農耕民族と狩猟民族の違いについて、珍論・異論で日本人の本質に迫ります!!

このエッセイを読んだ日本人の皆さんからや、そうでない皆さんからの、応援やアドバイス、批判やお布施等は期待しておりません。

よって、個別のお返事やお返し等も一切差し上げませんので、そのつもりでお気楽に読んでください。

 


 

農耕民族と狩猟民族


 

まず、体形から違いますがな。

農耕民族は穀物主体の食事を長い間続けたせいで、繊維質の消化のため長い腸が必要とされ胴長となっている。

見た目は格好悪いが、しかし熱力学的には低カロリーの食物で高収率が得られ、現在では究極の省エネタイプの人間である。

また、狩猟民族のように「獲物を追いかけて走る必要がなかった」ので短足である。

短足は田植えなどの時にも、深くかがまなくても、手が届くという願ってもない体形である。

狩猟民族は当然ながら肉類を食することが多かったため、アゴが発達しており、そのため農耕民族とは顔つきが違う。

さらに、遠くの獲物を常に見つづける必要があったため、カメラのレンズでいうところのハレーションを防止するため、奥目になっている。

さらに狙う獲物との違和感をなくすためか、総じてひげや体毛、体臭までもが濃い!!!

必然的に運動量が多く、かつ瞬発力に優れ、一般的に体型も大型であるが、

クワひとつで気の遠くなるような広い面積の畑 を耕すというような持久力はあまりない。

(馬鹿らしくてやらない、という正論もある!)

もっとも、南方には「焼き畑」という、我々から見ると「ルール違反」のようなことをする農耕民族もいるが、例外であるとしておこう。

焼き畑の煙(炭酸ガス)で数年前には、大騒ぎしていましたよね。

こういう歴史的、地域的、生物学的事実に気がつかない人間は、狩猟民族の顔つきのことを『彫りが深い』などという。

もちろん、いまさら知らなかったという人は少ないでしょうが、日本人はほぼ全員がそのルーツは農耕民族である。

だから自民党が存在する。(関係ない?)

唯一違うのは、海岸近くに住んでいて『鯨』を船で追いかけていた人たちであろう。

日本人としては例外的な、小数の狩猟民族である。(魚類でなく”ほ乳類”を捕獲していた)

船を早く漕ぎ、モリを投げる必要から、きっと手が長く、

海面からの紫外線の照り返しを防ぐために奥目で彫りの深い顔つ きをしていたのではないか、と勝手に想像している。

しかし、アザラシ等を獲るイヌイット(昔はエス○モーと呼んだが、ナゼか差別用語らしい)は、間違いなく狩猟民族であるが、

日本人によく似て”扁平顔”である。

これも例外と考えておこう。

日本ではマタギなる狩人も存在はしたが、きっと個人的に農業が嫌いだったのだ。

それが証拠に、彫りの深い顔つきになるまで、徹底して歴史的に長くは続けていなかったようだから。


ここでちょっと、余談

魚(魚類)を獲っている人は私の基準では狩猟民族とは言わない。

漁業というのは、最近でこそ一部の魚種や貝に限って「養殖」を行なうようになってきたが、

ほとんど大部分は、自然の恵みをごっそりいただいてきた、のである。

この部分は狩猟民族によく似ている。(今ではこれも養殖(ぶた、牛、鶏他)をやっている)

要するに、基本的に原料はタダだったのである。

農耕民族は、「タネ」や「苗」を確保(購入もしくは前年収穫分から保存)しなければならない。

昔でこそ、肥料は健康によいとされる有機肥料(下肥ともいう)一本やりであったが、最近は化学肥料主体で費用も馬鹿にならない。

有機肥料の原料も自宅生産分で不足する時には、町まで仕入れに行く必要があった。

それに最近では農薬も必要である。

つまり、農耕民族は元手が掛かっているのである。

ところで、現在でも原料はタダで電力以外のものは使わないで製品を産み出している産業がある事をご存じであろうか。

しかも、化学変化を一切伴わず、物理的変化のみの操作で製品を産み出している。


 

