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5−
 四月三十日金曜日。新歓祭当日。
 日本文化研究会の屋台の前に、浴衣姿の外国人が集結していた。
 アンナは山吹色に青の帯、アビゲイルはオレンジ色に白の帯、ヒカルドは鶯色に黄色の帯と、見た目から鮮やかな組み合わせである。
 そこに、買い物袋をぶら下げた綺子と斐美花が現れた。
 二人はメンバーの浴衣姿に感嘆の声を上げると、早速袋を調理台に置いた。
 アンナが首を傾げる。
「なんや、それ。ニンジンとジャガイモとタマネギやんか」
「見れば判るでしょ。あと、味噌と豚肉も持ってきたよ」
 と、綺子。
「そうじゃなくてやな。なんで素のままやねん」
 そう、袋の中の野菜は皮がついたまま。買ってきたままの姿である。
 綺子と斐美花は顔を見合わせて、済まなそうに頭を下げた。
「ごめんなさい。璃音に頼もうと思ったんだけど…」
 と、斐美花。
「妹さんにかいな…」
 綺子も同様に、アンナたちから目を逸らしながら言った。
「ごめん、兄さんに頼もうと思ったんだけど…帰って来ると思ったら、すぐいなくなっちゃって…」
「…センセイにやらす気やったんか」
 材料係になった綺子と斐美花は、用意した物を加工してから持参する手筈だった。だが、あてにしていた璃音と蛍太郎の不在により手付かずになってしまったのである。
 昨夜、眠ってしまった璃音を家に送り届けた蛍太郎は、それからすぐに研究所へ戻っている。だが、深夜の事だったので斐美花も綺子も蛍太郎が再び家を出た事に気付かず、てっきり寝室に引っ込んだものと思っていたのである。
「っていうか…」
 アンナは呆れ顔で肩をすくめた。
「自分でやろうっていう選択肢は無かったんか?」
 だが、綺子と斐美花は何かを誤魔化すように苦笑するばかりだった。
 アンナとアビゲイルは、その意味を一瞬で悟った。
「料理できへんのやな、自分ら」
「お嬢様だもんな、二人とも」
 ずばり核心を突かれ、綺子はペコペコと頭を下げた。
「いやぁ、ごめんね。どうも料理とか家事は苦手で…」
 斐美花の方は、済まなそうに項垂れていた。
「ずっと寄宿学校に居たから、自分で作ったこと無くって…」
 だが、このままではどうしようもない。仕方無しに、アンナは持ち込んでいた包丁を手に取った。
「しょうがない、今からやるか。自分らも手伝いや」
 気合をかけられ、おずおずと包丁を手にするお嬢様二人。ジャガイモとニンジンをそれぞれ手に取り、そして硬直した。
 そして、綺子が呟く。
「…皮って、剥くの?」
「な、なに?」
 アンナが憐れむような小バカにする様な、微妙な表情を綺子に向ける。それに耐え切れず、綺子が叫ぶ。
「だって、判んないんだもん! そもそも、豚汁なんて食べたこと無いんだってば!」
 アンナとアビゲイルは顔を見合わせて驚き、声を合わせる。
「日本人なのに…」
「うっさい! 日本で暮らすのは殆ど初めてだって言ったじゃない。それに…」
 綺子の声が小さくなる。
「…お母さんも、料理は下手だったというか、出来なかったというか…」
「ま、それは…しゃあないな」
 言い過ぎたと思ったのか、アンナとアビゲイルのトーンが下がる。そして、遠慮がちに斐美花に訊いた。
「斐美花は、食べたことはあるんやろ」
「そりゃあるけど…」
 ニンジンにあてた包丁の扱いに首を捻りながら、斐美花は呟く。
「…どうやって作るのかなんて、全然判らない。とりあえず味噌が入ってたから買ってきたけど…」
「そんなレベルかい…」
 いわゆる帰国子女の綺子はともかく、生まれも育ちも日本の斐美花が日本食を作れない。アンナとアビゲイルにとっては、衝撃的な事実である。
 直後、鉛筆を削るようにしてニンジンの皮を削ごうと試みていた斐美花の手から包丁がすっぽ抜け、料理台に投げ出された。
「あ。落とした」
 それを見て、アビゲイルが叫ぶ。
「うわぁ、危ない危ない! いい、もういい! 私がやるから!」
 アンナも仕方なさげに首を振る。
「しゃあないな。私とアビーでやるわ」
 綺子と斐美花は、恐縮の極みといった風情で背中を丸くした。と、不意に斐美花が叫ぶ。
「璃音を呼ぼう! あの子なら大丈夫だよっ!」
「おちつけ。今日は学校だ」
 綺子が首を振る。言われて落ち着きを取り戻したか、斐美花はその事実に気付きさらに肩を落とす。
「そっか…」
 そんなやりとりをしている二人を見て、アンナはさらに首をかしげた。
「なあ、自分ら。浴衣は?」
 普段着のままの斐美花と綺子は顔をこわばらせた。
「それが…」
 斐美花がおずおずと口を開く。
「家にあるの着て来ようと思ったんだけど…」
 綺子が続く。
「私は、それ借りようと思ったんだけど…」
 すでに先が読めたアンナは、諦め混じりに首を振った。
「着付けできなかったんやな…」
 斐美花は力なく頷いた。
「うん…璃音に頼もうと思ったけど、珍しく寝坊してて、それどころじゃなかったんだ」
 なんとも間の抜けた話ではあるが、無理なものは責めても仕方ない。アビゲイルは穏やかな口調で声をかけた。 
「それならまあ、しゃあないか。私らも、本格的なんは無理やからピン止めのやからな。って、斐美花の家なら兵児帯とかありそうやけど?」
「へ、へこ…?」
「…なんでもない」
 またしても自分の無知をつきつけられ、肩を落としてしまう斐美花。それを慰めるように綺子は言った。
「しかたない、私らは中村君が来るのを待ってビラ貼りでも…」 
 と、言ったところで、トウキが現れた。相変わらず、Tシャツとジーンズという飾り気の無い格好をしている。
「すいませーん、遅くなっちゃって…」
「いいよ、別に」
 力なく答える綺子。アビゲイルは調理台から声をかけた。
「おはよう、中村さん。これから、トンジル作るんだ」
「へえ。凄いな」
「凄い?」
「作り方知ってるなんてさ。さすがは日本文化研究会ですね」
 トウキの言葉に、アビゲイルは目をパチクリさせて、アンナの方を向く。
「ねえ、アンナ。材料切らなきゃいけないのは判りきってるから、こうしてやってるわけだけど、…トンジルってどうやって作るの?」
 僅かの沈黙の後、アンナの声が飛んでくる。
「知らん。野菜と豚肉を切って味噌で煮るんやろ。…多分な。てか、自分知ってるんちゃうかったんか?」
 今度は、長い沈黙が屋台を覆った。
 最初に口を開いたのはトウキだった。
「まさか…誰も作り方、知らないとか?」
 一同が顔を見合わせる。誰も否定しないところを見ると、まさにその通りだったようである。
 こうなると、トウキが取るべき行動は一つしかなかった。
「えーと、オレが作ります。…ってことで、いいかな?」
 不測の事態があったとはいえ、誰も作り方を知らないまま屋台を出すつもりだったとは…。トウキは、日本文化研究会の底力を見せ付けられた気がした。これまでの段取りが良すぎたのだから、これくらいのミスは仕方が無いだろうと、トウキは思い直す事にした。
 早速、エプロンをつけ包丁を手に取ると、トウキは調理台に向かった。
 見ると、まな板の上にはポトフにでも入れるようなサイズのジャガイモとニンジンが転がっている。
「えっと、もうちょっと小さくしてください」
「さよか」
 言われるまま、アンナとアビゲイルが野菜を切る。その間に、トウキは残っていたジャガイモの皮を剥き始めた。瞬く間に、見事な手際で白くなったイモがザルに積み上げられていく。
「それ、切ってください」
 そう言いながらもニンジンに取り掛かるトウキ。ザルを受け取ったアンナは、傍らに寄せてあったイモの皮に目を留めた。それ試しに一切れ、つまみ上げて感嘆の声をあげる。
「うわ、うっすいなぁ。見てや、この皮! 向こうが透けて見えそうや」
 所在なさげにしていた綺子と斐美花が寄って来て、息を呑んだ。
「凄い包丁さばき…」
 綺子は目を丸くしている。
「いやいや、それほどでも。なんせ、食材は一グラムたりとも無駄に出来ない暮らししてますんで…」
 謙遜しているのか日頃の生活を思い出したか、トウキは翳りのある表情で答えた。
 それを見て、斐美花の眉が曇る。
「可哀想…」
「あ、いやいや。これも何て言うんですか、修練っていうか…。若いころの苦労は買ってでもしろっていうじゃないですかー」
 トウキは適当に笑ってごまかすと、そそくさとヒカルドの方を向いた。昨日から突然身近になった感のある斐美花だが、何故だかあまり長いこと目を合わせていられない。
「じゃあヒカルド。鍋に水入れてくれる? それから、ダシ準備してね」
「ダシ?」
 ヒカルドは首をかしげていた。
 嫌な予感がする。
 トウキは、周りに確かめてみた。
「ダシ、ありますよね?」
 アンナも、キョトンとしていた。
「ダシって…なんや?」
「えーと、昆布とか煮干とか…」
「ふーん。豚汁ってダシ入れるんだ」
 と、斐美花。綺子も驚いた様子だ。
「へぇー。てっきり豚肉で味出すんだと思ってた」
 トウキはガックリと肩を落とした。嫌な虚脱感がズッシリと圧し掛かってくる。
「えーと、とりあえず…ダシの素でも煮干パックでもいいから、買ってきてください…」
 豚汁屋台は、予想外に困難が伴う物になりそうだった。
「ま、まあなんや。物を知らんのはお互い様やったなぁ」
 アンナはカラカラと笑って、斐美花と綺子の背中を叩いた。
 

 
 有為楼・地下研究室コンピュータールームでは、起動中の停電というアクシデントから立ち直った光量子コンピューター"ラプラス"が、スポンサーを前にして規定の試験を順調にクリアしていた。
 その能力は最新の暗号を総当りでも一瞬で解読し、その様はまさに脅威としか言いようがない。驚きに目を丸くする貴洛院玲子の隣で、ジウリーは満足げに頷いていた。
 通常のコンピューターはレジスタと呼ばれる記憶装置内の磁気配列によって記憶を行う。最小単位である一ビット分に記憶できるのは電化の有無、つまりゼロと一の二進法。そのレジスタを大量に並べ、記憶したものを入れ替えたり移動させたり消したりする事で計算を行うというのが、コンピューターの原理である。
 量子コンピューターの場合、記憶に量子の不確定性という性質を利用する。
 シュレディンガーの猫の喩えで(皮肉的に)示されるように、量子には重ね合わせの状態をとっている。『一つの量子に右に進むベクトルと左に進むベクトルが同時に内包されている』と表現されるが、この性質により、従来はゼロと一のどちらかであったところに、ゼロと一の両方を記憶することができる。これにより、同時並列処理を可能とする。
 この重ね合わせを通常のコンピューターのビットに対しキュービットと呼ぶが、キュービット数が増えれば増えるほど恩恵を増す。実現すれば、通常のコンピューターでは四百年はかかる計算も一年程度で計算できてしまうシロモノが出来上がる。
 と、何がどう凄いのか今ひとつ伝わらない説明ではあるが、確実に言えることは、このラプラスは現代科学の域を遥かに超えたコンピューターであり、現在地球上にあるいかなるコンピューターを以ってして足元にも及ばないシロモノだということだ。何せ計算能力の次元が違うのだから、現行のどんな暗号も通用しないのである。
 だが、それほどのシロモノでも出来たてホヤホヤの試作品では満足に動くかどうか判らない。そこで、ある程度の負荷をかけ続けることで、つまり何らかの仕事を継続的にやらせて様子を見ることになっている。
 その負荷として選ばれたのが地下研究室の施設管理だ。監視カメラや火災報知器の運営、回線の監視・維持、ガス・空調の設定管理などなど。コンピューターに接続可能なあらゆる物が、コンピュータールームに設置されたメインフレームによって集中管理されている。そのメインフレームにラプラスを接続し、施設管理システムへのアクセス権限を借り受けることで、その業務をまるまる代行させる。そのためのシステムは既に蛍太郎の手により完成されており、あとはプログラムを起動するのみだ。
 平田は、メインフレームのキーボードに向かい、後ろに控えているスポンサーたちに声をかけた。
「では、接続しますが…。よろしいですか?」
 ジウリーと玲子が無言で頷く。
 程なく、ラプラスにつながれた十七インチモニタに、施設管理システムのウィンドウが開いた。
「では、これ以後は経過観察ということで…」
 平田の身体が安堵のタメ息と共に背もたれに沈む。その傍らで作業を見守っていたソーニャも、肩の力が一気に抜けたようで手近な椅子にどっかりと座り込んだ。
「終わった…」
「終わったっていうか、データが揃うまで一休みというか…」
 一気に眠気と疲労が襲ってきて、平田は大あくびと共に身体を伸ばした。
 ジウリーは、そのふたりの肩を叩いて労った。
「ありがとうドクター平坂、ミス・コロコロワ。これで、また一歩前進だね」
「前進、ですか」
 平田は蛍太郎の言葉を思い出し表情を曇らせたが、それも長続きしない。身体が休息を欲しているのだ。
「僕らは、もう休みます。幸い講義もないですし…」
 そう言って、平田は立ち上がった。ソーニャも後に続いた。
「私の方は、四時くらいにサークルに出るっていうのがあるんで…」
 科学者二人は、フラフラした足取りで仮眠室へ向かった。残ったのは、四名のスタッフとスポンサー二人だ。
 先ほどから辺りをしきりに見渡していた玲子は、
「永森君は?」
 と、ジウリーに尋ねた。
「ああ、彼なら僕からの土産を受け取って、早々に引き上げたよ。助っ人だから、ドクター平坂に気を遣ってるんだろ」
 そっけないジウリーの答えに、玲子は口を尖らせる。
「助っ人っていっても、最大の功労者なのに」
「まあね。彼抜きでは無理だったことは確実だね」
「じゃあ、何で最初から呼ばなかったんですか?」
 玲子のもっともな質問に、ジウリーは笑いながら答えた。
「だってほら、僕にはコンピューターのアルゴリズムなんて全然判んないから。技術者に頼めばど〜とでもなるっていう認識だったぞ」
 

 
 サイボーグ大学生、ヤスとシゲは自らの鋼のボディを生かし、グランドでのステージ設営に従事していた。彼らの大抵の物は単独で持ち上げられるパワーのお陰で、準備は予定を大幅に上回るスピードで進み、例年この時間になって修羅場と化す会場は思いのほか穏やかなムードに包まれていた。
 腰に手を当て、シゲは大きく背筋を伸ばした。
「いやぁ、いい汗かいたなぁ」
 その横で、ヤスが苦笑する。
「オレらに、発汗機能は無いけどな」
「いやぁ、なんというか…ラジエターの稼動具合の感覚がちょうど汗を流したときのに似てるんだよ」
「そりゃあれだろ。その辺の神経に接続されてるからじゃないのか。おかげで、数値だけじゃなくて感覚的に身体の具合を感知できるようになってるんだろうな。と、なると『いい汗かいた』という表現はそれはそれで正しいな」
 ヤスの表情にもどこか清々しいものが混じっている。シゲは「なるほど」と頷いて、金属と強化プラスチックで構成された自分の手と身体に視線を落とした。
「不思議だなぁ、ヤスよ。こんな身体になって、初めてオレは生きてるって感じてるぜ」
「そうだなぁ…。今までは部屋に篭って愚痴垂れるだけでさ。自分から何かするなんて、無かったからなぁ」
 そう言って、目の前にそびえるステージを見つめるヤス。これから、この舞台で新歓祭の開始が宣言され、数々のアトラクションが繰り広げられることになる。そのための礎を自分の手で築いたという事実は、ふたりの胸に爽やかな風を吹かせている。
 知らぬ間にヤスの口から漏れたこの言葉が、その心の全てを体現していた。
「いいもんだな、こういうの」
 ふと気付くと、二人の前に女子学生が一人立っていた。実行委員会の一員である。彼女は後ろ手に持っていた缶ジュースを二本差し出すと、ニッコリと微笑んだ。
「ありがとう。学祭のときも、ヨロシクね」
 そして、女学生は自分の持ち場へと駆けて行く。
 その後姿というか、眩しい太腿を見送りながら、シゲも呟いた。
「いいよなぁ…」
 不意に、その余韻に浸る間もなく通信アラームが鳴る。それは実際に音がしているわけではなく、脳に直接電気信号として送られるものだ。ヤスとシゲは、ようやく慣れてきた思考操作型の内蔵通信機を立ち上げ、回線を開いた。
 
 基地に呼び出されたヤスとシゲは、すぐドッグに連れて行かれ顔面と一次装甲を換装させられた。
「あのぅボス、身体は判るとして、どうして顔まで取り替えるんですか?」
 今までとはうって変わり、黒光りするボディを見ながらヤスが尋ねた。
「うむ。お前らの顔は人間並に表情を再現するために極めて精密なパーツを組み合わせて作られている。そのままで戦闘行為に及んだら、あっという間に壊れてしまうからのぅ。それで、装甲としての機能に特化したパーツに換えたのじゃ。瞬きもしなければ口も動かんが、支障はあるまい」
 シゲは計器に映りこんだ自分の顔を眺め、肩をすくめた。それは、アメリカ海兵隊をモデルにした六分の一スケール・アクションフィギュアによく似ていた。
「しっかし、これじゃあG・Iジョーかなんかですよ。なんか、イカサマくさい爽やか顔っていうか…」
「はっはっは。シャレが効いておるじゃろうて」
 ブラーボが電子音で笑う。だが、ヤスが苦言を呈した。
「…目立ちますよ、これ」
 笑い声が止まる。
「そ、そうかな? じゃあ、こっちはどうじゃ」
 ブラーボの言葉が終わると同時に、換装パーツのハンガースペースから新たな顔がせり出してくる。それは、額が狭く、彫りが浅いというよりも皆無なために飛び出た目と、突き出した口元という、これにメガネをかけてカメラをぶら下げたら外国のマンガに出てくる日本人そのままな代物だった。
「妖怪に襲われるサラリーマンだよ、これじゃあ…。どうしてこう、極端から極端に走りますか?」
 ヤスが呟く。何も言わなかったが、シゲも全く同感だった。
「で、どうするんじゃ。換えるなら早くして欲しいんじゃが。今日は、他にも装備させなきゃならんものがあるから、時間が無いんじゃ」
 サイボーグ二人は顔を見合わせ、口を開かずに言葉を発した。
「これでいいっす」
「よし、指令書をダウンロードしろ。作戦行動開始じゃ」
 

 
 斐美花と綺子は調理に絡めないため、"特別遊撃隊"として学校中を回ってのビラ貼りに出ることになった。
 もう既に新歓祭は開幕宣言が為され、キャンパス中で人の往来が始まっている。本来なら宣伝活動は開始前に行われるものだが、こういった行事では少々勝手が違う。
 綺子は、目の前にある掲示板を睨みつけた。
 学内には、サークル用、学科用など用途ごとに多数の掲示板がある。通常、そこに貼り紙をする場合には管理者の許可が必要なのだが、イベント期間に限ってはビラに学生会の許可印があれば常識の範囲内において自由に貼って良いことになっている。当然、先に貼ってる物を剥がすのは違反だが、その隙間や、自然にはがれた箇所はその限りではない。また、良識の範囲内であれば多少の場所移動は許される。その辺のさじ加減は、先輩から後輩へと代々受け継がれていくものである。
 ここ数日、アンナとアビゲイルの薫陶を受け、一端のビラ貼り戦士へと成長した綺子は、手際よく空きスペースを作り出すとそこに『トンジル』と書かれた紙をねじ込むように貼り付けていく。荷物持ち担当の斐美花は、それを感心しきりといった様子で眺めていた。
 こうして、掲示板上の勢力図は刻々とその様相を変えていくため、定期的に回って補充なり貼り直しなりをしないと、ビラはその用を為さないのである。
「よし、次行こう」
 綺子の号令で、特別遊撃隊は有為楼へと進路を向けた。
 正面のドアを開け、突入する。こちらは、外の喧騒とはあまり縁が無いようで、一階のロビーに休息のために立ち寄った学生がチラホラと居る程度である。
「ここにも、貼るの?」
 と、斐美花。綺子は当然、と頷いた。
「そこのロビーには人が来てるしね。ま、一階だけで良いとは思うけど」
 そう言って、壁にある連絡掲示板に視線を送る。既に、幾つかのサークルのビラがあった。
「よし、やるか」
 気合を入れ、足を踏み出した綺子の前を、作業服姿の男が二人、横切った。どちらも深々と帽子をかぶり、工具が入っているのか大きな鞄を手に提げている。
 彼らは、そのままエレベーターに乗りこんで、下の階へ向かったようである。
 綺子はその男たちの姿に妙な違和感を感じていたが、それが何なのか判らず、首を傾げる。
 その横で、斐美花が呟いていた。
「あの人たち、同じ顔だったよね」
「そうだ、それだ!」
 手を叩く綺子。
 はっきり見たわけではないが、二人の男はお互いによく似た顔をしていた。
「兄弟、双子かな」
 なんとなく、一番可能性のありそうなことを口にしてみる綺子。
「うーん、兄弟で同じ会社ってありえるのかな?」
「なくはない、と思うけど…。もしかしたら自営業かもしれないよ。兄弟でさ。世界的に有名な、イタリア系配管工兄弟みたいに」
「…世界的に有名? 配管工が?」
 綺子の比喩に斐美花が思い切り首をかしげた。それを見て綺子は、斐美花がゲームなどとは無縁の生活をしていたことを思い出した。
「なんでもない。まあ、他人の空似かもしれないし。っていうか、そういう結末に至ることの方が多いか」
「イアン・ソープとズラタン・イブラヒモビッチみたいな?」
「…な、なに?」
 それは、斐美花が持ち出した他人の空似の喩え(のちにイタリアの新聞で取り上げられた程の空似っぷり)だったが、そのどちらも人名とは認識できず、今度は綺子が首を思い切り首を捻った。
「水泳のオーストラリア代表と、サッカーのスウェーデン代表だよ。
 寮のテレビでもニュースとスポーツ中継だけは見られたから、合法的にピチピチな男の人を見る手段として有効利用されてたんだよ。オリンピックも、ワールドカップもね」
「そうなんだ…」
 浮世離れという言葉が良く似合う斐美花の口からそんな単語が出るのも意外だが、それよりも、清冽さを求め隔絶された環境で生活を送っている年頃の女子たちが、テレビに噛り付き目をギラギラさせている様を想像すると、人間のサガの浅ましさを垣間見たような気がして少々背筋が寒くなる綺子だった。
 
