閑老人のつぶやき 教会と学生キリスト教運動

教会と学生キリスト教運動――学Y運動の暫定的・個人的総括

〈以下は1972年に『福音と世界』(新教出版社、3月号)に掲載された拙論です。当時未だ学生YMCAの主事であった私が、全共闘運動の余燼のおさまらない時期に書いたもので、今に続く私自身の「あがき」が映し出されています。〉

この文章の書出しを、まず私事から始めることを許していただきたい。私は1940年(昭和十五年)に生まれた。紀元二千六百年、そして日独伊三国同盟が成立した年である。だから生まれた年から言えば、私は戦前派と言えなくもない。しかし五歳の時に敗戦の年を迎え、1947年(昭和二二年)、教育基本法が制定された年に小学校に入学したという意味では、全くの戦後派である。ついでに言わせていただけば、一年間浪人して、私が大学に入学したのは、1960年(昭和三五年)のことであり、言わずと知れた安保闘争が最高潮に達した時である。入学当初全くのノンポリであった私も、六・一五には、国会突入のデモ隊の一員に加わっていたのであるから、まあ「安中派」最後の世代であるとも言えよう。大学院での二カ年間を加えれば、六年間の学生生活を送り、(修士論文を書かないまま)私が日本YMCA同盟学生部に就職したのは1966年(昭和四一年)、学生運動が安保闘争の挫折にもかかわらず、ようやく「七〇年安保闘争」をめざして、新しい胎動を見せようかとしていた頃のことである。

履歴書めいたことを書いたが、私が学生YMCAの主事の立場から、求められたテーマをこなそうとするに当たって、やはり私の一応の個人史の一端を紹介することも無駄ではあるまい。特に、私が学生YMCAの一メンバーとして過ごした六年間と、その後「学Y」主事になってからの六年間、都合十二年間の、学Y内外の状況の推移は、私個人にとってはもとより、キリスト教界全体にとっても、重大なことが起こった時期であると言えよう。高校時代に、ミッション・スクールに入学したことが経緯で、ある保守的なバプテスト教会で受洗した私にとっても、今日唯今の状況は、私とキリスト教との関わりを根本的に洗い出し、総括せざるをえないような、危機的な様相を呈しているように思われる。ましてや今日の青年、学生にとって、現代社会とその中にあるキリスト教の混乱し切った状況は、彼らに人生の明確な目標を見失わせるに十分であり、彼らが常にラディカルな問いに直面せざるをえないとしても、それは無理からぬことである。

焦点を学Y運動にしぼるとしても、学Yにとって、そしてまた学Yと共に生きた私にとって、過去十年あまりの時間的経過はやはり実に重たいものであった。しかし、どのような意味で重たかったのか。まず、たまたま私の目にとまった『朝日ジャーナル』の一節を引用してみたい。

「わたくしがあえてこだわるこの十年間――不毛からの出発は、われわれにとってむしろ自明のことがらでさえあった。自らの客観的前提を欠いたまま、『動く』あるいは『走る』ことをとにかく始めてしまうという様式を、わたくしは周囲にあるさまざまな運動のひとつの基本的な質として見てとることができる。運動の極度の観念性と、組織実体の貧困さは、はじめ、われわれの身振りを軽々としたものに見せ、次にあいもかわらぬ俗流『自立論』や平板な『政治主義』やの輪の中に、われわれ自身の思考を閉じさせていった」(『朝日ジャーナル』1月21日号、佐藤信「美しい言葉と疲れた身体」)。

