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 五月四日、午後二時。
 連休の中日ということで、街の往来は実に賑やかである。平日なら学校が終わる時間でなければそれほど騒がしくはないのだが、今日は昼から全開で飛ばしている。
 商店街に出来た噴水を中心とした区画は、石畳状の舗装と車両進入禁止の措置からちょっとした公園のような風情になっている。この通称・噴水広場は待ち合わせのメッカであり、本職・自称問わずパフォーマー達の舞台であり、買い食い派の指定席であり、ナンパの主戦場となっているのだ。
 そして今、このフィールドに鋼鉄の男たちが降り立った。
「ヘイ、彼女。お茶しない?」
 八十年代に逆行したようなフレーズを口にするのは、全身を金属と強化プラスチックで固めたサイボーグだ。だが、ターゲットにされている私服女子高生ふたりは、明らかに迷惑そうな顔をしている。
「おいおい、そうじゃないだろ」
 もう一人のサイボーグが人差し指を立てて、チッチッチッと、舌を鳴らす。
「いいか、こうするんだ」
 スッと、指を四本立てて、女子高生たちに示した。
「これで、どう?」
 それを見た哀れなイケニエたちは、ついにその場を逃走した。もちろん置き土産の罵声は忘れない。
「さけんな、バカ!」
 そんな感じの言葉が、一キロ先の針が落ちる音さえ聞き分ける彼らの耳に届く。ガックリと肩を落として、サイボーグの一人、ヤスがぼやいた。
「おいおい、どうなってるんだよぉ。オレたちゃ"噂のサイボーグ・ヤスとシゲ"だろ。改造手術を受けてイケメンになったんじゃなかったのかよ」
「うむ」
 シゲが右手は指を四本立てたまま、顎に左手を当てて呟いた。
「今にして思えば、オレらが噂になってるのって、大学の中だけな気がするんだよな。どういうわけか」
 通常の衣類を着用すると関節部に絡まるためとはいえ、フルメタルボディを惜しげもなく晒して授業に出れば、一日も経たずに噂になるのも当然だろう。
「まあ、さっきのは普通に作戦ミスだろうな。だいたいな、ヤス。今時『お茶しない?』はないだろ」
「シゲこそ、ありゃなんだ? 犯罪じゃん。てか、一人だって四万は安くないか?」
「しょーがねぇだろ。オレたちみたいなのは金で手を打ってもらうしかないって!」
「バカヤロウ! それじゃあ何の為にサイボーグになったんだよ。てか、犯罪はダメだってば。まかり間違って留置場にでも入れられてみろよ。三日経ちゃ整備不良で死ぬぞ、オレら」
 言われっぱなしはしゃくに障るのか、ヤスはヒートアップした。だが、ここで口論しても全く無益だ。そういうわけで、シゲは新たな標的を探すことにする。そして、数秒後。
「さっきは、ターゲット選び方から間違っていたんだよ。
 …見ろ。あそこの子、なんか大人しそうだし、もしかしたら英春の生徒かも知れんぞ。あそこはお嬢様が多いから、男に免疫が無い子に当たる確率が高いらしいぜ」
「てか、なんでさっきから女子高生ばっかりなんだよ…」
 ぼやくヤス。
「いざ、征かん。鋼のボディで女子高生をノックアウトだ!」
(そうか、好きなんだな。制服…)
 特殊ラバーの顔の下、ヤスは心で泣いた。

 佐藤祥は角の茶屋"井筒堂"の抹茶ソフトが大のお気に入りである。今日も店頭でそれを買い求めると、五月の風を楽しもうと噴水広場までやってきた。ベンチが開いていたので、そこに腰掛ける。そして、至福の口付けをかわそうとした瞬間、そいつらは現れた。
「ヘイ彼女。お茶しない?」
「君、これでどう?」
 腰に手を当て気障なポーズを取ったのと、両掌をかざして指を合計8本立てたのと。二人のサイボーグが、祥の目の前を覆っていた。
「だからー。『お茶しない』はヤメロっつったろ!」
「あー? 抹茶ソフト食ってるから、それにかけてみたんだよ。小粋なジョークだってば。てか、なんだよ八万って。さっきの二人組の倍かよ」
「適正だろ」
「なんでもかんでも、金でどうにかしようとするのやめろよな。貧乏なくせに」
