閑老人のつぶやき 変革を導く

変革を導く

世界YMCA/YWCA祈祷週

2004年11月14日―20日

会長挨拶

変革を導く

親愛なる兄弟・姉妹の皆様へ

祈祷週はYWCAとYMCAにとって、聖書が私たちの生活に対して意味すること、そして私たちが仕える社会のために私たちが行なう実践について、共に反省するときです。私たちはこの二つの運動が出会い、可能なところではどこでも共同の反省を実行するように求めます。このことはキリストにあっては男も女もないという私たちの信仰を強めるものです(ガラテア3:28)。

今年の祈祷週は争いに満ちた世界というコンテキストの中に置かれています。世界ではメディアを通じて「敵」という物言いをすることが正当化されています。祈祷週の礼拝を構成する福音書の朗読では「あなたの敵を愛しなさい」というイエスのラディカルな命令を大きく取り上げます。ルワンダの大量虐殺から十年後の国際社会と教会の恥辱というコンテキストで、この命令はどのように理解されるべきなのでしょうか? テロリストとテロリズムとの闘いというコンテキストで目下なされている様々な要求についてはどう理解されたらよいのでしょうか? 「敵」という私たちの考えが相変わらず正当化される多くの問題があります。目の前にある問いは、私たちが敵を持つかどうかということではなくて、私たちが敵を愛せるかどうかということではないでしょうか? 祈祷週の間に皆様がこの福音書のメッセージについて考えるときを持たれるようにと希望いたします。このメッセージに焦点を当てる礼拝が、祈祷週の初めに行なわれるか、終わりに行なわれるかは、皆様の自由です。

祈祷週に割り振られている聖書研究の方は、困難な状況の中でのリーダーシップを造形するという企図によります。規範を廃棄するためには勇気と、危険を引き受ける能力と、何か違ったことをあえて行なう実行力とが必要になります。民数記のツェロフハドの娘たちは、変革のための勇気のあるリーダーシップについてのモデルを、私たちに与えてくれます。今年は聖書の本文を実際に研究することに焦点が当てられています。そのときだけ、先進性あるいはリーダーシップへと導く適用を行なうことが可能になります。

YMCAとYWCAの性差に関わる諸問題への取り組みに基づいて、私たちは女性によるリーダーシップを例示することを選びました。このテーマによって皆様が性差に関わる諸問題を、先進性、リーダーシップ、聖書的召命、および皆様の働きのほかの側面につなぐことができるようにと希望いたします。

心からの願いを込めて。

モニカ・ツェッチェ         カエザル・KL・モレバッツィ

世界YWCA会長          世界YMCA同盟会長


変革を導く

平和と正義の欠如という挑戦を受けている私たちの世界で、変革へのリーダーシップが強く求められています。YWCAとYMCAの先進的な働きとして、私たちは正義によって平和を実現することをめざしています。今年の祈祷週は変革のために必要とされるリーダーシップについて積極的に考えようとするものです。今回の祈祷週には旧約聖書と新約聖書からの二つの読解が伴います。旧約聖書の物語は変革のための導き手としてツェロフハドの娘たちを取り上げます(民数記27章、36章、ヨシュア記17章)。注1 5人のこの勇敢な女性たちは自分たちの権利のために立ち上がり、その時代の相続法に異議を唱えました。その物語は、私たちの社会の不正義に異議を唱えることによって、私たちがどうしたら変革の導き手となれるかについての模範を与えてくれます。

祈祷週の礼拝はイエスのあのラディカルな命令に焦点を定めます。敵を愛し、ひどい扱いを受けたときでも復讐しようとはしない、非凡で革命的な行動を必要とする変革の担い手となれという命令のことです(マタイ5章43〜49節)。そのポイントは敵を愛することによって変革を導くことです。

1

導入:

民数記はイスラエル人の二つの世代についての物語です。第一の世代は、エジプトから解放された人たちで、その人たちは申し分なく神に信頼していたとは言えず、40年間荒野をさまよわなければなりませんでした。彼らは「約束された土地」にはたどり着きませんでした。しかし第二の世代はヨシュアによって「約束された土地」に導かれました。その土地に定着する前に、土地の公平な配分を決定するための人口調査が行われました。どの部族も男たちで表わされるその人数によって土地の分け前に与るべきだったからです。

ツェロフハドの娘たちはその状況が意味することを理解しました。今この時、人々の未来が決められようとしています。兄弟がひとりもいないので、一片の土地も手に入れることができません。父の家には息子がひとりもいないので、数に入れられることはありません。だから家族には「約束された土地」で何の未来もないということになります。すべての者がその土地で平和に暮らすであろうという神の約束は、ツェロフハドの娘たちにはかなえられないことになります。

ツェロフハドの娘たちの物語を追ってみましょう。その物語は聖書の中に3回出てきます。民数記27章、民数記36章、そしてヨシュア記17章です。この女性たちは先ず民数記26:33で紹介されています。娘たちはマナセの氏族に属します。

注1 この度の聖書研究のテキストはウルリケ・ベックマン博士によって準備されました。ベックマン博士はドイツのバイロイト大学で教える旧約聖書学者です。この聖書研究は最初に世界祈祷日国際委員会の4年ごとの会合が、2003年7月、英国スワンウィックで開かれたときに発表されました。この研究はここで原著者の許可のもとに編集され使用されます。

