東南アジアあれこれ体験記

(騙されたほうが悪い?)

 

20代の頃に、よく長期の海外出張に行きました。

ほとんどが東南アジアでしたが、印象に残っているエピソードをいくつか挙げてみます。

勘違いしないで欲しいのは、私が経験したのは事実ですが、だからといってその国の全てがそうだといっているわけではありませんし、

時代も変わっています。

(悪意は全くありませんから、当事国の方々、そしてその国のファンの方々、怒らないでね。)

写真は、2001/04/08追加しました。

古いネガからデジタル化。

この時使用していたカメラは、オリンパスPEN FT、NIKON FE、他でした。


 

フィリピン  

  
ホテルのガードマンとボーイ 

ホテルの前はマニラ湾。

きれいな落日が毎日楽しめました。

 

こんなに若かったんです!

と書いても、わからないよね。

 

1971年、初めての海外出張でした。(もう30年も前になる!)   

滞在していたホテルの地下に『カジノ』があり、入ってみました。   

カジノの中では、タバコや飲み物は無料なんですが、私は当時からタバコを吸いませんでした。   

飲み物は何がいいかと聞かれましたが、つい独身寮でいつも飲んでいた一番安い酒、つまり『ジンを ロックで』と言ってしまいました。

どうせ飲むなら、高いブランデーかなんか頼めばよかったのですが、そこは普段の生活レベルが自然と現われてしまうんですね。

酒は強いほうでしたから、何度もお代わりはしましたが…・・   

賭け?、もちろん儲かるはずがありません。

地下のカジノに入るドアの前にはガードマンが立っています。

カジノの中でのトラブルを避けるため、「拳銃」等の持ち込みは禁止になっています。

「拳銃」等は、ホテルの受付カウンターに預けます。

私はそのホテルに長期滞在していましたので、受付のホテルマンもガードマンも皆顔見知り。

引き出し一杯の「拳銃」を見せてもらった時は驚きました!  

 

このバスでホテルと現場を往復しました。

スクールバスではありません!!。

オペレーターと。

後ろは納入設備の系統図。

制御盤の前で。
工事中。
腕も良く陽に焼けています。
据付工事中の1コマ。

顧客エンジニアと。

彼らが夜勤の時、護身用の拳銃を持参しているのを見た時は、驚きました。実際、私の滞在中に盗みに入った2名の現地人がガードマンに射殺されました。

 

○○プラントの据付工事の時。   

スコールがあがった後の濡れた地面に、トラックのタイヤの跡。   

何度も何度もハンドルを切り返したような跡なんです。   

こんな狭いところまで、トラックが入ってきたのかなぁと疑問が。   

理由はすぐわかりました。   

作業員の履いているゴムのサンダル、トラックのタイヤを切って作った物だったんです。   

究極のリサイクル!!   

このサンダル、人間の体重ぐらいでは、なかなか摩耗しないはず、きっと一生モノ?   

 

仕事では私と直接の関係はありませんでしたが、同じプロジェクトに参加していた別会社のスーパーバ イザー(監督)のTさん。

私も英語は苦手ですが、Tさんは私よりもずっと年配で英語ももっと苦手。   

メーカー側のスーパーバイザーの第一陣で着任していたのは私達二人だけ。   

そういう訳で夕食等は常に私と一緒。   

3週間ほどして、耳も慣れてきたようなので

『いつも世話をかけているので今日は私が食事を注文してみるから、黙って見ていてくれ』と、Tさん。   

ここからが面白かった!!   

ウェイターを呼んで、注文したいのですがなかなか言葉が出て来ないのです。   

本人もイライラし、私の手前もあるからあせって、だんだんとジェスチャー(身振り手振り)が増えてきました。   

その努力はウェイターには通じなくても、私にはピンと来ました。   

Tさんが、最初に何を注文しようとしていたかは分かりませんが、少なくとも今は

"ゆうべ食べたバーベキュー風の肉の串焼きが欲しい"と言いたいのです!   

