閑老人のつぶやき 『すべての人を一つにしてください』
すべての人を一つにしてください――YMCAとは何か
〔私がキリスト教に対してまだ護教的・弁証論的apologeticに関わっていたとき、「日本のYMCAにおけるキリスト教使命研究会」に加わり、標題の、以下に掲げる文章を発表したことがあります。それは『聖書から学ぶ日本YMCA基本原則』(日本YMCA同盟出版部、1991年刊)という小冊子に「付録」として掲載されました。おそらくYMCAの主事(専従職)として書いた文章があたかも組織を代表して書かれているかのような誤解を避けるため、「当局」としては没にしたかったようですが、研究会の座長(森野善右衛門牧師)などのご配慮で付録として掲載されたと記憶しています。なお編集が加わった文章に若干手を入れ、注記を加え、誤記を修正するなどしました。〕
〔祈り〕
主よ、私たちはみ言葉に学ぶにうとく、み前に怠惰であることを覚えます。たとえどんなに忙しくしていても、あなたのことをすっかり忘れてしまっているような時でも、どうぞ私たちの閉ざされた心を開き、かたくなな心を打ち砕いて、私たちが、いつも、みもとにいるのだということを思い出させてください。あなたのもとで、やすらぐことができるようにしてください。
私たちをあなたに結びつけるものは愛です。私たちは、あなたの愛によって一つに結ばれています。どうかあなたの愛のもとにおらせてください。あなたの愛のうちにとどまることは、しばしば、私たちに苦しみを与えます。あなたの愛の火によって燃され、潔められるために、私たちはその苦しみを必要としています。あなたから賜わる試練を逃れて、ふたたび虚しい生活に戻らないように、私たちをあなたにしっかりつなぎとめてください。
主よ、あなたは私たちがほんとうに必要とするものをご存じです。どうか私たちがほんとうに求めるべきものを求めることができるようにしてください。私たちのうちに、その願いを起こさせるのは、常にあなたなのですから。
〔聖書〕 ヨハネによる福音書一七章二〇〜二六節
20また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人びとのためにも、お願いします。21父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを、信じるようになります。22あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。24父よ、私に与えてくださった人びとを、私のいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前から私を愛して、与えてくださった私の栄光を、彼らに見せるためです。25正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人びとはあなたが私を遣わされたことを知っています。26私は御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。私に対するあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。
[関連聖句]
一つとなる神の民 エゼキエル書 三七章一五〜二八節
一つの体、多くの部分 コリントの信徒への手紙T 十二章十二〜三一節
キリストの体は一つ エフェソの信徒への手紙 二章一一〜二二節
愛における一致(すべての人を一つにしてください)
ご承知のようにヨハネによる福音書一七章二一節の「すべての人を一つにしてください(口語訳 みんなの者が一つとなるためであります)」という聖句は、世界のYMCAの標語であり、このテキストの箇所をYMCAの正章(マーク)の中にも刻んでいるということは、YMCAがそもそもの成り立ちからキリスト教諸教会の一致、ひいては世界中の人びとのキリストにおける一致を願う団体であることを表しています。だからYMCAとは何かを考えるにあたって、始めにこのテキストの意味について考えをめぐらすことは、まことにふさわしいことであると言わなくてはなりません。
まず、私がなぜこの標語の精神を、標題に掲げたように「愛における一致」と言い表したかということについて述べたいと存じます。
