閑老人のつぶやき 文脈の中のジョージ・ウィリアムズ
「文脈の中のジョージ・ウィリアムズ YMCA創立者の肖像」
クライド・ビンフィールド著(シェフィールド・アカデミック・プレス刊)
Copyright c 1994 Sheffield Academic Press
この記念の小冊子はジョージ・ウィリアムズに関する4つの研究を集め、YMCA創立者についての愛情のこもった人物描写を提供する。この出版は、ロンドンYMCA創立150周年を記念するものであるが、創立者の曾々孫、コリン・ウィリアムズ氏の寛大さによって可能となったものである。
著者クライド・ビンフィールドはシェフィールド大学の歴史学の助教授である。これまで宗教、社会、政治、建築に関する英国史を広範囲に執筆してきた。世界YMCA同盟の役員を勤めたことがあり、1992年には英国YMCA同盟の委員長となった。1991年にOBE(Officer of the Order of the British Empire)の栄誉を授けられた。
目 次
コリン・ウイリアムズによる序言
序文と謝辞
第1章
呉服商、ジョージ・ウィリアムズ卿(1821―1905)
第2章
「…あの親愛なる人、ジョージ・ウィリアムズ」、YMCA創立者の個人的肖像
第3章
その環境の中のひとりの人、ジョージ・ウィリアムズを取り巻く現実
第4章
展望と危機、YMCAとその環境
参考文献
ジョージ・ウィリアムズ、ヴィクトリア期の公人の中で最も私人的であり、かつ一番記憶されない者のうちに数えられる、あの人物。しかしこれはまったくの真実というわけではない。なぜならYMCAが見出されるところならどこでも、世界中のほとんどの国で、また確かにどの大陸でも、ジョージ・ウィリアムズの名は、何事かを意味しているのだから。避けられないことだが一つの神話が彼の名前をめぐって成長してきた。ここでクライド・ビンフィールドは神話の背後に迫ろうとしている。彼が見るところは、必ずしも常にジョージ・ウィリアムズの家族が見るところではないし、また彼の運動が見てきたことでもない。しかしすべての人が尊敬され、愛されるに値するひとりの人物を承認するであろう。そしてその人が始めたものがなお止めることができないように思われるということも。
今日英国YMCAはその目的を再検討しつつある。目的を喪失したからではなく、創立者たちが150年前にそうであったように、変革するヴィジョンによって新鮮に心を捉えられたままの状態に止まろうとするからである。この運動に属するナショナル・カレッジが、その名前をYMCAジョージ・ウィリアムズ・カレッジに変更したその年に、私の曾々祖父をそのコンテキストに置く研究を、彼のそのコンテキストにはるかに連なるこれを読むすべての人に紹介できることを、私は喜ばしく思う。
コリン・ウィリアムズ
1994年は1844年6月6日にロンドンYMCAが創立されてから丁度150周年に当たる。この年は、今日国際的な運動となった全YMCAの創立記念日を表わすものとも見做されてきた。以下の4つの研究、「文脈の中のジョージ・ウィリアムズ」は、ロンドンYMCAの創立者に関するものである。そのうちの3つは元は講義として述べられたものである。従って重複や繰り返しを避けられなかった。それでもなおそれらはYMCA草創期の様々な側面を描いており、またそのうちの2つは長いこと入手不可能であったし、3番目のものは以前に出版されなかったので、それらを一緒にして薄い記念誌の形で発行することも有益であろうと思われた。この出版はジョージ・ウィリアムズの曾々孫、コリン・ウィリアムズ氏の寛大さによって可能となったものである。
「呉服商、ジョージ・ウィリアムズ卿(1821―1905)」は初め「Dictionary of Business Biography, X / ビジネス列伝第5巻」(編集、D.J.JeremyとC.Shaw、ロンドン、Butterworth刊、1986年)、pp.828-33で公刊された。ここに有限会社バターワース出版会社(ロンドン、キングズレイ 88)の親切なご許可により再刊される。
「…あの親愛なる人、ジョージ・ウィリアムズ」は1969年11月11日、第3回ジョージ・ウィリアムズ卿記念講演としてロンドン・セントラルYMCAで話された。その後1970年にロンドン・セントラルYMCAによって出版され、著者の「George Williams and the YMCA: A Study in Victorian Social Attitudes /ジョージ・ウィリアムズとYMCA、ヴィクトリア期の社会思潮の研究」(London: Heinemann, 1973)の基礎となった。
「その環境の中のひとりの人」は元々、1975年6月18日、ロンドン、ラッセル・ホテルにおける、アメリカのYMCAにより組織された「ワールド・ステーツマンシップ」のプログラムの一部として話されたものである。やはりその後、1975年に、ロンドン・セントラルYMCAによって出版された。
「展望と危機」には3つの起源がある。初め、1982年2月、ペイズリーYMCA(Paisley Y)で、その150周年記念行事の一部として講演された。英国人向けの物語としてとても易しすぎるように見えるのは、それがスコットランド人に対して語られたものだからである。次いで、その改版が、1982年3月、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの、ビジネスマンとキリスト教に関するセミナーで提供され、著者の「Business Paternalism and the Congregational Idea: A Preliminary Reconnoitre/ビジネスの家長主義と会衆派的な理念:予備的な探索」(D.J.Jereny編、「Business and Religion」(Gower: Aldershot, 1988), pp. 118-20, 123)の一部を形作った。次なる版は、英国YMCA同盟によって組織されたホリデー・セミナーという年間シリーズの導入のために、1982年8月、ダンフォード・ハウス(Dunford House)で提供された。
呉服商、ジョージ・ウィリアムズ卿(1821―1905)
ジョージ・ウィリアムズは、サマセット、ダルバトンのアッシュウェイ農場(Ashway Farm, Dulverton, Somerset)のエイモス・ウィリアムズ(1778―1841)と、その妻エリザベスの、生き残った7人の息子たちの末っ子として、1821年10月11日に生まれた。数世代というもの、彼らはサマセットの小作農(「ヨーマン」)であったが、ジョージ・ウィリアムズの農業を経営する兄弟のひとりは、1869年のその死に際して、「ジェントルマン」と呼ばれている。エイモス・ウィリアムズ、その381エーカーの土地は彼をダルバトンにおける領主セナボンの筆頭小作人としたのであるが、彼は1809年以来アッシュウェイにあった。彼の息子のうち4人は、サマセット、デボン(Devon)、およびドセット(Dorset)で小作人になった。他の3人は店員になった。ひとりは薬屋、二人は呉服商として。この二人のうちのひとりがジョージ・ウィリアムズであった。
ウィリアムズはこのように地方の中産階級に固く属していた。彼はそれに応じた教育を受けた。ダルバトンのdame school(訳注:読み書きの基礎がひとりの婦人によって、彼女の家で教えられた、当時の私塾的な学校)に続いて、ティバートン(Tiverton)のグロインズ(Gloyns’s)という私立学校に進んだが、家の農場で働くために彼は13才でそこを去っている。理由は不明だが、2年後にアッシュウェイを離れ、1836年にブリッジウォーター(Bridgwater)の指導的な呉服商、ヘンリー・ウィリアム・ホームズ(Henry William Holmes)のところで徒弟奉公の身となった。ホームズは30人の店員を抱えていた。彼はホイッグ党員(民権党員)で、非国教徒であった。しかしウィリアムズ家の殆どの人たちは国教徒であった。ブリッジウォーターへの移動は、単に仕事の上での変化に止まらない、方向の変化であった。1837年に、ジョージ・ウィリアムズは名ばかりのキリスト教から、福音的キリスト教へと改宗した。1838年、ヘンリー・ウィリアム・ホームズがそこで礼拝をしていた、シオン組合教会に所属することによって、彼はこの回心を確かなものとした。翌年彼は絶対禁酒主義者となった。呉服商、福音主義、および禁酒はその後の彼の人生の主な決定要因であった。
