閑老人のつぶやき 本について10

     1 初期キリスト教の霊性 その1

     2 初期キリスト教の霊性 その2

     3 五大にみな響きあり

     4 現代キリスト教の霊性 その1

     5 現代キリスト教の霊性 その2

     6 キリスト教という神話 その1

     7 キリスト教という神話 その2

     8 キリスト教という神話 その3

     9 キリスト教という神話 その4

    10 キリスト教という神話 その5

T 初期キリスト教の霊性 その1

これまで私は「三つの秩序」、「ユングとキリスト教 その3」、「ルターの人間学」などで、霊性・知性・身体という人間の三つの秩序について取り上げてきました。ただし「三つの秩序」を論じたパスカルにおいては、霊性のところに愛(シャリテ、英語のチャリティ、ラブ)が置かれていました。そのような関心を持ったきっかけは、YMCAが「マインド・ボディ・アンド・スピリット」の調和のとれた発達を標榜する団体だったからです。人はたましい、こころ、からだから成るという思想は古い起源を持ち、それは人間の人間としての働きに基づいているということが、基本的事実として確認されるべきでしょう。人間はそれらの三つの実体から構成されていると考えられるべきではなく、人間の全体としての活動をどの側面から切り取ってくるのかに従って、たましい(祈り)、こころ(学び)、からだ(働き)ということが、その「基体」として思念されるようになったと見なすべきです。その問題をさらに展開するために、ここでは荒井献『初期キリスト教の霊性 宣教・女性・異端』(岩波書店、2009年)の「序」を紹介することにします。

初めこの本を手にしたとき、荒井献氏にしては珍しく「霊性」を論じていると思いましたが、「あとがき」には次のように書かれています。

《本書のタイトルや章立てなどは、この度も、岩波書店編集部・中川和夫氏の提案による。中川氏は拙稿の中から「初期キリスト教における霊性と批判的精神――ルカ文書を中心に」を序に据え、書名をこれに即して、『初期キリスト教の霊性――宣教・女性・異端』とし、本書を三部構成(T「宣教と救済」、U「女性と異端」、V「原始キリスト教史」)にすることを提案された。序の論考で提起した筆者のテーゼが、この三部構成の中に編集・配置された他の論稿八篇に通底していると同氏が判断されたからである。

筆者自身は、他の八篇の中で一度も「霊性」という言葉を使用しておらず、これらの諸篇を、「初期キリスト教の霊性」の視点から意識して執筆したわけでもない。しかし、校正刷りを章立てに沿って読んでいるうちに、中川氏の判断があたっているかもしれないと思うようになり、最終的には、本書のタイトルや章立てなどにつき、同氏の提案を容れることにした。》

《序にあたる論稿は、元来、山田愛さん(関東学院高校社会科教諭。その後結婚されて「小宮」と改姓)の修士論文『キリスト教学校と人権教育――批判的思考力とスピリチュアリティの育成をめぐって』に触発されて講演をした際の原稿に基づく。これが本書の「序」となったのであるから、愛さんにも感謝したい。(攻略)》

ここにあるように、本書の書名は編集者の編集意図から生まれたもので、著者が初めから考えていたわけではなかったことがわかります。そこで以下、荒井献氏の珍しい「霊性論」の紹介に取り掛かりたいと思います。また版権の問題に引っ掛かりそうですが、序文だけということでご海容願いたいものです(ご注意があれば全文削除します)。

序 初期キリスト教における霊性と批判的精神――ルカ文書を中心に――

はじめに――「霊性」あるいは「スピリチュアリティ」の定義をめぐって

「霊性」(spirituality, Spiritualität, spiritualité)については、一般的に承認された定義が未だ存在しない(*)。そのために、多くの場合「連辞」(「……の」)付きの「霊性」の特徴が挙げられている。例えば、「巡礼者の」「解放の」「戦闘の」「フェミニストの」等々。

* H.-M. Barth, Spiritualität, Göttingen, 1993, S. 10ff.: U. Köpf, Art., Spiritualität. T. Zum Begriff, in : Religion in Geschichte und Gegenwart (RGG), 4. Aufl., Bd.7. Tübingen, 2004, S. 1590; E. Fahlbusch, Art., Spiritualität, in: Evangelisches Kirchen Lexikon, Bd. 4/10, Tübingen, 1997, S. 402 参照。

△ 初めに私の「先入観」を記しておけば、霊(spirit)という言葉の由来はアニミズムにあると考えています。それはあとで出てくる息(呼吸)とも関わるものです。たとえば呼気のことをexpirationと言い、吸気のことはinspirationと言います。

もっとも、「霊性」は元来、「その深みにおいて、言葉にならない」ものであり、だからこそそれは、「沈黙を大切にする」。しかし、沈黙は霊性にとって「言葉の根源」であり、「いずれ時を得て、言葉となって(言の葉に乗って)表に出されてゆく、可能性に満ちた純粋潜在態」といわれる(*)。

* 西平直「立ち止まる――沈黙へ・沈黙から」、富坂キリスト教センター編『現代世界における霊性と倫理――宗教の根源にあるもの』行路社、二〇〇五年、十四―十五頁。

△ ここに記されていることは、「言霊」(ことだま)についての古来の日本人の考え方と一致するものがあります。

確かに「霊性」は「言葉」にならない。もともと「霊」(プネウマ、ギリシア語表記略、以下同様)は「風」あるいは「息」(プノエー)と同義なのだから。しかし、それゆえにこそ「霊性」は「表に出て」ゆき、それが影響を及ぼす作用に即して定義される必要があろう。前述の「連辞」付きで「霊性」の定義をせざるをえない現状も、「霊性」それ自体を「言葉化」できないという「霊性」の本質に対応するものであるかもしれない。

△ 「霊」が「言葉」となります。しかし逆に「言葉」に「霊」を感ずることもあります。聖書が人を魅了するのも、根本的にはそこに霊が働き出ていると感じられるからでしょう。保守的なキリスト教はそこだけに頼ってきたようなところがあり、聖書を歴史的批判的に研究することを抑圧してきました。その両立こそが、今日求められていることだと思われます。「霊」というのは何か特別なことではなく、誰にでもある「こころ」(先の言い方では「たましい」)の働きなのですが、ユダヤ=キリスト教的な神についての強烈な観念が、それを歪んだものにしてきたと言えます。

以上のような「霊性」の本質とそれの作用という二面性を十分踏まえた上で、「霊性」にかかわる定義を筆者の立場から選択的(▽)に瞥見し、最後に筆者自身の「定義」を暫定的に提示する。

△ 「選択的(eclectic)」であることは「現代の思考法」の特質です。一つの視点だけからものを見ることは、今や不可能な時代になってしまいました。

まず、『大辞林』で「霊性」は「宗教心のあり方。特にカトリック教会などで、敬虔や信仰などの内実、またその伝統をいう」と定義されているだけである(*)。

* 第二版、三省堂、一九九五年、二七二九頁〔第三版、二〇〇六年、二六九八頁でも定義は同じ。〕ちなみに、『広辞苑』第五版、岩波書店、一九九八年「霊性」の項目はない! 〔第六版、二〇〇八年、二九八二頁ではじめて「霊性」の項目が立てられており、次のように定義されている。――「宗教的な意識・精神性。物質を超えて精神的・霊的次元に関わろうとする性向。スピリチュアリティー」。〕

次に宗教学から、吉田敦彦が「諸宗教に通底する宗教性」と短く定義している(*)。

* 島薗進・西平直編『宗教心理の探究』東京大学出版会、二〇〇一年、三三九頁。

宗教哲学からの注目すべき定義は、E・グレープ‐シュミットによる、人間の「生命(いのち)を全体的に把握するための内的力(▽)」という定義であろう(*)。

* RGG, op. cit., 4. Aufl. Bd. 7, S. 1594(引用文献参照)→Gräb-Schmidt, E., Art., Spiritualität, III. Religionsphilosophisch, in: Religion in Geschichte und Gegenwart, Bd. 7, Tübingen, 2004 (4).

△ ここで「内的力」とされていることは、やはり大切なポイントだと思われます。霊性は、ある種の「力」(エネルギー)であると考えられるからです。

キリスト教教育の現場から、山田愛は、一九九八年にWHOから出された「健康」の定義改正の中に、従来の「完全な肉体的(physical)、精神的(mental)、社会的(social)福祉の状態」に加えて、「スピリチュアルな」福祉の状態が提起されたことをも踏まえた上で、「スピリチュアリティ」を次のように定義している(*1)。それは「ダイナミックであり、人を人として活かしめるもの。身体的・精神的・社会的という三つの領域の根底を支える次元(dimension)として(宗教の差異あるいは宗教の有無を問わず)確実に存在するもの」である。その上でなお、スピリチュアリティは「超越」「深み」という特性を持ち、それが人間を超えた「大いなる存在」によって明確になる。とすれば、「特定の信仰を持つ者にもそうでない者にも、宗教におけるスピリチュアリティの育成は十分に成立する、少なくともその可能性はある(*2)」。

*1 山田愛『キリスト教学校と人権教育――批判的思考力とスピリチュアリティの育成をめぐって』東洋英和女学院大学院、二〇〇三年度修士論文、六八頁〔その後山田がこの修士論文を基にして公にした論稿「『批判的思考力』と『スピリチュアリティ』育成の意義――キリスト教学校と人権教育の文脈から」『基督教論集』五一号、二〇〇八年所収では、五六頁〕。

*2 山田、前掲論文、七〇頁〔同右論稿では、五八頁〕。

△ YMCAではかつて、スピリット、マインド、ボディの調和のとれた発達という例の「赤三角」の思想に、社交性(sociability)の育成を加えて、YMCAで実践されるすべてのプログラムはこの四側面(four-fold)からの考慮が払われなくてはならないとされました。戦前の東京YMCA(少年部)主事、鈴木栄吉は「four-fold program」を「全人教育」と訳しました。そこにはWHOの定義に近い考えが見られると言うべきでしょう。

このように山田にとってスピリチュアリティは「人を人として(根底的に)活かしめるもの」であるから、「批判的思考力の育成」を伴うことになる(*)。

* 山田、前掲論文、七〇頁〔同右論稿では、五八頁〕。

さて、労働司祭の現場から本田哲郎は、「霊」性に関連して次のような発言をしている。「人間に備わる霊のもっとも大事な作用は、神の霊の働き掛けに〈共振する〉ことです。それは、神との人格的交わりを意味し、人が神と共に働くことを可能にする潜在的な力を意味しています。ある意味で、人間に備わった霊は、神の霊の受け皿であると言ってよいかも知れません。実に、神の霊が私の霊と共に居てくださり、私の霊が神の霊と共振するとき初めて、私は真に生きるものとなるのです(詩五一12-13、イザ三八16、ロマ八15-16、ガラ四6-7)(*)」。

* 本田哲郎「神の霊と共に働く宣教」『小さくされた者の側に立つ神』新世社、一九九〇年、八七頁。

△ 哲学者中村雄二郎は、空海の「五大にみな響きあり」という言葉に基づいて、宇宙には「響き」が遍満しているとし、「響きと共振」に人間の根本的なあり方を見出しています。また哲学者鈴木亨の「響存」という考えを参照しています(『問題群―哲学の贈りもの―』岩波新書、1988年)。人間の霊は「潜在的な力」であり、神の霊は視覚的に「光」であるとされるとともに、聴覚的に「響き」にも譬えられます。響きはリズムでもあります。神と「共振する」とはこの宇宙的な響きに自ら共振し、その根源的なリズムに自分のリズムを合わせることでもあるでしょう。なお参照されている聖書の個所は下記の通りです。

詩篇51:12-13 『12あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。13そうすればわたしは、とがを犯した者にあなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう』(△ 10-12節は教会の「奉献」の祈りの一つ)。

イザヤ38:16 『16主よ、これらの事によって人は生きる。わが霊の命もすべてこれらの事による。どうかわたしをいやし、わたしを生かしてください』。

ローマ8:15-16 『15あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」(▽)と呼ぶのである。16御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる』。

△ アバはアラム語で、「わが父(お父さん)」を意味します。

ガラテヤ4:6-7 『6このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。7したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である』。

次に、キリスト教倫理の立場から、霊性をボンヘッファーとのかかわりで論じている大庭昭博と森野善右衛門の所説を紹介しておく。

大庭によれば、ボンヘッファーの「霊性」は、キリストへの信従において「苦難に対する感受性」と共に(現実社会に)「目覚める」ことにおいて露わにされる(*)。

* 大庭昭博『社会倫理と霊性』新教出版社、一九九八年、一〇一〜一〇二頁参照。

△ 霊性は「陶酔」ではなく、「目覚め」である、霊的であることは現実を直視することと不可分であるという認識は、受苦的存在である人間についての感受性を伴います。

森野は、霊性を「究極的なもの、超越的なもの、秘義的なものに心を向けること、そのような態度、生き方」と定義した上で、ボンヘッファーの「獄中書簡」の一節(「われわれがキリスト者であるということは、今日ではただ二つのことにおいてのみ成り立つであろう。それは、祈ることと、人びとの間で正義を行うことである」)を引用した上で、これに以下のようなコメントをしている(*)。

* 森野善右衛門「ボンヘッファーと霊性」、前掲『現代世界に霊性と倫理』一二九頁。

この一節は、ボンヘッファーにおける「霊性」とは何であるかを理解するための究極のキーワードであるとも言えるでしょう。「祈ること」、それは神との垂直の関係をあらわす行為です。「正義を行うこと」、それは人びとの間での水平の関係においてなされることです。この両者は分離できない。この両者は、二つの別のこととして区別されつつ、しかし切り離すことのできない一つのこととして考えるべきことである、と言っているのです。

ボンヘッファーの「霊性」においてキリストへの「祈り」による「信従」と現実社会に「目覚め」て「正義を行う」ことという二つの側面が一体となっている。この点で両氏の所説は一致しているだろう。

△ 祈ることの「基体」として「霊」が想定されているなら、その「霊」は自己を神へと開く行為の当体であり、現実に存在している人間のことを指すでしょう。霊は祈るという人間の行為そのものであると言ってもよいでしょう。祈り(という行為)がなければ霊もありません。そして祈りにおいて「正された」人間にとって、自己が置かれている社会の歪んだ現実は放置されるべきものではありません。ボンヘッファーは、キリスト者として、そのようにぎりぎりまで自己のあり方を問い詰めた人であったのだと思われます。

実際、プロセス神学者J・B・コッブは、「霊性」を「イエス・キリストにあって知られる神の霊に応答する生命の形成」と定義している(*1)。また、「解放の神学者」にとって「瞑想と戦闘は表裏一体」なのである(*)。

*1 Cf. Barth, op. cit., S. 12.

*2 Cf. Barth, op. cit., S. 70.

△ 霊性は伝統の中に置かれています。キリスト者にとっての霊性は、(聖書の)イエス・キリストにあって知られる神の霊に応答する「生命」であり、またその「形成」であるとされるのは、ある意味で当然です。今は使われなくなりましたが、明治の時代には「霊性の陶冶」という言葉がありました。古臭い言い回しですが、霊性は陶冶され、訓練されるべきものである、という理解は間違ってはいないでしょう。

以上述べた「霊性」についての諸定義を参考にした上で、筆者自身はこれを暫定的に次のように定義しておく。

「霊性」とは、イエス・キリストを介して働きかける神の霊に応答し、人間の身体的・精神的・社会的領域をダイナミックに根底的に支える次元(スピリチュアリティ)に即して形成される生のあり方。宗教はこの次元の育成を阻んではならず、それを阻むものに対してはむしろ批判的に対峙する精神を養うべきである。この次元は垂直的には神礼拝、特に祈祷と瞑想によって強化されるが、それは同時に、水平的には人間の人間らしい生のあり方を阻む社会的不正・差別に対する批判を先鋭化する。

△ 中村雄二郎氏の「逆光の存在論」(いま宗教を問う参照)において見たように、「深層の現実と表層の現実との反転」という事態を考えるとき、「垂直の次元」と「水平の次元」は不可分の関係にあるがゆえに、宗教は宗教として別個の社会的空間(特定の宗派)を形成し、そこに世俗的とも言うべき権力関係が入り込んでくることに対して、宗教は絶えず自己のあり方に批判的である必要のあることを銘記すべきです。自分は正しくて(自己義認!)、外の社会に対して批判的であればよいという問題ではありません。

最近のキリスト教ジャーナリズムに流行の「霊性」覚醒キャンペーンにおいて「霊的体験」や「瞑想と祈り」という側面のみを強調するのは、一面的で危険を伴う(*)。

* 例えば、『キリスト新聞』二〇〇五年一月一日号に「新年対談」として掲載されている、「『学ぶ』教会から『祈る』教会へ」と題するグドルン・シェアー牧師と吉田新氏との対談は余りにも一面的である。ただし、この記事に対する筆者の批判に対して、対談者の一人、吉田新氏から次のような手紙(二〇〇五年一月二〇日付け)をいただいた。

「先生のご指摘がありましたように、対談では『沈黙の祈り』や『黙想』の重要性を強調するのみに偏り、社会的実践に言及する余裕がございませんでした。実際の対談では、その話題も上がったのですが、紙面の都合上削除されてしまったと思います。先生をはじめ、多くの読者の方々に誤解を与えてしまったことを深く反省しております。

実際、対談上で取り上げました『コイノニア共同体』では、日々の瞑想と同時に、社会的奉仕活動に力を注いでおります。共同体のメンバーには聖職者だけではなく、医者や心理カウンセラーなども多くいます。また南アフリカでHIV患者のために働くメンバーもおり、共同体は彼女らを精神的に援助しております。

祈りと社会参加は、コインの裏表のように同一のものだと思います。深い内的世界を通り越した先には、必ず他者に対して目が開かれます。カトリックの修道士、修道女たちが、人並みはずれた奉仕の業を行えるのは、何より日々の黙想がその原動力であるはずです。イエスご自身も同様だったと思います。

この両極を強調しなければ、黙想も趣味的な領域に留まり、自己満足に終わってしまいます。また奉仕活動も継続的な業を成すことをできないでしょう。これからのキリスト教会がこの二極を大切にしていけるよう願わずにはおれません」。

△ 吉田氏は、祈りと社会参加(奉仕)という伝統的な文脈を離れずに、荒井氏に答えています。その意味で荒井氏の「社会的不正・差別に対する批判」ということには、十分に答え切れていないように思われます。しかし「この両極を強調しなければ、黙想も趣味的な領域に留まり、自己満足に終わってしまいます」という吉田氏の指摘は、大切なことを述べています。たしかにそこに、今日もなお、宗教者の課題があるからです。

私見によれば、イエス(およびその立場を比較的正当に継承したと思われるマルコ)の「霊性」にあって、「祈り」(例えばマコ一四32-42)と「批判的精神」(例えばマコ一一15-19)とは「表裏一体」であった(*)。

* イエスについては拙著『イエスとその時代』岩波書店、一九七四年〔第二八刷=二〇〇八年〕、特にX「権力」とY「祈り」の章参照(『荒井献著作集』第一巻、岩波書店、二〇〇一年所収)。マルコについてはボンヘッファーとの比較において大庭昭博、前掲書、第一章「信従――ボンヘッファーとマルコ福音書」(七―四二頁)参照。

△ 上に参照されているマルコ福音書の記事は以下の通りです。

マルコ一四32-42 『さて、一同はゲッセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。それから、きてごらんになると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱いが、肉体が弱いのである」。また離れて行って同じ言葉で祈られた。またきてごらんになると、彼らはまだ眠っていた。その目が重くなっていたのである。そして、彼らはどうお答えしてよいか、わからなかった。三度目にきて言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう。時がきた。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」」。

マルコ一一15-19 『それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえられるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである。(改行)夕方になると、イエスと弟子たちとは、いつものように都の外に出て行った』。

△ イエスの祈りとして「ゲッセマネの祈り」が、またその批判的精神を例示するものとして「宮潔め」の行為が引証されています。苦悩における「祈り」と、行動を伴う「宗教批判」とに、著者はイエスの姿を見出しているのでしょう。

それでは、後世のキリスト教に新約聖書文書の中でも最も強い影響を与えたと想定されているルカ文書の中で「霊性」は、その一側面であるはずの「批判的精神」とどのような関係を保っているのであろうか。新約諸文書の中でもとりわけルカ文書が、「(聖)霊」や「祈り」を強調しているだけに、この問いは不可欠であろう。

△ ここから本題に入ります。

1 ルカ文書における霊性の特徴

「(聖)霊」「祈り」と権力関係

まず注目すべきは、四福音書の中で「(聖)霊」の使用頻度がルカ福音書で最も多いという事実であろう(*)。その若干の例を挙げれば、次のごとくである。

* マルコ=一四回、マタイ=一九回、ルカ=三五回(使=五八回)、ヨハネ=二四回。

マリアとの関連で、「受胎告知」に際し、「聖霊があなたの上に到り来て(*)」(ルカ一35)。

* 以下、聖書箇所の引用は原則として新約聖書翻訳委員会訳『新約聖書』(岩波書店、二〇〇四年の第三刷=二〇〇六年〔第五刷=二〇〇八年〕による〔以下、岩波版『新約聖書』と略記〕。なお、訳文、人名、地名、用語表記などで、その定着度により聖書(新共同訳)を採る場合もある。

△ このホームページ上で私が聖書を引用する場合、殆んど「口語訳」を利用していますが、他意はありません。正確さでの点では岩波版によるべきでしょう。

イエスとの関連で、「聖霊に満ちてヨルダン河から戻った。すると、〔その〕霊によって荒野を連れ〔回され〕……」(ルカ四1diff. マタ四1。diff. は、挙げられている章句の文言が、それに対応する並行句と異なっているの意)。「主の霊が望む」(ルカ四18/イザ六一1)。イエスは「聖霊に(おい)て喜び、また(知恵の言葉を)言った」(ルカ一〇21 diff. マタ一一25)。

「祈り」についても、これ(▽)をもってルカには、マルコやマタイの記事を補う傾向がある。イエス受洗の場面で「祈っていると」(ルカ三21 diff. マコ一9)。「主の祈り」に関する導入場面でイエスは「祈っていた」(ルカ一一1 diff. マタ六9)。同じ場面の終結部分でイエスは言う、「天の父は……求める者たちに聖霊を下さる」(ルカ一一13 diff. マタ七11)。「らい病人の癒し」の最後の場面で、イエスは「祈っていた」(ルカ五16 diff. マコ一45)。「十二人の選び」の冒頭場面でイエスは「祈るために出て山へ行く」(ルカ六12 diff. マコ三13)。「変貌するイエス」の導入場面で、イエスは「祈るために山にのぼった」(ルカ九28 diff. マコ九2)。

△ ルカには「聖霊」を「祈り」の語と結びつける傾向がある、ということが例示されています。ルカ3:21のイエス受洗の場面で「祈っておられると」は、3:22の「聖霊がはとのような」という語句につながっています。

使徒たちもまた「聖霊に満たされ」(使二4)、ステファノ、フィリッポス、ペトロとパウロ共に、「霊」によって導かれ、「祈り」に支えられて宣教している。

他方、イエスによる権力者(富者、最高法院総体)批判は、ルカ文書で際立っている。それを先取りするかのごとく「マリアの賛歌」(ルカ一46-53)において(*)。富者に対する「禍いの詞(ことば)」(六24-26)、「愚かな金持ちの譬」(一二16-21)、「ラザロと金持ちの譬」(一六19-31)、「徴税人とファリサイ人の譬」(一八9-13)など。最高法院総体に対する批判的記事については、イエス逮捕の場面のうちルカ福音書二二章52節(diff. マコ一四48)参照。

△ 聖霊の語の多用と「権力者批判」に、ルカ文書(ルカ福音書と使徒言行録)の特徴が見られるということが、先ず確認されています。ただし、その「権力者批判」の中身は、この論稿の後半で論じられることになります。

神の霊と人の霊との関係

筆者は先に、「神の霊」とそれに即応して人間の身体的・精神的・社会的関係をダイナミックに根底的に支える次元としての「スピリチュアリティ」とを区別し、霊性とはこの次元に即して形成される生のあり方とみた。この次元が、先に引用した本田神父の文章によれば、「神の霊の受け皿」として「人間に備わった霊」、つまり「人の霊」ということになる。そして、この「人の霊」が「神の霊」に「共振する」ときにはじめて、人間は「真に生きるもの」になる、と言われる(*)。

* 本田哲郎前掲書参照。〔「神の霊と人の霊の関係」については、ゲルト・タイセン『原始キリスト教の心理学――初期キリスト教徒の体験と行動』大貫隆訳、新教出版社、二〇〇八年、一三一頁以下、一六三頁以下をも参照。〕

ただし、聖書においては「人の霊」は「息吹」(プノエー)、「魂」(プシュケー)、「心」(カルディア)、「身体」(ソーマ)と共に、神の被造であることが前提されている。その上で、例えばイザヤは神に向かって、「私の霊(プノエー)を起こして下さい。励まして生かして下さい。……私の魂(プシュケー)を憐れんで下さい」(イザ三八16-17LXX)と祈願し、詩人は「潔い心(カルディア)を私に創って下さい。神よ、真直ぐな霊(プネウマ)をわが内に新たにして下さい。……私を導く霊(プネウマ エゲモニコン)によって支えて下さい」(詩五〇 LXX〔五一〕12-14)と祈願している。

△ LXXは「セプトゥアギンタ」(七十人訳聖書)のことで、紀元前3世紀頃、ヘブライ語聖書(旧約聖書)をギリシア語に訳したユダヤ人学者の概数(約70人)を表わしています。

他方パウロによれば、人(アダム)は神の「息吹」(プノエー)によって生ける「命」(プシュケー)となったのに対し(創二7 LXX)、キリストが人を生かす「霊」(プネウマ)となった(Tコリ一五45)。もっともパウロは、このキリストの霊が「私たちの霊と共に(私たちが神の子らであることを)証ししてくれる」(ロマ八16)、あるいは、「神は、自らの子(キリスト)の霊、『アバ、父よ』と叫ぶ〔霊〕を、私たちの心(カルディア)の中へ送って下さった」(ガラ四6)とも述べている。そしてパウロは、「私たちの主イエス・キリストの来臨において、あなたがたの霊(プネウマ)が全きものとして、そして心(プシュケー)とからだ(ソーマ)とが、責められるところのない仕方で、守られるように」と祈願している(Tテサ五23)。

要するにパウロによれば、一方においてその「キリスト論的集中」により、「人の霊」は神によって送られた「キリストの霊」であるが、他方において古代の人間観に即し、それを「心」「からだ」と共に人間を構成している第一の要素であることを前提している(Tコリ二10-11をも参照)。これらの霊がいわば「共振」して、人が神の子らであることを証ししている。

△ パウロにとっても人は霊(たましい)と心と身体(からだ)から構成されています。ただしここでは「魂」は「命」と同様に、プシュケーの訳に当てられています。なおここに出てくる「キリスト論的集中」とは、ボンヘッファーやカール・バルトなどに出てくる神学用語で、すべての神学的問題はキリスト論に集約されることを意味します。いわば、それは「プロテスタント原理」と言うべきものです。

ところで、人の「命」「魂」(プシュケー)の意味で「霊」(プネウマ)を用いるのは、ルカ文書の特徴である。マリアはその賛歌で、自分の「魂」を「霊」と言い換えることができるし(ルカ一47)、少女の蘇生を「霊が戻って来た」(ルカ八55 diff. マコ五42)と、イエスの死を神の「霊に委ねる」(ルカ二三46 diff. マコ一五34)と、それぞれ表現することもできる。しかしルカ文書には、神に対し人の霊の活性化を祈願する箇所も、神が人の心の中に「アバ、父よ」と叫ぶ霊を送って下さったことを示唆する箇所も見出されない。ルカにとって、キリストを介して神を信ずる人間は神(キリスト)の霊に導かれる「神の器」であって、人間が神(キリスト)に霊の救いを求める積極性は希薄なのである。このことが原因の一つとなって、ルカ福音書では一方においてイエスの霊性の中で祈りと権力批判が他の福音書よりも際立っているのに対し、他方において――以下に示されるように――批判的精神が後退している可能性があろう。

△ 「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7:7)ということがイエスの宣教の核心にあったものだとすれば、ルカの記述に「霊の救いを求める積極性」が希薄であるという指摘は、それだけで、肝腎なものが欠けていると言われなくてはならないことでしょう。批判は批判のためになされるのではなく、多くの障害に囲まれた人間が、それでもなお生き抜いて行こうとするときの不可欠の認識手段です。しかしルカには歴史の俯瞰的記述はあっても、救い(解放)を求める民衆の視点が欠落していたのでしょう。


U 初期キリスト教の霊性 その2

2 批判的精神の後退

人権感覚の後退

「長血の女の癒し」物語の場合、ルカ本分(八43-48)とマルコ本文(五25-34)を比較してみると、前者では、後者に見出される医者批判が弱まり(*1)(ルカ八43. diff. マコ五26)、「救われたい」という女性の思いに基づく積極性が後退し(ルカ八44 diff. マコ五27-28)、後者に保たれている女とイエスとの「感覚の相互性」が崩れ(ルカ八46 diff. マコ五29-30)、人権回復を示唆するイエスの言葉、すなわち女の肉体的・精神的・社会的「苦しみ」(マスティクス)からの解放(マコ五2934)が欠落している(*2)。

*1 新共同訳は、ルカ八章43節のうち、岩波版では後世の加筆として〔 〕の中に入れられている文章(医者批判!)を正規の本文に扱っている。

*2 以上詳しくは、拙論「イエスと現代――『強さ』志向の時代に抗して」『「強さ」の時代に抗して』岩波書店、二〇〇五年、四一〜六一頁、特に六〇〜六一頁参照。

△ 言及されている両福音書の本文は下記の通りです(口語訳、以下同様)。

ルカ八43-48 43ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。44この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。45イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。46しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。47女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。48そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

マルコ五25-34 25さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。26多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費やしてしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。27この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。28それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。29すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。30イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。31そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。32しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。33その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。34イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。

△ ルカ八章43節の「新共同訳」は、「ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた」となっていて、口語訳と変わりません。「後世の加筆」か否かの判断は、テキストの筆写された年代が異なる写本の照合によるもので、口語訳も「医者批判」(医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった)を正規の本文としています。なおこの物語で、「力が出て行った」(ルカ46節、マルコ30節)とありますが、それが「事実」であるとすれば、「気」の働きとする以外には考えられないことです。「霊性」ということを何か得体の知れないものと見なす必要はなく、それは人を根底から生かす力のことを意味しているのだと思います。イエスには病を癒す「カリスマ」があったのでしょう。しかしその力は特別の能力であっても、決してイエスにだけあるものではありません。女の、必死な求めが、イエスのその能力を引き出したのでしょう。

納税義務の是認

「納税問答」物語の場合、マルコ本文(一二13-17)ではローマ皇帝に対する納税義務の是非を問うファリサイ派とヘロデ党の者たちに対するイエスの応答(「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」)は、彼らの質問に対するイエスのまともな返答ではなく、むしろイエスは彼らの問いに前提されている論理水準(ファリサイ派はユダヤの神支配体制を、ヘロデ党はローマ皇帝の支配体制を、それぞれ本質的に容認)で答えることを拒否し、むしろ彼らの問いを彼ら自身の主体性に問うかたちで投げ返している。

△ イエスが立っていた地平(論理水準)においては、神殿に納められる税でも、皇帝に徴収される税でもない、人があるということそのことに属する「奉献」(献金ではなく献身、すなわち人に仕えること)が問題だったのだと思われます。税(金)の帰属は問うところではありません。しかし人々の思考水準は「もの」に縛られていて、二者択一を迫ります。戦中の話を持ち出せば、「天皇陛下とキリストのどちらが偉いと思うか」という詰問なども同種の問題でしょう。そう問われて、ある教会指導者は、「そのように畏れ多い質問には、お答え致しかねます」と答えたという逸話があります。それは問いをはぐらかす論法です。イエスの答えも一種のはぐらかしだったのでしょうか。著者は、問う者自身の「主体性に問うかたちで」問いを投げ返していると受け止めています。

そしてこのことは、イエスの言葉に対する「人々」の反応(「彼(イエス)に大変驚くのであった」)によって裏書される。すなわち、この非常に「驚いた」人々は、マルコ福音書の場合、ファリサイ派やヘロデ党の者たちではなく、イエスの周りにいた「群衆」(一二1237)なのである。

他方、マルコ福音書一二章17節に対するマタイの並行記事(二二15-22)、特にルカの並行記事(二〇20-26)における、イエスの言葉への聴衆の反応を記述する文章では、主語の「彼ら」は明らかにイエスに対する質問者を受けている。――「彼らは、民の面前で彼の言葉尻をおさえることができず、〔かえって〕彼の答に驚き、黙してしまった」(ルカ二〇26)。このことはとりもなおさず、特にルカにおいては、マルコとの場合と異なり、皇帝への納税可否を問う質問に対して、イエスは直接返答していることを示すであろう。

△ 「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」という答えが、問う者への直接の解答を意味するとしたら、イエスはその者たちと同一の論理水準で考えていたことを意味し、そしてその巧みな答えが問う者たちを驚かせたということになります。つまり「二者択一」の問いに「両論併記」の答えで答えたということになります。

マルコ福音書一二章17節(マタ二二21、ルカ二〇25)の影響史において、このイエスの言葉は多くの場合、特に正統的教会では伝統的に、政治領域と宗教領域を区別し、両方の領域に課される義務――皇帝に対しては納税の義務、神に対しては礼拝の義務――を同時に果たすべきであるという解釈を促してきた。このような解釈を影響史の中で最初に、しかも明確に読み取れるのは、紀元後二世紀に入ってから、ユスティノス(『第一弁明』一七・二〜三)においてである。

しかし、問題のイエスの言葉にこのような解釈への影響を拓いたのはマルコ福音書一二章17節ではなく、特にルカ福音書二〇章25節とその文脈であろう(*)。

* 拙論「『皇帝のもの』『神のもの』そして『私のもの』――マルコ福音書一二章17節とトマス福音書・語録一〇〇」『聖書のなかの差別と共生』岩波書店、一九九九年、二七五〜二八八頁、特に二八〇〜二八二頁参照。

△ 宗教と政治の領域は通例それぞれ実体化され、明確に区切られていて、神の国と地の国、あるいは聖と俗という形で考えられてきました。ルターの「二王国論」はその典型でしょう。大概、それは政治に対する保守的な態度を結果しました。そのような解釈に道を拓いたのはルカであると指摘されています。以下に、引証されている福音書の記事をそれぞれ掲げます。

マルコ一二13-17 13さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした。14彼らはきてイエスに言った、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらないで、真理に基いて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。15イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せなさい」。16彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。17するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。

△ この最後に出てくる「彼らはイエスに驚嘆した」の「彼ら」は、著者によれば、周りにいた群衆のことであって、質問者のパリサイ人(ファリサイ派)やヘロデ党の者たちではないということになります。

マタイ二二15-22 15そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。16そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。17それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。18イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。19税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。20そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。21彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。22彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

ルカ二〇20-26 20そこで、彼らは機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕えさせようとした。21彼らは尋ねて言った、「先生、わたしたちは、あなたの語り教えられることが正しく、また、あなたは分け隔てをなさらず、真理に基いて神の道を教えておられることを、承知しています。ところで、カイザルに貢を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。23イエスは彼らの悪巧みを見破って言われた、24「デナリを見せなさい。それにあるあるのは、だれの肖像、だれの記号なのか」。「カイザルのです」と、彼らが答えた。25するとイエスは彼らに言われた、「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。26そこで彼らは、民衆の前でイエスの言葉じりを捕えることができず、その答に驚嘆して、黙ってしまった。

△ このように、聖書(共観福音書)の日本語訳をならべ、比較しても限界があります。新約聖書は、ギリシア語で読み、かつ個々の写本の異同を確認してこそ、聖書を研究したということになります。研究者はネストレ版を使用しています(田川建三『書物としての新約聖書』勁草書房、1997年、400ページ以下参照)。だから素人は自ら語学を習得しない限り、専門家の仕事に依存せざるを得ないという構造があります。

国家権力批判の鈍化

「仕えられる者に」ではなく、「人の子」に「仕える者」になることを勧める、マルコ福音書におけるイエスの言葉(一〇42-45)では、「異邦人たちの支配者」「大いなる者」「筆頭の者」にはローマ皇帝が示唆されている可能性があり(*)、ここでは国家権力が批判の対象にされているとみてよいであろう。しかし、ルカ福音書の並行記事(二二25-27)では、マルコ本文の「支配者」「大いなる者」が、それぞれ「恩恵者」「指導する者」に書き替えられ、マルコ福音書にみられるイエスの国家権力批判が鈍化している。

