#11
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 ロンドンの魔術師協会アカデミーは非常事態に見舞われていた。
 十分ほど前からアイボリータワーが不規則に明滅を始め、そして現在、激しく揺れている。タワーが作り出した空間の安定が失われつつあるのだ。このままでは空間の崩壊とともに全てが消し飛んでしまう。
 魔術師マックスウェルは斜めになってしまったフロアを大慌てで駆け回っていた。
「マイヤーズさん!」
 先輩魔術師の名を叫ぶ。その男は混乱の最中にあるホールで三賢人像の上に立ち、退避する人々に指示を飛ばしていた。白・赤・青のヒーロー三原色に彩られたタイツとローブを身につけており、既に危機対策モードに入っていることが伺える。
「ストレンジX!」
 ヒーロー名で呼ぶと、先輩魔術師は手を挙げて答えた。
「マックスウェルか。手を貸せ!」
「はいっ」
 マックスウェルは逃げる魔術師たちの流れを掻き分けて足元に辿り着くと、ストレンジXから指示を受けた。
「お前はここを頼む。私は倉庫へ飛ぶ。危険物を処理しておかないと、色々と拙いことになるからな」
 タワー内は空間を歪めることで実際の容積に数倍するだけのスペースを確保している。それらはタワーの機能が失われれば消滅することになるが、その際に爆発物や不安定な物質が影響を受けることが考えられる。避難する人々の足元でその様な自体が起こるのは非常に拙い。そこで、ストレンジXの象徴機械が放つ高熱で危険物を瞬間的に消滅させてしまおうというわけだ。その意図を察し、マックスウェルは頷いた。
「了解しましたっ」
「よし。任せたぞ!」
 力強く頷き返したストレンジXがローブを翻し飛び去っていくと、決意を胸に、マックスウェルは像の台座に腕をかけた。
「いくぜ!」
 だが。
「の、登れないっ!」
 運動が苦手な者にとって、自分の身長より高い場所へとよじ登るのは相当な困難を伴う試練であった。
 
 
 バビロンの空中庭園。
 三巨頭の一人パズスがヘカテの宮殿へと駆け込んだ。
「ヘカテ殿!」
 独特な冠と翼が目を引く壮年男性の姿をしたアヴァターラには、狼狽の色が浮かんでいた。
「いかがですか、避難状況は」
 平静に応じるヘカテだったが表情が硬い。その膝にしがみ付いているアリスの姿が事態の深刻さを物語っていた。ロンドンと同様、この空間も突如として崩壊の危機に見舞われたのだ。
「学徒たちのシェルター退避はギルガメッシュ殿に指揮を執っていただいておる。もう間もなく完了の見込みじゃ」
 パズスはもう一人の巨頭の名を口にし、更に続ける。
「クリシュナは逃げ遅れた者の救出を。見事な活躍のようで」
「そう」
 最近になって急に頼もしくなったクリシュナの働きを耳にして、ヘカテは安堵のタメ息を吐いた。
「しかし、どういうことなんじゃ、これは…」
 パズスが苛立ちながら首を傾げる。ヘカテが落ち着いた口調で答えた。
「どうやら、日本で起こっている大規模な空間異常が原因です」
 ただし正確な場所は、口にはしなかった。
「なんでそんな東の果ての出来事が、このバビロンに関係があるのじゃ」
「現地で門により開けた空間と、我々が居る空間が干渉しているようです。現に、ロンドンや他の魔術師協会も同様の状況との報告が入っております」
「なるほど…では、一刻も早くこの空間から脱出しなければならぬな」
 パズスが頷くと、ヘカテは眉を上げて宣言した。
「はい。シェルターへの避難が終了し次第、空中庭園は実空間へ脱出します」
 パズスが息を呑む。
 平時の空中庭園は姿を隠すため異空間に位置している。必要に応じて通常空間へ姿を現すことも多々あるが、直径一キロに及ぶ巨大建造物が空間を飛び越えるにはそれなりの手間がかかる。通常であれば十分近くかけてゆっくりと行き来するところである。
「…あれをやるのだな」
 ヘカテが頷く。そこに、クリシュナが駆けこんできた。
「ヘカテ! 避難完了だっ」
 言葉遣いは相変わらずだが、それを咎める暇は無い。ヘカテは立ち上がり、バビロンの全学徒・全教職員に向けての言葉を発した。
「皆の者! これより、空中庭園は実空間への緊急脱出を敢行する。耐ショック姿勢で待機せよ」
 アリスがヘカテの座から下がり、近くの柱へしがみつく。すると、パズスはいかにも仕方がなさそうな顔をしつつ、アリスの腰に抱きついた。
「どれどれワシは、この辺に…」
 それを見て、クリシュナが猛烈な勢いで飛んで来て怒鳴る。
「おいコラ! どさくさに紛れて何やってんだ、モヒカンジジイ!」
「何を申すか! こんなときだからじゃろ!」
「いいから離してくださいっ!」
 アリスが悲鳴を上げる。その様子を一瞥したヘカテが咳払いをすると、三人は一斉に静かになった。
「よろしい。では、いきますよ」
 その言葉と共に、空中庭園全体が低く唸り始めた。
「空中庭園、バトルモード!」
 金属が軋み擦れる音がそこかしこから響き、空中庭園が形を変えていく。いつの間にか巨大建造物は人型へと変貌し、全高一キロを越える巨人がそびえ立った。魔力の奔流が外皮の隙間を縫うように走り、額につけられた赤い宝石を模した装飾が光を放つ。それは、イデアクリスタルに似せられていた。
 そう。この空中庭園こそがヘカテの象徴機械だったのだ。
 アディッショナルシェルで構成される居住区域以外の全てが、ヘカテの魔力に依って存在しているのである。そして有事の際には人型に変形し、窓外を排除するのである。
 巨人は身を反らして吼え、顎をヘビのような角度で大きく開けた。その奥には高エネルギーが収束していることを示す発光現象が見て取れる。
「ダレイオス砲、発射!!」
 ヘカテの号令のもと、巨人は口から破壊光線を吐き出した。その膨大なエネルギーは十秒ほどで空間の隔たりを突き破る。
「前進!」
 巨人は真っ直ぐに空間の穴へ突っ込み、身体をねじ込んで外へ這い出した。そして巨人は虚空へと放り出される。その足元遥か数千キロ下には、アラビア半島が広がっていた。
 
−−−−−−−−
 
 遥か別次元の宇宙でも、この現象は観測されていた。
 薄暗い円形の部屋の中、その中央に表示される画像と見たこともない文字。そして、魔術師に似たローブを纏った十人が刻々と変わる状況を注視していた。
「第五九八二宇宙と、第八六〇〇〇七四宇宙を繋ぐゲートが形成されていますね」
「パワーソースは…、エウェストゥルム励起法。サナートゥ系魔術によるアーティファクトじゃな」
 ローブ集団のうちの二人が視線を交わす。彼らは話す言葉が違うのだがテレパシーにより意思疎通に齟齬はない。そもそも体格も小人から巨人までという極端なまでのバラバラ加減で、それどころか手足の数や頭の大きさも違う。彼らは全くの異種族の集まりなのだ。
「愚かなことを…。第五九八二宇宙といえば、あの十一次元人が支配する世界ではないか」
 残りも、それぞれ口を開く。
「今さら珍しくもない。例によって、彼の信奉者による暴挙であろう。すでに百十二の宇宙が、同様の手口によって彼の手に落ちておる」
「彼の信奉者はありとあらゆる宇宙に存在すると聞いております。いずれ由々しき事態を招くのでは?」
「制裁を加えるべきです! 低次宇宙への干渉は協定違反。放置しては、我ら連続帯の存在意義が問われましょう!」
「まあ待て。あの宇宙の住人自らの意思により行なわれたのであれば、これを不法な干渉とみなすことは出来ん。誰でも一度は、ヒトに乞われて文明を授けたことくらいあるだろう?」
「それはそうだが…」
「まずは、事実関係の調査が必要です」
「では」
 一人が前に進み出る。フードから覗く白い肌と真っ赤な唇、そして黒髪。それからさっするに地球の人類の、しかも女性に近い形態をした存在のようだ。"彼女"は、続けて口を開いた。
「そのときには、私が出向きましょう。事と次第によっては、"あの問題"への対処も出来るやもしれませんから」
 長老格が苦々しく呻く。
「クロノス・キラーか…」
「人間の分際で我らが領域を犯す、忌々しい時空魔術師め」
 一瞬の沈黙の後、またそれぞれが自らの意見を述べる。会議は永遠に続くかと思われる調子だが、しかし多次元宇宙人たる彼らには低次元宇宙における時間の概念など関係ないのである。
 この宇宙の尺度で半日後。
 十人のうち一人、黒髪の女が部屋を辞した。
 
−−−−−−−−
  
「クソっ。どうなってるんだ、一体…」
 俄かに掻き曇った空を睨み、蛍太郎が毒づく。先ほどから細かな地震続き、ついには稲妻が閃き始めた。異空間への門が開いた影響である。
 ここ捜査本部にはバスの人質の解放が伝えられてはいたが、幼稚園の状況は入っていなかった。そこに、この状況である。事実確認のために警官たちが右往左往していたが、無線が使えなくなってしまって付近に待機していた警官隊にも連絡がつかず、まるで何も判らなかった。
 そこに、蔵太亜沙美が現れた。
「よう、ひさしぶり」
 相変わらずの真っ赤な服に身を包んだ黒髪の魔女は、艶然とした笑みを蛍太郎に向けていた。
「亜沙美さん、どこから?」
「どこからもなにも、この騒ぎじゃ誰も私になんて気も留めないよ」
 亜沙美は蛍太郎の問いに悪戯っぽい笑みを返してから、続けた。
「今日も今日とて魔術師らしく研究に勤しんでいたらね、空間異常による干渉で魔術式が安定しなくなってしまったんだ。で、どーせお前らが関わってるんだろうから、問い質して場合によっては腹いせでもしようかと、こうして出張ってきたわけだ。まあ、当ては外れてなかったな」
「はあ」
 力なく頷く蛍太郎。今さら場をかき回されても困るが、助けてくれるならそれに越したことはない。とりあえず、今までの成り行きを説明してみた。
「なるほどね」
 頷いてから、亜沙美は顎に手を当てて考え込んだ。
「ときに、この状況は…件の魔王が復活してしまったと見て良いんじゃないのかね」
「そんな!」
 蛍太郎が頭を振る。
「助けてください、お願いします!」
 だが、ある程度予想通りではあるが亜沙美は渋った。
「うーん。この調子だと、あっちに近づくとマトモに魔術が使えないっぽいからなぁ。それでも行くってのは、如何なものかと…」
 それを聞いて、蛍太郎は眉をひそめて亜沙美を睨んだ。
「知ってますよ。いつだったかの宇宙金属の鉈、自分のシェルに組み込んでるんですよね」
 しばらく黙り、亜沙美は惚けてみせた。
「さあ、なんのことかな…」
「ある筋から、その瞬間を捉えた貴重な画像を入手しましてね。大丈夫です、大事に保管してありますから。…なんでも、あの金属に特殊な処理を施すと魔術式への干渉を防ぐシールドになるらしいですね」
 その言葉に、亜沙美は苦し紛れの言い訳をした。
「これはほら、世の中何があるか判らないから…保険だよ」
「保険、ね。貴方から何かしない限り、ウチの璃音ちゃんがケンカふっかけるなんてこと、ありえないと思いますけどね」
「そうかぁ?」
 亜沙美は異議あり気な様子だったが、蛍太郎はそのまま続けた。
「協力してくれたら、この件は黙っておきますよ。それに亜沙美さんとしても、せっかく腰を落ち着けた潜伏先がなくなっちゃったら痛いんじゃないですか?」
 しばらく黙っていた亜沙美だったが、渋々頷いた。
「判ったよ、しょうがないなぁ。まあ、この街がなくなったら引越しすんの面倒だしな。それにしてもホント、可愛くないガキだ…」
 望みどおりの回答を引き出すことができた蛍太郎だったが、最後の一言が引っかかった。
「何ですか、それ。可愛くないとか、ガキだとか」
「何でクソもないよ。お前さ、親父から聞いてなかったか? 『オレのお祖母ちゃんは魔法使いだったんだぞ』ってさ」
 唐突な言葉に目を丸くする蛍太郎。幼少期を思い返してみれば、確かに父親が寝物語にそんなことを言っていた気がする。もっとも、ませていた蛍太郎はそんな話など全く聴いていなかったのだが。
「大体、当ても無しに警察署なんかに来るわけないだろ。私にしてみりゃ、二番目に近寄りたくない場所だからな」
 今度は、蛍太郎は口までポカンと丸くした。
「えーと、それじゃあ…まさか…。あの、なんでそんな大事なことを、こんな時に…」
「別に言いたくて言ったわけじゃないって。どーでも良いことじゃないか、今さらよ。ほら、行くぞ」
 亜沙美に腕を引っ張られ、蛍太郎は警察署の外へ出た。それに合わせたように、アームズオペラ・ドゥーカが駐車場の車両を押しのけて着地した。AO・ドゥーカは亜沙美と蛍太郎を掌に乗せ、自らの胸部装甲内にあるコックピットへと導きいれた。銀色のカプセルが開き、そこにシートが現れる。亜沙美がシートに座り蛍太郎がその後ろに立って背もたれを掴むと、カプセルが閉じ周囲が暗闇に包まれた。
「うわっ、何にも見えないじゃないですか!」
 蛍太郎が素っ頓狂な声を上げる。煩そうに、亜沙美が言う。
「見えなくても構わないんだよ。状況は直接私の頭の中に入ってくるんだから。まあ、このままってのもなんだし…」
 すると、闇の中に外の様子を写した映像が浮かび上がった。
「これでいいだろ」
「ああ、はい。ありがとうございます…」
 礼を言う蛍太郎だったが、その口調はどこかぎこちなかった。
「いいんだよ、別に…」
 答える亜沙美も同様だったが気を取り直し、象徴機械に命令を飛ばす。
「行くぞ。目標はひまわり幼稚園跡地。AO・ドゥーカ、発進!」
「了解!」
 ロボヘッドの勇ましい掛け声と共に、巨躯が宙へと舞い上がった。
 
