#3
1−
 藤宮邸、離れの一室は、絵を趣味とする蛍太郎のアトリエである。
 そこ優しく包むのは、薄いカーテンを抜けた陽光。それはかすかな風を受けさざなみとなり、ソファにかけられた白いシーツに横たわる少女の肌の柔らかさを、なお引き立てた。豊かな胸と、適度に細く適度に肉付きの良い身体が白桃色の肌と艶やかな黒髪に引き立てられ、眩しささえ感じさせる。だが、その顔立ちはまどろみの中にあって童女のようなあどけなさだ。
 ふと、少女の睫毛が揺れた。
「ん…」
 寝惚けているのだろう。気の抜けたような声を発する。まぶたを半分開けると、瞳は宝石を思わせる赤。状況がわからないのか、ぱちぱちと瞬きを繰りかえす。程なく、
「あああっ」
 と、叫ぶと勢いよく身を起こした。顎が隠れるほどの長さで切りそろえられたショートボブの髪が、胸も、盛大に揺れた。
「うぅ。ごめんね、寝ちゃった…」
 小さい身体を更に小さくして、謝った。その先にあるのは、画架にかけられたキャンバス。そして、最愛のひとがいた。
「気にしないで。緊張して、疲れちゃったんだよ。休憩しようって言った途端に寝込んじゃってたからね」
 彼は、本当に気にしていないのだろう。優しく微笑んでいた。
「それより、ありがとう。璃音。お陰でいい絵になりそうだよ」
 藤宮璃音は、いそいそとシーツを寄せ集めると、身体に巻きつけた。
「残念。綺麗なのに」
「もう、あなたのばか」
 夫、藤宮蛍太郎は、璃音の横に座ると乱れていた髪を撫でた。前髪がめくれ広い額が露わになると、璃音はまた、恥ずかしそうに目を伏せた。
「かわいい」
 そこに、蛍太郎が口づけした。
「からかわないで」
 璃音は口を尖らせ、蛍太郎の顔を見上げる。璃音の身長は百五十二センチ。蛍太郎とは三十センチ近い身長差があるので、お互い座っていても、こうして見上げる形になる。視線の先にある蛍太郎の顔は、これ以上ないほど穏やかな微笑みを湛えていた。栗色がかったサラサラの髪と美しく整った顔立ちは、璃音も度々見蕩れてしまうほどだ。
「からかってなんかないさ。璃音はかわいい」
 見た目から期待されるよりは幾分高い声だが、それがかえって蛍太郎の優しさ、穏やかさを上手く演出している。さらに蛍太郎は真っ直ぐに視線を向け、ヘーゼルの瞳で璃音に追い討ちをかけてくる。
その攻撃は見事にクリーンヒット、璃音は顔が耳まで赤くなってしまった。
(なんていうか、それは、女たらしの顔だ…)
 彼はイタリア人と日本人のハーフであり、イタリア人特有の、"良く言えば、無邪気で太陽のような笑顔"をキッチリと受け継いでいる。だから蛍太郎の笑顔は、本当に性質が悪いのである。ここ十年、その笑顔が自分以外には向けられていないのは、人類のために良いことだと、璃音は思った。ならば、このまま欲望に身を任せてしまっても、なんら恥じることはない。むしろ世界の平和を守っているのだから褒められるべきではないのか―、などと、すっかり蕩けてしまった璃音の思考は、もう、ダメである。
 肩に蛍太郎の手がかかる。そのまま目を閉じると、ゆっくりとソファに横たえられた。息遣いで、唇が触れ合おうとしているのがわかる。
 璃音は、夢見る心地で、その時を―。
 
 その時、まさに。「ぱちっ」とでも音がしそうな勢いで、まぶたが開いた。今、見ているものが自分の部屋の天井であると認識するまで、十秒ほど。直後、ペンギン型の目覚まし時計が、朝を告げるアラームを鳴らした。
 璃音は布団から腕を伸ばすと、ペンギンの頭を叩いて黙らせた。彼の腹の文字盤は六時を指している。八時四十分までに学校へ行けば良いので、もっと寝ていてもよかったということだ。
「あああーっ、もったいなーいっ。なんでよぉーっ」
 頭を抱えてベッドの上を転げまわる璃音。まったく、自分の寝起きの良さが恨めしい。大抵は、夢なんて良い所で目が覚めるものなのだが、今回は諦めがつかない。だから二度寝することにした。ひたすら蛍太郎のことを考えながら眠りに落ちれば、夢の続きが見られるのではないだろうか。そう考えた璃音は、あらん限りの記憶とありったけの妄想を総動員して蛍太郎のことを思い描いてみた。
 そして、五分後。
「…どうしよう…眠れないよぅ」
 寝なおすどころか、身体の奥が昂ぶってどうにもならなくなってしまった。寝間着代わりにしているワイシャツの前を押えて、もどかしげに寝返りを打つ。もう片方の手は、いつの間にか肌蹴ていた胸元に滑り込んでいた。身体の奥から湧きあがる衝動に急きたてられ、璃音はその先端を強く摘みあげる。それに応じて身体が反り返り、無意識に甘い声が漏れた。
 それで、璃音は我を忘れた。
 程なく、慣れっこになってしまった感覚とともに、昂ぶりは頂点を越える。その熱の余韻が引く頃には、璃音の頭はすっきりと冴えていた。
 時計を見ると、まだ七時前だった。起きるにはまだ早すぎるが、今日は自分で朝食を用意しなければならないから、いつも通りに起きたのでは間に合わない。
「シャワー浴びよっかな」
 璃音はベッドから身を起した。
 蛍太郎は、急ぎの仕事が入り家に戻っていない。その為、もう一週間近く璃音は一人寝を強いられていた。先の日曜は斐美花と綺子、ツナとともに過ごしたが夫が居ない寂しさは埋まる物ではない。それこそ、夢にまで見るほどである。
 それに――。
「もうすぐ、誕生日と結婚記念日なんだけどなぁ…」
 熱いシャワーを頭から浴びながら、璃音は呟いた。
 

 
 三城大学、有為楼。
 この建築物は、諸般の事情から隣接する慧耀館と全く同じに設計されたため、二つの塔として親しまれている。
 だが、誰もが一度は持つ疑問がある。
 則ち、「これらは本当に同一の設計なのか。特に、有為楼の地下には何かとんでもない物が隠されているのではないだろうか?」。
 そして大学の教授陣は、それを空想や与太話では済ませないキャラクターが揃っているのである。
 例えば、工学部の"マキシマム・マッドネス"こと巻島教授は大量のモデルガンや猟銃をコレクションしており、月に一回はグアムかロスへ飛ぶ。そして酒を飲めば「マンシューマンシュー」とクダを巻くという、頭のネジの早急な再点検を必要とする人物である。そういった方々が普通に存在するため、藤宮蛍太郎の"弱冠二十八歳の助教授"という肩書きがそれほど特異に感じられないのが、この大学の恐ろしいところだ。
「ああ、帰りたい…」
 蛍太郎は呟いた。
 三城大学・有為楼の"秘密研究室"は今日も大忙しだった。正確には、やらなければいけないことが山ほどあるが、どうしたらいいのかわからない、といったところである。蛍太郎は、目の前にそびえる円筒状の物体を憎々しげに見上げた。
「何気に、拉致監禁だよなぁ」
 また、呟く。今度は、深々とタメ息を吐いた。
 
 事の発端は六日と半日前に遡る。
 いつも通りにその日の最後の講義を終えた蛍太郎は、自分の研究室に戻った。すると、ドアの前に見知った女が立っているのが目に入った。
「おひさしぶりね、永森君」
 女は蛍太郎の姿を認めると、柔らかに微笑む。 
 貴洛院玲子である。
 日本を代表する企業グループ、貴洛院の総帥を祖父に持つ彼女は、英春学院を卒業後に各地の名門大学に留学、優秀な成績と広い人脈を以って貴洛院電子の社長に就任した。
 つけ加えると、大学では十年すれ違っているものの、高校では蛍太郎の同級生である。当時生徒会長に就任していた玲子は、蛍太郎と親密な間柄だったとされている。もっとも親密さの認識に関しては、周囲の皆ならず当人二人にも、相当なズレがあった。
 それには、ふたりが稀に見る美男美女であったことが関係しているだろう。
 そして現在、親族とはいえ異例の若さでグループ会社の社長に就任し、三年で業績を一桁倍増させるという離れ業をやってのけたのである。このように、貴洛院玲子はまさに若き天才であることに間違いないが、ここの教授陣に比べると"普通の天才"でしかないあたりは、致し方ないところではある。
「こんにちわ、玲子さん。…どうしたの、今日は」
 姓で呼ばれるのを嫌がる玲子に合わせてのことだが、こういう口の利き方をしているから誤解を受けるのだと、蛍太郎にも判っている。だが、「貴洛院さん」とでも呼ぼうものならあっという間に不機嫌になってしまうので仕方が無い。
 蛍太郎の声に、玲子は顔をさらに綻ばせて嬉しそうに言う。
「今日はですね、永森君にお願いがあってきました」
(逃げよう)
 蛍太郎は瞬時に危険を悟った。昔から、この女のお願いはロクなものではなかった。数々の苦い思い出が脳裏をよぎる。
 何とか適当に誤魔化そうと言い訳を考え始めた蛍太郎だったが、それを読んでいたかのように、玲子はニコニコと刑を宣告した。
「もちろん私用ではなくて。この大学が進めている"あるプロジェクト"が暗礁に乗り上げてしまいまして。そこで、貴方の助けが必要であるという結論が出たんです。
 スポンサーとしても早急に完成させたいところですし、ここはひとつ、永森君の身柄を拘束させていただいてでも…と、いうことで」
「と、いうことで…じゃないよ」
「大学側も、是非とも派遣させていただきたいと」
「…そすか」
「もちろん、特別手当は出させていただきます。よろしいでしょうか」
 一応は同意を求めてはいるが、廊下の窓の外で黒服の男がこちらを窺っているのが見えたので、蛍太郎は首を縦に振らざるを得なかった。
 そのまま二人して有為楼へと行くと、なにやら人が集まっている騒がしい。近づくにつれ、それが殆ど女子学生であることに気付く。果たして、その原因たる男は蛍太郎に手を振っていた。開けっ放しのドアに手をかけ気障なポーズを作る。そして微笑んだ。
「やあ、蛍太郎」
 彼の名はミカエル・ジウリー。フランス人、御歳二十九。
 ファッションモデルのような若々しい体躯をブランドスーツに包み、日本人好みな金髪碧眼の甘いマスク。彼は現実には殆ど存在しない、日本人の持つフランス人のイメージを体現化し男である。世界有数の大富豪として知られているが、その素性は謎に包まれており、その富を築き上げた過程についても不透明なことが多い。
「ミカエル…ってことは、あれか」
「さすが蛍太郎。察しが早いね」
「…っていうか、他に何もないし」
「まあ、そういうことなんだ。すまないね。納期ギリギリなものでね」
 言葉とは裏腹に大して悪びれた様子は無いが、ジウリーは蛍太郎の肩をバシバシと叩くとそのような事を言った。
「いいけど…」
 明らかに不貞腐れている様子だが、蛍太郎は言葉の上では気にしていない旨を口にした。
 噂どおり、有為楼には"地下四階"が存在する。学内にあっても限られた者しか知り得ないその場所に、蛍太郎とジウリーがいた。
 秘匿された場所でしか行えない実験・研究を行う施設だが、実質はミカエル・ジウリーがどこからか持ち込むオーバーテクノロジーを分析し現在の技術で再現、もしくは再現する為の技術を開発する為に利用されている。そして、それらは慎重に頃合を見て世に出されていく。
 そのために優秀な科学者・技術者が入れ替わり立ち代り出入りし、知恵を絞っているのである。
 蛍太郎も何度かここに出入りしている。外界から隔離されていること以外は素晴らしい施設なので気に入ってはいるのだが、だからといってこういう形でつれて来られては気分が良い筈も無い。
 それに、玲子がさっさと帰ってしまったのも気に食わない。
 蛍太郎は、あまり感情が出ないように注意しながら呟いた。
「…僕のプログラムに何か不備があったかな」
 現在ジウリーが行っているプロジェクトは、量子コンピューターの組立だ。蛍太郎もそれには既に一枚噛んでおり、自宅で専用プログラムを組んでいた。だが、それは納期どおりに完成したため、このプロジェクトに関しては自分が関わることは無いだろうと思っていたのである。
 ジウリーはあらぬ方へ視線を向け、渋々と状況を説明した。
「それがその…機器の認識さえしてないというか…そんな感じ? あああっ、そんな目で見るなよ。初めて作ったんだから、そういうこともあるだろう」
 廊下にジウリーの言い訳がこだまする。エレベーターから続く長い廊下を抜けると、地下特殊実験室の扉がある。ジウリーは、扉の据えつけられた入力機器にパスワードやら音声やら指紋やら網膜パターンやらを入力していく。
 それを一通りすますと、今度は猫撫で声に切り替えた。
「いいじゃないかよー。悪いと思ってるから、着替えを買っておいたんじゃないかぁ。私の、せめてもの気持ですよぉ」
 と、蛍太郎に手渡していた袋を指差す。
 先ほど覗いて見たところ、中身は確かに服だった。大人向けでありながら、チェック柄とユニオンジャックをあしらったチャイルディシュなムードを売りにしたイギリスのブランド品である。帽子から靴まで揃っているので総額15万円は下らないだろう。日本では、欧州限定でサッカー好きな大物お笑いタレントが着ていることで有名だ。
「値段のことは気にするな。私の友人がそれ系列のショップをやってるんで安価に譲ってもらっただけだ。特に他意はないぞ」
「他意ねぇ…。こういうとき男に服をプレゼントするっていうのは、なんか違うと思うよ…」
「ほう。サムライの国とカルチョの国の血を受け継ぐ蛍太郎は、UKテイストをお気に召さないとみえる」
「っていうか、これの系列のだったら、女物をくれた方が幾らか嬉しかったよ」
 蛍太郎は肩をすくめた。ジウリーは目を丸くした。
「おいおい、いいのか。いや、君なら似合うとは思うが…すまない。心の準備が出来てなくて…。こんな時にそんなことを言われても…その、なんだ、困る」
「何を困ってるんだ、何を…。僕が着る訳ないだろ。璃音ちゃんにプレゼントするに決まってるじゃないか」
 しばしの沈黙。そして、ジウリーは笑いだした。
「はははははっ。そうだよな。そうだそうだ、はははは。いやぁ、なに。想像してみたら、あまりにも似合ってたんで、つい。ここだけの話、ちょっとだけドキドキしちゃったぞ」
「…つい、じゃないよ」
 蛍太郎のタメ息とともに、大仰なドアが開いた――。
 
 それから蛍太郎は、一度も外に出ていない。外部との連絡も、初日の晩に当分帰れないと璃音に電話したきりである。時計を見れば今が午前七時だと判るが、日光を浴びない生活を続けると体内時計が狂うのを実感できる状態だ。もちろん、短時間の仮眠以外は不休。宿泊の用の部屋にはシャワーがついているし、毎日新品の服が増えていくので見た目だけなら結構きれいなままだというのが、まだ救いだろう。
「璃音ちゃんの声が聞きたい…。うあー。璃音ちゃん…璃音…りおんちゃん…りおん…」
「蛍太郎、日に日に弱ってくね。一度ウチに帰った方がいいんじゃあないの?」
 振り向くと、赤毛の美人がそこにいた。ソフィーヤ・ロマノヴナ・コロコロワ。ロシアから来た科学者である。もとより温厚な性格で、それがにじみ出たかのような優しい笑顔が魅力的な女性だが、この状況で彼女の声と笑顔に触れると、女神か天使に出会ったような錯覚さえ感じてしまう。
「ありがと、ソーニャ。あとでミカエルにも、そう言ってくれると嬉しかったするかな」
 すこし元気を取り戻した様子の蛍太郎。それを見たソーニャは、後ろから蛍太郎の肩に手をかけると、グリグリと揉みはじめた。
「弟のお友達のダンナサマが弱ってるのを、黙って見てはいられないですからね。マッサージなどひとつ、してみましょうか。どう?」
 ソーニャは、璃音のクラスメイトであるバロージャの六歳離れた姉で、日本にくることになってからは、殆ど母親代わりなのだそうだ。まったく、世の中というのは狭いものである。
「ああ、いい。それ」
 思わず声を洩らす蛍太郎。
「ホントですか? じゃ、頑張っちゃいますよぉ〜」
 腰を入れて、力を込めるソーニャ。姿勢とか反復運動とかその他色々な要因で、ソーニャの大きな大きな胸の先端が蛍太郎の髪の先に微妙なタッチで触れたり触れなかったりを繰り返す。
「…あの…それもメニューのうちなんでしょうか」
「え? なにが?」
 キョトンとして訊き返してくるソーニャ。本人は気付いていないらしい。ならば、これは言わない方がいいかもしれない、と蛍太郎は思った。ヘタなことを言って、まかり間違ってこれが璃音の耳に入ろうものなら大変である。気付かないままで終わらせたほうがいいだろう。
(決して、この感触を楽しみたいからじゃないぞ)
 誰にともなく、言い訳する蛍太郎だった。そうして極楽気分を味わっていると「こほん」と、咳払いが聞こえた。視線を上げると、平田涼一が羨むような妬むようなえもいわれぬ表情で蛍太郎を見おろしていた。この男は三十四歳ながら、教授として三城大学に招聘された天才科学者だ。日本人ながらイギリスはロンドンで育っており、蛍太郎の母親には何かと世話になったそうだ。蛍太郎自身もアメリカの特殊機関"フェデレーション"に居た頃には随分と世話になり、今では兄貴分とでも言うべき存在になっている。
「いいなぁ。君はモテて」
 兄貴分の割には、ときどき拗ねたことを言うが、それもご愛嬌である。
「いやいや、そんなことはないですよ。これはただ、肩を揉んで…」
 慌てて顔を上げて言い訳めいたことを言う蛍太郎。直後、ソーニャの胸が後頭部に激突した。
「あ。ゴメンね、蛍太郎」
「いや、その…こっちこそゴメンなさい」
 慌てて立ち上がり、奇妙な謝罪合戦をする二人。その様子を見て、平田はタメ息を吐いた。
「どうしたんですか涼一さん」
 蛍太郎が声をかける。
「いや、別になんでもない。二人とも、背が高くていいなぁと思ってさ」
 そう言うと、寂しげな表情で二人を見上げる平田。身長百八十ニセンチの蛍太郎だけでなくソーニャも相当の長身で、靴のヒールを差っぴいても蛍太郎より背が高い。そんな二人を前にした平田の背丈は百六十八センチである。
 へこんだ様子の平田を気遣って、ソーニャが太陽のような笑顔を向けた。
「まあまあ。この仕事で、身長があって有利なことって無いじゃないですか。蛍太郎なんか、機械の隙間で窮屈そうにしてますよ」
 蛍太郎は肩をすくめた。それもそうだ、と平田も笑った。
「まさに問題はそこなんだよね」
 ソーニャの言葉を受け、蛍太郎が続ける。
「なんで僕だけが機械の隙間で窮屈にしてるのかってこと。涼一さんもソーニャも定時で帰るのにさ」
 口を尖らせる。申し訳なさそうに平田が答えた。
「そりゃ、僕らには表の顔があるからね。この研究室の存在を知っているのは学内でも限られた者だけだから、同僚にも家族にもここにいることは隠さなきゃいけない。そうなると、普段の生活サイクルからあまり逸脱するわけにはいかないだろ。…まあ、僕は一人暮らしだけどさ」
「僕の生活はどうなるんだ。妻帯者なのに」
 蛍太郎は小さく呟いた。それを聞こえていないふりをして、平田はタメ息混じりで円筒を見上げた。
「それに、そいつはブラックボックスが多すぎて僕にもソーニャさんにも手が出せないからなぁ。こんなのどうするんだろう。人類初の量子コンピューターっていってもなぁ。理屈もわからないままにコピーしたブラックボックスだらけで、しかも未知の言語で動くってんじゃ意味無いだろ。人目につくところに置けないんだから」
 今回は、この施設で行われているプロジェクトとは異なり、現在の地球にある技術での再現という試みは全く行われていない。そういうことから、ジウリーが持ち込むオーバーテクノロジーに詳しい蛍太郎が組み立てにまで借り出されているというわけだ。その蛍太郎が、自分の考えを述べた。
「うーん、多分コイツを今後の実験のための足しにしようってことなんじゃないのかな。これなら、地球上のコンピューターで何年もかかる計算だって一瞬で出来るわけだし」
 三人は、顔を見合わせた。そして、平田が呟く。
「ジウリー氏はこれをどこで手に入れて、どうするつもりなんだろうな」
 しばしの沈黙の後、ソーニャが手を叩く。
「よし、わかった! ジウリーは宇宙人で、オーバーテクノロジーは自分が乗ってきた宇宙船の物なのですよ」
「おいおい。じゃあ、なんで自分の宇宙船のテクノロジーをわざわざ地球人に再現させるんだよ」
 と、平田。ソーニャの科学者らしからぬとりとめの無い空想話に付き合ってあげる平田。優しさから、というよりも単純に暇なのだろう。ソーニャもそれに応えて、次なる想像を展開していく。
「うーん、それはね。自分では壊れた宇宙船を直せないから…かな。私たちだって、自分が乗ってるクルマを自分で修理できるわけじゃないでしょ」
「ほう。じゃあ、今までここで生み出されたパワードスーツとか、特殊グライダーとかも、ゆくゆくは宇宙船を修理する為の布石だってことだな」
「そうです」
 頷くソーニャ。
「で、宇宙船を直してどうするんだ」
「もちろん、星に帰るの。ジウリーは星の王子様なのですよ」
 確かにジウリーのルックスは、王子様と呼ばれても違和感の無いものではある。
「なるほどね。いやぁ、ファンタスティックで面白かったよ」
 平田の言葉に、ソーニャは唇を尖らせた。
「わりと本気でしたよ、私は」
 その様子に、平田は吹き出してしまった。
「でもさ、宇宙人は無いよ。"違う惑星から来た男"といわれている、あのジダンだって生粋の地球人なんだからからさ」
 違いない、と三人は声を揃えて笑った。
「ま、その宇宙人説を採るとしてだ。蛍太郎がそのオーバーテクノロジーに詳しいのは何故なんだ? 確かにコイツはフェデレーションの育成システム始まって以来の天才と言われた男だけどさ。この専門家ぶりは解せないね」
 なんだかんだでこの話題が気に入ったらしく、平田は先を続けた。
「あれ、言ってませんでした?」
 それに、蛍太郎がニコニコしながら答えた。
「僕、宇宙人とイイ仲なんですよ」
「おいおい、璃音ちゃんはどうしたんだ。まさか、彼女が宇宙人だっていうのか、君は」
 もう笑いが止まらない平田。ソーニャは真面目な顔で、
「璃音はちっちゃくて可愛いし、不思議な目をしてるから、宇宙人だって言われても信じちゃいますよ、私は」
 と、言う。蛍太郎は笑いながら、こう締めくくった。
「ま。冗談だけどね」
 

 
 中村トウキは今日もギリギリに教室に滑り込む。
 褒められた事でないのは重々承知でも、あわよくば可能な限り遅い時間を目標に行動ようとしてしまうのは、人の習い性というヤツだ。しかも今は午前中である。
 そこで、この場合の行動は授業時間の三分の二以上を聴いていれば出席と見なす講師の方針に則った、二十分オーバー出席である。
 一応は授業中であることを鑑み、トウキは可能な限りの忍び足で、殆ど音もなく空いている席に着いた。
 適当にノートを広げ一息つく。
 大教室ゆえに板書は遥か前。だが、それはわりとどうでもいい事で、トウキの視線は左斜め前方の席に座っている学生に向いていた。
 藤宮斐美花だ。
 この角度からでは顔は見えないが、その美しい黒髪を充分に堪能できる。
 トウキが彼女を初めて見たのは、三月に鶴泉荘に入居した時だ。ただし、一ヶ月以上経っても一言二言しか口を利いていない。大家の妹と賃貸契約者という立場が関係しているとは思えないが、同じ大学に通っていることを知ったのも、この授業で偶然居合わせてからである。
 学部が違えばサークルにでも入らない限り殆ど交流はないからそれも仕方の無いところではあるが、三年間もここに通っていてこれほどの美人を見たこともなければ噂も聞いたこともないとは、いかに日ごろの交流関係が限られているかを物語るようで、改めて意気消沈させられる。
 しかし。
 それはそれとして、今は斐美花である。
 後姿だけでも充分に惚れ惚れできるが、ときおりチラリと横顔が見えるのがたまらない。それを見逃してはならぬと、ジッと前を凝視するトウキ。
 気がつけば、終了のチャイムがなる。
 もちろん、トウキのノートは真っ白だった。
 秒読みして身構えていた学生たちがゾロゾロと教室を後にしていく。斐美花はその流れに逆らうように講師と少し話してから、すっかり人通りの少なくなった出口へと向かっていく。
 それを茫洋と眺めていたトウキは、我知らず呟いていた。
「…後をつけよう」
 
