#10
その朝。
ローカルニュースは揃って、この事件を伝えた。
カーテンから透ける陽光で、璃音は目を覚ます。休みということで時計のアラームは止めているが、習慣からおよそ同じ時間に目が覚めるようになっている。
璃音は蛍太郎の腕枕から身を起こし、夫の顔を覗きこんだ。その寝顔は整った容貌も手伝って、少年の頃の面影を充分に残している。先ほどまで身を預けていた腕から肩にかけては、細い骨格を感じさせない程度に筋肉がついていて、璃音のハートを主に下半身方面で熱くさせる。
元来病弱な蛍太郎はそれをカバーするために体力づくりに励んでいて、これはその成果である。璃音が初めて彼を見たときは女性だといっても通じるほどの細さだったから、それ以後につけた習慣ということになるだろう。デートのたびに貧血を起こした蛍太郎を介抱していたことを思い出し、璃音は懐かしさに微笑みを浮かべた。懐かしむついでに、璃音はタオルケットをどけて蛍太郎の胸から腹の辺りを撫でる。浮き出た腹筋をなぞると、子供の成長を喜ぶ母親の気分が少しだけ判った気がしてくる。
そのまま悦に入っていた璃音だったが、触れるたびに蛍太郎がむずがっているの気付き、起こしてしまっても気の毒と思いベッドから離れた。寝間着代わりのワイシャツだけを身につけて浴室へ向かう。シャワーを浴びて昨夜の痕跡、乾いた唾液などを肌から洗い流し、髪を洗い、頭と身体にタオルを巻きつけて台所へ行くと、風呂上りの牛乳と洒落こんだ。
「ぷはーっ」
グラスに浪々と注がれた牛乳を一気に飲みきると、今度はコーヒーメイカーの用意をする。日本に帰ると再び遵法精神に則って禁酒となったため、牛乳とコーヒーの消費量が増えてしまった璃音だった。
一通り仕込みを終えたコーヒーメイカーに電源を入れると、璃音は待ち時間を潰すためにリビングのテレビをつけた。いつもなら元少年アイドルと大家族ドラマのママ役を演じたことで有名な女優がパーソナリティを勤める情報番組が放送されている時間だったが、今日はなぜか、ローカル局のアナウンサーが張り詰めた表情でニュースを読んでいた。
「今朝発生しました幼稚園バスジャック事件の続報です。番組に寄せられました目撃証言によりますと、犯人は酉野紫のメンバーである可能性が非常に高く…」
画面に、あの五人の写真が並ぶ。同じくその左隅には『ひまわり幼稚園、送迎バスジャック事件』の文字があった。
「なにこれ!? 幼稚園バス、ジャックって…」
璃音は驚きに目を見開き、絶句した。
ひまわり幼稚園は、現在でも多数の園児を抱える有力幼稚園である。人気の理由はオフィス街の外れという立地だ。適度に静かで、なおかつ出迎えに便利という環境が保護者に人気なのだ。
ここにはかつての璃音も通っていた。園長先生は当時のまま未だ現役で、つい先日、通りがかった時に挨拶を交わしたばかりだった。
予想もしなかった驚愕の事件を目の当たりにして、璃音は大慌てで夫を起こしに走った。
事件の発端は、三日前に遡る。
1−
「そういやさ。あの忍者野郎、最近見ねぇよな」
酉野市郊外の廃ショッピングモール。
全身タイツ騒擾集団"酉野紫"のアジトである。今や近寄る者とてないこの場所に、真っ昼間からたむろしている五人の男たち。彼らこそが酉野紫のメンバーであり、それぞれが恐るべき特殊能力を備えたタイツ野郎どもである。
そのうちの一人。黄色と緑のタイツの男、ボルタは気だるげに、もう一度繰り返した。
「だから、忍者。出てこねぇよなァ」
彼の言う忍者とは、この街の忍者ヒーロー"斬月侠"のことである。今年の春に颯爽と現れた斬月侠は、今まで何度も酉野紫の前に立ちふさがってきた。それが、八月も終盤にさしかかろうかという頃からパッタリと姿を見せなくなったのである。
赤いタイツの男、バーナーはだらしなく床に寝そべったまま、仲間の言葉を鼻で笑った。
「フン、なに言ってやがる。いいことじゃあねぇかよ、邪魔者が減ったってのはよォ」
「はは、確かにそうだ」
ライトブルーのタイツと赤い長ハチマキを身につけたクイックゼファーが頷く。その隣で座禅を組んでいた褐色のタイツ、というよりも肉襦袢じみたコスチュームと牛型のマスクをつけたマンビーフが、何かを思案しているような表情をマスクから露出した口元に浮かべ、ゆっくりと口を開いた。
「…うむぅ、ヤツはヒーロー活動を引退したかも知れぬでござるな。
我らと違い、ああいう手合いは表の顔で収入を得なければ生きていけぬことが多いゆえ、ついに生活が破綻したのやも知れぬ。拙者のエクスペンシブオーラの効果が日を追うごとに強まっていたことからして、それで間違いなかろう」
寝転んだまま聞いていたバーナーは、首を捻った。
「オメェさ、難しいこと言うなよ。ブモブモ鳴くしか能のなかったころの方が好きだったぜ」
それを無視して、ボルタはマンビーフに向かって相槌を打つ。
「なるほどな。つまり、オレらの弛まぬ努力、地道な活動がヤツの補給線を断ったってわけか」
「いかにも。ネットゲームやゲーセンでよく見られる、"真っ当に稼いでる職持ちが、暇を持て余しているダメ人間の後塵を拝する現象"のようなものよ。そこには、努力では決して越えられぬ一線があるのでござる」
クイックゼファーはサングラスの奥の目を伏せ、呟いた。
「虚しい勝利だな…」
ボルタも自嘲気味に笑う。
「ははは…。つまり、人生を放棄したダメ人間からこそ得られた勝利というわけか」
ボルタとクイックゼファーは顔を見合わせてタメ息を吐いた。だが、バーナーは拳を振り上げて反論する。
「なに言ってんだよ、オレらは勝ったんだぞッ。ダメ人間でもいいじゃねぇかッ! それが勝った理由だってんなら、オレはこれから何があろうと一生バーナーするぜ! 将来はッ、ワールドクラスのワルを目指すッ!」
それまで噴水プール…だった物に溜まった濁り水に浮かぶだけで何もしていなかった青いダイバー風タイツ男、アクアダッシャーが背泳ぎ風に浮かんだまま楽しげに腕をヒラヒラさせる。
「僕らー、これからー、すっげぇーのびのびーやれるじゃーん」
マンビーフも頷く。
「ヒーロー業界は入れ替わりが激しいものでござる。忍者男は秋の改変期までもたなかっただけのこと。我らが気にかけるようなことではござらん」
胸を張る男たち。勝利者ゆえの晴れがましい顔だったが、ボルタとクイックゼファーは目を背けずにはいられなかった。特にボルタは、話が通じると思っていたマンビーフがバーナーと同調したことに、ショックを隠せない。
「お前もあっち側かよ。頭良いと思ってたんだが…。てか、オレらがへこんでるのは、忍者が消えたからじゃないんだぜ…?」
だが、それを全く聞かずにボルタは気炎を上げた。
「よっしゃあ! あと残ったのは誰だ?」
アクアダッシャーが指折り数える。
「グラヴィティ野郎とーあの女とー。…なんだよー、まだいっぱい居るよー」
「藤宮の女どもは金持ちであるぞ。兵糧攻めは通用しないでござる」
マンビーフが一言付け加えるが、バーナーはそれでも元気いっぱいに拳を突き上げた。
「どっちにしろ、関係ねぇ。オレらはオレららしく、今まで通りやるだけだぜッ!」
こうして彼らは、今まで通りのことを今まで通りに実行した。
藤宮璃音は昼下がりの商店街を一人で歩いていた。
夏休みが終わるまで一週間ほどあるので、道行く少年少女たちは大抵が私服姿でうろついている。璃音も例外ではなく、ピンクのキャミワンピにサンダルという出で立ちで、小さなバッグを肩からかけていた。
地方都市にしては賑やかなこの街だが、先ごろ立ち寄ったトリノやロンドンとは比べるべくもない貧相さではある。だが、やはり馴染みの街並みというのは落ち着くもので、璃音は甘味処"やなぎや"でチョコパフェ・ギガンティックを平らげると、よく晴れていることもあって上機嫌で近辺の店先を見て回る。程なく噴水広場に出ると、そこではお馴染みの光景が繰り広げられていた。
違法侵入・違法駐車のトラックを燃やす火柱。
石畳を焦がす電光。
うねる旋風。
暴れる不良な牛。
そして、池の中にポツンと立っているスキューバダイバー。
ある意味ではこの街の名物ともいえる、酉野紫アメージング5の理由なき破壊活動だ。側に警官が三人倒れて呻いており、応援が到着していないところをみるとタイツ野郎どもが現れたのはつい先ほどのようだ。
「あんたたち…真っ昼間から何やってるの」
これまたいつも通り、璃音は五人を睨んだ。この場にいた人間は、さっさと逃げ散ったか物陰に隠れて見物しているのか、そのどちらかなので、酉野紫以外に動いているのは璃音だけだ。
バーナーは口の端からチロチロと火を洩らしつつ、気取った笑みを浮かべた。
「決まってんだろ。夏休み子供スペシャルさ」
「いらないよ、そんなスペシャル。他所でやりなよ」
するとボルタは、露骨にバカにした態度で肩をすくめた。
「そりゃ無理だ。海とか川原とか以外だと、五人揃える場所は限られているからな。…誰かさんのせいで」
思わず眉を吊り上げた璃音だったが、その言葉は仲間内に向けられていたようだ。水中銃を持って突っ立っていたアクアダッシャーが、やおら身を乗り出して抗議する。
「なんだよーぼくがー悪いってのかーよー」
相変わらず間延びして聞き取るのが億劫な口調だが、アクアラングを咥えたままでもこのように喋れるのだから恐るべきは"酉野紫スーツ"といったところだろう。それはそれとして、雰囲気が悪くなりかけたのでクイックゼファーが間に入る。
