閑老人のつぶやき 宗教について 6

     1 イエスの権威

     2 生の逆説的肯定

     3 擬人的神観と場所的神観

     4 もうひとつの世界は可能だ

     5 キリストは象徴として復活した

     6 自由の源泉

     7 生命論的キリスト教

     8 社会参加宗教

     9 三宝に帰依する

    10 つながりが人を生かす

T イエスの権威

「それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。ちょうどその時、けがれた霊につかれた者が会堂にいて、叫んで言った、「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。人々はみな驚きのあまり、互に論じて言った、「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」。こうしてイエスのうわさは、たちまちガリラヤの全地方、いたる所にひろまった」(マルコ1:21−28)。

イエスの権威は誰かから与えられたものでもなく、また社会的に付与されたものでもありません。いきなり「権威ある者のように」教え始めました。それではその権威はどこから来たのでしょうか。神からと答えるのが順当でしょう。しかし私は敢えて「いのち」そのものからと言いたいと思います。いのちに直接したところに生まれて来る権威というものがあります。新しいいのちの発現というべき事態から「新しい教」が生れて来ます。その教えは人々がこれまで触れて来なかった「新しい秩序」の発現(創発)を意味していたと思います。人間が語り、行なうところには生命の発現があります。しかし大抵のことどもは、人々がこれまで見聞きしたことであって、驚くに値しません。それでも歴史の中で、目覚しくも驚くべき事態というものが生れて来ることがあります。天才の作品や発明発見などはその類いです。イエスの出現、公生涯の開始は、人々に驚きを与えるものでした。なぜそれが新しかったかと言えば、いわばそれは個にして類を生きるものだったからではないでしょうか。ヘーゲルは「否定の否定」は「肯定」であると言いました。個に死んだ者が、再び類において、新しい個として生かされるということは、頭の中でわかったような気がしますが、実際にその通りに生きるということは簡単ではありません。そのことが実際に生起したということが、イエスの宣教だったのではないでしょうか。

宗教というものは、何ほどかその事態を反映しています。歴史的文化的に多様な表現形態を取るとしても、そこには「普遍的生命の発現」というべき事態があります。そして人々はそこに権威の出現を感じます。しかしそれは生きとし生ける者の根底にある、いのちの原基というべきものの開示であって、そこに生命の尊厳が示されます。シュヴァイツァーは「生命への畏敬」と言いました。そこに宗教の真の源泉があると言うことができないでしょうか。イエスはそのような「いのち」を生きた人であったと私は考えています。

しかし世の中にはまがい物の権威も存在します。人々がそれにたぶらかされるのは、権威の根底にある「普遍的生命」への畏怖をおぼろげに感じていながら、これが権威であると具体的に示されるものを見分ける目を持たないからです。

世の指導者と言われる人たちが、組織を代表し、国民を代表し、民族を代表するかのような顔つきで、実は私利に走ったりするのも、「個に死んで類に生きる」ということの消息をわきまえていないからではないでしょうか。この世の中でまがい物ばかりが横行するのは、田邊元の言い方を借りれば、「死・復活を行ずる」という覚悟を持つ人たちが、あまりにも少ないからではないでしょうか。

かくいう私も「イエスに従う者たち」のひとりでありたいと願いつつ、中途半端な生き方しかして来なかったのは、覚悟の不足のためです。

フォイエルバッハが「個体であるということはもとよりたしかに『自我主義者』であることである。しかし個体であるということは同時に、そしてもとよりいやおうなしに『共産主義者』であることである」(「非専門性としての哲学」参照)と言ったとき、彼が把握していたものも、私が今上に述べたことと別のことではないと思います。しかしそれをその通りに生きることはそんなに簡単なことではありません。それに近づきたいと思いながら、不様にも生き恥を曝しているのが、この私の実態であると言わざるを得ません。

しかし、そこに「いのちの促し」がある限り、そこから逃げることは誰にもできません。なぜ人が聖書に引き付けられるのかと言えば、イエスの招きは「いのちの招き」だからではないでしょうか。


U 生の逆説的肯定

「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。
神の国はあなたがたのものである。
あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。
飽き足りるようになるからである。
あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。
笑うようになるからである。
人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。
慰めを受けてしまっているからである。
あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。
飢えるようになるからである。
あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
人があなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである」(ルカ6:20b−26)。

イエスはどこに立ってこのような逆転の発想をなしえたのでしょうか。既に神の国(神の支配)が開始されているのだとしたら、その「絶対無差別の地平」において、貧しい者に祝福を、富んでいる者に呪詛の言葉を投げつけたのだと考えることができます。

それはイエスの幻想だったのでしょうか。今日までの歴史を振り返れば、確かにその通りだと言うほかはありません。何よりもイエスの十字架の死がそれを物語っています。

現実は悲惨です。不幸な者は不幸であって、決して幸せではありません。今、あのイラクで、そしてパレスチナで起こっていることを見れば、誰しも言葉を失います。

人類は既にアウシュビッツとヒロシマを経験しました。未来に対するいかなる希望も人間自身の手によって踏み潰されるでしょう。

だからイエスの逆説が成り立つとすれば、それは、人間とその未来に対するいかなる希望も絶えたところで、人がそれでもなお生きようとすることができるのはなぜなのかという、根本的な問題提起としてそれを受け止め直すときでしょう。

人間に対する一切の幻想を払拭したところで、それでも人生にポジティブに立ち向かえるとしたら、それこそがイエスが立っていた地平だったのだと考えてみたらどうでしょうか。人間はその悲惨の極みにおいて、なお、その生が根本的なところで肯定され、受容されているという命題が成り立たなければ、イエスの逆説も理解できないものとなります。

