陸上自衛隊土浦武器学校
(茨城県稲敷郡阿見町青宿121 陸上自衛隊土浦駐屯地 TEL0298−87−1171 内線226)
現在の日本には歴史を正しく後世に伝承する国家単位の戦争博物館、兵器博物館等が存在しない。
しかし幸いなことにも陸上自衛隊土浦駐屯地には、貴重な日本軍戦車が原形を保って保存され一般に公開されている。
国産初の八十九式中戦車と最後の量産戦車となった三式中戦車の2両である。
残念ながら屋外展示の為保存状態は良好とはいえないが、自分の手で触れられるので、薄いと言われた日本軍戦車の装甲厚が実感
出来る。
さらにやや離れた場所には、自衛隊が使用していたM4A3E8なども展示されているので、同時代に母国の運命を担った日米両軍の
戦車を比較してみると興味深い。(雑誌より)
2000年10月14日(土曜日)、ツーリングを兼ねて見学に行ってきました。
茨城県にあるこの武器学校は、年中無休、見学無料で、駐車場も完備しています。(見学時間はAM9:00〜PM4:00まで)
正門にて隊員に、『見学に来た』事を申し出ると、正門脇の受付けで姓名、住所、職業、電話番号、車輌の場合は登録番号を記入、
若い隊員が親切に見学時の注意事項を説明してくれました。
写真撮影は問題ありません。(古い武器だから”機密事項”ではない!)
土浦駐屯地は、『予科練』ゆかりの地であり、神風特攻隊の遺品や遺書、写真を展示した『雄翔館(記念館)』も見学出来ます。
ここで見る、20歳前後で散っていった若い特攻隊員の遺書のどれもが「達筆」であり「すぐれた文章力」です。
たくさんの若い命が散っていった戦争とは、本当に残酷です。
訪問ノートを見ると、見学者はやはり年配の方が圧倒的に多いようです。
写真をご覧いただくとおわかりのように、展示品は『戦車が主体』です。
戦車について (詳しく知りたい人は光人社:”戦車戦入門”「日本編」「世界編」、”異型戦車ものしり大百科”をどうぞ)
履帯(キャタピラは商標)を備え、内燃機関で機動する近代的な戦車が登場したのは、今世紀初頭の第一次世界大戦からである。
フランスに突然出現した鋼鉄の怪物は、独軍将兵を恐怖のどん底にたたき込んだ。
降り注ぐ銃弾をものともせず、何重にも張り巡らされた障害物を乗り越えて突き進む新兵器「戦車」の初陣である。
当時の戦車は、進撃速度は歩兵の早足(6Km/H)程度、武装は機銃中心、装甲も小銃に耐えられる程度しかなく、機械的信頼性
も極めて低かった。
しかし、第一次世界大戦では「戦車対戦車」の本格的な戦闘が発生することはなかった。
英仏軍、独軍ともに戦車をあくまで『歩兵の支援兵器』として位置付けていたためである。
20年後に勃発した第二次世界大戦初期に至っても各国首脳部の『戦車は歩兵の支援兵器』という認識が改まることはなかった。
だが、第一次世界大戦で敗戦国になった独軍だけは別の視点で戦車の運用方法を模索していた。
つまり、陸軍全部隊を機械化してその中核戦力に戦車を据え、空軍の支援を受けて急速に進撃・展開する機甲部隊の創設と
戦術研究に努力を注いだ。
約6年間の第二次世界大戦中に、戦車と戦術は飛躍的な進化を遂げ、今日もなお変ることのない陸上戦闘の主力として君臨する
ことになった。
だが、その実態を客観的に眺めてみると、各国間には恐ろしいほどの格差が生じていたことも、また事実である。
日本軍
(戦術的概念の誤認と行動環境に呪縛され、列国に大きく立ち遅れた日本軍戦車)
日本陸軍は太平洋戦争突入以前にノモンハン事件で大規模な機動戦を経験していたにもかかわらず、「戦車は歩兵の補助兵器」
という固定観念から脱却することができなかった。
また港湾施設や鉄道網など行動環境を見据えて、戦車の寸法、重量等に制限を設けたことは正常な進化の大いなる妨げになった。
すなわち日本陸軍中枢は、最後に至るまで戦車の本質を理解することができなかったのだ。
連合軍の末席として第一次世界大戦に参加した日本陸軍は、直接的な戦闘参加こそ行なわなかったが、欧州の戦場に観戦武官
を派遣していた。
新兵器戦車の威力はただちに日本へ報告され、さっそくイギリスとの間で譲渡契約が取り交わされた。
菱型MK.W戦車一両と5人の英軍人教官は、第一次世界大戦の終了直前に貨物船で横浜港に到着し、ここに日本の戦車史が
幕を開けたのである。
続いて英ホイペットMK.A戦車と仏ルノーFT戦車も輸入され、日本軍内部に戦車の基礎技術が徐々に蓄積されていった。
またこれらの輸入戦車をもって、日本初の戦車隊が創設された。
そして1927(昭和2)年に至り、ついに純国産八十九式中戦車の開発に成功した。
