ジャン・ジグレール著『世界が飢えるのはなぜ?』より抜粋








アフリカの問題をなんとかしようと思った人物はいなかったの?

トーマス・サンカラという男が、まさにその人だと思う。友人たちと力を合わせて不可能なことを可能にしようとした人だ。ブルキナファソという国を知っているかい?西アフリカにあってサハラ砂漠の南端にあたるところに位置する世界の最貧国の一つだ。彼はその国の出身者だ。


父さんは、ブルキナファソという国にいったことあるの?

もちろん。1983年から87年にかけてブルキナファソで政治改革の運動が盛り上がったころ、何度も出かけた。なかなか信じられないかもしれないが、たった四年間でブルキナファソは驚くほどの変化を遂げた。
サンカラはその時期に大統領を務めたのだが、彼の人生を知れば、誰でも抵抗を通じて人間の尊厳を示すことが出来るし、本当になんとかしようと思うなら、貧しさの只中にいてさえ、あそこまで頑張ることが出来るということが分かると思う。
 父さんがはじめてブルキナファソの首都、ワガドゥグに行ったのは1984年だった。思えば本当に不思議なきっかけとタイミングだったね。




なんなの、その不思議なきっかけて?

 1983年のクリスマスのことだった。聞いたこともない男の声で家に電話がかかってきた。
男は「大統領のサンカラといいます。ジグレール教授とお話をさせていただきたい」っていうじゃないか。
サンカラなんていう名前は聞いたこともなかったし、軍人のような命令調の話し方でいやな感じがしたので、こっちもかなり冷たく「本人ですがね」って答えた。すると、その声の主はこういった。「至急あなたにお会いしたいのです。私は牢屋であなたの本【Main basse surl Afrique】(未邦訳)を読んだんです。だから、あなたとどうしてもすぐにお話したいのです。来ていただけますか?」
 そのときだ。今までに感じたことがないような、何ともいえない特異な直感に突き動かされて、「分かりました。いきましょう」って答えてしまった。そしてそのまま、その年末年始の休暇にブルキナファソを訪れるはめになった。



ブルキナファソで何を見たの?

 首都ワガドゥグについた時のことが今でも目にうかぶ。サヘルの強い風が赤い砂ぼこりを巻き上げる中で、若い四人の将校が小さな家で父さんを待っていた。彼等は83年8月4日のクーデター以来、国の政治で大事な役目を果たしている人たちだった。
 食事に招いてくれたのだが、案内された部屋はひどく暑く、出された食事は、緑色をした豆、トマト、サツマイモ、それから肉の缶詰が少しだけだった。飲み物は水。
 四人のリーダーといった感じの人が、電話の主、トーマス・サンカラだった。モシ民族とフルべ民族の混血で、たいへん聡明で快活な人だった。サンカラの向かいに座っていたのが背が高くて痩せ型、眼光が鋭いサンカラの一番の友人ブレイズ・コンパレオ、そのとなりに、中背で人をひきつける魅力を持ったアンリ・ツォンゴ、いちばん端の席にいたのが年長で―――といっても38歳という若さだったのだが―――軍隊の責任者ジャン・バプティステ・リンガイだった。 
 実はこの四人のうち三人はもうこの世にいない。四人組の一人、コンパレオによってみんな暗殺されてしまったんだ・・・・・。
 ブルキナファソという国のことを少し話しておこう。ブルキナファソは元フランス領で、1960年に独立したときはオートポルタという国名だった。84年にブルキナファソ(「高潔な者たちの国」の意味)と国名をかえた。国土は27万平方キロメートル、人口は1100万人(1999年)だ。
 モシ民族を中心にポポ民族やフラニ民族など国民の構成は実に複雑で、牧畜民であるフルベ民族やトゥワレグ民族、また北部や西部の草原地帯ではベラ民族が行き交っている。東部や南部にはマリンケ、サモ、ゴールマンヘ、セヌフォの各民族たちも見られる。
国の中央には、かつてのモシ王国時代の栄光をうかがわせる建物があり、「地上の主権者」と呼ばれたモシ王国の皇帝、モロ・ナバ当時の古い考え方が、今尚、その地に住む農民たちに影響を及ぼしているようだった。のちに、そのモシ人の貴族階級が、サンカラたちの改革勢力に抵抗していくことになる。



ブルキナファソという国はどんな状態だったの?