「愛における一致」という言葉は、私がまだ学生であった時に、ローマ・カトリックの信者である旧師から学んだものです。テキストの二三節後半を見てください。「こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」とあります。次に二六節後半に目を留めていただきますと、そこには「私に対するあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです」と書かれています。このテキストには、もう一ヶ所、「愛」という言葉が、二四節後半に出てきます。これらの箇所を通して、「すべての人を一つにしてください」というイエスの願いを、「愛における一致」を求める祈りであるととらえることは、テキスト全体の主旨にそうものであると言うことができるでしょう。
これに関連して、もう何年も前に、まだ幼かった息子と一緒にスピルバーグ監督の「ET」を見た時のことを思い出します。私はあの映画を見て、すぐに聖書のこの箇所を思い出しました。映画のクライマックスが近づいて、ETはFBIのような警察部隊に捕えられ、病院に収容されてしまいます。そしていったんはそこで死んでしまいます。しかし死んだはずのETが生き返り、子どもたちと自転車に乗って大脱走劇を展開します。やがて迎えの宇宙船が待っている山の上に到着し、宇宙のはるかかなたに去っていくにあたって、ETと主人公の少年との別れの場面がやってきます。その時、ETの指先が赤く光り、その指を少年の指先につけて、たしかETは「私はずっとあなたの中にいますよ」という意味の言葉を述べたのではなかったかと思います。この場面から、私が「私に対するあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです」というイエスの祈りを思い出したのは、単なる偶然でしょうか。私はスピルバーグが聖書のこの箇所を翻案したなとさえ感じたのです。
ヨハネによる福音書は、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書とは違い、他の福音書と共通の典拠をもたず、他との比較検討が困難であるので、史的イエスの姿を探るうえで、歴史学的な資料価値に乏しいと言われています。しかしそのことは、もちろん、この福音書があらゆる意味で価値がないということではありません。イエスの死後、相当の年数(著作年代は紀元九〇年代頃と言われています)を経てから成立したこの福音書が、しかも古代の信仰の所産であるこの文書が、イエスの言動を忠実に記録再現していると期待するのは、たしかに間違っています。いま取り上げているこのテキストにしても、イエスの祈りを、この福音書の著者が、まるでテープレコーダーで採録したかのように再現していると考えることには、明らかに無理があります。それではこのテキストにどのような態度で接したらよいのでしょうか。
最近私は『日本文化のかくれた形/カタ』(岩波書店)という本を読みました。武田清子氏が編集したもので、加藤周一、木下順二、丸山真男の三氏の、国際基督教大学での講演がまとめられています。今の問いに関して、私はこの本の中から、劇作家木下順二氏の講演の一部に触れてみたいと存じます。木下氏の文章の標題は「複式夢幻能をめぐって」というものです。複式夢幻能というのは、世阿弥の作とされている「井筒」や「実盛」などの能の形を表わしています。複式というのは、この形の能が前場と後場の二場から成っているということで、旅人や僧が、夢まぼろしのうちに不思議な出来事に出会う物語であるという共通点をもつところから、このように名づけられています。木下氏の、「井筒」という複式夢幻能についての解説によれば、前場でまず諸国をあちこちと遊行するひとりの旅の僧が出てきます。そして在原寺という寺を訪れます。そこはむかし在原業平が紀有常の娘と住んでいた所です。すさまじいほど寂しい秋の真夜中、「草茫々として露深々たる古寺の庭」に、古い井戸があります。脇役(ワキ)の僧がそこに座するうちに、主人公(シテ)の、なまめいたひとりの女が出てきます。その女がいつの間にか静かに井戸の水を汲んで、傍らの古塚に手向けています。それは二〇〇年前頃に亡くなった業平の塚なのです。そこで好奇心を起こした旅の僧とその女とのやりとりが始まります。