「希望に逆らう希望」(hope against hope)、それこそがなお人を生かす当のものではないでしょうか。

V 擬人的神観と場所的神観

八木誠一氏は近年「人格主義的神学」と「場所論的神学」という言葉を使って、新約聖書の「思想の構造」を解明しています。私はこれを敢て「擬人的神観」と「場所的神観」という言葉に言い換えてみました。私見ではこれはすべての宗教の成り立ちを解明するための手掛かりとなるものであって、八木氏が問題にしてきたようにキリスト教と仏教との間の対話に資するだけでなく、そもそも宗教というものを考察するための二つの基本的視点として理解すべきものではないかと思います。

それは未だこれからの課題として残されていますが、ここでは先ず、八木氏の『新約思想の構造』(岩波書店、2002年)の結語「場所論的言語の復権に向けて」の最後の部分を引用してみたいと思います。

「現代では、人格主義的キリスト教信仰は危機――あえて危機という――に瀕している。使徒信条をとっても、現代人は、たとえば救い主イエスが処女から生まれたというメッセージを聞くと、テクストの史学的批判に立ち入る前に、まずありそうもないことだと思ってしまうのである。死んだイエスが(墓から出るという仕方で、つまり一人格として)甦り、陰府に下り、それから弟子たちに現れ(この点は使徒信条には明言されていない)、天に昇り、やがて天から審判のために再臨する、という人格主義的な表象も同様である。「合図の号令のもと、大天使の声が響き、神のラッパが鳴りわたり、主ご自身が天から下ってこられる。まず死んだ使徒が復活し、そのあと生き残って(再臨を迎える)我々が、彼らと一緒に雲につつまれて引き上げられ、空中で主と出会う」(Tテサロニケ4:16−17a)というような終末預言は、現代人にはやはり将来起こるべき客観的事実の告知というよりは神話的な物語に聞こえてしまう。

処女受胎や空虚な墓の物語は、イエスへの敬虔な愛情が生み、イエスの永遠の有意味性を文学的に造型した感動的な物語として語り伝えていけばよいのではなかろうか。これらの史実生を「信じ」ない人間を不信仰の徒として教会から排除していると、そのうちキリスト教会の方が公共的コミュニケーションの世界から排除される結果となるのではなかろうか。

キリスト宣教にはありそうもないことが含まれていると感じられたのは、なにも今はじまったことではない(行伝17:32)。昔からその不合理を「信ずる」のが信仰だといっても、また信仰がなければ地獄に落ちると「警告」しても、このままでは教会の門を叩く人は減るばかりだろう。統計によると、わが国では(わが国だけのことではないが)最近数年間は信徒数の増加は頭打ち、むしろ減少気味で、特に教職者の減少が著しい。現代世界への影響力も同様である。しかし、キリスト教はもともと単なる神話ではない。志望者を天国に送り込むための救済施設でもない。現代でも通用する真実である。というより、社会が自我の欲望を刺激し開発して経済成長を維持するシステムとなり、自我の欲望充足の文明が圧倒的に肥大化して、「自己」(人間本性)が忘却されてしまった現代においてこそ、人間性実現のため本当に必要な真理を蔵しているのである。そして、その真理はとかく無視されてきた場所論的言語で語られているのだ。教会から人格主義的言語一般をなくせといっているのではない。教会は否定すべからざる経験に基づく場所論的言語を敬遠ばかりしていないで、それを正しく理解した上で、教会的告知と説教の中心部にまで復権させるべきである。実際、プロテスタントの側では小田垣雅也、カトリックの側では、本多正昭と小野寺功の神学的営為がこの方向に向かっている(文中の注省略)。そしてさらに、もし「うちなるキリスト」と呼ばれた現実が、実は、本書で「自己」と呼ばれる人間的普遍的な現実だということが教会の内外に明らかになれば、教会は、同じ「自己」を語る他の宗教・思想と共に、人間性の自覚と実現のために自信をもって働くことができるはずである。キリスト教の唯一絶対性を主張するいわれはない。実は、場所論的言語は命題式の形で検証されればよい、というものではない。もっとも大切なことは、「キリストわがうちに生きたもう」と言表できる自己経験が、自分自身の事柄として現実化されることなのだ。本書はそのために書かれたのである」(pp.293-294)。

ここからは八木氏の「肉声」が聞かれます。先日、日本クリスチャン・アカデミーの集会で久しぶりにお目にかかったとき、八木氏のその思いを直接確認することができました。京極純一が「植村正久」を論じたときの言葉を使えば、教会は「ポケット地帯」になってしまい、エソテリック(秘教的)な集団と化しています。他者にも通じる「共通言語」を失って、身内だけに通じる独りよがりの言葉しか語られない世界では、そもそも「公共的コミュニケーション」への企図など存在しません。そこでは「同族拡張主義」的な伝道の働きだけが強調されて、しかもその効果ははなはだ心もとないものとなります。八木氏はまだ教会への期待を捨てていないようですが、私の関心は既にそこにはありません。教会に自己変革を期待するのは無理というものでしょう。教会がその教義にあくまで固執するのは、一つは永年の「マインド・コントロール」(良く言えば「宗教教育」)の結果であり、もう一つは、八木氏が指摘する通り、抜き難いその「一神教」的体質(唯一絶対主義)のためです。我々にできることは、ただその「死にゆく死」を静かに待つことだけでしょう。だから教会の変革ではなく、人間の変革こそが求められるべきでしょう。

そこで八木氏の言う「自己・自我」の「仮説」の意義が問われることになります。八木氏は、「自己」は人間本性であると言います。人間を類的自己の相で見るか、それとも個別的自己(自我)の相で見るかということは、これまで私自身も探究してきたことです。そこに問題があるということは確かですが、一言で類的自己の実現と言っても、それは極めて困難なことで、なかなか理屈通りには行きません。八木氏の分析は、その問題を指摘するだけに終ってしまっているように、私には思えます(しかしだからと言って、それ以上のことを誰かができると言っているわけではありません)。

