#9
1−
 立食パーティは舞踏会もできそうなほど広大なホールで実施されていた。豪奢なシャンデリアの下に幾つものテーブルが並び、大皿に料理が山と盛られている。その間を縫うように魔術師たちが行き交い、あるいは立ち止まって会話をしている。皆がパーティ用のドレスアップをしているわけではなく、ローブ姿など魔術師として行動するためのスタイルをとっている者もいる。対抗戦を控えていることもあり、まさにそれぞれの勝負服ということだろう。
 そんな周囲の賑わいなど目もくれず、璃音はテーブルの一つに陣取って料理に舌鼓を打っていた。蛍太郎は横でその様子を見守る。この辺りは休憩所のようなもので、ゆっくりと食事がしたいとか歩きつかれたとかいう者が集まるために用意されたスペースだ。よって、ここで料理を食べること自体は決して悪くは無いのだが、璃音の場合は量が量だけに、少々の居心地の悪さを蛍太郎は感じずにはいられなかった。もちろん璃音はそんなことはお構い無しに、半日ぶりの食事にすっかり夢中になってしまっている。
「けーちゃん、アボガドのお寿司美味しいよ」
 場所柄、寿司といえども生魚が乗っているということはないようだ。瞬きする間に寿司四貫が消え、それに合わせたようにドレス姿の人形娘が大きなトレイを持って現れた。
「璃音さま、ローストビーフとラザニアをお持ちしました」
「ほう、こりゃ美味そうだなぁ」
 蛍太郎は好物のラザニアを前に頬を緩ませたが、それをアリスが無表情ながらも殺気の篭ったような目で見上げてくる。
「お召し上がりになりたければ、ご自分で行ってお取りになって下さいませ。こちらは、璃音さまのためにお持ちしたものです」
「は、はい…」
 思わずたじろぐ蛍太郎。仕方が無いので、自分の料理を確保すべくその場を離れた。すごすごと引き下がる後姿が寂しい。璃音は自分の夫が蔑ろにされて良い気分がするわけもなく、アリスの肩を小突いて苦言を呈した。
「あのね。わたしに良くしてくれるのは嬉しいんだけど、そういうのはやめてくれない?」
「申しわけありません。でも…」
 アリスの動かぬ眉が陰る。
「でも?」
「くやしいんです。だって、あの方の手で、璃音さまがお喜びになっているのを見ると…」
「は?」
 首をかしげた璃音だったが、すぐにその言葉の意味を悟る。
「…覗いてたの!?」
 アリスは慌てて首を振った。
「そんな…。パーティのご案内をしようとお部屋に行って、お取り込み中のようでしたから、扉の前で控えていただけです。…ちょっと、隙間空けましたけど…」
「そ、そう…」
 璃音は顔を耳まで真っ赤にして息を呑んだ。当然といえば当然だが、閨事を覗かれるなど初めてのことである。だがよく考えてみれば、ホテルならともかく、人様の所有する普通の部屋で昼間からコトに及んでしまったのだから、璃音たちにも分別があったとは言い難い。あまりアリスを責めるわけにもいかないだろう。
「ま、まあ…見られたのは、わたしも悪かったから…」
「やっぱり、お薬の影響が残ってたんですね」
 アリスが言うと、璃音は言葉に詰まった。
「えっと…そんなことは…無かったと思うけど…」
「あらまあ、せっかくフォローしてさしあげようとしたのに。それじゃあ璃音さまは、"どこでもサカる淫乱女子高生幼な妻"だということで、よろしいのですね?」
「よ、よろしいことあるかぁっ」
 璃音は思わず大声をあげてしまい、それから慌ててトーンを落とした。
「…ねえ、アリスちゃん。わたし、そんなに凄かった?」
「ええ、そりゃあもう」
 璃音は赤かった頬をますます赤くした。
「そっか…。最近、気持ちよくなってくるとすぐに我を忘れちゃうんだよね…」
「そうですね。私がお世話申し上げた時も、なんだかんだで言って出来上がるの早かったですものね」
「うう…改めて言われると恥ずかしいなぁ」
 ただでさえ小さい身体をどんどん小さくしていく璃音を横目に、アリスは口惜しそうに言う。
「だからですよ。ご主人の手であんなに喜んでいる璃音さまを見ると、なんだか私が無理矢理に手篭めにしたみたいで、変な罪悪感がふつふつと沸いてくるんですよぉっ!」
(手篭めって…。そういうつもりは露ほどもなかったと、そう言いたいわけね…)
 そう思ったが、事がややこしくなると困るので口にはしない。代わり璃音は、今まさに涌いてきた疑問をアリスに投げかける。
「でもさ。あのときは、『綺麗になったら、だんなさまもお喜びになりますよー』みたいなこと言ってたじゃない。わたしとけーちゃんがらぶらぶになったら、それはサービスの結果として成功なんじゃないの?」
 するとアリスは、ぷいっとそっぽを向いた。もしも彼女のその機能があったら、眉をひん曲げて唇を尖らせているはずだ。
「そんなの、方便に決まってるじゃないですか。言い訳を用意してやると、女はガードが下がるもんなんですー」
「むっ…たっ、確かに」
 それが一般論かどうかはともかくとして、昨夜からの自分にはしっかりと当てはまる。そういう経緯があったとはいえ、アリスのエステは璃音にとって良い効果をもたらしてくれたのは事実。璃音は素直に感謝の意を表した。、
「でも、けーちゃん喜んでくれたし、わたしも、その…良かったし…。アリスちゃんのお蔭だよ。ありがとう」
 その言葉を聞いたアリスは一瞬動きを止め、それからぎこちなく璃音に眼差しを向けた。
「ほ、本当ですか?」
「うん」
「手篭めにされたとか、思ってません?」
 璃音は首を振った。
「思ってないよー」
 嘘も方便である。
 するとアリスは両手を広げ、もちろん無表情のまま、飛び跳ねて璃音に抱きついた。
「璃音さまっ」
「うわっ」
 唐突に、それなりの重量を持った物体にしがみ付かれ璃音はバランスを崩しかけるが、そこは持ち前のバランス感覚で持ちこたえる。体勢を立て直した璃音が改めてアリス見ると顔を胸に埋めていたが、今までと違って邪まな意思は感じられなかったので、抱きかかえるようにして頭を撫でてやった。するとアリスは小さく肩を震わして、呟く。
「璃音さま、大好きです」
 それはもちろん、璃音の耳に届き、
「ええーっ!」
 悲鳴に近い声を上げ、璃音はアリスの両肩を掴んで自分の胸から引き剥がした。
「な、何するんですかぁ」
 不満そうなアリス。璃音は本気で困惑顔である。
「だって、わたし…人妻なんだから…そんな事いわれても困るよ」
 だが、アリスは口元だけで小さく笑い、実はそれが彼女にとって精一杯の笑みなのだが、悪戯っぽく指先を唇にあてる仕草で言った。
「大丈夫ですよ。好きっていっても、璃音さまと結婚したいとかベッドの上で泣かせたいとか孕ませたいとか、そういうんじゃないです。…ベッドの上でっていうのは…したくないといえば嘘になりますが…。とにかく、親愛の情を寄せているという風に解釈していただければ」
「お友達になりたいっていうことだよね」
 アリスは俯いて、答えた。
「ご無礼は承知ですが…まあ、そういう風に…」
 璃音はアリスの肩を引き寄せ、その目を真っ直ぐに見つめた。 
「無礼だなんて。わたしはそんなに偉くないよ。いいんじゃない、友達で」
「はい…」
 見つめ返すアリスの目にはどこか怪しい光が感じられなくもないが、璃音はとりあえず無視することにした。それよりも、行為を覗き見られたと知ってから気になっていたことがあったので、訊いてみることにする。
「ねえ、アリスちゃん。訊きたいことがあるんだけど…」
「なんなりと」
 璃音は声を潜める。
「けーちゃんって、どう?」
「どう、と申されますと?」
 質問の意図が判らず、アリスは首をかしげた。璃音はさらに声を潜め、アリスの耳元に顔を寄せて続ける。
「あのね…。友達の彼氏の話と比べると、けーちゃんって、あのときの、格好…っていうか…」
「体位ですか?」
「うん、それ。そのバリエーションが多いし、タフなのかなぁって思うんだけど、実際のところどうなのかな? わたし、他の男の人なんて知らないから」
「つまり、第三者の目による感想と分析をお伺いなわけですね? どうせ覗かれたのなら」
「うん」
 璃音が再び顔を真っ赤にして頷くと、アリスは腰に手を当てて、すっかりお姉さん気取りのポーズで答えた。
「そうですね。まさに、その通りです。上手いですよ、相当。璃音さまのお身体を喜ばせることに関しては、悔しいですが私以上と認めざるをえません。惜しむらくは、璃音さまには比較材料が無いから、その良さを完璧に理解するのが難しいということですが…なんなら、ここで何人か適当に試します?」
 アリスは冗談めかしていたが、璃音は真顔でキッパリと否定した。
「絶対イヤ」
「でしょうねぇ。あの方より良いのなんてなかなかいらっしゃらないかと。アレも大きいですし」
「そうみたいだけど、…そんなにおっきいの?」
「はい。ワールドクラスですね。少なくとも、アジアレベルは超越してらっしゃいます」
「そんなに?」
「じゃあ、対抗戦が終わったら適当に覗き見してみます? 後学のために」
「…いらないです」
「でしょうねぇ。ここにいるような、ジャガイモみたいな男の裸なんか見ても、つまんないですよね」
 アリスは同意を求めるような口調だったが、璃音は曖昧にしておいた。男の体に興味が無いではないが、あまり大きな声で言えることでもない。
「ま、まあ…」
「ふーん、夫君以外には興味無しですか」
 アリスは璃音の返事をそのように解釈したが、不都合はないからそのままにしておく。璃音が何も言わないので、アリスはそれを肯定と受け取った。
「なるほど。それでは、夫君のセックス以外の部分はどうなんです? ルックスは見事なものでしたけれど」
「そうだなぁ…。ごはんいっぱい食べさせてくれるし、優しいし、家事全部やってくれるし…姉さんたちとも仲良くしてくれるし、理想のダンナサマだと思うけど」
 最後の方で、璃音は自分でも気付かないうちに顔をほころばせていた。アリスは少々呆れた様子だ。
「それ、もはや惚気ですね。つまり、今まで出た要素を全てあわせると、非の打ち所のない完璧超人ということですね。…欠点はないのですか?」
 すると璃音は思いきり首をかしげた。
「さあ…思いつかないなぁ」
「それじゃあ参考までにお聞きしますけど、付き合い始めたのはいつ?」
「わたしが六つのとき」
「…そのとき、夫君は?」
「十一年上だから、十七歳だよ。今のわたしと一緒くらいだね」
「初めてのキスは?」
「付き合い始めてから三ヶ月後の九月二十六日に、けーちゃんのお家で。…三ヶ月でキスって、早い?」
 璃音が真顔で訊いてくるので、アリスは今までどおりの無表情で答えた。
「そんなものでしょ。それ自体は」
 そう答えながら、アリスは内心で頷いていた。
(ありましたね、欠点…)
 その言葉は敢えて胸の奥にしまいこみ、アリスは質問を続けた。
「じゃあ、初セックスは?」
「十六歳の誕生日だよ。結婚初夜」
 テンポ良く質問が続き、つい口を滑らせてしまった璃音だったが、ここがパーティ会場である事を思い出し顔を真っ赤にして頬を膨らませた。
「なんてこと言わせるのぉ…」
「いいじゃないですか、減るもんじゃなし。周りへのちょっとしたサービスだと思えば」
 そう言われ、璃音は慌てて周囲を見回す。何人かが目を逸らした気配があった。
「うう…なんてこと…」
 頭を抱えて呻く璃音をからかうように、アリスは平然と言う。
「初めてイッた日と、初めて後ろでした日も知りたいのですが」
「教えるもんか!」
 食いつかんばかりの勢いの璃音。だが、それでもアリスは動じない。
「覚えてはいるんですよね?」
「そりゃまあ…記念日だから。…って、そんなこと訊いて何になるの?」
 するとアリスはさらりと答えた。
「何になるって、面白いですよ。私が」
 相変わらず眉一つ動かないが、声のテンションが幾分高いので楽しんでいることは伝わってくる。璃音は思い切りタメ息を吐いた。
「はぁ…。楽しんでいただけたなら幸いだよ…」
「はい。それはもう。では本当に、結婚まで何もされなかったんですか?」
 アリスが居住まいを正して改めて訊くと、璃音は幾分慎重に答えた。
「キスしたり抱っこされたりはしたけど、それ以上は…。あ、おっぱい揉まれたことはあったよ」
「では、結婚するまでは裸を見せたこともなかったと」
「うん。…そう」
 璃音が頷くと、アリスも調子を合わせるように頷いた。
「なるほど。それでは、夫君は本当にお優しい方なのですね。璃音さまが結婚できるお歳になるまで、つまり十年間待ったのですから。私、先入観でロクデナシかと思い込んでいましたから、…先ほどのご無礼を詫びなければいけないですね」
 その先入観は情報の入手先に由来するので彼女自身の責任ではないのだが、アリスは後悔から目を伏せた。だが直後、意地悪く笑う。
「…十年間、禁欲してたかどうかは…いいですか、この際ねぇ」
 イイ話で終わらすのかと思いきや、余計な一言を付け加えてくるのが彼女の芸風のようだ。だが璃音は、アリスが思ったほどには動揺しなかった。一応周りを見て、蛍太郎の姿がないことを確認してから、小声で言う。
「…酔っぱらった時に聞き出したけど、我慢できなくなってその手のお店に行ったら…わたしの顔が頭に浮かんで勃たなかったそうで…」
 アリスは顔色を変えずタメ息を吐いた。
「は、はあ。じゃあ、やっぱり完全にそっちの道に…」
 首を傾げる璃音。
「そっちの道?」
「ロリコン」
 アリスがキッパリというと、璃音は眉を吊り上げた。
「違うよ。もしそうだったら、今のわたしと結婚してるわけないって。それに、五年生くらいからブラしてたから、そういう趣味の人の食指は動かないような感じだったみたいだし」
「…身近にいたんですか、そういう人」
「うん。友達の伯父さん。小児科医やってるの」
「へぇ…」
 それは羊の群れに狼を放り込んで、かつその狼に勝手御免の許し状を与えるようなものではないかとアリスは思ったが、東の果てにある異国の風習はよく知らないので言及はしないでおく。
「でも璃音さま。どうしてロリコン方面に防波堤を巡らすんです? 普通に…」
 突如アリスは無表情のまま身体をくねらせ、いつもの棒読み口調で、
「『だってぇ〜。わたしのダーリン、一途だから〜ぁ』」
 と、言うと瞬時に直立姿勢に戻る。
「…って惚気れば、アホらしくなって誰も追求しないですよ」
 人形が抑揚なく『ダーリン…』云々言うのは非常に気色悪かったが、アリスの言うことはまさに正論であった。璃音は思わず息を呑む。
「そっか…そういう手があったね…。でも、そういうこと言ってると、『やっぱり巨乳はバカだ』って思われそうでイヤなんだよね…」
 璃音が眉をひそめると、アリスは事も無げに言った。
「別によろしいのでは? 貧乳でもバカはバカですから。それに、璃音さまは学業優秀でいらっしゃるのですから、胸にも脳細胞が詰まってるんじゃないか、くらいに思われているでしょうし。…まあ、もし本当にそうだったら、今ごろは脳震盪と脳挫傷で酷いことになってるでしょうけど。お好きなんですね、背面騎乗位。お尻も一緒に弄られて壊れ気味なくらいに喜んでらっしゃいましたよ」
「…正直に言って。どこに隠れて覗いてたの?」
 出入り口からベッドまでは相当の距離がある。普通に見ても表情を伺えはしないだろう。
「先ほど申し上げましたとおり、扉の隙間からですよ。私の目は最大で五十倍ズームできますもので」
「ああ、そう…」
 その言葉を聞くまで、璃音は相手が機械だということを忘れていた。そういうことなら、一応は納得のいく答えではある。アリスは得意げに言った。
「判っていただければ、いいんです」
 そうしていると、料理を持った蛍太郎がおずおずと戻ってきた。 
「…ただいま」
 心なしか、声も細い。アリスは蛍太郎に真っ直ぐ視線を向け、恭しく一礼した。
「おかえりなさいませ」
「は、はい…」
「先ほどのご無礼をお許しください。璃音さまから伺いました。あなた様は非常に立派な理想の夫であると。私が璃音さまにお仕えしている間、蛍太郎さまとお呼びしてもよろしいでしょうか」
 蛍太郎にしてみれば突然の様変わりなので驚きと警戒感を抱かずにはいられない。だが、人前でいびられるよりはずっといいので、拒否はしないことにした。
「はい、いいですけど…。なんで?」
「ですから、奥様の熱意溢れる説得によるものですよ。ねえ、璃音さま」
 突然のことに璃音も驚いていたが、自分に話を向けられ、
「うん、そう。そうなの」
 と、大きく頷いた。まさか、アリスの心変わりが猥談の結果だとは言えない。
「では、よろしくお願いします。蛍太郎さま」
 アリスは初めて璃音と出会ったときと同じように、スカートを摘み上げて可愛らしくお辞儀をしてみせた。
「どうも、よろしく」
 ぎこちなく応える蛍太郎に改めて視線を向け、アリスは小さく微笑んだ。ある程度は侑希音から聞いているので彼のついて知ってはいるが、もちろん今日聞いたような種類の話は初耳だ。
(璃音さまの仰る通りだと、この方は十七歳までに色々な手管を習得していたことになるんですよね。それまでなにがあったんでしょう。…天才は早熟ということですかねぇ)
 そのあたりは、いずれ本人に訊いてみようと心に決めたアリスだった。
 璃音は蛍太郎とアリスが仲良くなったことを大いに喜び、二人の腕を取って満面の笑みを浮かべた。
「よかった。それじゃあ…皆揃ったから、ごはんたべよーっ」
 威勢の良い璃音の声につられ、蛍太郎も拳を握る。
「よっしゃー」
 好物を前に、テンションが上がる。フォークを握ったところで、後ろから肩を叩かれた。蛍太郎が振り向くと、そこには侑希音と、見たことのないドイツ系青年の姿があった。
「あ。侑希音さん」
 蛍太郎があまりに普通に驚くので、侑希音は憮然とする。
「あ、じゃないよ。誰がここまで連れて来てやったと思ってる」
「そういえばそうだったね。はは…」
 笑ってごまかそうとしたが相手の顔色は変わらなかったので、話を変えてみる。
「ところで、その人は誰? 彼氏?」
 侑希音はあまり表情を変えず、答えた。
「そんなんじゃないよ」
「へぇ…」
 蛍太郎が疑いの視線を向けると、侑希音は呆れたとばかりに肩をすくめた。
「それより、自己紹介でもしたら?」
 そう言われてようやく、蛍太郎と侑希音の連れの青年、シュタイナーはお互いに名乗りあい、握手を交わした。するとアリスが、蛍太郎の腰の辺りを突いて身体を寄せ、小声で言った。
「シュタイナーって、ゲイなんです。だからあまり誘惑しないでくださいね。浮気するわけにはいかないでしょう?」
「はあ…」
 蛍太郎は気のない返事をする。フェデレーションにいた頃に同性愛者の同僚や職員を何人も目にしたし、蛍太郎自身にはそういった趣味はないが嫌悪感を持ってもいない。そもそも趣味に貴賎は無いし、人間性の軽重にも関係無い。
 シュタイナーは蛍太郎のリアクションの薄さに驚いたが、平常どおりに接することにする。
「以後、お見知りおきを…」
 と言いかけ、自分の服装や髪型とのギャップに気付き、言い直す。
「よろしくな、ベイビー」
(ベイビーってなんだよ、その格好で…)
 蛍太郎だけでなく、侑希音も内心でそう呟く。それから侑希音は、周りには目もくれずひたすらメシを食らう妹の後頭部を小突いた。
「おい」
 それで初めて璃音は姉が来ていることに気付き、顔を上げた。
「あ。侑希ねぇ、いたんだ」
「いたんだ、じゃあない。…まあいいや」
 侑希音は諦め顔で振り向き、シュタイナーに妹を紹介した。
「こいつは私の妹で璃音。蛍太郎の嫁だ」
 シュタイナーは目を丸くした。
「ほう。これまた、随分若くて可愛らしい奥さんで」
 すると蛍太郎は満面の笑みで頷く。
「そうなんです。もう、可愛くて可愛くて。…ほら、わき目もふらずにモサモサと食べ続ける姿も、こんなに可愛いんです。はぁぁ…」
 陶然と妻を見つめる蛍太郎。シュタイナーは三歩ほど後ずさりして曖昧に頷いた。
「ああ、そうなんだろうな…」
 食べっぷりはともかく見た目は確かに可愛いとは思ったが、ゲイというキャラクター設定上、あまり大きなリアクションを取るわけにはいかないからだ。そんなシュタイナーを蛍太郎は寂しげな目で見つめる。
「こんなに可愛いのに…」
(そんなこと言われても…)
 初対面の当たり障りのない会話が続くはずが、なんとも手詰まり感の漂う展開になってしまいシュタイナーは力なく項垂れた。この空気を打破しようと、侑希音はわざと大きな声で言った。
「ほら、私たちもいただこうじゃないか。幸い料理はたくさんあるんだし」
