たることの究明は、前者は時間的、後者は空間的な観方といえるであろうが、是等両者相俟つ研究によりて福音書緒論は始めて固有なる相貌を具えるのである。」
完成する者(完成者)が時間的であり、完成された者(完全者)が空間的であるというのも、直ぐには納得できない著者の思弁に属しています。しかし完成者であり完全者であるイエスという視点において四福音書をそれぞれ固有な場所に位置づけるということは、一つの便法(作業仮説)としての意味を持つとは言えるでしょう。
「イエスが完成者たることに就いては、「信仰の導師また之が完成者たるイエスを仰ぎ見るべし」(ヘブル書12章2節)の語がある。これは我等の信仰を教え導き完成せしめる教師又は指導者というように解せられ得るが、此句の更に深い意味はイエスが躬を以て完成を全備し給うたという具体的事実へ我等の関心を喚起せしめる点に存するであろう。
イエスが完成者であることはあらゆる視角からこれを観察し得るであろうが、彼を旧約の完成者として観るのが当面の問題であり、且つ最も理解を順当ならしめる方法である。そこで第一に留意すべきは次のイエスの言である、「我れ律法また預言者を毀つために来れりと思う勿れ、毀たんとて来らず、反って成就せん為めなり。誠に汝らに告ぐ、天地の過ぎ往かぬうちに、律法の一点、一画も廃ることなく、悉く全うせらるべし」(マタイ伝5章17、18節)。ここにイエスは旧約が未完成状態にあること、また、自己がその完成者たるべきことを宣言した。それは極めて短日月の間に全うせらるべきであった。「天地の過ぎ往かぬうちに」は一見永き将来を意味するように感ぜられるが、斯かる解釈はここでは所を得て居ない。これは完成の必然性についての最も固き約束を意味する修辞法と見るべきだと私は考える。即ち、イエスは決して長からざるべき自己の地上の生と死によりて、其完成を深く期して居られたのであろう。」
福音書記者が個々に「造形」(編集)したイエス像がどこまで史実を反映するものであるかについては大きな問題があります。しかしイエスが期待していた終末の時は、もしそれが事実期待されていたとすれば、イエスにとって間近に迫り来るものとして意識されていたであろうと言うことはできるでしょう。
「この決意はヨハネにバプテスマを受けんとてヨルダンに来り給うたとき、既に表示されている。「今は許せ、我等斯く正しき事を悉く為し遂ぐるは当然なり」(マタイ伝3章15節)。その以後、イエスの生活は唯聖業の完成にあったといえよう。「われを遣し給える者の御意を行い、その御業を為し遂ぐるは、是れ我が食物なり」(ヨハネ伝4章34節)。「父の我れに与えて成し遂げしめ給う業、即ち我が行う業は、我につきて父の我を遣し給いたるを證す」(ヨハネ伝5章3節)。而して、死に直面するや、イエスには此聖業は成就せりという確信が生じた。「父よ……我に成さしめんとて汝の賜いし業を成し遂げ、我は地上に汝の栄光を顕わせり」(同17章4節)。而して十字架上に於ては、「事畢りぬ」との最後の一言を以て首をたれ給うたと録されている(同19章30節)。浅薄に解するならば、右に挙げた言葉はさして注意に値せぬであろうけれども、実際は人間を中心とする宇宙の救という絶大の事業が成就したことを意味するのである。事畢れりの語は簡であるが、意は深遠である。此宣言を其儘我等は受入れるか、さもなくば、イエスを極度の狂人、誇大妄想漢と見るよりほかはない。」
シュヴァイツァーも論じているように「イエスを極度の狂人、誇大妄想漢と見る」説は事実存在したようですが、著者はキリスト者として十字架に人間と宇宙の救済の根本的意義を見出しています。既にそのような信仰のもとで執筆された福音書を素直に受け取る限り、著者のような見方に導かれるのは至極当然であると言えるでしょう。しかしここで著者が言及していないイエスの最後の言葉があります。「昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」(マルコ15:33〜34)。この「イエスの最期は絶叫をもって終わっている」ということについて、大貫隆が『イエスという経験』(岩波書店、2003年)においてユニークな見解を表明しているので、その部分を引用してみます。
「このような最期をどう見たらよいのか。遠藤周作によれば、イエスは早くから過越祭に死のうと決めていたのであり、最期の叫びも詩篇二二篇の冒頭句を引くことで、神への揺らぎない信頼を表明したのである。なぜなら、この詩篇の最後は神への信頼で終わるからだという(『イエスの生涯』156―157)。これはつとにE・シュタウファーの見解であった。それとは少し視点が違うとは言え、イエスの最期を神意との一致の中に在り続けたものと解釈する研究者は少なくない(M・ディベリウス、G・ボルンカム)。反対に、「断末魔の絶望」と解する見方も劣らず多い(例えば、田川建三、青野太潮)。それ以上に興味深いのは、八木誠一のイエス論である。そこにはイエスの沈黙の問題も、最期の問題も本格的には現れない。宗教的実存一般について成り立つ原理が、イエスという歴史的個人においてどのように現れているかという八木の視点からは(T章一参照)、イエスの場合だけに限らず、歴史的に代替不可能な個人の最期がどのような絶叫をもって終わるかを扱い切れないのだろうか。高名な禅僧が最期に臨んで「死にとうない、死にとうない」と叫んで、弟子たちを困惑させたという話(二〇〇二年九月十五日の対話)はイエスの最期との関連ではどう生きてくるのか。同じ疑問は柴田秀『ただの人・イエスの思想』(三一書房、1996年)の場合にはさらに深い。この滝沢克己の原理論(インマヌエルの神学)を誰よりも良く理解したという自負に溢れた著作によれば、イエスこそはその原理論を十全に体現して生きた人間であり。「彼の神信仰は堅く揺るぎないものであったがゆえに、運命や苦難に対しても、(中略)それらはただあるがままに引き受けるべきもの」(一七五頁)であった。しかし、十字架上でのイエスの絶叫についてはほとんどなんの説明もない。
これまで私たちがたどってきたイエスの内面の変化からすれば、私たちは第一の見方に賛同することはできない。では、イエスの最期の絶叫は、第二の見方が言うように、絶望の叫びだったのか。この見方が今ひとつ説得力を持たない理由は、イエスが何に絶望したのかが、はっきり提示されないからである。田川建三のように、イエスにとって「神の国はどうでもよかった」とする場合には、この疑問はそれだけ深い。
むしろイエスの最期の絶叫は、文字通り、神への懸命な問いだったのだ。「なぜ自分は『神の国』の実現を見ることなく、かくも残虐な形で殺されなければならないのか」「俺は一体何だったのか」「俺のすべての働きは何のためだったのか」。イエスがこれまで「神の国」について編み上げ、それによって自分のすべての言動を意味づけてきたイメージ・ネットワークが今破裂してしまった。イエスの最期の絶叫はその破裂の叫びだったのだ。イエスは、遠藤周作が言うような予定の死を死んだのではない。覚悟の死を死んだのでもない。自分自身にとって意味不明の謎の死を死んだのである。否、謎の殺害を受けたのである。
歴史上の人物としてのイエスにとっては、この謎は解けないままで終わったのであり、いまなおそのままで終わっている。イエスの生涯は未決の問いで終わったのである。その謎は彼自身においてではなく、彼の死後に残された弟子たちにおいて初めて解けることとなる。それが復活信仰の成立する瞬間である。……。」
我々の著者は既に「新約」の信仰に立っていて、そこから論陣を張ります。
「旧約の完成はこれを分析して、律法の完了と預言の成就とに別つことが出来よう。旧約に於ては、律法と預言とは充分に合致するに至らなかったが、一方が完了したと同時に、他方が成就したのである。律法の完了は畢竟預言の成就を、また預言の成就は律法の完了を、意味することとなった。その同時性は偶然の結果ではなく、両者が時満るに及んで合一するよう、本質的に規定されて居たということが出来よう。それは恰も実体写真の二個の平面的な印画が適当な条件のもとに一個の実体像を表わすのに喩えられようか。律法も預言も未だ実体性を具えるに至らない。これをやがて現るべき実体に比するならば平たい影また唯の声に過ぎないのであった。即ち、律法は本来時間性を欠如することにより、不完全且つ無効果な存在であった(ヘブル書10章1節*)。また、預言は、右とは反対に、時間的に展開し来ったが、具体性に於て欠けて居た。それは実体に対する言葉であって、実体ではなかった。歴史の批判であって、歴史それ自らではなかった。」
* 「いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。」
著者は啓示のネビュラの中核にあるものを「実体」として把握しています。「歴史それ自ら」がそこに実現していると見なします。玉ねぎの皮むきは遂に芯(中核)に行き当ると考えていると言うべきでしょう。
「要するに、我々の要求する所、見透し得る所は、一個の歴史的存在によりて、律法と預言とが合致し具体することにほかならない。それがとりも直さず完了にして成就である。
然し、斯様な真の歴史的事業なるものが、決して常識的に考えるような、此処に見よ彼処に見よという類の簡単な構造でないことは既にさきに注意し来った点である。それは唯一個の出来事であると共に、普遍的且つ永久的妥当性をもたねばならぬ。然らば、イエスの歴史的出現が果してこれに該当するであろうか。」
キリスト教は「歴史的宗教」であるという言葉がよく聞かれます。その意味するところは、イエスにおいて神意が歴史的に実現したという点で、他の宗教とは比較にならない、唯一絶対性を持つということでしょう。他の宗教は良くてその影に過ぎないものと考えられてきました。それが「啓示」と呼ばれるものです。「イエスの歴史的出現が果してこれに該当するであろうか」と、著者はその主張を敢て疑問文の形で提示しています。
「律法は完全性を具えたものとして与えられた(詩篇19篇7節*)。これを行う者、これによりて生くべしということは其完全性を裏書するものでなければならぬ。此完全性は総じて人間が法律に対して有する公理的規定のアナロギアに於ても考えることが出来よう。この規定がなかったならば、法律の権威は失墜せねばならぬ、そして社会的秩序の保持は不可能となるであろう。況やモーセ律に於ける権威は神より出ずることに於て他の法律に比し更に著しく大であり、従ってその完全性に対する信頼も一層牢固なるはいう迄もない。」
* 「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。」
「然しながら、その完全性は更に高次なる完全性が現われ、これに対比した時不完全なるを免れない(ヘブル書7章18、19節*)。この事は例えば法律に於て改訂の可能性が常に認められていることによりても当然納得出来るであろう。」
* 「このようにして、一方では、前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になると共に、(律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。」
「旧約律法は、斯くの如く、完全にして不完全である。これらの両面は我等の共に認めなければならぬ所である。「律法に何と録したるか……これを行え、さらば生くべし」(ルカ伝10章26〜28節)。これ完全性を裏書せる言である。別な言葉でいえば人間生活の倫理的規範として律法の完全性はあくまでも主張されねばならぬとはいえ、他面に於て律法全体が来るべき善き事の影に過ぎないことも亦争われない(ヘブル書10章1節*)。」
* 「いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。」
律法が完全にして不完全であるということを、論理的に整合的に考えようとすれば、神の意志は時間的推移によって進展あるいは変転するとするほかはないでしょう。あるいは、神の意志を啓示として受け取る人間に対して、神のより深い真実が示されたとするほかはありません。事実、それが旧約と新約とを区別するキリスト教の立場です。
「律法の完全性の問題へは此処では立ち入らず、我々は律法の不完全性から出発しよう。さて、若しモーセ律が不完全であるならば、これに対して取るべき途は二つある。一は完全なるものを得ると共に律法を廃棄することであり、一はそれを完全なるものにまで完成しようとすることである。
律法は廃棄されるべしという立場も一概に排除されるべきでない。一層高次の完全性が現れた場合、低次の完全性は無効に帰するのである。「全き者の来たらん時は、全からぬもの廃らん(*)」。此見地から、新約精神に於ける律法主義に対する反感と排撃態度を充分味わうことが出来よう。律法の存続への未練は、特にその形骸や儀文の尊重に於て著しい。その否定拒絶は新約精神の宣揚に際して一個の重要契機をなすということが出来るであろう。」
* 「全きものが来る時には、部分的なものはすたれる」(Tコリント13:10)。
「とはいえ、右の否定だけに止まっては、律法の内部にある肝腎な真理の萌芽をも摘みとることになる。我等はこの萌芽を蔽う堅い外殻だけを破るようにせねばならぬ。萌芽自体はこれを保護し生長せしむべきである。律法のうちに宿る神の契約の遂行約束の完了はこれを妨げてはならぬ。
律法の形骸の頑迷なる奉持者たる学者とパリサイ人に対し仮借する所なかりしイエスは、律法の契約精神に対しては無上の擁護者であった。「我れ律法また預言者を毀つために来れりと思うな。毀たんとて来らず、反って成就せんため為なり。誠に汝等に告ぐ、天地の過ぎ往かぬうちに、律法の一点、一画も廃ることなく、悉とく全うせらるべし(*)」。イエスは律法の未完成を認むると共に、それが必然完成さるべきものであることを保証したのである。」
* マタイ5:17〜18
「然らば、律法は如何なる意味に於て未完成であり、また如何なる形態に於て完成すべきであるか。我等は律法の二つの面を此場合考えてみる必要があろう。その一つの面は誡律的表現に於て与えられて居り、他の一面は形態的表現に於て与えられている。誡律と雖も、時と場合に応じて多義性を許さねばならないが、形態に至りては一層多義的である。前者に比し、後者はその解釈と実践上の自由が著しく広い。ここに次の重要な一性質が見出されよう。即ち、律法の究極性は主として誡律の態様をとり、これを行う者はこれによりて活きるというような、のっぴきならぬ絶対命令として現われている。これに反し、その未発展性は特に形態的表現に於て示されたということが出来よう。随って、律法を「影」として未完成状態に於てこれを見、その実体的完全性を探ろうと志すに当りては、誡律的方面よりも形態的乃至は型相的側面が特に注意されねばならぬ。此事に就いて独自な深い解明を与えるものはヘブル書である。」
ここで漸く著者は律法には戒律的側面と形態的側面があり、律法の「未発展性は特に形態的表現に於て示された」という独自の見解を打ち出します。法の体系としてこれを見れば、戒律的側面は憲法(基本法)に相当し、形態的側面はそれに基づいて作成される法律の条文に相当するとでも言うべきでしょう。しかし憲法も法律の条文としての形態的側面を持ち、不完全であるので、これはあくまでも相対的な区別に過ぎません。ただし鼎の軽重は憲法において問われるべきことは言うまでもありません。
「「それ律法は来らんとする善き事の影にして真の形にあらねば、年毎にたえず献ぐる同じ犠牲にて、神に来る者を何時までも全うすることを得ざるなり」(ヘブル書10章1節)。ここに考えられて居る律法は犠牲奉献を中心とする礼拝形式(9章1節*1)を指すと見ることが出来よう。其処には永遠の真理がその象徴(9章23節*2)に於て示唆されている。「彼等の事うるは、天にある物の型と影となり」(8章5節)、「幕屋はその時(註、律法の完了したる時)のために設けられたる比喩なり」(9章9節)。」
*1 「さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった」(ヘブル9:1)。
*2 「このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない」(ヘブル9:23)。
著者の論述は、「絶対論理学」という理論面から、礼拝という実践面へと移行しつつあります。キリスト教の礼拝がユダヤ教の祭儀に起原を持つことは明らかです。聖書という文脈に即して考える限り、著者の思考は自ら礼拝の意義に差し向けられることになります。
「律法は時間性を欠くけれども、空間性に於て驚くべき発達を示している。それは即ちこの礼拝形式に於てである。道徳及び法律的規範としての誡律的律法がアナロギアに準拠するに対し、礼拝的型相的律法は多分にパラドクス的である。
然らば礼拝の中心をなすものは何かといえば、それは即ち右の犠牲にほかならぬ。犠牲を献げない礼拝はアブラハムとその子孫の理解し得ざる所のものであった。彼等は犠牲を中心として活きたということが出来よう。アブラハムの場合、彼の生活の中心と頂点とは独子イサクを献げたことに存した(創世記22章16、17節)。それは神人間の契約に確実化と具体化と発展性を与えるものである。犠牲なき礼拝は空疎にして、到底真の宗教心を満足せしめるものではない。」
著者は、アナロギアは空間的であり、パラドクスは時間的であると言っていたのではないでしょうか。しかしここでは、空間性において驚くべき発達を示した礼拝形式がすなわちパラドクス的であると言われているように見えます。著者の言わんとするところは、おそらく、礼拝の中心である犠牲奉献の行為がパラドクシカルであるということなのでしょう。我が子を献げようとするアブラハムの行為がそれを示唆しています。
「ところがここに、礼拝と不可分なるものに祭司制がある。祭司なくしては礼拝は成立せず、また祭司の性格如何は律法の性質と密接なる関連ありと做すことが出来よう(7章12節*)。それ程の重要な存在なるにも拘らず、我々は兎角往時の世襲的職業祭司のみを念頭に置く結果、その霊的意義をも没却する過誤に陥り易い。我らの関心は寧ろルーターの指摘したような祭司性自体の意義に対して向けられるべきである。」
* 「祭司制に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずである。」
「さきに述べ来った代表性と連帯性とに関連して我々は祭司性を中心とする思想の普遍的意義を索ねたいとおもう。祭司性に就いての準備的理解と旧約的訓練を経て居ない人には、メシヤ的待望も起らず、理解も存しない訳である。そして、更に祭司と犠牲とは不可分なることも注意されねばならぬ。犠牲を携えざる祭司は無意義な存在であるし、祭司なくしては、犠牲は献げる途がない。
然し、ここに深い省察を要する一事がある。いったい我々は進んで他人を代表し、乃至は好んで他人と連帯関係に入り得るものであろうか。それが単に人間関係だけの範囲に止まる間は然りと答えることが出来よう。ところが此場合は神に対しての代表性であり、連帯性である。これは軽々しく答えられるべき事柄ではない。現にヘブル書は祭司の無効と無能を説いている。即ち神に向って人間を代表することは、人間的動機と創意からは出来難いのである。旧約の祭司アロンの如きも、なお神の選択と召命によらずしては其任に就くを得なかった(5章4節*1)。それが世襲となり、職業となって、なお代表性を発揮することは全く不可能事である。本来が神に対する代表性は人間によりて選定せらるべきものではない。「人よりに非ず、又人によらず(*2)」神より来たらねばならぬ。神より来る大祭司のみが律法を成就し得るのである。」
*1 「かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。」
*2 ガラテヤ1:1
神に対しての代表性と連帯性とを担い得る、神より来る大祭司とは、もちろんイエス・キリストにほかなりません。著者はここで、犠牲奉献の極にイエス・キリストの十字架を見るという、極めて伝統的な信仰によって礼拝の真義を見定めようとしています。
「礼拝が犠牲を必要とするという思想は、一部のプロテスタントの反発を喚起するに充分かも知れない。我等は儀式をさえも無用とする、況や犠牲の如きをや、とその人々は言うであろう。そうだ、諸君のいわるる所は正しい、碧空の下、草上にぬかづくような礼拝は我々の偕々に欣ぶ所であり、神も必ずやこれを歓び給うにちがいない。だが、ここに我々の課題となっているのは、もっと内面的な精神上のことである。」
著者はここで内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』などを思い浮かべているのかも知れません。そこには、札幌農学校時代の内村と学友との、「碧空の下、草上にぬかづくような礼拝」について書かれているからです。
「礼拝は空間形式であると既に述べた。これは畢竟、礼拝者の意思の表現に於て礼拝が始めて行われることを意味する。そして、それは真ごころの現われでなければならない。尤も、その表現は神に対してであるから、人間の眼には表現と見えないかも知れない。が、兎に角、表現の性質に属せねばならぬ。
然らば表現は如何にしてなされるか。その一面は礼拝者の態度とか表情とかいう、謂わば身に附いた所のものによりて行われ得るであろう。だが、それだけでは表現は浅薄であり不徹底である。身に附いたもの、又は自己の所有に属するものを、自己から隔離し、これを奉献するのでなくては表現は満足でない、そして奉献物が自己にとり貴重であればあるだけ意思の表現は徹底する訳である。アブラハムにとって一粒種イサクはそれであった。」
神礼拝というキリスト者にとっては厳粛な行為が、ここでは無反省に提示されています。そこに著者の切迫したリアリティがあるのだというほかはありません。
「この場合混入し易い思想に功利観がある。何か更に貴重なる賜物を授からんが為に、その代価として献げるという打算的動機は人間の心に普遍的に存在するが、これは宗教心を茶毒すること一通りでない、依って厳重に排除せねばならぬ。
然し、如何に斯様な低劣な動機を排除し得て、最も貴重なる献物を捧げても、それによりて礼拝者の心が真に満足するに至るものではない。自己を貴重なりと思わぬ人はないが、自己を献げ物とした場合、その人の礼拝精神が満足するかといえば、決してそうではない。何となれば、自己が献げ物として聖別せらるる資格なき罪人であることを自覚しているからである。斯かる自覚の起らないような人は、礼拝精神をもたず、礼拝精神をもつ程の人は、己れ自らの罪戻感に悩んでいるにちがいない。潔からざる供物を献げることは律法の厳禁する所である(レビ記22章19〜25節、申命記15章21節、17章1節)。然るに自己に附随せるものは、何一つとして供物となすべき資格をもたないことを発見した人間は極度に失望せざるを得ない。律法を外面的に解する間は、彼は鳥獣の献物によりても心の満足を得るであろうが、律法の根本精神にまで掘りさげて行った時に、神は「犠牲と供物と燔祭と罪祭と〔即ち律法に循いて献ぐる物〕を欲せずまた悦び給わず」と悟るのである(詩篇40篇6節、ヘブル書10章8節、並びにイザヤ書1章11〜14節参照)。
しかし彼は更に反省するであろう、そして、もともと献げるということが、被造物の分際として途方もない思い上った考えであることを知るであろう。汝は何の貰わざる物を持つか、と自問するであろう。神は人間の「家より牡牛をとらず、牡山羊をとらず、林の諸々の獣、山の上の千々の牲畜はみな」神の所有にして(詩50篇9、10節)、これを我物顔して献ぐることは全く身の程を知らぬ者の所為であることを気づくのである。
此事は律法的行為の問題と密接な関連をもっているといえよう。犠牲を献げる行為自体が一種の功徳として考えられ易く、ましてや自己献身により、「焼かるる為めにわが身を与うる(*)」に至ったならば、その功績は神の前に滅ぼす可らざるものがあろうと想像することは常識的アナロギアに属する。」
* 「たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である」(Tコリント13:3)。
「然るに、右述の如く、奉献ということが神の前には事実上無意味であり不可能であることが瞭かになった時、行為の功徳性も亦無効に帰せざるを得ない。アブラハムの場合、行為が寸毫も功徳とは認められず、却って彼の信仰による服従が挙揚された所以はここにある。
斯様にして、人間は律法の心髄を求めて礼拝精神に達し、更に礼拝精神の骨子を求めて、ついに犠牲思想にまで達した。祭壇上の犠牲こそは最も神聖なる神人関係の連繋点であり、ここに於て人間精神は至高至醇の域にまで昂揚される。」
ここで西田幾多郎の金沢時代の教え子で、旧日本キリスト教会の牧師であった逢坂元吉郎の一文を参考までに差し挟みたいと思います。逢坂は戦前、「読売新聞」宗教欄の主筆でもありましたが、進歩的なバルト主義者あるいはカルヴィニストとして、キリスト教や仏教だけを取り上げるその編集方針が右翼を刺戟し、暴行を受けて瀕死の重症を患いました。それ以後、逢坂は急速にカトリック的とも言うべきオーソドックスな信仰に回帰しました。以下は石黒美種編『逢坂元吉郎説教要録 追悼十年記念出版』(教文館、1956年)からの引用(ただし編者石黒がその説教を要約筆記したもの)です(p.103-105)。
「礼拝と犠牲
されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勧む、己が身を神の悦びたまう潔き活ける供物として献げよ、これ霊の祭なり。(ロマ十二ノ一)
ロマ書第十二章には「されば兄弟よ」という書き出しで、「されば」という重要な言葉がある。すなわち第十一章までは信仰のことが説かれ、ここで一段落ついて以後は道徳のことに移るので、この「されば」はその新しい出発点を意味する言葉であると言われる。このことは特に信仰義認を強調する人々が唱えるところであるが、果してこの「されば」を境として然かく截然と二分されるものであろうか。
むしろこの「されば」は道徳よりも礼拝のことを言わんとしているものではあるまいか。すなわちパウロは「されば」に引きつづいて「霊の祭」ということを言っている。己が身を活ける供物として献げて拝むところの礼拝、即ち造られたる者の全体を以て拝むところの礼拝が述べられているのである。
由来、基督教は肉を取って来たり給うたキリストを拝むのであって、ただ霊なるキリストを拝むのではない。されば拝むわれわれもただ霊的にではなく、身を以てするのである。即ち礼拝は形のないものではなく、見える形をもってするのである。これが創造における被造者の礼拝である。カルヴィンの考えでは、われわれは罪があるから見ゆるものを頼りにしなければならないとした。しかし教会とは本来見えぬと同時に見ゆるものであって、教会内の典礼の中に牧者及び会衆が拝んでいる姿を見合って行われるものである。
人の中には二つの自己があって、一方の我は自己を求め自己の優越を他に対して誇りたい自己であるが、他方の我は自己を棄て自己を神に供えようとする自己である。この自己を供物とすることこそ、自己の中にひそむ神に事えようとする犠牲的服従を神にいいあらわそうとするものであって、これが霊の祭であり、愛の礼拝である。礼拝は羔羊の犠牲の道に服うことに外ならない。
罪深い被造物が聖なる造り主に接近しようとする時、その交わりの徴しとして何らかの犠牲の行為に出でざるを得ない。神と人との交わり、このために古来犠牲と燔祭とが行われたわけである。実際、献祭のないところに真の道徳はなかった。犠牲なくして礼拝はない。献げるということなくして拝むということはない。
この事は家庭内においても同様であって、何か一つの犠牲を献げるということ即ち血を流して神に献げるということがなくては、家庭も亦潔まらないのである。」
さて、我々の著者はさらに論を進めます。
「ところが、更に深い省察は、人間の対等関係に就いて斯くまで尊重せらるる犠牲観念も、神に対っての関係に於て考えた時、全く無意味に帰し、却ってその強調が人間の傲慢不遜を表示するに過ぎないことを明かにした。これを理由附ける所のものは、単に人間の汚穢のみではない、彼の被造性が犠牲の意味を滅却するに充分なのである。
それ故、犠牲とその奉献とは、人間対人間の社会関係に於て、その複雑な交渉によりて生ずる種々雑多な空虚や欠陥に対し或はこれを償わんが為、或はこれが刑罰的表示たらしむる為、或はこれに対する感謝や報恩感を満足せしめる為に設けられた表現方式として看る場合には、少なからざる意義が其処に発見されるけれども、更に図に乗って、これを神に対する関係にまでアナロギア的展開を試みた時に、それは実質的に無効に帰し、ただ低級な奉献者にとりての一種の気休めに終らざるを得ない。
然らば何故に、旧約によれば、神が斯かる犠牲を嘉納し給うか。それは決して犠牲奉献の行為そのものを嘉納し給うことを意味しない。嘉納せらるるは、行為の動機に溯って其根底に発見される所の信仰が聖意にかなうからである。アブラハムの場合に於ては、独子イサクを献げた行為ではなく、その行為に導いた信仰である。
信仰は当然その実践に現われる。アブラハムも犠牲奉献の行為に躊躇なく進んでいった。然し、まさにその遂行の刹那に於て、天使の声あって彼を止めた。これ彼をして、人間の最高なる行為の停まるべき限界を覚らしめんが為であった。対人間的関係であったならば、彼は此行為を遂行したであろう。しかしアブラハムは此危機に於て、神と人との関係の如何なるものなるかを天使の声に聞いたのである。
アブラハムは自己に属する最も貴重なるものを献げて礼拝意志を遂行しようと試みたが、其行為は斯くて停止を余儀なくされた。それは、彼が犠牲を献げる必要がないからであるか。そうではない。犠牲はどこまでも必要であるが、人間にはそれを供える能力と資格とが欠けている。ここに於てか、彼の為に、彼に属しない犠牲が神によりて準備された。即ちエホバ・エレである。これは明かに人間的に考えて不可解であり、アナロギアの理解に絶する。それはパラドクス理解に俟つよりほかはない。」
著者の念頭には「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」(マタイ19:26)というイエスの言葉、あるいは「神には、なんでもできないことはありません」(ルカ1:37)という、乙女マリヤに対する御使の言葉があったでしょう。それがパラドクス理解と言われているのだと思います。著者はまたそれが「啓示」であるとしているのでしょう。人間にとって不可解かつ不可能な何事かが実現していくことのうちに、「神の働き」を見るということが、切羽詰まった人間の唯一の希望であると見なされていることになります。それこそがキリスト教信仰の「核心」です。
「ところで、その天より与えらるる犠牲はどのような特質を有するのであろうか。先ず、それは消極的に見て、罪なく穢れなきことを特徴とせねばならぬ。律法も献祭の獣畜に就いてこれを規定した。しかし獣や鳥に罪の有無を問うは無意味である。汚穢云々も問題にならない。この特質は所詮犠牲の本体が人性を有することを不可欠の前提とする。祭壇の供物は実は人間なのである。罪とか穢れとかは、此処では神に対する関係に於て言うのであって、人間以外の何者も、斯かる意味での罪と穢れには没交渉といわねばならぬ。然るに人間は凡て罪と穢れに染み、到底神の前に犠牲たるの価値がない。ここに於て、天より降る人格的犠牲が必然考慮の中心を占めなければならなくなる。
次に、第二の特質として、犠牲が血を流すこと、即ち死を以て始めてその任務を完行し得ることを挙げねばならぬ。だが、此場合に於ても、唯獣畜の血を流すということそれ自体は何等の意味を有する訳ではない。それは完全な犠牲の死を予想しこれを表徴することに於てのみ、始めて意味を生ずる。
第三の特質に至るや、血を流す死は一層深く意味づけられる。それは此の死が単なる死を指すのでなく、詛われたる死であるという事である。しかも、全然無垢なる者が咒詛の的となって死の運命に置かれる事である。これは合理性より最も遠い、絶大の矛盾といわねばならぬ。人本主義的正義感を躓かすものとして、これにまさる背理はないであろう。
斯かるパラドクス理解に属する事項は、その事項だけを隔離して、性急な解決を求めても到底成功するものではない。ここに我等は少しく方向を転じ、献げられる犠牲の側から移行し、これを献ぐる者の半面を考察せねばならぬ。」
著者は慎重に議論を進めていますが、ここに挙げられた三つの特質は伝統的なキリスト教の「十字架」理解を予想させるに十分なものがあります。しかしここには生理的に吐き気を催させるような人間の残酷さが反映されています。
「犠牲を献げる者は誰であるか、即ちそれは人間にほかならない。然し、誰彼の区別なく、無条件に各人がこれを為すかといえば、そうではない。奉献者の資格を有するのは祭司である。祭司ありての犠牲であり、而してまた犠牲なき祭司はあり得ない。両者はその実体に於て不可分、しかもその性質機能に於て相反する。旧約に於てそれが全く異なる二個の存在となっているのは、新約に於て顕わるべき一個の実体の影が、二つの異なる理解の平面に投射されたからである。我等は先ず此の投影に於て、真理の奥義に到るべき予備課程を修得せねばならぬ。
それでは、祭司と犠牲とが、新約的に考えて、一体に帰するとはどういう訳であるか。
我々は既に、犠牲も人格的存在でなければならないことを見た。祭司に就いては、勿論優れた人格が要求される。此処に完全なる人間が両者の合一に於て発見されるといえよう。さきに検討し来ったように、完全なる人間は、個人にして他の一切の人間を代表し、同時に彼等凡てに連帯すべき者である。我々は今祭司に於て代表性の具体を見ることが出来よう。しかして其代表性の決定は神の選抜によるものであった。
「凡そ大祭司は人の中より選ばれ、罪の為に供物と犠牲を献げんとて、人に代りて神に事うることを任ぜられる。……この貴き位はアロンの如く神に召さるるにあらずば、誰も自ら之を取る者なし」(ヘブル書5章1〜4節)。
斯様に祭司は人を代表するに対し、犠牲的人格は人に連帯する者である。いな連帯性を人間的意味に解したのでは浅薄に過ぎるような深刻きわまる連帯性が此犠牲者によりて担われるのである。
「まことに彼は我等の病患を負い、我等の悲しみを担えり。……彼は我等の愆のために傷けられ、われらの不義の為に砕かれ自ら懲罰をうけて我等に平安を与う。……エホバはわれら凡ての者の不義を彼の上に置き給えり。彼は苦しめらるれどもみづから謙りて口を開かず、屠場に牽かるる羔のごとく、毛をきる者の前に黙す羊のごとくして、その口を開かざりき。かれは虐待と審判とによりて取去られたり」(イザヤ書53章4〜8節)。
右の如く考えられた完全なる人間は、ここに於てか、所謂道徳的に完璧なる聖賢大徳乃至ソクラテス的人間とは著しく異なるという事実に面接するのである。彼は個人にして全人類の罪に連帯し、その運命を担う者でなければならぬ。彼の死は全人類の死を意味し、彼の生は全人類の生を意味する。既に始めのアダムに於て一度斯かる運命の鍵の握られていたことを我等は見た。今や終りのアダムなるキリストに於て、人間の究極的運命が試されることとなった。第一のアダムの場合は人間の試みであったが、今度は神の実験である。そして、神の実験に於ては、不完全な方法が幾度も繰返されるのではなく、唯一回の完全な徹底的方法が行われる。それは祭司にして同時に犠牲たるキリストの死を指すのである。
此事に対するヘブル書記者の旧約解釈は独自なるものである。
「キリストは……大祭司として来り……己が(犠牲の)血もて唯一たび至聖処に入り永遠の贖罪を終えたまえり」(9章11、12、26、28節、10章10、12、14各節参照)。」
著者のヘブル書(ヘブライ人への手紙)からの引用はこの先も続きます。旧新約聖書という文脈にはまって、その中で思索を展開することが、「全人類の救い」に関わることとして、今や著者の唯一のかつ排他的な関心事となっています。キリスト教哲学の「基礎工事」に費やした著者の知性は今や全く「神の救いのわざ」に差し向けられています。そのような「信仰」をもう一度外から眺め直すことなど、著者には思いもよらないことなのでしょう。聖書は神の言葉であるという前提、あるいは信仰によって、著者の思考は方向づけられ、拘束されています。ここで、キリスト教を外から眺めている、ラディカルな現代アメリカの聖書学者、バートン・L・マックの『誰が新約聖書を書いたのか』(秦剛平訳、青土社、1998年)から、「ヘブライびとへの手紙」の部分(p.283-290)の主要箇所を引用して見たいと思います。それは「頭を冷やす」ために有効です。
「著者には明確な提言があり、著者はそれを支えるために長々と首尾一貫した議論を展開させる。「ヘブライびとへの手紙」は実際には手紙ではない。それはギリシア人がプロトレプティックと呼ぶ哲学的な勧め、すなわちそれを読む者にある立場の哲学的な見解を受け入れさせることを目的とした小論である。この場合であれば、その見解の主眼は、キリストはキリスト教徒たちの宇宙の大祭司であり、自分の民の罪のために自分自身を永遠に捧げたというものである。そのような命題を掲げているので、著者が長い議論を展開させねばならなかったとしても不思議ではない。われわれがここまでで見てきたイエスの追随者やキリスト・カルトの人びとは誰もそのような思いを抱いていなかった。だがここでの著者は、明らかに、大まじめでそう主張するのであり、真のキリスト教徒を念頭に置いていたに違いない。もし彼らがキリスト・カルトに属するキリスト教徒であったのであれば、彼のこの力作はもっと早い時期に書かれたかもしれない。殉教者を追悼する儀式的な食事はまだ贖罪の捧げ物とはなっていなかった。
二世紀や三世紀の著作家たちが「ヘブライびとへの手紙」に言及することがあったが、その散発的な言及から判断すると、この文書は人びとに広く読まれるものとはならなかった。それゆえに「ヘブライびとへの手紙」は、初期キリスト教の神話づくりの集合的なプロセスの中でこれまでとは異なる方向に転換した知識人のケースなのである。もし著者がその念頭に置いている会衆からヒアリングを得ることができたとしても、キリスト教の歴史のその章は教会の集合的な記憶の中に痕跡を残すことはなかった。彼の小論は、パウロの手紙の集成に加えるに値すると考えたパウロ派の書記のおかげで忘却から救われたのである。それはアタナシウスが三八七年にキリストの礼拝のために勧め、そのため(カトリック的な)キリスト教徒の聖書の一部となった「使徒的」文書のリストの中にこの小論が入り込んだのはその集成の一部としてであった。教会がその注意を「ヘブライびとへの手紙」を支配している主題、すなわち罪を購うためのいけにえとしてのキリストの死という主題に向けたとき、その神話の基盤となったのは、「ヘブライびとへの手紙」ではなくて、最後の晩餐と受難の福音書の物語であった。「ヘブライびとへの手紙」がその展開の中で何かの役割を演じたとは思われない。それゆえ「ヘブライびとへの手紙」は個人の知的な営為、ブリリアントな知性による絶妙な提案の結果であるように見えるが、何の違いも示すことのできなかったものである。何という掘り出し物! 歴史の中の選択的で集合的な記憶のプロセスの中で、残されるものと捨て去られるものの例があげられれば、「ヘブライびとへの手紙」は生き残るはずのなかったものである。まったくの偶然で生き延びた初期キリスト教のこの克己的な空想の飛翔を観察するのは何という特権なのか。それはこの初期の時代から残されてきた他のテクストのどれよりも、キリスト神話によって解き放たれた哲学的な刺戟についてわれわれにより多くのことを告げてくれる。では、この著者がその注意を向けた関心事とは何だったのか?
