治療の水の真相(5)―――光と闇と十字架と―――

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光と闇と十字架と・・・・・


 五井先生は教えております。宗教と科学は本来同じものであると。
宗教は縦であり、科学は横である。この二つが縦横十字に一体化した姿こそ、世界平和完成の礎石となるのであると。
宇宙子科学の完成によって、宗教と科学の十字の姿が出来あがるわけですが、この科学の完成が世界連邦へ向けての、地球世界の和合と完全平和達成を決定的にすることになります。
その為にこそ、世界平和の祈りにより大光明波動圏を創りあげていかなければいけないのです。
何故なら、何度びも申しますように、このような大光明なる波動圏がなければ、宇宙子科学と云うものはその研究がなし得ず完成することは有り得ないからです。その為に五井先生に過去世から深いご縁のあるお弟子たちが転生してきており、祈りによる平和運動を展開しているわけであります。
 祈りによる平和運動から放射される救世主神の大光明波動は、世界中に根深く渦巻いている闇のエネルギーと云うものを急速に消滅してゆくのです。これによりあらゆるレベルでの不調和と云うものが消えてゆきます。例えるならば、今まさに戦争を仕掛けようとしている(これは悪い意味でですが)、政治指導者を突き動かしている想念エネルギーと云うものが、光明波動が流れ込んできますとス―ッと消えてしまうのです。そしてより正しい判断と云うものが出来るようになるのです。
 これを小さいレベルで云えば、今将に人を殺そうとしている人に光明波動が流れ込んでゆけば、殺人的な想念エネルギーは消滅しさり、より正しい判断へと導かれることになるわけです。この原理は他のすべてのことに当てはまるわけですが、それは天変地異にも当てはまります。何故当てはまるかと云いますと、あらゆる自然災害と云うものは人類自体が発している汚れた想念エネルギーの集積がおこすからです。
それは、この天地自然を運行し司っている自然霊、デーバとも呼ばれますがその正常なる働きを人類の汚れた想念エネルギーと云うものが妨害してしまうからです。
 その為、各自然霊がその汚れた想念エネルギーの集積を、きれいに祓い浄めている状態があらゆる天変地異としておこるわけです。
ですから、あらゆる不調和のその根本原因は、すべて人間自身のその心にこそその問題があるということなのです。
それは、すべてをエネルギーとして観る次元からこそ明らかになってくるわけなのですが、それを古代から教えていたのが各宗教の始祖達だったのです。
 今まで闇のエネルギーと云うものが、すべての不調和の原因であると述べてきました。そしてこれは個人的な見解になりますが、すべての闇黒思想を代表するものとして、二つあげられるものと想われます。
一つは宗教的な邪教であり、もう一つは唯物論です。これらは闇黒思想のエネルギーのおそらく両極とも例えられるもので、この二つの思想こそが根本的には世界を滅ぼすものと想われます。
 邪教と云うものは、皆さんよくご存知のように、古くから世界の歴史の中で血で血を洗う戦いが繰り広げられてきました。現代に至っても、宗教的な争いや対立は後を立ちません。又、カルトという言葉が世界的に問題視されているのは誰もが知るところです。
インド等は現在は文明の近代化及び、経済的な成長を成し遂げつつありますが、今までは迷信や邪教が非常にはびこっておりまして、国家の真の発展を妨げておりました。あれだけ多くの聖者を輩出している、霊的に素晴らしい国であるにもかかわらずです。
 本来、真の宗教心と云うものが国中に充ならば、その国は精神的にも科学的にも経済的にも素晴らしい発展をとげることになることでしょう。しかし、現在のインドにはサイババ大聖を代表とする比類なき大聖がおられますので、あらゆるレベルでの改善が成されており、インドの国家としての将来は非常に素晴らしいものとなることでしょう。