エイモス・ウィリアムズが1841年に死に、ヘンリー・ウィリアム・ホームズがその仕事の直接の管理を人に譲ったあと、(ノース・ピサトンNorth Pethertonにいた彼の呉服商の兄弟を少しの間手助けしていた)ジョージ・ウィリアムズはセントポールズ・チャーチヤード72の、ヒッチコック・アンド・ロジャーズ商会の、その当時は主に小売りであった、ロンドン事業所に移った。彼の給料は40ポンドであった。1年後彼は教会籍を、シオン・ブリッジウォーターから、市内で最も古い組合教会の一つであるキングズ・ウェイ・ハウスに移した。1844年までに彼は後に同僚が「事業所における最も重要な人物、最大の部署の一つ(織物販売部)のバイヤーであり、マネージャー」(1)と称する者になっていた。
商会は、F.ロジャーズ・アンド・カンパニーがセントポールズ・チャーチヤード1の、ラドゲイト・ハウスにあった、1829年以前に創立されていた。1837年までに、その住所はセントポールズ・チャーチヤード72となり、表記が「ヒッチコック・ロジャーズ・アンド・カンパニー」となった。家屋は当世風に古典的なもので、板ガラス、展示のためのガス燈窓、ピラスター(外に突き出た支柱)、インタブレチャー(支柱に支えられた上方の外壁の部分)、上の階の方には良く均整の取れた5つの張り出し窓(出窓)があった。最新の建物への移転を宣伝して、遂に「貴族と一般大衆向きの(洋品店)またそれだけでなく、特に国産の婦人用帽子屋」が、「実用的かつ装飾的な衣装で欲しいと思うすべてのものを一つの店で手に入れることができる」(2)ということを強調している。そして商会の主要商品であり続けるべきであった、絹織物部と紳士用小間物部から、宝石装身具部、香水部、時計部、装飾品部およびカーペット部におよぶ12の部署があった。フランスとの関係が繰り返し強調された。そんな雰囲気であった。田舎の市場とは無縁であった。ここでは請求される価格が実際に支払わなくてはならい価格であった。ここでは顧客が購入するようにせがまれて困ることもなく、部長たちの個人的な配慮が保証されていた。要するにここには、まだ知られてはいないが購買力において前途有望な者たち、すなわち「婦人」にねらいを定めた、未発達のデパートメント・ストアがあった。
セントポールズ・チャーチヤードは、当時、確立した小売りおよび卸しの織物販売業の中心としてその頂点にあった。ヒッチコック、ニコルソンズ、ジェイムズ・スペンスのような、思慮深く保守的で、ウェイスト・エンドからの増大しつつある競争によく抵抗しうる商会によって特徴づけられたセントポールズ・チャーチヤードは、その世紀の残りの間その地位を保った。ヒッチコック商会は、その未来が例の1837年の宣伝で先取りされたデパートメント・ストアの役を担うには至らなかったが、よく方向づけられ、自信に満ちて保守的で、技術的に進んでいて、しかも慎重な流儀というイメージを注意深く育成したのである。後のパンフレットからの一文はこのことをよく表わしている:「商業界のプリンスのたたずまいというその伝統的な雰囲気は、いつも店中に行き渡っていた。商業界の貴族というこの考えが彼らのすべての仕事の基準であった」。(3)
注(1)J.C. Symonsの言葉。C.Binfield,
George Williams and the YMCA.
A Study in Victorian Social
Attitudes (London: Heinemann, 1973) に引用されている。
(2) The Weekly Time Sun, 30 April 1837.
(3) H.A. Walden, Operation
Textiles: A City Warehouse in Wartime
(London: Hitchcock, Williams & Co.によって私費出版されたもの、日付なし)。p.i.
商会の繁栄の実際の功労者は、1843年までに引退していたフレデリック・ロジャーズ(Frederick Rogers)ではなく、ジョージ・ヒッチコック(George Hitchcock, 1795-1863)であった。ジョージ・ウィリアムズのように、ジョージ・ヒッチコックはサマセットというよりはデボン寄りの、西国人(Westcountryman)で、最近福音派非国教徒に変わったばかりの家族の中の名目的な国教徒で、見かけと気質に於いて赤毛であり、落着かなくもあり、因習的でもあった。彼の背景はウィリアムズのそれと社会的に似通っていたが、そこにはもっと田舎町的なものがあった。また財政的にはより堅実であった。リーフ・ヒッチコック・アンド・ロジャーズ(Leaf, Hitchcock & Rogers)として、後にセントポールズ・チャーチヤードの商会に加わった、ワットリング・ストリート(Watling Street)の卸売業と多分関係するところがあって、彼は1827年以来ロンドンに居住していた。1831年10月までには彼は確実にセントポールズの事業で頭角を現わし、1841年までには150人近い、男女の、殆どが住み込みの店員を雇う事業で、有力者となっていた。
ここにはジョージ・ウィリアムズのような人にとっての機会があった。すなわちここには、財産や教育や幸運に恵まれず、偏見にも禍されて、牧師職に就くことや、また風采がよくて、抜け目がなく、上手に話し、着こなしもよく、決して紳士的ではないくせに紳士的で、白ネクタイで、ひげ剃りあとも瑞々しく、黒くて光沢のある目の細かい毛織物の上着を着、山高帽をかぶった青年たちにだけ許された職業からも遠ざけられていた、野心的な非国教徒にとっての抜け道があった。ヒッチコック商会はこの種の成功した呉服商たちにとっての学校として評価されていた。このようにしてオクスフォードのエドワード・ビューモント(Edward Beaumont)、ケンブリッジのロバート・セイル(Robert Sayle)、キングス・リン(King’s Lynn)のアルフレッド・ジャーミン(Alfred Jermin)は、いずれも地方の暮らしと呉服商を経て1人前となったのであるが、ヒッチコック商会で育てられた。このような人たちはネットワークをつくったが、その相互関係は明らかに独力でやり遂げた男たちの自足に見合ったものであった。
1840年代初期には、セントポールズ・チャーチヤード72番地の(商会の)営業時間は午前7時から午後9時までで、ドアは午後11時に錠がかけられた。しかし、1843年10月、ジョージ・ヒッチコックは「メトロポリタン呉服商組合」(「早じまい協会」の先駆者)に、冬の店じまいを午後7時に繰り上げるつもりであると告げた。1850年代には、彼は土曜日の半ドンを設けた。1853年と1858年の間、商会にいたヒッチコックの甥、W.S.ブザコット(Buzacott, 1838-1916)の未出版の回想録によれば、仕事は根気のいるものであり続けたし、都会の生活は相変わらず不健全であったが、店の雰囲気は善意に富み、非常のときには融通がきき、積極的な気性の持ち主には確実に楽しいものであったことは明白である。
1853年6月9日、ジョージ・ウィリアムズは事業主の一番年上の娘、ヘレン・ヒッチコック(Helen Hitchcock,1832−1919)と結婚し、共同経営者となった。商会は今や「ジョージ・ヒッチコック、ウィリアムズ & カンパニー」という形になった。同じ時期、彼はウォバーン・スクエア30番地に、20年以上もの間住むことになった家を構えた。次に別の、しかしもっと大きな家に越したが、それはブルームズベリーの住所で、ラッセル・スクエア13番地にあった。その引越しは家庭のことであるとともに、教会のことでもあった。というのは、1852年と1857年の間に彼は福音的非国教会を離れ、福音的国教徒となったからである。初めはリトル・クウィーン・ストリートにあるトリニティー・チャーチへ、次にはジョージ・ヒッチコックが礼拝を守っていたポートマン・チャペルに変わった。
1863年9月、ヒッチコックの死に当って、ウィリアムズは商会の単独の事業主となった。しかし、次の10年間のうちに、甥のジョン・ウィリアムズ(1844―1931)が加わり、そして1883年に共同経営者となった彼の年上の息子たち、フレデリック(1855―1938)とハワード(1856―1929)が、次いで彼の一番年若い息子アルフレッド・トマス(1866―1908)が加わった。1892年、商会は、もう1度、「ヒッチコック、ウィリアムズ & カンパニー」へとそのスタイルを変えたが、そのほんの少しの変化は、あたかも堅固で保守的な家族共同経営に留まることを強調しているかのようであった。