そしていろいろと昔語りをするうちに、その坊さんには、もしかしたらこの女は紀有常の娘、つまり業平の妻その人ではないのかという、不思議な感じがしてきて、そのことを追及し問いつめたところで、女は隠れてしまいます。それから坊さんが寝てしまい、前場が終わって、後場になります。そして後場では、同じ人物、あの主人公が、今度は紀有常の娘の霊として登場します。だからこの女は、後場では過去を語るのではなく、現在形で二〇〇年前のことを語ります。女の激しい恋慕の情を謡います。二〇〇年前のことを現在形で語りながら、二〇〇年という時間を一瞬に凝縮したような不思議な形で、しかしほんとうに自分の情念を語り出します。すぐれた能役者がこれを演ずると、この舞台が私たちにとって実にリアルに見えてくるのだそうです。この後場は、(ワキにひかえる)旅僧が見た夢であるとも解釈できますが、その夢が実にリアルに演じられます。それは普通のリアリズムではなく、ありえないこと、旅僧が見た夢のリアリティです。しかし木下氏は、いつも動かしがたく見える(この世の)現実的リアリティ、いわば自然主義的写実主義よりも、この旅僧が後場で見たものこそが、リアリティというものではないかと述べています。
木下氏の所説をながながと、しかもずいぶん省略した形でご紹介した理由を、おわかりいただけたでしょうか。言うまでもなく私は、ヨハネによる福音書の、いま与えられたテキストである、あのイエスの(告別の)祈りと重ね合わせて、複式夢幻能のことを考えていたのです。あの祈りの切実さを前にして、それが事実イエスが祈ったとおりの祈りなのであるかと問うことに、どんな意味があるでしょうか。史実と真実という使い古された言い方があります。あるいは史実と詩実と言ってもいいかもしれません。私たちは、それが歴史的事実でなければ、信ずるに値しないと考えなければならないのでしょうか。私は先にETというフィクションを持ち出しました。私たちはそれがフィクションと知っていて、しかも入場料を払ってでも喜んで見にいくわけですし、時には感動のあまり涙することさえあります。私たち現代人は、歴史学的に限定された視野から、客観的実証的に聖書を研究する方法を知っています。中には、それだけが正しい聖書研究の方法であると考える人もいるでしょう。しかし聖書への接近方法は、もっと多様であってしかるべきでしょう。聖書から何かを学ぶには、ただ事実を客観的に確かめようとする姿勢だけでは十分ではありません。その意味で私は、近年アメリカなどで盛んに行われている、聖書研究における文学批評的観点の導入というものに、もっと注目すべきではないかと思います。(私がETや「井筒」を援用したように)演劇論的な聖書研究があってもいいと思います。また、近頃盛んに研究されている、言葉の隠喩的な働きについての観点を取り入れることも、実り豊かな聖書研究の方法ではなかろうかと考えています(隠喩とは、比喩の一種で、「君は僕の太陽だ」、「あの女狐め」などの言い方、つまり、その種の言葉のあや、文彩について言われます)。
この隠喩ということについて、私たちの目下のテキストとの関連で言えば、このテキストのキーワードである、「内にいる」という表現に注意して欲しいと存じます。この表現はこの箇所だけで実に七回も出てきます。神はイエスの内におり、イエスは神の内にいる。またイエスはイエスを信ずる者たちの内におり、そしてイエスを信ずる者たちは、神とイエスとの内にいる。この「内にいる」とはどういうことなのでしょうか。ETの場合でしたら、ETの指先が赤く光って、それを少年の指先につけるというしぐさが、何やら意味ありげでした。まるで何か電流のようなものが、ETから少年の中に、実際に入り込んだかのようです。しかしそのことを通してスピルバーグが表現したかったのは、ETと少年とがひとつの心で結ばれており、互に離れがたいものがあったということではないでしょうか。それが隠喩的表現というものでしょう。しかし、ETが、そのようなしぐさなしで、少年と向き合ったまま、「私の心は、ずっと、あなたの内にとどまるでしょう」と言ったとしても、それもまた隠喩的表現なのではないでしょうか。誰もETの心(という実体)が、事実として、あるいは文字通り、少年の内にとどまるなどとは考えないでしょう。しかしETの、少年と離れがたい心情を、それ以外のどういう言い方で表現できるでしょうか。では、私たちのテキストの場合、「内にいる」という言葉は、いったいどのように理解したらよいのでしょうか。皆さんは、「主イエスは私たちの内にいる」という表現に接した時、それをどのように受け止められますか。
