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6− 
 草木も眠る丑三つ時…。
 と、この国の古典で言い習わされた時間帯。一日のうちで最も闇が色濃くなるのは夜明け前のはずなのだが、この国に限り何故だか、今頃の暗闇こそが底知れない何かを孕んでいるような気がしてくる。目の前に広がる漆黒に沈んだ森の木々や、これから相手にするであろう連中の素性が、そう感じさせているのかもしれないが…。
 ミロスラフ・夏藤は木陰に身を沈めたまま、そんなことを考えていた。
 それと向かい合うようにして、藤宮侑希音が巨木の幹に背中を預け難しい顔をして目を閉じている。程なくして侑希音は目を開き、これまた不機嫌そうな口調で言った。
「魔術式が起動した形跡は感じられないし、立ち上げた気配も無い。連中、まだ動かないようだな」
 ゆらり、と侑希音が立ち上がる。レザーのように黒光りするボディスーツにピッチリと身を包み、凶悪な編み上げブーツと黒いマント。コミックのダークナイトを思わせるいでたちは、タクティカルローブと呼ばれる魔術師の戦装束だ。
 璃音に与えられたパワーシェルのように一発での生着替えなどは出来ない通常の衣服なのだが、そこはそれ。魔術師協会の材料工学の粋をつくして編み上げられた特殊装甲スーツは魔術によるダメージを軽減し、マントは状況に応じて形や硬度を変えて物理的な攻撃に対抗する。外観は各自の好みで発注できるために様々だが、完全に戦闘用の装備であるために着用機会は限られる。加えて、かさ張るわ着替えが面倒だわで、あまり好まれないのが実情である。攻撃を受けたなら、防壁術式を使えば良いからだ。
 だが、物理的に確固として存在する普通の衣服だということは着用者の魔力に依存しないで機能するということである、そういう理由から、侑希音は状況に応じてこれを活用している。たとえば今回のような任務が、それにあたる。
 
 一ヶ月ほど前。
 世界経済にインパクトを与えた多国籍企業メガロテック社の買収劇。それは、闇社会の勢力分布にも多大な影響を及ぼした。
 メガロテック社にはイリーガルな研究・実験、そして工作を行なう"ヒドゥン"なる部門があるという話は陰謀論が大好きなゴシップ誌の得意ネタだが、裏の世界では常識である。米国特務機関フェデレーションはこれまでなんどもメガロテック社の秘密工作員に悩まされてきた。ミロ自身も何度かそういった事件に巻き込まれ、また矢面になって戦った。
 情勢が変わったのは今年に入ってからだ。
 政府機関にとって邪魔者だからといって、国外に本拠を持つ民間企業を直接潰すようなマネは米国にも出来ない。だが、その気になれば何でもできるのが唯一のスーパーパワーならではの特権である。さっそくCIAを使った内定を進め、メガロテック社への攻撃材料となり得る情報を探し始めた。
 それがある程度進んだ頃、米国のバルトビア大使に同国の第三王位継承者であるクリストフ・ヴェルパコフ王子が就任した。その直後に例の買収劇である。
 メガロテック社の新しいCEOとなったアレクセイ・イグムノフはバルトビア人であり、国王の覚えめでたい政商である。それだけでなく、彼は第百三十二位王位継承者だったのである。クリストフ王子の大使就任が誰の差し金に依るものかはさておき、これによりメガロテック社は外交官お墨付きの企業となってしまったというわけだ。これでは米国政府とて手は出せない。
 さらに、メガロテック社は日本の貴洛院グループと秘密裡に手を結び、加えて、どういう縁での繋がりなのか魔術結社シャイターンとも同盟をなした。これにより秘密結社トリスケリオンが結成されたのである。
 現時点では、その中心人物はアレクセイ・イグムノフであると見なされているが、貴洛院グループ内で重要な地位にいる貴洛院玲子も、三脚巴の足の一つをなす以上はかなりの影響力を持つものと考えられている。その両者と対抗すべく、かつては研究機関としての趣が強かったフェデレーションが活動の幅を広げつつあるというのが、今の情勢だ。
 ただし、魔術結社シャイターンに関しては俗世の基準では計り知れないことが多いため、国際魔術師連盟―Federation Internationale de Sorcier Association=FISA―の協力を仰いでいる。それによりFISAに加盟しているロンドンの魔術師協会―Sorcerer Association=SA―やバビロン―Babylon Sorcerer Association=BSA―から魔術師が派遣され、フェデレーションの職員と協力体制を執っているのである。
 
 今回の件は、そういう経緯で行なわれることになった共同作戦の、何度目かのものである。
 酉野市付近の山林にトリスケリオンの実験施設を発見したフェデレーション日本出張所は付近に在住のミロスラフ・夏藤工作員に出動命令を下し、さらに近隣の地理に詳しい藤宮侑希音に協力を要請したのだ。作戦内容は施設と実験結果の破壊。要するに、正面からケンカを売って潰してこいとのことだ。
「なるほど。お前、それでウチの関係者みたいな顔してオレの隣にいるわけだな」
「そういうわけでもないんだが、まあ…そんな感じで」
 ミロの言葉に侑希音は曖昧に頷いた。
 現地集合の上に現地で情報交換。それから、こうして目標施設を監視し続けている。それで侑希音はすっかり焦れてしまっていた。先ほどから不機嫌なのもそのせいだ。
「早いところ片付けようよ。外から判ることは殆ど分析しつくしただろ」
 だからといって、考え無しに突っこもうというのではない。これまでの間に、樹木の向こうにある実験施設を何度も偵察し、コンクリート作りの小さな建物の窓の位置から見張りの数、地下室の存在までしっかりと見抜いている。もはや突入を待つだけなのだ。
「まあ待てよ」
 ミロは侑希音をなだめた。
「ウチで新しいエージェントを雇ったそうだが、そいつが来るらしいぜ」
「増援が来るのか? それはありがたいが、どうやって合流するんだ? 下手なことをされて連中に見つかっちまったら目も当てられないんだが…」
 肩をすくめる侑希音。
 その背後から、聞きなれた声がした。
「お待たせしました」
「ぬおっ!?」
 思わず振り向く侑希音。
 そこには、黒いボディスーツを身につけた中村トウキがいた。スーツの所々にはアーマーが取り付けられてはいるが、そのトータルイメージはやはり忍者である。背中にかけた忍者刀と赤いマフラーが斬月侠の面影を残していた。
「どうも。私、今月からフェデレーションの非常勤工作員として働かせていただくことになりました、中村トウキです。コードネームは"ムーンセイバー"。今後とも、よろしくお願いいたします」
 ミロは目を白黒させて呻いた。
「よろしく…」
 アパートの隣人がここにいるのも驚きだが、全く気配を感じさせずに来たということは、もっと驚きである。
(コイツ、何者なんだ?)
 ミロの顔を見て、侑希音はいかにも面白そうにケラケラと笑った。
「ははは、お前も知ってるだろ。あの忍者だよ。中村君って、忍者の末裔だったんだぞ」
「そ、そうだったのか!?」
 ミロが本気で驚くので、侑希音は更に笑う。ひとしきり笑って、侑希音はトウキの肩をバシバシと叩く。
「こりゃ頼もしい味方が来てくれたな。それにしても、さっきの自己紹介は何だ? "私"ってお前、なぁ。…ぷぷぷっ」
 トウキは困惑した表情で答える。
「はぁ。これでも一応、社会人ですから。言葉遣いはそれなりに、しておかないと…」
「お前、学生バイトじゃん」
 侑希音がトウキの額を小突き、また笑う。トウキは不満げに口を尖らせた。
「それじゃ、行きますよ。さっさと済ましちまいましょう」
「うむ。新妻も待ってるしな」
 悪戯っぽく微笑む侑希音。それを聞いて、ミロはこの夏に起こった大家の家での騒動を思い出した。
「ああ、そうだったね。そういや…」
 何となく羨ましい気もするが、それはそれ。ミロは頭を切り替えた。
「よし、ボチボチだな。夜討ち朝駆けは戦の基本、時間的にも頃合だ」
「…今時、日本人でも使わないぞ。そんな言葉」
 侑希音は目を丸くしたが、すぐに表情を引き締める。その隣で、トウキが頷いた。
「私が先行します」
 トウキは覆面で口元を隠し、木々の間に消えた。
「おお。なんだかそれっぽいな」
 ミロが感嘆の声を洩らしたニ分後。
 敵アジトからライトによる合図が送られてくる。その間、全くの無音であった。
「行くぞ」
 侑希音が先に駆け出す。大仰なマントを着ているにも関らず、全く枝や葉を揺らさないのは彼女の体術ゆえなのかローブの特殊能力によるのか、それはミロには判らない。ただ、侑希音と先ほどのトウキの姿を頭の中で照らし合わせ、苦笑するだけだった。
「黒タイツ連盟ってか」
 それに引きかえ、ミロはオーソドックスな軍用品に身を固めているだけ。普通に考えれば充分目立つのだが、やはりマンガじみた二人の格好に比べればどうにも地味である。
「俺、ガン=カタ習得くらいのことしないと、ヤツらに太刀打ちできないんじゃねぇか?」
 そんな無体なことを呟きながら、ミロは夜の森を駆けた。
 
−−−−−−−−
 
「ふふふ。ヤツら、動き始めたようだな」
 木々の間を走る侑希音とミロの姿を確認し、サーバントクーインは薄笑いを浮かべた。アイマスクに当てていた赤外線スコープを異次元マントに放り込むと、部下たちへ号令を発する。
「さあ、征くぞ!」
 その様はマントをなびかせたポーズと相まってなんとも大仰だが、四人のタイツ男たちの反応は鈍い。つい数時間前、コテンパンにされただけでなくボスに見捨てられ収監されたばかりなのだから当然だ。ちなみに山中での活動ということで、アクアダッシャーはお留守番である。
「行くのはいいっすけど、何しに行くんですか。ってか、あの建物は何です?」
 不信感も露わなボルタの問いに、クーインは得意げに答えた。
「何しに行くかといわれれば、もちろん戦いだ。目的は、いずれ判る」
 バーナーが眉間にしわを寄せる。
「勿体ぶるのはやめてくれよ。そういうのはオレ、頭ワリィからついていけねぇんだよ」
 だがクーインは上機嫌なのか、気を悪くしたそぶりは見せない。
「現物を手に入れない事にはなんとも言えんが、我々にパワーアップの可能性を与える物だ。
 …あのとき言ったであろう。『遥かにパワーアップして復讐する』とな。あれは、ただの捨て台詞ではない!」
 その言葉に、タイツ男たちは俄然色めきだった。だが、クイックゼファーは冷静さを保ったまま、質問を続けた。
「で、あの建物は何すか?」
「貴洛院グループが所有するセーフハウスの一つだ。もっとも、今は使われていないがね。こんな山奥だと、逆に逃げ場がないだろ。
 ある筋から入手した情報で、ここでシャイターンとかいう魔術結社が実験を行うと知り、襲撃を決めたのだ」
「なるほど」
 頷くクイックゼファー。どんな実験をするのかは、どうせ聞いても判らないだろうから訊かない。
「で、策はいかように?」
 マンビーフが神妙に問うと、クーインは含み笑いを浮かべながら言った。
「ふふふ。まずは、ヤツらの後を追う。適度な距離を保ち様子を見て、チャンスが来たら飛び出してブツを確保するのだ。つまり、横取りよ。人の上前をはねるなんて、まさに悪の鑑ではないかッ! ククククク…はーっははははっ!」
 
