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 四月も半ばに差し掛かり、桜の季節を前にした酉野市の夕暮れは、その風光明媚な土地柄と相まって大変美しいものとされている。その理由には本州の北側に位置するがゆえに海と山、大気がさほど煤けていないことと無粋なネオンの少なさがあげられるが、裏を返せば地方都市の悲しさと言えなくも無い。地方こそ激しく荒廃が進んでいる昨今、閑静で美しいこの街のありようは巨大大学を抱えた学研都市に相応しいものともいえよう。
 だが、ここは粋で不健全な灯りなら大歓迎という土地でもある。日が暮れると共に、飲み屋街には赤提灯が点りだす。紫色の空が藍に変わりかけるころ、焼き鳥屋の主人は店先に暖簾をかけ提灯の電球を灯した。
 いつも通りの平穏な時間。
 だが、この忘れてはならない。古の先人たちが夕闇の頃を"逢魔が刻"と呼び習わしてきたことを…。
 焼き鳥の親爺は、店に戻ろうと踵を返した瞬間、何かが動く気配に足を止めた。その方向、隣の店舗との隙間に視線をおくる。そこにある幅十センチ程度の空間は既に漆黒の淵と化していた。
 何かいたことは間違いないのだろうが、そこを通るのは猫くらいだろう、と親爺はタカをくくっていたが…その時、闇に二つの目が浮かび上がった。目玉は親爺を見おろし、炯々と光を放っている。
 その下から、ひょろりと長い腕が伸びた。
 
 それから数日。警察が動き出す頃、行方不明者の数は十名を超えていた。
 
1−
 英春学院は、酉野を学研都市たらしめている三城大学の附属校として創立された。
 古くから地元公立校の盟主として君臨していた酉野高校とは対照的に、設立からニ十年程度の私立校であること、中高一貫であること、設備・人材面のアドヴァンテージにより県外・国外からの生徒が多いことなど、地元に溶け込みきれない要素を持った学校である。
 だが、地方というのはとかく話題と選択肢が無いもの。その両方を幅広く提供してくれる英春学院は、今では地域活性化の一翼を担っている。
 この幾分特異な学校でも、朝の風景は極ありふれた物だ。制服もオーソドックスで、男子は学生服で女子はセーラー服。形状にも特に変わったところは無い。だが、無難なだけではつまらないということか女子のセーラー服は濃淡二種の紫で彩られており、男女問わず人気が高い。
 八時二十分。二年B組にも、この制服に身を包んだ生徒たちが次々と現れる。
「おはよー」
 元気よく挨拶する女生徒。見た目から期待されるよりも多少低めの声だが、かえって耳に優しくよく通る。すぐ、何人かの生徒が振り向いて声をかけ、一様に視線を下げてから適当に逸らす。セーラー服にたすきがけにしたショルダーバックと、流行の短いスカートが色々と大変なことになっているのだ。
 この少女、藤宮璃音ふじみや りおんは、酉野で最も古い家である藤宮家の三女だ。
 髪は顎のラインが隠れる程度で切りそろえられており、先端に軽くレイヤーが入っているくらいで細く真っ直ぐな黒。その黒髪とコントラストをなすように肌はほんのりと白桃色だ。
 背は周りと比べても際立って低いが、肉付きの良い身体をしている。特に胸の膨らみは他とは一線を画していおり、適度に丸みを帯びた腰周りや太腿と相まって、歳とは不相応な女らしさを感じさせる。
 だがそれとは対照的に、この娘の持つ雰囲気は無防備な少女そのものの愛らしさだ。垂れ目がちながらも綺麗に整った顔立ちと、旧家の生まれゆえの内側から滲み出る育ちの良さが、そうさせているのである。
 そのアンバランスさがこの少女の美しさを際立てる。さらに、珍しい赤の瞳が、それに浮世離れした色を加えていた。
 璃音は自分の席に鞄を置くと、机に肘を突いて眠気と戦っているメガネの少女に声をかけた。
「悠ーおはよー。どうしたの、今日も寝不足?」
 どこか間延びした口調も、彼女の場合は好ましく感じられた。
 メガネの少女は、だらけた声でこたえる。
「おーす。私はねぇ、キミと違って毎朝ピチピチつやつやってワケにはいかないんだからさ」
 こちら法眼悠ほうげん はるかは、酉野随一の大病院、法眼医院の院長の孫娘である。
 端整で涼やかな顔立ちによく通る声、ショートヘアと赤いフチの小さなメガネがさらにシャープな印象を与えるが、実際に頭の良さと毒舌で周囲に一目置かれる存在である。平均よりは背が高くスレンダーな体形で、特に腰と太腿は折れそうなほど細い。胸の方は…洒落にならないので言わぬが花である
 出席状況からは勤勉な生徒とは言いがたいが成績は優秀で、クラス担任の負担を大いにやわらげてくれるだろう。
「むぅ。機嫌悪いのね」
「ま、私にも色々あるわけ。…で? 今日のお肌はどんな感じかなぁ」
 悠はフラリと立ち上がると不敵な笑みを浮かべ、璃音の内股に手を差し入れた。不意のことに、璃音は驚きの声を上げてしまう。
「ひゃん! なに?」
「ん〜、まだまだ」
 悠の空いたほうの手が、璃音の胸に触れた。そして、手のひらには収まらないほどの膨らみにグニグニと指を沈める。
「はあ、やわらかーい」
 タメ息混じりの、うっとりとしたような顔の悠と、
「あン…だめだよぉ…」
 何かに耐えるように身をよじる璃音。
 朝っぱらの、それも学校の教室で展開して良い光景ではない。たった今教室に入ったばかりの女生徒が、それを見かねたのか割り込んできた。
「…何してんだ、お前ら」
 鈴木涼季すずき すずきだ。
 涼季は丸く大きな目の持ち主で、コロコロと表情が変わる快活な少女で、その魅力をショートヘアがさらに引き立てている。色々な意味で無駄の無い体躯が示すとおり、体育の時間を種目に関わらずリードできる卓越した身体能力を持つが、なぜか一貫して無部を通し周囲を残念がらせている。本人曰く『縛られるのは嫌』なのだそうだ。
 声の主が涼季であることを確認すると、悠と璃音は強張った肩から力を抜き、安堵のタメ息を洩らした。
 悠は「なんだ、お前か」と吐き捨てるように呟いてから、さも当然のように言った。
「何って、親友とスキンシップをだな」
「はん、スキンシップねぇ…」
 涼季は璃音と悠の胸を交互に眺めてた。
「まあ、人間自分にない物に憧れるっていうからねぇ…」
 途端に、悠の眉が釣りあがる。
「どういう意味?」
「どうもこうもないわ。悠のは、乳っていうより皮じゃん。むしろ、オンリー乳首」
 気まずい沈黙が辺りを覆った。
 スケベ心からこちらを見ていた男子生徒たちが次々と視線を逸らし、取りもしないノートや見もしない教科書の整理整頓を始める。
 この重い沈黙を破ったのは、悠の叫びだった。
「なにいってやがる! オメェだって似たようなもんだろうがよ!」
「ふん、ゼロと一の差は大きいだろ」
「大して変わらないだろ、一とゼロじゃあッ」
 まさに一触即発、今にも殴りあうのではないかという勢いで睨みあう悠と涼季からソロソロと遠ざかりながら、璃音は呟いた。
「…二進法の世界、だね」
 悠と涼季の視線は自然と璃音に向き、それから自分の胸元を見下ろし、タメイキのあとにもう一度璃音に向いた。
 悠が呟く。
「ほう…確かに、それはFだね」
「十六ビット」
 と、璃音。ついに悠は璃音にとびかかり、ヘッドロックを決めた。
「…なめるなーッ、私をなめるなーッ!!」
「あーん、苦しい〜ギヴギヴ〜」
 璃音は悠の腕を叩いて降参の意を示すが、腕は緩まない。
「はっはー、残念ッ。レフリーはリング下で失神してるのさぁ!」
「陰謀だーっ」
 色気のない体勢で絡み合う二人の美少女。それを、涼季は呆れ顔で眺めていた。
「…なにやってんだ。それと、そこのお前もだ」
 涼季が視線を送った先には、アフロヘア寸前の天然パーマも勇ましい男子生徒がすっかり鼻の下を伸ばして、璃音たちを眺めていた。この男の名は宇野優貴うの ゆうき。不真面目を絵に描いたような、ある意味では高校生らしい高校生である。
「何って言われてもなぁ…。眩しすぎて目が離せないのさ」
 先ほどから、璃音と悠の色々な所がユサユサと揺れている。確かに男ならば目を逸らしがたい光景ではある。
「黙れよ犯罪アフロ。暑苦しいから、今すぐストレートパーマかけて来いっつーのもさもさアフロ」
 涼季が最大級の侮蔑の眼差しを送る。それに、宇野は激昂した。
「なにぃ! この頭はオレのソウル…そう、魂と書いてソウルの具現化なのだ。それをサザエさんみてぇだとぉ!? ええい鈴木、表に出ろ。勝負だッ!」
 宇野が一フレーズごとに良く判らない方向にエキサイトしていくにつれ、涼季も血管を浮き立たせた。
「黙ってろバカ! 勝負って何する気だバカ! わけわかんねぇよバカ!」
「ぬおっ…バカバカバカってお前…ッ」
 歯軋りとともにアフロが煮える。
 その横を、別の女生徒が通り過ぎた。
「おはよー。そろそろ先生来るよー」
 佐藤祥さとう さちである。可愛らしく整った顔と大きな胸、骨格は細いながら肉付きが良いがゆえに起伏の豊かな身体という、見事なまでにアイドル系の外見を誇る少女だ。
 祥の声を聞いて、悠は技を解いた。ようやく開放された璃音は、首をグリグリ回してタメ息を吐いた。
「痛た…もうそんな時間…」
 と、腕時計を見て璃音は目を丸くした。現在八時三十分。ホームルームまで十分あるので、生徒たちが大挙して押し寄せるにはまだ少し時間がある。同様に時計を見た悠と涼季が、次々と抗議の声を上げた。
「なんだよー」
「適当なことぬかしやがって」
 それを、祥は涼しい顔で受け流した。
「ふふーん。時間も忘れてはしゃぐなんて、ほんとにおバカさん」
 歯軋りする悠と涼季を、宇野がせせら笑う。
「ハン。イイざまだなァ貧乳ども」
 負けずに悠も反撃する。
「ケ…不細工が」
「…ほう、言うねぇ。マッチ棒」
 売り言葉に買い言葉。宇野が暴言を吐く。悠だけでなく涼季も宇野を睨みつけ、まさに、その場は爆発寸前。そこに、祥が口を出した。
「…なにやってるの。君らの貧乳も顔も、もう取り返しがつかないじゃないの。それでピーピー罵りあうなんて間違ってるよ。
 だいたい、アンタらのレベルで争ったところでああいうのには挑戦権すら与えられないんだよ」
 そう言って、祥が視線を向けた先、そこ居た男子が挨拶を返してきた。
「オハヨウゴザイマス、皆さん」
 宇野は、敗北感に打ちひしがれた。
「あんなのと比べるなよ…」
 まだ半分の席しか埋まっていない教室において、いや仮にここが満員になったとしても一際目立つであろう男がここにいる。
 ウラジミール・ロマノヴィッチ・コロコロフ。百九十センチの長身に乗っかった甘いマスクと赤毛が人気のロシア人である。サッカー部に所属しており、今年の英春学院がプリンスリーグを戦っているのは彼のお陰と言われるほど評価は高い。高さと強さだけでなく足元も逸品で、センターフォワードもセカンドトップもこなせる逸材で、オランダのクラブチームにいる若くて凄い名前の選手に似たスタイルといわれている。だが、クラスメイトの殆どはその選手の名前を人名と認識することが出来なかったので、誰に似た選手なのかはさほど知れていない。
「コロ様ーおはよう」
 先ほどまでの憤怒の相はどこへやら、にこやかに手を振って涼季が手をふって答える。
「オハヨウ、鈴木さん」
 コロ様、と呼ばれたロシア人も笑顔で応えた。コロコロフだからコロ様。なんとも可愛らしいニックネームではあるが、彼の人懐っこい笑顔には良く合っている。子供の頃から日本語を習っていたそうで、意外に流暢な言葉遣いで気さくに話しかけてくれるあたりもポイントが高い。正式な愛称はバロージャだが、女子の殆どはコロ様と呼んでいる。
 そしてもう一人、祥の目は今教室に入ったばかりの男子にも向けられる。
 墳本陽つかもと ひかる。こちらは背が低く、悠たちと同等程度。あらゆるところの線が細く少女のように整った容貌だ。
「ひかるーおはよー」
 悠も、ニコニコと手を振る。
 陽は顔を赤くして小さく頭を下げた。その様は小動物のようで、そこが上から下まで幅広い層の女生徒から教職員にまで人気の理由だ。
 宇野が忌々しげに吐き捨てる。
「ケ…。あんなののどこがいいのやら。女装したら、お前らより女らしいかもしれないんだぞ」
「それがいいの」
 祥が断言する。
「ふーん」
 気の無い返事の宇野。祥が何やら含み笑いをして、
「まあ、見てなよ」
 と、陽を手招きした。
「ひかるちゃーん、こっちこっち。」
 陽は小首をかしげながら寄ってくる。
「コロ様の横に並んでみて」
 言われるままにする陽。コロ様ことバロージャの側に立つと、背の低さがことさらに際立つ。
「きゃー! これよこれ、まさにお似合いのカップル! ああん、鼻血出そう」
 殆ど悲鳴の様な歓声を上げる祥。やおら、机の中からスケッチブックを引っ張り出すと、実際に鼻血を垂らしながら無心で鉛筆を走らせる。見た目だけならアイドル系の祥もまた、一癖ある人間なのである。
 璃音は祥の手元を興味深げに覗きこみながら、名残惜しそうに言った。
「たまに喋ったと思ったらこんなのだと、嫌な子だと思うかもしれないけど…先生、来るよ」
「もう、来てますが何か?」
 後ろから、担任の亀田流香かめだ るかが現れた。
 院卒の新任教師で、化学担当。何を勘違いしてか教室にまで白衣を着て来るクセがあるが、なかなかの美人でメガネが似合うため、それがそそると専らの評判である。
「うわぁ、びっくりした!」
 璃音が叫ぶ。
「藤宮さん…、先生に向かってその物言いはなんですか。それから佐藤さん、あとで職員室へ来なさい」
 そう言って腕組みをする姿は、特定の嗜好を持つ男にはたまらない。どこからともなく、
「先生、踏んでください!」
 と、いう声があがる。
 祥はというと、緊張感のない声で答えた。
「はーい、先生。加筆修正着色の後、お持ちしまーす」
「な…」
 亀田は一瞬言葉に詰まる。咳払いして平静を取り戻し、
「ほら皆、席に着いてー」
 と、出席簿を叩く。それに合わせる様にチャイムが鳴り、生徒たちはノロノロと自分の席に着いていった。
 そこに、バタバタと一人の男が飛び込んでくる。
「よし、ホームルームには間に合った」
 西岡拓馬にしおか たくま、二十九歳独身。短い髪にジャージ姿から推察できるとおり、体育教諭である。担当が成績に関して云々するような教科ではないこともあるが、甘くはなくても話のわかる先生として人気のある人物だ。今年度は、教員としても社会人としても経験の不足な亀田をフォローするため、副担任として2−Bを受け持つことになっている。
 西岡が息を切らしているのを尻目に、亀田は涼しい顔で出席簿を開いた。
「では、出欠を取ります」
 

