#2
1−
 酉野市の夜は早い。一昔まえにくらべると随分開発が進んだものだが、やはり地方都市の悲しさ。夜の十一時をまわると、あっという間に人の気配が無くなってしまう。
 既に午前一時を回った現在、外に出ている人間は限られたものだ。終電を逃し朝まで飲み屋かカラオケで過ごすことになってしまったサラリーマンや学生、これからお泊りのカップルなどなど。些細な揉め事を起こすことはあっても、基本的には無害な方々である。
 だが、忘れてはならない。時代と場所を問わず、悪事は須らく夜に行われることを…。
 
 酉野市警巡査・廿六木大志刑事は、京本部長刑事と共に、オフィス街のビルの谷間で遅い夜食のラーメンをすすっていた。この店、密かな穴場として知る人ぞ知る"吉祥"は独自開発した添加物ゼロのラーメンをウリにしており、コクがありながらアッサリとした大人の味わいは、どの時間に食べても胃にもたれない。もうすぐ三十路の廿六木と、四十に手が届きつつある京本には嬉しいところだ。
 さらにこの店には、二十分以内に食べきれば無料になるという"ド根性ラーメン"なるメニューがある。入り口に丼の見本が鎮座しているが、それは丼というよりはバケツやタライと言ったほうが適切な代物で、明らかにこの店の味とは相反する発想のメニューなのだが、それも愛嬌といったところか。思い起こせば、この街はやたらと大食い自慢メニューを置いている飲食店が多い気がする。それも土地柄だろうか…と、廿六木は無為な思索に浸りつつ、一適たりともスープを逃すまいと精一杯舌を伸ばし、顔に被せんばかりにして空も同然の丼と格闘していた。
 と、そのとき。
 地響き。
 店が揺れた。窓ガラスが波打つがどうにか持ちこたえる。グラスやら丼やらが床に落ちる。そして、廿六木の額も丼のふちを痛打し、見事に割れた。
「なんだッ、どうしたぁッ」
 丼を持ったまま、やおら立ち上がる廿六木。京本や店の大将、他の客が痛々しげな表情で見上げるなか、廿六木の顔面はセルフカット後のプロレスラーのようにドロドロの大流血だ。視界が赤く染まり、顎から垂れた血が丼に滴る。
「やっこさん、今日も来やがったぜ」
 低く、そして怒りを押し殺したように震える京本の声。たんっ!と、威勢良くグラスをカウンターに置くと、おもむろに立ち上がった。眼差しは、目バリのキツさを差っぴいてもまだ鋭い。
「いくぜ、廿六木」
 部下を促すと、京本は店のドアを開け放った。
 
 ―そこは、コミックの世界だった。
 
 大通りの真ん中に、巨大な金属の筒が浮かんでいた。直径は二十メートルほど。高さは四階建てビルと同程度だろうか。蛇腹の触手じみたアーム二対を側面に生やし、グネグネと蠢かせている。その先端には巨大な鉤爪が四本。そして筒の頂上にモデル立ちする人影は、サングラスをかけマントと長い髪をたなびかせた、女である。
 女は、両腕に抱えていた円筒形のガラス容器を、高く掲げた。ちょうどサッカーボールがすっぽり収まりそうな大きさのそれは、女の腕が伸びきると同時にぼんやりと光を放った。そのおかげで容器の中は粘度のある透明の液体で満たされていることが判る。そして、その液体に抱かれるように浮かんでいるのは、人間の脳髄。この脳、いや彼こそ、悪の天才科学者ドクター・ブラーボなのだ。
「ふはははははは! ついにこのドクター・ブラーボが世界征服を成し遂げる時が来た!
 さあ、我が究極兵器ディアマンテの威力を見るがいい!」
 大音声。
 もちろん脳だけでは声は出せないので、合成音だ。容器の下についている複雑怪奇な機械から発せられている。それにはドクター・ブラーボの生命を維持するための装置が組み込まれており、ブラーボの言葉を再現するのもその機能の一つなのだ。
 ディアマンテは、アームを振り上げると、手ごろな距離にあったビルをひとつ、易々と撃ち抜いた。
「どうじゃ。ふはははは!」
 アームを引っこ抜くと、ディアマンテがビルにあけた穴が露わになる。そこから上の重量が支えを失い、ビルは潰れるように崩れていく。
 それを見届けると、ドクター・ブラーボはニンマリと笑う。いや、顔があれば笑っていただろう、というべきか。嬉しさのあまり、シワの間から妙な液体が染み出ているのが判る。
「おい、メタルカ大佐。もういいぞ。ワシは高いところが苦手なんじゃ。ちびりそうじゃよ」
 メタルカ大佐と呼ばれたのは、容器を抱えた女だ。
「はい、ブラーボ様」
 メタルカはゆっくりとドクター・ブラーボを下ろすと、大事に胸に抱いた。
 脳だけの癖に、ちょっと羨ましい…。廿六木は思った。が、すぐに我に帰る。はやく、市民の避難誘導をしなければならない。
 まずは、現状確認。
 今、廿六木たちがいるのはオフィス街であり、時間は深夜。もともとこの地域は住人と呼べるのは烏と野良猫くらいという場所なので、通行人は皆無。確認できる限り市民はせいぜい吉祥の客と、道路の向こう側でドクター・ブラーボの破壊活動に拍手喝さいしている酔っ払い三人組くらいか。
「おい、あんたら! 逃げるぞ。こっちだ!」
 とりあえず、酔っ払いたちに叫ぶ。それから吉祥の主人を促し、客を全員表へ出した。こちらは、合計五名。
「皆さん、落ち着いて。こちらです!」
 ブラーボたちの反対方向に逃げるしかないので、廿六木はそちらを指差す。だが、そこは黒タイツ黒覆面の一団が行く手をふさいでいた。総勢十人だろうか。ブラーボの声が響く。
「クルツ少佐、逃がすんじゃあないぞ。そいつらには、これから起こることをしっかりと見てもらわねばならないからな」
 それに応じて、軍服の大男が黒タイツの間を割って出てくる。
「はっ。おおせのままに」
 この、クルツというスキンヘッドに眼帯を着けた男は、いかにも酷薄な笑みを浮かべた。
「そういうことだ。大人しくしていただこう」
 黒タイツ達が一斉に構えを取ると、金属音とともに爪が鋭く伸びた。明らかに威嚇だ。だが、廿六木は怯まない。その手には拳銃。
「あいにく、こんなことはロスでは日常茶飯事でね。さあ、武器を捨てて手を上げろ」 
「フン、刑事か。あいにくだが、ここは日本だ。撃てもしないものをちらつかせても怖くはないぞ」
 皮肉に笑うクルツ。廿六木も、それに負けないほど皮肉に口を歪めた。
「撃ってもよくなったんだ。昨日から。新聞読んでないだろ」
 いい終わるや否や、引き金を引いた。乾いた音が響く。硝煙の向こう、弾丸は仁王立ちするクルツの額に穴をあける、筈だった。だが、クルツの顔面を覆うように、黒タイツが手をかざしていた。手の甲には僅かなへこみ。それは、廿六木が撃った弾が作ったものだった。
「よくやった、戦闘員A。
 残念だったな刑事さんよ。ブラーボ様がお作りあそばしたドロイド戦闘員に、拳銃弾ごときは通用せん」
 部下の働きと性能に満足げなクルツ。
「ち…。そんな簡単にはいかないか。つーかそれ、ロボットかよ」
 廿六木の額に冷や汗。だが、ここで逃げるわけにもいかないのが警察官の辛いところ。改めて銃を構えなおす。
「生意気な。そうだな、無傷で確保するように命じられたわけでは無い。少々痛い目にあわせてやれ」
 クルツの命令と同時に、先ほどの戦闘員Aが廿六木に飛び掛る。そのスピードに引き金も引けぬまま、銃は廿六木の手から弾き飛ばされた。
 廿六木は身を反らし一歩後退、次の攻撃に備え身構え…、ようとしたとき。視界いっぱいに写るAの掌。身を強張らせる廿六木。だが、飛んできたのは掌打ではなく、額への鋭い衝撃。倒れこむ廿六木が観たのは、得意げに右人差し指を立てたAの姿だった。
(デコピンかよっ!)
 既に割れていた額に更なる攻撃を受け、廿六木の顔面は赤い液体の大洪水になっていた。ダメージと失血でしばらく立ち上がれそうにない。その廿六木に対し、Aはストンピングによる攻撃を行おうと、脚を上げる。
 廿六木は覚悟を決めた…が。
 ふたたび、銃声。
 Aの顔面、眼にあたる部分から火花が散っていた。Aは、廿六木を踏みつけようとした姿勢のまま、後ろへと倒れこんだ。
 銃を撃ったのは京本だった。腰だめで、右手首の上に垂直に交差するように左腕を置くという、さながら西部劇のガンマンがファニングをするような独特の構えだ。
「くれてやるぜ!」
 もう一発。クルツの真横にいた戦闘員が、火花を散らし倒れた。
 いかに強固な装甲に覆われた戦闘員でも、目だけは例外だったのだ。だが、それよりも廿六木が驚いたのは、冗談のような姿勢で精密射撃を行う京本だ。そして、その眼差しは真剣だったが、口元は笑いを必死にこらえているように見えた。なんのことはない。ブラーボの出現を察知した時に声が震えていたのは、怒りの為ではなく、嬉しかったからである。何故なら、
「言っただろ。撃ってもよくなったんだよ、昨日からな」
 と、いう訳だ。
(気障だ…。そしてアホだ…)
 その場にいた全員が、そう思った。だが一人だけ例外がいた。クルツは頭のてっぺんまで真っ赤にして怒り狂っていた。
「なんということだッ! ブラーボ様から賜ったドロイド戦闘員を二体も失うことになろうとは! おのれー、もう許さん。貴様ら全員ブチ殺してくれるッ」
 そして怒りのあまり、命令を忘れてしまった。
 クルツの合図で戦闘員は迅速に廿六木たちを取り囲む。至近距離で取り囲まれてしまっては、拳銃しか武器のない京本ではどうにもならない。誰もが終わりを悟った、その時。
 方位の一角が、崩れ去った。
 戦闘員三体が、音も無く潰されたのである。プレス機にかけられたようにひしゃげた戦闘員の残骸が、別々に地面に転がった。
 状況を察知したクルツは、直ちに戦闘員たちに密集隊形をとらせた。
「あらわれおったな、忌々しいミューティめ!」
 クルツが睨みつける先。
 折り重なる戦闘員の残骸の向こうに彼はいた。
 揺るぎない力強さを秘めた逞しく均整の取れた肉体。その鍛え上げられた身体を包むのは、黒いロングコート。マスクから露出した散切りの頭髪は野趣を醸し、同じく露出した口元は揺るぎない意志を込め真一文字に結ばれている。その証拠に眼光は刃物のように鋭く、眼差しはどこまでも清冽だ。
「おそいぜ、ヒーロー」
 と、京本。少年のような瞳を黒コートの男に向けている。嬉しそうだ。
(本当に、こんなことはロスでは日常茶飯事だったぜ。いや、むしろニューヨークかな)
 見上げる廿六木の顔は、赤一色の上に血液の妙な光沢で表情は判らないが、目には安堵の色が窺える。
 そう、この男こそ酉野市のヒーロー。その名は―Mr.グラヴィティ。
「グラヴィ!」
 吉祥の大将が叫んだ。
「たのむよ、あいつらをやっつけてくれ。このままだと、お代を取り損ねちまう」
 存外にしっかり者の大将。誰のものか定かではないが、舌打ちが聞こえる。
 Mr.グラヴィティ、通称グラヴィは深く頷いた。
「ああ、任せておけ」
 言うや否や、姿が消える。いや、消えたのではない。スライディングで戦闘員たちの足元に滑り込んだのだ。そして、手のひらをかざす。鎧袖一触。コートが翻る間に、戦闘員四体が瞬時に残骸と化した。
「わお、ジェダイみてぇだ!」
 客の一人が歓声を上げた。
 クルツを守ろうと立ちふさがった最後の戦闘員が正拳突で粉砕される。その残骸をかき分けるように、突き進むグラヴィ。
「おのれ面妖な!」
 クルツが叫び、サーベルを抜く。そのまま一気に振り下ろした。グラヴィは身をひねってそれをかわすと、サーベルの腹に拳を叩き込んだ。クルツの軍刀は砕け、中ほどから刀身を失ってしまう。虚空に閃く光。二度、三度。そして、グラヴィは返す体でクルツにパンチをお見舞いした。地に突き立つ折れた刃。同時にクルツは、Mr.グラヴィティの前に膝をついた。
「もういいだろう。大人しく警察へ出頭しろ」
 武器を失ったクルツの顔が、みるみる青くなっていく。
 だが、そこへ。
 ゴゥ、と空気を裂き圧倒的な質量が押し寄せる。
「どけい、クルツ!」
 ブラーボだ。ディアマンテのアームがグラヴィを直撃した。アスファルトが弾け、道路が抉れる。爪が深く大地に食い込みクレーター状に砂利が露出した。飛び散った様々なものに巻き込まれ、クルツは大の字になって転がった。
「ふはははは。多少手順が狂ったがまあ良い。ついにMr.グラヴィティを倒したぞ。そこの刑事、しかと見たな。ワシの勝利をな!」
 ブラーボの高笑い。廿六木たちの目の前で、ビルすら一撃で粉砕するディアマンテの爪がグラヴィを押しつぶしたのだ。これでは、もはや生きてはいまい。彼が鋼の男でない限り。
 だが。ディアマンテの爪が、ぐらりと揺れた。
 その様な動作は指示していないのか、メタルカが怪訝な表情を浮かべる。ブラーボも同様だろうが、あいにく顔がないので判らない。
 再び、揺れる。そして押し戻されていく。爪が大地から離れた時、そこにいたのはグラヴィだった。アームはさらに押し戻され、グラヴィが完全に立ち上がる。それと同時に、アームは四方から強烈な圧力が掛かったかのように圧壊した。
「なにぃ!?」
 ブラーボが叫ぶ。ディアマンテは海中への隠匿も考えて設計している為、水深100メートルの水圧程度には耐えられるように作られている。幾らアームの先端部分とはいえ、あっさりと潰れるような粗末な作りではないのだ。
 グラヴィは力を失ったアームを放り出すと、宙に浮いた。すかさず、残りのアームが殺到する。だがグラヴィは空中で細かく軌道を変え三つの暴風をかい潜り、ディアマンテの直上に躍り出た。月光を受け、コートが翻り髪が揺れる。
「ブラーボ様!」
 メタルカが叫ぶ。目線の先、頭上。右の拳を振りかぶったグラヴィが、渾身の一撃を繰り出すべく加速、落下してくる。
「ちいッ!」
 光芒が弾けた。
 全力をもって叩きつけられた拳は、しかし、ブラーボたちの20センチ手前の空間で光の壁によって食い止められた。
「ふははははッ!残念だったのぅ!」
「ち。フォースシールドかッ。だが!」
 宙に留まったままのグラヴィは更に気合を込める。ほどなく、ディアマンテのシステムがアラームの悲鳴を上げた。
「どうした!」
 あわてて、計器をチェックするメタルカ。
「大変! 反重力推進装置がオーバーヒート寸前です!」
 続いて、ブラーボにデータが入る。ディアマンテの移動には反重力推進システムが使われており、平時はディアマンテの重量を丁度相殺する−1Gの重力をかけて浮かばせている。だが、先ほどからディアマンテの重量が増大し続け、システムの許容範囲を大きく超えたのである。不可解な現象だが、原因は明白だ。目の前にいる男の特殊能力のなせる業だ。
「おのれ、Mr.グラヴィティ!」
 ブラーボが叫ぶ。
 Mr.グラヴィティはその名の通り重力を操る能力を持つ。効果範囲こそ自身の周囲5メートルに限定されるが、任意の強さの重力をあらゆる方向にかけることが出来るのだ。グラヴィはそれを利用して戦闘時には己の拳や脚が当たると同時に対象に強力な重力をかけることで攻撃力を保っている。そして今、グラヴィはブラーボのフォースシールドに当たっている右拳とは別に、左手からパワーを発しディアマンテの上面装甲に重力をかけて続けているのだ。
 そしてついに。轟音をあげて、ディアマンテは落下し地面に突き刺さった。
「ブラーボ様!」
 メタルカが悲鳴を上げる。ディスプレイを兼ねたサングラスに、被害状況が表示される。
「側面、装甲に亀裂です!」
 ディアマンテの前面と背面の装甲はそれぞれ一枚板で、左右の側面にはその合わせ目が走る形になっている。グラヴィの能力により増大した上面装甲の重量に耐え切れず、つい全体が歪んだのだ。ブラーボたちの足場がどんどん傾いていく。
「これだけの力なら、フォースシールドを破るのも可能なはず…。こやつめ、あえてシールドを破らずに均衡状態を維持しておるのか! ディアマンテのみを破壊する為に!」
 その意図を察したブラーボが絶叫する。
「メタルカ! シールドを解除しろ!」
「しかし…」
「はやくしろ!」
 シールドが消えた。ブラーボの声でこの事態を予測していたグラヴィは体制を崩すことは無かった。だが、
「喰らえぃ!」
 ブラーボの絶叫とともに、彼の容器のメカ部分からレーザーが発射された。だがグラヴィは重力操作で光の軌道を曲げることで回避する。
「そんなもの、効かないぞ」
「…わかっているとも」
 俄然、不敵な態度のブラーボ。
「俺がお前たちに対して力を使わないとでも?」
「知らん。お前のような男の考える事は全く理解できん。じゃが、今は注意が一瞬でも逸れれば、それでいい」
 勝ち誇ったブラーボの声。それとともに、ディアマンテのアームが自らの上面装甲をつかんだ。そして、持ち上げた。このアームは、当然のことながら自分より重いものを支えられるようにできているのである。こうして出来た隙間に残りの二本のアームがねじ込まれ、隙間を広げていく。
「さあ、早くどうにかするんだな! ディアマンテはコイツを放り投げるぞッ!」
 ブラーボの絶叫とともに、上面装甲が外れる。そしてメタルカはブラーボを抱え回れ右、一目散に走り、飛び降りた。
「緊急離脱システム起動!」
 ブラーボの信号で、ディアマンテは下面のロケットを点火した。盛大な轟音と煙の柱が立ち昇る。同時に上面装甲は、グラヴィを乗せたままフリスビーよろしく投擲された。それも住宅地の方向へ。
「ちいッ」
 グラヴィは上面装甲へかけていたパワーを反転させ、重量を相殺した。さらに姿勢制御、減速を試みる。だが、たとえ重量は0でも直径20メートルの特殊合金製円盤の質量、空気抵抗は巨大なものだ。渾身の力をこめ上面装甲の向きを変える。それによって、円盤は風に乗り高度を上げた。そして、その勢いを利用し反転、海へ向けて投擲した。巨大な円盤は真っ直ぐ海面に突っ込み、さらに絶妙な進入角度のおかげで殆ど波飛沫を上げることなく海中へと没していった。
 一息ついたグラヴィが見上げると、ディアマンテは爆炎の尾を引いて夜空の彼方へと消えていった。
 そして裏路地の物陰で、ブラーボたちも自動操縦で基地へと帰還する愛機を見上げていた。もちろん、置き土産は忘れない。
「覚えておれー」
 …小声の、捨て台詞ひとつだけ、だったが。
 