−−−−−−−−
 
 侑希音とミロが踏み込んだときには、足元に見張りだったと思われる黒ローブ姿の男が四人転がっていた。
「魔術師か?」
 と、ミロ。侑希音が頷く。
「ああ。やはり、シャイターンの連中だ。しかし…見張りが全員魔術師じゃあ、どうにもならんだろうに。まあ、他に人がいないんだろうどさ」
 今度はミロが頷いた。
「だからこその合従連衡だろうさ。私と貴方の余計な部分と欠けてる部分をくっ付けて、セキレイぴょこぴょこ。新しいモノを生み出しましょうってな。ああ、素敵」
 ミロが凝った物言いをするので、侑希音は目を丸くした。
「…お前、ホントは日本育ちだろ?」
「うんにゃ。前にも言ったとおりドルトムントさ。ここで暮らすようになる前に何度か日本に来たことはあったが、育ったって程じゃあない」
 そこに、先行していたムーンセイバーこと中村トウキがドアの向こうから現れる。
「この階の警備は片付けました。後は地下室ですね」
 奇襲を旨とする忍者に対し、魔術師は相性が悪い。魔術は術式を起動しなければ効果を発現しないため、とっさの対応には不向きだからである。そういう意味では、トウキを増援に差し向けたのは好采配いえる。未だ出張所扱いとはいえフェデレーションの現地スタッフはなかなか優秀らしい。上がマトモならこの協力関係の将来も明るいと、侑希音は内心安堵した。それ以前に今この現場での連携が取れなければどうにもならないのだが、幸いにして気心の知れた相手が揃っているだけに、心強い。
 ここは侑希音が今後の策を提案した。相手が魔術師だけに、自然とそういうことになる。
「まず、地下室への侵入だが…」
「入り口は階段一つだけです。他には床下に通気口があるだけ。これを通れるのは猫くらいですね」
 と、トウキ。侑希音は頷く。
「うむ…いずれ、正面から飛び込むしかないか。だが、その前に様子を窺っておきたいな。特に、連中がどんな実験をするつもりなのかくらいは…」
 少し思案して、侑希音はダンシングクイーンを実体化させた。
「まず、コイツに偵察させよう」
 ミロが苦言を呈する。
「おいおい。確かにそいつは素早いが、狭い空間では不利なんじゃないのか? こういうことなら、中村に行かせた方がいいだろう」
「大丈夫だ。元から消音機能を備えているし、光学ステルス機能を追加したからな。それに、ある程度の自律活動が出来るように改造してある。以前の反省を踏まえてね。それに、中村君にはヤツらが何をやっているか判らないだろ。ダンシングクイーンの記録装置なら、場に展開された魔術式を読み取ることも出来る」
 それを聞いて、ミロとトウキは感心しきりといった顔で頷いた。
「よし。頼んだぞ、ダンシングクイーン」
 侑希音の言葉の応えダンシングクイーンは透明化し、音も無く階段を下りていった。
(さて、と…)
 侑希音はボディスーツの胸元に固定されているイデアクリスタルに指先を当てた。これでダンシングクイーンが送る信号をモニターして指示を送ることができる。だが信号といっても大雑把な物に過ぎず、例えば『発見された』とか『進路が阻まれ前進不能』とかいったあらかじめ設定された数種類のアラームを送信する程度に過ぎない。随分と不便だが、人類の神経組織には超スピードで動くダンシングクイーンと感覚を共有できるほどの反応速度はないのである。そういう理由から自律行動をとらせる場合にはダンシングクイーン側に搭載した演算装置に全て任せる形になっており、さらに自律モードの際には処理能力上、七割程度のスピードしかでないようにリミッターがかかるようになっている。つまり自動化のために戦闘能力が犠牲になっているのだ。もちろん、その辺りは仲間にも秘密である。
 数分後、侑希音の傍らに再びダンシングクイーンが姿を現した。
「よし。首尾よくいったようだな」
 安堵の表情を見せたミロだったが、すぐに首を傾げる。
「けどよ。そいつが見てきたもんをどうやって出力するんだ?」
「これさ」
 待ってましたとばかりに笑みを浮かべた侑希音は、いつの間にやらスケッチブックと鉛筆を手にしていた。腰に巻かれたツールベルトの側面に配されたウエストポーチは、内部空間を歪めることで登山リュック並みの積載量を誇るのである。
「今日はスケッチさせてみようかと。何でもデジカメじゃあ風情が無いだろ」
「…新機能を試したかっただけだな、お前」
 ミロが呆れ顔をするが意に介さず、侑希音はダンシングクイーンにスケッチブックと鉛筆を持たせた。すると、象徴機械は猛烈なスピードで紙面に鉛筆を走らせていく。その様にミロとトウキは揃って舌を巻いた。
 一分少々で、スケッチが出来上がる。
 トウキが目を丸くする。
「へぇ…。なんか、『第三部』みたいですね」
 侑希音は胸を張った。
「ふふふ。あのマンガは魔術師必携の書だぞ」
「ホント、やりたかっただけなんだな…」
 ミロは更に呆れるが、とりあえずスケッチに目を向けた。
 画面はドアの隙間から覗き込んだ光景を描いたもので、横長の紙面の両端が白いまま。その間に地下室の様子が窺える。
 まず目を引くのが、部屋の中央に設置された機械だ。バレーボールほどの二つの球体を筒でつなぎ合わせたプラネタリウムの本体を思わせる外観で、二本の脚で固定されている。台座には試験管のようなものが何本も突き立てられていた。そして、その機械の周囲の空間に無数の文字や紋様が書き付けられている。これこそが魔術式だが、その意味はミロにもトウキにも判らない。
 さらに、その機械の傍らには黒いローブをまとった人間が一人。部屋の奥に据えつけられた棚と比較するに、かなりの長身のようだ。
 そこに描かれた情報を吟味した侑希音は息を呑んだ。ミロとトウキが顔を覗き込んでくるので、侑希音は二人の疑問に答えた。
「コイツは…"コークスクリュー"。"門"を開く装置だ。適切な場所でコイツを使うと、異界へ通じる空間の穴が開くってわけさ。この絵の状態は、まだアイドリング中ってところだな。
 このローブを着ている男は…魔術師だな。恐らく幹部クラスだろう。このマントには見覚えがある」
「で、どうする?」
 と、ミロ。侑希音は腕を組んで眦を決する。
「行くぞ!」
 次の瞬間、侑希音の身体が光に包まれた。ダンシングクイーンが姿を消し、入れ違いで侑希音の髪が伸び顔つきが変わり、瞳が赤く輝く。着ていたマントはそのままに、二本の剣をさげた姿は彷徨える修羅のようですらある。通称"ダンシングクイーンU"。侑希音が自身を象徴機械のアディッショナルシェルとすることで発現する強化モードである。
 三人は揃って地下室へと走り、ドアを蹴破った。
「そこまでだ!」
 勇ましく飛び込んだのは侑希音とミロ。剣と銃を同時に向けられた黒ローブは少しも動ぜず、ゆっくりと振り向く。
「邪魔は入るものだろうと思っていたが、存外に遅かったな」
 割れ鐘のような、男の声である。ローブの奥の目で闖入者の顔を見比べ、薄く笑う。
「ふふふ。これで二度目だな、お嬢ちゃん。あの時お流れになった勝負、弟子のそなたに受けていただくことになりそうだ」
 その声、侑希音には聞き覚えがあった。ロンドンでの対抗戦に乱入してきた、四人の黒ローブの中の一人だ。
「お前…」
 目を吊り上げる侑希音をせせら笑うように黒ローブはフードを脱ぎ、素顔を晒した。年の頃は三十代半ばだろうか。彫りが深くクッキリと通った鼻筋と力強い口元にはエーゲ海の面影がある。
「我が名はディミトリオス・クリュゾストモス。大神官"roiロワ"に仕える四神官"La Croix Noireラ クロア ノアール"が一人。冥土の土産に覚えておくがよい」
(随分とナメてくれたもんだな…)
 侑希音は今すぐにでも殴りかかりたい衝動に駆られたが、ここは耐えて相手のノリにあわせることにした。
「ならば、もう一つ教えてくれ。なぜ、ここで"門"を開く?」
 それを聞いたミロが慌てて侑希音に耳打ちした。
「おいおい、そんな手が通じるかよ。あのイタ公ですら、『ギリシア人と握手した後は指の数を確認しろ』なんて言ってるだろ」
 だが、そんな心配も他所にクリュゾストモスは得意げに胸を反らす。
「よかろう。教えてやる」
 その様をみて、ミロは目を丸くした。
(ナニジンだろうと、アホはアホってことか…)
 侑希音が小さくウインクを送ってきた。彼女の意図どおりだったというわけだ。相手にバカにされているとも知らず、クリュゾストモスは大仰にマントを跳ね上げて大きく腕を広げ、芝居がかった口調で言った。
「よぉく聞くがよい! ここは魔王の聖地なのだよ!」
 ヘカテの身の上話を思い出した侑希音は、ギリリと奥歯を軋ませた。バカの口から出た言葉だが、内容はシリアスである。
 師匠から伝え聞いたところによると、遥か古代に強大な魔王が一帯を支配していたという。だが、その支配は後に藤宮式子と名乗ることになる存在が現れたときに終焉を迎えた。つまり、魔王は既にいないはずである。だが、クリュゾストモスは冷たく笑みを浮かべたままだ。
「魔王は不滅なのだ。なぜなら、あのようなアストラル生命体は人が意識を得た瞬間に誕生したものであるのだからな。つまり、人が生き続ける限り魔物が滅びることはない。たとえ存在の根源まで破壊されつくしたとしても、人の記憶に沈む残滓と、その伝承を雛形として甦る!
 今まさに! 時が来たのだッ!
 ここにて空間の"門"を開け、魔王をこの世界に招き入れるのだ!」
 ミロが息を呑む。それから侑希音の顔色を見て相手の言葉が与太話ではないことを確認した。
「おいおい、マジかよ」
 クリュゾストモスは好ましいリアクションを得られて上機嫌に笑った。
「ククク…バビロンの魔女は、この地で死すべきであったな。さすれば、今日この日はなかったかも知れぬにのう! ふはははは!」
 そのまま笑い続けたクリュゾストモスだったが、唐突に表情を変えた侑希音に水を差された。
「判った。もういい」
 愉快に笑っていたのを遮られ、クリュゾストモスは目を吊り上げた。
「なんだと!」
 だが侑希音は平然と言ってのけた。
「だから、もういいって。お前が何をしようとしているのか、しっかり教えてもらったからな。もう、無駄な口を利かなくていい。
 それにしても…ご大層な計画の割には、随分と貧弱な人員だな。抜け駆けでもしたか?」
「言うな!」
 図星だったらしく、クリュゾストモスは声を荒げた。
「目障りだ! 消えうせるがいいッ」
 いつの間にかクリュゾストモスの右手に握られていた杖が光を発し、タールを盛り上げたような流動体生物が現れた。
「何だよ、ありゃ!? 気色悪ぃぞ」
 ミロが顔を引きつらせる。侑希音も同様の表情だ。
「知らん。…けど、刃物とか銃とかは通じそうに無いよな」
「そうだな」
 ミロは試しに三発撃ってみた。弾丸は流動体生物の黒い体表を穿ったが、すぐに何事も無かったように元に戻ってしまう。
「まあ、論より証拠ってことで」
 苦笑いするミロ。そう言っている間に、流動体生物は触手のようなものを六本ほど生やして襲いかかってきた。
「ちっ」
 侑希音が跳躍する。案の定、そのスピードに流動体生物はついていけない。これなら流動体生物の攻撃は当面怖くはないのだが、侑希音の強化された知覚機能には"コークスクリュー"の起動音が届いていた。
「ミロ!」
「判ってる!」
 ミロは触手を掻い潜り引鉄を引いた。射線は過たずクリュゾストモスの頭部に向いていたのだが、敢え無くフォースシールドに遮られた。
「チクショー! これだから魔術は嫌いだッ」
 毒づくミロに、クリュゾストモスは攻撃魔術を行使した。火球を投射するオーソドックスな術式、ファイアーボールである。
「死ねい!」
 得意げに放たれたファイアーボールは、割り込んできた侑希音の剣によって弾かれた。正確には、剣に織り込まれた魔術式の干渉を受けファイアーボールを形成していた術式が四散したのだ。火球は力を失い、炎は散り散りになって虚空へ消えた。
 そのとき、炎の照り返しを受けた流動体生物が触手を引っ込めたのを、侑希音とミロは見逃さなかった。
「見たな?」
「ああ。だが、ここじゃ手榴弾は使えねぇぜ」
「それは最後の手段だ。お前はあっちを頼む!」
 そう言うと、侑希音は跳躍し流動体生物の懐に飛び込んだ。
「フレイム・オン!」
 二振りの剣が炎に包まれる。宙を舞うような軌道で剣を操り薙ぎ払うと、六本の触手は細切れになって弾けとんだ。だが、間髪いれずに新しい触手がすぐに生えてくる。
「ちぃっ! やっぱりな」
「くくく…手が出まい! ふはははは!」
 得意の絶頂で少々下品な表情になったクリュゾストモスが高らかに笑う。それを見て、侑希音は片眉を吊り上げた。
「…笑ってられるのも今のうちだぞ。ってか、笑いすぎだ、オマエ」
 そして、二本の剣を流動体生物めがけて投げつけた。剣は対象の身体の中心と思われる触手の根元に、ザックリと突き刺さった。流動体生物は表皮を泡立たせ、火を消そうと触手を剣に絡みつける。
 それを見たクリュゾストモスは侮蔑を露わにした。
「ははははっ、何をやっている。苦し紛れか?」
 だが、侑希音は逆に不敵な笑みを返した。
「言ったろ。笑いすぎだってな。お前の可愛いペットちゃんの様子をじっくり観察してみるんだな」
「なに?」
 クリュゾストモスは目を見開いた。
 先ほどから流動体生物が触手で剣の炎をもみ消そうと蠢いている。だが、炎は一向に消える気配が無く、それどころか剣が刺さった近辺が灰色に変色し始めていた。火傷である。いつの間にか、消せないほどの勢いで炎が燃え広がっていたのだ。
(フフン。加速できるのは自分が動くスピードだけじゃあないってことさ)
 マトモな知能があるか判らない生物に冥土の土産をくれてやる意味など無いし、気の毒な飼い主への説明義務も無いので、侑希音は何も言わなかった。それから五秒しないうちに、流動体生物はカサカサに干乾び灰色をした煎餅のようになって動きを止めた。
「ぐぬぬ…」
 歯軋りするクリュゾストモス。だがすぐに、その表情が引きつった。こめかみに硬く冷たい物が押し付けられたのだ。背後から、ミロの低い声がナイフのように突きつけられる。
「これまでだぜ。その機械を止めな」
 ミロは、侑希音が囮になっている間にクリュゾストモスの背中に回りこんでいたのだ。銃を突きつけられ、さらに首を太い腕でホールドされてしまったクリュゾストモスは、いっぺんに掠れてしまった喉から搾り出すように声を発した。
「わ、判った…撃たないでくれ」
 言葉で降伏の意思を伝えるクリュゾストモス。だが、ミロの腕は緩まない。
「そりゃテメェ次第だ。妙なマネはせずに、さっさと止めろ」
 その有無を言わさぬドスの利いた声に脅され、クリュゾストモスは本当に抵抗を止めた。それを確認し、侑希音が頷く。空間の制御という大掛かりなことをする機械だけに、正規の手順を踏んで終了処理をしないと後が怖い。いずれ壊すにしても、まずはしっかりと停止させることが肝要だ。
 クリュゾストモスが背中に銃口を押し当てられたまま"コークスクリュー"に向かう。幾つか呪文を唱え、表面に触れる。地鳴りのような音がして、展開されていた術式に変化が起こる。
 それを見て、侑希音が鋭い目つきで脅す。
「おい。しれっと処理を加速してんじゃあない。バレないとでも思ってんのか?」
 クリュゾストモスは舌打ちして、先ほどとは違う呪文を唱える。また同様の音がして、今度は術式が次々と収束へ向かって書き換えられていく。終了処理が始まったのだ。
 そのときだ。
 天井をスルリと通り抜けて、マント姿の男が現れた。いわゆる壁抜けだ。
「お前、なぜここに!?」
 予想外の闖入者に侑希音が息を呑む。魔術師やメガロテック社製品で武装した特殊工作員の増援ならまだしも、その男の登場はあまりに場違いに感じられたからだ。
 その男はおもむろにマントを広げ、芝居がかった口調で名乗りを挙げた。
「サーバントクーイン、登場。そして…」
 クーインは腰に括りつけられていたロープを引っ張った。そのロープはマントの中へと続いており、そこから、
「うべっ!」
 と、酉野紫の四人が這い出て床に転がった。ボルタ、バーナー、クイックゼファー、マンビーフはヨロヨロと立ち上がり、そして周囲の状況を見て思い思いにポーズをとった。
「酉野紫、参上!」
 その有様を見た侑希音は驚きに顔を強張らせていた。
「あんなのとつるんでやがったのか…」
「知らぬ! 本当だッ!!」
 間髪いれずに必死の形相で言い返すクリュゾストモス。その言葉を裏付けるように、クーインはコークスクリューをビシッと指差して声高らかに宣言した。
「その機械、我々が頂く! 貴様らの代わりに、この私が魔王を復活させてくれようぞ。我が主、カーンデウス様をな!」
 クリュゾストモスは息を呑んだ。
「なんと! なぜ貴様のようなワケの判らんアホが、魔王の御名を知っているのだッ!?」
「主の名も知らずに仕えるヤツがあるか」
 舌をべろっと出して、クーインは相手を思い切りバカにした。クリュゾストモスのこめかみがピクピクと脈打つ。その後ろからミロがキツく釘を刺す。
「おい。妙なマネはすんなって言っただろ。バカの相手はいいから、さっさと機械を止めやがれ」
「くっ…」
 歯軋りするクリュゾストモス。その間にも、コークスクリューの終了処理は九割近くまで進行している。周囲に見えていた魔術式や魔力の流れが消えていき、侑希音はひとまず安堵した。あとは適切なタイミングで"指示"を出すだけだ。
 だが、クーインはコークスクリューの状況など知る由もなく、景気よく命令を下した。
「マンビーフよ、あの機械を外して持ち出すんだ。残り三人は、邪魔者を始末せよ!」
「おうよ!」
 号令のもと威勢良く飛び出すタイツ男たち。クイックゼファーは侑希音にスピード勝負を挑み、バーナーはミロに飛びかかる。安定した飛び道具を持つボルタはサポートにまわった。
「おおりゃぁ!」
 真っ先に手を出すのは、やはりバーナーである。拳に火を灯し大きく振りかぶってミロに殴りかかる。ミロは銃で応戦しようとしたが、クリュゾストモスから銃口を放すのは危険だと判断した。それなら回避するしかないが、大人の男一人を抱えては難しい。そこで、
「おい! 待て!」
 抗議の声を上げるのにはお構い無しで、ミロはクリュゾストモスを盾にすることにした。もちろん、バーナーは全く関知せずに拳を叩きつけてくる。だが、その拳はフォースフィールドによって遮られた。 
「ちっ、バリアか」
 炎に包まれた拳を、同じく炎に包まれた手でさするバーナー。それを見てミロは舌打ちをし、そのフォースフィールドを起動させたクリュゾストモスの耳元で怒鳴る。
「テメー、妙なマネすんなって言っただろ!」
「しょーがないだろ! 貴様が当たり前のように我を盾にしよるからな!」
「しょーがないことあるか! ヤツのパンチを防いで、そのうえテメーを始末できて一石二鳥だったってのに台無しにしやがって。空気読めよ!」
「そんな空気読むかッ!」
 続くバーナーの攻撃は、再びフォースフィールドに弾かれた。直後、ミロは背後からの殺気を感じ、クリュゾストモスの首を吊り上げるようにして振り向く。ボルタが放っていた電撃がフォースフィールドに直撃。それからミロは銃をバーナーに向け、引鉄を引く。
「うげっ!」
 バーナーは大慌てで炎の壁を目の前に展開する。青白く燃える炎に突っ込み、弾丸は溶け落ちてしまった。バーナーが距離を置こうとその場に留まったのを確認し、ミロは再び銃口をクリュゾストモスのこめかみに押し付け、毒づいた。
「ちっ…めんどくせぇことになっちまったな」
 クリュゾストモスが熱いと文句を言うので更に銃口に力を込めつつ、ミロは状況を確認した。
 侑希音とクイックゼファーの姿は見えないが、そこらの壁に勝手に亀裂が増えていくのは二人の戦いのせいだ。マンビーフがコークスクリューの台座に手をかけており、クーインはそれを離れて見守る。恐らくは、近づく者がいれば攻撃を仕掛けるつもりだろう。
 そのとき、
「うべっ!」
 と、カエルを潰したような悲鳴を上げてクイックゼファーが床に転がった。姿を現した侑希音が、その顔を思い切り踏みつける。
「この野郎! 手加減してやりゃイイ気になりやがって! 今度歯向かったら、そのウザい脚に斬りつけてやるからな! 判ったな? 判ったら返事しろッ!」
 口調から相当お怒りの様子なのが見て取れる。なにせ、返事を要求しながら顔面を靴の裏でプレスして何も言えなくしているのだから。ミロが思わず声を上げる。
「おい、いつまでも遊んでんなよ!」
「判ってる!」
 侑希音はマンビーフがコークスクリューを持ち上げ始めたのを確認、そちらへ向かおうと足を離す。すると、クイックゼファーが掠れた声で呻いた。
「…もっと、踏んでください。女王様ぁ」
 それが耳に入ってしまった侑希音は顔を真っ赤にして、
「お、お、お前っ! そういうこと言うなっ! 私は、そんなんじゃないんだってばっ!」
 と、クイックゼファーのボディにストンピングの雨を降らせる。それを見て、ミロが叫ぶ。
「バカッ! お前がオヤジ趣味のマゾっ子だってのは俺がちゃんと判ってっから、取り乱してねぇで牛肉野郎をどうにかしろ!!」
 その言葉に侑希音は我に返り、慌てて駆けだす。その足元をクーインのラムズフェルトビームが遮る。
「ちっ…」
 回避する侑希音。その後を追ってビームの掃射が続き、侑希音はマンビーフから引き離されてしまう。クーインの高笑いが響く。
「ふはははは! 今回は私の勝ちだな!」
 そのとき、遂にマンビーフはコークスクリューを床から引っこ抜いて頭の上に持ち上げていた。
 顔面蒼白になるクリュゾストモス。だが、侑希音にもミロにも狼狽の色は無かった。それに気付き、クーインは首を傾げる。
「どうした? 敗者なら、もっとそれらしい顔をしたらどうだ?」
 だが、侑希音は不敵とさえ取れる笑みを浮かべた。
「ふふん。残念だけど、こっちには切り札があるんでね」
 次の瞬間、コークスクリューに何本もの"手裏剣"が突き刺さっていた。
「なんだとッ!?」
 驚きから完全に表情を崩してしまうクーイン。天井に視線を向けると、そこには黒いボディスーツに身を包んだ覆面の男が張り付いていた。
「貴様は!?」
 男は、おもむろに名乗りを挙げた。
「忍者工作員、ムーンセイバー推参!」
 クーインはアイマスクの下の眉間にしわを寄せた。
「なにを言っている! 貴様、あの忍者だろ!?」
 だが、ムーンセイバーは平然と、こう言ってのけた。
「さあな。忍なぞ、この世には吐いて捨てるほどいる。他人の空似だろう」
「嘘つけッ! 今は二十一世紀だぞッ。忍法帖の時代じゃあないッ!!」
 クーインの絶叫ツッコミをよそに、手裏剣が一斉に赤く点滅し始めた。それを見てボルタとバーナーが叫ぶ。
「爆発するぞ!」
 爆発と聞いて穏やかではいられない。マンビーフは反射的にコークスクリューを放り投げた。その直後、コークスクリューは盛大な炎を上げて爆発四散した。
「ムギャーァァァァァァァァァァッ!!」
 その光景に、クリュゾストモスは白目を剥いて失神した。同じく言葉を失ったクーインだったが、すぐに次の指示を飛ばす。
「おい、クイックゼファー!」
「お、おう!」
 慌てて立ち上がったクイックゼファーはその場をグルグルと走って回る。すると、それを中心に竜巻が起こりコークスクリューの部品が巻き上げられた。クーインがマントを広げると、その部品がマントの中へと吸い込まれていく。
「いけない!」
 妨害しようとした侑希音だったが、慌てて足を止める。爆発が起こったところに緑色のガラスの欠片のようなものが十個ほど漂っていたからだ。天井から降りていたムーンセイバーが侑希音に問う。
「あれは?」
 侑希音は眉間にシワを寄せながら答えた。
「エウェストゥルム結晶体、つまり魔力の塊だ。あの機械の動力源として、ガラス管に詰められていたんだ」
「じゃあ、あれが無ければヤツラが持ってたのはガラクタってことだな。…まあ、すでにゴミになっちまってたが」
 と、ミロ。だが侑希音は表情を崩さない。
「だが、厄介ごとが増えたぞ。あれは今の私の装備では回収できないんだ。純粋に魔力の結晶だから人が手に触れることは出来ないし…」
 ミロとムーンセイバーが顔を見合わせた。さらに、侑希音は深刻な表情で続けた。
「あれは人や動物の思念に反応して変質し、場合によっては自律的に活動し始めてしまう。つまり、ここにああやって存在しているだけで危険な物体なんだ」
 侑希音の解説を、ミロは自分なりに解釈して言葉に出してみた。 
「つまりあれか。ここで俺がマシュマロを思い浮かべたら、あれがデカいマシュマロマンになって暴れだすってことか?」
 それを聞いた侑希音は目を丸くして、三秒ほどしてから頷いた。
「は? …ああ、そういうことになる。…なんでマシュマロなのかは、さておきな」
(…くっ。これがジェネレーションギャップってヤツかッ!?)
 昔観た映画のネタが通用せず、ミロは内心激しくショックを受けた。そのやり取りにさっそく反応したのか、結晶体がそれぞれ脈打つように明滅を始める。
「拙いぞ!」
「俺のせいか? まさか、マシュマロマンが!?」
「大丈夫です。陽気な音楽を聴かせれば、きっと無害になります!」
「そりゃパート2のスライムだっ!」
 狼狽する侑希音とミロ、ムーンセイバー。一方で、クーインは相変わらずの悪役笑いを響かせた。
「ふはははは! ご解説サンキュー。そういうことなら、これもキッチリ回収しないとなぁァ―ッ!!」
 クーインはジャンプしてマントの中から風呂敷を引っ張りだし、それを結晶体に向けて放る。
「バイオニックコンバイン!」
 クーインが額から発せられたビームが風呂敷を貫き、さらにエウェストゥルム結晶体に命中する。激しい閃光が迸り、そこから風呂敷包みがひとつ、ポトリと床に落下した。
「ちっ…!」
 侑希音が手を伸ばすが、その先からクイックゼファーがスライディングタックルの要領で、風呂敷包みを掠め取った。
「ふふふ。今度はオレが早かったぜ、女王様よ」
「女王さま言うなッ!」
 侑希音が顔を赤くして怒鳴る。風呂敷包みを受け取り、マントの中にしまいこんだクーインはニヤニヤと笑った。
「違うぞ、クイックゼファー。あいつはマゾなんだそうだ。そういうことならゆっくり遊んでやりたいところなんだが、今日はこれまでだ。用が済んだらさっさと立ち去るのが成功の秘訣だからな。
 なぁに、魔王復活の暁には、いくらでも痛めつけてやれる。それまで、楽しみはとっておけ」
 そう言うと、クーインは自分の腰に巻いてあったロープの端をクイックゼファーに投げ渡した。
「行くぞ!」
 さらに残り三人が渋々といった風にロープを掴んだ。バーナーがぼやく。
「あの中、グルグルして気持ち悪いんだよなぁ…」
 それが耳に入り、クーインが眉をひそめる。
「文句を言うな。このマントは、少しでも抵抗の意思を持つものは入らないんだからな」
(そうなんだ…)
 あのマントを武器に使われたらマズイと思っていた侑希音たちは安堵のタメ息を洩らした。
 その間に、部下を全員収容したクーインはマントで身を覆い、
「さらばだ!」
 と、床の中へスルスルと沈んでいった。
 こうして何も無くなった床を前に、侑希音たちは顔を見合わせた。目が泳いでいる。
「えっと…逃しちまったな。クーインのヤツが言っていた魔王が実在したってだけでも驚きだが…存外な手際のよさも驚きに値するぞ。アイツら、悪党としてどんどん成長してやがる」
 と、侑希音。ムーンセイバーが肩をすくめる。
「確かにそうでしたが…。あの機械は完全に破壊しましたから…大丈夫じゃないですか?」
「そうだな」
 ミロが頷く。
「どっちみち、奴らには修理なんて出来ないんだろ?」
 それを聞いて、侑希音の表情が明るくなる。
「まあ、魔術に造詣が無いとどうにもならないね」
「だったら、任務達成ってことでいいだろ。…一応な」
 ミロの言葉に侑希音は頷いた。報告は必要だが、魔術実験の妨害という任務は無事達成されたのである。そのうえ、相手幹部を一人確保できたのだから上々の成果だ。
 昏倒したままのクリュゾストモスを縛り上げ、侑希音たちは出張所へ連絡を入れた。
 