「まあまあ、仲良くしろよ。ってか、せめてケンカすんな。これは言ってみればサークル活動なんだからさ。波風立てずにやろうぜ」
「迷惑なサークル…」
璃音は思わずタメ息を吐いた。それを見て、バーナーが一際大きく火を吹く。
「やかましい! オレらにとっちゃあテメーが迷惑なんだよ!」
火球が飛ぶ。だがそのときには、璃音はエンハンサーの赤い光に包まれ横に飛んでいた。火柱が上がり石畳が焦げる。
「この!」
璃音は反撃しようとして、はたと思いとどまった。エンハンサーで身を守っているとはいえ、大立ち回りを演じればバッグを落としてしまう可能性がある。しかし、だからといって財布やケータイが入っているバッグを誰かに預けるわけにもいかない。少しだけ考えて、璃音は首に下げていたペンダントのことを思い出した。その先端には赤く輝くイデアクリスタルがある。
(久しぶりにこれを使うか…)
追撃の炎と稲妻をかわしながら、璃音はドアが開きっぱなしになっていた公園沿いのブティックに飛び込み、試着室に入る。そしてクリスタルにパワーをこめた。
イデアクリスタルから発せられた眩い光が璃音を包み、衣服とバッグが光に溶け込むように消えていく。これらはクリスタル本体とともに湾曲空間のポケットに収納され、入れ替わりに一糸まとわぬ身体の上へとパワーシェルが形成された。この間、二秒足らず。
試着室を出た璃音は、店に特大の火炎弾が迫っていることに気付き、慌てて出入り口から飛び出した。エンハンサーとパワーシェルの複合バリア、"パワーシールド"を全開にし、両手を広げて火炎を受け止める。パワーシェルによって強化されたバリアは文字通り壁となり、バーナーの炎を遮った。
バーナーは目を見張った。
邪魔者を店ごと焼き払ってやろうと放った特大の火炎弾が完全に遮られ、建物は全く無傷のまま。そして、それを背にして立つ少女の姿に酉野紫の全員が驚きの声を洩らした。
「おお…」
ボルタが声を震わせて璃音を指差す。
「その服…まさか…オレたちに、お付き合いしてくれたのか…?」
「し、してないよっ!」
思わず大声を出してしまう璃音。それに追い討ちをかけるように、クイックゼファーがニヤけた口調で言う。
「しかし、残念だな…。それ、タイツになってるんだろ。じゃあ、パンチラを拝めないってことじゃないか。楽しみが減るぜ」
一瞬目を丸くした璃音だが、すぐに平静さを取り戻す。
「ふっ。制服の時はいつも見せパンだから平気だもん」
しかし、バーナーが人差し指を立てて、首を振った。
「いや。ぶっちゃけ、見る方にしてみりゃどっちでも変わらんってか、区別つかねぇし。だからパンツはパンツだ。うっへっへ」
「お主…深遠なることを申すのう。まこと、パンチラは男子の夢でござる」
横で深く頷くマンビーフ。以上の発言を総括し、ボルタはビシッと璃音を指差して高らかに宣言した。
「つまり、だ。…藤宮璃音、敗れたり! どういうつもりかは知らないが、その服になった以上、オレ達の勝利は確定! なぜなら、今までのようにパンチラに惑わされることなどないからだッ!」
璃音は顔を真っ赤にして叫んだ。
「な、なんだって!」
それをアクアダッシャーがせせら笑う。
「ふふーんだ。ボクたちがー、今まで本気だと思ってたのー? 他所見してたから負けたに決まってるじゃーん」
「う…うう…」
璃音は恥ずかしさから目に涙を溜めて俯いてしまった。
「今までそんな風に見られてたなんて…これじゃあお嫁に…」
そこまで言って、璃音は顔を上げ、ポンと手を叩いた。
「…いっか。もう行ってるんだし、お嫁」
そして、目つきをめいっぱい険しくして酉野紫の五人を睨みつける。
「よーし。それじゃあ、見せてみてよ。あんたらの実力ってヤツ!」
「おうよ!」
酉野紫は一斉に、散り散りに跳んだ。
璃音は真正面に向けて右手を突き出した。攻撃サポートが起動し、袖が巨大な手、"シェルアーム"に変形する。シェルアームが掌を大きく広げると、全体が光を発していた。
「パワーボルト!」
璃音は気合を込めてシェルアームにエネルギーを送った。掌からエンハンサー光球とよく似たエネルギーの球が発射され、
「えええええええーっ、ボ、ボクまだなにもーっ!」
池の中に突っ立ったままだったアクアダッシャーに直撃した。
「ふひぇふぁりゃあぁ…」
酉野紫で唯一無二の泳ぎ自慢であるダイバー魔人は、よく判らない断末魔をあげて倒れ伏し、池に浮かんだ。
「なんと、アクアダッシャーがやられたでござるか!?」
マンビーフが叫ぶ。クイックゼファーは思わず足を止め、タメ息を吐いた。
「なんと、じゃねーよ。ヤツだけ池から動かねぇんだもん。狙われて当然だぜ。アホじゃねーの?」
その言葉は実に正論である。だがバーナーは頭を抱えて、身も世も無いといった風情で喚いた。
「ヒデェ、容赦ねェ! なんて女だッ!」
だが、璃音はいつになく険しい目つきでキッパリと断言した。
「うるさい! 乙女の聖域を汚した連中にかける情けなんかない!」
それを聞いたボルタは、恐る恐るご機嫌を伺う。
「藤宮璃音さん…怒ってらっしゃいます?」
「別に!」
返答はすぐさま返ってきた。これでは、よほど鈍感な者でない限り璃音の心境は察しがつく。酉野紫の残り四人は自らの過ちが招いた結果に背筋を凍らせが、今さらになって謝るわけにもいかない。ボルタ、バーナー、クイックゼファー、マンビーフは気合いを入れなおし、再び駆けだした。
「オラオラ、いくぜ!」
こういう時、真っ先に突っ込むのがバーナーである。
「待て、バーナー!」
当然、クイックゼファーの静止など耳に入らない。
「おおりゃあぁッ!!」
暑苦しくも喧しく、バーナーは両の拳を炎上させて璃音に殴りかかった。一発目の拳をシェルアームに受け止められ、バーナーは左手を振り上げる。だが、璃音は右のシェルアーム一本でバーナーを放り投げてしまった。
「なんだとぉッ!!」
酉野紫で二番目の腕力を自慢とする火炎魔人は、そのまま宙を舞い、池に落下して消火された。
ことほどかように。
真っ先に突っ込み、そして真っ先にやられるのがバーナーという男の生き様である。
池に脱落者が二名浮かんだのを横目に、クイックゼファーは舌打ちをした。
「ちっ…だから待てって言ったんだッ。案の定、パワーアップしてやがるじゃないか」
だが、マンビーフはどこか楽しげに頷いた。
「うむ。ならば、拙者が先陣仕る。お主らは援護をいたせいッ!」
仲間たちが頷くのも待たず、マンビーフは黒い具足姿へと変身した。
「黒毛和牛フォーム!!」
変身することにより、マンビーフは最高級黒毛和牛のパワーを発現する。それこそが、高級波動・エクスペンシブオーラである。マンビーフの黒いスーツから発せられる波動は、選び抜かれた最高級品のみが持つ強烈な威圧感で庶民のハートを折ってしまうのだ。葵の御紋に平伏する木っ端役人のように、まだ周囲に残っていた人々は次々と膝をついて動きを止めてしまう。
だが、お嬢様育ちの藤宮璃音にそのような物は通用しない。マンビーフが渾身の力を込めて振り下ろした一刀を、璃音は易々と避けてみせた。
「フン!」
返す体で、マンビーフは太刀を逆袈裟に振り上げた。璃音は後ろに飛び退こうとするが、殺気を感じ思いとどまる。直後、ボルタが放つ水平な稲妻が背後を通り過ぎた。
「ちっ」
舌打ちするボルタ。だが依然として璃音が間合いの内にいることに変わりはない。マンビーフは勝利の確信とともに太刀を打ち下ろした。
だが、マンビーフの太刀は振り抜かれることなく、強い力によって止められていた。見ると、璃音のシェルアームが片手白刃取りで太刀を押さえつけていたのだ。大きな指先と掌にガッチリと挟まれた刃は、ちょっとやそっとでは動きそうにない。
「なんと!」
目を見開くマンビーフ。直後、璃音はマンビーフの手元を蹴りあげ、太刀を取り上げた。
「まだやる?」
璃音が睨むと、マンビーフは雄叫びを上げ、素手で勝負を挑むべく突っ込んできた。璃音は太刀をその辺に放り投げ、左手もシェルアームを起動させると巨漢のパワーを正面から受け止め、マンビーフとがっぷり四つの力比べになった。腕力には絶対の自信を持つマンビーフが鼻息も荒く押し込んでくる。だが、璃音はさらにエンハンサーの出力を上げパワーを増強、程なくマンビーフの両脚は地面を離れた。
「ぬおおおおッ、バカな!」
悲鳴を上げるマンビーフ。まさかの展開に、ボルタはたまらず飛び出してスライディングタックルを仕掛ける。璃音は宙に浮かんでそれをかわし、続いてマンビーフの太刀で斬りかかってきたクイックゼファーはパワーシールドで弾き飛ばした。
「くそッ!」
さらなる電撃を放とうと身構えたボルタに向かってマンビーフを放り出し、璃音は飛んで距離をとった。落ち着いて、周囲の被害状況を確認する。今のところ、璃音が来てから損害があったのは噴水の池だけだ。
(後で元に戻せるからって周りを顧みないと、感じ悪いからなぁ…。噴水以外は、なるべく壊さないようにしないと)
そんなことを考えて池にチラリと視線を送ると、燃えていたバーナーが落ちたために過熱され、湯気が立ち上っていた。それを見て、璃音は残った相手のうち二人を無力化する策を思いついた。
(よし、これなら!)