サイババ大聖のアシュラムのある城下町とも云えるプッタパルティなどでは、最高の教育と最高の医療が無料で受けることが出来まして、ある意味で地上天国とも云えるシステムが存在しております。サイババ大聖の運営している病院は、現代医学の最先端の医療機器が取り揃えてありまして、そこで働く医師も看護婦も世界中から集まってくるサイババ大聖を敬愛されているボランティアによって運営されております。
 そこでは高度の心臓外科手術等の医療が日々おこなわれておりまして、相当の実績をすでにあげているものと想います。勿論、患者はインド国内はおろか、世界中から訪れておりまして、そのすべての治療費や入院費用等は無料であります。
又、教育に致しましても、サイババ大聖の運営している大学は、インドにおいては最高学府の一つとも云えまして、そこでは単に知識を教えこむだけではなく、霊性開発を基本とした素晴らしい教育が学生達に施されております。 この大学の教育費はすべて無料でありまして、学生達に負担がかかるのは実に食費だけなのであります。
 サイババ大聖の説かれるところによりますと、サイババ大聖の教育のあり方というのは、やがて世界中にひろまってまいりまして、世界中の教育機関がそれを見習うようになると教えてくださっております。そしてサイババ大聖の教育期間は、世界中の教育期間におけるバチカンのような立場になるとのことであります。このような素晴らしい在り方が、サイババ大聖のおられるプッタパルティなどではおこなわれておりまして、人類に恩恵を与えております。
 このような教育と医療におけるシステムの在り方と云うものは、世界教師マイトレーヤが世界に与えているメッセージと共通しておりまして、マイトレーヤは新世界秩序の優先順位として、第一にすべての人類に必要な適切な食料の供給、第二にすべての人類に必要な適切な住居の供給、第三に普遍的な権利としての医療と教育の供給でありあます。
これらすべては、世界の経済システムの在り方に直結しておりまして、現在のいわゆるグローバリゼーションのシステムの中では実現不可能であります。しかしやがては、アメリカ主導の資本主義経済は行き詰まりをむかえて消滅してゆくことになりますが、その後に新しい経済システムが誕生することになります。
 それは共産主義の長所と資本主義の長所を融合させた、まったく新しいシステムでありまして、正に世界人類の真の必要を充分充たしてくれる素晴らしいシステムへと発展してゆくことになることでしょう。これは時期が来ないと実現は不可能なのですが、サイババ大聖のお膝もとにおいてはすでに部分的にですが実現が成されております。それは、現在の政治家や資本家を特別に非難することもなく、資本主義のシステムに逆行することもなくおこなわれておりまして、そこが素晴らしいと想われるのです。
 正にサイババ大聖の偉大性を物語るものでありまして、その教えとそのおこないの素晴らしさ、そしてそこに反応して集まってくる信徒の方達の素晴らしさがわかるというものです。これこそサイババ大聖が現わしている最高の奇蹟でありまして、奇蹟とは超常現象の中にそれを捜し求めるものではなくて、人間を神性へと変貌せしめてゆく中にこそ捜し求めるべきものであります。これこそ真の奇蹟であり、神が成される偉大なる奇蹟なのであります。
 このような偉大な霊的指導者と、その教えに反応する素晴らしい宗教心を持った方たちが増えてくれば、現行のシステムをイタズラに否定して無理に争うこともなく、自然と地上天国は実現してしまうものなのです。もし真の宗教の教えと云うものが世界中を充たすならば、予期されている世界経済システムの大崩壊でさえも消え去ってしまうことでありましょう。
邪教とは、このような真の宗教とは似ても似つかないものでありまして、本当に社会を混乱させ滅ぼすものなのであります。