 ブルキナファソはかつての宗主国フランスに何から何まで管理されていて、政府は全く無力だったし、政治腐敗がはびこっていて、国内はあっちもこっちも傷だらけという状況だった。経済的にも社会的にも混乱続きで、世界銀行の統計では調査した170ヶ国のうち国民総生産が124位、一人あたりの国民所得が第164位と、びりから数えて6番目だった。(2002年現在、ブルキナファソの国民総生産は182カ国中129位、一人あたりの国民所得は208カ国中193位)。
 南部の一部の地域を除き、国土の大半が乾燥していて、耕作可能な土地は全体のわずか25%しかない。しかも、穀物の収穫量は1ヘクタールあたり540キログラム。フランスの平均が4883キロだから、比べてみるといかに少ないかが分かるだろう?
 学校に通っている子供は全体の20%。7000の村落に1300しか学校がなくてね、先生が18,000人も足りなかった。
 貿易収支は、毎年赤字続き。例えば、ブルキナファソ第2の年ボボデュラッソの東側にサトウキビ畑があるが、輸入砂糖に比べると18倍もの生産費がかかっていた。ご多分に漏れずこの国も、寄生虫のような役人達に牛耳られていた。38,000人の役人が国家予算の70%を自分達の給与に当てている始末だった。毎年のお決まりで、10月になるとすっかり予算を使い果たし、10月、11月、12月の3ヶ月間はどうにもならなくなって外国の援助に頼っていた。





父さんは砂漠化の実態を見たの?

ああ、どりという街の近くでね。ドリはブルキナファソの最北部に位置するセノ県の中心都市で、広さは約三万平方キロほどだ。セノ県は九つの区域に分かれていて、住民の数はおよそ30万人。その殆どは牧畜民だ。
 ブルキナファソの中心部からドリまでは260キロほどだが、車で約6時間もかかる。道中、放棄されたテントや道端に積まれたコブウシの死骸を見かけた。あるいは焼けこけた軍のトラックが道をふさいでいるところもあった。おそらく、食料調達のトラックだろう。
時折、父さんたちの乗ったジープの前方をヒョロヒョロとした人影がフラフラと横切っていった。
 見ていると、その人達はひざまづいてシロアリの巣をほじくり返しているようだった。かれらにとって、シロアリが残された最後の食べ物なのだろうか。
 サヘル地方の民族構成は複雑この上ない。サハラの牧畜民として名高いトゥワレグ民族の他にも、フルベ民族、ベラ民族など様々な牧畜民が住んでいる。それぞれが原初的分化を保持しながら連綿と暮らしてきたのだが、彼等は今飢えのために死の脅威にさらされている。
サヘル地方の農民達は、6月の雨季の到来に合わせてミレット(和名トウジンビエ。稲科の穀物)を植える。8月、2度目の天の恵みを得てミレットは成長し、九月には収穫時期を迎える。
 それがその年は六月の雨季は例年通りだったものの、8月には激しい雨に見舞われ、薄い腐植土層に作づけされたミレットの大半がやられてしまった上、九月になると今度はカラカラ天気が続き、わずかに残ったソルガム(和名モロコシ。稲科の穀物)もすっかり干からびてしまい、結局収穫はゼロという状態だった。
 1984年のサヘル地方の平均降水量は200ミリ、これは最低の収穫量を確保するために必要な雨量、400ミリの半分しかなかった。地下水位が下がり、オアシスの水が急速に干上がり始め、15メートル以上掘らないと水が出なくなってしまった。
 サヘル地方では約40万頭のコブウシが飼われていたが、ゴロムゴロム(ブルキナファソ)トンブクトゥ、ガオ(マリ)などの家畜取引市場での価格が暴落してしまったために、牧畜民の中から、首都ワガドゥクにあるフランス系ホテルの裏口で物乞いをして暮らす人が出て来たのも不思議なことではなかった。



国際機関はブルキナファソに援助をしたの?
     
  したにはしたのだが、焼け石に水だった。



どうして?
 ブルキナファソという国は、国際政治の関心からいうと決して話題の中心になることはないからだ。地下資源にそれほど恵まれていないため、「青空」と「岩石」と「潅木」と「ラクダ」の国(そして、「飢える人々」がそこに加わる)でしかない。おまけに改革者サンカラの掲げた政策は、全く持ってフランスとその属国の支配者達のお気に召さなかった。




サンカラが掲げた政治改革は、具体的にどんなものだったの?