 授業が終わると、斐美花は学生会館の部室長屋と呼ばれる区画へと向かった。大学には高校までのようなクラス分けも教室もないから、サークルに入っている者は自然と部室を拠点に行動するようになる。
 斐美花が所属する日本文化研究会、別名"留学生クラブ"は今日も実に賑やかで、部室には既に四人の学生がたむろしていた。「午前中から暇そうだな」と、いうツッコミはさておき、結束力の堅さが売りなのである。
「斐美花、お疲れ」
 手を挙げて迎えてくれたのは、綺子である。斐美花も手を振って応えた。
「もうすっかり、お馴染みやね」
 アンナ・ヘンリクソンが微笑めば、
「朱ニ交ワレバ、赤クナルネ」
 と、ヒカルド・シウバも白い歯を見せる。意味は正しいがニュアンス的に少々微妙な言い回しに、綺子が口端をゆがめる。
「ダメ人間の仲間入りさせたみたいだね、それじゃあ…」
「ははは。イロモノガイジン軍団にようこそー」
 ケラケラと笑うアンナ。綺子は今度は眉を吊り上げた。
「それって、私も入ってるわけ?」
「とーぜんやろ」
 二十歳の綺子は日本国籍と同時に他国のパスも持てる状態なので、外国人でもあるが帰国子女といったほうが相応しい。だがいずれにせよ、日本で暮らすのは初めてだから、アンナやヒカルドと大した差は無い。
 そういう視点でいうと斐美花も似たようなもので、小学校から短大までを街外れの高台にあるミッション系寄宿女子校で過ごしたために、国際情勢はまだしも世事には疎いし、土地勘も殆ど無い。義弟の勧めで三城大学に編入はしたものの、初めてづくしの生活に戸惑いも多い。この国・この街での暮らしを探求する"日本文化研究会"に引き込まれたのはそのためだ。
 誘いかけた本人である綺子は、深々とタメ息を吐いて言った。
「はぁ。なんか、イロモノ集団って感じだよね。こんなところに引き込んじゃって、ゴメンね斐美花」
 斐美花は首を振る。
「そんなことないよ。皆優しいし、楽しいよ」
「そらそうや。斐美花みたいなものごっつう美人を邪険に扱うわけないやろ。言うたらまさに、和風美人やで」
 アンナはしきりに頷く。斐美花の体格は充分に日本人離れしているが、彼女の目には日本的な美貌と映るらしい。ヒカルドも膝を叩いて、
「ソウダソウダ。スッゲェマジヤバ」
 と、よく判らない言語で同調する。
 ふたりがあまり褒めるので斐美花はすっかり照れてしまって、顔を赤くして俯いてしまった。
 当然、綺子は不満である。斐美花が和風美人で通るなら、綺子も充分に当てはまるはずだ。
「なーんか、斐美花ばっかり贔屓されてない?」
 不満といっても本気ではないので、冗談めかした口調で言う。それに対するアンナの答えもおどけたものだった。
「綺子は、お兄さんのこと内緒にしよったから、しばらくお仕置きや」
「…なぜだ」
「何故って自分、あんな若くてカッコイイ先生がいたら胸がトキメクのが当然やろ。それがなんや、自分のせいで全部パーや」
 この場合の"自分"はニ人称代名詞である。
「別に、訊かれもしない事を言う必要もないでしょ。家族構成なんてプライバシーの範疇なんだし」
「そんなもんかね」 
「そんなもんよ」
 顔を合わせて一月経っていないというのに、綺子とアンナは十年来の友人のように仲良くケンカしている。最初は見るだに冷や冷やモノだった斐美花もどうにか慣れてきた。特に動揺することもなく、話に割り込む。
「ねえねえ、そろそろご飯食べに行こうよ」
 そう言われて、アンナと綺子は顔を見合わせた。
「そやね」
「それじゃね、今日は学生らしくジャンクフードといきますか」
 綺子の提案に、すぐにヒカルドが首を縦に振る。
「OK、決まりね」
 と、綺子。部室に居た最後の一人、取手隼児にも声をかける。
「君も行くよね?」
「あ、はい」
 取手は頷いた。
 彼は今期の新入生だが、酉野生まれの酉野育ち。高校では陸上をやっていたが怪我で中途退部した、と本人の弁だ。それ以上のことは、誰も聴いていない。過去の名残か均整の取れた容貌をしていて見栄えするが、どうにも無気力さが漂うのが玉に瑕だ。先ほどから部室にいたのだが、何も話すこともなく呆けていたあたりにもそれが窺える。
「ほな、行くで」
 アンナの号令で一同ぞろぞろ席を立つ。
 少し歩いてから、斐美花は首をかしげながら呟いた。
「…ジャンクフードって、何? ってか、ジャンクって…それ、食べられるの?」
 

 
 放課後。
 璃音はいつも通り生徒会室のドアを叩いた。
 だが、連休直前では、さすがにやる事も無いししたくもないということだろう。そこには貴洛院も西条も居なかった。
 せっかく暇を出してくれたのだからそれをありがたく頂戴しない手は無い。璃音は、「六年間無部では格好がつかない」という理由で今週から生徒会入りした法眼悠や下級生たちと適当に雑談してから下校した。
 そういうわけで璃音は悠と二人、特に当てもなく商店街をプラプラすることになった。
「そういやさ、今日はいつごろ帰るの?」
 何とはなしに悠は訊いた。一応、相手の予定は知っていたほうがいい。璃音は少し考えてから答えた。
「別にいつでもいいけど…。制服姿であんまり遅くまでうろついてると補導されちゃうから、それなりの時間で」
「いいの?」 
「別に、無断外泊するわけじゃあなし。って…今、仕事で帰って来ないんだよね…。もう一週間くらい、かな」
 悠は目を丸くした。璃音の夫がそれだけ家を空けたという話は初めて聴く。
「じゃあ…ご無沙汰かぁ。なんか冴えない顔してるもんね」
「そうかなぁ」
 一応笑ってみせる璃音だが悠には見透かされているだろうことは判っている。だが悠はそんなことはおくびにも出さない。
「ふーん。ま、私らと違ってお仕事してるんだし、そんなこともあるでしょ。それじゃあさ、お弁当持って行ったりとかしたらいいんじゃあない?」
 と、悠。璃音は首を振った。
「そうしようと思ったけど、携帯通じないんだよね。それはつまり、来られちゃ困るっていうことだろうし…。一応メールはしといたけどさ。
 それになんか、たったこれっぽっち離れただけで寂しくなっちゃう自分に呆れちゃってるっていうかなんていうか…」
 だんだん璃音の声が細くなっていくので、悠はその頭をグリグリと撫でながら、おどけた口調で言った。
「璃音ってさ、昔っから寂しがりっていうか甘えん坊っていうか、一人じゃダメな子だよねぇ。大人になったら治るかと思ったけど、結婚したお陰でかえって悪化してるもんなぁ」
「むぅ…そんなことないもん」
 鳥の巣になってしまった髪を直しながら、璃音は口を尖らせた。もともと癖の無い髪だから、ちょっと手櫛を入れるだけで簡単に元に戻ってしまう。
「悠だって、好きな人が出来たらわかるよ」
「はいはい」
「むぅ…バカにして」
「してないよ。なんていうのかなぁ…璃音と蛍太郎さんを見てると、ね。あれに匹敵する完璧なダンナをゲットするなんて無理だろうっていう諦めみたいなのが先行しちゃうっていうか…。ぶっちゃけ、周りがショボ過ぎてその気になんないんだよねぇ」
 なかば自嘲的に肩をすくめて見せる悠だったが、璃音は真顔で首をかしげていた。
「うーん。けーちゃんって端から見るほど完璧でも無いけどなぁ」
「そんなこたぁないよ。あれなら、誰だって『結婚して』ってお願いしちゃうよ」
「そう? わたしの方が『結婚してください』ってお願いされちゃったんだけど」
 今度は、呆れてタメ息をつく悠。
「ああ、そうだったね。でも、嬉しかったでしょ」
 璃音はその時の事を思い出したのか、顔を真っ赤にして俯いていた。
「うん。それは…もちろん」
「ま。その頃の齢は、微妙かなって気はするけどー」
 と、悠が歯を見せて笑うと、案の定、璃音は眉を逆ハの字のにしていた。
「むぅ…やっぱりバカにしてる」
「してないって。まあ、人生長いんだしさ。私はゆっくりとパートナーを探すってことで」
「ふーん」
「…バカにしてるな」
「してないよー」
 それからしばらく、学校の男子生徒のうちでは誰が良いだの彼は誰と付き合ってるだのと取り留めの無い噂話に興じるが、ひとしきりネタが出尽くしたところで璃音は話題を変えることにした。
「ねえ、斐美お姉ちゃんとはどう? 先週、泊めてくれたみたいだけど」
 いつになく姑じみた口調の璃音に、悠は頬を染めて答えた。
「ま、まあ…ぼちぼち。って、なんで照れなきゃいけないんだ? 別に怪しい関係でもないぞ」
「あはは。ほら、斐美お姉ちゃんって友達いないからさ。ずっと悠が仲良くしてくれて感謝してるよ」
 確かに斐美花はその年齢の娘にしては交流の幅が狭い。それは彼女の人格に問題があるからという訳ではなく、育ってきた環境に原因がある。
 斐美花が通っていた晴真学院は、名門ミッション系寄宿女子高という肩書きが示すとおり、外界から隔絶された環境にある。街外れの小高い丘に校舎を構え、外出は長期休暇を除けば月一回、外からの出入りも厳しく制限される。そのため各地の富裕層の子女が無菌育成のために預けられる場として機能しており、高校もしくは短大を卒業すれば親元に帰るか嫁に出されるかが常となっている。
 そういうことなので、斐美花にとって友人といえる人間は大方散り散りになってしまい、連絡を取ることすら困難な状況である。
 悠は璃音とは幼稚園以来の付き合いだが、たまに下山してくる斐美花にも良く懐き、数年前からは歳の離れた友人として親密な関係を築いていた。その間、規制の緩い手紙でのやり取りが続き、書簡は膨大な量に至ったという。
「あ、そういえば」
 璃音は思い出したように付け足した。
「斐美お姉ちゃん、夏までに彼氏が欲しいみたいなこといってたから。男の人とロクに話せないのに、それはどーよって気がするけど…」
「…マジか。心配だなぁ」
 悠の顔が引きつる。
「お姉ちゃんも、侑希音さんみたいになっちゃうんだろうか…」
 それを聞いた璃音も、腕を組んで頭を垂れた。
「わたし思うんだけど、あの学校って何のかんので培養に失敗してるんじゃないの?」
 と、ビルの向こう、山の中腹に見える屋根に視線を送る。
 悠も額を押さえながら呻くように言った。
「ま、まあ…特殊な閉鎖環境だからね…。お姉ちゃんから話は聞いてるけど、ここで言うのは…やめとくわ」
 話が妙な方向へ飛んでしまい、二人とも口が重くなる。その沈黙を破るように、璃音の腹が可愛らしい音をたてた。
 それで、悠は吹きだしてしまった。
「はは、そうかそうか。もうそんな時間か」
 あまり面白げに悠が笑うので、今度は璃音が顔を赤くしてしまう。
「それじゃあさ、璃音。ご飯食べに行こうよ」
 と、悠が言うと、
「ホント?」
 璃音が一瞬で笑顔になる。悠は頷く。
「お姉ちゃんも誘ってさ。で、どこ行こうか」
 少し考えて、璃音は先週行き損ねた店の名を口にした。
 "ベンガル虎"は、住宅地の真ん中にある小さな店だ。インド人が作る本格インドカレーは、唐辛子を使っていないので辛さが後に残らず、小麦粉を使っていないので幾ら食べても胃にもたれないという逸品である。味だけでなくボリュームも満足いくもので、老若男女問わず人気の店だ。
 六人がけのテーブル席が空いており、璃音の隣に悠、斐美花、その向かいには綺子とトウキという席順になった。
 あれから璃音が姉に電話して食事に誘うと、一緒に部室に居た綺子も付いてくることになった。斐美花たちが部室長屋を出ると、何故かトウキがウロウロしていたので、彼も捕まえてきたというわけである。
「と、いうわけで…」
 まず、綺子が口を開いた。
「一人増えちゃいました。よろしくね、義姉さん、悠ちゃん」
 そういわれて、璃音と悠は曖昧に頭を下げた。
「特に、悠ちゃんは斐美花がお目当てだったとは思うんだけど…って、私自体が邪魔?」
 さすがに「はい」とは言えない悠は、愛想笑いを浮かべながら言った。
「いえ、まあ…綺子さんも綺麗ですし…」
 その綺子に引っ張られてきたトウキは、
「いやぁ、やっぱりまずかったんじゃないかなぁ…。何か場違いな気がするんですけど…」
 と、しきりに肩をすぼめていた。それを、綺子がたしなめるような口調で諭す。
「何言ってるの、中村君。別に知らない仲でもなし、たまにはこういうのもいいでしょ。せっかくだし、斐美花とゆっくり話でもしてみればー」
 と、含み笑いをする。
「な、何を言ってるんですか…」
 思いっきり狼狽するトウキ。年齢と立場が見事に逆転している。だがたった数十分でそこまでの関係になってしまうというのは、ご近所で顔見知りということを差し引いても、ある意味ではトウキの人徳のなせる業といえなくもない。
 何故かターゲットになった斐美花は顔を赤くして俯いていた。
 悠だけがトウキと面識がなかったので、お互いを紹介しあうと早速メニューを見る。その途端、トウキの眉間にこの世の不幸を一身に背負ったような悲哀が刻まれた。一皿あたり八百円以上の価格帯は、トウキの財布には少々厳しかったようである。
「お金貸そっか?」
 相手を慮って慎重にきりだす綺子。だが、トウキは毅然と眉を上げた。
「いや、いい。大丈夫なんとかなる。いや、する」
 綺麗な女の子と食事が出来る機会を『金が無い』などという最も恥ずかしい理由で棒に振ることなど、男として出来るわけが無い。
「じゃあ…」
 と、悠がある方向を指差す。
「中村さんに合法的に無銭飲食が出来る方法を教えてあげます。ほら、あれ」
 そこには、一抱えはあろうかという皿に比喩や誇張でなしに山のように盛られたカレーライスの見本模型があった。トウキは、その巨大さに絶句した。
「まさか…」
「そう、そのまさか。あの、須弥山をイメージした1300グラムの"三千大千カレー"を20分以内に食べきれば、お金払わなくてもいいんですよ。どうよ中村さん、試してみない?」
「いや、いい。あんなの絶対無理。1300グラムって…すでにキロの単位じゃないか。そんなんじゃ、米だけで内臓塞がるだろ」
「うん、私もそう思います。無理ですよね」
 信じられないといった表情のトウキに、頷く悠。程なくパートのおばちゃんが注文をとりに来た。
「ダルカレー。ぼちぼち、豆食べないとね」
 と、悠。ダルカレーとは豆を使ったカレーで、さわやかな優しい味わいが特徴とメニューに説明が記載されていた。
「三千大千カレー、ハーフ&ハーフでチキンとダル」
 と、璃音。
「いや、ちょっと待って!」
「へ?」
 思わず大声を出したトウキに、驚く璃音。対して、悠は笑いをこらえている。先ほど、三千大千カレーを見て絶句した中村に同調したのは演技だったようだ。ご丁寧に、メニューの解説までつけてくる。
「ハーフ&ハーフは、100円増しで一皿に二種のルーを半分づつかけてくれるというお得なメニューね。この場合は、チキンカレーとダルカレーが半分づつってことになるの」
「いやいやいやいや」
 そこじゃないだろ、と手を振ってアピールするトウキ。
「なに、中村さん。チキンカレーにも解説が必要?」
「だから! 1300グラムなんて無理でしょ! てか、なんでお嬢様なのにタダでメシ食おうとするわけ? 金持ってるんでしょ?」
 金の話はさておき、トウキの言い分はごもっともである。璃音の百五十センチそこそこの小さな身体に千三百グラムもの米を詰め込むことなど、到底可能には見えない。だが、
「ん?いつもこれだから大丈夫。だって、大盛でも足りないもん。それに、今日は学食だったから、凄くお腹空いちゃったし」
 と、璃音は無邪気に笑っていた。
「…マジっすか」
 絶句するトウキ。悠はニヤニヤしているが、璃音の笑顔はトウキを欺いているようには見えない。得てして女はそうやって嘘をつくものなのだが、それはそれ。トウキの考えはそこまで及んでいないし、璃音にもその気は全く無い。
 話の流れに乗って、どことなく挑戦的に綺子が問う。
「さあ、中村君はどうするの?」
 明らかに何かを期待している目だと判るが、中村トウキは冒険をしない男だ。
「ビーフカレー。普通」
 それに対し、綺子は明らかに不満気だ。
「なんだよビーフカレー。しかも普通? 普通デスカァ? 中村君ってばツマラナイ男だね。ここでさ、『ズギャンッ!』とチャレンジしようっていう気概とかないわけ?」
 失望で憤懣やるかたないといった様子である。
 悠も同調する。
「勝負どころで逃げる男なんてカッコ悪いです。戦わなければ負け犬以下ですよ」
(どうしろっていうんだ、こいつら…)
 スッカリ困り果ててしまったトウキに、斐美花が助け舟を出した。
「綺子、いいじゃないの。悠ちゃんも、言い過ぎ」
 そういわれると二人とも弱い。
「ゴメン」
「すいません、調子のっちゃって…」
 と、次々に謝る。
 トウキも恐縮してしまい、頭を下げた。
「こちらこそ…その、ヘタレですいません」
 すると、璃音が「そんなことないです」と、口を開いた。
「好きなのを食べるのが一番楽しいよ」
 女の子に続けて気にかけてもらえるという、全く思いもがけないことに、トウキは戸惑ってしまった。
「そ…そうだよ。つーか、牛肉様を馬鹿に、するな…」
 良く判らないことを口走ってしまうトウキ。だが、璃音がそれに同調する。
「そうそう、牛肉をバカにしちゃダメですよ。ね〜っ」
 最後の『ねっ〜』は、トウキを見つめながら笑顔の璃音。トウキは、それですっかり参ってしまった。人妻だとは判っているが、それでも美しい女性の側に居るのは喜びである。
「あ、ああ…そうだよ。オレは牛肉が好きなんだ」
 この程度の答えが精一杯のトウキだった。
 綺子は、「私もダルね」と言うと、最後まで迷っていた斐美花が注文を決めた。
「ビーフとダルのハーフ&ハーフ、大盛で。あと、サイドメニューのサルサチキンと焼きナスもお願いします」
「…斐美花さんも、結構食べるんですね…」
 トウキは感嘆のタメ息を吐いた。それを聞いた斐美花が、はっと顔を上げる。
「…だめ、ですか?」
「いえいえ、とんでもないです! 美味しそうに食事をする女性は好きです。なんていうか、可愛いというか、まわりが明るくなるというか…」
 何か支離滅裂になってしまったトウキをフォローするにように、おばちゃんが注文を確認し、厨房へ向かう。平日とはいえ、それなりにお客は入っており食事にありつくには相応の時間が掛かりそうだ。
 璃音は空腹が堪え始めたのか、背もたれに寄りかかってお腹をさすり出した。おかげで見事なメリハリを誇る胸と腰周りが無防備に目に入り、トウキの視線は釘付けだ。それに気付き、悠が璃音のお腹をポンと叩いた。
「はう」
 驚いて身体を起こす璃音。
「お行儀悪いよ」
「はーい」
 素直に返事をすると、璃音は姿勢を正して座りなおした。残念に思うトウキだが、それは男としては間違ってはいないだろう。
 斐美花はというと、チラチラとトウキの方を窺い、顔を伏せ…を何度か繰り返す。それに気付いたトウキは、なんとか斐美花の気を引いてやろうと口を開いた。
「さっきも言いましたけど、牛肉好きなんですよね、オレ」
 一同の視線がトウキに集まる。
「ほら、ずっとまえに、『あら、こんなところに牛肉が』って歌うハヤシかなんかのCMがあったじゃないですか。オレ、あれ見るたびにブチキレそうになったんですよ。
『牛肉様に何たる扱いじゃ!』
 ってね。それでリモコンをTVに投げつけて、めちゃくちゃ怒られたこともありました。
『牛肉よりTVの方が高いだろアホ息子!』
 …なーんて、父に殺されるんじゃないかってほど折檻されたのも、今では良い思い出です。
 えっと、話を戻しますけど、そもそも牛肉っていうのは、そんな蔑ろにされていいような食材じゃないんですよ。もっと、崇め奉られるべき物だと思うんです」
 拳を握り、良い感じに余韻に浸るトウキ。
 それを受けて、綺子が神妙な顔で言う。
「崇め奉るってか、インドじゃ神様だよね、牛って…」
 悠も相槌を打つ。
「食べないんですよね」
 璃音がおずおずと手を挙げた。 
「あの…。今の話って、中村さんの自分語りだったのか、インドでは牛を神聖視してるっていう話なのか、よく判らないんだけど…。どっち?」
 トウキは首をかしげながら答えた。
「自分語り、かな…」
 それを聞いた斐美花が悲しげに呟く。
「かわいそう…そんな、くだらないことで殺されそうになるなんて…」
 目に涙まで溜めている斐美花に、慌てて悠が声をかける。 
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。どうせ大げさに言ってるだけなんだからさ」
「そうそう、どうせ吹かしだってば。ねえ?」
 と、綺子も続ける。トウキも空気を読んで、笑いながら言った。
「一発殴られたくらいで、そんなたいしたことなかったから」
 それだけで充分死にそうだったけどな、と言いたいのを我慢した甲斐あり、斐美花は「よかった」と、顔を綻ばせていた。
 5分後、テーブルの上にカレー皿が五つ。だが、そのうちひとつはカレーライスといえるサイズではなく、伏せた洗面器にカレーをかけたようにさえ見えた。
「いただきます」
 璃音は、その洗面器に向かって手を合わせるとスプーンを手に取り、一口。そして、心底幸せそうな笑顔で喜びを表現した。
「あ〜ん、おいしい〜」
 トウキも、ビーフカレーを口に運ぶ。生姜の辛味が爽やかで口当たりの良い味わいだ。あまりに美味いので、トウキは無言でひたすら食べ続けた。
「中村君、気持ちは判るけどもうすこし味わって食べたら? あと、カチャカチャ音たてるな」
 苦笑する綺子。
「いやぁ、だって美味いんだもの。こりゃ癖になりそう」
 トウキは興奮気味だ。それは自分の皿がキレイになるまで止まることはなく、ほんの3分と経たないうちにビーフカレーを平らげてしまった。
 食べ終わって落ち着きがでたトウキは、璃音のほうを見てみた。璃音は急ぐわけでもなく、ゆっくりと楽しんで食べている様子である。これでは時間内に食べ終われるのかどうか、そもそも食べきれるのかどうか心配になってしまう。
「あの、璃音さん。多かったら食べてあげるから、遠慮しないで言ってね」
 トウキ自身にも食べられそうにないが、とりあえず言ってみる。すると璃音は、ニコニコと笑いながら答えた。
「そんなことしたら、タダにならないよ」
「…そっか、ごめん」
 トウキは苦笑しつつ、食後のチャイに口をつけた。生姜とシナモンの風味が何とも芳しい。
 斐美花のカレーも順調に量を減らしていた。こちらも行儀良く食べているのに減りが早い。遅れて運ばれてきたチキンとナスも、あっという間に皿を残すだけとなる。
 悠と綺子はというと人並みなペースで食を進めており、こちらには何故だか妙な安心感がある。
「そういえばさー」
 と、綺子。
「中村君って、学校行ってる時以外はどうしてるの?」
「バイトです、バイト。いろいろ掛け持ちしてるんスよ。生活苦しくて…」
 そうなんだ、と頷く綺子。その様子から家賃滞納のことは聞いていないことが窺われ、トウキは大家代行の人間味に感謝した。斐美花の方も知らないフリをしてくれていた。
「大変だね。じゃあ、学校とバイト先を往復するだけとか、そんな感じなんだ」
「そうですね」
 それを聞いて、綺子は何かを考え始めたようで口数が減る。斐美花はというと、何か言いたそうに視線を上げることはあるが、結局は何も言わずカレーを食べるだけだった。
 不意に、璃音の手が止まった。
 携帯電話を取り出す。
「あ…。けーちゃんからだ」
 メールの着信表示を見た璃音の顔に、この日一番の笑みが浮かんだ。
 斐美花と悠が横から様子を窺う。少しして、メールのやりとりが数回行われ、それから璃音は顔を上げた。
「メールだ」
「見りゃ判るって」
 悠は小さく手を振った。
「メールだ」
「はいはい」
「やったぁ!」
 璃音は飛び跳ねんばかりの勢いで喜んだ。
「なんて?」
 一応訊いてみる悠だったが、答えは予想通り、「ひみつー」だった。そうして満面の笑みでケータイを眺めている璃音の横顔を見つめ、悠はタメ息混じりで言った。
「まったく、メールだけでそんなに幸せそうにしちゃってさ。どんだけ蛍太郎さんが好きなわけ? 親友と自負してる者としちゃあさ、妬けちゃうね」
 それで拗ねた素振りをすると、璃音は心配そうに悠の顔を覗き込む。
「えー。わたし、悠のこと好きだよ」
「ありがと」
 悠は穏やかに微笑んで璃音の頭を撫でた。
「そうだ。今度の祝日にひっかけてさ、ウチに泊まりに来なよ。たまにはいいんじゃないの?」
 夫が不在の時くらい璃音を独り占めしてもいいだろう。少なくとも、そうする権利が自分にはあると、悠は思っている。璃音はそれに応えるように、深く頷いた。
「いいよ。なんなら、今晩からでも」
「大丈夫なの?」
「うん。もうちょっとしたら電話くることになってるから、一応許可は求めるけど平気だよ。わたしと悠の仲だからね」
 そう言われ、悠も満更でもない。だが、ふと思い直す。法眼家には食料が殆ど貯蔵されていないのである。食の細い悠に合わせた量しかないのだから、璃音を泊まりで迎え入れられるような状態ではない。
「あ…だったらさ、私がそっち行って良い? お姉ちゃんとももっとお話したいし、ツナとも遊びたいし…」
 と、遠慮がちな声を作って言う。他に味方をつくろうという意図が見えるところが少々小ズルイ。だが、璃音はあっさりと「いいよ」と頷いた。
「けど悠こそ、お祖父ちゃんに許可とらなくていいの?」
「それこそ、私と璃音の仲だから大丈夫だよ」
 と、悠は顔を綻ばせた。それを見て、斐美花は心配そうな顔をする。
「ホントに大丈夫? 相変わらず厳しいんでしょ」
「まあね。私、お嬢様だから。でも、最近はそうでもないしね」
「そうなんだ」
 それを聞いて、斐美花の頬が緩む。
 今までの話を黙って聞いていた綺子だったが、気になることを聞いた気がするので、本人に訊いてみることにした。
「悠ちゃんってお嬢様なの?」
「言ってませんでしたっけ。私、法眼病院の子だって」
 法眼病院といえば、この街一番の大病院だ。
 それを聞いて感嘆の声を上げるトウキ。風邪薬を買う金も無いトウキには完全に縁遠いところである。
「ほえー。"ホーガン医院"って…それじゃあ、あのデッカイところのお嬢様かい? じゃあなんですか、庶民はオレ一人だってか?」
 何の前触れも無く混じった奇妙な訛りは地なのかはたまた驚きゆえか、それは判らない。だが、その微妙さに悠はツッコミを入れずにはいられなかった。
「ホーガンじゃなくてホウゲンだから。ったく、どこの人だい君は…」
「それは、言えない」
「あっそ」
 いかにも興味無さ気にきりかえされ、トウキは黙ってしまった。その向かいで斐美花が残念そうに口を尖らせていた。
 悠がそれに気付く。
「ねえ、お姉ちゃん。気になることがあるなら、はっきり本人に訊いたらいいんじゃない?」
 それは、少しからかうような口調だった。
 斐美花は突然の指名に慌ててしまい、赤い顔で口をパクパクさせるだけだった。
 ポケットから引っ張り出したケータイの時刻表示を見て、悠が言った。
「そろそろお開きかな」
 つられてトウキも時計を見る。存外に時間の経つのは早いものである。
「それじゃあ、いっぺん家に帰るとしますかね。誰もいないけどさ」
「家に誰もいなくても、帰んなきゃいけないんだ。っていうか、今日は藤宮さん家に泊まるんじゃなかったっけ?」
 と、トウキ。悠は、呆れた顔で肩をすくめた。
「そう。七時半になると、お爺様から電話かかってくるの。はるかーいるかーって、帰っても来ないくせにさ。でも、今回は定時にかかってくるのは有難いっちゃあ有難いかな。それで喋ってから行くわ」
 それを聞いて、璃音は思いついたように言った。
「あ。じゃあ、わたしもご挨拶するよ。だから、悠の家までいっしょに行くね」
「うん、ありがと」
 悠は親友の気遣いに感謝した。
「じゃあ、皆食べ終わったし、帰りますか」
 威勢良く言う悠。
「でも、璃音さんの…」
 と、璃音の方を見てトウキは言葉を失った。あの、うず高く盛られていたカレーはキレイに無くなっていたからである。
 目の前の出来事をどう解釈したらいいのか、全く判らない。
 がっつくのではなく、あくまでよく噛みゆっくりと、大食いチャレンジとは遠くかけ離れた様相だったのにもかかわらず。三千大千カレーは、十五分足らずでキレイに璃音の胃袋に収まっていた、ということだろう。だが、あれだけの米が璃音の細いウエストの中に収まるなど、到底考えられない。
「食べ終わったみたいだね…」
 そう、搾り出すようにいうのが精一杯だった。
 トウキが驚く様を面白そうに眺めてから、驚かせた本人はトウキが何を驚いているのか判らずに首をかしげながら、一同席を立つ。
 会計を終えて店を出たところで、綺子が言った。
「私らは、一回部室に戻らないとね」
 綺子が言う。
「あ。そうだったね」
 斐美花も頷いた。学校の行事にはトコトン疎いトウキは呆けたように呟く。
「あれ、これから?」
「そうだよ。明々後日は新歓祭でしょ」
「あ、そんなのあったんだっけ…」
 綺子の答えに対するトウキの反応は、実に間の抜けたものだった。
 春の新歓祭とは、新入生を歓迎するという名目で新入生を働かせて行われる、小規模な学際というべきイベントだ。活動単位はサークルや同好会で、そのどれにも所属していない場合は、学科ごとに有志が先導して動くことになっている。
 もちろん、バイト以外になにもしていないトウキは一回たりとも参加したことは無い。
「で、今日はサークル員の所に泊まることになってるんだ。ああ、女の子の家だから気にしないでね」
 斐美花はゴメンね、と悠に手を合わせた。なにせ実行日は明々後日なのでどこも合宿状態で準備しているのだ。彼女らの日本文化研究会も例外ではない。
「そういうわけだから…今日は帰らないんだ」
 悠は少しガッカリしたが、璃音がすかさず悠と腕を組んで肩を寄せた。
「だいじょうぶだよ。わたしが構ってあげるからさ」
 すると、悠は頬を緩めて照れ隠しにそっぽを向いて言った。
「何言ってるの。寂しく一人寝する人妻を慰めてあげようっていう趣旨なんだから、構うのは私なの。有難く思いなさいよ」
 それを見て、斐美花は安堵の笑みを洩らした。
「おねがいね。休みの日に埋め合わせするからさ」
 斐美花の言葉に、璃音と悠は声を揃えた。
「はーい、期待してまーす」
 このときの斐美花は自らの迂闊さに気付いてはいなかったが、それを思い知るのは後日のことである。
 かような友人の失策を横で見ていた綺子だったが、所在なさげに棒立ちになっているトウキに視線を送り、強い口調で言った。
「中村君、アンタも来なさい。まさか、このままで学生生活終える気なわけ?」
 突然のことに、呆気に取られるトウキ。
「…いいんですか?」
「うん。でも、お泊りに参加していいっていう意味じゃないからね」
 
