#7
「なあ、蛍太郎君」
侑希音がワケあり気な顔で書斎を訪ねたのは、海水浴をした日の夜だった。
彼女の荷物は驚くほど簡素で、財布と携帯電話を除いては着ている服と替えの下着、それと水着。他には、蛍太郎の目の前にある新聞とA4紙一枚である。
侑希音はまず、新聞を見せた。イタリアの、ピンクがシンボルカラーの有名スポーツ新聞だ。広げたのは、セリエAのクラブチームが経営危機に関する記事である。最近はこういったことが頻出しており、原因は無軌道な補強などの放漫経営や親会社の粉飾決済など理由は様々。いずれにせよ、あまり聞きたくはない話だ。そういったチームのひとつに持ち上がった買収話が決裂に終わったと、その記事は締めくくっている。その相手は、アレクセイ・イグムノフなる億万長者だという。
「アレクセイ・イグムノフ…聞いたこと無いなぁ」
蛍太郎は首を傾げた。
「無理も無い。彼に関しては、判らないことだらけなんだ。だからこそ、破談になったんだけどね。
そのイグムノフ氏はバルトビア人で、いわゆる政商というヤツだ。だけど、そのバルトビアという国自体、情報が少ないんだよな。コーカサスあたりの、欧州最後の秘境の一つとして名前だけは聞いたことくらいはあるだろう? 多くの人はその程度さ。私も行ったことなんて無い」
頷く蛍太郎だったが、それは話の続きを促すためで、件の国に関しては、まるで知らないに等しい。政治や経済で関わりが薄い地域のことは必然的に情報が入ってこないし、しかも経済活動の拠点を米国に置いていたから、欧州の辺境となると尚更だ。その国について辛うじて持っている認識は、サッカーの国際大会予選における草刈場というものだ。だがそれでも、バルトビアの内情はおろか国旗の色がどうだったのかも判らない。どこの国でも、勝って当然の試合はアップセットに見舞われない限り大きく取り上げられないからだ。
「で、だ。イグムノフ氏の経歴もまさに闇の中でハッキリしたことは判らない。最近バルトビアで見つかった油田が彼の所有だってのも知られて無いみたいだし、国外メディアへの露出は初めてに近いんじゃないかな」
それで、侑希音の話は一段落のようだ。だが、彼女が何故そんな話をしたのか蛍太郎には判らなかった。とりあえず、思い当たる方面で言ってみる。
「えーと、心配してくれるのは嬉しいけど、僕が応援しているクラブチームは経営難なんて言葉とは無縁だよ?」
侑希音は目を丸くして一瞬動きを止めてから、笑った。
「そうなの? よく知らないんだけど。そういうんじゃなくてさ、そのイグムノフ氏のことなんだ。
私の知り合いに、パパラッチ稼業をやってるのが何人か居るんだよ。で、そいつが交渉の行なわれたホテルの前で張り付いた結果が、これさ」
そう言って侑希音が机に置いたプリントアウトには、何枚かの隠し撮り写真が並んでいた。その中の一つに、クルマから降りた男の写真がある。ブランド物のスーツに身を包んだその男の顔に、蛍太郎は見覚えがあった。
「…ミカエル?」
そう。蛍太郎の仕事上のパートナーでもあったフランス人に、その男はよく似ていた。
「それにしては…ちょっと…」
蛍太郎の呟きに、侑希音が応える。
「イグムノフ氏は、今年で三十七歳らしいぞ」
それを聞いて、蛍太郎は感嘆の声を上げた。
「へえ、凄いなぁ。他人の空似もここまで来ると不気味なものがあるな。ただ似てるだけじゃなくて、十年後をシミュレートしてるってのも、何か…。いや、歳を取って顔が変わった結果似てきたのか…。で、もしかして、帰って来たのはこの情報のためだったの?」
蛍太郎の一言に、侑希音は口を尖らせた。
「君は、私が海水浴に参加するためだけに日本に戻ってきたとでも思ってたのか? 不法入国してまで?」
海の上を走って来て、そこいらの浜から上陸したわけだから、正規の入国ルートを通っていないことは確かだ。普通に帰って来ればいいだろうという気もしたが、そのアレクセイ・イグムノフの話は興味深い。
「そういえば、最近ミカエルと会って無いよな…。まあ、そのイグムノフ氏と同一人物だってことは、普通に考えればありえないけど…」
両者の経歴を本格的に顧みるまでもない。
イグムノフが政商としての第一歩を踏み出したと思しき頃、蛍太郎は米国で殆ど毎日のようにジウリーと顔を合わせていた。どちらかが影武者だったとしても、そんな二重生活に意味や意義があるだろうか?
侑希音も、それは判っている。
「うん、そうだろうね。まあ、顔の話は掴み位に思ってくれよ。私が聞きたいのは、なんでイグムノフ氏が今になって外に名が知れるような行動をしたかってこと。あんま表に出ても歓迎されない人種だと思うんだけど…、政治のことはよく判らないもんでさ」
蛍太郎は小さく頷いてから口を開いた。
「最近イングランド方面で話題の、ロシアの石油王がいい例だと思うんだけど」
そう言って侑希音の顔を見ると、何のことか判らず首を傾げていた。もともとスポーツには関心の薄い人だから、あの新聞記事も写真をとった人間から聞いて辿り着いたのかもしれない。
「政商、この場合は寡頭資本家と言うべきだな。こういうのは、時の政権と癒着することで財を成した人のことだってのは、いい?」
相手が意味も知らない言葉を使う人間ではないことは重々承知なので、蛍太郎はそのまま続けた。
「白か黒かという話になれば、ぶっちゃけ黒いわけだ。だけどマフィアとかと違って、彼らは政治の影響をもろに受ける。政変とまではいかなくても、ちょっとした風向きの変化によって投獄されるとか、暗殺されるとか、そうやって闇に葬られてしまう可能性があるんだ。
じゃあ、そうされないためにどうするか。
裏金をばら撒くとか、ガードマンを大勢雇うなんてのは古いやり方だ。
闇に葬るということは、人知れず始末するってこと。ならば、その人物を葬り去るにあたり、秘密裡に事が済まないようにすればいいんだ。
例えば、このイグムノフ氏が突然消息不明になったとしよう。今までなら、そうなってもニュースにもならないよね。でも、その新聞記事が出た後なら…?」
侑希音は大きく頷いた。
「なるほど。名が知れた人物が、まして大金持ちが消えれば、その国の内情に外の世界が関心が向けてしまう。真相が表向きにならなくても、漠然と『あの国はおかしいぞ』というイメージを持たれ続けるだろうな」
「そういうこと。特に、人権問題にうるさい旧西側に目を付けられるのは、望ましく無いだろうね」
そこまで言って、蛍太郎は一息ついた。
「だけど、そのためにはもっとデカいことやって話題をふりまかないとね。これだけじゃ、まだまだだよ。
と、こんな感じで良い?」
すると侑希音は、微笑で応えた。
「ありがとう。
なんというか、そこまでして持ってくるようなネタでもないんだけど、気になりだしたら我慢できなくなってね。たまたま一日空いたから、忘れないうちにと思ってひとっ走りしてきたんだ」
「忙しいの?」
「今だけね。ほら、本格的なバカンスシーズン目前だから、駆け込み需要みたいなさ。…父さんの命日にはちゃんと帰って来るよ。お盆過ぎまではこっちにいるつもりだ」
侑希音は少しだけ神妙な顔で、そう言った。蛍太郎は労わりをこめた笑みで頷く。
「良かった。みんな、楽しみにしてるよ」
侑希音は照れくさそうに笑って、席を立った。
「じゃあ、明日早いから」
「うん。おやすみなさい」
挨拶を交わし、侑希音がドアに手をかけた時、デスクのパソコンがメール着信を伝えるサウンドを鳴らした。蛍太郎はメールを開き、驚きの声を上げた。
「侑希音さん! まだ居る?」
「なにさー」
突然呼び止められ、侑希音は少々不機嫌な顔で蛍太郎の側に戻る。パソコンのモニターには、蛍太郎が慌てて開いたニュースサイトが表示されていた。
「これ…」
蛍太郎が指差した英文を読んで、侑希音は目を丸くした。
「超大型M&A成立。『メガロテック社、バルトビア人資産家に買収される』…これって…」
額に汗を浮かべ、頷く蛍太郎。
「デカいの、きたね…。侑希音さんの勘みたいなのは、当たった時には怖いくらいに当たるんだよな」
メガロテック社は米国有数のの巨大企業だ。
その経営分野は多岐にわたり、冷戦時代には軍産複合体の謗りを受けたこともあった。フェデレーションのスポンサーだったこともあり、蛍太郎のパテント収入のいくつかはここから入っている。もっとも、パテント料はともかくとして、今は事情が違うらしい。侑希音は難しい顔で考え込んでいた。
「表でこうなると…」
「表?」
思わず漏れた独り言だったのだろう。侑希音は慌てた様子だったが、すぐに持ち直す。
「あ、ああ。そのへんはミロあたりに訊けば、タップリの愚痴に彩られた冒険譚で教えてくれるさ」
最後には冗談めかして笑う。わざわざ表という言い方をしたからには裏があるのだろうが、蛍太郎には判らなかった。だがこれは無理も無いことで、そちら方面へのアンテナは蛍太郎よりも侑希音の方が高い。加えて言えば、今月に入ってからミロは留守なので話の訊きようも無い。
ともあれ。その晩からの蛍太郎は、運用中の資産を守るため、市場動向に神経を削りながら降って湧いた買収劇の情報収集に追われることになった。
1−
中東某国。
山の麓に広がる荒涼たる岩石砂漠に、その遺跡はあった。
調査の結果、今から二千年以上前のものであることが判り、それはそれで大きな発見だが、それ以上に、ここにはある特定の人々の興味を引く遺物が見つかっていた。
魔術師の痕跡である。
後に欧州に伝播した魔術の起源はバビロニアであるとされているが、この遺跡からは創成期の魔術師が使っていたと思われる道具が数点出土した。中でも特筆すべきは、非常に保存状態の良いイデアクリスタルが含まれていたことである。
これを聞きつけた米国特殊機関・フェデレーションははるばる調査員を砂漠の真ん中まで差し向け、地元調査団を押しのけて発掘活動を始めた。かつて数人の魔術師と協力関係を持った事はあったが、本格的な技術の供与は遂に受けられなかっただけに、今回はまさに千載一遇のチャンスというワケだ。
そういう経緯で二週間にわたった行なわれた調査は一通り終了し、その成果はジェラルミンケースの中に収まって、明朝の運び出しを待つばかりだ。
警備の中核は四人の屈強な男たち。
リーダーは傭兵のミロスラフ夏藤。
その脇を固めるのは、ウルグアイ出身のファンパブロ・オリヴェラと、アルゼンチン出身のサンチャゴ・ロドリゲス。この二人はフランス外人部隊からの腐れ縁である。そしてマリ出身のリリアン・クフレは傭兵ではなく、フェデレーションの養成機関で育った正職員だ。
彼ら、"ミロと無敵の男たち"は一昨年から結成された外部スタッフチームで、出向扱いのクフレと組んで状況に応じて重要案件に派遣される。今回のミッションは遺物の発掘から輸送までの警護であった。
「これ、やってることは泥棒と変わらんような気がするなぁ…」
詰め所であるテント内のテーブルで、オリヴェラは厳つい顔に似合わない高い声で呟いた。無精ヒゲをナイフで剃っていたロドリゲスは肩をすくめた。この二人が揃うと、見事なまでにラテン系職業犯罪者にしか見えない。
「そうは言うがな、パブリート。他の文化財っぽいのには一切手を触れないって学者連中が言ってたから、そこまでのことでも無いだろ。ま、オレらみたいなのが、いかにも帝国主義的な所業に駆り出され、使われてるってのは、国の家族には言い難いことではあるがな」
その、帝国主義的な真似をしている組織の職員であるところのクフレは、銃の整備をしていた手を止め、少々言い訳じみた口調で話に加わった。
「でもなあサンチョ。ウチだから、まだいいんだぜ。そうじゃなかったら、ロンドンあたりからエグイのが差し向けられただろうさ」
アフリカのフランス語圏出身であるクフレは家族と共に早くから旧宗主国に移り住み、紆余曲折の末アメリカで職業軍人をすることになった。西欧の教育を受けて育ったので環境に馴染むのは然程難しくはなかっただろうが、それでも普通では考えられない苦労を積んでいるはずだ。だが彼の童顔気味の明るい表情からはそういった影は感じられない。軽い口調も、それに手を貸していた。
「魔術師ってのは基本的に後先考えないって言うか、容赦ないだろ。最悪、現地の発掘チーム皆殺しとかやりかねねぇ。連中、人間界で生きてないから後始末とか関係なしだもんな」
クフレの言葉に思わず吹きだすオリヴェラ。
「オイオイ。じゃあ、おめーはどこの次元から来たんだよ」
「それは言えないな。下手なことをすると消されちまう。俺の行動は、常に母船にモニターされているのさ」
自分のジョークでクフレが笑い、ロドリゲスも続いた。そんな風に、すっかり緩んだ空気に冷や水を浴びせたのは、たった今テントに入ってきたミロである。
「銃の手入れしながら喋ってんじゃあねぇ。死ぬぞ」
「へーい」
クフレは頭の悪い小学生のような返事をした。ミロは眉を吊り上げる。
「ったくよぉ…、弛んでんじゃあねぇぞ。こういう場合、持ち出したものを横から掻っ攫うのがお約束だろうが。そりゃ、まさに今だぜ。
…さあ、ボチボチ交代の時間だ。行くぞ」
ミロに促され、無敵の男たちは立ち上がった。
俗に、夜空は明ける前が最も暗いとされる。空と大地以外に何も無いこの場所では、頭上で奈落の底が大きく口を開けているようにさえ見えた。
ミロたちは学者チームが休んでいるテントへと向かった。その中で三人の科学者が遺物を入れたジェラルミンケースとともに夜を明かすことになっている。
警備は交代制で行なう段取りになっており、今はフェデレーションのセキュリティチーム総勢五名が固めているが、これからミロたちの担当ということになる。
歩くことしばし、テントを目の前にしてミロは足を止めた。
後ろで、ライフルの安全装置を解除する音が三つ。ミロだけでなく、無敵の男たちも異変に気付いていた。
周囲にマズルフラッシュが閃くと同時に、四人の男たちは散り散りに走る。
適当な岩で遮蔽を取り、ミロは状況を確認した。と、いっても現状では自分の周囲を見るだけで精一杯だが、とりあえずキャンプ地に武装グループの潜入を許したことは確かだ。人数は判らないが、おそらくは小隊規模だろう。オリヴェラたち四人はやられてはいないようだが、セキュリティチームは無事ではあるまい。訓練された兵士である彼らを出し抜いたのだから、相手もそれなりの技量を持っているはずだ。
(メガロテックか?)
