#8
イングランドの首都ロンドン。その西部に広がる高級住宅街がチェルシーだ。
世界一裕福なサッカークラブチームの誕生でニュースを賑わしたこの街は、それ以前からフランス大使館がある世界一のフレンチタウンとして知られている。
ここチェルシーに、リチャード・ウィルヘルム=グッドスピード伯爵の邸宅がある。花に彩られたシックな街並みに相応しい瀟洒な建物で、領地にある本邸とは別に、忙しい客や友人たちを迎える為に作られたものだ。
八月の後半に差し掛かったころ、藤宮夫妻はここに滞在していた。
父の初盆を済ませた翌日、璃音は蛍太郎に伴われて機上の人になった。その目的は、昨年できなかった新婚旅行を兼ねて二週間ほどの日程で蛍太郎のゆかりの人々に結婚の報告をすること。巡回先となっている場所の殆どは璃音も子供の頃から何度か行っている所だが結婚後は初めてということで、それなりに新鮮であり緊張感もあり、という旅路となった。
まずは特務機関"フェデレーション"本部があるマサチューセッツの某所に飛び、そこで蛍太郎の両親、ロベルト・フィオーレと永森澪子に会った。蛍太郎が生まれたときに住んでいたストラスブールを皮切りに欧州各地を転々としていた彼らは、ここ数年はアメリカ東海岸に落ち着いている。
そこでは四日間過ごす予定だったのだが、急遽フロリダでのバカンスと洒落こむ事になってしまう。
と、いうのも先に帰っていた綺子はともかくとして、どういうわけか墳本陽がいたからだ。綺子から彼の話を聞いた澪子が航空券を送りつけたからだが、思いがけないことに璃音と蛍太郎は大いに驚いた。そういうわけでマサチューセッツの家は手狭になってしまい、遠出してホテルに泊まろうという話になったのである。
こうして、永森ファミリーと、将来ファミリーに加わるかもしれない少年は東海岸から熱帯の海へ。璃音は時差ボケなど吹き飛ぶくらい楽しんだが、家で休むはずが全力で遊びまわることになったことで、三十路へのカウントダウンが始まっている蛍太郎にとっては以後の体力配分に大幅な影響を残してしまうことになった。
蛍太郎と璃音はフロリダに三日滞在し、そこに一週間ほど残るという家族と別れて次の目的地であるイタリア南部のカンパーニャの州都、ナポリへ向かった。近郊の町で農家をしている、蛍太郎の祖父ファブリツィオ・フィオーレと祖母のエリザベッタ・カステラッツィ・フィオーレを訪ねるためだ。
璃音が子供の頃、蛍太郎に連れられて何度かここに来たが、そのたびに彼の祖父母は遠い日本の女の子に対しても深い愛情を示してくれた。それは今になっても変わらず、ファブリツィオとエリザベッタはご馳走で孫夫婦を迎え、璃音には自分たちを祖父母と呼ぶようにと言った。そんな彼らに、璃音は毎年トマトの缶詰を送ってくれるお礼にと、予め送っていた味噌や煮干で和食を振舞った。新しい祖父母はそれを大いに喜んでくれて、結局璃音は滞在期間中ずっと祖母と一緒に台所に立っていた。
そんなことがあって、ここにいるのは特別に楽しかったが四日間で南イタリアの太陽と海に別れを告げることになった。
璃音はあらゆる食べ物が無闇に美味しいこの場所を昔から好きだったし、今回は自分が作った料理で祖父母に喜んでもらえたので非常に名残惜しがったが、仕方無い。そうそう何度もこちらに来られるわけでも無いから残りの訪問予定をキャンセルすることはできないし、最後に控えているグッドスピード邸にだけは遅れるワケにはいかなかったからだ。
二人は飛行機でイタリア半島を北上し、アルプスの麓トリノへ。
ここは、蛍太郎が少年時代と成人してからの何年かを過ごした場所であり、さらに彼の父ロベルトが学生生活を送った街である。
二日間の滞在で、蛍太郎は駆け足ながら父と自分の友人たちのところに顔を出した。このころには顔に疲れが見え始めていた夫に代わり、璃音が妻として愛想を振りまいた。
それからレンタカーで国境を越え、フランスのシリコンバレーと呼ばれているグルノーブルへ。ストラスブールに住んでいた頃の幼馴染みがここで会社を経営しているので、顔を出して経営と技術についての話に花を咲かせた。
よほど話が楽しかったのか、会社のカフェテラスで待っていた璃音が次に夫の顔を見たのは実に五時間後。それから元来たとおりにトリノへ戻るのだが、夜道を運転することになってしまった蛍太郎が予想外の疲労を溜めこむことになったことは言うまでも無い。ただし、これは喋りすぎた彼自身のせいなので文句は言えない。
そして翌日、朝一番の便でロンドンへ飛んだ。
「僕さ…こういう移動ばっかりの旅番組、見たことあるよ…」
グッドスピード邸の門の前に立って、うつむき加減の蛍太郎は呟いた。元々過密な日程ではあったが、予想外のフロリダ行きによって体力を削り取られたことが大きく影響していたのであった。
1−
天幕がついたベッドなんて物は、それなりに裕福な暮らしをしてきた璃音でも、グッドスピード邸でしかお目にかかれない。
カーテンの隙間から漏れる陽光で目を覚ました璃音は、自分が寝ているベッドと、次いで部屋を見渡した。
さすがは貴族の邸宅。客間の内装もかなりのもので、ベッドだけではなくテーブルや椅子などの調度品も日本で買えば幾らするのか想像したくもないような代物ばかりだ。しかも、それを応接間に飾っておくのではなく客を寝泊りさせる部屋で普通に使っている辺りに本物の貴族のパワーを感じさせる。藤宮家も地方ながら古い家柄であるので日本の特定富裕層との付き合いが無いわけではなく、璃音も父に連れられて旧華族のお屋敷に何度か入ったことはあるが、それとはスケールがまるで違う。さすがは王室に縁のある街の住人であると言うべきだろう。
璃音が身を起こすと、絹のシーツが、それに負けないくらい白く柔らかい肌を滑り落ちる。窓側の壁に目をやると、アンティーク調なのか本当に年季が入っているのかはよく判らないが、古風な柱時計が八時をさしていた。
「けーちゃん、起きて」
隣で寝ている夫の肩を揺する。何度目かで、蛍太郎は辛そうに目を開けた。それからゆっくりと朝の挨拶をした。
「璃音ちゃん、おはよう」
今回の旅行で色々な言葉を話した蛍太郎だが、璃音と二人っきりのときは、ましてベッドの上ではもちろん日本語である。
「午前中は伯爵とチェスをするんでしょ。ビシッとしていかないと」
璃音にそう言われて、蛍太郎はパチっと目を開けた。確かにグッドスピード卿とそういう約束をしているし、朝食は九時からになっているから、それに間に合うように支度しなければいけない。伯爵は太平楽を絵に描いたような御仁だから時間にうるさいわけではないが、だからといって無礼を働いてもいいというものではない。昨日は早く床につかせてくれただけに、きっちりお付き合いしなければならない。
もっとも、早く部屋に引っ込ませたのは良かったのか悪かったのか微妙なところではある。身を起こした蛍太郎は、シーツの下の自分は勿論、となりにいる妻も裸であることに気付いた。いや、思い出したというべきか。蛍太郎は額を押さえながらタメ息をついた。
「うわ…。あれからどうなったのか、すっかり記憶が飛んでたよ…」
確認するまでも無く、二人の体の下では何らかの大きな生物がのたくったように絹のシーツがうねっていた。
璃音は布のうねを均すように蛍太郎に擦り寄り、その肩に頭を預けた。見た目によらず厚い夫の胸に指を這わせ、璃音は悪戯っぽく笑った。
「覚えてない? 昨夜、凄かったのに…」
そう言ってからチラリと見上げると、蛍太郎は顔を真っ赤にしながら目を丸くしていた。
「そんなに?」
「凄いっていうか、むしろケモノ?」
そんな風に言葉にしてみると、色々と思い出してしまい璃音は身体が火照ってくるのを感じた。湯を沸かすようにテンションが上がってきた璃音とは対照的に、蛍太郎はガクっと肩を落としている。
「日焼け跡で…つい…興奮して。それにほら、生命の危機に瀕した動物は種族保存の本能が刺激されるんだよ…」
そう言われて璃音は改めて自分の身体を見る。それなりに対策はしたのだが、赤道に程近い熱帯地域の日差しにより肌には水着の跡が薄っすらと残っていて、自分で見ても倒錯的なエロスを感じてしまう。これを見た蛍太郎が燃え上がってしまうのも当然だ。そのうえ、思わぬ強行日程による疲労に加え、一番の緊張を強いるグッドスピード卿へのご機嫌伺いが済んだことで緊張の糸が切れてしまっていたのだ。結果、かなり強引に璃音を求めてしまったのである
逆に璃音は、そのケモノじみた求め方がツボに入ったのだが、今の蛍太郎の様子を見ると、それは彼の意によるものではなかった事は明白だ。つまり、昨夜の調子を今後も期待するのは困難ということだ。
「残念…」
蛍太郎はガッカリしている璃音の頭を撫でた。
「でもお蔭でぐっすり眠れたし、なんだか元気を分けてもらった気がするよ」
すると璃音は、
「ほんと? 嬉しいな」
と、蛍太郎の腰を覆っているシーツに手を入れた。
「あ。元気だ」
璃音がそれを握って舌なめずりすると、蛍太郎は声を上ずらせてしまう。
「そっ、そりゃまあ、朝だから…」
もしくは、生命の危機とやらが継続しているからか。それはさておき、蛍太郎は最後の抵抗を試みる。
「あの、璃音ちゃん。そろそろ時間が…」
だが、璃音は蛍太郎の瞳を真っ直ぐに見上げて覗き込み、いつもの向日葵のような笑顔で言った。
「二十分で済ませば大丈夫だよ。おねがい」
「どうだろう、それは…」
そんな言葉とは裏腹に、璃音の笑顔に中てられて抵抗する気が失せてしまった自分に気付く蛍太郎だった。
「わたしもがんばるから、ね」
そう言って微笑むと、璃音は蛍太郎に身体を預け、唇を重ねた。
朝食後、グッドスピード卿に呼ばれた蛍太郎が覚束ない足取りで庭に行くと、璃音は一人で部屋に残された。対局は午前中という予定だが、ほぼ確実に暗くなるまでは続く。そういうわけで、蛍太郎は夜になってから食事に行こうと約束してくれた。このあたりだと、フランス料理店かオイスターバーといったところか。
本来、グルノーブルからは顔出し程度で戻るはずだったが、話しこみすぎたせいで後に予定していたトリノの街での買い物がすっかりお流れになってしまっている。その埋め合わせを今晩にしようということだ。大人しくして不平を言わなかった甲斐があったと璃音は喜んだが、それまでは暇をもてあますことになった。
璃音は真新しいシーツの上に転がって、旅行ガイドと地図を広げた。とりあえず地下鉄に乗りさえすればここに戻って来られるから、明るいうちに一人で市内観光をしようというのだ。
そももそ、璃音の身体はディヴァインパワーを使えるように出来ているわけだから、体力のレベルが人並み外れている。何かある度に倒れているのはそれだけパワーによる負担が大きいからで、日常生活程度のことならむしろ力が余るくらいである。そういうわけなので、久しぶりのロンドン市内観光に向けて何の不安要素も無い。気分の高まるままに、頭の中で様々なルートを組み立てシミュレーションをしていたが、黙って観光バスに乗っていればいい事に気付き、意気消沈しかけたところでドアがノックされた。
「はーい」
内容はどうあれ考え事をしていた途中だったので、うっかり日本語で応えてしまったが、ドアはちゃんと開いた。
見ると、そこにはメイドが居る。さすがは本場の本職、日本人が泊まるということだから、多少の日本語は事前に覚えていたのだろう。衣装は白いブラウスに黒い膝丈のタイトスカート、ブラウンのストッキング、そしてショートエプロンと簡素で動きやすい物だが、それでいて屋敷の華やぎに水を差さないのは隙の無い所作によるものだろう。
メイドは音をたてず、それでいて素早くドアをくぐり、抱えていた大きな箱を丁寧に璃音に差し出した。
「旦那様からのプレゼントです。今日はこちらをお召しになってください」
メイドは玉を転がすような声でクイーンズイングリッシュを披露した。璃音はベッドから降りて、それを受け取る。そして、流暢な英語で答える。
「ありがとうございます。開けてみてもよろしいですか?」
璃音にとって英語は第二外国語だが、小学生の頃から蛍太郎に連れられて米国とロンドンに何度も滞在しており、日本にいるときも忘れないように努力しているお蔭で日常生活には支障のない程に話すことが出来る。と、彼女自身はそんなレベルだと思っていたのだが、昨日には、もう少しまとまった期間滞在すれば英語圏の大学でも充分通えるようになるとグッドスピード卿の太鼓判を貰った。曰く、
「そこいらの若造どもより、よっぽど綺麗な英語を喋る」
…のだそうだ。
ちゃんとした英語が返ってきて安心したのか、メイドは頬を緩めた。
「ええ、是非。サイズが合わないようでしたら、別のをご用意いたしますので」
大きなリボンを解いて箱を開けると、中に入っていたのは黒いワンピースだった。さらに同じ色で一揃いになった下着と靴まで入っている。勧められるままに身につける。それなりに値の張る品らしく肌触りが良く、特にストッキングにそれが顕著に感じられる。夏といってもこの街は曇りがちで気温がさほど高いわけではないので、フロリダとイタリアをハシゴしてきた璃音にとってはありがたい。
肝心のワンピースは黒い生成りで、袖口と大きく開いた胸元に白いフリルをあしらっている。それ以外には装飾のない落ち着いたデザインだが、短いスカート丈のお蔭で野暮ったい感じはしない。昨日からまるっきり日本にいる時そのままの普段着だったから、ようやく屋敷に相応しい格好になったといったというところだろう。いつもならそれなりの服を自分で用意して来るのだが、今年は移動が多いということでグッドスピード卿が気を回してくれたのである。
璃音は鏡の前でクルリと廻って喜んだ。
「可愛いです。ありがとうございます」
「よくお似合いですよ。きつい所はございませんか?」
璃音は、屋敷に着いて間もなく執事がメジャーであちこち測っていった事を思い出した。それから日が暮れる前に手配したということだろう。ワンピースだけでなく下着も、文字通り彼女の体にぴったりとフィットしていた。
「大丈夫です。ぴったり」
それを聞いて、メイドは微笑んだ。
「それはよろしゅうございました。それでは、これで。お礼は私にではなく旦那様へなさってくださいな」
一礼してメイドが辞すと、璃音は新しい服を触ったり鏡に映したりしてひとしきり楽しんでから、上機嫌で部屋を出た。出かける前に少し歩いて靴に慣れようというわけだ。素敵な贈り物のお蔭で足取りも軽く、勝手知ったる他人の家を悠々と歩く。子供の頃から何度か訪れているので、だいたいのことは頭に入っているのだ。
やたらと天井の高い廊下を抜けて庭に出る。大都会の真ん中だけあって広大な庭園とはいかないが、よく手入れされた庭木がこじんまりと綺麗にまとまっている。芝が綺麗に刈り込まれた道を真っ直ぐ植え込みの向こうに行くと、薔薇に囲まれた小さなテラスがある。そこで一休みしようとした璃音だったが、すでに先客が居た。一組の母子である。
母親はメアリー・ウィルヘルム=グッドスピード。伯爵の娘で三十二歳になる。子供のスティーヴンは先月、十一歳の誕生日を迎えたそうだ。二人がこの屋敷で暮らすようになったのは昨年からなので、璃音とは今回が初対面だ。
彼女たちの邪魔をしないようにこっそり引き返そうとした璃音だったが、逆にメアリーに呼び止められた。
「ねえ、璃音さん」
立ち上がったメアリーは生まれと育ちが反映された品のある顔立ちにメガネをかけ、白いブラウスにサブリナパンツという出で立ちはいかにも颯爽としている。
「こんにちわ」
璃音が挨拶を返すと、スティーヴンと目が合う。だがチラリと見ただけですぐに顔を逸らされてしまった。昨夜に初めて会ってから、ずっとこの調子である。
(人見知りするのかな。…もしかして、嫌われてる?)