 
2−
 靄に浮かぶように倉庫とコンテナが続く酉野港。本来、早朝の港は漁に出ていた船が戻り賑わうものだが、今は人っ子一人いない。
 クレーンの先端に降り立ったMr.グラヴィティは、上空に漂う物体を睨みつけた。全幅15メートルほど、洋凧を思わせるシルエットのソイツは一時間ほど前に突然現れて以来、港の上空を風に乗ってグルグルと何をするわけでもなく回っている。そして、時折思い出したように奇妙な咆哮を上げるのである。
「怪獣、なのか?」
 グラヴィは呟いた。確かに不気味ではあるが、特に害がないのであれば倒す必要も無いだろう。すでに市民の避難は完了しているので緊急を要する状況でもないし、怪獣をどこか安全な場所に誘導する方策をゆっくると考えれば良いだろう。
 だが、その望みもすぐに打ち砕かれることになる。怪獣は口と思われる部分から青い熱線を吐き、倉庫街へ攻撃を開始したのである。着弾したコンテナが飴のように溶解した。凄まじい高温である。
「ち…」
 パワーを開放し、グラヴィは空へと舞い上がった。怪獣の懐に飛び込みパンチを食らわすと、一気に急上昇する。怪獣は遥か上方のグラヴィへ向かって闇雲に熱線を放射するが、遠距離での命中は望めないと悟ると後を追い更なる高度へ舞い上がった。
「よし、来たな」
 グラヴィとの距離が詰まり、怪獣が次第に大きく見えてくる。攻撃目標が上方へいれば地上へ向かって熱線が飛ぶことも無い。そういう意図によるグラヴィのポジショニングがあたり、怪獣が撃ちまくった熱線は全て虚空へと消えていく。だが問題は、この状況では肉弾戦以外に攻撃手段が無いことである。ここから先どうしたものかと思案するグラヴィ。そのために動きが鈍り、怪獣の熱線に捕らえられてしまった。視界が青く染まる。熱線が身体に触れる寸前、グラヴィは自らが持つ重力操作のパワーを展開、周囲の空間をゆがめ熱線を屈曲させる。直線の軌道しか描かないはずの熱線はグラヴィの手前で30度曲がり、あらぬ方向へ消えていく。それを目の当たりにして怒りを覚えたのか、怪獣はスピードアップ。熱線を連射しながら一直線にグラヴィに突進してくる。
「いいだろう。勝負だ」
 グラヴィは自らにかけたマイナス方向への重力を解除、プラス方向へきりかえる。自由落下に更に加速を加え、グラヴィは脚の方から凄まじいスピードで怪獣へ突っ込んでいく。熱線は屈曲させて退ける。そしてついに、グラヴィと怪獣は空中で衝突した。
 激突の轟音と衝撃波で大地が震える。
 制止したグラヴィが見上げる先では、腹部を貫通された怪獣が断末魔の叫びを発していた。傷口から青白い光が漏れる。Mr.グラヴィティの経験と勘が怪獣の弱点、熱線袋の位置を見抜いたのだ。怪獣は洩れ出した自らの熱線に焼かれ、ついに爆発した。
 だが、誤算があった。
 怪獣は熱線で蒸発することなく、グラヴィめがけて落下してきたのだ。怪獣は既に絶命しているが、グラヴィを地獄の道連れにしようという執念だろうか。不意をつかれる形になり、グラヴィは火の玉と化した怪獣の亡骸に衝突した。そして、もろともに地表へ向けて落下する。
 衝突の衝撃で、Mr.グラヴィティの意識が飛ぶ。次に彼が目を開けた時には、火球は市街地への直撃コースを取っていた。みるみる間にビルの群れが近づいてくる。
「く、ぬおおおおおおおおッ!!」
 パワーを全開にする。だが、何故こんなものが飛んでいたのかと思うほど、怪獣の質量は膨大だ。そして、気を失っている間についてしまった加速度を相殺するには制動距離が短すぎる。グラヴィは水平方向に力をかけ、軌道を反らす試みに出た。
 一直線に街を目指していた火の玉はコースを変え、その巨体を街外れの山へ叩き付けた。
 

 
「んっ…ああっ…ああああああんっ!」
 太腿の間に挿し入れた両手をグイグイと動かして、璃音は顎を反らした。白く豊かな裸体がシーツの上をのたくる。
「ねえ璃音、どう…?」
 同じく一糸まとわぬ姿の悠は、興味深そうに傍らで悶える璃音を覗き込んだ。上気した頬が、学校で璃音と騒いでいるときとは違う妖しい態を作っている。
「これ、いい、いい…っ。奥がグリグリってかき回されて…凄いのぉ…っ」
 殆ど焦点が合わなくなった目を虚空に向ける。カーテンの間から透けるほどに強くなった陽光が瞳に映るが、もう長いこと激しい快楽に晒された璃音には、それを認識する余裕など残されてはいなかった。
「凄い…。さっきのじゃ、こんなにならなかったのに」
 悠は、改めて璃音の痴態に見入った。
 璃音とは長いこと仲良くしていたから、悠がふざけてキスをしたり身体を触っても嫌がることは無かったし少しは気持ちよさそうな顔をしてもいたが、ここまで快楽に溺れる姿を見せたのはもちろん初めてである。
(この子、こんな顔するんだ…)
 悠も幾度と無く痴態を晒したお陰でメガネはとっくにどこかへ行ってしまったが、ずっと身体を寄せ合っていたから璃音の蕩けきった顔は良く見える。いつもの、学校で彼女を知る男子の殆どが未だに処女であると信仰しているほどに無邪気な璃音からは想像できない姿が、悠の身体の奥を熱くドロドロに蕩かしていくのを感じていた。
(ヤバ…可愛いわ。それに、こんなになるなんて…蛍太郎さんが躾けた結果なのかなぁ)
 そう思いつつ悠は、かような事態に至った経緯を顧みていた―。
 
 法眼家の屋敷は、かつて街の中心部であった商店街から少し逸れたところにある。昔は病院と軒が続いていたそうだが、六十年代の末に広い敷地を求めて現在の住宅地にあたりに移転した。それ以来、この家は院長の多津彦以下法眼家の人間の住まいとしてのみ機能している。
 だが、もともとこの屋敷には悠以外には祖父・多津彦と伯父の暁彦しか住んでおらず、その二人とも仕事が忙しいため、家に居るのは悠一人だけ、という日が非常に多い。
 例えば今日も、そういう日である。
 夕飯を食べ終わってから、悠は璃音を連れて家に戻った。祖父からの定時連絡を受け、それから璃音の家に移動するというプランである。
 実のところ多津彦は孫娘には甘い。
 だが聡明な悠は、それを良いことに好き放題したりはしない。だからこそ大抵の"お願い"は聞いてもらえるというわけだ。しかも、法眼家は藩の御殿医を輩出していたころから藤宮家と付き合いを持っており、さらに多津彦の妻が藤宮斐の妹であるなど個人的にも親密な間柄であることから、悠の外泊には何のお咎めも無かった。むしろ璃音のご機嫌伺いで益々気を良くしてしまい、「ありがとう。迷惑じゃなかったらいつでも泊めてやってくれ」と言い出す始末だった。
 それを聞いて、悠は少し驚いた。
「へえ。お祖父ちゃんがそんなこと言うなんてねぇ」
「寂しい思いをさせてるからって、気を遣ってるんだよ」
「うーん。それならもっと早く、そういうこと言って欲しかったかなぁ」
 肩をすくめる悠。璃音は微笑んで、
「じゃあ、これからもおいでよ。今回はともかく、斐美お姉ちゃんも大抵は家にいるしさ」
 と言う。
「うん、そうするー」
 悠はニッコリと頷いた。
 そういうわけで、ゴーサインは出た。次は荷造りである。結局二日間の外泊と言うことになったから、着替えと洗面道具が必要だ。
 悠は、洗面所に向かうことにした。こちらが、現在居るリビングに近いからだ。
「じゃあ私、準備するから」
「おっけー。そうだ、久しぶりに悠の部屋見てもいいかな?」
 と、璃音。悠は何も考えずに「いいよ」と返事をした。それから悠は、整髪料や洗顔料、化粧水をかき集め二階にある自分の部屋へ入った。
 そこで悠は、自分が犯したミスに気付くことになる。
 璃音は部屋の真ん中で、困ったような視線を彷徨わせていた。悠は「どうした?」と言いながら歩を進め…その原因に思い至った。
 寝乱れたまま散らかったベッドの上に、"特殊な"マッサージ器具がいくつか放置されたままになっていたのである。
 しばしの沈黙。その後、悠は絶叫した。
「うわーうわーっ!」
 ベッドに飛び乗ると、器具をかき集め布団の中に突っ込む。そして、首を捻って璃音を見た。その、あまりに必死な形相に気圧されて璃音は冷や汗を垂らしながら両手を挙げ、掌を広げて見せた。
 そこに何もないことを確認し、悠は安堵のタメ息をついた。
「ま、私は璃音を信じてるけどさ。…写真とか、無かったよね?」
「写真? 誰の?」
 うっかり余計なことを口走ってしまい、悠は顔を覆った。
 昨夜、一人で盛り上がってからそのまま寝入ってしまい、風邪をひかなかったのは不幸中の幸いながら見事に遅刻の危機に瀕してしまい、後片付けせずに家を飛び出したのが、そもそもの原因である。もう一つ幸いなことに、オカズに使った写真はどこかに片付けてあったようである。…もっとも、その存在は自分の口から璃音に知らせてしまったわけだが。もちろん、人並み以上の好奇心を持つ璃音のこと、それに誰が写っていたのか知りたくて仕方なくなってしまった。
「ねーねー、誰の写真? 悠の好きな人?」
「う…それは…」
 別に聞かれて困るものでもないが、こんな雰囲気では言えるものではない。悠は思案した挙句、なんとか話題を摩り替えることにした。
「そっ…そんなことよりさぁ。コレ、どうやって手に入れたと思う?」
 と、布団の中からマッサージ器具をいくつか引っ張り出す。十八才未満立ち入り禁止の店でしか購入できない代物ばかりなので、改めて問われると確かに疑問ではある。だが、それよりも璃音は、悠が言った写真の事が気になってしょうがない。部屋に入った時点ではその存在に気付かなかったので尚更である。
「ねえ、写真…」
 だが、悠は大きな声でそれを遮る。
「なるよねぇ?」
「写真…」
 構わず、悠は言う。
「実はコレ、お姉ちゃんから貰ったんだよ」
「…斐美お姉ちゃんから?」
 知っている人間、それも肉親が関わっているとなると、さすがに璃音もそちらに関心が移る。
「そう。なんでも、卒業生が学校に遊びに来たときに、こういうのを差し入れしていくっていう裏の伝統があるんだって。で、無事動くものに関しては卒業式のときに上級生から下級生へと受け継がれていくんだ」
「うえー、そうなんだ」
 あまりこのことに、璃音は口をあんぐりと開けている。全寮制女子校の、あまり知りたくない種類の秘密である。
「まあ、特殊な環境下でのストレスの捌け口としては…健全な方なんじゃないの? そのお蔭かどうだか知らないけど、この手の学校にしては珍しく、生徒の仲がとても良いところなんだって」
「へぇー」
「スキンシップとしては行き過ぎてるかもしれないけど、効果ありってことよね。だから、黙認されてるようなところがあるとか」
「へぇー」
「ちなみにこれは、お姉ちゃんが上級生から貰った物だけど、リリースし損ねちゃって、それでいっぱいあっても困るからって、いくつか譲ってもらったんだよ。
 …聞いてる?」
 と、悠。璃音が明らかに上の空になっている様子だったので表情を窺ってみると、その視線は悠の手の中にある凶悪な形状の器具に向けられていた。
「…試してみる?」
 悪戯っぽい笑みで問いかけると、璃音は顔を耳まで真っ赤に染めてうろたえた。
「え? …いや、その…」
「OKOK、その先は言わなくていいよ。いくつか適当に見繕って持ってくからさ」 
 
