閑老人のつぶやき 本について5
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「さて、植村正久によれば、教会の「自主独立」は、財政上の「自給独立」とともに、教会が組織上のまた実質的な自主独立性を備える備えるべきことをも意味した。すなわち、(1)教会の形成と運用において、(2)伝道者の養成において、(3)神学において、外国教会、その伝道局、宣教師団から独立し、自主性を維持すべきである、とされていた。元来日本が開拓伝道地であり、日本プロテスタンティズムが、外国宣教師団によって始めて開発され、植村正久の言葉でいえば「彼ら〔外国宣教師団〕は日本人の信仰における父なりと謂わざるべからず」(1906、全集5、p.317)ということは否定し難い事実であって、この中で、日本の教会の組織上の独立を原理的に基礎づけることは、必ずしも簡単でないが、植村正久の場合、この原理的基礎づけは、前述の「自給独立」の場合と同様に、相互貢献の能動的主体となりうる「独立の精神」に訴えることによってなされた。すなわち、「日本のキリスト教者が外国諸兄弟の厚意に酬ゆべきの道、蓋し三つあり。彼らはキリスト教を深くその国土に扶植し、その精神を消化し、これを信ずるにおいて聖霊の啓発に由り、自己の特色を発揮して、世界のキリスト教に貢献する所あらんを期し、独立の信仰独立の教会、実に外国伝道の功績を明らかならしむるは、日本キリスト教者責任の一つなりと言うべし(*1)」(1906、全集5、p.317)とされたのである。このようにして、彼においては「独立の信仰独立の教会」を達成すること自体が、開拓伝道地における新しい教会、すなわち日本の教会の使命となった。そして、教会の組織上の自主独立については、植村正久は、「教派合同」と「内外協力」との両者を論じている。まず前者の「教派合同」についてであるが、前述したように一八七二年に設立された日本基督公会は、その条例において「我輩の公会は宗派に属せず」(時代1、p.455)と定め、植村正久の言葉でいえばその「無宗派論、全国一教会主義は、順風に帆かけたような勢いであったが」(1922、時代3、p.635)、間もなく挫折することになった。挫折の由来の第一は、おくれて渡来した宣教師が教派主義をもちこみ、それを「外資」によって培養したことであり(*2)、第二は教派主義が日本の中でも受容されるに至ったからである(*3)。こうした中で植村正久は一八八七年より九〇年に至る一致組合両教会の合同交渉においては一致教会側の委員となり、「一個人としても幾分か骨を折った(*4)」(1911、時代3、p.742)。その失敗ののちも植村正久は「日本キリスト教各派の合併」「これが先駆として、組合一致の合併」(1890、全集5、pp.35)を説き、その後もしばしば合同問題を論じた(1910、全集5、pp.368-370)(1918、全集5、pp.387-402)。そして、「無論合同は軽々しく行なうべきことではない、信仰に依り主義に立ちて慎重に取扱わるべきことである」が、「日本伝道の現状に想到しなば、たとい全国キリスト者の一教会に属するに至ることは予期すべからずとするも、大いなる多数を一つに纏めて、現在のよりも有力なる大教会を見るに至らんことは必ずしも望み難きことではあるまい」(1920、全集7、p.589)というのが、植村正久の考え方であった。すなわち、「教派合同」によって、一方で宣教師団の教派主義を通路とする統制を排除し、他方で「伝道」の主体となる強力な教会を形成し、双方を合わせて教会の自主独立を志向する、というのが彼の考え方であった。次に「内外協力」、すなわち日本人伝道者と外国人宣教師との日本における伝道活動の調整、の問題についてであるが、植村正久は決して排外主義者ではなかった。彼のこの問題に関する主張を要約すると、まず「彼の外国宣教師らはキリストの聖旨を奉じ、わが日本人民に対して非常に親切なる心をもって伝道に従事せんと欲するもの、呉越の相見る如くこれを待遇するは志士の恥ずる所、いわんやキリスト教徒の深く恥ずる所に非ずや」。「日本のキリスト教徒はみだりに外国宣教師を疎外すべきものに非ず。自家の利益よりも、まして道義の点よりみるも、厚くこれを待遇してなるべく彼らの事業に便利を与えざるべからず」と友誼を強調し、他方で「教会の自給独立挙がらず、日本人の伝道着々として歩を進めず、百事外国の資本と勢力とに頼るとせば、これ日本にキリスト教なきなり」。「ゆえにわれらは内外協力を正当に主張すると同時に、日本人の日本伝道を大呼し、教会の組織等実に日本キリスト教徒の自治を表彰するに至らんことを期し、すべての屈従主義を打破せんと欲するものなり」(1896、全集5、pp.226-230)と自主独立を主張するものであった。そして、この主張を実現する制度的な方法について、植村正久は、「外国『ミショナリー』と日本伝道者と主イエス・キリストを戴き、別々に隊を形造って共に伝道する。……つまり北清事件の時の連合軍のやり方がすなわち日本における外国宣教師問題を解決する所の唯一の道理にかなった方法」(1909、時代4、p.554)であると述べ、「日本基督教会と外国宣教師との関係を円滑ならしめんと欲せば、政治的の交渉を成るべく少なくし、友誼的関係を成るべく厚くするを勉めざるべからず」(1908、時代4、p.540)としたのである(*5)。なお、植村正久の場合、内外協力の積極的な形は、前述したように(*1)、外国人宣教師の「伝道に誤謬あるにおいては忠実にこれを論じ」ることにあり、彼は次のような「誤謬」を指摘している。すなわち、まず教派主義による統制という内容をもつ「彼の厭うべき殖民地管領政策」(1896、全集5、p.229)、また伝道活動の面では「伝道工夫の請負師みたような形となり、銀行の支払方同様な形で、あるいは下受人の監督などするばかりで、自らは余り伝道せず、人に遣らせてその成績を本国に報告する」(1905、全集5、p.285)「地主伝道」(1906、全集5、p.310)、さらに通信能力の面では「その伝道せんとする国民の歴史的精神に暗く、これに向かって同情を表すること能わざる」(1894、全集5、p.541)無能力などをあげ、とくに「地主伝道」によって日本人の「伝道に従事するもの多くは身を犠牲にするの必要に迫られず、当初より若干の俸給を受け」(1894、全集5、p.70)「宗教上の寄生虫」となり、「小作人的(外国人宣教師のために)伝道」(1894、全集5、p.220)に甘んずる、という重大な弊害がある、と指摘したのである」(p.128-133)。
*1 あとの二つは、「自国の伝道を負担するのみならず、アジア諸国に福音を宣伝するにおいて、外国キリスト教徒とその事業を分担する……これその義務の第二なり。第三の責任は外国諸兄弟の厚意に出でたる幾多宣教師の努力とその資金とが有益に用いられんことを望み、いやしくも彼らの伝道に誤謬あるについては忠実にこれを論じ……出来得べくんば外国宣教師をして錦を着て故郷に帰らしむるの高義を全うすべきなり」(1906、全集5、pp.317-318)ということである。
*2 無教派主義は、当初は、外国宣教師団の決議によって支持されていた(時代3、p.635、pp.656-660)。
*3 たとえば、一八七四年帰国した新島襄はその一人であった。「彼が帰朝すると人物の乏しきに悩んで居る京浜間のキリスト教徒は、新島を訪い、その宿志に賛成を得て、無宗派主義独立教会の頭領にでも仰ぎたいと思ったのである。しかるに彼はこの提言に反対した。その明言した理由は、外国の強大なる宗派と成るべく関係を親密にせねば、その計画中の事業が出来ぬということであった」(1903、全集5、p.263)と植村正久は述べている。
*4 失敗に終わったこの合同交渉については「時代3、pp.626-744」参照。
*5 植村正久は、一九〇四年日本基督教会第十八回大会に補助〔を受ける〕教会の整理に関する決議案を提出し、否決された。翌年の第一九回大会は独立および内外協力に関する決議を採択した。しかしこの間、論議百出した。この辺の事情については「時代4、pp.489-554」参照。(日露戦争と同時期であることに注意されたい。)
もともと西洋から伝播されたキリスト教を日本人自身のものとして受容し、それによって日本社会の変革を図るということが、植村正久の基本的なスタンスであったと言うことができるでしょう。そのためには「すなわち、「教派合同」によって、一方で宣教師団の教派主義を通路とする統制を排除し、他方で「伝道」の主体となる強力な教会を形成し、双方を合わせて教会の自主独立を志向する」ことが目指されなくてはなりませんでした。この植村の姿勢は、日本人キリスト者として模範的であって、その志の高さを示しています。なお一部の宣教師の資質について、「さらに通信能力の面では「その伝道せんとする国民の歴史的精神に暗く、これに向かって同情を表すること能わざる」(1894、全集5、p.541)無能力などをあげ」とありますが、伝道においては通信能力、コミュニケーション能力が基本的に重要であることが示唆されています。それは単に言語能力の問題ではなく、異質の他者の理解に関わる事柄です。この伝道におけるコミュニケーションの問題は、あとでさらに論じられることになります。
「さて、植村正久の場合、教会の「自主独立」は、単に組織上の自主独立だけでなく、実質的な自主独立として、伝道者の養成すなわち神学校の独立においても達成されなければならないとされていた。すなわち、彼によれば「日本の伝道者は多くは外人の養成する所、真の神学校は外国伝道会社の管理する所なり。伝道者養成日本人の手にて経営せらるるまでは、適当なる伝道者の輩出せんこと得て望むべからず」(1899、時代4、p.731)であり、その限り、彼からみて「教会の独立を図りて、神学校経営の独立なるべきを忘るるは解すべからざること」(1908、全集5.p.486)であった。前述したように、植村正久は、一九〇四年、東京神学社を設立したが、二〇年後彼はこのことについて「軍隊が独立するのみならず、士官学校もそうあらねばならぬであろう。これが明治三十七年東京神学社の起こった一つの理由である」(1924、時代3、p.544)と述懐している。なお、「来学の士また一人として他の神学校における如く、外国ミッション等より学資を供給せらるるものなし」(1904、全集5、p.279)と当時報告されていることは、十分注意すべきことであり、今までの叙述からその報告の理由をよく理解できることである」(p.133-134)。
自主独立の原則論から言っても、また宣教師の神学の保守的傾向、教派主義などからしても、植村は日本人自身による神学校の建設の必要を感じていたということでしょう。
「ところで、神学校の独立は、やがて教科内容としての神学の独立に通じるであろう。そしてまた、植村正久の場合、教会の自主独立は、実質的に独立で個性的な信仰の展開の必要をも意味するものであったから、独立の信仰もまた独立の神学を要求するものとなる。このようにして、彼の場合、教会の独立は神学の独立をも意味するものであった。しかも、一方で、彼によれば、日本の教会の歴史的位置は「日本神学」を必要とするものがあった。すなわち、「余輩日本のキリスト教徒たるものは、神学の新田を開拓し、欧米の短を棄てその長を採るにおいて最も都合よきものなりと謂わざるべからず。日本神学の基礎を立て、その方針を定むる実に今日にありとす。漫りに外国の糟糠を輸入し、また好んでこれを甜らんとするに(*舐る=ねぶるのことか)至りては余輩深くこれを遺憾とせざるを得ず」と彼は考えていたのであり、それには一面で「今日の日本は伝道の日本なり。アウクスブルグ、ドルトもしくはウェストミンスターの会議定盟を必要とするものに非ざるなり」という事情が、また他面で「今の日本は開国以来僅々三十年なりといえども実に第十九世紀の文物知識と馬首を並べて進歩せんことを期するなり」(1890、全集5、p.160)という事情があったからである。しかも他方で、日本の教会には採長補短の「日本神学」を可能とする最低条件、すなわち「気概」が存在した。「その神学を講ずるもののうちには疾くに独立の精神嶄然(ざんぜん)としてその頭角を現わし、西洋の議論に支配せられず、願わくは自ら進んでその基礎を堅うせんと欲するの気概甚だ盛ん」(1891、全集4、p.138)と、彼は日本の教会について述べている。そして、こうした「日本神学」のいわば過早な主張を彼に止むなくさせた背後の事情は、実は、宣教師団の神学的水準の低さということであった。植村正久はこの点について、日本に来た外国宣教師が、「その大体の形勢よりいえば、本国の進歩に伴うの伝道を等閑にし、因循姑息ただ旧式の学説解釈を移植し、日本人をして日本人をしてこれを丸呑みにせしめんと擬したり」と規定し、従って「英国および米国の宣教師等のみに一任したらんには、たとい心ある日本の牧師伝道者が直接に書物などによりて神学の新知識を研磨すればとて、その結果日本のキリスト教思想をしてあたかもペルリの来たらざる前ただオランダ人を経て外国と交通せる旧日本の如き観を呈せしむるものなきを保する能わず」(1898、全集7、p.259)というおそれがあると述べている。彼によれば、たとえば「多くの宣教師の偏理的異端の行われんとするを嘆くはほとんど適度に過ぐるものあり。しかれども堂々これを討論して、もってこの弊を救わんと試みしもの幾人ありや」(1894、全集5、p.541)というのが当時の実情であったからである(*1)。さて、植村正久によれば、こうした「日本神学」を志向する独立の神学のために必要な具体的方法は、まず第一に、先進国の神学との同位相化にあった。そのため、彼は留学と外国語教育とを重んじた。まず留学については、彼は「神学の或る部門を専攻し、神学の教授たらんことを期せらるる人は奮って欧米に航せざるべからず。彼らの学問は日本において全備し得べきものに非ざればなり」(1896、時代4、p.623)と述べ、外国語教育については「神学校が外国語に重きを置くを難ずるものなきにあらざるも、日本に神学上の好著述なきと、卒業後神学上の知識を得るに外国文を読破するの必要あるのみならず訳字をもって言い尽きぬ意義を味うに当たり外国語を知ること肝要なり」(1903、時代3、p.510)と説明した。しかし、知識の蓄積量の巨大な格差から出発して、先進国の神学との同位相化を志向する限り、同位相化を目標としながらも、手段としての吸収と受容が制度化し、やがて自己目的となり、独立の神学の正反対に転化する傾向の潜在することも否定しがたい。この点について植村正久は、「知らず識らずただ受売りの生活をなし、これを商売に譬うれば、自家の資本を有せず僅かに他より物品を借り入れて、その店頭を賑わすに同じからんとす」る傾向に対して、「この翻訳的時代において己れの人格を維持し、先進国の学者に頼りて己れに無き力量を衒うことなきよう力め」「独立思想の発達を計る」(1898、全集1、pp.225-227)ことを要求した。すなわち、ここに潜在する矛盾の解決は、神学継受の作業を担当する当事者の「志」と「気概」とに委ねられることになったのである」(p.134-137)。
*1 植村正久が明治学院神学部を辞職した事情について、「一九〇三年〔明治学院の〕保守的な宣教師等が、余の W. N. Clarke 著「基督教神学」〔をテキストとして〕使用に反対したゆえ、辞職した」(時代1、p.674、時代3、p.525)(原文英文、引用者の邦訳)という談話が残っている。
当時来日した宣教師の多くが保守的で、本国の進歩的風潮に耐えられず、新しい伝道の地で自らの保守的神学の実現を目指したということは、よく指摘されるところです。植村はいち早くその傾向に気づいていたということでしょう。なお欧米諸国の神学との同位相化を目指し、その上で「日本神学」の樹立をはかるという植村の構想は、一般に日本近代の学問のあり方を規定してきたもので、その葛藤は今日まで続いています。ここで言われる「日本神学」とは、日本人による日本人のための神学という程の意味で、ことさら日本的な、あるいは日本主義的な神学が目指されていたわけではありません。
「なお最後に神学の独立という問題の系として、信条と政体に関する植村正久の意見を簡単に紹介しておく。まず信条について、彼は「教会の礼拝には信条の正しからんことを要す」(1901 霊性の危機 全集6、p.111)と信条自体の必要性を肯定しながら、前に引用したように外来の「化石然たる信条を固守」することに反対し、「日本国キリスト教徒はその信条を成るべく自由寛大にして、十分に進歩の余地を与え協和の根基を固うせざるべからず」(1890、全集5、p.161)、また「日本の事情に最も適切なる信条を有することが甚だ必要である」(1924、全集4、p.462)と考えていた。つぎに政体(日本基督教会は長老制を採用していた)については、「政体においてはこれから何所まで変わって行くか、そこはわれわれの保証する限りでない。聖霊の導く所どこへでも進んで行くと言う主義を尊ぶ。プレスビテリアン政体にどこまでもコビリ着く考えの人とは全然反対である」(1905、全集5、p.284)として、「教会政治は便宜の問題に属す」。「時の必要に応じ、進歩の趨勢に鑑み、神国の隆昌を第一の目標として、教会政治の組織は取捨すべきものである」(1918、全集5、p.398)という弾力的な見解が、植村正久の立場であった」(p.137-138)。
「教会の礼拝には信条の正しからんことを要す」と言いながら、植村は過去の教会会議が議定したアウクスブルク信条、ウェストミンスター信仰告白などのような、特定の信条を固守するという立場から自由でした。「日本国キリスト教徒はその信条を成るべく自由寛大にして、十分に進歩の余地を与え協和の根基を固うせざるべからず」という見解は教条主義とは別の、信条への柔軟な態度を示すものです。また政体(教会の職制、オーダー)についても、カルヴィニズムの伝統である長老主義(プレスビタリアニズム)に固執することはありませんでした。いわゆる教会政治の三形態としての、監督(司教・主教)主義、長老主義、会衆(組合)主義なるものは、過去の歴史的所産であり、また便宜の問題であって、これから先の政体については、「時の必要に応じ、進歩の趨勢に鑑み、神国の隆昌を第一の目標として、教会政治の組織は取捨すべきものである」という弾力的な見解を保持していました。植村が望んだ教会の一致(合同)ということは、そのような柔軟で開かれた立場によってこそ追求されるべきものだったのでしょう。
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「以上で植村正久の教会論のうち原理論に当たる部分の紹介は終りである。次に、この原理論を当時の日本社会の中で展開するときに生れてくる「戦略」の問題を中心にして、彼の教会論のうち「戦略論」の部分をとりあげよう。前述したように、第一期日本プロテスタンティズムは、「教会的」、「無教会的」、「日本主義的」という三通りの方向分化を特徴とするものであり、植村正久はこの中で「教会的」(ないし正統主義)を自己の基本方向として選択していた。従って、彼の教会論における「戦略論」は、この点を第一の内容とすることになる。次に、前述したような内容の教会「原理」論は、植村正久の場合、一方において日本の教会が伝道を使命としたいわば永久運動の中にあるべきことと、他方で、日本の教会が先進国の教会と同位相化し、同型性において対等性と相互性とを獲得すべきこととの両者を基本志向とするものであって、その限り、運動の「戦略」としては内在的矛盾を潜在させるものであった。この矛盾とそれに対する対策とが、彼の教会戦略論の第二の内容となる」(p.139-140)。
原理論(私の言う「原理論・組織論」)は運動論(戦略論)において初めて実践的になると言えます。植村はプロテスタント正統の立場に立つことを選びつつ、同時に「日本の教会が伝道を使命としたいわば永久運動の中にあるべきこと」をも希求しました。京極はそこに内在的矛盾が潜在していると見ます。そしてこの矛盾とそれに対する対策とが、植村の教会戦略論の内容となります。
「まず、第一の点であるが、植村正久は、周知の如く、「教会的」(ないし正統主義)を、当時の日本社会における伝道について、基本戦略としていた。元来、伝道がパーソナル・コミュニケーションを方法として大衆的規模の「宗教」組織の展開を志向するものである以上、伝道に関する戦略上の拘束条件は、当時の日本社会のもつ特性、すなわち第一に伝道対象のもつカルチュアの内容、第二に二重の国教会制度に集約される閉塞体制である。ここで、拘束条件について当事者自身が(しばしば無意識に)行なう計量によって、前述した三通りの方向分化が結果したわけである。すなわち、まず大衆的規模という枠の中でポケット地帯の確保に志向し、原典復帰を訴えて「教会」とその付帯条件を排除する「無教会的」の方向、第二に、かりにキリスト教の伝統的内容を修正し、さらにはほとんど清算するにしても、伝道対象のもつカルチュアと閉塞体制とに最大限度順応し、それによって、教会ないし運動のもつべき大衆的規模という枠を充足する「日本主義的」の方向、第三に伝道内容の正統主義と教会の大衆的規模の双方を両立させようと試みる(しかし今日からみた結果としては、やや大規模なポケット地帯の確保に終わった)「教会的」の方向である。こうした三通りの可能性の中で、一方で植村正久は、その経歴が示すようにまた前段の「原理論」の部分ですでに明らかにしたように、大衆的規模への原理的志向を明らかにしていた。植村正久は、また他方で、正統的な福音主義の修正ないし否定を排撃した。彼によれば、一方では閉塞体制への順応のため、また他方では伝道対象のカルチュアへの順応のため、「キリスト教を完成する口実としてみだりにその要目大綱を裁断し、破毀し、放棄し、変更し、増減し、支離滅裂の観を呈せし」め(1897、全集4、p.306)、とくに主たる伝道対象として選ばれた上京学生ないし新中間層セクターのカルチュアへの順応のため、「己れの臆説を付会し」たり、「過去世界の哲学的分泌物を福音の上に強いて付着せしめ」たり、「ただ浅薄なる通識、固陋なる理性の程度までにこれを推し下さんと」したりして、これら様々の修正の努力が、最後的には「観察の焼点をキリストより転じて、国家的と言い、社会的と言い、倫理的といい、甚だしきは日本的と言い、さらに甚だしきは現世的などと唱え、あられもなき思想を中心としてキリスト教を唱導せんと試」みる(同上)ことになったからである。そこから金森通倫や海老名弾正との論争が行なわれ(*)、「個人的の救いを忘れ、霊性の不滅を度外に措き、ただ社会の不滅を主張し、国家の改革を呼号するのみ」で実は「歩を転じて旧約時代に退却する」(1899、全集7、p.350)「社会改革主義」ないし「政事主義」の否定(1896、全集5、p.77)(1920、全集5、p.512)、さらには事業主義の前述したような否定(1891、全集5、p.516)などが立論されることになった」(p.140-142)。
* 前者は金森通倫が一八九一年「日本現今のキリスト教並びに将来のキリスト教」を出版したことに由来する論争である。「全集5、pp.209-240」参照。その一〇年後前述した海老名弾正との論争となった(この論争の中心点のひとつはキリストの神格であり、植村は「正統主義」を、海老名は「修正主義」を立場とした。p.24の注参照)。
キリストを大義(神義)として信奉する植村にとっては、正統的な福音主義以外の立場は原理的に容認されることはありえず、すべてはそこから展開されるべきものでした。植村の原理論の核心がそこにありました。なお「二重の国教会制度」ということに関して、京極は次のように述べています。「さて、「無責任」「利欲」「侮慢」という病症を宿す近代日本に対して閉塞体制の側から処方が施されなかったのではなく、体制の側からの処方は、周知のように、明治憲法体制の設定であり、とくにその構成要素としての二重の国教会制度への収束であった。その結果、「伝道者」としての植村正久も「木鐸」としての植村正久も、極めて早い時期から、(1)神社礼拝・国家神道という第一の国教会、(2)御真影と教育勅語を要素とする公教育という第二の国教会、(3)「邪教」攻撃に熱中する「愛国狂」「国粋狂」、という三者を相手方に回さざるをえなくなった。彼の評論のかなりの部分が、これらの問題に向けられている次第である」(p.96)。
「しかし、正統的な福音主義を強調するだけでは、特定の歴史的カルチュアをもつ伝道対象へのコミュニケーションという実質的な問題は処理されない。修正主義の登場する由来がこの問題の処理にある以上、たとえば、伝道の方式としての茶話会ないし親睦会を否定し(1892、全集5、pp.425-427)、伝統的習俗との習合を警戒する(1914、全集4、p.330)だけでは不十分なのであって、コミュニケーションの問題が、正統的な福音主義の展開において具体的に中心問題とならざるをえない。この点で、まず、聖書の翻訳については、一八八〇年新約聖書、八七年旧約聖書の日本語訳(いわゆる旧訳)が完成し、当時使用されていたが、彼はその「改正を望まし」とし、「十年の後を待ち日本キリスト教徒の学識をもってし日本キリスト教徒の資本をもってして聖書の翻訳を完成せんことを期す」(1890、時代4、p221)とした。彼の言葉でいえば旧訳の新旧約聖書は、「文学上の価値甚だ低く、意義明晰を欠き、文章力な」く「壮んなるパウロの説教も、沈痛なる預言者の言も、今の聖書にては気の抜けた焼酒に異ならず。時としては玉の盃の底なきが如き感」があり(1896、時代4、p.223)、正統的な福音主義の伝達にとって必ずしも適切でなかったからである(*1)。彼はまた、説教については、「その用語と言葉の組立において純粋なる日本語を用いるの用意工夫に心を注がれんことを熱望せざるをえず。今日日本の講壇は何と言いてもまだ翻訳時代にあることは争われぬことなれば、思想と組織が翻訳の臭味を脱せざるは已むを得ざることなるべきも、用語と言葉の組立までも翻訳臭を帯び、キリスト教の講壇より純粋の日本語を聞くこと少なきは、今日の説教の一大欠陥なり」(1910、時代4、p.658)と述べ、伝道対象のカルチュアに異質的な内容を、内容の修正によってではなく、「純粋の日本語」を通路とすることによって伝達することを求めた。彼によれば、福音を伝達すべき説教において、「学問の観兵式は最も不可」(1902、全集4、p.665)であり、伝道者の日常的準備として、「平生好き書物を読」み「今日の用語を研究」し、「文学者がその用語を選択しその文字を洗練するに苦心するが如く説教者はまたその言語を選択し洗練するの必要がある」(1901、時代4、p.718)と説いた。そして、この日常的準備は「国語学」に止まるものでなく、民衆との通信能力一般の準備でもなければならなかった。彼が早く指摘したように、「今日の伝道者は、教外者の思想と疎遠にして、その何を憂い、何を喜び、何を恐れ、何を厭いつつあるを熟知せず、信者に向かって説くべきこと、教外者に向かって喋喋す。その言論空を撃つの嘆あるもまた宜(むべ)ならずや」(1897、時代4、p.661)という実情、すなわち教会の閉鎖化とそれに伴う民衆との通信能力の減衰が、伝道の一応の成功とともに、一般化する傾向が存在し、永久運動としての伝道の停滞をもたらすおそれがあったからである。そして実質的には「教外者の思想と疎遠」なのが大勢となりながら、しかも一応の成功を収めつつある教会がペース・メーカーとされ、その上この日常的準備が欠如すれば、伝道は、「儀文」においては正統的な福音主義を標榜するにしても、実質的には、量の重視とスタント(stunt、人気取り)の採用を通じて、その修正ないし否定に至らざるをえないであろう。この点について植村正久は、一方で「法外にただ人数の多からんことを好み、これをもって伝道の成敗を下し、その全力をこれに費やすもの、たいていの教役者此々皆然り。衆人を惜しむはその名美にして、その実さほどにもあらざることなり。およそイエスの心をもって心とせる説教者は、衆人を惜しむことあるべからず」(1891、全集5、p.40)と量の強調を否定し、他方で「広告的の事業その過度を超え、あらゆることを伝道の方法、人心を牽き寄する広告的手段となすに居たりては、みだりに街頭に叫ぶことをせざりしちょうキリストの本意に背くこと甚だし」(1898、全集5、p.240)とスタントの採用ないし「広告的伝道」を否定したのである。また、植村正久は、民衆との通信能力の低下に由来する二つの病症、すなわち「ただ待ち望むという湊に碇を下ろして、検疫規則に差し止められたる船の如く、ただ埠頭を望んで、不平の長大息をのみ洩らす」(1897、時代4、p.615)日和見主義と「待つことを忘れ、抑制して薀蓄するの智慧に学ばず、無分別に突進して竜馬心猿の狂うに任せ、後には始末の着き難き方面に奔馳する」(1897、時代4、p.615)急進主義の双方を不適当なものとした(*2)」(p.142-145)。
*1 新約聖書の改訳は一九一七年完成した。
*2 植村正久は、本文の引用のあとでリバイバルについて次のような文章を残している。「余輩が今日までに経験せるいわゆるリバイバルなるものは、たいてい待つことを忘れ、軽率に動き、進むこと余り急なるがため、忽ちその気力飢え疲れて摺り半鐘に四隣を驚かしたるボヤに異ならず、東西に人を馳せ、諸方に打電するなどに勢力を用ゆる間に自ら熱心も冷却し去って、後は気の抜けたる火酒の如くになりて已む」(1897、時代4、p.616)。
プロテスタント正統の立場に立って伝道を推進するという植村の基本戦略は、伝道がそもそもコミュニケーションの問題である以上、この日本の社会にあっては、当初から多大の困難を抱え込むことを意味していました。礼拝において、あるいは説教において、神の言が正しく取り次がれるとは、はたして何を意味しうるのかということに問題の核心があると言うべきでしょう。それは今日まで続く教義上の大問題、原理論的な根本問題であって、植村の確信にも拘らず、今日なお決して解決済みのことではありません。しかし京極は、政治学者(専攻、政治意識論)として、その問題に踏み込んだ議論は展開していません。むしろその植村が直面する実践的な困難と矛盾に焦点を合わせています。
