経済改革最終章―――別の道―――






プラウト経済システム理論についての紹介です。
【ラビ・バトラの大予測・世界経済――2000年から2030年まで――】より転載







『ラビ・バトラは人を動揺させるような世界規模の予言をして、誰にも聞き入れられないことに慣れていた。そして予言が次々と実現し始めたのだ。』
(AP通信社 チップ・ブラウン)



『この広く尊敬されているサザン・メソジスト大学経済学部教授のこれまでの予言の的中率高さは、多くの実用主義的投資専門家たちの輝かしい賞賛を勝ち得ている。』
(「シカゴ・トリビューン」トム・ピーターズ)



『彼は1980年代初期に、低インフレ、石油価格低下、合併の波を予言し、長年嘲られていたが、結局、ほとんどその通りになった。』
(「ニューヨーク・タイムズ」トーマス・C・ヘイズ)



『怖くて刺激的。この優秀な教授は、学問的にも非常に大きな評価を受けており、私の知るところでは、彼のこれまでの予言の的中率の高さは感動的である。』
(モーガン・スタンレー銀行 バートン・ビックス)



『ラビ・バトラは貿易専門家として多大な評価を受けている学者である』
(「ワシントンポスト」アルバート・クレンショウ)



『ラビ・バトラは伝統的方法論に基づく国際的経済理論家として、アメリカで優れた名声を得ている。』
(「ニューヨーク・タイムズ」レオナード・シルク)



『経済学者たちが大いに好むファンダメンタルズについて言えば、経済的諸事象の規則的循環を考察することで、それらについて多くのことが学べる。ラビ・バトラはその規則的循環について、斬新で際立った注釈を加えている。』
(レスター・C・サロー)







まえがき

『エコノミストや政治哲学者の考え方は、それが正しい場合も間違っている場合も、一般に認識されている以上に強力なものである。実のところ、世界はほとんどそれによって支配されている。』
ジョン・メイナード・ケインズ
1936年