 視界が晴れる。
 そこにあったのは、多少ビルが崩れたり道路が抉れたりしていたが、いつもの静かな酉野市だった。
「終わったか」
 すでに立ち上がっていた京本は、顎に手を当て腰を入れたポーズで遠くを見つめていた。大将や客たちも、頭や腰を抑えながら、よろよろと立ち上がる。
「刑事さん、立てるかい?」
 大将に手を貸され、廿六木も立ち上がった。出血は既に止まっている。
「ありがとうございます。皆さん無事ですか?」
 周りを見回す大将。客の顔を確認する。そして、青ざめた。
「Tシャツの兄ちゃんがいねぇ」
 客も、それぞれの顔を見合わせている。
「確かですか?」
「ああ。馴染みさんだし、年中Tシャツだから見間違えるはずはねぇ。確かに、店にはいたんだ。今日は給料日だとかで、チャーシュー麺の大にライス大盛りだったから間違いねぇ。まさか…あのとき…」
 泣きそうな顔になる大将。
 確かに今までの成り行き上、誰かがいなくなるとすればディアマンテのアームに攻撃された時以外にありえない。あれをかわし損ねたということになれば…。
 だが。気の抜けるような声が、重苦しい空気を吹き飛ばした。
「すいませーん。はぐれちまったみたいで。失敬失敬」
 一同が視線を向ける。そこには、Tシャツにジャージという飾り気の無い格好の青年がいた。
「兄ちゃん!無事だったか」
 途端、笑顔が周囲を包んだ。これで、あの場にいた者は全員無事だったということになる。廿六木の耳元で、京本が冗談めかして囁いた。
「良かったな、クビが繋がって」
「え、ええ」
 曖昧に笑う廿六木。ふたりとも何か引っかかるものを感じていたが、今は全員の無事を素直に喜ぶことにした。
 かくして、ドクター・ブラーボによる何度目かの騒擾事件は終わりを告げた。
 酉野市に赴任しておよそ一カ月。廿六木は、日本でもブラーボのような連中がウロウロしているとは思ってはいなかった。だが、今の状況にやりがいを感じているのもまた、事実だった。
「ま、これくらいロスじゃ日常茶飯事だったし。どうってことないです」
 廿六木は月を見上げ、そう呟いた。
「…ヒーローの足を引っ張ることがかい?」
「京本さん…さっきから意地悪ですね」
「そんなこたぁねぇよ。あー。あと、早く顔を洗え。怖いんだよ。殆どゾンビだぞ」
 大流血に見舞われた廿六木の顔は、半端に固まったゼリー状の血やらくっついた土やらで赤と黒が絶妙に入り混じりドロドロの状態になっていた。その有様はホラー映画の特殊メイク以外の何物でもない。
 それを見た大将とお客たちは大いに笑いあう。今しがた恐ろしい目にあったばかりだというのに、随分と逞しいものである。刑事二人の顔にも、笑みが漏れる。
 廿六木は周りを見わたした。だが―。
 Mr.グラヴィティは消えていた。
 
 
2−
 そこは、ふたりだけの世界。
 厚いカーテンの隙間を抜けた朝の光だけが外の様子を知らせてくれる。
 薄闇に浮かぶ白いシーツに少女の柔らかい裸身が横たわっていた。その透き通るような肌はすっかり上気して、桃色に染まっている。
「あーっ…あなた…あなたぁ…っ!」
 夫、蛍太郎の腹の下で、その少女は熱に浮かされたような声で鳴いた。
 乱れたシーツに仰向けになって沈む少女の、豊かな胸と適度に細く適度に肉付きの良い身体がゆっくりと波打つのを愛しげに眺めながら、蛍太郎は自らの先端を少女の入り口から奥まで、全てを探るように往復させ、じっくりと味わう。それによって、ふたりが奥で触れ合うたびに少女は嬌声を上げた。
「可愛いよ、璃音ちゃん」
 名を呼ばれ、少女の身体が熱を増す。自らの痴態が信じられないのか、「いや、いや」と首を振る。そのたびに唇の端から涎が漏れ、先の丸い顎をつたった。
「…もっと…もっと欲しい…」
 息を切らせ、涙で潤んだ瞳で見上げてくる妻に、蛍太郎は囁いた。
「判った。激しくするよ」
「うん…ああっ!」
 璃音の返事を待たずに、それは始まった。蛍太郎は璃音の腰を両手でガッチリと支え、今までとは違い遠慮無しに、彼女の奥深くを突き崩さんばかりの勢いで律動する。
 脚をM字に大きく開いて両腕を投げ出した格好で、完全に無抵抗のまま璃音はそれを受け止めた。ひと突きごとに、頭の中が白く塗りつぶされ、何も考えられなくなっていく。ただ、蛍太郎が「璃音、璃音っ」と自分の名を呼んでくれているのだけは、しっかりと届いていた。
「出すよ…っ」
 一際強く深く、蛍太郎は妻の奥を抉り、そのまま己を解き放った。ビクビクと身を震わすたびに熱いものを少女の胎に注ぎこむ。
 同時に、璃音も頂に達した。
「あなたぁ…、あああっ! あああああああああーっ!!」
「璃音っ」
 蛍太郎が、最後のひと突きとともに璃音の身体を強く抱きしめる。燃えるように熱い男の体を内と外で味わいながら、璃音は快楽がもたらした真っ白い闇へと意識を放棄した。
 