ジョージ・ヒッチコックの主たる関心事であった小売り部門は、1860年代と1870年代に拡張された。しかし少なくとも1860年までには優位に立つのは卸売り部門であることが明白であり、それこそがジョージ・ウィリアムズの関心を占めるものであった。1861年の国勢調査で、彼は自分のことを卸しと小売りの呉服商と記述している。10年後の1871年には、その記述は、ウォバーン・スクエアの所帯には4人の使用人(看護婦、子守り、コック、家事手伝い)、セントポールズ・チャーチヤードの事業所には209人の人たちが働く、「ジェントルマン」であった。
1862年、1867年、および1869年、商会は、ロンドン、パリ、アムステルダムにおける万国博覧会での出展で賞を獲得した。同時に商会はウェイスト・エンドへの移転に強く反対し、その代わり卸しと製造に精力を注いだ。ひとつの大躍進が、フランス・プロシャ戦争によって促進されて、1870年代に生じた。それは丁度、ヒッチコック商会が、「年額ほぼ200、000ポンドに相当する、淑女のためのお誂えのドレス」(4)のフランスとの貿易を付け加えたときであった。もし卸売りへの切り替えがジョージ・ウィリアムズによって決定されたのであるとしたら、このフランスの大躍進という手柄は多分、彼の甥のジョン・ウィリアムズに属している。そしてその後の拡張の手柄はその息子たちに帰せられなくてはならない。フレデリック・ウィリアムズの経理部での控えめで、しかし非の打ちどころのない能力は、ハワード・ウィリアムズの冒険心によって見事に補完された。1900年までに、商会はオーストラリア、南アフリカ、北アメリカ、そして特にカナダで開業し、それらはヨーロッパとの結びつきに相当するほどまでに成長した。イギリスの地方都市にも支店のショールームがあった。営業所は今やセントポールズ・チャーチヤードの68番地から74番地へ、パタノスター・ロウ(Paternoster Row)43番地から50番地へ、そしてロンドン・ハウス・ヤードへ、ポールズ・アレイ(Paul’s Alley)へ、ウォーイック・レイン(Warwick Lane)へと広がった。そして今や1,000人近い人たちを雇用していた。イタリア風の建物が1837年の楽しい古典主義(的な建物)を圧倒した。小売り部門は、感傷およびその店らしい宣伝という伝統的な感覚から、また小銭(当座用現金)の有用な収入源として残った。
注(4)Standard, 1905年11月11日
宗教的および家族的なつながりは、商会の発展にとって重要であった。ジョージ・ヒッチコックの姉妹3人は、いずれも海外宣教師となった組合派の牧師と結婚した。彼らが必要とするものは、ヒッチコック商会に有用な冒険的販路を提供した。3人の姉妹の中で2人の姉妹の子孫は、1840年代と1870年代の間にデボンから移住した他の親戚とともに、オーストラリアに植民した。そのうち数人の人たちはオーストラリアの公的および商業的生活で著名になった。このようにして、ジョージ・ヒッチコックの甥、ジョージ・マイケルモア・ヒッチコック(George Michelmore Hitchcock, 1831−1912)とその息子ハワード・ヒッチコック(Howard Hitchcock, 1866―1932)のもとで、1877年以来ヒッチコック商会が支配した、ウィリアム・ブライト & カンパニーのギーロング呉服店は、メルボルンの外ではヴィクトリア最大の百貨店となった。この商業的な才覚は、ジョージ・ヒッチコック自身の息子たちによって抑えこまれた。息子たちのうち二人がイギリス国教会の牧師になったからである。彼らの召命は、1843年の彼らの父の福音的アングリカニズムへの回心を反映している。その後、ジョージ・ヒッチコックの慈悲深い敬虔の人であるという評判は、彼の商業活動に対する評判とともに進展した。彼は「早じまい協会」の会計になった。「貧民学校組合」の委員会で奉仕した。彼は反奴隷のグループでも活動的で、「自由に育った(free-grown)」(すなわち、アメリカ人のに対立してインディアンの)木綿製品を売ったり、1850年代には逃亡奴隷をバイヤーとして採用したりした。ヒッチコックが1863年9月22日、ノフォーク・クレセント(Norfolk Crescent)22番地で死んだとき、総額60,000ポンドの遺産を残した。
ジョージ・ウィリアムズの人脈は義理の父のそれを拡大した。彼もまた有益にもオーストラリア、主にクィーンズランドに居を定めた、移住者の親戚を持っていた。彼もまた牧師の息子を持っていた。二つの家族的な結びつきが特に注目に値する。弁護士をしている彼の息子アルバート(Albert, 1862−1941)は、旅行業者、ジョン・メイソン・クック(John Mason Cook)の娘と結婚した。また彼の甥、ジョン・ウィリアムズ(John Williams)は、彼の福音的な仲間で生涯を通してのロンドンの友人であった、マシュー・ホダー(Matthew Hodder, 1830−1911)の一人っ子と結婚した。1868年から1906年までパタノスター・ロウ27番地にあった(ヒッチコック、ウィリアムズ & Coの従業員用出入り口は46番地にあった)、ホダー & スタウトン(Hodder & Stoughton)というマシュー・ホダーの出版社は、ジョン・ウィリアムズの3人の息子たちにより、ジョージ・ウィリアムズの(後にはその右腕となったジョン・ウィリアムズの)呉服店の発展を特色づけていた、あの同じ才覚によって発展した。印刷業者ウィリアムズたちの中で、最も外向けに活躍した人は、サー・J・E・ホダー−ウィリアムズ(Sir J.E. Hodder-Williams, 1876−1927)で、大伯父サー・ジョージ・ウィリアムズの公認の伝記を執筆した。
福音的宗教が、この商業的家族的企業における共通分母であった。ジョージ・ウィリアムズはシオン、ウェイ・ハウス、およびポートマン・チャペルでつくられた交際を注意深い関係回復によって維持した。ブリッジウォーターで、また前もってロンドンで彼はアメリカのリヴァイヴァリスト(信仰復興主義者、福音伝道者)カルヴィン・コルトン(Calvin Colton)とC.G.フィニー(C.G. Finney)の事業と出会っていた。宗教的再生(リヴァイヴァル)において人間の側に強調点を置き、小さな祈りのグループと個人的な出会いの、説得力があり、すみずみに行き渡るという価値を強調することが、ウィリアムズの宗教的生活にとって中心的なものであった。それは彼の事業のやり方の自然な延長であった。ロンドンで彼は、首都の非国教派の清らかな説教壇の世界、中でも群を抜いていたキングズ・ウェイ・ハウス・チャペルのトマス・ビニー(Thomas Binney, 1798-1874)のところにいた。サミュエル・モーレイ(Samuel Morley)がその教会の指導的な会員であった。マシュー・ホダーは1845年来、10年間、客員であった。それは適切にも「財産家および中産階級の非国教派カテドラル、商工会議所のかの帝国護民官、…人生の慰めの部分の偉大なる貴族階級」(5)と言われた。
注(5)ビンフィールド「ジョージ・ウィリアムズとYMCA」p.26に引用された、E.パクストン・フッド(E.Paxton Hood)の言葉。
トリニティー・チャーチとポートマン・チャペルはウェイ・ハウスとは対照的であった。多くの福音派と同様、リトル・クイーン・ストリートにある、トリニティー・チャーチのサミュエル・ギャラット(Samuel Garratt)は、千年王国主義的理論の支持者であった。それはまたポートマン・チャペルの宗教の特徴でもあった。ポートマン・チャペルは、職制において司教制度(監督教会)的で、構成において貴族的でありながら、その雰囲気が非国教徒のチャペルの雰囲気に近いという意味で、他に例を見ないチャペルであった。ここでシャフツベリー卿とケアンズ卿の一族が礼拝した。ここでジョージ・ウィリアムズは教会役員となった。ここから彼はリヴァイヴァリストたちへの継続的な支援を維持し(1859年にC.G.フィニーFinneyを、1873年からD.L.ムーディーMoodyを支援した。ムーディーの最初のロンドン・キャンペーンのクライマックスは、16,000人の店員と2,000人の店主を集めた、アイリントンIslingtonの農業会館における礼拝であった)、またそこから生まれたケズウィック・ムーブメントthe Keswick Movementを支援し続けた。
