『道雄さん。あんたは爺と一緒じゃ。武道をするために生まれてきたんじゃ。』
合気道開祖、植芝盛平翁をしてこう云わしめた一人の武道家がおりました。
幼少より、ありとあらゆる武道を修め、合気道開祖により我が子のように可愛がられ、そして武道の眼を開かれた天才武道家、引土道雄先生です。
開祖に十三才で出会われて以来、合気道一筋に歩まれ、大先生より直接に十段位を授けられた数少ない直弟子の御一人であります。
その技は、体術はもとより特に剣と棒に関しては、右に並ぶものは先ずなかったものと想え、最も大先生の晩年に近い合気道を具現化していたのではないでしょうか。
引土先生の教えておられた熊野塾には、大先生直伝の技と教えが生きておりました。そもそも熊野塾という名前自体が、大先生から直接に頂いたもので、『熊野支部ではなく熊野塾道場にしなさい』と云われた由緒ある道場で、大先生が常に『わしの道場じゃ』と話され、昔は大先生の御名前『植芝盛平』という表札までかけてありました。
大先生は常に熊野三山に参拝をされておられ、それは数にして百十数度にわたります。その度に熊野塾に訪れ、演武を行ない教えを授けられていたわけであります。『熊野の神さんの御息が合気道じゃ』と常に教えられ、『道雄さんなぁ、爺は熊野の神さんの申し子じゃよ』とよく引土先生に話をされていたようです。
大先生は霊覚者で神人でしたが、引土先生も非常に信仰心が高く霊的に鋭い方でした。そう云えばこんなエピソードがあります。
大先生が熊野三山を参拝するおりには、必ず引土先生が御供をするわけですが、熊野三山の一つの那智山を参拝したおりに大先生が祝詞をあげると、やにわに正面の御簾がスルスルスルと上がり、竜王がブワーと立ち上がられた。引土先生が驚いていると、『道雄さん。神さんの姿拝みなすったか』と云われ、『はい。拝ましていただきました』と即座に答えられたと云う御話がありました。
このように霊的に鋭く信仰心の高い方でしたから、五井先生についても理解が深く、お会いする度に『五井先生は素晴らしいと、大先生は常にゆうとったよ』と必ずおっしゃられたものでした。
私がよく五井先生の御著書や、ご法話テープ等を御土産に御持ちすると、ニコニコされながら快く受け取られ『わしはすべてわかっとるよ』と云われていたのを今でもよく覚えております。
こんな引土先生でしたから、道場でもよく『世界人類が平和でありますように』の五井先生の祈り言葉を合気道の教えによく織り交ぜながらご指導をされておりました。御自分の道場においても、招かれて海外でご指導する時でも、合気道は神人養成の道であること、そして『合気道は人類を和合させ、世界を一家たらしめる道である』ことを常に説かれておりました。
常に世界平和のためにこそ、合気道があるのであることを力説されていた引土先生こそは、大先生の御姿そのままであり、大先生の心と技をそのまま受け継がれた、最高の御弟子だったのではないのでしょうか。
五井先生の信徒さん達にとっては、大先生は非常に親しみの深い聖者であるわけでして、『武産合気』の本の中に出てくる『植芝盛平翁の想いで』の中で、五井先生が現在の西園寺会長を連れて病床の大先生をお見舞いする場面が出て参りますが、(これはご存知の方達も多いと想います) 実はこの時、大先生のお側でその御世話をされていたのが他ならぬ引土先生だったのです。私はこの時のことを引土先生から直接御伺いを致しました。引土先生は実に懐かしそうにその時のことを話してくださったものです。
この頃は大先生が御帰神をされる数ヶ月前でありまして、ある雑誌のインタビュー記事によりますと、引土先生が大先生の御体をお揉みすると、大先生のご病気を吸い取ってしまって、数時間おきにお腹が痛くなりそのたびに血尿が出るようになったと述べておられます。
大先生は引土先生に合掌されて『道雄さんのおかげだ』と感謝されていたそうです。
こんなわけで、私が熊野塾にご挨拶にお伺いすると、度々『昌美さんはお元気か』とよく聞かれたものですが、さすがに現在の白光会の現状から、そのご返答に窮したことをよく覚えております。