「あ…」
 くすぐったいような心地良いような、そんな奇妙な感覚が、多幸感に沈んでいた璃音の思考を呼び起こした。
 璃音はまだ、ベッドの上にいる。それに覆いかぶさるようにして、蛍太郎は頬や耳朶にひっきりなしにキスを浴びせていた。
「お目覚めのキス、だね」
 と、微笑むと、蛍太郎は照れてしまったのか目を逸らした。
「相変わらず可愛いね、あなた」
 璃音は笑う。
「男に可愛いって言うな」
 ちょっとだけ不貞腐れてしまった蛍太郎に「ごめんね」と手を合わせてから、璃音は言った。
「いっぱい出た?」
「まあね」
 少し間をおいてから、璃音は続ける。
「そっかぁ。えへへ〜、幸せだなぁ。
 …あなたの赤ちゃん、産んであげたいなぁ。早い方がいいと思うんだよ。だって、三十過ぎたら体力的に育児とか辛いと思うもん」
「あのね、そんな短期間にすごい勢いで衰えるわけ無いだろ」
 蛍太郎は首を振る。
「で、それは何。今日は大丈夫だろうってお願いしたこと対するあてつけなの?」
「そんなつもりじゃないよ。わたしだって、中に出されるの好きだから…」
 すっかりションボリしてしまった蛍太郎の頭を撫でてやる璃音。それで少し元気を取り戻したものの、蛍太郎は口を尖らせてしまっている。そんな癖をつけた張本人が自分だということは忘れてはいない。
「僕としては、璃音ちゃんには自立した女性になってもらいたいんだよ。だって…僕のほうが先に死ぬんだから、その時のためにちゃんと勉強して仕事にも就いてて欲しいわけ。まあ現状、何だかんだでよくやってくれてるけどさ」
 褒められて、璃音の頬が緩む。それから、眉を上げて真っ直ぐに蛍太郎の目を覗き込んだ。
「何…?」
 突然璃音の表情が変わったので、蛍太郎は焦ってしまう。別に拙い事を言ってはいないハズだが…と、先ほどの発言を頭の中で反芻していると、璃音がゆっくりと口を開いた。
「あなたが死んでも、追いかけてくよ」
 蛍太郎の表情が固まる。だが、璃音は対照的に笑顔で言葉を続けた。
「あ、別に後追い自殺しようっていうんじゃなくて。地獄の果てだろうとどこだろうと、会いに行くってこと。死んだくらいで、わたしから離れられるなんて思って欲しくないなぁ、なんてね」
 確かにこの少女なら…そのころには婆さんになってるかもしれないが、璃音ならそれくらいのことはするだろう。蛍太郎がそう思うのと、ふたりの唇が触れるのとは殆ど同時だった。そのあと、ふたりで顔を見合わせると、照れくさくなって笑ってしまう。少しして、璃音は蛍太郎の首に腕を絡めた。そして悪戯っぽい表情でその顔を見上げる。
「もういっかいする?」
 その誘惑は抗し難いものがあったが、蛍太郎はベッドに置かれた時計を見て言った。
「残念だけど、そろそろ時間だよ。僕はいいけど、璃音ちゃんは準備しなきゃ。学校に遅れちゃう」
 璃音も時計を見て、タメ息を吐く。そんな璃音の頬にキスをしてから、蛍太郎は身を起した。
「じゃあ、朝ごはん準備しとくから、シャワー浴びてきなよ」
「あなたは?」
「璃音ちゃんが行ってからで大丈夫」
 そう言って、ベッドから脚を下ろした蛍太郎を、璃音は「待って」引き止めた。
「何?」
「こっち向いて」
 言われるままに、身体を璃音の方へ向ける蛍太郎。璃音は身体を寄せて、蛍太郎の下腹を手で触れた。
「あなたにご飯作らせといて、わたしだけシャワーっていうのもなんだから…ここ、キレイにしてあげたいんだけど…」
「ん? 自分で拭くからいいよ」
 璃音は顔を耳まで真っ赤にして、夫の顔を見上げる。
「…お口でだけど。いやかな?」
 その言葉は、蛍太郎に直撃した。
 璃音は今までも口でしてくれるが、蛍太郎のお願いをきいた形で、自分から言い出したことは無い。それだけに、蛍太郎は感無量だ。
「よろしくおねがいします」
 殆ど流されるように返事をした。
「えへへ。ちょっと恥ずかしいかな」
 璃音は目を伏せながらも、嬉しそうに"それ"に手を添えると先端に口をつけ、残っている物を指で押し出しながら吸い始めた。
「うわ、ちょっと待って…あっ」
「なに?」
 上目遣いで見上げる璃音。その視線はマズイ。おかげで、実に素直に蛍太郎のは屹立した。
「そんなの、教えたっけ?」
「ひみつ♪」
 それから蛍太郎は、教えた覚えの無いことをしてくれる璃音に翻弄され、その喉奥にたっぷりと出してしまうことになった。その後、璃音は喜色満面で、蛍太郎にキスをした。

 
 璃音の家があるのは住宅地外れの小高い丘の上で、その丘自体が藤宮の地所だ。その頂上一帯の林に囲まれて立つ、和風の門構えの大きな屋敷が藤宮邸である。
 戦前からの和風建築を改修した部分と洋風に立て替えた部分を併せ持つ立派な屋敷で、西側と東側に分けられるくらいの大きさだ。
 璃音たちが住んでいるのは玄関がついている東側の母屋のほうだが、今のところは、璃音の部屋、その姉である斐美花の部屋と、この春からやってきた綺子の部屋、義父から受け継いで蛍太郎が使っている書斎、そして厨房とリビングくらいしか使っておらず、他には一番上の姉である侑希音が帰ってきたときに彼女の部屋が使われる程度だ。
 蛍太郎の部屋と夫婦の寝室は、結婚が決まってから建てられた離れに収まっている。ここは流し台とトイレは備えているがさすがに浴室までは付いていないので、ベッドから這い出した璃音は寝間着代わりにしている夫のワイシャツを羽織ると、渡り廊下を歩いて母屋の浴室へ向かった。
 ドアをノックするすぐ、「はーい」と中から声が返ってきた。それが誰の物かは効いた瞬間に判ったので、璃音は遠慮無く声をかけた。
「わたしー。シャワー浴びたいんだけどいいかな」
「いいよー。今、終わったとこだから」
 ドアを開けると、姉の斐美花が腰まで届く長い髪をタオルで拭いていた。身長は璃音より二十センチ近く高く、肉づきの良い身体をより均整の取れたものにしている。
 藤宮斐美花は二十歳の大学三年生。釣り目がちの涼やかな眼差しと桜色の唇が印象的な、文句なしの美女だ。そのうえ、小学から高校まで全寮制ミッションスクールに通っていたこともあり、どこか浮世離れした空気をまとっている。
「おはよう」
 斐美花は大きな黒い瞳を向けて柔らかく微笑んだ。目の前に居るのが妹だからか、それとも女子高育ちのためか、身体を隠す気配も無い。僅かに上気した白桃色の肌を水滴が輝かせ、濡れた黒髪とともに彼女の美貌を際立てていて、同性であり姉妹でもある璃音ですら見蕩れてしまうほどだ。
「おはよう。今日も、授業早いの?」
 自慢の髪にタオルを押し当てながら、斐美花が答えた。
「三講目から。だからゆっくりしてていんだけどね」
 長い寄宿学校生活ゆえか、斐美花は生活パターンが非常に規則正しい。せっかく良い習慣が身についているのだから、それを敢えて崩す事もない。
「それより、璃音。のんびりしてていいの? …ちゃんと洗わないとマズイよ」
 そう言って、斐美花は頬を赤くした。
 璃音は姉の様子に首を傾げたが、自分の身体の臭いに気付いて苦笑した。朝ので汗だくになったのはもちろんだが、昨夜は夫に全身を甘噛みされたことを思い出し、璃音も耳まで真っ赤になってしまう。
「あははは…そうだね。じゃあ」
 と、璃音はワイシャツを洗濯籠に放り込んで浴室に入った。
 その後姿を見送りながら、斐美花は呟く。
「下に、何も穿いてなかったのね…」
 
「いってきまーす」
「いってらっしゃい」
 午前八時。璃音は、エプロン姿の夫に見送られて玄関を出た。学校への道のりは、広い前庭を横切った先の門に向かうことから始まる。
 足取りは軽く、ただでさえ締まりの無い眉が見事な曲線を描いて下に向かっており、今の気分の良さが表れている。こうしてピョコピョコと歩いている制服の袖が余って手のひらをすっぽりと覆い隠しているのが余計に目立つが、それが可愛らしいと各所で評判である。だが、別にそれを狙っているわけではなく、丈をぴっちり合わせると他の場所がキツくなってしまうからという正当な理由がある。
 少し歩くと、石畳の上に黒くて大きな猫が座っていた。
 璃音の飼い猫、ツナである。
 五年程前に璃音が拾ってきた野良猫で、名前は有名なゲームに登場する白猫に対抗して侑希音がつけたものだ。朝は庭を一回りするのが日課で、璃音が学校に行く日はこうして見送りしてくれる。
「おはよう、ツナ」
 璃音はしゃがんで、ツナの頭を撫でた。ツナは気持良さそうに喉を鳴らしてから、璃音の太腿や腰に自分の身体を擦りつけながら一周し、それから飼い主を見上げた。
「うん、そろそろ時間だね」
 璃音は腰を上げ歩き出す。ツナはその横に並んで着いて行き、門のところで止まった。
「いってきまーす」
 ツナに手を振って、璃音は門から続く坂道へと駆け出した。
 彼女が通う英春学院へは徒歩で二十分ほど。道中、街の中心部であるオフィス・官庁街を通り抜けていく。
 十分も歩くと道の先に幾つかビルが見えてきた。かつては市役所や警察署など行政機関のオフィスくらいしかなかったこの区画も、再開発によって幾つかの企業が進出し、随分とビルも増えた。
 この酉野市は、日本を代表する企業グループのひとつ、貴洛院の発祥地だが、それが街自体の活気に結びつくわけもない。外の人間には鄙びた避暑地として人気があったようだが、実際に住んでいる者にとっては、良く言えば海と山の美しい静かな街であり、悪く言えば何の刺激も面白味もない文化果つる地であった。つまりは、どこにでもある、死にかけた地方都市にの一つにすぎなかった。
 だが、それも十年前までの話。
 酉野出身である事を恥じるかのように地元無視を決め込んでいた貴洛院は、何を思ったか街の再開発に着手。その一環として、三城と呼ばれる丘陵地帯を拓き三城大学を設立した。高度かつ多様な研究施設を備える同校の存在によって、また周囲に遊ぶ場所が皆無なこと、そして陸の孤島とでもいうべき地理的条件により、酉野は学研都市へと変貌していったのである。
 そして道の先にあるその街並は、ビルが所々崩れ落ち朝も早くからヘリやら消防車やらが十重二十重だ。
「ありゃりゃ…またなんか出たのかな」
 璃音は呟いた。朝は須らく時間がないのだから、交通規制がかかっていると面倒なことになる。そんな事を考えていると、ビルの隙間から黒煙が上がった。
 どうやら、騒動は進行中のようである。
 