ツェロフハドの娘たち

祈りましょう:

神さま私たちは祈ります、

私たちの心を開き、

み言葉によって導き、

平和への道を見出すことができるようにして下さい。

聖霊が私たちを導いて下さいますように。

アーメン。

変革を導く:伝統に挑戦する

テキスト:

「ヨセフの子マナセの一族であるヘフェルの子ツェロフハドの娘たちが進み出た。娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァといい、その祖父ヘフェルはギレアドの子、ギレアドはマキルの子、マキルはマナセの子であった。」(民数記27:1)

ツェロフハドの娘たちについて私たちが最初に聞くことは、娘たちが臨在の幕屋に進み出たということです。2節で娘たちは「臨在の幕屋の入り口にいるモーセと祭司エルアザル、指導者および共同体全体の前に」立ったとあります。その光景を想像してみましょう。「臨在の幕屋」の入り口に娘たちが立っているところから始めましょう。

この幕屋はイスラエルの人たちの数ある幕屋(テント)のなかの一つにすぎないのではありません。それは人々の中心であり、神、ヤハウェが人々の間に住み給う神の幕屋であり、聖なるもののなかの聖なるものです。もし臨在の幕屋についての記述をもっと注意深く読むなら、それが丁度エルサレムの神殿のように描かれていることがおわかりでしょう。まさに神殿のように、女性と庶民と祭司たちがそれぞれに入ることを禁じられた、いくつかの境域がありました。その理由はと言うと、神と出会い、語り給う神に聞くことは危険であるとみなされたからです。モーセだけが直接神と出会い、神から聞くことができます。大祭司だけ内殿に入ることができました。私たちはツェロフハドの娘たちが臨在の幕屋の入り口に立っているのを見ます。そこは娘たちにとって神に近づくことができる一番近い場所だったのです。

幕屋のその場所には他にどんな人たちがいたでしょうか。私たちはそこにイスラエルの人々の位階組織の全体を見出します。先ずはモーセです。次に祭司エルアザル、そのあと指導者たちが続き、最後にほかの人々が来ます。

なぜその人たちのことが位階組織を添えて言及されているのでしょうか。その人たちに言及されているのは、共同体のすべての者たちが神の律法を聞くのだということが明らかにされるためでした。律法を聞くときには人々はそれを受け入れます。女たちはその場に、神のみ前に立ちました。

今や女たちは自分たちを弁明しようとします。そこには「お邪魔してよろしいでしょうか」とか「お話してもよいでしょうか」とかいう言葉はありません。女たちは神と、最高権威者たち、そしてほかの人々の前で、次の通り率直に語ります。

「わたしたちの父は荒れ野で死にましたが、主に逆らって集まった仲間、あのコラの仲間に加わりませんでした。彼は自分の罪のゆえに死に、男の子はありませんでした。

 男の子がないからといって、どうして父の名がその氏族の中から削られてよいでしょうか。父の兄弟たちと同じように、私たちにも所有地をください。」(民数記27:3−4)

娘たちは正義を求めます。父の名のため、父の家のためばかりでなく、自分たち自身のための正義を求めます。娘たちはマナセの氏族のほかの者たちと同じ扱いを受けるべきです。娘たちは神の律法に異議を唱え、それには女性にとっての正義が欠けていると言おうとしています。事実、娘たちは神に挑戦しています。

女性のための相続の正義! それこそ娘たちが必要とするものであり、モーセと神に要求するものです。土地の相続は娘たちにとって、そして今日なお多くの女性にとって、きわめて重大なことです。土地を手に入れることは正義の問題です。必要なだけのものを手に入れ、それで暮らしていくのはなくてはならないことです。娘たちの要求は、「あなたが私たちに与えたこの律法は女性にとっての不正義を意味しています!」と神に語ることを含みます。しばらくそれが意味するところを考えてみましょう! 女たちは立ち上がり、神に異議を申し立てます。その神は女たちが正義と解放の神として知る方なのです。女たちは女性にとっての神ご自身の律法の不正義を指摘します。女たちは、民全体の前で、共同体の中心で、すべての権威者たちを前にして、思い切って発言します。コラの仲間の運命を知っていて、女たちは敢えてそうします! 神が怒り、自分たちが死ぬことだってありえます。

実践的課題:

正義を獲得し、平和をめざすためには、ボーダー(境界線)を越える必要があります。5人の姉妹は、以下に列挙するように、様々なボーダーを越えようと本気で考え、立ち上がり、思い切って発言しました。

― 娘たちは臨在の幕屋の入り口に近づくことによる不安というボーダーを越えなければなりませんでした。

― 娘たちは、誰かに代わって発言してもらわないで、女として自分たち自身で発言することによる劣等感というボーダーを越えなければなりませんでした。

― 娘たちは、いつわりの慎み深さというボーダーを越え、誰かが自分たちに発言を許してくれるまで待つことを忌避しました。

― 娘たちは、変えることができない、神の、永遠の律法であると思われているものについての、共同体と自分たちの理解に挑戦することによる恐れというボーダーを越えなければなりませんでした。

― 娘たちは、もちろん、神と神ご自身の律法に異議を申し立てることによる恐れというボーダーを越えなければなりませんでした。

ツェロフハドの娘たちは神のイメージを豊かにしました。私たちは、正義のために誤りを正す神、女性や社会的に不利な立場に置かれた人たちに未来を与えてくれる神を見ることができます。ツェロフハドの娘たちはもっと大勢の女性の未来に形を与えました。女性たちは、神の国を受け継ぐことを含めて、土地や相続に近づく権利を持ってきましたし、これからも持つことになるでしょう。

討論のための質問: あなたのYWCA/YMCAはどんなやり方でそれぞれのボーダーを越え、また正義のために発言するという危険を冒してきましたか?