 
6−
 午後四時を過ぎた。夕方に向かうにつれ、新歓祭は盛り上がりを増していく。
 プロレス研究会による特別遺恨試合、『火葬場の主・骨壷ピッカーvs太陽マスク・エステバン。永きに渡る憎悪の連鎖が今決着! 負けたら引退・金網デスマッチ』が行われた体育館からバンドコンテストが始まるステージへと人が流れ、それが幾分か屋台に引っかかる。日本文化研究会の豚汁屋台も例外ではない、といきたかったところだが、歩きながら食べられるフランクフルトやポップポーンに押され売れ行きは芳しくない。アビゲイルは、「まだまだ。バンドが終わる頃には少し冷え込むし、お腹も空くだろうから勝負はそれからだよ」と、悠長と構えていたが、こういうイベントに参加すること自体初めてのトウキは、やはり不安を感じずにはいられなかった。
「うーん、売れ残ったらどうしよう」
 それで自分の財布が傷むわけでもないが、手塩にかけた料理が余るのは良い気分ではない。トウキは、鍋の中身をかき混ぜながら誰にともなく呟いた。
 隣で金を数えていたアンナは、それを聞いてトウキの肩をポンポンと叩いた。
「大丈夫やって。アビーの予測は正しいと思うで」
「まあ、理屈は通ってるか」
 頷くトウキ。イスに腰掛けていた綺子が、近づいてくる人影を手のひらで指しながら言った。
「そうそう。それに、余ったら義姉さんに食べてもらえば良いっしょ。あの子の食べっぷりを見れば、そっれはそれで作ってよかったって思うことになるよ」
「確かに」
 トウキは示された方向に視線を送る。蛍太郎から贈られたという真新しい服を着た藤宮璃音が、上機嫌でこちらへ向かって歩いていた。トウキに気付いてパタパタと小走りになると、壮大なフリルの付いた膝下丈のスカートとペチコートがヒラヒラと翻る。
 ジウリーから蛍太郎への最後の手土産は、璃音のための少女趣味全開な服だった。
 ヘッドドレスにボレロ、ブラウス、スカート、ドロワース、ソックスに靴まで白とピンクで揃えられ純正品一式なら二十万円はするシロモノだ。イギリスの有名ブランド品で蛍太郎に支給されたものとは姉妹関係にあたるが、こちらが本家である。
「ただいま」
 璃音は最年少らしく丁寧に挨拶した。それを見て、アンナは顔を綻ばせる。
「あーん、ええなぁかわええなぁー。これで人妻だなんて、信じられへん」
 そして、璃音を抱きしめた。随分と背丈に差があるだけに大きな胸にギュウッと締め付けられて、璃音は苦しいのか幸せなのか良く判らない状況である。
 それを、トウキは呆然と眺めていた。
「美しい光景だ…」
 アンナはひとしきりプレス攻撃をすると、璃音を開放して訊いた。
「センセイとアビーは?」
「あちらにご挨拶してから、来るそうです」
「さよか」
 二人で何か納得しているので、綺子が口を挟む。
「義姉さん。あっちって、どっち?」
「プロレス研究会ですよ。骨壷ピッカーとエステバンが、けーちゃんの授業受けてたんだって。その縁で誘ってもらったから、ロッカールームに寄って声かけてくるって言ってましたよ」
「ふーん。兄さんもそういうの好きなんだね。アビーなら判る気がするけど。で、なんだっけ、今日の公演」
「『火葬場の主・骨壷ピッカーvs太陽マスク・エステバン。永きに渡る憎悪の連鎖が今決着! 負けたら引退・金網デスマッチ』です」
 璃音はよどみなく、今日の興行名を言う。
 綺子は一句ごと確かめるように頷いてから、今度は首をかしげた。
「えーと…骨壷とか太陽とかって、なに?」
 それには、アンナが答えた。
「レスラーの名前や。あそこはな、最近になってキャラクター路線に転向したんや。
 デビュー戦は、二年前やったかな。それからは名タッグとして数々の名勝負を繰り広げたんやけど、ピッカーからのプレゼントが原因で決裂してん。
 『うまい棒』を食べたいと言うたエステバンに、ピッカーは気ぃ利かせてコーンポタージュ味を贈ったんや。彼の生まれはアステカ。アステカというたらメキシコ、メキシコというたらトウモロコシが主食やからね。
 せやけど、エステバンは『ワシはたこ焼き味が食いたかったんじゃー!』と、タッグ王座ベルトでピッカーをボコボコに殴打してもうたんや。それから、泥沼の抗争が延々と続いてるんよ」
「く、詳しいんだね…」
 綺子が唸る。
「まあ、アビーに付き合わされたからねぇ」
 遠い目をするアンナ。正直、彼女の肌には合わない世界だったようだ。それに対して、璃音は楽しげだ。
「その様子、試合前にビデオ流してましたよ。前回までのあらすじって感じで。凝った作りで面白かったです」
 そしてトウキは、相変わらず鍋の中身をかき混ぜながら呟いた。
「面白そうじゃないか。そんなのやってたなんて、知らなかったなぁ…」
 いかにも残念そうな表情である。
 そこに、興奮気味だとすぐわかるアビゲイルの声。
「ういーっす、今戻ったぞー」
 アビーと蛍太郎が揃って戻ってきた。
「けーちゃーん」
 璃音がニコニコと手を振ると、蛍太郎も笑顔で応える。
「ほら璃音ちゃん、さっき食べたいって言ってたチョコバナナ買ってきたよ」
 蛍太郎は、手に持っていたチョコかけバナナを渡そうと差し出す。すると璃音は、
「わーい、いただきまーす」
 と、蛍太郎が持ったままのバナナをペロペロと舐め始めた。
「あ、あの…」
 何か言いたげにしている蛍太郎を、璃音はバナナを咥えたまま上目遣いで見上げた。
 蛍太郎は何故か顔を真っ赤にして、「なんでもない」と言うと、そのまま璃音がバナナを食べるのをじっと見つめていた。
 トウキもそれを茫洋と眺めて、綺子に後頭部を引っ叩かれた。
「邪なこと考えるじゃあない」
「…なんですか、邪なことって」
 いきなり叩かれて機嫌を損ねたのを隠そうともせず、トウキが反論する。綺子は言葉につまり、璃音と蛍太郎の下半身に交互に視線を送ってから、呻く様に言った。
「ごめん…なんでもないの」
 予想外に重い空気になってしまい、トウキはうろたえてしまう。
「オレこそ、すいません」
「ううん、いいの」
 そんなトウキたちをよそに、璃音と蛍太郎はピッタリとくっついていた。こころなしか、ふたりとも肌の色艶が良く見える。
 一方では、未だにテンションの高いアビゲイルがアンナに食いつかんばかりの勢いで先ほどの試合内容を語っていた。
「ねえねえねえ、凄かったんだから!」
「あー、そう?」
 アンナは半ば諦めに近い心境でそれを聞いていた。
 アビゲイルの臨場感溢れるモノマネで語られた試合の顛末は、以下の通りである。
 
 現在までの抗争の歴史を編集したビデオが終わると、テーマ曲と共に選手入場。ベビーフェイスの骨壷ピッカーとヒールであるエステバンがリングインする。
 金網に覆われたリングで両雄が対峙、今まさにゴングという時に、学生会会長が現れる。
 学生会長は「こんな危険な試合を許可した覚えはない、即刻中止したまえ!」と、この試合を組んだゼネラルマネージャー(プロレス研究会会長)に詰め寄るが、レスラー二人にボコボコにされて退場。当然これはアングルだが会場は大喝采に包まれた。
 ゴングが鳴る。
 エステバンは宣言どおり、反則系必殺技のハバネロサミング(ヒール転向後に身につけた最強の必殺技。世界一辛いトウガラシを使ったスナック菓子を食べたそのままの手で繰り出す目潰し)を封印し、もう一つの武器である空中殺法のみで正々堂々と試合に望む。そのクリーンなファイトが、彼に向けられたブーイングを拍手に変えるのに時間はかからなかった。
 そして、一進一退の激闘の末にピッカーが敗れ、引退決定。
 鳴り止まない拍手とピッカーコールの中、勝者エステバンとピッカーは堅く握手、恩讐の果てに和解を果たした。
 だが、ピッカーがリングから降り花道を去りかけたところで、リングサイドの盛塩の中から謎の男ガーゴイル将軍が現れる。
 ガーゴイル将軍が合図をすると、客席からアトランティス転生衆を名乗る三人組が乱入、リング上のエステバンを袋叩きにする。アステカ出身のエステバンの技は、アトランティスとは比べ物にならない歴史の差のために一切通用しなかった。
 ピッカーは引退した身なのでリングに上がれない。助けに行けず涙を絞るピッカーの耳に戦友の絶叫が響く。試合中に痛めた背中と膝をイス攻撃で粉砕され、遂にエステバンは力尽きた。
 場内に衝撃が走る。
 これはゼネラルマネージャーがガーゴイル将軍と結託して、二人を同時に潰すために仕組んだ陰謀だったのだ。
 会場のブーイングを一身に浴び、勝ち誇るガーゴイル将軍とアトランティス転生衆。ゼネラルマネージャーの憎たらしいマイクパフォーマンスが冴え渡り、自らを将軍のマネージャー、"ジェネラルマネージャー"と呼ぶように周囲に言い渡すと、会場は異様な雰囲気に。
 このまま、悪がリングを支配してしまうのか?
 だが、救いの主が現れた。
 白鯨を守護神とするマイティ・ラ・ムーと、ヒューペルボリアの氷河戦士ガリガリキッドがガーゴイル将軍のまえに立ちふさがったのだ。
 二人の新戦士はピッカーとエステバンによる迫真の演技の甲斐あって喝采を以って迎え入れられ、ラ・ムーはマネージャーであるイカ娘のキュートなキャラクターが、ガリガリキッドはリングイン前にアイスキャンディーの一気食いをするパフォーマンスがそれぞれ大いにウケた。
 彼らの活躍でリングを追われたアトランティス軍は捨て台詞と共に退場。ピッカーは、ラ・ムーとガリガリキッドに後事を託し、堅く握手する。
 意識を失ったままの勝者エステバンはピッカーに抱きかかえられ、ダッグ時代のテーマ曲と鳴り止まない拍手に見送られてリングを後にした――。
 
「…という、聞くも涙、語るも涙のお話だったんだよぉ」
 昔のスーパーロボットアニメの最終回のようなストーリーではあるが、アビゲイルの琴線にも充分以上に触れたようだ。 
「しっかし無駄にスケール大きいな…名前だけは」
 傍らで聞いていた綺子が呟いた。
 蛍太郎は割り箸だけになったチョコバナナを璃音の手から摘み上げてクルクルと弄びながら、感心しきりといった様子で頷いていた。
「ピッカーもエステバンも四年生だから、どっちもこの今回で身を引かなきゃいけないからね。だから、この条件の試合でどう決着をつけるか楽しみにしてたんだけど、こうくるとはなぁ。負けた方は条件どおりに引退、勝者も再起不能なら、二人とも同時にいなくなっても大丈夫だもんね」
 それに、アビゲイルがシニカルな笑みで補足した。
「卒業できなくなった方が、学園祭辺りに電撃参戦する可能性はあるけどね」
「…危ないの?」
「さあ?」
「うーん。僕は単位あげたけどなぁ…」
 なにか微妙に気まずい空気が流れだしたところで、斐美花が戻ってきた。人が多いところに慣れていないため、疲れがありありと見て取れる。
「斐美お姉ちゃん、おかえりー」
 璃音が手招きすると、斐美花はやけに重い足取りで屋台に近づいてきた。
「ううう…。古本市に行くだけでどうしてこんなに…」
 斐美花の声には、疲れだけでなくどこか怯えのようなものも混じっている。璃音は心配そうにその顔を見上げた。
「どしたの?」
「…行く先々で、男の人に声かけられて…」
 それを聞いて、璃音の頬が緩む。斐美花ほどの美貌なら、世の男たちが放ってはおかないだろう。だが、ナンパ攻勢は寮制女子校で育った彼女にはキツイ洗礼だった。それを察して、蛍太郎は労わりの言葉をかけた。
「お疲れさま。大変だったね」
 斐美花はハッと顔を上げた。蛍太郎の顔が真正面から目に入る。
「は、はい…そんな大した事じゃ、なかったですし…」
 そう言いながら、斐美花の視線はどんどん下に向き、それにつれて声のトーンが下がっていく。終いには、頬を真っ赤にして黙ってしまった。
 蛍太郎は怪訝な顔で斐美花を覗き込む。
「どうしたの?」
「な、なんでもないですっ」
 明らかに動揺している斐美花。その様子に、璃音はニヤリと笑った。
「へえ。イイ人いたんだ」
 斐美花はブンブンと首を振る。
「そんなんじゃないよー。全然、好みじゃなかったってば。変なのばっかり」
 顔を赤くしていた理由はそんなことではないのだが、斐美花にしてみればこれはこれで誤解してくれては困る話だ。
 璃音は首を傾げた。
「はあ。斐美お姉ちゃんさあ、強いんだからそんなのやっつけちゃえばいいでしょ」
「…璃音の意地悪」
 斐美花は頬を膨らませた。それを、璃音はたしなめる様な口調で返す。
「意地悪じゃないよ。妹として、色々と心配してるんだよ?
 だって、男の人とお付き合いしたいって言ってたよね。そりゃ、今の今まで女子校育ちだから色々と不慣れでは御座いましょうが、どうにかしないことには始まらないよ」
「でも…」
「うーん、じゃあ身近な人で予行練習してみる? たとえば…」
 と、璃音はわざとらしく周りを見回し、必死に聞き耳をそばだてていたトウキを指差した。
「中村さんとかで」
 突如の指名に、トウキはお玉を取り落とし、半ば錯乱気味に叫んだ。狼狽して声が震えている。
「な、ななななななっ、何を仰いますかっ!? だ、だいたい…オレが斐美花さんにつり合うわけないじゃないかっ」
 だが璃音は事も無げに言った。
「いいじゃないの、予行練習なんだもん」
「…リハーサル用ですか、オレ」
 ガックリと肩を落とすトウキ。そんな彼の気も知らず、素晴らしい思いつきとばかりに、斐美花は無邪気に手を叩く。
「そっか、そうだよね! 予行練習だもんね。さすが璃音」
「そんな…」
 その言葉は、更なる衝撃をトウキに与えた。
 しかも、綺子が死者に鞭打つが如く追い討ちをかけた。難しい顔をして首を捻りながら、こんなことを言う。
「うーん、でももうちょっと何とかならないの? いくら予行練習でも、それなりに経験を積んでる相手とじゃないと話にならないっしょ。取手君とかどうなのさ。けっこうモテそうな感じだけど?」
 と、今日は姿を見せない一年生の名を上げる。
 だが、アビゲイルとアンナは揃って首を振った。
「アイツはダメだ。万事ヤル気なしだし」
「そや。ちっとも手伝わへんしな。そら、正当な理由があれば不参加でもええけどな。私らも鬼やないんやし。でも、何の断りも無しに来よらんのは、人道的にどうかと思うで」
 言われてみて初めて、綺子はそのことに気付いた。昼間や休み時間にはよく見かける彼も、午後四時以降の部室には影も形も無かった。そういうことなので、新歓祭の準備には全く関与していない。
「そういえば、準備の方は全然だったね…」
 アビゲイルが頷く。
「その点、中村サンは色々手伝ってくれたからね。新歓祭が終わったら、入部手続きしような」 
「そやそや。どーせ暇なんやろ」
 何気に無体なことを言っているが、アンナもトウキには好意的である。こうなると、綺子としても彼を連れてきた甲斐があったというものだ。
 トウキの方も、「どうしようかなぁ」と言いつつも満更でもない。
 すると、璃音に何やら耳打ちされた斐美花が、遠慮がちに口を開いた。
「私も、中村さんが来てくれると…うれしい、かなぁ…なんて…」
 最後の方は殆ど聞き取れない程の声だったが、トウキには充分だった。
「は、はい。こちらこそよろしくお願いします!」
 見るからに嬉しそうな顔で、入部を宣言する。
 斐美花は満面の笑みでそれに応えた。その横で、璃音が綺子に向けて小さくXサインを出す。綺子は頷くと、誰にともなく呟いた。
「ふふ。予行練習開始だね」
 時計は既に五時を回っていた。そろそろステージが始まる時間である。
「そういや、平坂先生とソーニャは?」
 と、アビゲイル。予定では既に来ているはずの両名の姿が見えない。
「あ。おらんね。センセイ、何か聞いてはる?」
 蛍太郎も首を振る。
「いや、僕は何も。言われてみれば、もうとっくに解放されててもいい時間だな」
 ラプラスの評価試験が始まるまえに蛍太郎は退出したので状況は判らないが、何か致命的事態が起きたなら呼び出しをくらうはずだから、少なくともマシントラブルで拘束時間が延びたということではないはずだ。もっとも、携帯電話も通じない場所なのでここで確認する術はない。
「じゃあ、様子見てくるね」
 そう言って、屋台を離れかけた蛍太郎の上着の裾を、璃音が引っ張った。
「わたしも行く」
 それを見て、アンナは歓声を上げた。
「可愛いなぁ、もう。甘えんぼさんなんやから」
「ほんと。義姉さんったらよっぽど寂しかったんだね」
「くうぅ、羨ましいねぇ」
 綺子もアビゲイルも一緒になってはやし立てる。そのお気楽さとはまるで対照的な色を、璃音の赤い瞳は浮かべていた。
 心配そうに見上げてくる妻の顔を覗き込んで、蛍太郎は考える。地下に存在するだけあって、あの研究室の存在は部外秘である。当然ながら家族であっても連れて行くことは出来ないのだ。
 思案の余地などはない。
 

 
 有為楼のメインホールにエレベーターは二つ。その片側が工事中になっていた。扉には『ご迷惑をおかけしております 酉野電設』と書かれたプレートが下がっている。
 蛍太郎は、動いている方のエレベーターに乗る。ゴンドラの中に居るのは彼一人だ。パネルの数字ボタンで所定のパスナンバーを入力すると、非常用インターホンと入れ替わりに網紋と指紋の読取装置が現れた。それをクリアすると、エレベーターは存在しないはずの地下四階に向け降下を開始する。二つあるエレベーターのうちもう一つは地下三階までになっており、さらに降下できるのは蛍太郎が乗っている側だけである。
 程なく、パネルに"B4"と表示してエレベーターが止まった。ドアが開けば、研究室に繋がる廊下が現れる。
 もう一度パスを入力すると、ゆっくりとドアが開いた。
 蛍太郎は、驚きに目を見開いた。
 その通路には、ドクターブラーボのドロイド兵が三体。黒光りするボディを誇示するように待ち構えていたのだ。
 ニュース映像でしか見たことのなかったそれらは、いざ目の当たりにすると異様な迫力に圧倒されそうになる。
「ど、どうも…。お邪魔しました、お構いなく…」
 よく判らないことを口走りながら、蛍太郎は閉扉ボタンを連打する。だが、ドアはピクリとも動かない。それは、彼らにとっては既に了解済みのことなのだろう。ドロイド兵は悠然とエレベーター内に足を踏み入れ、鋭い爪が付いた腕を一斉に伸ばしてくる。
 後ずさりするが、背中がすぐに壁に着く。判りきったことだが逃げ場などない。蛍太郎の肩にドロイドの指が食い込んだ。
 その時。
 いつの間にそこに居たのか、璃音が、そのドロイドの頭を蹴り潰した。
 突然の乱入に残る二体のドロイドは混乱した。
 今の今まで、このゴンドラの中には蛍太郎以外の人間は存在しなかった。彼らに搭載されたあらゆるセンサーがそれを示すデータを出している。
 だが実際、いきなり現れた璃音にドロイドが一体破壊された。ありえないことだが、そこにある現実。こういう場合、メタルカが組んだ思考ルーチンは一時的に判断を棚上げさせ、状況をコントロールシステムに送ることになっている。判断を棚上げしたということは、無限ループもない。
 よって、残る二体のドロイドは、すぐに行動を起すことができた。
 だが、璃音の方が早い。
「けーちゃんに触らないで!」
 握った拳にエンハンサーの赤い光が集まり、大きな掌を形作る。それが、ドロイドたちをまとめて張り倒した。
 ひしゃげた金属片と化したドロイドたちを眺め蛍太郎は安堵のタメ息をついた。
「ふう…助かった。ありがとう」
「そんなぁ、当然のことをしたまでだよぉ」
 蛍太郎に頭を撫でられて、璃音はすっかり舞い上がっている。
 しかし、
「璃音!」
 頭上から斐美花の声。
 それで我に返った二人が通路の先を見ると、異常に気付いたドロイドが大挙して詰めかけているところだった。
「斐美お姉ちゃん!」
 璃音がゴンドラの天井に目を向けると、水の中から浮き上がるように、斐美花の上半身がするすると天板から"生えて"くる。璃音は蛍太郎の腰に手を回し、エンハンサーを展開して上昇、斐美花の手を掴んむ。そして、さらに上昇する。
 すると。
 璃音と蛍太郎は、斐美花に手を引かれる形で天井に文字通りに吸い込まれ、姿を消した。ドロイド兵たちは為す術もなく、光学センサーを通してその様子をコントロールシステムに送信するだけだった。
 
 数分後、有為楼の屋上に璃音たちの姿があった。
 地下研究室の異常に気付いたのは、もちろん蛍太郎である。
 始めは一人で有為楼に来た蛍太郎だったが、エレベーターの扉にかけられた札を不審に思い、引き返して璃音と斐美花に協力を願ったというわけだ。
 そもそも、このエレベーターには特殊な仕掛けがあるので、外部の物民間企業の札が下がってるのはおかしい。
 ブラーボの凝り過ぎである。
 だが、機密施設に連れて行かれると聞いた璃音は当然、
「何もなかったらどうするの?」
 と、心配した。そのとき、蛍太郎は事も無げに言い切った。
「その時は、黙ってればバレないよ。そのために、斐美花ちゃんにも来てもらうんだしさ」
 その蛍太郎も、実際に地下研究室の状況を確認すると、ショックを受けずにはいられなかった。 
「…まいった。こんなことになってたなんて」
 ベッタリと座り込んで項垂れる。
「涼一さんもソーニャも、連中に捕まったってこと、だな」
 それを聞いた斐美花は息を呑んだ。
「そう、なんだ…。どうしよう、皆に知らせた方が良いのかな」
「いずれはね。だけど、慎重にしないといけない。問題は、足元に危険な連中が潜んでいる状態で新歓祭が行われてるということだよ。
 このことを運営の方に話したところで、あの研究室の存在は極秘だから信用されないだろうし、下手なことをすればパニックになりかねない。それに…警察いや、外部に知らせるわけにもいかない」
 蛍太郎の眉間に深い皺が刻まれる。最後の言葉の意味が判らず、璃音と斐美花は揃って顔を見合わせた。
「どうして?」
 代表して璃音が訊く。蛍太郎は沈痛な面持ちで答えた。
「ラプラスが、連中の手の内にあるからだよ」
 璃音と斐美花は顔を見合わせた。突然『ラプラス』と言われても、何のことか判らない。
「ああ、そうか…。説明しないとね」
 と、言ったところで携帯電話の呼び出し音が鳴る。
 それから立て続けに何回か、ドイツ語や英語、日本語でやりとりしたのち、蛍太郎は先ほどとはうって変わり、怒りのために眉をゆがめる。
「連中、やってくれたよ。銀行のデータに不正アクセスがあって、僕の口座が凍結されたそうだ。藤宮家の資産もね。
 やらないわけはないとは思っていたけど…。どこか、状況が掴める場所があれば…」
 