しかし、ウィリアムズの名前が消し難く結びついているのは、キリスト教青年会(YMCA)であり、これは彼のウェイ・ハウス時代の産物であった。その後の英国での、福音的非国教派のみならず福音的アングリカニズムの枝としてのその発展は、彼のポートマン・チャペル時代の事柄であったが…。YMCA(この名前はヒッチコック商会の古参の店員、C.W.スミスの思いつきであった)は、1844年6月6日、セントポールズ・チャーチヤード72番地の1室に、12人の青年たちが出席した会合に始まる。この集会はロンドンYMCAへと発展し、そこから、伝道事業と、スコットランドおよび大陸における同時的な発展を賢明に結びつけることとの混合によって、国際的な運動へと発展した。その死のときまでには、ジョージ・ウィリアムズはその創立者として一般的に受け入れられるようになった。
ジョージ・ウィリアムズとヒッチコック商会での彼の親友、エドワード・バレンタイン(Edward Valantine)の現存する日記から、運動の起こりは1840年代初期の商会で活発であった熱烈な宗教的精神のうちにあったことは明らかである。ジョージ・ウィリアムズの場合には、このことは彼が3つのロンドン組合教会(会衆派のチャペル)のために引き受けた仕事によって形を与えられた。すなわちキングズ・ウェイ・ハウス(the King’s Weigh House)の国内伝道と市内の日曜学校(彼はその書記になった)、テムズ河南岸のサーリー・チャペルの貧民学校(the Surrey Chapel’s Ragged School)、およびウェイスト・エンドでのクレイブン・チャペル(Craven Chapel)の屋外説教とトラクト配布の3つである。それはまた都市生活から切り離しがたい頭痛、熱風邪、およびひどい疲れによっても形を与えられた。1844年6月6日に先立つ数週間というもの、その熱心さは著しいものとなった。ヴァレンタインによって記録されたところによると、その結果は、「首都における様々な織物販売業者の中に、祈祷会を通してであろうとあるいは彼らが適切と考える他の集会を通してであろうと、キリスト者として彼らのまわりにいる人たちに知識を広めるときの義務と責任の感覚へと回心した人たちを起こすことを、その目的として持つべき一つの団体」(6)であった。
注(6)ビンフィールド「ジョージ・ウィリアムズとYMCA」120によって引用されたYMCAナショナル・カウンセル(同盟)保管の草稿
初めからこの団体は、福音的アングリカニズムと非国教派の二つの似通った世界を通してなされる接触、およびビジネスによってプロテスタント・ヨーロッパの鉄道網全域に、また大西洋を越えて、そして白人植民地へと連れて行かれる男たちによってなされる接触を、一貫して利用した。ここに家族の結びつきは商業上の結びつきを強化し、拡張した。それはまたさらにアフリカとアジアへと拡張した。アフリカとアジアの資源と、それらが未だ異教にあることとは、ヒッチコック、ウィリアムズおよびその係累の宗教的ならびに物質的な繁栄にとって、等しい関心事であった。ハロルド・ベグビー(Harold Begbie)がYMCAを「帝国全域の偉大な中心的労働交換所」(7)と呼んだとき、誇張した言い方ではあるが、それでもなおその成功の原因をつかんでいた。ジョージ・ウィリアムズは、福音派ならびにビジネスマンとして、呉服商の第6感を持っていた。すなわち仲間の状況を素早く判断し、彼らにその地位にふさわしく衣服を着せる能力である。彼はこれを、YMCAの創立にも、新しいビジネスの機会を固めることにも、等しく適切な手順で、ソレゾレノ違イヲ考エテ(mutatis mutandis)、実行した。そしてどこを旅していようと、そのやり方に従った。その方式で、未だ回心していない友人を特別に配慮し、それぞれのために名指しで祈り、重大な問題についてそれぞれに話しをし、それぞれを日曜日の礼拝に、それからまた祈祷会やバイブル・クラスに、あなたと一緒に行きたいとさそった。彼は次のように書いている。
若い人たちの名前を覚えよう。1度にひとりを相手にしよう。彼に手紙を書き、握手をし、仲良くお茶を飲もうと誘おう。親切で、自然な態度で彼と話し、散歩に連れ出そう。彼に少しの親切を示そう。そうすれば、あなたは彼を手に入れるであろう。(8)
注(7)H. Begbie, The Ordinary Man
and the Extraordinary Thing (普通の人と非凡なことと)(London: Hodder and Stoughton, n.d.日付なし[1912]), p.53.
(8) Binfield, George Williams and
the YMCA, p.324.
少なくとも1843年からヒッチコック商会でこれが暗に意味していたことは、霊的かつ商業的に視野を拡大しつつ、海外伝道に強調点を置く、一つの伝道団体、すなわち「青年相互改善協会(Young Men’s Mutual Improvement Society)」(ウィリアムズは委員会に加わっていた)であり、そしてハウス・チャプレン(会社付牧師)であった(初めはバプテスト、後には組合派の人であった)。1850年までに最初の福音的な融通のきかなさは柔らいできて、ヒッチコック商会の青年たちの中の少なくとも一人は、規律は厳しいが理解できるもので、宿舎は快適で、友人関係は知的に刺激に富み、商会の閲覧用の図書室と貸出し用の図書室(置き間違いの検閲をめぐる初めの格闘の後二分された)は網羅的であると言っている。すさまじい住み込みの世界というものは、後にアーネスト・ホダー・ウィリアムズ(Ernest Hodder-Williams)によって大変生き生きと叙述されているが、1部屋に2〜3個のベッドが置かれ、それぞれのベッドには2人の占有者がおり、受け入れられるただ1つの会話はののしりの言葉で、不道徳でもあり、不道徳にけだるくもある生活しか考えられないようなその世界は、セントポールズ・チャーチヤード72では、理屈の上でだけではなく、一新されていた。
ジョージ・ヒッチコックは、ジョージ・ウィリアムズがその跡を継いだ1863年までロンドンYMCAの会計であった。シャフツベリー(Shaftesbury)がロンドンの会長であった。彼らの関係は密であった。シャフツベリーは1882年7月、彼がマーゲイト(Margate)の「青年のための健康と休養の、ジョージ・ウィリアムズの家」と呼んだものに関連して、ウィリアムズについて次のように書いた。
彼は親愛で、気高く、寛容な人です。親戚であろうと友人であろうと、私が知るすべての人たちの中で、ただひとり、慰めをもって、あるいは希望をもってすら、偉大な親切心を求めることが出来る人なのです。(9)
ウィリアムズはシャフツベリーの葬儀で組織委員会の長となり、棺に付き添う人となった。1886年4月、彼はシャフツベリーの跡を継いでロンドンYMCA第2代会長となった。
注(9)ビンフィールド、「ジョージ・ウィリアムズとYMCA」、p.254
ウィリアムズはまたYMCA同盟(ナショナル・カウンセル)の発展に於いても重要な人物であった。1880年、今やミュージック・ホールとなっていた、偉大なる福音派の会堂、エグゼター・ホール(Exeter Hall)を救ったのは、彼の感傷的なこだわりであった。ウィリアムズの5,000ポンドの寄付は、2日間のうちに、サミュエル・モーリー(Samuel Morley)、J.D.オールクロフト(Allcroft)、R.C.L.ビーヴァン(Bevan)、およびデニー兄弟社(the Denny brothers)からの同額の寄付を呼び起こし、ホールをロンドンYMCAの本部および新しい同盟会館として確保した。やり手の男たちが白象に見立てた復興したホールは、1881年4月に開かれた。1882年、ウィリアムズは同盟の最初の会長になった。その時まで彼は最も偉大な青年であり続けたし、無数の会議に代表として出席し、石を積む人であり、問題の解決者であった。大抵は貿易と産業の国際的な博覧会(万博)と同時に開催されたのだが、キリスト教的な民間外交の先触れとなる、重要なときに各首都で開催される博愛的な会議という新しい世界が、彼のものであった。それはトマス・ビニー(Thomas Binney)の説教の世界であり、商業人を通して仲介され、トマス・クックのツアーによって促進されたのであった。