彼の様子は気になるが、とりあえず母親の方に言葉をかけることにした。将を射んと欲すれば、である。
「お勉強みてらっしゃるのですか?」
テーブルの上に本とノートが広がっているので見たままに言ってみると、メアリーが頷いた。
「そう。もうすぐ学校が始まるからね。ここのフレンチスクールに行ってるのよ」
そう言われて璃音は思い出したが、チェルシーにフレンチスクールがあるという話は有名らしく、それに子供を入れるためにあのマドンナが移住しているとか、なんとか。だが、八十七年生まれの彼女には比較的どうでもいい話ではある。そんなことが頭をよぎっているうちに、メアリーが言葉を続けた。
「あなた、幾つ?」
「十七ですけど」
「良かった。もっと若いかと思ってた…。日本の人って、歳判らないよね」
璃音は、
「その日本人にも中学生呼ばわりされることがよくあるんですけど」
と、言いかけたがやめた。童顔が原因でも若く見られて悪い気はしない。何か言おうと口を開く前に、メアリーが璃音の側に寄って来て、手を握った。
「あのね。この子のことお願いしても良いかしら。これから仕事なの」
メアリーは脳外科医だと聞いている。忙しい身なのだろう。
「でも、フランス語は判らないんですけど…」
協力はしたいが、テーブルにおいてある本を一行たりとも読めないのだから仕方が無い。璃音は頭を垂れたが、メアリーは笑って首を振った。
「そうじゃないの。学校の教科書を買いにいかなきゃ行けないんだけど、執事もメイドも手が離せないっていうから…」
来客があるのだから、それも仕方あるまい。…来客というのは璃音たちのことだが。
「ああ…事前に父さんから聞いておかなかった私が悪いんだけど」
つまりは子供を一人で外へ行かせることは出来ないから付き添いをつけようというわけである。璃音は出かけようと思っていたところだったから、丁度良いといえば丁度良い。
「そういうことなら、いいですよ」
璃音が頷くと、メアリーは握っていた手に力を込めた。
「ありがとう、助かるわ」
それからメアリーは慌しくテーブルを離れた。足早に歩き出すが、何か思い出したのか戻って植え込みの影から顔を出す。
「お兄さんには、伝言頼んでおくから。じゃあ」
そう言って、メアリーは屋敷の中に駆け込んでいった。璃音は彼女が去って行った方向に目を向けたまま、しばらく首を傾げていた。
(お兄さんって、誰だろう…)
戦線は膠着していた。
リビングの真ん中、めっきり寂しくなったチェス盤で対峙する白と黒の駒は、ほぼ同数。しばらく前からこの調子である。
蛍太郎は顎に手を当てたまま考え込んでいた。向かいに座っているグッドスピード卿も同様。結果云々は終わってしまえばどうでもいいことなのだが、どちらも目先の勝負にはこだわる性質なので対局はなかなか進まない。
そうこうするうちにドアがノックされ、執事の低い声が聞こえた。
「旦那様。昼食をお持ちしました」
それで二人とも我に返る。少し間をおいて、カッチリとタキシードを着込んだ初老の男が部屋に入ってきて、テーブルに二人分のサンドイッチとティーセットを並べ始めた。
「それから、蛍太郎様。お嬢様より伝言を承っております」
蛍太郎は思わず首をかしげた。お嬢様ことメアリーとは昨日会ったばかりで、大した会話もしていないからである。
メアリー・グッドスピードはカレッジにいた頃に色々あって、傭兵をしていた男に一目惚れしたらしい。父親の反対を押し切り家を飛び出して二十歳で結婚、すぐに息子のスティーヴンを儲けた。だが、両者の生活環境の違いから三年後に離婚。それからメアリーはフランスの大学に入りなおして脳外科医となり、夫から幾分かの養育費を貰いながらも一人で息子を育てた。
そういう経緯から娘とはまさに喧嘩別れ状態だった伯爵だったが、孫の成長とともに過去はどうでもよくなったらしく、このチェルシーの邸宅に二人を呼び寄せることにしたのだ。メアリーたちがここに来たのは昨年の夏だが、そのとき蛍太郎は父を亡くした璃音の傍にいてロンドンには来なかったので、彼女たちとは今回が初対面である。
それはさておき、蛍太郎は黙って執事の言葉に耳を傾けた。
「お嬢様のお願いで、璃音様がスティーヴン坊ちゃまのお買い物に付き添われることになったそうです。その旨、よろしくお伝えくださいと」
「ありがとう。璃音ちゃんに任せておけば問題は無いと思うけど…そういうことなら、僕もついていったんだけどなぁ」
蛍太郎が残念そうに口を尖らせると、グッドスピード卿が笑う。
「まあ、今日くらいはワシにつきあうんじゃな」
そう言われると、蛍太郎も返す言葉も無い。執事が少し間をおいてから、オフレコでと断りを入れてから言った。
「実は、お買い物は今日でなくても良かったのです。お嬢様が気を回されたようですね」
すると、屋敷の主は首を捻った。
「気を回す? 何にじゃ。わざわざ客をつき合わすこともないだろうに」
機嫌が斜めになりかけた主人をなだめるように、執事は続けた。
「坊ちゃまも、そろそろお年頃ですからね。普段は人見知りしない方なのに、あのご様子ですから、お嬢様には何か感じるところがあったのでしょう」
これで今回の"お遣い"の意図が、ここにいる全員に共通して認識された。すると当然、蛍太郎が疑問の声を上げる。
「…あのー」
それを引き受けて、執事は頷いた。
「お嬢様は最後にこう仰ってました。『彼女のお兄さんによろしく』と。…思い返せば、誰も蛍太郎様と璃音様の関係をご説明申し上げておりませんでしたから…」
(気まずい…)
璃音は思わず空を仰ぐ。夏だというのに、厚い雲が街の上にぴったりと蓋をしていた。
スティーブンが持っていた地図を頼りに地下鉄と徒歩での移動となったが、その間、彼は一言も口を利かなかった。話しかけてもそっぽを向くばかり。黙って璃音の後をついて来るばかりだった。
本屋に着くと、スティーブンが自分でカウンターの店員にメモを見せた。昨年も同じ事をしたのだろう、慣れたものだ。ほどなく何冊かの本を手渡され、金を払う。璃音が後ろで見ている間に、買い物は終わってしまった。
それから、一休みしようと近場のカフェテラスに入ったのだが、向かいに座っている少年は相変わらず何も言わず目も合わせず、ミルクティを啜っていた。
璃音は灰色の雲を何秒か見つめてから、半分になった自分のコーヒーに視線を落とす。それから、複雑な顔で視線を逸らしているスティーヴンを改めて観察した。彼の母親は金髪碧眼だが、対照的に黒髪に黒い瞳、そして肌も浅黒いをしている。外で遊んでいるからというわけでもなく、元々色黒なのだろう。そういうことなら、彼の父親はアングロサクソン人ではないということになる。鼻筋と眉根がはっきりと通った顔立ちには母親の面影が強いが、歳の割には肩や胸元に厚みがある。背は伸び盛りを前にして既に璃音より頭ひとつと半分ほど上だから、将来はなかなかの偉丈夫になりそうだ。
長いこと目の前の少年を眺めていた璃音だったが、不意に視線がぶつかる。スティーヴンがちらりと璃音に目を向けたのだ。だがすぐにスティーヴンは慌てて目を逸らし、俯いた。
「どうしたの? どこか具合悪い?」
璃音が覗き込むようにして訊くと、スティーヴンは首を振った。それでも無言のままなので、璃音は重ねて訊いた。
「…わたし、なんかした?」
と、いっても璃音には何も心当たりは無い。それが顔に出て悲しげな表情になっていた。
「な、なにもしてないよっ」
スティーヴンは思わず大きな声を出してしまった。ここへきてようやく、彼は自分の態度が相手にどういう印象を与えていたか気付いたが、だからといって今さら素直になれそうも無い。は、不思議な目をした年上の女の子にいっぺんで参ってしまっていたのである。それを本人相手に言えるわけもない。
「じゃあさじゃあさ、なんで黙ってるの?」
璃音が身を乗り出してくる。重力で服の胸元が開いているが当人は気付いていない。スティーヴンは慌てて目を逸らしかけ、しかし目を逸らすと璃音の機嫌を損ねると思い、視線を上げて彼女の顔に向けた。だがそれはそれで、少年の心拍数を跳ね上げるものである。
しばらく沈黙が続いたが、スティーヴンは根を上げて、とりあえず謝った。
「えーと、ごめんなさい」
「なんで謝るの…?」
璃音は釈然としなかったが、あまり追求するのもどうかと思ったので折れることにした。
「まあ、いいか。じゃあ、帰りは手をつないで行こうね」
ニコニコと笑いながら、璃音は言う。スティーヴンは顔を真っ赤にしてしまった。嬉しいことは嬉しいが、同時に酷く照れくさい。それで何も言えないでいると、璃音が口を尖らせた。
「いやなの?」
「そんなこと、ないよ」
スティーヴンは慌てて首を振った。すると、璃音は笑顔に戻って手を叩く。
「ほんと? じゃあ、わたしのこと"お姉ちゃん"って呼んでね」
完全に子ども扱いされているのは気に食わないが、とりあえず二人の関係に前進が見られただけで良しとしようと、スティーヴンは納得することにした。これでどうやら普通に会話は出来そうだから、実に大きな進歩である。スティーヴンは親愛の情を込めて、言った。
「僕は、スティーヴィーでいいよ」
「うんうん。なんか、弟ができたみたい」
璃音は嬉しくて、何度も頷いた。それからチラリと時計を見て言う。
「じゃあさ、スティーヴィー。お昼なに食べようか?」
「考えてなかったの?」
「うん。地元の子に訊いた方がいいかなぁと思って」
「地元っていったって…」
スティーヴィーは璃音の前にあるケーキ皿が空になっているのに気付き少し驚いたが、今は確かに昼食の時間ではあるから不自然とは思わなかった。
「そうだなぁ。ファーストフードくらいしかないんじゃない?」
そもそも子供が一人で街を出歩くことなど有り得ないので、ロンドンに来て一年経ってもスティーヴィには土地勘らしいものはほとんどない。ファーストフード以外で表通りの判りやすいところに看板がある店といえばちゃんとしたレストランくらいだろうが、そこに入るような時間でもない。
「えー。わたし、お腹すいたから、そんなのじゃ足りなーい」
璃音が子供じみた顔で反論する。年上の女の子が新しく見せた一面にドキドキしながら、スティーブンは答えた。
「だったら、家に帰って食べた方がいいと思うよ。…お姉ちゃん」
そう言われて昨夜のディナーの味を思い出した璃音は、大きく頷いた。
「うん、そうだね」
そういうわけで、会計を済ませると真っ直ぐ帰宅することになってしまった。スティーヴンは残念に思ったが、家に帰ってからでも理由をつければ一緒にいられるので、それで良しとする事にした。
店を出ると、目の前で二人の女の子が手を振っていた。璃音は相手に全く見覚えが無いのでスティーヴンの顔を見たが、彼も同様に璃音の顔を覗き込んで来た。こちらにも覚えがないのだ。
璃音は改めて二人を見た。
一方は中肉中背といったところだが、もうひとりは百九十センチはありそうな長身だ。体躯は極端に違うが服装は同傾向で、どちらもたくさんフリルが着いたロリータ風のスカートとボレロを身に着けていた。色は大きい方が紫基調で、小さい方はオレンジ。それが、どちらも笑顔でいかにも親しげに手を振ってきている。これがどういうことかというと、ここはそれなりに人通りが多いので、悪い意味で目立つ。璃音は他人のフリをして通り過ぎようとしたが、大きい方にガッチリと肩を掴まれてしまった。
「藤宮さーん。無視しないで下さいよー」
当然、璃音は不審者向けの対応であたる。
「わたし、あなた方なんて知りません。人違いじゃないですか?」
すると、小さい方が大げさに首を振る。
「そんなー。かつて共に戦った仲じゃないですかー」
何やら不穏な言葉が出てくるので、璃音はますます警戒を強めた。すると、二人は目を合わせて頷き、
「これなら、どうですか?」
と、掌で自分の顔の上半分を隠してみせた。それをしばらく睨むように見た璃音は、はたと手を叩いた。口元だけしか見せない格好をした人間ふたり、確かに過去に出会ったというか、見たことがある。
「あーっ。ローブの魔術師さん?」
璃音の言葉に、大きい方のサリーと、小さい方のレイジーは歓声を上げた。
「そうそう、そうなの!」
「よかったー。判ってもらえて」
小躍りして喜ぶ魔術師たちだったが、それに水をさすように璃音が呟いた。「…一緒に戦った覚えなんか無いよ」
本当のことをズバリと言われて、すっかり意気消沈したサリーとレイジーは声を揃えた。
「…そうだけどさ。こっちも色々ありまして」
すると、その"色々"が姿を現した。
「イエェーイッ!」
路地の角から奇声と共に駆け寄る巨体。その大きさは主にビール腹が構成しているものだが、とにかく大きな男が顔に笑みを貼り付けてやって来た。
「ようベイビー! マージーサイドの大魔術師、ジョージ・マックスウェル様だぜ!」
やたらと並びの良い歯を輝かせた赤ら顔の男は、鮮やかなブルーのシャツを着ている。その柔軟性のある素材が腹を際立たせており、その外観からどこかのフットボールクラブのユニフォームであることは判る。だが、あいにく璃音にはどこのものなのかは判らなかった。
マックスウェルは腹を突き出してサタデーナイトフィーバーのジョン・トラボルタを真似たポーズをとり、それから天に突き立てていた指を勢い良く振り下ろして、ビシッと璃音の鼻先に向けた。
「ヘイ。オレと一緒に来てくれないか、ベイビー」
璃音はあまりのことに、大きな目をパチパチさせて硬直してしまっていたが、数秒で思考を取り戻し、叫んだ。
「逃げよう!」
そしてスティーヴンの手を取り、回れ右をして脱兎の如く駆け出した。引っ張られるままのスティーヴンは、璃音の意外な足の速さに驚きながらも訊かずにはいられなかった。
「お姉ちゃん、あんなのと知り合いなの?」
璃音は目一杯首を振りながら、泣きそうな声で喚いた。
「知り合いじゃない! あっちが一方的に絡んでくるだけだよー!」
あれよあれよと小さくなっていくターゲットの後姿に、マックスウェルは拳を振り上げ怒鳴る。
「ええい、クソ! 逃げるとはどういうことだッ。こうなりゃ実力行使ッ!」
首に提げていたイデアクリスタルをやおら掴み、魔力を集中させようと眦を吊り上げた、その時。
「バカーッ!」
「行使すんな!」
サリー&レイジーのダブルクローズラインがマックスウェルの喉元へ強かに打ち付けられた。巨漢はサリーの肘を軸に逆上がりの要領で四分の三回転し、後頭部から路面に突き刺さるように落下した。マックスウェルは首と喉を押さえて瀕死のゴキブリのようにモソモソとのたうつ。
「な、ぜ…」
すると、サリーは得意げに答えた。
「喉を潰しとけば、そのビール臭くて煩い口が塞がるじゃないですかー」
それを聞いて、マックスウェルは観念したように動きを止めた。
「おまえら、オレのことそんな風に…信じてたのに…」
レイジーは慌てて目を逸らした。
「滅相も無い。私はそんなこと…」
サリーが叫ぶ。
「あっ、ずるーい! いっつも率先してデブだのキモイだの触りたくないだの言ってんのはアンタでしょうが!」
「ああもう、職場環境を円滑に保つには外面とガス抜きのバランスが必要なんだってば! …なんてね。もういいわ。だって、藤宮さんに逃げられちゃったじゃない。残念ながら任務は失敗。もはや円滑もヘッタクレも無いっての」
レイジーが肩をすくめる。周囲にいるのは帰りかけの野次馬だけである。サリーも項垂れた。
「残念ね…。一緒に居た男の子、可愛かったのになぁ」
「そっちかい。まあ、そこで潰れてる奇妙な生き物と比べれば雲泥の差ね。同じ人間だとは思えないわ」
女子二人は大きくタメ息をついて、そのまま重い足取りでいずこかへ去っていった。
そこには、潰れて動きを止めた不思議生物だけが残された。
璃音とスティーヴンが屋敷に戻ると、執事が待っていた。
「おかえりなさいませ、おふたりとも。昼食になさいますか?」
食事に関しては見事に見透かされていたようだが、さすがに魔術師に襲われたことまでは想像できないだろう。璃音がそう思っていると、執事は懐から封筒を一通取り出して、言った。
「璃音さまにお手紙が届いております。差出人は…不明。何やら、妙なことに巻き込まれておいでのようで。坊ちゃまが息を切らせてらっしゃるところをみると、さっそく…ですかな?」
それで初めて、璃音はスティーヴンの様子に気付いた。膝に手をついて方を上下させていたが、お姉ちゃんの視線に気付き、慌てて背筋を伸ばす。それを見て、璃音は無茶をしてしまったことを思い知り、スティーヴンの背中をさすりながら謝った。
「えっと、ごめんなさい。地下鉄に乗ったら捕まると思って…」
「平気さ…僕、学年で一番、足速い、からさ…」
息は苦しいが背中をさすってもらえるのは嬉しいという奇妙な感覚に挟まれながら、スティーヴンは呻いた。すると、執事が大きく頷く。
「はい。坊ちゃまの名誉のために申し上げますと、その言葉に偽りはございません。上には上がいるといってしまえばそれまでですが、坊ちゃまの頑張りは大いに評価して差し上げてください」
確かに襲われた場所からここまででは、ちょっとした長距離走である。パワーで下駄を履いている璃音はともかくとして、彼は普通の人間だ。
「そうだね。えらいえらい」
璃音はスティーヴンの頭を撫でた。少年はすっかり照れてしまい、顔を真っ赤にして俯いた。
しばしそれを見ていた執事は、咳払い一つしてから改めて封筒を璃音に手渡した。
「あ。ありがとうございます」
さっそく中を検める。出てきたのは便箋が一枚、『今夜十一時、ロンドン塔に参られよ。ヘカテが待つ』と、だけあった。
「ヘカテ?」
璃音は目を丸くした。侑希音の口からは聞いたことがある名前だが、自分に関わりがあるとは思ってもいなかった。いずれにせよ、真っ当な筋からの呼び出しではないことだけは確かだ。
「これは、旦那様とご主人をお呼びした方が良さそうですね。対局中ですが…なぁに、文句は言わせません」
そう言って執事が踵を返すと、今度はスティーヴンが目を丸くした。
「え…!? ご主人って…」
2−
ロンドンのイーストエンド、テムズ川のほとりにそびえる世界遺産がロンドン塔だ。観光地でありながら現在も王宮として使われているという、日本人の感覚では実に不思議な建物である。
璃音は暗がりに紛れて辺りを窺った。彼女の瞳は暗視能力を備えているので明かりがなくても充分に周囲を見ることが出来る。
(呼び出しといて、誰もいないってこと無いだろうね…)
件の封筒には切手も消印がなかったから、直接グッドスピード邸の郵便受けに放り込まれたものと考えられる。当然だが昨日にはこんな物など無かったので、文中の"今夜"はまさに今であるとするのが自然だ。だが今のところ、普通の人間が歩きそうなところには、それらしい人影は見られなかった。
もっとも、相手は魔術師で確定と思われるので、どこから出てくるのか判ったものではない。念のため塔の方に視線を向けてみるが、そうすると今度は余計なモノが見えやしないかと気が気ではなくなってしまう。ここはかつて牢獄でもあり処刑場でもあったので、もしかしたら幽霊になった歴史上の人物とめぐり合ってしまうかもしれないからだ。確か、今でも反逆罪に問われて処刑された王妃の亡霊が今でも現れるという話を聞いたことがある。もし彼女と話が出来たらそれはそれで面白いかもしれないが、歴史家の研究成果と異なる証言が得られたとしても、それを人に話したら変人扱いされるだけだ。徒然のまま遊びに来ているのなら一興だろうが、今日はそんな気分でもない。それに、何世紀も前の英語を使う人間と会話できるか微妙だし、まかり間違ってスコットランド独立の英雄なんかに出てこられた日にはお手上げである。蛍太郎と一緒なら、そうでもないかもしれないが…と、璃音は屋敷で待っているはずの夫の顔を思い浮かべた。見送り出たときの彼は随分と心細げな表情をしていたのが強く印象に残っている。
今、璃音は一人でここに来ていた。
昼間に手紙の封を開けたすぐ後、璃音は蛍太郎とグッドスピード卿を交えた三人で対応を協議した。
伯爵はヘカテと直接の面識は無いが人柄は聞き及んでおり、また呼び出した場所の意味するところも判っていた。害意は無いだろうが、すっぽかしでもしたら後が恐ろしい、というのが彼の意見だった。蛍太郎も同意見ではあったが、大切な妻のことだけに心配は隠せない。結局、何かあったときには身軽なほうが都合が良いだろうということで、璃音が一人でロンドン塔に赴くことになった。
それから昼・晩と、何故かしょぼくれてしまったスティーヴンと一緒にしっかりと食事を摂り、そして出陣と相成ったわけである。
だが、こうして出てきたというのに人の気配が無い。目立たないようにジャージとジーンズという完全な普段着で来たのと、足音を立てないように地面から浮かんでいるために、相手が気付いていないだけなのかもしれない。
そこで、璃音は靴底に小さく発生させていたエンハンサーをカットして、普通に歩いてみる。すると、
「よく来たね、藤宮璃音さん」
と、背後から声がした。見ると、先程までは何もなかった空間にドアのようにポッカリと穴が開いたようになっていて、そこから光が漏れている。そして、そのドアからでてきたのだろう、白衣を着たひょろ長い男が立っていた。
「私はジョナサン・フレッチャー。来てくれて光栄だよ」
気障に両手を広げて見せるが、あまり見栄えはよくない。そのうえ甲高い声質のお蔭でどうにもしまりがない。
「しばらく前から待っていたのだが、この際何も言わんよ。レディーに対して失礼は言いっこなしじゃん」
(…差出人不明の手紙で呼び出した上に、隠れてる方が失礼なんじゃ…)
このフレッチャーという男、礼儀の概念が別世界製のようだ。それはさておき、璃音は"ドア"の存在に全く気付かなかったことに驚いた。ロンドンの魔術師協会はこの場所から繋がる異空間にあると聞いていたが、そのドアは彼女のレッドヴィジョンにも捉えられない高度な術式で構成されているようだ。さすがは魔術師の総本山、璃音は素直に感心した。
「なるほど…この奥に協会本部があるんですね。さすがは本場、そのドアには全然気付きませんでした」
フレッチャーは胸を張った。だが、次の言葉で肩を落とすことになる。
「でも、そのドアって外の様子を見ることって出来ないんですか?」
白衣の男は返事をしなかった。
つまり彼は、隠密行動など殆どできない璃音の存在を見破れなかったのだ。だがとりあえず、璃音はその事で相手を苛めるのはやめることにした。フレッチャーは許してもらえたことに気付くと背筋を伸ばし、大仰なポーズでドアの向こうを指差した。
「ま、まあ、それはそれとしてだな、我らがアカデミーにレッツラゴー」
璃音は促されるまま、光のドアへと足を踏み入れた。
目の前全てが白く塗りつぶされる。
璃音は視覚を切り替えてみたが、それでも同様に光が見える。つまりこれは物理的に発光しているだけではない。
よくよく目を凝らすと、光の向こうに魔術式が蠢いているのが見えた。無数の式が複雑に密集して絡み合っているので、星が集まりが天の川に見えるのと同じだように、それぞれの形を捉えることは出来なくなっていた。これが、この異空間を作り出している魔術式なのだ。
数秒の後、光の渦を抜けた璃音は、同様に魔術式の光でできた道を歩いていた。そして、その目に飛び込んできたのは一つの街とでも言うべき広大な建造物群だった。
中央にそびえ立つ白い塔は角柱に近いシンプルな外観で、足元の建物と比較するに高層ビルにも匹敵するだろうか。その頂きは、この空間の上端に接しているように見える。そこから魔術式がガラスの粉を流すようにあふれ出し、弦状の軌跡を描いて滑り落ちていく。それが先ほど璃音たちが通り抜けてきた光の渦を形成していた。
おそらくは塔自体が、この場を作り出す魔力源として機能しているのだろう。その魔力によって編まれた術式が作り出したドーム状の異空間に街が浮かんでいるのだ。
街並みは十九世紀風の外観をした建物が多く、この空間の中心である塔を放射状に幾重にも囲んだ道路に沿って規則正しく並んでいる。さすがに大ロンドンと同規模とまではいかないが、東京ドーム八十個分はありそうだ。
その街並みを背負うように、フレッチャーは大仰に両手を広げた。
「ようこそ、我々のアカデミーへ。魔術師協会は貴女を歓迎いたしますぞ」