第2日 変革を導く―正義のために神に信頼する勇気

祈りましょう:

神さま私たちは祈ります、

私たちの心を開き、

み言葉によって導き、

平和への道を見出すことができるようにして下さい。

聖霊が私たちを導いて下さいますように。

アーメン。

テキスト:

 モーセが娘たちの訴えを主の御前に持ち出すと、

神の答えは明白で疑問の余地を残さない:

 主はモーセに言われた。

「ツェロフハドの娘たちの言い分は正しい。あなたは、必ず娘たちに、その父の兄弟たちと同じように、嗣業としての所有地を与えねばならない。娘たちにその父の嗣業の土地を渡しなさい。

 あなたはイスラエルの人々にこう告げなさい。ある人が死に、男の子がないならば、その嗣業の土地を娘に渡しなさい。

 もし、娘もいない場合には、嗣業の土地をその人の兄弟に与えなさい。

10 もし、兄弟もない場合には、嗣業の土地をその人の父の兄弟に与えなさい。

11 父の兄弟もない場合には、嗣業の土地を氏族の中で最も近い親族に与えて、それを継がせなさい。主がモーセに命じられたとおり、イスラエルの人々はこれを法の定めとしなさい。」(民数記27:5〜11)

ツェロフハドの娘たちの文脈では、女性にとっての土地の相続は大変重要な問題でした。誰も、モーセ自身でさえ、この主題について決定を下すことはできません。モーセは幕屋に行き、主の意志を尋ね求めなくてはなりません。イスラエルの人々が荒れ野をさまよっている間、臨在の幕屋で神の意志を尋ねることによって律法が変更され拡張されたことはただの4回しか起りませんでした(レビ記24:10〜23、民数記9:6〜14、民数記15:32〜36、民数記27)。この4つの場合のどれもが死命を決する問題でした!この事実は女性の相続権についての決定が高い重要性を持っていたことを示しています。聖書は女性にとっての土地の相続はまさに死活問題であると私たちに告げています。女性にとっての正義は死活問題なのです。

そのとき神は語ります。その通り、ツェロフハドの娘たちは正しい! その通り、女たちには権利がある! そこには疑問の余地がありません。それは神からの大変明白な声明でした。神は正義を欠く者たちの側に立たれます。神はツェロフハドの娘たちの要求を受け入れるばかりでなく、それは律法として永遠にイスラエルに与えられます。すなわち息子がいなければ、女たちが土地を相続します。

聖書の本文はツェロフハドの娘たちがどう感じているかを述べていません。自分たち自身のために正義を求めて、神と全共同体の前で、そこに立ち、娘たちが勇敢であるか、恐れているか、動揺しているか、自信を持っているか、私たちは自由に想像することができます。このことを私たちはテキストから知ることはできません。しかしどのように行動したかを知ることはできます。もちろん今日では、私たちの多くが娘たちは兄弟たちと同様に土地を相続すべきだと信じています。しかし、私たちはその時代のこの律法の影響力を考慮しなくてはなりません。ユダヤの伝統は、たとえ神ご自身の律法であろうとも、新しいコンテキストで、その律法がより良くかつ公正な未来を保証するために変更を必要とする場合には、変更可能であることを正当化するために、このマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァのケースを使いました。多くの律法がこのケースと同じ精神で発展させられてきました。その中には兄弟がいる場合でも女たちに相続させるという律法も含まれています。

― ツェロフハドの娘たちは自分たちの生活のために責任を負う女性たちでした。娘たちは積極的に考え、計画し、将来に目を向けています。

― ツェロフハドの娘たちはいつ行動の時がきたかを知っています 娘たちは今責任を負わなくてはならないことを知っています! 約束された土地ははるか遠くにあります。しかし、今が自分たちの未来が決められようとしている時点であることを知っています。

― ツェロフハドの娘たちはどこへ行き誰に向かって語るべきかを知っています 娘たちはすべての人々(全会衆)の中心に立ちます。そこだけがそのような要請が判定されうる場所なのです。平和をめざし正義を求めるためには、どこへ行き誰に向かって語るべきかを知ることが大切です。

― ツェロフハドの娘たちは律法を理解しています。変革を促すために書かれた法について知っていることは極めて重要です。

― ツェロフハドの娘たちは法と正義は常に同じではないということを知っています。法は正義に導く手段です。しかし正義ではありません。生活の状況が変化しているとすれば、法律は正義を保証するために修正されなければなりませんし、同じことは伝統にも当てはまります。「約束された土地」という文脈では、娘たちが土地を相続できなければ不正義になります。この論点は神に女性に味方してご自身の律法を変えるよう納得させます。