ジョージ・ウィリアムズは、1855年と1880年の間に開催された6つのYMCAの国際会議のうち、4つに出席した。青年の国際的な結合(アソシエーション)のための土台として「パリ基準」が採択されたのは、1855年のパリ会議に於いてであった。ウィリアムズは1862年のロンドン会議の組織委員会の議長となった。彼は、普仏戦争にもかかわらず、フランスとドイツの代表のどちらもがオブザーバーとして出席するよう勧奨された、1871年のロンドン会議を資金面で保証した。彼は1872年のアムステルダム会議への30名あるいはそれ以上の代表たちの費用を負担した。彼はジュネーブに本拠地を持つ世界同盟の緊急時における、なくてはならない有力者であった。彼は1884年に調停者、後援者としてドイツとオーストリアとを旅した。そのすべての働きの中で一番大切なのは、彼が色々な違いを持つヨーロッパとアメリカのYMCAの意見を橋渡ししたということである。1876年に彼は北アメリカを旅した。いつものように、これらの旅行は、ヒッチコック・ウィリアムズ商会とYMCAの仕事を結び付けたものであった。1894年、ロンドン青年会の50年記念祭のときまでには、YMCAは英国で150,000人の会員、米国で450,000人、ドイツでは120,000人を擁した。彼の生涯の最後の年、1905年4月、ジョージ・ウィリアムズは世界同盟の50年記念祭のためパリにいて、スウェイデンの同盟会長、オスカー・ベルナドッテ(Oscar Bernadotte)王子と名誉世界同盟会長職を分け合った。
ウィリアムズの他の関心事はこれと同じ性質のものであった。彼の末の息子、A.T. ウィリアムズ(A.T. Williams)とは違って、(というのは、その末息子は、活動的な保守党員で、ロンドン市議会の議員を勤め、他国からの移民に反対する運動を行なった。そしてその議会での野望は不健康によって妨げられたのだが)、ジョージ・ウィリアムズは、彼の博愛的な関心が命ずる場合を除いて、政治的には非活動的であった。そのようなケースとして彼は、1868年、組合派の教育家で、自由党の下院議員、チャールズ・リード(Charles Reed)の選挙費用への寄付を申し出た。1883年には労働組合主義者ヘンリー・ブロードハースト(Henry Broadhurst)への支援を保証するために、「労働者主日休息協会(the Working Men’s Lord’s Day Rest Association)」への寄付を行なった。彼が、過激な無神論者、チャールズ・ブラッドロー(Charles Bradlaugh)に対抗するクリスチャン候補者としてノザンプトンで立候補するよう求められたという噂には、何の根拠もないように思われる。彼が死んだときには、39団体の会長であり、その外何十もの団体に関係していたと言われた。その中に含まれるものとしては、英国希望団 the United Kingdom Band of Hope(会長)、シティー・オブ・ロンドン完全禁酒家組合the City of London Total Abstainers’ Union(会長)、全国禁酒同盟the National Temperance League(副会長)、シティー・オブ・ロンドン伝道会the London City Mission、聖書協会the Bible Society、中国内陸伝道会the China Inland Mission、麻・毛織物販売業者協会the Linen and Woollen Drapers’ Institution(副会長)、キリスト教商用旅行者協会the Commercial Travellers Christian Association、キリスト教サイクリスト協会the Christian Cyclists’ Union、反日曜旅行組合the Anti-Sunday Travelling Union、反たばこ組合the Anti-Tobacco Union、鉄道伝道会the Railway Mission、働く少女たちのためのフィッシャー夫人の「歓迎」会 Mrs. Fisher’s `Welcomes’ for Working Girls、およびYWCAがあった。
ジョージ・ウィリアムズのビジネスとYMCAとの似たような性質は、彼の宗教的博愛的な使命感を内面から保持した。さもなければその使命感は押しつぶされてしまったことであろう。意識的には決して対象化することのできなかった複数の考え方を、彼は無意識に架橋することができた。彼は、たばこ、観劇、だらしなさに嫌悪感を抱いた。彼に無理強いしようとするどんな試みにも「頭を穏やかに振ること」は、成功した、従って自分の正当性が立証された人物にとって自然な、有益な頑固さであると、人からは最も好ましく見られる(彼はそのような人物であった)。彼の礼儀作法は常に優雅であった。YMCAの最も卓越したプロフェッショナル・ワーカーたちに対してさえ、彼の示す丁重さは、常にビジネスマンが年長の社員に示すのと同じものであった。彼が現われると皆は立ち上がった。彼は背が低く、いきで、きれいに髭を剃った顔立ちの百貨店の頭領であった。中年のときにはその顔立ちは頬髭に取って代わられ、老年には長老の白髭となった。青年時代の絶えず動き回る落ち着きなさは小さな妖精の輝きに変わった。彼の笑い方は、その早口と同様に、家族の特徴であった。彼の声は、なまりがなく、正確で、感じが良く、完全で軽快なヴィクトリア朝風の声であった。言葉を長く続ける傾向は若い頃の演説法の名残であった。パブリック・スピーカーとしては、彼は容易に筋道が立たない状態に陥り、ただ彼のいつわりのない人柄によって救われるのであった。短い内容で、つま先立ちし、強調のため握りこぶしを振り回すときが一番よかった。パブリック・スピーチのそのレベルで、彼はスピーチの達人であった。なぜならある人の発言の機会は、たとえば彼の仕事のように、聞き手たちの、あるいは彼の庇護のもとにある人たちの環境によって限定されているからである。そしてウィリアムズは自分に与えられた青年たちのことをよく知っていたのである。
晩年の10年間は引き延ばされた50周年記念祭のようなものであった。1894年に、彼はシティー・オブ・ロンドンの自由特権を受け(6月)、そして勲爵士(ナイト)の位を受けた(7月)。彼は1905年11月6日、トルキー(Torquay)のヴィクトリア・アンド・アルバート・ホテルで亡くなった。夫人と5人の息子たちが残った。3人の息子と一人の娘は幼い頃に死んでいた。年長の娘、ヘレンは1889年に19才で亡くなり、彼の妻はその死から決して完全には立ち直れなかった。彼の葬儀は11月14日、セントポールズ寺院で行われた(彼はその地下室に埋葬された)。ホルボーンとロンドン市の自治体が参列した。3人の主教、50人の国教会並びに40人の非国教会の聖職者が聖歌隊に加わり、2,600枚のチケットが発行された。
ジョージ・ウィリアムズ卿は総額248,450ポンドを残した。彼の息子たちについては、フレデリックは総額230,030ポンドを残し、ハワードは総額175,252ポンドを残し、弁護士の息子、アルバートは総額66,988ポンドを残し、彼の偉大な甥で伝記作者の、出版人、J.E.ホダー・ウィリアムズ卿は280,291ポンドを残した。
1951年に、その事業は民間会社となった。そのときまでに、ヒッチコック・ウィリアムズ・アンド・カンパニーは、セントポールズ・チャーチヤード72番地を離れていた(その建物は、1924年と1927年の間に全く建て替えられていて、その後1942年に完全に取り壊された)。仮住まいとしてウェイスト・エンドに、1966年にシティーに戻って、クイーン・ヴィクトリア・ストリート85番地の、計画的に建てられた、ドミナント・ハウスの形をした建物に移った。1984年の夏、商会が経済的不況の犠牲として閉じたとき、それはシティーの最古の衣料品と卸売りの会社であったと言われた。ゴードン・ウィリアムズ(Gordon Williams)、ヒッチコック・ウィリアムズ・アンド・カンパニーの筆頭重役は、ジョージ・ヒッチコックに続く第五の世代であった。
「…あの親愛なる人、ジョージ・ウィリアムズ」、YMCA創立者の個人的肖像