真っ先にミロの頭に浮かんだのは、米国の超巨大企業の名だ。かつてフェデレーションと蜜月にあったメガロテック社はオーバーテクノロジーの扱いを巡りフェデレーションと袂を分かち、今では最大の敵として闘争を繰り広げている。もっとも、その戦いは常に闇の中で行なわれマスコミに報じられることはありえない。その陣頭に立つのが『Illegal Operation Force』、通称IOFなるセクションだ。もちろん、メガロテック社にそのような部署は無いことになっているのだが、少しでも裏の世界を知るものにとって、その存在はまさに公然の秘密である。
だが、いかな非合法作戦班といえど、三日前に本社がどこの馬の骨とも知れない男に買収され上へ下への大騒ぎだという時に、作戦行動などありえるのだろうか。そんな考えがミロたちの間にあったのも事実だ。
(油断しちまったな…)
だが悔やんでいる暇は無い。まずはここを突破して、遺物を確保しなければならない。
銃撃が途絶えたのを見計らい、ミロは半身を出してトリガーを引く。愛用のアサルトライフルは過たず、敵兵の胸を撃ち抜いていた。
ミロは身を屈め、巨体には似つかわしくないスピードで隣の岩まで走る。銃声が響き石が弾けるが、そのまま一気に駆け抜ける。すると、不意に銃撃がやんだ。仲間の誰かがやったのだろう。ミロはそのまま岩陰に飛び込と、目標であるテントに視線を向けた。
そちらは灯りが落ちており、動く者の気配は無い。地面には幾つか黒い塊が見て取れる。それらがセキュリティチームなのか学者たちなのかは判らないが、いずれにせよ先程まで生きていた人間の変わり果てた姿であることは確かだ。傍らには、ライフルを携えた男が二人立っていた。
その奥の岩場に目を向けると、そこに動く人影があった。そちらもミロに気付き、手でサインを送ってくる。クフレだ。ミロがサインを返すと、クフレは岩陰を飛び出した。それに反応して動いた男二人を、ミロが撃つ。そのままテントに近接したクフレは、息を潜め内部の様子を窺う。すると、テントのキャンパス生地が真一文字に裂け、刃物のようなものがクフレに向かって振り下ろされた。
「ちっ!」
ミロが駆けだす。
クフレはライフルで刃物を受けた。頑強なはずの銃身は一撃でぐにゃりと曲がり、形を変えてしまった。クフレは銃を放り出し、地を転がって距離をとると身を起こし、ナイフを抜く。
刃物の持ち主は、悠々と布の裂け目から姿を現した。暗い色のコートをまとった、長身の男だ。左手には件のアタッシュケースを提げている。
ミロは躊躇なく引き金を引いた。走っていたにも関わらず、弾は三発づつ計九発、そいつの胴体に着弾した。だが、男は全く怯むことなく武器、それはハチェットのように見えた―を振り上げた。
「どりゃあ!」
気合を込め、ミロはコートの男に体当たりした。これにはさすがのコート男も体勢を崩し、振り上げていたハチェットを今度はミロに向けた。
唸りをあげて空を裂くハチェットだったが、スピードはあるが大振りに過ぎた。プロとして修羅場をくぐってきたミロにとっては容易く避けられる攻撃だったが、攻撃を避けたミロの顔の余裕の色は無い。目の前に居る相手とは初対面ではないことに気付いたからだ。
コート。ハチェット。素人同然の大振り。
この男を、ミロは知っていた。
それは相手も同様で、
「おや。お前はあの時の…」
と、目を見開き、驚いていた。
「イスマエル…!」
呻くミロ。そこに居たのは、酉野に現れた魔術師、ジブリル・イスマエルその人だったのだ。
「その、腕はどうした?」
最初見たときにイスマエルだと判らなかったのは、彼に右腕がちゃんとついているからである。
「ふっ…」
イスマエルは鮫のような笑みを浮かべると、コートを脱ぎ捨てた。そこにあった身体は人間のものではなく、かつて彼が操っていた象徴機械に良く似ていた。
魔術師は得意気に語る。
「ふ…聞いて驚くな。蔵太亜沙美に危うく始末されかけた私だが、メガロテック社のサイボーグ技術で一命を取り留めたのだ。
そして私は、今の魔力量でも駆動可能なシェルを作り、ボディに組み込んだ。そう! このイスマエルは、魔術と超科学のハイブリットサイボーグとして生まれ変わったのだ!」
高らかに笑うイスマエル。だが、ミロは、
「ふーん…」
と、別段表情を変えなかった。イスマエルは顔色を変え、訊く。
「驚かないのか?」
「聞いて驚くなって、言ったろ」
ミロの答えに、イスマエルは唇を噛んで下を向いてしまった。それを挑発するように、ミロは口の端を歪めた。
「それによ。お前、魔術師としては弱くなってるじゃあないか。例のデカイのは使えないんだろ?」
「ほざけ! デカければ良いってもんでは無いわ! 重要なのは硬さだ!」
案の定、イスマエルはキレた。右手に持っていたハチェットを投げる。ミロは難なくそれを避け、袖に隠してあった拳銃を掌に収めた。そしてイスマエルに肉薄し、銃口を胴アーマーの隙間にねじ込んだ。
「丸腰だぞ、アホめ!」
銃声が幾つも響き、イスマエルは口からドス黒い血を吐いた。
「がふっ…お、おのーれっ!」
だがそれは、断末魔の声ではなかった。
ミロがとっさに退いたのは、まさに彼一流の生存本能からだっただろう。自分でも良く判らないうちに、バックステップで距離をとる。その鼻先を銀の刃が掠めた。見ると、イスマエルの手にはいつの間にか、ハチェットが握られていた。
「ふふ…誰も魔術を使えないとは言っていないだろう」
笑うイスマエル。それに合わせるように、右下腕部に貼り付いている機械からガラス管のようなものが排出された。さらに一本、同様にガラス管が飛び出す。すると、胴へのダメージから丸まっていたイスマエルの背筋が元通りピンと伸びた。
(自己修復するのか…魔術の何かか?)
一応驚いてはみたが、イスマエルは恐れ入ったかとばかりに胸を張って突っ立っているので、とりあえず引鉄は引いておいた。しかし今度はフォースフィールドによって全て止められてしまう。
ミロは舌打ちした。
「ちっ…めんどくせぇなぁ」
そうしている間に、クフレは身をかがめてイスマエルの背後に回りこんでいる。
そう。所詮はイスマエル、サイボーグになったとて戦闘訓練を受けたわけではないようで、相変わらず隙が多い。このまま適当に相手をしておいて、どちらかがケースを奪えばよい。長期戦を覚悟しなければならないは少々癪だが、仕方がないだろう。ミロは拳銃をリロードし、イスマエルの眉間に向けて構えた。
直後、幽かな気配を感じ、ミロはチラリと視線だけ動かして頭上を見た。だが、そこにあるのは白み始めた空だけだ。イスマエルに気取られないよう注意しながら、もう一度上空を確認する。そしてミロは、何かがこちらに近づいて、いや、真っ直ぐに落下してきていることに気付いた。
(マズイ…)
クフレに目配せしてからミロは横に跳んだ。その時にはもう、それは殆ど真上に居た。
「藤宮メガトンキーック!!」
大音声と共に大地が揺れた。大量の砂塵が柱のように宙に吹き上がる。一瞬だけミロが見ることができた砂塵の中心では、長い黒髪の女が赤い目を輝かせ、イスマエルの脳天めがけて垂直落下蹴りをお見舞いしていた。だが足裏がイスマエルから僅かに離れていたところを見ると、彼のフォースフィールドが間に合ったらしい。
砂煙が引くと、地面に大きな穴が開いており、その側にDQUモードの藤宮侑希音が居た。ジェラルミンケースは彼女の左手に提げられている。
「なんだ、こりゃ…」
突然のことにクフレが呻く。目の前に居る女と面識が無いのだから当然といえば当然である。
どの程度の高度からだったのかはミロには判らないが、侑希音は完全に不意をつく形で蹴りを食らわした。その結果、イスマエルは穴の底である。クフレの言うとおり、魔術師というのは容赦が無い。
もっとも、相手とて腐っても魔術師。イスマエルは穴の中からゆっくりと這い出してきた。砂埃や傷で外装は酷く痛んでいるが、彼の直立した姿勢からするにダメージはさほどでもないようだ。
「ふっ…こんなところでも貴様に会うとはな」
イスマエルは薄く笑う。それから周囲を見渡し、口惜しげに言う。
「だが、今日はこれで引き揚げるとしよう。衆寡敵せずだ」
ミロはとっくに察知していたが、岩陰にオリヴェラとロドリゲスの姿があった。
「では、さらばだ!」
イスマエルの体が強い光を放ち、次の瞬間、その姿は跡形もなく消えていた。
「逃げたか…」
ミロが呟くと、既に元の姿に戻っていた侑希音が頷いた。ミロは思わぬ助っ人にすっかり気を良くして、表情を崩した。
「いやぁ、スゲェな。でもよ、技名を叫ばなけりゃ、一撃だったのに」
侑希音は小さく笑って肩をすくめた。
「それじゃあ、下手すりゃケースの中身まで壊しちゃうだろ。確実に受け止めてもらって、バラバラにならない程度にダメージ受けてもらわないと」
だがすぐに、侑希音は表情を引き締める。
「それより、やられた人たちの様子を見てくれよ。まだ生きてるなら、私の治癒魔術でどうにかなるかもしれない」
以後の救護活動は、プロの傭兵が動いただけに極めて迅速だった。的確な処置が功を奏し、不幸中の幸いというべきか死者は存外に少なかった。
学者チームは相手がイスマエルだったということもあり、全員が命を取り留めた。これが的確に急所を突くようなプロの仕業なら危なかったところだ。セキュリティは味方二名のみ生存。普通に病院へ搬送していたら、殆どが助からなかったであろうから、ここは侑希音に感謝せねばならない。ミロは素直にそれを言葉にした。
「おかげで助かったぜ。ありがとうよ」
侑希音は照れたような居心地が悪いような、不思議な笑みを浮かべた。頷いて、それからミロはずっと気になっていたことを訊いた。
「…ところでお前、どうやってここへ来た?」
移動距離に関して彼女に云々するのはバカげているのはミロも承知のうえだ。それよりも、侑希音が空から落ちてきた時に航空機らしいものを見受けられなかったことが気にかかる。
ミロの問いに、侑希音はバツが悪そうに小さく笑う。
「えっとね…成り行き上助っ人みたいになっちゃったけど…。実は私、君たちのところに雇われたワケじゃなくってさ」
そう言って侑希音が指差した先。薄闇の空に、広大な庭を備えた宮殿が浮かんでいた。白く霞んで見えるのは距離が非常に離れているからだが、それでも視界内の空を覆いつくすだけの大きさだ。これだけの物が何故浮いているのか、ミロには見当もつかない。
これこそが、"空中庭園"。
バビロン魔術師協会の総本山であり、その技術の結晶である。ロンドンが本家なら、こちらは元祖だ。
「おい、そいつを取り押さえろ! それと、ブツの確保!」
ミロが叫ぶ。
無敵の男たちが身を乗り出すが、遺物が入ったジェラルミンケースは、侑希音の背後に控えていたダンシングクイーンの手の中にあった。
「もう遅いよ」
侑希音の言葉と共に、ダンシングクイーンは主を抱え一直線に飛び上がり、それを待っていたかのように空中庭園が透明になって消えていく。
巨大建造物どころか綺麗サッパリ雲ひとつ無くなった空を見上げ、ミロは歯軋りした。
「クソ、なんてこった!」
2−
七月二十七日。
夏休みに突入して数日が経ったこの時分になると、学生が学校に行かない生活サイクルにその家族が慣れてくる頃だ。この時期、天気予報で毎年お決まりの『今年は暑い』というフレーズに偽りはなく、夏は比較的過ごしやすいとされてきた酉野市でも連日の夏日が続いていた。
藤宮屋敷は住宅地の外れの高台に立っているが、高いといっても山というほどでもない。したがって、そこも例外なく夏日を満喫できる状態にあった。
そんな風に暑さが気になり始めた期末テスト前、藤宮璃音は宣言していた。
「夏休みになったら、わたしがけーちゃんの代わりに家事を全部やるね」
いわゆる、一ヶ月主婦宣言である。
お盆開けに蛍太郎の両親・祖父母と関係者にご機嫌伺いに行く『アメリカ東海岸〜イタリア〜ロンドン、二週間の旅』が控えているので、夏休み初日からそれまでおよそ四週間は璃音が家事を一手に引き受けることになったのだ。そしてそれは宣言どおり、海水浴の翌日から今までしっかりと続いていた。
この期間の朝食は九時からということになっている。璃音は三十分前に起きて顔を洗うと、黒猫のツナに餌をやってから手早く味噌汁と目玉焼きを用意する。それが済んだころ、順繰りに屋敷の住人たちが食堂に下りてきた。
蛍太郎はいつも通り五時に起床して書斎に入り、海外の家族や友人、仕事関係のメールチェックと返信、週に数回くらい電話で連絡を取っている。それが済むと主にメールの案件処理である資産運用に関連した仕事と調べごと、そして物理学科助教授として授業の準備を済ます。これらは夕飯後に璃音が勉強している間にもしている事なので、早ければ六時半には終わってしまう。璃音との朝のセックスに興じるのは大体がそんな日だ。もちろん、そのために時間の配分を変えることもあったりなかったりである。
夏休みに入ってから朝食が一時間半遅く設定され、さらに欧州でバカンスシーズンが始まって外の仕事が減ったことで時間に余裕が出来たため、仕事を全て済ましてしまった蛍太郎は朝からちょっとした達成感に包まれ実に晴れ晴れした気分だった。もちろん講義も無いから、これで一日中何もする事が無い。
「璃音ちゃん、おはよう」
挨拶も実に軽やかだ。負けずに璃音も声を弾ませる。
「おはよー」
それから蛍太郎が棚から自分の分の茶碗を持ってくると、璃音がご飯を盛る。さらに璃音は自分のご飯は丼に盛って、それと味噌汁を二つをテーブルのそれぞれの席に並べる。そして二人声を揃えて、
「いただきます」
で、朝食が始まる。今は特に先を急ぐわけでもないのでのんびりとしたものである。