 
3−
 外からの爆発音に、廿六木は思わず首をすくめた。額のガーゼと、頭を覆うネット包帯が痛々しい。夜勤明けで帰途に着いた廿六木は、京本に付き合って一緒にコンビニエンスストア・オーソンに来ていた。その理由は、今日から玩具付き菓子、通称"食玩"の先行販売だからである。実際、京本の手には、懐かしい仮面ヒーローの写真が載った箱が握られていた。玩具付き菓子といっても菓子はラムネ一粒で、価格三百円の大半はオマケの塩ビ製フィギュアものなのである。当初は馬鹿にしていた廿六木だったが、ここ数年の食玩フィギュアは飛躍的に進化を遂げており、そのリアリティには大いに驚いた。これも中国のオバチャン、いやオネーサン達のお陰である。
「お客さん、これですね?」
 学生バイトの兄ちゃんが、大きな箱を持ってくる。それには、京本が持っている箱と同じような写真がグレースケールで印刷されていた。
「おう、これだ。抜いたりしてないだろうな」
 と、京本。
「勿論っすよ。ほら、未開封でしょう」
 兄ちゃんは既に京本と馴染みなのだろう。応対も手馴れたもので、箱の側面の開封口を指差して見せた。確かに、この箱には開けた形跡はない。
「グッド。こいつを頂こうか」
 京本は頷いた。
 廿六木は、京本の一連の行動に対する疑問を素直にぶつけてみる事にした。
「京本さん、このデカイ箱はなんですか?」
「ん。この、"超仮面・魂"の十二個入りだ」
 と、手に持った小さい箱をヒラヒラさせる京本。
「つまり、この大きい箱はこいつの最小入荷単位というわけだな。で、コイツを丸ごと買うことを、箱買いという」
「はあ、なんつーか、大人気ないっすね」
 廿六木の言葉に、呆れたようなそぶりを見せる京本。
「何を言っている。大人だから出来るんだろ。これぞ必殺の"大人買い"というヤツさ。このようなブラインドタイプ、つまり中に何が入っている判らないものをコンプリートするには、こうやって箱買いするのが最も効率よく、かつ経済的だ」
「なるほど。後になればなるほど、ダブる確率が上がりますもんね。俺もよく泣いたもんです。昔にね」
「ただ、こいつはシークレットを含めると一箱ではコンプリート出来ない極悪アソートだ。だから、ダブったヤツは売りに出して、無いヤツはバラで買うってことになるな。なるべくなら、高値が付くやつは自力で引けることを願ってるぜ」
「へぇ。色々大変なんですね」
 この様な苦労を重ねることで、京本のデスクに陳列されたヒーロー軍団、通称"京本コレクション"に新たな仲間たちが加わっていく事を知り、廿六木は半ば驚き半ば呆れていた。
「で、これが最後の質問ですが…」
 少し、神妙な面持ちになった廿六木。
「…俺たち、なんで暢気にフィギュア話なんかしてるんですか? 外は大変なことになってますよ」
 丁度道路を挟んだ反対側では、赤いタイツと奇妙なヘルメットを着用した男が破壊活動を行っていた。年の頃は十代後半程度だろうが、ヘルメットに付いたバイザーとマスクのお陰でそれも定かではない。酉野市では半年ほど前から、このような格好をした集団による騒擾事件が続いていた。
 彼らは、酉野紫。
 元はこの街を中心に活動する暴走族で、特攻服を着て改造バイクに跨り自己の存在証明とやらに励んでいたが、Mr.グラヴィティの手により壊滅した。だが、どういうわけか特殊能力を持ったタイツ男の集団として復活し、現在は警察も手を焼く立派なスーパーヴィランとなったのである。
「ヒャッホウ!」
 赤い男は意味不明な奇声を上げると手のひらをかざす。一瞬のち、廿六木から見て斜向かいにある、ここと同系列コンビニの看板が炎上、爆発した。
 この赤いタイツの男はバーナー。炎を操る特殊能力を持ち、常人のニ十倍の筋力を持つバケモノだ。
 燃え上がる看板をひとしきり眺めていたバーナーは、路駐してあった車を二本の腕でひっくり返す。自らのパワーにご満悦なのか、両耳の上辺りから吹き出る炎がいかにも機嫌良さ気である。
 この状況、幾ら非番とはいえ色々な意味でマズい。
 廿六木は上司に目で訴えた。だが京本は大事そうに箱を抱え、真顔で反論する。
「そんなこと言ったってよ。これ、今日発売だぜ。この街は暇な学生が多いからよ、社会人は不利なんだ。早く買わないと無くなっちまうじゃないか」
 「そ、そんな理由だったんですか!」
「い、いや、廿六木。これを買ったら俺も市民の避難誘導に協力するからさ」
「っていうか…そろそろヤバいですよ、京本さん。ここの人たち連れて逃げましょうよ」
 京本は頷くと、店員に声をかけた。
「おい兄ちゃん。避難するから、レジに鍵かけとけよ。それから…」
 そこまで言ったところで、店員が口を挟んだ。
「その前にお客さん、お金払ってくださいね」
 この店員、存外にしっかり者であった。
 京本が財布をまさぐっている間にも、廿六木は客と従業員を集める。この手の店舗には裏口など無いので、出入り口から店前の駐車場へ、そろそろと出て行くことになった。
 
 交通規制などはなかったので、璃音はとりあえずいつも通りの道を歩く。だが行く先ではいくつかのビルが倒壊しており、また火柱が上がっていた。
「随分元気なのが出たなぁ…」
 実際にはビルの方は夜に現れたブラーボが、火柱は今現在暴れているバーナーがそれぞれ原因なのだが、璃音はそれを知らない。
 少しすると、贔屓にしているオーソンの前に来る。だがそこから、店員から客からが列になってゾロゾロと出てくるのを見て、璃音は目を丸くした。
「どうしたんですかー」
 訊かれて、店員の兄ちゃんが答える。
「ああ、避難ですよ避難。ここヤバいから」
 通常なら学生バイトには敬遠される朝の時間帯だが、この店は例外である。学校がある日には必ず可愛い童顔巨乳女子高生が現れ、中華まんやパンを買っていくからだ。この兄ちゃんもそれがお目当てで働いているようなものなので、上下に視線を彷徨わせて璃音を見ていたが、すぐに我に返る。
「そうだ、君も逃げないと」
 そう言ってドサクサ紛れに手を握ろうとしたが、後ろからの咳払いに阻まれた。
「えーと、何をしているんだね、君は」
 廿六木だ。
「で、そこの君」
 璃音に手招きをしながら言う。
「俺は酉野市警の廿六木警部補だ。ここは見ての通りだから、避難する。一緒に来てくれ」
 だが璃音はどうしたことか、廿六木の名と階級を聞いた途端にプッと吹きだしていた。一転して鋭い目つきとなる廿六木。
「君…。まさか俺のことを、バッタモノくさい名前だとか思ったんじゃないだろうね?」
 璃音はブンブンと首を振ったが、図星である。
「くそ…許さん、許さんぞ…。本官侮辱罪で逮捕してやろうか…それとも、あそこにいる火炎バカ魔人の前に突き出してやろうか…」
 ブツブツとおかしなことを口走りだした廿六木だったが、京本に頭をしばかれて正気に戻った。
「…なにやってんだ、おまえ」
「ああぁ…すんませんすんませんすんません…」
 ペコペコと必死に頭を下げる廿六木。ひとしきり謝ってから顔を上げると、その目は驚きに見開かれた。
 なんと、廿六木の周りには誰もいなかった。
 京本もバイトの兄ちゃんも、他の客も姿が見えない。その代わり目の前に仁王立ちしているのはバーナーだ。さらにバーナーは璃音の腕を握り、捕まえていた。
「痛いよ、離して!」
 抵抗を試みる璃音だったが、常人の二十倍の筋力を振りほどくことなどできはしない。…パワーを使いさえすれば、話は別だが。
 廿六木が叫ぶ。
「何をするんだ!」
 バーナーは、平然と答えた。
「何って、オッサンが言ったんじゃん。こいつをオレに差し出すってさ」
「な…オッサ…ッ!?」
 廿六木の眉がつりあがり、懐に手を突っ込む。明らかに発砲するつもりだ。それを止めるべく、遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「おーい、激昂するところはそこじゃないだろー!」
 我に返った廿六木が周囲を見渡すと、遠くの電柱の影から京本がこちらをのぞきこんでいるのが見える。そのさらに向こうには、一目散に逃げる店員と客。いつの間にか自分が囮となっている事実に、廿六木は愕然とした。
 目の前の男は明らかに頼りにならない事を悟り、璃音も覚悟を決めた。自分でこの場を切り抜けるしかない。
 目を閉じ精神を集中、ディヴァインパワーのスイッチをオンにした、その瞬間。鋭い音が空気を裂いた。
「ぬわっ…」
 悲鳴か驚きの声か。それはバーナーの口から漏れたものだった。ヘルメットのバイザーに、どこから飛んできたのか、クナイが突き立っていたのだ。
 次いで、もう一本。今度はバーナーの肩口を掠め、アスファルトに突き刺さる。傷を負わせる意図はなかったようだが、驚きから腕の力が緩む。その隙に、璃音は転げるようにしてバーナーから逃れた。慌てて辺りを伺ったバーナーだったが、クナイを投げたと思われる相手はどこにも見えない。
 見えない何者かによる愚弄とも取れるような行為に、バーナーは文字通りに火を噴いて怒り狂った。
「クソッ、何なんだッ!? 出てきやがれ!」
 静寂。
 普通、出て来いと言われて本当に出てくる者など居い。だが、彼は意外と自己顕示欲が強いのかもしれない。駐車場の真ん中の何も無いと思われた空間に、いつの間にかその男は立っていた。
 鍛え上げられた長身をクラシカルな忍者装束につつみ、頭巾の代わりに覆面で口元を覆っていた。もちろん、背には忍者刀。まさに、見紛う事なき忍者である。
「テメェは…」
 マスクの下に冷や汗が浮かぶのをバーナーは感じていた。最近になって忍者姿のヒーローが現れたという噂は耳にしていた。話を聞く限りは所詮は大した物じゃないだろうとタカを括っていたのだが、実際に目の当たりにすると達人だけが持つオーラのようなものを確かに感じさせる男だ。
 忍者は一歩前に進み出て、厳かに名乗る。それと、廿六木が叫ぶのと、殆ど同時に二人の声が響いた。
「斬月侠、見参」
「ニンジャマン! よかった、来てくれたんだな! 助けてくれよ!」
 再び、静寂が場を支配した。
 それを破ったのはバーナーだった。火を噴くどころか燃え上がりながら怒鳴る。
「くそ! …ニンジャマン! 邪魔するんじゃあねぇ!」
「いや、オレは…」
 忍者は訂正しようとするが、相手の勢いに負けて口ごもってしまった。バーナーが叫んだのは相手の凄みに萎縮したのを隠すためだったが、勢いだけはついたらしく気合を炎に変えて燃え上がる。 
 それを見て忍者の旗色が悪くなったと感じた廿六木は、大きな声で声援を送った。
「がんばれニンジャマン、負けるな!」
「だから、その…ニンジャマンじゃなくて…」
 忍者の覆面の下から当惑が見て取れる。それを見た璃音は、廿六木の背中をつついて振り向かせ、訊いた。
「ねえ、あの人ってザンゲツキョウって名乗ってませんでしたか?」
 それに、廿六木は明らかに呆れたような仕草で応える。
「何言ってんだ。忍者なんだからニンジャマンに決まってるだろう。皆、そう呼んでるぜ」
 バーナーも歯軋り混じりで呻くように言う。
「ああ、オレも聞いたことがあるぜ。ニンジャマンとかいう、いけ好かない野郎が現れたってな!」
「えーい、ニンジャマンじゃないってば! 斬月侠だって名乗っただろ!」 
 堪りかねて叫ぶニンジャマン、いや斬月侠。だが、バーナーの反応は自身の火達磨状態とは裏腹に冷たかった。
「あー、なんだそりゃ。だいたい、ザンゲツキョーってどんな意味なんだよ」
「同感ー。字面が浮かんでこないね。農協か嵐山かって感じだよな」
 と、廿六木も続く。警官が怪人と同調してどうするんだと璃音は思ったが、敢えて口には出さないでおく。璃音にしてみれば"斬月侠"という名はさして難しいとは思わないが、あまりに判りやすい外見に比べてインパクトが薄いという事はあるかもしれない。また、忍者ということで三城大の外国人留学生が敏感に反応しているという話も聞いたことがあることから、それも"ニンジャマン"という呼び名の普及に一役買っているのではないかと考えられた。
 いずれにせよこの忍者、本名(?)の認知度は低いらしい。
 せっかく出てきたのに無体な扱いを受け、斬月侠は頭を掻き毟って唸っていたが、思い出したようにバーナーに歩み寄り、いきなり殴りつけた。
「ペポッ!」
 よく判らない悲鳴を上げて、バーナーは倒れ伏した。潰れた蛙のように大の字になり、ピクリとも動かない。その光景に、廿六木は歓声を上げた。
 斬月侠は特に息を乱すような様子も無いが、どちらかといえば名前の件が堪えたのだろう。安堵のためにタメ息混じりで呟いた。
「…ふう、何しに来たのか忘れるところだった」
 その斬月侠のもとに、廿六木が飛び跳ねんばかりの勢いで駆け寄った。
「スゲェ、あいつを一撃かよ!」
 直後、廿六木は「パコン」という乾いた音とともに前につんのめった。後ろから現れた京本に頭をシバかれたのだ。
「バカ、何を興奮してるんだ」
「だって忍者ですよ忍者ッ。これが興奮せずにいられますか!」
「…それから、一撃じゃない。少なくともニ発は入れてたぞ。一瞬でな」
 京本の顔は険しい。その眼差しが鋭いのは、何も目バリのせいだけではない。
 この男は見ていた。斬月侠が文字通りに目にも留まらぬスピードでパンチを繰り出し、バーナーを昏倒させるのを。
 自動車を膂力のみでひっくり返すようなバケモノを、同じく素手で倒したという事実に、京本は脅威を感じずにはいられなかった。
 斬月侠は京本に軽く頭を下げてから、璃音の方を向き、
「災難だったな。では、これにて…」
 と、言って立ち去ろうとする。璃音は丁寧に頭を下げて礼を言った。
「ありがとうございます。凄いですね、一度に四発もなんて」
 その言葉に、斬月侠の目光に鋭い物が混じるが、すぐに眉を緩める。そして、冗談めかした口調で言った。
「ははは。もしかして、武道の心得があるとか。助けなくても良かったかな」
「いえいえ、そういうのは全然無いです」
「…そうか。では、今度こそ。さらば!」
 そう言うと、斬月侠は驚異的な跳躍力で隣のビルの屋上へと飛び上がり、そのまま建物の屋根伝いに走り、いずこかへ去って行った。
 璃音はひとしきり手を振ったあと、この場を後にした。
 何もすることがなく佇んでいる廿六木の傍らでは、駆けつけた警官隊が気絶したままのバーナーを囲み、寄って集って殴打している。その様子を見守りながら、京本は顎に手を当てた気障なポーズで思索に耽っていた。
 
