閑老人のつぶやき 本について4

     1 マイケル・ポラニー『個人的知識』 その3

     2 マイケル・ポラニー『個人的知識』 その4

     3 マイケル・ポラニー『個人的知識』 その5

     4 今井登志喜『歴史学研究法』 その1

     5 今井登志喜『歴史学研究法』 その2

     6 今井登志喜『歴史学研究法』 その3

     7 今井登志喜『歴史学研究法』 その4

     8 上木敏郎『土田杏村と自由大学運動』

     9 尹健次『日本国民論』

    10 京極純一『植村正久」』 その1

T マイケル・ポラニー『個人的知識 脱批判哲学をめざして』 その3

6 二種類の文化

「この本の主な目的は、一つの心の枠組みを獲得して、その中に、私が真だと信ずるもの――それは時として偽りだということも考えられないことはないと私が知っていたとしてさえそう信ずるもの――を確固として保持し得るようにすることである。思想の育成一般を検討したのは、ひとえに、真理を支持し得る脈絡としてであった。しかし今度は、道徳、慣習、法の領域を文化のシステムの内部に明示的に導入しなければならないであろう。

道徳的判断は査定であって、そうしたものとしてそれは知的評価に近縁のものである。義(righteousness)に対する渇きは、知的情熱を満足させる能力と同じ能力を持っている。そして、芸術家や科学者と同じく、道徳的人間は自分自身の基準を満足させようとするのであり、それに普遍的な有効性を帰するのである。

だが、道徳的判断は知的評価よりはずっと心に深く切り込むものである。人は知的情熱に現を抜かしたり、あるいは天才であったりしても、同時におべっかを使い、虚栄、羨望、悪意にとりつかれているということはあり得る。人は、文豪であって、しかも見下げ果てた人であるかも知れぬ。なぜなら、人は、その道徳的な力によって人として評価されるものであり、また、道徳的志向の結果はわれわれの外部的行為の成功とか失敗とかとしてではなく、われわれの〈個人〉全体への影響によって査定されるものだからである。従って、道徳の規則(道徳律)は、単にわれわれの能力を行使させるだけではなく、全自我を制御するのであり、道徳、慣習、法の規範に順応するのは、それによって生きるということであり、それは一定の科学的ないし芸術的基準を遵守するということよりは、遥かに包握的な意味においてそうなのである。

道徳的規則は、それゆえ、道徳的文化を管理する人々の市民的パワーの道具であり、また道徳性は慣習および法と連合しているのである。人々が社会を形成するのは、彼らの生が同じ道徳、慣習、法によって秩序立てられる限りにおいてであり、三者が合わさって彼らの社会の習俗(mores)を構成する。

ここに社会の伝承的知識の管理における重要な区分が認められる。というのは、社会の知的遺産のシステムのあるものは、個人(インディヴィデュアル)としてのわれわれの知的生活のために育成されるが、別のシステムは、そのシステムに準拠して生を社会的に秩序づける行為によって育まれるからである。前者は本質的に個別的(インディヴィデュアル)な思想の社会的育成であり、後者は、本質的に市民的な(シヴィック、公民的な)思想に準拠した社会管理である。」

本訳書での「公民的」を、私は「市民的」と書き直してきました。我が日本の精神的風土では、公民=国民=臣民という観念の連合が成り立ってしまう傾向があり、道徳の「社会管理」は、容易に道徳の「国家管理」となってしまいがちだからです。西欧の社会でも、その問題は根本的に克服されているとは言えませんが、「道徳的規則は、それゆえ、道徳的文化を管理する人々の市民的(公民的)パワーの道具」であると言われるときの、道徳的文化を管理する人々とは誰であり、市民的(公民的)パワーとは一体何を意味しうるのかということが問われなくてはならないでしょう。virtue(徳)はもともと「男らしさ、力」を意味しています。その意味を、市民の徳としての道徳が社会を根本から支える力であると読み替えるとしても、それが国家によって一元的に管理されるべきであるという思想には、「個人(インディヴィデュアル)としてのわれわれの知的生活」をそれ自体として考慮するという可能性が、初めから排除されているのではないでしょうか。ポラニーは文化を個別的文化と市民的文化として二種類に区分します。しかし問題はその市民的文化に国家が深く介入し、結果として個別的文化をも規制しているところにあります。

「思想は総て、自分自身の基準によって有効性を得、その進歩はどこまでも、自分自身の情熱によって促進される。思想が社会的に育成されるということであるとすれば、これらの基準および情熱は一団の人々によって共有されなければならない。この共有を確保するためには、社会は一組の適切な権利と義務を確立しなければならず、これがその文化的諸制度を構成することになる。しかしこれは社会における思考の生活を、間接的に、社会における市民的諸制度に、すなわち、集団的忠誠、所有(財産)、パワーに依存させることになる。だが、この依存は、社会における思考の二つのタイプをそれぞれ別様に導き入れることになる。なぜなら、市民的文化自体は社会の市民的諸制度を支持するのに対して、個別的文化は、これとは裏腹に、そうした諸制度によって支持されるものだからである。」

芸術家の個々の芸術活動や科学者の個々の研究活動が共有され、社会的に育成されるためには、それを支える文化的諸制度がなくてはなりません。その文化的諸制度とは、一組の適切な権利と義務とからなるもので、芸術家や科学者自身の基準によって構成されるべきものでしょう。しかし個々の個別的文化を間接的に支える市民的諸制度は、直接、市民的文化によって支持されています。ここには何か入り組んだ関係が示されています。例えば、今日、「大学の自治」という言葉が「死語」と化しつつあるかのような印象を与えますが、それは「大学の自治」を支えるべき市民的諸制度と、その背後にあるべき市民的文化が、いずれも変質しつつあることを意味しているということではないでしょうか。そのような環境では、「学問の自由」もまた極めて危うい状態に置かれることになります。個別的文化が危機に曝されるとは、例えば、そういうことではないでしょうか。

「私はここで、この三つの、互いに密接に絡み合った市民的諸制度(集団的忠誠、所有、パワー)のどれにも、論理的ないし歴史的優先権を帰そうとは思わない。例えば、人々は、まず何をおいても生計を立てるために社会秩序を確立すること、従って所有権の保護が、集団の忠誠にとって、また集団内の防衛および集団の(外からの)防衛のためのパワーの行使にとっての、鍵となっていたということも考えられよう。しかし、この三つの市民的制度の関係がどうなっていようと、忠誠は狭隘であり、所有は貪欲で、公権力は狂暴である。かくて、市民的な立場は、究極的には、知的および道徳的基準の普遍的意図とは本質的に背馳する作用因に依拠することになる。

他方、無思慮な社会秩序というものはないのであって、その秩序には市民意識と、その秩序を信じ、それによって生きる人々の道徳的確信とが体現されているのだ。幸せな人々にとっては、その市民的文化はその市民的家郷(civic home)であり、またその限りにおいて、その文化を支持する知的情熱は実際のところ、秘教的(esoteric)である。しかし、またもや、危機的な時代においては、その市民的急務と道徳性の理想との絡み合いは危ういものとなる。道徳的基準の純正さに嫌疑か掛けられるのは、それが権力により維持され、所有に依拠し、局所的忠誠に浸透されていることが判明するときである。事実、そうした紛糾において市民的思想の内在的な力に疑問が抱かれるようなことが生じ得るし、しかももしこの紛糾において思想が敗者となれば、思想はここでは――そして何よりもここで――その自立を否認されてしまうのだ。すると道徳性は単なるイデオロギーに堕し、その思想の価値の降下は拡散し、終には総ての思想を局所的な愛国主義、経済的利害、国家権力に従属させてしまう傾向がある。次にこの相矛盾する諸傾向を展開することにしよう。」

ポラニーが考える市民的諸制度とは、集団的忠誠、所有、権力のことです。しかし幸せな人々にとっては、それらは市民的家郷としての市民的な文化に浸透されています。市民的文化を支える知的情熱が、エソテリックに、つまり懐かしき我が家の懐かしさは知る人ぞ知るという形で、息づいています。しかし危機の時代には、これまで普遍的であると信じられてきた思想の価値が貶められ、すべての思想(市民が自ら考えること)は「局所的な愛国主義、経済的利害、国家権力」に従属させられることとなり、「市民的思想の内在的な力に疑問が抱かれる」ようになります。ポラニーが描いている危機の様相は、まさに今日の日本の現実に当て嵌まると言うべきではないでしょうか。

7 個別的文化の管理

「まず、自由社会における思想の条件から始め、科学の発達を、個別的な思想――社会はこれに独立の身分を恵与する――の育成の主要な事例としよう。

科学的過程の組織化は、まず何をおいても、次の事実によって決定される――すなわち、現代科学は余りに広大なので、いかなる単独の個人といえどもその小部分しか正当に理解できないのだ。王立協会は、特別会員の選出のために八つの小委員会を持ち、その各々に別々の研究分野が配分されている。そうした分野の一つは、例えば数学であるが、しかし個々の数学者はさらに専門化していて、数学のほんの小部分しか論ずるのに的確でない。数学者の会議に提出された五〇の論文のうち半ダース以上を完全に理解できる数学者は稀である――とわれわれは教えられている――。「他の四四の論文の大部分が、そこで表現される言葉自体が、自分の専門に最も近い六編の報告を理解する人の頭上を素通りして行ってしまうのだ。(*)」この証言に加えて私自身の化学と物理における経験をもってくれば、私にはこの状況は大きな科学領域の総てにおいて似たようなものであり、いかなる科学者も単独では、科学の通例の産出のわずか一〇〇分の一ばかりを、直接に判定する適格性しか持たないように思われる。

* E. T. Bell, Mathematics, Queen and Servant of Science, London, 1952, p.7.

しかし、諸個人の、すなわち科学者たちのこの集団は、共同で科学の進歩とその普及を管理するのだ。彼らがそうする手段は、大学の施設、アカデミックな任免、研究助成、科学紙誌、学位・資格の授与――これによってその受領者は教員、技師あるいは医術の開業者としての資格を認定され、またアカデミックなポストへの就任が可能になる――の制御である。そのうえ、科学の進歩と普及を制御することにより、この同じ諸個人の集団、科学者たちが、実際上、「科学」という語の通有の意味を確立し、また、彼ら自身、ならびに彼らによって後継者と呼ばれる人々が、科学者として認知されるべきだと裁定するのである。社会による科学の育成は、何が科学で、誰が科学者かに関する、これらの裁定の公的受容に依拠しているのだ。

われわれはこの合意に与するとき、これを当然視することに慣れている。それは、科学が記録するいかなる観察も反覆(追認)し確証することができるという事実の、明白な帰結と見なされているからである。しかし、この事実なるものの断定は、実際には、事柄の合意へのわれわれの固執を表現する一様式に過ぎないのだ。というのは、われわれは、科学の観察の、いくらかでのまとまった部分を反覆してみることは決してないからであり、そのうえ、完全に自覚していることだが、仮に反覆を試みて失敗した場合(大抵の者は失敗するだろう)、全く正当にも自分の失敗を自分の技能の欠如に帰するであろう。さらに忘れてならないことは、科学が記録する事実を信頼性をもって反覆し得たとしても、これは依然として、科学がこの事実の上に基礎づける一般化を正当化することにはならないだろうし、ましてや、これらの事実を科学的観察の主題として前もって選び出すことの保証にはならないであろう。さらに考慮に入れなくてはならないのは、ある一般化が真理だということすら、それを科学の一部として確立するには足らないということである。なぜなら断定の信頼性は、記述の科学的価値を構成する三つの作用因の一つに過ぎないからである。自らを科学と宣言するものを科学として受け容れるための合意は、信頼性、体系的興味、内在的興味という三重の尺度によって等級づけられるものであり、それによって科学的価値が裏書きされる。

だから、科学的な意見の一致は、共通の経験に関する合意をはるかに越え出ていることが知られる。それはある知的領域の共同の査定であり、その領域については、合意し参加する各人がほんの小部分を理解し判断し得るのみなのだ。当然ながら、そうした合意がいったい有効なものとして確立され得るのかという疑問が生じよう。私は、それを支える原理は次のようなものだと思う。各々の科学者は自分の領域を構成する一つの分野と、それに隣接する分野の帯状地帯の若干について監視するが、後者については隣接の専門家もまた信頼し得る直接的判断を下し得る。さて、Bの専門に関してなされた研究が信頼をもってAとCも判断し得るものとし、またCの専門についてはBとDが、Dの領域についてはCとEが、判断できる…等々となっているものとしよう。もしこのとき、近接集団のどれもがその基準に関して合意したとすれば、A、B、Cの合意する基準はB、C、Dの合意するものと同じで、またそれはC、D、Eの合意するものとも同じである…等々なり、かくて科学の全領域にわたることになる。この基準の相互調整は、もちろん、右のような線的連結のネットワークの全体にわたって生じるのであって、これによって各々の線的調整が何重ものクロス・チェック受けることになる。そしてこのシステムを余分に補充するものは、自分の専門分野から離れているところで生じた例外的に功績のある達成への科学者の直接的な判定(これは確実さにおいて劣りはする)である。しかし、この相互調整の作動は引き続き、本質的には、近接の査定の「推移性(転移性)」に基づいているのだ――ちょうど、分列行進の調子がとれるのは、各自が隣の者に足踏みを合わせるからであるのと同じである。」

ポラニーがここで述べていることは、科学者は、たとえ個々人は競争的環境に置かれていても、結果的には共同学習(協力的学習)を実践しているということです。そしてそれは科学的合意への信頼に基づいています。しかしもしこのような知的ネットワークの展開が、それ自らの基準によってなされるのではなく、外部からの干渉を受けるとしたら、科学の発達は当然歪められることになるでしょう。

「この合意によって、科学者は批評の連続的な線――むしろ連続的ネットワーク――を構成し、その精査によって、科学者が承認する裁決行動は総て最小限の科学的価値を保持することになる。いな、それ以上であって、各自が直接の近接領域に依拠することによって、彼らは、科学的業績が、画然としてこの最低水準を越え最高の卓越した水準に至るところまで、科学の諸分野を通じて等価な基準で測られることを保証する。こうした比較による評価の正当さが科学の死命を制することになるのは、これによって色々な人と資金の分配が導かれ、特に、科学上の新たな発展に対して承認と援助を与えるべきか引き上げるべきかという、枢要な裁定が決せられるからである。確かに、こうした評価が誤っていた、あるいは少なくとも遺憾ながら手遅れだったという事例を見出すのは、ごく簡単であるが、次のことだけは承認しなければならない。すなわち、われわれが「科学」という限定された、かつ全体として権威を持った体系的知識の集合について語りうるのは、ただ、如上の裁定のほとんどが正確なものだったと信ずる限りにおいてなのだ。さもなければ、科学の諸制度はもはや科学の進歩に役立たず、その漸進的不具化をもたらすことになろう。すると、「科学者」という呼称は(これは、こうして互いに「科学者」と呼び合う人々に与えられているのだが)次第にその真の意味を担うことを止め、またこれらの人々が自分の営みを指して記述する「科学」という語も、同様のことになるであろう。」

科学という営みに対する科学者自身の相互信頼がなければ、科学は成り立たないという、この一点を、ポラニーは強調します。しかし人と資金の配分ということは、科学者だけの裁量で決められるのではなく、行政や企業などの外部環境の制約のもとにあります。そこに今日の科学の研究が直面している困難があります。

「この点を敷衍しよう。仮に、科学者はみな山師だと仮定しよう(若干は確かにその通りだが)。あるいは、仮定をもっと尤もらしくするために、彼らはみなルイセンコのように自己欺瞞に陥っているか、ないしは不正直であるか、あるいは自身がそのような不正直な、あるいは自己欺瞞に陥った人々の見解に順応するように強いられたか(ルイセンコの追随者の大半はそうだった)していると仮定してみよう。あるいは、科学の信頼性と意義の基準が余りに地に堕ちたので(今でも世界の若干の部分ではそうだが)、あるいはこれを一歩踏み越えたので、自然科学が、ヘブライのカバラ(呪術的神秘主義)のような方法に基づくオカルト科学によって完全に置き換えられてしまったと仮定しよう。それでもやはり、互いを科学者として承認し、そして自分たちの似非科学の領域の妥当性と意義を相互承認する色々な専門家の合意は存在し、公衆は、彼らが「科学」と呼ぶものを科学として受け容れるのを共同で保証してもらって、騙されるかもしれない。しかし、明らかなことだが、もしも私がそうした合意の背後にあるものを知ったとすれば、私はそれを、ごろつきと愚者の合意で、お互いに自分たち自身を、そして公衆を欺くもの――偶発的ないしは共謀の産物で、しかしいずれにしても真の意義を全く欠いたもの――と見なすであろう。」

アメリカにおける「創造科学」のようなものが、真の「科学」として主張されることは、今日の世界でも起っています。また、今の日本では、特定の史観により事実の解釈が拘束された「歴史」が、唯一の「国史」であると教えられ、そのような考え方が「国民」(「小国民」)に強制される可能性も、十分にありうることです。前の例は信仰の拠り所としての歴史(聖書に記された歴史)の解釈に関わり、後者の場合には、それが愛国心の拠り所であるとされます。両者の共通点はほかの考え方を許容しないことです。つまり独善的かつ排他的であって、自分たち以外の人の考えを全く顧みることがありません。

「もちろん、たった一つの共通経験に関する合意でさえ幻想かもしれず、もしそれを信認するとすれば、それはこの共有の経験の本性に関する一定の仮定に基づいてのことである。だが、相互に承認された、科学の専門家が相互に依存して達成された合意、そしてさらに、この専門家集団の一致した判断と公衆との合意は、もっと射程の長い仮説を含意する。科学者たちは次のことを仮定しなければならない――すなわち、科学の色々な分野は互いに非常に調和していて、数多くの多様な領域で別々の専門家によってなされた研究の科学的価値は、実際に、本質的に等しい基準に即して査定し得ること、さらに、科学者たちは、自分の特定の専門の境界間の相互査定を監視し、この同じ基準をいたるところで適用するに当って相互に――あるいは次々に続く世代間を通じてさえ――安心して信頼し続け得るようにすることができるし、また実際にそうする意志があること、まさにそれを仮定しなくてはならないということである。そのうえ、公衆は、もしも科学の全集合(公衆はこれについてはほとんど何も知らないのだが)に信任を与えようと思うならば――実際にそうしているのだが――、そして、科学者(現存の科学者のみならず、その後継者で、将来のある日にその時の科学者の世論によって科学者として信認されるべき人々も含めて)の将来の発表を、まだそれを聞く前から受け容れようと思うなら――そうするものと希望してよいのだが――、その場合に公衆は右の仮説を共有しなければならないのだ。

ここには、一つの文化的理想についての仮説がある――それは、集団的に追求される高度に分化した知的生活の理想、あるいはもっと正確には、文化的エリートの知的情熱に応える社会の内部で、知的生活を能動的に送るエリートの理想である。このような仮説の受容によって、科学者のコミュニティの内部で相互信頼契約が締結され、また社会全体で、彼らの科学的な営みを支持することへの献身が約束されるのである。この献身は科学的な諸制度の確立に効果を現すが、後者は科学の促進と、科学的見解の権威のもとにある社会全域への科学の普及のために設立されるものである。このような社会に全面的に所属する者は誰でも、かくて、この文化的献身、およびその献身の基礎をなす仮説を共有することになるであろう。

ここに描かれたような科学の合意は、このように、詐欺師や愚者の集まりの見せ掛けの相互調和とは対照的である。私はこの合意の基礎となる仮説の共有を提示した。私が「科学的基準」だとか「科学的価値」だとかいう信任(信認)を表す語を無限定に用いて、こうした仮説を定式化したということは、既に、私は自分が記述していたことを担保していたということを示している。私が信ずるところでは、この種の暗黙的な同意は、自分が共有している信念や評価への言及においては不可避であるのだが、この点については後で立ち戻ることにしよう。その前に、私は、一社会が科学の育成において共有する諸仮説と情熱に私が同意するとき、同時に――その分だけ――そうした社会に支持を与えることになるという点をつけ加えたい。一社会の基礎をなす諸信念を信認する社会学は、どれもこの社会の正当化の一部分となる。そしてもしその著者が当の社会の一員であるとしたら、その社会学はその社会に対する忠誠宣言となる。実際、首尾一貫性の要求するところであるが、社会的に共有される価値の肯定に当っては、その宣言は、その肯定において仮定された有効性に基づく、任意の社会的活動への参加と一致すべきである(*)。だが、まさにこの首尾一貫性こそが、そうした宣言の普遍的意図に嫌疑が掛けられる原因となるのだ。なぜなら、そうした宣言は、われわれを奮い立たせてわれわれがその一員である社会を擁護するようにさせるが、しかし、結果としてそれは、その社会の既成の権力に支持を与えることを意味してしまうからである。このディレンマは――前節で暗示された理由により――、市民的思想の領域ではさらに一層尖鋭に再現することになろう。」

* 「ラプラスの誤謬(厳格に客観的な知識の理想)の物語は、首尾一貫性(無矛盾性)の一判定基準を示唆する。それが示しているのは、人間および人間社会についての概念は、これらの概念を形成する人間自身の能力を説明しなければならず、また社会の中でのこの能力の育成を正当と認めるようなものでなければならないということである。人間を観察するときの知的情熱の行使を信任することによってのみ、この信任を裏づけ、また社会における文化の自由をも支持するような、人間と社会の概念を形成することができる。そのような自己信任的ないし自己確証的な前進が、生物に関するあらゆる知識の効果的な案内であることが判明するであろう」(U−6、「知的情熱」、p.133)。

ポラニーは理想と現実とのギャップを認識した上で、人間の「知的情熱の行使を信任することによって」、理想的な科学的コミュニティは維持され育成されていくという希望を表明していると、理解することができます。それはまた文化的理想一般を支持するということでもあります。社会が詐欺師や愚者の集まりの見せかけの相互調和によって成り立つべきでないとしたら、その理想を手放すことはできません。しかし、現実の社会は権力の支配のもとで歪んでいて、理想の表明(人間の知的情熱の行使を信任すること)は、常に現実によって裏切られる可能性を持っています。科学者のディレンマは、市民的苦境の一形態であり、現実には、理想を追求するための継続した闘いがあります。

「その前に、私が科学の育成について言ったことを、別の種類の個別的思想の育成に一般化しておこう――ただし、本書の構成に照らして、私はここでも、こうした思想領域についてはほんの一瞥を与え得るのみである。

人文科学、芸術、ないしは色々な宗教的営為の管理はみな、科学の管理と同じく、権威ある専門家たちの連鎖に委ねられている。こうした人々の地位および権力は制度的に確立していることもあれば(教会がそうだ)、その崇拝者および追随者たちの抱く尊敬に完全に依存していることもある(詩人や画家がその例になる)。こうした分野では、総て科学者たちの間におけるよりずっと大きな見解の開きがある。西側世界においては大半の国々が色々な宗教的母体を含んでいる。そのうえ、宗教を別にすれば(ただし神学は除外しない)、現代の文化は圧倒的に革新崇拝的である。芸術は科学と同じく、自己革新の過程において最も活況を呈するし、名声は、科学と同様に、創造性によって獲られる。しかし芸術的独創性は、原則として、科学における独創性よりも包握的な観点の変化を含み、それゆえ、権威の確立を追求する革新者と、既存の芸術の指導者との間の見解の分列を、もっと明白なものにする傾向がある。従って、思想の色々な学派の対立は、科学ではあまり頻繁ではなく一過的であるが、現代芸術の活力ある育成にとっては本質的なものである。そしてもちろん、このことは別としても、芸術は、科学のような具合に、体系的に首尾一貫したものではないし、またそうなることは決してあり得ないのだ。それゆえ、科学の専門家のコミュニティにおけるような、明確な分業は芸術家の間には決して存在し得ないし、また前者におけるような堅固な見解の一致もあり得ないのである。」

ポラニーは「知識社会学」とでも言うべき問題領域に入り込んでいます。その視野に入り込んでくる現象は多様であって、宗教や、芸術や、科学、また道徳や、法や、政治などの領域を包含しています。

「文化的エリートは公共の補助を受けることもあれば、私的な稼得に依存することもある。十九世紀の初めまでは、学問と文筆は主として私的な所得で暮らす金持ちの業であった。しかし今日では、文化的エリートでそうした階級に属する者は僅かであり、知的生活も、これに応じて、非創造的な市民大衆が創造的な少数者に与える物的援助にますます依存するようになっている。ここで難問が生ずるのだが、いったい、文化的営為に金を出すということは、社会がその知的財産(文化財)を、その創造的指導者たちの基準に即して拡充するという責務を果たしていることになるのだろうか、それとも単に、自らの楽しみ、あるいは何らかの市民的利益――例えば民衆の道徳的・政治的啓蒙――に奉仕させる目的のために、そうした人々を雇っているだけなのであろうか。

これに答えられるようにするためには、科学の進歩に関するこれに等しい質問を想起すればよい。科学における重要な発見で、科学はそれ自体として重要だと信じない人によってなされるということはあり得ないが、これと同じく、科学的価値についての感覚を欠いた社会が科学を育成し得るということもあり得ない。同様のことが総ての文化生活に妥当するのであって、社会が文化的生活を持つと言い得るのは、ただ、それが文化的卓越性を尊敬する限りにおいてである。科学と同様に、この感得が直接的な判断の表出である可能性はほとんどない。人文科学、芸術、色々な宗教はみな広汎かつ高度に分化した集合であって、それについては誰一人として完全に理解したり、極小部分以上を判断したりできる者はいないのだ。しかしわれわれは、各々、これらの文化の諸領域の、それよりもずっと広い範囲を尊敬する。例えば私はダンテの『神曲』が偉大な詩であることを知っているが、ほとんどそれを読んでいないし、またベートーヴェンの天才を尊敬するが、私は音楽についてはほとんど聴く耳を持たない。これらは全く二次的な感得であって、それは科学者が科学の全体を感得し、公衆がそのひそみにならうのと同じ仕方で形成されるものである。この種の間接的な感得は、またもや、社会が全体として文化的生活を育成するための養分の源になるのである。非専門家は、自分たちの選んだ知的指導者に追随することによって、ある程度まで、これらの指導者の仕事に参加し、またこれを越えて、彼らに信任された文化の全域にまで参加することができるのだ(*)。」

* 紳士録(紳士淑女録)が15,000人ばかりの科学者、芸術家、著作家を載せていると考えてみよう。すると、英語を話す25千万人の人々が、多分20,00030,000人くらいの(つまり10,000人に一人の)知的リーダーに依拠していると推定することができよう。

知的文化的エリートと言われる人たちの社会的影響力は、政治的経済的に言って、社会が比較的に安定している場合には、肯定的に把握することが可能です。しかし政治的経済的激動期には、その影響力は後退して、もっと直接的な要求が人々を動かします。そのときには「文化的エリート」の発言も政治的な色彩を帯びてきます。

「原始社会の伝承的知識は何百万巻という書物に採り入れられることもなく、継続的な革新を生じることもない。それゆえ彼らの文化的生活は、その管理のために専門家の大群を必要とせず、その多くは直接的に各自が分有することができる。現代社会においても人々は通俗的芸術や宗教的生活を分有するが、これは現代文化のほんの小部分にすぎない。それゆえ、現代社会は、一団の権威ある個人による指導を受けなければ、特定領域内に棲み込むいかなる文化とも絶縁することになる。独創的思想に耳を貸さないその俗物性は、その社会の知識人を、自国内における祖国喪失者(国内亡命者)にしてしまう。」

今日では多くの知識人が国内亡命を決め込んでいます。大多数の人々は彼らの発言に耳を傾けようとはしません。「知識人の孤独」というテーマがそこから生まれてきます。知識人も一種の「オタク」であって、その思想を共有しうるごく僅かな人々のサークルで会話を交わしています。しかしそれは何を意味するのでしょうか。社会の俗物性を批判するだけでは何の問題解決にもならないことは確かです。

「西側の現代社会では科学の権威は教育システムによって堅固に確立されるが、他の文化的権威は公衆の反応を求めて戦い、またそれにとって代わろうとする競争者と地位を争わなければならない。公衆の一人一人を取ってみれば、ある指導者からその対抗者に忠誠を移すかもしれず、ある学者の陣営から何らかの革新者へと移り、ある宗教に入信し、あるいは信仰を放棄し、またある特定の運動から抜けて別の運動に参加するかもしれない。健全さを要請するならば、そうした移動が余りに頻繁であることが禁じられるが、仮にそうであったとしても、その禁止の範囲は潜在的な指導者間に限られる。しかしそれでも思想の指導が少数の個人―― 一般的に受け容れられ、ある程度認知された文化領域で、指導者として認められ、報酬を受ける人々――に委ねられることになる。われわれの社会が単一の文化を持っていると言い得るとすれば、それは文化的指導者たちが互いに調和して補い合うことができる程度に応じてであり、その分だけそうした指導者たちは社会の共通の知的諸基準を維持している――彼ら自身の業績において、そしてさらに公衆の文化の感得を導き、社会が文化的責務を果たすように指示することによって――と言い得るのである。」

今日の日本では、かつてと同様に、天皇への崇敬と愛国心とが、社会の共通の知的または文化的な基準であると見なされつつように思われます。その主張は全体主義的、かつ閉鎖的であって、社会の現実的な亀裂を隠蔽するものです。

「色々な哲学、宗教、芸術運動の間の衝突によって、一つの潮流の支持者は、対立する流派の支持者の知的功績を認知するのを拒み、それを気狂い、詐欺師、馬鹿者と呼ぶということも生じる。従って人々の間では、「作曲家」、「詩人」、「画家」、「牧師」といった職種の記述や、「練達した」、「評判の」、「著名な」といった、作曲家、詩人等々と称する人々に適用される信任を示す語の用法についても見解が異なる。しかし、対立する指導者たちの大半が多元的社会にあっては同じ身分を共有するという事実は、彼らの大部分何らかの知的功績を承認する、ある程度の合意が存在することを証示する。このことはまた、これら総ての相異なる断言の基礎にある思考過程が――互いに明白に異なってはいるが、共通の価値と信念の遺産から生じてきた諸基準によって全般に導かれてくる過程が――認知されているということをも含意するのである。首尾一貫した思考の自律的過程に対するこの信念は(科学においてと同様に)、思想――自らの基準に導かれ、自らの情熱によって促される思考――の社会的育成のための根本的な条件である。」

ポラニーがここで見ようとしていることは、言うまでもなく、上から強制される「文化的基準」ではありません。「首尾一貫した思考の自律的過程に対するこの信念」がなければ、思想は他から押しつけられるものとなり、特定の権力が支配する一元的な社会が生まれてきます。それは「自由社会」の理念とは正反対の社会を生み出します。

8 市民的文化の管理

「これらが、自由社会において個別的思想の自由を支える文化的諸制度である。これらの制度から人民の統治(popular government)の理想に移行するには、その諸原理を市民的思想の育成に拡張すればよい。

自己統治の機関は市民的意見を強制力で装備して、必要ならば、既存の習俗の、正しいと思う任意の方向への改革を実施することができる。だから、もし市民的な事柄に関する意見が、個別的な思想の自由を効果的に支えるのと同じ原理によって形成されることができるのであれば、市民的な思想もまた自由に成長し、それが揮うパワー(権力)は自由な思想のパワーとなるであろう。これが理想的な自由社会において生ずるはずのものである。そのような社会においては、道徳的確信の形成および伝播は知的指導者たちの指導のもとに生ずべきものであるが、このような指導者は何千という特定の領域に拡がり、各所において公衆の同意を得るべく対抗者と競争しているのである(*)。」

* 権威を持つ個人の機能は、英国においては、憲法の解釈においてさえ一般的に認知されている。

個別的な思想に対置される市民的な思想もまた、自己統治(自治)の機関において、自由に成長すべきものです。道徳や法や政治は、市民的な思想によって担われています。市民的意見は「強制力」を装備しており、「必要ならば、既存の習俗の、正しいと思う任意の方向への改革を実施することができ」ます。選挙権一つを取ってみても、その行使の仕方によって政治が変ります。市民的な自治の機関が装備する「強制力」は、ネグリ・ハートによって、生政治的な文脈における「構成的権力」と呼ばれています。

「自由社会において、道徳的、法的、政治的意見がこのように継続的に再構成される制度的枠組みを記述するのは、あまりに遠大なことであって、ここではこの過程の若干の結果を示すだけで満足しなければならない。この過程は、社会改革の諸原理が一三〇年ばかり前に広汎に受け容れられて以来、自由社会の生活を根源的に変貌させたものである。刑法と監獄制度、そして陸海軍における規律にも、大幅な人道主義化が生じた一方、同じ変化は、学校、精神病院、病院、家庭の内部にすら生じたし、工場法は途方もなく多様な仕方で雇用の人道主義的条件を施行した。新たな福祉制度が設立されて、病人と老人、身体障害者、失業者とスラム住民の世話をするようになった。無償教育は貧困層の子弟の将来を大きく拓いた。女性、カトリック教徒、ユダヤ人、植民地住民の法的無権利は除去されたか、少なくとも大幅に削減されたかした。参政権の拡大と労働組合の認知は、勢力の均衡を、それまでは下積みの階級に有利な方向に移動させた。これら総ては社会の道徳的改善であって、例えばこれは英国史においては、公衆の良心に訴える一連の特定の運動にまで溯ることができるのであるが、これらの運動は、ふつうは先ず、ある特定の一改革の唱導に献身した、説得力ある個人によって喚起されたものであった。これが現代自由社会の動態であって、それは市民的思想の道徳的進歩に存するのであり、後者はその結果を、自己統治の機関を通じて社会改革の行動にまで導くのである。それは知的過程――自らの情熱に動かされ、自らの基準によって導かれる――の実際的帰結である。」

自由社会はいわば「市民革命」あるいは「社会改革」の帰結であって、民衆によって闘い取られてきたものです。それは今なお動と反動との動態のうちに置かれていて、自由社会の道徳的進歩は絶えず後退の危機に曝されています。ポラニーは市民的思想の道徳的進歩を一つの知的過程と見なしています。それは個別的文化の個別的思想と同様、「自らの情熱に動かされ、自らの基準によって導かれる」べきものとされています。

「自由社会の憲法は、これらの情熱と基準の認知を表現している。その政府は、市民が自由に到達した道徳的合意に前もって頭を下げる。しかしそれは、市民がそのように裁定したからではなく、彼らが、社会的良心の真正の代弁者として、それを正しく裁定する適格者だと見なされるからこそである。私はこのような考えが通有の法実証主義に合致しないことを知っている。後者は所与の法的構造の「基本的規範(basic norm)」の究極的権利を、いかなる仕方でも承認するのを拒絶するのである(*1)。だから、これにつけ加えて、法の改革は事実上、単に社会改革の要素に過ぎないのだと言われなくてはならない。新たな強制規則の制定は、自発的でインフォーマルな変化――交際の様式、家族の慣習、道徳規則の変化――の媒介によって進行する。そのうえ、法自体が司法上の新しい解釈を通じてインフォーマルに変化し続けるのであり、大きく新しい制度が私的に設定され、既存の契約関係のネットワーク全体が自発的に、無数の仕方で改変される(*2)。立法の改革は、このような広汎で自発的、私的、かつインフォーマルな社会の改変の中に埋め込まれており、新しい法がこれを具体化するのに役立ち、さらに一層の新しい出発のための新しい枠組み提供する。疑いもなく、このような市民的文化の広汎な変化は、立法改革の支配的母型を構成するのだが、その立法改革はあくまでも自らの基準に導かれ、自らの情熱に促される思考過程によって決定されるのである(*3)。」

*1・2・3 参考文献の引用省略。

この段落で、ポラニーは法実証主義の極端に自己限定的な思考法に疑問を投げかけているように思われます。それは、あたかも哲学上の「論理実証主義」が、言語の論理的分析に自己の役割を限定することによって、基本的な思想(basic norm)を放棄してしまうことへの疑問と、パラレルな事柄ではないかとも思われます。