「このようにして、正統的な福音主義を志向する「教会的」の方向は、当然のことながら、基本戦略の判断においてよりも実施作業の過程において、困難と矛盾とに直面する傾向を潜在させており、長期的な結果としては、周知のように、大衆的規模という枠の中でポケット地帯を確保するに終わることになった。この場合の困難が民衆との通信能力の喪失に由来することはすでにみた通りである。そして、事態を通信途絶として捉える限り、この困難の由来は教会と当時の日本社会との双方に求められなければならない。しかし、問題を教会の側に限定するならば、この困難は伝道の初期条件としてだけ存在した困難ではなく、実は拡大再生産されていく困難でもあった。植村正久自身が指摘した事情、すなわち「信者に向かって説くべきこと、教外者に向かって喋喋す」る事情は、伝道の一応の成功によって初めて起きる事情であるからである。従って、この困難の由来は「伝道」自体の宿す矛盾にもあった。ここで、植村正久の教会「戦略論」の第二の内容すなわち伝道論の内在的矛盾の問題に移ることにする」(p.145-146)。
京極が前に述べていたことをここで再度引用すれば、「前述したように、第一期日本プロテスタンティズムは、「教会的」、「無教会的」、「日本主義的」という三通りの方向分化を特徴とするものであり、植村正久はこの中で「教会的」(ないし正統主義)を自己の基本方向として選択していた。従って、彼の教会論における「戦略論」は、この点を第一の内容とすることになる。次に、前述したような内容の教会「原理」論は、植村正久の場合、一方において日本の教会が伝道を使命としたいわば永久運動の中にあるべきことと、他方で、日本の教会が先進国の教会と同位相化し、同型性において対等性と相互性とを獲得すべきこととの両者を基本志向とするものであって、その限り、運動の「戦略」としては内在的矛盾を潜在させるものであった。この矛盾とそれに対する対策とが、彼の教会戦略論の第二の内容となる」と書かれていました。京極は、この先、植村の教会戦略論の第二の内容に入ることになります。しかしその紹介の作業は次回に回します。
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「さて、植村正久の「教会論」は、一方で、日本の教会が先進国の教会と同位相化し、同型性において対等性と相互性とを獲得することを、ひとつの基本志向とするものであった。すなわち、まず第一に、彼においては、当時の欧米の教会を模範としてこれを継受しようとする志向があった。「日本は労せずして電気鉄道等を利用し自ら種を播かずして泰西の制度文物を採用せるが如く、今日直ちに欧米各教会の進歩せる部分を取りてその手緩き順序を取るに及ばず候」(1888、全集8、p.279)と第一回の海外旅行中の植村正久は、下谷教会員に寄せている。そして、もともと、プロテスタンティズム自体が西欧に始まったものである限り、「われら多く外国のキリスト教に学びたり。今後も多く学ぶ所なかるべからず」(1897、全集4、p.312)という彼の意見も当然の主張といわなければならない。しかし、第二に、植村正久はこの同位相化について、単純な継受だけを志向したのではなかった。前述したように、彼はキリスト教自体の進歩に日本の教会もまた貢献すべきことを唱えていた。彼の文章を引用すると、まず「今やわが国にキリスト教の移植せられ、ようやく成らんとするに当たりわれらは欧米の歴史において未だ見聞せしことなき新問題に接し、多くの点において、実に開拓者としてキリストの福音を宣伝せざるべからず」。「改刪の時代、分化の時代、創開の時代も既に到着して、われらの頭上にあり」(1897、全集4、p.312)というわけで、日本固有の「新問題」の処理を通じて日本の教会の独自の個性が形成され、やがて「日本のキリスト教は新進気鋭の勢力をもって、最も真面目に自己の特色を発揮し、神学思想の状態、信仰の熱誠、奉教の習慣、および教会の制度等において、一生面を開くことを期するを得べし。既にこれを開きつつあるなり。日本のキリスト教は欧米のに勝ることを得べし。欧米人に伝道せられたる東洋は、その趣を新たにせるキリスト教をもって、西洋に酬ゆることなしと言うべからざるなり」(1906、全集5、p.289)。すなわち、日本の教会の独自の個性において、先進国の教会と同型的となり対等性と相互性に達すべきであるとされていたのである。そして、ここでの日本固有の「新問題」の内容は、もちろん、多様なものであるが、とりあえず植村正久の教会論に範囲を限っていえば、それは、当時の日本社会の状況の中で、教会を伝道を使命とした結社として永久運動の中におく、という彼の教会論のいま一つの基本志向であった。彼が教会の目的として礼拝と伝道との二つをあげていることは前述した通りであるが、いま、礼拝と伝道の両者の対比を強調してこの間の事情を説明すれば、次のようなことである。すなわち、彼が継受すべき模範とした当時の欧米の教会は、キリスト教国という条件の中で、礼拝(ないし機構管理)を、事実として、その第一次的特性としていたのであり、これに対して、植村正久は伝道(ないし永久運動)をその第一次的特性とする教会を、開拓伝道地日本という条件の中で、志向していたのである。その限り、彼の教会論は、戦略的にみて、相補的でありつつ矛盾する二つの基本志向を宿すものであった。一方で、伝道の成功は教会の形成を伴い、かくして先進国の教会の直接的な継受を可能にするとともに、他方でその間に礼拝(ないし機構管理)の契機の上昇によって、伝道(ないし永久運動)の契機の減衰を伴う傾向、すなわち運動から機構への転化という周知の傾向が、ここでもまた、作用するからである。このようにして、継受から「創開」への方向と運動から機構への方向との交叉点をめぐって、植村正久の教会「戦略論」の内容が展開されていたわけである。そして、ここで付け加えれば、植村正久自身の望みみたところは、運動と「創開」を担う能動的主体性の拡大再生産であり、従って、信仰にとって「志」ないし「剛健なる改革の精神」が基本的重要性をもつものであった。何となれば、伝道が「志」ないし「剛健なる改革の精神」の拡大再生産に成功する限り、伝道を永久運動とすることもまた可能であったからである」(p.146-149)。
前に「蜂の巣と蜘蛛の巣」のところで触れたように、そもそも組織には、出て行って働くという派遣型の組織と、顧客が来るのをひたすら待ち続ける待機型の組織とがあります。植村は教会にその両面を求めたのであり、それ自体は、組織の態様として十分にありうることです。しかし一般的傾向としては、組織がその自己同一性を追求すると、同じ信条や趣向の持主だけを糾合する待機型(機構管理型)になりがちであり、逆に外側のニーズに応えて派遣型の働きを強めれば、組織の自己同一性が失われてしまいがちです。このような往還運動において「矛盾的自己同一」に耐えるには、それなりの「志」あるいは「剛健なる改革の精神」が必要とされます。伝道は決して一方通行の行為ではなく、相手があることであり、その相手の現実にアウトリーチ(outreach)しなければ、功を奏することがありません。伝道はいわば「対話伝道」であって、それによって伝道に携わる者が変わる可能性を秘めています。相手が変わるばかりでなく、自分もまた変わる可能性があります。植村は伝道のこのような機微に気づいていたのでしょう。そうでなければ、日本の教会に「新問題」が生じることはなく、「創開」という事態も生じることはないでしょう。しかし正統的福音主義を堅持して、伝道という永久運動が可能であると考えたところに、植村の戦略の特質と困難性とがあったと言うべきでしょう。
「さて、ここで、日本プロテスタンティズムにおいて、事実として、「継受から機構管理へ」というサイクルが早くから優越し、やがて日本社会におけるポケット地帯の確保に終わった経過の責任は、必ずしも植村正久だけにはない。彼の時代の、すなわち第一期の、日本プロテスタンティズムには、模倣と継受との強い力が、彼と独立に、またいわば彼に反して、作用していた。そして、この事情の中で、植村正久はこの力の存在を認識し、その欠陥を指摘し、対策を指定していたのである。まず外国教会の伝道局の提供する「外資」は、前述したように、伝道自体を管理化させ、彼の言葉でいえば「伝道に従事するもの多くは身を犠牲にする必要に迫られず、あたかも富人の子が行遊の途に上るに等しく、大小の官吏が懐温かにして公務を執るに異ならず」(1884、全集5、p.71)、そこにあるものは「宗教職人」による「役人的伝道」(1904、全集5、p.269)「保険付き伝道」(1894、全集5、p.519)であっても、永久運動としての伝道、「志」に支えられた伝道とはなりがたかった。しかも、外資は直接的な継受のペースを設定する強い力をもつものであった。彼の指摘した実情、「外資山の如く、外国宣教師多くは動かざること或る意味において岩の如し。伝道者(日本人)あるいは模範を外国宣教師に取り、教会あるいはその雛形を外国の富裕なる教会にとるものあるなきを得んや。今の伝道は僅々数人の囚徒に必ず一人の押丁(おうてい、監獄の下役)を要するが如き観あり。……一教会(しかも小にして発達の望み少なき)に一牧師、一町村に一伝道士、これ伝道軍の伍長軍曹を集むるに足らんのみ」という「贅沢伝道」(1899、全集5、p.86)の実情は、一方で継受の結果であり、他方でやがて機構管理への傾斜を示すものであった。こうした条件の中で「大いに奮発して、自給独立の実を挙げんと試みるも、事と力と権衡(つりあい)を失するをもって、教会は建徳修養のことよりはむしろ金銭上の維持に心を専らにし、何を着、何を食わんかと、みだりに明日の計に苦慮するに至らんとす」る(1892、全集5、p.204)からである。しかも、この贅沢伝道を充員する人々、植村正久によって「閑居の英雄時待ち顔に臥龍を気取りつつあり。多くは臥龍の意気さえ抜け果て、山中の枯木空しく横たわりて、行人の邪魔を為すに過ぎず」(同上 p.85)と画かれた人々の「志」自体にも問題があった。彼は、この問題について、「蓋し日本は諸事早熟の幣あるを免れず。未だその準備完からずして、卒然戦端を開き、千里懸軍重囲の中に陥り、始めて当初の無謀なりしを悔やむこと少なからず。余らは社会の全面にこの弊害充満するを見る。悲しいかなキリストの教会またこの流弊を免ること能わず。妄りに不肖者を駆りて伝道に従事せしめ、志操識見ともに陋劣なるものを挙用して、漫然天国の公職に当たらしめたり。任貴くして、これに従事するもの陋なり。天下不倫の甚だしきこれに過ぐるもの有るべからず」(1894、全集5、p.61)とその質的低位を指摘したのである。さらにまた、そこには植村正久によれば、「およそ伝道者たるものはキリストの旗下に同志として進退するを要す」る(同上 p.62 下線は原文傍点)のに対して(*)「今や伝道界に俗物横行して、教会の内部は腐敗せる政党の如きものあらんとするを恐る」(同上 p.61)という傾向さえもが存在した。このような諸事情が複合して、「志」なき継受が、機構の模倣を通じて、機構管理の優越へと転換される基盤が形成されたのであり、これがまた、日本プロテスタンティズム第二期において、牧会的(「機構管理」)の方向が表面化するゆえんでもある」(p.149-152)。
* 植村正久は伝道者の再生産について、「赤裸々で満足する精神的事業ちょう特色をもって、志士を引くのが今日の急務であるから、なまじいに少しばかりの金力を光らかし学費給与などを看板に掛けても、あまり役に立たぬ。むしろ徹頭徹尾献身的に仕組を立て、志をもって志を引き、同気相求むる精神で、ただ赤誠と実力とをもって有為の青年を招致するにしかずである。東京神学社の如きは微微たりといえども、この種類の仕組と目的とを有するものである」(1906、全集5、p.411)と述べている。しかし、当時の教会にはすでに「有為のキリスト教青年学位を得て、青雲の梯に攀じ上るもの少なしとせず。しかれども伝道は多く第二流の人士に一任せられて、俊秀の士奮然これに任ずるもの何ぞかくの如く寥々たるや。あるいは恐る、今日の信仰は賎しき金銭を献げて人物の貢を謝絶するものならんことを」(1902、全集1、p.561)という傾向があった。
戦略(strategy)の根幹には、sharing, structuring, staffing があります。すなわち「志」をシェアし、仕組(ストラクチャー)を整え、有為の人士を配置する(スタッフィング)ということが、時にかなってなされなければ、戦略はその意義を失います。その意味で、植村は文字通り教会の戦略を立て、それを実践しようとした人でした。しかし現実には、戦略なるものは、様々な拘束条件の中で、なかなか思い通りに運ぶものではありません。そこに植村の大きな嘆きと闘いがあったと言うべきでしょう(組織における権力関係参照)。
「植村正久は、「継受から機構管理へ」というこの強い傾向に対して「抵抗」を示し、彼の立場から、「志」を強調し、教会の自給独立ないし自主独立の必要性を主張したのであって、その内容はすでに説明した通りである。しかし、前述したように、彼の戦略論が継受から「創開」へのコースと運動から機構へのコースとの交叉点に展開されたものである限り、植村正久がここで示す抵抗ないし戦略的対策自体が、実は、両義的な性格をもち、結果として「継受から機構管理へ」の方向に合流する面をももっていたことは否定できない。この点で、彼が教会を原理的に肯定していた結果、専従教役者集団の形成という意味における教会内の役割分化をも肯定することとなり、「信徒皆聖経神学の勉学に従事することを得ず、皆教会の節理礼式等に従事するを得ず、ここにおいて兼てこれを専業とする者の必要起こる」(1883、全集5、p.23)と述べていることは、とくに重要である。この役割分化によって、継受と機構管理との双方に対して強い向性を示す独立変数の作用が、原理的に正統化されるからである。たとえば、「独立の教会」という植村正久の要請が一段階前の神学校と神学との独立の要請となり、さらに「独立の神学」の要請となる場合、先進国の神学との同位相化の契機が、この集団の向性によって、ほとんど、自己目的に転化することにならざるをえないであろう。すなわち、神学継受の基盤となる素養自体の西欧化と、欧米の神学において歴史的に蓄積された知識量の巨大さ、という二つの条件は、専従教役者集団の「関心」を経由することによって、まず学習の強調と広汎な渉猟の強調となり、やがて「翻訳的時代」自体の永久的制度化を導き出す傾向が潜在するからである(*)。そしてその間に、先進国の神学との同位相化が「日本神学」確立の初期条件であるとされた「志」が後景に退き、先進国の神学の受動的消費が結果するだけでなく、さらには、礼拝と牧会を第一次的特性とする欧米の教会に立脚した神学の継受によって、日本の教会自体が機構管理に傾斜する事態を、キリスト教国と開拓伝道地という基本条件の差を無視して、神学的に正統化することになり、やがて、神学の次元においても教会の次元においても、ポケット地帯の管理が専従教役者集団の中心的「関心」となってくる傾向も潜在するのである。これがまた日本プロテスタンティズム第二期に「神学的」(「教条学習」)の方向が「牧会的」とセットになって表面化するゆえんである」(p.152-154)。
* 植村正久自身がこの傾向を「日本のキリスト教学者は新刊の書を貪ること、飢えたる人の食物におけるよりも甚だし、その割合に聖書の趣味の淡白にして、その知識に乏しきに非ざるか。彼らの或るものは聖書の高等批評を知れども聖書それ自身は甚だ疎遠なり」(1916、時代4、p.251)と指摘している。
植村のスタンスは両面作戦的であって、欧米の教会との同位相化の要請は、一面では教会の機構管理化を促進する結果をもたらしたということが指摘されています。「牧師」という専従教役者集団の役割分化を肯定したことも、それ自体常識的な判断ですが、それはまた教会という「ポケット地帯」を生み出し、一般社会との対話能力(「通信能力」)の欠落を増大させることにつながるものでした。また日本の教会は、既に欧米の教会と同じであるかのような錯覚が生れてくるのは、「翻訳的時代」の特徴であると言えます。
「同様にして、植村正久が強調した「自給独立」もまた教会の機構化(教役者の管理化と信徒の受動化消費化)の傾向を潜在させるものであった。まず、伝道の主体の側においては、「自給独立」の強調は、教会財政の自主性と自立性の強調であったものが、やがて、前述の「贅沢伝道」という条件の中で、教会財政の確立の強調となり、その間に信仰の独立という目的を忘れた自己目的となり、さらには財政の確立のために伝道するという形で、目的と手段の逆転に通じる傾向があるからである。この逆転については、植村正久自身も意識しており、「今の教会は己れを維持するために出来て居る。牧師は教会を保つために信者を製造せんと焦慮って居る。教会員は自給の材料である。伝道は人の霊魂を救うというよりも、教会維持の勧化である」(1904、全集5、p.269)と述べ、「洗礼の濫授」(1910、時代4、p.723)の傾向を指摘している。また、財政的独立が自己目的となり、彼の言葉でいえば「自ら富に重きを置き、物質的有力者に依りて、その目的を遂げんと欲するの罪悪を犯すに至らんとするの傾向を生ずるの気遣いなきにあらざるなり。……信仰に伴わざる金力に依りて教会を経営するときは、霊的生命を危うすべきは自然の結果にして、到底これを免れ難かるべし。教会独立してその霊的生命日に月に衰う」(1908、全集2、p.321)という転倒が起こり、その間に「物質的有力者」が教会内でも有力者とされ、植村正久のいわゆる「教会内外の物質的勢力を崇拝するの病膏肓を犯せるに似たり」(1908、全集2、p.321)という状態に至る傾向もここには潜在していた。このようにして、教会の機構化は「物質的有力者」という寡頭制を生み出すとともに、この寡頭制によってさらに強化され、ますます機構管理に傾斜することになるであろう。しかも、大都市に集積する新中間層が伝道対象である場合、日本近代化とともに、一定の時間の経過によって、当初は青年の集まりである教会の中にこの「物質的有力者」の寡頭制の形成されることも、当然のまた一般的な経過であったことを見落としてはならない。また、伝道の客体の側においては、「伝道」の成功が教会員の量的増加を伴うにしても、その信仰の質において新しい信徒がすべて植村正久と「志」について同型的であり、またありつづけるという保証はない。日本の近代化が閉塞体制の下で独身者主義を原理とし「旅宿の境涯」の全国化という形で進められるものであった限り、信仰受容の規制は「帰属の不安」の解消に志向しながら、反面で再生産過程への視野を欠くことが、むしろ、常態であるからである。しかも、伝道がパーソナル・コミュニケーションを通じてなされる限り、伝道者と教会の先在とその人間的引力とへの依存は強化されざるをえない。このようにして、信徒の側においては、永久運動としての伝道を再生産する主体的な「志」よりも、「礼拝と交わり」(ないし機構管理)の受動的な消費への強い向性が成立する。事実植村正久が眼にしたものは、信徒のこうした受動化・消費化であった。彼によれば信徒は「蔦蔓のごとく牧師の説教に依頼し、その誘懃なる勧誘訪問に倚りて辛うじて、その信仰を維持す、その状あたかも風前の塵に同じ」(1891、時代4、p.679)状態にあり、しかも再生産過程への展望をもたず「日本伝道の事業は伝道者の事業に非ず。日本キリスト教徒の事業なるを常に記憶する」(1896、全集5、p.523)を忘れ、「伝道の事は第二流以下の人たちにやらせてただ金儲けと戦いと名誉とにばかり走る有力者」(1904、全集5、p.103)が機構を管理する寡頭制を形成し、その結果多くの教会は「一個団体の経営にのみ忙わしく、その維持に汲々として他を顧みることをせず、自己の信仰を養うことに力を専らにし、その中に在りて安らかに墳墓を作るの準備をなすのほか余念なき」(1901 霊性の危機 全集6、p.114)自閉と停滞を特性とするようになってきていたのである(*)」(p.154-156)。
* 植村正久は、こうした事情のひとつの由来を、ホーム礼拝に求めた。「日本のキリスト教徒が婚配をもって人間の最大事と心得、いわゆる家庭の愛、殊に夫婦の愛に対しては天下の義理責任悉く顔色なしとみなす如く思わるるは、誠に憂うべきことなり。その伝道者の如きは家庭をもって最高の責任と思い僻め(「かため」のことか)、あらゆる事情を排し、あらゆる責任を推し除け、妻を迎えてホームを設立せんと欲するもの甚だ多し。西洋の長所はともあれ、家庭崇拝の一事に至りては、日本キリスト教徒の欧化主義存外に行きわたりたりと見ゆ」(1894、全集1、p.57)。この点についてはなお(1901、時代4、p.684)(1905、時代4、p.684)参照。
この注の初めにある「ホーム礼拝」は、「家庭礼拝」のことではなく、「ホーム崇拝(家庭崇拝)」とすべきことではないかと思われます。それはともかく、日本の近代化のプロセスにあって、教会という組織も制度化・物象化の趨勢から免れることはできず、植村が重んじた「志」という精神的次元は空洞化して、伝道とは、教会の財政維持のための会員数の増大のことであると見なされかねない傾向が生じてきました。また信徒は受動化・消費化して、自ら伝道するということ(信徒伝道)は信仰の中心的な課題であるとは考えにくい傾向も生じてきました。精々、それは未信者を教会に連れてくるという意味しか持たないものとなりました。ただしこの点については、京極が指摘するように、既に欧米の教会で見られた傾向です。教会での「礼拝と交わり」以外には、信徒の信仰生活の領域は存在しないと考える「向性」がそこに存在します。京極はそのような礼拝中心主義を「機構管理化」と言います。しかし信仰生活とはすなわち教会生活であるということが当然視されるのは、キリスト教に限ったことではないでしょう。宗教がそのように制度化されるのは、ある意味で必然的な傾向であると言えます。
「植村正久の教会論が事実の世界でもつ矛盾は、ここで、極めて明らかである。彼が強調する「伝道」も教会の「自給独立」も「自主独立」も神学校と神学の独立も、その志向する「志」とそれに支えられた永久運動としての伝道の再生産にではなく、教会の閉鎖的機構化と日本社会の中のポケット地帯の管理とに転化することになるからである。この矛盾に対する植村正久の戦略的対策は、ここにおいて機構化のコースの否定と「志」の極限までの強調でしかありえない。彼は、たとえば、財政を契機とする逆転とそれに由来する機構化とについては、「信仰が無くても立って行く教会は要らない。信仰の潰れた教会はどんどん潰れるが善い。あるいは外国の資本をもって、あるいは名簿だけ信者になって居る人の寄附金を貰って、やっと教会の外観を飾」る(1904、全集2、p.9)のは誤りであるとし、教会財政の方法として会費の「集金を廃してすべてを献金ならしめ、信仰をもって喜び献ずるものを会堂において領収するのほか、あえて請求することなきの習慣を励行する」(1908、全集2、p.321)ことを主張したのである。そして、「志」による永久運動であるべき「伝道」については、専従教役者集団の役割分化を弱音化し、それに代えて、「志」の極限として「有志者」、すなわち無報酬名誉職の有志者の活動を強調することになった。この場合、彼は、キリスト者の伝道への関心と市民の政治的関心のパラレリズムにおいて、「政治のために財産を失いしものこれあり。学問のために貧苦に陥りしものこれあり。しかれども伝道に至りてはかくの如きもの極めて少なし」(1894、全集5、p.518)という井戸掘のアナロジーに訴え、「有志伝道」(1904、全集5、p.268)を要請したのである。そして、「いずれの町村にも有給の伝道者を置き、すべての教会および信徒の団体に牧師を置くことを必要とする」「一種の妄想」(1892、全集5、p.204)が教会の機構化への強大な圧力であったのに対して、彼はこの「贅沢伝道」を否定し、「小なる町村に起これる信徒の団体に手は、その土地に住みて多少の資産を有し今の伝道者の如く俸給に露命を繋ぐの必要なき有志者をして、その伝道教会の実務に当たらしむべし。しかしてかくの如き数団体が協議して智徳兼備の良牧師を招き、これをしてその区内を巡回せしむるときは、布教牧会の上に毫も差支えを生ずることあるべからず。かくの如くするときは、今日の如き不都合なる伝道者を廃するを得べく、伝道の事業を貴くするを得べく、伝道の志気を振作するを得べく、有力なる牧師伝道者の起こるを期すべきなり」(1892、全集5、p.205)と提案した。彼は、三〇年後にも「教会においてレイメンの勤務と伝道とが存外多く行なわれて居る。それらの人々がもっと徹底的に、もっと力ある奉仕の出来るようになるが目下の急務である。それが神学社の夜学部の起こった理由である」(1924、全集3、p.547)と述べ、また「素人神学」についても「いわゆる素人神学者の多く生ずるに至らばその利益頗る多大であろう。……素人神学だに興起せば伝道も日曜学校の教育も、その解決が比較的容易であろう」(1919、全集4、p.445)と述べたのである」(p.156-159)。
既成教会の原理論(教義学)・組織論(教会論)の上に立って、「自主独立」の教会を実現するための解決策として、植村は遂に信徒によるボランティア伝道の推進と、それを補強するものとしての素人神学(信徒神学)の興起とを考えるようになりました。しかしここで言及されていない重要な問題があります。それは「信徒には説教をする権利がある」ということを認めるか否かの問題です。今日、無牧の教会の存在が取り沙汰されていますが、もし信徒にも、奨励や証しだけでなく、講壇での「説教」が許されるのだとしたら、そこにこそ重大な解決策が潜んでいると考えるべきではないでしょうか。洗礼と聖餐式の執行、すなわち聖礼典(サクラメント)の執行や、転会式・結婚式・葬式などの司式が、牧師にだけ許される行為だとしても、「説教」が信徒によってなされることが認められるならば、普段の礼拝は信徒だけによってなされ、牧師は定期的に諸教会を巡回するだけで足りるのではないでしょうか。しかし説教もまた牧師の専売特許であると見なされるならば、無牧の教会の問題は根本的には解決されないままでしょう。なぜなら信徒にはいつまで経っても自立する機会が与えられず、常に牧師に依存する存在であるということが、そのような形で制度化されてしまっているからです。なお信徒に説教の権利が認められるとすれば、さらに祝祷(会衆に祝福を与える)、あるいは(会衆の罪の告白に対して)キリストの名によって罪の赦しを宣言することも、信徒の権利として同様に認められて然るべきでしょう。私自身は既に原理的な面でキリスト教に対して多くの疑問を持つようになっていますが、キリスト教の原理論・組織論を大枠において肯定する場合には、今日一層深刻化している「無牧」(牧師がいない教会)などの問題の解決策のひとつとして、説教と祝祷、あるいは赦罪の宣言などを信徒が行なうことを認めるべきではないかと考えています。教会の中で信徒が「無権利状態」に置かれていることの欲求不満が、不健全な形で教会の様々な問題を引き起こしていると考えることもできるのではないでしょうか。
なお「信徒神学」については、カトリックの側からも良い本が出ています。私が読んだ本としては、レオナルド・ドゥーハン著(松本三朗訳)『信徒を中心とした教会』(女子パウロ会、1994年)、犬養道子著『生ける石・信徒神学』(『犬養道子自選集6』、岩波書店、1998年、南窓社、1984年)があります。
「このようにして、植村正久の運動論は、その戦略論において、実は、基本的な矛盾を宿すものである。その矛盾の中には、一方で、「運動」の第一代の指導者が(その成功において)直面する「機構化」の宿命に対して示す抵抗が、矛盾したまま、表現されている。そしてまた、他方で、この矛盾の背後には、機構とその管理への引照においてのみ自己定位する「機構人」の全面化という近代日本の「特性」もその相貌を示しているのである。明治憲法体制の建設者たちより平均して約二十歳若かった植村正久は、日本近代化の随伴者であっても創始者でなく、その限り、近代日本の特性という拘束条件が、彼の「運動」自体をも、その伝道対象を通路として、制約することになったからである。しかも、この矛盾は、単に植村正久の「思想」の次元に留らず、彼自身の身の上においても、その晩年に、劇的な形で表面化することになった。すなわち植村正久は一方では、前出「日米の間に起これる案件」の終りの部分において、「独立の教会」を次のように強調し、「日本のキリスト者は外交上いかなる波瀾が起ころうとも、海外のキリスト教思想や信仰にいかなる動揺が生ずるとも、外国の財界にいかなる変化を来たすとも差支えなく、殊に外国教会との関係が信仰、思想、教会の組織、キリスト教生活上の応用、などにおける健全なる発達を遂ぐるに妨げとならざるよう徹底した整理を断行し、独立教会の理想を完全に実現すべく一大飛躍を試むべきはずである」(福音新報 一五〇五号 1924-6-26)と主張したのであった(*1)。しかも他方で、植村正久が他のすべての活動への禁欲の中にその全生涯を投入して育てた「独立の教会」、すなわち当の富士見町教会自体において、「物質的有力者」による寡頭制と教会の機構化とが典型的に現実化しており、彼は「深い絶望」(*2)の中に「有志伝道」を自ら実践する決意を固めることになったのである。一九二三年暮、すなわち、右の評論の約半年前、当時六十六歳に近い植村正久は、富士見町教会における自らの後継者の問題とあわせて、「パウロのような伝道をしたい。富士見町教会の勤めを辞し、余世をそれに捧げたく思うて居る、この志を助けて貰いたい」とその意思を二人の有力教会員に伝えた(田川大吉郎 時代5、p.1109)。ここにいうパウロのような伝道とは、「各地に二三ヵ月ずつ落ちついて、同志の間を奔走し教会を建設さすることである。……かようにして、甲の地を立って、乙の地に、乙の地を立って、丙の地に、転々として一年を隙間なく、各地の伝道に捧ぐることである、その範囲は、東洋各地に及ぼしたい」(同上)という巡回活動であるが、おそらくは「彼の天幕を製して糊口せる使徒の精神」(1894、全集5、p.71)をも意味していたとも考えられるのである。彼はまた、その死の直前柏木に贈られた新しい住宅においても、開拓伝道を始めようとした(羽仁もと子 時代5、p.1104)と伝えられている。