三つの関心事がこの小論に一貫している。第一はキリスト教徒が「気力を失い疲れ果てて」しまっていることにたいしてである。キリスト・カルトをおざなりに行なう者もいるし、(生ける神から)「離れてしまった」者もいる。これは非常に明確に表明された関心事であり、それは主題としてこの小論の随所に顔を出し、最終の勧告でクライマックスに達する(3・12、5・11、6・4−6、10・26、12・3)。第二の関心事は、ある種の「迫害」が起こったことにたいしてである。著者は明らかに、この困難な時代がキリスト教徒たちによって正しく理解されておらず、彼らが、理解の欠如のために、無気力になり興味を失いつつあると考えている(10・32−35、12・3−4)。そして第三の関心事は、はっきりとは語りかけられていないが、キリスト・カルトを神殿(=第二神殿)で営まれるいけにえの制度を引き継ぐものと見る著者自身の必要である。なぜ彼にはそうする必要があったのか? それはわれわれが解明せねばならぬ謎の一部である」(p.284-286)。
「ここで述べた三つの関心事がどれも互いに関連し合うものであることは、急速に明らかになりつつある。著者は個人的には、パウロのように、キリスト・カルトに全面的に帰依している。だが著者は、パウロとは違い、キリスト・カルトがその本来の緊急性と究極性の意味を喪失する危機の中にあった後の時代の人である。著者は仲間のキリスト教徒をもう一度鼓舞しようとするかのようにして書き、そのためキリスト神話に基本的な殉教論に向かい、殉教者を信仰を守り抜いた範として説明する。だが彼の小論は、その下面では、キリスト神話は正しいものであり、キリスト教徒の群れに加わることは正しいことだったという自分自身の理解を確認し直そうとしているかのように読める。そのため彼は、パウロのように、キリスト神話をユダヤ教の基本的な定義に関係づける方法を求めてかくも多くの時間を費やすのである。彼は、パウロとは異なり、キリスト神話を神殿のいけにえの制度と比較する決断をする。彼はこの決断のためにトラブルにはまるが、それはパウロが想像した他のどんなものよりも大きなメリットをもつものだったかもしれない決断だった。
神殿の組織はユダヤ教にとって中心的なもの、定義的なものだった。だがそれがもはや機能していない今、キリスト・カルトはそれに取って代わったと想像され得るものだった。そのような比較のメリットは明らかである。古いものは終わりになるという議論は必要ではないであろう。キリスト教はいけにえの礼拝にまさるものであると議論すれば、それで十分であろう。そしていけにえのメタファーを使用すれば、人はキリスト教徒がパリサイびとや土地のシナゴーグと行なった激しい争いを再発させることなしに、その移行を記述できたのである。その比較を行なうためには、プラトンの型と模倣/コピーのモデルが有効であろう。宗教共同体としてのイスラエルの歴史が誤っていたなどと言う必要はないであろう。人はただユダヤ教の神殿やいけにえの制度は天にある型を模倣する十分なものではなかったと言えばすむであろう。天にある型と地上の模倣の同じモデルは、キリスト・カルトで使えるものだった。だが、この場合、キリストのいけにえの優越性はそれが礼拝に供したアクセスの中に存するものとなるであろう。それゆえこの著者にとっては、キリスト神話が双方向に、すなわちキリストの従順/ピスティスのための例として、またユダヤ教とキリスト教を比較し対照させるためのメタファー(「いけにえ」)として機能するのを見るや、不確かさと無関心の問題は解決されたのである。キリスト教はそのとき神のいけにえという宇宙の型をあらわにした宗教と定義されるであろう。
著者はこのようなことを言える力量のある者だった。彼はプラトン的な思弁の世界に通暁しており、ユダヤ人の聖書のアレゴリカルな解釈を得意とした。彼はキリスト神話とその論理に完全に精通しており、新しいキリストの会衆がその過去のユダヤ教に結び付けられる方法をよく承知していた。彼はギリシア的な修辞に関しては高度の訓練を受けており、そして自分の概念の体系をつくりあげるためであれば修辞的な議論をすることに問題はなかった。そして彼はそのつくりだそうとした想像の世界に安住できる理論家肌の人物だった。彼の結論となるものは、その神学的な攻撃性はともかくも、哲学的には面妖奇怪なものであろう。だが自分の提案を説明するために彼が書いた小論は、キリスト教徒の想像力の中では非常に魅力的なものにうつったので、不用心な読者はたちまち著者のゲームが演じられたプラトン的な観念の世界にはまることになる」(p.287-289)。
やや呑み込みにくいところもある翻訳ですが、大意は把握できます。これによって、「ヘブライ人への手紙」の著者が初期キリスト教の世界でいかに独創的であったかがわかります。このような論理に「はまった」人間のひとりである我々の著者は、さらにその論述を続けます。ただし紹介の作業はここで一旦小休止します。
「祭司は旧約に於ける重要なる存在なるに拘らず、その存在の真意義は独りヘブル書の著者によりて闡明せられた。そして、其意義は祭司自らが献げる犠牲と不可分にして然も同時に互に判然と区別せらるべきものであるというパラドクス構造を有することを指摘することによりて、非常な鮮やかさを以て闡明されたのである。
祭司は「貴き位」にして、「神に召さるるに非ずば誰も自ら之を取る者なし」(5章4節)であるが、犠牲は最も低い地位に、最も弱い状態に置かれ、これに加えるに、罪を負わされ詛わるるものとされたのである。我等はキリストに於て、そして、只キリストに於てのみ、この両極端の合一と具体を看ることが出来る。大祭司としては完全なる自由を有し、犠牲としてはあらゆる自由を失った。凡てを為し得る王者たると共に、何をも為し得ない奴隷である。一切を有し、同時に何をも有たない。無限に強くして、しかも無限に弱い。斯様な両極性を掴むことなくしては我等はイエス・キリストを到底知り得ないであろう。
キリストは我等の大祭司として、歴史的人間の頂巓 summus であり、それと共にまた犠牲として、その綜括 summa を形造る。それでは、何故にキリストの祭司性がスンムスを表すのであろうか。旧約の祭司には全然この性質が見当らない。ただキリストに於てこれを見るのは、偏に彼の謙虚/ケノーシスによるのである(ピリピ書2章6、7、8、9節*)。我等は「イエスの、死の苦難を受くるに因りて栄光と尊貴とを冠らせられ給えるを見る。……救の君を苦難によりて全うし給う」たのであって(ヘブル書2章9、10節)、「諸もろの天を通り」(4章14節)てついに最高の位に昇り給うたのである。然し、其処に到るまでに、人間の最も低く賎しい地位に先ず降り給うた。即ち人なるイエスの完成は、人間のあらゆる階層を経過せることに存する。これが、神のミクロコズムスに於ける人間的実験なのであった。一個の代表的人間に於ける実験の成功は、直ちに移して以て全人類の救の完成その手段の成功を保証するものである。「彼は御子なれども、受し所の苦難によりて従順を学び且つ全うせられたれば、凡て順う者の為に永遠の救の原となり……大祭司と称えられ給えり」(ヘブル書5章8,9,10節)。
* 「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」
「大祭司としての完全は単なる一個人としての人格完成によりて得られるものではない。人類の代表者としての完全でなければならぬ。即ち、如何なる人とも同じレベルに立ち、如何なる境遇にある人に対しても理解と同情と救の力とを及ぼし得なければならぬ。
「大祭司となりて、民の罪を購わん為に、凡ての事に於て兄弟の如くなり給いしは宣なり」(2章17節)
「大祭司は我等の弱きを想い遣ること能わぬ者にあらず、罪を外にして、凡ての事、我等と等しく試みられ給えり」(4章15節)
「主は自ら試みられて苦み給いたれば、試みらるる者を助け得るなり」(2章18節)
「彼は自らも弱きに纏わるるが故に、無智なる者、迷える者を思い遣ることを得るなり」(5章2節)。」
こうして著者のキリスト教哲学は古来の「キリスト論」(=キリスト神話!)の全面的肯定の境地に到達します。著者の「絶対論理学」とは、実はキリスト論のことであったと言うべきでしょう。
「犠牲としてのイエスを更にもう一度回想して此章を終ろう。
彼の犠牲を何よりも十字架上の死に於て見るべきは勿論であるが、然し、彼の生涯全部が神の羔として献げられた犠牲なることを等閑に附してはならぬ。「死に至るまで順うた」その従順に於て、我等は此事を深く味わうべきである。従順とは、ここでは常識的意味を遥かに超え、自己の自由の徹底的棄却を指すのである、否、その棄却を行う自由意志さへも棄却し去った状態をいう。
自由意志は時間に於て作用するものであった。これを棄却して犠牲状態に入ることは時間を離脱して自己を空間化することにほかならない。イエスの完全なる犠牲、而して十字架の死は、これを神人関係の歴史に於て視るとき、完全なる時間よりの離脱を示すのである。」
ここから著者の「哲学的思弁」が始まります。「自由意志は時間に於て作用する」とはどういうことでしょうか。また「十字架の死は、これを神人関係の歴史に於て視るとき、完全なる時間よりの離脱を示す」とはどういうことでしょうか。この言説を幾分でも理解することができるように、ベルクソンの次の言葉をヒントにしたいと思います。(以下の文章は、市川浩『ベルクソン』(講談社学術文庫、1991年)の中の、「意識に直接与えられているものについての試論」の抄訳からの引用です。( )内は引用者が補足したものです。)
「〈自由の問題の起原〉
われわれはいまや自由についてのわれわれの概念を定式化することができる。
具体的自我とその自我がなしとげる行為との関係が自由と呼ばれる。この関係はまさしくわれわれが自由であるがゆえに定義しがたいものである。じっさい事物(空間)は分析されるが、進行(時間)は分析されない。延長(空間)は分解されるが、持続(時間)は分解されない。ところがそれでもやはり分析しようと固執すると無意識のうちに進行(時間)を事物(空間)に、持続(時間)を延長(空間)に変えてしまう。具体的時間を分解しようとするだけで、時間のもろもろの瞬間は等質的な空間のうちにくり拡げられる。遂行されつつある事実(時間)のかわりに遂行された事実(空間)が置かれる。自我の活動性(時間)をいわば凝固させること(空間化)から始めたのだから、自発性(時間)は惰性(空間)に変わり、自由(時間)は必然性(空間)となるのがみられる。――こういうわけでおよそ自由(時間)を定義すること(空間化すること)は、決定論(空間化)を正しいとすることになるのである。……要約すれば、自由(時間)に関することで、それを解明しようとするあらゆる要求は、それと気づかなくても、つぎの問いに帰着する。『時間は空間によって十全にあらわされうるだろうか』。それにたいしてわれわれはつぎのように答える。流れ去った時間(空間)に関してならそのとおりであり、流れつつある時間(時間)についていうのなら否である。ところで自由行為は流れつつある時間(時間)のなかで生み出されるのであって、流れ去った時間(空間)のなかで生み出されるのではない。だから自由(時間)は一つの事実であり、確認されるもろもろの事実のなかで、これ以上明瞭なものはない。自由(時間)の問題が含むあらゆる困難も、問題そのものも、持続(時間)に拡がり(空間)と同じ属性を見つけ出そうとし、継起(時間)を同時性(空間)によって解釈し、自由(時間)の観念をあきらかに翻訳不可能な言語(空間化された観念)でいいあらわそうとすることから生ずるのである」(p.156-157)。
我々の著者もこのような時間の観念を持っているように思われます。しかしそれをいきなりキリスト論に適用しようとしています。
「離脱は時間の切断に於て始まる。「天開け」とか「宮の幕裂け」とかいうような言表が示唆するように、カルバリ丘上に於て歴史そのものが切断されたのである。それは外部的のものではない。存在性の根本的性質に関する切断である。アナロギア構造に対するパラドクス構造の侵入であり浸透である。
凡ての切断は神より来らねばならぬ。人間には自ら切断を与える能力はない。真の意味に於て、人間は自殺さえも出来ない程無能力である。肉体を殺すことは出来るが、それは真の自殺ではなく、到底切断に値しない。人間的の低い立場にありて考えてさえも、自殺によりて其人の道徳的責任が解消されたとなすは極めて浅薄な考え方である。況や其人をあらゆる責任に於て考えた時、到底彼は自殺を以てこれを解決し得ることは期し難い。即ち、自己に於て創造能力を欠く者、無より有を造り出し得ない者は、また自己を終末づけることも、有を無に帰せしめることも出来ない訳なのである。随って凡ての切断は神に俟たねばならない。神がキリストによりて世界と人間とを創造したのであるならば、やはりキリストによってのみ切断が与えられねばならぬ。
此切断は審判を示唆し、究極性に於て万事を考えしむべく、基督者をして「十字架」の一語にその無尽蔵の意味を集注せしめたる所のものである。然し此処に見出される終末性は十字架の一面に過ぎない、これに対応すべき復活すなわち再創造に連結しなければならぬ。両者相俟って、其処に独自の原理が全備されるのである。」
歴史(時間)の持続を切断する者は神である、そこにキリスト論の壮大なドラマがあると著者は言います。十字架は切断であり、復活は再創造であると言われます。人間の歴史の根本的な「やり直し」はこのドラマにかかっていると言いたいのでしょう。
「「夕あり朝ありき」これ天地創造の各一日の数え方である(創世記1章)。そこには、これを単にユダヤ式習慣に過ぎないと言い切ってしまうにはあまりに意味深い何ものかがありはしないか。これは聖書全体を貫く思想である。先ず端初が存し而して後に終末が存する、朝あり夕あり、という考えは人間的であり、常識的といえよう。即ち(( ))形式である。それをアナロギアに於て我等は見た。然るに先ず終末があって然る後に端初を見る、即ち ))(( 形式である、これはパラドクスにほかならぬ。聖書民族は此論理を頭脳の遊戯とはせず、暦日にまで織り込んで、生活の大則となして居た。
パラドクスは切断の原理である。「夕あり朝ありき」も創造の過程を切断して六日となした。この切断は特殊な性質をもっている。アナロギアにも切断はあり、それによって物事の段落づけと整理を行うけれども、それ以上の意義をもたない。これに反し、パラドクス切断は、一面に於て既往に完了性を与え、他面、此完了性を基礎として新しいスタートを起さしめる。創世の各日は「神之を善しと観たまえり」とある如く、完全な姿を以て顕われたが、その完全は静止的完全ではなく、活動と生産への準備完了を意味した。」
一日が夕方から始まるというイスラエルの人々の慣習をパラドクス論理の具現化と見るのは、著者の「聖書民族」への思い入れというものでしょう。しかしその習慣が我々の常識に逆らっているのは確かです。そこには独特の「前夜」感があるのかもしれません。
「「夕あり朝ありき」の原理はキリストの生涯に於て除外例を作ることがあり得ようか。否、彼に於てこそ其究極的意義を発揮せずには措かなかった。十字架の黄昏は旧約の完成を意味したが、それは復活の黎明によりて新しき希望となり、スタートとなった。十字架なき復活が無力であるように、復活なき十字架は無意義である。
キリストの復活は福音に於ける奥義中の奥義に属する。パウロは此一事実が無いならば、基督教的信仰は瓦解し、無意味に帰することを指摘して信者の猛省を促した。福音の立つも倒るるも、唯イエスが甦りしや否やの一点に懸かって居る。
然し、歴史家の記録や考証に此事実を求めても無益である。既に多くの努力が此方面に払われて、しかもそれらは何等の実をも結んでいない。また無効果であることが当然なのである。何となれば、これは所謂歴史的事実の自然性を超越した事実に属するからである。此事実の証明は当時の基督者の証言と、我々の銘々の心の証にこれを求めるよりほかはない。それは常識主義者にとりては決定的でないと思われるかも知れないが、その人々は更に高い歴史的存在にこの復活の事実が属することを未だ理解していないのである。
キリストの死と甦りにより、人間は高度の歴史存在に目覚むる者となった。高度の歴史とは即ち神に関連した人間の時間的存在そのものを指すのである。」
原始キリスト教の復活信仰の成立にはミトラ教の祭儀が関与していたと考える人もいます。しかしその端緒に何があったのでしょうか。私はかねてそこには弟子たちの「想起」の働きがあったのだと考えてきました。イエスの死後、弟子たちは何かのきっかけで生前のイエスをありありと想起したのだと思います。イエスが生きていた当時の言動が、まざまざと思い出され、その意味が了解されたと思われる瞬間があったのでしょう。いわば「神話づくり」の核となる体験があったのだと思います。そのことに関連して、大貫隆の『イエスの時』(前掲書)の「第W章 原始エルサレム教会の復活信仰と贖罪信仰」の「一 復活信仰の成立」の冒頭の部分を引用して見たいと思います。
「前著『イエスという経験』で私は、原始キリスト教の成立を一つの覚醒体験、あるいは目覚めの体験から説明した。ペテロを筆頭として、イエスの処刑後に残された者たちは、いずことは知れず逃亡した先に蟄居しながら、神不在の暗黒の極みの中で、イエス自身にも「謎」であった十字架の出来事の意味を必死に問い続けた。その中で、イザヤ書五三章(「苦難の僕」の歌)をはじめとする旧約聖書の光に照らされて、「謎」と見えたイエスの刑死が、実は神の永遠の救済計画の中にはじめから含まれ、旧約聖書の中でも予言されていた出来事として了解し直されたのである。旧約聖書そのものの新しい読解としての「謎」の解明、それを私は解釈学的な出来事とも呼んだ。
生の内側に収まらない深刻な問いを抱えてしまった人間が、それまで自分がその中で育ち、教育されてきた民族の古来の伝承に立ち帰り、答えを求めて、それを繰り返し読み直す。問う者が答えを発見したと思う瞬間は、その伝承に対する全く新たな読解が成立する瞬間と同じなのである。その瞬間、世界全体が変貌する。自己と世界についての新しい了解が出現するからである。 (『イエスという経験』二二一頁)
もちろん、当事者である弟子たち自身は、彼らのこの経験を「解釈学的」などという現代的な表現では呼ばず、「啓示」と呼んだ。神が霊を通して彼らに与えてくれた認識だと理解したのである。聖書の世界で「啓示」とは、ただ単に「知」の問題ではない。むしろ、人間の「存在」全体にかかわる出来事を意味し、「生」の変革を引き起こす。それを現代的、人間中心的に解釈学的な出来事と言い直すことは、果たして適切なのか、と思われる向きもあるかも知れない。しかし、この懸念には特定の思い込みが働いているように思われる。すなわち、解釈とは所詮一定の与えられたテクストあるいは伝承を読解する「知的な」出来事、あるいは「頭」の中の出来事であり、解釈学とはその技法を解明してくれる「知の技法」に過ぎないという見方である。そのような主知主義的な「解釈」では、人間は変わらないというのである。しかし、この見方は、「解釈」と「解釈学」を不当に矮小化するものと言わなければならない。M・ハイデガー、H・G・ガダマー、P・リクールの解釈学の目指すところは、いずれも、人間の「存在」に関わる出来事としての「解釈」である。「解釈」は人を変えることがあるというのが彼らの解釈学の共通の前提なのだと私は理解している」(p.123-124)。
ここには形而上学化されたキリスト論とは別次元の聖書理解(解釈)が示されています。しかしそれは我々の著者の与り知るところではありません。
「我等はここに斯様な切断の結果を一個の課題としよう。それは歴史の時間性に対して、歴史の空間性を形造る。空間は時間の切断面であるという思想は正しいが、それを概念化するときは、平板な自然観に堕する危険があろう。神人関係の歴史に於ては、その切断によりて生ずる空間面は究極性を有し、時間的経過を自己の裡に綜悉する。そして斯かる空間に於て、我等は完全性を見るのである。
完全は全体性を含む。ここに謂う全体は濃縮された全体即ちミクロコズムスであり、「宇宙の活ける鏡」としてモナッド的存在である。此ミクロコズムスは宇宙的マクロコズムスに対応する。
完全についての聖書に於ける最初の叙述は創世記に見出される。神は創造の各段階の終りに於て「之をよしと見給えり」、而して六日の終りに於て創造の一切が「善し」即ち完全であったことを認め給うたと録されて居る。凡ての創造は終了し、(( ))形態を作すことがそこに示されて居る。継続的に、のっぺらぼうに創造は続けられるものではない。それには一々段落がある。其段落は無際限に有り得るであろう。
イエス降誕に際し、天使が合唱して祝したのは「之をよしと見給えり」を反響する。又ヨルダンに於ける受洗後の「之れ我心に適う愛子也」なる天よりの声に及んで其反響は愈々拡大された。これらは皆啓示の歴史の段落性を示すものである。また変貌の山の如きも示唆する所が多い。」
キリスト教あるいは宗教が人間の想像力を刺激し、そこからある種の形而上学が生まれて来るということの見本が、ここにあります。著者は聖書的世界観に没頭する者として、自分の哲学を紡ぎ出しています。しかし著者の言うことを、宇宙の生成、あるいは生物の進化には段落(段階)があると読み替えてみたらどうでしょうか。そこにはあながち荒唐無稽とは言えない側面があるでしょう。ただしそれが根本的に「すべてよし」とされる世界であるかどうかは、人によって判断の異なるところでしょう。
「完全性ということは基督教を特徴づける最大要素である。それは絶対性の具体せるものである。「在りて在る者」、存在性の究極せるものが完全性である。プレローマである。先ず「天の父の完全」が根本的事実として措定される。次に「父の完全なる如く完全なれ」と人間に対して絶対的要求が発せられる。而して此の神よりの要求は最初にはただアナロギアに於てのみ理解された。即ち律法への適応の完全さと想われた。なる程それは(( ))であって、人間的完全性を示すものである。「之を行う者は活くべし」。律法は調和原理である。しかし人間はこれに対する調和を試みて、悉く失敗した。然るに律法の成就者として其儀文性を破壊しつつ其精神の完全性を体現したのはイエスであった。それは彼の矛盾が律法の調和性を活かしたからである。山上の垂訓は此角度から味読すべきだと思う。此処には既に十字架の原理が遺憾なく闡明されている。 ))(( は到る処(( ))を切断し、そこにミクロコズムスとしての完全をあらゆる方面で示した。然しそれを山上の説教だけに制限する必要は勿論無い。イエスの教説の九分通りは実にミクロ的完全にあった。小なる者、無価値と見ゆる者に対する彼の大なる関心はその一端の顕われと見られよう。勿論教説のみではない。否教説は彼の行為、人格の深みに隠れた真理の反映に過ぎない。彼の一生は一日又は一刻に綜悉されている。芭蕉は自分の日々の句が辞世であると云っている。イエスの言は凡て十字架の真理ならざるはない。」
イエスが天の父の要求に従って自他に「完全性」を求めたということは、大いにありうることです。その完全性の要求がこの世界では破綻すべきものであったということも事実でしょう。そこにイエスの矛盾があり、逆説的な生があったとも言えるでしょう。問題は、著者がそのイエスの生涯とキリスト論的テーゼ(キリスト告白)とを、「理論的」に区別しない点にあります。いくら復活は「高度の歴史存在」(高次のリアリティ)であると言っても、人間イエスと復活のキリストとを連続的に捉えるところに、著者の「古典的」な信仰があります。そこから「絶対性の具体」(=受肉)という表現も生まれてきます。
「イエスの一生と雖も、彼の永遠のロゴスとしての存在と比較すれば瞬間性を示すに過ぎない。而して其のはかない此世の生涯たるや僕の貌をとり、最も卑賤なる謙虚/ケノーシスに於て過された。然るに其はかなさの裡に盈ち満てるもの/プレローマがあった。永遠が宿って居た。「未だ父を見し者なし(註、神の完全性を其マクロ的形態に於て見し人なし)、唯イエスのみ之を顕わす(註、彼のミクロ的形態に於て父の完全性を表現す)*1」。これプレローマである。「恩寵と真理に充てり(*2)」。プレローマとは何ぞや。ヨリ高い次元の存在がヨリ低い次元の存在中に宿ることである。それは有限であるけれども、却って其有限に於て無限が始めて見出される。その無限は量的ではない、無量寿無量光では充分に表わせない、「恩寵と真理」とは此質的無限を表わさんが為の言葉である。」
*1 「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1:18)。
*2 「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1:14)。
「放棄(謙虚)と充溢(充満)」は宗教の一大テーマです。それはキリスト論的にも表現されています。それがケノーシスとプレローマです。「(父のひとり子の)めぐみ(恩寵)とまこと(真理)」とは、(阿弥陀の)無量寿無量光という(その利益が三世にわたって限りがないという)量的な表現によっては充分に言い表せないと、著者は言います。しかし、下手をするとその言い方は他宗教を貶めるキリスト者のヒュブリス(傲慢)、すなわち謙虚とは正反対のものとなります。
「イエス・キリストの生涯に於て、我等は全宇宙の生涯(歴史)の精髄を見る。降誕は創造に比すべく、十字架の刑死は世の終りに相当する。処刑の叙述に於て、福音書の記事が終末的なる筆致を用いて居ることはこれを示唆するものでなくてはならぬ。大なる地震、裂けた幕、聖徒の甦り等の不可解なる叙述があるが、これは記者に於てイエスの死を以て世界の終焉に対応せしめる意図(たとえ意識的ではないにしても)のあったことを示しているとおもう。」
キリスト論をナザレのイエスの生涯に直接無媒介に投影させるものこそ信仰であると言うべきでしょう。同時に、その信仰はキリスト者に全宇宙史的な展望を与えます。キリスト教的知性は過去二千年の間、その構図によって、壮大な宇宙論を展開してきました。救済史は宇宙史と重なり、アルファからオメガに至る、キリストの宇宙支配を謳い上げてきました。ひとりの人間が神にまで高められたことによって、キリスト教は想像力の飛翔を手に入れたと言うことができます。一例としてテイヤール・ド・シャルダンの文章を引用してみます(『現象としての人間』美田稔訳、みすず書房、1964年)。
「ほとんどすべての古い宗教にとって、「近代精神」を特徴づける宇宙観によって起こった革新は、危機であった。そのなかでこれらの宗教は、まだ死滅していなくても、二度と立ち直れないと予想しうる。支持しがたい神話にかたく結ばれ、あるいは厭世観と受動性との神秘主義にはまりこんだそれらの宗教は、明確な無限性にも、時間=空間の構成的要求にも、順応することができないのである。それらはもはやわれわれの知識の環境にも、われわれの行動の要求にも対応しない。
ところで、対抗する諸宗教をいちはやく消滅させるほどの衝撃によって、最初は動揺をきたしたと考えられたキリスト教は、逆に前方へ躍動するすべての前兆を示している。なぜなら宇宙がわれわれの眼に見せた新しい次元の事実からいって、いまだかつて見られなかったほどの、より以上の力強さと、世界におけるより以上の必要性とが同時に現われるからである。
より以上の力強さ。キリスト教的見解は、生き、発展するために、大きさと関連性とをそなえた雰囲気を必要とする。世界が広くなればなるほど、またその内的結合が有機的になっていけばいくほど、神の托身(受肉)という思想はいっそう輝かしい勝利を博するだろう。それは思いがけないことだが、信者たちがやっと発見しはじめたことである。一時は進化論におびえたキリスト教徒も、今では進化が神を自らのうちに実感し、神にいっそう自己をささげうるりっぱな道をもたらすことに気づいている。自然が静止した多くの層の素材からなっているとするのであるかぎり、キリストの普遍的な支配は厳密には本質的でない付加された機能にみえることがあった。しかし精神的に収斂する世界のなかでこのキリストのエネルギーが、どれほどさし迫って、またどれほど強烈に現われたことか。もし世界が統一され、キリストがその中心を占めるならば、聖パウロや聖ヨハネのキリスト形成史は、われわれの経験において、宇宙形成の頂点となる精神形成から待望され、また望まれる延長にほかならなくなるだろう。キリストは有機的に自らの創造の威厳をおびている。またそのために、比喩によってではなく、運動する世界の長さ、高さ、深さ全体によって、人間は神をうけとり、見出すことができる。神を、自らのからだ、心、魂全体によって愛するだけでなく、統一にむかう宇宙全体によって愛すると、文字通りに言うことができる。それこそ空間=時間においてはじめてなしうる祈りである。
より以上の必要性。見かけは逆のように思われるかもしれないが、キリスト教は科学によって驚くばかり拡大された世界の新風土に馴化し、成長したと考えるのは、じっさいには起こったことの半分しか見ていないことになろう。進化はキリスト教の世界観と憧れに、いわば新しい血液を注ぎこんだのである。むしろ逆に、キリスト教的信仰は進化を救い、あるいは進化の働きを引継ぐ用意さえしているのではないか?