一方、ボルタが驚きと衝撃に肩を震わせているマンビーフを助け起こすと、クイックゼファーが立ち止まり、言った。
「さっき見てきたが、このあたりには焼肉のタレも肉叩きもない。まだまだやれる!」
「…そのような余裕があったのなら、普通に加勢してくれれば良かったものを…」
恨み言は聞かなかったフリをして、クイックゼファーは太刀をマンビーフに投げ渡し、駆けだした。
「ふははは! スピードアップ改造の成果を見せてやるぜ!」
得意げに自らのグローブを指差すクイックファー。そこにはハニカムパターンの穴が無数に開いていて、ブーツにも同様の加工が施されているようだ。クイックゼファーは、それを璃音にしっかりと見せてから、自慢の超加速で文字通りに目にも止まらぬスピードで走り回る。
「ははははは! 今度は前のようにはいかねぇぞ!」
その言葉どおり、クイックゼファーはコースを読まれないように不規則な動きで璃音の周囲を回る。そこに、マンビーフが斬りこむ。璃音は回避を試みるが、僅かに重心が動いた隙を狙いボルタが最大出力で稲妻を放った。
「わっ!」
璃音は左手からのパワーシールドで稲妻を弾く。マンビーフの太刀は右のシェルアームで受け止めた。
「もらったぁッ」
ターゲットの動きが止まったところを狙い、クイックゼファーは自らのスピードの限界に挑む回避不能の必殺技を放った。
「おおおおっ、クイック百烈破!」
二秒間で五十発のパンチを放つという、マンガルールに生きるタイツ男ならではのトンデモ技が璃音の背中を襲う。拳が空を裂く音が、あまりの高速ゆえマシンガンのごとき唸りとなり殺到、璃音はそれをマトモに食らってしまった。
だが。
ぺちぺちぺちぺち――。
怒濤のごときパンチのラッシュは、いざ当たってみると実に情けない音を響かせた。
璃音は困惑顔で首を捻り後ろを見た。調子よくパンチを放ち続けるクイックゼファーの活き活きとした表情が見て取れたが、肝心の攻撃は速度を追求した結果なのか、あまりにも軽かった。
「えーと…」
パワーシェルがあっても無くても大して関係なさそうなクイック百烈破の威力に、璃音はどう対処したら良いのか判らない。たいそう自信があるようなので、あまりにあっさり跳ね返してしまったら相手の心を深く傷つけてしまうのではないかと心配になってしまう。しかし、相変わらず稲妻の攻撃は続いているし、マンビーフは刀を捻じ込もうと更に力を込めてくる。加えて、
「はっはーっ、どうしたどうしたァ! オラオラオラオラ!」
と、得意の絶頂でイイ気になっているクイックゼファーの顔を見ていると、璃音はだんだん腹が立ってきた。
「うっとうしいっ!」
シェルアームを振るいマンビーフの太刀を弾き飛ばす。その余勢で、クイックゼファーはあっさりと転倒してしまった。
そして璃音はフォースフィールドの出力はそのままに、右シェルアームからパワーボルトを連射した。これまた調子よく稲妻を放っていたボルタは、自らの電撃の照り返しで完全に状況を見落としていた。
「ぎゃわーっ!」
無防備のまま足元にパワーボルトを食らってしまい、ボルタは派手に吹き飛んだ。
そのまま、酉野紫で一番の頭脳派を自任する電撃魔人は宙を舞い、池に落下して漏電した。
「ぷぎゃーァァァッ!!」
それはボルタの悲鳴なのか、それとも既に池に浮いていた二人のうちどちらかのモノなのか、はたまた三人一緒に叫んでいるのか。とにかく、地獄の釜茹で状態の噴水池を見て、膝をついて立ち上がっていたマンビーフは顔を引きつらせた。あれでは、ボルタは完全に乾燥するまで使い物にならない。そのうえ、残された味方であるクイックゼファーはダウンしたまま。スピードアップ再改造と称した軽量化のお蔭で、パワーや耐久力といったものがガタ落ちしていたのである。
マンビーフは一人で戦うことを決意し、立ち上がると太刀を正眼に構えた。璃音もそれに応え、シェルアームを両方とも展開する。数秒、視線が交錯し、そして、
「とおおおりゃぁあああああッ!!」
雄叫びと共に、マンビーフは前へと踏み込んだ。だが次の瞬間、マンビーフの視界が回る。後頭部への痛みと共に、彼が見たのは晴れ渡る夏空だった。
状況を察した時には、マンビーフの身体は宙を舞っていた。なんと、璃音のシェルアームが倍以上も伸びて、マンビーフの足首を掴んでいたのである。
「な、なっ!? ズルイ、ズルイでござる!」
悲鳴を上げるマンビーフ。初めて見る装備に翻弄されたわけだから彼の言い分も御もっともだが、璃音は逆に言い放った。
「よく言うよ。そっちなんか五人がかりじゃん」
痛いところを突かれ、マンビーフは沈黙した。だが、いつの間にか自分が池の真上にぶら下げられていることに気付き、また喚き始めた。
「待て、待つのじゃ! この下は、この下はッ!!」
池の水は、バーナーとボルタが落ちたせいで温まり湯気を上げている。璃音は小さく笑い、言った。
「さあ。今日はしゃぶしゃぶだよー!」
そして、マンビーフは頭から池に沈められた。両脚を押えられているので自由が利かず、なすがままに湯につけられる。それはマンビーフの息が切れそうになるまで続いたが、璃音には溺れさせてやろうという意図は無く、程良いところで引き上げた。
マンビーフは、脚を掴んだシェルアームの伸びた先にいる璃音に、必死の表情でまくしたてた。
「うつけ者がぁッ! かように長時間、しゃぶしゃぶするヤツがあるか!!」
璃音は、したり顔で頷く。
「そうそう。わたし思うんだけど、牛肉のしゃぶしゃぶって、せっかくの肉の脂をお湯に捨ててるだけだよねぇ」
「何を申しておるかぁッ! お主のやり様がヘタクソなのじゃ! しゃぶしゃぶなのじゃから、『しゃぶしゃぶ』で終わりに決まっておろうがッ! それを…それを…。これは明らかにやり過ぎでござるぞッ!」
殆ど涙声で喚くマンビーフの身体は、湯から引き上げられて冷えたせいもあり、表面が締まって固くなってきていた。だが、璃音は事も無げに言い放った。
「うん。だって、最初から台無し系しゃぶしゃぶにするつもりだったから」
それはまさに、死刑宣告だった。
璃音が手を離す。
酉野紫で最も高級な霜降魔人は、そのまま池に落下、茹で上がって肉汁を台無しにした。
全身の芯までカチカチになってしまったマンビーフは、知能の光を失った眼差しを虚空に向けたまま、ぶもぶもと呻きながら池に浮かんだ。
「よし」
璃音は頷くと、のびたままのクイックゼファーをシェルアームで拾って放り投げた。
酉野紫で一番の脚力自慢の高速魔人は、そのまま宙を舞い池に落下したが、先客がいっぱいだったので石畳の上に転がり落ちた。
「いい? 警察の人たちが来るまで、そこで大人しくしてること!」
璃音にビシッと言いつけられた酉野紫の五人だったが、逃げたくても身体が動かず、結果として言うとおりにするしかなかった。朦朧とする意識のなか、バーナーが呟く。
「あー。今までのほうが良かったな…」
「うん…」
と、ボルタ。
「でも、あれはあれで…嬉しいかもよ。スカート短いし」
それを聞いたクイックゼファーが石畳の上で呻く。
「ああ。タイツだっていう安心感から、逆に無防備だし…」
「ぶもー…」
それに応えるマンビーフの声はあまりに力なく、そしてアクアダッシャーは煮えるわ感電するわで、既に話す余力さえ残っていなかった。いずれにせよ、彼らは幾度目か知れない完全敗北を喫したのである。
そのとき、不意に男の声が響く。
「だらしないぞお前たち! 負けて喜ぶヤツがあるかッ」
璃音も、ハッと噴水の上を見る。そこには、マントをなびかせ、アイマスクと紫色のタイツを身につけた男が腕組みをして立っていた。
「ボス…!」
酉野紫の面々が力なく、だが期待を込めて男を呼ぶ。
彼らのボス、サーバントクーインは不敵な笑みで口の端を吊り上げ、璃音を見おろした。
「ふははははッ。…藤宮璃音よ! どこでどうしていたのかは知らんが、夏休みを利用してパワーアップを遂げたようだな。その力どれ程のモノか、このサーバントクーインが見極めてくれよう…!」
そこまで言ったところで、璃音はシェルアームを伸ばしてクーインをしばいた。
「うるさい!」
「うぶッ!」
今までの人生で受けたことなどない程に強烈なビンタを食らい、クーインはガックリと膝を折った。
(ぬ、ぬおおおおおッ…、たった一撃で、こんな…このクーインが、足にきているだとッ!?)