闇黒思想と唯物論

 一方、もう一つの闇黒思想の極みである唯物論ですが、先に唯物論は迷信であると述べましたが、実は迷信をこえた闇黒思想中の闇黒思想なのです。一寸考えただけでは、唯物論というのは一つの価値観でありまして、別に悪い感じを社会に与えることはありません。
又、その唯物論者といわれる方達が、社会に害を成していることもなく、逆に社会に益する働きを成している場合がたくさんあります。
では何故、唯物的思想と云うものが闇黒思想なのでしょうか。考察してみることにいたしましょう。
 先ず物質性というものと闇、つま闇黒性というものが本来は同じ意味があることを知らなければなりません。その為、覚者達は闇の勢力と云うものを、物質性の勢力とも呼ばれているのです。
物質性の波動と云うものは、粗い波動であり緩慢な振動数を有している、遅鈍な波なのです。霊波動と云うのは、微妙な波動であり高速度の振動数を有している波なのです。物質性は遅鈍な波である闇であり、霊性は微妙な波である光である、それは宇宙の物質と精神そのものです。
 物質波動は静止している宇宙子の存在している闇であり、霊波動は活動している宇宙子の存在している光である。方や闇であり、方や光である。宇宙とはいうなれば、この闇と光の交差によって生み出されると云ってもいいのです。
このように物質性と云うものは、闇黒性に例えることが出来まして、唯物論と云うのは、この宇宙における闇の側面だけに固着してしまった思想と云えるのであります。
 さらに判りやすく説明しますれば、物質性において例えられる闇黒性というものには、私たちが考えるような悪は存在しません。物質性はあくまでも物資波動の現われに過ぎません。その物質波動とは確かに宇宙の闇の側面なのです。あるいは別の云い方で云えば宇宙を生成しているエネルギーの陰性の側面ともいえるのです。しかし人間の精神というものは物質波動ではなく神の純粋な心の分かれでありまして光そのものなのです。
それが物質波動に巻き込まれて来ると、私たちが云うような悪が生まれてくるのであります。実際にはこの様な真我と呼ばれているものが、物質波動に巻き込まれることは無いのですが、その投影が巻き込まれてしまうのであります。そこに私たちが云っている悪という想念行為や現象が発生し始めるのであります。これがキリスト教で教えている原罪の意味であり、仏教で教えている無明の本当の意味なのであります。

 又、宗教的な邪教というものも、やはり物質波動がその原因でありまして、この物質界の上位に続いている霊的な階層にも物質波動が色濃く作用している階層があるわけです。いわゆる三界と呼ばれる世界ですが、その階層は肉体人間の意識に深いつながりがありまして、そこには人間の感情や情緒、理性や思考といったものと深い関わりがあるのであります。人間の感情や理性そして思考といったものは物質波動が深く関わり出来あがっているものであり、人間の本来の霊である本体、つまり真我(神我)はその階層の意識体を通して自己自身を現わすのであります。
 邪教思想と云うものは、この人間の意識の階層に色濃く作用している、物質波動によって現われる迷いの想念エネルギーの塊がおこしめている思想なのでありますが、早く云えば、邪教の指導者や団体の人達というのは、この迷いの想念エネルギーの塊に踊らされている状態であるわけです。
すべての不調和思想とその行動は、この迷いの想念エネルギーの集積と、その個人のパーソナリティの不完全さが発している想念エネルギーとが微妙に働き掛け合って為されているわけでありまして、その中で邪教思想と云うものは宗教的な迷いの想念エネルギーによって起きているわけです。
 また、この迷いの想念エネルギーが経巡る意識階層から、自己の意識が抜け出してゆくことを宗教では解脱と申しまして、この悟りを得るまでは、人間はこの迷いの意識の諸階層を輪廻転生しつづけるわけであります。そして解脱と同時に真我の光がパーソナリティを通して輝きを放つようになるのであります。この状態を如来とか覚者とか神人とかいうのであります。