演劇人として、大学の文化サークルなどにも関係してきたらしいこの筆者の指摘は、残念ながら、最近の学Yにもそのままあてはまると言わざるをえない。もちろん、何を「客観的前提」と考えるかということについては、彼我に理解の相違があるであろう。学Yの場合は、これを「キリスト教」ないしは「信仰」に求めるのが、一応当然というものであろう。しかし、学Yにおいて「信仰」が「客観的前提」として存在し続けてきたとは言い切れないし、ましてや、そこに相互の実質的な一致点を見出してきたなどとは到底言えるものではない。と言うと少し言い過ぎの感も免れないのではあるが、学内の文化サークルの一つとしての、学Yのキリスト教的目標が必ずしも明確ではなく、結果において、この筆者が指摘するようなサイクルを描きがちであったということは、事実として否定すべくもない。

学Yのここ数年来の傾向、歴史的体質といったものを、もう少し広い文脈から浮かび上がらせるために、右の文章は便利であると思い引用したのであるが、1969年当時の全共闘運動の影響と、その今日における結果というものを思い合わせてみても、右のような傾向は、学Y運動の一つの限界として観念せざるをえない性質のものである。少なくとも私の目にはそのように映ずる。したがって、学Yにおいてキリスト教を、どのように位置づけたらよいかということが、今日の大問題なのである。

何とも情けない話であるとお思いの方もあろう。学Yの中にもいるかもしれない。しかし事柄は、キリスト教と歴史的状況との兼ね合い、今日の学生がキリスト教と主体的に関わってきた、その関わりの一つの結果なのであるから、事ここに至った理由の解明については、そう軽々になしうるものではない。私はここで特殊学Yの状況を詳しく説明する気はないのであるが、与えられたテーマとの関連において、学Yの具体的状況を背景に据えて、私なりに学Y運動の一つの暫定的総括を試みたいと思う。ことわっておくが、これは私自身のための「総括」であって、何かを代表して書くわけではない。また今日ではそれ以外のことがなしえようはずもない。

私が学生時代から見出してきた学Yの利点の一つは、何と言っても、それが率直な現状認識の上に立つ運動であるということである。この性格は往々にして、既存の教会に対する批判の原理たらざるをえなかった。全く固定した発想法と、陳腐な宗教的儀式のくりかえしが、日本の教会のいつしかつくりあげてしまった生活類型であるとすれば、その窒息しそうな雰囲気から脱け出して、キリスト教を自由に論じ得る場所こそ学Yであった。教会の中で、宗教的タブーと単なる生活慣習が、知性の犠牲を強いることに我慢がならないと思い始めた人間にとって、学Yこそまさにその対極に位置するように思われ、そこにこそ学Yの存在理由が見出された。教会が学Yを忌避すればするほど、学Yのこのような自負心はかえって強められた。しかしもしこの相剋が、たとえ一面においてであれ、教会と学Yの歴史において事実であったとすれば、それはその不毛性のゆえに双方にとって不幸であった。

今日、学Yにおいて、教会に対する根本的不信と、「キリスト者」の圧倒的減少とを結果せしめたものは何であったか。教会にのみその責めを負わせるのは不当であろうし、一概に単純化して言うこともできないであろう。しかし、私は教会と学Yの従来の不幸な関係の中に、その理由の一端を垣間見るものである。両者の相関作用は、少なくとも学Yの側において、「キリスト者」の「縮小再生産」というマイナスの結果をもたらした。

かくして「教会」は、学Y運動にとって、方法的にも、現実的にも、必ずしも出発点であるとはみなし難いものとなってきている。学Yはいよいよ、散漫なキリスト教文化サークルとして、自足する傾向にある。その傾向に挑戦すべき教会自体が、今や神学的無政府状態の中で、混乱につぐ混乱をくりかえし、収拾のつかない有様である。この悪循環において肥大しつつあるのは、孤立した自我の反問であり、まさにそれこそが学Y運動の現実的出発点なのである。

