閑老人のつぶやき 宗教について 2

     1 家出のすすめ

     2 教会はどうなるのか

     3 アクティブ・エンカウンター

     4 幻想としての一致

     5 レカピテュラティオ論再考

     6 何者でもない私

     7 キリスト教的思考法

     8 伝統的な教会の七つの標識

     9 わたしは弱いときにこそ強い

    10 貨幣とキリスト


T 家出のすすめ

「イエスが家にはいられると、群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押さえに出てきた。気が狂ったと思ったからである。」(マルコ3:19b〜21)

「さて、イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが、『ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます』と言った。すると、イエスは彼らに答えて言われた、『わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか』。」(マルコ3:31〜33)

「イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。そして安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、『この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか』。こうして彼らはイエスにつまずいた。」(マルコ6:1〜3)

かつて劇作家の寺山修司は『家出のすすめ』という本を書きました。イエスやブッダの物語の始めに「家出(出家!)」があったということは記憶すべきことです。ナザレの大工の子イエスが神に国の伝道者イエスになったということは、身内の者からすれば気が狂ったとしか思えない行動であったことでしょう。まさに常軌を逸した、エクストラ・オーディナリーな行動だったと思います。明治の時代からキリスト教は親不孝を教える宗教であるとけなされてきました。聖書の上の記事から来るものでしょう。地縁、血縁、血統で人間が縛られているのは当然であるとみなす立場から見れば、その秩序から飛び出る行為は奇異であり、また非難されるべき事柄です。しかしこのような「はみ出し者」がいなければ、人間の歴史は一体どうなっていたでしょうか。

今また地縁血縁血統を強調する者たちの声が強まっています。彼らは日本国民に国と郷土を愛さなければならないと叫びます。現行秩序は保たれなければならない。人間はそこからはみ出してはならない。そこに留まれ。人間はそれ以上の野心を抱いてはならない。天子様からいただいたこの国土に殉ずる者であれ。それ以外の世界があると思うな。貧乏人は麦を食え。病気は自己責任だぞ。医療費は自分で払え。国民健康保険などというお情けをもうお前たちに施している余裕はない。公金は国益のためにある。税金は、大企業と銀行を支援し、米国と日本の国防費を賄うためにこそ、お前たち貧乏人から徴収される。見よ、うるわしき国土ではないか。この国を愛さずにいられるだろうか。

ひとりの人の「はみ出し」行為が世界の歴史に大きな波紋を投げかけました。しかし人間の歴史は依然として地縁血縁関係に縛られています。権力者はむしろ人間をそこに縛りつけようとします。その人たちにとって現行憲法と教育基本法とは日本の「光輝ある」歴史にはさまった異物であるとしか思われないでしょう(これを自慢史観!と言うようです)。今や民主主義を守ろうとする人間の欲望は、はみ出し者の欲望となりつつあります。私たちが「家出」をする勇気を持たなければ、日本は再び軍国主義の国家に転がり落ちていくことでしょう。


U 教会はどうなるのか

10年後には日本のキリスト教会は存在しないであろうと「予測」を立てる人がいます。教会に通ってくる人たちの高年齢化と洗礼を受ける人たちの減少傾向を考えれば、その予測もさほど大げさなことであるとは言い切れません。

かつて「キリスト者」であった私も教会はどうあるべきかについて色々と考えたものでした。今は少し離れたところからこの問題を考える「余裕」を与えられています。もはや当事者ではないので、「つぶやき」でしかありませんが、教会はどうあるべきかについての私見を述べてみたいと思います。

1) 教会はその教義から脱却できるか

教会は宗教改革によってもその教義を根本的には変えることなく、今日に至りました。この間、カントやヘーゲル、あるいはヘーゲル左派の哲学的なキリスト教批判がありました。また歴史的批判的聖書研究はその後大きな展開を遂げ、その影響を受けたキリスト教会は大変な動揺を経験してきました。しかしそれでもなお教会の大勢は伝統的教義に固執し、そこにこそ教会の使命があると頑なに信じてきました。その結果、少なくとも次のような「弊害」が生じてきました。

(a)知的誠実さの放棄
現代人にキリスト教の教義を文字通りに信じろということは、あなたの「知的誠実さ」を放棄しろと言うに等しいことです。かつてキリストの「復活」がわからなければ、キリスト教はわからないと「強弁」する牧師の説教を聞いたことがあります。聖書に書いてある通りのことが起こったと信じなければならないということでしょうか。そのつまずきが不可避であるとしたら、わざわざ「つまずき」に行く人の数は減るばかりでしょう。ある青年は私に「処女降誕」は生物学的に言っても不可能ではないと言いました。人間に単性生殖が可能であると信じなければ、キリスト者にはなれないのでしょうか。

(b)脱会の不可能性
「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう」(マタイ16:19)。その鍵をペテロの継承者、ローマ教皇が握っているのか、それとも全体としての教会が授かっているのかは別として、教会に所属することが天国に通じる唯一の道であるとされているところでは、教会からの脱会はありえないことです。私のように「行かなくなる」ことができるだけです。しかし教会は私を「別帳会員」扱いにしても、除籍にはしていない筈です。キリスト者は、原理的に言って、他の教会に転会することはできても、脱会することはできません。この脱会不可能性ということは、入会することができれば退会することもできるという、近代的結社の原則に逆らっています。ある人は教会の講演会に誘われたとき、「教会は一度足を踏み入れたら抜け出せなくなるからいやだ」と断ったそうです。それではまるでヤクザの組織です。あるいは教会は未だに中世を引きずっていると言うべきでしょう。