社会的公正が貫かれている国家でなくては、国民を養うのに必要な食料を生産するだけの国力はつけられないと考えていたサンカラは、大統領に就任するとすぐ、抜本的な改革に着手した。
 さっきもいったとおり、当時国内にはおよそ38,000人の役人がいたが、人数が過剰な上に、大した働きもしていなかった。彼等は、旧来の地縁、血縁、盟友関係でかたく結ばれていて、居住区ごとにまるで幾重にも折り重なった山のようにさえ見えた。
実は、1960年以降次々に独立をはたしたアフリカ諸国はみな、多かれ少なかれ似たような事情を抱えていた。いかにしてこの山を切り崩すかは、どの国でも難しい課題だったんだ。若き改革者サンカラにも、さすがにこの問題は解決不可能なように思えたかも知れない。
働きに見合わず支払われている一人の役人の給料には、彼の家族や親族が15人、20人と芋づる式にぶら下がって生活していたからね。
しかも公的機関以外の働き口はとても限られていて、私企業と半官半民の働き口を合わせても、三万人分ほどしかなかった。
 そこでサンカラは、抜本的な解決策として「自主管理政策」の導入を決断し、国内の30の行政区を自治制にし、住民自身がその地域を治めていく方式に切り替えていった。役人も住民自身が雇い、道路建設、建物建設、水道事業、保険、医療事業など自分たちの実際の生活に必要な公共サービスを実施していくというものだった。さらに、行政区域はそれぞれそこに住む住民たちの持つ文化や歴史に配慮して決められた。住民を単位にしたこうした自主管理政策は、人々にとって今までにない魅力があった。彼等の意識の中にまどろんでいたすばらしい建設的な能力を引き出すことに成功したからだ。
 しかし自主管理政策は、同時にたいへんな危険ととなり合わせていた面も見逃せない。アフリカのほかの諸国と同様に、ブルキナファソの人々も数百年にわたる民族間の激しい対立意識を意識の裡に秘めていたからだ。サンカラの住民主導型の政策は、そうした対立意識を公共の場に引っ張り出したという側面もあった。
 対立によって発生するかもしれない様々なリスクを回避するために、サンカラは国家レベルの大規模プロジェクトにも着手した。その一つが首都ワガドゥクからタンパオまでの鉄道敷設事業だった。
 アフリカで鉄道敷設をおこなうという事は、際立って象徴的な意味がある。過去の植民地支配時代の悲惨きわまりない搾取の記憶を人々に呼び起こす事業だからだ。ブラック・アフリカの多くの国がそうしたつらい歴史を経験している。
 アビジャン(コートジボアール最大の経済都市)――ニジェール間の鉄道敷設の際に数千人が死亡し、ダカール(セネガルの首都)――バマコ(マリの首都)間でも数千人が死亡し、マタディ[コンゴ民主共和国](旧ザイール)の主要都市――キンシャサ[コンゴ民主共和国の首都]間とポアントノアール[コンゴ共和国の海岸都市]――ブラザビル[コンゴ共和国の首都]間でも、工事期間中に数え切れないほどの遺体が積み重ねられた。
 しかし、サンカラが呼びかけた鉄道敷設事業は異色だった。金銭的な報酬はないというのに、住民たちが自発的に集まり、男も女も与えられた水筒と両手一杯の米を腰に、何処までもつづくサバンナに鉄道を敷いていった。終点のタンバオは国内最北部の半砂漠地帯で、首都のワガドゥクからおよそ450キロ離れた地点だった。
 1987年2月25日の木曜日、父さんは、鉄道敷設事業の記念すべき最初の一日をサンカラと一緒に見守った。灼熱の太陽のもとに集まった数千人の人々が、レールを敷き、枕木を取りつけ、ボルトで締めていた。その年の暮れには、カヤという約30キロ地点まで工事は進んだそうだ。
 サンカラが実行したもう一つの改革が「人頭税」「納税能力によらず、各人一律に課する税」の廃止だった。1983年まですべてのブルキナファソの国民は地方税務署に毎年数千フランを人頭税として納めなければならなかった。一部の市街地の住民以外、大半の家長にとってこの税金の支払いは並大抵なことではなかった。
 支払いが出来ない世帯に対して、村の徴税係は、なけなしの家財、牛やヤギ、蓄えてあったミレットを容赦なく取りたて、時には女性が未納分のつけとして要求されることもしばしばだった。かわりに差し出すものがないとなると、村の長達のところで強制労働に従事させられた。
 人頭税の廃止は市街でも効力を発揮したようだ。父さんの友人でテオドール・コンセイカというブルキナファソの郵政職員は、「私はサポネ地方のピシ村という農村の出身ですが、人頭税があったころは村に住む親族から金の無心がしょっちゅうでした。兄弟も従姉も遠縁の甥達まで、強制労働から逃れるために私の給料をあてにしてたんです。何せ私は親族中でただ一人、定収入がある身ですからね。今じゃ仕事上の恩典や公務員宿舎や自家用車を失いましたし、給料も下がりましたが、生活は以前よりずっと楽ですよ。何せ人頭税が無くなったんですから」と話していた。
 サンカラが人頭税廃止の次にしたのが、開墾可能な土地の国有化だった。まず、村の運営責任者達が自分達の判断で各戸に土地を割り当て、農業指導者がいつ何を作づけするか指導し、農作業の年間作業スケジュールをつくって村の農業を管理していった。そして、一人一人の作業量に応じて金銭か収穫物、あるいは人的サービスという形で支払いをおこなっていった。
 国では農業省の役人が土地帳簿をきちんとつけるようになった。土地が各戸の必要に応じて分配され、農民達は強制的な徴収に脅かされることもなくなり、安心して農作業に汗を流すようになった。