 こうして、二人しかいない藤宮邸、離れの寝室。
 璃音は一際大きな声をあげ、背を仰け反らした。しばし痙攣のように身を震わせ、シーツの波に身を沈めた。
「ああ…」
 うっとりと吐息を洩らす璃音。悠はその額を撫でて前髪を整えてやった。
「お疲れー」
 そう言って璃音の内股に手を伸ばし、"それ"を引き抜いた。
「はう…んっ」
 ずるり、と璃音の中から現れたのは、男性器を模した器具である。サイズ的には特大として分類されているらしく、ブラックカラーがさらに禍々しい印象を与える。さらにモーター内蔵でなかなかに凶悪な動きをする逸品だ。
 余韻に浸っていたところに新たな刺激を加えられ、璃音は身体を震わせた。口の端から頬へ、ヨダレが伝う。
 悠は、"それ"と璃音を見比べながら、感嘆の声を洩らした。
「凄いなぁ。私はこんなの入らないなぁ…。さっすが人妻だね。…でさぁ、どうだった? 感想聞かせてよ」
 そう言う悠の瞳は好奇心に満ち満ちている。
「うん…」
 璃音は焦点の合わない目で悠を見上げた。
「良かったよ。これはこれで、ありかなぁって思うけど…」
「けど?」
「こういうのって、入れたときに冷たいのがなんか嫌だな」
「ああ、そっか。…実物はやっぱり、熱いんだもんね。そうだよね」
 保健体育と生物の時間に得た知識をひっぱりだして、一人で納得する悠。それはそれとして、さらに続ける。
「でさー、大きさとかはどうなの? 流石にさ、実物ってここまでじゃないんでしょ。だってこれ、特大っていうだけあってデカ過ぎて誰も使ったこと無かったみたいだよ。だから電池も入ってなかったしさ」
「そうなの?」
 璃音も目を丸くした。
「わたしは大丈夫だったけどな。けーちゃんのもこれ位だし…」
「そ、そうなの? だってこれ、ほとんど凶器だよ?」
「うわ。けーちゃんを凶器呼ばわりだ」
「いやいやいや、そんなつもりじゃなくて。ってか、まさか…これが世間の平均ってことないよね?」
「そう、なのかなぁ? 知らないよ、そんなこと」
「そうだよねぇ」
 悠と璃音は顔を見合わせると、揃ってカラカラと笑う。それから、ふたりで器具をティッシュで拭くと、ベッドの隅に置いた。そこには、マッサージ器具が山と折り重なっている。"いくつか見繕って"どころか"全部まとめて"持ってきてしまったのである。
「で、それはそれとして…」
 璃音は窓の方を見て、呻くように言った。
「…もう、朝なんだけど」
 それを聞いて、悠も窓を見る。そして、ポカンと口を開けた。
「うわ…マジか…」
 昨夜、帰宅してからツナに餌をやって、二人で長風呂を楽しんで、それからずっとモニターテストに勤しんだ結果がこれだ。
 悠の肩がガックリと落ちる。気が萎えたせいか、腰や膝の疲労が一気に露わになったからだ。
「でも、これから寝たら学校サボる事になっちゃうしなぁ…」
 そう言いつつ、璃音はニコニコと笑みを浮かべる。エンハンサーを紐状にして伸ばして用を成さなくなった灯を消すと、それで床に転がっていた衣料品店の紙製手提げ袋を絡め取って手元に引き寄せた。
「ほら、コレで最後だけど…。これって一人じゃ使えないっぽいし、折角だから試してみようよー」
 璃音の手の中にはラバー製のビキニパンツがあった。だが奇妙な事に、それには前と内側に節くれだったゴム製の突起がそそり立っていた。サイドからはコードが一本のびており、その先に他の器具同様のモーターの強さを操作するリモコンとそれを太腿に固定するバンドが付いている。
 見るからに楽しそうな璃音とは対照的に、悠は疲れを隠せない。
「うえ、マジ? ってか、私疲れちゃったんだけど…」
「大丈夫大丈夫、天井のシミを数えてる間に終わるからっ」
 言うが早いか、璃音は悠を押し倒した。そして、スルスルと指を悠の脚の間に滑り込ませる。
「ほらー、疲れたとか言ってても、こんなになってるじゃないの。わたしがイクところ見て、悠も興奮したの?」
 湿り気のある音が部屋に響く。
「あ…っ、そんなこと…。璃音だって…はぁんっ!」
「そうだよー。だって、悠が感じてる顔、すっごい可愛いかったもん」
 片方が器具を使用しているところをじっと観察し、終わったら役割を交代する、という形でテストを繰り返してきたので当然そういう事になる。その決まりごとを律儀に守ったためにベラボウ時間がかかり朝を迎える羽目になったともいえる。
「だからさ、最後は一緒に、ね」
 指をドロドロに濡らしている悠の体液を愛しげに舐めとりながら、璃音は陶然と微笑む。悠は潤んだ目でそれを見上げた。
「うう…なんか、キャラ違ってない?」
「普段されてることを逆にやってみようと思って。なんていうか、人のネクタイを締めてあげる感覚で、かな…」
 璃音の指は内股だけでなく胸にも這い寄り、肋骨の上に突き立った乳首を弄ぶ。そして、首筋にはキスの雨を降らせた。折れそうなほどに細い裸身をくねらせ、悠は嬌声を上げる。
「ああんっ! なんで…」
「なんでって、ほぐさないと入らないでしょ」
「そうじゃなくって…んっ…はあんっ!」
 璃音の的確な攻撃で悠はあっという間にトロトロになった。その様子を見て、璃音は悠が何を言いたかったのか気付いた。
「あ。ほら、かの名探偵も言ってるじゃない。『見るだけじゃダメだ。観察しろ』みたいなことをさ。だからってわけじゃないけど、文字通り一晩中じっくり観察させてもらったからねー」
「え…?」
「ほら、ここ…弱いんでしょ」
 中で指をクイッと曲げる。すると、
「あああああああっ!!」
 悠の腰が跳ねた。璃音は息を弾ませ始めた悠の前髪を撫でて、微笑んだ。
「ふふふ、可愛い。今度はさ、わたしにして」
 璃音はすっかり力が抜けた悠の手をとると、自らの奥に導きいれた。
「んっ…入った。どう?」
「あ、凄い…。指二本なのにキツキツだよ。さっき、あんなのが入ってたなんて嘘みたい…」
 初めて触れる親友の柔肉に、悠は驚きを隠せない。
「動かして」
「う、うん…」
 促されて、悠は指先で璃音をまさぐる。それこそ、ひとのネクタイを結んであげる要領で、普段自分でしているのをそのままに動かす。璃音は心地良さから目を閉じて大きく熱い吐息を幾つかついた。そこは先ほどの余韻で充分にほぐれていたから、この愛撫はむしろ悠の気分を盛り上げるためだ。
「もういいよ。ちょっと待ててね」
 璃音は悠の指を離すと、器具を手に取り床に降りる。パンツ部分を腿まで上げて、内側の突起を中心にあてがう。そして、ゆっくりと中に収めていく。
「ん…ああンっ…あああ…」
 全部入れて、パンツを上げてリモコンを太腿に固定すると、璃音は吐息を一つ。
「はあぁ…。んっ、冷たい…」
 歩くたびに中で擦れる感覚に耐えながら、璃音はノロノロとベッドに戻る。悠を転がして仰向けにして、両膝を揃えた状態で上げて身体を二つ折りにする。そして先端を柔肉に押し当てると、くいっと腰を進めた。
「ああっ!」
 悠の嬌声とともに、突起は柔肉と両太腿の間にねじ込まれた。
「え…、なに? 入ってないの?」
 為すがままだった悠が、初めて戸惑いの声を上げる。
「うん。スマタっていうんだっけ。温まるまでは、これでね」
 と、璃音は器用に腰を前後に動かす。器具が冷たいままでは入れても気持ち良くないだろうという配慮なのだが、突起の節に外側の敏感な部分を容赦なく責められてしまう悠はたまったものではない。殆ど悲鳴に近い声を上げながら悶えることになってしまう。
「んああああッ! だめっ、だめぇっ!! あああああッ!!」
 璃音の方も突起への抵抗で外側を刺激されるので、腰を進めるたびに「あっ…あっ…」と熱い息を洩らす。
 しばらくそれが続き、ついに悠は音を上げた。
「璃音っ、もうダメ…つらいよ…」
「うん。そろそろいいね…」
 璃音は悠から腰を離し、脚を大きく広げさせた。露わになったところに、悠の蜜ですっかり熱くなった先端を押し当て、
「入れるよ」
 ゆっくりと、中へと侵入させる。
「あ、あ、あーっ!」
 ぬちぬちと柔肉を広げられ喘ぐ悠。
 そのまま奥まで届くと、璃音は一息ついて悠を見つめる。
「全部入ったよ」
「うん…」
 悠の中が異物に馴染むのを待ってから、璃音はゆっくりと腰を振りはじめた。動かすたびに、悠は甘い吐息を洩らす。
「んっ…あ…」
 その肉のひっかかりは璃音にも伝わってくる。
「あ…キツイ」
「判るの?」
「うん。押されるから…はぁっ」
 璃音の息が弾む。そのリズムに合わせて、たわわに実った果実のように乳房が揺れた。悠は、しばらくそれを陶然と眺めていたが、胎内を撫でまわされて白く霞んだ意識がそうさせたのか、自然と手を伸ばし下から持ち上げるように揉んだ。璃音の乳房はグレープフルーツほどの量感でずっしりと手のひらを包み込む。柔肉に指を沈め、こねるてやるたびに璃音は、
「あん…はう、はあぁん…っ」
 と、蕩けるような甘い声で鳴いた。
 しばらくそれを楽しんでから、悠は璃音の両の乳房を絞るように掴むと、その先端と自分の胸を擦り合わせた。乳首が増えあうたびに、二人は揃って嬌声を上げる。
「悠…、おっぱい擦って…」
 言われるままに、悠は璃音の豊かな乳房を掴み、前後動に合わせて自分の胸に擦りつける。
「ああ…いい…。おっぱい、気持ちいい…」
 うっとりとした表情で、璃音は悶えた。口の端からたれた涎が顎の先端に溜まっている。それが気持ち良過ぎるのか、璃音の腰がどんどんお留守になっていく。お預けを喰らった形になって、悠は堪らずおねだりしてしまう。
「動いてよぉ…」
「あ。ごめん…」
 改めて動こうとして、璃音は思い出した。
「スイッチ、入れてなかったね」
 と、太腿に止めてあるリモコンのつまみをひねる。
 直後、
「あああああああああーっ!」
 いきなり奥をかき回され、璃音と悠の背が弓なりになる。
「凄い、これぇ…きもちいー…」
 璃音が悠の上に倒れこむ。それに抱きついて、悠は悲鳴を上げた。
「ああっ、強すぎるよぉっ!」
 どうやら、つまみを最大の所まで回してしまったらしい。だが璃音は構わず、腰を激しく振りたて始めた。
「だめ…壊れちゃう…止めてよぉ」
 しかし、その声は届かない。璃音は我を忘れてしまっていた。
「ああっ! あああっ!」
 悲鳴じみた嬌声を上げ、快楽を貪る璃音。その容赦ない責めに、ついに悠は決壊した。
「あああああああああーっ! いいのぉっ、いいのぉー!!」
「悠ぁっ…」
 璃音はさらに身体を絡め悠を貪る。
 そして、同時に頂に達した。
「あ…っ、璃音…りおんっ!」
「あっ…あああああああああ――っ!!」
 意識が白く遠のき、宙に放り出されるような感覚が――。
 
 その時、二人は、いや街全体が宙に浮いた。
 正確には、轟音とともに強い縦揺れが酉野市を襲ったのである。
 街は一時騒然としたが、怪獣と思われるものがMr.グラヴィティと交戦し落下したという情報が早急に広まり、事なきを得た。地震でなければ余震も来ないだろうというわけだ。実際にはそれで何も起きなかったというわけではないのだが…。
 とにかく、ここにいる二人には何も関係なかったことだけは確かである。
 
「すごい…飛んじゃった…」
 腹の下で果てた悠の幸せそうな顔を眺めながら、璃音は熱に浮かされたような声を洩らす。
 悠も、心底満ち足りた表情でタメ息をついた。
「すごかった…」
 それから身を寄せたて余韻に浸ろうとするが、璃音はすぐに我に返って眉をひそめた。
「…う。早いとこ止めないと」
 リモコンをオフにした。そして璃音は少々ガッカリしてしまい、ぼやいた。
「やっぱさ。こういうのって、あまり余韻を楽しめないよね。終わった時には、もう後始末のことが頭に先行しちゃってさ。落ち着かないよ」
「そういうもんかもね」
 悠も頷く。頷いてはいるが、セックスの経験が無いので璃音の言っていることはあまり実感として理解できていなかったりする。
 璃音は、なんとなく釈然としない顔の悠の髪を優しく撫で、頬にキスをしてから身体を離した。
「これで、モニターテストは終わりだね」
「…まさか、一晩で全部試すことになるとは…やりすぎだ。絶対やりすぎだ」
 グッタリと枕に頭を沈めた悠。だが璃音はさっさと器具を外し、
「はいはい、一服したらご飯食べて学校行くよー。じゃ、わたしシャワー浴びてくるねー」
 と、足取りも軽く部屋から出て行った。
 その後姿を見送り、悠はどっぷりと疲労に沈んだ。
「しくじった…。調子乗って、あの子の体力に付き合ったらダメだって忘れた…」
 

 
「よし、接続完了!」
 蛍太郎は、その言葉に万感の思いを込めた。この六日と半日が走馬灯のように脳裏を過る。平田とソーニャは、感嘆のタメ息をついた。
「いやぁ。よくもまあ、これだけの期間で組み上げたもんだ」
 平田は、腕組みして何度も頷いた。
「ああ…ホントだなぁ。それもこれも、あの時ミカエルの手伝いをさせられたお陰だよ。いろんな意味でさ」
 しみじみと過去を振り返る蛍太郎。
 普通の子供なら小学校へ行っている年頃、蛍太郎は母が所属していた特殊機関で教育を受けた。その機関はフェデレーションと呼ばれ、欧米に多くの拠点とコネクションを持っていた。
 そのコネの一つが、ミカエル・ジウリーだったのである。彼曰く「私有地から出土した」というオーバーテクノロジーの産物は非常に魅力的ではあったが、もたらした本人にもどういう技術による物なのか判らないという有様で、技術転用はおろか解析さえままならない状況だった。そこで白羽の矢が立ったのが、弱冠九歳で博士号を取るなど天才ぶりを遺憾なく発揮していた永森蛍太郎だったのだ。
 好奇心を満たしてくれる新しい玩具を与えられた蛍太郎は、誰にも出来なかった難問を次々に解き明かし、その中でも当時から概念が確立していた技術に関しては実用化にも大きく関与した。現在使われている先端技術の幾つかは、ここから生まれている。だが、『年端もいかない少年にオーバーテクノロジーの解析を任せた』という事実はフェデレーションの中でも極秘事項であり、これを知る者はミカエル・ジウリー、フェルナンド・ブラーボ・ゴンサレスを始めごく僅かである。当時フェデレーションに在籍していた平坂涼一にも、このことは知らされていない。
 その働きにより、蛍太郎には幾つかの関連製品のパテント料が入っている。篤く報いておけば変な気も起さないだろうということだったのだが、そのころには彼も健全な男の子に成長し、その好奇心の大半を許婚の女の子へ向けるようになってしまっていたので、あまり意味の無い措置だったともいえる。
 今回ジウリーが蛍太郎を駆り出すに至ったのは、こういう経緯があったからだ。彼が持つオーバーテクノロジーの産物をそのままで扱える地球人は、真っ当な暮らしをしている者では蛍太郎以外にいない。
「さて。起動しますよ」
 蛍太郎は宣言した。
「動くのか」
 当然の疑問を口にする平田。
「まあ、そのためのプログラムを連日缶詰状態で書いてたわけですから。一番苦戦したのは、ここの施設の制御ですね。どこまでも下位互換は出来るんですけど、まずはここのシステムの不条理な仕様の把握から始めなきゃいけなかったんで。まさか、僕が設計した遮蔽装置がこんなところにあるなんて」
 遮蔽装置とは、あらゆる波長の電磁波を打ち消すフィールドを張り巡らす装置である。さらに音波を吸収する機能もあるため、外部からのあらゆるセンサーによる走査から対象を隠匿することが出来る。
「五年前の覚えのない入金は、コイツのパテント料だったのか…」
 なにやら話が長くなりそうな気配だったので、ソーニャがそれを切った。
「ほらほら、早く動かしてお家に帰りましょ。上手くいけば、納期前に終了ってことでOKなんだから」
「そうですね。さっさとここからオサラバしたいな。でも…本当に大丈夫かな」
 蛍太郎の言葉に、平田とソーニャが揃って首をかしげた。
「いえね、動くことは動きますよ。でも、既存のコンピューターで何年もかかる計算を一瞬でこなすシロモノを、今この時代に生み出して良いかと問われると疑問が残ります…。そりゃ、コイツの性能は試してみたいですけど」
 目を伏せる蛍太郎。
 そうは言うものの、彼らは殆ど軟禁状態でこれの構築に従事させられているのだし、自らの自由の確保のために仕方なくやった、と言っても非難されるいわれは無いだろう。それに、いい加減に家へ帰りたいという思いが、ここへ来ての彼らの原動力と言っても過言ではない。
 敢えて頭の隅に押しのけていた事実を思い出させられ、平田も顔を曇らせた。
「信じるしかないっていうのはいかにも頼りないが…上が今まで通りのやり方でやるなら、大丈夫だろう」
「そうですね。では…"ラプラス"起動!」
 蛍太郎により自らの名を呼ばれた"ラプラス"のモニターに光が点り、起動シークエンスが始まる。
「おお、動いた」
 平田とソーニャが声を揃えて感嘆の声を上げる。
「でも、ダサい名前」
 続くクレームでも声が揃っている。
「今時、ラプラスは無いだろう」
「ないよね。センスゼロです」
 蛍太郎は、憤然として抗議した。
「僕じゃないですよ。ミカエルがそうしろっていったんですから」
 そうか、と頷くふたり。
「ヨーロッパで生まれ育ったからって、センスが身につくわけでも無いか」
 しみじみと呟く平田。ラプラスは低い唸りを上げながら起動画面を一通り表示し終わり、Welcome画面が…映った瞬間。
 悲劇は起こった。
 研究室全体が大きな縦揺れに見舞われ、ラプラスのモニターがプツン、とブラックアウトしたのだ。
「うわ、マジか!?」
 狼狽する蛍太郎。今日までの苦しみの記憶が再び脳裏を流れた。そして次の瞬間、部屋の照明も落ちた。
「おいおい、停電かよ」
 赤い非常灯に照らされ、蛍太郎は天を仰ぐ。そこには黒い天井しか見えなかった。非停電装置があるからそっちはあまり問題は無いが、振動が怖い。
 

 
「ぬぬぬ。こりゃ、普通に停電だろ」
 英春学院の電気関係を取り仕切る配電盤とブレーカーを交互に睨みつけていた四十絡みの男は、電力が一向に戻らないという事実から、そう結論付けた。停電ならばラジオで情報が流れているだろうが、残念ながら今はそれを聞く手段は持っていない。
「どのみち、オレに出来ることは無いな」
 くるり、と背を向けたこの男、高津正美は学院の用務員である。
 

 
 登校したら停電だった。
 毎日それほど変化もない学校生活においては、それもエキサイティングなイベントの部類に入るだろう。
 璃音と悠は、生徒の声以外に何も聞こえない廊下を歩き、教室に入る。案の定、クラスメイトたちは妙なテンションで彼女たちを出迎えてくれた。
「璃音ちゃん悠ちゃん! 停電だよ停電! でーでんだよーっ!」
 祥がピョコピョコと飛び跳ね手を振ってくる。あちこちが色々と凄いコトになって男子生徒の視線が集中した。
「おっはよー。いやぁ、結構ダイナミックに揺れたよね」
 涼季もテンションが高い。
 だが璃音は特に普段と変わらない様子で言った。
「そうみたいだね。気付かなかったけどさ」
「さすが冷静だね、藤宮ちゃんは」
 大した事ではないのだが、感心しきりの涼季。
 まあね、と頷いて璃音は続けた。
「まだ停電中ってことは…。もしかして、休校ってことないよね?」
 多少の期待を込めての言葉だったが、祥にあっさり否定された。
「いいや。さっき、教頭がふれ回ってたよ。『今日はいつも通りにやるザマス』だってさ」
 もちろん教頭には"ザマス"などという口癖はないのだが、鉄の女とかハイミスとか呼ばれている彼女のキャラクターには絶妙のマッチングを見せ、一同の笑いを誘う。
「それはそうと…」
 涼季は、先ほどから一言も喋らないどころか立ちっぱなしで動いてもいない悠を指差す。
「どうしたんだ、悠。いつもは、私が何か言うたびに『お前はアホか』とかなんとか噛み付いてくるくせに、今日はやけに静かじゃないか」
「あ、ホントだー」
 祥もそれに気付き、悠の脇腹辺りをつついてみる。だが、悠は俯いたままでピクリともしない。
「どしたの、これ?」
 祥が首を傾げるので、璃音は苦笑しながら答えた。。
「寝ちゃったから、ムリヤリ連れてきたんだけどね。ほら、起きて」
 ぺちぺちと頬を叩かれ、悠は半目を空けた。気だるさ満点の声で、呻くように言う。 
「あうー…、ここどこ? 学校?」
 璃音が頷く。
「そうだよー」
「なんでぇ…。寝かせてって言ったじゃん」
 悠の声には、すっかり泣きが入っている。だが、璃音はキッパリと言い切った。
「だーめ。私ん家に泊まったのが理由で欠席なんて、許されません」
「そんなぁ…」
 もはや哀れさすら感じさせる様相の悠に、祥は同情から優しく声をかけてやった。
「とりあえずさ、各授業に出席さえしていればいいんだしさ」
 涼季も同調する。
「そうそう、それでいつもと一緒じゃん。大体は寝てるか眉抜いてるかのどっちかなんだからねー」
 こちらには明らかにバカにされているのだが、思考回路が殆ど働いていない悠は、
「うん、じゃあ寝る方向で…」
 と、頷く。そして、自分の席へと歩を向けた。いや、向けたつもりだった。だが…。
「うわ、なになに? 身体が動かないよ! 金縛り? 金縛りなのッ!?」
 悠は半ばパニック状態で悲鳴を上げた。今までの気だるさはどこへやらである。
涼季は「なんだ、元気じゃん」と呆れ顔だが、悠自身はそれどころではない。歩き出そうとしても、脚が動かないのである。それどころか、腕も何かに締め付けられたように自由が利かない。
「ホントに、身体が動かないんだってば!」
 悲鳴をあげる悠。それを見てようやく、璃音は自分が大事な事を忘れていた事に気付いた。
「あ、ごめん」
 そう言うと同時に、悠の身体から赤い光の線、エンハンサーが璃音の掌に戻っていく。
「ほら。これで固定して、立ってるような感じにして持ってきたんだよ。だって、おぶってくの大変だし、目立つしさ」
 どっちにしろ目立つだろうが、璃音の腕力の殆どはエンハンサーによるものだから、おぶっても吊るして来ても本人にとってはあまり変わらないのである。
 それはそれとして、悠は眠気とパニックで頭の中がゴチャゴチャになっているにもかかわらず、聞き捨てならないタームに対してはキッチリ反応していた。
「おぶるの大変ってさ、私の重量をどうこう言う資格は無いだろ、君には」
 痛いところをつかれ、璃音は目を逸らす。
「う…。胸についてるのは無駄なお肉じゃないもん」
 悠も痛いところをつかれ、目を逸らした。
「ぬ…。確かにすごいよ、立派だよ。私なんて足元にも…。生命活動をしている期間は殆ど一緒なのに、この決定的な、オトナと子どもみたいな差はなんなんだろ。ああ、悲しくなってきた。寝る」
 そう呟くと、悠はフラフラと自分の席に着き、そして崩れ落ちた。すぐに呼吸のリズムを定期正しい物に変えた悠を眺めながら、璃音は大きくタメ息をついた。
「わたしも、ちょっと眠いかも」
 涼季はケラケラと笑って璃音の首筋をつついた。
「ま、藤宮ちゃんなら、授業中寝てたって家に帰ればもっと良い先生がいるんだから、別にいんじゃないのー。それよりさ、悠と泊まりで何やってたの? 徹夜してたみたいだけどー」
 特に顔色を変えず、璃音は答えた。
「なにも。一緒に寝ただけだよ」
「…見るからに寝てないじゃん」
 露骨に疑いの眼差しを向ける涼季だったが、その後ろで祥が独り言のように、しかしよく聞こえる程度の音量で言った。
「寝てないのに、地震に気付かなかったなんてー」
 だが璃音は平然と、「ホントに気付かなかったんだからしょうがないじゃない」と、言い切った。
「朝になったら電気が付かないし、シャワーのお湯が出なかったから、それでTVつけて初めて気付いたんだよ。それで、お風呂の残り湯にヤカンで沸かしたのを足して身体洗ったり、釜でご飯炊いたりしたよ」
 璃音はにっこり微笑んで、「おこげが美味しかった」と口の端から漏れかけた涎を拭っていた。久しぶりに食べた釜炊きの飯がよほど美味かったらしい。
「うむむ…」
 手強い、と祥は呻く。
 璃音は本当の事しか言っていない。単に、言いたくない事を言っていないだけなのだ。それは祥にも判る。判るだけに、これ以上の問答は無駄だと理解した。
 祥は話題を変えることにした。
「そういえば璃音ちゃん、あのすっごいステキなダンナサマとはどう? 毎日らぶらぶ? もうすぐ誕生日で結婚記念日だし、また盛り上がってるんじゃない?」
 そう言われて、璃音はタメ息を吐いた。
「仕事。かれこれ一週間くらい留守にしてるんだ」
 祥は目を丸くした。彼女も、璃音の夫がそれだけ家を空けたという話は初めて聴く。
 祥が璃音と知り合ったのは、二年生になって同じクラスになった時である。四月のうちに意気投合して以来、折に触れ彼女の夫婦生活について聞きだしたり聞かされたりしているが、間隔が六日を越えたのは今回が初めてのことでだ。
「じゃあ…ご無沙汰かぁ」
 実に言い難そうに呻く祥。璃音は肩を落とした。
「そうなんだよね…。ボチボチ寂しくなってきたっていうかなんていうか…」
 そのとき、思い出したように涼季が口を開いた。
「じゃあさじゃあさ。悠にヌいてもらえば良かったじゃん!」
 沈黙。
 そして、祥はドスを聞かせた声で言った。
「お前は何を言ってるんだ」
「え? いいアイディアだろ」
「アホは黙ってろ」
 祥の物言いに、涼季が激昂する。
「なにさー。アホってなに? 私だって考え無しでいってるんじゃないんだからね! 悠だって絶対まんざらじゃないって! ねえ、藤宮ちゃん」
「…なんで、わたしにふるかな」
 璃音は肩をすくめた。
「なんでって…」
 顔を強張らせる涼季。その表情が「裏切ったな」と言っているが、最初から表も裏もありはしない。涼季はよく判らない唸り声を上げながら、つかつかと悠の側に近づくと、その肩をゆすった。
「おーい悠ァ、あんたいつも藤宮ちゃんにいたずらしてるじゃんー。まんざらじゃないって言ってくれよぉ」
 だが、寝ている人間にそんな事を言っても詮無い事。祥は心底呆れた表情で、涼季を小突いた。
「寝てるよ。何してそんなに眠いのか知らないけどさー。そっとしておいてあげなよ」
「だってー、このままじゃ、私がまるっきりアホみたいじゃん!」
「いや。みたいじゃなくて、本当にアホ…」
「なにぃッ!」
 声を荒げる涼季。璃音はというと、こっそりと自分の席に着いて静観を決め込んでいる。
「今の所業、まさにアホそのものだよ」
「そんな! 陰謀だ!」
 見も世もないといった風情の涼季。それがあまりに騒がしいので、
「やかましい!」
 ガバッと、悠が飛び起きた。
「うるさいんだよ、寝かせてくれよ、寝てないんだよ!」
 こめかみに血管を浮だたせて機嫌の悪さをアピールしている悠に、祥は何食わぬ顔で、さらっと訊いた。
「なんで?」
 すると、眠気で思考が働いていないのだろう、悠は大きな声で言い切ってしまった。
「えっちしてたからだよ! 朝まで! だから、もう寝るっ!」
 そして、ぐったりと机に突っ伏した。
 涼季と祥は顔を見合わせた。よく判らず首を傾げるばかりの涼季とは対照的に、祥はニヤリと笑っていた。
「璃音ちゃーん」
 その時、璃音は小さい身体をさらに小さくして、教室からの脱出を試みていた。
「えっと…なにかな?」
 とりあえず、笑顔で取り繕おうとしてみる璃音だったが、祥は何か嗜虐的に口の端を歪め、ゆっくりと歩を進めて来た。
 藤宮璃音、今年度始まって以来最大のピンチ。
 策は…無い。あまり構うと怪しまれるとはいえ、悠を放置し過ぎたのが敗因だ。
 終わりを覚悟したそのとき、救いのヒーローが現れた。
 コンコンコンコン!
 何か、硬いものを叩く音がする。一同がその方向を見ると、Mr.グラヴィティが締め出しを食らった子供のような必死さで窓をノックしていた。この教室はニ階にあるが、彼が窓の外にいたことで驚く者など誰もいない。近くにいた生徒が窓を開けると、グラヴィは教室に飛び込んできた。そして、璃音に手を合わせると、深々と頭を下げた。
「お願いします。一生ぉ〜〜〜〜のお願いです!」
 璃音は面食らってしまった。
「どうしたんですか、一体」
 グラヴィは面を上げると、大きな身体を丸めて事情を説明した。
「はっはっは。実は、さっきまで怪獣と戦っていてね。もちろん、そいつは倒したさ。…倒したのはいいんだが、ヤツめ、私を道連れにしようとしたのだ。怪獣は私もろとも地上に落下、市街地への衝突は避けられたが、山際に落ちて送電線を破壊してしまったのだ」
 この停電はアンタが原因か、とその場にいた誰もが思ったが、口にはしない。
「それで、だ。マスクドヒーローに有るまじきことだが、私には住所が存在してたりするんだよね。で、だ。いつもは、相手が人間だからいいんだが今回は返済能力の無い怪獣だ。するってぇと、この修理費が私に請求されてしまう。それは非常にマズイ。っていうか、私の人生終わってしまう。まあ、安い家賃に惹かれて後先考えなかった私の落ち度ではあるのだけど、そういうわけだから…」
 ここまで言われれば、彼が何を頼みに来たのか璃音には判る。
「判りました。それを直せばいいんですね」
 璃音は真剣な眼差しで頷いた。
「おお! そのとおりだ。いやぁ、面目ない。どうかひとつ、よろしく頼む」
「いいんですよ。貴方にはいつも助けてもらってますから」
「じゃあ、さっそく…」
 Mr.グラヴィティは璃音を抱き上げると、窓から飛び出していった。
 それと入れ替わりで、亀田が教室に入ってくる。
「はーい、おはようございますー。電気は来てないけど、ホームルーム始めますよー」
 ハンパンと出席簿を叩きながら、羊の群れを追い立てる犬のように教室を廻る亀田。生徒たちはそそくさと席に着いていく。
 出欠確認が始まる前に祥が手を挙げる。
「先生。藤宮さんはボランティア活動で遅れます」
「ああ、そう。…関係ないですけど、西岡先生も遅いですね」
 