 本書は、これまで私が同じテーマについて書いてきたものとは、かなり異なっている。今まで私は、次に起こりうるアメリカ合衆国の不況は、デフレ不況になると考えていた。だが今では、アメリカ史上初のインフレ不況になるだろうと思っている。これは日本の投資かにとっても、より深刻な結果をもたらすかもしれない。彼等は日本の株式市場だけでなく、彼等の保有する外国株でも大きな損失を被るかもしれない。
 また、次に起こり得るダウジョーンズ指数の暴落は、ドル崩壊を引き起こし、高金利をともなう猛烈なインフレにつながる可能性がある。そうすると、対米外国投資は、二重の打撃を被るかもしれない。
 金利の上昇によって、株式価格の崩壊だけでなく、債券市場の暴落が起こるからだ。
日本からは、何十億ドル、何兆円もの資金が、アメリカの金融資産に注ぎ込まれている。実際、1990年代のアメリカの好況を主に支えているのは、ジャパンマネーなのである。だから、インフレ不況が見込まれるということは、アメリカへ投資するすべての外国投資かにとって、壊滅的損失を意味するのだ。
 ほとんどの日本人は、日本経済や社会がどこかおかしくなっている、という気持ちに苛まれている。確かに1999年の第二・四半期のGDP成長率が8%と好調だった。
だが、そのような成長が繰り返されると確信している人はほとんどいない。結局、政府の支出が二千億ドルも跳ね上がり、記録的な財政赤字を生み出すことになったのだ。こんなことを毎年続けていけるわけがない。
 日本人は1990年代ずっと答えを模索しつづけてきたが、納得のゆく説明がなく、非常に困惑している。国民は彼等の怒りや不満を表す為に、政権を繰り返し交替させてきたが、憂鬱のとばりは厚くなってゆく一方だ。新しい政治指導者が、昔の指導者よりもよい解決法を提供してくれるわけでもない。何故国民はそんなに落ち込んでいるのだろう。何故、本来なら本音を隠すのが専門の政治家や官僚たちでさえ、この国に関する困惑と不安を吐露しているのだろう。この答えは、1990年初めに始まり、その後徐々に進展してきた出来事の中に見出すことが出来る。
 日経指数は、1989年末に38,916のピークに達した後、新年最初の取引日から暴落を始めた。1990年9月までに、株式指数は45%も下がった。1970年代、80年代と膨れつづけてきた株式市場のバブルは、この新たな十年期の初めにはじけたのだ。
 歴史家がたびたび警告していたにもかかわらず、この東京株式市場の暴落に、日本人はほとんどみな呆然となった。日本は世界の他の国々とは違うのだ、自然の諸法則から自由なのだ、と論じる官僚や政治家の言葉に、人々は惑わされていたのだ。ちょうど今、アメリカ人が、アメリカ市場は無敵なのだと信じ込んでいるのと同じように。
 1990年にバブルがはじけたとき、日本経済の奇跡は突然止まった。過去四十年間、小さな問題で一時的に前進が阻まれることは多少あったものの、日本経済は前進しつづけてきた。日本は、地球規模の激動をいくつも経験してきたが、どれもその発展を止めることは出来なかった。もちろん、邪魔は時々あったが、長続きはしなかった。日本の成長の勢いを止められるものは何もなかった。この国の産業マシンは唸り続け、世界が羨望するほどの膨大な種類の高品質製品を生産していった。
 日本は、第二次世界大戦で、完全かつ屈辱的な敗北を喫した。東京、大阪、広島、長崎は、空襲、さらには原爆の猛攻撃を受け、廃墟と化した。人々は、敗北と疾病と貧困と飢えで、生きる気力を失った。この国は資産の三分の一を失い、工場の90%を失った。そして焼け残ったものはすべて米軍に支配された。しかし、日本人は、日本人以外の人々が持たないもの、つまり不滅の精神を持っていたのである。
 このような状況のもと、1950年から1990年までの間に日本で起こったことは、まさに奇跡としか言いようがない。この国は貧困のどん底から、世界経済のリーダーへと上り詰めたのだ。これはまさに、貧乏人が大金持ちに、負債者が寄付者になるという伝説のような物語である。
 1950年代、日本は慢性的な貿易赤字に悩んでいた。ところが今は慢性的黒字を享受している。かつて日本は、海外から資本を輸入していた。ところが今は資金や技術を他国に貸与して、第3世界へは定期的に援助を提供している。当時は日本全体が貧困に苦しんでいた。それが今では大量生産社会になっている。
 このような奇跡的な経済成長を成し遂げた日本人が、「自分たちは自然や市場の法則から自由なのだ」と信じるようになっても無理はない。1970年代、石油ショックで、他国の経済は壊滅的な打撃を受けたが、日本経済は減速しただけにとどまった。だから、日本の政治家や官僚、特に大蔵省が、自分たちが無敵だと信じるようになっても不思議ではなかった。彼等は謙虚さを失い、成功に甘んじて横柄になった。そしてまさにそのとき、火山が爆発したのだ。
 日本経済は、1990年代ずっと景気が後退あるいは停滞した。何千件もの企業が倒産し、失業率は今世紀最高レベルを記録しようとしている。大手銀行の中には破綻したり、政府の救済を受けたりする銀行も出て来た。消費者マインド、企業マインドも非常に低く、一方、政府や官僚もすっかり狼狽しているようだ。彼等は伝統的な特効薬とされる対策を何度も試してきた。そのような条件下で専門家たちは、財政赤字と通貨供給を拡大し、金利を下げることを勧めている。
 日銀は金利を最低限まで引き下げた。また、日本はG7諸国の中でも、財政赤字が最も多い国の一つである。
 ところが、それでもまだこの国の経済は不安定である。問題が発生してからもう9年もたつのに、である。伝統的な特効薬は完全な失敗に終わり、最悪なのは、このトンネルの向こうに光が全く見えないと思われることだ。
 専門家たちは無力で、狼狽しているようだ。当局は一貫した経済政策を提供することが出来ない。時には減税してみたり、また時には税率を引き上げて見たり。ドルを買い支えたかと思えば、円を買い支えてみたり。規制緩和も銀行救済も試みてみたが、どれもうまくいかない。
 日本経済は、色々な科学薬品を注射して病気を抑えてきた病人のようである。残念ながら、医師が奮闘努力しても患者が回復しない場合、その患者の病状は悪化し、危険な状態になるのが普通だ。これが現在、日本のおかれている状況なのである。確かに1999年半ばには日本経済が大きく成長し、日経指数が刺激され、2年ぶりに一万八千円まで上がった。しかし、こんなちっぽけな急騰のためにこの国が支払った代償は、とても大きかった。政府は、ほんの少しだけ経済を刺激するために、財政赤字を大きく増やさなければならなかったのだ。
 一方、消費者や企業にとっては、将来は相変わらず暗澹としている。自殺者数は過去最高に上っている。非常に多くの人々が職を失ったり、賃金が激減したりしているので、多数の若者が自らの命を絶たざるをえない状況なのだ。不景気が長引くとこういった人間の悲劇が起こる。
 日本は、1990年代は、長い景気後退に直面するだけで済んだ。それは主に、好調なアメリカ経済が、増大する日本からの輸出を吸収していたからだ。私が恐れているのは、アメリカ経済そのものが、今、まさに奈落に落ちようとしており、それと一緒に世界全体も落ちて行くのではないか、ということである。だから、真の経済改革が早急に求められるのである。
 今こそ、本書で私が論じる諸々の措置を導入すべき時なのである。
 古い考えは捨てて、新しい考えを試みなければならない。さもなければ、日本経済は悪化してゆく一方だろう。しかし、ひとたび新しい特効薬を試すなら、日本の金融システムはよみがえり、日本は黄金時代に入るだろうと私は確信する。
 読者の皆さんが私に賛同し、その日の到来を早めてくれることを、私は心から希望する。


ラビ・バトラ





【プラウト経済システム理論について】







均衡予算


政府は、出来るかぎり、税収以上の支出をすべきではない。つまり、プラウトは、均衡予算政策を支持する。赤字財政策は、例えば戦争、不況、自然災害など、非常時の際にのみ採るべきだ。プラウトの経済システムは分散化されているため、安定している。現代の、極性化された、従って不均衡な経済より、ずっと大きな衝撃を吸収できる。不均衡経済では、高い雇用を維持するために、絶えず赤字が必要なのだ。今日の世界では、ほとんどの政府が多額の財政赤字を抱えており、それは後世が支払うのだ。文明の歴史において、自分たちがよい生活を楽しむために、その子供たちの世代に、これほど大きな重荷を押し付けた世代は見たことがない。前にも指摘したように、景気後退や不況は、賃金ギャップの拡大や投機熱によってもたらされる。
バランスのとれた経済では、そういった現象は生まれる可能性はない。従って、国が不景気に対抗するために使う財政赤字は、バランスのとれた経済では、必要ない。
 カナダとアメリカは、1980年代に失業に対抗して多額の赤字を使った国である。今、その行為のツケが回ってきた。債務の利子を支払うために、巨額の支払い利息に苦しんでいるからだ。かつて教育や医療を活性化していたお金は、政府に融資した債権者のもとへ行く。プラウトのモットーは単純だ。バランスのとれた経済では、予算もバランスがとれている。