 
 街外れの丘一帯を切り開いて建てられた三城大学は、酉野市に内外の人間を集める切り札として十五年前に設立された総合大学だ。それぞれの分野で充分な施設をそろえることを目標とし、十の校舎と五つの研究棟が存在している。
 特に、最も高さのある慧耀館と有為楼は隣接していることから"二つの塔"と呼ばれ、学校のシンボルとして親しまれている。
 これらは現在こそ、双方ともに地上十階地下三階の美しい建築物だが、創立当初はどちらも三階建ての平凡な物だった。
 だが、慧耀館に入っている文系の教授陣と有為楼の理系の教授・研究者たちの意地の張り合いから増築に次ぐ増築で高さを競い続け、数年後にはこれ以上やると建物が傾くという状況にまで達することになった。そこで建築物としての安全性を確保すべく改築されることになり、その際に二度と増築合戦が起こらぬように全てにおいて一ミリたりとも違わぬ寸法で設計され、今の形になった。
 どこの世界でも見得の張り合いによる内輪揉めがあるという良い見本でもある。
 閑話休題。
 本日最後の講義を終え、教室から蜘蛛の子を散らすように学生たちが消えていく。終了が六時という時間も時間ながら、内容も物理学概論ということで彼らのテンションが上がらないのも無理はない。だがそれにしては少々淡白すぎやしないかと、教壇を片付けながら藤宮蛍太郎ふじみや けいたろうはぼやいた。
 蛍太郎は二十八歳の若さながら助教授として教鞭をとる秀才である。三城大学は各所から優秀な人材を集めることに腐心しているが、この男もその一人。イタリア人の父と日本人の母を持ち、育ちはアルザス。並外れた知能と記憶力を誇り、十代歳には飛び級を駆使して博士号を得ている。
 アメリカの研究機関を辞めた後に三城大学に招聘され現在に至るが、彼の待遇の実現には、日本式の教授会を持たないという同校の体制がモノを言っている。
 三城に来てからは貴公子と渾名されているが、それには若さだけでなく、サラサラの黒髪と端整な顔、百八十センチの長身と、モデルとしても通用しそうな優れた容貌も充分に関係している。声は少々高めだが、彼の穏やかな言動と優しい性格を反映したようでかえって印象は良い。
 実際に彼目当てに授業を選択する学生も多く、時折雑誌取材なども入ることから、能力以外の部分でも大学の期待に存分に応えているといえるだろう。
 蛍太郎が教室を出ると、よく見知った人物が待っていた。
「蛍太郎、お疲れ様」
「どうしたの? ソーニャがこっちに来るなんて珍しいね」
 ソーニャこと、ソフィーヤ・ロマノヴナ・コロコロワ。ロシア美人のイメージそのままの体躯に見事な赤毛の持ち主だ。研究者として大学に勤める才媛で、蛍太郎にとっては同僚にあたる。また、家族揃って日本に住んでいるため弟もこの街の学校に通っている。
 キャンパス内で噂になりそうなほどの美貌の持ち主なのだが、サークル活動以外は殆どの時間を研究室で過ごしているために、学生たちが居るところへ現れるのは稀だ。
「シンカンの話、聞きました?」
「ああ、そんな時期かぁ」
 そろそろ四月も終盤に差し掛かり、各サークルの新入部員獲得合戦の趨勢も決しつつある。そうなると、次は花見をしながら飲み会だ。この地域では桜の開花が四月の中旬以降なので、辛うじて新入生を連れての花見が可能なのである。
 蛍太郎とソーニャが出入りしているサークルは"日本文化研究会"だ。その名の通り、日本の伝統文化に触れることを目的とした物だ。蛍太郎は一介のサークル員ということになっているが、立場を鑑みて運営には関与していないので、どれくらいの新入生が入ったかはわからない。だが、コンパをやるということはそれなりに収穫があったことだろう、という推測は立つ。
「じゃあいつも通り、例の場所でやろうか」
 蛍太郎はあまり賑やかなところは好きではないので、花見には取って置きの場所を提供することにしている。
「それで、ソーニャは今からサークル?」 
「ええ」
「そっか。僕は…もうすぐご飯だから帰らなきゃなぁ。平田先生に伝えておいて」
「OKです。それにしても、蛍太郎みたいなイロオトコが門限七時だなんて、おかしいですね」
 クスクスと笑うソーニャ。蛍太郎は頭を振った。
「命に関わるから」
「はいはい。それじゃあ、そこまでなら一緒にいいですよね」
「そりゃもう」
 それから二人並んで廊下を歩くと、英語訛りの関西弁が蛍太郎を呼び止めた。
「センセイ、待ってーな」
 アンナ・ヘンリクソン。スウェーデン生まれの留学生で日本語を学びに来たという。金髪のお下げをたらした北欧美人のイメージそのままの外見だが、特技は故郷で流行のテコンドーらしい。
「そろそろ新歓コンパの時期やから、センセイの都合を聞いて来い言われて。どないなってはる?」
「今、その話をしたところだよ」
 と、蛍太郎。歳が近いことと英語が通じるところから、彼の周りには留学生が集まりやすい。
「僕はこれから帰るんだ。今日は五講目があったから、もう時間が無くてね。だから、出席するって伝えておいて」
 改めて言ってから、蛍太郎は手を振ってソーニャたちと分かれようとした。するとそれを狙いすましたように、後ろから何かがぶつかってきた。
「わっ!」と、脅かすように声をかけてから、蛍太郎の腕をとって前に回りこんでくる。それは、いかにも理知的な色をまとった美女だった。
「…なんだ、綺子あやこか」
「ふふ」
 永森綺子は、はにかむように笑ってから蛍太郎の横にくっ付いて腕を組んだ。
「ほら、途中まで送ってあげるよ」
 綺子は、文学部の二年生で今年で二十歳になる。長い黒髪を腰まで伸ばし、真っ直ぐに揃えた前髪はお嬢様かお姫様かといったところ。釣り目気味の目と細い身体と相まって、気難しい猫を思わせるような女だ。だが見た目からのイメージとは違い、実際には快活でよく笑う。
 蛍太郎が綺子に引っ張られているのを見て、アンナは肩を落としていた。
「ガッカリや…。センセイに彼女が居よるのは判ってたけど、まさか綺子が…。あいつ、なーんにも言わへんもんな。こんど問い詰めたるわ」
 綺子も日本文化研究会に所属している。留学生が大勢所属するこのサークルにあって少数派の日本人と思われがちだが、実は彼女も帰国子女なのである。
 アンナが何やら呟いているので、ソーニャを肩をつついてみた。
「どうした?」
「何でもない」
 すっかりヘソを曲げたようなので、アンナは放っておくことにした。ソーニャは代わりに、綺子が現れた方から歩いてくる男の方に手を振る。
「平田せんせーい」
 それに気付いた男、平田は早足で近づいてきた。
「いやぁまいった。綺子くんが突然走り出すもんだから」
 この平田涼一も、三十四歳の若さながら教授として迎えられている。
 日本人だが生まれと育ちはイングランドで、若くしてアメリカの特殊機関に招聘されたという天才肌の逸材だ。
「先生、まだ老け込む歳じゃないでしょう」
 ソーニャが笑うと、
「そやそや。まだまだこれからやで」
 と、気を取り直したアンナも隣に寄ってくる。平田は、
「ははは、二人にそういわれると、その気になってくるなぁ」
 と、言ってカラカラと笑う。
 子供の頃憧れていたサッカー選手を諦め学問の道に入った理由が持病の喘息なだけあって、身体は強くないのだが、この男の持ち前の明るさが学者にありがちな近寄りがたいイメージを払拭している。そうでなければ、さほどルックスに恵まれているわけでもないのに美女二人に挟まれるということも無いだろう。もっとも彼の場合は、彼女たちにとって英語でコミュニケーションが取れる数少ない相手であるということも考慮に入れるべきではあるが。
「センセイも、コンパに出るんやろ?」
「例によってあんまり飲めないけど、お付き合いさせていただくよ」
 それから取り留めの無い話をしながら歩いていると、いつの間にかもう一人が話の輪に加わっていた。
 ヒカルド・シウバ。浅黒い健康的な体躯が印象的なブラジル人留学生だ。
 三城大学は留学生が特に多いというわけでもないのが、平田が顧問に就いているサークルが『日本文化研究会』であるために自然とこういうことになる。
 それと入れ替わるように、蛍太郎が輪から抜ける。
 綺子も、
「あとで部室に行きますから」
 と、言って蛍太郎についていった。
「なーにが、あとでやねん」
 アンナが毒づいているが気付かず、ヒカルドはまだたどたどしさの残る日本語で話す。
「ネェネェ先生、シッテマスカ? 昨日ノ晩、マタ忍者ガデタデスヨ」
「へえ、忍者ねぇ」
 普通に感心する平田と、
「ニンジャ! ほんま?」
「凄い凄い! 見たんですね、忍者!」
 妙にエキサイトするアンナとソーニャ。明確な温度差がそこにあった。
「私、日本ニ忍者モ侍イナイッテ聞イタ時ハ凄イ、ショッキングダタケド、コノ目デ見ルコトデキテ、メチャ感動シマシタヨ! ヤパリ、忍者ハイルンデスネ」
「あのねえ、忍者っていったってさあ、本物なワケ無いでしょ」
「何言イマスカ、アレハ確カニ忍法デスヨ」
 拳を振り回して力説するヒカルド。ブラジル人の彼が日本古来の秘伝中の秘伝である忍法の何たるかを熟知しているとは普通なら思えないが、それを理由にいい加減なことを言っていると断じてしまうのは早計ではないだろうか。もしかしたらブラジリアン柔術よろしくブラジル忍術やアマゾン忍法なるものがあって、ヒカルドが見たモノはそれに似ていたのかもしれない。
 そんなバカげた推論はさておき、ヒカルドが嘘を言う人間ではないことを平田はわかっているから、忍者の姿をした男を見たこと自体は信じることにした。
 そうでなくとも最近、街は忍装束をまとったヒーローの噂で持ちきりだ。昼な夜なと思い出したように街に現れては、引ったくりを捕まえたり道路に飛び出した子どもを救出したりと大小の人助けをしているらしい。
 酉野市には以前からMr.グラヴィティというヒーローがいるものの、彼一人に全て任せきりなのもどうかという意見もあり、忍者ヒーローの登場は好意的に受け入れられている。
「うーん。ボランティア活動自体は素晴らしいと思うんだけど、忍者ってのはどうだ。日本に対する間違ったイメージが国際的に流布するんじゃないかという危惧を、僕としては持ってしまうんだよね。特に、君たちが国に帰ったときにさ」
 平田がそう言ってみても、留学生三人は首を傾げるばかり。正しいものがパブリックイメージになるとは限らないという見本を見せつけられた気がした。
 そうこうするうちに、四人は揃って校舎を出る。時刻は六時半を回り空は藍色になりかけているが、まだ人通りがあってしかるべき時間帯である。
 だが平田たちが見渡す限り、人影がまるでない。あたりは気味が悪いくらいに静まりかえっていた。
「どうしたんだろう…」
 不安げに周囲を見渡すソーニャ。平田も同様に視線をめぐらせ、更なる異変に気付いた。
「…ヒカルドがいない」
 平田、ソーニャ、アンナの三人が顔を見合わせる。たった今までそこにいたはずのヒカルドの姿が無い。
「ヒカルドー、何してくさるかー?」
 アンナの声には、明らかに不安の色が混じっている。いつも罪の無いイタズラばかりしているヒカルドのことだから、今回もそうであって欲しいという、そんな望みが込められていた。
 だが、平田たちは見てはいけないものを見てしまった。
 道の隅に走る排水溝の蓋、その隙間に、ヒカルドの褐色の手が「ちゅるん」と吸い込まれたのだ。その様は、さながら流れ去るトコロテンだった。
 最初に叫んだのが誰なのか定かではないが、とにかく悲鳴があがった。
 それに合わせたかのように、排水溝から青と白をグチャグチャに混ぜたような色の腕が伸びてくる。それは始め均したクッキー生地のように平べったくて、伸びるごとに先の方から膨らんで手の形になっていく。
 それだけでない。
 窓の隙間に植木のウロ、ありとあらゆる隙間から、その青白い物体が無数に染み出し、うねりながら形を変えていく。やがてそれらは、一つ一つがのっぺりとした粘土細工のような、奇妙な人型を形成する。殆ど球体の頭に炯炯と光る目が、そいつらに何らかの意思が宿っていることを物語っていた。
 彼らは三人の人間を目標に定め、一斉に歩き出した。
 殆ど本能的に、平田たちは逃げ出していた。
 幸い、粘土細工達の足は遅い。簡単に振り切れると思われた。だが、後ろを見た三人は再び悲鳴をあげる羽目になった。
 粘土細工達の手が文字通りに伸びて、凄まじい勢いで頭上を埋め尽くしていたのだ。そして、獲物めがけて殺到する。
 逃げのびたいののなら、さらに早く走らなければならない。
 そしてここで、基礎体力の差が出てしまった。
 息を切らし、明らかに速度が落ちていた平田が腕に絡め取られ、青白いモノで満たされた空間に引きずりこまれた。ソーニャとアンナに、悲鳴を上げる余裕など無い。もはや呼吸もまともに出来ない状態だったからだ。
 辻に差し掛かるごとに、向こう側の道から無数に手が伸びる。残された二人はそれを避け、とにかく何も居ない方向へ闇雲に走った。その行動がもたらす結末に気付いたときにはもう遅い。恐怖と疲労から冷静な判断力を失っていたふたりは、校舎と外塀に囲まれた場所へ簡単に追い込まれてしまっていた。
 三方を壁に塞がれ、振り向むとイソギンチャクの触手のように蠢く無数の手。
 断末魔じみた絶叫が、黒く塗りつぶされた空に響き渡った。
 青白い腕は軟体動物の触手のようにソーニャとアンナの身体に絡みつき、締め上げる。そして、恐慌状態のふたりを引きずっていく。
 しばらくして、ソーニャは恐る恐る目を開けた。
 路面に放り出されているような状態で、触手は相変わらず身体に巻きついたままだ。引きずられたときに服が裂けて肌にもかなり傷ができたらしく、その痛みがただでさえまとまらない思考をさらに拡散させる。
 アンナも同様に絡め取られた状態で、特技のテコンドーを披露できる状況ではない。だが仮に手足が自由だったとしても、この状況でそんな余裕を持てる人間などそうそう居ないだろう。
 周囲は、地面以外全てを粘土細工人間の腕がグルグルとドーム状に取り囲んでいた。その中央に彼らと同様の青白一色の人型の何かが立っている。足元には平田とヒカルドが転がされていた。
 中央の粘土細工が、パックリと口をあけた。ヘビか何かのように百八十度以上開いたので、それの頭の上半分が見えなくなってしまう。そして、断面の喉の側からズルズルと下品な音を立てて、イカの脚のようなものが何本も這い出てきた。
 迫りくる無数の腕とイカの脚。悪魔そのものなイメージの競演にソーニャとアンナは喉が潰れるまで悲鳴を上げた。遂に、アンナは気を失った。
 触手は平田とヒカルドに絡みつくと、ドロドロとした分泌物を擦り込んでいく。それが蠢くたびに、人間だった二人の身体から起伏や色が溶け落ちるように失せていく。
 ひとしきり作業が終わり、新たな粘土人間が誕生した。
 するとイカ脚の異形は残る獲物、ソーニャとアンナに絡みつくと逆さまに吊り上げた。触手が舐るように蠢き、衣服が溶け、肌に粘液がしみこんでいく。
 ソーニャには既に、悲鳴を上げる気力も残されてはいない。身体に擦り付けられる触手とヌメリへの嫌悪と、自分もバケモノの仲間入りをさせられるのだという絶望が、上下の奥歯をガチガチと打ちつけあわせるだけだった。
 