キリスト教には、イエス・キリストは、今も、信ずる者たちの内に、現存し、内住し給うという教えがあります。この教えが、私たちの聖書研究のテキストのテーマ、すなわち「内にいる」ということと、緊密に結びつくものであることは、容易にご理解いただけるものと存じます。またこの教えは、キリスト教の聖餐式を理解するためにも、欠かすことのできない視点を提供します。聖餐式(主の晩餐式、ローマ・カトリックでは、ミサあるいは聖体拝領)は、英語でホーリー・コミュニオン(聖なる交わり)とも言われますが、それは、パンとぶどう酒とを分けあう聖餐式の内に、主イエスご自身が臨んで居給うという信仰の表現でしょう。ルターとツヴィングリという、ふたりの宗教改革者同士の聖餐論争は有名です。ツヴィングリが、パンとぶどう酒とは象徴以外の何ものでもなく、これらのもの(パンとぶどう酒=物素)は十字架のキリストの犠牲をわたしたちに思い起こさせることを意味しているという、純粋な象徴的記念の立場を主張したのに対して、ルターは、あくまでも、主イエスご自身が聖餐式に臨んでおられるということ(リアル・プレゼンス=ほんとうにそこにおられるということ、真の現存)の保証を、キリストの現存の秘義と物素(=質料、パンとぶどう酒)そのものとの固い結びつきの内に見出していました。
フランスのガブリエル・マルセルという哲学者は、幼い時に母を亡くし、代わって叔母にあたる人が継母となりました。しかしどうしても母のないさびしさをまぎらわすことができませんでした。ところがある時、その母は今自分の中に居るのだということに気づきました。それ以来、さびしい思いをしないですむようになったそうです。マルセルの哲学を理解するために、この「居るということ」(プレゼンス、現存)は、とても大切な意味をもっています。キリスト教の現存・内住という教えを理解するために、ひとつの手がかりになる話だとお思いになりませんか。
テキストの二四節を引用してみましょう。イエスは「父よ、私に与えてくださった人びとを、私のいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前から私を愛して、与えてくださった私の栄光を、彼らに見せるためです」と祈っておられます。イエスの「居る場所」は、いったいどこにあるのでしょうか。天地創造の前からイエスに与えられた栄光を見せるためとありますから、この地上のどこかではなさそうです。だからそれはイエスが永遠に神と共にいる場所のことを指すのでしょう。しかし信ずる者たちが、どうしたらそこに共にいることができるでしょうか。祭壇(聖餐式が執り行われる場所)は、伝統的には、信ずる者たちが今この地上でイエスと共にいることのできる唯一の場所であると、理解されてきたのだと思います。イエスはもはやこの地上にはおられない。しかし今も信ずる者たちと共におられる。ある人はこのことを「不在の現存」と言い表わしました。そして聖餐式は、昔から、イエスが信ずる者たちと共におられることを表わす儀式であり続けてきました。宗教学者エリアーデは、神話は、祭儀において、祭儀が執り行われるその都度、現在の出来事となると述べています。クリスチャンではない人たちにとっては、このように一般的な形で説明した方がわかりやすいでしょう。しかしそのことは、「神話」が表現するリアリティが、絵空事で、どうでもよいことだということを、必ずしも意味してはおりません。あの複式夢幻能のことを思い出していただきたいと存じます。
愛する者たちは、互に、「共にいる」ことを望みます。「一緒に暮したい」といういのは、プロポーズにつきものの表現ではないでしょうか。また愛する者たちは、「あなたは私の内におり、私はあなたの内にいる」と、互に呼び交わさないでしょうか。ヨハネによる福音書においては、この「共にいる」、「内にいる」という愛のテーマが、最高度の宗教的表現にまで高められています。キリストの愛においてこそ、すべての人が完全に一つになることができます。YMCAは、「すべての人を一つにしてください」という、このイエス・キリストの悲願を、みずからの悲願とする団体です。しかしYMCAのみならず、「教会はイエス・キリストにおいて一つでなければならない」と考える人は、誰でも、昔からこのヨハネによる福音書一七章二一節の聖句を思い起こしてきました。そして今や、単に教会のみならず、全人類がひとつ心になって立ち向かわなくては解決できない、たいへん困難な問題が、この地球上に、いくつも横たわっています。へたをすると、地球の全生命が滅亡しかねないこの危機の時代に、もう一度、この聖句の意味に思いをひそめることは、私たち一人ひとりの大切な課題であると言わなくてはなりません。