そのためか璃音は納豆をいつもよりも多い回数かきまぜ、塩をふってから少し食べて上を平らにした丼飯に投下した。それを璃音は至高の逸品かのように幸せそうな顔でかっこむのだが、蛍太郎は納豆を好きではないので複雑である。今日は味付け海苔もでているのでそれでご飯を食べることにした。
璃音がご飯のおかわりをしに席を立ったのと入れ替わりで斐美花が現れた。
「おはよーございます…」
全く覇気の無い声で挨拶をすると、フラフラと台所へ。自分の分のご飯と味噌汁を持って席につくと、深々とタメ息を吐いた。
斐美花は、一週間前に海に行ったときまでは元気だったが、最近はバテ気味である。
彼女が過ごしてきた晴間学院は避暑地である高原の外れにあり、町場より五度は気温が低い。長期休暇以外はそこに居た斐美花にとって、暑い夏をまるまる過ごすというのは初めての経験だ。大学が始まるのは九月の下旬からなので、この暑い中にあと二ヶ月近く居るのかと気力が減退したのが弱った原因だ。…と、いうようなことを家人には言い訳がましく言っているが、どう見ても暑い部屋で色々頑張ったために疲労と寝不足のダブルパンチが来ているとしか思えない。
戻ってきた璃音は斐美花の姿を見て取ると、向日葵のような笑顔で言った。
「おはよー斐美お姉ちゃん。じゃあ、みんなそろったところで改めて、いただきまーす!」
それに蛍太郎の元気な声と、斐美花の弱々しい声が重なる。これで勢揃いである。
今、永森綺子は屋敷には居ない。秒読みでもしいてたが如く、大学の夏休み初日である二十四日に実家へと飛んだのだ。
そういうわけで、恋人である墳本陽とは携帯メールのやり取りのみ。そのため陽の落胆ぶりは凄まじく、電話やIRCで長時間愚痴を展開して璃音と蛍太郎を辟易させていた。
蛍太郎曰く、
「まあ、初めて長期で親元を離れたんだし、仕方ないかなぁ」
と、半ば諦め顔である。
しかしながら、色々と膨らんでしまった男子高校生の期待とか知的探究心とかが予告無しで行き場を失い宙ぶらりんになってしまった様は、それなりに同情を誘うものではある。そのうち気晴らしにどこかへ連れて行ってやろうかと、蛍太郎は真面目に考えていた。
朝食の後は三人で賑やかに洗い物をする。それが済むと、手分けして涼しいうちに屋敷中の窓と襖を開けて回る。
実は、この屋敷には冷房の類は設置されていない。以前の主が、
「古傷にひびく」
と、嫌ったからで、例外は書斎の除湿機ぐらいだ。そのため暑さを凌ぐには風通しを良くするしかないのだが、そのあたりは古人の知恵により良く考えた設計がなされており、つまりはそこまで蔵の金に余裕のあったということだが、そういう理由から気温の上昇はさほどでもなかった。襖を開け放てば屋敷の端から端へ風が抜けるので、打ち水をしておけばそれなりに冷却効果を得られるのである。
娘たちの部屋がある洋間の部分も同様で、廊下の窓を開けておけば結構何とかなる。自室の窓を開け放つと、木陰を抜け冷えた風が頬をくすぐり、その心地よさに璃音は思わず笑みをこぼした。
それから洗濯機の様子を見に行くと既に働きを終えていたので、中身を手早くカゴに放り込み、勝手口から続く裏庭の物干し台に干していく。子供の頃にお手伝いさんの後を着いて廻っていた璃音は、この手の作業は得意な方である。
風に揺れる洗濯物を前に、璃音は達成感を胸に満たし深呼吸を一つ。それから打ち水を兼ねて植物への水やりである。ホースから勢い良く吹き出る水を上機嫌でばら撒いていると、草の陰から散歩を終えた黒猫のツナが現れ、足元にまとわりついてきた。水を止めると、ジーンズをよじ登ろうとしていたツナを身を屈めて抱きかかえ、璃音は頬を寄せた。
「ふふ。今日もいっぱい遊んであげるからねぇ」
ここのところはいつも水撒きに追われて璃音の所にくることになるツナだが、飼い主に抱っこされると何だかんだで機嫌を良くしてしまう。このように飼い主には良く懐いているツナだが、他の者には近寄りもしない。その代わり余計な悪さをすることもないので、屋敷の人間との関係はそれなりに良好である。
ツナは水撒きが終わるまで大人しく璃音の足元に座っていたが、ホースの片づけが終わると一声鳴いてから雨どいをよじ登って行く。璃音は飛んで一足先に屋根の上に行く。瓦に座って待っていると、ツナが駆け寄ってきて膝の上に乗った。林の上を抜けてきた風が直に触れるので下に居るより幾分涼しく感じるが、すでに瓦が暖かくなっている。今は気持ち良いが、もたもたしていると陶板焼きになってしまうだろう。そのあたりはツナも心得ているようで、二十分もすると歩き出し、屋根伝いに歩いていく。これでいつもの巡回は終わり。これからは普段は林の中をウロウロしたり縁側で寝ていたりするのだが、今日は璃音の部屋の上で立ち止まり、振り向いて鳴いた。
「はいはい。ほら、おいで」
璃音はツナを抱き上げると、屋根から浮き上がり、真下の窓から自分の部屋に入る。サンダルを窓枠に置くと、机からウェットティッシュを取ってツナの足を拭き、クッションの上にストンと着地した。すると、まってましたとばかりにツナが璃音の腕の間をすり抜け、身構えた。璃音は部屋の隅においてあったカゴを引っ張り寄せると、中に詰め込まれている猫用の玩具を物色する。
「よぉーし、いくぞ。これだっ」
猫じゃらしが閃いた。次いで、ゴムボールが跳ねる。
ツナは捨て猫だったので年齢は不詳だが、この屋敷に来てから三年経つので最低でも三歳半といったところだ。静かな環境と栄養状態のよさから身体が大きく元気いっぱいだが、それが走って跳んでも部屋に手狭な感じは無い。と、いうのも、ここは結婚後から名実共に勉強部屋になったのでベッドも衣類タンスも無くなったからである。本棚と机の他には、最近買ったキャットタワーが目立つくらいだ。床に幾つか転がっているクッションは、璃音がTVを見たりゴロ寝したりする時に使われるが、ツナの寝床を兼ねているものもある。その間を駆け回って玩具相手に狩猟生物の本能を存分に満たした黒猫は、三十分もすると璃音の膝の上で丸くなって寝息をたて始めた。定期的に上下するツナの脇腹にそっと手を当てると、高めの体温が伝わってくる。太腿がジーンズ越しにジワジワと温かくなるのも心地よい。
璃音は頬を緩めて、穏やかな慈しむような目でツナの寝姿を眺めた。普段はあまり触らせてくれない足の裏や耳、さらに唇をめくって牙を弄っているうちに璃音も眠気に襲われ何度か首をカクカクさせ、ついにパタリと床に横たわった。
膝の上から放り出されてしまったツナはすぐに目を覚まし、今度は璃音の頬に身体を寄せて、そこでまた丸くなった。
結局、璃音が空腹で目を覚ます正午まで、一人と一匹は眠り続けていた。
3−
その仕事を敢えて言えば自営の世界征服業ということになるのだろうが、どうやら一丁前にバカンスシーズンというモノはあるらしい。夏の日差しの下ではドクターブラーボがポットの中で茹で上がってしまうという理由からなのだが、とにかく学校の夏休みに合わせて亀田瑠香はメタルカ少佐としてもお暇を頂くことになった
休みといっても様々なメンテナンスのために三日に一回は基地に顔を出さなければいけないが、二重生活からの開放は彼女の精神を見事なまでにリラックスさせていた。普段は仕事中で見ることの無い、日本のHBKがパーソナリティを勤める昼三時からの情報番組を見ながら、テーブルにつんのめって麦茶を飲む。その傍らにはトコロテン。何か久しぶりに人間らしい生活をしているような気がして、亀田は大きくタメ息を吐いた。
ヤスとシゲは、あのなりでそれぞれ実家に帰省したらしい。親御さんがどんなリアクションをするのか見てみたかった気はするが、オペ執刀者としては立ち会うのも微妙なところだ。
「お父さんとお母さんがくれた身体は、脳髄と延髄、それから消化器の一部だけになりました。残りは、この人が切除しました。いやムシロ、切除された側が今の僕?」
そんなようなことを言われたら、たまったものではない。
「っていうか、普通に里帰りするサイボーグなんて聞いたこと無いぞ」
ぼやく亀田。それが伝わったわけではないのだろうが、番組の話題は見るだにウンザリな芸能人の離婚闘争から、地方のビックリニュースへと切り替わったようだ。日本のHBKが、良心の具現化とでもいうような穏やかな表情と声で原稿を読み上げていた。その姿からは、スーツの下に隠された鋼の肉体など、とてもではないが想像はできない。
「…夏祭が始まって以来初めてサイボーグが参加することになり、話題を集めています」
亀田は麦茶を吹いた。画面には、大きな山車を一人で引くシゲの雄姿が写っている。
「地元出身の加藤重光さんは、今年の四月にご家族に内緒でサイボーグ手術を受けました。帰省して初めてその事実を知らされたご家族の皆さんは大いに戸惑いましたが、手術を機にすっかり明るくなった重光さんと今では会話も甦り、朝夕、一家揃って楽しく食卓を囲んでいるとの事です」
明らかに異常な状況を伝えるその文面を、日本のHBKは全く淀みなく読み上げた。流石の職人芸である。それに対して、アホなコメンテーターが、
「成形手術は女性のものっていうイメージがありますけど、これなら男性でも抵抗無く受けられるんじゃないでしょうか。プチ成形の次は、サイボーグ手術が流行るかもしれませんね」
と、脳髄が煮えたコメントを発していた。最も肝心な、どこで手術を受けたかについては全く言及されなかったのは、シゲの口が堅かったのか、本音じゃ誰もサイボーグになんてなりたくないのか、そのどちらかだろう。
…考えるまでも無く、後者だ。
亀田は大きな大きなタメ息を吐いた。
「外の空気、吸ってこよう…」
フラフラとした足取りで部屋を出ると、亀田は向かいの部屋のドアに寄りかかってぐったりしている女に気付いた。長い髪で長身の…藤宮斐美花である。亀田は近寄って、肩を叩いてみた。教え子の姉ということで、面識はあるが挨拶を交わす程度だ。どう呼んだものか迷ったが、ここは紛らわしくないように名前を呼んだ。
「斐美花…さん?」
斐美花は薄っすらと目をあけて、掠れた声を出す。
「亀田…先生…」
亀田は斐美花に先生呼ばわりされる筋合いは無いのだが、妹の担任となれば家族としてはありうる事だろう。
「どうしたっていうんですか、こんなところで…」
斐美花がもたれかかっているドアには『中村』のネームプレートがかかっている。
「はっ! もしかして、放置プレイ!?」
そして亀田は、ミニスカートから伸びている斐美花の白い太腿をマジマジと見つめた。それどころか、視線が次第に上がっていく。
「なに見てるんですか」
怪訝な顔で見上がる斐美花。亀田は適当に笑って誤魔化した。
「え? なんか入ってるのかなぁと思って…はは…」
それに、斐美花は頬を赤くして口を尖らせた。
「教師の言うことですか…」
その言葉がデリケートな部分に触れたらしく、亀田は声を荒げた。
「うっさいわね。私だって人間なんです。そこの屋敷じゃ教え子が結婚してるからって毎晩ダンナとお楽しみで、向かいの部屋じゃサルになった大学生が絶好調でお楽しみってんじゃ、いろいろ思うところもあるってもんだよ。
…なんなのさー!」
叫ぶだけ叫んで気が済んだのか、深呼吸を三度繰り返し落ち着きを取り戻してから、亀田は訊いた。
「で。ホントのところはどうしたんです?」
「中村さんの部屋に涼みに来たら…居ないんです。メールしてみたら、バイト中だって…」
斐美花は悲しげな顔をした。亀田は疑いを隠さない。
「涼みに、ねぇ」
だが斐美花は、おふざけ一切無しの真剣な眼差しを亀田に向けた。
「本当です。だって家、エアコン無いんです…」
亀田は自分にとって予想外の言葉が帰ってきて、呆気に取られてしまった。
「あ、そう…。とりあえず立ち話もなんだし、中に入る?」
会談は仕切りなおしになった。
斐美花を部屋に通すと、亀田は適当に麦茶を出してエアコンのスイッチを入れた。
「しっかし…あの豪邸にエアコン無しってのも、なんか凄いですね。こっちは賃貸なのに…」
鶴泉荘の各部屋にはしっかりとエアコンが設置されている。斐美花は力なく頷いた。
「このところ夏日が続くもんだから、バテてしまって」
亀田は呆れた表情である。
「なんて惰弱な。夏日なんてまだいいじゃない。私の地元なんて二ヶ月間毎日真夏日ですよ。
それなのに、中村さん…でしたっけ? あの人と一緒の時、はしゃいじゃってるからでしょ。疲れてるなら大人しくしてればいいんですよ。っていうか、あの部屋にもエアコンあるんだから、そんなにバテるか?」
だが斐美花は目を伏せ、首を振った。
「電気代払えなくなるから止めてくれって、泣かれました…」
「…そ、そう。大変じゃない?」
「…汗とかでドロドロです」
何ともいえない雰囲気になって、亀田は言葉に詰まった。だが、妙なことに気付いてすぐに口を開く。
「えー。じゃあですよ、なんでさっきは涼もうとか言ってたわけ? 中村さんの部屋のエアコン、使えないんでしょ」
それに対して、斐美花は大きく頷いた。
「ええ。でも、私が電気代を払えば良いんだって、気付いたんです」
見事な解決策に亀田は深く感心した。
「…ああ、確かに。で、もしかして。今ここに居る分の電気代、払ってくれるの?」
冗談で試しに言ってみただけだったが、斐美花は真面目な顔で断った。
「いえ。だって、先生はちゃんと稼いでらっしゃるでしょ」
「まあねぇ…。っていうか、今は一人で居てもつけてるでしょうからね」
その言葉を最後に、会話はプッツリと途絶えてしまった。あまり接点の無い組み合わせだけに、共通の話題も無いのである。気が済むまで冷房を体感するつもりの斐美花はともかくとして、家主の亀田としてはこのまま黙っててくれても居心地が良くない。何か言わなければと思案して、亀田はこのところずっと気にしていた"ある事"を訊いてみることにした。