 
「おかしいな…」
 蛍太郎は校舎の方へ振り向いた。
 愛車のミニを置いてある職員駐車場は大学の外れにあるのだが、それでも学生生活の喧騒は聞こえないほどの距離ではない。だが、今の三城大学はあまりにも静かだった。
「どうしたの?」
 荷物を持ち帰ってもらおうと、後部座席に鞄を放りこんでいた綺子が声をかける。
「ああ、なんでもない…」
 そう言いかけて、蛍太郎の顔が固まった。
 視線の先には、白衣を着た老人がいる。
 その老人は蛍太郎の姿を認め、軽く手を挙げた。
「綺子、先に帰っててくれ」
 蛍太郎は、愛車の鍵を綺子に放った。
「え!? でも…」
「早く!」
 今までになく強い調子で言われて、綺子は何かを悟った。急いで運転席に滑りこみ、クルマをスタートさせる。十五秒としないうちに、赤いミニローバーは道路の先へと消えていった。
 それを確認してから、蛍太郎は老人を見据えた。今までの穏やかな顔とはうって変わり、目元は険しい。
「また会えるとは思っても見ませんでした、ドクターブラーボ」
 ブラーボと呼ばれた老人は、ニヤリと笑い答えた。
「ふ…寂しいのぅ。お前にとってワシは、もはや過去の人か」
 目を逸らす蛍太郎。
「いえ、亡くなられたと聞いていましたので。過去どころか歴史上の人物ですね、ムシロ」
 この老人は、ドクター・フェルナンド・ブラーボ・ゴンサーレス。
 一九四〇年代から六〇年代にかけて、天才科学者として活躍した男だ。
 米国特務機関フェデレーションに属し、五三年にはキャプテンフリーダム(初代)とともにブラジルに飛び、ドイツ第三帝国に止めを刺している。
 晩年は研究室に戻り、ある人物がもたらした異星由来テクノロジーの解明に心血を注ぐ。幼少時の蛍太郎が教えを受けたのはその頃だ。
 それ以後は研究が進むにつれて精神の変調が取りざたされるようになり、実験中の事故で爆死したとの報が蛍太郎に入ったのは、八年前のことである。
 そのブラーボが、蛍太郎が知っている姿のままで目の前に居る。生きていれば既に齢百を超えているはずだから、それだけでありえざることだ。
「そこまで昔かい! …まあいいわ。こうしてワシがお前の前に姿を現したのは他でもない。ボチボチ、世界征服を実行に移そうと思ってのぅ。なにせ、ワシもこの身体で無理は効かん。そこで、昔みたいにお前に手伝ってもらおうというワケじゃ」
 猫なで声を使うブラーボだったが、それに対する返答は早かった。
「お断りします」
 蛍太郎は顔を上げ、ブラーボを見据える。そこには、明らかな拒絶の意思があった。
「それは困ったのぅ…。オーバーテクノロジーの扱いはお前が一番なんだが…」
「そう言って、判断能力の無い子どもを散々利用したのはどこの誰ですか。今の僕は責任ある立場なんですから、貴方に付き合うわけにはいきません」
 ブラーボは毛のない頭を掻き毟りながら、苛立ちを隠しもせずまくし立てる。
「ふん、こんな大学の助教授がそんな大層なもんかねぇ。それとも、貴公子呼ばわりが気に入っておるのかァ? くだらん! お前が何と言おうと、今からワシの基地へ来てもらうぞ!」
 その声に合わせるように、ブラーボの背後、壁の隙間から白い手が幾つも這い出してくる。
「くッ…」
 何が現れたのかは判らないが、とにかく自身に危険が迫っていることを、蛍太郎はハッキリと認識した。
 

 
 骨董屋・蔵太庵。
 商店街の裏通りのさらに奥という、とてもではないが商売に向くとは思えない立地のその店は、昭和初期を思わせるような実に味のある外観をしている。裏は店主の住居に続いており更に土蔵もあるから、敷地はかなり広い。
 薄暗い店内には、棚が整然と並べられ商品が等間隔に陳列されている。そこにあるのは、気分が悪くなりそうな見慣れない意匠の縁飾りが付いた鏡や、どうやって回るのか判らない針のねじれた時計、蜂蜜色の液体が入ったビンなどなど。ラインナップには全く脈絡が無いが、不気味で悪趣味かつ店主の素性の特殊性を物語るという点では見事なまでに統一がなされている。これらを見る人が見れば、全てが魔術に関わりを持つ物ばかりだと判る筈だ。
 誰もいない番台の横を抜けると住居部分だ。古きよき和風の建築へのイメージそのままの部屋を抜けると、庭に面した縁側がある。そこに、妙齢の女がゴロ寝していた。
 寝乱れた長い黒髪が床に広がっており、赤襦袢からは白い脚が無造作に投げ出されている。そして、大きくはだけた襟から零れ落ちそうな二つの塊が、この光景に退廃的な美を与えていた。読書の最中に眠り込んでしまったのか、数冊の本が回りに積み上げられ、さらに広げた本が顔を覆い隠している。
 このようにして店の主、蔵太亜沙美くらふと あさみは長い昼寝と洒落こんでいた。
 黒電話が鳴る。
 亜沙美は無視を決め込んでいるようでしばらく動かなかったが、相手も諦めるつもりはないらしく、ベルは止まらない。
 遂に根負けして、亜沙美は半身を起した。露わになった顔は彫刻のよう整っているが、それよりもさらに目を引くのは黄金に輝く瞳だろう。異界の者を思わせる凄絶な美貌だが、その眉根は不機嫌さから見事にひん曲がっている。
「ちっ…」
 亜沙美は四つんばいでバタバタと電話の所へ移動し乱暴に受話器を取り上げると、現在の心境を存分に反映した口調で応じた。
「…どちらさまでしょうかァ? …なんだ、侑希音ゆきねかよ」
 その声には地元の不良程度なら裸足で逃げ出してしまいそうな程の殺気がこもっていたが、侑希音と呼ばれた電話の相手はものともせずに話を続ける。亜沙美は無言で受話器を叩き付けた。 
「ふざけやがって。私に使い走りをやらせようなんて百年早いっての!」
 憤然と吐き捨てるとヨタヨタと縁側へ戻り、亜沙美は再び大の字になった。
 