「ああ。そうだな」
 安堵のタメ息とともに頷くシュタイナー。近場の料理テーブルに視線を送ろうとすると、見知った男と目があった。男は巨体を揺すり、バタバタと近寄ってくる。マックスウェルだ。
「よお、シュタイナー」
 マックスウェルはご機嫌のようで、膨れた顔を微笑でいっぱいに満たしている。その理由は、彼の後を重い足取りでついてきた女にあるようだ。身長は百六十センチほど、チェックのミニスカートと安全ピンが突き立てられたレザージャケットというパンク風味の取り合わせで、ブロンドで瞳はブルー。服装に合わせたのか目元のメイクが少々キツい。おかげでもとより吊りあがった目がさらに際立ち、綺麗な顔立ちと相まって近寄り難い雰囲気になってしまっている。その上、肩にはドクロが乗っている。
 侑希音は彼女のことをよく知っていたので、気安く声をかける。
「マンディじゃないか。どうしたんだ、また…そんなのと」
 マンディことアマンダ・アンダーソンは、いかにもウンザリといった口調で答えた。
「どうもこうもないよ。ヘカテ様のご命令で、コイツに付き合ってやらないといけないの。ああ、もう。なんでこんなのと…」
 そんなのとか、こんなのとか言われながらもマックスウェルは全く気にしていない様子で、いつも通りの決して爽やかとはいえない笑みを浮かべる。
「ほう。そんな、いかにも嫌々付き合ってます、みたいなこと言ってさ」
 するとマンディは目をさらに吊り上げ、火でも付いたかのような勢いで怒鳴る。
「あったりまえじゃない! 好きでアンタなんかと一緒にいるわけないってのッ! 判ってたらどっか行けやッ!!」
 マックスウェルはビクリと肩を震わせ、それからケタケタと笑い出した。
「うははははーっ、これだよこれーっ。まさにツンデレってヤツ? サイコー」
「うわあああああああっ! なに言ってやがる、バカ! キモイ!」
 マンディは悲鳴に近い声を上げて立て続けのローキックを放つが、マックスウェルは喜ぶばかりだった。
「むっはーっ、ツンデレー」
 目の前の惨状に目を覆いつつ、侑希音は恐る恐る訊いた。
「なんだ、そのツン…なんとかってのは」
 マンディはすでに自棄になって、手近なワインボトルでマックスウェルの頭を殴り続けていた。震える声で言う。
「知らないよぉ。極東の島国に住むナード野郎のスラングらしいけど…」
「極東の島国ねぇ。そういうと普通、日本のことを指すんだろうが…」
 侑希音は首を捻りながら、蛍太郎に話を振る。
「聞いたことある?」
「知らないよ」
 蛍太郎は肩をすくめた。
「でも彼女、本気で嫌がってない?」
「ふむ…。全力拒否のことか?」
 侑希音は璃音の様子をうかがってみたが、目の前にある山盛りのボロネーゼに全神経を集中していて、こちらの話は微塵も聞いていないようだった。そうしている間にもマックスウェルはボロ雑巾と化し、泡を吹きながらピクピクと断末魔のように四肢を痙攣させていた。
「フン」
 マンディは追加で一発、底のブ厚いブーツでマックスウェルの喉元を踏みつけてから、侑希音の元に歩み寄る。
「侑希音おねぇさまぁ…私、怖かったわ…」
 妙な猫撫で声で侑希音にしがみつく。蛍太郎とシュタイナーは揃って三歩ほど距離をとる。あまりのわざとらしさに、侑希音は肩をすくめた。
「怖かったって…めちゃめちゃ遠慮仮借なく攻撃してただろ」
「恐怖で我を忘れちゃったんですぅ」
 マンディは目に涙を溜めて侑希音を見上げた。それを見たアリスは、
「なにやってんだか。アバズレのクセに」
 と毒づいて、持っていた料理の皿を璃音の前に置いた。
「それにひきかえ、璃音さまは表裏が無くていいですね。…その分、ほとんど動物だって気もしますけど」
 アリスの言葉に首をかしげた璃音を、マンディは舌打ちして睨みつけた。
「なぁに、あのカマトトぶったの」
 璃音を着ているドレスから、そう評したのだ。シュタイナーは、
(お前のはファッションパンクじゃねぇか)
 と思ったが、こういう問題はデリケートなので思うだけにしておく。侑希音が咳払いをして、こう言ったからだ。
「あれ、私の妹なんだよな」
 揉め事はご免なので、さっさとその芽を摘んでおこうというわけである。現に蛍太郎が何か言いたげにしていたので、侑希音はそっちも目で制しておく。それからマンディが予想通りのオーバーアクションで、
「ごめんなさい、私…」
 などと詫びてきたので、この件はそれで終了となった。
 だが。
「ウガァーーーーーーーッ!!」
 マックスウェルが絶叫と共に息を吹き返す。
「まだ終わってねぇ!」
 ボロボロの身体を立ち上がらせ、泡を飛ばしながらまくし立てる。
「どうなってんだ、おかしいじゃねぇか! オレは契約を果たしたんだぞ。それがなんだ、散々踏んだり蹴ったりしやがって死ぬかと思ったじゃねぇか! バビロンは弟子にどういう教育をしてやがるんだッ。クソクソ、クッソォッ、このクソアマ、可愛いと思って付け上がりやがって! 痛い目見させてやるぞ!」
 そのターゲットであるマンディは、侑希音にしがみ付いていた腕に力を込めた。
「こわーい! なんて粗野で野蛮なの!?」
「君も似たようなもんだろ…」
 侑希音が呟くが、マンディは聞かなかったフリをする。
「侑希音おねえさまぁ。あの男を始末してよ〜」
「ヤダよ、メンドクサイ。自分でやりな」
 つれない返事に、マンディは頬を膨らませる。すると、肩に乗っているドクロが喋りだした。
「おいマンディ。コイツに芝居なんか通用しねぇんだから、いいかげんにしろよ。こっちが気色悪くなってくらぁ。ケツがムズムズするぜ」
 ムズムズする尻がどこにあるのか判らないが、ドクロがカタカタと震える。するとマンディが目を吊り上げた。
「うるさい。黙ってろ」
「べつにさー、お前が始末すりゃ良いんだよ。まさか俺が、あの豚野郎の象徴機械に劣ると思ってるなんてこたぁ、無いよな?」
 ドクロと会話するパンク少女。
 ありがちといえばありがちな構図だが、気味が悪いことに変わりはない。蛍太郎はゆっくりと後退して璃音の側に寄る。それを見て、アリスが笑う。
「ふふ、ご安心を。あれは化物の類ではありません。バビロンの魔術師が標準装備しているアーティフィシャル・ジン、つまり人工精霊です。平時にはサポートを行い、象徴機械形成時はカーネルの一部となり機体制御を担当します。また、インターフェイスとしても機能します。結果、自律制御による柔軟な操作性を実現するにいたりまして、このあたりがロンドンとのアーキテクチャの違いですね」
「ほう…」
 蛍太郎は頷いてから、すぐに首を傾げる。
「それじゃあ、侑希音さんには? 今まで見たこと無いんだけど」
 今までパスタに夢中だった璃音も加わる。
「そうだよ。侑希ねぇって、ヘカテさんの弟子なんでしょ?」
 これには、ようやくマンディを振りほどいた侑希音自身が答えた。
「だって、いらないし。ダンシングクイーンは能力上、勝手に動いてくれても困るし、しまいには私自身と融合しちゃうからさ。単にインターフェイスの違いなんだから、性に合うほうを使えばいいだろうさ」
 これに頷いたのは璃音と蛍太郎だけだった。その間にもマックスウェルとマンディの抗争は第二ラウンドに突入し、聞くに堪えない罵声が飛び交う状況になっていた。ドクロはというと、カタカタと動いて璃音たちの方を向き、芝居がかった口調で挨拶をしてきた。
「よう。アリス以外は初めまして、だな。オレの名はガブリ。アマンダ・アンダーソンのジンだ。見てのとおりの頭蓋骨だが、いざとなれば全身骨格となって大暴れするんだぜ。
 さて。ウチのマンディは現在、ことほどかようにアカデミーのデブ野郎と口論の最中なんだが、これは決して『ケンカするほど仲が良い』ってヤツじゃあないから、余計な勘繰りはしないでくれ。本気で嫌がってるだけなんだ」
(よく喋るお骨だな…)
 そう思った璃音だったが、口の中に牡蠣が入っているので何も言わないでおく。ガブリと名乗った骨はさらに続けた。
「もはや両者が折り合いをつけることなど絶対にありえない。こうなった以上、決着はリングでつけるのがイイと思うのだが、どう思う?」
 リングという言葉に璃音と蛍太郎が顔を見合わせるが、アリスとシュタイナーは揃って頷いた。
「OK。ならば、GMを呼ぶぜ」
 と、ガブリ。それに合わせたようなタイミングでタキシード姿の紳士が現れ、その鍛え上げられた身体でマックスウェルとマンディの間に割って入った。
「ゼネラルマネージャーのフレデリック・マイヤーズだ。何をしている」
「ダンナは黙っててくれ! オレは、この女を叩きのめさずにはいられないんだ!」
 マックスウェルが暴れると、マンディも負けずに目を剥く。
「マイヤーズ殿には関わりの無いことです!」
 マイヤーズと名乗った紳士はそれぞれの腕で二人の額を押さえつけて引き剥がすと、息一つ乱さず、穏やかな笑みさえ湛えて口を開く。
「関わりないということはない。私は、この食事会を滞りなく進めなければならないのだ。どうしても戦いたいのなら対抗戦に出ることだな」
 それを聞いた璃音は驚きに目を丸くした。
「なんでそうなるの!? ってか、仲裁しに来たんじゃないの?」
 隣でアリスが小さく笑った。
「まあ、いいいから見ててください。これが、このパーティのウリなんですから」
 そう言われなくても、璃音には目の前の状況を見守るしか出来る事はなかった。
 
 
2−
 マイヤーズGMの言葉に、マックスウェルとマンディは力強く頷いていた。
「では条件は?」
 鼻息荒く答えるマックスウェル。
「俺が勝ったら、その女を好きにさせろ!」
 当然、マンディは眉をひそめる。
「なっ。まあいいか。どーせ、そいつが私に勝てる可能性など無に等しいんだからね。
 …でも困ったな。私がそいつに要求したいことはただ一つ、『消え失せろ』ってだけなんだけど、試合が終わったら病院送りだから意味ないのよね。むしろ、この世から消えるかもしれないんだし」
 そう言って、マンディは考え込んだ。マイヤーズも同様である。
「困ったな。双方に条件がないと試合が成立しないではないか」
 数秒して、マンディが顔を上げる。
「…それじゃあ、私が勝ったらストレンジXへの挑戦権を頂きたい。いかがでしょうか」
 マイヤーズはしばし考える。すると周囲から、
「We want X! We want X! We want X!」
 とストレンジXを呼ぶチャントが巻き起こる。それに後押しされ、マイヤーズは決断した。派手な身振りで手を広げ高らかに宣言する。
「よろしい! では私がGMとして責任を持って、このことをストレンジXに伝えるぞ。誰の挑戦でも受ける彼のこと、必ずや参戦するであろう!」
 周囲の客は歓声を上げ、一気にヒートアップする。その熱狂の中、マイヤーズは腕を突き上げアピールしながら、ゆっくりとホールの外へと練り歩いていく。その姿が消えると、客は思い思いに散っていく。気がつけば、先ほどの騒ぎが嘘のように元通りの食事会になっていた。
 璃音は何が起こったのか判らず、ぽかんと口を開けていた。
「なんなの、これ…」
 アリスが横で解説する。
「対抗戦は、なにかしらの因縁があるもの同士の対戦カードじゃないと認められないのです。腕試し程度なら公開スパーリングで充分ですからね。ですが、
以前から抗争を展開していた者ばかりでもありません。そういうわけで、この食事会で揉め事を起こして、それを理由にリングに上がる。そういうレギュレーションになっているんです」
「…じゃあ、GMもグルなんだね」
「グルといいますか、あの方は対戦カードを決めるのがお仕事ですからね。でも、ストレンジXとの対戦要求は予想外だったでしょうけど」
「誰、それ…」
「後のお楽しみです」
 話をはぐらかされ璃音は頬を膨らませたが、それでもアリスは思わせぶりに笑って見せるだけだった。と、いっても彼女を以前より知るものにしか判らないくらいの表情の変化だったが。
 対戦を決めた、いや前座か露払い要員としてリングに上がることになったマックスウェルは一人で気を吐いていた。
「よっしゃ! オレはやるぜ」
 そして手近なテーブルへ走り、そこにある食べ物を片っ端から口に詰め始めた。エネルギー補給のつもりなのだろう。その後姿に、侑希音は憐れみさえこめた視線を送った。
「アイツ…勝つつもりなのかな。空気読まないで…」
 マンディの方は敵意剥き出しである。
「いいんじゃないの。あんなバカ、再起不能にしてやる。…ったく、ふざけたことぬかしやがって。テメーなんか眼中にねぇっての。あーあ、もっとマシなヤツを紹介してもらえると思ってたんだけどなぁ」
 横でアリスが呟く。
「フレッチャーだったら良かった?」
 マンディはガックリと肩を落とした。
「うげ。それも嫌…」
 そのタイミングを見計らったかのように、彼女の背後から妙に甲高い男の声がした。
「呼んだかね」
 振り向くとやはり、そこに居たのはフレッチャーだった。
「ぎゃあーッ! でたーぁッ!!」
 女性陣が一斉に絶叫しながら飛び退く。その仕打ちに、フレッチャーは心外とばかりに舌打ちする。
「けっ。人をゴキブリかなにかのように…」
 それをせせら笑うマンディ。
「ははは、確かに。アンタはゴキブリで充分だ。いや、何だか判らない奇妙な生命体、ベンジョコウロギこそ相応しいんじゃない?」
 少し離れていた璃音が呟く。
「カマドウマのこと? バビロンにもいるんだ…」
 すると侑希音が肩をすくめながら呆れた口調で言った。
「いないって。どうせ語感だけで言ってるんだろうさ」
 だが罵倒された本人であるフレッチャーは全く意に関せずといった表情で、逆にマンディ、璃音と侑希音を順繰りに一瞥し、露骨に嘲りを込めて高笑いする。
「うはははは! なんとでも言うがよい、薄汚い売女どもめ。避けてくれて大いに結構。ってか、ムシロ寄るな、あっち行け! テメーらみてぇな脂肪の塊には萌えねぇーんだよ、腐れ蛆虫め!」
 あまりの悪口雑言に眉を吊り上げる璃音たち。もちろん、妻を侮辱された蛍太郎もやおら声を張り上げる。
「なんてことを言うんだ! 取り消せ!」
 夫の凛々しい姿に、璃音の瞳が輝く。だが、激昂していたためか、蛍太郎はとんでもないことを口走ってしまった。
「おっぱいに詰まっているのは脂肪じゃない! 夢だっ!」
「…けーちゃん」
「あ…えーと…ごめん…」
 衆人環境ということもあり、蛍太郎はすっかり小さくなってしまった。それを流し見して、フレッチャーの標的はアリスに移る。
「それによ。そこの人形なんか有機物ですらねぇだろ。アミノ酸も持ってねぇクセに一丁前に口利いてんじゃあねぇよッ!」
 アリスは大して動じることもなく、淡々と応じた。
「口から汚物を撒き散らすようなシロモノよりは幾分マシですよ。それより貴方、随分ご機嫌のようね。何か良いことでもありましたか? いつもよりテンション高いんじゃなくて?」
 するとフレッチャーはニヤリと笑う。唇の端を引き上げた拍子にヨダレが漏れ落ちた。
「ふふふ…よくぞ訊いてくれた」
 口調は元通りに戻ったようである。
「今日はたくさんの天使に出会えたのでな…。汚れのない、無垢な、天使たちに…ッ」
 恍惚とした表情のフレッチャーが白衣を翻すと、彼が来た方向から六人の女の子が現れた。年の頃は十歳から五歳ほどか。いずれも、若いというよりも幼いといったほうが適切である。それを見たマンディは目を剥いて怒る。
「おいこら変態野郎! ウチの後輩たちに何をしやがったッ」
 しかし、フレッチャーは顔色一つ変えない。
「別にィ。お菓子をあげたり、ご本を読んだりしてあげただけですちゅよー。ねぇー」
 途中から気味の悪い赤ちゃん口調になるフレッチャー。だが女の子たちは顔を見合わせて頷いていた。
「うん。このおじちゃん、優しいよ」
「紳士だよねー」
「お菓子とかご馳走とか、いっぱい持ってきてくれたよ」
 子供ならではの無邪気な笑顔で口々にフレッチャーを褒める女の子たち。あろうことか完全に懐いてしまったようである。あまりのことに、璃音は堪りかねて叫んだ。
「みんな、騙されないで。そいつは変態だよ。食べ物なんかに釣られちゃダメ!」
 だが、フレッチャーは悪びれることもなく胸を張る。
「人聞きの悪いことを言うな! 私は誰にも何も強制していないぞ。…ただ、自分からしたくなるように仕向けようとしているだけだッ!」
 当然、それで納得する璃音ではない。
「詭弁だーっ。明らかに邪な意図があるじゃないかっ!」
 後ろで、蛍太郎が頭を抱えてうずくまる。それに気付き、璃音は首をかしげた。
「どしたの、けーちゃん」
 蛍太郎はうずくまったまま、声を震わせる。
「な、なんでもない…なんでもないんだ。大丈夫、法は犯してない…」
「変なの」
 さらに首を傾げる璃音。それを横目に、マンディは後輩たちを救うべく前に進み出た。
「おい。もう御託はいらないよ。さっさとその子達から離れるか、それとも私にブチのめされるか。どちらか選びな」
 マンディの眼差しから迸る殺気を正面から受け止め、フレッチャーは口の端をゆがめ冷笑を浮かべる。
「ああ、良いよ。ブチのめせるものならブチのめしてみろ。だが、お前はマックスウェルと試合を組んだではないか。つまり、どうしても私と戦いたいのならハンディキャップマッチということになるぞ。いいのか、それで?」
「くっ…」
「だってそうだろう。お前という共通の敵ができた今、私とヤツが組むのに何の障害がある?」
 そしてフレッチャーは、離れたところで七面鳥の丸焼きに噛り付いているマックスウェルに声をかける。
「おーい、マックスウェルよ。私と組まないか?」
 だが、食事の邪魔をされたマックスウェルは機嫌が悪かった。
「あ? なんでテメェなんぞと」
「共にアマンダ・アンダーソンを倒そうではないか!」
 フレッチャーが芝居がかった動作で声を張り上げると、
「ああ、いいよ」
 と、マックスウェルはあっさりと返答した。真性ロリコンのフレッチャーとなら決して要求が重なることがないからだ。それをどこで聞いていたのか、再びマイヤーズが現れた。腕組みをして、このときとばかりにマイクを握り、感慨深げに言う。
「ふむ。ホモタッグ"ジョージ&ジョナサン"の誕生だな!」
「誕生してねぇ!」
 マックスウェルとフレッチャーが声を揃えて怒鳴る。するとマイヤーズは感嘆の口笛を吹いた。
「さすが、息もぴったり」
「ぬわーっ!」
 身悶えするジョージ&ジョナサン。会場は爆笑の渦に包まれた。ひとしきり笑わせておいてから、マイヤーズは一つ咳払いをした。
「さて、と。祝福すべきカップルの誕生はさておき、ハンデ戦ということになれば対戦者の承諾が無ければならない。どうだね、アマンダ・アンダーソン。受けてたつか? それとも、この場でパートナーを探すか?」
 すると、ギャラリーの期待通りのセリフをマンディは口にした。
「上等だ。やってやろうじゃない」
(まあ、そうなるだろうね)
 さすがにこのままでは拙いと、侑希音は一歩進み出た。すると、それを遮るように一人の女が現れる。黒のショートヘアに、細身でシャープな顔立ち。彼女こそ、蛍太郎を璃音のところに案内した人物である。ただ、その時と違ってイブニングドレスが少々着崩れしていた。その姿を見て、マンディが片眉を吊り上げる。
「おいこら、アイカ。なにやってたのさ。あの子達の引率はアンタの役目でしょ」
 アイカと呼ばれた女は、済まなそうに顔の前で小さく手を合わせた。
「ゴメン。ちょっと目を離したスキに…」
「ちょっと、ねえ…」
 マンディは不審そうにアイカの足元から頭の先までを何度も見る。乱れた衣服を見れば、目を離して何をやっていたのか、火を見るより明らかである。
「まあまあ、埋め合わせはするから許してちょうだい」
 アイカは顔立ちとは裏腹の愛嬌のある笑顔を見せた。笑ってごまかそうというわけである。それから、衣服を正しマイヤーズに眼差しを向ける。
「マイヤーズ殿。フレッチャーとは私が対戦させていただきます。こうなったのも私の監督不行き届きゆえ。自らの手で始末をつけさせてください」
 マイヤーズは頷いた。
「よかろう。フレッチャーに異存は無いな?」
「もちろんです」
 フレッチャーはすぐさま返事をする。明らかに攻撃的なマンディに比べればアイカの方が与し易しと踏んだのだ。
「私が勝った暁には、この子達をいただくということで。そりゃもう、色々な意味で」
 薄気味悪い笑みを浮かべるフレッチャー。アイカは毅然と答える。