 
 蛍太郎が状況に気付いた時点から遡ること四時間。三城大学地下研究室はドクターブラーボの手に落ちていた。
 思い立ったが吉日というが、ドクターブラーボが急遽立案し慌しく実行した作戦はあっさりと成功していたのである。
 独自の情報網により、特殊な業界で出回っているオーバーテクノロジー由来の物品の四割程度が日本を出所にしていると掴んでいたブラーボは、当然のようにその研究結果をいただこうと考えた。スポンサーや出入りしている人間―貴洛院グループ、ミカエル・ジウリー、平坂涼一、そして藤宮蛍太郎―それらのキーワードから三城大学にアタリをつけ、アジトを酉野に移して調査を重ねた。
 そして、一時的な停電による遮蔽装置のダウンにより、その存在に確信を得たのである。
 こうなると、ブラーボの行動は早い。
 まず、作業員に変装したヤスとシゲが工具箱に偽装したドクターブラーボを伴い、エレベーター修理のフリをして内部に潜入した。これに新歓祭の喧騒がプラスに作用したことは言うまでもない。
 そしてサイボーグの能力を生かし、天井の作業窓からゴンドラを出て隣のエレベーターシャフト内に待機、今乗ってきたゴンドラが上に行ってからケーブルを伝って下に降り、ドアをこじ開けた後は…言わずもがなである。
 所詮は民間の研究施設、警備員の武装などタカが知れている。難なく研究室を制圧したブラーボたちは、正午の時点でキャンパスの裏側に広がる山中、ちょうどスパドーム・ドンブラッコと丘一つ隔てたところにある資材搬入工からクルツが指揮を執るドロイド部隊を招き入れ、せっせと物品の運び出しを行わせるに至り、殆どの目的を達成してしまっていた。
「さてと」 
 工具箱からニョッキリと生えた水槽に収まった脳髄、ドクターブラーボが合成音声で高らかに宣言した。
「またしてもオーバーテクノロジーの産物を手にしてしまったわけだが、これをワシの天才的頭脳を以って分析・応用すれば世界征服がまた一歩、実現に近づくというものよ!」
「でも、ブラーボ様」
 傍らでラプラスのキーボードに指を這わしていたメタルカが洩らす。
「天才って言っても、そうやって拾い物ばっかり使ってたら説得力無いですよー。たまには、ご自分で何か生み出されてみては?」
 結局は仕事を休んでこっちで働く羽目になったため、メタルカは皮肉タップリの言葉をボスに贈った。しかも、ドロイド制御装置のディスプレイを組み込んだお陰でさらにゴツくなりゴーグルの域に達しつつあるサングラスのお陰で表情が見えないので、さらに言葉の棘が鋭く感じられる。もちろんブラーボは露骨に機嫌を損ねた。
「しょうがなかろうが。我々の組織の規模では一点豪華主義で勝負するしかない。世界を相手にする以上、それは現行のテクノロジーを凌駕するものでなければ無意味なのじゃ。
 っていうかな、メタルカよ。その理屈で言ったら、『ダ・ヴィンチは原子炉を作れないから天才じゃない』ってことにならんか? 二十一世紀初頭を生きるワシが、いくら天才だからとて、そこなオーバーテクノロジーの産物と同じものをゼロから作れないのは当たり前じゃろうが」
「あー、言われてみればそうですね。すいません、私が浅はかでした」
 それっぽい理屈を突きつけられると何となく納得してしまうのがメタルカの悪癖である。さっきまでのヘソの曲がりっぷりはどこへやら、である。だからこそブラーボの腹心が勤まるのだが。
「判ればいいんじゃ」
 ブラーボはあっさり機嫌を直すと、クルツに通信を入れた。
「クルツ少佐、そちらの様子はどうじゃ? 皆々様、大人しくしておいでかのう?」
「はーい閣下。お客様方は揃って静かになさってますよーぉ」
 クルツは嬉しげに、壁にもたれかかっている人の列を指差した。
「ふむ、良い感じじゃのぅ。それに…」
 居住スペースの廊下に、ずらりと捕虜を並べ、クルツは胸を張る。その様子は、ヘッドセットに通信機とともに取り付けられたカメラによってクルツへと送られる。そこには、平坂涼一をはじめ、ソーニャ・コロコロワ、数人の研究者、二十人の警備員がいた。そして…。
「ジウリーのヤツを捕らえ損ねたのは残念だがなぁ、貴洛院グループのVIP中のVIP、貴洛院玲子殿が我が手中にあるっていうのが、なんとも堪らないのぅ。ふははははは!」
 後ろ手に縛られた貴洛院玲子が、感情を感じさせない眼差しをクルツに、そしてレンズの向こうにいるであろうブラーボに向けていた。
「うーん、この女を利用していろいろ出来ちゃいそうじゃのう、楽しみじゃのう」
 ブラーボは色々な妄想を働かせ、脳の皺から奇妙な液体を滲み出させた。その様子を見ていたメタルカだったが、目の前にある物体、ラプラスを指差しながら言った。
「ブラーボ様ー。そんなことしなくても、このコンピューターで色々できるんじゃないですか?」
「そうじゃなぁ。なにしろ光量子コンピューターだっていうじゃないか。こんなものまで作っているとは思わなんだぞ。
 …そうじゃ。分解する前に、ちょいと使ってみるかのう」
 ブラーボの好奇心にも火がついた。もしこれが機能するならば、現行のあらゆるコンピューターを文字通り桁違いで上回るシロモノだ。あらゆるモノがデータ化され管理されるこの時代、神の如く振舞うことも不可能ではない。
 だが、メタルカは不満げに口を尖らせる。
「でも、そのわりには、インターフェイスなんかそこいらのパソコンと大差無いですけどー。だからなんか、あまり凄そうに見えないんですよね」
「オーバーテクノロジーの産物とはいえ、人間が使うものじゃからのう。人智を超えた入力方式だったら困るじゃろ」
「人智を超えたって…どんな?」
「知らんわ。人智を超えているものを想像できるわけが無かろ」
「それもそうですね」
 …ちょっと詭弁くさいですが、とはさすがに言わないでおく。
「それでは、さっそくじゃがメタルカよ。どこかにハッキングをかけてみるんじゃ。どーせだから、常識的に考えて絶対に突破不可能っぽいところにするんじゃぞ」
「了解!」
 言われて、気合満点でキーボードに向かうメタルカ。だが、そのままで硬直してしまう。
「どこにしましょ…。パスワードとか全然知らないし…せいぜい、自分のブログくらいで…」
 もしブラーボに身体があったら、全力でズッコケていただろう。それに、ブログに何を書いているんだという疑問もある。まさか、世界征服活動日誌でもないだろうが…。そんな疑問はさておき、ブラーボは脱力しきった声で言った。
「あのねぇ…。ソイツは、スペックどおりなら普通では百年かかる因数分解でも一瞬でこなすんじゃ。だから、どこだろうと問題ないんじゃぞ?
 もし思いつかないんだったら、ワシの指示通りにやってみるか?」
「はい、お願いします…」
「よし。では五分待ってくれ。とびきりの作戦を考えてやるからのぅ」

 それからきっかり五分後。
 徹底した情報統制により四十年後まで公になることは無かったが、アメリカ国防総省に過去最大のサイバー攻撃が行われ、全てのシステムが何者かに掌握されるという前代未聞の事態が起こることになった。
 さらに、各地の同様の施設や金融システムも大混乱に見舞われることになる。
 
 
7−
「この国では、ことさら世界の危機シナリオに拘るシステムが多いがね、プレーヤーキャラクターが死にそうになるという点でいえば、どんなシチュエーションでも大した差は無いと思うんだ。
 どっちにしろ、そこにあるのは仮想世界であり、共同幻想であるわけだからね」
 薄暗い室内、真ん中にテーブルが一つ。
 イスには、三人の男。
 テーブルの上には、迷路のようなものが途中まで書かれた紙と、ダイキャスト製のフィギュア。そして、ダイスが十数個。ポピュラーな六面体は僅かで、十面体の物が大半を占めている。
 TRPGと呼ばれる卓上ゲームが行われていること示す、典型的な光景である。
 "マスタースクリーン"と書かれた衝立の向こうに居るその男、彼の言う仮想世界を作り出した張本人は事も無げに、こう言い放った。あの裏側にはありとあらゆる悪辣な罠を書き留めたメモが幾つも貼り付けられているのだろう。
「おのれGM、言いたいことはそれだけかッ!」
 エドワード・マイヤーは伸ばしっぱなしで綺麗とは言いがたい金髪を振り乱して吼えた。机に生っ白い両手を打ち付けると、飾り気云々を通り越して野暮ったい大きなメガネがずり落ちる。
 だがGMと言われた男、仕切りの影にいるガリー・ベンジャミンは涼しい顔でそれを受け流した。この男は浅黒い肌と顔立ちが示すとおり、インド系アメリカ人だ。
「棒を壊す方が悪い。まあなんつーの? 『穴潜りなんぞオレには役不足だ。世界の危機を救わせろ!』とか言っておきながらのその不始末が、お前の真の実力を如実に現しているよね。オレのダンジョンには、お前じゃそれこそ役者不足だよ」
「なにを! だいたい、テメェのダンジョンにはホスピタリティの欠片もねぇじゃあねーかッ! お陰で、オレのエルフちゃんが死んじまうだろ!」
「うーん。誠心誠意全力で、盛大に歓迎したつもりだったのだが…」
 それを横で聞いていたアンソニー・ミッチェルソンはダイスを弄びながら呟いた。色々なところの肉が少ない、全身粉っぽい印象の男である。
「死んだなら死んだで、さっさと続きしようぜ。っていうか、どこの世界で、盗掘防止のために作られた地下迷宮が優しく歓迎してくれるっていうんだ。
 …いずれにせよ、そこの駄エルフが十フィートの棒を無くしちまった以上、一度撤退だな。まったく、オレのマル禿クレリックが奇跡を使う前に死ぬなんて、ショボ過ぎなんじゃあねぇのか、お前のエルフ。生死判定とか無しで廃棄したほうが良くねぇ?」
 その、あまりに愛の無い言葉にマイヤーは激昂した。
「うるさいよ! オラGM、生死判定するぞ。ダイスよこせダイス! …いくぜ。燃え上がれ! オレの小宇宙よ!!」
 気合を込めてダイスを放り投げた瞬間、慌しくドアがノックされた。

 先ほどまで冒険者たちの迷宮探索ゲームが行われていた部屋は、月影楼において電子工学部の雄として知られる高山研究室で、マイヤー、ベンジャミン、ミッチェルソンの三人はここの研究員だ。彼らは、三人揃うとちょうど九十年代に流行したテレビ映画シリーズのセミレギュラーキャラクターに似ていると事から、それから名を借りて"ローンガンメン"と呼ばれている。
 この高山研究室では、そのローンガンメンも参加して新しい概念のコンピューターであるニューラルカオスコンピューターの研究が行われている。
 ニューラルカオスコンピューターとは。
 通常、コンピューターは与えられた問題を解くために全ての条件を総当りで計算し正解を導き出す。だがニューラルカオスコンピューターの場合、可能性の低い条件は端から手を付けなかったり途中で放棄したりして、ある程度の見込みのある物のみを計算してなるべく早く正解にたどり着こうとする。生物の持つ判断能力の再現を旨とする概念のため、ニューラルカオスコンピューターと呼ばれている。
 実用化されれば間違いなく世界に一石を投じるシロモノだが、当然ながら地下で研究されていた量子コンピューターには及ばない。
 ついでに言えば、それはまだ形にすらなっていないので、室内においてあるコンピューターは全て、最新型でトップクラスのスペックを誇るものの、あくまで現行品である。
 ちなみに、ドクターブラーボのドロイド兵のオペレーションに使われているアーキテクチャ、判断不能の事態が起きたときに判断を保留しオペレーターの指示を待つ通称"オン・ザ・デッキ・システム"も、"自分では判断出来そうにない"と"判断する"ためのルーチンにニューラルカオスコンピューターの概念を先取りしている。彼も、二十一世紀初頭時点の最先端を行っていることには違いはないのだ。
 それはさておき。
 この高山研究室は、一転してドクターブラーボ対策本部と化していた。
 藤宮夫妻と斐美花、そして巡り合わせが良かったのか、難を逃れていたミカエル・ジウリーが、現在の部屋の主であるローンガンメンと共にコンピューターを幾つも占拠して情報収集に努めているところだ。と、いっても璃音と斐美花は部屋の隅っこで所在なさげに座っているだけで、女の子と縁遠い生活をしているローンガンメンの面々が時折向ける好奇の視線に耐えるだけだ。
「さすがにこれは、わたしの出る幕じゃないもんなぁ」
 璃音はタメ息をついた。家の財産がピンチだというのに何もできないなんて歯痒い限りだ。
「でもさ、さっさとアイツらを追っ払えば済むんじゃないの?」
 それは斐美花も同様で、言葉から多少の苛立ちが感じられる。
「うーん、でも色々とあるみたいだよ。そうじゃなかったら、けーちゃんがあんなにしてるわけないって」
 実際、蛍太郎は大いに頭を抱えていた。
 ブラーボたちを地下研究室から追い払うだけなら璃音だけでも充分だし、愛する妻をそんな危険な目にあわせなくても、この街にはMr.グラヴィティという最強の男がいる。彼にコンタクトを取ればそれで済む話だ。
 …だがそれも、連中の手の中にラプラスが無ければ、である。
 

 
 ワシントンD.C。現地時間二十三時四十三分。
 アメリカ合衆国大統領は信じがたい報告を聞く事になる。
 補佐官曰く、国防総省のシステムが全て何者かの支配下に置かれた、と。現場からは悲鳴に近い声で、目下全力で奪還作戦を展開中だが、あらゆるパスを一瞬でクリアしてしまう侵入者の前に手も足も出ないと伝えられた。
「…そんなことがありえるのか?」
 あまりに荒唐無稽な報告に首を傾げる大統領だったが、何の前触れも無く鳴った専用回線の受話器を取ると、それを信じざるを得なくなった。
「やあ大尉殿…いや、大統領閣下。お久しぶりじゃのぅ」
 その声は、聞き覚えのあるものだった。
「ドクターブラーボか。まったく、往生際が悪いな。未だ世界征服などという妄想に囚われているのか?」
「ふん、妄想と言ったか。まだ報告を受けておらんのか?」
「な…。では、貴様が…」
「その通り。今、国防総省のシステムを掌握しているのは、このワシ、ドクターブラーボじゃ」
 ブラーボの笑いが耳を突く。苛立ちを誘うその声に、大統領の血圧が一気に上がった。
「おのれマッドサイエンティスト。それで勝ったと思うなよ、この腐れクソミソめッ!」
 もちろん、ブラーボも言い返す。
「やかましいッ! 大統領がなんぼのもんじゃ。デスクワークで鈍った貴様など、もはやワシの敵ではないわッ!」
「何をッ! 私とて従軍経験は伊達じゃない! っていうか、貴様を脳ミソだけにしてやったのは私だということを忘れたかッ!」
「ふん。おのれ一人の功績ではなかろうが! 先代のキャプテンフリーダムに感謝するんだな若造めッ! まあなんだ、偽装工作のお陰でヒーローになり損ねて残念だったのぅ、ベロベロバー!」
 当然顔も舌も無いブラーボなので、音声だけでアッカンベーをしてみせる。
「ぐぬぬ…馬鹿にしやがって! 見てろよ、今からハリヤーで飛んで行ってブッ殺してやるからなッ!」
 こめかみに血管を浮き立たせ、受話器を持った手を思い切り振りかぶる大統領。それを補佐官が必死になだめる。手に持った紙には、『早まらないで。現在、ミサイル施設を物理的に使用不能にする工作を実行中です』と、ある。
 大統領は深呼吸をして気を落ち着けると、あらためて受話器を耳に当てた。
「ふふ、私としたことが、思わず激昂してしまったぞ。ハリヤーの航続距離ではここから日本までなど、とてもじゃあないが無理だからな。そんなことを忘れるなど、どうかしていたわ」
「おう、そうか。あまり気にするでないぞ。どうかしておるのはワシもだからな。なにせ、長年に渡る宿願だった世界征服が達成されつつあるのだからなァ。鼻歌でも歌いながら、そこいらへんをスキップしたい気分じゃ。この成功も、ワシの日ごろの行いと信仰ゆえじゃろう。
 そういうわけでな、大統領閣下。神への感謝の証として喜捨を行なうことにしたんじゃ。お前の全財産、勝手にユニセフに寄付しといたぞ」
「おお。そうか、寄付ね。社会に貢献するのは公人として当然の…って、今何つったッ!?」
「全財産、全財産じゃ。お前の全財産を寄付してやったと言ったんじゃあああッ!
 ふふふ、驚くこともあるまいッ。ペンタゴンですら一瞬で陥落させるこのワシのこと、そこいらの銀行をどうこうするくらい簡単じゃよ。今や金も証券も電子化されている。その全てがワシの手の内にあるといっても過言ではないのじゃああああッ!!」
 大統領の顔が一気に青ざめた。私物のノートパソコンで口座のデータをチェックした結果、ブラーボの言うとおり全預金が残高ゼロになっていたのである。
「く…やってくれたな。まさに世界征服にリーチというわけか。…てか、寄付ならテメェの金でやれよ! 何が喜捨だ。人のものを勝手に捨ててんじゃねぇぞッ!!」
 歯軋りする大統領。それを意に介さず、ブラーボは得意げに言った。
「そういうことじゃな。あとは、各国元首殿に主権を委譲して頂くだけじゃ」
 

 
「と、いうようなやり取りがホワイトハウスであったとかなかったとか…」
 蛍太郎がメールを読み終えると、室内にどよめきが走った。
 グッドスピード卿を始めとする"ディオゲネスクラブ"の面々から得た情報によると、ドクターブラーボは電撃的な勢いで世界中の重要なコンピューターシステムを支配下に置いたようだ。処理スピードの圧倒的な差から、あらゆるセキュリティが通用しないのだから当然の結果ではあるが、今回は見事、世界征服まであと一歩というところまで迫ったと言っていいだろう。
「それだけじゃない。誰のとは言えないけど、スイス銀行の秘密口座がいくつか原因不明のまま凍結中。邪魔になりそうな人間には、既に手を回しているんだろうね」
「そのひとりが君、というわけか」
 ジウリーは他人事のように笑った。いや実際、他人事なのだが。
「く…、こんなことで認められても嬉しくないんだけど。それよりミカエル、君の方は大丈夫なのか?」
 莫大な個人資産を持つジウリーはブラーボとも顔見知りなのだから狙われている可能性は充分高い。だが、ジウリーは事も無げに言った。
「なんともないよ。全部金塊にして、お城の地下に積んであるから。ついでに言えば、僕が使っているパソコンは完全にスタンドアローンだしね」
「あ、そ…。そりゃ安全だわ。
 今のところブラーボが思い通りにできるのはネットワークに繋がれたコンピューター上のデータだけなんだよね。だから、当たり前だけど、ここにいる僕らをいきなり消し去るようなことは出来ない。部下を差し向けない限りね。
 ラプラスという力を得たブラーボは、まさに神の如き振る舞いで一見して不可能は無い状態に思えるけど、物理的な存在をどうこうできるわけではないんだ。そのために、穴倉に篭りドロイド兵に警備させているんだろうけど、もっと大規模な力を行使された場合にはそれも無意味になる。
 例えば、空爆。
 場所がバレたが最後、バンカーバスターによるピンポイント爆撃が行われるのは想像に難くない。それに、ラプラスを手に入れようと各国の特殊部隊が入り乱れるなんて展開もありえる。そんな事態を避けるために国防総省を掌握したんだろうけど、人間の動きを全て抑えたわけじゃない。確かに核攻撃はできるかもしれないし、それは抑止力にはなる。下手な手出しはできなくなるからね。でも、他にブラーボが動員できる駒は戦術規模の戦闘にも耐えられるものではないはずだ。単純な物量では全く話にもならない。
 だから、現状でも"武力"による戦闘はできないといってしまっていい。研究室に篭城なんて問題外だしね。
 つまり、連中は相手の喉元にナイフを突きつけたのはいいけど、そのままの状態でジッと止まっているだけで、それ以外に何も出来ない。実のところ行動オプションが残されているのはナイフを突きつけられている側の方なんだ」
「じゃあ…つまり、ブラーボは動けないってこと? っていうか、わたしたちがどっかに通報したら終わりなんじゃないの? …でも、そんなことしたらこの街が終わっちゃうね」
 と、黙って話を聞いていた璃音が口を開く。
「そう。戦略規模の指揮系統は使えないかもしれないけど、酉野市ひとつを焼き払うくらい手旗信号と無線機があれば充分さ。でも今のところ、ブラーボの所在を知っているのは僕らだけだけで、他には誰もこの街をヤツの居場所と特定することは出来ないから、それはありえないと思う。
 なにせ、あらゆる情報網は完全にブラーボの手の内にはいっているだろうからね。この件に気付いて調査を始めたところは色々あるだろうけど、だいたいの動きは把握されてしまうと思うよ」
 璃音は頷き、そして首をかしげた。
「それじゃあ、けーちゃんがさっき色々な人に訊いたのも、向こうに筒抜けなの?」
「そのとおり。さすが璃音ちゃん」
 蛍太郎は大きく首を縦に振り、妻の聡明さを周りに誇るように大きく胸を張って答えた。
「僕らにはわざと今の状況を把握させたんだろう。下手なことをさせないためにね。
 貴洛院グループも異変に気付いているはずだけど、もしかしたら僕らと同じような情報を掴まされているかもしれない。と、なると…あそことの協調は…あまり考えない方がいいか。余計な事をしないように手を打つほうが賢明かもしれないな」
 蛍太郎はスポンサーをあまり信用していないらしい。その言葉にジウリーは頷いた。
「自重を求めとくよ。
 …しかし、ブラーボはどうする気なんだ。いつまでも地下に篭っているつもりでもあるまいに…」
「まあ、アナグマするにはもってこいな装備を持っているんだけどね。
 ブラーボの主力であるドロイド兵の制御システムは、おそらく彼が米国特務機関時代に研究していたものだと思う。先ほど実際に見たドロイドの挙動と、これまでの事件の調査報告からすると、その完成形が使われていると見たほうがいい。
 その前提で話すと、このシステムの制御下ではドロイドたちはそれぞれ単独で自立的に動くと同時に、全体で情報を共有し連続体を形成するんだ。
 だから、侵入者がドロイドに発見された瞬間、もしくはドロイドを攻撃した瞬間にその存在が隅々にまで知れ渡ってしまう可能性が極めて高い。
 そうなった場合どんな結果を生むか、それを想像する材料はご丁寧にもブラーボ自身が僕らに提供してくれているよね」
 それには、一同黙ってしまう。と、いっても斐美花とローンガンメンはあまり話を聞いていなかった。むしろ、途中で脱落していた。蛍太郎がそれに気付いて緊張感が削がれるのも可哀想なので、璃音はそちらの方を背中で隠すようにしながら真面目な顔を作って言った。
「けーちゃん、これからどうする? これだっていうポイントが見つからない限り、こっちもなにもできないんじゃあないの?」
 蛍太郎は深く頷いた。その眼差しには決意の色が見て取れる。
「うん。でも、結果的には僕がブラーボに手を貸してしまったようなもんだから、落とし前はつけないとね。どうやって攻め落とすかは、もう考えてある。でも連中が何をしようとしているのか知る前に動くのは拙い。連中は間違いなく、最後に大きな一手を用意しているはずだからね。これから短時間のうちに世界征服を完遂できる一手…。それが判れば、相手の動きが判る。だから、もうちょっと調査が必要だ。
 せっかく僕らの調査活動を黙認してくれてるんだから、それがいつまで続くかは判らないけど、利用してやるさ。
 とりあえず、僕が世界征服をするとしたらどうするか…って感じで考えてみるかな」
 