学Yにおいてよく次のような自問自答がなされる。「私にとってイエスとは何か」、「私にとって靖国とは何か」、「私にとって……」。しかし低迷する自我にとって、この問いは終に客観性に到達することがない。閉ざされた回路を一巡して元に戻る、このような問いの形式を、ある学生は学Yの強力なイデオロギーであると称した。この回路をなんとかしてたち切らねば、学Yは前進しない。このことに気づいた多くの者は、行動において、あるいは痛烈な宗教批判において、客観性への突破をはかった。しかし、そのことが空虚な自意識の裏返しではないという保証が、どこにあったであろうか。自己の生を生きることそれ自体の中に、現実への唯一の手がかりを見出そうとする者は、終にその抽象的現実にからめとられて、そこから一歩も出ることはできない。このような自縄自縛は、結局は自己中心的な価値判断に身をまかせるほかはない生き方と、相通じている。常に対象が「私にとって」何を意味するかを問うていく姿勢は、学Yにおいて美徳とされたものである。しかしその姿勢は、自己の生への執着と背中合わせなのであり、それが率直な現状認識の根拠となり、変革の主体にまで高められるためには、手放しの自我の肯定以上のものが要求されるのである。

一時期宣伝された学Y方法論(『大学キリスト者』29−32号所収の「学生キリスト教運動方法論」の各論文参照)なるものは、実はこの問題と深く関わっている。一方では、キリスト教信仰と近代的自我の自己理解とを結びつけ、他方では価値無記的(価値自由)な事実の認識を奨励する学Y方法論は、両者の相互否定媒介、緊張関係の中に、一つの社会倫理を形成しようとするものであったと言えよう。これはまさに学Yの近代化路線と呼ぶにふさわしいものであった。否定媒介論と通称されるこの方法論は、しかし六年前から徐々に後退し、少なくともそれ自体として議論されることは珍しくなった。1966年(昭和四一年)、学Yの第75回夏季学校において、私はこの方法論に破産宣告を下さざるをえない、一つの「事件」に遭遇したのであるが、主事になりたての未熟な意識において下した性急な結論について、今日の時点でいささかの反省なしとしない。この方法論が自らその結論にゆきつくまで、私はその行末を見守るべきであったのかもしれない。否定媒介論は未だ十分に定義されない中に、その担い手を失い、歴史の舞台から後退した。それはちょうどその後の学Y運動の崩壊過程とも符合するものであった。

否定媒介論の問題性は、あからさまに言えば、近代の二元論的発想をそのままキリスト教的方法論にすりかえ、弁証法を弄して自己の無神性を糊塗した点にあった。近代的個我(エゴ)が直面するニヒリズムは、キリスト教をいかように解釈し強弁しようとも、そう簡単に克服されるものではない。1966年の夏の時点で、否定媒介論を信奉する学生たちが「絶句」せざるをえなかった状況は、偶然ではなく必然であった。その時、「学Y方法論」の批判者として登場したのが、ようやく九州の学Yにおいて影響力を持ちつつあった、滝沢克己氏の思想(*1)であったことは象徴的である。しかし、この対立は学Yにおいて深められることなく、そのまま1969年を迎え、東大YMCA会館における第78回夏季学校の混乱と、翌年1月の全国学生委員会休会決議に至るのである(*2)。

今日われわれが目のあたるにする学Yの現状は、この時に示された限界を一歩も超え出てはいない。学Y運動は明らかにゆきづまりの状態にあり、今のところ、1968年、69年当時、特に激しく糾弾された学Yの体質を、容易に克服できる見通しはない。もしこのような状態が今後も続くとすれば、学Yは死にゆく死を自らまつほかはなかろう。

学Yに何が欠けているのか。端的に言えば、それは相互の連帯性と、連帯の根拠の自覚である。相互の関係を律する価値規範が存在しないために、学Yという集団は実に不定形なものにとどまっている。それだからこそ、学Yにおける、たかだか「実存主義的」な個我(エゴ)のあがきは、常に悲劇的な性格を帯びざるをえないのである。一方では、社会科学的な、事実の客観的認識というものを設定し、他方では、これに価値判断を加え、解釈を下す主体的な個々人の実践を想定し、結局は両者の統一の困難性ゆえに、常にジレンマに陥らざるをえない学Yの性格は、人間関係を規定する根本的な価値規範の欠如に由来するのである。