手ごろな住宅


バランスのとれた経済では、国の生産と消費が大体均等なので、貿易は均衡している。
先進国では、ほとんどの人が、すでに最新の装置や機器を持っているので、新たな消費を生み出すのは、主に住宅の取得である。人々は家を持つと、家具、冷蔵庫、皿洗い機、じゅうたん、絵画など、多くの家財を買う。住宅の取得は、消費を増加させ、国民需要の水準を引き上げる強壮剤である。だから、政府は住宅を手ごろにするべきだ、住宅の取得は、それ自体が目的であり、責任ある市民を作る、退職後の生活を楽にするなど、すばらしい効果もある。
 住宅を手ごろにするには、長期金利を低く保ち、低コストの住宅ローンが得られるようにすべきだ。もう一つのよい方法は、戦後アメリカで行なわれてきたような住宅所得者に、税制上の優遇措置を与えることである。住宅所有者は、住宅ローン支払、固定資産税、住宅ローンの利子の一部を、課税所得から控除できる。この政策は事実上、住宅購入の支払利息を補助することになる。かつて政府は、新築住宅購入を誘導するために、所得税額控除を提供したこともある。これらは皆、健全な政策である。
 長期金利が低い環境を作るためには、インフレを統制しておかなければならない。これは、バランスのとれた経済では簡単に達成できる。予算不足を補うために、赤字財政策を採る必要がないからだ。インフレは通常、貨幣によって引き起こされる現象である。従って、中央銀行が造幣局をしっかり規制していれば、物価は抑えられる。プラウトは、反インフレ金融政策を支持する。
 住宅を手ごろにするには、人々の借り入れニーズを満たさなければならない。そのニーズは貨幣の過剰造幣によって賄われるべきではない。住宅ローン資金は、銀行に預けられている預金から供給されるべきだ。そうすれば、銀行の資金が、住宅や自動車、備品などの耐久財の購入といった、生産的な目的にだけ利用される。銀行には株式、債券、金、巨大企業の購入など、投機行為への融資を許すべきではない。同時に、銀行が手ごろな利率で融資できるよう。銀行の利子費用も低く抑えなければならない。その為に、銀行は、預金者がいつでも預金を引き出せる当座預金には、利息を払わないようにすべきだ。貯蓄預金と定期預金証書については、もちろん市場金利を支払う。
 歴史的に見ると、金融規制緩和が起こり、銀行が当座預金に利息を払うようになる時はいつも、株式市場や不動産市場の投機バブルが起こった。利子費用が増えるので、銀行はより高い収益を得ようと、危険な投機をせざるを得なくなったのだ。この戦略は一時的には成功したが、投機バブルというものは、常に最終的にははじけるものだからだ。この戦略は一時的には成功したが、投機バブルというものは、常に最終的にははじけるものだから、結局は悲惨な結果に終わった。
 これがアメリカでは、1920年代に、日本では、1985年から1990年まで起こった。
その年、日本ではバブル経済が崩壊して、長い不景気が始まった。
 健全な経済を作るためには、銀行は厳しく規制されるべきだが、同時にその支払利息も低く保たれなければならない。そうすれば、長期住宅ローン金利が5%か6%程度の、インフレのない、完全雇用経済が実現する。金利がそのくらい低いと、住宅供給にとって恵みとなる。また、住宅が手ごろであるためには、不動産市場のバランスがとれていて、と地価格が安定していることも大切だ。銀行が不動産に対する投機的融資を許されなければ、土地価格は抑制される。ここで言う投機とは、住宅建設や農業のためでなく、転売目的のためだけに広大な土地を購入することを意味する。