 
 時刻は五時三十分を過ぎ、新歓祭はクライマックスへの助走を始める。
 だがその喧騒は地下深くのブラーボ達のもとには全く伝わらない。場所柄当然の事だが、こっちはこっちで祭だからそれどころではないというのもある。
「はっはっはー! こんなにうまくいくとは、正直驚きじゃ。苦節三十年、耐え難きを耐え忍び難きを忍び、遂にここまでできたのぉ!」
 脳汁をほとばしらせ、ブラーボは大いにご満悦だった。
 ラプラスのキーボードに向かっていたメタルカも、歓喜の声を上げる。
「おめでとうございます! 今までの苦労が報われましたね! 量子コンピューターを見つけてから五分で考えた計画が、ここまで当たるとは思いませんでした。さすがはブラーボ様、天才天才、大天才ですッ!」
「ん? ちょっと待て」
 メタルカの発言を聞いてブラーボは何か気にづいたらしく、首を、いや脳を捻った。
「…メタルカよ。この状況を整理してみるとじゃな…ワシが三十年かけて積み上げたものではなく、ここでの思いつきが結果を出したということにならんか?」
「あ…確かにその通りですね」
「…なんだったんじゃ、ワシの人生、ワシの頭脳…」
 言われてみると、まさにその通り。虚脱感に汁も萎える。それを見てとったメタルカは、おずおずとフォローを入れた。
「えっと、ブラーボ様? そのぅ、勝てばいいんじゃないですか、勝てば。これで世界は貴方のものですし、方法や過程なんて後からどうとでも糊塗したり改ざんしたり出来ますから…あまり細かいことは気になさらない方が…」
「そ、そうじゃな…。今更後戻りするのもなんだしな。このまま一気に突っ走ってやるわい! ふはははははッ!」
 その言葉でいともあっさり復活したブラーボは、声高らかに笑った。
「と、いうわけで、見ての通り。ラプラスは期待通りのスペックをビシバシ発揮しておるぞぉ。どうじゃあ、嬉しかろう、嬉しかろうなぁ」
 ポットに入った脳髄という姿のため全く動きの無いブラーボだが、それでも、その言葉が誰に向けられているのかは明白だった。
 貴洛院玲子である。
 拘束こそされてはいないが、両脇からドロイド兵に挟まれて動きが取れない状態だ。だが、それでも玲子は不敵な笑みを浮かべていた。それが地なのか表情を作っているのか、ブラーボにもメタルカにも判らない。
 そして全くいつも通りの口調で、玲子は言った。
「そういうことなら、私にも分け前があってもいいんじゃない? 貴方の世界征服が達成されたなら、それは私が集めたスタッフの力ってことだしねぇ」
 本当のことを言われて、ブラーボは悔しげに呻く。歯があれば歯軋りしていただろう。
「ぬぬ…あの藤宮蛍太郎を育てたのは、このワシといっても過言ではない。ラプラスが組みあがったのはある意味ではワシのお陰じゃい!」
 そんなブラーボの言葉を、玲子は鼻で笑う。
「ふ、そうきたの。さすがは屁理屈の天才」
「ぐぬぬ、口の減らない女だ。…まあいいわ。それくらいの方が良いじゃろ。
 では、改めまして貴洛院玲子女史。
 どうだろうね? ワシと手を組むというのは。これから最終計画を実行するにあたり、そしてその後の活動で貴女と貴洛院グループのサポートがあれば非常に心強いのじゃがね」
 突然の提案に、玲子は目を丸くした。
「ホントに分け前をくれるつもりなのね」
「まあ、そういうことじゃ。
 考えてもみろ。このまま世界中の国家から主権を委譲されたとしてだ、貰ったからには実際に統治しなきゃいけない訳じゃろ。なんせ世界は広いから、頼まれても欲しくないような国や地域だって幾つもあるし、そんなところにまで神経を配る気なぞ毛頭ない。
 どーせなら、美味い汁だけを吸いたいというのが人情じゃろう?」
「確かに」
「だからこその、最終計画じゃ」
 ブラーボの合成音声は、その言葉に満ちた自信と確信を見事に表現していた。
 

 
 そろそろ六時。人の流れがステージに向いたのと予想外に冷え込んだのと、その二つの要因によって豚汁屋台は昼間の様子からは想像できないほど混雑していた。だが、場馴れしているアビゲイルの仕切りによるところが大きいのだろう。アンナとヒカルド、綺子、そしてトウキが慌しい中を手際よくお客を裁いていた。
 人の流れが切れたところを見計らって、斐美花は声をかけた。
「ごめんね、ずっとほったらかしにしちゃって。…なんかさ、ホントに混んでるね」
 ワケありとはいえ途中で姿を消した身としては、さすがに声のトーンが落ちる状況である。
 だが、アンナは威勢良く、一片たりとも皮肉無しで答えた。
「まあねー。私らの力を以ってすればこんなもんやろ。で、そっちはどないや?」
 どうだと言われても、斐美花は黙るしかなかった。事が事だけに説明できるものではないが、かといって何も言わないのも不信感を与えるだけな気がしてしまう。だが、アビゲイルが察してフォローしてくれた。
「あー、言えないならそれで良いよ。とにかく、トラブルなんだろ」
 無言で頷く斐美花。それでアンナも納得して何も訊かない。知り合って間もない二人だが、こういう気遣いが嬉しい。それになんとか応えたくて、斐美花は口を開いた。
「後始末には、間に合うといいんだけど…どうかな」
 まるで根拠が無いことを言ってしまい内心後悔した斐美花だったが、アビゲイルは「気にしなさんな」と、微笑みかけてくれた。
「うん、ありがとう。…そろそろ行くね」
 斐美花は小さく手を振って、人波に消えた。
 それを茫洋と眺めていたトウキだったが、不意に脇腹を小突かれた。 
「あ。すんません…」
 つい反射的に謝ってしまうトウキ。見ると、綺子が含み笑いを浮かべていた。
「中村君、気になるんなら行けば?」
 悪戯っぽい目で、そんなことを言う。
「え?」
 予想外のことを言われて、トウキは口をポカンと開けて止まってしまう。どうせ今朝の"中村弄り"の続きだろうと思い至ったところで、アビゲイルが言う。
「そうだね。こっちはもう大丈夫だしね」
「そやそや」
 アンナも頷いていた。
「ココハ、私達ニ任セロ。オマエハ行クンダ」
 ヒカルドが某社アニメ映画における伝統芸のようなことを言う。クスリと小さく笑って、アビゲイルが付け加えた。
「明日の片付けに、ちゃんと来てくれればいいよ」
 

 
 斐美花が戻るのに合わせたように、マイヤーの勇ましい声が高山研究室に響いた。 「あたりだぜ、藤宮センセイ。ウォール街で、コンピューターに原因不明のエラーが起こって原因を調査中なんだそうだ。いまのところは平常に稼動中だけどね」
「やっぱりそうか」
 蛍太郎は、確信に満ちた表情で頷いた。
「ドクターブラーボは世界中の主要な株を買い占めるつもりなんだ。買い占めるって言っても金は関係ない。データのやり取りならばどうとでもなるからね。取引開始と共に、あらゆる株の所有者がブラーボに書き換わるってワケだ。
 それからどうするか判らないが、恐らくは自らが頂点に立ち、座したまま利益を吸い上げる構造を作り上げるんだろう。面倒なことは人任せにして美味い汁だけ吸おうってわけだ」
「なるほどなぁ。たしかに、征服しちまったら自分で政治とかしなきゃいけないし、頼まれても欲しくない国もあるもんな」
 ミッチェルソンが感心しきりといった風に目を丸くする。他のローンガンメンも同様だった。
 蛍太郎は腕時計を見ながら呟いた。
「ニューヨーク証券取引所の取り引き開始時間は午前九時三十分。こっちの時間では午後六時三十分だね。…あと三十分ちょいか」
「でも、今これから動くとは限らないんじゃあ…」
 と、ベンジャミン。
「いや。あのドロイド兵がメンテナンスフリーなら話は別だけど、長時間連続稼動させておいたら簡単に使えなくなってしまうはずだよ」
 なるほど、と頷く一同。だが璃音は一人首をかしげていた。
「でも、今の情報を得たことも向こうにバレちゃってるんでしょ」
「そうだね。なら、ここで連中が取るべき行動は二つ。あと三十分粘って計画を実行するか、今すぐ撤収するか。普通に考えれば前者を取るだろうけど、どっちにしてもこれはチャンスだよ。
 もし、ラプラスをアジトに持ち去ってから今回の行動を起したら世界征服は達成されただろうけど、どういう理由か知らないが早まったのが失敗だったね。お蔭で僕らはそこにつけこむことが出来る。なにせ、あの場所は僕の方が詳しいんだ。
 …なんて、勇ましいことを言ってみたけれど…こっちにも戦力と呼べるものなんて無いんだよなぁ。はっきり言って、何もできん」
 一転して、蛍太郎はタメ息をついた。それを見た璃音が胸を張って言う。
「わたしがいるじゃない。斐美お姉ちゃんもね」
 事も無げに言ってのける璃音だったが、当然蛍太郎は眉を吊り上げた。 
「冗談じゃない。そんな危険なことをさせられないよ」
 その言葉に、璃音は不服を顔全体で表現した。
「えー、今まで何度も助けてあげたじゃない。それは危険じゃなかったって言うの?」
「いや、そういうことじゃなくて…。そういうのって不可抗力だったワケでさ、今回は…」
 璃音に反論されると、蛍太郎は弱い。
「自分自身の手で、わたしを危険な場所に送り込むのが嫌だって言うんだね。大丈夫、あのロボット相手だったらどうとでもなるよ。それに、わたしを自立させたいんだったら、わたしの意志も尊重しないとね。
 わたしはね、持って生まれたパワーを皆のために使いたいんだよ。ねえ、斐美お姉ちゃん」
「え? うん、まあ…そうだよ」
 璃音は、斐美花が同様の気持でいると信じている。
 当の斐美花は財産のことを考えていないといえばウソになるが、それより、アンナ達のために平田とソーニャを無事に助け出したいという思いは強い。だが、それを口に出すのは非常に照れくさい。だからといって「別に人のためとかはどうでもいいけど、生活が立ち行かなくなるのはねぇ」などと言ったら凄く感じが悪いので、曖昧に頷いておいた。
「ほらね」
 と、璃音が笑顔を弾けさせるものだからなおさらである。
「でもね…」
 だが、蛍太郎は尚も難色を示す。すると璃音は蛍太郎の耳元に寄って来て、囁いた。
「この前のこと許してもらったんだもん、それくらいはさせてよね」
 そう言われて、蛍太郎は困ってしまった。彼としては貸しを作ったつもりは毛頭無い。だが結果的に璃音が戦いに臨む理由を作っていたのである。勿論、蛍太郎としてはそれで首を縦に振るわけにはいかない。璃音が言い出したら聞かない性格であることは承知のうえで、何とか諭そうと言葉をひねり出そうとする。
 そのとき、ドアが開いた。野太い声が部屋に響く。
「よう、邪魔するぜ」
 そこに居たのは鶴泉荘の住人の一人、ミロスラフ夏藤だった。
 総髪の浪人のように頭の後ろで結われた髪はすっかり日に焼けていて、二メートル近い体躯にジャケットの上からでも判る鎧のような筋肉は一見しただけで只者ではない気配を感じさせる。だが、東欧系とアジア系を掛け合わせた複雑な造形の顔立ちの、特穏やかな光を湛えた眼差しが首から上と下のイメージを全く異なったものにしており、彼を正体不明の男にしていた。
「夏藤さん?」
 突然の闖入者に、璃音と蛍太郎、斐美花が揃って目を丸くする。
「おう、あんたらか。よろしく頼むぜ」
 顔見知りなだけあり、親しげに手を振るミロことミロスラフ。だが、手を振られた方はどういう理由で彼がここのいるのか判らない。
 一同を代表するように、蛍太郎が呻きに近い声で言う。
「え、ええ。でもどうして?」
 それこそ思いがけない質問だったようで、ミロは思いきり首を捻った。
「どうしてって、クライアントがここに来いって言うから、そのとおりにしただけだぞ」
「僕が呼んだのさ」
 と、ジウリー。相変わらずの涼しい顔だ。
「あれ、知らなかったのかい? 彼は"地獄の殺人ウサギ"と恐れられた伝説の傭兵なんだよ」
「そんな時代もあったな」
 腕組みして得意げに頷くミロ。璃音と斐美花の視線が同時に蛍太郎へ向いた。勿論、何も知らされていない蛍太郎はブンブンと首を振るだけである。
「聞いてないよ…」
 だがこれで、家賃引き落としの口座がスイス銀行になっている件について納得のいく答えが得られた気がした。
 だが、璃音は予想もしない方向へ飛んで行った状況に怒りを露わにした。
「聞いてないって…。じゃあ、素性も知らない相手のところに家賃の取立てに行かされたってわけ? しかもそれが、傭兵で殺人ウサギだったなんて…メチャクチャだよ! 今度、侑希姉ぇにキツク言っておくから!」
 言葉を発するたびにみるみる頬が膨らんでいく璃音を宥めようと、蛍太郎はできるだけ穏やかな声で言った。
「ま、まあ口座から引き落としだから…。それに、夏藤さんはちゃんと社会性をお持ちの方だし、職業犯罪者みたいに言うのはちょっと、どうかなと思うよ」
 そう言われて、璃音は「ごめんなさい」とミロに頭を下げた。
「気にしなさんな」
 対するミロの声も、実に穏やかなものだった。
 それにしても、傭兵のニックネームとして"ウサギ"というのはどうだろう。そんな一同の疑問に答えるように、ミロは口を開いた。
「ふっ。ウサギってのは繁殖力旺盛なんだぜ。おっと、そう構えないでくれ。誰でもってわけじゃあねぇ。それに、今はそんなに若くないしな」
 そんな、場違いなまでに平和なやりとりに焦れてきたのか、ジウリーは冷たくさえある声で言った。
「とにかく、これで懸案だった戦力が到着したことになるだろ。しかもプロだ。だけど、それでも君の奥さんやお義姉さんの力も必要なんじゃないのかな。そうでなければ突入ルートは一つしかないんだからね」
 だがそれでも、蛍太郎は首を振った。
「それはそうだけど、さすがに三人で送り込むのは…。ああ、Mr.グラヴィティに連絡を取る余裕があれば…」
 頭を抱えてしまった蛍太郎。
 それを鼓舞するように、凛とした声が響いた。
「オレがいる」
 それは、いつの間にかそこにいたのか、忍装束の男のものだった。
 
 かくして、作戦は決行された。
 
 
8−
 この地下研究室は、強度を重んじた結果から総じてコンクリート打ちっぱなしの無機質な作りになっている。各部屋を繋ぐ、高さも幅も4メートルの通路はその際たるもので、そこをドロイド戦闘員が往復する様は、まさに終末系SFを思わせる光景だった。
 入り口通路前を警邏していたドロイドCEとCFは、ただ真っ直ぐ続くだけの冷たい壁の画像を延々と記録し続けていた。だが不意に、ドロイドCFの視界がブラックアウトした。そのまま動きを止め、反対側の壁にもたれかかる。"彼"のカメラが最後に記録したものは、同様に動きを止めたドロイドCEの姿だった。しかし、その記録はすぐに消えうせた。
 ドロイドが動きを止めると、女が一人、壁の真ん中から現れた。その壁を水面に見立てるなら潜水状態から浮上するように頭の方からスルスルと、である。
「一丁、じゃなくて二丁上がりね」
 そう言って、斐美花は眉を上げ口を結んだ。この程度なら何体こようと問題なく突破できそうだ。間もなく異常に気付いたドロイド達が駆けつけるだろう
が、いまのところ通路には何もいない。
 斐美花の能力の一つ、物質透過は他の物体の中に水に潜るように潜り込み、すり抜ける能力である。意識によるコントロールで身につけたものや手に触れているものなど、任意の物体と共に潜ることができる。これにより、先ほどのように衣服と人間一人を連れてくることができたのだ。
 この能力があれば潜入できない場所などありはしない。光などの電磁波も透過してしまうため、センサーの類は効果が無いからだ。もちろん、エネルギーフィールドを用いた遮蔽装置も例外ではない。同様の能力を使う者は世に数多いが、この装置はここまで強力な者は想定していないのである。
「よし。次、いきますか」
 そう言うと、斐美花は通路の真ん中を悠々と歩き始めた。
 

 
 ドロイドCEとCFの異常は、オペレーションシステムへのフィードバックにより程なくブラーボたちの知るところとなった。
「ブラーボ様。入り口付近でドロイド二体、機能停止しました。原因は不明ですが…、どちらも制御システムにアクセスできません」
 メタルカの報告を、ブラーボは淡々と聞く。
「うむ。連続稼働限界にはまだまだ間があるはずじゃがのぅ」
 そんなブラーボたちを眺めながら退屈そうにイスに座っていた玲子だったが、なんとなく目に入った監視カメラの映像に息を呑んだ。
「ちょっとちょっと、あれ!」
「なんじゃ、騒々しい…」
 怪訝そうにモニターを見たブラーボとメタルカも、同様に驚かされることになった。
 全館に設置された監視カメラのモニタはウィンドウを分割する形でラプラスのディスプレイ内に表示されている。そのうちの一つに、長い髪で顔を隠した女が写っていたのである。映像の異常なのか、その女の付近だけがぼんやりと霞み輪郭がぼやけている為、さながらホラー映画の亡霊かモンスターを思わせる風情だ。
 そして女は何をするわけでもなく、そのままゆっくりとカメラのフレーム外に消えていった。
 メタルカは目を丸くしたまま、呻くように呟く。
「今のって…幽霊?」
 ブラーボは平然と答える。
「さあな。だが、幽霊だろうとなんだろうと、侵入者である事は確かじゃな」
 メタルカは金切り声を上げた。
「そんな…幽霊なんて不条理で非科学的なモノ、いるわけ無いじゃないですか!」
「何を言うか。不条理なものと非科学的なものは必ずしもイコールではない。ワシも世界征服業界に入って随分経つが、幽霊どころか黒魔術やら古き者の眷属やら色々な芸風の同業者と付き合いを持ったもんじゃ。
 その経験から言わせて貰えば、この世界に幽霊は存在するぞ」
「そ、そんな…」
 それは、メタルカにしてみれば予想外の言葉だった。部下の顔がみるみる青ざめていくので、ブラーボは試しに訊いてみた。
「なんじゃ、お化けが怖いのか?」
 メタルカは目に涙を溜めて何度も強く頷く。合成音で器用にタメ息をつくと、ブラーボは労わるような声で指示を出した。 
「…仕方の無いヤツじゃな。まだアイツが幽霊だと決まったわけではない。付近のドロイドを向かわせろ。ほら、お前本人が行くわけじゃあないんだから、怖くないじゃろ」
「はい…」
 少しして、現場に向かったドロイドから報告が入った。メタルカは相変わらずの青い顔で、それを復唱する。
「ブラーボ様。異常なし、蟻の一匹見当たりません。…やっぱり」
「落ち着け」
 ブラーボがそう言うと同時に、メタルカが悲鳴を上げた。
「落ち着けというに…」
「い、いえ…その…」
 メタルカは驚きと恐怖に顔を歪め、掠れた声で報告した。
「今、ドロイドを差し向けた箇所ではなくて、そこの隣の通路、壁を隔てた所で、ドロイドが三体、沈黙しました…」
 ブラーボは部下を怖がらせないようにスピーカーを切ってから、思考をめぐらせた。
(随分と本格的だな…。テレポートはもちろん、思念体や意識体の類は遮蔽装置でブロックできるはずじゃが…。それをものともしない能力者か、はたまた"そういう存在"か…。こりゃ面倒になってきたわい)
 

 
「いやぁ…本物の忍者とご一緒できるとは思わなかったぜ。日本に来て良かったなぁ」
 ミロは心底そう思っていた。欧米人にとって忍者とは、日本の神秘の象徴であり憧れなのだ。
 その横を腕組みのまま歩く斬月侠はニコリともせずに呟く。
「なんかさー。外国の方って、忍者ってものに多大な期待をしていないか?」
「そうか? だってアンタ、分身したり煙になって消えたりできるんだろ」
「まあ、一応は」
「雪崩式ブレーンバスターみたいに相手諸共高いところから落下したり、地面に潜って爆薬仕掛けたりするんだろ?」
「好きなんだな、マンガとか」
「時間止めたりする?」
「…さすがにそこまでは」
「それからあれだ、友達に突然変異の亀がいるだろ?」
「いないっ。それから先に言っておくがな、刀はクルクル回しながら使うもんじゃあないぞ」
「そ、そうなのか!? …ガッカリだぜ」
 そんな風に緊張感の無い会話をしながら、二人は有為楼まで歩いてきた。イベント中という事で、トランクケースを抱えた大男も忍装束も何ら違和感無く人の流れに溶け込んでいる。これだけ目立つ格好で堂々と歩いてきたのにも関わらず、今のところブラーボ一味の姿は無い。斐美花が上手くやっているのか、彼らの目は外部には向いていないのか。遮蔽装置のお陰で無線での通信が出来ないので、ドロイドは使えないだろうというのが蛍太郎の推測だったが、実際にそれは当たっているようである。
 有為楼のエントランスをくぐる。
 ここだけでなく、各研究棟では大掛かりな出し物やイベントは無い。さらに、現在は特設ステージでメインイベント始まっているので、タダでさえ少ない人通りが無いに等しかった。
 揃ってエレベーターに乗ると、ミロは十階のボタンを押す。そして、トランクケースをあけると踏み台を取り出し、それに乗ると天井の作業窓を開けにかかった。
 遮蔽装置は、あらゆる物体や電磁波、エネルギーに対する防護フィールドを展開するものだ。そのフィールドの性質上、生物が通ると生体磁気・電流をフィールドの外へ置いてくる羽目になる。つまり、フィールドを通過した生物はタダの肉塊と化すのだ。勿論、エレベーターのゴンドラにはフィールドへの対策を施してあるので、正規の手段で出入りする限り生命の危険は無い。
 このように、ゴンドラの中に居なければいけないという制限があるために、唯一の外部との連絡口となっているというわけだ。ブラーボは、自らのポッドとサイボーグにフィールド発生装置を仕込むことでこの問題をクリアしたのである。
「つまりは、ゴンドラに仕込まれているフィールド発生器でバリアする事で、内部が遮蔽装置の影響を受けないようにしているわけだから、今からこのオレがちょちょちと電気工事をしてバッテリーを繋ぎ、しかるのちにケーブルを発破して物凄い勢いで落っこちれば、上手い事下までいけるってわけさ」
「…と、藤宮蛍太郎氏が言っていたわけか」
 と、斬月侠。
「う、うむ…その通りだ。
 地下三階でエレベーターが停止したら発破、持参のバッテリーに繋いだフィールド発生器をオンにする。十秒しかもたねぇが、そんだけあれば危険領域を抜けるには充分。
 バッテリー接続作業は、設計者直筆の図面があるから大丈夫さ」
 ミロの説明を頷きながら聞いていた斬月侠だったが、
「おいおい、ぼさっと聞いてないでくれよ」
 と、ミロに肩を小突かれた。
「さっそくだがね、コイツを滑車に取り付けてくれ。お前なら、壁なりケーブルなりを走って簡単に上まで行けるだろ」
 事も無げに手渡されたのは、少量のプラスチック爆弾と起爆装置だった。
「…どっからこんなもの」
「家の押入れ」
 斬月侠は聞いてはいけない事を聞いてしまった気がしたが、無視する事にした。
 