(c)奉仕の過重性
教会への奉仕は何にも増して優先されなくてはなりません。教会への奉仕は神への奉仕だからです。その結果、教会員数の少ない日本の教会では、役員を引き受ける一部の信徒に過重な奉仕の負担がかかります。しかもそれは当然の行為であって、人からは余り評価されません。キリスト者は評価されるために奉仕するのではないからです。場合によってはその奉仕は教会員の批判にさらされます。キリスト者にはなぜか不寛容な人が多いのです。つまり無理をしなければキリスト者はつとまりません。そしてキリスト者には教会以外のことにかまけている余裕がなくなってしまいます。日曜日は一日教会にいるということも珍しくありません。そもそも聖日は神にささげられるべき日なのです。

以上の3点から考えても、教会は「縮小再生産」の構造を持っていると言わざるをえません。「教憲教規」(教義とそれに付随する規則)に教会のアイデンティティがあると固く信じられているところでは、構造的に言って信徒の増大は不可能です。牧師の「個性」で多少の信徒の増減があるだけでしょう。私としては「どうぞ勝手におやり下さい」と言うほかはありません。それにしても、教会は上に述べたような教義的拘束から果して脱却することができるのでしょうか。

2) キリスト教後のキリスト教

牧師たちが職業的に危惧しているように、キリスト教がその教義を脱却するということは、ある意味で、キリスト教がキリスト教でなくなるということを意味しています。しかしその徴候は教会の各所に垣間見えています。それがまだ教会の「大勢」を占めていないというだけの話です。一例として、聖日礼拝の代わりとなる、日曜日の(別の曜日でも一向に構いません)集会の一つのモデルを提示してみたいと思います。

(a)聖書講話
「講話(discourse)」は教義に縛られた説教ではありません。聖書に即して、あるいは聖書に題材を得てなされる、自由な語りです。批判的な聖書学の成果は排除されず、むしろ大いに活用されるでしょう。なぜ「聖書」か、という問題は確かにあります。人類の古典の一つとして聖書が選ばれたということであって、前もってその根拠が示されているわけではありません。あるいは、そこにキリスト教とのつながり(不連続の連続)があると言うべきかもしれません。次にそれを誰が話すかという問題があります。話をする人を「講師」と呼ぶとすれば、それは誰であっても構いません。資格は不要です。参加者が持ち回りで話をすることが理想です。しかしそれを職業とする人がいても構いません。そのときにはその人を「専任講師」とでも呼ぶべきでしょう。

(b)宗教座談
「座談(talk)」は主に講話を受けた話し合いです。ただしキリスト教の「教理問答」のように、一つの問いが権威を持った答えで完結するということはありません。過去を総括するという意味で教理(教義)は大いに参照されるべきです。しかし宗教座談は権威のある答えで完結することのない「開かれた教理問答」といったものになるでしょう。それが宗教座談(内村鑑三に同名の著書がありますが、それと直接の関係はありません)と言われるのは、他宗教も当然視野に入っていて、それも参考とされるからです。また宗教以外のことにも話は及ぶでしょう。それを妨げる理由は何もありません。参加者が話題になっている事柄をどのように理解するかは、その人自身の問題です。誰かによってそれが強力に方向づけられるということはありません。知識の多寡はあっても、意見は平等に交換されます。答えは前もって与えられてはいません。

(c)愛餐親睦
この集会には聖餐式はありません。しかし時に愛餐(アガペー・ミール)と言われる会食がなされます。それはイエスの故事に習ったことで、お互いの親睦のためになされます。しかし食事ではなく、茶菓でも構いません。これだけは教会でも大いになされていることであって、その継承です。

さて、キリスト教の礼拝がこのように変わったとして、それによって会員数の増大はあるでしょうか。その保証はどこにもありません。しかし教会が変わることだけは確かです。教会がどのように変わるかといえば、それは友情の組合(a union of friendship)といったものになるでしょう。その先例は(片鱗と言うべきですが)、森明の「基督教共助会」や賀川豊彦の「イエスの友会」に見ることができます。しかしそれらよりも、もっと開かれたものになるでしょう。その集会ではキリスト者であるか否かという境目がなくなってしまっているからです。この集会が会員組織であるとすれば、もちろんそれは出入り自由であって、原則として誰でも入会でき、また退会することができます。これはグラウンド・ゼロからの教会形成と言うべきものです。キリスト教の再改革(リ・リフォーメーション)、第二の宗教改革は、そのような形でしか起こって来ないのではないでしょうか。


V アクテイブ・エンカウンター

「さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので群集にさえぎられて見ることができなかった。それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。イエスは、その場所にこられたとき、上を見上げて言われた、『ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから』。」(ルカ19:1〜5)

卒啄同時という言葉があります(卒に口扁をつけた字が入力できません)。卵から孵ろうとするひなどりが殻をつつくのと、親鳥が外から殻をつつくのが同時に起こるという意味だそうです。これをアクティブ・エンカウンター(積極的出会い)と呼ぶとすれば、福音書はその事例に事欠きません。