 口論を始めたサイボーグを前にしてスッカリ怯えてしまった祥だったが、辛うじて震える声を搾り出した。
「あの…なんのご用でしょう?」
 それを聞いたサイボーグたちは、ぱったりと静かになった。
「うん。その…オレらといいことしない? …っていう趣旨の…その…なんていうか。なぁ?」
 と、ヤスはシゲに話を預けた。
「え、ああ。とりあえず、ご飯と映画と、ドライブと…そのどれかってことで、どうだろうね」
「は、はあ…」
 カチカチに緊張したままだが、祥は一応返事をした。その声に、サイボーグたちは歓喜した。
「おおっ! 二十一年生きてきて、初めてッ! 女の子と会話らしい会話、それもプライベートなヤツが成立したぁッ!! うおおおおおおおッ!!」
「そうだよな! 新歓祭のときのは、あくまで仕事上の会話だったもんな!」
 声を揃えて、万歳までするヤスとシゲ。今のが会話と呼べるかどうかは意見の分かれるところだろうが、確かなことは、今のをサイボーグたちが同意の返答と勘違いした、ということである。シゲは、祥の開いている方の手をとって無理矢理立ち上がらせようとした。
「いやっ。やめてください!」
 抵抗する祥。ヤスはさすがに気が引けたのか、おずおずとシゲに声をかけた。
「なあ、嫌がってるんじゃないのか」
 だが、シゲは得意げに言い放った。
「なーにいってんだよ。嫌よ嫌よも好きのうちって言うだろ。大丈夫だって」
「そっかぁ。さすがシゲ」
 大きく頷くと、ヤスも一緒になって祥の手を引っ張った。さすがに二人がかりではどうにもならず、祥はベンチから引き剥がされてしまう。そして、少女の口付けを受けるはずだった抹茶ソフトはコンクリートにキスすることになってしまった。
 気まずい沈黙が、場を支配した。
「…な、なぁに。アイスくらいすぐ買ってやるって」
 と、シゲ。だが、祥は怒気をはらんだ視線をぶつけて来た。
「嫌だって言ってるじゃないですか! 離してください!」
 だが、シゲにつかまれたままの腕は、到底振り解けるものではない。幾ら抵抗しても、一向に緩む気配はなかった。
 その時。大型バイク特有の暴力的なエンジン音が響き渡った。
 二度、三度。威嚇するように唸りを上げる。
 サイボーグたちは、ようやくそれが自分たちに向けられていることに気付いた。振り向くと、そこにはバカみたいに大きなイタリアンレッドのバイク。ヤスは記憶を掘り起こし、そいつがドゥカティという名である事を思い出した。そして、それを御すのは、身体に密着した革のパンツとキャミソールの上に白いジャケットを羽織った、…女である。
 女はバイクから降りると、鉄板入りの凶悪なデザインのブーツをカツカツとコンクリートに打ちつけ、サイボーグたちに歩み寄る。身長は百七十五センチほどだろうか、かなりの長身だ。それ以上にヤスとシゲの視線は、その素晴らしい胸の谷間に釘付けになってしまった。
(おおう…凄いなぁ)
 祥も、思わず嘆息してしまうほどだ。
 そして、女はヘルメットを脱いだ。開いている手で、前髪をかきあげる。緑の黒髪とでも言うのだろうか、艶やか髪はクセ一つなく指の隙間をサラリと流れていく。耳を隠す程度で揃えられた髪の先端は外に向かって軽やかなカーブを描き、美しく整った顔立ちを見事に引き立てている。状況が状況ゆえ、鋭い眼差しを向けてはいるが、平時は少々垂れ気味の目が親しみ易さを与えてくれるのだろう。一度見たら忘れないような美女ではあるが、祥は彼女に見覚えがあるような気がしてならなかった。
 呆けたように言葉を失っていたサイボーグたちだったが、気を取り直した。
「なんだ、アンタ。っていうか、ここは車両進入禁止だぞ」
 ヤスが詰め寄る。全身を鋼に包んだ男に凄まれても、女は動じるどころか更に鋭さを増す。
「何言ってんだ。その子がオマエらに連れてかれそうだっていうのに、バカみたいに駐輪場探してる場合か」
 ごもっとも。いつの間にか出来ていたギャラリーが頷く。
「だいたい、なんなんだオマエらは。そんななりして、二人がかりで女の子に暴力か? 