次に行動や判断規準がまったく違いますな。   

狩猟民族の判断の速さ、獲物を獲るための策略(ワナ)の巧妙さが、農耕民族にはないところである。   

それは歴史的に政治にも表われている。   

日本人は農耕民族として唯一といっていいが、サミットに参加している。   

国際的な場面で、日本人の考え方や行動がすんなりと受け入れられないのはなぜか。   

農耕民族は急いで決断を下す必要がない。   

そうでしょ、春まいた種を秋に収穫するわけだから、常に待ちの姿勢、途中でやることは“生えてきた雑草を抜く”ことくらい

である。(本当はもっともっときつい作業だが)   

先のことを考えすぎない。   

台風や天災では、あきらめるのが早い。(不遇にも堪え忍ぶ)   

過ぎたことをいつまでもくよくよ考えない。   

ストレスによる十二指腸潰瘍にもなりにくい生活習慣が身についている。   

決断を急がないから、ムラの連中といつまでも合議していてもよい。   

場合によっては結論を出さなくても、自然が解決してくれる場合がある、いや多い。   

個人の判断ミスは収穫にほとんど影響しない。   

収穫した穀類は、常温で保存できる。   

狩猟民族は、策略(ワナ)にそった俊敏な動きをしないと、一人のミスが「獲物に逃げられる」結果を招くことがある。   

長々と合議や相談をしている時間はない。   

獲物に逃げられたら、次の食事はいつになるかわからない、必死さが身につく。   

現代のように冷蔵庫が無かったから、獲り過ぎた獲物も保存が出来ない。 生かしておけば別だが。  

農耕民族に比べると、激発的で攻撃的である。次にいつ食えるかわからないから大食いである。   

特にA国の警察官がすぐ発砲するのは、こういう背景があるのである。   

日本の警察官は、刺されそうになっても、堪え忍びなかなか拳銃を抜かない。   

こういう場合は、さっさと判断しないと『自虐的民族性が…・・』などと言っていては、帰らぬ人になってしまうのだ。   

英語では敵のことを、Enemyというそうだが、なんとなく「獲物」という語感に似てはいまいか。(そう思うのは私だけ?)


 

映画の作風をみても違いが現れている。   

上述の彼我の差に関する独断的分析結果を見てわかる通り、   

息つく暇のないスピーディーな、落ち着きのない「ダイハード」のようなアクション映画等を製作するのは、農耕民族には向いて

おらず忠臣蔵のような何年もかけて復讐する、根気強いストーリーにひかれる傾向がある。

稲作によく似ているではないか。   

負けるのがわかっているミッドウェイ海戦の映画が何回も日本で大ヒットするのは、稲刈りの前日に台風で収穫できなくなっても、

また来春に田植えをするような堪え忍ぶ事に慣れた自虐的民族性によるものである。


 

車の運転やマナーにも違いがある。   

すでに述べたように、狩猟民族は「獲物を追いかける」都合から、足が長く、速かったがそれだけでは充分とはいえず、   

そこで、策略に長けて狡猾な彼らは、より速くて楽な方法を選んだ。   

お気づきのように、馬というものを飼い馴らし、最初は食料の一部であったそれに跨がるということをやってのけたのである。

しかし、人間よりも俊敏な馬に跨がるというのは、同時に慣れや訓練をも必要とし、

それを不得手にする人たちがいた事もまた事実であった。   

こうしてそういう人たちのために次に考え出されたのは、馬車である。   

西部劇で有名な「駅馬車」はこれの変形発展型である。   

主として年寄り、子供、女性等が体力や服装上の都合から、馬車を愛用した。   

屈強の男性の中にも、馬に跨がる事を苦手にした者もいたようで、

そうした彼らは『御者』となってその弱みを他人に知られる事を防いだ。

この辺の工夫はやはり生活をして行く上での必然の知恵であろう。   

こうした長い馬車の歴史があったから、『自動車』というものが発明され、急速に庶民の足になった時でも、

自ずと培われてきた『車輪のついた乗り物』の扱い方、

すなわちマナーと言うものがすでにしっかりと身についていたのである。   

一方、目を転じて我らが農耕民族の場合。   

馬との出会いがいつであったかは(私の知識の範囲では)定かではない。   

しかし、農耕民族にとって馬は牛と一緒で、田や畑を耕したりする貴重な動力源であった。   

日本の農家の一部では、馬や牛を大切に扱い、つい最近(太平洋戦争の前後)まで、母屋に隣接した小屋にそれらを飼い、

家族の一員に近い生活をしてきた事実がある。   

農耕作業が終わった後は、小川に馬を連れて行き、名前までつけた馬にやさしい声をかけ、ワラできれいに洗ってあげた。

(何もこれは私の体験談を話しているのではないので、くれぐれも勘違いなきよう。)   