「次のような反論はあろう――新しい法律が満場一致で通過することはめったになく、また社会全体において市民的諸価値は、科学的価値が、あるいは芸術的価値すらもが共有されるようには、普遍的に共有されることはないのだ、と。だがこの違いは皮相なものに過ぎない――意見の相克は、市民的な事柄については恐らくより目立つということはあっても、それは現時点での事柄に限られている。過去一五〇年間に英国で実施された無数の社会改革で、今日、傾聴に値する少数派の意見で何かこれに異を唱えているようなものは、ほとんどない。もしも一国民が、自分の過去の達成に対して、その程度の同意を取りつけられないとしたら、その国は潜在的な内戦状態にあることになり、自由に独自の立法をしているとは見なされないであろう。そしてその自己統治は多数派の強制的統制であるということになろう。その際、支配階級は依然として執拗な道徳的衝動に導かれているということはあるかも知れないが――絶対的支配者と独裁者とは時としてそうであった――、しかし、その時には、自分たちの只中で自由に育まれる市民的な徳の追求において、自らの生活を絶えず再構成する社会というイメージはもはや妥当しなくなるであろう。そこで、次のように考えてよかろう――すなわち、理想的な自由社会にあっては、市民的生活は、ただ道徳的諸原理の(自分たち自身による)育成のみによって、絶えず改善されていくのだ、と。」

今日の日本は、政治的指導者が「戦後レジームからの脱却」を唱えることによって、根本的な体制変革を迫られるような情勢に突入しつつあります。その結果、この国は「潜在的な内戦状態」に入りつつあると言えるのではないでしょうか。過去六〇年間の体制がまるで悪夢であったかのように根本的に否定されるということは、戦後の民主主義的価値観によって形成されてきたものに、実は、何の値打ちもなかったという主張にほかならないでしょう。道徳、法、政治の領域において、戦後の日本社会で果たしていかなる市民的文化が育成されてきたのかということが、今厳しく問われています。「自由社会」の諸原理そのものが、今危機に瀕していると言えるのではないでしょうか。そこには新自由主義すらも超える「全体主義」が影を落としているように見えます。


U マイケル・ポラニー『個人的知識 脱批判哲学をめざして』 その4

9 剥き出しのパワー

「だが、ここで権力(パワー)と物的諸目的の事実を想起しよう。人々は互いに同意した確信によって調和し、よく導かれるとはいえ、それでもやはり自分の諸目的を実現するために政府(統治機関)を形成しなければならない。市民的文化はただ、物理的強制によってのみ花開くことができるのであって、それは堕落の苗床に蒔かれたものである。いまや、この事実に直面したときの道徳的諸信念の不安定さを暴露しなければならない。」

ポラニーはここで人間の社会における権力の考察に移ります。

「厳密に言って、誰かに強制によって何事かをさせることはできない。過去の戦争や革命の間に、多くの囚人は極度に残酷な拷問に耐え、托された秘密を洩らしたり、無実の人について偽証したりすることを一貫して拒絶したのであった。誰かが「洗脳」と結びついた拷問に屈したとき、これは、薬物、脳手術、ノイローゼや精神病を誘発するような施術によって達成される如き、強制的な人格変化を意味したではあろう――だがこれは、人間の意志をもって抵抗し得るような性質の変化ではない。しかしそれでもやはり認めなければならないのだが、大抵の人々が自分の意志を曲げ、嫌々ながらも、のっぴきならない脅迫のもとで下された命令に従うように誘導することはできる。そしてそれは力によって強いられたと称するのが正当であろう。

実際、何らかの種類の脅迫を背後に隠して発せられた命令は総て、この限りで、強制的であるが、法は効果的に強制的でなければならない。なぜなら、そうでなければ、法律違反に対して、遵法者の犠牲において報いるという不公正を作り出すからである。確かに、道徳的不承認という圧力だけで法を施行し得るということも考えられなくはないが、そのような例外的な事態について考慮する必要がないのは、特に、それによってわれわれの結論がほとんど変わらないからである。その結論とは、強制は人間社会において起こり得ることであり、また不可欠でもあるということである。」

ポラニーは強制力としての権力が不可欠であるという現実的判断に立っています。先には「堕落という苗床に蒔かれた」という表現がなされていますが、人間が「失楽園」の状態にある限り、物理的強制を回避することは不可能です。しかし権力が極大化すると、人々の自由は著しく抑圧されることになります。

「普通に想定されるのは、権力は何らかの自発的な支持がなければ――例えば古代ローマの近衛兵のように――行使し得ないということであるが(*)、私はそれが本当であるとは思わない。なぜなら、誰にでも恐れられる独裁者があるように思われるからで、例えば、スターリンの支配の末期には誰でも彼を恐れていたのである。事実、単一の個人が厖大な数の人々を支配し、しかもその人たちの誰からも見られるほどの自発的な支持を得ないということは十分あり得ることだと、容易に理解することができる。もし、人々の集団の中で、各々の人が、他の人は皆、彼らの共通の上長だと主張している人物の命令に従うものと信じていれば、全員が上長としてのこの人物に従うことになろう。なぜなら、各自は、もし彼がその人物に逆らえば、他の人々は彼の不服従に対して、その上長の命により罰を加えるだろうと恐れるからであり、従って全員が、他の人々は引き続き服従するだろうという単なる想定によって服従を強いられることになり、しかもその集団内の誰一人として、その上長に自発的支持を与えるということが生じる必要もないのだ。その集団の各成員には、仲間のどんな不満の徴候も上に報告しなければならないという強迫観念すら生じるのであるが、それは各自が自分の聞いたどんな不平も、挑発者が自分を試すテストではないか、そしてそのような破壊的発言を報告し損なえば罰せられるのではないかと、怖れるからである。かくて、その集団の成員は互いに余りにも不信を抱き続けるようになるので、私的な場においてすら、密かに嫌悪するこの上長への忠誠心のみを吐露するようになる。このような剥き出しの権力の安定性は、その制御下の集団の規模の拡大と共に増すことになる。なぜなら、相互信頼の幸運な結晶化によって、少数の個人的な盟友たちの間で局所的に形成されるであろう不満分子の核も、それを取り囲む厖大な数の人々(これを前者は依然として独裁者に忠実だと見なすのだ)によって、威圧され麻痺させられてしまうだろうからである。だから、大国を力で制御する方が、洋上の船の乗組員を制御するより容易なのだ。だからこそ、反乱は既に他の場所でも勃発したという噂を流すことが、反乱の常套手段の戦術となっているのだ。」

* 参考文献略。

ポラニーは独裁者の支配の心理的なメカニズムについて冷静に分析します。極めて遺憾なことですが、それは今日でも起こりうることであり、我々が絶えず警戒すべき事柄です。特に体制の危機がそのような独裁者を生み出すことに留意すべきでしょう。

「この剥き出しの権力の原理は、疑いもなく現実的かつ効果的であるように思われる。この種の作用因を全く欠く権力の行使を想像するのは困難で、恐怖体制は圧倒的にこの種の原理に依拠していることは十分考えられることである。と同時に、至上の権力の継続的行使が専ら強制のみから成るということもない。なぜなら、いかなる支配者も(正気の境を踏み越していなければ)、何らかの公的目的を念頭に置くことなしに被支配者を支配し続けることはできないだろうし、また被支配者も、この目的をある程度受容することなしに彼の命令によって暮らし続けることはしないのであり、いかなる独裁者も(狂気でない限り)、そのような合理的行動への性向が彼の体制のために獲得してくれる一定の人気を失うようなことはしないからである。事実、次のように予測し得る。つまり、いかなる独裁者も、彼の強制力を、被支配者の中に彼への忠誠を植えつけるように利用し損なうことはないのだ。なぜなら、もし誰もが、彼の権力に従うのは正しく、抵抗するのは誤りだとある程度確信するようになれば、切迫する不平不満は、何か間違ったことをしているという感じによって出鼻を挫かれてしまうからである。また、それにも拘らず、不平不満が噴出した場合には、その声は単なる社会的不承認の重みだけで押し殺すことができるだろうからである。正当性の主張は、権力の最も恐るべき道具である。ヒトラーやスターリンの如き、剥き出しの権力の機関を極限まで完成した人たちですら、それを公的な自己正当化の流れによって補完してやまなかったのである(*)。」

* ボルシェヴィキは、ソヴィエト大会を解散させるに十分なだけの武力を奪取した後も、その支持を得るべく熱心に努力したのであった(Leonard Shapiro, The Origin of the Communist Autocracy, London, 1965, p.68.)。ヒトラーは、終には彼に絶対的なパワーを賦与するよう国会に強制することになった一連の策謀を始動させることになるまでの一月間は、連邦議会議長であったのだ。スターリンもヒトラーもその強制力を、自分たちに対する大衆の支持の表出を強いるために規則的に用いたのであり、彼らの命令によって選出された人々の集会に向って、満場一致の賞讃を取りつけるべく呼びかけることを止めなかったのだ。ナポレオンはその生涯を通じて自分の支配の合法性を強化すべく戦ったのであり、彼の没落は、彼がこの目標を完全に達成したことは決してなかったという事実に起因するのである。

独裁者といえども、彼の支配の「公的な正当性」を主張しなければ、その権力を維持することはできないと指摘されています。

「自己正当化の試みには、権力の行使におけるある程度の首尾一貫性――被統治者が合理的と見なし得る規則、あるいは政策を実施するための準則――が含まれる。その規則が妥当と思われればそれだけ、それを押しつけた政府は安定するが、しかし同時に、その意思決定の範囲もその結果として限定される。実際、剥き出しの権力が自らの支えとして持ち出すいかなる議論も――いかにそれが虚偽に満ちていて馬鹿げていようとも――、必然的に何か広汎に受容可能な諸原理を信認して、それにその諸原理を根拠づけるのだ。スターリンとヒトラーが他と交わした会話が明らかに示しているように、その冷笑主義にも拘らず、彼らは自分の専制支配の正しさを確信しており、また、何か特定の具体的な背信行為を犯している場合を除いて、彼らは世界を解釈するとき、自らのプロパガンダで使ったものとそれほど違わないタームでものを考えていたのである。(*)。」

* スターリンは、ソヴィエト指導者たちの暗殺を企てたとして告発されたクレムリンの医師たちに無理やり吐かせた自白を信じたに違いない。なぜなら、さもなければ、彼に価値ある専門的奉仕をしてくれていたこれらの政治的には取るに足りない人々の処刑を命ずる理由を、他に見出せなかったであろうから。ヒトラーの秘密のユダヤ人絶滅も、彼にはその態度が理解できなかった英国への執拗な言い寄りも、ともに、彼がプロパガンダで用いた人種理論への彼の信念によって決定されたのであった。

独裁者は、それがどんなに虚偽に満ちていて馬鹿げていようとも、自らのプロパガンダが人々に広汎に受け容れられる諸原理に依拠しています。その信念が広い範囲の人々に支持されてしまうというところに、全体主義が持つ恐ろしさがあります。

「全体主義的な独裁のもとにある諸国民は、その支配者たちをひどく毛嫌いしているかも知れない。しかし全体主義が独立の知的リーダーシップの形成を効果的に阻止している限りは、その「公的な正統説」がたとえ全般的に反駁を受けていたとしても、代替的な思想の運動を生み出すには到らないのだ。その結果、人々はしばしば、事象の慣例化した解釈に当って、公式のイデオロギーを自動的に用いるのであり、実際は、そのイデオロギーを支持しているわけではないのに、そうなってしまうのだ。全体主義が明瞭に証示したことは、いかなる現代文化も――個別的な文化であれ市民的な文化であれ――、生き延びようと思うならば、権威的諸制度の働きによらなくてはならないということである。」

ここにはポラニーの権力に対するアンビヴァレント(両面価値的)な態度が示されていると言うべきでしょう。権力の極大化が多くの人々を不幸に陥れることを認めつつも、自由社会を守るためにもまた権威的諸制度の働きが必要とされるということでしょう。しかし今日の多くの日本の知識人が、自己の知的ないしは文化的な活動とその地位を守るために、または生き延びるために、国家主義的で、ネオリベラルなイデオロギーを支持しているという(そうとしか思えない)現状は、どのように判断されなくてはならないのでしょうか。知的活動と保身とは、どの程度まで両立しうるものなのでしょうか。あるいは知的活動とはそもそもその程度のものなのだと諦観すべきことなのでしょうか。

10 パワー・ポリティクス

「既に見たように公的権力が仮に元々は恐怖に基づいていたとしても、その強制力を説得によって補完し損なうことは許されず、また、民衆を制御する目的で育成されたその思想は、不可避的に、幾分かは、支配者自身の行動にまで影響力を持つことになるのである。かくて、非道徳的目的のための道徳的訴えの乱用は、その帰結によって、道徳性に内在的な解放力を確証しているように思われる。

しかし、権力が道徳性を自らの強制の目的をもって利用することにより支払う代価としての制約は、ただ、道徳性は権力の不可欠の――自分が志向する道徳性であるにしても――同盟者だということを証示するに過ぎないのであって、道徳性がそもそも自らの原理に即して権力を制御し得るということを示すものではない――市民的文化は依然として権力と物的諸目的に依存したままであり、それゆえ道徳性は疑わしいものに留まるのだ。また、自由諸社会の歴史もこの嫌疑を晴らしはしない。それどころか、誰もが知るように、新たな道徳問題はいずれも利害の衝突をもたらしたし、道徳の進歩は、しばしば被抑圧者の圧力によって特権享受者に力で押しつけられなければならなかったし、現存の特権の分配状況は常にその享受者に対して、その利得を切り詰めるような改革に対する十分な抵抗力を与えるようになっていたし、また彼らは不公正を力で永続化してきたのであった。実際、次のように論ずることすらできよう(この点については後で立ち戻るが)――すなわち、細部に関する個々の改革はどれも、現存の社会構造を母体としてそれに依拠せざるを得ないから、この構造と、それに内在する任意の不公平は、いくら個別の改革を重ねても根本的に改善されることはあり得ないのだ。だから、依然として疑わしいのは、任意の社会――いかに自由に自己統治する社会でも――の支配者はそもそも、道徳性への取り組みに関して、すなわち彼らに信託されている道徳問題の処理に当って、やむを得ず遵守していることを越えてまで道徳を遵守するものかどうかということであり、結局は被支配者(およびその外部の同盟者)を欺いているのではないかということである。」

権力は自らの強制を正当化するために道徳を利用します。しかし道徳は特権(既得権)に制約されていて、結局は被支配者を欺くことになります。既成秩序を擁護するための保守的な道徳は、既得権者の利害を反映しています。従ってそこから排除されている者たちの道徳的要求は、権力を持つ者に対する圧力となります。権力が被支配者に押しつける道徳は、見せ掛けは普遍的であっても、結局は既成秩序を維持しようとする意図から来るものです。今日の日本で道徳教科(修身)の復活が叫ばれているのは、支配者にとって都合のよい国民の育成という必要からであって、決してそれ以上のものではありません。

「この懐疑は古代まで遡るのであるが、近代においてはマキャヴェリが初めて復活させたものである。フリードリッヒ・マイネッケは、第一次大戦の終わり頃著述して、マキャヴェリから―― 一連の大思想家を経て――系譜を辿って、公的権力に――国内支配にも対外的事柄の処理にも――必要な不道徳という大陸の政治理論がますます受け容れられるようになったことを示している。

マイネッケはドイツとその敵国とのイデオロギー紛争をこのタームで解釈している。彼の考えるに、ドイツが不道徳のゆえに非難されたのは、ただ「力は正義なり」を明け透けに宣言したためだけであったのに対して、アングロ・サクソンのパワーは、これに劣らず無節操に振舞ったのだが、引き続き道徳性に口先の敬意だけを払い続けたのであった。後者はドイツのパワー・ポリティクスの原理の正直な告白を非難することで、不公正に道徳的得点をあげたのであるが、彼らは、自分自身のものでもあるこの原理に密かに従っていたのだ。マイネッケはこの状況の起原を、ドイツ思想が権力の不可避な罪深さを覚り、またドイツ哲学がこの二律背反を克服するために、道徳性を、至高の権力の興隆に内在するものとして、内在的に考えるという大胆な試みをしたことに求めている。彼は、ドイツが、自ら責めを負うべきこの哲学の野蛮化によって道を誤ったことを認めるが、しかし、アングロ・サクソンが同様の帰結を回避するのは、ただ自らの信条と行為との矛盾に盲目だからに過ぎないのだと信じている(*)。

* F. Meinecke, Machiavellism, London, and New Haven, 1957, Book 3, ch.5.

マイネッケの政治的不道徳主義の説明は里程標となり得る。彼は第一次大戦を、暴力の教義に鼓吹され、また道徳を説く敵対者に対する自らの知的および道徳的優越性を信ずる、大衆運動の最初のものであると見ている。だが彼は、この戦争が、切迫しつつあった暴風に比べればさざ波に過ぎなかったことを見ていない。Realpolitik(現実政治)の観念の成長を辿るに当って、彼はマルクス主義の名をあげることすらしていない。だから彼は政治における道徳的諸原理の全くの不安定性を予感もしていないのであるが、これは二十世紀の諸革命に自らを開示することになっていたのであった。」

現代政治もまた「力は正義である」という観念の延長線上にあります。現代の「パワー・エリート」の道徳的信条が、その現実的行為によって自己矛盾に曝されていることは、今や、誰の目にも明らかなことです。「政治における道徳的諸原理の全くの不安定性」ということは、為政者の醜態を通じて、現にこの日本でも暴露されつつあることです。だから、彼らが主張する「道徳」にあたかも説得力があるように見えるのは、その強制力と裏腹の関係にあるからに過ぎません。自らは遵守することなく、国民にただただ強制されるだけの道徳には、何の説得力もありません。それは単に権力に「従え」というだけの道徳です。だからそれを実効的なものとするためには、学校教育等における倍化された強制力に頼る以外の方法はありません。そこには「剥き出しの権力」が顔を出しています。

11 マルクス主義の魔術

「マルクス主義のプロパガンダ的魅力は、不道徳の道徳力(こう呼んでもよかろう)の最も興味深いケースである。なぜならそれは、そのような逆説的な魅力をもつ、最も厳密に定式化された体系だからであるが、この自己矛盾が実際にマルクス主義運動に主な推力を供給しているように思われる。アイザイヤ・バーリンはマルクスの伝記の中で、彼がプロパガンダの天才を発揮して、この自己撞着的原理――理想へのあらゆる言及を鼻であしらう予言者的理想主義――の手段を行使するさまを示している……

「無数の宣言、信仰告白、行動計画で彼の名を付したものの草稿にもやはりペンの抹消線や激越な欄外書き込みが残っていて、それでもって彼は、永遠の正義、人間の平等、個人と民族の権利、良心の自由、文明のための戦い、その他こうした当時の民主主義的運動の手持ち在庫……であったものを抹殺しようと努めたのであった。彼はこれらをみな、思考の混乱と行動の不毛さを示す空念仏と見なしたのであった(*)」。

* I. Berlin, Karl Marx, Oxford, 1939, p.10.

そして全くのところ、この正義、平等、自由に対する軽蔑にもかかわらずではなく、まさにそうだからこそ多くの人がソヴィエト・ロシアを、まさにこれらの理想を公然と信仰告白している国々に抗して戦う、この同じ理想の真のチャンピオンとして受け容れることになるのだ。ハンナ・アレントが正しく述べたように、「ボルシェヴィキがロシアの内外で与えた、彼らは通常の道徳的基準を承認しないという保障が、共産主義のプロパガンダ……の主要な支えとなったのだ(*)」

* Hannah Arendt, The Burden of Our Time, London, 1951, p.301. アーモンド(G. A. Almond, The Appeals of Communism, Princeton, 1954, p.22)も参照――ここではレーニンとスターリンの主要なプロパガンダ的著作が数量的に分析されていて、共産党とその活動への言及の94から99パーセントが、同党を、権力を奪取し、操作し、うち固めるものとして記述していることが示されている。これはスターリンの『共産党史』についても真で、この本は共産党がソ連邦の権力を握ってしまった期間の相当部分をカバーしている。本文で述べたマルクス主義の自己矛盾はしばしば指摘されるところであるが、まだ気づかれていないのは、まさにその矛盾こそ、この教義の説得力を生み出す当のものだということである。最近の文献の若干のものについては、このあとの注を参照のこと。なお、本書全体を通じて、「マルクス主義」という語は、マルクス自身が抱いていたと仮定される諸信念ではなく、通有のイデオロギーを記述するために用いられる。

マルクス・レーニン主義が共産主義的権力を理論的に支えるドグマになったこと、そしてあたかもキリスト教の教義の如く、「その矛盾こそ、この教義の説得力を生み出す当のものだ」ということが指摘されています。なおポラニーは、慎重に、マルクス自身の諸信念とこの「マルクス主義」のイデオロギーとを区別しています。

「なぜこのような矛盾に満ちた教義がそうした至上の説得力を有するのか。その答えは、私が信ずるに、それによって道徳的自己懐疑に苦しむ現代精神は、道徳的情熱をほしいままにする、しかも同時に、容赦ない客観性への情熱をも満足させられるタームで、そうすることが可能になるからだ。マルクス主義は、その「弁証法的唯物論」哲学を通じて、一方では現代の高度な道徳的動態と、他方では、人間の事柄を客観的に、つまり、ラプラス流の機械論的過程として眺めることを要求する、われわれの厳格な批判的情熱との、この両者の間の矛盾を魔法のように追い払ってしまうのだ。こうした二律背反は、リベラルな精神をつまずかせ、まごつかせるのだが、それはマルクス主義にとっては歓喜の源なのだ――われわれの道徳的志向が法外で、客観主義的見解がより完全に非道徳的であればあるほど、これら相矛盾する原理が相互に強化しあう結合は、それだけ強固になる。」

現代人の心を捉えたマルクス主義の魅力は、法外な道徳的情熱(全世界の労働者、被抑圧者の解放)と歴史の客観的法則(資本主義から社会主義への必然的移行)とを結合した点にあります。そこに弁証法的唯物論のレトリカルな魔術があります。

「マルクス主義は、この複雑微妙な合同を達成するに当って、レヴィ‐ブリュールが「融即」(participation)と呼んだものを手段とする。原始的思考にとっては、村人を引き裂いているライオンには、その人に羨望を抱く隣人が参加しているのであり、疾病や不幸には常に、それらを送りつけた誰かの悪意が籠められている。より高度の宗教も、時として、不幸を過去の罪障に対するの報復として解釈する。もっと最近では、歴史主義が歴史的必然で置き換えたが、後者には歴史的に適合するものの達成という、より近づき易い(しかし、より不可解でもある)役割が信認されている。いずれの場合にも、顕示的な事象に内在する能動性の原理が働いており、〈内在的なもの〉と〈顕示的なもの〉との関係は目的とその達成の関係と同じであるが、両者の相違は、ここでは結合が超自然的であるか、ないしは規定されないままであるかという点にある。」

* レヴィ‐ブリュールが定義する「融即」と、本文で私がそれと同一視する「内在性」とは、単に、他の何かを意味するあるものと、それによって意味される他のものとの意味論的関係の拡張に過ぎない。この場合、意味を持つものは記号ではなくて顕著な事象であり、これがその意味するものを「同化」するのだが、その程度は、その意味されるものが、意味する事象自身の内部に存在すると断定するまでになるほどのものなのだ。(この原注を読んで、森有正の言う、日本語における「現実嵌入」とは、実は「融即」の論理から来ているのではないかと、ふと考えました……引用者)。

マルクス主義の思考法は歴史主義の一種であるという認識が示されています。明白に外に現われ出ているものは、何か内在的なものの能動的な発現であるとする考え方は、もとを辿れば、レヴィ‐ブリュールの言う「融即」の論理であって、合理的な根拠を欠いているということでしょう。なぜなら、目的(内在的なもの)とその達成(顕示的なもの)との関係は、歴史主義においても規定されないままに留まっているからです。ポラニーはここでなぜかヘーゲルの名前をあげていません。それにしても弁証法に「融即」の論理を見るということは、いかにもポラニーらしい「見立て」です。

「この一般的なタイプの操作――そして特にその現代的変種の歴史主義――に、マルクス主義は二つの特徴を付加し、それによってその範囲と説得力とが著しく増大したのである。第一に、この場合の能動性の原理は、無制限の道徳的要求の集合であるが、この要求は地球全体に拡がり、これまで太古以来の搾取と卑劣な行為を蒙ってきた人々の間でも応答を見出したのであるが、その一方では厳格に「科学的」な裁決が呼び起されて、そのような要求を認識し実現すべき事象を同定してくれるというのだ。第二に、マルクス主義のメカニズムは拡張されて、二つの反対向きの、だが互いに相関している方向に働くことになる。階級社会においては、物的利害こそが道徳的志向に内在的なものと見なされるのに、他方、社会主義国家においてはその逆が成り立つ――道徳性はプロレタリアートの物的利害に内在するのだ。

この双対性は、マルクス主義のさらにもう一つの逆説的な特徴に見えるかもしれないが、しかし、実際にはそれは、内在的諸原理が顕示的な事象の中に注入される過程から直接に生じるものと見ることができるのである。これが生じているのを見るためには、初めから――マルクスがそうであったように――社会主義への情熱と資本主義への恐怖に満たされていなければならない。この光に照らして、自由、正義、友愛の理想を眺めると、例えば、ナポレオン法典は、これらの原理に基づいていて、ヨーロッパ全域にわたって封建的秩序を破壊し、私企業システムとともにブルジョアジーに道を拓くのに至上の効果をあげたことが見てとれるのである。さらにそれは、それ以来ずっと資本主義的秩序の守護者であったことにも気づかされるのである。それゆえ、ブルジョアジーの理想は、資本主義の単なる上部構造として現れ、それは、それがその支配を打ち倒した封建制と、それがその隷従を永続化しようとしているプロレタリアートとの両方に敵対するものになる。ブルジョアジーの利害がブルジョアジーの道徳的理想に内在するように見える。これが第一の種類の内在性――マルクス主義の消極的分枝――である。

次にもう一方では、社会主義の革命的行動について考えてみると、労働者が資本主義を倒し、自由、正義、友愛の領土を打ちたてるのを見たいという情熱的欲望に満たされることになる。だがこれを自由、正義、友愛の名のもとに要求してはいけない――なぜならそのような情動的な文句は軽蔑されるから。そこで社会主義ユートピアから科学に変換しなければならない。そうするためには、生産手段の「プロレタリアート」による収奪が、今は資本主義に束縛されている新たな富の流れを解き放つことになろうと断定される。この断定は社会主義の道徳的志向を満足させ、従って、そのような志向に満たされた人々から科学的真理として受容されることになる。この場合、道徳的情熱は科学的断定の形式に嵌め込まれることになる。これは第二の種類の内在性――マルクス主義の積極的分枝――である。マルクス主義は、道徳的感情を科学の扮装で被うことによって、この感情が単なる情動主義呼ばわりされることから守り、同時にそれにある種の科学的確実性の感覚を与えるが、その一方、それは物的諸目的に道徳的情熱の熱狂を注入するのだ。」

マルクス主義は道徳的情熱と科学的断定との逆説的接合であり、まさにそこから社会主義への革命的行動が導き出されると、ポラニーは言います。しかしこのような思想の類型は、何もマルクス主義が初めて導き入れたものではありません。この「科学的断定」を「教義的断定」と言い換えるならば、カルヴィニズムにはそのような「革命的情熱」が息づいています。しかしそうは言っても、「神学」ではなく、「科学」の名によって構築された社会変革のイデオロギーであるという点で、マルクス主義はさらに前進していると言うべきでしょう。問題はその「断定」に落し穴があるということです。

「今や知られるように、マルクス主義の二つの分枝とも、道徳性にそれ独自の内在的な力があることを否認することによって作動するが、両者ともまさにこの行為において道徳的情熱に訴えるのだ。第一のケースにおいてわれわれに呈示されるのは、ブルジョアジーの理想はブルジョアジーに内在的な利害に関わるという分析であり、この分析の隠された動機は資本主義の糾弾であるから、分析はブルジョアジーの偽善の暴露に転化する。道徳的要求を物的利害に絡ませるという分析は極めて一般的に妥当するのだから、それは同時に、この暴露行為を行っている人の道徳的動機をも不信任するものだと考えることができるかもしれない。しかし、後者の動機は暴露に対して安全なのだ――なぜなら、それは表明されないままになっているのだから。実際、ブルジョアジーのイデオロギーを暴露することは、他の人々の中に強力な道徳的情熱を惹き起こすのだ――しかも、自分についてはいかなる道徳的判断も表明することなしに。そのプロパガンダの効果は、まさに、その暴露を純科学のタームで言明することによって得られるのであり、従ってそれは布教の目的のためになされるのではないかという嫌疑から自由なのである。

このような科学的断定と称されるものが受け容れられるのは、もちろん、ただそれが一定の道徳的情熱を満足させるからに過ぎない。ここには、ブルジョア・イデオロギーについての理論と、その基礎にある隠された動機との間の、自己確証的な反射作用がある。これは、私が動的‐客観的連結と呼ぼうとするものの特徴的な構造である。科学的断定と称されるものがまさにそのようなものとして受け容れられるのは、それが道徳的情熱を満足させるからなのであるが、それによってそのような情熱をさらに高揚させ、かくて当の科学的断定にさらに説得力を加える……という具合に、それは無限に続いてゆく。そのうえ、そのような動的‐客観的連結は、また自分自身の防御にかけても長けていて、その科学的部分の批判は、その背後の道徳的情熱によって排撃され、他方、どんな道徳的反論も、その科学的所見の仮借ない託宣が喚起されて、冷徹に一蹴される。この二つの要素――〈動的なもの〉と〈客観的なもの〉――の各々は、交互に一方が攻撃に晒されるときには、それから注意を逸らすために他方を呼び入れるのだ。」

科学を装う道徳的情熱は、一個の信念体系と化していて、一度その論理構造(自己確証的な反射作用、動的‐客観的連結)に嵌まると、世界はすべてその理屈で処理されることになります。しかしこのような構造は、科学的な装いは施されていなくても、宗教の護教的メカニズムに一般的に看取されるものです。あるいは自分の立場の正しさに固執し、それを擁護しようとする者は、誰でもこの「自己確証的反射作用」を必要とすると言うべきではないでしょうか。要するにそれは「言い訳(自己の弁明)」であり、またそれが積極的な姿勢に転ずれば「説得(布教、折伏)」となります。だから、もちろん、マルクス主義だけを悪者にすれば、それで済むという話ではありません。

「この構造は、マルクス主義の学問的批判者たちが暴露した論理的誤謬の基礎をなしていて、またそれが、なぜこの誤謬がその暴露にも拘らず生き延びるのかを説明することにもなっている。批判者たちが言うには、資本主義はプロレタリアートの手によって不可避的に破壊されるというマルクスの予測からは、いかなる政治的綱領も出てこない。なぜなら、すでに決着したと言われている戦闘に兵士を募るのは、無意味だからであり、他方、もしまだ決着していないというなら、その帰結を予測することはできないからである(*)しかし、動的‐客観的連結の内部においては、歴史の一定の帰結のための戦いの訴えとして、歴史的予測を用いることに対する論理的反論はもはや生じない。なぜならこの予測が受け容れられるのは、ただ社会主義の大義が正しいと信ずる限りにおいてであり、それは社会主義的活動が正しいことを含意するからだ。この予測は、それゆえ活動への呼びかけを含意するのだ。」

* これが凡そ、エイヤーが問題を処理したやり方である(A. J. Ayer, Encounter, 5 (1955), p.32)。その一年前、プレームナッツは自分の分析を警句風に次のように要約している(John Plamenatz, German Marxism and Russian Communism (London, 1954), p.50)――「……一人の人の生の構成部分としての科学と社会主義との関係がいかなるものであれ、彼が決してなることのできないものは科学的社会主義者というものいである。仮に彼の科学が、彼の社会主義が是認するものを予測するにしてもだ。『科学的社会主義』は論理的不条理、神話、革命的スローガン、今までのモラリストの誰にも似たくなかった二人のモラリストの目出度い霊的交感である。」アクトン教授は近著(H. B. Acton, The Illusion of an Epoch (London, 1955), p.190)で、問題全体を細大漏らさず再検討してみたが、ただこういう結論になるばかりであった――「マルクス主義者がその社会科学から道徳的教訓を引き出すことができるのは、ただ、後者が、その用いられる語彙からして、前者の隠されていて、認知されない一部分を構成している限りにおいてである。」

キリスト教では、神はイエス・キリストにおいてすでに世に勝っている、しかし神のこの世との闘いは、まだ続いているという言い方がなされます。このように「すでに…ある」と「まだ…ない」という二つの言い方が両立する思考法を「神話的」と言ってよければ、マルクス主義にも神話的思考法が息づいているということになります。形式論理学的にはそのような思考法は排除されるほかはありません。それは「融即」の論理です。しかし、人間が希望をもって生きることができるのは、形式論理を越えた「生命」の促しによってであるとすれば、そのような思考法を一概に斥けることはできません。問題は、科学的に理論武装することが、かえってマルクス主義を奇怪な学説に仕立て上げてしまったというところにあります。社会主義が悪なのではありません。過去の社会主義的実践が惨憺たる結果に終ったのは、それが「マルクス主義的」イデオロギーに強く拘束されていたためでしょう。しかし今日の世界で資本主義の制度を手放しで礼讃することはできません。今はポラニーが、まだこの段階では経験していない、冷戦終結後の資本主義の「悪」が表面化している時代です。さしも強大だったスターリニズムが崩壊した後の、資本主義的、帝国主義的現実こそが問題になっています。そもそも「自由社会」などというスローガンが、どこまで意味を持つかが問われなくてはならない時代に来ています。

「しかしこれにはまだつけ加えることがある。もし悪しき信念を抱いているという感じが、単に正義への渇望を見掛け倒しの社会学の衒学的タームで扮装させるだけに留まっているならば、その仮面は単に哀れを催させるだけであろう。しかし残念ながら、道徳的情熱が科学的陳述として飾りたてられるとき、宿命的な変化を蒙るのだ。私は、マルクス主義的活動に対するいかなる道徳的反論も、その「科学的」正確さの指摘によって一蹴されると述べて、既にこの変化を暗示したことがある。ここで何が生じたのかを見てとることができる――社会主義の道徳的動機は、それと等価な科学的断定に変換されると、その元の道徳的脈絡から引き裂かれてしまい、孤立的で、道徳的考慮の手の届かない情熱となってしまうのだ。これは狂信である――しかも、元の道徳的情熱の唯物論的等価物の上に固定された、つまり、「労働者階級の利益」の上に、あるいはより正確には、労働者階級の利益を代表すると考えられる人々の強制的権力の上に固定された、狂信である。これは狂信的な権力崇拝である。」

プロレタリア独裁という教義が、結局は労働者階級を抑圧する強制的権力をつくり上げてしまうという逆説に、「科学的社会主義」の非科学的非道徳的特性があります。通例それはスターリニズムとして批判されますが、ポラニーが言うように、人間の社会が集団的忠誠、所有、権力によって構成されているとすれば、過去のマルクス主義的社会主義の実践は、その人間の条件を克服するものではなく、それを一層グロテスクに浮び上がらせてしまう結果になりました。しかし、解放のドグマが抑圧を生み出すというという歴史の逆説は、マルクス主義にだけ特有というものではなく、解放を約束するイデオロギーの宿命というべきものです。長いキリスト教の歴史がそれを物語っています。だからと言って、革命前の人間の状態はもっと良かったとは言えないところに、人間の悲劇があります。