 
 英春学院生徒会室。
 六時を回り下校を勧告する校内放送が鳴り響く中、璃音は机に肘をつき呆けていた。
「どうしたの、藤宮さん」
 陽が声をかける。彼は今年から生徒会の書記に収まっていた。
「お腹減ったーご飯食べたーい。ずっと会議だったんだもん、なーんにも食べられなくて、もうだめー」
 そう言って、ぐったりと机に突っ伏す璃音。そのだらけきった姿に、陽は半ば呆れていた。
「副会長のセリフゃないよ、それ…。もし誰かに聞かれたら…」
 璃音は、先の選挙で生徒会副会長に選出されている。だが今年の生徒会三役の関係は人員構成からして非常に微妙なもので陽としては気を遣うことも多い。しかも今回は既に遅かった。
「聞かれたら、なんです?」
 いつの間にそこにいたのか、生徒会副会長・貴洛院基親きらくいん もとちかが腕組みをして璃音を見下ろし、鋭い眼光を飛ばしていた。
 英春の生徒会は中等部と高等部にそれぞれ設置され、部活動の予算の設定承認や行事の遂行などなど豊かな学校生活のために日々奮闘している。そのために、仕事量や拘束時間などから実質的には部活動に等しいのだが、ご褒美が調査書の記述という他所とは少々ズレた物であるために、生徒会にはある程度の社会的影響力を持つ者の身内が集まりやすい。自らの後継者育成のため、やはり学歴に拘る彼らにとっては、三年または六年間の生徒会活動という実績は充分に魅力的なのだ。
 今期の生徒会長である貴洛院基親は、日本を代表する大規模企業グループ・貴洛院の総帥を祖父にもち、姉の玲子は関連会社の社長と、まさにその典型といえる生徒だ。
 昨年の十一月に行われた選挙において当選を果たした基親は、旗頭に相応しいスマートな容姿を持ち成績優秀な優等生だ。だが、融通の効かない性格はいかにも生真面目な模範生という印象で、友人が多い方ではない。
 通常、副会長は三年生と二年生で一人づつという形になっており、その二年生枠に入れるのは一人だけだ。だが貴洛院が立候補した途端に三年生の候補者が突如辞退し、二年の副会長が二人誕生するという珍しい事態となっている。さらに、今年度から運動部の予算が跳ね上がったことから、そのしわ寄せを受けた者からは「何か裏があるのではないか」という声もある。彼の気性からすれば、それくらいやっても不思議ではないという見方は依然として根強い。
 基親は、いかにも神経質にメガネを直しながら、苛立ちを露わにしていた。
「そんなに腹がすいたなら、さっさと家に帰ったらどうだ。まあ、食べてばっかりだからそんななんだろうけど」
 その視線は露骨に璃音の胸のほうへ向いていた。。
「ま、せめて後片付けくらいはしてくれたまえよ。では、ごきげんよう」
 そう言って、基親は颯爽と立ち去っていった。足音が充分に遠のいてから、陽が呟く。
「目の敵にされてるねぇ」
「そう?」
 璃音は特に気にかける様子も無い。陽はときどき、この少女が単に鈍感なのか神経が太いのか、判らなくなってしまう。
 今期の生徒会は傍目にも明らかに対立構図を描いている。
 貴洛院基親は高等部になってから生徒会へ入ったが、後に会長職につくのも当時から約束されていたに等しい。その権力の源泉は基親の実家、貴洛院グループの威光によるもので、親の立場や商売の事を考えれば彼に対して下手なことは出来ない、という事実がその因って立つところだ。
 そこで、現・生徒会長である西条凱雄よしおをはじめ、貴洛院基親の専横を恐れた一派が目をつけたのが、藤宮璃音だ。
 その理由は、本人の人格を鑑みたものではない。
 藤宮家の持つ不動産が相当量に及んで貴洛院グループに貸与されており、また同グループ関連企業の株式も多数所持しているため、さしもの貴洛院殿も家業への影響を考えて下手な真似は出来ないだろう、というものだ。まさに、基親による圧力を全くそのまま再現してみせるのが、その目的であった。
 だが、誤算があった。璃音とて旧家の生まれであるわけだから、それなりにプライドを刺激してやれば上手い事旗頭として利用できるはずと踏んだものの、彼女自身は全く政治には関心を示さなかった。あろうことか、自分のポストを"イメージキャラクター"くらいにしか考えていないのである。
 それは、異例の数の生徒が生徒会の門を叩くようになったという形で奏功はした。しかし、生徒会内の権力争いを「能書きだけの子どものケンカ」と言い切った璃音は、すっかり反貴洛院派のコントロールを離れた存在になってしまった。
 それだけならさっさと放逐されそうなものだし、璃音自身もそれで構わなかっただろうが、容姿もさることながら穏やかな性格と旺盛なサービス精神から人気がでたことと、これには誰もが驚いたのだが実務能力が予想をはるかに超えて高かったために、書記長を筆頭とした肩書きのない役員たちから厚い支持を受けることになる。
 当たり前だが、権力闘争ばかりの連中に比べれば仕事が出来る者の方が遥かに良いに決まっている。
 そういうことから、今の生徒会は基親と西条それぞれの取り巻き連中が内部ゲバルトを繰り返すのをよそに、璃音と書記長以下の役員達がせっせと実務を行なうという破綻した状況を作り出してしまっている。
 それでも璃音が生徒会を去らないのは、「あんたがいなけりゃウチは何も出来ない」と、書記長に頼み込まれてしまったからである。
 これが大きな視点での対立構図。もうひとつ、極めて個人的かつ一方通行な因縁がある。それは、基親よりも璃音の方が成績が良いということだ。いかにもな秀才タイプの基親にとっては、男好きのするルックスの璃音に負けるなど、あってはならないことなのである。
 このような事情とは関係の薄い立場にいる陽のような者からすると、璃音の呑気さは頼もしくもあり冷や汗物でもあり、といったところだが、とりあえず今はここから出てもらわないと校内に閉じ込められて警備会社の人に怒られるという結末が待っている。呑気にしてくれては困るのだ。
「ほら、施錠するから立って」
 と、陽は璃音の手を引っ張った。
「あーい。…ん?」
 フラフラと立ち上がった璃音だったが、携帯の着信に気付きポケットに手を突っ込んだ。
「どうしたの?」
 中身を確認しようと携帯を開く。
「お姉ちゃんからメール」
 それに合わせるように、今度は電話が着信した。
「むぅ、忙しいなぁ…」
 周りに陽以外に誰も居ない事を確認すると、璃音は通話ボタンを押した。
 