経済民主主義


 現代の工場は、大抵、企業の株をかなり所有する株主たちによって経営されている。
そのような株主は、通常CEO(最高経営責任者)に任命される。彼は一団の管理職を雇い、管理職は専門職その他の労働者を雇う。会社には二つのグループの従業員がいる。管理職と労働者である。
 この二つのグループの利害は正反対なこともある。管理職は、従業員から最大限の労力を要求し、労働市場で決まった現行賃金を支払う。市場が売手市場の場合、つまり、適格な労働者を雇いにくいとき、労働者は能力や生産性に見合った賃金を受け取る。しかし、失業率が高く、労働者が雇いやすい場合は、生産性への配慮は無視され、従業員は会社に対する貢献度に比べて、低い給与しかもらえない。
 管理職の給与に関しては、労働市場が売手市場かどうかは関係ない。CEOは普通、自分の給与を決定できる立場にあり、彼は会社の重役たちを怒らせずに、自分の給与を出来るだけ高くしたい。企業のトップは、自分の高い給与を正当化するため、他の管理職にも高い賃金を支払う。CEOは重役の給与も決め、重役がCEOの給与を承認するのだ。このため、管理職の所得は急増する傾向がある。お互いが相互利害のため高い給与を設定しあうからだ。だから、アメリカの最高賃金が最低賃金の二千倍でも不思議ではない。
 『ニューヨークタイムズ』によると、金融サービスの巨大企業、シティーグループは、1999年、前年より収益が下がったのに、二人の最高経営者にそれぞれ2500万ドル以上の給与、ボーナス、自社株購入権与えた。最低年間賃金は約1万ドルなので、この経営者たちの俸給は、最低賃金の2500倍以上だったわけだ。もし、この企業の収益が上がっていたら、最高経営者たちの俸給はいくらになったのだろうか。
 アメリカの異様に高い役員報酬は、人員整理縮小が頂点に達した1990年代初期には人々のヒンシュクを買ったものだが、それ以来、この習慣は一般的なものになった。
昨今では、CEOは、会社が損失を出しても俸給が上がるし、解雇されるときも多額の解職手当をもらう。アメリカほど賃金差が極端な国は世界のどこにもない。日本では、所得格差はずっと少ない。平均的CEOの所得は、最低給与の約25倍である。今まで見てきたように、賃金が下がる。あるいは不変でも、国の生産性が上昇することはある。
アメリカでは、1972年以来、労働者の購買力は30%減り、平均的CEOの俸給及び特権は、3倍以上になった。労働生産性の向上にもかかわらずである。このような不平等は、不公平であるばかりでなく、経済の不均衡を生み出す。不平等が広がると、製品需要が不足し、政府が財政赤字に訴えざる得なくなる。それによって総支出が増え、資源の無駄使いになる。
 効率のよい公正なシステムを作るために、プラウトは、経済民主主義を提案し、これが、激しい競争の結果生まれる自由企業の枠組みを補うことを提案する。このシステムでは、会社の労働者が株式の過半数を所有する。経営管理は専門家とプロが握るが、役員会は外部の株主ではなく、従業員に対して責任がある。役員は、主に労働者によって選ばれた代表者からなる。そのような役員会なら、労働生産性と賃金のギャップを増大させるような政策は承認しないだろう。
 この構造は、本質的に民主的なので、労働者と管理職の給与ギャップは小さい。民主主義とは、本質的に不平等が少ないことになっている。アメリカでは、大統領の年収は20万ドルである。大統領にもCEOのそれに似た特権があるが、彼の所得は、会社役員の所得の十分の一から百分の一である。これは、政治に民主主義があるが、企業は独裁主義だからだ。そうでなければ、会社の収益が下がっているのに、最高経営者が、巨額のボーナスを稼ぐことはないだろう。
 経済民主主義は、公正なだけでなく、ずっと生産的である。労働者が工場を所有すれば、彼等の努力が報われることがわかっているので、忠実に勤勉に働く。賃金はもっと高く、管理職は給与はもっと低いだろう。各労働者の効率性と会社の利益に応じて、一定の賃金と年末ボーナスが支払われる。管理職の給与にも同じ方式が適用される。
 会社は、やはり専門家によって経営されるので、生産効率は少なくとも以前と同じである。実際には、従業員が株の過半数を所有しているので、生産性はもっと高くなる。
経済民主主義のもう一つの利点は、失業率が低いことだ。どの経済も浮き沈みがあるのが普通だが、資本主義の浮き沈みは時折極端になり、大規模なインフレや不況になり、高い失業率と絶望が生じる。
 今日では、人々が解雇されると、失業者を養うための政府支出が増える。すると、政府は、失業手当を賄うために税金を引き上げ、被雇用者が失業者を支えることになる。
経済民主主義のもとでは、勤勉な人は解雇されない。というのは、全従業員が共同でその会社、または少なくとも株式の過半数を所有しているからだ。だから、事業が不景気になったら、全従業員の労働時間と賃金が削られる。こうして、全員が痛み分けし、誰も失業という心理的トラウマに傷つかずにすむ。
 現行のシステムは無駄が多く、失業者を疲弊させる。景気が下降すると、被雇用者がより高い税金を払って失業者を助ける。だから、現行のシステムでも、痛みは平等ではないが分担されている。だが、仲介者が税金を徴収し、失業者を助けている。
 経済民主主義のもとでは、仲介者は必要ない。資源の無駄もないし、失業者の烙印を押されることもない。