精神の頂点には人格(ペルソナ)的存在の優越性、その勝利がなければ、地上で進歩をのぞむことはできないということをわたしは示そうとした。ところで現在精神圏(noosphere)の全面においてキリスト教は、信仰と希望とが愛徳によって完成する完全な、かつ無限に完全になりうる行為において、世界をじっさいに、有効に包摂するに足るだけ大胆で、進歩的な唯一の思想の流れを示している。現代の世界でただキリスト教だけが全体とペルソナとを唯一の生命活動において綜合することができる。キリスト教だけが、われわれを運ぶ激しい運動を活用させるだけでなく、それを愛するようにさせるのである。」
我々の著者の論述に戻ります。
「ケノーシス・プレローマは一個の構造体に於て存在すべきものである。此矛盾構造こそは即ち犠牲に於て具体する。充ち満てる者が自己を空しうしたのが犠牲である。而して犠牲はその儘で終るべきものではなく、再び充満さるべきものである。尤も、其結果を見越しての自捨は犠牲ではない。と云って、此性質の見透しは或程度まで犠牲の価値を知る人にはついて居らねばならぬ。ここにも矛盾がある。これは非常にデリケートな点と云わねばならぬ。イエスの犠牲は其ケノーシス、プレローマに於て絶大のものであるが、彼には栄を享くべき自己の見透しに於て勿論欠くる所はなかった。それにも拘らず、「わが神、わが神、何ぞ我れを捨て給うや/エリ・エリ・ラマ・サバクタニ」の十字架上の叫びに於てその見透しは絶たれて居る。これはイエスの最後に於ける唯一個の非難として英雄主義者流によりてれを覘われる攻撃点であるが、それは却って犠牲の二重の構造を知らざる攻撃者の浅見を暴露するものと云わねばならぬ。」
イエスの十字架の死は覚悟の死であるか、本人に不測の死であるかという論争に関わって、著者は「デリケートな」、「犠牲の二重の構造」という理解を提示します。それはあらゆる角度からの問いに答えるための「苦肉の策」と言うべきでしょう。この二重の構造の意味は、先に述べられていた、献げる者(祭司)と献げられる者(犠牲)との二重性がイエスにおいて合一しているということでしょう。十字架を神の行為として見るとき、どうしても避けることのできない「矛盾」がそこにあります。
「然し右に述べ来ったスンムスが真の完成なる所以を我等が了解し得るのは唯信仰に於てのみである。換言すれば、神の側から見ての完成であって、これを人間的観点から見ての完成ではない。人間としての経験を基礎として我等の立場から考えるならば、それは完成ではなくて寧ろ端緒である。イエスによりて置かれた基礎の上に、これから構築されるべき事項に関する。
「汝等は……神の建築物なり。我れ(パウロ)は神の賜いたる恩恵に随いて熟練なる建築師のごとく基を据えたり……既に置きたる基のほかは誰も据うること能わず、この基は即ちイエス・キリストなり」(コリント前書3章9〜11節、またエペソ書2章20節、ペテロ前書2章6節、イザヤ書28章16節参照)。
キリストが単に基石であり、我等がその上に建てるのなら、所謂完成とは唯土台の完成に止まるではないか、と合理論者はいうかも知れないが、それは偏平な見方である。このとき一切が完了したのである。神の側に於て見るとき、凡ては成就した。ただ人間の側から見れば、基石が据えられたことを意味する。ここに重要な二重性が観取されねばならぬ。この矛盾は矛盾なりに信仰的処理を行うべきである。
我等は聖書真理の一大パラドクス原理として、これを左の如く表現することが出来よう。
神に於ける完成は恒に人間に於ける出発点である。
勿論この出発はヒューマニスティックに解すべきではない。人間が自己の意志と計画によりて事を為さんとするに非ず、唯神のプランに準拠し、神の能力に依存して働きを開始するのである。さればこそ創造的であり、そこに真の「新しさ」が生ずる。新約即ちそれである。」
著者が見ている「矛盾」は、十字架に神の贖罪の行為を見ることにあるのではなく、「神に於ける完成は恒に人間に於ける出発点である」ということにあるようです。
「新約は、この視角から見るならば、実にペンテコステを以て出発点とするということも出来ると思う。それまでは旧約の完成時期と看做してよい訳である。然し、一方、イエスの降誕を以て新約の端初となすことも動かし難い論拠の上に立つといえよう。さきに、イエスの地的生涯を以て旧新約の交錯点と述べた理由は其処にある。彼の一切の言、一切の行動は終末と端初との緊密なる結合としてのみ我等の理解に入り得るのである。」
ペンテコステ(聖霊降臨)、すなわちイエスに従った者たちの「集団的覚醒体験」に事実上のキリスト教の出発点があったとは、よく言われることです。そしてイエスの生涯(特に公生涯と言われる伝道活動の時期)がその覚醒体験の下地となったということは、確かにその通りではないかと思われます。しかしその覚醒体験は、後にきちんと定式化されたキリスト論、あるいは三位一体論から解釈されるべき事柄ではなく、大貫隆が述べているように、もっとプリミティブな出来事だったのではないでしょうか。すなわち弟子たちの追憶的解釈行為が突破口を見出し、その理解が一挙に集団全体に開示され、共有される出来事だったのではないでしょうか。
この章はここで終わり、次に「罪の人間学」の章が続きます。
第十三章 罪の人間学
「以上、専ら旧約の達成/プレローシスとしてキリストの聖業を看来ったが、その省察には未だ重大なる一面が欠けていた。というのは、キリストによりて代表せられ、また連帯せられた人間自体が究明されていないからである。救わるべき人間の性質と状態が覚知されずしては、救拯の偉業は到底理解し得ないであろう。ここに人間学的考察が要求される所以である。尤も人間を自然的存在として、乃至は自己充足的な社会存在として看ることは、此処では最早その必要を見ない。要する所は神に関連する存在としての人間的考察である。」
こうして著者は聖書的人間学とも言うべき「罪の人間学」の考察に取り掛かります。
「「自己を知れ」という標語は、基督教哲学の場合に於ても妥当する。但しそれはソクラテス的用法とは著しく異なった意味、然り正反対の意味で用いられなければならぬ。即ち、ギリシャ哲学が、人間を究極に於て肯定せんが為に導入した方法は、彼を絶対に否定せんが為に用いられるのである。
而かも、その否定たるや、単なる知的なるもの抽象的なるものではなく、全人格的否定である、具体的否定である、寸分も仮借なき全般的拒否である。「無知をもて道を蔽う者は誰ぞや、我は自ら暁らざる事を言い、自ら知らざる測り難き事を述べたり……是をもて、我みづから恨み、塵灰の中にて悔ゆ(*)」とヨブのなしたような自己否定である。
然しながら、否定する為には、先ず自己を知らなければならぬ。自己を主張し肯定するその自己を知らねばならぬ。斯くて後にそれを拒否するのである。そこに始めて真の否定が生れる。」
* ヨブ記42:3〜6
かつて全共闘運動の頃「自己否定」という言葉が使われました。しかし自己を「絶対に否定」するとか、「全人格的否定」とかいう言葉には由々しいものがあります。キリスト者が「神に直面する」というときには、このような「寸分も仮借なき全般的拒否」に出会うと言うことなのでしょう。
「此絶対的否定に関連して、聖書独自の思想又は原理と呼ばるべきものがある、それを罪と名づける。
罪とは何か。一言以て概括すれば、神を離れたる人間の状態そのものを特質づける所のものといえよう。神を離れた、というだけでは表現が不充分かも知れない、神を離れ、叛き、忘れ、全く知らない状態に立至った人間の立場を指していうのである。それは第一に、神に造られ、神によりて生存する人間であることを予想する。自然に発生し進化し来ったものとして人間を見るならば、それは我々の此処に考えるそれとは異なった思想圏に属する人間であろう。」
人間は「抑圧・分裂・対立・離反」の現実を生きています。それは「自然に発生し進化し来った」人間の現実です。その現実がキリスト教においては「神を離れた」状態として思念されています。しかし人間を自然史的過程の所産と考える人を「異なった思想圏に属する人間」として斥けるところに、著者のキリスト教的イデオロギーがあります。その人間の現実を棄却するということは、人間が自分たちの現実を変えるべく「解放・統合・融和・一致」(「LIFE論再考」参照)という目標に向って実践することを意味するでしょう。キリスト者はそれを神との一致、神との和解と考えるということであって、それは人間の解放が独占的にキリスト教の救いにかかっているということを意味するわけではありません。
「斯かる被造物としての人間が、神を離れ、人間本位の立場に立った時、其人間の罪が問題となる。いったい人間本位ということは自然倫理学(宗教倫理学に対す)から見て寸毫も非難されるべきことではない。然るに聖書的見解は此処に罪の根底を見出すのである、創世記楽園誘惑の物語は其比類なき劇的叙述というべきであろう。」
自然倫理学と宗教倫理学の対立それ自体が問題なのであって、人間本位の生き方は「自然倫理学」的に見ても、必ず肯定されるべきものとは限りません。むしろ創世記こそが人間中心的な世界観をもたらしたと指摘されているのは、今や周知のことです。
「これを自然倫理学より見るに、蛇の教唆に於て、またアダムとエヴァがこれに従いたることに於て、一点の非議すべき点も見ない。否、「目開け、神の如くなりて善悪を知るに至る」ことは却って人間の理想であるとさえ言えよう。それは自由意志の道徳観に少しも悖る所はない。然るに聖書思想は其処に罪を見出している。それは必ずしも一概にヒューマニズムを排撃することを意味しない。唯、ヒューマニズムを究極のものと考えた場合、聖書的人間、即ち被造物としての人間は神に対し背戻の立場を占めると解するのである。
本来神と緊密に関連している筈の人間が、神より離れて自己本位の立場をとった場合、本来あるべかりし状態とは異なった事態がおのづから其処に生ずる。その事態を中心として人間本位の人間を研究するのが即ち我等の罪悪論即ち罪の人間学にほかならぬ。」
本来あるべき人間の様態が「神と緊密に関連している筈の人間」であるとされます。分別知によって失われた人間の本来の姿が、創世記では「失楽園」以前の人間として想定されています。その神話が指し示している人間の理想的状態は、人間の堕罪の状態が逆照射されたものです。ここで言う人間の本来のあり方とは、今の人間の現実から見て、人間がそうではなかった時代があったということを回顧的に振り返ってみた状態のことです。それは人間の願望の反映でもあります。ただそれだけのことです。
「それ故、罪とは、此処では、常に、神に対する人間の関係様態を示す言葉である。それはまた、人と人との関係に就いても問題となるが、其場合と雖、常に神に準拠してのみ意味を生ずる。自然人として考えられた人と人との関係はその儘では罪悪範疇の圏外にある。法律的罪はもとより、道徳的罪と雖も、神に関連して考えられない限り、やはり圏外にある。」
著者は、キリスト者一般がそうであるように、「神」という観念に振り回されています。もはや「擬人化」もへったくれもありません。罪は、本当は、「現象学」的にあるいは経験論的に考察されるべき事柄です。言い換えれば、「事実」として考察されるべき人間の現実であって、キリスト者がひとり抱え込むべき問題ではありません。しかし著者の秀でた知性は「信仰」によって「抑圧」されています。
「神を念慮の外に置いた人間に於ては、法律的たると道徳的たるとを問わず、其罪悪は凡て相対的に観られるであろう。これに反して、神に対する罪悪及び神に準拠して考えられた人間間の諸罪悪は絶対的である。即ち、いとも小さい罪を犯した者も、大罪人と等しく審かるべきであって、其処に人間的な斟酌考量の余地はない。罪を犯せる魂は死すべしとは絶対的基準である。「一つの咎によりて罪を定むること凡ての人に及べり」(ロマ書5章18節)。
この絶対性は、更に一個人の罪を全人類の罪として認める。これ即ち連帯性である。」
罪の連帯性とは、人間が徹頭徹尾社会的存在であるところから来ています。「加担・連累・結託・習性」としての人間の「社会的罪」は、人間の現実を規定しています。アダムの罪が全人類に及んだということは、その現実の神話的表現であって、その限り真実です。そこから「衆生無辺誓願度」という祈願も生れてきます。
「以上は自然倫理学の相対的人間の規準から見れば不合理又不都合極まるものと云えよう。然し、我々は温柔な人情観に捉われては、此大問題の真相には触れ得ない。聖書は相対性を無視しないで、それに適当なる位置を与えることを知るが、然しそれを過重視して絶対性を侵食する場合には、断固としてこれを許さない。」
著者は、このような物言いが、いかに権威主義的かつ抑圧的であるかということに気づいていません。ここから必ずキリスト教絶対主義が帰結してきます。そしてその結果は罪の上塗りであって、決してその解決ではありません。
「罪の問題に就いて、我々は性急であってはならぬ。それは極度に深遠な問題であり、その構造と性能とは複雑無比である。罪は関係に於て存するが、然し、其関係は他の如何なる関係にもまさって微妙なる、神と人との関係である。また人と人との関係を神との関係に於て規定することである。而かも、神が人間の創造者且つ支配者であるに拘らず、人間の自由意志が其処では主要な役割を占めて居る。それ故此問題の適切なる解明は冷静と忍耐を要求する所多大であって軽々しく定義を与え、論断を下すことは慎まねばならぬ。」
ここで著者はキリスト教の一般的提題に立ち返って、自ら「冷静と忍耐」を取り戻そうとします。そして話題をさらに転じます。しかしその前に波多野精一が罪についていかに論じているか、『時と永遠』(前掲書)の「第七章 永遠性と愛」から、その一部を引用してみます。その章の「五 罪 救い 死」の冒頭の部分(四五の全文)です。
「ここよりして吾々は時間性と「罪悪」との親密なる連関へと導かれるであろう。時間性は主体の状態、しかも従うべく強いられる運命的状態であって、罪悪と同一ではない。時間性そのものに罪悪を置くならば、永遠性も時間性の単純なる否定に過ぎぬ無時間性に求められ、かくて時を知らぬ純粋の存在・純粋の真理の観想に身を委ねることが、時間性の克服の道となるであろう。愛において永遠性を発見した吾々にとっては単なる時間性が罪悪そのものではないことはすでに明かである。しかしながらそれは何等かの意味において罪悪の帰結でなければならぬ。愛より従って神への従順よりの離脱、神聖者への不従順反逆こそ罪悪である。かかる罪悪は時間的存在の根源にあって永遠よりの墜落と時の発生とを惹き起す。すなわち、罪の報いは時間性とそれの徹底化である死とである。
時間性及び死の根源に罪があるということは、その罪を人間的主体の個々の動作に帰属せしめることの誤謬を明らかに示すであろう。それは永遠より時を発生せしめる根源的動作において求められねばならぬのである。しかしながら人間の現実的生はいつも時間性の性格を担う故、その動作は時に先立つもの、生れる前のものでなければならぬ。かかる言い方はすでに時間的規定によるものであり譬喩的でしかあり得ぬはいうまでもない。古より宗教的及び哲学的想像は、例えばヘブライのアダムの説話の如く或はプラトンの「パイドロス」における魂いの墜落の説話の如く、具体的形容とこの世ながらの潤色とをもって理解に役立とうとしたが、超時間的堕罪というが如きは吾々のあらゆる表象や概念を超越し、勿論理論的には全く近寄り難き事柄である。吾々はすべての時間的動作・全き時間的存在の根源において、それに先行する制約として、それの本質的性格を規定し付与するものとして、永遠と時とを繋ぐ何らかの動作を前提すれば足りる。これは個々の時間的動作の根源にあるものである故、神学的乃至哲学的思索はこれを「原罪」「根本悪」などの名をもって呼んだ。この原罪は動作の時間性を超越して過去の動作をも支配するものである以上、言い換えれば、過去の自己に対する責任という事実が明かに示す如く、現在を去って無に帰することが原罪の支配よりの解放を意味せぬ以上、過去の克服としての永遠性の光はここにも明かに反映している。さて、原罪は人間的主体の動作を単純なる直接的なる自己主張とならしめる。時間的なる個々の動作の罪悪性は、この自己主張の直接性に基づき、それを克服して愛の実現の基体となすを拒み、かくて神の愛に対する不従順の態度を取るに存する故、有限的主体にとっては時間性の克服はこの根源的罪悪のそれでなければならぬ。
罪の克服は宗教的用語においては「救い」又は「救済」と呼ばれる。それは真の有限性へ主体の本然の姿への復帰として、神聖者の恵みによってのみ行われ得る。本然の姿とは、主体が自ら固有の力によって実現する存在の仕方をいうのでなく、自己が全く無に帰し彼方より与えられるものによって充さるべき空虚なる器となることをいうのである。すなわち救いは創造としてのみ行われる。被創造者としての本来の面目を自ら放棄して、あたかも自ら創造者であるかのように、ただひたすら自己の主張にのみ耽り、そのため却って壊滅の道をたどるに至った主体を、徹底的に無に帰せしめることによって、新たなる主体性・真の有限性を与えつつ愛の主体として創造する――これが救いである。この救いは、自然的文化的主体が恵みの光に照されて愛の閃きを示す限り、すでにこの世にはじまるといいうるであろう。しかしながら、この世の続く限り主体の態度はなお自己主張であり、それの生の性格はなお時間性を脱しない。現実的生の続く限り罪も時間性もなお克服されずにある。かくの如き生はいかにして愛の閃きを示しうるであろうか。示されたと思われるものは、むしろ自覚を惑わす鬼火の如きものではないであろうか。救いは全く神の恵みによる事柄であって、人間が自己省察によって知り得る自己の状態や業績などを本としてかれこれ論議しうる事柄ではないのである。それ故、罪も時間性もなお克服されぬこの世において救いがいかなる姿を取るかについては、吾々は神の恵みの特殊の発動と啓示とに俟たねばならぬ。「罪の赦し」が即ちそれである。
罪の赦しは罪悪の事実を前提した上の神聖なる愛の最も基本的なる動作というべきである。罪無き世は永遠の世であり、そこでは勿論罪の赦しの事実も又必要もなく、有限的主体は神聖なる愛の喜びに浸りつつ、とこしえの現在に生きるであろう。又生の自然的文化的段階に強いて立留まり共同への憧れを強いて抑えようとする、従って偽りの有限性に強いて満足しようとする、絶望的努力に耽るような人間的主体に対しては、勿論罪が存在せぬ如く赦しも亦空想に過ぎぬであろう。しかしながら罪の事実が一たび視界に入った以上、罪の赦しの基本的重要性はたちどころに明かになるであろう。底知らぬ無の淵に恵みの手に支えられてわづかに墜落を免れている有限的主体にとっては、恵みに対する反逆である罪悪は壊滅を意味する外はない。悪しき有限性の方向へとはいえ、とに角主体としての存立を保っていることそのことがすでに反逆を反逆として認めぬ恵みの賜物なのである。この世のこの生そのものがすでに罪の赦しの上に立っている。それは個々の行為に対してはじめて発動するというが如き生やさしき表面的な事柄ではない。ここよりして吾々は神の創造が永遠的存在の根底にあるばかりでなく、時間的存在そのものも創造の恵みによって成立つことを知り、あらゆる厭世的世界観を免れうるであろう。あらゆる覚束なき醜さあらゆる悩み苦しみあらゆる虚偽不徳不明あらゆる争闘破壊にも拘らず、人間の生は、文化の方面においても人倫の方面においても、神聖なる全能なる愛の力によって支持されている。自然的文化的生が根もと深く罪を宿しながらなお神の恵みを容れる器となり、信仰より愛へ真の人倫的共同へと向いつつ、時の真中に現われる永遠的生の蕾を宿す幹となりうるのも、ただ罪の赦しによるのである。かくて与えられたる持場において及ぶ限り能う限り自己の職責を果し、私を棄て己を虚くして人に又公に奉仕することが、罪の赦しをすなおに受けつつ恵みに答える道となる。貧者の一灯・やもめのレプタ(一銭)もここでは窮みなき尊さに輝く。人事を尽して天命を待つは永遠の生を生きる者の正しき道であろうが、人事を尽しうるそのことがすでに天命によるのである。かくの如く罪の赦しはそれ自ら時の真中における永遠の現われであり、又永遠のあらゆる内在化の基礎である」(p.208-213)。
波多野もまたキリスト者として我々の著者と同一線上の思索を展開しています。しかしそこに大らかさを感じるのは、教会的聖書的限定を突き抜けるような、その思索の徹底性にあります。だからこそ「宗教哲学者」であったと言うべきでしょう。さて、ここで我々の著者の論述に戻ります。
「此問題の処理に当っては、伝統的論理学は全く役に立たない。聖書の用うる独自な歴史的方法に拠らねばならぬ――これに就いては、後章に「證/マルチュリア」の論理として些か説明を試みよう。此方法を手短にいうならば、それは言葉と事実と、心に於ける確認に現われる歴史的展開方式である。何故に此方式が必要とされるかといえば、それは罪悪の特性が時間的経過に於て自己を展示するからである。以下言證、事證、心證として此の方式を表わそう。」
著者はここで漸く「罪の現象学」と言うべき「證」の論理の展開に取り掛かります。かつて私は、吉田清太郎という牧師の「神を見る」という著述にヒントを得て、「@言葉を通して神を見る、A存在を通して神を見る、B自己を通して神を見る、C神を通して神を見る」ということを考えたことがありました。この@、A、Bは、それぞれ著者の言う言證、事證、心證に当ります。最後のCは啓示を意味しています。つまり@・A・Bを成り立たせる根源の働きを意味しています。(秋月龍a編著『禅者牧師吉田清太郎 禅とキリスト教の接点に生きる』平河出版社、1983年、参照。なお吉田牧師の「神を見る」ということは、@万有を透して神を見る、A偉人(キリスト)を透して神を見る、B自己を透して神を見る、という「三つの形式」を意味しています。)ただし我々の著者がどこまで「現象学」的研究態度に徹しているか否かは、批判的に検討されるべき事柄です。
「先ず罪の言證性が問われる。それは絶対の否定性によりて特質づけられている。元来、神は絶対的肯定者として聖書に示されて居り、創造の過程に於ても「之をよしと見給えり」と各段階ごとに反覆して強調されている。神は絶対に自らの創造を否定し給わない。唯だ「善悪を知るの樹は汝その果を食う可らず」とて、人間の罪悪への可能性に対する警戒が仮設的否定の形に於て示唆されたに過ぎなかった。
ところが、蛇によりて象徴された罪性の態度は全然否定である。「汝等必ず死することあらじ」と断言した。この否定は形式論理的の否定ではない。意志的拒否であって、神への全人格的なる叛逆と対抗とを意味する。」
ここで著者の言う言證性とは、聖書における神話的表現の解釈において示された、神の言への意志的叛逆と対抗のことであるということになります。
「次に事證は如何。ここに於ては、否定は存在否定の形態となる。人間に於ける存在否定は何であるかといえば、それは死にほかならない。エデンの智慧の果は「之を食う日には必ず死ぬべし」であり、また事実そうであった。事證は言證の結果とも考えられるが、それは同時的とも見られる。死は罪の結果として現われる現象であるが、神に叛くことそれ自体が死であるともいえるであろう。」
人間は罪の結果として死すべき存在であるということが著者の言う事證です。
「第三に心證は罪に就いて何を与えるか。ここに否定は無知、無明無感覚を意味し、象徴的には暗黒の様相である。「光は暗黒に照り、暗黒は之を悟らざりき(*1)」が即ちそれを指す。然しそれは罪が人間生活の上に無影響であることを意味するものではない。それは苦という感覚として絶大な印象を与えた。「汝は一生の間労苦して土より食を得ん(*2)」、「又婦に言たまいけるは我れ大に汝の懐妊の劬労を増すべし、汝は苦みて子を産まん(*3)」等の言は多少の象徴性を以てこれを指示したものであると思う。その苦の本体は寧ろ精神的であろうが、肉体的苦痛もこれに随伴するを常例と考えてよいであろう。」
*1 ヨハネ1:5および1:10
*2 創世記3:17
*3 創世記3:16
心證とは無知、無明であり、その果実としての人生苦そのものであると言われています。
「斯様に、叛逆であり、死であり、苦であるのが罪悪の三方面より見たる相貌である。然し、これらの象徴的表現は勿論充分の注意を以て取扱わるべきである。人間的表現法を神に対する関係に強いて適用せんとするところに思想的無理を冒すことは免れない。」
言證とは神の言への叛逆であり、事證とは罪の結果としての死であり、心證とは人間が感知する苦であると言われます。ただし著者は象徴的(神話的)表現をそのまま神人関係に適用することの「冒険性」を意識しているようでもあります。
「右の三方面が人間の側より見た罪の相貌であるに対し、神の側よりの働きかけが、これと緊密な結合に於て考えられなければならない。それは叛逆に対しての神の「怒」即ち審判、死を来らするものとしての神の断罪、及び苦を経験せしめるものとしての神の行刑である。
これ等両側面を見ることによりて、始めて罪の全貌が明かにされ、それによりて罪が具体的に示される。」
言證、事證、心證の結果は、神の審判、断罪、行刑であるとされます。それによって罪の全貌が具体的に示されると言われます。今日の人類のあり様は、神の審判、断罪、行刑の現われであると、著者は言いたいのでしょうか。
「然らばそれだけで罪の姿は完全に具体化されたか、というならば、そうではない。その理由は多く数えられるであろう。先ず、神は「怒り給うこと遅く」「我等を忍び給う」のである。この事は即ち、神の審判が急激には行われないことを意味する。然らば、最後の審判の日まで一切の断罪が行われないかといえば、決してそうでもなく、神の碾臼はゆっくりと、しかも緻密に確実に粉砕しつつある。行刑は刻々に行われつつあるのである。このことは審判が時間的経過をとることを意味する。」
著者はやはり歴史的現実の進行のうちに神の審判と行刑を見ているようです。
「他の一方、人間の罪も又時間的経過をとるものである。それが行為の外部的表現に止まるものでなく、その動機の根底に溯り、全人格的に考量されるべきものなることは申す迄もない。然し、それは一個人に限界づけられ難いことを発見するのは容易であろう。一方、空間的に、社会環境の影響に其原因又は結果が求められ、他方には歴史的背景が探ねられる。そこに考えられる人間は個人人格の一点に収斂することも、全世界的、全歴史的に展開することも出来る人間である。罪を討究することは人間自体を討究することにほかならぬ。しかも、自然的人間学が企図するよりも遥かに深刻にして微妙な蔭翳を有する。これを科学的な言い方を以てするならば、自然科学的には遺伝の問題が、また社会科学的には環境の問題が、而して所謂精神科学的には連帯の問題が解決を要求し来るのである。それらの諸問題はいづれも罪の研究に無関連ではない。然し、いづれも究極的意味はもたない。此処にはその大部分を割愛し、ただその中の最も重要にして、且つ遺伝と環境の影響を綜合する連帯性の問題だけに一瞥を投ずるとしよう。」
罪の連帯性が遺伝と環境の問題に繋がっているとするのは、著者の秀れた着眼です。
「連帯の思想は、人間の道徳観念に於て用意されまた練磨せられ、法律に於てそれが多少の整理を経て具体的に反映され来った。然し、そこでは未だ狭範囲に限界せられ、相対的性質しかもたない。それが絶対的意義を獲得する為には、是非共神に関連して人間を考えねばならぬ。
連帯思想の根底は絶対論理学に於ける個体と全体との関係規定に於て存する。全体は個体を支持し、個体は全体を映現す。個人は全人類によりて其霊性の生存を支持せらるると共に、全人類は個人に於て代表されて居らねばならぬ。パウロが自己を罪人の首/かしらと名のった時、恐らく彼は二つの事、即ち自己を最大なる罪人と看たと共に、自己を以て罪人を代表するものと做したのであると思う。尤も代表するといっても、これまた二つの意義をその中に見出すことが出来る。一は他に代って自己を提示するの意であり、一は他の人々の範例/エグゼンプラー(exemplar)たるの意である。そしてこの二意義は合一する。何となれば極悪の罪人なる我さえも、と思う心は、おのづから自己を其場合要求される条件に最も適合するものと信ぜしめるからである。若し神が罪人に就いて何か実験し給うべき事があるならば、自分こそ被実験材料として絶好なるもの、且つ代表的なる者である、という意味が含まれていると思う。
この含意は「罪人の中にて我は首/かしらなり」に続く言葉、「キリスト・イエス我を首に寛容を悉く顕わし……永遠の生命を受けんとする者の模範(又は模型)となし給わん為め」によりて明かである(テモテ前書1章16節)。」
ウィリアム・ジェイムズの言う「隅から隅まで」蔽う「絶対論理学」なるものは、この人間の世界には存在しません。キリスト教であろうとマルクス主義であろうと、その他何であろうと、この世界全体を鳥瞰するような絶対的視点なるものを人間は手にしていません。聖書を神の言として絶対視する著者の信仰が絶対論理学なるものを要請するとしても、それはあくまでも著者の信仰告白であって、それ以上のものではありません。しかし聖書の神信仰が「人類性」の思想を涵養したことは確かなことでしょう。「全体は個体を支持し、個体は全体を映現する」という著者の思想は、縁起(因縁生起)、すなわち一切は他との関係が縁となって起こるという仏教の基本的な考え方とも結びつくものとして、大変興味深いものがあります。しかしそれは聖書絶対主義の論拠とはなりません。言證、事證、心證の真実性は、事実あるいは経験の問題であって、絶対論理の問題ではありません。著者の頭の中には、キリスト教のお蔭で、あたかも絶対論者と経験論者の二人の人間が住み着いてしまったかのようです。
「罪は主観的経路を通じてのみ確実に認識し得るものなることをここに注意したい。純粋に客観的なる罪は決して真の認識対象たり得ないとおもう。そして其処に罪の特異性が認められよう。我々が他人の罪を自己に無関連なるものの如く考えてこれを非議し(マタイ伝7章1節*1)又はこれを赦さざる(同6章15節*2)ことが恐るべき誤謬であることの一理由はここに見出されるのではあるまいか。他人の罪を赦すことは基督者にとり殆ど絶対命令に属するが、これを基礎づける大なる理由の一は罪の連帯性に、他の一は普遍性に他ならぬ。キリストの教訓中、これ等二点は最も重要なる者に算えられる。」
*1 「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」
*2 「もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」
上の言い方は、どちらかと言えば、経験論者としての発言です。
「しかのみならず、斯くの如き主観面の重視は、罪意識が客観的罪自体把握への規準を与えることを意味する。
「人を審くな、審かれざらん為なり」の教訓の如きは、これを浅薄に解して、自己が審かれる危険に陥らざらんがために他人を審くことを慎め、という風の応報的な意味に取れないこともあるまい。然し斯様な利己的動機に訴るのは充分恩寵に生長していない人に対しては有効であったとしても、未だイエスの教の意味の根底に触れていないと思う。恐らくその真意は、罪の普遍性と人間相互間に存する必然的連繋から、神に対する各自の連帯責任を示唆することにより、此原理に対する無知又は其蹂躪が当然導くであろう所の怖るべき陥穽を警戒し給うたことに存するのであろう。或は、この陥り易い偽善性を指摘することにより、罪の根深い構造を示し給うたとも解し得るであろう。
「他人の罪を赦す如く、我等の罪をも赦し給え」の祷も、やはり同様である。他の罪を赦すことを条件又は前提として、自己の赦免を要求することになっては、祷の精神は全然没却されたといわねばならぬ。
「汝等の中、罪なき者先ず石を擲て」(ヨハネ伝8章7節)の一言に至りては、あらゆる時代のあらゆる人間の肺腑を貫かずんば止まぬ双刃の剣である。罪悪の普遍性と連帯性を道破し、各人の心證に訴えて、のっぴきならぬ確認を迫る所の峻烈さ、恐らく此一句に如くものはあるまい。」
前にも指摘したことですが、著者は福音書のイエスについて語る限り、誰もが納得できる言い方をします。しかし、ことキリスト論に関わる言説となると、一転してその理性をかなぐり捨てて強圧的になります。著者の教会生活がそうさせているとしか言い様がありません。その意味で著者の立場は実践的に限定されています。
「さりながら、右の諸例に見るような主観的罪意識、即ち罪人の首魁としての自覚は心證ではあっても、未だ具体性を欠くという憾みがあろう。それは客観的存在として事證化し、更にこれを基礎づけるものとして言證化せねばならぬ。アダム(人間)思想――個人にして人間全体を代表し、人間そのものを意味し、更に全人類の父として人間存在を理由づける――は此要求から生まれたというべきであろう。」
私見では心證(三次元の立体)、事證(二次元の平面)、言證(一次元の直線)として、心證は既に事證、言證を前提とし、それらを包み込んでいます。だから心證は最も具体的であると言うべきです。アダムという普遍的象徴は心證に対応しています。もちろんアダムという人が、歴史の初めに、実際に(事実として)存在したということではありません。しかしそれは人間の類としての堕罪の現実を象徴しています。
「罪人の第一者――空間的に――としての我から、第一の――時間的に――罪人たるアダムへの飛躍はあまりに突飛のように見えるけれども、其処には歴然とした理由が存する。即ち「範例」の媒介思想がそれである。パウロは自己を神の業に対する一個の模表として見たことから、「アダムは来らんとする者の型なり」(ロマ書5章14節)というアダム観に達したと云うことは出来ないだろうか。
とはいえ、これを方法論的に視る時、自己よりアダムへの溯源は自己反省の永き遍路の結果なのであって、また其間に連帯観が確立されるということが出来よう。」
罪の連帯性ということが「自己反省の永き遍路の結果」として与えられる認識であるということは、その通りでしょう。
「ここに於て、我等は「自己を知れ」のスタートに戻り、そこから再出発を試みたい。然し、ギリシャ的スタートが自己に対する興味、胸ときめかす驚異の念から発足するに対し、我等の出発は自己に対する耐え難い嫌悪の情、その現実を捨離し得たい志向からである。そこには自己に対する肯定は影をひそめ、ただ猛烈な自己嫌悪と自己否定のみが存する。然し、斯うして自己から離れようとする努力は決して計画通りにはならない。否、却って自己の版図の如何に大なるものなるかを其巡礼によりて覚知するのみであろう。そこから遁れることの不可能な企てであることを暁るのみであろう。
これは実に意外な結果といわねばならぬ。自己を知ろうとする願いではなく、寧ろ自己を忘れたい、その覊絆を脱したいという願いが反って自己の姿を更に明かに知らしめ、遂に自己を支持し、自己の裡に映現されている不思議な「人間」の姿像を突きとめしめるに至る。此領域に関する限り、彼は罪の鞭に追われながら、其他の方法では到底なし遂げ得ない大旅行を完成するのである。
然しながら、彼は唯追われて逃げまわるのではない。それでは何にもならぬ。戦い得る限り罪と闘うものでなければ此遍路も無駄骨に終るであろう。否定するとは畢竟闘争することである。
罪意識は単に悪行為に対する嫌悪、又は道徳的過誤に対する悔恨というようなものに止まってはならない。もっと根強い、深刻な、自己の全生活を揺り動かす闘争たるべきである。此相克は恐怖や不安として表現するさえ未だ浅薄の感なきを得ない。わずかにこれを描出し得るものあらば、それは世界最大の告白文学に属するであろう。基督教は信仰に存し、経験を全然排斥するものであると考える人は、此罪意識に基く経験が救拯に於て占める重要な意義を逸しているにちがいない。此経験ありてこそその心の土壌に信仰の種子が落ちて発芽するのである。此経験を欠く人には、どれ程他の条件が好適であっても縁なき衆生に過ぎない。それ故、此経験を一種の心理主義的、又は観念的現象と見ず、実存の一形態と見て行かねばならない。」
ここには著者の内面をうかがわせるものがあります。「宗教的人間」の内面と言うべきかも知れません。世界最大の告白文学とは、言うまでもなく、アウグスチヌスの『告白録』などのことを指すのでしょう。ここで著者がいみじくも認めているように、信仰は「心理」の相関者であって、信仰(ピスティス)が真実(ピスティス)であることを確証する絶対的規準などどこにも存在しません。それが「聖書」であろうと、「使徒信条」であろうと、「ハイデルベルク信仰問答」であろうと、教会の権威であろうと、はたまた何であろうと、万人の死命を制する規準などどこにもありません。しかし著者は「キリスト教哲学」の名において、キリスト教のドグマティズムから距離を置きつつ、そのドグマから脱し得ない人間として立っています。否、むしろキリスト教のドグマを哲学的に弁証しようと試みていると言うべきでしょう。ちなみにキリスト教信仰の弁証論 apologeticsをカトリックでは基礎神学と言い、カール・ラーナーはこれを新たに神学基礎論として展開しています。それが『キリスト教とは何か 現代カトリック神学基礎論』(百瀬文晃訳、エンデルレ書店、1981年)です。ともあれ、キリスト教哲学とはキリスト教信仰の弁証論であって、そのうちパスカルの『パンセ』は最も有名なものでしょう。中には、田邊元の『キリスト教の辯證』(筑摩書房、1948年)のような、キリスト教信者ではない人が書いた珍しい本もあります。家永三郎はそれを田邊の最高傑作としています。なお、カール・バルトは「弁証論」を原理的に否定した「神学者」として知られています。
「然らば、罪意識に基く心裡の闘争はどのような存在形態をもっているか。先ずそれは現在に即する経験である。だが漫然と抽象的に考える現在ではない。其処に過去が生きて働いている現在である。斯く言えば、人は生物学的にこれを考えるかも知れない。生物に於ては、稀薄なアナロギアに於て、過去が現在に働いていると云えるだろう。しかしそれは過去に存した形式や様態が現在にも伝えられているというに過ぎない。罪意識に於てはこれと事情を異にし、過去は過去そのままとして生きて居る。生物現象に於ては過去は現在化しているが、罪意識に於ては、過去は罪の形に於て、たとえ眠っているようでも、蛇の如き鋭敏さ、虎の如き獰猛さを以て生きて居る。過去の性質そのまま、現在に跳びかかって来る待機の姿で踞まって居る。現在の自己はこれに対し、如何にこれを処理すべきやを知らない。恰も剣の達人の亡霊と闘うようなものだ。如何なる武器と技術を以てしても相手を斃すどころか傷つけることも出来ないのに、相手の切先は一々自分の急所の痛手となる。絶対に勝目のない果し合いである。オェディプス王の嘆きは高い教養と鋭い良心をもったギリシャ思想人の嘆きであった。賤のおだまき繰返し、昔を今になすよしもがなとは我等が祖先の同じ嘆きであった。そして返らぬ過去を悔むのはただ凶事悪事に限った訳ではない。ダンテの地獄では、良き日の追懐がみじめな自己の現在を省みる人の心をさいなんでやまない。しかし多数の人々にとりては、それは単に漠とした憧れに過ぎないであろう。ところが、基督教的信仰に入らんとして遭遇する所のものは、そのような生優しいものではない。真剣の決闘である。そのまま続けて行けば自分は必ず斃れ、全く救われる途がないに決まって居る。この場合、文明人はそんなことに頓着しないという怜悧さを見せる。そんな争は止めたがよい、亡霊のような過去は実際は死んで居るのだ、それにウナされて、これを闘おうというのは狂気の沙汰ではないか。それは病的である、恐怖症である。兎に角ホッて置くがよい、時間の経過と共に段々に消滅する病理的現象に過ぎないのだ。忘れるのがよい、夢だと思えばよい、諦めるがよい。時は癒す力を具えて居る、と。