 
4−
 妻を学校へ送り出したことで、蛍太郎の朝は終わった。今は、全自動洗濯機のアラームがなるまでの間にコーヒーで一服といったところである。
 璃音が学校に行っているうちは、蛍太郎が家事全般を引き受けることにしている。比較的時間に余裕がある職に就いているからということもあるが、こういった家事が性に合うというのが一番の理由だ。
 幸いなことに、璃音も家事は得意なほうだから夕飯の支度と片付けは毎日手伝ってくれるし、掃除にも協力的だ。そうやって、二人の関係を続けるための努力を怠らない妻に蛍太郎は感謝せずにはいられない。
 そうして、妻の面影を脳裏に浮かべて幸せを噛みしめていると、斐美花がリビングに現れた。
「蛍太郎さん、お片づけ済みましたよ」
 そういってソファに腰掛ける。斐美花も真面目な性格ゆえか、洗い物や掃除などは率先して手伝ってくれる。
 蛍太郎は彼女の分のコーヒーを注ぎ角砂糖を三つ入れ、勧めた。軽く頭を下げてから、斐美花はそれに口をつけた。
 時計を見ると洗濯機が止まる時間だったので、蛍太郎はカップを置く。窓の外は雲ひとつ無い青空だったので、洗い物を裏庭に干すことにした。それは斐美花も手伝ってくれたおかげで簡単に片付いたのだが、蛍太郎は一つ、重要な仕事を忘れていたことに気付いた。 
「…やっぱり、僕がやるんだよなぁ」
 この屋敷は東西に分かれ、渡り廊下で繋がっている。東側は通称母屋と呼ばれ璃音が暮らしているが、西館はというと、大正期から一族郎党が急激に減ったために空き部屋が増えてしまい、使われない時期が続いた。
 三城大学の前身である晴間美大が出来た時、当時の当主だった藤宮斐はそこを使い半ば道楽で学生向けのアパートを作ることにした。
 西館は住宅地開発のために潰した別荘の建材を移し改装され、その別荘の名をとって鶴泉荘(かくせんそう)と名付けられた。そしてそれは、斐が大道寺美音子と遅い結婚をする三十年前まで学生たちの家となり続けた。
 時は流れ、再び空き家となった鶴泉荘は三年前に行われた財産の生前分与により藤宮璃音の物となった。ただ、母屋があれば充分ということでそちら側を使う予定はなかったので、長女の侑希音からの希望により彼女に管理を任せることになった。
 そして父が亡くなった昨年六月、侑希音はかねてからの計画を実行に移した。どこからか集めた金と人間を用いて鶴泉荘の大改装を行ったのだ。その結果、鶴泉荘は外観こそ昭和の香りを残す瀟洒な洋館ながら、中身は近代的なワンルームマンションへと生まれ変わった。一階にあった厨房は倉庫になり共同浴室は閉鎖されたが、ロビーはそのまま住人たちの語らいの場として残されている。  
 出来上がってみると綺麗で女性に好まれそうなアパートになった鶴泉荘だったが、大家となった侑希音に全く商売っ気が無いために、入居者は少ない。それどころか、家賃据え置きで身内を入れたりするので、正直なところ家賃収入が維持費に追いついているのか、疑問なところもある。
 当の侑希音は、
「父さんが楽しそうに語っていた、思い出の鶴泉荘を再現したかっただけ」
 と、立派なことを言ってはいるが、今もどこか遠いところをほっつき歩いていて、大家の仕事を蛍太郎に押し付けているのだからたまったものではない。いずれ、侑希音も金にはあまり困っていないから、家賃よりも"鶴泉荘に人が住んでいること"の方が重要なのかもしれない。
「家賃のお話、ですか?」
 斐美花がバツの悪そうな顔で訊いてくるので、蛍太郎は軽く頷いた。
 月末が近くなると、家賃のことが問題になる。
 家賃は通常口座引き落としだが、そうでない住人からは直に納めてもらわないといけない。来週には月末だが、今月は連休になるので本人が捕まらない可能性がある。だから早めに声をかけて準備してもらおういうわけだ。
「ごめんなさい。ホントは侑希姉ぇがやることなのに…」
「いいよ。ほら、僕って一応ここの当主代行なわけだしさ」
 そう言って、蛍太郎は柔らかく微笑んだ。斐美花は安心したのかタメ息を吐くと、「私も行きます」と、後を付いてきた。
 蛍太郎たちは外を回って鶴泉荘へ向かった。そちらにも専用の入り口が用意されているのである。
 途中、母屋の玄関前に来ると、そこから綺子が飛び出してきた。
「あ。兄さん、斐美花、おはよう」
「おはよう」
 お互い、挨拶を交わす。
 今では屋敷に同居している綺子だが、大学入学で酉野に来た当初は、新婚と同居は辛いから別のところに住もうと考えていた。だが「せっかく増えた妹を放っておけるか」と侑希音が半ばムリヤリに屋敷へ招き入れたのだ。せめて鶴泉荘に入ろうと思っていたのだが、それも断られている。
 生真面目な綺子としては、侑希音のことは好きだし感謝もしているけれど、過分な配慮を受けている気がして少々居心地が悪いところがある。
「まあ、侑希音さんはああいう人だし。気持ちの赴くままやってるだけだから、綺子が気にすることは無いさ。素直に甘えたほうが、あの人は喜ぶよ。もちろん、僕もね」
 と、蛍太郎。綺子は首をかしげている。
「ああ、なんていうのかな。またいつものが始まるのかなぁと思って、先手打ってみたんだ。外しちゃった?」
「当たり。私って、そんなにワンパターンな女なのかなぁ」 
 軽くタメ息をついてから綺子は、
「じゃあ、学校行くわ。ふたりとも、授業で会いましょ」
 と、手をヒラヒラさせて蛍太郎たちと別れた。背後に原付バイクのエンジン音を聞きながら、蛍太郎は内心タメ息をついた。
(また失恋したな、ありゃ…)
 綺子が日本に来たのが三月で三城大に入学したのがこの四月。生真面目なくせに瞬間湯沸かし器よろしく惚れっぽい彼女のことだから、これっぽっちの期間に何があっても不思議ではない。ちなみに、最短記録は三日である。
 だが、向こうから言い出さない限りは相談に乗りようもないし、頼られても蛍太郎には大したアドバイスは出来そうもない。とりあえず、今日は酒を買っておいた方が良さそうだ。
「ふーん、さすが兄妹ですね」
 斐美花は何か嬉しそうに、蛍太郎を見上げてきた。
「そんなに長いこと一緒に居たわけじゃないんだけど、血の繋がりってヤツなのかなぁ」
 蛍太郎も、穏やかな顔で頷いていた。
 そうしているうちに、鶴泉荘の前に着く。靴を脱いで玄関ロビーに上った。
 鶴泉荘は、一階に二部屋、二階に六部屋という構成だが、今のところニ階の三部屋しか埋まっていない。
 うちひとつ、『夏藤(げとう)』とネームプレートが入っている部屋の住人は、どんな仕事をしているのかは知らないが毎月口座引き落としで家賃をいただいているから問題は無い。
 たが、その口座がスイス銀行なのはいかがなものだろう。
 もっとも、蛍太郎としては、ちゃんと払ってもらえるなら、金の出所については興味はない。…怖いから。
 その部屋は華麗にスルーして、『中村』の呼び鈴を押す。ここには三城の学生が入居しているが、今のところ、蛍太郎は学内でその姿を見たことはない。
 呼び鈴を三回押したところで、バタバタと騒々しい物音をたててドアが開いた。
「ども、おはようございます…」
 と、顔を出したのは、耳が隠れるくらいの長髪の青年である。身の丈は蛍太郎と同じくらいで、アスリートのような立派な体格をしている。なかなか男前なので、後で綺子を紹介してあげても良いかもしれない、などと埒もないことを思ってしまう。
 彼の名は中村トウキ。
 膝を押えているところからすると、先ほどの音は転倒したときに出たものらしい。そのように、どこか抜けてるというか、頼りない雰囲気がある男だ。よくよく考えてみれば、綺子が彼と顔を合わせていないということもないだろうから、そういうところが彼女のお気に召さなかったのかもしれない。…蛍太郎としては、どこか他人の気がしないのだが。
 トウキは、まず斐美花の方を見て少しの間呆けたように停止し、それから思い出したように蛍太郎の顔を見て、すぐ訪問の意図を察し、早々に頭を下げた。
「すいません、お金無いんです。一昨日、バイトクビになってしまって…」
「いえいえ。大家が良いって言ってますから、無いなら無いで別に…」
 蛍太郎もつられて頭を下げてしまう。
 苦学生だから、という理由で侑希音は家賃の取立てをしていないのだが、苦労しているわりに次々とバイトを辞めさせられているというのは、気にかからなくも無い。そんな状況を反映してか、トウキはTシャツとジーンズという飾り気の無い格好をしている。
「すいませんすいません…」
 トウキは何度も頭を下げてから部屋に引っ込んでいった。その三秒後。またしても騒々しくドアを開けて、飛び出してくる。
「やべぇ、遅れちまう!」
 悲鳴のように叫びながら、トウキは転がり落ちるように階段を駆け下り、実際に転がり落ちた。
「大変!」
 斐美花が飛び跳ねるように現場に駆けつける。蛍太郎もそちらへ行こうとしたが、すぐに外へ出て行く足音が聞こえてきたので、彼のことは置いておいて向かいの部屋へ向かった。
 これが、今のところ入居者がいる最後の部屋だ。 
 蛍太郎が呼び鈴に指を触れるのと同時に、ドアが開いた。
「あ、おはようございます」
 と、蛍太郎。
 現れたのは、黒いコートとアイマスクの男。酉野の平和を守るヒーロー、Mr.グラヴィティだ。
「おはよう」
 白い歯を見せて、グラヴィは爽やかに応えた。
 どういう経緯かは蛍太郎には判らないが、侑希音は家賃半額の交換条件にアパート内でのコスチューム着用を要求したらしい。しかも、ネームプレートに『Mr.グラヴィティ』とあるとおり、彼の本名を知らないままに賃貸契約を結んでいる。
 そういうことから、彼の家賃は口座引き落としというわけにはいかず、毎月手渡しということになっている。
 蛍太郎が訪問の目的を説明すると、
「ああ、なるほど。少し待っていてくれたまえ」
 と、封筒に入れた現金を持ってきてくれた。さすがはヒーロー、Mr.グラヴィティである。払いも潔い。
「では、私は行かなければならない。さらばだ」
「出動ですか?」
「いや、違う。私にも世を忍ぶ仮の姿というか、収入源というか、そういうものがあるからな。つまり今から、世を忍ぶ仮の出勤というわけだ」
 そう言うと、グラヴィは階段を下りていった。背中にしょったリュックサックに世を忍ぶ仮の衣装が入っているのだろう。
「いってらっしゃーい」
 蛍太郎は手を振って見送った。その後で彼がくれた封筒を見ると、いつも通り酉野銀行の物だった。
(Mr.グラヴィティ七つの秘密。メインバンクは酉野銀行ある…なんてね)
 謎に包まれたヒーローの秘密を一つ知っているというのは、偽装の可能性はさておき、なんとも鼻が高いものである。
 それから母屋に戻り金庫に現金を収めると、蛍太郎は台所へ向かった。
 綺子と酒を飲むハメになったら、物によるが氷が必要になるかもしれない。そこで冷凍庫の中を確認しようというわけだ。
 冷凍庫といってもさすがに冷蔵庫に付属のもので、今流行の中段から引き出すタイプだ。いくら璃音が食欲魔人だからとて、業務用を導入するようになったらさすがにお終いである。
 さっそく開けてみると、そこには買った覚えの無い箱入りアイスキャンディーが一つ。
 今朝の出来事の答えがこれだ。
「やっぱり、あの人が教えてたか…」
 蛍太郎は、どこにいるのか判らない義姉の笑い声を聞いた気がして、ガックリと肩を落とした。
 そこに、斐美花が現れる。
「どうしました?」
「な、なんでもない、なんでもない」
 何故か慌てて、蛍太郎は冷凍庫の扉を閉めた。
「それより、中村君は大丈夫だった?」
 小さく頷く斐美花。心なしか、頬が赤いように見えなくもない。
「…どうしたの?」
 蛍太郎の声に、斐美花は跳ねるように驚いた。
「い、いえ…なんでもないです…」
「具合でも悪くした?」
「そうじゃなくて…その、中村さんとお話しちゃって…」
 子どものようにモジモジと、斐美花は言った。平時はクールビューティを絵に描いたような斐美花がこんな顔をすると、ギャップが凄い。これを妻帯者である自分ではなく他の男に見せてやれば一発なのに、と蛍太郎は思うのだが、未だ男性と話すのにさえ抵抗を感じてしまう斐美花には無理な相談である。
 だが、そんな斐美花が今さっきトウキと話をしたという。内容次第では大きな進歩だから、蛍太郎はその中身に興味が湧いた。
「どんなこと?」
 斐美花は恥ずかしげに躊躇ってから、ほとんど呟きのような声で言った。
「『大丈夫ですか?』って訊いたら、『平気です、オレ頑丈だから。…ああ、ヤバいっ! じゃあ、またっ』って、何ともなさそうに自転車に乗って行きましたけど…」
「…話したって、それだけ?」
 蛍太郎は目を丸くした。たしかに言葉を交わしたかもしれないが、会話というほどのものではない。
「そうです」
 斐美花は、深々と頷いた。
「そうかぁ…」
 蛍太郎はタメ息をついた。斐美花は義姉というよりも妹のような存在なので蛍太郎としても気にかけているのだが、どうやら義兄ができるまでの道のりは通そうである。
 