だから八木氏の功績は、「宗教的言語」を「擬人的(人格主義的)言語」と「場所的(場所論的)言語」に分節して見せたところにあるでしょう。両言語の交錯に宗教的言語の特質が見られるのですが、場所的言語がより基底的であって、そこに宗教発生の秘密があると言ってもよいでしょう。それはあらゆる宗教を解明するための手掛かりではないかと思います。いわば「神の場」における「場の神」のうちに、宗教の本質があるのではないかと考えます。その問題を、なぜ宗教には「聖所」(聖殿)があるのかと言い換えることもできます。なぜ人はそこに「力」を感じるのでしょうか。人はなぜそこに「本尊」を祭るのでしょうか。これは人間にとって普遍的なことであって、あらゆる宗教はその枝分れであると言ってもよいくらいのものです。ここには宗教人類学の研究テーマがあります。宗教において場所的言語が基底的であるということには、このような人間存在の場所論的解明が伴います。しかしその問題に踏み込むためには多くの専門的知識が必要とされます。今の私にはそこに問題があると指摘することができるだけです。

西田幾多郎が「場所的論理と宗教的世界観」を書き著して以来、日本の宗教思想界はその多大な影響を受けて今日に至りました。私もその影響のもとで「エコセオロジー(全宗教の神学、神の場の神学)」などということを考え始めました。八木氏の近年の労作がやはり「場所論的神学」の構築を目指しているということに、私は期待を寄せています。しかし八木氏の「類型論的構造論」のアプローチは、研究の対象が聖書の言語表現に限定されていて、全宗教の神学に至るためには、まだ部分的な成果が示されているに過ぎないと感じています。なお八木氏の構造論的アプローチは、広い意味での「構造主義」です。いわば聖書の文法を解明しようとするもので、それは遂に構造の記号的表記にたどり着きました。これはこれで更に彫琢されるべきことですが、それは「体験主義」的宗教理解に背馳する側面を有しています。その両面を併せ持つところに八木氏の思想の特徴があると言ってもよいでしょう。しかしそこに氏に対する誤解のもとがあるとも思われます。


W もうひとつの世界は可能だ

この間、ホームページへの書き込みができないまま、鬱々と日を過ごしていました。この私自身を含めて、人間の世界の現実はまことに悲惨であって、何かを述べることには必ず虚偽が含まれます。そこから一歩も前進できない自分の姿に、打ちひしがれていたと言うべきでしょう。しかし何もしていなかったわけではありません。

54日〜5日には幕張メッセで行われた「九条世界会議」に参加しました。幸い両日とも会場に入ることができました。大阪や仙台で行われた会議の参加者を含めると延べ3万人を越す人たちが参加したと言われています。どうしてそれだけ多くの人たちが集まったのでしょうか。思い出すのはブラジルのポルト・アレグレなどで行われてきた「世界社会フォーラム」のことです。そこには10万人以上の人たちが集まります。それは「運動」ではなく、先ずもって世界の民衆活動家が集まる「空間」であると聞いたことがあります。それと同様にあの「九条世界会議」は、平和を願う人々が集える一個の「空間」だったのではないかと思われます。主催者は民衆が集える「お祭り広場」を演出することに成功したのではないでしょうか。それが人々の欲求に応えたからこそ、主催者の意図を越える数の人々に訴え、あれだけの成功を収めたのではないかと思われるのです。

「世界社会フォーラム」では「もうひとつの世界は可能だ」という言葉が合言葉になりました。グローバリズムとネオリベラリズムが荒れ狂う、戦争が不可避とされるこの世界で、その現実に抗って、Another world is possible. と主張することには、ユートピアニズムが含意されています。私にはそれは賀川豊彦の「神の国運動」を思い起こさせるものがあります。神の国=もうひとつの世界は、人々の理想として、願望として、切実に希求されています。現実が悲惨であればあるほど、人々のその欲求は強まります。その欲求に表現を与えるためには、先ずもってそれを願う人々が集える空間を創出することが求められるのではないでしょうか。「じゃなかしゃば(そうではない世界=娑婆)」は人々の集いの中で希求され、共有され、確認されることによって、一つの明確な像(ヴィジョン)を形造るに至るのではないでしょうか。

憲法九条はまさに理想であって、現実ではありません。しかしその理想こそが人々の祝祭空間の演出を可能にし、多様な人々を結集させるのではないかと思われます。状況が危機的であればあるほど、人々の「じゃなかしゃば」への欲求は強まるでしょう。その欲求に形を与えることが社会運動の課題であると言うことができるでしょう。

今の私には、諸宗教は自己目的的な存在ではなく、この理想に奉仕する限りで存在理由をもつもののように思われます。特定の宗教的目的のために世界が存在するのではなくて、理想的な世界の実現のためにこそある特定の宗教が存在し、その限りでその存在の意味が与えられていると思われるのです。そのとき初めて宗教は「神の国はまさにあなたがたの只中にあるのだ」と主張することができるでしょう。田辺元の言う「第二次宗教改革」とは、まさにそのことを指しているのではないでしょうか。

これからも「お祭り広場」を演出していこうではありませんか。


X キリストは象徴として復活した

「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえられなかったであろう。もしキリストがよみがえられなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせた言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえられなかったであろう。もしキリストがよみがえられなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」(Tコリント15:12−19)。

キリストが復活したとは、すなわちキリストが象徴として復活したということだと、私は考えます。そこで「キリスト象徴」の意義について少し考えてみたいと思います。

キリスト象徴は人類を代表し、キリストとして超越的に自存し、神と人、人と人とを仲介し、神と人、人と人との関係を刷新します。それは礼拝という祝祭空間において生起する出来事です。それが「キリストが復活した」ということの意味です。

