人類愛善団体の紹介



『日本ハンガー・プロジェクト機関誌』より抜粋





――【ハンガー・プロジェクトは長い歴史の中で様々なユニークな方に参加して頂いていますが、白石慈恵さんもそのお一人。平凡な主婦が突然観音様のお導きで世の中の苦しむ人々を救う為に出家し、仏門に入ったというのですから。身近な悩みを持った人々から飢餓に苦しむ世界中の子供まで、今では慈恵さんの救済の手はグローバルな広がりを見せています。ハンガー・プロジェクトとの出会いも観音様のお導きかもしれません。そんな白石慈恵さんのお話をうかがう為に、京都・嵯峨野の観音院を訪ねました。】――




◎白石慈恵さん――(真言宗御室派 観音院住職)――


「世の中の人を救いなさい」観音様に導かれて出家へ
――慈恵さんが仏門に入られたのはずいぶん遅かったそうですね。どのようなきっかけですか。

「――観音様が降りていらして、「世の中の苦しんでいる人達を救いなさい」とおっしゃられたのが1982年、私が40歳の時でした。正式に得度して出家したのが45歳ですから、親からお寺を継いでいる住職が多いこの世界では、45歳の出家は遅い方でしょうね。」




――急に「世の中の人を救いなさい」といわれていかがでした?

「――はじめ観音様のお告げがあった時、私はお断りしたんです。信仰はありましたが、それだけで世の中の人々を救うなんて出来るわけがないと思っていましたから。
それでも観音様はもう決まったことだからと何度も現れてはおっしゃるんです。そのころから不思議といろいろな人が相談に来るようになってきました。世の中にはこれほど多くの人々が悩んでいるのか、苦しんでいるのか、それなら5年だけやってみましょうと、いろいろな人々の悩みや相談を聞くようになりました。相談を聞くといっても私自身は何も出来ません。観音様のお導きによるお言葉を伝えるだけなのですが、それでも聞いた人は顔を輝かせて、「ありがとうございます」と帰っていく。そうやって人が喜ぶ姿がうれしかったんですね。これまでの生活とは違う、自分の居場所を見つけた想いでした。それで約束の5年たった時に観音様に「これを一生の仕事にさせてください」とお願いし、出家することになったのです。」




――慈恵さん御自身にとってはそれなりの理由がある行動であったとしても、まわりの方は驚いたでしょう。

「―― 皆さんに「何か悩みでもあったんですか」とか、「相当な決意だったんでしょう」とか聞かれました。しかしそんな気負いは全然ありませんでしたね。むしろ今までの生活よりもよっぽど楽になりました。以前は女だから化粧をしなければならない、髪もきれいにしなければならない、洋服も持っていなければならないと、本当はどうでもいいと思っていたことでも「それが当たり前だから」というだけで続けてきましたか
ら。しかし今ではそんな私にとって余計なことに気を遣う必要もまったくありません。
髪を落とした時には本当にすっきりしました。もう髪型を気にしなくても済むって。私には今の姿の方が自然ですし、自分にあった生き方だと思っています。」





祖父と父が教えてくれたおおらかな生き方――もともと人を救うような素質、気持ちがあったのでしょうね。


「―― 人の役に立ちたいという想いは子供のころから持っていました。小学校三年生の時にはすでにそのように考えていましたね。というのは、その前年に父親の会社が倒産してしまったのです。この時に父親を含めてたくさんの人々の優しい気持ちに触れた影響が大きかったんですね。幼いながらも苦しいのは判りますし、そんな時に人の親切というのは心にしみてきます。それから人の為に何かしたいということを強く意識するようになりました。それまではわがままで、我が強く、欲しいものは絶対に手に入れるという子供でしたから、人生の大きな転機といえますね。」




――優しくしてもらった経験が意識を180度変えてしまったと。

「―― それまでとてもよくしてくれた人が、財産を失ったとたんにみんな背を向けて離れていってしまうなんてことはよくありますよね。父の場合は違っていました。倒産してからも、元従業員とか、友達とかが本当にたくさん訪ねてきてくれた。それも父の人柄でしょうね。おおらかな人で、人に騙されて倒産した時も一言も恨み言を言わなかった。私にも「騙された方でよかった、騙してないのだから。騙した方はこれからもっと大変だ」といっていたくらいです。」