 
 璃音が教室に入ると、挨拶もそこそこに悠が訊いてきた。
「どーだったよ、昨夜は。ロマンティックタイムあり?」
 璃音は小さくVサイン。二人は歓声を上げて抱き合った。
「てか、璃音のところは殆ど毎晩だもんな」
 と、悠が呆れたように肩をすくめる。それを横で聞いていた祥が、興味津々といった様子で首を突っ込んできた。
「元気だねぇ。やっぱ、奥さんが可愛いと頑張っちゃうのかなぁ」
 それを聞いた璃音は頬を染めてから、小さな声で言った。
「実は…今朝も」
 悠は絶句する。
「…ダンナ、凄いね」
「あんなに細い腰してるのにねぇ」
 祥も頷く。蛍太郎の柳腰は女性も羨むほどである。
「そうなんだよー。わたし、壊れちゃうかも…。でも…けーちゃん、十一年も待ってくれたんだし…」
 頬に手を当ててイヤイヤと首を振る璃音。色々と思い出したために、顔の緩みっぷりはかなりの物だ。
 蛍太郎への二人称は結婚と同時に"あなた"に変わったが、三人称では変わらず"けーちゃん"のまま。慣れのせいか、何となく"蛍太郎"と呼ぶのに違和感を感じてしまうのだ。そのあたり、何時までも妻を呼び捨てに出来ない夫に強く不満を言えないところである。
「璃音ちゃんはいいなぁ。私のなんて、すぐ終わっちゃうんだもん」
 嬉しさを隠そうともしない璃音を見て、祥が口を尖らせる。
「あれ、こないだ別れたとかいってなかったっけ?」
 と、悠。それに、祥はそっけなく答えた。
「うん。こっちからフッた」
「ありゃ、カワイソ」
 璃音が目を丸くする。
「カワイソウなのは私だってば。まあ、資料はそろったからいいけど。もう、『これだから腐女子は…』なんて言わせないよ」
 祥が何か恐ろしいことを言っているが、誰も追求はしなかった。特に、いつの間にか背後に立っていた涼季と亀田は。
「あなたたちねぇ…」
 ただ口をパクパクさせるだけの涼季とは違い、そこは年の功。亀田は、こめかみを押えながら言葉を搾り出した。
「最初から聞いてたワケじゃないからこんな事言うのもなんだけど、朝から禄でもない話してるんじゃありません。そんなことしてるから成績悪いのよ。学生なら勉強しなさいよ」
 亀田から噴き出す不穏な波動を察して、悠と祥は璃音を盾にして後ろに隠れた。
「なに?」
 目を丸くする璃音の背後で、祥が言う。
「でも、この子は学年トップですよ」
 悠も頷く。だが、亀田は毅然と答えた。
「知ってます。でも、成績良いからって何やってもいいわけじゃあないでしょ。それに、あなたたち二人は全然ダメじゃないの」
 あまりに正論なお叱りに、璃音たち三人は途端におとなしくなる。
 亀田は少し考えてから、口を開いた。
「…ま、まあ恋愛するなとは言わないけど…ムシロ、どうやって男ひっかけるのか、教えてもらいたいけど…って、ああ、そうじゃなくて。私も君たちくらいのときは男の子の事ばっかり考えてた気がするから、あまり偉そうなことは言えないんだけどさ。あまりツッコミどころを作らないようにした方が、なにかと面倒が少ないんじゃあないかなぁって、思うのよね。
 そういうわけだから、来月の中間テストは気合入れるように!」
「はーい、先生」
 三人が返事をすると同時にベルが鳴り、西岡が教室に飛び込んできた。
 そして今日も、一日が始まる。
 
 
5−
 商店街の裏通りのさらに裏、滅多に人も寄り付かないその場所に、骨董屋・蔵太庵がひっそりと、だが広大な敷地でもって建っている。
 今日も『臨時休業』の札が下がるその店に、今日は珍しく来客があった。
「こんちわー。亜沙美さーん」
 その男は、呼び鈴を押してから声を上げる。
 勿論、返事は無い。
「…ったく、自分で来いって言っておきながらこれだもんよ」
 とりあえず、ドアを開ける。中は薄暗いままで人の気配は全く無い。何だか判らなくても本能がヤバいと告げる数々の品物に触れないように慎重に、奥へすすむ。番台の横を抜け座敷にあがると、蔵太亜沙美がちゃぶ台に肘をついてTVを眺めていた。
「昼日向から、店放置して何やってるんですか…」
 呆れ果てたといった感のトウキ。現在昼の一時半である。亜沙美は、キッと眉を吊り上げて反論した。
「何を言うか。昼じゃないと昼ドラが見られないだろ」
 帰ってきた答えのバカバカしさに、トウキは一切の口答えをやめた。
 それからトウキは、ドラマ内の世界では因果律が捻じ曲がってるとしか思えないほど凄まじい物量で訪れる修羅場と愁嘆場のラッシュを茫洋と眺めていたが、いつの間にか三十分経ったのか、亜沙美は席を立ちティッシュ箱ほどの木箱を持ってきた。
「ほら、これだ」
 と、無造作に蓋を開けると、中にはクナイがビッシリと詰まっていた。
「お、できましたか」
 それをひとつ手に取り、感触を確かめる。そして、腕を振る。直後、渇いた音とともにクナイが柱に突き立った。
「なるほど…いいですね」
 満足げに頷くトウキ。その後頭部を亜沙美が思い切り引っ叩いた。
「馬鹿者! 人ン家だぞ! それからそれは…」
 亜沙美が怒鳴る。それにあわせたように、クナイが赤く光り、爆発した。
「うげっ」
 思わず仰け反るトウキ。亜沙美は眉間にこれ以上ないほど深くシワを寄せていた。
「…一定時間で爆発するんだ、それ」
「…マジですか」
 冷や汗を滝のように流しながら、トウキは亜沙美の顔と吹っ飛んだ柱を交互に見比べた。
「…じゃ、オレはこれで…」
 トウキは、そろそろと後退しながら頭を下げた。その様子を一瞥した亜沙美は、ぶっきら棒に言った。
「帰るなら帰るでいいけどよ、そいつの操作説明聞かなくていいのか? っていうか、持っていかなくていいのか?」
 件の木箱はちゃぶ台に置きっぱなしだった。
 トウキは頭をかくと、バツが悪そうに頭をかいた。
「あー、おねがいします」
「ああ、お願いされてやる」
 多少は機嫌が直ったのか、亜沙美の眉はある程度下がっている。
「ついでに、ひとつ訊いておきたいんですが」
「なんだい、改まって」
「さっきのドラマ、明日で終わるんですか? なんか、すごいコトになってたんですけど…」
「何言ってる。まだ三週目だぞ」
 亜沙美は、殆どバカにしたような目でトウキを見下ろしていた。
 