マルクスは「貨幣とキリスト」の類似性に着目しました。たしかに貨幣は財貨一般を代表し、貨幣として超越的に自存し、人と人、人と物とを仲介し、そしてそれらの関係を刷新します。その意味で貨幣は象徴としての側面を持ちます。しかしそれは市場空間において成り立つ出来事です。「信仰」とは異なって、実際に物が取引される空間で成り立ちます。しかし宗教的象徴も貨幣も「信認」される限りで用をなすという共通点があると言えます。どちらも信認されなければ、交換(取引)が成り立ちません。贋せがねが嫌われるのは、当然それが信認の秩序を破壊してしまうからです。

代表し、自存し、仲介し、刷新するということに、私は象徴の働きを見ます。それらは、記号(象徴・貨幣)の働きとして考えられるものです。

それでは象徴が自存するとはどういうことでしょうか。パウロが、復活信仰として、既に宣べ伝えられていることを受け容れたように、所与の体系として、既に与えられているということではないでしょうか。しかし当事者以外は、そこに絶対的な意味を見出すことはないでしょう。つまり、マイケル・ポラニーの言葉を使えば、それは「棲み込み」の問題であって、象徴はあたかも自存するかのように見えると言った方が正確でしょう。

宗教的象徴は、経典、信条、祭式において、自らそこに嵌め込まれ、自らそこに棲み込んでいる自己にとってのみ意味をなすことです。しかしそれは他人に対する合理的説得力を持ちません。復活を合理的に説明することなどできません。その体系の中に棲み込んで、それを信じることができるだけです。

人間社会はそのような「宗教的象徴」を必要としているように思われます。つまり、人間は合理的には説明できないような形で、「生の根拠」が開示されることを望んでいるように見えます。しかしそれがキリストでなくてはならないという理由はどこにもありません。信仰の当事者がそう考えるというだけのことです。

そのものは称号で呼ばれ、象徴となります。しかし、代表し、自存し、仲介し、刷新するそのものは、実は不可視のいのちの働きであって、その限りで遍在するのだと言えないでしょうか。その意味でキリストと阿弥陀仏の間に本質的な違いはありません。

だから私は、象徴として、「代表し、自存し、仲介し、刷新する」働きを担うものを、仮にリゼルマー(reselmer)と名づけたいと思います。称号(名号)が与えられる以前の当体を、仮にそのように呼んでみるというだけのことです(全くの造語です)。

しかしそれを単に不合理だからといって簡単に斥けることはできません。たとえばそれは「革命党」の論理でもあるのではないでしょうか。革命党もまた人民を代表するもので、しかも人民から自存(自立)して指導性を発揮し、人民をプロレタリアートの普遍性へと仲介し、人間社会を刷新する機関と見なされているのではないでしょうか。

だから「イデオロギー」の原基がリゼルマーではないのかとさえ思われてきます。しかし教会は本当に人類を代表することができるでしょうか。党は本当に人民を代表することができるでしょうか。私はこの問いによって「イデオロギー」を批判することができるのではないかと考えています。つまり人類の結集軸としてのリゼルマーは今日では新しい装いを必要としているということなのかも知れません。

確認すべきは、超越的に自存するものはいのちであるということです。普遍的生命としていのち(ゾーエー)は、歴史の中で様々に呼ばれて来ました。しかし、人間はまだそれを十全に表現し切ってはいません。リゼルマーとは、個々のいのち(ビオス)の交換過程のもとのところにあるもの(ゾーエー)であると言うことができますが、まだ十分な表現を与えられてはいません。

リゼルマーはいのち(ゾーエー)の働きです。個々のいのち(ビオス)が成り立つ場が、すなわちゾーエーです。ゾーエーはいのちの場です。復活信仰もまた、そのような文脈に置き直してこそ、なお意味を持ちうるものなのではないでしょうか。目下のところ、私が言いうるのはそれだけであって、その意味で、キリストは象徴として復活したのだと言いたいと思います。


Y 自由の源泉

「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」(ガラテヤ3:28)。

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(ガラテヤ5:1)。

ヤロスラフ・ペリカンは「解放者イエス」について次のように書いています。

「国家や教会の現状を肯定し、それを支える柱としてイエスを見る通常のイエス像と並んで、彼が生きていた時代にも、それ以後にも、彼を『解放者』として描く伝統は継続して存在していた。したがって、彼の多くの同時代人たちが、彼をすべての社会組織に挑戦し、それに対する神の裁きを求める人間として見ていたことは明らかである。しかし、人間のすべての抑圧者に対抗して、神の正義を宣教していたこの第一世紀の預言者が、『解放者イエス』となったのは、特に十九世紀および二〇世紀においてであった。そして、この「解放者イエス」は多くの帝国を、いわゆるキリスト教的帝国をすら、覆す政治的力になった――われわれの時代もそうであったし、また、現在もそうである。イエス・キリストにおける人間解放の憲章とも議事録とも言えるものは、キリスト教的自由のマグナ・カルタと呼ばれているパウロの『ガラテヤの信徒への手紙』の中に定式化されている。『そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。……この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません』(ガラテヤ3:28、5:1)。ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由な身分の者も、男も女もない――これら三つの囚われの身分は、歴史のそれぞれの局面で、元来自然の秩序ないし法則に属するものとして、創造主キリストや主の名において正当視されていた。しかし現代に至って、ついにそれが「解放者イエス」の名において疑問視され、結局のところ、克服されるに至っている」(『イエス像のニ千年』(小田垣雅也訳、講談社学術文庫、1998年)。

引用した文章の最後のところで、ペリカンが「しかし現代に至って、ついにそれが「解放者イエス」の名において疑問視され、結局のところ、克服されるに至っている」と言っているのは、言い過ぎの感を免れません。今日なお民族間の対立、階級間の格差、男女差別の問題は、根深くこの世界の現実を規定しているからです。奴隷制のような身分的差別の問題は、あからさまには存在し得ない状況があるというものの、世界から「三つの囚われの身分」が一掃されたとは、とても言えない現実があります。