 酉野紫による幼稚園バスジャック事件が起きたのは、それから二日後のことだった。
 
 
7−
 至極当然の話だが。
 その空間は頭痛を誘う悲鳴と泣き声で満たされていた。しかも、それは反響して何倍にも増幅され、さながら鐘の中にでもいるかのよう。すでに殺傷能力すら備えているのではないかと思われるほどの凄まじさだ。
 今すぐ逃げ出したくなるのを堪えながら、バーナーは叫んだ。
「やかましい! 黙れガキどもッ!!」
 舌の先から火をチラチラさせながら唾も飛ばすが、見事なまでに効果は無かった。子供たちはますます大きな声で泣き喚き、バーナーは思わず耳を塞いだ。
「なんなんだよぉ、チクショウ!」
 キレて全部燃やしてしまってはさすがに拙いので、そこは必死に耐える。だが、この仕事は明らかに彼には不向きだった。
 揚手堀公園前。
 朝八時三十四分、ここを通りがかった幼稚園バスが酉野紫の火炎魔人・バーナーに占拠された。
 手口は非常に単純。待ち伏せしていたバーナーが炎で脅してバスを停車させ、中に乗り込むと保育士二人と運転手を縛り上げる。あとは、そのまま居座るだけだ。バスを襲った時点で目立っていたから、そのまま自然と騒ぎになる。時を同じくしてボルタとマンビーフも殆ど同様にして仕事をした。全て、彼らのボスであるサーバントクーインの指示である。
 かくして、バスジャックは拍子抜けするほど簡単に成功してしまったのだが、バーナーは三十人もの幼児を前に辟易してしまっていた。大人なら、ちょっと炎を見せて脅してやれば黙りそうなものだが、彼らはバーナーが乗り込んできた時点で泣き喚いてしまっていたので、もはや脅しの声も届かないのである。だからといって、子供の扱いに長けているからと保育士の拘束を解いてしまえば、それはそれで何が起こるか判らない。つまり、このまま我慢して黙っているのが一番無難だということだ。
 バーナーは深々とタメ息を吐いた。
「ボスの指示、まだかよ…」
 同様にボルタとマンビーフも、それぞれが占拠したバスの中で途方に暮れていたのであった。
 
−−−−−−−−
 
「状況はどうなっている?」
 酉野市警察署内に設けられた対策本部。乗りこんで来たMr.グラヴィティは開口一番、問う。
 廿六木大志刑事が張り詰めた表情で答えた。
「三台の幼稚園バスが、それぞれバーナー、ボルタ、マンビーフに乗っ取られ、現在停車中。今のところ、犯行声明も何も出されていませんね。目的は不明。これが園児の名簿です」
 手渡された紙には園児の名がずらりと並び、その八割近くに丸印がつけられていた。
「一号車に三十人、二号車に十八人、三号車に二十二人」
 呪文のように呟く廿六木。その後ろで壁に模造紙が貼り出される。そこにはグラヴィが見たのと同じ名前がずらりと並んでいた。ホワイトボードには望遠レンズで撮影したらいい現場の写真が貼り付けられ、磁石で止められた地図にはそれぞれマークがつけられていた。
 一号車は揚手堀公園の側。二号車は住宅地の真ん中。三号車は駅前。
 正三角形とまではいかないまでも、見事にバラけた配置である。
 京本部長刑事が皮肉な笑みを浮かべた。
「幼稚園バス乗っ取りとは、随分とトラディッショナルな悪事を働いたもんだ。…昔を思い出すぜ」
 頷くグラヴィ。
「うむ。こういう場合、さらった子供を育てて戦闘員か怪人に改造する計画であることが普通だが…。あの連中に、そんな長期的な展望があるはずも無い。意図が判らんな」
「ずっと負けがこんでるから、頭数増やしたいのかもしれないですよ」
 と、廿六木。だが京本は首を振った。
「違うね。それなら、育成よりも即戦力だろ」
 言われてみればその通りである。廿六木は頷いた。
「確かに。今の調子じゃ、新戦力が育つ頃には全滅しちまってますね」
「とにかく、人質は幼い子供たちだ。一刻も早く救い出さねばならん」
 グラヴィは固い決意で口を結んだ。京本も鋭い眼差しで頷く。
「三ヶ所を同時に押えるか…。だが、姿を見せていないヤツが気になる」
「アクアダッシャーとクイックゼファーですか」
 廿六木は、目撃情報が寄せられていないタイツ男の名を口にした。
「そうだ。アクアダッシャーは…まあ、見え見えだからいいが」
 京本の言葉に、グラヴィは相槌を打った。
「ああ。それと、奴らのボスもな。酉野紫の今までの行動からして、何の指示も無しでこういった行為に及ぶとは考えにくい。今回は、あのサーバント・クーインも深く関与していると見るべきだろう」
「いずれにせよ、このままじゃ手が足りないな…」 
 アゴに手を当て思案する京本。
 そこへ。
 まさに救いの鐘のように、その声は響いた。
「遅くなってすまない」
 窓辺に立つ、ひとりの男。所々にプロテクターが配された黒くタイトなボディスーツを身にまとい、口元を覆面で覆っている。いかにも映画に出てきそうな特殊工作員然とした姿だが、その声と眼差しは、この場にいるものにとって覚えのあるものだった。
「来てくれたのか、ニンジャマン!」
 廿六木が顔をほころばせる。
 忍者刀を背負ったその男は、力強く頷いた。
「私の名は"ムーンセイバー"だ」
 続いて、開きっぱなしだったドアをノックして侑希音とミロが乗り込んできた。
「上に話は通してある」
 侑希音が強い口調で言うと、ミロが後を受けた。
「協力させてもらうぜ。まあ、後始末みたいなもんでな」
 