−−−−−−−−
 
 かつて"ひまわり幼稚園"だった場所は、完全に異空間に飲み込まれていた。大地にぽっかりと巨大な穴、"門"が開き、その奥にタールを流したようにねっとりとした闇が広がる。時おり、赤黒い光が何かの脈動のように漏れている。
 その穴の上、ちょうど地表と同じ高さに"コークスクリュー"が地面でもあるかのように浮かんでおり、サーバントクーインが傍らで膝をついていた。
 魔術式が消え、コークスクリューが停止する。用済みとなったアーティファクトは力を失った途端に落下して闇に飲み込まれ、入れ替わるように闇が沸き立ち盛り上がり、柱のようにせり出してくる。その先端が姿を変え、黒いマントを広げた人の上半身に似た姿となった。ただし手はイビツに歪み、顔は流れるタールのように蠢き形を一定にはしない。見るからに禍々しい黒い巨人が、そこに現れた。
 魔王、カーンデウスの再臨である。
「一万余年ぶりか…この地も、随分と様変わりしたものよ」
 歓喜にうち震えた声で、クーインが主に答えた。
「はっ。それほどの月日が経てば、海も陸となりましょう」
「うむ。大儀であったな、従者クーインよ。我をこの世界へと導きしそなたの功績、永遠に語り継がれることであろう」
「ありがたき幸せ!」
 かしずくクーインの姿に満足げに頷くと、魔王は言葉を続けた。
「では、そなたの見事な働きに免じて、我が力の全てを授けよう」
 魔王が手を伸ばす。クーインは黙って立ち上がり、両腕を広げた。魔王の指先がクーインの頭に触れる。そして、爪を額に突き立てた。
「むおおっ!」
 クーインの体が大きく痙攣した。
「カーンデウス様のパワーが、流れ込んでくるッ」
 クーインのタイツとマントが黒く変色し表皮が変質を始めた。魔王と同様にタールを流したような妙なツヤが出て、生きているかのように蠢く。そして、膨張していく。腕が、脚が、三倍にも四倍にも膨れ上がっていった。異変に気付き、クーインが目を見開いた。その顔は、スーツのボディに半ば埋もれていた。
「こ、これはっ!?」
「言ったであろう。我が力を全て授けると」
「しかし、これではッ!」
 その時すでに魔王の姿はなく、全てがクーインの中へと入り込んでしまっていた。
「全てを授けるということは、即ち我と同化すること。そなたは、その身を我に奉げるのだ」
 クーインの顔が歪む。
「そんな、騙したのか!? 今まで、貴方様を信じて、僕は…ッ」
 そのクーインを飲み込んだスーツの肩口が盛り上がり、そこが魔王の顔に変じた。魔王は不定形の顔に歪んだ口を浮かべ、微笑む。
「騙してなどおらぬ。これで、この世界は全てそなたのものだ。我と同一の存在となるのだからな!」
「な、なんて…」
 それが、サーバントクーインが発した最後の言葉になった。
 クーインの顔が完全に埋没し、それは魔王カーンデウスのものとなった。全高は二十メートルほど。顔は相変わらずタールで塗りつぶしたような無面目だが、身体はしっかりと人型をしている。先ほどまでは穴の奥の闇と繋がったままだったが、これで完全に独立した形だ。黒いマントを翻すと、それは自らの意思を持つかのように大仰に形を変えた。
 それを、璃音はヴォルペルティンガーのコア内部で見つめていた。黒いアヴァターラの手の上では侑希音とMr.グラヴィティが最悪の事態に険しい表情を浮かべていた。
「侑希ねぇ、どうしよう…」
 侑希音は頭を振り、そして気を取り直し眉を上げた。
「どうするもなにも、アイツを倒すしか…」
 だが、その侑希音の姿が不安定になる。顔がノイズが入ったようにかすれ、元の姿に戻ってしまった。
「どうした?」
 グラヴィに顔を覗き込まれ、侑希音は首を傾げた。
「判らない。象徴機械が維持できないんだ。あの空間の干渉を受けているのかもしれない」
「それじゃあ、魔術は…?」
 侑希音が指を立てるが、そこには小さな火花が散っただけだった。
「ダメだ」
 眉をひそめる侑希音。ロンドンやバビロンが見舞われた状況と同様に、異空間の波動が魔術式に干渉しているのだ。
「侑希ねぇ!」
 璃音が叫ぶ。魔王が目の前で右腕を振り上げていた。
 グラヴィが侑希音の手を取り、跳んだ。その瞬間、ヴォルペルティンガーはカウンターになるように爪を突き出す。存在消去の力を秘めた刃が魔王の二の腕につきたった。
「だああああああっ!」
 魔王の拳によって千切れ飛んだ耳には構わず、ヴォルペルティンガーは爪を斬り上げ、更に振り下ろす。魔王の腕は斬り落とされ、さらに袈裟懸けに胸から腹にかけてザックリと大きな切り傷が出来た。切断された腕は、そのままゲートを落ちて闇の中へと沈んだ。
 魔王は傷を見て首を傾げた。再生しないことに驚いているのだ。
「やった!」
 璃音は会心の笑みを浮かべたが、すぐにその顔が強張る。穴の奥からタールのような闇色の物体が幾つか、球体になって浮かび上がってくる。それが魔王の身体にくっ付くと、すぐに欠損部分に成り代わった。完全に五体満足である。魔王の冷笑が響く。
「ククク、小賢しい。己が肉体を意のままに再構成できる我ら多次元宇宙の住人にとって、そのような力など恐れるに足らん。確かに良く切れる刃物ではあるがな」
 その言葉が終わらないうちに、魔王の膝がヴォルペルティンガーの腹に食い込んだ。派手に吹き飛んだヴォルペルティンガーはビルに背中から突っ込み、動かなくなる。ダメージから身体のあちこちが解れるように欠けていき、腕が抜け落ちた。その様を、魔王が嘲う。
「ククク…。もう終わりか? 徒手空拳以外にも、我の力を披露してやろうと思っておったのだがな」
 魔王が両手を前にかざし、それぞれの指からビームを発射した。ビームはヴォルペルティンガーを射抜き、破壊していく。身動きも取れないまま、ヴォルペルティンガーはビルごと崩れ落ち、瓦礫に埋まってしまった。
 魔王は、千切れ落ちていたヴォルペルティンガーの腕が消滅していくのを笑みを浮かべながら見つめると、マントをはためかせ飛び上がり、その傍らに着地した。魔王は璃音が埋まっている瓦礫に手を当てた。すると、表皮のタール状のモノが流れ出してコンクリートの隙間にしみこんでいく。
「さあ、小娘。我が配下となるがよい」
 
 
 意識を取り戻した璃音の目の前に飛び込んできたのは、暗闇だった。神体は消失しており、生身に戻っていた。すぐにパワーシールドを使い瓦礫を押しのけ、自分の身体を起こせる分だけのスペースを確保した。
「あぐっ…!」
 人心地ついて初めて、身体の痛みに気付く。ビーム攻撃を受けて意識を失い、それから瓦礫に埋もれた時にダメージを受けたようだ。パワーシェルのお蔭で大事はないが、とりあえずヴェルヴェットフェザーを使って傷を治した。
 安堵のタメ息を吐き、それから璃音は肩を落とした。
(どうしよう…あの力が通じないんじゃ…)
 璃音の脳裏に、損傷をいとも簡単に修復してしまった魔王の姿が過った。それが何度か頭の中で繰り返され、そして一つのプランが浮んできた。
(もしかして…。うん、試してみる価値はあるかも。けど、どうやって…)
 璃音は、それを為すための方策を考え出すべく思考めぐらせる。だが、そのために璃音は間近に迫っていた危機に気付くのが遅れてしまった。
 足の先に違和感を感じて目をやると、そこに黒いタールのようなものが絡み付いていた。
「きゃあッ!」
 それが何であるかすぐに悟り、璃音は出力を絞ったパワーボルトを撃つが、全く効果はない。むしろ、それは勢いを増して靴全体を飲み込んで這いずってきた。さらに、璃音の頭の上、瓦礫の隙間から染み出てきた大量のタールが塊となって襲い掛かってきた。
「いやぁっ!」
 瓦礫を吹き飛ばして逃げ出そうとパワーボルトを放つが、既に周り全体がタール上のモノに取り込まれていて、逆に爆風全てが璃音を襲った。
「あうっ!」
 自分の攻撃をマトモにくらった反動で璃音はタールの中に背中から突っ込んだ。今のダメージでパワーシェルが殆ど吹き飛んでしまい、裸同然の璃音は動くことも出来ない。その身体をタールが包み込んでいく。
 魔王の手の中に取り込まれ、璃音は意識を失いかけた。だが、強烈な吐き気で現実に呼び戻される。頭の中に何かが流れ込んで来たのだ。
「いやああああああっ!!」
 悲鳴すら、目の前の暗闇に飲み込まれる。そして、魔王の声は響いた。
「我に従え」
 璃音は目を閉じ、首を振った。すると、吐き気に加えて今まで体験したこともない激痛が襲ってきた。もはや悲鳴をあげるどころではない。このままでは苦痛に耐え切れずに発狂してしまう。
「あああああああああああああ!」
 瞳がクルンと上を向き、口の端から涎が垂れる。太腿を生温かいものが流れ落ちる感触があったが、璃音は正気を失うことなく苦痛の享受を強いられた。
「気が狂えば楽になるだろうが、そうはいかん。生憎だが、そなたの感覚器官と神経は全て我の支配下にある。我に従うか、そのまま苦痛の中で死ぬか。そなたの取り得る選択は二つだけだ」
(従う…)
 それが最良の選択肢だと、理性が告げている。
(…そんなの、だめ…わたし…)
 まとまらない思考を必死に繋ぎ合わせようとする璃音だったが、不意に背中から頭までを甘やかで蕩けるような感覚が走り、意識が霧散してしまう。魔王に掌握された神経が、今度は未体験の快楽を与えてきたのだ。
「あ、あ、あ…」
 酸欠状態の魚のように口をパクパクさせて、璃音の身体は快楽の波に翻弄された。だが、その直後、入れ替わりに先ほどまでと同様の苦痛が璃音を貫いた。
「がっ!」
 喉を詰まらせ、無様な呻き声を洩らす。その直後、再び璃音の意識は快楽の中へと沈められた。
「これが、それぞれの選択の結果だ。さあ、どうする?」
 声が聞こえる。璃音には、その主が何であるかを思い出すことなど出来なくなっていた。だが、その問いには答えねばならない。そうしなければ、この苦痛と快楽の理不尽な繰り返しがいつまでも続くのだから。
 ついに、彼女の精神は耐えることを放棄してしまった。
 答えを告げようと、璃音は口を開いた。だが、言葉は出なかった。
「あ、あー…」
 喉が掠れて声が潰れたのでなく、言葉にならなかったのだ。すぐにでも許しを請う言葉を発しようにも、どうしたら良いか判らない。どんなに思考をめぐらせても、紡ぎ出すべき言葉がどこにも見つからないのだ。
 これではまた、あの苦しみを味わうことになる。早く、伝えなくては。
 だが、今の璃音は自らの意思を伝える術を失っていた。焦燥感だけが意識を支配する。このままでは気が狂いそうだ。
 ―助けて! 助けてよ! …けーちゃ…
 その思いは決して言葉になることはなかった。自らが何者で、誰に何を求めているかさえ、もう判らなくなってしまったのだから。
「助けなど来ぬ。そなたを救える者は、我を於いて他にはない」
 その声が意味を持って彼女に伝わったかどうかは疑わしい。だが、彼女の意識をつかさどる器官に黒い触手をねじ込んでいる魔王は、その要求をしかと聞きうけた。
「よろしい」
 闇に塗りつぶされていく心に、魔王の声が響く。
「では、そなたをこの苦しみから解放し、我が配下に相応しい姿に変えてしんぜよう」
 璃音の身体にまとわりついていたタール状の物体が形を変え、パワーシェルを復元していく。漆黒の衣へと変容したパワーシェルに身を縛られ、かつて藤宮璃音と呼ばれていた少女は虚ろな目を虚空に向けていた。
 