 
 一番最初に次なる異変に気付いたのは、監視カメラのログ漁りをしていたブラーボだった。
 管理システムがエレベーターの異常を訴えたのである。
『ケーブル切断、滑落』
 そのメッセージがラプラスのモニタに表示されると同時に、鈍い音と共に研究室が揺れた。
「地震!?」
 メタルカが色めき立つ。
 ブラーボは内心、舌打ちしていた。
 "幽霊"が囮であろう事は読めていたが、遮蔽装置を恃むあまり警戒を怠っていた。相手が他でもない、藤宮蛍太郎であることを忘れていたのだ。敵は自分たちよりもより深く、この地下研究室を把握しているのだ。
「…あやつめ、やりよったな。
 メタルカ! ドロイド兵の半数をエレベーターホールへ集中させろ。残りは、ローテーションを修正し研究室全域の巡回警備を続けるのじゃ!」
「はいっ、ブラーボ様」
「それからクルツ!」
 通信をオンにする。
「は、はい」
 頼りない返事が返ってくる。エレベーター滑落の揺れにより少々動揺した様子だ。
「人質は断固確保だ! 平坂涼一とソーニャ・コロコロワを連れて来い!」
「了解であります!」
 矢継ぎ早に飛ぶ指示に、部下たちの威勢の良い返事。始めて見るマヌケ要素抜きのブラーボ一味の姿に、玲子は思わず口笛を吹いた。
「ねえ、私はどうするの?」
「どうもせんで良い。黙って見ておれ」
 ブラーボの声には、どこか悪魔的な色が含まれていた。
「くくく、蛍太郎め。女なんぞに現を抜かしているせいですっかりおバカに成り果てたようじゃのぅ。ワシが正規に管理され即時使用可能な状態にある核兵器の全てを握っておる事に気付かなんだのかぁあ〜? いいだろういいだろう、お望みどおりデッカイ花火を上げてやろうじゃないか」
「…本当にやるの?」
 玲子の眉が歪む。
「おうよ。だが、核攻撃はせん。起爆装置を作動させんで、東シナ海あたりに落としときゃいいじゃろ。それで皆腰砕けじゃて。やったところで、株式買収計画には影響せんわい」
 どうやらブラーボは理性を保っていたようである。だが、それを実行しただけでも世界中は恐怖のそこに突き落とされるだろう。その結果、各国首脳が彼に従うのは明らかである。全てが、ここにある脳髄を走る電気信号に支配されているという事実を突きつけられることになるのだから。
「ふははははは! お前は戦う前から負けてるんじゃよぉぉぉぉ――――っ!!」
 ブラーボは"スイッチ"を押した。
 だが。
 支配下にあるはずのミサイル施設から発射の信号は帰って来ない。それどころか、ラプラスのモニタには『接続エラー。ネットワークの接続を確認してください』と書かれたダイアログが表示されていた。
「な、に…!?」
 ブラーボは言葉を失った。
 だが、それだけでは終わらなかった。
 慌ててメインフレーム、外部との通信システムが接続されているコンピュータを確認すると、通信環境がまとめてアンインストールされていたのである。
 それだけではない。
 画面が唐突に黒くなり、システム領域の初期化が始まった。
 これでラプラスは、完全にスタンドアローンとなった。たとえ別次元の力を持っていようが、それを振るう術を失ってしまっては用を為さない。
 ブラーボの世界征服はここに終わりを告げたのである。
 

 
 激しい衝撃がゴンドラを襲う。
 傾いた床に手を添え、ミロは立ち上がった。
「おい忍者、大丈夫か?」
 斬月侠は腕組みポーズのまま、傾いた床に対し垂直に立っていた。ミロの口の端が歪む。
「心配ご無用、ってか」
「まあな。オレは忍者だからな」
「ふ…言うねぇ」
 ミロは楽しげに微笑むと、懐から拳銃を二丁取り出した。それに目を丸くする斬月侠。
「おい、それ…」
「なんだ? 銃が珍しいのかい?」
「そうじゃない。よくもまあ、そんなものを隠し持っていたもんだと感心してるのさ」
 ミロは実に楽しそうに口の端を歪めた。
「ふっ。暗器術は忍者の専門分野じゃあないのかい?」
「そりゃそうだが。日本で銃はどうかと思うぞ」
「刀背負ってるヤツに言われたかぁないね」
 その言葉に、「はは」と斬月侠は初めてミロの前で笑った。それに片眉を上げて笑みを返し、ミロは声高らかに宣言した。
「よし! 作戦を第二段階に移行するぞ」
「承知! 即ち…」
「『好き勝手に大暴れ』だ!」
 忍者刀が閃く。
 そして、ドアが板切れのように裁断され、崩れ落ちた。
「いくぞ!」
 ミロが吼える。引鉄に指をかけ、通路に飛び出す。だが、
「おわぁぁあああッ!!」
 慌ててゴンドラに戻り、遮蔽をとった。遅れて、鉄球弾が雨あられと降り注ぎ、壁面に無数の穴を開ける。
「ち…。派手な出迎えじゃねぇか。ブラーボのヤツ、湿気たジジイだと思っていたがサービス精神旺盛だな」
 減らず口を叩くミロ。その間にも弾幕が途切れることなく続く。
「なあ、忍法でどうにかならんのか? さすがに手榴弾の類は持ってないのよ」
 なんとなく出た軽口だったが、斬月侠は深く頷いた。
「よし。忍術の方でやってみよう」
 斬月侠は指で印を結び、なにやら呪文のようなものを唱えた。
「『臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前』」
 それが終わると同時に、どこからともなく噴出した白煙がゴンドラを覆い通路に流れこむ。少しして煙が晴れると、そこに斬月侠の姿はなく、代わりに牛よりも一回り以上大きい蝦蟇蛙が現われた。
「か、かえるだあぁ〜?」
 イボとぬめりに圧迫されながら、ミロは呻いた。
 あまりに突拍子も無い展開にドロイド兵の動きが止まる。だが、すぐに集中砲火が始まった。この状況では、異物はなんだろうと排除すればそれでいい。
 たが蝦蟇は両生類のクセに存外に強固な皮膚を持っているらしく、弾をものともしない。しかし、その巨体ゆえにゴンドラ内部をすっかり塞いでしまい全く身動きが取れない。壁と蝦蟇の脚に挟まれてしまったミロも同様である。
「こ、これじゃあ意味無いだろぉっ!」
 半ばキレ気味に叫ぶミロ。それが聞こえたのか、蝦蟇は一声呻くと大きく口を開け…炎を噴出した。
 まさに火炎放射である。
 通路に密集していたドロイド兵は蝦蟇が吐いた高熱の火炎にこんがりと炙られ、機能を停止する。さらにその残骸が融着し後列の動きを阻んだ。
 炎の照り返しが収まると、ミロは通路を覗き込んで感嘆の口笛を吹いた。それを合図にしたように再び白煙が上がり、蝦蟇と入れ替わりで斬月侠が現れる。
「なるほど…さすが忍者」
「今は感心している場合ではない。いくぞ!」
 斬月侠は忍者刀を抜き放ち、まだ煙がはれない通路に躍り出た。火炎攻撃を免れたドロイドを二体、一刀のもとに切り捨てる。
「忍者と一緒に中央突破っていうのも、縁起物だな!」
 ミロは銃を構え、突き進む。溶け落ちた仲間の残骸をよじ登るドロイドに向け発砲した。カメラ部を打ち抜かれ、三体が崩れ落ちる。だがさらに、それを乗り越えたドロイドが四体、ミロに跳びかかった。ミロは身を翻し鉤爪をかわすが、ドロイドたちに取り囲まれてしまった。ただでさえスペースが限られている通路で、爪が届くほどの距離。これでは拳銃など用を為さない。勝利を確信したドロイド兵は一斉に爪を繰り出した。
 しかし、ミロは揺るがない。
 攻撃を最小限の動きで避けながらカウンター気味に銃口をドロイドの懐、関節部に打ち付けるように滑り込ませ、引鉄を引く。金属の腕が飛び、首が落ち、オイルが壁に散る。
 一瞬の後、ミロの足元に機能を止めたドロイドが折り重なった。
「甘ぇんだよ、ロボ公」
 皮肉な笑みを浮かべ、ミロは更なる敵へと視線を向けた。
 

 
 斐美花は壁に潜りながら移動を続けていた。
 エレベーターの落下よる揺れから"第二班"が行動を開始した事は察知している。
(あのふたりが来てくれた。と、いうことは…蛍太郎さんと璃音も上手くやったのね)
 これで、世界征服を企む悪者の陣地の真っ只中に独りぼっちという心細い状況は終わったのである。そう思うと気が楽になってくる。
 段取り通りなら既に監視システムはダウンしているはずだが、そうなるとドロイド兵の警戒が強化されるだろう。特に、目に付く排気口や通気ダクトの前には必ずドロイドは立っているので油断は出来ない。壁から壁の間、通路を横切る時は慎重に慎重を期して進んだ。
 その甲斐あってか、トラブル無く目的の休憩室に辿り着く事が出来た。
 蛍太郎の推測によれば捕虜となった平田たちは、仮眠のための個室が連なった、このブロックに監禁されている。寝具と家具を撤去してしまえば完全に何もなくなることと、部屋に中からは外の状況が判らないことがその理由だ。この点、倉庫などに押し込もうものなら何が反撃の材料になるか判ったものではない。テレビ映画の冒険野郎のような活躍をする者が現れないとも限らないからだ。
 斐美花は天井から顔を出して休憩室を窺った。三つ目の部屋を覗き込んだところで、平田とソーニャを発見する。隣の部屋には警備員、そのとなりには他の職員がまとめて押し込まれていた。見た限りでは怪我人などはいないようだが、全員がぐったりと床に横たわっているのが気にかかる。極度のストレスで衰弱しているのか、はたまた薬を盛られているのか。床に回って顔を近づけてみた限りでは息はしているが、いずれにせよ動かせる状態ではない。
 そうでなくても、『人質の数が多いことが予想されるため、ブラーボ一味が撤退するまでは安全のため動かず状況を見守るべし』というのが蛍太郎の指示だ。つまり、これからは待機ということである。壁に潜りっぱなしでは長く集中力を保たねばならず消耗が激しくなるので、斐美花は付近の通路に下りて身を休める事にした。
 だが、すぐに壁の中へ逆戻りする事になる。
 ドロイド兵を引き連れたクルツが現れたからだ。
 クルツが部屋の鍵を開けると、ドロイドが二体中へ入り、平田とソーニャを引っ立てる。そして、もと来た方向へ踵を返した。
(大変!)
 監視を命じられたとはいえ、人質がみすみす連れ去られるのを見ていました、では話にならない。
 斐美花は壁から飛び出した。
 ドロイドは十体。
 身を潜め順番に潰していくのが確実で安全だが、下手に不意討ちをかけて時間をかけるとそれだけ仲間に近づけてしまう。
 ここは、正面から名乗りを挙げ足を止めるほうが確実と斐美花は考えた。
「こら、二人を返してください!」
 格好はつかなかったが、とりあえず叫んだ。その声に振り向いたクルツは、斐美花の姿を見ると、したり顔で頷いた。
「なるほど。お前が"幽霊"の正体か。今までどうやって潜んでいたのかは知らないが、こうして姿を見せてしまっては形無しなんじゃあないのか?」
 と、クルツはいやらしい笑みを浮かべた。斐美花は柳眉を吊り上げて言い返す。
「形無しかどうか、試してますか? なんなら、そいつら全員さしむけてもいいです。女の子ひとり相手にそこまでするかどうか、それは貴方次第だけど」
 明らかな挑発に、クルツの奥歯が軋む。
「言ったな小娘!」
 腰を落とし軍刀に手をかけると、 
「者共、いけい!」
 と、号令をかけた。
「ひ、卑怯です!」
「うるさい、いいって言ったろ! それにお前だって今の今までコソコソ隠れてただろうがっ!」
 斐美花の抗議にクルツはこめかみをヒクつかせながら答えた。そして、機械の兵士達は全く躊躇することなく、鉄球砲を乱射した。四角い通路の内側、殆ど隙間無く飛来した弾丸は、しかし斐美花のかざした掌の先で全て停止していた。
 弾が空中で止まる。
 その光景に、クルツは目を見開いた。
 静止、すなわち運動エネルギーを失った鉄球はそのまま音をたてて床にぶちまけられた。
 火器が通じないと見るや、ドロイドたちは爪を振りかざし突撃を敢行した。だがその時、床に散らばっていた鉄球が自らの意思を持つかのように、水平な床をドロイド達の方へ転がりだしたのである。それに足を取られ、ドロイドたちは次々と転倒した。
 そして斐美花は、将棋倒しになり身動きが取れなくなったドロイドたちの頭上を飛び越えた。五メートル以上の距離を助走なしで跳躍、クルツの眼前に迫る。
「ちいッ」
 クルツは軍刀を抜いた。横に薙ぎ払う。だが刃は斐美花の手前で何かに遮られた。同時に斐美花は空中で停止、バックステップで着地した。クルツが刀の切っ先を見ると、掌ほどの氷の塊が食い込んでいた。クルツが叫ぶ。
「ドロイド兵!」
 右手を掲げ、攻撃命令を出す。
 残る二体が人質を放り投げ、鉤を振り下ろす。着地直後で動きを止めていた斐美花に次々と爪が降り注ぎ、身体を貫く。だが、彼女の最期を派手に飾るはずの血飛沫は一滴たりとも舞うことはなかった。
 その代わりに火花が弾ける音がして、ドロイドたちが崩れ落ちた。彼らの爪は確かに斐美花の身体を貫いたが、それは透過能力によって通り抜けてしまっただけだった。
 状況が判らず、クルツは乾いた声で呻いた。
「なんなんだ…!?」
 それに答えるべく、斐美花が両手を広げた。バラバラと、床に何かが落ちる音。クルツが目を見開く。そこにはチップなどの電子部品が散らばっていた。斐美花は得意げに笑みを浮かべてみせた。
「適当にちぎってみたけど、上手くいったみたい」
 本当のところ、斐美花の心臓は早鐘のように鳴っているし脚は今にも震えだしそうだ。今まで透過能力を使い続けていたので相当精神力をすり減らしてしまったのだ。しかし、消耗していることを悟られるわけにはいかない。だから斐美花は敢えて不敵な表情を作った。さらに、相手を混乱させるために持てる能力の幾つかを同時に披露している。タネを悟られなければ、対処の的を絞らせずに済むからだ。強力な異能の血ゆえに複数のスーパーパワーを使いこなす斐美花なら、その手はさらに有効だ。
「貴様、超能力者の類か?」
 落ち着きを取り戻したクルツが、ゆっくりとした口調で問う。
 世界征服を企む男の部下をしていれば、超能力者の一人や二人とは遭遇する機会も充分あるだろう。もしかしたら、一戦交えたこともあるかもしれない。目の前の男の眼差しに"闘い慣れ"を見てとった斐美花は、敢えて無言。
「では、いくぞ」
 クルツが踏み込む。一閃。だが、太刀筋が止まる。斐美花はいつの間にか右手に持っていたツララで刀を受け止めていた。周囲の気温が一気に下がる。斐美花の左手が掲げられた。
「てええい!」
 気合とともに五本のツララが空中で形成され、クルツに殺到する。至近距離だ。クルツは後ろに飛び退きながら三本、着地と同時に一本叩き落し、残り一本はスウェーで避けた。
(この娘、氷を操るのか?)
 クルツは超能力者など見慣れており、今更それに驚くことは無い。先ほどの攻撃からクルツは斐美花を"氷使い"と推測した。だが、それを嘲うようにクルツの身体に大きな圧力がかかった。見えない何かに押されるような感覚。大きくバランスが崩れた。
「念力か!」
 念動力。テレキネシス。手を触れずに物を動かす、もっともポピュラーな超能力だ。
「こんなもの、効くかッ!!」
 クルツは吼えた。そして体勢を立て直す。 
 超能力は意思の力。それに対抗するのもまた意思の力であることを、この男は経験で知っている。簡単かつ乱暴に言ってしまえば、気合で念力を跳ね返したのだ。
 だが、その間があれば充分だった。
 斐美花は自分を念動力で飛ばし、クルツの懐へ突っ込んだ。もう一つの力、彼女自身の才能に起因する能力で空気中の水分子を凍結させ、それを念動力で並び替え氷の剣とすると、渾身の力で振り下ろす。
 だが、クルツの軍刀がそれを受け止めた。斐美花はさらに力を込めるが、揺るぎもしない。それどころか氷剣が欠け、刃の半ばまで軍刀が食い込んだ。
「く…ッ」
「猪口才な小娘め! オレに剣で挑もうなど十年早いわ!」
 修羅か羅刹かといった形相でクルツが吼える。しかし斐美花は不敵な表情を崩さなかった。そのまま力を込め、剣を折ると飛び退いた。そして、再び剣を正眼に構える。そのときには既に剣は元通りになっていた。
「ふ。折れたら折れた分だけ、作り直せばよいか。しかしな。人の身である以上、貴様の力は無限ではない。それに、剣では圧倒的にオレに劣っているのだぞ。これではただ、結末を先延ばしにするだけなのではないか?」
 クルツは珍しく自信に満ちた声で高らかに、勝利宣言を出した。
 だが、斐美花は動じない。伝説の拳法家のように、右手で「こいよ」と挑発した。
 クルツの怒りが爆発する。
「どうなっても知らんぞ!」
 猛然と軍刀を振り下ろすクルツ。斐美花はそれを氷剣で受ける。鋭い音が幾度も響き、氷の欠片が宙を舞う。
 相変わらず、剣での争いになるとクルツが優勢だった。鋭く力強い太刀条はあっという間に斐美花を壁際に追い詰めた。
「でえい!」
 気合を込めて振り下ろした軍刀は、思い切り壁面に打ち付けられた。斐美花は既に壁の中に逃れていたのだ。
 クルツは慌てて周囲を見渡す。氷剣は床に転がったまま。ならば壁からの不意討ちと考えたクルツは少しの動きも見逃すまいと目を皿する。
 だが、衝撃は思いもしないところからやってきた。
 真正面から、鼻の頭を殴られたのだ。
 次に、頬を張られた。
 しかし、斐美花の姿は見えない。物質をすり抜ける能力で光を透過させれば、文字通りに透明化できるのだ。
「くそぉっ!」
 闇雲に斬りつけてやろうと、軍刀を振り上げるクルツ。だが、何かが近づく気配を察し身を捩る。念動力で飛んだ氷剣がクルツの肩口を掠め、もうとっくにそこにいたのだが、今姿を現した斐美花の手に収まった。
「おのれっ!」
 まだまだクルツの戦意は衰えない。それどころか、斐美花の能力に翻弄され侮辱を受けたと感じ、さらに躍起になって攻めたてる。
「オレは、超能力者が嫌いなんだよ! 武術の心得も無いくせに強いなんて、おかしいだろうがっ!! 失礼なんだよ!!」
「そんな…私だって、訓練してるんです!」
 斐美花は反論した。だが、クルツの怒りは収まらない。
「うるさい! 嫌いなもんは嫌いなんだッ!!」
 こうして八合ほど切り結んだころ、クルツは異変に気付いた。
 腕が重いのだ。
 いや、それだけではない。身体全体が酷く冷たい。真冬の夜に軽装で放り出されたような寒さがクルツを包んでいた。
(なんだ、これは…)
 疑問が頭を渦巻くが、強烈な眠気に襲われ思考がままならない。遂にクルツは膝をついた。
 それを見て、斐美花はパワーの出力を停止した。
「この辺にしとかないと危ないな」
 床にうずくまってしまったクルツは苦しげに斐美花を見上げる。
「な、なにをしたんだ…」
「そんなこと、言えるワケないじゃない。しばらくしたら動けるようになりますから、そこで大人しくしててください。あ、でも眠いからって寝ちゃダメですよ。死んじゃいますからね」
 労わるような色さえ混じる声で、斐美花は答えた。
 だが、ワケも判らずやられたのではクルツも納得がいかない。力を振り絞り、苛立ち紛れに絶叫する。
「く、くそ…ドロイド兵! 撃て! 撃ちまくれ!」
 クルツの指令に答え、自由を取り戻していた何体かのドロイドが発砲した。だが、それも先ほどと同様、弾丸は斐美花に当たる前に空中で静止、落下した。
「危ないなぁ…。自分に当たったらどうするんですか」
 "冬の王"
 それが、藤宮斐美花の超越能力である。
 自然界に存在するあらゆる運動に干渉し、それを減退、停止させる力だ。これにより、分子の振動を低速化して熱を奪い物体を冷やすのは勿論、弾丸などの運動エネルギーを消し去る事が出来る。
 生物に対してこれを使えば、無論抵抗は受けるのだが、対象を仮死状態にし、最終的には凍死させる事もできる。ただし、この力で直に生命体を"冷やす"のは非常に時間がかかる。そこで斐美花は、複数に分けて少しずつ気付かれない程度にクルツに力を送り込んだのだ。生命活動自体が非活性化してしまい、クルツは身動きが取れなくなってしまったのである。
 それをクルツに言わないのは、手の内を明かしたくないというのが第一だが、それ以上に彼の命を脅かす意思がない事の現れである。
「じゃあ、私行くから。もう悪い事しないでくださいね」
 そう言うと、斐美花はクルツに背を向けた。
 だがクルツは、それを侮辱と受け取った。
「お、おのれ…」
 平田たちのほうへ歩む斐美花の後姿を見ると、怒りがふつふつと湧きあがる。そして、それがクルツの身体に力を与えた。やおら立ち上がると、
「なぁァめるなァーッ!」
 憎き相手の肩口から袈裟懸けに、軍刀を振り下ろした。斐美花の目は、驚きに見開かれていた。
 殺さないように手加減したのが仇になった。
 クルツは残された力を振り絞って立ち上がり、倒れこむように全体重をかけ、その太刀を斐美花に浴びせたのだ。
 刀は確かな手ごたえとともに、切っ先で床を砕こうかというほどに振り抜かれた。クルツは会心の笑みを浮かべ、軍刀を鞘に納めようとした。
 そして気付いた。
 刀身に、奇妙なものが絡み付いていた。色は紫で、よく見るとチェック柄の布で出来ている。正確な形状は把握できないが、三角形の断面のカップ状のものが二つ、布製の紐で繋がれているようだ。
(これは…)
 クルツは気付いた。
 ―ブラジャーだ。
 クルツのスキンヘッドから嫌な汗が噴き出る。恐る恐る顔を上げると、そこには怒りと羞恥で顔を真っ赤にし、目に涙を溜めた斐美花が、クルツを睨みつけていた。
 クルツの斬撃を透過でかわそうとした斐美花だったが、不意討ちであったことと消耗から下着にまで気が回らなかったのだ。刀は斐美花の身体と服はすり抜けたが、ブラを引っかけ諸共に透過した。クルツの感じた手ごたえは刀に絡まったブラジャーの抵抗だったのだ。そもそも、冷えた手の感覚など当てになるはずも無い。
「あ、あの…こ、これは…」
 なぜか言い訳めいた口調になってしまうクルツ。斐美花の視線に耐えかね、ついにクルツは叫んだ。
「ごめんなさーいっ!!」
 そして何処にそんな力が残っていたのか、はたまた命の危険を感じ火事場のバカ力が出たのか、一目散に逃げ出した。――軍刀を持ったままで。
「ば…ばかーっ! 返せー!」
 追いかけようとする斐美花。だが踏み出した足から力が抜け、膝をついてしまう。いかに超越能力を持とうとも、真剣を持った人間と対峙して消耗しないわけが無い。休養が必要だが、そのまえに平田たちの様子を確かめばならない。斐美花は床に倒れこんでいる二人のもとに歩み寄った。
「先生、ソーニャさん」
 声をかけると、ふたりともかすかに反応した。
「よかった…」
 斐美花はペタリと座り込んで、安堵のタメ息をついた。その途端、脚から力が抜けてしまう。緊張の糸が切れて、疲労が一気に出てしまったのである。
 だが不意に、背後から複数の金属音がした。
 斐美花の背筋が跳ねる。恐る恐る振り向くと、自力で将棋倒し状態を脱したドロイドたちが体勢を立て直していたのだ。
「しまった…」
 青ざめる斐美花。焦るあまり、完全に破壊しておかなかったのが仇となった。
 ドロイド兵は隊列を組みなおし前進を始める。斐美花は、先ほどクルツが撃たせた鉄球を転がし再びドロイドたちの足をもつれさせようと、パワーを出力する。
 だが、鉄球はピクリとも動かなかった。
 オーバーワークが祟ったのだ。
 いつもは簡単に出来るレベルの念動力も使えなくなっていた。それどころか、足腰が全く立たなくなっている。ここまで立て続けにパワーを使う経験は無かったので、自分の限界を読み違えていたのだ。
 透過や念動力などは、斐美花のもう一つの能力、"アーツ・オブ・レガシー"に寄るものだ。これは血脈に刻まれた記録をもとに過去に藤宮家から出た異能者の能力をエミュレートするもので、いわば超能力の下位互換を実現するものだ。エミュレートは、より性能の高いハードウェアによって行なわれるのが普通であり、斐美花にそれが可能なのは、半神家系の生まれゆえに他ならない。
 そのハードの性能に見合った能力こそが"冬の王"であり、だからこそ異常なまでに強力である。
 だが、それだけに冬の王は消耗が激しい。一言に弾丸を留めるといっても、音速で飛来しコンクリートを穿つほどの大きなエネルギーを相殺し消し去るには、同等のエネルギーが必要なのである。それに緊張などの要因が加われば、動けなくなるほどの疲労を強いるのもやむないことだ。
「あ…あ…」
 もう斐美花は、悲鳴を上げることしか出来なかった。
 しかし。
 ドロイドたちは突如として肉色のヒモ、いや綱引きの縄ほどの太さの何かにまとめてグルグル巻きにされ、そしてその背後に待っていた大きな口に飲み込まれた。
 その口の主は、それに見合って巨大な蝦蟇だった。
「か、かえる…?」
 呆気にとられる斐美花。すると白煙が辺りを包み蝦蟇の姿が消え、斬月侠が現れた。
「ええ〜っ!? な、なんでーっ!!」
 今度は、声を上げて驚く。そんな斐美花に、斬月侠は事もなげに言った。
「忍術さ」
 斬月侠はツッコミを期待していたが、斐美花は黙って頷いてしまった。驚きのあまり言葉にならないというもあるが、本人がそうだと言うのだから異論を差し挟む余地など感じないのである。
 少々拍子抜けしてしまった斬月侠だったが、そんなことよりも斐美花を気遣う方が先だと気付き、言葉をかけた。
「立てるかい、斐美花…さん」
 だが、斐美花は斬月侠を見上げたまま座りっぱなし。すこし逡巡して斬月侠が手を差し伸べると、斐美花はニッコリと、その手を取った。
 