― ツェロフハドの娘たちは自分たちの権利のために闘います。娘たちは自分たちの権利と未来のために闘うにあたって、控えめすぎたり、慎重すぎたり、でしゃばらなすぎたりはしませんでした。娘たちは神が自分たちに未来を与え給うことを知っています。

― ツェロフハドの娘たちは自分たちの権利のために闘っているすべての女性とすべての社会的に不利な立場に置かれた人たちの助けになりました。私たちが正義のために立ち上がるとき、影響を受けるのは私たち自身の権利だけではありません。思い切って発言することは、私たちの国々の女性たちの上にまた来るべき時代の女性たちのために遠くまで及ぶ影響を与えるでしょう。

― ツェロフハドの娘たちは女性にとっての正義のために闘うことは神を信じることと矛盾しないということを知っていました。それどころか、神はご自身の律法が変えられなくてはならなくても、女性の側に立ち給います。

― 最後に、しかし決して軽んずべきでないこととして述べると、ツェロフハドの娘たちは一緒に闘わなければならないということを知っていました。娘たちはひとりで行かなかったのです!

私たちはツェロフハドの娘たちが正義のために真剣に努力している最初の物語の終わりにいます。社会の中に不正義があるとき、貧困、抑圧そして戦争は、普通は遠く隠れてなどいません。ツェロフハドの娘たちは神への自分たちの信頼によって勇気を出し、そして正義を手にするために自分たちの伝統と社会に属するボーダーを越えたのです。

討論のための質問: 私たちは、変革を促し、排除された者たちに正義を与えるために、私たちの社会の伝統と法律を問題にする勇気を持っているでしょうか?

第3日 変革を導く―反動の現実

約束された土地:ヨシュア記17:1〜6

祈りましょう:

神さま私たちは祈ります、

私たちの心を開き、

み言葉によって導き、

平和への道を見出すことができるようにして下さい。

聖霊が私たちを導いて下さいますように。

アーメン。

テキスト:

「マナセの部族もくじで領地の割り当てを受けた。マナセはヨセフの長男である。マナセの長男マキルは、ギレアドの父で、戦にたけ、ギレアドとバシャン地方を手に入れた。

 他のマナセの子孫、すなわちアビエゼル、ヘレク、アスリエル、シケム、ヘフェル、シェミダの人々も、氏族ごとに割り当てを受けた。彼らはヨセフの子マナセの子孫であって、氏族ごとの男子である。

 ツェロフハドは、マナセ、マキル、ギレアド、ヘフェルと続く家系に属していたが、彼には息子がなく、娘だけであった。娘たちの名は、マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァといった。」(ヨシュア記17:1〜3)

あなたが民数記27章の筋を追っていたのだとしたら、次のように聞くことを期待するでしょう。

「そこで主が言われた言葉の通りツェロフハドの領地の割り当てはその娘たちに与えられた。」

しかしその代わりに、私たちは聞きます。

 彼女たちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、および指導者たちの前に前に進み出て、「主はわたしたちにも親族の間に嗣業の土地を与えるように、既にモーセに命じておられます」と申し立てた。(ヨシュア記17:4)

女たちは再び行動しなければなりません。民数記17章とどこが似通っていて、どこが違っているかを注意深く読んでみましょう。

臨在の幕屋については何の言及もありません。娘たちは神から決定を求める必要はありません。しかしその代わり、娘たちは与えられた律法を頼りにします。

共同体については言及されていません。なぜなら共同体に与えられる新しい律法は存在しないからです。祭司エルアザルは民数記17章に出て来るのと同じ大祭司であることがわかります。彼は祭儀と礼拝に責任を持ちますが、そのことは部分的には律法にも責任があることを意味しています。

ヌンの子ヨシュアがモーセに代わります。モーセはモアブで死に、「約束された土地」に入ることが許されませんでした。ヨシュアはモーセの正当な後継者です。

またも5人の女たちは位階組織の前に立っています。女たちは指導的な男どもに神が彼女たちに味方して下した判定を思い出させます。そして何の問題も報告されていません。私たちはただマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァが再び立ち上がらなければならなかったという話を聞くだけです。もし女たちがヨシュアに思い出させることをしなかったら、彼は女たちに土地を分け与えなかったであろうという、ほのめかしだけがそこに示されています。

それこそは女たちが非常にしばしば持つ経験なのです。男性と平等であるという多くの法律によれば、男たちが所有し、今あるように存在しているのと十分に等しい平等を、神の前で女たちも持っているのですが、現実には、しばしば女性はこれらの権利を享受していません。権利を持つこととその権利を利用する機会があることとは二つの違った事柄です。たとえ神によって与えられたものだとしても、権利を持つことは、女性が自動的にそれを持ち、享受するということを意味してはいません。

ツェロフハドの娘たちについての聖書の物語は女性たちの通例の生活と経験に大変近しいものがあります。神の新しい戒律は高い価値を持っていました。依然として同じ精神において娘たちは再びそのために立ち上がらなければならなかったのですが―。

― ツェロフハドの娘たちは自ら立ち上がり、共同体の指導者たちが既に知っていることについて彼らに思い出させます

― ツェロフハドの娘たちは日常生活での自分たちの権利の履行を求めて闘わなくてはなりません。

もちろん指導者たちは、たとえ彼らが欲したとしても、この権利に反対することはできませんでした。彼らは神がモーセに語った律法に従って行動しなければなりませんでした。そこで私たちは物語の結末に進みます。