然るに聖書は、過去が決して徒らに死ぬものでないことを教える。永遠にそれは生きて居る。老朽して死なず、又加持祈祷で退散するものでもない。そして、此事実は我等をして真の宗教意識に目覚めしめる為の心の準備となるのである。それは先ず第一に過去を現在に於て感ぜしめる、即ち眠れる既往性を再び渦動状態に活躍せしめる。第二に、斯かる罪の過去は対人間的世界に於ては時効によって消滅するけれども、超越者の前には永遠に消えることがないという自覚に根ざすことにより、此立場からする超越者の間接の認識を可能ならしめる。神は隠されている。しかし神の働きは此経験を通じて感知される。間接ではあっても、それは啓示に属する。啓示に触れることなくしては、人は自己を罪人(本当の意味での)と認めることは出来ない。」
キリスト教という宗教の一半は、それが人間の罪という現実の反映であるというところにあります。もう一つの側面は、もちろん、そこからの人間の解放(救い)というドグマにあります。ともあれ、神によってすべてが記憶されているという想念は人を震撼させるに十分なものがあります。過去は永遠に生きているという著者の思想はそのような神観から来ているのでしょう。著者は人間の罪意識に神の間接的啓示を見ています。
「罪の人間学」の章はまだこの先も長く続きます。しかし紹介の作業はここで中断し、終わりにラインホルド・ニーバーが「罪(Sin)」について書いていることを引用してみます(『キリスト教神学辞典』前掲書、p.279-281)。
「罪についての本来の聖書的定義は、“まとをはずすこと”である。しかしこの定義は、この概念がかち得てきた意味内容を言い尽していない。さらに、この言葉の現代的な意味内容のあるもの、特に、罪を性的不秩序(引用者:不倫などのことでしょう)と同一視するようなものは、たしかにあまりに月並であって、古典的キリスト教思想において罪により意味されているものを理解していない。
アウグスティヌス以来、人間の根本的な罪がその傲慢であるということは、キリスト教正統主義の一貫した見解であった。この見解では、キリスト教思想は、ギリシァ悲劇の概念と一致した。それによれば、「ヒュブリス」が人間の最も極悪の罪過であり、常に刑罰または「ネメシス(引用者:傲慢の運命および刑罰者であるギリシァの女神)」がこれに従ったのである。傲慢という根本的な罪が意味するものは、幾分意識にまでのぼってくる誇張された自尊心ではなく、その徳、権力、業績を過大評価しようとする、すべての人間の一般的傾向である。アウグスティヌスは、罪を“高さへの不当な願望”、あるいは、人間が自分を、手段や目的で成り立っている全体の組織の中の一部にしかすぎないことを認めることの代りに、自分自身を自らの目的と見なすことである、と定義した。
伝統的な見解によれば、罪は“アダムの堕罪”と共に始まった、とされている。人間性についてのより楽観的見解をとる人々は、堕罪の教理が不当な悲観主義であると信じている。そのような批評家達は、普遍的な人間の弱さとしての過度の自尊心という考えが、また、原始的神話から出た教義に由来する、と主張する。実際には、人間が“罪深い”というこの見解は、最もよく証明され、経験的に実証された、人間存在の事実の一つである。それは啓蒙主義の中にその起原をもつ、いろいろな哲学によって不明確にされてきた。そのような哲学は、人間の歴史の悪を、特殊な原因から(たとえばそれを財産制度から引き出したマルキシスト達の例のように)引き出したり、あるいは、社会悪を無知あるいは本能的情熱あるいは社会制度の惰性に由来するものとみなしたりした。そのような見解は、かかる惰性の束縛からの人間理性の解放が、徐々に無知な人々の偏見や情熱や偏狭な忠誠を征服するだろうということを意味している。
罪の概念が現代生活の中でもなお有意義であるかどうか、という質問に対する答は、理性的機能が利害関係と情熱の力を支配する力があるかどうかにかかっている。もし自我が、理性によって支配されうるものならば、罪は流行おくれの概念である。しかし、もし自我が、その理性的能力をそれ自身の利益追求の道具として用い続けることができるならば、その概念は有意義なものであり続ける。近代の非宗教的な思想家達の中で、ホッブスとフロイトの二人は、その人間性の評価が宗教的な悲観主義と符合している。ホッブスは、理性が常に自己の利益追求の道具であるとの見解をもっていた。“理性的”な人間が動物と違う点は、その利益追求を超越するある目的を達成することにではなく、動物が達成することのできないような広がりをその利益追求に与えることにある。それゆえに、ホッブスは“全的堕落”の見解としてしばしば定義づけられてきたような、人間についての見解に近づいた。彼は、自然的衝動を超越するものとしての人間の自由が、人間の中の創造性と破壊性との原因であり、また、正義への傾向と他人を利用する傾向との原因であることを認めるのに失敗した。
フロイトの悲観論は、彼が“自我” (ego)を、あるいは理性的にして統一ある自我を、快楽を求める“イド”とその中に自我が含まれている“上位自我” (super-ego)との間の、不安な仲介人と見なした、という事実によっている。それゆえにフロイトは、文明のたどる過程について悲観的であった。というのは、文化的共同体のますます複雑になってゆく訓練が、いよいよイド=エゴ(id-ego)を抑圧するし、そしてそれらの抑圧の結果、自己主張的傾向になるだろうと感じたからである。悲観主義の両形態は、恐らくあまりにも断言的でありすぎる。なぜなら、そのどちらもが、直接諸目的や自然の諸欲求を人間が超越していることから起る人間の自由と、創造的でありまた破壊的でもある人間の諸能力との逆説を、十分には理解していないからである。
“原罪”という概念は、たいていの近代人にとって、罪という概念よりももっと不快なものである。その本来の意味は、“遺伝的罪”または“相続の罪”(erbsuende)であった。そしてキリスト教正統主義は、それが、すべての人々の、堕落したアダムから受け継いだ腐敗であると説明した。この概念は、ユダヤ思想にはなかった。このことは、ユダヤ主義のいわゆる楽観主義を、キリスト教の悲観主義と対照させようとする、いくつかの解釈を生じている。事実においては、すべての人が受けついだ“悪い性向”(yetzer ha-ro)というユダヤ的教理は、原罪についてのキリスト教教理とほとんど同じである。実際のところ、イエスは、遺伝的罪についてのパウロの教理については何も知らず、悪い性向というラビ的教理の言い方でのみ語った。
伝統的教理が何であろうと、真の争点は、過度の自愛から結果する腐敗の普遍性である。確かに誰も、時代から時代へと悪が伝達されるという伝統的な教理を、意味あるものとは見なさないであろう。しかし、人間の心や自我の中に、普遍的性向があるというこの考えは、意味あるだけでなく、経験的に実証しうる。それはただ自己の利害を不相応に重視するような自我の能力と性向とが、文化と道徳的達成のあらゆる次元で起りうることを意味している。聖者達(引用者:聖徒たち、すなわち、先ずはキリスト教徒のことでしょう)の生活に見られる虚栄という腐敗は、ナポレオンやヒットラーのような人の権力欲と同様に、その性向の証明となるであろう。この腐敗の普遍性は、教育や社会の機構運営や文化的訓練、または人間の根本的なそして適度の自愛に、正しいはけ口を与えたり、それを変形したりする他の方法によって、利己主義を静めたり悪化させたりする可能性を認めることを妨げない。また、それは、この自愛が、創造性のあらゆる形態と関連するのを妨げないであろう。事実、すべての創造的衝動は、おそらく自愛の衝動に、とくことができないような仕方で結びつけられているだろう。しかし、それは後者が前者の絶対の必要前提であるというような仕方でではない。政治学が普通、啓蒙主義以来近代文化において原罪という概念が不評判であるにもかかわらず、この原罪の教理の何らかの別型を前提としているということは意味深い。」
「過去が現在に働いて居るとは矛盾した言表であるが、これを合理的に解釈することも出来ない訳ではないともいえよう。例えば心理学の教うる所によれば、我等の自ら覚知して居ない過去からの遺産が潜在意識中に厳存し、それが何か非常時に際会すれば、突如として目醒めると云う。また生物学や生理学によれば、生物体は遠い昔からの遺産を相続して居るのであって、それは現在に於て働いて居る訳である。然しながら斯様な心理生理学的財産は未だ歴史と呼ぶことは出来ない。それは既に現在化してしまったもので、過去の面目を失って居る。既往性の特質が遺産には欠けて居るといえよう。我等が此処で要するのは、過去そのものが過去の姿で現在に働きかけて居る形態なのである。心理学的並びに生理学的概念の領域では未だそこまで行って居ない。
今これを責任というような考え方をした時に、隠れた一面が多少瞭かになるかも知れぬ。但し責任感を単に対人関係としてのみ考えたのでは充分でない。対人的には時効がある、又相対的である。ここに考えるのは絶対的な責任、即ち絶対者に対する関係に於て存する責任でなければならぬ。
然し責任感は未だ入口に過ぎない。其実質は審判である。審判に於ては過去が現在に働いて居ると共に、現在が過去に向って働きかける。相互的である。現在の自己が過去より現在に至る自我の全体に対して究極的批判と評価と態度決定を断行する。それは判決だけに止まらない、刑罰の執行がこれに伴うのである。極度に行動的でなければならぬ。
此場合自己は審く者であり、又審かるる者である。二個の自己が弁証法的に対立する。尤も霊と肉、魂と肉体という類の区別を以てこれを表すとしても、それらは論理的醇化を経ずして濫用される危険があろう。それは論理的対立形態でなければならぬ。自己が自己に対して戦いを挑むのであり、そこには一種渦動的存在形態が生ずる。
然らば斯様な形態をとる自己審判はどんな結果を生ずるか。それは極度の否定、一種の死刑判決として現われる。此死の体より我を救わん者は誰ぞやという絶叫にまで突詰める辛辣極まる判決である。」
ここには神(絶対者)の前に研ぎ澄まされた良心の表白があると言うべきでしょう。それはパウロ的な自己理解と言うべきものであって、人間の罪性が自己一点に収斂して、ぎりぎりの自覚に至ったものです。それはキリスト教の人間観の「典型」であるとも言えるでしょう。しかしそれが「自己審判」であると言われているのはどうしてでしょうか。それはあくまでも「心證」であるということではないでしょうか。
「何故にそれは死刑なのであるか。悪人に対してはそうであろう。けれども善人も世には鮮くない。山積する功徳によりて輝かしい表彰を受ける人もなければならないではないか。たとえ多数の衆庶は断罪の運命に置かれるとしても、徳行と教養によりて身を修め家を治め、国家に勲功を建てたような少数の人物は大衆と同一の運命を辿るべきものではあるまい。というような抗議が人間性の尊貴に究極の論拠を求むる人によって提出されるであろう。これに対し聖書は、唯動かし難い事実として、義人なし、一人もあることなしと判決する。而して此判決に服する自我をもつ人だけが基督教の理解に入り得る望みがある。これに不服の人は他の法廷で争えばよい。ここでは神の権威を以て此事が宣言されるのである。」
ここでは聖書を神の言として特化することが求められています。しかし人間がなしうることは、どこまでも心證、事證、言證の範囲に留まって、事柄の真実に迫ろうとすることではないでしょうか。聖書は「神の言」だから尊いのではありません。そこに真実に関わる何事かが記述されている限り、それを吟味し、その教訓を受け入れるということであって、それは他の書物に対するのと基本的には変らない事柄です。
「「人皆な罪を犯したれば、神より栄を受くるに足らず(*1)」、「聖書は(神の言は)万人を罪の下に閉じ込めたり(*2)」、「皆腐りてよこしまとなれり」、斯かる言葉は実に思い切った断定であって、又此上もなく人類を侮辱した言葉とも聞こえるかも知れない。然し、此大否定なくしては人間は救われないのである。此罪意識に目醒めなくては神の恩寵への参与の途は開かれない。神に背いた人間の自立的存在としての価値は蹂躙し尽されたが、神に倚る人間の真の価値はそこから湧き出て来るのである。」
*1 ロマ3:23
*2 ガラ3:22
「然し、ここに注意すべきは漠然又漫然たる否定の甚だ危険なることである。否定は破壊であって、それだけなら寧ろ容易な仕事であり。思慮の深からぬ人もこれを為すことが出来、且つ勇気に富むような外見を具え、それが甚だ魅力あるものに見える場合さえ乏しくない。だが斯様な無責任野放図の破壊作業は到底当面の重大事に際して用いらるべきではない。破壊は再建設を予想してのみ行わるべきもの、否定は更に大なる再肯定を掴もうとする動機が働いた時に始めて下さるべきである。
とは云え、既に斯かる見透しがついてしまってからは真の否定は下されないという矛盾がある。目的的にこれを行い得るような楽観性はここには存しない。ここには唯厳かな事実が存するのみである。而して其事実たるや神の法廷に於て摘発された事実であって、気分や想像の所産ではない。罪を狭義に取扱う傾向が我等にはある。単に道徳問題とし、或は更に平板なる法律的事象として取扱う傾向がある。人間性の範疇内ではこれ以上に出られないのが当然である。然るに、神人関係に於てこれを問題化するとき、それは非常に深い内容を与えられる。倫理性や法律性は勿論これに対して参照すべきデータを多く提供するけれども、それらのデータは宗教的批判と深化を受けずしては此場合罪意識の内容となることはできない。」
その後に再肯定を予想しての否定は、真の否定ではない、しかし、再肯定が後に伴わない否定(単なる破壊作業)は用いられるべきではない、そこに矛盾があると著者は言います。それを神人関係の矛盾として捉えたとき、初めて真の解決、大なる再肯定(神による問題解決)が見出されるということでしょう。
「罪とは神に叛いた自我の態度及び状態の全体的認識である。而してそれはただ認めるというに止まるものではない。それは味識であり、体験であり、更に展開であり、又綜合である。それは神の審判に臨む自我の姿の全貌を見極めることとも云えるし、また自ら自己を審判することになる。
「罪成りて死を生む」、罪は蛇の執念と敏捷とを有する。先ず罪意識は過去に溯源するであろう。そして忘却の倉庫の暗い片隅から殆ど無尽蔵に個々の罪業を取出し之を明るみに持来るであろう。それは記録的に己を再認識せしめるに止まらず、過去の自我の全貌を把握せしめんが為に働く。甚だ皮肉ではあるが、人間は自己の罪責に於てのみ過去を掴むことが出来る。我が善行の思い出、功績の記憶、それらは単に思い出、記憶に過ぎない。現実性を以て現在に対し過去が迫ってくるのは唯罪責に於てのみである。良心は常に検事の役割しかつとめない。
然るに罪責の過去追求はただに個人的自己だけでは終らない。ここに至って、人は更に底知れぬ深淵に面する危殆なる立場の自覚を新たにするであろう。即ち追求は自己個人を乗り越えて、父母祖先の罪に溯源する。詩篇第五十一篇は王ダビデが自己の罪、特に格段なる罪についての懺悔として知られて居るが、その呵責問罪の鋭き切先は、「罪にありて我母我れを妊みたりき」という言に至りて詩人の個人的自覚を貫き、更に其父母に及んで居る。これは浅薄に解せられたる孝行道徳より見れば恕し難い妄言であろう。然し、罪との永き苦闘を経、罪の性質を知悉したる者にとりては、これは寧ろ当然の論決であろう。詩人は自己の中に巣食う罪が到底自己一代のものでなくして、祖先以来継承し来ったものであると自覚するに至った。右の詩句が神学的原罪説に対してどれだけ権威を有するかは別問題であるが、彼は其霊感により罪の蟠居する秘淵を窺い知ったのである。
罪は時間的に溯るばかりでなく、空間的にも拡がって行く。自己の罪が他人の罪の因縁となるように、他人の罪も亦我が罪の因縁となり、遂に人類全体を罪の下に閉じ込めるまでは、燎原の火の如く燃え拡がってやまない。随って、罪責は人類相互の連帯責任である。而かも、連帯意識は自己の負担を軽からしめるどころか、却って神の前に審判さるる自己をして罪の代表者たる意識を起させるのである。
罪の星雲的拡散性は更にまた、神に対する罪のみならず、人間に対する罪に進展する。罪の本来の性質として、それは神に対するものであることに変りはない。人に対する罪もやはり神に対する罪である。人間は神に対する直接な罪については殆んど理解を失い、其責任についての感覚は麻痺し尽されているが、間接の罪、即ち人間に対する罪に於ては未だ全然感覚を失うまでには立到って居ない。その深い意義は理解されないにしても、人倫に背き、公徳を無視する如き行為と其動機とは全般的に排斥される。それ故基督教は道徳そのものではないけれども、道徳は基督教の門戸でなければならぬ。単なる倫理的罪悪感に於ても、其連帯性は罪の容易ならぬ恐るべき力と影響とを感知せしめるに充分であろう。凡て連帯観を欠くところに罪の自覚は萎縮してしまうのである。
連帯性は法律の場合には単なる形式的契約に止まることも少なくない。然るに宗教的連帯性は事実性に根ざすものである。パウロは「凡ての人罪を犯す(*)」という事実をアダムとの連帯性と並立し、その関連の緊密さを指示して居る。」
* 「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ3:23〜24)。
ここに著者は「罪の現象学」と言うべきものを徹底的に展開しています。そして神は罪意識の直接的相関者であるとされています。それは事證、言證であると同時に、心證です。人間の罪性ということについ著者は鋭い観察を行っています。しかし著者は、人間社会の経済的社会的条件については一切言及しません。そこに「現象学」的アプローチの限界が示されています。と言うよりは、一切を神人関係に収斂させるその聖書的ないしは宗教的思考法に、その真実性と同時に落し穴が潜んでいると言うべきかも知れません。
「我等は既に罪意識について考え来った。それは経験であった、但し心理的主観的な経験に止まるものではなく、実存的なるものを捉えるという体験であることを認めた。過去の記憶という弱い影像ではなく、現在活きて働く過去という形態に於て、其実存性を捉えるのであった。要するに、罪意識は人間全体、即ち全世界に亘り、又歴史の根源にまで溯り、人間そのものの神に対する過去より現在に至る立場の概括的把握である。然し罪意識の斯かる概念だけでは未だ実存的内容が明かでない。ここに「罪」そのものの時間的、歴史的構造についての考察が要求される。
罪意識は罪の事実の上に立つ。罪は自己の過去に於て犯し来ったものではあるが、それは罪の全貌ではない。罪は全人類に関する存在である。罪の実存性は我の個人的体験だけでは其実証を得ることは出来ぬ。それは全人類的に存する、神に対する人間は悉く神に背き去った叛逆の子である、という所まで突きとめなくては、罪意識は充分明かにならぬ。パウロを始めとして、聖書記者が人間そのものを罪の中に閉じ込めるために努力したことは是非共必要なことであった。此の点を固めてからでなくては罪悪論も、また更に進んで救拯論も、確立することは出来ない。尤もそれは事実を誇張するという意味にとってはならぬ。事実は常に言表し得るより以上でなければならないのであるから。
我等が自己の罪を感ずるということは、若しそれが自己だけに限られた問題ならば、それ程の重大事ではあるまい。それが神に対する問題である限り、全人類的普遍性を具えて居るというのが聖書思想の特徴である。我々は罪悪論を機会に、罪の思想が一個の最も良き範例を供するものとして、聖書思想のこの著しい一特質を了解したいと思う。
この特質は聖書思想の構造性に於て発見される所のものである。我等はそれらの思想を静止停滞した状態に於て考えてはならない。それらは常に活きて働くものであることを認むべきである。そしてその働きは互に相反する方向に向って著しい。今これを求心性と遠心性として考えて見よう。
すべて聖書思想は、境界を限られた所謂概念ではない。それらは実質のインデックスであり、其実質は動性を帯びて居なければならぬ。そして其動きの方向は即ち求心と遠心、内へと外への二方向であり、一は普遍化、一は特殊化として顕われる。全人類的に展開すると共に、また一個の人格に収斂する。永遠に亘ると共に、瞬間に凝縮する。種々な聖書的思想要素に就いてこれを適用することは出来ようが、罪悪思想は最も適切なる一例と見られよう。それは全人類的なると共に自己一個の問題として与えられる。連帯的なると同時に、自己は其代表者として事実の中心に身を投ずる。全人類の問題でありながら、なお且つそれがそのまま一身の問題として自己投入をその中心に行うということは基督教的態度を特徴づけるものであり、そしてまた実存性を捉うる唯一の方法なのである。」
著者は、罪は特殊則普遍の事実であるという「地平」に立っています。罪は自己に求心すると共に、人類に遠心します。このような「実存的」罪悪思想は、「自己投入(コミットメント)」の問題、およびその自覚の問題として見れば、またその限りでは、人間の深い真実を探り当てていると言うべきでしょう。
「斯くして把捉された実存的罪悪は、一面に於て、人間が神に背いた関係状態として罪戻の自覚を与えると共に、他面、内心に分争を生ぜしめる一個の性格的原理として意識されるであろう。両者は其性質を異にする訳ではなく、後者は前者の模写と解することが出来る。即ち自己の裡なる性格的闘争は、自己が、――そして自己の代表する人間が――神に対して挑む叛逆闘争の射影にほかならない。
然しながら、此模写は単なる思想映像ではない、動的であり、感覚的でさえもあり得るのである。我々は神に対し叛逆的態度と行動をとることによって神に苦痛を与えることはあっても、それは自己の苦痛感とはならないであろう。ところが、それが自己の心裡に投影されたときに――主として倫理的な形に於て――其処に始めて感覚化、苦痛化が生ずるのである。
自己の裡に二個の反立する原理が相克すると感ずる罪意識は極めて強烈な現実感を喚び起すものである。単なる対物感又は他物の自己に対する抵抗感などはこれに比すれば稀薄な現実感といわねばならぬ。凡て相克は強い現実意識を生ずるが、これを自己のうちに経験するほどの徹底した現実感は他に見出し得まい。恰も物理学者が微細な原子の中におどろくべき強度のエネルギーが閉じ込められ蓄積されているのを見出すように、人間アトムたる個人に就いて、先ず激烈な力と力との撃突を発見することなくては、真の宗教的人間も世界も理解される機会はあるまい。」
人間は抑圧・分裂・対立・離反の現実を生きています。その「離反」は、人間の根本的な現実です。それを神への叛逆として言い表すか、それとも別の言い方をするかが問題なのではなく、まさにそこに人間の現実があるという認識こそが重要なのではないかと思われます。神人関係を根本的なものと見なせば、神への叛逆の結果として内心の分争が説明され、それは破壊された神人関係の模写、映像であると表現されるというまでのことです。宗教的言説の「解釈」はまさにその点に関わっています。
「我等は罪意識に於て、「わが罪は常に我が前に在り(*)」と自覚する。すなわち、過去に就いて犯した罪も現在化し、客観化し、そこに一個の空間的構成を形造る。このことは時間の空間化という問題を罪意識に関連して新たに提起するものといえるであろう。」
* 「わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。わたしはあなた(神)にむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪いことを行いました」(詩篇51:3〜4)。
「ここに、罪悪は二重の意味形態に於て我等に把捉されたことを想起しよう。一は神に対する人間の叛逆的態度として、また一は罪悪という存在としてである。此場合時空的分析は問題に光を与える。前者は時間的、後者は空間的である。
ここに注意すべきは、動と静とを時間と空間に対応せしめるに当り、時間は常に動にして、空間は常に静であると考える謬見である。空間が動にして、時間が静である場合も少なくないことを心得ねばならぬ。
罪の場合に於て、其時間的形態は静止であり、空間的形態に於て却って動的となることを看過してはならない。即ち罪悪という空間的形態は動的である。
罪悪は動化され空間化されて遂に一個の性格にまで具体化されるであろう。最高度の智情意を具え我等に挑戦するサタンがそれにほかならぬ。サタンは時間的存在ではない、空間的である。此事は比較宗教学的に見て、諸種の鬼神の場合にもこれを見ることが出来よう。それらは時間的に恒存すると考えられるとしても、それは静的であり、特殊の場合に空間化して動的となるのである。
常識的見解に従えば、空間は動きの奪われた時間の死せる断面に過ぎない。然るに右の考察はこれと反対に、時間的静態が空間的動態に変化することを示唆するであろう。人或は、動態は時間的経過によらずしては認め難いといって抗議するかも知れない。然しそれはあまりに心理的乃至物理的見方に捉われて居るとおもう。時空関係は寧ろ相対的に考うべきものではあるまいか。すなわち、一瞬間といっても、それは必ずしも何分の一秒を争うような物理又は心理時間を考えて居る訳ではない。科学者の考える瞬間は全然相対的である。場合によりては十万分の一秒で撮影した高速度映画フィルムも尚お手ぬるしと感ぜしめるような物理的運動もあろうし、又他の場合には、数千年に亘る人類の歴史を飛び散る火花のようにあっけなく思わせる地殻構成の悠久な幾億年の岩石記録を掘り出して悦に入る地質学者や古生物学者の群もある。天文学者の如きは、両極端の時間を使い分け、光線の驚くべき速度を物指しとして幾億光年というような天空の計算を行う有様である。
而して、宗教哲学に於ても、時間は相対的なること科学の場合と異ならない。否、それよりも遥かに自由に考えられよう。我々個人の一生の如きも、これを宇宙の歴史に比すれば一瞬の出来事に過ぎず、而かも尚、その刹那のうちに日々刻々の様々の段階に属する瞬間を含んでいる。この瞬間性を完全に消化して自由に駆使し得なくては信仰の問題は解けない。何となれば、信仰は斯様に複雑な論理的成果としての瞬間に属するものなのであるから。」
ここで再び時間空間に関する著者の「思弁」が展開されます。著者のうちにあるのは、恐らく、空間は時間の「頽落態」であるという基本的な観念ではないかと思われます。時間からの一瞬の離反が、空間的に性格化され、サタンの相貌を帯びてくるということなのではないでしょうか。悪の根源に時間からの離脱があるということなのでしょう。キリスト教哲学で「原決断」という言葉が使われることがありますが、神に対する叛逆的「態度」(原決断)から、罪悪という空間的「存在」が生まれて来るということでしょう。
「宗教的瞬間は動きに充ちたものである。その内部で電子が急速度で回転する原子のように、個人の心の裡で烈しい渦動的な現象を経験する。勿論それは物理的現象ではない、論理的と云えようが、まだそれだけではない。更に強い存在性の加味された「悪」との葛藤であり、悪に対抗するものとして、始めて真の自己が意識の舞台に登場し、その全力が試される。
この全力が試されることは是非共必要である。これによりてのみ自己の無力が完全に証明されるからである。尤も此無力感は単純な争闘の結果ではない。悪への自己の敗北は罪の自覚であり、罪は恐怖の王たる死を伴う。而して此背後に控えている死の姿の一瞥こそは、我等をして此葛藤の全然我等の側に勝目のないことを直観せしめるに充分である。我等は律法的訓練、道徳的陶冶の様々な階層を通り、真の自我を活かそうとして此格闘に根限りを尽すのであるが、結局自己の無力、完全な敗北あるのみと悟るよりほかはない。
斯くの如きが基督教哲学的時間の究極する瞬間である、否瞬間の一面である。故に瞬間は質的に規定されるべきものであって、単なる須臾の時間、又は時間の一点乃至断片と解すべきではない。而して質的規定は実に空間性に於て見出されるのである。空間は瞬間の切断面と云ったのでは甚だ不充分であり、且つ誤解を招き易い。瞬間を曲線に譬えるならば、其微分商に相当すると云おうか。時間は屡々睡るものである。これを喚び覚ますのが空間性に他ならぬ。それが即ち瞬間に於てであり、我等はこれを現在として体験する。眠った時間とは、とりも直さず過去のことである。「今」に於て眠っていた過去が呼び醒まされ、死んだと思われた既往が甦って来る。而してこの呼びさまし、よみがえりの不思議が先ず行われるのが罪意識に於てなのである。パウロは「罪は生きかえり〔revixit, Vul.*〕」(ロマ書7章9節)と録した。人は罪意識に於て始めて復活性に似たるものに触れると言うべきだろうか。それは甚だ奇異の感なきを得ないけれども、基督教的絶大の事実なる復活は先ず過去の罪のそれによりて一種の予表が見出され、それによりて心が準備されるのである。罪さえも復活する、況や神につけるものに於てをや、と言うことが出来よう。」
* ローマ・カトリック教会公認のヴルガタ版ラテン語聖書
ここに「罪さえも復活する、況や神につけるものに於てをや」と言われていることは、寡聞にして、他の誰かが言ったということを知りません。この論旨を展開すれば、復活とは「想起」であるという私の見解に近いものとなるのではないでしょうか。
「人或は罪意識を以て極めて局限された心的経験となすであろう。若し過去の復活が「現在」に於て可能ならば、それは罪に関するものだけではあるまい、もっと光明的側面もなければならない筈だ、と。成る程、罪ということを単に常識的、否人間的にのみ考えたのでは、この抗議は御尤もである。しかし、ここでは罪をもっと深い意味で考えて居るのである。神に対する人間の位置、それを端的に我等をして自覚せしめるものは此の罪にほかならぬ。罪が単なる個々の背徳行為に止まるならば、それは甚だ局限されて居よう。けれども、最も道徳的な行為に於てすらも、行為者自らは神に対する態度の正しからざるを自覚したときに、彼はこれを「輝かしき邪悪」として自ら刻印するに至るであろう。このことを人間中心的に考えてもわからない。けれども、神に対坐する人間として見たとき、人は自己に関する凡てに対し否定的態度に出ざるを得なくなるに違いない。罪に随伴する死に於て、彼は自己信頼と矜持の最後の足場を失うであろう。此場合、若しも誤解を恐れないでいうならば、罪は事実であると共に、また一個の方法である、ということが出来よう。哲学的に見て、それは一個の論理的手段の働きをなすものである。罪の絶対否定法がそこに考えられる。そしてそれは人間が神より受けたる極度の審判的否定の自認――心理の反映――にほかならぬ。その否定の深遠な意味は容易に窮め難いとはいえ、我等は殆ど直観的にこれを罪―死に於て感得することが出来よう。而してそれは死の苦闘として自己のうちに空間化し、その空間性は動の極致として示されるのである。」
著者にとって「神の審判」という「アナロギア」は、むしろパラドクシカルな「罪の絶対否定法」として最後=決定的な意味を持っています。神の審判は「罪―死に於て」直観的に感得されることであると言います。まさにそこに著者がキリスト者である所以があると言うべきでしょう。どこまでもそれに固執するといった感じです。
「斯かる罪悪的組織のただ中に生れたものと自覚した時に、我等は人間として罪に対する連帯を脱することの不可能事なるを暁るにちがいない。又自分が脱し得ないと共に、他人をして脱せしめることも出来ないことを知るであろう。此共同責任は、それ故、脱することを心掛けるよりも、静かに先ずこれを確認すべきである。これが罪意識の重要な一面である。罪意識は自分の過去に於ける個々の罪行為の悔恨であるとしてそのまま片付けることは出来ない。それだけでは完全に罪を掴み得たのではない。個々の罪、自己の凡ての罪の背後に、「罪の我れに居る一つの法あるを覚ゆ(*)」という、普遍性の法則としての罪を突きとめねばならぬ。この普遍的法則性を認めた時、人は罪悪との闘争が全く絶望的であることに気付くのである。」
* 「そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る」(ローマ7:21)の引用ではないかと思われます。
「さて、ここに次の如き質疑が現われるかも知れない、曰く、若し罪が普遍的に法則化しているならば、自分は所詮免れ難い運命の下に閉じ込められたのであって、其処には連帯も責任も生じ得ないではないか、と。此疑問は人間的立場から考えれば、理由なきことではない。罪とは自然的行為の或るものに対して附せられた不当なる明証に過ぎないとさえ解釈される場合も多々あろう。然し斯様な視方は神人関係の立場からは拒否されねばならぬ。自然的決定論に対し、此処には自由意志が活きて働くからである。
人はしばしば此自由意志の否定に於て神の主権を認めようと試みた。其動機は一応首肯出来ないことはないが、自由意志の全然の否定は決定論に導くことを注意せねばならぬ。全然決定論に帰するならば寧ろ唯物観の簡明なるに如かない。なるほどパウロは意志の奴隷性を主張した。然し奴隷性は単なる自由の否認ではない。パウロは斯かる否定は行っては居ないとおもう。意志が活きて働きつつ、自由を求めてあえぎつつ、なお其意志が殺され其自由を掴み得ない所に奴隷性の悲境があるのではないだろうか。唯々諾々罪悪の主権に対し牛馬の如き又は機械の如き状態に置かれているならば、却って寧ろ奴隷性の悲惨は存在しないというべきであろう。」
著者はここでルターとエラスムスの論争に関わるような「自由意志」の問題に入り込んでいます。西洋の思想が「絶対者」なる神を立てるために、人間の自由意志が鮮鋭に問題にされるようになったということはできるでしょう。他方、人間の自由と唯物論的決定論の問題はたとえば「無神論者」サルトルにとっても極めて重大なテーマであり続けました。しかし、著者は人間の自由を状況捨象的に一般論として論じています。キリスト教という宗教がそのような「普遍的」な論じ方を可能にしています。
「人間の罪の一半は却って斯かる自由の主張から生じたのではないだろうか。アダムの林檎の象徴はまさにそれであろう。今罪意識に於ても、自分さえ此意志の自由を正しく行使するならば、罪の法の普遍性を打破し得るという見通しはついているのである。勝敗の鍵は畢竟自己の手に握られているのである。それだのに自分は自分の罪に圧せられて勝つことが出来ない。つまり自分の罪故に人間全体が罪のうちに呻吟することになっている訳なのだ。この見解に連帯観の少なくとも一個の鍵点が存するとおもう。「罪人のうち我れは其首也(*)」とは此意識による告白である。「首/かしら」とはここでは最大のものという意味と共に、代表者の意味をも含んでいることは既に述べた。罪意識にはいつでこの代表性が含まれているのである。代表性は連帯性の極限にほかならぬ。アダムとは何人であるか。彼は代表者である。彼が人類の始祖であるということは、平面的な歴史観に於て、最初の人間として地上に存したという解釈だけでは意味をなさない。人は何人もアダムである、又あり得る。それを地的な見解によりて始祖と考えるから、斯かる論拠のみに基く原罪説は全く愚妄に陥るほかはない。勿論斯かる始祖という意味が謬って居るのではない。これも保存してよい。しかしアダム神話の主眼は其創造観にある。我等は神に創造された者であって、父母に創造されたものではない。これが眼目であると思う。自然観からすれば、この見方は無意味かも知れない。然し神人関係観からすれば、そこに肝要な真理がある。」
* 「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」(Tテモテ1:15)。
神信仰によって、人間に連帯性、およびその極致としての代表性の意識が生まれて来たということは、確かに言えるでしょう。しかし人間の社会がそもそも連帯性および代表性によって成り立っているからこそ、神信仰が生れてきたという逆の面もあります。著者の思考は、その罪意識のために、「審判者」である神の前で止まってしまっていて、神についてさらに問うことができなくなっています。いわば金縛りの状態に陥っています。
「神の被造物として自己を見るとき、我等各自はアダムその人にほかならぬ。これを人類学的又は生物学的にのみ考えるから可笑しなものになる。我等は神の創造物でなく、祖先父母の拵えた者であって、直接神に交渉なきものとなる。斯様な自然観は宗教的には保留される。我等が銘々アダムであるということ、これが聖書的見方であるとおもう。」
「私は罪人のかしらである」という言葉はあくまで心證の問題として立言されていることです。いわば人間の実存的境位というべきものです。その意味でこそ「我等各自はアダムその人にほかならぬ」と言うことができます。
「然らばこれに対立する平面的、時間的、連続的アダム思想は謬っているか、と云えば、そうではない。自然的に、生物学的に、心理学的に、社会科学的に、乃至論理学的に、罪性の遺伝、環境の悪感化、等々の問題を考えてゆけば、其処にはおのづから否み難い厳然たる罪の事実が存する。而して聖書記事は決してこれを拒むものでないどころか、此見解を支持する。従って、アダム思想に於て既に二つの矛盾せる見方の対立が存する訳である。両々相俟って人間の罪の性質が明かにされるのである。両面を味わうことなくしては真の罪意識は生じない。一は罪性の遺伝として祖先より承け継ぎ来ったもの、一は自己の意志に於ける叛逆心であって、これは自己にのみ関する。前者即ち罪性の自覚に於て万人と共に苦しみ、連帯責任の重荷を負い、後者即ち叛逆心に於て人間を代表し、神に対抗し挑戦する自己を発見する。
罪悪の右に於ける研究は其両面性即ち遺伝継承性と代表性との対立的構造にまで我等を導いた。これ等二面を認めることは甚だ重要な意義を有する。それは罪悪に関するのみではない、罪悪よりの救拯に関しても亦妥当するからである。罪意識に於て此両面性を掴むことは、また同一の原理によりて救いの信仰を掴ましめる契機を与えるであろう。」
罪悪には「遺伝継承性と代表性との対立的構造」があるという認識は、その限りでは、著者の人間性に対する秀れた洞察を示しています。それはこの現実世界で我々が嫌というほど「味わわされて」いることです。人間は生物として遺伝と環境によって支配されていると共に、言語と意識とをもつ(その限りで自由な)存在として、個々の人間が、人間全体とは言わないまでも、人間性のある一面を代表し、また社会的存在として、良くも悪くも他者と連帯して生きています。その人間が、益々深刻の度を深めつつある、その罪性から解放される(すなわち救われる)ということは、はたして何を意味しうるのでしょうか。またそれはどこまで可能でしょうか。