* 岩波版『新約聖書』四五頁、注三、四、六参照。前掲拙著『イエスとその時代』一七三〜一七五頁をも参照。

△ 以下、両福音書の口語訳です。

マルコ一〇42-45 42そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。43しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、44あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。45人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

ルカ二二25-27 25そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。26しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。27食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。

△ 著者が『「人の子」に「仕える者」になることを勧める』と書いているのは、どういう意味でしょうか。マルコ(の翻訳)を読む限り、「人の子」(イエスの自称と思われる)がきたのは「仕えるため」であると読めます。なお「筆頭の者」は(マルコの)口語訳では「かしら」と訳されています。

国家権力総体の罪責免除

マルコ福音書ではローマ総督ポンティウス・ピラトゥスが、ユダヤの民衆の要求に屈してイエスを十字架刑につけるために「引き渡した」(一五6-15)。これに対してルカ福音書では、ピラトゥスが結果的にはマルコ福音書と同様に、ユダヤ民衆の要求に屈してイエスを引き渡した(二三18-25)が、その前に彼は、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスと共に、イエスが「死に価するようなことは何もしておらぬ」ことを認め、これを民衆に訴えている(二三15)。これに対応するかのごとくに、使徒行伝によれば、総督フェストゥスがユダヤ王ヘロデ・アグリッパと共に、パウロは「死罪や監禁に当たることは[]一つしていない」と言っている(使二六31)。

△ 以下、両福音書の口語訳です(ルカは二三13から引用します)。

マルコ一五6-15 6さて、祭のたびごとに、ピラトは人々が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやることにしていた。7ここに、暴動を起し人殺しをしてつながれていた暴徒の中に、バラバという者がいた。8群衆が押しかけてきて、いつものとおりにしてほしいと要求しはじめたので、9ピラトは彼らにむかって、「おまえたちはユダヤ人の王をゆるしてもらいたいのか」と言った。10それは、祭司長たちがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにわかっていたからである。11しかし祭司長たちは、バラバの方をゆるしてもらうように、群衆を煽動した。12そこでピラトはまた彼らに言った、「それでは、おまえたちがユダヤ人の王と呼んでいるあの人は、どうしたらよいか」。彼らは、また叫んだ、「十字架につけよ」。14ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると、彼らは一そう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。15それで、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。

ルカ二三13-25 13ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言った、14「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。15ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当るようなことはしていないのである。16だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう」。〔17祭ごとにピラトがひとりの囚人をゆるしてやることになっていた。〕18ところが、彼らはいっせいに叫んで言った、「その人を殺せ。バラバをゆるしてくれ」。19このバラバは、都で起った暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていた者である。20ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度かれらに呼びかけた。21しかし彼らは、わめきたてて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけた。22ピラトは三度目に彼らにむかって言った、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか、彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。23ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そしてその声が勝った。24ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定した。25そして、暴動と殺人とのかどで獄に投ぜられた者の方を、彼らの要求に応じてゆるしてやり、イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせた。

このようなイエス/パウロの「対応」関係は、これを裏づける外証がない以上、ルカの構成であって、こうしてルカは、イエスのみならずパウロの処刑に当時の国家権力総体の責任がないことを読者に訴えようとしている、とみなさざるをえないであろう。

△ ローマの支配下にあるキリスト者知識人が、権力と真向から対立することを回避して、権力批判になりかねない史料を書き換え、史実を和らげようとしたということは、大いにありうることです。歴史はそのように常に歪曲される傾向があります。

富者批判の鈍化

前述したように、ルカ福音書においてイエスは、他の福音書におけるよりも、最も激しく富者を批判している。それだけにルカ福音書においてイエスは、イエスへの信従を志す者に対して所有の放棄を命じている(例えばルカ五11 diff. マコ一20)。ところが使徒行伝になると、信徒たちに全所有の放棄は勧められておらず、むしろ所有に対する執着心の放棄に基づく財産の共有が理想的に描かれており(使二44-45、四32)、これに執着する信徒は死をもって罰せられている(五5)。富者に対する施しの勧めはすでにルカ福音書にも見出される(ルカ一一41 diff. マタ二三26、ルカ一二33 diff. マタ六20)が、使徒行伝になると、これが信徒の徳目として前景に出される(*)(タビタについて使九36、コルネリウスについて一〇2、パウロについて二四17)。

△ 所有の放棄(福音書)から施しの勧め(使徒行伝=使徒言行録)への強調点の移動、あるいは変化ということは、人間の性(さが)として十分に理解できることです。それに応じて富者批判は鈍化することになります。上記の聖書の照合は福音書に留めます。

ルカ五11 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。

マコ一20 そこで、すぐ彼らをお招きになると、父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った。

ルカ一二33 自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。

マタイ六20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。

△ マタイと比べ、その前後関係から判断すると、ルカ一二33の「自分の持ち物を売って、施しなさい」という句は、ルカ自身による挿入の可能性があります。なお「ルカ一一41 diff. マタ二三26」に関しては、施しの語は見当たらず、両方とも「内側をきよめる」話なので、何かの間違いではないかと思われます。

3 「批判的精神」の後退

人権感覚について

「長血の女の癒し」物語のルカ版では、奇蹟行為者イエスの偉大さとそれに対する女性の「信仰」が強調されたために、彼女の「苦しみ」への共感が鈍化し、「苦しみ」から救われたいという彼女の思いが後景に退けられた、と想定される。この「思い」に基づく彼女の積極性が、「霊性」に関する筆写の定義における「スピリチュアリティ」にあたるであろう。

△ 見方を変えて、祈りはなぜ「祈願」でもあるのかということを考えてみれば、著者の言う「積極性」も理解できるのではないかと思います。霊性と「切なる願い」とは無関係ではありません。人の切実な願いから離れて「信仰」が一人歩きすれば、それは結果的に人権感覚(苦しみへの共感)を鈍化させることになるという指摘は重要です。

国家権力批判について

「納税義務」「国家権力」に関するルカの「批判的精神」後退には、彼の「階級的制約」が原因となったであろうか。私見によれば、ルカは「神を畏れる人」(ユダヤ教シンパの異邦人)出身の知識人キリスト信徒で、ルカ文書の読者も主として「神を畏れる人」出身の信徒たちであった(*1)。しかも彼は、「生まれながらのローマ市民権保持者」に「畏れ」を抱いていた(*2)(使一六38、二二29参照)。このようなルカの社会的位置が制約となって、霊性における信仰と社会批判の一致から、信仰と政治の二元論への道を拓いたものと想定される。

*1 拙論「ステファノの弁明――その使信と伝達」、前掲『聖書のなかの差別と共生』二五四〜二七四頁参照。「神を畏れる人」については保坂高殿『ローマ帝政初期のユダヤ・キリスト教迫害』教文館、二〇〇三年、二〇一〜二〇三頁。B. Wander, Gottesfürchtige und Sympathisanten. Studien zum heidnischen Umfeld von Diasporasynagogen, Tübingen, 1998をも参照。

*2 保坂高殿(「ルカとローマ市民権――『おそれ』のモチーフが持つ文学的機能の考察から」『聖書学論集』二二号、一九八八年、一三九頁)によれば、ルカは、ローマ帝国という「既成の世界秩序を否定せずにキリスト教の未来像を構築したローマ市民かつギリシア人」であった。

△ この一節を自己批判なしに理解することはできません。人は帰属する社会の価値観に制約されて生きるほかないのであって、そこからできるだけ自由になろうと努めることができるだけです。社会的な諸問題の解決の困難さがそこにあるでしょう。ルカにはルカの社会的位置がありました。そして、その立場から、福音書と使徒行伝とを執筆しました。しかし福音書の伝統的(神学的)な研究が著者の社会的位置についてあまり注意を払って来なかったことを考えれば、その考察には重要な意味があります。同時にそれは、聖書の研究が一般的な歴史学などの研究に次第に近づいてきたことを意味しています。

富者批判について

福音書の叙述の対象となる「イエスの時」と、使徒行伝の叙述の対象となる「教会のはじめの時」を、ルカは時期的にのみならず質的に区別して、前者を理念化し、後者を「教会の時」(ルカの時代)に近づけて叙述している。このために、「イエスの時」においては富者批判が前景に出され、イエスへの信従には全所有の放棄が条件とされる。これに対して「教会のはじめの時」においては、所有に対する執着心の放棄と、その実現としての「施し」の実践が勧められ、それが「教会の時」のモデルとされている。こうしてルカは、二つの「時」における霊性の差異(富者批判の鋭化と鈍化)を、神の救済の歴史における「必然」として「救済史」的に正当化したのである。

△ 「イエスの時」が理念化され、「教会の時」が現実への適応性を高めるという、ルカの「時」の理解についての鋭い指摘には考えさせられます。しかし「全所有の放棄」ということは、いつまでも理念に留まるのではないかとも思います。「イエスの方舟(はこぶね)」や「ヤマギシ会」のような事例が現代でも起ることはあっても、そのようなことが一般化するとはなかなか考えにくいことです。あるいはカトリック教会の司祭の「独身制」や、修道院のような、特別に宗教的な制度や団体として、自らを組織化する以外の方法はないと思われます。その意味で福音書に描かれたイエスの(聖俗の二元論を知らない)生き様や教えは、異例中の異例であって、余人の追随しうるところではないという気がします。しかしそれは鈍化のうちに逃げ込んでいる私の言い分であって、著者が実際に何を考えておられるかということについては、予断が許されないでしょう。

おわりに

その後のキリスト教史の正統的部分(初期カトリシズム)には、ルカ文書の「霊性」が大きく影響している。すなわち、一方において霊性における一側面(信仰・祈祷・瞑想・修道)が強調されながら、他方において霊性におけるもう一つの側面(富者・社会的不正義・国家権力への批判)が後退し、富者へは貧者への施しの業(わざ)が勧められ、信仰と政治の二元論によって、キリスト教的霊性はローマ帝国社会に自らを統合する道を歩み、これを「救済史」的に正当化していく。

△ 宗教が宗教として実体化され、信仰と政治の二元論によって、実は自らも世俗の道に従うということは、我々が目の当たりにしている現実です。

現代において霊性は、ルカのように救済史的にではなく、マルコのようにイエスと「同時代史」的に活(い)かされるべきではなかろうか。

マルコはその福音書において、イエスにより、あるいは天使を介して、イエスを見棄てたペトロをはじめとする弟子たちに対し、ガリラヤにおける復活のイエスとの再会を約束している(一四28、一六7)。この約束をもってマルコは、イエスの弟子たちに福音書の読者を重ね、マルコ時代の信徒たちに、彼らにとっての「ガリラヤ」で復活のイエスと出会い、イエスと「同時代史」的に生きることを促している(*)。

* このことについて詳しくは、拙論「イエス・キリストとの出会い」『イエスと出会う』岩波書店、二〇〇五年、一七〜六四頁参照。

△ ルカの「時」がリニアー(直線的)であったとすれば、マルコの「時」はサイクルであったと言えるかも知れません。イエスの物語は、その死によって終結するのではなく、もう一度、ガリラヤに戻って、復活のイエスに出会うことができるという意味に、著者はマルコ福音書の構造を把握しているのだと思われます。イエスと「同時代史」的に生きるということに、マルコのメッセージがあるということでしょう。

すでに述べたように、イエスの場合、その霊性において祈りと批判的精神とは表裏一体を成していた。霊性は、祈りによって神の前に自己を相対化する場であると共に、自己の祈願を自己の責任において批判的に貫く拠点である。真の霊性は、諸宗教にも自らを開き、それらとの対話を創り出す原点となる。批判とは自己批判を含む。自己批判のないところに、対話は期待できないであろう。

△ 著者もまたイエスと出会い、イエスに従う者たちの一人として生きようとする「原点」を持っているのでしょう。


V 五大にみな響きあり

「初期キリスト教の霊性 その1」で、中村雄二郎が『問題群』という本に「五大にみな響きあり」という空海の言葉を論じていることに言及しました。「霊性」は人を生かす根源的なエネルギー(力)であり、それはいわば「光」であると共に、「響き」でもあります。その観点から、そのことが論じられている第三章を取り上げることにします。

三 《五大にみな響きあり》あるいは〈汎リズム論〉

――空海、O・パス、ミンコフスキーほか――

1 リズムの発見

空海は、その『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』という本のなかで、《五大にみな響きあり》と書き、端的に、すべてはリズムであり、すべては響きである、と言い放っている(五大とは地・水・火・風・空のことだ)。これは、世界の哲学史のレヴェルで見ても第一級の、まことに唸らせられるような考え方でありことばであって、さすがに〈真言〉密教の体現者であると思う。

この空海のことばを私が知ったのは、かなり前のことである。しかし、その意味の広がりと深さを納得(▽)いくかたちで理解できるようになったのは、比較的最近のことである。いろいろな問題がそのことばを媒介にしてそれこそ響き合うようになったのは、最近のことである。その間私は、リズムや響きについて、いろいろと回り道をして、気づいたり、考えたりしなければならなかった。そこで、空海のその思想に立ち入る前に、それを自分が再発見するまでのいきさつのあらましを述べておこう。

△ 学校の勉強は時間の制限があって、「納得」がいくまで考えることをなおざりにしがちです。しかし自分の納得がいくまで考えることが、いわば哲学の始まりでしょう。著者はその点で考えることの模範を示してくれていると思います。アランは「自分が使っている言葉の意味がわかるということは、それだけで実によく考えたということである」と言いました。時間に追われた生活はなかなかそのことを許してはくれません。

人間には、視覚型の人間と聴覚型の人間とがあるらしい。永い間私は漠然とそんなことを考え、自分を視覚型のなかに入れていた。と言っても、その根拠になっていたのは、かつて音楽よりも絵画の方に惹かれ、自分でも油絵などを描いていたということくらいである。私はまだ、五感を貫き統合する〈共通感覚〉という考え方が哲学史上にあることも知らなかったし、いわんや〈共通感覚論〉が自分の問題にもなっていなかった。

△ 人間には視覚型、聴覚型、運動感覚型(kinesthetic型)の三種類があるとも言われています。スポーツ選手などは運動感覚型でしょう。実際に自分が体を動かしてみなければわかった気がしない人は運動感覚型です。共通感覚型の人がいたら、その人はバランスが取れていると言うべきでしょう。しかしこれは一つの類型論に過ぎません。

しかしそれでも、音と色やかたちが相互に対応する〈共感覚〉現象には、当時から強い関心を持っていた。また、視覚的なものと聴覚的なものとが交わるところに感取されるリズムというものが、気になっていた。前者の〈共感覚〉現象は、音楽の名曲をカラーで抽象図形の運動として視覚化して見せる実験映画の手法にしばしば役立てられていたし、後者のリズムの問題は、L・クラーゲスが『リズムの本質』(▽)において、扱っていたからである。前者の問題はさておき、後者の問題に少しく触れておこう。

△ 「多読・多作・多商量(思量)」(たくさん読んで、たくさん書いて、たくさん考える)ということが考える人に求められるとしたら、著者はそれをその通り実践した人であると言えます。そういう人はざらにいるものではありません。その「博捜」ぶりには驚かされます。それが著者の真骨頂でしょう。なお、身体の諸器官は分業していると言えますが、一個の生命体としては協業しています。もともと一つの遺伝子の展開だからです。従って共感覚という現象があっても驚くことはないでしょう。

リズムは一般に、時間的現象としてだけ考えられ、また、規則的反復である拍子と混同されることが多い。そこでまず、リズムと拍子を区別して、クラーゲスは言っている。《リズムは――生物として、もちろん人間も関与している――一般的な生命現象であり、それに対して、拍子は人間のなす働きである。リズムは、拍子が完全に欠けていても、きわめて完成された形であらわれうる。が、それに対して拍子は、リズムの共働なくしてはあらわれえない。》リズムは人間の加える拍子によって導き出され、整えられ、昴められるとはいえ、いっそう原初的で根源的なのはリズムである。

また、リズムの時間性を超えた性格についても、彼はこう言っている。リズムとはただ時間のうちにあるのではない。空間にもリズムはあり、私たちは建物のリズムとか、筆跡のリズムとか、樹皮の紋様のリズムとか、葉脈のリズムとか、言うことができる。もともと時間的であって空間的でない現象、また空間的であって時間的でない現象というようなものは、現実には存在しない。つまり《現象の時間性のリズム的分節は、つねに同時にその空間性のリズム的分節なのであり、逆もまた真である》と。

△ 楽曲は時間の流れですが、同時に空間に響き渡り、またそれは楽譜によって空間的に表現されます。

このリズム分節の考え方は甚だ示唆的であった。というのも、時間的かつ空間的なすべての事象は、このリズム分節の観点から捉えることができるからである。すなわち、われわれが文化と呼ぶすべてのものは、リズム分節を持った構築物として時間と空間を表象的に組織することに他ならない。

△ 時間的かつ空間的なすべての事象、すなわち自然的、文化的な事象は、すべてリズム分節の観点から捉えることができると言ってもよいでしょう。坐禅やヨガや武術などで、呼吸が重視されるのは、呼吸もまたリズムであるという面があるからでしょう。

ちょうどそんなことを考えていたら、オクタビオ・パスのいっそうラディカルな、〈汎リズム論〉的ともいうべき考え方に出会った。彼は『弓と竪琴』のなかでこう書いている。《リズムは拍ではない――それは世界観である。暦、道徳、政治、科学技術、芸術、哲学、つまりわれわれが文化と呼ぶすべてのものは、リズムに根ざしている。リズムはわれわれのすべての創造の源泉である。二元的あるいは三元的なリズム、また対立的あるいは周期的なリズムが、制度、信仰、芸術、そして哲学を育てあげる。歴史それ自体がリズムである。》

このパスの〈汎リズム論〉がラディカルなのは、われわれが文化と呼ぶすべてのものがリズムに根ざしていると言うだけでなく、さらに、リズムが創造の源泉であると言っていることである。

△ 音楽のリズムに地域的な特性が見られるということは、同時に他のすべての文化領域の地域的特性に通じていると言うことができるでしょう。

また彼は、《さまざまな文明は本源的リズムの展開に還元することができる》とまで言う。たとえば、古代の中国人は宇宙を二つのリズムの周期的組合わせと見なしていた。いわくこれすなわち道なり。この陰と陽というのは(M・グラネによれば)、西洋的な意味での思想ではなく、また単なる音や調べでもない。《それは宇宙の具体的表現を包含する表象であり、イメージである。諸々の現実を創りだすダイナミズムを備えた陰と陽は、交互に生起し、交替することによって全体を生み出すのである。(……)宇宙は相対立し、交替し、かつ相補的である二極的な体系である。リズムが植物や帝国の、収穫や制度の成長(拡大)を支配する。それは道徳と礼節をも司るのだ。》

宇宙をリズムの結合、分離、そして再結合として感知したのは、むろん中国人だけではない。《人間のあらゆる宇宙論的概念は、本源的リズムの直観から湧き出るのだ。あらゆる文化の根底には、宗教的、美的、あるいは哲学的な創造によって表現される以前に、リズムとして現われる、生に対する基本的な態度が見出される。》それはアステカ人にとっては四元的リズムであり、われわれの文化は三元的リズムによって満たされている。と、このようにパスは言っている。私が〈ラディカルな、汎リズム論的考え方〉と呼ぶ所以である。

△ 初めにリズムありきという思想は、確かに人の意表を突くものです。しかしそこには大いに考えさせるものがあります。すべての現象はリズムであるということは、音楽家にはよく理解できることだと思われます。しかしここに書かれている「アステカ人にとっては四元的リズムであり、われわれの文化は三元的リズムによって満たされている」というのは、よくわかりません。4あるいは3という数(リズム)、またそれによる事象の区分が基本となっているということなのでしょう。アステカの神話には4という数がよく出てくるようです。それでは「われわれの文化」における3とはどういうことでしょうか。

2 響きと共振

ところで、人間において、このリズムを感じ体現するのは何かと言えば、活動する身体である。そこで次に、リズムの身体的基礎を考えてみよう。

身振りと言葉』のなかで、ルロワ=グーランも言っている。身体の持つ諸感覚で、もっとも直接にリズムと結びついているのは、内臓感覚である。眠りと目覚め、消化と食欲の時間的交替のような生理的な韻律があらゆる活動の基礎であって、これらは、昼と夜の交替や気象や季節の交替といった、大自然のリズムと結びついている。したがって、内臓の快適な状態がもたらされるのは、活動の正常な条件が確立されるときであり、逆に、祝祭などで非日常的な状況を創り出そうとするときには、断食や不眠によって生理器官の慣れを打ち破り、当事者にリズムの均衡を破らせるようにするのである。

△ 人間の活動をリズムの観点から見直すと、新鮮な視野が獲得されます。

また、環境のなかで個体に身体的平衡を与えるのは、筋肉感覚である。動物でも人間でも、身体に平衡をもたらすのは、器官と筋肉の秩序立った働きであり、平衡は、さまざまな規模のリズムの連鎖の展開に従っている。だから、内なるリズムにせよ、外なるリズムにせよ、リズムがひどく乱されるようなことがあると、神経‐心理的な行動がいろいろと常軌を逸するようになるのである。

△ 「神経‐心理的な行動がいろいろと常軌を逸するようになる」ということに、道徳の乱れや犯罪などを考える手がかりがあるでしょう。

それとは逆に、人為的リズムは、筋肉を通して身体の一部を拘束し、しばしば夢想を展開する手助けをする。たとえば、リズミカルな足踏みや旋回は、憑依の忘我状態をもたらすし、軍隊の歩調の整った行進は、兵士たちを容易に一つの型にはめるのである。

リズム的な構築物として時間と空間を組織することは、人類の望みであったが、そのようにして組織された時間と空間は、逆に人間の行為を支配することにもなる。そして、時間と空間の人間化は、表象を介して行われる。その結果リズムは、四季や日々や歩行などの自然のリズムから出発して、暦や時間表などの表象の網の目のなかで条件づけられるリズムになる、ともルロワ=グーランは言っている。

△ ここから「リズム人類学」とでも言うべき構想が生まれてくるでしょう。

さて、私の場合、〈リズム〉から〈響き〉へと問題が展開し、広がっていくには、そこに反響あるいはリズムの共振ということに着目する必要があった。その反響というものの持つ意味を気づかせてくれたのは、なんと精神医学者のE・ミンコフスキーであった。彼は、『精神のコスモロジーへ』のなかで〈現実との生命的接触〉という観点から、コスモスとの一体化を成り立たせる上で、反響ということの重要性を力説していた。

彼は言う。〈反響する〉というのは、ふつうあまり人々の関心を引かないが、われわれが眼を向けるべきダイナミックで生命的な根本要因であり、宇宙の顕著な特性である。そして、この反響ということは、実にいろいろな場合に見られる。たとえば、閉じられた水甕のなかで打ちよせる波が内壁に当たって、その水甕全体を充たして響く場合がそうである。また、狩人の角笛の音が森の中に響きわたり、どんな小さな葉も細い茎も振るわせつつ、森全体を音と振動の世界に変えてしまう場合もそうである。

△ これを書いている今、昨夜ある合奏団による西洋音楽の演奏を聴いてきたことが思い出されます。会場の小ホールがフルート、チェロ、ヴァイオリン、ピアノの音で満たされていました。音楽が作り出す世界には、普通に「考える」ことでは届かない独自のものがあります。ホール全体が一つの楽曲によって包まれます。

このような現象において、見落としてはならない重要なことは、反響とは独特な仕方で或る空白を充たすことだということである。なにかを充たすことは、音を発する生命体そのものの力動性の働きである。この力動性は、出会うものすべてを包み、わがものとしつつ、生命を反響させる。つまり、生命独特の生気によって世界を充たすのである。

この〈反響する〉ことは、ミンコフスキーによれば、〈現実との生命的接触〉と次のように密接に結びついている。すなわち、《この接触は、触覚的にさわることよりも反響することに似ている。その上、明らかなように、現実との生命的接触というのは単に感動することではなく、したがってこの場合には〈さわる〉とは決して言わない。その代わりに〈周囲に同調して振動する〉と言われるのである。》ここに、〈現実との生命的接触〉は、〈同調による振動〉つまり〈共振〉にほかならないことが示されている。

この響きあるいは共振ということとの連関で、私が思い起こしたのは、哲学者鈴木亨がしばらく前から出している〈響存〉Echo-istenzという、魅力的かつ示唆的な考え方である。この響存というのは、実存から〈労存〉(働く実存)を経て考え出された、響き合う実存のことである。そして、響存的世界とは〈物を媒介としてこだまする世界〉のことであり、さらに言えば、それは《響存的理性の支配する世界であり、最も具体的・根源的な世界である》(『響存的世界』)と言う。

△ かつては「田植え歌」のように、労働にはリズムと音楽が伴っていました。そこには「響存的世界」がありました。

また私は、さまざまな相互行為や相互作用についていろいろと自分でも体験し、思いめぐらしてきて、ものごとの知覚や認知、そして理解・了解ということはリズムの共振をなによりも前提するのではないか、と思うようになった。俗に人と人とがウマが合うとか、相性がいいとか、また躯で知るとか言われるのは、そういうことではなかろうか。このことは、学習や教育の場でも、医療や意思疎通・情報伝達の場でも、明らかに見られるところである。

△ 人間同士のinteraction(相互行為・相互作用)の根底には「リズムの共振」があるのではないかと、著者はここで基本的な事実の指摘を行っています。よい意味でも悪い意味でも「同調する」ことが人間関係の基本にあります。カウンセリングの場で、ミラリング(鏡映)・ペーシング(共調)・リーディング(共導)ということが言われるのも、リズムの共振がその基本にあるということでしょう(鏡映とは相手と同じ姿勢や表情になること、共調とは相手と同じ息づかいになり調子を合わせること、共導はその上で相手を望ましい状態へと「共に導いていく」という意味で、勝手に私が訳したものです)。

さらに、ここでは立ち入る余裕がないけれど、私にとって、リズム・反響・共振の問題は、電磁波や生命リズム同士の間に見られる〈引き込み〉現象(▽)、生命体の進化を貫く悠久の生命の波やリズム、胎児の聴く母親の胎内音、電子望遠鏡で捉えられた〈天体の音楽〉などとの結びつきにおいて、いっそう豊かな広がりを持つようになった。そしてその挙句に、ようやく、密教やマンダラ、そして『声字実相義』において空海の説くところに、私なりに接近できるようになったのである。

△ 「引き込み」現象については、清水博『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』(中公新書、1990年増補版初版)の第七章「リズムと形態形成」の中で論じられています。そのあとがきによると、清水氏(生命科学者)と著者とは交流があったようです。第七章の「非線形振動と引き込み現象」という節に、次のように書かれています。「非線形振動が持つ非常に興味深い性質、それが振動の引き込みという現象なのです。十七世紀の著名な科学者ホイゲンスは、二つの振り子時計を木の台に固定しておくと、それらはやがて同期して同じ進み方を示したことを記録しています。最初、二つの時計の振り子は異なった振動数と位相とをもって振動しているのですが、しだいに振動数ばかりでなく、位相もある一つの値に引き込まれて同期した振動をはじめるというのです。また非線形振動をしている振動子(振動体)に一定の振動数の外力を与えると、非線形振動子はその外力に同期して振動をはじめます。これも引き込みです。」比喩的に言えば、他人に「共鳴する」ときにも、この「引き込み」(惹き込み)が働いているのでしょう。

3 マントラ(真言)の力

その手掛かりになったのは、密教の教えと振動の深い関わりである。すなわち、密教の源流ともいうべきタントラの教えによれば、《宇宙は〈オーム〉という単音節の〈マントラ〉(真言 mantra)のような基本音から展開してきたと言う。われわれがこの宇宙で見たり感じたりする物体はすべて、振動をそれぞれ凝縮した音なのである。》(A・ムケルジー『タントラ 東洋の知恵』)

密教のマンダラでは、ふつう、象徴的な意味を表わすものとして、多くの仏や菩薩などの複雑な布置によって形づくられる象徴的宇宙が問題とされている。だが、それが真に宇宙性を持つためには、マンダラの図像の根底あるいは背後にリズム(振動、響き)が働いていなければならないはずである。図像的マンダラにおける仏や菩薩や明王などの複雑な空間的配置そのもののうちにも一種のリズムを見ることはできようが、それだけでは不十分である。

こうして、初めに引いた空海のことばが、私のなかで、鮮烈な意味を帯びてきたのである。かつては、なぜ五大にみな響きがあることがとくに言われなければならないのか、わからなかった。が、ようやく、空海がそのコスモロジーにおいて、響き(リズム、振動)を特別重視していることの意味が理解できるようになった。

△ 著者は回り道をして、漸く空海に辿り着いたということが語られています。このように宗教的な表現をそのものとして取り上げるのではなく、科学的知識や日常的経験などの回り道を経て、その上で宗教的真理とされているものに近づくことは、今日必要とされる態度であって、単に闇雲に信じることは避けるべきであると思います。

そこで、『声字実相義』の主張を凝縮的に表現した五言四句の詩《五大にみな響きあり 十界に言語を具す 六塵ことごとく文字なり 法身はこれ実相なり》の意味するところを、私として捉えなおしておきたい。

まず、〈声字実相〉ということの意味だが、内外の風気がかすかに起こると必ず響きがあり、これをと名づける。また、声が発せられればその声は物の名を表わす。これをと言う。そして、名は必ず体を招くだろう。それが実相である。したがって、ここで声とは、人間の発する音声だけではなくて、地・水・火・風などが相触れて音響するものすべてを指している。そして、このような声字実相の根源にあるのは絶対者である大日如来であり、そのことばが真言とされている。

△ 「初めにロゴスがあった」というヨハネ福音書の「ロゴス」を「真言」と捉え直してみると面白いと思います。

さて、第一句の《五大にみな響きあり》について、空海自身は、次のように注解している。すなわち、《五大といふは、一に地大、二に水大、三に火大、四に風大、五に空大なり。この五大に顕密の二義を具す。顕の五大とは常の釈の如し。密の五大とは、五字〔金剛身、つまり永遠の自己を示すサンスクリットの阿(あ)・縛(ば)・羅(ら)・賀(か)・きゃ(人偏に「去」のつくり)〕五仏〔金剛界では大日・阿しゅく(門がまえの中に三つの「人」を入れる)・宝生・阿弥陀・不空成就〕及び海会〔曼荼羅〕の諸尊これなり。五大の義とは『即身義』の中に釈するが如し。この内外の五大にことごとく声響を具す。一切の音声(おんじょう)は五大を離れず。五大はすなわちこれ声の本体、音響はすなわち用(ゆう、作用)なり。故に「五大皆有響(かんうこう)」といふ》(『弘法大師空海全集』第二巻)。

この第一句の注解のなかに、空海の〈汎リズム論〉の諸要点はほぼ提示されている。しかし、第二句以下のことばもそれらと深く関わっているので、第一句に立ち入る前に、第二句以下で言われていることを見ておこう。《十界に言語を具す》とは、十界つまり仏の世界・菩薩の世界・縁覚の世界・声聞の世界・天界・人間界・阿修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界のすべてに言語が具わっており、言語が至るところに遍在しているということである。ただし、そのうち真実(つまり真言)であるのは仏の世界のものだけであり、あとの九つの世界の言語は偽り(虚言)でしかない、と注釈中で言われている。

次に第三句の《六塵ことごとく文字なり》とは、六塵つまり色(しき)・声(しょう)・香・味・触(そく)・法(考え)といった、認識対象はすべて文字であるということであり、ここに言語の具体的表われである文字が認識対象すべてのうちに遍在していることが説かれている。最後の第四句《法身はこれ実相なり》については、『声字実相義』のなかで、空海はなんら注釈していないけれども、この句が法身〔真理を身体とする絶対者〕こそがもののありのままの姿であり、事物のあるがままの姿のなかに法身が存する、ということを意味してことは明らかである。

△ 空海のスケールの大きさは、物事の根源にまで遡るその「遡及力」に関わっているということがわかります。

このように第二句以下で空海が言わんとしたことを見てくると、価値的な次元からいっても、認識の対象界からいっても、その至るところに言語や文字があり、それらのなかに絶対者や真理もあらわれている、ということが説かれている。そういう問題の広がりを考えた上で、冒頭の《五大にみな響きあり》の意味するところ振り返ってみると、おのずと次のことが浮かび上がってくる。

すなわち、地・水・火・風・空の五大エレメントは、顕教(一般仏教)では単なる物質元素であるにとどまるが、それに対して密教では、それらは絶対者である大日如来そのものの象徴表現である、と。つまり、天地万物のうちに法身大日如来が顕現し、そのことばが語られている、ということになる。さらにいえば、地・水・火・風・空の五大は、響くものとして、リズムを持って振動するものとし捉えられるとき、単なる物質元素であることを越えて、すぐれて生命的なものを顕現することになるわけだ。そういう意味で、空海が《五大にみな響きあり》と書いたとき、響きということばで宇宙リズムあるいはリズムの根源性をよく捉えていたのである。

このように、空海は『声字実相義』では五大エレメント説の立場をとっている。ところが、彼は先に見たように《五大の義は『即身義』の中に釈するが如し》と書きながら、『即身成仏義』(『即身義』はその略称)のなかでは五大そのものの説明は行なわず、その代わりに、《六大とは五大と及び識なり》と述べて、地・水・火・風・空の五大に識を加えた六大説を主張している。

にもかかわらず、『声字実相義』で《五大にみな響きあり》と言ったのはなぜであろうか。思うに、顕教と密教との対比で地・水・火・風・空という五大の捉え方が違うことを強調したかったからであるに違いない。しかし、その問題を別にすれば、空海は五大に識(精神的存在)を加えて、《六大にみな響きあり》と言ってもよかったのである。私があえてそのようなことを言うのは、私にとっては、識大という捉え方とともに、識大も響きを本質とするという捉え方に驚かされ、共感を抱いたからである。

△ 識、精神的存在を、仮に「霊性」として捉えるならば、「霊」もまた響きであるということができるでしょう。「打てば響く」ような心(魂も含む)のあり方に、望ましい人間の姿が示されていると言えるでしょう。空海によれば、それは顕教の区別する知識を超えて、密教のその場に身を置く(飛び込む)姿勢のうちに見出されるということになるでしょう(「高僧伝 空海」参照)。識大も響きを本質とするという著者の結論に対して、そのような感想を持った次第です。風にも譬えられる霊(プネウマ)がこの宇宙に吹き渡り、この私をも生かしているというイメージに、宗教の根源を見る思いがします。

『イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」』(ヨハネ3:5−8)。


W 現代キリスト教の霊性 その1

W・パネンベルクの名前は、カール・バルト以後の期待される神学者の一人として、この国でもキリスト者(牧師・神学者)の口の端にのぼっていたので、私の記憶にも留まっています。ここでは、私の宗教研究の一環として、『現代キリスト教の霊性』(西谷幸介訳、教文館、1987年)のうち、日本の仏教学者との対話を行なっている第五章を取り上げます。なお、目次を示せば、「第一章 プロテスタント的敬虔と罪責意識」、「第二章 聖餐的敬虔――キリスト教共同体の新しい経験」、「聖化と政治」、「第四章 神学的視野における神の不在」、「第五章 真正なる自己の探求」となっています。そして巻末に、訳者付論として、「パネンベルク歴史神学の要点」が添えられています。

第五章 真正なる自己の探求

西洋世界の世俗化された社会において、近代化の過程はひきつづき進行中である。そして、それはその社会の構成員たる個々の人々のあいだに強烈な疎外の感情を惹き起こしている。しかも、この感情は広範囲に増大していくばかりなのである。近代社会とは個人にとってつまりは工業化と官僚主義化の発展の過程であった。そして、それは彼や彼女にとって自分たちが抱え込んでいるあれやこれやの個人的なニードや問題にはいっこうに助けとはならない、ただ巨大に複雑化し匿名化した体制として立ちはだかっている。かつて、個人は家族というような伝統的な社会構造の一部において自分自身の立場を保持し、そこに自分の存在の意味を見出していたのであるが、もはやそのような社会構造体はその構成員としての個人にたいする方向指示の力を失ってしまった。そこで、個人はしばしば故郷喪失感に陥り、自分の人格性そのものが中心からすでに棄却されていると感じてしまうのである(*1)。要するに、近代社会においては、個人のアイデンティティが問題になっているのである。多くの人々はこのような問題を心理学者の助けを借りて解決しようとしている。けれども、ある人々は自分たちがあえぎ求めている意味深い生活は何か人間自身の力で創造できるようなものではない、ということに気づき始めている。それだからこそ、人が自分で決心して何らかの人生の確信を打ち建てようとしても、その確信の内容がいかにも頼りない、無力なものに見えてくるのである。そのような確信もたんに自分自身の気まぐれな選択によったものでしかないからである。人がそのような疑い迷いに捕らえられたとき、彼は仏教の教えるところに、ある平安を見出すかもしれない。仏僧のごとき冥想の実践によって悟りの境地に入るかもしれない。なぜなら、仏教は人間のはかなさ、移ろいやすさ、気まぐれな関心[煩悩]、そして自分の思い通りにならないこの世における苦しみなどからの解脱の道を教えてくれるからである。もっとも、このような平安の約束は、仏教にかぎらず、もっと一般的な仕方で、個人のアイデンティティすなわち真正なる自己〔the authentic self〕を求めるすべての人に提供されている。精神分析学もその一翼を担っている。そういう意味で、仏教の教と精神分析学は互いに接近して立っていると言えるのである。しかしながら、それら受け持っている領域は相違している。すなわち、精神分析学者は人間の自我〔the ego〕を強化することを望むのにたいし、仏教は人間のもろもろの要求や欲望を諦めるようにわれわれに言い聞かせるのである。聞くところによれば、この諦めのみがわれわれの真実にして真正なる自己の発見の道であり、したがって、永遠なる平安に到達する道なのである(*2)。