 彼女たちは、主の命令に従い、父の兄弟たちの間に嗣業の土地を与えられた。

 マナセ族にはこうして、ヨルダン川の東、ギレアドとバシャン地方のほかに、十の地域が配分された。

 マナセの娘たちが、息子たちと共に嗣業の土地を受け継いだからである。ただしギレアド地方は、他のマナセの子孫のものとなった。(ヨシュア記17:4〜6)

今や私たちは「約束された土地」にいるツェロフハドの娘たちを想像することができます。娘たちと共に私たちも行きましょう。

砂漠から、娘たちが土地と住む場所を見つけた「約束された土地」へのボーダーを越えて―。さまよい歩くことから定住へのボーダーを越えて―。

荒れ野から、娘たちが住みかつ暮らすことができる、肥沃な土地へのボーダーを越えて―。相続権を持たないことから持つことへのボーダーを越えて―。

今やツェロフハドの娘たちは住む場所に到着しました。しかし、私たちは娘たちがその後幸福に暮らしたと言えるでしょうか? そしてこれが物語の終わりなのでしょうか? そうとも言えるし、そうではないとも言えます。「しかし」があります。それについては次の研究で探ってみることにしましょう。

討論のための質問: あなたがその反動を経験したような正義の問題があれば、それは何でしょうか。

第4日 変革を導く―二歩前進、一歩後退:見えざる不正義(民数記36章)

祈りましょう:

神さま私たちは祈ります、

私たちの心を開き、

み言葉によって導き、

平和への道を見出すことができるようにして下さい。

聖霊が私たちを導いて下さいますように。

アーメン。

テキスト:

(ギレアドの子孫の家長たちは言った)「主はくじにより、土地を嗣業の土地としてイスラエルの人々に与えるように、わが主よ、あなたにお命じになり、わが主は、わたしたちの親族ツェロフハドの嗣業の土地をその娘たちに与えるように、主から命じられました。

 もしその娘たちが他の部族のイスラエル人のだれかと結婚するとしますと、娘たちの嗣業の土地はわたしたちの先祖の嗣業の土地から削られ、嫁いだ先の部族の嗣業の土地に加えられることになり、それは、くじによって割り当てられたわたしたちの嗣業の土地から削られてしまいます。

 イスラエルの人々にヨベルの年が訪れると、娘たちの嗣業の土地は嫁いだ先の部族の嗣業の土地に加えられ、その娘たちの嗣業の土地はわたしたちの父祖以来の部族の嗣業の土地から削られてしまいます。」(民数記36:2〜4)

民数記36章にはツェロフハドの娘たちの3番目の物語があります。民数記36章では、ツェロフハドの娘たちは聖書本文の主体ではありません。娘たちは客体です。ある人が娘たちについて話します。娘たちと共にではありません。娘たちは尋ねられさえしません。語っている者たちは自分たち自身の氏族に属する親戚の男たちであり、「ギレアドの子孫」です。この状況は民数記27章とは重要な違いを見せます。

 ヨセフの子孫の氏族のうち、マナセの孫で、マキルの子であるギレアドの子孫の家長たちが進み出て、モーセとイスラエルの人々の家長である指導者たちに訴えた。 (民数記   36:1)

モーセ、「ギレアドの家の家長たち」および指導者たちが前面に出てきました。

それは民数記27章における状況とどこが違っているでしょうか。その違いを見てみることにしましょう。

― 臨在の幕屋の入り口で、指導者たちの面前に立ったツェロフハドの娘たちのように、ではなく…彼らが「前面に出てきました」。

― 祭司エルアザルがいません。

― 会衆(全体の集まりに集まっている人たち)がいません。

まさにヨシュア記17章に見られたように、ギレアドの子孫たちが求める判定は、ツェロフハドの娘たちについての判定が持ったのと同じだけの、高い順位の重要性を持ってはいませんでした。臨在の幕屋に持ち込まれる必要はありませんでした。ギレアドの子孫たちはモーセと指導者たちだけに近づき、マナセの氏族の男たちが持っている「しかし」を持ち込みます。

男たちは論じます、女性の権利の側に立つ律法は自分たちには不正義であると。彼らの議論を注意深く調べてみましょう。

まず第一に、彼らは、ツェロフハドの娘たちがほかの氏族の誰かと結婚してしまうかもしれず、そうすれば土地は娘たちと一緒に行ってしまうであろうと議論します。これは実際に女たちが考えていたことでしょうか。私たちにはわかりません。しかしこの物語にとって大事なのは、ギレアドの子孫たちも知らないということです。彼らは女たちに尋ねはしません。ただそう推測するだけなのです。彼らは氏族の連帯のために女たちに聞こうと思えば聞けたことなのです。しかしその代わりに、それについて女たちと話し合わないで、女性には不利に法を施行しようと心に決めます。

そのうえ彼らはヨベルの年に関連する議論をつけ加えます。それが意味するのは、ある期間が過ぎたら取り上げられた土地は戻されなければならないというものです。しかし、これは今のこのケースには当てはまりません。ヨベルの年についての律法を学べばわかることです。ヨベルの年には失われた土地は返還されなくてはなりません。ということはヨベルの年の場合でさえ、土地はギレアドの子孫に返されるということを意味します。たとえそういう事情にはなくても、この議論には弱点があります。相続される土地はヨベルの年の規定には含まれないからです。男たちは律法に従って議論しているという振りをしているだけなのです。