著者の「罪の人間学」についての論述はここで漸く終わり、次の「コイノーニア」の章に移ります。
第十四章 コイノーニア
「イエス・キリストの事実が通常の史実性に拠りて律するを許さない高度の実存性を有するという我等の主張が真ならば、その実存性は如何にして証明されるのであるか。
それには第一、キリストの生と死と復活の事実が凡ての人間の為であり、又人間に代りてであるという事に関心を向けねばならない。卑近な喩を以てするならば、演劇は観衆ありて始めて其意義が成り立つものである。同じように、人間を無視してキリストの事実は解らない。とはいえ、勿論それを演劇と同列に取扱うという訳ではない。ここにいう人間とは観衆というような単純な対象ではないのである。即ち、第二の点として、キリストの事実が、約二千年を経た今日の我等銘々にも関連し、我等個々の為に、またその代りに、彼の地的生涯の一切が捧げられたという意味に於ける人間が把握され、また確認されねばならぬ。ここに至って、始めて彼の事実の実存性が証明されるのである。」
第14章に至って著者は漸くキリスト教の核心というべきテーマに取り組みます。ここで「卑近な」喩えとして演劇が持ち出されます。しかしキリスト教の礼拝を演劇に喩えることは、ある意味で両者の本質的な類同性を示すものです。著者がイエス・キリストの事実が高度の実存性を有するというとき、そのイエス・キリストが存在する場所は「礼拝」という空間です。観衆(audience)ならぬ「会衆」(congregation)が集う場所です。イエス・キリストは宙空に存在しているわけではありません。そのことに関連して、かつて(1991年)私があるところで発表した文章の一部を以下に引用してみます。
「最近私は『日本文化のかくれた形/カタ』(岩波書店、1984年)という本を読みました。武田清子氏が編集したもので、加藤周一、木下順二、丸山真男の三氏の、国際基督教大学での講演がまとめられています。今の問い(つまりイエス・キリストの事実の高度の実存性ということ)に関して、私はこの本の中から、劇作家木下順二氏の講演の一部に触れてみたいと思います。木下氏の文章の標題は「複式夢幻能をめぐって」というものです。複式夢幻能というのは、世阿弥の作とされている「井筒」や「実盛」などの能の形を表わしています。複式というのは、この形の能が前歯と後場/ノチバの二場からなっているということで、旅人や僧が、夢まぼろしのうちに不思議な出来事に出会う物語であるという共通点をもつところから、このように名づけられています。木下氏の、「井筒」という複式夢幻能についての解説によれば、前場でまず諸国をあちこちと遊行するひとりの旅の僧が出てきます。そして在原寺という寺を訪れます。そこはむかし在原業平が紀有常/キノアリツネの娘と住んでいた所です。すさまじいほど寂しい秋の真夜中、「草茫々として露深々たる古寺の庭」に、古い井戸があります。脇役(ワキ)の僧がそこに座するうちに、主人公(シテ)の、なまめいたひとりの女が出てきます。その女がいつの間にか静かに井戸の水を汲んで、傍らの古塚に手向けています。それは二〇〇年前頃に亡くなった業平の塚なのです。そこで好奇心を起こした旅の僧とその女とのやりとりが始まります。そしていろいろと昔語りをするうちに、その坊さんには、もしかしたらこの女は紀有常の娘、つまり業平の妻その人ではないのかという、不思議な感じがしてきて、そのことを追及し問いつめたところで、女は隠れてしまいます。それから坊さんが寝てしまい、前場が終わって、後場になります。そして後場では、同じ人物、あの主人公が、今度は紀有常の娘の霊として登場します。だからこの女は、後場では過去を語るのではなく、現在形で二〇〇年前のことを語ります。女の激しい恋慕の情を謡います。二〇〇年前のことを現在形で語りながら、二〇〇年という時間を一瞬に凝縮したような不思議な形で、しかしほんとうに自分の情念を語り出します。すぐれた能役者がこれを演ずると、この舞台が私たちにとって実にリアルに見えてくるのだそうです。この後場は、(ワキにひかえる)旅僧が見た夢であるとも解釈できますが、その夢が実にリアルに演じられます。それは普通のリアリズムではなく、ありえないこと、旅僧が見た夢のリアリティです。しかし木下氏は、いつも動かしがたく見える(この世の)現実的リアリティ、いわば自然主義的写実主義よりも、この旅僧が後場で見たものこそが、リアリティというものではないかと述べています。」
この先、著者が「キリストの事実」について語ることを、私はキリスト者共同体の、普通には「交わり(共に分ち合うこと)」と訳される「コイノーニア」という文脈、あるいは礼拝という文脈で、初めて意味をなすこととして受け取ります。すなわち能を観劇する人が、その演劇上の成り立ちを理解した上で、能役者の演技および舞台に引き込まれてゆくように、礼拝の宗教的な成り立ちを理解した上で、説教を聞く、あるいは礼拝に参与するということがなければ、著者の言うことは基本的に意味をなさないでしょう。この先語られる「事実」とは、その意味でこそ、「高度の実存性」を備えていると言うべきでしょう。しかし場面が変われば、キリストも「出る幕」がありません(「出る幕」論は北森嘉蔵教授の口癖でしたが……)。
「キリストの事実は唯一回的であった。然し彼の地上的存在に先だって、夥しいその予表が存したことを我々は既に看来った。而して、今や、彼の唯一回的事実の後に、無限にその関連事項が続いてやまないことを認める。其処に此事実の構造性が髣髴されるであろう。唯一個の事実ではあるが、それは人間との関連に於て、無数の反映像を結び、時間的にも空間的にも無際限に展開して止まる所を知らない。
キリストの事実は、神が人間に連帯し給うたという謙虚を示すものである。これを我々の側から仰ぎ視るならならば、人間が、神と自己との無限の距離を乗り越えて、神との新しい関係に参与する途の拓かれたることを意味する。」
キリスト教が「救済史」(神の救いの歴史)と見なしてきた歴史の頂点に、唯一回的な事実としての「キリストの事実」があります。それは新約聖書によって証言されていることであって、「新しいイスラエル」としての、その後の教会の歴史は世の終わりまで続き、神の救いの業に参与し続けるものと考えられてきました。それが著者の言う「此事実の構造性」ということでしょう。それはいわばキリスト教という宗教の枠組です。
「然し我々は何等の用意も準備もなくて参与し得るかというに、決してそうではない、参与はこれを人間学的に解釈して即ち消極的に見て、連帯を意味する。連帯なくして参与はない。」
参与という積極面の裏側(消極面)に人間の罪の連帯があるということでしょう。
「恰も法律関係が必然的に権利と平行して義務を規定するように、人間として無上の権利なる参与は同時に不可避なる連帯を他面に伴わねばならぬ。後者を無視して直ちに前者に到ることは許されない。参与だけとるという、一見小賢こい捷路は屡々神秘主義者によりて企図せらるるも、それはたとえ基督教の面皮を被って自他を一時瞞着し得ても、ついには全く似而非なる中途半端の鵺的宗教に終ってしまうであろう。」
キリスト教という宗教がそもそも一個の「神秘体験」ではないかという反省は措くとして、著者はコインの表裏のように参与と連帯は切り離せないものと見なします。それはあたかも権利と義務のようなものであると言います。
「ところで、参与連帯といっても、それは単なる思想であってはならない。はっきりした目標をもち、しっかりした足場を有せねばならぬ。参与すべき、そしてまた連帯すべき対象が明確でなければならぬ。即ち、連帯の対象はアダムにして、参与すべき対象はキリストである。
アダムへの連帯といえば、アダムが神への反逆者なるが故に、各個人は彼への連帯に於て彼の罪を頒ち合うことを意味するのである。他人の罪までも負うということは不合理だと思う人があるかも知れない。然し、此場合、連帯性は罪意識の必然的性格から発出したのであって、意志的にこれを為すのではない。前述の、罪人うち我は首なりという意識は罪意識の究極点というべく、そしてそれは連帯性を本質的に含むものである。
此意識は、キリストが人間の罪を負えりという、極度に難解の事実の理解に到る為に、一個の重要にして不可欠なる足場を提供するものである。連帯によりて我等は神の子キリストと対応関係に入り、彼に接触すべき機会を得る。但し、キリストの負いし連帯責任は進んで任意にこれを負い給うたのであった。これに反し我等のそれは自然に、又は当然に負うたのである。然し負担の事実に於て両者共通である。イエスの系図が福音書に録されているのは此負担の事実を証明せんが為であると思う。」
人間の罪が犠牲を求めるということ、あるいはそれが犠牲となるものを不可避的に伴うということは、厳然たる社会的事実であって、私たちはその観察の機会を欠くことはありません。たとえばそれは子ども間の「いじめ」の問題として今日の社会を騒がせています。強さを求める社会は必然的に弱い者を犠牲にして成り立つと言うこともできるでしょう。キリスト教という宗教もその社会的現実を反映しています。しかし、キリスト教が自らを万人に妥当すべき普遍的真理であると主張するのであれば、キリストが人間の罪を一身に負うということが本当にその問題を解決する「方途」なのかと、敢て問い返さなくてはならないでしょう。それによっていかなる打開の道が拓かれたと言えるのでしょうか。またそれによって一体何が示されたのでしょうか。その一点に、「普遍主義的ないしは絶対論理的」な、キリスト教および著者の主張の正否がかかっています。
「連帯観の重要さはその社会性という見地からも理解出来るであろう。社会を離れて個人なく、個人に焦点せぬ社会もないという思想はまことに常識的のようであるが、キリスト我が為に死せりという自己に収斂した求心的な個性思想と、彼は人類全体の為に死せりという遠心的な普遍思想とは双方共に真であり、且つ互に相関的である。一は他によりてバックされねばならぬ。」
求心的な個性思想と遠心的な普遍思想とは互に他によってバック(支持)されるということが、まさに「キリストの死」に於て成り立つとするところに、キリスト教の宗教としての特性が示されていると言うことができます。それは神話論的には普遍的な論理性を獲得していると言うべきでしょう。キリスト教もまた神話と祭儀に関わる宗教なのであって、決してそれ以上のものではありません。それを「絶対の真理」であると錯覚するところに、特にプロテスタントが陥りやすい「危険性」が潜んでいます。
「連帯性は代表性に究極することは既に述べた。而してここに連帯性とその対照面をなす参与性との接触点が見出されるであろう。我は人類の代表(罪人として)であるとの意識に達しない人はキリストが人類全体を代表することを理解し得ない。恰もアダムが人類の運命を代表したように、十字架上のイエスはやはり人類の運命を代表するのである。尤も、如何に代表するかは全然別問題である。只、兎に角、両者いづれも代表するという事実に於て一致するのである。
然らば、同じく代表性といいながら、その区別はどこに存するか。一は模表を意味し、一は委任を意味するといえよう。アダムは来らんとする者の型であり、彼「一人によりて罪は世に入(*1)」ったことに於て模表的代表性が示されている。これに対し、委任的代表性は「一人の従順によりて、多くの人義人とせらるる(*2)」ことに存する(ロマ書5章参照)。」
*1 「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」(ローマ5:12)。
*2 「すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの人の従順によって、多くの人が義人とされるのである」(ローマ5:19)。
「我々としては、前者に対し本質的に連帯するが、後者に対しては連帯するということは出来ない。特に神の聖旨によりて参与することが許されるのみである。」
「神の聖旨によって参与することが許される」とは、キリスト教の礼拝の行為が成り立つということを意味するでしょう。それはキリスト教の宗教としての成立を意味しています。キリスト教はその「参与」に人間の救いを見出しています。罪の解決をイエス・キリストに委ねる(委任する)ことによって、人間はその罪から解放されるということでしょう。あるいはどうしようもない人間の罪は、神の救いの手によってのみ、すなわちキリストの十字架によってのみ解決されるのだということでしょう。
「連帯は負担である。それは罪の重荷と緊密な関係にある。この負担から解放されることが救の重大な一項目でなければならぬ。然らばその解放は一個の人間が連帯責任から遁がれることによりて得られるのであろうか。それは常識的救拯観として、屡々我等の共感を唆る所のものであるが、然し十字架の福音ではない。真の福音は其連帯責任を負いつつ、新しき体制に参与することによりて得る自由でなければならぬ。連帯は人を殺す運命に陥って居た。重い鉄鎖のように各人の首に巻ついて居る。それを自分だけ断ち切って救われるかと云うに、そうではない。神の子イエスは自ら此鉄鎖を首に巻いて「人の如くになり、人の貌にて現れ、死に至るまで従い、十字架の死をさえ受くるに至」った。「此故に神はかれをあがめて(*)」甦らしめた。ここに於て、我等人間としては只彼に参与すればよい。即ち参与は連帯の撤廃ではなく、却って其連帯の徹底に存することとなった。本来ならば、これは逆方向と考えられよう。然るに、神がキリストに於て人間に連帯し給うた結果として、人間は連帯を解くの要なく、更に此絆を強化することにより、神に連帯するを得るに至った。キリストに於てする神への連帯、これ即ち神への参与にほかならない。此処に拓かれたる新しき途こそは、罪に沈淪する人間をして己が耳目を疑わしむる底の福音でなければならぬ。」
* 「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」(ピリピ2:6〜9)。
パウロが原始教団から受け継いだこの「キリスト讃歌」、すなわちキリスト神話は、大貫隆が言うように、弟子たちの「覚醒体験」の表現であったと思われます。我々の著者はそこに「キリストに於てする神への連帯、これ即ち神への参与にほかならない」ところの全く新しい道、福音(よきおとずれ)を見出しています。
「連帯を離脱しようと試みるのは行為すなわち「律法による義」の道である。これに対し、連帯を徹底するのは信仰すなわち「キリストによる義」の道である。」
福音信仰が「連帯を徹底する」道であるとするところに著者のキリスト者としての誠実さがあると言うべきでしょう。
「連帯の法則は、自己よりも低き水準への同化を意味する。責任を負うことは、弱き者に対し強者に要求される所のものである。キリストが我等に連帯せることに於て、彼の高き御位の放擲を看たが、今や彼は我等よりも更に低き位地と弱い状態にまで貶下された。さればこそ、彼に対する我等の連帯を語り得るのである。斯様な、我等のそれよりも更に降れる悲惨にして詛われたる立場と状態が、「十字架」という表現によりて表わされる事実と思想とである。」
十字架は、罪人である人間との神の連帯の徹底であり極致であるという思想は、今日まで多くのキリスト教徒の心を捉えてきました。キリスト教信仰およびキリスト教倫理の核心はまさにそこにあると言うべきでしょう。
「キリストの十字架は、死を負う我等の「古き人」に対し更に死刑を行うものである(ロマ書6章6節*1)。そこに二重の否定の存在を見ることが出来よう。此再否定は、否定の否定として更生の原理たるべきであるが、それと共に、又それに先立って考うべきは、それが我等の想像し得る所よりも一層深刻な死であり、より峻烈な審判であった事であると思う。イエスをして「エリ・エリ・ラマ・サバクタニ(*2)」の叫びを発せしめるゴルゴダの磔刑は、最大の悪人も知らざる詛の死であった。凶悪のバラバは赦され、そしてバラバに匹敵する我等は赦されても、唯独りイエスだけは赦されなかった。」
*1 「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたもはや、罪の奴隷となることがないためである」(ローマ6:6)。
*2 「そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」(マルコ15:34、詩篇22:1参照)。
キリスト教はイエスの十字架に人間の生(罪)の実相、そしてその極限的表現を見るだけでなく、二重の否定、すなわち「否定の否定」の論理を見出してきました。
「かくまでに貶降せられたるイエスに、我等は容易に連帯することが出来る。而してそれが畢竟救拯の第一階梯である。「汝等知らざるか、キリスト・イエスに合うバプテスマを受けたる我等は、その死に合うバプテスマを受けしなるを」(ロマ書6章3節)とパウロが論じたのは此点に就いてである。
我等罪人たる人間は、未だ自己の頭上に臨むに至らざるも、やがて当然受けざる可らざる究極の審判を想うて絶望の戦慄に日々を送る者である。然るに、図らずも、十字架上のイエスに於て、自己の最後の日に於ける詛われたる姿と同じ姿を発見する。「われキリストと偕に十字架につけられたり、最早我れ生くるに非ず」(ガラテヤ書2章20節)。斯かる我の発見は、罪人としての我の発見以来の大発見であり、そして其偉大さに於て遥かに前者を凌ぐものである。」
ガラテヤ書のパウロは、そのあと「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」と続けます。それを著者は偉大な発見であると言います。この「キリスト、わがうちに生くる」という境涯が、パウロの核心的な言明であることは誰しもが認めるところでしょう。問題は、その「キリスト」とは何であるのか、ということにあります。
「以上、死の徹底に於て我等は十字架原理の二重否定性の一側面を見た。而して他の一面は此否定を覆すことに存する。即ちキリストの復活の事実に於て、また更に我等の心裡の事実としてこれを反映せる実存性に於て証示せられたる所のものである。「我等キリストに接がれて、その死の状にひとしくば、その復活にも等しかるべし」(ロマ書6章5節)。
終末が直ちに端初に接続せる事実として、キリストの復活は空前絶後のパラドクスであった。そして、そのパラドクスがまた我等個々の生命に於て具現されることに於て、そのパラドクスは最も顕著なる実存性を発揮した。即ち、パラドクス的事実は、アナロギアによりて、歴史中に対応し、時間の中に実存的構造体を形成するのである。」
先の「キリスト」とは何であるのかという問いは、直ぐに「復活」とは何であるのかという問いに結びつきます。この問いに答える手がかりとして、八木誠一の『新約思想の構造』(岩波書店、2002年)から、関連する文章の一部を引用してみます。
「さて以上のようだとすれば、キリスト教の成立は、ただ一回限りの救済の出来事が成り立ったとか、そこで超自然的・超人間的な出来事が起こったとかいうことを前提しなくても、宗教的自覚の成立の出来事として理解・叙述できることになる。「自己・自我」の自覚の成立は、特殊の出来事ではなく、人間的普遍的可能性だからだ。私はそれを『新約思想の成立』(新教出版社、1963年)で書いた。これはイエスと原始キリスト教の思想を比較し、その転回点に位置する「イエスの復活」信仰とは何であったかを論じたものである。いま考えれば稚拙な用語と論理ではあったが、基本的な考え方はいまに至るまで変わっていない。「イエスが復活した」という信仰は、生時イエスを理解できなかった弟子たちが、イエスの死後イエスを理解するようになった。すなわち、自分たちをその師イエスと同様に「自己・自我」として自覚するようになった、と考えれば理解できる。すなわち、自我に対して、また自我の中に、「自己」が現れた出来事を、イエスの弟子たちは「死んだイエスが復活して私たちの中に現れた、その力が私たちの中に働いている」と理解したのである。
当時において実際このような理解の仕方があったことは、新約聖書自身の中に記されている。すなわちマルコ福音書6章14−16節によると、洗礼者ヨハネが殺されたあと、ヨハネの弟子であったイエス(イエスはヨハネから洗礼を受けて一時彼の弟子だったと考えられる)が公の舞台に登場し、洗礼者ヨハネにまさる働きをして有名になると、「洗礼者ヨハネが死人の中から甦って、その力がイエスの中に働いている」という風評が立ったという。さて当時、このような解釈の仕方があったとすれば、イエスの弟子たちが、かつてイエスとして現れた(「自己」の)働きを、イエスの死後、自分たちの中に見出したとき、死んで葬られたイエスが復活して、その力が彼らに現れ、彼らの中に働いている、と解釈するのに何の不思議があろう。とすれば、「キリストの顕現」とは「自己」が露になった出来事で、いまや弟子たちの中で生きるキリストとは「自己」のことだ。実際、パウロがキリスト顕現について語る仕方はまさしく自己が自我に対して、また自我の中に、露となる出来事を示している(ガラテヤ1:16、Uコリント4:6)。これは禅的に言えば「覚体験」である。ただし『新約思想の成立』では、「自己・自我」という用語は用いられていない。この本は「空虚な墓」の物語(マルコ16:1−8など)が史実とは考え難いこと、空虚な墓の物語は仏教伝説にも少なくないことを指摘したあと、イエスの死後、弟子たちの生き方が変わってイエスを理解できるようになり、したがってその自己理解も変わった、「復活」信仰はこの出来事の神学的解釈だ、というように記されている」(p.56-57)。
八木の言う「自己・自我」とは、大貫隆の主張に結びつけて考えれば、「ゾーエー(自己のいのち)」と「プシュケー(自我のいのち)」のことであると言うこともできるでしょう。あるいは私流に自己(実存=平和意志)、自我(現存在=権力意志)と見なすこともできるかも知れません。ここで我々の著者の論述に戻ります。
「斯くして、我等人間は、死―生の両相に於てキリストに合一する者となり、随って、神の義しき審判を経て恩寵に浴する者となった。律法の鉄鎖は其力を失わずして其質を純金に代えたというべきであろう。しかもそれは神の力によりて担われる故に重さを感じない。感じないと云わんよりは耐える力が増したというべきであろう。今迄は奴隷の鉄鎖であったのが、此処には愛の靭帯と変っている。今までは死なば諸共であってが、これからは活きるに諸共である。今までは必然の運命として泣いた覊絆であったが、これからは任意に志願して其光栄ある公民権に浴するを喜ぶ身となって居る。
神人合一を軽々しく説いてはならない。それは多くの宗教の皆為す所であるが、我々は慎重でなければならぬ。真の生命に至る門は狭く、その道は細い、即ち十字架の道である。これを経て始めてキリストに参与することが出来る。」
八木誠一に従って言えば、「自我」に生きてきた者が、「自己」に生きようとすれば、そこに「自我」の否定(十字架)が伴わざるを得ないということでしょう。この先著者はこの章の本題である参与=コイノーニアについての考察に取り掛かります。
「参与の何たるかは既に述べた。今や問題は如何に参与するかである。此場合新約聖書の教うる所に従うよりほかに途はない。然るに幸にも、此事に就いて特に我等を教うる文書を発見する、即ち第四福音書及ヨハネ書簡がそれである。勿論その他の部分が無関連という訳ではなく、殊に使徒パウロに至りては、これに関して沈黙する筈はない。恰もヨハネ伝に呼応して、イエスの言に註釈するが如く、まことに千古の偉観である。
ギリシャ語の「コイノーニア」の訳語が即ちここにいう参与である。コイノーニアは共同性を意味するコイノス(使徒行伝2・44、4・32)より出で、交際(行伝2・42、コリント後書6・14、ガラテヤ書2・9、ヨハネ第一書1・3)または参与(ピリピ書3・10、コリント前書10・16)の意である。然し新約に於ける此言は聖晩餐の秘義と結合し、深玄無比なる内容を有するに至った。
「我等が祝う所の祝の杯は、これキリストの血へのコイノーニアにあらずや、我等が擘く/サク所のパンは是れキリストの体へのコイノーニアに非ずや」(コリント前書10章16節)。
所謂ヨハネ文書、特に第四福音書並びに書簡は愛の書と呼び慣らされている。然し単に愛といっただけでは未だ具体的でない。抽象的観想的の愛は言わずもがな、善美を称えられる高度の愛情と雖も、福音の唱うる愛/アガペーからは遥かに遠く距たっている。愛/アガペーは唯の思想、感情、行為に止まらず、一個の具体的実存に関する事実に根ざさねばならぬ。そして、此事を特に啓示するのがコイノーニアの思想である。ヨハネ文書特に福音書の著しい特徴は実にコイノーニアにありと云うも過言ではあるまいと思う。この書の教訓と記録の大部分が此事を中心として描写されて居るとさえ云えるであろう。その内容の豊富、譬喩の適合、描写の具体性に於て、其処には独自なる面目が見出される。殊に最後晩餐の記事(十三章)に続く第十四乃至十七の四章は、聖餐の秘められたる精神的内容の闡明と看るべく、洵に聖書中の至聖所と呼ばるるに適わしい。
聖餐の解釈如何は福音の生命問題である。或人はこれを物質的に解し、其結果却って曖昧なる神秘化に低迷し、またある人は霊的解釈を試み、却って庸愚な合理観に帰着する。結果はいづれも悲惨である。いったい儀礼を第一義の問題として取扱うのが間違いのもとであると言えよう。コイノーニアは我等の日々の生活に即して考えられねばならぬ。それは実生活に於て神と人とが結合することなのである。
然しその結合の事態は如何。唯漫然と結合或は交際を説いても、その関係の微妙さを逸するにちがいない。ところが、何たる幸か、イエス自ら親しくこれに分析を加えて我等に示された。これ即ちヨハネ思想の特色を形造るところのものである。
「我が肉をくらい、わが血を飲む者は我に居り、我もまた彼に居る」(ヨハネ伝6章56節)。
「我は葡萄の樹、汝等は枝なり、人若し我に居り、我また彼にをらば、多くの果を結ぶべし」(同15章5節)。
コイノーニアは此処に、神に在る我等、及我等に宿る神の二形態に分析されたるを看るであろう。一方彼御自身が「我は父にをり、父は我に居給う」(同14章10節)とて此関係の典範を示し給うた。此顕著なる関係の二重性は該文書中に幾回となく反覆せられる所であって、まさにヨハネ思想の一大特徴と呼ぶことが出来ると思う。
以上の二形態と共に、尚一つ、神と偕に在るという第三の形態も亦該文書中より豊富に引用することが出来よう。「我に賜ひたる人々の我が居る処に我と偕に居らんことを」(同17章24節)と、イエスは祈り、また、「父は他に助主(御霊)を与えて、永遠に汝等と偕に居らしめ給うべし」(14章16節)と約束し給うた。
斯様に、我々は神人間の正しき関係が三個の形態に分析せらるることを見た。而して、それらは互に背馳するかに見えて然も各々相扶け、渾然たるコイノーニアの世界を形造るのである。その奥深い真理は只三一の神が篤信の志道者にのみ啓示し給う秘義に属するであろう。以下の考察はその手引の一端にもと願う微衷に過ぎない。」
キリスト教の礼拝(典礼=礼拝式)の中心には聖餐式があります。プロテスタントに於てその意義が薄らいできたことは別のところで述べました(「伝統的教会の七つの標識」参照)。普通には「親しい交わり、霊的な交渉」を意味するcommunionという英語は、Holy Communion (聖餐式) を表わす言葉でもあります。著者はこのコイノーニア(コミュニオン)を構成するものとして、ヨハネ福音書から三つの「形態」を摘出します。すなわち、「神に在る我等、及我等に宿る神の二形態」と「神と偕に在るという第三の形態」です。著者のこれについての考察に入る前に、既出の『逢坂元吉郎説教要録』から逢坂の聖餐論の一端に触れてみたいと思います。逢坂には主著と言うべき『聖餐論』がありますが、以下の説教は平易にその思想を説いています。我々の著者の言う「儀礼を第一義の問題として取扱うのが間違いのもとである」という、「儀礼的」聖餐論にいかなる意味が込められているのかを知るために役立ちます。
「『取りて食え、これは我が体なり』について
イエスパンをとり祝してさき、弟子たちに与えて言い給う「取りて食え、これは我が体なり」(マタイ二六ノ二六)。
主イエス付され給う夜、パンを取り祝して之を擘き、而して言い給う「これは汝等のための我が体なり、我が記念として之を行え」(コリント前一一ノ二三―二四)。
表題の聖言について聊か釈義を施してみよう。説明の便宜上、順序を逆にして「これは我が体なり」と「取りて食え」の前後二段に分ち、後段をさらに(イ)過去の追想として、(ロ)現在の交わりとして、(ハ)将来の保証として、の三つに分けてその意味を述べる。前段はキリスト御自身を示し、後段は動作の内容を示すものである。
一、前段「これは我が体なり」の意味
主は「これは我が体なり」と仰せ給うた。この「これ」とは何であるか。この「これ」の中に基督教の本質がある、と言っても過言ではない。この「これ」は主の仰せ給うた御言葉通りに解釈されねばならぬ。然るに現在の教会は、主の権威を離れてこの「これ」を銘々勝手バラバラに自己の思想から解釈している次第である。「これ」とは言うまでもなくパンであるが、これは普通のパンではない。聖奠/セイテンとしてキリストの与え給うパンである。祭司が右の聖言を読むや否や、パンはキリストの肉に化するとせられた。これを信ずるのが教会の伝統である。もとよりパンが物理的にキリストの肉に変ずるというのではない。主が仰せ給うた意味に於いて、即ち聖奠的に変質するのである。宗教改革以後、聖餐のパンは聖体でないという解釈を生じたが、初代以後中世までは祝福によって聖体になると信じない人は殆どなかった。クリソストムは「これは我が体なり」を戦慄して聴いたのである。彼等はみな創造ということ、御言によって化するということを言っている。このことがなければ、われわれが聖餐によって癒され甦るということもわからないのである。パンが果してキリストの身体であるか否かなどと議論していることが、既に人の考えで云々しているのである。キプリアヌスもトマス・アクィナスもみな聖餐を不思議にも霊薬だと言っている。聖餐こそは真の食物である。
しかし、聖餐のパンをキリストの肉なりと言えば、今も多くの人は「こは甚だしき言なるかな、誰か能く聴き得べき」と言って、これに躓くのである。そこで私はそれ等の人々に目のつけ所を述べねばならぬ。此処に聖餐のパンがあるとする。然らばこのパンとこれを取る者及びこれを取れよと言われた者との三者に跨って実在するものがある。それは何かと言えば聖霊である。神の御霊は造られたものと共にあり、御霊のある所には其処に不思議な神の働きがある。普通に人は形を見てその内容を考える。が、信仰者は先ずその種/シュを見てその形を考えねばならぬ。すなわち形の先に種がある。コリント前書第一五章にある如く、動物の種は動物を産み、神の種はキリストを産む。神の種とは何ぞ、それは不思議な超肉体、超霊魂のものであって、しかも肉体と霊魂とが一つになっているもの、神の甦りの種、神の像であり、それがパンの中に入り、われわれの中に入り、キリストを産み、永遠の生命を与うるものである。パンは一つのてだてであり、影にしか過ぎぬ。しかし、これを通してわれわれの方へイエスの御身体が越えて来るのである。かくて聖餐のパンは単なるパンではない。じっと深く見てイエス・キリストを見なければならぬ。
二、後段「取りて食え」の意味
(イ)過去の追想として。 聖書には「なんぢら新しき団塊とならんために旧きパン種を取り除け、汝らはパン種なき者なればなり。夫/ソレわれらの過越の羔羊即ちキリスト既に屠られ給えり」(コリント前五ノ七)とあるが、これは旧約の過越祭を追想しての言葉である。ユダヤに於いては羔羊、しかも当歳の肉の柔かい柔和な羔羊を以て、自己の心を神にあらわす徴しとした。而かも自己を献げる徴しとして羔羊を殺して祭壇に献げた。このことはユダヤ人がいかに宗教的な民であったかを示すものである。なお過越祭には種入れぬパン即ち醗酵せぬパン(出エジプト一二章)を用いる風習があって、これはこの世のパン種を入れぬという意味である。この種入れぬパン及び過越祭という過去を生かして、主はこれに深き生命を吹き入れ給うた。すなわちイエスはイェルサレムに近い高殿に於いて、弟子達と最後の晩餐を行い、過越に於いて神に献げられる羔羊は、実は自分であると証し給う聖餐を、執り行わんことを待ちに待たれたのである。過越はエホバを記念しエホバと交わる祭であったが、今や新約に入らんとしてイエスは羔羊ではなく、彼御自身を通さなくては神に交われないことを示し給うたのである。
ユダヤ人ほど宗教的な国民はない。さればこそ、彼等に最も人格的な神が知れていたのである。アブラハム、イサク、ヤコブ等が、いかに熱心に犠牲を神に献げたか、それが今やイエスに於いて全うせられた。アブラハムは自己の最愛の長男を献げてまで神に交わろうとしたが、それがイエスの十字架の死に於いて全うせられた。イエスは御自身の体を裂く意味でパンを裂き給い、それを弟子達に与えて最後の晩餐をなし給うたのである。かように主は聖餐を一時の思い付きから、卒爾としてお定めになったのでなく、実に深き御計画を以て共に食せんことを望みに望み給うたのである(ルカ二二ノ一五)。まことに、聖餐は世の初めの先からわれわれに取らせようと志された二品である。
(ロ)現在の交わりとして。 聖餐は主が何とかして人を救おう、何とかして人に本当のよき物を与えようとして下されたことの記念であり、腐りゆく身体を持つわれわれには有難い極みである。御みづから謙ってパンの中に降り、硬いものを柔かくして救わんとの思召である。これを食べさせ食べさせて救おうとし給うた。主は「取って食え」と仰せ給う。かくも弱くかくも罪深い者にも、近づいてよろしいと仰せ給うところにわれわれの現実がある。われわれは私生活に於いても社会生活に於いても大いに苦しんでいるものである。自己の中には激しい闘争があり、そこに血が流されて居り、主の聖餐を解し得る現実を持っている。このわれわれに聖餐は近づき易い柔かい食物として、その中にカルヴァリの御苦痛の愛がこもって一人一人に与えられる。これをわれわれの身体の中に入れてよく味わうことは、われわれが最も直接に主と交わることであり、主の体をおぼえることである。人の中に神が入り来って留り給い、人を神性化せしめる。そうしてだんだんに主と同じ形に化して行く。思えばこれに与るほどの楽しみはなく、喜びはない。何となればその他の総てのわざはやがて消えゆくものであるから。されば聖餐を取るということは、いかに勿体ないことであるか。世々の聖徒は実に深くこれを愛し、深きあこがれを以てこれに接した。聖餐を戴きつづけてゆく人に行われる聖化こそ、基督教の秘義である。
主はこの聖餐を「我が記念として之を行え」と言い給うた。この「記念」の意味を考うるに、これはキリストをおぼえるという個人的な体験ばかりでなく、旧約の記念(アナムネシス)の意味がある。旧約の過越は個々人の霊性の記念でなく、国民的な記念日であった。これをキリストが新しくし、過越とは別な公けの儀式として祝福し給うた。聖餐はこの公儀式の執行である。今日のプロテスタントは、聖餐はただ個人個人が自己のために取るのだと思っている。しかし二三人が主の御名によって集る時、全体としての教会が為すべきことは、聖餐式の公けの執行である。何となればイエス・キリストは万人の眼前にて、公けの死を遂げ給うた。聖餐式はこの死を記念するために、神の制定し給うた公けの行事である。而してこれに与る人数の多寡の如きはもちろん問題ではない。むしろ少数の選ばれた者が多数者を代表して与り、彼らのために執成し彼等を主につなぐ仲介となるべき意義をもつ。それゆえに聖餐に与ることは、この世のために大なる事業をなしているのである。
かく聖餐は公儀式であるが、それが流れ流れてわれわれもその最後の末に連り奉っているということが、もとより大切である。そこにわれわれ人間側にも、それを食べたくてたまらぬという、欲望の深さが要求せられる。思うに人類最大の要求は、どうにかして罪が赦され潔められ、少しの隔てもなく神に近づきたいということである。そうして神も亦どうにかして人に近づき給わんとし給う。故にそこに祭がなくてならぬわけである。昔は前述の如く当歳の羔羊を神に供物とした。しかし、人は神に近づこうとしても近づき得ないから、神御自身で御自分を殺して宥めの犠牲の祭をなし、人をしてこれに与らしめようとした。それを記念して今も教会では献祭(献祭とは聖公会で使用する語)を行う。地上に於いて教会が献祭を行うわけは、今も天上にあって羔羊が自らを献げ、神に事えていられるからである。神の右に在まし給うとは、事えてい給うことをも意味する。もし天上にあって事えてい給うキリストを認めないならば、地上で行う聖餐の意味は浅いものとなり、これは行っても行わなくてもよい程度のものとなるのは当然である。
聖餐に与ることに陪餐という言葉が日本にあるが、これは非常によい言葉である。この陪という字は附き随うという意であって、たとえば陪食、陪乗などこれらは俗に言う御相伴をする、おすそわけを戴く意味である。而して聖餐に与ることは、まさしく「陪餐」することである。それは主の供え給うた犠牲によって宥められることのみならず、主のためにみづからを犠牲として献げる力にも与るのである。この「犠牲」の意味について今一歩進んで考えたい。犠牲とは何よりも先ず主が御自身を供え給うた天上の大いなる供物である。われわれは普通にキリストを直接に拝もうとするが、よく拝めない。それは何故かというに供物が入らぬからである。しかるに、主は御自身を活ける供物として献げ給うた。その主の砕けたる魂を見て、われわれの魂も砕けざるを得ない。そうしてわれわれもいと小さき供物ながら、供えざればやまぬことになる。実にキリストの大いなる供物は、われわれから供え供えするものを引き出さんがためである。それが神の要求し給うわれわれの側の供物である。これによってわれわれも喜んで苦しみを迎え、主を愛し主の甦りに近づき得る。しかしながら真の砕けたる魂とは、キリストのみが献げ得るものである。何となれば、それは人の前にでなく、神の前にであるからである。多くの罪をもち弱き信仰とわづかばかりの砕けたる魂の持主なる、われわれのなし得ることではない。それは唯一人キリストのみがなし得る。しかしこの一度び献げられた主の大いなる供物を記念してゆくところに、聖餐に陪した信徒の献ぐる犠牲がある。それ故に聖餐を戴くことは、われわれの生活を変えてゆくことである。その苦しみはカルヴァリの生命に通ずる。聖餐から流れて出て来る犠牲は、日常の苦しみを栄光に至る苦しみとなさしめる。この苦しみを献げて、キリストの苦しみと一つになることによって、われわれの生活は変って来る。聖餐を取ることは主と苦しみを共にし、甦りを共にすることである。