 
2−
「で、ヒトツ訊きたいんですが…」
 三城大学駐車場。
 蛍太郎は、目の前で不敵な笑いを浮かべている老人に問うた。
「なんじゃ」
「…今度は、何を作ったんですか?」
 質問の意味がわからないのか、ブラーボは首をかしげた。と、背後で何かがうごめく気配に気付き、振り向く。見ると、そこにある壁一面から、無数の青白い手が水底の泥に群れを成すイトミミズよろしく這いずり蠢いていた。
「…なんじゃこりゃ!?」
 ブラーボは、飛び跳ねて驚いた。
「貴方が連れてきたんじゃないんですか、それ」
 蛍太郎に指差されて、ブラーボは勢いよく首を振る。
「知らん知らん知らん! こんなヌルヌルしたモノ、ワシの趣味じゃないわァッ!! こっち来るな! うわあああ、どうしようどうしよう!?」
「どうしようって…逃げるんですよ!」
 蛍太郎は、錯乱状態に陥っているブラーボの手を取って走り出した。その手は握ってみると何か妙にゴツゴツしていたが、今はそんな事を気にしている場合ではない。
 駆け出した二人を追いかけて、手が殺到する。駐車場のゲートはバーが降りているため、老人連れでは素早く通過できるかどうか自信がない。蛍太郎は、真っ直ぐに学内に戻った。
 だが、これは判断ミスだった。行く先々のあらゆる通路から、同様な腕が這い出してきたのだ。
「ノォ――――ッ!! こっちからもじゃよー」
 絶叫するブラーボ。蛍太郎の手を振りきり、今度は一人でズンズン走っていく。仕方無しに後を追う蛍太郎だったが、周囲の異変に気付き愕然とした。
 大学に謎の化物による襲撃があったということは目の前の状況を見れば明らかだが、此処に来るまでに一人の人間も見ていないのが気にかかる。逃げている者や倒れている者が目に付いてもおかしくないはずだが、悲鳴さえ聞こえない。まさに、無人の如くに静まり返っているのである。音を立てるものといえば、蛍太郎たちを捕まえようと襲い来る無数の手だけだ。
 しかもその手は、統率が取れているかのように確実に獲物を追い詰めていく。気がつけば、蛍太郎とブラーボは三方壁に囲まれた区画に追い込まれていた。
「まずい、やられた…」
 息を切らす蛍太郎。日ごろ体力作りはしていても、異常な状況を逃げ回るのではワケが違う。だが、ブラーボはというと散々叫び走り回ったにも関わらず呼吸は全く乱れていなかった。
「やれやれ、追い詰められてしまったのぅ」
 今更になって、不敵な笑みを浮かべてみせるブラーボ。蛍太郎は、この老人が妙にパニックに弱かったことを思い出した。今になって、ようやく思考が戻ってきたということだろう。
 だからといって、もはやどうなる物でもない。
 駐車場から学内へ逃げたこと自体が間違いだったわけで、入り口ゲートを飛び越えて外へ出るという選択をしなかったことが悔やまれる。そもそも、ブラーボを見捨てていれば一石二鳥だったわけで…。と、黒い考えに至りかけて蛍太郎は頭を振った。
「ふふふ…ワシを見捨てて置けばよかったと思っておるじゃろ?」
 ブラーボの言葉に、蛍太郎の背筋がピクリと跳ねる。 
「いや、決してその様な…」
「ふふ、良いわ。確かに…このフェルナンド・ブラーボ、齢百八を数える老科学者よ。だがッ!」
 やおら、白衣を脱ぎ捨てるブラーボ。
 その、露わになった上半身は、甲冑のような金属の板に覆われていた。いや、その身体自体が鈍く輝く鋼で形作られていたのだ。
「そ、それって…」
 息を呑む蛍太郎。ブラーボの身体は、まさに機械だったのだ。
「見たかッ、美しき鋼の肉体! これぞ、我が科学力の結晶ッ!! 全身置換、サイボーグボディ!!!」
 誇らしげに叫ぶブラーボの胸部が変形し、中央から何かがせり出してくる。それは数度の変形の後、ガトリングガンとなった。そして、肩から飛び出した弾帯が接続され、胸にそそり立つ銃身が、けたたましいモーター音と共に高速回転を始めた。
「うげぇーなんだそりゃーっ!」
 思わず頭を抱えて伏せる蛍太郎。その横で、ブラーボは雄叫びを上げた。
「ふははははは! 米軍からちょろまかしたミニガン改造のブラーボ・スペシャル"情熱の暴れん棒"、その火力を思い知るが良いッ!!!」
 改造といっても収納のためにバレルが短くなってるじゃないかとか、スペイン系のブラーボがどうして日本語の駄洒落を使いこなしているのかとか、そんな細かい理屈をまとめて吹っ飛ばす凄絶な火線の嵐が荒れ狂った。装備部位が部位だけにロクに照準が定まらず、周囲の壁をメチャクチャに削りながら無数の弾丸が白い手を吹き飛ばしていく。
「あーははっはー! いいいいぞ、ボーロぞーきーんっ!!」
 ワケのわからない歓声を上げてブラーボはジリジリと前に進んで行く。蛍太郎も身を屈めてその後に続いた。彼らの歩みと共に、濁った色の体液をブチ撒けながら白い腕の残骸が積み重なっていく。
「よし、いける。このまま脱出しましょう!」
 予想外の戦果に蛍太郎の声も弾む。
「まかせておけい!」
 ブラーボも意気揚々、壁の囲みを脱して開けたところへ出た。
 そこには、今までの腕の持ち主であろう、白くのっぺりとしたヒトガタの何かが十重二十重に群がっていた。
 そして、それらを率いるように立っているのは、百八十度に開いた口からイカのような触手を生やした異形のモノ。
 異形は、地の底から湧き上がる様な唸りを上げた。大気を震わせるのではなく、澱みを作り出し汚濁に満たすような声だ。その濁りが作用したのか、千切れ飛んだ腕の破片が集まり、くっついて元の形に修復され、それぞれの持ち主へと戻っていく。
「ふ…ヤツが親玉か」
 不敵に口の端を吊り上げるブラーボ。その姿を認めたか、異形は威嚇するように触手をもたげた。
 緊張が走る。
 まさに、クイックドローによる決闘だ。
 双方、腰を沈め…殆ど同時に、"引き鉄"を引いた。
 耳をつんざくモーター音と、うねるイカ脚。
 だが。ガトリングは回るばかりで、肝心の弾丸が出ない。そして触手の先端は、ブラーボの眉間を穿っていた。
「弾切れ…だった…」
 蛍太郎が呆けたように呟く。その視線の先、驚きに歪んだブラーボの顔が粉々に粉砕されていた。
「ドクター…ッ」
 頭を失い、崩れ落ちるブラーボ。だが、
「なんじゃい!」
 と、体勢を立て直し、何事もなかったようにブラーボは仁王立ちしていた。
「ははははは! サイボーグとて、必ずしも脳を頭に収めなければならんということもなかろうッ!」
 と、両腕を前に突き出す首無しブラーボ。すると、肩の後ろからノズルが飛び出しロケット噴射、上体の胸筋から上がまとめて前へと飛んでいく。
「なんだそりゃ!」
 叫ぶ蛍太郎。
 ブラーボの上体は、異形に真っ直ぐ突っ込み拳をブチ当てた。
「ふはははは! 見たか、伝家の宝刀ロケットパンチ!! …そしてッ」
 高笑いしながら、ブラーボの下半身が回れ右をする。嫌な予感がした蛍太郎は、それと同じ方向へ駆け出した。
「点火ッ!!!」
 轟音とともに、火柱が上がった。その気配を背後に感じながら、蛍太郎は走る。その横を、ブラーボが併走していた。
 ブラーボは今や下半身と腹部の一部だけという状態だが元気よく走っている。内部は機械だからグロテスクというわけでもないが、異様な光景であることは確かだ。ちょうど横隔膜に当たる部位には何かの液体で満たされた透明の容器が据えつけられており、その中にはブラーボ唯一の生身の臓器、灰色の柔らかい組織の集合体が浮かんでいた。
 すなわち、脳。
 これがブラーボの本体である。
 爆死したとされるブラーボは、脳だけになって持ち前の科学力で生存していたというわけだ。
(うわぁ、そんなのありか…)
「ふふふ。驚いただろう、ワシの科学力にな」 
 ブラーボに息を切らす道理はないから、走りっぱなしでも口調に変化はない。
「今のうちに訊いておきたいのだがな、お前がワシのもとを去った理由を教えてくれんか」
「…え!? どうして…」
 呻く蛍太郎。質問の意図を探っているのではなく、「何で走ってる最中にそんなことを言わせるんだ」という、抗議だ。だが相手には通じなかった。
「ともに、世界を作り直そうと誓ったではないか」
 蛍太郎は黙って走るだけ。
「どうした、何故答えない? ほら、答えぬか? ほらほら!」
 語気を強め迫るブラーボに、蛍太郎は、遂にキレた。
「うるさいっ!」
 立ち止まり、息を整えてから怒鳴る。
「あのね、僕は貴方と違って生身なんです! 全力で走りながら問答なんかできるわけな…」
 そこまで言って、激しく咳き込む。
 ブラーボも引き返して、蛍太郎に寄って来た。
「大丈夫か?」
 元通りの呼吸を取り戻してから、蛍太郎は続けた。
「言ったでしょう、判断力のない子供だったって。世界征服なんて、何の意味があるんですか。貴方が全てを手に入れたいんなら、それで結構。ですが、僕はそんなに沢山のものなんて要りません。
 僕は…自分が何に生きるべきか知ったから、貴方のもとを離れたんです」
 しばし沈黙。
 そして、ブラーボが言葉を発する。サイボーグボディに内蔵された装置による合成音ではあるが、その声は彼の感情を再現しきっていた。
「そうか…。ワシの研究室を去ったのが十年前のことじゃったから…」
 蛍太郎が頷く。
「忘れもしない、十一年前の夏の日です」
「なるほど…残念じゃ」
 搾り出すようなブラーボの口調が、
「まったく、やってられんわ!」
 突然に一変した。
「世界征服に意味が無いだと? よく言ってくれるわッ! ワシは、幼稚な独占欲から動いてるんではないわい!
 …それになぁ、ワシには判るぞォ。
 今までに、何人もの同志がワシのもとを去っていきおったが、ソイツ等は決まって、こうほざきよる。
『何に生きるべきか、気付いた』
 とな! お前とまるっきり一緒じゃァ愚か者め! どーせ女だろ! 女だよなぁ!」
「…僻んでます?」
「僻んどらんわ! だいたい、去年から名字が変わってるじゃねぇか。バレバレじゃわい」
 蛍太郎は頭をかいた。
「ま、そうですね」
 ブラーボは、怒りを露わに、というよりも殆ど拗ねた口調で叫ぶ。
「は、くだらん! いずれにせよ、お前はワシと共に来る意思は無いんじゃろ。じゃあ、ここに置いていくからな!」
 その言葉が終わると共に、足裏からのロケット噴射でブラーボの身体が浮かんでいく。
「な…」
 何を、と言いかけたところで、蛍太郎は不穏な気配に気付き、周りを見渡した。
 周囲を、白い手が取り囲んでいるのだ。その手は、蛍太郎たちを絡めとろうと間隔を狭めてくる。
「ふ。ワシの取っておきでも奴らを倒すには至らなかったようだなァ」
 と、勝ち誇るブラーボ。確かに、蛍太郎が罠に嵌ったような形になっているが、それでブラーボが偉そうにするのは何か違う気がする。
「では、さらばだ! お前の頭脳が、そこなトコロテンだか豆腐だか判らん物になってしまうのは惜しい気もするが、ワシにとっての障害が消えると考えれば大いに良しじゃ。ふはははは―ッ!!」
 既に高度を上げていたブラーボが、置き台詞を残して加速していく。
 だが、伸びてきた手に絡め取られ、路面に叩きつけられた。
「…おかえりなさい」
 蛍太郎に憐れむような蔑むような目で見おろされ、ブラーボは力なく答えた。
「ただいまじゃ…」
 そうしているうちに無数の白い手は壁となり、蛍太郎とブラーボめがけて殺到した。 もはやこれまで、思ったその時。
 赤い閃光が白い闇を斬り裂いた。
「あなたっ!」
 女の声が響き、白い手が弾け飛ぶ。
 空から降りて、いや墜落に等しい勢いで突っ込んできたのは、赤い光を羽衣のようにまとった一人の少女だ。背は低く、顎のラインで切りそろえられた髪とセーラー服。振り向くと、その瞳は彼女がまとう光と同様に、赤かった。
「璃音ちゃん…」
 蛍太郎が、その少女の名を口にする。その声には、安堵のタメ息が混じっていた。
 璃音も、微笑でそれに答えた。
「よかった…見つかって」
 だが、安心するのはまだ早い。白い手はさらに数を増し、璃音たちに向かってくる。
 その、白い暴力に対し少しもひるむことなく、璃音は赤い瞳を見開いた。すると、どうしたことか手の動きが止まった。
 今度は右腕をかざす。
 璃音の身体を覆っていた光が帯状に広がり、止まった手を撫でつける。柔らかい色の光が、一瞬だけ宙に漂い消える。
 それを受けた白い手の群れは細かく痙攣し、一つ残らず一斉に退いていった。 
「ありゃ、残念」
 璃音は呟く。平然と、綺麗な曲線を描く眉を上げも下げもしない。
「やっぱり、元を断たないとダメみたい」
 その口ぶりが相手のことを知っているよう聞こえるので、蛍太郎は説明を求めた。
「知ってるの、あれのこと」
「イバシュラ。地下世界、それも地球中心の住人。そこは薄く潰れた隙間が続くような世界だから、彼らは身体を平面に近い形に変化させられる。それから、人間を捕らえて自らの眷属に変えるとかなんとか…そんな感じだったかな」
 璃音は淡々と答えを返す。なんとも荒唐無稽な説明だが、現に目の前で展開されている事象には相応しい物という気はする。
「なるほど…」
 と、相槌を打ったのはブラーボである。
「あの手が眷属で、イカ野郎が本体イバシュラというわけじゃな」
 璃音と蛍太郎が同時に驚く。
「なにあれ…」
 人間の下半身の形をした物が何か喋れば驚くのも道理である。
「ああ、あれは…話すと長くなるけど、とりあえずドクターブラーボ」
 と、璃音に説明してから、蛍太郎はブラーボに向き直る。
「驚きました。貴方のような人が、"ああいうモノ"に対してそんなに柔軟に…」
「何を言うか。ワシは天才じゃぞ。そこいらの頭の固い学者バカと一緒にするでない。それにな。ナチスとの最終決戦で、ああいう連中とは嫌というほどお目にかかっておるわい」
 ブラーボは声の調子で判断すれば、半ば憤然としている、らしい。
「で、その小娘は?」
 蛍太郎は答えた。
「僕の妻です。藤宮璃音ちゃん。可愛いでしょ」
 そう言って、璃音の腰に手を回す。
「あなたってば…そんな風に言ったら恥ずかしいよ」
 璃音は、蛍太郎に身をすり寄せて嬉しそうに嫌がる。
「それに、結婚したら"ちゃん"はやめてっていったじゃない」
 と、すこし唇を尖らせる璃音を見おろして、蛍太郎は頷いた。
「うん。璃音…ちゃん…」
 だが、どうしても呼び捨てに出来ず、目を逸らしてしまう。その様子に小さく吹きだしてから、
「しょうがないなぁ。でも、そんなところが、可愛いくて好きだよ。あなた」
 と、璃音は穏やかに微笑んだ。
 蛍太郎は少し頬を膨らませる。
 璃音は出会った当初、蛍太郎のことを"けーおにいちゃん"と呼んでいたが、いつの間にか縮んで"けーちゃん"になった。十一歳も年下の女の子にちゃん付けで呼ばれるのはどうかという感はあるが、親しみを込めてのことなので悪い気はしなかった。だが結婚してからは"あなた"と呼ぶようになり、それはそれで嬉しいような寂しいような、複雑な気分である。
「男に可愛いって言うな」
「はいはい、わかりましたよー」
 そんなことを言いながらも二人の顔がどんどん近づいていくので、たまらずにブラーボは叫んだ。
「そこまでじゃッ!
 まったく、黙っていればいつまでもイチャイチャと…。で、藤宮と言ったな。では藤宮あきらの孫か」
「娘、ですけど…」
 と、璃音。
「そうかそうか。日本じゃよくある名字かと思っとったから特に気にとめなんだが、こんな偶然もあるものだな。お前の父親には南米で世話になった。
 …と、なると、お前も…。いや、斐とは違うようだが…」
 ブラーボは、一人で何か納得したようでしばらく黙っていたが、
「おっと。そろそろ電池切れじゃな」
 と、腰を起した。
「メイン電源を積んだ上半身を自爆させてしまったからな。予備バッテリーではここまでじゃな。先ほどはすっかり囲まれてどーなることかと思ったが、おかげで逃げられるわい。親子二代に渡り、助けてくれてありがとうよ」
 その言葉と共に、残されていたブラーボの下半身が爆散する。そして、脳を納めたポットがロケット噴射で天に真っ直ぐ飛び去っていく。
 璃音はそれを、ポカンと口を開けて見送った。
「…すごーい」
「うん、まあ…色々な意味で」
 蛍太郎はどちらかというと呆れ顔である。だがすぐに、ブラーボが去ったからといって状況が終わったわけではないことを思い出だす。
「璃音ちゃん、どうしてここに?」
「えーと、まず侑希ねぇゆきねぇからメールで、あのバケモノがこの街に来てるって知らされて…」
 "侑希ねぇ"とは、藤宮侑希音。璃音には二人の姉が居るが、そのうち上の姉で二十五歳。何でも屋まがいのことをしているから、イバシュラの事もその筋で知ったのだろう。
「それから、綺子さんから電話が来て、あなたが変なのに襲われてるって言うから、急いで飛んできたんだよ」
「ありがとう。おかげで助かったよ。
 …って、待てよ。イバシュラの眷属ってもしかして…」
 蛍太郎の顔が青くなる。
 璃音は黙って頷いた。
「ここからは、わたしの出番だね。あなたは安全なところに隠れてて」
 そう言って、足を踏み出す璃音。
 たまらず蛍太郎は、後ろから抱きしめるように、その小さな肩に手を置いた。
「ごめん、何も出来なくて」
 もともと彼は腕力に自身のある方ではないが、あの怪物は明らかに蛍太郎にどうこうできる相手ではない。
「何言ってるの。いつも、わたしのこと守ってくれてるじゃない」
 璃音は微笑を浮かべ、その手に自分の掌を重ねた。そして、 
「…あれ?」
 異変に気付き振り返った。蛍太郎の手を取って、大声を上げる。
「大変、血が出てる!」
 言われてみて初めて、蛍太郎は気付いた。
 どこかにぶつけたのか、手の甲から血が滲んでいる。それを契機に、全身あちこちが痛くなってきた。今にして思えば、ブラーボが壊した壁などの破片も相当浴びているはずだから、こうして立っていられること自体運がいいのかも知れない。
 璃音は心配そうな顔で夫を見上げている。身長差が三十センチ近くあるから、どうしても上目遣いになってしまう。蛍太郎は、もう一方の手でずっと下にある璃音の頭をポンポンと撫でた。
「僕は大丈夫だよ」
 だが、璃音は納得しない。眉根を寄せたままで蛍太郎を見上げていたが、不意にその顔が、蛍太郎の真ん前に寄ってきた。
 璃音の身体は先ほどと同様の赤い光に包まれ、宙に浮かんでいる。それにより、二人の目線の高さが全く同じになった。
「あの…」
 何か言いかけた唇に指先を当て、璃音はじっと目の前にある蛍太郎の顔を見つめる。そして手を蛍太郎の肩に回した。
 赤い光が円形に変じて璃音の背後に浮かび上がる。その輝きにあわせ、掌からは暖かい光が滲み出し、広がっていく。
 それは綿毛のように優しく蛍太郎の全身を覆い、静かに包んでいく。そのときには、蛍太郎の手から傷が消え、全身の痛みが引いていた。
 