「それはありませんね。だって、私が勝ちますから」
 そこまで言って、今度は首を傾げる。
「でも、どうしましょう…私、貴方に求めることなんて何一つありません。強いて挙げれば、『消え失せろ』なんのですけれど、それは試合が終われば実現されてしまいますからねぇ…。どうしたものでしょう」
 本気で悩みだしたアイカ。その肩にマンディが手を置いた。
「勝ったら、今日のことはお咎め無しになるように、一緒にヘカテ様に頼んであげるよ」
「本当ですか?」
 飛び跳ねんばかりに喜んだアイカは、マイヤーズにお伺いを立てた。
「そういうことでもよろしいですか?」
「うむ。君たちがよければな」
 マイヤーズは頷き、そして、
「では、さらばだ!」
 今度は人ごみに紛れるように消えていった。その姿が見えなくなると、会場の人々は再びパーティへと戻る。フレッチャーは、
「お前ら、見ておれよ!」
 と勇ましく見得を切り、マックスウェルと連れ立って会場を後にした。彼らが見えなくなってから、璃音は一つタメ息を吐いた。
「ふう。なんだか血の気の多いパーティだなぁ」
 そう言いながらも、エスカルゴと"夜明けの妖精"に手を伸ばす。今までは璃音が食事するさまをじっと眺めていた蛍太郎だったが、さすがにその料理からは目を逸らした。すると、ちょうどアイカと視線がぶつかる。
「あ。先ほどはどうも」
 蛍太郎が小さく頭を下げると、アイカもそれに応じた。
「いえいえ。…あ。自己紹介がまだでしたね。私、環秋鹿たまき あいかと申します。ええっとですね、秋の鹿と書いてアイカです。なんでも父が大層お酒好きだったそうで、こんな名前になったそうです。ふふ、おかしいですよね」
 なぜ酒とその名前が結びつくのか判らない蛍太郎が曖昧に笑うと、横から璃音が助け舟を出した。
「秋鹿って、有名な杜氏がいる地方だよ」
 杜氏というのは日本酒造りの伝統的技法を受け継ぐ集団のことだ。
 本来なら未成年者には縁のない話だが、璃音がそれを知っているのは子供の頃から父の晩酌に付き合っていたからである。ただし、この習慣は璃音が中学にあがるころになっても殆ど背が伸びなかったので慌てて止めさせたという、笑えない終わり方をしている。
 それはさておき。
 アイカは鹿を思わせるスリムでしなやかな体つきをしているから、その名はそれはそれで、彼女にふさわしいものだと蛍太郎は思った。
「そんな。おかしくないですよ」
 思ったままを口にすると、アイカは屈託無く笑う。 
「そうですか? まあ私、カモシカのような足をしてるってよく言われますからね」
 物言いにも屈託がない。その笑顔はどこか、蛍太郎が知っている藤宮の娘たちに似ていた。魔術師という事だから特殊な血筋である可能性が高く、それなら程度はともかくとしてば藤宮家と繋がりがあっても不思議ではない。そんなことを考えながら、蛍太郎はアイカをまじまじと見てしまった事に気付く。こうなると妻の視線が気になったが、案の定、璃音はジロリと夫の顔を見上げていた。
「えっと、別にその…」
 こういう時に言い訳じみた事を言っても無意味なのだが、ついつい何か喋ろうとしてしまうのが男の悲しいところである。すると丁度目の前をウェイターが通りかかったので、彼が持っているトレイから坦々麺を貰い、璃音に差し出した。
「ふん。こんなのじゃあ、ごまかされないもん」
 そう言いながらも箸を手に取り一口啜る。その途端、表情が明るくなった。
「おいしいっ。これちょうだい!」
 そう言って蛍太郎の手から丼を奪い取ると、手近なテーブルに着いて夢中で舌鼓を打つ。
 蛍太郎は安堵のタメ息を吐いた。食べ物で済むのは本気で怒っていないからだが、坦々麺が通りかからなかったら今ごろどんな意地悪をされていたことか。どうも最近、璃音に振り回されている気がしてならない蛍太郎だった。ふと視線をあげた時にその表情を見た璃音は、蛍太郎を手招きした。
「けーちゃん、おいで」
 蛍太郎が言われるままに隣の椅子に座ると、自分は、
「ちょっとまっててね」
 と席を立つ。すでに空になっていた丼を眺めながら、蛍太郎が茫洋と待っていると、ほどなく璃音が戻ってくる。その手にはラザニア皿があった。
「ふふー。一緒に食べよ」
 そして、小皿に取り分ける。蛍太郎はその様子をジッと見ながら、内心呟いた。
(フッ。璃音ちゃんじゃあるまいし、好物でご機嫌取りだなんて僕には通用し…)
 だが次の瞬間、蛍太郎は大きな衝撃を受けた。璃音がスプーンに取ったラザニアに息を吹きかけて冷ましていたからだ。
「璃音ちゃん?」
 蛍太郎が驚きの表情をしているので、璃音は苦笑した。
「ん? 食べないよー」
「いやぁ、そうじゃなくて…」
 うろたえる蛍太郎。
(これはやっぱり、あれがくるんだよな…)
 思ったとおり、璃音はにっこりと微笑んで、スプーンを蛍太郎の口元に差し出した。
「はい、あーんしてー」
(おおおおおっ! …だが、こんな衆人環境でっ)
 歓喜による興奮と羞恥から蛍太郎の顔が真っ赤になる。ここまでさんざん描かれてきたように非常に夫婦仲の良い二人だが、食事のときは璃音が食べるのに夢中になってしまうこともあって、いわゆる"はい、あーん"をやったことは殆どない。ゆえにそれは蛍太郎の一つの夢だったのだが、それにしてもこんな大勢の人間がいるパーティ会場でやらなくてもいいのではなかろうか。そう思った蛍太郎が回りを見ると、また何ヶ所かで乱闘騒ぎが起こり対戦カードが組まれているようで、他人の視線を気にする状況ではなさそうだ。
 そういうわけで。
「あーん」
 蛍太郎は口を開けた。璃音は嬉しくて頬が緩むのを抑えられない。なんともデレデレした表情で、夫の口にスプーンをさしいれた。このラザニアは作られてから時間が経っていたらしく、こんな食べ方でも問題ないくらいの熱しか残っていなかった。
「うん、おいしい」
 あらかじめ冷えることを想定していたのかベシャメルソースが薄めなので、比較的あっさりした味だ。璃音は蛍太郎が食べるところを眺めていたが、頃合を見計らって次を投入する。
「はい、あーん」
「あーん…」
「えへへ、おいしい?」
「うん」
 傍目から見ると完全にアホカップルである。あまりの有様に、アリス以外はどこかへ消えてしまった。
 だが、残ったとはいえアリスもすることがあるわけでもなく、所在無げにそこらをキョロキョロと見ていた。すると、見覚えのある人影が目に入ったので、名前を呼んでやった。
「クリシュナ! こっちですよ」
 ドレス姿の少年はアリスに気付き走り寄って来る。どうやら誰かを探していたようだったが、そんなものはアリスにもすぐに察しがついた。
「璃音さまをお探しね」
 するとクリシュナは顔を真っ赤にして否定する。
「違うって。そんなんじゃない」
 そう言いながらも彼の視線は璃音に向いていた。アリスは小さく微笑んだ。
「わかりやすい子」
「違うってば」
「はいはい。そういえば、あとで遊ぼうってお約束してましたものね。璃音さまは今、あのとおり大好きなダンナサマとスイートタイム中ですが…まあよもや、お約束をお忘れということもないでしょうから、お声をかけてみられたらいかがです?」
 アリスの言葉に、クリシュナは目を丸くした。
「ちょっと待てよ。ダンナサマって…」
「ダンナサマはダンナサマでしょ。ご結婚なさってるんですよ、あの方」
 クリシュナは息を呑み、そして項垂れた。それを見てアリスは肩をすくめる。
「短かったですね。少年の初恋」
「…うるさい。面白がってるだろ、お前」
 口を尖らせるクリシュナだったが先ほどの元気はない。それを見ないふりをして、アリスは璃音たちに声をかけた。
「璃音さまにお会いしたいという方がお見えですよ。蛍太郎さまは…少し離れたほうがよろしいかもしれませんねぇ」
 それで璃音はクリシュナがいることに気付いた。
「あ。クリシュナちゃん」
 璃音は満面の笑顔でクリシュナに歩み寄った。だがクリシュナはそっぽを向く。
「そういう風に呼ぶな!」
「じゃあ、クリちゃん」
 数秒ばかし考えた末に思いついたニックネームだったが、これにはアリスが苦言を呈する。
「璃音さま、それは拙いかと」
「そう?」
 蛍太郎の方を見ると首を横に振っていたが、何故か彼は顔を赤くしていた。璃音はまた少し考える。
「じゃあ、クーちゃん」
「…もういい、好きにしてくれ」
 クリシュナは諦めたようにタメ息を吐いた。すると璃音は手を叩いて喜ぶ。
「うん、好きにするー。その代わり、わたしのこと"お姉ちゃん"って呼んで良いよ」
 突然のことにクリシュナは大いに動揺した。
「なっ、ななななな…! なんだそりゃっ」
 アリスがおちょくるように横槍を入れる。
「照れてる照れてる」
 ムキになって否定するクリシュナ。
「照れてないっ。だいたいなんだよ、お姉ちゃんって! なんで璃音のことをそんな風に呼ばなきゃいけないんだよ!」
 そこまで言ってしまってから、クリシュナは璃音の顔を覗ってみた。だが幸いなことに、璃音は笑顔のままだった。
「そう呼びたそうだなぁって」
「う…」
 璃音が太陽の下の向日葵のような明るい笑顔を向けてくるので、クリシュナは言葉に詰まった。彼女が既婚者だったことを知りガックリしてしまったクリシュナだったが、こんな人が姉と呼ばせてくれるなら、それはそれで良いのではないかという気がしてくる。だが、それをすんなり口に出せるかどうかは、別の問題である。
「お…」
「なぁに?」
「お、お姉ちゃん…」
 恥ずかしさを精一杯こらえ、なんとか口を開いたクリシュナ。璃音はそれを聞くと嬉しくなって、思わずクリシュナを抱きしめていた。
「わーい、クーちゃん」
「うわぁ!」
 胸にぐいぐいと顔を押し付けられてクリシュナは思わず悲鳴を上げた。苦しいことは苦しいのだが、なにか幸せなような気がする。
 璃音は気が済むまでクリシュナを抱きしめてから、その肩に手を回して蛍太郎の方に顔を向けさせる。
「紹介するね。この子はクーちゃんだよ。あっちは、けーちゃん。わたしのダンナサマなの」
 蛍太郎とクリシュナは顔を見合わせて、
「どうも」
 と頷いたが、揃って苦言を呈する。
「あのね、璃音ちゃん…」
「あの、お姉ちゃん…」
「なぁに?」
 楽しくて仕方ないといった様子の璃音の笑顔に気圧されながらも、二人は言った。
「それじゃあ、名前が判らないんだよね」
 それで初めて璃音は自分の不首尾に気付いた。
「あ。そうだね」
「そうだね、じゃないよ」
 蛍太郎とクリシュナは同時にタメ息を吐いて、それから結局自分で名前を教えあった。それを見ていた璃音は満足げに頷く。
「よしよし、それじゃあクーちゃん。けーちゃんのことは"お兄ちゃん"って呼ぶんだよ」
 だが、クリシュナは眉を吊り上げて反発した。
「やだよ、それは!」
 璃音は眉を逆ハの字にして残念がる。
「どうして? だって、わたしがお姉ちゃんだったら、けーちゃんはお兄ちゃんだよ」
「いやなもんはいやだよ」
 クリシュナがそっぽを向いてしまい、困り果てた璃音の耳元で、アリスが囁いた。
「彼、璃音さまのこと好きだったんですよ」
 それに、璃音は真顔で返した。
「わたしも、クーちゃんのこと好きだよ」
 もちろん璃音は思っていることを本当にそのまま口にしただけで、その言葉には何の裏もない。だがアリスはある種の恐れを感じずにはいられなかった。
(…この人、早くに結婚しなかったら絶対に魔性の女になってましたね)
 もちろん、そんな事は口にしない。ここは適当なことを言っておくことにした。
「どうしても仲良くして欲しいなら、そうですねぇ…穴兄弟にでもして差し上げたらいかがです?」
「えーっ。どうしても、しなきゃダメなの?」
 璃音が切実な表情で訊いてくるので、アリスは洒落が通じなかったことに気付き、真面目に謝った。
「…いえ、冗談です。すいません」
「そうだねよね。よかったぁ…、けーちゃん以外の男の人となんて、できないもん」
 胸を撫で下ろす璃音。そばで聞いていたクリシュナは首を傾げるばかりだったが、少々離れながらも話の聞こえる範囲にいた蛍太郎も、同じく首を傾げていた。
「…何言ってるんだ。クーちゃんって、女の子じゃないか」
「お前がクーちゃん言うな! …うわっ」
 クリシュナが吼えるが、それは璃音の胸に圧し潰されるようにして消されてしまった。クリシュナを抱きしめた璃音は満面の笑みで言った。
「クーちゃんは男の子だよ」
 蛍太郎は目を丸くした。アリスが付け加える。
「彼はヘカテ師が保護してらっしゃるのですが、なにぶんそこは女の園ですから、カモフラージュのためにドレスを着せているのです」
「ほう。どう見ても女の子なんだけど…って、おい!」
 普通に感心していた蛍太郎だったが、その事実と目の前の状況を再確認し、
「離れて。いや、離して! 離れるんだっ」
 と、璃音とクリシュナの間に割って入ろうとする。もちろん、璃音は抵抗する。
「やあっ、何するのぉ」
「何って、そいつ男じゃないか。あんまり抱きつかないで!」
「なんでー」
「なんでもっ」
 だが力勝負で蛍太郎が璃音に敵うわけも無く、結局振り切られてしまう。
「えへへー。だって、弟ができたみたいで嬉しいんだもん」
 そう言って笑顔でクリシュナを抱きしめる璃音を見て、蛍太郎は肩を落とした。アリスは気の毒になって、蛍太郎の背中を軽く叩く。
「まあまあ。璃音さまにとっては、子供をあやしているのと変わらないのですから、お気になさらずに。
 …それより、クリシュナが窒息していないかどうかが心配ですね」
「あ…」
 蛍太郎が見ると、クリシュナは璃音の胸の谷間に顔を完全に埋没させて、ぐったりと動かなくなっていた。アリスが感慨深げに呟く。
「ある意味では、男子本懐の最期ですね」
 クリシュナが呻く。
「死んでない。…天国だけど」
 それを聞いた蛍太郎は頭をかきむしって叫ぶ。
「まてまて! 子供がそんなこと言うかぁ!?」
 そんな蛍太郎を、クリシュナは横目で見ていた。表情は伺えないが、笑っていることは確実である。
「ぬわぁーっ、璃音ちゃんから離れろっ!」
「お姉ちゃん、怖いよー」
 いきなり騒がしくなって、璃音は困惑する。おろおろと二人を見比べるばかりで何もできない。
「なんなのぉ。仲良くして」
 アリスは少し距離をとって、新しく発生した三角関係を眺めて喜んでいた。もちろん、これでリングで決着をつけるという話になれば大変なことなので、こじれないうちに仲裁に入るつもりだった。
 だが、事態は更なる混迷に突き進むことになる。
 侑希音とシュタイナーが戻ってきたのだ。
「なんだよ、騒がしいなぁ」
 侑希音は珍しく取り乱している蛍太郎と璃音を見比べる。すぐに璃音に抱きしめられているドレスを着た子供に目を留めた。
「おい璃音、その子は誰だ?」
 侑希音に気付いた璃音は、クリシュナを自分の胸から離して顔が見えるようにしてから紹介した。
「この子はクリシュナちゃん。ヘカテさんのところでお世話になってるんだって」
「そういえば、こんな子いたねぇ。名前を聞くのは初めてだけど」
 侑希音は頷いてから、自己紹介をした。それから、もう一度じっくりとクリシュナを見て言う。
「ふむ。改めて見るとかなりの美少女じゃないか。五年後が楽しみだ」
 しみじみと頷く侑希音を見て、璃音はクスクスと笑った。
「侑希ねぇ、クーちゃんは男の子だよ」
「はぁっ!?」
「男ぉッ!?」
 侑希音とシュタイナーは同時に目を見開いた。
「ははは、何を言ってるんだ。これが男なわけないだろ」
 そんなことを言いながら、侑希音はクリシュナの下半身をまさぐり、そして顔を強張らせる。
「うお。マジだ」
 もちろんクリシュナは泣いた。
「バカーっ、なんてことするんだよぉっ!」
 璃音は慌ててクリシュナの頭を撫でてなだめ、そして侑希音を睨む。
「こら、侑希ねぇ!」
「すまん、その…信じられなくて…」
「クーちゃんに謝りなさい!」
「う…その、ごめんなさい」
 侑希音が頭を下げると、璃音はまたクリシュナを撫でてやり、優しい声で慰めてやる。
「クーちゃん、ごめんね。嫌だったよね。でも、ウチの姉も謝ってることだし、許してやってくれないかな」
「うん、お姉ちゃんがそう言うなら…」
「ありがと」
 璃音の微笑みに、クリシュナは涙を拭いた。傍観していたアリスは思わず苦笑してしまう。例によって、表情は殆ど変わらないが。
(まあ、こういうことする不届き物がでることが簡単にから女装させてたんですけどね。しっかし、クリシュナってば随分と素直なものね。ヘカテ師の前では散々駄々こねてたくせに…)
 とりあえず許してもらえた侑希音だったが、それでも懲りずにクリシュナをマジマジと見つめた。
「いやぁ、しかし可愛いなぁ…」
「侑希ねぇ、ヨダレ」
 璃音の咳払い。侑希音は口元を拭い、中途半端な笑顔でごまかした。何とも気まずい空気が流れる中、シュタイナーは思いつめたような表情で侑希音の肩を叩いた。
「オレ、あの子となら…できるかも知れん」
 確かに、シュタイナーが言っていた"理想の相手"にクリシュナはぴったりと当てはまる。なにせ女装に全く違和感が無いのだ。当然、侑希音は眉を吊り上げる。
「おいおい、そんなこと許されると思ってるのかッ!」
「ああ、そうだよな。判ってる。…忘れてくれ」
 常識で考えれば当たり前のこと、シュタイナーは苦笑しながら項垂れた。だが、侑希音はまだ険しい表情のまま。追い討ちを覚悟したシュタイナーに浴びせられた言葉は、彼にとって全く予想外のものだった。
「バカ、違う! やるなら私も混ぜろ! 独り占めなんてさせるものか!」
 一瞬の、だが重い沈黙。
 それを打ち破ったのは、璃音の悲鳴に近い叫びだった。
「ゆ、侑希ねぇっ、何言ってるの!」
 侑希音は興奮気味に反論した。その目つきは完全におかしい。
「いいじゃないか、減るもんじゃなし。…ああ、心配するな。お前も混ぜてやる。クリシュナと蛍太郎君を穴兄弟にするんだろ? すればいいじゃないか」
「しないっ!」
 璃音がキッパリと勢いよく否定する。味方の援護を得て、標的であるクリシュナは怒りを露わにした。
「おい姉っ! お前、全っ然反省してないだろぉっ!!」
 だが侑希音は物ともせず、逆に嬉しそうに息を弾ませる。
「なんだ、その呼び方は。こりゃお仕置きが必要だなぁ〜あ〜」
 シュタイナーもそれに同調する。
「ふふふ。これくらい威勢が良いほうが、躾甲斐があるってもんさ」
 璃音は完全に軽蔑の眼差しで二人を睨む。
「うわっ、サイテー。大人のドス黒い欲望で、いたいけな子供を毒牙にかけようだなんて」
 その後ろで、蛍太郎が心臓の辺りを押えてうずくまっているが、璃音は気付かない。
「わたしちょっと、通報してくる」
 その場を蛍太郎とアリスに預けようとして、璃音は初めて夫の顔色が悪いことに気付いた。
「どうしたの、けーちゃん」
「いや、なんでもない。これは自然なことなんだ、やましいことなんて何一つ…」
 蛍太郎が何やら自分に言い聞かせるようにブツブツと呟きだしたので、璃音はアリスに視線を向ける。
「アリスちゃん、クーちゃんをお願い」
「璃音さまのお願いを断りはしませんが…問題は、通報してもさして意味がないことでして…」
 困りはてた様子のアリス。璃音はその意味が判らなかったが、この会場を取り仕切っているゼネラルマネージャーが姿を現したのを見て、全てを悟り顔を青くした。
(まさか…)
 実に嬉しそうな笑みを浮かべてフレデリック・マイヤーズが現れた。
「おっとぉ。時間ギリギリになって、ひとつ対戦カードが決まりそうだな」
「待ってください!」
 璃音はかぶりを振って訴えた。
「まさか、リングで戦って解決しろとか言いませんよね? どーかんがえても、あっちの二人がおかしいじゃないですか」
 だが、マイヤーズは若干キザな動作で首を振る。
「いいや。今日は、『全ての契約、訴訟は対抗戦の結果で以って解決とすべし』と、ロンドン魔術師協会憲章により定められた特別な日。よって、この件はリングで決着をつけねばならないのだよ」
「そんなっ。変ですよ! じゃあ…物の貸し借りとか所有権とか…それから、お金の問題とか、そういうのも戦って解決するとか…なんて、いわないですよね?」
 まさかそんなことはあるまい、と思い言ってみたことだったが、回答は璃音にとって予想外のものだった。
「そうだ。そういう場合は、天井に証書を入れた鞄をつるし、それを奪い合うという試合形式を取ることが多いな」
「はあ!? そんなメチャクチャな…」