 
 クルツの戻りが遅いことで、ブラーボは撤退を決意した。
「メタルカ、退却戦だ。残存するドロイド兵を資材搬入口へ移動させろ。貴洛院女史にはご同行願おうかの。…案ずるな、適当なところで解放するわい。
 …そういえば、幽霊騒ぎですっかり忘れておったが、ヤス&シゲはどうなっておる?」
 言われて初めて、メタルカは彼らの事を思い出した。
「そういえば、どうなってるんでしょう。向こうからの連絡はまだないようですが」
「なら、こっちからかけてやれ」
 メタルカは、今や用を為さなくなったメインフレーム脇の机に置かれている電話から受話器を上げた。
 ここは基本的に職員を缶詰にするシステムになっているが、所長室にだけは電話があり、そこから外部と連絡を取れるようになっている。だが、そこに立ち入る権限を持っている人間は極僅かで蛍太郎にもその資格はない。もっとも、ムリヤリ押し入ってきたブラーボたちにはそんなルールなど関係ない。あらかじめ持ち込んだケーブルで配線を伸ばして電話をコンピュータールームで使えるようにし、ヤスとシゲの私物の携帯電話で連絡を取り合っていた。
 彼らのボディには無線機が仕込まれているが、電話回線やIP通信網との接続はされていないのである。サイボーグの内蔵通信機器で電話番号やプロバイダーのアカウントなどを取得するわけにはいかないからだ。
 受話器を耳に当てしばらくして、メタルカはありのままの状況を報告した。
「ふたりとも出ません」
「やっぱりな。そもそもアイツらが任務を果たしていれば、こんな事にはならん…。と、なると…」
 ブラーボは叫んだ。
「おい! いるんじゃろ。さっさと出て来い! こっちにはまだ人質が残っとるんじゃぞ!」
 しばしの沈黙。
 そして、天井通気ダクトの格子蓋が勢いよく落下する。そこから降りてきたのは、藤宮蛍太郎だった。
 蛍太郎は、彼らしからぬ鋭い視線をブラーボに飛ばした。
 
 
9−
 時間はニ十分ほど前に遡る。
 高山研究室にて蛍太郎に策を授けられた面々は、まずはそこらの椅子に座り待機した。
 作戦の第一義はラプラスの無力化。
 それさえ成功すればブラーボたちは地下研究室にいる意味を失い、退却させることができる。一味の捕縛などは全く考慮の外だ。そして、ミロと斬月侠が攻撃をかけるのはドロイド部隊の体勢を出来る限り崩すことで相手の動揺を誘うという目的もあるが、それよりも陽動の意味合いが強い。なにせ、既存のコンピューターではラプラスに手も足も出ないのだから、クラッキングが発覚した時点でお終いなのだ。そのために、攻撃の的をラプラスではなくメインフレームに設定したくらいだ。
 もっともそれは、トライアルのために特異な接続にしてあったために可能だった事である。そういう意味では、今回はまさに僥倖というべき運の良さだったといえるだろう。
 そして、その幸運を無駄にすることは許されない。
 作戦は電撃的に遂行しなければ意味がなく、そのため蛍太郎は第一段階に斥候の捕縛を設定した。
 先ほどまで続いていたブリーフィング中からずっと窓の方、いや窓側の壁をじっと見ていた璃音が手を挙げる。
「また電話してるよ」
 頷く蛍太郎。
「…やはり十分おきか」
 情報収集のための行動が全て筒抜けになっているのだから当然だが、ブラーボは監視を差し向けていたのである。それも予想通り、ドロイドではなかった。
 彼らは月影楼の二つ隣の研究棟・真珠楼の屋上から高山研究室を見張っていた。それなりに距離はあるが、より向こうから見やすいようにということだろう。いずれ、そこからは月影楼の入り口と非常口の両方が見えるので監視所としては申し分ない。
「ロボットじゃないみたい。頭の中に、何か機械じゃないものが入ってる感じ」
 璃音は壁を薮睨みしながら言った。
 レッドヴィジョン。
 璃音の目は虹彩に色素が無いうえに視神経自体が弱かったために、生まれてすぐ失明している。だが、その赤い瞳はパワーによって視力を与えられ、常人には見えないものを含め様々な物を見ることが出来る。その一つが透視である。
 透視といっても都合よく何でも見えるわけではなく、ピントを変える事で建物や無機物は比較的自由に見る事ができるが、生物に対してはX線撮影に近い状態にしか見えない。ためしに覆面をした者を透視してみたが、骨しか見えなくて誰だか判らなかったくらいだ。
 璃音はこの能力を使い、蛍太郎がウォール街の異変を突き止めるに至るまでの調査をしていた頃から、窓からではなく壁を通して監視者を逆に観察していたのである。その結果、彼らの定時連絡が十分間隔である事をつきとめたのだ。
 もちろん蛍太郎陣営の動き、特に人の流れはブラーボ側に把握されているだろう。忍者が人目につくようにここへ来たとは思えないが、ミロが現れた事は、それが誰だか判らないにしても伝わっているはずだ。
 だがいずれにせよ時間はない。不利な材料はいくらでもあるし、それは動かなければそれだけ増えてどんどん積み重なっていく。そして、午後六時三十分になった時点で全てオシマイだ。
 蛍太郎は決行のサインを出した。
 

 
「はい、さっきと同様、動きないっす」
 シゲは携帯に向かいそう言うと、通話を終えた。十分前に電話した時と、それどころかここに来てから一時間、まるで状況が変わらず、シゲは少々ウンザリしていた。
「うう…退屈だなぁ。下のほうは世界征服にリーチがかかって祭状態なんだろ。オレも現場にいたいぜ」
 いつもはなだめにかかるヤスも、今回は同意した。
「そうだよなぁ。祭は参加しないと意味無いんだよなぁ。せめてこっちにも刺激が欲しいよ」
 そう言って、ぼんやりと高山研究室に視線を送った。
 すると、背後から声。
「刺激ね。今からイヤってほどあげちゃうよ」
 サイボーグ二人が慌てて振り向くと、制服姿の璃音が赤い光に包まれて浮かんでいた。
 璃音は彼らには見えない裏側の窓から外へ出て、大きく迂回してここまで来たのである。途中で飛んでも、周りは祭りの喧騒に夢中になっているから気にも留められない。そして、定時連絡が終わってから攻撃を仕掛けたというわけだ。
「うわっ!」
 突然の事にヤスとシゲは頭が真っ白になってしまう。自慢の鋼の鉄拳で応戦すべく身構える間もなく、璃音のエンハンサー光球を受け昏倒した。
 璃音はシゲが持っていた携帯を踏み潰すと、次にヤスの懐から携帯電話を取り出し、握り潰した。
「よし、任務完了っ」
 それから明度と耐久時間が上がるように調整した光球を打ち上げた。
 
 璃音の合図を見た蛍太郎は、早速パソコンに向かった。
 ブラーボたちが次に定時連絡を取るまで、そしてミロたちの突入予定時間まで、あと九分弱。その能力を生かして先行している斐美花が気の利いた陽動をしてくれるはずだからもっと時間はあるだろうが、万全を期すためにも、そして自分のプライドを賭けて、ここは八分以内に終了させなければならない。
 まず、IP通信網を介してメインフレームのポートにアクセスする。三城大学の技術者が心血を注いだシステムは、そこいらの政府機関の情報システムなど足元に及ばないほどの強固さを無意味に誇るが、その最新バージョンを構築した張本人の前では無力その物である。
 蛍太郎自身が設定したパスワードを入力すると、ポートはあっさりと開かれた。あとは、ブラーボたちの注意がラプラスにモニタされている警備システムに向いていることを期待しつつ、このシステムを破壊するだけだ。
 

 
 そして、蛍太郎は再びブラーボと対峙した。
 押し込み強盗を世界規模の危機に変えた量子コンピューター・ラプラスを前に、ブラーボを抱えたメタルカと玲子を挟んだドロイド二体、そして蛍太郎が視線をぶつける。
 始めに言葉を発したのはブラーボだった。
「ふん、よくやったと褒めるべきか。やはりお前は、洗脳してでも我が配下とするべきでだった…。だがな、貴洛院玲子がこちらの手の内にある事を忘れてはおるまいな」
 それに合わせるように玲子は、
「永森君助けて」
 と、悲鳴をあげた。
 しかし、蛍太郎は平然としていた。
「人質ですか。ではこちらも…」
 そう言って指を鳴らすと、サイボーグ二体を引きずって璃音が部屋に入ってくる。ブラーボの舌打ちが響いた。蛍太郎は穏やかに、しかし強い口調で言った。
「こちらは二人です。一人は貴洛院さんと交換、もう一人は、あなた方が撤退したところで引き渡すというのは、どうでしょうね?」
 だが、ブラーボは傲然と言い放った。
「何を言っておるんじゃッ。そいつらと貴洛院が等価トレードできると思うのかぁ? バカ言ってんじゃあないよ。サイボーグなんざまた作ればいいじゃろーが。そんなマヌケども、タダで引き渡すといわれても受け入れ拒否じゃ。生ゴミと金属とプラスチックに分別して、勝手に捨てといてくれや」
 今度は蛍太郎が息を呑む。
 さすが狂気の天才科学者。なんたる非情。なんたる冷徹さ。そうでなくては悪の道は歩めぬということか。
 だが、直後にブラーボは悲鳴を上げる事になった。
「ブラーボ様、酷いです!」
 メタルカが泣きながら、ブラーボが入ったポッドをシェイカーよろしく振りだしたのだ。
「なんて事言うんですかっ! 貴方、いつからそんな極悪非道なマッドサイエンティストになったんですか!!」
「よ、よせっ違うんじゃメタルカ! これは駆け引きじゃ、言葉の綾じゃ!」
 ブラーボの声には泣きが入っている。だがメタルカは止めない。切迫した表情で叫んだ。
「せめて、私が作ったボディだけは回収してください!!」
 その場が静寂に包まれた。
 少しして、文字通りの脳震盪でヨレヨレになったブラーボが呟く。
「…お前のほうがよっぽど酷いわい…」
 それには、蛍太郎も全く同感だった。璃音は同情の眼差しをサイボーグたちに向けていた。
「この人たち可哀想だよ。タダで返してあげたら?」
「そうしたいのはやまやまだけど、貴洛院さんが…」
 困り果てて頭を振る蛍太郎。だが、靴底をトントンとつつかれて、つまり床の中からの斐美花の合図を受け、考えを変えた。
「仕方ない。この二人とラプラスをつけますから、貴洛院さんを返してください」
 予想のはるか上を行く好条件に、ブラーボは歓声を上げた。
「おいおい、本気か?」
 蛍太郎は憮然と答えた。
「いいですよ。仕方ありません」
「ふふふ、そうかそうか。これでワシの世界征服は達成されてしまうじゃあないか。ホントに良いのか?」
「良くはないですが、仕方ないって言ってるじゃないですか。…現実には、人命の価値なんて平等じゃあないわけで、それを見誤った僕の負けです」
「よろしい。では、黙ってみておれよ」
 ブラーボが喜々として指示を出すと、ドロイド二体がテキパキとラプラスを解体する。そして、新たに動員したドロイドがコンテナに積み台車に載せていく。蛍太郎と璃音は、それをただ見守っていた。
 しばらくして、ブラーボは高らかに宣言した。
「よし、退却じゃ。いや、勝利への凱旋じゃ!
 蛍太郎よ、サイボーグを連れてついてこい。ワシらがここを出るときに人質と交換じゃ」
 
 地下研究室の資材搬入口は、山一つ向こうの廃業した石切り場にある。そこからトンネルで大学地下まで続いているのである。
 トンネル内は電車で移動するようになっており、双方の発着場を内部の人間は"駅"と呼んでいる。
 その駅で、ドロイドたちは荷物を積み終わろうとしていた。その間、当然の事ながら表情をうかがい知る事はできないが、ブラーボは至極ご機嫌の様子だった。スピード征服こそ失敗に終わったが、この積荷をじっくり使えば今度こそ正式に世界を手中に出来るのだから当然である。
 駅までついてくることになった蛍太郎はその手際の良さに舌を巻いた。璃音は、動かないままのサイボーグの首根っこを掴んでいた。まさに両手で人形を引きずっているようだ。
 蛍太郎たちが来てからものの五分もしないうちに作業が終わる。
 メタルカは作業を終えたドロイドを貨車に引き揚げさせ、ブラーボを促す。すると、合成音がトンネルに響いた。
「よし小娘、サイボーグを連れて来い。こっちは、ドロイド二体に貴洛院を連れて行かせる。ちょうど真ん中まで行ったら交換だ」
 璃音は頷いて、それぞれの手でサイボーグの首根っこを引いて前に進み出る。それに合わせて、玲子を両脇から挟みドロイドたちが歩を進める。そして、お互い丁度等しい距離を行ったところで止まる。そこで璃音がサイボーグを持ち上げると、ブラーボが合図した。
「よし、交換じゃ」
 玲子が璃音の方へ歩きだしドロイドたちがサイボーグを受け止めた、その時。
「そうはいかんッ!」
 と、男の声が勇ましく反響する。一同が見上げると、フック付きワイヤーで駅天井の建材からぶら下がったクルツが、ジャングルの王者か蝙蝠マスクの男かという見事な空中ブランコで璃音とドロイドたちの間に雪崩れこみ、玲子を掻っ攫ったのである。そして、クルツは玲子を脇に抱えて貨車の上に着地した。
「さあ、今ですよブラーボ様!」
 突然の事に呆気に取られていたブラーボとメタルカだったが、クルツの高らかな声で我に返った。
「よ、よし、撃て!」
 ブラーボの指令で、貨車の窓から突き出された二十体近いドロイドの腕から鉄球弾が乱射される。璃音は壁状にエンハンサーを展開し、蛍太郎を守るために後退した。
 その状況に気を良くしたクルツが、満面の笑顔で高らかに指示を出した。
「よぉし、いくぞ!」
 動力車のドロイドが列車を発車させる。ブラーボを抱えたメタルカと、サイボーグを背負ったドロイドたちが慌てて貨車に飛び込む。
 そして、列車は駅から離れ一気に加速した。
 次第に小さくなっていく列車を睨み、蛍太郎は歯軋りした。
「…なんてことだ」
 銃撃が止んだのを見計らって、璃音が駆けだした。
「わたし、追いかける!」
「璃音ちゃん!」
 その後姿を呼び止める蛍太郎。振り向いた璃音は、すぐに何を言わんとしているのか察し、頷いた。
「大丈夫、判ってる」
 そして、璃音はどんどん小さくなっていく列車に向かって飛んだ。
 

 
 玲子を脇に抱えたクルツは、貨車に乗り込んだそばからブラーボに怒鳴りつけられた。
「バカモン! さっさとドアを閉めんか! 命に関わるじゃろ」
 ワケも判らず、言われたとおりにするクルツ。
「ったく、遮蔽装置のフィールドに引っかかったら即死じゃぞ」
「ああ、そうだった…」
 作戦説明を思い出し、頷くクルツ。その丸い頭を玲子が殴りつけた。
「そうだった、じゃない! 私まで殺す気?」
 怒り心頭、といった様子である。それもそうである。空気の読めない男に危うく不注意で殺されかけたのだから怒って当然だ。そんな玲子の顔を見て、ブラーボも憤然とする。
「まったく。余計な事をするときだけは獅子奮迅の活躍をしおってからに…。これから、どう理由をつけて玲子女史を開放したらいいんじゃ? せっかく都合良くことが運んだのに、見事にミソをつけてくれたのぅ」
 クルツはブラーボの言葉に首を傾げるばかりなので、メタルカが経緯を説明する。クルツは驚き、そして呆れ顔で言った。
「へえ…見かけによらず腹黒い人っすね…」
「そりゃどうも」
 玲子の顔には「あんたみたいなのには言われたくない」と書いてある。それからブラーボが咳払いをして、改めてクルツに言葉をかけた。
「では、改めてもう一度言うぞ。クルツよ、オマエは空気が読めていないときだけは大活躍じゃな」
 その一言は、この四十路男のハートを深く深く抉りとった。クルツは隅っこで壁に向かって膝を抱え、座り込んでしまった。そんな部下を尻目に、ブラーボは玲子に言った。
「ふん、どうしたもんかのぅ。いかなる理由をつければ、ワシらの関係を疑われずにアンタを送り返すことが出来るかのぅ。…いずれ、玲子女史には貴洛院グループの中枢に居てもらわんことには何にもならんしな」
 玲子はうんざり、といった風に肩をすくめた。
「知らないわ。ま、そのうちMr.グラヴィティあたりが助けに来るでしょ。そのためにもさ、頼みもしないのに追いかけてきてるあの女を潰しちゃってよね」
 と、事もなげに言ってのける玲子に、ブラーボは悪寒を覚えずにはいられなかった。
 

 
 資財搬入口側にも遮蔽フィールドが効いている。そのため、電車の車両内にも防御フィールドが仕込まれており、その結果こちらからも正規の方法でしか入れないようになっている。
 だが、璃音のエンハンサーによるバリアは強固な防御力ゆえにその効果を無効化できる。エレベーター破壊後に璃音と蛍太郎が研究所に入れたのもそのためだ。
 ドロイドたちが手を引込めるまで待ってから飛び出したので、璃音の視界からはとっくに車両は消えている。そのかわり、外の光がどんどん大きくなってくる。そして、トンネルを抜けた。そこは使わなくなった石切り場で、山中の割には妙に開けた場所だ。既に日が暮れていて月が辺りを照らす。月明かりとはいえトンネルの中に比べれば随分と明るいので普通なら目に影響が出るのだが、視神経で物を見ていない璃音には全く関係がない。
 そして、璃音は見た。
 目に前に浮かぶのは、四階建てビルほどはあろうかという巨大な金属製の円筒。それから蛇腹状のアームが四本伸びている。
 円筒が高度を上げアームが唸る。そして、名乗りを上げる。
「ディアマンテ2、登場!」
 ブラーボの声だ。さらに拍手、二人分。
 そう、ドクターブラーボが誇る最終兵器、ディアマンテの姿がそこにあった。
 