しかし古代世界のマグナ・カルタと言うべきパウロのこの宣言が、「自由権」という思想の源泉として、その後の歴史に大きな影響を及ぼしたことを、認めるに吝かであってはならないでしょう。それは教会の教職者の意図を越えて、社会変革の大きな力となったと言うことができます。そしてそこには、イエスという一人の「預言者」によって惹き起されたヴィジョンが、深々と横たわっているように思われます。この「解放者(イエス)」の章で取り上げられていることですが、あのマハトマ・ガンディーの生き方にも、トルストイを介して、イエスの「山上の説教」が大きな影響を与えています。そして、ガンジーの「非暴力的抵抗」の実践は、続いて、あのマルティン・ルーサー・キングを動かしたのでした。歴史の底流に、人を自由へと衝き動かす大きな生命の躍動(エラン・ヴィタール)があるという感懐を抱かされます。しかしそれはもちろんキリスト教史(救済史)という限定された視野で語られるべきことではないでしょう。ペリカンが言うように、イエスは、教会にではなく、「世界に属する人」(この本の最終章)として見られ、語られるべき時が来ています。その意味で、今や教会のパラダイム・チェインジが求められています。


Z 生命論的キリスト教

この間、キリスト教について色々考えてきて、私がたどり着いたのは生命論的キリスト教と言うべきものです。キリスト教も人間の生命活動の一表現であって、それ以外のものではありません。だからキリスト教という唯一絶対の宗教があって、それは神の啓示に基く排他的な真理であると考える必要はどこにもありません。

従ってキリスト教が生命論的に考察されるということは、仏教、イスラム教、ユダヤ教、神道などのあらゆる宗教も、同様に、「生命論」的に捉えることができるということを意味しています。これまで私はエコセオロジー(全宗教の神学)ということを考えてきましたが、それは諸宗教を生命論的(全一的)に把握するということにほかなりませんでした。またメタセオロジーという言葉も使いましたが、それこそは「生命論的神学」と呼ばれるべきものであって、諸宗教の独自性の主張はそこではカッコに入れられることになります。宗教的個性というべきものは確かに存在しますが、それは人間が等しく人間であっても、多種多様な個性で彩られているのと同様のこととして理解されます。

北村透谷は「内部生命論」ということを主張しました。私の言う生命もいわば「内部生命」であって、それは「経験」という言葉に置き換えることができると考えています。クエーカー教徒の言う「内なる光」という言葉は、人間のうちに働く神の力を言い表したものです。言い換えれば、経験される限りでの神信仰を離れないということだと思います。クエーカーだった新渡戸稲造も、内心と瞑想を重んじました。神はあくまでも心で知られるものだということでしょう。黒住真氏は「日本思想における『一神教的なもの』」(『一神教とは何か 公共哲学からの問い』東京大学出版会、2006年)という発題において次のように述べています。

「話をすすめていくにあたって持ちたい姿勢としては、M(一神教)とP(多神教)をただ《本質論的に》対立させたりするのではなく、人間の動的総合的な《経験の様相として》見たいと思っております。これは先ほどの山我哲雄先生がご発題のときに言われた、また、鎌田繁先生の定義に立場的には近いのではないかと思うのです。人間が生きているという経験そのものの元来のところは違いがない、実はある似た経験を人間はしているのではないか。実際の歴史的・社会的な世界を考えても、一神教と多神教の他方が元来ないということはありえないと、私は考えています。しかしその様相がすごく違ったり、出会い方がそれぞれさまざまだということはあると思うのです。そのような意味で「一神教的経験」という言い方をしたほうがいいと思います。

そのときに、実際の現実的な歴史性・社会性とか実際の政治的・社会的な空間とどう関連するかが大きな問題です。神学的モデルそのもの、その論理自身よりも、やはりその人における歴史性・社会性との関連が問題ではないかと考えます。そういう意味で、神学的な論理自体より、人間的な現象として(倫理的・政治的に・物語的に)どう働くかという点を中心にお話させていただきたいと思います」(pp.283-284)。

この引用した箇所の特に前の段落は、ウィリアム・ジェイムズ張りの物言いです(『宗教的経験の諸相』枡田啓三郎訳、岩波文庫、上巻1969年、下巻1970年、参照)。私もまた基本的にはそのような立場に立ちたいと考えています。

かつて私は、CCP(MTET)=PET(ICXABE)CCS(BSHC)ICF(DFC)という定式を考えたことがあります。その意味は、批判的キリスト教哲学(CCP)を考えるとき、それは取りも直さずメタセオロジー(MT)、エコセオロジー(EC)であり、それは定式の右辺の考察に等しいということです。その右辺が意味しているのは、西田幾多郎の言う「万有在神論」の立場(PETPan-En-Theism)に立って、インマヌエル(I)という同行二人的な事態の下で、キリスト教(C)を相対化し、特定の個人(X)として生き(ICX)、批判的なキリスト教研究CCS(それは聖書研究BSとキリスト教史HCからなります)を行うということです。批判的キリスト教研究とは、すなわちキリスト教信仰入門(ICFIntroduction to Christian Faith)が同時にキリスト教脱出(DFCDetachment from Christianity)であるような事柄であるということです。なお、上でABEというのは、田邊元の言い方を借りたもので、普遍(A、類)、特殊(B、種)、個別(E、個)の弁証法をICXに適用するということを意味します。

入門即脱出というのは、私なりの「脱構築」という言葉の解釈で、批判的キリスト教哲学とは、即ちキリスト教の脱構築であるということを意味しています。そしてそれを可能にするのが、キリスト教への生命論的なアプローチではないかと思います。