 それから数分後。
 酉野市警に一本の電話がかかり、状況は動き始めた。 
 
−−−−−−−−
 
 そのとき、藤宮璃音は朝食を摂っていた。
 事件を知り飛び出そうとした璃音だったが、夫の説得にあい断念したのである。曰く、
「デリケートな事件だから、警察に任せた方が良い」
 とのこと。確かに酉野紫が暴れているだけなら飛んで行って殴り倒せば終わりなのだが、今回は人質がいるし、しかも三箇所に分散している。迂闊に手を出せばどうなるか、それを考えれば大人しくしている他はない。
 そういうわけで、璃音は朝食を黙々と食べていた。なにせ、一日空腹を耐え続けただけで倒れた経験があるだけに、どんな心配事があろうと食事は欠かせないのだ。強大なパワーは、それに相応しい犠牲を強いるということであり、決して全ての栄養が胸に吸われているわけではない。
「ラクダのコブみたいなもんじゃなかったのか、それは…」
 などと言われたことは数え切れないが、それはあくまで授乳のための器官であり、水分や養分を便利に貯えるためのモノではないのである。
「ごちそうさまー」 
 お行儀良く手を合わせて一礼する璃音。今日のメニューは丼飯に味噌汁、ベーコンエッグのレタス添え。それから前日の筑前煮など。これら全て斐美花が用意したものである。五月には出汁のとり方も知らなかったのが二週間の花嫁修業の結果これだから、元々聡明であったとはいえ大した進歩である。
「おそまつさまでしたー」
 笑顔で応える斐美花。見ると、お膳は盛り付け前かと思うほど綺麗になっている。食べっぷりが良いと作る方も嬉しいし遣り甲斐もでてくる。斐美花は上機嫌で璃音の肩を揉んだ。
「おいしかった? デザートもあるんだよー」
「ホント? 食べる食べるっ」
 程なく、グラスに山と盛られた杏仁豆腐がやってきた。
「じゃじゃーん。杏仁粉が安かったから、試してみたの」
 笑顔だがどことなく不安げな斐美花。璃音は、
「へぇ。本格的だね。いただきまーす」
 と、さっそくスプーンで一口。
「うん、おいしいよー」
 心底幸せな笑顔で、璃音は頷いた。それにつられて、斐美花も満面の笑みを浮かべた。
「そう? やったぁ」
 こうして、朝食の時間は賑やかかつ和やかに流れていった。食堂に蛍太郎が駆けこんでくるまでは。
「璃音ちゃんっ、大変だ!」
 捜査本部にその電話がかかってきてから、十分後のことであった。

  
「そういうわけでですね…」
 廿六木刑事は、璃音と蛍太郎、斐美花を前にして事情を説明していた。その隣には侑希音が控えている。
 場所は署内でも捜査本部から離れたところにある会議室。酉野署に呼び出された璃音たちは人目に付かないように、この部屋に通されたのだ。
「午前九時半、犯人グループからの電話がありました。首謀者であるサーバントクーイン自身によって、です」
 息を飲む璃音たちを前に、廿六木は続けた。
「今現在、クーインはひまわり幼稚園にいます。もちろん、幼稚園にも捜査員を派遣してはいましたが、やはり三台のバスに目が向いていたことは否めず…占拠された模様です。こちらから連絡は取れません」
「そんな…」
 璃音はショックに顔を覆い、その肩を蛍太郎が抱き寄せる。廿六木は少し逡巡したが、そのまま続きを話した。
「ヤツの要求は一つ。バスの園児と教職員を解放して欲しければ…璃音さんが一人で、ひまわり幼稚園へ来ること。そして、そこでヤツの指示に従うこと。要求が容れられない場合は…」
 最後まで言い終わらないうちに、璃音が声を張り上げた。
「わたし、行きます!」
 当然、蛍太郎が割って入る。
「待ってくださいよ、刑事さん。なぜ璃音ちゃんが…」
 廿六木の表情が曇る。蛍太郎の立場なら当然の発言だ。それぞれ何か言いたげにしている璃音と蛍太郎を制して、侑希音が口を開く。
「すまん。それは私の不始末でな…」
 それから二日前の出来事を話した。
「間違いなくクーインは"コークスクリュー"の修復が目的だ。あれは完全に破壊したが、残骸は一片も残らずヤツが持ち去ったのだから…璃音の力を以ってすれば、問題なく修復できる。
 だが、気になるのは…」
「なぜ、ひまわり幼稚園なのか。…だね」
 と、蛍太郎。それを聞いて、斐美花はしたり顔で頷いた。
「そうか。もう人質は充分なんだから、敢えて幼稚園を占拠する必要は無いよね」
 侑希音も頷く。
「そうだ。そもそも、あれは"しかるべき場所"で使わなければ意味が無い。決して持ち運びに便利なものではないから、現地で修復させるのが一番手っ取り早いのだろうが…まさかな…」
 璃音は首を傾げながら、状況を鑑みての推論を口にした。
「…昔の魔王の聖地が、今はひまわり幼稚園ってこと?」
 魔王の聖地と幼稚園、この二つの単語は全く結びつかない。だが、蛍太郎は確信をもって言いきった。
「魔王がいたのは一万年も前の話なんだろ。それだけの時間があれば陸地が海にもなる。聖地が何に変わっても、おかしくはないよ」
 それを聞いて、侑希音は眉をひそめた。
「理屈はそうだが…魔王の聖地だぞ? そういうからには、もっとこう…なぁ…」
 言いたいことは判る。
 邪悪な魔王の聖地であるからには、今でもそれを思いおこさせるような情景でなければ格好がつかないではないか。たとえば腐臭と瘴気に満ちた毒の沼地や、常に暗雲に覆われ雷鳴轟き溶岩を噴きだす活火山などなど。それがよりによって『みんななかよく、すこやかに』をモットーとするひまわり幼稚園だなんて、あまりにもミスマッチだ。
 だが状況は、そのミスマッチな組み合わせこそが事実だと語っていた。
「いずれにせよ」
 こちらの問答にはあまり関心が無かったようで、廿六木はさして顔色を変えずに続けた。
「こちらとしては、相手の要求を聞き入れるフリをして時間を稼ぎ、隙を見て救出作戦を実行する以外にありません。ですから、どうか…ご協力をいただけないでしょうか」
 これはあくまで要請だが、璃音には断るつもりなどさらさら無かった。
「判りました。やります!」
 
 
8−
 その年の夏。
 六歳になったばかりの貴洛院基親は、十八ヶ月にわたる入院生活を終え、ひまわり幼稚園に中途入園した。
 二度の手術を乗り越えた基親は精神的には年齢以上に老成した。人間は修羅場を経験すれば否応無く変革を強いられるものだが、しかし、それが必ずしもよい方向へ向くとは限らない。彼の場合は物事をより深く捉えられるようなった結果、『ムダに元気なだけで行動に知性というものが感じられない』として同じ年代の子供たちを見下すようになってしまったのだ。
 そういうわけだから、当然のように周りとは馴染めない。外遊びの時間になっても、基親は一人で教室に残り絵本を読んでいた。本棚の前にどっかりと座り込み、次々と本を読んでは積み上げていく。もう何度も読んだ本ばかりだが、それでも外で莫迦みたいに騒ぐよりはマシだと人前で言い切ってしまっていたので、基親に敢えて干渉しようという者はいなかった。
 一人で居ることはなんとも思わない基親だったが、さすがに同じ絵本ばかり毎日読むのは退屈である。そこで、職員室へ行って本を借りてこようと思い立った。今度は、もっと文字の多いヤツが良い。
 立ち上がった基親だったが、目眩をおこしてバランスを崩す。長い入院生活のお蔭で運動機能の発達が遅れてしまったこともあり、ひ弱な子供になってしまっていたのである。よろけた基親は放置されていたウレタン製ブロック玩具につまづいてしまい、そのまま転倒した。
「あうっ!」
 そもそも転ぶということに不慣れなのだから仕方が無いことだが、基親は膝を思い切り打ちつけ、床に転がった。
「痛い…」
 そのまま率直に、口が開いた。見ると、右膝が驚くほど赤く腫れていた。試しに動かしてみるが、痛みでどうにもならない。立ち上がることはできないので、膝をかばいながら何とか上体を上げる。そのとき、基親はガラス戸の隙間からこちらを覗きこんでいる者がいることに気付いた。教室の庭に面した側は全てガラス戸になっていて出入りできる。そこに、たまたま外から戻ってきたのであろう、同じ組の女の子がいたのである。
 基親は"おともだち"には目もくれていなかったから、彼女の顔を見るのは初めてだ。同じ組だと判ったのは名札の色が自分と同じ赤だったのと、この部屋に入ってきたからという理由からである。女の子はパタパタと基親の側まで走って来ると、大きな丸い、真っ赤な瞳で心配そうに覗き込んできた。細く長い髪が揺れ、ガラス戸から差し込む陽光に映える。
「いたいの?」
 女の子はすぐに基親の腫れた膝に気付いたようだ。
「そんなことない」
 慌ててそっぽを向く基親。同じ年代の子供と日常的に顔を合わせることなど今まで無かったから、そういう会話には慣れていない。それに、この子は大きな目と丸い顔がとても可愛らしく、真っ赤な瞳には吸い込まれそうな不思議な輝きがあった。ずっと見ていたいけれど、なぜか胸が苦しくなってしまって耐えられず、目を逸らしてしまう。女の子の方は、そんな事情になどお構い無しで基親のすぐ目の前に座り、腫れた膝に自らの掌を乗せた。
「なにすんだよっ!」
 ほとんど反射的に、基親はその手を振り払った。そして、あることに気付く。膝から、腫れも痛みもひいていたのだ。何が起こったのか判らないまま女の子の顔を見上げると、そこには満面の笑みが待っていた。
「ふふ。もういたくないよね」
 ひまわりみたいだな…と、基親は呟いた。
 女の子がまだ視線を逸らさないのは、基親の言葉を待っているからだろう。まず自己紹介でもしようと口を開きかけた時、ガラス戸が乱暴に開け放たれた。
「なにやってるの!」
 子供の声。目の前の子よりも釣りあがった目をした女の子である。こちらは髪が短い。その顔を見た赤い瞳の子は、
「あ。悠ちゃん」
 と、笑顔のまま大きな声を出した。どうやら二人は友達らしい。すると、後から来たほうの女の子は頬を膨らませて目を更に吊り上げた。
「もう、璃音ちゃん! 男には近づいちゃダメだって言ってるでしょ! あいつら皆、変態なんだからね!」
 好きなことを言ってやがる。…などと基親が口を挟めるわけもなく。赤い瞳の女の子は気圧されて、口ごもってしまった。
「でも…」
「でもじゃない! あたしは璃音ちゃんのためを思って言ってるの!」
 凄い剣幕でまくしたてながら、髪の短い女の子は大股でズンズンと教室の中に踏み込み、赤い目の女の子の腕を掴む。
「行くよ!」
 そのまま、その女の子はズルズルと外へ引き摺り出されてしまった。
 このときの様子があまりに怖くて、基親はもう赤い瞳の女の子に近寄ることは終ぞ出来ず、彼の幼稚園での生活に変化は訪れることはなかった。この日も結局は本を読み耽るだけで終わってしまい、いつも通り使用人の"爺や"が運転する黒塗りの車で帰宅した。
 彼の自宅は、日本有数の大企業たる貴洛院グループ会長の持ち家に相応しく、広大なお屋敷である。ただし家主である基親の祖父も両親も多忙のためここには居らず、住んでいるのは基親と彼の姉、玲子。そして爺やをはじめとする数人の使用人のみだった。
 屋敷に帰って四時間あまりは完全に基親の天下である。広い応接間に本や玩具を広げて寝転んで、気ままに過ごす。片付けさえきちんとすれば、爺やは何も言わなかった。
 だが、姉は別であった。
 貴洛院玲子は帰宅早々、弟の姿を見るなり、いつもこう言うのである。
「なんだ。まだいたの」
 姉は、これ以上無く冷たい眼差しで基親を見下ろした。
 両親の造形を上手いこと受け継ぎ美しく整った容貌と長い黒髪。英春学院の制服である紫を基調としたセーラー服に包まれた身体はすらりとして、彼女を颯爽たる美少女にしていた。それだけに、眼差しの冷たさが特に際立つ。
 十秒ほど、そのまま睨みつけた後、玲子は何も言わずに踵を返し、自分の部屋へと引っ込んでいった。
 学校でも五指に入る美人として人気を集め、成績優秀にして次期生徒会長として名声を集めていた玲子だったが、基親にとっては顔をあわせるのも辛い相手だった。なぜなら、玲子は弟の存在を疎んじているからだ。
 彼女にとっては、十一歳になって突然弟が出来たこと自体が耐え難い障害だったのだ。なにせ、そのおかげで将来に相続する財産が半分になることが確定したのだから。頭が良い玲子は自分の未来について想像をめぐらせることが多かったが、貰えるはずだった物が突如半分になるのでは、まさに当てが外れたといったところである。
 そういうわけだから玲子は、基親が入院したときには人前で喜びはしなかったものの、一度も見舞いには来なかった。何を期待していたのかは、言わずもがなである。
 だが、基親は屋敷に戻ってきた。
 それ以後、人目に付かないところでの姉による冷淡な扱いが続いていた。基親は抵抗しようとしたが、誰も取り合ってくれなかった。日ごろ積み上げてきた彼女のイメージがモノを言ったのである。それだけでなく、病弱であった基親自身の貴洛院家における地位も、所詮はその程度のものであったということだ。
 そんな実態はあったものの、しばらくたって基親が自室以外では遊ばないようになってからは波風の立たない日々が続くことになった。
 そんなある日。
 どういうわけか、玲子が基親を迎えに幼稚園に来た。
 しかも不思議なことに、基親にとって初めて目にする人物と同行していた。姉が連れていたのは、彼女と同じくらいの年頃の少年である。その少年の学生服を見れば、玲子と同じ学校の生徒だということは基親にもすぐに判った。少年はアイドル顔負けの美しい容貌をしていたが、それだけに表情の無機質さが印象に残った。
 保育士に見送られ、姉のもとに。玲子は何も言わずに手を差し出してきたので、基親は家の外である事を考慮して手をつないでやった。
 玲子は家では決して見せない満面の笑みで隣にいる少年に何やら捲くし立てているのだが、その少年は完全にうわの空で、相槌を打つふりをしながらどこか関係の無いところに視線を送っていた。
「ほら、この子が弟の基親よ」
(なにが『この子』だ…)
 そう、口に出しかけた基親の頭を、玲子は無理矢理押さえつけた。
「ほら、ごあいさつなさい」
「こんにちは…」
 本音はどうあれ挨拶はキッチリするもんだという祖父の教えを、基親は忠実に実行した。すると、玲子は基親の頭を撫でながらカラカラと楽しげに笑う。
「かわいいでしょ〜。歳が離れてるもんだから、余計にさ」
 鳥肌が立った。
 基親は姉の手を力いっぱい振り払う。
「あら、照れてるのかな?」
 取り繕う玲子の笑顔は実に白々しかった。
 このときは姉の豹変が気持ち悪くて仕方なかったが、『病弱な弟の世話をする殊勝で優しい女』をアピールしたかったからだということは容易に理解できた。だが、それは成功するどころか逆に墓穴を掘ったのだから皮肉なものである。この時、永森蛍太郎を生涯の伴侶と出会わせてしまったのは、玲子自身だったのだ。
「うん、可愛い」
 そんな言葉を発した学生服の少年は、玲子と基親、そのどちらも全く見ていなかったのだ。
 その視線の先にいた者こそ、藤宮璃音だったのである。
 この日以来、ふたりの間に奇妙な連帯感が生まれた。
 それでも仲が良くなったわけではなく、あわよくば消してやろうとお互いが考えていたことに違いはない。
 
