閑老人のつぶやき 世界の共同主観的存在構造

先に賀川豊彦の『人格社会主義の本質』を取り上げ、「意識」が甚だしく強調されているのを見ました。賀川の文章が発する「毒気」のようなものは、どうやらその「意識」に原因がありそうです。そこで冷静に「意識現象」についての考察を試みるために、賀川が排撃した唯物論に拠って立つ廣松渉の『世界の共同主観的存在構造』を取り上げてみることにします。これを紹介するに当って、私は既に「実践的関心」を離れています。そんなことを論じて何になるのかという、性急な実践的要請を離れて、いわばアカデミックな空間に身を浸してみたいと思います。トップページに書いたように私は既に「精神的自分史」は書き終えたと思っており、研究生活とは無縁であった私が学問に触れるあり方の一つとして、これまでの「紹介とコメント」という作業を続けていきたいと思います。それが結果として、ごく一部の読者の、お役に立つなら幸いです。なおあとで索引を作成する関係上、ページが変るごとに、その都度、ページ数を挿入します。

本書は1972年10月15日、勁草書房から第1刷が発行されています。奥付によると、著者略歴として、1933年生れ、東京大学大学院哲学科博士課程修了、元名古屋大学助教授とあり、著者がその後東京大学に迎えられる以前の著作であることがうかがえます。著者は東京大学退官直後逝去しました。

なお、私自身のコメントには ▽(主として、そのあと注記ありの意味)あるいは △(注記)を頭に付けることにします。それ意外は、原文の通りに書き写すことにします。

世界の共同主観的存在構造/目次

序文

T

序章 哲学の逼塞情況と認識論の課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3

第一節 近代的世界観の破綻と「主観‐客観」図式・・・・・・・・・・・・・・・ 4

第二節 既往の認識論の隘路と遺棄された案件・・・・・・・・・・・・・・・・・10

第三節 認識論新生の当面する課題と視座・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15

第一章 現象的世界の四肢的存在構造・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21

 第一節 現象(フェノメノン)の対象的二要因・・・・・・・・・・・・・・・・・24

 第二節 現象(フェノメノン)の主体的二重性・・・・・・・・・・・・・・・・・29

 第三節 現象的世界の四肢的構造聯関・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・36

第二章 言語的世界の事象的存立構造・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47

 第一節 情報的世界の四肢的構造・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48

 第二節 言語的意味の存在性格・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・57

 第三節 言語的交通の存立構造・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74

第三章 歴史的世界の協働的存立構造・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・87

 第一節 歴史的形象の二肢性とその物象化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・91

 第二節 歴史的主体の二肢性とその物象化・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 104

 第三節 歴史的世界の間主体性と四肢構造・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 119

U

一 共同主観性の存在論的基礎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 135

 第一節 身体的自我と他在性の次元・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 136

 第二節 役柄的主体と対他性の次元・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 156

 第三節 先験的主観と共存在の次元・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 177

二 判断の認識論的基礎構造・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 205

 第一節 判断論の心理学的諸相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 206

 第二節 判断論の意味論的諸相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 218

 第三節 判断論の構造論的位相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 230

三 デュルケーム倫理学説の批判的継承・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 249

索引

初出一覧

T

序章 哲学の逼塞情況と認識論の課題

 本章は「思想」一九六九年二月号所載の「世界の共同主観的存在構造――認識論の新生のために――」の前半部を――一部に補筆・修正を加えて――転用したものである。

第一章 現象的世界の四肢的存在構造

本章は、前章と同じく「思想」一九六九年二月号所載の「世界の共同主観的存在構造」の後半部分の転用である。

第二章 言語的世界の事象的存立構造

本章は「思想」一九六九年七月号所載の「言語的世界の存在構造――意味の認識論的分析への視覚――」の転用である。

第三章 歴史的世界の協働的存立構造

本章は「思想」一九七〇年八月号所載の「歴史的世界の協働的存立構造――物象化の哲学への基礎視覚――」の転用である。

U

一 共同主観性の存在論的基礎

本稿は「思想」一九七二年七月号および八月号に分載した「物的世界観から事的世界観へ」の「第一章 世界像の共同主観性の基礎」ならびに「情況」一九七二年四月号の「人間存在の共同性の存立構造」を編輯的に改作したものである。本稿の第一節・第二節は本書第T部に対する補説的基礎づけを意識して編まれている。

二 判断の認識論的基礎構造

本稿は筑摩書房「学問のすすめ」シリーズ第十九巻『論理学のすすめ』に分担執筆した「判断の認識論的基礎構造」の再録。第T部第二章で素描した意味論の視座に立って判断論のアポリアを打開するための視覚を対自化しようと図ったものである。

三 デュルケーム倫理学説の批判的継承

本稿は「名古屋大学教養部紀要」(一九六七年度)に載せた「デュルケーム倫理学説の批判的継承のために」の再録。

序文

本書は、雑誌「思想」に分載した「共同主観性」をめぐる三篇の論文を補修して第T部(内篇)とし、これと密接に関連する三篇の論稿を第U部(外篇)として編輯したものである。(初出一覧は目次裏に別掲)

所収の各論稿は、著者なりの問題意識と基本的意想を積極的に開陳したものであり、この意味では、拙い乍らも著者の“主要論文”と呼ばれうるかもしれない。とはいえ、何分にもトルソーにとどまっている。このことを自覚すればこそ、著者としては論文集に編むことを自制し、『存在と意味』と題する浩瀚な書下しを準備してきたのであった。著者は、もとより、『存在と意味』の完成を断念したわけではない。――私事に亘るようではあるが、本書第T部に収めた諸論文を発表した折、体系的講述を鉛槧(▽1)に上せるよう鼓舞激励を賜った幾人もの先学の芳情に応え、また、方法論的視座として利用する可能性ありとの廉で論点の具体化を慫慂(▽2)された社会学、言語学、法(哲)学、経済学、精神病理学、数学基礎論、科学論などの幾人かの専門家諸氏の示教を無にせぬためにも、著者にとってそれは妄執ともいうべきものである――。倖い、忙中に閑を得て当の作業は一定の進捗をみているが、目下の情況では公刊までに猶暫くの年月を見込まざるをえず、他面ではこのトルソーは却って概観に便利であり、後日『存在と意味』を上梓した暁にも独立の存在意義を保持するものと思い做すに到った。内心に忸怩たるものを遺しつつも、敢て本書を世に問う所以である。

△1 鉛槧〔えんざん〕(中国で、鉛粉・胡粉で槧(木の札)に文字を書いたり塗り消したりしたことに基づく語)@詩文を草すること。A文筆の業。―広辞苑

△2 慫慂〔しょうよう〕傍から誘いすすめること。そそのかすこと。―広辞苑

本書の内容については予め記しておくべき事項は存在しない。序章が本書の問題意識を自ずと表明する筈である。尤も、著者が惧れるのはほかならぬ当の序章こそが読者の忍耐力の限界を超えるのではないかということである。もし、序章が余りにも煩わしいと感ぜられる場合には、直ちに第二章の言語論を繙読して頂ければと念う。浅学非才を愧じつつも、今は唯、一切を読者の好意ある忍耐に賭する而已(▽)である。

△ 而已〔のみ〕それだけ。それでよい。限定の意味をあらわすことば。―新選漢和辞典(字義通りには、「而して已む」と読むのでしょう。―引用者)

末尾ながら、本書が成るにあたり、御厚情を忝けなくした多くの方々、とりわけ、鞭撻を賜った「思想」元編集部の伊藤修氏、勁草書房編集部の田辺貞夫、富岡勝両氏――富岡氏には索引作成の労まで煩わせた――の御高配に対して感恩の念をあらたにする次第、記して微衷を申し添えたい。

一九七二年八月十一日

著 者

T

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序章 哲学の逼塞情況と認識論の課題

哲学の沈滞が叫ばれるようになってから久しい。哲学はたしかに混迷を続けている。だが、果して諸科学はどうであろうか? 諸科学もまた、同様に低迷しているのではないか?

諸科学が、今世紀最初の三分の一世紀に収めた理論上の業績と、次の三分の一世紀のそれとを、試みに対比してみるがよい。相対性理論量子物理学精神分析学ゲシュタルト心理学、これらはいずれも第一期の成果に属する。条件反射理論構造言語学デュルケーム学派の集団表象理論、ウェーバーの業績ケインズの経済学、等々、想起するままに列挙し、次の三分の一世紀に果して比肩しうべきものがあるか、想ってみるがよい。総じて、二十世紀の中葉は、――なるほど、原子力の開発、“生命物質”の合成、等々、理論の技術化・実用化という点では一大進捗の時期であったにせよ――理論的創造力の低下した“諸学の停滞期”であったことを覆えないであろう。

著者は、諸科学を貶しめることで哲学を弁護しようというのではない。両者のあいだに短絡的な因果関係をつけようというのでもない。況や、認識論の不毛が諸科学の低迷を招いたなどと主張するつもりはない。ここでは、ただ、諸科学の停滞と哲学の混迷とが、問題論的構制からいって同一の根から生じていることを示唆したかったまでである。哲学は、各時代における人間の知的営為の根本的な“構図と発想”を直截に表白するものとして、好むと好まざるとに

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かかわらず、人類の思想史的転換局面を鋭敏に投影する。現在、旧来の発想法の全面的な逼塞が諸学の停滞となって顕われているのだとすれば、哲学の混迷は当の閉塞の浮標たるにほかならないであろう。哲学の逼塞情況は、かくのごとき事情と事態とに由来するものであるように思われる。

斯様に了解して大過ないものとすれば、哲学が、そしてまた諸科学が、隘路を打開し、新しい途につくためには、旧来の発想法の地平そのものを剔抉し、それを端的に超克しなければならない。認識論の新生が課題となるのも、かかる問題圏と射程においてである。

ここでは、哲学が今日陥っている逼塞情況を詳しく暴き立てる必要はないと考えるが、まずはこの情況の意味するものを問い直し、嘗つての認識論が遺棄した諸問題の追認を介して、新しい認識論の当面する問題状況と課題を自覚的に措定しておきたい。

△ 著者はここで今日の哲学の「逼塞情況」が認識論の問題に関わることを確認します。以下、近代認識論の「主観‐客観図式」が俎上に載せられます。

第一節 近代的世界観の破綻と「主観‐客観」図式

思想史的なパースペクティヴにおいて過去を顧るとき、古代ギリシャの世界観、中世ヨーロッパの世界観、近世(近代)の世界観というように、世界了解の根本的な構えと図式に断続的な変化が存在することに気が付く。各々の時代はその内部に相対立し相抗争する諸多の思潮をもつとはいえ、対立といい抗争といっても、それは所詮、当代の地平という共通な土俵上での出来事である。なるほど、微視的にみれば、断続面は必ずしも平滑ではないし、各時代の内部にもそれぞれ幾つかの段階を劃することができる。とはいえ、古代ギリシャの思想はいかにも古代ギリシャ的な、中世ヨーロッパの思想は所詮は中世ヨーロッパ的と呼ばるべき、それぞれ共通な発想法に立脚している。近代以降に

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おける、いわゆる資本主義的文化圏内の諸思想は、重商主義(絶対主義)、産業資本主義(自由主義)、独占資本主義(帝国主義)の各段階に応じて多分に様相を異にしつつも、概して共通な世界了解の構図に立脚し、或る共通な発想法を分有している。

ここにいう近代的世界了解の構え、すなわち、資本主義時代に照応するイデオロギーという意味でのブルジョア・イデオロギーの地平――これの特質については別著(『マルクス主義の地平』第一部)で論じておいたので、ここでは式述(▽)しないが――、このブルジョア的世界観の地平がもはや桎梏に転じ、破綻に瀕していること(それは単なる“西洋の没落”などというものではない!)、さりとて、人々はまだ、それに代るべき新しい発想法の地平を、明確な形で向自化しうるには至っていないということ、今日の思想的閉塞情況は、要言すればこれに起因するものであると看ぜられる。

△ 式述:「弐述(じじゅつ)」の誤植ではないかと思われます。その場合には「繰り返し述べる」の意味でしょう。ただし普通の辞書には出て来ない言葉です。

われわれは、今日、過去における古代ギリシャ的世界観の終熄期、中世ヨーロッパ的世界観の崩壊期と類比的な思想史的局面、すなわち、近代的世界観の全面的な解体期に逢着している――こう断じても恐らくや大過ないであろう。閉塞情況を打開するためには、それゆえ――先には“旧来の発想法”と記すにとどめたのであったが――“近代的”世界観の根本図式そのものを止揚し、その地平から超脱しなければならない。認識論的な場面に即していえば、近代的「主観‐客観」図式そのものの超克が必要となる。

 

近代的「主観‐客観」図式そのものの超克を云々するとき、早速に読者の反問が予想される。苟くも「認識」について論考しようとするかぎり、「主観‐客観」図式は絶対に不可欠ではないのか? 認識論がいかに行詰ったからといって、この構図そのものを放擲するわけにはいかないのではないか?