「これによって、現代全体主義の意図的な無節操だけでなく、それが無節操に振る舞うという公言された決意の道徳的魅力もまた説明されるのだ。なぜなら、この決意は、その権力が正義を体現していること、そしてそれゆえにそれ自身の至高性の防御(これは万難を排してなすべきこととされる)よりも高い責務を認知することはできないということの保証だと受け取られるのだ。その名のもとに支配する者は、慈悲と正直をあざ笑う権利を与えられるが、それは単なる便宜という理由ではなく(マキャヴェリはそのようなものとして承認していたであろうが)、実は、その道徳を説く敵対者の情動主義、偽善、一般的不鮮明さに対する自らの道徳的優越性のためだったのだ。かくて、あらゆる道徳的動機の実在性を、軽蔑を籠めて否定する懐疑家たちが、狂信的に糾合して剥き出しの権力を道徳的に支持するのだ。」

道徳的確信が揺らいでいる現代人に対して、スターリニズムは権力の至高性をもって答えます。それはプロレタリア独裁という教義の象徴として人民の上に君臨します。その権力に歯向かう(と見なされる)者の粛清は、マルクス主義の大義によって正当化されます。その権力は無節操であるというよりは、無制約的で絶大な権力と言うべきものです。神のない社会で、権力は神の地位に就きます。それは剥き出しの権力の極致です。

「マルクス主義がひとたび受容されると、普遍主義者の道徳的主張と、それが現実には権力と利潤に依存しているということとの、永遠に脅威を与え続ける不一致が除去される。これを行なうためにマルクス主義は、道徳性に対して道徳性としての要求を拒否するが、その代わり、自らに指定された政治的勢力の内部での、内在的な作動形式を提示する。この場合、普遍性は、この内在的に正しい勢力が、必然的に世界を征服することを通して達成されるべきなのだ。」

労働者階級が社会の実権を握ることは歴史的必然であり、それによってのみ人間の普遍的要求が実現されるのだというテーゼが、いわば革命的オプティミズムとして語られ、今日まで革命のスローガンであり続けてきました。ポラニーはここでそのような「階級闘争」史観に言及しています。

「そうであるとすれば、マルクス主義は誤って唯物主義の非難を受けているのが知られる――この唯物主義は、その道徳的目的の扮装なのだ。確かに、その唯物論的扮装によって、そのような志向は道徳の脈絡から引き剥がされ、物的膨張と政治的暴力への奉仕を強いられてしまうというのは本当のことだ。しかしこれは、基礎にある社会主義的運動を慰藉への欲望に転換することにはならず、社会的大事業への熱狂は依然として共産主義政府の情動的正当化なのだ。だからこそ、総ての経済活動を高度の道徳的意義で満たそうとする、あの執拗な努力が生じるのであり、まただからこそ、彼らの巨大な嗜好が、民衆の最も切実な需要――例えば住宅の改善――を無視した、装飾的な高層建築や大理石の地下ホール造りが生じるのであるし、さらにここから、奇妙な経済システムの全体――それは生産に血道をあげるが消費は抑制する――も生じてくるのだ。西側のわれわれはソヴィエト・ロシアにおける真の唯物主義の徴候らしきものを、一つ残らず、希望を抱いて注視しているのだ。なぜなら、もしこの体制がひとたび真に物的利益の追求に同意しさえすれば、その威信は失われるであろうからだ。慰藉への愛は下等なものかどうかは知らないが、少なくとも油断できないものであることは保証できる。」

各国の社会主義的運動が一国の共産主義政府の情動的正当化に結びついてしまったということは、歴史的事実です。従って、その政府は世界に威信を示すという圧力のもとにありました。その人民に生活上の満足(慰藉への欲望を満たすこと)を与えるという「唯物的」政策はあと回しにされていました。ソヴィエト連邦が崩壊した根本的な理由はそこにあります。人民の「下等な」欲望を満たさない政府は、いくら高尚な理念を掲げても、結局は人民の支持を失うことになります。またその「道徳的」理念が権力の粉飾に過ぎなかったとしたら、その政府は早晩人民から見捨てられることになるでしょう。なお、階級闘争のアピールに道徳的要求を見るポラニーの見解は、「唯物史観」への皮肉なコメントであると言わなくてはならないでしょう。

「不道徳性の道徳的魅力は、現代のもう一つの大衆運動でも効果を発揮した。マイネッケはその初期の形式を汎ゲルマン主義であると喝破したが、ヒトラーの台頭はその診断を悪魔的な完璧さで確証したのであった。ヒトラーはボルシェヴィキの範例から大いに利益を引き出したのではあるが、彼の運動は主としてドイツ・ロマン派のニヒリズムに根ざしていた。この教義の教えるところでは、傑出した個人は法を超越しており、それゆえ、政治家としては、他の人々総てに自分の意思を鉄面皮に強要することが可能であり、またある特定の民族も、同様に、自分の「歴史的運命」を道徳的責務を顧慮せずに成就する権利および義務を有するのだ。そのような教えが道徳の普遍的要求と矛盾するのは、マルクス主義的‐機械論的人間観が、それと矛盾しているのと同様である。その教義は、道徳性をそのような個人ないし民族の自己実現と同一視するが、この情動を孕んだ功利主義は、激しい愛国主義に、現代のあらゆる不埒な野望を結びつけることができるのだ。それゆえ、究極的には、この二つを、ヒトラー指導下のドイツの世界支配という目標の中で結びつけることが可能になったのである。」

ヒトラー台頭の背後にも道徳的ニヒリズムがとぐろを巻いています。法を超越したドイツ民族の偉大な責務が、汎ゲルマン主義として主張されます。八方塞がりの状態に置かれている人々は、ヒトラーの独断的主張にまばゆい突破口を見出します。

「ヒトラーのプログラムに大きな道徳的情熱が内在していたことが、それがまさに無節操であることによって、強い道徳的魅力を発揮したこと――例えばドイツ・ユーゲント運動の多くのメンバーに対して――の説明になる(*)。狂信が冷笑主義と結びつく場合には、いつでも動的‐客観的連結があるものと疑ってもよい。すなわち冷笑主義が道徳的な魅力を発揮しているのが見出されるときには、その連結の作用が確認されるのである。ヒトラーの乱行は、まず何よりも悪であったが、ドイツの青年たちにとってのその魅力は、道徳的なものであった――彼らは、悪の活動を道徳的義務として受け容れたのだ。彼らの応答を決定したのは、マルクスが公的生活の道徳的動機の本性について抱いた確信と同じものであって、彼らはそのような動機は単に権力の合理化に過ぎず、また権力のみが実在的なものだと信じたのだ。ここから彼らの道徳論への嫌忌と、無節操な暴力への道徳的情熱が生じたのであった。」

* クランクショウ(Edward Crankshaw, Gestapo, London, 1956, p.28)は、総てのユダヤ人を虐殺せよというヒムラーの高度に道徳的な勧奨を引用している。この著者はその本の結論として(p.247)、ゲシュタポ内に蔓延していたこの態度を「腐りきった理想主義」と呼んでいる。

道徳を破壊することに道徳的魅力を覚えるという態度が、なぜ「高度に道徳的」であると言われるのかという問題があります。通例は、宗教が通常の道徳的態度を超越するものとして存在しています。例えばパウロによる律法主義の否定があります。ただしそこで獲得される自由はどこまでも精神的なものと理解されています。オウム真理教のように、善悪の判断を超越して、実際に殺人まで行なってよいという風には普通はなりません。しかし戦争や革命などで人間が「狂信的な」あるいは「高揚した」状態に陥っているとき、この壁は容易に取り払われてしまいます。人間は、通例は、「秩序」の中に棲み込んでいますが、「秩序」と「混沌(無秩序)」との境目はそれほど堅牢な壁で仕切られているわけではなく、また人間のうちにはこの「秩序」を破壊したいという衝動が潜んでいます。ファシズムは日常生活に近接した危険であって、警戒を怠ると足元を掬われることになります。そこには日常生活の虚偽を暴露し破壊したいという「宗教的」な動機も働いています。

「数年前に発表した試行的研究で、私はこの原理を「道徳的転倒」と呼んだ。そのような転倒は、もちろん、完全に実現することは決してあり得ない。いかなる体制も――いかに狂信的でも――公然たる道徳的制約を全く受け容れずに行為することはできない。私は既にこのことに言及して、剥き出しの権力といえども、説得力の行使によって必ず自らを支える――そして同時にそれに制約される――ことにならざるを得ないと述べた。他方では、道徳的転倒の要素が、苛烈な権力の行使にはどれにも作動していると考えることもできる。もし「困難な事例が悪法をつくる」のだとすれば、最良の政府も時として不正を働かねばならないように思われる。それは本当であるが、しかし、時として便宜に譲歩することはあっても、そのとき違反することになる道徳原理は無傷のまま残るのであって、それはちょうど、時として公然たる道徳性に譲歩を示したという事実だけからは、道徳的転倒の原理が否定されることにならないのと同じである。」

現代の道徳的確信の不安定性にも拘らず、ポラニーは道徳的原理の永遠性を信奉しているように思われます。

12 道徳的転倒の見かけ上の諸形式

「さらにまた、道徳的動機の唯物主義的解釈が常に道徳的転倒に結果しなければならないと仮定することに対しても用心しなければならない。それは全く事実に反する。道徳的転倒の見かけ上の諸形式は全くありふれたものである。人々は実証主義、プラグマティズム、〔倫理学的〕自然主義の言語を何年も語りながら、引き続き、そのような語彙がむきになって遠ざける真理や道徳性の原理を尊敬し続けるといったことが生じ得るのだ。

フロイトのテクストを例に取り上げれば、そこで彼は文化を自分の心理学に照らして解釈している(*1)。終わり近くで彼はこう力説している――「私はこのことだけは確実に知っている。すなわち、人間の価値判断は絶対的に彼の幸福願望に導かれており、従って、自分の幻想を議論によって支えようという試みに過ぎないということを(*2)」。だが、同じエッセイの初めで彼は、ロマン・ローランに対する深い尊敬を表明していたのだ。そのわけは、権力、成功、富を求め、またそれらを達成した他者を賞讃するが、人生の諸価値の感得に失敗するような人々が普通に使う偽りの基準を、ロマン・ローランが一蹴したからであった(*3)。そして別の箇所でも彼は、「総ての者の幸福のために総ての者が協働する」寛容な社会の理想を自分は支持するという所信を述べているのだ(*4)。」

*1・2・3・4 S. Freud, Das Unbehagen in der Kultur.

ポラニーは「道徳的動機の唯物主義的解釈」を「実証主義、プラグマティズム、〔倫理学的〕自然主義」のうちにも見出しています。そしてフロイトがその例に取り上げられます。

「ここには、動的‐客観的連結がマルクス主義と同じ線で作動しているのが見てとれる。道徳性の功利主義的解釈はあらゆる道徳的感情を偽善として非難する一方で、その著者がこのように表明する道徳的感情の方は、科学的陳述だとして安全に粉飾されるのだ。また別の場合には、これらの隠蔽された道徳的情熱が再確認されるのだが、それは、倫理的理想を確認するのに、社会的不同意者を暗々裏に賞賛するという間接的な形をとったり、功利主義的に扮装したりしてのことなのだ。」

人は自分の隠された道徳的立場を正当化するために、客観的な事実に訴えます。言い訳や弁明を、そのような形で行なうときに、いつしかつくり上げられてしまう、判断の機構が「動的‐客観的連結」と言われるのでしょう。あたかも客観的な事実が語られるかのような言い方で、自分の道徳的判断が間接的に表明されます。それをそれとして確認することが欺瞞的な理想主義と見なされてしまうという恐れから、事柄の「唯物主義的な解釈」がなされます。道徳的な感情を表明するために、客観的ないしは科学的な粉飾が施されます。しかし権力者が逆に臆面もなく道徳を語るのは、強制力を正当化するためです。そこには批判される通りの、別の種類の粉飾(作為)が見られると言うべきでしょう。

「批判的な精神の道徳性との対決における言い逃れは、古代まで遡ることができる。トゥキディデスが図らずも記していることだが、アテナイ人たちは、ある時点では、神と人との唯一の法があり、それは「可能なところでは常に支配すべきもの」であることを確認し、自己利益を追求しながらそれを正義と名誉のマントでくるむスパルタ人の偽善をあざ笑っている――ところが、次の時点では、この同じアテナイ人が、安全へと導く自己利益の道と、危険をはらむ正義と名誉の道とを鋭く対比してしまっているのだ。不幸なことに、何か確実なものを模索しつつ、偉大なアテナイ人のアテネの偉大さへの愛は、その比類のない規模をもつ企図を葬送の式辞でかろうじて誇示するところまで、退却を余儀なくされてしまったのだ。」

仮に道徳的原理の実在性を信奉するとしても、この世界でそれを堅持することは、極めて困難です。日本の平和憲法の道徳的卓越性は、国際政治の荒波に揉まれて、今や、葬送の式辞の中で回顧される運命にあるかのように見えます。

「十八世紀以来、再びわれわれは、多くの意志の堅固な功利主義者が、論理的には説明できない道徳的確信を高貴にも支持するのを見る――だが、ようやく二十世紀になって、通俗的思想にこの内的矛盾が浸透したのであった。今日、われわれの道徳的判断には理論的な保護が欠けているというのが、全く一般的なことになっている。道徳的判断が「攻撃性」、「競争性」、あるいは「社会的安定性」等々の、社会学として扮装されていて、そのようなタームで、人々の間の親切、寛容、忍耐、友愛の増進が唱導されたりしている。伝統的道徳性を不信任するよう社会学者に教えられた公衆は、それを〈科学〉印しの商標つきで返してもらうと感謝する。実際、道徳性の存在を否認して自分の明敏さを実際的に誇示した著作家が、それにも拘らず道徳を説くと特別の尊敬をもって傾聴されるのだ。このようにして、道徳的志向の科学的扮装は、道徳的実質をニヒリズムから保護するばかりでなく、それが隠れて効果的に作動するのを可能にさえするのだ。このやり方で、ベンサムやデューイのような偉大な改良主義者たちが、自分たちの功利主義を道徳的目的のために用いることができたのであった。」

今日の日本で、道徳的主張が、あたかも保守主義者の専売特許であるかのように見られているのは不幸なことです。道徳を上から説く人間が、その実、極めて不道徳であるように見えるとき、人々は道徳的なニヒリズムに陥りがちです。しかしそのようなニヒリズム、冷笑主義(シニシズム)がファシズムの温床となります。問題は、権力が上から説く道徳ではなく、市民的文化の根幹にあるべき、いわば「共生のルール」としての道徳が、市民自らの手によって再発見され、また実践されていかなくてはならないということではないかと思われます。その道が塞がれようとしている今、そのような「共生のルール」づくりは、不可避的に「抵抗の拠点」づくりに結びついてきます。

「道徳的転倒の存在を認識することは、道徳の諸力を人間の主要な動機として認識することである。それは「昇華」が文化の創造の基礎にあること(フロイトはそう考えたのだが)を否定することである。もちろん、道徳的諸力は教育によって引き出され形成されるが、それは人間の知能と芸術の才が教育によって喚起されるのと同じである。だがこのことは、道徳性が自己利益(利己心)の単なる合理化だということも、科学は性的好奇心の「昇華」だということも含意しないのだ。その反対で、道徳性のフロイト的解釈自体が道徳的転倒の見せ掛けの一形式に過ぎないのだ。それは、現代言語の縮減の一部を構成するもので、これによって、あからさまに道徳的な用語が客観的な――むしろ欲望的なと言うべきであろう――タームに置き換えられるのだ。」

ポラニーはいわゆる「還元主義的」な思考を拒否します。知的好奇心や美の鑑賞などを、何でも性的欲動に還元して説明したり、道徳性を利己心の相互監視に見立てたりするのは、還元主義的な思想です。道徳的転倒という事実そのものが、ポラニーに言わせれば、道徳性の存在の裏側からの証明になります。

「しかし、人々は、道徳的理想の実在性を否認するような思考体系の中で、それを引き続きいつまでも追求し続けるだろうと当て込むのは危険である。それは、彼らが道徳的理想を失うかも知れないからということではなく――そんなことは稀であり、またたとえそうであったとしても、それほど深刻な公的帰結は生じないでろう――、彼らが、論理的にはもっと安定した、完全な道徳的転倒に滑り落ちてしまうかもしれないからである。というのは、客観主義的な仮装行列が行進し得るのは、道徳的確信が(この仮装行列が、道徳の内的不安定性を助長するのだが)、比較的温和なものである場合に限られるからである。社会生活に対する道徳的要求の高まり――十八世紀に生まれ、爾来全世界に氾濫しているようなそれ――は、もっと強力な表現を求めて止まない。功利主義的な枠組みに注入されると、そのような(激しい)道徳的要求は、自分自身とこの枠組みの双方を変質させてしまい、暴力機械の狂信的な推進力に転化する。そうなると、道徳的転倒の完成は次のような形をとることになろう――すなわち、獣の仮面をつけた人間がミノタウロス(牛頭人身の怪物)に変身するのだ。」

最も警戒すべきものは道徳的理想の喪失ではなく、道徳的転倒である。それは二十世紀のファシズムとスターリニズムによって証明されているし、今後もその「転倒状態」が続くとすれば、道徳的要求が高まるにつれて、人間の社会は怪物の社会に変質するであろうと警告されます。


マイケル・ポラニー『個人的知識 脱批判哲学をめざして』 その5

13 知識人の誘惑

「道徳的逡巡に対する公然たる軽蔑が持つ道徳的魅力が、ここでは道徳的転倒として説明されるのだが、これと類似の説明によってもう一つの逆説が説明される。それは、スターリン体制を、この体制によって非難抑圧された西側作家や画家が賞賛したというパラドクスである。そして実際――チェスラウ・ミロシュが示したように――、この体制の魅力は事実、部分的には、現代芸術と文学に対する公言された嫌忌と、総ての文化的営為を国家に奉仕させようという決意とに負っているのだ。ミロシュは、ポーランドにおける自己の経験を記録しているのだが、これらの感情および政策は、マルクス主義がポーランドの知識人に提供した誘惑の一部分を構成するものなのであった(*)。

* Czeslaw Milosz, La Grande Tentation, published by the Congress for Cultural Freedom, Paris, 1952. この議論は次の書で敷衍されている―― Czeslaw Milosz, The Captive Mind, New York, 1953.

これを理解するには、初めに、暴露と注入――マルクス主義の消極的および積極的操作――は、資本主義から社会主義への移行におけるどの思考形式にも適用可能であることを考慮しなければならない。自由と民主主義というブルジョアジーの理想が暴露される一方で、替わりに党の独裁が内在的に自由かつ民主主義的だという性質を賦与されるのだが、これと全く同様に、ブルジョアジーの芸術と文学が暴露され、これに代わって社会主義の賛美が芸術と文学の価値を賦与されるのだ。総ての文化的生活は同一の転換を蒙り、これによって文化は、絶対的支配者の牛耳る社会主義国家の利益に完全に屈服してしまう。この過程は転倒の論理と合致する。だが、この事実は、まだ、なぜそのような転倒が自由諸国にあって、全体主義が不信任し抑圧するまさにその天職を追求している、馬鹿にならない数の知識人を魅惑したかという点を説明し尽くしてはいない。

まずこの謎解きの鍵は「暴露」という語が示唆している。社会主義だけが一九世紀にブルジョアジーの支配に反抗したわけではなかったし、科学主義だけがブルジョアジーの理想を攻撃するための武器であったわけでもない。これと結びついて知識人の一般的な疎外があったのである。ロマン主義と科学の運動が合わさって近代の文化的ニヒリズムを生み出し、それが現存の社会をマルクス主義に劣らず包握的に排斥したのであった。それが起こったのは、近代人の過剰な道徳的志向が、人間にとっては正常なことである自己満足、利己心、偽善に失望し、そうした欠陥を説明するために、道徳性とは、人々が余儀なくされたときにのみ従うものなのだという解釈が与えられたときであった。ここでもまた――マルクス主義におけると同じく――道徳的ニヒリズムは、例外的に強い道徳的情熱の徴しなのだ。I・ツルゲーネフはこの事態を学生バザーロフとして描き出しているが、彼は哲学的ニヒリズムの文学的祖形である。」

ポラニーがここで論述しつつあることは、民衆の生活の実際的困窮でもなければ、戦争や植民地主義のことでもありません。ヨーロッパの知識人が陥っている「哲学的ニヒリズム」が「過剰な道徳的志向」との関連で論じられています。それは、現代思想の一側面と言うべきものであって、ポラニーの立ち位置を示すものです。しかしそこからは、当然のことながら、社会主義的運動が興隆した「歴史的必然性」は見えてきません。スターリニズムの現実が、彼がそのように考えることを、むしろ禁じてしまっていると言うべきでしょう。だからこの部分は、あくまでも標題にある通り、知識人がなぜマルクス主義に誘惑されたのかについての一つの考察でしかありません。

「哲学的ニヒリストはラディカルな個人主義者ではあったが、彼らは当然ながら、社会の完全な破壊を狙う革命運動的な傾向を持っていた。だが、仮にそうだとしても、彼らの多くが、自らの知識人としての天職に敵対する全体主義政府を熱烈に支持するところまで行ったという事実は、説明が与えられないままである。それは、ただ、歴史的背景に置かれることによってのみ理解し得るものなのだ。」

ポラニーはこの本で、サルトルとはまた違った意味で、「知識人の使命(天職)」について考察しているのだと、理解することも可能でしょう。

「まず認めなければならないのは、個人的ニヒリズムは一世紀にわたって文学と哲学のためのインスピレーションの役を担っていた――それ自体としても、それへの反動を呼び覚ますという点でも――ということである。ブルジョア社会への嫌悪、反抗的な不道徳主義、絶望は十九世紀中葉以来のヨーロッパ大陸の偉大なフィクション、詩、哲学の支配的主題であった。反俗物主義は現代のボヘミアンを育てたが、これもまた激しい独創性を刺戟し、それが美術を刷新して、それ以前の歴史に類を見ない傑作の数々を豊かに稔らせた。

だが、このような勝利も、その作者たちを自己懐疑に苛まれるにまかせた。確立された文化に対する彼らの嫌悪は、(マルクス主義におけると同じく)人間と人間的思考の地位そのものへの攻撃へと拡がっていった。ペール・ギュント(イプセンの韻文劇の主人公)は、夢想を追う放浪の人生の果てに、自分を玉葱としてイメージしている――自己劇化を求め、剥いても剥いても芯まで行っても、何もないのだ。ブルジョアジーの百科全書的懐疑家ブヴァールとペキュシェ(フロベールの同名の小説の主人公たち)は、空虚な作業の迷路の中で自分を見失ってしまう。ムージルの『特性のない男』(未完の大長編小説)は、生を生きるのではなく、それについて考えるからこそ生きることを止める。「思想、思想についての思想、思想についての思想についての思想」の空虚な遡行がサルトルの『分別ざかり』のマチウを完全に困憊させる。カミュの『異邦人』のように、全く反省しない男もまた、同様に実在から切り離され、彼の私的な世界に囚われている。サルトルの『嘔吐』における、あらゆる意味での破壊は、この進行の究極点である。

かくて、もはや何事も誠実さをもって言うことはできず、総ての合理的活動は生命のない陳腐なものになる。暴力だけが依然として正直であるが、しかしただ無償の暴力だけが真正の活動である。この段階に達すると、現代の知識人は、同時代の道徳的・文化的空虚さに対する吐き気を伴う軽蔑に捕えられる。宇宙を全く無意味なものに変えてしまったあとには、彼自身も宇宙的な不毛の中に解消してしまうのだ。」

ポラニーは現代の知識人の精神的苦境を率直に論じています。世界は欺瞞に満ちていて、真実はどこにも見出されません。自分自身が玉葱の皮であって、剥いても剥いても真実には到達しません。その結果、世界はニヒリズムによって染め上げられることになります。知識人は出口のない苦境に陥っています。

「もしここで知識人がマルクス主義的暴露者たちから側面攻撃を受ければ、彼はブルジョアジーとして十把一絡げにされてしまい、その立場は極めて危ういものとなる。精神の砂漠に住んでいるという彼自身の自覚的意識の高まりにつれて、自らの芸術や科学が軽蔑すべき資本主義の上部構造に過ぎないというマルクス主義の分析に共鳴しがちになる。そのうえ、この攻撃に対する抵抗はどれも、余儀なくブルジョアジーとの同盟に向わせることによって、この批判の正当さを裏書きしてしまうことになるし、さらに、これによって、彼の自尊の基礎になっていた反ブルジョアジーの地位も奪われるという危機に直面する。このディレンマだけでも、サルトル、ピカソ、バーナル(J. D. Bernal、イギリスの物理学者、結晶学・生化学に通じ、生命論を提唱)のような人々が、彼らの知的営為の存在自体を否認する哲学に膝を屈したことを説明して余すところがない。とりわけ、彼らが――自分たちのブルジョア政府の庇護のもとで――当面はそうした営為を幸せにも育み続けることができたのだから、一層そのディレンマが際立つことになる。

ここでわれわれは転回点に達する。哲学的ニヒリストの隠された道徳的情熱は常にそれを政治的目的のために動員することができる――そのためにはその政治的目的をニヒリズム的諸仮説の上に基礎づければよいのだ。それによって彼は自分の道徳的情熱に耽溺して、無節操な革命的パワーの内在的正当さを、安心して受け容れることができる。暴力的機関に注入された彼の人道的志向は、終に自己懐疑の危険なしに拡張することができ、彼の〈個人〉全体がそのような金無垢の市民的家郷に歓喜をもって応答する。終に彼は社会参加した(engaged)のだ。彼は安全だ。」

当時の知識人の入党、あるいはマルクス主義への接近の動機について、ポラニーは、余りにも皮相的に描いていると言われなくてはならないでしょう。日本では、戦前の河上肇、戦後の出隆の例などについて考えて見れば、それを単にニヒリズムの反転であると考えることはできません。そこには社会正義を追求する人間に常に付きまとう悲劇があると言うべきでしょう。しかし、現代のニヒリズムが反転して政治的直接行動になる傾向があるということは、ポラニーの言う通りでしょう。そのような見方に立てば、右翼的全体主義も左翼的なそれも、同じニヒリズムという根っこから生まれて来ると言えなくもありません。既成社会の破壊と新社会の創造が、独断的かつ独裁的に遂行されるところに、少なくとも両者の表面的な共通点があると言うべきでしょう。

「確かに、芸術家や科学者が、共産主義的独裁の荒涼たる文化的目標を自分の天職の成就として受容することは、依然として困難である。だが、彼はこの反感を、全く見下すべきでもない理由によって克服しようと試みるかもしれない。というのは、彼はこれによって「腐った社会の死にかけた文化」に所属することから、あるいはまた全くどの社会にも所属しないことから、逃れているからである。彼はまた共産主義社会内での卑屈な役割は、ほんの一時的なものであり得ると感じるかもしれない――なぜなら、究極的には歴史的必然の勝利は、心の要求をも、身体の要求と同じように満たすべきなのだから。そして、その時までの間、彼に要求されているのは、公的な文化政策への折々の、精々口先だけの賛同以上のものではないのだから。」

ここには、ハーシュマンの言う、『離脱・発言・忠誠』に関わる政治的なテーマが語られています(「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」より借用)。あるいは、資本主義的または共産主義的な体制内での、知識人のあり方が問題にされています。しかし今や、幸か不幸か、「共産主義的独裁の荒涼たる文化的目標」は歴史の舞台から消え去りつつあります。それに代わって、いま知識人に襲いかかっている怪物は、「剥き出しの権力」を身に帯びた「ネオリベラリズム」です。

「その他にも、芸術家が自分で設定した基準を、歴史的必然に内在する客観的な正しさで置き換えようという誘惑は大きい。そのような正しさは自明であるかのように見えるであろう。なぜなら、動的‐客観的連結の内部においては、権力がその歴史的必然を証しするには単にその勝利の事実をもってすればよいのであり、そのような権力が命じる文化的基準は内在的に正しいものと見られなければならないからである。その権力の教えが疑われ得るとすれば、それはただ、共産主義の全宇宙がそこに基礎づけられている根本的な動的‐客観的連結が解体されるときだけである。だから、そのような教えは、自己懐疑を免れた客観的な基準を渇望する知識人に堅固な枠組みを提供するのである(*)。」

* 「共産主義が知識人の中に博した成功は、主として、価値の保証を受けたい――神からではないにしても少なくとも歴史から――という、彼らの欲望によるものであった。」(Czeslaw Milosz in Confluence (Harvard), 5 (1956), p.14.

かつては「自己懐疑を免れた客観的な基準を渇望する知識人」に、共産主義や、カール・バルトの「神の言の神学」などが、まばゆく見えた時期がありました。しかし今日では、それらは色褪せ、あるいは後退して、既に過去のものとなりつつあります。まさに隔世の感を抱かせるものがあります。

14 マルクス・レーニン主義の認識論

「紀元前五世紀のギリシア哲学の興隆以来、人々は自分が信じていたものを故意に疑う可能性を考慮してきた。マルクス主義は、道徳的志向を自己懐疑から救うために、一組の物的目的の追求に固執するという代償を払うことができた、比較的に安定した構造であった。しかし、この固執は、芸術的情熱については同様に上手くは作動しないように思われる。スターリン支配下のソヴィエト連邦では、人々は道徳的目的の感覚を欠いてはいなかったものの、公認の芸術作品には飽きあきしていた。そして、真理の探求とソヴィエト共産主義の進歩とを同一視しようとする試みは、もっと大きな困難に逢着したのである。」

芸術や科学は社会主義革命の大義に従うべきであるというドグマは、文字通り実践されることになると、大きな困難を惹き起こします。

「D・ヒュームの懐疑論とその先行者たち――古代のピュロンの懐疑論(ピロニズム)まで遡る――にも拘らず、二〇世紀の現代自由社会における科学者の間では自己懐疑はなかった。その反対に、科学への信念は、実際上、挑戦を受けないままでいる唯一の信念として、至上の地位を保っていたのだ。実際、A・コント以来、広汎に流布した実証主義の見解によれば、あらゆる人間の思考は科学的完成に向けての謙虚な巡礼の旅であったし、マルクスとエンゲルスにとっては、自然科学は客観的真理の祖形であった――彼らにとって、科学は、決定的に、いま暴露されるべきイデオロギーではなくて、後に社会主義と一体視されるべきものであった。だが、ひとたび根本的な動的‐客観的連結が道徳的情熱にとって堅固に確立されてしまうと、それは不可避的に、科学に対しても芸術に対するのと同じ線に沿って拡張されてしまうことになる。科学のネオ・マルクス主義的理論が初めて重要性を獲得したのは一九三〇年頃で、続く十年間にスターリン支配下のソ連の公式の教義になったのである。初めのうちそれは科学史の再解釈に限られていて、その進歩の一歩一歩が実際的な必要に応ずるものであってということを示そうとしていた。純粋科学のためにその独立の身分を主張することは、単なる俗物性だとして嘲弄された(*)。そして科学は、本当は技術なのだという暴露に次いで、実は技術が本当は科学なのだという賛美が続いた。そして技術は物的福祉を達成するものであるから、それは進歩および社会主義そのものの一部分として受容された。かくて科学の営為は終に社会主義の発達の中に体現されることになったのである。」

* ブハーリンは、著者が1935年3月にモスクワを訪れた折、著者にこう説明してくれた――技術と区別された純粋科学は階級社会にのみ存在し得る、と。

ポラニーは「動的‐客観的連結」という用語を多用します。もう一度考え直してみると、それは信念体系に伴う精神作用と言うべきものであって、例えばある宗教を信じる者が、その教義に従って世界を解釈することに馴染んでしまうと、それ以外の世界を考えることは不可能になってしまいます。これはかなり普遍的な精神現象です。イデオロギーの働きとはそういうもので、これが社会全体の精神作用を規定することになると、その社会は、不可避的に全体主義的になると言うべきでしょう。キリスト教でも、マルクス・レーニン主義でも、汎ゲルマン主義でも、皇国主義でも、その他何であっても、それが一様に人々の行動と認識を規定することになると、そのような排他的な社会形成の原理に従わない者はどうしても異端視されることになります。それはファシズムとスターリニズムに限った話ではありません。規模の大小はあっても、人間の社会の至るところに見受けられます。だから「動的‐客観的連結」とは、人々の行動と認識を規定し、両者の連結(カプリング)を成り立たせる、ある特定のシステム(〜イズム)というべきものでしょう。昔だったらそれ(dynamo-objective coupling)は世界観と表現されていたものに相当するでしょう。しかしその連結は権力の支持と誘導によって強化されます。

「ここまでならそれは無害なナンセンスであった。だが、やがて暴露はもっと毒性を帯びてきた。それはまず「ブルジョア科学」の相対性、量子力学、天文学、心理学における比較的最近の発展に対する散発的な狙撃に始まり、メンデリズムの攻撃において頂点に達した。新たな立場が最終的に確立されたのは、一九四八年八月にルイセンコが勝ち誇って科学アカデミーに対して、自分の生物学的見解が共産党中央委員会によって承認されたと宣言し、アカデミー会員が総立ちになってこの決定に拍手を送ったときであった。

科学の普遍性はここで決定的に反駁された。ブルジョア科学の普遍性の要求は欺瞞的なイデオロギーだと暴露される一方で、ソヴィエト科学はあからさまにその党派的ないし階級的性格に依拠するよう指図されたのであった。マルクス主義の二重のメカニズムによって、あらゆる科学は階級科学だという教義は、同時に、ブルジョア科学を不信任し、社会主義科学を信任するのに役立ったのであった。そのうえ、に奉仕することによって科学は普遍性の要求を――新たな意味で――回復するのである。すなわちここで、真理の普遍性は、未来の共産主義的世界政府の内在的に正しい、従ってまた不可避的な勝利に置き換えられるのだ。

ソヴィエト科学を信任するこの方法における「客観性」および「党派性」の双対する意味には相互矛盾はなかった。ブルジョア科学の客観性と普遍的妥当性の要求は偽りの僭称だと暴露されたが、その根拠は、科学、歴史、哲学の確認は客観的ではあり得ず、現実には常に党派的な武器だということであった。と同時に、マルクス主義は政治を科学に変えたのである。この科学は、総ての政治活動をその作動の場である社会的条件の厳格に客観的な査定によって基礎づけるものであり、またブルジョアの客観性は党派的なものだという暴露自体が、このマルクス主義的客観性の一例となると主張するのである。だがそのような客観性は普遍性を主張しない。なぜなら、もしも、例えば、ブルジョアジーもこの客観性を受容するよう説得し得ると主張しようものなら、それは自己矛盾になってしまうからである。それゆえ、マルクス主義が独自に客観性を主張するのは、ただプロレタリア的党派性の武器であるという意味においてに過ぎないのだ。「客観性」も「党派性」も正しくもなければ誤ってもいず、正しい(つまり興隆しつつある)のはただ社会主義だけであり、誤っている(つまり凋落しつつある)のは資本主義である。スターリン体制がソヴィエトの科学者に対して持ち出した、客観性(普遍的妥当性という意味での)を排斥して、代わりに社会主義の党派性の指導を受けよという要求は、それゆえ、マルクス主義の独特の客観性の主張と全くしっくり合致するのである(*)。」

* ボヘンスキー(I. M. Bochenski, Der Sowietrussische Dialekitische Materiasmus, Berlin, 1950, p.142)は、ソヴィエトの著作家カンマリ(M. D. Kammari [1944, 1948])の次の見解を引用している――マルクス主義は客観的に真である、なぜなら科学の真の利益はプロレタリアートの利益および歴史の客観的な運動に合致するからである。だがボヘンスキー自身はマルクス主義が明白に自己矛盾的だと非難する(pp.156-7)。フック(Sidney Hook, Marx and the Marxists (New York, 1955), pp.45-46)も、同じ自己矛盾を指摘している。

ソヴィエト政府公認の「官製マルクス主義」にグロテスクな自己矛盾があったということは、今日では争う余地のないことだと思われます。しかしそれが猛威を揮った時期は既に終わりを告げています。問題は、政治的権力が真理問題に介入するとき、たとえそれが、世界の労働者を代表すると称する党によってなされるものであっても、ドグマが強制され、事実が無視されるか歪んだ形で捉えられてしまうというところにあります。ましてや歴史教科書の記述が公権力によって改竄される今日の日本では、その閉鎖的かつ独善的な愛国主義と相俟って、極めて危険な状況が生み出されていると言うべきでしょう。