他者との出会いによって、自己実現が生起するということがアクティブ・エンカウンターが意味することです。よき師にめぐり合うとき、そのことが起こります。フランスの精神分析医でカトリック教徒であるドルト女史は、その著(セヴェランとの対話)、『欲望への誘い ドルト女史の聖書分析 精神分析に照らした福音書2』(勁草書房、1985年、第一巻は『欲望の世界』)の最終章、「サマリヤ人のたとえ話」(ルカ10:24〜34)の、そのまた最後に次のように述べています。

セヴェラン 要するにすべてそれは、われわれを人類の兄弟と認めてくれる他者こそがわれわれを人間らしくしてくれる鏡であるということだろう……

ドルト 他者は進行し生成する運動垂直線上に私たちを戻してくれるわけです。サマリヤ人のこの美しい物語が語っているのはそのことなんです!
 彼は知的、道徳的そして社会的偏見から解放されている…… ですから他者は自己を取り戻すことができるのです。
 私たちがひとりの人間から、ある日、ある時、ある瞬間、人間として認められたら、その人を自分自身のように愛しましょう。その人は私たちの魂なのですから。
 そうして私たちがある日、ある時、ある瞬間、身ぐるみはがれた人間に出会ったら、その人を自分自身のように愛しましょう。その人は私たちの魂なのですから。

アクティブ・エンカウンターは同時にインタラクティブ・エクスピアリアンス(相互作用の経験)です。求める者がいれば、与える者がいます。そしてその経験を振り返れば、自分が豊かにされていることに気づきます(リフレクティブ・エンリッチメント)。私はこれを「3つのE」と呼んでいます。この世界から他者とのそのような積極的な出会いが失われたら、私たちの欲望はとぐろを巻いて鬱積することになるでしょう。

以前から私は「三相の自己」ということを考えています。上に述べたことと関連すると思われますので、既にあるところで発表した文章を以下に転載します。

 「自己」は常に「他者」との関わりで「自己」であるということができます。他者がなければ自己もありません。そこで自己を他者との関わりにおける三つのアスペクト(三つの相)から考えてみます。すなわち、自己を「自己としての自己」、「他者としての自己」、「自己としての他者」という三つの観点から考えてみます。

a 自己としての自己
 自己としての自己は、自我としての自己、私的自己、欲求の主体とみなされます。いわば自己の欠如態です。欲求は欠如より生じますし、自己は他者ではないものとして、常に否定を介して自覚されるからです。(自己でないもの、すなわち他者の)障害や抵抗がなければ自己の意識も生じてきません。

b 他者としての自己
 他者としての自己は、役割としての自己、公的自己、義務の主体とみなされます。いわば自己の構成態です。つまり社会的に構成された自己です。父親として、夫として、市民として、教師として、部下として、上司としてなど、役割としての自己は、何らかの義務の主体であると共に、他者と取替えが可能なところに特徴があります。父子関係は自然のものかもしれませんが、役割としての父親は取替えが可能です(第二の父親!)。

c 自己としての他者
 自己としての他者は、良心としての自己、全的自己、共感の主体とみなされます。いわば自己の充溢態です。まるで自己であるかのような他者とは、たとえば母親の我が子に対する考えてみればわかりやすいと思います。宗教的自己もここに位置づけられると思います。「生きているのはもはや私ではない。キリストが私のうちにあって生きておられるのである」というパウロの言葉が思い起こされます。しかしこの「全的自己」、「宗教的自己」には怖いところがあります。「自己としての他者」の「他者」のところに、「天皇」や「国家」が来た場合どうなるでしょうか。戦前の全体主義的で、超国家主義的な体制が想起されます。


W 幻想としての一致

「わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。」(ヨハネ17:20〜21a

「みんなの者が一つとなるため(ut omnes unum sint)」という言葉は、永く世界教会運動(エキュメニカル・ムーブメント)の中で、諸教派に分裂したキリスト教会の一致を希求する標語として使われてきました。

かつて私はこの聖書の箇所について「愛における一致」と題する文章を書いたことがあります。それは「わたしが彼らにおり、あなたが私にいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります」(ヨハネ17:23)、「それは、あなたが私を愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」(ヨハネ17:26b)から来ています。この「イエスの告別の祈り」は、ヨハネが永遠化されたイエスに託して語った、神の御名(「そしてわたしは彼らに御名を知らせました」ヨハネ17:26))を信じる者たち(教会)の一致の願いです。

そのとき私は木下順二による「井筒」という複式夢幻能の解説や映画の「ET」(ETと少年の別れの場面)を引き合いに出して論じました。ここで語られている一致は幻想あるいはフィクションの一致であると思われたからです。ヨハネによる福音書は、永遠化されたイエスの相のもとで、世から離脱した、御言を信じる者たちの「永遠の命」を約束する文書です(「私は彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」ヨハネ17:14)。イエスが永遠化されているということは、それが既に幻想あるいはフィクションの世界に入り込んでいるということにほかなりません。それは現実(世)の出来事ではありません。

ヨハネ教団はグノーシス主義と訣別して正統的教会に舞い戻ったグループであるという解説をどこかで読んだ記憶があります。大いにありうることだと思います。ほかの福音書(共観福音書)とは明らかにトーンが違います。ヨハネによる福音書において「幻想共同体」としての教会のあり方が鮮明に現われてきているというべきかもしれません。

永遠化されたイエスは教会の説教(御言)において現存し、信じる者たちの「うちにいる」ものとなります。現存内住の教義が既に成立しています。大貫隆氏が指摘したようにこの福音書自体がドラマのようなものです(『福音書研究と文学社会学』)。観客はドラマの出来事に参入し、自らその出来事に巻き込まれているように感じます。礼拝と演劇との親近性ということが考慮されるべきでしょう。

