閑老人のつぶやき 平和のために境界を越える

目次

YMCAとYWCA会長のメッセージ

スタディー1:宗教的に多元的な世界に生きる

スタディー2:創造

スタディー3:経典

スタディー4:救いの経験

スタディー5:霊性

平和のために境界を越える:諸信仰にまたがる礼拝

この資料の使い方

5つのスタディーは小グループで、多分2〜3週間以上かけて行われるよう、作られています。それぞれのスタディーが、テキスト群と、短い注釈と、ディスカッションのためのいくつかの参考意見と質問を含んでいます。異なる信仰をもつ人たちとの対話という、ある共通の経験が含まれていますが、それはこのスタディーには不可欠なことなのです。すべての、あるいはいくつかの勉強会に、ほかの宗教的伝統に属する人たちが参加するよう招き、できれば、その人たちの礼拝の場所を訪れるように準備しましょう。異なる信仰をもつ人たちと関わり、共通の経験を分かち合うために、特別の努力が払われるのは大切です。

謝辞

ここに収められているスタディーはどれも、世界教会協議会発行の『私の隣人の信仰―そして私の信仰』からの抜粋です。

両会長のメッセージ

ようこそ!

「異なる信仰をもつ人たちと生きる」という言い方ではなく、「私たちが共に生きている人たちの異なる信仰」と言った方がもっとよいでしょう。なぜなら、その言い方の方が、私たちの信仰の伝統においてのみならず、私たちの隣人や友人たちの信仰の伝統においても見られる、いくつかの大切な要素を、私たちが見始めるようにさせてくれるからです。

今年のYMCA/YWCA合同祈祷週で注目すべきことは、第一に、このスタディーの課程にできるだけたくさん、異なる信仰の伝統に属する人たちを仲間に入れるよう、私たちが奨励されるということです。ある場合にはこれは容易なことでしょうし、ある場合にはもっと困難なことでしょう。数少ないケースでは、不可能なことかもしれません。しかし私たちは最善を尽くすように励まされます。

第二に、ほかの信仰について考えることに加えて、私たちは、自分たち自身の信仰について考え、はっきり言い表すように励まされます。これはすばらしい機会です。私たちの多くは創造や救いや経典についてたくさん話すことなど余りないので、そんなとき上手ではありません。それはただ、今まで余りたくさんして来なかったというだけのことなのです。だから今年のスタディーは、私たち自身のため、そしてほかの人たちのために、私たちがもっと頻繁に行うべきことの、ある種の練習の機会と見ることもできます。

第三に、この資料は1986年にまとめられたものです。だからどの部分もその当時は適切で、挑戦的で、時宜にかなったものでした。多分もっとそうなっているでしょう。というのも世界はもっと小さくなっていて、宗教的に多元的なコミュニティーは非常に増えてきたからです。

最後に、「霊(スピリット)」は、非常に多くの様々に異なる人たちを、非常に多くの様々に異なるやり方で、はぐくみ、元気づけ、またその人たちにいのちを与えているのだと、はっきり表明し、裏づける方法を学ぶことは、大変刺激的です。神は身体のためと同じく、霊のためにも、多くの食べ物をお造りになりました。ここでほんの少しそれを味わい、心から皆様にお礼を申し上げるのは、特別の栄誉であり、喜びです。

マーチン・ヴォルガー           ジェイン・リー・ウォルフ

会長                   会長

世界YMCA同盟             世界YWCA

 

宗教的に多元的な世界に生きる

1.テキスト

3人の人たちがどうして自分たち自身の生活の場面で宗教が多元的であることに気づくようになったか、以下の物語に耳を傾けましょう。

a)カナダのサドベリーで、教会の牧師が、新しい牧会の責任を負い、自分の書斎に帰ってきたばかりのところでした。彼自身は東インドの出身でした。突然、彼は、今自分はサンスクリット(古代インドで用いられた文章語)が唱えられるのを聞いているのだと確信して、少しの間立ち止まりました。彼は頭を振り、どうしてそんなものが聞こえてくるのかといぶかり、それから地下の教会ホールの詠唱の発信源に向かって歩を進めました。そこで彼は、週ごとの礼拝を行っているその地区のヒンドゥーのコミュニティーを見つけ、祭式に加わるよう招かれました。あとで、自分の教会の長老たちと彼のその発見について話し合ったとき、改めて知ったのは、そのヒンドゥーのコミュニティーはもう12年以上もその教会ホールを使っており、自分たちのコミュニティーの生活ですっかり受け入れられた部分であるので、長老たちが新しい牧師に何か特別なこととして話に出すのを忘れてしまっていたほどだったということでした。ガンジス河はシュペリオール湖の北岸に本当にやって来ていたのです。

b)私はケニアのムスリム(イスラム教徒、回教徒)のコミュニティーで生まれましたが、両親はクリスチャンでした。だからその子どもたちとして私たちはキリスト教信仰を受け継ぎ、生涯を通じてその信仰に生きました。私の姉妹たち、そしてひとりの兄弟と私は主イエスを私たちの個人的な救い主として愛しています。このことはイスラム教を信じる私たちの仲間の兄弟、姉妹を憎むようにはさせず、私たちは私たち自身と同じように彼らを愛しました。母と父は、私たちがいつでも彼らを愛さなくてはならないのだということに気づかせてくれました。それに私の遠縁の中にはイスラム教の信仰に属している人もいました。私はムスリムだった人たちとの関係に生きたのです…

c)私の祖母は、1911年にスウェーデンからアメリカ合衆国に来たとき、1冊の本だけを携えていました。スウェーデン語の聖書です。彼女はひとりのヒンドゥーにもムスリムにも会ったことがありませんでした。バガヴァッド・ギーター(ヒンドゥー教的信仰を伝える大叙事詩マハーバーラタの一部、インドの国民的聖典として尊ばれている)を読んだことも、コーラン(イスラム教の正典)が朗誦されるのを聞いたこともありませんでした。私はサンスクリット語とヒンドゥー教を勉強するためインドに学生として行きましたが、私が何をしようとしているのか、彼女には皆目見当がつきませんでした。亡くなるその日まで、彼女は私のことを「私の孫娘で、インドで宣教師をしている」と考え、自分の友人たちにもそのように紹介しました。彼女の世界像では、何かほかにかの地で私がなしうることがありえたでしょうか。彼女の信仰の統一性を少しも損なうことがないということ、クリスチャンであるとはそういうことだと言わなくてはなりません。しかし私にとっては、(クリスチャンであるということは)彼女にとってそうであったものとは大変違っています。私はインドで、ベナレスという聖なる都市に、数年間住んできました。私は、ヒンドゥー教徒がいのちの喜びを抱きしめ、悲しみと闘うとき、そこにヒンドゥーの信仰を見てきました。私は何度も繰り返しバガヴァッド・ギーターを読んできて、その度にそこから新しい洞察を与えられてきました。隣人であり、教師であり、ヒンドゥー教徒として愛すべき人たちとの関係において暮らしつつ、今日クリスチャンであるとは何を意味するかを考えるとき、私はこれらのことを単純に一括りにすることはできませんし、私の心と魂からそれらを追い出すこともできません。

2.コメント

これらの三つの物語は、宗教的に多元的であること、そしてその結果の重要さが、これらの三人の人たちの生活でどのように現実のものになったかを例示しています。大変大勢のクリスチャンが宗教的に多元的な社会で何世紀もの間暮らしてきました。今日、ますます多くのコミュニティーと国々が多‐宗教的(マルチ‐レリジャス)になるにつれて、私たちが共に住み、働く隣人の多くがほかの信仰によって生活しているのだという事実に、私たちはクリスチャンとして思慮深くかつ誠実に応答する必要が生じています。