*1 Peter Berger et al., The Homeless Mind. Modernization and Consciousness (Random House, 1973)[ピーター・バーガー著、高山他訳『故郷喪失者たち』(新曜社、一九七七年)]を参照されたい。

*2 仏教の悟り〔enlightenment〕についての精神分析学的理論からの直接的な貢献は、Ashok Karaによる論文“The Ego Dilemma and the Buddhist Experience of Enlightenmentin: Journal of Religion and Health, 18 (1979), pp. 144-157によってなされている。しかしながら、論者はまた次のことをも明確に認識しているのである。すなわち、「[仏教的な]な悟りとは自我をめぐるものではない」のにたいして、「精神療法的なアプローチは本質的に自我の存在に焦点を絞るものである」(p. 157)、ということである。後者は、つまり、「自我のもつ不安を解決しようとするのではなく」、人々をして「自由の曖昧なる根拠から出てくる不安というものを受け入れる」(p.157)ように励ますのである。

△ 現代人が置かれている精神的状況は、基本的には、西洋人と日本人の違いのないことのように思われます。なお近代化については「三つのゼーション現象」を参照して下さい。自分の居場所(故郷)を失うということと、近代化とは密接に関連しているのでしょう。精神的にタフでなければやっていけないのが近代社会なのだと言えます。

近代世俗社会において疎外された個人のもつさまざまな必要にたいして、仏教的霊性は驚くべき適合性を有しているようにみえる。多くの伝統的キリスト教諸教派に浸透している悔悛的敬虔に比べて、仏教の霊性のほうが疎外された現代人の諸要求にたいしては、はるかに適切な答えを与えてくれるように思えるのである。仏教は個人にたいして、何はともあれ、まず、自分は罪人ですと告白しなさい、と迫るようなことはしない。つまり、人間はその個人的さらには社会的な生活が悲惨な状況を呈していることについて、みずから責任をもつべき罪人としての存在なのであると、はじめに認識すべきである、といった主張をしないのである。このような罪の悔い改めは個人に相当な緊張を強いるのであるが、しかし、それでは、その分、この罪の悔い改めから始める方法が、近代生活において全般に経験されているあの経験について、適切な対応策を示してくれるのかと言うと、そうでもないのである。あの経験とは、すなわち、個人は巨大に複雑化した匿名の体制にたいしていかに無力であるかということをしたたかに思い知らされる経験である。個々人の生活において、いわゆる道徳的基準は弱められるか、あるいはもはや解消されてしまうかというところまできた。個人の生活様式がきわめて多元化してきたからである。それゆえ、多くの個人にとって、自分は罪人であるという感覚はもはや明確な経験ではないのである。ただ、彼らは自分でそう思い込むように自分を納得させているだけなのである。ところが、他方、そのような仕方で人為的に作り出される必要のない、しかし、顕著な証拠と共に姿を現わしている個人のアイデンティティをめぐるいくつもの問題が存在している。キリスト教がもっと意識してみずからの使信を伝えるべきは、そのようなレヴェルの経験にたいしてである。罪の概念はまず第一に個人の人格的な経験に属している、というようなことはない。むしろ、それはそのような経験の説明に属しているものなのである。もっとも、自分はほんとうに愚かな罪人だと思い知り、それを嘆く経験をもつ人があるかもしれない。そのことは否定されるべきではなかろう。しかし、それは特別の場合である。もし、そのような経験がたまたまなされた神の律法の特定条項の違反――何よりもまず、それはそれ自体として受け止められねばならない事柄である――以上のものを意味するのであれば、そのとき、自分は罪人であるという経験の背後には、ある一定の状況が前提されている。すなわち、そこでは、人間の主観性(ヒューマン・サブジェクティヴィティ)に関するある特定な記述が同時代人の人々のうちにすでに内面化されているという状況が前提されているのである。中世教会において、また宗教改革の時代において、キリスト教的な罪の教理のそのような内面化はある程度自明の事柄となっており、その前提は一般にも広く受け入れられていた。しかし、現在においてはもはやそのような前提は失われているのである。したがって、キリスト教の他の諸主張をなすための経験的基底として、この罪の経験へと 個人を招き寄せることは、いまとなってはたいして有効ではないのである。けれども、この状況を容認することが、それではただちに罪の教理の無効であることを宣言することにつながるかと言うと、そういうわけではない。罪の教理はいぜんとしてその記述的・説明的価値を保持している。しかしながら、その価値が適合するのは、それがすでにその前提としてもっているところの当の人間の主観性の構造にたいしてなのである。そして、その枠内において、われわれが経験のレヴェルに到達するということも起こるのである。そうなるのは、人間の主観性はそれ自体、何らかの形に表わされるような自己意識を内にもつ、というところに特徴があるからである。

△ ヨーロッパ人にとって「人間の主観性」の領域から罪の経験が失われつつあるというこの観察は、既に他の人によっても指摘されていることですが(私はハンス・ウェーバーから直接聞いたことがあります)、近代世俗社会との関連においてそのことが生じつつあるという認識が語られ、疎外された現代人にとっては仏教的霊性の方が適合性をもっているように見えると言われています。しかし罪の教理の「記述的・説明的価値」が否定されるわけではなく、それが人間の主観性の「構造」に適合している限り、その経験のレヴェルに到達するということもありうるのだとも言われています。

人間の自己(ヒューマン・セルフ)というものについての人間学的分析は、キリスト教と仏教との対話のために適切な地盤を提供してくれるであろう。このことはおそらく仏教以外の宗教との対話にもある程度はあてはまるであろうが、しかし、仏教の場合には格別にそうなのである。ユダヤ教やイスラム教との対話のためにはもっと直接的に神観念に焦点を絞る必要があるであろうし、もしヒンズー教と対話するとなれば、人間学的な問いは現実(リアリティ)一般の性格の議論に従属させられるであろう。それらの論題もたしかにキリスト教と仏教との対話の背景には存在するのであるが、人間学的問いほどではない。ところで、キリスト教と仏教とでは、人間と自然世界との関係の捉え方にはきわめて深い差異がある(*)。ここで、われわれは宇宙論にではなく、とくに人間学に焦点を絞りたい。なぜなら、それら二つの宗教は、互いにきわめて異なった仕方においてではあるが、共にこの世の束縛からの人間の解放ということを約束する宗教だからである。

* 阿部正雄Man and Nature in Christianity and Buddhismin: Japanese Religions, 7 (1971), pp. 1-10を参照されたい。

△ 宗教を論ずるにあたって、神論、宇宙論、人間学、あるいは現実認識の仕方そのものなどの問いがありえますが、中でも特に人間学に焦点を絞るのは、二つの宗教が、互いにきわめて異なった仕方においてであれ、「共にこの世の束縛からの人間の解放ということを約束する宗教だからである」と言われています。

ほぼ二十年ほどまえに、パウル・ティリッヒは、キリスト教と仏教との違いは「存在の内在的目的に関する問い」にたいするそれらの答え方における違いである、と述べた。彼によれば、キリスト教においてその〈目的〉〔telos〕ないし〈目標〉〔goal〕は神の国であるのにたいして、仏教においてはそれは涅槃〔Nirvana〕である(*)。このような定式化にたいして反論の余地はありうるであろうが、しかし、それはなるほど重要な契機を含んでおり、われわれはあとでこのことに立ち戻ってくるであろう。キリスト教と仏教との対比ということでは、これと関連して、もう一つの点がある。これもティリッヒが述べたことだが、それは思惟における人格主義的な道と超人格的・「存在論的」な道ということである。この対照には真理契機がある。しかし、これもまた誤解を招きやすいかもしれない。人間の状況を言い表わすキリスト教的な言語はただ倫理的であるというに留まらないからである。この点で、ティリッヒは、西洋の「倫理的」宗教に東洋の「存在論的」宗教を対比させるというあのエルンスト・トレルチのやり方に強く影響されすぎているきらいがある。二つの宗教が違っているのは、第一に「存在の〈目的〉」という点においてではなく、存在の〈構造〉――とくに人間存在の、人間の主観性の、構造という点においてなのである。じっさい、注目すべきことがあるが、ティリッヒ自身がその主観性の構造分析において、ある現代仏教徒がそれでもって仏教の立場を呈示し、さらにキリスト教の立場を批判するために用いえたような、諸範疇を提供したのである。

* Paul Tillich, Christianity and the Encounter of the World Religions (Columbia University Press, 1964), pp. 63f. [パウル・ティリッヒ著、丁野政之助訳『キリスト教徒 仏教徒・対話』(桜風社、一九六七年)、六七〜六八頁]

△ キリスト教は人格主義的倫理的な宗教であるのに対して、仏教は超人格的存在論的な宗教であるというトレルチ流の区分けは、一面で説得力を持ちますが、それに対してここでは、人間存在の、特に「人間の主観性の構造」という点の違いにこそ注目すべきであるということが言われているのでしょう。

その仏教徒とは久松真一であるが、彼はその論文「無神論」のなかで、宗教ないし宗教性の三つのタイプを区別しながら論じている。その三つとは、中世の「他律的」な宗教、近代の「自律性」、そして近代以後の「他律的」自律性である(*)。他律的宗教が権威の無批判的受容ということで特徴づけられるとすれば、近代の自律的自己は伝統的な諸権威にたいする批判ということで特徴づけられる。しかし、後者はまだ自己自身にたいしては無批判的である。それは人間の自我の本性や構造を問おうとはしない。しかるに、自我の構造は、みずからはみずからを形造りえない有限な主体(サブジェクト)であることを知っていることにおいて、否定性すなわち自己棄却の要素を含んでいるのである。この否定性の自覚が、自我をはるかに超えて、――言うならば、ある絶対的主体による自我の準「他律的」な構成を指し示すのである。このようにして、久松は、この準他律的な自我の構造と仏教の教えとを関連づける。すなわち、真の自己、悟りを開いた自己は経験的な自己と相違しているが、しかもなお相違していない、という仏教の教えと自我の構造とのあいだに関連をつけるのである。

* 久松真一Atheismusin: Zeitschrift fur Missionswissenschaft und Religionswissenschaft, 62 (1978), pp. 268-296.

△ 自我の準他律的な構成において、八木誠一の言う「自己・自我」が成立します(自己・自我・インマヌエル参照)。このとき、「悟りを開いた自己は経験的な自己と相違しているが、しかもなお相違していない」という構造が示されます。

久松の類型論的図式を見れば、キリスト者は驚くにちがいない。なぜなら、それはティリッヒのあの他律的文化・自律的文化・神律的文化の類型論(*1)にそっくりだからである。最近になって、ティリッヒの思想の発展全体は彼の人間の主観性の宗教的な再建への関心によって動機づけられていた、ということが明らかにされた。宗教的に再建されるべき主観性とは、自律的主体を超え、それを、またその文化世界を神的な存在の根底のうえに再生させるような人間の主観性ということである(*2)。かくして、ティリッヒが後期に存在論的言語を好んで用い出したのは、神律的文化を求める彼の格闘のたんにもう一つの側面にすぎなかったのだとも思われてくるのである。しかしながら、なるほど彼はドイツ観念論から出発はしたが、主観性それ自体の構造の研究に集中したとは言いがたい。その理由は、おそらくティリッヒは、人間の定め〔destiny〕の実現を、孤独な個人においてではなく、共同体的な文化生活において、思い描いていたからだ、ということになろう。最終的に彼は『組織神学』のなかで、彼の存在論的言語で主観性の構造を記述する一つのモデルを提示してみせているのであるが、しかし、そのときも、彼独自の本質〔essence〕と実存〔existence〕に関する教説はなかば神話的な響きをもって留まった。ティリッヒには自律的な主観性を神律的な人間解釈へと統合するような首尾一貫した理論が欠けていたのである。そして、その事実は、そうでなければわれわれをこれまた当惑させるもう一つの事実をよく説明してくれるのである。すなわち、そのもう一つの事実とは、ティリッヒは彼のキリスト教と仏教の対比に関連してこの彼自身の神律対自律という概念をもち出さなかったということであり、倫理的宗教と存在論的宗教の対比の図式になお依存したままであったということである。神律対自律という彼の概念は、自己というものについての仏教的思想をさらに深く分析する道を切り拓いていたかもしれないのであり、さらにまた、それは自律的主観性という近代的原理へのさらに洞察に満ちた批判の道を切り開いていたかもしれないのである。

*1 Paul Tillich, Religionsphilosophie (1925; Stuttgart, 1962), pp. 61ff. [パウル・ティリッヒ著、柳生望訳『宗教哲学入門』(荒地出版社、一九七一年)、八一頁以下]。さらに、James L. Adams, Paul Tillich’s Philosophy of Science, Culture, and Religion (Harper & Row, 1965), pp. 52ff.をも参照されたい。

*2 G. Wenz, Subjekt und Sein. Die Entwicklung der Theologie Paul Tillichs (München, 1979).

△ ティリッヒは一方で倫理的宗教(キリスト教)と存在論的宗教(仏教)という区別を立てながら、他方で、「神律対自律」という彼の図式を両宗教に適用して考えることをしなかった点で、首尾一貫してはいなかったと言われています。それは仏教の中にさらに深く入り込んで考えなかったため、表面的理解に留まったということでもあるでしょう。

二つの宗教を比較するにあたって、仏教学者阿部正雄は最近の彼の論文のなかで、仏教徒の覚醒とキリスト教徒の回心は、両者とも「人間の自我の死滅ということが救いには不可欠である」(*)ということを言うかぎりにおいて、一致する、と述べている。阿部はこのときパウロの思想を念頭に置いているのであるが、その視点からするかぎり、以上の見方は理解に難くない。使徒パウロは間違えようがないほどはっきりと、救いへの唯一の道はキリストと共に死ぬことであり、かつキリストと共に復活させられるという希望に生きることだ、と主張した。しかしながら、この見方に含まれる人間学的諸含蓄はキリスト教思想においてはほとんどまれにしか詳述されてこなかった。パウロは、人間の真の自己〔the true self〕すなわち神のかたちに造られた人間の定め〔destiny〕というものはただ新しきアダム [イエス・キリスト] によってしか開示されない、ということを言おうとしているのであろうか、そうであるとすると、われわれが経験的に知っている、このわれわれ人間の自己ないし自我については何と言われるべきなのであろうか。換言すれば、ローマ人への手紙七章二二節に言われる、あの神の律法を喜ぶ「内なる人」〔the inmost self〕とは誰なのか。それはわれわれが経験的人間主体(エムペリカル・サブジェクト)と呼んでいるものであるのか。それとも、それは新しきアダム [イエス・キリスト、同時にまた、イエス・キリストにある救われた新しき存在としての人間] なのか。それを後者ととれば、その仮定は、ルターがそう解釈したように、ローマ書七章においてパウロは回心してキリスト者となった者の内面における相克について語っているのだ、ということを示唆してくれるのである。しかしながら、たとい、もし、われわれがルターの解釈とは対照的な現代的な解釈、すなわち、そこにおいてパウロはキリスト教への回心以前の人間の内面の相克を語っているのだとする解釈を取ったとしても、なお、あの「内なる人」はいわゆる「生まれつきの人間」〔natural man〕の自我とは同一視されるべきではないのである。そうではなく、「内なる人」とは、キリストの救いへと招かれているその人間の定めの光に照らし出された、その人間自身のことなのである。そのような視野に置かれるとき、かつて回心以前にそうであった自分というものが、いまや回心を経てこのようにしてあると考える自分とはきわめて異なっており、しかもなお、異なってはいない、同一の自分だ、ということになるのである。すでに遠いものとなった自分の人間的過去をやはりなお自分のものとして振り返るとき、キリスト者は隠れた仕方ではあってもそこに真なる自己の存在があったことを思う。たとい古きアダムとしての自分のあの内面的相克のなかでも、それがあったことを思うのである。そして、過去を振り返る仕方で、いまとなっては喜びに満ちているこの真なる自己の存在がかつてもそこにあったことを証明してくれるみずからの足跡を尋ね求めるのである。なぜなら、それらの足跡が自分はかつての古き人間からあの「内なる人」が解放され獲得されたところの、新しいが同時に同一の人間なのであるという、キリスト者のアイデンティティを証言してくれるからである。

* 安部、op. cit., p. 8.

△ 仏教の洞察(阿部論文)に触発されて、ドイツの神学者が「かつて回心以前にそうであった自分というものが、いまや回心を経てこのようにしてあると考える自分とはきわめて異なっており、しかもなお、異なってはいない、同一の自分だ」という理解に到達したということは、注目すべきことだと思われます。西田的に言えば、キリストを、対象論理的にではなく、場所的論理的に把握する道が切り拓かれたからです。しかし、ある意味でそれは神秘主義によって把握されていたことでもあるのではないかと思われます。以下、参考までに、ローマ人への手紙第7章15節から25節までを引用します。

「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」

以上のごときパウロ的見解のもつ根本的含蓄は、その後のキリスト教人間学によっても、ほとんど継承も展開もされてこなかった。とくにキリスト者の自己同一性(アイデンティティ)に関する時間的パースペクティヴは無視されてきたのである。パウロにおいては、キリスト者は古きアダムの物語において、古きアダムがしたであろうような仕方とは違った仕方で、自己を確認するのであるが、これにたいして、後代のキリスト教思想はローマ書七章の「内なる人」を人間の理性の能力のうちに位置づけてしまった。あたかも、それは、「内なる人」はいつも同一のものでありつづけているのだ、と言わんばかりである。しかも、そう理解しつつ、なお、生まれつきの人間は恩寵によって超越されるのである、と認識したのである。ただ、その恩寵の賜物は、すでに存在している人間的自己に賦与されている何か超自然的な資質として理解された。それは人格の中心そのものから根本的に造り変えられることそのものとして理解されたのではないのである。とくに西方キリスト教の思想においては、理性的個人であり自由なる選択の主体と見なされた人間が、救いの過程を貫く連続的な基礎であると考えられてきた。そして、ルターの批判の的となったのがまさにその考え方なのである。従来は、生まれつきの人間がもつ自由意志は恩寵との関連においてさえ重要な地位をあたえられてきたのであるが、ルターはそれを新約聖書、とりわけパウロ神学とは相容れない見方であると断じたのである。ルターは、パウロによれば、キリスト者の新生の出来事においてはその主体の何らかの部分的特質が変革されるのではなく、その主体それ自身が変革されるのである、ということを再発見したのである。まさにこのことが、ルターのあの〈extra nos in Christo〉という有名な句によって言い表わされている重要事態なのである。すなわち、ルターによれば、われわれはキリストにあって「われわれの外側で」義とされるのである。われわれの外側で、とは、われわれの古き「自己」の外側で、という意味である(*1)。われわれをわれわれの外側に置くのは信仰の力である。なぜなら、信頼するという行為において、われわれの存在はわれわれが信頼して身を預けようとするお方に向けて造られるからであり、われわれはそのお方に向かって文字通り自分自身をあとにする〔leave〕からである。このような事態を引き起こすのは信仰の力であるがゆえに、信仰の行為は古き自己の行為としては正しく理解されることができない。古き自己はその行為において背後に置き去りにされるべきものだからである。それゆえ、ルターは信仰を「心を奪われる驚嘆」〔rapture〕の出来事として叙述することを好んだ。すなわち、信仰とは、われわれを捕えてわれわれ自身をはるかに超えたところへと運ぶ霊的エクスタシーの出来事なのである(*2)。われわれがルターの自由意志との格闘を理解しようと努めるときには、まさにこの観点からそうしなければならない。選択の自由はつねに人間にあり、それが人間を人間たらしめる特性であるということを、ルターは否定したわけではない。けれども、彼はその選択の範囲を、行為主体たる人間のもつさまざまな限界に従い、限定したのである。そのような人間の視野の範囲のなかでは、自分がまったく新しい人間になるというような可能性は見えてこないのである。しかし、まさにそのことがキリストへの信仰においては起こるのである。キリストにおいて、われわれはわれわれ自身の真の自由を見出す。すなわち、われわれがかつてそうであった自分というものを超えた、真正なる自己〔the authentic self〕を見出すのである。しかも罪人にたいして差し出されるキリストの救いの愛と約束のゆえに、それはわれわれ自身の自己である。すなわち、かつてあったところの自分であり、いまや究極的に達成されたところの自分、何か外的な束縛からというのではなく、古き自己の束縛から解放されたところの自分という存在の、真実なる自己同一性というものを、われわれはキリストにおいて見出すのである。

*1 ルターのこの句については、Joest, Ontologie der Person bei Luther, pp. 233-274を参照のこと。

*2 Ibid., pp. 219ff.

△ 「かつてあったところの自分であり、いまや究極的に達成されたところの自分、何か外的な束縛からというのではなく、古き自己の束縛から解放されたところの自分という存在の、真実なる自己同一性というものを、われわれはキリストにおいて見出す」と言われている事柄は、著者も言うように、「西方キリスト教」において十分には展開されては来なかったことだと思われます。ルターの信仰論はその観点から再評価されます。「われわれの外で、キリストにあって」というその信仰の構造に、新しい光があてられます。

キリスト教思想史において、ルターの人間学が他のものから区別される由縁は、それがパウロ神学に潜んでいた人間学的ラディカリズムを再発見し、それを解釈した、という点にある。なぜ、ルター以前には、このパウロの徹底的人間論は理解されてこなかったのかと、いぶかしく思う向きもあるかもしれない。その問いにたいする一つの答えは、それとはまったく反対の見解が、パウロの場合とは異なるが、なお、これもキリスト教的なある特定の関心を基盤として、並行して培われてきたからだ、ということである。その関心とは、人間個人とその永遠の価値ということへの関心であり、これは主イエスご自身の教えにまでさかのぼる。つまり、それは迷える一匹の羊の譬や、放蕩息子の譬のなかで言い表わされているものである。この思想がキリスト教思想家たちをして個々人を不死の主体(サブジェクト)として考えさせたのであった(近代的な語の意味における主体/サブジェクトの観念そのものが、まさにそのようにして出現してきたのである)。そして、神の創造的自由との類比において、神のかたちに造られた人間の主観性(サブジェクティビティ)は自由なる決断という行為において最高潮に達するのであると考えられたのであった。しかし、これらの考え方が無時間的構造のなかで陳述されればされるほど、信仰の行為において生起し、洗礼という礼典において象徴されるところの、人間存在のあの徹底的な変革と基礎づけの事態はますます正当に評価されないということになってしまったのである。

△ 辞書には、サブジェクトは中世フランス語から来た中世英語で、元のラテン語subjectusは「権威のもとにある者(臣民、臣下)」、またsubjectumは「命題の主語」という意味で、それぞれsubicere(文字通りには「…のもとに投げる」)の過去分詞形subjectusの、前者は男性、後者は中性であると記されています。「主観、主体」を意味するようになったのは、近代になってからのことです。なお、迷える一匹の羊や放蕩息子の譬えは、羊飼いが迷う一匹の羊を追い求める心情、父親が放蕩息子を心配する気持ちに焦点をあてて考えれば、それは「われわれの外で、キリストにあって」という構造と同じであって、必ずしもそこから近代的な「主体」を考える必要のないことであると思います。近代的な意味での基本的人権は個々人のなかに(あたかもその「属性」のようなものとして)見出されるというよりは、むしろ全体的な場の中で根拠づけられるべきことのようにも思われます。従って体制によって保証されない場合には、それは無きに等しいものとなります。しかしそれは基本的人権の主張が無意味だということではなく、困窮のうちにある個々人は本来全体の配慮(羊飼いや父親の配慮によって示唆されるもの)のもとに置かれるべきものであるという主張になります。それは決して家父長主義的な「保護」を意味するものでなく、社会全体(共同体)をどのようなものとして構想するかに関わる問題です。

近代史および近代思想史の経過のなかで、この伝統的なキリスト教的人格主義は、自然法理論や政治学の分野におけるその諸発展からの支援を得て優勢となり、ルターの深遠にして新鮮な人間学的洞察のまえに立ちふさがったのである。しかしながら、現代の状況においては、個人の自由というものを重んじるこの思想はなるほどいぜんとして優勢を誇っているようではあるが、多くの困難に取り囲まれて、ますます四面楚歌の状態になりつつあるように思われる。その理由は、一つには、人間のアイデンティティは社会的なさまざまな条件によって左右されるのだ、ということに人々が多く気づき始めたということにあろう。しかし、それよりももっと重大な理由は、形式的な自由というものはほんとうのところは何の役にも立たない、浅薄で、いい加減なものでしかない、ということに人々がひそかに感づき始めたということである。この感情はすでに蔓延しており、それが自由をめぐる西洋的主張からその自信を奪い取っているのである。

△ 個人の自由の主張がなぜ形式的で、「何の役にも立たない、浅薄で、いい加減なもの」になってしまったかということについては、資本主義社会との関わりで、個々の立場から多くの主張がなされることだと思います。しかし「西洋世界の自由」を声高に主張する、ブッシュのような好戦論者たちの言い分が、世界中の人々に心の底から西洋民主主義への疑問を感じさせるようになったことは明らかであり、その体制に乗っているキリスト教への疑問も日増しに増大しています。心ある西洋の知識人の一部が仏教に関心を寄せるようになったのも、西洋世界のそのような行き詰まりと無関係ではないでしょう。この論文の後半では、仏教との対話がさらに展開されます。


X 現代キリスト教の霊性 その2

現代的状況におけるこの伝統的キリスト教人格主義の欠陥の一つは、たとえば、それを基盤としては、仏教との意味深い対話に至ることなどできそうにもないと思わせられることである。他にも欠陥はあるが、それが伝統的キリスト教人格主義の弱点である。そして、それは、なぜ仏教思想が現代西洋文化にたいして魅力をふりまいているのかということを、よく説明してくれる。人間の自己というものについての仏教の教えは、多くの点で、個人の自由という西洋を支配しているイデオロギーよりもはるかに深遠で、はるかに現実適合的だという印象を与えているのである。このような状況にあって、真にルター的な人間論は仏教からの挑戦を受けて立つための、より有効な足場を提供してくれるであろう。なぜなら、仏教もルター的なキリスト教人間学も共に、阿部正雄の言い方を借用すれば、「人間の自我の死滅ということが救いには不可欠である」ということの自覚において、あるいはもっと一般的な言い方をすれば、生まれつきの自我は人間の真実なる自己ではないということの自覚において、共通の出会いの地盤を有しているからである。現代西洋における人間の自由という理念のもつ皮相な性格への仏教の批判は、ルター派の人々にはあの自由意志にたいするルターの批判を思い起こさせてくれるであろう。そして、それは、彼らをして、自由に関する近代哲学のヒューマニスティックな源泉にたいするルター的な批判的姿勢にもう一度くみし、それをみずからのものにするように励ましてくれるにちがいない。

△ キリスト教は「二度生まれ(born again)の宗教」であると言われますが、生まれつきの自己を手放しで肯定することは余程の楽観主義です。しかし「生まれつきの自我は人間の真実なる自己ではない」と言うとき、その「真実なる自己」とは何であるかということが問題になります。著者は、ルターが近代哲学の人文主義的(ヒューマニスティック)な源泉に批判的に立ち向かったことに注意を促し、もう一度その立場に立つことを勧めています。そしてそれが仏教との対話の地盤を提供することを示唆しています。

生まれつきの人間の自我の自己肯定というものを批判的に捉えるという点でルター的な視野と仏教的な視野は収斂していくのであるが、そのことは、もちろん、キリスト教と仏教という二つの宗教のあいだには何ら重要な差異はないということを意味するのではない。阿部正雄によれば、両者の根本的な相違は、キリスト教信仰は超越的リアリティとしてのイエス・キリストに関係するのにたいして、仏教はいかなる二元論の形態も拒否するという点にある。仏教はとくに主体〔subject〕と客体〔object〕の二元論を拒否する。仏教徒は、したがって、超越的な汝への傾きのなかで自我を否定するというようなことはしない。それどころか、彼は仏陀の権威さえをも「殺さねばならない」(▽)。そして、さらに、あらゆる二元論と対立図式とを乗り越える必要のゆえに、涅槃〔Nirvana〕と輪廻〔Samsara〕の対立さえも否定しなければならないのである(*)。

* 阿部、op. cit., p. 9. 同様の判断が久松によっても下されている(次に引用されることになる滝沢克己の講演を参照のこと)。

△ 禅で言われる「殺仏殺祖」のことでしょう。キリスト教徒にとってはキリストという「超越的リアリティ」が自己の究極的な根拠となるのに対して、仏教徒にとっては本来の自己と区別された意味でのブッダも祖師も、そのような意味での(客観的)根拠ではないということを意味しています。確かにそこに両宗教の相違があります。

以上のような過激な在り方はおそらく禅宗にのみあてはまるもので、阿弥陀如来を強調する浄土真宗はこれとは違ったイメージを提供しているかもしれない。読者のなかには、あのカール・バルトでさえこの浄土真宗とプロテスタント的な信仰義認の教えとのあいだの類似性に衝撃を受けたのであった、ということを思い出している方があるかもしれない(*1)。しかしながら、現代日本の著名なキリスト教神学者滝沢克己は、最近、以上の点に関する仏教の二つの伝統のあいだの差異をことさら強調する傾向にたいして警告を発している(*2)。滝沢の議論は、親鸞が見る阿弥陀如来は信仰者の自我にたいして何かまったき他者のごとき存在でないということであり、他方、禅の冥想の修業は、道元によれば、個人の自我のわざというよりは、その個人のうちに働く唯一にして真なる法〔Dharma〕のなすわざと考えられていた、ということである。この解釈に従えば、禅宗も浄土真宗も主体と客体の二元論の両側面を否定しているということによって、仏教の原理に忠誠を保っているということになろう。しかし、それでは、キリスト教はどうであろうか。とくにルター派的な形態において、キリスト教信仰は、信仰者の自我を超越した、他者なるイエス・キリストと神のリアリティを強調し主張しているのではないか。われわれは、ここで、二つの宗教の根本的な構造的差異に触れているのではないか。すなわち、キリスト者は超越的な神を信じるのにたいして、仏教徒の究極的知恵は空〔Sunyata〕であるということが、その根本的差異ではないか。

*1 Karl Barth, Kirchliche Dogmatik, 1/2, pp. 372ff. [カール・バルト著、吉永正義訳『教会教義学』、「神の言葉」U/2、神の啓示〈下〉(新教出版社、一九七六年)、二六一頁以下]

*2 滝沢克己“The Power of the Other and the Power of the Self in Buddhism as Compared to Christianity”(未刊行講演、1977

△ 著者は仏教からキリスト教への挑戦を真っ向から受け止めようとしています。

しかし、この点で、早計な判断を下さないことがきわめて重要なことのように思われる。阿部正雄は以前の論文のなかで次のことを認めていた。すなわち、神のリアリティということに関しては、キリスト教においてさえ、単純で未分化な客観主義といったものは何ら存在しないということである。彼はとくに主イエスの告知において「神の国は単純に超越的なものではなく」、むしろ「内在的であると同時に超越的でもある」ということに気づいていた。神の国はすでに現在のものでありながら、なお未来のものでもあるからである(*)。キリスト教神学者はこの仏教学者の観察をただ承認することができるだけである。彼のこの観察は、神ご自身は神の国から分離されえないという事実を顧慮するとき、さらに重みを増してくる。この真理契機はすでに、神に関して客観化して思考する言語は過誤に陥りやすい、というブルトマンの命題においても現われていた。しかし、また、他方で、主観主義も避けられるべきであるとすれば、人は次のことをたえず念頭に置きつつ、なお神に関する客観的言語でもって始めなければならないのである。つまり、それは、ここで考えられているリアリティとは、主体を無思慮に排除してしまうような単純な客観主義を凌駕するようなリアリティである、ということである。

* 阿部正雄 God, Emptiness, and the True Selfin: The Eastern Buddhist, 4 (1969), pp. 15-29. 引用はp. 20 から。

△ ここで「神ご自身は神の国から分離されえないという事実」と言われていることは、確かに重要です。神は神の場と切り離して考えることはできません。主語が述語においてあるように、神を世界から自立した超越的絶対者と考えることに、そもそも無理があったのです。私自身、キリスト教の影響で、宗教哲学の根幹にあるものは「超越的実在の存在了解」であると見なしてきましたが、「主体を無思慮に排除してしまうような単純な客観主義を凌駕するようなリアリティ」とはどういうことであるか、よく考えて見る必要を感じます。それは、「われわれの外に、キリストにあって」とは、果たしてどういうことであるのかを、さらに考えるということをも意味するでしょう。

阿部正雄は次の点にも気づいていた。すなわち、神の国の使信のうちに現われていたのと同じような構造がキリスト論のうちにも識別できるということである。受肉の教理は神の単純なる他者性の否定ということを表現しているものであって、その結果、キリストは「宗教的超越をさえ超越する」象徴となっている。このことは、阿部によれば、大乗仏教における輪廻に対立するものとしての涅槃の否定ということに比較しうることである。さて、阿部はキリスト論的教理からキリストの人格へと翻って、キリストに関するあの有名なパウロの句に言及する。すなわち、キリスト・イエスは「おのれをむなしうして僕のかたちをと」られたというピリピ人への手紙二章七節の箇所である。彼はこの句を、十七世紀のルター派の神学者たちがしたように、イエス・キリストの歴史的人格にたいして「謙卑による」自己否定〔“kenoticself-abnegation〕という観念を帰することによって解釈する。そう解釈することによって、彼は、ピリピ人への手紙二章のあの自己空虚化の行為は、受肉の出来事における神的ロゴスの行為であって、それがイエス・キリストの歴史的人格の本質を形造っているのだ、とする近代的釈義の主張に対抗する。阿部によれば、この句は「イエス・キリストは、死に至るまでも自己を空しくする、あるいは否定することによって、肉となられた神なのであられる」ことを示す句である。そして、「イエス・キリストにおいて内在的なものと超越的なものとが同一的となった」のは、この謙卑による自己否定をとおしてなのであるから、仏教徒さえもキリストを「究極的なリアリティのキリスト教的象徴」とよぶことができるのである。にもかかわらず、阿部の判断によれば、イエス・キリストにあってのみこの逆説的な統一がただ一回かぎり歴史の内部で実現されたとするキリスト教の主張こそ、キリスト教と仏教とを分かつ一点である。その点からして、阿部は、キリスト教にはいぜんとして一種の客観化する思考が残っている、と結論する。なぜなら、「キリストと信仰者のあいだの関係は二元論的である(*)」から、というのである。

* 阿部“Man and Nature,p. 21.

