白光の同志へ





世 界 平 和 の 祈 り の 道



――白光誌三百号によせて――



五井昌久




神の御心との一体化に終始

 三百号というと、二十五年になるわけですが、消えてゆく姿で、世界平和の祈りという、同じ内容のものを、いろいろと表現を変えて書きつづけているのですから、はたからみたら、大変な苦労にみえるようです。
 長くつづいている他の雑誌の執筆者は、その教えによっておかげを得た人々の、いわゆるおかげ話をもってきて、その誌面の大半をその解説にしているようなので、私もそういう風にしてつづけてゆけば楽なわけなのですが、私は自分でおかげ話を書くのが、何となく面映い気がして、真向から教えそのものを書きつづけているのです。会員さん方が、自分達のおかげ話を発表なさるのは、これは非常に有意義なことで、法施ということになり、教えが強化されてゆく道にもなりますので、実に結構なことなのですが、私が会員さん方の現世の利益を、教えの解説と一緒に書いてゆくことは、兎角現象利益に多く気を取られてゆく傾向にある現代の信仰者にとって、より一層現象利益に心を傾かせるようになって、折角の深く高く、そして容易にその道を昇ってゆける白光の教えの真価を、低くしてしまうような気がして、余程でないと、現象利益のことについては触れないことにしているのです。
 実際に、非常に深い信仰の道を進んでいるような人でも、次々と現世的には不幸なことや困ったことが出てきて、真実の利益を得るのには相当年月がかかることもありますので、宗教信仰しているから、誰でも、いつでもすぐに現世利益があるかと申しますと、勿論あるにきまっていますが、人によって時間経過が違うわけです。
宗教信仰の根本は、結局は、この世でもあの世でも、どんな自分に都合の悪いようなことができても、そういう現世の事件事柄には把われず、神の御心の真善美のひびきと一つになって生きぬいてゆく、という、神の御心との一体化を自分のものにしてゆく道にあるのです。と申しましても、自分でも気付かず永遠の生命とのつながりを深くしてゆきながら現世利益を得ていることもあるのでして、病気が直った、貧乏が直った、と派手やかに宣伝するような、その場その時々だけのおかげ話は、時には、しっかりした唯物論より低い生き方になってしまうことさえあるのです。
 唯物論のしっかりした人の中には、自分の努力や意志力によって、かなり立派な生き方をしている人がいるものですが、只惜しむらくは、神の御心という、生命の根本とのつながりを持たないので、真実の安心立命を得ることも、あの世でよく生きることの用意も出来ないままで、この世の生を終わってしまうのであります。




地球の進化についてゆけるか


 現世利益の宗教信仰の人は、それが浅い宗教心にしても、神仏とのつながりをもっているわけで、いつかは深い信仰になってゆく機会を得るのですが、この世が主になっている世界では、唯物論者のほうが、しっかりとした頼み甲斐のある人間のように思われるのです。
 現代の日本の指導者階級や先頭に立って働いている人々には、学者やジャーナリストなどに多いようにみうけられる、純然たる無神論唯物論者と根本は唯物的だが、ご利益信仰的な宗教観念を少しはもっている、というような保守系の政治化や、実業家で大半は占められているようです。ともあれ、どちらにしても、この程度では、根本が違っておりますので、地球の進化についてゆける人格を持っていないことになりまして、こういう人たちに地球の運命をまかせておけば、やがては地球滅亡の方向に向かっていってしまいます。
 何故かといいますと、唯物論者では、お互いが有限の物の世界に生きていて、物のやりとりで、必ず争い心を起こすからであります。それは現在の国際関係をみていればよくわかることです。その場その時々のやりとりだけでは、世界が平和になるわけがないので、根本が神の御心の愛と調和に真直ぐに通じた行ないでなければ、人類世界の今後の発展も進化もなく、お互いの国の利害関係でまた、戦争を引き起こし、地球を滅ぼしてしまいます。現に各国の常識ある人々が、口をすっぱくして、核実験の停止を叫んでも、核兵器を持った国々は、それが地球を傷めるということがわかっていながらも、実験をつづけています。
 その時々の自国の実力誇示のためには、後々の地球の運命を考える余裕がない状態に心がなってしまっているようです。
こういう国が何カ国もあるのですから、人間の根本の心が間違っているというより言いようがありません。このままの人類の心では地球はもうどうにもならないところまで追いつめられてきていることになります。