*1 米国の排日法案に対する方策として、声明と国交断絶との中間に、「無効な」商品ボイコット以外に、何が可能かといえば、「米国人が日本に行なって居るところの社会事業、教育事業、伝道事業等は随分手広いものである。この間に彼らは日本人が米国において拒絶されている便利を隠に陽に獲得しつつあるではなかろうか。これであるならば、政府がこれを限制し、これを拘束するは、時に取っての止むを得ざるの政策であろうとも考えられる」。この政策は教会にも影響を伴うであろう。そこで「日米間に争議のむつかしくなってきた今日、大いに奮発して盛んに独立の道を講ぜねばならない」というのが本文の引用の前の部分の論旨である。
*2 小塩力「高倉徳太郎伝」二二五頁。
植村がその生涯を捧げた「伝道」とは一体何であったのかということが、本来ならばここで詳しく考察されるべきところでしょう。しかし今の私には常識的にキリスト教が伝道と考えてきたことと重ね合わせて、それを理解する以上の用意がありません。キリスト教の信仰を持たない者が持つようになり、教会の一員として教会生活を送るようになるということに、伝道の働きが介在しています。その「伝道」についての理解の仕方と、その方策(戦略)に植村自身の特質を見出して行くという作業は、ここに示された京極の論述以上の知識を私は持ち合わせていません。しかし、その伝道の働きがなければ、教会の生命は萎縮し、「機構管理化」を伴いつつ、やがては枯渇してしまうであろうということは確かであると言えます。いかなる社会運動も外に同志を見出し、糾合するということがなければ、仲間内だけの閉鎖的な運動となり、やがては消滅することになります。外来の宗教であるキリスト教を受容し、その「真理」を日本人に伝達するという働きは、いわば二重の困難を抱えています。それを信ずることの難しさと、それを人に伝えることの難しさとがあります。求道が伝道に転化するためには、コミュニケーションにおける受容と伝達との対向する通路がこの私において交叉し、方向転換する必要があります。その交叉点で受容から伝達への方向転換が生じるということが、この私が伝道の主体となるということでしょう。回心という言葉がそのことを言い表しています。一労働者が革命党のオルグを受け、自ら革命家になっていくプロセスを考えて見れば、形の上でその回心とパラレルな現象が生じていると言えるでしょう。京極は、それはパーソナル・コミュニケーションであると言います。伝道は集団的な現象ですが、しかも、変革の焦点はあくまで個人のうちにあります。個人の「志」が伝道の中心に位置しています。植村にはキリスト教によって日本の社会、ひいては東洋を変革しようとする高い「志」があったのでしょう。しかしその「志」が、自ら牧する教会においてさえ、同じ性質のものとして共有されていくことは困難でした。晩年の植村は「深い絶望」を味わったとあります。キリスト教の教義的限界を度外視して、一般論として言えば、伝道とはことほど左様に困難なものであると言えるでしょう。それはキリスト教の伝道に限ったことではありません。どんな社会運動でもいつかは逢着する壁がそこにあります。機構管理に流れることは容易であり、「志」を保つことは困難です。しかしその「志」を持ち続けたところに植村の偉大さがあります。
本書はあと少しで終わります。しかし紹介の作業は一旦ここで休み、残りの部分は次回に回します。
6
「植村正久の「思想」の紹介と検討は以上で終りである。本稿がこれまでとりあげてきたことを、最後に、簡単にまとめてみよう。旗本の家に生まれた植村正久は、少年の日、維新の流亡にあい、文明開化の地横浜で青年期を過ごすことになった。「横浜」は彼にキリスト教の信仰と「伝道者」という使命を与えた。従って、植村正久にとって、日本近代化の指針は「東洋道徳西洋芸術」という使い分けにではなく、文明全体のキリスト教化(またその限りでの西欧化)に見出されることになった。そして、この場合、文明全体の根本的変革は「外発的」受動性につきるものではなく、「進歩の精神」の中に内発的な主体的契機をもつものであった。しかも、この「進歩の精神」は一方では「国粋」としての伝統の集約であり、他方ではキリスト教によって再生産されるものであった。ここに英学と伝統とを「進歩の精神」によって統一する「木鐸」としての植村正久が登場する。(さらにまた、キリスト教と「旧朝の遺臣」と「進歩の精神」という三つの契機が、自閉の度を強める閉塞体制の中で「日本の将来」を引照する木鐸であることを、彼において、可能とした。)さて、文明全体の根本的変革は、彼において、模倣と継受につきない主体的契機、「開創」の契機をも伴うものであった。諸国民の相互貢献、その中を貫く人類文化の進歩、という彼の思想は、このようにして、進歩に底礎されたナショナリズムの表現である。ここで、実践的な次元では、伝道とそれによる「進歩の精神」の培養とが彼にとって中心課題となり教会の自主独立が中心的な主張となった。しかし、事実の世界において、教会必ずしも自主独立と「進歩の精神」に志向するものでなく、また、えられた自主独立は、かえって、教会の機構管理への傾斜と「進歩の精神」の減衰とに通じるものとなった。植村正久が指針とした日本近代化の路線は、当然の結果ながら、閉塞体制のとる路線の前に敗退し、彼の思想に矛盾と挫折を結果した。そして、彼自身、その晩年には、この挫折を認識せざるをえなくなったのである。
植村正久を、もっぱら伝道活動と教会政治との面にだけ引照して捉え、その限り彼の「思想」を閑却する見解も少なくない。しかし、本稿がとりあげてきたように、植村正久が、伝道者としてまた社会の木鐸として、「理想の空論を天下に首唱する」思想家の面をもっていたことも見落としてはならない。しかも、本稿の冒頭で述べたように、彼の思想は、それ自体として、検討に十分値するものなのである」(p.162-164)。
植村は「理想の空論を天下に首唱する」場所を教会のうちに見出していました。また自らを教会に自己定位することによって日本社会の改革を構想しました。ある意味で、それは正しい見識であったと言うことができます。しかし「現実」の教会は、これもまた当然のことながら、植村が望んだ形ではその路線を進むことがありませんでした。制度化され、機構管理化された教会は、植村の「志」を裏切ることになりました。その矛盾のうちに、実は、本当に考えるべきことがあるような気がします。教会の教義はいわばフィクションであって、だからこそ、「理想の空論を天下に首唱する」ことも可能なのだと考えることはできないでしょうか。しかし現実の教会は、様々な拘束条件に流され、翻弄されて、その理想の通りに形成されることはありません。その矛盾やギャップのうちに、人間の真実の問題が潜んでいます。その問題に正面から取り組んだ植村の生き様からこそ、我々は何事かを学び取ることができるのだと言うことができるでしょう。
終章 残された問題
「植村正久は一九二五年一月に世を去った。その後二〇年間の間、日本社会は、無責任と無原理の支配するままに、破滅の道を辿った。「社会の木鐸」としての植村正久が危惧したように、「悪銭身につかず。放蕩無頼の状態に陥らずんば止み難き次第」となったわけである。また彼の死の二年後富士見町教会において、また一六年後日本基督教会において、すなわち彼自身にとって実践的に最も重要であった二つの場において、「伝道者」としての植村正久の志向の挫折も否定の余地なく、顕在化した。そして、この二つの周知の事件自体が日本プロテスタンティズム第二期の次第に深まり行く頽落を示す指標でもあった。
植村正久が一九二五年一月八日死去したあと、副牧師南廉平が富士見町教会の正牧師となったが、一九二六年十一月七日病没した。その後継者には一九二七年四月の教会総会において三吉務が決定したが、これに対して高倉徳太郎を後継者として推す約百名の人々は富士見町教会を脱退し、高倉徳太郎の牧する戸山教会(今の信濃町教会)に同五月末転入会した。いわゆる富士見町教会の分裂である(*1)。植村正久自身は高倉徳太郎を後継者と目していたとされており、また牧師詮衡委員会が提出した報告書によれば、高倉徳太郎の推薦理由は「富士見町教会は、日本基督教会の中心にして、将来重大なる責任を帯べる教会なるをもって、ただに現状に安んずるをゆるさず、さらに発展すべき使命を有すと感ぜらるるがゆえに、これがためには積極的努力を惜しまず、確信するところを大胆に述べ、常に伝道の精神に燃ゆる牧師を後任に推さざるべからず」(*2)ということであった。これに対して小塩力の説明によれば、「教会形態の維持が何よりの先決問題と考えられ、牧師は悪しき意味での奉仕者(ミニスター)、長老が実質的の主人、この世の智慧と地位が最後にものをいうかの如き不信」(*3)すなわち、閉鎖的機構化がすでに富士見町教会の病症となっており、その立場にある富士見町教会小会の「現状維持的な在り方」(*4)が高倉徳太郎を拒否することになった。いわゆる高倉派の富士見町教会からの脱退は、このようにして、伝道を永久運動として捉えていた植村正久の育てた教会において、伝道よりも機構管理(礼拝と牧会)が優越するに至っていた事態の劇的な表現であった。また、高倉徳太郎は日本プロテスタンティズム第二期において「神学的」の方向を代表する人であるから(*5)、富士見町教会の分裂は、一方で日本プロテスタンティズム第一期から第二期への転換を、また他方で第二期における「教会的」の中の二つの方向(「牧会的」と「神学的」)の正面衝突を同時に象徴する事件でもあった」(p.165-167)。
*1 この事件に関して詳細は、小塩力「高倉徳太郎伝」二〇〇−二三七頁参照。
*2 同上二〇五頁。ここに引用されている三人の候補者の推薦理由は、実に象徴的に、機構管理の重視と伝道への開放の重視という二つの志向の対比を画き出している。
*3 同上二二四頁。
*4 同上二三二頁。
*5 高倉徳太郎は一八八五年四月二三日出生、一九三四年四月三日死去、その伝記や神学についての詳細は「高倉全集」および小塩力「前掲書」参照。その神学の特色は、自我と孤独に出発し、預定と恩寵において西欧の神学との同位相化をほぼ達成し、贖罪信仰において「正統主義」を確立したことにある。その限り、「文化否定」的でもあった。従って、植村正久の「志」の神学と基本的に異質的なものである。
植村における二つの挫折の顕在化と言われることの一つは、その死後の、富士見町教会における後継者選びの問題でした。なお京極は一貫して「牧会的」という言葉を「機構管理化」、「閉鎖的機構化」という意味で使っています。この牧会的という言葉には、精神的次元でのケアという意味と、「礼拝と交わり」に集約される日常的な教会の働きの面で、教会という組織自体を管理運営していく意味とがあります。京極が指摘しているのは、主に後者の側面で、いわば組織のケアに関わる問題です。たとえば「牧会的配慮(パストラル・ケア)」という言葉は、前者の意味で使われており、これまで必ずしも積極的な意味を持たされて来ませんでした。その言葉が、キリスト教信仰への誘導ということに強力に方向づけられている限りでは、またそれが教会内の秩序維持のためになされる信徒間の軋轢への慮り(おもんばかり)であるに過ぎないとしたら、結局それは牧師の「為にする」意識の現われであり、必ずしも信徒自身の心のケアに結びつかないものとして、否定的に捉えられても仕方がない側面があります。しかし「牧会的配慮」という言葉には、それがドイツ語では「ゼールソルゲ(魂の配慮)」と言われるように、信徒あるいはクライアントの心のケアという意味で、教会の本来の働きの一つであると積極的に捉えることも可能です。なぜか日本では公教育の世界でこの「パストラル・ケア」という言葉が、(積極的な意味で)使われたりしています。他方、京極が言うような、牧会という言葉のもう一つの意味として、教会内の秩序を保ち、教会という機構を維持していくということを考えると、それは確かに内向きであって、伝道という外に向かっての働きとは対照的であると言えます。牧会とは、このように、教会のリテンション(維持管理)の働きのことであるという意味合いがありますが、教会という組織の存続のことを考えたら、それは不可欠のことです。しかし問題は、牧師と教会員のエネルギーの大半がそこに集中してしまうという、教会のあり方に関わっているのだと思われます。それが「閉鎖的機構化」と言われるのであり、教会が自閉的集団と化してしまうことを意味しています。組織というものは、一旦出来上がってしまうと、その存続が自己目的化してしまうという面があります。それを打開する外へ向かっての教会の働きが「伝道」であるということになります。しかしその伝道についても、初期のパーソナル・コミュニケーションの時代が過ぎれば、それに代わって「神学」の時代がやって来ると言えるかも知れません。パーソナルな信仰の伝授に代わって、高度に概念化された神学がメッセージの中核を支えることになります。それは進歩であると言えるかも知れませんが、他面では、教会の生命力の後退であると見なすことも可能ではないでしょうか。このようにして第二期の日本の教会は、「牧会的」と「神学的」の二方向に分肢することになるというのが、京極の見立てです。
「また、植村正久は、晩年日本基督教会について「信仰において福音的で、しかもその信条は単純で、寛容の精神に富んで居る。外国の宗派に属せず、独立自治なるを尚び、秩序ある代議制度に拠って教会を組織し、伝道の精神に富み、学を好み、力と深さとに向かって心を用いつつある教職を有し、漫然社会事業に没頭してその霊的本領を失うことなく、世俗的の富や権力と結託したり、官憲に使役せらるることを屑し(いさぎよし)とせざる気風を重んじ、真面目にして広告的ならざらんこと事を期する団体である」(1921、全集3、pp.272-273)と述べた。その二〇年後すなわち一九四一年日本ファシズムは、宗教団体法(一九四〇年成立)によって、日本基督教会を他の諸教派とともに日本基督教団へと統合した。この直後、すなわち一九四二年一月、日本基督教団統理富田満(日本基督教会出身)は伊勢神宮に参拝し、さらに同年一一月、宗教団体代表者の一人として他の三九名の代表者とともに参内、列立拝謁を賜わった。すなわち、植村正久によってその美点をあげられた日本基督教会が反対物に転化しただけでなく、日本プロテスタンティズム第二代の指導者は植村正久が指定した内容と正反対の事柄を「牧会的」(「機構管理)の極限として行なうことになったのである(*)」(p.167-168)。
* 植村正久にとって最も苛酷な逆説は、日本プロテスタンティズム第二期においては、「無教会主義」が本来「教会」の果たすべき預言の機能を果たしたこと、しかもそれは、「教会」を否定し、コイネーに直結し、パーソナル・コミュニケーションの中で「主体」と「志」の再生産を支えた「無教会主義」によって可能であった、ということである。
教会の「一致」が時の権力の強制によって可能になったということは、歴史の皮肉というものでしょう。しかもその一致は国家意志と教団の意志との同一化によってもたらされたものでした。日本における教会のコンスタンティヌス体制が完成したというべき事態なのかも知れません。この苛酷な歴史的現実が今日に至るまで日本の教会の負い目としてのしかかっています。しかもその「過去」は未だに為政者の意識に強力に残存しており、その時代の再来が目論まれているように思われます。この事態は単に「神学的」な問題なのではありません。日本における「結社」が国家意志の外に存在することを許されるのか否かという、すぐれて政治的な問題です。集会結社の自由という民主主義の根幹に関わる問題が、教会においてはそのような形で問われたということを意味しています。戦時下の体制において、戦争協力だけが全国民の義務とされるとき、そして国家主義的イデオロギーがすべての信条に先立って奉戴されるべきものであるとされるとき、あらゆる団体が掲げる大義は従属的な地位に置かれることになります。「信教の自由」も「良心の自由」も国家の意志が許容する範囲で認められることになります。戦争を遂行するためにそのような国家至上主義が必然的に要請されてくると言うべきでしょう。「二重の国教会」制度(神社礼拝の強要と公教育における愛国心の強制)は単に過去に存在した問題ではありません。そのような体制の再来は、単に教会の死を意味するばかりでなく、民主主義の死をも意味しています。今日では、それを単に教会だけの問題として受け止めるのではなく、日本社会の民主主義的な原理に関わる問題として、すなわち、ほかの人たちと共通の問題として受け止め直す必要があるでしょう。そして植村にはそのような射程の広さがあったのではないでしょうか。それこそ「社会の木鐸」が意味するところではないでしょうか。
「日本プロテスタンティズム第二期の諸事情を検討することは、冒頭で述べたように、本稿の範囲をこえることである。ここでは、今日の日本プロテスタンティズムがその第二期の壊滅的頽落から回復し、その第三期を開創すべきであるとするならば、また、今日の日本社会の状況の中で、デモクラシィとナショナリズムとが、日本人の手によって、思想的に展開されるべきであるとするならば、「理想の空論を天下に首唱」した植村正久の「思想」の中に、発掘し再評価すべき遺産も、またその際検討し克服すべき矛盾も存在することを指摘して、とりあえず本稿を結ぶことにしたい」(p.168)。
日本プロテスタンティズムは、植村が構想したように「国民的教会」として、この日本の社会に普及することはありませんでした。その信奉する教義が、日本人の目にはあまりにも不合理で、感覚的にも馴染みにくい面があるということを否定することはできません。しかしその異質性が日本の社会にあってある種の変革の契機となったという面もあります。今日、日本の教会は、なおその正統的教義に固執して、「ポケット地帯」の中で自己満足のうちに衰滅の一途をたどるか、あるいは根本的に変革されて行くのか、その岐路に立っているように思われます。植村自身は、自己の拠って立つ原理に疑問を抱くことはなかったように見えます。しかし伝道以前の問題として、教会は如何なるメッセージを携えているのかということを、もう一度検討すべき時に来ているのではないでしょうか。「教憲教規」に書かれているからと言って、自己の「法的アイデンティティ」を振りかざすだけでは、外に対しては何の説得力も持ちません。それは自閉的集団の独りよがりというものです。佐藤研が指摘しているように、教義は現代人にとって体験的裏づけが伴わない死文と化しています。しかも教会には教義を禅の「公案」のようなものと見なす大胆さもありません。だからそれを文字通りに信じろと言っているとしか思えません。教会は、今、そのような袋小路に立たされています。植村が「信仰において福音的で、しかもその信条は単純で、寛容の精神に富んで居る」と言ったことを、今日の時点で、もう一度再吟味しなければ、教会はこの先やって行けないのではないでしょうか。私自身は、かつてキリスト教はLIFEである(すなわち自由・誠実・友愛・永遠である)と言ったことがあります(「すべての人を一つにしてください」参照)。それもまた信条の単純化の試みの一つであったということができます。それはともかくキリスト教の大胆な見直しによってこそ展望が開かれるのではないでしょうか。
京極は、「今日の日本社会の状況の中で、デモクラシィとナショナリズムとが、日本人の手によって、思想的に展開されるべきであるとするならば……」と言っています。もし国家権力が強要するナショナリズムではないナショナリズムがあるとしたら、それはいわゆるナショナリズムを越えたナショナリズム(トランスナショナル・ナショナリズム)と言うべきものでしょう。それはまた、この紹介の作業の一番初めに京極が述べていた、「一方で「身分」によって維新政権と「天皇制」とから距離を保ちながら、他方なおも「日本」と――まさにその「将来」において――同一化し、かくして自己の使命と国民の使命とを統一的に捉え、「伝道」と「木鐸」活動とを統一的能動的に行なうことを可能にした機制」としての、また、個人の「志」の次元と国民の「美質」(「進化はこの国の純美存する所」)の次元との間に存在するパラレリズムとしての、植村のナショナリズムに通じるものがあるでしょう。それは「閉塞体制」を打破することによって、将来その実現を見るべきものとしての、「終末論的」ナショナリズムであると言ってよいでしょう。
なお、この本は、もともと「南原繁先生古稀記念論文集・政治思想における西欧と日本」(東京大学出版会、上・下巻、昭和三十六年)の下巻に収められた論文で、原稿を手渡したのは昭和35年(1960年)の秋のことであったと、「あとがき」に書かれています。丁度今から47年前のことになります。
1945年、上エジプトで偶然発見された「ナグ・ハマディ写本」によって、それまでは十分明らかでなかったグノーシス主義についての研究が一挙に進展したこと、また日本では、荒井献氏がいち早くその研究に取り組んできた人であることは、広く知られています。そのグノーシス主義についての啓発的な書物として、エレーヌ・ペイゲルス『ナグ・ハマディ写本 初期キリスト教の正統と異端』(荒井献/湯本和子訳、白水社、1982年)があります。キリスト教とはいかなる宗教であるかを理解するためにも、今や、グノーシス主義の研究は不可欠のものとなっているということからしても、この本の啓発的な意義は失われていないと思われます。ここでは特に私の印象に残った一節を取り上げて、私自身のキリスト教に対する理解を深める一助にしたいと思います。なお引用は第二章/「唯一の神、唯一の司教」――唯一神教の政策の途中から始まります。
「最近、プロテスタントの神学者パウル・ティリッヒは、われわれが神という言葉を聞いたときに想像(イメージ)するものと、「神の彼岸にいます神」、すなわちわれわれの抱くすべての観念と想像(イメージ)の基礎となっている「存在の根拠」とを区別している。
何が彼らの立場を異端にしたのであろうか。なにゆえにエイレナイオスは、唯一神教のこうした修正を重大なこと――実際にまったく非難すべきこと――とみなし、彼の同信の者たちに、ヴァレンティノスの信奉者たちを異端者として教会から追放するように促したのであろうか。彼は、この問題がグノーシス主義者自身を困惑させたことを認めている。
彼らは尋ねる、――彼らが同じことを告白し、同じ礼拝に参加しているのに、……何の理由もなしにわれわれが彼らから離れているのはどういうわけなのか。また、彼らは同じことを告白し、同じ教義を信奉しているのに、われわれが彼らを異端と呼ぶのはどういうわけなのか!(*)
* Irenaeus, Frag. 24, in Origen, COMM. jo. 13.25.
私はここでもまた、われわれがこの論争をもっぱら宗教的・哲学的論点から考えるかぎり、この問題に充分答えられない、ということを示唆したい。そうではなくて、神観がグノーシス派と正統派の文書に実際どのように機能しているかを調べてみると、この宗教上の問題もいかに社会的・政治的争点を含んでいるものであるかが見いだされるのである。とくに、正統派が「唯一の神」を主張した二世紀の後半には、彼らは同時に、「唯一の司教」によって教会が統治される統治組織を是認した。唯一神教をグノーシス主義的に修正することは、この組織に対する攻撃ととられたし、それにはおそらく攻撃の意図もあったであろう。なぜなら、グノーシス派と正統派のキリスト教徒が神の本質について議論した際、彼らは同時に、霊的権威の問題をめぐって論争していたからである」(p.81-82)。
神観は単に宗教的哲学的問題なのではなく、それには社会的政治的争点がからんでいるというのが、ここでの主眼です。信仰は政治的立場の選択の問題でもあります。たとえば、この日本でキリスト教を信じるということは、それ自体で、ある政治的な決断がなされたということを意味します。今日、その意味が愈々明白になりつつあります。
「この問題が、ローマ教会に由来する、われわれの保有する最古の文献の一つ――ローマ司教と言われるクレメンスに帰された一通の手紙(九〇―一〇〇年頃)――の主題となっている。クレメンスは、コリントのキリスト教会が危機に瀕したとき、つまり、コリント教会の若干の指導者たちが権力を奪われたときに、ローマ教会の代弁者として、この教会に手紙を書き送った。クレメンスは、「わずかな向こう見ずで破廉恥な輩/やから」が彼らを教職から追放したと述べている。――「声望なき者どもが名望ある者たちに、無思慮な者どもが思慮深い者たちに、若輩者どもが年老いた者たちに(逆らい立った)」(*1)。彼は政治用語を使用して、これを「騒乱」(*2)と呼び、免職された指導者たちを元の地位に戻すよう主張している。――彼らを恐れ、敬い、そして彼らに従え、と警告している。
*1 Tクレメンス三・三。
*2 同一・一。
何を根拠にしてであろうか。クレメンスは、神、イスラエルの神のみが、万物を支配していると論ずる(*1)。すなわち、神はすべての者が服従すべき主にして支配者であり、神は律法を制定し、反逆する者を罰し、服従する者に報いる審判者である。しかし、神の支配は実際にはどのように営まれたのであろうか。ここで、クレメンスの神学は実践的になり、神はその「統治権」を、地上の「支配者と指導者」に付与したと述べる(*2)。任命されたこれらの支配者とは誰であろうか。クレメンスはそれは司教と司祭と助祭であると答えている。教会の指導者に「首をたれ(*3)」、服従することを拒否する者は、だれでも神聖なる支配者自身に対する不服従の罪に問われる。クレメンスは自らの議論に乗せられて、神によって任命された権威者たちに服従しない者は、いかなる者であれ「死の罰を蒙る」と警告している(*4)。
*1 Tクレメンス一四・一九〜二〇、六〇.
*2 同六〇・四〜六一・二、六三・一〜二。
*3 同六三・一。
*4 同四一・三。
この手紙はキリスト教史に画期的な痕跡を印すことになった。ここにはじめてわれわれは、キリスト教会を「聖職者」と「平信徒」とに二分する論拠を見いだすのである。教会は、上官と配下の厳格な秩序によって組織されるべきものである。クレメンスは、聖職者のなかにおいてすらも、それぞれのメンバーを――司教であれ、司祭であれ、助祭であれ――「それぞれの身分に応じて(*)」格づけし、それぞれは、常に自分の地位の「規則と戒律」を遵守すべきである、と主張している」(p.82-84)。
* Tクレメンス四一・一。
聖職者(教職)と平信徒(信徒)の厳格な区別、また聖職者の中の位階の区別ということが、紀元90〜100年頃のクレメンスの手紙のうちに見出されるということが、ここで指摘されています。この区別が尾を引いて今日に至っているというわけです。
「歴史家の多くは、この手紙の意味するところを計りかねている(*)。コリントにおける内紛の原因は何であったのか、と彼らは問うている。どのような宗教上の問題があったのであろうか。この手紙は、そのことについてわれわれに直接的には何も語っていない。しかしこのことは、著者がこのような諸問題を無視したということを意味するものではない。私は、著者が自分の主張――その宗教上の主張――をきわめて明確にしていることを示唆したい。すなわち、彼はコリント教会を、神の権威にならって築こうと意図したのであった。神が天国において支配者、主、指揮者、審判者、王として統治しているように、地上においてはその戒律を教会の聖職位階制のメンバーに委任し、彼らが将軍として配下の軍隊を率い、王として「人民」を支配し、審判者として神に代わって指揮をとるのである」(p.84)。
* たとえば、Campenhausen, Ecclesiastical Authority and Spiritual Power, 86-87 参照。――「教理に関する問題はどこにも言及されていない。われわれはこの争いの背景についても、真の論争点についても、もはや判別できない」。
いかなる神観を持つかということと、それが社会的政治的に、いかなる対応物を持つかということとは切り離し得ない事柄である以上、ここには宗教的な主張もまた明確に示されているのだと言われています。
「クレメンスは、ローマのキリスト教徒が当然のことと思っていたこと(*1)――そして、ローマ以外のキリスト教徒が二世紀初期に受容するようになっていたことを、単純に述べていたのかもしれない。この理論の主だった推進者が司教自身であったことは、驚くに値しない。そのわずか一世代後に、ローマから千マイル以上も離れたシリアのアンティオキアのもう一人の司教イグナティオスは、同じ主義を熱烈に擁護していた。しかし、イグナティオスはクレメンスよりさらに論を進め、三つの位――司教、司祭、助祭――を、天の神聖なる階級制を反映する聖職者位階制度として擁護したのである。天には唯一の神がいますように、教会には唯一の司教しかあり得ない、とイグナティオスは宣言している。「唯一の神、唯一の司教」――これが正統派の標語になったのである。イグナティオスは「平信徒」に、司教に対して「神であるかのように」崇敬の念を抱き、尊敬し、かつ服従するように命ずる。なぜなら、教会の位階制度の頂点に立つ司教は、「神の代わりに(*2)」統治しているからである。それならば、誰が神の下に立つのであろうか。神聖なる司教会議がそれである、とイグナティオスは答える。神が天上の会議を統治するように、地上では司教が聖職者の会議を統治するのである。次に、天の会議が使徒たちの上に立つように、地上では司祭が助祭を統治し――この三者すべてが、「平信徒」を統治するのである(*3)」(p.84-85)。
宗教的観念(たとえば三位一体)が社会的、集団的に構成されたものとして、一旦成立してしまうと、それは独り歩きし始め、社会的秩序(ここでは教会の位階制)を合理化するものとして機能するようになります。その観念的集合体(イデオロギー)は、もともとの形態(たとえばパウロの宗教思想)からは想像もつかないようなものに変化して行きます。また福音書から想定される「イエスの宗教」とはまさに正反対のものに転化してしまうと言わなくてはならないでしょう。しかし教会でそれは「教理的発展」と言われます!