Tさん、さかんに『Last Night…・・』と言っていますが、このウェイターには"私達のLast Night"のことなど分かるはずがありません。

最後にはほとんど日本語で、『あのな、ゆうべ食べたな、こういう大きい肉がな、長い串にささっていてな、…・・   

そういうやつがほしいんだよ!! ふたつ!!』と。   

左手の指で、丸い肉の形を示し、右手の指で串を示して、「こういうふうに刺さっているんだよ」と右手の指を往復させたんです。

そこで、ウェイター、手を打って大きくうなずきました、そして『OK、OK』と二つ返事!!   

それを見て、Tさん、大喜び。

私、不安に。   

一旦下がったウェイターが、彼の上司らしいのを連れてきて言いました。   

『女性を二人、連れてくればいいのですか?』と。   

案外と大きな声で!  

今風に言えば、レンタル・ビデオ・ショップで「恥ずかしいビデオ」を借りるとき、カウンターの若いオニイサンに、店内に響き渡るような声で

ビデオの題名を言われたような・・・・と言えばお分かりかな? 

廻りのテーブルの他の上品そうな客がイヤな顔をして、こちらを見ています。   

黙って見ていてくれと言われていましたが、このままではまずい、と思い、とうとうTさんに、

『食事でなくて、女性を注文してしまいましたよ』と忠告。   

Tさん、『そんなはずはない!』。   

しかし、Tさんの"両手の指を使ったジェスチャー"は『万国共通』だったのです。


 

インドネシア  

少し太った頃

 

スラウェシ島の夕焼け。

ここで半年間生活しました。

プラントのコントロールルーム。

ゲストハウス(社宅)での夕食風景。

派手なシャツはバリ島で買ったものです。

プラントのオペレーターと。

オペレーター

(胸ポケットに筆記具?)

ケンダリの子供たち。
ダビダビ村の子供たち。

スコールがこないと水もきれいで、水浴です。

後日、ここにはワニが出ると聞いて、もう二度と行きませんでした。

 

1976年、日本を出発してジャカルタ、ウジュンパンダンと乗り換え、セスナ機をチャーターして3日目に到着、ここはスラウェシ島ポマラ。   

ニッケルの製錬に使用する○○プラントの技術指導が今回の仕事。   

現場の私の机の中の筆記具が頻繁に紛失します。   

そうして翌日には、現地作業員の胸のポケットに収まっている。   

こちらも長期滞在で退屈していた頃でしたので、ちょっとイタズラを。   

筆記具の中に私の印を押した紙を小さくたたんで入れておきました。   

翌日、違う作業員が胸にそれを差しているのを見つけ、『ちょっと見せて』。   

彼は『近くの村の雑貨屋で買ってきた』と言い張るのですが、印を押した紙を取り出して見せると、   

今度は一転して、『Mr.○○(私の名前)が悪い』と主張。   

私が、『ナゼ?』と聞くと、彼は『カギも掛けない引き出しに入れておくほうが悪い』と。   

要するに、『盗まれるほうが悪い』という考えなのだそうです。   

そういえばこの国では、何かをあげても『ありがとう』という言葉があまりかえってきません。   

富める者が、貧者に物を与えるのは当然、という考え。   

ラジカセ等の電気製品の偽物が多いのも他の東南アジアの国と一緒でした。   

そっくりのデザインですが、音質は最低、"TOSHIBA"に似せて"TOCHIBA"となっていたりします。   

この他、"SONYA"や"HITACH"等々。   

もちろん彼らもそういうことは充分承知していて、我々が持参した電気製品を到着したその日に

『いつ帰国するんだ?、帰国の際にそのラジカセを置いていってくれ』と。   (売ってくれとは言わないんですよ、これが。)   

一番笑えたのは、『Tシャツ』。   

"adidas"かと思ったら、"adios"になっていました!!!   

ラコステのワニの向きが違うなんていうのは、序の口。   

これは、1977年のスラウェシ島の小さな村でのことですから、念のため。

滞在が延びて、ビザを4回延長しました。

最後の延長ビザですが、出国時に1日期限をオーバーしていることに気がつかず、個室に呼ばれました!