 宇宙が光と闇の交流によって絶えず生み成され、生成発展しているように、この地球世界の進歩と云うものも唯物思想だけでは片手落ちでありまして、もう片方の手である光の思想が必要なのであります。ですから、人類の科学文明と云うものは、もうすでに進むだけ進んだ感がありまして、これからは霊科学である光の科学の発達が必要になってくるのであります。この霊科学の発達によりまして、今までの物質科学と云うものは、更に立派なものになるのであります。
 このように唯物思想だけでは、あらゆる物事というものに真の進歩と云うものはなく、すべてが方手落ちになってしまうのであります。そのゆきつく先は自滅であります。ですから、人類が唯物思想だけをすべてとして進んでゆくならば、それはいつの日にか自然の摂理のままに人類自身の首を絞め始めることになることでしょう。すでにその感は濃厚にあります。否、すでに何度も何度も人類は、危ないところを通りぬけてきたといっていいでしょう。
 このように唯物的思想というものが、何故闇黒思想に例えられるか観てまいりましたが、現実問題として唯物論者の死後の状況を見てみれば一目瞭然なのであります。唯物論者と呼ばれている方々が移行して行く死後の世界は、正に闇黒の世界なのであります。
そこは光もなく体を動かすだけの空間もない、光がないから熱もないわけで、そういう極寒の動きをとることも出来ない場に、やはり同じような唯物的思想を持っている人達が、いうなればすし詰めになっているような世界があるのです。
 死後の世界というのは、その人間が発している想念波動そのままの世界に移行するわけでありまして、美しい想念の人は美しい世界へ、醜い想念の人はそれ相応の醜い世界へと移り住んでいくわけであります。最もこれは簡単に説明しただけで、その段階は数限りなくありまして、とても複雑なものなのでありあます。仏教で説かれる地獄や極楽も実際にあるわけなのです。(これについては五井先生の御著書とその御弟子である村田正雄先生の『私の霊界通信』をお読みください)
 唯物論者と云うのは、物がすべてであり物しか認めていませんから、物質性だけの世界つまり闇黒の世界へと落ち込んでいってしまうわけです。しかし、宇宙は物質がすべてではありません。
精神は物質から生まれたのではなくて、精神と物質はそれぞれ別々の生命の活動原理なのであります。
この精神と物質それぞれ別々の生命原理は、一なる生命原理より発しました。一なる生命原理とは即ち大生命のことであり、大生命即ち神なのです。
つまり神こそすべてのすべてであり、この神の他に何も存在はしないのであります。
 ですから、唯物論者が神を否定するということは、必然的に大生命としてのすべてのすべてを否定してしまうことと同じことになってしまうわけです。その為、光も熱もなく身動きも出来ない闇黒の世界へと移行してしまうわけです。これは何も唯物論者の方々に嫌がらせをしているわけではなくて、宗教の教えに通じている方々の等しく認識していることなのであります。
 このように唯物論者とその移行する世界について述べて来ましたが、実際問題として本当の意味での唯物論者は少ないのではないかと想います。だいたいは殆どの人々が、肯定はしないが絶対的な意味で全否定することもない範疇であり、一生の中においてはことさら深く考えることはないといったところではないかと想われます。このような方たちは又違ったそれ相応の世界へと移行してゆくわけであります。
もしも仮に、唯物論者で社会改革等に奔走し、活躍をしてこられた方達等の場合はどうなるかなのですが、そのような方達は死後の世界に移行してからある程度の修行をさせられて、唯物論が誤りであったことを悟らされるわけでありまして、その後それ相応の高い世界へと移行してゆくことになるわけです。
ですから、本当は社会改革とか慈善活動とかを考える前に、死後の世界というものを考え合わせる時、神様について学んでおいた方がよいのです。それの方が、死んでから迷わないで済むのでありまして、その当人にとっては表現の仕方は悪いのですがお得であるということになるのです。
 いずれにしましても、その人間が発している想念波動そのままの世界へと移行して行くのが死んでからの原理でありまして、唯物論者が移行して行く世界が闇黒の世界である現実が、その思想の闇黒性を証明しております。
 今まで唯物論と邪教が、闇黒思想の根本的なものであることを推察してきましたが、これらはあらゆる闇黒思想の根源的な場に位置するものと想われまして、いわゆる根っ子ではないかと想います。ですから、この根を引き抜かなければならないわけでありまして、それと同時に新しき種子を植えてゆくことです。
 それが五井先生の提唱される、祈りによる世界平和運動なのであり、そこから生まれ出る宇宙子科学の役目なのであります。
つまり、宗教が縦であり科学が横である。祈りによる平和運動が縦であり、宇宙子波動生命物理学が横である。
これは、全能なる宇宙神の有する三つの原理を、宗教を縦とし科学を横として、縦横十字に一体化した姿なのであります。これこそ無敵の姿であり、何者もどのような事柄も、この姿の前には雲散霧消してしまうのであります。