 
 日が傾く時間になると、街はさらに活気を増す。学校帰りの制服さんや買い物に来た奥様など、多種多様な人間が湧き出てくる様子は干潮時の干潟に似ている。賑やかな中に毒をもった者が紛れているという点でも、それに近い。
 例えば、今日現れたのは毒性生物はこの男だ。
 爆竹を束ごと点火したような喧しさで、アーケードのネオン看板が立て続けに弾け飛ぶ。
 悲鳴とともに人々がうずくまる中、ひとり、両腕を広げ仁王立ちする者がいた。黄色と緑の全身タイツと黒いアイマスクを着用した男。酉野紫のリーダー格、ボルタだ。
 ボルタが腕を掲げ掌を突き出すと、そこから電撃が飛び、コンビニの店外灯を爆散させる。これが彼の特殊能力。任意の電圧の電流を自在に発生させ、意志力でその挙動を操作する事が出来る。この能力で破壊活動を行うのが、この男の楽しみだ。
 目の前に広がる一定の成果に満足し、ボルタはニンマリと口の端を上げた。耳には、パトカーのサイレンが飛び込んでくる。この騒ぎだ。警察が駆けつけて当然だろう。お楽しみが増える予感にボルタは身震いした。
 程なく、十人の警察官が駆けつけた。一斉にボルタを取り囲み、銃を構える。
「動くな!」
 勇ましい声が響く。
 対するボルタは、口元に笑みを張り付かせたまま身体を震わせていた。
「こいつ、震えてやがる」
 若い警官が、一歩前に進み出る。
「よせ!」
 隣にいた壮年の警官が声を張り上げる。だが、若者は聞き入れなかった。
「何言ってるんですか。コイツ、震えてますよ!」
 そう叫んで、さらに二歩。
 すると、
「く、け、け、け、け……ッ!」
 激しく身体を痙攣させ、狂ったように笑うボルタ。それは次第に激しさを増し、頂点に達すると同時に、弾けた。
 手足を大の字に広げたボルタが宙に浮く。そして身体じゅうから全ての方位に電撃がほとばしった。
 全てが白く塗りつぶされ、悲鳴が場を支配した。
 高圧電流による衝撃で警官たちが次々に弾き飛ばされ、倒れていく。
 若い警官が視界を回復したときには、周囲に立っている人間は誰もいなかった。仲間たちは倒れ伏し、ボルタは三十センチほどの高さに浮かんでいる。そしてどうしたことか、この警官自身は全くの無傷だった。訝しむ若者に、ボルタは人差し指で「こいよ」と、挑発した。
「どうした? 撃ちたかったんだろ」
 その一言で、警官は我を忘れた。
 それが人体もたらすダメージは酷く深刻なのにも関わらず、銃声というヤツは拍子抜けするほど軽い。ネズミ花火が弾けるような音が立て続けに六つ、アーケードに響いた。 
「な、なんで…」
 警官は恐怖で背筋を凍りつかせた。
 六発の弾丸は全てボルタの身体の中心線に向かっていた。彼の腕が優秀だったからというよりは偶然の産物だろうが、普通ならばボルタは即死しているはずだ。だが、タイツの男は平然と、撃たれる前のまま浮かんでいた。そして、その身体を取り囲むように周り弾けるプラズマの渦が、鉛玉を全て絡め取っていたのである。
「残念だったな」
 白い電撃と共に、警官は意識を失った。
「さて、そろそろ引き揚げるとするか」
 己の力を確認し、ボルタは満足げに頷く。だが、その拍子に路地の端っこを歩く若い男が目に入った。そいつはボルタの存在などお構いなしにずんずんと歩いていく。ティッシュ箱ほどのサイズの木箱を大事そうに抱えており、なにやら真剣な表情である。
 ボルタは、その男を指差して叫んだ。
「オイお前! 何で平然と歩いてやがるんだ? オレの魂の発露、シビれるほど強烈なスーパーパワーを無視してるんじゃあねぇ!」
 一瞬の沈黙。
 ボルタの発言の対象が自分だと気付いたその男は、立ち止まって振り向いた。季節感無視でTシャツにジーンズという出で立ちが、いかにも貧乏くさい。
「あ。すいません…、見てませんでした」
 男は、実に低姿勢に頭を下げた。だが、ボルタが許すわけが無い。
「はぁ? 見てなかった、じゃあないよ。…死刑!」
 その一言で男は弾き飛ばされ、衣料品店のショーウィンドウを突き破って売り場の奥へと転がっていった。
 一般人に被害者が出た事で、周囲にうずくまっていた市民たちはパニック状態に陥り、我先にと逃げ出していく。悲鳴がアーケードに反響し騒々しさが増す。
「おいおい、どこ行くんだお前ら。キャーキャー騒いでるんじゃあねぇよ。まだ、オレの時間は終わってねぇぞ!」
 ボルタが激昂する。その肩を何者かがポンポンと叩いた。
「なんだァ…」
 振り向くと、そこに居たのは忍者装束に身を包んだ男、斬月侠だった。
「もうすぐお家に帰る時間じゃないのか? ママが夕飯作って待ってるぞ」
 忍者は、皮肉を込めた口調で言った。もちろん、ボルタは驚いて飛び退く。
「うわっ。お前、いつの間に!?」
「忍者にそれを訊くかい?」
「…それもそうだな。ハーハッハーッ!」
 手を叩いてひとしきり笑うボルタだったが、
「可笑しいことあるかーッ!!」
 と、電撃を迸らせた。白い光となってあたりを包んだ高圧電流はそこいらじゅうのガラスを割り鉄骨を焼き、石畳を抉った。視界が開ければ、忍者の黒焼きにお目にかかれるはずだ。しかし―。
「な…ッ」
 ボルタは息を呑んだ。目の前に、埃ひとつ乗っていない斬月侠の姿があったのだ。しかも、
「電気の無駄遣いは家計と地球に優しくないぜ」
 と、声がした方に振り向くと、斬月侠がそこに居た。
 それだけではない。
 ボルタの周りを取り囲み、五人の斬月侠が腕組みで仁王立ちしているのだ。服装はもちろん身長も目元も、どれも寸分違わない。
「分身しやがったのか?」
 まさに、そうとしか思えない。常識では考えられない光景にボルタは我を失った。
「くそッ! まとめて消し飛ばしてやる!」
 拳を握りそう叫ぶや否や、後頭部に衝撃を受けボルタは倒れ伏した。
「いいかげんにしろ」
 それを見下ろして、斬月侠は鞘に納まったままの忍者刀を再び背中に括りつけた。
 

 
 午後六時。酉野市のどこかにある、ドクターブラーボの秘密基地。
 メタルカが彼女の部署である研究室に入って早々、情報端末にブラーボの通信が入った。
「メタルカ、新生活はどうだ?」
「はい…多少、ジェネレーションギャップというか何というか、そういうものへの戸惑いは抜けませんが、まあボチボチ慣れてきましたね。でも当分は平日の任務は控えていただけると幸いです」
「考えておこう。状況は?」
 今朝の作戦の失敗を受け、ディアマンテの修復やドロイド戦闘員の追加製造、警察病院から脱走してきたクルツ少佐の装備の補充などなど、メタルカに課せられた仕事は多い。
「概ねオートメーション任せですから…今週中には何とかなりそうですね。でもこれからは、完全に私が不在でも何とかなるようなシステムが必要かと」
「うむ、それは近々なんとかする。ところで、やつらの準備はどうだ?」
「はい。できてるっちゃーできてますけど。でも、いいんですか? なんか適性に問題がありそうなんですけど」
「ま、まあ…やってしまったものは仕方あるまい。すでに奴らの身体は生体組織維持用の流動食に加工してしまったからな。…それに、他に候補者もいなかったし」
 合成音で器用にタメ息をついてみせるブラーボ。
「まあ、こう言っちゃあなんですけど。メタルカのコスチュームを着た私が『サイボーグにならないか』なんて誘って歩くというプラン自体に問題があったと思いますが。しかも、夜中にですよ。どこのコスプレ風俗かよって感じのリアクションばかりでしたが」
 ドクターブラーボに忠誠を誓っているメタルカだが、営業活動をさせられたことで技術仕官の矜持を大いに損なわれたらしく、この件を話題に上げるたびに憮然とした顔になってしまう。
 とりあえずブラーボはプロジェクトの進行具合を確認することにした。話も逸らせるので一石二鳥である。
 そのプロジェクトとは、志願者にサイボーグ手術を施し人員不足の解消を図るというものだ。これでクルツにドロイド以外の部下ができることになる。そして、そのプロジェクトは二つの手術台の上で、まさに完成を見ていた。
「ご覧のように、あとは起動キーを入れるだけですわ。ブラーボ様」
「よろしい」
 満足げなブラーボ。
「さっそく、起動したまえ」
 メタルカが端末のキーを幾つか叩くと、パワーが通い二人のサイボーグの命の灯に火がついた。モーターの多重奏が鋼と特殊プラスチックの身体を起す。そしてセンサーが起動、生体脳に周囲の情報が送り込まれる。サイボーグたちはメタルカを確認すると、次にお互いの姿を視界に納めた。
「ヤス…その格好…」
「シゲこそ…」
 センサーは正常に機能しているようだ。メタルカが会心の笑みを浮かべる。
「おおお、マジか!」
「ホントにサイボーグになってるぜ、オレたち!」
 驚きと喜びをない交ぜにした声を上げると、腕、手のひら、脚と身体の各所をマジマジと見つめ、動かしてみる。
「動作チェックの必要は無いようですね」
 メタルカの声に、二人のサイボーグは振り向いた。
「おはようございます。泉康隆さん、加藤重光さん。新たな目覚めに乾杯、と言いたいところですが、さっそく任務です。これから、こちらの指示に従って行動していただきますが、それにあたり貴方がたのコードネームを決定しなければいけません。
 何か希望はある?」
 ふたりはしばらく考えていたが、先に康隆が口を開いた。
「えっと、あなたはメタルカ少佐ですよね」
 頷くメタルカ。
「じゃあ、それに準じたネーミングにしたほうがいいですね」
「そうね。さしあたって、軍曹あたりで」
「…軍曹かよ」
 重光が吐き捨てた。
「軍隊ものは海外でのセールスが難しいんですけど」
「は?」
 首を傾げるメタルカ。
「だいたいね、ロボットものだからって軍隊をだすのはもう食傷気味なんだよね。博士と研究所もいい加減パターンだけど、ロボットと全く関係ないことをネチネチやってリアルだって言い張るのは勘弁して欲しいんだよね」
「貴方が何を言い張ってるのかの方が、よっぽどわかりません!」
 メタルカの語気が幾分荒くなる。
「そもそも、ロボットものって何だ?」
 しばし沈黙。そのあと、康隆が素っ頓狂な声を上げた。
「えー。オレたち、巨大ロボットに乗るためにサイボーグになったんじゃ無いんですか?」
「そんなことを言った覚えは無い!」
 ついに激昂するメタルカ。机を叩き、やおら立ち上がる。
「うっそ、マジか」
 康隆は落胆した様子だ。重光が詰め寄ってきた。
「おい、サイボーグといえばロボットに乗り込むか、パーツに変形するかのどっちかに相場が決まってるじゃないか。どういうことだ、責任取れ!」
 ついにメタルカの言語中枢は決壊した。
「だから、そんな事言って無い! そんな相場知らねぇよクソが! 勝手な勘違いでクレームつけてくんな!」
「く、ロボットに乗らないのか…残念だなぁ」
 まだ未練がましいことを言っている康隆に、メタルカは手鏡を放り投げた。
「ほれ。イケメンになりたいって言ってたでしょう。貴方の骨格に人並み以上の筋肉をつけた状態を再現して造形してありますから、顔も身体も断然見栄えが良いはずです。声帯も新規製作ですから、以前の地底から沸き上がるような声ではなく、通りの良いものに修正されていますよ」
 そう言われて、康隆は改めて自分の顔を見た。
「そうだね。さっきシゲの顔を見た時も思ったけどさ、自分のをこうしてみると中々のもんだね。二重顎もニキビも止め処なく流れる脂汗も無いし、物心ついてから…」
 と、康隆は手術台を降りると直立し、足元を見た。
「こうやって、自分のつま先が見えたことって無かったもんな。腹が邪魔でさ。これは正直感動もんだ。ありがとう、メタルカさん」
 さわやかな声でマトモに礼を言われ、面食らってしまうメタルカ。
「あ、まあ、仕事ですし。それと、これからは大佐と呼んでください」
「了解、大佐」
 なんとなく良い雰囲気になりかけたが、重光が水を刺した。
「だから、大佐って何? 軍隊ものはダメだって言ってるでしょ!」
(ふりだしに戻ってんじゃねぇよ…)
「そうだメタルカさん、任務がどうのって言ってましたけど、オペレーターはどんな子ですか? 当然美少女ですよね。爆乳からロリまで取り揃えてますよね?」
(なんだ、そのオペレーターっていうのは…。っていうか、大佐と呼べって言っただろ)
「…通信でオペレーターを口説きながら撃墜記録を更新するオレ。そして戦火の中、芽生える恋。だが、オレはライバルに不意をつかれ…。うおお、燃え!」
(燃えって何だ。なんで私が精魂込めたサイボーグボディに、こんな生ゴミ同然のタンパク質を乗せにゃならんのよ…)
「おおお、カッコいいぞ、シゲ!」
「うるさーい!」
 メタルカは声の限り叫んだ。サイボーグ二人も、さすがに黙ってしまう。
「お前らの妄想に興味など無い! いいからさっさと、コードネームを決めろ!」
「…じゃあ、"ヤスとシゲ"で…いいです…」
 康隆がヤス、重光がシゲということだ。なんのヒネリもありはしない。
「いいのか、そんなので…。
 では、ヤスとシゲ。これより作戦を説明します。ああ、待って。その前に、これをスプーン五杯分食べておいてください」
 そういうと、メタルカは瓶詰めの流動食を手渡した。大きさはジャムの瓶程度だ。
「食べ終わったら冷蔵庫へ入れておくように。ストックがあと15個あるが、それも無くなったら、各自でベビーフードを買って食べること。なんだかロボコップみたいでしょう?」
 最後のはジョークのつもりだったのだが、ヤスとシゲには全く通じなかったようで、目をパチクリさせるだけだ。
「え、わかりませんか?」
 メタルカはタメ息をついた。
(そうか…ロボコップを知らないなんて…。これがジェネレーションギャップなのか…キッツイなぁ…)
 すっかり落胆してしまうメタルカ。これから数日と経たないうちに彼らが日本のアニメしか見ていないという事実に気付くことになるが、それは本題ではない。
 サイボーグ二人は、メタルカにはお構い無しで流動食に舌鼓を打っていた。
「美味いぞ、これ!」
 ブラーボは、サイボーグ起動以来のやり取りをじっと見ていたが、その間じゅう言いようのない不安と後悔の念に囚われっぱなしだった。
(…人間、立ち止まる勇気も必要だな)
 ムリヤリにでも教訓を見つけなければ、とてもではないがやっていられない心境であった。
 