この様に霊的な方でしたから、引土先生のご病気自体も御自分のカルマだけではなくて、何か大きな集団的なカルマを背負われていた為に病まれていたような気が致します。引土先生は子供の時から病気一つしたことがなかったそうで、それが今回のご病気に際しては、何か胃の調子が悪いなと云う事で、お知り合いの医者にかかられたそうです。そうして返ってきた答えが『先生、後一週間の命です』という宣告であったのです。つまり先生のお体を知らない間に蝕んでいた病魔は、発見された時には直腸癌の末期だったのです。
ここからが常人ならぬ引土先生のすごいところで、普通なら慌てふためくところなのですが、知り合いの医師が勧める大病院への紹介もすべて断り、それ以後医師にかかるのをぱったりと止めてしまったのです。それからというもの、やはり癌の末期ですから、肉体的には様々な症状が襲ってきたようです。しかし普段は道場の二階でうなされながら寝ていても、合気道の稽古の時間になるとちゃんと道衣姿で一階の道場に現われて、門弟たちに稽古をつけていたそうです。
稽古以外の時間でも、海外のテレビ局の取材やら何やらをこなされていたようで、そのテレビ局の取材のビデオを拝見しても、先生のお体の具合が悪いのがありありとわかったほどです。常人なら早い段階ですでに絶命していたはずですが、引土先生はまさに超人でした。
これは凡人の遠く及ばないところであり、在りし日の大先生を彷彿とさせる姿でありました。おそらく、先生を見守っていた周りの人達の方が、心配と驚きで逆に病気になってしまいそうだったのではないでしょうか。
そのような期間がしばらく続いたわけですが、さすがに引土先生のお体に現われる症状のすごさに、周りの人達は心配を隠しきれず、嫌がる先生を無理やり入院させてしまったのです。入院後、すぐ手術と云う事になったのですが、この時先生の手術を担当されたのが、あの昭和天皇が喀血をされて倒れられた時に執刀医となられた有名な名医でありました。
実に入院をされても引土先生らしい展開です。
退院後の経過も良好で、私が先生に始めてお会いしたのも、実にこんな頃でした。
先生はお弟子さん達の練習のご指導をすると共に、自らの体の療養に努めておられました。こんな中、さすがの私も驚かされることがありました。引土先生はあれほどの大手術の後であるというのにもかかわらず、平気で煙草をふかしておられるのです。我が眼を疑うというのはこのことでしょう。手元の灰皿には、すでに煙草の吸殻が小山のように積まれております。今、私の目の前で、おいしそうにタバコをふかされているこの御老人が、実は数ヶ月前には生死の境をさまよっていたなどとは誰が信じられるというのでしょうか。
私はただ唖然として先生のそんな姿を眺めているしかありませんでした。実に退院後も引土先生らしい大物ぶりでした。
先に剣と棒術に関しては、居並ぶ大先生のお弟子の中でも、右に出るものは無くと書きましたが、一口に合気道の剣と云ってもピンとこない方達もおおいことでしょう。
合気道においては、剣を持てば合気剣となり、棒を持てば合気棒術となるのであり、それぞれが体の延長としての働きとなるのであります。
もっと正確に云えば、剣と棒が十字に一体化した姿こそが合気道の姿なのであります。
合気道と剣に関しては、戦争中にこんなエピソードが残っております。
それは戦争中には、白兵戦となることが往々にしてあり、実際に刀剣などで切り合いになったりすることがあるわけです。そんな中で、実際の剣道の高段者と云われる人達は、役立たなかったそうであり、後で軍が調べると実際に多くの敵を切り倒していたのは、皆、植芝盛平の弟子であったことが判明したそうです。それを大先生がお聞きになり『わしは人殺しの術を教えたのではない』と大変激怒されたというお話が残っております。
これは時代が悪かったとも云えるのですが、合気道、合気剣とは本来、人殺しの為の剣ではなくて、人を生かす為にある剣なのです。即ち活人剣なのです。この合気剣の奥義を「松・竹・梅」の剣と云い、これを大先生から授けて頂いたお弟子は、おそらく引土先生お一人だったのではないかと推測しております。