 
2−
 秒間数百発を誇る鉛玉の雨が空気を割き、地表に降り注ぐ。
 崩れたビルの傍らに棒立ちになっていた魔王に、それは容赦なく襲いかかった。だが、流動体の様相を見せていた魔王の体表はそのまま、全ての弾丸を弾き落とす。損害を受けたのは、流れ弾を受けた周囲の建造物だけだった。
「ちっ!」
 AO・ドゥーカのコックピットで亜沙美は舌打ちした。高空から奇襲をかけバルカン砲で一気に葬り去るという策は、見事に破れてしまった。
「ま…まあ、魔王たるものが通常兵器でくたばったら萎えるからなっ」
 強がりともとれる言葉を吐き、亜沙美はメガクラスシェルの知覚器機を通じて魔王の姿を凝視した。黒い表皮は流動性を持ちながらメートル単位の厚さのコンクリート壁よりも頑丈らしい。なんとも、理不尽な話である。モニター映像を通して状況を見た蛍太郎は驚きに息を呑むが、それよりも気になることがある。
「璃音ちゃんは!?」
 AO・ドゥーカの制御を行なっている超AI、ロボヘッドの声が響く。
「周囲ニ反応、アリマセン」
「そう…。でも今、璃音ちゃんの声が聞こえた気がしたんだけど…」
 と、身を乗り出してモニター画像を凝視する蛍太郎。だが、それが操縦の妨げになりそうだったので亜沙美が怒鳴る。
「うるさい! 今はまずアイツを潰さんことにゃ、話にならんだろ!!」
 眼下の魔王を睨み、AO・ドゥーカは光剣クラウソナスを抜き放った。この宇宙に存在するあらゆる物体の質量を光へと変える力を持つ不敗の剣は、力を解放して刃の周囲の空気を破壊することで眩く刀身を輝かせる。
「これならなぁッ!!」
 AO・ドゥーカは巨躯を翻し急降下、油断しきって素立ちしていた魔王を袈裟懸けに斬り裂いた。
「どうだ!」
 だが、魔王は"門"から吸い上げた闇色の流体を取り込み、瞬時に元の姿を取り戻す。
「ほう。やるものだな、地球の魔術師よ。だが、我が前にはいかなる攻撃も無力だ」
 瓦礫の山に触れさせていた腕を縮めて戻し、魔王はAO・ドゥーカへと向き直る。
「マスター!」
 切羽詰ったロボヘッドの声。
「どうした!?」
 問うまでもなく、状況はすぐに見て取れた。魔王が口を大きく開き、ビームを吐いたのだ。
「対物理バリア!」
 一直線に飛来した熱線は、AO・ドゥーカの数歩手前で光の壁に遮られ、激しい発光現象を伴って消え散った。対物理バリアの効果である。それは厳密には壁ではなく、円形に接続された線状のエネルギー体が高速回転することで形成され、そのエネルギーはクラウソナスと同様の力を持っている。つまり、あらゆる物理的な攻撃を光に変換して無効化できるのだ。
 だが熱線は目くらましに過ぎなかった。魔王は一気に距離をつめ、拳を突き出してきた。
「ちいっ!」
 亜沙美はシェルの左掌の前にバリアを円板状に発生させて魔王の拳を受け止め、カウンターで突きを見舞う。だがその切っ先を魔王は腰をS字に曲げてかわした。どうやら相手には、常識の範囲内で考えられる骨格などはないらしい。亜沙美が舌打ちしかけた、その時。機体が大きく揺れた。見ると、AO・ドゥーカの手首が破壊され、めり込んだ魔王の拳に侵食されていた。
「どうして!?」
 蛍太郎が息を呑むと、亜沙美が歯軋りとともに吐き捨てる。
「チクショウ! こっちの光変換より、ヤツの再生が速いんだ!」
「左腕部、パージ!」
 ロボヘッドがシェルの左肘関節を爆破して魔王から逃れさせる。そしてバックステップで後退、同時に両肩アーマーの上半分を展開した。
「撃チマス!」
「おお、ブッ放せ!」
 亜沙美の号令のもと、AO・ドゥーカの開いた肩アーマーに魔力が集中する。必要なエネルギーの充填を確認すると、ロボヘッドは安全装置を解除した。
「カスパールキャノン、ファイア!」
 AO・ドゥーカの肩に仕込まれていたエネルギー砲が火を吹く。二条の光の奔流は一直線に魔王へと殺到するが、標的は空へと飛び上がり、これを回避。エネルギー弾はそのままあらぬ方向へと流れて行った。
「当たらなければ意味などあるまい」
 上空で冷笑を浴びせかける魔王に、亜沙美は不敵な眼光で応えた。
「さあ、どうかね」
 その声に周囲を確認した魔王は、回避したはずのエネルギー弾が方向を変え間近に迫っていることに気付いた。
「なんだと!」
 直後、爆炎が空を包んだ。
 カスパールキャノンには追尾能力が備わっていたのである。それだけではない。魔王に直撃した弾は反応を起こし、膨大なエネルギーを生み出す。その爆発は酉野市の上空全体を包み込み、衛星軌道上からも確認できるほどだった。
 赤く燃える空を呆然と見上げ、蛍太郎は呻いた。
「なんですか、これ…メチャクチャな破壊力じゃないですか…」
「これぐらい出来ないとカッコつかないだろ。魔術師としてさ」
 軽口とは裏腹に、亜沙美は苦渋の表情で爆発の中心を凝視していた。が、
「クソッ、やっぱりな!」
 と、AO・ドゥーカを急旋回させる。そこへ無数のビームが降り注ぎ、回避し切れなかった分を被弾したAO・ドゥーカは装甲の至るところに穴を開けられ、転倒した。瓦礫に沈んだ象徴機械を嘲うように、ゆっくりと魔王が降下してくる。既に修復を終えたのだろう、全く無傷な姿である。
「当たったところで、どうということもなかったな」
 コックピットの中でその声を聞き、亜沙美は奥歯を噛みしめた。ロボヘッドが途切れ途切れに被害を報告する。
「出力七十パーセント低下。廃熱システムダウン。フレーム中破。各部装甲、損傷無数。バリアシステム停止。カスパールキャノン全損…」
 蛍太郎が頭を抱える。
「それって、もう…」
 だが、亜沙美は拳を握り言った。
「いや。これだけの出力が残っているのなら、修復システムを起動できる。もっとも、その間ヤツが待っててくれると思えんがね。
 …ロボヘッド!」
「ヤッテマス!」
 機体が唸り、急速に力を取り戻していく。
「駆動系の修復を最優先だ!」
「了解!」
 だが既に、魔王は目前に迫っている。
「亜沙美さん!」
「やってるっつってんだろ!」
 未だ動けぬAO・ドゥーカを叩き潰そうと、魔王が拳を上げた。しかし、その拳は振り下ろされることなく、魔王は全体重が急激に増加したような感覚に見舞われ、膝をついた。
「こ、これは…」
 憎々しげに視線を上げると、AO・ドゥーカの頭の上に黒コートの男が立っていた。アイマスクの下から染み出る血を拭い、グラヴィは咆哮した。更なる加重力に見舞われ魔王の体が崩れる。
「長くはもたんぞ!」
 足元に向けて叫ぶグラヴィ。その時すでに、AO・ドゥーカのコックピットに侑希音が滑り込んでいた。
「何しに来やがったんだ」
 亜沙美が毒づくと、侑希音も同様の仏頂面で応じた。
「分が悪いみたいだからな、助けに来てやったのさ」
 二人の間でオロオロする蛍太郎を見て苦笑し、侑希音は続けた。
「冗談はさておき、コイツは異空間の干渉を受けないんだろ。だったら、私に考えがある」
 そして、侑希音はDQUへと変身した。
「私の力でコイツの稼動効率を上げる。少しは状況が良くなるはずだ」
 さらに象徴機械の主の了解を得ないまま、侑希音はパワーを上げて対象をアームズオペラのコアへと向けた。すぐに、ロボヘッドの報告が入る。
「修復システム、処理速度ニ百パーセントアップ!」
「おお、通常の三倍か!」
 亜沙美の声が威勢の良いものになる。
「魔力炉および駆動系の修復が完了し次第離脱、体勢を立て直す。カスパールキャノンはいい。たいして効かなかったからな」
「了解!」
 それから三十秒としないうちに、AO・ドゥーカの機体が完全に修復され、力が戻る。
「飛ぶぞ!」
 グラヴィが離脱したのを確認し、亜沙美は炉の出力を全開にした。爆風とともにAO・ドゥーカが宙に舞う。高重力に縛られたままの魔王を見下ろし、亜沙美は更なる指示をロボヘッドに与える。
「カスパールキャノンから三十六剣陣ユニットへ換装だ」
「了解」
 AO・ドゥーカの肩から全損したカスパールキャノンが転送術により姿を消し、入れ替わりに"三十六剣陣ユニット"、アームズオペラ第三のシェルである"コンテ"の主武装が装着される。コンテの機体をマントのように覆っていた三十六剣陣ユニットは、巨大なドゥーカには丁度良い具合の肩飾りとなった。
 AO・ドゥーカの肩装甲はマルチウェポンサイロと呼ばれ、その上部には大型兵装を、下部には小型兵装を二箇所のコンテナ内部に収納できるのだ。
「よし! 三十六剣陣、起動!」
 ユニットから分離した三十六個のクリスタルが光の剣となりAO・ドゥーカの周囲を旋回し始める。
「どうするんですか、これ…」
 驚きの表情を浮かべる蛍太郎。亜沙美は眉を上げて言った。
「アイツが動けないうちに、メチャクチャに切り刻んでやるのさ!」
 その声に合わせて飛剣の切っ先が一斉に魔王を向く。クラウソナスを振り上げ、AO・ドゥーカは魔王めがけて急降下した。
「おのれ!」
 魔王が叫び、そして大地が揺れた。付近の崩れかけたビルが突然、意思をもったかのようにAO・ドゥーカへと飛びかかってきた。
「ちっ!」
 飛剣が舞い、ビルを分断する。その隙間から染み出たタール状の物体がうねりながらAO・ドゥーカへと伸びる。飛剣がそれを斬って散らすと、辺りの瓦礫や建物へと落下し、染みこんでいく。その光景に、蛍太郎は顔を青くした。
「なんか、嫌な予感がするんだけど…」
 侑希音も呻く。
「最悪の事態を想定して避難は終了しているけど。それに…」
 一瞬言葉を詰まらせて、侑希音は続けた。
「蛍太郎君…璃音があそこにいるんだ。魔王に捕まってしまって…」
 黒いタール状のモノに塗り固められたままの瓦礫の山を指差す。それを見た蛍太郎が身を乗り出す。
「璃音ちゃんが…あそこにいるのか!?」
 今にも飛び出さんばかりの勢いの蛍太郎を亜沙美が腕を伸ばして押さえつける。
「やかましい! お前じゃあ出てったってどっちみち役には立たなねぇって!!」
「けど…」
 納得いかない蛍太郎だったが、外の状況を見ていた侑希音が叫ぶ。
「くるぞ!」
 魔王の欠片が染み込んだ瓦礫や崩れかけのビルが寄せ集まり、人型となる。その瓦礫でできた巨人はジャンプして、潰れかけの魔王の上に飛び込む。そして巨人と魔王が融合、黒い体表にコンクリートの鎧をまとい、全体がどんどん膨れるように大きくなっていく。
「しまった!」
 グラヴィが叫ぶ。いかに強大な超能力でも、その効果範囲には限界がある。瓦礫を取り込むことで五倍のサイズへと巨大化した魔王は、加重力攻撃を行なうには大きすぎた。
「ふははははは! 生意気な人間どもめ。随分とてこずらせてくれたが、これで貴様らもお終いだ!」
 魔王が足を振り上げる。AO・ドゥーカが急上昇でそれをかわすと、こんどは手が伸びる。
「バルカン!」
 襟の装甲が展開し、バルカン砲が現れる。さらに、
「メルトスクワーター!」
 ウェポンサイロ下部に設置されたニ箇所のハッチのうち外側が、両肩ともに展開する。
「発射!」
 鋼の弾丸と溶解液が撃ちだされ、コンクリートの指を粉砕する。舞い散る破片をかわし、もう一方の魔王の腕をかいくぐると、AO・ドゥーカはクラウ・ソナスを振り上げた。
「テメーが三倍のデカさなら、こっちは三倍の処理速度だ! くらえ、三倍クラウソナスッ!!」
 気合一閃、魔王の腕が肩口から斬り飛ばされる。
「おのれぇ!」
 切り口からタールの触手が殺到する。それを、空中に留まっていたAO・ドゥーカは対物理バリアで遮断した。
「三倍バリアだ!」
「おおっ!」
 蛍太郎が歓声を上げる。侑希音の力を借りることで光変換の効率が三倍に上がったため、相手の再生能力を上回るスピードで破壊できるようになったのだ。
「うむ」
 亜沙美は頷き、そしてバツが悪そうに呻いた。
「けど、喜んでばかりも居られないんだよな…」
 このとき、侑希音はあることに気付く。
「おい、壁のところで赤いランプがチカチカしてるんだが…」
「ああ。そろそろガス欠を視野に入れる方向で、ってことだ」
 と、亜沙美。
「廃熱で補助炉を回しちゃいるが、追いつかないのさ。それに今はエネルギー消費も通常の三倍だ」
 コックピット内のイケイケムードがいっぺんに消沈してしまった。モニターの向こうでは、魔王が門からの補給を受けて切り落とされた腕を修復していた。
「ちっ…。いつまで再生しやがるんだ」
 舌打ちする亜沙美。
「おそらく…あの門がある限り、無限に」
 侑希音の表情が険しい。それを笑うように、魔王がパックリと口を開いた。
「その手は通じないぞ!」
 対物理バリアを展開するAO・ドゥーカ。だが、身を乗り出してモニター画像を凝視していた蛍太郎が叫ぶ。
「ダメだ! よく見て!」
 気を利かせたロボヘッドが画像にズームをかける。魔王の口の中には、無数の蛍光灯や電気スタンドが規則正しくならんでいた。
「なんだ、ガラクタじゃないか」
 亜沙美が鼻で笑う。だが、蛍太郎は必死の形相だ。
「サーバントクーインの能力を思い出して! あれは…」
 だが、蛍太郎の言葉は間に合わなかった。魔王の口から強烈な光が迸り、AO・ドゥーカを襲う。それは対物理バリアを素通りし、装甲表面を焼く。魔王が口内に作り出したのは今までのようなビームではなく、取り込んだ建物の照明器具を利用したレーザー兵器だったのだ。
「待てぇっ!」
 グラヴィが魔王の側頭部を蹴り飛ばした。それによってあらぬ方向へと射線が逸れ、レーザーは遠くの海面を炙った。水蒸気の塊が幾つもあがる。
「邪魔しおって!」
 魔王は振り向き、苛立ちをそのままぶつけるようにグラヴィにレーザーを発射する。だが、重力を操るグラヴィにその手は通じない。空間を歪めて軌道を変え、そっくりそのままレーザーを跳ね返した。
「ぐおおおおっ、猪口才な!」
 自らの攻撃をそのまま食らい、魔王が倒れる。その隙にグラヴィは宙に力なく浮かんでいるAO・ドゥーカに声をかけた。
「大丈夫か!?」
「ああ、なんとか」
 と、亜沙美。シェルの装甲表面は所々剥がれ落ちているが、残りは鏡のように変わっていた。
「ミラースキン、付けといてよかった…」
 安堵のタメ息を付く亜沙美。対物理バリアが性質上レーザーのような光学兵器を遮断できないため、その対策として装備されたのが装甲表面を鏡面コーティングするミラースキンである。起動が遅れたためにダメージを受けてしまったが、これさえあればよほどの高熱に晒されない限りは安泰という逸品である。ただし使用にあたって操縦者の判断ミスがあったことは確実で、当然ながら周囲はそれを責める。
「助言ハ、チャント聞クベキデシタネ、マスター。三倍速デ起動デキタオカゲ事ナキヲエマシタガ…」
「そうだ。お前がドジ踏んで死ぬのは勝手だが、二人もの人間の命も預かってることを忘れるんじゃないぞ、まったく」
 ロボヘッドと侑希音が揃って非難するので、全面的に過失があった亜沙美は反論など出来ない。
「悪かった…」
 だが、ここで"だから言っただろう的発言"をして優位に立てるはずの蛍太郎は無言だった。元々、つまらないことで人をやりこめて面白がる趣味などないのだが、それよりも気になって仕方がないことがあるからだ。
「すいません」
 蛍太郎が口を開いた。
「僕を、降ろしてくれませんか…」
 侑希音と亜沙美が視線を向ける。蛍太郎は決然とした眼差しで、それを受け止めた。
「僕が行かなければならない気がするんです。根拠は、ないですけど…」
 当然、亜沙美が首を振る気配はない。今、そんな隙を作っている場合ではないことは誰にでも判る。だが一方で、このまま状況が動かなければ敗北は時間の問題であることも確かである。
 侑希音が、亜沙美に強い口調で言った。
「私からも頼む」
 僅かな間をおいて、亜沙美はいかにも渋々といった風を装って頷いた。
「判ったよ」
 AO・ドゥーカが降下する。亜沙美が外部マイクに叫んだ。
「すまない、少しだけヤツの相手をしてくれ!」
「いずれにせよ、そのつもりだ」
 グラヴィは力強く頷くと、立ち上がりかけた魔王に突進した。その間に、着地したAO・ドゥーカは片膝をつき、掌に乗せていた蛍太郎を降ろす。
 蛍太郎は全力で走った。後ろからの強風が背中を押し、亜沙美たちが飛び立ったことを教えてくれたが、振り返らずに走る。程なく、黒いタール状の物体に塗りこめられた瓦礫の山が目に入る。
「璃音ちゃん!」
 反応はない。蛍太郎は駆け寄ってタール面を叩きながら、妻の名を呼んだ。
「璃音ちゃん! 璃音ちゃん!」
 だが、愛する少女の声は聞こえない。代わりに、タール面が流動性を取り戻し、蠢きだす。そして蛍太郎の手にまとわりついてきた。
「これって…」
 その正体に気づき、蛍太郎は息を飲んだ。
 魔王の体表から流れ出したタール状の物体が今まで見せた振る舞いを思い出し、蛍太郎は青ざめた。その中に囚われた璃音がどうなってしまっているのか、想像したくもない。殆ど悲鳴に近い声が、喉をついて出た。
「璃音ちゃんっ!」
 流動体はイソギンチャクの触手のように広がって、蛍太郎を飲み込もうと絡み付く。もがきながら蛍太郎はもう一度、その名を呼んだ。
 