 
「いやぁ、しかし…任務というのが四トントラックの運転とは思わなんだ…」
 ハンドルを握るシゲがぼやいた。隣に居るヤスにも拍子抜けした様子がありありと出ている。
「大佐は慣らし運転にちょうど良いって言ってたけど…これってただの引越しなんじゃあ…」
 基地の備品であるトラックに指定の荷物を積み込み、所定の場所へ行く。トラックはサイボーグ二人とともに引越し業者に偽装してあるので見た目で怪しまれることはないが、警察に見つかると色々とマズイ。ゆえに、それなりの緊張感を伴う"作戦"ではある。
 目標は商店街の裏通りのさらに奥という、土地勘のない人間には難しい立地だったが、サイボーグにはGPSナビが搭載されており迷うことなくたどり着くことが出来た。
 住宅地の外れ、小高い丘がそれだ。一本道を登ると、立派な和風の門が見える。それに続く塀はしばらく回ると途切れ、車両が出入りできる裏口になっている。そこから見える、瀟洒な洋風の建築物が目的の建物だ。
 駐車場にトラックを入れ、ヤスとシゲは外に出る。
「鶴泉荘…。へえ、これで"カクセンソウ"って読むのか」
 何となく感心していると、横からメタルカの声。
「時間通り、ご苦労だったな。ここまで来たということは、道中滞りなく、ということだろうな」
 振り向いてみると、そこに居たのはジーンズとTシャツという軽装の、メガネの女だった。その女をメタルカと確認するのに、ヤスは少々の時間を要した。
「…あ、はい」
 答えに間が空いていたので、メタルカは眼を吊り上げた。
「おいおい、まさか何かあったのか? くぅぅぅ、使えねぇ! あれほど、警察の世話にはなるなと…」
「いえいえいえ、違います、大丈夫です」
 ヤスは慌てて首を振る。
「その、大佐のお姿が…」
 メタルカはヤスの口を塞ぐと、小声で言う。
「あたりまえだ。日ごろからあの格好でいられるわけないだろう。それから大佐とは呼ぶな。…そうだな、今回は"お客様"でいいだろう」
 口をふさがれたまま頷くヤス。
「よし、では荷物を下ろしてくれ」
 言われるまま、ヤスはシゲとともに荷物を下ろし始める。路上に敷かれたビニールシートに陳列されていくのは衣装ケースに本棚、机、パソコン、テレビに冷蔵庫、そして多数のダンボールと、どこから見ても普通の引越し荷物である。
「うーん、意外に多かったな。こりゃ結構オオゴトかも知れん…」
 もう日は沈み空の色が赤から紫へと変わりつつある。暗い中での作業はあまり好ましくない。メタルカはタメ息を吐いた。
 すると、荷物の向こうから覚えのある少女の声。
「あ、見て見てー。お引越しだよ。誰か来たみたい」
 それを聞いたメタルカは、ニヤニヤと緩んでしまう頬を押えながら荷物の影から顔を出した。
「うーす。藤宮さん、こんばんわー」
「亀田先生!?」
 璃音は驚きに目を丸くした。メタルカの世を忍ぶ借りの姿は、英春学院化学教諭・亀田流香だったのである。もちろん、璃音が驚いたのは鶴泉荘に自分の担任が入居するという事実に対してであり、メタルカと亀田の関係を知ってのことではない。
 亀田は、照れるような仕草で身体をくねらせながら言う。
「ほらー。不動産屋さんに問い合わせてみたら、ここが空いてたんで…。で、見せてもらったら綺麗だったし、管理人さんも良い人そうだったんで、今日からここにお世話になることにしました。よろしくね。
 …で、さっきは誰とお話してたの?」
 亀田は先ほどから、しきりに誰かを探している。璃音は、足元にいる黒猫を指差した。
「この子と」
 猫と璃音を交互に見て、亀田は首をかしげたが、
「で、管理人さんはどこ?」
 と、訊いた。
「管理人? 姉なら、当分帰ってきませんけど…」
「姉? そうじゃなくてほら、ケイタロウさん…だっけ、あの人」
 侑希音の不在時、いや常に蛍太郎が管理人代理をやっていることを思い出し、璃音は頷いた。
「はいはい。そろそろ帰ってくると思うんですが…」
 そう言うのと同時に、赤いミニが駐車場に入ってきた。運転席に蛍太郎が見える。
「あ。来ました」
 そう言う璃音に、亀田が擦り寄って耳元で囁く。
「ねえねえ。あの人、お兄さんでしょ。彼女とかいるのかなぁ。よかったら紹介してくれると、先生うれしいなぁ」
「嫌です。しません」
「えー」
 口を尖らせる亀田に、璃音は一歩離れて微笑んだ。
「だってあの人、わたしの夫なんですもん」
 メガネの奥の目を丸くして、亀田は硬直した。
 そこに、クルマから降りた蛍太郎が駆け寄ってきた。
「すいません、遅くなってしまって…って、お知り合い?」
 璃音と亀田を交互に見て、蛍太郎は首をかしげた。それに、璃音が答える。
「そうだよ。わたしの担任。あなた、知らなかったの?」
「うん、まあ…。亀田さんが学校の先生だってことはお聞きしたけど、そこまでは…。だってほら、日本だとよくある名前なのかなぁって思ったから」
「珍しくはないけど、よくあるって程でもないかな」
 と、璃音。蛍太郎は、改めて亀田に向きあうと、丁寧に会釈した。 
「亀田先生。妻がお世話になっております、藤宮蛍太郎です。大家は不在が多いんですけど、僕が代理をしていますから何かあったら遠慮なく仰ってください。妻ともども、これからもよろしくお願いいたします」
 それで我に帰り、亀田は慌てて挨拶を返した。
「いえ、そんな…。こちらこそ、よろしくお願いします」
 平静を装ってはいるが、その声には明らかに落胆の色が見て取れた。
 蛍太郎も、内心穏やかではない。
(うわー、失敗したかなぁ…)
 璃音のクラス担任を入居させてしまうと、色々とやりにくくなるかもしれない。だが、今更追い返すわけにもいかず、蛍太郎は無難に接することにした。
「鍵はこちらです。それから、部屋は昨日のうちに掃除しておきましたから、大丈夫だと思います」
「わたしが掃除したんですよ」
 璃音が誇らしげに胸を張る。亀田は曖昧に頷くだけだった。
「じゃあ、あとは業者の人にお願いして…」
 と、後ろで茫洋としているサイボーグ二人の方を向く。
 それを聞くや否や、璃音は張り切って腕をまくった。
「先生、わたしたちも手伝いますよー」
 いつの間にか自分もカウントされていることに、夕飯の準備を控えた蛍太郎は少々言いたいこともあったが、とりあえず素直に亀田の手伝いをした方が良いと思い直した。
「そうですね。僕らも手伝いましょう。じゃあ璃音ちゃん、お願いね」
「おっけー。じゃあ、持って行きますねー」
 そう言った直後、璃音の身体が薄桃色の光に包まれる。そして手近にあった冷蔵庫を、ひょいっと持ち上げた。
(なんですとー!)
 亀田の顎が落ちそうになる。サイボーグ二人も驚きの声を上げていた。
「それじゃあ、僕はこっちで…」
 蛍太郎はというと、衣類と書かれたダンボールに手をかけた。その時、上の方から声が聞こえた。
「いかんな。妻に重いものを持たせて、自分はそれかい?」
 宙に浮かんでいたのは、黒コートとアイマスクの男だった。
「Mr.グラヴィティ!? どうしてここに…」
 亀田の声は悲鳴に近かった。
「どうしてもこうしても、私はここの住人なのだよ。どれ、パトロール前に新たな住人の手伝いをしていこうか」
 パソコンとテレビ、本棚が音もなく宙に浮き上がった。
 すると、今度は屋根の方から声がする。
「あ、引越しですか?」
 亀田はそちらを見上げ、呻いた。
「…忍者!? どうしてここに…」
 そこには、忍者としか言いようのない姿の男が、屋根に張り付くようにしてトラックの方を見ていた。
「通りすがりの斬月侠です。ホント偶然、ここを通りかかっただけですから」
 弁明口調で言ってから、忍者こと斬月侠は屋根から飛び降りた。
「どれ、手伝いますよ」
 そう言って、"本"と書かれたダンボールを持ち上げる。横にいた蛍太郎はあからさまに落胆の声を上げた。
「えー。持つだけなの? 忍術でサッと片付けるんじゃないの?」
「…あのね。忍術ってのはそういうもんじゃないの。まあ、ご期待には添えないだろうけど精一杯手伝わせていただくよ」
 斬月侠は殆ど不貞腐れている。それに、Mr.グラヴィティが嗜める様に声をかけた。
「いかんぞ。その様な言葉遣いや態度は不適当だ。ヒーローは人の手本にならねばならない。お天道様に向かって真っ直ぐ立つ男でなければな」
「…オレ、忍者なんスけど。日陰者の代表格さ」
 確かに日光の下は忍者には似合わない。
「はっはっは、そうだったな。では、早速取り掛かるとするか!」
 Mr.グラヴィティの爽やかな笑い声と共に運び込みが始まった。
 荷物は重力操作により空中を乱れ飛んで窓から放り込まれ、中に待機している璃音が亀田の指示に従って次々と配置していく。斬月侠は、発生したゴミをテキパキと撤去した。
 作業そのものはものの三十分としないうちに終わり、ヒーローたちは引越し蕎麦を辞退して街へと飛び出していった。この一連の作業の間、サイボーグたちは「これからオレたち、あんなのと戦わされるのか?」と、恐怖と己の無力さに打ちひしがれたという。
 
 余談だが、残った蕎麦は全て璃音の胃袋に収まることになった。それから夕飯をいつも通りに食べたことは言うまでもない。
 

#2 is over.  

モドル