 
3−
 大学というのは須らくだだっ広いものだが、この三城大学はその中でもかなりの上位にランクするだろう。その土地に走るあらゆる通路、各校舎、研究室への道が一同に集まる区画はツインタワーを望むちょっとした公園仕立てになっている。
 その真ん中に、眷族に囲まれたイバシュラが居た。
 眷属は数百体は居ようかという勢いだったが、半数が動きを止めている。
 イバシュラは触手を伸ばし、その一体に分泌物を擦り込んでいた。ほどなくして、その眷属は動きを取り戻した。だが、動かなくなった眷族はまだ大勢居る。これを"元通り"にするにはそれなりの時間を要する事は確実だ。
 イバシュラは苛立ちから、奇妙な唸りを上げた。
 "彼"は眷属たちと感覚を共有しているため、何が起こったのかは判っている。
 突然乱入してきた小娘の能力。あの不思議な光により、眷属に施した変容の呪いが綻んだのである。主人たるイバシュラの拘束下にあるがゆえ呪いが解けることはなかったが、いずれにせよあの娘が居る限り、自らの身が危ういことに違いは無い。
 そして。その娘は今、真っ直ぐにこちらへ向かっている。
 イバシュラは、動ける眷族の全てに指令を送り、迎撃体制をとった。
 
 藤宮璃音は、赤い光を身にまとい、文字通りにキャンパスを飛ぶ。そのスピードは自動車以上のもので、一分としないうちに視界の端に眷属が伸ばした無数の腕が入ってくる。
 この飛行のみならず不思議な現象を起す璃音だが、それはこの少女が生まれた藤宮という家系に因を持っている。
 地元でも有数の旧家である藤宮家だが、その祖は狐との合いの子であったと伝えられている。
 藤宮は呪術に長じた物が多いという表向きで、実際には特殊能力を受け継ぐ異能者の家系であったから、それは伝説の類と考えるのが普通だ。
 だがあるとき、璃音は自らの先祖と名乗る式子という女と出会っている。それが本当ならばその女は千歳をゆうに超えることになるが、姿は娘の様に若々しく、かつ狐を思わせる姿へ変じることもできたから、実際に彼女は人外の者であるのだろうし、その物謂れ話も本当だったということなのだろう。
 この式子と藤宮某との間に子が生まれ、藤宮はいわゆる半神の家系となった。その血は時と共に劣化が進んだものの現代まで受け継がれ、璃音の亡父・斐と二人の姉も強力な異能者である。
 だが璃音の場合は、今までに生まれた一族の物とは毛色が違っていた。
 それがエンハンサーと呼ばれるエネルギー体の発現だ。
 エンハンサーとは、人類が"神性"を絵画的に描写する際に、人の姿に何かを付け加えることで、例えば後光や翼を付けたり、半獣的なシルエット変えるなどして表現してきたことから付けられた名称である。
 何かしらの高次元的存在の力を借りて行使する者、あるいは"それ"そのものは、自らの神通力を顕すとき、エネルギーが何らかの形にして視覚化する。
 璃音の場合、エンハンサーは羽衣のような帯状の発光体で、身体の周囲を取り囲むようにして展開する。パワーが励起されると円に近い形状を為すこともあり、後光にように見えることもある。
 この光をまとっているとき、藤宮璃音は驚異的な力、ディヴァインパワーを行使できる。だからこそ、彼女は恐れることなくイバシュラに挑むことが出来るのだ。
 さっそく、伸びた白い手が何本か、璃音に向かってくる。
 璃音は身体を傾け、それをかわす。羽衣状のエンハンサーがその腕に接触し、光を放つ。それで、眷属の動きがピタリと止まった。
 と、今度は元の何倍もの長さに伸びたイバシュラの触手が、唸るように振り下ろされた。
 璃音は速度を落とすことなく、直角に軌道を変えること二回でそれを回避し、前進した。その間にだいぶ距離がつまり、イバシュラを視界に捉えた。
 今度は触手が十本、一斉に襲い掛かる。差し向けた分だけ無力化される眷属による攻撃を控え、自ら手を下そうということだろう。
 だが、璃音の機動力はイバシュラの及ぶ物ではなかった。
 減速無しで小刻みに動いて触手をかわし、予測を狂わせ次の攻撃を抑える。そして、ついに璃音はイバシュラに肉薄した。
 拳を握り、力を込める。そこに新たに発生したエンハンサーが集中した。
 そして、
「えーいッ!!」
 気合をこめて、思い切り振りおろす。
 璃音渾身の一撃をまともに受け、イバシュラはもんどり打って石畳にめり込んだ。伸びていた触手は力を失い地面やそこらの建物に落ち、眷属たちも糸が切れた操り人形の様に沈黙した。
「よし」
 璃音は、部屋の掃除でも終えた後のようにサッパリとした表情で手を叩いた。
「あとは、皆を元に戻すだけ…」
 と、周囲を見渡し、璃音は異変に気付いた。
 動かなくなっていた眷属たちが、不意にスイッチでも入ったかのように頭をもたげ、一斉に伸び上がったのだ。
 そして、一点に向けて凄まじい勢いで突っ込んでくる。
 倒れ伏した、イバシュラめがけて。
「ななな…」
 何が起こっているの、と言いかけたのだが、声にならない。璃音は眷族の群れに巻き込まれて身動きが取れなくなってしまう。
 とにかく、このままではマズイことだけは確かだ。
 璃音はパワーを全開にし、思い切り加速をかけて脱出を試みる。だが、眷族の動きに逆らう方向なのでなかなか進まない。
 ふと下を見ると、眷属たちが白い塊となったイバシュラに次々と飲み込まれているのが見えた。
「合体…?」
 時間が経つにつれ、その塊は膨らんでいく。
「んぐぐぐぐぐ…あああッ!」
 もう一度、パワーを上げる。今度は、眷族の数がだいぶ減ったために勢いが弱まっていたので、脱出に成功した。だが、勢い余ってそのまま吹っ飛んでしまい、慧耀館に激突してしまった。
「痛った…」
 壁にめりこんだ璃音が首を振る。エンハンサーで守られているので、これくらいでは大したダメージにはならない。転んだ程度のものである。
 だが、目の前の状況を知った璃音は目を丸くした。
 そこにいたのはツインタワーに匹敵する大きさの巨大なイカの怪物だった。
「げ…」
 イカの怪物、巨大イバシュラは大木のような触手で慧耀館を横薙ぎにした。
 三城大学のシンボルは呆気なく、瓦礫の山へと変貌した。

「なんてこった…」
 蛍太郎のいるところからも、それは見えた。
 学内で一番大きな建物の一つと、それに匹敵する大きさのイカだから、キャンパス内に居る限りはどこに居ても目に入る。
 そして、慧耀館の倒壊を目の当たりにした蛍太郎は居ても立ってもいられなくなり、走り出した。
 