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このような反問が生ずるのも、実は、主‐客図式が“近代人”の既成的先入見となり、それが“近代的”認識観の地平を劃しているからにほかならない。だが、あらためて想起を需めるまでもなく、「主観」「客観」なる概念は、近代をまって初めて成立したものである。伝統的な subjectum, objectum という言葉の意味内容を換骨奪胎して「主観」「客観」というタームの今日的な用語法が確立したのは、かなり時代も降ってからのことである。古代や中世には、そもそも「主観‐客観」などという発想そのものが存在しなかった。“近代的”発想の地平に浸り込んでいるかぎり主観(主体)‐客観(客体)という図式をぬきにしては「認識」はおろか、そもそも世界を了解することが、なるほど困難である。しかし、古代や中世の人びとがこのような図式をぬきにして“認識”についての一応の了解をもつことができたという事実に徴するまでもなく、原理的には「主観‐客観」図式は「認識」を論考するために必要不可欠ではない。とりあえず、右のところまでは云っておくことができる。とはいえ、われわれはまだ、この「図式」に根強く捉えられており、今日、それに代えて認識を述定しうべき既成の概念装置を持合わせていない。現に、感覚や感情に至るまで本源的に社会的な形象(ゲビルデ)であることをいちはやく指摘し、社会的諸関係の総体として、いわば具体的普遍としての人間が共同主観的に営む対象的活動、これに視座をとって認識を論じた有名なテーゼの継承者たちですら――当の始祖(▽)は「主観‐客観」という用語法を注意ぶかく回避した形跡が認められるにもかかわらず――再びSubjekt-Objekt-Schemaに回帰してしまっている現実を思うにつけ、当の図式を超克することは、いかにも困難である。今日「主観‐客観」図式から超脱することの困難たるや、かつて中世の人びとにとって「形相‐質料」図式から離脱することが至難であったことになぞらえることもできよう。

△ 始祖とはマルクスその人のことでしょう。なお、いささか煩瑣ですが、subjectobjectという言葉の意味を、Webster’s New Collegiate Dictionaryによって、以下確認しておきたいと思います。日本語の主観(主体)、客観(客体)は全くの翻訳語です。

subject 名詞 [ラテン語のsubjectus(権威の下にあるもの)及びsubjectum(命題の主語)から来た、中世フランス語に由来する中世英語。ラテン語のそれぞれはsubjectusの男性、及び中性、subicereの過去分詞、字義は「下に投げる」、sub-jacere(投げる)、さらにjetを参照のこと] 1: 権威あるいは支配の下に置かれているもの、a: VASSAL(臣下)、b (1): 君主に服従し、その法によって統治されるもの、(2): 国家の統治権の、領域内に居住し、その保護を受け、それに忠誠を尽くすもの(国民、市民)。2 a: ある性質、属性、あるいは関係が確認されること、またそれが備わっていること、b: SUBSTRATUM(基層、基体): 特に、物質的あるいは本質的な実体、c: どんなものでも思考あるいは意識の形状を保持するか、またはそのように見える、心(mind)、個我(ego)、あるいは行為者(agent)、(主観、主体)。3 a.: 知識あるいは学習の部門(学科、科目)、b: MOTIVE(動機)、CAUSE(原因)、c (1): 「自身の残酷さという、どうしようもないsubject(性質)」に規定されている当人(残酷な…質の人)、 (2): その反応や応答が研究される個人(被験者)、 (3) 解剖学的な観察と切開のための死体、d (1): 何かが言われ、あるいはなされることに関わる何かあるもの(主題、演題、テーマ)、 (2): 芸術作品で表わされ、示される何かあるもの(主題、テーマ)、e (1): 論理学的な命題についての用語(主語)、それは何かが肯定され、あるいは否定されることに関わる実在物(entity)を指示する。同様に、指示されるそのもの(実在物)。(2): 何事かが述定されることに関わる実在物を指示する語、あるいは語群(主語)、f: ある作曲や音楽的運動が、それに基礎づけられている主要な旋律的楽句(主楽想)。類義語、CITIZENを見よ。(形容詞、動詞のsubjectについては省略―引用者)

object 名詞 [ラテン語obicereの中性、中世ラテン語objectumに由来する中世英語で、obicereは遮って投げる(to throw in the way)、差し出す(present)、邪魔する(hinder)という意味、ob- in the wayjacere to throwから来ている。さらにjetを参照のこと] 1 a: 見られ、触られ、さもなければ感じられる、あるいはそれが可能な、何かあるもの(もの、物体)、b: ある主体が(それとして)認知しつつ意識している、物質的もしくは精神的な何かあるもの(対象)。2: 見る者に情動を引き起こす何かあるもの(例、哀れみの対象 an object of pity)。3 a: 努力や行動や情動が差し向けられる終局:目標(GOAL)、 b: 動機(MOTIVE)。4: 調査や科学研究の要素を形づくるもの、またはその題材を構成するもの(研究対象)。5 a: 動詞の働きがそれについて、あるいはそれに向って差し向けられることを、動詞構文において表示する名詞あるいは名詞相当語(目的語)、b: 前置詞句における名詞あるいは名詞相当語(前置詞の目的語)。類義語INTENTIONを見よ。(動詞のobjectについては省略―引用者)

▽ 以下、廣松の本文に戻ります。

この困難に加うるに菲才、以下の論考は、主観‐客観構図の止揚という志向に導かれつつも、たかだかのところ――認識論の新生という企図からしてそうなのであるが――、“旧来の図式の枠内での自己批判”をいくばくも出な

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いことを惧れる。だが、次節でみる通り、主観‐客観図式がいまや桎梏となり“逼塞情況”を現出しているとすれば、そしてこれを打開することなくしてはもはや一歩も前進できない事態に逢着しているとすれば、たとえ徒労に終ろうとも、それを止揚すべく模索の途につくことが、当為となる所以である。

 

近代認識論の「主観‐客観」図式においては、次のことが了解として含意されていると云える。そして、そこにこそ抜本的に再検討さるべき問題構成が孕まれている。

(1)主観の「各性」(Satz der Jemeinigkeit od. Persönlichkeit)。主観は、いわゆる近代的“自我の自覚”と相即的に、究竟的には意識作用として、つねに各個人の人称的(ペルゼンリッヒ)な意識、各自的な私の意識だと了解される。(或る種の学派では超人称的・超個人的な認識的主観が立てられるとはいえ、その場合でも、現実的諸個人の意識は人称的であるとされる)。そして、一般には、近代的“個我の人格的平等性”と照応的に、この人格的(ペルゼンリッヒ)意識主体として、認識主観は本源的に「同型的」isomorphであると見做される。

(2)認識の「三項性」(Schema der Triarität)。認識主観に対して直接的に与えられる「意識内容」が客体そのものから区別され、対象認識は「意識作用‐意識内容‐客体自体」という三項図式で了解される。(或る種の学派では、「客体そのもの」と「意識内容」との二分化を再び廃棄するが、その場合ですら、この“方法的区別”の構図を前提する)。そして、「意識内容」の少くとも一部に関しては、認識主観の能動的な作用が及び、加工・変様がおこなわれうるものと想定されるのが常套である。

(3)与件の「内在性」(Satz der Immanenz od. Satz des Bewußtseins)。三項図式においては、いわゆる近代的な“物心の分離”と相即的に、認識主観に直接的に現前する与件は「意識に内在」する知覚心像、観念、表象、等々、

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つまり「意識内容」にかぎるとされ、客体自体は意識内容を介してたかだか間接的にしか知ることができないものと了解される。

マッハ主義や後期の現象学派など、これらを一応はしりぞける学派も存在するとはいえ、近代認識論においては、以上三つの大命題が「主観‐客観」図式と相即的な了解をなしているのが一般であると云えよう。

△ 「主観‐客観」図式に当然のこととして含意されている三つのこととして、著者は、先ず、@主観の「各私性(人称性)」、A認識の「三項性」、B与件の「内在性」を挙げます。逆にそれが「主観‐客観」図式を成り立たせていると言えます。

これらの命題(▽)を形影相伴う「主観‐客観」図式は、今日“常識”にまで浸透しており、人びとが“認識現象”を取扱う際には暗黙のうちにそれが前提されているので、“常識”は反問して云うかもしれない。“意識は必ず誰かの意識である”。これは自明ではないか? 誰の意識でもないような意識、それは形而上学的な化物どころか、形容矛盾ではないか? 「意識内容」が客体そのものとは別であること、これまた自明ではないか? 色や香りや音韻はもとより、見える限りでの大きさや形、等々、知覚心像は客体とは別である。記憶心像、想像の心像、夢の心像、等々、客体とは別の「意識内容」、いわゆる“頭の中の観念”をわれわれがもっていること、そして、客体の認識がこれらの「意識内容」とりわけ「知覚」や「概念」を通じておこなわれること、これはそれこそ不可疑ではないか? 云々。

△ 著者の言うSatzとは、我々近代人が当然のこととして前提している「命題」(思考の大前提、思考の枠組、根本的思考法)を指しているのでしょう。

今日、人びとが是を疑ってみようともしないのは、近代的「主観‐客観」図式の地平が「地平」として確立し、汎通的な先入をなしていることの一証左たるにほかならず、まさしく、中世の人びとがスコラ神学的・生物態的世界了解の根本図式を疑ってもみなかったのと類比的であろう。

われわれは、今ここで“常識としての常識”を批判するつもりはない。だが、そこには抜本的な再検討を要する問題点が孕まれていること、これだけは二三のコメントを通じて示唆しておかねばなるまい。
端的に藉問しよう。意識は必ず誰かの人称的な意識だというが、例えば、いわゆる“感情移入的共感”や“群集心理”の場合、どこからが「私の」意識でどこからが他人の意識であるか? 直接的な意識事実としては「相手の」意識であり「我々の」意識
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である。しかるに、それでもやはり「私の」意識であるというとき、これは内省的な自我意識に照応するものではない。それこそ意識の「各自性」の命題を大前提にして、意識とは必ず特定の主体に内属するものだという、トートロジカルな復唱をおこなったものにすぎないのではないか?
意識の各自性は、内省的自我意識によって直接的に権利づけることはできない。それは、元来、意識の背後に、不滅の霊魂、人格的自己同一性を保つ精神的実体を想定し、意識を以ってこの精神的実体の属性ないしは作用だと考えることにおいて成立したものである。そして「霊魂」の救済の信仰と結びついて、とりわけキリスト教世界では、根強いドグマたりつづけている。この信仰を離れるとき、意識の各自性は、生体、とりわけ脳髄の各自性によってしか説けまい。脳髄は、なるほど各自的であるにしても、しかし、果して脳髄に意識が内属するであろうか?
“意識現象”は、たしかに、脳髄内部の機能的過程によって規制されるであろう。物の色や形は――光線の具合や見る角度で変わるという意味で、物そのものがそれもっている性質とは云えないだけでなく――脳の内部の過程とも相関的である。幻覚上の色や形のごときは、なかんずく脳内の生理的過程によって生ずるであろう。だが、この生理的過程そのものは色や形ではない。況や、色や形が脳のなかに文字通りの意味であるわけではない。意識という言葉で置きかえても、与件が意識に対してあるということは、意識のなかあるということではない。かくして、「内属」を論拠にした意識の各自性は主張できない。
「意識内容」「頭のなかにある観念」といった表現は、元来、かの精神的実体とその属性としての意識、という発想にもとづいて形成されたものであった。今日では、しかし、誰しもそれを文字通りに主張するわけではない。「意識内容」が主観に内属するといった立言は、もはや、単なる比喩にすぎない。
しかるに、いざ「認識」を論ずる段になると、人びとはこの「比喩」を単なる比喩以上のものとして用いてはいないか? 意識の「内」と「外」を、つまり「意識内容」と「客体そのもの」とを、いわば空間的に引き離してしまい、そこで、やれ模写だ、やれ投射だといった空間的な関係づけで認識を“説明”してはいないか? しかも、意識内容が、あたかも意識なる箱のなかにあるものであるかのように扱いつつ、あまつさえ、精神的“物理”作用の加工対象であるかのように扱いつつ、認識の「構成」を説いたりしていないか? 比喩と説明との混同と二重写し! 比喩は、しかし、所詮は説明でない。そしていまやこの“比喩”的モデルが桎梏になっているのだ。

△ 犯罪者に刑を科するとき、犯罪に対する特定個人の「責任能力」が問われます。人格的自己同一性を否定すれば、刑罰はそもそも無意味になります。また「頭の良し悪し」を否定することもできません。世の中には、ずば抜けた知性の持主がいることは確かです。頭脳と意識との関係ということは、それ自体大問題であって、直ぐに明確な見通しが与えられるようなものではありません。しかし実体とその属性という比喩(説明のモデル)によっては、事柄を正しく理解することができないという著者の指摘はその通りでしょう。旧来の「比喩的」モデルは今や「桎梏」になっているとさえ著者は言います。

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ここは、まだ、旧来の認識論を批判的に検討すべき場所ではない。が、あえて一言しておけば、旧来の認識論は、結局のところ、一切を「直覚」に還元する立場を除けば、そしてまた、かの精神的実体とその属性を考える“首尾一貫した”立場を除けば、意識の各自性という臆断に立脚しつつ、右に指摘した「比喩と説明との混淆的二重写し」に終始していると云わざるをえない。

△ 比喩的モデルを離れて、果していかなる説明が可能であるかを考えてみる値打はあります。比喩を離れて直接的に説明するとはどういうことでしょうか。逆に、著者は新しい説明のモデル、いわば新しい「比喩」を求めていると言ってもよいのではないでしょうか。従って「比喩と説明との混淆的二重写し」という言い方には問題があります。なおメタファーと宗教言語参照。

この間の事情を確認するためにも、近代認識論が、かの三つの大命題に禍いされて、いかなる宿命的なジレンマに陥ったかを一瞥しつつ、問題点を確認しておこう。


第二節 既往の認識論の隘路と遺棄された案件

嘗つて前世紀の六、七十年代から今世紀の十年代頃にかけて、新カント学派経験批判論学派現象学派、等々が“百家斉放”妍を競う文字通り“認識論の時代”ともいうべき盛況がみられた。しかるに、二、三十年代を境に、――尤も、論理実証主義分析哲学が、もしあれでしも認識論と呼ばるべきならば、これは暫く措かねばならないが――認識論の流行が、突然、停止してしまった。それは文字通り“流行”の終熄であって、破産を宣告されたわけでも、況や内在的に克服されたわけでもなかった。