 璃音は項垂れた。それをして納得したととったマイヤーズは話を続けた。
「なあに。クリシュナ君が勝てば済む話じゃないか。では、そういうことでいいね?」
 侑希音とシュタイナーには異論などあるはずも無く、元気よく手を挙げる。クリシュナは渋々頷いた。
「よし、それでは!」
 マイヤーズは高らかに宣言した。
「本日決定分の最終枠に滑り込んだのは、藤宮侑希音、チャールズ・シュタイナー組対クリシュナのハンディキャップマッチだ!」
 それを受けて、アリスが手を挙げる。
「GM、クリシュナは一人。いかにアヴァターラとはいえ不利は否めません。ここは救済措置として、反則裁定無しの試合形式にしていただきたいのです」
「そうだな。認めよう」
 あっさり頷くマイヤーズ。そろって抗議しようとした侑希音とシュタイナーだったが、マイヤーズの視線で抑えられた。
 試合方式が変わったことで、クリシュナはアリスに感謝の言葉をかけた。
「…ありがとう、アリス。助かる」
 アリスは礼を言われたことにまず驚いたが、素直に頷いておく。
「いいえ。でも、数的不利まで覆ったわけじゃありませんから」
 蛍太郎が疑問を口にする。
「あのさ。反則裁定ってどんなときに下るの?」
 アリスが答える。
「魔術師同士の対戦ですからね。術式の構築中に攻撃を加えることは禁止されているのです。基本的には、お互い同時に術を放つか象徴機械を実体化させ、それをぶつけることになっているのです。
 ですが、術式が完全に効果を発するまえに別の術式を構築することと、一旦構築を始めた術式を途中でキャンセルすることは禁止されています。その理由は、判りますよね」
「まあ、想像はつくよ。ズル防止だろ」
 蛍太郎は頷いた。
「はい。さすがです」
 アリスが嬉しげに頷く。それを待っていたわけではないのだろうが、マイヤーズはここで試合形式の決定を改めて宣言した。
「では正式に! 藤宮侑希音、チャールズ・シュタイナー組対クリシュナのハンディキャップマッチは…反則裁定無しとする!」
 パーティ会場が一斉に盛り上がる。大歓声の中、引きあげようとしたマイヤーズだったが、それを璃音が呼び止めた。
「待ってください!」
 一斉に静まり返るホール。おもむろに振り向いたマイヤーズを、璃音は決意を込めた眼差しで見上げた。
「わたしも加勢します!」
 すかさず、侑希音が抗議する。
「何言ってるの! もう、対戦カードは決まったんだ。今さら変更なんて無理無理」
 璃音は言葉に詰まったが、すぐに言い返す。
「ああそう。じゃあ、乱入して邪魔してやるから! だって、反則裁定無しってことは何やってもいいんでしょ」
 と、ちらりとマイヤーズに視線をぶつける。
「まあ、そうだな」
 GMであるマイヤーズが頷いたのを確認してから、璃音は続けた。
「ほらね。こうなったら、試合をブチ壊しにしてでもクーちゃんを守ってみせるから!」
「お姉ちゃん…」
 感激して瞳を潤ませるクリシュナ。蛍太郎も、妻のタンカに満足げに頷く。「素敵だ…」
 思わず、アリスが苦言を呈した。
「蛍太郎さま、よろしいのですか? 大切な奥さまが…」
 蛍太郎は璃音に聞こえないように小声で答えた。
「だって、ああなったら止めても聞かないよ。それにこれは、あくまで試合だろ」
「まあ、確かに。命の危険はないし、ここなら死なない限りは元通りに治療できますからね」
 アリスは小さく肩をすくめた。
 マイヤーズは何かいいたそうにしている侑希音と決然と佇む璃音を交互に見つめ、少し思案してから言った。
「そうだな。事前に堂々と乱入宣言されたのでは、2on2としてとしてブックし直したほうが良いだろうな。よし、この試合は藤宮侑希音、シュタイナー組とクリシュナ、藤宮璃音組による反則裁定無しの団体戦とする。
 では、さらばだ諸君! 試合会場で会おうッ!!」
 大歓声の中、様々なポーズで客にアピールしながら去っていくマイヤーズの背中を何となく眺めながら、蛍太郎は呟いた。
「…団体戦とタッグマッチって、違うの?」
 その疑問にはアリスが答えた。
「最初から二人づつリングに上がるんです。反則裁定無しでは、タッグマッチなんて成立しないじゃないですか」
 
 
3−
 試合会場とかリングとか呼ばれていた場所は、本当に四角いリングだった。
 タワーの地下、例によって空間を歪めて存在しているとしか思えない巨大さでスタジアムと呼ばれるドーム状の空洞が存在し、その中央のリングが据えられている。ただし、リングといっても広さはちょっとした陸上トラックほどで、ロープやコーナーポストは無い。それから五メートルほど離れたあたりに透明樹脂製の柵を隔てて客席がぐるりと取り囲んでいる。リングと客席の間の緩衝地帯は場外と呼ばれ、芝が植えられている以外は何もない。だが今は、先ほどの試合で展開した場外乱闘の名残がありありと残っており、血痕や折れた歯、血のついた凶器―有刺鉄線を巻いた角材と釘を打ち付けたバット、客席から持ち込んだ椅子とテーブル、さらには消火器、担架、ゴミ箱など―が散乱しており、係員がせっせと片付けているところだ。
 客席で観戦していた璃音と蛍太郎は、その交通事故か列車事故の現場にも似た凄惨な有様に思わず青ざめていた。
「こ、これが魔術師のやることなの!?」
 呻く璃音。
 その試合は、長髪の男前ひとりと、彼に恨みがあるらしい男三人のハンデキャップマッチだった。長髪の圧倒的な身体能力と拳の前に相手側は有効な攻撃ができないまま魔力を使い果たし、リング下から引っ張り出した凶器を総動員した血みどろの殴りあいという展開となる。結局、男三人はタンカに載せらて退場することになり、男前は額を切った程度の傷しか負わず女子の声援を一身に浴びながら悠々と花道を引き上げた。
 ことほどかように、それは魔術師同士の対抗戦と聞いてイメージされるものとはあまりにかけ離れた世界だった。勝利条件は相手を降参させるか行動不能にするかなので、行くところまで行けばこのようになってしまうのである。
 アリスは見慣れた光景なので眉一つ動かさない。…動いたとしても大して変化はないのが。クリシュナの方は試合の盛り上がりと共にテンションも高まったようで、両の拳を握り、その振り下ろしどころを探しているようである。
「よっしゃ、燃えてきたぜ!」
「女装癖が染み付いてても、やっぱり男の子なのねぇ」
 アリスが悪態をつくが、それすら耳に入っていなかった。仕方が無いので、アリスは後悔の表情をありありと浮かべている璃音の相手をすることにした。
「驚きましたか、璃音さま。まあ、幾分過激ではありますが、つまりるところはガス抜きですからこんなもんですよ。あの人たちだって、治療が済んで元の生活に戻れば仲直りです」
「そう? なんか、一生モノの遺恨になりそうなくらい、激しい潰しあいだったけど…」
 璃音が真剣に心配しているので、アリスは軽い口調で答えてやった。
「それならそれで、また次の試合…今度は三ヶ月後ですか。そのときに戦うだけですよ」
「そんなもんなのか…。そうか、そうだよね」
 納得はいかないが頷く璃音。その横で、蛍太郎も強烈な後悔の念に苛まれていた。
「なんてことだ…こんなにもハードコアだったなんて…。やっぱり、とめるべきだった…」
 それを見て、璃音は腹を決めた。やると宣言してしまった以上、いつまでもウジウジしてはいられない。そう思うといくらか気分が晴れてくる。そして璃音は夫の肩に、そっと手を置いた。
「大丈夫。わたしにはパワーがあるし、ヘカテさんから貰ったアーティファクトがあるから」
 魔術によって作った力のある品物をアーティファクトと呼ぶと、璃音はアリスから聞かされた。この分類に出自は関与しないから、璃音が貰ったイデアクリスタルもその範疇に入る。その観点ではアリス自身もアーティファクトであるということだ。もちろん魔術師が使うもの全てということではなく、椅子や消火器は含まれない。
「でも…」
 まだ心配気な蛍太郎に、アリスも言葉をかけた。
「あなたがご存知の璃音さまよりもずっと強くなっていますよ。少なくとも、椅子やハシゴで殴られたくらいじゃあビクともしませんわ」
 それを聞くと、多少は気分が上向きになってくる。
「そう言われれば、前からそうだったね」
 そもそも、なぜ試合を控えた璃音たちが呑気に客席で観戦しているのか。
 もちろんスタジアムに控え室は備えられているのだが、特に今回は多くのカードが組まれたために出場選手が多数かつ多様なので、出番が近くならないと使用できないのである。よって、選手は試合の進行が判る場所での待機を命じられたというわけだ。
 話をしているうちに客席がにわかにざわめき始め、外に出ていた者が次第に席へと戻って来た気配がする。アリスは天井中央から下がっている四面メインスクリーンを見上げ、言った。
「ほら、次の試合が始まりますよ」
 リングでは、派手な装飾が施されたラメ入りタキシードに身を包んだフレデリック・マイヤーズGMがコーナーを順番に回り腕を突き上げアピールしている。盛り上がる観客に応えてリングをもう一周してから、中央に仁王立ちし、マイヤーズはマイクを掴んで高らかに宣言した。
「それではッ! 本日の六回戦、時間無制限一本勝負を行なう!
 選手入場! 百六十二センチ、体重未公表、日本出身! アイカ・タマキ!」
 イブニングドレスの裾を翻し花道を練り歩くアイカに、バビロンの魔女たちからと思しき黄色い歓声が飛ぶ。それに手をふって応え、アイカはゆっくりとリングインした。
「続いては、百七十八センチ、五十八キロ、マンチェスター出身! ジョナサン・フレッチャー!」
 憎々しげな笑顔を浮かべて登場したフレッチャーには容赦ないブーイングが浴びせられ、そこらじゅうから空のペットボトルやトイレットペーパー、さらには爆竹や発炎筒が投げ込まれる。手書きのボードを掲げる客もいて、そこには『クソ野郎!』とか『ペドフィリア』、『くたばれ変態!』、『恥そのもの』などという文字が躍っていた。
 フレッチャーは敢えて客を煽るような傲慢な表情でアピールをしながらリングイン。やおら走りだし、アイカの顔に平手打ちを食らわした。割れんばかりのブーイングが巻き起こり、慌てたレフリーの指示で急遽ゴングが鳴らされる。
 怯んだかと思われたアイカだったが、顔色一つ変えず、奇襲に成功して気を良くしているフレッチャーの脇腹に回し蹴りを叩きこんだ。
「おぴょっ、ぽごぉっ!」
 意味不明の奇声を発しながらリングをのたうち回るフレッチャー。それを冷たく見おろすアイカの頬は、何事も無かったように白いままだった。
「そんなものですか…?」
 スタジアムは歓声に包まれた。『踏んでください』、『罵ってください』と書かれたボードが各所に上がる。フレッチャーが血反吐を吐きながらどうにか起き上がると、一転してブーイングが飛んだ。
「ククク…勝負はこれからよ」
 客の罵声が逆にフレッチャーに力を与えたらしい。痩せぎすの魔術師は鮫のような笑みを口元に貼り付け、首に下げた青いイデアクリスタルを握り締めると滴り落ちる血も気にせずぬ叫ぶ。
「いくぞ売女め! 私の象徴機械の恐ろしさ、とくと味わうがいいッ!
 ペミコン・ドナニト・フィモビ・リネソチ・アテルタ・テムゼ! 鋼より産まれし悪魔の腕よ。我が意に従い我が輔けとなるべし! 出でよ、オクトパスガーデンッ!」
 次の瞬間、フレッチャーの背中から金属製の触手が八本現れた。すかさずメインスクリーンに解説が表示される。
『名称:オクトパスガーデン
 形状:バックパック状のコントロールユニットから生えた八本の触手。
 特性:それぞれの触手の先端にはメカニックアームと各種工作機械が取り付けられており、土木工事から精密作業まで幅広い用途を誇る』
 それを見た璃音は、肩透かしを食らったような気がしていた。
「ふーん。作業用なんだ。どんな凄い武器が出て来るのかと思ったら…」
 だが蛍太郎は鋭い眼差しで"オクトパスガーデン"を見つめていた。
「工兵タイプだからって戦闘に不向きだってことにはならないよ。ノミもノコギリもナイフも、人に対して振るえば普通に凶器なんだから。
 それよりも…」
「それよりも?」
 璃音が首を傾げる。
「いいのか、あれ…」
 蛍太郎の表情が心配気な物に変わった。璃音もすぐにその意味を悟り、こちらは笑ってごまかした。
「いいんじゃない。似たようなメカを使っているキャラクターは、世界中に幾らでもいるんだし。ねえ?」
 そんな璃音をアリスは怪訝な顔で眺めていた。
「『ねえ?』って、誰に向かって言ってるんですか…」
 それはさておき。
 リング上では、アイカが八本の触手に絡め取られていた。フレッチャーが勝ち誇って笑う。
「ふはは。文字通りに四方八方から攻撃されては手も足も出まい! ってか、ホントに出ないだろぉ、だって全部縛り上げちゃったもんねー。
 …さてと。私は貴様のようなオバハンに興味はないが、ここはギャラリーサービスといっちゃうかね。ほら見ろお前ら、こういうのが良いんだろォッ!」
 アイカに巻きついていた触手が、彼女のボディラインが露わになるようにして身体を絞り上げていく。細いウエストや、その割りに大きな胸の形がくっきりと浮き出て、今までブーイングしていたロンドンの客は現金にもフレッチャーを応援するチャントを飛ばし始めた。
「レッツゴー、フレッチャー!」
 手拍子五つ。
「レッツゴー、フレッチャー!」
 手拍子五つ。
 その繰り返しである。あまりに露骨な掌の返しようにバビロンの魔女たちが騒然とし、両者の境界線では小競り合いが始まった模様だ。それを満足げに見渡し、フレッチャーは高らかに宣言した。
「よーし、私としては見たくはないが、スカートめくっちゃうぞー。お前らー盛り上がれよー!」
 フレッチャーは徹底的にアイカに恥辱を与えるつもりらしい。対戦相手の品性下劣なありように、アイカは本気で潰すことを決意した。眦を決し、自らの人工精霊を呼ぶ。
「"コマ"!」
 その声に応え、アイカの傍らに中型犬の形をした人口精霊が実体化する。形こそは犬だが毛が生えていない滑らかな外皮は陶器のようで、見かけではロボット犬と言った方が近い趣きだ。コマという名の犬型精霊は身を低くして牙を剥くと、主人を絡めている触手ではなく、本体であるフレッチャーの喉元めがけて跳んだ。
「うげっ」
 フレッチャーは悲鳴を上げ、触手をアイカから離し防御体勢をとろうとする。だが、本物の犬同様のスピードで飛びかかってきたコマの方が早く、フレッチャーは押し倒され、そして首筋に大きく開いた口を押し当てられた。牙は皮膚の表面で止まったままだったが、それでも与える恐怖感は相当なものである。それに、今からフレッチャーの触手がアイカを締め落とすよりも、喉に牙を突き立てられるほうが間違いなく早い。
「勝負あり、だな」
 と、アイカ。フレッチャーは歯軋りして、それから叫んだ。
「判ったっ、待ってくれ! 私が悪かったっ」
 命乞いを始めたフレッチャーからコマが口を離す。すると、触手が素早く波うち、コマを弾き飛ばす。
「なっ!」
 驚くアイカを、フレッチャーは大口を開けて嘲った。
「ふはははーっ! "参った"とは言ってないだろぉ〜お〜っ!!」
 そしてフレッチャーは触手を伸ばし、先端を展開させる。三本爪のメカニカルアームの中央からは歯医者が使うようなドリルや溶接トーチなどが現れ、アイカとコマを威嚇した。このフレッチャーの卑劣な振る舞いに、さっきまでの小競り合いはどこへやら、満場一致のブーイングが響き、会場のボルテージは『やっちまえ』ムードで急上昇する。それに応えるように、アイカは不敵な微笑を浮かべた。
「OK、どうやら遠慮する必要はないようね」
 そして、傍らに侍る相棒に命ずる。
「トランスアップ!」
 その掛け声と共に、アイカのチョーカーに下がっていた円形のイデアクリスタルが赤い光を放つ。球体に変じたコマを核として次々とパーツが実体化し形を無し、灰色の装甲を持つ狼が姿を現した。全長は三メートルほどで、咆哮をあげると会場全体が震えた。
『名称:グレイウルフ
 形状:狼型。全長三メートルから八メートル(変動)。
 特性:高精度化学センサーを装備した高速機。
 武装は背部ビーム砲座(ぬいぐるみ搭乗可能)、後肢付け根に固定されたスモークディスチャージャー。他、オプション多数』
 モニター解説を見るまでもなく、会場はグレイウルフの威容に息を呑んだ。鍛え上げた鋼の如き鋭さと知性の輝きを同時に備えた狼の眼差しがフレッチャーを射抜く。それに気圧され、フレッチャーが先手を繰り出した。
「必殺、エイトアームストーム!」
 その技名のとおり、八本のアームが爪を広げ一斉に襲い掛かる。だがグレイウルフは大きな体躯とは裏腹の機敏さで全てのアームをかわし続け、ビーム砲座でカウンターを入れる。気がつけば、フレッチャーは殆どの触手を防御のために使うことを余儀なくされていた。しかも、ビームの威力もなかなかのもので、アームの破損は時間の問題である。真綿で首を絞められているような状況に、フレッチャーは声を荒げた。
「おのれーッ! かくなる上はっ…アディッショナルシェル"エイト・バイ・エイト"、オンライン!」
 フレッチャーの触手が全て外れ、空中に浮かびあがる。そしてそれぞれの切り口部分に転送されたシェルが装着された。シェルはフレッチャーの背中に装着されているバックパックと同サイズコアと、それに接続された七本の触手からなる。それが本体の触手と合体することにより、合計八体のタコ型メカが出来上がることになる。
「ふははははッ! これぞ、我が象徴機械がオクトパスガーデンと名付けられた由来ッ。合計六十四本のアームをかわしきれるかなぁ〜あ〜! ゆけっ!」
 掛け声と共に全てのタコメカが一斉にグレイウルフに飛びかかった。グレイウルフはリングをいっぱいに使い、機動力を生かして触手を振り切り、順繰りにビームを当てていく。だが八体のタコメカの完全に統制が取れた攻撃の前にジリジリと追いつめられていく。
「ふははは!」
 勝ち誇ったフレッチャーは癇に障る声で高笑いした。
「ほらほら、降参した方が良いんじゃあないのかぁ? さもないと、可愛いワンちゃんが壊れてしまうぞッ。はは、ははは、ひゃーははははは…はッ!?」
 だが、その笑いは途中で途絶えた。
 フレッチャーの背後に、いつの間にかアイカが立っていたのである。
「ところで、一つ訊きたいんだけど」
「はいっ」
 背中を冷や汗が幾条も流れ落ちるのを感じながら、フレッチャーはやたらと歯切れよく返事をした。アイカは質問を続ける。
「あのシェルを使っている間、あんた自身は誰が守るわけ?」
「え、えーと。やっぱり自分の身は自分で…でしょうかねぇ。えへへ。えへえへ…」
 ヘコヘコと揉み手をしながら答えるフレッチャーだったが、その様は背後にいるアイカには見えない。だが見えたとしても悪印象しか与えなかっただろうから、幸いであった。少なくとも次のアイカの攻撃が、
「当て身!」
 …では済まなかった可能性が高い。
 こうして、アイカの手刀を首筋に受けたフレッチャーは糸が切れた人形のように崩れ落ち、存在の拠りどころを失ったオクトパスガーデンは幻のようにその実体を喪失した。
 レフリーがアイカの勝利を告げる。
 灰色の狼が力強く勝利の雄叫びを上げると、会場はアイカの勝利を祝福する歓声に包まれた。アイカは相棒と共にリングを回って歓声に応え、そしてゆっくりと花道を引き上げていった。
 観衆と調子を合わせ手をふるクリシュナとは対照的に、璃音は冷めた目で救護班に運び出されるフレッチャーを見おろしていた。
「盛り上がってるところを恐縮だけど…フレッチャーって人、アホだよね?」
 アリスも呆れた様子だ。
「ええ。前々からアホだアホだと思っていましたが、まさか象徴機械までアホ仕様だとは…」
 蛍太郎はというと、何やら真剣な表情で考え込んでいた。
「どうしたの、けーちゃん」
「ああ、いや…。あのグレイウルフ、なにかモデルがあるような気がして…」
 すると、アリスがたしなめるような口調で言った。
「蛍太郎さま。思索こそ人の証とは言いますが、いちいち深く考えていたら魔術師とは付き合えませんよ。あるがままを何も考えずに受け入れてくださらないと」
「そういうもんかね…」
 まだ釈然としない蛍太郎だったが、アリスに肩を叩かれ思考を中断された。
「ほらほら、次の試合が始まりますよ」
 
 
4−
 リング上では、マイヤーズが再びマイクを握っていた。
「続いて本日の七回戦、時間無制限一本勝負を行なう!