(ハ)将来の保証として。 ところで、聖餐は現在だけでは十分に食えない。そこで将来及び死後に於いても、主の来たり給う日まで食いつづける要がある。「汝等このパンを食しこの酒杯を飲むごとに、主の死を示して其の来りたもう時にまで及ぶなり」(コリント前一一ノ二六)と。此処に「主の死を示して」とある如く、主の死が中心である。われわれの死ではなく、主の死であればこそ、幾ら重ねても味わいの出て来る深さがある。「示す」には二つの意味がある。一つは公けに示すこと。二つには中に隠れているものをだんだんに現わすことである。およそ芸術の作品にしても作者が表現する毎に、また自然の草木にしても季節がめぐる毎に、その中に隠れているものが無限に外に現われる。これが創造である。これと同様に聖餐の中にも、キリストが限りなく在まし給う。一日も休み給わず、キリストはその中より出て来て、御自身の死を示して世の終りにまで至るのである。
主の死を示すのが聖餐である。われわれは罪のうちに孕まれた生をうけ、やがて罪のために死にゆく運命にある。しかるに、キリストの死は初めから蘇りが約束された死、すなわち甦えらんがための死であって、主の死は却って将来の望みである。それによって全然駄目なわれわれも甦えらせられるものである。それは冬枯の中にあって、既に蕾をもつ早咲きの椿の如きものであって、そういうキリストの死がわれわれの上に重ならなければ、われわれには望みはない。しかし主の死がわれわれの上に重なればこそ、われわれも亦死なないのである。
「わが肉をくらい我が血をのむ者は永遠の生命をもつ、われ終りの日にこれを甦えらすべし」(ヨハネ伝六ノ五四)と。これは聖餐がわれわれの終末、来世の保証であることを言うものである。頼みになるものとて何ものもないこの世の中にあって、主の聖餐はどうしてこの種の保証する力をもっているのであろうか。というに、それは一に保証されるものにではなく、保証する者に懸っているのである。主が甦り給うたが故に、われわれも亦甦る。聖餐は甦りの保証である。聖餐を度々食うことにより、われわれは真の基督者となり、遂に主と同じ像に化される。そうしてわれわれは最早死なない、という確信に達する。信仰ある者はこの保証をいただくのである。」(p.222-233)
逢坂は聖餐のうちに初代教会以来の「体験の伝統」を見ていました。ひとりのプロテスタントの牧師が、また一日本人が、ここまで聖餐の真義に迫ろうとしたということは、ひとつの「偉観」です。逢坂はパンとブドウ酒という象徴のうちに、神と人との断絶されたコミュニケーションを回復する、キリストの仲保者(仲介者)としての現存(天上のキリストの、聖餐に与る信徒への内住)を見出していた、と言えるでしょう。聖餐に与ることによって、日毎にキリストの死と甦りの秘義に触れることが、キリスト者共同体の中心的な礼拝行為であると見なされています。「象徴は共同化されることによって活性化される」という私の考えからすれば、聖餐が礼拝(献祭)における中心的なシンボル(象徴)と見なされていると言えます。それはまたキリストというドラマの実演でもあります。
ところで、我々の著者はヨハネ福音書によって「神人間の正しき関係が三個の形態に分析せらるることを見」、それらが「渾然たるコイノーニアの世界を形造る」としました。著者は聖餐(コイノーニア)の意義を「儀礼的」にではなく実存論的に把握しようとしていると言うべきでしょう。以下、その考察に取り掛かります。
「さて第一の形態、我等基督者が神又はキリストの裡に在るとはどういうことであるか。使徒パウロは此疑問に応えていう、「汝等は死にし者にて、其生命はキリストと倶に神の裡に隠れ在るなり」と(コロサイ書3章3節)。これに依ってみれば神の裡に在ることは我等にとりては隠れることであって、死を意味する。とはいえ、それは旧き世界に属する懊悩苦痛の死ではない。死よ、汝の棘はいづくに在りや(*1)、死はキリストにありて其咒詛性を喪ってしまった。我汝等を息ません(*2)、われ平安を汝等に遺す(*3)、の安息であり、平安である。無限の恩寵に浸り、感謝と喜悦に溢るることである。永遠の翼に蔽われて憩うことである。それは死なると共に生であるも言い得よう。但しその生命は静態に在るそれでなければならない。」
*1 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(Uコリント15:55)。
*2 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)。
*3 「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」(ヨハネ14:27a)。
最後の「その生命は静態に在るそれでなければならない」ということは、神にある時間が静態であり、罪にある空間が動態であるという、先の叙述に関わっているのでしょう。
「斯様な自己没入的信仰に於て、我々日本人は福音を享入れる用意として、昔から既に様々の準備的体験と訓練とを受け来ったのではあるまいか。私は日本仏教に於て陶冶され来った帰依思想即ち南無観をここに摘示したいのである。曰く南無遍照金剛、曰く南無阿弥陀仏、曰く南無妙法蓮華経等々、それ等宗旨間には著しい内容の相違と烈しい啀み合いさえあるに拘らず、凡て南無観によりて統一されて居ることは看遁し難い点であると思う。
南無観は我等を導いて永遠の懐に抱かるる甘美なる法悦境へ到らしめる。その秘域を垣間見たい人は幽寂にして絢爛なる我が古典文学と仏教芸術を探るがよい。更に心ある人は、これに照応する思想と表現とを古来世界の此処彼処に咲き匂った宗教文化の華に温ねるがよい。
さり乍ら、問題は単なる帰依思想が我等の福音的信仰の要求を満足せしめるや否やである。これに対する答は悲観的ならざるを得ない。かのロマンティク神学を行詰らせたような汎神論的運命の破綻が其処に我等を待ちうけているのである。私は必ずしも聖書的に解した第一形態が南無観と全然合一するとはいわぬ。然し乍ら、此形態のみに捉われた見方は少なくとも後者と同様な運命を辿るものと考えざるを得ない。」
コイノーニアを論ずるのに南無観に言及するのは、いかにもこの著者らしいところです。しかし「神のうちにある」という捉え方だけでは汎神論に陥る危険があり、南無観のような自己没入的な信仰は、シュライエルマッハー流のロマンティシズムの神学(「絶対帰依の感情」)と運命を同じくするものであると断じます。
「この破局を済うものを索めて、我等はコイノーニア第二形態にこれを発見する。神が人の衷に宿る、無限なる神が有限、しかも塵芥に等しい我等の内に住み給う、我等は神の宮と称えられる(*)、ということは其意洵に千万無量であるが、更にこれを第一形態と対比して、その互に矛盾背馳するが如くに見ゆることに於て、其真義は一層深く究明されねばならぬ。」
* 「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(Tコリント3:16)。
「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、自分自身のものではないのである」(Tコリント6:19)。
「神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」」(Uコリント6:16)。
神が人のうちに住む、すなわち内住(indwelling)という思想が、コイノーニアの第二形態であると言われます。
「再びパウロに聴くに、曰く「(神は)汝等の裡に宿り給う御霊によりて、汝等の死ぬべき體をも活し給わん」と(ロマ書8章11節)。自己を土の器に比し、その中に神の宝を包蔵すると言ったのは彼である(*)。宝の無限に偉大尊貴なるを知らば、これを宿す有限者はおのづから自己の極限的に弱小無価値なるを認めざるを得ない。聖母は卑しき賎の女より撰ばれ聖霊は悔恨に打ち砕かれた魂にのみ住み給う。」
* 「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(Uコリント4:7)。
「第一形態が死を意味したのに対し、この形態は活躍する生命、死ぬべき體をも活かす生命を指すのである。前者が永遠の相のもとにあるならば、後者は絶大な超越的能力が風の如くに降臨する瞬間に於て存する。尚また前者が個性的自己の帰入没浸にあるならば、後者はその再生樹立を意味するとも言えるであろう(ガラテヤ書2章20節参照*)。而して、この「宿る」形態即ち降臨的コイノーニアの日本人的訓練は実にわが神道に於て用意せられ来ったことを私は特に指摘したいと思う。」
* 「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」
「無限なる超越存在が有限にして日常的なるものの裡に宿るという思想は神道の中心精神に属し、時代の変遷にも拘らず、渝る所がない。それは、右述の、無限なるものの裡に一切が帰入するという仏教思想と相映照して、永く日本の民族精神を涵養し来った。これは貴重無比なる旧約的訓練であって、驚くべき摂理が今日まで我等を指導し来りしことを想うて感嘆これを久しうするのみである。実にキリストの福音はこれ等の両思想系統を双翼とするものと云えよう。尤も、斯くいえばとて、仏神両道の総和乃至綜合が直ちに基督教なりという風に軽率に解してはならない。此場合我々のアナロギアは思想としての形態に止まるのである。キリストのペルソナの実存性を無視した議論は風に吹かるる粃糠(*)の如きものであることは言を俟たない。」
* 「悪しき者はそうではない、風の吹き去るもみがらのようだ」(詩篇1:4)ほか。
神道に神の内住の思想を見るというのは大胆な発言です。内村鑑三は神道における神体(みたましろ)の単純さ(鏡・剣・玉など)を称揚したことがあります。しかしキリスト者が思想としてこれを評価するのは珍しい部類に属すると言えるでしょう。私に言わせれば、三つの宗教にアナロギアが見出されるというのは、神の摂理の問題であるというよりは、要するにキリスト教も「宗教」であるということにほかなりません。
「最後に、第三形態の一瞥を以て此章を結ぼう。それはキリストと偕に歩む生活の歴史的形態を意味する。それは神人交歓の共同体に於て、時間の相のもとに営まれ、キリストに於て見出さるる究極的完成を目指しつつ成長してやまない生活にほかならぬ。「偕」は「友」に通ずる。イエスは我等を友と呼び給う(ヨハネ伝15章12〜15節*)。教師、指導者、慰藉者、そして我等の家庭的一員としての神を此処に仰ぐのである。」
* 「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」
著者の頭の中には、「人が神のうちにある」ことを永遠の相(死)、「神が人のうちにある」ことを瞬間の相(生)、「神が人と共にある」ことを時間の相(生活)として見る、という図式が成り立っているようです。
「キリストの死に対し、これに参与するといわんよりは寧ろ連帯すると考うべき側面も見逃してはならぬ。我等は只特権のみを考え、これを打算して参与するのではない。キリストと偕に世の罪を負わんとする者である。嘗ては自己の運命として人間の罪の連帯者であったが、今はキリストにありて、進んで他人の罪を担わんとする。然しそれは唯キリストと倶にこれを為し得るのであって、自ら単独でこれを行うことは出来ない。己が罪人でありながら、他の罪を負うということは、人間的に見れば、何か義侠的行為のように考えられるかも知れないが、それは浅墓な見方であろう。世の罪を負い得るのは唯キリストあるのみ、我等は殆んど無能である。ただ彼に参与するの特権の光栄に感泣したる者は、彼と共に十字架を担う、即ち連帯的関係に入ることに更に光栄を見出すのである。斯くして、連帯即参与、参与即連帯となる。
キリストは凡ての凡てであるという聖書思想は、斯様に我等の生活に適用した時にやや具体的に理解されるようになった。これを汎神論的に唯普遍永遠の存在というように考えて行っても此思想の内容には触れ得ない。彼は死と生の原理である。如何に偉大の世界でも彼のうちに没すべく審判せられ、如何に小なる者も、その裡に彼は宿ってこれを活かすことが出来る。否人間的標準に基く大小の如きは彼に於ては問題ではない。無限の前には我等の考える如何なる大も物の数ならず、又如何なる小も軽蔑を許さない。我等の無限性思索法としては、大が大ならざる所以を知った時、小が小ならざるを知った時、無限なるキリストを知るの道が拓けるのである。これ神の教育学である。禅機を捉えるということもこれと無関連ではあるまい。この訓練は物質の問題に於ても充分演習することが出来る。しかし其精神に徹する為には道徳的実践にこれを活用することに於て一層深き訓練を体得することが出来る。高慢自負、倨傲を捨て、謙虚自己を持するのである。これがキリストと倶に歩むことである。彼と倶にあるとは単にキリストを外面的に学び模倣することではなく、倶に十字架を負うことでなければならぬ。この実践性なくばキリストの衷に自己を没入することも、彼を自己に宿すことも出来ない。三者は三にして一、一にして三である。
「凡ての凡て」たるキリストは右の如き関係に於て始めて我等の把握し得る所である。彼は全体として考えても不充分である、何となれば彼の分割された部分なるもの存しないから。彼を絶対と呼ぶも亦不充分である、何となれば彼は相対的でもあるから。物質的に考え難く、精神的でも不可、そして最後に到達するのが完全性という思想である。キリストは完全である。時空の内外を問わず、凡ての場合に於て完全である。」
キリストの衷に自己を没入すること、キリストを自己に宿すこと、そしてキリストと倶に歩むことの三者は、「三にして一、一にして三である」であると言われます。またキリストは完全であると言われます。再び、その「キリスト」とは何であるかと問うべきでしょう。それは「自我」ならぬ「自己」ではないのか、それは「プシュケー」ならぬ「ゾーエー」ではないのか、「現存在」ならぬ「実存」ではないのかと、敢て問うべきでしょう。象徴が実体化・差別化されている間は、宗教の排他性・偏狭性はなくならないからです。これについては著者も次のように若干の反省の辞を述べています。
「まことにコイノーニアこそは奥義中の奥義である。とはいえ、これを唯後生大事と祭り込み、没理解無反省のままに過ごすことは福音の精神ではない。有難さに涙こぼるるのみでは未だ真の信仰とはいえないのである。況やその外形的象徴性を過重し誇張するの愚は及びがたく、その危険は測り難い。然るに、何たる幸か、我等は主イエスより親しく分析的にその意義を啓示せられた。更にこれを註解する者に使徒パウロがある。以て我等は行住坐臥これを静思の最高規範又実践の至上基準たらしむべきであると思う。」
こうして、この「コイノーニア」の章の前半の部分は終わり、次に稿を改めて「血の意義」についての論述が始まります。紹介の仕事はここで小休止します。
血の意義
「以上に於て参与の様態の諸相を看た我々は、今度は参与の根拠に就いて問わねばならない。ところが、これを抽象的に理論づけることは聖書的方法ではない。我々は寧ろ歴史的省察に於て根拠を求むべきである。
参与性は歴史に於て存することはさきに述べた。即ちキリストに参与する人間は時間的存在としての人間である。それは構造性を有し、キリストの十字架を中心として発展し行く組織体としての人間である。
聖書を繙くならば、参与思想の明白なる発生はアブラハムの時にあると見ることが出来よう。彼に対する神の契約こそは参与の基礎的思想である。勿論彼にありては、「未だ約束のものを得ず、遥かに之を見て迎へ(*)」たに過ぎなかったが、アブラハムの子孫たる資格に於て、ヘブル民族は契約に参与することを信じた。勿論その契約の実体はキリストに於て存する。」
* 「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」(ヘブル11:13)。
「参与の象徴は「血」に於て見出される。「肉」及び「パン」もこれと不可離の関係にある。血、肉、パン、これ等は皆旧約より伝承せられ、晩餐の聖奠に至って玄妙の極意に達したのであるが、それは凡て、アナロギアによりて、真理の実体を間接に照映するに止まることを忘れてはならぬ。これを密儀化し、或は牽強付会の解釈を附したりすることは慎まねばなるまい。とはいえ、アナロギアの効力は強く照射せしむべきであり、これを科学的に平面化し、或は常識的に凡常化することは寧ろ愚かな態度である。
元来、契約は抽象化や概念化を嫌うものである。出来るだけ具体的でありたい。我等の日常生活に於て、証文に捺印する、更に血判する、というようなことも、その背後に人格的なもの、一切の所有乃至は生命をも打込んだものがなければ真の契約的性質を具えない。武士に二言なし、とは此背後にある人格的実質を以て証言することである。聖書は神の言であるという場合でも、其背後の実質が存し、然る後に言葉が存するのである。此実質の象徴が即ち血であり肉である。
徹頭徹尾契約に終始するのが聖書である。そして、聖書に於ける契約ほど具体的且つ現実的な契約を我等は知らない。其処に神より人に対して与えられた契約は単なる約束の言葉又は証文ではない、礼奠として結晶し、祭政一致的政治によりて保護せられ、歴史的に展開し、幾度となく預言者等によりて破壊されまた再建され、言葉として啓示され、言葉はついに肉体となり、更に約束の霊として降臨し、なおこれを「手付け」として新天新地の希望の形に於て与えられている。」
礼典(サクラメント)としてあるいは「キリストの事実」として結晶する神の契約に著者は救いの実質を見ています。そしてそのアナロギアが「血」であると言います。
「契約は又、次の二方面に分けて考えることも出来ると思う。即ち、預言者によりて伝達せられたる啓示としての約束と、祭司によりて施行せられる礼奠に於て具体せる其約束の確証とである。たとえ不完全ではあっても、預言者は神より人間へのメッセージを伝達し、また、影の如き象徴に過ぎないとはいえ、祭司は人間より神への通路を管理する。預言は生の原理、礼奠は死の原理を示すと云っても差支えあるまい。何となれば、礼奠は犠牲の献物を中心とするに対し、神の言は死者をインスパイアするものであるから(*)。」
* 「彼(主)はまたわたしに言われた、『これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて(インスパイア)、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る』」(エゼキエル37:4〜6)。
「然しながら、更に進んで、死を意味する献物からも、我等は生の原理と死の原理を分析することが出来よう。レビ記の教うる所によれば、同じく祭壇に献げられた供物であっても、燔祭の犠牲は焼き尽され、素祭酬恩祭の供物は人間がこれを食うべく規定されてあった。前者は死を、後者は神より与えられる生を示唆するものである。若し完全なる犠牲たる十字架のキリストに到るならば、彼の血は流され、肉は裂かれ終ったことに於て死を表すと共に、彼の血を飲み肉を食う――最も洗練せられたるアナロギアに於てこれを解釈すべきは言を俟たないが――ことは我等に永遠の生命を附与せらるる唯一の方法である(ヨハネ伝6章53節*)。」
* 「イエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる』」(ヨハネ6:53〜56)。
「これに由って観れば、聖餐に於て示されたる死の裡に、二重の性質が存することを解し得るであろう。即ち、一には、死はどこまでも死であり、棄却であり、否定であると共に、更に、其処には既に生の胚芽が隠されて居り、それが人の心に播かれたる場合、新しい生命となって発芽するのである。一粒の麦であって、死而生、また死即生ということが出来よう。前者は我等にとり、罪の生涯よりの断絶また解放として働き、後者はこれに新しき内容を賦与するのである。」
死而生、また死即生ということが、洗礼だけではなく、また聖餐の秘義でもあると言われています。そこに神の新しい契約の具体的表現があるということでしょう。
「右に於て回想し来った契約性の歴史的展開は、キリストの十字架及復活の事実の既往への射影にほかならぬ。同時にそれは、アナロギアの力を以て、現在の我等、また我等の後に来る人間にとり真理であることを実証する。独特にして且つ唯一回的の出来事であるが、それは何時如何なる処に於ても、人間の生活に切断を与え、依って以て終末を来らせ端初を発生せしめるパラドクス原理である。」
聖餐は、「キリストの十字架及復活の事実の既往への射影にほかならぬ」という意味では、アナロギアであり、「人間の生活に切断を与え、依って以て終末を来らせ端初を発生せしめる」という意味では、パラドクスであると言われているのでしょう。ここから著者は聖書における「血」の考察に取り掛かります。
「このパラドクス原理を抽象化し枯萎せしめることなく、生々たる具体性と溌剌さに於て会得せしめるヘブル的手段を聖書に求めて、我等はこれを「血」の思想に於て発見する。この恐るべく多義的にして容易に把捉を許さざる思想に於て、我々のアナロギアは少なからぬ訓練を経なければならぬ。
聖書に於ける血の思想の中心は勿論イエスの十字架の死である。神の羔の祭壇上の犠牲である。其処に流されたのは赦す血であり、また潔める血である。「血を流すことなくば、赦されることなし(*1)」(ヘブル書9章22節)、「イエスの血凡ての罪より我等を潔む(*2)」(ヨハネ壱書1章7節)、というような表現は非常に深い意味を含んでいるからには、此思想の分析を一応ここに試みることは徒爾ではあるまいと思う。」
*1 「こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」。
*2 「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」。
「先ず卑近な点から着手してみよう。血液は動物、特に人体の重要成分として、これを科学的に観るとき、複雑無比、微妙至極の物質であって、其構成や機能に就いて今日化学者や生理学者に知られて居るところは極めて些細に過ぎず、あとは神秘の雲に蔽われている。
次に血という言葉の意味を考えてみるに、これまた複雑無比、微妙至極であって、その含蓄の豊富、象徴の不思議、これに比すべき言葉は殆ど見当らない。試みに、直接的意味を離れ、その示唆性の界域を瞥見しただけでも、その驚くべき広範囲に亘るのを知るであろう、たとえば――
生命、死、争闘、生なましさ、徹底、情熱、悲哀、殺傷、苦痛、罪悪、穢れ、潔め、尊貴、神聖、歓喜、正義、犠牲、報償、凶事、惨劇、破局、審判、刑罰、系統、連帯、肉親、愛情、誠意、決心、気力、体力、等
右の如き意味は日本語にも外国語にも存し、而して聖書中にも殆んど皆用いられている。聖書が深刻無比の書であり現実に即する文章であることは、それが凡ての意味で血に染められ、血で書かれて居ることによりて推察せられるであろう。」
ここで著者は血の意義を三つに類別します。
「ところで、血という言葉の斯くも著しい印象を与える所以はどこに存するのだろうか。我等は其理由を明かにするものとしてその特性の幾つかを指摘することが出来よう。先ず矛盾性がある。生と死、善と悪、喜と悲、因果と偶然、神聖と汚穢、昂揚と沈鬱、審判と恩寵、誠意と欺瞞、というような、いづれも激烈な響きをもち非常的な連想を誘うような対立的意味が血の概念中に渦動する感がある。
第二の特性は現実性である。観念性、抽象性、空想性というようなものから最も遠く、突つめたさし迫った気持をもつこと、「血みどろ」というような表現がこれを如実に示す。現実性が前の矛盾性と結合して葛藤を演ずることは容易に想像することが出来よう。血はその流された事実に対し徹底的解決を得るまでは止むことなく、過去から現在に向って叫び続ける。凡ての曖昧と妥協を許さない。
第三に連関性がある。血による関係は最も緊密なる関係である。血を分けた同胞、血をすすり合った友達というような。それは連帯責任を意味し、また参与の特権の確認である。神の意志は気儘に働くものであるか、というに、決してそうではない。そこに血の意義が存する。血は選ぶ性質をもつ。神の選択は血に?がっているのである。それは神が歴史を重んずるという意味にもとれる。棘より葡萄をとり、あざみより無花果をとることは神の意志ではない、良き樹はよき果を結び、悪き樹は悪き果を結ぶ。」
この第三の観点から著者は「血筋」に言及します。
「血筋の重要さは其処にある。それは精神的血筋であるけれども、肉体的血筋もこれをガイドするものとして等閑には附せられない。イエス自らがアブラハムの末裔であり、彼の血はアブラハムの末裔の為にのみ流された。それ故パウロにとりても、自己がアブラハムの裔にしてベニヤミンの族なることを強調することは単にユダヤ人に対する弁証上の便宜からのみと考えたのでは不完全であろう。尤も、血肉上アブラハムの裔たることは神の選択ということに比すれば全く影が薄いのは事実である。神は石をも神の子となすことが出来るという言(*)は、自然の血は言葉(神の)の血の前に全く無力であることを教える。我等日本人としても、ユダヤ民族と血縁上から有縁か無縁かを詮議立てするのはあまり根本的な問題にはならぬ。然し神の言(選択)によりてアブラハムの裔となることは必要である。何故に必要かと云えば、それは神の契約に参与する為に必要なのである。此処に連帯より参与への転換がある。其理解の鍵は「血」でなければならない。」
* 「だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ」(ルカ3:8)。
ドラマは現実の反映です。しかしドラマと現実とを混同することは危険です。そこにキリスト教信仰の陥穽があります。この「血筋」の議論に至って、たとえそれが「精神的血筋」と言われようと、伝統的なキリスト教信仰の問題性が浮び上ってきます。
「斯くて、我等は救われん為には特定の選ばれた民族と連帯関係に入り、彼等の血を分ち――即ち聖書的表現によれば、アブラハムの子となり――それによりて特権への参与の資格を獲る訳である。但しアブラハムの子となるのは肉体的系統によるのではなく、唯信仰によりて此資格を得ることはパウロの力説せる如くであり、そこにパウロの異邦人への使徒としての偉大な眼識を見るのみならず、連帯と参与との関係に基く福音の大原理の闡明を認めるのである。
アブラハムの裔であることは血による特権であると共に、パウロ及びヘブル書の著者は、アブラハム自身が唯信仰によりて此特権への資格を獲たことを指摘することを忘れない。アブラハムも亦アダムの裔である。彼は特権と共に負担(罪の)があった。選ばれた者であると共に追放者の末である。光栄と共に汚辱を負う者である。斯かる両面を一身に具体することにより、連帯参与の切替が彼の衷に準備されたのであった。
アダムとアブラハムによりて神に対する人間の態度と其享くる待遇とは概括された。そこに宗教的人間が示された。我等はアダムに連帯し、アブラハムに参与する。これが福音に対する我等の準備であり、訓練である。我等は外形的にアブラハムを学ぶと同時に、彼の血を継ぐ者である。恰もアダムの為す所を為し(この場合学ぶのではないが)その血を引くように。
血は血に呼びかけ又叫ぶ。ここに対応の問題が再び登場する。キリストに於て我等はアブラハムの裔を見る。随ってキリストにやはりアダムの一面が存することである。但し旧いアダムでなく、新しいアダムである。が兎に角キリストも亦アダムであるということは彼に人間への連帯性が存することを示す。尤も彼の場合には此連帯性は、彼のケノーシスにより、任意に担われた責任であり、我等の場合には止むを得ず担うたそれであるという相違を認めねばならない。」
ここに書かれていることは信仰者の言説としての「物語」、あるいはそれによって担われる「象徴」の普遍的意味であって、それ以上のものではありません。あるいはアダムもアブラハムもキリストも宗教的象徴として語り出されているのであって、その限りでその意味を読み取ることができるというに過ぎません。そこにそれ以上の「実質」を読み取ることを、私は「象徴の実体化・差別化」と呼んでいます。神話の非神話化ではなくて、神話の「実話化」が生じるところに、信仰の排他性も生れてきます。「選び」の思想にその典型的な問題があることが指摘されるべきでしょう。
「我々は問題を更に限定し、意味内容の深化を企てよう。ここにイエス・キリストの血は何を意味すると問う場合、それが如何に矛盾性と現実性と連関性を満足するかは既に叙べたる所である。即ち、審判と共にこれと背馳する赦免を意味することに於て、又それが万世に亘りて人間の心に決断を迫る事実中の事実たることに於て、更に代表的なヘブル民族の代表者たるアブラハムの裔として、全人類に連帯しこれを代表せることに於て、イエスの血は、要求せられたる凡ての特質を具備するものである。
然し、イエスの場合、我等はこれだけの説明で満足し得ない何ものかを感ずる。それは以上の叙説が主として人間的視角よりする観察に止まっていたことに存するとおもう。我等は更に神の子イエスの血に就いて究明する所なくてはならぬ。」
論述がここまで及べば、もはやイエスの血が「実体化」され、かつまた神の子の血として「差別化」されているとしか言いようがありません。
「ここに人の子イエスはまた神の子イエスたることに新たなる注意を向けて欲しい。この観点の移動により、我等の見解の多数は倒逆されるのを見るであろう。著しい其一例として、彼の流せる血が審判を意味したという場合、我等はこれを神がイエスを「罪となし」たという一面のみを看ただけでは充分でない。それは他面、人間がイエスに下した審判をも意味するのである。審判は神が人間に下すのみではない、人間が逆に神に向って下す場合もあり得るのであって、イエスの場合、その両面が合して一となると見ることが出来よう。而して、人間がイエスに下せる審判そのものによりて、神の審判が人間の上に臨んだと見ることが出来るであろう。」
ここに書かれていることは典型的にキリスト教的な物言いです。このような言い方はまさに「倒逆」しています。イエスを神に祭り上げることによって、初めて「人間がイエスに下せる審判そのものによりて、神の審判が人間の上に臨んだ」という言説が可能になります。そこから人間の救いのドラマ(救済物語)が始まります。鏡には左右が逆に映るように、この「キリスト劇」においては、人間の現実が反転して神に投影されます。
「人間はカルバリに於て神を審いた。歴史上此時程人間が強く神が弱かったことはない。神はここに自らの弱さを露呈し、自らの矛盾を人間に示した。何者も敵し難い筈の万軍のエホバは黙々として屠場にひかれる小羊の如く弱くあった。然し此弱さは、又此強さは、本当の弱さ強さであったろうか。神の弱きは人よりも強い。人が勝ったと思ったのは罪に心のくらんだ人間のさかしらさに過ぎなかった。神の弱さは故意の弱さである。人を滅亡に、即ち彼等の当然の報いなる断罪に処するには如何なる力をも顕し得る神である。唯だ人を救わんが為に弱くなりし神である。ここに救いは新しい規定を見出す。またそれによりて救いの意味は新しくなる。規定とは即ち、他を救うには他と同列又は以下に降らずしてはこれを為し得ない、という事である。」
まさにこの救いの物語がキリスト教をキリスト教たらしめてきたと言えるでしょう。ここから著者の神についての思弁が始まります。
「神は科学者である。多くの実験を行い給う。救いの実験には数多くの預言者が動員された。そしてイエスの十字架/クルクスは究極の実験/エクスペリメントゥム・クルゥチスである。神は人間に自己を審かしめ給うことにより、真箇の審判を人間に下し給うた。神は人間が自己の自由意志を以て為し得る最大の業をなさしめ、これを科学者の冷静を以て観察し実験し給うた。イエスをして「わが神、わが神、何ぞ我れを捨て給うや」との絶叫を発せしめたのは此冷静に原因するのであった。
神の科学者的実験は如何なる種類のものであったか。それは「力」を抽離し、謂わば定量性を無視して、純粋に質的定性的に、正義と神聖とを人間に於て試みたのである。この実験は幾千年の長期に亘って行われたが、最後に神の独子によりて行われた。而して凡ての他の実験と同様、此究極の実験も、人間が正義と神聖の何たるかを弁別せずこれを蹂躙して顧みざることにより、全く無効に帰し、無惨にも暴力的に破毀せられた。義に対するに義を以てすること、聖に報ゆるに聖を以てすることは全然人間の知らざる所であることが明白になった。此意味に於て、人間は性質的に神の実験を審了せしめた。即ちこれ、取りも直さず神の審判をうけたことにほかならない。神の審判といえば、「力」の顕われとばかり解し易いのが我等の通弊である。然し実際に於て、力は最終の結果であって、力を用いざる審判こそ審判そのものと云うべきであろう。そこには神の激情が現われて居ない。冷静な裁判、科学的必然、ただ在りのままが呈示されることにより、純粋な判決にまで自然に到達するのである。
凡て在りのままに呈示することは審くことである。イエス・キリストに於て神自らを呈示し給うことに於て審判がおのづから下され、同時に、人間の態度が究極的に露呈されることにより、其審判は終結した。
今若し神が十字架的実験の方法をとらず、即ち血を以て審かれ且つ審く方法に依らず、唯無限の慈悲と老婆心的恩恵によりて人間を赦しまた救うと考えたならば、それは多数の常識家を躓かす虞れなく、人道主義者の満足をかち得るに都合がよいかも知れない。然しそれだけ其恩愛は浅いものになり、人間的なものに止まるであろう。それは罪悪の真義に徹せざる宗教に於てのみ妥当するであろう。罪意識に目覚めた時に、愛と共に正義が要求されねばならぬ。そして正義の遂行は人間を審くことである。イエスは世に審かるることにより却って世を審いたのである。」
十字架に於て神が神自らを裁いたという思想は確かに激越です。人間の現実の究極的な表現がそこにあります。裏を返せば人間は自らの手によってはその現実から解放されることができないということを意味しています。人間の自助努力にいかなる幻想も持ちえないということを意味しています。アウシュビッツとヒロシマ、そしてベトナム戦争とイラク戦争とを経験した人類は、絶望の淵に立たされています。それは「科学者的」に冷静に認識すべき事柄です。人間に対する甘い期待は一切砕かれるでしょう。しかしその人間的現実の只中で「キリスト劇」を上演することにどんな意味があるのでしょうか。著者の言う神の実験とは、「愛と正義」というドラマの実演であって、それ以上の意味は持ちえないのではないでしょうか。それは観劇者に一場のカタルシスを与えることはできても、それ以上の意味を見出すことはできないのではないでしょうか。
「ところで、斯様に冷静で、受身で、世の運命に従うの結果として流されたる血は、更に、今度は能動的また偉大なる意志の発動として、これを献げられたる血として解せらるる方面の厳存することを妨げるものであるか。否、決してそうではない。イエスの血は自然的理由によりて流され、神がこれを科学者的態度を以て見まもったということは、却って其処に神の想像に絶する熱情が、犠牲として献げられたる此の血を迎えたることと呼応し対偶することによりて、此事実の意味を完璧ならしめるというべきである。
空しく流れて地に吸われ去ったイエスの血を冷静に観察せる神は、他面、その一滴をも空費せぬ神である。これは別の言い方を以てすれば、神は其血を嘉納せりということにほかならない。而して嘉納の聖意は応答の形を以て、人間に確認せらるるものでなければならぬ。
神よりの応答はヨルダンの受洗に於て一たびこれを聞いた。変貌の山に於て二たびこれを聞いた。受洗は死の、また変貌は復活の、それぞれ預表であると我等は解する者である。何れも十字架の血を中心とする事実の側面である。
ここに於て、我等は嘉納せられたる血が何を意味するかを暁ることが出来る。即ち、その血に於て、神とイエスとの父子関係が確認せられることを意味するのである。神よりの応答は、右の二つの場合、ともに「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」(マタイ伝3章17節、17章5節)であった。神はイエスの十字架によりて、人間を試験し給うたのみではない、同様にイエス御自身を試験し給うたのである。此峻厳な試験を通過せることによりイエスは神の子キリストと確定せられたのである。彼は「死人の中よりの復活により、大能をもて、神の子と定められ給へり」(ロマ書1章4節)。この試験即ちバプテスマなしには、イエスと雖も栄光の位にのぼり給うことは出来ない。「我には受くべきバプテスマあり。その成し遂げらるるまでは思い逼ること如何許りぞや」(ルカ伝12章50節)とはイエス自らの告白である。「救の君を苦難によりて全うし給ふは、萬の物の帰する所、萬の物を造り給ふ所の者に相応しき事なり」(ヘブル書2章10節)。」
イエスは極限的状況を生きた、その生は神に嘉せられるものであった、ということは言えるでしょう。それ以上のことは「キリスト劇」の台本の解釈(すなわち新約聖書に示された信仰の受け取り直し)の問題です。キリスト教は、過去二千年の間、この同じ事柄を反覆してきました。著者もまたその戦列に加わっていると言うに過ぎません。
「犠牲の血は少数者の信仰中に存した礼拝精神のアブラハム的伝承のうちで活きて働いた。ここにも血の現実性と象徴性との両面性が見られる。刑罰としての血は歴史的事実であり、現実を表すに対し、犠牲の血は生々しい歴史的現実から一度び伝統にまで象徴化することにより、歴史に解釈を与えたのである。現実は生一本であり、動かすことの出来ないものであるが、歴史的現実が伝承に結晶し、象徴化し、空間化した時に、それは解釈の多義性に司配される。それは複雑な構成体である。伝統は将来的展望に於てこれを標識し、或目的観を樹立し、この目的に対する手付け或は反映として未実現の希望を象徴すると解することも出来る。またはこれとは逆に、過去に於ける父祖等の生活の信仰的動因としてこれを味解することも出来る。而して充分な理解は目的性と動因性との両者を綜合することによりて達せられる。」
イエスの十字架の死を、アブラハムがその子イサクを献げようとしたという伝承によって解釈するということを、「この目的に対する手付け或は反映として未実現の希望を象徴すると解する」と見なし、そのアブラハムの行為をそれ自体として理解しようとすることを、「過去に於ける父祖等の生活の信仰的動因としてこれを味解する」と言うのでしょう。そして両々相俟って、「充分な理解は目的性と動因性との両者を綜合することによりて達せられる」、すなわち解釈の十全性が成り立つということでしょう。しかしイエスの十字架の死が神の目的であるとされることについては何の疑念も差し挟まれていません。そうすると、神はアブラハムのときに、既にイエスの十字架を見越していたということになります。それが「解釈学的循環」であると言うのであれば、一度その循環に入り込んでしまった人は、決してその外に出ることはできないでしょう。それにしても、折角、象徴性と現実性とを区別し、解釈の多義性を認めながら、著者は目的性=新約(成就)、動因性=旧約(予型)というキリスト教の教義の外には一歩も出ようとはしません。いわば、キリスト教的循環論法にはまり込んでしまっています。