相手も一人でしたので、10ドル札1枚で”話をつけ”ました。彼もそれを望んでいたようなので・・・・

 

 
海水浴

 

 

結婚式に呼ばれて

 

 
結婚式 現地人幹部の奥さん達
 

工場のオペレーター達がゲストハウスに

遊びに来ました。

 

現地の人達と海水浴

 

   

 

中央がロータリー・キルン、左側が電気炉と精錬工場

 

 


 

台湾   

ここは短期出張でした。   

当時、長女が"シブガキ隊"の歌に夢中で、お土産にカセットテープを買いました。   

こちらでは、海賊版が安いので、私の好きな曲も含めて10巻ほど。   

帰宅して渡すと長女は大喜び。   

さっそく聞きはじめましたがすぐに、『お父さん、変だよ』と。   

私が聞いてみると、"シブガキ隊"の曲でなく"大川栄作"(こんな字でしたっけ?)でした。   

きちんとパッケージしてあり、ラベルも歌詞カードも"シブガキ隊"のもの。   

間違っていたのは、この1巻だけ。   

長女はなかなか納得せず、結局後日"シブガキ隊"のCDを買わされてしまいました。

そういえば、インドネシアではカセットテープを買ってきて聞くと、最初のほうしか録音されていなかった!!

これも、『騙されたほうが悪い!』


 

タイ  

水牛。

インドネシアではこの肉をたくさん食べました。

(イスラムは豚を食べないため。)

水上マーケットです。
タイは寺院が多くどれもきれいです。象も観光客の相手を。
チェンマイにて。

チェンマイの発電所

ここが現場です。

 

この国も偽物天国という感じ。   

バンコクの裏道で、"ロレックス"をカゴに入れて売っています。   

カタコトの日本語で、『時計、安いよ。ロレックス安いよ、中身はセイコー、だから正確ね!』とかなんとかいいながら見せてくる。

手にとって見ていると、『保証書つけるよ!』

でたらめな商売です!!  

何日か後で、街中を小さなバイクで走っていた汚れた顔のおっさん、肩からワイン色のバッグをかけている。

よく見ると、これに『カルチェ』のマークが…・・   

でもこの国、全てが安いし、仏教国で挨拶が気持ちいい。   

バンコク市内の大渋滞と排気ガス汚染は問題あり。

仕事はバンコクから600kmほど離れたチェンマイでしたが、ここは美人の産地で有名。

私くらいの年代なら、有名な『玉○さん』のエピソードはご存じのはず!!

でも私が行った頃にはすでに、『チェンマイの美人はバンコクに出稼ぎに』行っている、とのこと。

逆に、『それなりの”美人”がチェンマイに出稼ぎに』、という構図が出来上っていました!! 『需要と供給の関係』です。


 

韓国   

まだ戒厳令が布かれていた頃。   

休日に喫茶店(らしき)に入り、しばらくして小用に行った。   

トイレのドアを開けたらすぐ、おばあさんが座っていて、小便器(一応水洗だった)からの水を使ってコーヒーカップを洗っていました。   

おばあさんは、手振りでそのまま用を足してもよいと。   

もちろん、私はそのまま出てきました。   

そうして、もう飲み物に口を付ける気はしませんでした。   

韓国では水が貴重であることは知っていましたし、雨水も利用していることも知っていました。   

しかし…・・   これでは、水そのものよりも『蛇口の数が足りないのでは』と思いました。

 

インドネシアに半年間出張し、帰国後まもなく韓国に出張。

韓国語も覚えやすい言葉でした。

大体一週間ほどで耳が慣れてきます。

耳が慣れてくるとカタカナで覚えた簡単な挨拶や数字のアクセントが分かります。

それでしゃべり始める。少し経つと「もう一回言って下さい」とか「これは何というのですか」という言葉も使えるようになって

後は加速度的に覚えられます。

しかし、韓国語は充分なる注意が必要です。

というのは、日本語と同じように「男言葉と女言葉」があること、日本よりも「敬語に厳しい」ということです。

我々が言葉を覚えるのは日中よりも、食事に行ったり飲んだりしている時の方がよく覚えられる!?