 選手入場! 百七十センチ、四十九キログラム、ユナイテッドステイツ出身! "Y2A"アマンダ・アンダーソン!」
 バビロンの魔女の黄色い声と、ロンドンの魔術師たちの野太い『マンディ』コールに出迎えられ、マンディは得意満面の笑顔で花道を練り歩く。ルックスや衣装と相まって、さながらアイドル歌手の登場である。
「百七十六センチ、百三十キログラム、リヴァプール出身! ジョ―ジ・マックスウェル!」
 憎々しげな笑顔を浮かべて登場したマックスウェルには容赦ないブーイングが浴びせられ、そこらじゅうから空のペットボトルやトイレットペーパー、さらには豚足や豚の頭が投げ込まれる。やはり手書きのボードを掲げる客がいて、そこには『樽魔術師!』とか『空気読め!』、『さっさと負けろ!』などという文字が躍っていた。
 こうして両者がリングインすると、すかさずゴングが鳴る。
「よっしゃ、いくぜ!」
 マクスウェルは気合を入れ、叫んだ。
「マックスマックスウェル、起動!」
 会場にざわめきとブーイングが巻き起こる。次の瞬間、ハンマーを担いだ金色の巨人が現れた。コックピットのマックスウェルが高笑いする。
「ふははははーッ、残念だったな! 前置きは抜きだ。"塩"で結構、オレがコイツを瞬殺してやる!」
 客席から、
「MAX SUCKS!」
 というチャントが繰り返される。見ず知らずの大勢からクソ野郎呼ばわりされ、マックスウェルは頭に血が上ってしまった。
「うるせぇクソッタレ!」
 客席に向かってハンマーを振り下ろすマックスマックスウェル。だがそれはフェンスから垂直に張り巡らされていたフォースフィールドに阻まれる。すかさずレフリーがイエローカードを提示した。
「ち…、しゃあねぇな」
 マックスウェルは足元の小さなターゲットに向き直ると、改めてハンマーを振り上げた。だが、マンディは顔色一つ変えず、肩に乗っているドクロに命令を下した。
「ガブリ、トランスアップ」
 マンディのペンダントに仕込まれたイデアクリスタルが赤く輝く。その直後、二本の白い棒状の物体がマックスマックスウェルの頭上に出現、巨人の背中を強かに打ちつけた。
「ぬわっ!」
 バランスを崩すマックスウェルの象徴機械。それを見たレフリーがマイクを取る。
「双方のメガクラスシェル現出を確認しました。これより、選手を転送します」
 次の瞬間、リング上が光に包まれ全ての物が姿を消す。代わりにモニターに映し出されたどこかの荒野にマックスマックスウェルの姿が現れる。大きな術の応酬になった場合は、選手を専用のバトルフィールドへ転送する仕掛けになっているのである。
 マックスウェルはシェルの光学センサー越しに周囲を見渡したが、足元にマンディがいるだけで彼女のメガクラスシェルの姿はどこにもない。
「おいおいマンディちゃんよぉ。お前のシェルはどこだよぉ?」
 小バカにした口調で笑うマックスウェルだったが、マンディは無言で上を指差す。つられて見上げたマックスウェルの目に飛び込んできたのは、巨大な骨だった。
「何だこりゃ!」
 先ほどシェルの背中を打ちつけたのはこれらしい。さらに、多数の骨がどんどん現れる。見たところ人間の骨をスケールアップした物のようだが、それが
頭蓋骨以外、一通り空中に浮かんでいた。
「うげ…気色悪っ!」
 動揺するマックスウェルをマンディがせせら笑う。
「ふふ。そういえば、アンタに見せるのは初めてだもんね」
 そしてマンディが指を鳴らすと骨が次々と合体を始める。そして最後にガブリが巨大化して頭部となり、マックスマックスウェルと同サイズの人体骨格が完成した。その頭頂部に仁王立ちし、マンディは指令を飛ばした。
「行け、ガシャドクロ!」
 その一方、会場のモニターにはマンディの象徴機械のデータが表示されていた。
『名称:ガシャドクロ
 形状:人型。全高十五メートル。
 特性:ビーム兵器による砲撃タイプ』
 それを見た璃音は首を傾げた。
「何で骨でビーム兵器なのっていうのはさておき、どうしてアメリカの人が作ったのに"ガシャドクロ"なの?」
 ガシャドクロというのは日本の妖怪の名である。それがアメリカ生まれの魔術師が使うシェルの名前になっているのだから、璃音でなくとも疑問に思うだろう。だがアリスは事も無げに答えた。
「ほら、日本人だって縁もゆかりもないケルト神話や北欧神話からやたらと引用したがるじゃないですか。それと似たようなもんですよ。異国情緒がカッコ良く思えるのは誰でも一緒なんです。特に、日本風っていうのは特別なものがありますから」
「そんなもんなのかなぁ…。勝手なイメージの押し付けだけど、やっぱりアメリカの人には星条旗柄の衣装を身につけて、自由と正義を高らかに謳って欲しいなぁ」
「そんな、ご無体な」
 などと、いちゃもんをつけられているとは知る由も無く、マンディはドクロの頭の上で得意げな笑みを浮かべ、右手を真正面に掲げた。
「焼き払えっ!」
 するとガシャドクロの口がパックリと開き、そこからビームが発射された。
「ぬわああああっ!」
 悲鳴と共にマックスマックスウェルを巻き込んだビームはさらに直線を続けて大気を燃やすほどの高熱で荒野を一直線に焼き、彼方にそびえる山を半分消し飛ばした。
「ふん。他愛もない」
 勝利を確信したマンディだったが、熱風荒れ狂う大気を引き裂き、マックスマックスウェルが駆けて来る。見ると、左腕には巨大なシールドが取り付けられており、それでビームを防いだらしい。
 マックスウェルは操縦桿を握りしめ得意げに笑う。
「ははははは! 以前の戦いでの反省点はキッチリ踏まえてあるのだァッ!」
「ちっ」
 マンディは舌打ちした。マックスマックスウェルの移動は存外に早く、既に口ビームの最低射程を割ってしまっていたのだ。代わりに、ガシャドクロは両の眼窩と手の全ての指先、胸骨からビームを発射し迎え撃った。だがシールドには何かしらの加工が施されているのか、全てのビームが弾かれてしまう。
「オラァ! バラバラになりやがれェーッ!!」
 マックスマックスウェルは渾身の力を込めてハンマーを横薙ぎにした。スーパー鋼鉄の塊は見事ガシャドクロにブチ当たり、そしてバラバラに粉砕した。ガシャドクロはパーツごとに分かれて吹き飛び、大地へ転がった。それを見おろし、マックスウェルは歓喜の雄叫びをあげた。
「うおおおおおおっ! やったぜ! 久しぶりの勝利だッ!」
 観客からはブーイングの嵐だが、我関せずと喜ぶマックスウェル。だが眼前に浮かぶドクロに気付き、いっぺんに青ざめる。やはり頭頂部に立っていたマンディが小バカにした目をマックスマックスウェルに向けていた。
「これで勝ったと思ったの。おめでたいことだね」
 直後、バラバラになっていた骨が全て宙に浮き上がった。さらに、それぞれからビームが発射される。無数のビームが一斉にマックスマックスウェルに襲い掛かる。だがマックスウェルは盾を構えさせ、それを防ぐ。
「ふっ。驚かせやがって。数が増えても豆鉄砲に成り下がってるんじゃあ、このシールドを破ることはできないぜ」
 マックスウェルの言うとおり、それぞれのビームは口から吐いたものとは比べ物にならないくらい細く、出力が低い。だが、マンディは余裕の笑みを浮かべたままだった。
「別に、破らなくても良いでしょ」
 マックスマックスウェルの巨体が揺れた。背後からの攻撃である。振り向くと背骨と上腕骨、肩甲骨が浮かんでいた。どうやら、大きな骨ほどビームの出力が上がるらしい。慌てたマックスウェルは、その攻撃をシールドで凌ぐ。
 だが、
「バカね」
 マックスマックスウェルの背後で右脚の骨一式が合体し、足裏からビームを撃つ。たった今シールドで防いだビームよりもさらに太い光条が、巨人の左肩を貫き、吹き飛ばした。
「げぇっ!」
 マックスウェルの悲鳴とともに、シェルの左腕はシールドごと大地に転がった。
「さて、と」
 マンディはガシャドクロを元通りに合体させ、最後通告をした。
「降参する?」
 マックスウェルは数秒の間もなく、
「はいっ!」
 と叫ぶ。だが、マンディは意地の悪い笑みを浮かべ、言った。
「ごめん、よく聞こえないや」
 次の瞬間、口ビームがマックスマックスウェルを消し去っていた。
 ガシャドクロを帰還させ、マンディはガブリと共に荒野に残された巨大なハンマーを見上げた。
「はぁ。丈夫だけがとりえなのね」
「だが、ああなってはヤツも何もできまい」
 マンディが背を向ける。すると、その機を伺っていたマックスウェルが巨大ハンマーから飛び出した。
「スキありーィッ!!」
 シルバーハンマーを実体化させマンディに襲い掛かる。だが、マンディは全く動揺しない。
「ほんと、バカね」
 次の瞬間、ガブリがローブをまといフードをかぶった死神へと変じ、マックスウェルの喉元に鎌を突きつけていた。
「刃物の材料としてはスーパー鋼鉄を凌ぐダマスカス鋼で作った鎌。…試しに斬ってみる?」
『名称:グリマー
 形状:人型。全高二メートル
 特性:鎌による近接戦闘タイプ』
 モニターにデータが表示されたのとほぼ同時に、
「ごめんなさい…」
 マックスウェルのギヴアップが成立した。
 直後、マックスウェルは歓声渦巻く試合会場に転送されていた。だが観客はリング上の敗者には目もくれず、モニターに向かって歓声を上げていた。そしてほどなく、自然発生的に"X"コールが巻き起こる。
 そして大歓声。
 いつからだろうか。ストレンジXが、リング上ではなくマンディの目の前にいた。
「みごとだったぞ。では公約どおり、君の挑戦を受けよう」
 そして、ヒーローは大仰にローブを翻し呪文を唱える。
「ヒコトネ・トニネ・イル・ラシン・コストネ・シズラ・レネ・ハ・ナスミル! 闇を払う無量無窮の光よ! 我が征く道を顕かとし、聖なるものを照らし邪なるものを糺すべし! マイティ・ラ・ムー!!」
 激しい光がストレンジXの背後に立ち昇る。それは渦を巻いて球体を形成し、さらに強く輝く。それはさながら小さな太陽である。
「太陽王の恵み!」
 ストレンジXが叫ぶと、光の色がオレンジがかったものへ変わる。それを浴びたマンディは、身体の奥から力が湧いてくるのを感じた。
「これは…」
 怪訝な顔をするマンディ。ストレンジXはおもむろに口を開く。
「今のは回復光線だ。先ほどの戦いで消耗した魔力を補充させてもらったよ。もっとも、私との対戦に備えてほとんど温存していたようだがな」
 会場モニターにデータ表示が現れた。
『名称:サンキング
 形状:球状のエネルギー体
 特性:多様な属性を持つエネルギー波を照射する』
 彼のフェアな振る舞いに観客から惜しみない拍手が送られる。マンディも素直に一礼を返した。
「ありがとうございます。そこまでしていただいた以上、私の全力を以ってお相手させていただきます!」
「よろしい。望むところだ!」
 そしてストレンジXのカメラ目線に促され、ゴングが鳴った。
「参ります!」
 先に仕掛けたのはマンディだった。
 死神グリマーが鎌を振りあげて突進する。ストレンジXは隆々とした身体つきからは想像できない機敏さでそれをかわし、懐へ滑り込む。至近距離からパンチが繰り出され、グリマーの胸部を穿つ。だが、拳は何の手ごたえも無く黒い布地を突いただけだった。
(くっ!)
 ストレンジXはとっさに飛び退いた。ヒーローとしての経験と勘が彼に危険を察知させたのである。名づけて"ストレンジ感覚"。バックステップしたストレンジXの体を、死神のローブを突き破り爪のように飛び出した肋骨の先端が掠めていく。
「ほう。まさに露骨な肋骨だな」
 ストレンジXは軽口を利きながら体勢を立て直した。すかさず、一気にたたみかけようと飛ぶグリマー。しかし、ストレンジXは汗一つかいていなかった。
「だが、私が太陽を背に戦っていることを忘れるな!」
 サンキングの輝きが増す。
 マンディは目潰しかレーザーによる攻撃を想定し防壁術式を立ち上げる。だが、サンキングの光は意外にもストレンジXの背中めがけて発射された。
「むぅうんッ!」
 暑苦しく呻くストレンジX。そして、
「とおっ!」
 その両目から赤いレーザーが発射された。レーザーはグリマーの鎌に命中し、その刃を粉砕した。
(うそっ!)
 特殊鋼を鍛えた鎌が破壊されたことに驚いたマンディだったが、動きを止めてしまったらやられるだけだ。グリマーに指令を出し、肋骨を展開させる。
「リブクラッシャー!」
 だが、ストレンジXは両腕を交差させ全ての肋骨を受け止めた。
「はぁああッ!」
 さらにサンキングの光が照射され、ストレンジXの全身の筋肉が一瞬膨らんだ。直後、
「うおおおおおッ!」
 雄叫びと共に、ストレンジXが腕を振り払う。グリマーの肋骨が全て、鈍い音をたてて砕け散った。
 堪らず後退するグリマー。
「ちっ、強いぞ」
「…そうね」
 マンディは冷や汗を拭いながら頷いた。口の中はとっくにカラカラで、その不快感に集中力が削がれそうになる。だが、これで引き下がるつもりはない。全力でやると宣言した以上、言葉どおりにするまでだ。
「トランスアップ!」
 もったいぶらずに一瞬でガシャドクロを召還したマンディは、頭蓋骨の脳室に当たる箇所に設けられたコックピットに耳穴から乗り込み、指令を出す。
「ガシャドクロ、分離!」
 腕、脚、骨盤、胸部、そして脊柱をぶら下げた頭蓋骨に分離したガシャドクロは空中で扇状のフォーメーションを展開する。
 それを無言で見上げていたストレンジXはゆっくりと右腕を上げ、そして指を鳴らした。すると、大地を割り白い巨人が表れる。巨人はガラスのようなツヤのある素材で作られていて、目が二つある以外に装飾は無い。
 その巨人が胸部装甲を開きサンキングを収納する。そして、
「とおっ!」
 跳躍したストレンジXを左の掌に乗せた。
「ソーラータイタン、起動!」
 主の指令を受け、白い巨人は自身が巨大な白熱灯であったかのように、強烈な光を発し始めた。その光は強く熱く、肉眼では直視できないほどに輝く巨人は会場モニター上では完全に白く飛んでしまっていたが、それでもデータはキッチリと表示された。
『名称:ソーラータイタン
 形状:人型。全高十八メートル
 特性:原子結合コーティングによる超高硬度装甲
    近接格闘とエネルギー攻撃』
「いざ、参られい!」
 ソーラータイタンが空手のような構えをとる。それに応え、マンディは己の象徴機械に攻撃命令を下した。
「撃てーッ!」
 バラバラに浮かんでいるガシャドクロのパーツの全てから、先ほどマックスウェルに撃った口ビームよりも太いビームが一斉に発射される。魔力の殆どを温存していたというのは本当だったようだ。だがソーラータイタンは少しも動じず、それどころかストレンジXを左掌に載せたまま、右腕と蹴りで全てのビームを弾き飛ばした。軌道を変えられた七本の光条は真っ直ぐに天へ向かう。
「まだまだ!」
 ガシャドクロは再び合体、四つんばいになり、さらに肋骨を伸ばして杭のように地面に打ちつけた。
「ジェノサイドバスター!」
 関節が外れそうなほど顎を開いたドクロの口内から、高出力のビームが発射された。ビームの太さは先ほどのものと同等だが、あまりの高温に周囲の大気が一瞬にして燃焼し射線にそって連鎖的に爆発が起こり、さらに地表が溶けて抉れていく。
 ストレンジXは感嘆の声を洩らした。
「ふむ。これはさっきのようにはいかないな」
 ソーラータイタンは足を大地にねじ込むように踏みしめ、右掌を突き出す。そして自身の放つ光をさらに強く、ビームの閃きを打ち消すほどに高めていく。
「君の力、私はそれを超える熱量で受け止める!」
 直後、着弾。巨大なエネルギーのぶつかり合いに大地が揺れる。高温で大気の流れが変わり強風が吹き荒れた。その中心、輝く巨人は全く陰り無く光を放ち続けていた。ソーラータイタンの変わらぬ威容にマンディは悲鳴を上げた。
「そんな! 全くの無傷だなんて!」
 もちろんそれは、まるっきり隙になってしまった。
 ソーラータイタンは瞬時に間合いを詰め、ガシャドクロの頭蓋めがけて貫手を繰り出した。だが、その指先は寸止めされる。相手にもはや避ける力も残っていないことをストレンジXは悟っていたのだ。
 ガシャドクロのパーツは次々と落下し、最後にドクロが巨人の指先から転がり落ちるように、力なく大地へ沈んだ。エネルギー切れで機能を停止したのである。コックピットの中にガブリの声が響く。
「だからいつも言っているだろう。お前はエネルギーをパカパカ使いすぎるって」
「うるさいなぁ。チマチマしたのは性に合わないんだよ」
 マンディは唇を尖らせ、コックピットから這い出した。外は先ほどの戦いの影響でサウナのように熱かったが、そこで待っていたストレンジXはローブと全身タイツという格好にも関わらず汗一つかいていなかった。戦いの最中もずっとソーラータイタンの掌に乗ったままだったから、あの熱に比べれば今の暑さなど物の数にも入らないのだろう。だが、それにしてもとんでもない話である。マンディは我知らず、ストレンジXに問いかけていた。
「どうして貴方は、あの熱をマトモに受けても平気なのですか?」
 ヒーローは微笑を浮かべて答える。
「平気ではない。耐えているだけだ。己を滅ぼすほどの力は振るわないことにしているのでな」
 全く予想外の言葉に、マンディは一気に身体の力が抜けてしまった。
「はは…そうなの…」
 消耗により倒れかけたマンディを、ストレンジXは片手でささえた。
「見事なお手並みだった。その技術と研鑽に敬意を表し、お姫様抱っこで応えよう」
 ストレンジXがマンディを横抱きに抱えあげた。その直後、二人の姿はリングの中央にあった。観衆のボルテージが上がる。"X"コールと、主に女性の悲鳴が渦巻くスタジアムを、ヒーローは悠々と後にした。選手退場後も興奮の余韻が客席に漂う。侑希音の隣で観戦していたシュタイナーは、感嘆のタメ息を吐いていた。
「やっぱ、スケール違うよなぁ。あんなのと対戦しなくて良かった…。でも、あれのあとに出るってのも色々な意味でツライな」
 だが侑希音は首を振り、力強く答えた。
「なぁに。小兵には小兵の良さがあるんだよ。パワーが全てじゃあない」
 その言葉に、ひとつ前の席で観戦していた六角烏帽子の男が大きく頷いた。
「見事な心意気じゃ」
 そして振り向く。南覚和尚である。だが、以前に侑希音と会った時とは異なり、仏法僧の姿ではなく修験者の装束を身につけていた。
「あんた…」
 驚くと同時に呆れる侑希音。
「なんだ、その格好。お蔭で全然気付かなかったよ」
 すると南覚はさも残念そうに首を振る。
「いやぁ、最近の若者は薄情じゃのう。親父さんに経をあげてやった親切なお坊様が前に座ってるというのに、気付きもしないんじゃから」
「今まで坊さんだったのが今日は山伏になってるなんて、ありえないだろ、普通」
 侑希音が口にしたのは見事に正論だったが、南覚は涼しい顔である。
「あの時にちゃんと言ったじゃろぉ、『アホダラ経のナマグサ坊主だ』って。信仰は形ではないのじゃ」
「だったら、お経を蔑ろにすんなよ」
「いいんじゃよ、別に。長いんだから、要点だけおさえれば良いのだッ」
「般若真経が、その要点ってヤツだと思うんだが…。あんたの態度はまるっきり居直りじゃないか。ってか、それなら念仏か題目に転向しろよ」
 その言葉を聞いた南覚は、しばしの沈黙ののち目を丸くして嘆息した。
「…お主、頭良いな」
「うるさいよ。今さら気付いたのか」
「まあな。無駄にデカいあちこちしか見とらんかったわ」
「サイテー…」
 侑希音は南覚と喋るのがだんだん面倒になってきたので、適当なところで話を打ち切ることにした。
「それじゃあ、もうすぐ試合なんで」
 シュタイナーを促して席を離れようとすると、南覚は悲痛な表情で侑希音を見上げてくる。侑希音は仕方なく、おそらく彼が望んでいるであろう質問をしてやる。
「で、あんたはなんでこんな所にいるのさ。ここは魔術師か、その紹介を得た者でないと入れないはずだ」
 すると南覚は、ぱっと表情を輝かせて答えた。
「うむ。わしは長いことバビロンの魔女と関わりを持っておるのじゃ。ヘカテ様の臣下としてのぅ」
 突拍子もない答えが返ってきたので、侑希音は思わず吹き出してしまった。
「おいおい、何を言っているんだ」
 ヘカテに師事して数年経つし、南覚とも長い付き合いだが、両者に接点があるなんて見たことも聞いたこともない。だが南覚は得意げにほくそ笑む。
「そりゃそうじゃ。なにせ、わしは忍者。極秘裏に動いているのじゃから知らんで当然じゃよ」
「ほう、忍者ねぇ…」
 忍者の源流が修験者であるという話はよく聞く。だが、東洋発祥の忍者とオリエントの魔女との繋がりが判らない。
「忍者と魔女に何の関係があるんだ?」
 疑問をそのまま口にすると、南覚はしたり顔で手を叩く。この質問を待っていたようだ。
「大アリじゃ。どちらもマヤカシの術を用いるというだけではない。ヘカテ様の使い魔として有名なのはカエルだろう? 忍者は蝦蟇に変身するではないか」
「言われてみれば、確かにそうだな…」
 侑希音は下宿人の忍者を思い浮かべた。
「でも、なんか騙されてる気がする」
「可愛げがないのぅ。せっかくマメ知識を披露したんだから、それらしく反応してくれんと。このようなことではオヤジキラーになれんぞぉ。うへへ…」
 南覚が聖職者のものとはとても思えない眼差しをむけてくるので、侑希音は実にそっけなく対応した。
「ふ〜ん、凄い凄い」
「…腹立つのう」
 あまりにも適当なリアクションに、南覚は思い切り口を尖らせた。すると侑希音は露骨に不快さを顔に表した。