新しく多‐宗教的になってきた場所では、クリスチャンは多くのやり方でその新しい状況に応えようとしています。ある人たちは彼らの周りの変化を単純に無視します。その人たちは前からのコミュニティーの生活様式を続け、周囲の変化に気づいていないかのように礼拝しています。さもなければ、その問題にぶつからないで済むような、別の地区や町に引っ越すことを選びます。ある場所では、クリスチャンはほかの信仰をもつ隣人たちに脅かされていると感じ、敵対的になります。その人たちは物事を彼らにとって困難なものにしようとコミュニティーの中で努めているのです。彼らは地域のムスリムのグループが新しいモスク(イスラム教寺院)を建てるのを難しくしたり、地域のヒンドゥー教徒が祭りを催すのを困難にしたりするかもしれません。しかし、多くの場合、クリスチャンの態度はある種の無関心な寛容さを示します。彼らは外見では好意を示し、心の中では冷淡です。

何世紀もの間クリスチャンがほかの信仰をもつ人たちと、特にマイノリティーとして、暮らしてきた社会では、態度は長い歴史的な経験によって形づくられます。その(ほかの信仰をもつ人たちとの)関係は時には防御姿勢と論争的な精神によって特徴づけられます。しかし、もっと多くの場合、関係を生きることは共通の生活を分かち合い、宗教的な経験における類似性を発見することへと導いてきました。共通の文化的かつ国民的な特性(アイデンティティー)を受け入れることは、日常生活での信仰告白に伴う障壁を乗り越える助けとなってきました。

宗教的な対立がある状況では、クリスチャンは社会のほかの部分から自分たちを孤立させたいという誘惑に駆られ、社会的、政治的、宗教的に少数者志向の態度を強めるかもしれません。ほかの人たちは、教会としての彼らの召命に忠実に、「福音的な」謙虚さと愛において彼らが少数者として出会う苦難の経験を受け入れようと努め、しかし同時に正義と平和のため仲間の市民と一緒に闘おうとすることでしょう。

上の三つの物語はどれも、クリスチャンがほかの信仰によって生きる人たちと触れ合うようにされてきた状況を取り上げています。これらの触れ合いはほかの信仰によって生きる人たちとの彼らの関係を豊かにする可能性を持っています。サドベリー教会の教会員たちにとっては、事実においてそして可能性において、ヒンドゥー教徒との関係が存在しています。なぜならヒンドゥーのコミュニティーはその教会ホールで礼拝しているのですから。ケニアにおけるアフリカのクリスチャンにとっては、ムスリムとの生活は家族の生活と諸関係の一部になっています。北アメリカの女性の祖母にとっては、インドで宣教師であること以上に良いことをすることは何もありえませんでした。しかしその女性自身は、彼女が出会い、知己となったヒンドゥー教徒によって挑戦を受け、変えられてきました。世界中の大勢のクリスチャンが同様の経験をもっています。彼らはしっかりとキリスト教信仰に根差し続けていますが、クリスチャンではないほかの人たちの洞察力と信仰によって心を動かされ、豊かにされ、活気を与えられています。キリスト教神学は、このような経験をしてきた人たちに、どのように話すことができてきたのでしょうか。

宗教的に多元的であることへの神学的応答はこれまで様々なものがありました。あるものは「排他的」クリスチャンの応答と呼ばれるであろうものを維持してきました。それはキリストの道においてのみ真理と救いがあると主張します。ほかのものは「包括主義的」見解と呼ばれるであろうものを発展させてきました。それはキリストの出来事は宇宙的で包括的であり、キリストをそのような方として知らない者たちの間でも、キリストは現存し、働いて居給うと主張します。この見方によれば、ほかの信仰をもつ人たちはキリストの恵みを通して神の救いの計画に包含されています。なおほかのクリスチャンたちは「多元主義的」見解と呼ばれるでもあろう第三の立場をとっています。それは、神、もしくはあるほかの宗教の信奉者が「実在」と呼んでいるものは、多くの異なった方法で知られうると主張します。この見方をする人たちは世界の多元性のうちに創造者なる神の働きを見ます。彼らは教会の範囲を越えてさえ聖霊の働きを認めようと努めています。そして彼らは、多くの場所に、多くの伝統の内部に、そして多くの方法の中に、神の救いの働きが見られると確言します。

3.話し合いと質問

あなたが住んでいる場所の宗教的状況を描くことから始めましょう。あなたの町、あなたの地域、あなたの国の、様々な宗教的コミュニティーには、どんなものがありますか。あなたが住んでいる場所の状況について、黒板に書き留めてみるのもよいでしょう。

一緒に世界の状況について考えてみましょう。できるだけ上手に「宗教世界」の地図をつくってみましょう。世界でクリスチャンのパーセンテージはどのくらいだと思いますか。ユダヤ教徒は? イスラム教徒は? ヒンドゥー教徒は? 仏教徒は? 異なる宗教的伝統をもつ人たちが、一緒に仲良く暮らしているように見えるのはどこですか。争っていると思われるのはどこですか。

あなた自身の教会、あるいはあなたの地域の諸教会について考えてみましょう。あなたの教会ではほかの信仰をもつ隣人たちを理解し、仲良くするために、何をしてきましたか。その人たちと付き合い、一緒に働くために、これまでにどんな働きが率先してなされてきたか、述べて下さい。

あなた自身の個人的な経験について考えてみましょう。ほかの宗教的伝統をもつ人たちと、あなたはどんな接触をもってきましたか。その経験を分かち合いましょう。そうすれば、皆さんはグループとしての活動を開始することとなり、ほかの信仰をもつ人たちとの関係で、皆がひとつに合わさった歴史と経験とをもつという感覚を共有するでしょう。ほかの信仰との関係で、どんな態度、あるいは神学的な立場が取られてきましたか。この数年間であなたの態度には変化がありましたか。このスタディーを行って、現在のあなたはほかの信仰をもつ人たちをどのように判断しますか。あなたの住む場所で、ほかの信仰をもつ隣人たちのクリスチャン・コミュニティーへの態度は、どういったものですか。

創造

1.テキスト

創造は聖書の基本的なテーマです。実際、聖書は創造の物語から始まります。詩篇の多くは神の創造をほめたたえます。創造は新約聖書でも基本的な前提であり、それは新しい創造のヴィジョンで終わります。

しかし、創造は、多くのほかの宗教的伝統においても、基本的なテーマなのです。いくつかの例をあげてみましょう。

a)神道の思想から:

田から生ずるもの(穀物)も

無数の草木も――

すべては天を照らす

大いなる、日のカミの恵み。

元の歌(1):「たなつ物 もゝの木草も 天てらす 日の大神の めぐみえてこそ」

天と地の

カミの恵みなしには、

一日、一夜たりと

生きながらえることができようか。

元の歌(2):「天地(アメツチ)の 神のめぐみし なかりせば 一日一夜(ヒトヒヒトヨ) ありえてましや」

いのちを維持する食物、

衣服、住まい――

それはみな、統べしらす者の恵み、

カミの恵み。

元の歌(3):「いのちつぐ くひものきもの すむ家ら 君のめぐみぞ 神のめぐみぞ」

本居宣長

村岡典嗣(ムラオカ ツネツグ)『Studies in Shinto Thought(神道思想の研究)』ユネスコ日本委員会刊、1964年、P157。

(訳者注:本居宣長の歌の原典はいずれも『玉鉾(タマボコ)百首』です。元の歌(1)は玉鉾百首七十、元の歌(2)は同七十二、元の歌(3)は同七十四の引用です。これをご教示くださった國學院大学の中野裕三先生によれば、元の歌(3)の「君のめぐみ」の君(英訳はour Ruler)は明らかに天皇を指しています。宣長の創造、天地開闢についての思想と直接かかわる歌は、むしろ玉鉾百首五十二の「もろもろの なりづるもとは 神むすび たかみむすびの 神のむすびぞ」の「むすびの神」についての歌であろうということでした。)

b)古代の影響力のある中国の古典『道徳経』(老子の著書)からの以下のテキストは、宇宙的原理である「タオ」、すべての造られた秩序を下から支える「道」を強調する:

形なくしかも完全なあるものが存在した、

それは天地に先立って実在した;

音もなく、実体もなく、

何ものにも依存せず、変わらず、

あまねく行き渡り、尽きることもない。

人はそれを天の下の万物の母と考えもしよう。

その本当の名前を我々は知らない;

「道」とは我々がそれに与えるあだ名である。

どんな種類のものなのかと言わなければならないのであれば

私はそれを「偉大」と呼ぶほかはない。

道徳経XXV』、アーサー・ウェイリー『The Way and its Power (道とその力)』ニューヨーク、グローブ・プレス、1958年から。

c)ポリネシアの太平洋諸島には、タアロアと呼ばれる神による、以下の創造の物語があります:

その者が実在した、タアロアがその名であった。

無限(の空間)の中に

海もなく、人もいなかった。

上に、とタアロアが呼ばわる。

ただひとり存在して、彼は宇宙となった。

タアロアは始まりであり、岩である。

タアロアは砂浜である。

このようにして彼は名づけられた。

タアロアは光である;

タアロアは内なるものである;

タアロアは源である;

タアロアは下なるものである;

タアロアは確固たるものである;

タアロアは賢いものである。

彼はハワイ島を造った、

ハワイ、偉大で神聖なるもの、

タアロアにとって身体あるいは貝殻のような…

E.S.クレイヒル・ハンディー『Polynesian Religion(ポリネシアの宗教)』バーニス・P・ビショップ博物館紀要34、ホノルル、ビショップ・ミュジアム・プレス、1927年。チャールズ・ロング『Alpha: the Myths of Creation(アルファ:創造の神話)』ニューヨーク、ブラジラー社、1963年に再録。

d)スヴェタスヴァータラ・ウパニシャド(ウパニシャドは古代インドの哲学書、「奥義書」とも訳される。サンスクリット語で書かれ、200余編が現存。うち十数種類の古ウパニシャドはBC600BC300年ごろに作られた)からの、以下のヒンドゥー教のテキストは、多くの注釈者によれば、究極的実在としての人格神をほめたたえています:

あらゆる個々の原因を支配する御方、その方においてこの全世界が合わさりそして消滅する。主、恵みを与える者、崇拝に値する神、その方をあがめて人は永遠にその平和に赴く。

瞬間のそのまた瞬間、混沌のただ中における、無数の形の、万物の創造者、宇宙の抱擁者たる御方、かたじけなくもその方を知って人は平和に達する。

万物のうちに隠れている、かたじけなくもその方を知って、バターよりもすばらしいクリームのように、とてつもなくすばらしい、宇宙の抱擁者たる御方、神を知って人はすべての束縛から解き放たれる。

そのお姿は見られない。今まで人は誰ひとり眼でその方を見ていない。心の中に住んでいるから、心と魂でその方を知って、人は死なないものとなる。

R.E.ヒューム『The Thirteen Principal Upanishads(13の主要なウパニシャド)』ロンドン、オクスフォード・ユニバーシティー・プレス、1971年、pp.404-405より。

2.コメント

異なる宗教的伝統における創造物語は、それぞれの全体的な信念体系の中で多様な働きをもっています。神道のテキストでは、自然の全体に関わる神的なものの慈悲深い現存の表現としての、創造(自然)に強調点があります。他方、道教(タオイズム、ただし老子の思想とのちの「道教」とは異なる)のテキストでは、調和的な関係において存在する、人間を含む、創造物の全体を活用して全生命を統治する原理(タオ)に、焦点があります。創造についてのポリネシアの説明では、タアロアは自分自身から宇宙を創造するように思われます。スヴェタスヴァータラ・ウパニシャドは、この上なく崇高であり、同時にすべての事物の本質そのものでもある、創造者について語ります。その者は実在の原理であるばかりでなく、人が崇拝し礼拝することができる、慈悲深い神でもあります。

3.話し合いと質問

創世記の1章と2章に見られる聖書の創造の物語について学びましょう。

a)どんな創造の物語ですか。なぜ人々は創造の物語を語るのでしょうか。あなたはこのような物語の目的は何だと思いますか。このような物語あるいは説明が、どういう具合に、人間同士としてお互いに向き合い、そして自然の世界に向かう私たちの態度を形づくるのでしょうか。

b)全体としての人類の親として神を理解するとは、何を意味するのでしょうか。このことは、ほかの信仰をもつ人たちと私たちとの関係、そしてその人たちへの私たちの態度について、何を示唆するでしょうか。

c)私たち自身のものを含む、創造についての様々な説明は、自然の世界および人間の自然との関係について、私たちに何を告げるでしょうか。これらの見方は、生態学的な危機に関して、私たちがそれをより良く理解し、より効果的に取り扱う助けとなるでしょうか。

経典
1.
テキスト

世界の主要な宗教的伝統のほとんどすべてが、書かれたものであろうと、口頭伝承で伝達されたものであろうと、経典をもっています。それらのものがその人たちの信仰の源泉と見なされ、そしてしばしば直接に神によって啓示されたもの(啓き=開き 示されたもの)と見なされています。ここに経典それ自体および宗教的伝統の支持者たちが経典について述べたものを掲げます:

a)主はモーセに言われた。「これらの言葉を書き記しなさい。わたしは、これらの言葉に基づいてあなたと、またイスラエルと契約を結ぶ。」モーセは主と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した。 出エジプト記34:27−28

ラビ(ハラカーやその他の律法を詳しく説明し適用する資格をもつユダヤ教の指導者)のミドラシュ(聖書本文の重要個所を律法的に詳しく説明したもの、およびその集成):

売るものと一緒に、売り手が自分自身を売る売りがありうるであろうか。神は言われる、「私はあなたにトーラー(律法)を売り、それと共に私は、いわば、私自身を売った」と。事柄はあたかも、ひとりの王にひとり娘がいて、もうひとりの王がその娘を求め、結婚したことであるかのようだ。父は言った、「娘は一人っ子です。彼女と別れ別れになることなどできません。彼女を連れ去るな、といいたいところですが、それもなりません、あなたの妻だからです。それでこういうご親切を私に施してください。あなたがいずこへ行こうとも、私のためにご一緒に住める部屋をご用意下さい。私には娘をあきらめることなどできませんから。」そういうわけで神はイスラエルに言う、「私はあなたに私のトーラーを与えた。私には彼女と離れ離れになることなどできない。彼女を連れ去るなと、あなたに言うこともできない。だからあなたがどこに行こうとその場所に、私が住む家を私のために建てなさい。」…人が市場で望ましいものを買うときには、普通その持ち主まで買うであろうか。しかし神は、イスラエルにトーラーを与えたとき、言われた、「トーラーと一緒に、あなたは、いうならば、この私も持って行きなさい。」

Exodus Rabbah, Terumah 33.1.6. 訳:C.モントフィオール、H.ローウィー『A Rabbinic Anthology(ラビ選集)』フィラデルフィア、ジューイッシュ・パブリケーション・ソサイエティー、1963年。

b)あたかも湿った燃料についた火から、モクモクした煙が分かれて立ち昇るように、この偉大なる存在(ブラーフマン)から、単独に、真実に、吐き出されてきたもの、それこそはリグ・ヴェーダであり、ヤジュル・ヴェーダであり、サマ・ヴェーダであり、そしてアタルヴァ・ヴェーダなのである。

Brihadaranyaka Upanishad, 2.4.10. 訳:A.O.ヒューム『13の主要なウパニシャド』(前出)

ヴェーダ(複数)はスルティ(聞かれるもの)と呼ばれている。他方、それ以外の聖なる書物はスムリティ(記憶されているもの)として知られている。偉大なる賢人と幻視者は宗教の永遠の真理を聞き取り、ほかの者たちのためにその記録を残したと言われている。従ってヴェーダは永遠であり、それらの作者たちは唯一の経路(チャンネル)であると言われている。彼らを通してのみ至高者の啓示が到来したからである。それだから、スルティはヒンドゥー教の至高の権威をなしている。