だが、ここで弱みを見せるわけにはいかない。クーインは精一杯の力を込めて立ち上がると、引きつった顔で笑ってみせた。
「ふっ…ふっ…ふふふ、や、やるではないか藤宮璃音。だが、お前は私の部下五人を相手にした直後。相応に消耗もしていよう。よって、この勝負はお預けとしようではないか」
「なんで? そんなに疲れてないけど…」
璃音が首を傾げるが、構わずにクーインは若干力ない感じで宙に浮き上がる。
「ククク…、だがな。次に会うときが貴様の最後だ! その時には、今までとは比べ物にならないくらい、遥かにパワーアップした私の前にひれ伏すことになるだろう! つまり、今度は復讐してやるってことだッ! 覚えておれッ!! ふはははははは!」
さらにクーインは、足元の池にプカプカと浮かんでいる部下たちに別れの言葉を贈った。
「私さえ無事なら、お前たちのパワーは健在だ。あとは自らの手で切り拓け! さらばだ!」
「ひ、ひどいっ」
酉野紫のうち、物を言う余力と知能を残している者たちが抗議の声を上げたときには、サーバントクーインの姿はいずこかへと掻き消えていた。
「…何しに来たんだろう、あれ」
パトカーのサイレンが近づく中、璃音は呆然と呟いた。すると、空から黒い影が近づいてくるのが目に入る。黒いコートとアイマスクの、Mr.グラヴィティだ。
グラヴィが着地すると、開口一番、璃音が言った。
「遅いですよ、グラヴィさん」
「す、すまん…その…斬月侠のお蔭でサボり癖がついてしまって…」
済まなそうに俯くグラヴィ。
「もう。そんなことだから、あの人の生活が破綻するんですっ」
「す、すまん…。面目ない…。そう思えばこそ助力したんだから、そろそろ許してくれよ」
いつもの威厳はどこへやら、街の守護者は十七歳の少女に弱々しく頭を下げた。
2−
思わぬ回り道をしたものの、璃音はしっかりとお目当ての買い物を終えることができた。家路に着く前に何か食べようと飲食店街をウロウロしていると、そこで法眼悠にばったり出会った。
「よっ、久しぶり」
「おひさー」
学校があるときはウィークデイに毎日顔をあわせているが、こんな風に休日に会うと随分久しぶりな気がする。今日はまったく偶然だったし、少し前まで璃音が海外行脚をしていたので尚更だ。
協議の上、ふたりは近くにあるハンバーガーショップ"USサイズ"に入った。
ここの名物は、看板どおりのアメリカン・ハンバーガーである。店内で挽いた荒挽き肉のハンバーグはステーキ並みの食感とサイズと食べ応えを誇り、それにケチャップとマスタードを好きなだけかけて分厚いパンズで挟んで豪快に頂くという、いかにもアメリカンで大味な店だ。なにせ食べているうちに下のパンが肉汁でヒタヒタになってしまうのだから、その汁ぶりがうかがえる。
看板メニューの圧倒的なボリューム感から男性客が多数を占めるが、食べ方こそ大味なだが調理の腕自体は優秀で味は折り紙つきなのと、店の内装が古き良き六十年代アメリカ風で雰囲気が良いために女性客もチラホラといる。そのためにスモールサイズのメニューも用意されているのだが、もちろんカウンター席に座った璃音が頼んだのはビックサイズ。その隣に掛けた悠は無難にスモールサイズにしておいた。豆類が好きなせいか菜食主義者と勘繰られがちだが、悠の食性はしっかりと雑食である。
肉が鉄板で焼ける音を聞きながら、悠は璃音の足元に置かれた荷物に視線を送る。
「で、なに買ったのさ?」
璃音の足元に置かれた紙バックは、この街でも有数の品揃えを誇るランジェリーショップの物だった。それと璃音の胸を見比べて、悠は得心がいったとばかりに頷いた。
「そっかぁ。また大きくなったかぁ」
「う、うん…」
恥ずかしげに頷く璃音。悠は肩をすくめた。
「五月のプールの時には、Fカップだって言ってたのにぃ」
「…あんまり人に喋らないでよ」
「はいはーい。まあ、相変わらず愛されてるよね」
そう言って、悠は璃音の腰に手を回し、更にもう一方の手を使ってウエスト全体を触る。
「随分くびれたもんだね。結婚前は見事なまでのイカ腹体形だったのにさ。脚も締まってきたし、ホント変われば変わるもんだ。やっぱ、美容の秘訣は愛のあるセックスですかぁ?」
からかうような口調の悠に、璃音は唇を尖らせた。
「もう。そういう悠はどうなのさ。彼とは上手くいってるんでしょ?」
その彼とは、同じクラスの留学生、バロージャのことだ。
「うーん、付かず離れずになってきちゃった感があるなぁ。ほら、夏休みだから国に帰っちゃったし。…メールは貰ってるけど」
「そうなんだ」
相槌を打つ璃音。だが思い返してみれば、一学期中の悠は殆どの璃音と一緒に放課後を過ごしている。そのお蔭で、すでに別れたと勘繰ってしまったこともあったほどだ。
「普通のときは、部活忙しいしね〜」
悠は手をヒラヒラさせておどけてみせた。
「それに、いちいち拘束するのも疲れるしなぁ。後々のことを考えたら、お互い自分のことをしっかりやっといたほうが良いもん」
「さっすが。オトナだね、悠」
璃音が目を輝かせるので、悠は照れくさくなって苦笑した。
「ははっ、それほどでも。ぶっちゃけ、彼のほうが大人なわけよ。地球の裏側まで来て、部活じゃあ真剣勝負してさ。それ見てれば、私も色々考えたりするわけよ」
「ああ、それで生徒会に来てくれたんだー」
「まあね。…そんな理由、恥ずかしくて言えなかったけどさ」
そこまで言って悠は璃音の顔を見る。えらく感激した表情をしていたので、喋りすぎたことを後悔した。あまりイイ話で終わっても恥ずかしいので、悠は方向転換することにした。
「一応ね、君らが発ってからのデートでヤることヤったから、余裕ってヤツ?」
すると璃音は、今度は好奇心に目を輝かせて身を乗り出してきた。さっきよりも明らかに食いつきが良い。薮蛇だった。
「い、いや…君のダンナみたいに上手くないから。聞いてもツマンナイよ」
「ふーん」
余計な事を言えば言うほど璃音の興味を引いてしまうことに気付き、悠はタメ息を吐いた。
「…ま、まあ、詳細は後でって事にして…ダメか。うん、なんていうかさ、可愛かったよ。最初は二人とも完全にテンパってたけどさ…初めてだったから」
「そういうもんなんだ…」
璃音は真顔で頷いた。自分のときは全て蛍太郎のリードでことが進んだから、その状況をどうにも想像できないでいた。それを見て、悠は少し得意な気分になった。
「ふふん。君にゃ判らないだろうね、そういうの。うん、なんか勝った気がする」
「なんかずるいなぁ、羨ましいかも」
「でさ、思ったんだけど…男の人って可愛いよね」
悠が小さな声で言うと、璃音は手を叩いて頷いた。
「あはは、判る判る。この前ね、『また、胸大きくなったね』って言うから、『わたしのおっぱい、けーちゃんのために大きくなったんだよ』って挟んであげたの。そしたら、もう大感激でさ。可愛いのなんのって…」
「そ、そう。…私には絶対出来ない芸当だよ、それ」
口元を引きつらせる悠。璃音はバツが悪くなって目を逸らしながら、しどろもどろに言った。
「えーと…。ま、まあ…お互いアレなところを受けいれて一緒にいるって感じが…その…イイかなぁって話だよ。…うん」
ここで注文の品がやってきたので、この話題は打ち切りになった。二人の前にそれぞれのトレイが並べられる。悠は璃音の皿を見て、思わず呻く。ただでさえ大きいのだが、二つに分けて盛り付けられているのを自分で重ねて食べるアメリカンスタイルなので、今の状態では更に大きく見える。
「うわ…見てるだけで胸焼けしそう…」
だが、璃音は事も無げに笑う。
「大丈夫だよ。おいしそうだもん」
璃音は幸せいっぱいの顔でハンバーガーを重ねる。このまま食べ始めてしまったら会話が成り立たなくなるので、悠は慌てて言った。
「そうだ。勉強会の件だけどさ」
顔を上げる璃音。
夏休みといえば宿題。宿題といえば、締め切り間際になって取り掛かるものと相場が決まっている。そういうわけで、悠の仕切りで友人一同による追い込み合宿が企画されていたのである。
「うん。わたしんちでイイよ」
「大丈夫? 色々慌しいみたいだけど」
「平気平気。もう収まったから」
「そう。なら良いけど」
悠が頷くと、璃音は微笑んだ。そのときちょうど、ハンバーガーを見た瞬間に吹っ飛んでしまっていた疑問を一つ、思い出した。
「そういえばねぇ、悠。これ持って来た店員さんの顔、すっごい赤くなかった?」
悠はしっかりとそれに気付いていたから、適当にお茶を濁した。
「えーと…そりゃ、ずっと鉄板に向かって肉焼いてたからでしょうよ」
3−
翌日。合宿が始まった。
藤宮屋敷、璃音の部屋に集まったのは家主とその飼い猫。法眼悠、佐藤祥、鈴木涼季。そして何故ここにいるのか全く不明だが、佐野みやこの総勢五名と一匹だった。
午前十時に集合した彼女らは和室から持ち込んだ大きなテーブルを囲んで宿題との格闘を続けているのだが、みやこは他校の生徒なので関係ない顔をしてマンガを読んでいるし、璃音は床に転がって黒猫のツナと遊んでいる。その有様を見て、涼季は不満の声を上げた。
「あのさー。なんで人が必死こいて宿題やってるときに、遊んでるのが居るわけぇ?」
璃音はツナの腹を撫でる手を止めずに、答える。
「だって、終わっちゃったもん」
「同じくー」
みやこも手をあげる。この二人、合宿の前日までに全部の宿題を終えていたのである。他校の生徒はさておき、璃音と同じ量の宿題を抱えている祥は、今日何度目かのタメ息を吐いた。
「はあ、おかしくない? だいたいさ、これだけの量が易々と終わるわけないでしょ。何か裏があるんじゃねぇ?」
その手元に広げられているのは、重ねれば厚さ二センチに迫ろうかというプリントの束である。先が見えない苛立ちからか祥の口調がキツイので、璃音は口を尖らせた。
「自力で頑張ったもん。旅行に行く前にある程度済ましとかないと大変だと思って」
「開幕ロケットスタートに成功したってワケね」
そう言う悠の表情にも随分と余裕があった。それを見て、涼季は眉を吊り上げた。
「アンタもか…。合宿で宿題やるって決まってるのに、前からやっとくってズルイだろ」
祥も頷く。
「そうそう、そうだよ。これじゃあ、何のための合宿だか判らないじゃん。前からやるって決まってたんだから、今やりゃあ良いだろ。それを何? ロケットスタートだのなんだのってさぁ」