神界の図面 幽界の図面

 ここにおいて、地球を救う唯一の方法は、地球の生みの親であり、人類生命の親でもある、宇宙大神にすがりきって、今後の生き方を指導して頂くより仕方がありません。
大神様は人類はもともとご自身の生命の分かれであり、地球や宇宙の星々は、皆御自身で創られたものなのですから、すべてを次第に完成させようとしておられ、今回は地球人類を神の御心に叶った立派な人類に仕立て上げようとなさっているのであります。
  このことは、人類として生命が神から分れて独立する以前から定められていたことなので、今日の不調和そのもののような状態も、地球人類が完成される過程として通過してゆく道順なのであります。人類の運命というものは大きく二つの方向が定められていて、人間自体の業想念(カルマ)がそのまま現れて、地球を滅亡させてしまう、これは幽界にはすでにその下絵が画かれている状態になっているのですが、神界の図面には、完成された人類の世界が画かれているのです。ですから一度は幽界に画かれている人間の業想念所業の波の通りの世界が現れようとしているのですが、やがては、神界の神霊方の働きによって、神界に画かれている天国図が地球人類の運命として現れてくることになるのです。
そういう運命に人類を持ってゆくのは、やはり人間自体の生き方が大事なのでありまして、その生き方が神との一体化の生き方、世界平和の祈りによる、愛と真の生き方なのであります。
 そして、もうすでに、神界の図面が実現すべき道である、世界平和の祈りが、今日では実行されているのでありますから、現在実行されている世界平和の祈りの道をますます広げ強化してゆけば、幽界の画かれている、地球滅亡の暗い波は、救世の大光明波動によって、消されていってしまうことになるのであります。
 このように地球人類の運命は、神の御心のままに進化してゆくことになっているのです。そこで私どもは神の御心の通りに動いてゆけばよいのです。神の御心の通りというのは、愛と調和、真善美というように、明るい調った生き方をしてゆくことなのです。




運命の糸


 ちなみに、人間各個人の運命も、大半は定まっているのでありまして、もうすでに昇天されている会員さんですが、この方が、私が何歳かぐらいの時に、在る霊能のおばさんに指導して貰っていて、ふと昔の有名な坊さんのことを聞いたのであります。するとその霊能者は即座に、その坊さんは、大正五年十一月二十二日として生まれ出ている、と申した、というのです。そしてその会員さんは、後に私に会うようになり、私のことをその坊さんの生まれ変わりと信じてついて来られておりました。そういえばその坊さんの生き方教え方と、私の教え方はまるで一つでありまして、生まれ変わりとまでいわなくとも、背後で指導しているぐらいの確たる事実なのであります。(註…・・五井先生の前生である親鸞聖人のこと)