 
 ドクターブラーボは街の電力回復を確認した。
 彼は実験中の事故で脳だけになりながらも、最先端科学技術を駆使して生き延びている身だ。この秘密基地の電力は独自の発電施設で賄われているが、非常時には一般電力を拝借する仕組みになっており、街の電力状況も彼にとっては非常に重要である。まさに、電気こそが彼の命を繋いでいるからだ。
 ブラーボの脳は生命維持装置のコンピューターに接続されており、平時には自身が納まった生命維持ポッドを秘密基地のメインフレームに接続してメインフレームの圧倒的な計算能力を我が物に出来る。もちろん、それを利用したお楽しみもある。たとえば、インターネットの閲覧はもちろん、宇宙SFでおなじみの仮想体験を楽しむことができる。だが、今日のブラーボはお気に入りの和服美人としっぽり濡れるのではなく、知的好奇心の充足に時間を割いていた。それは、かねてよりの懸案だった三城大学秘密研究室の捜索である。
 お手製の昆虫型探査ロボット"スカウセクト"を放ち、各種センサーにより収集したデータを分析する。現在に至るまでの調査結果に加え今回の停電で得られたデータにより最終的な結論が出た。
 さっそく、それを基にした作戦を立案する。
 それを表の仕事を終えた部下達に大々的にぶち上げる。その瞬間を想像するとブラーボの頭は大いに冴え渡った。
 
「諸君、時は来た!」
 その日の夜、秘密基地にドクターブラーボの合成音声が高らかに響いた。
 集会室の演台に設置された透明な容器。その内部に満たされた液体に浮かぶのは、世界最高を自認する頭脳。文字通り、臓器としての脳髄だ。それに接続された電極でブラーボの言葉を拾い上げ、言語処理装置により電気信号を音声に変換しスピーカーに流したのが、現在の彼の声だ。
「遂に、三城大学地下研究室の存在が明らかとなったッ。よって、これより我々は行動を開始するッ。
 目的は、彼の地での研究成果を洗いざらい奪い去ることッ。ついでに、物資もなッ。最近頓に目減りした資金を補充するためにも、重要な作戦であるッ」
 もしもブラーボに身体があったなら、ここで力強く拳を握り締めていたことだろう。部屋を埋め尽くすドロイド兵士たちがテンションの高まりに合わせて足を踏み鳴らし電子音の歓声を上げた。もちろん予め設定された反応、つまり仕込みである。ドロイドたちはモデルチェンジ敢行によってラーメン屋の前でMr.グラヴィティに潰された黒タイツアサシン型からデザインを一新、白い装甲を最低限の部位にだけ装着して殆どフレーム剥き出しという、いかにもドロイドらしい姿へと変貌を遂げた。その一番の理由は沢山作るためのコストダウンだが、今やサイボーグを二人も抱えているので人間っぽく偽装する必要が無くなったという事もある。
 そんな自動機械たちによる奇妙な作り物の熱狂が支配する中、それまで黙って聴いていたメタルカが、気だるげに右手を上げた。
「勘弁してくださいよ。四月からの環境の激変でしんどいんです。そりゃ明日は休みかもしれませんが、明後日も仕事なんですから…」
 疲れ果てた様子でぼやく。
「しかしだな、この作戦は…」
「まあほら、金曜ならお付き合いしますから、今日は止めにしません?」
 ブラーボの発言を遮ってメタルカは勝手に話を締めくくった。続けてクルツも、いかにも疲れたという様子で手を挙げた。
「さんせーい。そんな元気、オレにも無いっす」
 せっかくの軍服が台無しのだらけっぷりである。そして、メタルカの言葉が止めを刺した。
「っていうか、今度から、金曜と土曜にだけ活動することにしません?」
 部下たちの覇気の無い言葉に、ブラーボは大きく落胆した。内心で毒づく。
「情けない連中だ…。週末限定の世界征服活動だなんて、聞いたこともないぞ」
 それに、メタルカが思い切り顔を膨らませて答えた。
「はいはい、悪ぅございましたね」
「なに?」
 驚くブラーボ。
 はて、メタルカに人の心を読む能力などあっただろうか?
「…あるわけないっしょ」
「えええええッ!?」
 遂にブラーボはパニックに陥った。
 思考が全部筒抜けなんて、そんなことありえるのかッ!?
「ありえるもなにも、スピーカー切ってないんだから、全部聞こえてますよ」
「あ…」
 ブラーボは気付いた。
 思考というものは、全て言葉で行われる。それを口にするか否かは、人間であれば声を出すか出さないかの選択によって決定される。だが、ブラーボにつながれた言語処理装置の電極は言語野の電気信号を自動的に拾い上げる物で、拾った信号は全て音声化されてしまう。もちろんスピーカーのオン・オフはブラーボの意思でコントロールできるが、うっかりそれを忘れてしまえば、この通りである。
 脳だけの生活は長いブラーボだったが、先週まで使っていたサイボーグボディの乗り心地があまりに良かったため、それを忘れていたのだった。
 ブラーボの心中を察して、というよりも聞き取って、メタルカは神妙な面持ちで言った。
「どうでしょう。あのボディをもう一度作りましょうか? もちろん、あれほどの大火力をお預けする意味は希薄ですから、その辺はオミットしますけれど…」
 スピーカーを切るのも面倒なので、ブラーボはメタルカへの答えをそのまま出力した。
「すまないなメタルカ。心遣いだけいただいておこう。このドクターブラーボは天才。頭脳さえあれば、それで必要充分じゃッ!
 …っていうか、動くのは億劫だし、今更その必要もあるまい。そのために、お前たちがいるのだしな。頼りにしておるぞ」
 その言葉に、メタルカとクルツは俄然テンションを上げた。
「ブラーボ様! 何という、ありがたいお言葉!」
 声を揃えて叫び、万歳を始める。その様にブラーボも熱くなった。
「お前たち!」
 熱狂の中心となった脳髄一個と人間二人を、ドロイド兵たちは身じろぎもせずに見つめていた。
「で、作戦じゃが…」
「え? 週末でしょ」
 
 
3−
 四月二十八日、水曜日。みどりの日ということで学校は休みである。
 三城大学は新歓祭へむけた準備が進められていたが、斐美花たちの日本文化研究会は計画的な準備が功を奏し、無事に祝日を楽しめることになった。よって、今日の斐美花は完全にフリーだ。
 藤宮屋敷には引き続き悠が泊まっていて、昨夜も大いに夜更かしを楽しんだ。それに付き合わされた斐美花は、まだ重い頭を振りながらシャワーを浴び、のそのそと台所へ向かった。
 時刻は午前十時三十分を回ったところだ。
「おはよー」
 なんとも気の抜けた声で挨拶する。
 すると返ってきたのは、
「おはよー」
「おはよう、お姉ちゃん」
 と、元気な声が二つ。
 キッチンでは、璃音と悠が楽しげに何やら作っていた。フライパンの中では何かが煮えているような音がするし、まな板の上には切ったベーコンとタマネギが、水の入ったボウルにはジャガイモが、そしてテーブルの上には卵がパックごと置かれている。時間的にはブランチといったところなので、それなりにボリュームのあるものが出来上がってくるようだ。
「斐美お姉ちゃん、ごはん食べるよね?」
「うん。あまり重くなくて、かつ栄養の多いのがいいな。昨夜は疲れたからさ…未だになんか、身体が重い…」
 気だるさを隠そうともしない斐美花だったが、それはそれで彼女の並外れた美貌を際立たせた。大輪の牡丹は曇天の下でも変わらず美しいのである。対照的に、元気が余っている璃音は夏空の向日葵のように笑顔を弾けさせる。
「おっけー任しといて。たぶんリクエストに添えると思うよー」
 そう言って、フライパンの中身の撹拌を再開した。
 璃音は健啖家なだけでなく、料理の腕前もかなりのものである。幼い頃からよく食べたおかげで舌がしっかりできているのだ。かつては屋敷に居たお手伝いさんが丁寧に料理を作ってくれたし、近年では蛍太郎の頑張りが光る。いずれ、ただでさえ大食いなのだから、これに悪食まで付加されては堪らないという周囲の気配りの賜物である。
 一方、悠は食が細いためにそちらにあまり関心が向かないので、自作料理なんて食べられればいいというレベル。そういうわけで今日はお手伝い程度。ガラスのボウルに卵を六個割りいれ、菜ばしで混ぜていた。そして、手元と斐美花に交互に視線を送りながら、柔らかく微笑む。
「お姉ちゃん、楽しかったよ。あんな凄いの初めてで…」
 そう言う唇のあたりが妙に艶やかである。お陰で斐美花は"色々と"思い出してしまって、顔を耳まで赤くして俯いた。
「えっと、まあ、楽しんでいただけたなら幸いです…」
 そんな斐美花に、ガスの火を止めた璃音が上目遣いで擦り寄ってきた。
「ねえねえ、斐美お姉ちゃん。せっかく天気いいんだし、ごはん食べたら、どっか遊びにいこうよ」
 斐美花はまだ知らなかったが、本日は雲ひとつ無い快晴だ。悠もタイミングを見計らっていたかのように同調した。
「さんせーい。お姉ちゃん、クルマ運転してー」
「…元気だな、君ら」
 斐美花は項垂れた。彼女の生命力はあらかた妹たちに持っていかれていたらしい。とりあえず料理のほうは元気が余っている二人に任せることにした。未だここに来ていない綺子が気になる事でもあるし。
「綺子の様子見てくるよ」
「うん。四人分作っておくから、食べるかどうか訊いといて」
 璃音の声を背中で聞きながら、斐美花はキッチンを後にした。
 斐美花に続く形で夜更かしパーティに巻き込まれた綺子だったが、意外にもドアをノックすると返事が返って来た。
「誰ぇ…?」
 だがやはり、声は力のないものだった。
「私。斐美花」
「あー、どうぞ」
 鍵はかかっていない。招きどおりに部屋に入ると、住み始めて二ヶ月経っていないというのにすっかり賑やかになった棚や机の向こう、ベッドに綺子が横たわっていた。
「おはよ…」
 と、綺子は身体を起さないで挨拶した。毛布に包まったままで動こうとしない。端からのぞく肩から判断すると、昨夜から寝間着のキャミソールとショーツのままなのだろう。
「どうしたの、だらしない」
 斐美花は眉をひそめた。
 すると綺子は、ほとんど泣きそうな顔でその理由を訴えた。
「痛いの、おしりが! っていうか、腰全般が!」 
「そっか。…ごめん」
 沈痛な面持ちになる斐美花。深刻になってくれても困る話なので、綺子は頬を緩めてみせた。
「まあ、私も調子に乗りすぎた感はあるけど…。良かったよ、その時はさ。その時はね」
 それで斐美花は安心して、口を開いた。
「色々と無茶だったよね…。気持ち良かったけど」
 だが綺子はその物言いが気に食わなかったのか、また眉を吊り上げた。
「原因を遡ると、斐美花なんだけどね」
「…ごめん」
「なんと恐ろしい…。ああ、まさにプロメテウス。『原始人に文明の火を伝えて磔にされた神』のごとき罪深さよ」
「反省しております」
 さらに項垂れる斐美花。それを見て、綺子は居住まいを正して神妙な口調で言った。
「それで、だけど。…余ってたら幾つか頂戴」
「へ?」
 斐美花の目が丸くなる。
「ほら。最後の方で使った長いのとか太いのとか二人用とか以外は丁度良かったしさぁ。ねえ、おねがーい」
 最後の方は猫なで声になる綺子。斐美花は呆れてしまい、大きくタメ息をついて肩を落とした。
「…じゃあ、あとでね」
「わーいっ」
 望みどおりの結果になり飛び起きて喜ぶ綺子だったが、すぐに腰を押え丸くなった、苦しげに呻いた。
「…なにやってるの」
 斐美花は心配半分、呆れたのが半分といった顔だ。
「ああ、そうそう。なんかさ、璃音たちがご飯食べたらどっか連れてけって言うのよ。どうする? やめとく?」
 綺子は苦しげに首を振った。
「あーパスパス。こんな状態じゃ出歩くなんて無理。明日のために、じっくりと静養するわ」
「ああ…それがいいかも」
 確かに、綺子のように見目麗しい美女がガニ股で歩いていたりすると非常にガッカリである。
「じゃあ、朝食は残しておくから、後で食べてね」
「わかった…」
 そう言って、綺子はまた毛布に包まった。斐美花は苦笑を浮かべて部屋を出る。ドアを閉めかけたとき、
「あ、そうだっ! …ぬお、ああっ、あ、いったたたた…」
 なにやら思いついたのか、背後で綺子が騒いでいた。
「なにやってるの」
 振り向くと、綺子は上体を起したままうずくまっていた。
「私も食べる」
「そう」
「…肩貸してくんない?」
 そういうわけで、斐美花は綺子を担ぐようにしてダイニングにおりることになった。そして、そこにたどり着いたときには、既にブランチの用意は出来ていた。
 今回のメインディッシュはスペイン風オムレツだった。たくさんの具を混ぜてパンケーキ状に中まで完全に焼くのが特徴で、これなら再加熱しても食べられる。味付けはトマトソースやタバスコをかけて各自好きなように食べるようになっているので本物とは異なっているが、こんな日本の片隅まで異論を唱えに来るほどスパニッシュも暇ではあるまい。それと、ご飯に青菜の味噌汁がテーブルに並んでいた。
「いっただっきまーすっ」
 一際大きいのは璃音の声だ。食事となると、その笑顔は輝きを増す。しかも、彼女のまん前には炊飯ジャーが鎮座している。これは席を立たずにお代わりできるようにという配慮だろう。
 斐美花と悠、寝間着のままの綺子の手元にある茶碗には八分目のご飯。璃音にやらせると全部が山盛り一杯になってしまうからと、配膳は悠が行った。
「いただきます」
 基本的には育ちの良い者が揃っているので、全員が行儀よく一礼してから箸を取る。
 野菜たっぷりのオムレツは中までふっくらと焼きあがり、見事な出来栄えだ。ホールトマト缶に炒めタマネギを加えて煮詰めたトマトソースもバランスよく仕上がっており、文句なしに美味い。
 悠は一口食べた途端に歓声を上げていた。
「うまーい! さいこー! あんた、いい奥さんになるよ! …って、もうなってるか」
「えへ。ありがと」
 璃音は屈託なく微笑んだ。
 基本であるご飯の炊き上がりも味噌汁の味も申し分なく、綺子は思わず舌を巻いた。
「うわぁ。義姉さんって、大食い以外に欠点ないんじゃ…」
「そんなぁ。わたし、欠点を数えたら普通にダメ人間ですよ」
 璃音は頬に手を当てて照れている。
「なんか、義姉さんっていうより師匠って感じね」
 綺子が真顔でそう言うものだから、璃音は恐縮して背中を丸めてしまう。
「師匠だなんて、それは言い過ぎです。全部、けーちゃんのお陰ですよ」
「それはあるね」
 と、隣に居た悠はしたり顔だ。
「璃音って、料理しても完成した試しがなかったんだよね。…作ってる途中で全部食べちゃうから。
 私がこの子の手料理を食べられるようになったのってつい最近だし、どう考えても蛍太郎さんの躾の賜物だと思うよ」
「いわれてみればそうだなぁ…」
 斐美花も頷く。もっとも、彼女の場合は夏や正月など学校の長期休暇のときしか璃音と過ごしてこなかったので、どちらがより璃音を知ってるかというと、それは悠と蛍太郎に分がある事になる。
「斐美お姉ちゃんまで…。せっかく褒められたと思ったら何なの、これ?」
 と、璃音は大げさに頬を丸くしている。もちろん本当に怒っているのではなく、おふざけだ。璃音は璃音で、斐美花とは自然に接したいと思っているから、軽口も利けば怒っても見せる。斐美花には、それがありがたかった。
「はいはい、ごめん。ごはんはちゃんと美味しいよ。凄いね、璃音は」
 それは偽りなく斐美花の本心から出た言葉だった。すると、璃音は顔を耳まで赤くして黙ってしまった。横から悠が、肩を突く。
「なに本気で照れてるのさ」
「だって…」
 璃音の声は少し震えていた。斐美花は感情が直に伝わった事に驚き、嬉しく思ったが、次第に照れが先立ってきた。そこで、多少ブチ壊しなことを口にした。
「ついでに、忌憚なく言わせてもらうと…。やっぱ、蛍太郎さんが居ないと栄養の偏りを感じるねぇ」
 それに、璃音は真顔で答えた。 
「そうだね。一日や二日ならともかく毎日作るとなるとなぁ。あらためて、けーちゃんの苦労を思い知らされたよ」
「帰って来たら、労わってあげないとね」
 頷く璃音。斐美花は顔を綻ばして、言った。
「さぁて、美味しいものを作ってもらったことだし、こっちもサービスしないとね。どこ行くか、考えといてよ」
「はーい」
 その様子を見て、悠は眼を細めた。
「はは、なんか姉妹って感じね」
 璃音は、
「ホントにそうだもんね」
 と、斐美花に向かって微笑む。
「だね」
 同じく、斐美花の表情は暖かかった。
「ほら、温かいうちに食べちゃおうよ」
「はーい」
 璃音と悠が揃って返事をして、それから全員食べる方に集中する。程なくテーブルの上は綺麗に片付いた。
 璃音が食器を下げ始めると、
「はいはーい」
 綺子が手を挙げ、不敵な笑みを浮かべた。
「これから出かけるんでしょ。どこ行くか決まってないんだったらさ、私に提案があるんだよねー」
 

 
 三城大学地下研究室。
 今日は講義が無いということで、開発陣はフル回転だ。
「もう無理だ…」
 平田は首を絞められた鶏のように呻いている。
 ラプラスは起動中の地震と停電というアクシデントに見舞われ、メモリが物理的に破壊されてしまったのである。
 納期は明後日の朝。
 精神的なダメージもあり、スタッフの疲労はピークだった。
 そんななか、一人気を吐く男がいた。先ほどまで破損したメディアの交換に立ち会っていた蛍太郎は、休憩室でコーヒーを啜りながら力強く言い切る。
「確かに疲れたけど、後は概ね経過を見守るだけだからね。一度やった作業をやりなおすだけだし、気楽に構えていればいいんだよ」
 昨日の時点でとっくにグロッキーしていたソーニャは信じられない、といった顔である。
「タフだね…」
「明日の夜、璃音ちゃんと会う約束をしたから、意地でもそれまでに終わらせる」
「なるほど」
 頷くソーニャ。まさに、彼が気合を入れる理由として最も説得力があるものだ。
「あと、せっかくだからアルゴリズムに手を入れて貰ったよ。これでさらに効率化されるよ。そっちは、夜には届くことになってるんだ」
「届くって…、それって誰が?」
「うーん、しまった…それは、友人としか言えない。
 僕は、コンピューター言語に関しては大した事ないっていうか、量子アルゴリズムの確立なんていうのは荷が重すぎるからね。
 僕がやったのは、異星の文字で書かれたプログラムを機械翻訳みたいに英語に置き換えたくらいで、解釈には彼の力をかなり借りているんだ」
「ほえー。じゃあ、最初から彼を呼べばよかったじゃん」
 初めて聞く話に、ソーニャは大きな目をますます大きく丸くした。それで、蛍太郎は自分の過失に気付いた。
「それはちょっとできないんだ。ミカエルにも言ってないし…ここだけの話だよ」
 最後の方は、少し眉を歪めていた。さすがの蛍太郎も疲労で注意力が落ちていたのだ。それだけ、ソーニャとは親しい間柄という事でもある。アメリカ時代に仕事場で知り合って以来、縁あって何度か共に働いており、かれこれ五年近い付き合いになる。親しいといっても、このころから蛍太郎は璃音との結婚を意識していたから、ソーニャとは友人以上の関係には一度もなっていない。
 それから五分ほと取り留めのない話をして、蛍太郎は席を立った。 
「そんじゃ、行くね。ソーニャは、今日は休んで明日以降に備えてよ。一回くらいは、サークルの準備の方に顔出さないとさ」
「あー、そうだった。明後日は新歓祭だったなぁ…」
 せっかくのお楽しみに乗り遅れ、ソーニャは力なく肩を落とした。
 