この男、そうやって芝居がかった仕草をするわりには微妙に視線を逸らしてくる。そのあたりが、どうにも璃音は好きになれない。だがまあ、別に彼と長い付き合いになるでもなし、どうでもいいことである。
"街"に入ると、流しの馬車に乗る。しばらくすると塔の入り口へ着いた。
「あれに見えるが、アイボリータワーでございます」
フレッチャーが差し出した手を無視して、璃音は馬車を降りた。
根元から見上げた塔は先端が霞んでいる。外壁には装飾に交えて無数の術式が焼き付けられており、遠巻きに見たときは違う複雑な表情を持っていた。入り口は幾つかあるらしく、フレッチャーに先導されて大きな双開きドアの前に来ると、璃音は見知った顔を見つけてしまった。もっとも、出来ることならあまり会いたくない相手だったが。
「よう、ベイビー」
昼間に見たままの服装のマックスウェルだ。同じく昼間そのままのあいさつをしたビール腹の魔術師は、ニコニコと璃音に手を振った後、露骨に不機嫌な顔をフレッチャーに向けた。
「おいテメー、どういう手を使ってその子を連れてきたんだよ。このオレでさえ捕まえられなかったのにッ」
フレッチャーは鼻で笑った。
「フッ、笑止な。お前如きには亀だって捕まらないねぇ。私は、紳士的に手紙で呼び出しただけだ」
(おいおい、差出人不明の手紙で呼び出すのの、どこが紳士的なんだよ…)
璃音は至極常識的な指摘をしようとしたが、どうせ話しても通じないだろうと思い、取りやめにした。
フレッチャーはというと、ついさっき初めて会ったばかりの少女に人間性を諦められているなどとは露知らず、得意げに胸を張った。
「つまり、私の勝ちだ!」
マックスウェルが歯軋りをする。どうやら自分が賭けの対象にされていたらしいことに気付いた璃音は、眉を吊り上げた。
「どういうことですか、それ」
だが、フレッチャーは涼しい顔で答えた。
「なあに、ヘカテ殿のご依頼でね。なるべくこっそりと、貴女をここへ連れてきて欲しいと。報酬は…ふふふ」
一気にフレッチャーの鼻の下が伸びた。
「なんと、バビロンの学徒を何人か紹介してくださるというのだよ。そう、魔女の頂点に立つヘカテ殿の門人をね。つまり、選りすぐりの美少女と美幼女が期待できるということだよッ! どうだね、素晴らしいだろォォォッ!」
「は、はあ…」
呆れた璃音の五歩ほど隣で、マックスウェルは、
「クソ、クソッ!」
と、本気で泣きそうな顔をして地団太を踏んでいる。構わずにフレッチャーは続けた。
「そういうわけだから、別に貴女をどうこうしようと言うわけじゃあない。それに、こんなことをいったらなんだが君じゃあハァハァできんのだよ。私は貧乳以外受け付けない体質なんでね。まあ、悪く思わんでくれたまえー。はは、ははは、ははははは!」
「別に何とも思わないよ。っていうか、ホッとした」
そうは言っても、決して良い気分ではない。璃音は早足でマックスウェルの側に行くと袖口を引っ掴み、ズルズルと門扉まで引き摺っていった。
「ほら、わたしをヘカテさんのところまで案内しなさいよ」
マックスウェルはキョトンと首を傾げていたが、状況を察知して笑顔を取り戻した。
「よっしゃ!」
マックスウェルは背筋を伸ばして威勢良く、声高らかに宣言した。
「ジョージ・マックスウェル、戻りましたッ」
その声に応じてドアがゆっくりと開く。
「さあ璃音、ヘカテ殿のところへご案内するぜッ!」
スキップでもしそうな足取りで塔の奥へ向かうマックスウェル。璃音はその後について歩きながら、こう言わずにはいられなかった。
「声が大きいんじゃないの? 全然こっそりしてないじゃん。それから、呼び捨てにするな。藤宮さんって呼びなさい。藤宮夫人なんだからね」
だが、マックスウェルの返答はある意味予想の範囲内だった。
「おっけー、わかったぜ璃音」
璃音は、大きくタメ息をついた。
(…言うだけ無駄だったか。まかり間違って次があったとして、その時もこうだったら、存分に思い知らせてやろう。うん)
言語の違いがあるとはいえ、全く親しくない男に名前を呼び捨てにされるのに非常に抵抗を覚えた璃音だったが、今日のところは我慢しておくことにして、黙って後に着いていった。
すると、後ろの方からフレッチャーが何やら喚くのが聞こえてきた。
「おのれー! たばかったな藤宮璃音!!」
璃音は頭痛がしてきた気がして、思わずこめかみを押さえていた。
「あああああっ、璃音ちゃん!」
部屋の隅から隅までを三分間くりかえし往復し、そして上記のように呻いて頭をかきむしり、またウロウロと歩く。蛍太郎は幾度となく、それを繰り返していた。
グッドスピード伯爵はウンザリした口調でタメ息を吐いた。
「せめて、馴染みのある言語で喚いてほしいものだな。そもそも、これは三人で話し合って決めたことじゃ。今さらガタガタするでない。
考えてもみろ。お前とあの子をそれぞれアマゾンの奥地に放置したとして、だ。自力で生還する可能性が高いのはどちらか、わざわざ論ずるまでも無いだろうに」
「それはそうですが…」
蛍太郎は眉根をひん曲げたままだ。
「まあ、心配なのは判らんでも無いがな」
気遣いを見せる伯爵。人が理屈だけで物を考えるわけではないことは自らの娘の件で思い知っている。それだけに蛍太郎の相手をするのが鬱陶しくなってきたので、伯爵は一つの提案をした。
「なら、助っ人を頼んでやろう。うってつけの人物が近場おるからのう。今から連絡すれば、午前中にはヒースローに着くじゃろうて」
塔の中は存外に広かった。
今、マックスウェルの後をついて広大な廊下を歩いているのだが、無数の柱に支えられた天井は二十メートルはあり、左右の幅も五十メートルほどだろうか。塔というよりは地下迷宮を思わせるような光景だ。
そもそも異空間に建っているのだから、塔の内部も空間がおかしいことになっていても不思議では無いわけで、あまり深く考えないほうがいいようだ。
だが、
(いざとなれば手近な窓から飛び降りればいいや)
と、いう璃音の目論みは外れたようである。これでは、どこへ行けば外壁に辿り着けるか判ったものではない。
自分たち以外は人っ子一人居ない廊下を延々と歩き続け、マックスウェルは目的地で足を止めた。
豪華な観音開きのドアは見上げるほど大きい。
「貴賓室だ」
璃音にそう言ってから、マックスウェルがノックすると、ほどなくドアが開いて金髪の少女が顔を出した。可愛らしい顔立ちで青い大きな目をしており、
クラシカルなドレスとあいまってアンティークドールがそのまま大きくなったかのようだ。しかも背丈は璃音よりも低い。璃音は幼児以外で自分より小さい人間を見るのは久しぶりだったので、少しだけ嬉しい気分になった。
「ジョージ・マックスウェル、ご依頼の件、見事やり遂げましてございます。これより、ヘカテ殿にお目通りいただきたく…」
威勢の良いマックスウェルの口上は、少女の抑揚の無い声に遮られた。
「ごくろうであった。ヘカテ師からは追って沙汰ありますゆえ、お引取りを。これより先は、男子禁制でございますゆえ」
「おいおい。『これより先は』って、そもそもそこはウチの敷地内なんだけどな。見返りの件を確認してぇから、通して欲しいな」
ごねるマックスウェルを相手にしても、少女は全く表情を変えなかった。
「お引取りを。もしや、我が主をお疑いか? バビロンの魔術師が約を違えるとでも?」
「何だそりゃ!? そこまでは言ってねぇだろう!」
どうも不穏な空気が流れてきたので、璃音はマックスウェルの脇腹に肘をねじ込んでから、強い口調で言った。
「あのね。たしかにここは魔術師協会の施設なんだろうけど、例えば女子更衣室みたいなのだったら、男子は立ち入り禁止で普通でしょ」
これには、マックスウェルも黙らざるを得なかった。それに、この状態でさらにごねると手痛い一撃を喰らうことは目に見えている。なぜなら、ここまで来た璃音には、もはや案内役など要らないからである。
「う、確かに…。それなら尚更立ち入りたい気がするが、たしかに立ち入り禁止だ。判った」
マックスウェルは自然と両手を挙げて、そのまま後退した。
「よろしい」
璃音は頷いて、それから少女に一礼した。
「藤宮璃音です。ヘカテさんにお招き頂きました」
すると少女は幾分愛想良く礼を返した。長く細い髪が肩から滑り落ちて、薔薇の香りが漂う。
「よくぞお越しいただきました。それではご案内いたします」
少女は璃音の手を取って、そのままドアの間に引っ張り込むと、目を丸くしているマックスウェルを見ないふりをして、さっさと扉を閉めてしまう。それから、相変わらず無表情ながらドレスをちょんと摘まんで、改めて恭しく礼をした。
「初めまして。私、アリスと申します。璃音さまのお世話をするよう、ヘカテ師より仰せつかっております。どうぞ、何なりとお申し付けくださいませ」
「ああ、はい…どうも。こちらこそ、よろしくお願いします」
璃音は逆に恐縮してしまって、ぎこちなく首をひょこひょこさせる。アリスは、そんな璃音の手を取って歩きだした。
さっきまでいたところは違い、こちらは幅十メートルほどの廊下でその左右には幾つもドアが並んでいる。その向こうから人の気配が伝わってくるが、それから察するに女子更衣室という喩えはあながち間違っていなかったようで、女性が集まったとき特有の賑やかさが感じられた。姉から聞いたところによるとヘカテは女性の弟子ばかりとっているそうだから、その何人かが一緒に来ているのだろう。
それよりも気になるのが、アリスという少女である。最初に手を握られたときにはいきなり引っ張られたので気付かなかったが、生きている人間では考えられないくらい体温が低いのだ。この少女は白磁を思わせる白い肌をしているが、実際に手触りもそれに近い妙な硬質感と冷たさである。だが璃音は、それについて彼女に訊くのはやめておいた。何か事情があるかもしれないから、本人が言いだすまでは気付かないふりをするべきだと璃音は考えた。
程なく、アリスは豪勢な装飾を施されたドアの前で足を止めた。ノックの後、相変わらずの抑揚の無い、
「お客様をお連れしました」
と、いう声を待っていたように、扉がひとりでに開いた。
そこは応接室というよりはもはやホールといった趣きで、貴族の邸宅にも劣らない大きな暖炉やテーブルが目に付く。そして、革張りの豪華なソファーに、その女は悠然と腰かけていた。
真っ白い肌に、黒い、肩と胸の大きく開いたドレスが引っかかっている。それを長い黒髪がさらに覆う。そして、胸元には赤い宝石。だが璃音の目を引いたのは、血のように真っ赤な瞳と、見覚えのある顔立ちだった。
「…式子、さん?」
思わず璃音の口をついた言葉通り、目の前の黒いドレスの女は藤宮式子に瓜二つだった。女は、璃音の反応を予想ずみだったのか、赤く艶やかな唇を緩ませた。
「ふふ。初めまして、私はヘカテ。バビロン三巨頭のひとりにして、宮殿の主。以後、お見知りおきを」
ヘカテは微笑んだ。外観上は妙齢の美女にしか見えないが、彼女こそが永い時を生きた魔女の祖だという。確かに、特異なパーソナリティが凄みのある色気となって滲み出ている気がした。それに圧倒されそうになりながらも、璃音は丁寧に一礼した。
「ご無礼を致しました。藤宮璃音と申します。姉がいつもお世話になっております」
するとヘカテは少女のような笑みを浮かべた。
「はい。侑希音は良い弟子です。先日もあの子は、私に代わって一仕事してくださいました。その話は後でするとして、璃音さん。お待ちしておりました。まずはゆっくりとお休みになって」
椅子をすすめられ、璃音は首をすくめて恐縮した。
「えっと…璃音"さん"というのは…」
「良いの。あなたはお客様ですからね。それに、全く他人というわけでもないでしょう」
「ええ、まあ…姉が」
ヘカテは穏やかな口調のまま、遮った。
「そうじゃないの。
ああ、侑希音からは何も聞いていないのね。それなら、身の上話でもしてあげようかしら」
そう言ってヘカテはもう一度、璃音に着席を促した。璃音はテーブルを挟んでヘカテの向かいに座る。すると、それを待っていたようにティーセットを持ったアリスが現れた。金髪の少女がテキパキと茶を淹れるのを眺めながら、黒い魔女はゆっくりと真紅の唇から言葉をつむぎ出した。
元来ヘカテは、後に藤宮式子と名乗ることになる魔女の使い魔であった。
一万年ほど前のこと。
地球に降り立った式子は、未だ未開の地であった極東の島で目を覚ました。
長い宇宙旅行でチカラを消耗していた彼女は、一緒にこの星へ来たはずの兄と妹を探す前に、まずは静養を必要とした。幸いこの地は温泉が多く、また当時の大洋を支配していた超大陸の影響を受けた霊素、つまり魔力の源であるエウェストゥルムの供給を受けやすい土地柄だった。
ある程度の回復を果たした式子は、この土地を支配していた魔王を倒す。その時、生贄にされていた巫女の魂を使い魔に加工した。それが後のヘカテだ。
それから何年かして、式子は使い魔を伴って西に渡る。そして中東地域に現在の魔術の基礎となる技術を伝えた。
それからさらに幾星霜を経て、式子は肉体を捨て精神体となった。
自身は位階を上げて多次元宇宙人、ありていに言えば神というべき存在となって日本という名となった地へと戻ったが、使い魔には新しい肉体と自由を与えた。それが、主を失った式子の肉体である。本体たる精神と切り離されても神の一歩手前までいった肉体は莫大な魔力を生み出す。強大な魔術師として知られるようになった彼女は、いつしか伝説の大地母神になぞらえて"ヘカテ"と呼ばれていたのである。
「…式子師は日本に戻り、地球に辿り着いた時には既に亡くなっていた妹君を転生させるための器を作るための術式を編み、そして璃音さん、あなたが生まれた…と、いうのは既にお聞きになっていますね」
璃音が頷くと、ヘカテは続けた。
「私は中東の地に残り、ここを発祥とする魔術師たちを見守る道を選びました。ほどなく二人のアヴァターラに出逢った私は、共にバビロンの魔術師協会を興し、時代の変化によって地下に潜むことを余儀なくされるようになった魔術師たちの保護育成、そして技術を隠秘化する活動を始め、今に至るのです。 その甲斐あってか、恥ずかしながら"魔女の祖"という異称を頂いておりますので、数多くの魔術師を指導する機会に恵まれたのは幸運ですね。なにせ、式子師と出会わなければ一万年前に死んでいたのですから」
そしてヘカテは少女のような屈託の無い笑みを浮かべた。
彼女の話によれば、確かに目の前の永生者は璃音にとっては関わりの深い人物である。言いようによっては、式子と並んでヘカテも先祖であると主張できないでもない。なにせ、先祖がもともと使っていた肉体の、現在の主であるのだから。
(…ややこしい)
璃音は、侑希音が何も言わなかった理由が判った気がした。
「それはそれとして、ですね」
ヘカテは自分から話を切り替えた。
「今日、璃音さんをお呼びしたのはですね、プレゼントがあるからなのです。いや、本来の持ち主にお返しするといった方が良いかも知れませんね。
侑希音に頼もうかと思っていたのですが、たまたま私も貴方もロンドンにいるのだし、直接会ってみたくなってしまって…ご迷惑でした?」
璃音はブンブンと首を振ってから、難しい顔をした。
「とんでもない、と言いたいところですけど…。なんで、あんなのを迎えによこしたんですか?」
あんなのとは、ロンドンの魔術師二人、マックスウェルとフレッチャーのことである。ヘカテも、困ったように眉をひそめた。
「そうねぇ…ごめんなさい。
今、私はロンドンとバビロンの交流会のためにここにいるの。私の弟子も何人か連れてきてるから、その子等を使いに出しても良かったんだけど、大きな街だから心配でしょ。だから、地元の子に適当なこと言ってお願いしたんだけど…正直、人選ミスでしたね」
璃音とヘカテは一緒になってタメ息をついた。
少し重い空気が流れたが、またヘカテが話を切り替えた。立場上、璃音が会話を引っ張るわけには行かないので、こうして気を遣ってくれると助かる。
「そんな話はここまでにして、はやく贈り物を差し上げたようが良いようね。もう、夜も遅いし」
すると、いつの間にか姿を消していたアリスがジュエルケースを奉げ持って現れ、恭しく璃音に差し出した。自分と大して違わないくらいの少女があまりに仰々しい仕草をするので背中が痒くなるような気分がした璃音だったが、素直にプレゼントを受け取った。
さっそくケースの蓋を開けると、ルビーのように赤い宝石が輝いていた。細長い筒状でサイズは中指ほどで、反対側が綺麗に透けて見えるほど透明で曇りが無い。片側の先には金具が付いており、チェーンを付けられるようになっている。
「綺麗…」
思わず息を呑んだ璃音だったが、すぐに、それが侑希音の身につけている物に似ていることに気付く。璃音の表情の変化を見て取ったヘカテは先回りして言った。
「イデアクリスタルよ。私たち魔術師が使っている、ね。だけどそれは特別。大昔に地球に渡った三つのうちの一つなの。つい最近まで行方不明だったんだけど、ようやく見つけたのよ。
でも、特別に凄い物だっていうわけじゃあないの。魔術師協会が管理しているイデアクリスタルは複製品がベースだけど、無から有を生み出す魔術の世界で、オリジナルにどれ程の価値があるかと問われれば…骨董趣味か個人的の特別な思い入れぐらいにしか、それを見出すことは出来ないわ。
そのクリスタルは、そう…後者ね。だから貴方にあげるの。だからこそ、ね」
ヘカテは微笑んだ。その胸元に輝く宝石は、璃音が手にしているものと全く同じ形をしている。
「いいんですか? これって、大事なものなんじゃ…」
だが、ヘカテは首を振って璃音を制した。
「私はいいの。私の中に残っている式子師の記憶がそうしろと命ずるだけ。それは貴方が持つのが相応しいの」
璃音はヘカテの穏やかな声に促され、クリスタルを両手で胸に抱いた。
「ありがとうございます。大切にしますね」
すると、ヘカテは頬を緩めた。
「そう言ってくれると嬉しいわ。でもね、そんなに大切にしなくて良いから、いっぱい使ってあげて。貴方の身を守るために作られたものなんだから。
くわしい説明は明日するから、今日はゆっくりおやすみなさいな」
そう言って、ヘカテはアリスを呼び、璃音を部屋に案内するように命じた。
(ああ、やっぱりお泊りなのね…)
璃音は内心タメ息を付いたが、貰うものを貰ってさっさと帰るわけにもいかず、クリスタルの使い方にも興味があったので素直に従うことにした。いずれ、とんぼ返りにはならないことはグッドスピード卿が予測していたことだ。段取り通りの展開ではあるし、蛍太郎もそのつもりでいるはずだから、心配することもないはずだ。
そう考え、璃音はアリスの後に従ってヘカテの部屋を辞した。
3−
アイボリータワーは魔術師協会の本部であるだけでなく、教育機関でもある。
協会に所属する魔術師はここで定められた講習を受ける他、自主的な研究活動にタワーの設備を使うことを許されている。これが金と人脈に余裕のある有力魔術師か、または異端の道を突き進む者の場合はタワーの外に自分のアトリエを構える、またはそうすることを余儀なくされるが、大多数の魔術師は塔の中に研究室を持っている。特に若手は殆どといっていいほどがそのケースに当てはまり、マックスウェルも例に漏れずタワー内に個室を与えられている。その、もとから大して広くない上に雑多なもので散らかされた部屋で、さらに空間面積を大いに占める巨体を揺すり、マックスウェルはニヤニヤと笑っていた。ここがもし広い廊下か何かだったら、スキップして踊り出すのではないかというほどの浮かれぶりである。
「ふふ…ふへ…うへへぇ…」
土壇場で依頼を達成したマックスウェルは報酬を頂戴できることになった。それを考えると、マックスウェルは口元が緩むのを止めることが出来ない。
ヘカテはロンドンの魔術師を遣いにやるにあたり、曲がりなりにも取引の形になるように対価を用意した。管轄違いの魔術師を使い走りにしては角が立つから、自らの弟子を数人紹介するという見返りを用意してことにして対等の契約を結ぶことにしたのだ。もちろん、ヘカテの弟子というからには魔女。前々から気にかけていた女が居たマックスウェルは、まさに眼前にニンジンをぶら下げられた馬であったが、その甲斐あって、成否はともかくとしてバビロンの魔女とデートはできる。それを思うと、マックスウェルの大脳はみるみる活動電位をあげていく。
「むほーっ!」
不意に、マックスウェルは内溶液が沸点を越えたケトルのようにけたたましく奇声を上げた。そして、大急ぎでズボンのベルトに手をかける。
意志力を以って魔力を紡ぐ魔術師は、大脳の活性が常人を上回っている。術式を管理する記憶力と、展開する認識能力、そして象徴機械を運用するために欠かせない想像力。人間の脳は量子コンピューター的に複数の演算を同時に行っているという説があるが、とにかく魔術師は、その能力が高くなければ勤まらないのだ。
だがそれは、知性とか品性とかいうモノのレベルを保障するものでは決してなく、自らが持つ能力をどのように使うかは当人次第である。
今、マックスウェルは持てる能力を最大限に用いて来るべき日のイメージトレーニングをした結果、自らのズボンを下ろすという行動をとった。そしていよいよ、日ごろの無理が祟ってゴムが伸びかかっているパンツに、指をかけた、その時。部屋のドアが破られた。
「マックスウェル! 貴様ァーッ!!」
怒り心頭といった形相で乗り込んできたフレッチャーが見たものは、その憎悪の対象の、白く脂の乗った尻だった。ところどころに赤い吹き出物が点在しているのがまた、えもいわれぬ風情を醸し出している。
「ノォーッ! ノォォォォーッ!!」
フレッチャーは顔を覆い、絶叫した。そして陸に打ち上げられた魚がもがくようにのたうちまわり、周囲に積み上げられたゴミやガラクタの山を一頻り倒壊させてから、潰してしまった喉から搾り出すように呻く。
「なんて…なんてものを見せてくれるんだ、貴様は…ッ。お蔭で、私の美声が潰れてしまったではないか…ァァ、アー、アー、カーッ、ペッ!」
「やかましい! 叫びたいのはオレの方だ!」
この場合、どう見ても被害者はマックスウェルなのだから彼の言い分は正しい。そのうえ、床に痰を吐き捨てられたのだから、ますます怒りが募る。
マックスウェルは足首にズボンをまとわり付けたまま、いつもよりも小さい歩幅でチョコチョコと、ガラクタの山に半身を埋めていたフレッチャーに詰め寄る。
「だいたいな、何でお前は人の部屋に勝手に入って来るんだよ。鍵かけてただろうが!」
「フッ…笑止。貴様程度の施錠術式など、この私にかかれば児戯に等しいわ」
フレッチャーは底なし沼のように身を捕らえるゴミの中でもがきながら、顔だけは涼しい表情を作って鼻で笑ってみせた。もちろん、それを聞いたマックスウェルはさらに怒鳴る。
「なァに言ってんだテメー! だからって入って良いことにはならないだろ! それじゃあなにか、鍵がしょぼければ自由にどこでも入って良いってのかよ! 寝言は寝て言えや!」
だが、フレッチャーは動じない。
「マックスウェルよ。それは一見して正論に聞こえはするがな…」
「アホか。完璧に正論だね!」
「貴様が口にした時点で、どんな正論も価値を失うんだよッ!」
一転して、強い口調で叫ぶフレッチャー。力が入ったためか、一気にガラクタ野山が崩れた。やっとのことで開放されたフレッチャーは、そのまま床にずり落ちる。尻餅をついて尾骨を打ったが、その痛みに構っている余裕はない。当然といえば当然だが、フレッチャーの言葉にマックスウェルの怒りが頂点に達していたからだ。
「テメェ! 叩き潰してやるッ」
仁王立ちになって、マックスウェルは叫んだ。相変わらずズボンとパンツは足首を拘束したままだが、そんな事は既に認識の外にあるようだ。やおら、首から提げたイデアクリスタルを掴む。最小の魔力炉とも呼ばれる結晶体は、主の感情に呼応して青く強い光を放っていた。
それを見て、フレッチャーの顔が青ざめる。
「おい、よせ。タワー内での私闘は禁じられているんだぞ。忘れたのか!」
だが、マックスウェルは意に介さない。
「黙れ!」
顔を真っ赤にしたマックスウェルは呪文の詠唱を始めようと口を開いた。
(拙い!)