「あのですね、斐美花さん。ウチの斜向かいの"カトウ"さん、最近留守にしてるみたいだけど、何か知りません?」
斐美花は誰のことか判らず首を傾げたが、ミロスラフ夏藤のことを言っていると気付き、答えた。
「"ゲトウ"さん? 夏と藤、ですよね。あの人なら、仕事があるとかでずっと留守みたいです。いつ戻るのかは判らないって、蛍太郎さんに言ってから出かけたそうですよ。
…でも、どうしてそんなこと?」
斐美花が訊き返すと、亀田は少しだけ頬を赤くした。
「え、そりゃほら、なんというか…素敵な方じゃないですか。なんというか、その、逞しくて」
すると今度は、斐美花が呆れた顔をした。
「はぁ、節操無いんですね。璃音から聞きましたよ。ここに来る時に蛍太郎さんに色目使ってたんでしょ」
眉をひん曲げる亀田。
「…嫌な言い方するなぁ。私は、人それぞれの個性を尊重するように心がけたいなぁと、日々思い、そして実践してるだけですよ」
「つまり、男なら何でもイイってことですね」
斐美花の痛烈な一撃に、亀田は本格的に口を尖らせた。
「なにさ、男日照の行き遅れみたいに言わないでくれる? まあ、それはそれとしてですね…」
それから拗ねたような顔で俯いて、モジモジと指を絡ませながらぶつぶつと呟く。
「夏休みになったら、お近づきになろうと色々と策を練ってたんですよ。
例えば、ゴミの日に待ち伏せ…いやいや、偶然を装って…ま、まあそんな感じとか、わざと肉じゃが作りすぎて、お裾分けに持っていったりとか…」
「なんかまどろっこしく無いですか?」
相変わらずの呆れ顔で斐美花が言うと、亀田は憤然とした。
「…うっさいわね。アナタなんか、いきなり色仕掛けじゃないですか」
「そ、そんなことは…」
失言に気付き、うろたえる斐美花。
「ネタは上がってんのよ。藤宮さんと法眼さんから聞いたんですから。っていうか、無理矢理聞き出したんです。だって、あの二人とかアナタにはポンポンと男できてるんだもん。そのノウハウを聞かない手は無いでしょ」
「…で、参考になりました?」
「なんねーよ。私の乳はアンタらのと違って、中庸を以って善しとしてるんだからね!」
何故か肩で息をしている亀田に、斐美花はたしなめる様な口調で言う。
「先生ので中庸とか言ったら、色々と問題だと思うのですが」
「比較対照が両極端だったからね」
亀田は肩をすくめる。実際に彼女は学内ではスタイルバツグンで通っている。この場合は、比べる相手が有るほうと無いほうに極端すぎるだけだ。
「まあ、居ないもんをここでグダグダ言っててもしょうがないんだけどね…」
言うだけ言うと、突然の虚しさに襲われた亀田はガックリと肩を落とした。斐美花も余計な事は言わない方が良い気付いて黙っていたので、居心地の悪い空気が部屋に満ちる。だが、ここで退出するのも気が引ける。亀田も、自分が作り出した状況だけに何もいえない。斐美花が話題を変えてくれることを期待するばかりだが、その気配は無い。
少しして、呼び鈴が鳴った。
来客の心当たりは無かったが、この雰囲気から逃れられるなら幸いと、亀田はドアに走る。ろくに外を確認しないでドアを開けると、そこには黒コートとアイマスクの男が居た。隣人のMr.グラヴィティである。
「あ、ど、どうも…」
仇敵の出現に反射的に身構えてしまう亀田。自分がメタルカであることは知られていないはずなのだが、それでも緊張してしまう。グラヴィはそんなことは露知らず、友好的な笑顔で手に持っていたタッパを差し出した。透明な蓋からは薄い褐色の物体が見て取れる。
「肉じゃが作りすぎちゃったんですけど、食べませんか?」
突然のことに、亀田は呆然と目の前にいるヒーローを眺めた。よく見ると、前が開きっぱなしの黒コートから覗いているのはエプロンではなかろうか。しかも足元は七分丈のジャージにサンダル。ハッキリ言って異様過ぎる姿だ。
(何なの、この状況。なんでこうなるんだ…)
亀田の思考は完全に停止してしまった。
ちなみに、後で食べた肉じゃがは非常に美味かった。
4−
七月二十八日、午後二時。
甘味処・やなぎや。そこの一番奥まったテーブル席で、怪しげな密会が行なわれていた。
テーブルの上には電話帳ほどに厚い何かのカタログと、ノートパソコン。そして散らばった雑多なメモとコピー。どれも、とてもではないが店の可愛い雰囲気にはそぐわないシロモノである。だが、ここで額をつき合わせているのは甘味屋に似つかわしい少女二人だった。一人は肉づきの良い体の線をTシャツとジーンズで思い切り良く出し、一人はメガネと長い髪に合わせたようなフリルのついた白いワンピースを着ている。
佐藤祥と佐野みやこである。
二人は命が懸かっているかのような鬼気迫る表情でカタログをチェックし、何かの分担表を作っていた。しばらくして作業が一段落したのか、二人は揃って顔を上げた。
「うえぇ、結構あるなぁ…」
祥は手元の表を睨み、呟く。
「やっぱ三日目に集中しちゃってるな」
佐野は祥の持っている表と自分のとを見比べ、こちらは高揚した声で言う。
「でもでも、二人がかりだから大丈夫だよ。なんとかなるって」
晴間学院は長期休暇に入ると生徒を里に帰す。晴れて自由の身になったということで、佐野みやこのテンションは高い。それに中てられて、祥は頬を緩めた。
「まあ、毎年一人で行ってたからね。今年はそうじゃないっていうのは、何だか嬉しいかも」
それを聞いて、佐野は大きく何度も頷いた。そして、コーヒーカップを二つ持って立ち上がる。
「じゃあ、おかわり貰ってくるねー」
「うん、ありがと。あーそうだ、なんか食べとこうよ。コーヒーだけでこれ以上長居するのも心苦しいし。適当に頼んます」
「おっけー、さっちゃん」
佐野を送り出した祥は考えた。とりあえず必要な作業に区切りがついた今、もっと別の形で友好を深めるべきではないかと。今までは趣味の話で関係を繋いできたが、それとは別に共通の話題を模索しておく方が良いだろう。こういう場合に一番お手軽なのが男関係の話だが、全寮制女子校で生活している佐野には酷な題目だ。ならば共通の知人について話してみるのが良いかも知れない。佐野が戻ると、祥は話を切り出した。
「ねえ。晴間学院にさ、藤宮って人いたでしょ」
「斐美花さま?」
佐野は何故祥の口からその名が出てきたのか怪訝に思っているようだ。
「ううん、そのお姉さんの、侑希音さん。私、一番下の子と同級生なんだけど、お姉さんが学校でどんなだったかはあまり知らないみたいなんだ。だから、みやこちゃんに聞いてみようと思って」
「侑希音さんかぁ…」
少し記憶を整理してから、佐野は口を開く。
「私は中等部から入学したんだけど、その時はもう卒業しちゃって伝説の人だったんだよね。文化祭で遠巻きに見た程度で…。斐美花さまとお話させていただくようになったころには、あまり学校に寄り付かなくなっちゃってたし…」
祥は身を乗り出した。
「その伝説を聞きたいんだ。あんなカッコイイんだもん、色々と残ってるよね」
「そうねぇ…。全部先輩から聞いた話なんだけど、才色兼備どころの話じゃない人だったっていうことだよ。学業は不得意なく全て優秀で常にトップをひた走り、先生も彼女に教えるのに非常に苦労したとか、生徒会でも辣腕を振るい敵うものが居なかったとか。スポーツでも、本職を上回る能力を発揮しながらどこの部活にも入らないで、体育祭の女王として君臨したとか…」
「うーん、それくらいはしただろうねぇ。私、初めて会ったときに女だけど一目惚れしそうになったもん。モテモテだったんでしょ」
「そりゃもう。今でも、侑希音さんが在籍してた頃に初等部だった子を中心にファンクラブが存続してるし。ピーク時は、上から下まで一学年辺り八十人という学校なのに会員ナンバーが六百を数えたとか。恋人も上から下まで数人居たらしいよ」
「ほえー」
祥は感嘆のタメ息を洩らした。
「凄まじいなぁ。それじゃあ次は、もっとキナ臭い話を希望するぞ。そういう話こそ聞きたい知りたいってのが、人情というモノだよ」
好奇心に爛々と輝く祥の瞳に気圧されながら、佐野は話を続けた。
「う、うーん…やっぱねぇ、先生の受けは良くなかったみたいだよ。教えることが何も無い生徒なんて、目の上のタンコブじゃん。特に、語学と理系科目の先生とは冷戦状態だったみたい」
「はぁ。つまり、得意科目で先生に褒められたためしが無かったってことね」
侑希音の、決して下品ではないが荒っぽい言葉遣いの原点はそれなのかも知れない。もっとも、これだけで断定するわけにはいかないが、そんなことを考えながら祥は話を聞く。
「それに、初等部の頃はかなり問題児だったらしいの。問題っていっても、他の生徒に暴力を振るうことは無かったそうだけどね。授業サボったり寮から抜け出したりとか、そんな感じ。それで、なかなか信用されなかったところもあるんじゃないかな。
でも、中等学に上がって少ししてからは、手がかからないし他の子の面倒も見てくれるようになったって、体育の先生方には随分可愛がられたみたい。あと、神学の蔵太先生とも親しかったみたいだよ。先生、お茶の時間に時々侑希音さんの話してたからね」
「ふーん。そこ、なんかありそうだなぁ…じゃあ、斐美花さんに訊いてみようか」
と、祥。佐野も頷いた。
「そうだね。斐美花さまも蔵太先生のところによく出入りしてたから、何か聞いてるかも」
「うん。丁度、そこに居ることだし」
「へ?」
呆気に取られた佐野は祥の視線を辿り、また驚いた。そこには、誰あろう藤宮斐美花本人が居たからだ。しかも男と一緒だ。
「うえええええっ! 斐美花さま、な、なんで!? それ、男!?」
大声を出してしまう佐野。斐美花が居たことも驚きだが、隣に男がいることがもっと驚きだ。
佐野の大声に気付いた斐美花は、周りを気にしながら小声で言う。
「だって、一番奥に行こうと思ったら先約がいるんだもの…」
このあたりの席は奥まっていて人の気配が希薄なので、カップルに人気である。だからこそ、祥と佐野も人目を憚ってここに陣取っているのだ。
先程まで驚いていた佐野は、一転して値踏みするような不躾な目を斐美花の隣にいる男に向けた。何とも言えない居心地の悪さを感じ、その男、中村トウキは肩を丸めて、
「オレ、そっちの席に行ってるから…」
と、そそくさと姿を消してしまった。すると、祥と佐野が揃って手招きをする。斐美花は諦めた顔で、空いている椅子に座った。
「斐美花さま、彼氏できたんですか。へぇ…同じ大学の人?」
頷いた斐美花を、さっそく佐野の舌矛が襲う。
「普通だったら高嶺の花も良いところの、容姿端麗才色兼備を絵に描いたような超お嬢様が、そこいらの貧乏学生に組み敷かれている姿を想像すると、なんだかハァハァしますね。…ハァハァ」
斐美花は顔を真っ赤にしてしまった。
「そ、そんな想像しないでいい!」
祥は一応、フォローを入れた。
「まあ、いい人そうじゃないですか。見た目結構イケてるし。…見るからに金持ってなさそうだけど」
「そんなこと言ったら可哀想だよ」
斐美花が真剣に悲しそうな顔をしたので、祥は素直に謝った。
「すいません」
学生なら、これからの展開次第では金持ちになるかもしれない。それ以前に、職業や収入でフィルターがかからない分、相手の人間性をより尊重できるという考えもある。そういうことに思いたった祥は少し恥ずかしくなったので、さっさと話題を切り替えた。
「今ですね、侑希音さんの話をしてたんですよ」
姉の名前が出てきたことで興味を引かれ、斐美花の表情が変わる。佐野も、思い出したように口を開く。
「あ、そうだった。斐美花さま。妹から見て、侑希音さんってどんな方でした?」
いきなり侑希音と蔵太神父との関係を訊かない辺り、佐野もなかなかである。斐美花は少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「姉っていっても、学校に居た頃はずっと寮で全く離れたところに居たから、あんまりそういう認識はなかったかな。夏休みとか冬休みには一緒に家に居たけど、お父さんの言うこと全然聞かなかったしね。璃音があの人のお腹にいる頃に色々あって、それで晴間学院に入れられたっていう経緯があるから…」
"あの人"というのは母親のことだろう。実の母親を"あの人"呼ばわりとはあまり良い事ではないが、何か事情があるのだろう。祥は思いがけず藤宮家の内情に触れることになり、高校入学以来の付き合いになる璃音から彼女自身の話を殆ど聞いていないことに気付いた。
(ダンナの惚気話ばっかりだから、気にも留めなかったけど…)
それはそれとして、祥は斐美花の話の続きに耳を傾けた。
「…とにかく、侑希姉ぇは何でもできる人だったから、初等部の高学年くらいから手が付けられなくなっちゃってさ。別に非行に走ったとかいうんじゃ無いんだけど、ね。それで中一の夏休み、ついにやっちゃったの」
聴衆二人が身を乗り出す。
「理由は教えてくれなかったけど、璃音とケンカしたの」
「それでそれで?」
斐美花は肩をすくめた。
「それでもなにもないよ。いくら何でもできるっていったって、あの頃の侑希姉ぇじゃ璃音のバカヂカラには敵わないよ。あの子、今の半分くらいにはパワー使えたんだから。一発でKOされちゃったんだよ」
「へぇ…」
祥と佐野は揃って感嘆の声を上げた。斐美花は、誰のか知らないお冷を少し飲んでから続けた。
「よく判んないけど、それ以来なんか急に優しくなっちゃってね。お父さんから色々習ったり、蔵太先生の本を読むようになったのは、それからね」
(きたっ!)