 
 いざ出発となって、璃音たちは移動手段について考えなければいけなくなった。
 クルマを出すというのが唯一の方策なのだが、藤宮家として所有している自動車は、長女の侑希音が置きっぱなしにしているアルファロメオだけなのである。
「こんなので走ってたら目立ってしょうがないし、左ハンドルだし…」
 と、難色を示すドライバー斐美花。逆に綺子は左ハンドルには抵抗がないが左側通行に慣れていないので、知らない道は走りたくないと主張。
「知らない道って、ここに行こうって言いだしたの綺子じゃない…」などと、斐美花に毒づかれながらも態度は変えない。
 結局、璃音と蛍太郎の"共同財産"であるところのミニクーパーを借りることになった。
「大丈夫。もしぶつけても、わたしが直すから。取り返しのつかない事にならない限り大丈夫だよ。…人身事故とか、そういう…。ううん、わたしは斐美お姉ちゃんを信じてるよ」
 実に頼もしい妹のお言葉に、斐美花は気合を入れてハンドルを握った。
「ようし、いくぞぉ! しっかりやれよぉ!」
 助手席に乗り込んだ綺子が妙なキャラ作りでやたら威勢良く拳を握る。斐美花は額を押えて呻いた。
「エラソーに。運転するの私なんだけど…」
「何を言う。パッセンジャーが無能だったら砂漠の真ん中で立ち往生だぞ?」
「…どこの砂漠よ。まあたしかに、君のナビ次第では目的地に辿り着けなくなるからね。よろしく頼むよ」
「おうよ、任しとけ」
 綺子は、さっそくタウン誌の目的のページを広げ、スタンバイする。
 スパドーム・ドンブラッコ。
 この四月に出来た屋根つきスパリゾート施設が、今回の目的地だ。お約束のフォータースライダーや流水プールには天然温泉を薄めた水が使われており、もちろん、その温泉を利用した露天風呂やジャグジーなどもある。まさに風呂がらみの一大レジャー施設だ。学割、家族割が効くなど比較的安めでかつ、温泉のみ、プールのみなど細かいコースを設定した料金体系でリピーター獲得を狙う、酉野における貴洛院リゾートの新しい目玉である。
 高原の麓、三城大学の山一つ挟んで隣というロケーションは街から遠すぎず近すぎず、夏から秋にはシャトルバスを出す予定らしいだが、その気なれば市内から自転車で行く事もできる距離で、そこらへん、周到に考えられている。つまり、優秀なナビゲーターなど無くても充分に行ける場所なのである。
 面目を無くし、ただ腰を押えるだけの綺子を尻目にドライブは実に快適かつ短く終わり、クルマはあっさりとドンブラッコに到着した。広大な駐車場に停車すると、後部座席にいた璃音と悠が歓声を上げた。
 斐美花も感心しきりだ。
「へえ、おっきいね」
 雨天休業のウォータースライダー以外はすっぽりとドーム状に屋根がかかっているので、見た目、屋根つきサッカースタジアムより一回り小さい程度の大きさである。夏の混雑を見越しての事ではあるが、かなり大きい。真横に繋がっている銭湯か旅館かといった風情の建物が温泉で、露天風呂の入り口としては充分な雰囲気だ。建物の向いている方角からすると、街を見おろしその先に広がる海が楽しめるようになっているようだ。
 ドライバー斐美花と腰痛の綺子を慮って、璃音と悠がまとめて荷物を持つ。時刻は丁度一時を回ったところで、露天風呂での夕暮れ時の景色を期待するという当初の計画通り、まずはプールの更衣室へと直行した。
 二十分後。
 オープンして二週間で客足が落ち着いた事、他に季節感のあるレジャースポットがあるという事、そして三日後に大型連休が始まる事から、プールはそれほど混雑している様子ではなかった。客は多すぎずると鬱陶しいし少なすぎると不安なものだが、そのあたりは程良い具合だった。
 そして綺子と悠は、タメ息を吐かずにはいられなかった。
「FとGかぁ」
「改めて見ると…彼我戦力差は圧倒的であります…」
「うん。ところで、悠ちゃんは?」
「…AA」
「私はA」
「…ぬう」
「ふふんっ」
「…勝ち誇るほどの事ですか。そんな差、あれに比べれば誤差の単位でしょうが」
「ソレモソウダネ」
 綺子の声に、少し先を歩いていた璃音と斐美花が怪訝な顔で振り向いた。
「なぁに?」
「どしたの?」
 藤宮姉妹はどちらも白いセパレートの水着だ。
 璃音は、各所を紐で留めたオーソドックスな形のビキニ。斐美花はホットパンツ風のボトムでトップはネックホルダー。どちらも、見事なバストの膨らみと谷間が露わになるデザインである。それを見せ付けられて、悠と綺子はもう一度タメ息を吐いた。斐美花は恥ずかしそうに身をよじる。
「…あまり胸ばかり見ないでよ」
「ごめーん、つい」
 璃音は口を尖らせて言った。
「わたしは、悠と綺子さんが羨ましいけどな。ウエストも脚も細くて」
「うん、そうそう」
 斐美花も頷く。
 悠はチューブトップのビキニの上にデニムのショートパンツを穿いたスタイル。綺子は背中が大きく開いた赤いワンピース。もともと顔立ちも姿も美しいだけに、どちらも非常に魅力的である。
「って、昨夜も皆で同じ事言った気がするよ」
 と、璃音。それで、悠は吹きだした。
「ぷっ…、確かに無限ループだね。じゃあ、お互い無い物ねだりはこのくらいにして、楽しもうっ」
 号令の下、それぞれが駆けだす。
 璃音と悠が浮き輪を肩にかけて流れるプールに突貫するのを見送り、斐美花と綺子はテラス席の確保に向かった。
「ふ。退路を確保しないと安心して遊べないでしょ」
 と、勝ち誇った笑みを浮かべる綺子だったが、依然腰を押えたままだ。斐美花は心配そうな表情でそれを見つめる。
「大丈夫なの?」
「そのためにプールに来たんじゃないの。水中で身体を動かしていれば負担をかけずにいられるし、その後は本命の温泉で治療するから」
 ここは単純アルカリ泉で神経痛や筋肉痛などに効果があるそうだから、綺子の症状もきっと好転するだろう。
 斐美花は綺子をイスに座らせると、
「じゃ、飲み物とか買ってくるね」
 と、売店を指差した。この施設内では、ロッカーキー保持用のブレスレットに付けられたバーコードを使うことで買い物は全て後払いというシステムになっている。客の現金管理によるトラブルを防ぐ方策であり、誰も荷物番をしなくて良くしようという気の効いた配慮である。
 一方の璃音と悠は浮き輪に掴まり流れるまま為すがまま、流水プールに揺られていた。これは運河よろしく場内を一周するようなコース設定で、揺られていると他の設備はもちろん、場内の売店が全部目に入るようになっており、実に商売上手なプールである。そして、それに見事に乗せられている者が一人いた。
「あー、牛丼があるよ! 隣はカレーだ。あっちにはソフトクリーム…ピザもあるーっ」
 色とりどりの看板に大はしゃぎする璃音の横顔を眺めながら、悠は脱力しきって浮き輪に身を任す。
「…今朝、丼飯三杯食べたでしょうに。その栄養は何処へ行くんだか」
 その答えは、目の前で二つ揃って波間に浮かんでいた。
(判りきった事だったね…)
 そんな埒も無い思考を遮るように、璃音の弾む声が響く。
「ねえねえ悠。炙りチャーシュー入り大盛スタミナこってりラーメン食べようよー。なんか凄そうだよっ」
 その指の先、力強い筆文字といかにもアブラギッシュなラーメンの写真がデザインされた看板を見て、悠は露骨に眉をひそめた。
「うえっぷ。そりゃ、凄いこたぁ凄いだろうけどさ。…讃岐うどんだったらつきあってあげる」
「わーい」
 悠の提案に璃音は大喜び。特にラーメンにこだわりがあったわけではなく、ふたりで一緒に食べられるなら何でもよかったのである。そのまま店の前まで流れていくと水からあがり、足早にうどん屋の列に並んだ。列といっても、前に三人ばかり。そのうち一人、璃音たちのすぐ前に並んでいる男は、周りから頭二つ分くらい飛びぬけていた。百九十センチはあるだろうか。その背中は細身ながら隙無く筋肉が付いており、肩周りとは対照的に際立って逞しい脚などはよく日焼けしている。たが全体的には色白で髪の赤みは天然のものだ。
 悠は、それを凝視して熱っぽく呟いた。
「うわ、すっごい…。なんか、ムラムラしてきた」
 璃音もタメ息をつく。
「ホント。最近ご無沙汰だから、目に毒…って、ちょっと待って。これってもしかして…」
 男の特徴に思い当たるものがあり、璃音はそろそろと横に回って覗き込むようにして、その顔を見上げた。案の定、それはよく見知った顔だった。
「バロージャ」
 呼びかけに応えて振り向いたのは、やはりクラスメイトのロシア人だった。
「あ。璃音さん、悠さん」
 と、バロージャはいつもの人懐っこい笑みを浮かべていた。璃音も負けずに笑顔を弾けさせる。
「こんにちわー。今日はどうしたの?」
「ランニングと、スイミングです。家から走ってきました。休みだからって何もしないと、身体がなまっちゃいますからね。それに、ここがどんなところか興味もありましたし」
「うわお。さっすが運動部」
 目を丸くする璃音。悠の方は、視線を何度も弓なりにして茫洋とバロージャを眺めていた。
「…どしたの、悠」
 先ほどからリアクションがないので、璃音が肩を突く。すると、
「うわぁっ…、なになに?」
 と、悠は大げさに飛び退いた。
「なんでもないけど。どうしたのかなぁと思って」
「え? うん、どうもしない」
 心ここに在らずといった様子である。
「いやぁ、改めてみるとスッゴイ身体だなぁ…。さすがは英春の九番」
 半ば陶然と、そんなことを呟く悠からバツが悪そうに目を逸らす璃音。
「ま、まあなんというか…奇遇だねぇ」
 とりあえず笑って誤魔化した。バロージャもそれを察して、話をふる。
「はい。皆さんは、遊びに来たんですよね?」
「うん。斐美お姉ちゃんたちと一緒」
「そうなんですか。ウチのソーニャがお世話になってます」
「こちらこそ。…そうだ。これ食べたらさ、一緒に来てよ。斐美お姉ちゃんと綺子さんには、会ったことないんでしょ」
「そうですね。話には聞いてるんですけど」
「おっけー、決まり!」
 そうしているうちに列が進み、三人揃って冷かけうどんを注文する。もちろん、璃音だけは大盛を食べた事は言うまでもない。
 

 
 スパドーム・ドンブラッコのマスコットキャラクターは"ドンブラ"という名のラッコである。ラッコといっても、ムリヤリ二足歩行にアレンジされたうえに表面は青、丸い大きな目とふてぶてしささえ感じる太い眉、そしてドームを模した貝殻を持った姿は童話の妖精を可愛くない方向へアレンジした不思議生物としか言いようがない。そのうえ着ぐるみの出来がまた微妙で、よせばいいのに口の中の造形が異常にリアルで、さらに大きな目の焦点がずれている為に凶状持ちじみた独特の存在感がある。具体的に言えば、女子供を見るや獲って食いそうな佇まいなのだ。
 そんなマスコットが売店などに並ぶ家族連れの前で愛想をふりまいているのだが、無論評判はよろしくない。怖いとかキモイとか言われ、最悪の場合は子どもが泣き出す始末。そんな不遇な着ぐるみたちの一体。その中に、世界征服を目論む狂気の科学者の右腕たる、あの男がいた。
(クソガキめ。見事世界征服のなった暁には、地獄の再教育プログラムを受けさせてやる。覚悟しておけッ)
 クルツは、内心の憤懣をまだ見ぬ理想社会実現の糧へと変えて飲み込んだ。
 目の前で火が付いたように泣き喚く子供に手を振りながら、クルツ入りドンブラはスキップしてその場を離れる。そして物陰に入ってガックリと肩を落とした。
 やはり強がってみても着ぐるみに長時間入っていると疲労を感じる。おまけに、ブラーボから特別に付けるように命じられた耳栓型通信機と、ヘッドホン状の器具とセットになっているお陰でやけに重いメガネによって増加した圧迫感から頭痛が酷く、体力をガリガリと削られていく。
「く…なんだってんだ、これ。現地で通信するから付けてけとか言ってたくせに、全然音沙汰ないじゃあないか。ハッキリ言って、仕事の邪魔なんだよッ。連絡するならするで、さっさとしやがれってんだ。あの、サワー漬け脳味噌め…ッ!!」
 思い切り毒づくクルツ。すると、
「…サワー漬けってのはあれじゃな。夏に酢を買うと、ビンの肩に引っかかってる紙に作り方が書いてあるヤツじゃろ。ワシはどうせなら、ちゃんとしたピクルスにしたいもんだね。もっとも、こんな身体になった…いや、身体なんかないか。そんなワシにはもはや関係のない話じゃがね」
 と、ブラーボの声。
「なんですとー!」
 クルツは飛び跳ねて驚いた。
「ブラボ様ぁ!? どこどこ、一体何処から?」
「ええい、やかましい! お前の耳に通信機が収まってる事を忘れたのかッ」
「あ。そうでした。ははは」
 ブラーボの一喝で我に帰ったクルツ。そして、自分の愚痴が聞かれていたことに思い至り、ラッコの頭の中で蒼白になった。
「…いえその、決して本意では」
 だが、ブラーボの声は予想外に穏やかだった。
「判っておる。疲れているのじゃろ。そういう時、人間は正常な思考や判断力を失ってしまうものじゃよ。
 …心配するな。お前の人品、そして忠誠はよぉっく理解しておる。平日や祝日の活動には露骨に難色を示すが、それでもワシの大切な右腕じゃ」
 どうやら、今にも見限られてもおかしくない程度には理解されているらしい。
「…は。これからも見事勤めを果たしてご覧に入れます」
「よろしい。では早速じゃが、作戦を伝達するぞ」
 どこか芝居がかったブラーボの声と共に、メガネの蔓に取り付けられた超小型プロジェクターが起動、何枚かの図表がレンズ表面に投影された。
「なんですか、これ?」
「ドロイド制御の新システムじゃ。こいつを使ってもらうぞ」
 

 
 うどんを食べて一服した後、悠はバロージャの後について二十五メートルプールに向かった。
 二十五メートルプールには、ひたすらに泳ぎを求道する者たちの聖域というイメージがある。たとえそれがスパリゾートに設けられていたとしても、だ。だから、そこには誰も近寄らない。なぜなら皆、遊びに来ているからだ。
 つまり、トレーニングを兼ねてここへ来たバロージャならまだしも、単純に遊びに来ただけの悠がそこへ行くなど明らかに特定の目的あっての事としか考えられない。
 そういうわけで、璃音は一人で姉たちが陣取っているテラス席へ戻っていた。
「斐美お姉ちゃん、それ飲んでいい?」
 テーブルの上に残っていたアイスコーヒーを指差す。買ってからずいぶん経っているので、とっくに氷が溶けてぬるくなっているはずだが、こういうところのアイスコーヒーに風味など期待してはいないので特に問題ない。
「いいよ」
 斐美花はカップを手に取った。三秒ほどしてから、それを璃音に渡す。
「あ」
 持った瞬間にそれに気付き、璃音は小さく驚いた。
「冷たい」
 それに応えて、斐美花は得意げに眉をあげて見せた。
「ふふ。気が利く姉に感謝なさい」
「ありがと」
 にっこりと微笑んで、璃音はストローに口をつけた。すると、
「ねえねえ、たいへん!」
 酷く慌てた様子で、悠が駆けて来た。
「こら、走らないの」
 斐美花がたしなめるが、それどころではない様子だ。
「だって、大変なんだってば!」
 一緒にいたはずのバロージャがいないので、璃音は首をかしげた。
「どうしたの?」
「だから、大変なんだって! 早く来て!」
 
 璃音と斐美花は、悠に引っ張られるがままにドームの端っこにやってきた。
 このあたりは機械室のそばという事で売店やプールが遠く離れており、おかげで人の気配が殆どない。フェンスの向こうには大学がある三城の丘がよく見えるようになっていて景色は良いが、普通なら客が自発的に近寄る事はない区域だ。
「なんで、こんなところに…」
 と、いう璃音の疑問ももっともである。それに対して悠は小さな声で答えた。
「ちょっと、人気のないところに行きたくってさ…」
 今は、追及すべき時ではあるまい。
 それはそれとして、促されるままに機械室の陰を覗き込むと、そこでバロージャが小さく手招きをしていた。空気を察した璃音たちがなるべく足音を立てないように近づくと、バロージャはフェンスの向こうの林を指差す。
 そこには、ラッコのドンブラーが木にもたれ掛かっていた。それだけではない。その周りを黒光りする金属質のヒトガタをした機械が五体、取り囲んでいるのだ。その機械は、三人とも新聞やニュースで見た事がある。ドクターブラーボのドロイド兵だ。
「ラッコが襲われてる…んだよね」
 斐美花が小声で言う。荒事の最中のわりには静かだし、そもそもブラーボ一味がここのマスコットを襲う理由も想像つかないが、見たままの光景は確かにそう感じさせる。
「助けた方がいいかな」
 と、璃音。
「普通、そうだと思う」
 斐美花も頷く。そう言われて、璃音は小さく手を叩いた。
「そうだね。もし襲われてるんじゃなかったら、あの中身も一味って事だしね」
 言うが早いか、璃音はその身を赤い光に包みフェンスを飛び越えていた。
「ちょ…ひとりじゃ…、まずいことはないか」
 斐美花の制止は遅かったし、その必要もなかった。璃音の掌から飛んだ光の球が、あっけなくドロイドの頭を吹っ飛ばしていたからだ。
「…あれなら、一人でも充分ね」
 仲間がやられ、残った四体のドロイドは隊列を正し腕を前に突き出した。身構える璃音。ラッコが「よせ!」と叫ぶ。それを引き金にしたかのように、ドロイドの腕に内蔵された"10o鉄球砲"が火を噴いた。法定ギャンブル施設で使われる鉄製の球を空気圧で射出するこの武器は、中身入りの缶ジュースを容易く撃ち抜く程の威力を持つ。現に、流れ弾のいくつかはドームの基礎コンクリートにまるまるめり込んでいた。
 だが、ターゲットである水着の少女には傷一つ付いていない。全弾命中したにも関わらず、エンハンサーに阻まれていたのだ。
 ドロイドたちは攻撃方法を切り替えた。効かなかった武器を何度使っても意味がないからだ。四体は散開し、手に取り付けられた鉤爪による波状攻撃を開始した。
 璃音は宙に浮かび、迫り来る爪を避ける。だが、ドロイドの一体が仲間の肩を踏み台にしてジャンプ、踊りかかってきた。
「げっ!」
 相手のリーチ外に出た事で油断していた璃音は見事に不意を突かれた。腕を交差し、そこにエンハンサーを集中、盾にして爪を受け止める。
 鋭い金属音が響いた。
 全力を以って振り下ろされたドロイドの腕は肘関節でポッキリと折れ、虚空に舞った。それが飛んで行った方向に気付き、璃音は青ざめた。そこには斐美花たちがいるからだ。
 悠が悲鳴を上げる。
 璃音はエンハンサーで腕を撃ち落そうと手をかざす。
 しかし、その必要はなかった。
 ドロイドの腕はいかなる理由か不自然に減速し、そのまま落下したのである。
 いつの間にかフェンスの外に立っていた斐美花が、足元に転がっている機械の腕を一瞥した。それには霜のように細かい氷がビッシリと付着していて、動く気配はない。それを確認すると視線を上げ、腰に手を当て厳しい口調で言った。
「危ないじゃない。さっさと片付けちゃって」
「は、はい」
 璃音は思わず肩を竦めてしまう。だがすぐに気を取り直すと、掌にパワーを集中した。手首までをすっぽり包むくらいに出力されたエンハンサーが球状の発光エネルギー弾となる。そして璃音がボールを投げるように腕を振ると、光球はドロイドめがけて飛んだ。それは四発立て続けに放たれ、ドロイドはあっさり頭を吹っ飛ばされガラクタと化した。
「ふう」
 安堵のタメ息を一つ。それから、璃音はラッコに視線を向けた。
「大丈夫、ですか?」
 宙に浮いたまま、いつでも攻撃できるように腕は構えたままだ。
 ラッコは少女と機械を交互に見比べてから、
「だ、大丈夫です…それじゃ!」
 と、着ぐるみによる制限を受けているとは思えないほどのスピードで走り去っていった。
「うーん、中に送ってあげようと思ったのに」
 ラッコの後ろ姿を寂しそうに見送った璃音だったが、すぐに姉たちの元へ戻っていった。
 
「もう終わりましたよ」
 バロージャの声。
 恐る恐る目を開けた悠が最初に見たものは、同級生の大きな背中だった。
 

 
 ラッコことクルツはひとしきり走ってから、逃げる必要がなかった事に気付き立ち止まった。被害者のふりをしておけばそれで良かったのである。
 だが、いずれにせよドロイドを失ってしまった事に変わりは無く、任務には失敗だ。それにしても、いかに超能力を使うとはいえ、ドロイド五体が少女相手に歯牙にもかからないとはいかなることだ。旧バージョンでも武装した警官二人相手には全く問題が無かっただけに、ショックは大きいし恐怖もある。
 ガックリと肩を落としていると、追い討ちのようにブラーボからの通信が入った。
「失敗か」
「…申し訳ありません」
 落胆の色を隠そうともしないその声に、クルツは必死に反論した。
「しかし…、自分にはドロイド制御システムの扱いは不向きでございます! 自分一人でやらせて頂ければ…いえ、これからにでも自分が! あと二時間でシフト終わりますから!」
 だが、ブラーボの答えはそっけなかった。
「よいよい。今回は、新制御システムのテストが第一義だったのだからな」
「ですが!」
「よいというに。お前には、より相応しい舞台で働いてもらうとするさ。あまり落ちこむでないぞ。いやなに、これは本来であればメタルカの仕事なのじゃ。だが、ワシが…なんというか…その…あやつに頼むのが怖くて…」
 突然弱々しい声になるブラーボ。クルツも頷く。
「ああ、大佐は祝日の任務は頑ななまでに嫌がりますからね…」
「もし、システムの動作が保障されてるのならワシ自ら行うんじゃが…まだβ版なんじゃ。それに脳を繋ぐのは嫌じゃしのう…」
 機械の事は何も分からないクルツだったが、いずれにせよ今動ける二人にはどうしようもない話のようだ。
「では、明日にでも大佐にやってもらうって事でどうですか?」
 クルツの提案はもっともである。だが、ブラーボは難色を示した。
「作戦の前日にやるようなことじゃああるまいよ」
「そうですか…。それにしても、随分急ですね。まあ、理由があるんでしょうけど…」
 と、少し空気を読める所を見せたクルツ。だが、それが仇になった。
「そうじゃ…さすがクルツ。長い付き合いじゃものな…」
 しんみりしたような口調になったブラーボは、パッと明るい声になってまくし立てた。
「ならば、ならばじゃ。ワシにずっとついて来てくれるよな?」
「もちろんです!」
「じゃあ…戻ったら、ワシと一緒にメタルカにだな…」
「…マジですか?」
 クルツは、先ほどとは比べ物にならない恐怖を予感した。
 