認識論の流行に代って、“存在論”、哲学的人間学実存主義、云々、云々が流行するようになったこの一件は、そのかぎりではむしろ、第一次世界大戦後の歴史的・社会的・精神的情況に即して、社会思想史的に研究されるべき対象にすぎないとも云えるが、しかし、視角をかえてみれば、認識論は、当時、近代的主・客図式の埒内において可能な一切の試みを出し尽してしまい(*)、もはやその内部では発展性のない状態にまで“爛熟”していたと云うこともでき

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る。

* 因みに、主観を個々の主観と先験的な主観とに二重化し、これに応じて客観をも二重化するカントの図式をこえて、主観と客観とをそれぞれ三重化する企図すら生まれたのであった。尤も、後述の通り、主観‐客観図式を自己批判する動きも、この頃から見られるようになる。

現に、今世紀を迎えてからの認識論は、いまや“諸科学の奴婢”としてすら機能しえない事態にたちいたっていたことを看過できない。認識論は、もはや、諸科学のもたらした新しい知見、諸科学の採りはじめた新しい発想に対処することができず、それを前にして立(▽)してしまった。

△ 吃立:屹立をもじって、敢えて吃(どもる)の文字を当てた皮肉。著者には漢字への一種の愛好癖があります。

相対性理論とか、不確定性原理とか、物質概念や因果概念の“変様”とか、自然科学の内部に生じた一連の事件を謂うのではない。これらの事件は、なるほど“古典”物理学の発想法と道具立ての変様を強制したのと同様、“古典”認識論の変様を促した。しかし、それが“近代科学”の発想法の内部での変化という埒内に押込まれたかぎりで、認識論もまた“近代的”世界観の埒内でそれを処理することができた。マッハ主義カッシラーの企図などを引合いに出すまでもなく、認識論はそれなりの仕方で一応、あくまで一応ではあるが、それに対処しえたのであった(*)。

* アインシュタインの相対性理論とマッハ主義との関係については拙論「マッハの哲学と相対性理論」(マッハ『認識の分析』付録 法政大学出版局りぶらりあ叢書)を一覧願いたい。

認識論が適応不全に陥り、その前で途方に暮れたのは、われわれのみるところ、わけても次の三つの与件である。尤も、或る種の学派は、その一つなり二つなりを自己流に釈して論拠に用いようとさえしたのであるが、結局は、提起された問題を十全にうけとめることができず、全面的に対応することはできなかったと云わざるをえない。

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(1)未開人の精神構造や精神病患者の意識構造の研究によってもたらされた知見。文化人類学や精神病理学は、未開人や精神病者の意識構造が正常な“文明人”のそれとはおよそ「異型的」であることを明らかにした。脳髄や感覚器官の生理的機構、基礎的な心理過程は“同一”であるにもかかわらず、文明人と未開人とは――恰度(▽)、諸民族が、大差のない生理機構をもちながらも、およそ相異なる言語体系をもつのと類比的に――いわゆる高等な意識はもとより、知覚の体系にいたるまで、およそ相異なった精神構造をもっている。この知見は、それ自体ですでに、認識主観は本源的に「同型的」であるという前提のもとに(対象が同一であれば同一〔同型〕の認識が成立する筈だ、という了解のうえに立って)構築されてきた旧来の認識論を躓かせるに足るものであるが、あまつさえ、当の「異型性」が「機能的」なものであることが明らかにされたことによって、蹉跌が決定的になった。けだし“知性的能力”はおろか、“感性的能力”にいたるまで、歴史的・社会的に共同主観化されていること(*)が明らかにされたため、意識の人称性(ペルゼンリッヒカイト)、各自性というかの大命題そのものが――詳しくは後にみる通り――もはや維持できなくなったからである。

△ 恰度:恰(コウ)は「〈あたかも〉ちょうど、まるで」という意味を持ちます。従って恰度と書いて、「ちょうど」(丁度)と読ませるのでしょう。

* これがいわゆる“普遍的イデオロギー性”の問題とも直接に関係することは見易いところであろう。
ついでながら、マルクス・エンゲルスは、早くから、意識の共同主観性、感覚や感情にいたるまで歴史的・社会的に共同主観化されていることを主張し、この知見に立脚しつつ唯物史観を構築したのであった。
マルクスはいう。「人間的な感性は、直接的にあるがままで人間的感性なのではない。……他の人間の感覚や精神が私自身のものとなっている。……社会的な諸器官が形成されている」(『経哲手稿』)。「社会的存在諸条件のうえに、さまざまな、特有な、感覚、幻想、思考様式・・・・・・の全上部構造がそびえ立つ。全階級は、それら感覚、思考様式等を・・・・・・照応する社会的諸関係から作り出し、かたちづくる」(『ブリュメール十八日』)。「精神は、その内容からしても、なりたちからしても、そもそも社会的である」(『経哲手稿』)。
エンゲルスはいう。「意識は、そもそもの初めから、すでに一つの社会的な生産物である」。言語の成立した時点、それがとりも直さず意識の成立した時点であって、Die Sprache ist so alt wie das Bewußtsein、「言語とは、実践的な、他人に対しても存在し、それ故に私自身にとってもはじめて実存するところの also auch für mich selbst erst existierendes 現実的な意識
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である」。「言語は意識の現実態である」(『ドイツ・イデオロギー、基底稿』)。
「意識とは、意識された存在にほかなるものではない。但し、ここにいう人間の存在とは、かれらの現実的生活過程の謂いである」。――因みに「存在が意識を決定する」という命題も右の意味において解さるべきであろう。それは決して認識客観が認識主観を決定することの謂いではない――。
マルクス・エンゲルスが意識形象のイデオロギー性を把握しえたのは、意識の本源的な、歴史的・社会的・階級的存在被拘束性を洞察したことによってであった。

△ 人間は人間に育てられるから人間になり、言語を習得し、感覚を含めて、意識が社会化されてゆくのだということは、特にマルクス主義者でなくても、誰もが認めるべき真実です。『アヴェロンの野生児』が端的にそのことを示しています。また社会的環境が異なれば、異なった人間性が形成されます。

(2)ゲシュタルト心理学が打出した発想、ならびに、その知覚研究がもたらした知見。ゲシュタルト心理学は、一定の局所的刺戟に対して常に一定の感覚が対応する(刺戟が同一であればそれに対応する感覚も同一である)という「恒常仮説」をくつがえし(*)、あまつさえ、知覚が本源的にゲシュタルト的に分節化していることを明らかにした。認識論は、論理主義の立場をとるものにおいてさえ、認識の事実的過程に関しては、一般に、要素的意識内容が主観のはたらきによって結合され現与の形象となるという統覚心理学的な想定に立脚してきた。しかるに、この想定が、今やゲシュタルト理論によって維持しがたいものとなるに及んだ。「恒常仮説」の倒壊によって、かの意識作用―意識内容―客体自体という「三項図式」が認識論的有効性を脅かされたうえに、統覚心理学的発想が破綻したため、認識論の諸派は、直覚主義的な立場をとるものを除いて――しかるに、これは先の(1)と調和しがたい!――斉しく躓くことになる。

* 恒常仮説の否定によって、旧来の認識論は或る便宜的な処置をも許されなくなった。かの三項図式と「意識の命題」を立てるかぎり、旧来の実在論的認識論は、認識の客観妥当性、認識と客観そのもの(の性質)との対応性の権利づけを、原理上はそもそものはじめから奪われている。けだし、「意識の命題」のゆえに、たかだか「意識内容」どうしの比較はできても、意識内容と客観そのものとの比較原理上不可能だからである。ここにおいて、恒常仮説を暗黙のうちに立てることによって、便宜上「権利づけ」に代えてきた。しかるにいまや、この途が断たれたわけである。
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ゲシュタルト心理学派としては、後期のケーラーなどが明示したように、一種の平行論的対応を別の形で主張したわけであるが、ここではこれの批判や、先の(1)とも関わることであるが、恒常仮説の否定に当ってそれを擬設的に前提しているのではないかという方法論上の問題には立入らない。

△ 著者がゲシュタルト心理学を重視する理由は、「一定の局所的刺戟に対して常に一定の感覚が対応する(刺戟が同一であればそれに対応する感覚も同一である)」という、「恒常仮説」をくつがえしたということにあります。また旧来の統覚心理学的想定とは、「要素的意識内容が主観のはたらきによって結合され現与の形象となる」というもので、判断論の根拠をなしてきました。判断は表象(意識内容)と表象との結合(そして分離)であるというその立場が、ゲシュタルト心理学によって覆されたのであれば、これまでの認識論を初めから考え直さなくてはならないということになります。

(3)フランス社会学派、なかんずくその「集団表象」の理説がもたらした発想と知見。集団表象の理説は、人びとの意識が集団化され共同主観化されているということを指摘するにとどまらず――この側面については(1)で問題にしたところである、――さらに一歩を進めて、人びとのもつ“意識内容”“表象”がいうなれば物象化することを究明し、社会的事実 fait social を、この意味での物 chose として処理する。道徳的事象や「言語」を考えてみれば瞭然たる通り、「集団表象」は決して諸個人がもつ表象の代数和ではなく、特的綜合 synthèse sui generis であり、新しい存在性格を獲得する。なるほど、もし人間(意識)が誰一人存在しなければこの chose も存在しないというかぎりでは、それはたしかに“主観的なもの”であるが、しかし、それは個々の意識主体と客体との直接的な関係によって生ずるごとき「意識内容」ではない。言語や道徳形象の例にまつまでもなく、それは諸個人の意識に対して「外在的」であり「拘束的に作用」する。この物象化された意識、集団表象は、精神と物質という近世的な二元分類に収まりにくいという点は措くとしても、意識の直接的な与件でありながら「意識内容」ではないことにおいて(*)、かの「意識の命題」を躓かせる一契機たらずにおかなかった。

* この点、いわゆる価値哲学や現象学などがその“存在”を指摘した「第三領域」に属するもの、妥当 Geltung, 価値 Wert, 数のごときもの Zahrartiges, 命題自体 Satz an sich, 理念的統一体 Ideale-Einheit, 等々も同様である。フランス社会学派の立場でいえば、これら“第三帝国”は――いかに自体的存在、自体的対象性とされようと――結局のところ集団表象に帰着するであろう。

△ 「意識の命題」(主観‐客観図式)を躓かせるもう一つの契機は、フランス社会学派の「集団表象」の理説であり、それは個人的知識(personal knowledge)の牙城を揺るがすに十分な知見であると言われています。また表象は社会的事実 social fact としてモノ化・物象化されているという指摘は、著者の「物象化論」と密接に関わるものでしょう。

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右に挙げた三つの三つの契機のうち、一つないし二つに関するかぎり、認識論の若干の流派は、必ずしも適応できなかったわけではない。知識社会学系の認識論のごときは、これらの契機を積極的な基盤にしようとさえ試みたのであった。しかし、これら三つの契機が、かの三つの大命題、“近代的”主観‐客観図式と相即する基底的な了解そのものに抵触すること、なかんずく第一の契機は意識の人称性・各自性の大命題と抵触するものであること、しかるに認識論の諸派は依然としてこの大命題を端的には放棄しえなかったこと、このゆえに、――といっても、上述の通り、歴史的経過としては“流行の停止”たるにすぎず、決して自己確認がおこなわれたわけではないが――われわれのみるところ、既往の認識論は、詮ずるところ蹉跌を免れず、閉塞情況に陥らざるをえなかった。

けだし、認識論の新生を期するに当っては、これら三つの与件をしかるべく処遇し、よって以って隘路の打開を図ることが、持越された案件となる所以である。

△ かくて著者は「認識論の新生」という容易ならざるテーマを自らに課します。それはやがて「存在と意味」というライフワークへとつながる筈のものとして構想されています。このような体系的著述家の出現は珍しいことであり、やはり注目すべきでしょう。

第三節 認識論新生の当面する課題と視座

認識論の「新生」は、すでに示唆した通り、伝統的な認識論の単なる再生ではありえない。認識論は、一見、世俗を超越した抽象的形式的な学問であるかのようにみえながらも、それ自体ひとつのイデオロギー形態として、その都度“時代の要求”に担われ、それに応えてきた。

ロックカントの認識論は、前近代的な形而上学的ドグマチズムの覆滅を断行し、併せて“近代的”発想の姿勢を権利づけるという歴史的使命に応えた。それはさながら、ホッブスルソー社会契約説が、伝統的な帝王権の理論的基礎を奪い、“近代的”社会思想を権利づけたのと類比的である。

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次の歴史的ステップにおいては、新カント主義に象徴されるように、認識論は、総じて“近代的”発想において宿命的なSubjektivismusObjektivismusWechselspiel(▽)を適宜に調停しつつ、この近代的地平の夜警・門番としての使命を演じた。

△ Wechselspiel: 交互に行う競技という程の意味でしょう。

第三の歴史的段階においては――それは“自由主義時代”の終熄、“帝国主義時代”の開始期に照応するのだが――マッハ主義、末期のカント学派、広義のブレンターノ学派、等々、認識論も一斉に“近代的”発想の古典的な図式を問い直し、自己批判と修正を遂行したのであったが(*)、“近代的”発想法の基礎構造そのものには手をふれず、その弥縫的延命に貢献する結果に終った。

* 新カント派社会主義やマッハ主義的な共産主義が登場した理論的素地の一つとして――あくまで一つとして――末期カント学派や経験批判論学派が、それなりの仕方で“近代的”ブルジョア・イデオロギーの根本図式を“批判”したということ、この点でマルクス主義と相通ずる接点があったことを見逃せない。また、ブレンターノ学派の系譜につらなるハイデッガーが戦後マルクス主義を高く評価し、同じくサルトルがマルクス主義に“転向”した背景についても、“近代的世界観”の地平そのものに関する“自己批判”という同じ問題点に逢着する。