YMCAとは何か
●YMCAの組織的成り立ち
私たちが関係するYMCAについての基本的な理解を得るために、初めにヨハネによる福音書一七章二〇〜二六節の聖句を取り上げ、「愛における一致」ということを学びました。それこそがYMCAの理念ないし目標であるということができます。続いて、YMCAという団体をもう少し具体的に理解するために、その組織的な成り立ちについて学んでみたいと存じます。
世界で最初のYMCAは、一八四四年、ロンドンで、ジョージ・ウィリアムズを中心とする一二名の青年たちによって創設されました。『世界YMCA史』は、それ以前にYMCAという名の団体が存在した可能性を否定してはおりません。それではなぜ、その時、ロンドンに創設されたYMCAが、最初のYMCAなのでしょうか。ある特定の教会の青年会としてではなく、いろいろな教会に属する青年たちが、教派の違いを越えて、自主的に一つの青年会を組織したという意味で、それが最初のYMCAであると言われているのです。しかしYMCAは初めはプロテスタントの運動でした。プロテスタントのどの教会に属していても、同じ信仰に生かされるクリスチャンとして、青年たちが、自分たち自身の健全な宗教的道徳的生活の向上を願い、そのために協力することを求めて、YMCAという一つの団体を組織しました。
YMCAのAは、アソシエーション(Association)という言葉の頭文字で、日本語のキリスト教青年会の「会」に相当します。この言葉は、人びとが一つに結び合わされることを意味しています。YMCAでは、特にボランタリー・アソシエーション(人びとの自主的で、自由な結合)という意味で用いられます。子どもたちは「かくれんぼするもの、この指とまれ」と言って遊びますが、それがまさにボランタリー・アソシエーションであると言えます。アソシエーションとか、あるいはユニオンという言葉には、もともと人びとの自由な参加に基づく結合という意味が含まれています。このことを理解するためには、YMCA成立の社会的背景の一つとして、一九世紀中頃、そのような社会的関係(人と人との結びつき方)を理想とする考え方があり、それは当時のヨーロッパの社会主義者たちの思想とも共通していたということが参照されるべきでしょう。いかなる意味においても強制に訴えることなく、人びとの自主的な参加による結合を求めるという思想の価値は、今日のソ連、東欧諸国などの動向によって、改めて確証されつつあるように思われます。
これと並んで、YMCAの組織論は、「集権主義」ではなく、「分権主義」であるということにも注目すべきでしょう。ロンドンに始まったYMCAの運動は、その後またたく間にヨーロッパ、北米の各地にひろがりましたが、個々のYMCAは互いに独立していて、大小を問わず平等な権利を保有しており、上部組織が本部になるということもありませんでした。むしろ意思決定は、原則的に下から上に流れる仕組みになっていて、YMCA同士の関係においても、民主主義的な組織原理が採用されています。個々のユニット(単位としての個人あるいは集団)が独立しており、それらの自由な参加によって成り立つ人びとの(ゆるやかな)つながり、およびそのことを組織原理として大切にする考え方を、今日ではネットワーキングと言い、近年、社会運動論として注目されていますが、YMCAの組織はもともとその意味での「参加型ネットワーク」であったということもできます。
●パリ基準の問い直し
YMCAの組織的成り立ちについて触れました。次にYMCAとはそもそもどういう使命を有する団体であるのかということについて、これもごく原則的なことにとどまりますが、少し考えてみたいと存じます。