 
 天気がよかった事もあり、その日は見事な夕焼けだった。
 浴場は含めて充分な広さが確保されており、また種類が多いために客が分散するらしい。そのためか、露天風呂からのオーシャンビューは存外に快適だった。
「ういー、生き返ったわー」
 綺子は思い切り背を伸ばし、身体を捻る。胸の辺りまで湯に浸かってはいたが、それでも膨らみが強調される。だがそれも、隣で浮力が生じさせている物体には及ぶべくも無かった。
 それの持ち主、斐美花は屈託無く笑った。
「よかった、治ったんだ。来て良かったね」
「ありがと。まあ、気分の問題っていうのもあるけど…」
 と、綺子は斐美花の顔を見て、それから下を見て、また視線を上げた。ここはプールではなく風呂なので、当然のことながら水着は不可である。
 綺子は、側にいた悠の肩を突いた。
「…なんか、私たちってサイズ比較用のタバコケースみたいな存在なんじゃない?」
 そう言って、眉根のあたりを曇らせている綺子とは対照的に、悠の表情は明るかった。
「そう? 私はほら、付き合い長いから今更何とも思わないよ」
「おい。何で今になってそんな模範解答を…」
 プールの時とは言っている事が違う。だが、悠は涼しい顔で、
「別に。私は私だからね」
 と、言い切った。
「ぬぬぬ…」
 綺子は不満げに唸り、そして口元まで湯に沈んだ。ブクブクと立つ泡がそのまま彼女の内心を表現しているのだろう。
 一方、悠の隣にいた璃音はうっとりとした眼差しで海を照らす夕日を眺めていた。それをのぼせたのではないかと心配して、悠が声をかける
「璃音ー、大丈夫?」
「あ。うん、何ともないよ」
 そう答える璃音のいつもどおりの笑顔を見て、悠は安堵した。それで、ちょうど外の様子が目に入り歓声を上げる。
「すごーい。こんなに綺麗に見えるなんてね」
「うん」
「あ。ウチの病院が見える」
「ホントだー。おっきいもんね」
「こうしてみると、ここも意外と綺麗な街だよね」
 そんな取り留めの無い話をしているうちにも、どんどん身体が温まっていく。美しい景色と温泉のリラックス効果をタップリと堪能して、四人は露天風呂を後にした。
 更衣室につながるシャワー室で沸かした淡水を浴びながら、璃音は誰にとも無く呟いた。
「ふふ、なんかお肌がツルツルになった気がするー。明日、けーちゃん喜んでくれるかなぁ…なんてね」
 
 
4−
 明くる二十九日。
 璃音はいつも通りに登校した。前日に散々遊んだおかげで上手い具合にリフレッシュされたのか、身体が非常に軽い。飛び石連休の狭間ということもあり生徒たちの顔は一様に冴えないのだが、璃音の表情は妙に明るかった。
 筋肉痛の身体を引き摺って来た悠は、璃音を見るや肩をすくめた。
「うーわ、ホント元気そうね。毎度の事ながら君の体力には驚かされるよ」
「そう?」
「それになんか、いかにもウキウキワクワクって感じの顔してる」
「えへへ。判る?」
 頬を両手で押えてニコニコする璃音。悠はこの顔に覚えがある。この十年、璃音は夏休みになるたびに"海外ホームステイ"に出ていた。それが近づくにつれ、とびきりのお楽しみの予感に胸を膨らませていた。それで、七月になると璃音は授業中だろうと何だろうとニコニコと笑っていたのである。もっとも、今は四月で当時とは状況も違う。だが、璃音が嬉しそうにしているときは、食べる時か蛍太郎がらみと相場が決まっている。
「そっか、蛍太郎さん帰ってくるんだ」
「ううん、まだ。家に帰って来るのは明日なんだ。でも、今晩ちょっとだけ…なんて言うのかな、デート?」
 そこまで聞いて、悠はある事に思い至った。
「へえ。あ、こないだカレー屋でのメールってそれか」
「そう」
 確かにそれは璃音にとって嬉しい知らせだっただろう。だが、おあずけ状態に明確な期限が出来た場合、期待感が募り逆に我慢が続かなくなるということもありえる。不可抗力で見てはいけないものを見てしまったのが原因ではあるが、実際にはそうなってしまったわけである。
「…で、たかが三日を我慢できなくなったから私らをまき込んだわけか」
「そ、そういうつもりでは…」
「ダンナさんが仕事しているっていうのに快楽に耽っていたなんて…」
「あ、あれは…浮気とかじゃ…ない、よね?」
「どうだろうね。自分の胸に聞いてみれば?」
「うう…」
 うろたえる璃音。話題を逸らすべく、自分の携帯電話を取り出した。そして、待ち受け画面を見せる。
「ほらほらー」
 笑顔を作って、無理やり悠の注意を向ける。
「またそうやって誤魔化そうとする…って、どうしたのこれ?」
 そこには、アイドル顔負けの笑顔を見せる蛍太郎の写真があった。
「自分で作った」
「へえ…」
 元の素材が良いのもあるが、コントラストを上げてからソフトフォーカス風に加工してあるのでちょっとしたポートレート風に見える。璃音の自分で作ったという言葉どおり、パソコンによる画像補正の賜物である。
 それをしみじみと眺め、悠はタメ息をついた。
「いやぁ、こうして見ると少女漫画にでも出てきそうな風に見えるけど…」
「けど?」
「…これで、実は凶悪なブツを隠し持ってるんだよねぇ…。なんつーか、人は見かけによらないね」
「そうかなぁ」
 璃音は心外とばかりに口を尖らせるが、悠は声のトーンを下げて続けた。
「…初めての時、大変じゃなかった?」
 悠にとっては勇気の要る質問だったが、璃音は事も無げに応えた。
「そうでもないよ。けーちゃん、すごく気を遣ってくれたから。それに、わたし痛くされるのもそれはそれで嫌じゃないし」
「そ、そうですか」
 悠は敵わないとばかりに首をすくめるしかなかった。
 それと同時に、予鈴が鳴る。
 いつも通り、チャイムが終る前にクラス担任が教室に入ってくる。だが、今日の亀田瑠香は朝から露骨に不機嫌だった。
 こうなると、お約束の質問をせずにはいられないのが宇野優貴という男である。
「せんせーい、あの日ですかー」
 その答えは、容赦なく投擲された黒板消しだった。軽快な音と共に白煙が舞い、咳き込む宇野。それからクラス中に、主に女子による罵声が響き渡った。
「アフロサイテー」
「Afro sucks!」
 実質的な吊るし上げが終わり教室が静かになるのを待ってから、亀田はおもむろに口を開いた。
「はい、ではホームルームを始める前に、お知らせがあります。
 先生、明日休みます。授業の方は自習という事で山村先生にお願いしてありますから、皆さんよろしく。
 えー、そこで粉まみれになっているアホが口を開く前に言っておきますが、祖母が急病でして。ええ、急病です。原因不明ですがとにかく急病ですから。なにせ、実家の連中ときたら医者の説明受けても何が何やらなもんですから、こっちに詳細が全く伝わってなくてですね。ツッコミ無用でお願いしているところです、はい」
 自分から勝手に予防線を十重二十重に張っている感のある亀田だが、理由が理由なので誰も疑問は差し挟まない。
「はい、では納得していただけたところで、ホームルームを…」
 その時、ドアを蹴破らんばかりの勢いで西岡拓馬が教室に飛び込んできた。
「セ、セーフ…セーフだからっ」
 息を切らして何やらアピールするが、亀田は完全に無視。出席簿を手に取った。
「ホームルームをはじめます。まずは出席をとります。先に言っておきますけど、墳本君は急病でお休みです。
 それでは…」
 と、淡々と出席をとり始める亀田。構ってもらえなかった西岡は、肩透かしを食ってポカンとしていた。
「なんだ、機嫌悪いのか…?」
 

 
 三城大学は新歓祭の準備に追われていた。
 この日はまだ授業があるので、その時々手が空いている学生が順繰りに作業に就くのだが、連絡不備などで作業が滞るケースが圧倒的に多く、このあたり各団体の管理能力が問われるところだ。
 今年の新歓祭では、斐美花と綺子が所属する日本文化研究会は屋台をすることになっている。
 本来であれば日ごろの研究成果を生かし、日本人のソウルフードである牛丼を出すはずが、社会事情を鑑み、これまたソウルフードであるところの味噌汁で勝負をかけることとなった。当初はオーソドックスにワカメの味噌汁という案が有力だったが、長時間の保温に耐えないことと、屋台ものとしてのボリュームを考慮して豚汁へと変更された。
 そういうわけで現在、サークル員総出での屋台の組立が行われていた。コンロを設置し、借り物の寸胴は屋台内部に運び込みビニールシートをかけておく。発泡スチロール製の丼は袋を開封せず、傍らに積んでおく。一通りの準備を終え、アンナは安堵のタメ息を吐いた。
「ふう、こっちはOK。材料さえあれば今からでも営業できるで」
 それを聞いて、今の今まで立て看板と格闘していた長い巻き毛の女が顔を出す。
「こっちも、終わったよ」
 アビゲイル・ブラーフハイト。オランダ人留学生で、褐色の肌としなやかな長身がストリートダンサーを思わせる美女だ。実際に服装でもオレンジのシャツとカーゴパンツを組み合わせ、そういった雰囲気をだしている。
 アンナが看板の前に回ってみると、大胆な色彩にデザインされた『トンジル』の文字が屏風絵風の杉木立ちと浮世絵風の大波の上に踊っていた。周囲のものと比べても一際鮮やかで、"学生の仕事"の域を頭二つ分は超えていると言っても過言ではない。
「おおっ、凄いやんか。やっぱこの手の仕事は、アビーにお任せやね」
 アンナに手放しで褒められて、アビゲイルは大きな丸い目を細くして微笑んだ。
 屋台のボルト締めを終わらせたヒカルドも、「凄イ凄イ」と飛び跳ねて喜ぶ。
 三歩後ろに下がって屋台の全体像を確認し、アンナは満足げに頷いた。
「準備は大体こんなもんやね。前日に一通り終わるなんて、快挙やない?」
「そうだね。ま、それもこれも彼のお陰でしょ」
 アビゲイルが親指でさした方向、トウキがゴミ出しから戻ってくるところだった。
 三日前、カレー屋から部室に連れこまれたトウキは、重量物の運搬に多大な力を発揮した。今ここに屋台があるのは彼のお陰だといっていい。それもあり、共に働いたヒカルドやアビゲイルとも早々にうち解けていた。
「中村、オカエリ」
 ヒカルドが駆け寄る。アビゲイルも、その名の通り薔薇のような笑顔で彼を迎えた。
「中村さん、おつかれ」
「あ、いえ、そんな」
 小さく頭を下げてから、トウキは顔を綻ばせた。
「屋台の設営は終わったんですね、良かった」
 そんなトウキの後頭部をアンナが小突いた。
「何を言いますやら。八割方、自分のお陰やで」
「そんなことないです。皆さんの段取りの良さときたら、なにか熟練の技すら感じます。オレなんか、単に指示通りに動いただけですからね」
 トウキは本心からそう言った。やはり、遠い異国の地で家族から離れて生活することで人間として鍛えられているのだろう。チームで何かをするということにかけて、彼女達は非常に長けていた。それを思い出し感心しきりなトウキの前に、授業を終えた斐美花が現れた。
「おはようございまーす」
 昼近くになっても"おはよう"で通すのが学生流だ。昼も夜も無い生活をしている者全般にも言える事である。
 一同、それぞれに挨拶を返す。斐美花は完成した屋台を眺め、何度も頷いた。
「明日が楽しみだね」
「なにを呑気な事言っとるんや。材料係、頼むで」
 と、アンナ。編入組の斐美花と綺子は何かと忙しかったので、材料の調達に回っている。つまり本格的な仕事は今日、家に帰ってからということになる。
「うん、大丈夫、だと思う」
「…なんや、頼りないなぁ」
 そんな風に話し込んでいると、平田とソーニャが揃って歩いて来た。足取りにも見ためにも疲れの色がありありと出ていたが、さほど危機的なものではない。
「やあ、おはよう諸君」
 平田が手を挙げる。その声に、アンナとアビゲイル、ヒカルドはハッと顔を上げた。
「センセイ!」
 ヒカルドが嬉しそうに駆け寄る。先ほどトウキにした行動と全く同じなのは、彼の中で二人の序列が等しいからなのか、感情表現が豊かなゆえにどちらにも同等の出迎えをしているだけなのか。トウキは平坂涼一とは初対面だが、この男が単なるサークル顧問程度の認識ではないということは、ヒカルドだけでなくアンナとアビゲイルの様子を見ても容易に判断できた。
「ふふ、見てや。先生不在でも、この通りや」
「看板、どうですか? かなり自信あるんですよ」
 そうやって二人が自分たちの仕事ぶりを自慢げに示す様は、無邪気な子供のようである。何となく蚊帳の外に置かれた気がしてつまらなくなってしまったトウキだが、平田と一緒に現れた女に目が止まり、思考が止まる。
「へぇ…」
 見事な赤毛もさることながら、ロシア美女のイメージそのままの姿に圧倒されてしまう。ソーニャもトウキの視線に気付き、小さく微笑んだ。
「はじめまして、ですよね」 
「え? ええ、はい」
 唐突に声をかけられて、トウキは息を詰まらせた。その様子が可笑しくてソーニャはクスリと笑った。
「じゃあ、自己紹介しないとね。私は…」
 と、言いかけたところに、斐美花が凄まじい勢いで割り込んできた。
「彼女はソーニャ。院生。で、こっちが中村さん。OK?」
 すっかり気圧されたトウキが、呻くように答える。
「はい、OKです…」
 ソーニャは、口に手を当てて笑っていた。何かが可笑しいのか、それとも元からよく笑う人なのか、トウキは判断できず戸惑うばかり。一方の斐美花はというと、不機嫌そうに眉を吊り上げていた。これも、トウキに混乱を誘う。
「なんなんだ?」
 トウキが小さく呟くと、斐美花が頬を膨らませた。
「何が?」
「だから…」
「何でもないよ」
 それで、ソーニャは吹きだした。
「あはは。もう、おもしろいなぁ」 
 すかさず、斐美花が大声を出す。顔は耳まで真っ赤だ。
「な、何でもないですからぁ!」
「ふーん」
 そのやり取りを見ていたアンナは最初は面白がっていたが、さすがに気の毒になってきたので、話を逸らさせるためにソーニャの肩をつつく。そして、わざとドスの効いた声を作り言った。
「それで、や。そら、自分の事情は考慮するけど、まず言うべき事があるやろ?」
 ソーニャは少しの間首を傾げ、それからポンと手を叩くと、神妙な面持ちで言った。
「ごめんね、手伝えなくて」
「よろしい。まあ、しゃあないて」
 アンナにはソーニャを責める気は全く無いので、あっさりと笑顔に戻った。ソーニャの方も空気を読めているので元の調子に戻る。
「明日は、午後からは大丈夫だから。埋め合わせはするよ」
「そら頼もしいわ。やっぱ、売り子のメンツが収益を大きく左右するからな。よろしゅうな」
(ここまで美女揃いならいくらでも売れるんじゃないのか?)
 トウキがそう思うのは男だからだろう。
 確かに余所のサークルにも美女は多かろうが、ここまでバラエティーに富んだ顔ぶれはそうそう無い。だが実際には、美しいだけでなく女性受けの良い者を置かないと、冷やかし野郎ばかりで商売上がったりということになりかねない。その点、ここはある程度の清潔感も持ち合わせたメンバーが揃っているので心配は無い。そんな風に言っていたのは平田だったか蛍太郎だったか。斐美花は、それを思い出してタメ息を吐いた。彼女は、自分も戦力に含まれているどころか主力扱いされている事には思いもよらないのである。
 そうこうするうちに、始業のチャイムが鳴る。平田は腕時計を見て、「うげっ」と呻いた。
「うわ。次、講義。それじゃあ、行ってくる。てか、今日はもう戻らん」
 各所から残念がる声が上がる。だが、平田はそれに笑顔で応えた。
「ま、顧問としては、皆に任せて置けば安心っていうのがあったからね」
「基本的には投げっぱなしだよね」
 少し意地悪い目をするアビゲイル。
「身も蓋も無い事を…。確かにそうだけどさ」
 予想外のリアクションにしょんぼりしてしまった平田をアンナがフォローする。
「まあまあ。あまり顧問が口を出してくれても困るわけやし。いいんやないの?」
「うむ。理想のオーナー像をね、追求してみようと常々思っていたからね」
 それに気を良くして胸を張る平田だったが、
「だったら、お金出してぇな。投げっぱなしで構へんから」
 アンナの一言に、スッカリしおらしくなる。
「…ごめんなさい。嘘です。調子のイイ事言いました。じゃ、明日の午後…」
 そのまま肩を丸めて、すごすごと引き上げて行った。
「あちゃ…ちょっと言い過ぎたかな」
 顔を見合わせて後悔するアンナとアビゲイルだったが、ソーニャは首を振った。
「いいんじゃない。いつも通りにしてくれたほうが、彼も気が楽だと思うよ。じゃあ、私もこれで…」
 と、何度も手を合わせながらソーニャも去っていった。その後姿を見送りながら、トウキは思わず呟いた。
「このサークルのみなさんって、みんな仲いいんですね」
「みなさんって…中村もウチのメンバーになったんちゃうの? もう、そうとばかり思とったけど」
 アンナは目を丸くしていた。
「え? まさか、個人的に斐美花の助っ人にきただけとか、そんなんだったの?」
 アビゲイルも同様で、二人とも本気で驚いていた。
「いや…そういうんじゃないけど…」
 既に仲間として認められていた事を知り、トウキも驚きを隠せなかった。
(まあ、悪い気はしないけど、さ)
 