「この知識理論を厳格に適用すれば自然科学は抑圧されるであろう――例外としては純粋科学と技術が重なり合う狭い領域がある。私はこのラプラス的プログラムの帰結をもっと一般的なタームで以前に述べておいた。いまや知られるように、客観主義的人間観から生まれるラディカルな功利主義は、このような結果をそれ自体として生み出しはしない。なぜなら、その論理は、往々にして、慈悲深くも終わりまで追求されないままになっているからである。ただ大きな道徳的志向が社会の根本的な転換を狙って機械的人間観に注入され、またそれを遂行する権力機関が作り出されたときには、この論理の実現を求めて突き進むことになるのだ。だがたとえそうであっても、この試みは流産するかもしれない――科学者がその知的情熱によって難局を切り抜け、全体主義の科学的思考への影響を縮減して、(科学的に)正しい基準を言葉の上で粉飾するだけに留めるかもしれない。事実――生物学においてすら――、マルクス主義のお題目を少し唱えるだけで、普通はソ連の科学論文の実質をマルクス主義から免れさせるに十分だったのだ。」

公式のドグマと隠れた実質的な認識とが、乖離したままの状態を持続させるには、強大な権力が必要になります。しかしその権力がいかに強大であっても、そのような状態はいつか破綻します。無理が通れば道理は引っ込むとしても、隠れた「道理」の方は抑圧された民衆のひそひそ話として、社会の地下水脈に流れ込んで行くでしょう。ソ連を筆頭とする社会主義諸国が、不幸なことに、そのような知的に不誠実な状況をつくり出してしまったのは争えない事実です。そして今やこの日本で、再び、戦前と同じような全体主義的状況がつくり出されようとしています。「無理」が権力によって公式のドグマとされようとしているからです。しかしその規模は「弁証法的唯物論」に比すべくもありません。何よりもそこには「大きな道徳的志向」というものがありません。権力者の体制維持のための欺瞞と、それでも隠し切れない「剥き出しの権力」があるだけです。

15 事実問題

「お分かりのように、私はここまでの記述で、科学と芸術が文化の一部分を構成するものとして、また法と道徳性が正義と人間らしさを保持するものとして、確信をもって語ったのであるが、この論述全体を通じて私はある決定的な問題を棚上げにしてきた。私が言及していたのは、「ブルジョア」科学、「ブルジョア」芸術、そして一般に「ブルジョア」文化、法、道徳性、正義等々であった。これらは、マルクス=スターリン主義的批判者たちからは、真正の科学、芸術、文化、法、道徳性、正義等々とは見なされず、堕落した、客観主義的、観念論的、コスモポリタン的、形式主義的、非民主的なものとして非難されているものである。彼らは、私が科学、芸術、文化、法、道徳性を語るときに当然視した一組の基準全体を否認し、これらの基準を支持し、私も共有することを承認する知的および道徳的情熱を、幻想的な主観性の身分にまで貶めるのである。これらの基準が批判的省察に照らして不安定なものであるということは、彼らには心配の種ではなく、勝ち誇った満足の源なのだ。この不安定性の終局は、私にとっては人間の心の最終的な自己破壊として迫ってくるものだが、彼らにはそれは私の観念論的欺瞞の最終的暴露に過ぎないであろう。弁証法的唯物論に基づいた社会では、至上の権力の中枢に根ざした強制力が、事実上、有効な評価の決定因となるのだ。そして、たとえ諸基準が力によって支えられるものと見られるとしても、それはもはや彼らには問題を孕んでいるようには見えず、むしろ真正さの徴しとなるのである。」

プロレタリア独裁の至上の権力とは、あたかもそれがローマ教皇の教皇権のようなものになってしまったということでしょう。プロレタリア独裁、民主集中制の真正性は不可侵の真理として、世界に君臨すべきものと見なされました。それ以上の大義は存在しないものとされて、その権力を掌握する者は「生殺与奪」の権さえ与えられることになりました。このようにマルクス主義「政治学」は、他からの批判を許さない、鉄の規律を人民に課すものとして、全体主義以外の何ものでもないものになってしまいました。

「そのうえ、この精神的転倒の過程は、完全にそこに止まるものでもない。それは不可避的に事実の概念――普通に、これこれのことがあったか否かというときの事実問題の概念――自体を掘り崩してしまう。事実に関するわれわれの信念の圧倒的部分が、他人を信頼することによって二次的に抱かれるものであること、さらに大多数の場合は、われわれの信頼は一定の個人の権威の上に置かれるものであること――その人々の公的地位のためか、選ばれた知的リーダーとしてかのいずれかであるが――を想起しよう。科学以外の公的事実の確定は、自由社会では新聞、議会、法廷に信託されている。それらの事実認定は社会学者、歴史家、科学者のそれと連続しており、社会全体からも強力な仮説的な信任が付与されている――ただし、常に疑わしいケースが存在して、相対する断定が公的受容を求めて争っているのだが。科学においてと同様、この共有された信念のシステムは重なり合う諸分野の連続に依拠しており、その各々の内部では少数の権威のある個人が互いの正常さと、何が重要であるかについての感覚を監視し合うことができるのである。このような相互信頼のシステムのネットワークと結びついた社会は、「事実性」についての一定の基準を維持していると言い得るであろう――事実認定のためのその方法を受け容れるとすればのことだが(*)。」

* 「事実性(factuality)」はハンナ・アーレントの用語である。

ここでポラニーが事実認定における「自由社会」のファクターとして列記している事柄は、やはり今日の日本で深刻な問題になっていることと重なります。我々は、信頼することもできなければ、付託することもできない余りにも多くのものに囲まれつつあるように感じています。新聞、議会、法廷の事実認定は、果たして「事実性」についての一定の基準を満たしていると言えるでしょうか。なぜこのような事態が招来されたのでしょうか。

「もちろん、周知のことだが、事実の本性の概念については、他の点では意見が一致する人々でも、一定の事実の実在性について根本的に見解が分かれることもあり得る。科学上の大論争のどちら側の論者も、同じ事実を実在的かつ有意だとして受け容れることはない。呪術、魔法、神託を信ずる社会は、現代人が虚構と見なすような事実の全体に同意するであろう。これと同程度の論理的ギャップが、ヨーロッパ史の別々の時代にそれぞれ支配的であった事実性の基準の間に存在することであろう。だが私はここでは、今日の政治的動態が事実問題の信任に与える影響だけに話を限定しなければならない。」

森有正が指摘していたことですが、日本の社会では古代社会の基準であったものが、今日まで連綿として続いていて、それぞれの時代を画する明確な基準が立てられて来なかったという問題があります。自民党代議士が「祭政一致」とか「天皇を中心とする神の国」というような表現を、自己の信条として語りうるということは、日本の社会の深刻な問題として捉え返されなくてはならないでしょう。

「相互信頼の広範なネットワークに、事実に関する自由社会の合意が依存しているのだが、これは脆弱なものである。人々を鋭く分かつ紛争は何であれ相互信頼を破壊し、この紛争に関わりのある事実に関する普遍的合意の達成を困難にする。フランスでは、第三帝国がその土台まで揺すぶられたのは、一つの事実の問題――すなわち、陸軍大尉ドレフュスが‘bordereau’(一覧表――フランス陸軍砲兵部隊に関する諜報文書)を書いたかどうかという問題――のためであった。英国では「ジノヴィエフ書簡」の真贋をめぐる論争が、アメリカにおけるヒス(Alger Hiss)の裁判と同じく大衆的紛争を惹き起こし、これらの問題に関わる事実について普遍的な合意を得るのが不可能になってしまったのである。

そのような一時的かつ部分的な事実性の失敗については、もちろん、一過的な政治的情熱の過剰として言い訳が成り立ち得る。だが、全体主義下では、事実性は、国家が公的事実をほとんど意のままに、自分の利害に合わせて捏造するのを許すところまで縮減されているのを見て取ることができる。このような虚偽を広める能力は、ある程度は、単にテロに支えられた国家による言論の独占のためである。だが、そのような強制力は、その虚偽が国外でも流通性を得ることを保証しはしない。これらの事実を進んで受け容れるということは、それ独自の説得力の証明であると見なされるが、強制の及ぶ領土内では、それはやはり流通性の獲得に効果を発揮していると見なされなければならない。このことが示しているのは、事実的な証拠の原理自体の堕落であって、それは事実認定の過程の基礎にある普通の仮説の全面的変換を意味するのである。そのような変換によって、われわれの現実感覚が既に深甚な損傷を蒙っているとき、またそのときに限って、われわれは露骨で不様な欺瞞を受け容れるようになるのである。」

アメリカによるイラク開戦の理由(たとえば大量破壊兵器の所持、アルカイダなどの国際テロ組織との結託)、あるいは日本における、沖縄住民の「集団自決」の原因、また「従軍慰安婦」問題における、軍による外国人女性に対する強制性の存否など、事実問題(matters of fact)は、今日なお重大な政治的意味を帯びています。今この日本で起りつつあることは全体主義化の徴候である、と考えてもおかしくはない現実があります。「テロに支えられた国家による言論の独占」がこれ以上進行しないために、「事実を進んで受け容れ」ないこと、またそれが事実であるという言論を流布させないことが必要になります。今声高に叫ばれている「戦後レジームからの脱却」とは、「事実認定の過程の基礎にある普通の仮説の全面的変換を意味する」と考えることができるでしょう。

「社会の全面的な変革を目指す現代革命政府は不可避的に、この変化を惹起すべく、敵対者とのあらゆる靭帯を断ち切る。その無条件の支持者でなければ宿敵と見なされる。独裁制は、かくて、不同意者は総て、事実、その宿敵にならざるを得ないような状況をつくり出す。そしてそれがこの無制限の嫌疑を正当化する。公然たる不同意が総て除去されると、不満はただ些細な事柄においてのみ現われる。そうなると、秘密警察がその些細なことを潜在的な陰謀行為であると解釈することが許されなければならなくなる。内偵に先行するそのような仮説は、フロイトの神経症の分析を支配するものと似ている。エディプス・コンプレックスの仮説のもとでは、患者の一語一語、一挙手一投足が、言われたことも言われないことも、為されたことも為されないことも、(彼が偶発的に巻き込まれた事柄でさえ)彼の父に対する隠れた敵意を表現するものと解釈され得る。同様に、ひとたび任意の些事が不満の徴候と解釈され、今度はそれが大逆行為の嫌疑となるとすれば、スターリンの監獄で実施された事実認定の方法は、全く目的に適っていたものと考えられよう。拷問すれすれの肉体的圧力行使も不可避になろう――それは異端審問にとって拷問が不可欠になったのと同じ理由による。ある人の隠された意図に関する告白が、確固として確信されたものと見なされ得るためには、被告が終にそれを認めることが必要であり、またそれゆえに被告は道徳的、知的、肉体的に破綻しているとされなくてはならない。まだ圧力に抵抗している人たちは、他の人たちから絞り取られた自白に直面させられ、それが次第に説得力を帯びてくる。こうして暴力あるいは詭弁によって打ち立てられた虚構の世界が、さらに拡がっていくことになる。」

スターリニズムはマルクス・レーニン主義の不幸な帰結であり、それとは別の展開がありえたと考えることは可能です。しかし社会主義諸国で現実に生起したことは他の全体主義国家で起こったことと、区別のつかないようなものでしかありませんでした。

「このような国家の利益(国益)に沿った公的事実の捏造の過程は、当然ながら、政治的武器と考えられた学問の支持を得ることになる。歴史家は最近の破壊活動の告白を補って、歴史的にそれより前の時期に被告が演じた役割を適当に解釈し直すことだろう。普通なら幻想としか思えないような話でも、支配者の陰謀についての経験という観点からすれば、尤もらしいものとなる。ベテランの共産党員がずっと警察に雇われていたとして告発されたからといって、何も不条理なことはない。なにしろ、マリノフスキー――長年、レーニンの最も信頼の篤かった腹心の謀略家で、帝国議会におけるボルシェヴィキ派の指導者――のような人が、終始警察のスパイであったことが判明したりするのだから(*)。」

* Bertram D. Wolfe, Three Who Made a Revolution, New York, 1948, pp.534-57を参照。彼は書いている――「ロシア人の気質とロシアの状況には、このような両義的な精神と二重の役割を持った人々を生み出す何かがあった――ガポン、アゼフ、カプリンスキー、バグロフ、マリノフスキーといった、これらの人たち、他の国々の警察や革命運動にその類例を見ない人たち――を」。だが実際には、このような人物は、二つの秘密組織が互いに相対するときには、いつでも再現する傾向があるのだ。新入者でメンバーがその素性を知っている者はほとんどいないから、その中にスパイを入り込ませるのは比較的容易で、そのようなスパイは二重の役割を担いがちである。彼らは時折、若干のテロリストの情報を渡しては報酬を得、革命側の信用を得るためには政府の役人への暴力行為に加わったりする。この二重スパイが長年続けられると(マリノフスキーの場合がそうで、彼は1902年から1918年処刑まで、それをやっていた)、もはや、その事実を完全に知っていてさえ、その男はどちらを裏切り、どちらのために働いたのかを言うことは不可能になる。

ここで言われる「国家の利益(国益)に沿った公的事実の捏造の過程」こそが、今日再びこの日本で火急の問題になりつつあります。そして「政治的武器と考えられた学問」が、公的事実の「捏造」に加担しています。

「どの現代国家においても、国民の偏見が政治に関わる公的事実の確立を不明瞭にする傾向がある。自由社会ではこの傾向に対抗するものとして種々の意見の対立があり、これによって本当の事実の世界が維持されるのだが、そのためには、互いに矛盾する議論から結論を引き出すに当って、人々は、事実性の適切な基準を遵守することに関して相互に信頼し合うことが必要になる。現代革命政府のエリートは、これとは逆に、自分の政治的偏りを極限まで推し進めるように訓練される。ハンナ・アーレントは書いている――「党員教育の全体は、真実と虚構とを識別する能力を廃棄することに向けられる。彼らの優越性は、どんな事実の陳述をも即座に目的の宣言に解消する能力に存する(*)」。このような、テロに裏づけられた動態だけで、公的事実と称されるあらゆるものの実在性の根を揺るがし、革命的意見を敵対者の意見から論理的飛躍によって隔てるに十分である。だが、このプロパガンダも、もしそれと平行して、テロと秘密とが考えられるあらゆる嫌疑を本当らしく見せるという状況がなかったならば、その効果は比較的に薄いものになるであろう。ここに至って、政治に関わる事実は完全に存在することを止める。その意味は、事実を全く受けつけないか、あるいは、明らかに不充分な証拠に基づいて、何らかの事実を勝手に選び取るかのいずれかしか、選択の余地がないということである。」

* Hannah Arendt, The Burden of Our Time, London, 1951, p.372.

ここに書かれているような全体主義生成のプロセスは、「現代革命政府」に限定された話ではありません。「事実を全く受けつけないか、あるいは、明らかに不十分な証拠に基づいて、何らかの事実を勝手に選び取るかのいずれかしか、選択の余地がないということである」ということを先の「従軍慰安婦」問題と「集団自決」問題に適用すれば、公的事実の認定ということが、どういう危機に曝されているかがわかります。

「私自身が公的生活における事実の実在性を主張していることは、それゆえ、私が忠誠を捧げる自由社会の内部から語っていることを含意するのであって(*)、それはちょうど、科学、芸術、道徳性の独立の身分の主張が、そのような参加と忠誠を含意するのと同様である。」

* オーウェル(George Orwell, Nineteen-eighty-four, London, 1949, p.250)が既に言っているように、事実への信念は、全体主義のもとでは破壊的原理なのだ。

「自由社会」は理想であって、その理想は脆弱な基盤の上に樹てられています。それは、オーウェルが予言したように(『1984年』)、全体主義に落ち込んでしまう危険性を内に秘めています。だから「事実への信念は、全体主義のもとでは破壊的原理なのだ」ということ、裏を返せば、常に事実を語り続けることが全体主義を拒否するための第一歩であるということは、極めて重要な訓戒であると思われます。またポラニーのもう一つの主張に従って、「科学、芸術、道徳性の独立の身分の主張」が行なえないような社会は大いに警戒を要すると言うべきでしょう。道徳が国家の管理のもとに置かれることは、決して道徳性の独立の身分の主張には結びつきません。科学、芸術についても同様です。

16 ポスト・マルクシアン・リベラリズム

「現代の革命的動態をその極限まで推し進めた体制はない。事実、あらゆる思考を一つの特定の権力中枢への奉仕に完全に従わせるという状況に近づくことさえ、全く実行不可能に思われよう。公式のソヴィエト的特殊用語で固められた人為的世界は、常に、正常な言語で表現された自然な人間的感情で補う必要があったのであり、時々、そうしたものが大量に再導入されてきたのであった。それは一九三〇年代に起こったのであって、このときクレムリンはロシアの歴史意識のうちに、国民的感情と、それを体現する歴史的英雄たちの存在とを回復することを決定し、これに伴って、それまで揺るがぬ地位を占めていたポクロフスキー(18681932)の教義を放棄したのであった。ポクロフスキーは、歴史の編修をマルクス主義の線に沿った抽象的な社会学的分析に変えてしまっていたのである。また別の機会―― 一九五〇年――には、スターリンがマール(18641934)の馬鹿げた教義を非難した。彼によると、あらゆる言語は階級的言語であるということになったのであるが、この独裁者はその教義がいかにそれまでのソヴィエトの言語学を踏みつけにしていたかを生き生きと描き出し、この目的のためにリベラリズムの語彙に自由に依拠し、またその原理を豊富に用いて、そのときまで彼自身が押しつけていた全体主義的思想統制の、この特定の事例をむしろ弾劾したのであった(*)。党精神が唯一の真の客観性だというレーニンのあらゆる訓戒にもかかわらず、真理の概念、あるいは真理の確立にとって本質的な思想の自由の概念は、最も厳格なイデオロギー的独裁の時代にも、決して消滅しはしなかったのである。」

ここでもまた「公式のソヴィエト的特殊用語で固められた人為的世界」ということは、他の全体主義国家にも横すべりに適用できる事柄です。人間のすべての思考を一つの国家の特定のイデオロギーで染め上げてしまうという試みは、二十世紀に敢行されました。それが失敗したにも拘らず、特にこの日本において、またもやその傾向が強まっているように見えます。しかし硬直した「全体主義的国家イデオロギー」が永続することはありません。「テロと秘密」とに守られ、官憲と軍隊の活動のために膨大な資金とエネルギーを費やして、暫くの間、漸く維持できるものに過ぎません。それは「真理」と人間性とに逆らっています。何よりもその国家は基本的に人民に敵対しています。

「スターリンの死後に生じたソヴィエト体制の漸次的人間化は、マルクス主義の暴力の武器庫の下に生き埋めになっていたあり余る情熱が漏れ出した結果であろう。実際、フロイト流の(抑圧された感情の)消散の一種逆の過程によって、義を求めるこの囚われの情熱は、次第に病的抑圧から解放されて、自覚的に宣明された志向の脈絡に入って行くことになるであろう。

この方向での第一歩はスターリンの死後、直ちに踏み出された。このとき彼の後継者は十三人のクレムリンの医師たちを解放したのであった。彼らはジダーノフの暗殺を自白していたのであった。一九五三年三月のある日、これが起こった。この日、共産党の要人が自ら告白し、自らの不名誉な罪のために自分への絞首刑を乞い求めて、故意にスパイに転身させられるようなことは停止された。新しい主人は、スターリンのうち立てた欺瞞および自己欺瞞の世界を全く信頼せず、自らの支配を固めるための真理の最悪の歪曲を放棄した。彼らは強制力において断念したものを、説得力の増大で補おうとしたのであった。」

権力が行使する強制力には常に説得力が伴わなくてはならないという、この一点に関して、恐怖政治は何の顧慮も払わず、自己の絶大な権力は常に正しさ(マルクス・レーニン主義の正当性)に裏づけられていると主張します。マルクス主義的統治形態が、かつての帝政(ツァーリズム)に舞い戻ってしまったというところに、歴史の皮肉があります。しかしスターリンの死後、その体制がそのまま存続することは不可能でした。

「それ以来進行しつつあり、またこれまでに一九五六年のハンガリーとポーランドの革命で頂点に達した思想の解放は、真理の革命と呼ばれた。この呼称は適切である。ただし、それが適切であるというのは、真理の意味は、総ての独立の思考の成果を含むものと理解されてのことである。なぜなら、芸術、道徳、宗教、愛国主義の権利が、ある程度まで、事実を知る権利とともに回復されたからである。

ハンガリーの反乱者たちは、一八四八年のスローガンを生き返らせたのであり。色々な著作家たちが、この運動は十八世紀に抱かれていたような絶対的諸価値への信念を再確認したものだと宣言し、また別の人たちは、自由主義革命が再び初めから戦われなくてはなくてはならないと宣言した。だがその言い方は誤解され易い。一九五五年八月に発行されたワジクの『大人のための詩』と、一七九二年四月のルージュ・ドゥ・リールのラ・マルセイエーズ(フランス国歌)を比較してみよ。A・ペタフィの燃え上がる感情と、ジョセフ・アッティラの作品の鋭利さとを比べてみよ。一八四八年の背景はフランス革命であり、これは太古以来の静的な秩序に挑戦して、社会が理性に即して自らを完成する権利を主張したのであり、十九世紀の自由主義はこの目標のために、その(静的な)秩序に抗して戦ったのであった。しかし、欲望の観点から人間を見る思想が、公的生活における道徳的動機の実在性を否定したとき、自由主義の理想は現代全体主義の教義へと転倒させられたのであった。それ以来、自由主義は戦いによって道を拓きながら、ある地点、すなわち現代哲学に照らしてみて悲惨なほど不安定だと証明済みの地点まで、コースを逆に辿っていかなければならなかったのだ。だからこそ、ワジクは、スターリン支配下で呑み込んだ嘘を「吐き出す」と語ったのであり、またそのゆえに、反旗を翻したどの共産党員も、魂を破壊する専制を、ますます気が進まなくなっていきながらも、人類の進歩の唯一真正の手段として許容してきた一時代について語るのである。」

社会主義の壮大な実験はその専制政治のために失敗に帰しました。その実践のどこに問題があったのかを批判的に検討することは、なお今後の課題として残されています。しかしポラニーは、人間が信奉すべき諸価値は「自由社会」においてこそ維持され、探求されていくべきであるという、保守的な立場を表明しています。

「現代全体主義に対する反感から、さらに進んで、一組の信念――その論理的弱点の上に他ならぬ全体主義の教義がうち立てられているのだが――を回復することができるであろうか。自由主義の諸信念、それはもはや自明とは信じられてはいないのだが、これを今後、正統として維持することができるであろうか。またわれわれは次の事実に真向かうことができるであろうか――自由社会は、いかにリベラルだとしても、それは深く保守的なものだという事実に。

なぜなら、それは事実なのだから。自由社会で科学、芸術、道徳の自律的成長に与えられる認識に含意されているのは、特定の伝統のもとにある思想の育成に社会が自らを捧げるということである。その伝統は、権威を持った専門家の特定の集団によって伝達され育まれるのであり、またその集団は、新しいメンバーを選出しては自己を永続化していくのである。そのような社会によって実現される思考の自律性を支持するということは、ある種の正統性を承認するということである。この正統性は固定した信仰告白こそ明示しないが、自由社会の文化的指導層が革新の過程を制約した範囲内では、事実上無敗のものである。レーニンが「哲学における党精神(パルティノスチ)の欠如は、観念論と信仰主義への卑しむべき、また扮装された屈従に他ならない」と言うとき、その意味するものが右のことなら、この非難を否定することはできない。そしてわれわれはまた、この正統性、そしてまたわれわれの尊敬する文化的権威は、国家の強制力に支えられており、権力と財産の所持者から資金を与えられているのだという事実にも向かい合わなくてはならない。その権威が行使されるための諸制度――学校、大学、教会、アカデミー、法廷、新聞、政党――を庇護する警官や兵士は、地主や資本家を守るそれと同一のものである。」

人が保守的でありうるのは、たとえば、自分が天職と信じる、何らかの知的文化的活動に携わることができていて、自分が属する集団と特段の齟齬を来すこともなく、その活動を支える社会との間にも大きな矛盾がない場合です。ポラニーはそのような恵まれた環境に置かれていたと言うべきでしょう。ここで言われる権威とは、人々が自分の判断の拠り所(根拠)として承認し、集団的規制において機能するものと言ってよいでしょう。日本では、1960年代後半のラディカルな学生運動以来、そのような権威がこの社会で著しく後退したという印象を持ちます。西洋諸国でも同様のことが起ったのではないでしょうか。権威と言うと何か奇異な感じを受けるのは、多分そのためでしょう。その空隙を突いて、天皇制という永続的に存在するものの権威に強調点を置こうとする人たちの意向が、社会の前面に出てきたという印象を持ちます。日本の社会では、様々な権威が、天皇の権威のもとで秩序づけられるという、それこそ保守的な制度的枠組みがあって、それに反対する人々には、権威という言葉の評判はあまり芳しくないと思われます。しかし社会から権威の存在を全く消去することは可能でしょうか。左翼といえども、マルクスやレーニンの上に権威を置いているのではないでしょうか。

「このような制度的枠組みが、自由社会の市民的家郷として受け容れられなければならないのだろうか。道徳的自己決定の絶対的権利――ここに政治的自由は基礎づけられるのだ――を維持し得るのは、正義と友愛の確立に向けてのいかなる過激な活動も控えることによってのみだというのは本当だろうか。われわれの存命中に自由社会――これがいかに不完全なものであれ――の靭帯をこれ以上緩めてしまうことはしまいと合意しない限り、われわれは不可避的に人々を卑しい隷属状態に突き落としてしまうというのは、本当だろうか。

私なら、そうだと答えるだろう。私の信ずるに、これらの制限は全体として必須であり、避けることのできないものである。自由社会にはびこる不正な特権を削減するのは、ただ細心に切り開かれた段階を辿ってのみ可能であって、それを一夜にして取り崩そうと思う者は、その代わりにもっと大きな不公正をうち立てることになろう。社会の絶対的な道徳的刷新を試み得るのは絶対的権力のみであって、それは不可避的に人間の道徳生活を破壊することになる。」

全体主義化への傾向が再び濃厚になりつつあるこの日本の社会で、ポラニーのこの忠告はいかなる意味を持ちうるでしょうか。「われわれの存命中に自由社会――これがいかに不完全なものであれ――の靭帯をこれ以上緩めてしまうことはしまいと合意しない限り、われわれは不可避的に人々を卑しい隷属状態に突き落としてしまう」と書かれていることは、我々にとって何を意味しうるでしょうか。いずれにしても、ファシズムとスターリニズムとを経験したあとの、我々自身による社会変革の可能性と現実性とが問われていると言うことができます。あるいは、そもそも戦後60年間、我々は「自由社会」に属していたと考えること自体が幻想だったのかもしれません。

「この真理はわれわれの良心の肌に合わないものである。では、それならわれわれは良心を抑圧するか、あるいは、暴力のみが正直だという全体主義の教えを受け容れなければならないのだろうか。私は本書の序論の中で、疑い得ることも考えられるような諸信念を保持し続けられるのはいかにしてかという問いを、社会的な場面において新たに提起し直すと言った。この本で、懐疑論に抗して知識を安定化させるために、知識の条件の中にその冒険的性格を取り込むことが試みられるが、そのときこれと等価なものと判明するのが、明らかに不完全な社会への忠誠であり、それはわれわれの義務が、達成不可能ということもあり得る理想への、われわれの奉仕に存することの承認に基づいているのである。」

「相互親和性」についての章はここで終っています。ポラニーがここで論じていることは、現代社会について歯切れのよい裁断が下されている、という種類のものではありません。今日の我々はそこから具体的な指針を取り出してくることはできません。しかしこの反動の時代に、我々が基本的に何に留意すべきかということについて、ある種の示唆を与えてくれるのではないかと思います。この章の全体を振り返ってみて、人間が「相互親和的」であるとはどういうことかと考えさせられます。この訳語はむしろ、人間は「共生的」な存在でありながら、「共生」していないという意味で、「共生性」とすべきではなかったかとも思います。「達成不可能ということもあり得る理想への、われわれの奉仕」とは、人類の共生、すなわち共生していながら共生していないという現実に抗して、あるべき共生に向って人々の結束を強めていくということなのではないでしょうか。


W 今井登志喜『歴史学研究法』(東大新書、1953年) その1

今日、歴史的事実の判断をめぐって、特に第二次世界大戦中の出来事の判断をめぐって、日本は国際的に孤立しかねない状況が生まれています。なぜそのような問題が生じて来るかと言えば、「自虐史」批判に基づく「自慢史観」が国政の表面に踊り出ていて、余りにもそれが独善的で、かつ事実を隠蔽するものであるため、国内はもとより国外からも強力な反論が寄せられているからです。それぞれの国家は国際的利害関係のうちに置かれていて、もちろん自国の利益のために他国と交渉し、国際関係を少しでも有利に導こうとします。しかしその駆け引きに隙があれば、当然そこを突かれることになります。極端な国家主義は日本の弱みではあっても、決して強みではありません。なぜならそれは事実についての歪められた判断の上に立っていて、冷静な情勢分析を不可能にするものだからです。他国を武力で押さえつけることができるならば、屁理屈も理屈のうちと居直れるでしょうが、今の日本にその力はありません。圧倒的経済力と軍事力で他国を黙らせることができないくせに、理屈の通らないことを言えば当然叩かれることになります。夜郎自大の右翼政権は日本を再び破滅に導くだけのことです。

ポラニーは「事実問題」に関して、事実認定の基準ということを言います。歴史的事実に関しても、歴史的事実を認定する基準というものがあるはずです。この問題について私は長くキリスト教に関わる中で、信仰と史実とはどういう関係にあるのかという問題として色々と考えさせられて来ました。キリスト教においてそれは「聖書学」の問題として提起されます。田川建三の『書物としての新約聖書』(勁草書房、1997年)という分厚い本があって、この問題を考えるとき大変役立ちます。しかし歴史的事実の認定ということに関して、私にとって啓発的であったのは、今井登志喜の『歴史学研究法』でした。それは一昔前であれば「ブルジョア歴史学」の方法論に過ぎないと一蹴されてしまったかも知れない内容のものです。つまりこの本ではマルクス・レーニン主義の階級闘争史観に立った歴史学の研究法ではなく、19世紀以来の西洋の歴史学の発展に即した歴史学の方法論が論じられています。歴史的批判的聖書研究の方法と言われるものも、実は大枠のところでは、そのような歴史学の研究法に準拠しています。皇国史観、救済史観、階級闘争史観という、特定のイデオロギーに染め上げられた歴史観からすれば、「ブルジョア史学」などというものは、アカデミズムの片隅で漸く棲息することができる知的な営みであって、実践とは無縁な知識の集積に過ぎないと見なされるでしょう。しかし宗教的イデオロギーとか、政治的イデオロギーというものは、歴史についてのそのような学問的営みを軽視することによって初めて成り立ちうるものです。イデオロギーは事実を軽視して観念的世界に飛躍することを許しますが、実はそこに人間が陥りやすい落し穴があります。

私がキリスト教信仰から「解放」される過程は歴史的事実の認定に関わる専門家の作業に負っています。今日必要とされるのは、そのように合理的で学問的な判断です。反動の嵐の中で自分を守るためには、イデオロギーに対してイデオロギーで身を固めるのでなく、事実に即して考えようとする態度が求められているように思われます。皇国史観に対してキリスト教やマルクス主義で対抗するということは、それはそれで果敢な抵抗の原動力となるものだとは思いますが、下手をすればそれは敵と同根の、事実に対する知的に不誠実な態度を惹起してしまいます。頭から決めつけてかかるのは独断的ということであって、説得力に欠けるところがあります。人間の歴史において、問題を根本的に一挙に解決する処方箋が与えられたことなど一度もなかったと考えた方が事実に即しています。救済とか革命とか言われていることについて、それが実際に何を意味しているのかよくよく考えて見る必要があります。

ということで、大変迂遠な作業ではありますが、『歴史学研究法』の紹介に移ります。この本は、「序、一 序説――歴史学の方法論、二 歴史学を補助する学科、三 史料学、四 史料批判 (1)外的批判、(2)内的批判、五 綜合、六 方法的作業の一例――天文年間塩尻峠の合戦」という章立てになっています。ここでは三から五までの紹介に留めます。なお著者は1886年生まれで、1950年に逝去しています。著書には『英国社会史 上、下』、『都市発達史研究』、『近世における繁栄中心の移動』があります。

三 史料学

「前述の如く多くの歴史学研究法の書物は、もとより枝葉の点において相違しているが、その根本的な構造において大体の一致がある。而してそれらにおいて方法論の最も主要な部分をなすものは、(一)史料学(Quellenkunde, Heuristik)、(二)史料批判(Qullenkritik)、(三)綜合(Auffassung, Synthese)の三つである。そのほかなお多くは表現(Darstellung)の項が立てられているが、これは方法論的には前者の如き重要なものではない。注意すべきは研究の作業に対する上の如き分類は、ただ論理的純理論的なものである事である。方法論とは、歴史の証拠物件たる史料に立脚して正しい歴史理論に到達する方法の全体である。それは実際には一つの有機体の如く全部が相関連し、一つの職能が終って次の職能が始まるという如き機械的関係のものではなく、ただ説明の便宜から論理的に分析し順序立てたにすぎないのである。いま順を追ってそれらの概要を述べる。」

この本では上のように主としてドイツ語で専門用語が併記されています。しかしここでは適宜その引用を省略することにします。なお、読みやすいように、読点、送り仮名などを適宜加えることにします。

「歴史学は経験科学であり、経験的な証拠物件を基礎として実証的に成立する学問である。歴史研究の立脚する証拠物件たるものが即ち史料(Quellen)である。史料学は史料即ちいやしくも歴史の証拠物件として役立つべきものを考察し、それを十分に蒐集する道を講じ、研究に便利なようにそれを分類し整理する職能である。歴史学はその対象が複雑な人間社会であるため、その証拠として採用される史料もまた非常に広汎である。殊に近代歴史学が進歩し垂直的に深まりまた水平的に広まったために、史料の範囲もまたますます広汎を加えた。即ち歴史の研究が深まってその証拠として採用されるものが非常に多きを加え、また歴史の研究の範囲が広まってかつて専ら政治的変遷、支配的階級の運命等のみを対象としたのが、文化的社会的事項、一般大衆の運命にも着眼するに至った故に、自然に史料たるものの範囲が拡大したのである。今日において資料の範囲は全く無限であるといえるのである。」

歴史における事実の問題(証拠物件)は、すなわち史料=資料(Quellen)の問題であるということが、ここで確認されています。その史料の範囲は無限です。

「史料はそれに基づいて歴史の対象たる人間社会の過去の状態ならびにその変遷を考察する根拠となるものである。従ってそれは過去から継続して存在するものである。しかるに時なるものは多くのものを亡ぼし失わせて行く性質をもつ。それ故に史料は何かの理由で時の亡滅作用から免れ得たものであり、いわばむしろ偶然的存在である。史料の範囲は無限であるがその存在は決して完全ではない。一つの事項の考察に際して必要にして十分なる史料の存在することはむしろ稀である。歴史学はその不完全な材料によって研究を進めなければならない。これは歴史的性質を帯びる他の科学においても同様である。例えば古生物学の如き化石の一つ、骨の断片等の乏しい材料から古い時代の生物の姿を復原するのである。こういう性質の学問においてはできるだけ豊富に証拠部件を探すことが研究を進める基礎である。新しい一資料の発見によって旧学説が覆る如き実例はしばしば見る所である。この種類の学問は、いかに不完全でもすでに発見し得た資料に基づいて、それによって立証される限りの真理を認識するほかないのである。資料を探す事が学問を進める大なる条件である。歴史学の史料はその種類が甚だ多く多方面に不秩序に存在している。何が史料であるべきかを考え、その所在を探し、それを蒐集し整理するのでなければ、研究の進歩は決して得られない。史料学の意義はここにあるのである。近代の歴史学の進歩は第一には史料学の発達に負うということができるであろう。」