蔵太の名が出たことで同時に目を輝かす祥と佐野。ここは、佐野が訊く。
「侑希音さんと蔵太先生って、仲良かったんですよね?」
斐美花は頷いた。
「うん。珍しくて難しい本をいっぱい持ってて、それを侑希姉ぇに全部見せてくれたそうだよ。…私には半分だけだったのに」
超能力のことはおおっぴらになっていても、流石に蔵太文庫収蔵の魔術書の事は言えないので、その辺は適当にぼかしておく。この二人、少なくとも佐野はマンガ以外の本には興味を持たないだろうとはタカをくくってはいたが、斐美花は気が気ではなかった。
それが、思わぬミスを呼ぶことになるとは…。
「へえ、特別に良い生徒だったんですね」
佐野が相槌を打つと、斐美花も頷く。
「うん。特別っていえば、やっぱ特別よね…」
そこまで言って、斐美花はサッと青ざめた。魔術書のことに気を取られ、ウッカリ口を滑らせて締まったのである。目聡く、祥と佐野はそれを察知していた。
「へぇ…どう特別なんですか、斐美花さま?」
「ふふ。斐美花さん。話してくれるまで、彼氏のところに返しませんよ」
頭を抱えた斐美花は観念して、重い口を開いた。
「あのね、これは秘密だからね」
二人が満面の笑みで頷く。斐美花はさらに肩を落とす。
「…うう。私が言ったって、言わないでね。…実は、侑希姉ぇと蔵太先生は…」
斐美花は手招きして祥と佐野に耳を寄せさせ、小さな声で続きを話した。
しばしの間をおいて、二人は同時に驚いた。
「ええーっ! なんでッ!!」
「何でって言われても…」
斐美花は声を抑えるように手振りで示しながら、言う。
「先生は素敵な方だし、侑希姉ぇは綺麗だし…それ以外になんか理由って要るの?」
その言葉には妙な説得力がある。祥は頷くしかなかった。だが、佐野は首を捻る。
「いやぁ…でも、先生と生徒なだけじゃなくて、孫くらい歳離れてるんだけどなぁ…」
「そうなの!?」
祥が目を見開く。これ以上ゴシップ的に捉えられても良い気分ではないので、斐美花は真面目な顔で言った。
「別にね、ふざけてた訳じゃないんだよ」
それから斐美花は、その話を蔵太神父から聞いたときの事を話した。
斐美花は、超越能力のコントロールについて蔵太神父から学んでいたので、初等部のころから礼拝堂に出入りしていた。だが高等部に上がる頃になると外野の雑音が斐美花の耳にも届くようになってきたので、蔵太は正確な真実を告白したのである。
全てを語った後、蔵太神父は苦笑しながら言った。
「なあ、斐美花さん。私も完璧な人間ではない。人間、誰しも過ちはあるだろう? ほら、悪人正機説というのを聞いたことはないか?」
斐美花は淡々とツッコミを入れた。
「先生、それは他所様のネタです」
「う…、そうだな。でも、彼女との関係は過ちの一言で片付けるつもりはないさ。むしろ、良い関係だったよ。老いらくの恋だと思って見逃してくれ」
「一線を越えなければ、綺麗事で済むんですけどねぇ」
思いもよらなかった事実に戸惑いが残る斐美花の言葉は冷たかったが、蔵太はいつも通りに穏やかだった。
「いじわるだなぁ、君は…」
「姉は優しかったでしょうね。私と違って」
蔵太神父は懐かしげに目を伏せ、頷いた。
「そうだな。だからこそ、このままじゃいけないと思ったんだろうね。最後には、見事フラれちまったよ」
だが、斐美花は頭を振った。
「私は、先生に、そんなこと無かったって言って、欲しかったんです…」
これは斐美花にとって聞きたくない話だったが、時間が経つとともに蔵太神父の真意を悟る。真実を知っていれば、心ない言葉への備えだってできるからだ。それに、本当のことを語ってくれたからこそ、斐美花は今でも蔵太神父を恩師と呼べるのである。このことには、素直に感謝していた。
「なるほど…」
佐野が大きく頷いた。
「何となく良い話っぽく、それも自分がらみで締めるあたりがいかにも斐美花さまらしいとは思いますが、とりあえずありがとうございます」
「…佐野。引っかかる言い方ね」
斐美花は眉を顰めた。佐野は、
「秘密をバラしておきながら良い子では終わらせない」
と、でも言うつもりのようだ。案の定、佐野は薄笑いを浮かべながら言った。
「いえ、別にこの件で脅そうとか、そう言うつもりは無いんです。ただ、あの彼氏がどんな人で、今どんなお付き合いをしているのか…ぶっちゃけ、ヤッたかどうか聞きたいなァなんて、思ったり思わなかったりなワケですよ」
斐美花はガックリと肩を落とした。
「学校の中ではネコ被ってたのね…。ああもう、仕方ない。彼は中村トウキさん。同じサークルの人」
無言で続きを促す、祥と佐野。
「えっと、その…しました。はい…」
「あれぇ? 斐美花さま、結婚するまでヴァージンでいるって宣言してませんでしたっけ?」
手を挙げてそんなことを言う佐野の目は、獲物を弄ぶ猫そのものだ。斐美花は萎んでいた声をますます小さくして、搾り出すように言った。
「だから、その…後ろで…。そうじゃなかったら、胸とか、太腿で挟んだりして…」
目的の情報を見事聞き出し、佐野は快哉を叫んだ。
「やーん、斐美花さまったら大胆っ」
対照的に、祥は聞いてはいけないことを聞いてしまったような顔をしている。
「さっちゃん、どした?」
「いや、その…こんな美しい人が痔持ちだなんて…」
だが、佐野は得意げにニヤリと微笑み、指を立てた。
「ああ、その点は大丈夫。女だけの秘密の園を甘く見るでないぞ。拡張から開発まで、先輩から後輩へと受け継がれた熟練の技でだね…」
それを最後まで聞くことに耐えられなくなった斐美花は、大粒の涙をポロポロとこぼし、
「うわーん、あんまりだーっ」
と、泣きながら祥たちの席から逃げていった。その後姿を見送りながら、祥は呟いた。
「…うわぁ、ヒデェ」
それから、佐野のほうに視線を戻す。
「しっかし…。あそこってお嬢様学校かと思いきや、そんなこと…」
佐野は、何を仰いますやらとカラカラ笑った。
「はっはーっ。ミッション系とかって清純ぶって見せたってさぁ、閉鎖空間なんだもん、そんなもんよ。そうじゃなければ、私みたいなエロ本描きが存在できるわけ無いじゃん」
それを聞いて祥は苦しげに呻いた。
「誰か、この子を止めろ…」
5−
「随分盛り上がっていたようだけど、どうでした?」
トウキは何となく不機嫌だった。と、いうより単純に拗ねていた。斐美花は、先程の涙はどこへやら、小さく舌を出して笑った。
「ゴメン。前の学校の子で、昔話に花が咲いちゃったんです」
「そう…」
いともあっさり誤魔化されてしまうトウキ。いつもこんな感じである。
斐美花が席につくと、トウキは呼び出しブザーを鳴らした。ウェイトレスが来ると、コーヒー二つとケーキ一つを注文する。それから、主にレンタルDVDで見た映画の話をちらほらと始める。とりあえず共通の話題が欲しい斐美花がプレイヤーをトウキの部屋に持ち込んで半ば無理矢理に上映会を始めたもので、五月辺りから隙を見ては行なわれている。発端はトウキが、
「チェンソーといえば『死霊のはらわた』だよね」
と、言ってしまったことで、その事実誤認を正すために斐美花が『死霊のはらわた』と『死霊のはらわた2』を借りてきて一度に見せたのが記念すべき第一回上映会である。確かに、チェーンソーは『2』にのみ登場するものであり、主人公がチェーンソーを右手にくくりつけ戦いに向かうシーンは無闇に血圧が上がる名シーンではあったのだが、それを熱烈に講釈されても困ってしまう。しかも、なまじCGとかがないだけに、この映画は相当怖かった。それからはポール・バーホーベン大会やジョン・カーペンター大会が続き、現在に至っている。外界と隔絶された寮に居たはずの斐美花がこれらの映画を知り得たのは、夏休みに帰宅した際に、父親と一緒に見てしまったからだ。
このような、店の雰囲気とは裏腹の可愛くない話題が続いたところで注文の品がやってきて、飲食中に相応しくサークルの話題になった。アンナもアビーも休みに入ってすぐに帰郷したので、主に土産物への期待をあれこれと語るが、二言三言も出ないうちにトウキが首をかしげた。
「お土産買ってくるって言ってましたから、楽しみですね。でも、スウェーデンとオランダの名物って、なんなんだろう…?」
「ムンク美術館と、ポルダー?」
と、斐美花。
「名物は名物だけど、土産にはなりませんよ…」
トウキにそう言われ、斐美花は考える。
「オランダはお花、でしょうか」
「お家騒動じゃないかな?」
と、トウキは又聞きで意味も判らず言ってみたが、見事に外してしまったようで、斐美花は首を傾げている。ここはとりあえず、適当に誤魔化すことにした。
「うーむ。オランダならまだしも、スウェーデンとなると、よく判らないですよね…」
少し間をおいて、斐美花が言う。
「ポップスだ。侑希姉ぇが好きでよく聞いてましたよ」
だが、トウキはつれなかった。
「CDは日本でも買えますよ。一昔前のゲーセンにあった、バタバタ跳ねるゲームでも聞けたしね」
結局、アンナもアビーも揃ってドバイで買ったベルギーチョコレートを持ってきたのだが、それはまた先の話である。
こうして、取り留めの無いお喋りとともにケーキが無くなり、コーヒーを一回おかわりしてお開きになった。祥と佐野はまだまだ粘る気配だったので、気付かれないようにコッソリと店を出た。
それからトウキは斐美花の手を引いて公園広場までの道を歩く。学校帰りなどはいつもこんな感じで、特に何か買ったり食べたりするわけではない。本当に、ただ歩くだけ。もちろん、トウキとしては美人と一緒に居られて充分に楽しい。だが、喫茶店に入ってもそれほど共通の話題があるわけでもないので会話もそれほどかみ合うこともなく、トウキは時々、一介の貧乏学生とはそもそも住む世界が違うといっても良い斐美花が、自分と付き合っていて楽しいのだろうかと考えてしまうことがある。夜に部屋へ忍んでくる位だからトウキのことを気に入ってはいるのだろうが、どこが自分のどこが良いのかは未だに訊けないでいるのだった。
(そういや、もともとは"予行練習"ということじゃなかったか…?)
少し前の新歓祭のことを思い出すと、背筋が寒くなる。しかも彼女との肉体関係を回想すると、それが俄然現実味を帯びてくるのが嫌だ。予行演習となると本命が別にいると考える方が自然だからだ。だからといって、今の関係を終わらせるリスクを犯してまで真実を追究する気にもなれなかった。
(これって流されてるだけか!? オレ、凄いダメかもしれない…)
そんなトウキの悩みをよそに、歩みを進めるごとに周りがどんどん騒がしくなっていく。見ると、噴水広場で何か起こっているらしく野次馬を決め込む者と早く逃げ出したい者とが入り乱れ混乱が起きている。いつの間にか人の流れに押し出されてしまったトウキたちは騒ぎの中心を目の前にすることができた。
まず、噴水の中にはアクアダッシャーが立っている。陸では何もできないコイツはまだ良いとして、そのすぐ側ではマンビーフが警官隊と対峙していた。
「町を騒がす不貞の輩め! 今日こそ警察の力を見せてやるぜ」
陣頭で指揮を取っているのは京本部長刑事だ。マンビーフは相手を舐めきった様子で、薄笑いを浮かべていた。
「ふふふ…お主らごときに何ができるというのだ」
すると、京本のが右手を振り上げる。それを合図に、隊列の影にいた警官が数人、隠し持っていたソフトボール大の球体をマンビーフに投げつけた。それは過たず全弾命中、ボールが破れその中身がマンビーフの体にこびりついた。たちまち、あたりにごま油と醤油の濃厚な匂いが漂う。警官が投げたのは、防犯カラーボールの中身を焼肉のタレにした物だった。
「ぐ…ぐおおっ、拙者の高級感が…霜降肉の繊細な味と香りが、消えて、いく…ッ。ブッ…ブモー…」
もがき苦しむマンビーフ。勢いづいた京本が更なる指示を飛ばす。
「総員、武器をとれ!」
警官たちは懐から銀色に光る鈍器のようなものを取り出す。遠目に見ていたトウキは息を呑んだ。それは主婦の味方、肉叩き。その名の通り、安くて硬い肉を叩いて柔らかくするためのハンマーだ。今回はいつものように警棒で袋叩きにするのではなく、これでトドメを刺そうというのだ。
(おおっ。あれを高級霜降黒毛和牛に行使しようとは、なんという台無しッぷり! っていうか、高級霜降黒毛和牛を叩いたらどうなっちまうんだ…クソッ、想像もできねぇッ!!)
自分の考えが及ばない領域の思考実験に失敗し頭を振るトウキ。隣にいた斐美花は思わず口元を手で覆い、呻くように呟いていた。
「うわぁ、勿体無い。…ベロベロになっちゃうよね」
(ああ、なるほど。そうなるよな)
思考実験の答えを聞かされ、トウキは一人頷いた。
それはさておき、警官たちは一斉にマンビーフの周りに展開し、肉叩きを構える。まさに、マンビーフは最後のときを迎えようとしているかに見えた。だが、警官隊は大きなミスを犯していた。噴水の中で呆けたように水中銃を構えているアクアダッシャーは、今までの彼ではなかったのである。
アクアダッシャーは水中銃を放り出すと両腕を突き出し、手で水鉄砲の形を作った。
「いくもーん。アクア大水流ー」
何とも気の抜けた掛け声と共に、アクアダッシャーの指の間から勢い良く水が噴き出した。水流はちょっとした散水車ほどの圧力で後ろを向けていた警官たちに襲い掛かった。悲鳴が幾つか交錯し、何人かが倒れ伏す。
「大変!」
斐美花は予想外の惨状に息を呑んだ。野次馬は一転して我先にと逃げ惑い、斐美花は人の流れに飲まれそうになって隣に居るトウキを見やった。だが、いつの間にかトウキの姿は消えていた。
「あれ。どこいった…?」
トウキは近場の店屋のトイレに隠れると、服を脱いだ。そして洋式便器の蓋の上に置いていた忍装束に着替える。髪をぐしゃぐしゃと逆立て、フェイスマスクをつけると…そこに居たのは中村トウキではなく、忍者・斬月侠だった。斬月侠は窓を開け放つと、三階だと言うのに構わず空中に躍り出た。
ときに、彼は服や刀をどうやって持参していたのか。
大蝦蟇変化や分身などの忍術を使いこなす男に、そんな些細なことを訊くのは野暮というモノである。
(デートの途中だけど、仕方ない。斐美花さんのことだから飛び出していきかねないからなぁ。ここは、斬月侠の出番だ)
声に出さないで呟くと、
「とおっ!」
掛け声も勇ましく宙に舞った斬月侠はわざわざ一回転してから、アクアダッシャーに飛び蹴りを放った。
「もーん!」
脳天に凄まじい衝撃を受け、アクアダッシャーは奇妙な叫び声とともにもんどりうって池に沈んだ。斬月侠は動かなくなったアクアダッシャーの上で腕組みをして、マンビーフに鋭い眼光をぶつけた。焼肉のタレの影響で半ば動物並みの知能に退化していたマンビーフは一瞬怯んだが、すぐに石畳を蹴って斬月侠に踊りかかった。
「ぶもーぶもー!」
(コイツに"マヤカシ"は効かないんだったな。…ならばっ)
斬月侠はスピードと体術で巧みにそれをかわす。そして、警官が落とした肉叩きを三本ほど拾い上げ、池に突っ伏していたマンビーフの背中めがけて次々に投擲した。
「ぶ…っぶもーぶもー!」
それは過たず全て命中し、マンビーフは悲痛な叫びを上げて身をよじらせた。タイツに仕込まれた牛肉由来成分の強化筋組織には穴でも開いたように不自然なへこみができている。辺りに響く獣の悲鳴に斬月侠も思わず眉を顰めた。
(うえっ。まさか肉叩きなんかが、こんなに効くなんてな。動物虐待みたいで気が引けるけど、仕方ない)
斬月侠は肉叩きを両手に構え、マンビーフに跳びかかった。
「はぁーッ!!」
気合を込め、肉叩きを巨体めがけて振り下ろす。だが、マンビーフの脇を掠め噴き出してきた水流が二条、斬月侠の手から得物を弾き飛ばした。
(しまった。アクアダッシャーを忘れてた)
自らの失策を悔やむ間もなく、斬月侠は先程より太く勢いのある水流の直撃を受けてしまった。
「うわっ!」
水圧に押された斬月侠は野次馬たちに突っ込んでしまう。だが、寸でのところで身に覚えの無い制動がかかる。
(おおっと、止まった…。でも、どうして?)