偉大なる宇宙の時・・・・・


十字架は真理であり完成した姿です。
大宇宙の運行の移り変わりと共に、大いなる水に象徴されるアクエリアス星団のエネルギーが法則として縦軸に、宇宙神の救世主神としての働きがやはり水に象徴されまして横軸となり、今宇宙神の法則と救世の働きが水においてクロスし十字の姿を現わしております。
いうなれば、宇宙に現れた大いなる十字架です。これは例えれば、地球完成の為の大いなる宇宙時間が来ているとでもいえましょう。
 これらは、神道で説くところの火と水の原理の働きであり、火が縦であり法則性と精神性を現わします。水が横であり救世神としての愛と物質性を現わします。この火の縦軸と水としての横軸が、縦横十字に一体化した姿こそが、偉大なる大宇宙神の姿であります。ゆえに神とは大調和の実体であるのです。
 神道では、火(霊)と水(物質)を合わせて、火(カ)水(ミ)/火水(カミ)と呼びますが、この火水の働きによって宇宙の森羅万象のすべてが生み成され、存在をゆるされているわけであります。
この根本の宇宙神の火水の働きから、すべての十字架が生じてゆくのであり、火としての法則性が、つまり宇宙運行の動きがアクエリアスの時代が到来したことを示しているのであり、一方水に例えられる救世神の働きも、水瓶の時の到来を告げております。
これは、宝瓶宮にかかる偉大な十字架とも申せまして、神の水を象徴する偉大な御活動が開始されたことを物語るものでありあます。
いわゆる、地球世界完成の時を告げる、偉大なる宇宙時間が来たことを示しております。
 これに対しまして、水に象徴される宇宙神の偉大なる救世主神の御働きが、例えとしての地球時間において、縦に宗教となり横に科学となり現れて、この地球世界の進化を成し遂げてまいりました。水の救世神の働きが宗教となり、物質性の働きが科学となり現われたのです。
今、地球世界から引きつつあるバイシスの六光線が、これまで人類の物質科学をその光線の特質の下、究極に近いところまで進みに進ませてきました。それはバイシス星団の波動と入れ替わりに流入してくる、アクエリアス星団の波動である七光線の影響の下で、今臨界点をむかえております。
 ご承知のように、アクエリアス星団が放っている七光線は、融合や統合の特質を有しておりまして、あらゆる段階における完成する時期を現わしているのですが、本来七という数字自体には、宗教的にも科学的にも完成の意味があるわけでありまして、宗教も科学も完成する時期が来ていることを現わしております。完成は十字架でありますから、七には十字架の意味があるわけであります。
 前に宗教と科学は本来同じものであると説明しましたが、これは例えれば、神の右手と左手のようなもので、本来はどちらが欠けてもいけないわけなのですが、これまでは別々にそれぞれの働きを成してきたわけなのであります。
それがいよいよ、アクエリアス星団の七光線の影響の下に、完成する時をむかえておりまして、いうなれば究極の宗教と、究極の科学が、縦と横に十字に一体化する時が来ているわけであります。これが、地球時間に例えるとするならば完成の時であるといえるでしょう。
ここにおいて、神道の神示の中にある『世界十字に引きならし万劫末代つづく神の代といたすぞよ』の神示が成就するのではないかと想われます。
 つまり火と水の交流の調和の中から、人類は縦に神とつながりあい、横に人類自身が手をつなぎあうようになるのでありまして、自然と人類の輪が形作られていくことでしょう。そこにはまた十字架の姿が現れてくるのでありまして、これこそまことの世界連邦の創設へと発展をしてゆくことになることでありましょう。
 このように神の十字架が、世界を十字にひきならし、人類に世界の連邦制と完成された平和をもたらしてゆくわけなのですが、二千年前イエス・キリストが人類の原罪を背負い自己の肉身に代えて、十字架上に磔になった意味がわかるような気が致します。
それは旧約聖書における予言の成就でありました。またその姿は地球人類救済のための偉大な象徴をメタファーとして現わした姿であり、そこには新約聖書におけるキリストの再臨の予言についての重大な秘密が、十字架上のイエスの死には深く蔵されていたように想われるのです。
 いずれにしましても、やがて公に再臨を果たされるキリスト・マイトレーヤの指揮の下に、十字架の真価が世界へと発揮されてゆくわけであります。その時に、中心の働きを成すのが日本列島でありまして、この日本列島こそ火水がその働きを発揮する為の中心の場でありまして、宇宙神における十字架の働きをそのまま現わし得る場であるのです。
その為の世界平和の祈りであり。日本民族の天命であるのです。
 世界平和の祈りは、宇宙神の深き御心であり、火水の縦横十字一体のその十字交差の中心より発している、大調和波動そのままの祈り言であるのです。ですから、イエス・キリストが云われた『己が十字架を背負いて我に従え』という言葉は、平和の祈りを祈ることにより実現してゆくわけであります。それは、五井先生のご法話の
『十字架について』の中にも明確に説かれているのです。
 