――そのような気質も遺伝かも知れませんね。

「―― 多分沿うでしょう。実は祖父も更に輪をかけておおらかな人柄で、ある意味で私の原点と言えます。祖父は晩年11年間寝たきりだったのですが、愚痴や不平不満を言うのを聞いたことがない。不便だし動けないもどかしさはあったかもしれませんが、それを微塵も見せない。布団の狭い世界のなかで、長唄を歌ったり、いろいろなことを考えたり、その境遇を受け入れ、人生を楽しんでいるのが私にもわかりました。何かしてあげると必ず「ありがとう」と声をかけてくれる。だから祖父のところにもいろいろを人が集まってきましたね。そんな父や祖父を見て育ったので、私もどんな境遇に置かれても大変さを感じないんです。逆に一寸したことでもありがたいと感じる。何にでも感謝できるというのは素晴らしいことですね。」




――小学生で人の役に立ちたいと思われて、その後は何か具体的な活動はされたのですか。

「―― それが不思議なことに、私の記憶をたどっていくと、小学生時代からいきなり40歳で観音様との出会いまで飛んでしまうんです。その途中の記憶は何も残っていないんですね。例えば昔の友人に会って、「あの時こんなことをしたね」と言われれば「ああそうだった」と思い出しますが、そのようなきっかけがなければ何も思い出せない。先日、娘に「私が生まれた時どんなだった」と聞かれたのですが、それすら思い出
せない。うんだには違いないんです。娘がいるんですから。多分、その数十年の記憶は今の私には必要なかったのでしょう。今思えば、そのころの私は自分らしく生きてなかったんでしょうね。あまりに当たり前の生き方をしようとしていたのでしょうか。40歳以降の人生がそれ以前に比べてあまりに充実しているせいもあるでしょうけど。」




「モノを与えない」では済まない途上国での御布施の難しさ

――途上国のスラムなどを見ると、あまりの貧しさに無力感に襲われることがあります。慈恵さんは世界各国にいかれていますが、途上国をご覧になっていかがでしたか。
「―― やはり日本の豊かさに慣れるというのは恐いことだと思います。印象に残っているのは、1989年にザンビアの子供病院を訪ねた時のことです。病院には子供を連れた母親がたくさん来て診察を待っていましたが、そのうちの一人が日本では雑巾にも使わないような、真っ黒に汚れた布で子供の顔を拭いていたのです。ショックでしたね。私も人の母親ですから、これは何も出来ないでは済まされないと思いました。日本ではどこの家にも使われていないタオルくらいありますよね。若い人は会社名入りのタオルなんて使わない。私はまわりに呼び掛けて、そんな使われていないタオルを集めることにしました。
中には使われなくなった会社の征服とか、タオルがないからとお金を送ってくれる人もいました。そのような物資が大きなダンボール箱6〜7個になったので、ザンビアとジンバブエの病院に送りました。たいしたことではないかもしれませんが、これで子供の生活がよくなればいいと思います。」




――途上国の都市には子供の物乞いが大勢いますが、彼らにお金を渡してはいけないと言います。これは御布施という観点からいかがでしょう。


「―― それは私も経験しましたが、非常に難しい問題だと思います。子供はほんのわずかなお金でも大喜びしますが、その裏には必ず大人がついており、直接子供の手に入るわけではないんだと教えてもらいました。
ある時インドとネパールの国境地帯に何名かのツアーで行った時のことです。バスでの移動中、昼食に御弁当が配られたのですが、多くの日本人がとらずに網棚に載せてありました。バスが止まると物乞いが集まってくるのですが、モノをあげるとパニックになるので絶対にいけないといわれていたので、誰もあげません。ところが、私のところに小さな子供を抱いた女性が来て、身振りで「この子の為に食べ物をくれ」と言うんです。子供を見るとぐったりしていて、見るからに具合が悪そうでした。私は手を付けていない御弁当をひざの上に置いていたのですが、まわりに誰もいなかったので、御弁当の包みに少しお金を忍ばせて、そっとその女性に渡しました。
あの時に私に向かって手を合わせていた彼女の顔は今でも忘れられませんね。
そのことがよかったのか悪かったのか、今でも私には判りません。でもあの母親の顔を思い出すと、単純に「モノをあげてはいけない」では済まされない問題だと思います。御布施は難しいですね。」