ジョージ・ウィリアムズは1905年に亡くなった。晩年の10年間は引き延ばされた50周年記念祭のようなものであった。それ以外のものではありえなかった。彼がその生活を献げた関心事は、彼のビジネスも、彼の家族も、彼の運動も、そして彼の信仰も、花開きつつあった。彼の物語は、その時代の最も心温まる成功物語の一つであった。多分人々はそれが最後のものの一つであると感じたであろう。様々な記念祭に慣れっこの英国で、YMCAの50年記念祭は記憶に残った。ジョージ・ウィリアムズ自身にとって、それは喜ばしい摂理のときであった。彼はナイトの称号を授けられたのである。その叙勲は非常に多くの物事の名誉を取り戻した。それはロンドンへの彼の奉仕を認証した。ロンドンでなされた彼の事業の数々についてローズベリー卿(Lord Rosebery)ほどに知っていた歴代首相はなかったであろう。その人が叙勲を推薦したのである。それは織物販売業界を喜ばせた。大半の小売業者たちよりも、織物販売業者たちは職業柄、(自分たちの)社会的な相違点に気づいていた。何よりも先ず、それはYMCAの価値の承認であった。ジョージ・ウィリアムズにとって、それが主たる事柄であった。1894年5月22日火曜日、彼はポケット・ダイアリーに3つの十字の標しをつけて(めったにない高揚のときの彼のやり方であったが)、こう記した。「女王陛下が、首相を通じて私にナイトを(賜わるという出来事を)引き起こされた」。そのニュースが飛び込んだとき、明らかにJ.H.パタレル(J.H. Putterill)がウィリアムズと一緒だった。「それは我らの主のものである。それを主の御許に置こう」。そして彼らは共に跪いて祈った。不可避的にこの出来事は伝説によって変形された。書記官が郵便物を持参したが、それには丁重な手紙が添えられていた。
「お読みになられましたか」と、ウィリアムズは尋ねた。「はい、読ませていただきました。」「もちろん、私はお断り致します。」抜け目のない書記官は、引き下がらなかった。「もう少しお話しさせていただいてよろしいでしょうか。」「もちろん、お続け下さい。旧友なのですから。」「さてこそ、あなた自身のためとお考えでしたら、あなたはお断りになる方であると存じ上げております。…でもYMCAのためとお考えになったらどうでしょう。…彼らの名誉として。」「ご親切なお言葉、有り難うございます。…そのようには考えてみませんでした。お出になって、私が考える間、ドアのところでお待ち下さい。…誰にも邪魔されたくはありません。この件を主の御前に置いて、その導きを求めたく存じますので。」書記官がドアのところで待つ間、ウィリアムズは強い調子で付け加えた。「よろしいですか、これについてウィリアムズ夫人には一言も言わないで下さい。」
この物語は、有り得なくはないとしても、不自然である。ウィリアムズは爵位を拝領し、6月18日、今度は5つの十字の標しをつけて、このように記した。
ウィンザー城での偉大なる日。午餐の後、女王陛下より爵位を賜わり、その手にキスをする。他の20人の人たちと…数名はキリスト者…。
50周年記念祭の12ヶ月がこの個人的な喜ばしさを取り囲んだ。YMCA運動の世界の会員数は50万であった。英国での祝典は、その種のものとしては、この国で催された最大のものであった。記念して語られた説教は多数に昇った。宴会場で飲食された量は驚異的であった。様々な礼拝での会衆の数および集会での聴衆の数は比較を絶していた。6月の第1週には緊張と興奮は頂点に達した。著名な来訪者が大挙して到着した。「200人の忠実なお伴の家臣を引き連れた」オスカー・ベルナドッテ王子(Prince Oscar Bernadotte)、バーンストルフ伯爵(Count Bernstorff)、「もう一人の気高きドイツ人」ロトキルヒ男爵(Baron Rothkirch)、「セント・ペテルスブルクから若きリーフェン王子(Prince Lieven)」。なお続々と続いた。エグゼター・ホールで、ジョージ・ウィリアムズは4人の生き残りの創立メンバーのうちの2人と共に壇上に並んだ。エンバンクメント(the Embankment)で午餐会があった。2300人が「珍しいスイート・コースと豊富に取り揃えられたデザート」を楽しみ、ミネラル・ウォーターの栓を抜く音ががやがや声とおしゃべりの声をかき消した。ジョージ・ウィリアムズがシティーの自由特権を与えられたギルドホールでレセプションがあり、「スウェイデンの聖歌隊が短いプログラムに大変精力的に、かつ効果的に参加した。」図書室ではクート氏ととティニー氏のバンドが演奏しており、王室砲兵隊のバンドは混み合った部屋部屋に配置された。セントポールズでは大掛かりな感謝礼拝があり、1894年6月6日の、50周年記念日当日には、アルバート・ホールで…一部は礼拝、一部はパーティー、一部はコンサートといった形の…集会があった。その日は祝辞とどしゃ降りの雨の日であった。アシュバートン卿夫人、ルイジアナが茶会を催した。体操の模範演技と「宗教音楽の特別に楽しい選曲」があった。ジョージ卿の胸像の除幕式が行われ、彼に贈呈された。そして拍手の中で、後期ヴィクトリア期のプリマドンナに本来備わった、その場にふさわしい感情をもって、マダム・アントワネット・スターリングは、
盛んにせがまれたアンコールの代わりに、舞台上の草木の緑の真ん中にゆっくりと進み出て、事態の進行にちょっと劇的なタッチを加えた。強いはっきりした声でこう言ったのである。「親愛なる兄弟姉妹方、私たちはただ一つの国…神の国を持とうではありませんか、ただ一つの教会…大いなる見えざる教会を持とうではありませんか。そして私たちの父にして、母なる神を、心を尽くし魂を尽くして愛し、私たちの隣人を自分自身のように愛そうではありませんか。」
そこには抗し難い迫力があった。
その後に続いたことも忘れ難いものであった。女王は代表たちにウィンザー城を訪れるよう招待していた。そして彼らは、国歌を斉唱するという「奇妙で印象的な」やり方で、その招待に応えたのであった。すなわち一行は、6月7日、ラドゲート広場のトマス・クックによって組織された特別列車で、「王家の家屋敷」に押しかけたのである。ジョージ卿自身は休息をとり、二人の息子が代わりを務めた。彼らは代表たちをフログモアの廟へと案内したが、それはめったにない名誉であった。二人はアルコールの入らない飲み物で心からの乾杯を行ない、彼らに同行した。そして皆と一緒に巨大な写真の中に収まった。「モダン・ソサイエティー」は、「私はこんなに男らしく、陽気で、行儀の良い集まりは見たことがない」と感じた。ジェローム・K・ジェロームは、「YMCAはこの間50周年記念を祝ってきた。講演がなされ、歌が歌われ、祈りがなされ、魔法のランタンの余興というおとなしい気晴らしによってさえ満たされる、様々な集会を催した。そしてウィンザー城を訪れた」と、「トゥデイ」に書き添えた。
女王が、もちろん、最終決定権を持った。女王の書記官、ヘンリー・ポンソンビー卿はジョージ卿に素晴らしい機転を利かせて次のように書き送った。
オズボーン、1894年7月22日:私は女王様に、あなたが陛下にお送りになった素晴らしい写真に対して御礼を申し上げるようにと命ぜられました。しかし陛下がそれをご覧になったのが遅かったために、この芸術作品の価値を十分に鑑賞することができないのではないかと恐れます。後日女王様がそれを注意深く研究なさるお暇が持てますようにと希望致します。
1890年代は快適な時期ではなかった。強硬外交政策および体育とほとんど変わらない熱狂主義が今や福音的な宗教と非常に近いものとなった。50周年記念祭は今にして思えば団体の最高傑作であった。演壇に群れをなす肩書きのある人たちは民衆の生活が改善されるという論調についてばかりでなく、その熱狂主義についての証言も行った。しかし当時の青年たちのすべての祝い事について報告するという爽やかな確信は、軍人たちによって威圧され、なお一層奇妙な諸力によって威嚇された、より邪悪な世界によって掻き乱されてしまう。フランス人代表とドイツ人代表との間の相互の友好関係は神経質に注目された。なぜなら若きリーフェン王子、あるいは気高いベルンシュトルフ伯爵が、いかに善意であったとしても、彼らのその態度は大戦を生み出した外交の世界に属していたからである。
1914年までに、1890年代の希望は実現したかのように見えた。会員数は増加し続けた。王室の加護はなお一層恵み深かった。1907年、ウィリアムズの死の2年後、建物がそうありうる限りで彼の成人生活の縮図であったエグゼター・ホールは、取り壊された。1909年からそれはトッテナム・コート・ロードにある建物に替えられた。その建物は、表向きはジョージ・ウィリアムズの記念であったが、より正確にはエドワードZ世時代を反映していた。建物は壮麗さと使いづらい建築様式との記念となった。正確な入り口は不確かであった。円形の広間がお構いなしに空間を無駄遣いしていた。一般の人の印象は廊下と部屋の隅にあった。「デイリー・テレグラフ」が開館の2年後にそれを「壮麗な高層建築物」と呼んだような代物であった。