D.S.サルマ『The Nature and History of Hinduism(ヒンドゥー教の性質と歴史)』、K.W.モーガン編『The Religion of the Hindus(ヒンドゥーの宗教)』p.7所収。

c)神、慈悲深き者、あわれみ深き者の名において、読誦(ドクジュ)せよ! 汝の造り主、血の固まりなる人を造り給うた汝の主の名において。読誦せよ! 然るに汝の主はいとも寛大なるお方、主は筆墨にて教え、人にその知らざるところを教え給うた。

Qur’an(コーラン)96:1-5.  A.J.アーバリー『The Koran Interpreted(コーラン注解)』ニューヨーク、マクミラン、1955年。

最大の奇跡はコーランの啓示であった。それは「預言者」(マホメット、アラビア語名はムハンマド)によって23年余りにわたり、異なるときに、長さも等しくない神託(メッセージ)として告げられた… コーランが証言しているのは、はっきりと言葉に表わされていてもいなくても、著者は神ご自身であるということである。決して預言者がコーランで話しているのではない。経典が第三人称で彼に言及していようと、直接彼に話しかけていようと―― おー 預言者よ、おー 神の使者よ、我は汝に知らせる、我は汝を行かせる、これをなせ、これを読誦せよ; このような言い方がコーランの言語なのである… コーランが神に起源をもつという直接の証拠は経典それ自体にわたって明白である… まさにこういうわけでコーランはイスラムにおいて最高の地位を占めている。

イスラム教徒にとって、コーランは単に祈りの書、予言の文書、霊の食物、魂の好ましい聖歌であるだけではない。それは同時に基本法、知識の宝庫、時代の鏡でもある。それは今このときの慰めであり、未来への希望である。それが確証することにおいて、コーランは真理の基準である。それが命じあるいは禁じることにおいて、行動の最善の模範である。それが裁くことにおいて、その判決は常に正しい。それが審議することにおいては、疑う余地のない論拠を与える。それが言い表すことにおいては、スピーチとして最高度に純粋で最高度に美しい表現である。それは最も効果的に人を静め、また励ます。コーランは神の意志の直接の表現であるので、すべての人に対して最高の権威を有する。

ムハンマド・アブド・アラー・ドラズ、K.W.モーガン編『Islam: the Straight Path(イスラム:真っ直ぐな道)』ニューヨーク、ロナルド・プレス、1958年、pp. 21-36所収。

2.コメント

「経典」と呼ぶことができる多くの偉大で聖なる書物が存在します。ユダヤ教徒やクリスチャンにとってのバイブル、イスラム教徒にとってのコーラン、ヒンドゥー教徒にとってのヴェーダ、シーク教徒(15世紀末にイスラム教の影響下にインドのパンジャブ地方を中心に興隆した、偶像崇拝・カースト制などを否定する一神教)にとってのアディ・グランツ、上座部(テラヴァダ)仏教徒(主にセイロン、ビルマ、タイ、ラオス、カンボディアで派を成している仏教の保守的な流れ、原初のパーリ語経典のみを信奉している。大乗仏教と対比され、小乗仏教とも言われる)にとってのパーリ語正典、大乗(マハヤナ)仏教の流れに属する妙法蓮華教(法華経)などの種々の典籍、ゾロアスター教の流れに属するガータス、などなど。それらの経典類は、それらに特有の表現で信仰生活を送っている人々の、霊的な成長と生活において、中心的な役割を果たしています。ほとんどのアフリカの文化や、アメリカや太平洋(諸島)の土着の人々の文化の場合のように、書かれた経典をもたない文化においては、宗教的伝統は口頭伝承、象徴、祭式、祝祭を通して保持されまた伝達されています。私たち(クリスチャン)の歴史においては、私たちはほかの伝統に属する経典類に共感を示すことなく見過ごしてきました。あるクリスチャンたちは、これらの経典がほかの信仰をもつ人たちの生活で演ずる決定的な役割と、それらが啓示された(何らかの超越的なものによって開き示された)ものであるという特質についての、その人たちの熱烈な信仰に十分に気づかないまま、それらの経典を「人間の企て」、「自然的啓示」などと評して、ほかの伝統に属する人たちに大いに不快な感じを与えてきました。あるクリスチャンたちはほかの伝統に属する経典を読み、それらが自分たちの霊的成長において有益であると確言しています。ほかの人たちは、私的あるいは公的な礼拝で、ほかの経典類を使用することに反対するか、ためらっています。

3.話し合いと質問

あなたがキリスト教の経典としての聖書をどう理解し、説明するか、その方法のいくつかについて、皆の間で話し合って下さい。

あなたのコミュニティーにいる別の信仰をもつ人たちの助力と指導によって、その人たちの経典から2〜3の重要な部分を選び、それについて学びましょう。可能であれば、ほかの信仰をもつ友人たちと一緒にこれを行ないましょう。そうすれば本当の信仰の経験に照らしてそれらを理解することになるでしょう。

a)あなたは今までほかの伝統に属する経典に触れたことがありますか。もしあれば、あなたの反応はどんなものでしたか。もしなければ、あなたの隣人の経典になじむことをためらう理由は何でしたか。

b)私たちの隣人もその人たちの経典が啓示されたものであると信じているという事実から見て、私たちが聖書は神の言葉であると言うとき、どんなつもりで言うのでしょうか。ほかの人たちによる似たような断定的な物言いを私たちはどう理解し、それにどう反応するでしょうか。

c)別の伝統に属する経典を読んで、私たちは別の信仰をもつ隣人たちをより良く理解することになるでしょうか。神についてより幅の広い理解をもつようになりますか。個人的な霊的成長においてほかの経典を用いる余地がありますか。私的な祈りにおいてはどうですか。公的な(共同の)礼拝においてはどうですか。どういう問題が関わってくると思いますか。

救いの経験

A.救いについての聖書的な理解

1.テキスト

「救い」という言葉を使うとき、私たちは何を言っているつもりでしょうか。ほかの信仰をもつ隣人たちは、救いについて、あるいは解放(自由にされること)について語るとき、何を言っているのでしょうか。その人たちはそもそもそういう言葉づかいをしますか。この救いの問題は、多分宗教間の理解と対話にとって、最も困難な領域のひとつです。その困難は、一部分は、人が「救い」あるいは「解放」と呼ぶであろう、決定的な霊的経験がしばしば非常に個人的で、言葉で伝えることには適さないという事実から生じます。

その上、そのような経験は大変決然としているので、生活が一変させられてしまった人たちは救いについての自分の流儀あるいは経験を排他的に主張します。私たちは聖書それ自体のうちに救いを理解する様々な方法があることを知ります。次の聖書の一節を読み、考えて下さい。

a)イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 マルコ10.17-27

b)看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。 使徒言行録16.29-32

c)イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

「主の霊がわたしの上におられる。

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしに油を注がれたからである。

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 ルカ4.16-21

2.コメント

聖書は多くの方法で救いについて語ります。上に与えられたそれぞれのテキストについて、それ自身のコンテキスト(文脈)で、よく考えてみましょう。それぞれが救いの性質、救いの道について何を言っているでしょうか。

イエスと金持ちの若い律法遵守者の間の会話には、「永遠の命」、「救い」、そして「神の国に入る」ことへの言及があります。これらは同じリアリティーに触れているのでしょうか。それぞれの言葉は何を示唆しているのでしょうか。

救いの道に関して、イエスは「自分に従う」よう人々を招きます。「従順」と「放棄」が、二つながら要求されているように見えます。しかもイエスは、たとえそれが私たちには不可能に思われても、救いは神のみが与え下さるものであると強く主張しています。

パウロとシラスの物語では、しかしながら、私たちは異なる強調点を見ます。救いの道として「主イエスを信じる」ことへの招きがあります。ナザレでのイエスの説教には、救いの概念になおもう一つの局面が与えられています。そこで救いは「捕らわれている人の解放」、「目の見えない人の視力の回復」、そして「圧迫されている人への自由」という言葉で語られています。キリスト教の救いの理解のこの幅広さは、歴史上、多くの社会的政治的運動に確かに影響を与えてきました。