*1 このようにバイシュラークは述べている。 H. Beyschlag, Clemens Romanus und der Fruhkatholizismus (Tubingen, 1966), 339-353.
*2 マグネシア六・一、トラレス三・一、エペソ五・三。
*3 マグネシア六・一〜七・二、トラレス三・一、スミルナ八・一〜二。この問題についての引用箇所と論述に関しては、Pagels, “The Demiurge and his Archons,” 306-307 参照。
「イグナティオスは、たんに彼自身の地位を強化しようと試みたのであろうか。皮肉な観察者は、彼が権力政治を宗教的レトリックで被い隠したのではないかと疑いをかけるかもしれない。しかし、宗教と政治の区別は、二十世紀のわれわれには非常に身近なものであるが、イグナティオスの自己理解にはまったく無縁であった。彼にとっては、彼と同時代の人々にとってと同様に、異教徒であれ、キリスト教徒であれ、宗教的信念は必然的に政治的関連を含むものであったのであり、――逆もまた真であった。皮肉にも、イグナティオス自身は、彼に死刑を宣告したローマの官憲とこの見解を同じくしており、後者は前者の宗教上の信念をローマに対する反逆罪の証拠と判定したのである。イグナティオスにとっては、ローマの異教徒たちにとってと同様に、政治と宗教は不可分の統一体になっていた。彼は、人間は教会を介して――そして、とくに教会を司っている司教と司祭と助祭を介して、神に近づけるようになると信じていた。――「この人々なしに、教会と呼ばれ得るものはないのです(*1)」。彼は人々に、永遠の救済のために、司教と司祭に服従するように説いた。イグナティオスとクレメンスは、聖職者の機構をそれぞれ異なった仕方で描写しているが(*2)、両司教とも、この人的秩序は天における神的権威を反映しているということでは、意見が一致していた。彼らの宗教上の見解は、確かに政治的含みを持ってはいた。しかし同時に、彼らが要求した実践は、彼らの神に対する信仰に基づいていたのである」(p.85-86)。
*1 トラレス三・一、スミルナ八・二。
*2 たとえば、Campenhausen, Ecclesiastical Authority and Spiritual Power, 84-106 参照。
キリスト教的な意味で「祭政一致」の信念が強固に持たれているならば、それは異教世界にあって「反逆罪」と見なされ得るものとなります。もしここに書かれていることと同じレベルで、今日なお日本的国教会制度(神社参拝と愛国心教育)がキリスト教信仰に対立しているのであれば、それは古代世界にあった宗教=政治的対立が、この日本でそのまま再現されているということになります。しかしそれは極めて不幸な対立というものです。この日本では、近代的な意味での政教分離の原則が確立していないということを意味するからです。そこに今日の憲法改正問題の重大な争点の一つがあります。
「誰かが神に関する彼らの教義に、――神聖なる位階制の頂点に立って全機構を合法化する者としての神に関する彼らの教義に挑戦したならば、何が起こったであろうか。推測の必要はなかろう。それは、ヴァレンティノスがエジプトからローマへ出て来たとき(一四〇年頃)に、起こったことを見れば分かることである。彼の反対者すらも、彼のことを有能で雄弁家と述べている(*1)。彼を称讃する人々は、彼を詩人であり、霊的な師として敬った。ある伝承では、ナグ・ハマディで発見された発見された、詩的で魂を喚起する『真理の福音書』を書いたのは、彼であるとしている。ヴァレンティノスは、自分は、すべての信者が共通して持っているキリスト教の伝承を受けたほかに、パウロの弟子の一人テウダスから神に関する秘密の教義をも伝授された、と主張している(*2)。彼によれば、パウロ自身この秘密の知恵を、すべての者にではなく、また公にではなく、彼が霊的に円熟していると考えた少数の選ばれた者にのみ教えたのである(*3)。次にヴァレンティノスは、すべての人が彼の知恵を理解できるわけではないので、「円熟した人々(*4)」をそのなかへ導くことを提唱している」(p.86)。
*1 Tertullian, Adversus Valentinianos 4.
*2 Clemens Alexandrinus, Stromata 7.7.
*3 Irenaeus, AH 3.2.1-3.1.
*4 Ibid,. Praefatio 2; 3.15.1-2.
ここで正統派の敵、グノーシス主義者、ヴァレンティノスが登場します。有能かつ雄弁な人であったようです。
「この秘密の伝承が啓示することは、大多数のキリスト教徒がナイーヴに創造主、神、父として礼拝する対象が、実際には真の神のイメージにすぎないということである。ヴァレンティノスによれば、クレメンスとイグナティオスが間違って神に帰しているものは、実際には造物主にのみ当てはまるのである(*1)。ヴァレンティノスは、プラトンにならい、ギリシア語の「造物主」(デーミウールゴス)という言葉を用いているが(*2)、このことは、造物主が上位の諸権力の道具として仕える一段下位の神的存在であることを示唆している(*3)。彼の説くところによれば、王や主として支配し(*4)、軍司令官として行動し(*5)、律法を制定し、それを犯す者を審判する者(*6)は、神ではなくて、デーミウールゴスである。――要するに、これは「イスラエルの神」なのである」(p.86-87)。
*1 Clemens Alexandrinus, Stromata 4.89.6-90.1.
*2 プラトン『ティマイオス』四一参照。この問題についての論述は、G. Quispel, “The Origins of the Gnostic Demiurge,” in Kyriakon: Fetschrift Johannes Quasten (Munster, 1970), 252-271参照。
*3 Heracleon, Frag. 40, in Origen, COMM. JO. 13.60.
*4 主――Irenaeus, AH 4.1-5.
*5 軍司令官――Ibid,. 1.7.4.
*6 審判者――Heracleon, Frag. 48, in Origen, COMM. JO, 20.38.
グノーシス主義の特徴とも言うべき神観がここに出て来ます。(1)大多数のキリスト教徒がナイーヴに創造主、神、父として礼拝する対象が、実際には真の神のイメージにすぎない、ということ、(2)造物主(キリスト教の創造主)が上位の諸権力の道具として仕える一段下位の神的存在であること、の二点が指摘されています。
「ヴァレンティノスが提示する秘教の伝授によって、入会志願者は、創造主の権威と、そのすべての要求を愚かなものとして拒否することを学ぶのである。グノーシス主義者が知ることは、創造主が自らの無知から、誤って主権を主張している(「我は神なり、ほかに神なし(*)」)ことである。グノーシスを達成することは、神的力の真の源泉、すなわち、すべての存在の「深み」を認識するようになることを含意する。この源泉を知るようになった者はだれでも、同時に自己を知るようになり、自分の霊的起源を発見する。すなわち彼は、自分の真の「父」と「母」を知るようになったのである」(p.87)。
* Irenaeus, AH 3.12.6-12.
古代世界にキリスト教正統派の教説をラディカルに否定する立場が存在したということは、単に正統派の言説に従って、それを異端として斥けるだけでは済まないものがあることを意味しているのではないでしょうか。「創造主の権威と、そのすべての要求を愚かなものとして拒否する」ということは、正統的教会の権威主義を真っ向から否認することを意味しています。すなわちそこには何の根拠もないということを喝破することにほかなりません。今から振り返れば、その「否定」の正当性を認めざるを得ません。
「このグノーシス――この覚知――に達する者はだれでも、贖い(アピリュトローシス――文字通りには「解放(*1)」)と呼ばれる秘密の典礼を受けることができる。入会志願者は、グノーシスを獲得する以前には、デーミウールゴスをほんとうの神と誤って礼拝していた。ところが今や、入会志願者は購いの典礼によりデーミウールゴスの力から解放されたことを表明する。彼はこの典礼において、デーミウールゴスに対して独立を宣し、もはやデーミウールゴスの支配する権威と審判の領域にではなく(*2)、それを超越するものに属することを告げるのである。
*1 Irenaeus, AH 1.21.1-4.
*2 Ibid.,
1.13.6.
私は父に――先在の父に由来する子である。……私は先在の父から存在を得、自分が出て来た自分自身の場所に再び来たのである(*)。
* Ibid., 1.21.5. 」(p.87)
今日の世界でも、信徒が自分の属する教会から「独立」するためには、自分自身の「覚知」を必要とするのではないでしょうか。教会はいつまで経っても「教職依存的」であることを要求する場ではないでしょうか。その教会の「権威と審判の領域」に属している限り、キリスト教信徒が個々に自立することは原理的にあり得ないことです。
「この宗教理論が実際に――あるいはむしろ政治的に――意味するところは何であろうか。ヴァレンティノス、あるいは彼によって秘教を伝授された者の一人が、司教は教会を「天において神が統治するように」――支配者、王、審判者、主として統治するというクレメンスの主張に対し、どのように応じたかを考えてみよう。その人は、このような司教におそらくこう答えないだろうか。――「あなたは、神を代表していると主張していますが、実際にはデーミウールゴスだけを代表しているのでありまして、あなたはそれに盲目的に仕え、服従しているのです。しかし私は、彼の権威の領域を超えている。――こうしてこの点では、あなたの領域を超えているのであります」(p.88)。
司教はデーミウールゴス(造物主)の権威に「盲目的」に仕え、服従しているだけであると、著者がここでグノーシス主義者を代弁して言っている言葉は、すべての教会の権威に妥当するものでしょう。プロテスタントも例外ではありません。
「エイレナイオスは司教として、聖職者の権威を脅かす危険性を認識していた。購いの祭儀は、秘教への入会者とデーミウールゴスの関係を劇的に変えると同時に、彼と司教の関係をも変えたのである。それ以前に信者は、「神ご自身に対するごとくに」司教に従うように教えられていた。なぜならば、司教は「神に代わって」統治し、命令し、裁くと教えられていたからである。しかし今や、このような拘束は、デーミウールゴスをいまだに恐れ、かつ彼に仕えているナイーヴな信者にのみ効力があることを、エイレナイオスは感じとっている(*1)。グノーシスは、司教と司祭に仕えることを拒否する、神学的な根拠を与えるものにほかならない。今や入会者は、彼らをデーミウールゴスの名において地上を支配する「支配者にして権力者」として見るのである。グノーシス主義者は、司教がデーミウールゴス同様に、大部分のキリスト教徒――秘教を伝授されていない人々――に対して、合法的な権威を行使していることを認める(*2)。しかし、司教の要求や警告や脅しなどは、デーミウールゴス自身のそれ同様に、もはや「購われた」者を動かすことはできないのである。エイレナイオスはこの祭儀の効果を次のように説明している。
*1 Ibid., 3.15.2.
*2 Ibid., 1.7.4.
彼らは、あらゆる権力を超えた高みに達しており、それゆえに、すべてのことに関して、何をも恐れず、意のままに振舞うことができる、と主張している。なぜなら彼らは、購いのゆえに……審判者によって捕えられることも、感知されることすらあり得ない、と主張しているからである(*)。
* Ibid., 1.13.6. 」(p.88-89)
古代教会に「聖職者の過度の影響力(clericalism)」が生まれてきたまさにそのとき、その権力を超えていると主張するグループが登場しました。ある意味でそれは動・反動の歴史的ダイナミズムの問題であったと言うことができます。
「入会志願者は、自分がグノーシスに導かれることによって、霊的な権威とのまったく新しい関係を獲得するのである。今や彼は、聖職者の位階制が、その権威を「父」からではなく、デーミウールゴスから得ていることを知っている。クレメンスのような司教が信者に、「神を恐れなさい」、あるいは「主を信じると告白しなさい」と命令するとき、あるいはエイレナイオスが、「神は」罪人を「裁くであろう」と警告するとき、グノーシス主義者はこれらのすべてを、デーミウールゴスの権力の、また地上における彼の代表者の、信者を支配しようとする誤った要求の強調として聞くであろう。グノーシス主義者は、デーミウールゴスの「我は神なり、ほかに神なし」という愚かな主張の中に、教会に対して排他的権力を行使しようとする司教たちの要求を聞き得たであろう。「我は妬む神なり」という神の警告の中に、グノーシス主義者は、司教の権威を超える者どもに対する神の嫉妬を認めたかもしれない。これに対して司教エイレナイオスのほうは、人を苛立たせ誘い込むような彼らのやり方を、次のように風刺している。
もし誰かが小さな羊のように彼らに屈し、彼らの礼拝と彼らの購いを最後までやり通すならば。その者は思い上がって、……まるでおんどりのように尊大な態度をとり、気どった足どりで、人を見下すような顔つきで歩くようになる(*)。
* Ibid., 3.15.2. 」(p.89-90)
キリスト教正統派の神を、デーミウールゴスとして相対化したところに、グノーシス主義者のラディカルさがあり、それは必然的に司教制度という教会の位階制の主張への批判を伴うものでした。司教エイレナイオスにそれを容認する度量を求めることは、所詮無理な注文というものでしょう。
「テルトゥリアヌスは、このような傲慢の例として、彼らの教師ヴァレンティノスを挙げ、彼はローマ司教の上位の権威に服することを拒否した、と述べている。それは、何の理由によってであろうか。テルトゥリアヌスによれば、ヴァレンティノスは自ら司教になりたかったのだ、という。ところが、彼ではなくて他の人が選ばれたとき、彼は嫉妬に燃え、野望をくじかれて、教会から離れ、独自の対抗集団を創立した、といわれる(*)。
* Tertullian, Adversus Valentinianos 4.
テルトゥリアヌスの話を信じる学者はほとんどいない。まず第一にそれは、羨望と野望が異端者を真の信仰から逸脱させると主張する異端反駁の典型的図式に従っている。第二に、言うところのこの出来事の二十余年後に、ヴァレンティノスの信奉者たちは、自らを完全な教会員と考えており、彼らを追放しようとする正統派の試みに憤慨し、これに抵抗した(*)。このことは、分裂をひき起こしたのは正統派のいわゆる異端者ではなく、むしろ正統派であったことを示唆している」(p.90)。
* Irenaeus, AH 3.15.2.
路線論争、あるいは分派抗争が生まれて来るのは、どの組織にとっても避け難いことです。それによって歴史の方向が決定されます。このとき教会は重要な岐路に立っていたということができるでしょう。
「にもかかわらずテルトゥリアヌスの話は、たとえそれがほんとうでなくとも――あるいはむしろ、ほんとうでなければなおのこと、――多数のキリスト教徒が異端の危険性の一つと見ていたものを例証している。すなわち、それは聖職者の権威への不服従を奨励していることである。そして、明らかに正統派は正しかった。司教エイレナイオスは、ヴァレンティノスの信奉者たちが、「非合法な集会に」――彼自らが司教として合法と認めていない集会に「参集している(*1)」、とわれわれに語っている。彼らは、この種の集会で聴衆の心に疑念を起こさせようとした。――教会の教えは、ほんとうに自分たちを満足させたか否か(*2)。教会の施行する典礼――洗礼や聖餐――は、キリスト教の信仰の奥義を完全に伝えるものなのか。それとも、それに至るほんの第一歩(*3)に過ぎないのか。こうしたグループの内部のメンバーは、司教と司祭が公に教えたことは初歩的な教義でしかないことを示唆した。彼ら自身はそれ以上のことを――隠された奥義を、より高次の教えを提示すると主張したのである」(p.90-91)。
*1 Ibid.,
3.3.2.
*2 Ibid.,
3.15.2
*3 Ibid.,
1.21.1-2.
今でも教会の中で、牧師や役員会の承認を経ないで、非公式の集会を持ち、しかもそれが教会の教義に疑問を抱かせ、より深い真理と称する事柄を議論するためのものであったら、その集会に嫌疑がかけられるばかりでなく、そんな集まりを持つことが禁じられてしまわないでしょうか。多くの人は、キリスト者でなくても、それは当たり前のことだと思うでしょう。それは明らかに教会の「目的」に反しているからです。それではこの日本という国の中で、たとえば学校教育に関して、政府が定めた学習指導要領や、教科書の検定基準や、教育委員会が指導する入学式・卒業式・周年行事などの式典の守り方(国歌斉唱時の起立、国旗の掲げ方、教職員・生徒・参列者の座席の位置など)に疑問を呈し、反対する教員がいたら、それは公務員たる教員の当然の義務に反すると見なされるべきでしょうか。ここに挙げた二つの例は、一見したところ、関係のないことを並べているように思われるかも知れません。しかし、両者に共通しているのは、その内容の適否を問題にすることは許されず、とにかく「上」が定めたことには文句を言わずに従うべきであるとする、権威主義です。教会であれば、特に今日の社会では、それに従えないなら、行かなければいいだけのことですが、公教育、義務教育となるとそうは行きません。なお、学校と教会との比較をさらに進めれば、学習指導要領が「教理体系(教義学)」や「教理教育(カテキズム)」に当たり、教科書の検定基準は聖書という「正典」の決定、また学校での式典の守り方や座席の位置は、礼拝の執行順序や礼拝堂内部の配置に当たります。
「このような論争は、教会指導の初期の多様な形態が教職の統一した位階制に道を譲ったまさにその時期に起こったのである(*)。この時期にはじめて、若干のキリスト教会は、司教・司祭・助祭・平信徒から成る従属的「位階」の厳格な秩序に組織化された。多くの教会では、司教がはじめて「独裁者(モナーク)」(文字通りには「唯一の支配者」)として登場しつつあった。彼は、自分が「平信徒」と呼んだ人々に対する厳格な規律励行者ならびに審判者として行動する権力を、ますます要求した。いくつかのグノーシス主義運動は、この成りゆきに抵抗を示すことができたのであろうか。グノーシス主義者は、教会の位階制の発展に反対する批判者のなかに自らも名を連ねることができたのであろうか。ナグ・ハマディ出土の証典は、彼らがそうしたことを示唆している。われわれはすでに、『ペテロの黙示録』の著者がいかに教職者の主張を揶揄しているかを見た。
* この過程に関する詳細については、Campenhausen, Ecclesiastical Authority and Spiritual Power, 76 ff. 参照。
……われらのメンバー以外の……他の人々は、あたかも彼らの権威を神から授かったかのように、司教とか司祭とかと自称している。……このような人々は、水のない運河のようなものである(*)。
* ペテロの黙示録七九・二二〜三二(NHL 343)。 」(p.91-92)。
再び学校のことを引合いに出すなら、今日、日本の公教育の世界で、校長・副校長・主任など、教職員の「位階制」を強化し、教職員会議で多数決によって物事を決める意思決定の方法を忌避し、代わって校長の裁量権を強める動きが顕在化しています。それはいわば校長を「司教職」に見立てるようなもので、それによって、校長を「神の代理人」ならぬ「国家の代理人」とするという思惑が透けて見えるのではないでしょうか。教育現場で、そのような意思決定の方法が望ましいか否かという判断は、初めから顧慮されていないと言うべきです。ここにも、日本の戦後教育の曲がり角が見られるのではないかと危惧されます。教会の歴史も、この位階制の確立によって大きく方向づけられることになります。学校管理者イコール教育者ではないように、司教、司祭は、必ずしも望ましい宗教者ではないという事態(「水のない運河」!)が、これ以降発生してきます。
「ヴァレンティノスの一人の信奉者によって書かれた『三部の教え』では、グノーシス派の人々、「父の子ら」と、秘教を伝授されていない人々、デーミウールゴスの子孫とを対比させている(*1)。彼によれば、父の子らは、おたがいに平等の人間として相集まり、相互に愛し合い、自発的に助け合っている。しかし、デーミウールゴスの子孫――普通のキリスト教徒――は、「虚しい野望を持って、相互に命令し合い、たがいに打ち勝とうと欲している」。彼らは「権勢欲」に充ち、「各自が他者より優れていると夢想している」のである(*2)」(p.92)。
*1 三部の教え六九・七〜一〇(MHL 64)、七〇・二一〜二九(MHL 65)、七二・一六〜一九(MHL 66)。
*2 同七九・二〇〜三二(MHL 69)。
いつの世にも善良なキリスト教徒がいたということを否定することはできません。だから位階制の確立がすなわち教会の堕落であると即断することは慎むべきです。また弾圧下の状況では、司教制度の方が敵とよく闘うことができるということもあり得ます。しかし、正統的な教義にこそキリスト教の生命線があると固く信じるのではない限り、グノーシス主義者の言い分にはそれなりの正当性があることも認めるべきではないでしょうか。教会は永く、自己の教義にこそ譲ることのできない真理があると、その「正統性」を主張し、異端を弾圧してきました。今日の教会も、大多数はその正統派の「子孫」であって、依然としてその教義に固執していますし、また、その組織も「位階的」ないしは教職中心的であることに変わりはありません。しかしその教会が今日行き詰まっていることを認めるのなら、これまで異端とされてきた人々の主張に耳を傾けることも必要ではないでしょうか。私は既に「プッツン」してしまっていて、忍耐強く正統派の教会とお付き合いする気持をなくしています。まるで往時のグノーシス主義者のような心境でいます。誰かが「すぐ脇から見るキリスト教」と言っていましたが、そんな感じで、これからもキリスト教批判の「仕事」を続けていきたいと思います。
この本の紹介の作業はまだ後半を残しています。続きは暫くしてからこのホームページに掲載することになるでしょう。
「グノーシス派のキリスト教徒が教会の位階制の発展を批判したとすれば、彼ら自身はどのように社会的組織を形成することができたのであろうか。彼らがすべては平等と主張して、位階の原理を拒否したとすれば、彼らはいったいどのようにして集会を保持することができたのであろうか。エイレナイオスは、自ら司牧するリオンの教区から得た、一つのグループの礼拝について述べているが、それはヴァレンティノスの弟子マルコスによって指導されたグループの礼拝である(*1)。このグループのすべてのメンバーは、秘教の伝授を受けていた。つまり各人は、デーミウールゴスの権力から「解放」されていた。それゆえに、彼らはあえて、デーミウールゴスの代弁者とみなしていた司教――エイレナイオス自身――の権威なしに会合していた。第二に、すべての入会者は、入会の儀礼によって、聖霊による直接的霊感というカリスマ的賜物を得たと考えられていた(*2)」(p.92)。
*1 Irenaeus, AH 1.13.1-6.
*2 Ibid., 1.13.3.
正統的教会の内部(教区内)に、司教の権威の承認を経ない秘教的グループが生れて来たということは、「体制派」にとって極めて苦々しい事態であったろうと思われます。
「この「プネウマティコイ」(文字通りには「霊的な人々」)の集団のメンバーは、どのように彼らの集会を催したのであろうか。エイレナイオスが語るところによれば、彼らが会合するときは、すべてのメンバーはまずくじ引きに参加したという(*)。明らかにあるくじを引いた者は、司祭の役を演ずるように指名され、他の者は、司教として聖礼典を執行するように指名され、他の者は、礼拝のために聖書を朗読し、他の者は、預言者として説教を行ない、即席の霊的な教訓を与えるのが常であった。このグループがまた集まったときには、再びくじを引き、それぞれの役割を担う人々が常に交替していった」(p.92-93)。
* Ibid., 1.13.4. くじ引き(kleros)に関する学術的論述については、Pagels, “The Demiurge and his Archons,” 316-318 参照。エイレナイオスはこれを否定しようとする(AH 1.13.4.)。このようなくじ引きの使用については、さいを投げることによって神がその選出の意志を表わすと考えられた古代イスラエルにおいても、イスカリオテのユダに代わる十二番目の使徒をくじ引きによって選んだ使徒たち自身の間においても(行伝一・一七〜二〇)、その先例が見いだされる。明らかに、ヴァレンティノスの信奉者たちは、使徒たちの例に従おうとしたのである。
役職をくじで決めるという方法は、今日の世界でも、一部の社会運動が採用しています。役職の固定化、人々の間の階層化が生じるのを防ぐ一つの方法です。
「このような慣行は、きわめて異なった権威構造を効果的に創り出した。正統派のキリスト教徒が、ますます聖職者と平信徒の分け隔てをしていった時代に、このグノーシス派のキリスト教徒は、彼らの間では、このような区分を認めることを拒否した。彼らは、自分たちのメンバーを階層性の枠内で優劣の「秩序」のなかに格づける代わりに、厳格な平等の原則に従っていた。すべての入会者は、男女を問わず、平等にくじ引きに参与し、いかなる者にも、選ばれて、司教、司祭、助祭としての役を担う可能性があった。さらに、彼らが会合のたびにくじを引いたので、くじによって決められた区別さえも、けっして恒久的な「位階」にはなり得なかったのである。最後に――これはもっとも重要なことだが――、彼らはこの慣行を通して意図的に人間の選択という要素を除去したのである。二十世紀の観察者は、グノーシス主義者はこれらのことを手あたり次第の偶然にまかせていると思うかもしれないが、グノーシス主義者は異なった見方をしていた。彼らは、神が宇宙における一切を指図しているのだから、くじの結果は神の選択を示す、と信じていたのである」(p.93)。
古代世界に聖職者と平信徒の区別を原理的に認めない運動が存在したということは、驚くべきことです。彼らは既に平等の意義に目覚めていました。
「このような慣行に促されて、テルトゥリアヌスは「異端者たちの振舞い」を攻撃したのである。
なんと軽率で、なんと世俗的で、なんと人為的なことか。真剣さがなく、権威がなく、規律がない。彼らの信仰には、まことにふさわしいことだ。まず第一に、誰が求道者であるのか、誰が信者であるのか、不明である。彼らはすべて平等に機会を持ち、平等に聴き、平等に祈るのだ。――異教徒たちさえも、たまたま出席すれば、そうである。……彼らはまた、出席者すべてと平和の接吻を交わす。彼らが共に集まり、唯一の真理の砦(とりで)に突入するならば、彼らは、論題をいかに異なった仕方で扱うかということを問題にしないからである。……彼らのすべては傲慢で、……すべてが、あなたがたにグノーシスを提示する!(*)
* Tertullian, DE PRAESOR. 41. 強調〔下線〕著者。
平等の機会、平等の参加、そして知識に対する平等の要求、こうした原則は、確かにテルトゥリアヌスに印象を与えた。しかし彼はこれを、異端者が「規律をくつがえす」証拠ととった。彼の見解では、規律を適切に保持するためには、教会員の間にある程度の区別が必要なのである。テルトゥリアヌスは、とくに、男性と権威の地位を共有した、「異端者のなかの女性」の参与に抗議した。――「彼女たちは教えをなし、論議に加わり、悪魔祓いを行ない、治療行為をしている(*)」。――テルトゥリアヌスは、彼女たちが洗礼さえも授けているのではないかと疑っている。それは、彼女たちが司教としても行動していること意味したのである」(p.93-94)。
* Ibid., 41.
すべての差別(discrimination)は区別(distinction)から始まります。グノーシス主義者の「覚知」は、この区別をも超脱するようなものであったに違いありません。
「テルトゥリアヌスは次のような事実にも反対した。
彼らの叙階式は、不注意に執行され、気まぐれで、変わりやすい。あるときは、彼らは初心者を聖職につかせ、またあるときには、世俗的な仕事についている者どもを聖職につかせている。……この反逆差の集まりほど、昇進のたやすいところはなく、そこに存在するという事実さえあれば、そこに第一の務めがあるということだ。こうして、今日はある者が、明日は別の者が司教である。今日助祭である者が、明日聖書朗読者であり、今日聖職者である者が、明日平信徒である。彼らは平信徒にさえも司教の役割を与えるからである(*)。
* Ibid., 41.
この注目すべき文言は、テルトゥリアヌスが、教会の秩序にとっていかなる区別を必須と考えていたかを明らかにしている。――新参のキリスト教徒と経験豊かなキリスト教徒、女性と男性、専門の聖職者と世俗的な仕事に携わっている者、聖書朗読者、助祭、司祭、司教、とりわけ聖職者と平信徒の区別がそれである。これに対して、ヴァレンティノス派のキリスト教徒は、参与する者すべての平等を保証する慣行に従っていた。彼らの組織は、位階制を形成することも、聖職者の固定した「秩序」も是認しなかった。各人の役割が毎日変わるので、目立った人々に対して羨望する機会も最小限にとどめられた」(p.94-95)。
いかなる原理に従うかということと、いかなる組織が形成されるかということとは、切り離して論ずることはできません。正統派の従う原理は、既に秩序づけられた世界を合法化するものであって、人々にその秩序の中に留まるように促し、さとすものでした。つまり教会の位階制という秩序に人々が服することを、神の名によって命ずるものでした。
「自分の役割を伝統的なローマの用語で、教会の統治者、教師、審判者と定義していた司教は、このようなグノーシス派の批判にどのように対応しなければならなかったのであろうか。エイレナイオスは、自分が司教として、二重の義務を負う状態に置かれていると見た。彼の司牧する教会員の若干は、彼の権限を無視して、秘密の会合を持っていた。エイレナイオスが「魔術のぺてん師(*1)」と嘲笑した、自任指導者マルコスは、彼らに秘密の聖礼典を伝授し、彼らをして司教の道徳上の警告を無視するように勧めていたのである。エイレナイオスによれば、彼らは、彼の命令に反して、偶像に献げられた肉を実際に食べ、異教の祭儀に自由に参加し、かつ、性的禁欲と一夫一婦制に関する彼の厳しい警告を犯していたのである(*2)。エイレナイオスがもっとも苦々しく思ったことは、彼らが後悔することも、司教に公然と反抗することもしないで、彼の抗議に対して、悪魔のように小賢しい神学的論拠をもって応酬したことである。
*1 Irenaeus, AH 1.13.1.