最近はやや「批判的キリスト教哲学」に対する熱意が薄らいできています。それは私自身の「政治的・社会的な空間」にあって、険しい障壁に直面しているためです。今日のこの現実世界で私自身のささやかな研究がどんな意味を持つのか、確信が揺らいでいるからにほかなりません。しかし私はこれまでそのようなことを考えてきましたし、そこから現実への通路を見いだしたいと願ってきました。キリスト教の脱構築とはあのイエスがそうであったように、具体的な個人として生き抜くということ以外のものではありません。まさにそこに実に大きな困難があります。それは私にとって依然として「X」であって、未決の事柄です。だから私はその回りを堂々巡りしているに過ぎません。

生命論的キリスト教はキリスト教脱構築のための私の大きな手掛かりであると言えますが、それは未だ「理論」に留まっていて、「受肉」していません。だから「X」に成り切ることが、私にとっての「修行」の目的であると考えています。それは「悟って」いない人間の物言いです。その迷いのなかで「凡愚」として生きているのがこの私です。これからも、そのような暗中模索のときを生きていくほかはないでしょう。


[ 社会参加宗教

昨年、朝日新聞に「社会参加仏教(エンゲージド・ブディズム)」が取り上げられていたのを読んだことがあります。今まで私が考えてきたことは、いわば「社会参加宗教」というべきものです。その意味するところは、個々の宗教が何か不動の体系として屹立していて、それに加えて「社会参加」も考えなくてはならないということではありません。そもそも社会的に拘束されて(エンゲージドされて)いない宗教などは、現実的には存在しないということを自覚的に受け止めて、そこでこそ宗教の果すべき役割を考えるのが、社会参加宗教というものではないかと思います。

日本では、たとえば賀川豊彦が、そのことを意識的に追求しました。賀川が拠って立っていたのはまさに「社会的実践の宗教哲学」というべきものでした。それは単なる理論的な探究ではなく、同時に果敢な実践を企てたところに賀川の偉大さがあります。今日、再びそのような宗教者のあり方が求められていると思われます。新聞の投書欄であの「日比谷派遣村」のことに触れて、何回か、神社や寺院はなぜ手をこまねいているのか、派遣切りされた労働者を救うことは、日頃、衆生の救済を唱える宗教が率先してなすべきことではないのか、という趣旨の投書が見られました。私には、それは、鋭く事態の本質を突いたものであるように思われるのです。

昭和初期、学生キリスト教運動Student Christian Movementあるいは社会的キリスト教運動Social Christian Movementと言われる運動が起り、日本のキリスト教史の中で無視できない「事件」となりました。それは、主に学生たちによるキリスト教界のごく一部の動きに過ぎませんでしたが、学生YMCA運動に関わった者として、私にはかなり重たい課題を突きつけるものでした。その問題は、60年安保闘争や、60年代末の全共闘運動の中で蒸し返され、今日なお、キリスト教会のあり方を根底から問い直す動きに繋がっていると言うべきでしょう。

その問い直しの中で、私の中で次第に形づくられてきた問題意識は次のような定式で示すことができるのではないかと、考えるようになりました。「生命論的キリスト教」の中でもある種の定式を用いましたが、同様の形で示せば、RRC(RP)=EC(OC)DE(CL)AC(OR)LRM(LIFE)ということになります。今までも随所で触れてきたことですが、まとめた形で提示すれば、そのようになります。今日キリスト教は、再改革されたキリスト教(RRCRe-Reformed Christianity)としてのみ存立しうるのであり、それは宗教的多元主義(RPReligious Pluralism)という思想的文脈の中に置かれていて、再改革されたキリスト教においては、キリスト教の「唯一絶対性」は主張され得ないという意味になります。定式の右辺は、今日、キリスト教はエキュメニカルで、かつエンゲージドでなくてはならず(ECEcumenical and Engaged Christianity)、開かれたキリスト教(OCOpen Christianity)であることを求められていて、また対話伝道(DEDialogic Evangelism)というべきあり方からして、社会と「共通の言語(CLCommon Language)」を用いるべきであり、この社会を積極的にケアし(ACActive Caring)、社会的現実に届く(アウトリーチする)働きを行うべきである(OROut-Reaching)という意味になります。そしてそれは、いのちを取り戻し、回復する使命(LRMLife Recovering Mission)を担うものとなるのであり、自由・誠実・友愛・永遠(LIFELiberty, Integrity, Fraternity and Eternity)の価値を追求する運動であることを志向する、という意味にもなります。

社会参加宗教を、キリスト教的に提示すれば、そのようなものとなるのではないかと思います。しかしこれは私が書斎の中で考えていることであり、厳しい現実的障碍の中では、無惨にも掻き消されてしまうものではないかとも思います。実際にそのような運動が可能であるのかどうかということについては、この間、私は散々挫折を味わってきましたし、もとより賀川のような偉大な実践力を持ち合わせてもいません。実践を伴わない、単なる理念は無力であり、嵐の中で簡単に吹き飛ばされてしまう掘立小屋のようなものでしょう。この間、私はそのような自分を痛烈に自覚させられてきました。

だから、上に示したことは、単に私はそのように考えてきたという心の記録に過ぎません。心とは、本来、万有と一体のものであるという宗教的覚知からすれば、私はまだ未達成の状態にあって、口先だけの人間に過ぎません。敢てそれを書き留めるのは、それでもなおこれを読む人に何かの参考になるかも知れないと思うからです。そして私自身、無力ではあっても、そこに向かって少しでも前進して行きたいとも念じています。

SCM(社会的キリスト教運動)あるいは社会参加宗教がそのような形で「復活」することを、私は今でも願っているし、それは現に心ある宗教者によって実践されていることでもあると思います。私もせめてその人たちの驥尾に付したいと思います。


\ 三宝に帰依する

最近、門脇佳吉司祭(イエズス会)の近著「『正法眼蔵』参究 道の奥義の形而上学」(岩波書店、2008年)を読みました。また道元禅師の生涯を描いた「禅」という映画を見ました。かねて私は、キリスト教の教理的行き詰まりを打開するには、キリスト教への仏教的アプローチを採用するほかはないであろうと考えてきました。しかしそれは今や「確信」に変わりつつあります。たとえば仏教の「帰依三宝」に準拠して、キリスト者が「キリスト、聖書、教会」の三宝に帰依すると言うとき、初めて事柄を真実に把握することができるのではないかと、これまでは漠然と考えてきましたが、それは単なる比喩あるいは冗談ではなく、まさにそのように考えるべきであると考えるようになりました。