それは長く待たれた王室のご訪問の機会でもあった。短い予告期間と天候が不順な季節であったにもかかわらず、というのはそれは1914年3月のことだったからであるが、「高層建築物」はアザレアとシネラリアで華やかだった。王室ご一行、キング・ジョージ、(こうのとりの濃淡のある羽飾りが束ねられた、黒いベルベットの小さなつばなし帽をお付けになり、深いバイオレット色の服をお召しになった、「とてもお元気」そうでいらした)クイーン・メアリー、そしてプリンス・アルバートが、バス・クラブ(the Bath Club)のそれにも比肩される「素晴らしい水泳プール」と、王様が「何と素晴らしい」と仰せられた「一連のめざましいばかりの平均体操」が行われた体育館とを視察された。
王は、好意の標しとして、そして心からの歓呼に伴われて、その建物の中に含まれる大きなホールを、キング・ジョージズ・ホールと呼ばれることをお許しになった。
これは、70周年記念という、大記念祭の最後のものへの、(そのときはクイーンズ・ホールで開催されたのであるが、)序曲であった。金文字で、模造の羊皮紙に書かれた記念のプログラムは、かつてのおなじみのパターンを思い起こさせる。…祈りと、聖書朗読と、体操と、オルガン音楽が混ぜ合わされた集会、議長席には王子、壇上には慈善家たち、そして大主教と主教たちからの、ウッドロー・ウィルソンからの、クイーン・アレクサンドラからの、ノルウェイとデンマークの王たちからの祝辞。
2ヶ月後の、1914年7月、世界YMCA同盟はラッセル・スクエア13番地で全体集会を開催した。ウィリアムズ一家は彼らの家を世界同盟の本部に提供した。これらの集会に参加した代表たちの多くは、周年記念祭と壮麗な高層建築物がたとえどうであろうと、創立者の福音的に単純一途な性格に包まれた、YMCA運動の起源に触れることがまだ十分に可能であった。しかしクイーンズ・ホールでの祈りは従軍牧師の長である「チャプレン大将」によって導かれ、ベルリンとセント・ペテルスベルクからの兄弟たち(4年後彼らはどこに居たであろうか)を含む長老政治家たちがラッセル・スクエアに参集した。
不自然なスピードでジョージ・ウィリアムズと彼の仲間たちは過去の世界へと退いた。その運動は創立者たちには想像することができなかったであろう世界に直面した。
2.
彼はデボンとサマセットの境にある、ダルバトン近くのアッシュウェイ農場で、1821年10月11日に生まれた。彼はダルバトンのdame school(訳注:読み書きの基礎がひとりの婦人によって、彼女の家で教えられた、当時の私塾的な学校)と、ティバートンのあまり良くない二つのグラマー・スクールで教育を受けた。正規の教育は13才のときに終わった。父の農場で少しの間働いた。1836年、25マイル離れた、ブリッジウォーターの呉服商、H.W.ホームズのところへ年季奉公に出た。2年後の1838年2月4日、ブリッジウォーターのシオン組合教会の交わりに入ることを認められた。1839年、彼は完全禁酒を誓った。1841年の秋、彼の父の予期せぬ死の後、そしてノース・パサトンで呉服商の兄の手助けをしていた短い期間の後、数ヶ月してから、彼はセントポールズ・チャーチヤードのヒッチコック・ロジャーズのところで働くためにロンドンに移った。教会籍をロンドンの指導的な教会の一つへと移した。
この進行をぼろから富の見込みへの前進として説明したい気持ちになる。というのも、ジョージ・ウィリアムズの甥の子で、伝記作者であった人は、最初の「丸太小屋からホワイトハウスまで」を出して歴史に名を残した出版社に属していたからである。ウィリアムズ一家は堅実な農民であり、アシュウェイに長く定住し、ウェイルズらしさを示すいかなる徴候も固く拒絶し、ジョージがロンドンに引っ越した後も長くサマセットに留まった。ダルバトンの教会の墓地にある、エイモス・ウィリアムズのやや凝った墓石が実体を示している。ジョージ・ウィリアムズもそのように教育されたのである。その教育には何か優れたものや系統的なものはなかったが、農業を営む中産階級出身の少年にとっては十分であったし、息子たちの系列で最も年若い者(末っ子)が通例期待しうるものよりはましだった。ブリッジウォーターの呉服商への年季奉公も同様であった。織物販売業はその当時の進歩的な職業であり、品がよく、適度に教育を受けた青年たちを求めており、一時の労苦を犠牲にすれば魅力的な前途を約束するものであった。良い呉服商は彼らの年季奉公人から高い貢献度を要求した。(ウィリアムズの)一家はその職業と既につながりを持っていたので、ジョージがそれに付け加えるべきことは自分たちが商売上手であることを売り込み、また自分自身のために進取の気性を発揮することであった。
進取の気性こそは彼の人生の進路を決定したものであった。彼は大変想像力の豊かな青年であるとは言えなかった。青年期に固有な楽しみを満たすための余暇がほとんど無かった時代に、宗教的な世界だけが十代の若者たちにとって特に大切なものであると理解されていた。ブリッジウォーターで、ジョージ・ウィリアムズは回心した。
宗教が彼に影響力を及ぼした唯一つのものであった。彼はそれに決定的な重要性を認めた。彼がシオン教会に出席した、1837年冬の日曜日の晩から、その教会の牧師が穏やかなウェイルズなまりで彼の心の状態に語りかけていると感じ、また以前にはそのような状態を決して自覚していなかったと感じて、彼は福音的な信仰を確固として受け入れ、自分を福音的なキリスト者であると見做すようになった。しかしその後に起ったヴィクトリア期の良心の危機に影響されていたわけではなかった。非国教徒として15年以上の間、そして英国国教徒としての50年間、彼は福音派に忠実であった。福音的なリバイバルの最後の成果の中でも、彼の(YMCA)運動は、注目に値する程度に、創立者の個人的な信仰の新鮮さと活力を反映していた。信仰こそは運命に対する個人の反抗に偉大な強調点を置くものでった。いかなる個人も神のみ前では無益である。しかし救い主の功績に全く信頼して、何もしないでよいというわけではない。ウィリアムズのような、楽観的で外向的な気質の持ち主にとって、その回心の結果は、どんな政治家的な性質よりもっと価値のある積極的で、快活な信仰であった。その生涯の終わりまで、ウィリアムズは、ほとんど癪に障るほどの単純一途さをもって、このすがすがしいキリスト教的な個人主義を固く守った。キリストを受け入れよ、そうすれば青年たちには何も拒まれはしない。彼のメッセージは決して変わらなかった。そこから、世界を包み込むことを約束する、ある共同の精神が生じた。
ブリッジウォーターのホームズ氏は組合派(会衆主義者)であった。ウィリアムズ一家は英国国教徒であった。ホームズ氏の雇い人、ジョージ・ウィリアムズは,ホームズ氏の教会、非国教的な教会の、単なる支持者ではない、会員となった。国教徒と非国教徒は別の世界に住んでいた。非国教徒になるということは、社会的政治的に劣勢な世界に入ることを意味した。それは緊密に結ばれた、自足的な世界であった。息が詰まる世界であると言ってもよかろう。あるいはまた人を陽気にする世界であるとも言えよう。自分に立ちはだかる障壁の力を自覚しないでは、非国教徒であることはできなかった。しかし一歩を踏み出すことの挑戦をそれほど真剣に受け止めるのは、結局は田舎町だったからである! ジョージ・ウィリアムズは20年にはならなかったが、その間このような挑戦を受けたのである。これらの年月に彼は宗教的な成熟に達し、そのビジネスで成功するまでに成長した。これらの年月にYMCAは創立された。組合教会の集会に慣れていない人は誰もが、新しい運動の初期の会合で落着かなさを感じたであろう。組合派でない人は誰もが、後年、地方の青年会がロンドン青年会をそれと見做した、あるいはそのような疑惑がやわらげられるような形で見ていた、その「健全な分離」というものに甚だしく驚かされたことであろう。英国国教徒やウェイスレアン・メソディストは、当然のことながら、疑問を抱いたことであろう。
1841年、ロンドンへの転居の年、ウィリアムズの置かれていたコンテキストは、以上の通りである。
3.