△ 覚の構造とされるものを歴史的なイエス・キリストの人格に帰し、しかもそれは神の受肉として一回限り、あのイエス・キリストにおいてのみ生起したことであると主張するキリスト教は、私に言わせれば象徴の実体化・差別化、すなわち「客観化」に固執します。キリスト教にとってイエス・キリストは「人となった〈神〉」なのです。なおピリピ人への手紙第二章の6-11節は「キリスト賛歌」と言われ、その言葉は教会の典礼の中で定期的に用いられていたものであろうとされています。その箇所は以下の通りです。なお「十字架の死に至るまで」(8節)など、若干、パウロ自身が手を加えた箇所があるのではないかと議論されています。「キリスト賛歌」はいわば古代教会の信仰告白です。

6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9それゆえに、神は彼を高く引く上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。』

ここで、われわれはふたたびルターに立ち戻ろう。というのは、彼のキリストの自己否定に関する思想は、キリスト教にたいする仏教の側からの洞察と共感とに満ちた批判もなお検討を要することを示唆してくれるからである。ルターによれば、キリストはみずからに神の裁きを引き受けることにおいて、キリスト者がキリストとの交わりを享受するために歩まねばならない自己否定の道の模範を先立って示されたのである。かくして、信仰者はキリストに倣って神との交わりをもつのである。すなわち、自分への裁きにおいてなお自分を義としてくださる神に出会い、この神と交わるのである。しかし、このキリスト者の自己否定が起こるのは、ルターによれば、信仰の行為においてなのである。それゆえ、キリストと信仰者とのあいだの関係は、阿部が考えるように、二元論的なものではない。むしろ反対に、その関係は、信仰者の側においてはキリストとの〈一致〉〔conformity〕によって性格づけられており、イエス・キリストの側においては自己を与える愛の奉仕によって性格づけられている。二つのことは対応しているのである。そして、信仰者個々人は他者との関係においてもキリストの愛にみずから参与することがなければキリストとの一致を保ちつづけていくことができないのであるが、そのことのゆえにまた、キリストと信仰者たちの一致は信仰者たちの共同体としての教会をも包摂するのである。この一致がキリストのからだとしての教会を描き出すことのなかで表わされているのである。たしかに、これは単純で未分化な統一ではない。父なる神よりの使命と裁きを受けることにおいて主イエスが自己自身を父なる神から峻別されたように、信仰者もまた主イエスよりの召命と約束を受け入れることにおいて自分自身を主イエスから峻別するのである。しかし、まさにこのような自己弁明のゆえにこそ、父と子による交わりがあるのであり、またイエス・キリストと信仰者たちの交わりがあるのである。

△ キリスト教における「イエス・キリスト」は、ルター的な見地に立てば、仏教からの批判(客観化する信仰であって、かつ二元論的である)を受け止めつつ、なお前に進んでいくことができる根拠(模範)であるとされます。そこには、子の父との峻別、信仰者のキリストとの峻別(自己弁明=自己弁別)があり、それゆえにこそ可能とされる交わりがあるとされます。著者によればそれは二元論ではなく、峻別において、それにも拘わらず可能とされる「一致」にこそ、キリスト教の強調点があるということでしょう。

以上のごとき考察は、当然、ルター自身の表面に表わされた言説を越えてさらに前進する。すなわち、ルターの言葉をそのまま繰り返すだけでは十分ではないし、また、それらを歴史的見地から捉え直してみるのでも十分ではないであろう。ルターの言説の背後にある内的構造を一般化する仕方で解釈し直すことが肝腎なのである。とくに初期の著作や講義に表明されているルターのキリスト論的言説は、キリストの謙遜〔humility〕を信仰者たちの謙遜と密接に結びつける点で、大方の中世神学とは相違していた。そして、そのような謙遜の記述から信仰者のキリストとの霊的一致への洞察が起こってきたのであり、この一致への洞察がルターの信仰義認の教えにとって根本的であったのである。そういうわけで、ルター神学はイエス・キリストとキリスト者たちの共同体との二元論的な関係の概念を展開するものではない。もちろん、そこには区別の要素が存在するが、しかし、それも包括的な統一性のなかへと統合されていくのである。キリスト教思想史において、この区別と統一の相互内在〔interpenetration〕を取り扱う究極的な場〔locus〕が、三位一体論であった。ルターは三一論の組織的な再構成を試みはしなかったが、しかし、彼が三一論を救済史から分離しようとする傾向にはなかったことは明白である。むしろ、彼はこれら二つの主題を結びつけようとした。そして、そのような視野に立つとき、以上の区別と統一をめぐる人間学的諸相およびキリスト論的諸相はそれらを統合する最も大きな枠組のうちへと包括されていくのである。それが三一論なのであるが、キリスト教はある種の二元論ではないかとの嫌疑をめぐるキリスト教と仏教の論争もここで決着がつけられねばならない。仏教の側からの批判にキリスト教が耐えうるのは、ただ、三一論が創造と救済史から切り離されずに展開され、さらに、いかにして神と世界は、区別されるのであるが、にもかかわらず分離されることがないのであるか、という問いへの答えとして詳述される場合のみなのである。人間の真正なる自己の探求ということから人間学的なレヴェルにおいて始められたキリスト教と仏教との対話は、人間はいかにして自己同一性を達成しうるかという問いに伴って、主体と客体、自我と世界といった二項的なものの差異を超越する必要が導入されるや否や、究極的なリアリティの本質をめぐる討論においてのみ、その決着へと達することができるのである。

△ 神と世界、さらに主体と客体、自我と世界といった二項対立を越えるために、三一論が要請され、しかもそれは創造および救済史と切り離されずに展開されるべきものであると、著者は神学者としての構想を述べます。この点に関しては、きわめて伝統的な枠組の中で、なおその現代的な可能性を探求しようとする姿勢が堅持されています。その上で、究極的なリアリティの本質が問われることになります。

けれども、たとい以上のようであったとしても、キリスト教と仏教という二つの宗教のあいだの差異はなおいっそうの解明を必要とするであろう。仮に。キリスト教の見方は二元論的なものとして捉えられてはならない、ということを承認する物わかりのよい仏教徒がいたとしても、彼はいぜんとして、キリスト教はなぜかくも熱心にイエス・キリストという一人の歴史的人物の唯一無比性〔uniquness〕にこだわるのか、不思議に思いつづけるであろう。阿部正雄はこの差異に触れて次のように言う。すなわち、信仰の行為による [信仰者と]「究極的リアリティとしてのキリストとの同一化」が「キリスト教信仰の真髄である。これにたいして、禅の本質は、キリストや仏陀との同一化ではなく、空との同一化なのである(*)」と。

* Ibid., p. 22.

△ なぜ熱心に「イエス・キリストという一人の歴史的人物の唯一無比性〔uniquness〕にこだわるのか」という問いに対しては、それがキリスト教の伝統だから、と答える以外に適切な回答は見出されないのではないでしょうか。受肉の教義、また三位一体論の教義がなければ、キリスト者がイエス・キリストにこだわる理由も見出されなくなるでしょう。しかしそれらは「聖書の神話に枠づけられた思惟」であり、かつキリスト教の「個性」ではあっても、キリスト教という宗教の「唯一無比性」の証拠ではありません。

この点で、キリスト教徒は該博な仏教学者にたいして次の質問をもって彼のキリスト教批判を逆に仏教そのものに差し向けたくなるのである。その質問とは、空それ自体も二元論的な観念ではないのか、ということである。さて、この質問は一方で単純素朴な形と、他方でより洗練された形をとりうる。単純素朴な質問のほうは、悟りを開いた生活とそうでない生活の表面的な違いを問うところから始まるが、これはその違いを涅槃と輪廻との概念的相違と混同してしまうのである。それでこの類の問いは具体的には次のように問うであろう。すなわち、賢者たちの知恵や賢者たちの涅槃はいぜんとして輪廻の世界すなわちすべてが現われ出ては消えてゆくはかない世界に対立するものではないのか、と。ここで、思慮の足りない質問者はただちに次のことを思い出さねばならない。すなわち、涅槃と輪廻の対立でさえも、それは否定さるべき二元論であって、その場合、涅槃は輪廻と表裏一体をなしており、そして「空」とはまさにこの表裏一体そのものを意味するのであって、日常生活的な輪廻の世界に対峙するもう一つのリアリティではない、ということである。そこで、次に、より洗練された形の質問が出てくることになるのであるが、これは否定の運動それ自体を問うことになる。つまり、それは、否定の運動というものは不可避的に、新しい段階ごとにもう一つ別の対立を生み出しはしないか、と問うのである(*)。まずはじめに、生成と消滅の世界が経験的自我もろとも否定される。そして、涅槃がこの自我と輪廻の二元性に対峙するものとして結果する。次に涅槃それ自体が輪廻に対峙するものとして否定され、空が結果する。しかし、この空の観念も涅槃と輪廻の二元性に対峙させられ、そのことによって、また新しい二元論の形態を生み出しはしないであろうか。すなわち、輪廻の世界において悟りを開いた生活とそうでない生活の二元論があったが、そのまた新しい形態を生み出しはしないであろうか。たといその二元論が次の段階で克服されたとしても、否定の運動それ自体が順繰りにまた新しい対立を生み出していくように思われるのである。

* この疑問はTai Dong Han の論文“Meditation Process in Cultural Interaction. A Search or Dialogue Between Christianity and Buddhism”(刊行場所・時期とも不明)によって提起されている。

△ 著者は、キリスト教はなぜ「イエス・キリストという一人の歴史的人物の唯一無比性〔uniquness〕にこだわるのか」という問いにここでは直接に答えず、仏教もまた「二元論的」ではないのかという反論をもって、阿部が提起した問題にアプローチしようとします。色即是空、空即是色の仏教の哲理は実際のところ二元論的ではないのかという指摘は、「柳は緑、花は紅」という、悟りの後の境地は一体何を意味しているのかと問うことでもあります。しかし次に見るように、著者はそこにある種のリアリティの体験があるのではないかと考えます。二元論的な無限の循環を断ち切るリアリティのことです。

このような二元論的対立の循環作用は、消極的なものを否定する積極的な意味がただ人間的な水準で捉えられ、人間的な省察の産物として出てくるとき、不可避のことのように見える。では、そのような循環作用が止揚されるのはどのようなときか。積極的なものによる消極的なものの否定がわれわれを、われわれを越えたところにもち運ぶ心奪われる狂気〔rapture〕の出来事として捉えられるとき、はじめて、あの二元論的対立は克服されるのである。ルターは信仰という霊的な出来事をそのように思い描いたのであった。しかし、そのとき、このような出来事はある種の行為の現実(アクティヴィティ)を開示しないであろうか。すなわち、われわれを圧倒するようなとてつもない一つの行為的現実である。もし、それが真相であるとすれば、そのときにはすでに、ある神的リアリティの観念が――すなわち、われわれをそのように圧倒する経験のなかで捕えるような神的リアリティの観念が、取り込まれているのである。大乗仏教の歴史それ自体が次のことを示している。すなわち、消極的なものを否定するなかで現われてくる積極的なリアリティをさらにまた否定してかかるという絶え間のない否定の道は、それからの脱皮がなされるや否や、ただちに神的リアリティへの洞察が入り込んでくるのである、ということである。

△ 仏教徒は「神的リアリティ」とは言わないでしょう。しかし悟りには心の奥底からの歓喜が伴うということを否定する仏教徒はいないでしょう。否定の道(via negativa)は、単なる否定を意味するのではなく、大いなる肯定に通じているということを、著者はここで言おうとしているのだと思われます。

キリスト教においては、有限な生に突入してこれに積極的な現実性(アクチュアリティ)を与える神的秘義は人間の存在を「肯定するもの」として見られている。それは、神が具体的な個々の人間存在を「肯定」したまい、しかもそれを何らか永遠につながるような仕方でなしたもう、ということを意味する。これがルターが約束の言葉〔the Word of Promise〕と呼んだところのものである。これによって彼は神が被造世界にたいして保っておられる関係を一言で言い表わしたのであった。神により圧倒的な仕方で自分の存在が肯定されるというこの経験については多くのことが言われねばならないであろうが、そのうちごくわずかに言及するとすれば以下の点がある。まず第一に、この経験は、神的なあの絶対的リアリティはある意味で行為 [活動] 的(アクティブ)であり、したがって人格的であるというにとどまらず、信頼に足るような何かである、ということを含蓄している。つまり、それはちょうど放蕩息子を優しく迎えたあの愛に満ちた父のイメージを彷彿とさせるようなものなのである。第二に、有限な人間存在を圧倒的に肯定してくれるものとしての神的リアリティを自覚するということは、イエス・キリストにおける神の臨在が決定的であるということを含蓄するだけではなく、イエス・キリストの場合と同じような仕方で、すべての個人の生に含まれる歴史的に唯一無比なるものがいかに重要なものとされるのか、ということをも含蓄しているのである。その重要さは、個人の存在の決定的な将来が覚えられ、それへの希望が生み出されるというところまで、高まっていく。すなわち、あの神的肯定は、すべての個人はこの世の有限な状況を乗り越えて死人からの復活が与えられ、さらに新しき天と地が与えられるという希望を賦与してくれるのである。こういうわけであるから、仏教徒たちを戸惑わせ、わからなくさせているところのキリスト教信仰の奇妙さの何がしかを説明してくれるのは、神の肯定的な性格にたいするキリスト者の感覚である、と言ってよいのではないか思われる。奇妙さとは固有性ということであるが、その真骨頂がイエス・キリストの歴史的人格の唯一無比性・重要性の強調である。そして、このことは歴史的なもの一般へのキリスト教的な肯定的評価の脈絡のなかで理解されねばならない。そこでは、歴史的な特殊性や個性の一つびとつにたいして、それにふさわしい顧慮が払われるのである。

△ ここで著者は漸くあの「キリスト教はなぜかくも熱心にイエス・キリストという一人の歴史的人物の唯一無比性〔uniquness〕にこだわるのか」という問いへの答えを提示しています。人間の「否定媒介」は神の「原初肯定」に達するためであり、神の現存(臨在)はイエスにおいて決定的であること、そしてそれと同じような仕方で、「すべての個人の生に含まれる歴史的に唯一無比なるもの」が重要なものとされるのだと、初めて著者はここで、神的リアリティが信頼に足るものだとしつつ、「イエス・キリストの歴史的人格の唯一無比性・重要性」を強調します。このような議論の立て方は必ずしも「受肉」の教義を、文字通りの意味で、前提しなくても可能であり、仮にイエスを仏陀と置き換えても同様の言い方はできます。しかしこの世に対する積極的肯定的関わりという点に関しては、著者の言う「神的リアリティ」の方が、「空」よりも適合していると思われます。

生の現実にたいするキリスト教的肯定と大乗仏教的態度との差異は、とくにキリスト教の終末論的希望という点で、明白になってくるように思われる。キリスト教的肯定は、はかない輪廻の世界の現実を受け入れるだけでなく、同時に、死とはかなさを共に克服する究極的な勝利を目指すのである。キリスト教的肯定は変革する気概によって特徴づけられているのであり、この変革への力強さが終末論的希望においてと同時にキリスト教倫理においても前面に押し出されてくるのである。自然界において人間に与えられた特別の位置も、あるいは、将来において救済を約束された全被造物のなかの最高の存在としての人間の格別な位置づけ(ローマ八・一九以下)も、いずれもこの世界が神の栄光のうちに入れられ、変えられていくということへのキリスト教的な待望との関連で理解されるべきなのである。

△ 終末論は、賀川豊彦が終始問い続けた「この宇宙には目的があるのか」という問いに関わるものとして考えるべきことのように思われます。それは進化論とも密接に関わってくる問題です。ローマ人への手紙第八章の18-25節を引用すれば以下の通りです。

18わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。19被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。20なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、21かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。22実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。23それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。24わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。25もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。」

早くはユダヤ教の伝統において行われていたことであるが、キリスト教においてとくに人間の罪とまた罪深い状態への強い指摘がなされてきたのも、まさにこの変革への衝動のゆえであった。罪とは、神の栄光への変革の精神に抗するすべての事物に共通する公分母のことである。個々の人間はこの世においてその人物なりの固有な仕方でかの変革の精神を実践するようにと召し出されているのであり、彼の内面にはその精神すなわち霊(スピリット)が宿っているのであるが、罪はこれに抵抗してくるのである。それゆえ、死の滅ぼす力と共に、苦難や病いや罪が打ち負かされねばならない。否、他のすべてのものに先駆けて、何よりも罪が克服されねばならないのである。いま述べたことによって、なぜ罪ということが伝統的なキリスト教的敬虔においては重要な位置を占めてきたのか、見当がつくであろう。さらに、以上のことを踏まえれば、キリスト教的な精神 [] の肯定的性格も人間の罪深い在り方への憂鬱なほどの心配がなされるときには、いつでも消滅させられていってしまうものである、ということにも納得がいくであろう。自己の罪深さへの過剰な思い悩みは、自分は罪人です、と告白することで解決されるとする態度は、これまた一種の歪んだ自己義認の態度であることが覚えられねばならない。

△ ここで著者は「キリスト教的肯定」の精神(スピリット)に於て、「罪とは、神の栄光への変革の精神に抗するすべての事物に共通する公分母のことである」と言います。その肯定の精神は、自分自身のうちにあるというよりは、「外から」与えられるものであって、そこにキリスト教の信仰があるということでしょう。

われわれは、ここで、以上のようなキリスト教的精神 [] の歪曲がもたらすさまざまな場合の問題を取り扱う必要はないであろう。次のように言うことで十分ではなかろうか。すなわち、罪の教理はその本来の形においてはキリスト教の肯定的な使信の随伴物として現われてくるものである、ということである。なぜなら、その肯定は変革への志向を含んでおり、そのために時間的・歴史的プロセスを認め授ける肯定であるからである。このことが、また、被造物にたいする神の肯定の使信が人間にもたらす解放やアイデンティティはただ信仰によってのみ占有されるということの理由でもある。しかし、信仰によるならば、そのような肯定もそれがもたらす喜びも、いま、ここで、信じる者のうちに確かとなるのである。キリスト教において信仰の観念がこのように顕著な重要性をもつわけは、あの神の人間にたいする肯定が変革的な、したがって、歴史的な性格をもっているという点にある。そういうわけで、人間のアイデンティティすなわち真正なる自己は、ルターが言ったように、キリストにあってわれわれ自身の外側で実現されるのである。そして、このことがわれわれに開き示す視野のゆえに、キリスト教の教えのうちには、人間が窮境に陥るときに経験する自己喪失や非本来性の感覚の解釈が含まれているのである。この解釈は、かくして、真正なる自己を追い求める個人の歴史に照明を与えることができる。そのさい、さきにも述べたように、真正なる自己は、尋ね求められつつも、すでにその自己探求の過程のなかで何らかの仕方で存在しているのである。

△ 通例、キリスト教では「神の忍耐」と言われていることを、著者は「時間的・歴史的プロセスを認め授ける肯定」と言っています(「認め授ける」とは、許し与えるという程の意味なのでしょう)。しかし「真正なる自己は、尋ね求められつつも、すでにその自己探求の過程のなかで何らかの仕方で存在している」と言われているのは、「神的リアリティ」の告知者、イエス・キリスト(の教会における現存)が想定されているのだと思われます。だからそれが「われわれの外に、キリストにあって」ということにつながるのでしょう。信仰が神の肯定の使信を受け止めることを可能にし、変革の展望を与えるとされる限りで、著者の言明はあくまでも「神学的」であって、それ以外のものではありません。

キリスト教と仏教との対話にたいしてルター的伝統がなす貢献とは、どのようなものであろうか。その最も根本的な貢献は、それが人間の経験的自我による自己肯定への批判ということにおいて仏教と軌を一にしている点に認められるべきであろう。しかし、ルター的伝統は、そのような批判ということ以上に、人間の真正なる自己同一性はいかにしてキリストへの信仰によって内実化されるのであるかということについて、もっと積極的なイメージを提供してくれるのである。伝統的なキリスト教の教えにたいする仏教の側からの批判にたいしては、次のことを指摘することで返答できるように思われる。すなわち、キリスト教におけるキリストの強調は、人間存在にたいする究極的リアリティの衝迫に関するキリスト教的な捉え方を要約するものとしての、あの変革的肯定という主題に属しているのだということである。ルターの信仰義認の教理が教えているのは、神の愛による人間変革的肯定ということ以外の何物でもない。キリスト教の教えをそのように説明するならば、そのとき、それは大乗仏教の教えとの関係を樹立する。後者は輪廻の世界――それは人間の自我をも含むものである――の否定からさらに進んで涅槃と輪廻の対立の否定にまで及んだ。そして、その結果、移ろいやすい輪廻の世界の只中でなお自由にされた存在としての空の教えが導き出されたのであった。キリストを信じる信仰によって義とされるというルターの教えは、有限な存在にたいするあのようなキリスト教的な肯定を明確に発言するように促してくれるものである。この点が仏教と違っている点である。他方、人間の自我の経験についての仏教の奥深い教えは、キリスト者(とくにルター派のキリスト者)にたいして、罪と悔悛的敬虔の強調過剰を克服する道を教えてくれるであろう。これが従来ずっとキリスト教の福音、すなわち〈良き音信〉〔euangelion〕を歪曲し、それがもたらす喜びと明朗さと熱心さとをそれから奪ってきたのである。敬虔主義の伝統が言うように、すべての個人はみずからに正直であればかならずや直接的な自覚のなかで、自分は罪人である、と認めるものである、と言うことは正しくない。そうではなく、むしろ、われわれの自己というものについてのキリスト教的な理解を基礎として見た場合、われわれがなしたある行動の構造を罪深きものとして認めるのは、ただうしろを振り返って見る仕方においてのみなのである。

△ キリスト者が感じるであろう「衝迫」、神的リアリティの迫りというべきものを、全く理解できないわけではありません。それがある人をキリスト者にしているという面があるかもしれません。著者は「キリスト教におけるキリストの強調は、人間存在にたいする究極的リアリティの衝迫に関するキリスト教的な捉え方を要約するものとしての、あの変革的肯定という主題に属している」と言います。確かにそれは仏教にはないものでしょう。その感覚が何を意味しているのかを明確に説明することはできません。しかしそれが究極的なリアリティに触れるものであり、人間の自己同一性にも関わっているということは、確かにその通りなのではないかと思われます。ただしそれは果たして伝統的なキリスト教の教えなのでしょうか。著者は、ルター派のという限定を設けてもいますが、ルター派に「変革的肯定」という主題が鮮明に掲げられているでしょうか。著者にはかつてカール・バルトを捉えたのと同じような「衝迫」があるのでしょう。著者はそこからキリスト教を捉えているのであって、それこそがルター派の伝統(信仰義認論)にも結びつくと考えているようです。仏教との対話も、結局はそこに立ち戻ることによって、仏教のキリスト教への貢献を認めながら、それとの違いを強調しています。それは構造の問題であるというよりも、感覚の問題です。「衝迫」は緊迫感であると言えるでしょう。キリスト教の霊性というものがあるとすれば、それは動的であって、仏教がしばしばその印象を与えるような静的なものではない、とも言えます。「有限な存在に対するあのようなキリスト教的な肯定」という言葉が意味するものは、福音(良き音信)の響きであると言い換えることもできるでしょう。「われわれの外で、キリストにあって」というあのルターの言葉から著者が引き出しているものは、その響きを聞き分ける耳を持てということでもあるでしょう。しかしそれはもはや「キリスト教」とか「ルター派」とかいう限定を越えた、何かもっと根本的な事態と言うべきものではないかとも思われます。


Y キリスト教という神話 その1

今日、最もラディカルにキリスト教を批判する人の一人として思い浮かぶのは、アメリカのバートン・L・マックです。それに比べれば、小沢一郎民主党幹事長のキリスト教批判などはまことに手ぬるいと言うべきでしょう。ここではマックの「社会理論」を瞥見するため、『キリスト教という神話 起源・論理・遺産』(松田直成訳、青土社、2003年)の中から、第U部の「社会理論の形成」を取り上げたいと思います。第U部は4章の「宗教の解明 社会的関心の理論」と、5章の「キリスト教徒による神話創作の解明 社会的論理の理論」から成っています。宗教を社会的関心の視座から解明することがその主眼です。その視座から見えるものは、キリスト教に対する全く別の風景です(5章)。

4 宗教の解明 社会的関心の理論

私がここで展開しようと思うのは、奇跡や神の介在を頼みとすることなく、キリスト教の起源を説明できるような宗教理論である。現在、一般に受け容れられている宗教の定義、すなわち、宗教とは、信仰と類型化された儀式の体系、それも、個々の人間が霊的な実在の超越的秩序と接触することを可能にするような体系に他ならない、という考えでは、そうした説明は不可能である。しかし、社会的な宗教理論は、神話創作の活動や儀式的慣習をも含めて、キリスト教の起源を説明することができる。ただし、その際、これらの人々の社会的、および知的な努力の傾注は、人間のあらゆる社会形成に共通する社会的関心が形を変えたものと見なさなければならない。このような理論を受け容れるためには、問題の焦点を大きくずらす必要があろう。なぜなら、一般的な見方によれば、宗教は、人間の事業を規定する他の構造とは異なり、人間が作ったものから、言い換えると、人間の社会的な活動と社会的な関心から生じたものではない、とされているからである。宗教は、社会的な関心、および活動の独自で特別な類型であり、神々の世界に関係し、神的なものと接触したいという個々人の願いに結びついている。それに対して、社会理論が提示する説明は、神々への信仰を必要とせず、個人的な宗教体験への斟酌を出発点とはしない。言い換えると、自然的、かつ社会的な世界を超越した霊的実在の秩序を前提とはしない。社会理論が手掛かりとするのは、民族学の文書と人類学という学問であり、宗教を人間が作ったもの、すなわち、人間が自分たちの社会を組織するために作り出したその他の体系、言い換えると、記号や類型化された慣習の体系と同等のものと見なす。

△ 宗教は超越的(霊的)な実在の存在了解に関わるという解釈学的存在論の視座から、問題の焦点を大きくずらして、集合的理性の形成過程という類型論的構造論(社会哲学)へと移行することは、私自身の関心事の一つでもあります(「哲学の区分」参照)。宗教の社会的側面を顧みなければ、宗教の一面しか見ていないというそしりを免れないでしょう。そこから見ればキリスト教もまた人類学や社会学の研究対象となります。

私が心に描いている社会理論は、三つの概念を含んでいる。第一には、社会的関心という概念である。私がこの概念を展開できるのは、人間のあらゆる社会を作っている記号や類型化された慣習の体系を観察することによってである。第二の概念は、社会的な構築物としての宗教ということになろう。この概念は、想像に難くないだろう。何故なら、宗教的慣習を一般の人々が目にするのは、すべて社会の中で行なわれる祭式においてであり、社会、および宗教に関する研究が我々に教えるところによれば、宗教は社会的、文化的な形態から影響を受け、また逆に影響を及ぼすからでもある。第三の概念は、少々説明し難いものであるが、理論にとって重要な意味を持っている。それは何かというと、社会的関心としての宗教という概念であり、それによって私が言いたいのは、宗教とは社会的関心から生まれるものであるということ、および、その機能は、人間の社会を形作っている記号や類型化された慣習などのその他の体系とまったく同じ様に、社会的関心を保持し、操作するところにある、ということである。この章では、そうした理論の概略について述べていこうと思う。そして、次章では、この理論を用いて、キリスト教の起源に関する一つの解釈を提示することになろう。

△ ここで下線(訳文では傍点)を引いた三つのことは、いわば弁証法的な(あるいは、三分肢的な)構成を取っています。記号や類型化された慣習の体系に関わる「社会的関心」が一方にあり、他方には社会的な構築物の一つとしての「宗教」があります。その総合として「社会的関心としての宗教」という第三の概念が立てられます。以下、順にその説明がなされます。それがこの章の目的です。

社会的関心の理論

われわれのこの時代、他の国々や民族に関する知識の追求は、民族学的資料の豊かな宝庫を作り出した。こうして蓄積された資料は余りにも膨大であり、スミソニアン協会ナショナル・ジオグラフィック誌など、記述的報告の収集と吸収に打ち込んだ組織でさえ、そのすべてを網羅するには至っていない。それは、種々雑多な社会的体制の中に住んでいる人々についての多彩で素晴らしいコラージュであり、その結果、研究者が他の様々な文化を理解しようとしたとき、我々のそうした文化への陶酔は、しばしば驚きへと変じた。最初、我々は、彼らと我々との違いに注目し、彼らには、歴史といった概念や、批判的思索といった能力が欠けていると考え、あたかも、彼らが、世界の偉大な文明という歴史的発展の背後に取り残され、人間の進化のはるか以前の段階を象徴しているかのように見なし、そうした人々の多くを、「原始的」とか「部族的」、あるいは「土着的」などと呼んだ。しかし、一連の画期的研究が現れ、徐々にではあるが、我々の考えは変わってきた。そして、我々は、あらゆる人間の社会が、驚くほどに複雑な社会的論理の体系であり、驚嘆すべき思いやりと知的営みが投入されることによって作られ、維持されているということを、最終的に認めなければならなくなった。次に挙げるのは、こうした発見の簡単なリストである。

△ 私が「集合的理性」と呼ぶことを、著者は「社会的論理」と言います。それは民族によって多彩であり、驚くほど複雑です。西欧の人々は、民族学や人類学の発展によって、遂に自らの宗教と文化を相対化して見るようになったということが、ここに明瞭に語られています。以下は、著者が掲げる、それらの発見の中の顕著な例です。

「通過儀礼」の社会的重要性(アルノルト・ファン・ヘネップ、一九〇八年)

「トーテム信仰」の社会的意味(エミール・デュルケム、一九一二年)

古代の交換システムにおける「贈与」と「義務」の概念(マルセル・モース、一九二四年)

文化に対する言語の構造的関係(フランツ・ボアズ、一九四〇年)

基礎的な技術に特徴的な予測のために必要とされる知能(ブロニスラフ・マリノフスキー、一九四八年)

三区分的社会構造の論理とその神話(ジョルジュ・デュメジル、一九四八年)

親族関係の論理と社会構造(クロード・レヴィ‐ストロース、一九四九年)

社会組織、思想、および神話における二元的分類体系の論理(クロード・レヴィ‐ストロース、一九六二年)

社会形成の過程に対する儀式の関係(ヴィクター・ターナー、一九六七年)

都市の起源の要因としての興行と展示(ポール・ホイートリー、一九七一年)

共有された想像的世界(ハビトゥス)の社会的重要性、およびそのような世界と現実の社会的行動パターンとのギャップが有する機能(ピエール・ブルデュー、一九七二年)

社会的行動と文化的象徴の解釈にとって、国家や言語、血縁関係に対するある民族の見方が有する重要性(クリフォード・ギアツ、一九七三年)

社会組織と村落の方位設定にとって、地理的、および天文学的な予測が有する重要性(アケ・ハルトクランツ、一九七九年)

神話形成と儀式の実践における知的な要素、および社会の組織構造に対するその重要性(ジョナサン・Z・スミス、一九八七年)

こうした研究が進められる中で、記号や行動パターンに関する数多くの体系が見出され、分析された。現在、文化人類学は、これらの体系が社会を構成する要因であることを、当然のここと考えている。このリストに含まれているのは、言語や親族関係の制度、分類の体系(しばしば、自然的、および人工的対象を対にしながら二つの差異の体系へと区分する)、テリトリーの地図化、社会的アイデンティティの区別、技術と生産、社会的組織と役割分担、暦法の体系、行動の規律、調整、行儀作法、そして教育、等々であり、これらのものが、社会的な組織の中で人々が共に生きることを可能にする。この中に含まれているものは、すべて、他のものがなければ機能しない。これらは、一緒になって相互に関連しながら、人間の社会を構成している機構の複雑な体系を形作っている。これらは、すべて、ある時期にある一人の人間によって作られたわけではないが、人間が作ったものであり、人間の集団の膨大な知的営為を費やすことがなければ、どれ一つとして成立しえない。これらはすべて、「文法」として働く。すなわち、それらは、何らかの能力にとっての潜在的な論理と規則を与えるのであるが、しかし、規則を規則として意識的に習得することを要求することはない。また、それらは、すべて、最も基本的な生物学的生存にとって不可欠なものではない。これが何を意味するかというと、人間の社会を作り出し、維持していくための活力を、何らかの「ニーズ」に対する必然的な反応として説明することはできない、言い換えると、心理学的な動機づけという観点からでは説明できない、ということである。よく見られる「カロリー分配」、「生物学的ニーズ」、「取得本能」、「攻撃性」、「種の保存」、等々への言及だけでは、人間の社会を構成する複雑な記号のシステム、あるいは、社会形成の過程、および、それらを熟知するために必要な教育といったものを説明するのに、十分ではない。

△ 個々の社会は、社会を構成するための機構の複雑な体系(システム)を備えています。しかしそれらは意識的に形成されているという側面があるとしても、その基盤にあるものは「暗黙知」(tacit knowing)による習得です。「文法」は複雑なシステムですが、文法は文法として習得されるのではありません。母国語のなかに「棲み込んで」いる者は、暗黙のうちに、そのシステムのなかで言葉を使い、結果として文法に従って話すことができるようになります。同様に「親族関係の制度、分類の体系(しばしば、自然的、および人工的対象を対にしながら二つの差異の体系へと区分する)、テリトリーの地図化、社会的アイデンティティの区別、技術と生産、社会的組織と役割分担、暦法の体系、行動の規律、調整、行儀作法、そして教育」などの「規則」が、その社会固有のものとして形成されると共に、個々人によって習得されていきます。しかもそれらの複雑に絡み合ったシステムは、必ずしも生物としての人間の生存に必要だから存在するのではありません。

これらの研究、そして、その他の様々な研究がもたらしたあらゆる成果は、社会形成に対する人間の積極的関わりを根底から捉え直そうとするものだった。今や、記号とコード、および慣習の複雑な諸体系、そして、これらが人間社会の形成とその維持を可能にするのであるが、そのような諸体系の相互作用について推察することができる。これまで、これらの諸体系の多くが詳細に分析されて、そこに働く論理が解明され、社会的な機構や慣習に対する重要性が認識されてきた。これらの体系を作り上げ、維持するのに費やされた知的営為には、本当に感嘆すべきものがある。また、社会的組織体の中で共に生きるという虚弱な技能に傾注された過剰とも思えるほどの好奇心と実験、そして喜びも同様である。最初、これらの記号体系は、純粋に実用的な目的を持っていると思われた。例えば、子供を作り、食料を調達し、仕事の分担を割り当て、時間の流れを把握し、飼料を集め、報告を伝えるといった目的である。しかし、その後、そのような目的は、ただ実用的というだけではないことが、認識された。それらは、仕事を一緒に行ない、それらの仕事の遂行を興味深いものにするという関心を、既にその中に含んでいる。そこには、こうした知的体系の適用ということと密接に結びついた一種の反射作用が存在しているのであり、それによって、見た限りでは非実用的と思われる人間の関心が、ほとんど不可避的なものとなる。例えば、言語は、ただ単に実用的な事柄に関するコミュニケーションのためというだけではない。言語は、語り合うためのものであり、また、様々な出来事について解釈を与え、ある事柄を観察し、その結果を共有するためのもの、あるいは、報告を脚色し、皮肉を楽しみ、隠喩(メタファー)を用いて表現し、説得を試み、冗談を言うためのものでもある。親族関係の制度は、健康的な子供を保障するだけのものではない。それらは、アイデンティティを決定づけ、社会での居場所を割り当て、一族の変遷を知り、既に世を去った人々との関係を規定するものである。労働の配分は、単に為すべき仕事を得るためのものというだけではない。こうした社会的役割の割り当てによって、人々は色んな場所に移動し、様々な時代の様々な民族と接触しなければならないのであり、その結果、お互いに物語を語り合う機会を得、共に笑い、あるいは不平を言い、自己を誇示し、相手の要求を受け容れるようになる。栄光と恥辱というコードは、個々人の実績をランクづけする。暦法は、単に時間を知り、基本的な活動に最適な時季を知るためのものというだけではない。暦法は、これからの計画や事前処理、祝賀といった集団的活動を、自然なものと見えるようにする。このような適用は、社会的な関心を示すものと言えよう。また、社会形成という人間の事業が精巧、かつ興味深いものであるのは、人間が社会的組織の中で一緒に生活することに関心を持っているからだと考えられる。もし、そうであるならば、社会的関心というものを一つの概念として探求することを提案したい。

△ 人間に知性が与えられているということは、過剰な(あるいは余剰の)関心によって生きているということを意味しています。人間は想像力を持ち、笑うことを知っています。著者の言う「社会的関心」が、あるいは社会の中で生きているということが、人間を現にあるような人間にしています。様々な社会的コードが個々の人間を規定し、そこで人間は幸福を感じ、また不満を持ちます。著者はここで「社会的関心」についての説明を行ないます。いわばそれが人間社会の基底にあるものと見なされています。

社会的関心ということには、数多くの意味が含まれている。例を挙げると、(一)社会的組織体の中で一緒に生活することの社会的側面に対する関心、(二)一緒に生活する者たちに共有されている関心、(三)あらゆる人間的な出会い、すなわち社会活動の中で、すべての行為者に前提とされている関心、(四)社会的なものを社会的なものとして規定する接着剤として機能する関心、そして、(五)あらゆる人間的な交渉において当然のこととされている関心、等々である。社会的関心は、存在論化されたり、心理学化されてはならない。なぜ存在論化されるべきではないのかというと、社会的関心は、文化的な「メンタリティ」と同様、社会的な諸構造の中で一緒に生活する人々の間にのみ、存在するものである。それは、人々が社会的なものに抱いていた関心、共同生活の長い時間の中で培われ、磨かれてきた関心が作り出したもの、言い換えると、集団的な人間の創造物に他ならない。