「しかし…いつの間にこんなことに?」
 メタルカが驚きの声を洩らす。
 今、ブラーボたちがいるのはディアマンテ内部の四畳半ほどのスペースである。
 前半分にはシートが二つ、後ろは一段高くなっておりそこにブラーボのカプセルが設置されている。前面の壁には巨大モニターがあり、外の様子が表示されている。それにはちょうど生意気な高校生がアップになっていた。
 メタルカが横を見ると、同様なシートに座ったクルツがマヌケ顔で隣にいるメタルカを見ていた。そして、ふたりのシートの周辺には様々なボタンやレバーが所狭しと並んでいた。
「このドクターブラーボは単なる天才ではなく、経験から学ぶ男だ。修理のついでに、先の敗戦を踏まえて改修したのさ。前回はフォースシールド持参とはいえディアマンテの天辺にいたもんだから酷い目にあったじゃろ。ロボットの上に仁王立ちしているのは確かにカッコいいが、ワシらは超人でも十傑集でもないからな。なんかあったら死んでしまう。
 だから、内部にコックピットを設置したのじゃ。これでもう、殴られても撃たれても爆撃されても怖くないぞ」
「でもこれ、どうやって制御するんですか? 私、操縦なんて出来ませんよ」
 大量のレバーの前に途方にくれた様子のメタルカ。それはクルツも同様で、ただレバーを握って呆然としていた。
「なぁに、今までと変わらんぞ。音声入力によるコマンドをコンピューターによる自動制御で実行させる方式だ。ただし、これからは手元にある二本のレバーが最終的なトリガーになる。音声コマンドののち、火器ならスイッチで発射されるし、アームの動作はレバーによるアナログ入力じゃ」
 ブラーボの言葉に当然の疑問を口にするメタルカ。
「じゃあ、あちこちにビッシリついているレバーやボタンは…?」
「うむ、飾りじゃ。ゲーム筐体じゃあるまいし、せっかくコックピットにいるのにレバー二本だけじゃ味気無いと思ってのぅ。これだけ色々ついていれば、建設重機みたいで面白いじゃろ」
「はぁ? そんなの無意味ですよ」
 呆れ果てたといった様子のメタルカ。だが、クルツは何かを悟ったらしく俄然目を輝かせ始めた。
「わかりました、ブラーボ様! こうすれば良いんですね! …ディアマンテパンチ!」
 クルツが叫んでからレバーを前に倒すとディアマンテのアームが唸り、山肌を抉り取った。その光景にブラーボは歓喜する。
「そうじゃそうじゃそうじゃ! さすがじゃクルツ! 飲み込みが良いのぅ」
 手放しで褒められて、クルツは照れくさそうに鼻の頭をかいた。先ほどボロクソに罵られた後なので尚更嬉しい。だがメタルカは納得いかない様子だ。
(いい大人二人がこんなことでキャーキャーはしゃいで恥ずかしくないの? …ワケ判らないわ)
 そして、何も言わなかったが玲子も同様に呆れていた。だが、冷たい女性陣の反応とは裏腹に、クルツは意気揚々とレバーを引いた。
「さあいくぞ! まずはあの小娘に目にモノを見せてやる!」
 ブラーボもも楽しげだ。
「いいぞいいぞ! クルツよ、その意気じゃ!」
(…でも、ふたりが楽しいなら、いいか…)
「ディアマンテ、発進!」
 クルツのシャウトは外部スピーカーを通してあたりに響き渡った。いや、それどころかコックピット内の会話は全て文字通りに筒抜けだった。
 璃音は、その緊張感のなさに一辺に気勢を削がれてしまっていた。
「…ホントに戦うの? 玲子さんを返してくれたらそれでいいんだけどなぁ…」
 だが、人質を盾に取るようなことをされるよりもマシなので、黙って付き合うことにした。
「ディアマンテ・メガトンハンマー!」
 ディアマンテはクルツの絶叫とともに四本のアームを振り上げ、横殴りにブン回す。爪が地面を穿ち、盛大な土煙が舞った。
 さらにディアマンテの装甲に直径30センチほどの穴が開き、レンズが現れる。レンズは表面のいたるところに設置されているが、ディアマンテの巨躯に対してそれはあまりに小さく、余程注意深く観察しなければその存在には気付かないだろう。だが、せっかくの不意討ちの機会にも関わらず、相変わらず外部スピーカーはオンのままだった。
「レーザー発射!」
 クルツが叫ぶとディアマンテの表面が数箇所、小さな光を発した。それと同時に、地面が爆ぜる。璃音は声がした瞬間に跳躍していたので事なきを得ていた。
「ふう、危ない。レーザーって事は光の速さで飛んでくるんだよね。光るのをまともに見たら当たっちゃうって事じゃん」
 そのまま飛んで反対側に回り込むと、そこからもさらにレーザーが発射される。さらにディアマンテは四本のアームを交えて時間差攻撃を仕掛けてくる。璃音はそれを彼我のサイズ差を生かして巧みにかわしながら、エンハンサー光球を無数に作り出し、マシンガンよろしく撃ち出した。しかし、ディアマンテの装甲面にことごとく跳ね返される。
「おおおお、全く効果なし!」
 無邪気に喜ぶクルツ。さらに光球は効果が無いどころか殆ど垂直に反射され、璃音の方へ殺到した。
「きゃっ! なんで!?」
 不意を突かれ、光球のいくつかが璃音に当たってしまう。エンハンサーに包まれていた璃音はダメージを受けることなく体勢を立て直し軟着陸、墜落は免れた。背後で着弾した石崖が崩れ落ちる。
「ふははは! 見たか、ディアマンテの力を!」
 ブラーボが誇らしげに大笑する。その声は外部スピーカーで山々の間を木霊した。
「超能力反射装置の搭載により、あらゆる超能力の影響を受けないのだ! これでMr.グラヴィティも敵ではないわい!」
 おお、と驚きの声を上げるクルツ。
 この装置はブラーボがアメリカ時代に研究したオーバーテクノロジーの産物であり、遮蔽装置の原型となったものである。
 メタルカも聡明なボスに拍手と喝采を贈った。
「お見事ですブラーボ様! さすがは経験から学ぶ男。そして、応用力の男。その智慧の深きことバイカル湖のごとしです!」
(…ワシの智慧は千五百メートルか。海ほど深くはないんじゃな…)
 微妙にガッカリするブラーボ。だが気を取り直し、璃音に告げた。
「どうじゃ。お前の力はディアマンテには通じんのじゃ。なあに、ワシも鬼ではない。親父殿とも知らぬ仲ではないしな。ワシの部下になるというなら、喜んで迎えてやるぞ。お前なら即戦力として一発採用じゃ」
 しかし、璃音は動じない。それどころか普段の彼女からは考えられない鋭い眼差しをディアマンテにぶつけた。そこにブラーボは、今は亡き旧友の面影を見た。
「ぬぬ…。能力の種類は違えども、さすがは親子といった所だな」
 気圧されているのか、それとも感慨に浸っているのか。ブラーボの声は震えていた。それを吹き飛ばすように、メタルカの悲鳴が響く。
「何を呑気にしてるんですか! 見てください!」
 モニターの表示が拡大される。そこには、多量のエンハンサーを一気に放出する璃音の姿があった。あふれ出した赤い光は、次第に何かの形を作り出していく。
 一転し、クルツの顔が青ざめる。
 璃音が総ての力を解放した周全なる姿がそこにあった。アヴァターラ、"フラッフ"だ。
 いきなり見せた変化に息を呑んだブラーボだったが、不安を振り払うために敢えて笑う。
「ふははははは。デカくなったからって、どうなるもんでもないぞ!」
 フラッフは宙に浮くと、そのまま真っ直ぐディアマンテに突っ込んだ。
「ち…っ、レーザー発射!」
 クルツが引鉄を引く。だが璃音はフラッフの表皮を硬質化させてレーザを弾く。
「ディアマンテ・メガトンハンマー!」
 さらに四本のアームが襲い来る。フラッフは腕と大きな耳を盾代わりにしてそれを受け止める。それがアームクローに貫通され千切れ飛ぶのも構わずに、フラッフはディアマンテに頭突きを喰らわせた。
 激しい振動がコックピットを襲う。続いて、更なる衝撃。ディアマンテはフラッフともつれるように山肌に叩きつけられたのだ。
 警告メッセージがブラーボに直接流れ込み、被害状況が報告される。
 外部スピーカー破損、レーザー砲は十パーセントが使用不能。
 スピーカーはどうでも良い。レーザーは、砲門を開いたまま山に突っ込んだために破損してしまったのだろう。こちらは先の展開を考えればバカにならない損害だ。
 同様の報告がモニターに表示されると、クルツが悲痛な声を上げた。
「ど、どうなってるんだ!」
 それに、ブラーボは冷静に応えた。
「どうもこうもないわ。超能力によるエネルギー衝撃が通じないと見るや、単純な質量によるブチかましに戦法を切り替えたのじゃ。誰が教えたのかはしらんが、意外と戦い慣れしておるな」
 メタルカが頷く。
「なるほど。超能力以外の要因には、普通に影響を受けるのですね…。それじゃ大仰な装置つけても意味が無いんじゃないですか?」
 メタルカの言葉にブラーボは半ばキレ気味に答えた。
「うるさい! それとは別に、ちゃんと以前より強化してある。装甲や内部機関にはダメージ無いじゃろうが」
「あ、そうですね」
「納得してる場合ですか!」
 クルツが叫ぶ。依然、フラッフはディアマンテに馬乗りになったまま。さらなる攻撃が来るのは明白だ。
「アイツを振り払わないと! 見ててください、オレがやってみせますッ! おおおおおッ!!」
 気合をみなぎらせ、クルツがレバーを引いた。嫌な予感を感じ、ブラーボとメタルカが叫ぶ。
「バカッ! やめ…」
 だが、時既に遅し。絶叫とともに、クルツはレバーを倒した。
「ディアマンテ・クラッシュ!!」
 四本のアームがフラッフをめがけ一直線に突き進んだ。その爪の先端が触れようかというところで、フラッフの姿が消える。目標を失ったアームは、そのまま突き進み、お互いを破壊した。
 金属が軋む嫌な音が響き渡った。そして、地が揺れる。
 ディアマンテのアームが一本、途中から吹き飛ばされ大地に転がった。残り三本も先端が無くなったり、爪がひしゃげるか外れるかしている。
「あ…」
 クルツは、自らの行いに呆然とした。ブラーボの叱責が飛ぶ。
「あ、じゃないわぁバカモーンッ!! なーにをやっとるんじゃあッ。自分をクラッシュするヤツがあるかぁッ!!」
「ブラーボ様、上です上っ!」
 メタルカが叫ぶ。
 上空では、赤い光の塊が再びウサギの形を形成していた。璃音はアヴァターラを一時的に分解させることでアームを回避したのだ。
「あの"ウサギ"、落ちてくるつもりですよ!」
「判っとる! 回避じゃ!」
 ディアマンテはその形状を生かし、転がることでフラッフのボディプレスをかわした。反重力推進装置の出力を上げ、姿勢を正す。ブラーボは、モニタに映るアヴァターラに向け、憎らしげに呟いた。
「…ずるいぞ、お前の存在」
 この相手は攻撃時には大質量を持ち、回避時には霧の様につかみ所の無い状態なのだから苛立ただしいことこの上ない。だがブラーボはすぐに一計を案じ、ほくそ笑んだ。
「ディアマンテキャノンを使うぞ」
 モニターに映し出された兵装概要を見て、メタルカは首をかしげた。
「しかし…アームが破損したこの状況では…二十六パーセントの出力が限界って警告されてますけど?」
 だが、ブラーボの答えは自信に満ちたものだった。
「ふ。こいつの最終兵器の名は伊達じゃあない。四分の一もありゃ充分じゃ」
 
 璃音は、フラッフの中で高度を上げたディアマンテを見上げた。
 赤く輝く光に満ちたこの空間はフラッフのコアの役割を果たしており、そこで璃音はエンハンサーに溶け込むように一体化している。
「困ったな…」
 今のところ、分解と再構成の利用は有効のようである。だが、璃音はこれ以上の攻撃手段は持っていない。アヴァターラを保つだけも消耗するし、再構成にはさらにパワーを余計に使ってしまう。これから何度か体当たりを仕掛けるにしても、ディアマンテは予想外に頑丈だ。相手が動けなくなるよりも先に自分のパワーが切れてしまうだろう。手詰まり感に思案していると、クルツの声が響いた。
「キャノンモード、スタンバイ!」
 ディアマンテの巨躯が唸った。下面装甲が開き、巨大な砲口が現れる。その砲口が璃音に向いた。そこには既に高エネルギーのプラズマが集中しており、それは小さな太陽にように見えた。 
「くらえ! ディアマンテキャノン、ファイアーッ!!」
 一瞬のタメののち、白く燃える光が迸った。 
 ディアマンテの巨躯そのままの口径というふざけた熱線は、しかしフラッフを標的にしていたのではなかった。高熱の奔流は彼女の左方向、そこにある崖を飲み込むと、地を引き裂き山を抉り地形を変える勢いで大穴を開けていく。
「ちょっ…なにこれ!」
 璃音はエンハンサーでフォースフィールドを形成させ、その膨大な熱と衝撃波を遮ろうと試みるが、それでも防ぎきれずフラッフの外皮が焼けて白煙を上げた。
 ディアマンテキャノンとは、動力源であるプラズマエネルギーを直に撃ち出す荒業である。装甲を展開し自らを砲身と化し、露出させた炉心から熱線を発射する。その破壊力は、スペック上は山一つを吹き飛ばしてもお釣りが来るほどで、今の状態でも恐るべき武器であることに変わりは無い。
「うおおおお、なんだこりゃースゲェぞー」
 殆ど狂乱状態で歓声を上げるクルツ。メタルカも、改めてブラーボの科学力に畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
「いける、これはいける。マジで世界征服もいけるかもしれない!」
 玲子も感嘆の口笛を吹いた。
(ま、最低でも酉野市くらいは手に入るかもね)
 ブラーボも声が高揚している。とっておきの大砲を初めてブッ放したのだから、それも当然だ。実に勢い良く、部下に次なる指示を飛ばした。
「ははは、良し良し。これで、ディアマンテキャノンの威力がどれ程のものか、わかっただろう。…ではッ、判っておろうなクルツよ!」
「了解! 右二十度へ回頭ッ」
 ディアマンテは熱線を発したまま向きを変えた。それで、フラッフが射線に入る。璃音は直撃には耐えられないと判断し、回避を試みた。だが―。
(しまった…)
 璃音は罠に嵌った事を悟った。
 彼女の背後には石切り場がある。つまり、資材搬入工の出口だ。
 今は璃音がブラーボ達を追って先行しているが、その役目はあくまで時間稼ぎであり、蛍太郎たちが遮蔽装置を停止させてから駆けつける事になっている。もし璃音が熱線を回避すれば、その為の通路を吹き飛ばす事になってしまう。
 いや、それだけではない。もっと酷い結果をもたらす可能性があるのだ。
 璃音は、さらにエネルギーを費やしてエンハンサーを展開させ、フラッフの前面に防壁を張る。ディアマンテの熱線が途中でブッツリと遮られてた。先ほどとは比べ物にならない熱が、フラッフの全身を炙る。障壁自体はただの壁だが、フラッフの表皮は璃音と感覚を共有しているので、その感覚が全て伝わってしまう。その熱は、通常の生命体が耐えられる程度をとうに超えていた。
「ああああああああああっ!!」
 璃音は断末魔に近い絶叫を上げた。それでも、必死に障壁を維持し耐えようとする。フラッフの表皮は焼けても順次再構成する事で熱には順応出来るのだが、問題はその熱が感覚として璃音の神経に伝わってしまうことだ。
 五秒としないうちに障壁は崩壊し、フラッフは白い光に飲まれた。
 その瞬間、ブラーボは熱線の出力をカットした。
 コックピット内のモニタで改めて外の状況を確認すると、クルツたちはディアマンテキャノンの威力を再確認する事になった。
 最初に熱線を当てた山はすっかり消し飛び平地となっている。それどころか、抉れた地表がガラス化してしまっていた。そして、フラッフが横たわっているあたりも同様にガラスとなっていた。だが、彼女の頑張りの甲斐あって、その奥の石切り場は無事と言っていいほどだった。
 周囲にはまだ熱がくすぶっていて、山肌には瞬時に炭と化した樹木がへばりついている。
 フラッフには特に外傷は見当たらないが、ぐったりと横たわりピクリとも動かない。頭部の孔から覗く赤い球体も輝きが弱まっていた。
 クルツはまだ機能するアームでフラッフの頭を掴んで持ち上げさせると、様子を窺った。
「ブラーボ様。コイツ、動かなくはなっていますが…どうして攻撃を止めたんで?」
 ブラーボは意外にも穏やかな口調で答えた。
「ワシの推論が正しければ、あれ以上やると死んでしまったかもしれんからな。…このままで意識を失っているとしたら、それはそれで危険な状態かも知れんが…」
 今度はメタルカが尋ねる。
「ブラーボ様は、こういった能力を持つ者をご存知だったのですか?」
「うむ、まあ色々あってな。
 こういう手合いは、スペック上はディアマンテキャノンどころか太陽に放り込まれようと大丈夫なんじゃが、いかんせん中身が人間じゃからな。人のレベルで耐えきれない環境に放り込まれれば、当然ショック症状を起してしまうのじゃよ。
 この娘はどこでどうしたか訓練を積んでいたようじゃが、さすがにここまで無茶な状況は作り出せんからのぅ。それで、この有様というわけじゃ」
 クルツとメタルカは感心しきりと顔を見合わせる。本当のところ、実はアホなんじゃないかと思っていたブラーボが存外に知恵を見せるので、本気で見直していたところだった。それは玲子も同様で、モニタに写るくたびれたぬいぐるみのようになったフラッフを眺め、呟いた。
「意外とやるのね、貴方…」
「まあな」
 ブラーボはすっかり気を良くしている。
「でも…」
 玲子がフラフラと歩を進める。
 そして、クルツが驚きの声を上げるのと同時に、ディアマンテがフラッフの頭を握りつぶした。
 もともとフラッフの硬度は璃音の意識により保たれている。コントロールを失っている今、それはいとも簡単に元の形を失い、頭部に収まっている赤い球体、コアも爪で三方から押しつぶされていた。
「な、なにをやっとるんじゃあーッ!!」
 ブラーボが叫ぶ。アームを操作していたクルツは慌てて首を振った。
「オ、オレじゃないっ! 後ろから押されたんですよ!」
 丁度クルツの席の真後ろにいた玲子は、何食わぬ顔で言った。
「知らないわ、私は。でも良かったんじゃない? 邪魔者が始末できてさ」
 策が当たった高揚感はとっくに吹っ飛んでしまい、それどころか脳幹へツララをねじ込まれたような感覚で、ブラーボは呻いた。
「うむ…邪魔は邪魔じゃが、しかしなぁ…」
 旧友・藤宮斐の娘だけに出来れば仲間に引き込みたいという思いもあったので、ブラーボは複雑な心境だった。だが、目の前の事実は受け入れねばなるまい。フラッフのコアからは赤い光が血のように漏れだし、身体も崩壊を始めていた。風にさらされた砂山のようにボロボロと形を失っていく。
 そう。邪魔者をひとり、見事に始末したのだ。
「そうか。そうだよな…」
 クルツが呟く。そして、飛び跳ねて喜んだ。
「やったーっ! これで、世界征服に一歩前進ですよ!」
 だが、頭に激しい痛みを感じて、シートにうずくまった。そのクルツの背中に、さらに物が投げつけられた。へし折れたレバーである。
「痛てて…なんだよぉ…」
 クルツが恐る恐る顔を上げると、メタルカがさらに自分のシートにある飾りレバーを千切って投げつけてきた。 
「だからなんだって…」
 しかし、メタルカは無言。サングラスで相変わらず表情は窺えないが、口元や肩の震えから明らかに怒っているように見える。
「この、バカぁッ!!」 
 メタルカは腰に下げていたドロイド制御コンピュータをベルトからむしり取って、その腕を振りかぶった。直撃すればわりと致命的なダメージを与えかねないそれが、メタルカの手から離れかけた、その時。ディアマンテのモニターが警告サインで赤く染まった。
「く…どうしたことじゃ!?」
 状況を見て取り、ブラーボは呻いた。
 レーダー使用不能。各種センサー使用不能。
 モニターに映し出される外の風景は、赤い光に塗りつぶされたようになっていた。その中に、ガラス片のような輝きが無数に渦巻き、ディアマンテを取り囲んでいる。さらに反重力推進装置の出力低下が報告され、機体が大きくバランスを崩した。
 メタルカの表情が驚きと安堵が混じったような不思議なものに変わった。
「これってまさか…」
 確認すると、アームに引っかかっていたフラッフの残骸が跡形も無く消えていた。
「ブラーボ様!」
 心なしか弾んだ声で、メタルカは上司を呼んだ。
「ええい、言わんでも判っとる! あの娘の仕業じゃ!」
 それに答えるかのように、璃音の声が響いた。
「もうオシマイなんだから! 早く貴洛院さんを帰してください!」
 それはハッタリではなく、堅い裏づけのある確信をブラーボは感じた。
 そして悟る。
 先日、璃音が山中の送電塔を修復した際に使ったので、彼女の持つ修復能力はブラーボの知るところだ。もし、その能力が"壊れた物を直す"のではなくて、そしてさらに"拡大解釈"できるのなら…。
 そんなブラーボの思索を知る由もなく、玲子が声を荒げる。 
「何してるの! こんなの見かけ倒しに決まってるじゃない。早く振り払って!」
 それに気圧されて、クルツが頷く。
「お、おう」
 アームを振り回すが、相手は霧のように掴み所が無い。それどころか、アームの反応が動かすごとに悪くなっていく。
「クソ…レーザー発射!」
「バカモノ、やめんか!」
 ブラーボの制止は一足遅く、クルツはレーザー砲のトリガーを引いた。生きている砲門が全て開き、レーザーが発射された。だが、レーザーは銀色の輝くエンハンサーの欠片に反射され、あるものは装甲を焼き、あるものは真っ直ぐ砲門に戻りそれを破壊し、またあるものはアームの蛇腹部に入り込んで内部を打ち抜く。
 ブラーボが叫ぶ。
「いいからさっさと砲門を閉めろ!」
 その直後、ディアマンテは完全にバランスを崩し、ガラス化した地表に突き刺さるように落下する。
 衝撃がコックピットを揺らした。
 シートにしがみ付いてメタルカが呻く。
「なんなの、これ…」
「あの光自体が、恐らくは霧状に分解した"ウサギ"じゃ。群体に近い状態なのじゃろうが、あれがディアマンテ内部に侵入しているんじゃ」
「でも、超能力遮断装置が…」
「あれに頭突きをくらった事を忘れたか。実体がある以上、装置は無効じゃ。しかもクルツのヤツがアームを振り回したりレーザーを撃ったりしよったからな。それで、余計に入り込みやすくなったんじゃ。中に入ってしまいさえすれば、あとは遮断装置なぞ関係なく能力を使えるわい」
 ディアマンテの装甲面には、標的になりにくい部分を選んではいるが多数の穴が開いている。吸気口や排気口、放熱機構などである。水中で活動する際にやBC兵器対策に気密を維持するために蓋が設けられているが、大気中の運用では存外に隙間が多い。それとて人が入り込めるサイズではないが、霧状のフォッグモードになったアヴァターラなら問題は無い。
「まったく、本日ニ発目の失態ね…」
 同僚の不始末を責めるメタルカだったが、ブラーボはそれを宥めた。
「いや…。この手があるとはワシも思わなんだ。こりゃ、負けじゃわい」
 敗北宣言を待っていたように、コックピット内部に赤い光があふれ出した。それは次第に人の形を成し、濃淡の赤で作られた立体映像のように璃音の姿が浮かび上がった。
「ふ。来たか…」
 慌てふためく部下たちを尻目に、ブラーボは落ち着き払っていた。 
「聞こえていたとは思うが…ワシの負けじゃよ、藤宮璃音」
 意外な反応だったので、璃音は目を丸くした。
「さあ、人質は返そう。ワシらを捕らえたければ、好きにするがいい。ディアマンテをどうするか、それはお前次第なのじゃからな」
 璃音は頷く。
 するとメタルカは玲子を促して、コックピットの奥にあるエレベーターに乗せた。これで上部装甲へ出る事が出来る。ハッチを空けて外へ出た玲子は風に煽られそうになったが、璃音に手を掴まれ事なきを得た。
 玲子は璃音がここにもいることを疑問に思ったが、ブラーボが『群体に近い状態』と言っていた事を思い出した。それなら不思議でもなんでもない。
 こちらの璃音も半透明の赤い立体映像だったが、ニッコリと微笑むと「いきましょう」と言って、ディアマンテから飛び降りた。
 三十メートル以上を落下して、璃音たちは事も無げに着地した。振り向くと、ディアマンテが離陸し高度を上げていく。それにあわせ、璃音の髪や肌に色が戻っていく。ディアマンテが雲間に消えて見えなくなると、
「つ、疲れた…」
 璃音はぺたん、と腰を下ろした。
 玲子も疲労と安堵からタメ息を吐く。多少の面倒はあったが、落ち着くところへ落ち着いたようだ。だが、疑問はある。
「ねえ、貴女。さっき、一体何をしたの?」
 璃音は顔を上げずに答えた。
「ブラーボさんから大体聞いてたんじゃないですか?」
「まあ、そうだけど…。肝心のところは聞いてないわ」
「そうですか…」
 今度は玲子を見上げて、璃音は微笑んだ。
「じゃあ、わたしも教えません。これは、奥の手ですから…」
 そう答える璃音の声がだんだん小さくなっていく。璃音はガラスの上に仰向けになり、そのまま目を閉じた。
 玲子は納得してはいなかったが、相手が眠ってしまったのでこれ以上質問する事は出来ない。正直な話、コックピット内でのやり取りをいつから聞いていたのかは聞きだしておきたかったところだった。
「それにしても、可愛い顔で眠るものね…」
 玲子は足元の寝顔を眺め、呟く。
 ここで眠っているという事は、何も知らないのか、それとも知っていて何も出来ないとタカをくくっているのか。玲子はこのまま首を絞めてやりたい衝動に駆られたが、そんなことをしたら誰の仕業か簡単にバレるので止めておいた。ドクターブラーボを相手にして死因が絞殺だなんて、あまりにチグハグだ。
 それに、石切り場のほうから元クラスメイトの声が聞こえてくる。
 玲子は大声で彼の名を呼び、そちらへ手を振った。
 