 …おい。さっさと離せよ」
 女はシゲを一瞥した。視線の鋭さに、ワイルドトークがさらに凄みを加える。その迫力に気おされシゲの手が緩んだ。祥は脱兎のように駆け出し、女の後ろに回った。
「ぼ、暴力じゃないよ」
 ヤスが食い下がる。
「なんていうの、その…ナンパしてたんだよ」
 一瞬、驚いたのか女の目が丸くなる。改めてサイボーグ二人を見て、鼻で笑った。
「ふ。ナンパねぇ…。それはそれとして、ナンパなんかしてどうするつもりだったんだ? そのガンダムみたいな股間で、できるのか?」
 ヤスとシゲは、顔を見合わせて、硬直した。
「できるのかって…」
「…そうだよ!? おいシゲ! ヤバいって、どうすりゃいいんだ一体よぉぉぉぉッ!!」
「お、落ち着けヤス! ブラーボのことだ。ロケットバズーカみたいなスッゴイのを仕込んでくれているに違いないッ!」
「そ、そうだよなシゲ。そうだよな!」
 気を取り直したサイボーグたちは、改めて女に向かい合った。
「そういうことだ。さあ、その子を返してもらおう」
 毅然と、言い放つシゲ。
「返せってさ」
 女が祥に振り向く。祥は、勢いよく首を左右に振った。
「だとさ。バカな男はお断りだってよ」
 女のブーツが唸りをあげた。股間を蹴り上げられ、シゲはもんどりうって転倒、コンクリートにのめり込んだ。
「く…。なんだ、この女…」
 呻くシゲ。立ち上がろうと身をよじる。その拍子に、彼の腰を覆っていたアーマーが砕け散った。
「なッ!?」
 これには、シゲだけでなくヤスも驚きの声を上げた。人間の蹴りで特殊合金製アーマーが破壊されたことも驚きに値するが、何よりも彼らに衝撃を与えたのは、シゲの股間には股関節しかなかったことである。
「な、なんてこと…」
 絶句するヤス。彼のボディもシゲと同型だ。つまり、体の構造は全く同じなのだ。
「お…おおおお…おお…」
 シゲが唸っている。いや、泣いているのだろう。だが、彼のボディには涙を流す機能は無い。力なく立ち上がると、シゲはヤスと肩を揃えトボトボと歩いて立ち去っていった。ギャラリーも、女は拍手喝さいだが男は同情するような眼差しをサイボーグたちへ向けるという微妙な風情のまま、散り散りになっていった。
「ありがとうございます!」 
 祥は深々と頭を下げた。女は礼を言われて照れているのか、そっぽを向いた。
「いや、なに。…なんでもないよ。君の方こそ、災難だったな」
 そう言うと、今度はまっすぐに祥の目をみる。祥は日本人女性にしては上背があるほうだが、頭一つ分違う相手なので見上げる形になってしまう。
「まあ、世の中の男が全部あんなじゃないから。その辺は勘違いしないどいてやってくれよな」
 女の言葉に祥は大きく頷いた。それを見ると、女は微笑を浮かべた。先ほどまでの鋭さとはうって変わり、太陽のように優しく温かく、少女のようなあどけなさも併せ持った笑顔だった。
「あ、そうだ」
 女は、ジャケットの内ポケットをまさぐると何かをとりだし、祥の掌に押し込んだ。
「あげるよ」
 手を広げると、そこには百円玉が二枚あった。
「あの…これは?」
 祥が当然の疑問を口にする。女は無言だったが、その視線の先にはコンクリートの上で残骸になってしまった抹茶ソフトがあった。
 ああ、と頷くと祥は言った。
「足りないですよ。20円」
 女は、目を丸くした。
「…また値上げしたのか、あの店!」

 真っ赤なバイクが街を外れへと向け走りぬける。進むにつれ家がだんだん少なくなる代わりに、緑に囲まれた小高い丘が見えてくる。樹の隙間からそこにあるお屋敷の屋根がのぞくと、女は自覚してはいなかったが自然と笑みを浮かべていた。
 丘を登り、屋敷の裏門をくぐる。そこにある鶴泉荘の前にクルマや自転車が停められているのを見て、女はヘルメットの下で頬を緩ませた。
