YMCAに関わった7人の人たち

すっかりホームページからご無沙汰してしまいました。お蔭でやりかたを忘れてしまい、この記事はどちらかというと練習用です。来年、2013年6月頃に『日本YMCA事典』が発行されるとのことで、記載予定の大勢の人たちの中から、以下の7人の人たちについて執筆を依頼されました。この程書き上げた原稿を以下に記載します。これらの方々は、自分で選んだのではありませんが、大なり小なり私自身のバックグラウンドに関与した人々であることも否定できません。

1.森有正
2.松村克己
3.宮本武之助
4.中川秀恭
5.小林富次郎
6.大和久泰太郎
7.藤森元

森有正(もり・ありまさ) 1911.11.30-1976.10.18 哲学者、フランス文学者。東京生まれ。明治時代の政治家森有礼の孫、父森明は牧師、妹は日本YWCA会長を務めた関屋綾子。1938年東京大学仏文科卒業、卒業論文はパスカル。YMCAとの関わりは、1944年から渡仏までの6年間、本郷の東大YMCAの寮に寄宿したこと。当時は寮の舎監として劇作家の木下順二がおり、裏の2舎には大塚久雄が家族とともに住んでいた。木下の『随筆集 寥廊』(筑摩書房)は当時生活を共にした森有正を悼んで書かれたもの。森は1950年8月、戦後初のフランス政府給費留学生として渡仏、その後一時的な帰国をのぞいて、日本に帰ることはなかった。当時の東大総長南原繁はパリにまで赴いて連れ帰ろうとしたが、森はそのままフランスに留まり、苦労の多いパリでの生活を選んだ。結果としてパリでは国立東洋語学校およびソルボンヌで日本語、日本文学を講じるようになり、1972年からはパリ大学都市日本館の館長を務めた。1955年に最初に一時帰国する前からパリで書き始めたのが『バビロンの流れのほとりにて』(講談社→増補版、筑摩書房)で、書かざるを得ないものとして書き始めたという。なお1971年、東山荘での全国学生YMCA夏季集会では「古いものと新しいもの」という講演を行なっている。そのときの森の肩書きはパリ第三大学東洋語東洋文化研究所教授である。

松村克己(まつむら・かつみ) 1908 - 1991.2.18 神学者・宗教哲学者。1933年京都帝国大学哲学科卒業。波多野精一の推挙によって京大に残り、42年助教授となるが、46年占領軍により休職を命じられ辞職。そのあと日本基督教団巡回教師を経て、関西学院大学神学部に迎えられた。44年、戦局が逼迫し、学徒動員で文系の学生がいなくなったとき、山谷省吾のはからいで旧制第三高等学校YMCA洛水寮主事宅に夫妻で入居、改修が必要となった48年まで住み、学生を指導した。学生YMCAの夏季学校には戦前も39年、40年に講師として招かれているが、戦後は49年から67年にわたり聖書研究の講師などとして10回登壇し、夏季学校校長も3回務めた。その間日本YM同盟学生部常務委員、京都学Y資産管理委員長などの役職を引き受け、学Y運動に貢献した。著書に『アウグスティヌス』(弘文堂、1937)、『交わりの宗教』(西村書店、1947、日本基督教団、1968)、『イエス』(弘文堂、1948)、『根源的論理の探究 アナロギア・イマギニスの提唱』(岩波書店、1975)などがある。74年、『根源的論理の探究』により関西学院大学神学博士の称号が授与された。そこに示された思想は、波多野精一の宗教的象徴についての考察を「かたちの類比(アナロギア・イマギニス)」として独創的に展開したものである。晩年は浜松の聖隷三方原病院のホスピスに夫人を移し、自身は同施設内のエデンの園に住んだりした。

宮本武之助(みやもと・たけのすけ) 1905 - 1997 仙台出身、東京帝国大学哲学科卒。高倉徳太郎が牧した信濃町教会の会員で、高倉が校長をしていた日本神学校で宗教哲学を教え、以来東京神学大学で長く宗教哲学を講じた。その後東京女子大学学長(1969年、就任)、フェリス女学院院長を歴任した。東京女子大学教授・宗教部長だった宮本信之助はその弟。多数の著書は『宮本武之助著作集上・下巻』(1992、新教出版社)にまとめられているが、下巻には間もなく米寿を迎えようとする著者の書き下ろし論文「キリスト教と文化」(234ページ)が収められている。その標題に宮本が生涯追究したテーマが示されている。宮本は42年、43年と、戦時中の学生YMCA夏季学校に聖書研究の講師として登場しているが、戦後も64年まで講師あるいは校長として8回奉仕している。戦後間もない46年に東山荘で開催された「全国学生基督者協議会」(第55回夏季学校)でも聖書研究を担当した。49年3月に陣容を整えた学生部常務委員会では副委員長に選ばれた(委員長は湯浅八郎)。47年、同盟常務委員会は「主事養成規定」を定め、東山荘で毎年春秋2回主事養成講習会が開かれるようになった。宮本はそのキリスト教科目の講師のひとりであり、53年日本YMCA研究所が設立されたときは研究所委員となり、主事養成1年コースのキリスト教倫理を担当した。60年代、70年代の東山荘委員でもあった。