またもツェロフハドの娘たちは、女性たちがたくさんの場所でさまざまな時代に経験してきたことを経験します。ギレアドの子孫たちは、もし主が不正義を防止するためにひとたびその律法を変え給うたのであれば、氏族にとってその法は不正義であることがわかったと苦情を申し入れれば、もう一度その法を変えて下さるかもしれないと考えたのかもしれません。ギレアドの子孫たちに良いところがあったとして、多分彼らは皆に行き渡るだけの土地がなくなるだろうと、氏族の未来について心配していたのだと考えてみましょう。しかしそれでも、彼らは女たちに尋ねることができたはずです。

討論の時間

正義と平和を獲得するためのツェロフハドの娘たちの行動には、私たちが学ぶことのできる多くの教訓があります。私たちはその必要性について学びます。

― 自分の生活のために責任を引き受ける。

― 不正義の問題に気づいている。

― 将来のことを考え、どの時点で未来が決められるかを知っている。

― いつが行動の時であるかを知っている。

― 誰に申し立てるべきかを知っている。

― 自分自身の意志が曲解される可能性について前もって考える。

― これらの曲解に抗弁することに備えて正当な理由を持っている。

― 何を欲し何を必要としているかについて決定を下す。

― 他人から何をして欲しいかを知っている。

― どう説得すべきかを知っている。

― 自分自身の権利について知っている。

― 法と正義の見分けをつける。

― 男性と女性の間の平等のために闘う。

― ほかの人たちへの遠くまで及ぶ影響を持つことを知って正義のために闘う。

― 正義のために闘うことは神への信仰と矛盾しないことを知っている。

― 神は正義を欠く人たちの側に立ち給うことを知っている。

質問: あなたはこの物語からほかにどんなことを学びましたか?

第5日 変革を導く―平和のために板ばさみになって生きる

祈りましょう:

神さま私たちは祈ります、

私たちの心を開き、

み言葉によって導き、

平和への道を見出すことができるようにして下さい。

聖霊が私たちを導いて下さいますように。

アーメン。

テキスト:

 モーセは、主の命令に従ってイスラエルの人々に命じた。「ヨセフの子孫の部族の言うところはもっともである。

 ツェロフハドの娘たちについて、主がお命じになったことはこうである。娘たちは自分を気に入ってくれた男と結婚してよい。ただ、父方の部族の一族の者とだけ結婚できる。

 イスラエルの人々の嗣業の土地が一つの部族から他の部族に移ることはなく、イスラエルの人々はそれぞれ、父祖以来の部族の嗣業の土地を固く守っていかなければならない。

 イスラエルの人々の諸部族の中で、嗣業の土地を相続している娘はだれでも、父方の部族の一族の男と結婚しなければならない。それにより、イスラエルの人々はそれぞれ、父祖伝来の嗣業の土地を相続することができる。

 嗣業の土地が一つの部族から他の部族に移ることはないであろう。イスラエルの人々の諸部族はそれぞれ、自分の土地を固く守ることができよう。」(民数記36:5〜9)

ここでまた私たちは異なる状況を持ちます。民数記27章のように神が直接に語るのではありません。モーセが神の言葉に従って語っています。モーセは部族の男たちの言いたいことがわかっています。しかしそれは女たちが自分たちの土地を相続すべきではないということを決して意味しないことも理解しています。その代わり彼は女たちがマナセの部族の誰かと結婚することを要求して法の施行を制限します。

マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァにとって、そこには明らかな「しかし」があります。それは娘たちを一歩後退させます! しかし、たとえこれが一歩後退であっても、神は女性が土地を相続する権利を取り上げようとはしておられません。注意深く読めば、「娘たちは自分を気に入ってくれた男と結婚してよい」とあります(訳注:英語の原文では新共同訳聖書とは異なり「自分が気に入った」と書かれています)。娘たちが誰と結婚するのが一番良いかは家族の関心に従って男たちや家族に決めさせることではありません。私たちはギレアドの子孫たちがこの命令をどう受け止めたかを知りません。しかしツェロフハドの娘たちは、たとえそれが誰と結婚できるかについてある制限を課すものであったとしても、神の決定を受け入れたように見えます。私たちは娘たちがなぜそれを受け入れたのかを知りません。自分たちにとっては十分な自由であると見なしたからでしょうか?直接尋ねられる代わりに法を通して与えられたものであったとしても、娘たちが連帯の必要を認めたからなのでしょうか? 妥協したとしても、何はともあれそれが最初の一歩であると認めたからでしょうか?