 
 彼らが生まれた貴洛院家は地元の名士であり、その宿命として子弟には常にトップである事が求められる。いずれは人の上に立つのだから当然ということであろう。さしあたり、学校の成績は判りやすい指針として大いに活用されてきた。
 英春学院に通っていた玲子は、当初は文句なしのトップスコアラーとして君臨し続けた。ここまでは、周囲の期待通りである。
 だが、中等部二年の秋から編入した一人の生徒によって、その座を追われてしまう。その生徒は帰国子女だったので国語や日本史の得点が度々脚を引っ張ったために順繰りに首位の座に争うことになったのだが、それでも玲子のプライドは大いに傷ついた。玲子は色々と考えた挙句、その生徒、永森蛍太郎を自分のモノにしてしまおうと考えた。美しく聡明なだけでなく、金持ちでかつ家には誰も住んでいないという恵まれた条件にあった玲子は既に男性経験があったので、その計画は問題なく進行するかと思われた。だが結局は、墓穴を掘る形で敢え無く失敗してしまったのだった。
 結局、玲子は最大のライバルを未練タラタラなままでは打倒するに至らず、そのまま高校生活を終えることになってしまった。そのあと三城大学に入学した時は、蛍太郎がいなかったとはいえ見事に新入生代表挨拶をすることができたのだから、まずは面目を保ったといえるだろう。
 基親の方は、より深刻であった。
 小学校の時点で、既に目の上のタンコブがいたのである。それが、藤宮璃音だ。さすがに小学生のうちから成績順位が張り出されはしないが、テストの点数を伝え聞けば実力を窺い知ることは出来る。その内容は彼と同等か、それ以上であった。
 そして、英春学院中等部に入学して成績に明確な順位がつくようになってから、基親は愕然とする。家庭教師を雇って望んだ最初のテストで、二位に甘んじてしまったのだ。その後も首位を奪うには至らず、祖父や両親はたまに帰ってきたと思えば、
「なぜトップじゃないんだ?」
 の、一点張り。おまけに心を許していた家庭教師は金目当てであったと知り女性不信になるという不幸な出来事があった。これにより、基親の精神はどんどん荒廃していく。
 そして事件は、中学二年の夏に起こった。
 下校途中、基親は橋のたもとにダンボール箱が置かれていることに気付いた。近寄って覗いてみると、中で小さな黒い仔猫が丸くなっている。
(こんなコテコテの捨て猫がいるとはね) 
 基親は冷笑を浮かべたが、どういうわけか通り過ぎる気にもならず、屈んで指先で仔猫に触れてみた。すると仔猫は目をあけて、基親の指先にじゃれつき始めた。調子に乗ってそのまま撫でていると、指に仔猫が噛み付いた。仔猫にとっては甘噛みで、まだ力も無いから大して痛いものでもないが、基親の怒りをかうには充分だった。
「クソ、何しやがる! 可愛がってやってんのにっ」
 乱暴に仔猫を振り払い、基親は立ち上がった。箱を蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、止める。そのかわり基親は、箱を持って橋の真ん中まで歩いていく。橋の欄干から上半身をのりだし、そして不安げに鳴く仔猫を、箱をひっくり返して真下の川へと落とした。
 どこからか人の悲鳴が聞こえた。
 仔猫が水面でもがくのをずっと上から見下ろし、基親の顔には満足げな笑みが浮かんでいた。そのまま、流された仔猫が橋の陰になって見えなくなるのを確認してから、基親は踵を返した。あれが今ごろ、橋桁の辺りに沈んでいることだろうと思うと、基親は愉快な気分になった。自然と鼻歌が漏れてきたが、それを遮るように背後で水音がした。
 今度は何か大きな物が落ちたようである。もしかしたら仔猫を助けるために誰かが川に飛び込んだのかもしれないが、いずれにせよ、この場を早く去るにこしたことはない。基親は足早に橋を戻ることにした。
 ふと、ただならぬ気配に顔を上げると、そこには藤宮璃音がいた。その顔は誰が見ても判るほど怒りに紅潮しており、口元は何かに耐えるように真一文字に結ばれていた。頭から足元まで満遍なくずぶ濡れで、その理由は彼女の胸元に抱えられて丸くなっている黒いものを見れば、明らかである。
「な、なんだよ」
 気圧されて呻く基親に、璃音は無言のまま大股で近づいてきた。歩を進めるたびに、水が滴り路面が濡れる。あと二歩でぶつかるというところで璃音は足を止め、自分よりの目線より頭二つ分高いところにある基親の顔を睨みつける。
 その直後、鈍い痛みが顔面を襲い、基親は衝撃で橋の欄干に叩きつけられた。目の前の少女に殴られたのである。辛うじて顔を上げた基親は璃音の手元を見たが、どうやら平手打ちだったようだ。ある程度は手加減したつもりなのだろうが、基親にとっては、いや健康体の男でも足腰が立たなくなるほどの打撃だった。
 基親は何か言ってやろうと思ったが身体に力が入らず、崩れ落ちるように腰を落とす。そして、そのまま視界がかすみ、意識を失った。彼が辛うじて視覚にとらえた最後の情報は、ずぶぬれになった少女の後姿だった。
 
 どれくらい時間が経ったのか。
 基親は、自室のベッドで目を覚ました。目と耳で周囲を確認するが、いつも通り人の気配は無い。使用人は一年ほど前に残らず暇を出したので、通常この屋敷にいるのは基親一人だ。もし見知らぬ誰かが送り届けたにしても無人というのはおかしいから、どうやら自力でここまで戻ってきたようである。
 薄暗い部屋の中には、床に置きっぱなしにしてあった新聞の上に学生服が放り出されていた。それを見て自分の格好を確認すると、上着を脱いだだけのTシャツとズボン。ズボンのシワがひどいことになっていて、それを考えると頭が痛い。
(これ、クリーニングにださなきゃな…)
 ヨロヨロと上体を起こすと、頭の芯がズキリと痛む。どうやらズボンのシワのお蔭ではなく、物理的なダメージのよるものらしい。そのダメージを受けたであろう下校途中のことを思い出してみるが、記憶がハッキリしない。ただ、藤宮璃音に殴られたことだけは明確に認識できた。
「チクショウ、あの女。思いっきり殴りやがって…ッ」
 口に出してみると、堰を切ったように痛みが増した。本当に、酷い頭痛だ。基親は頭を押え、うずくまる。何者かに脳を撹拌されているのではないかと思うほどの痛みと嘔吐感が押し寄せてきて、さらに耳鳴りが加わる。目を開けていると視界がグルグルと回るので、気持ち悪くなってすぐに目を閉じる。すると、聴覚に意識が向き、耳鳴りの他に何か違う音が聞こえてくるような気がして、訳の判らない嫌悪感に支配された基親は悲鳴を上げ続けた。
 
「選ばれし者よ。面を上げるがよい」

 唐突に。
 耳鳴りのノイズと己の悲鳴の隙間をものともせず、その声は基親の精神に直接届いた。地の底から沸きあがるような、低く太い声だ。
「なんだよ!」
 顔を上げると、ちょうど学生服が放置されていた辺りに、黒いマントをなびかせた人影が浮かんでいた。そいつは赤く炯々と光る目で基親を見下ろしていた。
「そなたが選ばれし者であると、言っている。
 この世界における我が尖兵に、そなたは選ばれたのだ。この魔王カーンデウス様のな」
(魔王? コイツ、何を言っているんだ…)
 基親は状況が判らず混乱していた。普通なら幻覚だと考えるのが妥当だろうが、目の前に立つ魔王の存在感は圧倒的だ。
「そなたに我が力の一端を与えよう。それを用いて破壊と混沌をもたらし、ゆくゆくは、我をこの世界へと招き入れるのだ」
 魔王はマントを広げ、何やら壮大なストーリーを脳内で展開しているらしい。基親は頭痛に顔をしかめながら、半ば自棄になって叫んだ。
「で? それで、僕に何のメリットがあるっていうんだ!」
 魔王はしばし黙り、それから低く笑った。
「くくく…メリットか。我を前に損得の話をしたのは、そなたが始めてだ。
 よろしい。まずひとつ、我の力の一端を与える。あらゆる物体を結合、一体化し、それぞれの能力を複合させる能力だ。さらに、魔王ならではの変身アイテムを授けよう。
 ふたつ。この世界を征服した暁には、半分をそなたにやろう。…いや、そなたには全部くれてやろう。なかなかに、見所がありそうだからな」
「いいのかよ、全部なんて…」
「臣下が治むる地は、我が版図と同じことよ」
 魔王が笑う。
 つられて、基親も笑みを浮かべた。
 もう、頭痛はどこかへ飛んで行ったようだ。
 基親はベッドを降り、膝をついて魔王に宣誓した。
「かしこまりました。これよりこの貴洛院基親、貴方様にお仕え申上げます。…我が主君、カーンデウス様」
 それを聞いた魔王は満足げに口元を歪めると、そのまま霧のように掻き消えていった。
 基親は目を丸くし、それから魔王が浮かんでいた辺りを確かめる。その空間には何もなかったので足元に目を移すと、学生服の上に何か光る物が置かれていた。
 それは、小指ほどの大きさの細長い宝石だった。
 色は黒に近い紫で、カーテンから差し込む月光を反射して艶めかしく輝いている。この宝石がイデアクリスタルと呼ばれていることを基親が知るのは、さらに後のことである。
「これが…変身アイテム、なのか?」
 指先を宝石に触れると、また魔王の声が頭に響いた。
「手駒を集めるのだ。貴様の思い通りに動く者たちを集め、力を与えよ。まずは焦らずに、足元を固めることだ」
 意外と地道な主君のアドバイスに頷きつつ、基親は学生服を拾い上げた。すると、下敷きになっていた新聞の見出しが目に飛び込んでくる。
『酉野紫一斉検挙』
『暴走の終焉。地域から安堵の声』
 長年市民に迷惑をかけていた暴走族"酉野紫"が地元のヒーローと警察の連携により一網打尽にされたという記事である。エリートを自認する基親にとっては彼らなどは消えて当然のゴミのような連中でしかなく、さほど興味がそそられる出来事ではなかったが、今の彼にとってはそうではない。そういう連中だからこそ、好都合だ。
「手駒、ね…。ククク。良いね、これは。利用できそうだ」
 鮫のような笑みを浮かべる貴洛院基親。いや、サーバントクーイン。
 酉野紫を名乗るタイツ男たちが街に現れるのは、それから三年後のことである。
 
 
「ボス、しっかりしてくれよ。大丈夫っスか?」
 心配げに覗き込むクイックゼファーの顔を見て、サーバントクーインは我に返った。
「いかんな。場所柄か、つい感傷に浸ってしまって…」
 カーテンを閉め切っているために真っ暗で面影は薄いが、この部屋はかつて貴洛院基親が一人で本を読んでいた、あの教室だった。ひまわり幼稚園を占拠したクーインは、この場所に陣取っていたのだ。
「首尾は?」
 アイマスクの下の表情を引き締め、クーインは配下に言葉をかける。クイックゼファーは得意げに答えた。
「警察に電話入れて一時間、そろそろだろ。縛り上げた教職員とガキやら親やらは物置で変化なし。順調ですぜ」
 クーインは静かに頷いた。
「よし。私はここで藤宮璃音を待つ。他に侵入者があった場合は、お前が対処しろ。いいな」
「了解でさァ!」
 そのとき、クーインのレーダー知覚に人間一人分の反応があった。
「来たようだ。お迎えを頼む」
 
 
9−
「ほらよ」
 案内役だというクイックゼファーに背中を突き飛ばされて、璃音はその部屋に通された。
 まず、璃音は周囲を見回した。壁に貼られた沢山の絵から察するに、園児が使う教室のようだ。記憶を手繰り寄せてみたが、何せ幼い頃のことなので自分が居たクラスの教室かどうかは判らない。ただ、浮かんできたイメージでは、ひまわり幼稚園はどこであっても陽光で常に輝いていた。それが璃音にとってのひまわり幼稚園である。
 だが、本来は日の光に満ちているはずの教室は締め切られたカーテンによって影に沈んでいた。そして何より、教室の中央に立っている男の存在は、この場所に最もそぐわないものといえるだろう。サーバントクーインは璃音の顔を見ると、皮肉な笑みを浮かべた。
「よく来たな。…クイックゼファー、下がっていいぞ。引き続き、監視と警戒に当たれ」
 クイックゼファーは一瞬不満気な顔をしたが、言われたとおりにドアを閉め、どこかへ消えていった。それを見送り、クイックゼファーは改めて藤宮璃音と視線を合わせた。
「改めまして。ようこそ、我が聖地に」
 だが、璃音は応えない。その代わり、誰が見ても判るほど顔を怒りに紅潮させていた。
 クーインは不快感から眉をひそめ、唾を吐く。距離があったので璃音に当たりはしなかったが、それでも明らかな侮蔑である。しかし、璃音は黙ったままだった。
「何とか言えよ。貴様、今はそんな立場じゃないだろ?」
 クーインの言葉に、璃音は憤然と答えた。
「どうだか。私の力が必要なんじゃないの?」
「ククク。こっちには人質がいるんだぞ。なんなら、部下どもに指示してくびり殺してやっても構わないんだ。大人しく私に従うべきではないのか?」
 クーインが哂う。
 璃音がここへ来るのと同時に救出作戦が始まっているはずなのだが、そちらの情報が未だ無い以上、下手なことは出来ない。
 璃音が黙り込むのを見てクーインはさも愉快という風に口元を歪め、そして芝居がかった動作でマントを広げた。すると、マントの裏地に波紋が立ち、機械の残骸が次々と吐き出される。
「さあ、コイツを直してもらおうか」
「…判った」
 苦渋に満ちた表情で、璃音は"コークスクリュー"の残骸に手をかざした。薄暗かった教室にヴェルヴェットフェザーによる暖色の光が灯る。その光に包まれた残骸の山はゆっくりと、ひとりでに動き出し在るべき姿へと戻っていく。
「意外と時間がかかるもんだな」
 クーインが首を傾げる。相手の意図を読んで、璃音が言う。
「壊れてから時間が経ってると、直るのが遅くなっちゃうんだよ」
「なるほど。じゃあ、三日かかるのか?」
 皮肉を言ったクーインだったが、璃音は応じなかった。見ると、コークスクリューは三分の一ほどだが元の姿を取り戻しつつあった。
「それならば…」
 クーインはひとつ咳払いをして、続けた。
「少々、お喋りといこうかね。今から何が起ころうとしているのか、知っておいた方が良いだろう?」
 璃音は無言。だが、拒否もしなかった。
「よろしい」
 クーインは頷くと、続けた。
「恐らくは仲間から聞いているだろうが、それは異界への門を開く装置だ。しかるべき場所で使うことにより効果を発揮する。シャイターンの連中は魔王の聖地を見つけ出し、これを使って魔王復活を目論んだわけだ。
 …だが、しかし」
 クーインはタップリと勿体つけてから、続けた。
「連中の観測結果には誤差があったのさ。いや、正確な観測がなされていなかったといった方が正確か。
 魔王の聖地はここ、この場所なのだよ。もう気付いているだろうがね」
 璃音が黙って頷くと、クーインはさらに続ける。
「この酉野という街全体が時空の狭間にほど近い場所であり、異界と現世の境目の、少しだけ現世寄りのところに位置しているのだ。つまり他の土地とは異なる環境ということになる。貴様のような能力者の家系が生まれたのは、先祖代々その影響を受けたためかもしれぬな。
 それはさておき、だ。
 異界との境界が最も薄く脆いのが、ここなのだよ。だからこそ、魔王の聖地だったのだ。
 シャイターンの連中は、"門"を開くに足る空間の歪みをこの地に見出したのだが、正確なポイントを割り出すには至らなかった。いや、もしかしたら魔王の聖地が今や幼稚園だなどとは考えたくなかったのかもしれんな。だから曖昧なデータを無理矢理に解釈した…。
 確かに、その気持ちは判らんでもない。私も、聖地が幼稚園だなんて信じたくはなかったよ。そこらの山ン中のほうが、まだマシだ。
 そうだろう? 自らの思い出の地を、これから消し飛ばすことになるのだからな」
 その言葉に、璃音は目を丸くした。相変わらずの嘲るような笑みで、クーインが言う。
「そんなに意外そうな顔をするなよ。私にとて、子供時代くらいあるさ」
「じゃあ、どうしてこんな…」
 信じられない、といった様相の璃音に、クーインは侮蔑の色を隠しもせずに言い放った。
「フン! お目出度いヤツだ。そんな力を持ちながら、お気楽に育った貴様のほうがおかしいのさ。
 選ばれし者として生まれた以上、常に頂点に立つことを義務とし、それゆえに孤独であるべきだ」
 その言葉に合わせたかのように―。
 コークスクリューの修復が完了した。
 光が消え、教室は再び影に沈んだ。
 