私の結婚と教えの誕生

 つづけて自分のことをいうのもなんですけれど、私の結婚などは、そのまま神様に仕組まれていたというより仕方のない結婚で、広島原爆の中心地に住んでいた妻と、東京浅草に住んでいた私とが、同年月頃から、葛飾の亀有に住むようになり、しかも、私も妻も全く別々の経路から、労働問題を研究している同じ勤務先に数日違いで入社しているのであります。妻の方などはたまたま用事があって訪れた引揚援護局で、それまであったこともないある人に出会い、自分の友人がいるからいって御覧なさい、と私と同じ勤務先を紹介され、その日から入社し、私は神様の話などしていたので、唯物論の理事長さんに嫌われ、体が弱そうだから、という理由で断られてしまったのですが、私を紹介した労働雑誌の編集長だった友人が、前に私が勤めていた日立製作所までいって、私の勤務ぶりや才能を調べてきてくれ、その成績が上々だったので、理事長も断りきれず、妻の入社した三日後に編集者として入社することになったのです。私と妻は同じ時間に同じ電車で、同じ勤務先に行くということになり、殆ど朝に夕べに話し合うということになったのであります。
 ところがこの話し合いは私の生長の家理論を聞かせつづけるというような話で、妻のほうは生長の家理論にはうんざりしていて、「文学や音楽の話をしている時の五井さんは、とても明るくて純粋で美しく見えるけれど、生長の家の話をしている時は、一方的で押し付けがましくて、宗教のお話なのに反感をおぼえてしまう」というようなことを時折言っていました。こうした妻とのやりとりで、私は生長の家の教え方の不備なところに気付いたのです。それは、実相論が先に出てきて、人間を完全円満な神の子にしておいて、人間の悪や欠点がみえると、それを現象の心の法則で責め裁いてゆく、という実相と現象の二本立ての教えの不調和だったのです。
 もし私があの頃のように妻との会話がなかったら、私は今でも生長の家の講師ぐらいで真剣に実相だ現象だとやっていたことでありましょうが、妻の何気ない日々の生長の家批判で、私の心が、消えてゆく姿で世界平和の祈りという、実相も現象も一つにひっくるめた、神の御心の実践という生き方を、日々瞬々の祈りによって行じてゆく、という新しくそして古い内容をそのまま生かした教えを生み出していったのであります。
 ですから、白光の教えには、妻の力が大いに働いていたということになり、私が現在の教えをする為に、二人が結婚までゆかねばならぬように、すべてを神々のほうからつくって下さっていたことが、今でははっきり肯定されるのです。




世論を動かす方向に

 宗教の道でも、鎌倉時代や戦国時代に、今の私の広めているような平和の祈りをしても、とても誰もついては来られません。在る時は剣を、在る時は身を隠す、というように、自己本位に、力のある者についたり、身を守る為の戦いをしなければ生きてゆけなかった時代では、それを理論づける教えも生まれているわけです。
 法然さんの教えなどは、人々が乱れきっている世の中で、苦しみながら生活していることが判っておりますので、念仏一念の教えの中で、死後の世界の永遠の生命、法然さん流に言えば、西方極楽浄土への導きをしていたのであります。
 もうすでにこの世での幸福など望むべきもないと諦めきった人々は、肉体身以後の西方極楽浄土にすべての夢を託して、南無阿弥陀仏を念じつづけたわけです。彼等の生きているのは念仏の中であり、未来にくる西方極楽浄土なのであります。
 自分達がどうあがいても、世の中がどう変るものでもないのですから、自分たちのすべてを御仏にお任せするより仕方がなかった大衆を、法然さんは念仏一念の中に吸い込んでいったのであります。
 しかし今日は、世界中の世論を動かせば、世界の運命を動かすことの出来る時代ですから、やはり自分達の力で、世界の世論を動かしてゆく方向に働きかけてゆくことが必要です。その一つが神との一体化の働きによる世界平和の祈りなのであります。