フレッチャーは、とっさにマックスウェルの足を払った。
不意のことにマックスウェルは集中が途切れ、象徴機械の実体化に失敗してしまった。
だが、物事はそうそう都合の良いようには進まなかった。
見事な足払いを披露したフレッチャーの右脚が、マックスウェルのズボンに絡まってしまったのだ。結果、バランスを失ったマックスウェルはフレッチャーの上に倒れこむことになった。直立していたマックスウェルと、床に尻餅をついていたフレッチャー。その二人が交錯し、まとめて床に倒れこむ。その位置関係がフレッチャーにもたらしたものは、あまりに過酷だった。
「ぬわーっ、生、生暖かいモノが私の顔にーッ!」
フレッチャーは、頬から耳のかけての妙な感触に、現物からは必死に目を逸らしながら悲鳴をあげた。マックスウェルも、あまりの衝撃に絶叫した。
「ギャーァッ!! 折れたッ、折れたァーッ!!」
相変わらず直視を避けながら、せせら笑うフレッチャー。
「フン。軟質素材製のソレが、折れるものか」
笑ってはみるものの、フレッチャーは肩から上にマックスウェルの腰周りの重みがかかっている上に、右足はマックスウェルの両脚とズボンが形成するAの字型の中に知恵の輪のように通ってしまっており身動きが取れない。つまり、その言葉はフレッチャーの精一杯の強がりだったのである。しかしマックスウェルは、それを挑発と受け取った。
「な、軟質言うな! オレとて本気を出せばこんなものではッ!」
「ムオ!? よせ、力を入れるな、ヒクヒクさせるなッ!!」
「なんだよ、そっちが煽ったんだろうが。…って、おい、もがくな! 変なヒネリが加わるだろ!」
「いい、もういい、離れろ、離れてくれ!」
「ンなこと言っても、足が動かせねぇんだよッ。おい、じっとしてろって! 鼻息がかかるじゃねぇか…っ…あっ、あっ…あんっ…うっ!」
「う、ああ…うあああああっ、汚された…汚されたぁッ!!」
フレッチャーは頬から耳にかけて体温より若干熱い液体をブチまけられ、その悪夢のような感触に泣きだしてしまった。そして、やるせない思いを拳に込めて、マックスウェルの脇腹をやら背中やらを殴り始める。厚い脂肪に守られているとはいえパンチはそれなりに重く内臓に響き、マックスウェルは思わず悲鳴を上げた。
「うぐっ、痛ェ! よせ、よせってば!」
「ううう、ああああっ!」
「ぐふ、腎臓、腎臓に入ったっ! 助けてくれェ!!」
すると突然、部屋の窓ガラスが砕け散った。そして、
「助けを呼ぶのは誰だッ!」
太く張りのある男の声が響く。マックスウェルが視線を向けると、窓を破って飛び込んできたと思しき一人の男が腰に手を当て、すっくと立っていた。
男は、魔術師が身につけるクラシカルなローブを羽織っているが、そのはためきの下にある身体は白・赤・青のヒーロー三原色で彩られた薄手のタイツで覆われ、隆々たる筋肉を見事に浮き立たせている。アイマスクを装着しているので表情を覗うことは出来ないが、四角い顎と引き締まった口元は、これでもかというほどに頑強さを現していた。
この男の名はフレデリック・マイヤーズ。ロンドンの魔術師の中でも最高クラスの実力者だ。
その象徴機械"サンキング"は凄まじい破壊力を誇り、魔術師協会が"アーセナル"すなわち工廠と呼ばれる由縁の一つは間違いなく彼であると、専らの評判である。だがマイヤーズは力だけの男ではない。品行方正な振る舞いで知られ、ロンドンの良心と称される紳士なのだ。そして、その人格を反映しているのが彼のコスチュームである。悪を憎み、弱きを助け強きを挫く。それが、フレデリック・マイヤーズという男の生き様なのだ。
「マイヤーズさん…」
マックスウェルがその名を呼ぶと、マイヤーズは厚い胸板を反らした。
「私はマイヤーズではない。…ストレンジィィィ、エェェックスッ!! 今の私はストレンジXだッ!」
マイヤーズ、いや"ストレンジX"は高らかに名乗りをあげた。正義を愛する男は、その愛ゆえに、コスチュームをまといヒーロー名を名乗り、夜な夜な街を駆けるのだ。そして、助けを求める声あらば真っ先に駆けつける。アイボリータワー内といえども例外ではない。
「マックスウェルよ。助けを求めたのは君か?」
ストレンジXはそう言って、目の前で絡みあう男二人の状況を確認し、首を傾げた。
「…何をやっているんだ、君たちは」
そういわれると、言葉に窮してしまう。
「ま、まあ…なりゆき上…」
力なく呟くマックスウェル。その腹の下でフレッチャーが呻く。
「やめて…助けて…やめて…助けて…やめて…」
その様子を交互に見て、ストレンジXは芝居ががった動作で大げさに肩をすくめた。
「なんだ、そういうプレイなのか? 確かに、気分を盛り上げるために『死ぬ』とか何とか口走る者も居ないでもないと聞くが…。まったく、人騒がせな。
ああ、安心したまえ。君たちの関係にあれこれ口を挟んだりはしない。個人の信条、思想の自由は尊重されるべきだからな。そう、それが正義。
…では、さらばだ!」
ストレンジXはローブを翻すと、もと来たのとは別の窓を破り、外へ飛び出していった。
窓が二箇所も割られた自室を呆然と眺め、マックスウェルは呟いた。
「なぜ、わざわざ窓を…」
すると、フレッチャーが言う。
「そんなの決まってるだろ。正義のヒーローだからだ」
それを聞いたマックスウェルはアメリカのコミックヒーローはよく窓を破って登場することを思い出し、頷いた。だが、もう一つ疑問がある。それは、こんな状況を作り出した最大の要因だ。
「でさ、フレッチャーよ。お前はそもそも何しに来たんだ?」
「忘れたよ…もう何もかも、どうでもいい…」
マックスウェルの問いに、フレッチャーは疲れ果てた表情で答えた。すると、動いた口の中に妙な苦味が走り、フレッチャーは悲鳴を上げた。
「うぎゃーぁ垂れてきたッ!! 飲んじゃった、飲んじゃったァーあーッ!!」
「うわ、よせ暴れるなッ。動くなってばッ! …あふんっ」
璃音が案内されたのは、豪華な内装を施された広い部屋だった。あまりの広さにパーティ会場かと思ったが、よく見ると真ん中に天幕が付いたキングサイズのベッドが鎮座しているから寝室ということでいいらしい。確かに立派ではあるのだが、この広さでは落ち着かないような気がする。璃音は何となく部屋の調度品やらを眺めていたが、アリスに手を引かれて部屋の奥に連れて行かれた。
「浴室です」
ドアを開けると、風呂場というよりも湯浴み場といったほうが適当なような光景が広がっていた。石造りのホールの真ん中に掘り下げ式で浴槽が設置されている。既に湯が張ってあり、飾りつけの花が霞んで見える。
(うわー映画だよ、これ)
感心しきりの璃音。湯の深さは腿くらいまであるようで、肩まで浸かることもできそうである。お作法には反するかもしれないが、誰かが見ているわけでもないのだから構わないだろう。そんな考えをめぐらせていると、いつのまにかジャージが肩からずり下ろされているのに気付いた。
「あれ?」
見ると、アリスが後ろから手を伸ばして上着を脱がしにかかっていた。璃音は思わず声を上げた。
「ちょっ、ちょっ、なにやってんの?」
「お手伝いをさせていただいております。ああ、ご心配なく。代えのお召し物はこちらで用意いたしますから」
アリスは平然と答えた。背中越しに聞こえてくる声には相変わらず抑揚が無い。
「そういうことじゃなくってね、お風呂くらい一人で入れるよー」
璃音はアリスを振りほどこうとするが意外に力が強い。その間にもジャージはスルスルと腕から引き抜かれ、下着のホックが外された。支えを失った胸の膨らみが露わになると、ついに璃音はアリスを振りほどいた。
「やめて!」
腕を振り回すと、アリスは小さく悲鳴を上げて離れる。動いた弾みで掌が柱に当たる。パワーを使っていなかったので、傷ついたのは璃音の手の方だった。
「大変!」
アリスが駆け寄る。見ると、璃音の手の甲から血が滲んでいた。
「大丈夫だよ、これくらい」
「でも…」
璃音は深刻な顔をしているアリスに微笑を向けた。
「かすり傷だから…」
璃音がそう言っている間にも、手から痛みが引いていく。試しに血を拭ってみると、そこに傷の痕跡は無かった。
(あれ…何もしてないんだけど…)
ヴェルヴェットフェザーを使えば傷を治すくらいわけはないのだが、璃音はまだパワーを使ってはいなかった。アリスの顔を覗ってみるが、彼女も目を丸くしていた。
「ああ、それが璃音さまのお力ですね」
そんな風に感嘆の声を上げてさえいるので、彼女の仕業でもないようだ。
(じゃあ、無意識のうちにパワーを使っちゃったとか…)
とりあえず、璃音はあり得そうな推論を一つ打ち出してみる。だが今まで、パワーは自らの意思で、例えるならトリガーを引かなければ発現したためしはなかった。だからこそ、イスマエルの不意討ちを食らったのである。だが、これは考えても判ることでも無いので、一旦思考を切り替えた。この一連の出来事で浴室に入ってから初めてアリスの姿を見たので、そちらを注視することにする。
いつの間にそうしたのか、アリスはベビードール風の下着姿になっていた。湯気で霞んではいたが、生地に透ける肌は顔と同様に、陶磁器のように白い。起伏の少ない身体で腰と手足は凄まじく細いが、不思議と骨ばった印象は無い。ある意味では素晴らしく少女らしい体つきといえるだろう。
それはそれとして、どのような目的があって彼女は脱いでいるのか。そして何故に、自分を脱がそうとしているのか。ここが浴室だということを差っ引いても璃音は首を傾げずにはいられなかった。
「なぜ脱ぐ? なぜ脱がす?」
「ですから、入浴のお手伝いを」
「マジですか」
「マジです」
そう言いながらも、アリスは当たり前のようにジーンズのベルトを外しにかかる。
「む、むぅ…」
璃音は困惑の表情を浮かべた。アリスは璃音の身の回りのお世話を仰せつかっているので邪険にするのは気の毒だが、今の状況は居心地が悪すぎる。
「足上げてください。ズボンを除けますから」
「うう…」
璃音はタメ息を吐いた。
「パンツくらいは自分で脱ぐよ…」
するとアリスは大きな目をさらに見開いて驚きの声を上げた。
「ええっ!? それが一番のお楽しみなのに…」
「ああ…そう…」
どうやらここでは、まともな人間に出会えるなどとは思わないほうが良いようである。
せっかくの楽しみを奪うようで気が引けないでもないが、璃音は自力で裸になって、湯船に足を踏み入れた。適切な湯加減で、昼間に酷使した足には丁度良い。そのまま真ん中まで歩みを進めて、そこで尻をついて座った。胸の上までが湯に浸かる。
顧みれば、この旅行に出てから風呂に浸かるということはなかった。久しぶりの湯船に、璃音はご機嫌で思い切り脚を伸ばす。
「ああっ、気持ちいいーっ。やっぱお風呂はいいなぁ」
すると不意に背筋に冷たい感触があって、璃音は思わず悲鳴を上げてしまった
「ひゃんっ」
振り向く間もなく、後ろからアリスの手が璃音の腰に絡みつく。
「璃音さま、温かいです…」
「そ、そう? わたしは冷たいんだけど…」
湯の中にも関わらず、アリスの手は妙に冷たい。その指先はしばし璃音の腹を撫でていたが、突然、乳房を下から突く。グレープフルーツ大の質感を誇るそれは、湯から得た浮力で上下に弾んだ。
「凄い。これ、浮いてますね」
心なしかアリスの声が間延びしてきた。感情の起伏とは違う、テープを少し遅回しで再生したような雰囲気だ。
「ま、まあ…自慢じゃないけど」
とりあえず、璃音は感心されたことについてはリアクションをしておいた。するとアリスはさらに背中に密着してきた。どうやら既に下着は脱いでいるらしい。もとより起伏の少ない身体だが、そんな程度ではない硬い感触がした。冷たさは、湯で温まったのか慣れたのか、それほど感じなくなってきたが、消しゴムとか塩化ビニール製品に近い、人肌ではあり得ない質感に璃音は驚いた。だが、人の身体的特徴をどうのこうの言うのは趣味ではないので、何も言わないことにした。
そんな璃音の気を知ってか知らずか、むしろ何も言わないのをゴーサインととったのか、アリスは璃音の胸を掌で抱えるようにして揉み始めた。
これにはさすがに、璃音も黙ってはいなかった。
「ねえ、ちょっと手つきがやらしくない?」
そう言って、アリスの手を押さえる。すると、後ろから驚きの声があがった。
「えっ!? てっきり私は、お許しを頂いたものと…」
「何の許しだよぉ…」
まだ胸に張り付いたままの手を引き剥がしにかかった璃音は、その時初めて、アリスの手に継ぎ目があることに気付いた。手首や指などの関節はもとより、掌も普通ならシワが入っているのと同じようなラインで溝のような継ぎ目が走っている。
「これって…」
振り向いた璃音に、アリスは悪戯っぽく、初めて表情らしい表情を見せて、微笑みかけた。実際には大した変化はしていないのかもしれないが、
「驚きました? 手だけじゃないんですよ」
立ち上がったアリスの裸体には、近くで見なければ判らないほどだが、あらゆる関節や可動箇所に手にあったのと同様の継ぎ目が入っていた。
アリスはくるりと回って自らの身体を璃音に見せてから、言った。
「私、人形なんですよ。昔の、凄い魔術師が作った自動機械なんですって。でも、ヘカテ師に拾われる前のことは覚えてないのですけど…」
つまりは捨てられたということか。
それを聞くと、璃音は立ち上がってアリスを抱き寄せた。どうにも、この手の話には弱い。
「璃音さま…」
アリスは璃音の鎖骨に額をすり寄せ、そして、手の方は背中やら尻やらを撫で回し始めた。焦らすように、触れるか触れないかのところで肌を走る指先に、璃音は膝の力が抜けそうになってしまう。
「うわっ、ねぇ、なんでそうなるわけっ」
璃音が悲鳴を上げると、アリスは上の空で何やら呟いた。
「はあ…璃音さまのお肌、すべすべです。ちょっと日焼けしちゃってますけど、焼けてないところの白さったらないです…。それにしても、ずいぶん大胆な水着をお召しだったご様子で…ハァハァ…」
「…だから、なんでそうなるの」
するとアリスは、今までのような起伏の少ない声で答えた。
「実はですね。私の魔力炉は現代の魔術師にも解明できない機構が盛りだくさんの凄いモノなんだそうです。なんでも、未だに辿り着いた者の無い永久機関の一歩手前である可能性が、あるとかないとか」
「は、はあ…。それと、えっちい手つきで、私の身体を撫で回すことと何の関係があるのかな?」
「炉の反応を励起するためには触媒が必要なんです。そのためにですね」
嫌な予感がしてきた。
「そう…。で、その触媒って、やっぱりお約束の…」
恐る恐る口を開いた璃音だったが、アリスが先手を打ってきた。
「セックスとは関係ないですよ」
「ええっ、そうなの!?」
当てが外れて、璃音は素っ頓狂な声を上げた。
「…璃音さまこそ、えっちいですね」
そう言ってから、アリスは続けた。
「私の炉を回すには、外部から熱エネルギーを取り込まなければならないのです。湯をかぶるんでも良いといえば良いのですが、最適なのが人間の体温なのです。ちょっと火照った程度の人肌が…人間風に言えば好物なんです」
それを聞いて、璃音はアリスの両肩を掴んで、自分から引き剥がした。
「ほう…。つまり、今までのは、人間風に言えば食事ってこと?」
するとアリスは悪びれずに言った。
「そういうことになります。勿論、ただでとは申しません。手っ取り早く体温を上げて差し上げるための手管は、色々と心得ております。なにせ食べるためですので、こちらも必死でして。その甲斐あって、バビロン一のマッサージ師というありがたい称号を頂いております。
今回はですね、タワーのご案内だけでなく、日ごろの疲れを取っていただき気持ちよくお帰り頂くために、私がお世話役に任ぜられたのですよ。今晩は私のマッサージでゆっくりお休みいただいて、明日の午前中はスペシャルエステコースをプレゼントいたします。
…それで少しおこぼれを頂戴するくらいは、いいですよね。世の中基本的にギヴ・アンド・テイクですし、人と魔術の素敵な共生関係といったところだと解釈していただければ、幸いかと」
アリスはまた、無表情のまま微笑んだ。
相手の素性と今までの行動の理由を知った璃音は、納得はしなかったがとりあえず安心はした。
(なるほど。凄い魔力炉を使って出来たのは、人語を話すマッサージ器だったってわけね。そういうことなら、素直にサービスしてもらおうかな。エステにも興味あるし…)
しばし考えて、璃音は言った。
「判った。断るのも悪いし、予定通りお願いするよ」
「ホントですか!」
相変わらず無表情だが、嬉しそうなアリス。さっそく璃音に歩み寄るが、額を押さえられてブロックされてしまう。
「…あのね、あんまりくっ付くのはやめてくれる? わたし、これでも人妻なの」
真顔で言う璃音に対し、アリスは平然と言った。
「知ってます。でも、女の子同士は浮気じゃないですよ?」
どこかで聞いたようなセリフである。もちろん璃音は、過去の自分の所業はさっと棚に上げ、表情を崩さずに言った。
「…そんな詭弁。そういうのはお断りだよ」
そう言われて、アリスは引くことにした。
(無理をしても逃げられるだけだし…。ふふ、言ってみれば相手は十七歳の小娘。六百年積み上げた私の技術に敵うはずなどなし。ここは焦らず…)
彼女の顔にその機能があったら、舌なめずりしていただろう。そんな内心はおくびにも出さず、いや出ないように出来ているのだが、アリスは今までどおりの口調で言った。
「わかりました。では、お身体を清めてから肩をお揉みしましょうか。あとはそうですね…脚のマッサージですね」
「うん、よろしく。…ああ、そうだ。お作法には反するかもしれないけど、お湯に浸かったままでしてくれないかな。ずっとシャワーでお風呂は久しぶりだから、もうちょっと入っていたいんだ」
すると、アリスは間髪入れずに言った。
「いいですよ。私の仕事は、璃音さまに気持ち良くなっていただくことですから。方法や過程などは、どうでもよいです」
璃音を促して浴槽に座らせると、時折湯をかけてやりながら肩を丁寧に揉む。程なく、璃音は大きなタメ息を吐いた。
「はぁ…」
「気持ち良いですか?」
「ヨダレでちゃいそう…」
「うーん、そんなに凝ってないですけどねぇ。やっぱり若さが弾けてるっていうか…改めて触ってみるとお肌ツルツルですし、筋トレとかしてるでしょ」
「そりゃまあ、将来の事を考えるとね」
「そうですねぇ…」
アリスは小休止を入れて、璃音の背中にくっついた。
「うーん、いい感じに温まってきましたぁ…」
目を閉じるアリス。その身体は人肌より少し冷たい程度には温まっていた。身体が火照ってきた分、それが心地よい。
(うーん、これがこの子の食事ってことね。ごはんにされちゃってるなんて、変な気分だなぁ…)
璃音は複雑な心境である。
熱を吸収するというから、気化熱よろしく急激に冷えてしまうのかと思いきや、むしろ快適ですらある。アリスは璃音の肌から自然に放出されている熱に限定して吸っているので、たとえば気分が盛り上がったところで突然冷たいものに触れると醒めてしまうことが往々にしてあるが、そういう事態にならないように調整しているのだ。
「ふふ。脚もほぐしてさしあげますね。むくみは大敵ですから」
いつの間にかアリスの手が太腿に伸びていることに気付き、璃音は抗議の声を上げた。
「待って! そういうのは、やめてよ…」
だが、それどうにも歯切れが悪かった。
「…そう、ですか」
アリスが残念そうに手を引っ込めると、
「あ…」
璃音も名残惜し気な声を出した。
「あの…触りたいの?」
もっと触って欲しい、と顔に出ていないか不安だったが、まずは相手の希望を訊くような物言いをしてみる。もっとも、アリスは全てお見通しである。だが、気付かないフリをして答える。
「はい。だって、璃音さまお身体…見てると触りたくなりますよ?」
ずばり言われて、璃音は赤くなっていた頬をますます紅潮させた。
「そ、それは…褒められてるんだろうけど、素直に喜んでいいものか、判断に困るなぁ…」
「喜んでください。そりゃあもう、色々な意味で…」
そして、湯の中でアリスの白い手が揺れる。指先が璃音の太腿を、つつーっとなぞる。それだけなのに、脚全体が震えてしまう。膝頭からスタートした指先は、内股にもぐりこみ、そこに軽く爪を立ててから、また膝の方へ戻っていく。それを繰り返されると、璃音は幾度もタメ息を吐き、ついには熱い声を洩らしていた。
(だめ、このままじゃ、わたし…)
璃音は残された理性を振り絞って、アリスの手を掴んだ。
「ねえ、そろそろやめにしない? このままだとのぼせちゃう…」
(へえ…意外としぶといんだ。お姉さんと一緒で、一度火が付いたら止まらなくなるタイプだと思ってたんだけど…。まだ本格的にいってないってことかな?)