−−−−−−−−
 
 幼稚園バス三号車は駅前広場に停車させられていた。
 警官隊が遠巻きにし、場所柄から野次馬が集う。路線バスが止められてしまったので、通勤途中の人々が必死の形相で走り回っていた。
 バスの中はというと、子供たちはいい加減泣き疲れたようで静かになってしまっていて、絶望に曇った顔をした保育士二人と運転手は車両前部の昇降ステップのあたりに縛られた状態で転がされている。それを、ボルタは通路に座って眺めていた。
「はぁ。かれこれ二時間、か…。あの保母、割とイケてんだけどなぁ」
 彼らはタイツを脱ぐとただの人になってしまうため、目の前に縛られた女性がいて、しかも何でも強要できる状況にあっても普通に暴力を振るうことしか出来ない。いわば、スーパーパワーと引き換えに一番のお楽しみをお預けにされてしまっているのである。その点は、監禁された保育士や児童たちにとって不幸中の幸いではあった。
 不意に、ボルタは足に奇妙な感触を覚え、視線を落とした。すると、両の足首に何かが巻きついていた。
「なんだ、こりゃ…」
 改めてよく見ると、それは手である。バスの床から手が生えて、ボルタの足首を掴んでいたのだ。その手は白くて指が長く、爪も非常に良く手入れされていた。
(幽霊か?)
 それがあまり綺麗なので、ボルタの脳裏にその二文字がよぎる。だが、その時にはボルタは身動きが取れなくなってしまっていた。
(こ、凍ってる!)
 身体を襲う強烈な冷気から、ボルタは自分が置かれた状況を悟った。ボルタは座った姿勢のまま氷付けにされてしまったのである。辛うじて氷の向こうに得られる視界から、ボルタはこれが何者の仕業であるか知ることになった。いつの間にか、藤宮斐美花がそこにいたからだ。
(くそ!)
 ボルタは電撃を起こして熱で氷を溶かそうと試みた。だが、その電撃自体が起こらない。目を見開くボルタを、斐美花は肩をすくめながら見下ろしていた。
 斐美花の能力である"冬の王"は単なる冷却能力ではない。冷却作用はあくまで副次的なものであり、本義はあらゆる運動を減速、停止させることにある。今のボルタは動きを封じられただけでなく、電撃、すなわち電子を操る能力を打ち消されているのだ。
(なんてこった…)
 こうして、一瞬にして八方塞な状況に追い込まれたボルタは、完全に戦意を失った。
 
 時を同じくして、残り二箇所でも救出作戦が始まった。
 
 普段は閑静な住宅地も、このときばかりはただならぬ空気が漂っていた。
 一般住宅に挟まれた片側一車線の道路に停車した幼稚園バスと、それを遠巻きにする警官たち。野次馬は遠ざけられていたが、そうでなくても道路が狭いために寄り付くことが出来ない状態だ。
 そんな現場を見通せる近所のマンションの三階に、ミロスラフ・夏藤がいた。住人の協力を得てベランダに陣取り、ライフルのスコープを覗き込んでいる。ターゲットはバスの中にいるマンビーフだ。
(的がデカイのは幸いだったな。…けどよ)
 ミロは、ちらりと部屋の中を覗き見た。そこでは、廿六木刑事がちゃっかりと家人からお茶をご馳走になっていた。
(何しにきたんだ、お前は…)
 実際のところ、彼の役割はミロが構えているライフルを持ち運ぶくらいである。民間人に銃を撃たせる訳にはいかないという建前上、表向きは廿六木が狙撃任務に就いた事にはなっており、そのためだけに着いてきたようなものだ。その廿六木は携帯電話の時計を確認し、全く悪びれずに言った。
「ゲトーさん、時間っすよ」
「おおよ」
 言いたいことは多々あったが、とりあえずミロは気持ちを入れ替えて引鉄を引いた。
 乾いた破裂音が響く。
 ライフル弾は僅かな窓の隙間を通り、車内で退屈そうに座り込んでいたマンビーフの肩口に命中した。突如の衝撃に、マンビーフは弾かれるようにして崩れ落ちた。
「な、なんでござるッ!?」
 彼の高級黒毛霜降肉襦袢スーツはライフル弾であっても凌げるだけの強度があり、これでも致命傷にはならない。だが、どういうわけかマンビーフは全身の力が抜けていくのを感じていた。
 その様子をスコープで注意深く観察しながら、ミロはほくそ笑んだ。
「さぁて、マンビーフ君。君には縁の無い話しだろうけど、安い肉を無理矢理食うにはどうしたら良いか知ってるかい?
 …ん? 判らないかい? そうだろうな。答えは漬け置きさ。すりおろしたタマネギに漬け込んでおけば、柔らかくなるんだ。
 そういうわけだから、その弾にはタマネギの絞り汁が仕込んであるのさ」
 もちろん独り言なのでマンビーフに聞こえるわけも無い。訳も判らずもがく標的を非情に見つめ、さらにミロは次弾をケースから取り出す。先ほど撃ったものと同様の動物用麻酔弾だが、こちらも内容液は薬ではない。それをライフルに装填し、引鉄を引く。動きを止めていたマンビーフに命中させることは、彼の腕前を持ってすれば容易いことだった。
「ぶもっ! こ、今度は何でござる…。の、喉が渇いて…ぶもっ…ぶも…ぉ…」
 苦しむマンビーフの表皮から液体が染み出て、車内に牛肉の脂の匂いが漂った。策が的中し、ミロは会心の笑みを浮かべて立ち上がる。
「そいつは食塩水だ。良い肉はな、焼く前に塩を振っちゃいけねぇんだぜ。肉汁が染み出しちまうからな」
 ミロの後姿を見て、廿六木は安堵の表情で言葉をかけた。
「終わりましたか」
「ああ。あとは警官隊を突入させるだけだ。仕上げの肉叩きを忘れるなよ」
「了解です。それにしても、凄いですね。全く狂いなしの精密射撃じゃないですか!」
 感嘆する廿六木に、ミロは照れ隠しの苦笑で応えた。
「まあ、ヤツなんざ所詮は素人だからな。どうぞ撃ってくださいってな位置取りだったぜ」
 
 揚手堀公園に横付けされたバスは、すっかり静まり返っていた。子供たちは泣き疲れ、警官隊は遠巻きにしたまま動かず。運転手とふたりの保育士は恐怖から黙り込んだまま。煩ければ煩いで気に障るが、完全に静かになってしまってはなんとも退屈なバーナーであった。退屈だからといって、公園のお堀に潜んでいるアクアダッシャーとお喋るするわけにもいかず、完全に暇を持て余してしまっていた。
「あーあ。どうすりゃいいんだ、これから…」
 ボスからの連絡も無く途方に暮れたまま、バーナーは指先に火を灯して自分で吹き消すという、非生産的な退屈しのぎに精を出していた。
 ふと、バーナーは揺れる火の向こうで何かが動いていることに気付いた。改めてよく見ると、通路に小さな和人形が立っている。
「なんだぁ?」
 人形は二十センチ程度だろうか。茶汲み人形を思わせるおかっぱ頭と着物姿で、ちょこちょこと床を歩いていた。特に人形が苦手でない限りは可愛らしく見える造型である。
「おいおい、誰だよ。こんなもの幼稚園に持ち込んでいいのかよォ」
 バーナーは身を乗り出して人形を捕まえようとしたが、人形は自らの意思を持つかのように急に方向を変え、逃げ出した。
「ほう。やるじゃねぇか」
 良い退屈しのぎが出来そうだとバーナーは喜んで膝立ちになり、這うようにして人形を追う。すると、背後から祭囃子に似た調べが聞こえてきた。
「おいおい…」
 さすがに少々気味が悪くなってきて、バーナーはマスクの下の眉をひそめながら振り向く。そこでは、三体の人形が並んで笛、鉦、鼓を鳴らしていて、その前で扇子を持った人形が踊っていた。ちょっとした楽団である。
「何だテメェら!」
 バーナーが口から火を吹くと人形たちは一目散に逃げ出し、座席の下へと消えた。背中に嫌な汗が流れ出したのを感じながら、バーナーは立ち上がり、ゆっくりと振り向いた。案の定、今まで現れた合計五体の人形がそこにいた。しかも、力を合わせて自分達より大きな瓢箪を担いでいる。
 なんとも言えない嫌な予感がして、バーナーは後退りした。すると案の定、瓢箪が掃除機よろしく空気を吸い始め、バーナーもジリジリとそちらへ吸い寄せられてしまう。
「チクショーォッ!!」
 追いつめられた表情で、バーナーは人形たちへ向けて火炎弾を放った。だが、炎は全て瓢箪の中へと吸い込まれてしまう。
「ああ、やっぱりィーッ!?」
 ある意味では予想の範疇の結果だった。
 バーナーは悲鳴を上げて回れ右をし、駆け出した。車両の前方に向かって凄まじい勢いで走り、ジャンプ。跳び蹴りでフロントガラスを突き破って、外へと飛び出した。
「助けてくれ!」
 そのまま走って逃げようとしたバーナーだったが、目の前の突きつけられた刃に気付く。
「助けはしないが、動かなければ怪我はさせないでおいてやるぞ」
 目の前に立ちふさがる忍者、ムーンセイバーの刀よりも鋭い眼光を前に、バーナーは大人しく動きを止めた。
「クソッ! なんなんだ、あれは…」
「忍法さ」
 そっけない答えにバーナーは頬を膨らませた。が、すぐに叫ぶ。
「おい、アクアダッシャー! そろそろ助けてくれよ!」
 その声に応えるように、堀に水柱が上がった。バーナーの口が皮肉に歪む。だが、ムーンセイバーは眉一つ動かさない。構わず、バーナーは勝ち誇って高笑いした。
「だーっはっはっはっはっ! ザァンネンでちたーッ! これでけーせー逆転、二対一だぜッッ!! …って、なんだありゃッ!?」
 イイ気になっていたバーナーだったが、水柱から跳び上がり堀端に着地した黒い影を見て、目を見開いた。そこに居たのは彼の仲間ではなく、ミニバンほどの巨大なガマガエルだったからだ。
「うげぇーッ!! キモーッ!!」
 悲鳴を上げるバーナー。ムーンセイバーは得意げに片眉を上げた。
「キモイなんて言うな。傷つくだろ。アイツ、ああ見えて結構繊細なんだ」
「ウソつけ!」
「嘘じゃないさ。あ〜あ、拗ねちまった。アイツ、仕返しにお前の仲間食っちまうってよ」
 そう、ムーンセイバーが言った直後。ガマの喉から、
 ―ゴクン!
 と、いう音がした。
「うげー! お、おいっ、マジかッ!? アクアダッシャーァッ!!」
 疲れ知らずなのかバーナーはまた大音量で叫び、そしてガマを睨む。
「オイコラッ、なんてことしやがるッ!」
 だが、ガマはプイっとそっぽを向いた。
「拗ねてんじゃねぇ! 可愛くねぇぞッ!!」
「そうか? ウチの"妹"には大好評なんだが」
「んなこと知るかッ!」
 ムーンセイバーは笑いを堪えているが、バーナーは必死の形相である。仲間を食われたのだから無理もない。これ以上おちょくるのも気の毒な気がしてきたので、ムーンセイバーは場を収めることにした。
「判った判った。今から食ったもんを吐き出させるから、大人しくしてろ。で、揃って縛につけ」
「クソッ」
 舌打ちをして、バーナーは肩を落とした。その視線の先では、巨大ガマガエルが裏返した胃袋を口から吐き出し、胃壁にくっ付いたアクアダッシャーを前足で剥がしていた。訳の判らない粘液にまみれたアクアダッシャーはグッタリとして為すがまま、断続的に言葉にならない呻き声をあげるだけだった。
「ひ、ひどい…」
 あまりに無残な仲間の姿にバーナーは言葉を詰まらせ、そのまま彼には珍しく無抵抗で護送車へと連行されていく。アクアダッシャーも、ジャンケンに負けた警官二人に引き摺られて行った。
 部下に人質を解放するように指示した後、京本部長刑事はムーンセイバーに歩み寄って、肩に手を置いた。
「幻術か。見事なもんだ」
 ムーンセイバーは何も答えなかった。確かに彼が行使したのは幻覚を見せる術だが、対象になった者以外には何の影響も無いはずである。今回の場合、バーナーが突然立ち上がり、勝手にフロントガラスを破って飛び出しただけにしか見えないはずだ。
 訝しむムーンセイバーに、京本はウィンクで応えた。
「一時期、名張で忍者やってたもんでね」
「はぁ」
 どこまで本気かは判らないが、とりあえず頷くムーンセイバー。京本が端整な顔に笑みを浮かべた。
「術に磨きがかかったんじゃあないか?」
 とりあえず褒められたので、ムーンセイバーは照れながら言葉を濁す。
「ええ、まあ。このたび、家庭と安定した収入を得ることが出来まして。その影響ですかね」
 京本は目を丸くして、それから頷いた。
「ほう。恒産無くして恒心無し、か。…忍者らしくないな、それ」
 全く以ってごもっともなお言葉ではあるが、ムーンセイバー、いや中村トウキは、小さな声で反論した。
「スンマセン…。でも、私も人間ですんで…」
 
−−−−−−−−
 
 タクティカルローブのステルス機能は問題なく機能しているらしい。藤宮侑希音は幼稚園の通路で壁に背中をつけたまま、じっと息を潜めていた。
 璃音の到着を察知したのだろう、すぐにクイックゼファーがでてきた時、前庭に潜んでいた侑希音は少々肝を冷やしたが、それでも見つからなかったところをみると彼らが持っている知覚手段ではステルスを破ることは出来ないらしい。
 璃音が入ってから三分置いて、侑希音はひまわり幼稚園へと潜りこんだ。ローブによるステルスだけでなく消音や透視などなど、こういう時に魔術は非常に便利である。もしかしたら魔術師というヤツはスパイや泥棒に向いているのではないかと思ったりもするが、これは魔術師だからということではなく、そういう事に役立つ術ばかりをチョイスして身につけた自分自身の素養なのかもしれない。そんなことを考えながら、侑希音は慎重に歩みを進める。建物の見取り図は頭に入っているし、人質の監禁に使っている部屋は察しがついていた。
 真っ直ぐに物置部屋の前まで来ると、壁に耳をつける。その向こうに、確かに大勢の人の気配がした。
(よし…)
 侑希音はドアに手をかけた。鍵がかかっているようだが、ドアそのものを壊すくらいは容易いことだ。
 だが、そのとき。
 高速で、何かが飛来してきた。
 侑希音は手甲でそれを弾き落とす。存外に軽い音がして、それは床に転がった。三本のクレヨンである。大きく動いたことでステルスは解除されてしまったが、事ここに至ってはどうでもいいことだ。
 この物置部屋は幼稚園で唯一窓が無い部屋であり、さらに天井裏は人が通れるような隙間は無く、軒下も同様だ。そして事が進めば最も危険な状態になると予想される幼稚園内に来るであろう者は、おのずから限られている。少なくとも、壁抜けが出来る者が差し向けれるということは無いだろう。
 誰が立てたものかはさておき、そういう予測の元で相手は最初からこの入り口だけを見張っていたのである。どんな手段を使おうと、ドアを開けないことには話にならないのだから。
 クイックゼファーが薄笑いを浮かべて、そこに居た。
「よう。今度こそ、虐めちゃうぜ」
「…黙ってろ。二秒で潰してやるからさ」
「テメェッ!」
 あっさりと挑発に乗ったクイックゼファーは拳を握り、パンチを放つ。それは確かに目にも止まらぬ高速の一撃だったが、完全に直線だったために侑希音は二歩横に移動するだけで避けてしまった。けたたましい音がして、ドアがひしゃげて崩れ落ちた。それを横目でチラリと見て、侑希音は口の端を歪めた。
「頭だけじゃなくて、パンチも軽いんだな」
 クイックゼファーは頭に血が上るのも超高速だった。勢いに任せてパンチとキックの連打を繰り返すが、ことごとくサイドステップと、避けきれないタイミングだったものはマントのシールドによって侑希音には届かない。だが、クイックゼファーは一方的に攻撃を続けていることで調子に乗っていた。
「オラオラどうした! 反撃してこいよッ。いつもみてぇに変身しねぇのかよぉッ!」
 本人に自覚は無いもののクイックゼファーの攻撃は侑希音に読まれてしまっている。だが、今の彼女の攻撃がクイックゼファーに当たるはずも無いこともまた、事実である。それでも侑希音はただ相手の攻撃をしのぐばかりだった。
 これには、さすがのクイックゼファーも違和感を感じた。
「…まさかテメェ、何か企んでやがるのかッ!?」
「そういうことは口に出さない方がいいぞ。『ハイ、そーです』って答えるヤツなんかいないんだからな」
 そうは言いながらも、侑希音は冷や汗をかいた。彼の言うとおり企みごとはある。ダンシングクイーンはすでに実体化し、ある場所で待機中だ。そのため侑希音の胸にあるイデアクリスタルが薄っすらと光を放っているのだが、クイックゼファーはまるで気付いていなかった。
 いずれにせよ、ここは早急に決着をつけねばなるまい。自らハンデを設けたとはいえ、侑希音にとっては不利な状況だ。長引くと拙い。
 侑希音は左手に巻きつけるようにしていたマントのシールドでクイックゼファーの蹴りをいなし、右の拳を握りしめた。
(次で決める!)
 