「璃音ちゃん!」
  
 
3−
「――ちゃん」
 誰かが呼んでる。わたしのなまえ。
 めのまえはまっくら。わたしの目は瞼を開ける前から見えてしまうことがあるんだけど、今はホントにまっくらだった。なにも見えないけど、その声だけが聞こえてくる。
 それは、男の人の声。
 どれくらい前なのかは判らないけど、少し前。おとうさんのお友だちが連れてきた…そう、お友達の孫だって言ってた。
 やっと目が開いた。
 雲がまぶしく光って見えるくらいの、よいお天気。公園のベンチで、わたしはその人の膝のあいだで眠っていたみたいだ。
「――ちゃん」
 その人は、わたしの顔を覗きこんで、笑っていた。わたしの名前を呼んでくれたけど、どうしてだか、よく聞こえなかった。その人の顔を見ると、わたしはなんだか嬉しくなってしまって、ニコニコしてしまう。お友だちが、
「それって恋だよ」
 なんて言ってた。多分、そうなんだと自分でも思う。その人はきれいな顔をしてて背が高くて、でも、それだけじゃなくて、とっても優しいから。
 ずっと前から仲良しだった人じゃなくて、幼稚園に行くようになってから会った人のなかで、わたしとお友だちになってくれたのはこの人だけだったから。
 教室でケガを治してあげた男の子なんか、それから全然お話してくれないのに、その人はお迎えに来てくれて、お話して、食べ物買ってくれて、日曜日にはお散歩に連れてってくれる。
 あ…。
「それ、デートじゃないの!」
 って、誰かが言ってたけど。そうなのかな? もしそうだったら、なんて考えると、なんだか急に恥ずかしくて、何も言えない。するとその人は、
「いつもだったら、お昼寝の時間だもんね。ごめんね、起こしちゃって」 
 と、わたしの頭を優しく撫でてくれた。温かくて、大きな手で。撫でてくれるのは嬉しいんだけど、その人の手が大きいんじゃなくて、わたしが小さすぎるんだって事も思い知らされちゃうから、ちょっと悲しい。その人はずっと年上で、わたしは膝の間に収まっちゃうくらい小さい幼稚園児。わたしが大きくなって並んで歩けるようになるまで、その人は待ってくれるのかな…?
 そう思うとますます悲しくなってしまって、わたしはその人の名前を呼んだ。
「――おにいちゃん」
 だけど、名前が出てこない。口に出して言ったはずなのに、そこだけポッカリと穴が開いたみたいになってる。大切な、大切な名前なのに、どうしても思い出せない。
 わけがわからなくなって、わたしは泣いた。
「――ちゃん、どうしたの?」
 わたしの名を呼んで、その人は優しく抱きしめてくれた。でもやっぱり、それは聞こえない。
「大丈夫だよ。泣かないで」
 わたしの頬が、その人の胸にふれた。うっとりするくらい好きな、その人の匂いにつつまれて、でもやっぱり、わたしの涙は止まらない。
 こんなにも優しくしてくれるのに、どうして、その人の名前を思い出せないんだろう。わたしの名前を呼んでくれているのに、どうして、その声だけが、わたしに届かないんだろう。
 不意に目の前が真っ暗になった気がして、そして気付いた。
 
 わたしの名前、なんだっただろう…?
 