「斯様な準備的理解を以て、イエスの十字架の犠牲の血を省察すべきである。此の犠牲に於て、遠くアブラハム以来の祭奠的形態は完了した。それは十字架以後の精神性に於て解すべきである。「この山のみならず、到る処に於て霊と真とを以て神を礼拝する(*)」のは精神的十字架の血によるのである。」
* 「イエスは女に言われた、『女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである』」(ヨハネ4:21〜24)。
「キリストの血は礼拝の中心要素である。ユダヤの祭司等が血をもたずして聖処に入り得なかったように、我等もキリストの血なくして礼拝の聖処にコイノーニアを享けることは出来ない。」
こうして著者はさらにイエスの血についての考察を続けます。
「ここに於て、次の重要な課題が現われる。何故に、又如何にしてキリストの血は我等の罪を潔め得るか、という質問に答えねばならぬ。それは一気に解決しようとしてはならぬ。それ程複雑であり、多義的である。またニュアンスに暈かされている。無数の矛盾が其うちにある。我等は先ず其中核的思想を求めよう。
先ず第一に、イエスの無垢がなければならぬ。人間によりて極刑に処せられたイエスは、神の前には完全に無罪でなければならぬ。ここに同一人格の行動に対し、神と人とによりて正反対の態度(見解)がとられ、しかも同一の処刑事実があった。正義の為にイエスを見殺しにした神は、同じく正義の為に此無垢の血を徒に流すことは出来ない。」
これはイエスの死後、後のキリスト教がつくり上げた神学=神話です。十字架が救いであるためには、イエスは「神の前には完全に無罪でなければならぬ」という「論理的要請」であって、「現実は生一本であり、動かすことの出来ないものである」という「歴史的現実」に関わる事柄ではありません。と言っても、十字架刑に処せられたイエスが無罪であったということそれ自体を否定するのではありません。政治犯は往々にして「無罪」であって、権力者の意向に逆らっただけのことで処刑されます。しかしそこから神の子の「無垢の血」が流されたという神学=神話が紡ぎ出されてくる解釈のプロセスが問題なのです。
「最後に、イエスの血が我等に対し如何なる意義を有するかに就いて、若干の考察をめぐらして見たい。既に地に流されたる彼の血と、祭壇に灌がれて神に献げられたる彼の血を考え来ったが、今や我等に灌がれ、又我等がこれを飲む者としてその血を想念せんとするのである。
そもそも、血は連関性を有する。血液は高度の有機的身体構造を予想し、これと離れては考えられない。また血は有機体を万遍なく経めぐるものである。随って、精神的に血が想念された場合、人間的関係は有機的に考えられる。即ち高度の社会組織とこれを裏づける真の同朋観が生れる。そして同朋観は連帯と参与との思想に導く唯一の大路である。即ち我等はアダムの血に?がることによりて、全人類と連帯関係に置かれ、同時に第二のアダムであるキリストの血を飲むことにより、神とコイノーニアの関係を結ぶ(ヨハネ伝6章35、6節*)」
* 「イエスは彼らに言われた、『わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。しかし、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。』」
聖餐におけるキリストの血が何を象徴しているかということに関しては、著者はすぐれた見識を持っていると言うべきでしょう。しかしそれは「キリスト劇」に参与する者にとっての、パンとブドウ酒が象徴する意味であって、決してそれ以上のものではありません。全人類の交わり(コイノーニア)は現実には存在しません。
「イエスの血が自己と関連を有すると考える人は、彼の血に対し、自己が何等かの責任を有することを認める人である。その人は、彼の血が全人類の為に流されたと共に、それは我が為に流されたという自覚に導かれる。この自覚は決して説明し易きものではないが、其うちに重要な論理が隠されているのを見のがしてはならぬ。そこには、我自らは全人類と連帯的関係にあるという思想と、我は全人類を代表するという思想とが分析的に抽出されるであろう。然るに、今キリストの場合に就いて見るに、彼は謙虚によりて人類と連帯的関係に入り、更に進んで人類を代表して十字架に懸かり給うた。ここに、我等は自己の連帯及代表意識により、キリストの連帯と代表の事実にパラレルな関係を発見するのである。この関係の成立こそはキリストの血という最大のパラドクス事実がアナロギアによりて我等信ずる者の個々の人格中に事実化することに他ならない。我等の考え得る二個の究極的実存論理たるアナロギアとパラドクスはキリストの血に於て同時に働き、実存的果実を結ぶのである。」
著者は自己の連帯、代表、参与の論理がキリスト論(キリスト神話)のうちに完全に実現されているのを見出します。しかし「キリストの血という最大のパラドクス事実がアナロギアによりて我等信ずる者の個々の人格中に事実化する」と言うときの「事実」とは、心の事実であって、芸術的表現にも比すべき宗教的事実です。シュール・リアルな事実ではあっても、リアルな事実ではありません。私はこの二つの「事実」の混同を「象徴の実体化・差別化」と呼んでいます。それが現実の宗教(実定宗教)の態様(あり方)であり、キリスト教も例外ではありません。
「代表性を了解し得ない人は参与をも了解し得ない。キリストが神を代表し且つ人を代表することの信仰は、我れが人類を代表して十字架に直面し、其血潮を浴びると自覚することによりて始めて与えられる。基督教的信仰は常に代表性の信仰なることを記憶せねばならぬ。代表することによりてのみ参与することが出来る。然し代表性の背後には連帯性が底在しなければならない。これを常識的に云えば、血に?がると自覚することは連帯的責任感を生ぜしめ、その責任感は他に代って自己を代表者として責任の矢面に立つ積極的態度に出でしめ、此積極的態度に於てのみ、又其資格に於てのみ、対手の先方の意志が明白に感知され、且つ確認されるのである。代表することは星雲構造の中核に突入してこれを把握することである。代表意識が稀薄ならば、そのフリンジにしか触れない。」
キリスト者の責任感には確かに偉大なものがあります。それはこのような意識構造から来るのでしょう。しかし問題を共有し(problem-sharing)、問題を提起し(problem-posing)、問題を解決する(problem-solving)積極的な生き方は、キリスト者だけの占有物ではありません。「常識的に云えば」、それは誰しもが身につけるべき生き方でしょう。なおここに出てくるフリンジ(縁暈)という言葉によって、著者はどうやらウィリアム・ジェイムズのことを念頭に置いているようだということが推測されます。
「代表性に於てキリストの血を考えるとき、それは刑罰に於て神を代表し、犠牲に於て人間を代表し、連関に於て我れ個人を代表する。」
カール・マルクスがキリスト論と「代表」の概念の不可分性を指摘したように(「貨幣とキリスト」参照)、著者もキリスト者としてこの「代表」概念の重要性を強調して止みません。キリストは「神」と「人間」と「我れ個人」とを代表しています。それは「人が神のうちにある(死/刑罰)、あるいは永遠の相」、「神が人のうちにある(生/犠牲)、あるいは瞬間の相」、「神が人と共にある(生活/私個人)、あるいは時間の相」ということとも(前項15a )、恐らく対応するでしょう。
「人間の側に於ては唯これを信じればよいのではあるが、ただ信じると云っただけでははっきり内容がわからない。キリストの十字架に謂わば心の焦点を合せるには、万民に代って死せるキリストを念うだけでは救の信仰とは云えない。それは我れ個人の為であると信ずるとき始めて活きた信仰と云える。一面から見れば基督教程個人主義に徹した宗教且つ思想はない。救は神対我れ個人である。斯の人如何に(*)、といって他人の問題に容嘴してはならない。これは自分だけ救われれば他はどうでもよいという意味ではないのは勿論、先ず我れが救われて後に他人をという方法的な考えからでもない。そこには、たとえ自ら意識して居ないでも、代表性がその根底に働いて居ることを看逃してはならない。我れは万民と連帯関係にあり、而して我れは万民を代表するものであると無条件に信ずるのである。罪人のうち我れは首/カシラなり。キリストの十字架は此場合自己にのみ関する問題であるとパウロは思ったのである。首魁なる我れさへ救われるならば何人もこれをのがれることはないと考えるのはその思想の敷衍である。此場合、自己は全人類の見本/エグゼンプラーであるという意味も代表という思想中に大に含まれて居る。これ即ちアダム即ち旧き人が自己の裡に存するというパウロ的考え方である。然し「見本」だけでは未だ尽さない。中核性を考慮に入れるべきだ。これは把握の方法に関すると共にまた本質にも触れて居るのである。而して最後に、イエスの場合中心動機をなせる「代り」の意味が我れの代表性にも入り込んで来る。但し此大切な性質は信仰生活の道徳的実践性として後に活躍するものであり、始めは表面に現われない。」
* 「ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」(ヨハネ21:20〜22)。
個人主義がキリスト教を背景にして生れてきたものなのかどうかは検討に値します。しかしかつて三木清が指摘したように、宗教は、健康の問題と同じく、個人の運命に関わる問題であるとは言えるでしょう。愛する人が患って、代ってあげたいと思っても、これだけはどうしようもありません。それは当事者性の問題であるとも言えます。罪や死も、同様です。全く個人的な問題であると同時に、人間に共通の問題でもあります。
「兎に角、救は我れ自らである。天下国家を憂うる至情大に佳ではあるが、ただ庶民を救わん為に十字架を我れが信ずるというようなことは首尾転倒であって、決して入信の鍵を与えるものではない。」
イエスが神として神の裁きを受けたというパラドクスに人間の救い、あるいは罪の赦しを見るということが、キリスト教の中心命題であると言えるでしょう。しかしその命題は現代人が額面通りに受け止められるようなことではありません。それは他宗教をも参照しながら「非神話化」されて理解されるか、あるいは端的に無視されるかのどちらかでしょう。しかし我々の著者はひたむきにその命題に固執しています。
「さて、代表は人が自ら好んでこの資格をとり得るかというに、そうではない。撰ばれて代表に立てられるのである。主権は勿論、自由意志さえも其処には許されない。却って、自己の意志を完全に服従せしめる主権者たる神が絶対の意志を以て選んだのである。キリストさえ自ら進んで此代表の位置につき給わなかった(ヘブル書*)。況や人間たる我等が任意に自己を代表に自薦し、キリストに参与することは出来る訳がない。神の撰定に与って始めて出来る。ここに予定の原理の哲学的基礎があると思う。」
* 「大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、『あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ』と言われたから、お受けになったのである。また、ほかの箇所でこう言われている、『あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である』」(ヘブル5:1〜6)。
「コイノーニア」の章はここで終わります。著者は最後に選びと予定というカルヴァンの中心テーマに言及しています。この選び、あるいは召命(神の召し)の意識がキリスト者の自覚を根底から支えてきたと言えます。下手をすれば自意識過剰ともなるこの意識が、まさにキリスト者をキリスト者たらしめてきたものであると言っても過言ではありません。神に選ばれる、神に召されるということは、人間の存在理由に関わっています。あるいは人が果すべき使命に関わっています。それは一概に否定されるべきものではなく、この時代に、このような能力(タレント)を与えられて、この特別の状況や境遇に生きている一人の人間が、何を以てこの社会に貢献するかという問題に関わっています。西洋の社会ではそれは人間の職業(calling, vocation)、すなわち天職と結びつけられてきました。しかし今となっては、それはかなり古びた思想になりつつあると言うべきでしょう。
本書は、このあと、「マルチュリアの歴史論理」と「〔結論〕―パウロに於ける体験の問題」を残すのみとなりました。紹介の作業は暫くしてから再開します。
第十五章 マルチュリアの歴史論理
この章は本書のまとめの部分にあたります。
「基督教哲学は、一面に於て、理性的支持体として信仰の骨格を形造ると共に、他面これを学自体として見る時、真の実存の何たるやを闡明することに自己の使命を見出すものである。それは哲学の屡々究極の対象と看做した実在でもなくまた形而上学の追求する宇宙の本体でもない。それらはたおえ成功したとしても、高々思弁的工作の所産たる若干の概念像を造り出すに過ぎないであろう。
然らば真の実存とは何であるか。それを一言にして尽すことは出来ない。それは説明性の平板な処理によりて我等に其性質を会得せしめ得る如きものではない。それは一種の新しき論理学を其理解の為に要求する。此論理学は聖書の言い方を以てすれば「證/あかし(*)」即ち Marturia の論理学と呼ばるべきであろう。旧き論理学は此場合殆ど何等の助けともならない。全く別な基礎の上に立つ論理学でなければならないのである。」
* この先、「證」の字は、證明、證拠、證人などの用例に於ては、便宜上、証明、証拠、証人の文字を使用します。證、言證、事證、心證の場合のみ、この字を用います。なお、marturia はギリシャ語のラテン文字による表記で、「証、証明」を意味します。英語の martyr(殉教者)の語源です。
「證といえば、我等は直ちに通俗的意義の証明性を想起する。この証明性に於ける證が、我等の究明せんとする證への若干の手引となることは疑いない。我々は先ず此の普通に考えられる証明性の何たるかを一応吟味して見る必要があるとおもう。
「「證」といえば、人は直ちに証明・証拠・証人等々、多くの連想を喚起するであろう。それは幾何学の問題にも、殺人事件にも、金銭の貸借にもというように、あらゆる人生の場面に重要な関係をもっている。それは一面に厳正的確を建て前とすると共に、他面、極度に可撓的な、融通のきく思想たることを要する。つまり、それは人間の生活万般に通用する論理でなければならぬ。学術的思索を謬りなく推進せしめ、また歴史的事実の探求を迷わぬよう指導し、それと共に、人の心に充分の納得がゆくまで承服せしめること、これが證しの論理に要求せらるる所である。
それでは證の論理はどのような構造を持っているか。我々は先ずこれを分析して論と証拠と認識の三つの要素に解体し得ることを注意したい。
論より証拠か、それとも証拠より論か、とはたびたび蒸返され来った論題であるが、証拠なくして論は立たず論なくして証拠は根底を失うことは、今では既に常識に属するものとなった。凡て、思想が真である為には其背後に事実が存せねばならず、而して事実は必然思想によりて支持せられる筈である。ただ、時勢によって重点が交互に移動し、非常時に問答無用が叫ばれ、余裕ある事態下では話せばわかるとされるだけの違いはあろう。
然らば、論と証拠が揃えば充分かというに、そこには未だ物事の主観面への注意が払われて居ない。心の中の経過即ち認識が、右の客観論に対応されねばならぬ。斯く斯くの事実又は思想が我々自らに対して斯く斯くの関係或は意味を有するということが納得された時に始めて物事が完全に実証されたのである。論と証拠と認識とは互に有機的に連関し、作用し合うことにより、論も成立てば、証拠も確かめられ、認識も活かされる。随って、その何れをも欠いてはならない。
我々は斯かる分析を行うことにより、ここにおのづから、実存性というものを最も充実し具体化した、そして活き活きした様態に於て髣髴しようと試みつつあるのである。由来、哲学者等の考える実在とか物自体というようなものは概ね一種の抽象に堕するを免れなかった。また科学者達の突きとめようとする事物の究極態も、殆ど皆な或程度の概念的射影に止まっている。なぜ彼等がもっと此問題に迫進し得ないかというに、其一理由は彼等が未だ歴史の真意義を捉えて居ないということ、即ち時間の秘密に充分考え至らないことにあるのではないかと思う。
證の論理は――そしてそれは聖書の論理の重要な一面を形造るのであるが――斯様な歴史性又は時間性というものに関連して展開されるのである。真の実存性は単純概念に還元することは出来ない。それは歴史的展開性を有する構成体としてのみ把捉されるといえよう。私は此構成体の性質を、仮に論と証拠と認識という通俗な考え方に分解してみた。これを言い換えて人間の生きている世界を思想と事実と体験との三要素の構成体であるとなすことも出来よう。」
ここで指摘されている「人間の生きている世界を思想と事実と体験との三要素の構成体であるとなす」ということは、それ自体として見れば、的確な把握であると言えます。物事を具体的、あるいは「立体的」に把握するということが、そもそも人間が考えるということの基本であり、そこには言葉(構文論)と事実(意味論)と認識(語用論)との三つの要素が働いています(「思弁・解釈・実証」の項参照)。
「「證」の意味を問うに当り、我等はこれを二種に大別し得ると思う。一は科学的又は自然的と呼ぶことが出来よう。此場合には、先ず若干の公理又は仮説から出発し、観測又は実験の結果が既に受入れられている定理や法則に合致するか否かによりて、その証明性を云々するのである、これに対し、他の一つの證は人間的と称すべきものであって、我々の社会生活の根本的条件また要素を形造るものである。即ち、相互合意による契約を設け、これを遵守する、また履行することの如何に係るのであって、我々はこれを保証と呼んで居る。
然し、両者の性質を考えるならば、其区別は予想ほどに画然たらざるを発見するであろう。すなわち、前者の公理や仮説もやはり規約性を脱却することは出来ず、自明の理と思われた所の事も人間相互間の契約に基く所多い――無意識にではあるが――のに気づくのである。一方、契約の側でも亦自然的条件に影響され制約される所が少なくないことが明かにされるであろう。
これによって観れば、両者の区別はその本質に属すると云わんよりは、寧ろ二個の方向を表すと做すべきであろう。即ち、法則的証明性は歴史性よりの抽離にその意味を見出し、契約的保証性は却って歴史性に沿うことに於てその特性を発揮するのである。言い換えれば、契約はこれを果たすべく、実施すべきものであって、実現には時間的経過が不可欠である。契約は畢竟歴史に於て実施されるともいい得るであろう。」
聖書に言及しない限りは、著者の理性は極めて健全に働いています。人間相互間の契約と科学的な公理や仮説とが、それ程画然と区別されるものではないという指摘には、大変鋭いものがあります。
「「證」の科学的及び常識的世界の解釈を通過した我等は第三の世界に到達したのである。其処に契約の実存的形態を発見し、これに対する證の深化せる意義に触れることができる。
聖書に謂う「證」即ちマルチュリアは時間相に於て展開する神の契約の実証を意味する。基督教哲学は究極的な歴史哲学であって、其歴史的論理の根底にマルチュリアが存在するのである。
聖書の宗教は、仮にこれを他の宗教と比較し得るレヴェルに置いて観察するとしても、他に匹儔(*)を見出し難い程の唯一独特の歴史宗教というべきである。尤も歴史宗教という意味を、只だ一宗教が或種の歴史を有したというような程度に於て解するならば、其類例は乏しくはないが、現に論究しつつある意味の歴史性を規準とするならば、聖書宗教を以て此点唯一無二の存在となさねばならぬ。」
* ひっちゅう。たぐい(つれあい、仲間、相手)の意。
「ここに謂う歴史性とは、創造主なる神が人間の歴史の中に入り来ったという事実を基礎とする。これ啓示の中心的意味である。あらゆる人間的欺瞞と昏迷とに拘らず、神の自己証明は拒否し難き確実さを以て歴史に現われる。その顕現の諸相を時間に於て把握するのがマルチュリアの論理である。
既にアナロギアとパラドクスの論理が此の特別なる歴史の論理として有効に用いられ来った。マルチュリアは実にこれ等両者を統合し司配するものにほかならぬ。即ち、證の内容に於て両者は共に其の処を得、活きて働くのである。」
アナロギアとパラドクスに加えて「マルチュリアの論理」が提示されます。それはアナロギアとパラドクスを統合・支配すべきものであり、また、啓示あるいは神の顕現の諸相を時間に於て把握する論理であると言われます。
「我等は既に、アナロギアは第二世界たる人間の常識生活の論理として縦横に活動せることを叙べた。然し、それは主として自己中心的に非ずんば功利的動機から使用され来った。ところが、神の歴史的顕現は斯かる動機からは到底其意義を暁ることは出来ない。而して、更に理解を困難ならしめる事情は、神の顕現は常にパラドクス形態に於てであるということに存する。それはいつも人間にとりては終末と審判を意味する。その場合、歴史は一応破壊されなければならない。そして、それは自然人の堪え得ざる所また納得し難い所なのである。
神は此事に就いて人間の心の裡を見抜くが故に、自己を顕現するに当り或順序を以て、徐々に臨み給う。此順序は人間が嘗て考え来ったよりも高度の歴史的性質を帯びて居る。その歴史の理解が即ちマルチュリア論理に他ならぬのである。これによりてパラドクスは歴史破壊の契機を内蔵しつつ、アナロギアに準って繋合し、容易に破局を来すことなく歴史構成を続けることが出来る。刻々断絶を妊みながらも、尚一貫せる連続体系が永遠の脈拍を打ちつつ進行する。」
著者は旧約聖書から新約聖書に至る啓示の歴史を念頭に置いています。それは神の顕現に関わる「歴史的事実」の連続的体系として思念されています。
「このことは別な言葉を以てすれば、審判が時間のうちに置かれるということなのである。而してこのことは人間にとり、如何ばかり大なる幸福であるかはわからない。最後の審判は時間の終局に於て行わるべきであるが、その同じ審判は既に行われつつあり、また現に行われつつある、とは聖書の繰返して伝うるところである。我等は既に神の怒に触れ、審判のうちに置かれて居るにも拘らず、その審判は未だ究極にまで到って居ない、時間のうちにあるということの理由を、聖書のアナロギアは神の忍耐に帰して居る。「主その約束(最後の審判に就いての)を果すに遅きは、或人の遅しと思うが如きに非ず、唯だ一人の亡ぶるをも望み給わず、凡ての人の悔改に至らんことを望みて、汝等を永く忍び給うなり」(ペテロ後書3章9節)。
神の怒の下にありながら、同時にまた神の忍耐の下に置かれて居るという。しかも其忍耐は人間的な消極的の辛抱、即ち怒を押えつけているという忍耐ではなく、積極的な、一人の亡ぶるをも望み給わぬ慈愛によりて動機され、また支持さるる忍耐である。神の怒は実にこの愛の半面である。愛なくして怒なく、恩寵なくして審判はない。
審判が恩寵の半面をなすと云うことは、それを唯だ思想的――分析され抽象された――に考えても解らない、これを具体的に展開した時に始めて解るのである。即ち時間的に審判が人間に臨んで来た、換言すれば、歴史的に展開された時に、我等はこれを理解する。審判と云えば、ただカタストロフィーとして想像し易い。空間的にのみ考え、時間的には唯だ瞬間的出来事のように思い易い。然し、審判は永遠的事象なのである。それは時間的に射影され得るものであり、そして其場合には歴史的経過をとる。」
人間が神の審判のもとにあるということは、人間的現実の聖書的反映であり、アナロギアです。人間は裁かれるべき存在であるということの究極的表現がそこにあります。しかしそれは「実体化」され、「擬人化・人格化」された神が、その言葉の通り存在するということではありません。神は人間の心の現実に相関的であるとは言えても、その神を「抽離」して論ずることは、全く無意味です。著者は、神人関係に於てのみ神について語ることができると言いながら、その自らの原則に逆らって聖書の神を論じているように思われます。神の忍耐深さということは、この悲惨な人間の現実にも拘らず、未だ歴史が続いているということの聖書的表現であって、それ以上のものではありません。
「如上の事態の把握は我等を導いて、歴史に於けるマクロ・ミクロ構造の理解に到らしめるであろう。基督教歴史性の構成はマクロコズムスをなす全体が其極微部分たるミクロコズムスと完全なる対応関係を形造ることに於て見出される。此原理は個々の人格が各自「宇宙の活ける鏡」として一切世界を映現するモナッド的存在であると看ることによりて既に準備的思想形態を得たのであるが、其実現に至りては、単なる思索や想像の飛躍によりて達せらるるものではない。これを現実たらしむるには、全基督教的啓示の一切の事実化を必要としたのである。」
人間が「意識」するということは、宇宙が宇宙自らを「意識」しているということであると言ったのは、西田幾多郎でした。人間が悲惨であると同時に偉大であるのは、自分がこの地上に住んでいることを自覚している点にあるでしょう。宇宙の種々相を映現する意識にミクロコスモスを見るということは、著者が一貫して主張していたことのように思われます。しかし著者の主眼点は「全基督教的啓示の一切の事実化」にあります。隠されていたものが、「歴史に於て」すべて露わになるということのうちにあります。
「先ず問題は、ここに謂う全体と部分とが何を意味するやにある。その全体は自然的宇宙でなく、其部分は此宇宙の断片を指すのでもなかった。アナロギアのみによりて知られる世界の一切は此処に要求される全体をも部分をも与えない。我等は先ずこれを空間量に於て考え、更に時間観念も導入したが、凡て無効であった。
暗中模索に陥って居た問題解決の鍵は、然るに意外の方面から現われた。罪意識が即ちそれである。その意識は人間生活に於ける最も隠れたる心の奥底に、あらゆる努力によりて掩蔽されて居る不思議なる存在であるが、これによりて思いがけなくも人間の被創造性が示され、識られざる神に対する思慕、といわんよりは、却ってその変質せる恐怖が感ぜられ、遂に自己が撫育し来った罪こそは懐ろに入れた蝮蛇のように自己に真の死を来らしめることを予覚するに到ったのである。」
罪意識に於て人は何か超越的なものに触れると言うことはできるでしょう。それはキリスト教の神とは限らず、阿弥陀仏であったり、アッラーの神であったりします。良心同一性に於いて顕示される「神」に人間の心の秘密があると言うべきでしょう。賀川豊彦は良心のうちにミクロコスモス(小宇宙)を見出していました。
「然し、罪意識だけでは未だ全然消極的な働きしか現わさない。恰も、受信装置だけではラヂオが聞こえないようなものである。これに対する積極面、即ち歴史の客観的根本事実である天よりの放送、「その響きは全地にあまねく、その言葉は地の果てにまで及ぶ(*)」ところのもの、即ち啓示が先ず与えられねばならぬ。」
* 詩篇19:4
啓示は「歴史の客観的根本的事実である」ということに、著者の「根本」思想があるのでしょう。聖書に示された「事実」は、一宗教の範囲を越えて、客観的な事実であるということになります。それは極めてキリスト教的な意識です。「放送局」、すなわち神は実在しなければならないのです。その実在は聖書に「證し」されているということでしょう。
「啓示は極大のシステムとして全宇宙を掩うものと考えられる。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、穹蒼は御手のわざを示す(*1)」。しかし幾千幾万年の時間を貫いて「この日言葉を彼の日に伝え、この夜知識を彼の夜に送る(*2)」此マクロ・システムに対し、ヘブル民族の形造った聖書歴史はまことに微小なる空時的界域を占めたに過ぎない。更にイエスなる一人物の言動に至りては、当時の史家がこれを逸して少しも悔いなかった程度の小事であり、その死は全く極微な日常茶飯事の一と見られても無理からぬ位のものであった。更に又、一小事であったのみならず、それは罪悪に対する当然の応報としての十字架の刑死という醜悪陰惨な形をとったことに於て、一層見る蔭もない姿をとった。」
*1 詩篇19:1
*2 詩篇19:2
「それにも拘らず、否、却ってそれなるが故に、この一些事は見遁し難いものとなった。イエスの十字架が(の)啓示のミクロ・システムとしての重要性は、此一事件の世間的評価の低下に反比例して高められたとさえいうことが出来よう。」
イエスの十字架に啓示のミクロ・システムを見るという着眼は、いかにもこの著者らしいところです。
「イエスの十字架は人類歴史のスンマにしてスンムスである。そしてスンマ・スンムスは代表性の二面である。これが分解を試みるならば、我等は人間に就いてのあらゆる高貴なるものを見出し、更に高貴なるものの受くる運命を如実に示されることによりてあらゆる醜悪なるものの姿をも見出し得るであろう。而して、これ程人間が汚辱に身を曝したことはなく、またこれ程人間の上に栄光が射映したこともないことを発見するであろう。宇宙の活ける鏡にして又人間の活ける鏡である。これを単なる歴史的事実として観察せんか、その構想のあまりにも精緻巧妙にして、意味深長を極めたるに驚かされ、寧ろこれを一個不世出の大天才が物したる天衣無縫の戯曲或いは無比なる伝統の生んだ神話として解釈せんと欲する衝動に駆られるであろう。然もこれを一個の想像的作物として見んか、そのあまりにも迫真的、必然的にして、そこに生々しい史実があり、空前の大人格の主人公として厳在するに当面し、到底斯かる架空的想像の許されざることを首肯せざるを得ないであろう。
イエスの死は如何に多角的立場から観察しても充分過ぎることはあり得ない。彼の十字架は無数の思想のオルケストラである。」
イエスに於て、あるいは福音書の「イエス像」において、人間存在の極限的な姿、あるいは一つの「典型」を見出すという意味に於ては、著者の讃嘆はその通りであると言わなくてはなりません。イエスの十字架像にキリスト教信仰の原点があると言えます。「その構想のあまりにも精緻巧妙にして、意味深長を極めたるに驚かされ、寧ろこれを一個不世出の大天才が物したる天衣無縫の戯曲或いは無比なる伝統の生んだ神話として解釈せんと欲する衝動に駆られる」という言葉には、興味を覚えます。
「我等の罪意識は、このミクロ形態に於ける啓示に照応するものである。此意識あればこそこれを通じて十字架の真理に参与することが出来たのである。これに依って我等の気づく所は、罪意識が、たとえ消極的にもせよ、やはりミクロ形態を示すものなることである。自我が己の限定域を任意に伸縮し得るものなることはさきにこれを明かにした。今罪意識によりて、我等は其極小形態を発見したのである。啓示をミクロ態に於て把握するためには、人間の側に於いても、自己のミクロ態を以てこれを迎うるの準備がなければならぬ。死生の関頭に立つ時始めて自我の本領を発揮し得ることは日本的訓練の我等に与え来った貴重なる教である。それはたしかに貴重なる真理であるが、然し未だなお百尺竿頭の一歩を踏み出して居ない憾みがある。この人間的に不可能と考えられる一歩は罪意識による回心にほかならぬ。この時自我は零に収斂しつつ、実はその無に帰せんとする一点に全自我の所有を凝集し又これを集扼しつつあるのである。
天よりの霊火は電雷の如く、唯だ十字架の一点を通じて降る。これを受くるには、やはり自我の研ぎすまされた尖鋭の一点を以てしなければならない。」
「十字架の真理」は罪意識に対応しているということは、その通りでしょう。キリスト教はそこに意識変革(回心)の起点(「ミクロ態」)を置いてきました。しかし問題はその先にあります。
「ここにマクロ・ミクロ構造を叙する第一の理由は、それが時間的経過をとって現われること、即ち歴史的性格を有することに存する。マクロ・システムは常に一個の中点に向って求心的展開をなしつつあると考えられよう。その中点はスンムスであり頂点である。同時にその中心は展開の各過程を綜合しつつあらねばならぬ。これスンマである。そしてスンムスとスンマの二特性をこの中点たるミクロ・システムは綜括するのである。この歴史性格が聖書に於ける時間的展開の著しい特徴を形造ることに我等は留意したい。
第二の理由は、マクロ・ミクロ構造に於て始めて真の完全なるものが認められることである。完全とは、此処には全体と部分の調和と融合の無碍なる状態、遺憾なきまでに有機的で具体的なる状態を意味する。さきに論じ来った代表性は此構造によりて支持せられると云うべきであろう。」
著者は啓示が旧約を経て新約に至った過程を論じています。その史観の「中点」に位する者はイエス・キリストです。現実の歴史が神の手によって完成に向って進んでいるということを、マクロ・ミクロ構造として展望しようとしています。確かにそれは壮大な歴史哲学と言うべきですが、遺憾ながら著者はそれがフィクション(壮大なキリスト劇)であることに気づいていません。それはストーリーではあっても、ヒストリーではありません。その混同にキリスト教の根本的な問題があります。
「右の二個の理由はマクロ・ミクロ構造が純粋に論理的にして、同時に実存的なる所以を示唆すると思う。従来少なからざる哲学的努力が、論理性と実存性の結合の為に払われ来った。然し、神人関係の時間的展開を度外視して、此試みがどれだけの成果を挙げ得るか、大に疑わしいと思う。
論理学は従来抽象化に於て普遍妥当性と規範性の根拠を見出そうとしていた。随って、歴史的具体現象を取扱う自信と能力を全く欠いたのである。単なる人間的歴史さえもて余していた。窮余の策として発展進化の思想が種々な方法に於て採り入れられたが、それも抽象化による予備的処理を経ずしては論理的に消化し得ないという困難を有した。
実存論理学は歴史に於て展開する具体現象に抽象化を行うことはせぬ。然し一方単なる発展進化の記録としての歴史なるものは到底実存在に触れ得ないことをそれは知っている。真に実存在を語り得るのは、マクロ・ミクロ・システムに於て歴史が構成された場合だけである。或人は歴史の構成というような言葉を喜ばないかも知れない。然しそれは実際構成されるものであり、而して歴史構成作用が取りも直さず実存論理の働きなのである。
実存論理学は此構造性の考慮に於て右述の論と証拠の問題を再検討する。それは真理と事実との対比にまで移行せしめることが出来よう。歴史に即して考えた論拠は、漫然たる論ではなくて、真と認めらるる論であり、整然たるシステムを構成していなければならぬ。これに対比さるる事実は此論拠の上に立ち、その論を整然とシステム化すべき中心たることを要する。此場合、両者は疎隔することを許されず、緊密な連関に置かれねばならぬ。その連関が即ちマクロ・ミクロ関係である。論といえば事実と性質を異にするとも考えられるが、実は無数の事実の集合体にほかならない。而して、その集合が整然たる体系をなす所以は、これを綜括する事実が中心に据えられて居るからである。斯くしてマクロ・ミクロ関係が成立する。
ここに中心的事実たるスンマに於て認めらるることは、それが時間的出来事でありながら、他の一面に於て時間から遊離し、論からリリーヴされて居ることである。マクロ・システムは事実より見て過去の存在である。而して、後述する如く、未来はその事実を基礎として更にマクロ・システムを開展するものである。斯様に、過去と未来に対して自由に働きかけるには、その事実は時間のうちに在りながら、その束縛を離脱して居なければならない。
ここに「事実」と呼び来ったのは我等の日常云い慣れて居る片々たる些事を指すのではない。スンマにしてスンムスなる唯一の十字架の出来事を意味するのである。歴史という言葉も、神人関係の歴史を意味することは云うまでもない。そこで我々は再び聖書に立戻って此問題を検討しようとするのである。」
先に「絶対論理学」を論じた著者は、ここでは「実存論理学」を提示しています。ただしその実存論理学は、マクロ(神)・ミクロ(キリスト)・システムに嵌めこまれています。マクロ・システム(神人関係)は、聖書に於て時間的に啓示されてきたという意味では、またそれがこれまでの歴史を形成してきたという意味では過去であり、十字架の出来事、すなわちミクロ・システムを中心としてさらに展開するという意味では、未来に「構成」される歴史でもあるということでしょう。キリストの十字架は時間的出来事でありながら、他の一面(復活)に於ては時間から遊離しているとも言われています(しかしここで「論からリリーヴされて居る」と書かれていることは不得要領です。復活のキリストについては論究できないということでしょうか)。ここに論じられていることを普遍啓示(マクロ・システム)、特殊啓示(ミクロ・システム)として理解するならば、著者の意図がより明確になるのではないかと思われます。要するに著者は啓示(聖書)がなければ実存論理学は成立たないと言っていることになります。
「さきに聖書の論理は論と証拠と認識とに分解し得る歴史的構成体であり、そしてそれらは、それぞれ思想と事実と体験との三要素に対応するものであると叙べた。斯様に、聖書は思想と事実と体験の書である。而してこれ等に照応すべく、思想には論即ち言葉が、事実には証拠即ち歴史が、また体験には確識が、それぞれ論理的機能を司るのである。然るにこれら三種の論理を表すために、新約聖書は唯一つ「證」Marturia という文字を用いるのみである。その意味の微妙な変化を、時と場合に応じて自由に理解し又駆使し得る人にはそれで充分であろうが、我々としては先ずこれをさきの分析に基き、言證、事證、心證の三つに区別し、その各々についての理解を得ようとおもう。
先ず、言證とは何か。それは言葉を以てする證であって、預言と律法、即ち旧約自体が最大にしてまた代表的なる言證である。而して、旧約の歴史そのものすらが、新約に対し言證の意味をもつといえるであろう。「汝等は聖書に永遠の生命ありと思ひて之を査ぶ、されど聖書(旧約即ち律法と預言者)は我につきて證するものなり」(ヨハネ伝5章39節)とのイエスの言はこれを指し、また「今や律法の外に神の義は顕れたり、これ律法と預言者とに由りて證せられ」(ロマ書3章21節)とパウロの述べた所もそれにほかならぬ。」
新約聖書とは要するにイエスの出来事の旧約聖書による解釈です。キリスト劇は旧約聖書を下敷にして書かれています。その言説空間は仮構であって、独特のドラマトゥルギー(作劇法)によって構成されています。言證とは作劇法の公準と言うべきものです。
「次に事證とは何か。それは人格及び事象にまで対象化し、具体化せる證である。「證する者は三つ、御霊と水と血となり」(ヨハネ第一書5章8節)はこれを意味する。またイエスの左の言にこれを見る、「父の我に与へて成し遂げしめ給ふわざ、即ち我が行ふ業は、我につきて父の我を遣し給ひたることを證す」(ヨハネ伝5章36節)。」
もともとドラマである限りは、その事證もシンボリカルな意味しか持たないことは明らかです。象徴性と現実性とを混同することはできません。