史料は無限であるが、同時にそれは証拠物件として不完全である、そこに歴史学の性質があると言われています。思うに、様々な史観が成立してしまう余地が、そこにあるというべきでしょう。換言すれば、歴史学は研究者の恣意、主観性が介入しやすい学問である、あるいは特定の立場の自己正当化に利用されてしまう弱点があると言うことができます。そして権力者はいつも自分に都合のよい「歴史」を持ちたがります。

「史料の概念の中に含まれる総体の資料は非常に多く、また内容的に極めて複雑である。すべて文献口碑伝説のみならず、碑銘、遺物遺跡、風俗習慣等一般に過去の人間の著しい事実に証明を与え得るものは皆史料の中に入るのである。かく史料が複雑である故に、それらを整理しまたその性質を吟味し、その利用を好都合にするために史料の分類が試みられる。史料の分類はいろいろの標準から行なわれうる。例えば、時間に基づく分類、場所に基づく分類、資料の内容の性質による分類(政治資料、経済資料、宗教資料、芸術資料等)、史料の外的性質による分類(文献的資料、遺物遺蹟等の物的史料、口碑伝説制度風俗習慣等の無形の資料等)である。これらの分類も時に実際上の必要があり、殊に史料を蒐集し整理保存する等の場合において実用的価値が認められるのであるが、方法論的にはこの種の常識的分類でなく、更に内的に鋭利な分類が研究の作業の必要に基づいて立てられるのである。」

以上は研究の便宜上立てられる分類です。史料が厖大になれば、図書の分類と同様、検索しやすい分類が必要になります。

「ドロイゼン(J. Gustav Droysen)は歴史の材料を遺物、史料、記念物の三つに分類した(Grundriss der Historik. 3. Aufl. 1882. 20ff)。この分類の原理は後の人々に採用され、ベルンハイム(E. Bernheim)は史料を二つに大別して伝承または報告と遺物とし、遺物を更に狭義の遺物たる残留物と記念物に二分している(Lehrbuch der historischen Methode. 5. u. 6. Aufl. 1908. 55ff)。これはドロイゼンの史料と名づけたのを、伝承の名で明確にし、記念物を広義の遺物の中に加えたのである。バウアー(W. Bauer)は遺物と証明に二分し、遺物の意味を狭くベルンハイムの残留物の意味に用い、ベルンハイムの記念物と呼ぶ類のものは証明の中に加え、証明を更に統制証明と不統制証明に分かっており(Einfuhrung in das Studium der Geschichte. 2. Aufl. 1928. 328ff.)、フェーダー(A. Feder)は物的(沈黙)史料と陳述(意識的)史料に分かっているが(Lehrbuch der historischen Methodik. 3. Aufl. 1924. 87ff.)、これは大体バウアーの遺物と証明の区別に一致する。その他大体この原則による分類が多く採用されている。但しラングロア及びセーニョボス(Ch. V. Langlois et Ch. Seignobos)は物的史料と文字的資料に二分している(Introduction aux etudes historiques. 1898. 45ff.)この分け方では史料の全部を包含せず不完全であるが、なお上の分類の原理に通うものがある。而してこの分類の原理をフェーダーは史料の認識価値に、または史料と歴史的対象との間の結合関係に基づく分類と見做し、物的史料は史料と歴史的対象とがただ本体論的整頓(Ontrogische Ordung、存在論的秩序)において結合し、陳述史料は論理的整頓(論理的秩序)において結合するものであると説明している。これは頗る難解な表現であるが、要するに前者は史料自体が実質的に歴史的対象を表現しており、後者は史料が歴史的対象を直接に発言していることを意味するのである。この分類の問題は史料の価値の問題またその扱い方の問題に関係をもつ故に、更にその性質を明瞭にする必要がある。そのため便宜上まずベルンハイムの分類を吟味して見ることとする。」

ここで論じられていることは、大まかなところ、史料は言語的文書的資料と非文書的物的資料に二分されるということでしょう。しかし史料には図像、絵画あるいは視聴覚資料があり、碑文のように物的に存在していても言語的価値を持つものもあります。音曲はそれ自体としては残りませんが、楽譜や楽器の形で残存しています。今日では特に視聴覚機器が発達していて、映像や録音なども立派な史料になります。史料はそのように明確に二分することはできませんが、言語的か物的かという基本的な区分はなお有効でしょう。裁判の「証拠」も基本的にはこの二つに区分されるでしょう。なお著者は「証明」という言葉を使いますが、Zeugnisのことで、証言・証書・証明書の意味があります。

「ベルンハイムはある事柄の直接の結果として自然に残留しているものを遺物と呼び、ある事柄を人間の認識が一度把握し、人に伝えるためになんらかの形で表現しているものを伝承または報告と呼んでいる。而して遺物の第一種たる残留物はまったく単純な狭義の遺物で、古い骸骨、先史時代の発掘物、言語、風俗習慣、宗教的儀式、法律制度、人間の精神的肉体的熟練の産物たる技術・学問・芸術・家具・武器・貨幣・建物等の一切、法廷・議会・官庁等の公文書、書簡・新聞・統計書等の事務的性質の文書等がそれであり、第二種たる記念物はその事柄に関心をもつ人の記憶のためにそれを保存する意志がその根底によこたわるものとし、ある種の公文書、墓碑などの碑文、祈念建物等がそれであるとする。また伝承には〈一〉歴史画地図等の形像的伝承、(二)物語、伝説、逸話、歴史的歌謡等の口頭的伝承、(三)歴史的碑文、年表、系図、年代記、覚書、伝記、各種の歴史記述等の文献的伝承があるとする。而してベルンハイムはこの類別をもって決して厳格に絶対的でなくある程度迄流動的であるとし、例えばある事例を記述する歴史書はそれとしては伝承であるが、それを文学的作物として見れば遺物であり、また絵画は芸術的作物として見れば遺物であるが、内容が歴史画であれば伝承の範囲に入って来ると説明している。

この分類はベルンハイム自身すでに絶対的でなく相対的である事を認めているとおり、実際において曖昧であり不明である。さればウォルフ(G. Wolf)はこの習慣的分類は便宜的のものであって、よし初学者には非常に有益であるとはいえ、個々の史料がいずれに属するかにについて、当然の疑いを起し易い事を指摘している(Einfuhrung in des Studium der neueren Geschichte 1910. 17ff.)。バウアーもまた遺物と伝承の類別は個々の場合各史料の批判的評価に際して意義があるが、史料の一般的分類及び整理には用いられない。書簡の如き、公文書の如き、一般的には遺物に属するが、常に単純に遺物であるとは限らないのである。要するにこの分類は一史料の研究法的評価の尺度を提供するが、史料の一般的分類の標準にはならないと主張している(Einfuhrung. 2. Aufl. 1928. 160-161)。」

ここには、研究上の便宜から史料を一般的に分類する必要があるということと、ある特定の史料にはどこまで研究上の価値があるかその評価の尺度が求められるということとの、相互に関連する二重の必要性が述べられています。門外漢に言わせれば、いわば、史料のセグメンテーション(細分化)と、その上でのフォーカシング(焦点化)の必要が語られています。そこにはそもそも絶対的基準などありません。

「史料を遺物と伝承乃至報告、遺物と証明、物的史料と陳述史料等にわかつ分ち方はそれらの言葉の意味する範囲が必ずしも一致せず、またその分ち方に若干明瞭の程度の相違があるが、要するに同じ分類の原理に基づき、従ってある種類の史料を徹底的にその一方に決定し得ない点を共通にしている。これは何故であるか。その分類の原理が不合理であるためであるか、ここに更に分類の原理を吟味してみる。フェーダーの表現を用いれば、史料をそれと歴史的対象とが本体的整頓において結合する場合と、それと歴史的対象とが論理的整頓において結合する場合とに分類するのである。この言葉は難解であってもその意味するところは明瞭であり、分類の原理として合理的である。これが何故に史料の実際の分類に当って困難を生ずるのであるか、他なし、それは史料の史料として使用される性質と、その物の全体的実際的性質とを混同するからである。」

史料の性質には、それが史料として使用されるときのその性質と、そのものの全体的実際的な性質とがあり、両者が混同されるから、分類上の困難も生ずると指摘されています。史料の価値はその使用如何によって決まるということでしょう。史料を分類するのは使用以前のことに属します。図書館にある何万という図書は個々の読者の使用に供されるまでは、ただそこに分類されて存在するだけです。多岐にわたる史料を分類するにはある程度の割り切りがどうしても必要になります。史料の分類と特定の史料の使用とは、自ら別の問題になります。しかし史料そのものが歴史なのではなく、史料の編纂(史料の取捨選択、特定の史料の全体の中での位置づけ)に歴史があると言っても、史料の蒐集と分類がなければ歴史を書くことはできません。そこからそのような混同が生まれて来るのでしょう。史料の分類から既に歴史が始まっているという側面もあるからです。ただし分類の基準は固定的ではなく、関心のあり方によって変動します。

「個々の研究において一つの材料が史料として使用されるのは、その物の全体的性質の中の一部である。ここに書物を例にとってみる。書物はある紙にある内容をある言語及び文字で筆記されまたは印刷され、ある形式に製本されたものである。それが書物の全体的性質である。而して一つの歴史的研究に於てその書物の内容が史料として使用されるとする。その時史料であるものはただその内容だけであり、決して実際的存在としての書物その物でなく、即ち紙、言語、文字、印刷術、製本の技術等は史料ではない。然るにまた他の種類の歴史的研究においては、それらの方面がもとより史料として使用される。即ち一つの実際的存在たる書物は一つの場合にはその内容が史料であり、他の場合にはその書物の属性の他のある物が史料である。内容が史料となる時それは研究の対象と論理的整頓において結合する故に報告証明乃至陳述的史料である。然るに紙、言葉、文字、製本技術等が史料とされる時は、それらは研究の対象とただ本体論的整頓において結合するものである故に遺物乃至物的史料である。」

研究者の関心に応じて、対象の属性のうち、何が焦点化され、何が従属化されるかということでしょう。しかし書かれていることの内容の吟味に当って、写本の執筆時期や場所が問題であるときには、論理的秩序(整頓)だけではなく、同時にその書物が置かれている存在論的秩序(本体論的整頓)の方も問われてきます。

「これは極めて解り易い例を挙げたのであるが、この関係が史料の分類の場合において注意されなければならない。実際史料として使用されるものの史料的性質は必ずしも単一でない。ある時は陳述的にある時は遺物的に用いられる。それ故に書簡、公文書、碑銘、という如き外形的な性質によって区別されている事物に、史料として使用される要素の方法的分類を簡単に当てはめる事に無理があるのである。遺物と陳述という如き分類は史料の実物をわける原理でなく、適切には史料のもつ性質、それに基づくその取り扱いの態度をわける原理である。もとよりある史料はただ単に遺物たるのみの性質のものがある。多くの考古学的遺物、言語、風俗、習慣、法律、制度等の如きがそれである。しかし陳述的史料とされるものは兼ねていずれも遺物たる性質をもつといえるのである。」

史料の外形的性質と「史料として使用される要素の方法的分類」とは別であるという点に、著者が言おうとすることの主眼があります。そして研究対象としての陳述的史料は、必ず遺物的性質を持つということが確認されます。

「古く史学雑誌に『太平記は史学に益なし』という論文が出た事がある。これはこの問題に関係がある。太平記が史学に益なしというは、その記述している事実に誤謬が多く到底信用し難いというのである。しかしそれはその記事を事実の報告として見た、即ちただ陳述的史料として見た場合についていっているのみである。もしこの書の文章をこの時代の文学的遺物として見、またその中に出てくる物質的精神的社会的等の生活の素材的事項を着眼するならば、その中から無限に史料的要素を探し出すことができるであろう。即ち太平記は十分に遺物的史料として使用できるのである。その点源氏物語を史料として平安朝の研究に利用すると同様である。即ち太平記なる歴史的記録をただ陳述的史料と見る事が不合理である。所詮個々の史料を実物そのままで遺物または伝承等と分類できないのである。それは具体的に史料の実物を分類するものでなく、方法的に史料の性質を分類するものなのである。而してかく見る時この分類に伴う困難は解消するのである。一つの史料は遺物的に用いられる限りにおいて遺物であり、陳述的に用いられる限りにおいて陳述である。遺物たり陳述たるは決してそのものの固有の性質ではない。」

対象の客観的属性が思考を限定するのではなく、逆に対象を方法的に限定するところに、分類の意義もあるということが語られています。史料のセグメンテーションは対象に接近するための方法論であって、対象に自ら備わっている属性によるものではないということは、近代的思考を特徴づけるものでしょう。言い換えれば、対象自体がその備わっている性質によって、自らを陳述的史料か遺物的史料か決めるのではなく、それは史料を用いる側の方法如何によるということです。

「遺物は沈黙しているものであり、歴史的対象に対して何等の報告陳述をなさない。研究者は悟性によってその中に含まれている歴史的対象を把み出さなければならない。しかし史料としては絶対性完全性をもっている。ただこれが正しく解釈され使用されることが要求される。これに反し陳述は人の悟性によって把握構成され、言語文字等に表現されたものであり、主観的要素をもち、誤謬、または虚構による変形の存在が予想され、その証拠力は不完全的相対的である。ラングロア及びセーニョボスは史料の提供するものを概念と陳述とに区別し、前者はある事実を史料そのものが明示しているところのものであり、後者は史料の陳述しているところのものであり、而して後者は事実を十分完全に立証するものでないとしている。この区分は遺物と報告乃至陳述とが提供するものの差別であるといえるのである。」

遺物はそれ自体として存在しており、研究者がその形状などに手を加えることは原則的に禁じられています(補修・修復されることはあるでしょう)。ただそれが正しく解釈され、史料として使用されることが期待されます。しかし報告や陳述に関わる史料は人間の悟性の働きを経たものであるので、その内容が批判的に吟味されなくてはならないでしょう。これは「存在論的秩序」と「論理的秩序」の区別に相当します。

「ベルンハイムは史学入門の方においては、伝承乃至報告と遺物との外に更に直接の観察及び思い出の種類を設けている。これに対しフェーダーは直接の知覚は本格的の史料ではない。その故は史料は万人が認識し得べきものであるのに、直接の知覚は事件に対しただ極めて少数の人のみの認識方法となるのみであり、またそれが表現によって他人に伝えられて始めて本式の史料を構成するに至るからであるとしている(Lehrbuch. 3.Aufl. 1924. 85ff.)。直接の観察乃至思い出はいわゆる一般の史料と性質を異にし、厳密なる意味では史料といい得ないであろう。しかし歴史の研究者がたまたまその研究の対象たる事項に参加し、もしくはそれにある関係をもっている時、その体験を以て史料を補い、その事項を記述する事がある。その時その研究者の体験そのものはいわゆる史料と同じ働きをなすのである。即ち歴史認識の基礎的素材として役立っているのである。従って極めて特殊のものでありながら、これを一種の史料とするも差支えないであろう。然らばこれはまったく別個の性質のものとすべきであるか。

まず直接の観察及び思い出という表現について考えて見る。これはこの場合決して当を得た表現ではない。何となれば直接の観察そのものは決して史料とならず、ただ思い出だけが史料となるのである。直接の観察はそれが感覚から消え失せる瞬間に永久になくなるのである。たとえ事件の直後にあっても、その事の認識はすでに記憶によって再構成されたものである。即ちただ思い出に外ならないのである。ただ思い出に時間の遅速の差があるのみである。而して思い出なるものはかつて自己の悟性を通して認識した事柄を再構成したものである。而して思い出なるものの史料的形式とその対象とは論理的整頓において結合している。それ故にこれは本質的には一般の陳述的史料と同じ性質のものであり、その特殊の変態と見るべきものであり、それが言語乃至文字に表現されれば直ちに一般の陳述的報告的史料となるのである。従って思い出は史料的性質において見る時、一般陳述的史料のもつ主観性不完全性をもつのである。これを遺物及び報告と並立せしめる分類は資料の方法的性質による分類の原理に、その外形的性質による分類を交えたこととなり、決して当を得たものといえないであろう。」

ここに書かれていることは、歴史的事件に関係した人々がまだ生存している現代史の問題である、と理解した方が分かりやすいでしょう。自分が体験したこと、観察したことは、記憶あるいは思い出として書き残したり、他人に聞き書きをさせたりすることが可能です。それは歴史的事件の証言となります。あるいはそれについて自ら本を執筆する人もいます。それは主観的で不完全なものであることを免れませんが、立派な「証拠物件」、陳述的報告的史料となります。第二次大戦末期の沖縄戦における「集団自決」に追い込まれた住民や、同じ戦争中の「従軍慰安婦(軍事性奴隷)」の被害者の証言と、日本国政府の「公式見解」とが、鋭く対立しているように見える今日、「歴史」は教科書の記述や法廷での審理の問題として生々しく我々に突き刺さってきます。

「方法的性質によって史料を分類する事は、実際において個々の史料の性質を吟味し、それを鋭く利用することに意義があるが、具象的に史料の実物を一般的に分類する上に困難の存することは上述の通りである。しかしその分類の原理をある程度迄実物の分類に加味する事は不可能ではない。諸家の試みている分類は即ちそれであり、それは史料を具体的に聚集し整理する上に実際的に役立つのである。もとより史料の聚集整理保存は、多くの物理的約束の制限を受ける故に、大いに史料の外形的性質に支配されるを免れないが、その際にもなお方法的分類の応用される余地はあるべきである。図書館、博物館、美術館、古文書館等は歴史学の立場からいえば史料の整理保存の場所であるが、それらの中に方法的分類の精神を取入れる範囲があるであろう。

近代の歴史学の発達は史料の新分野を開拓して、それを組織的に聚集する事がその基礎であった。独仏英三国を例に取れば、特に史料として最も重要である古文書古記録だけについて見ても、有名なドイツ歴史記念(Monumenta Germaniae historica)が一八二六年に出始め、ドイツの歴史研究に大なる貢献をなし、フランスの史料集 Collection de documents inedits sur l’histoire de France, publiee, par les soins du ministre de l’instruction publique が一八三五年以来、イギリスの史料集 Chronicles and memorials of Great Britain and Ireland during the Middle Ages 即ちいわゆる Polls Series が一八五八年以来出たほか、種々の種類の史料の大規模の聚集整理出版があった。その外の諸国でもそれぞれ自国の史料の聚集出版に努力している。古代歴史は Corpus inscriptionum Graecarum, Corpus inscriptionum Latinarrum 等、ギリシャ、ローマの史料として新しく開拓された金石文聚集の事業が起され、古代史研究の大なる基礎となった。わが国でも大日本史料編纂の着手が国史の研究に新生面を開いた事は顕著な事実である。しかして現在わが国において歴史学のために頗る望ましい事は古文書館及び充実した歴史博物館の設立である。」

人類の歴史は生存してきた人間の頭数と、経てきた年数と、その事跡の広汎さに応じて、厖大な数の史料を残してきました。どういう視点でまたいかなる方法で歴史を切り取ってくるかは、時代によって、また研究者によって異なります。しかし歴史学が学として説得力をもつためには、当然史料の取り扱い方が問題になります。次章の「史料批判」でその問題が取り上げられます。


X 今井登志喜『歴史学研究法』(東大新書、1953年) その2

四 史料批判

「史料学は与えられたテーマに対し史料をできる限り十分に聚集する方法を示すに対し、史料批判はその聚集された多くの史料がはたして証拠物件として役立つや否や、またもし役立つとするもはたしていかなる程度に役立つかを考察することである。これは大体、前から用いられていた考証という語に当るが、Kritik という鋭い原語を生かしてこの訳語を用いることとする。

ベルンハイムもラングロア及びゼーニョボスと共に方法的根拠から批判を分って内的批判及び外的批判とする。それはその以後の著者にも踏襲されている。もっともそれらの職能の包含する範囲は必ずしも一致しない。例えばベルンハイムは史料の解釈を批判の後に置くに反し、ラングロア、セーニョボスは解釈を内的批判の劈頭に置き、フェーダーは新版においてこれを両批判の中間に独立させている。もとより史料の解釈は実際的にはその聚集の時から行われ、批判の作業はこれを伴わずして不可能であり、更に綜合においてその十分の解釈が要求される。これをどこに置くかは必ずしも拘泥を要しないであろう。」

集められた史料を史料としてどこまで利用することができるかを吟味するのが、史料批判です。これは歴史的事実の認定に関わる重要な作業です。そして史料批判には外的批判と内的批判とがあります。

(一)外的批判

「外的批判は資料の外的性質乃至価値を吟味する職能であって、その主要のものは次の吟味である。

(1)真純性(Echtheit)の批判

「史料として提供されるものは屡々全部もしくは一部が真実のものでなく、あるいは又従来承認されていたものでないことがある。すなわち研究法で(一)偽作及び(二)錯誤又は誤謬と呼ばれるものの多い事を注意しなければならない。

偽作(贋造)のできる動機はいろいろかぞえられる。即ち好古癖、好奇心、愛郷心、虚栄心等に基づく動機、宗教的動機等が挙げられるが、就中利益殊に商業的利益の目的を動機としたものが最も多いのである。しかしてこれらの動機に基づく偽作は殆ど凡ての種類の史料に行き亘っている。いまその特に著しいものを挙げれば――

遺蹟 各地の旧蹟と称するものの中に後世の偽作が頗る多い。特に著しいのは宗教に関係ある霊蹟である。パレスチナ地方の聖地といわれるものが、近代の研究家によってその根拠のない事が示されている如きその一例である。

芸術品、工芸品 好古癖および芸術的愛玩の目的物となるために、商業的利益を狙って最も多く偽作の行われる種類である。

古文書 これもまた偽作の頗る多いものである。即ち西洋の方では領地等の権利を安固にするため、中世時代に多く偽文書が作られた。そのほか自己の家格をよくするための虚栄心から来る偽文書がある。わが国でも戦の感状などの種類が偽造されている。なお西洋の方では教会に偽文書が多くある。ローマ法皇にかんする著名のプセウド・イシドレス(Pseudo-Isidores)というものの如き、偽文書としてよく挙げられるものである。

系図 東西古くから贋系図が多数ある。これはそれによって家格を誇ろうとする心理から来るのであるが、また古い頃の諸侯武士等は自家に由緒をつける政治上の必要もあった。英国中世の記録として名高いアングロサクソン年代記(Anglo-Saxon Chronicle)を見れば、英国の所謂七王国(Heptarchy)の諸王家は悉くウォーダンの神の後裔になっており、甚しいのはウォーダンから更にアダム、イヴまで溯っているのがある。わが国の系図は多数いわゆる源平藤橘であり偽作が過半であることはいう迄もない。

逸話、噂話 これらは本来無責任な捏造が甚だ多い性質のものである。個人の逸話といわれるものの如き、真実を伝えている場合は寧ろ少ない。これらと同じ様な口伝的性質をもっている伝説はさらに芸術的要素が多く、小説であって容易に信用し難い。

その他金石文の偽物があり、偽書偽記録があり、偽作の種類は頗る夥しいのである。」

美術品の作者について真贋の鑑定があるように、史料一般に関して真偽の判定がなされるところに「外的批判」の重要な一面があります。ローマ・カトリック教会に伝わる聖遺物の類は殆どが迷信の所産であって、「宗教的動機」による「捏造」と言われるべきものです。史料批判はその意味で俗信に対して破壊的な作用を持ちます。

「つぎに錯誤または誤認は偽作の如く故意に捏造されたのでなく、何かの理由から誤謬が起り、その史料が異なった時代または人物等に付会され、或はそれに誤った説明が加えられ、それが踏襲されて史料の事実性が害われているものである。このことの起る経路には次の如き種類が挙げられる。即ち軽信によって起ったもの、不注意から来たもの、独断によって誤られたもの、批判的誤りから生じたもの等である。遺物的史料はそれ自身沈黙しているために、その性質が誤って説明され易く、誤認に陥る機会が甚だ多い。また神話乃至ザーゲ(Sage)の性質をもつ物語が歴史事実と誤られて誤認が起っている事は諸国の古代史において多く見る所である。」

正典(聖典)として信じられてきた旧新約聖書に史料批判の目が向けられたとき、教会の伝承として「事実」であると見なされてきたことが(例えばモーセ五書、パウロ書簡など)、実はモーセ五書のように度重なる編集の手が加えられていたり、パウロが書いたものとされてきたある書簡はパウロ自身のものではないことが判明したりします。記紀神話と歴史事実とが混同されて、誤った歴史観に導かれたということも、我々のそう遠くない過去に存在しました。「事実性」が史料批判の決め手になります。

「偽作或は錯誤が全部的でなく部分的である時がいわゆる挟入(改竄語句を挿入し、付加物・異物を間に挟む、Interpolation, Einschaltung)である。即ち全体としては真純であるが一部分不純物の混入している場合である。多くの史料殊に文書記録等に於て偽作の意志から挟入の行われている場合は少なくない。それ等は矢張り全体的な偽作と同じ様な動機から来るのである。しかし挟入は最も多くは誤謬から起るのである。建物彫刻等の遺物に於て後世改築されて或る部分だけ新しくなっているものが、他のもとからの部分と同時代のものと誤られている如き場合である。殊に書物には原本の残ることは殆ど少なく、普通に幾度か転写を経たものである。その転写の際に挟入が起る。それは初め誰かが付加を加えたり、注釈として書き入れたものが転写によって混入したり、原文の難解な部分を平易に書き改めたりする等によって生ずるのである。」

ここで「挟入」とした言葉は、本文では「サン入」となっています。手偏の画数が多い、難しい字で、「混ぜる」という意味があります。この「挟入(キョウニュウ)」の部分を、それとして見分けることは、聖書学でも基礎的な作業の一部となっています。なお( )内の日本語は、引用者が書き入れた部分です。

「真純性の批判はこの偽作或は錯誤の有無を吟味することである。偽作に対してベルンハイムは次の吟味の箇条を挙げているが、これは適当なものとされるであろう。

(一) その史料の形式が他の正しい史料の形式に符合するや。古文書において紙、墨色、書風、筆意、文章的形式、言葉、印章等を吟味する如きがこれである。遺物の偽作の如き多く専らこの吟味によるのである。

(二) その史料の内容が他の正しい史料と符合して矛盾しないか。内藤清成の家臣某の著といわれる天正日記の記事が家忠日記に符合しないことを以てその偽書たる一理由とされる如きこれである(田中義成『豊臣時代史』参照)。

(三) その史料の形式及び内容がその関係する事で発展の連絡及び性質に適合し、蓋然性を有するや。

(四) その史料自身になんら作為の痕跡が認められないか。しかしその作為の痕跡の吟味として次のことが挙げられている。

1.        満足の説明がなくて遅れて世に出た如きその史料の発見等に珍妙で不信なる点はないか。先の天正日記が近代になって出て来た如きこの条項に関係する。

2.        その作者の見る筈のないまたは当時存在しなかった他の史料の模倣または利用が証明されないか。

3.        古めかしく見せる細工から来たその時代の様式に合わぬ時代錯誤はないか。

4.        その史料そのものの性質および目的にはない種類の、偽作の動機から来たと見られる傾向はないか(Einfuhrung. 2.Aufl. 1928. 371-372)。

このほかなお偽作がその内容の種本にした史料との比較によって明かにその偽作たるを暴露する如き(例、田中義成、『北條氏康の武蔵野紀行の真偽に就いて』歴史地理第一巻第四号)、偽作の発見の手掛りとなる種々の場合があるであろう。

錯誤についても上の原則のある者を適用し得るであろう。」

先に触れた偽パウロ書簡に関して言えば、『ハーパー聖書注解』(J・L・メイズ編、教文館、1996年)は、「コロサイの信徒への手紙」について、「コロサイの信徒への手紙は、その手紙の中で、パウロが獄中にいる時に執筆したものであると記している(1:244:31018)。しかし、手紙の言語および文体は、それがパウロ後の作であることを強力に示唆している。言語と文体の特色を、単にコロサイの異端との議論でパウロが直面する特殊な事情という点に訴えることによって説明することは不可能である。というのは、とりわけ、パウロの典型的な語彙、すなわち、パウロが論争的状況で通常使用する「義」「義とされること」「自由」「律法」「信じる」「義とする」などの用語が欠落しているからである」(p.1292)と書いています。これもまた「史料批判」の成果でしょう。

「挟入の吟味の基礎は精細な比較研究である。特に記録に於ける挟入の疑いある場合について、ベルンハイムは吟味の方法として次の数項をあげている。

(一) 手筆の原本が存在する時は、そのなかに他の部分の文字と比較し、後に他人が前の字を抹削してその上に、または他の方法で加筆の行われた事が認められるかを見る。

(二) 写本のみの時はそのうちなおまだ挟入の行われていない古い良い写本を求めて見る。

(三) 上の事の不可能の時挟入の疑いのある部分の言葉や文体が他の部分のそれと比較して異なっていないか、他の部分との連絡に無理がないか、他の部分の自然的の意味及び構造を妨げ不自然に見えないかを調べる。

(四) 内容を比較してその個所が他の部分と調和して矛盾しないか、それと異質的な傾向が見えないか、挟入の誘因が見出されないかを調べる。」

ここでも、例えば、「共観福音書」の「精細な比較研究」によって、福音書の随所に編集句が「挟入」されているのが見出されたりすることを、例示することができます。

「挟入に近似したものに変形がある。挟入もこの一種といえるのであるが、史料が時間を経過する間にその原形を損じ、種々の変化を来していることを指すのである。フェーダーはこの吟味をさして原形の批判と呼んでいる。建造物美術品等の有形の遺物は必然に時の破壊作用によって変形を来す。口碑伝説の如きも長い間には変形する。殊に書物は何回かの転写の際の誤写、脱漏、省略、修正、種々の挟入により、また錯簡の起る事等によって変形が多く起るのである。原形の批判は出来る限り変形を除去してその原形に復することである。書物等の原形を服するために取る最も普通の手段は比較研究である。即ち異本を多く集めて比較校合し、ことに最も古い写本を求めそれによって変形を正すのである。更科日記の古い写本が近時発見され、それによって従来の流布本に錯簡のあったことが明瞭になった如きは、この適例である。」

異本の比較校合という地道な作業の反復によってしか原形に溯行できないということが、史料批判の基礎にあることです。様々な「古典」が、そのような作業によって復原されてきました。史料は時の経過によって様々な変形を蒙るということが、歴史家による史料の復原作業(原形の批判)を不可避なものとします。

(2)来歴批判(Herkunftskritik

「来歴とはその史料の作られた時、場所及び人間の関係をさし、これを吟味することが来歴批判である。近時の史料には書物文書はもとより建築物、器物等さえそれらが明言されていて、多くはこの批判の必要がない。古いものにも公私の古文書にはこれらの記されている事も少なくない。しかし一方に来歴の不明である史料は非常に多いのである。古い時代には文学的作品等にその作者及び著作の日時を記してないことが多い。わが国の物語類等この類である。また公私の記録文書殊に原本がなく写しのみの場合、例えば人々の書簡集の様な類のものにはこれ等が欠けまたは不充分なことが多くある。考古学的遺物の如きは大多数来歴が不明である。」

史料の来歴(由来)を調べるのは、ある特定の人物は必ず定められた時間と場所に存在し、その人物の事跡もまた定められた時間と場所でなされたものであるという当然のことが、歴史学の根本前提であるからです。人間は時空に制約された有限な存在です。

「日時を明かにする事はつぎの意味に於て重要である。即ち第一に史料を事件の推移の順序に配列して始めてその事の経過を知ることができるのである。文化史的研究においても史料の時間的関係が基礎となって文化の各方面の発展が辿れるのである。第二に史料の証拠価値はそれと歴史的対象との間の時間的距離に関係があり、その関係が不明であってはその価値を判定すべき十分な標準を欠くこととなる。史料の場所的関係についてもこれとほぼ同様の事がいえるのである。また陳述的史料についてその作者の地位、性格、職業、系統等が明かにされれば、それが、その史料の可信性等を判断する根拠となって、その陳述を適当に利用するに都合よくなる。名が不明でもせめていかなる人々であるかを知ることが重要である。」

事件の経過を知るということは、陳述的史料の作者の立場だけでなく、実は歴史研究者の立場や利害にも拘束されています。中立的研究を装って、そこにある特定の史観が働いていることはよくあることです。歴史の研究が、現在の自分の信仰、信念、価値観に関わることであれば、対象はその立場から造形(変形)されてしまいがちです。戦時中の沖縄における「集団自決」や旧植民地の「従軍慰安婦」の問題はその好例です。聖書の研究も、永い間、教会の信仰によって拘束されてきました。しかしそのことは史料批判の無効性を意味するのではなく、かえってその重要性を示しています。

「史料の日時を考察するには外的及び内的の両種の吟味を行うのである。

外的の吟味とは――

(一) ある日時の明かな史料の事がその史料の中に出て来ることによる。

(二) ある日時の明かな史料の中にその史料の事が出て来ることによる。

(三) 共在する他の時間的関係の知られている史料から判断する。考古学的遺物等に於てこの方法の適用の範囲は頗る広い。

(四) 時として技術的関係からの判断による。たとえば手紙に日付がなくともその到着した時がわかっている場合の如きそれである。

(五) それが時間の知られている史料の断片であることの考証による。

等をさすのである。

内的の吟味とは――

(一) 比較研究を行う。すでに日時の明かにされている他の史料と外形的特徴例えば様式材料技術等を比較するのである。考古学的遺物の時の決定は多くこれが適用される。

(二) 文献的な史料等では特に言葉、スタイル等がおおいに標準となる。文語体でも時々何か時代を暴露する要素が含まれている。

(三) 記録等の場合その記事の内容に手掛りを求め、それによって判断を加える。もとより多くの場合非常に精密な時間的関係を決定することは不可能である。しかし大体前後の限度を立てる。即ち何時より以後(Terminus post quem)および何時より以前(Terminus ante quem)を明らかにすることができるだけでも、その史料の利用に大いに役立つのである。」

史料が作成された日時や時代を特定すること、事件の前後関係を知ることと共に、それがどこで作成されたかを知ることの基準も求められます。場所の特定は日時の考察に当っての内的吟味に関して言われた事項と重なり合っています。

「史料の製作された場所の吟味は次のような条項が着眼される。

(一) 発見の場所。古く交通不便運搬の困難であった時代のものは、発見の場所がただちに製作の場所を示していることが多い。これに反しまたその物が移動している場合も少なくない。芸術品等は頗る移動する性質をもっている。ギリシャの芸術品の如きは早くからすでに多数が他の地方に移されていた。しかしとにかく発見の場所はその吟味の一標準である。

(二) 外的形式。即ちその様式、材料、技術等の比較研究がその決定に役立つことは日時の吟味の場合と同様である。

(三) 言葉及びスタイル。これも日時の場合と同様である。ただし文語体の時は方言の差が出ないことが多いので困難である。

(四) 内容。文献的史料では記事の内容が往々その製作の場所を示している。たとえば特にある地方の記事が詳細であった為に、その書かれた所が知られるごときその適例である。」

最後に作者を特定するための基準が挙げられます。

「作者の吟味の方法としてはつぎのような条項があげられる。

一、外的の吟味。(1)同じ作者の他の史料の中に明らかにその史料を記していることがある。(2)同時代の他の史料又は後世の史料の中にその史料の作者が出ていることがある。(3)作者の符徴、頭文字、又は捧呈の人名等によってその作者が知られることがある等である。