「うるさい。自分で忍者だとか極秘に動いてるとか言いだすヤツの話なんか信用できるか! それじゃあ忍んでないじゃん」
「ぬおおっ、しまったッ! この南覚、一生の不覚ッ」
 
 
5−
 遂にその時が来る。
 璃音たちはようやく空いた控え室で待機していた。準備することといったらパワーシェルの装着だけなので時間をもてあましていると、そこにヘカテが顔を出した。
「聞きましたよー。クリシュナの貞操を賭けて試合ですって?」
 事実をそのまま言っただけにもかかわらず改めて聞くととんでもない話だが、ヘカテは実に嬉しそうだった。クリシュナは眉をひそめる。
「ヘカテ…。もうちょっと心配そうな顔とかできないの?」
 だがヘカテは今までどおりの笑顔で答えた。
「ママとしては…クリシュナが幸せなら、別に相手が男の人でも問題ないと思うけど?」
「うわああああああっ! ってか、誰がママだぁーッ!!」
 あまりの物言いに、クリシュナは頭を抱えてしまった。
「ヘカテ師…試合前なんですから、あまり心を乱すようなことは仰らない方が…」
 アリスが苦言を呈するが、ヘカテは悪びれる様子はなかった。
「そう? あんまり関係ないと思うけど。どっちにしたってクリシュナには落ち着きってものが無いんだから。それより、璃音さん」
「はい?」
「ご主人、マネージャーとして入場なさるんですよね?」
 唐突な発言に控え室は沈黙した。
(完全に面白がってるな、この人…)
 誰もがそう思ったが、敢えて口にはしない。
「せっかくですしね。それに、奥さんが心配でしょ」
 何がせっかくなのかよく判らないが、ヘカテの言葉は蛍太郎の心を動かした。璃音をダシにするあたり、さすがは魔女の手管である。
「ええ、もちろんです」
 蛍太郎が頷く。横で璃音がなだめようとするが、ヘカテは間髪いれずに金細工の五芒星を蛍太郎の掌にねじ込んだ。
「これ、お守り。魔術によるダメージを軽減することができます。百パーセント安全とは言い切れませんが、素人さんに手を出したらさすがにレフリーストップがかかりますから大丈夫」
 それでも、もちろん璃音は反対する。夫が暴力の渦中に飛び込むなんて考えたくもない。
「けーちゃん、危ないよ」
 しかし、蛍太郎は首を振った。
「璃音ちゃんが戦ってるのに、僕だけ呑気に見てるわけにはいかないだろ。そりゃ、本当に危ないだけで無意味なら自重するけど、今回は上手く立ち回れそうだしね。だって…」
「だって?」
「あの侑希音さんが何も仕掛けてこないなんてこと、あると思う?」
 蛍太郎の言葉には非常に説得力があった。璃音は頷く。
「確かに。あの姉なら何か企んでると考えた方がいいね…」
 そうなると、身近に蛍太郎の助けがあった方が何かと有利ではある。しかしそれは、彼を危険に晒してまで得なければいけないアドバンテージといえるだろうか。悩む璃音の肩に、蛍太郎はそっと手を置いた。
「大丈夫だよ。僕だけが狙われるなんて事はありえない。だって、対戦権の無い者を殴り倒しても勝ちにはならないんだから」
 それを聞いたアリスが頷く。
「確かにそのとおりですが…。ならば私も付き添いましょう。ご安心ください璃音さま。これでも魔術の心得はあるんですよ」
「決まりね」
 ヘカテが満足げに頷いた。
「そういうことなら、私が貴方たちの後見人になりましょう。蛍太郎さんに手を出したら即刻、私が介入しても良いことにすると、試合条件に書き加えさせます」
 いや、そこまでしなくても…と、言いかけた蛍太郎だったが、ヘカテの意図が何となく判ったので何も言わないでおいた。代わりに、クリシュナが仏頂面で口を開く。
「単に自分も加わりたいだけだろ」
 図星だったようで、ヘカテは突然駄々っ子のように身をよじりだした。
「いいじゃないの〜、私だって参加したいもん。ホントは試合したかったのに、誰も因縁つけてこないんだも〜ん」
 アリスがいつも通りの、だかいつもより冷たい口調で言う。
「…ヘカテ師に因縁つけようなんてバカ、いるものですか。偉いんだから自重してください。大人げない」
 するとヘカテは、近くに貼ってあったマッチデイプログラムを指差した。
「今日のメイン、見てごらんなさいな」
 そこには、"ロンドン三賢人トリプルスレッドマッチ"と書いてあった。それを見たアリスはガックリと肩を落とす。
「それ、魔術師協会の首脳陣…」
「ほらぁ、ずるいですよね?」
 ヘカテは頬を膨らませた。その様はもう、そこいらの小娘である。
(もはや何も言うまい…)
 璃音たちにはもう、搾りだす言葉もなかった。
 居心地の悪い沈黙が控え室を支配したが、それは係員のノックで破られた。
「出番です」
 ドア越しの声。璃音は半ば無理矢理に気持ちを入れ替えた。
「よしっ。絶対勝つからね!」
 威勢の良く宣言し、イデアクリスタルを握りしめる。パワーを送り込もうとして、ふと思いとどまった。
「あの…みんな、あっち向いててくれる?」
 一瞬の間ののち、アリスが嬉しそうに口を開く。
「璃音さま、どうか遠慮なさらずに」
「遠慮するよっ。人前であれは無理だって」
 璃音が眉を吊り上げる。ヘカテは意外とばかりに首をかしげた。
「そうですか? あなたくらいだと、逆に自分から見せたいと思っても不思議じゃないでしょうに」
「そういう趣味はないです」
 首を振る璃音。事情が判らない蛍太郎はクリシュナの様子も伺ってみるが、彼は何も言わず黙っていて、その眼差しからは何かを期待していることはありありと判る。
 いずれこのままでは時間を無駄にするばかりなので、アリスはクリシュナの後ろに回り、両手で彼の目を隠した。
「うわっ、なにをするだァッ!」
 悲鳴に近い抗議の声は実に切羽詰ったもので、一部呂律がまわっていなかった。アリスは構わずにいつもの涼しい顔で言う。
「さあ璃音さま、どうぞ」
 そうは言いながらアリスの瞳が自分の方にキッチリ向けられているのが気になったが、璃音は頷いた。ヘカテは女だし、蛍太郎になら見られても嫌ではない。
「う、うん…」
 クリスタルにパワーを注ぐ。
 璃音の身体が光に包まれ、衣服が消し飛ぶ。直後、パワーシェルが瞬時に装着された。その間は僅か一秒に満たないが、やはり裸というものは強く目に焼きついてしまうようだ。蛍太郎は目を丸くした。
「なに、今の…」
「着替えだって…」
 璃音は恥ずかしさで顔を伏せた。蛍太郎は困惑の表情を浮かべる。
「とりあえす、人前で着替えるのはやめようね」
 頷く璃音。それから改めて"着替えた"璃音をまじまじ見て、蛍太郎は思わず目元をだらしなく緩ませてしまった。
「えっと、それ…なんていうか、凄くない?」
 着用時の生着替えと全アーマーを排除したタイツ状態のインパクトで、パワーシェルの形状にはさほど気にせず何とも思わずにいた璃音だったが、改めて指摘されて自分の姿を見直すと、顔を耳まで真っ赤にしてしまった。
「うわ…。なんか身体のラインがくっきりでてるね。それにスカート短いし…」
(制服のスカートもそんなものだし、下はタイツなんだけど…。なんでこっちの方が恥ずかしいのか、よく判らないなぁ)
 そんなことを考えながら、蛍太郎はあらぬことを口走った。
「まあ、いいんじゃない? 自慢のおっぱいなんだし」
 すると、アリスがクリシュナの顔を押さえつけたままで頷いた。
「確かに、見られて困るようなケチなシロモノじゃあないですね」
 ヘカテも同意する。
「いいじゃないの。減るもんじゃなし」
 異常な展開に、璃音は泣きそうになりながら喚いた。
「なんなのぉ。もう脱ぐ!」
 すると、ヘカテがいつもの穏やかな、しかし有無を言わさぬ口調で言い放った。
「璃音さん。四の五の言わずにさっさと行きなさい」
「…はーい」
 璃音は肩を落としてドアに向かった。それを追って、アリスを振り払ってパワーシェルをまとったクリシュナが続く。
「気にするなよ、お姉ちゃん。僕なんかほとんど裸みたいなもんだよ」
「君は男の子じゃないか…」
 
 璃音たちが控え室で騒いでいた頃、スタジアムでは侑希音とシュタイナーの入場が始まっていた。
「百七十六センチ、五十八キログラム、日本出身! 藤宮侑希音! アンド、百八十ニセンチ、六十キログラム、ドイッチェランド、ハンブルグ出身! チャールズ・シュタイナー! …Beautiful Grotesque MAGES、チーム・BGM!!」
 美男美女のビジュアルタッグ登場に客席が一気に沸く。特に、合皮のライダースーツのジッパーを胸元まで大きく下げて現れた侑希音に男どものハートとナニを鷲掴みにした。
 花道を悠々と歩く二人に歓声が飛び、花が投げ込まれる。リングの中央でアピールをすると、さらなる声援が沸き起こった。興に乗ったシュタイナーはそれに応えてベースギター型象徴機械"ホーリーローラー"を実体化させ、おもむろに弾きはじめた。アンプがないのに何故かイイ感じに低音を刻むベースにあわせ、オリジナル曲を一つ披露する。
 璃音たちが大急ぎで入場口にやってきたのは、丁度その即席ライヴが終わったあたりだった。ヘカテはたしなめるように、選手たちとマネージャーを見渡した。
「よかったですね。相手が色々してくれたお蔭で助かったみたいよ」
(別にお金取ってるわけじゃないから、少しくらい遅れてもいいと思いますけど…)
 璃音はそう思うだけで、口には出さないでおいた。恐る恐る花道に顔を出すと、リングアナの名調子が響きわたる。
「百五十六センチ、三十八キログラム、インド出身! クリシュナ! アーンド、百五十ニセンチ、四十六キログラム、日本出身! 藤宮璃音! …チーム・ルージュマジック!!」
 いつの間にか決まっていたチーム名に目を丸くしながらも、璃音とクリシュナはそろって花道に飛び出した。美少女と美少年の登場に再び会場が沸く。チームBGMのときとは若干客層が違うが、ふたりは好意的に迎えられた。
 …マネージャーが登場し、附帯事項が説明されるまでは。
 蛍太郎がヘカテたちに背を押されて花道に出ると、リングアナが再びマイクをとる。
「マネージャーの藤宮蛍太郎氏の入場です。なお本戦は反則裁定なしですが、先ほど新たなルールが追加され、蛍太郎氏に危害を加えた者は即座に失格となります」
 それを聞いた観衆は困惑ムードになるが、花道にヘカテとアリスの姿を見て取ると、一斉にブーイングを始める。一転した空気に困惑する璃音たちだったが、ヘカテだけは満足げに微笑んでいた。
「そりゃ、イイ感じに権力を笠に着てるからじゃなぁいの?」
(…アンタのせいか)
 こうなってしまっては無意味なので誰も文句は言わなかったが、服装を整えてリングサイドに戻ってきたマイヤーズGMは独り毒づいた。
「誰だッ、私がいない間にあんな条件を認めたのは…ッ。せっかく組んだブックなのに、これではどちらがヒールか判らんではないかッ」
 悪役が不明瞭では試合が盛り上がらない。だからこそバランス良く対戦カードを組むためにGM職があるのだが、さすがに不在時を突かれてはどうしようもない。マイヤーズは苦渋の表情でゴングを指示した。
 歓声の中、侑希音が一歩前に進み出る。璃音は眉を吊り上げ、それに倣った。身体のラインをこれでもかと強調した衣装の二人がリング中央で対峙し、いろいろなこと、具体的には"ポロリ"を期待する男たちがギラついた眼差しを注ぎ込む。 
 璃音は目の前の相手を凝視した。
「…侑希ねぇ」
 一方のクリシュナは槍を構え、シュタイナーに視線を向ける。するとシュタイナーはベースを爪弾きながら五歩ほど退いてリングの隅に移動、演奏を続ける。
 それを、璃音はチラリと視界に入れた。
(やっぱり、後衛にまわるのね)
 恐らくはあのギターを弾くことで術が発動するのだろうから、前に出て攻撃というタイプではないと推測はできる。だが物がベースだけに、それを振り回して殴りかかってくる可能性も否定はできない。
 だが璃音は、今は姉に集中することにした。
「ふふふ。あの時とは違うぞ。易々と勝てるとは思わないことだ」
 侑希音は不敵な笑みを浮かべ、駆けだした。次の瞬間、その姿が変わる。長い黒髪をなびかせ一振りの剣を携えた、ダンシングクイーンUである。だが、璃音がそれを視認できたのは、ほんの僅かだった。
 自らを象徴機械のシェルとした侑希音の能力は桁外れのスピードである。璃音の赤い瞳を以ってしても、その姿を捉えることはできなかった。
(見えなくったって!)
 璃音は防壁を張り巡らせた。試合形式である以上、侑希音は必ず攻撃を仕掛けてくる。そこにカウンターを入れればよい。
 だが。
「お姉ちゃん、避けて!」
 クリシュナが叫びと、ベースギターの唸りが同時に響く。直後、璃音の身体が何か強い力で押さえつけられた。
「かはっ…!」
 息が詰まりそうになり、慌ててエンハンサーによる生命維持シールドを立ち上げる。呼吸は保たれたが、璃音は指一本動かせなくなってしまう。しかも耳も聞こえない。
(なに、これ…)
 シュタイナーのギターと何か関係があるのだろうが、エンハンサーに守られていても眼球くらいしか動かせない璃音に状況を把握するのは難しかった。
「ちっ…!」
 クリシュナは璃音に近づこうとしたが、僅かな空気の揺れで敵の攻撃目標が自分である事を察知し、槍を振るう。その穂先は、見事に侑希音の剣を受け止めた。さらに、その切っ先をリングに押さえつける。武器を押えられた侑希音は、しかし余裕の表情を浮かべていた。
「私が見えるとは大したもんだ。けど…っ」
 侑希音は剣を返すと見せかけ、蹴りを放った。それを手にマトモにくらい、クリシュナは槍を取り落とした。さらにもう一つ蹴りを入れ、距離をとる。侑希音は剣を構えなおすと、新たな槍を形成する前にクリシュナへ突進する。だが、クリシュナは真上に跳躍、そのまま十メートルほどの高さを保つ。彼の足裏に取り付けられている球体は推進装置として機能するのである。しかし、侑希音はその高さでも難無く跳んでみせた。
 剣が現れ、クリシュナの右手に収められる。クリシュナは、黒い影が剣を振り下ろすのを辛うじて知覚し、次の瞬間。二振りの剣が火花を散らした。
 侑希音の剣をガッチリと受け止め、クリシュナは小さく笑う。
「へへ、何だか知らないけど…」
 クリシュナの左手にチャクラムが現れる。
「あいつを潰せば、お姉ちゃんは動けるようになるんだよな!」
 シュタイナーはリズムを刻み続けていた。この状況、どう見てもシュタイナーの象徴機械の力によって璃音の動きが封じられていることは、方法はともかくとして判る。チャクラムは、そのシュタイナーめがけて一直線に飛んだ。
 しかし、それでも侑希音に動揺の色は無い。それどころか…、
「なっ…」
 唐突に侑希音の姿が元に戻る。そして、象徴機械ダンシングクイーンがチャクラムを叩き落していた。一瞬で"分離"したのである。
「ふふっ。残念だったね」
 侑希音の手に剣はない。その代わり、
「マジックミサイル!」
 攻撃魔法の定番が、そこから放たれた。強烈な衝撃波をマトモに受け墜落するクリシュナ。侑希音は浮遊の術でシュタイナーの三歩前に悠々と着地した。
「さて、いくよ」
 侑希音はイデアクリスタルを口にくわえ、両手で印を結ぶ。それがヘカテの使っている魔力増幅術式であることはクリシュナにも判ったので、慌てて立ち上がり、今度は両手に剣を実体化させ、構える。そこに、ダンシングクイーンが突っ込んできた。文字通り目にも止まらぬ速さで二本の剣が、蹴りが繰り出される。
「負けるかぁっ!」
 クリシュナは必死に剣を振るい、それらを受け、さばく。パワーシェルの攻撃サポートをオン、両肩に三対、計六本の腕が現れる。クリシュナはそれぞれに握られた剣でガードをめぐらし、本来の自分の腕で攻勢をかけた。切っ先がダンシングクイーンを捕らえかけた瞬間、マジックミサイルを何発も食らい、クリシュナは大きく体勢を崩した。
「くそぉっ!」
 パワーシェルで守られているクリシュナは、これくらいでは大きなダメージは受けない。だが、一発でも彼の注意力を削ぎ動きを止めるには充分である。その隙を狙いダンシングクイーンが斬りこんで来る。増やした腕で辛うじてそれを裁くが、侑希音の援護射撃によりそれもおぼつかなくなってくる。
 リングサイドで弟子の戦いぶりを見ていたヘカテは、感嘆の声を洩らしていた。
「へぇ…、しばらくほったらかしにしていたら、進歩したんじゃない?」
「何を呑気な…」
 アリスは眉をひそめたが、それでも驚きは隠さない。
「確かに、"ヘカテの印"もすっかり使いこなしておいでですし…上乗せした魔力で大技を撃つのではなく、弾数にまわすというのも、いかにもあの方らしいといいますか…」
「クリスタルを口にくわえて命令伝達するのって、えっちくて良いわねぇ」
 そう言って目を細めるヘカテは、完全に生徒の成長を喜ぶ先生の顔である。だがもちろん、蛍太郎は気が気ではない。
「解説をどうも…と言いたいところですが、完全に劣勢じゃないですか。一体どうすれば…」
 だがヘカテは、悪戯っぽく微笑むだけだった。
「さあ。ここは、貴方が思うように行動すれば良いのです。マネージャーらしくね」
「思うように、ですか」
 もちろん、蛍太郎は璃音を救う方法などとっくに思いついているのだが、本当にそれをやっていいものかどうか迷っていた。
 いかに反則裁定なしとはいえ、それはアリなのか。
 だが、事ここに至っては選択肢は無いようだ。
 シュタイナーの象徴機械の特性がモニターに表示されていないのが気にかかるが、蛍太郎はリングサイドを走る。相手側コーナーに着くと、シュタイナーの足首を掴み、思いっきり引っ張った。
「ぬわっ!」
 シュタイナーは見事に転倒し、ベースを抱いたまま顔からリングに倒れ伏した。
 演奏が止まる。
 すると、今まで金縛り状態だった璃音に自由が戻った。
「あ…」
 倒れているシュタイナーと、その後ろから脱兎の勢いで逃げていく蛍太郎を見て、璃音は状況を察した。パワーシェルにエネルギーを送り込み防壁を活性化させる。攻撃サポートをオンにし、袖口で目の前に迫っていたマジックミサイルを薙ぎ払う。それは軌道を変えて、ダンシングクイーンの横っ面に命中した。この隙にクリシュナは推進器を吹かして距離をとる。
 侑希音は舌打ちすると、象徴機械を呼び戻して再び融合した。先ほどのダメージで左頬が少々痛むが、大事はない。
「やってくれるじゃないか」
 侑希音の眼光がリングサイドの蛍太郎に飛ぶ。なにくわぬ顔を装っていた蛍太郎だったが、その鋭さに耐えきれず目を逸らす。反則裁定なしであることを利用した蛍太郎の行為だったが、一方的になりかけた展開を仕切りなおすことに成功したため会場の反応は悪くなかった。ボチボチの拍手とそれなりの声援が、にわかに誕生した敏腕マネージャーへ贈られた。
 一方、豪快に転んでしまったシュタイナーはベースギターに肋骨を圧迫され呻いていたが、愛用の楽器を杖にして何とか立ち上がった。だが、その表面には誰の目にも明らかなほど大きな亀裂が入ってしまっていた。
「のわっ、なんてこった!」
 シュタイナーは頭をかきむしって叫んだ。見も世も無いといった絶叫が響く。
「オレの、オレのベースがァッ! なんて、なんてこったぁーッ!!」
 悲嘆に暮れた様子を見せていたシュタイナーだったが、不意に、
「なーんちゃって」
 と、口の両端を吊り上げた。
「このベース、ホーリーローラーは象徴機械。オレの魔力が尽きない限り、いくらでも再実体化できるのさ! ふははは!」
 得意げに笑うシュタイナーだったが、璃音とクリシュナは顔を見合わせて肩をすくめた。
「なんでもいいから、とっととやれや」
 クリシュナが吐き捨てると、シュタイナーは眉間にしわを寄せた。
「クソ、生意気なガキだ。こうなったら、二度と逆らう気が起きないほど痛めつけてやるぜ! はぁーっ、再実体化!」
 シュタイナーの魔力がベースを元の姿に構築しなおした。その直後、四面スクリーンにデータが表示された。どうやら、象徴機械の実体化に反応して動作するようになっているようだ。
『名称:ホーリーローラー
 形状:ベースギター
 特性:振動波による大気操作』
 それを見て蛍太郎は目を丸くし、侑希音は舌打ちした。
「ちっ、ネタバレしちまったか」
 試合前にミニライブを開いたのも策のうちだったのだ。
 いずれ、これによってシュタイナーの能力を知った蛍太郎は、さっそく助言を送った。
「璃音ちゃん! さっきの金縛りのような状況は、君の囲りの空気を固定することで起きたんだ」
「…そうか、それであの時、動けないだけじゃなくて、耳が聞こえなくなったんだね」
「そう。だが恐らく、こういうやり方には多少の準備時間が必要なはずだ。そうじゃなかったら、試合開始と同時にやってたはずだからね」
 璃音は頷いた。
「だったら、動き回ればいいんだね」
 クリシュナも頷き、そして二人は同時に宙へと舞った。目まぐるしく動き、的を絞らせない。ベースを爪弾きながら、シュタイナーは苦笑した。
「参ったな」
 さすがに、先ほど彼女を封じ込めたほどの塊は準備無しでは作れない。だが
侑希音は動じた様子も無く、パートナーに指示を飛ばした。
「プランBに移行だ。打ち合わせどおりに頼むぞ」
「了解!」
 そう言ったときには既に仕込が終わっていたのだろう。ベースのリズムがテンポ良いものに代わる。
 侑希音が飛び出した。
 それに呼応し、璃音は侑希音に、クリシュナはシュタイナーに、それぞれ躍りかかる。だが、二人とも見えない何かにブチ当たり、大きく体勢を崩してしまった。
「クソっ!」
 クリシュナはよろけながらも、炎の槍を投げつけようとした。だが、炎は何の前触れも無く突然消えてしまう。シュタイナーの大気操作によるものだということは天才じゃなくても判る。
(ヤバいっ!)