△ 社会的関心は集団的な人間の創造物であって、それを社会生活から切り離して存在論化したり、心理学化してはならないと注意されています。それは社会生活を成り立たせる接着剤のようなものであって、社会的関心が共有されないところでは、人間は意味のある生活を送ることができないということでしょう。

社会的関心は、個人心理学から導き出される専門用語によって記述されることはできない。何故なら、社会的関心が機能するのは、社会的共同体がどのように働くかということについて、人々が共有している予期というレベルでのことだからである。個人的な関心と社会的な関心は、共に動機づけを意味する用語である。しかし、個人心理学においては、動機づけは個人的なものと考えられている。これは、集団的な動機づけの場合、ありえないことである。ある社会が、類型化された行為についてどのように「考え」、「同意する」か、また、あれこれの偶発事についてどのように「感じる」か、あるいは、物事を行なうためのより善い方法、ないしは次善の方法についてどのように「判断を下す」か、これらのことを表現する言語を、我々は持っていない。その代わりとして、我々は、社会的関心が人間の様々な社会組織との慣例となった交渉を浸透させていく仕方を把握するため、ある集団とその歴史を通して、相互認識を構成する無数の契機を思い描かなければならない。社会的関心は、社会組織を作り出し、それを維持する真の要因である。そして、また、社会的関心は、社会組織が作り出されたことの真の帰結でもある。それは、既に、既成のあらゆる社会組織において、相互認識や内省的なアイデンティティの原理、および、行動を抑制し、行為の動機づけを容認するための原理として、常に当然のこととみなされている。それは、行動のコードを強化し、好奇心を刺激し、作業を押し進め、笑いを許し、不条理を楽しむことを可能にし、優れた業績に対しては報いを示唆するように機能する。社会的関心は、個々人が独自に所有し、あるいは作り出すような何かではない。それは、共同的生活が持っている一つの力強い特徴である。人間社会の複雑な構造を説明するため、我々が思い描かなければならない長期に亘る集団的活動、そうした活動を駆り立ててきたのは、社会的関心だった。

△ 社会が「考え」たり、「同意し」たり、「感じ」たり、また「判断を下し」たりするのではありません。それは個人心理に属する用語です。しかし個人の判断に先立って社会的関心があるのであり、それが社会組織を作り出し、維持する要因であって、かつ社会組織が作り出されたことの帰結でもあると言われています。そのような形で社会的関心というものを提示した例を、私はほかに知りません。竹内敏晴はかつて「関係液」という言葉を使いましたが、人間は裸の個人として存在しているのではなく、既に何らかの形で社会的関心という関係液に浸っていると言えるかも知れません。またそれは日本語の世間という言葉が意味しているものに近いとも言えます。しかし世間は「世間に顔向けできない」という形で、禁制として働く場合が多いのですが、社会的関心には、もっと積極的な意味があると思われます。監視者であると同時に、形成者でもあるような、自明の、共有された、暗黙の意味空間が、おそらく「社会的関心」と言われているのでしょう。

こうして、我々人間は、共同的生活が持っているこのような特徴を、当然のことと考える。そして、このことが、これまでどうしてこのような特徴が概念化され、命名され、記述されることがなかったのか、ということの一つの理由でもある。いかなる個人にとっても、社会的関心は、社会に適応していく過程の中で与えられ、習得される。そして、他のあらゆる記号の体系を習得するときと同様、その人は社会的関心を巧みに使いこなす能力を身につける前に、文法を習得しておく必要はない。社会的関心が人間の動機づけの一部を成していることは、余りにも明らかであるため、ほとんど気づかれることさえないのである。「反‐社会的」な態度や行動が顕著に現れている場合でも、そこには社会的関心が前提とされていなければならない。しかし、もし、暫しの間立ち止まり、あらゆる社会的行動の根底にある事柄、すなわち、帰属や誘惑、抑制、疎外感といったことの意味について問いかけるならば、私が社会的関心と呼んでいるものは、容易に想像されるだろう。私が、もし、誕生日はもうすぐか、と尋ねられたら、私は「そうだ」と言うだろう。私が、もし、誕生日には家族や友人と一緒に過ごしたいか、と尋ねられたら、私は「もちろん」と言うだろう。しかし、もし、「どうして?」と尋ねられたら、私は恐らく「君はきっと冗談を言っている」といった類(たぐい)のことを言うだろう。我々には、明らかな事柄について尋ねるような習慣はない。しかし、ひとたび指摘されれば、明らかな事柄を認識するのに困難はないだろう。

△ 先ず社会的関心、あるいは、特定の社会の方向性(意味空間)というものがあって、それは「社会に適応していく過程の中で与えられ、習得され」ます。社会的コード、または「文法」はその過程で、知らず知らずのうちに身につくもので、外国語の学習のように初めに文法を習得しておく必要はありません。その社会の成員にとっては、それは自明のことであって、殊更それについて尋ねるまでもないことです。しかし何らかの理由でその自明のことが撹乱されたら、そのとき人は違和感や疎外感などを持つでしょう。帰国子女が学校でのいじめの対象になるのは、子どもたちの日常感覚(社会的関心)に「異物」が混入されるからです。彼らの「自明性」に問いが突きつけられるからです。また誕生日を親しい人たちと一緒に祝う習慣のない民族にとっては、どうして「誕生日には家族や友人と一緒に過ごしたいか」、おそらく理解することはできないでしょう。

社会的な構築物としての宗教

宗教的研究は、正当にも、我々が宗教と呼んでいる社会的、文化的な構築物の主要な現象、すなわち、神話と儀式に焦点を当ててきた。その他の宗教的な現象、例えば、聖職者や霊的治癒師、宗教施設、形式化された礼式、個人的宗教体験の様式、等々は、すべて、先に挙げた主要な宗教現象を精巧にし、加工したものとして理解されうる。加えて、儀式とは公共の祭式であり、神話は共有された物語であること、宗教的施設とは社会的な建造物であり、宗教的イメージはしばしば文化的象徴であること、これらのことも明らかである。そして、様々な宗教的関係の認識と文化的なアイデンティティは、往々にして重なり合い、宗教的な信念とイデオロギーは、社会的な影響を有するということ、これらのことが、研究者に共通の認識になってきた。多くの場合、我々に欠けているのは、宗教を社会的な構築物として記述し、理論化することである。我々は、まだ、宗教というものをその他の体系、すなわち、社会を構成する記号や行動様式などの体系の中に、どのように位置づけるべきかを知らない。そして、我々は、これまで、社会的な構造の中で宗教がどのように機能しているかについて、ほとんど問いかけたことがなかった。

△ 宗教の社会的機能という問題意識は、日本では1960年代後半の、あの学生運動が過激化した時期に多くの人たちによって追求されたものです。しかし歴史の中で時折そのような問いが「実践的」必要から発せられたとしても、それが十分に深められたとは言えない現状にあります。著者はそのような問いを「理論的」に追求する必要性を強調します。社会生活の一環としての宗教の理論的考察が求められます。なお著者は、従来の宗教研究が、神話と儀式(祭儀)に焦点を当ててきたことには同意しています。

このような現状には、多くの理由がある。第一に、一つの記号体系としての宗教は、世界というものを、実際に観察され、経験される社会的、経験的世界とは別のものとして記述するからである。もう一つの理由として、宗教的神話と儀式が投影する世界は、神的な行為者が活動する場所として思い描かれるからであり、その行為者は、神に影響を及ぼす人間の能力とは調和しない仕方で、人間の生活に影響を与えることができる。さらにもう一つの理由としては、現実とは異なるあの世界が、社会的な秩序に影響を与える仕方は、多くの場合、はっきりと観察できる影響というレベルではなく、想像的な内面化された諸契機というレベルで経験されるからである。そして、第四の理由は、学問的な宗教研究の歴史の中で、宗教は、常に、社会的な構築物としてではなく、超越的なものとの交流として規定されてきたからである。その結果、神秘や信仰、供犠の儀式といったことが、宗教にとって決定的な意味を持つと、常に考えられてきた。問いかけるべき問題とされるのは、ただ、こことは別の世界に住む神々の本性についてであり、神々と接触し、彼らを理解するために必要と考えられた啓示と体験、および、迷妄や迷信を克服するために必要な知恵、そして、儀式を通した神的なものとの交流は神秘的な操作であるという考え、等々だけだった。「これらの未開人は、どうしてそのような神を信じ、犠牲を捧げることができたのか?」これが、ここ二世紀に亘る学問的研究の根底にあった問題である。

△ 従来の宗教研究が、宗教というものをこの現実世界とは別次元の領域に関わるものと見なし、それは「社会的構築物」であるという視点を十分に働かせて来なかったことが、その理由と共に指摘されています。特定の宗教(キリスト教)を前提とし、それとの比較において他の宗教を研究するものである限り、そもそも宗教は、それ自体として、社会的な構築物であるという発想は生まれて来ないでしょう。「超越的なものとの交流」という、伝統的で強固な宗教観が、ともかく宗教研究の前提となってしまいます。

しかし、不十分な宗教理論(宗教とは、人間が超越的なものを体験する仕方である、という概念)に基づいて研究が進められていたにも拘わらず、社会的情況や特別な宗教的慣習の影響といったことが、しばしば研究者によって注目され、重要視されるようになった。既に気づいていることかもしれないが、私が先に触れた社会構造についての画期的な研究の多くは、宗教的慣習に焦点を当てていた。ファン・ヘネップの通過儀礼に関する研究は、儀式と、世代交代を経験した社会形態が再編されるときの批判的(▽)諸契機との密接な関係を明らかにした。エミール・デュルケームのトーテム信仰に関する研究は、宗教的献身、彼はそれを「聖化」と呼んだのであるが、そのような献身の対象は、間違いなく、社会の存続に特有な力ある者たちが活動すると思い描かれた場所である、という結論に達した。ヴィクター・ターナーのヌデング族の割礼の儀式に関する研究は、大人の世界へ加入するための儀式が、どの程度まで、アフリカの一社会にとって、別の時代のための栄誉と義務の体系に基づいて役割の分担を再編するための重要な祭式となるか、ということを説明した。そして、動物の生け贄の起源とその意味に関するジョナサン・Z・スミスの注目すべき論文は、この儀式の意図は、その社会が牧畜に没頭していることへの批判的反省を可能にするためであることを証明した。動物が家畜化される以前には、そのような儀式を記録で確認することができない(一九八六)。

△ ここでの「批判的」は「危機的」とされるべきでしょう。宗教的儀式の社会的な意味についての実証的な研究は、儀式形態が多様であっても、それは「人間が超越的なものを体験する仕方」であると言って片づけられないものがあることを示しています。

同様に、神話学に典型的は一群のテーマを列挙し、これまで論じてきた一連の社会的関心との類似性について言及することも可能であろう。どちらの分野も、祖先や系譜、親族関係、テリトリー、発見と発明、行動のためのコード、栄誉と恥辱、達成と失敗、社会的役割の割り当てとその機能、先例を打ち立てる出来事、悪しき行動の帰結、物事を正しく行なったことへの報い、他の民族との関係、等々といったテーマに触れている。例えば、神話的な出来事と暦法上の予測、そして儀式的な祝典が、ときとして分かち難く結びついていることは、容易に明示することができる。同じことは、神話の英雄や王の特徴づけに対しても言えるのであり、そうした特徴づけは現実の社会的役割にとっての礼儀作法(▽)とも密接に結びついている。族長の伝説は親族関係の系譜と密接に関連させることができるし、創造の神話はテリトリーの地図化とオーバーラップする、等々。こうして、文化人類学者の間では、次のような一般的合意が成立している。すなわち、神話と儀式は、その他の記号や行動様式の体系と同様、人間の社会を構成する機能を有する、という合意である。民族誌学者は、ある社会を記述するためには、神話や儀式について記述することなしでは不可能である、ということを見出していた。しかし、我々はまだ、神話や儀式が有する特別な影響について説明する方法を、持っていない。かくして、今、我々が問う必要があるのは、次のような問題である。(一)他の様々な記号体系が、社会の実用的な活動を生み出し、維持するために十分に機能しているとすれば、一体なぜ宗教が存在するのか。(二)もし、宗教が社会の実用的な活動を増進するのであれば、宗教は他のシステムが為しえないどんなことを行なうのか。そして、(三)もし、宗教が社会の形成と維持において特別な役割を持っているとすれば、宗教はどのように機能しているのか。

△ ここでの「礼儀作法(マナー)」は「儀礼」とでもすべきことでしょう。現在の天皇が行なう個々の儀礼は、神話的伝統行事と結びついていて、天皇が日本国民統合の「象徴」であることの社会的役割を具現するものとされています。またローマ教皇(法王)はペテロ以来の使徒権の継承者であるという神話的伝承に基づき、全世界のカトリック教徒を代表する人として、種々の儀礼を行っています。神話と祭儀とはこのように不可分であって、その働きが人間の社会生活の根幹にあるものとされてきました。しかしどうしてそのようなことが成り立つのでしょうか。「我々はまだ、神話や儀式が有する特別な影響について説明する方法を、持っていない」と著者は言い、上の三つの問いを提出しています。


Z キリスト教という神話 その2

社会的関心としての宗教

人間の社会を構成するその他の記号や行動様式の体系と比較するとき、神話と儀式の体系には、三つのはっきりとした特徴が見られる。(一)神話と儀式が注意を集中させるのは、実際の日常生活とは遠く離れた時代や空間に設定された世界の人物や出来事である。(二)神話と儀式は、そうした想像の世界に住む人物や出来事について、誇張した記述を行なうが、それは、そのような人物や出来事が、それらの対照物、言い換えると、現実の経験世界の人物や出来事とは異なっていることを際立たせるような仕方によってである。(三)神話と儀式は、想像の世界に置かれた行為者、多くの場合、強力な力を有する行為者であるが、彼らの意図や行為がいかなるものかを強調する。要するに、想像の世界と空想的な記述、強力な行為者、である。我々は、これら三つの特徴が、日常体験や経験的観察、確証の入手といった限界を越え、想像力を拡張することに言及することによって、それらの特徴を理論的に利用することができる。我々が求める解答を与えてくれるのは、こうした想像の世界と社会的経験から成り立っている日常生活との関係だからである。

△ 神話と儀式という想像の世界と、社会的経験から成り立っている日常生活との関係に問題の焦点があるということが指摘されます。

神話と儀式が、普通の意味での時間と空間の地平をどのようにして拡張するのかということに関しては、いくつかの所見を述べることができる。神話の舞台は過去に設定されるのであり、ときによれば、それは「昔あるとき(ワンス・アポン・ア・タイム)」であり、また、ときによると、世界の端緒のときやそれ以前のときもある。儀式は、まさに今行なわれる行為であるが、日常からは明確に区別された場所においてである。これが何を意味するのかというと、信頼しうるものの外的限界を統御する地平は、想像しうるあらゆる時間、および空間と同様な広大さを持っているのかもしれない、ということである。

△ 人間は「今、ここ」という限定された場所で生きています。しかしその「信頼しうるものの外的限界を統御する地平」は、想像力の翼に乗って、広大な時空へと拡がってゆきます。人間は「社会的経験から成り立っている日常生活」にだけ生きてきたのではないということでしょう。子どもの精神世界がよくそれを示しています。サンタクロースは本当にプレゼントを携えて、子どもたちのところにやってきます。

ごく普通で日常的な時間と空間の経験にこのように操作を施す論理は、ジョナサン・Z・スミスによって解明された。スミスによれば、儀式は、ごく普通の活動を日常の普通の場所から遠ざけ、それをはっきりと区別された場所で凝縮して行なう。注目を引くのは、活動の「完全な実践」と慣習的な実践の区別、日常への批判的な反省への誘いである。神話は、「今」と「あのとき」との対照を際立たせる。ごく普通の人物も、神話的な過去へ置き入れられると、驚異的な特徴を身に帯びる。以前の時代に設定された行為者や出来事への近づき難さを強調し、同時に、日常的な体制への思慮深い反省に訴えるような仕方で、両者の違いに注意が引きつけられる。そのとき、神話と儀式は、ごく普通のことに生産的な批判的考えを向けるため、時間と空間に対する一般的な受け止め方に対して、意図的に操作を加える。神話と儀式は、比較を持ち込み、批判的な反省を生み出すような観点から違いを際立たせることによって、そうしたことを行なう。神話では、様々な特徴の不可能と思われるような組み合わせをたった一人の人物に集中させることによって、恐らくはこれまで探究されたことがないような、独特な社会的権力の形態に、考えを強く集中させることができる。儀式の場合には、日常的には普通の活動がゆっくりと行なわれて、非常に短い瞬間的な時間へと分解され、従って、時間は静かに停止し、空間は別の世界のようになる。こうして、神話と儀式は、ごく普通の対象を脅威的な背景の中に置き、驚異的な人物をごく普通の背景の中に置きいれることによって、想像力を働かせようと意図しているように見える。神話と儀式は、どちらも、過去の長い時間と広大な空間を様々な人物や出来事で満たしているのであるが、それらは遥か遠く離れたこととはいえ、想像力にとってはまさに現存しているのであり、現実の生活と何らかの関係を持っている。それ故、我々は次のように言うことができよう。すなわち、経験世界と想像の世界との対照は、現実の様々な側面、それも想像の世界と対照されることがなければ気づかれることがないような側面への反省を促すだけではなく、そうした想像的世界に住んでいる奇妙で興味深い人物によって魅惑に捕らわれたような情況を生み出す。ピエール・ブルデューは、我々に、この拡張された世界が有する重要性を教え、それに対して「ハビトゥス」という名称を与えた。すなわち、ある民族の集団的な合意が内在している想像の世界ということである。

△ 日本語の「ハレ」と「ケ」という言葉が示すように、祭りにおいては、日常的な時間と空間を越える世界が現出します。私の言う「脱空間」(「社会空間論としての宗教」参照)という空間が現出し、経験世界と想像の世界との比較を持ち込み、批判的な反省を生み出します。

それでは、ある民族はどうしてそのようなことをしようと思うのだろうか。もし、社会形成の過程が、何かその当時の原因や誘因を引き合いに出すことでは説明できない社会的関心や影響を生み出し、それを利用するようになったのだとしたら、どうだろうか。もし、ある民族が、いかなる世代にとってであれ、共に彼らの生活を支配する様々な構造が、既に存在していることを知ったとしたら、どうだろうか。もし、人間の社会に帰属するということが、ただ単に、自由意志による結びつきというのではなく、その人の行為よりも前に様々な情況によって準備されていた世界の中へ入っていくことでもあるとしたら、どうだろうか。そのときには、社会形成の中で生きている自分自身を説明しようという試みは、観察が可能な知られうる境界を越えて押し進んでいくことを必要とするだろう。例えば、自分がある民族に帰属していることの意味を反省しているときなどは、そうした事例であろうし、また、その土地への特殊な感情的傾向を共有していること、家系への献身的愛着を受け入れ、それを際立たせて尊重すること、その人の影響が、単に生物学的な血統という観点からでは説明できないような祖先への記憶を培うこと、世界の「宇宙的」かつ自然的な配置、そして、それが、活動のペースや方向を決定するのであるが、そのような世界の配置に驚嘆すること、判断や解釈、そして「記憶」が沸き立つような仕方で、他の人の考え方からの抑圧を経験すること、仕事のランクづけと割り当てのための理由を探し求めること、報告や計画、問いかけ、好奇心、冗談、そして知的業績がそこに置き入れられ、上手く処理されるような、共有された想像の世界に気づくこと、そして、贈与と義務の効果について思いをめぐらすこと、等々の意味を反省しているときも、そうした事例ということになろう。神話と儀式は、人間が社会の複雑性を認める仕方であり、社会的な規定を日常的な世界の外に置くことによって、それを行なう。たとえ、そうした規定への反省を日常性へと投げ返すような仕方で、それらを修正している間でさえも。

△ 神話と儀式は、人間の世界の種々の事例に対して、「日常的な世界の外」からの物語を導入し、その物語を儀式化して、時空を超えた説明を試みます。そこに想像の世界という異空間が現出します。またそこには人間の物語能力(narrative competence)が介入しています。そしてあのサンタクロースのように空想と現実との混交が生じてきます。

さて、人間の社会を構成する他の体系から派生した関心が、神話や儀式の世界に置き入れられると、奇妙なことが起きる。我々は、既に、神話に典型的な様々な主題が、こうした社会的関心に対応していることを指摘した。親族関係や分類、暦法、テリトリー、生産、等々は、すべてこの中に含まれる。しかし、神話的なモードに含まれているこうした主題に関して注目すべきことは、それらが神話の昔あるときに移し入れられると、主題の変容を引き起こすということである。一つの体系としての親族関係への関心は、系譜や家系への関心に変わる。自分たちのテリトリーの地図化は、しばしば、世界創造を叙述するものへと変形される。生産の技術は、発見と発明、あるいは最初に行なわれたときの物語として思い描かれる。教育は、空想上の過去に設定された模範的な物語の形を取る。そして、社会的構造の既成性は、起源の物語、すなわち、族長や権力者、そして、疑いを寄せ付けぬ権威ある者が慣例を確立する物語によって説明される。こうして、想像の世界は、現実の社会的な世界の中に実際に見出される外観を反映してはいないし、ある集団の自然環境や、その洗練された人工的加工物ほど美しいわけではなく、官能的でも、精緻でも、そして、魅惑的でもない。神話の世界は、一方では、通常の理解をはるかに越えるほど巨大であり、他方では、鏡として役立たせるには余りにも異様である。こうした空想的特徴を説明することはできるのだろうか。

△ この段落の雑多な記述を理解するために、旧新約聖書のいくつかの箇所を思い出してみることも有益でしょう。例えば、十戒(律法)はモーセという「疑いを寄せ付けぬ権威ある者が慣例を確立する物語」によって与えられましたし、イエスの「親族関係への関心は、系譜や家系への関心に変わ」り、マタイ福音書第一章には、アブラハムを始祖とするその系図が示されています。また日本の神話に目を転ずれば、古事記にはイザナキが黄泉の国に下ったときの話のように、「鏡として役立たせるには余りにも異様」な物語も記されています。著者は「こうした空想的特徴を説明する」ことを試みます。

神話の世界が空想的な様相を呈するのは、数多くの社会的な有力者や特徴を想像上の人物や行為者の契機へと圧縮した結果である。神話の世界では、社会的世界の認識可能な特徴が誇張され、奇妙な様相へと集中され、数人の行為者の中に分配され、争いの中で設定され、変容された物語の様々な契機の中で見出されるようにされる。私は、既に、人間の社会を構成する記号と行動様式の複雑な体系が、個人としての行為者によって作られたものではないことを述べた。しかし、行為者の特性が、そこに出現し、生起する事柄の主要な様態であり、行為者は、我々が目的をある出来事に帰せしめることを知る唯一の手段である。もし、ある民族が、自分たちの社会構造を目的と意図を有するものと考えたいときには、神話的な契機や行為者が思い描かれることになったであろう。そして、しばしば、それらの行為者は、一人の人間として思い描かれたのであり、その行為者には、実際の人間ならたとえ誰であろうとできないし、できたはずがないような社会的情況を確立することでさえ、可能だった。その際、この拡張された想像的世界に居住する行為者が奇妙に見えるのは、何ら驚くべきことではない。というのは、彼らは、社会的な役割を代表する人物という行為者、そして、ある社会を一つの全体としてまとめ上げる有力者として、想像されているからである。任意の世代が現れたとき、既に定着している社会的配置を説明するため、一人の祖先となる人間から出発し、先祖たちの記憶から作られた数多くの物語を、象徴的な祖先というただ一つの形態へ凝縮し、その後、何らかの時間の始まりやそれに先立つ背景、そして体制樹立の挿話を付け加える、そのようなことを考えてみよう。そのときには、どのようにしてそれに結末を与える(▽)のだろうか。実際よりもずっと大人物に描き出された祖先や超人的英雄、あるいは神々によって、結末を与えることになる。これは、社会的な構造、それも、いかなる個人であれ、責任ある創造者、ないしは設立者として名を挙げ、思い描かれることができないような社会的構造についても、同様である。文化をもたらし、法を与え、体制を確立し、大地を創造したのは、どのような行為者であろうか。あるいは、間違いや過ち、悪ふざけやいたずら、そして、思わぬものの発見などが生じる社会的、文化的体系、そのような体系に含まれるあらゆる小さな欠陥に対しても責を負うべき「人物」とは、どのような行為者であろうか。まさにこうした問題を問うことが、慣れ親しんだ神話的人物の登場を促すのである。

△ 結末を与えるというのは、「決着をつける」という意味でしょう。発端とされたもの、神々や英雄を、実際よりもずっと大きく描き出すことによって、神話は決着をつけます。その意味で神話は原因譚であり、人間の知性の曙です。神話は想像力を掻き立て、人間を取り巻く様々な世界を駆け巡ります。人間はとても話好きであり、「ストーリー・テラー」です。その上、古代人は「科学的制約」、「定理」、「法則」を知りませんでした。

このように、神話的世界は、社会的世界の完全な反映ではありえない。同時に、神話的世界は、社会的な秩序が絶えず比較されるべき理想的社会を描き出すものでもない。一つの民族の想像的世界は、雑多な複合体であり、人物像の強烈さや明晰さを異にし、本質的に別種のイメージから構成されている。神話の世界は、ダイナミックな社会構造の中で社会的関係や活動を上手く処理するために必要な活力を抑制することはない。とはいえ、それは、新たな概念や行動が生まれようとするとき、それらを受け容れられるかどうかの限界を与えることになるかもしれない。社会や文化が安定している情況では、社会的世界と神話的な壮麗さとのギャップは、遊びや実験、思慮深い熟慮のための余裕を作り出すものとして、また同時に、ちょっぴり人を騙したり、目配せをしたり、〈そして/あるいは〉お互いに仕事へと招き合うものとして、考えられるかもしれない。しかし、人間が活動する劇場のための空間と背景を作り出すことは、神話的な天蓋の唯一の機能ではない。それは、また、そこに登場する様々な人物の配置が再構造化されることを可能にするコラージュのように見なされるかもしれない。社会や文化が変化するような情況では、神話の世界は、イデオロギーの優位のために戦う戦場ともなりうる。というのは、神話の世界内部の様々な象徴が、作り変えられることもありえるからである。それらの象徴は、伝統的なやり方や価値を擁護するために際立たせられることもあれば、社会の変化を招こうと考え直され、再編される仕方や価値を擁護するために、際立たせられることもある。

△ キリスト教や天皇制のことを考えればわかるように、それをなお固く支持し信奉する人たちがいる限り、神話の働きは決して過去のことではありません。社会的な変化の中で、「神話の世界は、イデオロギーの優位のために戦う戦場ともなりうる」し、「社会の変化を招こうと考え直され、再編される仕方や価値を擁護するために、際立たせられることも」あります。いずれにしても、人間はまだ神話の世界から脱却してはいません。

これが何を意味するかというと、神話と儀式を、社会的な関心や実用的な関心とは対照的な「宗教的」関心を培う活動と考えてはならない、ということである。神話と儀式は、人間社会の拡張された慣習(ハビトゥス)がその中で認識され、記憶され、操作され、優劣を競い合うための契機である。それ故、宗教は、人間の社会を構成する諸体系の単なる部分や一要素ではなく、他の記号や行動様式の体系を本質的に拡張することこそ、その特徴的な機能であると思われる。これが何を意味するかといえば、神話と儀式は、単に社会的関心によって生み出されるものというだけではなく、社会が継続的に維持されていく中で、社会的関心がそこで形作られ、批判され、思索され続けていくための契機でもある、ということである。

△ 著者は「宗教は、人間の社会を構成する諸体系の単なる部分や一要素ではなく、他の記号や行動様式の体系を本質的に拡張することこそ、その特徴的な機能であると思われる」という宗教観を提示します。それに続けて、「これが何を意味するかといえば、神話と儀式は、単に社会的関心によって生み出されるものというだけではなく、社会が継続的に維持されていく中で、社会的関心がそこで形作られ、批判され、思索され続けていくための契機でもある」と述べます。仮に国家神道が、日本人が信ずべき宗教であり、日本の「社会が継続的に維持されていく中で、社会的関心がそこで形作られ、批判され、思索され続けていくための契機でもある」と言われたら、どれだけの日本人がそれに賛同するでしょうか。また仮に神道は宗教ではなく、日本人であれば誰もが尊重すべき「慣習(ハビトゥス)」であり「儀式」であると言われたら、どれだけの日本人が喜んでそれに従うでしょうか。それは、事実、戦前の国家によって主張されたことで、神社参拝は日本国民が遵守すべき儀式(儀礼)と見なされて強制され、またそれは宗教的行為ではないという判断によって、信教の自由と両立するものとされました。それは正しい判断であったと言えるのでしょうか。著者は神話と儀式を宗教と同一視しています。そしてそこに重大な社会的関心(social concern)がからんでいるということを指摘しています。

私は、古代のある儀式について叙述することで、締め括りとしたい。その儀式とは、神話の操作を含み、族長の土地を代々引き継いでいくことを保障するために機能するものである。儀式の様式は、時代と文化の違いに応じて、多少異なっている。しかし、それは、古代の近東やレヴァント(▽)、そして、地中海周辺に住む諸民族の間に広く行き渡っていたと思われる。ギリシアには数多くの証拠があり、ミノア文明から古典期を経てヘレニズム時代に至るまでの慣習が、文書に残されている。しかし、ウガリットから出土したラス・シャムラの石版は、後のヘブライ語やアラム語の文献と並んで、我々に次のようなことを語ってくれる。それは、この儀式が、北部のセム族やイスラエルの文化の中で、少なくとも紀元前第二千年期の半ば頃からローマ時代に至るまで行なわれていた、ということである。ギリシア史やギリシア文化の研究者は、この儀式を供犠、ないしは英雄を祀る祭儀と呼んでいる。しかし、これらの用語は、以前の研究者の議論、それも、初期キリスト教徒の慣習と比較する上で重要と考えられた儀式の、あるいくつかの側面だけに焦点を当てた議論に由来する意味あいを含んでいる。その後、我々は、供犠祭儀という用語をギリシアの儀式に適用するときには、取り扱いをより注意深くしなければならないことを学んだ。例えば、ギリシア人は、供犠に当たるギリシア語の「テュシア」という用語を、特別な祝祭や記念式典など、あらゆる祭典を言い表すため、それも、日常的な普通の食事の一部ではなく、それとは違った肉料理を含む宴会が用意されている祝祭と記念式典などの祭典を言い表すために用いたのである。近東の古代末期を研究する学者は、「マルゼア」と名付けられ、ウガリットで行なわれていた儀式に言及する。そして、このマルゼアは、弔いの儀式と密接に関連づけられていたため、旧約聖書学者は、ときによると「死者の祭儀」という用語を用いることもあったが、これは、最近まで、聖書学の世界では否定的な意味合いを持つ用語だった。そのことは、イスラエルにそのような「祭儀」は存在しないと考えられ、そのように言われることが多かったことからも分かる。しかし、我々は、今、より深い理解を得ている。

△ レヴァントとは地中海東部沿岸地方のヨーロッパ名。フランスでは委任統治領時代のシリア・レバノンをこの名称で呼び、また、以前、地中海経由で行なわれた東方貿易をレヴァント貿易といった。⇒本来はフランス語で「日ののぼる地」の意。つまり東方のこと(学研『新世紀大辞典』)。ここで著者が持ち出している儀式は、「古代の近東やレヴァント、そして、地中海周辺に住む諸民族の間に広く行き渡っていた」もので、ウガリットでは、マルゼアと名づけられていたものだということが、初めに提起されています。

ギリシアでは、儀式はその地方の英雄の墓所で行なわれた。そして、この英雄という用語は、その地域の指導的家族の最も早い時代の祖先、ないし始祖となった祖先を指して用いられたのである。英雄について書かれた古代ギリシアの膨大な物語や歌、文献などの宝庫を介して知ることができるように、彼ら英雄の果たすべき社会的、文化的役割はまったく当然のことと考えられていたため、想像的な潤色を加えた彼らの冒険譚は、祝祭や娯楽、教育のための様々な文学を生み出し、さらには、寓話的な物語や哲学的論文さえも生み出した。儀式は、動物を犠牲に捧げた食事から成っていて、その地域に住んでいる人々が招待された。多くの場合、英雄の墓は、ワインを受けるための裂け目がある円形の平坦な石で覆われているのであるが、様々な供物がその墓で奉納された。このような物質を介した元気回復の行為は、ギリシア人が、英雄を代表とする祖先の伝承から恩義を受け、そうした伝承と結びついているという意識を確認する仕方だった。動物が焼かれるために準備されているとき、その中のいくつかの部位は、神に捧げる行為として火に投げ入れられた。しかし、残りの肉と食べ物とワインは、人々が宴会のときに飲み食いした。ギリシアの供犠や宴会についての一般的な叙述から判断すると、それは、物語が語られ、歌が歌われ、人々が交流し、そしてワインを飲むための大きな祭典だった。

人々は、その地域の階層秩序(ヒエラルキー)を反映した地位に応じて、役割を引き受け、給仕を受けた。指導的家族の家長は、自分の財産の中から犠牲を準備した。たとえ、火を焚いたり、動物を殺して焼いたり、食事の準備をするといった汚い仕事をやるのは、間違いなく奴隷だったに違いないとしても、ギリシア人の言い方では、その家長が犠牲を「捧げた」人、あるいは「与えた」人ということになる。そして、家長は、自分の息子たちの一人に、彼と共に犠牲を捧げることを求めるのが習慣だった。ブラウン大学のスタンリー・スタウアズが驚嘆し、研究に値すると考えたのは、供犠のこうした側面である。彼が見出したことは、儀式に含まれている社会的機能を読み解く上での重要な手掛かりである。家長が「自分と共に犠牲を捧げる」ように息子を招くのは、財産を所有する指導者が、正当な相続人を選択したことを公表するための方法だった。それは、いわば、彼の意志、そして遺言だったのであり、法的な契約として機能した。もし兄弟間で、財産を相続し、家族の財政を管理する息子の権利を争うようなことが起きた場合、その息子に必要とされたのは、「父親と一緒に犠牲を捧げた」という事実の証人だけだった。こうして、儀式は、その地域の階層秩序の頂点をなす家族の中での継続を保障し、それによって過去と未来を繋ぐための祭典だった。それは、また、同席すべきあらゆる神々への招待と共に、その地域の英雄の記憶に集中させられるため、その地域一帯の社会構造を再構成することになる。

△ 著者は、一転して、ギリシアの儀式に話題を移し、それが「世継ぎ」のための祭式であったことに注目します。

レヴァントのマルゼアの証拠となるものは、そんなに数多くあるわけではなく、明瞭でも、説明的でもない。私は、クレアモント神学校のウガリット語‐ヘブライ語対応関係プロジェクトの指導者であったローレン・フィッシャーに助言を求めたことがあったが、彼は親切にも、草稿段階の「創世記」の新訳を私に見せてくれた。この翻訳への序文の中で、フィッシャーは、儀式について説明し、関連する文献に言及している。それによると、「マルゼアに集う人々」や彼らの宴会、そして彼らの指導者について触れたいくつかの文献がある。他の文献では、マルゼアが、弔いのための儀式的な宴会と説明されている。ウガリットから出土したいわゆるレパイム文書の中では、神々がマルゼアで宴会に列している様子が描写されている。さらに、他の文献の中でも、祖先に宴会への列席を訴えることを含んだ弔いの祭儀について、いくつかの特徴が示唆されている。私が興味深いと思ったのは、これらの特徴である。というのは、それらは我々に、次のことを教えてくれるからである。すなわち、生きている者の世界から死者の世界への移行は、我々が普通は神々と結びつけるイメージへと行き着くような描写の転換を生み出す、ということである。ある地域や部族、ないしは小王国の族長が死んだときには、息子たちや他の指導的立場にある者たちが、マルゼアのために集まる。祖先の霊が列席するように呼ばれ、死去した族長の名も呼ばれるのであるが、それは、まだ生きている者に彼らの祝福を与えるためである。祝福は、人々の一般的な幸福のためであるが、なかでも、族長の息子たちのために為される。何故なら、今度は彼らが息子を持ち、次の世代への保障を与えることになるからである。