先進国に蔓延する「心の飢餓」は与えることで満たされる。――その一方で日本に目を向ければ若者達を中心に「心の飢餓」が問題になっています。


「―― 途上国の子供のことを考えると贅沢な悩みですね。要するに自分のことしか考えなくなってしまったんです。「我利我利亡者」と言いますが、自分の欲望を満たすことだけを考えても、結局すべてを失ってしまうだけ。人が喜ぶ姿を自分の喜びに出来れば、もっと安心していきられるはずです。そしてこれは何も若い人に限ったことではありません。お年寄りにもだんだん視野が狭くなり、心を固くしてしまっている人が多いようです。いつ死ぬか判らないのですし、あの世に財産を持っていけるわけではないんです。「情けは人の為ならず」といいます。仏教でも法事の最後に「回向分」を読むのですが、これも「まわって自分に向かう」という意味です。先ずは人に何かをしてあげること、というより「させてもらう」こと。同じことをやっても不平不満を持ってやれば不平不満が返ってくるし、感謝の気持ちを持ってやれば感謝が返ってくる。「心の飢
餓」は外の答を求めるのではなく、自分自身から「与える」ことで解決できるものです。」




――何を与えればいいかわからない人も多いのではないでしょうか。

「―― 仏教では6つの修行の第一に布施の実践をあげていますが、これは何も財産を施すだけではありません。無財の布施ということもあります。お金がある人はお金を、時間がある人は時間を、力がある人は力を提供すればいい。例えば「笑顔を施す」ことだって立派な布施です。どんな形でも自分に出来ることを、無理のない範囲でやればいいと思います。例え小さなことでも、続けることで大きくなっていきます。チリも積もれば山となるのたとえもあります。ここ(観音院)の玄関にTHP(ハンガー・プロジェクト)の為にポストの募金箱を置いているのですが、先程開けてみたら十数万円も入っていました。わずかなお金でも続けることでこれだけの額になることが実証されてとても励まされる想いがしました。」




――「継続は力なり」ですね。

「―― ただ無理をしないというのは、何もしないということではありません。出来る範囲で努力をする必要があります。「果報は寝て待て」ということわざがありますが、果報の「果」は結果の果であり、やるべきことをやったら、結果を気にしないで待てという意味。初めから努力しないでただ寝ていては何も生まれません。もう一つ、私のこれまでの経験から言えるのは、何かことを起こそうとすると必ず問題に直面しますが、
そこから逃げないことです。結果を気にせず、真正面から向かっていけば必ず打開できるものです。」




――最後にボランティアの方々に一言御願します。

「―― 私が子供のころは、まだまわりに貧しい人や親のいない子供が多く、彼らを何とかしてあげたいと思っていました。今ではこんな島国から、若い人達が世界に向けて発信し、世界の飢餓について考えているのですから、うれしくなります。将来が楽しみですね。宗教は人それぞれにいろいろありますが、感謝の気持ちは共通だと思います。何事にも手を合わせて感謝する気持ちを忘れないでください。」







《ハンガープロジェクトは世界の飢餓の根絶を目指して活動されている国連公認の世界的なNGO団体です。たんに飢餓地帯や貧困地帯に救援物資を支給するだけではなくて、飢餓や貧困地帯の人達が自ら自立することが出来るようあらゆる面から救援活動を行っております。
また日本ハンガープロジェクトから機関誌としてハンガーフリーワールドが発行されております。》
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☆世界人類が平和でありますように