 そう。自分の名前が、思い出せない。
 いくらわたしが子供だって、そんなことあるはずがない。それに、男の人の匂いにクラクラくる幼稚園児なんているわけない。どんだけマニアックな子供だ、わたしは! これは、絶対におかしい。
 それに気付いたのがきっかけなのか、頭にかかった黒い靄が少し晴れた気がした。薄皮を剥ぐように、その向こうの何かが鮮明に見えてくるような…。それで、わたしは思い出した。この場所には見覚えがある。そう。過去に、この場所に来た記憶があるのだ。そのくせ、ここまで来た過程は頭の中からスッポリと抜け落ちている。この光景が、わたしの記憶全てであるというように。いや、もしかしたら…。今、わたしには、この記憶しか残っていないのかもしれない。だけど、そんなことがありえるのだろうか。
 でも。ただ少なくとも、おかしな話だとは勘付きつつあったけど、この後何が起こるのかは判っていた。
 このとき、その人は誘拐のターゲットにされていた。もちろん、お目当ては優秀な頭脳。この日は確か…と、記憶を辿ろうしたら、ベンチの後ろからヌッと黒い手袋が飛び出して、その人の口を押さえつけた。
「永森け――さんですね」
 黒手袋の主は、その人の耳元に口を寄せて言った。わたしはビックリして目を丸くしていたけど、
(ええいっ、もう少しで、その人の名前が!)
 と、悔しがってるもう一人のわたしが、わたしの中に居る。本当に、もうすこしでその人の名前が聞こえそうだったのに!
 だけど、そんなわたしにはお構い無しで事は進んでいく。
 さらに二人の男が出てきて、わたしたちの前に立った。手袋こそ黒いが、怪しまれないようにということかスーツ姿である。その男たちは乱暴に、その人、永森さんの腕を掴んだ。
「私たちと一緒に来ていただきます」
 そのまま永森さんを引っ張って立たせる。わたしは、ベンチから転がり落ちてしまった。
「り――ちゃん!」
 もがいた永森さんの声が、男の手の間から漏れる。
(わたしの名前…)
 もう少しなんだけど…。あと少しで、その言葉がわたしに届きそう。けども、いつまでも土の上に寝転がっているわけにはいかない。わたしは手をついて立ち上がった。男たちは、わたしが子供のくせに思いのほか気丈なのを少々驚きながら、顔を見合わせる。
「このガキはどうします?」
「始末しとけ」
「この辺りじゃ女子供を狙った殺しが頻発してる。それっぽくやっときゃ良いだろ」
「了解しました」
 男二人の手が伸びる。わたしは、逃げない。右手を握る。あのときと同じように、わたしは腕を振り上げた。
 だが何も起こらない。
 わたしは男に腰を抱えられ、そのまま持ち上げられてしまった。
「人目につかないところでやれよ」
 もう一人の男が言う。
 おかしい、こんなはずじゃ…。だってわたし、生きてて、おおきくなって、それで、それで…。
 もうすっかり、頭の中はパニックだ。わたしはすがる気持ちで永森さんの方を見た。抵抗したために殴られたのだろう。頬が腫れている。羽交い絞めにされて、何か叫んでいた。
 けど、その声は届かない。
 もう、ダメなんだ。
 大好きな人の声が、わたしのなかに届かない。わたしたちのあいだに、なにかが壁をつくっている。それは、くろくて、ドロりとしてて、わたしをつつんでぬりつぶしていく。
 わたし、もっと、ずっと、いっしょにいたかったな。
「――ちゃん…」
 さいごにひとこと、あのひとのなをつぶやく。でも、やっぱりからっぽ。だって、"わたし"はもう、きえちゃってて、ほんのひとかけらしかのこっていないから。それも、もう…。
 めのまえがどんどんくらくなっていって、いきができなくなる。
 けど。だれかのこえが、きこえてきた。
「――ちゃん!」
 この声が、わたしを呼び覚ましてくれた。まだ、言葉は届かないけど、その声は、気持ちは確かに、わたしに残っている心の、深いところに届いた。
 そうだ。
 届かない届かないって、泣いてる場合じゃない。届かないなら届かせればいいんだ。それに、わたしがその気にならなきゃ、せっかく大好きな人が呼んでくれても、一方通行になるだけじゃないか!
 だからわたしは、思い切り叫んだ。言葉にならなくてもいい。でも、
「けーちゃん!!」
 自分でも気付いていなかったけど、わたしの喉はその名を言葉にしてくれていた。
 その瞬間、わたしを包んでいた黒い物が全て崩れ落ちた。
 そこは、さっきの公園。わたしはエンハンサーに包まれて宙に浮かんでいる。足下の地べたでは、さっきわたしを連れ去ろうとしていた男が潰れていた。あのときは死んじゃったら困るからここまではしなかったけど、今は別。そいつの正体は、顔を見れば明らかだからだ。タールで塗りつぶしたような無面目。そう、こいつは魔王カーンデウスの分体だ。残った二人もすぐに正体を現した。顔が、手足がタール状の流動体に変化する。
 魔王の分体は、けーちゃんを放り出して飛びかかってきた。
 わたしは半ば怒りに任せて両手にパワーを集中した。
「こういうところに土足で踏み込んでくる、その無神経さはどうかと思うよ! 泥んこ遊びをしたら足を洗いないさいって、ママに怒られなかった?」
 いつもの調子が戻ってきた。
 そうだよ。丸くなって泣いてるなんて、わたしのがらじゃない。
 わたしは、拳を包んだエンハンサーの塊を、相手の出来の悪い泥人形みたいな頭に立て続けに叩き込んだ。すると魔王の分体はいともあっさりと、地面の黒染みと化した。
 …まったく、あんなのに負けそうになってたなんて、どうかしてた。
 わたしの心を壊して思い通りにしようなんて遠回りなことをするのは、取り込んで自分の一部にしてしまったら、わたしの力を使えないから。身体には生物としての限界があるから抗えなかったけど、心の勝負だったらそんなものなんて関係ない。そんなこと忘れてしまうほどのダメージを受けていたのは事実だけど、でも情けないし、魔王だけあって趣味の悪さに腹が立ってくる。わたしは黒染みに向かって凄く下品な言葉を投げかけてやりたくなったけど、けーちゃんの前だから止めておいた。いや、いつもそういうことは、思ってても口には出さないんだけど。
 それはさておき。
 わたしは、けーちゃんに飛びついて一番目立つ顔の腫れをヴェルヴェットフェザーで治してあげた。それから他の傷を診てあげようとしたら、けーちゃんはそれに構わず、わたしを抱きしめてくれた。
「璃音ちゃん! 良かった…」
 その声は確かに、わたしに届いた。藤宮璃音の、心の一番深いところに。
「うん。けーちゃんの声、聞こえたよ」
 けーちゃんが目を丸くする。
「聞こえたって…それに、この状況は?」
 わたしはもう全部判っていたから、説明してあげる。
「ここは、わたしの心の中。その、最後に残った記憶が作り出したものなんだよ。今のわたしはその記憶にしがみついてる、わたしの心の欠片なんだ」
「じゃあ、そこに僕が?」
「うん」
 頷いたわたしは、嬉しくて笑みを堪え切れなかった。
「助けに来てくれたんだね」
 すると、けーちゃんは困ったような照れくさいような顔をした。
「あ…ああ、そういうことになるのかな。僕も、あの黒いのに飲み込まれちゃって、それで、気がついたらここにいて、それから、あのベンチで…」
 何か言うごとに、照れてしどろもどろになっていくのが可愛い。
 わたしは、けーちゃんの手を取って浮かぶ。つられて、けーちゃんも立ち上がった。ここにいる"藤宮璃音"はこうやって飛ばないとちゃんと手をつなげないけど、本当のわたしは、確かにずいぶん見上げないといけないけど、それでも大好きな人と並んで歩けるように成長している。それを、これから取り戻すんだ。
 わたしは、けーちゃんと並んでベンチに座り、その顔を見上げて言った。
「ねえ。あのとき、けーちゃん何ていったか覚えてる?」
「ん? ああ…」
 けーちゃんは目を逸らした。彼には特別な記憶力があるから忘れているわけはない。照れているのが見え見えだ。
(可愛いなぁ)
 からかいたくなって来たけど、ここは我慢。そんなに時間は残っていないから。
「あのね、けーちゃん。じゃなかった、蛍太郎おにいちゃん」
 けーちゃんが何故か身をよじらせたけど、わたしは続けた。
「あのときは、ああやって変な人たちを追い払ってから…」
 わたしたちが出会って三ヶ月たったころ、日曜のデートでのこと。わたしは、けーちゃんの膝枕で眠ってしまった。帰る時間になって起こされたら、なんだかわからないまま悲しくなってしまって。…何が悲しかったのかは、今さっき大人の思考能力で振り返って理解できたけど。
 それで慰められて良い雰囲気になっていたら、けーちゃんの拉致を目的とした三人組の男に襲われた。それで、そいつらをパッパッと追い払って、わたしはこんなことを言ったんだ。
「わたし、言ったよね。『これからは、わたしが蛍太郎おにいちゃんを守ってあげるよ』って。…それで、ほら」
 わたしに促され、けーちゃんは躊躇いがちに口を開いた。
「うん。…『じゃあ、僕が璃音ちゃんを守ってあげるよ』」
 わたしは、そのときにしたのと同じように、声をあげて笑った。
「『えー。だって、わたしのほうが強いんだよ?』」
 けーちゃんは、
「うえっ、マジで?」
 と、呻いてからタメ息を吐いた。それでも、わたしの要求を感じ取って当時の再現をこなしてくれた。
「『いやいや。世の中、腕っ節だけじゃ渡っていけないんだぞ』」
「『ふーん。じゃあ、ごはん食べさせてくれたり、クルマ乗せてくれたり、色々してくれるの?』」
「『そういうこと』」
 胸を張る、けーちゃん。わたしは目いっぱい微笑んで、言った。
「『判った。それって、結婚してくれるってことだよね』」
「『え? あー、言われてみれば、確かに…』」
「『わーい、結婚して!』」
 わたしが胸に飛び込んだのを受け止めて、けーちゃんは優しく微笑んだ。
「『判った。璃音ちゃんが大きくなったらね』」
 わたしは頷くと、パワーで宙に浮かぶ。そして、けーちゃんの両頬に手を当て、その瞳を真っ直ぐ覗き込んだ。自分でこんなこと言うのもなんだけど、ディバインパワーって本当に便利だ。
「『じゃあ、蛍太郎おにいちゃんのこと、"けーちゃん"って呼んでいい? 蛍太郎おにいちゃんを縮めて、けーちゃん』」
「『うん。おにいちゃんって呼ばれるよか良いかも』」
「『結婚したら、"あなた"だね』」
「『最短で十年後の話だけどね』」
「『そんなに待てないよー』」
「『大丈夫。あっと言う間だからさ』」
 そして、けーちゃんは頭を撫でてくれた。なんだか安心してしまって、わたしは目を閉じた。すると、唇に何か温かい物が触れた。慌てて目をあけると、けーちゃんが少し頬を赤くして、優しく微笑んでいた。
「『ほら。そろそろ帰らないと、お父さんが心配するよ』」
 と、ポカーンとしているわたしの手を取る。
「『うん…』」
 わたしは頷いて、それから言った。
「『もう一回してくれたら、帰る』」
「『いいよ』」
 促されて目を閉じると、わたしはそのまま抱き寄せられた。
 
 これが、初めてのキス。 
 この日から、わたしの目に映る世界は輝きを増した。そんな気にさせてくれる、これがわたしたちの最初の思い出だ。
 
 
 今度こそ本当に、闇が晴れた。
 ヴェルヴェットフェザーの暖色の輝きが暗く澱んだ闇を打ち消し、押しのけていく。
 十七歳のわたしの傍らで、けーちゃんは手を繋いでくれている。その顔を、わたしは見上げた。
「もう少し、こうしてて」
「うん。なんなら、ずっとでも」
 優しく、けーちゃんは微笑んでくれた。
 わたしを救ってくれたのは思い出と、なによりも、大好きな人の想いだったんだ。魔王に取り込まれてしまったあの男は、これをどこかで見ているだろうか。
(一人立ちできてないだけかもしれないけど…でも、わたしの未来はここにあると信じてるから。だから、わたしはこの人と一緒にいるって決めたんだよ)
 届くはずのない言葉を置いて、わたしは愛する人とともに飛び立った。
 