このような意味において、「否定媒介論」は、今日の学Yにおいても、生き続けている。そしてこの基本的な性格において、しばしば実存的社会参加が唱導される。それは、本来キリスト教の中に見出されるはずの、行動の価値規準や、相互の連帯性の根拠とは結びつかないままに、社会正義の実践が英雄的に叫ばれるという形をとる。だから、それによってジレンマが克服されるというよりは、行動する少数者がますます孤立する結果を招くのである。このことは否定媒介論のそもそもの限界を示す以外の何ものでもない。まさしくわが学Yにおいて、俗流「自立論」と、平板な「政治主義」とを両極とするジレンマが、横行するゆえんである。

学Yにおいて、キリスト教が決して定着していないというこの結論は、教会の冷笑をあびるであろうか。しかし、万博(大阪万博へのキリスト教館建設に関わる問題)、戦責告白(日本基督教団の戦争責任告白に関わる問題)以後の教会の有様は、教会にもキリスト教がないということをあらわにしたのではなかろうか。少なくともキリスト教がわれわれの「客観的前提」であるということは、決して自明ではなかった。それを自明とする知性の頽廃が、いつしかわれわれをむしばんでいたのだ。

今日の学Yは、否定媒介論のたどりついた結論を受けとめ、その方法論を批判的に継承して、さらにその先を展望すべき時にさしかかっている。私としても、過去十二年間の経験を総括し、私自身のための方法論を形成する必要に迫られている。それは学Y成立の基盤を普遍性にまで高める作業と無縁ではない。しかしここでは教会と青年という文脈に限って、視点を違えてなお若干の問題点を指摘するにとどめたい。

学Yは、自己の「生活の場」である大学あるいは社会において、その現実的な課題のただ中で、キリスト教と取り組み、その使信を受けとめることを課題としている。したがって、それは明確に信徒運動を志向しているのである。実際にはそれが困難に直面していることは前述した通りである。しかしそれならば、教会は自己固有の「生活の場」をどこに有しているのであろうか。どこか他に教会だけの場所が留保されているであろうか。神が神殿にのみ住み給うのであれば、神殿において祭司が司る祭儀こそが、その「どこか他の場所」であるということになろう。サクラメンタル(礼典的、秘跡的)な教会観に多少ともそういうにおいがするのは事実である。宗教的人間にとって、これは実に魅力的である。もしこの教会観が徹底していたのであれば、わが「教会闘争」も起こらなかったであろう。問題は、教会には、いかなる意味でも、独自の領域が存在しないという認識にある。教会が実体的に保有する何ものかによって、世界から区別されるのであるとしたら、教会に本質的混乱は生起しない。今日の教会の混乱は、プロテスタントがこの原理を修正(あるいは歪曲)したことに始まる。教会に敬虔が失われ、世俗の判断が流入することをなげく者は、カトリックに転向するにしくはない。今日、学Yなどでも、キリスト教に対する驚くほどの迷妄、勝手な解釈が横行している遠因は、わがプロテスタントに客観的な保証が見失われ、そのあげく主観主義に陥ったことにある。

このような状況において、学Yは教会と自己を区別する原理を見出せなくなってしまった。これは少なくとも現状においては実に不健全である。学Yはキリスト教の「アマチュアリズム」に自足し、それを批判是正すべき原点というものを自覚することがない。いな、さにあらず、教会には「信仰告白」があるではないかという声が聞こえてくる。しかし一方では、「文字」によって信仰を律することはできないという反論も聞かれるのである。いや、そればかりか、「信仰告白」そのものを否定する論議も声高に叫ばれている。これはまさに学Yに共通する運命を、教会もまたたどりつつあるということなのであろうか。私自身は、教会の「保守派」に対しても信を置けず、「造反」にくみする気もない複雑な気持を有しているが、教会との関連において、学Yの将来を考えると、まことに覚束ない思いを禁じえない。あるいは時の流れで、学Yが次第に保守的になっていくのは、十分に考えられることなのではあるが。