 女はバイクをガレージに入れた。バイクの隣に鎮座しているアルファロメオのボンネットを優しく撫でてからシャッターを閉める。表に出ると、見知った顔が出迎えてくれた。
「お。ツナじゃないか。元気だったか?」
 腰を下ろして、足元にいた黒猫の頭を撫でてやる。ツナは嬉しそうに一声鳴いてから、女に身体を擦り付けながら一周し、それから庭へと消えていった。
「またねー」
 この猫に手を振っている女の後姿を、鶴泉荘から出てきた藤宮斐美花は驚きをもって迎えた。
「侑希姉ぇ!」
 女は振り向くと、
「よ、斐美花」
 と、気安く手を振った。女は立ち上がると、斐美花の頭を撫でる。撫でられた方は、頬を膨らませた。
「よ、じゃないよー。帰って来るなら連絡してよ。来ないんじゃないかって心配してたんだから」
「何言ってるの。この時期に私が帰らないわけないだろ」
 女がカラカラと笑うと、斐美花の背後、鶴泉荘から出てきたトウキが、その姿に気付いて顔を青くした。
「ゆ、侑希音さん…家賃は、今度払いますから…」
 今にも逃げ出しそうな風情のトウキを宥めるように、女、藤宮侑希音は微笑んだ。
「それは、蛍太郎君から聞いたよ。…別に獲って食ったりなんかしないから、そんな顔しなさんな。
 …それはそうと、二人揃ってどこかお出かけ?」
 侑希音が悪戯っぽく笑いながら訊くので、斐美花とトウキは変に意識して顔を赤くしてしまった。斐美花がしどろもどろになりながら辛うじて答えた。
「ほら、明日のことで…打ち合わせをしようかなって…」
「ああ、そうなんだ。中村君の部屋で?」
「ち、違うってば! これから家の方で!」
「へえ。他に誰か来てる?」
「綺子と悠ちゃんが…」
 侑希音は頷くと、斐美花とトウキの肩を叩いた。
「よしよし。それじゃあ、お姉ちゃんも参加するぞー。で、主賓はどこいったの?」
 

 
 明日、五月五日は藤宮璃音の十七回目の誕生日であり、一回目の結婚記念日である。
 妻の誕生日を結婚記念日にするというのは、いかにも蛍太郎らしい格好のつけ方だと身内では評判になったが、単に我慢の限界で一刻も早く初夜を迎えたかっただけなのではないかという説もある。
 それはさておき、今年からは一日で二つの記念日を同時に祝わなければならなくなった。そこで蛍太郎は、前日から二人で泊りがけでカウントダウンなんかして結婚記念日を祝い、五日に家に戻って家族や友人と誕生日を祝うというプランを立てた。
 それで今日、蛍太郎は璃音を連れて酉野高原の貸しバンガローに来ている。ここは十年前にファミリーでキャンプに来た思い出の場所だ。
 当時の蛍太郎は酉野の祖父・礼二の家で暮らしていた。その礼二が古くから親交のあった藤宮斐をキャンプに誘ったところ、夏休みで家に戻っていた娘たちが付いて来たというわけだ。彼女たちとは前から何度か顔をあわせていたし、親しくしていたのでこのイベントは非常に楽しいものになった。それで、璃音と急接近することになったのである。
 今にして思えば、祖父は蛍太郎が一番歳の近い侑希音と恋仲になるのを期待していたのだろう。だが帰るときには十一歳離れた璃音とべったりになっていたのだから不思議なものである。斐も二十五歳年下の妻を貰っていたためにあまり文句は言えなかったらしい。だが、もとから斐はお互いの孫と娘をくっつけようと思っていたし、蛍太郎の人柄と能力を考えれば、璃音の面倒を見られるのはこの男しかいないとすぐに思い直した。それから五年後に蛍太郎が結婚の話をすると斐は二つ返事で了承し、財産の生前分与にとりかかった。
 そして月日が流れ、璃音と蛍太郎が結婚式を挙げたときには礼二は既に亡く、斐も娘の花嫁衣裳を見てから半年後に大往生を遂げた。病苦の中で逝ったわけではないので別れは実に静かなもので娘たちの心に暗い影を残す事がなかったのは、いかにもサバサバした性格の彼らしい幕引きだった。
