閑老人のプロフィール

〈「閑老人」とは何者であるのかということが、既にこのホームページ上で、次第に暴露されつつあります。このあたりでもう少し私の「正体」を明かすことが、数少ない「読者」への親切ではなかろうかと思い、かつて発表した文章を以下に転載いたします。これは未だ私が東京YMCAに嘱託として在職中の1999年の春に、大学キリスト者の会(クリスチャン・ファカルティーのフェローシップ)の春の協議会で、早稲田大学のT教授(当時)の発題(「今、大学で起こっていること」)に対して行なったコメントです。〉

T先生とは、先生がまだ下関市立大学におられ、私がまだ学生YMCAの主事であった頃、彼の地でお目にかかったことがあります。当時の下関市立大学YMCAには、I君、京都YMCAに就職したK君、またK君などがおりました。それ以来の再会ではなかろうかと存じます。

私は1976年3月まで(丸十年間)日本YMCA同盟学生部に(主事として在職して)おりました。既に23年以上も前のことになりなす。ここにおられる多くの先生方とは、当時からこの会でお付き合いさせていただいておりました。皆様の「持続する志」に敬意を表させていただきます。

T先生のご専門については、全く門外漢の私でございまして、先生が勉強されたというカール・ポランニー(経済人類学者)についても、ほとんど知識を持ち合わせておりません。その弟の、マイケル・ポランニー(自然科学者、哲学者)のことなら、まだ知っているつもりなのですが……。

しかし今日大学で「思想」が流行らないということにつきましては、さもありなんと同感する次第でありまして、私の知り合いの慶応のK教授(政治思想史専攻)などは、TM先生の退職記念パーティーでお目にかかったおり、「近頃、思想などに興味をもつ学生はおりませんよ。湘南キャンパスの方にばかり人気が集まる」と嘆いておりました。この(会場の)平和学園に程近い慶応の湘南キャンパスでは、ご承知の通り、総合政策学部と環境情報学部があって、(コンピューター教育と外国語教育に基づく)学際的なカリキュラムが学生の人気を集めております(ここには学生のダブル・スクールを無用にするため、大学に専門学校的側面を取り入れようとのねらいもあると、私はにらんでいます)。

私は1977年に東京YMCAに移りましたが、この間の大半を東京YMCA英語専門学校(当初は校名を「英語学校」と称した)で過ごしております。後半は副校長なども致しましたが、一貫して学校の管理の業務に携わって参りました。現在は既に(1998年に)東京YMCAを退職し、東京YMCA芦花公園女子学生会館の「嘱託」館長を勤めております(ただし200年3月まで勤務しました)。

従って長年専門学校の運営に関わってきた立場から、T先生のお話に直接レスポンスすることにはなりませんが、私なりの「コメント」を申し上げたいと存じます。

かつて十八歳人口の急増期に(丁度私が英語専門学校にいたとき、そのピークを迎えましたが)、東京YMCA英語専門学校(の専門課程)にも最大1,500人ばかりの学生が在籍しておりました。しかし今はその十分の一ほどの学生数になっていると聞き及んでおります。私共「語学ビジネス系」の専門学校は、大学との併願者が多かった学校群であり、十八歳人口の急減期に入ると共に、大学の門が年を追って「広く」なり、その分出願者を急速に失って参りました(既に津田スクール・オブ・ビジネスに於いても高卒対象の二年制の課程がなくなり、東京YWCA専門学校でも語学ビジネス系の二年制の課程は存在しておりません)。

今日、私たちを取り巻く環境のこのような急速な変化の中で、今までは永続的な存在と見なされてきた学校、病院、福祉施設などの非営利組織も、決してその永続性が保証された機関ではなく、それらも「つぶれる」ことがあるのだという感覚を、私たちは次第に持たされるようになってきました。

同時に東京YMCAなどでも、ピーター・ドラッカーの『非営利組織の経営』などを勉強したりして、非営利組織、非営利団体も営利組織(企業)のマネージメントやマーケティングの手法を積極的に取り入れなくてはならない。そうしなければ、クライアントはやって来ないのだと、肝に銘じさせられてもきました(大学の「自己評価・自己点検」の試みなどもそういった危機感の現われでしょう)。

文部省などもとっくにこの時期を見越して、学校教育の世界に規制緩和、自由競争という「市場原理」を取り入れたのではないかと思われるふしがあります。大学は一般教育を必修で教えなくてもよいとか、講座名も学生がわかりやすいように変えてもいいとか、専門学校の卒業生が大学に入学すれば応分の単位を与えてもよいとか、大幅に規制を緩和して、その代わり生き残るか、つぶれるかは、皆さんの勝手ですよと言いたいかのようです。

私は文部省のお役人から(その講演で)直接「学校とは学習機会の供給者(サプライヤー)である」という「定義」を聞いたことがあります。そのお役人は「学習機会の供給者(学校)の宣伝が学習需要を喚起する」という側面があるとも言いました。文部省のお役人が「教育市場」に於ける需要と供給という発想を取り入れているわけです(ただし上の定義には、「学習」が成り立つのは学生自身に於いてのことであって、学校はその「機会」を供給することができるだけであるという、正しい認識が含まれています)。

さてこの観点に立つと、「顧客の満足度」ならぬ、「学生の満足度」が問われることにもなります。地方の短大などで、学校の中に自動車教習所をつくるなど、本当にレジャーランド化した学校もあるようですけれど、私たちは教育の本流に立って、「学生の満足度」とは果たして何によるのかを考えなくてはならないでしょう。

専門学校的な観点から言うならば、「学生の満足度」(の中核的な部分)は学生自身の「変容度」に関わっていると言うべきでしょう。変容度とは、入学時と卒業時(進級時)とでは何がどう変わったのかを示す指標のことです。専門学校の世界で、その変容度を示す最も明確な手段は「検定試験の合格」もしくは「資格の取得」です(「変容度」などという言葉を殊更使わなくても、「学習成果」で事足りると思いますが……)。

「生活圏」が全く「市場圏」に被われてしまったかに見える今日、学校もその例外ではありえません。知識の物象化、商品化という言葉で表現される傾向がさらに進んで、「教育市場」、「教育産業」というものの言い方が成り立つ社会になってしまいました。「思想」の成育がまことに困難な環境に置かれていると言わざるをえません。

というわけで、今日はT先生から、キリスト者として久しぶりに目の覚めるようなお話をうかがったのですが、それには直接何のお応えもしないで、学校経営に関わる私なりの現状認識を申し上げることになりました。またそういう観点からT先生のレジュメを拝見すると、これは全く(市場経済化された)学校の経営とは何の関係もない話だということになります。そのあたりのギャップを指摘することが、あるいはこのコメントの意味であったかも知れないと思ったりしております。


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