ロンドンにYMCAが成立してから一一年後の一八五五年、八カ国、三八のYMCAから、九九人の青年たちが、フランスのパリに集まり、最初の世界YMCA総会が開かれました。参加者たちは、彼らの中にすでに存在していた一致を確認し、それを英語とフランス語で言い表わし、世界のYMCAの結合の基準、あるいは一致の基準として、すなわち世界YMCA同盟への加盟が今後それに基づいてなされるべきであるところの基準として、採択しました。それがパリ基準です。
パリ基準は、その後、世界教会運動の中で継承され、その精神は、パリ総会の後四〇年以上を経てから、世界学生キリスト教連盟(WSCF)、世界教会協議会(WCC)、あるいは世界YWCAが次々に組織される原動力となりました。すなわち前世紀から今世紀への変わり目頃には、パリ基準はキリスト教会の一致を願う、世界中のクリスチャンの導きの星として、天空に輝いていたかのように見えます。アメリカのYMCAが生んだ偉大な指導者、ジョン・R・モットが大活躍をしたのは、まさにこの時期にあたります。
しかし、一九六九年、ノッティンガムでの世界YMCA総会では、当時の青年参加者たちから、パリ基準は、YMCAの現代的使命を追求し実践する上で、はたして人びとに明確な方向づけを与えうる文書であるのかどうか、今日では、むしろそれに代わる、新しい世界YMCA同盟の基準が採択されるべきではないのか、という問題が提起されました。これを受けて世界YMCA同盟は、各国YMCAに対して、この問題についての各国それぞれの研究活動と、それに基づく態度表明とを要請し、四年後のカンパラ総会で討議に付されました。この一九七三年のカンパラ総会では、パリ基準は改めて世界YMCA同盟の結合の基準として再確認されましたが、同時に総会は「カンパラ原則」を採択して、パリ基準を現代的に注釈する必要性を認めたのでした。
この間の時代的変化を跡づけること、またパリ基準がなぜ現代人に直接アピールする度合いを薄め、それについての今日的注釈を必要とするに至ったのかということについては、今ここで検討を加える余裕がありません。この章の目的は、私たちの聖書研究の一環として、パリ基準の本文(というのはパリ基準にはさらに前書きと後書きとがあるからです)にもう一度触れてみること、そしてそれが制定されてから百数十年間もの時代的隔たりがあるにもかかわらず、今も私たちがそこから何かを汲み取ることができるとすれば、それが何であるかを考えてみることにあります。
ずいぶん前置きが長くなりましたが、ひとまず、パリ基準(本文)を、旧い訳と現行訳とを参照しながら、なるべく原文に忠実な形に(訳文としての完成度を無視して)、訳し直してみたいと存じます。
「キリスト教青年会(複数)は、@聖書に従ってイエス・キリストを(彼らの)神そして救い主と仰ぎつつ、A(彼らの)信仰と(彼らの)生活において彼の(イエス・キリストの)弟子でありたいと願い、またB青年の間に彼の(イエス・キリストの)王国を拡張するために、その(彼らの)努力を結集することを願う、青年たちを結合すること求める」(下線と数字は便宜上つけたもの)。
このように、パリ基準は全体が一文をなしています。下線の部分がその幹(主文)に当たり、従属する文(AとBの部分)と句(@の部分)が枝葉としてそれを修飾しています。一つの文としては長く、しかもそれが本文の全体であるという意味では短い、このやや不恰好な文章が、はたして私たちに何を語りかけて来るでしょうか。
ここにはたしかに、当時パリに参集した青年たちの熱心な信仰が表明されています。だからパリ基準は、今日なお意味を持ちうるとしても、それはイエス・キリストを信ずる信仰を共有する者たちの間にだけ通用すべきものだと、理解するほかはありません。またここに表明された事柄が、かつてはクリスチャンの青年たちの間で生き生きとした力をもち、教派の違いを越えて、ここでこそ皆が一致しているのだという確信を与え得たとしても、そこにはYMCAが具体的にいかなる社会的使命を帯びた団体であるのかということについて、確かに何の明言もなされていないということも事実です。そのような限界を認めた上で、パリ基準の字句を忠実にたどって、その意味するところを考えてみたいと存じます。
@ 「聖書に従って、イエス・キリストを神そして救い主と仰ぐ」