 
4−
 AO・ドゥーカが膝をつく。
 周囲はすっかり瓦礫の山と化し、元の面影はない。魔王カーンデウスは勝ち誇り、AO・ドゥーカの足首を掴むと吊り上げる。全高十五メートルの巨人が、それに三倍する体躯の魔王に逆さ吊りにされた。
「これまでだな」
 冷笑する魔王。だが、 
「まだまだ!」
 AO・ドゥーカの自由な方の爪先からナイフが飛び出し、魔王の指に斬りつける。さらに光の飛剣が五本、束になって魔王の手首を切断した。
「おのれ!」
 開放されたAO・ドゥーカは魔王の損傷した腕に向かってメルトスクワーターを発射する。強酸によってコンクリートが溶け落ちるが、手は門から補給された黒いタール上のモノで再生した。
「埒が明かないな」
 侑希音が毒づく。亜沙美が舌打ちした。
「ヤツが取り込んだコンクリートはだいぶ除去したんだがな」
 周囲のビル郡を取り込んだ直後と比べると、魔王の身長は半分近くになっている。防御の足しにと前面に押し出したコンクリートを破壊し続けた結果、かさが減ったのである。
 クラウソナスと十三本に減った飛剣の先を魔王に向け、亜沙美はロボヘッドに問う。
「あと、どれ位動ける?」
「三分デス」
 一瞬の沈黙ののち、亜沙美は眉を上げた。
「上等!」
 AO・ドゥーカが飛ぶ。左肩周辺に対物理バリアを張り、そのまま降下してショルダータックルをかけた。
「ぬうう!」
 魔王の体表を削りながら、AO・ドゥーカの全重量が圧し掛かる。魔王は触手を伸ばして背後からAO・ドゥーカを攻撃しようとするが、それは飛剣に遮られる。
「さっさとくたばりやがれッ!!」
 亜沙美の怒気に感化されたのか、今までなく強い光を放ちながらクラウソナスが魔王の脇腹に食い込み、そのまま切り上げる。分断された魔王に、
「ショットアンカー、射出!」
 AO・ドゥーカの腰部両サイドから放たれた杭付きワイヤーが突き刺さり、貫通する。そしてアンカーの先は地面に深く突き刺ささった。
 AO・ドゥーカは触手や魔王の腕による攻撃、ビームを飛剣でしのぎながらバックステップ、両脚を大地に打ち込むようにして着地すると、二本のワイヤーを束ねて握る。
「今だ!」
 亜沙美が叫ぶ。
「よし!」
 遥か高空に留まっていたグラヴィが一気にパワーを展開、直後、視界を白く塗りつぶすほどの強烈の光が杭のように大地を穿った。
「ぐおおおおおおっ、何だこれは!?」
 光の焦点に立っていた魔王は凄まじい高熱に晒されコンクリートが沸騰、みるみる縮んでいく。
「よっしゃ!」
 亜沙美と侑希音が揃って快哉を叫ぶ。
 これぞMr.グラヴィティ最大の破壊技、重力レンズである。
 広範囲にわたり空間をレンズ状に歪め、太陽光線を一点に集中させるという荒業だ。ただでさえ膨大な熱量をもつ太陽光を集約したエネルギーは凄まじく、虫眼鏡サイズで紙を焼けるものが直径一キロという大きさで展開されているのだから、その恐ろしさが伺える。焦点以外ではある程度熱量が落ちるものの、一つ間違えば大量破壊に繋がる恐ろしい技である。
 ついに元のサイズに戻った魔王だったが、門からの補給で形を保ちながら、焦点から脱出しようともがく。だが、AO・ドゥーカがワイヤーを張っているので身動きが取れない。
「小賢しい!」
 魔王はワイヤーを掴み、力任せに引いた。バランスを崩すAO・ドゥーカ
。さらに、魔王はAO・ドゥーカをレンズの焦点に引きずり込もうと引きを強めた。
「この野郎! ガス欠気味だってのに、力比べかよ!」
 クラウソナスを深く大地に突き立て、それと両脚を支えにするAO・ドゥーカ。綱引きは膠着状態になり、ワイヤーはピンと張ったまま動かない。
 不意に、瓦礫を消し飛ばしてビームが天空に向けて放たれた。見ると、魔王から百メートルほど離れたところに触手が出ていて、そこから放たれたようだ。そして、重力レンズが消滅し光の杭が消えた。
「くそ!」
 歯軋りする亜沙美。すると今度はAO・ドゥーカの機体が揺れた。ロボヘッドが悲鳴を上げる。
「魔力炉、破損!」
「しまった!」
 亜沙美がシートの肘掛に力任せに拳を打ちつけた。先ほど天に放たれたビームが、今度はAO・ドゥーカを撃ち抜いたのだ。侑希音が叫ぶ。
「修復は!?」
「ダメだ、主動力が絶たれてしまってはッ!」
 そして、AO・ドゥーカは糸を切られた人形のように力なく崩れ落ちた。その傍らに、グラヴィが落下してくる。何とか墜落を免れたが、パワーが残り少ないらしく殆ど転げるようしてに瓦礫の上に着地した。
「すまない…」
 呻くグラヴィ。その右腕は骨の支えを失ってダラリと肩からぶら下がっていた。
「万事…休すか…」
 侑希音が搾り出すように呟いた。それを嘲い、魔王カーンデウスは無傷に等しい自らの姿を見せつけるようにゆっくりと、朽ちた象徴機械の前に歩みよる。
「人間風情が手こずらせおってェッ。この屈辱、貴様らは殺しても殺したりんわッ!」
 グラヴィがヨロヨロと立ち上がり、今までと変わらぬ鋼の意思をこめた眼差しで魔王を見上げた。
「そうか。ならば今のうちに慣れておくがいい。この地球に貴様が居座る限り、その屈辱を味わい続けることになるのだからなッ」
「おぉのぉれぇッ!!」
 魔王は激昂し、邪魔者たちを焼き払おうと大きく口を開いた。
 だが、そのとき。
 身体に衝撃が走り、魔王の動きが止まる。
「なんだと!?」
 驚きの声を洩らした、直後。円錐状の発光体に肩を穿たれ、魔王は半身を消し飛ばされた。
「ぐおおおおおッ、まさか、そんな!」
 悲鳴と動揺の声をあげながら、よろめく魔王。発光体が光を消すと、そこには人の腕を模した黒い物体が浮いていた。サイズはAO・ドゥーカのものとほぼ同等。破壊を終えた腕は、そのままいずこかへ飛んで行く。その先には、光り輝く巨人の姿があり、先ほどの腕はその巨人の無くなっていた左肘にくっ付いた。
「あれは…」
 その姿に呆気にとられる亜沙美。膨大な魔力量を示す計測データが頭に流れこんでくる。その後ろで、侑希音は確信を持って断言した。
「璃音だ」
 それから、首を傾げる。
「だが、あの姿は…」
 巨人の白く輝く身体には黒いラインが走り、左右ともに手袋をはめたような手は右が薄桃色で左が黒、頭の両側から下がるウサギの耳のような感覚器官が目を引く。その頭部はヘルメットに覆われたように目が無く、人によく似た口元が覗くのみ。だが、その頭部からは赤い光が透けて、ときには目のように見える。
 グラヴィは頬を緩め、巨人を見上げた。
「無事だったか!」
 輝く巨人は力強く頷いた。その右腕が外れ、AO・ドゥーカの傍らに飛来する。そして、掌から暖色の光が降り注いだ。この光の力でグラヴィの傷が癒されAO・ドゥーカの損傷が修復されていった。
 そして、声が響く。
「聞いてください。わたしに策があります」
 その声はやはり、藤宮璃音のものだった。
 一方で、光の巨人は残った左腕を振り上げる。その爪から発した光が錐状のエネルギー体となって下腕部全体を覆う。赤く光るドリルとなった腕を突き出し、巨人は魔王に突進する。魔王は補給で一気に身体を修復し、両腕でそれを受け止める。だが、ドリルに触れた部分がどんどん消滅してしまう。魔王はさらに門からのパワーを引き出し、これをしのいだ。
「おのれ、しぶといヤツ! 我の支配を逃れるとはッ!!」
 巨人の頭部、その中に位置する赤く輝く中心核で、璃音は眉を上げ、強固な意志と勇気を秘めた瞳を、目の前の邪悪に向けた。
「わたしは、ひとりじゃないから…」
 その手を、傍らで蛍太郎が力強く握る。
「僕は、約束したんだ。この子を守るって。だから…」
 巨人の身に更なる力がこもった。
「お前なんかに、負けるもんか!!」
 光が弾ける。魔王の両腕が分解され、消し飛んだ。
「がァッ!!」
 魔王が大口を開け、仰け反る。だがそれは悲鳴を上げたのではなく、
「死ねいッ!」
 次の瞬間、ビームの光芒が巨人を包んだ。だが、パワーシールドと同様のバリアに守られて傷一つ付けられない。目を剥く魔王に、黒い拳がお見舞いされた。
「ぐおおっ!」
 もんどりうって、魔王は瓦礫の中へ倒れこむ。
「やった!」
 蛍太郎は拳を握る。そして、もう一方の手を握っている璃音の横顔を覗きこんだ。
 
 
 魔王カーンデウスから開放され、蛍太郎が意識を取り戻した時、彼は璃音の手を握ったまま眩しい光の中を漂っていた。殆ど同時に目を覚ました璃音が穏やかな笑みを浮かべて蛍太郎を手繰り寄せ、その胸に身体を預けてくる。
「けーちゃん」
 蛍太郎は璃音の頭を抱えるようにして撫でてやると、言葉をかけた。
「璃音ちゃん。良かった…どうなることかと思ったよ」
「けーちゃんのお蔭で、助かったよ。ありがとう、守ってくれて」
 璃音は満面の笑みを浮かべ、そしてさらに深く頬をすり寄せた。ずっとこうしていたい気もするが、蛍太郎は現状を再認識して璃音の肩を掴んで引き剥がした。今、周囲に満ちている光はそれまでに璃音が見せた力によるものと少し違っているように見えるのも、気になる。
「ここはどこ? これから、どうするのさ?」
 璃音は未練がましそうに頬を膨らませてから、答えた。
「ここは魔王の内部で、これからもちろん脱出するんだよ。けど、出てからのことをちょっと考えてるところ。
 あの魔王は、門が開いている限り幾らでも自分を再構成できるみたいだけど、だったら門を閉じてしまえば良いと思うんだ」
 蛍太郎は頷いた。
「なるほど…。でも、そんなことできるの?」
 璃音は頷きかけて、だが首を振った。
「…今のままじゃ無理かな。パワー不足かも。けど、けーちゃんが力をくれたらできると思う」
「僕が?」
 目を丸くする蛍太郎。璃音は頬を赤くして俯いた。
「あと少しなんだけど、なんだか怖くて。だからさっきも、ムダにくっ付いてたわけじゃないんだよ…」
「えーと…そういうんでいいの?」
「うん」
 璃音が確信をもって頷くので、蛍太郎は僅かに思案してから言った。
「判った。じゃあ、凄い効くのお見舞いしてあげるから、目を閉じてて」
 キョトンとしていた璃音だったが、言われるままに目を閉じる。蛍太郎は深呼吸をしてから、璃音を抱き寄せて唇を重ねた。一瞬、璃音の背筋がビクンと跳ねるが、すぐに身体の力を抜いて全てを委ねる。いつになく過敏になっていた神経が熱いもので溶かし解されていくような気がして、璃音は思考が白く塗り潰されていく感覚に酔い痴れた。
 ついさっきまで魔王に無理矢理与えられたものとは違う優しい心地よさに包まれた、蕩けるようなひと時の後。璃音は夢見心地な瞳を蛍太郎に向けた。
「けーちゃん…」
「どうだった?」
 予想外の効果に驚きつつも、蛍太郎は璃音の頭を撫でた。すると、ようやく目の焦点が定まってきた璃音が、まだ先ほどの余韻を惜しむような口調で答える。
「よかったぁ…。全部、真っ白になって…生まれ変わった気分」
(…そうか。璃音ちゃんの中でまた何か変わりつつあるんだ。その一歩を踏出すきっかけを僕に求めたのか)
 それから、蛍太郎はまだ動こうとしない璃音を抱きしめてやる。すると、周囲の光が一際激しくなり、そして弾ける。次の瞬間には、魔王の分身ごと瓦礫を粉砕し、外の世界へと飛び出していた。だが喜ぶ間もなく、魔王の前に崩れ去るAO・ドゥーカの姿が目に入る。
「大変!」
 璃音は一気にエンハンサーを放出した。
「どうするの?」
 と、手をつないだままの蛍太郎。すると璃音は力強く頷いた。
「二つの力を一緒に使うの。門を閉じるのと、アイツを倒すのと。両方やるには、それしかない!」
「そんなことって…」
 フラッフとヴォルペルティンガー。
 相反する力を持つ二つのアヴァターラは、ともに璃音の周全相であり、表裏一体の同一存在であるために同時に現れることはなかった。だが驚く蛍太郎を尻目に、放出エンハンサーは頭の中に中心核こそ存在しないもののフラッフの形となる。さらに、それが半分に分裂して片方が裏返りヴォルペルティンガーとなる。こうして二体の核無しのアヴァターラが実体化した。
 璃音は目を閉じ、胸の上に手を揃える。
「上手くいくと思うけど…お願い!」
 そして、襟に隠れたチョーカーに固定されているイデアクリスタルに残ったパワーを送り込んだ。すると、璃音の身を包んでいたパワーシェルが、アンダースーツとチョーカー、シューズを残して弾け飛ぶ。分離したパワーシェルは追加で送り込まれたパワーによって形を変え、二つのアヴァターラを結びつける。それはさらに形を変え、全長十五メートルほどの巨人となった。フラッフが右腕に、そしてヴォルペルティンガーを左腕とし、それを結びつけるボディをパワーシェルで作り上げたのがこの姿だ。中心核は頭部に位置し、それぞれの能力を司る。
「凄い!」
 中心核の内部で蛍太郎が息を呑む。璃音は繋いだ手に力を込めると、パワーを放出させた。
「ラディカルベイン!」
 巨人の左腕が分離し、魔王に突進する。この腕にはヴォルペルティンガーの力がそのまま宿っているのだ。命中を見極めて、璃音は蛍太郎へ視線を向けた。
「けーちゃん、これからの事だけど…」
 その判っていたので、蛍太郎はその唇に人差し指を当てた。
「降りないよ。少なくとも今日は、ずっと一緒にいる」
 璃音は目を丸くして、それから頬を緩めた。蛍太郎は微笑みで応え、言葉を続けた。
「ところで、これの名前は決まってるのかい?」
 璃音は頷く。
「なぜか、頭に浮かんできたの」
 それはイデアクリスタルの力を借りているからかもしれない。魔術師たちは初めて象徴機械を実体化させたとき、その名が自然と脳裏に浮かぶという。同様の現象が璃音にも起きたのだ。
「"インサニティエンプレス"…って」
 なるほど、破壊と癒しを同時に司る者に相応しい名だと、蛍太郎は頷いた。
 