 蛍太郎は意識を過去から戻し、目の前に広がる景色に視線を向けた。
 バンガローのテラスは、ラベンダー畑のすぐ側である。まだ時期には早いので花を見る事は出来ないが、あの時は視界の端まで広がっているのでないかというほどに紫の絨毯が広がっていた。
 デッキチェアには、璃音が座っている。テーブルに置かれていたサンドウィッチを食べつくして幸せそうに眠っているその顔を、蛍太郎はスケッチブックに留めるべく鉛筆を走らせていた。すでに陽は随分と傾いていて、璃音の白いシャツワンピースを赤く染めていた。
「夏に、今度はあの時期に、また来てもいいかもな…」
 英春学院を卒業してストラスブールに戻ってからは夏は璃音を呼んでコモからサルディーニャ島へハシゴして途中に父の実家に寄るというのが定番コースだが、七月の何日かはここに篭るのも良いかも知れない。
 そんな風に考えをめぐらせていると、璃音はいつの間にか目をあけて、赤い瞳で蛍太郎の顔を覗き込んでいた。無自覚のうちの独り言が彼女を起してしまったのだ。
「ねえ、なに描いてるの?」
 璃音は目を輝かせて駆け寄るとスケッチブックを覗き込もうとする。蛍太郎は慌ててそれを閉じた。
「けちー」
 頬を膨らませた璃音の頭を撫でながら、蛍太郎が言う。
「だめ。完成してからじゃないとね」
「そればっかり。もう何年も経つのに、五枚くらいしか見せてくれてないよ」
 蛍太郎は璃音と付き合いだしてから、予め予定を立てて遊びに行く時にはスケッチブックを持ち歩くようになった。もう十年近く描き続けていることになる。
「うーん。ほら、人生まだまだ先は長いんだし、ゆっくり仕上げていけばいいと思うんだ」
 寡作の言い訳といわれればそれまでだが、それは蛍太郎の本心である。絵は写真とは違うのだし、こういう思い出を形にする作業は焦ってやったところで面白くもなんともない。
 たが璃音の言い分も判るので、蛍太郎は椅子の脇に置いてある鞄からカメラを引っ張り出した。
「こっちも持ってきてるけどね」
 それを見て璃音は手を叩いて喜ぶと、
「撮って撮ってー」
 と、ブイサインする。蛍太郎は苦笑しながらシャッターを切った。
「もうちょっと自然に出来ない?」
「…わたし、おすましは苦手だよ」
 今度は口を尖らせる璃音。またシャッター音がして、璃音は手を振り回して抗議した。
「ああっ、そんな顔撮っちゃダメ! 消してよー」
「無理だよ。デジカメじゃないんだから」
 実はデジカメも持ってきてあるが、それは言わないでおくことにした。
「それはそれとしてさ。璃音ちゃん、そろそろおすましも覚えないと。侑希音さんが来てくれたみたいだし、せっかくだから教えてもらいなよ」
 蛍太郎は自分より年下の侑希音を"さん"付けで呼ぶ。義理の姉だからという理由なら斐美花は"ちゃん"付けなので矛盾している。それも、侑希音の持つ雰囲気からなのだろう。それを踏まえて、璃音は言った。
「ひょっとして、けーちゃんって侑希姉ぇみたいな女王様タイプが好みなの?」
「女王様ってねぇ…」
 蛍太郎はタメ息を吐いた。すでにお姫様待遇じゃないか、とは言わないでおく。 
「そういうことじゃなくてね…。まあいいか。なんならモデルのバイトでもしてみれば?」
「なんでそうなるのー。ちんちくりんなわたしより、斐美お姉ちゃんの方が向いてるよ」
 改めて言われればその通りなので、蛍太郎は首を縦に振った。
「そりゃそうか」
 だが、それで即納得されると璃音も何処となく釈然としなかったりする。それを察して、蛍太郎は璃音の頭を撫でてやった。
「おすまし出来なくても躾がいいから、余計に可愛く見えるもんな」
「見えるだけ?」
「もちろん、元から可愛いよ」