ヨハネは古代のロマン主義者であると言えるかもしれません。ヨハネは現実世界を離脱して、愛と交わりの世界を演出しました。御言を聞いて信じる者たちは永遠の世界への参入が許されます。イエスがそのように永遠のロゴスとして礼拝されるようになったということが、宗教としてのキリスト教の成立を告げています。

劇作家木下順二は夢幻の世界にこそリアリティがあると言いました。しかし夢幻は夢幻であって、現実世界は変わらずにここに存在しています。人間が抱く理想が幻想としてしか与えられていないということ、理想と現実とのギャップが埋められないまま、歴史が推移していくということに、人間の悲しい性(さが)があると言うべきでしょう。

愛における一致、それは、より深く、より寛く、より堅く、より等しい一致です。その目標は相変わらずただ教会という「幻想共同体」のうちに、幻想としてだけ存在するのでしょうか。それは同時に今日の世界が求めていることなのではないでしょうか。破滅に向かって進む人類になお希望があるとしたら、それは、この現実世界でこそ、愛における一致、多様性における一致を追求することにかかっていると思わされます。


X レカピテュラティオ論再考

古代教父のひとり、イレナェウス(エイレーナイオス、―200年頃)の独創的な救贖論(キリストの救贖 redemption についての神学理論)としてレカピテュラティオ論が知られています。先ずその思想の概要を園部不二夫の「イレナェウス研究」によってたどってみます(『園部不二夫著作集第三巻』キリスト新聞社、1980年)。

レカピテュラティオ論は「キリストは如何にして罪と死と悪魔とを克服して人を神と和解せしめ信仰者に永生を賦与せしめ給うかという神学的方法論の問題」として提示されています。イレナェウスはこの問題に対して、それは「キリストの受肉と十字架と復活の全系列を通してのレカピテュラティオ(recapitulatio, recapitulare)と従順(obedientia)の生涯によってである」という独自の解答を与えます。彼は名詞のレカピテュラティオ、動詞のレカピテュラレという言葉を「非常に慎重に、しかも創意含意的に用い、これをキリストの格身(ペルソナ)と同時に業にも関連せしめて」います。

彼は言います、「主は初めより終わりに至るまでの全人類を御自身にレカピテュラレし給うことによりその死もレカピテュラレし給うた」。またアダムの善悪の木の不従順(inobedientia)とキリストの十字架の木の従順(obedientia)との対比を開示して、「主は木の上における従順により、かつて木に関して起こりし不従順のレカピテュラティオを為し給うた」と述べます。

園部はこのレカピテュラティオという言辞(根本概念)に「非常に深遠なる含意」、「神学的弁証法」を見出しています。そしてそこには次の三つの意味があると言います。

第一にこのレカピテュラティオには総合・帰一・要約の意が含まれている。アダム以来の全人類及び全人的なものがキリストのうちに止揚統合されている。即ち全過去的なものがキリストにおいて総攬されているのである。

第二にこれには再復・回復・新開始の意が含まれている。即ちキリストがアダムをレカピテュラレするのはアダムを再復すること(やり直すこと)であるが、決して往時の第一のアダムをそのまま再復するのではなく、再復することによってこれを回復すること、繰り返すことによって取り返すことが意味されている。しかも取り返すことによって新しき生命的な発足をなすことが意味されている。

第三にそれには成就あるいは完成ということが意味されてくる。アダムは不従順によって全人類の全階層に滅びを導入したが、キリストは嬰児・少年・青年・壮年・老年(注:イレナェウスは、当時の伝説に訴えて、キリストの死の年齢が五十歳以上であったと言っている)、そして死と、人生の全段階を御自身再復することにより、それに相応する全人類の救いを段階的に完成し給うたのである。かくして人類本来の根源的秩序が回復され、全うされ、また完成されることが意味されている。

園部の解説によるレカピテュラティオのこの三つの意味は、イレナェウスがキリスト論という文法に即して、新たな展開を試みたものと言うことができます。キリストという普遍的象徴にいかなる意味を読み込んでいくかという問題でもあります。

ここに示されるレカピテュラティオの働きは、キリストが全人類の代表(representative)として表象(represent)されているということを意味しています。同時に全人類の堕罪の状態が意識されています。キリストがその生涯を通してアダム以来の人類史をレカピテュラレすることがなかったなら、人類は決して救いに与かることはなかったであろうと主張されています。たとえ視野が「帝国」の範囲に限られていたとしても、既に世界宗教としてのキリスト教の成立の与件がここに整っていると言うべきでしょう。

言い換えれば、それによって私たちは同時に二つのことを確認するように求められます。一つはキリストによる救いの確かさの確認です。レカピテュラティオ論はそのためにこそ提示されているからです。もう一つは人類が現に罪の状態に陥っているということの確認です。つまり、人間の道徳的な悲惨さの確認です。

レカピテュラティオ論は、いわば神自身による人類史の「やり直し」を意味しています。その救いのドラマに参画するということが、今日なおキリスト教正統派によって保持されている「信仰」が意味していることです。(イレナェウスは現代の神学者にも一定の影響を与えています。)しかし私の関心は、既にそれをその通りに信じるというところにはなく、この堕罪と贖罪のドラマの今日の私たちにとっての意味を探ることにあります。