中川秀恭(なかがわ・ひでやす) 1908.1.1 - 2009.4.26 島根県西郷町(現隠岐の島町)出身。聖公会信徒。商船水産学校卒業後、三等航海士として日本・リバプール間を行き来するが、牧師を志して、立教大学哲学科に入学。卒業後東北帝国大学哲学科に進み、石原謙の指導を受けた。イエール大学大学院修了。東北帝国大学文学部助手、講師を経て、1947年北海道大学法文学部助教授、53年文学部教授となる。67年北海道大学退官後、北海道教育大学学長、71年国際基督教大学教授、75年同大学学長、83年退職。86年から2000年まで大妻女子大学・大妻女子短期大学部学長。2003年まで学校法人大妻学院理事長。北大時代は長年北大YMCA理事長としてその指導にあたった。直接の教え子に元北海道大学教授、元同盟学生部委員長土屋博がいる。またかつての学生部主事故藤森元は北大Y汝羊寮でその薫陶を受けた。戦後の学Y夏季学校にも7回登壇し、2回校長を務めている。同盟学生部常務委員を経て、73年〜80年、日本YMCA同盟委員長の重責にあった。また日本クリスチャン・アカデミーの理事長として、松村克己同様、日本のアカデミー運動にも貢献した。『ハイデガー研究』(1943)、『ヘブル書研究』(1957)、カール・レーヴィット『キェルケゴールとニーチェ』(1969, 2002)など著訳書は多数あるが、大きく括って宗教哲学者であったと言えよう。長身で豪放な人柄であった。

小林喜一(こばやし・よしかず) 1899.12.23 - 1992.7.18 喜一は初名、2代小林富次郎(初代の養子)の長男、3代小林富次郎のこと。1923年慶応義塾大学経済学部卒、同年小林商店(のちのライオン)入社。35年社長、67年会長。小林商店を起こした初代富次郎は「そろばんを抱いた宗教家」と言われた人で、慈善家であった。その葬儀の模様を記録した1910年撮影の「小林富次郎葬儀」は国内に残存するフィルムで最古のものとされ、国の重要文化財に指定されている(葬儀場となった神田美土代町の東京基督教青年会館も撮影場所の一つ)。小林喜一は、YMCAの歴史では、何よりも長年東京YMCAの理事、理事長として奉仕した人として記憶されるべきである。38年2月、東京YMCA副理事長に選出され、51年には、臨時理事会で山本忠興の後任として理事長に選出された。その任期は、61年4月施行の新会則により、理事長の任期は「継続して3年を越えない」とされるときまで、実に10年1ヶ月にわたった。後任は五十嵐丈夫であった。五十嵐も創業者が敬虔なキリスト者として知られる白洋舎の2代目であり、同じく慶応を卒業した。37年10月の慶応義塾日吉チャペルの献堂式の写真には二人の姿が映っている。小林は古くからの東京ワイズメンズクラブの会員であり、また東京Y選出の同盟委員として、終戦直後から、日本YMCA同盟の重要な方針決定に参画した。

大和久泰太郎(おおわく・やすたろう) 1916.4.18 - 1995.1.10 1939年慶応義塾大学経済学部卒。YMCA主事としての経歴は横浜YMCAから始まる。後年大和久が執筆した『横浜YMCA百年史』(1984)には、『横浜青年』(1952.8)に自らが書いた「ああこの風景―高らかに平和の声を上げよ―横浜、上海、植民地」という文章が引用されている。53年11月、1年のアメリカ留学ののち、前任者の奈良常五郎のあとを継ぎ、日本YMCA同盟学生部主任主事となり、60年10月、札幌Y総主事となるまで続けた。54年3月には、同盟宗教部主事池田鮮が札幌Y総主事に就任したため、宗教部主事を兼務した。この頃、同盟宗教部では、53年8月第25回同盟総会で小田切信男博士によって提起された「YMCAのパリー標準」一部字句修正の件について、同盟常務員会からその研究を委託されていた。いわゆる「小田切―北森論争」の発端である。65年12月、札幌Yより再び同盟に転任し、東山荘所長となった。同時に60周年記念事業および総務を兼任担当した。当時は池田鮮が同盟総主事の時代(1960年〜1972年まで総主事)であり、同盟事務所の早稲田への移転、東山荘の改築など、同盟が大きく様変わりしたときである。72年、池田のあとの同盟総主事に就任、76年退職後は湯浅恭三の推挽により日本心臓財団事務総長となった。宗教関係の訳書も数冊あり、温厚な教養人であった。

藤森元(ふじもり・はじめ) 1925.11-2010.3.15 戦後の学生YMCA運動の絶頂期に中心的な役割を果たした主事。大阪生まれ。50年3月北海道大学農学部を卒業、同年4月、日本YMCA同盟に学生部主事として就職。在学中は北大YMCA汝羊寮に居住。同盟に就職して間もなく、50年9月から52年3月まで名古屋Yに出向、4月同盟学生部に帰任、同10月学生部関西駐在主事として京都に移住。60年10月、大和久泰太郎主事の後任として学生部主任主事となり、東京に帰任。帰任前の58年には、学生伝道に関わる諸教会諸団体の集まりで学生キリスト教運動方策研究委員会(のち研究の文字が取れる)が、また「教会の生命と使命」委員会(58年に始まる世界学生キリスト教連盟の5ヵ年の企画に応えるもの)が組織され、学生聖書研究ゼミナールを数回実施した。上の組織が母体となって、59年、雑誌『学生キリスト者』が発刊された。この雑誌は62年、大学教師による大学キリスト者の会が創立されるとともに、『大学キリスト者』と改題された。60年には日本YM同盟、日本YW両学生部の協力体制が作られた。藤森学生部主任主事の10年間の活躍の舞台はこのようにして整えられた。67年、同盟都市部主任主事兼務、70年、世界YM同盟東南アジア地域主事として香港に出向、73年、神戸Y副総主事、79年にYMCA退職後は90年まで神戸女学院総務部長であった。

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