 経済民主主義では、政府の赤字財政によって高い生産を維持する必要がない。高い生産には高い需要、または高い消費が必要だ。不平等が少ないと消費は高くなり、不平等が大きくなると消費支出は減る。というのは、貧困層より富裕層の方が、ずっとたくさんの貯蓄が出来るからだ。ひとたびニーズが満たされてしまえば、さらに所得が上がっても、ほとんどが貯蓄に回される。そのため、少数の人が豊になり、所得格差が拡大すると、消費者支出が下がる。
 すると、生産に影響が出る。商品が売れなくなると、会社が損失を被るからだ。支出を増やすために政府が富裕層から金を借り、それをモノ・サービスに支出する。これは、経済を不自然需要で支えることになり、それが累積して国債の山となる。だから、不平等が大きくなると、あるいは土地や株式の資産市場が不均衡だと、国債が急増するのだ。イタリア、カナダ、アメリカ、日本、オーストラリアなどがそれにあたる。
 経済民主主義では、自動的に不平等が低いので、消費と国民需要が大きい。政府は高い生産高と雇用を支えるために、自ら消費支出をする必要がない。このシステムは、本質的に安定している。アメリカは不平等のレベルが世界最高の国の一つだが、国債があまりにも巨額のため、政府支払利息の方が、富裕層からの政府借入れより多いほどだ。
政府が富裕層から借りるよりも多くのお金を、富裕層は、財務省長期債券の利息として受け取っている。その結果、国は、教育や法執行など、中枢的なプログラムへの支出を削減しなければならない。綜合的な需要、生産、賃金への影響はマイナスで、負債がどんどん重なっていく。不平等には結局、このような大きな害がある。
 賃金が生産性と同調して上がれば、GDPと賃金が並行して増大する。消費者需要が供給についていくからだ。生産者が市場は拡大してゆくと確信すれば、企業投資も急速に拡大する。新技術及び対抗技術も拡大する。そうすれば環境を汚染することなく、高い生産性と実質賃金が生まれる。経済民主主義では労働者、すなわち消費者は、いずれにせよ有利な立場になるのだ。そして、うまいことに、株式市場や過当投機は抑制される。
民主的経済は、本質的に高成長、低不平等経済なのである。
 経済民主主義はマイクロソフト、AT&T、トヨタ、ソニー、IBM、メルセデスベンツなどの大企業にのみ向いている。大企業では少なくとも株の51%を従業員が所有すべきである。残りは外部者が所有できる。そうすれば、役員会の過半数は従業員、あるいはその代表者が占めることになる。中規模企業もこの方法で経営できる。
 小企業では、このシステムが向いている場合と、そうでない場合とがある。従業員一千人以下の企業は、個人所有か、協同組合として経営されており、後者では、株式が従業員に属する場合と、そうでない場合がある。日本では、特に、東京と大阪に生協がたくさんある。組合員は協同組合に投資して加入する。一方、大企業では、従業員は企業共有者になるために資金を投資する必要はない。ある労働者が、例えば三年から五年の試用期間を終えたら、自動的に大企業の共有者となるべきだ。一方、生協では投資が必要である。それ以外は、協同組合も大・中企業と同じ民主的方針に基づいて経営される。
 政府は、経済的民主主義実現のために、責任を持って取り組む必要がある。
かつて政治的民主主義実現のために変革しなければならなかったと同じように。これを実現するには、連邦政府がある産業のある大手企業の株式の51%を株式市場で買い、それをその企業の従業員に、政府の補助付価格で売る。労働者は、株を分割払いで買えばよい。つまり、株の代金が、毎月の給与から少しづつ差し引かれるのだ。こうして、各産業のモデル企業が出来る。モデル企業が効率性、従業員の勤労意欲及び賃金の点で優れていることがわかれば、その産業の他企業も、それに倣って従業員に株を売るだろう。政府は税収を利用して、多くの企業から株式を買い、産業全体の組織を民主的なものに変えてゆける。こうすれば、経済的民主主義がすべての大・中企業にだんだん広がるだろう。
 民主的企業では、労働者が過半数所有者なので、組合は必要ない。どの従業員にも、必要に基づいた最低賃金、それに加えて教育、経験、技能に応じた奨励金が支払われる。それには、利益に比例した年末ボーナスも含まれる。勤勉、革新、知性などに対しては、特別ボーナスが賞与され、怠慢、不誠実、非効率などに対しては、ボーナスの減棒、そして最後の手段として、解雇などの罰が課せられる。まれに解雇が起こった場合には、会社がその労働者の株を市場価格で買い戻す。
 労働者による会社経営と所有を、社会主義と取り違える人がいる。このシステムはむしろ大衆資本主義に近い。フォーチュン500企業の株が、多数の人々によって過半数所有されるからだ。社会主義とは異なり、経済民主主義では、国家は財貨・サービスの生産に従事しない。新しいシステムが確立されたら、政府による経済への介入は最小限になる。
 従業員によって経営管理される企業の原型は、すでに存在する。最も成功している従業員所有・管理の企業は、ユナイテッド航空で、従業員数は世界中で9万1千人、世界最大の航空会社だ。1990年代に何十万もの会社が労働力を整理縮小したが、ユナイテッド航空はしなかった。またサイエンス・アプリケーションズ・インターナショナル・コープレーションも整理縮小をしたことがない従業員所有企業である。従業員数は三万五千人で、アメリカ最大の環境技術企業の一つである。その他の著名な企業は、ワーデル・プレイディング・マシン・カンパニー・コールバーン保険サービス、ブックピープル、TICなどである。カナダでは、TEUCUが、急成長中の従業員所有の信用組合である。来るべきインフレ不況では、こう云った企業の方が、従来型企業よりもうまく生き延び、同類の企業が作られる道を開くだろう。成功は最高の模範だからだ。