*2 Ibid., 1.6.2-3.
彼らは(われわれを)、「霊的ならざる人々」、「凡庸な人々」、「教会人」と呼んでいる。……われわれが彼らの怪奇な主張を受けいれないゆえに、彼らは、われわれが第七の天/ヘプドマス(低位の領域)に住み続け、あたかも己の精神を高きにあるものに引き上げることも、上にあるものを理解することもできないかのように言う(*)。
* Ibid., 引用は 3.15.2 と 2.16.14 の合成。
エイレナイオスは彼らの主張、つまり彼らは霊的であって、彼がデーミウールゴスのたんなる僕(しもべ)として無知にも彼らに押しつけようとしていた倫理的拘束から解放されているという、彼らの主張に憤慨したのである(*)」(p.95-96)。
* Ibid., 3.15.2.
霊的に「解放」されていると主張する人々が、自分たちは通常の道徳的規範からも自由であると見なすとき、そこには次の二つの側面があることを指摘すべきでしょう。第一に、あのイエスの「律法違反」のように、そこに律法遵守主義がいつしか陥ってしまっている非人間的な倒錯、抑圧的な機制を暴き出すという積極的な意義があると認めること、第二には、霊的に「解放」されていると称して、実際に道徳的放縦に走るという消極的な面があるということの二面です。しかし後者には、あの「イエスの方舟」のように、マスコミや世間が勝手に「妄想」し、その人たちへの自分たちの偏見を押しつけるという、誤解に基づく批判も入り込んできます。いずれにしても、宗教と道徳との関係には、単純に即断できない問題があります。エイレナイオスは、司教として、宗教と道徳の問題を権威主義的に解決しようとする点で、いかにも「カトリック的」です。
「これらの自己流の神学者たちに対して、エイレナイオスは教会を守るために、自分が神学上の武器を造り出さなければならないことに気づいた。彼は、「創造主とは異なる神」という異端の教えを覆すことができるならば、――彼らのいわゆる神学的根拠に基づいて――「一つなるカトリック教会」とその司教との権威を無視したり、あるいはそれに挑戦するような可能性を論破することができると信じた。エイレナイオスは、彼の反対者たちと同様に、神の権威機構と教会における人間の権威との間に相関性があるのは当然のことと思ったのである。神が唯一であるならば、真の教会はただ一つしか存在せず、共同体における神の代理人はただ一人――司教でしかあり得ない」(p.96-97)。
私もキリスト者として永く「教会は一つ」でなければならないという観念に縛られてきました。そこにこそ、エキュメニズム(世界教会主義)の基本的な指導理念があると考えて来ました。しかし教会が教派として様々に分肢するのは、一つはリチャード・ニーバーが言う社会的源泉(social sources)の然らしめるところであり、また一つには、人間が抱く思想の多様性のためでもあります(この二つには、この本の著者が言う神観と教会組織との間の相関性のような、対応関係があると思われます)。従って神観念といえども、人々に統一的な理解を求めるのは無理というものです。それを上から統一しようとするのは権威主義であって、そこには政治的な意図が働いています。「多様性における一致」という言葉があります。それが意味するところは、「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ)という形で、お互いの違いを認め合うことにこそ一致を見出すということでしょう。だから権威を振りかざして人々の一致を求め、それを正義の名によって強制することは慎むべきです。正統主義とは、人間社会の現実的多様性を捨象する、そのような一致の強制のことではないでしょうか。繰り返せば、そこには無理があります。
「それゆえにエイレナイオスは、正統的キリスト教徒は、何にもまして、神が一なる者――創造神、父、主、審判者――であることを信じなければならない、と宣言した。彼は、この唯一なる神こそカトリック教会を設立し、そのなかで「道徳的規律を守る人々と共に司る(*)」者である、と警告した。しかしながら彼は、グノーシス主義者と神学論争をすることはむずかしいと見た。彼らは、彼の言うことすべてに同意すると主張しているが、彼の言葉をある霊的ならざる者から出ているとして、密かにそれを割引して考えていることを、彼は知っていたのである。そこで彼は、自分の論文を、審判に訴えるおごそかな呼びかけで結ばずにはおれない気持になったのである。
* Ibid., 3.25.1.
神を礼拝するすべての人々は、ヴァレンティノス派や、いわゆる「グノーシス派」と不当にも呼ばれているすべての輩(やから)の(する)ように、……創造神を冒涜する者どもを、サタンの手先と呼ぼうではないか。サタンは今でも……彼らの手先を通じて、神に背く発言をしている。この神は、いかなる種類の背教に対しても、永遠の火を用意され給う(*)。 」(p.97)
* Ibid., 5.26.1.
この正統派の神観念がその後の教会の神学を永く規定してきたと言えるでしょう。無理を権威主義的に通そうとすれば、必ず様々な形で異端が生じてくることになります。だから正統と異端の対立がその後の教会史を彩ることになります。今日の我々としては、正統の立場に立つか否かが問題なのではなく、その正統と異端の対立の歴史の中にこそ、宗教的あるいは思想的意義を探るべきではないかと思われます。
「しかしこの争いは、カリスマ的霊感を主張し、司教と司祭から成る、組織化された、霊なき位階制に反対する平信徒だけに関わるものと考えるのは、誤りであろう。エイレナイオスは、むしろその反対を示しているのである。グノーシスの教えを宣伝するかどで彼が非難した多くの者は、彼ら自身、教会位階制の著名なメンバーであった。一つの場合、エイレナイオスはローマ司教ウィクトルに書き送り、グノーシス派の文書が彼の教区に流布している、と警告している(*1)。彼がこれらの文書をとくに危険と考えたのは、その著者フロリヌスが司祭である特権を主張していたからである。しかし、エイレナイオスはウィクトルに、この司祭は隠れグノーシス入会者であると警告している。エイレナイオスは、彼自らの教区に警告した。――「多くの者が司祭と信じている人々のなかに……至高の神に対する恐れの念を心に抱かない者がおり、……彼らは共同体における彼らの高い地位を誇っている」。彼によれば、このような者どもは隠れグノーシス主義者であり、「『だれもわれわれを見ていない』と言っては、密かに悪事をなしている(*2)」。エイレナイオスが明らかにしていることは、彼が、外見上は正統派キリスト教徒のように振舞いながら、密かにグノーシス派のサークルのメンバーである者たちを、摘発することであった」(p.97-98)。
*1 Irenaeus, Ad Florinum, in Eusebius, Historia ecclesiae 5.20.4-8.
*2 Irenaeus, AH 4.26.3. 強調〔下線〕著者。/なおこの参照文献でAHとあるのはすべて Irenaeus, Libros Quinque Adversus Haereses のことです(閑老人)。
教会史において異端的運動が生まれて来るとき、それは単に民衆(信徒)の側にだけ見られるものではなく、教会の体制(位階制)の上層部にも浸透して来るということが問題となります。正統派にとって、それはまさに死活の問題です。
「普通のキリスト教徒は、どのようにして真の司祭と偽の司祭との相違を識別することができたのであろうか。エイレナイオスは、正統的信者は使徒継承の系列に従うであろうと宣言している。
教会にいる聖職者たち――すなわち、……使徒たちに由来する継承を保有する人たち――に服従すべきである。なぜなら彼らは、司教の継承権と同時に、真理の確かな賜物を授かっているからである(*)。
* Ibid., 4.26.2.
異端者は通常の伝承から離れ、司祭の許可なしに会合している、と彼は説明している。
原初の継承から離れ、場所を選ばずに会合する者どもを疑う必要がある。これらの者どもを、異端者として、……あるいは分離者として、……あるいは偽善者として、認識しなければならない。彼らはすべて、真理から脱落したものである(*)。
* Ibid., 4.26.2. 」(p.98-99)。
正統性とは「使徒継承の系列」のことであり、ペテロ以来の「司教の継承権」のうちに、またそこにだけ「真理の確かな賜物」があると主張されています。今日に続くカトリック教会の正統性の主張の「根拠」がここにあります。その司教(司祭)の権威を無視して、すなわち、その「許認可」権を無視して会合する者は、異端者、分離者、偽善者であると見なされます。教会は司教によって「統治」されるべきものであるとされます。
「エイレナイオスは、自ら司教としておごそかに審判を下す。グノーシス主義者は、二つの伝承の源を、一つは公のもの、もう一つは秘密のものを有すると主張している。エイレナイオスは、二つの伝承の源があるという点では、皮肉を込めて彼らに合意するが、神が唯一であるように、それらのうちの一方のみが――すなわち、教会がキリストと彼の選んだ使徒たちを介して、とりわけペテロを介して受けたもののみが、神に由来する、と言明する。もう一つのほうはサタンから出ており、ペテロの大敵であるグノーシス派の教師、マゴス(文字通りには「魔術師」)・シモンにさかのぼる。彼は、使徒の霊力を買収しようとして、ペテロの呪いを受けたのであった(行伝八・九〜二四参照)。ペテロが真の継承の長(おさ)であるように、シモンは異端者の、悪魔の息のかかった、偽りの継承の粋なのである。つまり彼は、「すべての異端の父」である。
いかなる仕方でも真理を汚し、教会の教えを損なうすべての者は、サマリアの魔術師シモンの弟子であり、後継者である。……実際彼らは、イエス・キリストの名前を一種のおとりとして口に出すが、多くの仕方でシモンの不敬虔を導入し、……背教者の太祖、大蛇(悪魔/サタン)の悪意に充ちた苦い毒を、聞き手の間に撒き散らしている(*) 」(p.99)。
* Ibid., 1.27.4.
正統と異端、あるいは正邪の二元論がここに成立します。対権力の関係において、国民と非国民とが析出されて来るように、正統の嫡子と、異端の継承者とが、明確に二分されてきます。権力に帰順することが、「正統的信仰」の名によって合法化されます。それに従わない者はサタンの手先であるとして断罪されます。
「最後に彼は警告する。――「正統派と思われている人たちのなかには(*1)」、来るべき審判の日に大いなる恐れを抱かなければならない者がいる。それを避けるためには(そしてこれこそが、彼が実際に強調しようとする主要点であるが)、今、悔い改め、「異なる神」の教えを拒絶し、そして司教の教えに従い、司教が永遠の呪いから彼らを解き放すために施す「順備訓練(*2)」を受けなければならない」(p.100)。
*1 Ibid., 531.1.
*2 Ibid., 535.2.
再び、今日の日本の公教育の現状に引き当てて言えば、東京都教育委員会が、国歌斉唱時に不起立の立場を貫いたり、君が代の伴奏を拒否したりする教員を、不適格者として処分し、そういう教員には「研修」(準備訓練!)を受け、反省文を書くことを要求するというようなことが、権力の支配を貫徹するために必要とされるということでしょう。その場合には、国旗国歌法と学習指導要領(および「改正教育基本法」)が「教義」の役割を果たしています。その結果、教育は時の権力の意向と切り離せないものとなります。
「エイレナイオスの宗教的な確信は、政治的意図の偽装にすぎないのであろうか。あるいはその逆に、彼の政治は、その宗教的信念に従属していたのであろう。このいずれの解釈も、状況を単純化しすぎている。エイレナイオスの宗教的確信と彼の政治的立場は、――グノーシス派の反対者の場合と同様に――それぞれがおたがいに影響し合っていたのである。若干のグノーシス主義者が教会の位階制の発展に反対したとしても、われわれはグノーシス主義を、その発展の反動として起こった一つの政治的運動に帰する必要はないのである。ヴァレンティノスの信奉者たちは、神の本質に関する宗教的ヴィジョンを共有しており、その結果彼らは、カトリック教会に現われつつあった司教と司祭の支配とは両立しがたいと考え、こうしてそれに抵抗したのであった。それとは逆に、エイレナイオスの宗教的確信は、彼が擁護した教会構造と一致していたのである」(p.100)。
どういう教育観を持つかということと、どういう学校教育のあり方を望ましいと考えるかということとが互に切り離せないように、どういう神観を持つかということと、どういう教会構造を望ましいと考えるかということとは、相互に影響し合っていると著者は強調しています。権威を立てて「上意下達」の教会構造を樹立することが、正統派が抱く信仰の帰結であったとすれば、グノーシス派の信仰は、そのような神観とは両立し難いものであったいうことでしょう。そこから異なる教会構造が生れてきます。
「このようなケースは、けっして珍しいことではないのである。なぜならわれわれは、キリスト教史全体を通じて、いかに神の本質に関するさまざまの考え方が不可避的に異なった政治的含みを有していたかを見ることができるからである。一三〇〇年年以上も後、マルティン・ルターは、彼自らの宗教的経験と神についての考え方の変化に促されて、カトリック教会における彼の上司たちによって保証されていた慣行に反対せざるを得ない気持になり、最終的には、教会の教皇と聖職制を拒否するに至ったのであった。クウェーカー運動を起こしたラディカルな幻視者ジョージ・フォックスは、「内なる光」との出会いに感動して、ピューリタンの――法律的、政治的、および宗教的――権威構造のすべてを弾劾したのである。パウル・ティリッヒは、プロテスタントとカトリック両教会を、国家主義的・ファシスト的政府と並べて批判した際に、「神の彼岸にいます神」の教理を表明したのである」(p.100-101)。
現代における神観のゆらぎは、不可避的にいかなる社会構造を望ましいと考えるかという、「政治的含み」を伴っています。復古主義的な国家観が強調されるこの時代に、ひたすら正統主義的信仰に依り頼もうとするだけで、果たしてこの難局を切り抜けることができるのでしょうか。むしろその二つとも乗り越えることが求められているのではないでしょうか。著者はそのことを示唆しているように思われます。
「キリストの身体の復活が聖職者の権威の最初の骨組みを築いたように、「唯一の神」の教義は、正統派のキリスト教徒に対して、「唯一の司教」を教会の独裁者/モナーク(「単独支配者」)とする、当時成立しつつあった組織を強化することになった。とすれば、われわれが次に、神に関する正統派の記述(たとえば、「全能の父」)が、司祭と司教の権力に包摂される者――および彼らの権力への参与から排除される者――を決定するのに役立っている事実を見いだしても、驚くに値しないであろう」(p.101)。
教会を原理論(教義学)・組織論(教会論)・運動論(戦略論)の展開として見ようとするとき、今日には今日の教会論(運動論)があって然るべきでしょう。教会は「絶えず改革されるべき教会(ecclesia semper reformanda)」として、時代の挑戦に立ち向かわなくてはならない存在です。その運動にこそ教会の生命があると言ってもよいでしょう。神観をも含めた深刻な挑戦に面して、ひたすら特定の伝統を墨守することも、当事者にとっては真剣な課題であると言えます。しかし今日ではそれは他者との連帯を棄却した孤立主義を招くものでしかありません。原理論(教義学)の大胆な問い直しがなければ、教会は過去の遺物として、博物館行きの運命を辿ることになるでしょう。教会は国家主義者と同根の権威主義によって成り立ってきたのだということを自覚することが、今日の教会にとって欠かすことのできない変革の視点を提供します。「唯一にして全能の神」がこれからも教会と人類を導くのだと考える人たちも相変わらず存在しています。しかし、その時代はもう終わってしまったと考えるところに、新しい教会の出発点、出直しの起点が置かれているのではないでしょうか。聖職者と平信徒、男と女、正統と異端等々の区別が、これまでの教会の秩序を形成してきたのだとすれば、将来あるべき教会の形は、あのグノーシス主義者たちが予見したように、それらの区別を全く取り払ってしまったところに見出されると言えるかも知れません。しかし新しい教会は、まだ十分にその姿を現わしてはいません。場合によっては、教会は、特にこの日本で、ただ消えてゆく運命にあるのかも知れません。既成教会には何のヴィジョン(幻視!)も見られないからです。
エレーヌ・ペイゲルスの本の紹介はこれで終わります。
無教会の旧約聖書学者、関根正雄は、無教会の「無」を「無信仰の信仰」の「無(信仰)」というところまで、いわば原理的に問いつめた人でした。その思想の根底に「無なる神」、「神は無である」という大胆な着想があります。それがどこまで徹底されたかは別として、西田、田辺の無の思想を継承して、自己の「無信仰の信仰」の立場を考え抜こうとした点で、日本のキリスト教史に異彩を放っています。ここでは、その関根の思想が吐露されている、遺著とも言うべき『聖書の信仰と思想 全聖書思想史概説』(教文館、1996年)の一節を取り上げ、私の今後の課題につなげてゆきたいと思います。以下引用する箇所は、「第一章 族長とモーセ」の後半部分(p41-73)に当たります。なおこの問題に関連して、関根が最後にパウロについて述べていることを、その後で取り上げます。
「ヤハヴェという名前はモーセ時代に初めて知られました。それ以前は「誰々の神」という族長の名前についた、つまり固有名詞につけられた神であって、その他にエールというのが族長時代に出てきまして、創世記一四章などに「エール・エルヨーン」(一八節の「いと高き神」)というものが出て参ります。その「エール」がメルネプタ石柱で「イスラエール」として初めて出てくるのです。実際「エール」という名前は古いだろうということが分かるのですが、しかし、元来の本当の族長の神の名前は旧約聖書の中に残っている「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」といった名称の付け方です。これは有名なアルト先生が書いた“Gott der Vater”(『族長の神』)という本がありまして、その中でアルトが提唱しているのです。しかし歴史がだんだん進みまして、モーセ時代になりますと、先程から申しておりますように、ラメセス二世が関わって参ります。あるいはその次のメルネプタ王が関わってきて、どちらの王様かは必ずしもよく分かりませんが、とにかくその時代にモーセを中心とするエジプト脱出ということが起こったことは大体可能な歴史的事実であります」。
イスラエルの神が、当初は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という「族長の神」であったということ、しかもこれらの族長たちの間には聖書に書いてあるような親子関係が認められないとされていることから、イスラエルが初めから一神教を信じる民ではなかったということが推測されます。
「しかし、エジプト脱出の本質は何か、という問題になりますといろいろ争われているのです。聖書が書いているように、いじめられて逃亡したのか、そういう意味での脱出なのか、それともエジプト人が追放したのか、あるいはエジプトからの解放という言葉を使ったりします。出エジプトの中心について逃亡なのか、解放、または追放なのか、といろいろ言われておりますが、それは大した問題ではありません。いずれにしても、かなりはっきりした歴史的事実として族長たちの子孫のかなり大きな群が、と言ってもそれ程大きな群ではなく、とにかくモーセの時にヨセフ族の脱出が始まって、その脱出の中心にモーセという者がいて、それがわれわれが第一章の後半の主題として扱うことになる、モーセであります」。
ここからモーセが取り上げられることになります。
「このモーセがそういう意味で出てくるのですが、モーセについて最小限度知っておくべきことは、先程もちょっと触れました「新しい神」――全く新しいとは言えないですが――新しい神が、ある意味では族長の神として、しかし、またある意味では新しい神として出てくることになります。それが有名なモーセの召命と関わることであり、先の資料の問題とも関わります。出エジプト記三章のエロヒム資料によって、モーセの神と先祖の神との関わりがつくのですが、とにかく新しい神として出て参ります。この三章のエロヒム資料のところで、一番重要な箇所だけ見ますと、「モーセの召命」と新共同訳聖書で纏めてありますが、細かく読むことは時間がありませんので略します。また、柴の燃えているのを見に行くという問題についてもいろいろ言うことがありますが、これも略しましょう。ただ中心的な事として、ここで出て参ります神の名前というか、神の本質に関わることだけを申しますと、三章一五節ですが、その前にモーセが、自分が新しく神に出会い、その神がエジプトからイスラエル人を連れ出せと言われたことが一〇節に書いてあります。それに対してモーセが、イスラエルの人たちに、そう言われたことを伝えた場合、その神の名を人々が聞くだろう。その時何と答えたらよいのか、と神にたずねる場面が一〇節以降続きまして、十四節に「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだ」とあります。ここで「わたしはあるという者」と訳してありますが詳しくは「わたしはありてある者」(エフエ・アシェル・エフエ)という言い方で、モーセ時代の神の問題として、問題が始まるわけです」。
神は三章一五節で、「神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である」」と言われます。関根が「ある意味では族長の神として、しかし、またある意味では新しい神として」と言っているのは、この節があるためです。しかし一四節で、モーセを召命した神が、「わたしはあってある者」と言われているのは、確かに面白いところです。神は「あってある者」として、すべての「あらしめられてある者」の根拠であると理解することも可能だからです。
「この「エフエ・アシェル・エフエ」は一人称でありまして、直訳すれば「わたしは在らんとして在るものである」というような意味になります。しかし、そもそも「在らんとして在るもの」とは何を意味するのか、いろいろ言われますが、私はそう難しいことをここでは言わないで「何時も共に在るもの」という解釈を一応申し上げておきます。「エフエ」というのは一人称の「わたしはあるだろう」という動詞の未来完了形ですが、この未来完了形の一人称が「エフエ」、三人称が恐らく「ヤハヴェ」となるのです。ヘブライ語の詳しいことは略します。ですから「エフエ・アシェル・エフエ」の「エフエ」(一人称)を三人称にして、「ヤハヴェ」という名前――「主」と訳してありますけれども――がモーセの時に新しく知られた神の名前なのです。これは三章のエロヒム資料の場合です」。
有賀鐵太郎の、神は「成って成る者」であるという、ハヤトロジーの思想は有名ですが、関根はここで「そう難しいことをここでは言わないで「何時も共に在るもの」という解釈」を提示しています。なおヤハヴェは、以前はエホバと発音されていましたが、もともと母音のないヘブライ語の発音の問題であり、永年人々が畏れてその方の名を口にしない間に、どう発音してよいかわからなくなってしまったということのようです。しかし「エフエ」の三人称の「ヤハヴェ」であるというのが、今日の通説のようです。
「それに対しまして、ついでに六章の方について申し上げてしまいますと、ここでも同様な問題が出てくるのですが、二〜三節で「神はモーセに仰せになった。『わたしはヤハヴェである。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現われたが、ヤハヴェというわたしの名を知らせなかった。云々』」という面白いことが書いてあるのです。ここで、このアブラハム、イサク、ヤコブを引き合いに出している点は、三章と同じなのですが、三章では、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神がそのままヤハヴェとして出てきた、ということ、それだけです。ところが六章の方では「私は元来、族長アブラハム、イサク、ヤコブには『全能の神』として現われた」、というのは創世記一七章にちゃんと出ております。それこそ資料の問題に関わってくるのですが、創世記一七章は出エジプト記六章と相応じておりまして、出エジプト記六章は創世記一七章を前提として書いていることになります。それは、創世記一七章一節に「わたしは全能の神である」とありますが、ここで祭司資料は族長の神に「全能の神」というはっきりした名前をつけているわけです。それを受けて、出エジプト記六章では「わたしはヤハヴェである。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現われたが、ヤハヴェというわたしの名を知らせなかった」と書いてあるのです」。
もともと講義の筆記であるため、文章がすっきりしません。しかし言おうとするところは分かります。祭司資料に「全能の神」の思想があり、それが持ち込まれているということが言われています。創世記、出エジプト記など、一つにまとまった文書に、エロヒム資料、祭司資料など、複数の資料が存在し、それらの編集の層が見出されるということは、歴史学(文献学)の偉大な発見であって、その成果は聖書に対する素朴な信仰を突き崩すことになります。それまでは機能していた聖書に基づく神についての統一的な言辞が崩され、それぞれの資料の思想として分解されてしまうからです。つまり、イスラエルの民は初めから「全能の神」を信じていたわけではないということが判明します。
「こういうところでも、エロヒム資料と祭司資料とは、はっきり理論的に立場が違っていることが分かります。出エジプト記の方で、結論的にいえば、三章と六章の両方でモーセの時に、ヤハヴェという名前がモーセに知らされた、ということになります。モーセの時に、モーセに新しい神がヤハヴェとして現われた、ということはエロヒム資料と祭司資料とに共通していますが、祭司資料の方が、より厳密に族長時代との関わりをつけていることが伺えるのです」。
族長時代からの神信仰の一貫性を主張する点で、祭司資料の方が徹底しているということでしょう。そのようにして、イスラエルが初めから一なる神に導かれてきたという信仰が成立します。しかし新しい神がモーセに現われたということを否定することはできません。繰り返せば、祭司資料はそれを族長時代からの一貫性のある物語に仕上げたのです。
「ここで、マックス・ウェーバーは、モーセに現われたヤハヴェという神は、全く新しい神だ、族長の神とは関係のない、新しい神だ、ということを強調いたします。けれども私は、聖書はそういうふうには言っていない、と思います。族長の神がヤハヴェとして現われた、という点ではエロヒストも祭司資料も同じです。ですから、その意味で族長時代から問題が始まりますが、より明確には旧約の神はヤハヴェとして、モーセの時から始まることになります。それがどうも客観的、歴史的に見てもモーセ時代の始まりでしょう。そして、そのモーセ時代の始まりの中心にあるものは、ヤハヴェという名前の神で、そのヤハヴェとは「わたしは在りて在るもの」と説明がありますように、その内容を「わたしは在りて在るもの」と規定しているわけです」。
関根はウェーバーを否定しているようでいて、否定し切ってはいません。「聖書はそういうふうには言っていない」と、ぼかしを入れています。しかし、それはウェーバーのように割り切った言い方はしないというまでのことであって、そこには「キリスト者」としての関根の「ためらい」のようなものが感じられます。「客観的、歴史的」には、モーセから、旧約の神、ヤハヴェの歴史が始まります。
「「わたしは在りて在るもの」(「エフエ・アシェル・エフエ」)とは一体何を意味するのか、という問題になりますと、これは非常に困るのです。というのは「わたしは在りて在るもの」ですから、ギリシア語では「オーン」となっております。「オーン」とはギリシア語の「エイミ」、「在る」という動詞の分詞でありまして、「存在者」ということです。ですから、ギリシア訳などでは「わたしは『オーン』である」(三・一四)となっている場合、これは典型的にギリシア的です。つまり、「存在者」というふうにギリシア人はヤハヴェを解したわけです。こういうギリシア訳の解釈はギリシア的解釈であって、本来の「エフエ」という言葉、「ヤハヴェ」という言葉は、ギリシア的な意味での存在者というような意味ではありません。ギリシア以来、オントロジー(存在論)というのが西洋的な思考の非常に重要な一つの中心ですけれども、そのことと「エフエ」とは、もちろん関係はありません。どういう意味で「わたしは在るもの、在りて在るもの」と言うのか、ということになりますと、これはいろいろ言われるわけです。結論だけ申しますと、私はかなり狭く解しまして、「あなたがたと共に、いつも在るもの」ということ、これはルプスチィクという人の説と大体一致するのですが、「在りて在るもの」とは、歴史の中にずっと続けて在る、という意味を持っていることは言うまでもありませんが、ただ在るというだけにした「存在者」(「オーン」)ということではなくて、イスラエルと「共に在る」ということですから、旧約の神はモーセの時以来、イスラエルと共に在る、ということが具体化いたしますし、そうしますと、どうしてもそこに契約という問題が出て参ります。そして、その契約に付随して戒めというものが、モーセ時代の一番大きな問題として出てくる、と言うべきでしょう」。
神は、ギリシア的な意味での「存在者」ではなく、イスラエルと「いつも共に在る」者、イスラエルの「コンスタントな共在者」であるという理解が示されます。そのとき、神とイスラエルの民との間の契約、またそれに付随して戒めというものが、モーセ時代の一番大きな問題として出てくると言われます。見方を変えれば、神が「常在の共在者」(常世の同伴者)であることによって、契約と戒めの永続的有効性が保証されることになります。つまりヤハヴェ(神観)と契約(法律制度)とは互に照応しているということになります。そこにこそモーセ時代の特質を見るべきでしょう。
「モーセについては出エジプト記から始まり、申命記の終りでモーセは死ぬわけです。神はそれまでずっとモーセの神として、出エジプト記二章の初めから終始出て参ります。モーセのことを中心に、モーセ時代を考えるのですが、出エジプト記一九〜二四章を見ますと、はっきり纏まってシナイ契約というものがモーセ時代の中心問題の一つであることを示しております。出エジプト記一九章五節に「契約」という言葉がはっきり出て参りますし、出エジプト記二四章には全体として、モーセ時代の契約の問題が――「契約の締結」と新共同訳聖書の場合にも、見出しをつけておりますが――契約のことが主題として出て参ります」。
契約という言葉が、そもそも、神の定めが人の守るべき定めとなるということを意味しています。「律法」は至上命題であるということが、神の命法として確定されます。
「出エジプト記一九〜二四章に纏まって、シナイの問題が出てくるのですが、その前にすでにイスラエルはシナイにいきなり行くのでなく、カデシ――メリバト・カデシとかいろいろな名前で呼ばれておりますが――という名前でよく知られている砂漠の一地点に到達していたことが、出エジプト記(一七・七以下)の記述で、かなりはっきりと分かります(民数記一三章など参照)。ですから、モーセ時代の問題を考える場合に、一つは出エジプトから始まった、この出エジプトの本質は何か、というと、これはなかなか難しい問題で、神による解放というか、神の力によるエジプトの政治権力からの解放でしょう。ですから、逃亡という形を取りましたが、本質的には今申したような解放、エジプトという国家の神聖な力からというか、そういうものからの解放が中心でしょう。エジプトの王から、あるいはエジプトの国から脱出したのですから、本質的には神による解放として出エジプトの問題を捉えるのが正しいでしょうが、しかしそれは、いわば出発点であって、イスラエルがその後どう問題を展開したかが中心です」。