 このとき、侑希音の脳裏をよぎったのは父の姿だった。
 
 高等部卒業の翌朝。
 家で一晩を過ごした侑希音は書斎に父を訪ね、大学部への進学はせずに日本を離れる決意を伝えた。
「ほら、神学とかってガラじゃないし、さ。先生から紹介状を貰ってあるから、バビロンへいくことにしたんだ」
 侑希音の言葉に藤宮斐〔あきら〕は少しだけ驚いた顔をしたが、それからは殆ど表情を変えず、ただ頷くだけだった。当時の斐は七十代も終盤に差しかかったころだが、ピンとした背筋と盛り上がった肩は未だに頑強で、年齢を全く感じさせない。髪とヒゲはとうに白くなったが、眼光には確固とした意思の光があった。
「判った。蔵太と決めたことなら、間違いは無いだろう」
 侑希音の恩師である蔵太神父は、斐とは学生時代からの親友であり、半世紀以上を経ても友情は揺らがなかった。その信頼からの言葉である。それは侑希音も判っていたが、だが心の中に引っかかりが無いわけではなかった。すると、それを察したかのように、斐が安楽椅子から立ち上がる。
「よし。ちょっと表に出るか」
 しばしの後。庭に、二人が向かい合った。
 女性にしては長身の侑希音だが、斐はそれより頭二つ分は大きい。それに加えて頑強な体躯を備えているのだから、まさに力士かプロレスラーかといったところである。
 斐は作務衣の紐を結わえなおすと、娘に鋭い眼差しを向けた。
「オレに撃ちこんでこい。手段は問わん。なんなら、魔術を使っても構わないぞ。いや、せっかくだから今持っている力を全て見せてくれ」
 侑希音は目を丸くした。
「この期に及んで、これなわけ?」
「昔、色々教えてやっただろう。最後の授業だと思って付き合ってくれよ」
 と、斐は屈託なく微笑んだ。
 中学以降から長期休暇は家に戻るようになると、侑希音は斐の体術を学んだ。戦中戦後にかけて世界中を飛びまわり大立ち回りを繰り広げたという斐の技は、彼が持つ超越能力をベースにしてはいたが単独でも充分に機能するものだった。侑希音は自らの能力"ミス・パーフェクト"により、それを常人に再現できる範疇ながら習得したのである。
 だが、それとこれとは別ではないかと侑希音は内心口を尖らせた。色々あったから親子の想い出は多くないし、一番ウェイトの多い出来事といえば、やはりその訓練である。しかし、父と娘という間柄を考慮すれば酷く色気のない話である。
「判った。やるよ」
 静かに一言、そして侑希音は脚を肩幅に開き土を踏みしめる。この感触とも当分お別れだと思うと感慨がわいてくるが、今はそれを押し込めて精神を集中させ、自らが最も得意とする加速の術式を紡いだ。
「いきます!」
 次の瞬間。十歩ほどの距離を瞬時につめ、侑希音の爪先が斐の耳を掠めていた。
「ほう。早いな」
 目をみはる斐。振り上げられた脚の威力は、空を切った風圧で数メートル背後の樹から葉を数枚散らせるほどのものだった。
「ありがと」
 侑希音は反転して体勢を立て直すと、続けざまに掌打を二発。それを斐はサイドステップでかわす。一歩下がり構えなおした斐は、手で、
「こいよ」
 と、サインを送った。侑希音はカッとなって、真っ直ぐ突っ込み渾身の突きを放った。
 だがそのとき、侑希音の視界いっぱいに斐の拳があった。慌てて両脚を突っ張り勢いを殺そうとするが、間に合わない。直撃かと思われたが、既に斐は拳を引いていた。
 侑希音の顔から一気に冷や汗が吹き出た。あのままでは、致命的な事態になっていたはずである。視線を上げると、斐は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。それを見て、侑希音は青ざめていた顔を赤く変えた。
「なんかしたでしょ!?」
 だが斐は受け流すように、冗談めかして笑う。
「何を言ってる。お迎えのカウントダウンが始まってるオレに、そんな力なぞあるものかよ」
 それから少し居住まいを正して、言葉を続ける。
「何事にもせっかちだからな、お前は。能力にも、その辺がよく出てるね」
「わ、悪かったね」
 頬を膨らます侑希音。今まで蔵太神父に散々聞かされたのと同じことを父の口から聞くとは思わなかったから、ひどく恥ずかしかった。
 そんな娘の心境を知ってか知らずか、斐は穏やかに、諭すような口調で言葉を紡いだ。
「焦らんことだ。どんな形にせよ…、望んだものとは違ってしまうかもしれんし、まるで違う方向になってしまうってこともあるだろうが、お前の力を以ってすれば、いずれ必ず道は開ける。
 だが無茶はするんじゃないぞ。特にお前は、目の前の相手をよく見ることから始めるんだな。そして、やるときはやれ。綺麗事は勝ってから言うんだ」
 そう言うと、斐は照れくさそうに背を向けた。さらに、思い出したように一言。
「バビロンなら知り合いが居る。オレも一筆書いてやるよ」
 そのとき侑希音は、何年かぶりに父の背中を見た気がした。 
 
 
 そのスピードに空気が唸る。
 案の定、クイックゼファーは連続攻撃で仕留めにかかってきた。先ほどの蹴りに続き、さらに身を捻ってもう一撃、脚を振るう。目で追うことはかなわないスピードだったが、さすがに軸足は床に突き立ったままだから攻撃のタイミングを読むことは出来る。早いだけで直線的な攻撃をかわすのは容易い。あとは、タイミングを伺うのみ。
(目の前の相手をよく見て…)
 次。大振りがくると読んで、侑希音は僅かに身を乗り出した。その直後、読みどおりにクイックゼファーは後ろ回し蹴りを放つ。侑希音は腰を落としながら左前へ踏み込み、蹴りを潜るようにしてかわす。その爪先が侑希音の髪を掠めた。
 相手の渾身の一撃をかわした今こそが、チャンスだ。
 侑希音は蹴りをかわした体勢から身を起こしながら左足を上げ、撃ちおろす。鉄板が入ったブーツのカカトが全体重を乗せ、クイックゼファーの軸足、膝の側面へ食い込んだ。
 声にならない悲鳴をあげてクイックゼファーは崩れ落ち、膝を抱えて泣き喚く。
 それを一瞥し、侑希音は踵を返した。
「言ったろ、潰すって。後でウロウロされると面倒なんでね」
 それから、既に歪んでしまった倉庫室のドアを引き剥がす。人質となっていた教職員と園児、保護者の姿が確認できる。
「助けに来ました! 早く、ここから逃げて」
 ビニール紐での戒めを解いてまわりながら、侑希音は人質の状態を確認する。どうやら、目立った外傷を負った者はいないようだ。
(こちらは良し。あとは…)
 先行させたダンシングクイーンからの信号をチェックしつつ、侑希音は救出した人々を園外へと誘導する。それを遥か上空から見守る者がいることを、侑希音以外には誰も知らされてはいないし、気付いてもいなかった。
 