 巨大イバシュラは勝ち誇り、哄笑のような声を上げた。
 邪魔者は排除した。あとは、目の目に広がる街へ繰り出し、そこで眷族を増やすだけだ。この街ほどの規模なら大した妨害を受けることはないだろうから、外の連中が気付いた時には誰にも手出しできないほどの力を手に入れているはずだ。
 イバシュラも物理的な存在である以上、人類が所持する火力の限りをつくせば倒すことも不可能ではないだろう。だが、実際にそれをなせる国家はただひとつしかない。
 もはや地上世界を手に入れたも同然と、イバシュラはさらに笑う。かつて慧耀館であったものに背を向け、街に向かって歩みを進めた。
 しかし、それは不意に起きた爆発に遮られた。 
 瓦礫の山に赤い光が弾け、コンクリートの残骸が吹き飛ぶ。
 振り返るイバシュラ。
 そこには、藤宮璃音が居た。
 これだけの目にあったにも関わらず、多少の煤を被った位で身体には一切傷が無い。
「まだ終わってないよ」
 強い意思を込めた赤い瞳を向け、璃音は力強く言い放つ。そして、エンハンサーを展開して宙に浮かび、そのまままっすぐに高度を上げた。
 両手を広げる。
 それに合わせて薄桃色の光の帯が幾重にも現れ重なっていく。その光は璃音を完全に包み込んでさらに膨らみ、ウサギのぬいぐるみを思わせる形を作った。
 大きさはビル三階分だろうか。色はピンク。絵本に出でてくるような二本の脚で立った姿で、大きな耳は身体の側面をすっぽり覆うくらいに垂れ下がっている。目に当たる部分と口の部分、後頭部にはぽっかりと穴が開いていて、その奥にある赤い球体を覗かせている。その球体が感覚器官らしく、正面に迫るイカの怪物を映し出しゆらゆらと輝いていた。
 頭の上に浮かぶ光の輪が輝きを増すと、ウサギのようなものはゆっくりと空中を漂うように移動を始めた。その姿はウサギの形をした天使とでも言えばよいだろうか。
 エンハンサーはパワーを行使する際に自動的に形成されるものだが、より強大な力を使う場合にはより多くのエンハンサーを使い、"神体"を形成することでパワーの源たる存在に近づくことになる。このときの姿は個体により様々で、化身の意である"アヴァターラ"と呼ばれる。今の璃音の状態が、それだ。
 璃音のアヴァターラ"フラッフ"はスピードを上げ、イバシュラに突っ込んだ。
 見た目どおり彼女には武器といえるものは具わっていない。つまり、何かしらダメージ源になるものがあるとすればフラッフ自身の巨体と重量だけだ。だが璃音には格闘技の心得は無いし、あったとしてもそれが生かせるような形態とは言いがたい。
 よって、ここで敢行された攻撃は、攻撃というにはあまりに単純な"突進頭突き"だった。
 しかし、何らかの神通力、特殊能力による攻撃を想定していたイバシュラにとってこれは充分に不意討ちだった。大きなウサギの頭突きはそれに倍するイカのバケモノにクリーンヒット。双方重なり合った状態で、大地に倒れた。そのまま、フラッフはイバシュラの上に圧し掛かる。
 現代格闘において、マウントポジションをとった場合には自動的に勝利が確定するといわれる。だが、それは十本の触手を持つイバシュラには全く当てはまらない話だ。フラッフに組み敷かれたかに見えたイカのバケモノは、触手を伸ばし絡めとり締めつけはじめた。
「いやぁ、気持ち悪い! そんなとこ…やめてぇ…」
 フラッフは璃音の声で悲鳴をあげた。璃音自身は単にフラッフの中に納まっているのではなく、エンハンサーを介して融合して頭脳と動力を兼ねた中枢システムの役割を担っている。よって、触手に締め付けられ身体を弄られる感触を、璃音は自分のものとして認識していることになる。
 今や上下、いや攻守は逆転した。イバシュラは腕の中の獲物を全身でもって締め上げ、体を入れ替えて体重をかける。
 蛍太郎は近くの林の向こうから、呆然とそれを眺めていた。
(女子高生触手攻め…)
 そんな埒も無いフレーズが頭をよぎる。確かに事実には違いないが、実際に展開されている光景は言葉から連想されるものとはかけ離れている。
 だが、目を閉じて触手が蠢く粘液質な音と、どこか鼻にかかったものが混じり始めた悲鳴だけに神経を傾けると、それなりに想像力をかき立てるものがある。
 不意に、全ての音が途切れた。
 見ると、ついさっきまで盛んに獲物を蹂躙していた触手が動きを止めていた。いや、ただ動きを止めているだけではない。触手のところどころが解れ、パーツ化していた眷族の姿が見え隠れしている。どうやら、分裂を凌ぐために動きを止め耐えているようだ。
 それに追い討ちをかけるように、フラッフの全身が発光した。璃音が蛍太郎を治癒した時と同じ、綿毛のように優しく穏やかな光が、今までの戦いで蹂躙された一帯に降り注ぐ。その春の陽光のような温かさの中、瓦礫と化した慧耀館をはじめ、大小の建造物が元の形状へと戻っていく。
 これが、この光のもたらす効果だ。
 "ヴェルヴェットフラッフ"と名付けられたこの現象は、発した光に触れた物体を元の形状へと修復する働きがある。平時は手かエンハンサーで接触した対象のみにしか効果を発揮しないが、アヴァターラとなった場合には広範囲に効果を及ぼすことが出来る。
 明らかに人知を超えるこの現象を引き起こす璃音の能力は、何らかの高次元の存在によるものである。人間が壊れた模型や人形を簡単に修繕できるように、この力の源たる存在はあらゆる物体を修復せしめる。このヴェルヴェットフラッフは、そういったモノの力を代行する能力だ。
 この修復現象は、イバシュラの眷属たちへも及んでいた。
 そのために巨大化を維持できず、イカのバケモノは遂に崩れた。その身体からボロボロと白い人型が転がり落ちる。
 巨大イバシュラが断末魔のように身を反らした。その直後、フラッフは一際強い光を発し、この空間を白く塗りつぶした。
 
 光が収まった頃合を見計らって、蛍太郎は目を開けた。
 璃音の神通力に起因する発光現象なので、この光が視界が奪うことはあっても神経にダメージを与えることはないのだが、生物としての反射行動なのだから仕方が無い。
 改めて目の前を見ると、先程まで絡み合っていた巨大な物体は影も形もなくなっており、その代わりに大勢の人間が横たわっていた。平田にソーニャ、アンナ、ヒカルドを始め、学生や教職員、その他、イバシュラの眷族に変えられていた人々だ。皆、元の姿に戻っている。
 その中心に、璃音がいた。
 蛍太郎は駆け出した。
「おわったよー」
 璃音は蛍太郎の姿を認めると、笑顔でそう言った。その途端、カクンと膝から力が抜けてしまう。蛍太郎は全力で駆け寄り、肩を抱いて璃音を支えた。
「大丈夫?」
「うん。おなかすいただけ」
「身体の方は?」
「怪我とかはしてないよ」
「いや、そうじゃなくて…」
 と、蛍太郎は璃音を、主に首から下をじっと見つめたが、すぐに視線を逸らした。
「…なんでもない」
「へんなの」
 璃音は蛍太郎を見上げて屈託なく微笑んだ。
「で、ヤツは…」
 心配げな蛍太郎に、璃音が後ろを指差してみせる。そこには、ノシイカになったイバシュラが転がっていた。
「ふう、とりあえずこれで一安心だな」
 蛍太郎はタメ息を吐いた。
 なにせ自分でやったことではないので晴れやかな顔とはいかなかったが、安堵の色が浮かんでいた。
「警察と消防に電話してから、頃合を見て消えるとするか」
 携帯を取り出した、その時。イバシュラが立ち上がった。そして、威嚇するように唸った後、後ろに向かって飛び跳ねた。
「まずい、逃げる!」
 璃音が追いかけようとするが、身体に力が入らない。エンハンサーが実体化せず、薄っすらと光るだけで消えてしまった。アヴァターラは強力ではあるが、一度使えば殆どのパワーを消耗してしまうのである。パワーが残っていなければ、璃音は普通の人間と大差ない。応戦することはもちろん、追うことも出来ない。
 だがイバシュラも相当のダメージを受けているらしく、逃げることしか考えていない。街燈の上に取り付き、さらに上空へ跳ねた。
 闇夜に躍るイカ。
 イバシュラは逃亡の成功を確信していた。
 だが、その眼前を何かが横切った。それが、白と赤で彩られた何かであると認識すると同時に、イバシュラの意識は途絶えた。
「切れた!?」
 蛍太郎が、驚きの声を上げる。彼には、宙にいたイバシュラがひとりでに真っ二つに裂けたように見えたのだ。
「斬られたんだよ」
 と、璃音。その赤い目が向けられた先には、赤と黒の派手な衣服に身を包んだ黒髪の女と、その背後に侍る赤と白の人形、いや人型の機械がいた。
「よう。相変わらず、目が良いな」
 女は気安く手を振ってくる。
「…亜沙美さん」
 璃音はちょこんと頭を下げた。
 蔵太亜沙美は不敵に口の端をゆがめてから、璃音たちに歩み寄る。その時には既に、あの人型機械はいずこかへ消えていた。
「一応来てやったぞ。で、予想通りにツメが甘いから手伝ってやったわけだが…。ったく、あんなのを生かしといても意味無いだろ。オマエほどの治癒能力を持つものは少ないんだから、あれが他所に行ったら大惨事だぞ。
 …害虫駆除だと思ってスパッとやっちまえよな」
 璃音が俯いてしまったので、亜沙美は困ったように頬をかいてから、踵を返した。
「まあいいや。じゃあ、私は帰る」
 それだけ言い置いて、つかつかと闇の向うへと消えて行った。
 その後姿を見送りながら、璃音は呟いた。
「あなた、わたし…」
 蛍太郎は、胸元近くにある璃音の頭をぐいっと抱いて、優しい声で言った。
「あの人も、『いいや』って言ってただろう。璃音ちゃんはこのままでいいよ」
 この娘が己の力を今とは違う方向へ用いたら…。そう考えると、どこまでも恐ろしい想像しか浮かばない。それならば、ツメが甘かろうがなんだろうが、今のままで良いではないか。そう、蛍太郎は思う。
 だからこそ、彼女を妻にしようと決めたのだ。
「それよりさ、夕飯食べて無いだろ。これから作るっていうのもなんだし、どこかに食べに行こうよ」
「ほんと?」
 璃音はパッと笑顔を弾けさせた。それは、あまりに眩しくて、
(季節外れの向日葵、かな)
 と、蛍太郎もつられて頬を緩めた。
 この笑顔をずっと見ていたい。今は、その想いが蛍太郎の全てである。
 
 
4−
 人間、事を成すに当たっては大なり小なりの犠牲は常に付きまとう。
 日本では困ったときの神頼みと言うが、本来ならその神様も、お百度を踏むとか食事を断つとか、そういった何らかの代償を払わなければ願い事を受け付けてくれないことになっている。
 では、藤宮蛍太郎が妻を喜ばせようとすると、何をしなければならないのか。
 その為の行動として、種々のコミュニケーションとその延長上での夜の生活が挙げられるだろうが、もうひとつ、彼の妻にとって非常に大きなウェイトを占めるものがある。
 それが、食事だ。
 誰しも、「美味しい物を腹いっぱい食べたい」という望みはあるだろう。
 蛍太郎は社会的地位のある職に就いているだけでなく、それ以前に取った特許などで莫大な収入がある。だから金で手に入るものであれば、おおよそは食べさせてやることが出来る。
 もっとも、彼は今まで金にモノを言わせるような行為をしたことがないし、璃音は気楽に食べられる料理を好むから、彼女が満足する物を食べさせるという点については殆ど苦労することは無い。街にある評判の店に連れて行けば、それで解決だ。
 問題は彼女の"おなかいっぱい"の基準が人と違うことにある。
 