神の御心は決まっている


 人類の歴史は神からはじまって、神に終始するのですが、その神の表面に肉体人間として働く生命体がいて、星々の運命をつくりあげてゆくので、この地球もその一つであります。人類の歴史は神を考えないではありえないのですし、肉体人間だけでは、到底地球の運命を開いてゆくわけにはいかないのです。核爆弾の製造などは、神の本質である、愛と調和を忘れ果てた、物質的人間としての生き方のみを考えた末でありまして、国と国との大量殺戮がそこに行われるわけで、神の子の人間はそこで姿を消してしまうことになります。
 神の生命の分れた力である人間生命は、地球の物質波動に合わせる為に、一度は物質波動を主にしてその生活をつくってゆくのでありますが、物質波動を主にしての人類の生き方が出来あがってゆきますと、個人と個人、国家と国家というように、個人にしても集団にしても、限定された物質をより多く自分達のものにして、自分達の生活を優位にしてゆくために、その道を邪魔する相手を倒してでも突き進んでゆこうとします。それが現在まで何度となく各所で戦争が行われてきた原因であり、今日では地球最後ともいうべき核爆弾の戦争一歩手前というところまできているのであります。
 しかし、神の御心は、地上天国を地球の上にも実現されることになっておりますのですから、やがて、神と人間との一体化による地球が開かれてゆくことになり、今日の核戦争への不安も根底から無くなってゆくのでありましょう。神界ではすでにそういう図面が地球の上に画かれているのであります。
 その為の祈りによる世界平和運動の誕生でありますので、世界平和の祈りを日々行じつづけるようになられた皆さんの運命は、やがて天国を自分のものにしてゆく道を歩むことになった、ということで、安心立命の境地になることの出来る状態になっている、ということなのであります。
 簡単に申せば、皆さんが、祈りによる世界平和運動に参加したことは、そのまま神の御心である、平和世界の地球に住みつくことの出来る切符を買った、ということなのです。
 世界平和の祈りというのは、今日行なわれることによって、その意義を充分に発揮し、神の御心を地球世界に現わすことの出来る教えなのであります。




神々の場、器、使いとして働くことになっている


 古代に肉体人間が地球上に住みつき、霊的な波動体から、次第に物質波動の力のほうが大きくなって、今日のように、唯物的人間が多くなってきたのですが、その間、仏陀やキリストをはじめ、多くの聖者賢者が現われ、地球人類を指導してきたのであります
が、もう今日以降は、唯物的な生き方では、地球を滅亡させてしまうより仕方がないという時期に立ち至って、全面的に神々と人間との一体化による、地球完成の道をつくりあげてゆくことになったのです。それが祈りによる世界平和運動であり、その祈りを根幹にした様々な活動なのであります。
 その神々の器として場として、使いとして、私達が生まれ出てきたのであります。
家内をはじめ、娘たちも、職員や講師や会員の人たちも、すべて、この人類がはじまった時から、生まれ変わり死に変わりしつつ、今日の時に働くことになっていたのであります。
 白光三百号の発行もその過程の一つであるのです。地球平和完成の日は果たしていつになるか、それは大神様の御心の中で判ってるだけで誰にも判らぬことですが、その日がやがて来ることだけは、今日までの人類の歴史から見て明らかなのであります。その為の釈尊の働きであり、イエスの大犠牲なのであり、世界平和の祈りの誕生なのであります。
             (昭和五十四年十月号白光誌「創刊三百号記念」より)




「掲載者付記」
 ここに紹介しました五井先生の御法話は決して古いものではなく、皆さんの参考になると想い掲載しました。世界平和の完成はまだまだ先の話でありまして、世界を見回してみれば至る所で紛争があり人々は殺しあっております。また深刻な飢餓の問題は現在までも数秒に一人が餓死するという現状であり、それを見捨てて多額のお金を貸し付け暴利を貪っている先進諸国、また国内を見回してみましても教育の荒廃に犯罪の増加に低年齢化、政治化や官僚の汚職等々数え上げればきりがありません。いったい世界が平和になったなどということはまともな頭の人間の言える言葉ではありません。
 だいたい、人類の人間観宇宙観はいまだに唯物論が常識となっておりまして、世界の平和は霊性という言葉が常識となった時にこそ開けてくるものなのであります。
霊性が常識となった時代、神霊文明はいまだにその足音しか聞こえてはおりませんが、しかし確かな足音を響かせてくれております。
世界平和の祈りは神霊文明の幕開けの為に、そして世界恒久平和の達成の為に、今もっともその活動が必要とされている運動なのであります。



白光の同志へ