 
 "エンプレス"は魔王カーンデウスと互角に渡り合った。魔王の攻撃はパワーシールドに遮られ、近接してはラディカルベインの力を持つ左腕が防御不能の攻撃を繰り出す。だが、門からの無限の補給があるかぎり魔王は何度でも立ち上がる。削り取られた身体を修復し、魔王はマントを広げて宙へ飛ぶ。
「逃さないから!」
 エンプレスもエンハンサーをまとい空へと追う。魔王のビームをパワーシールドで受け止め、エンプレスは左掌と、右肘の断面を前に向ける。そこから、パワーボルトが連続で発射された。
「ぐおっ!」
 爆炎に包まれる魔王。追い討ちでラディカルベインが剣状になって飛び、魔王の左腕を切断した。
「おのれッ」
 そのダメージを、魔王はすかさず再生ようとするが、今までのようなスピードで再構成が進まない。その隙に、
「たああああああっ!」
 上昇し距離をつめていたエンプレスの蹴りが魔王の腹にヒットした。
「パワーボルト!!」
 さらに足の裏からパワーボルトが発射され、ゼロ距離からの衝撃であっさりと魔王の腹に風穴を開けた。
「なんだと!? この程度で、我が肉体がッ」
 これまではさしたるダメージにならなかったレベルの攻撃で大きな損害を受けてしまい、魔王が狼狽する。そのうえ再構成スピードがどんどん遅くなっており、先ほどやられた左腕は再生途中で今の衝撃を受け、千切れて地上へと落下していった。
「どうしたことだ! 我が力は無限のはず! まさか…」
 そのとき、魔王は門に異変が起きていることに気付いた。
 上空から見ることで初めて、門が小さくなっているのを見て取れたのだ。出口が小さくなれば当然パワーの供給スピードも減る。そのために再構成が遅くなってしまったということだ。そして、門の空間中央には、エンプレスの右腕が浮かんでいたのである。
 そう。
 魔王と戦っている間にヴェルヴェットフェザーで空間を元に戻す。それが、璃音の策だったのだ。
 罠に気付いた魔王は門に向かって急降下、エンプレスもそれを追う。だが、スピードでは魔王のほうが上手だった。
「小賢しい策を弄しおって! だが、これで終わりだ!!」
 魔王が口を開く。しかし、地上から飛来した幾条もの光が真正面から魔王に直撃した。
「ぐおおおっ、なんだッ!?」
「バーカ。そんなのエサに決まってんだろーが」
 亜沙美の声が響く。魔王の体には十二本の飛剣が突き刺さっていた。
「だいぶ減っちまったが、これだけありゃ充分だろ」
 AO・ドゥーカがおもむろに姿を現し、芝居がかった動作で手を上げ、指を鳴らす。すると飛剣がそれぞれ動き、魔王を切り刻む。
「ぬううううッ!!」
 呻く魔王。さらに、AO・ドゥーカは跳躍し、クラウソナスを大上段に振りかぶる。
「お前のツラはもうウンザリなんだよ!」
 侑希音が叫ぶと、
「いいかげんに、くたばりやがれ!」
 亜沙美が吼える。二人分の魔力を上乗せしたクラウソナスが、魔王を唐竹割りにした。さらに大気を引き裂く金切り音が響き、黒い影が一直線に突っこんで来る。
「重力稲妻流星キックッ!!」
 高高度から通常の数倍に及ぶ加速をつけて落下してきたグラヴィの蹴りが魔王を射抜く。
「ぎゃあああああああああああッ!!」
 バラバラになった魔王が四散する。それに、亜沙美が更なる追い討ちをかける。
「ニードルシャワー!」
 AO・ドゥーカの肩に装備されたサイロの下段内側が展開、そこから無数の針が射出された。先端部分に五秒間だけクラウソナスと同様の力を付与された針が、魔王を刺し貫きボロ雑巾へと変える。
「う、ううう…」
 魔王は、見る影もないほど弱々しい声で呻いた。門は既に九割がた閉じており、パワーそのものも落ちていたのだ。この世界に現れた直後、クーインに憑依したのは依り代が無ければこの時空に存在できないからである。魔王カーンデウスは巨大な力と引き換えに、自らの宇宙と繋がっていない限り存在し続けることが出来ないという脆弱さをも得ることとなった。そのため、各時空に従者が必要だったのだ。
 さらに今、門は小さくなっただけでなく、エンプレスの右腕のパワーシールドによって蓋をされている。これによって再生のための補給を受けることも出来ないのだ。
 魔王は敗北を悟った。
「もはや、これまで。…だが!」
 散り散りになった魔王の欠片から、人一人ほどの大きさの塊が零れ落ちた。それが、門に向かって落下していく。
「今回は負けを認めてやろう。だが、次はこうはいかん。万全の備えを以って、貴様らを攻め滅ぼしてくれよう! ふはははははははッ!」
 捨て台詞を残して去り行く魔王。これで全て終わったかと思われたが、璃音が弾かれたように叫ぶ。
「大変!」
 そして、エンプレスを門に向かって急降下させた。
「おい、どうしたんだ!?」
 AO・ドゥーカの中から侑希音が声を張り上げる。
「あのなかに、アイツがいるの!」
 と、璃音。
「アイツって…サーバントクーインか!?」
 グラヴィが気付き、叫んだ。
「危険だ! 門はもう、閉じかけているんだぞ!!」
 丁度その時。パワーシールドに穴を開けて、小さくなった魔王が門に飛び込んだ。
 侑希音が怒鳴る。
「バカ! ソイツの自業自得なんだから、助けることないだろッ!!」
 しかし、その声を振り切るように、エンプレスも門に飛び込んだ。
 異空間に飛びこむと、エンプレスは魔王を感覚器官で追う。すると、目の前の空間をサーバントクーインが漂っているのが見えた。それを左手で掴んだところで、
「璃音ちゃん、急いで!」
 蛍太郎が叫ぶ。"上"を見ると、門は右腕だけで蓋が出来る程度の大きさになっていた。
「うん!」
 璃音は全速力でエンプレスを門へと飛ばした。みるみる、視界に門が迫ってくる。
「もう少しだ」
 安堵の声を洩らす蛍太郎。だが、大きな衝撃が走り、動きが止まる。見ると、復活した魔王がエンプレスの両脚を掴んでいたのだ。
「しまった!」
 門は、もう閉じかけている。
 とっさに、璃音はクーインを全力で放り投げた。
 その直後。
 異世界同士を繋ぐ門は完全に、その姿を消した。
 
 
5−
 街はすっかり元通りの姿を取り戻していた。
 ひまわり幼稚園も、先ほどまで異世界の門が開いていたことなど嘘のようだ。エンプレスの右腕、ヴェルヴェットフェザーが消滅寸前に放出したパワーにより、一帯が修復されたのである。
 そして、前庭の中央にはサーバントクーインが横たわっていた。いや、かつてクーインであった男、というべきだろうか。
(ここは…)
 意識を取り戻したクーインは身を起こし周囲を確認し、自らの負けを悟った。もっとも、魔王に取り込まれ自我が消滅した状態では勝ちも負けもない。璃音の場合と違いクーインの力はもとから魔王カーンデウスのものなので、敢えて彼の精神を生かす必要は無かったということだ。
(…アイツも、僕を裏切ったのか)
 魔王への怒りがわいてくるが、まずは逃げることが先決だ。今までしてきたように、マントをなびかせて飛べばよい。
 だが。
 立ち上がったクーインは、自らの力が失われていることに気付いた。飛ぼうとしても、ただ背伸びを繰り返すだけになってしまう。そのうえ、今までは肌と一体化したように感じられていた全身タイツが、蒸し暑いわ股に食いこむわの何の変哲もない普通のタイツに戻ってしまっていた。
「くっそぉぉぉぉッ!!」
 悲鳴に等しい叫び後を上げ、クーインは走り出す。しかし、上空から舞い降りてきたMr.グラヴィティ、亜沙美、侑希音に取り囲まれてしまう。やむなく、サーバントクーインのスーツを着た貴洛院基親は両手を上げた。だが、その頬を激痛が走る。倒れ伏した貴洛院が何とか顔を上げると、藤宮侑希音が鬼の形相で見下ろしていた。
「璃音に免じて命だけは助けてやるが…貴様らは絶対に許さないからな」
 さらに、腹に蹴りが入る。鉄板が入った靴での蹴りは鈍器で殴られたに等しいものがある。この痛みの質から察するに、どうやら先ほど顔に受けた打撃も蹴りによるものだったらしい。さすがにグラヴィが止めにはいったのでそれ以上の追撃は無かったが、それでもこの二発は平凡な学生にはキツイものがあった。
(クソ…これで、終わりなのかよ)
 痛みでまとまらぬ頭で、貴洛院基親はボンヤリと先のことを考える。
 