 最近この街で人気なのが、『ベンガル虎』というカレー屋だ。
 インド人店主が作るインドカレーは小麦粉を使っていないので胃にもたれず、いくらでも食べられる。そのため、健康志向な人たちから健啖家まで、あらゆる層に支持を受ける新たな名店である。
 藤宮夫妻は、今日の夕食をこの店でとることにした。
 だが…。
 店のドアには『closed』と書かれた札が下がっていた。
「定休日か。…ってことは…今日は水曜だったか…」
 蛍太郎の顔が青ざめる。
 ファミレスならともかく、市内では大体の飲食店が水曜日を定休としている。つまり、今日はどこへ行っても店が空いていないのである。
 カーテンが下りた店を眺め途方に暮れている蛍太郎を見上げて、璃音は寂しそうに呟いた。
「おなかすいた…」
 ここで残された選択肢は四つだ。
 一、年中無休の博多ラーメン"半ドン"で百五十円の替え玉を頼みまくる。
 ニ、量、価格ともに物足りないがファミレスに行く。
 三、火曜定休のイタリア料理レストラン"貴婦人亭"でコースをメインに色々食べる。
 四、諦めて家に帰り、疲れた身体に鞭打って自分で作る。
 現在の疲労度を考えれば四は論外。一とニも、ゆっくりと食べられる雰囲気の店ではないので同様の理由から気が進まない。栄養状態を鑑みても避けたい所だ。
 結局、蛍太郎は貴婦人亭を選択した。
 酉野でもメジャーな住宅地、晴間町の外れにあるレストランテ・貴婦人亭は、イタリアから来たオーナーの手による本場に近い味を売りとする店だ。派手に行列が出来ることはないが、午前十一時の開店から客が途切れることはない。そして夜になると、リーズナブルなディナーコース目当ての客で賑わうことになる。
 璃音と蛍太郎は五分ほど待ってから、二人がけの席に案内された。何を食べるかは既に決まっていたから、さっさと注文してしまう。
「コース三人分お願いします。それと、ピッツァのマルガリータとシチリアーノ」
 と、蛍太郎。主食を増やして腹を膨れさせようという、姑息な意図が見え隠れしている。
 ウェイターは注文と客の顔を見比べて首を傾げていたが、そのまま奥へ引っ込んでいく。今の反応からして、あのウェイターは新人だったのだろう。今年は二月以来この店に来ていないことを思い出して、蛍太郎は苦笑した。
「どうしたの?」
 璃音が怪訝な様子で蛍太郎の顔を覗き込んでいる。
「ああ、ここんとこ来てなかったなぁと思ってさ。幸いオーナーは居ないみたいだし…。次に来られるのは、来月の末あたりかなぁ」
「なんで?」
「…心の傷が癒えてから話すよ」
 それ以上は何も言いたくない様子だったので、璃音は話題を変えた。
「あのね、あなた。侑希姉ぇ、ロンドンにいるんだってさ」
 璃音の姉は、異形の到来を告げるメールに近況も書き添えていたのである。
「へえ」
「仕事の関係で、グッドスピードさんのところでお世話になってるらしいよ」
 その名を聞いて、蛍太郎は咳き込んだ。慌てて水を飲み下してから、やっとのことで口を開いた。
「そ、そうか。まあ、そっち方面の仕事なんだろうね。じゃあこの月末も帰ってこないだろうなぁ…」
「いつものことだよ」
「…そうだね」
 サー・ウィリアム・グッドスピードは欧州における蛍太郎の後ろ楯である。学者にして好事家というのが表向きだが、裏向きでも扱う物の性質が変わるだけで大体は同じ事をしている。両親と親交があったことから蛍太郎にも色々と目をかけてくれ、資金や身の安全の確保など有形無形の援助を受けた。
 特に何らかの役職についているということはなく、彼の持つ能力と財力の全ては、もっぱら高級秘密クラブ"ディオゲネス・クラブ"での活動に費やされる。
 このクラブは、気難しい方の多い、いわば道楽もしくは隠遁同好会的な組織で、特異な知性をいかに浪費するかを競うような気質のあるところだ。そういうところに連なるだけあって、グッドスピード卿自身もどこか世を厭うようなところのある人物だ。
 卿のところに侑希音が行っているとなると、当然のように蛍太郎の近況も流布していると考えられる。
 蛍太郎は結婚するにあたり、相手が十一歳も年下の少女であることはちゃんと知らせているし、昨年夏に新婚旅行を兼ねて縁のある土地を回ったときに、グッドスピード邸を訪ねて璃音とも顔を合わせている。だから何の問題もないのだが、夫婦生活のオモシロ話などが広まるのは避けたいところだ。いや、侑希音の事だから絶対に話しているに決まっていると、蛍太郎は確信していた。
「何言われてるんだろうなぁ…。だいたい、璃音ちゃんが何でもかんでも侑希音さんに喋るから…」
「だってー。人間何事もギブアンドテイク、魚心あれば水心っていうじゃん。いくら姉と妹の間でも、土産も無しにものを教えてもらうなんて図々しいことは許されないんだよ。特に、大人の世界のことはね」
 璃音の口から出てきたのは如何にも侑希音が言いそうなことだったので、蛍太郎は深々とタメ息を吐いた。彼女が教えるのはそれこそ"大人の世界"とやらのことだろうから、余計な癖などつけられてはたまらない。
「そんな取引しないでも、僕が教えてあげるから…」
「ほんと?」
 璃音の頬がほころぶ。本当に嬉しそうに笑っているので、蛍太郎は後ろめたい気になってしまう。
「そういうふうに喜ばれてると、ちょっとなぁ…」
 璃音は小首を傾げて、大きな丸い目で蛍太郎の顔を覗き込んだ。そんな小動物を思わせる仕草で、
「ちょっと、どうなの?」
 と、訊いてくる。蛍太郎は真っ赤になって「なんでもない」と返すのが精一杯。どうやら璃音は、自分が想像していたようなことを教わっていたのではないらしいと気付き、恥ずかしいやら情けないやらで何も言えなくなってしまった。
 そんな夫に、璃音は「へんなの」と、無邪気に微笑んだ。
「そうだ。来月テストだから、また勉強教えてね」
 璃音の眩しい笑顔にあてられて、蛍太郎はしどろもどろで答えた。
「う、うん…任せといて」
 それを聞いて、璃音は腕まくりの真似をして胸を張る。
「よし。今度も一番狙っちゃうもんね」 
 だがその途端、可愛らしい音で腹が鳴り、先ほどの威勢はどこへやら璃音はぺたっとテーブルに突っ伏した。
「…おなか、すいた」
 あまり行儀が良いとは言い難い状態だったから、蛍太郎は軽く咳払いをした。
「璃音ちゃん」
 制服女子高生とスーツを着た男という組み合わせはただでさえ目立つ。だから、あまりだらし無い格好は見せられない。
「はーい」
 璃音も蛍太郎の思うところは判っているので、力なく身体を起した。
 既に八時近い時間になっているから、いつもより一時間押しという程度だが、その前にあの大立ち回りを演じているわけだから空腹ぶりは相当である。古い家の生まれなので比較的厳しく躾けられているにも関わらず、あのようなことをしてしまうくらいに余裕が無い。
 こうなると蛍太郎としても、空腹感よりも心配が先行してくる。
 そんな折、前菜である鰹のカルパッチョがやってきた。テーブルに乗せられたのは二枚の皿だが、うち一枚が二倍盛りになっているところをみると、店員の誰かが気を利かせてくれたのだろう。
「いただきます」
 璃音は行儀よく手を合わせると、早速鰹を口に運ぶ。ほどなく、満面の笑みで美味しさを表現してくれた。それを見たら、なんでもいくらでも食べさせてあげたくなってしまうような、そんな笑顔だった。
「天使の笑みだ…」
 蛍太郎は呆けたように呟いた。
 十一年前。蛍太郎があげたなんでもないお菓子を、こんな笑顔で食べた女の子がいた。そのときからずっと、蛍太郎はその子の虜なのである。そして"食べ物をくれるお兄ちゃん"から"夫"へと華麗なる昇格を果たした今、その笑顔は蛍太郎の双肩にかかっているわけである。
 蛍太郎が自分の皿をキレイにしたのと殆ど同時に、璃音の皿も空になっていた。それに合わせて、サラダが運ばれてくる。またしても気を使ってくれたのか、ピッツァも一緒に持ってきてくれた。
 さっそく、ピッツァに手をつける璃音。一片つまみ上げ口に入れかけて、
「あなたも食べる?」
 と、訊く。蛍太郎は首を振った。自分の分の主食はコースのパスタなわけだから、ピッツァを食べるのはおかしい。お好み焼き定食とかラーメンライスみたいなものは日本独自の風習なのである。
 しかし、ピッツァを頬ばる璃音の幸せそうな顔を見ていると、そんなこだわりなんてどこかへ行ってしまう。
「ごめん。一切れちょうだい」
 璃音は頷いて、すぐに一片分ける。人前でもよく物を食べる子だが、躊躇無く周りにお裾分けしてしまう気の良さがある。健啖家にありがちな意地汚いイメージとは全く無縁だ。
 蛍太郎がピッツァを手に取るのを、璃音は大きな目でじっと見つめていた。そして、彼に合わせて自分のピッツァを口に運ぶ。ふたり同時にピッツァを口に入れることになって、蛍太郎は笑いだしそうになってしまう。それでも何とか口の中の物を飲み込むと、璃音が微笑みかけた。
「おいしいね」
 蛍太郎もつられて笑った。
「うん、おいしい」
 専用の釜で焼いたこの店のピッツァは、日本ではなかなかめぐり合えない味だ。
「もうヒトツ食べる?」
 さらに勧めてくる璃音だったが、さすがにそれは断った。蛍太郎は日本人レベルで言えば並み程度しか食べない。だから、イタリアにある父の実家に遊びに行くと「断食でもしているのか?」などと言われてしまう。
 璃音の方は、ゆっくりと噛みながら食べているのに何故か料理の減りが早い。気が付けば、ピッツァとサラダが食べつくされていた。
 それから運ばれてきたスープはさすがに三皿だった。二倍サイズのスープ皿なんて普通は無い。だが、次の肉料理、ミラノ風カツレツは璃音の分だけは一皿にしっかり二つ並んでいた。加えて二枚目のピッツァも来る。
 カツは揚げるのではなくフライパンで多めの油をかけながら焼いてあるので、サッパリと食べ易く、散々走り回ったお陰で疲れている蛍太郎でもすんなりといける。璃音の方はそんなこと関係なしにどんどん食べて、ピッツァと一緒にまるまる胃袋に収めた。
 そして、メインのパスタがやってくる。
 蛍太郎は軽めにペペロンチーノ。璃音の方は、単品でもいけるほどボリュームタップリに魚介類が投入されたペスカトーレと、一皿でブランチとしてもオススメなカルボナーラだった。
 それを、璃音は順繰りに実に美味しそうに食べる。確かに心が和むような可愛らしい表情をしているのだが、食べているものを見ると蛍太郎は何だか胸焼けしそうになる。自分の手元だけ見ていれば問題は無いのだが、目の前にせっかく璃音の笑顔があるのに視界に入れないのも惜しい。蛍太郎は上手いこと視線を調整して、璃音をおかずがわりに自分のパスタを食べた。こうすると、自分も幾らでも食べられそうな気がするから不思議なものだ。
 その効果あって、蛍太郎自身も気づかないうちにパスタを平らげてしまっていた。その時には、璃音は前のパスタ皿を二枚ともキレイして、実に満足げな笑みを湛えていた。 
 蛍太郎の意向で、デザートはジェラートだ。もちろん璃音の分は二人前。だが、何か物足りなそうだったのでティラミスを一つ追加した。
 多くの女の子は甘いものを好むが、もちろん璃音も例外ではない。ジェラートの山を崩し、ティラミスの濃厚なクリームを舐める璃音は今までとは段違いの幸福感を滲み出させていた。そして全てのデザートを食べきると、ちょこんと手を合わせて、
「ごちそうさまでした」
 と、可愛らしくお辞儀した。
 付き合って十年経つが、璃音はいつでも礼と挨拶は丁寧にしてくれる。そんなところがあるから、彼女にお腹いっぱいご飯を食べさせてあげたくなってしまう。
 だが問題は、今回のが"たまの大食い"ではなく毎日の平均的な食事だということだ。
 いつもは、蛍太郎が業務用の食材を仕入れ、持ち前の腕を振るい手間をかけることでコストを下げながら食事を作っている。それでも常人の三倍は食べる璃音の胃袋を満たすには彼ほどの経済力が無ければかなわない。家を文字通りに食い潰しかねないからこそ、彼女の父は結婚を二つ返事で許可したという事実がないわけではないのだ。
 だが蛍太郎にとって、その笑顔はそんな事はまるで問題にならないほど、何物にも代え難い宝物だった。まさに人生の目的その物である璃音の笑顔を見つめる蛍太郎は、愛する妻がしているのと同じくらい、幸せに頬を緩めていた。
 エスプレッソコーヒーをちびちびと仲良く舐めながら、夫婦二人は顔を見合わせた。
「食べたら眠くなってきたなぁ」
 と、蛍太郎がタメ息をつけば、
「うん。腹八分目だから適度にお腹が膨れて良い気分だね」
 璃音も満足げに頷く。
 その言葉には今更驚くことも無く、蛍太郎は頷いた。これから歩いて家に帰ることになるが、腹がずっしり重くなってしまってその気にもならない。
「綺子に迎えに来てもらおうか…」
 蛍太郎は携帯電話を取り出した。
 十五分後。
「いい気なもんだね、兄さん」
 ミニローバーから降りた綺子は、気の抜けた顔で待っていた蛍太郎の顔を見るや、口を尖らせた。そして、蛍太郎の背中で幸せそうに寝息を立てている璃音に気付き、さらにヘソを曲げる。
「いいなぁ。義姉さんは優しくしてもらえて」
 綺子は蛍太郎の実妹なので、璃音は年下ながら義姉にあたる。冗談めかして「義姉さん」と呼んでいたのが、三姉妹の末っ子である璃音に「妹が出来たみたいで嬉しい」といたく気に入られてしまい、それを継続することになってしまった。
 少しの間、年下の義姉の寝顔を見つめてから、
「まあ、いいけど。いつまでもこうしてるのもなんだから、さっさと帰ろうよ」
 ぷいっと踵を返して、綺子は運転席へ向かった。
「そうだね。明日もあるし…」
 蛍太郎は後部座席のドアを開ける。
 こうして蛍太郎は、彼には全く理由は判らないけれど、拗ねている妹を宥めすかしながら、家路についた。
 このところは夜でも肌寒さを感じなくなり、随分と過ごし易すくなってきたが、それとは関係無しに車の中は何だか居心地が悪かった。肩に頭を預けて眠る璃音の寝息を聞きながら、蛍太郎は家々の向こうに浮かぶ白い月を眺めていた。
 
 

#1 is over.  

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