マルクス主義の正統派が、この間の事情を事実上等閑に付し、これらの理説を古典的な“近代思想”に還元して“批判”することで自足してしまったことが、その後逆に足もとをすくわれる一因になっているように見受けられる。

われわれが、今日、新生を期すべき認識論は――先に別のコンテクストにおいても立言しておいた通り――今日の時代的要求に応えて“近代的”発想法の地平そのものを端的に自己批判し、その基礎的構造を破砕して、新しい世界観の権利づけを図るものでなければならないであろう。

△ ここに著者の意図が明瞭に示されています。私としては先に見た賀川豊彦の社会連帯意識性なるものを、別の観点から見直す試みとして、著者の「新しい世界観の権利づけ」という問題意識を受け止めてみたいと考えています。またそこには柄谷行人の言う「交換様式D」に通じるものがあるかもしれないなどとも考えます。

新生を期すべき認識論は、かの“遺棄された案件”を単なる“持越された問題”として、引継ぐのではなく、当の与件がまさしく近代的世界了解の根本図式に対するアンチテーゼを懐胎している事実に着目し、それを好便な手掛り

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としてむしろ積極的に逆用することができる筈である。

われわれとしては、謂うところの“与件”を次のように受けとめ、それぞれに応じて次の仕方で問題を立てることができる。

(1)人間の意識が本源的に社会化され共同主観化されているという与件。これは人びとの知識内容が社会的に分有され共通化しているという次元のことではなく、人びとの思考方式や知覚の仕方そのものが社会的に共同主観化されているという実情を示している。知識が共有されるとか、知覚の仕方が生物学的(生理的)に決定されているとか、もしそういうことであればとりたてて問題にする必要はない。しかるに、未開人と文明人との比較その他によって実証された通り、人びとの生理的機構や知覚機能は“同型的”であるにもかかわらず、ちょうど外国語の聞こえかた(分節の仕方)がその国語を知っている人と知らない人とでは全然ちがったものになるように、“同一の刺戟”が与えられた場合ですら、人びとの意識実態(知覚的に現前する世界)は当人がどのような社会的交通(フェアケール)の場のなかで自己形成をとげてきたかによって規定される。従って、「認識」は個々の主観と客観との直接的な関係として扱うことはできない。伝統的な認識論は、「認識(エルケンネン)」を主観‐客観関係として扱うにあたり、他人の存在ということは原理上は無視して処理できるという想定のうえに立っていた。いまや、しかし、他人の存在ということを認識の本質的な一契機として扱わねばならない。しかも、この他人たるや、これまた、単なる個々の他人として扱ったのでは不可であり、一定の社会的歴史的な関わり合いにある者として、そのような共同現存在(ミットダーザイン)としてのみ、介在する。かかる他人たちの介在が、discursiveな思考の方式はおろか、ものの感じかた、知覚の仕方まで規制し、いうなれば意識作用のはたらきかたを規制するのであるから、「私が考える」cogitoということは「我々が考える」cogitamusという性格を本源的にそなえていると云うことができよう。意識主体は、生まれつき同型的なのではなく、社会的交通(フェアケール)、社会的

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協働(ツーザンメンヴィルクング)を通じて共同主観的になるのであり、かかる共同主観的なコギタームスの主体 I as We, We as I として自己形成をとげることにおいてはじめて、人は認識の主体となる。われわれとしては、意識の各自性Jemainigkeitというドグマを放棄するだけでなく、意識のJeunsrigkeit(▽1)ないしはPrepersönlichkeit(▽2)を積極的に権利づけねばならない。ここにおいて、意識の社会的歴史的被制約性、その本源的な共同主観性はいかにして可能的であるか、これの論定が課題となる。

△1 Jeunsrigkeit:意識の「共属性」「共同性」とでも解すべき言葉でしょうか。

△2 Prepersönlichkeit:「前人称性」

(2)意識がゲシュタルト的に体制化されているという与件は、恒常仮説の破綻と相俟つことによって、“外的刺激”が、それ自体の“物理的”質や強度から相対的な独自性において、或るゲシュタルト的に構造化されたものとして意識されること、しかもこのゲシュタルト的構造化は、統覚心理学的な作用に負うものではなく、フェノメナルな“自体性”をもっているということ、これを事実の問題として提示している。この“事実”に即するかぎり「意識内容」を外的刺戟に負う素材と統覚的作用との合作として処理しようとする伝統的認識論の道具立ては端的に放擲されねばならない。とはいえ、ゲシュタルト的分節の具体的な様相は、決して“物理‐生理的”に一義的に定まるのではなく、当の主体のヒステレシス(▽1)はもとより、かの共同主観的コンフォルミズム(▽2)によって規制される。それゆえ、ゲシュタルト的に体制化された或るものとして所与が即自対自的に意識されるという基底的な構造を基盤としつつも、ゲシュタルト的分節化の様相が歴史的・社会的・共同主観化の展相によって規制されるということ、これは否めない。ここにおいて、ゲシュタルト的分節化の具体的構造が共同主観的に規制されるのはいかにしてであるか、これを可能ならしめる意識の構造を究明することが課題の一つとなる。

△1 ヒステレシス:「ヒステリシス(hysteresis 履歴現象。物体の状態が現存の条件だけではきまらず、過去の経歴がどうであったかによって異なるような現象。磁場内で強磁性体が磁化される大きさが、過去に受けた磁場の影響によって異なる現象を磁気ヒステリシス、弾性体に外力を加えたときのヒステリシスを弾性ヒステリシスなどと呼ぶ。」―学研新世紀大辞典

△2 コンフォルミズム:「同調主義」と解しておくべき言葉でしょう。

(3)集団表象の物象化という与件は、“意識作用”の本源的な共同主観性と相俟つことによって、認識が単なるテオリア(▽1)ではないということを失している。認識の過程は、本源的に、共同主観的な物象化の過程であり、しかもこの共

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同主観性(Intersubjektivität=間主体性=共同主体性)が歴史的社会的な協働において成立する以上、認識は共同主観的な対象的活動、歴史的プラクシスとして存立する。換言すれば、認識は決して単なる「意識内容」を与件とする“主観内部の出来事”なのではなく、物象化的構造をもつものとして、直接的に対象関与的である。しかも、かの「三項図式」の止揚と相俟つことによって、いまや、自然としての自然なるものは「最近誕生したばかりのオーストラリア珊瑚島上ならいざ知らず、現実には存在しない」(『ドイツ・イデオロギー』)のであって、われわれに現実的に与えられている世界は歴史化された自然(同前)である。しかるに、この現実の世界は、かの共同主観的・歴史的な「対象的活動」によって拓けるのであるから、認識論は、もはや「意識の命題」を単に放棄するという域をこえて、同時に存在論としての権利を保有しつつ、歴史的実践の構造を定礎する“歴史の哲学”の予備門として、その一契機となる。ここにおいて、われわれは、共同主観的な対象的活動はいかにして自己を物象化するか、これの構造を究明しつつ、しかも同時に、いわゆる「物象化の秘密」(『資本論』)を認識論的に解明すること、これを課題の一斑(▽2)としなければならない。

△1 テオリア:「観想〔希 theoria, contemplatio, contemplation〕アリストテレスの語.彼においては感官的知覚で到達しえぬ真理(形而上学や数学などの真理)を〈眺めること〉を意味,実践(*)や制作(希 poi?sis 生産的技術活動,芸術的活動)と区別される.近代語のtheory(理論)の源となった語で,それには今日でも〈眺める〉という意味の要素が残っている.アリストテレスは快を目的とする享楽的生活,名誉を目指す政治的生活,富を求める営利的生活に対して、真理をそれ自身のために眺める観想的生活(希 bios theoretikos, contemplative life)を真に幸福な生活と考えた.最高の観想は神の本性を眺め,永遠の幸福に与るものだからである.この思想は古代、中世、近世を通じて多くの思想家に影響を与えた.→理論.」―岩波小辞典哲学

△2 一斑:「@一つのまだら(豹の毛皮などのまだらをいう)。A一部分。」―広辞苑

われわれは、今ここで、認識論が認識論たるかぎり必然的に課題とするところの基本的一般的な諸問題について、逐一再確認する必要はあるまい。ここでは、以上三つの契機に即した課題設定のオリエンティールングの指示にとどめ、特に記すべき爾他の課題については、行論の途次でその都度確認することにしたい。

△ ここで、唯物論の観点から編纂されている『岩波小辞典哲学』の「認識論」の項目を参照しておくことにします。文中の*は当辞書の各項目を参照せよとの意味です。

認識論〔英 epistemology, theory of knowledge, Erkenntnistheorie〕認識の源泉、構造、発展を究明する哲学理論.Erkenntnistheorieはラインホルト(K. L. Reinhold)が,epistemologyはフェリアー(J. F. Ferrier)が最初に用いた語とされている.もともと認識論的な研究そのものはすでに古代および中世の哲学を通じて存在した.しかしそれが哲学の中心的かつ系統的な課題として提起されてきたのは近世であり,ロック(*)の《人間悟性論》(1690)はその劃期的な労作である.中世のキリスト教神学の支配のもとでは神の啓示がいわば最高の認識であって,教義の合理化は形式論理学(*)によって行われ,人間の認識の起原や過程の究明は主要な地位をしめなかった.近世における人間性の回復,人間による自然の支配,主観と客観との対立の尖鋭化とともに認識論は一つの中心課題となり,一方では中世からの伝統的な諸観念(神の存在、霊魂の不滅、意志の自由など)にたいする批判を行うとともに,他方では科学的な認識の方法を明らかにしようとする.カント(*)の《純粋理性批判》(1781)はその代表的な労作であった.しかしここでは神その他の諸観念は結局は人間の認識の能力および限界をこえる不可知なものとして信仰の世界へうつされたばかりでなく、認識論は体系的な世界観への単なる予備学(〈科学としてあらわれうべき未来のあらゆる形而上学への序説〉)とされ,ヘーゲル(*)はそれを水泳以前に水泳術をまなぼうとする愚かな試みと批評した.認識論はしばしば形而上学(*)または存在論(*)とならんで哲学の2部門とされ,19世紀から20世紀への哲学は世界観ぬきの認識論(例えば科学主義)と認識論ぬきの世界観(例えば生の哲学*)とに分裂しているが,実は世界観(自然観、歴史観)としての哲学と不可分であり,これの批判的および自己批判的な機能を代表すべきであろう.したがって認識論は直接に観念論と唯物論という世界観の根本対立につながり,さらに〈真理の規準*〉という問題についてもいくつかの派生的な立場がある.〔参〕高橋里美,認識論; R. Garaudy, La théorie matérialiste de la Connaissance, 1953森訳).(以下、廣松の本文に戻ります。)

唯、無用の誤解をおそれ附言しておけば、如上の課題設定は、決して認識論をいわゆる事実学に解消しようと図るものではない。認識論は、もとより、事実学としての事実学に解消することはできない。因みに、認識とはそもそも何であるか、真理とは何か、認識の妥当性はいかにして権利づけられるか、認識論におけるこの種の基本的な問題

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は、“認識”の成立機構を、生理学的・心理学的・社会学的に、いかに分析してみたところで、そのこと自体によっては回答できない。事実学的分析によってもたらされる知見は、真なる認識の成立するメカニズムであると同時に偽なる認識の成立するメカニズムでもあり、真偽、等々を一応既知のものとして先取したうえで the How, das Wie を説明しうるにとどまる。認識論は、従って、いわばメタ・レベルの考究を課題のうちに含む。或る意味では、このメタ・レベルの考究こそが認識論としての認識論における固有の課題をなす、ということさえできる。

認識論は、しかし、畳上の水練であっては無意味であるという以前に、当のメタ・レベルの考究そのものの権利づけを必要とする。すなわち、当の認識論的省察そのものの真理性を権利問題 quid juris の次元で基礎づけることを必要とする。このゆえに、悟性的反省の次元にとどまっては無限退行に陥る。認識論的省察は、われわれにおいても、「即自かつ対自的な考察……自己みずから自己を吟味し、自己自身に即して自己の限界を規定し、自己自身の欠陥を指示しつつ進行する途ゆき」としてヘーゲルが定義した意味での「弁証法」を措いてはありえない。

この弁証法的展開は、感性的確知から出発して絶対知に上向するわけではないにしても、やはり体系的講述を期する場合には、われわれにおいてもヘーゲルの『現象学』と同様「意識経験の学」として展開されねばならないであろう。しかし、本稿は所詮プレルディエン(▽)たるにすぎぬというかぎりで、以下においてはフェノメノンの“認識論的”存在構造を、いうなれば共時的(サンクロニック)に分析するという便法をとることにしたい。

△ プレルディエン:präludienpräludiumの複数)前奏曲;序、序言。プレリュード。


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第一章 現象的世界の四肢的存在構造

旧来の認識論的省察は、最初の第一歩から“誤った”方向、認識の基底的な構造を看過・誤認verkennenする方向にオリエンティーレンされていたのではないか? われわれはこの疑念を禁じえない。それゆえ、われわれとしては、旧来の認識論的省察が開始された最初の問題場面にまで一たん遡り、「認識」の――というよりも、実際には「現象的世界」――の基礎的な存在構造を確認するところから始めなければならない。

出発点を設定するためのプロペドイティーク(▽)

△ プロペドイティーク:Propaedeutik, 「予備学」という意味でしょう。

哲学は、たとえ無前提の学を自称しようとも、端的に無前提たることは不可能であり、学的に究明されるべき与件はいわば外的に与えられる。認識論の諸学派が逐一そこまで遡向すると否とにかかわらず、問題そのものに即していえば、認識論の究竟的な与件は“反省以前的な意識に現われるがままの世界”を措いてはありえない。