近代に至って、流行歌のなかにまで出てきていた。   

「♪ ワ〜ラ〜にまみれてよ〜、そだてたくりげぇ〜♪ 」(歌:三橋美智也)   

そういう農耕民族は馬に跨がることはしなかった。   

やったのは、悪ガキくらいで、これも見つかるとこっぴどく叱られたはずだ。   

ところが、馬に跨がったやつらがいないことはなかった。   

野武士や盗賊、後になって「サムライ」の一部。   

多少の例外はあっても、一般庶民が移動の手段として馬を活用するということは、この国では一般的では無かった。   

まぁ、農耕作業をさせてきたわけであるから、その付帯作業である肥料(この時代は有機肥料主体)、道具、収穫物   

を運ぶために存在していたのが、唯一の「クルマ」、そう『大八車』である。   

これに人が乗るという発想はなかったようだ。   

人を乗せるという目的で現われたのが、『カゴ』であった。   

川越人足はカゴと神輿の合体作のようなもので、商売をした。   

こうした乗り物は、それを動かす動力源が『人』であり、そのため、『不埒なこと』を考える少なくない連中もいた。   

ここまで言えば理解できると思うが、『カゴと言えば雲助』、『雲助といえばカゴ』となるのである。   

(現在でも、“雲助”という言葉は消え去っていない。ということはそういう者がまだ存在しているのである…・・)   

カゴの後になって、人力車という人が乗るクルマが現われたが、これはカゴかき(駕篭かき)同士の仲が悪くなって、

独立した商売を求めた結果であろう。   

こういう上昇志向は、現在の芸能界でも見られる。   

漫才コンビを解消した片方だけが売れるという“ビートた○し”や“紳助”の例。   

歌謡コーラスグループから抜けた“前○清”の例。   

おっと、営団地下鉄のように“脱線”してしまった。   

そうして、農耕民族の国、日本にも「車社会」がやってきた。   

もう充分想像がつくように、大部分の人間がどういう形状にせよクルマというものに乗ったことがない民族であったから、   

マナー等が醸成されているわけがない。   

現代の交通事情は、農道で大八車をひくのとは訳が違うのである。   

追い越した、されたで始まるケンカやクラクション殺人、等々クルマを交通手段として、

いまだに捉えきれない農耕民族の悲しい歴史的事実がここにある。

先に述べたように、牛や馬を家族同然に隣接した小屋にすまわせてきた歴史的事実が、

クルマを買った後、毎週のように洗車し、ワックスを掛けまくる、乗る時もクツを脱いで土足厳禁…・・という行動に現われている。   

本人たちは意識の端にもないだろうが、知らず知らずとはいえ、繰り返されてきた長い歴史は無視できないのです。

狩猟民族はクルマを移動の手段として捉え、農耕民族(特に日本人)はクルマを家族の一員のように大事にする。


 

宴会と立食パーティの違いは見た目以上にあるのだ   

日本人の宴会は自分のお膳を抱えこみ、適当な時に代官や庄屋(上司)に挨拶に行ったあとは、また自分の席のお膳の前に戻る。

土着性があるのである。

土地に執着するのだ。

ここが焼き畑をやって移動しまくる南方の異端の農耕民族とは違うのだ。   

狩猟民族の好きな立食パーティでは、自分から話し相手を求めてせわしなく動き回る。

移動性指向が現れている。   

基本的に土着性の強い日本人が立食パーティに参加しても、数少ない知り合いだけで寄り固まり、

上目づかいで他人の動きを見ているだけである。   

どうです?あなたにも覚えがあるでしょう!!   