 クリシュナは慌てて加速をかけた。だが頭を、またしても目に見えない壁のようなものにぶつけてしまう。
 動きが止まったクリシュナに向け、
「くらいやがれ! 圧搾空気弾だッ!」
 シュタイナーは今までになく大きな音を鳴らした。すると、強烈な突風のような空気の塊がクリシュナを襲い、リングの外へと吹っ飛ばす。
「ぐっ!」
 客席のフェンスに叩きつけられたクリシュナだったが、パワーシェルに守られているために大したダメージは無い。すぐに立ち上がるが、今度は背後から、何者かに殴られた。
「なんだよ、チクショウ!」
 振り向くと、客席から一人の男が身を乗り出していた。
「よお。お前の相手は、このオレだ」
 フェンスを軽やかに飛び越え、その男はクリシュナの前に立った。
 長身で、長髪。肩に担いでいるのは鞘に納まった日本刀。男は空いている方の手で黒い前髪を書き上げ、端整に整った顔に楽しげな笑みを浮かべた。
「あ、アイツ…」
 リングを挟んで反対側にいた蛍太郎が目を丸くした。名前は覚えていなかったが、アイカの試合の前に三人を相手に大暴れしていた男だ。
 アリスが頷く。
「ええ、彼は斉伯柳雅さえき りゅうが。身体強化系の術を専門とする、ロンドンでも五指に入るイケメンです」
 最後の辺りにやけにウェイトが置かれている気がしたが、そんなことをどうこう言っている場合では無い。蛍太郎は思わず歯軋りした。
「あれじゃあ、乱入だろ!」
「そりゃ、反則裁定無しですからね」
 いわれてみれば確かにその通りである。視線を戻すと、リュウガが刀を抜き放ち、クリシュナに斬りかかっていた。
 メインスクリーンにデータが表示される。
『名称:アイ・ミー・マイン
 形状:なし
 特性:術者自身の肉体強化』
 それを見て、蛍太郎は首を捻った。
「どういうこと、これ」
 アリスが答える。
「どうもこうもありません。象徴機械を実体化させ稼動させるのは術者の想像力ですが、彼の場合は"自分の活躍想像図"が一番しっくり来たっていうだけです」
「…なんかこう、ヤバい匂いがプンプンするね」
「人それぞれですよ。それに侑希音さんのDQU、着想の原点はあれらしいですね」
「なるほど。…って、そんなマメ知識はいいんだ。何とかしなきゃ。アイツ、前の試合の時と違って武器持ってるだろ」
 蛍太郎の危惧どおり、リュウガは一本の日本刀でクリシュナの槍と互角に渡り合っていた。それどころか、隙を見ては懐に飛び込む。そのたびに六本の剣に遮られてはいたが、それでも余裕の笑みを浮かべていた。
 冷や汗が蛍太郎の顎をつたう。だがアリスはいつも通りの抑揚の無い口調で言った。
「単純な肉弾戦ならクリシュナが遅れをとることは無いですよ。数的不利に追い込まれた璃音さまの方が心配です」
「そうだな。ここは状況を見守るべきか…」
 その璃音は、リング上で侑希音と対峙したまま動けないでいた。先ほどのように周りの空気を固められたのではないので、攻撃に備えて身構えることはできる。だが―。
「決着をつけるぞ!」
 侑希音が駆ける。直進ではなく、途中でつづら折れのように軌道を変え璃音に迫る。回避しようとした璃音だったが、横に跳んだ途端、
「あうっ!」
 何かに頭をぶつけ、体勢を崩す。何も無いはずの空間なのに、そこに壁があったのだ。ぶつかってから改めて確認するが、そこには何も見えない。完全に透明な壁なのである。
 その機を逃さず侑希音の剣が振り下ろされた。璃音は右腕の防御サポートを起動し、それを受け止めた。しかし、その一撃は予想をはるかに超える重さで、ヒットの瞬間にリング自体が軋んだほどだった。
(これ、なんかやってる…)
 魔術か特殊能力か、何らかの作用が働いていることは判ったが、今は検証している時間など無い。璃音は全力で剣を振り払った。侑希音はそれに逆らわずにバックステップ、そして何も無い空間を階段でも登るように飛び跳ね、五メートル程のところで立ち止まり、腰に手を当てたポーズで璃音を見おろした。
「ほら。ここまでおいで」
 璃音は眉を吊り上げ、飛ぶ。だが、行く先にあった見えない壁に思い切りぶつかり、墜落してしまった。
「いったぁ」
 璃音が見上げると、侑希音は笑っていた。
(くっ、良い気になってるな…)
 思わず唇を噛む。このとき璃音は、見えない壁の正体に薄々気付いていた。もっとも、シュタイナーの術について既に知っているという、大きなヒントがあるからなのだが。
 璃音は瞳を見開き、視力のチャンネルを切り替えた。瞬時に全てが暗転し、それから様々な形をとった光の粒子が見えてくる。石造りのリングは暗く薄っすらと光っている程度だが、大勢の人間が客席は光の絨毯をかけたようだ。
 そして、魔力により肉体を変容させている侑希音が一際強い輝きを発しており、その背後でシュタイナーがベースを爪弾いている。彼の持つ楽器から編み出された術式が、弦が起こす振動によって周囲の大気を伝達して行っているのが見え、その先には一辺五十センチほどの直方体があらゆる方向に幾つも浮かんでいた。
 つまり、シュタイナーの術式により空気を固め、見えないブロックにして多数浮かべているというわけだ。その配置はあらかじめ打ち合わせしたとおりということだろう。侑希音の記憶力なら全部覚えておくこともできるだろうし、象徴機械のメモリにメモのようなものを残しているのかもしれない。
 いずれにせよ、これでタネは明かされた。
(よし、いける!)
 璃音は飛び、ブロックをかい潜って侑希音の目の前に躍り出る。だが、侑希音の口元は笑みを浮かべたままだった。
「見てるみたいだね。でも!」
 侑希音は、体内にあるDQの魔力炉を最大出力で回した。外観上の変化は無いが、璃音の目には侑希音が強烈な光に包まれているように見える。発生したエネルギーが光として見えてしまうために、侑希音の姿がマトモに見えないのだ。
 眩しさに目を細めた璃音を侑希音の一撃が襲う。剣を脇腹に受けてしまった璃音は、さらに食らった蹴りによって空気ブロックの角に背中から叩きつけられた。
「あうっ」
 辛うじて推力を保ち、璃音は落下を免れる。パワーシェルのお蔭で痛いだけで済んでいるが、以前なら怪我をしていただろう。
「…そっか、侑希ねぇはこっちの手の内を全部知ってるんだもんね」
 璃音が呟くと、侑希音は得意げに笑う。激突のショックで集中が切れて通常視力に戻っていたので、侑希音の薄笑いがよく見える。
「まあな。例の手を使わない限り、お前に勝ち目は無いぞ」
 侑希音が言っているのはヴェルヴェットフェザーによる魔術の無効化である。相手の切り札をわざわざ指摘しておいて、侑希音は意地悪く笑った。
「もっとも、ここまでやられたんじゃね。それで勝っても、お前のプライドは満たされるのかって話だ。条件が条件だから、なりふりかまわないか? それに、私はお前の手の内を全部知ってるってことも、…一応考慮した方がいいかもしれないぞ」
 璃音は唇を噛んだ。
「侑希ねぇ…アンタ…」
「なぁに、璃音?」
「アンタ、ムチャクチャ本気じゃないの! 実の妹に対してッ!!」
 感情むき出しで怒鳴られ、侑希音は眉を吊り上げて言い返した。
「あったりまえだろ! あんな上玉、見逃してたまるかってんだ。それに、毎晩ダンナとラヴラヴしてるアンタに、私の気持ちが判るかよ!」
 当然、璃音も負けずに反撃する。
「知らないよそんなこと! 侑希ねぇが男日照りなのは、わたしのせいじゃないもん!!」
 その一言で、侑希音は完全にキレた。
「なんだと! …いいさ。ああ、いいさ。ふん、お前みたいに若いうちからやりすぎでガバガバのクログロになるよりずっといいさッ!!」
 公衆の面前だというのにとんでもないことを言われ、璃音は顔を耳まで真っ赤にして硬直してしまった。酸欠状態の金魚のように口をパクパクさせるだけで、何も言葉が出てこない。代わりに、蛍太郎が豪い剣幕でまくしたてる。
「な、な、な、な、なにぃッ! なんてこと言うんだ! 璃音ちゃんはそんなんじゃないぞ! 指二本でギュウギュウなんだぞ!」
「…な、な、なっ」
 璃音はもう半泣きである。会場中の視線が突き刺さるように痛い。ただならぬ展開にクリシュナとリュウガも手を止め、璃音を見上げ注視した。
 このとき、侑希音の表情はニヤケ顔に変わっていた。妹が一風変わった羞恥プレイに晒された状況を楽しんでいるのだ。追い討ちをかけるように、わざとらしく驚いたふりをする。
「うっそ、マジかよ! 蛍太郎君のが入るなら、手首だっていけるだろぉ〜」
 会場にどよめきが走った。
「まさか…すげぇ…」
「そんなに?」
 と、いった声が方々から聞こえる。璃音は誤解を打ち払おうと、全力で叫んだ。
「そんなことないっ。ダメだったっ! 入らなかったもん!」
 スタジアムが静寂に包まれる。
 重苦しい空気の中、アリスが呻く。
「…まさか、ホントに試したのですか?」
 アリスが視線を向ける前に、蛍太郎は隅で小さくなっていた。
 ヘカテはというと、璃音を見て感慨深げに呟いた。
「お盛んねぇ。昔を思い出すわ…。
 それにしても、これで逃げ出さないあたり、璃音さんってマゾなんじゃないの?」
 核心を突いた言葉だったが、幸い璃音に聞こえてはいなかった。
 一連の口論をただただ聞いていたリング上のシュタイナーは、手を止めて力なく呟く。
「なんかショックだな…。見た目、絶対に処女だと思ってたのに…」
 空気ブロックが消えたので着地した璃音が、小声で頭を下げた。
「スイマセン、よく言われます…」
 すると、同じくリング上に降り、あまつさえ元の姿に戻っていた侑希音が憤然と吐き捨てる。
「はん、アホじゃねぇの! 女に夢を押しつけすぎなんだよ、男どもはッ!」
 その言葉に、シュタイナーだけでなく蛍太郎とクリシュナも、か細い声で謝った。
「すいません…」
 同時に、会場の男性客も消沈してしまう。だがただ一人、やたらとテンションが高い男がいた。
「そんなことはどうでもいいッ!」
 リュウガである。
 日本刀を放り投げたリュウガはリングサイドを大股でズカズカと歩き、蛍太郎に詰め寄った。
「おい、貴様!」
 自分が攻撃対象にされようとは全く予想外だった蛍太郎は、顔を引きつらせた。
「は、はいっ」
「そんなにデカいのかッ」
「…へ?」
「デカいのかと訊いているッ! 手首と大差ないというなら、余程だろッ」
 それで蛍太郎は、何のことを訊いているのかようやく悟った。だが、モノがモノだけにハッキリと口にするのも憚られる。
「そんなことないです、はい。さすがに、そこまでは…。だいたい、侑希音さんは実際に見たわけじゃなくて、伝聞と想像で言っているわけで…」
 自然と煮えきらない回答にならざるを得ないが、もちろんリュウガは満足しない。それどころか、
「貴様、逃げるのかッ。それとも、情けをかけたつもりかッ」
 と、血相を変えてワケの判らないことを言い出した。
「な、なんなんですか…」
 対応に困る蛍太郎。夫の危機に、璃音は姉の相手をやめてこちらに介入する。
「やめて。けーちゃんに手を出したら、そっちの負けになるんだからね!」
 だがリュウガは退かない。それどころか、さらに激昂する。
「黙れ、貴様に用はない」
 璃音を一喝し、
「蛍太郎といったな! 勝負しろッ!!」
 と、視線に殺気を充満させた。そして、スタンスを肩幅に広げ腕を下げる。何の変哲もない素立ち状態ながら、彼の肉体を走る魔力が魔術素人の蛍太郎にも判るほどの高まりを見せ、肌をビリビリと震わせた。
「見よッ!!」
 気合と共に閃光が走り、リュウガの服が弾け飛んだ。
 これこそが象徴機械"アイ・ミー・マイン"の隠し能力、"瞬脱裸身"だ。いつでもどこでも無様に体勢を崩すことなく瞬時に服を脱げるという、色々な意味で脅威の能力である。
 リュウガは完全なる全裸となり、そしておもむろにポーズをとった。
 この男、名前こそ日本人だがギリシア彫刻のような見事な体躯から欧州の血が入っているのだろうと思われる。その裸身がボディービルダーのようなポージングをとるたびに筋肉が見事に隆起し、客席からはフラッシュの嵐が浴びせられる。そして最後に、かのダヴィデ像と同じポーズとり、目を伏せ恍惚とした表情で言い切った。
「神よ、オレは美しい」
 客席の女子たちの歓声とも悲鳴ともつかない絶叫が最高潮に達した。まさに今日最高の盛り上がりといっていいだろう。だがもちろん、男性客は一斉に目を逸らしていた。
 定番のムーヴが出たことで大いに盛り上がる中、璃音と蛍太郎は相手が何をしているのかわからず、ポカンとしていた。
 そんな中、侑希音がおずおずと口を開いた。
「…で、なぜ、今脱ぐ?」
 リュウガの脱ぎ癖は当然認識していたが、乱入を頼むだけなので問題はないと思っていた。それなのに、ちゃんと戦ってくれないのでは仲間に引き込んだ意味がない。人選に誤りがあったのではないかと内心で自問しているところだった。
 リュウガは自信満々に頷く。
「うむ。オレは美しいだろう?」
「ま、まあ」
 なんのかんので、侑希音は正直に答えてしまった。
「フッ、当然だ」
 さしたる感慨も見せずに侑希音の返答を受け流し、リュウガは蛍太郎を指差した。
「さあ! 貴様の番だッ!!」
 蛍太郎はビクリと肩を震わせた。
「僕の番って、まさか…」
 どうやら、そのまさからしい。
 つまり見せあいである。当然、蛍太郎は難色を示す。
「嫌に決まってるじゃないか! いくらなんでも全裸はないだろう全裸はっ」
 璃音はすっかり取り乱して、蛍太郎の前に立って腕を広げる。
「ダメダメ、絶対ダメ! わたしのだもんっ!!」
 やってられん、という顔を見せる侑希音たちだったが、リュウガの表情は真剣そのものだ。
「黙れ! オレとその男、どちらのモノが大きく美しいか、確かめずにはおれんのだ!」
 目を丸くする璃音。その横で、ヘカテが何気なく注釈を入れる。
「彼、ロンドンの現役魔術師の中では最高のサイズと硬度を誇るそうよ」
 なんとも反応に窮するマメ知識である。そもそも、そのデータをいかにして収集したのだろうか。そんなことは想像もしたくはない。
 だが、これでとりあえず事情は飲み込めたので、璃音は改めてリュウガを見る。そして、率直に感じたままを言葉にした。
「この人、そんなでもないよね。けーちゃんに比べたら…」
 直後、辺りの空気がシュタイナーのベースとは関係無しに硬直した。蛍太郎が慌てて璃音をたしなめる。
「こら、璃音ちゃん。そういうことは言っちゃダメだよ」
 だが遅かった。
 斉伯柳雅は、穴を開けられたゴム風船が萎むように、ガックリと項垂れて膝をついた。そして床に伏せ、すすり泣く。その哀れな姿に蛍太郎は同情の念を禁じえない。責任を感じてしまった璃音が、
「ごめんなさい。あの、その…同じくらいですから、あの…」
 と、必死に慰めているが、そんなものは逆効果である。
 この有様では、試合などという雰囲気ではなくなってきてしまった。乱入者という体裁をとっているとはいえ実質は参戦者であるリュウガが、この通り降参してしまっているからだ。何ともいえない空気の中、マイヤーズGMは試合終了のゴングを促した。
 だがそのとき、リング中央で盛大な爆発が起きた。石の欠片が降り注ぎ、粉塵が舞う。見ると、リングに大穴が開いておりスタジアムの地下から爆破が行なわれたことが判った。そして、そこから何者かの笑い声が響く。
「ふはははは! ふはははははは! はーっはっはっはーっ!」
 規則正しい悪役笑いとともに人影がせり上がってくる。
「愚かな魔術師ども! 私は還ってきたぞッ!」
 その正体に真っ先に気づいたのは侑希音だ。
「イスマエル!」
 サイボーグ・イスマエルは、残り少ない生身の部位である顔面に厭らしい薄笑いを貼り付けていた。
「ほぉ、藤宮侑希音ではないか。このところは随分と縁があるな」
 その声と顔に、璃音と蛍太郎は目を丸くした。イスマエルが眉を吊り上げる。
「フン、驚いたか。貴様らのために、私の身体はこの有様よ。おかげで、パワーアップも出来たがなッ!」
 イスマエルの身体から魔力が迸る。
「おいおい、ここでやりあうつもりか?」
 侑希音は肩をすくめた。相手は、リング周辺にいる者だけでなく客席の魔術師まで敵に回る完全アウェイ環境である事を失念しているように見えたからだ。このように敵に頭の心配されていることなど露知らず、イスマエルは自信満々である。
「さぁて、ここで問題だ。事ほど斯様に、非常に目立つ姿をしているこの私が、いかにして魔術師の総本山へと忍び込んだのか。判る者はいるかな?」
 唐突なクイズにみな顔を見合わせる。もっとも、真面目に解答を求めるつもりなどさらさら無かったようで、イスマエルは含み笑いのあと、あっさりとネタばらしした。
「ふふふ。身体を分解し、貨物に紛れて入り込んだのだ!」
 と、いうことはつまり…。
 璃音と蛍太郎、侑希音が同時に叫んだ。
「他にも侵入者が…!」
 直後、客席を防護していたフォースシールドが激しく発光した。出力が乱れているのか不安定に明滅し、シールド付近では負傷者も出始めたようだ。
「ふふふ、我が同胞による工作だ。こちらの気分次第で、連中はまとめて丸焼きだ」
 マイクを通じてリング上の会話が聞こえてしまい、客席はさらに混乱する。
 実況席にいたためにシールドの内側に閉じ込められたマイヤーズGMは、観客の誘導を試みた。シールドの付近は危険だし、出口に押し寄せれば大惨事になりかねない。リング上の乱入者が気にかかるが、ここは目の前の人々の安全を守るのが自分の責務だと、マイヤーズは己に言い聞かせた。
 イスマエルは客席の様子をチラチラと見ては薄笑いを浮かべていた。
「何が目的だ」
 侑希音が歯軋りする。シュタイナーもベースを構え、イスマエルを睨む。だが、サイボーグ魔術師は薄笑いでそれを受け流す。
「個人的には、ちょっとしたお礼参りさ。
 公的には…忠告だ。どうやら、私のことで探りを入れている者が居るようなのでな。まあ、誰とは言わんが。
 よって此度、大神官のお言葉を伝えに来たのだ。『我々は、汝らに取って代わろうというつもりなどない。全ては神の思し召しのまま。世俗の権力とのバランスなど、どうでもよい。だが、我らの邪魔をするのであれば…』」
 フォースシールドの出力が上昇し、更なる悲鳴がいくつもあがった。出入り口も何かしらの力で閉ざされているらしく、そちらに殺到した者とで完全にパニック状態だ。
「よせ!」
 侑希音が叫ぶ。イスマエルは小さく笑って、指を鳴らした。フォースシールドが大人しくなる。
「では。この間の続きといくかね?」
 イスマエルが侑希音を手招きする。それと同時に、黒ローブ姿の人影が四つ、リングサイドに浮かび上がった。
 それを見て、侑希音が呟く。
「シャイターンか…」
 聞きなれない単語に首を傾げる璃音だったが、ヘカテが耳打ちしてくれた。
「邪な神に仕える魔術師集団よ。神託に因って行動するから、何をしでかすか判らない困った連中なの。ここのところは、実害無しだったんだけど…」
 実害という言葉が気にかかるが、とにかく相手の素性は判った。これにより、遺跡でイスマエルが使っていた魔力触媒の出所が知れたことになる。
「なるほどな…」
 侑希音は頷いて、リングに向かって一歩踏み出した。だがヘカテがそれを制した。
「おまちなさい。ここは私が引き受けましょう」
「いえ。あの程度、ヘカテ師のお手を煩わすほどではありません」
「いいえ。私が引き受けます」
「ですが…」
 なおも食い下がる侑希音だったが、服の袖をアリスに引っ張られ、師の真意を悟った。
(…そっか。自分も試合したいって言ってたもんな)
 アリスの顔を見ると案の定、何かを諦めたような表情を浮かべていた。
 ヘカテがリングに上がると、イスマエルは少々顔を強張らせたが、それでも口調は変えない。 
「おやおや。ヘカテ殿直々のお出ましか」
「ふふふ。他団体の乱入にトップが自ら討って出るなんて、素敵じゃない?」
「確かに」
 イスマエルが鮫のように笑うと、再びフォースシールドが乱れだした。
「おかしなことをしたら、判っているだろうな」
 イデアクリスタルを起動しかけていた侑希音は舌打ちした。ヘカテが戦っている間にシールドを解除しようという試みは未然に防がれてしまったわけだ。イスマエルはいかにも愉快そうに笑う。