最低賃金


プラウトは、すべての人の賃金相場は、少なくとも、生活の基本的ニーズ、食料、衣服、住宅、教育、医療を満たせるものであるべきだ、と主張する。つまり、政府は最低賃金を、所得者(従業員)と扶養家族二人の、平均三人家族が、必需品を賄えるだけの高さに設定するべきだ。
 アメリカを例にとると、最低賃金は、1時間5・15ドルである。この相場では、フルタイムで週40時間、年2千時間働いて、2週間の休暇をとる場合、年間給与は10,300ドルになる。アメリカでは約1千万人が最低賃金、あるいはそれに基づいた俸給しか稼いでいないその家族は最低賃金世帯である。
 公式的な3人家族の貧困ラインは約12,900ドルから始まる。つまり、政府によって定義された生活の基本的ニーズを満たすには、およそ13,000ドルの年収が必要なのだ。
プラウトによれば、最低賃金は1時間6・50ドルになるべきだ。60年代半ばには、このくらいだった。プラウトは、勝手に設定される最低賃金ではなく、ニーズに基づく最低賃金を奨励する。
 少なくともニーズに基づいた賃金が、労働者に支払われるようになれば、貧困を緩和するための政府の支出があまり必要なくなる。福祉支出が減り、それが必要なのは、失業者と身障者、つまり身体的、精神的に働けない人たちだけになる。もちろん、この経済システムなら、働く意志があって働ける人全てに仕事を提供できるはずである。エコノミストたちは最低賃金を高く設定したら、特にティーンエイジャーや不熟練労働者の失業が増える、と指摘している。この見解を立証する経験的証拠は何もない。アメリカと日本の経済データを見ても、所得不平等が少ない時は、経済成長も雇用も非常に高い。さらに、このシステムの方が効率がよい。政府が徴税して、貧困層に補助金を給付し、貧困を取り除く必要がないからだ。それだけ、公的部門は小さくなる。対照的に、最低賃金が低いと、所得の不平等が拡大し、それが失業につながる。例えば、1960年代は、アメリカ史上最低賃金が最も高かったが、60年代最後には失業率3・5%と最低レベルになった。1990年代にも、最低賃金が時おり引き上げられたが、失業率は着実に減っていった。このように、ニーズに基づいた最低賃金は、安定してバランスのとれた経済の活力源である。
 歴史的に、肉体労働者に対する搾取が一番厳しい。これは、過去の全ての文明について言えるし、今日でもそうだ。その理由は、あらゆる労働者の中でも、肉体労働者の技能は市場性が最も低いからだ。だが、肉体労働者の仕事は社会の生存に欠かせない。彼等は卑しくて危険、と見なされる仕事を行う。彼等こそが国からの援助の手を必要とし、またそれに値する。政府は最低賃金相場を、比較的不熟練な労働者が、最低限の必要を満たせるだけの高さに設定すべきだ。
 多くの民主主義国には最低賃金法がある。だが、そのような最低賃金は低すぎて、肉体労働者の貧困の解消には大して効果がない。しかし、プラウトの設定する最低賃金は、誰もが基本的ニーズを満たすのみ十分な高さである。
 プラウトが提唱する、ニーズに基づいた最低賃金によって、現在の貧困は取り除かれる。だが将来はどうだろう。もし、物価が急騰、あるいは高度技術のおかげで国民生産性が上昇したらどうなるのか。
 不平等と、その結果起こる損害とをずっと抑制しておくために、最低賃金と一人あたりGDPとの連結が好ましい。つまり、物価が上がる、あるいは国民生産性が向上して一人当たりGDPが上昇したら、基本給もそれだけ上がるげきだ。最低賃金の購買力が減ると、何百万人もの人々の実質賃金が下がる。最低賃金はほとんどの生産労働者の給与の下限となっているからだ。この為、1980年代以来、インフレ調整後の基本賃金が下がると、一億人ものアメリカ人の平均実質賃金も下がったのである。80年代、物価は40%も高騰したのに、最低賃金は時給3・35ドルのまま動かなかった。アメリカ経済は年々成長し、株式市場は暴騰し、議員の給与は2倍になったが、政府は、最低賃金を引き上げられなかった。そこで、生活コストが40%も増大したので、アメリカの最低賃金の購買力が低下したのだ。これは結局、自滅的である。最低賃金がインフレや生産性の伸びについていくなら、全労働者の実質賃金が、国民生産性と同調して上昇し、バランスのとれた経済が生まれるだろう。ニーズに基づく最低俸給は、プラウト主義経済の中核をなす。