キリスト教の救いということを簡潔に表現すれば、今もこれ以外のものではありません。救い、救済(salvation)は解放(liberation)を意味しています。クリスチャンにとっての自由(liberty)とは、抑圧された状態(人間の悲惨)から、救い主イエス・キリストによって解放されることです。だからこの部分では、人間の自由が問われています。問題は私たちが、「人間の自由とは、物事が自分の意のままになる(我欲を通すことができる)ところにではなく、自分が神の意のままになる(み言葉の真理に従う)ところに存する」と考えることができるかどうかにかかっています(注記、この部分はガブリエル・マルセルの被随意性/ディスポニビリテという言葉の理解に関わっています)。だからここには信仰の逆説(パラドクス)があります。
A 「信仰と生活においてイエス・キリストの弟子でありたいと願う」
まず「信仰と生活」という表現に注目したいと思います(注記、これはカール・バルトによって批判された「敬虔主義」の特徴です)。生活においてということは、神の創造の秩序、すなわちこの現実世界、自然の世界においてということです。神が完全であられるように、クリスチャンも、この地上で、全き生活を目標として生きることが求められています。もし教会の中だけで完結した信仰、世俗社会と切り離されたところでのみ成り立つ信仰の持ち主がいるとすれば(その人も世俗の生活に携わっているはずですし、決してそれと無関係ではありえないのですから)、その人は(教会の)信仰と(世俗の)生活とにおいて分裂しており、不誠実であるということになるでしょう。だから実際にイエス・キリストの弟子でありたいと願う者は、日々に、この分裂した状態を統合(integrate)するための、弟子(disciple)としての訓練(discipline)を受けなくてはなりません。ここにクリスチャンのこの世における誠実(integrity)という課題があります。そしてまたここになぜ、教会の外に、YMCAという信徒団体が生れてきたかということの理由があります。
B 「青年の間にイエス・キリストの王国を拡張する」
イエス・キリストの王国(kingdom)、あるいはイエス・キリストが王として支配する国とは、いかなる世界のことでしょうか。エフェソの信徒への手紙二章一四節には、「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」とあります。キリストの支配する国とは、対立ないし敵対していた者同士が、キリストにあって、兄弟のように親しくする、あるいは融和し、和解するという、まったく新しい秩序、愛の秩序(パスカル)が出現したことを意味しています。だからイエス・キリストの王国を拡張するということは、友愛、兄弟愛(fraternity)の精神を拡張することを意味しているのです。
C 最後にパリ基準の、下線を引いた「幹」の部分にご注目いただきたいと存じます。「キリスト教青年会は、(これこれのために彼らの努力を結集することを願う)青年たちを結合する(一つとする)ことを求め」ます。YMCAは、青年たちの努力を結集し、彼らをひとつとすることを求めます。人びとの「一致と協力」を希求します。なぜならそれは、イエス・キリストにおいて、神が求めておられることだからです(ヨハネによる福音書一七章二一節参照)。永遠なる者との一致、あるいは神の永遠の意向に従うことのうちに、人びとが一つとなる根拠があります。神の意志に離反するところに平和はありません。YMCAが熱心に求めるもの、それは永遠(eternity)に変わらない神の真実に根ざしています。
以上、パリ基準の字句に沿って、その意味の解明に努めました。文中、いくつかの英語をはさみましたが、特に下線を引いた四つの言葉にご注意いただきたいと存じます。@Liberty、AIntegrity、BFraternity、CEternityの頭文字をつなぐと、LIFEになります。あえてこのようなことをしたのは、パリ基準の精神を一語で要約すると、Our life in Christ(我らのキリストにある生活)になると考えたためにほかなりません(注記、この言葉はパリの最初の世界総会でフレデリック・モノーという人によって強調されました…“Brethren, there is no Christian life except a life in Christ.”)。だから私はパリ基準を「我らの生活信条」と名づけたいと思います。それを以下のように言い換えることも可能でしょう。