尤も、反省以前的といい、現われるがままといっても、果してそのようなことが可能であるか、果してそのような与件が存在するか、これからして疑われうるのであって、たとえ方法的な還元の手続きを慎重に踏んだとしても、そこに抽離される“純粋な世界”は、――よしんば学派の先入見を免れているにせよ――存外全体的“イデオロギー”

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を赤裸々に表出したものにすぎないかもしれない。厳密に考えれば、それはたかだか、一切の“学派的”先入見を排却して与件の実相を如実に見つめようという心構えの表明という域を出うるものではない。

△ 著者はここで「現象学的還元」という、厳密かつ純粋な学的手続きに対して、疑問を投げかけているのだと見なすことも可能です。

反省以前的な“意識に現われるがままの世界”などというものは、この限りでは、むしろフィクションめいた与件たるにすぎないが、しかし、“近世的”認識論がそれを暗黙の出発点としていることに鑑み、われわれはこれに縁って旧来の認識論的問題設定の基礎場面を認定し、それと対質することができる。

このかぎりで、われわれは、この“反省以前的な意識に現われるがままの世界”“いわば童心に映ずるがままの世界”をフェノメナルな世界と呼び、それを形成している諸“分肢”をフェノメノンと呼ぶことにし、これを手掛かりにして論究することにしたい。

“フェノメナルな世界”は――決して灰色のスクリーンのごときものではなく――即自的に分節しており、そこには、反省的意識が、“事物”と呼ぶところのもの、いかにも手ごたえのありそうな、或るまとまった形姿の、色、香……のついたゲシュタルト的統体が“空間的”に分節して並存し、色、香、手ざわりといった“性質”はもとより、きれい、気味がわるい、うまい、といった“性質”も、主観的なものとか客観的なものとかいう区別立ての意識なしに、いわば外的に存立する。そこには、また、反省的意識が“記号”と呼ぶものや“他者の意識”と呼ぶところの、友だちの悲しみ、母親の喜び、汝の悪意、犬の怒り、といったものも“直接的な与件”として現前している(*)。

* フェノメナルな世界は、元来、実践的な、対象的活動の有意義性Bewandtnissの聯関において現われ、そこでは、しかも「情報的世界」ともいうべきものが実際には主斑をなすのであるが、本章ではひとまずerkenntnistheoretischな視角に妥協してみていくことにしたい。

△ erkenntnistheoretisch:認識論的。

このフェノメナルな世界の各分肢が、複雑に聯関しあっていることは反省以前的な省察によっても直ちに明らかである。フェノメナルな聯関の一斑として、“身体”ないしはまた“精神物理的主体”が分節化をとげ、これが或る特異な仕方で爾他のフェノメノンと相互的な媒介関係にあることが意識される。

ここにおいて、かつては自体的に現前したフェノメノンが、いまや相互的聯関の相においてのみならず――目をそ

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むけたり、耳を覆ったりすると、フェノメナルな世界の相貌が一変する……等々の体験を介して――、この格別なフェノメノン(精神物理主体)との媒介関係にあるものとして把捉される。とはいえ、フェノメノンはその自体的存立性を直ちに失うわけではない。

△ 主体、通例自我と呼ばれるものを、著者は「精神物理的主体」、「格別なフェノメノン」と言い換えています。諸々のフェノメノンは、常にこの「主体」というフェノメノンとの媒介関係にあるものとして把握されます。認識論的な視角とはそのことでしょう。

右の事態から――ここではその歴史的経緯に詳しく立入る必要はないと思われるが――精神物理的主体の解析と純化、現象するものと「単なる現われ」との分化、等々のプロセスをへて、それ現象するもの、現象そのもの、それ現象するもの、この三項化を生ずる。

△ それ現象するもの=もの自体、現象そのもの=そのものの現われ、それ現象するもの=主体という三項化が生じて来ます。

旧来の認識論的省察、わけても近世以降の認識論的省察は、右の三項関係に即して「現象」の被媒介性を究明するという「構え」にオリエンティーレンされてきた。“近代的認識論”が次々に提出した諸問題は、遡れば、結局のところ「現象」の被媒介的存在構造を、右の三項関係において――「現象する本体」と「現象する場としての意識主体」との関係として――「先行的に了解」するところに起因すると云うことができよう。

われわれは、このようなプロブレマティックが成立した事情を諒解するに吝かではないが、しかし、そのことによって“反省以前的な意識に現われるがままの世界”の或る本質的な構造が看過され、ひいては誤認される結果になりおわったことを厳しくとがめざるをえない。

われわれとしては、かの三項図式を「括弧に収め」て、フェノメノンが現われる如実の相をあらためて正視しなければならない。

△ 「括弧に収め」: einklammern(かっこに入れる)というフッサール現象学の用語を幾分揶揄して用いています。

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第一節 現象(フェノメノン)の対象的二要因

ここではまず、いわゆる主体的な側面についてはeinklammernし、フェノメノンの対象的側面に目を向け、それが二肢的な構造において在ることを見ておきたい。

〔一〕フェノメノンは、即自的に、その都度すでに(インマー・ショーン)、単なる“感性的”所与以上の或るものとして現われる。いま聞こえた音は自動車のクラクションとして、窓の外に見えるのは松の樹として、直覚的に現われる。私がいま机上にころがっているものを見るとき、それを端的に「鉛筆」として意識する。この鉛筆は、単なる平面図形にしか見えない“筈”であるが、私には有体的(ケルパーハフト)な、厚みをもった「物」ein Dingとして意識される。それは単なる射映(アプシャットゥング)としてではなく、ケルパーハフトなゲシュタルトとして意識される。一たん眼を閉じてもう一度それを見る際には、再認の意識がともなう。すなわち“同じ鉛筆”として意識される。

単なる覚知や再認ではなく、判断というかたちをとって与件が意識にのぼる場合にも、やはり、与件を“単なるそれ以上の或るものとして”という構造が見出される。すなわち、主語で指示される与件が、述語で表明される etwas Anderes, etwas Mehr として意識される。(しかも、反転図形や隠し絵の場合などを考えてみれば瞭然となる通り、“所与”は同じでもそれをいかなる「或るもの」として把えるかに応じて意識事態が一変してしまう)。

△ etwas Anderes:何か他のもの、etwas Mehr:それ以上の何かあるもの。

ここでは種差にふれることなく一般的に論じておきたいのであるが、フェノメノンは、――それが反省的意識において“知覚”と呼ばれる相で現われるものから“判断”と呼ばれる相で現われるものに至るまで――即自的に「或るもの」として、現われる。意識は、必ず或るものを或るものとし

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て意識するという構造をもっている。すなわち、所与をその“なまのまま” als solches に受けとるのではなく、所与を単なる所与以外の或る?一般にもっている構造が特に顕著にあらわれたものにすぎない。

△ 著者はここでフェノメノン(現象)一般が「として」(als, as)現われるという構造に着目しています。それこそが基本的な事態であるとされています。

比喩的にいえば、フェノメノンは、ハイデッガーがいう意味での用在性 Zuhandenheit どころか、すべて記号(象徴)的な在り方をしている。フェノメノンは、自分自身を示すものファイノメノン(ギリシャ語略)das, was sich selbst zeigt であることにおいて、その都度すでに、同時に「或る他のものを示すもの」das, was etwas Anderes zeigtである。

△ フェノメノンは、それ自らを示し(zeigenzeigt)つつ、同時に「或る他のもの」を示すということが、「として」の構造であり、まさにそれそのものが「比喩」の構造であると言えるでしょう。そこに意識の原初形態があります。

〔二〕フェノメノンにおいて、所与がそれとして意識されるところの something else, etwas Anderes とは何であるのか? また、この something, etwas は“所与”と一体どのような関係にあるのか?

フェノメノンにおける“所与”als solchesから一応区別して考えられる etwas Anderes は、決して“連想的に心に泛かぶ表象”といったものではない。現に、私がいま眼の前にある与件を「鉛筆」として意識する場合、別段、見ている鉛筆とは別に鉛筆の表象が泛かぶわけではない。十年ぶりに会った人物を友人某として再認する場合など、なるほど昔の面影が泛かぶかもしれないが、しかし、この表象(心像)そのものが「友人某」なのではない。この種の“心像”をともなう場合、一般論として、眼前のフェノメノンと“心像”とが、共に、或る同じ etwas Anderes として意識されるのであり、比喩的にいえば〈犬〉という文字と〈イヌ〉という音声とが同じ etwas Anderes を示現するのと同様であって、心に泛かぶ表象がいま問題の etwas Anderes なのではない。

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当のetwas は、或る「客観的なもの」として意識されるが、これの何たるかについて、最終的には次章での主題的な討究を俟たねばならないが、とりあえず指摘しておきたいのは、この「或るもの」それ自体を殊更に取出そうとするとき、それが哲学者たちの所謂「イデアール」な存在性格を呈するということである。いま問題の etwas は、いわゆる実在物 realitas とはおよそ異った、irreal な存在性格を呈する。

例えば、窓の外に見えるものがそれとして意識されるところの「樹」という etwas は、あの松もこの杉も、すべての種類の木が、同じそれであるところの「客観的な」something であり、単なる「キ」という音ではない。ところで、実在物としての個々の木は、これはこれ、あれはあれで、それぞれ特個的であるのに対して、「樹」は斉しくどれでもありながら特定のどれでもない(普遍性)。また、実在物としての木は成長していき、やがて枯死する(そのとき木の本質的規定性なる実在的性質も消失する!)が、かのetwasたる「樹」は、それとともに成長するわけでも枯死するわけでもなく、実在物が生成流転の相においてあるのにひきかえ、etwasとしての「樹」は不変のままである(不易性)、等々。いま問題のetwasは、或る学派の哲学者たちが、実在物のそれとは相異る存在性格を表現するために用いた意味での「超時間的空間的な」irrealな存在性格をもっている。それは、「真」「善」「美」だとかまた、幾何学における「三角形」など、一般に純粋数学の対象がもっているのと同じ存在性格を呈するわけである(*)。

われわれは、――後にこのetwasの本質、或る機能的関係がこのように物象化して意識される秘密を解く際に述べる通り――このような“存在”が自立的に実在するとは主張しない。しかし、差当り、与件がそれとして意識されるところの、この“客観的”な或るもの、etwas Objektivesを「意味」と総称し、これの呈する特異な存在性格を「イデアール」と呼ぶことにしておく。

* 幾何学的「三角形」のごときは“頭のなかの観念”にすぎないのではないか? 客観的には存在しないのではないか?
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かし、果して正確な幾何学的「三角形」の心像・観念をつくることが可能であろうか? 観念・心像としての三角形は、必ず特定の形状でしかありえない。しかるに、幾何学で問題にする「三角形」は、特定の大きさや特定の形状にはかかわりのない普遍としての「三角形」そのものであり、人びとが紙に描いたり頭のなかに描いたりする諸三角形が斉しくそれであるところの或る“客観的な”対象性としての「三角形」であること、――因みに、観念としての三角形が消えても、「三角形」が存続するからこそ、幾何学の諸定律が“不易の”“客観的”“真理”なのである! ――このことが一応は認められねばならないであろう。さもないと、後にみる通り数々の不都合が生ずる。「三角形」はそれ自体を純粋に取出そうとするとき、irrealな存在性格を呈する。

△ 「樹」や「三角形」といった、著者が「イデアール」と称する、「客観的」なあるもの、それの存在性格が一応は認められなければ、「不易の、客観的な、真理」を探究する学問は、そもそも成り立たないことになるでしょう。

〔三〕このイデアールなetwasとフェノメノンにおける“所与”とは、空間的に離れ離れに存在するわけではなく、“所与”が etwas Anderes として意識される場合、――すなわち、後者が前者として現われる場合――イデアールなetwasが、レアールな“所与”においていわば肉化 inkarnieren して現われる。

△ 著者は認識における「受肉(incarnation)」の秘義を語っています。それはプラトンの「イデア」説と無関係ではありません。

例えば、黒板に描かれた図形を「三角形」として意識する場合、etwasたる「三角形」はイデアの世界とでもいった別の場所に在るのではなく、まさに黒板上のその個所に“宿って”いる。この所与形象は「三角形」という純粋数学のイデアールな対象が“肉化”したもの、「幾何学的三角形」の具象化した一範例 ein Exemplar ともいうべきものになっている。黒板上の図形が「幾何学的三角形」として在る。

フェノメノンは、それがかのイデアールなetwasたる「意味」を“懐胎”し、「意味」の肉化した範例となっている限り、そのものの“実在的”な性質や状態は副次的な意味しか持たない。例えば、黒板に描かれた図形が「三角形」として意識されている限りでは、それが大きいか小さいか、どのような色であるか、といった諸々の“実在的”規定性はgleichgültig(▽)である。もとより、別のコンテクストにおいては、色や大きさといった規定性が中枢的な意義を占めることができるし、それが「三角形」として意識されているからといって、実在的な諸規定性が意識から脱落してしまうわけではない。むしろ、まさしくこれらの感性的諸規定性を肉として謂うところの“肉化”がおこなわれる。

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しかし、ともあれ、フェノメノンにおいて中心的意義を有するのは、所与のもつ個別的実在的規定性ではなく、それがそれとして現われるところの「意味」すなわちかのetwasである。

△ gleichgültig:無関心な、冷淡な、どうでもよい(関心外の)。

かくして、フェノメノンは――われわれは当初それが als solches に直接的な所与であるかのように扱ったのであったが――すでに即自的に etwas Anderes, etwas Mehr として媒介的に措定されたものであり、「として」の両極に立つ二つの契機の媒介的統一体である。しかも、イデアールな契機にアクセントのある即自的な統一体である。

△ 何かが何か「として」把握される限りで、フェノメノン(現象)はレアールな契機とイデアールな契機との媒介的統一体であり、しかもそれはイデアールな契機にアクセントのある「即自的な統一体」であるとされています。