『キリストのいった、自己の十字架を背負いて我に従え、という言葉は、表面的には、自己の肉体的な利害関係や欲望を、すべて抹殺して我に従え、という犠牲精神の強調でありますが、もっと奥底の真意を探りますと、自己が持っている業因縁の想念波動を、縦横十字の大調和精神の中に入れ、その十字架を背負って、我に従わなければ、神の国には住めない、ということなのであります。大調和精神を強調している言葉なのであります。私などはそういう真理を、もっとやさしく簡明にして説いているのであります。それが、すべての業因縁は、救世の大光明、神の慈愛の中で消していただけるのだから、すべての悪も不幸も誤った想いも消えてゆく姿と想い、そうした想念で、今度は世界平和を念願する、人類の想いを代表した、世界平和の祈り、という祈り言の中に入りきってしまいなさい、と説いているのであります。
 ですから十字とは大調和のシンボルであるのです。そして、その十字の中心、いわゆる十字架の中心に、自己の想念を置くことが、完全なる自己の救われとなるのであり、人類すべての想念を、十字架の中に入れきってしまうことが、世界人類の絶対平和を樹立することとなるのであります。』

 この五井先生の御教えにあるように、私達は世界平和の祈りを祈ることにより、己が十字架を背負いてキリストについてゆくことが出来るわけです。なぜなら、世界平和の祈りのその中心者は、正にキリスト御自身そのものでもあるからです。
このように観てまいりますと、何故キリストが光の十字架を、現在世界中に現わしつづけているのかがよくわかるのです。
世界平和の祈りこそ神の大調和の実体を、現象世界に導き出す最大の祈りであるからでありまして、大は大宇宙から小は極微な宇宙子の世界に至るまでを大調和せしめる、それは無限次元の中心に君臨する、偉大なる神の十字架そのものなのであります。
 この神の偉大な十字架の力によってこそ、世界は真に統一されてゆくことになるのです。これが、五井先生の提唱なされている、祈りによる世界平和運動なのであります。
祈りの力によって、宇宙万有の活動と人間の心と肉体を調和せしめ、統一してゆくのです。
これが、人間自身が現わす十字架であり、人間完成の『人』の姿であり、真の姿なのです。人、それには本来霊の止まるところと云う意味があり、霊(ヒ)の止まるところと書いて、霊止(ヒト)と読むのであり、人の語源は実はここより来ているのが真実なのであります。
つまり、神霊が肉体を場所として使っている状態のことを云うのでありまして、その為古来から、人間の肉体を指して、乗り舟とか器とか、又は写し身とか呼んでいたわけであります。
 この人(霊止)の姿を完全に現わせるのは、人類の中の極少数の人間しか現段階ではおりません。
人類の大多数は、神の子の人の姿を未だ完全に現わす段階ではなく、神の子と動物との半々くらいでありまして、常に神の子の神性と、動物の性との影響力の下に葛藤しつづけているものなのであります。