「お父さんのお蔭だね。もちろん、けーちゃんもね」
 蛍太郎は頷く代わりに璃音を抱き寄せた。璃音は嬉々として頬をすり寄せると、夫の顔を見上げた。
「もう何時間かしたら、一周年なんだね」
「そうだね」
 何となくしんみりしてしまい、蛍太郎は璃音の背中に回した手に力を込めた。だが、続く璃音の言葉がそれを台無しにした。
「…けーちゃんさあ、よく我慢したよね。"あれ"」
 形容し難い脱力感に襲われ、蛍太郎は肩を落とした。
「なにをいいますか、君は…」
「さすがにずっと禁欲してたとは思わないけど、よく襲わなかったなぁと思って。ほら、わたしって五年生くらいからかなり育ってたじゃない」
「ああ…そうだったね」
 思いおこせば、璃音は小学校五年生くらいからは高校生といっても通じる身体をしていたのは確かだった。そんな風に、スケッチブックにも残している昔の姿を思い浮かべていると、
「ムラムラしなかった?」
 と、璃音が蛍太郎の目を覗き込んできた。
 蛍太郎はギョッとして、目を逸らした。
「そ、そんなわけないじゃないか」
「あやしいー」
 璃音が茶化すような口調で言うので、蛍太郎は少しムッとしてしまった。
「あのね」
 真顔で、言う。
「あのときは、璃音ちゃんはまだ子供だったんだから、そんなことできるわけないだろ。バレなきゃいいってもんじゃあないの。それだけ僕は真剣だったって事だよ」
 璃音はハッと表情を変え、大きな目を潤ませた。
「うん…わたしも。今でもそうだよ」
「僕もそうさ」
 きつく抱きしめてくれる夫に身を預け、璃音は呟いた。
「でも…『健やかに育ってくれないと後々楽しみが減る』とか言ってたって聞いたよ」
 蛍太郎の背筋が凍った。
「…誰から?」
「グッドスピード卿に」
「なんてこった…。それは照れ隠しっていうか言葉の綾っていうか…」
 そう言いながら恐る恐る璃音の顔を覗き込むと、意外にも彼女は笑顔だった。
「あの…」
 言葉に詰まってしまった蛍太郎に、璃音は悪戯っぽく微笑みかけた。
「大丈夫。わたし、その気持判るよ。なんていうのか…お布団の上で、けーちゃんを慌てさせた時とか、…楽しいもん」
 途中からだんだん顔に赤みが増して声が小さくなっていく璃音。蛍太郎は何を言ったらいいかわからず、
「そ、そう…」
 と頷くだけだった。すると璃音は顔を上げて、照れくさそうに笑った。 
「えへ…。この感じ、けーちゃんって可愛いな」
「やられた…」
 見事に手玉に取られていた事に気付き、蛍太郎はショックで俯いてしまった。だが、誰かが「健やかに育ってくれて良かったじゃないか」と笑った気がして、思わず吹きだしてしまった。
「どうしたの?」
 心配になって、璃音が蛍太郎の顔を覗き込むと、
「ああもう! 可愛いなチクショウ!」
 と、抱きしめられてそのままデッキに押し倒されてしまった。
「…これは、今からいたしたいということでしょうか?」
 確認するまでも無い事を、敢えて確認してみる璃音。返事代わりに、首筋にキスの雨が降り注いだ。
「こんなところじゃ見られちゃうよぉ」
 当然難色を示す璃音だったが、蛍太郎は事もなげに言った。
「貸切だよ。季節外れだったからね、楽々っす」
「そうなの?」
 驚く璃音。
「まわりの景色全部、プレゼント…って感じかな。花は咲いてないけどさ。それにさ、明日はパーティだから、今日のうちは璃音ちゃんを独り占めしたくって」
 そう言って、蛍太郎は照れくさそうに頭をかいた。が、
「じゃ、そういうことでー」
 と、今度は璃音のワンピースのボタンを外し始めた。
「えーっ、ぶちこわしだよーっ」
 璃音は頬を膨らませて抗議してみせるが、まんざらでもないので…。
 こうして結局、翌日へのカウントダウンをすっかり忘れてしまう二人だった。
 

#3 is over. 

 
モドル