二、内的の吟味。(1)原物があれば書風を見れば往々その作者が推定される。ただこの適用の範囲ははなはだ狭い。(2)言葉およびスタイルによって作者を推定する。(3)その記事の内容に手掛りを求める。その叙述の中から作者の人物、地位、系統、利害関係、年齢その他の生活関係を知り得る事があり、すくなくともこれらの一部分が断定できることが少なくない。例えば貴族か僧侶か商人か等が知られるのである。またそのものが多くの人の合作である時、その形式内容の不同一な事等が根拠となって発見の手掛りを提供した例は多く挙げられる(以上来歴批判の項は大体フェーダーの記事を採用した(Lehrbuch))。」

真純性の批判、来歴批判に続いて、史料の外的批判の最後に「本原性の批判」が取り上げられます。

(3)本原性の批判

「史料の利用について特に注意すべきは本原史料と借用史料の差別である。これは古くは甚だ閑却されていた事項であるが、近時に至って史料の本原性及びそれに関連する従属性の批判が史料批判の主題目となった。二つ以上の史料の間に時として親近の関係が存在し、実は一つの種である事がある。史料が本原的独創的のものであるか、または借用的模倣的のものあるかの吟味が本原性従属性の批判である。

この批判の方法が所謂史料解剖である。史料解剖とは各史料の要素を細かく分解し、一見親近の疑いある史料と比較し、これによってそれらの本原性従属性を確かめる事である。しかして史料解剖の立脚する理論的根拠としてフェーダーの挙げているのはつぎの条項である。

(一) 一つの出来事について各人の観察把握の範囲および内容はすべての個々の事についてとくに偶然的の事について皆一致するということはない。

(二) 各人が同じ一つの事象を陳述する時その表現の形は同一ではない。

(三) すでに他人によって言語的に発表された表象内容に一致する陳述は、少なくともその附帯事項の一致により、また屡々誤解のある点によりその従属性を暴露する。

(四) 二個以上の報告がおなじ内容をおなじ形式で陳述する時、それらの史料には親近関係が存在する。二つの史料がその形式も内容も著しく一致している時、それらに親近関係のある事はもとより疑いをいれない。形式が異なっても内容がよく一致しているので親近関係を証明することがある。形式は一致しているが内容の一致の疑わしい時偶然的の重要でない個々事項が一致し、親近関係の示されることがある。もし甲と乙の二史料に親近関係が存在し、一方が他方のもとであるべき時は甲が乙から出たか、乙が甲から出たか、の二つの可能性があるのみである。その際いずれを本原的であるとすべきであるか。それについては――

(一) 両者の時間の前後関係がわかるかを吟味する。それがわかれば簡単である。

(二) 一方にだけ適合する性質を他方がただ盲目的に踏襲した形跡がないかを見る。

(三) どちらかに誤解不都合が起っていることが認められないかを調べる。

(四) どちらかに内容的附加または削除の痕跡がないかを吟味する。

(五) 一方が他方の表現形式を改めまたは内容を整頓改正したなどの点がないかを注意する、

などによって判断するのである。これが本原性の批判である。この種の批判のいい例としてたとえば平家物語源平盛衰記の関係の考証が挙げられるであろう(津田左右吉『平家物語と盛衰記との関係について』史学雑誌第二十六編第七号参照)。

親近関係は実際はすこぶる複雑の形をもってあらわれ、甲乙の史料に直接の親近がなく、その関係が間接であることがある。その時は三つの史料の親近関係の場合となる。三つの史料甲乙丙についていえば、甲がもととなる時、(1)甲―乙―丙、(2)甲―丙―乙、(3)乙と丙とが共に甲から出ている三つの場合が起って来る。乙がもととなりまた丙がもととる時についても同様である。親近の史料の数が多くなる程この関係は複雑になり、その吟味が困難を加えるのである。ときには原物が失われて借用的史料のみが残っていることがある。その場合現存の多くの史料に比較研究をくわえて、ある程度迄原物の形を復原することができるのである。」

マタイ、マルコ、ルカのいわゆる「共観福音書」についてその「親近関係」が詳細に研究され、マタイとルカは、マルコともう一つの資料(Q資料)に基づいてそれぞれの福音書を書いたという、「二資料説」が仮説として立てられるようになりました。Q資料は現存しませんが、イエスの語録のようなものであったろうと推定されています。これなどは歴史学のめざましい成果であると言えるでしょう。

「親近関係は多くの史料にわたって存在する。西洋では特に中世時代作者が他の材料を著しく借用したことが多く、時としては一節をそのまま借用することもあった。わが国でも鎌倉から室町の時代にかけて他人の書物の改作の風習があった。多くの書物の異本ないし類本はかくして生じたのである。記録のみでなく法律制度、風俗習慣、伝説口碑の如きも一個所より他方につたわり、親近関係をたどり得ることがある。この例としてかのバビロニヤのハムラビ王の法典乃至楔形文字で刻されている神話と、旧約聖書のモーゼの法律および創世記の伝説との間にある程度の親近が認められる如きがあげられる。かくて史料の本原性の批判はそのまま文化史の研究にも応用の範囲を見出すのである。

親近関係にある史料に於て価値のあるのはただ本原性をもつ史料のみである。その他はただその借用である故にいかに多数であってもそれは決して証拠力をもつものではない。ただその本原の史料が既に失われて存在しない時、それを借用した比較的原形に近いものが原物を反映するものとして重んぜられるのである。先に掲げた英国のアングロサクソン年代記では、現存している中世時代の稿本が七種あり、A、B、C、D、E、F、Gと命名されているが、それらについてその挟入等の批判、来歴の批判等に加えてその本原性の関係が頗る精密に考証され、この種の批判の一典型をなしている(E.. E.. C. Gomme, Anglo-Saxon Chronicle)。」

ここで史料批判の項目の「外的批判」の部分が終わって、次に「内的批判」に移ります。上に見るように、当然のことながら、歴史学的思考法は極めて合理的です。しかし信仰や権威や時の権力はしばしばこのような合理的な思考を嫌います。歴史的考証を経ずに何かを断定してかかることは、人間の世界によく見られることです。そのような態度が教育の世界にも侵入してくれば、児童生徒の批判的思考能力の発達は著しく阻害されるでしょう。国家が教育内容に介入し、権力が教育の主体と化すときには、日本の学校教育は戦前の姿に舞い戻ってしまいます。それは人々の健全な信念を強めることにはならず、むしろ人々を狂信に導き、精神的に病んだ人間をつくり出すことでしょう。精神療法の世界で「論理療法」などという言葉が使われることがあります。合理的に考えることは、健全な精神を培うためになくてはならないものです。特に歴史教育の世界で徒にナショナリズムを煽るような教育がなされることに対して、我々は大いに警戒すべきです。


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 今井登志喜『歴史学研究法』(東大新書、1953年) その3

(二) 内的批判

(1) 可信性の批判

「外的批判によって史料の外的性質ないし価値、即ち真実性、来歴、本原性が決定されるのであるが、いまだその可信性、信憑性は決定されない。即ちそれがどの程度に信ず可きか、どの程度の証拠力をもつかは不明である。もとより史料を遺物として扱う時、それは偽作または錯誤でなければ十分の可信性をもつ。それ故遺物は可信性の批判の対象とならない。しかし史料が陳述である場合に於てはその可信性は区々である。実際同一事実に関する直接の証人の陳述が矛盾している事は少なくない。その場合一方が正しいとすれば当然他方は誤謬もしくは虚偽でなければならない。更にまた双方が誤謬または虚偽である事もあり得るのである。この可信性の吟味が内的批判の任務である。

この可信性の吟味について陳述ないし証言は次の二つの点において評価されなければならない。即ち一つは論理的評価で証人は真理を述べ得たりしやであり、他は倫理的評価で証人は真理を述べる意志ありしやである。史料の可信性は論理的にまたは倫理的に真実の歪曲されることによって損われる。即ち錯誤と虚偽が原因となるのである。したがって史料の可信性の考察には、錯誤と虚偽がいかにして起るかを吟味する必要がある。」

証言される事柄の事実性(真理)が損われるのは錯誤(論理的誤謬)と虚偽(倫理的誤謬)によると言われます。しかし事柄が古代人の「信仰」に関わるものである場合、その陳述はいかなる意味で「事実」に言及しているのかが問われるべきでしょう。今日から見れば荒唐無稽と思われるような言説によって、何らかの意味で真実が述べられていると見なすことも可能だからです。その場合には古代人の思考法を考慮する必要が生じます。しかし一般的に言って、陳述に錯誤と虚偽が含まれているか否かを吟味することは、史料を内的に批判するに当って必要な作業になります。これも法廷の審理と共通する事柄であって、歴史家は法(倫理性と論理性)に照らして、事実(歴史的対象)についての証言を厳正に判断する責務を負っています。もちろんそれは万人の責務でもあります。

「錯誤はいかにして起るか、それは次の理由が数えられる。

一、感覚の錯誤。人が事件を認識する時、それは多くの感覚的認知が基礎となり、それが統一されるのである。それ故にまず感覚的認知に錯誤があってはならない。それにはその人間が生理的に心理的に病的でない事、また対象に対する距離が正当である事、妨害のない事、十分注意力が働いている事等の条件が整わなければならない。これ等の条件に欠ける時当然錯誤が起るのである。

二、綜合の錯誤。一つの事件は細かい個々の感覚的事実の綜合である。人の悟性がその個々の要素を論理的心理的に結合せしめるのである。その総合において常に前の経験ないし知識に基づいて類推が働く。この際主観的要素が伴う事は免れない。ことに先入見、感情等が働く時、判断を誤り錯誤を起すこととなる。

三、再現の錯誤。人が事件を陳述するには過去に認識した所を記憶によって再現しなければならない。しかるに完全の記憶はまったく例外である。それ故に前後の誤り、時と所との誤りなどが常に起り易い。覚書自叙伝等に於て誤謬のある事は屡々見る例である。ことに時間を隔てる程その記憶に誤りを生じ、思い違い、脱漏が多くなるのである。これには感情的要素も働き、経験的事実に誇大美化等が起って来る。

四、表現の錯誤。陳述は言語的形式に於て表現される。しかるに言語には不完全性があり、内容が常に適切に表現されるとは限らず、そのためそこに錯誤が入り、陳述する真の内容がそのまま他人に理解されないことが起るのである。

各人の観察した事実の直接の陳述に於て錯誤の起る一般的基礎は以上の如くである。かのサー・ウォルター・ロリーが、みずから窓から目撃した街の出来事について、他の目撃者によって語られたことと、自分の観察と本質的に異なっていたので、執筆中の世界史の第二巻の草稿を火中に投じたという逸話は、上述の錯誤の一例を示すものと解釈できるのである。直接の観察者の陳述にすら錯誤の入ることを免れない。いわんや陳述者が直接の観察者でなくその事件を聴取した人である時、誤解、補足、独自の解釈等によって更に錯誤の入る機会が多いのは当然である。ことに噂話等の如く非常に多数の人を経由する陳述は、その間にさらに群集心理が働いて感情的に錯誤はますます加わるのである。」

新聞記事でたまたま自分の街の、身近な出来事が取り上げられたとき、その記事に微妙な「錯誤」が入り込んでいることを見出すことがあります。また伝言ゲームで、初めの情報が次々に伝えられて、最後には、初めのものから随分変形した情報になってしまうということも、実際に確認できることです。陳述には錯誤が伴うということが歴史研究者のまず心しておかなければならないことです。

「つぎに虚偽にもまた種々の系統がある。たとえば自己または自己の属する団体の利害に基づく虚偽、憎悪心、嫉妬心、虚栄心、好奇心から出る虚偽、公然あるいは暗黙の強制に屈服する虚偽、倫理的または美的感情により事実を教訓的にまたは芸術的に陳述する虚偽、病的変態的な虚偽等である。また沈黙が一種の虚偽である事がある。歴史学の史料としては利害関係に基づく虚偽、倫理的または美的感情から出る虚偽が最も多いであろう。近代以前に於ては歴史目的の誤謬すなわち歴史を教訓的に又は芸術的に陳述する傾向があり、其記事が倫理化美化されていることが多数であり、それ等の記述を史料とする時はつねに警戒を要する。また伝記の作者も自然この傾向のある事を免れないであろう。」

聖書などの宗教的文書はこれに信仰的動機も加わります。その記述を「神の言」であるとして未だにことごとく「事実」であるとみなすのは、信仰の行為がなせるわざであって、かつ歴史学の前提を根本から覆すものです。宗教的文書の場合には「虚偽」は「虚構」に近いものと理解すべきでしょう。またここに「公然あるいは暗黙の強制に屈服する虚偽」と書かれていることは、「自己または自己の属する団体の利害に基づく虚偽」ということと相俟って、歴史的虚偽を未だに製造し続ける強力な動機となっています。歴史教育の中身が国家権力の管理のもとに置かれれば、そこに戦前のような公然たる虚偽が現出する可能性があります。しかし、国益が事実認定の基準を凌駕してしまうことは、現に今日の世界でも起っています。アメリカのイラク戦争の「大義」は虚偽に基づいていたのではないでしょうか。事実の歴史的文脈化には権力が介入する傾向があります。

「かく陳述的史料には錯誤または虚偽の機縁が多く考えられるのであるが、しかしそれがために全的な歴史的懐疑または歴史的真理の否定に陥るべきではない。個々の史料について可信性を吟味し、厳密に方法的にこれらを取扱う事によってある真理をその中に認識することが可能なのである。なお陳述にたいして遺物が補充手段を提供し、それを利用することによって陳述よりの真理の認識を確かめ得るのである。

史料の陳述の真理を損うものは錯誤および虚偽である故に、可信性の批判は個々の史料について精細に錯誤および虚偽の可能性を考えて、証拠として採用する要素をこれらから解放しようとすることである。そのためには史料を外的批判の結果に基づいて、(一)その性質、(二)その日時と場所および作者の諸角度からの検査が必要とされる。」

我々が抱く「信念」は中空に浮かんではいません。可信性は事実の確認の問題であって、信念は常に事実認定の作業に裏づけられて与えられます。科学者には科学者の信念があり、歴史家には歴史家の信念があります。

史料の性質 前述の如く遺物は真物であるかぎり可信性の吟味の対象とならない。文献も全体的に(勅令、法律、条約文、文学的作品等の如く)、或は又部分的に遺物たる範囲の性質において取扱う時は、他の遺物と同様である。

可信性の批判はもっぱら陳述的史料にたいして必要である故に、それについてはつぶさにその外的および内的の性質に従って吟味を必要とする。たとえば外的性質にもとづいて口頭的陳述、文字的陳述性に大別し、まず口頭的陳述を考えれば、それにもまた種々の種類があり、本人直接の陳述は錯誤がもっとも少なく、それがまた聞き即ち間接の陳述となれば錯誤がはいりやすく、ことに時間的に人間的に間接の度が増してひろがるほど遠くなるほど真実を損って来る。伝説はその著しいものであって一般に長く伝わる間に、(1)誇大、美化、理想化、(2)集中、(3)混合等が行われる傾向をもつ。現在文献化している陳述であっても、かつて相当の期間口伝的であったものはこの性質をおびており、伝説口碑としてあつかう用意が必要である。」

新約聖書の四福音書およびその他の現存する諸福音書の類は、もともとは民衆の伝説口碑であったものの文献化です。Q資料(イエス語録)の原初性が主張できるとしても、そこにも伝承の層が幾重にも存在することが指摘されています。最初の福音書記者マルコが、たとえ間接的であってもどこまでイエスの活動の大枠を知り、福音書を書いたのかということについても議論の余地があります。つまりどこまでが伝記的創作であり、どこまでが事実であると見なし得るかを見きわめるのは困難です。ナザレのイエスについて何ほどかの歴史的事実を確定することが極端に困難である理由はそこにあります。また他に傍証とすべき資料も決定的なものは何も見出されていません。キリスト教信仰が次第に膨らんでいくモトのところに何があったのかを究明することは、あたかも玉ねぎの皮むきのようなものであって、我々はその芯に到達することができません。

「また文字的陳述は外的性質によって公私の往復文書、宣言書、演説、新聞雑誌の記事、日記、覚書、回想録、系図、歴史書、年代記、伝記、その他種々の種類に分って大体その性質を考察し、さらにその史料の一々についてその陳述の内容に吟味を加える。同じ公的往復文書であってもその性質は種々に別れる。たとえば外交文書の如きはフリーマンをして「吾人はここに虚偽の最も選ばれた分野をもつ」(Methods, 1886, p.258)といわしめている種類である。しかし同じ外交文書であっても、その文書の目的の相違等によってその内的性質は一様でない。要するにある種の傾向のある、たとえば利害関係を有する陳述、宣伝的性質をもつ陳述、道徳的ないし芸術的効果を目的とする陳述等については、特に真実の歪曲を予想すべきである。」

歴史家の仕事は史料の中の真実ではないものをひとつひとつ剥離していって、どこまでのことを真実として確定することができるかを見定めることにあります。それは息の長い、地道な仕事であって、しかもその結論は往々にして推定の域を出ません。しかしそのような地道な作業がなければ、「歴史的事実」はただ紛糾した状態の中に置かれたままでしょう。歴史について勝手な言い分がまかり通るだけの状態は健全ではありません。

日時と場所及び作者 史料の可信性を批判するについてはその史料の性質を考察するのみでは不十分であり、それを補うものが日時と場所および作者である。

日時と場所については原則的には頗る簡単であり、一言にしていえば陳述が時間においても場所においてもその陳述する内容に近いほど可信性があり、遠くなるに従ってそれが減少する。即座(an Ort und Stelle)の陳述が理想である。実際においては時間は近いが場所が遠くでなされる陳述、場所は近いが時間がへだたってなされる陳述等があり、一々についてその可信性が吟味されなければならぬ。わが国の古代史において魏志の倭人伝の記事は時が近く場所がへだたってつくられた史料であり、古事記日本書紀は場所が近く時がへだたって作られた史料である。こういう場合時と場所とのへだたり方の程度によってその可信性が批判されるのである。」

日時と場所が近いところでなされる陳述に直ちに可信性があるということではありません。なぜばらそこに陳述者の判断が介入してくるからです。しかし日時と場所が隔たってなされる陳述は、その分、可信性が稀薄になるという「原則」は確認されなくてはならないでしょう。事件は常に、今ここで、何らかの意味でそれに関わる者の目前で起ります。

「作者についてはその陳述の論理的真実性および倫理的真実性を作者によって判断するのである。すなわち作者と事件との関係、その素質、性格、教養、年齢、性、職業、階級、党派、宗派等の関係によって、その陳述における錯誤ないし虚偽の可能性に種々の等差がある筈である。しかしてこれら等差の考察は実際においてはすこぶる複雑である。たとえば事件の当事者の報告はその事件を最もよく把握している人の陳述たる点においてもっとも価値がある。それは口頭的陳述の際に述べた如く文字的陳述においても、直接の陳述は間接の陳述より理論的に錯誤の可能性が少ないからである。しかし他の一方当事者はその事にもっとも大なる関心を有するために、時として利害関係虚栄心等から真実を隠蔽する傾向があり、この点においては第三者の陳述の方が可信性が多くなる。論理的真実性はあっても倫理的真実性が欠け、錯誤はなくとも虚偽が入るのである。実際においてはある史料の作者については十分の材料が欠けている事が多く、したがって種々の関係を知る事は困難であり、また多くの場合必ずしも全部の関係を知る必要はないが、一切の陳述においてその作者の人間を顧慮する事がその可信性批判の重要なる標準となるのである。なお事件に関して作者の主観の大いに入っている意見批評等よりも、その陳述の要素をなす素朴な各事実が重要であり、意見批評等はむしろ遺物的な要素として見るべきである。」

ここに「意見批評等はむしろ遺物的な要素として見る」と書かれているのは面白い言い方です。パウロ書簡のような宗教的文書を敢えて引き合いに出せば、パウロの信仰の内容に関わる事柄は遺物として対象化され、それはどこでどのように継承されてきたのか、著者独自の思想である場合は何を契機にそれが形成されてきたのか、論敵(敵対者)がいると見なされる場合は、その論述からどのような敵対関係や当時の教会の状況が想定されるかといったことが、歴史的事実とされるのであって、その信仰内容について直接肯否の判断を下したり評価したりはしないということでしょう。それは歴史家の態度であって、その信仰を今も共有しようとする者の態度ではありません。しかしそのような歴史的な吟味を経ない「説教」には飛躍があり、説得力が欠けています。

「作者に関しラングロア及びセーニョボスは虚偽の有無について(1)作者の利害、(2)事情の力(職務的報告かどうか等)、(3)同情、反感、(4)虚栄心、(5)輿論への服従、(6)文学的歪曲等を考察すべきであるとし、また錯誤の有無について(1)悪い観察者でないか(錯覚、幻覚、偏見等)、(2)よく観察できる地位にいたか、(3)怠慢及び冷淡、(4)直接に観察できない性質の事件でなかったか等を考察すべきであるとしている。これらは直接の観察者の場合であるが、錯誤および虚偽の起る事情から見て、大体適当な注意の条項であるといえるであろう。」

虚偽と錯誤ということに関して、「文学的歪曲」、「直接に観察できない性質の事件」がその項目に挙げられています。宗教的文書に関しては、虚構と事実との間の距離が消去されて、それはある種の心理状態の報告となっています。虚偽(虚構)であり、また錯誤(錯覚、幻覚、偏見)であると見なすこともできますが、作者がそのような心理状態にあるということは、歴史学を越えた特別の考察(たとえば宗教心理学)を必要とすることでしょう。それは人間の条件の一部であって、今日なお人間のあり方を規定しています。

(2) 史料の価値の差別

「可信性の吟味によって史料の価値を判断する標準が立つ。史料の価値について坪井博士は次の如く六つの等級を附された(史学研究法)。

一等史料 史学事項の起った当時、当地においてその当事者が自ら作った史料、たとえば主たる当事者の日記の類、参謀官のメモ等。

二等史料 史学事項の起った当時当地にもっとも近い時代場所、あるいは当地ではあるが時代がやや隔たっている場合に、当事者が自ら作った史料すなわち追記の精密なもので記憶により証明する場合、普通の覚書記録の類の上乗なものである。古文書も過ぎ去った時を往々述べるがその場合はこの部類である。

三等史料 一等と二等とを繋ぎ合せ、それに連絡をつけた種類のもの、まずもっとも上乗の家譜、伝記、または覚書等。

四等史料 大体から見て年代場所人物がまず差支えないと思われるが明白でないもの、またそれは明らかであるが古いために転写され、挟入、脱漏、変化のあるべきもの、建築物地理等はこの類である。書籍にもこの類が多い。

以上を根本史料とする。

五等史料 編纂物の上乗なもの、すなわち根本史料により科学的に審査し、公平に編纂したもの。

等外史料 その程度のさらに落ちた編纂物、伝説、美文、歴史画その他。

これに対し大類博士はつぎのごとく記されている(史学概論、昭和九年版)。

〈以上は坪井博士の説かれた所で、その史料の等級別は当時・当地・当該人物を主とする当該主義(仮にかく称す)に拠られたものである。すなわち何でも事実と直接関係の多い程信用すべきものであるという方針に外ならぬ。これはもとより至当の方針で、関係の深いだけそれだけ該事件の真相に通じている次第である。しかし(中略)当該主義もまた絶対的な方針とはいわれない。結局は便宜上の方法に過ぎない。かかる方針によって等級を附するのは決して厳正なる意味においての科学的態度ではなく、要はただ大体において当該主義は妥当な方法であると心得てよろしいのである。

元来当該主義によって上記の如き明瞭な標準を立てて、史料に等差を附するは問題であろう。でき得れば等級なるものは廃止するのが宜しい。もとより史料は死物である、これを活かして使うは一に研究者の技量に俟つ次第で、その技量如何によって利刃ともなり鈍刀ともなるのである。そうして史料の意義は史学研究の材料となること、即ち史学研究に役立つことに存するのであるから、等級を附するならば、それは研究に役立つ程度の差別であらねばならぬ。然るに研究に役立つことは、研究者の識見技量によっていかようにも変ずるから、その場合場合に応じて等級は常に変更するのである。要するに等級別は史料そのものに存するのではなくして、研究者の頭脳に存せねばならぬ。つまり上記のごとき数等の段階は史料の価値の区別ではなくして、ただ史料の性質の分類に過ぎないのであった。すでに分類に過ぎない以上、一等とか二等とかいう名称を用いて価値の等差と混同せしむるのは宜しくない。殊に等外史料を軽視して、この種の史料は尋常一様の史学研究にはまず入用のない部分である由を説かれたのは首肯し難い所である。

要するに史料の価値は当該主義によって定めることはできぬ。ただ便宜上当該主義に当て嵌まるもの程信用し得べき場合が多いというに過ぎない。われらは宜しく史料そのものに等級を附することを止めて、研究問題の起る度毎にその研究に最も有力なる内容を提供し得るものを一等と心得、以下程度に応じて便宜上それぞれの等差を仮定すべきである。そうしてその標準は必ずしも当該主義に拠るの必要なく、自己の研究に役立つことを標準とすべきである。勿論その等差は便宜上の仮定で絶対的のものではない。〉

以上は大体当を得た主張である。しかしその等級別反対の根拠とされるところについては若干の異議がある。それは「史料は死物である。これを生かして使うは一に研究者の技量に俟つ」とし「要するに等級別は史料そのものに存するのではなくして、研究者の頭脳に存せねばならぬ」という点である。これはこれ自身としては確かに正当である。しかしこの事を史料の価値批判に交えるべきではない。史料の価値は研究者の素質から離れた理論的根拠から吟味されなければならない。例えば或る良書は或る読者にはなんら役立つところはない。従ってその人にとってはなんらの価値はない。しかしなお理論的にそれが良書であり価値が高いといえるのである。これについて野々村戒三氏が語弊があるといわれているのは至当である(史学概論)。しかして理論的に見て史料の等級別なるものは次の点から反対されるであろう。

一、前述の如く陳述的史料は一面においてまた遺物として採用され得る。陳述として価値がなくとも遺物として役立つのである。従ってその価値は研究者の頭脳を離れても、史料として採用され方によって変化する。それ故に一つの史料を単純に一等とか二等とかなし得ない。ただある一事件の陳述として価値に等差があるというに過ぎず、それによってその史料そのものに固定的な等級をつけることはできない。社会を実写した「芝居、狂言、流行歌、川柳、小説の類」は一時代の社会を研究する時欠くべからざる証拠物となることは坪井博士も認められているところである。この場合欠くべからざる証拠物を等外に堕すという矛盾は、史料の一性質のもつ価値をその史料の全体的発展に価値させたところから来るのである。要するに明確な史料の等級別を立てることは、史料の価値の差別の或る場合の標準を、その当然の範囲以上に拡大させ、不自然に固定化させるメカニズムである。

二、史料の等級別は十分包括的且明確であり得ない。例えば坪井博士の等級別において、一、二等の史料では人間として専ら当事者が着眼されているのみであるが、当事者のほかに多数の人がその事件の報告者であり得る。しかしてその場合直接の観察者の陳述の如きは頗る価値が高いとしなければならないものであるが、それらはいずれの等級に加えるべきであるか。また事件の後まもなく関係者から聴取して記述した陳述の如きはいかなる等級であるか。所詮等級を立てる以上必ずかくの如き疑問の起るを免れないであろう。史料をただ陳述として見ても実際においてその性質は多種多様であり、その価値の関係もまた非常に複雑であり、全体を包括し明確に区別する等級別の如きは到底立て難いであろう。

三、当時、当地において当事者の作製する文書にもまた等差があり得る。例えば当事者のまったく事務的なものまたは私的なものと政略的または宣伝的の性質のものとは異なるのである。もとより政略的宣伝的なものも遺物としては大いに価値があるが、それは陳述としての価値ではない。更に当事者の追記となれば時として自己弁護等が加わり、錯誤のみならず虚偽の入り込む可能性がある。欧州大戦の多くの当局者の追記的陳述に頗る可信性の等差があるといわれるのはこの明証である。当事者の陳述を重んずるのはその論理的真実性についてである。しかし倫理的真実性の要素をくわえればいわゆる当該主義は破綻を来さざるを得ないのである。

史料の可信性の批判において時間場所及び人間の関係をよく考慮しこれを価値判断の標準とする事は、研究法の書物がすべて一致するところであり、その点について疑問はあり得ない。ただそれは杓子定規的機械的でなく、それぞれの史料について十分有機的になされることが肝要である。」

史料の価値の差別はその時々の研究者の関心に応じて変化します。それを機械的に等級に区分することはできないという当然の指摘がなされています。しかし人事は、すべからくある時、ある所で、当事者の関与のもとで生起します。歴史家は歴史の断面を切り取り、それを浮き上がらせる史料を蒐集し、「有機的に」活用することを求められます。そこには人間の趣向や利害が関与し、権力者の強制も介入します。だから絶対的に厳正中立な歴史などはありえません。しかしその制約の中で、錯誤や虚偽を排除して、実際のところ何が起ったのかを探求することは、研究者が精一杯努めなければならないことでしょう。その努力を放棄するならば、歴史は学問の名に値しないものとなります。また「従軍慰安婦」や沖縄戦など、現代史に関わることについては、(既にその努力がなされていますが)民衆の側で資料館や歴史博物館などをつくり、権力者が押し付ける一方的な歴史観に対抗する必要があるでしょう。「階級闘争史観」を歴史に機械的に適用することには問題がありますが、歴史が、結局は事件を文脈化する権能を持つ者によって編纂されてしまうという傾向があることを否定することはできません。そのときには、事実はどうであったかという、史料に即した合理的な判断を下すことが、極めて重要になります。「自虐史」批判のうちに見られるような国家主義的一国史的価値観に拘束されることは、事実についての合理的な判断を抑圧する結果をもたらします。史料の価値は歴史を見る者の立場によって変異するということに留意しつつ、しかし歴史学にも史料に即した「事実認定の基準」があるのだという確信がなければ、歴史学は「学」として成立しないことになるでしょう。

次は「綜合」の章に移ります。


Z 今井登志喜『歴史学研究法』(東大新書、1953年) その4

五 綜合

「他の多くの科学において材料は同時にその学問の対象である。然るに歴史学においてはニーブールが史料の調査を坑夫の作業に比し、「地下の仕事」といっている如く、史料はただ手段たるのみであり、その批判は歴史学の基礎工事たるに過ぎない。批判によってその証拠力の程度が吟味された史料を用いて、その目的とする歴史認識に達する作業が即ち綜合であり、歴史研究において最も重要な職能である。

(1) 史料の解釈

先に述べた如く史料の解釈はすでに史料聚集の時に始まり、批判においては解釈を伴って始めて可能であるが、史料の性質が十分吟味されて後さらに十分の解釈が与えられる。史料は正しい解釈によって始めて研究に役立つのである。遺物は沈黙してそれ自身直接に説明しない。それを生かすのは解釈によるのである。遺物の史料的価値は絶対的であるが、解釈を誤ればまったく誤った結論に到達する。遺物の証拠となるのはただ解釈を通してであり、遺物にとって解釈は最初のまた最後の条件である。一例を挙げれば有史以前の遺物に凹み石なるものがある。これが何に使用されたかが解釈されなければ殆ど史料たる価値がない。然るに多くの未開人種の発火法を知る事によって、これが原始的な発火法に使用されるものである事が明かになれば、この石の各所に出る事によって、古代の人民が未開人種と同様の発火法を行った事が解釈されるのである。しかしこういう解釈において注意すべきは、それが証明する範囲をよく考える事である。例えば条約、招待、会合、法律、威嚇等に関する文献を遺物として使用する時、これらの事がすべて実施を見たと解釈されてはならない。これらの史料はその実施についてはなんら肯定も否定もしていないのである。ある禁止事項の文献があったとすれば、かかる種類の事がしばしば犯された事を示しているとは解釈できるのであるが、この禁止が徹底してその事の違反がなくなったという解釈は立てられないのである。

文献的史料は言語文字によって表現されており、その言語文字を解釈する事はその出発点である。解釈できない文献は採掘されない鉱山に等しい。多くの古代文字の解読が古代史に新しい世界を開いた事は著名の事実である。歴史研究はその時代の文献を解釈する事の深い程有利な武器をもつ事となるのである。歴史学と文献学(Philologie)の概念の決定に関する論争がかつて大いに学界をにぎわしたのであるが、それは一面言語文字の解釈が歴史学にとっていかに密接の関係をもつかを物語るものである。

史料の解釈はただ言語の意味のみならず、更に歴史的対象の説明者たる意味において解釈されなければならない事はいうまでもない。そのためにはその史料の証明し得る事項に関する知識が深くなければならない。それは常にその背景となる歴史的事実の知識であり、またしばしば各種の補助学科の知識である。例えば古書の内容は時に極めて断片的である。それを適当に解釈して十分の証拠力を発揮せしめるのには、その周囲の事情が明瞭である事が必要であり、かくてその断片的内容が生きて来るのである。同様にある古典の記事の如きは簡単であってしかもいまと事情を異にしている時代の事であるためによく理解できない場合、これと他の多くの歴史的事例とを比較し、また社会学、法律学、民俗学、経済学等を補助学科として、解説闡明される例は少なくない。即ち類推的推理の材料として歴史的事例の知識や補助学科が役立つのである。

但しかかる比較研究法について注意すべき事項は、類推は推理の形式として不完全であって推理の飛躍が多い事である。異なった社会もしくは時代の類似は部分的であって、完全な一致でない故に、部分的な観察を普遍化させてすべてをパラレリズムを以て説明する事は危険である。この種の類推の実例としてベルンハイムの記載している所を引いて見る。それはモルガンがその名著『古代社会』(1877)その他の書において、ある原始民族の夫婦関係の観察から出発して、すべての民族がもと乱婚関係で群居していた事、またすべての民族がその文明の向上とともに必ず夫婦関係の形式の同一な段階を通過し、その間殊に母権の支配する段階が顕著なものであり、最後に一夫一婦の形式に到達した事を推論した。この書の推論を基礎として更に多くの推論が成立した。然るにウェスターマークの『人類婚姻史』(1891)の詳細な調査は、モルガンの研究法とその普遍的推論の誤謬を証明したというのである(Lehrbuch. 5. u. 6. Aufl. 1908. S. 610)。すべてこの形式の推論は若干の具体的実例に基づいて普遍的結論を立てる行き方である故に、それに反する具体的実例の指摘によって覆されるものである。史料の解釈において類推的推理は大なる示唆を提供する。しかしこの際類推法そのものは学問上ではただ仮説の設立をなすに用いられる推理の形式である事を忘れてはならない。」

文献学は歴史学の基礎工事として歴史学と重なり合う部分を持っています。たとえば新約聖書の文献学的研究は初期キリスト教史の研究と重なっています。しかし聖書の文献学的研究だけが、もちろん、初期キリスト教史の研究手段なのではありません。なおここで、解釈において類推(類比、比論、アナロジー)が不可欠であることを認めつつ、著者は、それが不完全な推理であり、類推による一般化に当っては注意を要すると述べています。あるものと別のあるものとが部分的に一致していることが類推的同一化の根拠です。ただそれはあくまでも類似しているということであって、研究に大いに示唆を与えてくれますが、その役割は仮説の設定以上のものではありません。

(2) 史実の決定

「史料はある歴史的事象即ち史実を証拠立てる。時としてある一史料は十分にある史実を証拠立てる事がある。例えばある形式の整った条約文の存在は十分にその条約の締結したところの決議事項を証拠立てるのである。しかし多くの場合一史料のみでは一つの史実を決定する事は不可能であって、多くの史料を必要とし、時として一つの史実に関する史料が甚だ不十分であって、発見されているすべての史料を用いなければならない事がしばしばである。而して多くの史料の陳述は或は一致し或は矛盾する。」

著者は歴史学にとって致命的に重要である「史実の決定」の問題に論述を進めます。その判断に誤りがあれば、歴史は砂上の楼閣と化すことになります。

史料の証拠が一致する場合

「(一) 遺物と遺物の一致。遺物は沈黙しており、それを生かして証拠に使用するのは解釈である。然るに解釈は主観的要素があり誤謬に陥り易い。それ故に遺物の一致にはその数の多い事が要求される。遺物の一致とは即ち解釈の一致であり、多くの遺物に対して同一の解釈が成立する事を意味する。きわめて僅少な遺物の一致では史実は十分に決定され得ない。