ここにも、農耕民族と狩猟民族の違いが知らず知らずのうちに出てきているのである。   

基本的に地面に土着しているから、他を侵略する事が少ない。

また、される事が少なかった。   

これが、よそ者に単純にだまされやすい民族性を作り上げた。

→ 皆さん、最近はヨーロッパやなんかによく行きますよね、イタリアでだまされた人、いませんか。   

ロシアあたりでも、『ドルを高いレートで交換してやる』とかいうのにひっかかって、まんまと数百ドルを持ち逃げされた人が

いますよ。(これは断じて私ではない、私は東南アジアとA国しか行ったことがない。新婚旅行は熱海だった?)

地形的に他民族から攻められたことがない。(危ういことはあった!)   

狩猟民族は獲物が大型の場合、逆襲されるかもしれないと常に考えているが、

農作物に逆襲されると考える農耕民族はいなかった。→ 基本的に疑うことを知らないのだ。   


 

お祭りにも違いがある   

農耕民族は夏の農閑期のお祭り(東北の三大祭り)、秋の収穫後のお祭り(各地)等があるが基本的には、堪え忍んだ、

溜まりに溜まったストレスを、極めて短期間で一気に発散させるのである。   

百姓一揆の平和版といったところか。   

しかしここでもまだ、集団のムラ意識から抜け出せず、盆踊りとか、決してひとりでやっては浮き上がってしまうような

踊りしか出来ない悲しさがある。   

唯一例外的なお祭り(?)がある。   

秋田のナマハゲである。   

出刃包丁を持って、小さい子のいる家に押し入り“脅しをかける”さまは、小さい子には堪え切れない恐怖であろう。

しかし、これも将来の堪え忍ぶ感覚を子供たちに先取りさせるためなのであろうか。   

狩猟民族は、謝肉祭とかをやる。   

詳細には承知していないので省略する。   

農耕民族が知らないくらいだから、きっと我々とは違った、個人指向の悪ふざけ等の変わったことをするのだろう。


 

戦争における決断の速さ、策略のうまさでは農耕民族は狩猟民族には勝てない。   

長年培ってきた「動物相手に闘う」という実績が違うのだ。   

農耕民族、特に日本人にできることは夜襲か、万歳突撃 → 発想は百姓一揆から来ている。

真珠湾攻撃やガダルカナルの玉砕はその最たるものではなかったか。

あれを近代の百姓一揆といわずなんという?

またまた余談になるが、あの時「航空兵力」を活用し圧倒的破壊を与えたにもかかわらず、

その重要性に気がつかなかった日本。戦艦に固執した日本。

急襲され甚大な被害を被ったA国は、その後航空兵力に重点をおき、その後の海戦でそれを活用して勝利した。

ちなみに湾岸戦争でもこの戦法は兵力の消耗が極端に少ない、と言う理由で採用されている。

(最初に空爆でたたく、という・・・・・)

大型戦艦同士が大砲を撃ちあって互いの撃沈を狙うという日本軍が望んだ戦法は、先の大戦では存在しなかったように思う。

(見ていないのでわからない。)

振り返ってみれば、日本軍には「空軍」というのが存在しなかったではないか。

あくまで、陸軍や海軍に所属する「航空隊」であったのだ。

ここにも「土着の考え方」があったような気がするが・・・・・

「足が地についていないと不安だった?」

尚、現在は「航空自衛隊」が存在するが、あれは「軍隊ではない」との政府の公式見解があるので素直に信じておこう。

虐げられて堪え忍んできても、さすがに度を越すと怒る時もあるが、その場合でも「集団」である。   

個人的に動くことはまずなかった。

スタンドプレイをする人間は極めて少ない。   

A国には、サンダースという毎週多くの敵兵相手に大活躍する“軍曹”がいた。   

TV映画に文句を言ってもしょうがないが、スタンドプレイが多かった?