 その段階は、人それぞれ様々なレベルがありますが、だいたいの人類は誰も彼もが常に動物と人との間の段階にあるわけで、その為、完成していない存在を霊止(人)とは呼ばず、動物と本来性の人との間にいるという意味で、人間と呼ぶのが宗教的には正しい呼び方なのであります。これを時間に例えるなら、人間時間における縦横十字の姿が未だ完全に整っていない姿であると云えるでしょう。
 この人間時間における完成の時は、これは人それぞれ違っておりまして、人間それぞれによって違った時間があると云えます。それが霊位とか進化の段階とか呼ばれるものであります。
しかし現在は、大いなる宇宙の時が進んでまいりまして、人類全体はその進化を促進するための偉大なる宇宙時間へと突入し始めているのであります。
 それが、祈りによる世界平和運動ともなり、平和の祈りにより個人の進化を促進すると共に、同時に祈っている個人から放たれる平和の祈りの大光明力が人類世界に働きかけまして、人類全体の進化を促進してゆく運動である、個人人類同時成道の霊性開発を基盤においた、世界平和運動ともなっているのであります。
 これから突入してゆく、新しい時代であるアクエリアスの時代には、すでに人類全体が達成しなければならない進化の段階におけるあるレベルが、計画として宇宙神の御心の中には定まっているのであります。このように人類の進化も、大宇宙の進化も、すべては大宇宙神の深き御心の中に定まっており、法則の下に計画に則って進行しているものなのであります。
この霊的に統一されてゆく人類の中で、人々は世界連邦の誕生をいずれ見ることになるわけなのですが、この霊的世界連邦こそは、縦に神に、横に人類へと、平和世界の十字架の姿を写し出す、地球世界完成の姿なのであります。そしてそれは、更なる全き完成へとむかい無限に進化してゆくのであります。
 日本の神道にはミロク三会という教えがあります。これは王ミロクの教とも云われているのですが、これこそまさにキリスト・マイトレーヤのことを指し示しているのであり、釈尊が予言された最後の救世主「ミロク仏」なのであります。
この方が世界連邦の創造をリードされる中心のお方であるわけで、神道に説かれる王ミロク様そのもののお方であられるのです。
そしてこの王ミロクには、『言霊学上からいえばオホミロクのオは神、または霊、または心、および治むるの意義であり、ホは高く表わるる意味であり、ミは遍満具足して欠陥なき意味であり、水の動きであり、ロは修理固成の意味であり、クは組織経綸の意味である。天地人三才を貫通したるが、王の字となるのである。』という神道の教えがあります。
 これはまさに、ミロクという名に世界連邦を樹立してゆくための神意が込められていることがよくわかります。このミロク即ちマイトレーヤが水の動きであるアクエリアスの時代に、世界の中心にたたれて神の経綸をなされている姿といえるのであります。
私見になりますが、この王という字には天が整い地が整い、そして最後に天と地の間に人類の十字架の姿が出来あがっている姿にも見えまして、その十字架の中心とは天と地と人類の中心にあたりまして、このお立場こそキリスト・マイトレーヤのお姿であり、今後2,500年間人類を導いていかれる真実の王といえるのであります。まさにミロクとは、アクエリアスの時代の王そのものでありましょう。





 