実際の経験では、クリスチャンは多くのやり方でキリストを通しての救いについて語っています。ある人たちにとってそれは「私の罪が赦されている」という個人的な確信です。ほかの人たちは、生活の質と価値観が大きく変えられることにより証示されるものとして、救いを理解します。多くのクリスチャンはこの世の生を超えた「天国」という言葉で救いを理解します。ほかの人たちは、この世の生を超えたところにたとえ何があろうと、救いは確かにこの地上で公正と正義と平和の神の国を樹立することと関係があると、強く主張します。クリスチャンも救いへの道の理解を表現することにおいて意見の一致を見ていません。「私は救われるために何をすればよいでしょうか」という質問への答えとして、私たちは「掟を守りなさい」、「私に従いなさい」、「持っている物をすべて貧しい人々に施しなさい」、「主イエスを信じなさい」、「抑圧されている人たちを自由にしなさい」と告げられています。

3.話し合いと質問

このスタディーの最初のパラグラフで出されたいくつかの質問に戻り、救いについて上に書かれていることとの関連で、それらの質問について話し合って下さい。ここで主張されている救いの理解について話し合うとき、あなた自身の経験から救いが何を意味するかについてのほかのイメージや考えを付け加えて下さい。

a)あなたは「救い」という言葉をどのように理解しますか。上に述べられた理解のうちあなたにとってどれが一番意味深いですか。

b)私たちがほかの信仰をもつ人たちの霊的経験の価値を認めようとするとき、救いについてのどのような理解が役に立つでしょうか。

B.救いについてのほかの証言

1.テキスト

救いについてのキリスト教の理解を話し合ったので、今度はほかの信仰をもつ人たちの2〜3の証言に耳を傾けましょう。初めのものは神の愛と恵みに圧倒されたひとりのヒンドゥー教徒による報告です。これは、南インドのシャイヴァ・シダーンタの伝統に属する祈りと礼拝で中心的な役割を果たしている、ティルヴァチャカムという大変愛されている詩から取られたものです。

a)私は無意味な存在、何にも値しない者でした、生まれ変わっては草、虫、木に、また鳥、獣、鬼神、人、阿修羅、賢者、女神に取り付いてきました。無知と虚偽のうちにこわごわ留まり、私の苦しみと骨おりを激しくした人を欺く価値に惑わされて、時の流れの中で、当てにならない感覚に支配され操り人形を演じていました。いのちの「別離と出会い」、内、外の、いのちの変化と衰えが、くたくたになり滅入ってしまうまで、私を困らせました。そのときでした。人が生きることの無数の危険から「解放」してあげようとの、押さえることのできない熱望を、あの方が私に傾けて下さったのです。そして暗黒の昏睡状態にある私を照らし出して下さいました。我が神グル、光り輝く比類なき珠玉が、私のうちに神の愛を満たし、この世のすべてのしがらみを粉々に砕き、この私を「あの方のもの、あの方ご自身のもの!」として下さり、そして私を「恵みの岩」に導いて下さったのです。そのときから、私は「我が魂の太陽」とじかに結ばれています!

ラトナ・ナヴァラトナム『Tiruvachakam, the Hindu Testament of Love(ティルヴァチャカム、ヒンドゥーの愛の証言)』ボンベイ、バーラティヤ・ヴィジャ・バーヴァン社、1963年、pp.63-64から。

b)次の文章では、現代の仏教徒の著述家が「救い」あるいは人生の霊的な目的についての異なる認識を与え、その目的がどのようにして達成されるのかを示します。

悟りを開いた直後、仏陀は叫んだ、「うっそうとした森で道に迷った男が突然、小道、細道、長い間視野に入らなかった、その者を町に導く、昔の忘れられた道を見つけだすように、あー修行者たちよ、私も「道」を、通路を発見したのだ。それこそは、人の思想の荒れ野の中で長く見失われていたが、覚者たちにより明らかにされてきた「道」である…

発見に伴って光が来る;光に伴って明澄さが来る;明澄さに伴って疑いと不確かさと恐れを超える知識が来る。「私の心は揺るぎない」と仏陀は須菩提(スブーティ、仏十大弟子の一人)に宣言した。なぜなら彼は思量と憶測を超えて洞察したからである。「如来(タターガタ)、すなわち迷いの世界を離れ悟りの世界へと行った者(仏陀の尊称の一つ)には理屈がない。あーヴァッチャ(訳注:意味不明)! 彼は認識の本性を洞察した。彼は形を見る、形の生起と形の消滅を…

仏陀は、布教の間、彼の説教を信じてもらう必要はなかった。―その布教は約45年間続いた。彼は決して聞く者に信じることを求めなかった。この定めにあっては、人は初めにひとそろいの信条を受け入れる必要はない… 仏教徒の瞑想の目的は洞察である。すなわち、注意の領野に入ってくるすべての現象の見かけと本性を見抜くことである。この過程には間接的に得られるものは何もない。引き渡される真理は何もない。伝えられる信条は何もない。人は自分で働かなくてはならない―それはあなた自身の冒険である…

仏教において神聖さは、本の中に、人の中に、寺院の中に、あるいは呪文や決まり文句の中に隠されてはいない。しかし人は、不純な心を洗うことによって、また正しい見方を通してその心を純粋にし、それから正しい瞑想によりその心を鋭敏にすることによって、真の神聖さをもつ者になる。純粋にされ、洗練され、鋭敏にされた心は、聖性、至福、清らかな幸福へと導く。

ヴェン・M・スメダー・テラ『An Analytical Aspect of the Buddha Dharma(仏法の分析的側面)』、『The Young Buddhist(青年仏教徒)』1977年、pp.30-32所収。

c)神はご自分に従う者を探し出し、抱き取られるという考えは、神の作とされる、有名でしばしば引用されるイスラム教のハディス(マホメットの言行に関わる伝承群)の中で明確にされています。「もし私の僕(シモベ)が手幅の距離まで私に近づくなら、私は腕幅の距離までその者に近づこう。もしその者が腕幅の距離まで私に近づくなら、私はその二倍の距離までその者に近づこう。もしその者が私に会いに歩いてくるなら、私はその者に会おうと走ってくる」(al-Bukhari, Sahih, Book 97, Section 50, Hadith 1)。

神によって出会われ、触れられ、大きく変えられてしまったという経験は、多くのスーフィー(イスラム教の神秘家)たちによって語られています。以下は10世紀のアル‐ジュナイド(al-Junayd)です。

今や私は知りました、あー主よ、私の心の中に何があるかを、

秘密のうちに、この世から離れて、

私の舌は、私のあがめられるお方と、話をしました。

合体したかたちで

一つになって、

もしそうでなければ私たちの状態は永遠に分離したまま。

底深い畏れがあなたのみ顔を

私の深い眼差しから隠しましたが、

不思議で恍惚とさせる恵みの中で

私の心の奥底に、あなたがお触れになるのを感じます。

A.J.アーバリー『Sufism: an Account of the Mystics of Isram(スーフィズム:イスラムの神秘家たちの物語)』ロンドン、アレン・アンド・アンウィン、1950年、p.59

2.コメント

神の恵み、愛、および救いの力の経験についての証言はクリスチャンにだけ特有のものではありません。ここに提示されたテキストは、ほかの信仰というコンテキストで、私たちが救いについて神学的に考えるときに直面する問題の、様々な側面を見せてくれます。イスラム教のテキストは、神の恵みに触れられるという人間の経験のみならず、ほんの少しでも神の方に身を乗り出そうとする魂を探し出す、神のご意志をも証言しています。