△ ここでも「世継ぎ」に弔いの祭儀の焦点が置かれています。

私の興味をそそったのは、死者の霊に関するこのような考えである。族長は、例えば、フィッシャーの翻訳にはっきりと示されているのであるが、「創世記」四八・一五〜一六(▽1)における呼びかけと祝福に見られるように、個人名を用いて呼ばれる。まさに、ヨセフとヨセフの息子たちを祝福するため、ヤコブが彼の先祖であるアブラハムとイサクの神に呼びかけたように、彼はヨセフに、世代の継続を保障し、彼らを偉大な民族にするための祝福を受けるため、アブラハムとイサクの名に加えて自分の名も呼ぶように命じた。しかし、一つの集合体としての死者の霊は、ときにはレパイム、ときにはエロヒムのように、複数形の名称を用いて呼ばれることもあった。エロヒムとは、我々が「神」と理解し、そのように訳しているものを言い表すため、ヘブライ語の聖書では最も多く用いられている用語である。そして、それは、たった今言及したヤコブとヨセフの祝福にも現れる用語である。この用語は、複数形ではあるが、普通は、単一の実体を仮定している文法構造の中で用いられる。しかし、フィッシャーの翻訳の中で強調されていることだが、いくつかの例外がある。私はまだ、ヘブライ語版聖書における単一の神的な行為者というエロヒムの概念が族長たちの霊としてのエロヒムという概念と関連しているに違いないと論じた人を、誰一人として知らないが、マルゼアの儀式は、間違いなく、我々がどうしてこうしたことが起こりえたのかを理解する上で、助けとなるであろう。我々は、エロヒムが一つの集合体としての祖先たちの霊に対する包括的な用語である、ということを知っている。我々は、また、特定の部族や家族の族長が、たとえ、祖先の霊の集合体であるレパイム、そしてエロヒムの中にも数え入れられることがあろうと、彼らは名前で記憶されていた、ということを知っている。そして、名付けられたこれらの族長たちに関して言うと、我々は、単一の人物が個人として物語られているが、しかし、彼は一つの集合体として理解されていた、ということを知っている。それぞれの人物は、全体としての一民族を凝縮した象徴となっていたのである。ときによると、エロヒム、すなわち「神」による祝福の中でイスラエルという名前、つまり種族の名称を与えられたヤコブの物語(創世記三五・一〇、▽2)といった事例の中に、個人から集団的な特徴づけへの精神的移行を認めることができる。また、ある民族の種族名が、一つの名前として取り扱われ、一人の人間として物語られるようになる、ということも起こりえた。例えば、「アダム」はそうした事例であり、この言葉は、単に「人間」や「人類」を意味する。こうした抽象化の方法、すなわち、一人の人間によって一つの社会的実体を象徴するという仕方は、古代近東の思想に特徴的で非常に重要な知的様式である。もし、そうであれば、我々がユダヤ‐キリスト教的伝統と呼ぶことになったものにおける神の概念は、古代近東の神話と儀式、すなわち、族長と王が名付けられることのない死者の仲間入りをする神話と儀式に起源を有する、そのように考えてよいように思われる。もし、そうであれば、マルゼアは、社会的関心としての宗教に関する理論を最もよく説明し、それによって最もよく説明されるだろう。我々が「神々」と呼んできたものは、行為者をある民族の祖先に帰属させる神話的形態ということになろう。そのときには、我々が単数形の神と呼んだものを、集合的抽象化の擬人化された形態として、説明することができるだろう(▽3)。

△1 創世記48:15−16 そしてヨセフを祝福して言った、「わが先祖アブラハムとイサクの仕えた神、生れてからきょうまでわたしを養われた神、すべての災からわたしをあがなわれたみ使よ、この子供たちを祝福してください。またわが名と先祖アブラハムとイサクの名とが、彼らによって唱えられますように、また彼らが地の上にふえひろがりますように」。

△2 創世記35:10 神は彼に言われた、「あなたの名はヤコブである。しかしあなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」。こうして彼をイスラエルと名づけられた。

△3 著者は、地中海東方沿岸地域におけるマルゼアの儀式という「公分母」に着目し、祖先の霊の集合体が単数の神となったという仮説を提示します。マルゼアの儀式は日本で言えばさしずめ「大嘗祭」でしょう。それは「世継ぎ」の儀式であり、神々と祖先の霊の祝福を祈るものです。著者はそれが「社会的関心としての宗教」に関する理論を最もよく説明するものであると言います。そのとき、「社会的関心」とは世代交代の中でも持続する特定社会のアイデンティティに対する関心である、と言ってもよいでしょう。唯一の神を聖書に基づいて信じるユダヤ‐キリスト教の伝統の中で、「単一の神的な行為者というエロヒムの概念が族長たちの霊としてのエロヒムという概念と関連しているに違いないと論じた人を、誰一人として知らない」と言われているのは、ある意味で無理からぬことですが、その言葉は同時に著者のラディカルさを示しています。そのような「社会的関心としての宗教」が、いつまでこの世界を覆い続けるのでしょうか。ともあれ、「それぞれの人物は、全体としての一民族を凝縮した象徴となっていた」ということが、必ずしも、過去形では語れないこの日本にあって、この論文には大変示唆深いものがあります。


[ キリスト教という神話 その3

5 キリスト教徒による神話創作の解明 社会的論理の理論

宗教の社会理論を検討することは、確かに難しいことである。しかし、キリスト教の起源を説明するために必要とされ、かつ入手可能な資料にその理論を適用することよりは、はるかに易しい。キリスト教の起源に関する伝統的な考えを破棄すべき理由は、容易に理解されうる。しかし、社会的関心の理論に基づいてキリスト教の起源を書き直すためには、ほとんど手引きが存在しないような一連の問題を取り出し、問いを発する必要がある。キリスト教神話の社会的論理を分析するためには、初期キリスト教の社会形成に関して根底から考え直す必要がある。しかし、今や、史的イエスの探求は、キリスト教の起源を説明するのに十分ではなく、また、ルカの筋書きと結びつけられた発展史的な見方は、もはや維持しうるものではないため、研究者にとって、さらに前進を続ける以外、残された道は存在しない。前進しなければ、古い神秘的なものを説明保留のまま放置することになる。

△ ここで著者は「社会的関心の理論に基づいてキリスト教の起源を書き直すためには、ほとんど手引きが存在しないような一連の問題を取り出し、問いを発する必要がある」と言い、さらに前進するほかはないと果敢に宣言します。しかしそれは「研究者」の孤独な問題意識であって、現在も大多数のキリスト教徒の与り知ることではありません。

新約の文書に反映された初期キリスト教徒の諸集団における社会的、イデオロギー的多様性については、既に指摘されたことである。これらの資料について簡単に概観することは、こうした多様性を決定づけた相違に注意を向ける上で助けとなろう。そうすれば、これらキリスト教徒集団のいくつかが共有していた社会構造や神話創作の特徴について問いかけ、彼らの様々な神話に含まれている社会的論理を分析し、彼らの社会的実験を駆り立てたと思われる社会的関心について、何らかの結論を引き出すことが可能となるであろう。

△ 初期キリスト教徒の「社会的関心事」は一体何であったのかという問いは、その神話に含まれている「社会的論理」の分析によって解明されることになります。

数多くの多様な文書

初期イエス運動(▽1)の時代に遡るかなりの数の文書資料が集成されている。例えば、Q(▽2)やトマスの福音書(▽3)、前‐マルコの一連の奇跡物語(▽4)、前‐マルコの様々な宣言物語(▽5)、そして、あまり明確ではない断片的証言などである。これらの資料に関して注目すべきことは、既に見てきたように、イエスを救世主(メシア)、すなわちキリストとする記載や、第二神殿時代のユダヤ教に対する批判、十字架刑への言及は見られず、復活を暗示するものもない、ということである。このことは、初期イエス運動の時代の証言を、他の新約の文書がイエス・キリストの死、すなわち、十字架に架けられたキリストとしてのイエスについて語っている事柄と結びつけることを、非常に困難なものにしている。

△1 著者はイエスを犬儒派(the Cynics)の教師のような人であったという仮説を立てています。本書の2章「犬儒派の徒に似たイエス像」の最後の段落を引用してみます。

『私は、イエス伝承の最古層が、彼を犬儒派的な性格と内容を持つ言葉の教師としていたという発見を、非常に興味深いことと考える。これは、もし、すべてのイエス運動が自分たちを「派」として理解し、また、すべてのイエス運動がイエスを一種の教師と考えていた、という事実を仮定するなら、妥当性が高く、時代情況を示す適切な観点からイエスを考えることを可能にしてくれるだろう。しかし、イエスの教えの最古層は、最初は、史的イエスのための文書ではなかった。それらは、様々なイエスの派の教えのための文書であり、それらの派は、文書の中の犬儒派的な言説を「イエスの教え」と考える集団だった。イエスは、ユダヤの社会概念とギリシアの一般的な倫理を結びつけ、両者の結合を「神の王国」として語った、と考えられてよいかもしれない。しかし、他の「彼の門下生(スチューデンツ)」が、そうした考えを明確にし、それを現実の問題に適用することに従事していたのは、明らかである。こうして、彼らは、イエスを、自分たちの「派」の開祖として思い描いた。このことは、グレコ‐ローマン世界における宗派伝承の洗練、および、思想の学派が一般に洗練され、潤色されていく仕方、それら二つの事柄について我々が知っていることとも合致する。一例を挙げると、我々の時代の非‐暴力的な抵抗と、そうした教えを与えるあらゆる集団や諸派についての、ますます増大する知識である。もし、それが誰の「教え」なのかと尋ねられれば、開祖となる教師に言及するのは明らかである。これらの派は、自分たちは「ガンジー、〈および/または〉マーチン・ルーサー・キングの教え」によって活動している、と言うことだろう。イエスの派のQに従う人々についても、そうだったのに違いないのである。』

△2 著者の「犬儒派的」なイエス像という歴史学的な仮説は、イエス・キリストの死・復活という神話が生まれてくる以前のイエスの最初期の伝承(Q,トマスの福音書、前‐マルコの一連の奇跡物語、前‐マルコの様々な宣言物語)に基づいています。2章の最初の段落には、Qの説明も含めてそのことが以下のように記されています。

『初期キリスト教を研究する歴史家は、イエスの伝承とイエス・キリストの死、および復活という神話を区別する。イエス・キリストの神話は、受難の論理に基づいており、その論理は、高貴な死というギリシア的概念と、ヘレニズム文化の中で書き換えられた罪なき生け贄の試練と弁明に関するユダヤ人の古い知恵物語との融合から生れたものである(Mack, A Myth of Innocence: Mark and Christian Origins. Philadelphia: Fortress Press. 1988. 第四章)。パウロの手紙からも分かるように、キリスト神話は、シリア北部へと広がっていったイエス運動の中で、非常に早い時期から展開されていた。しかし、その神話は、ガリラヤやパレスチナ北部、シリア南部でのイエス運動において、イエスへの記憶を培った最初期の文書ではないし、最も特徴的な文書でもない。最初期の伝承を構成しているのは、主として、「言葉」(グノモロギウム)を集成したものの中に含まれている「イエスの教え」と、それに加えて、アリストテレス的な「生」(ビオス)という性格を持った「伝記的」資料の断片であり、これらの中には、「逸話」(クレイアイ)や「追憶」(アポムネモネーマク)が含まれている。イエスの教えにとって重要な意味を持つ三つの集成文書は、Q(「資料」を意味するQuelleというドイツ語に由来し、マタイとルカの福音書の作者が用いたイエスの言葉の「原資料となる文書」の意)と、トマスの福音書、および、マルコが福音書を作るときに用いた一連の逸話集である。キリスト(クリストス)の神話がイエスの受難を思い描き、神話化しているのに対し、イエスの伝承はそのようなことをしてはいない。イエスの伝承が目指していたのは、イエスの教えであり、イエスの「派(スクール)」に属していた人々は、イエスの教えを自分たちの運動のための満足のいく根拠となるよう、洗練していった。』

△3 古代エジプトのナグ・ハマディ文書(グノーシス主義の諸文書)が、1945年に偶然発見され、その中に二世紀中頃にエジプトで成立したコプト語トマス福音書が含まれていました。その文書については、荒井献『トマスによる福音書』(講談社学術文庫、1994年)に詳しい解説があり、またその翻訳も行われています。それはQ資料と同様にイエスの「語録集」ですが、荒井氏によれば、『これらのイエス語録は、部分的に、「共観福音書」(マルコ、マタイ、ルカ福音書)伝承とは別の伝承系列に連なる。しかし、この部分が共観福音書伝承と並ぶ、あるいはそれよりも古いと断定する(……)ことはできない。…当福音書所収のイエス語録の他の部分は、多くの場合、共観福音書伝承あるいは共観福音書の本文そのものを前提としている』とされ、その資料的価値についてはマックとは異なる見解が示されています。つまり、それが最初期の伝承を反映しているとは言えないことになります。このあたりに初期キリスト教史を構成する難しさがあります。

△4 「前‐マルコ」という言い方はマルコが依拠した資料を示唆しています。奇跡物語とは、同著者の『誰が新約聖書を書いたのか』(青土社、1998年)によれば、以下のように書かれています(第一部2章「イエス運動からの教え」)。

『マルコの語るイエス物語には、イエスが行なう奇跡や、イエスに起こる奇跡的な出来事の荒唐無稽な物語がぎっしりと詰まっている。これらの物語はイエスという人格の中で、神の力が劇的な仕方で人間の歴史の中に入り込んでくるかのような印象を醸し出す。もちろん、それが著者の目的である。だが、マルコによる奇跡の使用は、宣言物語の場合のように、異なる解釈をする、より早い時期の集成に依拠するものだった。その解釈は、マルコ以前のイエス運動の中に本来あった五つの奇跡物語から成る二つのセットの中に見ることができる。(改行)「マルコ福音書」の読者の多くはすぐに、湖上を渡るイエスと弟子たちについては二つの二つの奇跡物語が、野外で群衆にパンを与えるイエスについては二つの物語があることに気づくであろう。この疑問は次に、これらの主要な出来事(マルコ四・三五〜八・一〇)の周囲や周辺で起こる奇跡についての他の疑問を誘発する。なぜかくも多くなのか? 一九七〇年に、ポール・アヒトマイヤーの研究は、マルコが五つの奇跡物語から成る二つのセット――そのどちらも本来は独立していたものである――を使用したことを示した(Paul J. AchtemeierToward the Isolation of Pre-Markan Miracle Catenae. Journal of Biblical Literature 89 (1970): 265-91)。この論文はなぜマルコがひとつではなく二つのセットを使ったのかを直接説明するものではなかったが、それはマルコが福音書を著すのにそれらを使用した仕方とは関わりのない、五つの物語がセットになっているそれなりの理由がそこにあったことを示唆した。それは双方のセットが同じパターンにしたがっていたからである。最初に湖上を渡る奇跡が来て、次にひとつの悪霊ばらいと二つの癒しの組み合せが置かれ、最後に群衆を食べさせる話で終わる。この二つのセットは次のものである。

(第一のセット)

突風を静める(四・三五〜四一)

悪霊に取りつかれたゲラサびとの癒し(五・一〜二〇)

ヤイロの娘(五・二一〜二三、三五〜四三)

出血のとまらない女(五・二五〜三四)

五〇〇〇人に食べ物を与える(六・三四〜四四、五三)

(第二のセット)

湖上を歩く(六・四五〜五一)

ベトサイダの盲人(八・二二〜二六)

シリア・フェニキアの女(七・二四B〜三〇)

耳が聞こえず舌のまわらない人(七・三二〜三七)

四〇〇〇人に食べ物を与える(八・一〜一〇)

われわれはなぜマルコがひとつではなくて二つのセットを必要としたのかを問うためには、先に進んでの「マルコ福音書」についての議論を待たねばならない。ここでわれわれが理解したいのはこのパターンの重要性である。なぜなら、それはわれわれに初期のイエス運動の中におけるさらに別の契機の神話づくりを見るもうひとつの窓を供してくれるからである(後略)。』

△5 前‐マルコの宣言物語については、今度は『キリスト教という神話』2章から「前‐マルコの宣言物語」という節の初めの方を引用します。

『宣言物語は、マルコの福音書が編纂されていく上での主要な構成要素だった。イエスに問いを発し、あるいはイエスの言動に異議を唱える敵対者の背景が、簡単に情景描写される。イエスは、ほとんどの場合、二、三の短い言葉でそれに応じ、非難に答えて質問者を黙らせる。こうした簡潔な「やり取り」は、たいていの場合、イエスの権威ある発言で締め括られたため、これらの物語は宣言物語という名称を得た。マルコの福音書の中には、こうした物語が二〇以上あり、その中の重要な五つは福音書の最初(マルコ二・一〜三・六)と最後(マルコ一二)に出てくる。

△ 最後の文については、「マルコの福音書では、こうした物語が二〇以上あり、最初にはマルコ二・一〜三・六に、最後にはマルコ一二に出てくる」とすべきでしょう。

宣言物語は、最新の研究が論証したように、形式的に言うと精巧に仕上げられた逸話である(Burton L. Mack and Vernon K. Robbins, Patterns of Persuasion in the Gospels, Sonoma, CA: Polebridge Press. 1989)。いくつかの例では、宣言物語の核心となる元々の逸話を復元し、そのように仕上げられることになった論理を追跡することができる。これら核を成す逸話の中には、犬儒派の伝承に見られる逸話と極めて類似するものもある。そうした逸話は、イエス運動の初期、つまり福音書が書かれる前の時代に起源を持っているに違いない。以下に挙げる復元されたものを、注目して欲しい。

(一)なぜ徴税人や罪人と一緒に食事をするのか、と問われたとき、イエスは、「健康な人は医者を必要としない」と答えた。(マルコ二・一七)

(二)なぜ彼の弟子たちは断食をしないのか、と問われたとき、イエスは、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できようか」と答えた。(マルコ二・一九)

(三)なぜ彼の追随者たちが安息日に麦の穂を摘むのか、と問われたとき、イエスは、「人々のために安息日が作られたのであり、安息日のために人があるのではない」と答えた。(マルコ二・二七)。

(四)なぜ彼らは汚れた手で食事をするのか、と問われたとき、イエスは、「人を汚すのは、中に入ってくるものではなく、中から出ていくものである」と答えた。(マルコ七・一五)

(五)最も偉大なのは誰か、と問われたとき、イエスは、「最も小さい者」と答えた。(マルコ九・三五)

(六)ある人が彼を「善い教師」と呼んだとき、イエスは、「なぜ私を善いと呼ぶのか」と答えた。(マルコ一〇・一八)

(七)金持ちは神の王国に入ることができるか、と問われたとき、イエスは、「ラクダが針の穴を通り抜ける方が易しい」と答えた。(マルコ一〇・二五)

(八)ある人が彼に皇帝の銘刻があるコインを見せ、「皇帝に税金を払うのは律法に適ったことか」と尋ねたとき、イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」と答えた。(マタイ一二・一七)

そして、Qからのものとしては、

(九)ある女が群衆の中から声を高くして、「あなたを産んだ胎とあなたが吸った乳房は幸いだ」と彼に言ったとき、イエスは、「むしろ幸いなのは、神が語ることに耳を傾け、それに従う者たちである」と答えた。(ルカ一一・二七〜二八)

(一〇)ある人が群衆の中から「師よ、私に遺産を分けてくれるよう、兄弟に話してください」と言ったとき、イエスは、「おまえたちよ、誰が私をおまえたちの裁判官にしたのか」と答えた。(ルカ一二・一三〜一四)

復元されたこれらの会話は、犬儒派の伝承に特徴的な数多くの逸話と酷似している。勿論、定式化された明快な言い回しを好むのは、ギリシア的な嗜好であり、犬儒派に限られるものではない。しかし、こういった類の逸話は、体系的な哲学、および倫理学への関心が強いアカデメイアやストアといった学派に属する教師が語ったとされる格言や警句(アポフテグマ)よりも、ソクラテスやキレネ学派、そして犬儒派の伝承の中に、はるかに多く見られる。例を挙げて言うと、このことは、ディオゲネス・ラエルティオスの『著名哲学者の生涯と学説』の中で教師たちに帰せられた様々な逸話からも明らかである。(後略)』

▽ ここから本文に戻ります。「数多くの多様な文書」とは、上に示された諸資料のことであって、歴史学はそれらの資料、あるいは現存する文書の下層に想定される資料に基づいて、ある「仮説」を立てようとします。「犬儒派の教師イエス」という像も、一つの仮説であって、そこから導きだされるものは「新約の文書がイエス・キリストの死、すなわち、十字架に架けられたキリストとしてのイエスについて語っている事柄」とは非常に違ったものになります。その当否は歴史学に属する問題です。そしてまさにその視点から著者の言うキリスト教の神話づくり(神話創作)が解明されることになります。

これらイエスに関する資料を綿密に見ていくと、イエスとは誰だったのか、彼が教えたのは何か、さらには、イエスの派(スクール)に加わった者たちにとっての優先事項は何だったのか、こうした問題についての合意は、ほとんど見られないことが明らかになってくる。パリサイ人との論争が最大の挑戦だったと考える者もいれば、そのことにはまったく煩わされない者もいた。イエスの派に加わりたいと欲する者にとっての試金石は、生活様式を変えることと考える者もいれば、そのような考えを鼻であしらう者もいた。そのような者たちの考えでは、イエスの教えは、宇宙の子である人間の真の本性についての熟考と洞察に行き着くべきものだった。そこには、様々な種類の社会組織が見られる。最初は、緩やかに結びついた様々な集団が、特殊な仕方で出会い、イエスの「教え」について語り合ったと思われる。イエス自身、自分の意図したことが何であるかを確かに知っていたに違いないような門下生(スチューデント)を持っていたのか、という問題に関して言えば、そうした集団のいずれにも証拠となるものはない。これが何を意味するかというと、選ばれた門下生の集団という概念は、それに続くある時期、共通の思想を通じて結びついたイエス運動の中の様々な派が、自分たちの教えをイエスの特別な門下生に由来するものとして跡づけたいと願ったときに、神話創作の結果として生まれた、ということである。こうして、これら特別の弟子(ディサイプル)の最初期のリスト、そこには、普通、七名から一二名の名が挙げられているのであるが、いくつかのそのようなリストからは、弟子として挙げられるべき名前、また、彼らがイエスから学んだのは何だったのか、これらの問題についての一致は見られないことがわかる。そして、トマスの流れを汲む人々は、まさにイエスの特別な弟子という考えを、イエスの教えを誤らせた者として彼らを嘲(あざけ)るために用いた。

△ 著者が想定しているのは初期のイエス運動の様々な流れです。そこには初めイエスによって立てられた十二弟子がいたわけではなく、それはあとから付け加わった神話創作の結果に過ぎないと言われています。そのことは確かであるように思われます。

パウロの手紙に目を転じると、我々が見出すのは、殺されて復活したイエス・キリストについてのメッセージである。パウロがメッセージの主要な要点と考えたのは、イエス・キリストの世界の主への変容であり、パウロが彼の下に集まった会衆(コングレゲーション)に望んだのは、イエスの復活によって解放された権能ある人々と絶えず接触するよう、努めることだった。パウロの覚え書きには、イエスの教えはほんの僅かしか残されておらず、パウロが変容という出来事を思い描く仕方にとって、何らかの重要性を持つ史的イエスへの思い出は、まったく見られない。そうした奇跡的契機への集中は、圧倒的なことであり、世俗的な問題を相殺してしまうと考えられるかもしれないが、しかし、そうではない。民族的な血統や食卓での席順、義務、名誉と恥辱、キリスト教徒が何を為すべきかを言えるのは誰か、これらの問題がしばしば強調されている。それ故、パウロの手紙は、他とは根底的に異なっているイエスの遺産を見せてくれるだけではなく、彼ら自身のアイデンティティと目的に関して、これらの集団内部、および集団相互の間で、議論百出の論争があったことも暴露している。それ故、イエス・キリストの諸会衆と初期イエスの諸派との間には、非常に目立った違いが見られる。初期のイエスの派は、ユダヤ教徒以外の人々への布教、すなわち、全世界に広まる新たな宗教を始めるという、イエスの壮大な計画について、何も知らなかった。最初の四〇年の間にこのような考えが見られるのは、パウロの手紙の中だけである。

△ 初期イエス運動の諸派の中で、最初の四十年間に、イエスの死・復活による全人類の救済を説いているのは、パウロの手紙の中だけであるということに、著者は注意を促しています。復活のイエスを証言する弟子たちの使徒的権威という「神話」が成立するに至りますが、それは「初期のイエスの派」との顕著な違いを浮き上がらせます。

イエスを信奉する人々(ジーザス・ピープル)の最初期の諸集団と、イエス・キリストの諸集団の間の相違に関する物語は、物語福音書の研究と密接に関係する。イエスが公けの場に現れ、十字架に架けられた物語を書こうという考えを提示したのは、マルコだった。彼は、イエスの諸派に伝わる伝承とイエス・キリストの神話を融合する道を切り開いた。キリスト(「メシア」に当たる)という用語が、十字架に架けられることを運命づけられた教師‐イエスに対する称号、および呼称として現れ始めるのは、マルコの中だけである。そして、弟子たちを、十字架に架けられるまでイエスに付き従い、彼が何故にこの世に現れたのかをイエス自身から聞き知った者たちとして描き出したのも、マルコだった。物語の中で、彼ら弟子たちは、復活について語られることになるが、しかし、そこは、マルコが一線を画したところである。マルコは、彼が物語るイエスへの拒絶と擁護に思いを巡らすため、パウロのケリュグマから借用した受難の論理を用いることができた。彼は、また、彼が所属していたイエス運動、および、その運動の中の神の王国という考えが共に正当化されうるような仕方で、物語を語ることができた。このことは、彼が所属していた小集団、すなわち、ユダヤ戦争直後の悲惨な時期に未来に対して途方に暮れていた人々にとって、非常に有益な考えだった。しかし、イエスの霊の永続的な現存を求めることは、余りにも行き過ぎだった。マルコには、自分が属するユダヤ人のイエスの集団を、パウロ的なモデルに則ったイエス・キリストというヘレニズム的な宗派に転換させようという関心は、まったくなかった。それ故、マルコは、どんな形であれ、イエスが主へと高められ、あるいは、復活した主として現れることを暗示する殉教の物語や、あるいは、新たに神格化されたイエスをどうのように崇拝し、まねびとしていくべきかという教えを含んだ殉教の物語によって、自分の物語を締め括ることはできなかった。そうではなく、マルコは、イエスのこの世からの旅立ち、それも、ただ、未来のある時期に訪れる世界の黙示録的転換のとき、言い換えると、イエスと神の王国が栄光に包まれて現れるとき、再び姿を見せるためだけに、イエスがこの世から旅だったことを強調して、物語を終えたのである。もちろん、マルコの物語はとしてのみ意味を持つ。この物語が書かれたのは、紀元後七〇年代のユダヤ戦争の影が色濃く残っている時期であり、この戦争による神殿の破壊は、四〇年前にユダヤ人がイエスを殺害したことに対する罰として、神によって予定されていた出来事だったことを示唆するためだった。パウロは、恐らく、衝撃を受けたことだろう。何故なら、ユダヤ人が「救世主」を殺した十字架の物語は、キリスト神話の全体的意味を破綻させてしまうことになるだろうから。

△ マルコが「福音書」という文学形式に見られる、イエスの十字架の死にいたる公けの生涯の物語を描き出した最初の人であったということは、今では衆目の一致するところでしょう。しかしそれはマルコの構想であって、すべてフィクションであるというのが著者の立場です。イエスの十字架の死は、何らかの意味で史実を反映しているという見方からすれば、それはきわめて大胆な主張です。ケリュグマ(イエスの死と復活という神の救済の出来事の宣教)にはいかなる歴史的根拠もないという主張は、多くのキリスト者の常識に反しています。しかし二千年前の「史実」に関して、乏しい資料に基づいて、何らかの断定を下すことは、誰にもできることではありません。従ってキリスト神話がなぜ生まれてきたかについて、今後も多くの議論がなされていくことになるでしょう。著者の主張はその一方の極にあるもので、にわかに当否の判断を下すことはできません。

マタイとルカが福音書を書いたのは、もっと後の時期、すなわち、戦争の生傷も癒え、その他のキリスト教徒の諸集団も、イエスの十字架刑というマルコの物語に思いを寄せるようになった頃である。そして、彼らとイエス、および、神殿が破壊された時代との時間的隔たりは、明らかに、物語の中の歴史上の不確実性や論理的矛盾というものを看過することを可能にした。マタイもルカも、自分たち自身がイエスの伝記を物語る枠組みとして、マルコの物語を用いた。しかし、どちらも、彼らが当時所属していた集団が必要とするイエスの教えを思い描くため、マルコに見られる劇的、かつ黙示録的な色合いを和らげた。マタイが福音書を書いたのは、イエスの教えをモーセの律法(トーラー)に対する深遠な解釈と考えるようになったユダヤ人のイエスの派のためである。それに対して、ルカが書いたのは、ユダヤ人ではないキリスト教徒の会衆から成るネットワークのためであり、彼らは自分たちをローマ帝国の道徳的善を生み出すパン種と考えるようになっていた。ヨハネの伝承に関して言えば、それは、まさに天地創造の瞬間から自分が神の子であることを知り、「ユダヤ人」を「生まれ変わる(ボーン・アゲイン)」ように招くイエスの物語であり、他の福音書とは異なった特有のものであって、いかなる点でも、ルカの意図との一致を見出すことはできない。あたかも、イスラエルの叙事詩的歴史を継続させ、二〇年という時間の中でそれをエルサレムからローマへと移動させるただ一つのメッセージと単一の組織という、直線的な展開があったかのように見せるのは、ルカだけである。

△ 聖書の個々のテキストには「生活の座」というものがあり、福音書はイエスに関してそれぞれの立場からの物語を描き出しているということは、今では疑いの余地のないことです。伝統的な教会を支えてきた神学は、信仰告白(教義)の権威と共に、今では神話に基づくキリスト教徒の「思い込み」であることが明白になりつつあります。キリスト教はその神話的形態を温存したまま、今後もこれまでと同じあり方を続けていくのではないかと思われます。しかし自らの根拠が神話的であることに無自覚なまま、その信仰を保持し続けることは、教会を益々閉鎖的で独善的な集団と化していくことを意味するでしょう。キリスト教(および自分が属する教会)にだけ他宗教や社会的現実を批判する資格があるかのように考えてしまうのは、それが独善的であることの証拠です。


\ キリスト教という神話 その4

社会的実験

最初、我々がルカの見方以外のところに見出すのは、混沌(カオス)であるように思われる。やがて、それは混沌ではないことが分かるが、しかし、ルカの見方と比較すると、確かに、様々な途方もない主張に満ち溢れる生き生きとした情景である。そこには、新たな社会的絆の創造や個々人それぞれの危機、失敗には帰したが、社会をコントロールしようとした数多くの試みと並んで、空想的なイメージやイデオロギーをめぐる激しい論争、社会的な断絶が見られる。もし、論争や罵詈雑言、揶揄などに焦点が当てられるならば、情況は、確かに、喧騒の坩堝(るつぼ)のように見える。しかし、このようなエネルギーの発露を駆り立てる様々な熱意に目を向けると、情況は違った色合いを帯びてくる。それは、混沌として闇に包まれているというより、荒々しく野性的なのである。ひとたび、これらの文書を生み出した社会構造に焦点を当てると、こうした情況を記述する用語として真っ先に心に浮かぶのは、「実験(エクスペリメンテーション)」という言葉である。今、我々が手にしているのは、明らかに社会的実験についての証言である。彼らは、ただ単に、古い生活様式がもはや機能しなくなった世界に共同で生活することに関して、新たな思想を思索しなければならない情況に巻き込まれたというだけではなく、彼らは、実際に、それまでとは違う新たな社会構造を作りつつあったのである。問題となるのは、社会的実験に関わる何かを、これら様々な集団、そしてそれぞれの考え方の間に共通する重要な特徴と見なすことができるのか、ということである。答えは、「イエス」であるように思われる。そして、これは、キリスト教の起源に関する見方を新たに書き直すための、格好の出発点であるように思われる。

△ 新約聖書を開いて見ると、そこには整然と統一された一つの思想が見出されるのではなく、様々な思想の坩堝というべき情景が広がります。しかしその背後には、それぞれになされた「社会的実験」とでも言うべき、新しい社会構造と、それを支える思想の模索があります。個々の文書はその社会的文脈に置き直されて考察されるべきものです。

我々が視野を広げ、これらのキリスト教徒を取り巻いていたより大きな世界へと目を向けるようになると、これらの実験を駆り立てていたのは社会的関心だったとうことが、大きな意味を持ち始める。古代近東の神殿国家が、文化的、軍事的に征服され、消滅したのは、ヘレニズム時代が終わる頃だった。パレスチナにおける「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」は、まさに、古代の模範を生き延びさせようという最後の試みを打ち砕いてしまう過程だった。東地中海の諸国や地域において、グレコ‐ローマン時代のローマ帝国軍は、人間の幸福を増大するために、ほとんど何もしなかった。そして、いわゆるオイクメーネー、これは「全世界的文明(グローバル・シヴィライゼーション)」に当たるギリシア語であるが、そのオイクメーネーの至る所で、移住させられた諸民族、そして相対立する諸文化が遭遇し合った。しかし、それは、自分がそこに住んでいることを誰もが知っているようなただ一つの「家(オイコス)」という新たな、そして、何よりも重要な多文化的モデルの助けもない情況下での遭遇だった(▽1)。ローマ軍は、道路の通行を自由にし、駐屯地の総督を保護したが、破壊されてバラバラになった社会構造や文化的伝統を回復するためには、何もしなかった。そして、紀元前一世紀から紀元後一世紀にかけ、文化的混乱と社会の変化は、その進行を加速させ、社会的アイデンティティの問題は、レヴァント一帯に住むあらゆる民族の間に批判的(▽2)、かつ創造的な活力が噴出するところまで、押し進められた。

△1 この訳文には分かりにくいところがあります。多分、「それは、自分がそこに住んでいることを誰もが知って(acquainted with 熟知して)いるようなただ一つの家(オイコス)においてではなく、新たな、そして何よりも重要な、多文化的モデルが必要とされるような情況下での遭遇だった」と訳すべきことのように思われます。オイクメーネー(全世界)とオイコス(家)とは、周知の通り語源を等しくする言葉であり、ローマの支配(パクス・ロマーナ)のもとで、一つの「家(オイコス)」に住まわされた諸民族は、まだそれに適合しうる「多文化共生」のモデルを獲得してはいませんでした。神殿国家イスラエルの消滅を経験したユダヤ人にとっても、その「古代の模範を生き延びさせようという最後の試みを打ち砕いてしまう過程」にあって、新しい試みがなされなくてはならない状況がそこにありました。人々の社会的関心は、自己のアイデンティティに関わる、まさにそのような問題に差し向けられていたということでしょう。

△2 危機的(critical)な状況は、同時に創造的な活力が生まれて来る機会でもあります。ローマの支配下で、諸民族はそのように危機的で、だからこそ、何かを新たに作り出していかなくてはならない状況に遭遇していました。

こうして、社会的実験のための機は熟した。そして、そのような行動を起こしたのは、初期キリスト教徒だけではなかった。この時期、イエスの正当化を必要としないその他の社会的実験も、数多く行なわれた。当時は、以前の哲学の学派が新たに形成し直される時期でもあった。東地中海の至る所で、「仲間の会(フェローシップ)」(コイノニアイ)や「祭儀仲間の会(カンパニー)」(ティアソイ、バッカス神の祭りで浮かれ騒ぐ者たちの「一団」、ないし「会合」)と呼ばれる私的なクラブや交わり(アソシエーション)が出現した。特定の職業に従事する職人は、コレギアと呼ばれる任意の交わりを作った。共通の民族的遺産から切り離された人々は、ディアスポラ(▽1)の地で様々な文化施設を組織した。ユダヤ人とサマリア人(▽2)は、シナゴーグ(▽3)を作った。エジプトの神官たちは、イシス神の祭列を模して公共の場で再現した。そして、マケドニアや小アジア、シリア、メソポタミアなどからやって来た人々も、自分たちの古い民族神やそれぞれの地域の英雄との結びつきを維持するため、「神秘的な」祭儀を創設した。ギリシア人は、一方では、地中海世界一円に新たな聖堂や神殿を建造すると共に、他方では、アテネやエピダウロス、デルポイ、そしてデロスなどにあった祭儀と癒しの古い遺跡に巡礼することを奨励した。グノーシス派の小集団や修道者の共同体(コミュニティ)も、現れ始めた。そして、このことは、我々に、初期キリスト教徒について何を語ってくれるのだろうか。その答えは、彼らも、まさに他の様々な諸集団と同様、ごく普通の人間であり、自分たちが生きた時代に応答しようとしたのだ、ということである。これは、非常に重要な考えである。なぜなら、それは、福音書の壮大な物語がいつも呼び起こしてきたオーラ、すなわち、比類なき特別なものというオーラを取り去り、キリスト教の起源を別の仕方で考えることを可能にするからである(▽4)。