内心舌を巻いたアリスだったが、どう見ても陥落寸前な獲物を前にして遠慮などはしない。
(ムシロ、ここで止めたら恨みますよね)
アリスは璃音の髪をかき分け、耳元で囁いた。こういう時のために、炉の廃熱を口から出す機能がついているのだ。
「大丈夫です。余分な熱は私が頂きますから、のぼせませんよ。このままゆっくり、すみずみまで、身体をほぐして差し上げます」
そして、アリスは璃音の耳たぶに軽く歯を立てた。
「せっかくでもすもの。綺麗にした方が、夫君も喜ぶでしょう? ここは、私にお任せくださいな」
「…けーちゃん、よろこんで…くれる?」
璃音は殆ど焦点の合わなくなった瞳をアリスに向け、吐息と区別がつかないほど蕩けた声を洩らす。アリスは、しめたとばかりに大きく頷いた。
「それはもう。間違い無しですよ」
「ほんとぉ…?」
「はい」
アリスは抵抗を止めた璃音の身体を抱き寄せ、その頬に唇を寄せた。
4−
翌朝十時。
グッドスピード邸正門前に立つ藤宮侑希音の機嫌は良いとはいえなかった。両脚が彼女の気分を表すように、ヒールが食い込むのではないかというほど石畳を踏みしめている。
(何が悲しくて、この時期にモナコからロンドンに飛ばにゃならんのだ…)
この街の空を見ると、地中海の太陽がひたすらに恋しい。だが、常々気前良くサポートしてくれている伯爵の呼び出しなので、聞かないフリをするわけにはいかなかった。
ドアフォンを鳴らすと、いつもの執事ではなく蛍太郎が飛び出してきた。
「ゆ、侑希音さん侑希音さんっ!」
食いつかんばかりの勢いの蛍太郎をかわし、侑希音はわざとらしく肩をすくめる。
「話は聞いてるって。そんなに慌てるようなことでもないだろ」
しかし、蛍太郎は切迫した表情である。声も悲痛だ。
「でも、璃音ちゃんの身に何かあったら…」
「無いって。お客さんなんだから」
そう言った侑希音の脳裏に、あのバビロンの機械人形が浮かんだ。
(…彼女のサービスを受けた場合、"何かあった"ことになるのかなぁ。ありゃマッサージとエステってことで済むと思うんだが。…少々過激だけど)
色々と思い出して、侑希音は少しだけ胸の鼓動が早まった。
(せっかくだし、あっち行ったら頼もうかな)
それで侑希音の思考がお留守になったのを、蛍太郎は見逃さなかった。
「あのー侑希音さん、僕の話聞いてる? なんか、ぼーっとしてるけど」
「あ? ああ、いや、大丈夫だ。それより、中で話した方がよくないか?」
チェルシーは静かな住宅街なので立ち話も憚られる。話題が話題だけに、なおさらだ。
「別にいいよ。今言ったとおり、これから出発だから。さあ、行こう」
そして蛍太郎は、侑希音の手を引いてガレージの方へ歩き出した。
「えーっ、ちょっと待て。私、着いたばっかりなんだけど」
当然、侑希音は抗議するが蛍太郎は聞き入れない。
「状況は一刻を争うかもしれないじゃないか!」
「そんなこと無いよ。ヘカテ師のお招きなんだから」
侑希音が余裕の口調で答えるので、蛍太郎は怪訝そうに方眉を吊り上げた。
「もしかして、全部知ってる?」
「ま、まあ…」
璃音に贈られたイデアクリスタルを回収したのは侑希音である。そのため、ヘカテのプランを一通り聞かされているし、そういうことならと藤宮夫妻のバカンスの日程を教えたのは彼女である。
期せずして貴重な情報源にめぐり合った蛍太郎は一転して意気軒昂、握りこぶしで声を上げた。
「よぉし! 行く途中に全部話すように」
「うう、待て、待ってくれよ。せっかくここに来たんだから、せめて紅茶くらい飲ませてくれ」
哀願する侑希音。ここは貴族の家だけあって、普通の神経では買おうと思わないような高級茶葉が置いてある。だが、蛍太郎は取り合わなかった。
「なに言ってる、行くぞ。運転は僕がするから、案内よろしく」
「おーい。…うう、これじゃあ移動がメインじゃないかよぉ」
ガックリと肩を落とし、蛍太郎に曳かれていく侑希音。改めてよく見ると、蛍太郎はすぐに出かけるつもりだったのか、キッチリとスーツを着込んでいた。
(伯爵め、体よく厄介ごとを押し付けたな…)
とりあえず、憤懣やるかたない気持ちをグッドスピード卿にぶつけるしかなかった。もっとも、内心でしか出来ないことだから余計に憂さが溜まるだけなのだが…。
「お腹減った…けど…食欲が無い…」
だだっ広いベッドの上で、璃音はタメ息を吐いた。誰もいない寝室は静かそのもので、薄いネグリジェの衣擦れが響くだけだ。
璃音は寝転がったままでネグリジェをたくし上げて、自分の腹をさすってみた。朝食を食べていないことを差っぴいても、ウエスト周りが細くなった気がする。ならばとネグリジェの胸をはだけてみると、日焼け跡は殆ど消えていた。これがバビロンのスペシャルエステの効果ということらしい。
昨夜、浴室でアリスにマッサージを受けた璃音は、そのままベッドに連れ込まれた。その時点で既に朦朧としていた璃音は、ベッド上での施術中に完全に意識を失った。
それから朝になり、目を覚ました璃音は身体が軽くなっていることに驚いた。これなら一段と食事が美味かろうと上機嫌でベッドから身を起こすと、タイミングを計っていたようにドアがノックされ、アリスが現れた。
「おはようございます、璃音さま」
「おはようアリスちゃん。朝ごはんは何?」
バビロンの魔女の朝食がどんなものなのか興味津々の璃音だったが、アリスの返事はつれなかった。
「いえ。申しわけありませんが、朝食は抜きです」
それを聞いた璃音は、この世の終わりが来たかのような驚きようだった。
「えーっ、そ、そんなことって…! まさか、バビロンでは朝は食べないとかっ」
「そういうことではありません。昨夜申しましたとおり、これからスペシャルエステを受けていただきますので。私が認識している稼働時間の半分を費やして作り上げましたマシーンを使用いたしまして、身体の隅々の老廃物を除去し細胞を活性化させます。もちろん、骨格の歪みや筋肉の張りにも対処できます」
「…それと、朝ごはん抜きにどんな関係があるわけ?」
「はい。身体の隅々の老廃物を除去すると申し上げましたとおり、コースには体内洗浄も含まれておりますから、今から何かをお召し上がりになっていただいては困ります。
それに、施術後にはサプリメントを差し上げますし、昼食は普通にお出ししますよ」
「そうなの?」
体内洗浄という言葉に一抹の不安を感じないでもない璃音だったが、せっかくなので黙って受けることにした。もちろん、数分としないうちに後悔することになったことはいうまでもない。
「まず、体内洗浄です」
案内された部屋には何がしかの機械が入っているのであろう大きな箱があり、それから無数のチューブが伸びていた。アリスが箱に触れると、親指ほどの太さのチューブがミミズのようにウネウネと動き出す。
「うわ…キツイのがきたね…」
後ずさりする璃音の肩を押して、アリスは事も無げに言う。
「大丈夫。キツイのは最初だけです。皆さん、途中からは気持ち良過ぎて泣き叫んじゃいます」
「泣き叫ぶって、おかしいよ…」
「まあまあ。じゃあ、麻酔入れますからねー」
「ひゃっ! なんでお尻なのっ。これっていかがわしい薬じゃないよね!?」
「何を仰るやら。いかがわしいも何も、魔術なんて左道詭術の代表選手じゃないですか。それに麻酔自体、どういう原理で働くのか未だによく判ってないんですよ」
「そんな理屈…きゃっ」
尻に気をとられている間にチューブが身体に絡み付いていた。
「いやぁ…入ってくる…っ」
アリスはというと、マシーンに向かって何やら入力を行ないながら言う。
「どうです、痛くないでしょ? じゃあ、これから神経を昂ぶらせるお薬を入れますから、あとは色々とお楽しみくださいね。
…あ。璃音さまの場合、昨日触らせていただいた感じだと普通よりも脳神経網が発達してらっしゃるみたいから、ちょっと効き過ぎちゃうかもしれないですね」
「えーっ、それって危ないんじゃ…」
「大丈夫、大丈夫」
「薬へらすとかできないの?」
「できることはできますが、効きが足りないと苦しいかもしれないですよ? 璃音さまはマゾッ気がおありのようですから、それでよろしければ、そうしますが…」
「…普通でいい。機械にいじめられても楽しくないもん」
「了解しました。ふふ…」
結局、この部屋で璃音が最後に認識できたものは、無表情ながら楽しそうに機械を弄る人形娘の顔だった。
そんなこんなで、いつの間にか気を失った璃音はベッドで一人、目を覚ましたというわけである。
意識がある間でも理性が飛んでしまっていたのでエステコースがどんなものだったのかは殆ど思い出せないが、寝覚めはすこぶる良くて全身の関節が軽く滑らかになったような気がする。体を起こすと、肌に塗られている香油がほのかに鼻腔をくすぐる。
(へぇ…やっぱり良い気分だな)
事前説明では腸を隅々まで洗浄して空っぽにし、全身をマッサージして筋肉の凝りをほぐし骨の歪みを正し、肌からは老廃物を落とすと言われたが、まさにそのとおりのことをされたようで、内も外も綺麗になったわけだから気分がよくて当然だ。
だがしかし。アリスが、
「どうでも良いのです」
と、言っていた"方法や過程"については再考を願いたいと璃音は願わずにはいられなかった。
身体を動かして初めて気付いたが、空腹時に水を飲んだときと同じ感覚が胃の中あった。液状の物が入っていると思われるが、これがアリスの言っていたサプリメント食品だろう。なんでも、コラーゲンやら鉄分やらがふんだんに含まれており、液状ゆえに速やかに吸収されるものだと、朦朧とした意識の中で聞いた覚えがある。吸収を早めるためと無味無臭で美味しくないので腸粘膜から直接摂取させるとかなんとか、記憶が正しければそんなことだったはずだ。つまり言ってしまえば、サプリメント食品というよりも座薬に近い。それで腸が満たされているうえに栄養が足りているので、胃が空っぽに近いにも関わらず空腹感が無いのだ。
(…ちょっと、気分が萎えたな)
施術中を思い出すのは良い気分ではない。ここの魔女たちが皆これをやっているのかと思うと背筋が寒くなった。
(慣れちゃうと…違うのかなぁ。けーちゃんとだって、最初は痛かったしなぁ。それに、綺麗になれるんだったら大抵のことは我慢しちゃうよね)
女子というものは、足に悪いと判っていても可愛い靴を履くものだ。しかし男だって暑いと判っていてもネクタイを締めるし痛くてもタトゥーを入れるのだから、自己顕示欲によるか風習・風俗によるかの差こそあれ、見た目のためにやせ我慢をするのは人類共通の性質なのだろう。そんなことが、ぼんやりした頭に浮かんでくる。しばらく何をするでもなくベッドに身を沈めていると、ドアがノックされアリスが現れた。
「お召し物をお持ちしました」
アリスは未だに身体に力の入らない璃音を立たせると、ネグリジェを脱がせてテキパキと着替えさせる。璃音は抵抗するのも面倒なので為すがまま、むしろ、このお姫様待遇を積極的に楽しむことにしていた。ほどなく、クラシカルかつ豪奢な下着に、それとは似つかわしくない少女趣味なドレスがあつらえられた。黒地にたくさんのリボンが飾り付けられ、さらに襟や袖口には白いフリル。大きく開いた胸元と短いスカートが印象を幾分軽いものにしているが、かなり目を引くデザインの服である。そのうえ、黒いソックスは膝上丈だ。
(けーちゃんが好きそうな感じだよなぁ)
特に根拠は無いが最近の彼を思い起こすと、そんな気がする。ぼうっとしているあいだにヘッドドレスが付けられ、
「ほら、いかがです?」
姿見の鏡が、いかなる仕掛けによるものか自走して璃音の前に現れた。そこに映し出された自分の姿を見て、璃音は思わずタメ息を吐いた。
「うわ…これはちょっとやりすぎなんじゃない?」
「そんなことないですよ。お人形さんみたいで可愛いです」
「ああ、そう?」
褒めているのだろうが、人形に人形呼ばわりされて喜ぶべきなのかどうか。するとアリスは大きく頷いて言った。
「人形の本職が言うんだから、間違いないです」
(本職って…)
ツッコミを入れるべきか迷う璃音を他所に、アリスが続ける。
「もともと綺麗なお肌でしたけど、今はもう本当に玉のように美しくて、黒いドレスによく映えていらっしゃいます」
ベタ褒めされて、璃音は思わず頬を赤らめた。
「…言い過ぎじゃない?」
「いえいえ、そんなことないです。夫君もきっとお喜びになるでしょう」
「そうかな?」
「もちろんです」
アリスの太鼓判を貰った璃音の肌だが、確かに先ほど着替える時にも衣服の滑りが滑らかになっていることは実感していた。服が上物だからだと思っていたが、それだけではなかったということらしい。
「なるほど…なんか凄いね、こんなにしてもらっちゃって。ありがとう」
璃音が感謝の意を表すと、アリスは再び大きく頷いた。
「いえ、どういたしまして。バビロン魔女学校のモットーは『美容と健康』でございますゆえ」
文字通り能面のように無表情なアリスのこと、ふざけて言っているのか本気なのか判らないが、半永久機関で動くマッサージ器や奇怪なエステマシーンがあるのだから、あながち冗談でもないかもしれない。
着替えが済むと、璃音はアリスに手を引かれて部屋を出た。廊下に何人もの女性が行きかっており、昨日とはうって変わって随分と賑やかだ。璃音は、彼女らが交流会のためにロンドンに来ていることを思い出した。
「ねえアリスちゃん。交流会って、どんなことするの?」
アリスはすぐに振り向いて答えた。
「どんなと、いわれると難しいですね。バビロンの魔女はそれぞれに技を磨き、研鑽に励んでいます。魔術師とは真理を追究する学究の徒なのです」
璃音は頷いた。今までに会ったロンドンの魔術師とは趣をことにするということだろう。アリスの言葉が続く。
「つまり、毎日小難しいのとか理屈っぽいのとか、そんなのばっかりなんです。そういうわけですから、我らが研究目的の第一義、"美容と健康"のためには憂さ晴らし…失礼、ガス抜きも必要です。ストレスはお肌の大敵ですから」
「美容と健康が"真理"なわけ?」
「違いますか? 女が歴史を動かした例は枚挙に暇が無いと存じますが?」
「ま、まあ…そうだね」
一応頷いておく璃音。これはあくまでマッサージ器にしてエステティシャンであるアリスの見解なのだから、あとで他の魔女とも話しておくべきだろう。
「それで、息抜きのために交流会を開いてるというわけだね」
「はい、そうです。でも、息抜きのの方法は人それぞれです。対抗戦で破壊の限りを…コホン、己が魔術の粋をぶつけるもよし、好みの殿方と羽目を外すもよし」
「"よし"なんだ、それ…」
璃音は思わず呟いた。気晴らしに男と遊ぼうだなんて学究の徒にしてはいかがなものかと思うが、伝承の中では『魔女は集会を開き悪徳の限りをつくす』とされているので、案外そんなものかもしれない。
「はい。指定した時間に戻ることと、タワーから出ないという二点さえ守れば、あとは好きなように…ああ、もちろん対抗戦は本日午後一時からと決まっておりますが」
「なるほど。じゃあ、こっちに来ていない魔女さんはどうしてるの?」
「八月中はバカンスシーズンですから、ご自宅にお戻りか、そうでなければパズス師の引率で交流会の期間だけキャンプをしてます」
「キャンプ?」
璃音は目を丸くした。
「はい。ヘカテ師がこちらにいらしているわけですから」
「何で?」
「ヘカテ師こそが宮殿の主ですので」
「ふーん…」
主不在の空中庭園には何者も居られないということなのだろうか。いい大人が集まっているのだから留守番くらい誰でも出来るだろうと璃音は思ったが、魔術師の世界は決まりごとが煩わしそうなので、そんなものかもしれないと納得しておくことにした。