ヘエー、すごいね!改革の成果はどうだったの?


 素晴らしいの一言だ!改革が始まって四年も経たないというのに、農業生産は急激に増加、国家支出は大幅に削減され、そうやって生み出された資金は、道路建設や小規模水道建設、農業教育の普及、地域ごとの手工業促進の事業など、住民に密着したプログラムにまず投資された。たった四年間で自給自足の農業に切り換えられ、他民族の複雑な社会構成が民主・公正を是とする方向でまとまりを見せてきていたと評価していいだろう。





じゃあ、サンカラはアフリカ大陸のよき手本として英雄になったんじゃないの?

  そのとおり、不幸にも英雄になった。


不幸にも・・・・・・?


 ブルキナファソに住む人々の数は1000万人弱、その殆どがその日の食べ物に困るような貧しい人々だったのに、サンカラの改革によって不公平がなくなり、彼等は人間らしさと生きる誇りを回復して、雄大な希望に燃えてたちあがった。ブルキナファソの名は西アフリカはもとより、中部アフリカ地域に至るまで広まり輝き始めた。
ブルキナファソが経験した改革への希望は、政治腐敗で苦しんでいた近隣諸国にも影響を与えることになり、象牙共和国のウフエ・ボワニ大統領、ガボンのボンゴ大統領、トーゴのエヤデマ大統領などの各政権は大いに揺さぶりをかけられることになった。
 これらの政権はすべてフランスの傀儡で、手綱をひかれていたことは前にも話したとおりだ。
だからフランス本国政府の一部の勢力にとって、サンカラの改革手法を放置しておくことはとてもできない相談だった。サンカラ暗殺の指令が出たのは想像にかたくない。そしてついに、彼はかつての親友コンパオレの手によって殺害されてしまう。



サンカラの最後はどうだったの?


 サンカラの死はあのアジェンデの死とそっくりだった。外国の勢力に糸をひかれた自国の軍部によって、終りを遂げなければならなかったからだ。 それに先立つ1987年9月のある晩、父さんはエチオピアのアディス・アベバで偶然、サンカラにでくわした。サンカラは国務で当地に、父さんはアフリカ巡回訪問の途中だった。
 サンカラ自身も自分の死を予期していたのだと思うよ。サンカラの宿泊先のホテルでいろいろ話しをするうちに、1967年にボリビアの山中で殺されたチェ・ゲバラ(1928年〜67年。医者、キューバの革命指導者。67年、ボリビアでゲリラ活動中、政府軍によって射殺された)のことが話題になった。
 サンカラはこう聞いてきた。『チェは殺されたとき、何歳でしたか?』『39歳と8ヶ月だったと記憶してますが』と父さんが答えると、サンカラは、『そうですか。私はそこまで生きていることが出来るでしょうかね』と考え深げにもらした。もし、彼が生きていたら、殺された年の12月に38歳の誕生日を迎えるはずだった。
 サンカラの死とともに、人々の大きな希望も打ち砕かれた。現在のブルキナファソは、現在もコンパレオの統治下にある。そして普通のアフリカに戻ってしまった。政治腐敗、政治腐敗と表裏一体の外国支配、北部地方でつづく慢性的飢餓、新植民地主義下での人間としての尊厳の軽視、浪費的国家財政、寄生的官僚主義、そして農民達の嘆き。