必然的に、耳にする言葉は「女言葉」!

最初の内はそれを覚えて、翌日、現場で使ったりすると・・・・・・・

現場の班長「○○さん、あなた、昨日飲みに行ったでしょう?」

私(どきっ!)「いいえ、行っていませんよ」

現場の班長「いや、行ったはずです!」

私「どうしてそういうことが言えるのですか?」

現場の班長「○○さん、昨日まで使っていなかった言葉を今朝使いました!」

私「・・・・・」

現場の班長「しかも、使った言葉は”女言葉”でした!!」

私「!!?!!」

ですから、夜覚えた言葉を得意になって顧客のそれなりの立場の方の前で使ったりすると、「軽蔑」されます・・・・

それから、方言があります。

私は最初に行ったのが韓国の南にあるウルサンという町で、

ここで覚えた韓国語を、次に行ったソウルで使ったら”笑われました”。

東京の人に「どげんしたとね?」というような言葉を使った感じだったのでしょう・・・・・・・

ウルサン・マル(ウルサン弁)だったんですね。


 

中国  

北京の技術屋さんたちです。

するどく、粘り強い質問が多く、大変疲れました!!

メーカーのプレゼンテーションを聞くと言うより、

自分たちの勉強に利用している、と感じました。

中央が私です。

お礼に、万里の長城へ案内していただきました。

横にいる女性は、通訳でまだ学生さん。

後ろ向きの”刈り上げのおっちゃん”は、私ではありません。

私は人民服は持っていません!

大連の海岸にある公園。

北京のおじさんたちより、なんだか親近感を感じました。

右端の太ったおじさんは、愉快でしたよ。

 

北京ではホテルがまだ少ない頃でした。   

市内から少し離れた香山というところ。   

季節は秋、ホテルは新築。   

翌朝、目が覚め窓のカーテンを一気に開けて…・・本当に驚きました!!   

窓ガラスの外側に、それこそ一面びっしりと『カメムシ』が。   

大袈裟にいうなら、『両手を上にあげて卒倒しそう』でした。   

その日に北京から大連(軍事施設があるため事前に特別な許可をもらっていました)へ。   

この時に乗った飛行機。   

旧ソ連製のおんぼろ。   

私の持っていたラジコン飛行機よりも信頼性が低そうな、加えて胴体に弾痕でもありそうな30人乗り位の飛行機でした。

スチュワーデス(?)は乗っていましたが、スラックス(ズボンというイメージ)姿で笑顔も無し。

シートは昔の軽自動車のような薄っぺらな、背もたれがバタンとたためるヤツ。

それを起して座ると、スチュワーデスというよりキャディさんのような服装で、離陸前にヤカンでウーロン茶を入れて廻って終わり。   

大連のホテルには3泊しましたが、一日もバスルームのお湯が出ませんでした。

食事は、北京と大連しか知りませんが、後で行った台湾の方がはるかに美味しかったですね。


 

シンガポール  

これから買い物に出掛けるところです!

髪の毛が長いのは、インドネシアにいた半年間、床屋がなかったので切っていないからです。

お国の方には失礼ですが、あまり衛生的ではなかったので、帰国するまでガマンすることにしました。

後ろが、『ラッフルズホテル』です。

第二次大戦中は日本軍の司令部が置かれていたところです。

今はもう、取り壊されているはずです。

ホテルのディナーショウに出ていた女性。

写真を撮らせてもらいました。

えっ?、もちろん写真だけですよ。

 

インドネシアでの滞在が長かったので、帰りにシンガポールに5日間ほど寄りました。 1977年です。  

言葉は半年間のスラウェシ島生活でインドネシア語(マレー語とほぼ同じ)をほとんど不自由なく覚えていました。   

(このときに覚えたインドネシア語は、この5年後に別の仕事で行ったスラバヤでも役に立ちました。)   