聖書の本文は私たちに告げます:

10 ツェロフハドの家の娘たちは、主がモーセに命じられたとおりにした。

11 ツェロフハドの娘たち、マフラ、ティルツァ、ホグラ、ミルカ、およびノアは、おじの息子たちと結婚した。

12 彼女たちがヨセフの子マナセを祖とする氏族の者と結婚したので、その嗣業の土地は、父の一族の属する部族に残った。(民数記36:10から12)

今や女たちは再び自分たちの行動の主体です。

彼女たちは前進するためにはある程度の妥協を受けいれる女性です。

彼女たちは神の律法に従って生きる女性です。

彼女たちは自分たちの共同体と連帯している女性です。

このような後退あるいは制限はありましたが、女たちは「約束された土地」に入り、父の兄弟たちの間で自分たちの土地に住みました。女性が後退を受け入れなければならなくても、リーダーシップが平和と正義のために闘っている私たちを前進させるのだということを思い出すのは大切です。

私たちもまたボーダーを越えましょう。そして正義と平和が女性と男性のために行き渡っている、約束された土地を見出しましょう。

2004年YWCA/YMCA世界祈祷週も終わりに来ました。私たちの日々の暮らしに適用でき、また正義を伴う平和のための私たちの先進的な働きにも使うことができ、そして性差に関わる正義にも適用できる多くのことを、私たちは学びました。正義、平和、和解のために働く二つのエキュメニカルな運動として、神が正義の神、癒しの神、平和の神であること、そして神は、私たちにボーダーなしに他者を愛し、私たちが敵と考える者たちをも愛することによって、私たちの愛においてラディカルであるようにと命じておられることを、私たちはいつも思い出さなくてはなりません。


祈祷週のための礼拝

変革を導く:敵を愛しなさい 行動する力

司会: 私たちは造り主なる神の名によって集まっています。この礼拝によって、私たちが、変革を導くために献身的に自らの力を用い、この世界へと起り出されますように。

司会: 神は私たちに恐れの霊ではなく、力、愛、洞察力の霊をお与えになりました。

一同: 私たちが変革を導くために働くことができますよう神の導きを祈らせて下さい。

讃美歌

司会: 神の力の賜物は、私たちの世界、私たちの社会、私たちの組織で私たちが変革を導くことを可能にします。しかし個人でまた集団で前方の課題に向けて献身傾倒することも私たちには必要です。公平で、公正で、平和な世界をつくるために共に働くとき、私たちは多くの挑戦、そして障害にすら、直面します。信仰とイエスの言葉によって勇気づけられましょう。イエスは人々に、慣れ親しんだことを受け入れるのではなく、愛とあわれみと共感によって物事を根本的に変えるようにと、勇敢に挑戦された方です。

一同: 神よ、私たちの時代、私たちのコンテキストで、あなたの教えをどのように適用したらよいか教えて下さい。神よ、恵み深く聞き入れて下さい。

聖書朗読: マタイ5:43−48 敵を愛しなさい

あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあるか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

祈祷

讃美歌

省察/行動

敵を愛することによって変革を導くための招き

声1 今のハイチの状況にこの教えを置き換えて見ます。するとその教えは私たちが政敵を愛し、暴力の伝統を終わらせることを示唆しています。言い換えれば、敵を憎むことによって変革は生じて来ようがありません。言葉の、心の、あるいはからだの憎しみは暴力を引き起こします。変革は愛によってのみ生じうるのです。似たような政治的危機を経験している国も同様ですが、この教えはハイチにとっての挑戦です。

敵を愛するということは敵の行動を受け入れ、敵に同意しなくてはならないということを意味しません。しかし対話の用意ができているということを意味しています。ある人が誰かを愛するなら、その人と進んで話し合い、その人の立場を理解しようと努めます。しかしそれは必ずしも自分自身の立場や、その立場を根拠づけている価値観を捨ててしまうことではありません。しかし変革は、異なる主張をする者たちの間に和解が存在するところでのみ、持続可能なものとなりえます。「和解」(リコンシリエーション)という言葉のラテン語の語源(レコンシリアレ)は「結合する」あるいは「一緒にする」という意味です。結合し、一緒にすることができるためには、人は何よりも先ず愛さなくてはなりません。私たちが憎んでいる人々と一つになることはできません。真実の対話という観点で、そして非暴力の精神で一緒になることによってこそ、私たちは変革に取り掛かることができます!

現在のハイチには、様々な政党が並んで共存しうる全国的に統一した政府を切望する変革の勢力があります。これらの勢力は特に教会の中に存在していて、平和的な取り決めを願い求めています。愛がこの抗争に打ち勝ち、ハイチに本当の変革が起るように祈りましょう。(ハイチのマリー‐クロード・ジュルサンによる)

声2 愚かな努力を強いられる、ねずみの競走のたぐいの文化の中では、この聖句を実践することは、その犠牲者を愛することをも意味しています。そしてこれは多くの形を取ることができるでしょう。たとえば慈善から主義主張の唱道にいたる多くの形があり、個人的な親切の行為から組織化されたプログラムにいたる多くの形があり、変革を求めることから抵抗を組織化することにいたる多くの形があります。要するに、愛こそが、個人主義の文化から連帯の文化へと、私たちを越えて行かせるものなのです。

グローバリゼーションの一つの特徴は、敵をつくるということです。特にそれは9・11以降、国際政治を特徴づけるようになったものです。安全保障という言葉は、人々を「我々」と「彼ら」に、「友人」と「敵」に分類することを意味するようになってしまいました。もしある人が特定の国、宗教、人種あるいは政治的な一団に属していたら、その人は「国家の安全保障を危険にさらす」容疑者とされてしまいかねないのです。テロリズムとの戦いは私たちの時代の危険性を解決するための安易な解答となってしまいました。経済的問題であろうと政治的問題であろうと、意思決定を支配する人たちは彼らの権力や富や利益を決して分かち合おうとはしないからです。(フィリピンのクラリサ・バランによる)