悠は呆れたとばかりに肩をすくめた。
「…つまり、『合宿でやるから良いや』って、今までほったらかしにしてたって事かい…」
祥と涼季は顔を見合わせ、キッパリといった。
「そうだよ。悪い?」
深々とタメ息を吐く悠。
「悪いってなぁ…。どー考えても、二日ぽっちの合宿でどうこうなる量じゃないだろ…。さては、最初から璃音のを当てにしてたな?」
返事はない。図星のようだ。悠は首を振る。
「はぁ…。じゃあせめてさ、文句言うなよ。一段落するまで、璃音に他所行っててもらえばいいだけじゃないか」
だが、それには祥が猛然と反対する。
「ダメダメ。ここから出したら、あのダンナと楽しいことするに決まってるじゃん。私らが宿題で苦しんでいるすぐ横で、アンアンギシギシだなんて許せない!」
璃音はまた口を尖らせた。
「…いくらなんでも、昼日向からそんな事は…」
みやこは黙って今までのやり取りを聴いていたが、ここで小さく手を挙げた。
「じゃあ私、どっかに移動しようか?」
だが、それにも祥は首を振った。
「だーめ。そんなことしたらアンタ、斐美花さんの所に行くでしょ。そんな面白そうなこと、独り占めさせないよ」
それを聞いた悠はバカバカしくなってしまい、
「…この世はアンタ中心かよ」
と、吐き捨てた。それから璃音に言う。
「どうすんの? やっぱアイツら、端っから完全に璃音の宿題写す気だよ」
すると璃音は、事も無げに言った。
「いいよー。相応の見返りをいただけるならね」
その言葉に、祥と涼季は息を呑んだ。璃音が続ける。
「プリント一枚写すごとに、学食のジャンボ定食を奢ってもらうってことでどうかな?」
「…一枚四百五十円ってことですかい」
プリントは両面印刷でキッチリ百枚。今のままでは、二人とも万単位での出費は免れない。祥と涼季は真剣にならざるを得なかった。
「頑張らせていただきます」
声を揃える二人に、璃音は笑顔で拍手を送った。
「がんばれー。どうしてもってときは、手伝ってあげるからね」
悠が笑う。
「あははは。合宿らしくなってきたじゃないか」
みやこも笑顔で、祥と涼季の肩を叩いた。
「私も、判ることだったら手伝うよ」
この物言いは学校の指導内容が違うゆえの謙遜ではあったが、みやこは後々大きな戦力として活躍することになる。
合宿ムードが盛り上がってきたところで、時刻は午前一時を回った。斐美花が押しかけてきて、昼食を用意すると宣言してから早一時間。璃音は思い切り首を傾げた。
「…素麺茹でるのに、何でこんなに時間かかってるんだろ」
簡単なものをということで素麺をリクエストした本人なだけに、璃音はだんだん心配になってきた。その隣で、悠はツナの尻尾を弄びながら感慨深げに言う。
「いやぁ、お姉ちゃんが料理をするようになるとはねぇ…。人間、変われば変わるもんだ」
みやこの目の色が変わり、メガネが怪しく光る。その、斐美花の話を聞きたいがために、半ば無理矢理に祥に着いて来たのだ。
「そうそう、どういう経緯でああなったのか、お話伺いたいですなぁ〜」
北海道ローカルTV局ディレクターのモノマネと思われる口調で、みやこは璃音と悠の間に擦り寄った。
「それは本人に聞いたほうが色々な意味で楽しいと思うよ」
そう言ったのは、璃音だった。直後、ドアが開きお盆を持った斐美花が現れた。
「お待たせ。遅くなってゴメンね」
「どうも、ありがとうございますー」
祥、みやこ、涼季が揃って挨拶すると、斐美花は照れ笑いしながら素麺が盛られたサラダボウルをテーブルに置いた。
「じゃあ、次持ってくるから…」
と、斐美花は踵を返す。璃音と悠が立とうとすると、斐美花はそれを手で制する。
「いいよ。私がやるから」
「ありがと。じゃあ、斐美お姉ちゃんも一緒に食べようよ。お昼まだなんでしょ」
去り際の背中に璃音が言うと、斐美花は振り向いて頷いた。それから少しして、テーブルの上に二つのボウルと六つの蕎麦猪口が並んだ。
全員がテーブルに着くと、家主として璃音が音頭をとり、
「いただきます」
と、皆が声を揃えた。
さっそく素麺に箸を伸ばし、みやこは大げさに感嘆のタメ息を吐いた。
「斐美花さまの手料理だなんて…。佐野みやこ、超感激です」
「おおげさだよ、素麺くらいで」
苦笑する斐美花。だが間髪いれず、みやこはキツイ言葉を浴びせた。
「その『素麺くらい』に、随分お時間をかけてらしたようですが…?」
斐美花は言葉に詰まり、少し逡巡してからおずおずと口を開いた。
「ねえ、璃音。めんつゆの作り方だけど…」
「うん」
箸を止め、璃音は顔を上げた。
「水にダシを入れて、煮るんだよね。で、煮立ったらダシを取り出して、醤油と、味醂少々で…」
「それであってるよ」
その答えに斐美花は一安心して頬を緩めた。自分のやり方で、根本的な手順は間違っていなかったことが判ったからだ。だが、問題はこの後だった。
「でしょ。でもこれ、熱いじゃない。だって、今まで鍋で火にかけてたんだもん。冷めるまで待たなきゃいけないよね? 間違ってる?」
眉をひん曲げて首を傾げる斐美花。言っていること自体は正しいのだが、何かがおかしい。璃音は慎重に答えた。
「…間違ってはいない、けど」
「もしかして、倍くらい濃く作って氷入れて冷やすの? アイスコーヒーみたいに?」
真剣そのものの斐美花。他の一同は揃って首を振った。
「いやいやいや…」
そして、自然と五人を代表する形で璃音が口を開く。
「つまり、素麺に一時間を費やしたのは、めんつゆを冷やしていたから?」
すると斐美花は大きく頷いた。
「色々試したんだけど、諦めて自分で冷やしちゃった。」
よく見ると、つゆの表面に薄っすらと氷が張っている。"冬の王"を使ったのだ。璃音は思わず首を振った。
「めんつゆあったでしょ」
斐美花は怪訝な顔で眉をひそめる。
「あれ? あんなの、味が濃すぎて使えないよ」
璃音は穏やかに、優しく教えてあげた。
「あれはね、薄めて使うんだよ」
「そうなの!?」
本気で驚く斐美花。悠が笑いを堪えながら言う。
「でも、事前に味見したってことは大きな進歩なんじゃない?」
「そう? ありがと」
意外と素直に頷く斐美花を見て、みやこは驚いた。
「はぁ。でも大変ですね、花嫁修業」
すると、祥が少々皮肉交じりの口調で言った。
「そりゃあね。セックスしてりゃ良いってもんじゃないし」
それには、璃音と斐美花が揃って、バツが悪そうに頭を垂れた。
「…すいません」
だが二秒もしないうちに、二人とも何事も無かったかのように素麺をすすり始めた。六人がかりということで五分も経たずにボウルは空になり、麦茶タイム、買いこんで来た菓子類を広げての雑談に移行する。もちろん、お題は決まっていた。
「えー、ではお聞きいたします。斐美花さまは、いついかなるプロセスを経て、"中村斐美花"になったのですか?」
みやこの一言で、尋問タイムが始まる。
「璃音から聞いたでしょう…」
顔を赤くし照れる斐美花だったが、その璃音が鬼のような一言を突きつけた。
「えー。あんな家族会議でも差しさわりのないレベルじゃ物足りないもん。今ここで聴きたいのは、もっと生々しくて下世話なお話。耳年増な女子高生が喜びそうなヤツを、お願いしたいんだよね」
「くっ…」
たじろぐ斐美花。見ると、全員が目をギラギラと光らせているのが判る。
「うう、ひどい…。話すよぉ」
4−
事は二週間ほど前に遡る。
だだっ広い屋敷に一人きりになった斐美花は、こちらに中村トウキを連れ込んでいた。家電量販店で個室用のエアコンを買い、もちろん取り付けはトウキの仕事だったが――、その他諸々の小粋な小物や何やら、例えば消耗品であるところのグリセリン溶液とかローション、気分を変えたいときのためにファーで包まれた手錠などなどをミッチリと買いこんで、快楽に耽る日々をお楽しみということになったのである。
トウキはバイトに出かけているとき以外は斐美花と一緒ということになり、彼女の希望で簡単な料理を教えるなど、少々退廃的ではあるが満ち足りた時を二人で過ごすことになった。ちょっとした新婚気分である。
だが、ある日を境に状況が一変した。
その晩、二人はいつものようにアナルセックスに興じていた。これは今日に限ったことではなく、結婚するまで処女でいると公言した斐美花は中等部の頃から後ろ専門なのである。
「んっ、あっ、あっ…、あああ〜〜〜〜〜〜〜〜…ッ!」
うつ伏せで枕にしがみ付き、斐美花は悲鳴じみた、それでいて甘くは鼻にかかった嬌声を上げた。だらしなく開きっぱなしの口からはとめどなく涎が垂れ流され、枕に大きなシミを作っていた。その、大きく上げられた腰を押さえつけるようにして、トウキが責め立てる。奥を突かれると斐美花は背中を跳ね上げて呻き、長い黒髪が揺れる。そしてゆっくりと舐るように、入り口まで引き抜くと、肩を震わせて、
「ふあっ…はう、あああああああ…」
と、今にも蕩けそうな声で喘ぐ。その繰り返しで斐美花の自慢の黒髪はすっかり乱れ、シーツの上に広がっていた。
「ああ…イク、イキます…」
達しそうになったらちゃんと教えるように。それが寮での躾だ。トウキは、斐美花が鳴くのを白い背中越しに聞いた。
今晩はこれで三発目ということもあり、斐美花の肉は完全にトウキの形に馴染み、やや不躾な締め付けで求めてくる。全寮制女子校に密かに伝わる伝統の技で開発され、十年近く使い込まれてきた直腸は性器ほどではないにしても充分以上に柔らかい。確かに、ここには襞や突起の引っかかりは無いし、また丈夫とはいえない部位ゆえにゆっくりとした動きを強いられるが、突き入れる度の強烈な収縮がトウキを昂ぶらせてくれる。だがこのとき、トウキはこのまま終わるのは惜しいと感じていた。斐美花の白い背中も長い黒髪も非常に美しいのだが、せっかく掛け値なしの美人を抱いているのだから顔を見たいし、大きな胸が自分の律動に合わせて揺れるのを見たい。
トウキは半ばまでで腰を止め、一気に引き抜いた。にゅるん、と先端が現れる。斐美花の、今の今までトウキが収まっていたところは、普段では考えられないくらい広がってポッカリと口を開き、ヒクヒクと震えていた。そして、そのすぐ下では女の部分が緩みきってしどしどに濡れそぼり、白く濁った汁が内腿をつたい、または直接、幾条もシーツに垂れていた。
「ああっ、なんでぇっ!?」