以下、土産物屋でのやりとりです。   

私が入って行くと、店員がカタコトの日本語で話しかけてきました。   

ジャカルタでもずいぶんと買い物をした後ですから、インドネシア語で返答。   

店員がちょっと驚き、"これは観光客じゃないな"と分かった様子。   

私が土産物を見ている時に、年配の日本人の観光客が入ってきました。   

何品かを指差し、財布を出しました。   

表示はシンガポールドルなんですが、この年配のおじさん、値切りをしないだけでなく米ドル(この時、約2倍)で支払おうとしました。

横で見ていた私が注意しようとすると、   

店員が横目で私に合図。

"黙っていてくれ"と言いたいのだなと判断しました。   

私もイタズラ好きなので、この日本人のおじさんもお金には不自由していないようだし、ちょっと様子を見てみよう。

そのおじさん、ワニ革のベルトやら、財布やらいかにもおじさんの好きそうな土産物を買込んで、米ドルで支払い、出て行きました。

もちろん、私はその店員から、そのおじさんが買った同じワニ革のベルト2本をタダでもらい、その店では何も買わずに出てきました。

それでも店員は私に、『テレマカシ、バーニャ』(どうもありがとうございました)と言っていました。

私は心の中で、観光客のおじさんに、『テレマカシ、バーニャ』とつぶやいて・・・・・

 

インドネシアでも、商品に値札が付いていることは少ない。   

イニ、ブラパ(これはいくらか?)で始まり、売り手は相手を見てふっかけてきます。   

まず、ステガ(半分)。   

売り手は、ボレ(いいよ)と簡単に応じます。   

こうして何度も「ステガ」を繰り返し、まぁ、最初の提示額の20%程度で買います。   

インドネシアでは、買い物も"騙されるほうが悪い"ようで。   

もちろん、言葉が不自由だとこうはいきませんし、売り手もそこはよく見ています。      

シンガポールでも、この買い物手法を駆使しました。   

インドネシアとの違いは、さすがに土産物屋なので、日本ほど丁寧ではありませんがちゃんと包装してくれます。

これが私の狙い目です。   

こちらは観光で来ているわけではないので、時間はたっぷりあるのです。   

一品一品、価格交渉を楽しんで決めて、包装させる。   

まとまったところで、合計金額を出させます。   

まず、こういう場合には『端数』が出ます。   

出なければ、1〜2品追加で買います。(端数が出るように。そしてこれは最終的にタダになるのです。)   

そうして、『端数をディスカウント』させるのです。   

(端数といっても、上から二桁目)   

もちろん、相当値引きさせられた後ですから、店側は嫌がります。   

こちらはお構い無し。   

商品の売買は交渉事ですから、気に入らなければ断ればいいのであって、そこは買手も売り手も同じはずです。

今度は、T/Cで払うといくらか、米ドルキャッシュではどうかとかその度に端数をディスカウント。   

店側はあきれて、断ってきます。   

そうしたら、私は未練なく、店を出て行きます。   

商品はすべて包装したあとですから店員があわてて、店の外まで追いかけてきます。   

『トアン(旦那さん)、それでもいいよ』と。   

こうして、私は次の店に向かったのでした。   

 

シンガポールで宿泊したのは、19世紀に建てられ、旧日本軍が司令部を置いていた"ラッフルズホテル"でした。

部屋はさすがに広く、バスルームなどは、半端なホテルの部屋と同じくらいの広さがありました。   

ベッドは籐製。   

ここで、夜、長時間の買い物で疲れた私は、ベッド脇のガイドブックを見てマッサージを頼みました。   

一時間も待たされて、ノックの音。   

何やら勝手に期待して(ナニを?)、ドアを開けたらびっくり。   

身長185cmはあろうかというおじいさん。   

マッサージで背中を見せた瞬間、首でも締められて、せっかく値切って買ったお土産をごっそり持って行かれるのではないかと思うほど、

人相も悪かった!!   

このおじいさん、揉む力はすごい。   

私は、疲れていたとはいえ、筋肉痛でも何でもない。   

本当は、マッサージとは違うコトを…・・   

翌日の揉み返しには、参りました!!

 

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