傷害事件の片棒を担ぐ事態は避けられたが、どう考えても第三者の介入なだけに、これはこれで不安を煽る。斬月侠がコッソリと周囲を窺うと隣で斐美花が微笑を浮かべていた。
「手伝いましょうか?」
その頬が心なしか高潮して見えるのは気のせいだろうか。斬月侠は、というよりトウキは内心穏やかではない。
(えーと。それはどう解釈するべきなんでしょう、斐美花さん?)
だが、クールな忍者として売り出し中の斬月侠としては、ここは眉一つ動かさず答えねばならない。
「それには及ばん」
つっぱねられた斐美花の表情が曇ったのは気にかかるが、まずは目の前のタイツ男を黙らせなければならない。斬月侠は大きく足を踏み出した。すると、それを待っていたのかアクアダッシャーが仁王立ちで斬月侠を見据えた。
「あはは…さすがのー忍者もー僕のー新必殺技ー"アクア大水流"のー敵ではーないみたいだねー」
「ほう。アクア大水流だと?」
調子に乗せれば技の秘密を喋ってくれるだろうと踏んだ斬月侠だったが、それは見事的中した。
「僕のースーツはー水を吸い上げてー放出ーできるんだー。僕のー天才的なー頭脳はーそれをー攻撃にー使うことをー思いついたんだー」
そう言うと同時に、体の各所からチョロチョロとホースの先から流したように水が噴きあがった。噴出し口が指先に限定されていないのは、水中での推進・姿勢制御装置としての使い方が本来の用途だからだろう。
(あぶねぇあぶねぇ。てっきり、指先からしか出ないと思ってたもんなぁ。知らないままだったら、とんでもない不意討ちを食らってたかも…。
それにしても得意げだよな。この分だと、技の弱点には気付いていないな)
斬月侠の推論は正しかった。その証拠に、アクアダッシャーはこれ見よがしに胸を張ると、高らかに、こう宣言した。
「ふふふー。これでーお前もー終わりだぞー! くたばれーっ!」
アクアダッシャーはわざと大きな音をたてて掌を合わせると、指を組み人差し指を構えた。
「アクア大水流ー!」
だが、何も起こらなかった。
「あれー? どうした、おい」
慌てるアクアダッシャーだったが、水は全くでなかった。標的のはずの斬月侠は苦笑を浮かべていた。
「足元をよく見るんだな」
言われて初めて、アクアダッシャーは池の水が無くなっていることに気付いた。
「な、なんだってー! 水がー無いよー。お前一体ーどんなー忍法をー使ったんだー!?」
「どんなも何も、お前が一生懸命に水を外へ撒き散らすからだろう」
海や川ならともかく、アクアダッシャーが浸かっていたのは街中の小さな池だ。噴水から無限に水が湧き出しているように見えるが、実際には池の水をポンプ循環させているのだから、水は補充しない限り減る一方である。人を転ばせるくらい強い圧力で放水するにはそれなりの水量を必要とするので、これは当然の結末だ。
斬月侠は肩をすくめ、警官隊を見やった。
「さて、と。ここに"陸に上がった河童"が出来上がったわけだが…」
すると、体勢を立て直していた警官たちから殺気が湧き上がった。先頭に立つ京本は、その殺気に後押しされ鮫のように酷薄な笑みを浮かべていた。
「これから、おしおきターイムだな」
指揮官のその言葉を合図に、警官隊による鎮圧が始まった。肉叩きが飛び交い焼肉のタレの臭いが充満する凄惨な光景に耐えられなくなった野次馬が一人また一人と踵を返す中、斬月侠もまた喧騒に紛れるようにして姿を消した。
ちなみに。噴水のポンプが空回しで焼け付いていることには、タレの臭いのせいで誰も気付いていなかった。
「居なくなったこと、怒ってますよね?」
人が引いた通りから斐美花を見つけ出したトウキが、最初に口にした言葉がそれだった。夏休みに入るまでは何故か一緒に出かけるということが殆どなかったので、こういう状況は今回が初めてだ。それが緊張を煽る。
トウキは厳しい返事を覚悟していたが、斐美花の物言いは何ともあっさりしたものだった。
「あの人込みじゃあ、しょうがないですよ。中村さんは私みたいに超能力が使えるわけじゃないし」
そして、小さく微笑む。これでトウキは一気に不安になった。
(まさか、オレが斬月侠だってバレてるのか?)
斐美花は複数の能力を使うことができるので、何らかの手段でそれを知りえていても不思議ではない。思い返せば、四月の騒動で初めて斬月侠に出会ったとき、斐美花は躊躇いも無く手を握ってきた。自身の術への自信からトウキは招待がばれたとは考えなかったが、屋台で親密になった後の出来事だったというのは、今にして思えば気にかかる。
(オレも遂に、偉大な先輩達と同じ悩みを抱えることになったってワケか…)
トウキの脳裏に、クモやコウモリなどの様々なヒーローたちの姿が現れては消えた。ここは先達の知恵を借り、彼らの伝記や記録を思いおこしてみるのが良さそうだ。そんな風にトウキが思考をめぐらせているのを知ってか知らずか、斐美花は頬をヨダレが垂れるのではないかというくらい緩めて呟いた。
「それにしても…。斬月侠さん、素敵よね…あの眼差しがミステリアスでたまらない感じ」
斬月侠とて忍者なのだから正体不明な雰囲気があって当たり前ではある。もっともトウキにはそんなツッコミを入れる余裕など無くなったのだが。
(そういう展開かよ!)
うろたえるトウキを他所に、斐美花の眼差しはどんどん夢色に染まっていく。
「それに、あの逞しさ…。あ、中村さんも脱いだら凄いですよね、意外と」
内容はともかくとして、少し前と比べれば随分と感情表現や言葉が豊かになったものである。目の前の現実はひとまず棚上げして、そんなことにトウキは感心した。感心するままにポーッと眺めていると、斐美花はこんなことを言った。
「ホント、どこの誰なんだろう…。電話番号教えておけば良かったかも…きゃっ」
それから、自分の言葉で赤面する斐美花。
(何を言い出すんだ、この人は…)
トウキは言葉を失ったが、お蔭で多少は落ち着きを取り戻せた。そして、考える。
(冷静に考えよう。こういう場合、結論を先延ばしにすべきじゃあないんだ。幾多の悲劇は、結果の順延によってもたらされてきたのだから…)
冷静に考えた結果なされたトウキの発言は、決して冷静なものではなかった。
「じゃあさ、今までのは何だったの。斐美花さんは、オレと忍者、どっちが好きなわけ?」
あまりといえばあまりな質問をぶつけられた斐美花だったが、しかし返答には二秒とかからなかった。しかも、キッパリと彼女は言い切った。
「どっちも好きです」
「斐美お姉ちゃんが幼稚園の頃の話ですけど…」
トウキは、斐美花との付き合いが始まってすぐの頃、とりあえず情報収集をしようと璃音に色々と聞かせてもらっていた。
今、その記憶が甦った。
「…男の子の友達をニ人、家に連れてきたんだそうです。それでお父さんがふざけて、『斐美花は誰が好きなのかな?』って訊いたら…」
黙って聴いていたトウキに、璃音は真剣な眼差しで続きを聞かせた。
「斐美お姉ちゃん、『どっちも好き』って即答したんだって。
…そんなことがあって、お父さんは斐美お姉ちゃんも晴間学院に入れることに決めたんだって言ってました」
「そんなの子供の言うことじゃないか」
と、その時のトウキは笑ったものだが、そうも言っていられなくなったようだ。
このままでは、マズイ。
6−
七月二十八日。水曜日とはいえ、イスタンブールの夜は賑やかだった。
この街はボスポラス海峡を挟んでアジアサイドとヨーロッパサイドに二分されているが、藤宮侑希音が向かったのはヨーロッパサイド、別名を旧市街と呼ばれる区画だ。
文字通りにアジアとヨーロッパの架け橋として賑わってきただけあって、街並みは雑多な賑やさに包まれ住む人々の陽気さを映し出している。料理が美味い国という評判を裏付けるように飲食店からはケバプの匂いが漂い、陳列された色鮮やかなスウィーツが目を引く。だが、そういう場所であっても道路脇の側溝がいきなり下水道だったりするところが、この街の数少ない難点である。
世界中の様々な街を行き来する侑希音だが、ここは好きな場所のひとつだ。本当ならゆっくり休んで仕事の疲れをとりたいところだったが、その仕事がらみのある人物に会うべく、侑希音は裏路地にある観光客が殆ど近づかない酒場へと入った。
ドアを開ける。一際大きい背中の持ち主なので、目当ての人物はすぐ目に入った。カウンター席で一人で飲んでいる大男がそれだ。店はそれなりに混みあっていたが、男の左右は開いている。確かに、おいそれと近寄ろうとは思えないガタイの良さである。それなのに後ろで束ねた長髪がしょぼくれた犬の尻尾に見えて侑希音は思わず苦笑してしまったが、慌てて表情を引き締め、その男の隣に座った。
「よう」
軽く手を振ってやると、ミロスラフ夏藤は仏頂面で出迎えてくれた。侑希音はとりあえず、挨拶代わりに一言。
「良い店だな。よく来るのか?」
お世辞ではない。広い店ではないが調度品など適度に洒落ていて、照明も工夫され雰囲気が良い。壁には地元サッカーチームのものと思われる旗が掲げられており、秋からは週末になると大いに賑わうのだろう。
ミロは特に表情を変えず答えた。
「ダチの爺さんがやってる店でな。近くに来た時には顔を出して、そいつの話をしてやるのさ」
カウンターの奥で、背の高い老人がひとりで仕事をしていた。
ミロは日系ドイツ人である。どんな過程を経て傭兵稼業をするに至ったかを侑希音は知らないが、早くに親を亡くしたことと育ちがドルトムントであることは聞いていた。ドイツはトルコ移民が多いので、その友人との接点はそこであっただろうことは想像できる。
ミロはそれっきり口を利かなかったのでダンマリを決め込んだかと思われたが、
「で? 何しに来た」
と、ぶっきら棒に訊いてきた。不機嫌さを隠しもしていなかったが、話す気があるだけマシである。侑希音はビールを頼んでから、ミロの横顔に話しかけた。
「イスマエルの遺留品だけどな」
侑希音は懐から小さなビニール袋を出して見せた。中には割れたガラス管が入っている。
「詳細は不明だが、内容物は魔力を増幅するための触媒だったと考えられる。ロンドンでもバビロンでも該当する物質は無かったけど、いずれにせよ、これは魔術を生業とする者でなければ作り得ないことは確かだ」
「そりゃそうだ」
頷くミロ。イスマエルが実際に魔術を行使できていたのだから、そういうことになるだろう。
「それで、誰が野郎を復活させたんだ?」
それには、侑希音は首を振った。
「魔術師はサイボーグ手術なんてしないからな。する意味が無いといった方が適切か。だからつまり、ヤツを再生させたのは誰だか判らない。これからロンドンが調査活動を始めるだろうけど、標的は超技術を掌握している組織や個人になるだろうね」
そういう事ならミロにもいくつか心当たりがあるが、それらが侑希音が思い浮かべているモノと概ね共通していることは訊くまでもなく判る。
「厄介なことになりそうだな」
そう呟いて、ミロはジョッキを煽る。相変わらずの仏頂面だったが、初めて真っ直ぐに侑希音の顔を見ると、ミロは重い声で言った。
「それからな、ミスはミスで重く受け止めている。お前には関係ない」
先日のことを言っているは明白だったので、侑希音は頷いた。
「ああ、あれか…。騙したみたいで悪いとは思ってるよ」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、何が気に食わないのさ」
侑希音が肩をすくめると、ミロは語気を荒げた。
「決まってんじゃねぇか。もしもイスマエルの野郎が来なかったら、お前とやりあってたってことがだよ」
だが、侑希音は事も無げに返す。
「ま、そうなるね」
「そうなるね、じゃないだろ。何でそんな仕事を請けたんだ!」
ミロの仏頂面がますますエスカレートするので、侑希音も次第にイライラして来た。眉を顰めて、いつのまにか目の前に置いてあったジョッキに口をつけてから言った。
「ワケ判らんな。どうしてそんなに不機嫌なんだよ…。いざとなったら買い取りオプションを含めた交渉の準備もあったっていうのにさ」
その言葉に、ミロはカウンターに拳を打ちつけた。
「おい。そりゃちょっと、なめてんじゃねぇのか!」
それで動じる侑希音ではないが、周りを見渡して何でもないことを小さな笑みで伝えてから、ミロに向き合う。
「今度は怒るのか。忙しいヤツだなぁ。
あのねぇ。私が引き受けなかったら、ヘカテ師が直々に行くおつもりだったんだぞ。感謝こそすれ、非難される筋合いなんて無いと思うんだが」
ヘカテとは魔女の祖と呼ばれている存在で、バビロンにおける巨頭の一人である。本当に数千年の永生者なのかはともかくとして、恐ろしいまでの力の持ち主である。
「ハッキリ言って、私なんて彼女の足元にも及ばないからね。間違いなく、皆死んでたよ」
ミロは先程までの怒りはどこへやら、大きな身体を目一杯小さくして項垂れた。
「う…、そうか」
「まあ、あれがそこまでするほどのものかって言われれば、そうでもない気もするんだけどな。確かにオリジナルに近いイデアクリスタルは貴重といえば貴重だけど、イミテーションでも充分機能は再現されているし。ってか、元と寸分違わぬコピーが作れる以上、オリジナルの存在意義ってのは希薄なんだよな、この業界。
だから多分、誰かの遺品か思い出の品か、そのどっちかだと思うけど、ヘカテ師が何も言いたがらないから訊いてないんだ。
…って、おーい。聞いてないのかよ。さっきは食ってかかってきたと思ったら、今度は落ち込むのか…。まさか、私に慰めろってか?」
ミロの背中が丸まったままなので、侑希音は半ば呆れ顔だ。するとミロは力なく呟いた。
「いや、それはいい…。なんか、色々な意味で再起不能にされそうだから…」
目を丸くする侑希音。
「されそうって、なんだよ」
ミロは真顔で答えた。
「オレは、苛められて喜ぶ趣味は無いの」
予想外の答えに、侑希音は眉を顰めた。
「何言ってんだ…。私って、そういう風に見えるのか?」