そして棒術に関しては、大先生から直接『棒術・正勝の巻』という巻物を『道雄さん。これを宝にせい』と授けられており、『汝千変万化自在に技を生み出すべし』と開祖より極意を授けられております。
『棒術の段は道雄さんが出したらええ』とは開祖の言葉です。
この様に剣と棒に関しては、特別にひきい出たお方であったわけなのですが、体術に関しても大先生晩年の合気道を引き継がれ体現されていたお方であったといってもいいでしょう。
ジミ―・カーターがアメリカの現職の大統領であった時、日本に来日されたおりにとある高級ホテルで引土先生が特別に合気道の演武を催されたことがありました。演武終了後、カーターさんが『私のボディーガードとやってみてくれないか』と云われ、『空手五段だけど云いか』と云われたのです。引土先生は『五段でも八段でも梯子段でもええから連れて来い』と気軽に答えられました。
しかし、案の定出て来たボディーガードは2メーター近くもあろうかと思われる大男。アメリカの現職の大統領のボディーガードですから、当然と云えば当然なのですが、さすがに屈強そのものです。しかし結果から云えば、ボディーガードを気のみ技で動けなくしてしまったのです。
引土先生の下で、仰向けに倒されているボディーガードは身動き一つ出来ません。確かに起き上がろうとしているのですが微動だにできません。周りでみている人達にはいったい何が起こっているのか、先生のお弟子さん達以外には理解できる人達はいなかったでしょう。
何しろ引土先生の御体は、ボディーガードの体には一切触れてはいないのですから。
懸命に起き上がろうとするボディーガードの頭は、引土先生がかざされている手が上に上がれば上に上がった分だけボディーガードの頭も上がる。先生が手を下げると、下げた分だけボディーガードの頭も下に下がる。そのような状態が何回か繰り返され、それは何か眼に見えない何かが媒介している(実際には気のエネルギーなのですが)マリ突きでもしているように見えました。
植芝盛平翁の創始された合気道は、本来は『神通合気道』と呼ばれるものでありまして、それは武術的な生死を争う技とか気とか云われる次元をはるかに超越した次元へと至る為の武道でありまして、いうなれば相対的な力を超えた絶対力へと至る為の道なのであります。
それは世界を浄め和合させる為の力であり、世界に平和をもたらすためのものなのであります。
これこそが正に植芝盛平翁が創始された合気道の本質なのでありまして、宇宙を禊払う大道なのであります。
大先生時代の修行者の体験談をお聞きすると、大先生のお話されるそのお言葉にはかなり戸惑わされたというお話をよくお聞ききします。
例えば・・・・・・・植芝翁は稽古中に突然『わしがバット体を動かすと、今アラスカで気がビビビッと響いているんじゃ。』等と云う事を平然と云われるので、非常にびっくりすることがよくあった・・・・・・・・・・これ等は大先生の合気道が世界へとそして宇宙へと光明波動を響かせていることを物語っております。
五井先生のご説明によれば、大先生の合気道演武は邪気邪霊を祓うお浄めである。大先生が技をふるわれる時、その突く瞬間、引く瞬間、邪気邪霊をはらい、そして一つ突けばたくさんの魔性が吹き飛び、一つ引けば無数の悪魔が浄められていると教えて下さっております。
正に引土先生の教えておられた合気道は、ここに最も近かったわけでありまして、大先生が最も厚い信頼を置いておられたお弟子であったといえるでしょう。そんな引土先生のご性格は春風そのもの、ニコニコされている輝くような笑顔が今でも心に浮かんでまいります。
今、海を眺めながらこの原稿をしたためていると、熊野の海が心に甦ってまいります。あの青く輝く雄大な海。澄んだ河。そして雄大な熊野の山々。そんな熊野の自然が引土先生の人間性とあの合気道を育んだのではないでしょうか。その大自然は大先生の様でもあります。
引土先生のことを想うと熱いものが胸に込み上げてまいります。きっと世界中の御弟子達も想いを同じくしていることでしょう。