「我らは、我らのキリストにある生活が、自由、誠実、友愛そして永遠であり、また愛における一致の追求であることを信ずる」。
私はパリ基準のようにキリスト教を簡潔に表現した文章を、ほかに知りません。かつて、いかなる信仰問答書(教理問答書=カテキズム)も、これほど簡潔に、しかも余すところなく、キリスト教を表現したことはありませんでした。また徹底的にキリスト中心的で、かつ実践的なところに特徴があります。
ここに表現されている精神(LIFE=自由・誠実・友愛・永遠)は、はたして現代の青年たちになお訴えかけるものを持つでしょうか。このように問うことは、キリスト教は今日なお生命を保持しているのかと問うことにほかなりません。私はこの問いを、次代を担う若い人たちに、課題として托したいと思います。彼らが、この宗教的表現を通して、なお何かを学び取ることができるかどうかということに、YMCAの明日がかかっていると言っても過言ではありません。
(注記、パリ基準の「弟子」、「キリストの王国」あるいは神の国という表現には、伝統的教会の神学的な枠を越え出ているところがあります。そこには賀川豊彦の「神の国運動」につながるようなキリスト教の社会的展開を予想させるものがあります。賀川がYMCAに協力的であった理由はその辺にあるのではないかとも考えられます。)
〔話し合いのためのポイント〕
1. 宗教的真理は、みずからそれにコミット(自己投与)しなくては、自分にとって真実なものとはなりません。小説を読むのに夢中になっている自分を想像してみてください。あなたは聖書を読むこと(たとえばヨハネによる福音書一七章二〇〜二六節のイエスの祈りを読むこと)に、自分の気持ちを集中することができますか。もし困難であるとすれば、それはなぜでしょうか。また逆に、ヨハネによる福音書のこの箇所から、あなたが深く感じたこと、学んだことがあれば、それを自由に述べてください。
2. 私たちは交際の範囲を気の合った仲間内だけに限定しがちです。あるいはまたテレビドラマには涙を流しても、現実のつきあいでは、ついつい冷淡になりがちな自分を発見したりします。このような自分の殻が、どうしてできてしまったのでしょうか。またこのような自分の殻から、どうしたら抜け出すことができるでしょうか。聖書(ヨハネによる福音書一七章二〇〜二六節)は、このような私たちの現実を打開するため、何を教え示そうとしていますか。
3. 「すべての人を一つにしてください」というイエスの祈りは、イエスを信ずる人たちだけに通用する真理であるように見えます。あなたはこれを矛盾だと感じますか。宗教的真理が排他的である(信ずる者にしか通用しない)ということと、同時にそれが普遍的である(万人に通用する)ということを、私たちはどのように理解すべきなのでしょうか。
4. 今日のYMCAは、キリスト教を基盤としつつ、「開かれた会員制」の立場を取っています。いろいろな考え方をする人たちが、どこで一つになることができるでしょうか。またYMCAに属する人なら誰もが大切にしなければならないものがあるとすれば、それは何でしょうか。あなたが現在、趣味のグループやボランティア活動などで、ほかの人たちと一緒にしていることがあれば、それを参考にして話し合ってください。
〔参考図書〕
l 加藤周一、木下順二、丸山真男。武田清子編『日本文化のかくれた形』(岩波書店)
劇作家木下順二氏は、学生時代東大YMCAに所属していました(アメリカで開催されたWSCF総会に出席したこともあるようです)。故森有正氏とも親交がありました。日本のクリスチャンがもっと注目してもよい作家ではないでしょうか。
l 佐藤信夫著『レトリック感覚』(講談社)
隠喩、あるいはレトリック(修辞)について書かれた、あまたある書物の中で、一番楽しく学べ、かつ有益な本です。続編、『レトリック認識』もあります。
l 金子郁容著『ネットワーキングへの招待』(中公新書)
生活情報ネットワーキング、中小企業ネットワーキングの実例が豊富に取り上げられています。ネットワーク、情報、メディアについての基礎的な視点も与えてくれます。
l 『YMCAオリエンテーションシリーズ2、YMCA基本用語辞典』(日本YMCA研究所)
ジョージ・ウィリアムズ、ジョン・R・モット、パリ基準、カンパラ原則など、YMCA基本用語が解説されていて、簡便に利用できます。