3.話し合いと質問

これらのテキストについて一緒に話し合いましょう。あなたのグループでの様々な経験や洞察を付け加えて、テキストを理解しやすくしましょう。

a)ほかの信仰をもつ人たちから救い、解放、あるいは贖い(アガナイ)についての証言を聞いて、私たちはどんな疑問や洞察を得るでしょうか。

b)あなたの経験では、ほかの信仰をもつ友人たちは、その人たちの伝統における救い、あるいは解放としての決定的な霊的経験について、どのように語っていますか。

c)ほかの信仰をもつ人たちが証言している救い、解放、贖いなどの経験を、私たちは神学的にどのように取り扱うことができるでしょうか。クリスチャンはほかの信仰をもつ人たちの救いについて、以下のように様々な態度を保持しています。

*ある人たちは、キリストを告白する共同体のみが救われるという立場を保持します。昔は「教会の外に救いなし」と言われました。そのような神学者のひとりは「イエス・キリストを知らずに死ぬ者は、滅びる」と書きました。

*ほかの人たちは、神の摂理と善性ゆえに、神の救いの計画はすべての人たちに及ぶはずだという立場を取ってきました。ほかの信仰をもつ人たちは事実として救われるでしょう。しかしこの見解ではその人たちはキリストによって救われます。キリストの恵みは救いの本質的な根拠だからです。キリストはほかのすべての道を包含する唯一の道(道の道)なのです。

*なおほかのクリスチャンは、私たちの隣人が、それを知ろうと知るまいと、キリストによって救われるというような、包括主義者の強硬な主張に批判的です。このような主張は霊的に恩きせがましいし、私たちの隣人の自己理解に暴力を振るうものだと、その人たちは感じます。彼らは排他主義者の主張にも同意しません。カナダ合同教会の一グループは次のように書きました。「もし教会の外に救いがないとすれば、私たちはそのような救いを私たち自身のために拒否します。私たちはキリストに愛されることを通して、ほかの人たちの救いについてのこの考えに到達しました。私たちは他者としての他者がいなければ先細りになってしまうことでしょう。」

あなたは上に描かれたような様々な態度についてどうお考えになりますか。あなたのグループの人たちは、自分たち自身のものとして、これらの態度の一つ、あるいは別の一つを認めますか。あなた自身の状況でもっと十分にこれらの態度を言い表すことができますか。

d)ほかの信仰の伝統においても、その人たちの霊的な道、神との関係、あるいは贖いの経験の、独自性が主張されます。独自性についてのこれらの多くの主張に私たちはどのように応えるのでしょうか。各々がそれ自身の道で独自でありうるのでしょうか。こういう独自性の主張をしながら、いかにして宗教者が共に生きることができるのでしょうか。

霊性

1.テキスト

霊性の概念は宗教間で異なります。「霊性」という言葉も様々な宗教的伝統の内部で多くの仕方で理解されています。霊性は、もちろん、人がそこから強さと洞察を引き出す、祈りあるいは瞑想のような、ある形の霊的な訓練を伴っています。クリスチャンとして、私たちは祈りをする人々です。私たちは実に様々な仕方で祈ります。私たちは神に私たちの心を開き、祈りの中で、私たちは話し、話しかけられます。私たちはやはり祈りをするほかの信仰をもつ人たちの只中に生きています。私たちは私たちの隣人の祈りをどのように理解するでしょうか。

a)明け方、ひとりの年老いたヒンドゥーの女性が、ガンジス河の流れにしずくが落ちるサリーをまとって立っています。沐浴の儀式が済み、両手は祈りで組まれています。

夜明けに私はシヴァを拝します。半分男性で、半分女性である主、この世界の創造、保持、消滅の源である原初の主、宇宙の主、私の心も魅了する世界の征服者、この世の生の苦しみの絶対に確実な救済法であるお方を拝します。

A Morning Hymn to Shiva(シヴァへの朝の賛歌)』、Altar Flowers(祭壇の花)からの翻案、カルカッタ、アドヴァイタ・アシュラム、1953年。

b)インドネシアで昼時、ひとりのイスラム教徒が、祈りでおじぎをする世界中のイスラム教徒の仲間に加わるため、クリスチャンの友人の会社から一時外出する断わりを入れます。「私は私たちの創造主を覚えなくてはなりません」と、彼は同僚に説明します。彼はイスラムで最も一般的な祈りから始めます。

神、あわれみのあわれみ深き主の名において、

神、万物の主をたたえよ。

あわれみのあわれみ深き主、裁きの日を司る(ツカサドル)お方、

私たちはあなたにのみ仕え、あなたにのみ助けを求めます。

私たちに真っ直ぐな道を教え導いて下さい、

あなたが祝福された者たちの道を、

不満がある、あなたに反する者たちの道でなく、

堕落する者たちの道でもない道を。

The “Fatibah”Qur’an, Surah 1、ケネス・クラッグ訳。

c)金曜日の夜、ひとりのユダヤ人の母親が夕餉のテーブルのロウソクに灯をともし、家族が安息日の礼拝を始めます。彼らの祈りには次のものが入っています。

世の光、力の神よ、あなたが居まし給うて私たちに完全なる恵みをお恵み下さい。

あなたの光とあなたの真理で私たちの目を照らして下さい、私たちがみ前で安息日のロウソクに灯をともすように。そして私たちの家庭に信頼と愛の精神を住まわせて下さい。あなたが居まし給うその光で私たちを導いて下さい、あなたの光で私たちは光を知るのですから。イスラエルの全家庭に、そして全世界に、あなたの祝福が伝えられ、彼らの上に平和と永遠の祝福を据えて下さい。 アーメン。

Forms of Prayer for Jewish Worship(ユダヤ教の礼拝のための祈りの形式)』、「英国改革シナゴグのラビのアセンブリー」編、ロンドン、1977年、p.315

d)ケニアのキクユ(という神)はその民に伝統的な祈りを与えます。

おー、私の父、偉大なる長老よ、

私はあなたに感謝する言葉をもちません、

しかしあなたの深い知恵で

私がどんなにあなたの輝かしい賜物(タマモノ)を大切に思うか

きっとお分かりのことと存じます。

おー、私の父よ、あなたの偉大さを見上げると、

私は畏れで途方にくれます。

おー、偉大なる長老、

天と地の万物の支配者よ、

私はあなたの兵士、

あなたのご意志に従って行動する用意ができています。

e)以下の祈りはショナの人々(ジンバブエ)からのものです。

大いなる霊!

岩を積み重ねてそびえる山なみとする者!

あなたが石を踏みつけると、

ほこりがもうもうとあがり、大地を満す。

絶壁の厳しさ。

淵の水が動き出すと、

霧雨になる。

器(ウツワ)が油であふれる!

ルンディ(Rundi)の父(訳注:意味不明)、

衣服のように天空を織り成す者。

その下なるものを、(彼が)共に織り合わせるままにせよ。

枝なす木々を奮い立たせる者。

あなたは真っ直ぐに弓を放つことを得させる。

あなたは大地を人間であふれさせた。

ほこりは高く舞い上がる、おー主よ。

すばらしい方、あなたは

かくまう岩々に囲まれて住まう。

あなたは人に雨を恵まれた。

私たちはあなたに祈ります、お聞き下さい、主よ。

私たちがあなたにお願いするとき、主よ、あわれみをお示し下さい。

あなたは大いなる霊をもって天にいます。

あなたは草に被われた丘を

地の上に立ち上げ、川をお造りになる、

恵み深い方。

ジョン・S・ミビティ『The Prayers of African Religion(アフリカの宗教の祈り)』ロンドン、SPCK,およびマリクノル、ニューヨーク、オービス・ブックス、1975年、pp. 148f

2.コメント

クリスチャンとして、私たちは、ほかの信仰をもつ人たちの中に「祈り」があることに気づきます。ある祈りは口に出され、ほかの祈りは沈黙のうちになされます。私たちは祈りについての私たち自身の経験から、神に向かう心の渇きにおいては、言葉は直ぐに出て来ないものだということを明言できます。聖パウロによれば、私たちが祈る言葉を見出せないとき、聖霊こそが私たちに祈ることを可能にし、聖霊こそが「言葉に表せない(深い)うめきをもって」(ローマ8)とりなして下さいます。瞑想あるいは黙想は祈りあるいは「集中」の一つの形です。