フェノメノンにおけるかかる対象的二契機、二要因の即自的な媒介的統一、われわれがとりあえず確認しておきたかったのはこのイデアール・レアールな二肢的統一構造であるが、これに徴するとき、Bewußtsein von etwas「意識は何かしら或るものについて意識である」という余りにも有名な「意識の志向性」の命題ですら、われわれを満足せしめうるものではない。けだし、von etwas ということを否むわけではないが、それが本源的な二肢性において把えられていないからである。

△ 意識の志向性(intention)についてのブレンターノフッサール的な命題も、それが現象の本源的な二肢性を捉えてはおらず、まだ不十分であるという指摘に、著者の立言の独自性があります。「として」構造の指摘に著者独自の主張があります。

われわれとしては、近世的意識概念を超克する鍵として賞揚されているこの「志向性」の命題にかえて、次のように云わねばならないであろう。意識とは、何かしら或るものを etwas Mehr として措定する、何かしら或るものの etwas Anderes としての措定である。

△ 意識とは何かを something moreとして措定する、何か或るもののsomething else としての措定であると言われるとき、その「措定」とは志向性のことであり、その著者流の言い直しであると考えることも可能です。なお措定には「差異」あるいは「示差」の契機が含まれていること(something else)にも注目すべきでしょう。

尤も、この表現が「意識」を格別なエージェントとして主張するものであるかのごときミスリーディングなトーンを伴うというかぎりで、次の云い方にとどめるべきかもしれない。フェノメノンは“フェノメナルな意識の直接的な与件”以上の或るものとして、即自的な“対象的二要因”のレアール=イデアールな二肢的な構造的統一において、現われる。

▽ 意識は環境から切り離された格別のエージェント(行為者)であるという想念から、心という実体が考えられるようになります。著者は「フェノメノン」と区別して意識なるものを殊更に主張する傾きに警告を発しているのだと思われます。


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第二節 現象(フェノメノン)の主体的二重性

前節においては、フェノメナルな世界の直接的な現相から出発して、フェノメノンが実は対象的二要因の二肢的な構造成体であることを暫定的に概観しておいたが、本節ではもう一度出発点に立帰り、前節ではあえて等閑に付してきたもう一つの側面に眼を向けておかねばならない。

〔一〕フェノメノンがフェノメノンとしてあるのは、差当り誰かに対してである。いま手もとにペンがあるのは“私に対して”であり、子供が牛をみてワンワンだと云う場合、当のフェノメノンが「ワンワン」としてあるのはその子供に対してである。

フェノメノンは、しかも、例えば、いま隣の部屋で泣いている“子供の悲しみ”などのように、“直接的な与件”として(私に)あると同時に、子供本人の悲しみとして“子供に対してある”という仕方で、二重に帰属する場合もある。また、子供たちがボールを追っている情景などでは、“一つの”フェノメノン(ボール)が幾人もの子供たちと私とに、多重的に帰属すると云うことができる。

この際、それが私にとってあるありかたと子供本人にとってあるありかたとが果して同じであるかどうか、この種の反省はしばらく措いて、当面、問題なのはあくまでフェノメナルな“事実”である。

フェノメナルな“事実”に即して更にいえば、フェノメノンは、必ず誰かに対してあるというだけでなく、多くの場合、私に対してありうるだけでなく、汝にも、彼にも、一般に任意の他者に対してもあることができる。が、この点については、多少の省察を必要とする。

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例えば、牛が或る子供にとって「ワンワン」としてあるという場合、牛がワンワンとしてあるのはその子供に対してであって、私にとってではない。どはいえ、もし私自身も何らかの意味で牛をワンワンとして把えるのでなければ、私は子供が牛を“誤って”犬だと把えているということを知ることすら出来ないであろう。子供の“誤り”を私が理解できるのは、私自身も或る意味では牛をワンワンとして把えることによってである。この限りでは、“ワンワンとしての牛”が、たしかに二重に帰属する。しかし、この際、“私”と“子供”とは、ボールを追っている子供たちのように単に並列的なのではない。

△ 「子供にとってのワンワン」は「私にとっての牛」であり、そのものは子供の言葉を聞く私にとっては「ワンワンとしての牛」として二重性を持つことになります。

ここには自己分裂的自己統一とでもいうべき二重化が見出される。私本人にとっては、牛はあくまで牛であってワンワンではない。しかし、子供の発言を理解できる限りでの私、いうねれば子供になり代っている限りでの私にとっては、やはり牛がワンワンとして現前している。簡略を期するため、ここで、私としての私、子供としての私、という表現を用いることにすれば、謂うところの二つの私は、或る意味では別々の私でありながら、しかも同時に、同じ私である。

このような自己分裂的自己統一とでも呼ぶべき事態が最も顕著にあらわれるのは言語的交通の場面においてであるが、これは決して例外的な特殊ケースではなく、――“他人”の喜びや悲しみが以心伝心“感情移入的”にわかるといった基底的な場面においても認められるものであり――、フェノメナルな意識が一般的にもっている可能的構造である、と云うことができよう。

フェノメナ(▽)が“に対して”あるところの者、いわゆる“主体”の側が、このように「誰かとしての誰」という二重化的構造をもつことによって、諸個人単独にはとうてい与えられないようなフェノメナが人びとに与えられることになる。普通の云い方でいえば、人びとは伝達された“知識”をもつことになる。人びとがフェノメナルな世界として

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現にもつところの“世界”は、その実、このような“伝達”をまってはじめて成立しているものである。

△ フェノメナ(phenomena): phenomenonの複数形。

一見わかりきった問題にもみえるが、知識の伝達とは何であるのか? また、いわゆる先入見などの場合にわけても顕らかなように、予め所有している知識がその後の意識活動を制約するのは如何なる機制にもとづくのか? 後論との関係もあり、ここでこの問題について一通り考えておきたい。

知識が伝達されるといっても、一方の人物の「意識内容」が他方の人物の意識に、いわば一つの箱から別の箱に物を移すような具合に移動するわけではないし、そもそも伝達とは、自分が抱いているのと同じ心像、イメージを相手の意識に喚起することではない。因みに、何らの心像を伴うことなく端的に了解がおこなわれる場合もあるのであって、心像といった意識内容・表象は、伝達にとって本質的なファクターではない。また、予め所有している知識がその後の意識活動を制約するということについても、意識なるタブラ・ラサ(▽)ないしは蝋板があってそれに疵がつくからではいし、意識という箱のなかで知識・観念が衝突したり、結合したりするからではありえない。

△ タブラ・ラサ: [tabula rasa ラテン](「平らにされた板」の意)何も書いていない書き物板、つまり白紙と同じ意味で、外界の印象を何も受けとっていない心の状態を表わす語。―広辞苑

知識が伝達されるというのは、一方の人物が所与を etwas として把えるその仕方と、他方の人物がそれを etwas として把える仕方とが同じになるということにほかならない。ここにいう etwas として把える把え方のパターン、いうなれば意識の働らかせかたのパターンが確立し固定化することによって――いまここではその生理・心理学的メカニズムには立入らないが――新たな所与に対しても同じパターンで把えるようになる。既存の知識による意識活動の制約という現象は、このような意識の構造に相即し、それにもとづくものである、と考えられる。

先の例に即していえば、牛をワンワンとして把える子供は、それが「ワンワン」ではなくて「牛」だということ

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を伝達され、しかも、フランス社会学派の用語でいえば“物笑いにされるといった酷しい処罰を通じて”それを「牛」として把えるよう“強制”される。当初は、子供本人の意識と、大人がそれをどう呼ぶかという“知識”とは、分裂した状態にとどまることもありえよう。しかし、やがては同化がおこなわれ、子供は自から“自発的”“自然に”当の所与を「牛」として把えるようになっていく。子供は人びと etwas として把えるその仕方をわがものとし、人びとと同化していく。こうして、etwas として把える仕方、いうなれば意識作用の発現する仕方が共同主観化されるわけである。

△ 「意識作用の発現する仕方が共同主観化される」ということに、著者の「共同主観性」という用語を理解する鍵があります。それにはsanction(賞罰)が伴っています。

われわれは、現に、時計の音を「カチカチ」と聞き、鶏の啼声を「コケコッコー」と聞く。英語の知識をもたぬ者が、それを「チックタック」とか「コッカドゥドゥルドゥー」とか聞きとるということは殆んど不可能であろう。この一事を以ってしても判る通り、音の聞こえかたといった次元においてすら、所与を etwas として意識する仕方が共同主観化されており、この共同主観化された etwas 以外の相で所与を意識するということは、殆んど不可能なほどになっているのが実態である。

△ 擬音もまた共同主観化されています。

この事実に鑑みれば、“現与の”対象的世界は、われわれが「誰かとしての誰」という構造においてある限りでのみはじめてわれわれに対して拓ける世界である。すなわち、視角をかえて云い直せば、対象的世界が「に対して」拓けるのは、自己分裂的自己統一においてある限りでの“主体”――単なる私としての私以上の私――いわば“我々としての私”に対してである。

△ 裸の私などというものはありません。私は常に「誰かとしての誰」としてこの世界に向きあっています。なお自己分裂的自己統一という言い方には西田幾多郎の「矛盾的自己同一」(contradictory identity)という言葉を思い起させるものがあります。

畢竟するに、フェノメナルな世界が「に対して」拓ける主体は、如上の「誰かとしての誰」という二肢的二重性の構造においてである。

△ 「誰かとしての誰」とは、差当り、「日本人としての私」だったり、「男としての私」だったり、「閑老人としての私」だったりします。

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〔二〕誰かとしての「誰」とは何であるのか? すなわち、フェノメナルな世界において、フェノメノンが「に対してある」ところの“主体”かれとして登場する「或る者」jemand とはいかなる性格の者であるのか?

この“者”は、さしあたり、上例の“子供”のように、特個的な人物として現われる。が、友人たちの意見に従ったり、世人の思惑を気にしたり、というような場合には、jemandはいわゆる“不特定多数者”になる。さらにはまた――いまここでは、父親として振舞う、教師として発言する、といった status and role は措くことにしたいのだが――他人の言葉遣いを訂正して“日本語では兎は一羽、二羽と数えます”と云ったり、普遍妥当性を意識しながら“AはBなり”と判断したり、いわば“日本語の言語主体一般”“判断主観一般”とでもいった者として振舞う場合もある。そのうえ“彼の考えを君は誤解している”と私が云う場合など、いわば“入れ子型”の多重構造においてjemandが現われることもある。という次第で、jemandが「誰」(何)であるかは、一概に論断して済ますわけにはいかない。しかも、実は、これらの位階的諸相の区別と機能を究明することが、“主体”の共同主観的自己形成を論ずるに当って必要不可欠である。それゆえ、われわれは後論において、これの主題的な討究に立入る予定であるが、ここではとりあえず、その存在性格に関してのみ、二三の指摘を試みておきたい。

△ 主体が「入れ子型」に輻輳しているということと、その「共同主観的自己形成」とは密接な関わりがあると指摘されています。なお jemandは「ある人」、「誰か」を意味する代名詞です。それはetwas、「ある物」、「何か」に照応するでしょう。

さて、特個的な個人として、我と汝、我と彼とが、フェノメノンの分有・融即(participation)をおこなう場合でも、両人がその“実在的”規定性において、我即汝、我即彼なのではない。このことはjemandが“不特定多数者”として現われる場合には一層明白であり、それが“判断主観一般”とでもいうべきものとして現われる場合には、その「イデアール」な存在性格を端的に認めることができよう。

窓の外に見えるのは松の樹だと云う場合、私は、それが単なる私一個人の私念ではなく、誰に対してもそれが松の樹としてあること、この“普遍妥当性の要求”を即自的に抱いている。“万人”に対して“普遍的に”というとき、す

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なわち、いわば“万人”の見地において私がそのことを即自的に意識するとき、このjemandは、特個的などの人物でもない。それは個々の人物の生死にはgleichgultigであり、それ自身としては男でも女でも、老人でも子供でもない。しかし、同時に、それはどの人物でもなければならず、この限りでは、前節〔二〕で述べた「樹」などと同様“非特個的・函数的・超時空的”なイデアールな「或る者」である。

このイデアールな「或る者」は、しかし、我と汝とが共にそれとして措定されるところの「人間」といった対象的・概念的な「意味」としてのかのetwasではない。もとより、我、汝、彼、等々が“対象”として登場する場合もありうるが、いま問題のコンテクストにおいては、それはあくまで、所与をetwas Anderesとして意識する“主体”としてある限りでのイデアールなjemandである。

△ ここではカントがなぜ「意識一般」などという言い方をしたのかに関わる議論が展開されています。著者はそれを「判断主観一般」と言っています。

〔三〕このイデアールなjemandは、あらためて断るまでもなく、レアールな個々の“主体”から離れて、どこかしら“形而上的な世界”に実在するわけではない。しかし、前項ですでに示唆した通り、“主体”たるかぎりでの人びとは、一般に、即自的には、そしてfur uns(▽)には、このイデアールな“主体”のein Exemplarとして存立する。イデアールなjemandは、この“肉化”においてのみ、現実的な存立性をもつ。

△ für uns われわれにとって、われわれに対して、for us

“現実的は主体”は、しかし、それがイデアールな jemand の“肉化せる一範例”として存立するかぎりでは、そのレアールな規定性はむしろgleichgültigになる。

△ gleichgültigは、ここでは「どうでもよい」、「誰でもよい」という意味で使われているのでしょう。いわば「普遍妥当的」に通用するということでしょう。

例えば、外国語の教師は、生徒たちに対して、当該言語の「ラング」の主体としてgeltenするかぎりで「先生」なのであり、彼の個性的、人格的諸規定性は副次的な意味しかもたない。この間の事情が最も著しく顕われるのが巫女の場合であろう。ここでは、彼女の個人的特性の一切がもはやgleichgültigになる。彼女は、神託が“肉化”する“場”としてのみ意味をもつにすぎない。もとより、他のコンテクストにおいては“主体”のレアールな諸規定