そこで私が数年来夢想し続け、時には人にも語り、未だに実行していないことを述べてみたい。それは「無教会」の実践を踏まえ(しかしあれほどエリート主義でなく)、「家(オイコス)の教会」の理念から学び(しかしあれほどハイカラでなく)、「教会の中の小さな教会」として(つつましやかに)、「福音集会(Evangelical Congregation)」といった形のものを、自分の周囲に形成したいという思いである。それはカトリックから純福音派、異端的諸宗派、他宗教にまで関心を示すという意味で、エキュメニカルであり、聖霊をないがしろにしないという意味で神秘的であり、教師も居ずサクラメントも執行されないという意味では「教会」とも呼べない、全くインフォーマルな「集会」である。私のはかない理想はどうやらその辺にある。そういう場所において、「権威」から離れて、キリスト教を徹底的に検証してゆきたいという思いに駆られる。さもなければ(!)、私はつくづくローマ・カトリックに転向したいとも思う。これは多分現実から目をそらす退嬰的な願望であろう。

さらにまたこの私の願望は、今日の青年の思いとはおよそかけ離れているでもあろう。しかし政界における第一党は「自民党」ではなく、「支持政党なし党」であると言われるのと同じように、既存の諸教会が急速に青年の心を失いつつあるということは、おそらく真実であろう。学Yという限られた世界においても、私はそのことを痛感する。それは単に学園闘争で傷ついた痛ましい魂ばかりではない。私の目には、学Yにいながら、まるでキリスト教などとは無縁であるという態度を示す、多くの学生の姿が浮かんでくる。私自身これをなげかわしいと思う気持がないではないが、教会の現状はさらに憂うべきことであるように思われる。「造反有理」――真にこれを「否定的に媒介」して、教会がその固有の使命に立ち返ってほしいと思うものである。

*1 「否定媒介論」が「存在論」的地平を見失っている限りにおいて、この時の九州からの参加者の批判は正当であった。しかし私は滝沢氏の「キリスト論」の内容に、全面的に賛同しているわけではない。聖書本文について、「神話」と「事実」を明確に区別する氏の発想は、その「事実」の抽象性ゆえに、「経験」の流動性・多様性が固定化されてしまい、結局は「同語反復」に陥るきらいがある。「イエス」と「キリスト」との「区別」が、「神話」を除去する唯一真正の決め手であるか否か。そもそも聖書の「神話」は、「事実」との関連において、原理的に排除しうるものであるのか否か。私は「インマヌエルの現実」に教えられながら、核心であるべき「神人の原関係」について、そのような疑問を、どうしてもぬぐいさることができない。ともあれ氏の思想と行動は、今日の教会につきささった良心の刺である。

*2 私が本文で「学Y」と言うとき、必ずしも学生YCAのみを意味しない。学Yとは、学生YCA・YCAのことである。しかし、日本YWCA学生部は1970年11月の日本YWCA総会で解散を決議し、今日では単位YCAのみが残って、YCAといっしょに地方レベルでの活動を続けている。なお、日本YCA同盟学生部委員会、同常務委員会は存続しており、戦後その下部諮問委員会として設置された全国学生委員会が、学生委員会自身の決議で、休会となり今日に及んでいるのである。昨年、学生部常務委員会は、同委員会自身の責任で、例年の「夏季学校」とは別に、「1971年夏季集会」を実施し、学生に参加をよびかけた。東京・関西・中部を除き、各地には、同盟の組織とは独立に、学生YMCA・YWCA連盟(地方連盟)があり、今も活動している。(なお、この「夏季集会」はその後「夏期ゼミナール」と呼び改められ、2006年の現在まで、毎年継続して実施されてきた。)


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