突如の喪失感に斐美花が上げた声は、完全に悲鳴だった。振り向いてトウキを見ようとするが、肛虐で蕩けきった身体は言うことを聞かず、ただ背中と肩をヒクヒクと振るわせるだけである。辛うじてトウキに向けることが出来たのは視線だけ。それは、実に恨みがましそうだった。
「斐美花の、顔が見たい」
なるべく穏やかに言ったつもりだったが、トウキ自身も切羽詰っていたので、かなりの真顔になってしまっていた。斐美花のことを呼び捨てにしてしまったが彼女自身はそれどころではなく、何も言わずにいそいそと仰向けになった。そして、自分から膝を抱えるようにして脚を開く。背中の下で髪の毛がメチャクチャに絡まってしまっていたが、もうお構い無しだ。その様子をトウキが黙って眺めていると、斐美花は半狂乱で叫んだ。
「お願い! ねえ、入れて! 入れてくださいっ!! 早くぅっ!!」
その顔は、いつもの物静かな斐美花のものではなかった。理性をかなぐり捨てた"お願い"に、トウキのモノは角度を増す。それが示すように彼の理性も崩れかけていた。忍としての修練を積んできたトウキのこと、必要とあらば今からでも一瞬で平静状態に戻ることなどわけはない。だが、ここで溺れずに、いつ、何に溺れろというのだ。トウキは湧き上がる衝動に身を任せることにした。
トウキはモノを包んでいたスキンを引きちぎらんばかりの勢いで剥ぎ取ると、
「中に出します」
斐美花の、まだ口を開けたように広がったままの尻穴に先端をあてがった。その瞬間、斐美花の顔がだらしなく緩む。
「あ、あ、あ…いい、いいからぁっ…早くぅ…くださいっ」
何も考えられなくなってしまっていた斐美花は、もはや入れてさえ貰えれば、それで良いのである。細かいことは全く関知の外だ。
トウキは腰に体重をかけようとして、違和感に気付いた。
入らないのである。
それもそのはず、スキンを外したものだから一緒にローションも取れてしまったのだ。それでは潤滑剤になるものがないから、挿入は難しい。トウキはローションのビンを探したが、どこかへやってしまったらしく近くには見当たらなかった。ここで頭をクールダウンさせれば簡単に探せるのだろうが、斐美花が乱れきっているのに自分だけ冷静というのも嫌なので、それはやめる。かわりに、すぐ目の前にある天然のローションを使うことにした。
トウキは先端を離し、斐美花の白い太腿にこすりつけた。ツルツルの白い柔肌の感触が神経に直に伝わったような錯覚を覚え、トウキは膝を震わせた。
(うわっ、気持ち良い…)
このまま果ててしまおうかとさえ思ったが、ここは少しだけ頭を冷やす。不意の動きが加わらないようモノに手を添えると、内股を濡らしている愛液を掬い取るようにグラインドさせた。ひとしきりやると、落ち着いた所作で反対側の腿に大してもそれを行なう。だが敏感なところを弄られる斐美花は落ち着いてなどいられない。快感を与えられてこそいるが、それは彼女が望む核心に迫るものではなく、焦らされる形になってイヤイヤと首を振る。
「ねえ、ねえ…っ」
「うん。もう少し待って」
トウキは、自らの先端を斐美花の女の部分にあてがい、ピンクの花弁に溜まった蜜を絡め取りながら、前後に動かす。今までに、いわゆるスマタというヤツは何度も経験しているので大丈夫だとは思ったが、お預け状態が続いている斐美花は焦点の合わなくなった視線を虚空に放り投げ、掠れかけた声で呻いていた。
「…かはっ、あ、あ…」
「大丈夫? いっぺんイッて、落ち着きますか?」
トウキは自らの先端を斐美花の肉の突起にあてがった。ちょん、と突いてやると、斐美花の背筋が跳ねた。
「んんっ…!」
だが、斐美花は唇を噛んで、必死に堪えていた。
「やだぁ…中村さんに、出してもらって…それで、イキたいんです…」
そうまで言われて火がつかない男は、恐らく居ないだろう。トウキは頷くと、腰を浮かせた。いつも通り、後ろの穴に入れるために。だが、またトウキが離れるのではないかと思った斐美花は、とっさに自分の脚を相手の腰に絡めた。
「だめぇ…っ」
悲鳴をあげながら、さらに力を込める。
「うわっ、ちょっと!」
焦るトウキだったが、すでに遅かった。絡みついた拍子に、充分すぎるほどの蜜にあふれていた"その中"へと滑り込んでしまったのだ。慌ててシーツに腕を突いたが、頭の部分が入り口にすっぽりと包み込まれてしまった。
「ああっ、あうう…っ」
悲鳴の後、斐美花は熱っぽく溜息をついた。
「ご…ごめん、今抜くからっ」
トウキはうろたえながらも腰を引こうとする。だが、斐美花はブンブンと首を振った。
「いやぁっ! 抜いちゃ、やだ…このまま、して…ください。中に、中に欲しいですっ!!」
どちらに入っているのか判らないということは無いだろうが、とにかく斐美花はおねだりした。これには、流石にトウキも我を忘れてしまった。
「よし。いくよ…」
ぬちぬちっ…。と、トウキはゆっくりと肉襞を掻き分け、斐美花の中へと侵入していく。途中、強い引っ掛かりを押し退けると、それからは意外にあっさりと奥へと到達した。お互いの先端がふれあい、斐美花は背中を反らした。
「あうっ!」
「痛い?」
「ちょっとヒリヒリする、けど…嫌じゃない、です。動いて、早く…」
「うん」
斐美花の初めての男になったと思うと、トウキの胸が喜びに震える。だが、ここで羽目を外しては斐美花を苦しめるだけだ。トウキはゆっくりと、斐美花の中を味わうように抽迭を始めた。そのリズムに合わせて、斐美花も熱い溜息をつく。年齢的に身体が成熟しているし、充分過ぎるくらいに昂ぶっていたので痛みはあまり感じないようだ。それどころか、喘ぎ声がだんだん熱を帯びてくる。
「あ、あ…あっ! ああんっ、はあ…ああっ…ああああっ」
斐美花の中はキツイだけでなく柔らかく絡みつき、トウキを責め立ててくる。そもそも体位を変えようとした時点で終わりが近かったのだから、もうトウキは限界を迎えていた。いくらなんでも初めてなのに中で達することはないから、むしろ早く終わった方が良いだろう。
「斐美花っ、出すよ!」
「うんっ、出してぇ!」
トウキは最後の一突きで思い切り斐美花の奥を抉り、そして全てを解き放った。激しい快楽と開放感と、それから充足感がトウキを包む。その腹の下で、斐美花は夢の中に居るような多幸間に包まれ、トウキを受け止めていた。
(うう、やってしまった…)
斐美花を抱き寄せ頭を撫でてやりながら、トウキは内心タメ息を吐いた。殆ど放心状態だった斐美花だったが撫でられるたびに思考が戻ってきて、自分の髪が背中の下に敷かれてしまっていることに気づいた。
「うう…」
斐美花は何ともいえない違和感に背中をモゾモゾさせる。首の後ろに手を回して髪を引っ張り出し、現在の有様を見て斐美花は泣きそうになってしまった。
「ぐちゃぐちゃ…」
トウキは大慌てである。
「ああっ、ゴメンなさいっ」
「髪洗う〜」
「そ、そうですね…」
斐美花が動こうとしたので、トウキは先に身を起こした。
「じゃあ斐美花さん、シャワー浴びる?」
斐美花は頷き、それからトウキの手を握った。
「うん。一緒に入ろ」
「え? あ、はい…」
「それから、さっきみたいに斐美花って呼んでくれて良いです…良いよ」
トウキは目を丸くして、それから頷いた。
「は、はい」
「私も…トウキさん、って呼ぶから」
こんな風に面と向かって名前で呼ばれるとなんだかこそばゆいが、勿論悪い気はしないので、トウキは微笑んだ。だが、それの意味するところに気づき、サッと青ざめる。追い討ちをかけるように、斐美花は満面の笑みでトウキの顔を覗き込んだ。
「明日、市役所に行ってくるね」
「は、はい…」
「実印、持ってるよね?」
「はい…」
こうして。
二人は気分だけではなく、本当に新婚さんになったのだった。
5−
「まあ、…こんな感じで」
そこまで言って、斐美花は顔を真っ赤にして俯いた。何ともいえない重苦しい空気が辺りをズッシリと覆いつくす。
一番最初に言葉を発したのは、璃音だった。
「あのね、…そこまで生々しい描写なんて求めてなかったんだけど」
咎めるような口調の璃音。確かに喋りすぎたようで、悠は背中を丸め手を腿の間に挟んで何やらモゾモゾやっているし、涼季は俯いてしまって話が終わっても顔を上げようとしない。みやこと祥だけがギラギラした目つきで身を乗り出していた。それを見渡して、斐美花は眉をひそめる。
「そんな…。璃音が生々しくて下世話な話を聞きたいって言うからっ」
「わたしのせい? ホントは話したかったくせにぃ」
璃音が皮肉な笑みで肩をすくめると、斐美花は頬を膨らませた。
「違うもん。璃音が話せって言ったー」
「言ったけど、ここまで話してくれるとは…」
「…自分でも、どうしてここまで喋ってしまったのか…」
途方にくれる斐美花。そのとき、
「お、おかしいですよ斐美花さま!」
と、みやこが叫んだ。眉をひそめ、咎めるような口調で続ける。
「そんな事故みたいなことで…婚姻届だなんて!!」
斐美花は首を振る。相変わらず耳まで赤くしたままだったが、それでも口を噤みはしなかった。
「でも、嫌じゃなかったし…」
「それどころか、良かったんですね」
みやこが鼻息も荒く言うと、斐美花は小さく頷いた。
「うん。…気持ち良かった」
「はーん、なんてことっ!」
みやこは頭を抱えた。
「我が晴間学院といえば、超が付くお嬢様学校ですよ。その卒業生が、なんですか。貧乏学生にガチで蹂躙され、…け、結婚だなんて。こりゃ一大事ですよッ!!」
「そんな大げさな…」
困惑顔の斐美花。みやこはずいっと身を乗り出して、斐美花の手を無理矢理握った。
「斐美花さまっ。なんか、記録残ってないですかっ!? 写真とか…動画だったら最高なんですけどッ!!」
「そそそそ、そんなんあるかぁッ」
「えー。ハメ撮りとか、しなかったんですか?」
「してないっ!」
動揺も露わな斐美花。図星を指されたわけではなく、話の飛躍ぶりについていけなかったのである。そんな斐美花をよそに、みやこは釈然としない表情で首を振った。
「してないんですかぁ…。記念に撮っとくもんだと思ってたんですが…」
それには、祥がツッコミを入れた。
「おいおい。そりゃありえないって…」
「そうなんだ…」
みやこはガッカリした様子で俯いたが、すぐに顔を上げた。
「璃音さんは、そういうのしなかった?」
「へ?」
突然矛先を向けられ、璃音は目を丸くした。
「ハメ撮り」
「あはは、しないよー。そんなこと」