「ククク、そうはいかんよ。…客席があの有様だからな。貴様らに、代わりに観戦してもらうのだよ。バビロンの魔女の最期をな!」
 息巻くイスマエル。術を使おうと両手を前に突き出し、そこで目を剥いた。
「お、おい…」
 引きつった声。侑希音や璃音たちも、ここであることに気付き驚きの声を上げた。
「指が、無い…私の、指が…」
 イスマエルの額から滝のように冷や汗が流れ落ちる。イスマエルの鋼の手には、一本も指がついてなかったのだ。これでは自慢のハチェットを振るうことはおろか、魔力触媒カートリッジを装填することも出来ない。つまり、魔術を使えないのだ。
 皆の視線が集中するのを感じて、ヘカテはタメ息交じりに首を振った。
「何もしてないわ…」
 その様子はハッキリと残念そうである。こうやって出てきた以上は何か凄いことをして目立とうとしていただけに、相手が勝手に自滅したのでは、あまりにつまらない。
 蛍太郎は思わず呟いた。
「部品欠品の組立不良…」
 それが耳に入り、イスマエルは呻いた。
「クソ、人を欠陥品扱いするなッ! …なんということだッ、一体どこでミスが…」 
 その後ろでは黒ローブが集まって何か話している。激しい言葉が飛び交っているように見えるので、おそらくは責任のなすりあいをしているのか、もしくは代わりに誰が戦うのか決めているのか。少しして、黒ローブの一人が前に進み出た。
 その人物から滲み出る魔力を察知し、ヘカテは楽しげに笑った。
「ふふふ、貴方の方が出来そうね。楽しみ…」
「楽しみになさるのは結構ですが…。ヘカテ殿、よもや人質が居ることをお忘れではあるまいな」
 ローブの下から響いたのは割れ鐘のような、男の声だった。だがヘカテは微笑むだけ。心配げに見守る璃音たちをよそに、不気味なまでの余裕を保っていた。ローブの男が印を結ぶ。魔力の流れに変化が現れ、特定の規則を持って動いていく。それが順繰りに術式として構築されていくのが、璃音の目にも見えていた。
 そして、全てが完成しかけたそのとき。
「はう…っ!」
 ローブの男は突然腰をぬかし、よろけた。それで魔力が四散し、術式が消える。男はよろよろしたまま、呆けたような顔で言った。
「神託だ…」
 残り三人の間にどよめきが走る。
「おおっ」
「我らが神は、何と?」
 ローブの男は掠れた声で呻く。
「今日のデザートは、バケツプリンにせよと…」
「おおっ!」
 もう一度、どよめき。
「それに、きな粉と黒蜜をかけて食せ。お好みで練乳をと…」
「相判った。絶対なる我らが神のお告げ、必ずや遂行奉らん」
 黒ローブたちはイスマエルを促して円陣を組み、そして、
「神よ、祝福あれ!」
 と、声を揃え、現れたときと同様に何処かへと消えていった。
 ヘカテ以外は誰もいなくなった穴の開いたリングを呆然と眺め、璃音は思わず叫んでいた。
「なんだったの、あれ!」
 ヘカテは苦笑で答えた。
「ほら、実害無かったでしょ」
 

 
 スタジアムの機械制御室。
 マックスウェルとフレッチャーが突入したとき、ここを占拠していたはずのシャイターン潜入工作員は影も形も無かった。おそらくは神託に従ってバケツプリンを作りに、世界のどこかにあるという神殿へと帰ったのであろう。
 室内は荒らされて非常灯以外の照明が落ちているが、フレッチャーは"オクトパス・ガーデン"のセンサーを使い難なくシールド制御装置を修理していく。それを尻目に、マックスウェルはどっかりと壁にもたれかかっていた。
「何しに来たんだ、オレ…」
「ドアを破るには役立っただろ。…と、できたぞ」
 フレッチャーの言葉と同時に、素人目にもおかしげな様子であらゆる計器が赤く振り切っていたシールド制御装置が、一転して穏やかになった。
「よし、おつかれさん」
 マックスウェルが重い身体を揺らして立ち上がると、サリーとレイジーが入ってきた。手には、"かりんとう"と書かれた木箱を持っている。
「差し入れだよー」
 その声に振り向いたフレッチャーは、箱を見て顔をしかめた。
「なんだ、それ」
 サリーが笑顔で答える。
「かりんとうっていう、日本のお菓子です」
「食料庫にあったんです。誰も置いた覚えが無いっていうから、頂いてきちゃいました」
 レイジーはニコニコと、この箱の内容物の素性が怪しいことを暴露した。だが、マックスウェルは菓子と言われれば何でも食べる男なので、そんなことは気にも留めない。
「よし、食う。オレが食うぞオレによこせ!」
 箱をひったくるマックスウェル。フレッチャーはそれを後ろから眺めて肩をすくめる。
「よく食うよな、ったく…」
 そうは言いつつも初めて見る日本の菓子がどんな形状をしているのかは気になるので、接近して覗き込む。その箱の中には、黒い棒状の物が十本ほど入っていた。フレッチャーは見たままの感想を言葉にする。
「これ、指みたいだよな…」
 マックスウェルは内容物をつまみ上げ、凝視した。
「あはは、アホだなァ。こんな黒くて硬い指があってたまるかよ。これだから、ロリコンは困るねぇ」
 ケタケタとフレッチャーを嘲うと、マックスウェルは"かりんとう"を口に入れ、あまりの硬さに悲鳴を上げた。
「おい、何だコリャ! 鉄みてぇだぞッ」
 サリーは肩をすくめて笑った。
「おおげさだなぁ。前にアイカさんから貰って食べたことあるけど、かりんとうってビックリするくらい硬かったよ。そういうもんなんだって。ジャンクフードとお菓子ばっかり食べてるから、アゴが弱くなったんじゃないの?」
「ンなこたぁねぇって。こりゃ食い物の範疇とは思えん硬さだぞ。噛み切るどころか、表面にさえ太刀打ちできねぇ。なんか、味もしねぇしさぁ」
 首を傾げるマックスウェル。せっかく食物を与えたのに文句ばかりたれるので、レイジーは眉をつりあげた。
「そんなに文句ばっかり言うんなら、返してくるよ」
「待てよ、待ってくれ…」
 マックスウェルは大慌てで、箱を庇うように抱え込む。
「食う。ちゃんと食うってば!」
 それからマックスウェルは思案の末、"かりんとう"を一本づつ丸呑みにしていった。
 
 
6−
 暖色の光がスタジアムを包み込む。
 その中心にいるのは巨大なアヴァターラ"フラッフ"だ。天使の輪を頭に頂く薄桃色のウサギは、光の翼を背中に広げている。これがパワーシェルを装着することによって新たに獲得した器官だ。翼は増幅装置の役割を果たし、ヴェルヴェットフェザーの光を三倍にして照射する。その結果、璃音は自分で思っていたよりもずっと早く、スタジアムの修復と怪我人の治癒を完了した。
 フラッフが光となって消え、ドレス姿に戻った璃音がゆっくりとリングに降りてくる。蛍太郎が腕を広げると、璃音はその胸の中に飛び込んだ。
「えへへー」
 自分だけの特等席に身を沈めて、璃音は上機嫌である。蛍太郎は妻の頭を撫でてやってから、
「調子はどう?」
 と、問う。璃音は夫の顔を見上げて、
「大丈夫だよ。パワーシェルのお蔭で、いつもよりずっと楽だった」
 微笑みながら、そう答えた。
 完全に二人の世界に入っている璃音たちだったが、ヘカテの咳払いで我に返った。
「まだ終わったわけじゃないのですから、そういうのは他所でやってくださいな」
 うやむやのうちに対抗戦はお流れになったと思っていた璃音だったが、客席は未だに満席のままだった。
「あれ。回復したら皆帰るものとばかり…」
 璃音は目を丸くするが、蛍太郎から離れたりはしなかった。ヘカテは首を振る。
「先ほど聞きましたが、ファイナルの三賢人トリプルスレッドマッチは時間通り行なわれるとのことです。出場選手全員の、たっての希望でね」
「マジか!? そいつぁ見逃せねぇ!」
 シュタイナーが拳を握る。侑希音も同調した。
「確かに。ロンドン三賢人の間で日ごろどんな軋轢があったのか、興味はあるよな。プロモビデオの出来にも期待だ」
「でしょう?」
 ヘカテはオーバーアクション気味に頷いた。
「これはやっぱり、見逃せないですよね」
 魔術師たちはこうして盛り上がっているのだが、璃音と蛍太郎は完全に蚊帳の外である。なにせ、その三賢人の名前すら知らないのだから。
「まあ、あの人らにとっては凄い人なんだろうけどさ。わたしにしてみれば誰が誰やらだよ」
 つまらなそうな口調の璃音。蛍太郎にしてみれば過去を顧みると身につまされる話ではあるので、余計なことは言わないでおいた。
 すると唐突に、アリスから電話の呼び出しベルが聞こえてきた。
「アリス師、お電話です。パズス様から」
 パズスとは、ヘカテと並んでバビロン三巨頭の一角を為す存在である。ヘカテは面倒臭そうに応じた。
「あー…出るわ」
 アリスが懐からスピーカーを引っ張り出して掌に載せると、少々かれた男の声が響く。
「おーいヘカテよ。そろそろ期日じゃろ。戻ってきてくれ。アンタに戻ってもらわんと、キャンプ生活が終わらぬ。ワシゃぁキャンプが大嫌いなんじゃ。生徒たちの手前、共同作業で絆を深めようとかサヴァイバル技術を云々とか言っておるが、もうウンザリなんじゃよ」
「判りました。なら私は次の試合を見てから帰ります。三賢人トリプルスレッドマッチなんて、見逃せないでしょ」
 しばしの沈黙の後、パズスの喚き声が聞こえた。
「なんじゃと! 三賢人が相戦うというのかッ。それは見たい、見たいぞ! ヘカテ、今すぐ戻れ! ワシと代わるんじゃッ!!」
 ヘカテは肩をすくめ、
「じゃあ、後でね」
 と、一方的に電話を切った。アリスが心配げに師を見上げる。
「大丈夫でしょうか…」
 横で見ていたクリシュナは愉快そうに笑っていた。
「あのモヒカン爺、ザマァねぇな」
「こら、言葉遣い」
 何度か繰り返したのと同様にクリシュナをたしなめてから、ヘカテは事も無げに言った。
「どうということはありません。事と次第によっては、"バビロン三巨頭トリプルスレッドマッチ"が組まれるだけのこと。…ふふふ」
 含み笑いを浮かべるヘカテ。これから始まる試合が楽しみなのは勿論だが、それに加えて近い将来に自らも試合に出られそうだという期待が彼女を上機嫌にしていた。
 そろそろ係員の目が冷たくなってきたので、それぞれ花道を引き上げる。璃音は蛍太郎とクリシュナの間に挟まれて歩いていたが、侑希音がそれに並んで、まずはクリシュナに小さく頭を下げた。
「私が悪かった。間違ってた。こんなこと、無理矢理したり賞品にするのはおかしいよな」
「侑希ねぇ…」
 璃音は姉の殊勝な言葉に頬を緩めた。クリシュナは璃音と侑希音の顔を見比べて、
「済んだことはもういいよ。ああ、済んでないか。未遂に終わったから」
 と、笑う。璃音はクリシュナに意味あり気な眼差しを向けた。
「へえ、優しいんだ。クーちゃんさ、侑希ねぇが美人だからいいかなって思ってるでしょ」
「思ってない思ってない!」
 慌てて否定するクリシュナ。侑希音は目を丸くして、それからブンブンと首を振った。
「そうそう、そうさ。無理矢理はよくないって、さっき悔い改めたばっかりなんだからさ。そんなことしないよ。ああ、しないとも。するものか」
 そんなことを言いながら、侑希音とクリシュナの間には気まずい空気が漂っていた。蛍太郎は思わず首をすくめる。
(うわぁ…わざとやったのかな、璃音ちゃん)
 だが璃音にはそんな意図などさらさらなく、むしろ逆に、
「どうしたの、侑希ねぇ?」
 と、何故気まずいことになったのか判らずに訊く。単純に侑希音の余計な深読みによる思い違いだったのだが、それを説明したらしたで具合が悪い。侑希音は眉を吊り上げ、半ば自棄気味に言った。
「うるさいなぁ。何か変なことになったと思ってるんだったら、お詫びの証として蛍太郎君を一晩貸せ!」
「絶対イヤ!」
 璃音は眉をハの字にして頬を膨らませた。このままでは再試合になりかねない雰囲気だったので、蛍太郎は冷や汗を流しながらも間に割って入った。
「まあまあ、落ち着いてよ二人とも。ほら、侑希音さんは、これから試合見るんだろ」
「うん、まあ…そうだな」
 頷く侑希音。ヘカテたちの方を見て、
「…じゃあね」
 と、小さく手を振って駆けていく。
 クリシュナは璃音の横にくっ付いていたが、アリスに無理矢理首根っこをつかまれる。
「さあ、行きますよ」
「なにすんだよ!」
「試合見てすぐ帰るんですから、ヘカテ師の側に居ないとまずいでしょ」
「そんなー。帰るのはヘカテだけだろ。それに、この後はパーティだっていうじゃないか。僕も出たいんだよ」
「ダメ。そのパーティは大人以外お断りなんです」
 アリスがキツイ口調で言い切ると、クリシュナは口を尖らせた。
「なんで!」
「そりゃ、魔女のパーティですからね」
「ワケ判んねぇ…」
 クリシュナは憤然としたままだったが、抵抗はやめた。
「またね、お姉ちゃん」
 そのまま名残惜しげな表情で、アリスに引きずられていった。
 見事に置いてきぼりをくった璃音と蛍太郎は、顔を見合わせて苦笑する。
「えーと、璃音ちゃんはどうする?」
 璃音は小首を傾げ考えることしばし、呟くように答えた。
「プリンが食べたい、かな…」
 

 
 そのころ。
 貴洛院電子ビル社長室に二人の男女の姿があった。一人は、このビルの主である貴洛院玲子。そしてもうひとりは、ミカエル・ジウリーである。
「なるほど。順調に遅れてるね」
 ディスプレイの文字列を眺めながら、ジウリーは独り言にしては高い音量で言う。
 ジウリーは、自身が所持しているオーバーテクノロジーの産物を解析、ローカライズを行なうにあたり、このところは貴洛院グループをパートナーとしている。以前は彼の求めるレベルの研究ができるのは"フェデレーション"だけだったのだが、今となっては貴洛院グループでもそれは可能であるし、合衆国政府と繋がっている同組織にあまりに技術を与えるのは面白くないというのが、その理由だ。
 それに、幾つかの組織に競わせた方が、より良い物が仕上がってくるのは自明である。自分がちょっとした死の商人になっているとしても、そのようなことは彼には興味の範囲外なのだ。
 玲子はジウリーに背を向け、大きな窓に向かって腕組みをし、朝焼けの空を眺めていたが、こちらも不機嫌さを隠さない。
「しょうがないじゃない。ラプラスの件以降、おいそれと永森君の手を借りられなくなっちゃったんだから」
 ジウリーは苦笑した。
「ドクターブラーボに感謝しなくちゃね」
「…でも彼だけじゃ、単純に手が足りないわ」
 なりゆきで抱き込んだドクターブラーボだったが、今は期待通りの働きをしてくれている。
 玲子が提供した技術をブラーボが解析し、その成果を文字通りに双方が共有するという形で既に幾つかのプロジェクトが成功した。報酬と必要経費は玲子が払うのだが、ブラーボは余計な詮索などしないし、出来上がった物は彼自身の世界征服計画に使われるだけで決して日の目を見ることはないのだから、実に優秀で都合の良いパートナーであるといえる。あとは、頃合を見計らって玲子自身が特許を申請し、商品展開すればよい。
 もっとも、これはジウリーが技術提供に一切対価を求めないから成り立つ関係だ。これで誰が儲けようと、ジウリー自身は全く気にしないのである。さすがにそれは、玲子としてもあまり気持ちの良い話ではない。将来的にどれだけの利益を生むのか判らない技術を、自力で使えるようにしなければならないとはいえ無償で与えてくれるのである。それなら、何かしらの見返りを要求してくれる方がまだ気が楽だ。
「それにしても…。モノさえ出来上がれば利益が得られなくても構わないなんて、どういう目的なのさ?」
 その質問を玲子がするのは、もう五度目だ。だがジウリーは腹を立てた様子も無く、いつも通りの笑みを口元に貼り付けたまま、答えた。
「それを言う必要はないだろう。別に、君らが困るようなことでもないしね」
 そう言われても困るかどうかの判断などつかないのだが、いずれにせよ何も話すつもりは無いということだけは確実に判る答えだった。
「…永森君にだったら、話すわけ?」
 その呟きはジウリーの耳には入らなかった。内線の呼び出しベルが鳴ったからだ。玲子が受話器を取ると、係の者が明らかに狼狽した様子でまくし立てる。
「しゃ、社長! メガロテック社のイグ…ムノフCEOから、お、お電話ですっ!」
 唐突に、全く面識の無い相手の名を聞き玲子は目を丸くした。それを見てジウリーが愉快そうに笑う。
「ふふふ。こっちでは蛍太郎の力を借りるつもりでいたからね。無茶な"臨床試験"が必要なシロモノは、全部向こうにお願いしていたのさ」
 なるほど。繋がりはあったわけだ。続いて、もう一つ内線が入る。今度は守衛室からだ。
「社長、お届け物です」
「こんな朝っぱらにか!」
「ええ、その…鮮度が命だとかで…。なにか黄色い物が入った、バケツ…なんですが…」
「はぁ? バケツって…。ええい、わけが判らん! その辺に置いとけ!」
 文字通り意味不明な事態に玲子は声を荒げ、受話器を机に叩きつけた。いずれ、超巨大企業のCEOを待たせてまでする話ではない。それから、慌てて受話器を拾い流暢な英語で話し始めた玲子の後姿を見ながら、ジウリーは含み笑いを浮かべた。
「きな粉と黒蜜を用意しないとね。お好みで練乳も…」
 

 
 三日後。
 久方ぶりに酉野市に戻った璃音たちを待っていたのは、日本の夏ならではの蒸し暑さだった。
「うう…、なんだこりゃ。…今年は特に暑いんじゃないか?」
 この国に住むものなら毎年必ず口にするセリフを、蛍太郎はタメ息混じりに吐き出した。この年は南欧も記録的な暑さに見舞われたのだが、それでも日本の湿気には敵わない。合計して五つの鞄を肩や手にぶら下げている蛍太郎は、余計に消耗を強いられてしまった。
 そんな夫の愚痴を聞いた璃音はクスクスと小さく笑った。
「いつもこんなもんだよ」
 そう言う彼女は大きなショルダーバックをかけ、スーツケースを引いている。璃音の方がたくさんの荷物を持てるのだが、敢えてそうしないのが蛍太郎である。
 "パワーのことを隠してはいないとはいえ、むやみに人前で使うことはない"というのが蛍太郎の、そして彼が藤宮斐から受け継いだ教育方針だ。そのために重い荷物を担ぐことになっても、である。それを璃音は概ね守っている。もっとも、非常時はその限りではないし、友人の前では色々とやってしまうこともある。それでも、十七年間そこそこ平穏にやってこれたのだから、父の躾は見事に実を結んだといえるだろう。
 それ以前に、蛍太郎が璃音に物を持たせているのを近所のお年寄りに見られようものなら、何を言われるか判ったものではないのだが。
 そういうわけで、家の前まで辿り着いてからが本格的な璃音の出番ということになったわけである。
 屋敷が近づき坂道に差し掛かると、璃音は蛍太郎の背中を押した。
「ほら、もう少しだよっ」
「はぁはぁ…。しかし、何で今回は、こんなに荷物が増えてるんだよっ」
「あはは。伯爵とヘカテさんから、色々貰っちゃったもんね」
「出発に合わせて寄越すんだもんなぁ…」
 蛍太郎は大きなタメ息を吐いた。祖父母のお土産は後で送ってもらう手はずにしたからよいのだが、帰る道すがらに渡されたものはどうしようもない。帰るときに玄関先でプレゼント授与式などを始めたグッドスピード卿も、空港入り口に贈り物を持って待ち伏せしていたヘカテとアリスも相当に人が悪い。しかも、品物は服や本などかさばる物ばかり。仕方なく、鞄を現地調達して持ってくる羽目になったのである。
 いつもよりは時間をかけて門の前に辿り着くと、蛍太郎は荷物を降ろして膝に手をついた。
「よーし、着いたぞ…」
 一息ついて、シャツの胸元を開き風を送っている蛍太郎に、璃音は労いの言葉をかけた。
「おつかれさま。ここからは、わたしが持っていくね」
 璃音はパワーをオンにすると、全ての鞄を両手と両肩で保持して宙に浮かんだ。自分より大きくなった鞄の塊にぶら下がっているような状態でフワフワと門をくぐる。蛍太郎もそのあとに続き…突然静止した璃音の尻に顔をぶつけた。
「うわっ…どうしたのさ…」
 思わず呻く蛍太郎。だが璃音は無言のまま門の外まで飛んでいき、
「あーっ!」
 と、叫んだ。蛍太郎も後に続き、そして璃音の視線を辿った。見慣れた門の見慣れた表札。『藤宮』と筆書きされた歴史を感じさせる木札の横に、真新しい表札がかかっていた。
「なんだってー!」
 蛍太郎も叫ぶ。
 そこには、『中村』の二文字があった。


…#9 is over
  
  
…#9 is over.

モドル