「そりゃまあ。この間の振る舞いを見るまでもなく、女王様ムードがモワモワと」
侑希音は思わず身を乗り出してしまう。
「そ、そうかな…」
「『踏んでください』とか、よく言われるだろ」
ミロが口の端を歪めて言うと、侑希音は本気で驚いた。
「なっ!? 何で判った?」
「…そういうリアクションだと、逆に返答に困るな」
からかってやろうかと思っていたミロだったが、思いがけない反応が返ってきて、こちらも驚いてしまう。侑希音はというと、今度は考えこんでしまっていた。
「うーん…。私、そういうのは好きじゃないんだけどな…」
ミロは内心呟いた。
(う。なんか変な風向きになってきたぞ…)
勿論、ミロの心中など知るはずもなく、侑希音は真剣な面持ちで呟く。
「やっぱ私って、そういうのが求められてるのかな? どうにもね、長続きしないもんだからさ…」
そう言って、ジョッキを一気に煽る。今までとは逆にその横顔を眺めながら、ミロは過去の記憶を掘り起こした。
侑希音は文句なしの美貌を誇るだけあり、男関係はそれなりに派手だった。会うたびに違う男と一緒だった印象を持っていたが、それは単に個々とは長続きしなかったというだけのことだったということになる。
「どっちかっていえば、女の子の方によく好かれる気がするしな…。それはそれで、嫌いじゃあないが」
そして、侑希音は新しいジョッキを一気に空にした。それから言葉が続かなくなってしまったので、今度はミロが口を開く。
「ま、性格的なものはあるだろうな。少なくとも、表に出ているお前の顔は怖いもの無しの強気な姐御ってなもんだし。…能力に見合った性格だとは思うけどよ」
侑希音はガックリと肩を落とす。
「ああ、そういうもんかなぁ…。そういえば、人に頼られてばっかりだ」
「実際、頼りにはなるぞ」
ミロはフォローのつもりで言ってみたが、効果は無かった。
「こうして、性格の不一致が起こるわけだ。何? それって、私の性格が悪いって事?」
自身の物言いに勝手に腹を立て、侑希音は眉を吊りあげた。八つ当たりされる前にと、ミロは首を振ってから言った。
「そうは思わん。お前はサッパリしてて話やすいし、それに時々奇矯な振る舞いをするのも嫌いじゃあない」
すると、侑希音はケラケラと笑いだした。
「なんだよーそれー。口説いてるつもりか?」
「違う。どういうわけか知らんが、お前相手にはそんな気にならん」
ミロは仏頂面を作ったが、コロコロと表情が変わる侑希音を見ていると、そんな気が起きるような気がしないこともなかった。侑希音は、今度は興味深げにミロの顔を覗き込んでくる。
「へぇ。じゃあ、よりが戻りそうなのか?」
ミロには離婚歴がある。侑希音は今の話の流れから復縁話があるのかと勘繰ったが、ミロは大きく首を振った。
「うんにゃ、そりゃ無理だ。お互い、住む世界が違いすぎたんだよ。若い頃は何とかなると思ったんだけどなぁ」
それを聞いて、侑希音は笑った。
「はは。若い頃って、何かと無謀だったよね」
「おい。十歳近く年下のお前に言われたくは無いぞ」
憮然とするミロ。それに侑希音も反撃する。
「近くじゃなくて、ちょっきり十歳だ」
「揚げ足取りはいい」
ミロは口を尖らせた。それをなだめるように、侑希音は小さく笑った。
「じゃあさ、私のやらかした話もしとかないとフェアじゃないな」
侑希音の頬が心なしか赤い。
(ジョッキ二本くらいで酔うタマじゃあないはずだが…。こりゃ、どっかで飲んでから来たんだな)
多少ズルイ気がしたが、滅多に無い機会ではある。
「フェアとかそういうことじゃないと思うが、興味はあるぞ」
ミロが促すと、侑希音の話が始まった。
「私にも初恋というものはあったんだよ。…おい、笑うな。笑い事じゃないんだから。
あれは七つの時だったかね。
ウチはいわゆる旧家だから長い付き合いの医者がいるんだけど、そこの跡取りのお兄さんが優しくてね。しかも、結構良い男だったんだ。
でも、ロリコンでね。そりゃもう、重度の。今、小児科医をやっているのはまさに趣味と実益を兼ねてるってほどさ。まあ、なんかされたってワケじゃないんだけどさ、胸が出てきたら途端に薄情になりやがって、それで終わり」
「…コメントに困るな」
呻くミロに構わず話は続く。
「それでだ、次は十三歳の夏休みだ。家に帰ったらね、ちょっと年上のそれはそれは美しい顔立ちのお兄さんがいるわけよ。もう、一発で惚れたね」
それが蛍太郎のことなのはミロにもすぐに判った。
「でもさ。遠目に見てると、下の妹と仲良くしてるわけよ。妹は当時五歳だったから、どういうことかと思ったね。それで、妹に詰め寄ってケンカ売った。相手は当時五歳だよ。私は何でもできたけど、この頃は魔術なんて知らなかったからね。…三秒でOKされちゃった」
笑えない話なので、ミロは頷くだけにした。
「でも、これはこれで良かったんだ。粋がってる頃だったしね。こうして、少女は初めて挫折を知ったんだな。
…で、これからが本題」
「前置き長いな」
「傷心の少女は、それまでよりちょっとだけ、他人様の話を聞けるようになったんだ。すると不思議なもんで、それまで鬱陶しかった人が有難く思えてきたわけ。
その人は学校の先生なんだけど、父さんの古くからの友人で、私の事を頼まれてたみたい。というか、その先生が居るから、私をその学校に入れたんだ。母親の強い意向もあったんだけどね」
ミロは頷いてから、ハッと目線を上げる。
「まさかとは思うが…」
「てへ。そのまさかさ。実際にそんな仲になったのは高等部に上がってからだね。その先生から魔術の基礎を習い始めたあたりだ」
「ほう、日本の学校は魔術なんて教えてるのか?」
真顔で訊くミロ。侑希音は小さく笑って首を振った。
「いや、個人的にだよ。私にそういう素養があることを知って、特別に個人の蔵書を貸してくれたんだ。
まあ、なんというか珍しく一生懸命だったね。先生にいいところ見せたくてさ。先生は先生で、『ようやく可愛げが出てきた』とか言ってたっけ。それで、気がついたら自然とね。
でも、脳天気に『卒業したら結婚する』なんて夢見てた私と違って、先生はメチャクチャ悩んでたんだよね。先生と生徒ってだけじゃなく、孫って言っても通じるくらい歳が離れてるわけだし、父さんとのこともあるからね。私ってば、そんなことも考えないで、随分迷惑かけちゃったな。
それで結局、卒業式を境に発展的解消というか、元の関係に戻ったというか…。今でも良い付き合いをさせてもらってるんだよ。上の妹の面倒も見てくれてね。関係が破綻した末でのお別れじゃなかったのは先生の気遣いのお蔭だし、感謝してる。…当時は、めちゃくちゃ泣いたけどな」
そして侑希音は、ロックのウィスキーを舐めた。珍しくしんみりした侑希音の横顔を眺めながら、ミロは言葉を返した。ただし、真面目に返すのも照れくさいのでネタ方面に走ることにする。
「つまり、今までの話から導き出される結論は、こうだな。…お前は、面食いで年上好きだ」
「…うーわ、ショック。茶化された」
眉を吊り上げた侑希音だったが、すぐに感心したように頷いた。
「でもそれ、当たってるな。初めて気付いたかもしれない」
「マジか」
目を丸くするミロ。侑希音はもう一度頷く。
「なんていうか、どんなだと長続きするのか今まで模索してた感じ?」
「うーむ。まあ、自分のことは自分では判らなかったりするしな。もしくは、認めたくない何かがあるとか…」
ミロがしたり顔で語るので、侑希音は笑いだした。
「はは。いつからカウンセラーになったんだ、お前は。似合わねー」
笑われたミロは妙に真剣な顔をする。
「うるさいよ。さっきはふざけ過ぎたと思って、真面目に話を聞いてやってるだけだろ」
侑希音は悪かったと思って、小さく手を合わせる。
「はは。そうだな、ゴメン。
ところでさ、今までの話を振り返ると、何だかファザコンの気があるみたいだな、私」
「ああ。…そういや、子供の頃から寮に入ってて、親父さんと離れて暮らしてたんだろ。それなら、ありえるんじゃあないか?」
ミロの言葉に、侑希音は真剣な面持ちで考え込んだ。
「そうかな…」
「でもさ。大事な娘を何でさっさと手放したんだろ? 遅くにできた娘だと、いつまでも手元に置いときたがりそうなもんだが…」
とりあえず、ミロは一般論を挙げてみる。すると、侑希音の顔がいっぺんに曇った。
「そりゃあれだ。私の顔が母親によく似てるからだよ。最後の子を産んですぐ、胡散臭い男と逃げて事故って死んだ、ね。だから、あんな学校に入れたんだ。悪い虫がつかないようにな。
…そりゃ、先生が悩むのも当然だな。つくづく、酷いことしてなぁって思うよ」
思わずミロは声を詰まらせた。
「う…。なんと言ったらいいのか…」
悲痛な眼差しになったミロを見て、侑希音は眉根を緩めた。だがいずれ、このままではお互い何も言えなくなりそうなので、話題を切り替えることにする。
「困ったか。スマン。じゃあさ、お前の話も聞いてやろうじゃないか。家賃まけろ、以外でね」
先手を打たれ、ミロは口を尖らせた。
「一番言いたかったことは、速攻除外かよ。
そうだな…。もしかしたら気のせいかもしれないんだが、オレの部屋の向かいの隣に住んでいる、あの亀田先生な。オレに気があるんだよ」
「…気のせいだろ」
実にあっさりと切って捨てられ、ミロは大きな身振りで言い返した。
「だってよ、ふと目が合ったときに慌てて逸らされると、なんか思わせぶりな気がするだろ」
そう言われると、そんな気もしてくる侑希音。
「まあ、わからんでもないが…。
でもさ、お前さっき離婚の原因を『住む世界が違い過ぎたから』って言ってただろ。傭兵と学校の先生じゃ、前とあまり変わらないぞ」
もっともな指摘に、ミロは首を捻った。
「問題はそれなんだよ…」
「お前さ、いっそ引退すれば? 金は持ってるんだろ」
侑希音が事も無げに言うので、ミロはまた口を尖らせた。
「今更、他の仕事ができるかよ」
その言葉に、侑希音も口元を引きつらせた。
「うーん。それを言われると、私も弱いなぁ」
そして、少し考えてから続けた。
「まあ、解決策は二つしかないな。観念して傭兵稼業を辞めるか、しっかり断るか」
ミロは困ったという風に、頭を掻く。
「断るって言われても…」
何も始まってもいないのに、それは無理があるだろう。そういうわけで、侑希音が提案したのは極めて古典的な手段だった。
「嘘でも、彼女がいるとか言えばいいだろ。お前は世界中ウロウロしてるんだし、日本国外にいることにしときゃあ裏も取られにくいだろ」
それを聞いたミロは、顎に手を当ててしばらく考え込んでいた。
7−
七月三十日、早朝。
ドクターブラーボ秘密基地は久しぶりに賑やかだった。
「ブラーボ様。どういう気まぐれで、またサイボーグボディなんか必要なんです?」
サイボーグ用メンテナンスベッドの脇で、計器を順繰りに見ながらメタルカが聞くと、そのベッドに横たわっていた四十代後半ほどの男は何かを確認するようにモゴモゴと口を動かし、ゆっくりと話しだした。その声はドクターブラーボのものだ。
「今日は、古い友人の命日なんじゃよ。まあ、最近まで知らなかったわけじゃが…。そういうわけで、墓参りに行くことにしたんじゃ」
「それで、ですか」
「うむ。アイツとは五十年前に分かれて以来それっきりじゃからな。この顔じゃないと判らんと思うてのぅ。まあ、相手は死んでるから、単純にワシの感傷に過ぎんがな。
それに、こうしとけば顔見知りに出くわしても簡単にはバレんじゃろ。…って、まだちょっと、口の動きと音声が合ってない気がするぞ」
「はいはい。調整しますよー」
メタルカはベッド脇のコンピューターとブラーボの顔を交互に睨みながら作業を始めるが、その、よく禿げ上がって襟足だけがやたら長い頭髪が気になって仕方が無い。
「うーん。その頃を忠実再現するのは良いんですが、やっぱ髪の毛要らなくないですか?」
すると、ブラーボはやおら半身を起こして叫ぶ。
「なんてことを言うんじゃ! 髪の毛の話は十八歳以上男子には禁句じゃ!」
だが、メタルカは着々と作業をこなしながら淡々と言った。
「いえね、スキンヘッドにしちゃったほうがお洒落だし、似合うと思うんですよ」
「そうかのう…」
言ったそばから、メタルカは首をかしげているブラーボの頭皮を引っぺがしにかかった。
「おい、待て! まだいいとは…ッ」
朝食が済むと、璃音はパタパタと制服に着替えた。高校生の正装といえば、やはり制服である。ただ、夏服の白と薄紫は墓参に行くにしては少々鮮やか過ぎる感があるので、黒いサマーニットを羽織る。蛍太郎も黒いジャケットを手に提げていたが、それ以外は仕事に行く時と変わらない。藤宮斐という人物は形式に拘るところがなかったので殊更に礼服を持ち出すのはやめようと、以前に家族会議で決めていた。
「そういえば、侑希音さんはまだ帰ってないの? 斐美花ちゃんの姿も見ないし…」
心配気にしている蛍太郎に、璃音は事も無げに言った。
「今年は現地集合だよ。たぶんね」
璃音がそう言うなら、そうなのだろう。蛍太郎は頷いた。
今日、七月三十日は藤宮斐の一周忌である。そういう日だから自然と、この家の誰もがこの一年間を振り返らずにはいられなかった。特に、璃音にとっては結婚という大きなイベントがあったのだから尚更である。
この結婚は璃音と蛍太郎の深い愛情の賜物であることは確かな事実なのだが、高校在学中という微妙な時期を選んだのは既に病膏肓に入っていた父に花嫁衣裳を見せたいがためだった。
それに、斐は過去の経緯から娘たちの将来を案じていたので、三姉妹のうちせめて一人だけは、という思いが璃音にはあった。父は常々、娘たちが母親を永遠に失うことになったのは自分のせいであると悔いていたからだ。
彼女たちの母親である美音子は璃音が生まれる二年ほど前から斐以外の男と関係を持っていた。だが、元来から人が良く特に身内を疑うことが無かった斐はそれに気付くどころか、変わらぬ愛情を四十歳離れた妻に注いでいた。