「最後に、心證は、「神の子を信ずる者はその衷にこの證を持つ」(ヨハネ第一書5章10節)に於てこれを見ることが出来よう。また、「神の恩恵によりて(我等の)行ひし事は我等の良心の證する所」(コリント後書1章12節)とあるのも、やはりそれである。」
聖書が心證であるのは、心の機微に触れるからです。人間の真実が独自の方式で表現されているからです。シェイクスピアの芝居がフィクションであるからといって、そこに描かれている人間性の真実が否定されるわけではありません。
「若し読者にして、一句のうちにこれ等三者の具含されたるものを示せと要求さるるならば、私は次の聖言を呈しよう。「言は肉体となりて我等の中に宿り給へり(*)」。」
* ヨハネ1:14
著者は聖書のうちに言證、事證、心證を包含する「実存論理」を見出しています。
「言・事・心の三證はいづれも停止沈滞するものではなく、互に展開し融通してやむことを知らぬ。言葉が肉体となれる如く、言證は事證に結晶する。預言と律法の成就、また時の盈つるということはこれを意味するといえよう。次に、事證は信仰によりて心證される。更にまた、心證を衷に有する基督者は世界に向って言證と事證とを提示するものである。」
人間の真実の姿、すなわちその絶望と希望とが示されるという意味で、またその限りで、キリスト劇が上演される意味はあるでしょう。
「斯様に、三者は相関的に連繋されている。とはいえ、性質的には各々独自な存在として、時間に於て一定の順序を以て現われ、それによって歴史系列の性格を決定するのである。」
著者は作劇法の公準(キリスト劇の構成法)であるものを、歴史の真理として、また神の啓示として、世界に向って宣明すべきものと見なしています。まさにそれこそが今日までキリスト者の意識を支配してきたものです。
「先ず言證としての言葉が宣示され、次にその言葉による事證乃ち現実が顕われ、最後に心證乃ち人間による味解と体現とが行われる。これ聖書の歴史構成の順序であって、神によりて創造せられたる宇宙の秩序を示すものである。而してそれは星辰を宿す無辺際の大宇宙に就いていい得るように、民族興亡幾千年の人類歴史に就いても妥当し、更に其断面に過ぎざる短い一時代に就いても、更にまた其一小分子たる個人の日々の生活に就いてさえも、同様に妥当せねばならぬ。
然しながら、聖書は果して、この構成体が円満にまた無条件に完備せられたるものとして示しているであろうか。否、決して然らず、神の言によりて光は現れたが、「暗黒は之を悟らざりき(*)」であった。即ち、言證に応じて事證は遅滞なく現われたにも拘らず、第三の心證に於て蹉跌が生じたのである。ここにマクロコズムスとしての被創造世界に充填し難い欠陥を生じた。ここに於てか、時満つるに及び、今度はミクロコズムス的な形に於て、神の厳正なる実験が行われた、福音の歴史が即ちそれである。」
* 「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった(悟らなかった)」(ヨハネ1:5)。
著者の構想は極めて大であると言うべきです。聖書によってそのような気宇壮大な展望が開かれることを、私は否定しません。しかしそれはどこまでも想像力の問題です。宇宙の創造主たる神の思想がそれを可能にしています。
「野に叫ぶ声と呼ばるるヨハネは「光に就きて證をなさん」ため、即ち言證のために来った。これに次いで「真の光ありて、世に来れり」という、これ事證にほかならぬ。然るに、「彼(すなわち此の光)は世にあり……世は彼を知らざりき」、更に、「彼は己の国に来りしに、己の民は之を受けざりき」(*)であった。即ちマクロ構造に於ける欠陥は如何なるミクロ構造に於ても同様に現われる。これが神の究極的実験であった。」
* 「ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」(ヨハネ1:6〜11)。
ここでは「哲学者」は既に「説教者=アジテーター」になっています。
「驚嘆すべき深遠の思想を湛うる第四福音書は、斯様にマルチュリア構造の欠陥の指摘に始まる。心證は「悟らざりき暗黒」、「知らざる世」、「受けざる民」であって、いづれも悲しむべきネガティヴに終った(因みに「悟らざりき」は註解者間に異論あるも、私はこのパラレルが決定的な意味をもつと考える)。此の否定を再否定し、超克して、創造の歴史構造に於けるマルチュリアを恢復することは、ただキリストの福音のみが遂行し得る回天の事業でなければならぬ。
基督教は歴史的宗教と呼ばれ来った。然りそれは真個の意味に於て唯一の歴史宗教である。その意味は実に上述の如きサンドウィッチ式な論理構造をもつ真の時間性ということに見出されるであろう。而してそれは救拯の歴史として、新約の福音に於て始めて完全な形態を得るに至った、これ其処に於てこそ心證の恢復があるからである。
心證の恢復とは何であるか。それは基督者として、人間がこの偉大なる歴史の舞台に参与し、自己の役割を演ずることにほかならない。基督者たるものの光栄や絶大その任務や極めて重しとせねばならぬ。」
著者は「礼拝の舞台」と「歴史の舞台」の懸隔に気づいているのでしょうか。この世の問題(抑圧・分裂・対立・離反の現実)は礼拝という実践によって真に解決されると言えるでしょうか。キリスト教信仰はキリストの十字架に問題解決の一切を托すことによって、問題を観念的に解消しようとするだけのことではないでしょうか。「心證の恢復」に根本的な課題があるとしても、それはどんな社会的コンテクストに於て担われなくてはならないのでしょうか。著者の言うことには歴史的状況が欠落しています。神の普遍史を観念的に構想しても、それは礼拝あるいはキリスト者共同体の中でだけ通用する想像の世界(幻想空間)でしかありません。幻想と現実の間(はざま)に真の問題があります。
「基督者は其信仰生活に於て、一個の顕著なる矛盾の上に立つ者である。即ち、一方、彼は、「なんぢ我を見しによりて信じたり、見ずして信ずる者は幸なり(*1)」との主の言の如く、理解力の及ばぬ彼方へと冒険の歩みを敢てするものである。見ぬ所を真実とするこそ信仰であるとヘブル書の著者は定義した程である(*2)。然るに、他方、信仰は全く盲目な訳ではなく、却って体験に根ざす確識の上に毅立するものであるという。ヨハネ第一書の如きは、「太初より有りし所のもの、我らが聞きしところ、目にて見し所、つらつら視て手触りし所のもの、即ち生命の言(*3)」とまで、極めて念入りに力説している。今我が知るところ全からずではあるが、その事は却って我等が無知識でないことを立証するであろう。見る所朧ろであっても、兎に角見えることは疑ない。さればこそキリストの証人となり得るのである。」
*1 ヨハネ20:29
*2 「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)。
*3 Tヨハネ1:1
人間が想像した世界と現実の世界との間の矛盾が、ここでは信仰生活に於ける矛盾に転化しています。理想と現実との間の矛盾が信仰の矛盾とされ、問題解決の努力がその一点に集中していると言うべきでしょう。
「斯かる矛盾を結局どう解決すべきかは別問題として此処には触れない。唯、心證に関連していうならば、信仰には斯様な矛盾が、一面冒険性として、また一面確実性として本質的に当然存在すべきものなのである。これは福音の根本義に属することであると思う。」
人間は「信念」なしには生きることができません。冒険性と確実性とはその信念の特性であって、福音の根本義とのみ呼ぶべきことではないでしょう。キリスト教信仰もまたその信念の特性(矛盾的性格)に触れているというまでのことです。
「信仰生活は、神に向っていう場合、冒険的と解することが出来よう。そこでは経験も用をなさない。却ってこれを否定し拒絶する所に真の信仰が認められる。然し彼が世に対する時、事態はこれと相反するものあるを見るであろう。その場合には、確固たる経験と徹底せる識見を彼自らが把持し且つこれを世人に開示せねばならぬ。彼の衷なる光を確保すると共に、これを桝の下に隠し置くことなく、宜しく燈台の上において、家中を照すべきである(*)。」
* マタイ5:15、マルコ4:21、ルカ8:16。
神に向う場合(理想)と世に対する場合(現実)という形で、著者もまた問題の在り処に気づいています。しかし世人に対する信仰の開示とは何を意味するのでしょうか。
「心證の中心的意義は、永い時代に亙っての福音の歴史が、そのまま信仰によりて基督者の衷に宿る、即ち経験となることに存するとおもう。而して、只それを認める、その理を悟るというだけに止まらず、実に二千年前の十字架と復活の事実が、彼みづからの裡に体現されているというのでなくてはならぬ。御霊に盈たされた人とは畢竟斯様な人を謂うのである。たとえ一言も口にせずともよい、その人はキリストの証人たることを躬を以て示す。
それ故、衷なる證は単純に心證として、歴史系列の最後の連鎖を作るのみではなく、その系列の全体を内摂し映発するものでなければならない。別な言い方を以てすれば、基督者は自己がキリストの証人たることを覚知する時に於て、啻に心に福音の真理を確識するに止まらず、事證として、現実にキリストの霊わが衷に宿るという自覚を有し、また言證として、その衷なる光が自己から照り出づるべき筈である。随って、専ら隠れたる心の秘奥に関する事でありながら深山木の桜の、おのづから花に顕われるのであろう。」
キリスト者のうちに真実な生き方を見出すことは可能であり、その例証にも事欠きません。それは「この世で」キリスト者として徹して生きるところから生まれてきます。しかし、そのときには、その生き方は主義主張を越えて真実であるというレベルに達しています。キリスト教史は、十字軍や魔女狩りのようなおぞましく醜悪な現実を示すと共に、人間の生き方の模範となるような人々を多数生み出してきたことも事実です。それが歴史というものです。キリスト教だけを特別視する理由はありません。
「基督者は智者学者乃至論客雄弁家たることを要せぬ。だが、唯一つの義務として、彼は徹頭徹尾キリストの証人でなければならぬ。彼は心から此義務を喜び、これを無上の光栄とせねばならぬ。そして其弁辞は率直明瞭でありたい。「我れ唯だ一事を知る、即ち我れさきに盲目たりしが、今見ゆる事を得たる是なり」の如きがそれである(ヨハネ伝9章25節)。
然し証人の義務は決して軽視することは出来ない。世の法律的義務と雖も、産を喪い、身を捨つるの覚悟が必要である。ましてやキリストの証人(martus, Martyr)たることは殉教者たることと同意味であり。彼がステパノ的運命を辿るか否かは、其時のまわり合せの如何に過ぎないであろう。境遇の如何はどうでもよい、古聖徒のような天開けて、神の栄光を仰ぎ、キリストと顔と顔とを合せて相見るような、永遠的瞬間に立ち得る者こそ真の証人なのである(*)。」
* 使徒行伝(使徒言行録)7:54〜60
殉教は美化すべきことではありません。それは敵意や復讐心と裏腹の関係にあることさえ稀ではありません。特定の立場や主張が敵の殺意を喚び起すことは人間の悲しい現実です。それによって自分たちの確信が益々強められるとしても、歴史から学び取るべき教訓は、寛容であって、主義主張への絶対的固執ではありません。オールダス・ハクスレーはその著『ハクスレーの集中講義』(片桐ユズル訳、人文書院、1983年)で、最後の最後に次のように述べています(「欲求の階層性」、「基礎訓練の大切さ」の項など参照)。
「おわりにあたって引用したいのは、オリバー・クロムウェルが一六五〇年八月三日付でスコットランド教会の総会にあてた手紙です。「わたしの心からのおねがいは、キリストのあわれみにより、みなさん方がまちがいをする可能性もあることを考えに入れてくださることです」。これらのことばは金文字であらゆる演壇や教壇の上に、またあらゆる教会のドアに書かれるべきだと、わたしは感じています。これは、要するに、現代の最大発見のひとつ――すなわち作業仮説の考えをあらわしたもので、この考えがドグマとか教義というものにとってかわったのです。わたしたちは仮説をつくりますが、新しい事実があらわれれば、それを変更するのにやぶさかではありません。わたしたちはなにがなんでもひとつの考えにしがみつき、そのために他のひとびとに殉教をしいる必要はないのです。これを最後のことばとして――わたし自身も自分のあやまちに気づきたいとおもいながら――おわかれいたしましょう。(一九五九年十二月十四日)」
この章はこれで終わり、あと一章を残すのみとなりました。
第十六章 〔結論〕― パウロに於ける体験の問題
「紆余曲折の論程を辿りつつある間に、私は最早結論に向って急がねばならぬ場合に達した。顧れば、基督教哲学の重要問題たるべき思想にして、ただ一瞥を投げたに過ぎぬものもあり、殆ど全く触れなかったものもある。或は論議のあまりに神学的ならんことを虞れ、或は叙述の重畳せんことを厭い、為に筆の進み兼ねた場合も少なくはなかった。然し此処に立到ってはこれ等凡てを割愛するよりほかはない。今は唯、これまで接触し来った諸問題にひとまず終結を与える為に、偉大なる我等の先達にしてまた我等と等しく迷い過ち躓きたる経験の持主である使徒パウロが、ミクロコズムスとしての彼の自我に於て、これ等諸問題に対し如何なる処断又は解決を与えたかを回想して、私のまわらぬ筆を擱くことにしたいとおもう。」
こうして著者は最後にパウロを論ずることによって、キリスト教についての著者の哲学的な考察を閉じることになります。
「マルチュリア〔證〕の思想が聖書に於て極めて重要な意義を有すること、並びに、此思想の運用に基く歴史的論理が福音の生命を伝達する不可欠の機関なることに就いては、前章に於て些か論述を試みたのであるが、其際この問題を主として所謂ヨハネ思想によりて解釈したのである。然らば此問題に対する使徒パウロの見解は如何。苟も新約思想に関する限り、彼を除外して考え得る事項は殆ど一つも存しないといえるであろう。その彼は果してマルチュリアに就いて関心を有したであろうか。
然り、パウロは此事に就いて大なる関心を有した。但し彼には彼の行き方がある。共に雄偉なる独自の立場を占めたとはいえ、第四福音書の記者とロマ書の筆者とを比較するならば、たとえ同一の真理を取扱うにしても、両者の間にはおのづから重心の置きどころの差異もあり、その持ち味の相違も無からざるを得ない。
パウロは勿論マルチュリアの本質に於てヨハネと一致する。言證、事證、心證の構成に対しても、彼は明かにこれを認めて居た。試みに、ロマ書を開いてみるならば、その冒頭よりしてこれに接するであろう。只、ここには、言、事、心の三證はそれぞれ、契約、歴史的事実、並びに恩寵の経験として表わされている。
言證 此福音は神その預言者達により、聖書の中に予め御子に就きて約し給いしものなり。
事證 御子は肉によれば、ダビデの裔より生れ、潔き霊によれば、死人の復活により大能をもて神の子と定められ給えり。
心證 我等彼より恩恵と使徒の職とを受けたり。(*)」
* 「この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務とを受けたのであり、あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのである――」(ローマ1:2〜6)。
聖書(旧約聖書)は芝居の書割(背景)です。それ(言證)によって「文脈化(舞台設定)」が行われています。御子は主人公(事證)であって、使徒は台本作者です。異邦人である「あなたがた」は観客です。そこで演じられる芝居が根本的に何を観客に訴えたいのかというモチーフ(創作の動機となった中心思想)が、すなわち心證です。それがキリスト劇の三要素(三證)と言われるべきものです。
「然しながら、此点に関連して、今若しパウロに於ける思想上の顕著なる一特徴を挙げるならば、それは彼の心證即ち蒙りたる恩寵の経験裡に更にマルチュリアの全貌を反映せしめて居ることに於てこれを見出すであろう。彼にありては純客観的及び純主観的真理なるものは存在し得ない。凡ての歴史的真理は彼自らの体験として実証されねばならなかった。イデアリストたるべく彼の性格はあまりに剛健であったといえよう。」
同じ芝居、たとえば忠臣蔵でも、作者や脚本家によってモチーフが異なり、様々に変化し脚色されます。新約聖書の諸文書の多様性はそのようなものとして理解されるでしょう。パウロにはパウロの特質があります。
「とはいえ、彼は取とめのない漠たる心理的経過や片々たる宗教的感興をそのまま体験として許す者ではなかった。パウロに従えば、マクロ・ミクロ構造の原則は心證的体験に於て妥当せねばならぬ。即ち我等人間個々の心裡に経験せらるる恩寵の證しに於て、言證事證心證の三形態が具現されている筈なのである。
「我等信仰によりて義とせられたれば、我等の主イエス・キリストに頼り、神に対して平和を得たり。また彼により信仰によりて、今立つところの恩恵に入ることを得、神の栄光を望みて喜ぶなり」(ロマ書5章1、2節)。
パウロに於ては此場合意識的に体系化を行う意図はなかったであろうが、彼は不用意のうちにおのづからマルチュリアの線に沿うて論旨を進めたと看ることが出来よう。それはこうである――
信仰による義認……言證
今立つ所の恩恵……事證
栄光を望む喜悦……心證 」
ここで三證についてのさらなる展開が試みられます。信仰による義認はアブラハムの故事を、今立つ所の恩恵はキリストの現存を、栄光を望む喜悦はパウロの心境を意味しているとも言えるでしょう。著者はそこにパウロ思想の体系を見ます。
「義認とは何か、神の言を以てする救の表現ではないか。汝の罪赦されたりという天よりの声にほかならない。然しそれが信仰によりて主観的にキャッチされるまでは、我々において意義を生じないのである。而して信仰により神と我との間に生じた新関係は平和であり、音楽的諧調である。神の御声に対する我の唱和である。
然しながら、「汝の罪赦されたり」との言證だけでは救の消極面に止まるの観があろう。これに続いて「立ちて歩め」(*)の積極面が現われねばならぬ。」
* マタイ9:1〜8、マルコ2:1〜12、ルカ5:17〜26の、中風の者の癒しの場面。
「ここに言葉の完了性という特質が充分注意せらるべきであろう。時間的に見て、言證は常に過去の性質と繋合する。此場合に於ても義認されたのであって、されるべしではない。神の語られたる言に対し人が応えるのであるから、前者は当然完了して居らねばならぬ。随って、信仰は現在に属しながら、これを既往的性格に於て考えることは正しいと云えよう。これ、信仰はいつも言葉の即ち契約の完了性と結合するからである。
この言證に於ける既往性が理解された時に、「今立つ所の信仰」に於ける事證の現在態が始めて確実に把握されるとおもう。福音の事実は唯一回的に二千年前の出来事として現われた。然るにそれは我等にとり、図らずも今立つところの恩恵の事実に他ならない。ここに「永遠の今」の秘義が存する。
第三に、心證中の心證ともいうべき喜悦の自覚が指摘された。前二者がそれぞれ理知と意志とに訴えるとしたならばこれは微妙な感情に属する。そしてその時間的性格はいうまでもなく未来性に於て認められよう。」
著者はここで、お得意のやり方で、三證を義認と関わらせて時間的に理解しようとしています。アウグスティヌス風に言えば、言證は過去(記憶)に属し、事證は現在(知覚)に属し、心證は未来(期待)に属するということになるでしょう。
「斯様にして、救拯の歴史を貫くマルチュリアの論理は悠遠なる人類生活のマクロ・システムに於て妥当すると共に、また眇たる個々の基督者のミクロ・システムに於ても妥当するものとなった。運用の妙は一心に存することとなった。つまり、其処に体験せられたる言證、事證、心證こそは畢竟信、愛、望の黄金律にほかならないのである。
信仰とは既に与えられたる神の言、即ち神の契約を回顧的に信ずることである。アブラハムが信仰の父と称えられた理由は、彼が神の約束を確信したることに存した、そして、それが彼の義認となった(ロマ書4章21、22節*1)。キリストの血によりて義とせらるる(ロマ書5章9節*2)という言表の如きも、血が契約の印であり、言葉の性質を有することを注意すべきであろう。
次に愛はどうであるかと問うならば、永遠に現在の事実として顕われるものが神の愛なのである(ロマ書8章38、39節*3、コリント前書13章8節*4)。自己に関する限り、人は過去の愛や未来の愛を説くも無意味にあらずんば、無効である。
希望に就いては、究極に於ける其客観的実現は無論未来に属するも、それが喜悦の感情として、前味の形に於て既に心に存することに、浅からぬ意義を認めねばならぬ。」
*1 「神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。だから、彼(アブラハム)は義と認められたのである」。
*2 「わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう」。
*3 「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。
*4 「愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう」。
著者はこうして信、愛、望を三證の「ミクロ・システム」として展開しています。「劇作家」パウロのモチーフは、観客である個々のキリスト者のそれとなります。またパウロの喜悦はキリスト劇に参与する者の感情となります。
「一心に於て、斯様に殆ど同時的に、これ等複雑な過、現、未の各相に亘る異種意識形態を経験する基督者的自覚は決して単純ではあり得ない。然るにその嚮導的感情は喜悦であるという。それは謂わば綜合感情であって、その中には多種多様の心的現象が錯綜し、それらが同時的又は交互に意識表面に浮び出でるのである。基督者の心はディヴィナ・コメディアの舞台であって、その基底には大なる苦痛が流れていなければならない。歓喜とはいえ、それは涙と血をさえも流して到達したる境地であって、そこから生れた歓喜なるが故にこそ特に貴いのである。」
キリスト者はディヴィナ・コメディア(「神曲」、ダンテの宗教的叙事詩の原題、あるいはハッピー・エンドの中世の物語)の舞台に立っていると言われます。大いなる苦痛にも拘らず、神の救いが根本的に人生を「嚮導」しているという確信に生きる者がキリスト者であるということでしょう。それが単に「舞台」の上でのことでなく、実人生の原理であるとするならば、確かに素晴らしいことです。
「片々たる感情の如きを以て、我等の神との関係を律するは不都合であると考える人があるならば、それは斯かる綜合感情が基督者的人格を組成する諸要素――或いは調和し或いは背馳する――の微妙なるバランスを示す標識なる所以を弁えざるが故である。然し尚一つ大なる理由が宗教生活に於ける感情の重視に対して与えられると思う。それは感情が本質的に保有する現在性である。感情は偽ること能わざる現在の心境標識である。基督者は今立つ所の恩寵生活に就いて、断えず自己の存在状態を注視し、これを知尽せねばならぬ。而してこれを自働的に評価し測定するメートルは感情にほかならない。感情は大小強弱の差異と質的変化を明瞭に自覚せしめ、これを身体的表現にまでも投影する独自の性能をもっている。かような訳で、心證に於ける感情の位地は軽視することを許さない。パウロは彼の偉大な心から溢れ出づる強烈な感情を大胆率直に吐露する人であった。彼の性格は此意味から、心理学的研究の典型的な対象であるが、更に重要なることは、彼の感情表示を通じて、基督者の内的生活の如何なるものかを窺い得ることにあると思う。
然しながら、パウロは喜怒哀楽その折々の感情を何の思慮も分別もなくぶちまけるような人ではない。時としては稍や激越に過ぎると思われる場合もないではないが、多くの場合明智と確意を以てこれを統締する恒常心を失うことはなかった。然るに、唯一種の感情に対しては、彼は殆どブレーキをかけなかったようである。それは即ち喜びの情である。彼の書簡を繙く人は随処に此感情が溢れ漲っているのを見るであろう。」
宗教生活における感情の重視ということは、著者の見識を示すものであって、それはそれとして評価すべきことであると思われます。「悲哀」を自己の根本的な感情とする日本人が多い中で、喜びを基調とする宗教生活を強調すること自体は、人間の本来あるべき生き方を示唆するものとして、傾聴に値します。しかしそれはキリスト者に限定された生き方ではありません。誰もが喜びを基調とする生き方をすべきであって、それがキリスト教的に表現されているというまでのことです。以下の文章がそれを示しています。
「喜悦は感情のうちで最も自発的であり天真的であることも注意されなければならない。それは偽り難く、意志や理智によりて歪曲し難く、また斯かる人為的技巧を必要としない。常に明朗であり、健全であり、自他を精神的束縛から解放する働きをもっている。随って歓喜のある所にはいつも健康と自由が存する。いわゆる太陽的存在である。
更に、喜び Chara(*1)は感謝恩恵を意味する Charis(*2)に通ずることに於て其内容を深化する。それは漫才式の笑いや滑稽の慰楽感ではない。感恩の印象が一旦人格に沁み込んで其奥底にまで達し、それが再び沸き出で溢れ来った感情である。「今立つところの恩恵に入るを得、神の栄光を望みて喜ぶ」と言った時、パウロは殆ど喜悦をさえ通り越して、輝かしい光栄感/カウケーマにうたれた。」
*1 *2 いずれもギリシャ語のラテン文字表記。
心理学者マズローによれば、人には至高体験(peak experience)と言われるような、突然幸福感に襲われる経験があるようです。それは何か異常さのしるしではなく、健康で普通の人があるときふと感ずる経験で、むしろその人が成熟していることを示すものであると言われています。しかし苦悩の果てに突然感じる幸福感もあって、古来それは宗教的かつ神秘的な体験と同一視されてきました。それについて生命科学者、柳澤桂子が自分の長い闘病生活を綴った『いのちの日記』(小学館、2005年)に、科学者として冷静に自分の経験を記述した文章があるので、それを引用してみます。
「神秘体験
〔一九八三年十一月二日の日記から〕
覚悟はしていたものの、私の胸はきりきりと痛んだ。自分の子供のようにだいじに育んでいた仕事が奪い去られたのだ。涙は出なかった。
感情を押し殺して何とか家族に夕食を食べさせた。一刻も早く一人になりたかった。片づけが終わると寝室に入った。一人になると悲しみとも苦しみともつかない感情がどっと押し寄せてきた。その夜は一睡もできなかった。
寝室へ入るときに純(長男…引用者)の部屋の前を通った。入り口のドアが少し開いていて、本棚に本がずらりと並んでいるのが見えた。そのなかの一冊が五センチほど飛び出しているように見えた。本はけっして飛び出していたわけではないが、私にはそう見えた。
その本を手に取ってみると、すでに亡くなられた元薬師寺管長の橋本凝胤師の書かれた『人間の生きがいとは何か』であった。宗教には無縁であったが、噛んで含めるような温かい語り口に自然に引き込まれていった。
一語一語噛みしめるように、口の中で転がすように読んだ。本の内容に集中することで、現実の苦しみから目をそらすことができた。何時間経っただろうか。一冊の本を読み終わるころ、外が明るくなりはじめた。
白く浮かび上がった障子を眺めていた私は、突然明るい炎に包まれた。
熱くはなかった。ぐるぐると渦巻いて、一瞬意識がなくなった。
気がついてみると、それまでの惨めな気持ちは打ち払われ、目の前に光り輝く一本の道が見える。
私は何か大きなものにふわりと柔らかく抱きかかえられるのを感じた。その道はどこへ行くのかわからなかったが、それを進めばよいことだけははっきりわかった。
「そうだ。生きるんだ。仕事をしなくたってきっと生きられる」
一瞬のできごとで、私は恍惚となっていたが、それを言葉で表現することは非常にむずかしい。何か大きなものに抱かれた感じはとくに強かった。
橋本師の本には、こころを打つ箇所がたくさんあるが、その中から、とくに私のこころに残ったところを引用してみよう。
〈人間性とはいかなるものであるか。われわれは人のために生きているのではない。社会のためにでも世界のためにでも、世界人類のために生きているわけでもない。それを世界人類のために生きているような考え方を持たなければならぬように訓練されてきているわけです。
よく人道主義、ヒューマニズムということをいいます。これは人間と共に暮らすときの人間の道を説いているのです。つまり、人間生活の一つのルールを考えるのが人道主義です。しかしこういうものに、われわれは左右されてはいけないのです。いつでも一人のときに、一人の生活の中に、道というものが厳然となければならないのです。
最高価値の生活、つまりモスト・バリアブルな生活ということです。もっとも価値ある生活をする。このもっとも価値ある生活を涅槃といい、静寂といいます。
「この心これ仏にして、この心仏をつくる」ということが(経文の)いたるところに書かれています。この心とは、自分の心です。自分の心の中に仏あり、この自分の心が仏をつくるのであるということばです。どのくらい仏さまがありがたいものでも、われわれの生活の中に仏がいなければなんにもなりません。生活の中にこの心これ仏であるという信念ががっしりとしていれば、生活がみんなこの仏作仏行という仏さまの日常生活になるわけです。(中略)そうしてみると、刹那々々に最高価値の生活をするということは、お互いの心に仏を生かしているということになります。つまり一寸の時間も、「心の中に仏の生活ができうる」というようにお互いに自覚していく、信念をもっていく、これがつまり静寂の生活です。〉
私が体験したような「神秘現象」は、けっしてめずらしいものではなく、一般に「神秘体験」と呼ばれている。
精神科医・神谷美恵子氏はクリスチャンとしても知られ、人間の極限的な苦悩や生き甲斐について多くのすぐれた著作を残されているが、それによれば、このような体験は多くの場合「ひとが人生の意味や生き甲斐について、深い苦悩におちこみ血みどろの探求をつづけ、それがどうにもならないどんづまりにまで行ったときにはじめておこる」ものだという。
また、宗教学者の岸本英夫氏によると、いろいろな宗教に見られる神秘体験の共通の特徴は、次の四つであるという。
一、特異な直観性
二、実体感、すなわち無限の大いさと力を持った何者かと、直接に触れたとでも形容すべき意識
三、歓喜高揚感
四、表現の困難
こうしてみると、私の経験したことは、まさにこの神秘体験であった。この体験に火がまつわることも神谷氏は述べている。私自身体験してみて、このようなことが実際に起こることは確信できた。
しかし、これが神秘かどうかということに私は疑問をもつ。人間は強いストレスにさらされると、脳の中に快感物質が出て、ふだんとはちがった感覚をもつようになる。
たとえば、交通事故にあった人が、かなりの重傷であるにもかかわらず、痛みも感じずに警察に電話をしたりする。これは、動物が深い傷を負ったときにひとまず安全なところまで逃げられるように、脳内快感物質が出るからであると考えられている。
このような場合だけでなく、お産のときには、母親と赤ちゃんの両方に脳内快感物質が出て、お産の苦しみに耐えやすくなっているという。
一般に、動物が強いストレスにさらされたときに、脳内快感物質が出るということは十分に考えられることである。たくさんの快感物質が出たときに、岸本氏の挙げているような感覚が生じても不思議ではない。神経の過度の緊張は、火となって感じられる可能性がある。
したがって、「神秘体験」は、神秘ではなく、科学でも十分に説明のつく現象であろうと私は考える。いわゆる宗教的な奇蹟体験の事例についても、おなじようなことが考えられる。」
柳澤氏が触れている「脳内快感物質」とは、たしかエンドルフィンとよばれるホルモンの一種で、交通事故で大変な重傷を負ったとき、麻酔剤のように体中に行き渡って、傷が深ければかえって痛みを感じないということが、実際に起るようです。人体の不思議な働きの一つであると言えます。どうやらその同じ物質が、特にストレスなどないときにも作用して、自分は何と幸せなのだろうと感じさせるということは、大いにありうることです。身体の仕組自体が、生きるということは本来喜びなのだと感じさせるように出来ている、と言うべきかも知れません。なお柳澤氏が「突然明るい炎に包まれた」、「私は何か大きなものにふわりと柔らかく抱きかかえられるのを感じた」と記していることは重要であると思います。それもまた生命現象と言うべきでしょうが、哲学者や思想家が「照明」であるとか、また「包摂者」とか、「無限抱擁」とか、「つつみ・つつまれる関係」とかを論ずることと、決して無関係ではないのではないかと思われます。そこには、単に「脳内物質」に還元してしまうことのできないものがあるのではないかと思わされます。しかし個体の生命維持の働きを越える、「いのち」そのものの働きということについては、我々は未だ、宗教者や思想家が立言する以外の、確たる科学的認識を与えられてはいません。
さて、我々の著者はさらにその論述を続けます。
「斯くて心證を分析の結果、我等は感情性をとり出すことが出来た。然しそれだけに止まっては未だ片手落の観なきを得ない。という訳は、感情はメートルの働きをなすけれども、体験の内容自体に就いていえば、これに触れる所僅かであって其根幹に至らざるの憾みがあるからである。ここに尚一歩検討を進める必要を見るであろう。
感情が肉体的反応と関連している事実は既に示唆し来ったが、この事は体験が更に感覚性と密接な関繋にあるという事実に我等の注意を導くであろう。尤も、それは必ずしも基督者的経験は肉体的感覚に直接に訴えなければならぬことを意味しない。唯それは、福音の真理が極めて具象的に解せらるべきものたるを指唆する、即ち直接には訴えないでも、象徴的に感覚的連想と緊密に関繋して居り、随ってその真理は常に謂わば一種の超現実的現実として、アナロギアの論理により、生活中に万遍なく織り込まれているべきなのである。」
ここに論じられていることは宗教的実践についての著者の健全な認識を示していると言うべきです。しかしキリスト教の「絶対的」独自性を維持しようとする観点からは、疑問符がつくかも知れません。
「ところで、再びパウロの人生観に還ってこれを見るに、彼は感情に於ては喜悦を主調とし、悲哀憂愁の如き他の凡ての感情は遂に歓喜に変るべきを信じた。これに反し、感覚に就いては、その規準を苦痛に置き、凡百の感覚はこれによりて統括せらるべきものと見て居るのである。「我等は知る、凡て造られたるものの今に至るまで共に嘆き共に苦しむことを」(ロマ書8章22節)、これ彼の宇宙史観である。苦痛なき世界は、重量なき世界の如く、現実性を欠くものであった。人間が過去を担い、その儘現在に立つ以上、苦労は附きものである。これは当然のこととして甘受すべきであり、これを経験しないのは逃避者である。「我等この幕屋にありて重荷を負える如くに歎く」(コリント後書5章4節)のである。
然し労苦に対し受動的に甘んずる境域だけに低徊するものではなく、進んで世の罪と戦う者として、却って迫害や貧困や飢餓や悪評や誤解を歓迎するのが信仰の勇士である。「我等は飢え、渇き、また裸となり、また打たれ、定まれる住家なく、手づから働きて労し、罵らるるときは祝し、責めらるる時は忍び、譏らるるときは勧をなせり。我らは今に至るまで世の塵芥のごとく、萬の物の垢のごとく為られたり」(コリント前書4章11〜13節)。
此の積極的態度を更に吟味するならば、其処にはキリストの肢としての連帯意識が其動機として見出されるであろう。「若し一つの肢苦しまば、諸ろの肢倶に苦しむ」(コリント前書12章36節)。「我れ今汝等の為めに受くる苦難を喜び、又キリストの体なる教会の為めに我が身をもてキリストの患難の欠けたるを補う」(コロサイ書1章24節)。
此連帯意識を更に徹底するならば、苦痛は遂にキリストへの参与者に対する実証として神よりたまわる傷痕/スティグマ(ガラテヤ書6章17節)たることを自覚するに至るであろう。その惨めな姿に目をそむける人があるならば、その半面に隠れたる栄光のあるを知らない人である。「今の時の苦難は我等の上に顕れんとする栄光にくらぶる足らず」(ロマ書8章18節)、従って我等の祈念する所はキリストの「死に效(なら)いて彼の苦難に与り、如何にもして死人の中より甦ることを得ん」(ピリピ書3章10、11節)ことであり、斯かる我等には「キリストの苦難溢るる如く、我等の慰安も亦キリストによりて溢るる」(コリント後書1章5節)のである。」
パウロにとっての「キリスト」とは積極的な生き方の指標あるいは原理と見なされるべきものです。それ以上の何かとして理解しようとするとき、「宗教」が生まれてきます。
「人間が精神と共に肉体を有するという思想は陳腐な常識かも知れない。然しこのありふれた思想を全く独特な方法によりこれを転瞬のうちに捉うることにより、溌剌無比の活原理と化するのがキリストの福音である。而して此方法を最も明かに示して呉れたのがほかならぬパウロであった。
肉体は過去を担うもの、朽つべきもの、死に定められたるものではあるが、其感覚性を通じて、直接又は間接に与えられたる体験はその中に不朽なるものを蔵するが故に、我等はこれを軽視してはならない。パウロは感覚的諸体験の錯綜せる複合体を統括するに苦痛感を以てすることを教えた。人は苦痛に徹することによりてキリストの歴史的事実に参与し、彼と倶に十字架を負う者となることが出来る。無論それは只苦しめばよいという意味ではない。そこには苦痛の既往―現在的性格を其儘直ちに現在―未来的性格にまで転換し得るようなパラドクス原理が働いて居なければならぬ。この転換性を伴わない苦痛は神なく希望なき暗黒の苦痛であって、生来人のそれである。基督者も苦しむことに於て生来人と同様、否一層深刻であろうが、然し、彼にありてはこの転換があり、「患難を喜ぶ」ことが出来る。其経過をパウロは説明して、「そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり」(ロマ書5章4、5節)と録した。希望は未来に属するも、喜悦の感情に反映せらるることにより、既に現在的性格を得て居るのである。」
転換のパラドクス的原理を把握するということは、確かに生き方の基本であると言えるでしょう。キリスト教もまたそのための工夫のひとつであると言えます。
「パウロの体験観は、これを詮ずるに、先ず一個の弁証法的存在として自我を定立し、あらゆる境遇に処して自己の立場をパラドクス的二重性により死即復活と解し、忍苦と光栄、沈鬱と昂揚との両極を把持しつつ、永遠的瞬間に生きんとしたことにある。畢竟、彼にとりては、キリストの為に辛苦艱難を嘗め尽して人生の現実に徹することこそは、歓喜に於てこれを超克することにほかならないのであった。(完)」
こうして著者は、パウロの思想の真の意味でのキリスト教哲学的地平を切り開いたところで筆を擱きます。我々が問題にすべきことはその先にあるでしょう。しかしそれは私自身の課題として、今後の研鑽に俟つほかはありません。