柄谷行人の言い方を借りれば、私たちはなお国家という略取(略奪)―再分配の構造のもとに置かれています。経済的な格差が暴力によって維持されるような体制に加担して生きています。力が正義であるような世界に直面させられています。今日の日本では法を守るはずの裁判官の「判決」ですら信頼できないものとなりつつあります。権力の意向に逆らうこと自体が犯罪とされつつあります。戦前の日本の歴史が「再復」されつつあります。戦後の民主主義の歴史を「やり直す」ことは益々困難になりつつあります。

レカピテュラティオ論の根底にあるものが、いのちを取り戻し、いのちを回復する「神の運動」であるとすれば、それは今日の政治―経済的な体制と無関係なものであるはずはありません。救いとは単に個人の魂の問題ではありません。キリストというひとりの人に託された人類史の「やり直し」という課題は、今日では特殊キリスト教的な「信仰」の問題としてではなく、私たちひとりひとりのこの世における生き様の問題として渡し返されているのではないでしょうか。キリストが歴史をレカピテュラレするということは、翻って、私たちひとりひとりが、それぞれ自分のやり方で歴史をレカピテュラレするということでなくてはならないでしょう。キリストが人類を代表するということは、私たちひとりひとりが、それぞれの仕方で人類を代表しているということに置き換えられなくてはならないでしょう。あなたがキリストであり、私がキリストなのです。

私たちは大変生き難い時代に生きています。しかし、それにも拘わらず、人々の心にレカピテュラティオの希望が力強く甦ることが「民主革命」の原点であるように思われます。今こそ「平成の自由民権運動」が起こらなくてはならないでしょう。


X 何者でもない私

〈大正二(1913)年九月の『聖書之研究』に、内村は「目的の進歩」と題してこう書いている。

 余は始めに地理学者とならんと欲した、札幌農学校に入りし時の余はそれであった。
 余は其次ぎに水産学者とならんと欲した、札幌農学校を出し時の余はそれであった。
 余は其次ぎに慈善家とならんと欲した、米国に渡りし時の余はそれであった。
 余は其次ぎに教育者とならんと欲した、米国より帰りし時の余はそれであった。
 余は其次ぎに社会改良家とならんと欲した、朝報社に入りし時の余はそれであった。
 余は今は何者にもならんと欲しない、又何事をも為さんと欲しない、唯神の遣はし給ひし其独子(ひとりご)を信ぜんと欲する、余が今日為さんと欲する事はイエスが人の為すべき事として示し給ひし業である。

ここには再臨信仰(大正七年)という内村の思想の頂点に至る、自らの歩みが記されているが、そこに至るまでの内村は、ともかく社会の中で「何者」かにならんと欲していたのはあきらかである。〉

これは『使徒的人間 カール・バルト』の著者、富岡幸一郎の『内村鑑三』(五月書房、2001年)からの引用です。富岡は〈…内村の『聖書之研究』と再臨信仰へと至る道は、社会の中で「何者かにならん」とし、現に「何者」かであった彼が、その本質たる「クリスチャン」たることで、近代日本社会の共同体からはみだしていかざるをえなかった歩みであったといってよい。(改行)「地理学者」「水産学者」「慈善家」「教育家」「社会改良家」「聖書学者」――内村鑑三はつねに積極的に「何者かたらん」とした。だが、「キリストに捕虜にせらるべき者」である彼は、近代日本のなかで、ついに「何者」でもないものにならざるをえなかった〉と書いています。

富岡は内村の次の言葉も引用しています。「余は著述家ではない、説教師ではない、文学者ではない、哲学者ではない、科学者ではない、教育家ではない、慈善家ではない、然り義人ではない、善人ではない、勿論聖人ではない、世に認めらるべき何者でもない、余はクリスチャンである、キリストに依頼む者である、彼の十字架を仰ぐより他に何の芸も能も才も徳もない者である、 (「十字架の信仰」大正八年四月)」。

内村鑑三は、頭脳はずば抜けていましたが、愚直で不器用な生き方をした人です。武士的な「志操」を貫いた人であったと言うべきかもしれません。その内村が「余は何者でもない」というところまで追い込まれて行ったということは、確かに「近代日本社会」あるいは人間の社会そのものを逆照射する視点になるのではないかと思われます。

人は「何者かとして」自己を立てなければ、この社会で生きていくことはできません。しかしその「何者か」である私は虚仮(こけ)あるいは仮の姿であって、そこに真実の私はありません。内村は「罪人の頭(かしら)」である自己を凝視していました。同時に、その臨終の床で「宇宙の完成」を祈ったように、キリストの「再臨」によって世界があらたまることを切に望んでいた人でもあったのでしょう。

ところで森有正(森にも『内村鑑三』という小著があります)は晩年ある講演で、唐突に「これが私のキリストです」と言い、聖書の次の箇所を読んで、その話を閉じました。「朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹を覚えられた。そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、『今から後いつまでも、お前には実がならないように』と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。(マタイ21:18〜19)」 森は晩年自分の罪を深刻に問題にしていたと思われます。だから「いちじくの木」とは自分のことではなかったのかと感じています。

それでは罪とは何でしょうか。罪とはコミュニケーションの欠如・欠陥であるというのが私の考えです。もしあなたに人には言えない隠し事があるとすれば、それが罪です。秘匿に罪があります。それは自分の利害に関わる情報(プライバシー)を占有しているということでもあります。さらに言えば、事物を占有すること(独り占め)も罪ではないかと思います。もちろん私有は法的に保護されています。しかし偽ってそれを行なえば犯罪になります。今日「投資ファンド」の犯罪が問題にされています。しかしそれは私有を無制限に認める今日の社会のあり方から生まれてきたのではないでしょうか。