 
10−
 何とか薬が抜けた平田とソーニャが屋台に向かったときには、すでに祭は終わりかけていた。ふたりを連れてきた斐美花は地べたに座り込んで、残念そうに人の気配が消えつつある路地を眺めていた。
「もう終わっちゃうんだね…」
 当たり前の話だが、斐美花はああいう状況には慣れていない。そのために自分で思ったほどの働きができなかったことが、もっと上手くやれたのではないかという後悔につながっていた。
 そんな斐美花に、平田が慰めの言葉をかける。
「まあ、祭りに間に合った事は間に合ったんだしさ。それに、無事に戻ってこられたのは君のお陰なんだから、感謝してるよ」
 ソーニャも頷いて、斐美花の頭を撫でる。
 恐らく最後になるであろう客に丼を手渡し、アンナが微笑みかける。
「約束どおり、後片付けには参加してもらえそうやしね」
 それで、ようやく斐美花の頬が緩んだ。
 後ろで聞いていた平田が冗談めかして肩をすくめる。
「ああ、やっぱ手伝わないとダメか」
 アビゲイルがふざけた調子で平田の方を突いた。
「当たり前ですよー。そういう約束だったんですから。そうじゃないと、打ち上げに参加する権利ナシです」
 そう言って、一同笑いあっていると、トウキが足音を忍ばせて現れた。
「た、ただいま…」
「オカエリネ」
 ヒカルドが笑顔で迎える。
 それを見て、斐美花は首をかしげた。
「中村さんも、どっか行ってたんですか?」
 しばしの沈黙。それから、アンナがジトーっとトウキを睨んだ。
「なーかーむーらー」
 トウキはしどろもどろに言い訳を始めた。
「それが…急に腹が痛くなって…。で、出るに出られなく…」
 アンナは呆れたとばかりに肩をすくめた。
「なんや…主役になれないっていうか、ここぞという時に間に合わないタイプかいな」
 哀れみさえ混じるアンナの声に、トウキの気が緩む。
「だからといって、ダメじゃないですよ」
 だが、返って来た言葉は厳しかった。 
「…どのへんがやねん」
「すいません…」
 そのままトウキは、しょんぼりと座り込んでしまった。
 所用で学生会事務局に行っていた綺子は、戻るなり平田とソーニャ、座り込む斐美花とトウキが目に飛び込んでいて口をパクパクさせていたが、三秒すると、
「おおおおおお、帰って来たーっ」
 と、歓声を上げた。
「兄さんの顔が深刻だったもんだから、大変な事になってるんじゃないかと気が気じゃ無かったよ」
 ソーニャが柔らかく微笑んで応えた。
「ふふ。ご心配おかけしました」
 平田も続く。
「そうだなぁ。最近は何か、災難づいてるよなぁ…」
 そう言えばと、アンナもタメ息を吐く。
「二人には悪いけど、私はラッキーやったな…」
 先の地底人騒ぎを思い出し、アンナは背筋を震わせた。ヒカルドも同様に歯をガチガチ鳴らしている。
「怖イ事思イ出サセナイデクダサイ…」
 何やら沈んできた空気を盛り返そうと、地底人を知らないアビゲイルがパンパンと手を叩く。
「ほらほら、もうすぐ花火上がるはずだよ。残ったの食べながら、皆で見ようよ」
 よし、と歓声をあげると、一同は気を取り直し、各々寸胴に群がった。
 トウキも流れに乗ろうと顔を上げると、先に立っていた斐美花が手を差し伸べてきた。
「ほら」
 トウキがおずおずと手に触れると、斐美花がそれを握る。手を引かれ立ち上がったトウキの耳に、風の音にまぎれるほど小さく、だが確かにその言葉は届いた。
「ありがと。…かな?」
「え…?」
 呆と口を開けたまま、トウキは斐美花に手を引かれて行った。

 藤宮研究室にも、終わりかける祭りの喧騒は辛うじて届いていた。
 蛍太郎は、ソファの上で眠ったままの璃音の身体を拭いてから、服を着せてやる。着替えといってもジウリーがくれた少女趣味全開の服しかないが、汗と埃とオイルで汚れたままの制服を着せとくわけにはいかない。と、いっても璃音本人はそういうことには、特にこういった状況では尚更、拘る方ではない。これは、この少女には常に美しくあって欲しいという、蛍太郎の半ば妄執じみた想いによる行為だ。
 こうして、過剰ですらあるレースとヒラヒラとした装飾に包まれて眠る璃音は、蛍太郎でなくてもタメ息が出るような、幻想的な姿だ。華美なだけにそれだけ窮屈な服ではあるが各所の紐を緩めにしてやれば負担にもならないだろうし、下着が無くても見た目では判らない。実は璃音の能力はクリーニング代わりにもなるのだが、そんなことに割くパワーは今のところ無い。
 蛍太郎はその傍らに膝をついて、璃音の寝顔を眺めた。天使像のように穏やかな表情に頬が緩む。蛍太郎は璃音の寝顔を見るのが楽しみのひとつだ。無垢な者を思わせるその顔を、特に情事の後に眺めるのが嬉しくてたまらない。妻に対してはなんだかんだと大人ぶった事を言ってはいるが、相手に夢中なって埒も無い独占欲に駆られてしまっているのは蛍太郎の方なのである。
 不意に、璃音の睫毛が揺れた。
 慌てて緩みきった表情を取り繕う蛍太郎。それを、赤い瞳が映していた。
「あ…。けーちゃん」
 寝ぼけているのと疲労が抜けていないのとで、力の無い震えた声だ。蛍太郎は前髪を整えてやりながら、
「大丈夫?」
 と、微笑みかけた。璃音は頬を染めて頷く。
「うん、休んでれば大丈夫。けど…」
「けど?」
「おなかすいた」
 蛍太郎は改めて時計を見る。針は既に八時を回っていた。
「ああ、そうか。晩ご飯まだだったね。屋台に行ってみようか?」
 時間的に鍋の中身がまだ残っているのかはともかくとして、蛍太郎としてはもう一度顔を出さないわけにもいかない。
「うん。豚汁食べたい」
 璃音もその気のようなので、蛍太郎は立ち上がると手を差し伸べた。だが、璃音はそれを握るどころか逆に両手を伸ばしてくる。それだけで、どうして欲しいのかは伝わるが、璃音は敢えて満面の笑みで言った。
「だっこ」
 希望通り、蛍太郎は璃音を抱き上げた。すると璃音は蛍太郎の胸板に頭を預けた。
「充電するー」
「なにを?」
「けーちゃん分」
「なに、それ?」
 蛍太郎が笑うと、璃音は心底幸せそうな顔でさらに擦り寄った。
「けーちゃんの声とか体温とか匂いとか、そういうのだよ」
 蛍太郎は、
「なーんだ。それなら昨日たっぷり…」
 と、言いかけて止めた。まだそんな加齢臭漂う物言いをするには早い。それよりも気になる事がある。
「璃音ちゃん。今、目が見えないとか?」
 璃音は顔を蛍太郎にくっ付けたまま答えた。
「大丈夫ー。一番上の輪くらいなら見えると思うよ」
「そっか…」
 璃音の視力はパワーに依るものだ。当然、力を使いすぎれば影響が出る。
 こんなふうに日常生活に差しさわりができるほどの消耗は今までそうそう何度もあったことではないので、ブラーボ一味との立ち回りはやはり困難なものだったのだろう。しかも、その苦労の殆どは自身が嫌いだと明言した貴洛院玲子を救う為に伴ったものだ。
 改めてそれを思うと、蛍太郎の口から自然と、この言葉が漏れた。
「ありがとう」
 璃音はぴくんと首を上げて、じっと蛍太郎の顔を見つめる。その意図を察して、蛍太郎はもう一度、言った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 璃音が嬉しそうに脚をぱたぱたさせて身をよじるので、蛍太郎はあわてて腕に力を入れた。すると璃音は、
「あ、それいい。もっと、ぎゅっとして」
 と、おねだりする。蛍太郎は苦笑した。
「このままじゃ無理だよ」
「じゃあ、お姫様抱っこは後で改めてって事で…」
 そのおねだりには、蛍太郎はキッパリと首を振った。
「だーめ。ぎゅっとするのは、後で。家に帰ってからね」
 すると璃音は顔を真っ赤にして頷いた。
「うん、楽しみにしてる。…えへへ」
 色々な想像を巡らせて、璃音はまた身をよじらせた。
 それから、璃音は蛍太郎に抱き上げられたままで屋台に現れた。あちこちから冷やかしの声が飛ぶ。
 綺子が笑いを堪えながら言う。
「兄さん、お帰り」
「何で笑うのさ」
「なんか、あまりに似合いすぎてるから」
「それなら、可笑しくないだろ」
 蛍太郎も笑う。璃音はというと、さっそく鍋から漂う煮詰まって濃くなった豚汁の匂いをかぎつけて、目を輝かせていた。
「けーちゃんけーちゃん、あれ食べたーい!」
 こういうときには、子供か歳の離れた妹をあやすような顔になる蛍太郎。
「うんうん、そのために来たんだよ」
 そうしていると、ソーニャが豚汁を二つ持ってくる。璃音は喜々としてそれに手を伸ばした。だが、蛍太郎が難色を示す。
「このままでそれを食べよっていうの?」
「う。やっぱダメ?」
「ダメってか、やめた方がいいよ。喉に詰まらせたりしたらどうするんだよ」
 殆ど寝ているに等しい体勢で食料を、それも固形物が多い物を摂取するなんて無理がある。璃音は降ろしてもらうと、渋々ながらアスファルトに腰を下ろした。だが、豚汁を一口すすると途端に機嫌を良くし、そのままパクパクと勢い良く食べ始める。
「まだ残っとるしな。じゃんじゃん食べてんか」
 アンナが璃音を炊きつける。蛍太郎が申し訳なさそうに頭を下げた。
「すいません…。なんか、売れ残ったのに喜んでるみたいで…」
 だが、アンナは屈託無く答えた。
「ええねんて。それに余ったいうても、そんな多いわけじゃないんよ。私ら全員に一杯づついって、あと三杯分くらいやね。まあ、寸胴でいこってのがそもそも無茶やったっていう説もあるわな」
 それにアビゲイルが反論する。
「無茶なもんか。最後に残り物を皆で食べるのがいいんじゃないか。計画通りだよ」
 アンナは肩をすくめた。
「だ、そうや」
「…適当な事言ってる思ってるだろ?」
「そないなことあらへんで」
「ふーん」
 釈然としなかったが、アビゲイルは頷いておいた。
 蛍太郎は璃音が豚汁に夢中になっているうちにと、少し離れて平田の肩を叩いた。
「涼一さん、あの…」
「なんだい?」
 平田はすっかりご機嫌である。
「ラプラスですが…」
「ああ、それなら聞いてるよ」
「そうじゃなくて、ブラーボたちはラプラスをクラッキングに使用していたじゃないですか。あれ、ホントは出来ないはずなんですよね」
 平田の目が丸くなる。蛍太郎はさらに続けた。
「実は、完成が先延ばしになったんで、木曜合わせでOSを少し仕様変更してもらってたんです。夜には届いてたんで、インストールはできてたと思うんですが…」
 木曜の深夜から金曜の朝にかけてラプラスにソフトウェアのインストールが行なわれている。それには、"諸般の事情"により蛍太郎は遅れて立ち会う事になった。そのため、OSのインストール作業は確認していないのである。
 平田はバツが悪そうに目を伏せてから、言い難そうに口を開いた。
「それが…、君がいないもんでよく判らないから、旧データでやっちゃったんだ」
 それを聞いて、蛍太郎は笑い出した。
「ははは、なんだそうだったのか。はははは。いえね、僕はてっきりブラーボが量子アルゴリズムを解析して、ルーチンを書き換えたのかと思ってました。コンピューター言語って彼の苦手分野だったはずなのにどうしたんだろうって…。あはは、そうか、良かったぁ。
 実はですね、新しい方のOSにはクラッキング目的と判断したコマンドを拒否するルーチンがあるんです」
「へえ…」
 と、平田は目を丸くした。
「じゃあ、スポンサーに渡したデータはそっちになってるんだな」
「そうです。何処が変わったかは多分、僕と"友人"にしか判らないと思いますが…」
 現代科学は、未だに相対性理論と量子論を統合できていない。そんな、今までの科学とは毛色が違う量子の特性を生かしてのコンピューティングには、従来とは全く異なったアルゴリズムが必要とされる。それは当然、未だ世に出てはいない。
 そして、蛍太郎は目を伏せた。
「…これで一応は、僕なりに予防策は施したつもりです。今にして思えば、あの停電に感謝といったところですね。そうでなければ…」
 その面差しは、未来のために思索を続ける菩薩のようであった。それを花火の明かりが照らし、一瞬の後、火薬の弾ける音が響いた。つられて蛍太郎が空を見上げると、
「あ…」
 と、璃音が残念そうにタメ息を吐いた。
「どうしたのさ?」
 もうとっくに豚汁を食べ終わっていた璃音が、蛍太郎を少し離れて見上げていた。
「ん? 見惚れてた。さっきの顔、もう一回して」
「さっきの顔って…」
 困ってしまった蛍太郎だったが、「花火、まだ三回あるらしいで!」とアンナが言っているのが聞こえたので、
「璃音ちゃん、花火見ようよ」
 と、手を差し出した。璃音はエサをすり替えられてしまったような気がしたが、機嫌が良かったので素直に蛍太郎の手をとった。
「ねえ璃音ちゃん、見えるんだよね?」
「うん。寝て食べたからだいぶ良くなったよ。星はあまり見えないけど大丈夫なんじゃないかな」
 よし、と頷き、蛍太郎は璃音を肩車する。
「これで、もっと良く見えるよね」
「うん、ありがとう」
 そのままふたりがサークル員たちの輪に加わったところで、花火の第二波が始まった。
 斐美花が蛍太郎を自分の横に手招きする。
「ねえ、こっちこっち」
 その間にも、色とりどりの光が弾け歓声が上がった。
 予算の関係で特に派手な物ではないのだが、外国から来た人には物珍しさも相まって、格別に美しく見えるらしい。綺子の大げさな程の喜びようは、花火を見慣れてしまった斐美花には驚きだったし、どちらかといえば地味な今回の花火の美しさを気付かされた気がした。
 そして斐美花は、璃音の声を珍しく頭の上から聞いた。花火だけでなくもう一つ、別の要因でも大喜びな璃音は、花火が上がるたびに手を振り回して歓声を上げて蛍太郎を困らせていた。
「璃音ってさ、チビをとことん楽しんでるよね」
 斐美花は呆れたような羨ましいような、そんな顔ではしゃぐ妹を見上げていた。
 
 こうして今年度の新歓祭は無事に幕を下ろした。
 当然、ブラーボ一味の起した騒動は世界規模の隠ぺい工作により闇に葬られ、学生たちが自分たちの足元で歴史が変わりかけたなど夢にも思わない。
 かくて、並べて世は事も無し。
 そういうことである。
 

 
「あの時、何で退いた訳?」
 電話の向こうの貴洛院玲子は如何にもお冠だった。それを、ブラーボは大人の態度でいなした。
「共倒れはゴメンだったのじゃよ。それ以上は言えん。こちらの弱みも教える事になるからな」
 玲子の舌打ちが聞こえたが、ブラーボは無視する。相手は藤宮璃音の秘密が知りたいだけだというのは重々承知なので、尚更言えない。
(それにしても…女は怖いのぅ)
 ブラーボはそう思わずにはいられなかった。
 あれから二週間経ってほとぼりが醒めた頃に連絡を取り合ってみたところ、開口一番に問い詰めてきたのがディアマンテ撤退の理由というから奮っている。
 だが、それを玲子にいう事は出来ない。それを説明するには、まずディアマンテの動力機関について語らなければならないからだ。
 ブラーボの誇る最終兵器・ディアマンテの動力源はいわゆるプラズマ融合炉である。
 この機関を動かすには、外部から接続した補機によって最初の反応を起させなければならない。それ以後は連鎖的に反応を起し続けるので一度一定以上の回転数で動いてしまえばいいのだが、停止してしまえば単独での再起動は出来ないし、完全に冷えてしまえば炉自体もダメージを受けてしまう。そのため、ドックでメンテナンス中の現在も専用ハッチから何本もケーブルを繋ぎ暖気状態にして休息措置を取っている。ちなみに、その間の内部電力は補機から取っている。
 これだけの規模のメカを動かすエネルギーを生み出す機関は魔術を除けば融合炉くらいだし、璃音は何らかの折に、それに関連する話を蛍太郎から聞いていたのだろう。あの子は父親に似て随分と好奇心旺盛なのだろう、とブラーボは空想していたが、それは実際に的中している。
 そして、この件で最も問題なのが璃音の超越能力だ。
 彼女の能力は、"壊れたものを直す"のではなく、"あらゆるものを元に戻す"のである。その対象には、"何らかの反応でエネルギーに変換された物質も含まれる"のだ。つまり、ヴェルヴェットフラッフはエネルギーを生み出す反応や機関に対してのカウンターとなる。それにより、ディアマンテの機能に干渉することができたのだ。
 だがやはり、膨大なエネルギーを生み出す融合炉に対しては、璃音もそれなりのパワーを持って臨まねばならない。もしもディアマンテの炉心を完全に停止させた場合、彼女自身の命にも関わるほどの消耗を強いられたのだろう。
 そしてもし、ディアマンテの機能が完全に止まればブラーボたちは内部に閉じ込められる事になる。そうなれば全てが終わっていた。
 そんな状況を踏まえての、いわば手打ちだったのである。
 玲子は相手が話したがらないのでは仕方が無いので、この件の追求はやめた。
「で? 持ってった物は全部スカだったっていうの?」
 と、本来の話題に戻す。
 ブラーボたちは研究所からデータを一通り持ち去っている。だが、メディアや書類を納めたはずのジェラルミンケースは全て空だった。さらに、解体に従事したドロイドたちに記録を元にラプラスを組み上げてみたが、こちらは補助記録装置のデータが全て消去されていたのである。
 これは斐美花が透過能力と冬の王を駆使して行なったことで、とくに後者は記憶素子上の磁性体が完全にゼロの状態になっており、データのサルベージどころか完全に使い物にならない状況である。
 だが、それらのデータやパーツは全て貴洛院玲子の管理下にあるのだから、それをブラーボに横流しすれば秘密裡にラプラスを完成させ、例の最終計画を実行できる。そして、実際にそれをしようというのが、この密談の趣旨というわけだ。
「それじゃあ、手持ちのパーツとデータを提供しろということね。…ふふ」
「ま、そういうことじゃな。ワシらの同盟に乾杯、というわけじゃ。…くくく」
 これから起こるであろう、めくるめく展開に想像をめぐらせ揃って含み笑いをする二人だった。
 後に彼らは、宝くじは当選発表の前日までが楽しいのだと思い知ることになるのだが、それはまた別の話である。
 
 

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