「じゃあ、交流会ってそんなに回数はないんだね」
「はい。年に一回、八月の七日間です」
「そうなんだ。色々教えてくれて、ありがとう」
璃音は頷いて、色々と説明してくれたアリスに感謝した。するとアリスは照れくさそうに、
「どういたしまして」
と、笑う。それから、どこか弾んだ声で続けた。
「ところで、璃音さまはいつからバビロンに?」
璃音は首をかしげた。
「わたしは、魔術師になるつもりは無いけど」
「でも、アヴァターラとしての覚醒は九割方済んでしまわれているようですが…」
「そうなの?」
アリスが頷く。
「はい。バビロンではアヴァターラの保護も行なっております」
「わたしには配偶者と保護者を兼ねている人がいるから大丈夫だよ」
璃音が首を振ると、アリスも同様に首を振った。
「幸いにして、あなたは環境には恵まれているようですね。でも、ご無礼ながらアヴァターラは人間とは異なる種族なのですから、不都合が無いとは言い切れないですよ。たとえば、お子様が出来にくいとか」
その言葉に、璃音は真剣にならざるを得なかった。
「そういう話は藤宮家の興りの話で聞いたけど、そうなものなの?」
「はい。過去の例を見ても、人間の女性がアヴァターラの子を孕むことは多いのです。例えば、神話の神があちこちで人間に子供を産ませ歩いた話がありますよね。大体、そんなようなものです。でも、その逆は珍しくて、アヴァターラの身体の修復能力に対し人間の細胞では太刀打ちできないというのが、その理由とされています。結局のところ別種の生物なわけですから交配は難しいですし、出来ても一代雑種である可能性が…」
そこまで言って、アリスは璃音の顔が曇っていることに気付いた。
「あ…もうしわけありません、その…」
アリスは自分が余計な事を言ってしまった事を後悔したが、意外にも璃音が返した声は明るかった。
「いやぁ、連続で異生物呼ばわりはキツイかなぁ」
「すいません」
アリスは素直に謝った。すると璃音は小さく笑みを浮かべた。
「いいよ。それにさ、わたしの家は今まで代々続いてきたわけだから回数こなせば出来るんじゃない?」
璃音の口調が明るかったので、アリスは安堵から一息吐く。
「確かに、経験則で言えばその通りですね。多少調べさせていただきましたが、あなた様のお身体はヘカテ師と似通った機能があるにも関わらず、組成は地球の生物でしたから、可能性は高いです」
「宇宙製と同じ機能だけど、パーツは地球製ってことだよね」
頷くアリス。
「はい、ありていに言えば。逆に、星辰の彼方から来た藤宮式子の場合、肉体を捨てて高次元の存在に生まれ変わることでようやく、あなた様のご先祖様を生み出すことが出来たということでしょうね。このあたりは、ヘカテ師にお伺いしないと確かなことは言えませんが」
「多分、それで合ってるよ。似たようなことを、けーちゃんが言ってたから」
璃音は頷いてから、小さな声で呟いた。
「…でも、実際に出来てみないとね」
それを聞いたアリスは、小さく首を傾げてから言った。
「私には生殖機能が無いので心情的な部分は判りませんが、人間のお子様をお望みであれば現状のままでいるべきでしょう。高次元人には事あるごとに、それこそ顔を洗うだけでポコポコと子を産むのも居たそうですし、璃音さまもそこまで達してしまったほうが簡単なのでしょうが…、千年以上前ならともかく、現代ではそうやって生まれた存在を人間だと言い張るのは難しいですからね」
さすが機械人形だけあって、アリスは理屈だけを淡々と言ってのけた。もしくは、璃音の口調から割り切っているものと判断したのか。確かに今までは割り切っていたところはあるが、昨夜の出来事、何もしないのに傷がひとりでに塞がったことを思い出してしまい、璃音にとってあまり気持ちのいい話ではない。
そんな璃音の内心を察することなく、アリスは今までどおりの調子で言った。
「ほら、ヘカテ師のお部屋に着きましたよ」
蛍太郎を連れた侑希音は、正午前にアカデミーの内部空間に到達した。初めて見る魔術師の総本山に、蛍太郎は少年のように歓声を上げる。
「うわ…すっごいなぁ、これ」
横にいた侑希音は思わず吹きだしてしまった。
「はは。最初は皆そう言うんだよ。すぐ飽きるって」
光の奔流が作り出す空間に塔を中心とした街が一つ浮かぶ様は、少なくとも現代の地球では映画の中でしかお目にかかれない。侑希音にとっては見慣れた光景でしかなかったが、蛍太郎にとっては違う。
「そうかも知れないけど、普通じゃ見られない光景だってことは確かじゃないか!」
このように、何かに感激している者を見ていると、ついつい横から豆知識を吹き込みたくなるのが人の性である。侑希音も例に漏れず、解説を入れた。
「あの光ね、全部が魔術式なんだ。アイボリータワーはアストラル界といわれる異界の門の上に立っていて、その門は、エウェストゥルム、つまり魔力を火山みたいに放出する性質がある。そういうのを普通は魔力源と呼ぶんだけど、これは門という形態にちなんで"パワーゲート"と名づけられている。その上にタワーを建てたのは、もちろん噴き出してくる魔力を利用するためだ。
あのタワーの中枢構造には銃身のライフリングみたいに魔術式の"型"が刻印されていて、それにパワーゲートから吹き出た魔力を注入し、タワーの頂上からそれぞれ所定の角度と速度で噴出させる。魔力は型を抜けることで属性を与えられ式となり、その記述に従った振る舞いをすることで、この空間を維持するってわけさ」
そして、得意げに笑みを浮かべる侑希音。蛍太郎は感嘆のタメ息を吐いたあと、言った。
「なるほどなぁ…。じゃあ、この空間は巨大なインジェクション成形品の組み合わせだってことか。まるでプラモデルだね」
「ああ、そうだな。言ってしまえば鋳物だ。
私たちが使う象徴機械もイデアクリスタルという型に魔力を通すことで実体化するから、あのタワーはクリスタルの大型版と言うこともできるね」
「じゃあ、この空間自体が…」
「そういうこと。タワーによって全自動化されてるから、アカデミーとして存在し続ける以外に出来ることは無いけどね。
ちなみに…」
侑希音は胸元のネックレスを見せた。その先端には赤いイデアクリスタルが輝いている。
「バビロン系のクリスタルは赤。ロンドンで支給されている物は薄いブルーだ。アイボリータワーも本当はブルーなんだけど、発する光が術式によって白色に変わっているのと、外装の色加減で象牙色に見えるんだ」
「なんだよ。それじゃあ、看板に偽りありじゃないか」
「嘘は吐いてないさ。どっから見ても象牙色だろ」
「まあ、確かにそうなんだけど…」
蛍太郎は少し間を空け、一息ついた。
「なんか、がっかりだな。いきなり表示偽装を見せられた気がして、感激の度合いが幾分下がったよ」
「はあ。あの子の婿やってるわりに、意外とデリケートだねぇ」
侑希音が肩をすくめると蛍太郎は、
「君は何を言っているんだ」
と、目を丸くして、それからキッパリと断言した。
「璃音ちゃんのどこに、がっかりポイントがあるんだ?」
それを聞いて侑希音は、
(言わなきゃ良かった)
と、大きくタメ息を吐いた。
「…小さい頃から知ってるから、そういうもんか」
いつのまにかアイボリータワーの前まで来たので侑希音は話を切り上げると、守衛に話を付けに行く。蛍太郎は間近からタワーを見上げ、また感嘆の声を上げた。
「いやぁ、さっきは『がっかりだ』なんて言っちゃったけど…近くで見ると、また凄いな。これってもしかして、一体成形なのかな…」
蛍太郎は視界に入る限りタワーの表面を注視したが、均一にならされた表面にはどこにも継ぎ目が見当たらなかった。戻ってきた侑希音が言う。
「ああ、そうだよ。タワーの外装は地上露出部分は一つのパーツだ。なんでも、宇宙から召還した特殊な石を削り出して作ったらしいぞ」
「ほう…。これは、がっかり返上だな」
感心する蛍太郎の肩を突付いて、侑希音は小さく笑った。
「それほどかどうかはともかくとして、まだまだ驚くことはあるさ。…許しを得たぞ。一緒に中に入ろう。もちろん、タワーのな」
侑希音に促され、蛍太郎は歩みを進めた。ここに来た目的を忘れたわけではないが、膨らみだした好奇心が彼の歩幅を大きくさせていた。
部屋では、ヘカテが相変わらずの穏やかな笑顔で待っていた。
「ごきげんよう、璃音さん。アリスのおもてなし、喜んでいただけたかしら?」
璃音は丁寧にお辞儀をしてから答えた。
「はい。お蔭さまで、浮世の垢が落ちた気分です」
相手に合わせたつもりで、璃音は十代の少女とは思えない物言いをしてみた。するとヘカテは、
「まあ。賢い子ね」
と、ご満悦だった。古い言葉を知っていると頭が良く見えるものである。ヘカテは笑みはそのままに、言った。
「では、昨日差し上げたイデアクリスタルの使い方をお教えしましょう」
その言葉に合わせて、璃音の胸元に下がっていたクリスタルが浮き上がる。
「それが魔術師が使うクリスタルと同種の物だということは、昨日言ったとおりです。魔術師ならばクリスタルに魔力を注入するのですが、あなたの場合は、あなたの力を注ぎ込むことになります。そう、エンハンサーを…です。
ただし、注意しなければならないことがあります。平常ならばエンハンサーには用途に合わせた属性をつけて発現させているはずですが、それではクリスタルに入れることは出来ません。判りますね?」
「はい」
璃音は頷いた。
当然といえば当然の話で、例えば防壁状態のエンハンサーではクリスタルを通過することは無い。なにせ、他の物体を通さないように出来ているのだから。もちろん、攻撃用の光球などは論外だ。
聞き手の芳しい反応にヘカテも頷く。
「よろしい。具体的には純粋なエネルギー体、あなたの場合は…周全相の神体を形成する際の、あの状態ですね。それをクリスタルに当ててみてください」
「巨大化するときの、ですよね?」
璃音の実も蓋もない物言いにヘカテは言葉を詰まらせた。
「…ええ、まあ…あの現象をありのままに表現すれば、そういうことになりますね」
「わかりました」
璃音は目を閉じ、エンハンサーを放出した。いつもならフラッフの形が出来るまで出しっぱなしにするエネルギーを、流れを操作してクリスタルに導く。すると、赤かった結晶体は白熱したかのような光を発し始めた。そして、ある程度エネルギーを送り込んだところで、光が弾け璃音の全身を覆った。
「うわ、これ…ええーっ!」
璃音は思わず悲鳴を上げた。
身体を包んだ光に溶けるように、ドレスが消えたのだ。
衣服が無くなり慌てる璃音を更なる驚きが襲う。ドレスと入れ替わりに現れた黒いゲル状の物体が皮膚に張り付き、身体全体を包み始めた。喉のあたりまでをピッタリと覆うと瞬時に乾き、薄いタイツになった。さらに、その上に白い物がまとわりついて服を形成していく。タイトミニのワンピースに広く長い袖に対して極端に丈の短い上着。そしてショートブーツ、チョーカー、ガーターリング。全過程二秒ほどで、璃音はドレス姿から奇妙な、以前異次元世界で式子に着せられた物に良く似た衣装へと早変わりしていた。
「えーと、なんですか、これ…」
呆気に取られる璃音に、ヘカテは満足げに頷きながら答えた。
「"パワーシェル"。アヴァターラの力を補助する物よ」
「へぇ…」
璃音は感心しながら、指先でパワーシェルに触れてみた。上着の表面は薄くピンクがかっており彼女のもう一つの姿であるフラッフと同じ色で、なぞってみた感じはツヤのある化学繊維のようだ。
(ん?)
そこで、璃音は指先の感覚が妙に鮮明なことに気付き、試しに自分の顔や髪を触ってみた。すると、タイツで覆われているにも関わらず素手でいるときと全く変わらない感覚が得られた。次に、同様に黒タイツで覆われている太腿に触れてみたが、腿側の感覚も何もつけていないのと同様だった。
「気付いたみたいね」
ヘカテが子供を褒めるような調子で微笑む。
「その部分は、着用しているのが判らないくらいに薄くて、通気性がいいのよ。ストレスにならないようにね。でも…」
ヘカテは全く顔色を変えず、いつの間にか手にしていたナイフを投げた。璃音はとっさに避けようとするが、一瞬、ヘカテの鋭い眼光が璃音を射る。
(え…)
どうしたことか、璃音は金縛りにかかったように動けなくなった。そのままナイフが太腿に突き刺さる…かと思われたが、タイツの表面に弾かれて床に転がった。
「異物に対しては、フォースシールドで防御体勢をとるの。これで、不意討ちでやられちゃうこともないでしょう」
「へぇ…」
感心している璃音の後頭部に何かがぶつかる。衝撃でよろめいた璃音が振り向くと、鉈を持ったアリスがバツの悪そうな顔で立っていた。
「ごめんなさい…」
「え、えーっと…」
状況が判らない璃音に、ヘカテが笑う。
「それね、日本での騒ぎ以前に回収したイスマエルの鉈よ。何もつけてないように見える頭にもシールドが張られているから、痛くなかったでしょう?」
ヘカテが言うとおり、鉈で殴られてもヘルメット越しに衝撃を受けたような感じで頭部に直接のダメージは無かった。
「はい、確かに。でも、突然『ごめんなさい』で後ろから殴られたから、罠にでもはめられたのかと思いましたよ」
璃音が口を尖らせると、ヘカテはまた笑った。
「ああ、そういう場合にありがちな状況だったかもね。紛らわしいことしてごめんなさい。シェルの機能を説明したかったし、不意討ちじゃないと意味がなかったから…」
「いえ、いいんです。お蔭で良く判りました」
「そう、よかった。付け加えておくと、フォースシールドの強度はあなたのエンハンサーと同じだから過信はしないでね。シェルの元になっているのがエンハンサーだからなんだけど、逆にどれくらいまで耐えられるかの判断はつきやすいわね。
それから、もうひとつ。フィールドは単純な防壁としてしか働かないから、注意してください。その分、あなたの意思による選択透過性がありますけれど」
「なるほど…。でも、それじゃあ…いきなり耐えられないくらいの攻撃を受けたら拙いですよね」
璃音の言葉に、ヘカテは小さく笑った。
「そうでもないわ。フォースフィールドの耐用範囲を超える衝撃を受けた場合、装甲がはじけて衝撃を吸収するようになってるから…って、なかなか硬いわね」
ヘカテは璃音を指差しては首を傾げる。四度目に指差された時、パチンと風船が割れるような音がして、パワーシェルが弾けた。見ると、白い衣服状の部分が丸々吹き飛んでしまって、璃音はタイツだけの姿になってしまっていた。
「うわぁ…」
璃音はボディペインティングと大差ない状況の自分を、ご丁寧にも鏡で見せられて冷や汗をかいた。
「凄い格好になっちゃった…」
「大丈夫、再実体化させればいいわ。パワーを放出してみて」
ヘカテに言われるままにパワーをこめると、再び衣服が形を現した。
「お、出た出た。そうか、これがあれば防御のためにパワーを放出し続ける必要がなくなるんだ」
璃音が感嘆のタメ息を吐くと、ヘカテは得意げに頷いた。
「そう。でも、それだけじゃないわ。パワーシェルには攻撃補助機能もあるのよ」
「あ。その前に…ひとつ気になることがあるんですけど、いいですか?」
璃音が手を挙げる。
「この、パワーシェルでしたっけ。これを着る前の服は、やっぱり無くなってしまうんでしょうか…」
せっかくのドレスが粉々になってしまったのなら、惜しいことである。だが、ヘカテは首を振った。
「いいえ。シェル装着前に身につけていた物はチョーカーの内部に設けられた湾曲空間のポケットに収納されるの。シェル解除と入れ替わりで元に戻るから、安心して。試しにやってみる? 『シェルよ、戻れ』と思うだけでいいわ」
璃音は居住まいを正すと、言われたとおり、
(戻れ!)