−−−−−−−−
 
 仄暗い教室の中央。 
 "コークスクリュー"が最終シークエンスへと突入していた。
 魔術の素養は無いクーインだったが、バイオニックコンバインにより彼にも操作可能なインターフェイスを作り出していた。巨大ロボを生み出す際コックピットとして使っていた魔王の分体をコークスクリューと融合させることで、呪文がキーになるシークエンスであっても内部に直接指令を与えて実行できる。
 璃音の目にも、器機の周囲を取り巻く魔術式が様変わりしていくのが判る。それをただ見ていることしか出来ない璃音とコークスクリューを交互に眺め、サーバントクーインは楽しげに哂った。
「さて、と。間もなく門が開き、魔王カーンデウス様を現世にお招きする。それにより、私は時空を隔てることなく直にそのお力を授かり、無限のパワーを手に入れることになるわけだが…。
 その前に、だ。貴様に一つ訊いておきたいことがある。何者も及ばない、好き勝手できるだけの強大な力を持っているってのは、どんな気分だ?」
 璃音は相手の顔に向けた視線を動かさず、答えた。
「判んないよ、そんなの」
 それを聞いて、クーインは大げさに肩をすくめて見せた。予想の範疇の答えだったのか、顔に、
「やっぱりな」
 と、いう色が見て取れる。
「そうか、そうだよな。貴様は"よい子ちゃん"として、甘んじて飼いならされているのだからな。ちゃんと答えろよ。あの男のためか? クラスメイトか? 家族か? だがな、そんなくだらん答えを返しやがったら、殺してやるぞ」
「そうだよ。文句ある?」
 恫喝など物ともせず、璃音は毅然と答えた。
「なぜだ?」
「わたしが、そうしたいからだよ。みんな好きだから、空気読めないことして心配させたくないもん」
 険しい表情のままだったが、それは紛れもなく璃音の本心だった。それを噛みしめ、クーインは腹を抱えて笑い出した。
「ククク、ハハ…ハハハハハハハハッ!
 なるほどな。もう、自分の好きにやってるってわけか。そういう選択だったと、そういうことだな。ハハハ、莫迦じゃねぇのか? ハハハハハハッ」
 笑い声のボルテージが上がるごとに、クーインのパワーが増大していくのが感じられた。
 すでに、"門"は開きかけているということか。
 狂気すら感じられる哄笑の後、クーインは叫んだ。
「ならば、この私を倒すのだな。さもないとッ! 貴様が好きだと言う者たちの命運は、今日で尽きることになるぞ!」
 クーインが掌を突き出した。
 璃音が身構える。それを一瞥し、クーインが哂う。
「もっとも、抵抗して人質がどうなっても知らんがね」
 直後、ラムズフェルトビームが放たれた。爆発が起こる。璃音は動けず、ビームが直撃したかに見えた。だが、弾けとんだ床の破片と煙が舞う中から璃音が飛び出してくる。しかも彼女は、ダンシングクイーンに抱えられていた。驚きにクーインが眼を剥くが、璃音も同様に驚いていた。
「なんで!?」
 こんな話は聞いていなかったのだ。そんな璃音の驚きを知ってか知らずか、自律動作モードのダンシングクイーンが姉の声で喋った。いや、侑希音の声を中継しているのだ。
「こんなこともあろうかと、ってね。それより璃音。人質は全員救出した。遠慮なく、そのイジケ野郎をブッ飛ばしちまえ!」
「うん!」
 頷く璃音。
 それを聞いていたクーインは再び驚きの声を上げる羽目になった。
「なんだと!」
 それから部下と交信を図るが、応答はなかった。
(ちっ…。鬱陶しいからって、一方向通信にしたのが仇になったな…)
 クーインの威勢にストップがかかったのを知ってか知らずか、侑希音の声が追い討ちをかける。
「ザマーミロー。情報は新しくなきゃ意味ねーんだよー」
 それで、クーインのハラワタが良い具合に煮えくり始めた。
「黙れ! ヤツラの役目なぞ時間稼ぎよ。もはや、そんな必要もない!」
 ビームを放つクーイン。ダンシングクイーンは璃音を抱えたまま、それを難無く回避する。
「いくよ!」
 璃音が首に下げたイデアクリスタルを握りしめると、ダンシングクイーンが加速をかける。スピードに乗った一人と一機の姿がクーインには捉えきれなくなり、そして虚空に光が弾けた…、ように見えた。その光の中から、パワーシェルを身にまとった璃音が飛び出してくる。
「ちっ!」
 舌打ちするクーイン。璃音はシェルアームを突き出し、ダンシングクイーンに投げ出されることで得た加速力を利用しコークスクリューへと直進する。
 だが、璃音は弾き飛ばされた。
 そのまま壁にぶつかり、めり込んでしまった璃音が呻きながら顔を上げると、サーバントクイーンが嫌味な笑みを浮かべながら、右掌を突き出していた。
「ホントに、パワーアップしてる…」
 璃音が壁から逃れる前に、さらにビームの雨が降る。パワーシールドをはり持ち堪えるが、このままでは拙い。
「このっ」
 璃音はパワーシールドの出力を上げ、前に出る。そして、パワーボルトを乱射した。クーインはフォースシールドで難無くそれを弾く。だが、幾つかのパワーボルトがその横を素通りする。それらは最初からコークスクリューめがけて発射されていたのだ。
「やった!」
 狙い通りと手を叩く璃音。しかし、パワーボルトはコークスクリューの周囲に張り巡らされていたフォースシールドに着弾しただけだった。もちろん、その向こうにある機械は無傷のままだ。
 クーインが笑う。
「ククク。今回は旗色が悪いな」
 だが、その時。爆音で建物全体が揺れた。璃音は透視で周囲を見て、その音の源が遥か上空であり、しかも凄まじいスピードで近づいてきている事に気付く。璃音はパワーシールドを張り、ダンシングクイーンは実体化を解除して姿を消した。クーインも、危機を察知してコークスクリューの真上に飛び、そこに陣取る。それとほぼを時を同じくして、轟音と共に天井が砕け散った。瓦礫が吹き飛び、凄まじいエネルギーの奔流で床がズタズタになっていく。
「くそぉおおおッ!!」
 クーインが叫びながら全力で張り巡らしたフォースシールドに、Mr.グラヴィティが拳を打ち下ろしていた。高高度で待機していたグラヴィが、その位置エネルギーに自らのグラヴィティパワーを加え、まさに渾身の一撃を叩きつけたのだ。
「グラヴィティメテオストライク! 止められるかッ」
「ぬううううッ!!」
 フォースシールドの出力を上げて持ち堪えるクーインだったが、相手の膨大なエネルギーに押され、ジリジリと後退していく。ついに、コークスクリュー諸共とも押しつぶされそうになった、その時。クーインが叫ぶ。
「ゴォォォッドッ! ビルドッブレイッカァァァーッ!!」
 大地が揺れた。もはや木屑の山となった床の下から巨大な機械の腕が伸び、グラヴィを横から殴りつけた。
「なんと!」
 不意を突かれたグラヴィはそのまま吹っ飛び、落下の勢いのまま前庭へ突っ込んだ。大爆発が起こり、土砂が巻き上がる。その中を、建設重機の寄せ集めで出来た巨人がゆっくりと立ち上がった。ゴッドを標榜するだけあって、以前に現れたグレートよりもボリュームのあるプロポーションだ。その"ゴッドビルドブレイカー"の掌にはクーインがコークスクリューと共に乗っていて、いつもの高笑いをしていた。
「ふはははは! どうだ、我が力の結晶はッ! デカいだろう、強いだろう。これこそが、力よッ!!」
 それから一しきり笑った後、クーインは続けた。 
「だが、我が力の凄いところは、これだけじゃあないんだなぁ」
 クーインの額からビームが発せられ、起動中のコークスクリューに当たる。クーインの超越能力"バイオニックコンバイン"だ。それによりコークスクリューはゴッドビルドブレイカーと融合、その手の中に引き込まれていった。入れ替わりに魔術式が光背のようにリング状に展開、後光さながらに輝き始めた。
「どうだ。我が主君カーンデウス様の降臨を阻みたくば、このゴッドビルドブレイカーを倒すことだ。あと、三分でな」
 巨大ロボの頭部にある飾り角に『3:00』からのカウントダウンが表示された。クーインが飛び、頭頂部からコックピットへ乗り込む。
「さあ。最後の決戦といこうではないかッ」
 ゴッドビルドブレイカーが脚を振り上げた。とっくに全壊していた幼稚園の瓦礫が舞う。それを掻い潜るように避け、璃音はエンハンサーを一気に開放した。
「このッ」
 相手の意図を悟り、ゴッドビルドブレイカーは両手の指先からミサイルを発射した。半ば形を成しかけた璃音の周全相、フラッフに十発のミサイルが殺到する。それを振り切ろうと、璃音は加速して真上に向かって飛ぶ。だが、ミサイルはしっかりとその後を追尾してきた。
(どうしよう…)
 逃げながら、璃音は思案する。完全にフラッフへと変わってしまえばパワーシールドでミサイルを止めることは出来るが、今は回避することにに気が行ってしまって神体を形成する余裕がない。かといって、ここで形成を止めてしまえば、そのために放出したエンハンサーが全て無駄になってしまう。それではあまりに消耗が大きい。
「ふはははは! どうした、逃げてばかりではすぐに時間切れだぞ!」
 随分と遠くからクーインの声が聞こえる。
 その時、璃音の背後から光の弾が無数に飛来し、ミサイルを全て消し飛ばした。見ると、ビルの屋上にDQU形態に変身した侑希音の姿がある。そこからマジックミサイルを放ったのだ。
「侑希ねぇ!」
「いくぞ、璃音。手に乗せてくれ」
 璃音が形成途中のままで虫食いのようになっているフラッフの腕を差し出すと、侑希音が飛び乗る。
「さっさと変身しろ。私が手伝ってやる」
「うん」
 璃音が残りのエンハンサーを展開し始めると、侑希音は手を胸の前で交差して魔力を放出、加速能力の対象を自分から璃音へと変更した。すると、ものの二秒もしないうちにフラッフが完全な姿を現した。
「よし!」
 ウサギにも似た姿をしたフラッフの頭部、目を思わせる穴の奥に収まっている赤い球体が璃音の意識の座である中枢核だ。その中で、璃音は眦を上げて、気合を入れた。エネルギー体であるエンハンサーと融合した璃音は、この巨大な神体を自らの身体として操る。これが、アヴァターラと呼ばれる能力者が持つ最大の特徴であり、本来のパワーを使いこなせる完全なる状態であることから、周全相と呼ばれる姿だ。
 璃音=フラッフはパワーシェルによって得た翼をはためかせ、一気に幼稚園へ、ゴッドビルドブレイカーの元へ跳んだ。
「いくよ!」
 フラッフの両腕がシェルアームと全く同じパターンで巨大に変形する。そのときには、侑希音は頭の上へと移動していた。
 コックピットの中でそれを見て、クーインが笑う。
「ふふふ。その姿でもパワーアップしているようだが、今の私にどこまで通用するかな」
 余裕のクーインを空爆してやろうとフラッフがシェルアームを前に突き出す。掌から五倍サイズのパワーボルトが発射された。
「ちいっ!」
 ゴッドビルドブレイカーはクーインが使っていたのと同様のフォースシールドを展開し、それをしのぐ。そしてすぐさま、
「ゴッドバズーカ!」
 右腕を突き出す。手首が収納され代わりに銃口が現れ、そこからエネルギー弾が発射された。フラッフはパワーシールドでそれを受け止めたが、予想外の衝撃に姿勢を崩してしまう。
「きゃあぁっ!」
「ふははははは! 火力でもこちらが勝っているようだなッ!」
 勝ち誇るクーイン。だが、
「そうかい。そりゃ結構だ」
 その頭上から、侑希音の声がした。そして、コックピットの壁を突き破り、銀色の刃がクーインの頭上二十センチのところに現れた。
「くっ」
 外部モニターで確認すると、侑希音がゴッドビルドブレイカーの頭部に取り付き、ブレードを突き立てていた。DQUのブレードは連結し魔力を送り込むことで形状を変えることが出来る。今回はコックピットの中まで届くようにと、グレートソード並の大剣に変じさせていたのだ。
「妙なマネはするんじゃないぞ」
 頭部装甲に開いた隙間から侑希音がドスを効かせると、ゴッドビルドブレイカーが動きを止めた。その間に、体勢を立て直したフラッフの翼が光を放出し始める。外の動きに目をやりクーインは、侑希音の思惑とは裏腹に余裕の笑みを浮かべた。
「これで詰んだつもりか? 甘いぞ!」
 手元のレバーを引く。
「シュート・イン!」
 その掛け声と共にコックピットの床が開き、クーインが座席ごと姿を消した。三秒の後、ゴッドビルドブレイカーの目が光った。
「ふははははは! ゴッドビルドブレイカーのコックピットは胸部にもあるのだ!!」
 侑希音が歯軋りする。
「くうううううっ、ムカつく!!」
 それを、もう頭の中は空っぽだからとゴッドビルドブレイカーは遠慮なく振り払った。宙に投げ出される侑希音。
「侑希ねぇ!」
 璃音が悲鳴を上げた。落下しながら、侑希音が叫ぶ。
「私は大丈夫だ! やれ!」
 璃音は唇をかみ締め、一気にパワーを開放した。暖色の光がフラッフの翼から広がり、ゴッドビルドブレイカーを包み込んだ。
「ぬうっ!」
 クーインが呻く。
 璃音の修復能力"ヴェルヴェットフラッフ"を以ってすれば、クーインの"バイオニックコンバイン"を無効化することが出来る。つまり、ゴッドビルドブレイカーの合体を解除することが出来るのだ。
「ぬおおおおっ!」
 ゴッドビルドブレイカーの各部に隙間が広がり始めた。そしてついに、パーツごとにバラバラに離れていく。
 前庭の隅に着地していた侑希音は、その光景を見上げ快哉を叫んだ。
「よっしゃ! これで終わりだ!!」
「もう、ダメだぁあああああああッ!!」
 クーインの悲鳴が響く。これで、勝負あったかと思われた。
 しかし。
「なんちゃって」
 コロリと、クーインの口調が変わった。
「ふふふ、どうだ。ちょっと希望を持ってしまったんじゃあないのか?」
 実に嫌味たらしく、クーインが笑う。
「くそ、なんなんだ」
 毒づく侑希音。一方の璃音は、違和感に顔を青くしていた。ずっとヴェルヴェットフラッフのパワーを放出し続けているのに、ゴッドビルドブレイカーの分解が進まないからだ。
「さすがにお前は気づいているようだな」
 クーインは開いたコックピットから身を乗り出すと、フラッフを指差す。
「単純な力の差だよ。我がパワーは貴様の修復効率を上回っているのだ。つまり!」
 その言葉に合わせて、ゴッドビルドブレイカーが元通りの姿へと再合体した。
「その力、もはや私には通用しない!」
 璃音は再び、唇をかみ締めた。
 この状況で有効と思われたパワーが通用しなかったのでは、打つ手がない。それを感じ取ったのか、ゴッドビルドブレイカーからクーインの高笑いが聞こえる。
「ふははははははははははは! はーっはっはーっ!! 万策尽きたようだな。なぁに、間もなく時間だ。貴様はそこで見ていればいい。魔王の復活をな! はははははは!!」
 ゴッドビルドブレイカーは見せ付けるように腕を組む。
 しばし、それを眺めていた璃音だったが、不意にあることに気付き、再び翼を広げた。フラッフの色が黒く変じ、一本の角が生える。手には四本の爪が形成され、長く伸びた尾の先にも鉤爪が。そして、翼は蝙蝠のようなものへと変わる。アヴァターラたる璃音のもうひとつの周全相、パワーを裏返しにしたヴォルペルティンガーだ。
 ヴォルペルティンガーはパワーシェルによって倍の大きさになった翼を操り、急加速。ゴッドビルドブレイカーに頭突きを食らわせた。角が巨大ロボット腹をブチ抜く。そのまま、ヴォルペルティンガーは高度を上げ幼稚園から距離をとる。ゴッドビルドブレイカーに内蔵されたコークスクリューは特定の場所で用いなければ効果を発揮しない。璃音は、時間が来るまで相手を引き離そうと考えたのだ。
「おのれぇ!」
 クーインは怒りを露わにし、ゴッドバズーカのゼロ距離射撃をヴォルペルティンガーの腹部にねじ込んだ。
「うぐッ!?」
 息を詰まらせたような悲鳴を上げ、ヴォルペルティンガーが離れる。だが、璃音は固い意志を宿した瞳でゴッドビルドブレイカーを見据えた。腕を広げ、爪を構える。この爪もパワーシェルによって増強されたものだ。
「ちっ」
 クーインの舌打ちとともに、展開した脚部装甲から剣が現れゴッドビルドブレイカーの手に収まった。剣は光を発しながら伸び、持ち手の身長ほどの巨大さに変化した。
「邪魔だ!」
 ゴッドビルドブレイカーが剣を振るう。ヴォルペルティンガーの爪がそれを受け止め、そして泥のように切り裂いた。
 この爪は"ラディカルベイン"と呼ばれ、切っ先が触れた物の存在そのものを破壊してしまう。つまり、魔術や璃音自身の能力を以ってしても元の形に戻すことは不可能なのだ。
「やあっ!」
 気合一閃、璃音はさらなる攻撃を繰り出した。根源からの破壊をもたらす爪は防御姿勢をとったゴッドビルドブレイカーの腕部をナマスのように切り裂き、さらに、その胴体を袈裟懸けに三分割した。
「ぬおおおっ!!」
 クーインが叫ぶが、すぐに元のニヤケ顔に戻る。
「バイオニックコンバイン!」
 ゴッドビルドブレイカーが光に包まれ、また元通りの姿を取り戻した。
「くっくっくっ。コックピットを狙わんのなら、その攻撃は通用しないぞ。どんなカラクリかは知らんが、斬られたなら再びくっ付ければいいのだからな!」
 これは一体、いかなることなのか。
 例えば、プラモデルを机から落として壊したとしよう。普通なら、これを元通りの姿に戻すことは出来ない。一度分割されてしまった物体は二度と元へは戻らないからだ。だが、接着剤でつなぎ合わせヤスリで表面を整え、塗装してしまえば、見た目上は破損前の状態へと修復できる。それと同じことが今、ゴッドビルドブレイカーに対して行なわれたのだ。もともとクーインのバイオニックコンバインは、別々の物体を無理矢理一つの物とする能力なので、こういう作業はお手の物なのである。
 判ってはいたことだが、璃音は奥歯をかんだ。だが、ここで退くわけにはいかない。ヴォルペルティンガーは爪を構え、ゴッドビルドブレイカーの前に立ちはだかる。それを見て、クーインは苛立ちの表情を浮かべた。
「貴様。敵わんと見るや、時間稼ぎに出たな。確かに、あの場所でなければ"門"は開かん。私の計画はご破算だ。だが!」
 意図を見抜かれ、眉をひそめる璃音。しかし、バレていようが時間まで耐えればそれでいいのだ。改めて敵の姿を見据える璃音。
 だが、ほんの一瞬の後。ゴッドビルドブレイカーはヴォルペルティンガーの背後にいた。
「え!?」
 慌てて振り向くヴォルペルティンガー。そのとき璃音は右の腕と翼が無くなっていることに気付いた。
「ああああああああああああああッ!!」
 その感覚が神経にフィードバックされ、璃音は悲鳴を上げた。その隙を見逃すことなく、ゴッドビルドブレイカーの剣が背後からヴォルペルティンガーの首を刺し貫いた。首といっても胴体と大差ないくらいの太さなので、それで千切れてしまうことは無かったが、ヴォルペルティンガーは悲鳴を上げることもできなくなり、そのまま動きを止めた。
「フン、他愛もない。時が経つごとに私のパワーが増大しているのが判らんのか」
 哂うクーイン。ゴッドビルドブレイカーは剣に刺さったままのヴォルペルティンガーを戦利品のように掲げ、幼稚園跡地へ着地した。
「うむ。さほど距離をあけられたワケではなく、時間も僅か。支障はないな。残り三六秒、タイムアップを待たずして貴様の命運も尽きたわけだ」
 剣を幼稚園跡地へ突き立てる。その剣に首を貫通されたままのヴォルペルティンガーはさながら磔の咎人である。
「おい、璃音!」
 侑希音が走る。ダメージは修復能力を使えば問題ない範囲だが、ショックで璃音が意識を失っていればこの状態が続くことになる。もしそうなら、何か手を打って璃音を目覚めさせばならない。だが、侑希音の行く手をゴッドビルドブレイカーの目から発射された対人レーザーが阻む。
「くっ!」
「せわしないな。もうすぐなんだから、黙ってみていろ」
 タイマーは既に三十秒をきっていた。
 勝利を確信したクーインが笑みを浮かべた、その時。突如として、ゴッドビルドブレイカーの機体が軋み始めた。
「なんだ!」
 この日初めて、クーインが狼狽の表情を浮かべた。ゴッドビルドブレイカーが膝をつく。機体の重量が急激に増大し、自重を支えきれなくなったのだ。こんなことが出来る者は、一人しかいない。
「Mr.グラヴィティ…」
 憎々しげに呻くクーイン。この重力異常で亀裂の入ったモニターの向こうには、前庭に埋もれていたはずの、その男の姿があった。
「無事だったのか、グラヴィ!」
 侑希音が叫ぶ。グラヴィは険しい表情のまま、頷いた。
「うむ。ここは私にまかせろ。君は璃音さんを!」
「判った!」
 侑希音がヴォルペルティンガーの体を駆け上がる。それを視界の端に留めて、グラヴィは跳躍した。
「くらえ!」
 グラヴィの拳がゴッドビルドブレイカーの頭頂部にあたり、轟音が響いた。金属が軋み割れる音を無数に響かせながら、ゴッドビルドブレイカーがどんどん圧壊し原形を失っていく。コックピットのクーインはパワーアップの賜物でなんとか重力に耐えているが、それだけで精一杯だ。
「おのれぇ! あと、少しなのに…ッ」
 その言葉とともに、ゴッドビルドブレイカーは大地に崩れ落ちた。さらに
圧壊が進み、遂に、かつて巨大ロボの背中だった部分を中心に浮き出ていた魔術式の光背が消滅した。
 そこに存在する物は、もはや鉄屑の山に過ぎなかった。
「よし!」
 侑希音が拳を握る。
 屑鉄の上に膝をつき、グラヴィも安堵のタメ息を吐いた。
「これで、時間切れだ…」
 頭の上に侑希音が乗ってきたことで、璃音は意識を取り戻した。
「侑希ねぇ、…やったの?」
「ああ。それより、お前は大丈夫か?」
「うん。感覚が繋がってるからキツかったけど、もう平気」
 その声は、侑希音の真横から聞こえていた。璃音が一時的に融合を解除し、ヴォルペルティンガーの頭の上に出てきていたのである。
「よし。それじゃあ、後始末して…」
 と、侑希音が言いかけたところで、前庭に魔術式の輪が浮き出してきた。
 言葉を失う璃音たち。響く、クーインの声。
「タイムアップ。ひらけ、ゴマだ」
 地面から突風が吹き上げ、鉄屑の山が散らされていく。それに混じって飛ばされたグラヴィが体勢を立て直し前庭を見ると、魔術式の中央にカウントダウンタイマーが埋まっており『0:00』と表示されていた。
「驚いたか!」
 クーインが笑う。
「これぞ、我が最強の防御技、"地球合体"! 倒れたとき、肝心な部分だけを地中に退避したのさ。あの重力攻撃はあくまでゴッドビルドブレイカーのみを対象にしていたようだったからな。裏をかいてやったってわけだッ」
 歯軋りするグラヴィ。
 それを嘲うように、魔術式の中央に異空間への門がゆっくりと開いていった。
 
 

…#10 is over.

モドル