△1 普通には「離散」を意味するギリシア語ですが、特にパレスチナの外に居住(入植)するユダヤ人の地域のことを指します。ここでは前者の意味で使われています。

△2 サマリアの住民(Samaritan)、およびユダヤ教から分離し、それとは異なる信条に従う人々のことで、その教団は「サマリア五書」を正典とします。

△3 ユダヤ教の会衆あるいは会堂のことで、ここでは後者を意味しています。

△4 福音書を、それが書かれた社会的文脈から切り離して読めば、そこに独特のオーラが感じられるとしても、それは新約聖書を正典とするキリスト教徒の福音書への接し方であって、その信仰がキリスト教の起源について「別の仕方で考えること」を、永く妨げてきました。教会では今もその状態が続いていると言うべきでしょう。

もし、ここで暫し立ち止まり、「自分たちが生きる時代への応答」という見方を考慮に入れるなら、初期のイエスを信奉する人々やキリスト教徒が試みた社会的実験の本性について、もう少し多くのことを言うことができる。ローマ人やユダヤ人、あるいは、神殿の祭司、パリサイ人(▽1)、ギリシア人、ヘレニズム的な諸宗教、世俗の権威者、大衆の振る舞い、慣例化された丁重さの規範、法廷、そして、通俗的な倫理に対する様々な取り組みへの証言が、これらの文書の至る所にはっきりと現れている。こうした問題に対する取り組みを特徴づけるのは、社会と文化に対する批判であり、しかも、その判断は、社会的な生活様式に影響を与えるような事柄について下されたものだったことが示唆されている。これが何を意味するかというと、これらのキリスト教徒の集団に特徴的な社会的実験は、自分たち自身の集団と自分たちがやろうとしていることを促進するため、あたかもある情況を利用するかのように、時代に対して反応しただけではない、ということである。彼らは、彼らが生きた社会的、文化的世界に対して、実際に批判的であり、反省的だったのである。もし、そうであるなら、これらのキリスト教徒は、彼らを取り巻く社会的、文化的情勢に対して、細心の注意を払い、熟慮し、関わりあった、ということを意味する。いや、それどころか、彼らの社会的プロジェクトは、彼らが筋道の立たない世界に直面したときに抱いた願望、すなわち、失われて破壊されてしまった社会制度を修正し、回復し、置き換えようという願望によって、というよりもむしろ、その代わりとなるべき新たな社会秩序を作り出そうという願望によって駆り立てられていた、とさえ言えるかもしれない。彼らは、当時の情況で存続し続ける可能性が高かったかなり大きな集団と比較したときにも、自分たちを特有なものにするため、長い時間と多くの知的努力を費やした。これらのキリスト教徒が行なったことについて、何かこれ以上言うことがあろうか(▽2)。

△1 Pharisee 初期キリスト教が生まれてきた時期のユダヤ教の一セクトのメンバーのことで、律法に書かれた通りに儀礼を厳格に守り、また、律法に関する彼ら自身の口承の正当性に固執することで知られています。

△2 初期キリスト教徒の「社会的実験」は何を意味していたのか、それはいかなる願望によって動かされていたのかということについて、著者は「社会学的想像力sociological imagination)」(ライト・ミルズ)を働かせます。宗教もまた社会的関心の表現形態であり、そこには現実の社会に対する批判と反省があるという見解は、ある意味では当然の指摘なのですが、宗教的表現の持つ超越的神話的契機が、その実際的機能に対する判断を誤らせてしまいます。すなわち、キリスト者はあたかもそこに「神の自己運動(啓示)」があるかのように考えてしまいがちです(カール・バルト!)。

彼らが、自分たちをどのように呼び、どのように語っていたかについては、若干の証言が残されている。彼らは自分たちを、神の王国、一家、家族、神の子供たち、集まり(アセンブリー、エクレーシアー)、正義の国、イスラエル、聖なる民、平和の子供たち、イエスの派の弟子たち、キリストの体、等々と呼んでいた。彼らが自分たちに与えたこれらの名称は、すべて、集合的なものだということに注目しよう。これが何を意味するかというと、彼らにとっての様々な動機づけや関心事の中で、社会形成と集団としてのアイデンティティということが、非常に高い位置に置かれていた、ということである。もし、これらの名称を文字通りに受け取れば、いずれの場合も、彼らの主張はフィクションであり、その他のこうした社会的実験を実践し、支持する兆候との関係から見ると、極めて不自然である。しかし、これらは、すべて、問題となる諸文化に共通な社会モデルを社会的実験に適用したものだった。彼らは、自分たち自身に対するまったく新しい名称、すなわち、社会集団に対する標準的な隠喩(メタファー)とは無関係な名称を創出したわけではない。このことは、彼らについて二つのことを教えてくれる。一つは、自分たちが社会形成に巻き込まれていることを、彼ら自身知っていたということであり、もう一つは、彼らの社会構造は、いかなる単一な伝統的モデルとも完全には一致しないことを、彼ら自身知っていたということである。もし、第三章(▽1)と付記(▽2)の中で略述されるプロジェクトが、当時の交わり(▽3)が利用できたかもしれない社会モデルとの関係、および、彼らが自分たちを呼んだ名称と彼らの神話的資質との関係の中で、諸集団の社会形成と慣習を記述する方法を見出すことができれば、これらの集団形成に関連する社会的関心とその理由を理論化することができるかもしれない。初期キリスト教徒の神話創作は、純粋な「思弁」でもなければ、「受け継がれた伝承」の、入念な仕上げでもなかった。いずれの場合であれ、そうした神話の形態が思い描かれるための社会的理由と社会への影響が、決定づけられている必要がある。社会的影響とは、公然たる行動や態度、様々な社会組織、他の人々との社会的関係、あるいは、ある集団の想像的慣習の精神的枠組みにおける変化を際立たせ、あるいは、差異を示すことである(▽4)。

△1 第三章は、第T部の「福音書をめぐる情況」の最後に置かれており、「キリスト教の起源の書き直し」と題され、その研究「プロジェクトについての思索(考察)」についても言及されています。

△2 付記は「キリスト教の起源に関する研究プロジェクト」について書かれています。

△3 訳者はアソシエーション(結社)を「交わり」と訳しているようです。

△4 著者がここで述べるような視点から「キリスト教の起源の書き直し」を行なうことは、私自身の言葉づかいで言えば、初期キリスト教の「集合的理性の形成過程」を個々の集団に即して研究することを意味しています。しかしそれは必要な研究であると言うべきですが、同時に、そんなに簡単なことではないとも思わされます。

今や、これら初期キリスト教徒の集団に共通なもう一つの特徴について、第二の見方が成立する。彼らはすべて、ユダヤ人とギリシア人の伝承を、ほとんど同じような仕方で取り扱う。すなわち、その仕方とは、それぞれの伝承のある側面に基づいた主張をするが、他のものには厳しい批判を浴びせ続ける、というものである。例えば、彼らは皆、自分たち自身と当時の情況に反映されたイスラエルの叙事詩とを結びつけるための、何らかの方法を探し求めた。そして、一部の者たちは、イエスに対して特別な役割、すなわち、神の約束とイスラエルの歴史の輝かしい側面を成就する者という役割を割り当てることによって、それをやろうとした。また、他の人々の中には、自分たちがイエスと自分たち自身について語ることと一致するよう、イスラエルの叙事詩を書き直すことによって、それをやろうとした者もいる。さらに、別の人々は、当時のユダヤの様々な社会制度を批判し、彼ら自身の活動を正当化するため、イエスとそれらの諸制度との間に決定的な対立を立てることによって、それを果たそうとした。自分たちを名付ける名称として好んで用いられた社会モデルは、イスラエルの様々な叙事詩の中で理想化された神の民を暗示する側面に重点を置くものだった。イスラエルの叙事詩を重要視するこれら初期キリスト教徒の試みは、注目に値する。なぜなら、彼らは、イスラエルの叙事詩に見られる伝承を未来に伝えてくれそうな人々とは、とうてい思われなかったからである。彼らは、心底から、自分たち自身が「イスラエル」に帰属していると考えたかったのであるが、彼ら自身、実際にはそれを正当に証明するものを持ってはいないし、作り出すこともできないことを知っていた。こうして、彼らの神話的な主張は、途方もないものになってしまった。

△ 四福音書の諸傾向ということを考えてみても、初期キリスト教徒は、自分たち自身をイスラエルの正当な継承者とし、また同時に、当時の状況にその自分たちを適応させようとする努力を行なったのだと言うことができます。しかしそのためには、神話創作のあの「決着をつける」やり方、すなわち、彼らの師であり、主であるイエスに途方もない役割を負わせなくてはなりませんでした。しかしそこから、ヘレニズムの植民都市に伝播した宗教として、ギリシア的な思想に適合しつつ、イスラエルの「叙事詩」の継承者でもあるような、独自の宗教的思想が紡ぎ出されてくることにもなりました。

ギリシアの伝統の場合、当時の誰もが認めるこの文化は、絶えず批判の対象とされてきた。たとえ、その論理学や修辞学、そして哲学の言語が、例えば、デーモス(人民)、エクレーシアー(集まり)、正しくもそれに帰属する市民から作られたソーマ(「体」)などのように、至高の者と彼ら自身の宇宙的な普遍的秩序である神の王国を思い描くのに役立つよう、作り変えられているときでさえ、批判の目が逸らされることはなかった。問題となっている二つの重要な文化に対して、バランスのとれた形で是認と批判の間を揺れ動いたのは、キリスト教徒が、ヘレニズム時代の複雑に重層し合う文化の中を生きていたからである。もちろん、これは何ら驚くべきことではない。しかし、このことは、我々が研究のために用いている理論と一致し、それをさらに前進させるのであり、また、初期のキリスト教徒が、ユダヤ的な感性とギリシア的な感性を併せ持っていたことを明らかにする。それは、また、キリスト教徒の実験は、これら二つの文化の特徴を新たな形で結合することによって可能となった、ということも意味する。二つの文化の様々な特徴をそれぞれに共通する基本概念に還元することは、余りにも単純化し過ぎることではあるが、キリスト教徒の実験が次のようなものであったということを示唆しておくことは、有益であろう。すなわち、神の民というユダヤ的な概念を民族的なルーツから解放し、個人というものをギリシア的なモデル、すなわち、考え方や社会的アイデンティティを変えることができる行為者として捉え、これら二つの処置を、どちらも新たな社会実験にとって不可欠の要素として正当化した、ということである。研究者の中には、異なった文化的メンタリティをこのように融合させた才能が、キリスト教の起源を駆り立てた社会的ビジョンの魅力となっていたのかもしれない、そのように考える者もいる。

△ 初期キリスト教徒は、ギリシアの思想の恩恵に浴しながら、その伝統に批判的にならざるをえないという両面性を持っていました。教会(エクレシア)、キリストの体(ソーマ)という表現は、初期キリスト教徒が「神の民というユダヤ的な概念を民族的なルーツから解放し、個人というものをギリシア的なモデル、すなわち、考え方や社会的アイデンティティを変えることができる行為者として捉え、これら二つの処置を、どちらも新たな社会実験にとって不可欠の要素として正当化した」ことの成果であると言うことができます。そのような「キリストの体なる教会」に、個人として加入し、そこで自己を新たに生まれ変わらせることができるという社会的ヴィジョンには、たしかに帝国領内の諸民族を惹きつける魅力があったと言えるでしょう。キリスト教は、そのような形で、一つの社会的なモデルを提供し、人々に新たな社会的アイデンティティの獲得の機会を与えたのでしょう。その基本的な形においては、教会は今も変わってはいません。

当時の最も重要な二つの文化的メンタリティのこのような結合は、それらの基本的な人間理解の本質的属性へと還元されるならば、イエスの教えの最も初期の層の中に見出すことができるのであり、また、その後のイエス運動によって作られた数多くの神話の中に跡づけることができる。Q1(▽1)の犬儒派的な教えの中では、個々人へ向けて発せられた言葉が、神の王国という集合的な概念と結合された。二つの概念をこのように結合させた新奇性は、この派の開祖たる教師としてのイエスに帰せられた。しかし、その後、この派の伝承が展開されていく中で、この神の王国という概念は、ただ単に、その周りに哲学の新しい学派を成す者たちが集まった教師という概念ではない、ということが明らかになる。この概念は、実際には極めて曖昧であり、概念的に仕上げることが不可能なものだった。様々なイエスの派を生み出したのは、その概念を適用しようという実験への誘惑だった。実際、イエスの派は、神の王国の派だったのであり、神の王国の派は、ただ単に概念を仕上げることによってというだけではなく、固有の生活様式と社会形成という実験によっても、自己確立に取り組んでいた。こうして、彼らは、自分たちのイデオロギー的位置づけのためと同時に、自分たちの社会的な活動領域を確保するためにも、懸命に活動した。彼らは、ある者が彼らの集団に所属し、神の王国というビジョンを共有すること、それがどういうことなのかを明確にし、さらに改善しようと行動した。これは、あらゆるイエス運動においても同様だった。それぞれの運動が、社会ビジョンを様々な仕方で仕上げていった。しかし、こうして仕上げられたビジョンも、当時の主要な二つの文化が重なり合う情況に生きることで可能となった人間理解と概念体系の特殊な結合にとって、脅威となることはなかった(▽2)。

△1 先にも出てきたQ(マタイとルカが利用したと想定される、「トマスによる福音書」のような、しかしもはや現存しないイエスの語録集)について、著者はさらにQ1、Q2、Q3と、その層の重なりを分析し、イエス運動の時間的な展開を跡づけています。Q1は最も古いとされるイエスの言葉で、イエス自身に帰せられます。そしてそこから犬儒派的なイエス像も浮かび上がってきます。このような想定自体が大いに議論のあるところだと思われますが、一つの「仮説」として興味深いものがあります。

△2 新約聖書にはなぜ様々な傾向が看取されるのかということに関して、著者は初期のイエス運動の「神の国」理解をめぐる、概念と行動の両面における実験的な展開のあとを見ようとしています。「イエスの派」は決して一様ではなかったということは、新約聖書の諸文書が明らかに示していることです。しかしその社会ヴィジョンがいかに多様であったとしても、それらの運動は、ヘブライズムとヘレニズムという二つの文化的潮流の合流の中で生まれてきたという基本的性格を覆すものではなかったということでしょう。著者もまた、それこそが古代史における重要な出来事であったと見なしています。そしてイエス運動それ自体が、まさにそこから生まれてきたのだと主張しています。

キリスト神話の社会的論理

様々な運動が「イエスの教え」を洗練していった仕方には、数多くの社会的要素と歴史的体験が影響を及ぼしている。そして、これは、教えの様々な新しい意味づけと、イエスが思い描かれ、物語られる仕方の変化をもたらした。イエスの役割を書き換えることが、イスラエルの叙事詩に描かれた伝承との結びつきを捏造する唯一の方法だったのであり、また、「教え」とその根拠や支えとなる議論、そして、社会構造を発展させるのに必然的に伴う潤色、等々を仕上げる唯一の方法は、ヘレニズム世界の知的資源を利用することだった。Qの伝承におけるように、イエスの教えを、反体制的文化の精神を誇示する綱領へと仕上げていった人々は、哲学の学派をモデルに自分たち自身について考えたのであり、その結果、イエスは、洞察に優れた教師として描き出された。しかし、ユダヤ人でイエスを信奉する人々は、イエスの新しい教えと伝統的なモーセの教えとの対照的な差異に基づいて活動しようとしたのであり、従って、彼らはイエスを、預言者の一人であるモーセと比較対照した。グノーシス主義的な傾向を持つ運動が抱いた関心は、個々人に対して、伝統的な集団的アイデンティティという社会的束縛を拒絶し、自分たちの本当のアイデンティティ、すなわち、トマスの伝承の中で語られている「生ける父(「神」、「光」、「全(オール)」)の子供たち」というアイデンティティについて、これまでとは違った仕方で深く考えるよう、挑戦的に問いかけることだった。こうして、彼らがイエスに与えた役割は、当時の礼儀作法や禁忌によっても曇らされることのない自己‐知へと至る隠された可能性を露わにする者、ということだった。また、イエスを預言者として描き出す者や、聖なる者(ディヴァイン・マン)、治癒師(ヒーラー)、悪魔払い師(エクソシスト)、あるいは、救世主として描き出す者もいた。これは、それぞれの集団が自分たちの在り方、あるいは、これからそうなりたいと願っている在り方を正当化するための神話創作である。この種の神話創作は、その時代に生きる者は誰も近づくことができないより以前の時代、そのような時代の行為者と出来事のイメージを作り変えることによって行なわれる。開祖となった過去の人物は、たとえそれが近い過去であっても、より昔の時代に生きた最初の先祖との結びつきを与え、文化的、社会的に正当化するため、思い描き直されることもある。ある集団が、自分たち自身について考えることと、開祖となった教師の最初の意図との調和を考えることによって、初期キリスト教徒は、自分たちが、より大きな世界の中に新しくはあるが適切な居場所を持っている、と考えることができた。これらの集団のイエスに対する見方は、神話的なものだった。そのため、彼らがすべて、自分たちをイエスの追随者であると主張していたという事実からは、史的イエスについて得られるものはほとんどないが、これらの集団については、多くのことを知ることができる。

△ 新約聖書の雑多なイエス像に触れて、誰しもそれがいかなるイエスの実像を反映しているのかと問うことでしょう。しかしそれは神話創作の結果なのであって、それをつくり上げた集団のことを知る材料とはなっても、史的イエスについては、ほとんど何も教えてくれないと、著者は言います。初期(原始)キリスト教は、Qに重点を置いて考えるか、マルコに重点を置いて考えるかによって、大きくその姿が変わってきます。著者はマルコの描いたイエス像(受難に至る公生涯)をフィクションと見なすことによって、挑戦的なイエス像(犬儒派的な教師)を描き出しています。しかし原始キリスト教に神話づくりのプロセスを見るということに関しては、異論の余地はありません。

イエスの神話の中でもとりわけ興味深く、かつ、それを生み出した共同体の形成について情報を提供する一例を挙げると、パウロが「コリント人への第一の手紙」一五・三〜五(▽1)の中で引用した、いわゆるキリスト(クリストス)神話である。この神話は、パウロが彼の福音にとって不可欠と考えたいくつかの出来事を要約したものであり、ブルトマンが、パウロの時代から現在に至るまで、キリスト教の信仰にとって決定的意味を持つケリュグマ(▽2)と見なした文書である。私はここで、神話は一つの社会的論理を持っているのであり、神話はこの論理のために形成された、ということを指摘しておきたい。私はこのことを、マルコの福音書を取り扱った著作の中で、かなり詳しく論じた(A Myth of Innocence: Mark and Christian Origins. Philadelphia: Fortress Press. 1988. 第四章)。もし、社会的論理を見出し、社会情況を再構成することができなければ、その神話は、法外で不自然で芝居がかったものに見えてしまう。そのため、通例の説明では、それを、十字架刑と復活という圧倒的な歴史的出来事に対する、初期キリスト教徒の反応と考えてきた。しかし、ユダヤにおけるハスモン家(マカベア家)の短くはあるが華々しい一時代を記憶に残すため、アンティオキアのユダヤ人によって、マルコの福音書よりもはるかに生々しい描写さえ見られる殉教録が作られていたことを知れば、キリスト神話の意図が、理解可能なものになってくる。それは、殉教の論理をいかにして初期キリスト教徒を取り巻く社会情況に適用できたのかという問題と、間違いなく何らかの関係があった。実際のところ、これはまさに論理の為せる業(わざ)なのである。殉教の論理とは、殉教者がある理由「のために死ぬ」ということである。殉教者は高潔さの故に褒め讃えられ、殉教の理由は、そのような献身に値するものとして正当化(ジャスティファイ)される。キリスト神話の要点は次のようになる。もし、イスラエルの神が、イエスがそのために死んだ理由を正しいと考え、イエスの「死へと至った誠実さ」をそのような理由のための殉教として承認し、イエスを死人から甦らせて主の座に就けることにより、彼を「義認(ジャスティフィケーション)」したのであれば、イエスがそのために死んだ理由も正当化されることになる。これは、ただ、イエスがそのために死んだ理由は神の王国だったのだから、その王国に属するものは、神の目に受け容れられるに違いない、ということを意味しうるだけだった。

△1 Tコリント15:3−5 「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書にかいてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。」

△2 ケリュグマ ギリシア語 kerygma〔動詞のkeryssein(宣言する)から来た言葉〕、キリスト教の宣教の核心をなす使信(メッセージ)を意味しています。

重要なのは、高貴な死というギリシア的な概念が、イエスの死を神の視点から見ることによって神話化された、このことを理解することである。パウロは、殉教の論理に付加されたこの解釈をはっきりと認識していた。というのは、パウロは、そのことについて、「ローマ人への手紙」三・二一〜二六(▽1)の中で、それがもたらす影響を記述しながらはっきりと触れているからである。この神話化の重要性に注意を向けて、その言語と論理を追跡し、高貴な死というギリシア的概念に行き着いたのは、サム・ウィリアムズだった(Sam K. Williams, Jesus’ Death as Saving Event: The Background and Origin of a Concept. Harvard Dissertations in Religion 2. Missoula, MT: Scholars Press. 1975.)。また、殉教の神話の論理に関連する二つの弁明を表現する用語が、「義認(ジャスティフィケーション)」、ないし「公正(ライチャスネス)」(デカイオスネー)という言葉だった、ということに注目することも重要である。この言葉は、個々人の回心と救いに関するルター神学にとって、基本的な概念である。ルターの神学によれば、個々人は何から救済される必要があるのかというと、「罪」、そして「罪深さ」からであるが、これらの概念は、コンスタンティヌス帝以降の神学的な人間理解によって展開されるまでは、ほとんど考えられないものだった(▽2)。かくして、ケリュグマに対するルターの解釈は、神話の社会的論理を完全に見落としている。イエスがそのために死んだ「理由」としての社会形成が、どうして弁明を必要としたのかといえば、そこには、イスラエルの神に訴える権利がなく、この神の「子」、すなわち、「イスラエル人」を装う資格証明もなかったからである。どうしてなのか。それは、この社会がユダヤ人と非ユダヤ人、すなわち、割礼を受けていない非ユダヤ人と、ディアスポラのシナゴーグへの忠実な参加から自分たちを引き離した教師(イエス)の教えに戯れるユダヤ人から構成されていたからである。この意味するところは、神話が答えようとした問いとは、「ユダヤ的」ということ、すなわち、一見混じり合いそうもない人々から成るこの会衆が、いかにして自分たち自身を「イスラエル」と考えることができるのか、ということだった。そして、この問いに答えを与えた神話の論理は、ギリシア的なものだった(それに、迫害される義人という自分たちの物語とギリシアの殉教録を結びつける方法を既に見つけ出していたヘレニズム時代のユダヤの知識人から、若干の力を借りて)。ここに見られる論理は、「死に至る信仰心」(「栄誉」に値する「徳」)と、「神格化」(死後における神の位階への引き上げ)というテーマに関して、とりわけギリシア的である。こうして、我々が、この文書によって与えられた窓を通して凝視し、社会形成と神話創作のこのような契機に付随してもたらされたに違いない騒動と活力を思い描くのは、当然のことである。ユダヤ的な問題とギリシア的な解答、思いも寄らない会衆、信じ難い主張、困惑を生む神話、途方もない社会論理、これらは、すべて、神の王国という社会ビジョンに必須と考えられるようになったものを存在させたい、そのようなイエスの派への誘惑の故だった。

△1 ローマ3:21−26 「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」

▽2 「これらの概念は、コンスタンティヌス帝以降の神学的な人間理解によって展開されるまでは、ほとんど考えられないものだった」とは、一体何を意味するのでしょうか。上に引用したローマ書のパウロの言葉も、人間の「罪」からの救済を主張しているのではないでしょうか。しかしキリストの死は万人のあがないのためだったとするパウロの主張が、イスラエルを継承しつつイスラエルを越える、という神話の「社会的論理」を展開しているという著者の主張は、その通りだと思われます。著者は、まさにそれがユダヤ的な問題に対するギリシア的な解答であったとします。その神話の論理はイエスに人類の救済という途方もない役割を負わせるものでした。

このキリスト神話とマカベア家の殉教物語との間に、類似するものを見出すのは、間違いではなかろう。恐らく、そのような教団創設の神話を敢えて思い描く上で刺戟となったものは、イエスを信奉する人々が自分たち自身について掲げた問いかけだけには限定されない。もし、これらイエスを信奉する人々の集団がディアスポラのシナゴーグの周辺に集い、シナゴーグのユダヤ人から次のように問いかけられたとしたら、どうなったであろうか。すなわち、お前たちの教えとお前たちの社会の構成員はユダヤ的とは見えないのに、お前たちは、お前たちの教えが「ユダヤ的」なものとして正当だと主張する、しかし、それをどうやって証明できるのか、と。そのときには、神話は、「見よ、マカベア家は律法のために殉教し、神は彼らに報いをお与えになった。イエスは、神の王国についての教えの故に殉教し、神は彼に報いをお与えになったのだ」、と答えるであろう。こうして、神話は、これと同類の問いかけに対しては、同じように答えることができた。

△ イエスに従う者たちの間から「キリスト神話」が生まれてきて、それが自らの集団についての自問に答えるだけではなく、ユダヤ人からの鋭い追及に対しても解答を用意することになったのだ、と著者は言います。それがキリスト神話の社会的論理と言われるのでしょう。そこにはキリスト神話の社会的展開の論理としての「観念弁証法」が見られると言うこともできるでしょう。

「コリント人への第一の手紙」一五・三〜五のキリスト神話は、その後のキリスト教徒が思い描くことになる概念としての「救世主」の身に、実際に起きたことを語っているものではない。「コリント人への第一の手紙」一五・三〜五のキリスト‐殉教の神話は、パウロが神話を引用したとき、彼がイエスをキリストと呼んだため、「キリスト神話」と呼ばれるようになった。そして、また、現在に至るまでのキリスト教徒の想像力の中で、イエスは「救世主」だったと、常に考えられてきたからでもある。キリスト教の信仰と伝道、そして、この宗教を始めることができたのは、ただキリストを「救世主」と認識することだけだったのであり、キリスト教の起源に関する伝統的な説明が思い描いていたのは、まさにこうしたことだった。しかし、既に触れたように、キリスト神話を「救世主」の殺害についての物語と考えるためのこれら二つの根拠(▽1)には、そのどちらにも多くの問題がある。第一には、「キリスト」という名称がもはや適切ではない。それは、イエスの称号としての用法を決定づけたパウロ、および前‐パウロの運動におけるキリスト(クリストス)という用語の研究成果に照らすと、誤解を招きかねないものである。第二には、救世主の殺害とその結果である贖罪という概念を貫く論理は、それを神学的に意味づけようとしながら失敗に帰した様々な試み、そのような試みをうんざりするほど繰り返した長い歴史が証明しているように、道理に合わないことである。第三には、ユダヤ人は終末のときに「救世主」が現れることを予期していたという考え、これは、キリスト教徒によって初めて定式化された一つの神話である。研究者は、こうした考えが「奇妙にも」当時のユダヤの文献には存在しないこと、また、通常、キリスト教徒がこのような考えを裏付けるものとして挙げる文書は、別の仕方で解釈されなければならないことを、明らかにした(Jacob Neusner, William Green, Jonathan Z. Smith, Eds. Judaisms and Their Messiahs. Cambridge: Cambridge University Press. 1987. James H. Charlesworth,From Messianology to Christology: Problems and Prospects.The Messiah: Developments in Earliest Judaism and Christianity. Edited by James H. Charlesworth, 3-35. The First Princeton Symposium on Judaism and Christian Origins. Minneapolis: Fortress Press. 1992.)。第四には、マルコ以前のイエスの派によって作られた教えの資料に、キリスト(ないしはメシア)という用語は見られない。第五には、パウロによるこの用語の用法は、意外なものである。メリル・ミラーが明らかにしたように、パウロは、キリストという用語をイエスの呼び名として理解していた(Merrill Miller,The Anointed Jesus.Paper prepared for the Seminar on Ancient Myths and Modern Theories of Christian Origins. Boston. 1999.)。パウロがこの用語を、イエスの特別なアイデンティティ、ないしは役割を規定する特別な名称や称号、すなわち、属性規定的な名称として用いることは、一度としてなかった。イエスは「メシア」、すなわち「キリスト」だったという趣旨や、イエスがそうだったことを知り、信じることが重要であるという趣旨の記述は、どこにも存在しない(▽2)。

△1 ここに「二つの根拠」とされていることは、(1)パウロがイエスを「キリスト」と呼んだこと、(2)現在に至るまでのキリスト教徒の想像力の中で、イエスは「救世主」だったことの、二点ではないかと思われます。

△2 ある人は「教会の常識は世間の非常識である」と言いました。教会では常識として通用していることを、著者は五点に亘って学問的に疑問視しています。それはこれまでの神学的な「キリスト論」に対する重大な挑戦です。

頼りとすべき「救世主」という概念がないことに気づくなら、この用語は、イエスがあの役割、ないしは予期を「成就した」と考えるために用いられたのではないということも、何ら驚くべきことではない。しかし、同時に、メシアという用語は、この時代のいかなるユダヤの文書に現れる誰かある人物に対する名前として用いられるということも、決してなかった。この用語は、例えば「油注がれた(アノインテッド)祭司」や「油注がれた預言者」、「油注がれた王」、「神の油注がれた者」などに見られるように、修飾語的(アトリビューティブ)な形容詞として用いられていたのである。そして、その概念は、ある人物を社会的な仕事や役割のために選抜し、承認するということである。この用語は、それがどんな役割なのかを規定しない。これが何を意味するかというと、メシアのギリシア語訳であるキリスト(クリストス)という用語が最初にイエスに適用されたときの用法は、修飾語的なものだったに違いない、ということである。例えば、「イエスは神によって……へと油注がれた」とか、「イエス、……へと神に選ばれし者」、「油注がれたイエス」、すなわち、「イエス・キリスト」などのように。そのような用法が、とりわけ、それが修飾語的な形容詞として用いられた後では、どのようにして名称へと変化することができたかを想像するのは、難しいことではない。それでは、その修飾語的な言葉のそもそもの意図は何だったのか。また、神がイエスにそれを行なうように「選んだ」ものとは何だったのか。恐らく、初期のイエスの諸派が既にイエスに対して思い描いていた役割、すなわち、創始者と教師という役割のどちらかでもありえたことだろう。そして、その役割は、イエスの派のいかなる集団にとってであれ、思想の一学派、および一つの民族としての正当性を主張することが重要になるやいなや、思い描かれることができた。「新しい時代のために神が選んだ教師として、イエスを考えようではないか」、これが最初に考えられた思想であり、他に何かを付け加える必要はほとんどない。注目すべきことは、キリスト(クリストス)という用語は、ギリシア語で「油注がれた」という意味であるが、しかし、ギリシア人は、ある人物をある任務に選んだことを示すため、「油や軟膏、あるいは膏薬を塗りつける」という語法を用いることはなかった、ということである。かくして、イエスに適用されたキリストの意味は、セム語のメシアに含意されているものを利用しなければならなかった。もし、そうであれば、それがイエスの名称として殉教の物語に結びつけられる前に、この用語を用いることになった社会形成と神話創作のもう一つの契機を思い描くことができる。その主張とは、イエスと彼の教え、そして、イエスの派に所属する人々は、特別の役割、ないしは仕事のために神によって「選ばれ」た、と考えることだったのであろう。これが、「イエス・キリスト」が意味したであろうことのすべてである。しかし、それは顰蹙(ひんしゅく)を買うこともなく、運動の中に笑みを作り出すのに、十分過ぎるものだったろう。あるイエスの集団が、このような意図的に一般化された仕方で叙事詩を拠り所と主張するのは、驚くべき思想であり、非常に論駁し難いものだったであろう。そして、もし、このような仕方で語り始めたイエスの集団が、ユダヤ教徒と非ユダヤ教徒の混交から成るものであったとしたら、キリストをイエスに帰せしめることは、集団の正当性に関する「ユダヤ的」な問いかけへの「ユダヤ的」な解答ということになろう。これは、疑いもなく人々を驚愕させた。この主張は、上手く調停される必要があった。しかし、それは、想像力の神話的な領域に基づいていたため、調停の経過は、あの叙事詩の遺産に対する権利要求に関心を持つ様々な集団の、その後の社会的歴史の中で演じられなければならなかった。

△ 「メシア」、「キリスト」、「油注がれた者」、「神に選ばれた者」という言葉はもともとキリスト者が「救世主」(救い主)として思い描く意味を持ってはいなかったという指摘は、きわめて重要であると思います。あの叙事詩(ヘブライ語聖書)の正当な継承者として、初期キリスト者が「イエス・キリスト」という言葉に託したものは、たとえば「イエス・キリストは主である」(ピリピ2:11、キリスト賛歌)という意味であったと思われますが、著者は発生論的にそのキリストの意味を分析していることになります。しかしたとえそうであっても、「意図的に一般化された仕方で叙事詩を拠り所と主張する」キリスト教の出現は、明らかに人々を驚愕させたでしょう。なぜならそれは「ユダヤ教徒と非ユダヤ教徒の混交」からなる集団が、あの叙事詩の正当な継承者であると主張していることになるからです。そしてキリスト教はその神話づくりの結果、やがてイエス・キリストを神が受肉した存在(神の息子)として、さらに「栄化」(glorify)することになります。

キリストという用語に焦点を当てることで、一連の神話創作の諸契機を手短に締め括ると、今や、「キリスト」としてのイエスというマルコの虚構は、同時に「メシア」という概念を生み出したことが理解される。彼は、イエスの伝承をイエス・キリストの殉教の神話と結びつけ、殉教の物語を歴史の黙示録的な見方に置き入れることによって、それを成し遂げたのである。

△ 宣言物語や奇跡物語としてのイエスの伝承を、イエス・キリストの殉教の神話に結びつけたのはマルコであると言われています。それはマルコの虚構であって、初めてそこに「福音書」という文学類型が成立しました。マルコは神話的な物語を創作したのであって、イエスの伝承を歴史家として編集したのではないということになります。前にも言及したように、著者のそのような主張には異論が予想されます。ローマの政治犯に科された磔刑を、本当に史的イエスが負ったのであるか否かという問題は、歴史学的類推の彼方にあるぼんやりとした映像であって、我々は福音書の受難の記述に接することができるだけです。しかし伝承の一連の過程に神話創作の契機を見出そうとする著者の姿勢は間違ってはいません。新約聖書の諸文書を通して我々が「キリスト神話」に向き合っているのは確かです。そしてその「キリストの会衆の社会的関心」が次に論じられます。


] キリスト教という神話 その5

キリストの会衆の社会的関心

これら初期キリスト教徒の諸集団によって作られたイエス神話は、今や、彼らが正当化された形での社会的アイデンティティを探求した中での、想像的な産物として理解されうる。これが何を意味するかといえば、彼らの神話創作活動は、前章で取り上げられた神話理論の見地から理解されうる、ということである。また、彼らが、虚構的ではあるが、集団的アイデンティティの伝統的なモデルに基づいた主張によって、自分たちの新しい社会構造を正当化することに関心を持っていたことも、前章で論じられた文化と宗教に関する社会理論という観点から理解されうる。しかし、残された問題は、これら初期キリスト教徒の社会的実験に関わっていたかもしれない様々な社会的関心の広がりが、どの範囲まで及ぶものだったのか、ということである。社会的関心の理論は、文化人類学者が分析した人文学と民族学、および宗教史家が研究した神話学という、二つの主要な文書群を頼りとしている。人間の社会を構成している記号と行動様式のいくつかのシステムを、私が社会的関心と呼んでいるものへ転換することも可能だった。これらのシステムは、共同生活のための経験的、自然的秩序を目指した知的構築物であり、社会を形成し、維持しようという人間の営みである。

△ 著者の社会的関心の理論は文化人類学と宗教史の成果に基づいているということが、ここでもう一度確認されます。その知識を初期キリスト教の研究に適用するということは、欧米の知的世界では先駆的見識であり、キリスト教を絶対視してきた世界では、きわめて批判的な試みであると言うことができます。著者はさらに初期キリスト教徒の社会的関心の広がりが、どの範囲まで及ぶものであるのかを問います。なお「人間の社会を構成している記号と行動様式」のシステムと言われるときの記号(シンボル)とは、象徴とも訳しうる言葉です。そしてここでは神話的な「象徴」が問題になっています。