当時の日本は工業技術水準が低く、また基盤となる自動車産業も未発達だっただけに、国産戦車の誕生は快挙であった。
さらに八十九式中戦車は列国に先駆けて、空冷式ディーゼルエンジンを採用した点でも先見の明があった。
後に日本軍戦車の御家芸となった空冷式ディーゼルエンジンには、被弾時に火災が発生しにくい、燃費効率が良く純度の高い
燃料が不要、冷却装置が不要で構造を簡素化出来るなど数々の長所があった。
しかし構造的に全高が高くなり、重量が増加すると言う欠点も併せ持っていた。
日本陸軍は中国大陸と東南アジアを作戦地域に想定していたため、戦車の重量を15t以下に制限していた。
港湾施設の揚陸設備能力や鉄道車輌の制限、橋梁の強度などを考慮したためである。
したがって日本軍戦車は、制限された重量の中に重い空冷式ディーゼルエンジンを搭載するため、装甲を薄くすることで帳尻を
合わせざるをえなかったのである。
しかし日本軍戦車が列国と比較して弱体だった最大の原因は、陸軍中枢が敗戦に至るまで「戦車は歩兵の進撃を助ける
補助兵器」とする古典的戦術概念から脱却出来なかったことにある。
すなわち対戦車戦闘を主眼に据えることはなく、ひとたび連合軍戦車と砲火を交えた日本軍戦車には、敵を撃破出来る
火力はなく、身を護る防御力も無いという悲惨な状況が待ち構えていた。
米軍
(個別性能より合理性と生産性を優先し、物量をもって枢軸軍を圧倒した米軍戦車)
第二次世界大戦前は立ち遅れていた米軍の戦車開発と戦術研究は、独軍電撃戦に触発されて急速に進展した。
そこからは「戦車は脆弱な攻撃目標に積極投入」「対戦車戦闘は駆逐部隊に依存」という一種独特の戦術概念が編み出された。
そして性能的には凡庸だが信頼性に優れたM4系列が大量に配備され、航空支援の下に最終的な勝利を収めたのである。
米陸軍の中核をなしたM4シャーマン戦車は、高度化されたアメリカの自動車産業を基盤として実に5万両近くが生産され、
最強を誇った独機甲部隊を壊滅に追い込む原動力となった。
ソ連軍
(第二次世界大戦最強・最優秀の戦車を輩出し、数々の技術革新をもたらした戦車大国ソ連)
質と量どちらを取って見てもソ連が第二次世界大戦における屈指の戦車大国であったことは疑う余地がない。
最高傑作戦車と賞賛されるT34系列、列国を震撼させた最強の重戦車JS系列は祖国開放に多大な貢献を果たしたのみならず、
戦後の軍事バランスさえも塗り替えてしまった。
戦車に詳しくない人は意外な印象を受けるだろうが、第二次世界大戦で最も優秀な戦車を最も数多く生産した国家は、
ドイツでもアメリカでもなくソ連であった。
戦車の基本、火力/防御力/機動力が高次元でバランスしたT34中戦車系列は、実に4万両近くが生産され祖国から独軍を
駆逐する原動力となった。
また重戦車JS系列は、連合軍に恐れられた独ティーガーと充分に渡り合えるだけの戦闘力を備え、さらに生産数でも
圧倒していた。
第二次世界大戦中には戦闘能力こそ確認されなかったが、ベルリンで執り行われた戦勝パレードに出現した最終発展型の
JS−3は、その先進性から連合国関係者を震撼させ、それ以降の戦車開発の指標にさえなったほどである。
英軍
(開発と運用に先鞭をつけながら、第二次世界大戦では列国の後塵を拝した英軍戦車)
かつては戦車先進国だった英国だが、2度目の大戦では状況が一変していた。
誤った政治判断と戦略・戦術、そして硬直した指揮系統から辛酸をなめ武器貸与法で受領した米軍戦車で、
どうにか大戦を乗り切る凋落ぶりであった。
仏軍
(自国防衛よりも敵軍下で活用された仏軍戦車)
伊軍
(工業力と技術水準の低さから低迷した伊軍戦車)
独軍
(性能的には平凡だったが卓越した戦略・戦術で欧州を席巻した初期の独軍戦車)
電撃戦で欧州大陸を瞬く間に支配した独軍機甲部隊。
だが、それは戦車の性能に依存して収めた勝利ではなく、列国に先駆けて実施した空陸一体の革新的な戦略・戦術のたまもの
であった。
(生産数の絶対的不足と機械的信頼の低さから戦局を挽回出来なかった中期以降の独軍戦車)
対ソ戦が始まりT34戦車の高性能ぶりに驚愕したドイツは、大慌てで強力な戦車の開発に着手した。
そこから誕生したティーガーTや発展型ティーガーU、パンター(パンサー)は額面上の性能は極めて優秀であった。
だが新機軸を多数採り入れたため信頼性が乏しく、何よりも生産台数の少なさは兵器として致命的だった。
自衛隊霞ヶ浦駐屯地武器学校にて撮影(2000/10/14 :使用したデジタルカメラはCAMEDIA−C960です)