と、声を出さずに念じた。
すると、再び着用時と同様の光を発しながらパワーシェルが分解し、一瞬の間をおいて元のドレスと入れ替わった。
「ホントだ。元に戻ったー」
璃音はドレスが無事だったことを喜んだが、ここであることに気付いた。
「あの、ヘカテさん。パワーシェルを脱着するとき、裸になっちゃってるみたいなんですが…」
するとヘカテは、事も無げに答えた。
「それは仕様です」
「…マジすか」
「はい。だって、お着替えですから」
「そういうもんですか」
「はい」
笑顔で頷くヘカテの有無を言わせぬ迫力に押され、璃音は黙って首を縦に振るしかなかった。
「よろしい。それでは、攻撃補助機能の説明をしますね」
ヘカテのその言葉を待っていたように彼女の背後に張られた幕が揺れ、そこから子供の声が聞こえてきた。
「ねえねえ、ヘカテ。もう僕の出番だよねぇ? 待ちくたびれちゃったよぉー」
見ると、そこに現れたのは璃音やアリスが着ているようなドレスに身を包んだ十歳くらいの子供だった。身長は璃音と同程度で、褐色の肌に銀髪を背中まで伸ばし、瞳はブルー。派手ながらも非常に整った美しい顔立ちをしている。口調こそ男の子のようだが、服装からして女の子だと判断するのが妥当だろう。いや、稀に見る美少女としか言いようのない容姿だ。
口を尖らせて出てきた少女をアリスが叱る。
「クリシュナ。ヘカテ師に対し、無礼ですよ。お呼びあるまで控えよとの命令を忘れましたか」
だが、クリシュナと呼ばれた褐色の少女は悪びれる様子も無く、口を尖らせたままだ。
「ふん、無礼はどっちだ人形め。貴様に指図される筋合いなど無いぞ!」
その傲慢な物言いを、ヘカテがたしなめた。
「こら、言葉遣い」
するとクリシュナは、そっぽを向いて、
「はーい」
と、返事だけかえした。それがそのまま駄々っ子と母親に見えて、璃音は思わず吹きだしてしまった。もちろん、クリシュナは笑われたことに気付き眉を吊り上げる。
「おい女。今笑っただろ? 笑ったな?」
「言葉遣い」
「…はーい」
不機嫌な顔で黙ってしまったクリシュナの頭を撫でてから、ヘカテは璃音に笑みを向けた。
「可愛いでしょう。この子、クリシュナっていうの。あなたと同じアヴァターラの力を持つ者よ」
璃音は自分と同系統の能力を持つ者を見るのは初めてだったので、思わず凝視してしまう。するとクリシュナは眉を吊り上げて怒鳴った。
「こら! じろじろ見るな!」
「言葉遣い」
間髪いれず、ヘカテ。クリシュナはさすがに不貞腐れたようで、
「はーい…って、もういいだろ!」
返事の後に一言付け加えた。するとヘカテは
「よーくーなーいっ。私の前でそんな乱暴な口の利き方は許しません。せっかくの可愛らしい顔が台無しですよ」
「可愛いって言うな!」
クリシュナが頭をかきむしりながら呻くので、璃音は再び吹きだしてしまった。
「おい女。また笑っただろ? 笑ったな?」
「言葉遣い」
また眉を吊り上げたクリシュナをたしなめるヘカテ。全く同じ繰り返しである。ついに、アリスが一言。
「…あの、ヘカテ師。お話が進みません」
小さく咳払いをしてから、ヘカテは言った。
「クリシュナ次第ね」
「ぬぬ…」
クリシュナは歯軋りしていたが、とりあえず静かにはなった。クリシュナ次第とは言ったものの、この場は自分が取り仕切らなければならないことくらいヘカテは承知なので、少し間をおいてから口を開いた。
「実はね、璃音さん。クリシュナってばこんな性格だから友達いないの。だから、同じ能力者のよしみで仲良くしてくれないかなぁって」
「はあ…」
気の無い返事の璃音。
(そりゃそうだ)
とか、
(仲良くするっていう雰囲気でも無いよなぁ)
とは、思っていても決して口に出さない。
「ああ、無愛想なのは気にしないでね。この子ってば照れ屋さんなの。璃音さんが可愛いから」
ヘカテが微笑むと案の定、
「誰が照れ屋だ!」
と、叫ぶ声がした。だがもちろん、それには構わずにヘカテは続けた。
「そういうワケで、親睦を深めるために模擬戦闘をしてもらいたいの。璃音さん、パワーシェルがどれ程のものかちゃんと知っておいた方がいいでしょう?」
「それはそうですが…親睦を深めるどころか溝を作りそうな…」
璃音は首を傾げるが、ヘカテも同様だった。
「そうですか? ウチの業界では、挨拶代わりにお互いの実力を示すことは普通ですけど。人間界風に言うと、『拳と拳で語り合う』…ですね」
こんなことを、
「あなたは何を言っているのですか?」
という顔で言ってのける。
(すいません。…それはどこの人間界ですか? 確かに少年漫画の世界では普通かもしれないですが、現実の人間界においては、社会の隅っこで極めて限られた状況にある集団でしか通用しない慣わしです)
そんな風に思っても曖昧な愛想笑いで頷くだけの璃音だったが、よくよく考えてみれば魔術師だけの世界なのだから技術の優劣がステータスを決めるのは当然という気もしてきた。魔術師しか居ないコミュニティなので、各自の人間性を評価する基準が他に存在しないということは充分ありえる。だがそれにしても、最初にケンカをして互いの位置づけを図るのでは、そこいらの動物と大差ない。
(魔術師っていったら筋肉より頭脳のイメージだったけど、意外と原始的な業界なんだね…)
恐らくは最大の禁句であろう、その言葉を胸の奥深くに留め置いて璃音は涼しい顔で言った。
「いいですよ。まだ説明を受けていない機能があったと思いますし」
珍しく好戦的な物言いをしてしまって、璃音は内心驚いた。新しく貰った物を使ってみたかったというのは勿論だが、わざわざ模擬戦をしなくても普通に説明を聞くだけでよい。それなのにわざわざ荒っぽい手段を了承したのは、先ほどから胸に引っかかっている、アリスの言葉のせいである。
『でも、ご無礼ながら人間とは異なる種族なのですから、不都合が無いとは言い切れないですよ。たとえば、お子様が出来にくいとか』
こういったことは、気にすまいと思っていても簡単に割り切れるものではない。日頃は意識することも無いのだが、それは蛍太郎の気遣いゆえ。だが、その夫は今ここにはいない。精神の安定が少々怪しくなってることに、璃音はようやく気付いた。
(やめとけばよかったかな…)
だが、相手はヤル気満々である。
「よぉーし! ロンドンに来たというのに、ずーっとこんな部屋に押し込められて、ムカついてたところだ。ひと暴れしてやるぜ」
クリシュナは初めて見せる笑顔で、そんなことを言う。璃音は苦言を呈さずにはいられなかった。
「あのぉークリシュナちゃん、女の子のする言葉遣いじゃないよ、それ」
その一言に、クリシュナは目を剥いて反応した。
「な…なんだと! チクショウ、これを見ろ!」
叫び声と共に、クリシュナの身体が光に包まれ、ドレスが消し飛んだ。おかげで、左手首に嵌められていたブレスレットにイデアクリスタルがはめ込まれているのが見てとれた。光の中で、一糸まとわぬ姿となったクリシュナにパワーシェルが装着される。
クリシュナのパワーシェルは璃音の物と比べるとシンプルな形状だった。腰周りを覆う古風な鎧垂と飾り布、そして身体の各部に付けられた金色の輪以外には何もなく殆ど半裸。靴もなく、その代わり足の裏に赤い球体が張り付いていた。球の周りには土星の輪のように金色のリングが回っている。そして、綾布のように赤く光るエネルギー体が肩のあたりから頭の後ろへと、仁王像の飾り布よろしくなびいていた。
シェルの装着を終えたクリシュナは宙に浮かび、不敵な笑みを浮かべた。
「さあ。相手してくれよ、お姉さん」
だが璃音は、クリシュナの格好よりも、まずそこに至る前に見てしまったモノに絶句していた。
「あ、あの…わたし、わたし…」
見てはいけない物を見てしまった、という言葉が出る前にヘカテが言う。
「あれ、璃音さん。何を驚いているのかしら」
「だって、あれ…あれが…あそこに…」
何を見たのかをハッキリ言うのは憚られるので指示代名詞を連発してしまう璃音だったが、それでヘカテには通じたようだ。小さく笑いながら言う。
「言ってませんでしたか? クリシュナは男の子ですよ」
「…聞いてませんが…ま、まあ…今となればそれは見れば…いえ、見てしまったから判るんですけど…」
璃音は肩を震わせて叫ぶ。
「女の子より可愛い顔してるのに、あの格好はないよぉ!」
クリシュナは顔立ちだけでも充分以上に、ドレスを抜きにしても完璧に女の子に見えるくらいなので、歳若い少年らしく華奢であばらが浮くほど筋肉の少ない体が露出されている様は、何か倒錯的な趣さえ感じられる。
「そう? 可愛いと思うけど」
あっさりと言ってのけるヘカテ。璃音は鼻息が荒くなりそうなのを堪えながら、答えた。
「はい、可愛いことは可愛いですが…」
「そうでしょう。そうでしょうとも」
自分が褒められたように満足げな表情で頷くヘカテ。
(面白がってるな、この人…)
璃音は軽い目眩を覚えながらもクリシュナの方へ視線を向けた。すると案の定、彼は眉間にしわを寄せていた。
「くそぉ、可愛いって言うな!」
そして腕を振り上げる。その手には、穂先が炎でできた槍がいつの間にやら握られていた。さらに、足の裏についている球体が強く発光すると、空中をスケートで走るかのようにクリシュナが急速に前進した。その玉はどうやら推進装置だったようである。
とっさにエンハンサーで防壁を張る璃音。クリシュナは、一秒としないうちに一気に距離をつめ、防壁に槍を突き立てた。だが、穂先が防壁のエネルギーとぶつかり合い打ち抜くことはできない。
「ちっ…さすがに硬ぇ」
舌打ちするクリシュナ。璃音は内心冷や汗ものである。
(速い…ってか、この子、本気じゃん)
璃音の心が読めたワケではないのだろうが、クリシュナは薄く笑うと、もう一方の手に炎の槍を実体化させ、二本を同時に、防壁の一点めがけて叩きつけた。強烈な衝撃が防壁を歪める。
(これ…いつかの鉈より凄いかも…)
顔を引きつらせる璃音。その様子は槍から立ち登る炎で全く見えてはいないが、クリシュナは手元の感覚で自らの優位を悟っていた。さらに追い討ちをかける。
「これでどうだ!」
槍が激しく燃え、炎が渦巻く。爆風で部屋が揺れる。だが、熱気が晴れたとき、そこに璃音の姿は無かった。クリシュナが視線を上げると、五メートルほど離れたところでエンハンサーの光に包まれた璃音が身構えていた。爆発の前に、防壁を残したまま逃れていたのである。
「ふう、こりゃ気合入れないと危ないな」
璃音は一つ大きく息を吐いて、エンハンサーの出力を上げた。すると、ヘカテの声が響く。
「璃音さん! パワーシェルをお忘れですよ」
そう言われて、璃音はこの戦闘を始めるに至った理由を思い出した。
「ああ、そうでしたね。それじゃ…」
と、イデアクリスタルにパワーをこめようとした璃音だったが、はたと思いとどまり、柱の影に飛び込んだ。
「璃音さん?」
首を傾げるヘカテ。柱の向こうから光が漏れて、パワーシェルをまとった璃音が現れた。
「お待たせしました。で、攻撃補助というのはどうやるんです?」
「はい、それはですね…」
ヘカテが説明を始めるが、クリシュナは全く空気を読まずに新たな槍を構えて突っ込んできた。
「おおおおおりゃーッ!」
強烈な突きを、璃音は腕で受け止めた。シェルが形成しているフォースシールドが衝撃を受け流し、袖口に触れた槍はそのままびくともしない。
「なるほど」
パワーシェルの強度に璃音が頷くと、クリシュナが笑う。
「それじゃあ、さっきと同じ手で終わりだな!」
もう一本の槍が形成され、打ち下ろされる。
だが璃音は少しも動じず、エンハンサー防壁を展開した。
「弾けろ!」
クリシュナが吼えると、槍が爆発した。だが、炎の中から飛び出した璃音は全くの無傷だった。
フォースシールドとエンハンサー、この二種類の防壁が重なり合うことで単純に強度が上乗せされることを期待した璃音だったが、実際には双方が反応しあってさらに強固な防壁を作り上げるようだ。このパワーシェル、さすが璃音専用というだけのことはある。
「こんどはこっちからいくからね!」
エンハンサー光球を打ち出す。
不意討ちの形になり、クリシュナはそれをモロに顔面に受けた。さらに追い討ちをかけようと両手に光球を形成したところで、ヘカテが"待った"をかけた。
「璃音さん! 私の説明を聞いていなかったんですか?」
「…それどころじゃなかったって」
どうやら、クリシュナの攻撃を受けている間に説明が行なわれていたらしい。そのまま再びヘカテの説明が始まると思い待っていた璃音だったが、その気配は無い。璃音はヘカテの顔色を伺い、そして小さく頭を下げた。
「すいません、聞いていませんでした」
「よろしい」
満足げに頷いてから、ヘカテは続けた。
「そのパワーシェルの攻撃補助機能は…」
再度の説明が始まるが、もちろんクリシュナは意に介さない。今度は光のリングを形成して投げつけてきた。さながらチャクラムである。
「もう、どうしろっていうの!」
回避する璃音。もう一発、チャクラムが飛んできたので、それも避ける。その間に合わせてくれたのか、ヘカテの声が聞こえた。
「服の袖が変化して攻撃をサポートするようになっているんです。パンチ一つにわざわざエネルギーを使わなくていいようにね」
(袖…?)
璃音は手元を見る。袖口は手の甲まですっぽり覆うほど長かったが、主の意識に反応してさらに伸びて膨らみ、袋が閉じるように完全に手を隠してしまった。
驚く璃音に、ヘカテ。
「ほら、後ろ」
振り向くと、避けたはずのチャクラムが軌道を変え、璃音めがけて突っ込んできた。
「うわ…やっぱり!?」
璃音はとっさに腕で身を庇った。すると、袖がさらに伸びて変形し突起が四本生えてくる。よく見ると、指が一本足りないものの掌のようになっていた。指を含めなくても璃音の頭より一回り大きく、しかも主の意のままに動かせるらしい。感覚としては、本来の拳を覆うようにして新たな手が存在しているようなものだ。本来持っていない器官が加わったことで普通なら混乱しそうなものだが、璃音の場合はエンハンサーの複雑な制御をこなすように神経が発達しているので、すんなりと受け入れることができた。
「よし!」
物は試しと、璃音はその"手"を横薙ぎに振り回してみた。これも他の部分と強度的に変わらないなら、恐らく…。
パキン!
と、ガラスの砕けるような音が響く。
璃音の目論みは当たった。
パワーシェルで出来た手に打ち払われ、クリシュナのチャクラムが四散する。さらに、返す体でもう一方の手も変形させて突き出す。すると、
「のわっ!」
クリシュナの悲鳴。
抜け目なく挟撃を敢行したはいいが、拳が当たるスレスレで急制動をかけたためバランスを崩し、背中から転んでしまった。ただし、パワーシェルの防御効果で痛くはないから、床にぶつかった時には悲鳴をあげはしなかった。だが、その代わりに怒りだす。
「くそぉ…。ヘカテ! なんで口出しするんだよ!」
思い切り頬を膨らませたクリシュナだったが、ヘカテは涼しい顔だ。
「模擬だって言ったじゃない。璃音さんにパワーシェルの使い方を覚えていただくのが目的であって、貴方と勝負させようなんていうつもりは最初から無いわ」
「…それじゃあ、なんで僕なんだよ。誰だっていいだろ、そんなんだったら!」
「退屈だー退屈だーって言ってたじゃない」
ヘカテが首を傾げると、クリシュナはさらに頬を膨らませた。
「そうだけどさー」
お預けを食らった格好で口を尖らせるクリシュナだったが、便宜を図ったつもりのヘカテは怪訝な顔をしていた。
「もう、何が不満なんですか。ワガママな子ねぇ」
そう言われると口答えできないらしく、クリシュナは拗ねてそっぽを向く。どうやら戦闘続行という雰囲気ではなくなったようだ。それで璃音は、
「では、わたしはこれで…。ちょっと、疲れたみたいです」
と、言ってみた。すると、ヘカテは少し慌てた様子で璃音に走り寄ってきた。
「あらあら、ごめんなさいね。あの子、璃音さんが可愛いもんだから、良いところ見せようって張り切っちゃって…」
「ぼ、僕のせいかよっ」
図星だったのか、クリシュナは今日初めて彼に会った者でもありありと判るくらいに動揺していた。いずれ、このまま済ますと遺恨を残しそうなので、璃音はクリシュナに笑顔を向けて言った。
「ちがうよ。わたし、長旅の後だから自分で思ってるより疲れてたみたいなの。ひと休みしたら、今度は普通に遊ぼうね」
旅の疲れというのは嘘だが、璃音が遠い日本から来たということはクリシュナも知っているから説得力はあったらしい。クリシュナは璃音の顔を見て、それから慌てて目を逸らし、呟いた。
「判った。約束だぞ」
「うん。じゃあ、あとでね」
璃音は大きく頷いた。どうも最近は年下の男の子に縁があるようだ。子供に懐かれて悪い気はしないが、それがそのまま顔に現れていた。
璃音の微笑を見たクリシュナは、その眩しさに顔を真っ赤にして見入ってしまった。
5−
侑希音はひとり、タワーの談話室のテーブル席で頬杖をついて、ぼうっとしていた。蛍太郎をヘカテの配下のところへ案内し、璃音と会わせるように段取りを付けさせたので、もはや御役御免なのである。ヘカテに顔を出そうかと思ったが取り込み中のことで、適当に時間つぶしをすることになった。
アイボリータワー内部には休憩のためのホールが幾つかあり、この談話室もその一つだ。しかしながら、魔術師に話し好きは珍しいので、いつもは一人か二人がぽつぽつと離れて座っているだけである。
しかし、今日に限っては非常に賑やかだ。もちろんロンドンとバビロンの両魔術師協会の交流会のためで、もうすぐランチタイムだから魔術師たちがパートナーを探し、あれこれとチャレンジをしているのである。だが普段から会話というものに不慣れな彼らは、同じく不慣れな異性を相手に四苦八苦している。
(それこそ、この談話室を日ごろから有効に使ってりゃ、もうすこしマシだったかも知れないけどね)
だが、バビロンの魔女たちも似たり寄ったりのようで、今どき中学生でもしないような、指先が触れるだけで赤面レベルの甘酸っぱいコミュニケーションを、イイ歳をした男女がそこかしこで繰り広げていた。その有様を見ていると侑希音は、昔の学園祭で他校の生徒を客として案内したときのことを思い出してしまう。
(学祭、今でも他所の人とか入れてるのかな。そういや中等部の頃からは毎年、蛍太郎君が来てくれたっけ。…璃音を肩車して、だけどさ。
…って、なに青春プレイバックしてるんだ、私は。そりゃ、先生と別れてからの男関係はサッパリ長続きしないんだけどさ。十年近く前のことを懐かしまなきゃいけないほど寂しくも無いし老けてもいないっての。まだまだこれから、ってか、始まってもいないぞっ)
と、心の中で拳を握ったつもりだったが、どうも経過全てが顔に表れていたらしい。侑希音は、目の前でマックスウェルがニヤニヤ笑いながらこちらを見下ろしているのに気付いた。
「よう、どうした。今日は百面相だな」
当然、侑希音はマックスウェルの態度が気に食わない。眉をひん曲げて不機嫌さを露わにした。
「けっ、うるさいな」
蹴りの一つくらいは飛んでくるかと思っていたマックスウェルは目を丸くした。
「お、今日は随分と当たりが優しいじゃないか。もしかしてあれか? このフィーリングカップルな雰囲気に影響されてるとか」
言われてみれば、周囲の空気は集団お見合い以外の何物でもない。侑希音は大きく肩をすくめるとタメ息を吐いて、
「まあ、それはあるかもしれんが…」
と、言ってからマックスウェルを睨みあげた。
「だがな、お前を相手に選ぶことだけは、絶対に無いね。私は、何が嫌いって根性のねじ曲がったバカが一番嫌いだ。判ったかバカ」
このように面と向かってバカ呼ばわりされると、いくらマックスウェルでも本気でバカにされていることくらい判る。先ほどまでのニヤケ顔はどこかへ消え、かわりにこめかみに血管が浮き出ている。
「ほう。…魔術師をバカ呼ばわりとは、随分と偉くなったもんだな」
だが、侑希音は全く動じない。
「そりゃ魔術師だもの、色々と物は知ってるわな。でも、知識と知能は違うんだぞ」
それを聞いたマックスウェルは、時計の秒針が一回転するまで、たっぷり首を傾げてから吐き捨てるように言った。
「はぁ? 何言ってやがんだ、オメー。ワケワカンネェ」
この男がどんなことを口走ろうと、今さら呆れたりはしない。
「…もういい、しゃべるなよ。ってか、あっち行け」
侑希音は小汚い野良犬を追い払うような手振りをマックスウェルに向けた。