笑う璃音だったが、
「…目が泳いでるよ」
と、悠に指摘され、顔を背けた。
「したんだ…」
涼季が信じられない、といった表情で首を振る。まるで男っ気のない涼季にとって、今までの話は刺激が強すぎたらしい。だが、同様に男っ気のない生活を送っているはずの佐野みやこは、目を爛々と輝かせ実に生き生きとした表情をしている。
「ねぇっ!」
みやこは、ターゲットを璃音に切り替えた。これから押し倒すのではないかという勢いで肩を掴み、真剣な表情で迫る。只ならぬ気配にツナも逃げ出したほどだ。
「やったんだ、やったんだよね? 見せて、それ見せてッ! 見せなさいッ!」
当然、璃音は反抗する。
「やだぁっ! 見せない見せない!」
「いいじゃない、減るもんじゃなしー。おっと、このデジタル時代に『テープが減るからダメ』なーんて言い訳は通じませんよ!!」
「とにかく、いや!」
璃音は祥に助けを求めるべく視線を送った。みやこを連れてきた張本人なら、この事態を収められるに違いない。だが、返ってきた言葉は期待とは正反対のものだった。
「ごめん、璃音ちゃん。私も見たい」
「なんだそりゃー!」
頭をかきむしる璃音。悠はというと、まだモゾモゾと何かをしていた。そして、やおら立ち上がると、
「トイレ行ってくる!」
と、ドアも開け放したまま駆け出してしまった。その後姿を、みやこと祥は呆然と見送った。
「どうしたんだろ…」
「さあ?」
顔を見合わせる二人。璃音だけは何となく理由を察し、内心で頷いた。
(そっか。なんのかんので、溜まってたんだね…)
それはそれとして、開けっ放しのドアからコッソリと這い出そうとしている姉を一喝した。
「逃げるな!」
「いやその、お片づけを、しようかと…」
そう言う割には、テーブルの上には食器が全部残ったままでお盆も放置されたままだ。何と言おうが、逃亡を企てたようにしか見えない。
「ははは…」
笑ってごまかそうとする斐美花。璃音がじとっと睨んでくるので、逃れにかかる。
「でも、どうせビデオなんか見せないんでしょ。ああ、そもそも私はそんなの無いから、関係ないんだけどー」
"余計な事"を口にして、話を蒸し返させる作戦だ。それを聞いて本来の目的を思い出した祥は、みやこと揃って璃音に圧し掛かるように迫ってくる。
「ほらー。ああいう風に言われると、悔しくない? 『この野郎、見せてやるぜ!』って気になってこない? このままじゃ負け犬だよ?」
「…いいよ別に。負け犬で」
璃音は力なく答えた。すると、祥は首を振った。
「そうか…。そうだよな、普通。私が悪かった。どうかしてたよ」
みやこも同様に頷く。
「そうだね。二人だけの思い出を、こんな風に見せるわけにはいかないよね」
(いやいや、それが『思い出』っていうのはどうだろう…。確かに、かなり燃えたけどさ…)
璃音は釈然としないところもあったが、表面上は頷いておいた。その直後、みやこと祥は声を揃えて言った。
「オクに出すんだったら、その前に声かけてよね」
要らなくなったら自分たちに譲れということらしい。璃音は即答した。
「…出さないって」
それから、逆に尋ねる。
「でもさ、なんでそんなの見たいのさ…」
答えはすぐに返ってきた。
「作画資料だよ」
「…ああそう」
璃音は首を振った。祥が補足する。
「ほら。みやこちゃんって、男の人と付き合ったこと無いから」
みやこは苦笑い。璃音は、祥に質問を重ねる。
「それはいいとして、祥も結構必死だったよね」
「そりゃ誰だって、エロいものが見れるッつーなら、見たいに決まってるじゃない」
「それだけ?」
璃音の有無を言わさぬ視線に、祥は遂に観念した。
「…ごめん。その…私も、男の人と付き合ったこと無いから…」
それには、祥以外の全員が驚きの声を上げた。
「うーわ。じゃあ、今までの武勇伝…あれは皆、ミエからでたデマカセ?」
それから涼季がケラケラと笑った。
「あはははは、そうだよなぁ。いくらなんでも、ただ胸がデカいだけの佐藤に惚れる男なんていないよなぁ。あっはっはっはー!」
「うっさい! 色気ゼロ女は黙ってろ! 胸のデカいの七難隠すって言うんだよ、今は!」
祥が吼える。璃音は首を振った。
「言わないって…」
一方、みやこも首を振っていたが、祥の無体な物言いが理由ではない。
「じゃあ、さっちゃんがくれた…あれはなんだったの!?」
みやこが言う"あれ"とは、以前に祥が作が資料用としてくれた『別れた男の写真集』である。祥は、目を伏せ搾り出すように答えた。
「あれ、弟…」
しばしの沈黙ののち、みやこが叫ぶ。
「うえーっ! マジ!?」
以前、みやこのマンガ原稿を見たことがある斐美花は、何となく事情を察し、顔を引きつらせた。
「…それ、犯罪じゃない?」
「大丈夫、同意の上だから!」
祥が上ずった声で叫ぶが、常識的には信じられることではない。斐美花が咎めるような視線を祥に送り、みやこは目を剥いて叫んだ。
「弟さん、私にくださいっ!!」
「やるかぁッ!! 遠距離恋愛は許さーん!」
「遠距離って…同じ市内じゃないのー!」
「てか、誰にもやらーんッ!!」
みやこと祥は今にも掴みあいに発展しそうな絶叫の応酬を続ける。璃音と涼季は状況が判らず顔を見合わせるだけである。いつの間にか戻っていた悠も、ドアのところで立ちつくしていた。
「…なんなのさ。これ」
璃音が首を振る。
「判んない」
「とりあえず、祥に男がいたって話が嘘だというところまで、把握した」
悠が肩をすくめると、斐美花は首を振った。
「それ以上は深入りしない方がいいよ。世の中には、知らなくて良いこともある…」
「ふーん…。まあ、嘘ついてた件はあまり突かない方が良いかもな」
腕組みして悠が頷くと、璃音は小さく笑った。
「へぇ。優しくなったね」
「そんなことないよ。前からこんなもんだ」
悠はそっぽを向いて少し顔を赤くした。涼季が、からかうような口調で笑う。
「藤宮ちゃんだけには、だろ。優しかったのって」
途端に悠の表情が険しくなる。
「おい。ケンカ売ってるのか?」
「別にぃー」
挑発する涼季。たまりかねて、璃音が叫ぶ。
「やめて! 宿題やるんじゃなかったの? ってか、うるさいってば!」
さすがにそれで、部屋は静まり返った。
「…そうだ。本来の目的を見失うところだった」
祥がすっかり嗄れてしまった声で呻く。みやこが不満げに言った。
「うやむやにしないでぇー弟ぉー」
それを、斐美花が睨む。
「こら、佐野」
「はーい…」
みやこは小さくなって俯いた。もっとも、それで隠した表情はケロッとしたもので反省の色などない。
悠と涼季は顔を見合わせて苦笑した。
「…よし、やるか」
涼季が頷くと、悠はそっぽを向いた。
「お前はな。私はもう良い」
璃音が釘を刺す。
「悠」
「はーい。まあ、せいぜい頑張りなよ。ライフラインっつーことで、三回まではサービスで手助けしてやるからさ」
そっぽを向いたまま、悠が言う。
ムードが落ち着いてきたところで、ドアを恐る恐る覗きこんできた者がいた。蛍太郎である。
「やあ、いらっしゃい。…大丈夫?」
心配気な蛍太郎だったが、祥と涼季、みやこは声を揃え、今までとはうって変わり満面の笑顔で答えた。
「なんでもありませーんっ」
全員、かなり良い子気味な声を作っている。それに見事に騙され、蛍太郎は安堵の笑みを浮かべた。
「そう、良かった。あまり根詰めないで、休む時は休んだ方がいいよ。特に今は、昼食の直後なんだしさ」
その言葉に、祥と涼季は璃音に視線を向け、ニヤリと笑った。
「…けーちゃん」
肩を落とす璃音。なんとか宿題をやるムードになっていたのに、これで台無しである。
「…まあいいか。合宿は明日までだし、わたしはもう出来ちゃってるし」
璃音は諦めの境地である。やはりこういうものは、期限ギリギリにやるものということだろう。諦められているとは露知らず、涼季は気色満面で、
「じゃあ、すこし昼寝でも…」
と言い、祥は、
「ゲーム持ってきたんだけどさぁ、パソコン借りても良い?」
と、既に机に背中を向けつつあった。みやこもすぐに後を追う。璃音も二人に肩を並べた。
「でもさぁ。まさか最初っからってことはないよね?」
「もちろん、セーブデータ持参だよ」
胸を張る祥。用意周到である。だが璃音は、横で蛍太郎が興味津々の様子で祥の手の中にあるDVDケースを覗きこんでいるのに気付き、顔色を変えた。
「ダメ。やっぱダメ」
蛍太郎が首を捻る。
「いいじゃないか、璃音ちゃん。ゲームくらい」
「…けーちゃんが期待してるようなゲームじゃないよ」
「そうなの?」
「緑の血を撒き散らすゾンビとか人食い鮫とか、そういうのは大味なのは出てこないよ。絶対」
「ふーん…。そうじゃないPCゲームってどんなんだろう。逆に興味あるんだけど」
「立場上…止めるべきだと思うよ。けーちゃんも一応、学校の先生でしょ。わたしたち十八歳未満なんだし」
無関係を装う斐美花をチラリと見てから、璃音はわざと祥たちに聞こえるように言った。
「…わかったよ」
祥は口を尖らせた。
「じゃあ、テレビ貸してよ。ゲーム機つなぐから。全年齢対象ならいいんだろ」
「それなら…いいか」
「おっけー!」
大喜びの祥。みやこも目を輝かせる。当然至極だが寮ではゲームの持ち込みは固く禁じられているので、実物を目にする機会はそうそう無いからだ。
「早く見たーい」
大はしゃぎの二人を横目に、悠は肩をすくめた。リアルを知る者の余裕と驕りが見え隠れする。
「こういうのって、実際見ると大したこと無かったりするんだよね…」
璃音は少々言葉を詰まらせ頷いた。
「ま、まあ、そうだね」
だが斐美花は反論する。
「でもさ。初めて見るものだから、それなりに面白いんじゃない?」
それを聞いて、璃音と悠は揃って頷いた。
(なるほど。それで"山"から下りた途端に男に溺れたんだ…)
それはさておき、斐美花はゲームの方に関心があるようだ。視線が祥たちから離れない。
その間にもセッティングは続き、祥が異様に大きな鞄からゲームソフトを引っ張り出す。ジャケットは複数の美少女に埋め尽くされたものか、美少年が抱き合っているもののどちらかである。それを見た途端、涼季が首を振った。
「おいおい、そういうのしかないのか? ってか、お前の持ってるゲームって絵が出てきて文字を読むだけで、全然動き無いじゃん。そんなんじゃなくてさ、もっとこう、『バビューン、ズバーンッ!』…って感じのは無いのかよ?」
