R・ケネディの死とアメリカ



 ロバート・ケネディが凶弾に倒れた、と云うニュースは全世界の人々に突き刺すような衝撃を与えた。キング牧師の死に続いてのこのテロ行為は、アメリカの恥部をはっきりと全世界に知らせてしまった、と云っても過言ではないであろう。
 キング牧師と云う人は世界では知らぬ人も多かったが、ケネディとなると前大統領の弟であり、若い進歩的行動家であり、大統領候補として、立候補戦の最中だったのだし、誰知らぬ者のない世界的ホープなのであるから、世界中の人々がその死を惜しみ、その死に心を打たれ、犯人を憎んだのも当然な事である。
 ジョン、ロバートと兄弟二人が、同じような悲しい最後をとげたという事は、ケネディ家にとってなんともいいようのない悲劇であると同時に、アメリカそのものの姿に悲惨な影を刻み付けた大きな事件でもある。
 新聞やテレビの解説や対談で、ベトナム戦争と云うような大量殺戮を行っていると、その国民の心は知らないうちに、人殺しを何とも思わぬ思いになってしまう、というようなことをいっていたが、全くその通りで、戦争というものは、人の心をいつの間にか凶暴にしてしまっているのである。人間の想念というのは、習慣性を持っているのであって、一度二度と悪いことをすると、知らぬ間にその想念行為が良心を痛めぬようになり、平然として悪が行えるようになってしまうものなのである。
アメリカの戦争行為は、その荒々しい想念行為がいつしらず国内に満ち充ちてしまっていて、ちょっとした動機でも殺人が行えるようになってしまうのである。それに加えて、アメリカに殺されたベトナム人たちの恨みの念波がアメリカに覆いかぶさっていて、アメリカの滅亡を図っている事も見逃すわけにはゆかない。人にしたことは自らにかえってくるのは業(カルマ)の法則であって、それは個人でも国家でも同じことなのである。
 戦争となると殺人が何でもなく行えるが、一人のケネディが殺されたことでも、全世界の人々の心を冷たくさせるのである。平静な心でいれば、一人の殺人でも大変な事なのである。まして何十万と云う人が殺されている戦争というものが、いかに罪深い行為であるかが、よくわかるのである。
有名な人の生命だから大変であり悲惨であって、無名の人の生命だから、なんでもない、という事は人間の世界ではいえない事なのである。
アメリカのある高官が、アメリカ人一人の生命は、ベトナム人何千万人の生命にかえられない、と云う様な放言をしていたことがあったが、こんな手前勝手なことを云っている人が高官の中にいるようでは、アメリカの正義感と云うのは、ゆがんだものに相違ない。そういう歪みが、今日はっきり表面に出てきたのが相次ぐ殺人事件なのである。
 軍備をもって、いざと云えば戦争をも辞さない、と云う国家群の在り方は、それこそ第二次大戦前の在り方であって、今日の様に世界各国が戦争にはコリゴリしているのに、お互いが仮想敵国をつくって、軍備を増強し合っているのだから、ただただあきれる他はない。
 真実に国家同志が愛し合い、世界平和をつくりあげる為には、お互いの国家が敵国をつくりあって、武力が自国を護る最大の力のように思っていたのでは、なん度びでも大戦が繰り返され、人間を動物的にしてしまって、とうてい世界平和など成り立つわけがない。
 これは国内の革命行為でも同様である。相手を倒さなければ、自己の目的が貫徹されないというのはスポーツの世界だけでたくさんなのである。個人でも国家でも暴力行為を一切なくす為には、自己が自国がまず武器を持たぬところから始まるのだ。
その点、現在の日本は正式の軍隊を持っていないので、そういう点では理想的なのである。だがしかし、そういう姿で国家を護るためには、徹底的な平和を愛する心を持ち、日本中が一つになって平和の祈りをすることが、大きな強い平和の力となるのである。
 祈りとは自分勝手な願望を神にきいてもらおうとすることではなく、神のみ心と人間とが全く一つになるためになされる心の修練なのである。





五井昌久著『神への郷愁』より




五井先生巻頭言――今年こそは――