よく言われるように良心(conscience)の英語の原義は「共に知る」ということです。「共に知る」地平に立ちきれないところに、人の罪があるのではないでしょうか。他人事ではなく、私も罪意識を持っています。だから「キリスト者」であったのですが、罪の解決を「キリストの十字架」に求めなくなった今も、当然のことながら、罪から解放されているわけではありません。

「何者でもない」ということは「クリスチャン」ですらないということです。内村の弟子、関根正雄の「無信仰の信仰」に興味を持ったのは、私がドグマから解放されたキリスト教、非キリスト教的キリスト教(Non-Christian Christianity)を探求しているためです。その意味で内村の「何者でもない私」はさらに徹底されなくてはならないと考えています。内村は「何れの教会にも属せざる」クリスチャン、党派性(教派性)を脱したクリスチャンであろうとしました。しかしキリスト教を脱したクリスチャン(Non-Christian Christian)であろうとはしませんでした。

キリスト教が自らキリスト教でなくなろうとするところに今日のキリスト教の課題があると、私は考えています。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12:24b)


Z キリスト教的思考法

私は永年キリスト教的思考法に染まってきました。もちろんそれ自体不十分なものでしたが、それを私なりに総括することは「元キリスト者」としての私の重要な課題です。そのキリスト教的思考法を浮き上がらせるためにもTH図が役立ちます。先ずそれを次のように図示してみたいと思います。(参照「哲学の区分」「組織における権力関係」)

A 釈義論・B 予型論・C 適用論・D 変容論・E 規範論・F 正典論・G 予定論

これらの七つの項目について私なりに理解するところを書いてみます。

A 釈義論 聖書は神の啓示の書であるとみなされてきました。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である(Uテモテ3:16)」。「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである(Uペテロ1:20〜21)」。ここでの聖書とは「旧約聖書」のことですが、その原理が「新約聖書」自体にも適用されてきました。そこから聖書の神学的釈義という特別の課題が生じてきました。聖書の個々のテキストの意義を解明するためには聖霊の導きが必要であるとされてきました。そしてそのような理解から聖書逐語霊感説という極端な立場も生まれてきました。その歴史的経緯を見れば、霊感とは独断のことであると言わざるを得ません。

しかし私は「霊感」それ自体を否定するものではありません。New International Version of The Holy Bibleの、All Scripture is God-breathedというUテモテ3:16の訳に大いに興味をそそられます。しかしそのことが聖書を神学的に解釈する「説教者」の権威を高め、合理的な判断を抑圧する結果に導くとしたら、それは教会がもう一つの「国家」になった、支配の機関になったということであって、霊感とは無関係な事態です。

私見では、霊感とは神の場に生きることと同義であって、それはキリスト教の境域を越えた普遍的な事柄です。人間のコミュニケーションの根幹に「霊の働き」があるということは、いわば根本的作業仮説であって、一切の合理的判断に先行しています。しかしそれは合理的判断を極限まで行使することと矛盾するものではありません。

B 予型論 予型論(typology)とは「旧約聖書」にイエス・キリストの福音の予型を見るという、キリスト教の根本的な動機に関わっています。キリスト教の特質は旧約と新約との二重性にあります。それは「重ね合わせの認識論」と言うべきものですが、その二重性はイデオロギーの所産であって、特殊キリスト教的にのみ正当化される(すなわち普遍的妥当性を持たない)ドグマに過ぎません。そのドグマを実体化・差別化するところにキリスト教の根本的な問題があります。

C 適用論 聖書の解釈は現実への適用によって完成します。しかしそれは予型論によって規定されています。すなわちイデオロギー的先入観を現実に押しつけるという結果を招来します。キリスト者は常にキリスト教というフィルターを通して現実を見ることになります。その問題性はアメリカのキリスト教に典型的に現われています。

D 変容論 変容(metamorphosis)は人間の変革ということです。キリスト教の文脈では回心、聖化という言葉で言い表されてきました。それが現実に生起するということは、歴史的に否定できない事柄です。しかしそれは催眠、暗示にかかりやすいという人間の性向に起因することであって、キリスト教にだけ限定されたことではありません。

E 規範論 キリスト教(プロテスタント)では「福音と律法」という形で、自由にされたキリスト者への規範が導入されてきました。教会生活は個々の信徒によって内面化された規範によって成り立っています。しかしその規範は離婚、同性愛、政治(権力との関係)、あるいはカトリックでは司祭の独身制、女性教職、産児制限等々の問題で揺らいでいます。教会が定めた規範が即神への服従であるか否かが問われています。

F 正典論 最初の新約聖書は「異端者」マルキオンによって編纂されました。パウロ主義者マルキオンはパウロの十書簡と、パウロの影響を受けたルカの福音書だけを用いました。今日の「新約聖書」はマルキオンとの対抗関係の中から正統派によって編纂されてできたものであって、それに加えられなかった文書(外典)との違いは絶対的なものではありません。「新約聖書」という思想自体がフィクションであると言うべきでしょう。