他の眼からは“部下を助けるためには、装填弾数の制限なくトミーガンを撃ちまくることもしょうがなかった”という評価である。

でも決して悲観することはない。   

日本人は、何事も「集団」が基本であるからして、国内では活躍する場がないので、

決して表には出ないが海外を主体にたった一人で活躍している“ごるごさーてぃーん:東郷”という例外的日本人もちゃんといる。

長い間暗い底辺を支えた農民出身でありながら、憎い支配階級の頂点である『大岡越前守』や『水戸黄門』を素直に受け入れ、

飽きもせずに何度も見て、虐げられてきたはずの『御上のご威光』(頭が高い!、この印篭が・・・・・)にも異論がない。   

なんと寛容なのか、農耕民族日本人。


 

SWATのような強襲組織を作る発想がない   

夜襲は日本人の伝統的戦闘方法であったが…・・   

しかし、昔は日本にも忍者という組織があった。

これこそは日本が世界に誇る秘密組織であり、唯一農耕民族ではない発想だったといえよう。   

但し、それが生まれたのは戦国時代であり、生んだのは戦国の武将であった。   

言い換えれば、武将というのは『狩猟民族の類い』であるから、やはり深く追求すると『百姓の発想ではない』といえようか。

百姓が忍者組織を創設し、悪代官や庄屋を懲らしめる、というのなら拍手拍手だが・・・・・


 

しかし、最近は食物の世界的平滑化というのが進んできて、

“扁平顔、かなつぼまなこもしくは糸目”の農耕民族である日本人も、

ハンバーグやらパスタやらというものを食べるようになってきて、

反面A国では、寿司や豆腐、ご飯がヘルシーだと言い始め、このままでは食生活が反転してしまうのではないか、とも思える。

それが証拠に、最近の若い日本人の顔つきが変わってきている。

すでに髪の毛の色まで変わっている人がいるではないか(?) 。

獲物を追いかけてなくても足が長い。(くやしい)

そうすると、こんなに長い文章を書き、しかも取るに足らないことを述べてきた私の『珍論・異論』は間違いだったのか?

まぁ、いろいろと例を挙げて日本人の優秀さ(?)や狩猟民族との彼我の差を説明してきましたが、何か異論あります???


この項、追記しました。

2000年7月31日の朝日新聞の夕刊(経済気象台というコラム)に、別の視点から農耕民族と狩猟民族のことが書いてありま

したので抜粋します。

やはり、歴史的な生活様式の違いが、現在においてもなお、それぞれの思考の基準の違いとなっている、という私の上述の珍論、

異論は誤ってはいないようで、なんとなく勇気づけられました!!!

 

『私達は今、二十世紀最後の日々、そして新しいミレニアム(千年紀)最初の日々を過ごしているのだが、日本の企業経営を覆う

時間意識は、この世紀の転換とはほど遠いようだ。

四季に恵まれ、輪廻転生の生命観で育った農耕民族の私達にとって、もともと時間は円環的である。すべては「冬来たりなば

春遠からじ」であり、昨今批判の多い重要課題の先送りも、「時節を待つ」という日本的な知恵によるものかもしれない。

一方、グローバリズムの時間意識は、キリスト教の終末の生命観に影響され、直接的である。

今なすべきことは今決断しなければ、最後の審判に間に合わないというわけだろう。

狩猟民族的な知恵ともいえる。

長期的に見れば、どちらの知恵が正しいとは言い切れない。日本的経営が勝つこともあれば、欧米流が勝つこともある。

しかし、個別企業の盛衰は短期の勝負である。

先日、経済白書は情報技術(IT)をイノベーションとする「新しい世の中が始まる」と宣言した。

一時代前の学説だが、約50年の景気サイクル「コンドラチェフの波」によれば、現在は転換の時である。

第一波はフランス革命前後に始まったとされるが、第四波は第二次世界大戦の終わった1945年から50年頃に始まり、

70年頃にピークをつけた、とされる。

現在はその最終局面の冬の時代、あるいは第五波の始まり、早春の局面だろう。白書にならえば「新しい季節が始まる」

のである。

早春の天候は変わりやすくて複雑だ。企業人は社外へ出て変化の胎動を素早くつかまなければならない。

また不確実な変化に対応するために、企業内の多様性を高めなければならない。

それにはまず、企業内で「社長のおっしゃる通り」という言葉を禁句にすることから始めてはどうだろうか。』

 


 

MENU