しかし美音子は違った。彼女の夫が当時七十歳を越えて病の兆しが見え隠れするようになっていたため、"その時"が来るのはもはや時間の問題だと考えていた。それに備えて、賢い侑希音を自身の母校であった寄宿学校へ入れることを斐に奨めてもいた。斐は妻を疑うことは無かったから、その学校に旧友がいることも手伝って侑希音を、そしてゆくゆくは斐美花も、晴間学院に入れることに同意した。
ところが、そうしているうちに彼女は夫との間に思いがけず一子を授かることになってしまう。それが璃音だ。斐は大いに喜んだが、その子の母親は違っていた。あと少しの辛抱、と思っていたところに新たな苦痛を強要され、彼女の精神は日を追うごとに追いつめられていった。医者に罹るわけにはいかないので故意に転倒するなどしてみるも、子が持っていた能力ゆえに効果は無く、数ヶ月後には未熟児ながらも無事に女の子が生まれた。斐は大変喜び、その子の母親から一字を貰い璃音と名付けた。
それから美音子は産後の肥立ちもそこそこに姿を眩ませた。それから最初に彼女の消息を藤宮家に伝えたのは警察であった。
弱っていた身体にさらなる追い討ちを受けた斐は、侑希音を予定通りに晴間学院にやった。自身は療養が必要だったし、娘たちは環境を変えさせるべきだと考えたからだ。
斐美花も就学年齢になると寮に入れたが、璃音だけは手元に置かざるを得なかった。パワーのコントロールを教える必要があったからだ。祖先の力も借り、璃音を幼稚園に入れるまでに育て上げた頃には斐の身体は幾分か持ち直していた。愛する娘が彼に力を与えたのである。
斐の友人、永森礼二の孫である永森蛍太郎が藤宮家を訪れたのは丁度その頃だった。この時期を境に疎遠だった侑希音と斐美花が折を見て屋敷を訪れるようになり、娘を手放したことを後悔し始めていた斐を大いに喜ばせることになった。それも手伝い、優秀な学生だった蛍太郎を気に入った斐は、かつて礼二と交わした約束を思い出すことになる。
「俺たちに子供が出来たら、許婚にしようじゃないか」
戯れではあったし何とも前時代的な話ではあるが、先の短い命である斐がそれにすがっても仕方の無いことだろう。もちろん、これに関しては誰も無理強いはしなかったが、自然と当人達は親密になっていった。もっとも、その組み合わせは全く予想の範囲外であったけれども。
璃音は当時幼かったから、蛍太郎を好きだといってもその気持がどんなものだったのか、よく覚えていない。同い年の子が仲の良い男の子を捕まえて結婚すると言い出すのは珍しくないことだったし、その影響があったことは否めないだろう。ただ思い返してみると、初めて蛍太郎に会った日にはずっと彼の顔ばかり見ていた気がする。程なく"食べ物をくれるお兄ちゃん"として蛍太郎を認識し懐くようになるが、そのきっかけは初恋と呼べるものであったらしい。そうでなければ、彼をめぐって姉とケンカしたりはしなかっただろう。
蛍太郎も、さすがに五歳の子供を恋愛の対象として見てはいなかった。良く懐くし食べ物をあげれば喜ぶので悪い気はしなかったが、それは妹が増えたような感覚で、やはり上の姉二人に興味が向くのが自然である。だが、祖父のした約束を盾に取るような真似も気が引けてしまい、結果的には、そのまま良い友達になってしまった。
それから数年して、例の約束が記憶から薄れるのと璃音が女らしく成長し始める年頃が丁度合致したのだが、これこそが、まさに運命の為せる業といったところだ。
「いつくらいだろうね。お父さんが結婚のこと言い出したのって」
璃音が顔を覗き込むように見上げると、蛍太郎は少し赤くなって目を逸らした。
「いつって言われれば、そりゃ最初っからだけどさ。そういうんじゃなかったら…大体、僕らが意識し始めた頃くらいじゃないのかなぁ」
「十歳くらいのとき?」
「いやいやいやいや、そんなに早いわけ無いだろっ」
蛍太郎は目一杯首を振って否定した。思い返せば、そのころの璃音は大人しくしていれば高校に上がりたてくらいには見えたし、今とは違って長く伸ばしていた髪が何とも美しかったのだが…などと、過去の視覚情報を海馬の奥から引っ張り出しながら、蛍太郎は次第に青ざめていく。それにトドメを指すように、璃音が言った。
「そういえば赤飯炊いてくれた日、お父さんに言われたよ。事実婚は許さんぞ、みたいな感じで」
なんたること。蛍太郎はガックリと頭を垂れた。
「…幾つだよ、それ。いや、いい。聞きたくない」
思いがけず自分を再発見してしまった夫の手を優しく握って、璃音は向日葵のような笑みで蛍太郎を見上げた。
「誰も、けーちゃんのことロリコンだなんて言ってないよ」
「…誰かが言ってるのか」
確かに、誰かが言ってなければ、そういう物言いにはならない。だが、璃音は悪戯っぽく笑うだけだ。
「これじゃあ、わたしと別れたら、もう二度と彼女できないかも。ふふ」
からかうつもりの一言だったが、予想外に蛍太郎には答えたようである。目を伏せて力なく呟いた。
「別れたら、なんて言わないでよ…」
(ああっ、可愛い…)
十一歳も年上の男にそういうものを感じるのはどうかと自分でも思っているが、蛍太郎が時折見せる捨てられた子犬のような眼差しに、璃音はいつも参ってしまう。持て余しそうな胸の高まりを抑えながら、璃音はゆっくりと目を閉じた。いつもならここらで、
「璃音ちゃんっ」
と、押し倒されるはずである。なにせ、ここは寝室ですぐ後ろにはベッドがある。だが、何も起こらなかった。璃音が薄目を開けて様子を窺うと、蛍太郎は困った顔をして立ち尽くしていた。
「…どした?」
幾らかの不満も混じった声で璃音が訊くと、蛍太郎は申し訳なさそうに答えた。
「えっとね…さすがに今日は自粛したいと思うんだけど…」
そう言われると、璃音は恥ずかしくなってしまって顔を真っ赤にして目を逸らした。
「…そだね」
在比高原に登る道の途中、町を見下ろす格好で建つ常山寺は古くから藤宮家の菩提寺である。
侑希音にとっては母校への通り道にあたるので馴染みが深いといえば深いのだが、こうして自分の父親のために手を合わせに来るなどということは去年の今頃までは想像もしていなかった。というよりも、考えないようにしていたといった方が正確だ。
時計の針は午前十時を回ったばかり。示し合わせた時間にはまだ早く、墓地には侑希音一人しか居ない。おりからの夏日で空には雲ひとつ無いが、湿気と熱で大気が澱んでいるのか微妙に濁った青色が頭上を覆っていた。風があるのでそれほど不快ではないものの、つい先日立ち寄ったイスタンブールの地中海性気候が恋しくなってしまう。
墓石が整然と並んで見通しが良いせいか、この寺の墓地は妙に広く感じられる。しばらく歩いた侑希音は、一番奥の、さほど大きく無い墓の前で足を止めた。悪目立ちをしては困るからと昔から藤宮家の墓は控えめで、何列か手前の市議会議員先生の家の物に比べれば、どちらが旧家の墓か判らないくらいだ。
酉野市に戻ってすぐにここに来たからというのもあるが、侑希音が手ぶらなのは早く来たことがバレると照れくさいからである。それに、父の墓を前にして自分がどんな顔をするのか想像できなかったので、事前に来て慣れてから、間をおいて妹たちと合流しようと考えていた。
侑希音は無言で手を合わせ、静かに瞑目した。
墓碑の側面には、真新しい文字で彼女の両親である藤宮斐と、藤宮美音子の名が刻まれていた。
侑希音が成人するまで秘密にしていたが、斐は美音子の遺骨をこの墓に納めていた。お骨の行き場が無かったこともあるが、なによりも、幸福だった過去と彼女が娘たちを産んでくれたという事実まで否定することなど、斐にはできなかったからだ。
彼女に限ったことではなく、人間は置かれた環境や他人との接触で良かれ悪しかれ変化してしまうものだ。そして、別れはどんな形であろうと必ずやって来る。斐は、もちろんかなりの時間を要したが、最後には妻を受け入れることにしたのだ。
だが、母親に捨てられた子としては複雑な心境である。侑希音は、今でこそ自分が寮に入れられたのは正解だったと言えるが、当時は父親にさえ捨てられたと感じたものだ。だが、あの時は距離をとっていなければお互いに傷つけあっていたかもしれない。なにせ、侑希音の顔は母親に良く似ているのだ。それに、大好きな父が騙され続けていたことが悲しいと同時に、あまりの人の良さが腹立たしくもあり、様々な感情が絡み合って自分も持て余してしまっていた。なにせ、この頃はまだ幼かったのだ。
おりしも当時は、暴走族の酉野紫が興り始めた頃だったのである。少なくとも山の中では悪い仲間ができるなどということは無い。晴間学院にいてさえ問題児ぶりを発揮していた自分が普通に町の学校に行っていれば、あれに関わることになった可能性は充分にあったかもしれない。そう考えると、予定通りに侑希音を晴間学院に入学させた父の判断は正しかったわけだ。
もっとも、そう思えるようになったのは璃音とケンカをして殴られてからである。あのときは、なにか憑き物が落ちたような気がしたのをよく覚えている。"人間に出来ること"は全てこなせてしまう能力を持っていた侑希音だが、単純に"人間以上"のパンチ力の前にはなす術も無かった。お蔭で、自分が大して強くないこと、そして璃音がずっと父の下に置かれていた理由がわかった。もちろん、五歳の子供だった璃音がそういう意図をもって行動したなどということはありえないから、父がそうなることを期待して、敢えて口を挟まなかったと考えるのが自然だ。ともあれ、侑希音が自分の家族とちゃんと話ができるようになったのは、それからである。
しかし、それでも侑希音は全てを許せるようになったわけではない。そもそも、若い彼女に老成した父と同じ境地に至れというのが無理な話だ。それに、彼の人生自体も特異である。斐は戦中戦後、血筋により備わっていた能力を使って世界各地を転戦したから、その経験が精神に影響を与えていて当然だ。多くの物を見て、多くの人に出会ったからこその境地なのだ。
侑希音が今の仕事をしているのは父親と似た立場に身を置いてみたいという気持ちからで、単純に性に合っているからというだけでないのだが、そんな事は蔵太神父にしか話していない。
目を開けた侑希音は、自分が意外と平静なことに驚いた。父の死は数年前から予兆があったものだし、畳の上での大往生だったからショックは無かった。悲しみの涙より、
「お疲れ様」
と、いう言葉が先に出てきたくらいだから、案外そういうものかもしれない。
侑希音は、一旦町に出て花を買ってこようと踵を返した。すると墓石の列の上に光る物体が二つ、近づいてくるのが見える。目を凝らすと、スキンヘッドが日光を反射しているらしいと判った。その発光体は、藤宮家の墓に近づいてくる。うち一つには、侑希音は見覚えがある。
「南覚和尚」
軽く手を振ると、黒い衣の上にクタクタになった青い袈裟をかけた坊主頭が、同じく手を振って笑う。
「おう、侑希音坊か。相変わらずあちこち無駄にデカイのぅ」
その様は、メリハリのある造形の顔と相まってまさに豪放磊落である。彼は南覚和尚と自称する風来坊で、斐の友人であった。
「開口一番で何をいうかね、このナマグサ坊主は」
侑希音も笑うと、もう一人のスキンヘッドは少々当惑した表情だった。こちらはスーツの上に白衣を着ている。色白で、南欧系の整った顔立ちだ。
南覚和尚は連れの様子に気付いて、言った。
「おお、そうじゃ。こちらの女性は藤宮侑希音、斐の娘じゃ。で、この方は斐の古い友人だそうだ」
男は人懐っこい笑顔を返した。訳あって名は明かせないということか。この男の笑顔が微妙な翳りを秘めているのは、しかし隠し事のせいではなく、生まれ育った土地柄によるものだろうと侑希音は感じた。
(スペインの人かな)
もしも侑希音がそれを口に出していたら、男は正体がバレたと思いこんでパニックを起こしたかもしれない。そう、この男こそドクター・フェルナンド・ブラーボ・ゴンサーレスその人である。
ブラーボは笑顔をそのままに、案の定スペイン語で話しかけてきた。言葉が通じることは南覚和尚から聞いたのだろう。
「侑希音さん、ですね。私はお父さんにとてもお世話になった者です。最近になって亡くなったことを知り、線香でも差し上げようと参りました。お墓の場所は、住職さんに教えていただきました」
侑希音は笑い出したくなるのを堪えながら言う。
「そのスキンヘッド、住職さんじゃないですよ」
「なななな、なんじゃとっ!」
うろたえるブラーボ。その横で南覚和尚がポリポリと頭をかいている。
「その人は確かに父の友人ですけど、このお寺とは全然関係ないんですよ」
侑希音が言うと、南覚和尚は悪びれた様子も無く舌を出す。
「まあな。わしゃ"アホダラ経"のナマグサ坊主じゃ。でもよ、別にこの人を騙したわけじゃあないぞ。ちゃーんと、藤宮家の墓まで案内したわい」
こうして普通にスペイン語を操るあたり、南覚和尚の怪しさが見て取れる。ブラーボは釈然としなかったが、とりあえず侑希音に一礼して墓前に立ち、十字を切るのではなくちゃんと手を合わせて目を閉じていた。その姿は、どうしたことか侑希音の胸に深く響いた。自身でもよく判らないが、一瞬だけ、そこに父の面影が重なった。
ブラーボをじっと見つめていた侑希音の肩を小突いて、南覚和尚がニヤリと笑う。
「うむ。経の一つでも上げてみるかのぅ」
侑希音の声は露骨に不機嫌だった。
「やれるもんならやってみな」
しばらく間をおいて、南覚和尚はおもむろに口を開き朗々とした声で経を詠み始める。
「…かんじーざいぼーさーつーぎょうしん、はんにゃーはーらーみーたーしんきょー、ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー、はらそーぎゃーてー、ぼーだいそわかー…」
「…ホントにアホダラ経だな、それ」
侑希音は呆れたのを一切隠さずに呟いた。
モドル