G 予定論 歴史的現在は神によって予定されたものであるという思想はカルヴィニズムだけではなく、広くキリスト教のうちに見受けられます。神の摂理という考えがそこにあります。いわばそれはキリスト教の歴史哲学と言うべきものです。もし人間に普遍的使命と言うべきものが与えられているとすれば、その考えを一概に否定することはできません。しかし今日では普遍的宣教論(universal missiology)はキリスト教という文脈の中でだけ論じられるべきものではなくなりつつあります。キリスト教の世界伝道という思想が根本的に問い直されるべき時に来ています。


[ 伝統的な教会の七つの標識

教会はそれ自体が一つの巨大な仮構です。フィクションの上に組み立てられた想像上の構築物です。ローマ教皇がペテロ以来の使徒権の継承者であるという思想も、ペテロ以来、事実としてローマの司教職が連綿と継承されてきたかということになると、それ自体がはなはだ疑わしいものとされています。その点では天皇制は教皇制の模倣ではないかと思われるほどです。

しかしキリスト教会が歴史の上で大きな精神的および物質的な影響力を持ち続けてきたことも争えない事実です。その教会は、個々の教会として、どのような構造を持っているのかということを、一つの理念型として、やはりTH図で示してみたいと思います。

それは理念型あるいはモデルであって、そのまま現実の教会に当てはまるわけではありません。教会とは何であるかを考えるための指標(標識)に過ぎません。しかし、そこで示される教会観には、フィクションの上に成り立ったある種の合理性があると言うべきでしょう。教会が永く存続しえた理由はそこにあります。

A 宣教(説教) 礼拝の根幹をなすものは、特にプロテスタントでは、宣教〈説教〉であるとされています。それは聖書に基づいて、神の救いの業を告げ知らせる行為です。神が人になったこと、神が死に打ち勝ったことが、喜ばしきおとずれ(福音)として説教者の口を通して語られます。

B 信条(職制) 教会は使徒信条とそれを継承する世々の教会の信仰告白に基づいています。Faith and Orderと言われるように、信条は教会の職制(組織のオーダー)と密接に結びついています。カトリックであれば、教皇・司教・司祭・助祭・信徒という形で、教会組織のヒエラルキーが形づくられています。枢機卿、大司教などという肩書きの人もいます。プロテスタントにも、通例、牧師、伝道師(副牧師)、役員(長老・執事などとも言う)、信徒というオーダー(序列)があります。

C 典礼(聖餐) 典礼(liturgy)とは礼拝式のことです。定められた式文を用いる教会と、通例のプロテスタント教会のように、礼拝の順序が定められているだけで、式文を用いない教会とがあります。礼拝式の中心は伝統的には聖餐式であるとされてきました。カトリックではそれをミサと言います。しかし宗教改革以後、プロテスタントでは説教が重視され、聖餐式は礼拝毎には行なわれなくなりました。

D 聖化(告解) キリスト者の日々の生活は神の聖性に与って次第に聖化(sanctify)されていくべきものとされています。その生活、聖化の途上にある生活において、自分の罪を告白することは不可欠のことです。プロテスタントでは、カトリックのように、自分の罪を司祭に向かって告白するという、告解の習慣は次第に行なわれなくなって、礼拝の中で会衆(congregation)全員の罪の告白と司式者(牧師)による赦しの宣言がなされるようになりました。しかし多くの教会ではそれもなされなくなりました。

E 義認(堅信) 義認とは信仰によって罪人(つみびと)が罪人のままで義とされる(justifyされる)ということです。堅信とは、その信仰が確実なものとなる(confirmされる)という意味です。通例は、ある年齢に達した子どもたちが教会の教理を学び、会衆の前で信仰を告白し、一人前の教会員として認められることを言います(堅信礼)。

F 信仰(知解) 教会生活の基底をなしているものは、当然のことながら、信仰です。古来「知解を求める信仰」ということが言われ、「知るためにこそ信じる」という信仰の行為が一切に先立つものとされてきました。イエスに従うことが教会生活の始めであり、終わりであるということでしょう。この服従を教会では「信従」などと言います。

G 入信(洗礼) 伝統的な社会ではどこでもイニシエーション(入信・入会)の儀礼が見られます。キリスト教では、それは洗礼です。古い人に死んで新しい人に生まれ変わるということを、教会は洗礼という儀式で表現してきました。幼児洗礼が習慣的に行われるようになってからは、堅信礼がそれを補う役割を果たしてきました。キリスト教のサクラメント(秘跡、聖礼典)の中心にこの洗礼があります。

以上、七つの標識で示した教会観は今でも機能しています。しかし、同時に、機能しなくなりつつあります。それは現代世界が根底的なところで変化しつつあることの反映であるとも思われます。このような「型にはまった」信仰は、現代人の生活に何をもたらすことができるでしょうか。教会は今、自分の存立がかかった、根本的な問いに直面しています。教会とは何であったか、また何になりつつあるかということが、問い直され、問い返されるべき時に来ています。教会にも復古主義者がおり、改革主義者がいます。その揺れ動きの中で、教会は今、根本的な変化の時を迎えているように思われます。


\ わたしは弱いときにこそ強い

「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」(Uコリント12:9〜10)

パウロにとってキリストとは何であったかということは、それ自体が大問題で、非専門家が簡単に云々できるようなことではありません。だから、あくまでも「仮にそう考えてみたらどうだろうか」という、単なる思いつきの事柄として、パウロにとってキリストとは、イエスによって開示された〈共 the common〉の空間であるとしてみます。するとパウロは、わたしが弱い時にこそ、〈共〉の力が自分に宿ると言っていることになります。