最初、神話と儀式は、想像の世界、すなわち、観察可能な自然的世界を超越した時間と場所を持つ世界に注目を集めるかのように見えるが、それらは、社会的関心によっても駆り立てられる。その理論は、神話と儀式の想像的世界が、社会形成の活動と関係があるというものである。その世界は、空間と時間の地平を広げて、現在の情況への展望を与え、また、いかなる世代の人々が現れたときでも、社会構造は既にきちんと存在しているという事実への説明を与える。さらに、その人がどんな人間であれ、個々の行為者へと遡って由来を辿ることが容易にできないような社会権力について、批判的に考える手段を提供し、より古い社会様式や文化的価値について再考し、再編成するためのイメージや概念を与えてくれる。

△ 神話(象徴=記号)と儀式(祭儀=行動様式)は、人間の社会を形成し維持するために機能してきました。しかしそれは想像の世界に属するため、「脱空間」として現実社会に対して批判的に機能することも可能にしてきたと言えます(「社会空間論から見た宗教」参照)。

我々が、この理論を、社会形成という初期キリスト教徒の実験に適用すると仮定しよう。最初、それは、適切ではないように見えるかもしれない。というのは、初期キリスト教徒の共同体(コミュニティ)は、この言葉の普通の意味におけるような、生産的社会ではなかったからである。そこには、住居の場所設定もなければ、動植物の分類にも関心がなく、血縁関係を表す言葉はあったが、結婚を合法化し、健康的なキリスト教徒の赤ちゃんを産むのに役立つ制度は存在しなかったし、基礎的な物質の生産を保障する技術とその習得にも関心がなかった。実際のところ、これらのキリスト教徒が世俗的な意味で素晴らしいとは、考え難かったであろう。

△ 社会的関心の理論を初期キリスト教に当てはめて考えようとするとき、そこには通常考えられるような「社会的関心」が見当たらないではないか、という反論が予想されます。そうすると、いかなる社会的関心がキリスト教徒を支配していたのかが、改めて問われることになります。つまりその社会的関心のあり方が問われることになります。

しかし、実際には、こうした社会的関心のほとんどすべてが、初期キリスト教徒の議論の中に数多く見られる。問題なのは、これらの議論の意図が、より広い世界の他の社会形態と彼らとの違いを示すためだった、ということだった。こうして、彼らの議論は、途方もない神話的主張と、そうした神話的主張への脅威となるかもしれない標準的な社会的慣習に対する自己防衛的策謀との間で分裂している。彼らは、自分たちの「居場所(ハビトゥス)」として作った神話的な想像の世界に精神を集中させているときでも、彼らが他の人々と共有している現実世界の特徴を承認しなければならなかった。とはいえ、神話の世界は、彼ら自身の主要な社会的関心が向けられる唯一の場所だった。例えば、親族制度の資料を例に取ってみよう。これら初期キリスト教徒の間では、親族関係について数多く語られている。しかし、彼らが思い描く親族関係は、一つの虚構である。パウロが「ガラテヤ人への手紙」(▽1)の中で言っているように、彼らは、実際には、アブラハムまで遡る系譜を持った「家族」の「兄弟」と「姉妹」ではない。様々な民族の血を引き、割礼をしていない非ユダヤ教徒なのに、自分たちを「アブラハムの子」と呼ぶ者たちが、余りにも数多くいた。彼らは、ただ、自分たち自身をそのように考えたかったのであり、そうありえることを自分たち自身、そして、他の人々に納得させるため、懸命に尽力しなければならなかった。「ガラテヤ人への手紙」の中でパウロが心を尽くしたのは、次のような議論、すなわち、伝統的に規定されたユダヤ的民族性は、もはやイエス以降、「イスラエル」への帰属のために要求される不可欠の要件ではない、というものだった。この議論は、修辞的には大失敗だった。パウロが言うように、イエスを「アブラハムの種」と考えるべきなのか。しかし、そうであれば、イエスは神の新しい家族の「父」ではないことになろう。恐らく、神の養子というのが、より懸命な隠喩かもしれない。しかし、その場合、イエスは神とどのような関係を持つことになるのか。イエスは、「アブラハムの種」であるが故に、神の子なのか。それとも、神の子であるが故に、「アブラハムの種」なのか。そして、神の位置づけも明らかにされなければならなかった。こうして、やっかい至極な問題を回避することは、ほとんどできなかった。「ローマ人への手紙」(▽2)に示されているように、パウロのこうした議論の筋道は、彼自身の目から見てさえ持ちこたえられないものだった(▽3)。そのため、パウロは、家族の虚構を支える別の方法を見つけなければならなかった。それでも、「ガラテヤ人への手紙」における試みは、多くのことを教えてくれる。その試みは、親族関係の神話的虚構を用いて社会的実験を正当化しようという関心に、多くの知的努力が注がれたことを示している。

△1 著者はパウロの「議論の筋道」を突き放して見ています。「ガラテヤ人への手紙」には次のような箇所があります。

『キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである』(3:13−14)。

『さて、約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは、多数をさして「子孫たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あなたの子孫とに」と言っている。これは、キリストのことである』(3:16)。

『しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである』(3:23−29)。

△2 「ローマ人への手紙」には次のように書かれています。

『ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、

「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、
さいわいである。
罪を主に認められない人は、さいわいである」。

さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままに信じて義とされるに至るすべての人の父となり、かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである』(4:6−13)。

△3 ここに「彼自身の目から見てさえ持ちこたえられないものだった」と書かれているのは、具体的に何を指しているのか不明です。しかし『ひとりをさして「あなたの子孫とに」と言っている』(ガラテヤ3:16)とか、『無割礼のままで信仰によって受けた義の証印』(ローマ4:11)であるとか言っているところは、パウロが「苦しい論証」を試みているという印象を受けます。しかしこの神話の論理によって、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」世界が開かれてきたということについては、やはり相応の評価が下されて然るべきことでしょう。

このことは、人間社会の他の諸構造を生み出す社会的関心、例えば、テリトリーや分類、暦法、社会的役割、行動の規範、そして生産、等々に関しても同様である。人間社会の構造にとって基礎的なこれらの関心は、たとえ神話の領域に移し入れられたとしても、すべてそこに存在している。例えば、テリトリーを例に取ろう。テリトリーの地図化に対する関心は、社会の地理学へと翻案される。これらのキリスト教徒は、自分たちの社会の境界線を定め、競争者はすべてこの線の向こう側のどこか、言い換えると、調停と闘争を最も処理しやすいところへと位置づけることに長(た)けていた。同じことは、人間社会を構成する他の記号体系についても当てはまる。文化的な情況を左右するイデオロギーは、その有用性と危険度に応じて分類された。暦法は、新たな活動様式に適応させるため、作り変えられた。社会的役割が作られ、議論され、制度化された。注目すべきことは、模範となる原型が見出され、自分たちは義であるという主張が固定されたのは、神話的な枠組みにおける指示関係であり、叙事詩的歴史や神の目的、宇宙の秩序を受け容れるために拡張された地平だった、ということである。そして、これら初期キリスト教徒が、自分たちの祖先を見出して、系譜を作成し、また、自分たちの英雄を確保し、開祖にとっての先例を見つけ出し、神の道を跡づけ、さらに、宇宙を彼らがくつろげる神の「家」へと変える力の存在するのも、そのような地平においてだった。

△ 人間は裸の宇宙に存在しているのではなくて、自分たちの作り上げた神話的な空間に居住しています。キリスト教という新しい宗教(神話体系)にも、そこに居住する人々が織り上げた様々な物語の綴れ模様がありました。一旦その世界に「棲み込んで」しまうと、例えば昭和と平成が別の時代として意識されるように、そこに居住する人たちにだけ通用する意味空間が現出してきます。そしてその空間に適合しないイデオロギーは排除されるようになります。そして内と外との境界が出来てきます。

当然のことながら、彼らにとって、現実の世界に住む人々の慣例的な風習に対してどう対処すべきかを知ることは、難しいことだった。すぐに表面化する問題としては、葬儀(民族的アイデンティティについてのまったく異なる考えに基づいた慣習)や市民(シヴィック)の祝祭への参加(これらもすべて、「異教の」儀式だった)、改宗していない配偶者との性交、市場で入手した肉を食べること(これらはすべて、「異教の」神々に「捧げられて」いた)、ユダヤ的な聖潔の規範(一見すると良さそうに聞こえるが、もう一つの別の勢力圏へと押しやられかねない)、割礼、会食、宮廷への参内、そして皇帝への崇拝に対してどう対処すべきか、等々があった。初期キリスト教徒が自分たちの居場所として作り上げた「神の家」は、これらとはまったく違う世界だった。しかし、それは、ある種の社会構造、すなわち、我々なら「宗教的」共同体とでも呼ぶような社会構造の支えとなるものだった。初期キリスト教徒の共同体を、西洋において宗教組織が国家から分離した最初の例と見なすべきかどうかについては、議論百出で決着がつかない。しかし、初期キリスト教徒の実験は、世界を二つに分割する見方を生み出したのであり、そのような見方においては、両半分の構造が容易に調和し合うことはなく、また、そうなることもほとんど期待されていなかった。この事実に関しては、何ら異論はない。分割された二つの世界の一方は、日常世界であり、様々な人々が居住し、多大な修繕や変革の必要性がある組織によって支配されている。それに対して、もう一つの世界は、神の王国という理想の秩序であり、神話的類型によってのみ思い描くことができ、キリスト教徒の共同体に入ることによってのみ手に入れることができる。キリスト教徒は、両方の世界に住んでいたが、自分たちの支えを得ているのは、神話的世界からだった。彼らは、そうした世界を近づきうるものとするため、様々な慣習や儀式を作り出した。また、現実の日常世界から離れ、天上の神の王国にふさわしいと考えられる社会秩序を象徴するため、宗教的共同体を形成した。初期キリスト教徒の社会組織を「宗教的」共同体と記述することが正当化されるのは、純粋に神話的な居場所をこのように洗練させたためである。しかし、ひとたびこのことが理解されると、我々がこれまで探求してきた社会理論は、社会構造と宗教的制度という二つの側面に対しても、完全に適用可能なものとなる。

△ ここで指摘されていることは、日本の明治以降のキリスト者が直面した問題と基本的には同じではないかと思われます。キリスト教という異空間に属することによって、彼らもまた異教的な日本の風習から離脱し、それに批判的に対峙しました。しかし「神の国」という理想もまた神話的であって、キリスト教だけが特段に優れた宗教であるという信仰は、一種の幻想でした。それは人々に異なる居場所を提供しましたが、その信仰によってすべての問題が解決するわけのものではありません。「個体発生は系統発生を繰り返す」という言葉があります。日本でキリスト者となった者も自らの出自を辿るために、古代以来のキリスト教の歴史をもう一度繰り返さなくてはならないということは、何とも重い課題であり、過重な負担です。しかし日本のキリスト者は忠実にその課題を担ってきたと言うことができます。そして今やその先が問われています。

使徒神話の社会的論理

紀元一世紀の末までに、イエス神話のほとんどの選択肢は探求し尽くされ、キリスト教徒は新たな神話の世界に適合する新たなイエス神話とキリスト神話を作り出すという、まったく骨の折れる仕事から、暫時、解放される余裕を得た。彼らは一休みし、辺りを見回し、自分たちが作り出した社会の情景を眺めやった。それは、取り立てて美しい光景というものではなかった。あれこれの集団が、自分たちの慣習や思考方法に安住してしまい、それらは互いに調和し合うことがなかった。グノーシス主義者や禁欲主義者、ユダヤ人のキリスト教徒、心霊主義者もいれば、秘義的な諸集団、イエスの諸派、死者を祀る地域的な諸宗団もあり、そして、主要な都市には指導者がいて、その地域全域に住むキリストの会衆に手紙を送り、信仰と従順な振る舞いについての教えを説いた。中には、他の集団と対立していることを意識しながら、自分たち自身の生活様式を作り出した集団もある。そして、集団独自の考えと伝承の真理を保証しようとする探求と共に、神話創作の次の段階が始まった。キリスト教の起源に関するこの段階についてのより詳細な記述に関心がある読者は、『誰が新約聖書を書いたのか』(秦剛平訳、青土社、一九九八年、Who Wrote the New Testament? The Making of the Christian Myth. San Francisco: Harper. 1995.)を参照されたい。

△ 紀元一世紀の末には様々な宗教的集団があって、互いに調和することなく、それぞれの主張を行ない、自分たちの慣習や思考方法に安住していたと書かれています。地中海の周辺世界に様々な宗教、そして慣習や思考様式が存在したであろうことは想像に難くありません。その中でキリスト教は、その中に多様な傾向を抱え込みながら、新興勢力として拡張しつつあったのでしょう。

望ましい解決策は、その集団の伝承を、イエスがある特定の使徒に与えた特別な教えに帰着させることだった。その使徒は、その集団の教えが真理であることの保証人、ということになろう。そして、それに最もふさわしい候補者と言えば、パウロが述べているように、「肉の中にある」イエスを知っていた弟子で、恐らくは復活の後に教えを受けた者、ということになる。しかし、そのように考えるためには、いくつかの問題を解決しておかなければならない。第一の問題は、パウロ以降、使徒(アポッスル)という概念は、イエスの弟子(ディサイプル)という概念とは必ずしも結びつかない、ということである。そして、弟子という概念に関して言えば、それが最初に使われたのは、イエスの派の一つに参加した誰かしら重要な人物についてだった。イエス運動は、イエスを個人的に知っていた特別な弟子に訴えることがなくとも、まったく成功裏に展開された。例えば、イエスの言葉から成る福音書Qの中には、名前を挙げられた弟子は一人もいない。パウロの手紙の中では、ペテロとヤコブ、そしてヨハネが、使徒として言及され、エルサレムの集団の「柱」と呼ばれているが、しかし、彼らが弟子だったとの言はない。マルコの福音書では、これらの三人はイエスの特別な弟子として名を挙げられたが、その役柄は、イエスを理解しない弟子というものだった。そして、トマスの福音書では、ペテロとヤコブ、ヨハネ、そしてマタイは、いつも間違った問いを発する盲目の弟子であり、従って、イエスの「本当の」弟子ではなかった者たちを象徴している。それ故、ここには研究を要する問題があった。

△ 自分たちが保持する伝承の正当性を主張するため、使徒の権威に訴えるということが、神話創作の次の段階であると言われていなす。しかしそのためには解決しておくべき問題がありました。「誰」の権威に訴えることができるかという問題です。

我々は、イエスの派における弟子という概念がイエス弟子となり、次いで、使徒、すなわち、選び抜かれた代理人となり、そして最後には、イエスに始まると考えられた教えの特別な伝承を保証する者となるため、為されなければならなかった様々な動向を追跡することができる。神話創作の過程で一つの役割を果たした記述的特徴の中には、「十二」(あるいは、「七」のときもある)という概念、十二名の名が挙げられているいくつかのリスト(その中の二人は、異論があって一致しない)、復活の後にイエスが彼らに現れた物語、そして最後に、ルカが伝える物語、すなわち、ユダが死んだ後、籤(くじ)によって十二人の弟子が使徒へと再編成された物語や、聖霊降臨の日に彼らが聖霊を受けた物語、また、彼らが世界中へと散開し、福音をもたらした伝道の物語などがある。

△ 当初のイエス運動からのさらなる神話的展開にイエス自身は与っていなかったという著者の仮説からすれば、使徒を選んだのはイエスではなく、後の神話的創作に属することになります。たしかに十二や七の数字は作為的なものを思わせます。

二世紀の初めに書かれ、「使徒の言行」を伝えるルカの物語は、使徒神話の展開における重要な契機と考えることができる。しかし、これが、前述した様々な要素の関連づけを案出する唯一の方法ではない。その上、この物語は、非常に政治的、かつ利己的だったのであり、十二人の使徒をルカ自身の伝承のために集めている。それは、当時、活動的で強力だった数多くの他のキリスト教徒を、意図的に看過している。これらの人々も、イエスの〈弟子/使徒〉の一人を通して、イエスからの真理を特別に伝達されたことを主張しようとしていたことだろう。そして、そのための方法は、彼らの教えを書き留めた何らかの記録や覚え書き、手紙、あるいは説教などを保持していることだった。例えば、ルカは、すべての使徒に向かって説かれ、共有されていたと考えられる標準的な説教を書き記した。他の集団は、彼らの様々な福音や言葉、物語、手紙、そして教えに関して、どのように取り組んだのだろうか。パウロの手紙を除き、初期に作られた文書のほとんどは、集団自身が記憶し、思い描いた伝承に役立てるため、名も知られぬ記録者たちによって何度も編成し直され、改訂された。古代近東における伝承との調和を保持するため、既に共通の話の流れに属するかのように作り上げられていた物語や言葉に対しては、いかなる記録者も、敢えて自分の手柄にしようとはしなかった。しかし、今や、これらの文書のいずれもが、保証人となる人物を必要とした。それは、誰だったのだろうか。また、その集団は、どのようにしてそれが本当だと確かめることができたのだろうか。こうして、神話創作の次の段階を必要とする数多くの問題が浮かび上がってきた。そして、この段階での問題は、イエスについてではなく、使徒についてだったのであり、それは紀元二世紀を通して続いていった。

△ 新約聖書を読むほどの人はキリスト者である場合が多いでしょう。その場合に聖書は信仰のバイアスをもって読まれることになります。一人の歴史家として聖書を一つの資料と考えて読むことはまれであり、そこには研究上多くの困難が横たわっています。しかし著者は一人の歴史家なのであり、また宗教史や人類学の知見をもって聖書に立ち向かっています。私自身、信仰者としてのバイアスをたっぷりと身につけて聖書に触れてきましたが、そこに存在する多くの思い込みを取り除くためには、本書のような研究に接して自己吟味する必要が生まれてきます。イエスの弟子や使徒についての聖書の記述に関しても、これまで自分が抱いていたイメージを根本的に疑わなくてはならないでしょう。

ヤコブは、キリスト教的感性とユダヤ的感性の境界線上に位置づけられ、倫理的な教えを内容とする小さな文書の作者とされた。しかし。これらの言葉をトマスの福音書の中で洗練した人々は、彼らの歴史のある時点で、何らかの理由からその保証人をヤコブからトマスへと切り替えた。元々は作者不詳だった最初の福音物語は、後になって、マルコなる者の作とされた。この人物は、使徒のマルコ本人ではないが、パウロとペテロの二人を知っていて、ペテロの記憶を聞き取り、この福音書を書いたと考えられていた。ペテロは、また、後になって彼の名を冠されたもう一つの別の福音書、および二つの手紙の作者とされた。いくつかの牧会手紙も、ペテロからのものであるかのように書かれた。そして、福音書Qの言葉は、後に使徒マタイに帰せられることになる福音物語に組入れられた。ピリポはグノーシス派の福音書を書き、アンデレはアンデレの言行録に登場する、等々。それでは、ヨハネについてはどうだろうか。

△ 初期キリスト教のそれぞれの派が「保証人」となる人物を求め、その派の文書に使徒の名を冠したということが指摘されています。

ヨハネの福音書は、作者を誰に帰するかという問題では、とりわけ興味深いケースである。なぜなら、この福音書の構成から、この書は、長い時間をかけて洗練され、自覚を持った共同体の中で繰り返し改訂されたことが明らかであり、また、この共同体は、自分たちの耳に鳴り響くイエスの言葉の真理に対して、どんな名のある使徒も保証人として必要とはしなかったし、ましてや、物語の中に名前も出てこないヨハネなど、論外だった。しかし、二世紀の初頭、この共同体は、大きなトラブルに巻き込まれた。この福音書の中には、自分たちの保証人としてトマスの名を挙げていたと思われる別のイエスを信奉する人々との、決定的な意見の相違を暗示するものがあった。また、共同体の長老によって書かれ、後になってヨハネに帰せられることになる手紙の中には、後にグノーシス派となる党派(ファクション)とキリストの会衆に合流する方向へ進んだ党派との間に、痛ましい別離があったことを示す証言がある。これら二つの党派は、どちらも、共同体の初期の歴史の中で一緒に作り上げた福音書に強い愛着を持っていて、別々の道を歩み始めたときも、それぞれがこの福音書を携えて行ったと思われる。後に、二世紀初期に活躍したグノーシス派の教師、ケリントスがこれを書いたという者が現れ、この書の作者とその権威をめぐる争いが生じたと思われる。そして、自分たちのために主張する動きを最初に見せたのは、恐らく、グノーシス派だった。しかし、確かなことは分からないが、グノーシス派のこうした動きは、彼らと袂を分かったもう一つのより保守的な党派にプレッシャーを与え、彼らは、作者の名を使徒に帰したいと願った。しかし、十二人の使徒の中、誰が適任だったのだろうか。既に多くの者が他の集団に取られてしまっている情況下で、彼らに残されていたのは、十二人の中の誰だったのだろうか。

△ ヨハネの名が冠せられる文書(福音書と書簡)を作成した党派は、後にグノーシス派に流れたグループとの分離を経験していたという著者の指摘は興味深いものがあります。ヨハネの福音書には、たしかに共観福音書とは異なるトーンが感じられます。

ある時点で、キリスト教徒の伝承を記録する者の一人が、賢明な解決策を思いついた。名を挙げられていない「イエスの愛する弟子」を物語の最後に付け加える、という解決策であり、そこに描き出された人物像は、適切にも共同体の敬虔さを象徴していた。ヨハネの福音書の最後の章(第二一章)が付け加えられたとき、復活したイエスの最後の顕現の中でペテロと共に際立った形で登場するのが、この弟子だった。そして、この章の最後、すなわち、福音書の最後には、「これらのことについて証しをし、それを書いたのはこの弟子である」と記されている。恐らく、そのようなことを意図していたとは思われないが、もし、記録者が十二弟子の中の一人を心に描いていたとしたら、彼が作り出した「イエスの愛する弟子」の「本当の」アイデンティティという謎は、疑いもなく、まったく巧妙というしかないものだった。しかし、第二一章の説明には、二世紀の後半になると、証明はできないとしても受け容れることはできる答えを可能にするような特徴があった。そして、その答えとは、その弟子はヨハネだったに違いない、というものである。他のキリスト教徒も、明らかに、この提言に好感を示し、そして最後には、長老の手紙と同様、この福音書もヨハネの作とされ、また、別のヨハネ(パトモスの「長老」)のサインがある荒唐無稽な黙示録さえもが、彼に帰せられた。こうして、ヨハネの福音書は、最終的に新約聖書として知られるようになる特別な文書の集成に組入れられるべき候補となった。そして、この集成は、四つの福音書と一つの使徒言行録、一つの黙示録、二一の手紙から構成されていて、それらのすべてに使徒のお墨付きが与えられている。

△ 使徒神話は「新約聖書」という形で、キリスト教徒の新しい聖書を権威づけるという役割を果たしました。ヨハネ文書がその仲間に入り込むことができたのも、それがヨハネの名を冠せられていたためでしょう。しかし「イエスの愛する弟子」はヨハネに違いないとウワサする当時のキリスト教徒の心情を思うと、何かほほえましい感じがしてきます。のちの聖人信仰もそういう形で人々の間に伝わって行ったのでしょう。

叙事詩的聖書の社会的論理

神話創作の第三段階は、二世紀の半ば頃に始まった。新しい世代の若くて聡明なキリスト教徒の学者たちは、福音物語、主としてルカの福音書であるが、その福音物語に見られる二つのやっかいな特徴に苦しめられるようになった。一つは、マルキオンが気づき、トリュフォンが語っているように、「キリスト教徒はイスラエルの神に敬意を払っているが、その律法は守らない。どうしてそのようなことができるのか」という問題である。もう一つは、グレコ‐ローマン時代に流行した諸文化と哲学の諸学派の間に存在した知的感情の眼前で、まったく新しい宗教という主張が飛び交った、ということである。新しさとは、よい知らせではなかった。有用な知恵とは、由緒正しいものでなければならず、また、神々がどのように計画を立て、どのようにして世界が生じ、最初の英雄と賢人たちが人間の事業の端緒をどのようにして開いていったかということの、重要な要素でなければならなかったからである。マルキオンやワレンティヌス(グノーシス主義参照)、殉教者ユスティノスなど、初期のキリスト教神学者は、誰もが、これら二つのやっかいな問題と苦闘した。

△ キリスト神話から使徒神話の「創作」を経て、キリスト教は第三の神話創作の時代に入ったということが言われています。それは二世紀の半ば頃に始まりました。これら二つの問題とは、一つはユダヤ教との関係であり、もう一つは自分たちが新しい宗教であると言われていることへの対応でした。キリスト教はまさに新興宗教だったのです。

これら第三世代の神学者は、世界中の人々が彼らを注視していると感じていた。あたかも、今やキリスト教という見せ物が巡業の途にあり、サーカス団のテントが新たに町にやって来たかのように。我々は、彼らがあちこち走り回って、一方ではいくつかの覗き穴を塞ぎ、他方では客寄せ用の箱を開け、ポスターをデザインし直し、台本を書き換えているのを見ることができる。彼らは、総じて、自分たちのショーがあまりにも馬鹿げて見えないようにし、それで客を喜ばせようとした。それは、一つの困難な仕事だった。なぜなら、ギリシアの神々と宗教の祝祭を大いにあざ笑いつつ、ギリシア哲学の偉大な伝統と手を携えるという、綱渡りをしなければならなかったからである。彼らは、また、その国民はもはや法を必要としないもう一人の国王に忠誠を尽くしつつ、ローマ人に対しては、自分たちは法を守る市民である、と説明しなければならなかった。加えて、彼らの知恵は、他の人々がまさに彼らが言うのと同じ創造と歴史の中に見出している知恵と調和することがないにも拘わらず、彼らは、自分たちの知恵が、天地創造の太初から今の激変の時代に至るまで、世界の中で働いているのを見ることができる、と言わなければならなかった。当然のことながら、テントの位置を定め、大騒ぎをして働き、ショーを呼び出すやり方は、何通りかあった。

△ キリスト教という新しい興行を成功させるために、台本作者や演出家やその他の団員たちが、大騒ぎで働かなければならなかったということは、十分に想像できることです。キリスト教哲学という綱渡りの仕事がここから始まりました。しかしその路線は一つではなく、何通りもの可能性がありました。

マルキオンは、後退しないことを決意した。初めて会うどんな年長者にそれを言われても、彼は答えた、「新しさということに何か悪いことがあるのか。歴史が問題なのだ。憤怒と暴力の古い法と神々にも拘わらず、なぜ古い世界を大事にするのか。慈悲深い聖霊、知られざる神が、これらの嫉妬深い神々とその傀儡である諸々の王が建てた障壁を破って、ついに姿を現したのだ。そして、キリストの霊が、我々を古い世界から解放し、古い世界の法と貪欲と罪から解放してくれたのだ。こちらへ来て興行を見、聖霊を受け止め、ショーに参加しようではないか」、と。

△ マルキオンは新しさを強調しました。すなわちユダヤ教の創造神とキリストにおいて啓示された至高の神、あるいは「義なる」「知られたる」創造神と、「善なる」「知られざる」神とを峻別し、また律法を捨てて福音のみを強調しました。グノーシス主義の影響も指摘されています。160年頃没。

これは、追随し難い言行だった。自由と霊、そして、世界を超越した運命への期待、これらは、世間を沸かせる宣伝だった。もし、しなければならないことが、宗教的体験を持つことだけだったのであれば、このことはとりわけ当てはまる。ウァレンティヌスとグノーシス主義者も、そのような超越的運命という考えに興味をそそられていた。しかし、彼らの取り組み方は、過去の知恵をすべて無視するというのではなく、異教徒の哲学者を招き入れて、天上への天幕を開き、想像的な思弁のための新たな舞台を設定するために、これらの有名人(スター)を利用しようというものだった。彼らは、天地創造からキリスト教が成立するまでに演じられたに違いない宇宙のドラマ、そのようなドラマを思い描くのに必要な天上界の舞台装置を作り出すよう、哲学者たちに求めたのである。彼らは、明らかに、霊的な法悦(エクスタシー)よりも知的(ノエティク)な体験を好み、復活の出来事よりも哲学体系を好んだ。そして、あろうことか、キリストを天地創造の場に置き、さらには、人間の歴史の近い将来に顕現することを説明するため、彼らは、世界の中の世界を思い描いた。

△ グノーシス主義者「ワァレンティヌス」については「ナグ・ハマディ写本その1」「同その2」を参照して下さい。

殉教者ユスティノスは、これら二つの取り組みのどちらも取らなかった。彼は、天上界に通じる天蓋を閉じ、グノーシス派の舞台装置に登場するスターを締め出し、マルキオンの偏狭な感情を持つ霊にはノーを突きつけ、周囲の世界からの風を遮るためのものだった天幕の垂れ幕を上げ、法の問題を直視し、イスラエルの叙事詩的歴史が再演されるための舞台を設定した。彼は、どのようにすればキリスト教が立派なものになるかを示すことにより、穏健なキリスト教の基礎を置こうとした。イスラエルの神という問題については、ユダヤ教の聖書を見るように、と彼は言う。神は、ユダヤ人が度し難い民だったため、彼らに律法を与え、破滅させると脅さなければならなかった。律法は、神の摂理として与えられたのであり、決して神の意志ではなかった。神命を読み、預言者の言葉を聞き、彼らに対する警告と審判に注目せよ。神は、ユダヤ人の神殿を破壊し、聖なる地から彼らを追放し、ローマ人の手に渡そうと欲したわけではない。しかし、神は、そうしなければならなかった。ユダヤ人が、神にそうさせたのである。彼らは、神を本当には知らず、神の律法を守ることができなかった。彼らは、頑(かたく)なだった。それは、まさに、彼ら自身の預言者の一人が、神自身の声で、「イスラエルは私を知らない、私の民は私を理解しない」(イザヤ一・三)と語った通りである。そして、このことが、律法についての困難な問題を処理した。律法は、どこまでもユダヤ人への摂理だったのであり、当然のことながら、キリスト教徒はそれを守る必要がなかった。

△ キリスト教正統派が「旧約聖書」に基づき、その叙事詩の真の継承者であり、真理の担い手であると主張し、殉教という試練を経て力を持つようになったことがキリスト教のその後の運命を決定しました。内外の敵との壮絶な闘いがそこにありました。

我々がここで出会っているのは、キリスト教教父の手による、嫌悪を感じさせられるような文書群であり、対ユダヤ教徒論駁というジャンルとして知られている。デーヴィッド・エフロイムソンをはじめとする歴史学者は、これらの文書を詳細に研究した。エフロイムソンの結論は、非常に有益なものだった。私が思うに、彼の結論はまったく正しい。初期キリスト教徒の教父が行なった説教や論文は、ユダヤ人を弾劾するうんざりするような長広舌に満ち溢れているが、それは、単なる反‐ユダヤ主義(アンチ‐セミティズム)の結果ではない。それらは、ただ一つの目的に駆り立てられて為されたものであり、その目的とは、ユダヤ教の聖書をユダヤ人の手から引き離し、それらをキリスト教の叙事詩として読む、ということだった。それは、どうしてなのか。新しいという非難に対抗するため、つまり、キリスト教は、まさに世界の太初から神とその民の物語に根ざした宗教である、と思い描くためである。新しいという非難に答えることは、律法を守らないという非難に答えるよりも、かなり難しいことだった。しかし、ユスティノスによれば、わずかな工夫をすれば、うまく処理することができる。そのためには、ユダヤ教の聖書を二度読む必要がある。二回目のときに重要なのは、ユダヤ人の不従順の物語ではなく、テキストの背後に隠された意味であり、それを見出さなければならない。そして、この隠された意味こそ、従順な人々のために神が定めた計画であり、神の永遠の願望なのである。これを示唆するものは、神の言葉、そして、イスラエルと神との争いの物語の中にある。テキストの裏に潜んだ「理法(ロゴス)」(神の考えと願望、心、理性、言葉、そして、世界の計画、等々の啓示)を探し求めるならば、そもそもの初めから、キリスト教の啓示が神の意図だったことを理解することができる。ユダヤ人はそれを理解しなかったが、しかし、最終的にキリスト教徒がそれを理解した。それ故、神は、その間ずっと、キリスト教徒のことを心に抱き続けていたに違いなかった。まったく新しい啓示と宗教だって? 絶対にそんなことはない。彼ら、教会の最初の神学者たちは言う、「我々キリスト教徒は、神の知恵、すなわち、世界を創造し、人間の歴史を動かす知恵の開花である。それを理解するためにしなければならないのは、ただ、聖書を寓意的に読むこと、言い換えると、神の永遠の理法の物語、および、従順な人々を探し求める神の探究の物語として読むことだけである。表面的には、聖書をイスラエルの否定的な物語として読め。次に、もう一度、キリスト教徒との約束の物語としてそれを読め」、と。

△ キリスト教教父たちの、ユダヤ人の聖書をいわば換骨奪胎する闘いが、キリスト教の「新しい物語」に接ぎ木され、しかもそれは、神の永遠の、太初からのはからいを現わし出すものであったという、キリスト教にとってはお馴染みの自己理解をもたらしました。しかしそれは壮大なフィクションであり、まさに途方もない自己理解でした。

このようにして、ユダヤ教の聖書が、キリスト教の叙事詩となった。そして、使徒が書いたとされる著作は、この新しい叙事詩の結末を記録するものとなった。そして、それらは一緒になり、キリスト教の聖書を構成する旧約と新約になった。その後はずっと、聖書は、キリスト教という宗教の神話と儀式の書とされることになった。このような聖書の集大成が行なわれたのは、二世紀の終わりから三世紀末までにかけてである。エウセビオスコンスタンティヌス帝の時代までに、キリスト教教会は、司教や司祭、儀式、使徒信条、教会暦の制度を整え、ローマ帝国の宗教となった。そして、教会関係者によって代表される社会的関心と王権によって代表される社会的関心は、最終的に単一の社会構造へと収斂し、キリスト教の神話が宇宙の天蓋を創造し、すべてを包含する壮大な文化を作り出すことを可能にしたのである。

△ 帝国の宗教となったキリスト教は、一つの文化(文明)を作り出し、それは永い間、強大なイデオロギーとして人々の心を支配することになりました。

結び

社会的関心の理論は、キリスト教の起源を説明することができるだろうか。答えは、イエスであるように思われる。私は、まだ、ルカ‐エウセビオスの物語のどんな特徴、例えば、それは、神の介在や特異な個人の神秘性、あるいは、聖なる物語への重要な転換を洞察する際の宇宙的霊の助け、等々であってもよいが、その中のどんな特徴が必要不可欠なのかを、理解できないでいる。それらに代わって、私の視野に入ってくるのは、独創性があり、高い想像力を持った人々のことである。もし、我々がこれらの人々に焦点を当てるならば、キリスト教の起源は、人間の事業に特徴的で、あらゆる領域にまたがる社会的関心に関わった社会的実験として、意味を持つことになるだろう。彼らは、我々に、数々の途方もない慣習や信念を提示してくれる。そして、彼らが作り上げたものは、かなり奇妙な形態の社会構造へと転化するが、それらの構造のどれであれ、あらゆる領域にまたがる実践的な社会的関心を、単一の社会組織や制度、概念へと統合することはできなかった。しかし、これらの特徴のどれにも、理解可能な理由がある。そして、キリスト教徒だけが、社会的、文化的変動の激しい驚異的時代に応答し、サブカルチャー的社会を生み出したわけではない。彼らがこの困難な仕事をうまくやり遂げたことは、彼らの偉業と見るべきである。彼らは、ただローマ帝国の軍隊と政治的関心によってのみ統一されていた世界と直面しつつ、敢然として、人間の共同体という社会像を磨き上げていったのである。

△ マック教授が思い描く「人間の共同体」には、「神話」と「儀式」は不可欠なものなのでしょうか。人間の条件として記号(象徴=神話)と行動様式(儀式)というものがあるのだとすれば、それは形を変えて、いつの時代にも人間に付き纏うと言うべきかも知れません。しかし「軍隊と政治的関心」によって支配されているこの世界で、「人間の共同体」を取り戻すために、我々はいかなる記号と行動様式を創り出していかなくてはならないのでしょうか。キリスト教の起源が社会的関心の理論によって解明されるとしても、それをもう一度この世界に取り戻すことが必要とされているのではないでしょう。マック教授は既にキリスト教を対象化してしまっているのであって、再びそれを生きることは、もはや不可能です。この時代に「独創性があり、高い想像力を持った人々」とは、どういう人々のことなのでしょうか。我々は、今、そのことをこそ問わなくてはならないのではないかと思われます。あの時代に創造的であったことは、今は桎梏と化しています。今この時代に、「人間の共同体という社会像を磨き上げる」ということが何を意味しうるかを、たとえ困難であっても、探求して行かなくてはならないでしょう。

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