 
 指定の時刻は夜の九時。璃音は三十分近く早く三城大学のキャンパスに到着した。ここ足を踏み入れるのは、これが二度目である。
 夫の勤務先だからといって特に行く理由もないし、朝は璃音の方が先に家を出るので忘れ物を届けに行くという状況もなかったからだ。
 しかし、今年は身内が二人も編入学したことだから学園祭などの行事などで行く機会は増えるだろうし、二年後には自身もここの学生になるのだから、いずれは毎日のように出入りすることになるだろう。
 そのための予習というわけでもないが、璃音は校舎の形や名前を確かめるようにして歩みを進める。なにせ、前に来たのは地底人が現れた日だから、どこに何があるのかよく判らないのである。新歓祭を翌日に控えるだけあり、未だにキャンパスのあちこちに学生たちの姿がある。ワイワイと騒ぎながら屋台の支度をしたり出し物のリハーサルをしたりと活気溢れる様相は、怪物に制圧されたあの時とはまるで違う。その賑やかさのお陰か、璃音の制服姿は特に目立つことも無く人波にまぎれた。
 理学部の校舎である月夜楼には、案内図を頼りにしても簡単にたどり着くことが出来た。
 こちらは、二つの塔とは異なり三階建てのごく普通の建物だ。
 蛍太郎の仕事場である"藤宮研究室"は、時折聞かされていた通り、この建物の一階にあった。廊下に連なってずらりと教授陣のネームプレートが続き、最も奥に"藤宮"の文字がある。ここが待ち合わせ場所だ。
 璃音は、そのドアに背中を預けると窓の外を見やった。
 この辺りはキャンパスの端の方で、学生たちの喧騒もまるで伝わってこない。廊下の照明が落ちているのが、こちら側の寂しさをさらに引き立てる。
(そういえば、斐美お姉ちゃんと綺子さんも、あそこに居るんだったな)
 時間より早く来たために、薄暗い場所に一人っきり。こうなると、色々と考え込んでしまうのが人というもので、璃音も例外ではない。先日までにやらかしてしまったことを蛍太郎に話すべきかどうか、その問いを頭の中で何度も繰り返した。
(遊びってことで済むかなぁ…どうだろう…)
 そんなことを思いながら茫洋としていると、廊下の向こうから足音と人の話し声が聞こえてきた。話し声、というからには一人ではないだろう。璃音はまた視線を落とし、夫が現れるのを待った。
 だが、その話し声がどういうわけか蛍太郎の物に聞こえてならない。
 不審に思い、顔を上げる。璃音は特別に夜目が利くから、相手が気付くよりも早く、その姿を確認できる。
 果たして、そこに居たのは藤宮蛍太郎だった。
 そしてもう一人、女が居た。
 璃音もよく見知った顔。貴洛院玲子だ。
 六日前、蛍太郎からの最後の電話で、彼女に仕事を依頼されたと聞かされていたから、ある程度は予想していた事態だが、いざ目の当たりにすると、あまり良い気分ではない。
 その二人は、そんな璃音の心中も知らず、ナニやら親しげに話しながら近づいてくる。
 璃音はわざと大きめの声で、皮肉タップリに言った。
「随分楽しそうだね」
 蛍太郎は璃音の存在には気付いていなかったので、突然のことに声を上げて驚いた。
「うわっ! …璃音ちゃん…来てたんだ…」
 玲子の声はしない。璃音は不機嫌も露わに言った。
「自分で呼んでおきながら、『来てたんだ』じゃないでしょ」
 蛍太郎は物凄い勢いで璃音に駆け寄り、迷わず頭を下げた。
「ごめんなさい! その…」
 だが璃音は頬をパンパンに膨らませたままだ。
「奥さんほっぽって昔の女とお楽しみなんて…いい気なもんだね」
「違うんだ。彼女は今回のスポンサーで…。そ、そうだよね玲…貴洛院さん」
 遅れてゆっくり歩いてきた玲子が、眉一つ動かさずに答える。
「そうです。永森君には無理を聞いてもらって助かりました」
 先ほど璃音の声にも全く動じなかっただけあり、玲子の物腰は冷静そのもの。しかも旧姓で呼んでいる辺り、わざとやっているとしか思えない。璃音の眉がますますひん曲がった。
「わたしのけーちゃんをそんな風に呼ばないで」
 しかし玲子は動じない。余裕すら感じさせる口調で言った。
「うーん、弟がお世話になっているみたいだから、挨拶したいと思っただけなんだけど…。しょうがないわ。じゃ、私はこれで。永森君、また後でね」
 玲子は颯爽と踵を返し、足早に去っていった。その靴音が聞こえなくなってから、璃音は一転して笑顔になる。
「ふふ、歳相応に拗ねてみたよ。可愛かった?」
「…いえ。どっちかっていうと、怖かったです」
「そっか。もっと工夫が必要かなぁ」
 璃音は腕を組んで考え込む。それで胸が押し上げられ蛍太郎の視線が釘付けなる。だが、璃音と目が合ってしまい、蛍太郎は取り繕うようにソッポを向いた。
「いや、その…璃音ちゃんって基本的に芝居下手だから、何かしようとか思わないほうが…。それに、玲子さんに端からケンカ腰で当たることもないだろう」
 蛍太郎の言葉に、璃音は肩眉を吊り上げた。
「嫌いなの、あの人。だって、未だにあなたと付き合ってる気でいるんだもん」
「そんなことはないよ。璃音と僕は十年以上の付き合いじゃないか。そりゃ、玲子さんとは中等部に編入してからだから少し長いけど、あくまで友人なんだから。そうじゃなかったら、璃音ちゃんとこうなってるワケないだろ」
「そうかな…」
「そうだよ」
 蛍太郎が力を込めて言うので、璃音は吹きだしてしまった。
「もう、あなたってば…」
 だが次の瞬間、璃音の目元から一切の表情が消えた。
「でも、連絡が無かった理由は説明してもらうよ」
(…やっぱ怒るよな)
 蛍太郎は覚悟を決めた。
「それじゃあ、立ち話もなんだし…部屋行こうか」
 ドアの鍵を開け、研究室に入る。
 そこは、本棚がビッシリ並んだ十六畳ほどの部屋である。学生たちが使う長机の向こうに、蛍太郎のデスクと簡単な応接セットがある。
 蛍太郎は璃音をソファに座らせると、買っておいた缶コーヒーを手渡す。そしてテーブルを挟んで座り、真剣な面持ちの妻にゆっくりと話し始めた。
「本当はあまり言っちゃあいけないことだから簡単に済ませるけど…。
 今、僕が缶詰になっている施設は、電波などを遮断するようになっていたんだ。でも、僕はそのことを知らなかったから、携帯電話が通じないなんて思ってなかったんだよね。
 今朝の停電で初めてそれに気付いて、試しにメール受信をしてみたら、璃音ちゃんのが届いたっていうわけ。
 たしかに、こっちから連絡しようとすれば早くに判ったことだから、それに関しては悪かったと思ってるけど、今週中にケリをつける為に殆ど休んでなかったから、許してほしいなぁ…なんて思うんだけど…。余裕無かったんだ」
「今週中って、それじゃあ…」
「忘れるわけないだろ。その日には、絶対仕事なんてしない。てか、三連休は意地でも休む。だからこその強行軍さ。おかげで、納期にはバッチリ間に合うってわけ」
 そう言って、白い歯を見せる蛍太郎。そんな、いかにも頼もしげな夫の顔に、璃音の頬はいっぺんに赤く染まった。
「あなた…」
「璃音ちゃん」
 熱い眼差しをかわす二人。璃音の目元が蕩けていくのを見ていると、蛍太郎もだんだんその気になってくる。このまま一緒に家に帰ってしまいたいのを堪えて、蛍太郎は言った。
「でも…今日は帰れないんだ。まだ仕事が残ってて、朝までかかる。だから、ここで三時間休んだら、また戻らなきゃいけない」
「そうなんだ…」
 璃音は少し残念がったが、明日から夫が家に戻ってくると判ったのだから、それはそれで安堵した。ちゃんと理由を説明してくれたのだから、これ以上は言うことは無い。それに、ここであまり強硬な態度を取ると、自分が一昨日までにしていた悪戯がバレた時に困ってしまう。だが、何故わざわざここを選んだのかという疑問は残る。
「でもどうして、ここで休もうと思ったの?」
 璃音の問いに、蛍太郎は苦笑しながら答えた。
「いいかげん、仮眠室で寝るのは嫌になったんだよ。っていうか、あそこじゃいつ呼び出されるか判ったもんじゃないから、ぜんっぜん気が休まらない。はっきり言って、ここのソファで寝た方がマシだ。
 それに、璃音ちゃんの顔が見たくて…」
「顔見るだけでいいの?」
 璃音が悪戯っぽく笑う。
「うん、その…僕はそれでいいんだけど。…こっちのほうは、よくない…かも」
 生物というものは極限状態に置かれると、種の保存という本能に忠実に行動するように出来ている。不休状態で働いた蛍太郎の状況もまさにそれだ。
 傍目にも判るほど強張った部分を気にしながら、蛍太郎は苦笑した。
「このままじゃ、仕事にならないな」
 それを見て、璃音も小さく笑う。
「最初からその気だったくせに」
「そ、そう…だね…」
「あなたが帰って来ない間に、"あれ"は終わったからいいんだけど。でも、いつもと違って、あなたがお腹さすってくれなかったから、久しぶりにしんどかったな」
「うう…」
 蛍太郎は肩を丸めて、大きな身体を目いっぱい小さくした。それが妙に可愛く見えたので、璃音は顔を綻ばせた。
「なんてね。お仕事だからしょうがないよ。…それで、さ。わたしは、いいよ」
 そう言って、手を差し伸べる。
 蛍太郎はパッと笑顔になると、膝をついて璃音を抱きしめた。
「うん。埋め合わせはキッチリするよ」
 そう言って、ソファに妻を横たえる。自らもソファに上がると、璃音に覆いかぶさるような体勢になった。間近になった夫の顔を眺めながら、璃音は柔らかく微笑む。
「期待してる。あ、そうだ…」
 と、璃音はスカートのポケットに手を入れた。そしてするするとスキンを取り出す。それは、包装をバラさないまま、五つ連なっていた。
「足りる?」
「多分ね」
 悪戯っぽく微笑んで、蛍太郎は璃音に頬を寄せた。
「璃音ちゃんの肌、すべすべで気持いい」
「もう、ばか」
「キスして…」
 蛍太郎が囁くと、璃音はその肩に腕を回し、下から覆いかぶさるようにして、抱きしめた。その首筋に、蛍太郎はキスの雨を降らし、そして唇を合わせる。熱い舌と唾液が絡み合うごとに、二人の意識が白く灼けていく。
 唇が離れる。
 璃音は蛍太郎の顔を見上げて、ポツリと呟いた。
「おふとんの上以外でするの、初めてだね」
「よく覚えてるね」
「そりゃそうだよ。去年の今頃は何も知らない女の子だったんだから。そんなインパクトある経験したら、嫌でも忘れないよ」
「それもそうか」
「もしかして、誰かと混じった?」
 璃音は、蛍太郎に過去があることくらい判っている。十一も歳が離れているし、そもそも彼女はつい最近まで子どもだったのだから当たり前のことだ。それでも、この男が自分の知らない女を愛していた時代があったという事実を思うと、璃音は胸が締め付けられる。だから、「そんなことないよ」と答える蛍太郎と目を合わせることが出来ず、ソッポを向いて頬を膨らませた。
「拗ねた?」
 蛍太郎が璃音の顔を覗き込む。
「そんなことない」
「ホント?」
「…ちょっと、寂しかっただけ。私だって子どもじゃないんだから、本当に拗ねるわけないよ」
 そう言っている璃音だったが、その様子は世間一般にいうところの"拗ねている"状態と見て全く差し支えない。
「可愛いな、璃音ちゃんは」
 蛍太郎は今すぐしゃぶりつきたい衝動を堪えて、璃音の頬に軽くキスをする。それに璃音は、怒っているのか喜んでいるのか、よく判らない声で呻いた。
「ごまかすなぁ…」
「はいはい」
 蛍太郎が微笑みを浮かべて璃音の髪を撫でる。それにあてられて、璃音の頬が緩んだ。
「じゃあ、しよ」
 そう言って、璃音は両手を伸ばして蛍太郎の首に回す。前に見た夢にそっくりな展開になり、高まりが止まらない。
 蛍太郎が頬を寄せてくると、璃音は夢見る心地で瞼を閉じた。
 すると、「その前に、さ」と、蛍太郎が囁いた。
「お願いがあるんだ」
 璃音は目を開け、上機嫌で頷く。
「うんうん、なぁに?」
「さっき、『わたしのけーちゃん』って言ってくれただろ。それがなんか、嬉しかったから…また、昔みたいに"けーちゃん"って呼んで欲しいなぁ」
「"あなた"じゃ嫌なの?」
「嫌ってワケじゃないけどさ。結婚したから、変化が欲しかったのもわかるし…。でもほら、"あの時"のことを思い出しちゃってさ」
 どこのカップルにも記念日というものはあるもので、璃音と蛍太郎が"あの時"と言えば、それは三年前に起きた事件を指す。それに関しては後の話に譲るとして、璃音は蛍太郎が可愛い事を言うので、さらに顔を綻ばせた。
「あなたって、意外と乙女ちっくだよね」
「…ロマンチストと言ってくれ」
 璃音はクスリと笑う。
「わかった。可愛いところ見せてくれたから、お願いきいてあげるね。えっと、…けーちゃん。あはは、なんか久しぶりだから、恥ずかしいかも」
 照れてみせる璃音に、蛍太郎は優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ。それに、…これからもっと恥ずかしいことになるんだから」
 そう言ったそばから蛍太郎は璃音の内腿に指を忍ばせた。
「え? えっ?」
 突然のことに、目をぱちくりさせる璃音。だがすぐに、「ああんっ!」と甘い嬌声を上げた。その様子に蛍太郎は嬉しそうに微笑む。
「濡れてる…」
 蛍太郎は璃音の脚を持ち上げる。スカートに手を入れショーツに手をかけると、下ろすのではなく、一部分だけをずらした。そして、指でそこを責めたてる。
「あ、あ…」
 やはり、夫の愛撫は特別だ。あっと言う間に、身体の熱が高まっていく。それに気を良くした蛍太郎は、もっと触り易いようにとスカートをめくった。すると、黒いレースに彩られたショーツが目に飛び込んできた。蛍太郎は驚きに口をパクパクさせる。
「あのー、こんな派手なぱんつ穿いて学校に行ってるの?」
「そんなわけないよ」
 頬を膨らませる璃音。
「お風呂に入ってから来たの。…だって、こうなるって判ってたから」
 つまり、彼女なりのサービスという事だ。先日までの行状の罪滅ぼしのつもりでもあったのだが、玲子の件ですっかり忘れてしまっているし、今はもうそれどころではない。熱くなった身体を持て余してしまい、璃音は夫におねだりした。
「ねえ、舐めて…ぇ」
 蛍太郎は頷き、スカートを脱がし下着をどける。璃音は自ら腰を上げて、その作業を助けた。
「早くぅ」
「そんなにがっつかないの」
 余裕ぶってみせる蛍太郎だったが、白桃色の肌を真っ赤に染め、自分から腰を突き出しておねだりする妻の姿に早くも爆発寸前だ。腹を空かせた獣のように、そこにむしゃぶりつく。殆ど我を忘れて女の匂いを味わい、ふと気が付いて顔を上げると、璃音は肩で息をしながら、ぐったりとソファに身を沈めていた。目の焦点が合っていない。
「イッた?」
 璃音は小さく頷いた。
「じゃあ、僕にもしてくれるかな」
 そう言って、蛍太郎は邪魔になってきた衣服を脱ぎ捨てた。久しぶりに見る、細いわりに筋肉質な身体が璃音の目に飛び込んできた。そして、上を向いて屹立した男の部分…。
 璃音はノロノロと身体を起こすとソファに腰掛けた蛍太郎の膝の間に座り、そこにそそり立つ彼自身に口付けした。そして、夢中で舌を這わせ、喉の奥で吸う。一分としないうちにそれは璃音の唾液にまみれ、ソファを濡らす。
「ああ、いいよ…」
 妻の情熱的な愛撫に、蛍太郎はうっとりと吐息を洩らした。
「ねえ、挟んでよ」
 そうお願いすると、璃音は制服を脱ぎブラを外した。支えを失った柔肉が、ぷるんと零れ落ちた。その二つの塊が、硬く血走った蛍太郎を柔らかく包み込む。それは既に充分に濡れていたので上下に擦りたてても引っかかることなく、璃音の乳房は蛍太郎を優しく昂ぶらせていく。
「もう、出すよっ!」
「え…」
 既に限界が近かった蛍太郎は、あっさりと達した。璃音の胸は、白濁した液体で汚しつくされた。
「あ。凄い…」
 肌にかかる熱を感じ、陶然と目を閉じる璃音。射精が収まってから二度、三度と乳房でしごき上げると、残っていたものが染み出てくる。
 改めて見ると、今までに無い量の精液が胸の谷間に沿って溜まっており、鎖骨や喉元にもかかっていた。
「いっぱい出たね」
「うん…」
 蛍太郎は力なく頷いた。殆ど一週間ぶりなだけに、脱力感が半端じゃない。そんな夫を見上げて、璃音は「可愛い…」と、微笑んだ。そして指で液を掬い取り、舌で舐めとった。
「うわ、濃い…嬉しい…」
 続けて、両手で同じ事を繰り返すうち、次第に息が荒くなっていく。我を忘れてベトベトになった自らの指をしゃぶる璃音の姿を見ているうちに、蛍太郎は前以上にモノを硬くした。
 それを見て、璃音の瞳に輝きが増す。
「あ…」
「璃音…。そんなにしなくても、もっとあげるよ」
「うん!」
 頷いて、璃音は天使のような笑みを浮かべた。スキンの封を開け、それを口を使って器用に装着する。蛍太郎は「上手くなったね」と璃音の髪を撫でてから、すこしだけ逡巡して、言った。
「えーと。あの…。その…、せっかくだしさ、制服のまましてくれないかなー、なんて思うんだけど…。また、着てくれると、嬉しいかなぁ、なんて」
「…けーちゃんって、そういう人だったんだ」
 一転、夢から覚めたような顔で璃音は呟いた。
「う…。いいじゃない、その、今回だけだから。お願いします」
「ヤダよ、明日も学校あるんだから。シワになったら困るし…。それにその…変態さんみたいだし」
 変態さん。
 改めて言われると、ズッシリと来るものがある。だが、蛍太郎はめげなかった。
「…何を言っているんだ。男は皆変態だぞ。いや、人類皆そうだ」
 ムシロ開き直りである。だが、璃音も自身を顧みれば思い当たる節があるので強く反論は出来ない。
「そ、そうかな?」
 頬を赤く染め、目を伏せる。友人達と猥談に興じた時に、「普通そんなコトしないだろー」と言われたアレコレが璃音の脳裏を過ぎる。それを知ってか知らずか、蛍太郎は力強く断言した。
「そうとも」
「うん。わかった…」
 璃音は、脱ぎ散らかしていた制服を再び身につけた。ソックスはそのままだったので、外見上は学校に行くときの姿になる。だがもちろん、下着は身につけてはいない。
 蛍太郎は嬉しそうに頷くと、璃音を促してソファに横たえた。
(喜んでくれるなら、いいかな…)
 為すがままに脚を開き、璃音はその時を待った。
「入れるよ」
「んっ…、入って…くるぅっ!」
「ふふ。嬉しそうだね、璃音ちゃん」
「そんなこと…あっ」
 そこはいつもよりもキツかったが、充分すぎるほどに濡れていたので蛍太郎はいとも簡単に奥にたどり着くことが出来た。
「ほら、全部入った」
「あ…あ…」
 久しぶりに愛する夫を受け入れた喜びが、璃音を容赦なく昂ぶらせていく。
「動くよ」
「あ…ああっ、けーちゃぁんっ!!」
 やがて璃音は、夫だけが与えてくれる深い深い悦びに、その身を投げ出した。
 それからどれくらい時が経ったのか。気が付いたときには、璃音はソックスだけの姿になって蛍太郎の上で自ら腰を振りたてていた。
「ああっ、いいの、いいのぉ!」
 ときおり来る突き上げに、髪を乱して悶える。頂点を間近にして、今が一番イイところだ。
「あ、イク…イクのぉ、あ…あ…」
 終わりが迫っているのを見てとり、蛍太郎は璃音の腰をガッチリと掴むと、激しく何度も突き上げた。
「ああああああっ!」
 璃音は悲鳴じみた嬌声を上げた。口の端から垂れた涎が、蛍太郎の胸元を濡らす。
「璃音…ッ」
「けーちゃぁん…あ、ああああああああっ!」
 お互いを呼び合うと同時に、二人は揃って果てた。
「あ、ああ…」
 忘我の表情で、璃音は蛍太郎の上に倒れこんできた。それを優しく受け止め、抱きしめる。激しい快楽のあと、その余韻がゆったりと二人を包み込む。いつまでもこうしていたいところだったが、蛍太郎はそのまま反転して璃音の上になり、硬さを失いつつあるモノを引き抜いた。スキンをはずし、縛ってゴミ箱に放り込む。その傍らには、空になったアルミ包装が転がっていた。
(結局、全部使っちゃったなぁ)
 蛍太郎は自分の所業に半ば呆れつつも、ソファに横たわる璃音の髪を整え、首筋にキスをする。それに応えて、璃音の手が蛍太郎の頬を撫でた。
「けーちゃん、きもちよかった…」
 璃音が微笑む。未だ、その声は甘ったるいままだ。
「うん、僕も。やっぱり、久しぶりだったからね。そうだ。今度から、溜めて週一回とかにしてみようか?」
 冗談めかして言うと、璃音は真顔で答えた。
「嫌。そんなに我慢できないもん」
「そっか、そうだよね。仕事で余裕が無かったからとはいえ、こんなに我慢してるとイライラしてくるしなぁ。身体に悪いか」
 苦笑まじりの蛍太郎。だが、続く璃音の言葉はシビアなものだった。
「それに、黙っててもそのうち回数なんか減るから」
 しばし沈黙。
 そして、蛍太郎はうつむいたまま口を開いた。
「僕、飽きられないように頑張るよ…」
「あ…そうじゃなくて。今はほら、覚えたてだからこんなだけど、そのうち落ち着いてくるだろうなぁって思って。
 でも、わたしず〜っと、けーちゃんのこと好きだよ。愛してる」
 その笑顔が、なんだか過剰に眩しく思えた蛍太郎だった。こういう時は、何かおねだりするか都合の悪いことがあったか、そのどちらかである。そして、その予測は見事に的中した。
「あの…聴いて欲しいことがあるんだけど…いいかな?」
 璃音は、先日の友人や姉との乱痴気騒ぎを報告した。怒られることは覚悟の上だったが、返ってきた答えは意外なものだった。
「相手は女の子だし、それなら一人でするのとあまり変わんないし、僕は気にしないけど」
「…ほんとに?」
 璃音はおずおずと蛍太郎の顔を覗き込む。特に表情を作っている様子はなく、本心からの発言だった。
「でも、あまりやりすぎないでね」
 実際の所、蛍太郎も過去をつっこまれると都合が悪いのでこれくらいでは璃音を責められない。璃音がまだ幼いころで、相手はそういう商売だったし、というのが彼の言い分。その辺は璃音も薄々勘付いてはいたが特に追求はしていなかった部分だ。だが、それを盾にとれないのが彼女の性分である。
 璃音は神妙な顔で頷いた。
「うん、今回だけにする。ごめんね」
 それを見て、蛍太郎は苦笑した。
「いいよ、そんなに気にしなくても。それよりもさあ、綺子はともかく、斐美花さんとか悠さんに会った時に、僕はどういう顔をすればいいのかなぁ?」
 当然といえば当然の問いに、璃音は言葉に詰まってしまった。
「う…。それはその、いつも通りに…できる?」
「さあね」
 本気で心配そうな顔をしている璃音に、蛍太郎は悪戯っぽい笑顔を向けた。少し意地悪してみたくなってきたのである。案の定、その一言で璃音は俯いてしまった。
「なんか、自分のしたことの重大さが…」
(可愛いなぁ。言わなきゃそれで良かったのに)
 蛍太郎は頬が緩むのを抑えながら、言った。
「悪いことをしたって判ってるみたいだけど、ケジメはつけないとね」
「うん…」
 璃音は正座して神妙な顔をした。蛍太郎は先程とはまるで逆の事を言っていることを指摘されたら止めようと思っていたが、その気配は無い。
「それなら…」
 と、悪ノリしてみることにした。
「おしおきだね。ソファに手をついて、おしりをこっちに向けて」
 言われるままにする璃音。肉付きの良い丸い尻が蛍太郎に向けられる。その下には先程まで夫を受け入れていた部分が、その余韻を残していた。外に聞こえるのではないかというほど、心臓が激しく脈打つ。
 蛍太郎は手を振り上げたまま、わざと焦らすように間を置き、そして。
 パチン、と乾いた音が響いた。
「あうっ…」
 白桃色の肌に、かすかに赤みが差した。
 二度、三度。
 その度に、柔肉が紅に染まっていく。身体を震わせ痛みを堪えていた璃音だったが、その声に次第に甘いものが混じっていく。もちろん、それを見逃す蛍太郎ではない。今までより少し強く、手のひらを打ち付ける。すると、
「あああんっ」
 璃音は力が抜けたようにソファに上体をうずめた。
「どうしたの、璃音」
 耳元で囁き、同時に内腿を撫でる。付け根に触れると、湿り気のある音が響いた。いや、わざと大きな音が出るように指を捻じ込んだのである。
「あんっ」
「なんで、こんなになってるのかな? ぶたれて、感じちゃったの?」 
 璃音は元から赤く染まっていた頬を羞恥でさらに赤くして、力なく頷いた。
「いけない子だな。もっと、おしおきが必要だね」
 我ながら陳腐なセリフだと思いながらも、蛍太郎はすっかり屹立していた自身を璃音に押し当て、そこで気付く。既にスキンを使い果たしていたことに。何とも締りの無い話だが、これ以上の行為の継続は無理だ。
(しまったなぁ…。せっかく盛り上がったのに…)
 ガックリと肩を落とす蛍太郎。それを知ってか知らずか、璃音は蕩けた声で呻く。
「まだ? 焦らさないでぇ…。こっちに、後ろに入れてもいいからぁ…っ」
 と、手で自分の尻を撫でる。
 それを見て、蛍太郎は顔を綻ばせた。
「え? いいの?」
「うん…」
 璃音は、恥ずかしいのか耳を澄ましてようやく聞こえるくらいの声で言った。
「お腹の中、きれいにしてきたから…大丈夫だよ…」
 やったぁ! と、拳を握って喜びかけたのを辛うじて堪え、蛍太郎は頷いた。
「わかった。おしおきには丁度いいかもね」
 そして、そこに口づけする。
「ひゃん!」
 璃音の背が跳ねた。指と舌でじっくりとほぐしてやると、璃音は嬌声を上げる。既に開発済みということもあり、程なくそこは充分に柔らかくなった。
「璃音、ソファの上に仰向けになって、自分で足を抱えて」
「うん…」
 璃音はためらいなく、恥ずかしい格好で夫にそれを晒した。
「入れるよ」
「ん、ぐっ…、ああっ」
 入り口の方は狭く抵抗が強いのだが、一度そこを抜けてしまえば、それからは実にあっさりとしたものだ。前の方に比べると単純な作りの襞肉を押しのけて、先端が一番奥に当たる。
「…ほら。全部入っちゃった」
 不躾な塊に直腸をふさがれて、璃音は腹を押し広げられる苦痛に息をつまらせる。蛍太郎は千切りとられそうなほどの締め付けを楽しむように小さく動いてから、腰を引く。
「あ…ああああああああ…っ!」
 ゆっくりゆっくり、璃音の粘膜を舐めるように蛍太郎が後退していく。直腸の内容物が外へ出て行くことにより、排泄に伴う快感を不自然な長さで味わわされて、璃音は切羽詰ったような、悲鳴に近い声をあげた。
 蛍太郎は出口の半ばまで自身を引き抜き、そこで止まった。
「あ…あ…」
 璃音は快楽の余韻に身体を震わせ、呻く。ヒクヒクと波打つ白い腹を眺めながら、蛍太郎は微笑んだ。
「気持ちいいの?」
 ほんの少しだけ間をおいて、璃音は小さな声で答えた。
「…すごいの。おかしくなりそう…」
「そっか。じゃあ…いくよ?」
「うん。おしおき、してぇ」
 頷くと、蛍太郎は腰を進めた。腹側の壁を圧迫するようにしながら、ゆっくりと奥へ向かう。
「…あぐっ…んっ…!」
 そして、最奥にたどり着くと今度は一気に引く。
「あーっ! ああああ…あうっ!!」
 その注送が繰り返されるたび交互に与えられる苦痛と快楽が、璃音の理性を削り取っていく。可憐さと賢さを兼ね備えた美少女の面影はもはや無く、顔を涙と涎でドロドロにして、でたらめに髪を振り乱だけだ。まさに、この一年間の蛍太郎の"躾"の賜物である。
 だが、激しい動きは禁物だ。ただでさえ蛍太郎のモノは人並みより大きいし、璃音はまだ十七歳。過度に負担を強いるようなことは大人の男としてやってはいけないことである。蛍太郎は放っておけば加速しそうになる腰に理性を総動員して箍をかけた。それは彼にとって拷問に等しいことだったが、これまでどおりの動きを続ける。そんな、夫の並外れた忍耐による愛情に応え、璃音は嬌声を上げた。相変わらずの悲鳴じみた声に、甘いものが混じり始める。
「ン…あああっ…あん…あああああああああああ…んっ!!」
 璃音の肩が、太腿が激しく震えた。苦痛を麻痺させるための脳内麻薬と、排泄の快感と。それらが、少女の理性を決壊寸前に追い込んでいるのだ。
「ああ…あああああああっ! いいっ…いい…っ!!」
 そして、蛍太郎も限界を迎えようとしていた。今にも破裂しそうな先端でその中を擦りあげる。それから一呼吸置き、一気に引き抜いた。
「ああああああああああああ――――――――ッ!!」
 璃音は一際大きな嬌声を上げた。強烈な快楽に頭の中が真っ白に塗りつぶされた。自らの太腿を支えていた手に力が篭り、指が食い込む。
 蛍太郎は璃音の腰を支えたまま、今度は奥まで突き入れた。先端が璃音の肉に触れると同時に、蛍太郎は全てを解き放った。
 璃音の背が跳ねる。
「あ、あ…ああ…」
 夢の中に旅立った璃音の腹に、蛍太郎は搾り出すように自分の思いのたけを注ぎ込んだ。
 しばらくそのまま余韻を楽しんでから、身体を離す。
 快楽に喘いでいた時には激しく上下していた璃音の胸は、今は規則正しく呼吸のリズムを刻んでいる。蛍太郎は天使のような寝顔でソファに横たわっている璃音に寄り添うように床に腰掛けると、汗で額に張り付いている前髪を整えてやる。愛する妻を大いに悦ばせたことによる充足感に、おしおき云々はスッカリ忘れて浸りながら、蛍太郎は温くなっていた缶コーヒーに口をつけた。
 外はまだ暗いままだが、鳥の囀りがチラホラと聴こえ始めていた。それに気付いた蛍太郎が大慌てで部屋を飛び出すのは、しばらく後のことである。
 
 

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