今日、世界の指導者たちは、相変わらず強い者が益々強くなるところに、人間の望ましい生き方があると主張しているように、私にはみえます。力が正義であって、弱い者は捩じ伏せられて生きる以外に選択の余地はない。支配―被支配の関係のみが人間のあり方であって、そこで人の上に立ち、成功者になることだけが、人間に与えられた目標である。負け組みは黙って強い者が定めた規範に従って生きればよい。弱い者たちが不満を行動に現わすことは決して許されることではない。それは社会の治安を乱す行為である。

しかし強い者たちは、弱い者たちから収奪しなければ、その強さを保つことはできません。奴隷の主人は奴隷(奴隷の奴隷)であって、主人が主人であるために奴隷を必要とします。しかも主従の関係は権力(暴力)によって維持されなければ、主人が主人であることはできません。そのような支配―被支配の関係の中に、あるいは奴隷制が当たり前のように存在していた古代世界に、パウロ的なキリスト教が生まれてきたということは、教会という〈共〉の空間が開示されたということを意味するでしょう。

しかし近代世界で教会はいつしか信仰という「私事」に奉仕する「意味と慰めの孤島」と化してしまいました。教会で語られる言葉はいつしか「自己満足の体系」となってしまいました。〈共〉の空間は教会以外の世界に求められるようになりました。教会は、コモン・ランゲージ(共通言語)を語る場所ではなく、閉鎖的で秘教的(エソテリック)な「異言」を語る場所になってしまいました。NPONGOの元祖であるはずの教会が、今ではその後塵を拝しています。

だからキリスト教後のキリスト教は「徹底的に開かれた教会」を目指すものでなくてはならないでしょう。再び〈共〉の空間を開示するものとならなくてはならないでしょう。


] 貨幣とキリスト

柄谷行人が宗教について「一般的等価形態」として論じているのと同様のことを、渋谷要は『国家とマルチチュード』(既出、「組織における権力関係」など参照)において、「資本家的商品交換社会の神としての貨幣」(p.135)という項目で、マルクスの『ミル・ノート』を引用しつつ取り上げています。以下はそこに出て来るマルクスの言葉です。( )内は渋谷の言葉。

「ミルは貨幣を交換の媒介者と特徴づけているが、これは卓見で、事柄の本質を概念にまで高めている。貨幣の本質は、さしあたりそのうちに所有が外在化されていることにあるのではなく、人間の生産物がそれをつうじて相互に補完しあうところの媒介的な活動や運動、つまり人間的、社会的な行為が……貨幣の属性になっていることにある。……物と物との関係そのもの、物を操作する人間の作用が、人間の外に、しかも人間の上に存在するある実在の作用になっている」。(つまり、人間の商品交換がその媒介者としての貨幣を作ったにもかかわらず、人間の活動のほうが、貨幣という物の属性として思念されてしまっている。だからマルクスはいうのだ。)「この仲介者がいまや現実の神になることは明らかだ。なぜなら、この仲介者は、それがわたしに媒介してくれるものを左右する現実の力なのだから。これに対する崇拝が自己目的となる。この仲介者から切り離された諸対象は、その価値を喪失した」。(だから、マルクスは貨幣とキリストをアナロジーする。)「キリストは、もともと(1)神の前では人類を(2)人類に対しては神を(3)人間にとっては人類を代表している。同様に貨幣は……(1)私的所有に対して私的所有を(2)私的所有に対して社会を(3)社会に対して私的所有を代表している。だからキリストは外在化された神であり、外在化された人間である。神はもはや、キリストを代表するかぎりで価値をもつにすぎず、人間はもはや、キリストを代表するかぎりで価値をもつにすぎない。貨幣についてもこれと同様である」。(引用終わり)

交換価値として固定化した貨幣という商品の出現によって、人間の世界に「一般的等価形態」という抽象的な空間が生じてきました。しかしその出現が可能だったのは、人間が同時に言語という意思疎通の「交換手段」を持っていたからでもあります。だからマルクスが述べたことを言い直せば、言語・貨幣・商品という人間の世界の交換様式が成り立ってきたことと、神を代表し、人類を代表するキリストという「一般者」が生まれてきたこととは、相関関係があるということになります。言語ということでは、特にグレコ・ローマン世界において、ギリシャ語、ラテン語という「世界語」が生まれてきたことと、キリスト教という世界宗教が生まれてきたこととは密接に関わっていたと思われます。アラム語が使われていたと思われる「イエスの宗教」は、そのままでは決して「世界宗教」とはならなかったでしょう。

キリスト教は「帝国」が生み出した宗教です。コンスタンチヌスがキリスト教を公認する以前に、教会の情報伝達能力は既にローマ帝国の情報網を上回っていたと言われています。だから帝国内のコミュニケーションはキリスト教によって補完されるものとなりました。宗教は帝国内のコミュニケーションの統一手段として権力によって利用されるものとなりました。「国家神道」などはそのケチな日本版であるということになります。

キリスト教のコンスタンチヌス体制は終わったと言われるようになってから、既に久しいものがあります。キリストという「一般的等価形態」を対象化し、それを批判的に考察しようとする人間が生まれて来るのは、もはや避けられないことです。キリストの名によって権威主義的に人心を統一しようとする試みはこれからも続くでしょう。しかしその試みは今日の世界では「反動」を意味するほかはありません。


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