モーセに啓示された神がイスラエルの民をエジプトから導き出し、解放したということの意味は、その後イスラエルが問題をどう展開したかによって知られると指摘されています。エジプトからの脱出というモーセの「事業」の目的が、それによって知られるからです。そこからイスラエルの神、ヤハヴェの全面展開が始まります。
「その問題を私は二つに分けまして、一つはシナイ問題というか、シナイ契約と律法という問題の方に持って行きたいのです。文書的に申しましても、出エジプト記において、一九〜二四章がそのシナイの問題を集中的に扱っておりまして、殊に一九章五節とか二四章では、契約と律法という言葉がはっきり出てくるので、契約の問題が、かなり中心であることは言うまでもないのですが、契約ということをその内容について申しますと、いろいろ言うべきことがあります。族長時代でも、ある意味で契約が結ばれた、と言えますが、典型的に契約が始まったのはモーセの時代です。その記録が一九〜二四章の箇所なのです」。
律法が神の契約として与えられたということを、ここでは契約と律法という形で区別して論じられているように見えます。
「しかし、その契約の問題に付属して、かなり決定的な意義を持つものは「法」の問題であり、「戒め」の問題であります。戒めの問題の中心はご存知の「十戒」であります。十戒は出エジプト記では二〇章に書いてありますが、申命記では五章に書いてあります。この両方の箇所を比較しますと、主な十の戒めは簡単に言ってしまえば一致するわけです。けれども、出エジプト記や申命記にそれぞれ付け加えがありますので、十戒の各箇所に違ったものがついており、これを除きますと、より簡単に十の戒めが取り出せます」。
律法と区別される契約の内容として関根の念頭にあるのは、出エジプト記一九章五節の、『それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に従い、私の契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである』という箇所でしょう。それは確かに、聖書に記述されている限りでは、族長時代からのテーマです。しかし契約が「法」あるいは「戒め」として特化されたのはモーセの時代です。あるいは律法は契約というコンテクストの中に置かれたと言えます。そこには統一的な共同体を形成しようとする、神=モーセの意志が働いています。
「今は、出エジプト記二〇章の十の戒めを取り出してみます。二節で「わたしはヤハヴェ、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。これを第一番目の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(三節)と結びつけることも出来ますが、一応切り離して、三節が十戒の第一、次の四節「あなたはいかなる像も造ってはならない」が十戒の第二、次に七節「あなたの神、ヤハヴェの名をみだりに唱えてはならない」が第三、次の八節「安息日を心に留め、これを聖別せよ」が第四、十二節「あなたの父母を敬え」が第五、「殺してはならない」が第六、「姦淫してはならない」が第七、「盗んではならない」が第八、「隣人に関して偽証してはならない」が第九、「隣人の家を欲してはならない」が第十。
出エジプト記で数えれば、以上のように十戒を数えるわけでして、申命記でも一番主な「……してはならない」というところは同じです。一番最後の「隣人の家を欲してはならない」というところが、出エジプト記の一七節では「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」となっていて、この「欲してはならない」が出エジプト記では全体に関わっておりまして、「隣人の妻」だけではないのです。ところが申命記の方を見ますと、これに相応する申命記の十戒の最後のものは、五章二一節で、「あなたの隣人の妻を欲してはならない」、この「欲してはならない」と訳している語は出エジプト記の十戒の動詞と全く同じで、「ハーマッド」という言葉です。ところが、申命記の方では、その次に「隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない」とあり、この「欲しがってはならない」という語は「ヒスアッヴェ」という言葉で「ハーマッド」とは全く違う言葉ですし、出エジプト記では全然出てきませんでした。つまり申命記では「ハーマッド」と「ヒスアッヴェ」という二つの動詞で意味を分けていることになり、出エジプト記の方は、妻を含めて、すべて「欲してはならない」と書いてあることになります」。
ここに十戒の概略が示されます。戒めが、「わたしをおいてほかに神があってはならない」(第一戒)とされるヤハヴェの戒めとして厳命されるところに、「モーセの十戒」の特質があります。本能のままに生きる動物とは違って、人間は共同体の秩序を保つために戒めを必要としています。しかしそれが第一戒を伴うということは、人間の社会において、必ずしも必然的ではありません(ただし人間の心に「わが仏尊し」という傾向性が存するのは否定できないことです)。この排他的な戒めが世界の歴史に大きな影響を与えることになります。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の、いわゆる唯一神教の問題です。
「これはすぐ解釈の問題に関わりますので、ちょっと難しい問題になりますが、申し上げてしまいますと、旧約では心の中で何かを欲しますと、それが何かの意味で効力を生ずると申しますか、外側の結果を生むというというのが旧約的な思考法なのです。ですから「欲するな」という「ハーマッド」という言葉を使う場合、ハーマッドの使い方を調べてみますと、ただ欲するだけでなくて、それを取ってしまうという意味に使われる場合があるのです。これは他の動詞でもありますが、内心、つまり心の中の動きとそれの外に出てくる結果を一つの動詞で表わし得るというのが、ヘブライ語の内外を区別しない面白い考え方なのです。その考え方が出エジプト記の十戒に、そっくり当てはまるわけで、出エジプト記二〇章の方の「十戒」の第十は、動詞「ハーマッド」だけを用いて、妻をも、あるいは家を初めにおいておりますが、隣人の妻、そこのところで妻が最初に出て参りますね。ところが、申命記の方では、隣人の妻が{ハーマッド}の欲するということの対象になっていて、その後の「隣人の家、畑、云々」は「ヒスアッヴェ」(欲しがる)という動詞になっております。こういうことから、二〇章一七節の「欲する」というのは、すでに盗るという意味を含んでしまうので、一五節の第八戒「盗んではならない」ということとダブる、ということをアルトが唱え出しました」。
ここで参考までに、口語訳によって、出エジプト記第二〇章一七節と申命記五章二一節を以下に併記してみます。
〔出エジプト〕あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の家、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。
〔申命記〕あなたは隣人の妻をむさぼってはならない。また隣人の家、畑、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをほしがってはならない。
口語訳では「欲する」の意味を強めて「むさぼる」という言葉が使われています。
なお関根が「心の中の動きとそれの外に出てくる結果を一つの動詞で表わし得るというのが、ヘブライ語の内外を区別しない面白い考え方」であると言っているのは、山上の説教にある、「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイ5:27−28)というイエスの言葉と考え合わせて、確かに興味深い指摘です。
「アルトは、要するに、出エジプト記の「ハーマッド」はすでに盗るという意味を含んで居るのだから、むしろ一五節の第八戒は人身売買、奴隷にすること、人の自由を奪うことだ、と言って、「盗む」という訳は当らない、というわけです。ところが、この頃はこの説は大体否定されております。私のものにも古い所では、第八戒は盗みではない、これは「奴隷にすること」だという説明をしておりますが、この頃は、やはり「盗む」というのは、はっきりした大事な犯行ですから、「十戒」に「盗む」ということを禁止することがあった方が正当ですし、そのように読んでおります。とにかく、ここで十戒の解釈としても問題があることを申し上げておきます」。
私には「盗む」を「人身売買」と解する歴史的、語義的根拠がはっきりしません。しかし関根はそれを解釈における一つの問題であると受け止めています。
「もう一つ、十戒の解釈として申し上げた方がよい、と思うのは、第二戒の「いかなる像も造ってはならない」という個所です。いかなる像も造ってはならない、というのは、そのまま読めば、もちろん旧約の神は霊的な神で、像を造って拝むというようなことは考えられません。バールなり、何なり、異教の神の場合、金・銀・銅や青銅の像を造って、その像の前に跪いた、ということが旧約に書いてあります。ですから、十戒の「像を造ってはならない」という第二戒は、そのまま解釈すれば、神に何か形をとらせて像を造ってはならないという意味で、そう取れば非常に簡単なわけです。けれども、これがちょっと問題であるのは、そうではないのではないか、ということを、ベルンハルトという人が唱え出しまして、これは面白い説ですから、ご紹介いたしますと、『神と像』という本を書きまして、像というものは、異教においてもそれがそのまま、神だなどとはどんな民族でも考えたりはしないだろう。そうではなくて、像を造って拝むのは、その像の中に感じとられる一種の fluidum という言葉を使っておりますが、これは「流動体」とでも言うようなことなのですね。像というものは総じて、異教においても像を見れば、それがすぐ神ではなく、そこに何か神的なものがあることは、誰でも、あるいはどの民族でも考えるだろう。その神的なものは像に含まれる流動体だ、と言うのです。この流動体というものが、像といつでも関わって問題になる中心的なものではないか。そうだとしますと、十戒の第二で、「像を造るな」ということ、これはすぐその後の「形を云々」というのは説明ですから、それを除きまして、元来の「像を造るな」ということの意味は何か、ということをベルンハルトは問うていることになります。彼は、すべての異教の像の場合にも、像には当然流動体的なものが、誰でもが想定する存在するものなので、旧約でこうした流動体といった意味での像を造るな、ということは意味をなさない、と言うのです」。
最後に書かれている「旧約でこうした流動体といった意味での像を造るな、ということは意味をなさない」というのは、どういうことであるか、少し判断に苦しみます。次の段落の意味からすれば、第二戒は、流動体的なものを含めて像を造ることを禁じているということではないかと思われます。
「これは非常に面白い見方です。というのは、流動体に相対するものは何か、といえば、私に言わせれば、それは「霊」だからです。まことの霊は流動体ではありません。ところが、異教などでは、キリスト教、あるいは聖書の宗教と違うところが何処にあるか、といえば、一つの大きな問題は、神があるかの如く、無いかの如く、流動体的に何か物と結びつけているでしょう。あれは皆、流動体なのです。流動体的に神を捉えるから、何か神的なものに触れて喜んでいるわけです。ところが、聖書の宗教は全く違うものとして、聖きものとして神を扱うわけですから、流動体の問題など十戒のこんな所で問題になる筈がない、と、いうのがベルンハルトの興味深い観察です。それから、ベルンハルトの結論がまた奇抜というか、ちょっと思いつかないことだ、と思います。契約の問題との関わりで、礼拝の対象になっているのは「神の箱」です。神の箱というものは、ある時から出てきまして、その中に「十戒」が入れられていたと言われ、あるいは「神の空なる座」というふうに元来は考えられていたものを、二次的に十戒と結びつけた、というか、戒めと結びつけて、「神の箱」というものを尊んだ、というか、天幕の中に置いたりしたのですね。これはエルサレム神殿にも置かれたのですから、非常に大事なものです。これは流動体では全然なくて、むしろその逆を言っているのです。見えざる「神の座」なのです。この「見えざる神」ということは、非常に強調しなければなりません。「見えざる神」ということを知っていることが、異教と聖書の宗教との相違です。これは違った言い方をすれば、聖なる霊で、聖なる霊というものは、あくまで現在されるものです。その点、決して見えないからと言って、空なるものではありません。いわば、表わせないものがそこに座し給うという意味で、神の箱というものが、ある時から非常に重要視されたようです。その神の箱の重視を「像を造るな」ということで、言っているのだろう、というのが、第二戒の解釈になります」。
関根は、「霊」は「流動体」ではないと言います。しかも、「聖なる霊」は「あくまで現在される」もので、空なるものではないとも言います。関根自身の「霊的体験」がそのように言わせているということだと思います。像は「イメージ」と結びついていますが、神は霊的であって、決してイメージされないものである、しかし、それは単なる非在ではないということでしょう。これは理解するのが難しい事柄であって、まさにそこに今日までの私の課題もあったということができます。しかしそのような神観は果たして「聖書の宗教」に限定されることなのでしょうか。またそのような理解は伝統的なキリスト教の神観と、どこで重なり合い、どこでずれてくるのでしょうか。この先、関根は「神は無である」という自分の考えを開陳することになります。なお「流動体」というのは、なかなか穿った言葉です。その意味は、像を囲繞し、その空間を充たしていて、心にだけ感じられる何か畏怖すべきものといったところでしょう。この感覚は、ヨーロッパのカトリック教会などの会堂にも充満していて、キリスト教はそれから免れているというものではありません。いわゆる宗教的なものにはこの感覚がつきまとっています。
「これは一つの解釈ですが、面白いので、「盗むな」ということが、いわゆる盗みということではないのだ、ということで一つの重要な点として申しましたが、第二戒の「像」の問題もある意味で、現代の問題として、多少なり、なお現代的なこととして考えますと、注目すべき問題ですので触れました。十戒は一々申しますと、いろいろなことがあるといえばあるのですが、十戒と契約との関係について触れておきますと、契約についてはシナイにおいても、すでに契約のことが初めからでて参りまして、殊に二四章では契約の締結として、問題が述べられております。この所でもいろいろ取り上げれば申すことがあるのですが、殊に一番中心的なことを申し上げることにいたします」。
こうして論述は出エジプト記二四章に移ります。丁度一区切りということで、紹介の作業はここで中断します。
「出エジプト記二四章は正に、はっきりした区分になっております。一、二節と三〜八節、九〜一一節―― 一二節以下は問題にいたしません――、その内、一、二節と九〜一一節が三〜八節を囲んでいる、という構造に大体なっておりますが、そのことは今突然申してもお分かりになりにくいかと思いますが、私が申したいのは、むしろ九〜一一節で、「神を見る」と書いてあります。旧約の他の所でも伺えますが、「神を見る」という問題が旧約ではいわゆる見る、ということにはなっていない、ということです。これは先程の像の問題とも関わりまして、深く霊的なことだ、ということ、そういうことを二四章は大変素朴な述べ方で書いておりまして、それが九節からであります。読みますと、
9モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。10彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。11神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。
という面白い記事です。これは一、二節と関わっている所で、一、二節から九〜一一節を続けて読むべきですが、ここで面白いのは「神を見て、食べ、また飲んだ」とあり、また一〇節で「イスラエルの神を見ると」となっていながら、神ご自身のことは何処にも書いてないのです。ただみ足があって、そのみ足の下がサファイアのような、とあります。パレスチナの空は乾燥期においては、非常に晴れたファーマメント(大空)、フィルマメントムで、天蓋みたいになっておりますから、サファイアの敷石のようにフィルマメントムがありまして、それが大空のように澄んでいたというわけです」。
ここで出エジプト記二四章一〜八節を口語訳によって引用します。
1また、モーセに言われた、「あなたはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共に、主のもとにのぼってきなさい。そしてあなたがたは遠く離れて礼拝しなさい。2ただモーセひとりが主に近づき、他の者は近づいてはならない。また、民も彼と共にのぼってはならない」。
3モーセはきて、主のすべての言葉と、すべてのおきてとを民に告げた。民はみな同音に答えて言った、「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」。4そしてモーセは主の言葉を、ことごとく書きしるし、朝はやく起きて山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの十二部族に従って十二の柱を建て、5イスラエルの人々のうちの若者たちをつかわして、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげさせた。6その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。7そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。8そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基づいて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。
「神ご自身についてはちっとも書いてありませんね。そこに面白い問題があるのです。つまり、「神を見る」という問題です。この問題は詳しく申しますと、いろいろ興味深い問題がありますが、ここで私が申したいことは、「神を見る」と書いてあるのに、実際にはせいぜいみ足が想定されているだけだ、ということです。その想定されているみ足が置かれている firmament が見られる、つまり天の青い空、それだけで、もう「神を見た」というふうに、この所で述べているのです。そのことは一つには一九章以下で、シナイの出来事については「神の畏れ」ということが非常に強調されておりまして、一九章以下をずっと読みますと、非常に恐ろしさ、といったことが全体にわたって書かれております。殊に一九章一六節あたりで「民は皆、震えた」とありますし、そうしたことがずっと書いてあるのです」。
ここから「神を見る」という問題についての考察が展開されます。なお出エジプト記一九章一六節〜一九節を参考までに引用します。
16三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。17モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。18シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山ははげしく震えた。19ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。
「そうしたシナイの出来事の叙述の一番中心には、神の恐ろしさ、ということがあるわけですが、その反面として、二四章では「神を見て、食べ、また飲んだ」という、いわば、一九章以下の締めくくりとして、一九章以下で強調されている「神への畏れ」と反対のものが、二四章でむしろ強調されたのだ、とも見えます。しかし、私はそういうことだけではなしに、先程から言うような意味で、神ご自身は見られていないのですが、いわば「空なるもの」として、というか、「無なるもの」としてというか、私は時々「無」ということをかなり考えたり、言ったりするのですが、たとえば、二四章の「見神」の叙述を見ますと、神が何処におられるか、というと、何処にもおられない。足の先が見えるというが、足の先すら見えない。ただ足の先の置かれている所が見えるのです。firmament として。
二四章をよく読んでみて、そうとしか考えられないのではないか。そうだとすれば、神は何だ、というと、神は「無」なのです。聖書的に「神は無だ」と言ってよいだろう、と思います」。
古代的な素朴とも言える神の叙述に、関根は神の「無」を見ます。神は象徴的にしか語り得ないということが、すなわち「神は無だ」と言っていることになるというのでしょうか。しかし聖書の叙述から神は「無」であるという結論を引き出すのは、やや強引であるような印象を受けます。少なくとも、シナイ山の叙述(例えば、出エジプト記一九章一六節〜一九節)からは、神は自然の超常現象を引き起こす特定の「何か」として語られている、と言うべきではないでしょうか。それは「無」であると言えるでしょうか。そもそも契約の当事者である者が「無」であるとは、どういうことでしょうか。
「神は「有」として出てくるか、という問題で並木浩一さんが「神を見る」という問題について、非常に面白い論文を書かれました。ギリシアとイスラエルとを対比させて書いておられます。モーセの場合の「神を見る」、見神の実験ということを、出エジプト記三三章、これは神の形を見る、ということですが、この問題については後でかなり詳しく申しますが、並木さんは、ギリシア人は神を見ようとした、そして確かに神を見ることの出来たものが、ギリシアでは「賢者」というか、「望みを達した者」です。ところが、イスラエル人はどうか、というと、並木さんの結論では、イスラエル人は「神に知られることによって、神を知る」、そういうことしか言えない、と言って、ヨブだけを挙げておられます」。
聖書に物語られる、顕現、召命などの出来事において、人は、「神に知られる者」として、直ちに「神を知る者」となります。それは、のっぴきならない迫りであって、人には神を対象化する余裕は与えられていません。ヨブはただ塵灰に伏して悔いるのみです。しかしモーセなどの召命体験についての聖書の叙述では、人はそこで「あなたはどなたですか」と問います。今このとき、神に対面させられている者として、神に問いかけるということが起ります。しかしそれは心(霊)の出来事であって、神が「見えている」わけではないと、関根は言いたいのかも知れません。
「けれども、私に言わせれば、出エジプト記三三章は、正にそういう意味での見神だ、と思うのですね。それとも関わりまして、今の二四章で、かなりはっきりと、旧約の人たちが神を見る、と言っているけれども、実は見えていないから、見えるような書き方がしてあるのです。本当に神が見えるのでしたら、こんなことは書きません。ですから、一九章からの流れの中で言えば、神に対する恐れ、というものの、いわば反動で、こういう書き方をしているのだ、という註解者がいるのですが、そういう註解者は甘い、というか、浅いと思います。
二四章は、神の霊性と申しますか、神の霊たることの主張です。先程の像の問題とも関わります。人間は神というものを考える時に、有的に考えますから、せいぜいフルイドゥムとしてしか考えないのです。それを「無」として考えて、本当の意味で聖き霊として、神を受けとる。そういうことが、旧新約聖書の中心だ、と私は考えております。そういう問題と関わりますので、ここの個所は重要だ、と思うのです。一つの問題は、今言ったことで大体尽きるでしょう」。
三三章は後で出てきます。しかし「神は無である」という議論は、一先ず、ここで終わります。関根は、聖書の解釈において、自分の思想なり見解なりを強引に持ち込んでいるのではないか、という印象を拭い去ることはできません。もともと「神は無である」ということは、聖書の主題ではないと思われます。神はモーセに「あってある者」として顕現し、イスラエル解放の召命を与え、また契約を授けたのであって、その神が「無」であるなどということは、文脈から逸れた見方ではないかと考えざるを得ません。しかし関根は、神は無であるからこそ聖き霊であるという、その一点から、聖書の神を受け取ろうとしています。それは突き詰めた一つの立場であって、聖書の「メタ解釈」の領域に属すると言うべきではないでしょうか。いわば日本人としての聖書の受け止め直しです。
「もう一つの問題は、契約の問題と申しましたが、モーセ時代に契約が今の二四章七節、殊に八節で契約の血という言葉がありますから、ここで契約が問題の中心になっていることは明らかです。契約に対して、二〇章ではすでに見ました十戒が出てきました。十戒は結局、先程触れました「盗んではならない」あるいは「姦淫してはならない」その他十の戒めが書いてあって、安息日とか両親に対することは、「ねばならない」という否定形になっておりません。ですから、十戒の内、二つだけは肯定形になっており、これは二次的ではないか、むしろ否定形に直して、十の否定形を想定した方がよいのではないか、という人が多いのですが、それは必ずしも最重要問題ではありません。十戒の大部分は〈ロー+imperfect〉、ローというのはヘブライ語の not、それに未完了、たとえば「盗むなかれ」は「ロー・ティグノーブ」、「姦淫するなかれ」、「殺すなかれ」も皆l?+未完了形なのです」。
ここから十戒の解釈の問題に入ります。
「十戒の場合、一番最初に「わたしはヤハヴェであって、エジプトから導き出した神だ」と書いてあります。それは「恩恵の神だ」ということです。先ず、恩恵の神だ、という宣言がありまして、これを十戒の序論とするか、第一戒に含ませるかは、両方とも可能性があると思いますが、ただ言えることは、十戒の出発点は、神の恩恵なのです。その神の恩恵に対して「盗むことはない」、あるいは「殺すことはない」と、「汝は」という単数で書いてあるのです。そういう言い方で ロー+未完了形で書いてあるわけです。私はそれを、恩恵ということが主であって、その神の恩恵に本当に生かされている者は、盗むことや殺すこと、姦淫すること、その他のことは無いのが当然だ、という意味にl?+未完了形を解釈したのです。これは私はアルブレヒト・アルトの講義で聞いた、と思っております。けれども、それに対して強硬に反対したのが清三君でありまして、アルトにはそんな解釈はない、アルトの弟子のある人に、ドイツにいる時、聞いてみたら、「アルトはそんなことを言うわけはない」とその人が言った、と申しまして、私に反対するわけです。そして、彼の『旧約における超越と象徴』の中で、私の十戒解釈のアルトに由来する、と言っている所を反駁いたしまして、ゲゼニウスとカウチの共著のヘブライ語の文法書を引き合いに出しまして、ロー+未完了形は強い否定なのだ、と申しまして、それを私に対する反駁の重要な理由とするのです。もう一つは、アルトに明白にそういうことは書いていない、ということです。私はそれに対して、はっきり答えます。これは間違っています。清三君の議論の仕方は、現代のヘブライ語文法で一応権威あるものとされている、ゲゼニウスとカウチというものを引き合いに出しまして、imperfect が未来のことを述べている、ということの他に、「ロー」と共に強い否定を表わす、と書いてある。強い否定である、と書いてあるのを十戒のところに持ってくるのです。私に言わせれば、旧約の学問の中で、一番弱いのはヘブライ語文法なのです。というのは、千年にもわたるヘブライ語というものの歴史を一冊の文法書に纏めあげて書けるわけがない。ですから私は初めから、ヘブライ語動詞のところが臭い、一番難しいのはヘブライ語の動詞だ、と申しまして、私が最初にドイツ語で発表しました論文は「古代ヘブライ語動詞表現の本質」という論文なのです(邦訳・拙著作集第七巻所収)。清三君がそれをよく読んでいれば、ああいうことは言わなかっただろうと、思います」。
関根が先ずここに論じている、「恩恵ということが主であって、その神の恩恵に本当に生かされている者は、盗むことや殺すこと、姦淫すること、その他のことは無いのが当然だ」という、ヘブライ語の「ロー+未完了形」の理解の仕方は、日本の教会にかなり流布しているようで、私も教会の講壇からそのような説教がなされるのを聞いたことがあります。そこに関根独自の神観が関わっているように思われます。もしかしたら田辺元の「無即愛」のような神観がその根底にあるのかも知れません。しかしそれが十戒の解釈として、学問的に妥当であるか否か、ということは別の問題でしょう。私としては、それは「解釈」ではなくて、「読み込み」ではないのかという感じがします。なおここで「清三君」とあるのは、関根正雄のご子息、関根清三博士のことで、以下も「清三君」批判が続きます。
「私の反駁はこうです。少なくとも言語というものは絶えず、ずっと変化しているわけです。いわんや、千年もの長い期間を経ているヘブライ語という言語の、動詞という非常に重要なものが、初めから終りまで一つで纏められるわけがないのです。いくつかの段階があったに違いない。そして、一番古い段階は私が十戒で想定している「こういうことはないのだ」という断定ですよ。それが後でだんだんと使い方が変りまして、強い否定になった。そのことは、もちろん私も認めますし、知っております。けれども、一番古い段階の十戒のこの二〇章を読んで、よく読めば分かりますでしょう、「私は恩恵の神だ」と言っているのですから。
清三君の『旧約における超越と象徴』(*)、これはなかなか力作で、もちろん非常に有益なことは私も認めます。到る所に、創見がありますし、非常に厳密にいろいろなことを引きまして固めております。しかし、今の点はかなりはっきりしております。千年間用法がずっとこうだ、というようなことは、そんなにはっきり言えるものではありませんから。ですから、私はやはり十戒のロー+imperfectを自然にとれば、これは「盗むことはない」、盗まない、あるいは「殺すことはない」、殺さないとなる、と考えます。けれども「旧約聖書」の翻訳では「盗むな」「殺すな」と訳しているではないか、と言われればその通りです。これはまた、非常に困るのですね。日本語は日本語なのだが、そう一朝一夕には片付けられない所があります。説明を加えなければ誤解されます。清三君も誤解したわけです。これは私の弁明ですが、私の方にどうも分がある、と思っていますが」。
* 『旧約における超越と象徴――解釈学的経験の系譜』(東京大学出版会、1994)
このあと断言法と決疑法の問題に移ります。しかしここで本書に対する関根清三氏による「批判」がなされている本(『旧約聖書の思想 24の断章』、岩波書店、1998年、講談社学術文庫、2005年)がありますので、参考までにその部分を引用します。
十戒の否定詞+未完了形について(p.89-92)
「十戒の元来の意味について、関根正雄氏はかねてから次のような見解を提起しておられた(本書でも第3章、ノートC等で言及している)。すなわち、普通「殺してはならない」「姦淫してはならない」等に訳される、否定詞ローに二人称男性単数未完了形のついた十戒の形が、出エジプト記の恩恵において神の愛に目覚めた者が、元来「殺すことなどあり得ない」「姦淫することなどあり得ない」といった意味を有する、という見解である。しかし正雄氏自身ヘブライ語構文法の裏付けをしておらず。後述するような用語の混乱もあって、この説は従来学界では半信半疑で受け流されて来た観があった。私は拙著第一章で、構文法の吟味や用語の整理を通して、言わばこの説の裏を取ったのである。拙著は自説の是非を研究史との対論の中で吟味することに多くの頁を割いており、所々で正雄説の対論的検討もしているが、検討の結果支持し得るものは支持し、批判すべきものは批判している。ここでは、批判的修正を加えた上ではあれ、基本的には正雄説を支持する結果となった。裏を取ってもらって感謝されてもいいはずだと思うのだが、どういうわけか正雄氏は、自説に「強硬に反対したのが清三君でありま」すと嘆かれるのである。客観性を期して少し引用しておこう。