それで、ここでは、中根専正禅師の『修証義の講話―道元禅師のお言葉―』(鴻盟社、1993年)から、「第十三節 三帰によりて得戒す」の初めの部分を引用してみます(漢字は「佛」以外は現代漢字に改めます)。

原文 その(其)帰依三宝とはまさに(正に)浄信をもはら(専ら)にして、あるひは(或は)如来現在世にもあれ、あるひは(或は)如来滅後にもあれ、合掌し低頭(テイズ)して、口にとなへ(唱へ)ていはく(云く)。 (帰依三宝の巻)

南無帰依佛、南無帰依法、南無帰依僧 (得度略作法)

佛はこれ(是れ)大師なるかゆゑ(故)に帰依す、法は良薬なるかゆゑ(故)に帰依す、僧は勝友なるかゆゑ(故)に帰依す。 (帰依三宝の巻)

佛弟子となること、かならす(必ず)三帰による(依る)、いつれ(何れ)の戒をうくる(受くる)も、かならす(必ず)三帰をうけ(受け)て、その(其)のち(後)諸戒をうくる(受くる)なり。しか(然)あれはすなわち(即ち)三帰により(依り)て得戒あるなり。 (帰依三宝の巻)

講話 禅師は「帰依三宝」の巻のはじめに次のようにのべられている。多少長文ではあるが引証して見る。

『その帰依三宝とは、まさに浄信をもはらに(専らに)して、あるひは如来現在世(み佛の現在したまう世)にもあれ、あるひは如来滅後(み仏の滅後の世)にもあれ、合掌し、低頭して、口にとなへていはく、

「我れ某甲(ソレガシ)、今身従(ヨ)り佛身に至る(まで)、佛に帰依す(帰依したてまつる)、法に帰依す。佛・両足尊(あるいは無上尊ともいう。両足(人類)の中の最尊なる佛)に帰依す。法・離欲尊(離欲尊はまた離塵尊ともいう。とらわれの欲塵から解脱する最尊の法)に帰依す。僧・衆中尊(和合尊ともいう、教えを実践する教団の中の最尊なる僧伽・サンガ・和合衆団)に帰依す。佛竟(佛という畢竟の帰処(ヨリドコロ))に帰依す。法竟(佛のとかれた法という究竟の依所)に帰依す。僧竟(和合衆団という畢竟の依所)に帰依す。」(原漢文を和訳し註をした。)

はるかに佛果菩提をこころさして、かくのことく僧那(ソウナ、梵語「プラニダーナ」=大きな弘い誓願・ちかい)を始発するなり。しかあれはすなはち、身心いまも刹那刹那に生滅すといへとも、法身かならず長養(チョウヨウ、長久に養成)して、菩提を成就するなり。

いはゆる帰依とは、帰は帰投なり、依は依伏なり。このゆゑに帰依といふ。帰依の相は、たとへは子の父に帰するかことし。依伏は、たとへは民の王に依するかことし。いはゆる救済の言(コトバ)なり。

佛はこれ大師なるかゆゑに帰依す、法は良薬なるかゆゑに帰依す、僧は勝友なるかゆゑに帰依す。

問ふ、何故に、偏(ヒト)へに此の三に帰するや。

答ふ。この三種、畢竟の帰處(キショ)を以て、能(ヨ)く衆生をして生死を出離し、大菩提を證せしむるが故に帰す。(原漢文を和訳す)

この三種、畢竟不可思議功徳なり。

佛は西天には佛陀耶(ブッダヤ)と称す、震旦(シンタン、支那・中国)には覚と飜(ホン)す。無上正等覚(ムジョウショウトウカク)なり。法は西天には達磨(ダルマ)と称す。また曇無と称す、梵音の不同なり。震旦には法と飜(ホン)す。一切の善、悪、無記の法、ともに法と称すといへとも、いま三宝のなかの帰依するところの法は、軌則の法なり。僧は西天には僧伽と称す、震旦には和合衆と飜(ホン)す。かくのことく称讃しきたれり。』

以上の禅師のお言葉の要点を申し上げると、三宝に帰依するには、まさに無垢清浄の信仰心をもっぱら(専一)にして、如来(み仏)の現在世には、現前(化儀 ケギ)の三宝に対して、また如来の滅後には、諸仏、ボサツ、歴代祖師が正傳し住持(ジュウジ)しきたった住持三宝(一體イッタイ三宝、理體リタイ三宝)に対して、合掌し、低頭し(頭を下げて)、口に次のようにお称えするのである。

「我なにがし(某甲=自己の名前をいう)は、今身より、佛身に至るまで、

帰依佛、帰依法、帰依僧、帰依両足尊、帰依法離欲尊、帰依僧衆中尊、帰依佛竟、帰依法竟、帰依僧竟

と、はるかに仏果菩提(み仏の悟り)を志して、このような、深心、至心、信楽の僧那(大誓願)を始発するのである。かくすればそこで、我が身心は今も刹那々々に生じ滅する無常・無我の身心ではあるが、法身(ダルマ・カーヤ=法の身心)はかならず、長養(長く養成)して、菩提(さとり)を成就するのである。

ここにいう帰依とは、帰投、依伏ということで、子の父に帰し、民の王に依るがごときをいう。いわゆる救済(すくいたすける、よりどころ、梵語のサラナムの訳)の言葉である。

仏とは、梵語(西天の印度語)で「ブッドハ」で、震旦(支那=東土)では「覚(者)」と訳す。無上正等覚(者)である。(梵語で「アヌッタラ・サムヤック・サンボーディ」という)。