先生のご病気は、何か社会の大きな業生を背負われた結果だったような気がしてなりません。そして、意外とも云える御昇天。(私個人としてはとても意外でありました。)
今年2004年は、この様な引土先生の訃報から始まりました。何やらこれからの世界には暗雲が垂れ込めているような気がいたします。
私たち五井先生の御弟子達は、確りと世界平和の祈りに決定していきたいものと想います。
この記事を書くに当たり、『引土先生の御昇天』と題したのは、五井先生が大先生の御帰神にあたり大先生の追悼記事として記された『植芝盛平翁の昇天』にわざと似せた題名にしたわけでありまして、今引土先生は天界において、大先生と共に新たなる使命に邁進されているのではないかと想います。
普通の場合人間が死にますと、四十九日の間迷っているわけでありまして、それは自分がどうなったのか状況が掴めず、また死んだことに気付いてもどうしたらいいか、何処にいったらいいか分からないからです。死んでから自分で自分のお葬式を見ている場合も実に多いのです。死んだ人は知っている人達に自分の存在を知らせ様とするのですが、ただ通り過ぎてしまうだけで気付きません。コンタクトを受けてる相手は何だか肩が重くなったり痛くなったり、体がだるくなったりするだけなのです。
その為仏教では四十九日の間の供養が大事であると教えているわけであります。これは本来の神道も同じです。
ところが引土先生のような信仰レベルの高い方は、この様に迷っているなどと云うことはなくて、一直線に天界へと昇っていってしまうものなのであります。
五井先生の御高弟であられる村田先生の御著書『私の霊界通信』の中に、とある武道家が御亡くなりになられてから、どのような経過をたどったか記されておりますので、参考までにご紹介致します。
【ある剣道一筋の人】(私の霊界通信より)
『それで、ある神人の、素晴らしい昇天の模様を書かせていただくことにします。
その人の一生は、剣の道一筋の生涯で、素晴らしき神人一如の座まで精進された人でありました。現世においても、剣の道で最高の格式を持っておられました。見るからに頑丈な体躯、魂の大きさを物語る容貌、白髪の中に包む威信。こうした素晴らしき魂と、肉体とをあわせもつ人はまことに少ないといえましょう。
死期が近づく一年ほど前、五井先生に導かれるようになりました。その人の場合は再び帰ることなき肉体の座において、肉体にまつわる想念の一筋だに残すまじと、奥の奥まで洗い浄めることが、この人の最後に残された修行であったのです。
ある時は激痛の波がとっさに渦を巻き、またある時は悲しい波が押し寄せては消えていった。その間、魂は大方神界にありました。肉体は蝉の抜け殻のようであったのです。空の人、肉体の座におよそ想念はなかったのでした。
死期が近づくにつれて、出生の地そして縁深き地、水戸がしきりに思われるのでした。やがて水戸に家が出来て、木の香も新しき我が家に帰りつくことが出来ました。老齢とは云えども、一生を剣一筋に鍛えてこられた肉体は頑丈で、腰など少しも曲がるようなことはなく、顔にはおかしがたい威信を備え、目は何物をも射ぬくかのような強さが光っていました。無言のうちに、相手に何か強いものを伝えているのでありました。
新居に移って間もなくその剣人は昇天されました。私は当日一寸統一して、水戸での葬儀の様子を見て驚いたのでありました。
地上での葬儀が盛大であったということだけではありません。儀式は新式で行なわれていました。と云うことはこの剣人の魂の座に全くふさわしく、名実ともなる儀式でした。私の霊眼に映じたその場の情景は、実に名状しがたい素晴らしいものでありました。
その時は、お迎えの神々がすでに降りてこられて、それぞれが座に着かれ、地上の儀式が神々の座にむかって行なわれていました。
かの剣人は白衣の衣冠束帯をつけた神人の姿で、祭壇の中央に大きく座しておられます。普通の人の三、四倍もの大きさに見うけられました。その背後に、出迎えの武神が等身大で三体立っておられます。その三体の主となられる武神ン横に補佐されるようにニ体やや小さくたっておられます。その武神のうしろに、女神の姿をしたそれはそれは美しい神々が三体立っていらっしゃいます。その上に物凄い光輝を放たれている神様は、日本武尊のようなお姿に見えました。