祈りもまた実際の訓練を必要とするものでしょう。敬虔なヒンドゥー教徒は一日に三回祈ります。あるいは少なくとも明け方と夕方に祈ります。イスラム教徒は一日に五回祈りのうちに神を覚えます。多くの(ギリシャ)正教徒の祈りの訓練は神を絶え間なく覚えることを身につけさせるためのものです。

私たちがクリスチャンとしてほかの祈る民たちの只中で生活する祈りの民であるということは何を意味するのでしょうか。ユダヤ人の著作家チェイム・ポトックは、日本を旅した若いユダヤ教のラビの疑問として、その問題を説得力のある形で書いています。仏教寺院で、一人の日本人の年寄りが、手に祈りの本を携え、立ったまま祈りながらゆっくりと前後に揺れ動いていました。若いラビは連れのユダヤ人に、「私たちの神はあの男に耳を傾けていると思うかね」と尋ねました。

知らないね。…一度もそんなことを考えたことがなかった。

今まで考えたこともない。神が聞いておられないとしたら、どうしてなのだろう。もし聞いておられるとしたら、それなら、さて…いったい全体、私たちは何をしているというのだろう(『The Book of Lights(光の書)』ニューヨーク、フォセット・クレスト、1981年、pp. 261-2)。

ラビの質問は深くて重要な神学的問いです。もし神が聞いておられないとしたら、どうしてなのでしょうか。神がこの男の熱心な祈りに耳を傾けないような方であるとしたら、私たちは神をどういう方として理解しているのでしょうか。もし神が聞いておられるとしたら、それならひとつのコミュニティー(共同体)として私たちの何が独自なのでしょうか。神に特別に聞いてもらえるとしてきた私たちは、いったい何者なのでしょうか。

3.話し合いと質問

もしあなたがほかの宗教的伝統に属する礼拝の場所、修道院(僧院)、瞑想のお堂を訪れたことがなければ、今こそグループとしてそれを行うよい機会です。できれば礼拝の行事に参加できるように手配し、礼拝を成り立たせている歌、祈り、祭式などについて、参会者たちからなるべく多くのものを学び取るように努めましょう。その礼拝の行事について、参会者たちにはそれが何を意味していたか、ゲストあるいはオブザーバーとして行ったあなたのグループのメンバーにとっては、それが何を意味したかとう観点から、話し合って下さい。

グループとしての集合的な経験の一部として行ったこの見学にあわせて、上で経験した祈りや、ほかの信仰をもつあなたの隣人や友人たちを通してあなたが知るようになったほかの祈りや霊的訓練の側面について、よく考えてみましょう。

「ヒンドゥー教」、「イスラム教」、「キリスト教」などの個々の特殊な祈りについて語ることに意味があると、あなたは考えますか。もしそうお考えなら、どういう意味においてですか。もしそうでなければ、なぜですか。「主の祈りをしているクリスチャン」とは何者ですか。もちろん、それはユダヤ教の祈りに起源をもつものなのですが。

平和のために境界を越える:諸信仰にまたがる礼拝

礼拝を準備する

《ほかの信仰をもつ人たちと共に祈るという考えを粘り強く実行したいと欲している人たちにとって、三つの考え方がおそらく有益でしょう。第一に、いわば様々な祈りが、毎週、同じ町、同じ街区で祈られているということです。第二に、人間だけが祈る存在であり、そして一なる神について私たちがたとえどんなに異なる意見をもっているとしても、私たちが祈り向かうただひとりの神が存在するということを、私たちは確信しています。第三に、諸信仰にまたがるパートナーシップはそれ自体同意を意味するものではないと、私たちは認識しています。私たちが同意する事柄は多く、貴重です。私たちが同意しない事柄もまた大切です。私たちがほかの信仰の信奉者たちが祈っていることに賛意を表するとき、祈りについて同意が得られるところではどこでも、私たちはそれに自分たちの内面から賛同します。同意が得られないところではどこでも、私たちは内面からの賛同を引っ込めます。それでも平和のための友人としてまたパートナーとしてその人を支持することはよいことです。》(世界平和祈祷週)

この礼拝は以上のことを心に留めて準備されてきました。それは単に、平和という主題で、様々な信仰の伝統からの要素を組み込む礼拝であろうしているばかりではありません。それはまた、世界YMCA同盟と世界YWCAに所属する各個青年会、女子青年会が、ヒンドゥー教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、シーク教など、その宗教的信仰が私たちのものとは異なっているが、私たちと同じ地理的空間を共有している人たちを招く機会でもあるのです。共に祈ることによって、

孤独に引き入れる力が日増しに強くなるとき、私たちはお互いに私たちのニードをはっきりと言い表したいと欲します。今日礼拝する共同体として、私たちは私たちの多くの物語を寄せ合います。その物語の各々が、私たちのすべてが共有する、共通の宗教的物語におけるより糸をなしています。私たちが共に礼拝するとき、私たちは平和のために祈ります。私たちのすべてが切望する同じ平和のために。私たちがどの宗教からのものであるかは問題になりません。

礼拝の場所には様々な宗教的シンボルが置かれるでしょう。銅鑼、ロウソク、提灯(チョウチン)、十字架、イコン(聖像)など。それともその場所は単純に《空っぽの》スペースで、開かれてあることを象徴するものであるかもしれません。

礼拝への招き(招詞)

「様々な色を通り抜ける同じ光の中で、しかもすべてのものの核心において、同じ真理が支配する。私はひとつなぎの真珠を通す糸のようにすべての宗教の中にいる。そしてあなたが人間を高めかつ清める非凡な力を見るところには、どこにでも私がいる。私がそこにいることを知れ。」(クリシュナ:古代インドの神。民間で信仰されていた農牧神が、次第にピシュヌ神と同一視され、さらに転じて最も親愛される最高神となったもの。)

司会者:あなたへの一なる礼拝において、私の神よ、私のすべての感覚を広やかにし、あなたの足下の世界に触れさせて下さい。

会衆:降る前の雨の重荷に垂れこめる雨雲のように、あなたへの一なる礼拝において、私のすべての心を、いちずに御許(ミモト)に向かわせて下さい。

司会者:私のすべての歌を、その様々な調べをひとつの流れに集め、あなたへの一なる礼拝において、沈黙の海へと流れ込ませて下さい。

会衆:家路を急ぐ一群れのアオサギが昼も夜も山の巣に向けて飛び帰るように、私のすべての生活が、あなたへの一なる礼拝において、永遠の家路をたどるようにして下さい。

(『This World at Thy Feet(御許なるこの世界)』、ラビンドラナス・タゴール)

ざんげととりなしの祈り

右側:私たちの世界はあまりにも小さい。

私たちの生活はあまりにも小さい。

私たちのビジョンはあまりにも狭い。

左側:様々な国の人たちが、

様々な文化、種族、家族に属する人たちが

私たちの世界そして私たちの生活で

居場所を見つけられますように。

右側:私たちの態度はあまりにも狭い、

私たちの見方はあまりにも単純、

私たちの行動はあまりにも当たり前。

左側:特別な人たち、

異なって有能な人たち(ナニカガデキナイトイウノデナク)、

人種の、階級の、性の…

あらゆる種類の少数者たちが、

私たちの世界そして私たちの心の中で

居場所を見つけられますように。

全員:私たちのテントを広げられるように、神よ、お助け下さい。

そうすれば私たちの間で誰もが迎え入れられます。

右側:私たちの境界はあまりにも限られている、

私たちの好みはあまりにも制約されている、

私たちの習慣はあまりにも根深い。

左側:年寄りと子どもが

あらゆる種類の異文化集団が

特別の利害をもつ代表者の集まりが

私たちの心そして私たちの祈りの中で

居場所を見つけられますように。

全員:私たちのテントを広げられるように、神よ、お助け下さい。

そうすれば私たちの間で誰もが迎え入れられます。

右側:私たちの神はあまりにも小さい、

私たちの儀式はあまりにも窮屈、

私たちの流儀はあまりにも排他的。

左側:神の名前で

神の権利を主張する

様々な宗教と祭儀に属する人たち、

それらが私たち自身のものとは違っている人たちが、

私たちの世界そして私たちの愛の中で

居場所を見つけられますように。

全員:私たちのテントを広げられるように、神よ、お助け下さい。

そうすれば私たちの間で誰もが迎え入れられます。

(『Woman Wisdom(知恵なる女性)』、メアリ・テリーズ・ウィンター)