小さな公共部門
 

 公共部門は、出来るだけ小さくなければならない。大きな政府は重税と巨大な官僚機構を意味するからだ。国家が資本と労働力を使って社会を管理すると、民間部門から資源を奪うことになる。官僚機構が拡大すると、民間の生産が低下する。従って、大きな政府は、普通、実質GDPが低くなることを意味する。ただし、経済が不景気で、失業した人材が国家に吸収されても、民間生産が低下しない場合は別である。
 また、巨大な官僚機構は、深刻な腐敗の横行とも関連している。プラウトは、小さな政府、そして少ない課税を支持する。経済民主主義では、解雇の危険が最小限なので、政府は失業手当のために徴税しなくてもよい。また、需要を引き上げるために支出を増やさなくてもよい。住宅価格が手ごろで、不平等の少ない経済では、消費者支出は不足しない。
 政府の主な役目は、国防、警察による国内の保安、老人と身障者のケア、無料教育、そして、可能であれば、最低医療の無料提供である。政府の経済的機能は、激しい国内競争と少ない不平等の維持に限られるべきだ。格差が大きいと、巨額の財政赤字と国債を抱えた、不健全な経済になるからだ。
 ニーズに基づいた最低賃金の経済では、福祉支出が低い傾向にある。民間部門の提供する資金が低いと、人々は、政府の福祉や失業手当に引きつけられる。だが、基本賃金が生活必需品を賄うのに十分なものであれば、生活保護を受けて生きることに、あまり魅力がなくなる。だから、福祉手当は、障害があって働けない人々のための手当てを除き、最低賃金よりずっと低くしておくべきなのである。身障者には、民間の慈善事業や親類からの援助の他に、基本賃金が支払われるべきだ。
 政府は、高齢者のための社会保険プログラムを提供すべきだ。そのために徴収された歳入は、他のプロジェクトの資金として使ってはいけない。社会保障税は信託基金に預け、政府期間が納税者のためにそれを管理する。アメリカと日本では、将来の給付金のためという仮定で、重い社会保障税が課されているが、これは大きな問題だ。現実には、この歳入は財政赤字の財源に使われてしまって、社会保障基金にはほとんど何も残っていない。
 遠慮なく言えば、アメリカと日本では、壮大な詐欺行為が起こっている。政治家が、高い税金は社会保険を黒字にする為に使う、と約束したのに、政府の失業対策のための消費に浪費されてしまったのだ。これが不均衡経済の弊害である。
 政府は、教育を学士レベルまで無料で提供し、全ての人に機会均等を保証すべきだ。
今日の世界では、学習が成功の秘訣であり、貧しい人にもそれを与えるべきだ。教育の欠如は犯罪の発生源となり、人間の可能性を無駄にする。社会の知的資源を活用する為に、公立学校や大学での教育は、全ての人に無料で提供されるべきだ。教育に自分の資金を使いたい人のために、私立教育も歓迎されるべきだ。
 ドイツ、日本、韓国の経済的奇跡の真の秘訣は、無料教育だった。アメリカでは、州や連邦政府がかなり教育を助成しているが、多くの学生が大学を卒業するために借金しなければならない。大学の授業料は最近上昇しており、中産階級にとって重い負担となっている。この状況は、連邦政府の財政援助を大きく増やすことで変えられる。現在、毎年学生ローンに費やされる資金を、貧しくて援助の必要な学生に、奨学金として与えられるべきだ。政府の支出は多少増えるだろうが、バランスのとれた経済では、歳入の増大によって簡単に財源が確保できる。
 もし可能なら、イギリス、カナダ、フランスのように、最低限の医療も一般に無料で提供されるべきだ。少なくとも、健康保険は、民間企業ではなく、政府によって管理されるべきだ。民間企業は営利目的で、患者、医師、病院にとって最善の利益が目的ではない。医療は必要不可欠なものであり、原則として、必要不可欠なサービスの管理には、営利主義は出来る限り抑制されなければならない。
 アメリカでは、民間の健康保険は、危機的状況を作り出している。アメリカでは医師、医薬品、病院の費用が高く、GDPの約14%が医療費に費やされる。この割合は、日本では6%、カナダでは10%である。アメリカの年間健康関連支出1・3兆ドルのうち、一千億ドル以上が保険会社へ行き、そのSEOたちは、何百万ドルもの俸給を稼ぐ。同時に、約四千万人のアメリカ人が、健康保険に加入していない。仲介業者がなくなれば、政府が医療保険産業を管理し、医療コストを増やさずに、貧困層のための無料保険を提供できる。このように、政府には五つの主要任務がある。国防、法と秩序、教育、医療そして経済の監督である。
 今の政府が行なう他の任務、すなわち失業手当や福祉などは、プラウト主義経済では最小限になる。従って、全体的な税負担と資源の無駄も最小限であろう。