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性が中心的な意義を占めうるし、イデアールなjemandとして現われるからといって、レアールな規定性が完全に欠落してしまうわけではない。しかしともあれ、主体がjemandとして意識に現われているかぎりでは、中枢的な意義を担うのはイデアールなjemandとしてである。

△ 外国語の教師としてgeltenする(通用する)、外国語の教師とみなされる、という例に加えて、巫女が出てくるのは面白いところです。牧師も「イデアールなjemand」として、壇上から説教しているということになります。

翻って内省してみるに、他人の現われかたに即して立言した右の事態が、自分自身についても見出される。われわれは、しばしば、「私としての私」と「誰かとしての私」との断層を意識するが、しかし、フェノメナルな世界に対するとき、一般には、単なる「私としての私」としてではなく――それが das Man と呼ばるべき水準であるか、“表象主観一般”“判断主観一般”とでも呼ばるべき水準であるかは問わぬとして、また、それがいかなるイデオロギー的制約を帯びているかの究明は後論に委ねることにして――或る普遍的な共同主観的な視座において世界を観ているものと即自的に私念 meinen している。ここにペンがあること、いま三時であること、向こうの樹は小さく見えるが実際には大きいこと、等々、等々は、単なる「私としての私」に対してある与件ではなく、人びとに対しても“普遍妥当性”をもつ筈の“事実”として私念される。単なる「私としての私」に対してのみあるにすぎないものは、一般に貶置されてしまう。フェノメノンがetwasとしてあるのは「私以上の私」に対してである。こうして単なる私よりも、かのjemandとしての私の方が優位におかれる。

△ 著者はmeinenする(思念する)ということは私念することであるという語呂合わせを行なっています。しかしそのとき、私は「私以上の私」であると、暗黙のうちに「私念」されています。いま三時であることは、単に私にとっての「事実」ではありません。

もはや絮言を要せぬであろう通り、フェノメナルな世界が「に対して」拓ける“主体”は、最低限、二肢的な「誰かとしての誰」という構造をもつというにとどまらず、一般には、イデアールな契機にアクセントのある自己分裂的自己統一体として存立する。

△ 私は単に「私としての私」なのではなく、必ず「誰かとしての私」であり、その意味で、私は自己分裂的自己統一体として存立しています。

いわゆる“主体”の側もまた、イデアール・レアールな二重構造においてあるということ、主体の側もまたetwas Mehrとして存立するということ、われわれがとりあえず確認しておきたかったのは、この提題である。

△ こうして著者は現象の対象的二要因に加え、現象の主体的二重性を確認し、そこから次の議論へと筆を運ぶことになります。


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第三節 現象的世界の四肢的構造聯関

われわれは、前二節を通じて、フェノメナルな世界のいわゆる“客体的”な側面と“主体的”な側面とを、便宜上、別々に考察し、二組の二肢、都合四つの契機をとり出したのではあったが、これらの諸契機は、実は、いずれも単独には存在しえない。それらは合して四肢的構造成体を形成するとはいえ、あらかじめ各契機が存在してしかるのちに関係に入り込むのではなく、各契機はこの函数的聯関の項としてのみはじめて存立するものである。

しかるに、これらの各契機を自立化せしめ、それが恰かも独立に存在するものであるかのように誤想するところから、旧来、数々の形而上学的悖理が生じているように見受けられる。

本節では、この間の事情の一端にもふれつつ、四肢の機能的構造聯関を確認しておきたい。

△ 四肢的構造連関の「各契機を自立化せしめ、それが恰かも独立に存在するものであるかのように誤想」し、そこから「数々の形而上学的悖理が生じて」くるという指摘は重要です。なお「悖理(ハイリ)」は「背理」(新表記)の元の言い方でしょう。

〔一〕われわれは、前々節において、イデアールな存在性格をもったetwas、対象的「意味」が“所与”において謂わば“肉化”することを云々したのであったが、ここにおける二つのモメンテを、以下では、――哲学史上の伝統的な問題設定との関係をみるためにも――質料(マテリー)的契機、形式(フォルム)的契機と呼び直すことにしたい。

△ 質料と形相(形式)についてはヒロ・モルフィズム参照。

「質料的契機」といま呼び直したところのもの、すなわち“肉化”のおこなわれる“場”、つまり、etwasとして把えられるところの“所与”について、先の考察においては、それが恰かも“感性的・実在的”なレアールなGebilde(▽)であるかのように扱ってきた。しかし、既にetwasとして把えられているところのものが更にetwas Anderesとして把えられるという多重的な過程を生じうるのであって、“所与”(質料)は決して純粋にレアールな形象だとは云えない。既に「形式」と結合しているレアール・イデアールなものが、あらためて質料の位置につくことができる。それどこ

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ろか、厳密にいえば、純粋な“裸の質料”は現実には与えられず(*)、フェノメナルに現われるかぎりの与件は、すでにして、すべて“形式・質料”成体である。われわれの謂う“質料”は何かしら固定的なものではなく、あくまで形式との機能的相関においてのみ質料なのである。

* なるほど、極限に遡るとき“裸のマテリー”ともいうべきものを論理的には想定しうるかもしれない。しかし、それはフェノメナルな与件ではありえない。或る種の学派が主張する「表象の多様」とか「感覚要素」とか「センス・データ」とかですら、すでに「として」把えられたものであって、質料・形式の二肢的成体である。尚、われわれの質料・形式はアリストテレスやラスクの場合と同様、次々に天井が上の階の床になっていく多階的構造の比喩を容れうる。

△ Gebilde:「成体」のことを言うのでしょう。形成物、創造物、形象、姿、形、(地質の)層。なお、「裸のマテリー」ということに関しては、「質料の自己の形相」という言い方で、「純粋質料」はありえないという議論が昔からあります。また、フェノメノンの多階性についてのここでの議論は、陳述の対象レベルとメタレベルが「多階的構造」をなしているということにも関連しているように思われます(「〜という〜という〜…」)。引用にはこの陳述のレベルの問題が伴います。また有名なパラドックスの例として「クレタ島人はうそつきである」とクレタ島人が言った―その陳述は真かあるいは偽か? 黒板に書かれていることはみな嘘であると黒板に書かれている、などがあります。それも陳述の多階性の問題、あるいは階層化(stratification)の問題であると考えることが可能です。

「形式的契機」、つまり、先に「意味」と総称したetwasについても、それ自体は実的(レール)な構成要素ではない。実的に見出されるのは、所与を単なるそれ以上のetwasとして意識するということにつきる。しかし、質料は同じだと思念される場合であっても、それを何として把えるかによって意識事態が一変してしまうのであり(反転図形や隠し絵、一般にフェノメノンが記号化していることを想起されたい)、この限りで、かのetwas「形式」が、フェノメナルな世界の規定的な因子であることは否定できない。それ自体としてはnichtsたるにすぎぬところの、イデアールな「意味」「形式」が存立性を主張されうるのは――その共同主観性を措いて云えば―― 一にかかって右の事実に負うてである(*)。

* 質料・形式統一体の成立に際して、二段の心理的過程――例えば「いまのは何の音だったろう」「――だ」というような二段構えが認められる場合もある。しかし、このことを“裸のマテリー”にまで推及することはできない。「形式」の階層分類に立入れぬここでは単なる臆断にとどめざるをえないが、例えば、語の音声を途中までしか聞いていない状態――まだ、しかじかの「語」として聞き終る以前――においてすら、当該言語国民は外国人がそれを聞いた場合とは異った分節の仕方で聞き分けているのであって、所与は、すでに、形式・質料成体だと云わねばならない。

しかるに、このetwasは、しばしば“物象化”されて意識される。われわれ自身、先には、このものの“肉化”を云々することによって、物象化的意識に半ば迎合したのであったが、この「形式」を純粋に取出そうと試みるとき、かの「イデアール」な存在性格を呈し、“経験的認識”に対するプリオリテート(▽)を要求する。このため、当のetwasは「本質直観」といった特別な直観の対象として思念されたり、純粋な知性によって認識される形而上学的な実在として思念されたりすることになる。

△ プリオリテート: Prioritat, priority 優先、優先権。現象学的な本質直観が優先権を要求することなどが念頭に置かれているのでしょう。また形而上学的な実在とはプラトン主義的な「真・善・美」などのイデアの実在のことを言っているのでしょう。

われわれは、今ここではまだ「意味」の類型的分類や――従ってまた「形式」の範疇的分類――には立入らないが、所与が同じものとして再認される「再認の意味」の物象化によって“実体”のノーション(▽)が生ずること、また、類同的覚知や判断における「意味」「形式」の物象化を通じて“本質”のノーションが成立すること、これだけは指摘しておきたい。この共同主観的に物象化された“実体”“本質”を前提にして、「普遍」(類や種)が実在するという

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「概念実在論」の立場が生ずるだけでなく、フェノメナルな世界を以ってこれら“真実在”の仮象・現象にすぎないと看做す転倒した想念が生じうる。すなわち、フェノメナルな世界を“真実在”の仮現象とみる二世界説を生じ、降ってはまた、フェノメナルな与件を“実体としての物そのもの”の単なるaparentia「意識内容」と見做してしまう件の三項命題を生ずる。

△ ノーション(notion):思念、想念。考え、観念、概念。類義語、idea

われわれとしては、「イデアールな」かのetwas、共同主観的な「形式」(形相)を物象化して形而上的真実在に仕立ててしまうこの物神崇拝 Fetischismus の転倒した想念を――それがたとえ科学的実在と呼ばれようと――厳しく戒めねばならないが、同時にまた、それを単なる認識論的主観形式、ア・プリオリな認識形式としてしまう想念をも斥けねばならない。この点について論ずるためにも、次には“主体的”側面を把え直さねばならない。

〔二〕われわれは、先に、フェノメナルな世界が「に対してある」ところの者が「誰かとしての誰か」という自己分裂的自己統一において、イデアール=レアールな二肢的成体として存立することを論じておいたが、ここでは謂

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うところの“レアールな主体”への「帰属」ということの再検討を通じて、幾つかの基本的な論点を押出しておきたい。

フェノメノンは、しばしば、そもそもの初めから私の(人称的)意識に属する“主観的”なことがらだとされる。しかしながら、われわれとしては、フェノメナルな世界は、元来、前人称的・非人称的であることの確認から始めなければならない。

卑近にすぎることをおそれるが、“いま、時計の音が聞こえている”という事態を考えてみよう。時計の音は、なるほど、手で触れうるような物的な存在ではない。真空中では消失すること、等に鑑みれば、時計に属する性質ということもできない。しかるに、また、耳を塞いだり、聴神経を切断したり、脳の或る部位を損傷したりすると、音が消えてしまう。このかぎりで、音が「私」の“主体”“主観”に規制されることは否めない。しかし、このことは、決して、音が私の主観に属するということを、直ちに権利づけるものではない。

第一に、空気の振動それ自体が「音」でないのと同様、生理的プロセスそれ自体が「音」というわけではない。音としての音は、生体のうちに在るわけではない。(ここで「意識」なるものを勝手に先取りして、私の意識に内属するという云い方をすることは許されない)。

第二に、音は生体の機構によって規制されるのと同じく、時計の運動や空気の状況によって規制される。それゆえ、規制されるというだけで主体に属すると主張するのであれば、同じ権利で客体に属するとも主張できる。このかぎりでは、音は生体をもその一部とする“物的”聯関の全体に属すると云う方が至当である。

第三に、この音は「カチカチ」と聞こえるが、チックタックetc.ならざるこの聞こえかたは、一定の文化的環境のなかで、他人たちとの言語的交通を経験することによって確立したものである。それゆえ、現在共存する他人というわ

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けではないにせよ、ともあれ文化的環境、他人たちによってもこの音は規制される。(いま時計が人工の所産だという点は措くが、この他人は言語的交通という聯関で問題になるのであり、彼らの生理的過程や“意識”が介入する!)。この限りでは、音は、文化的環境、他人たちにも“属する”と云う方が至当である。

こうして、音は、強いていえば、私の生体や“物的”環境のみならず“文化的”環境をも含めた世界の総体に属する、と云ってしかるべきである。なるほど、この際、私の介在しかたと他人の介在しかたは異るが、その点では当の時計の個性的介在と同断であって、けだし、フェノメナルな世界は、原基的には、前人称的・非人称的と云う所以である。

△ 時計の音はたしかに私に聞こえてはいますが、それは私にだけ属するフェノメノンではありません。私に聞こえる限りで、それは私という人称に属する人称的フェノメノンであるとは言えても、それだけを特権化することはできません。あなたにも聞こえ、彼らにも聞こえます。そして聞く人によって聞こえ方が違ってきます。しかし時計の音それ自体は、前人称的・非人称的に、あるいは原基的に、その音を響かせています。

フェノメノンが特定の主観に内属するかのように誤想される心理的根拠として、右にいう介在のしかたの特異性もさることながら、いわゆる内省的な“自己帰属意識”が認められること、これをも看過できない。われわれは、たしかに、ハッと「我にかえり」“私はいま時計の音を聞いていたのだ”と意識することがある。このことは、しかし、“フェノメノンはすべて常に必ず私(の意識)に内属する”というドグマを権利づける所以とはならない。けだし、内省的事実ということでなら、他者帰属意識も認められるし、いわば、ハッと「他者にかえる」ことすらあるからである。例えば、演説に聞き惚れていて(この時点では、いわば思想だけが聞こえており、演説している他人も聞いている私自身も意識されないのであるが)、一瞬、それが演説者の思想であることにハッと気付く場合など、奇妙な表現ではあるが、「他者にかえる」「他者帰属意識」という云い方ができよう。