私はそれを……神の恩恵に本当に生かされている者は……殺すこと……はないのが当然だ、という意味にl?+未完了形を解釈したのです。これを私は……アルトの講義で聞いた、と思っております。けれども、それ(1)に対して強硬に反対したのが清三君でありまして、アルトにはそんな解釈はない、アルトの弟子のある人に、ドイツにいる時、聞いてみたら(2)、「アルトはそんなことを言うわけはない」と……言った、と申しまして、私に反対するわけです。そして……私の十戒解釈のアルトに由来する、と言っている所を反駁いたしまして(1)、ゲゼニウスとカウチの共著のヘブライ語の文法書を引き合いに出しまして、ロー+未完了形は強い否定なのだ、と申しまして、それを私に対する反駁の重要な理由とするのです(3)。……私はそれに対して、はっきり答えます。これは間違っています。……言語というものは絶えず……変化しているわけです。いわんや、千年もの長い期間を経ているヘブライ語という言語……が、初めから終りまで一つで纏められるわけがないのです。……一番古い段階は私が十戒で想定している「こういうことはないのだ」という断定ですよ。それが後でだんだんと使い方が変りまして、強い否定になった(4)。……清三君の『旧約における超越と象徴』、これはなかなか力作で、もちろん非常に有益なことは私も認めます。到る所に、創見がありますし、非常に厳密にいろいろなことを引きまして固めております。しかし、今の点はかなりはっきりしております。千年間用法がずっとこうだ、というようなことは、そんなにはっきり言えるものではありませんから(4)。(五七〜五九頁。なお傍点→下線と注番号は引用者)
随分な勢いだが、氏の言い方にならうなら「これは間違っています」、少なくとも、注番号を付した四つの点で、と言わざるを得ないのは、「清三君」としては深く遺憾とするところである。順を追って述べよう。
(1)は関連する二箇所に傍点(下線)を打ったが、これでは、正雄説がアルトに由来するか否かが、私の批判のポイントであるかに問題が矮小化される。しかしそれは私としてはどちらでもいいことであって、拙著一〇八頁の註(171)の副次的文脈で関説しているに過ぎない。むしろ批判のポイントは三点であることを、私は本分で二頁にわたって縷々述べているのである(八三〜八四頁)。要約すれば、@アル+ジャッシヴが本来の禁止命令で、ロー+未完了形は「することはないだろう」と訳し得るという正雄説は、ヘブライ語構文法に照らして正確か否か、A「することはあり得ない」を禁止命令と呼ぶ正雄説は用語が混乱しており、これは不可能性の断定であり、「してはならない」が禁止命令、また「することはないだろう」は否定の推量として、三者の関係を厳密に洗い直す必要があるのではないか、そしてB十戒の意義が福音と律法の問題にかかわるという正雄説の結論の当否、これらが私の批判のポイントにほかならない。この批判への正面からのお応えこそが聞きたかったと思う。
(2)如何にも非学問的で漠然とした言い方に変えてあるが、拙著では、歴史家であるアルとの一番弟子である、S・ヘルマン教授とのボッフムの研究室での会話を引用しているのである。上述のとおり、それはどうでもいい挿話に過ぎないのだが……。
(3)私はゲゼニウス=カウチも自論の補強に引用しているだけであり、「反駁の重要な理由」はむしろ、アル+ジャッシヴおよびロー+未完了形について私自身旧約全般にわたって調べて列挙した二十数例の用例の方である。その一々について検討論駁できなければ、学問的反論とはならないのではあるまいか。なお「ロー+未完了形は強い否定なのだ」というのが、私の結論のように取っておられるが、それも間違いであり、アル+ジャッシヴに比べれば強い否定だが、ロー+未完了形は元来未完了の否定だからもちろん否定の推量であり、それが不可能性の断定となることもあるというのが、私の論意である。この結論においては、私は正雄説を支持し得るとしているのである。
(4)いずれにせよ一々の用例の厳密な検討をしないで、言語は絶えず変化している、といった一般論を持って来てもあまり意味はないはずだ。変化しているからと言って、「断定」から「強い否定」に「だんだんと使い方が変わ」ったのか、その逆の変化なのか、或いはまた、旧約に残された限られた用例からだけは、用法に関してどの時代にも混在していて顕著な変化が見られないという結論しか出て来ないのか、詳らかとしないからである。「千年間用法がずっとこうだ、というようなことは、そんなにはっきり言えるものではありません」と言われるが、私はどこでもそんなことは言っていないのである。因に拙著で引用している用例についてのみ見る限り、禁止命令を表す創世記二章17節、三章17節、三一章52節などはヤハウィストないしヤハウィストが採用した古伝承に溯ってきわめて古いし、不可能性の断定を表す申命記三章27節、三一章2節や、否定の推量を表す第二イザヤ書四四章21節の用例はそれより数百年後代のものとなり、「断定」から「強い否定」に「だんだんと使い方が変わ」ったという正雄説の反証となってしまうことを付言しておく」。
関根(正雄)は、聖書は「神の言」であるというキリスト教信仰を前提として、「聖書学」に取り組んで来たのでしょう。しかし同時に「神は無である」という自分の思想を聖書の中に「読み込もう」ともしています。そこに、あとで出てくる言葉を使えば、「絶対矛盾」があります。また神は「恩恵の神」であるという自己の前提を、聖書によって裏づけようとしているとも言えるでしょう。それもまた「読み込み」であって、学問的論証が先行しているのではなく、むしろ思想的要請が解釈に先行しているという感があります。関根にとって神は、十戒においてこそ、恵みの神でなければならなかったということは明らかですが、それは必ずしも「聖書学」的に論証されるべき問題ではありません。キリスト教徒が聖書解釈において教理を先行させるように、関根は自分がたどり着いた思想から聖書を解釈しようと試みていると言えないでしょうか。関根清三氏とは、世代的に言っても学問のスタイルが違っている、ということがあると思われます。
ここから断言法と決疑法についての関根の論述に戻ります。
「結局、ロー+未完了ということの本質、これはシナイ契約とシナイの戒めというものの非常に重要な問題ですし、それだけでなく、聖書全体において、神の恵みと、それから出てくるわれわれの行動、行ない、われわれの守るべき戒めというものの問題ですから、非常に重要な問題なのです。これは旧約の一番古い所、一番の出発点ですから、結論としては、シナイの問題を中心において、モーセ時代を扱っていますが、そのモーセ時代の中心には契約があり、そして律法があります。その契約と律法の関係こそ、一番大きな問題でして、アルトがそういう形での述べ方はしていないとしても、アルトは法の問題について、『イスラエル法の起源』という本を書いていて、これはアルトの書いたイスラエルの法律についての代表的な著作ですが、その本の中で、ちょっと難しいのですが、断言法と決疑法という二つの種類を分けています。断言法というのは、断言するのですから、お分かりになるでしょう。決疑法というのは「もし……したならば、こうこうなる」ということをいろいろな「ケース」を詳しく分けまして、その結果を述べている法律の形式で、これを決疑法と申します。それが丁度、二一章に出て参りますから、読んだほうがお分かりになるでしょう。出エジプト記二一章一八、一九節ですが。
18人々が争って、一人が他の一人を石、もしくはこぶしで打った場合は、彼が死なないで、床に伏しても、19もし、回復して、杖を頼りに外を歩き廻ることができるようになるならば、彼を打った者は罰を免れる。ただし、仕事を休んだ分を補償し、完全に治療させねばならない。
この場合は、一人の人を殺した、または傷つけた場合を書いているのですが、その場合もいろいろなケースを想定して書いているわけです。決疑法というのは、英語で「カズイスティック」と申しますが、「カズス」は英語の「ケース」です。ですから、それぞれのケースを想定して述べている法律の形式を、アルトは「カズイスティッシェス・ゲゼッツ」、決疑法的法、というわけです。
断言法は、「殺すなかれ」というように、何の条件もつけないで、きちんと断言するのです。アルトの決疑法は今読みましたようなものですが、断言法については、三種類に分けていて、その一つが十戒です。もう一つは「……するものは、必ず殺さるべし」という言い方で出てくるもの、これも何の条件もつけておりません(「……する者は」も一つの条件ではないか、という反論がありますが、問題になりません)。もう一つは「……するものは呪われる」という「アールール」(「呪われる」)という言葉が最初に出てくる形です。この三つをアルトは断言法と申しまして、この断言法に対して、決疑法を持ってくることになります。ですから、十戒は断言法の一つでありまして、その断言法は、たとえば出エジプト記二一章一二節「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」、これは断言法の二番目として、アルトが述べているものです。次に、「呪われる」というのは、申命記二七章一五〜二六節に「……する者は呪われる」という形、「アールール」という言葉が初めに出て参ります。そして、この三つの種類の断言法に共通なのは、問題が殺人とか盗みとか姦淫といった重要な問題の場合です。それに対して、決疑法は、かなり一般的ないろいろな場合を想定し、いろいろあり得るのですから一概に言えません。つけ足しますと、これは論争になっているのですが、アルトのいう断言法の場合に、これは非常に重要な道徳的な問題についての決定なのだ、というのですが、これをフォン・ラートはパウロ的な意味の律法というものの否定的役割を持っている、というふうに論じました。それに対して、チメリーという人は、そうではないのではないか、と言いまして、その間で論争があるのです。私は両方とも真理を含んでいる、と思います。「呪わるべし」などというのは、かなり決定的です。けれども、それがパウロのいうような意味で、罪というものの中心にある「神の呪い」とか、そういったものと直接に結びつけてよいかどうか、これは前に、原罪の問題について、ヴェスターマンとフォン・ラートの両方を引きましたが、それとも関わることでもあります」。
関根はここで断言法に「神の恵み」を、決疑法に、それに基づいて成り立ってくる人間の個々の「戒め」を見ようとしているように思われます。それはこの引用した部分の最初に示唆されています。しかし議論は、三種類の断言法の問題のところで中断していて、それ以上の展開が見られません。この断言法、決疑法という区別は、カントの定言命法、仮言命法にも通じるものがあると思われます。ここには、人間の行為を律するもとにあるものは、神の恵みとしての断言法的戒めであって、それを守るところに神の祝福があり、その戒めに従えないところに人間に対する「神の呪い」を見るという、人間の、いわば「限界状況」が示されているとも言えます。関根は「聖書全体において、神の恵みと、それから出てくるわれわれの行動、行ない、われわれの守るべき戒めというものの問題ですから、非常に重要な問題なのです」と言います。戒めは、人間の根本問題に関わっているという意味で、それが「非常に重要な問題」であることを否定することはできません。
関根はこの先、出エジプト記三三章に関わって、モーセの「見神」という問題を再び取り上げることになります。しかし紹介の作業はここでまた一休み致します。
「以上「モーセ」の前半、具体的には「契約と戒め」の問題、殊に十戒について多少詳しく取り上げて申しましたが、次にいわば「モーセ」の第二の問題、非常に深いと思われる問題点を取り上げて、主題にそって、必ずしも時代順ではないのですが――結局は時代を追うことになります――主題を追って申し上げます。
モーセの問題についての主題として、もう一つはモーセという人が特別な神との関わりに立った人だ、ということです。「神を見る」見神という立場で、モーセについて、前回述べたことに続けまして、ある意味では別の主題として申し上げようと思います。つまり、見神ということを、モーセの場合、特別な恵みの出来事として彼が経験した、と思いますが、これは、旧約に出てくる主な人たちが、何らかの意味で神を見るということをやっております。けれども「神を見る」とはどういうことかを厳密に考えますと、かなり違っている、というか、誤解されている面もあるわけでして、その点、モーセについての見神の問題は、いろいろな誤解を解く上で重要な主題だ、と思っております」。
論題はここから出エジプト記33章へと移ります。
「直接には、有名な出エジプト記三三、三四章、殊に三三章です。出エジプト記三三章の問題で、これは三二章に「金の子牛」の問題がありまして、モーセのいない時に、アロンが中心になって、目に見える神というものを欲して、金の子牛を造った、ということがありました。これは、この前問題にしましたシナイの出来事で、モーセを通じて、民が神に何かの意味で出会ったことを想定して、契約ということを申し、またその契約に従属する戒め、殊に十戒ということを申し上げたわけです。けれども、そういう神との出会いがあったのに、やはり神から離れて、見えざる神だけではどうも足りない、ということに結局はなったわけで、見える神を求めたのです。三二章に書いてあることは、歴史的には時代が後のことになりますが、王国が出来、ダビデ、ソロモンと王が登場します。そしてソロモンの後で国が分裂し、北のイスラエル、南のユダとなるわけです。その北イスラエルの第一代の王はヤラベアム一世という王様です。まだ北王国の人々は、エルサレムに神殿があるために、エルサレムに行くことを続けています。そうなりますと、国としては南北両王国に分かれて、独立の国である筈なのに、北王国の方が弱くなる心配があります。そのため、ヤラベアム一世がベテルとダンに像、子牛の像――恐らく牛の像でしょう――を造りました(列王上一二・二八)。子牛と言われているのは軽蔑して言っている意味か、と思います。ダンは北の方にありまして、ベテルの出張所のようなもので、ベテルに主として関心があったわけです。ベテルは古くからの聖所があった所で、これは族長時代から創世記に出て参ります。族長時代からベテルの聖所は非常に重視されていまして、ヤラベアム一世はそうした伝統があるからですが、ベテルに主たる聖所を設けて、エルサレムに対抗しました。そして北の端の方に、ベテルの出張所のような意味で、同じく聖所を設けたのです。ですから、普通ベテルとダンと申しますがダンよりベテルの方が中心であることは言うまでもありません。金の像であったかどうかは必ずしも分かりませんが、とにかく子牛の像を置いた、と書いてあるのです。何も牛の像など置かなくてもよさそうに思われるでしょうが、これは出エジプトの時に、牛に曳かれて民がエジプトから脱出した、そういう伝承がありまして、考古学的にも出てきた資料から、比較的近年にですが、ヤラベアム一世の牛の像というのは、全然根も葉もないことではなく、モーセ以来のある伝承が想定され得るわけで、ヤラベアムはそれに従ったようです。エルサレムの伝統のことについては後で述べます。
ですから、時代的に逆になってしまいますが、とにかく金の子牛像の問題も背景としては、今申しておりますような、北イスラエルのヤラベアム一世が、モーセ以来の伝承を用いて、これがイスラエルをエジプトから導き出した神である、と言って、神礼拝がそういう形で為されたらしいのです。恐らくそれを受けて、出エジプト時代に持って行き、三二章でモーセのいない時に、アロンがくだんの像――「金の子牛」と新共同訳聖書で、三二章の初めにくくってありますし、普通そう言われておりますが――を造ったわけです。それとの関わりで、三三章のモーセの問題を申し上げようと思った次第です」。
ここで述べられていることは、要するに北王国のヤラベアム一世の時の出来事が、遡ってモーセの時代の話として語られているということです。そうなるとモーセの物語とされていることは、後代に作られたものであって、モーセに由来するものではないということになります。従って以下に書かれている、モーセの「見神」の問題は、モーセの物語として今日の我々に手渡されている、ある特定の「テキスト」の解釈に関わることになります。しかし、関根はそのようにテキストを時代的に区分することには、余りこだわっていないように見えます。だからそれはモーセの見神の問題として取り扱われることになります。関根の聖書のテキストに対するアプローチの仕方がそこにあると言えます。いわばそこに古典的、あるいは伝統的とでも言うべき聖書観が「残存」しています。
「殊に三二章の「見える神」に対して「見えざる神」の問題は、創世記二八章一〇節以下(「ヤコブの夢」の物語、ベテルの名の由来…引用者)などとの関わりでも見られます。モーセの場合はそれとは違う角度から、今申しておりますような、三二章と対照的に三三章がありまして、モーセがアロンのそういう叛きに対して非常に失望し、到底このような民を率いて行くことはできない、というところまで、絶望したことを前提としております。そういう絶望を乗り越えるために、と申しますか、モーセに対して新たに、神が共に行くということが三三章で言われるわけです。これは一二節以下にありまして、新共同訳聖書の表題には「民と共に行かれる主」となっております。一二節以下が今日の最初の主題なのです。
12モーセはヤハヴェに言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました。13お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください」。14ヤハヴェが「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われると、15モーセはヤハヴェに言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。16一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう」。
17ヤハヴェはモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」。
この中で「好意」と訳してある原文は「ヘーン」で「恵み」と訳すべきです。また一四節の「わたしが自ら同行し」の原文は「わたしの顔があなたと同行し」であります。このところが今日の眼目です。ここで一番中心的なことは「わたしの顔が、あなたと一緒に行く」と言っているところです。その「わたしの顔が云々」と言っていることなのですが、モーセが神を見る、ということは、別の個所で言われておりまして、例えば、民数記一二章八節に、
「口から口へ、わたしは彼と語り合う。
あらわに、謎によらずに。
ヤハヴェの姿を彼は仰ぎ見る。
あなたたちは何故、畏れもせず
わたしの僕モーセを非難するのか」
とあります。文中の「彼」はモーセのことです。この八節で、アロン、ミリアムとモーセが対立した時、モーセが特別な人であって、「ヤハヴェの姿を彼は仰ぎ見る」ことの出来た人というわけで、「あなたたちは何故、畏れもせず、わたしの僕モーセを非難するのか」とあるのです。要するに、モーセは特別な意味で「神の姿を見た人」だ、ということが、問題の中心になっております」。
モーセが特別な意味で「神の姿を見た人」であるということを、関根は「問題の中心」であると言います。神のモーセへの顕現ということが、旧約聖書の一つのハイライトであるということに間違いはありません。関根は、自らの「霊的体験」に関わらせて、この問題に取り組もうとしています。つまり、神信仰の範型の問題として、または信仰の規範として、これを理解しようとするところに、関根の信仰者としての姿勢があります。ここにも「信仰者」としての聖書の「読み込み」があります。
「このモーセが特別な意味で、神の姿を見たのだ、ということは、一体どういうことか、という問題になるのですが、この問題は民数記一二章にもありましたように、モーセが「神の姿/かたちを見た」、あるいは「わたしの顔があなたと共に行く」ということとも関わりまして、実は非常に著しい言葉なのです。金の子牛の問題との関わりにおいてですが、モーセが金の子牛のような意味で見るのではない、ということを言っているのです。金の子牛、あるいは神の像の問題で、「見る」という問題について、先にフルイドゥムということを申しまして、「神の像を見る」という場合、「像」は「フルイドゥム」(流動体)をそこで感じることですから、ただ像のかたちを見るだけのことではないので、十戒の「像を造ってはいけない」という場合の像とはどういう意味か、をフルイドゥムの観点から申しました。
そのこととも深く関わります、つまり、単に見えないもの、といったものが問題ではなく、見えないのだが見える、そういう逆説的なことを旧約あるいは新約も含めて言っているように思います。神を知ること、あるいは神を見ることの大きな問題点は、出エジプト記二四章などでも「神を見る」と書いてありながら、本当は見ていない。いわば神の御足の跡を見るようなことが、神を見る、という問題であって、そのことは出エジプト記二四章の契約の所で、「神を見る」という問題を取り上げた時に申しました。繰り返しますと、何かすぐ見えるような神、というものは旧約の中では出てこない、ということを申しまして、出エジプト記二四章九〜一一節を取り上げ、「神を見た」とはっきり一一節でなっておりますが、実際には神そのものは見てないことが一〇〜一一節に明記されている、と申しました。確かに神を見た、と書きながら、実際には一〇節で「その御足の下のサファイアの空」、青空に澄んでいるイスラエルの空、その空のところに御足が僅かに感じられる。そして、その上に「神が在す」と、そのように出エジプト記二四章でも、見るということがなっていたのです。それとも関わりまして、今われわれが問題にしております、三二、三三章の「金の子牛を見る」ということに対して、モーセが見ることをゆるされた「神の顔」または「共に行くことをゆるされた神の顔」というものが、特別な意味で、「見る」ということと関わっている、という問題です。これはちょっとお分かりになりにくいかも知れませんが、大事な問題です」。
関根がここで問題にしていること、それは偶像崇拝を禁じることの裏側に、西田幾多郎の言い方を借りれば、「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」というような、逆説的な事態が想定されているという主張であるように思われます。いわば東洋的な無の思想を聖書の神信仰のうちに見出して行こうとする姿勢です。しかし関根は先ずここでユダヤ人の思想家の例を持ち出します。
「マルチン・ブーバーが『モーセ』と『預言者の信仰』という二つの本を書いておりますが、その後者にはヘブライ語の原文があります。ブーバーはユダヤ人ですから、かなりヨーロッパの聖書学者と違ういろいろ面白い見方をいたします。そのブーバーが、この「見る」という問題について、こんなふうに言っております。「わたしの顔が一緒に行くであろう」というのだが、これは非常にデリケートである、と申しまして、神が見えないので、見えるものにしようとして、アロンが金の子牛を造ったのだが、このことが拒否された後で、この問題が出てきて、三二章の金の子牛についで、三三章の今見ましたような問題が出てきた。これをブーバーは「神の顔が共に行く」ということは可見性が認められる、ということだ、と申します。つまり「神の顔が共に行く」ということは不可見的なものが、可見的になることだ、とブーバーは言うわけです。それは場所の可見性であって、ただの像や形の可見性ではなく、「何物でもない可見性」である、ということまで、ブーバーはヘブライ語原文ではっきり言っております。ですから、私はこれはむしろ「無の可見性」とでも言うことができるような可見性である、と見ております。更にブーバーはこの問題を押し進めて言っておりますので、それを引用いたしますと、結局、これは身体的というか、感性的なものをも含んだ精神性というか、霊性というか、そういう意味での霊的空間ということを言うのです。二四章について、見えないのですが、天蓋の上にあるもの、そこに神が在すということを想定したのですが、三三章との関連では旧約において神は――これはある意味で、族長時代からそうですが――見えないけれども、同時に見える、ということを、ブーバーとかアンドレ・ネエルとかヘーシェルといったユダヤ人の学者は言うわけです。さらに身体性と関わらせて、サクラメント的とも言っています。サクラメントは物素にまで及ぶ霊性です。これは、われわれの信仰の問題でもあるのです。われわれの信仰というものを、何か心で感じるとか、神を感じる、あるいは聖霊の問題についても、何か聖霊を感じる、というようなこと言うとすれば、そうではないのだ、とブーバーやネエルやヘーシェルは言っているのであり、身体で霊を受ける、ということを述べているわけです。次のように言えば、やや分かりいいでしょう。つまり、ブーバーやネエル、ヘーシェルのようなユダヤ人の学者が強調するのは、西洋人の学者の場合には、一面的に精神性といったことで、「ガイスティヒカイト」というようなことを申します。しかし、ブーバーらは、そうした意味での、単なる精神性といったものは旧新約聖書を通して、霊性ということではないのだ、というのです。聖書のいう霊性とは、何かの意味で身体に及んで来ていることだ、と申します。これはわれわれの問題です。われわれ自身が聖霊に感じる、ということは、単に感じるということではありません。聖霊に身体で触れている、ということです。聖霊を宿すことです。ですから、キリストの身体なる教会、という言い方が新約聖書に出てくるのです。われわれ新約聖書で、聖霊ということを学びます時に、何か非常に抽象的に受け取ってしまうか、またはたかだか、霊的直感で何か感じる、そういう程度ではないでしょうか。けれども、聖書が言っているのは、キリストの身体なるものと深く関わるのですから、その意味で、ブーバーなどから学ぶところが非常に多いですし、ネエルやヘーシェルやブーバーなどをよく読むわけです。主として、ブーバー、ネエル、ヘーシェルから学ぶのは、今言った意味での形という言い方をすることによって表わそうとしている一種、身体性にまで及んでいるサクラメンタルな神の霊性なのです」。
物素(質料)にまで及ぶ、サクラメンタルな神の霊性ということを、ユダヤ人の学者から学び取ることができるという指摘は、興味深いものがあります。それは人間が何によって生かされているかということについての、ある根本的な視座を提示しています。関根は、聖書の記述を「通して」、ある種の霊的領域に突入しているという感があります。
「そういう可見性ですから、不可見的なものが可見的になること、だから場所の可見性だ、という言い方をするのは、われわれにとって大変興味深いのです。それは場所の論理というか、場所の哲学といったものを仏教を通してわれわれも受け止めまして、西田幾多郎先生はもちろん、「場所」ということを哲学的に重視して言われたのですが、私は東洋思想の一つの大きな特徴として、霊肉二元といった西洋的なものではなく、一元だと思うのです。ところがブーバーは、期せずして、そういう意味で場所の可見性であって、像や形の可見性ではない、と言っております。何故、場所の可見性であって、像や形の可見性ではないのか、と言いますと、それはただの有ではないからです。有ではないが単なる無でもない。だから、その意味で「無の可見性」という言い方をするとすれば、これはブーバーは使っておりませんが、私はブーバーを読み、西田哲学と結びつけまして、「無の可見性」という言い方をしております。これはただ聖書を読んで、そう解するというだけの問題ではなく、われわれの聖霊体験の問題なのです。われわれの聖霊体験が本当に身体でキリストを受けているか、そういう意味でキリストの身体に属していると言えるか、そうでないとすれば、それは観念であったり、感情であったりして、何か聖書的には非常に重要な契機が欠けてしまうのです。その意味で、私はヘーシェルを通しまして――ブーバーもネエルもヘーシェルも翻訳がありますから、読もうとすれば、読めるわけですが――今言った意味で問題が極めて重要であることを学びました、これは正に現代のわれわれの問題であると」。
ここで、関根自身の口から、自己の拠って立つ「聖霊体験」が述べられています。関根にとって聖書は、そこから霊性を学び取るべき場所であって、単なる学術的な研究対象ではないということは明らかです。しかもその体験は、単にキリスト教のうちに限定されるのではなく、仏教やユダヤ教にも通底するものがあるということが示唆されています。論述の学問的厳密さを求めるならば、そこには飛躍があるかも知れません。しかし今を生きる人間にとっての宗教を問題にするのであれば、そこには無視し得ない何かが語られていると言うべきではないでしょうか。関根は、「聖書的には非常に重要な契機」としての「聖霊体験」の上に立って、身体で「キリスト」を受けることを要求します。西洋の学者が理解するような「ガイスティヒカイト(精神性)」としてではなく、キリストを身体で受けるということの大切さを主張しています。それは極めてサクラメンタルなキリスト論であって、そのままカトリック教会にも通じるような物言いです。しかし「無の可見性」ということが関根の強調点なのであり、それこそが聖霊体験であると言われているのであって、儀礼としての「聖餐式」の大切さが殊更主張されているわけではないでしょう。
「モーセが金の子牛事件で、新しく教えられたことは、神が具体的に臨んでくださる、ということでした。その具体的に臨まれる、ということが三三章一二節以下に書いてあります。出エジプト記三三章七節から読みますと、
7モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた(*1)。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。8モーセが幕屋に出て行くときには、民は全員起立し、自分の幕屋の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った。9モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、ヤハヴェはモーセと語られた。10雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した(*2)。11ヤハヴェは人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。
*1 この「臨在の幕屋」と訳してあるのを私はこの頃では「会見の天幕」という訳をしまして、モーセと神の出会いを中心に見ます。
*2 ここではモーセが中心になっていて、臨在の幕屋は元来は宿営に、そのまま属していたのですが、三二章の出来事以後、幕屋は一般の宿営から離れた、特別な場所に置かれて、その幕屋でのモーセの体験、そこでモーセが「神と語る」という体験が中心です。
ヌンの子ヨシュアは、そういう意味で幕屋の番人というか、常に幕屋にいたわけです。しかし、モーセは幕屋から離れるということがあって、またモーセが幕屋に行くと、雲が下りてきて、そこに神の霊が、あるいは神ご自身が具体的に下ったということが記されています。それが「顔と顔を合わせてモーセと語られた」という一一節の問題です。