日本とアジアのタイガーの改革


ここまで提案されてきた政策と改革は、全ての国、及び地域に当てはまる。日本とアジアのタイガーについては、他にも望ましい改革がある。アジア危機のほとんどは、需要が不充分なことに起因する。そのため、外国へ製品を輸出しなければならず、外国は莫大な貿易赤字に甘んじなければならない。貿易不均衡は、結局、全ての経済に大混乱を引き起こす。
 アジアの内需が増大すれば、世界の問題の多くが解決するだろう。需要を刺激する最善の方法の一つは、住宅供給と建設を促進することである。人々は新しい家を買うと、冷蔵庫、洗濯機、乾燥機、家具、カーペット、掃除機、絵画、アンティークなども買うからだ。従って、新しい家やアパートは、一般の人々にとって魅力的で手ごろなものにならなければならない。アメリカ政府は、これまで不景気対策として住宅税控除を提供し、非常に成功してきた。アメリカの消費が高いのは、主に手ごろな住宅が入手可能だからだ。日本の住宅金融公庫によると、住宅所有者は、家を購入した最初の年に、平均的労働者の5倍ものお金を備品に費やすのだそうだ。日本では住宅価格が下がりつづけているが、まだほとんどの人には高すぎる。特に、経済への信頼がないため、家を買わない。
政府が、2000年から2003年までの三年間、新築住宅(中古ではなく)の購入に対して10%の所得税控除を提供すれば、健全な刺激になるかもしれない。新築住宅のコストが5万ドルだとしよう。その10%は5千ドルである。新築住宅所有者は、所得税からそれだけ節税できる。新築住宅を購入した人は、年末にその領収書を政府に提示し、税金の払い戻しを請求できる。全てのアジア経済も、この住宅税控除政策を採り、住宅需要を刺激するべきだ。
 さらに日本には、ほかの国にない問題がある。日本の住宅所有率は高いが、平均的な家のサイズが非常に小さい。典型的な日本の主婦がこれ以上製品を買っても、家にはもう置き場所がほとんどない。政府が金利や税金を思いっきりカットして、国民にいくら施しをしても、住宅スペースが限られているため、内需にはあまりインパクトがない。
すでに物でいっぱいになっている家に、新たな製品をしまう場所がないからだ。それはかくも単純な問題なのだ。
 家がちっぽけなために、これまでの政府のあらゆる経済刺激策が失敗に終わった。
日本政府は、経済を始動させるために、すでに一兆ドル以上も公共事業につぎ込んでいるが、成功してはいない。政府は、道路や橋や空港を建設する代わりに、香港やシンガポールのように、部屋の広い高層アパートを建てるべきだ。日本の住宅空間の制約が解消されれば、国民はすぐに反応して、消費が増えるだろう。人々は新しい家具、カーペット、電化製品などを買う。それらを置く部屋があるからだ。日本人の貯蓄率がものすごく高いのは、スペースが限られているため、かさばるものや耐久財を変えないからだ。対処法はごく単純、政府や民間の建設会社に、大きな高層アパートを建設させるのだ。そうすれば、国民は商品をたくさん買い、その過程で内需が増大するだろう。
 例えば、MITのポール・クルーグマン、アメリカン・エンタープライス・インスティチュートのジョン・マーキン、ニューヨーク大学のヌリエル・ルービニらは、日本がかかえている持続的なジレンマを注意深く考察し、様々な救済策を提出した。クルーグマンとマーキンは、日本が不調なのは、いわゆる流動性の罠のせいであるとしている。この流動性の罠に陥ると、一国の金融政策は全く無効となり、その一方で、財政規模の拡大は非常に有効になると考えられている。この二人によると、日銀は、紙幣を大量に印刷することで、先々インフレが起こるだろうという予測を生み出しているのだ。
つまり、国民は、物価が上がると考えると、今すぐにでも品物を買いあさろうとするのであり、それによって、国内需要が上昇する、というのである。しかし、この様な処方には2つの問題がある。
 まず、日銀は1997年以来、莫大な資金を市中銀行につぎ込んでいるが、物価が下がりつづけているので、インフレではなく、デフレの環境を作り出してしまった。
 次に、たとえインフレの期待感が起こったとしても、余剰な購入物を、どこに蓄えようというのか。日本人の家屋は、もうすでに天上まで物がぎっしり詰まっていて、極端に狭い。
 流動性の罠の議論はまた、いくぶん方向が間違っている。というのも、この罠と結びついている従来の救済策、即ち大規模な財政赤字による財政規模の拡大は、日本ではものの見事に失敗したからだ。日本は、不況型の流動性の罠ではなく、住宅事情の落とし穴にはまっているのだ。そして、今、有効なのは、この問題の緩和を意図した財政規模の拡大しかない。住宅に関する制約が取り除かれ、金融刺激策も効を奏し始めるであろう。
 これとは対照的に、ルービニは、マーキン同様、銀行に対する救済措置、産業や金融における規制緩和、企業の経理慣行の変革、労働者数の縮小などといった構造的改革案を提案した。だが、こうした救済策が新たな需要を生み出すなどとは到底思えない。というのも、これらの救済策は供給側からのものであり、それによって、目標に掲げている生産効率の向上が達成されても、供給過剰や過剰生産といった問題を、さらに悪化させるだけである。
 需要側に立った改革案、そして、これまで私が提案してきたプラウト理論を活かした政策だけが、良い結果を生むのである。




結論


仲間びいき資本主義は、今、まさにソビエト共産主義と同じ道をたどろうとしており、その道程で、二、三年間混乱が生じる。残念ながら、今の浮ついた楽天主義は、間もなく絶望の苦しみに変わるだろう。それは果てしなく続くように思われるが、たとえ悪夢でも永遠に続くものは何もないことを忘れてはいけない。偉大な社会は、人間の精神が絶望の奈落に落ちたとき、初めて誕生するのだ。私たちはアメリカの上下院議員に電話をして、右に述べられた改革を急いで行なうように求め、逆境を祝福に変えるべきだ。
皆さんが頑張って、流れ続ける文明の泉の新たな章を開かなければならない。
 遠くの空の暗雲(せまり来たる不幸の兆し)の中にも、少なくとも、一抹の光明はある。
それがプラウトである。ひとたびプラウトが生まれたのちは、世界的な黄金時代が出現し、今の守銭奴の時代の終焉を嘆く人はほとんどいないだろう。自然の進化によれば、新しいシステムはすべて、それに先行するシステムより優れている。プラウトは、これまで世界に存在したどんなものより優れており、全ての人のための平和と調和と繁栄の新時代をスタートさせる。この新しいシステムの新鮮さと芳香が、次の千年紀から長く続くことを祈ろう。私にしてみれば、私の師、P・R・サーカーが決して誤った予言をしなかったことが、非常に心強い。彼の言葉は、無上の楽天主義にあふれているからだ。


新月の期間のまっ暗闇の終りに、必ず紫色の暁が出現するのと同じように、今日、顧みられることのない人間性の、果てしない恥辱と屈辱のあとに、栄光の光り輝く時代がやって来ることを、私は知っている。
 人間性を愛する人々、生きとし生けるものの幸福を願う人々は、この上ない吉兆の時代が早く到来するように、今この瞬間から、無気力と怠惰を振り払い、活発に活動すべきである。



サーカーが約束するように、近い将来にプラウトが出現し、次の千年紀に光り輝く新時代が出現するのは、全くの必然なのである。