情けは人のためならず

 

  人間と人間の間の心のスキマを最終的に埋めるものは、心の温かさだけである。

  すなわち、本当の親切心が必要だということである。

  親切というと、誰かが誰かのために犠牲になることと思われがちである。

  日本語の親切という言葉自体が、『親が身を切る』ということから出ているのである。

  だが、これでは、親切にする者がいつも馬鹿を見、割を食うことになる。

  そういうことが積もり積もると、誰も親切にするのをいやがるようになる。

  事実、今時の若い人たちは、親切にするのは阿呆らしいと思いはじめているようで、

  たとえば「情けは人のためならず」などと言っている。

  「情けをかけることは、他人のためでなく、実は自分のためなのだ」ということなのだが、

  旧い日本語を知らない今時の若い人は「ためならず」の「ならず」を文字どおり「ためにならない」と

  解釈(本当は「ためにあらず」、この「に」と「あ」がいっしょになって「な」となっているわけだ) して

  「情けは人のためならず」、だから親切はやーめたと言っているわけである。

  そこには「言葉」の取り違いということはともかくとして、日本人にとって親切とは何かということを

  いま一度考え直して見るべき大事な問題がありそうである。

  日本語の「親切」のイメージから判断するかぎり、親切は阿呆らしいと思う若い人の感覚は

  それほど間違っていないのである。

  一方、英語では親切の事をカインド(kind)という。

  カインドとはもともと、動植物の種のことである。

  種が違うことをカインドが違うという。

  また、同じ種のものをカインドという。

  そういうふうに種をあらわす言葉が、一方では親切という意味を持っているのはなぜか。

  それは、種を異にするもの同志が、互いに仲良くしてはじめて親切という事が成り立つ

  という考え方によるものである。

  種が違うということは、互いに大きなスキマがあるということである。

  その種の間のスキマを埋めることをカインドといい、親切というのである。

  カインドが同じならスキマはないに等しい。

  だからそれを埋める努力はいらないし、思いやりも不要である。

  つまり、親切ということは必要でなくなる。

  この意味で、英国や米国人のいうカインドは、日本人の親切とは意味が大いに違う。

  日本人に不足しているのはこのカインドの感覚なのである。

  だから、日本人の親切は身内本意になり、身内にはやさしいが、他人には冷たいということになる。

  あなたも思い当たりませんか。

  私は思い当たるところがあります!!

(半年間ご指導いただいた小林先生のお話から)

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