声3 イエスは私たちを招いています。私たちになじみがあるものを捨てなさい、私たちに安全だと感じさせるものを捨てなさい、葛藤もなく私たちを快適にさせるものを捨てなさいと招いておられます。神は、私たちを孤立させ、閉じ込め、周辺に押しやる壁を壊すようにと招いておられます。そのためにこそ私たちは力を与えられています。そして私たちは他者に自分自身を開き、人が生きているその場所からその人を理解するようにと励まされています。言い換えれば、自分を他人の立場に置いてみるということです。そうすることによってだけ、新しい社会が生まれるのを見ることができるでしょう。そしてそれによってのみ、神の新しい時代を告げ知らせることができます。

暴力は暴力に対する解決法ではありません。愛によってのみ、暴力に本当に立ち向かうことができます。愛の結実は正義、平和、安全、自由だからです。

マタイの言葉づかいで「正義」とは神の意志の完全な実現、神の計画に完全に自分を引き渡すことです。み国に入る権利はこの正義にかかっています。

イエスは正義のために闘いましたが、それに制限されることはありませんでした。イエスはあわれみを示すことによってこれを越えて進みました。私たちの不正義はあまりにも多いので、神の前に出て行こうとしても全く何のとりえも持ち合わせていません。しかし、神は誰に対しても太陽や雨の恵みを拒みません。その人の正義の水準には関わりのないことです。神はいのちを与え続け、全く何の権利も持たない者たちにさえ異なるいのちの可能性を提供し続けておられます。この恵みこそが、私たちに神の娘、息子たちとして生き続けることを許します。神は正義の目で私たちを見ますが、あわれみの目で見て下さってもいるのです。(アルゼンチンのアナ・ヴィラヌエヴァによる)

声4 私たちの目標に到達し、愛を実践する試みの中で私たちが直面する障害や危険を克服しようとする私たちの人間的な努力によれば、完全であることはユートピア的で、達しがたく、不可能なことであるように思われます。私たちが敵を愛し、社会的職業的なコンテキストおよび信仰共同体というコンテキストで私たちに敵対する者を愛そうと試みるときには、これは特に真実なことです。他方、どんな代価を払っても完全な人格を形成しようとする私たちの人間的な頑なさは、時には日常生活の現実とわなに無関係な単に抽象的な完全という幻想へと私たちを導きます。

19994年のルワンダの大量虐殺とそれ以後に経過した10年間は、人間が敵を愛することにおいて完全を達成するのは極端に困難であるということをまざまざと思い出させます。二つの人種的なグループがこの悲劇に立ち向かおうと努力してきました。しかし互いに赦しあうことはできませんでした。世界中の教会と国際社会も、沈黙して傍観し、生命を救うために介入しないということを最後には受け入れました。至る所で考え方が変えられなければなりませんでした。しかしそのような結論を直ぐに下すことはできません。

完全を求める人間的な態度は、人の生活のうちに神の恵みが現われるのを妨げるものかもしれません。人間的な完全さの必要条件は、平静な信仰のうちに開示される神の恵みに開かれていて、いつでもそれを受け入れることができるものであるべきです。完全さの獲得ということはだから完全さに向かってのプロセスなのです。直ぐに到達されることはありえません。そのためには一生かかるかもしれません。しかしそれでもなお神の完全さに達することはできないでしょう。神は私たちに、ご自身の現存、正義、愛をこの世界で表わすようにと求めておられます。(カメルーンのヘレーヌ・インダによる)

黙祷

ローカルな状況のための共同の祈り

主の祈り

讃美歌

司会: 私たちは、変革の導き手となろうとし、また祈りと行動を通して互いに支えあおうとするとき、「敵を愛しなさい」というイエスのラディカルな教えを大胆に実践することを求められています。このために日々献身していきましょう。

一同: 聖霊の力によって私たちが変革を導くものとされますように。

司会: 聖霊の力によって互いに養い、支えあうことができますように。

一同: 聖霊の力によって私たちが変革を導くものとされますように。

司会: 聖霊の力によって私たちの持ち物を分けあうことができますように。

一同: 聖霊の力によって私たちが変革を導くものとされますように。

司会: 聖霊の力によって不正義に挑戦することができますように。

一同: 聖霊の力によって私たちが変革を導くものとされますように。

司会: 聖霊の力によって私たちが力づけられますように。

一同: 聖霊の力によって私たちが変革を導くものとされますように。

司会: 聖霊の力によってほかの人たちを力づけることができますように。

一同: 聖霊の力によって私たちが変革を導くものとされますように。

司会: 聖霊の力によって世界が違ったものとなりますように。

一同: 聖霊の力によって私たちが変革を導くものとされますように。

司会: 私たちは変革を導き、敵を愛するようにと神の招きを受けてきました。

一同: 聖霊の力によって互いに養い、支えあうことができますように。

司会: 私たちは力の賜物を与えられてきました。

一同: その賜物をすべての人たちを力づけるために用いていきましょう。

讃美歌

祝祷(以下)

司会: サラ、ハガル、アブラハムの神の恵み、マリアから生まれた子の恵み、母が子を抱きかかえるように私たちを抱いて下さる聖霊の恵みが、私たち一同と共にありますように。

アーメン

 
homepage