 メキシコから始まった777の奇蹟の水のネットワークは、日本から始まった祈りによる世界平和運動のその姿をメタファーとして指し示しているかのような、神の秘められた高き意図を感じることが出来まして、それは宇宙神の大生命の水の働きが、世界平和の祈りとして物質的宇宙観に基づいた、間違った虚構の世界を押し流してゆく姿を象徴しているのではないでしょうか。
 現在、世界から見つかっている奇蹟の水が三ヶ所しかなくて久しいのですが、それは殆ど同じ時期に見つかっておりまして、かれこれ十年以上になりますが、未だ他の水は見つかってはおりません。しかもすでに数百ヶ所の奇蹟の水があるにもかかわらずにです。(勿論、その他の奇蹟の水が早く見つかって欲しいのは云うまでもありません。しかし、これは人類のカルマの状態にあわせて発見されるようになるもので、人類のカルマが浄まれば浄まるほど多くの泉が発見されるようになるのです。つまりこれは、世界平和の祈りがひろまればひろまるほど、奇蹟の水も発見されるようになるともいえるのであります)
この三ヶ所だけというのも、何か三つの原理と考え合わせると、非常に暗示的なものを感じさせるのです。
 何故なら、日本列島こそ三つの原理が隠されている、神の中心の姿そのものに他ならないものでありまして、それは神道の教えにある三種の神器の隠された秘密であり、
『九分九厘までは、悪神の想う通りに進む世界であるが、最後に一厘の秘密ですべてをひっくり返すぞよ』の一厘の秘密の神示そのものであると思われます。そして、世界平和の祈りこそは大救世主神の霊・力・体にして、三つの原理そのものであるからなのです。
 これは日本が世界の雛型であることを考える時、メキシコ、ドイツ、インドと三ヶ所しか見つかっていないキリスト・マイトレーヤの奇蹟の水は、日本における瑞の御霊の大神であるスサノオノ大神の根拠地をそこに指し示されているからなのではないのでしょうか。
スサノオノ大神は大救世主神のことであり、キリストの働きのことでありまして、その根拠地は日本の紀の国である熊野三山に他ならないのであります。熊野三山こそは瑞の御霊の大神の霊・力・体の現われなのであります。
 すべてはメタファーではないかと想われまして、スサノオノ大神の働きが世界救済の為に大活動をなしていることを伝えているのであり、それと同時にその為に日本の天命の重大さを教えてくださっているのではないかとおもいます。
五井先生の働きの根拠地ともいえる聖ヶ丘こそは、救世の大光明の中心体であり、つまりそれはスサノオノ大神が世界に光を放つための中心の場の一つでもあったのです。これはマイトレーヤが五井先生の働きによってこそ、日本の天命が完うされることをメタファーとして教えてくださっているからなのではないのでしょうか。その可能性が多分に感じられてならないのであります。


          777・・・・・・・それは、大救世主神の霊・力・体

             ・・・・・・・それは、宇宙創造の法則を解く鍵

             ・・・・・・・それは、深い科学の叡智を秘めしもの

             ・・・・・・・それは、宝瓶宮にかかる十字架・大救世主再臨の象徴

             ・・・・・・・それは、世界連邦完成に向けて動き始めている車輪

             ・・・・・・・それは、日本の天命であり一厘の秘密にして世界平和                                                                                              
         
                  の祈りの湧きいずる泉





 奇跡の水は個人の運命を開く力をもつものですが、これが世界の777ヵ所に創られつづけているということは、世界人類の運命が開いてゆくことを保証するものであります。
 今、世界中から湧き出しつづけている奇蹟の水は、やがては地球を取り巻く777のネットワークとなり、アクエリアスの水を地球上にしっかりとつなぎとめていきます。こんこんと湧き出その泉は、アクエリアスのエネルギーそのものであり、大救世主キリストのエネルギーそのものの命の水であります。それは、世界平和の祈りの大光明を象徴するかのように、この地球をあまねく包みこんでゆくことでありましょう。





                                                           2003年1月10日作成







   
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