言葉の意味は判らないが、言わんとしていることは伝わってくる。伝わったので、祥はキッパリと否定した。
「無いよバーカ」
「…アホらし」
涼季はそっぽを向いて言った。
「昼寝でもする? 後に備えてさ」
意外と建設的な提案ではあるが、璃音は困惑した。まさか、寝室のベッドを貸すわけにはいかない。…色々な意味で。
すると、悠が仏頂面で吐き捨てた。
「ゲームさ、他所でやらせろよ」
すかさず斐美花が手を挙げる。
「なんなら、私の部屋でやる?」
楽しげな表情が変わらないところを見ると、ゲーム内容も満更ではないらしい。みやこと祥は、その話に飛びついた。
「はいはい、やりまーす」
「斐美花さまとゲームなんて、夢みたいです」
「そんな大げさな…」
「じゃあ、移動決定!」
そうやって仲良くゲームを鞄に片付ける様は、一見微笑ましい。そうしているうちに思い出したのか、みやこが口を開いた。
「そういえばですね、斐美花さまのダンナサマはどちらにいらっしゃるんです? 是非、ごあいさつしたいんですが」
「あいさつもなにも、いつだったかデートの邪魔したじゃん…」
斐美花は露骨に眉をひそめ、それから少々寂しげに言った。
「仕事でいないよ」
みやこも残念そうに頷く。
「仕事、ですか。ダンナサマ、お金ないんですよね…もしかして漁船に乗ったとか…?」
斐美花は首を振った。
「違う違う。詳しくは言えないけど、五日で帰って来るってさ。で、今日は三日目」
横で聞いていた璃音は気の毒そうにタメ息を付いた。
「そっか、大変だね。…斐美お姉ちゃんも、基礎工事もそこそこにほったかしって、辛くない?」
あまりの物言いに、蛍太郎は複雑な表情で呻いた。
「き、基礎工事ってねぇ…」
そんなこんなで合宿は賑やかに続き、とうに日付が変わった夜更け過ぎ。
パジャマ姿の祥と涼季は修羅のごとき形相で机に噛り付いていた。一方、璃音はワイシャツ一枚で床に敷いた布団にツナと一緒に横たわり、ロングTシャツの悠は座布団の上に肘をついて床に転がっている。ベッタリと床に置いたティーン誌をぞんざいな手つきでめくりながら、悠は刺々しく言った。
「おい、もうやめとけよ。寝れないっつーの。今さら徹夜したって、自己満足にしかならん!」
だが、祥の切羽詰った叫びが反抗の意思を露わにする。
「むきーっ、うっさい! こっちは少しでも遅れを取り戻そうと必死なんだよ。邪魔すんじゃないッ!」
その音量があまりに容赦なかったので、璃音は軽く咳払いした。
「あのね…静かにしろとは言わないけど、大声は出さないでくれる?」
「…ごめんなさい」
これには素直に謝る祥。
以前、璃音の部屋の周りは空き部屋ばかりだったので、大騒ぎしても問題は無かった。だがこの度、藤宮屋敷はめでたく二世帯同居となり、そのために大規模な配置換えとちょっとしたリフォームを行なったのである。
まずは洋風部分。
璃音の部屋は猫のねぐらにもなっているため、そのまま。その隣に璃音と蛍太郎の寝室を移動。さらにその隣が蛍太郎の部屋だ。ちょうど向かいに書斎があるので、このあたりが藤宮夫妻の居住スペースということになる。侑希音の部屋は恐ろしくて触れないので、そのまま。
和風建築が残る正面部分は、畳のほうが落ち着くというトウキの希望により中村夫妻が住むことになった。それぞれの部屋が隣り合って配置され、その向かいが寝室だ。寝室には年代物のタンスが並び、それを二人で折半して使っている。台所と浴室は元のまま共用となった。
そして綺子は、璃音たちの寝室として使われていた離れへと移動した。ちょっとした一人暮らし気分を味わえるということで、当人には好評だ。
こういった作業があったために、ここのところ屋敷がゴタゴタしていたというわけである。悠はツナの背中に手を伸ばして、しみじみと言った。
「いやぁ、合宿まで間に合わないと思ったけどなぁ。力仕事なら璃音にやらせときゃいいけど、あちこち直したりしてたじゃない」
璃音は得意げに頷いた。
「日曜大工みたいなのは、お兄ちゃんが得意だから」
「お兄ちゃんって…」
一瞬、悠の思考が止まった。
「ああ…、トウキさんのことか。なんだよ、お兄ちゃんって。あの人がそう呼ばせてるのか?」
「ううん。面白いから。こう呼ぶと、凄くうろたえるんだよ」
「…そうだろうな」
あまり彼のことを知らない悠でも、その様は容易に目に浮かぶ。斐美花と結婚した後も、やはりトウキは微妙な立場であり続けているようだ。悠は思わず苦笑した。
「でもさ。璃音にとっちゃ、蛍太郎さんの方が兄さんみたいなもんだろうに」
璃音は首を振った。
「違うよ。けーちゃんはダンナサマだもん。それになんか、最近はどっちが年上なのかよく判らなくなってきた気がするんだ。どんどん甘えんぼさんになってきたような」
「そりゃ、アンタらが異常に仲良いからだ」
惚気話に発展しそうな気配を察し、悠は身構えた。同様に、それに気付いた祥が口を挟む。
「なんだよー、楽しそうじゃないかぁ」
悠が辛辣な口調で言葉を返す。
「別に楽しかぁないね。ってか、寝たいんだよ私らは」
すると、涼季も混じってきた。
「なんだよぉ、さっきから寝る寝る寝るって。せっかくの合宿なんだから夜更かししようよー」
これには、璃音も眉間にシワを寄せた。
「寝ないんなら、黙って宿題やりなよ…」
すると、祥と涼季は揃って頬を膨らませた。だが、膨らませたところでどうにもならず、二人は黙ってプリントに目を落とした。そこで、祥が何か思いついたのか手を叩いた。
「そうだ。これ、解んないんだけどー」
「私もー」
祥の手元を見て同調し、涼季も手を挙げた。
幾分白々しさの感じられる物言いではあったが、璃音と悠は二人の横に行ってプリントを覗き込む。
それは保健体育の問題だった。
夏休みということもあり、生徒に正しい知識を身につけさせようという有難い配慮である。
「…お前らの得意分野じゃないか」
悠は冷たい目で祥と涼季を睨んだ。だが、璃音は首を捻った。
「マンガとかのはファンタジーだから…それで得た知識は使えないんじゃないかなぁと、思わないでもないけど…」
すると、祥は我が意を得たりと頷いた。
「そうそう。それで、『だから腐女子は…』とか言われたりするんだよね」
「『だよね』って言われても…」
璃音は思わず眉をひそめた。同意を求められても困る。だが、そんなことにはお構い無しに、今度は涼季が口を開く。
「私はホラ、恥じらい深い乙女だからぁー」
「そういう物言い自体が恥知らずだ。黙っとけ」
悠が吐き捨てるように言うが、これも無視。祥は薄気味悪い笑顔を浮かべ、自分のアイディアを誇らしげに発表した。
「そういうわけだからー。璃音ちゃんとダンナサマの夜の営みをですね、見学させていただいて。それを、参考に問題を解こうかと思うわけですが、いかがなものですかね?」
璃音は口元を引きつらせた。
「…さも当然のように、エラいことを口走るね」
「いやぁ、それほどでも」
なぜか照れる祥。
「ビデオ見せなかったの、そんなに根に持ってるんだ」
「根に持って無いよ。代替案を提案しただけ」
悠は心底呆れた様子で呻いた。
「アホだ…アホがいる…」
もはや言葉も無い璃音と悠、そして会心の笑みの祥。涼季はそれらを交互に見て、それから今まで交わされた言葉を頭の中でじっくり吟味する。十秒ほどして、涼季は素っ頓狂な声を上げた。
「えーっ!? これから、藤宮ちゃんがセ、セ、セッ…してる…とこ、見せてもらえるのぉッ!?」
「見せなーいッ!!」
当然、璃音は必死の表情で否定の叫びを上げた。すると、祥と涼季は揃って頬を膨らませた。
「なんでさぁー」
「頑なだなぁ」
悠は呆れるのを通り越した軽蔑の眼差しを、級友二人に向けた。
「あたりまえだろ。なにいってんのさ…。ってか、お前らの餓え方は異常だぞ。頭おかしいんじゃないか?」
「しょーがねーだろー、お年頃なんだからさぁ」
と、涼季。全く悪びれた様子は無い。祥も、
「いいじゃない、減るもんじゃなし」
と、不満タップリに声を上げる。その言葉を口にするのは本日二度目である。更に続ける。
「そこまで拒むなら、理由をお聞かせ願いたいですなぁ? 判らないことがあったら教えてあげるって、璃音ちゃん昼間言ったよねぇ?」
祥の物言いに、悠は眉間に十本はシワを寄せた。
「アホか。それともヨッパライか? 答える必要も無いだろ、バァカ」
だが、璃音は止せばいいのに、律儀にしっかりと答えてしまった。
「だって…わたしの裸は別にいいけど、けーちゃんのは見せたくないもん」
それを聞いて祥と涼季は顔を見合わせ、ニヤニヤと笑みを浮かべた。
「聞きましたぁ? 奥さん」
「ええ、ホントにラヴラヴですこと」
璃音は疲労感も露わにタメ息を吐く。
「なに、その団地妻キャラ…」
それが耳に入ったのか、祥がキッと璃音を睨む。
「そりゃ、君のデカ胸も見たいけどね。それより男の身体が目当てに決まってんじゃん。何言ってんのかね、この子は」
「お前こそ、何言ってんだ…」
悠のツッコミも、もはや義務感で入れているだけだ。すると、さすがに空気を読んで、祥は作り笑いを浮かべながら言った。
「ねえ。…本気にした?」
力なく、璃音は呻いた。
「本気だったろ…」
「白々しいぞ、今さら」
悠の言葉は今日一番の刺々しさだ。祥は困り果てたとばかりに眉をひん曲げたが、その隣では今までどおりのケロッとした顔をした涼季が首をかしげている。
「どしたの?」
だが、沈黙。その理由が判らずに涼季は再び首をかしげ、それから口を開いた。
「そういやさ、佐野ちゃん戻ってこないよね。まだゲームしてんのかな?」
再び、沈黙。だが今度は、涼季以外の全員が顔を見合わせ、それから目を丸くした。
「…もう、四時間は音沙汰無いよね」
時計に視線を送り、悠は呟いた。璃音と祥は揃って頷く。晴間学院の内情を聞かされている三人は、共通の期待感を持って次第に目をギラギラと光らせていく。
ついに、璃音が鶴の一声を発した。
「よし、覗きに行こう!」
合宿の夜は、こうして賑やかに更けていった。
このとき既に。
酉野市始まって以来の危機が胎動を始めていたのだが、それに気付く者は誰一人として居なかったのである。
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モドル