こうして背後に三段で三角形になって輝いておられる神々の光輝で、あたりは黄白色に満ち満ちています。その中で、白衣の神人を中心とした壇の前に、八字型に並んでいらっしゃる神々があまりにも大勢いらっしゃったので、ちょっと見当がつきませんでした。こうしたお迎えの神々が両側に立ち並ぶ中を、地上の縁者、友人、知己がうやうやしく捧げる玉串の榊の葉の青さが、一際目立ちます。
白衣の衣冠束帯の神人があまりにも大きいので、地上の人は子供のように見えてなりませんでした。玉串を捧げ、うやうやしく最敬礼をするたびに、大きくうなずきニッコリと笑われるあたりは、神人の面目躍如たるものがあります。ああ素晴らしきかなとただ見とれるばっかりでした。 数多き玉串の奉納も終りに近づいた時、何処からともなく笙、ひちりきの音が降り注いできました。喨々として流れるその音は、五井先生の口笛のように思えてきました。あるいは高くあるいは低く流れるうちに、神々の陣容は神人を中心にピラミッド型になっていきました。その時一段と光輝が放たれました。それは霊団が地上を離れる瞬間に放たれた閃光でした。それを機に霊団は次第に地上を放れたが、ある点に来るとあとは目にもとまらぬ速さで天上界へと移行してしまったのでした。』
先生は合気道を日本においても世界においても正課にしようと日々ご尽力をされておられました。おそらくその先生の理想は近い将来現実化してゆくことになるものと思われますが、そう云えば十数年前に中国人で太極拳のとある先生が、引土先生のビデオをご覧になって感激され、わざわざ先生のところまでこられ、私と兄弟になってくださいと申し出てきたのです。
この話を聞いたときに、成る程なと想いました。私もかねがね中国拳法において、武術的に完成の域に達しているのは太極拳だけだなと考えていたからです。他にも強くて凄い拳法も実際にあるのですが、未だ完成の域に達しているとは想えません。
そして何よりも、毛沢東が太極拳を中国の国民に奨励し習わせるようにしたことが肯かれてなりません。正に流石は毛沢東だと想わざるおえませんでした。毛沢東は大変に進化の段階の高い人で大変大きな仕事を成し遂げていかれた方であります。
数ある中国武術の中から、太極拳を唯一選ばれたのはその眼力が並々ならないことを物語っているのです。
何れ引土先生のその理想も、遠からずこの日本において実現してゆくことでありましょう。
晩年の大先生は次のような合気道五か条を授けてくださっております。
『1、合気道は宇宙万世一系の大いなる道なり。総てを包含しつつ統合しゆく理念なり。
1、合気道は天地の授けし真理にして、根の国の活用大切なり。
1、合気道は天地人和合の道と理なり。
1、合気道は各自が適宜その道に従いつつ行じ、大宇宙と一体となりて完成す。
1、合気道は宇宙いやさかを無限大の完成に導く大愛の道なり。』
以上ですが、これは日本の天命を完うしてゆく上で合気道に重要な働きがあることを示されているものと想います。
よく引土先生が『わしは真の合気道をひろめてゆくんだ』とおっしゃっておられました。
本当に大先生の心を継がれた引土先生のように、心有る合気の士が真の合気道を探求し普及してゆくことを祈っております。
・・・・・・・『大いなる合気の神の加わりて平和の祈り光いや増す』・・・・・・・・・
これは五井先生が大先生の御帰神に際して贈られた歌なのですが、私もあえてこの五井先生の歌を引土先生にお贈りしたいと想います。
目立たない場にありながらも、合気道を通し常に世界平和の為にご尽力された引土先生に。敬愛すべき引土先生へ贈らせていただきます。
世界的な武道の大家であるにもかかわらず、私のような若輩ものを、いつも親しき友のように温かく迎え接してくださった引土先生に心からの感謝を捧げさせていただきます。
天界における引土先生の御活躍に期待しております。
2004年4月
お台場 潮風公園にて