謂うところの、ハッと「我にかえる」“自己意識”は、勿論「自己意識」ではないが、しかし、これですら、俗にいわゆる“対象化された意識”“意識される側に移行した意識”であって、能知としての能知(意識作用そのもの)ではない。人称的自己意識は、すでに対象化された意識、フェノメナルな与件としての意識である。しかるに、かの物心

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の二元分離から、人びとは、対象の意識と意識の意識(自己意識)とを臆断的に区別し――それは、元来、意識を精神的実体の属性と考える発想に根差すものであったが――意識の本源的人称性なる想念に固執してきた。そしてかのフェノメナルな“自己識”の背後に、精神的実体でこそなけれ、対象化されざる純粋能知としての意識作用を仮定する。そしてかの“覚識”を、それが恰かも純粋作用そのものであるかのように二重写しにして人びとは扱う。われわれは、この想念に一定の心理的根拠があることを認めるに吝かではないが、それは客観(対象化された意識をも含めた所知)には必ず主観(能知)を対応させるというかの概念図式を悪無限的に退行せしめつつ要請されたものであって、われわれとしては、そのような純粋意識作用を認めることができない。われわれにおいては、人びとが純粋作用として思念しているところのかの“覚識”Bewußtheitがフェノメナルに現われる限りで、その限りにおいて、誰かの意識として措定された“人称的意識”を認めるのみである。しかも、この措定たるや、現実には、既にして我思うcogitoが我々が思うcogitamusであることに負うている。

△ 能知(意識作用)と所知(意識対象)とを「臆断的に」区別して、意識していること(Bewußtheit)、すなわち覚識を「人称的意識」として措定するという旧来の概念図式に、著者は疑問を投げかけます。人称的意識は「フェノメナルに現われる限りで、その限りにおいて」認められることであって、「人格(人称的意識)」なるものを特別のエージェントとして殊更強調する立場(人格主義)を、そのまま肯定することにはなりません。

かくして、人称的意識は、それが人称的意識としてあるかぎり、フェノメナルな世界の一分肢たるにすぎず、フェノメノンの総体がそれに属しうべきものではない。

△ 人称的意識(とりあえず「私」の意識)は「世界の一分肢」たるに過ぎず、この世界に嵌め込まれています。従ってそれは、環境の変化に応じて、その都度変様を蒙ります。フェノメノンの総体がそれに属するなどということはありえません。

それでは、イデアールなjemandとしての私ということが、認識論的に、いかなる意味を持ちうるのか? この問題について考えるためにも、次には、認識論史上の遺産をも射程に収めつつ、四肢の聯関をみることにしよう。

〔三〕われわれは、フェノメナルな世界に定位すると称しながらも、“対象の二要因”“主観の二重性”というがごとき、旧来の主・客図式に妥協した発言をおこなってきた。この妥協は、なるほど、叙述の便宜を一半の理由にもつとはいえ、いわゆる主・客図式の存立構造とその秘密を究明し、そのことを通じて当の図式を内部から空洞化せしめようとする意図に発するものでもあった。この課題を射程に収めながら、すでに確保した論点が許す限りで、

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四肢的聯関をとらえかえしておきたい。

顧れば、われわれは、フェノメナリスティックな場面から出発しつつも、フェノメノンがイデアール=レアールな二肢的構造において存立することを指摘することによって、いわゆるフェノメナリズムの立場をしりぞけ、まずはむしろフェノメノロギーに近い発言を試み、次では、しかし、いわゆるイデアールな形象の自立的な対象性を否定することによってこの立場をもしりぞけ、しかも、謂うところのイデアールな契機を共同主観的な「形式」として規定しなおしたのであった。

△ 現象主義(フェノメナリズム)的な認識論を斥ける限りで、フッサール的な現象学に近い発言を試みたが、その立場をも斥けて、イデアールな契機を共同主観的な「形式」として規定し直すのが、取り敢えずの著者の立言であったとまとめられています。

このかぎりにおいて、われわれは、一種独特の認識論的主観主義の構図を回復する者と評されうるかもしれない。われわれ自身としては断じて「認識論的主観主義」の立場を採る者ではないが、とりあえず、この“構図”と関係づけながら、四肢的聯関を図式化して表現しておこう。

われわれの謂う「形式」は、フェノメノンの対象的一要因として、物象化されて現われるとはいえ、既述の通り、共同主観的なVerkehr(▽1)を通じて“意識作用”の発現する仕方が共同主観化されていく過程に照応して形成されるものであり、共同主観的な意識作用のGallerte(▽2)ともいうべきものである。このかぎりでは、それは本来“主観”の側に属するもの、しかも、共同主観的なjemandとして自己形成をとげたかぎりの“主観”がもつ“認識論的主観形式”だということができる。

△1 Verkehr:交通。

△2 GallerteGallertの複数、にかわ。認識論的主観形式は、共同主観的な意識作用の「にかわ」のようなものであるというのは奇抜な言い方です。それは謂わば主観と主観との間の「膠着材」としての役割を果たしているということでしょう。

この“主観形式”は、それが「質料」に hingelten(▽1)することによって、そこにはじめて、われわれにとっての対象がフェノメノンとして与えられるのであり、狭義の認識のみならず、われわれに拓ける対象自体の相在Sosein(▽2)がそれによって規定されるのであるから、一種の認識論的・存在論的な“先験的形式”であるということも許されうるであろう。

△1 hingelten:「それに当て嵌まる」「適用される」という程の意味でしょう。

△2 相在 Sosein:そのようにあること。

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この“先験的形式”をもつ主観は、単なる私としての私ではなく、かのイデアールな jemand たるかぎりでの主観であり、しかしこれを俟ってはじめて人称的主観も人称的主観として措定されるのであるから、イデアールなjemandは、これまた、認識論的・存在論的“先験的”主観だということが可能である。

△ 著者はカント的に先験的主観の形式を立言することの可能性を、一応は肯定します。しかしそれにはあくまでも「かのイデアールなjemandであるかぎりでの主観」という限定が施されています。そしてそれはどういうことであるかがまさに問われることになります。単に「先験的形式」と言って済ませることはできません。

こうして、このかぎりでは、われわれの謂う「形式」のイデアールな存在性格に鑑みつつ、西南カント学派の末裔における形式客観主義を再び形式主観主義の方向に逆転せしめた構図を描くことができる。われわれの“先験的形式”は、絶対的に固定的な形象ではないが、その都度の経験的認識に対してプリオリテートをもちつつ、質料・形式の多重的構造を成立せしめる。われわれの“先験的主観”は、単なる論理的主観ではなく、個々の主観がそれとしてgelten(▽1)するかぎりで、形式・質料構造をもったフェノメナルな世界をaneignen(▽2)できる、云々。

△1 gelten:「値する」「妥当する」。

△2 aneignen:「自分のものにする」「習得する」「同化する」。

この構図に仮托して立言したいのは、既述の「質料・形式」構造ならびにこれと“人称的主観”との相関性にくわえて――インプリシットにはこれまた行論の途次で語っておいたことであるが――「形式」と“認識論的主観”との、そして“認識論的主観”と“人称的主観”との連環構造である。ここではまだかの「誰かとしての誰」の階層的形成に立入れぬがゆえに、共同主観性の射程と現実性、イデオロギー性の問題、等々、必要な保留と権利づけをしばらく措いたまま臆断するのほかないが、われわれは近代認識論が一種の事実的前提として立てる“主観のアプリオリな同型性”をまずはしりぞける。これは、共同主観的に形成されるところの機能的同型化が誤ってアプリオリな同型性として物象化されたものにすぎない。各“主観”は、歴史的・社会的・共同主観的に“同型化”的に自己形成をとげるのであり(われわれの“認識論的主観”は、それ自体としては nichts たるにすぎぬ ein Ideales であるが、この事実的構造に基礎をもつものであって、決して ein bloß logisches Subjekt ではない)、しかもこの自己形成は「形式」の共同主観的形成と相即的であり、現実の主観が「形式」をもつことと“認識論的主観”として gültig になっていくこと(▽)

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とは同一過程の両側面であること(*)、謂うところの四肢はこの過程的聯関においてのみ存立するものであること、われわれは是を積極的に主張する。

* このことによって、われわれのいう「共同主観的」ということは intersubjektiv という意味にとどまらず zusammensubjektiv そしてまた gemeinsubjektiv という意味を帯びることになる。

△ 著者の言う「認識論的主観」は、それ自体としては「無」(nichts)であるに過ぎないある種の「理念的なもの(Ideales)」であるが、「歴史的・社会的・共同主観的に」同型化されており、その意味では「この事実的構造に基礎をもつ」のであって、決して「単なる論理的主観(ein blos logisches Subjekt)」ではない、そして現実の主観が「形式」をもつことと“認識論的主観”としてgültig(有効な、妥当な、値する)になっていくこととは、同一過程(「形式」の共同主観的形成と相即的な、主観の自己形成の過程)の両側面である、と言われています。ここでは後期フッサールの「共同主観性」という用語が、著者なりに捉え直されていると言えます。そういう観点からすれば、intersubjektivは、同時にzusammensubjektivであり、またgemeinsubjektivであることになります。敢えてこれを日本語にすれば「間主観的」「共同主観的」「共通主観的」となるでしょう。

仮托して語りうるのは、しかし、如上の過程的聯関、もっぱらこれのみである。しかるに、これが、その実、認識論的主観主義の論理主義とも、また心理主義とも相容れず、それを自己否定に導くものであることは見易いところであろう。われわれは、決して“認識論的主観”を論理的に hypostasieren したり、“認識論的主観形式”を固定化したり、そのことによってまた“認識論的主観”に世界を内属せしめたり、況やその世界が“個別的主観”に対しては超越的客体をなすと主張したりする者ではありえない。

△ 新カント派の認識論や現象学的認識論に譲歩して(「仮托」して)語りうるとしても、それは認識の「過程的聯関」に関わる限りであって、それ以上のものではないと主張されます。なお hypostasieren とは、英語のhypostatizeで、〈観念を〉実体化するということでしょう。認識論的主観が論理的に実体化されることを意味しています。

われわれにおいては“先験的主観”“先験的形式”“先験的対象”になぞらえて構造聯関を論じうべき諸契機は、逐一再説するまでもなく、即自的には“直接的与件”として思念されるフェノメナルな世界の被媒介性を対自的に把え、その構造的聯関を記述するための「項」たるにとどまるのであって、“実存的主観”といえどもフェノメナルな世界に内存在する。

△ 「実存的主観」、現にここにある私の意識に、そのままに、直接的に与えられていると思念されるフェノメナルな世界も、被媒介的に、対自的に把えられなくてはならず、そのためにこそ、先験的主観とその形式、あるいは先験的対象が「項」として与えられており、それによってフェノメナルな世界の構造的連関が記述されると言われています。なお世界に内存在する主観という言い方は、ハイデガーの「世界内存在」を思わせます。

ここにおいて、もし、世界がそれに対してある者でありつつも自からは世界のうちにはない者、フェノメナルにはnichtsたることが「主観」概念の本質に属するとすれば、また、個別的主観に対して超越的な存在であることが「客観」の概念の本質に属するとすれば、われわれにとってはもはや所与世界ないし認識の“存在根拠”として思念される「主観」も「客観」も存在しない。

△ もし、存在根拠として思念される「主観」も「客観」も存在しないのであれば、「現象」するこの世界は、別立てに考察されるべきものとなるでしょう。

われわれは、先に、近世的「三項図式」における現象する本体の秘密(かのetwas Anderesの物象化)について語り、「意識内容」の内属化と「意識の各自性」の命題の秘密についてもわれわれの論点の一斑を提出しておいたが、そしてまた、認識論的主観主義の構図に仮托することによって当の構図の内在的批判を示唆したのであったが、本章

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の範囲ではまだ、近代的「主観・客観」概念の主題的な批判に立進むことはできない。しかし、次の点だけは本章での立言の範囲からversichern(▽)を許されるであろう。

△ versichern:「保証する」「確言する」。

われわれにおいては“主観・客観”関係は世界内的な関係であって、もはや近世的「主観‐客観」図式が要求するごとき transzendental な関係ではない――ということが即ちそれである。われわれが問題にするのは、あくまでフェノメナルな世界の世界内的な構造聯関、もっぱらこれのみである。

△ 「フェノメナルな世界の世界内的な構造聯関」のみが問題になるということ、そして主客の関係は世界内的であって、「主観‐客観」図式が要求するような「先験的(超越論的)」な関係ではないと言われていることが重要です。

フェノメナルな世界は“所与がそれ以上の或るものとして「誰」かとしての或る者に対してある”Gegebenes als etwas Mehr gilt einem als jemandem とでもいうべき四肢的な構造聯関において存立していること、われわれは本章で措定したこのfunktionellな被媒介構造に定位することによって、序章で立てた諸課題に応えうるものと思料するが、この作業に従事するためにも“主体”の多重的階型性と共同主観的自己形成の現実的過程構造、イデアールな両契機、かのetwasjemandの物象化の秘密の究明とその類型分類、等々、持越した一連の問題点について考覈(▽)することが必要である。すなわち、言語的世界の意味的表現構造、ひいてはまた歴史的世界の協働的存立構造が次の論題となる。

△ 考覈(こうかく):覈は「考える」、「明らかにする」の意。「調べて真実を求める」―新選漢和辞典 こうして「フェノメナルな世界は“所与がそれ以上の或るものとして「誰」かとしての或る者に対してある”とでもいうべき四肢的な構造聯関において存立している」ということが、著者の主要観念であり、それについて「考覈」することが、本書の課題であるとされます。それはまた同時に「言語的世界の意味的表現構造、ひいてはまた歴史的世界の協働的存立構造が次の論題となる」ということを意味しています。

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