(二) 陳述と陳述との一致。この一致はそれらがなんら親近関係をもたず本原性を有することが条件である。親近関係のない陳述が多く一致する程その力は強くなる。この際些細な点の不一致は決して重要事項の一致を否定する事はできない。しかし可信性の少ない陳述の一致はその本原性について疑いを容れる余地がある。

(三) 遺物と陳述との一致。ある史料の価値が低くその陳述がそれのみでは疑わしい時、遺物がそれを確かめてその史実の存在を肯定することがある。例えば古代の伝説が遺物の発見によって信ずることができるに至る如きである。またある遺物にいろいろの解釈が下されるが、なおそれらの解釈のどれが正しいか不明である時、新しく発見された文献的史料によってその遺物の一つの解釈が確実となることがある。エジプト学アッシリヤ学等に多くこの例が見出される。」

新約聖書という互いに親近関係のある諸文書の間にイエスの「復活」という陳述(証言)の一致が見出されるとき、それは当時の「復活信仰」の存在を示しています。しかし事実としてイエスが「復活」したということを意味するものではありません。キリスト教信仰はその混同の上に成り立っています。それは宗教的ドグマの強い支配力を意味しています。今日なおそれが力を揮っているのは驚くべきことです。

史料の証拠が矛盾する場合

「二つ以上の史料の証拠が一致しないことは実際の研究において常に出合うところである。その場合を原則的に扱うために二つの史料でいえば、一方が全く不可能であるかまたは可能性の殆どない事である時、或は史料の可信性において一方は十分であり、他方は疑わしい時、その決定は容易である。しかしいずれも可信性が十分でなくただその程度に相違がある時、可信性の多い方に可能性蓋然性を認める程度以上の決定はなし得ない。相互の可信性が同様もしくはそれに近い時は疑問を残して置く外はない。実際においては多くの史料があり更に事情をも考慮に入れる故に非常に複雑になるが原則は上と同様である。かくて史実について多くの史料が矛盾している時、それらの史料から立てられる史実の決定を簡単な形式に表わせば――

一、肯定
二、蓋然
三、未決定
四、否定

の諸種となるべきである。

史料が相矛盾する場合についてはなおいろいろ注意すべき事項がある。

表面上矛盾するが如く見えて実は相補足する事がある。例えば甲は一つの事を証明し乙は他の事を証明している時、それは矛盾でなく共に真実であり得るのである。

史料の矛盾は実は真理が中間にある事を示す場合がある。例えば戦争において両方が共に勝利を報告しているが、それはその勝敗が決定的でない事を意味する時の如くである。

事件そのものは本来同一であるが、ただ陳述者の心理主観の相違によって別個の形をとっている事がある。

不必要の事項の矛盾は多くの場合問題とするに足らない。」

ある特定の史実について複数の互いに一致しない史料が存在するとき、その史実の決定は、肯定、蓋然、未決定、否定の四種であると言われます。あることが事実であるという言明は、史料に基づいてその真偽が決定されるほかはありません。しかし歴史においては蓋然、あるいは未決定のままにしておくしかない「史実」が多数存在します。また実際は肯否の判断を下すべきであるのに、政治的な理由から敢えて未決定の状態に留め置かれる史実も存在します。史料が開放されず隠蔽されている場合もあります。

沈黙の証拠(Argumentum ex Silentio

「史料の証拠の一致及び矛盾に関係のあるのはいわゆる沈黙の証拠なるものである。これはある史料に当然あるべき事柄がなく、従ってその事の否定の根拠となるものである。その点からこれはまた消極的証拠(Argumentum negativum)と呼ばれる。例えば北條時頼の廻国の物語がもし事実とすればそれは当然東鑑に載るべきはずである。然るに該書にはそれに関するなんらの記載がない。従ってこれは一個の小説に過ぎないという類である。但しこの沈黙の証拠については次の点を吟味しなくてはならない。

一、陳述者がそれを知っていたか。古い交通不便の時代には時として当然知るべき事に無知であった事が有り得る。

二、陳述者が報告すべき事と認めたか。時代の差異等のために価値批判の相違のある事が考えられなければならない。

三、陳述者が報告し得ない事ではなかったか。なんらかの利害関係により、また淳風美俗を害すと考える事により、特に沈黙を守っている事が有り得るのである。先に述べた如く時として虚偽の一種たる沈黙がある。ある国の外交文書の発表において時として殊更に或る文書を加えない事の如きもまたこの種の沈黙の一種である。

上の如きいろいろの場合をよく吟味して始めて沈黙を消極的証拠となし得るのである。また時としてある遺物の存在しない事が沈黙の証拠となる事がある。考古学的研究の場合の如きこの例が多い。」

あることについて当然あるべき陳述が見出されないとき、実はそのことはなかったのだという結論に至るためには、それなりの熟慮が要求されます。しかし史実の決定のためには、このような消極的証拠に訴えなければならない場面が多々あるということでしょう。次に論述は「歴史的連関の構成」の問題に移ります。

(3) 歴史的連関の構成

「史料の提供する史実は断片的であり、そのままではなおなんらの連絡がない素材である。これを因果関係において連結し、有機的な全的の経過発展の形に構成するのが、ここにいう歴史的連関の構成であり、綜合の作業の中心である。それは史実の連関の把握によって過去の史的発展を思想の中に再現するのである。而して史実を連結させる手段は推理であるが、それは厳密に科学的推理でなければならない。この推理は本質的にはもとより他の科学におけると同じ形式の論理であるが、歴史的推理には先験的な原理として人間の社会事象の要因に関する意識が働くのである。これはもとよりすでに史料の批判における、またその解釈における推理の要素であったものであるが、特に史実の連関を把握するにおいて指導的であるのである。而して人間の社会事象の要因としては(1)自然的要因、(2)心理的要因、(3)文化的要因が考えられる。自然的要因の意識とは人間に対する自然の制約を理解する事である。心理的要因の意識とは人間の心理を歴史的生活に働く力として理解する事である。文化的要因の意識とは人間社会の生産である一切の文化を歴史を規定する力として理解する事である。この場合文化はもとより広義であり、精神的文化のみならず物質的文化の一切を包含する。唯物史観はこの物質的文化の要因に、もっと正確にいうならば生活物資の生産様式に、特に支配的地位を与える考え方である。これらはもとより独立的でなく相関的有機的に作用するのであるが、その社会事象に働きかける主要なる特色に従って着眼の便宜のために分類されるのである。何人でも人間の生活関係に対する理解において素朴ながらこれに関するある意識をもつ。この意識を欠く時、人間の社会事象はまったく不可解な現象とならざるを得ない。これは歴史を認識する基礎であり、歴史的連関の構成にはこれが先験的に働いて因果関係を立てる基礎をなすのである。史実の連関を正しく構成するためには、これらの要因に関する理解が深く且つ妥当であって偏しない事、実際の研究において注意がそれらに十分に且つ鋭く行き亘る事、因果関係の推理が厳密に論理の形式に合して欠陥を示さない事が必要なのである。偉大なる歴史家と称された人物は単に基礎的作業たる批判における技量のみならず、いずれもこの歴史的連関の構成における眼識が博く且つ秀でておったのである。これはもとよりもって生れた頭脳にも関係する。しかしこれは社会生活の豊かな体験と歴史研究のたゆまぬ努力によって鍛え得るものである。また、優れた多くの研究をよく玩味してその鋭い史眼を会得する事も大切である。」

人間は事件を文脈化するという意味での物語能力を持っています。しかし歴史が単に歴史物語ではなく、いやしくも学としての歴史であるためには、歴史的記述は厳密に論理的であることが要求されます。そのためには歴史に働きかける要因についての研ぎ澄まされた認識が必要になります。諸事件の歴史的連関が構成されたとき、歴史は初めて歴史の名に値するものとなりますが、歴史的推移には極めて複雑な要因が働いていて、単純に公式化できない面があります。唯物史観も一つの仮説であって、それによって歴史の問題が一挙に解決されてしまうわけではありません。特に生産力の無限の発達によって社会的問題が究極的には乗り越えられていくという生産力オプティミズムは、近代的科学主義の申し子とでも言うべき世界観であって、文明の危機的様相への目配りを欠いています。マルクスはマルサスを乗り越えたわけではなく、一時そのように思われたに過ぎません。世界的な規模での人口爆発は、今や戦争の遠因となり、また環境問題の根源に横たわるものとして人類自身の生存を脅かしています。

「ランケは歴史は鏡の物を写すが如く客観的に考究されなければならない事を主張した。この歴史は客観的に考究すべしという態度は、歴史的連関の構成の問題に関係がある。きわめて厳密にいえば人間の認識に純客観的なる事はあり得ない。況や歴史学の如く価値的意識をその認識の根底とする学問にあっては到底主観的要素を除き得ないのである。しかしランケの発言はその内容に正当な主張をもつ。それは利害関係、好悪の感情等に支配されず、すべてにまったく公平な態度を取るべき事の素朴な表現である。歴史学の研究者の常にもつべき反省をさすのである。

歴史学の対象は人間的事象であり、従って自然を対象とする自然科学の場合と異なり、その取扱う個人、団体、時代等に好悪の感情をもつを免れない。更にまた歴史家は現実の政治的経済的思想的生活において実際的関心があり、それが意識的無意識的に研究の中に入り込む危険があるのである。客観的とはかくの如き傾向を脱却して冷静に歴史的対象を取扱う事である。而していわゆる主観的傾向の最も入り込む機会は歴史的連関の構成の際においてであり、客観的にという標語はこの場合に最も意義をもつものである。

いわゆる客観的であるためにはすべてに対して同感(Sympathie)をもつ事が要求される。同感とはできる限り、個人、団体、時代等のすべての立場を理解し、よくその中の人間性を認める事である。現実的関心において反対の立場にあるものに対しても、歴史的連関の構成においては、実生活的関係の要素の入る事を防がねばならない。ドイツ人であり、新教徒であってローマ教会のドグマを信じなかったランケのローマ法皇史における態度の如きがその好例である。」

客観的であるとは、平たく言えば、歴史家としての節度を弁えることだと言ってもよいでしょう。しかし権力が歴史に介入し、法廷に影響を及ぼすときには、歴史家や裁判官などが、その節度を失いがちであるという側面があることも否定できません。自分の独善的な価値観によって歴史的連関を構成したり、判決を下したりするのは、いつの時代でも厳に戒めるべきことです。今日最も警戒しなければならないのは、学問や司法などに携わる人たちの一部にそのような節度が失われつつあるのではないかということです。剥き出しの権力が思うがままに支配できる社会は欺瞞的であって、理性や法を逸脱しています。今の世の中にそれだけ余裕がなくなってしまっているということなのかも知れません。

「一つの歴史的連関の構成が未だ何人にもなされなかった題目について行われる時、それはその研究者の学的業績となる。なんらかの新しい史料が発見されれば、それは当然新しい証拠を提供し、ある問題について従来承認されていた考え方即ちある歴史的連関が覆され、そこに新しい連関が構成される事となる。即ち新史料の発見は研究者に新しい仕事を提出する。よしまた新しい史料の発見がなくとも、研究者にとって従来の考え方を覆して独自の見解を立てる余地がある。それは史料の使用の範囲において、またその解釈及びその連関の構成の仕方において、従来のものが必ずしも完全でないからである。」

ある歴史的事件についての完全な記述ということはあり得ないことです。史料が制約されており、また記述する視点も、人により時代によって異なるからです。従って歴史学は新史料の発見によって、また歴史的連関の構成の仕方によって常に進展します。しかしその範囲内で歴史の記述には「客観性」が求められます。同じ時間、同じ場所で起った、同一の事件についての「歴史学的」認識が、国によってあるいは人によって異なるということは、歴史学が十分に「科学」とはなり得ない主観的な学問であるという結論に導くものであって、決して望ましいことではありません。

(4) 歴史的意義の把握

「それぞれの歴史的事象は有機的な大なる全体の発展の中の一部である。その一部が全体の発展に対していかなる地位を占めるか、即ち全体の因果的関係においていかなる要素であるかを考察する事が歴史的意義の把握である。これについてエドアルト・マイヤーの論じている中の最も適切な一節を引こう。

〈すべての歴史においてその影響を及ぼした範囲から見てアウグスッスの如き人格はない。ケーザルは非常に著しくより優れた人物であった。しかし彼の歴史的影響は彼の養子に比してなおただ一時的のものであった。世界がアウグスッスに服従した時、数世紀を通ずる古代世界のその後の発展は、ローマ帝国の将来の領域設定に関する彼の決意に基づくことになったが、そればかりでなくその決意の直接の結果からいまもなおドイツが存在したり、ローマ風民族とともにゲルマン風民族が存在したりするのである。なんとなればこの国家領域設定によって、ゲルマン族の永久的服従に必要であった程の規模の制服戦争が不可能になったからである。もとよりアウグスッスの決意は当時の形勢に影響されているが、しかしそれはその核心において彼の人格の発露であった。ケーザルなら同様の形勢においてもまったく異なった決意をしたであろう。アウグスッスはケーザルが国家に与えようと欲した領域を彼自身の自由意志から拒絶したのである(Ed. Meyer, Zur Theorie und Methodik der G. Kleine Schriften. 61-62)。〉

人物としてはケーザルの偉大にとても及ばないアウグスッスが、歴史的意義においては無比の地位を占める理由を論じたのである。それぞれの研究題目についてその歴史的意義を把握する事は、歴史の研究の最後の考察であるべきである。もっとも実際の研究においてはある題目について研究の要求を起す動機は、意識的にもしくは無意識的にそれに関する歴史的意義の直感的把握であろう。歴史は過去に対する現代の関心である。その関心がいずれの分野いずれの題目に向けられるかは各人において異なり千差万別というべきであるが、しかし各研究者にとってある題目に関心を向けるに至った基礎には、それに関するある程度の歴史的意義の認識があるべきである。それ故にある点からいって歴史的意義の把握は歴史研究の要求の出発点である。しかしある歴史的事象の歴史的意義を真によく把握する事は、勿論その事象その題目に関する精細な認識を得た後、それを十分に歴史の全発展の中にはめ込んで考察して漸く可能である。従ってこれを綜合の最後の作業とすべきである。」

歴史的意義の把握は研究に先んじて直感的に与えられているが、その意義を明らかにするためには歴史的事象の精細な認識を獲得し、またその事象を全体の中に位置づけて、当初の直感を説得力のある学的構成として提示しなければならないということでしょう。その意味で歴史の研究は、直感と実証とを往還し、スパイラルに進展して行きます。

「歴史の語を抽象的にただ過去の経過と見てまったく客観的な存在の意味に解すれば、それはもとより固定した普遍なものである。しかしそれは人間の意識する歴史そのものでなく、永遠に忘却の中に没し去って人間の思想と交渉のないものである。これに反し歴史の語を人間の意識する過去の意味に解すれば、それは決して固定的なものではない。歴史はいわゆる現代性をもち、現代の姿に従って意識する歴史が異なるのである。その意識する歴史が異なる所以は即ち過去の歴史事象に対する歴史的意義の把握が変化するからである。過去に対する歴史的意義は人間の生活の発展の現代の段階によって決定される。蒸気機関が非常な発達をするにいたってひるがえってその発明に人類の運命を支配したものとしての意義が附せられるのである。またヨーロッパの宗教的分離が社会万端の事に甚大な影響をもつにいたって、溯ってルーテルの九十五条のテーゼの歴史的意義に重要さが附せられるのである。これに反しその当時最も社会の耳目を聳動した表面的な事件は、その直接の社会においては大なる歴史的意義が附せられるのであるが、時代の進むに従いその後世への影響が僅少である時、その歴史的意義は僅少となる。一つの時代は常にその時代のもつ歴史的意義の把握があり、従って人間の意識する歴史は時代の進みとともに変化する。新しい時代の形態の展開が過去を見る角度を変えて行くのである。もとより人間の社会の形態が本質的に変化するものではない故に、歴史の意識が完全に変化する事はないのであるが、歴史の新しい展開が過去に対する新しい意識をつくるべき事は動かせない。即ち歴史が歴史をつくるのである。かくてエドアルト・マイヤーの歴史研究は溯行し、歴史記述は下行すという文句が生れるのである。この点から歴史研究には現代の立場から常に新しい歴史的意義の把握が試みられ、新しい問題が提供されるのである。とにかく歴史の研究において新しい歴史の意識の形態を規定するものは歴史的意義の把握であり、それは歴史研究の出発点でありまた到着点である。即ち歴史的意義の把握は直感的に歴史研究に先行し、実証的にその帰結となるのである。」

世代の交替が不可避であるように、歴史的意義の把握も、時代毎に、その時代固有の課題として更新されて行きます。歴史意識においては、継承されるものがあると同時に、必ず刷新されて行く面があります。「一つの時代は常にその時代のもつ歴史的意義の把握があり、従って人間の意識する歴史は時代の進みとともに変化する」ということを回避することはできません。冷戦時代の意識をそのままポスト冷戦時代に持ち続けることはできません。しかし、ファシズムと見紛う言説が横行するこの時代に、過去から教訓を学び取るという意味での歴史の研究は、歴史的意義の把握にとって重要な意味を持ちます。戦争の惨禍を忘却し、戦争賛美の過去を再登場させることは、決して新しい歴史的意義の把握ではなく、悪しき復古主義に過ぎません。過去と向き合うのではなく、過去の失敗を忘却して新しく当時の体制を復元しようとする試みは、文字通り無責任です。しかし、このような議論が歴史学的争点になってしまうところに、人間が意識する歴史の危うさがあります。

『歴史学研究法』の紹介はここで終わります。ここに簡略に描かれている歴史学の方法論が、「官製」のきな臭い歴史編纂のためではなく、民衆自らの歴史認識に役立つことこそが大切でしょう。「史料、史料批判、綜合」のプロセスは、決して非専門家の手の届かない、難しい仕事ではなく、規模の大小、精粗の差はあっても、誰もが日常的に行っている推理の延長に過ぎません。押しつけの歴史認識ではなく、歴史を民衆の手に取り戻すことこそが、今日また喫緊の課題となりつつあります。「集団自決」の記述を「改訂」した教科書の検定をめぐって、この間、沖縄県議会が二回に亘って抗議の議決を行ったことは、今日の問題の在り処を示しています。苦しくても向き合わなくてはならない過去を消去することは、決して美しい行為ではなく、そこに生きた人間を丸ごと抹消することです。歴史認識と歴史教育の主体が国家であるとき、そこには作為と誘導があります。そのような「動員の歴史学」から、我々は決然と脱却すべき時に来ているのではないでしょうか。


[ 上木敏郎『土田杏村と自由大学運動』

大正・昭和初期に文明評論家として活躍した土田杏村(1891〜1934)は自由大学運動の創始者として知られています。かつて私は、土田の自由大学運動、およびその生涯と業績の全貌を初めて紹介した、上木敏郎著『土田杏村と自由大学運動――教育者としての生涯と業績――』(誠文堂新光社、1982年)によって、大いに啓発された記憶があります。今日、国家による教育の統制が一層強められる傾向がある中で、大正期の自由大学運動を振り返ってみるのも無駄ではないでしょう。

ここでは「自由大学」の理念的な側面に触れるために第8章の「広がる自由大学運動」の数ページを引用してみます。

三年目を迎える信濃自由大学

〈信濃自由大学は創設以来聴講者全体によって維持され、特に規約らしい規約はなかったが、第三期(大正十二年十一月〜十三年四月)を迎えるに当たってその基礎を確立し、一層の発展を期するために「信濃自由大学会」という組織をつくり、規約を設けた。その規約によって杏村も理事の一人となり、理事の互選で猪坂が選任理事に就任した。

第三期講座の開講に当たって、『信濃自由大学の趣旨及内容』と題する二〇ページに及ぶパンフレットが作成された。

この中には杏村の「自由大学に就て」という書き下ろしの文章と、先にふれた恒藤恭の「信濃自由大学聴講生諸君!!」が収録されている。

「自由大学に就て」は次のような書き出しで始まっている。「教育とは、其れを受ける事により、実利的に何等かの便益を得る事にだけ止まるものでは無いと思う。我々が銘々自分を教育して、一歩一歩人格の自律を達して行くとすれば、其れが即ち教育の直接の目的を達したのである。生きるという事は、我々が生物として自分の生命を長く延ばして行くことでは無い。生きるとは人間として生きることだ。より理想的に生きることだ。しかし自分をより理想的に生かして行く主体は、自分以外の何者でも無く、自分は自分以外の何者からも絶対に支配せられないところに、人間としての無上の光りが輝く。此の人間の本分を益々はっきりさせ、人間として生きることは、即ち自己教育である。自己教育が即ち人間として生きることであり、人間として生きることが即ち自己教育である。」〉

教育とは自己教育であるということが、先ず宣言されます。それは人間は自分以外の何者からも支配されるべきではないという自律的人間観に根差しています。

〈なお杏村の以下の文章を要約してみよう。

右のような自己教育を達成するためには、それを可能にする教育活動の原理、さらに自己教育を実践する教育組織や制度、内容、方法の原理がいい加減なものであってはならない。教育の目的は人格の自律性を確立することであり、そのような自律的人格主体を形成することが教育であるが、人格の自律性の実現は、学校教育の終了とともにその追求が停止するというようなものであってはならない。自己教育は人間の生涯にわたる終生の課題だから、その課題を追求するためには、終生にわたる教育施設が不可欠である。ところで、人間は労働を離れて教育にだけ専心することはできない。したがってこの終生にわたる教育施設は労働と結合した教育施設でなければならない。「我々の学校教育は終生的のものだ。そして我々は一面社会にあって、すべて一人の例外も無く生産的労働に従事す可きものなるが故に、我々の学校は労働しつつ学ぶ其れでなければならない。労働しつつ学ぶ其れは最も理想的なる人間社会の生活だ。我々の学校は其処にある。」〉

ラングランの提唱した「生涯教育」は日本では土田杏村によって初めて唱えられたと言うことができそうです。

〈現在の学校体系は能力以外に経済的資力を必要とするから、経済的資力のないものは、教育の機会を保証されず、自らの能力を発揮し、向上させる教育を享受することができない。自己教育の機会は特定の人間や、特定の階級の専有物ではなく、民衆一般に対して平等に開かれていなければならない。そして、そこで行われる教育の内容は、現在の大学教育に匹敵する高い程度のものが要求される。「我々は、最も高い程度の教育を受ける機会を何人にも与えよと要求する。しかも其の最も高い程度の教育は、労働しつつ学ぶところの学校に於てでなければならないとする。」

しかし、このような学校は、大学拡張というような、温情によって上から与えられるといったものであってはならない。「我々は教育の自律を計らなければならない。結局我々の学校は、すべての点に於て我々自身によって組織せられ、支持せられる。」

その学校は特定の教育者を持つであろうが、われわれは誰もが、「何等かの方面に於て教育者であり、何等かの方面に於て被教育者であることを自覚して居る」。ただ一方的に教え、教わる、というのがこれまでの学校教育のあり方であったが、この学校では「討論もすれば、談話もするであろう」。このような個々の独立した学校は、組合を結成し、その組合は「前後左右に、積極的に教育組合の連盟を作る。下より上への連盟組織、其れはピラミッド型の一の独立した教育組合社会をつくる。此の全体の学校の理念を今より後我々は『自由大学』と呼ぼう」。そして最後に杏村は、この文章を、次のように結んでいる。〉

ここに書かれている「教育組合」の下からの組織という構想は、日本でも、また世界でも十分に実現を見ていません。college(団体、協会)あるいはcolleague(同じ官職ないしは専門職業の同僚)という言葉の原義からして、大学は本来、市民によって自ら組織された教育組合による「市民大学」であって然るべきものです。しかしそれは単なる理念に過ぎません。大学が資金を調達するためには、国家や財界などの援助を必要としており、市民的自治を大学の運営において貫徹することは極めて困難です。カルチャー・センターなども、行政、新聞社、百貨店などのサポートによって成り立っているか、大学などの既存の学校によって市民に開放されるエクステンション教育のレベルに留まっています。要するに一般市民は顧客、学習機会の需要者(消費者)であって、決してその供給者(生産者)ではありません。学習者は常に受身の立場に置かれることになります。

以下は杏村の文章の結びの部分です。

〈信濃自由大学は、恐らくは自由大学の理念を我が国に於て最初に実現した試みであったろう。其れは経済的にも精神的にも他の何人からも支持せられず、自由大学自身の組成者を以て今日まで健全に歩いて来た。我々はあらゆる困難にも拘らず既に完全に二箇年の試練に堪えた。三周年の記念日が我々の前に達した。我々は此れを我が国の教育界に一つの誇りとしてよいであろうと思う。信濃自由大学は、最初より妥協せずに『自由大学』の理念を追うて来た。其れはただの夏期大学や臨時講習などとは、根本的に組織を異らしめて来た。我々の自由大学にあっては、すべての講義が綜合的に連関し、しかも一年は次年と連関して行く。其の教育の程度も亦大学の名を辱めては居ない。

過去二箇年の経験によって我々の知り得たところでは、組成者の教育への要求さえ強烈であれば、自由大学の経営は決して困難のもので無いという事である。併し我々の過去は、すべての点に於いて完全を期することが出来なかった。殊に我々の苦しんだものは、第一に経済的資力の乏しかった事である。我々は今後全力を挙げて財力を充実し、多くの会員を得、其の設備を完成したい。その事がいかに悦ばしく我々の地方の生活を豊かならしめる事であろう。我々は今後益々我々の自由大学を我々の兄弟の中に宣伝しなければならない。

足場は既に出来上がった。我々の第一期の仕事は其の目的を達したのだ。我々は今や自由大学の第二期に一歩を踏み入れた。真の自由大学としての活動は此れからである。我々は全国の到るところに同様なる精神の自由大学が設立せられ、我々と提携し、連盟して進むにいたることを切望して已まない。〉

杏村の「自由大学」の構想とは果たしてどのようなものであったかが、理念的な意味で、ほぼ明らかになったと言えるでしょう。それは働く者たちが自分たちの地域で自らの力によって組織すべきものでした。そしてその運動は全国に波及すべきものでした。

「コメニウスに帰れ」

〈先にみた魚沼自由大学に引き続き、十一月には長野県下伊那郡飯田町に信南自由大学が創設された。信濃自由大学や魚沼自由大学の場合と同様、この自由大学も、やはり杏村の同地への来訪が機縁となって成立したものである。

杏村がこの地に講演旅行に来たのは前年(大正一一年)の夏のことであったが、当時下伊那地方では、青年たちの間に活発な社会改造の気運がみなぎっており、ことにこの大正一一年という年は、「下伊那文化会」や「下伊那自由青年連盟」といった組織が結成されるなど、同地方の青年運動史上、画期的な年であったといってよい。下伊那文化会というのは、この年の春、羽生三七と代田茂の二青年が、早大文化会主催の社会問題講習会に出席するため上京した機会に山川均らの影響を受け、帰京後、下伊那郡の青年同志十数名と共に結成した組織であるが、これを母胎として、約三〇〇名の会員を結集して九月、下伊那郡自由青年連盟が結成された。そして、更に翌一二年(一九二三)一月「社会革命の遂行を期する」ためにその戦闘的中核としてLYL(Liberal Young League)が組織された。以来自由青年連盟とLYLは下伊那郡青年会に大きな影響力を与えながら、大衆的な政治的示威運動などを積極的に進めていった。

堺利彦や山川均、荒畑寒村らを中心に日本共産党が結成されたのはこの年(大正一一年)であり、山川の影響を最も強く受けた羽生三七を中心に結成された下伊那自由青年連盟が、この陣営に対して強い親近感を抱いていたであろうことは、次の「宣言」などからも容易に想像される。

「全世界の過渡的混乱の反映をうけたわが国の思想は、総てに病的徴候を呈している。この症状を最も明白に現わしているものは、現代青年の頽廃的官能的思想である。或は哲学的逃避となり、或は宗教的退嬰となって、全社会に瀰漫している。我々は既成青年会にこの傾向を観取することができる。この唯心的消極的傾向に反抗して、あくまでも実際的に現実的に歴史の必然を信じて、積極的行動に出でんとするものである。後者の立場に立脚して新文化の建設に努力すべく猛然として蹶起した我々青年有志はここに自由青年連盟を組織せんとす。而して我々の標榜する所は政治上経済上社会上の諸問題に対し、徹底せる批判と行動に出でんとす。年齢を問わず熱烈なる新社会の建設者は来れ。」

この宣言文を盛り込んだ趣意書が配布されたのが八月であり、発起人一〇名のうちには横田憲治の名前が見えているところから、あるいはこの時ちょうど来合わせていた杏村も、この趣意書を見ているかもしれない。この時杏村は横田憲治、平沢桂二、須山賢逸の三青年に会っているが、この三人こそ、翌年成立する信南自由大学の中心的存在となるのである。

杏村の下伊那地方での講演が、下伊那郡青年会の招きによるものであったことはすでに記した通りであるが、当時下伊那郡青年会長をしていたのは平沢桂二である。平沢もまた自由青年連盟およびLYLには最初から参加していた。

横田憲治と平沢桂二はしかし、この年の秋、自由青年連盟とLYLを脱退している。

平沢の後を受けて、この年下伊那郡青年会長になったのが須山賢逸であった。

横田と平沢が自由青年連盟やLYLを脱退した詳しい経緯はわからないが、少なくとも内面的にはこれらの組織の行き方に対する批判が動機の一つとなっていたものと思われる。彼らがこれらの組織から離脱してゆく過程は、同時に、杏村の理念に基づいて展開されてきた自由大学運動への傾斜の過程でもあったろう。横田、平沢、須山の三人はすでにこの年の春、猪坂直一や高倉輝を訪れて自由大学の趣旨や経験を詳しく聞いている。恐らく横田らは猪坂を介して、杏村に対する関心が一層深められたのではあるまいか。

当時信濃黎明会と信濃自由大学の運営を担当していた猪坂の証言によれば、ちょうどこの頃、自由青年連盟側からの働きかけがあったとのことである。彼は「土田杏村と自由大学」(一九七八年五月『信濃白樺』)の中でこう言っている。「……大正一二年の春、伊那郡の自由青年連盟の指導者荒井邦之介、羽生三七両氏及び早稲田大学助手の市村今朝蔵氏の訪問を受け、私を含めて、信濃黎明会有志の自由青年連盟への加入を勧告せられたことがある。上田市内の或る秘密の場所で、殆んど夜を徹しての話し合いであったが、私は入党を固く辞すると共に、乏しいながらも私の社会思想に対する愚見を率直に述べたところ、訪問三氏のうち最も激越なマルキシスト荒井氏との間ではげしい論戦となった。その時荒井氏は“貴下の言うところは結局土田杏村の受売りだ”ときびしく批判され、これに対して私は“いかにもその土田氏の社会思想こそ信濃黎明会及び自由大学々生の多くの信条とするところだ”と反論して屈しなかったことを憶えている。」

横田らは、その後信濃自由大学の猪坂や山越らと緊密な連絡をとりながら、新しい自由大学の創設を計ることになるのである。〉

以上の記述によって、どのような社会的状況の中で「自由大学」が組織されるに至ったか、また当時の杏村の立ち位置がどこにあったかを垣間見ることができます。

〈大正一二年(一九二三)一一月、横田、平沢、須山の三人を発起人とする『信南自由大学趣旨書』が郡下の青年たちに配布され、また『信濃時事新聞』などの紙上を通じて、自由大学への参加が呼びかけられた。この趣旨書は「設立の趣旨」「組織及内容」「講師及担任講座」「開講及申込の時期」からなる全六ページのパンフレットであるが、「設立の趣旨」は信濃自由大学の場合と同様杏村の執筆になるものであり、そのことはこの新設の自由大学もまた、杏村の教育理念を基軸とするものであったことを示している。左に「設立の趣旨」の全文を紹介しよう。

「現在の教育制度によれば、学習の能力さえあるものならば、小学から中学、高等学校、大学と、何処までも高い教育を受ける事が出来る様になって居る。此の学校系統は、早く既に一七世紀に於て、コメニウスの創建したものであったが、彼の創建の趣旨とするところは、個人の稟賦を何処までも完全に伸張し、我々の持つただ一つの要求もその儘に萎縮させられてはならないという事であった。然るにその後各国の制定した学校系統は、此の肝要なる趣旨を忘れ、其の創建した学校系統の形式だけを無批判的に踏襲する傾向を示した。いかにも此の制度の形式は、すべての民衆に教育の機会を与え、最高学府としての大学は其の門戸を何人にも開放して居るではあろう。併し其の教育を受けるためには、人は莫大な経済的資力を必要とする。其の莫大なる教育費を持たないものは永遠に高い教育を受ける機会を持たず、結局高い教育は有資産者のみの持つ特権となるのである。

今や全国の教育は、コメニウスの学校に帰らねばならぬ必要を痛感しはじめた。其の結果として、理論的には社会的教育の思潮が盛んとなって来るし、事実的には成人教育の運動が前世紀に比類の無い発達を示した。そしてコメニウスの学校の本義から言えば、民衆が労働しつつ生涯学ぶ民衆大学、即ち我々の自由大学こそは教育の本流だと見られなければならぬことが、強く主張せられるに至った。

教育は、僅か二〇年や三〇年の年限内に済むものでは無い。我々の生産的労働が生涯に亘ってなされねばならぬと同じ理を以て、教育は我々の生涯に亘って為される大事業である。教育により自己が無限に生長しつつある事を除いて、生活の意義は無い。従って教育の期間が、人生の中の或る特定の時代にのみ限られ、其の教育期間には、人はすべて農園と工場とより離籍することは不自然であると思う。我々は労働と教育との結合を第一に重要なるものと考える。マルクスは、幼年者の労働には必ずしも反対せず、其れにより労働と教育とが結び付けられ得るならば、却て悦ぶ可きことであるとさえした。我々は労働しつつ学ぶ自由大学こそ、学校としての本義を発揮しつつあるものと考える。自由大学は補習教育や大学拡張教育では無い。

我々の自由大学は、最も自由なる態度を以て思想の全体を研究して行きたい。講師の主張には種々の特色があろう。併し教育は宣伝ではないから、我々の大学の教育は団体として特に資本主義的でも無ければまた社会主義的でも無い。其れ等の批判を、自分自身で決定し得る精神能力と教養とを得ることが、我々の教育の眼目である。我々は飽くまでも其の自由を保留し得る為めに、すべての外的関係とは没交渉に進んで行きたい。我々の自由大学こそは、我々自身が、我々自身の力を以て、我々自身の中に建設した、最も自由なる最も堅固なる一の教育機関である。」

この杏村の文章について、宮坂広作は『近代日本社会教育の研究』(一九六八年、法政大学出版局刊)の中で、「戦前日本にあって社会(成人)教育に関して語られたもろもろの提言の中で、もっともすぐれたもののひとつ、記念碑的な文書として高く評価」している。〉

この杏村の文章は確かに日本教育史上における「記念碑的な文書」であったと言えます。その理想に照らして、今日の教育は一歩半歩も前進していません。それどころか、却って、その理想に逆行する政策が強力に推進されています。教育は今もなお権力者の人民支配の道具とみなされており、また学校教育は格差を助長する手段と化しています。

杏村の教育論とラッセル

〈当時杏村の教育論ないし社会改造論に最も大きな影響を与えていたのは、恐らくバートタンド・ラッセルであったろう。マルクス主義とアナキズムとの統一といったような着眼もラッセルから学んだものと思われる。