法とは、印度語(標準語)で{ダルマ}達磨(ダルマ)とも、ダンマ(曇無 ダンマ=パーリ語、印度地方の通俗語)ともいう。支那(中国)語では「法」と訳す。善・悪・無記(善でも悪でもない)の法もあるが、ここにいう三宝の中の法とは、仏のとかれた真理の法(ノリ)をいう。

僧は印度語で「サンガ」僧伽という。支那(中国)語では「和合衆(団)」と訳す。

『仏は大師なるが故に帰依す。法は良薬なるが故に帰依す。僧は勝友なるが故に帰依す』と禅師がのべられているが、「大師」とは、印度語で「シャーストリー」または「サツタァル」といい、訳して「大師」という。仏の十の名称、十号の中に、仏を「天人師」(シャースター・デーヴァマヌシュヤーナーム)と称するが、これは天界(デーヴァ)・人界(マヌシュ)乃至(ナイシ)六道すべての生きとし生けるものの偉大な指導者・教師(シャースター)ということである。

「法」は良薬なるが故にというのは、仏教では「仏は良医のごとく、法は妙薬のごとく、僧はよき看護者の如(ゴト)し」(大乗法苑義林章第六など)とあるによるものであろう。「僧」は勝友というのは、僧はすぐれた友人であり、また、病人われらのよき看護者にたとえられる。以下略。

引用はここまでにします。

仏教徒は仏法僧の三宝に帰依します。それと同様にキリスト者は「キリスト、聖書、教会」の三宝に帰依すると先に述べたのは、仏教もキリスト教も、同じ「いのち」の真理を説いているという前提があってのことです。私はその前提となるものをメタセオロジー(生命論的神学)と呼んだのですが、門脇佳吉神父ならば、それを「道のメタ・エチカ(形而上学)」と呼ぶことでしょう。道とは、キリストのいのちであり、また仏のいのちを指しています。その「いのち」に生かされて生きるとはどういうことかを弁えようとする行為が、「修行」と言われるのでしょう。すなわち修行の目的は道を弁えること(弁道)です。

この結論に辿りつくまでに、私は「教会」を離れなければなりませんでした。教会には、象徴の実体化・差別化と言うべき根強い傾向があって(それは誰にもあることなのですが)、キリストと言えばキリスト、仏と言えば仏であって、両者は全く無関係であると考えられてしまいがちです。しかしそうはならないというのが、この間、私が追求してきたことでした。このような主張は、実は、道元禅師の思想にも逆らっています。ひたすら仏弟子となることを目指す上で、たとえば王重陽(1113-1170)が唱えた全真教(道教・儒教・仏教の「三教一致」の教え)などは、邪道として厳しく斥けられたに違いありません。

そこに、ひたすら一道に徹するあり方をしてこなかった私の中途半端さがあると言えば、まさにその通りなのですが、時代の然らしめるところであるという言い訳も成り立ちます。特にキリスト教の限界を突破する上で、禅宗に限らず仏教は重要な意味をもつことになるでしょう。私としては、今後も、諸宗教の、特にキリスト教のメタセオロジカルな解明を志してゆきたいと考えています。そこに私なりの必然性があるからです。


] つながりが人を生かす

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすれられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」(ヨハネ15:1-11)。

人は、人と人とのつながり、人と物とのつながりの中で生かされています。つながりが人を生かしています。そのつながりの大元のところにいのちの働きがあります。ヨハネによる福音書では、縦横無尽のいのちのつながりの中で、その大元にあるものが「ぶどうの木」と言われています。ここで言われる「わたし」こそが私であって、個々の枝々の「私」は実を結ばなければ取り除かれる「枝葉の私」に過ぎません。そのつながりを感得することが、古来「宗教」と言われてきたのでしょう(religionの原義は「結びつけること(to bind)」を意味するようです)。この聖書の箇所では、いわば、私を私たらしめる「私」があって、それに結びつかない私は私ではないと言われているのでしょう。そして「枝葉の私」は幹につながっていなければ「きよく」はなく、幹につながることによって「きよく」されるということが言われています。私を「私する」ものはきよくはありません。

しかし、いのちのつながりを感得するということは、既にあるつながりを見出すことだけではなく、それまではなかったつながりをつくり出していくということでもあるでしょう。つながりのないところにつながりをつけていく「道づくり」というべきものが、いのちの働きには含まれています。そこに人の成長があります。もしいのちの大道につながっていれば、新しいつながりを見出すことも可能になります。新しく道を伸ばしていくことができます。そして予期せぬ実を結ぶようになります。

ここに言われている「いましめ」は、「愛のうちにいる」ということであり、いのちの大道につながるということ以外のものではないでしょう。そこに人の「喜び」があります。そこから外れてしまえば、人は枯渇するだけです。一個所、「わたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」と書かれています。イエスの弟子となるということは、ヨハネによれば、いのちにつながって生きるというということではないでしょうか。それは、取りも直さず、「愛のうちにいる」、すなわち「愛のいましめ」を生きるということではないでしょうか。そのいましめが人を生かすのであり、決してそれ以外のものではないと言われているのではないでしょうか。

つながりが人を生かします。言い換えれば、愛が人を生かします。イエスの生が人にそのような覚醒をもたらしました。ヨハネは深々とそのいのちの真理を告げています。今日この世界で、孤立し、また枯渇する生を生きている者として、私たちは改めて「つながりが人を生かす」というヨハネのメッセージに耳を傾けるように促されています。しかしそれを「キリスト教徒」となるという意味に捉えるのではなく、その真理を如実に生きるべきものとして受け止めるところに、今日の「福音理解」があるでしょう。とても困難な道のりですが、ただそのことによってのみ、明日の世界は切り開かれていくでしょう。私たちのうちに「喜びが満ちあふれるように」と願わざるを得ません。


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