眉間のあたりを丸めたティッシュのようにシワだらけにして舌を出し感情を露わにするマックスウェルから、侑希音は気分が悪くならないうちにと目を逸らした。すると、壁にもたれかかっている一人の男が視界に入る。顔立ちを見るにドイツ系だろうか、非常に整った作りである。無駄な肉は無いがスポーツでつけたような筋肉もあるわけではない長身を、レザーのパンツと女物のブラウスで飾っている。もちろんブラウスはサイズが合わずにピチピチで、それを肌に直に着てチェーンネックレスを下げるという格好は、まさに往年のロックスターの面々を意識しているように見える。そして、彼はそのコーディネートを自然に着こなしていた。
無意識のうちに、侑希音は感嘆のタメ息を吐いていた。
「あいつカッコイイな。ここじゃあ、なかなかお目にかかれないイケメンじゃないか。まさに希少動物、レッドデータ。へへへ、保護しちゃおうっかな〜」
独り言のつもりだったが、マックスウェルが口を挟んでくる。
「…ゲイだけどな、アイツ」
「ほう」
「ヤツはチャールズ・シュタイナー。ロンドンに来て、ミュージシャンになるために営業活動してるんだ。魔術は住居確保のために仕方なくやってるっていう、変わり者さ」
「そうなんだ。…って、おい。営業活動するのはいいが、ここ、ケータイ通じるのか?」
「通じるさ。ロンドン市内なんだから」
あたりまえだろ、という顔のマックスウェルは非常に憎たらしかったが、侑希音は一つ有益な情報を貰えたことには内心感謝した。ついでに、チャールズ・シュタイナーという男についてもう少し訊いてみることにする。
「シュタイナー、だっけ。彼、何でわざわざロンドンで? 音楽だったらドイツだって相当のものだろう」
するとマックスウェルは肩をすくめてから言った。
「音楽のことは、よく知らねぇけどよ」
「まあ、そうだろうな」
「…やめるぞ、喋るの」
「すまん」
「なんでも、デスメタルは嫌いだとか言ってたぞ。両親揃って英国かぶれで、その影響をモロに受けて育ったのさ。ガキの頃はマッシュルームカットにされてたらしいぜ。オレもリバプール生まれだが、あれはどうかと思うぞ」
「なるほど。それで"チャールズ"か」
親の趣味で異国風の名前がつくという話はよくあることらしい。この件に関しては『日本人に一番わかりやすい例は"ピエール・リトバルスキー"だ』と言われたことがあるが、侑希音にはそれが誰なのか判らなかった。だが、ドイツでアニメの影響から日本名が流行し、なかでも"サクラ"が一番人気だったという、どこまで本当なのか判らないような話を小耳に挟んだことはある。
「そういうわけで、ヤツはギター片手にロンドンまで来たってわけだ」
「いいね。いいじゃないか」
侑希音は目を輝かせて頷いた。あまり反応がいいので、マックスウェルの表情に真剣なものが混じりだす。
「だからさ、ヤツはゲイだって言っただろ。やめとけよ、な?」
だが、侑希音はとりあわない。
「この国のミュージシャンがゲイじゃなかったら、説得力無いじゃないか」
「おいおい、なんつー物言いだ。ってか、女はそういうの好きだな…」
あまりの暴言に呆れるマックスウェル。もちろん、侑希音はどの辺りが暴言だったのか気付いていない。
「女に興味が無いなら、逆に良い友達になれるかもしれないだろ。そういう友情に憧れない? ルームシェアしたり、みたいなのよくあるじゃない。うわぁ、夢が膨らむなぁ」
侑希音が本気で目を輝かせているので、マックスウェルは今度こそ本当に、真剣に呆れてしまった。
「知るか。テレビドラマの見すぎだ。お前こそ、口を開くごとにバカになっていってるじゃねぇか」
すると侑希音も、本気で侮蔑の目をマックスウェルに向けた。
「あっそ。つまらんヤツめ。じゃあな、マックスウェル。もう会うことも無いだろうよ」
そう言って立ち上がるとクルリとマックスウェルに背を向け、侑希音はわざとヒールを高く鳴らしながら去っていった。
その後姿、特に小さく引き締まったなかにに柔らかそうな肉が最大限についている尻と、歩みに合わせて細かく揺れる内腿を重点的に眺めながら、マックスウェルは毒づいた。
「けっ。結局は見た目かよ」
その三分後。
「ねえ、チャールズ」
色々と考慮したうえ、侑希音は気安い雰囲気で声をかけることにした。お見合いパーティまがいの交流会の最中という状況なので、初対面でも充分に許されるはずだ。ましてや、女から声をかけるのであれば。
チャールズ・シュタイナーは侑希音をチラリと見て、
「よう、アンタは?」
と、ぶっきらぼうに答えた。
「私は侑希音。藤宮侑希音。あなたと仲良くなりたいんだよね」
ズバリ言われて、シュタイナーは少々困惑したようだ。
「アンタさぁ…」
「もう知ってるよ。別にいいんだ。仲良くなりたいっていっても、私はこんな所でステディを探そうなんて思ってない」
侑希音は小さく笑みを浮かべた。シュタイナーはもう一度、今度はじっくりと侑希音を見て、納得の表情で頷いた。
「まあ、そうだろうな。アンタなら、男には困らないだろ?」
一応は褒めてくれたらしいので、侑希音は微笑で答えた。
「そう見える? 確かに色々寄ってくるけど、あんまり選択肢が多いのも困りもんさ」
「はは。言うねぇ」
「けど、よりによって一番最初に良過ぎる人を引っかけちゃって。それからは苦労してるんだ」
侑希音は、最後に少し自嘲の色をこめた。するとシュタイナーは興味を引かれたのか、侑希音の肩に優しく手を置き、身体を寄せて囁いた。
「場所変えようか」
「確かに。ここの雰囲気は、お子様過ぎるかな」
それから二人は談話室を後にし、シュタイナー行きつけの店へと移動した。
そこは小さなカウンターバーで、昼も夜も無い生活をしている魔術師のため、比較的早い時間から営業しているとのことだ。品のある内装に具合の良い照明が作り出すムードは、アカデミーに置いておくには勿体無いくらい見事に決まっている。
「おかしいと思ったんだ。だって、私を誘う所作があまりに自然だっただろ。『こいつ、女にモテるし、相手したこともあるだろう?』って感じ。店のチョイスも良いしね」
グラス片手の侑希音が悪戯っぽく微笑むと、隣にいるシュタイナーは苦笑を浮かべる。
「いやぁ…バレたか」
シュタイナーはまた苦笑して、続けた。
「仰るとおりだ。でもよ、やっぱり英国のミュージシャンなら、ゲイじゃないと説得力無いだろ」
「確かに。私もそう思うけど」
大きく頷いた侑希音だったが、少しして、その言葉の意味に気付く。
「…それじゃあ、無理してるんじゃないのか?」
すると、シュタイナーは大仰に肩をすくめて見せた。
「ああ、そうなんだ。やっぱり、ダメみたいで…どうしても、その、抵抗が…。あまり男くさいのはダメなんだよなぁ。一回やって度胸がつけば良いんだろうけど。そんなこんなで、かれこれ四年…」
「おいおい…」
侑希音は呆れ顔だ。
「そもそも、男くさいのがダメだったら、ホントにその気なんかないってことだろうよ」
とりあえず正論を言ってみる。するとシュタイナーは真顔で答えた。
「可愛ければ良いぜ。女装に違和感無いくらい」
「より難しく、かつ、より変態的な注文を…」
顔を引きつらせ、侑希音は頭を抱えた。
「…そりゃだめだろ。もう、ドイツでデスメタルやれば?」
だが、その言葉にシュタイナーは激しく首を振った。
「冗談じゃねぇ。オレのデス声なんか聴いたら、親父とお袋が首を吊っちまうよ」
「そうか…。私は嫌いじゃないけどな、デスメタル」
一瞬、揺れたシュタイナーの眼差しだったが、すぐに元の輝きを取り戻す。
「いや、オレはやるぜ。この国でな」
先ほどまで話した事柄はさておき、今の言葉には大志を持つ男だけの気概のようなものがあった。そういう男と話をするのは悪い気分ではない。侑希音は小さく微笑んで、訊いた。
「ところで、パートは何だ?」
シュタイナーは胸を張り自慢げに答える。
「ヴォーカルと、ベースだ」
「ベースか…。ベースといえば、いつだったか私の妹が学園祭で弾くって練習してたっけな。結局は付け焼刃だったから、当日使うコードを辛うじて覚えた程度だったけど。…って、素人の話をしてもしょうがないか。君は、ちゃんと弾けるんだろ?」
少し思うところあって敢えてこういう訊き方をしてみたのだが、ある意味では予想通りの答えが返ってきた。
「もちろんさ。まあ、一回ライヴやるとブッ壊れちまうけどな」
「…なんか、その先は聞きたくないかもしれない」
侑希音がタメ息とともに首を振ると、シュタイナーは達観したような顔で肩をすくめた。
「好き好きだからな」
ジャンルに優劣は無いが、好き嫌いはある。興味を持たない人間を引き込むのに肝心なのは、無理強いしないことと本人の意思で振り向かせることであり、そういうところをシュタイナーはよくわきまえていた。
とりあえずは別の話題を探そうと辺りを見ると、時計が目に入る。時刻は正午過ぎ。まもなく対抗戦が始まる。そのプレイベントとして立食パーティーが開かれていることを思い出し、シュタイナーは侑希音の肩に軽く手を乗せた。
「なあ。これからパーティーに行かないか?」
6−
璃音は部屋のベッドに身体を沈め、何となく天井を眺めていた。すると程なくドアがノックされ、黒のショートヘアの女が入ってきた。年の頃は二十歳くらいか。見た目からは日本人のようで、背は比較的高い。細身とシャープな顔立ちに、シンプルなドレスが良く似合う。
女は一礼すると、
「お客様ですが、お通ししてもよろしいでしょうか?」
と、高めながら落ち着いた声で、しかも日本語で言った。
「どなたですか?」
「ご主人です」
璃音は沈黙した。蛍太郎はグッドスピード邸で待っているはずだし、ここは普通の手段で来られる場所ではないから、その言葉の意味を理解するのに少々の間を要したのだ。
「お願いします」
璃音はベッドから降りてから、そう言った。
場所柄、アリスが用意した精巧な偽者という可能性も考えられなくもないが、蛍太郎がここまで来る理由なら充分に想像できたからだ。
(一日連絡無しだもん、心配させちゃっただろうなぁ)
するとドアの向こうから蛍太郎が現れた。場を辞そうとする女に二言三言、落ち着いた物腰で丁寧に礼を言う。礼を返した女が部屋を出てドアを閉めると、
「璃音ちゃーんっ!」
蛍太郎は一直線に走ってきて、璃音をぎゅっと抱きしめた。
「ああ、良かったぁ。僕、心配で心配で…」
そして先ほどまでとは一転、迷子の仔犬がようやく飼い主に会えたような眼差しで璃音の瞳を見つめてくる。少なくとも、社会的地位のある大人の男が十一歳年下の女の子に見せる顔ではない。だからこそ、璃音はこれが自分の夫に間違いないと確信をできた。
「ごめん、連絡もしないで…」
「仕方ないよ。だってここは異次元空間なんだ。電波が届くわけないさ」
蛍太郎は携帯電話を取り出し、璃音に見せる。モニターを覗くと…端にアンテナマークが三本、キッチリと立っていた。
「あれ…届いてるね…」
「なんてことだ…次元が違っても、市内は市内だということか…っ」
「なんか、騙された気分だねぇ」
璃音が呆気に取られていると、蛍太郎は少しの思案の後、言った。
「考えてみれば、ロンドン塔にも入り口があるくらいだから王室に無許可なワケないんだし、大っぴらにしてないだけで公的機関もここの存在は知っているはずなんだよね。だから、電波が届くくらい普通にありえるっていうか…」
蛍太郎の顔を見て、璃音は後に続けた。
「ぶっちゃけた話、アンテナが協会施設内に立てられてる可能性すらあると…」
「そう、そうだよね」
蛍太郎は頷いた。このことをグッドスピード卿が知らなかったとは思えない。知ってて敢えて言わなかったのか、訊かれなかったから言わなかったのか。厄介払いのように侑希音を呼び出したところをみると後者だろう。いずれ、連絡がついたところで蛍太郎が心配のあまり騒いだことに変わりは無かっただろうから、言っても言わなくても一緒だったに違いない。
多少衝撃的な事実を知り言葉を失った二人だったが、璃音は落ち着いた頃を見計らって話を切り出した。
「あのね、けーちゃん。聞いてもらいたいことがあるんだ」
「なんだい?」
ベッドに腰掛けるように促してから、蛍太郎はいつもの優しい微笑を妻に向けた。
璃音はアリスに言われたことをそのまま話した。能力の影響で身体の変質が進んでいること、それによって子供が出来にくくなる可能性が高いこと。最後まで話したころには目に涙が浮かんでいることに、璃音は気付いた。今まで、そして今でも折りに触れて愛する男との未来を想像するが、そこには当たり前のように二人の間に生まれた子供の姿があった。幼い頃から『子供は三人』と決めていたし、長いあいだ抱いていた夢が終わってしまった気がしていたのだ。
蛍太郎は静かに頷きながら話を聴いていた。璃音が何も言わなくなると、その頬を優しく撫でてから、口を開いた。
「それは、恐らくイスマエルの時に使った力のせいだろう」
はぐれ魔術師を葬り去った黒いアヴァターラが脳裏をよぎる。璃音は自然に出てきたものだから何とも思っていなかったが、今まで無かったものが追加されたのだから、変化があったものと考えるのが妥当だ。あの時、式子は元のまま送り返してくれたはずだから、この変化を起こしたのは紛れも無く璃音自身ということになる。
璃音が後悔の言葉を口にする前に、蛍太郎はその頭を撫でた。
「でも、皆がこうしていられるのは君のお蔭だ。あの時、ああしなければ、もっと難しい状況になっていたはずだよ」
璃音が頷くのを待ってから、続ける。
「それにさ。だからって、君が君じゃなくなったワケじゃない。気にすることないさ。ハッキリ言って、そんな力なんか無くったって君は特別だ。特別に可愛くて、素敵な女の子だよ」
そんなセリフを蛍太郎はさらりと言ってのけた。璃音は頬を真っ赤に染めて、夫の目を真っ直ぐ見つめる。そして、蛍太郎の胸に身を預けた。
「ありがと…。そう言ってくれると嬉しいな。でも、わたしが心配しているのはそういう事じゃなくて…」
その言葉に、蛍太郎は目を丸くした。
「へ? なんのこと? 僕はてっきり…」
「わたしは別に、人と違うことなんか気にしたことなんてないよ。それに、可愛いってことは、素敵なダンナサマをゲットできたことで実証されてるし」
何気にとんでもないことを口にしている璃音。蛍太郎は、璃音の涙は自らの変質が原因だと思い込んでいたから、一瞬思考が混乱してしまう。
(ああ、そうか…子供のことか。そういえば、昔から『子供は三人欲しいなぁ〜』とか言ってたなぁ…)
蛍太郎としては、あるとき『孕ませたい』などと口走ったように子供が要らないということは無いが、今はその過程を重要視している部分はあるし、璃音と一緒に居られれば他のことにはさほど執着していないのである。このあたりは、見事なまでに認識の差が出てしまったということになる。
蛍太郎は一つタメ息を吐いた。
「ごめん、子供のことか…。気が回らなかった」
デリケートな問題だけに蛍太郎の口調は重い。だが、璃音は表情を緩めて小さく首を振った。
「いいの。それに、普通より回数こなせば確率上がるし」
柔らかい笑みを浮かべ、蛍太郎にとっては天使にも見えるその顔で、璃音は言った。蛍太郎は呆気にとられ辛うじて言葉を搾り出す。
「う…。まあ、その可能性が高いね」
すると、
「よし、しよう! ほら!」
と、璃音は嬉々として蛍太郎の胸に飛び込んできた。弾みで、二人揃ってベッドに転がる。蛍太郎を組み敷くような体勢の璃音は、彼のネクタイにいそいそと手をかけた。思わず、蛍太郎は悲鳴に似た声を上げていた。
「待って、待ってってば!」
璃音の手が止まる。
「そんなに焦ってもしょうがないって。こういうことはね、作業になっちゃダメだよ。楽しまないとね。そうじゃないと、意地悪な子が産まれちゃうかもしれないぞ」
目を丸くしていた璃音は、蛍太郎の言葉に眉をひそめた。
「う、それは困る…」
すっかり表情を曇らせてしまった璃音の頬を下から包むように撫でながら、蛍太郎は可能な限り優しく、言った。
「時間はまだまだあるんだから、ゆっくりね」
璃音は嬉しそうに、顔をほころばせ、頷いた。
「うん…」
それから、璃音はゆっくりと蛍太郎の胸に身を預ける。夫の顔を見上げ、鼻にかかった声でおねだりする。
「じゃあ、しようよ〜」
「いや、だから…」
先ほどの話がまるで通じていないような雰囲気なので、蛍太郎は言葉に窮する。だが、璃音は大げさに首を振った。
「違うの。熱烈な愛の告白を受けて、奥さまはメロメロなの」
これまた突拍子も無いこと言われ、蛍太郎はマヌケな声を出してしまう。
「…はい?」
それでも璃音は夢見る瞳で、うっとりと語った。
「特別で、可愛いくて素敵だって言ってくれたじゃない。そういうのって、何度聞いても良いものなんだよ」
自分の言葉がしっかりと効いていたことを確認し、何とも無しに頷いた蛍太郎だったが、ここで、ある事実に気がついてしまった。
「それじゃあ…、なに? 話が食い違ってるのに、わざと止めなかったの?」
そう。蛍太郎が重点だと思っていたのは『生物学的に人では無くなること』だったのに対し、璃音が気にしていたのは、あくまで『蛍太郎との間に子供が出来にくくなること』だったのである。そこを勘違いしたまま蛍太郎は璃音を慰めようとしたのだが、本人はそのズレを指摘することなく、黙って蛍太郎の言うことを聴いていたことになる。
蛍太郎の推論に正解のお墨付きを与えるべく、璃音は頷いた。
「うん。聴きたかったんだもん」
あまりに事も無げに言われ、蛍太郎は頭を抱えた。
「う、な、なんてことだ…。タチ悪いよ、それ。話の論点がずれてることを承知で、止めないなんて…。僕だって色々考えて…」
あのセリフが、今さらになって恥ずかしくなってきた。
「てへ。ごめんね」
「こ、このぉ! おしおきだ! 悪い子にはおしおきだぞ!」
蛍太郎は、ガバッと起き上がり逆に璃音を押し倒す。肩を押さえて組み敷くが、言葉とは裏腹に顔は笑っていた。
「きゃーん、やめてぇ。けーちゃんがいじめるー」
璃音も実に嬉しそうだ。それに煽られて、蛍太郎は手に力を込める。
「よーし、いっぱい泣かせちゃうからな」
「うん。イヤって泣いても、やめちゃダメだよ」
璃音が微笑を浮かべると、その耳元で蛍太郎は囁いた。
「もちろんだ。覚悟して」
「うん…」
ふたりの腕がお互いを手繰り寄せ、唇が重なる。
貪るようなキスのあと、璃音は蕩けてしまった眼差しで夫の顔を見上げた。これからされることを想像するだけで胸がどんどん高鳴っていく。
ひとしきり、蛍太郎の顔をうっとりと眺めて、璃音はゆっくり目を閉じた。
リボンが解かれ、ドレスのボタンが外されていく。鎖骨のあたりを指先で撫でられ、璃音は熱い吐息を洩らした。
「…今日は一段とお肌が綺麗だね」
蛍太郎が賞賛すると、璃音はすっかり甘く溶けてしまった声で答える。
「ここで、エステしてくれたの。脱がして、いっぱい見ていいよぉ」
それに促されドレスに手をかけた蛍太郎は、だが不意に思いとどまった。
「いや、しかし…このドレス可愛いな。脱がすには惜しい…そうだ、いっそ着たままで…ッ」
「ダメだよ。シワになっちゃう」
「むむむ…」
本気で悩む蛍太郎。だがそれも、璃音の次の言葉で吹っ飛んでしまった。
「見て欲しいの。お願い…」
本来なら『見せてください』とお願いすべきところをおねだりされては、もはや抗う術などない。蛍太郎はドレスのボタンをさらに外し、下着に指をかけた。
―きっかり一時間後。
璃音は蕩けた身体を蛍太郎の胸に預け、まどろみかけていた。蛍太郎が頭を撫でられるたびに、心が安らぎにつつまれていくような気がしてくる。
(このまま、眠っちゃおうかな…)
だが、リラックスしきった身体は思いもよらぬ反応を示した。
ぎゅるる〜…。
そんな音が、腹から聞こえてきた。璃音は慌てて身を起こし、蛍太郎の顔を見る。蛍太郎は笑いを堪えていた。璃音は顔を耳まで真っ赤にして目を伏せた。
「…うう。お腹すいちゃった」
あまりに悲しげなその声に、蛍太郎はが言葉をかけようとすると、勢い良くドアが開け放たれた。
「お楽しみタイムは終了のようですので、ちょいとお邪魔しますよー」
アリスである。
目を丸くする璃音と蛍太郎に向かって、アリスは威勢良く言った。
「さあさあ。シャワー浴びたら、パーティに行きますよ。料理がいっぱいですよー!」
それを聞いた璃音は一転して顔を輝かせた。
「ホント? 行く行く!」
そして璃音はベッドを飛び出し、浴室へと駆けて行った。その後姿を、蛍太郎は苦笑しながら見送った。
「なんていうか、女の子ってタフだよなぁ…」
モドル