自由大学において、杏村は教育を宣伝と混同することを厳しく戒めているが、この教育と宣伝との峻別についても、ラッセルの著書から教えられるところが多かったのではあるまいか。大正一一年一二月号の『文化』の「北窓抄録――読書雑感」で杏村はバートランド・ラッセルの講演を筆記した『自由思想と公的宣伝』(Free Thought and Official Propaganda, 1922)を取り上げ、「全国の学校教師諸君」は「我国のつまらない大きな教育書などを読まれるよりは、此の小冊を読む方がどれだけ豊かに魂の糧となるか知れない」として推奨しているが、さらに翌大正一二年一月号の『文化運動』に執筆した「自由教育の功過」の中でも同書について述べ、「……丸善で九十銭で売って居る。我国の大きな教育の本などを読むよりはずっと効能がある。ラッセルは殊に我国の教育を批評して居るのだ。僕は嘗てポオル氏の『プロレットカルト』(*)という本を初めて紹介したことがあるが、今のラッセル氏のは其れよりもう一倍すべての人に読んで欲しいと希って居るものだ」と言っている。

* イギリスのマルクス主義者ポール夫妻(Eden & Ceader Paul)の、教育における階級闘争を論じた『プロレットカルト』(“Proletcult - Proletarian Culture, 1921)を、最も早くわが国に紹介したのが杏村でした。杏村の教育論は、この150ページに満たない小著であって、しかも労働者の教育について全面的に論じた画期的な著述に負っています。また「自由大学運動」もまさに「プロレットカルト」の一環であると考えられていました(本書p.104-105参照)。

右の杏村の紹介文の大要は次の通りである。ラッセルは資本主義国アメリカの教育が、いかに教育の内容に対し、また教育者に対して圧迫を加えているかを指摘している。「其処では、社会変化の理論を論ずるもの、現在の社会制度を肯定しないものは教職を去らなければならぬ法律を制定した。だからラッセルは冷笑する。若しそうだとすれば、基督やジョオジ・ワシントンは学校では教えられてはならないことになる。」しかし、この圧迫は「資本主義国家にのみ固有の現象ではな」く、社会主義国家、例えばソビエト・ロシアにもそれがある。「ラッセルは入露した時、ペトログラアドで有名な詩人アレキサンダア・ブロック氏に逢った。ボルシェヴィキは彼に美学を教えることを許した。しかしボルシェヴィキは、其の美学は『マルクスの見地に立って』講義されなければならない」というのである。「我国のいわゆるプロレタリア文芸論者には大悦びな註文であろう(*)。ブロックは飢餓を避けるためには、リズムの理論をマルクス主義と結び付けて論じなければなら」ないことになった。「其れが果たして出来る途であるか。ブロックは其の後窮乏の為めに死亡した。」

杏村によれば教育は、資本主義の教権たると、社会主義の教権たるとを問わず、およそ一切の教権から独立すべきものであった。〉

* 杏村は早くからプロレタリア文学に大きな関心を寄せていましたが、それらの作品には、マルクス主義の理論をむき出しにし、作品はその上着になっているだけという生硬なものが多く、また同時に、作者自身の人間性の深みからほとばしる気品を感じさせる作品は至って少ないと感じていたようです。しかしたまたま知り合った若き農夫、渋谷定輔の詩に深く感動し、その詩集の巻頭に「プロレタリア詩の意義」という三二〇〇字の序文を書いています(本書p.133-134参照)。

教育が時の権力から圧迫を受けず、民衆自身によって自主的に運営されるなどということは、実際にありうることなのでしょうか。「教権」からの独立という教育の理想は、いつの世も理想に留まっていて、その結末は「ソクラテスの死」によって予示されているということもできるかも知れません。「自由大学運動」自体がやがて大きな困難に直面することになります。しかし人間の潜在的可能性に希望を托し、そこに未来の世界を見出そうとする立場からすれば、簡単にその理想を手放すことはできません。教育基本法が改悪されても絶望することはできません。それでもなお、もう一度、教育のあり方に思いを潜め、教育に本当は何が求められるべきかを考えようとするとき、「自由大学運動」は、我々に一つの示唆を与えてくれると言えるでしょう。


\ 尹健次『日本国民論』

この夏、尹健次(ユン・コォンチャ)の『日本国民論 近代日本のアイデンティティ』(筑摩書房、1997年)を読みました。内容を一覧すると以下の通りです。

T ナショナル・アイデンティティの探求 吉田松陰論

U 天皇制国家創出期の立憲国民論 小野梓にみる思想展開

V 「帝国臣民」から「日本国民」へ 国民概念の変遷

W 戦後思想の出発とアジア観 和辻哲郎・丸山真男・竹内好を中心に

X 戦後歴史学のアジア観 アジア認識の変化

Y 国民国家の形成と少数派 「少数派」の意味

Z 「日本国民」という落し穴 戦後日本の思想と教育に関連して

在日の研究者として著者が何を問題にしてきたか一読して了解されました。それは取りも直さず「日本国民」たる「日本人」への鋭い問いかけでもあります。ここに「国民国家の形成と少数派」という論文の結語部分を引用すれば、次のように書かれています。

〈いま「日本」のことを考えるとき、一九七〇年代以降、日本が徐々に「経済大国」と見なされていくなかで、おそらく「豊かな」消費生活の享受とも関連してであろう、「ボーダーレス」という言葉が少しずつ流布していった。そこにはいとも簡単に国境を飛び越えて世界の人びとと交わり、世界全体の生活を潤す展望を示しうるかのような響きがあった。しかし資本が国境を越えて利潤を追求し、日本の技術革新が世界に波及してはいっても、日本人の「同質性信仰」が大きく改善され、アイヌや在日朝鮮人・外国人労働者その他の少数派との共生が実現されてきたというわけではない。むしろ現実には、日本国内の少数派は、天皇制を基軸とする近代日本の国家形成のいびつさを顕現し、日本人の排他的な民族意識の歪みを如実にさし示すものとして存在している。つまり、日本国内の少数派は、近代日本の内外にわたる植民地政策、および差別・抑圧政策の「生きた証人」としていまなお存在していると言ってさしつかえない。このことは、日本社会の差別構造が、日本人の多数派から「内なる他者性」という視点を排除することによって成立しつづけてきたことを意味する。

少数派はそれ自体、近代資本主義の構造的産物である。事実、現代社会において少数派は、国境内に封じ込められた自由・平等・民主主義、そして国民国家の名で掲げられた人権の抽象的普遍性の欺瞞性を暴き、国民国家の底辺から一国主義的な法制度や思考、国民文化の普遍性といったものを否定する役割をになっている。いわば少数派の存在は、国民国家システムに固執した政治社会のあり方や「同質性」幻想の虚構性を象徴するものである。弱者・少数者の側から言うなら、少数派は自らアイデンティティの確立に苦悶しながらも、そうした国家・社会の矛盾の体現者として、社会変革の担い手であることを自覚する必要に迫られている。また強者・多数者の側に即して言うなら、多数派は批判精神をもち、自らが「少数派」になる勇気をもつことによってのみ、はじめて弱者・少数派に合流し、かつ真実の生の喜びと意味を勝ち得ることができるのではないかと思われる。

すなわち、「少数派」の問題とは、たんに一定の枠組みからつまはじきにされた政治的ないし経済的弱者や文化的な異質者にかかわる問題ではなく、まさに歴史的に蓄積されてきた政治社会システムの矛盾構造そのものにいかに対処するのかという問題であり、さまざまな少数派がもっている“差異”をいかに承認しあうのかという問題である。当然、「少数派」にどう向き合うかということは、少数派自身にとってはもちろんのこと、多数派にとっても、いかに生きるべきかということに直結する「思想」の問題であり、したがって少数派であることを自覚し、あるいは少数派になるということは、生の多様性、文化の多元性を身をもって示し、他者とともに生きる喜びを自らのものにするということである。

それは換言するなら、国民国家システムに支えられたナショナル・アイデンティティに自覚的に対峙しつつ、国家を超えた、あるいは国家にとらわれない、政治的・文化的に多様で多元的な状況創出を可能にするアイデンティティをいかに獲得していくかの問題でもある。もとより、その方向性は、国境という枠組みとは区別される地域に根付いたアイデンティティの追求であり、あるいは、地球上のすべての人びとが自らを「地球人」ないし「外国人(漂流民)」と定義するアイデンティティの追求であるとも思われる。当然、このような考えにたつとき、そこに少数派の敗北、したがって思想の敗北ということはありえず、かつての少数派の闘争が世界の歴史において光り輝いているのと同じく、今日の少数派の生きざまも、いずれは歴史において光り輝くものとなるはずである。(p.237-238)〉

「国民国家」の閉鎖的なシステムが一層強化され、愛国心が強調されようとしている今日、尹健次の指摘は我々が忘れがちな視点を与えてくれます。それはそのシステムから排除されている人たちがこの「列島=劣島」に厳然と存在しているという事実です。私の言う「脱国民的」な視点に立つということは、取りも直さず弱者・少数者(劣位者)の側に立つということであり、多数者(優位者)は、自己批判においてのみ、その人たちと連帯しうるということを意味しています。それは「内なる他者性」の発見のプロセスでもあります。

新約聖書には、「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」(ヘブル11:13)と書かれています。自ら「地球人」であり、また「外国人(漂流民)」、すなわちエトランジェであると自覚しつつ生きるということは、そのような聖書的人間観に通じるものがあると言えるでしょう。


] 京極純一『植村正久 その人と思想』 その1

かつて読んだ京極純一著『植村正久 その人と思想』(新教新書、1966年)はなかなか考えさせる内容を含んでいる本です。この日本の社会で「教会」とは何であったか、また何でありうるかを考えようとするとき、無視できない問題提起がなされているからです。それは単に「教会」の問題には限定されない、日本における「結社」のあり方に関わっている事柄でもあります。小冊とはいえ、この本の全体を紹介することは省略して、ここではその最後の「教会論」の部分を取り上げることにします。

この本の目次は以下のようになっています。

序 章 問題の限定

第一章 その生涯

第二章 独立と創開――志の神学

第三章 自由と進歩――その実践神学

第四章 伝道と牧会――その教会神学

終 章 残された問題

あとがき

第四章の「伝道と牧会」に入る前に、その前に書かれていたことを瞥見する意味で、第三章の最後の節を引用します。

「さて、前章で指摘したように、植村正久において、「日本の過去」を「日本の将来」に展開するものは、個々人の次元においては、「志」あるいは「剛健なる改革の精神」であった。しかも、本章で指摘したところから明らかなように、人類連帯のなかの日本社会にとっても、「進化はこの国の純美存する所」であり、「自由進歩の精神」が、その「天職」の基礎であった。その限り、個人の次元と国民の次元とにパラレリズムが存在する。そして、このパラレリズムが、前述したように、植村正久をして、一方で「身分」によって維新政権と「天皇制」とから距離を保ちながら、他方なおも「日本」と――まさにその「将来」において――同一化し、かくして、自己の使命と国民の使命とを統一的に捉え、「伝道」と「木鐸」活動とを統一的能動的に行なうことを可能にした機制であったわけである。しかしながら、植村正久において可能であったことが、他の人間において自動的に再生産されるとは、もちろん、限らない。この場合、「改革の精神」においては体制再流動化を導き出すべきである、ということが「木鐸」としての責任ある判断であるとすれば、事実として彼自身と同じ志向をもつ人間の再生産が、彼にとって中心課題とならざるをえないであろう。そして体制閉塞下の日本社会において「自由進歩の精神」を、事実として、担うものが「進歩の源泉」「自由の郷」である「教会」(1893、全集5、p.435)しかなく、「キリスト教の振わざるは進歩主義の振わざるなり。進歩主義の振わざるは邦家衰退の兆なり」(1894、全集5、p.68)というのが彼の判断であれば、「伝道者」としての立場からのみならず、「社会の木鐸」としての立場からも、植村正久にとって、「伝道」が中心的な実践的課題とならざるをえない。このようにして、「伝道」は彼にとって、すぐれて、「運動」の世界となり、その「政治思想」という次元への射影としての「教会論」は彼において二重の意味で「運動論」に当たることになる。以下章を改めて彼の「教会論」をとりあげることにしたい」(p.113-114)。

植村にとって「教会」は社会運動を生起せしめる「源泉」の位置を持っていました。伝道は「社会の木鐸」(社会的実践の教導者)としての活動と相即すべきものでした。すなわち植村にとっての「教会論」は「運動論」であったというのが、この本での京極の主眼点であると言えます。なお、植村からの引用で「全集」とあるのは『植村正久全集』のこと、また「時代」とあるのは佐波亘編『植村正久と其の時代』のことです。

第四章 伝道と牧会――その教会神学

「植村正久にとっては、「伝道」が中心的な実践的課題であり、従って「政治思想」という次元への射影においては、彼の「教会論」は、通常の政治思想においていわゆる「運動論」に当たるものであった。以下では、「運動論」という視点から資料をえらんで、植村正久の「教会論」を、第一にその「原理論」、第二にその「戦略論」という順序で、紹介することにする」(p.115)。

運動論について、かねて私は「原理論・組織論・運動論」として捉えてきました。これを京極の用語法に当てはめるなら、原理論(教義学)・組織論(教会論)・運動論(戦略論)となります。ただしその全体が「教会論」(運動論)であると見なすことができます。なお京極はここで組織論をも含めて「原理論」と言っています。

   

「まず第一に、植村正久の「教会論」においていわば「原理論」に当たる部分である。彼は大衆的規模における宗教組織の展開を志向したのであったから、この原理論としては、まず、教会と教会形成とが原理的に肯定されることになり、いわゆる「無教会主義」が原理的に否定されることになった。さらに、植村正久にとって、この教会は「自由教会」でなければならなかった。そして、この「自由教会」から、教会の政治的自由のみならず、その「自主独立」が帰結することになった」(p.115-116)。

教会は政治的に「国教」とは区別される自由教会であると共に、経済的な意味でも「自主独立」でなければならないということが植村の教会観でした。

「さて、植村正久が、教会と教会形成とを原理的に肯定した、という契機について説明すると、まず第一に彼がプロテスタントであったことを忘れてはならない。従って、植村正久の場合、教会は「キリストの権威を翼賛すとも言うべき一つの機関」であっても、「教会は自己において威力を有するものでない。決して本源的勢力でない。そ〔キリスト〕の光を反射する月の如きに外ならぬ」(1915、全集4、pp.429-430)ものであった。そして、彼によれば、教会の第一の目的は礼拝、第二の任務は伝道にある(1901 霊性の危機 全集6、pp.103-117)。そして、「世界は救われんことを待ちつつあり。教会この救いを拡充し、神国の経綸を実行するの機関たり。……キリストは確かに救世の事業には教会の設立を必要とせられたり」(1897、全集5、pp.451-452)という文章が示すように、人間が神の事業に参与する機関としての教会のもつ基本的任務は、とくに開拓伝道地という状況において、「伝道」であった。従って植村正久からいえば、「キリスト者は孤立を許さぬ。キリストの兵営に入りて相当の隊伍に編成せられねばならぬ」(1919、全集3、p.210)という結論にならざるをえない。「他の同志と相提携して〔キリストに対して負うところの〕責任を分かち、憂苦を共にするの精神」(1897、全集5、p.450)が、前章の説明から明らかなように、キリスト者の信仰に当然に伴うはずであるからである。このようにして、植村正久において、教会は「聖霊の友交を本とせる兄弟的結社」(1899、全集4、p.356)、「キリストにおける志を同じうするものどもの集団」(1915 祈の生活 全集6、p.22)であった。しかも、彼の場合のように、「福音を宣伝するの精神は教会の生命」(1903、全集6、p.98)であり、伝道が「世の終わりまで」いわば永久運動として継続されるべきものであるとすれば、伝道が結社としての教会の成員共通の責任事となり、その限り、教会員の伝道への関心は市民の政治的関心と、まさにパラレルの問題ともなるであろう。彼の言葉でいえば、「国家の事を挙げて、これを少数なる専門政治家に委託するは善きことなるや。伝道のことまたこれと異なるの理あらず」(1892、全集5、p.201)ということである(*1)。以上要するに、植村正久における教会は、教会類型論でいえば、受動的な信徒に救拯を施与する管理機構(教会型)でなく、能動的な信徒が作り伝道に向かって開かれた自発的結社(教派型)であった(*2)」(p.116-117)。

*1 もっとも、このパラレリズムが、双方の世界を通じて、自発的能動性の欠如の方向において成り立っていたのが、閉塞体制下の日本社会の実情であったから、植村正久も次のように慨嘆せざるをえなかった。「日本キリスト教徒が伝道さるるに満足して、自ら伝道するの気象の乏しきは、四面敵を引き受け、同胞罪に亡ぶるを眼前に見るものに似合わず。キリストの前において深く耻ずべきことなりと謂わざるべからず」(1901 霊性の危機 全集6、p.115)。そして、後述するように、伝道の「志」の再生産が彼の教会論の中心テーマのひとつである。

*2 Ernst Troeltsch, Die Soziallehren der christlichen Kirchen und Gruppen, 1922 参照。

植村の教会論がトレルチの言うキルヘ(チャーチ)型のそれではなく、ゼクテ(セクト)型のそれであったということは、確かにその通りでしょう。そしてその「自発的結社」としての教会を担うべき主体は、あくまでも「志」を有する個々の信徒であるべき筈のものでした。しかし日本における「教会形成」は植村が考えたようには進展しませんでした。京極は「閉塞体制下の日本社会の実情」に言及します。確かにそれは無視できない側面ですが、同時にここで言われる「伝道」が何を意味しうるのかという、本質的な問いかけも必要となるでしょう。まさにその点に今日まで続く問題があるからです。

「さて、このようにして、結社としての教会が「人の霊性を救うの砲台」「社会を防御するの要塞」(1901 霊性の危機 全集6、p.114)として意味づけられる以上、「無教会主義」は、彼によって原理的に否定されることになった。この点について彼の文章を引用すると、「教会の設立を難じ、自ら一身を快とすることのみ汲々として、団体に対する責任を重んぜず、独り退いて神と交わり霊性の修養を務めて、キリストの意を得たりとなすが如きは、大いなる非事(ひがごと)なりと謂わざるべからず。これ己が智もってキリストに優るものありとなすに等し」いもの(同上 p.105)であり、「信仰は孤立すべきものに非ず。孤立して栄えんこと思いも寄らず。他より受くべき利益を曠う(むなしう)するの気遣いあるのみならず、我もまたキリストより受けし賜物を他の人々に頒ち与うべきの義務責任あることを思わざるべからず。……他より受けず、また他に与うることを拒絶す。かくの如き傲慢なる精神はキリスト教の主義に背戻すこと甚だし」いもの(同上 p.106)であった。従って、植村正久からみた場合、「いわゆる無教会主義者などと名づくる輩は国家における無政府主義者と同様で、霊界の乱臣賊子、獅子身中の虫、精神上の病的分子」(1911、全集4、p.480)、「精神界の虚無党」(1915、全集3、p.3)、「左道」(1916、全集4、p.430)であり、決定的に否定されるべきものとなった(*)」(p.118)。

* なお植村正久は、この他に「無教会主義」について「この世界とこれに住する吾が身および他人の地位、性質程度のいかんを察せず、妄りに理想にのみ走りて教会のうちに玉石のともに混交するを忌み嫌い、漫然清教徒を気取りもしくは非教会の孤立主義を執らんとするものも、同じく火急躁進の熱疫に侵されたりと謂わざるべからず」(1893、全集1、p.17)、また「世には洗礼も聖晩餐も教会も要らぬと言う者もある。しかもこれは非常な間違いである。宗教には具体的なもの必要である。殊にキリスト教は個人主義でないから、多くのものが集まって親しくパンを裂くというようなことがなくてはならぬ」(1909、全集2、p.509)と述べている」(p.118-119)。

ここでの植村の判断は、いわば健全で、かつ常識的です。教会は「公的」であって、そこに一個の社会生活が成り立っています。そこには実に様々な人が集います。徒にピュア、純粋であることを求めるのは、社会生活の実情に即していません。さらに、洗礼や聖晩餐というサクラメント(秘跡、聖礼典)も、宗教には「具体的なものが必要である」という理由から不可欠なものとされています。キリスト教という宗教の成り立ちを考えるとき、それ以外の結論が出て来るとは思われません。しかしこの当然視される教会観に対して、敢えて疑問を投げかけたところに、内村鑑三の生き様、あるいは問題提起のラディカルさがありました。今日、洗礼を受けた者のみが聖餐に与るという、これまでは当然とされてきた教会の「常識」を覆し、「オープン・コミュニオン(未だ洗礼を受けていない人でも、希望すれば聖餐式に与れるということ)」を執行する教職者の存在が問題視されています。それは、教会のサクラメントが、事実上キリスト者の閉鎖的な共同体をつくり上げてきたことへの、根本的な疑問が生れてきたということを意味しています。形式論理的に言えば、そのような教職者は教会から除名されて然るべきでしょう。教会の「教憲教規」に従うのは、いわば教会に属する者の当然の「義務責任」であって、それに従えない者は教会から離れるほかはありません。しかしその結論に導かれることは、教会はそもそも不寛容で、閉鎖的な集団であるということを宣言するに等しいでしょう。教会とは時代の空気を吸うことを拒否して、ひたすら自己の「教義(原理)」に固執する集団であるということになります。しかしそのような教会論はそもそも植村が意図していたことではありませんでした。京極がここで無教会主義を持ち出してきたのは、後の議論の伏線としての意味を持たせたかったからではないかと思われます。

   

「さて第二に、植村正久の教会論は、教会の歴史的社会における存在様式に関して、「自由教会」を原理とするものであった。そして、まず、最初に、植村正久によれば、「この世」の中にある教会は、「国家の抑圧、支配以外に立」つという意味の「自由教会」(1900、全集5、p.569)でなければならなかった。この場合、教会が自由でなければならない原理的根拠は、前にも述べたように、彼において、神への義務にあった。すなわち、「キリスト教徒は徒らに個人主義に基づきて権利を主張せず。儼然たる上帝に対するの義務を重んずるに由りて、良心の自由を固執し、信仰の権利を維持し、神と人との別を明らかにして、世に立たんことを期するなり」(1893、全集4、p.208)。このことを裏返してみれば、キリスト者には信教の自由を実際的に擁護する義務を信仰によって負うているということである。そして、この擁護の活動は、彼によれば、前述してきた「進歩」にも通じるものであった。「信教自由の大義を明らかにし、教会自治の権利を主張し、毫もこれを侵害せられざるよう細心注意するは、キリスト教徒にとりて安全の道なるのみならず、国家の進歩、人心発達のためにも甚だ必要なることなるべしと信ず」(1900、全集5、p.567)(1912、全集4、p.368)。何となれば、彼においては、「奉教ノ自由ハアタカモ諸自由ノ王ノ如キモノ」(1882、時代2、p.366)であったからである。そして、教会がこうした「自由教会」であるための制度的保障について、植村正久は、教会が「官府」と「無保護・無監督」(1899、全集5、p.562)の関係に立たなければならないとしていた。植村正久がこの点についてもっていた具体的な制度論は、たとえば、一八九九年暮第一四帝国議会に提出された宗教法案に対する彼の批判から、窺うことができよう(*1)。この法案批判の中で彼は「今直ちに修正を加えざるべからずと思う数点」として次の三点をあげている。簡単に引用すると、まず「教会の権能自治」については、「心霊上の事柄、礼拝、聖礼典、教職の任免、会議の召集開閉等につきては、毫も国家の干渉を容るべきにあらず」と批判した。「特に勅令をもって教師の資格を定むべしとある条の如き、第一に刪除すべきものなり」。何となれば、「キリストの教会は学校卒業の有無にかかわらず、バンヤン、ムーディーの如きものを崇めてこれを牧師となすを憚らざるべし」という性質の事柄であり、「剥奪公権者および停止公権者は牧師となることを得ずとある如きも、刪除するを適当とす」。「教会は非常なる場合において公権を剥奪せられ、もしくは停止せられたるものを挙げ、キリストの名において教師たらしむるの権利を有す」と述べている。また第二に「集会の自由を妨ぐるの点を修正するを要す」と批判したのち、第三の点として、「宣教に従事するものをして政治上の意見を発表し、その他政治上の運動をなさしめずと法案の第三十七条に定めたる如き、宜しくこれを削除すべし」。「牧師にして少しも政治上の意見を発表する所なくんば、時としては天に対して曠職の罪免れ難きものあらんとす」と批判している(*2)」(p.120-122)。

*1 この宗教法案の経過については「時代2、pp.440-504」参照。同法案は山県内閣によってまず貴族院に上程され、翌一九〇〇年二月同院において否決された。以下の引用は「宗教法案に付きて」(1900、全集5、pp.567-575)という文章からのものである。

*2 植村正久と「官府」との交渉について述べると、一九一二年二月内務省主催で開催されたいわゆる「三教合同」の際、植村正久は第二回目の海外旅行のため不在であった。「三教合同」については「時代2、pp.702-726」参照。しかし、一九二四年二月首相官邸で開かれた「国民精神作興懇談会」に植村正久は出席した(この時の彼の発言の新聞報道が「時代5、pp.134-138」に出ている)。

植村は「教会」を日本の「近代化」あるいは「民主化」の砦であると見なしていたのだと思われます。教会は「官府」に対して、@組織運営面での自治権を有し、A集会の自由は妨げられるべきものでなく、Bたとえ政治的運動に関わる事柄であっても、牧師の言論の自由は保障されるべきであると主張しています。この「自由教会」の理念は神(上帝)にのみ従う教会が決して失ってはならない義務であると考えられていました。「国家の抑圧、支配以外に立」つという意味の「自由教会」という思想が、植村の教会論の骨格をなしていました。西洋近代社会の「精華」をそのような形でつかみ取ったところに植村の偉大さがあったと言うべきでしょう。それは剛健な近代精神と言うべきもので、その後の教会がたとえ様々な実践的思想的試練を味わうことになるとしても、この「信教の自由」、「良心の自由」という原理は、今日なお重要な意義を持ち続けています。

「植村正久において「自由教会」という原理は、第二に、教会の「自主独立」を意味するものであった。そして、この「自主独立」は、教会の財政的な「自給独立」および組織上のまた実質的な「自主独立」を意味するものであった。以下ではまず、財政的な「自給独立」から説明することにする。さて、植村正久が、教会の自給独立の強い主唱者であり、教会と伝道の展開に必要な経費は、他より援助を受けず、教会の自弁するところでなければならない、としていたことは、有名な事実である。もちろん彼が原理的に排外主義的であったわけではなく、たとえば「正しい賢い後腹の病めぬ健全な美わしい寄付ならば、アメリカだろうが、天竺だろうが、主の名においてする愛の寄付は受けて差支えない」(1905、時代4、p.521)と言葉も残っている。そして、前述したように、キリスト者の連帯が信仰上当然のことであり、しかも、キリスト者の連帯が国籍をこえて成り立つものである限り、財政的自給独立の強調には、別の理由づけが必要とならざるをえない。植村正久においては、それは(前出のナショナリズムと日本キリスト教の使命とにおいて指定された)相互貢献の能動的主体となりうる「独立の精神」の必要性にあった。彼の文章を引用すれば、「自給独立は日本基督教会年来の宿志なり。外国教会の伝道資金に補助を仰ぐは健全なる信仰の発達を害し、教会の活力を減殺し、その意気を銷沈せしむるの虞あり」(1908、全集2、p.320)というわけで、「寄生木の教会をもって松柏の剛健なるに効(なら)わんと欲するまた難からずや」(1883、全集5、p.17)ということが、その理由であった。そして、この点に関連して、植村正久は一八九七年に「キリスト教会の三潮流」(1897、全集5、pp.230-231)という短文の中で、当時の日本のキリスト教徒をその「伝道の方針を標準として」「日本のキリスト教徒を真丸(ほんまる)に備え、微力ながらその力に倚り、武器よりも精神を尚び、着実に手を拡げ、次第に功を遂げんと期する」自給独立派、「外国の教友と結び、その力を藉りて事を共になさんと欲する」外国依存派、「広く国民の同情に訴え」「政治化に倚り、実業家と結び、教外の力を藉りて大いにその勢力を伸暢せざるべからずとなす」俗界依存派に三分している(*1)。ここで明らかなように、教会が財政的独立を維持すべき相手は、植村正久によれば、外国諸教会の伝道局と、世俗的勢力であった。まず、外国諸教会の伝道局が提供する資金について、植村正久は「余輩は伝道における外資輸入それ自身の実益を疑うものなり」(1906、全集5、p.314)と否定的な立場をとり、「外資に依らざる日本人の日本伝道!」(1895、時代3、p.445)という標語めいたものをその文章の中で掲げている。植村正久が「外資輸入」に反対した理由は、一方で教会の組織上のまた実質的な自主独立を保障するための前提条件としてであって、この点はすぐあとで説明する。反対した理由のいま一つは、「外資輸入」によって日本の教会に「独立の精神」が育たないばかりでなく、事実として流入する外資の消費に依存する「宗教上の寄生虫」が、教会の中に増加し、教会の自主独立を志向する彼にとっていわば「トロイの木馬」に近い位置を占めるおそれもあったからである。すなわち「料理人、給仕役、聖書行商人、日本語教員、外国人の案内者、教会員となりたる世のいわゆる結構人を始めとして、屍の周囲における青蝿の如く(鷲の如しとは言うべからず)、雲霞と群がり来たれり。この輩は別して外人に珍重せらるるをもって今や教会のうちに一種族を形造らんとす。雑草生い茂りて五穀熟らず。この輩が真正なる教役者の進歩を妨ぐること少なからざるべし」(1892、全集5、p.202)と彼は指摘しているのであって、この「宗教上の寄生虫」が教会の自主独立なるべきリーダーシップに、やがて暗影を投ずべきことを、彼は危惧したのであった(*2)。これに対して、教会が財政的独立を維持すべき第二の相手方である世俗的勢力についても、植村正久は、キリスト者の間にこの勢力と結託し迎合しようという動きの少なくないことを指摘した。たとえば一九二〇年の世界日曜学校大会が東京で行なわれるようになったとき、彼は「わがキリストを措きて、世の智術、趣味、威力、金権、門地等に阿附し哀請し、これを迎合し、これと結託してその道を伝え、その計画を実現せしめんと図る者もある如くに見受けらる。……世界日曜学校大会が Patron’s association(大隈、渋沢、その他の人々の組織せる愛顧して引き立つる連中の団体を意味す)なるものを有するも、キリスト者の精神状態における何ものかを暗示するものではあるまいか」(1920、全集3、p.287)と述べている。彼によれば、この傾向は、財政的援助の獲得のために、まず第一に、原理的にはキリスト教をいわば「実用」化し、「キリスト教をもって、国家安護の具、人心改造の器となす匹(たぐい)に過ぎず。ただそれ大砲代用のキリスト教なり。軍艦のキリスト教なり。盗賊取締りのキリスト教なり。禁酒キリスト教なり。矯風キリスト教なり。孤児院キリスト教なり。監獄改良キリスト教なり」(1898、全集5、p.222)という「政事主義」に転落する危険を意味するものであり、また第二に、戦略的には、いわゆる事業主義に通じるものであった。植村正久は、前述したように、マイノリティの戦略として、伝道とともに「理想の空論を天下に主唱」することを採用していたから、無際限な事業主義についても、否定的な立場をとっていた。彼が眼にする実情、「今やキリスト教徒あまりに神経質になり、そのまさに現今において天職と認むべき界域を漫然踏み越して、事業の新を競い、彼にも力を割き、これにも手を延ばし、徒らに奔命に労(つか)るるをも顧みず、もって自ら精神家と称し、一代の改革家をもって任ず」る(1896、全集1、p.158)という実情について、彼が否定的であったのは、無力な当事者による実力不相応な事業主義が、その手段として、やがて、世俗的勢力に「迎合」する由来となるからであった。たとえば、植村正久による新島襄論もこの点をひとつの内容としている。新島襄は「日本伝道の一大預言者たるべき人であったが、洗礼を受けた企業的豪傑として畢った」。「己の事業を偶像とし」「俗的勢力、外国宗派の金力、および自己の信念と理想、これらを遣り繰りして調和せしめて好結果を収めんと試みたのが新島の遣り方であった(*3)」(1903、全集7、pp.529-532)と植村正久は述べているのである。キリスト者が理想の実現について感覚が鋭く、従って事業へ傾きやすく、しかもその実力がまだ伴わない、という当時の事情の中で、植村正久は「禁欲」を主張し、「西洋のキリスト教徒に傚いてこの事業にも彼の事業にも目を懸け、せめては小なる雛形だけにてもそれぞれこれを取り揃えんと奮発す」る(1895、全集7、p.532)事業主義を、「日本におけるキリスト教の進路に横たわる最も恐るべき誘惑」(1903、全集7、p.532)としたのであった(*4)」(p.122-126)。

*1 植村正久は、この文章の中で自給独立派は「その弊や経綸に乏しく、進んで取るの気力鈍く、ややもすれば城中に籠りて守戦を事とし、化石の如くならんとするの気遣いあり」と指摘した。ここに、この集団が機構管理(「牧会的」)に転換する可能性が指摘されている。これに対して、俗界依存派は「いわゆる日本化を力め、在来の思想習慣を迎合して結托に便ならんことを力むるに似たり」とされ、この集団が、その主観的な誠実さにおいて、「修正主義」ないし「清算主義」に通じる可能性も捉えられていた。

*2 ここで植村正久と外資との関係をあげておく。植村正久は、一八八一年 American Reformed Mission から七百円借りて下谷教会の会堂を新築し、十ヵ年間の月賦で返済した(時代3、p.58)。また、福音新報は一八九四年夏まで「一、二の外国伝道会社」から財政的援助をうけたが、その間の「不和いよいよ甚だしく」、九四年夏から「財政においても独立独行する」に至った(1894、時代3、p.443)。富士見町教会の一九〇六年の会堂は、その建築費の八五%が、植村正久を含めた会員の献金であった。また彼は、「関東大震災直後の、災害教会復興の相談において、清浄な外国援助ならばと、これを受けることに賛意を表した愛弟子川添万寿得に対して、雷のような『ノー』をもって答えた」(小塩力「高倉徳太郎伝」二二五頁)。

*3 これは「新島襄」と題する評論の一部であるが、他に「同志社」(1897、全集5、pp.553-555)という文章の中でも同じ内容の人物評をしている。

*4 なお正確に言うと、いわゆる事業主義には、俗的勢力のみならず、前述の外資依存も関係していた。植村正久はこの点について、「日本のキリスト教事業なるものが、学校と言い、青年会と言い、その多くが外国人の力に依存し、いたずらに日本の二字を冠って、この国キリスト者の事業らしく見ゆるを僥倖するは甚だ面白からざることで精神上にもその害は少なくあるまい。内外の名分を明らかにし、すべてが日本キリスト者の負担しえられるだけの程度にて行なわれ、着々自然の発達を遂ぐるが、最も健全なる道であると信ずる」(福音新報一五〇五号 1924-6-26)と述べている。

植村が教会の「自主独立」を重んじたということは、内村鑑三にも見られる傾向で、それは内村が若き日に札幌独立教会の創設に関わったときの逸話として知られています。この独立を重んじる植村の姿勢を、京極は「原理論」として論じています。しかしそれは同時に植村の「戦略論(運動論)」でもありました。事業主義に流れず、礼拝と伝道に「禁欲的」に専念しようとするところに、植村の強調点がありました。ある意味で当然のことですが、そこにこそ運動(戦略)のコア(核心)があると見なされていたからでしょう。しかし、植村は、「自給独立派」には化石化する(「機構管理化」する)恐れがあるということにも気づいていました。なお、植村の「キリスト教会の三潮流」という指摘は的確で、それがその後の日本のキリスト教界のあり方を規定してきました。かつて青年会(YMCA)の事業に携わった者の一人として、注の最後にある指摘は、まことに痛いところを突かれたという思いがします。YMCAも、そして多くのキリスト教主義学校も、特にその草創期に「外資」に依存することがなかったら、今日までのその「事業」の発展は望めなかったでしょう。ここでこの本の「紹介」の作業を一先ず中断します。


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