一四節の「わたしの顔が同行し、あなたと一緒に行き」ということと結びつけますと、モーセのこのような体験、これはある意味で仲保者としてのモーセの体験であって、先に学びました契約と律法、その律法の代表的なものとして、十戒をかなり詳しく見ましたが、そこでは、このような意味での契約と律法を結びつける神の恩恵という角度からは申しませんでした。もちろん、出エジプトの恩恵という角度から契約が問題にされ、そこから戒めが問題にされ、十戒が存在する、ということを申しました。けれども、今の個所で私はモーセの第二番目の問題というか、重要な点として、先程申しました観点を取り上げた次第です。これは新約との関わりもありますし、またわれわれの毎日の聖霊体験と申しますか、聖書はどうも旧新約聖書を通して、聖霊体験をそういうふうに見ている、と申しますか、むしろ、聖書の神は創造の世界に関わっている神なのです。単に抽象的な、天に在す神というようなことではないのです。「天に在すわれらの父よ」といった具合になっておりまして、今見たような神体験はとかくわれわれ忘れ勝ちではないでしょうか。たとえば、教会なら教会というものがあって、そこに中心的な礼拝の対象などがありますと、そういうものを有難く思うような心、それは聖書的にいえば、フルイドゥムであって、何か霊的なものが半分、物的なものが半分といった意味で流動体的に問題を受けとっている場合が多々あるでしょう。しかし、そういうものではないのだ、ということをこの間から言っているのですが、更にそのことの意味を違う角度から、その奥にあるものとしての「神の顔」ということを中心的なこととして、「臨在の天幕」あるいは「会見の幕屋」、「出会いの幕屋」、訳はいろいろ付けられますが「オーヘル・モーエード」というものが出て来、そのことがモーセのところで学ぶべき重要な点であり、これは同時にわれわれ自身の問題であります」。
最後に関根は「臨在の幕屋」を、我々自身の問題として、取り上げます。神と、ある意味で仲保者であるモーセと、そして民との関係が、「臨在の幕屋」という宿営から離れた場所を中心として成り立ってくるということが、すなわち今日の我々自身の問題であるということは、それによって教会の礼拝の集まりが示唆されていると理解することも可能です。しかし、それによって関根が無教会の自分の「集会」のことを考えているのだとすれば、少し恐いことです。無教会が、その指導者のカリスマ的「自負」によって成り立つのだとしたら、彼は自分をモーセのような存在に見立てることになるからです。既成の教会に、何か流動体的なもの(「半霊・半物」的なもの)があるからと言って、真の「臨在の幕屋」は無教会にこそ見出されると主張されるのであれば、そこにも別の危険性が潜んでいるのではないでしょうか。そのときにこそ、聖書についての冷静な学問的批判が必要になるでしょう。信仰と勝手な「思い込み」との差は紙一重だからです。しかしこの問題は、関根自身が教会と無教会について、どのように考えているかを見なければ即断できないことです。次回はその問題を取り上げます。
本書は1995年4月から1996年2月まで、9回にわたって、「無教会研修所」の講座として行われた講義の筆記に基づいています。最終章(第八章)は「パウロとヨハネ」と題されています。この9回目の講義の初めに、関根は、キリスト教の信仰について端的に語っています。それは関根正雄という信仰者の一面を表わすものです。
「キリスト教の信仰というのは、イエス・キリストの歴史的、また超歴史的事実の――あえてこれも事実と言います――の上に成り立っていますので、全くそういうことに関係のない、私はこう信ずる、と言うだけのことでしたならば、聖書の信仰は成り立ちません。その点で、仏教と根本的に違います。仏教でしたら、こちら側の宗教的人間が悟りという所に、だんだん修行を通して到達することでしょうから。キリスト教の信仰であれば、そういう、こちら側が修行し、瞑想し、祈りをして、そういう所に到達するのではないのです。そうではなくて、やはり歴史的事実にひたすら縋る、しかしただ、縋っただけでは信仰は成り立ちません。そこにキリスト教の難しさがありますでしょう。向こう側から、何か来なければならないのです。
八木重吉の
きりすと
われにありとおもうはやすいが
われみずから
きりすとにありと
ほのかにてもかんずるまでのとおかりしよ
という詩があります。
「きりすと われにあり」というのは、宗教的経験ですね。ですから、仏教のお釈迦様が自分と一緒におられる、というのと同じ種類のものです。ところが、「われ きりすとにあり」と、超越的なキリストの中に、自分が全部移される、そういう点が仏教と違う、というふうに八木重吉は歌っているのです。
それとも関わりますが、われわれの場合に、キリスト教は仏教に対して、ずっと簡単だ、と申します。けれども、そんなに簡単でしょうか。よく考えてみますと、今言っておりますような歴史的、超歴史的なイエス・キリストの事実に、本当にどうやって関わるのか、信じます、と言っても、言葉だけかもしれないですね。具体的にいえば、み霊がわれわれに示して下さらなければ、分からないことなのです。別に一回的に示されるのでなく、回心の経験がなくても、十年、二十年かかっても、こういう信仰が与えられた、ということを感謝しているのであれば、それでちっとも間違いではないのです。けれども、やや理論的にいえば、そうした場合でも、歴史的というか、向こう側のこと、「われ、キリストにあり」ということが、しっかり立っていませんと、仏教的というか、宗教的人間がそう信じているだけである場合もあります。その点は厳密に考えなければいけないでしょう。けれども、あまり難しく考えない方がいい、ということもありまして、「幼な子の如く」ということを、イエスは言われたのですから、幼な子の如くに信ずればいい、とも言えます。ただ、厳密に言えば、そう簡単ではない、ということです」(p/293-295)。
ここには「典型的」なキリスト者の信仰が表明されています。しかし、この記述からだけでは、関根がどうして「無信仰の信仰」などと言い出す必要があったのか理解できません。私が本書の「紹介」の作業に取り掛かった理由は、関根の「無信仰の信仰」とは、一体、何を意味しているのかということを探ることにあります。そこでこの第八章の途中を飛ばして、その問題が論じられている部分(p.300-306)に進むことにします。先ず、関根が、義認と聖化とを論じているあたりから引用が始まります。
「ガラテヤ書五章五節
わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
ここでは「義とされた」ということと、「霊」が働いてきて、どうしても「聖化」の問題になってくる、と思うのですが、そういう関わりのことは、Tコリント六章一一節にも「義とされる」ということの前に、「聖なる者とされ、義とされています」という言い方があります。これは神学的にいえば、「義とされること」すなわち「義認」と「聖くされること」すなわち「聖化」、この「義認」と「聖化」の関係をどう捉えるか、これは非常に難しい問題です。難しい、というより、義認と聖化ということを二つに分けて捉えているのではないか、と思われます。ところが、パウロはそうではないのです。だから、すぐ聖化のことを先に言って、義認を後で言う、今読みましたTコリント六章一一節のようなことがあるわけです。聖化が先に述べられ、義とされることが後に書いてある、ということは、パウロがいかに、義認と聖化を順序として考えていないか、を示しておりますね。これは、ガラテヤ書五章五節の「義とされる望み」なので、六節の「聖化」とどう関わるか、という点で、大きな問題となります。また、パウロの思想としていえば、罪と律法と死ということを極めて尖鋭化して捉えまして、罪ということが、「ハマルティアー」という単数で出て参ります。これは、ヨハネでもそうなのですが、「罪」ということが「ハマルティアイ」という複数で出てくるよりも、中心的にはパウロでもヨハネでも「ハマルティアー」と単数で出てきます。これは、彼らがいかに罪ということを、本当に問題にしていたか、ということでしょうね。具体的なハマルティアイということよりも、むしろ「罪そのもの」なんです。その罪そのもの、それが、十字架から明らかになる、というのが、それこそパウロの信仰の具体的な中心です」。
十字架によって示された罪の現実から、どうして義認と聖化という「望み」が生じてきたのかという、「復活」の転換的事態については、ここで述べられていません。ここではただ「義認と聖化」、そして「罪」が対比されて語られています。
「「律法が燃え立つ」という言い方、また捉え方ですね。律法ということがあるので、はっきり罪が分かるということ、これは先程触れました、ロマ書七章七〜一一節あたりです。更にロマ書では、一〇章四節で、「律法の終りであるキリスト」という言い方が出て参ります。この「終り」(テロス)というのが「終り」とも解されますし、「完成」、「目標」とも解されます。従って、新共同訳では、「キリストは律法の目標であります」となっております。いずれにせよ、律法ということと関わらせて、キリストが前面に出てくること、これがパウロの大きな特徴です。ですから、ロマ書七章が律法による罪の問題、そして八章は新しい生命の問題、愛を通して律法が成就する、と言ってもいいようなことが、八章には書いてあるのです」。
何か急いで論述しているという感じで、話が次々に展開して行きます(省略があるのかも知れません)。しかし、ここでも「律法による罪の問題」と、「新しい生命の問題」が対比されています。
「キリストにあるのは霊にある、ということと同じである、というのがロマ書八章九〜一一節にありまして、「霊に従う歩み」ということがロマ書八章で言われ、強調点がそちらに移行しております。これは有名な、直説法と命令法の関係でして、神学的にはいつも問題になることです。例えば、ガラテヤ書五章二五節に書いてありますことを、直説法の具体的な例として出すとしますと、「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」、こういう直説法的なことと、命令法的な「前進しましょう」ということですね。しかし、その前に、「霊の導きに従って生きている」という直説法があるのです。これが、よく問題にされますパウロにおける直説法と命令法の関係です。この関係は、パウロの論理がそうだ、ということではなく、やはり、無信仰の信仰ということとも関わりますが、難しくいえば、矛盾的関係だと思います。より厳密にいえば、絶対矛盾の自己同一という言い方で、西田哲学からわれわれが学んだものです。この絶対矛盾の自己同一という言い方は、私としては無信仰の信仰の場合の論理として、考えております」。
ここで「無信仰の信仰」という言葉が出てきます。これについては最後に少し取り上げることにします。直説法と命令法のことについて言うなら、我々は気づかないうちに、既に「霊の導きに従って生きている」、だからそのことをはっきり自覚して、その生を前進させて行きなさい、と理解することも可能ではないかと思われます。なぜそこに矛盾的関係が読み取られなくてはならないのか、ここだけでは不明です。
「今問題にしております、直説法と命令法が重なって出てくること、この両方共、充分に意味を持っている、直説法も命令法も、命令に従って生きている、という直説法、そして、だからそれに従って歩みましょう、という命令法、その関係が旧約から新約にわたって、聖書の論理がどうなっているのか、ということを考えますと、私は日本人であるからでもありますが、西田哲学による絶対矛盾の自己同一的な論理、これが旧約、新約を貫く論理だ、と解します」。
直説法も命令法と受け取るという理解の仕方には、もしかしたら、モーセのところで出てきた断言法と決疑法のことが、関根の念頭にあるのかも知れません。しかし直説法は直接法であって、命令法ではありません。前の例を再び持ち出せば、あなたがたは既に「霊の導きに従って生きている」(直説法)、だから、その事実に基づいてさらに良く生きて行きなさい(命令法)ということに、矛盾的関係を見出すのは困難です。従ってここには何かそれ以上のことがあると想定されなければ、関根の言うことを理解することはできません。何か「無信仰の信仰」と言わせるものがある筈です。先程来の「義認/聖化」と「罪」との対比、また「新しい生命の問題」と「律法による罪の問題」との対比ということに関連して、対比された二項を「矛盾の自己同一」と受け取らせる理解の仕方が関根にはあると考えるべきことのように思われます。なお、関根が、「絶対矛盾的自己同一」ではなくて、「絶対矛盾の自己同一」という言い方をするのは、田辺元を解して西田を受け止めているからだ、と誰かが指摘していたように思いますが、その辺のことは詳らかではありません。いずれにしても、関根はパウロの二項対立的な論法を問題にしているようです。
「けれども、パウロは必ずしも、そう解してはいないでしょう。パウロは絶対矛盾というようなことで解してはおりません。かなり、はっきりと、直説法と命令法とに分けて、述べるわけですから。そして、パウロの場合には、律法と恵みというふうに言うのです。そういう意味で、パウロはかなりヘレニズムの世界に生きた人でもあります。パウロの生涯のところで、キリキアのタルソで生れた、と申しました。タルソというのはキリキアの町ですが、シリアとキリキアは並んでおります。このあたりはヘレニズム世界の中心で、そのキリキアのタルソもその中心地の一つです。ですから、パウロ自身がユダヤ教の教養を深く受けて、そこに生れたということが事実なのですが、同時に、ヘレニズム期ユダヤ教の世界で生れたのだ、ということも言っておかなければなりません。ですから、パウロという人は矛盾しているのです。初めから生れが、ユダヤ生れとか、エルサレム生れ、というのならば別です。けれどもヘレニズム世界のタルソで生れ、その後で、それだけでは足りない、という感じでエルサレムへ来たのですから。そこで、ガマリエルに就いた、ということでしょう。ですから、パウロという人は、言ってみれば、二元的なのですね」。
キリスト教では当然視されている「福音と律法」という捉え方に、関根は敢えて日本人として異を唱えるということでしょう。これはかなり大胆な発言です。その姿勢は旧約聖書の「十戒」のうちにも恩恵の神を見るというところにまで貫かれていると思います。
「その二元的なものをパウロは一元的なものにしようなどとは考えなかったでしょうね。生活そのものがそうなっていたのです。二元で一元、一元で二元、これはわれわれの場合に、論理的には絶対矛盾の自己同一という論理を西田哲学から、借りてくることが出来ます。しかし、西田哲学の場合には絶対無即絶対有ですが、聖書は絶対有即絶対無としての矛盾の自己同一なのです。これはお分かりにならなくてもかまわないのですが、要するに私としては、日本人としてキリスト教を受け取るわけです。無教会というものにしても、「無」というのは何か、という問題、この問題はちっとも突きとめられていないでしょう。けれども、私は、絶対矛盾の自己同一的な意味での「無」と解しております。もちろん、「有」の方が先です。無教会にしても、有教会なのです。これを誤解して、無教会だから、無の方が先だ、と思っているのです。けれども、それはやはり、聖書的ではないでしょう。無教会の無の方が先なのならば、聖書的には、これは間違いですね。聖書はパウロの場合もヨハネの場合も、「神の民」中心なのです。パウロ・ヨハネの思考が教会的であること、これは言うまでもありません。広義の教会なしに、パウロ・ヨハネの信仰は全くあり得ないのです」。
無教会の「無」は、絶対矛盾の自己同一的な意味での「無」であるとは、どういうことでしょうか。無教会は「教会ではないが、教会である」、「教会であるが、教会ではない」ということでしょうか。しかし無が先ではなくて、有が先であると言われます。それが意味することは、無教会は「教会の中の小さな教会」に留まるということでしょうか。固定化された既成の教会に対しては否定契機であっても、それはあくまでも教会の教会性を引き出すためであって、それを全否定することが無教会の役割ではないということでしょうか。そのような形で無教会も「広義の教会」に属するということでしょうか。しかし日本人としてキリスト教を受け取るところに「無教会」が生れてきたということは、たしかにその通りのことでしょう。たとえそこに西田哲学に結びつく必然性が見出されないとしても、西洋のキリスト教がそのまま日本に定着するとは考えにくいことです。
「イスラエルというものは、それが何回も無的なものに接しまして、その度に、預言者などで、さんざん否定されます。その預言者たちは、有なる神によっているのです。無なる神などによっているのではありません。十字架に至って、初めて有即無ということが、はっきり言えるような事態になってきておりますが」。
モーセのところでさんざん「無なる神」について論じた関根ですが、ここでは預言者たちは「有なる神」によっていたと言います。イスラエルが何回も無的なものに接したということは、ここでは単に神なき現実に陥ったということなのでしょう。そして預言者はその神なき現実に「有なる神」によって対抗したと言いたいのかも知れません。しかし、何となく整合性に欠けるような気もします。また十字架に至って初めて「有即無」ということが、はっきり言えるようになったということも、それだけでは説明が不十分です。イエスの死が、すなわち復活であるという、「矛盾的自己同一」の事態を言っているのであれば、ラディカルな福音理解として面白いのですが、本書の第七章「イエス・キリスト」を読む限りでは、関根もそこまでは徹していないように思われます。しかし「無信仰の信仰」という言葉を理解するためにも、この本の紹介の最後の作業としてその中の十字架に関する一節を引用いたします(p.288-289)。
「とにかく、十字架というものの本当の意味は、われわれ罪すら、信仰すら、そして自分の無信仰すら、本当に分かっていない者なのに、十字架上でキリストご自身が「わが神」と呼ばわりつつ、「何故、わたしを捨てられたのか」とはっきり言われた。「ガーザブタニー」というのですから、完全に「捨てる」ということです。「ガーザブ」というのはヘブライ語で、「サバクタニ」はアラム語ですが、意味ははっきりしております。さらに詩篇二二篇の初めの引用であることも。そして、十字架上の彼の叫び、これは先程から繰り返しておりますように、すでにもう解釈を経ているわけで、その解釈、マルコとマタイの解釈を私は受け入れまして、イエスが本当に、私共以下の所に下られた、彼こそ本当に無信仰の意味を知られたわけです。われわれは直接には知らないのです。ただ、キリストを通してだけ知り得る、十字架を通してだけ、自分の罪の深さを知らされ、信仰のなさを知らされる、と言ったらいいか、と思いますが。
パウロの場合には「義認」ということが、十字架の中心にあることを後で見ますが、私などもそれがやはり信仰の出発点になっているのは事実です。これは内村先生以来の伝統というか、十字架ということを本当に分からなくては、信仰は何も分からない、というふうに教えられてきています。私ももちろん、その意味で、十字架の信仰から出発し、今でも日毎に十字架の信仰です。けれども、その十字架の信仰というものを、どう解するか、お前は突き詰めたところ、どうなのだ、と言われれば、パウロなどが全然言っていない、ヨハネも言っていない、無信仰の信仰ということ、これは福音書記者が客観的なこととして伝えておりますが、やはり、福音書記者、共観福音書記者の解釈を含んでいるのです。その解釈を私は私なりに受け継いでいるだけに過ぎません。総じて、全部が原始教会の伝承なのだ、といえばそうですから、「エリ、エリ」なども、もちろん伝承です、あるいは解釈です。しかし、これはルターが取っていない解釈です。ヨハネも、またはっきりいえばパウロも、と言ってもいいでしょう、そういうことを中心には置いていないでしょうね。しかし、私はそれを中心に、十字架の意味を受けとります。十字架はいろいろな具体的経過を辿っておりますから」。
時たま、本の「あとがき」に興味を覚えるということがあります。この本の「あとがき」に私は興味を持ちました。山田望著『キリストの模範 ペラギウス神学における神の義とパイデイア』(教文館、1997年)というこの本は、著者の博士論文に基づいて書かれたもので、論文を審査したときの副査のひとり、荒井献氏が『「異端」の復権 ――山田望著『キリストの模範』を推す――』という推薦文を書いています。本の内容は一言で言えば、東方的ペラギウス的神学から西方的アウグスティヌス的神学への、神学的なパラダイム・チェインジを論じたもので、古代東方神学の「模範と模倣」というギリシャ的パイデイア(教育)思想に基づく、「神人共働(コーオペレーション)」の理説が、アウグスティヌスによって激しく斥けられた経緯が論述されています。私の感想としては、このペラギウス的な「神人共働」の理説は、その後西方において消え去ってしまったわけではなく、形を変えて存続し、宗教改革の時代には、むしろ、カトリックのエラスムスがペラギウス的で、プロテスタントのルターがアウグスティヌス的であった(ルターが所属していた修道会の伝統からして当然のことですが…)のではないかという印象を持っています。しかしここでは、本の内容に立ち入るのではなく、私が興味を持った「あとがき」の部分を取り上げてみたいと思います。
山田氏は宮崎で働いたメノナイト派の牧師の息子で、南山大学というカトリックの大学で学位を取得します。そのいきさつは「あとがき」に書かれています。私は、その昔、学生YMCAの主事として宮崎を何度か訪れましたが、その折、メノナイト派の「キリスト教学生センター」(だったと記憶しています)を訪問したことがあります。そのとき、地味な感じの日本人牧師にお目にかかったように思いますが、もしかしたらそれが山田氏の父君であったかも知れません。私はそこで女性の宣教師から「味噌汁」をご馳走になりました。私が「あとがき」に興味を持ったのは、そのような経験があったためであるとも言えますが、そこには以下に引用するようにおそらく誰にとっても興味深いストーリーが書かれています。事実(人生)は小説よりも奇なりと言ったところです。
〈今から十年前、一九八七年三月十三日、名古屋の南山大学で学んでいた弟が急病で倒れ、瀕死の状態にあるとの知らせを受けて、私は急遽、留学先のアメリカ合衆国から帰国した。独文科修士課程を修了し、父が牧師を務めるプロテスタント再洗礼派系の母教会で研修を受けた後、牧会者としての資格、ならびに研究者としての学位取得を目標に、目的を果たすまでは帰国しないことを念じて渡米したものの、それからほんの三か月後のことであった。当初、弟の命は「半日しかもたない」と聞かされていたために、私の帰国の目的は、家族と共に弟の葬式に出席し、家族を励ますことであった。数年後に帰国して弟の墓参りをするよりも、その方が家族のためにも良いし、私自身の気持ちにも区切りをつけることができるであろうと判断したからであった。ところが、弟は奇跡的に命を取り留め、その後も医者が驚くほど回復した。それは実に驚くべき、また、喜ぶべき出来事であったが、反面、私は、弟の看病を続け、また退院後もその生活を支えるために、もはやアメリカに戻ることができなくなってしまったのである。それまで、一度も住んだことのなかった名古屋の地で、新たな生活を始めはしたものの、経済的にはきわめて不安定で、しかも自分の学業は中断したまま、生活も学業も、先がまったく見えない状態にあった。
そんな折り、当時、南山大学でキリスト教美術の教鞭を執っておられたアルフォンソ・ファウゾーネ神父が、「うちはカトリックの大学だが、もし良かったら、弟さんの世話をしながら、神学科で学んでみたらどうか」と提案して下さったのである。ファウゾーネ神父からの紹介で、その時引き合わされた神学科の主任教授こそ、後に、博士号取得に到るまでの八年間、私の論文指導を担当して下さることになる恩師、ハンス・ユーゲン・マルクス教授であった。私は、それから一年間、教授の「恩恵論」の講義を含む、その他幾つかの科目を研修生として受講した。弟の看病とアルバイト、そして研修生としての学業を掛け持つ間、とりわけ私の神学的興味を引いたのは、教授の「恩恵論」の授業であり、中でも、アウグスティヌスペラギウスの論争、そしてギリシャ教父の恩恵論であった。プロテスタントの一員として、当然私も、アウグスティヌスの神学には多大な興味を持っていた。しかし、マルクス教授の「恩恵論」の講義を聴いている内に、私はむしろ、「異端者」ペラギウスの神学やギリシャ教父の神学が、私自身の所属する再洗礼派メノナイトの神学と多くの点で構造的に似通っているように思われてきたのである。また、病室での弟の看病を続ける中、彼の、病との壮絶な戦いと、しかもなおあくまでも前向きに、積極的に生きていこうとする彼の意志と生き様とを目の当たりにしながら、その有り様が、いつの間にかペラギウスの語りかける生き方と重なり合って来るのを、私は自らの否定しがたい実感として覚えたのである。マルクス教授が講義の最後の日に、「ペラギウスを研究している日本人は、今のところ誰もいないので、誰かやってくれないかと思っている」と話された時、既に私の決意は固まっていた。もし南山大学で研究を続けることになれば、自分が研究対象として扱うのは、ペラギウス以外にないと。
南山大学大学院に進学し、マルクスゼミに籍を置いてペラギウスの研究を始めたものの、千頁以上にも及ぶペラギウスのラテン語テキストを丹念に読み解いていく研究は、予想以上に困難を伴う、気の遠くなりそうな作業であった。しかし、ペラギウスの非論駁的書物を読み進める内に、当初予想していた異端的見解が出て来ないばかりか、ペラギウスのあくまでも前向きで積極的な、しかも機知に富んだ文章に私自身が励まされ、私の疲れ果てた心の中に生きる意欲が湧いてくるのを感じるようになっていた。ペラギウスの文書そのものが、一五〇〇年を隔てた今でも、読み手に生きる希望を抱かせる効力を宿していたのである。
とはいえ、研究を始めた頃の私にとって、与えられた課題はとてつもなく大きく、果たすべき作業も私の能力をはるかに越えたものであるように思われてならなかった。この地味で困難な作業を私に八年もの間続けさせ、また、最終的に私の学位取得を可能ならしめたのは、ひとえにマルクス教授の指導力があったからこそに他ならない。私自身、そして私のペラギウス研究も、マルクスゼミによってここまで育てられて来たことは、紛れもない事実である。特筆に値するのは、マルクスゼミの並外れたレベルの高さと、学問的にどこまでも真摯であろうとする、良い意味で常に張りつめた学的雰囲気である。ゼミ生には、一月に一度、自らの研究テーマについてあらゆる参考資料と共に、完璧なまでに調べ上げ、まとめ上げた発表が義務づけられた。マルクス教授の、歯に衣着せぬ率直な批評や、時として辛辣な評価に、発表者の誰もが相当の緊張感を覚えていたはずである。準備が不十分であったり、研究の落ち度が明白な場合など、発表前から逃げ出したい気持ちに駆られることがあったのは、私ばかりではないであろう。しかしながら、この学問的厳しさが、最終的には、研究者として一人立ちするに不可欠な基礎的知識や方法の習得、基本的研究姿勢の育成と訓練を目標としたものであったことに気づき、後日その学的厳しさにこそ、心底有り難い思いを感じ取ったのは、決して私ばかりではなかったであろう。私は、マルクスゼミでの厳しさに、密かに涙する日もあったとはいえ、むしろ今は、あの張りつめた緊迫感漂う雰囲気の中で鍛えられたことを、心から誇りに思っている。さらに、教室での緊張感溢れるマルクスゼミとは対照的に、二月に一度ほど、ゼミ終了後、ゼミ生とマルクス教授とが行きつけのステーキ屋で食卓を囲んで催された「第二のマルクスゼミ」が、実に愉快で、楽しく、解放感を共有する喜びのひと時であったことを経験した者も、私だけではなかったであろう。学位取得に至るまで、若輩者の私を叱咤激励しつつ導いて下さったマルクス教授に、心から感謝の意を表したい。
私が次に謝意を表したいのは、四十年に亙って宮崎県の農村、過疎地域でキリスト教共同体の形成と牧会活動に専心してきた父と、その父を支え、常に経済的困窮に苦しめられながらも五人の子供たちを育て上げた母に対してである。父は、再洗礼派(アナバプテスト)メノナイトの流れを汲む教会の牧師として、宗教改革左派と呼ばれた再洗礼派の霊的遺産を継承しながらも、西洋キリスト教の枠にはまらない、日本の地方農村に根ざしたキリスト教共同体の形成に全身全霊を注いできた。片や、改宗者獲得運動や、保守的な聖書主義を徹底して批判しつつ、他方、社会派の諸運動とも一線を画しつつ、地方農村の抱える社会構造的な問題と格闘しながら、二千年前のあのイエスが目指したものを日本においていかに具現しうるのか、真摯に問いかけつつ自ら実践してきたのである。その成果は、私の母教会でもある宮崎県の「霧島キリスト教兄弟(姉妹)団」として、さらに、都会へ出ていった「兄弟(姉妹)団」出身者を中心とする各地の自主集会(通称「集まる会」)として、さらに、キリスト教の枠さえも越えた各地方の有志たちを連携する「いしずえ・平和の会」として具体的な形を取りつつある。父がその最初期から求めてきた自発的信仰者集団(Voluntary Association)としての教会共同体は、再洗礼派共同体のそれを範としつつもその現代的再現では決してなく、むしろその範例に触発されながら、集まってくる一人一人にとって、自らをまた共同体外の関わりある者たちをも現に活かす集団を目指すものであった。しかしながら、この父の、目的のためには、自らの地位も、家族のための経済的安定をも犠牲にしようとする一途な生き様は、それを陰ながら支えつつ、なお五人の子供たちや共同体の一人一人に対して具体的細やかな配慮を身を挺して施し続けた母なくしては、到底不可能であった。今に至るまで物心両面において私を育て、支え励ましてくれた、父、母、兄弟団や集まる会、平和の会の皆さんお一人お一人に、この場を借りて心から感謝申し上げたい。
弟の発病以来、親身になって私たち家族一人一人のことを御配慮下さり、現在はドイツ、ザンクト・アウグスチン民族博物館館長をお務めのアルフォンソ・ファウゾーネ神父、また、家族同様の親しいおつき合いを深める中、とりわけ私の研究を励まし、個人的な奨学資金まで出して支えて下さった宮崎大学名誉教授、幡谷正明先生と奥様にも、切に心よりの感謝を申し上げたい。また、ルフィーヌス、ならびにペラギウス派の研究者であり、神言神学院図書館長としての多忙な生活の中、折に触れ資料の提供や助言を惜しまれなかった南山大学助教授ウォルター・ダンフィー神父、神学院図書館司書として、長年に亙り私の研究生活を見守り、また具体的な助言、支援を与えて下さった伊藤公子さん、ハーバード大学にて収集した、ペラギウス研究に欠かすことのできない数多くの参考文献を快く譲って下さった大学院の先輩磯部昭子さんに心から謝意を表したい。
十年前の弟の発病がなければ、恩師との出会いも、本書の出版に至るまでの研究そのものもなかったであろう。現在は復学して学業に専心している弟の、奇跡的な快癒の意味を、十年たった今でも租借できないまま、しかし今後、この恵みにいかに答えていくべきか、自らの課題として思案しつつ。
一九七七年五月五日
旅先の長野県大鹿村にて
山 田 望 〉
敢えて「あとがき」の全文を引用しました。
メノナイト派の青年が、弟の病気をきっかけとして、カトリックの恩師と出会い、「異端者ペラギウス」の研究者となるという物語は、それ自体稀有なことに属します。現代でなければ決して起こらなかったことでしょう。しかしそれにも増して私が心を動かされたのは、その父君の働きについて記述した部分です。「そんな人が居たのか」という感慨を深くしました。そしてその父の志を真っ直ぐに受け止めている著者の姿勢に、今日稀な美しい心を見ます。
メノナイト派は、宗教改革の時代に、大陸(スイス)でカトリック、プロテスタント双方から迫害された再洗礼派の一派で、その勢力の大半は戦いの中で殲滅されてしまいましたが、比較的穏健であったメノナイト派が生き残ったとされています。メンノー・シモンズという人に率いられたためにその名が冠せられました。クウェーカーと同様、平和主義者として知られています。バプテストと呼ばれる教派はイギリスのピューリタンの一派ですが、再洗礼派(アナバプテスト)の思想的影響を受けています。かく言う私もバプテスト派の洗礼を受けています。そういう私自身の経験からすると、キリスト教的偏狭さからは無縁に見える「霧島キリスト教兄弟(姉妹)団」の存在は、とても珍しいことではないかと思われます。著者の父君の働きはこの日本で特筆に値するのではないでしょうか。
そのような誠実で地道な働きがなければこの日本は変わらないのだと、我が身に引き比べて、著者とその家族の真摯な生き方に心打たれています。