仏教の瞑想(テラヴァダ―上座部仏教:心を養う)

以下は、愛すること‐優しさを養うための仏教の瞑想です。瞑想それ自体は15〜20分間行えばよいでしょう。誰かが瞑想(メディテーション)の過程について準備しておき、ガイドすべきです。

善意(メッタ)を養うことは洞察の実践にもう一つの次元をもたらします。瞑想は自然に忍耐と寛容を教えます。あるいは少なくともそういう品性が大切であること教えます。それによってあなたは、あなた自身とほかの人たちへのもっと友好的で、思いやりのある態度を育てたいと思うようになるでしょう。瞑想において、あなたは大変実際的な方法で善意を養うことができます。

呼吸への注意の集中、今やあなたはそれを優しさと善意を広げる手段として用いようとしています。あなた自身から、あなたの身体から始めて下さい。呼吸を光として視覚化するか、あなたの気づきを温かい光線であると見なし、次第にそれで身体中を照らします。あなたの注意をそっと胸の中心、心臓のあたりに向けます。息を吸うときは、あなた自身への率直で忍耐強い優しさが、たぶん「もっとよくなりますように」、あるいは「平和」という考えと一緒に入ってきます。息を吐くときは、その考えの基調(気分)、あるいは光の気づきを、心臓から、身体全体へ、心全体へ、そしてあなた自身を越えて、外に広げます。「ほかの人たちがよくなりますように」。

もしあなたが心の否定的な状態を経験しつつあるなら、寛容と許しの品性で呼吸します。癒しの色彩をもつものとして呼吸を視覚化することが助けになります。呼気において―どんなストレス、困惑、引っ込み思案も―出て行かせ、寛ぎ(クツロギ)の感じを身体全体へ、心全体へ、そしてあなた自身を越えて、外に広げます。先に触れたように。

たとえそれが些細なこと、困らせることであるように見えても、いつもあなたが気づいていることから始めましょう。あなたの心を静かにそこに休ませましょう―たとえそれが退屈さだったり、痛む膝だったり、格別優しくは感じられないというフラストレーションだったりしても―。それらがあるがままにさせておきなさい。それらと仲良くしている(平和でいる)ことを心がけて実行しましょう。怠惰、疑い、気の咎め(トガメ)などへの心の傾きを認識し、穏やかにわきへ置きましょう。

平穏であることは、もしあなたが先ずもって嫌いなものの存在を完全に受け入れるなら、あなた自身への大変滋味に富む優しさへと発展します。注意の安定を保ちましょう。そしてあなたが経験することには、何にでも心を開きましょう。このことは否定的な状態の是認を意味しません。しかしそれらが出入りできる場所を認めてあげるということを意味しています。

あなた自身を越えて世界への善意を生み出すことも全く同じパターンに従います。優しさを広げる単純な方法は段階的に進めることです。あなた自身から始め、愛して受け入れるという感覚を呼吸の運動に結びつけて下さい。「もっとよくなりますように」。そして、あなたが愛し尊敬している人たちのことを思い、一人ずつ、その人たちの幸運を祈ります。それから仲のよい知人に移り、次にどちらでもないと感じている人たちに移ります。「その人たちがもっとよくなりますように」。最後に、あなたが恐れたり嫌ったりしている人たちに心を向け、善意の祈願を発信し続けます。

この瞑想は、共感に動かされて、世界の、多様な境遇にある、すべての人を含むように、拡張することができます。しかし心に留めていただきたいのは、すべての人の幸運を祈るためにその人たちを愛するのだと感じる必要はないということです!

優しさと共感は善意という同じ源から生まれてきます。そしてそれらは、純粋に個人的なものの見方を越えて、心を広げてくれます。あなたがいつも、物事にあなたがそうあって欲しいと思う道を進ませようと努めなければ、もしあなたが、あなた自身とほかの人たちをあるがままに受け入れようとするなら、もっと受容的であるなら、共感はおのずから生じてきます。共感は心の自然な感受性です。

平和の祈り- 違う人が一つずつ祈りを読むようにお願いしてもよい。

平和のためのイスラム教の祈り

慈悲深く、あわれみに富み給う、アラーのみ名によって。

宇宙の主をたたえよ、主は我らを造り給い、

我らを種族および国々となし給うた、我らが互いに知り合うようにと、

互いに軽蔑し合うためでなく。

もし敵が平和に傾くなら、汝もまた平和に傾く、

そして神を信頼せよ、なぜなら主は

すべてのことを聞き、かつ知り給う方。

そして神の僕(シモベ)こそ、謙遜の業(ワザ)を行う者こそ、

最も優美(である)、その者を名指して我らは言う、「平和」と。

平和のための仏教の祈り

体と心の苦しみに

絶えず悩む、無辺の衆生(シュジョウ)が

その病(ヤマイ)から速やかに解き放たれますように。

脅かされる者が恐れることをやめ、

束縛された者が自由にされますように。

力のない者が力を見出し、

人々が互いに力になろうと考えますように。

途方に暮れている者、

恐ろしい荒野にいる者―子ども、老人、保護されない者たちが―

慈悲深き諸菩薩のご加護を受け、速やかに救いの道(仏道)に達しますように。

平和のためのユダヤ教の祈り

来たれ、いざ主の山に登ろう、

いと高き者の道を歩むために。

我らの剣(ツルギ)を鋤(スキ)に打ち直し、

我らの槍(ヤリ)を鎌(カマ)に打ち直せ。

国は国に向かって剣(ツルギ)を上げず―

もはや戦うことを学ばない。

誰も恐れることはない、

万軍の主の口が語ったからである。

平和のためのヒンドゥー教の祈り

おー神よ、私たちを不実から真実に導いて下さい。

おー神よ、私たちを死から不死へと導いて下さい。

すべてのものにシャンティ(平和)、シャンティ(平和)、シャンティ(平和)。

おー主なる全能の神よ、天界に

平和がありますように。

地上に平和がありますように。

洪水が静まりますように。

ハーブが健康によく、樹木と植物がすべてのものに平和をもたらしますように。

すべての恵み深いものが私たちに平和をもたらしますように。

ヴェーダ(古代インドの経典)の法が全世界で

平和を普及させますように。

すべてのものが私たちにとって平和の源(ミナモト)となりますように。

あなたの平和それ自体が、すべてのものに平和を授けますように。

その平和が私にも来ますように。

平和のためのキリスト教の祈り

主よ、私をあなたの平和の道具として下さい。

憎しみのあるところには私に愛の種をまかせて下さい。

損傷のあるところには、赦しを。

疑いのあるところには、信仰を。

絶望のあるところには、希望を。

暗闇のあるところには、光を。

悲しみのあるところには、喜びを。

おー神なる主よ、

私が慰められることでは決してなく、慰めることを求めるようにして下さい。

理解されることではなく、理解することを、愛されることではなく、愛することを。

与えるときにこそ私たちは受けるのですから。

赦すときにこそ私たちは赦されるのですから。

そして死ぬときにこそ私たちは永遠のいのちに生まれるのですから。

平和の分かち合い「ピース」と言って、まわりの人とあいさつを交わす

愛餐礼拝の終わりに当たって、会衆全体が食事を共にするよう招かれます)。


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