 …胸の奥が、じくじくと痛んだ気がした。
 
−−−−−−−−
 
 我々の宇宙は真空の闇が延々と続く世界だ。昔は"宇宙は真空で満ちている"などと言われたものだが、実際のところ真空というのはミクロな視点においては有と無がつりあった状態であり、そこには本当に何もないわけではない。見方によっては、宇宙はそういう状態の物で満たされてると言う事もできる。
 ならば目の前に広がる、どこまでも赤黒い空間はどうか。
 と、インサニティエンプレスの核の中で、蛍太郎は考える。
 門を抜けた先に広がっていたこの世界は魔王カーンデウスの宇宙である。見渡す限り星も無く、璃音の目には、この空間全体に魔王のパワーが見えるという。つまり、ここは真空の代わりにカーンデウスで満たされた空間なのだ。
 蛍太郎の傍らでは、璃音がエンプレスの再構成を行なっていた。門を閉じた時に失った右腕をもう一度作りだし、その力で各部の修復を行なう。さらにパワーシールドで神体を覆った。作業が一段落すると、璃音は夫の顔を見上げた。
「ごめんね、けーちゃん…」
 今は、まさに文字通りに出口のない状況だ。
 一アーティファクトに過ぎないコークスクリューがこの時空への門を開けえたのは、こちら側から魔王の力が作用したからに他ならない。だが、今は魔王の力によってブロックされてしまっていて、エンプレスの力ではどうすることも出来ないのだ。
 俯いた妻の髪を、蛍太郎は優しく撫でた。
「いや。君は正しい事をした。謝る必要はないよ。今はまず、この状況を打破することを考えよう」
「けーちゃん…」
 夫の優しさに、璃音は頬を緩めた。だがそれもつかの間。目の前いっぱいに、魔王カーンデウスの無面目が広がる。
「ふははははは! 小細工は済んだかな? では、無限の力を持つ我に歯向かうなどムダの骨頂である事を、今からじっくりと教えてやろう!」
 下品に哂う魔王から全速で距離をとるエンプレス。いかな絶対破壊能力ラディカルベインでも、相手が小惑星より大きいのではどうしようもない。
 適当なところで停止し、璃音は息を整えた。巨大な相手の重力から逃れるためには相当なスピードを要求されるので、それだけで一苦労だ。しかも相手は距離など関係ないとばかりに瞬間移動さえしてくるのから、逃げおおせるとは思えない。そんな璃音たちを嘲い、魔王は大仰に両腕を広げた。
「どうした? 撃って来い!」
 言われるまでもない。エンプレスが両手を上に掲げると、その間に特大のパワーボルトが形成された。さらにエネルギーを送り込み、エンプレスの数倍の直径まで膨張したところで、それを撃ち出す。地球で魔王を圧倒した時とは比較にならないほどの高エネルギー弾だったが、しかし魔王はそれを片手であっさりと受けとめ、握りつぶした。その直後、もう片方の腕が何倍にも伸びて、拳がエンプレスに直撃した。
「きゃああああっ!」
 吹っ飛ぶエンプレス。璃音が一瞬途切れた意識を再び取り戻した時、エンプレスは胸から下が原形をとどめないほどに潰れてしまっていた。
 魔王の声が響く。
「くくく。その調子では、我が本気で手を下せば瞬きする間ももたずに終わってしまうではないか。…ならば、余興といくか。見よ!」
 エンプレスの周囲の空間が揺らぎ、六つの影が現れた。それぞれが全高十五メートル超で、紫をベースにした色使いには見覚えがある。
「あれは、もしかして…」
 遅れて意識を取り戻した蛍太郎が呻く。魔王が得意げに答えた。
「そう。これぞ我が従者たち。無数の宇宙に存在する従者のうち、自らの宇宙を見事に征服した者たちだ。その中から貴様らとつりあう大きさの者どもを召還した。あまりハンデが付きすぎると面白くないだろう? ククク…」
 魔王の冷笑に従者たちもつられて笑い、そして自己紹介を始める。
「サーバントドルヴァ」
 一際大きい、コウモリのような翼を備えた従者が長大なハルバードをかざす。
「サーバントエレナ」
 錫杖を持った、女性的なフォルムの従者だ。
「サーバントムチウヴィア」
 ヘビに似た頭部を頭部を持った鎧武者である。
「サーバントアオロ」
 背中にビッシリとフジツボのような突起を生やした恐竜型の従者だ。
「サーバントニネガラ」
 細身の剣を携え、鋭角的で見るからにスピードが出そうな外観をしている。
「サーバントラサス・セラサ」
 細身で丸みを帯びた姿をした従者で、武器らしいものは携行していない。
 ドルヴァが進み出て、ハルバードを突き出す。
「いざ、お相手仕らん!」
 その号令を合図に、六体が一斉に飛びかかってきた。
「くっ」
 璃音は一気にエンプレスを修復し、パワーシールドを強化する。真っ先に飛びかかってきたドルヴァのハルバードを受け止め、カウンターでラディカルベインを突き立てる。
「ぐ、ぐおおおおおおおっ! ザムサザー宇宙最強を誇る、このオレ様がぁあああッ!!」
 返す刀で逆袈裟に両断され、サーバントドルヴァは爆発四散した。
 蛍太郎が目を丸くする。
「あれ? 一番強そうだったのに…」
「まだ! 残ったヤツらのほうがもっと強いよ!」
 と、璃音。その赤い瞳が今までと違う輝きを見せていた。不意にエンプレスが身を捻ると、その横をサーバントニネガラが掠めていく。案の定、スピードタイプだったようだ。それを一瞥し、璃音は蛍太郎に眼差しを向ける。
「けーちゃん、わたしから離れないで」
「判ってる」
 強く手を握り返すと、璃音は頷いた。
「後のことは考えないで、全力でいくから」
「ああ。皆やっつけちまえ!」
 もう一度頷き、璃音は目の前の敵を凝視し、レッドヴィジョンをフル稼働させた。
(これで!)
 僅か先の未来を視る。ニネガラが頭上から来るのを見て、そこに特大パワーボルトを置く。
「ぎゃっ!」
 直撃を受け、ニネガラがよろめく。
「クソ…オレのスピードが見えているというのかッ」
「どいてろ!」
 サーバントアオロが全身の突起からエネルギー弾を発射した。エンプレスはそれをかわし、さらに飛ぶ。その後ろをエネルギー弾が追いかけるが、全て目に入っているかのように最小限の動きで避けていく。
「ちっ、追尾式だということを読んでやがったか…」
 舌打ちするアオロ。小さく笑い、サーバントラサス・セラサが進み出る。
「でも、これはどうかな?」
 ラサス・セラサが手をかざすと、遥かに離れたはずのエンプレスが金縛りにあったかのように動きを止めた。璃音が驚きに目を丸くする。
「くっ、動けないッ」
 そこに全てのエネルギー弾が殺到、爆炎が一帯を包む。
「やったぞ!」
 快哉を叫ぶアオロ。だがラサス・セラサが目を剥く。
「アイツ、私の念動縛を断ち切りやがった!?」
「なに!?」
 狼狽するアオロめがけ、炎を突っ切ったエンプレスがラディカルベインを構え一直線に向かってくる。だが、それを光の壁が遮った。サーバントエレナが錫杖をかざして、そこにいた。
 璃音は壁の向こうの敵を睨み、眉根を寄せる。
「念動力の次は魔術か…」
 間髪入れずエレナの錫杖が輝き、エンプレスがいる空間に大爆発が起きた。
「きゃあああっ!」
 吹っ飛ぶエンプレスに、サーバントムチウヴィアの長く伸びた首が巻きつき、縛り上げた。神体が軋み、呻く璃音。それを楽しむように、ムチウヴィアは締め付けを強め、笑う。
「ククク。これまでだなァ」
 しかし、その笑いはラサス・セラサの悲鳴でかき消される。
「ああああああああああッ!!」
 ラサス・セラサの眉間にラディカルベインが突き立っていたのだ。
「ぬうっ」
 それで初めて、ムチウヴィアはエンプレスの左腕がないことに気付いた。
「なんてこと!?」
 ラサス・セラサが爆発する。
 エレナが激昂し、叫んだ。
「どけぇ、ムチウヴィアッ!!」
 だがエンプレスは右腕と左脇でムチウヴィアの伸びた首を抱え込んで離さず、そのままエレナに向かって直進する。
「クッ!」
 エレナの錫杖が光る。だが、璃音は動じない。
「それが魔術だって判れば!」
 エンプレスの右手が輝く。璃音は未来視でエレナの技を見てはいたが、それが魔術だとは判らなかった。地球のものとは系統が違うためである。そこで、実際に受けることで確認したというワケだ。魔術であれば、あらゆるものを元に戻す効果のあるヴェルヴェットフェザーで対抗できる。その光が魔術式による作用を逆行させて元に戻すことで、魔術の発動を妨げるのだ。
 光の壁が張れず、エレナはそのままエンプレスと激突した。エレナは直接戦闘には向いていないらしく、その衝撃で動きを止める。この状況に、アオロは狂乱した。
「うわああああああッ! バケモノめェッ!!」
 そして、エネルギー弾を乱射する。その全てがエンプレスに着弾する。だが、悲鳴を上げたのはムチウヴィアだけだった。
「バカモノ、よせぇ!! うぎゃぁああああッ!!」
 だが、その声は届かない。力尽きたムチウヴィアを振り払い、エンプレスはエネルギー弾を掻い潜ってアオロに近接、
「たあっ!」
 アオロのアゴに蹴りを食らわして体勢を崩させる。そして、左腕を元通りに収め、それでアオロを両断した。
 そのまま、エンプレスは魔王に向かって直進した。エレナが魔術で砲撃するが、後ろからの攻撃に関わらず、エンプレスはそれをことごとくかわす。逆に、足裏からのパワーボルト乱射を受け、エレナは錫杖ごと右半身を吹き飛ばされた。
「く、無念です…カーンデウス様…ッ」
 エレナは遠くに消えるエンプレスの後姿を見ながら、意識を失った。
「後は魔王だけだ!」
 蛍太郎が拳を握ると、璃音が頷く。エンプレスが眩い光に包まれていく。
(来る!)
 直角に軌道を変える。そこに、魔王の拳があった。
「我が従者たちを倒すとはな。では、我が直々に相手をしてやろう!」
 さらに魔王が拳を振るう。だが、光速に等しい速度で繰り出される拳は、全てエンプレスに回避されてしまう。
「うぬぅッ!」
 呻く魔王。挑発するように、璃音が叫ぶ。
「見えてれば、どうってことない!」
「猪口才な!」
 魔王が口からビームを吐くが、エンプレスは発射前から回避行動をとっていたために無傷。
「璃音ちゃん!」
「判ってる! アイツの弱点を突く!」
 ビームを避け距離を詰めながら、璃音はレッドヴィジョンを総動員し魔王を凝視する。だが、その隙をつかれ、後ろから現れたサーバントニネガラに組み付かれてしまった。
「きゃっ!」
「ふはははは、驚いたか! この六人の中では、オレが一番頑丈なのだ!」
 そして、ニネガラは嬉々として主の名を呼んだ。
「カーンデウス様!」
「うむ。よくやった」
 そして魔王は、ビームを発射した。
「そ、そんな!」
 目を剥くニネガラ。次の瞬間、ビームが直撃した。エンプレスは反転し、背中に組み付いたニネガラを盾にする。そしてパワーシールドを全開にし、ビームの流れに乗り射線に対して斜めに飛び、光の奔流から脱出した。
 エンプレスは燃えカスとなったニネガラを振り払い、再び魔王めがけて突撃した。
「おのれぇッ!!」
 激昂した魔王の全身から触手が伸びる。それをかわし、切り裂き、焼き払い、そのままエンプレスが直進する。
 璃音の赤い瞳には、魔王の全身をめぐるエネルギーの流れが見えていた。そして、その中心も。
 視界いっぱいが魔王の黒い身体で埋め尽くされると、璃音は一気にパワーを放出した。
「はああああああっ!!」
 ラディカルベインが十倍近くに伸び、突き出される。それは、魔王の額を刺し貫いていた。
「うおおおおおおおおおおおおおッ!!」
 魔王カーンデウスの絶叫が虚空に響き渡る。その肉体は急速に力を失い、溶け落ちるようにして拡散していく。
「まさか、こんなことが…。こんな、矮小なモノに、我が…」
 呻く魔王の視覚には、パワーを使い果たし分解していくエンプレスの姿が見えていた。璃音と蛍太郎が手を握り合ったまま、魔王の視線を見返す。だが敗者であるカーンデウスは、まともに目を合わせることも出来ず、そのまま崩れ落ちていった。
 赤黒いもので覆われていた空間が鎮まり、真なる闇の静寂に包まれていく。邪悪な気配が掻き消えていくのが、蛍太郎にも判った。
「やった!」
 蛍太郎は、思わず璃音に抱きついた。すると、璃音は力なく蛍太郎の胸の中へ身体を寄せてきた。
「璃音ちゃん、大丈夫?」
「ごめん…力、使いすぎちゃったみたい」
 璃音の身体は再びパワーシェルに覆われている。その上着を脱ぎ、璃音は蛍太郎の肩にかけた。上着はひとりでに丈を伸ばして、蛍太郎の上半身を覆う。
「これで少しはもつと思う」
 そして、璃音は俯き、涙を流した。
 言うまでもなく、蛍太郎をここまで連れてきたのは璃音自身だ。つまり、これから彼に訪れる運命は、全て璃音に責任があるということである。
 次元こそ違えど、ここは宇宙空間。普通の生命体が生きられる環境ではない。それゆえ璃音のパワーが底をついた瞬間、確実に蛍太郎は死んでしまうのだ。それを思うと、璃音は涙を抑えられなくなってしまう。
「ごめん…ごめんね。わたしが…」
 その涙を指先で拭い、蛍太郎は微笑んだ。
「ついてきたのは僕だよ。それに、僕がいなけりゃアイツに勝てなかったんじゃない?」
 本人は冗談で言ったつもりだったのだが、璃音は大きく頷いて、笑みを浮かべた。
「うん。…そうだね」
 蛍太郎は呆気に取られたが、すぐに璃音を抱き寄せた。
「最後まで、こうしていたい。いいよね」
 最後、という言葉に璃音は肩を震わせた。これから彼女は、愛するものが息絶える姿を見届けることになる。深い悲しみが目前にある事が判ってはいたが、今は蛍太郎の気持ちに応えなければならない。だから璃音は、めいっぱい頑張って、微笑んだ。
「…ありがと、けーちゃん」
 だが、そのとき。
 突如として空間が沸き立つように活性化、再び赤黒く染まった。空間に満ちたエネルギーが凝縮してタール状の物体となり、爆発的に増加していく。
「まさか…」
 蛍太郎が絶句し、璃音を庇うように抱き寄せる。
 それを嘲うように、魔王カーンデウスは再びその姿を現した。
「ふははははは! 言ったであろう、我が力は無限であると。我は、何度でも甦るのだ!
 さぁて、一度とはいえ我を倒すとは、天晴れな連中だ。それに敬意を表し、永久に苦しみを与え続けてやろう。良かったなァ、これで貴様らはいつまでも一緒だ。果てることない地獄の中でな!!」
 腕を振り上げる魔王。
 悔しさに涙をこぼす璃音を、蛍太郎はきつく抱きしめた。これでずっといっしょだと、そんな声が聞こえた気がして、璃音はさらに涙をこぼした。
 璃音の手にはもはや、抗う術は残されていなかった


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