もはや確かめようのない伝承がある。それによれば、ジョージ・ウィリアムズは1841年10月18日にヒッチコック・ロジャーズ商会に入社し、「キリスト教青年会」という名称を最初に提案したC.W.スミス(C.W. Smith)はその同じ月に到着し、創立メンバーの他の者たち…エドワード・ヴァレンタイン(既出)、エドワード・ビュモント(Edward Beaumont)、ウィリアム・クリーズ(William Creese)、J.C.シモンズ(J.C. Symons)…は、その後2年の間に姿を現わしたことになっている。
熱烈な宗教的精神がこの時期のヒッチコック社のうちに働いていたと言われることには、単なる伝承を越えた確実さがある。そのことがきわめて注目すべきものとなった1844年6月に先立つ数週間は別として、それはヒッチコック社に独特のものだったというわけではない。ジョージ・ウィリアムズ、情熱的な仲間たちの中で最も明晰であったわけでもなく、最も先見性があったわけでもないこの人物こそが、この雰囲気の最たる原因だったのである。
こう言いうる論拠はウィリアムズとその友人、エドワード・ヴァレンタインによってつけられた(数冊の)日誌である。日誌の執筆者たちの主たる関心事は彼らの霊的な状態を記述することであった。その他の出来事はこの目的に寄与する限りで取入れられた。それらの日誌はあまり目立つものではない。魅力はその中にある。それらは散漫で、急いで書かれていて分量が少なく、読み書きはできても十分な教育を受けていない、働き過ぎで、心配事の多い青年たちの作品である。そういう限界内で…この二人の間ではヴァレンタインの方が示唆に富んでいるが…、霊的な興奮によってのみ変化が与えられる、窮屈で繰返しの多い経験についてのかなり十分な記述がなされている。それらの日記帳は疑問で満ちている…ただしそれは宗教的な疑問だけであるが。そこには不満の跡形もない…彼らの霊的な不完全さに関するものを除いては。彼らは自らに空想力の飛翔を許さなかった…彼らの魂の状態におけるそれを除いては。
二人の互いに補足しあうパーソナリティーがここにある。エドワード・ヴァレンタインの方がやや年上であった。彼は1843年5月には24才であった。ウィリアムズは10月に22才であった。社会的背景に関しては似ていない。ヴァレンタインは「内陸人(Midlander)」であった。ノッチンガムで働いたことがあり、シェフィールドには退役軍人の兄が、マンスフィールドには今にも死にそうな父が、そして1843年に海で亡くなったもう一人の船員の兄弟がいた。両家共、その物質的な成功の見込みの方が、霊的な未来よりも大いに重要であった。あるいは彼らのしおれた呉服屋の息子たちにはそう思われた。二人の青年共、この時には、彼らの信仰が要求しているように思われる宗教的内省に敏感であった。ヴァレンタインだけが生来内省的であった。内気で、疑い深い、可哀相なヴァレンタインはまだ教会の会員ではなかったが、二人とも組合派であった。カナビー・ストリートの隣にある高級なクレイブン・チャペル(Craven Chapel)の、ジョン・リーフチャイルド(John Leifchild)から、サウスワークにあるニュー・パーク・ストリートの風変わりな真四角な建物のバプテスト教会の、ジェームズ・スミス(James Smith)に至るまで、彼らは首都のすべての偉大な説教者の説教を味わったが、彼らが神の都シオンで最も安らぎを覚えたのは、キングズ・ウェイ・ハウス(the King’s Weigh House)においてであった。
フィッシュ・ストリート・ヒルにあるウェイ・ハウスは、ロンドンの諸教会の中でも最も注目すべき教会であった。その牧師、トマス・ビニー(Thomas Binney)は非国教徒の人間がそうありうる限りで国民的な人物であった。40代半ばに差し掛かっていた。若いときの神経質で活動的な風采は、容貌においてオリバー・クロムウェイルとハーバート・ヘンリー・アスキス(Herbert Henry Asquith)とのどこか中間に位置する、より堂々とした風貌に取って代わられつつあった。すべての偉大なヴィクトリア期の牧師たちと同様、ビニーは独力でやり遂げた人物で、そのような人として、敬虔な年季奉公人たちにとっての申し分のない模範であった。彼は牧師という自分の職業の優れているところと欠点とを混ぜ合わせた。彼は神的に霊感を受けた人であると同時に、鋭敏にプロフェッショナルであった。気質を除くすべての点で、彼は青年たちの英雄崇拝の格好の対象であった。そして青年たちが彼の教会の面会時間の空きを満たした。
彼の教会堂と同様に、彼の会衆も、大きくかつ豊かだった。教会員たちは規則正しくかつ真剣にその特権を行使した。避けられない限界の中でのことだが、彼らは偉大なビジネス上の地位を、そしてある程度の社会的な地位と増大する政治的な地位を手に入れた。その交わりの中で、英国の互に関係している、自立した、神経を尖らせた、非国教徒の底流社会の、すべての群れが出会った。ジョージ・ウィリアムズは…彼は会員名簿では422番であり、教会員になることとしては2度目のジョージ・ウィリアムズであったが…、1842年12月からこの教会の一員となった。10年間というもの、多分それ以上長く、「神によって命ぜられた儀式(礼拝)」に規則正しく出席した。ウェイ・ハウスとその世界の性質とはこのようなものであり、彼がその群れから遠ざかるなどということは決してありえなかった。
既に教会員となっている者たちの中に、後にブルームズベリーでウィリアムズの隣人となり、ロンドンYMCAで傑出していた、ヘイバーズホン(Habershon)と呼ばれた、若いラザラム(Rotherham)出身の男がいた。ハイベリー・カレッジ(Highbury College)の神学生、C.W.コンダー(Conder)が居て、後にエグゼター・ホールの講師となり、またリーズYMCA(the Leeds YMCA)の支援者になった。サミュエル・モーレイは、間もなく英国の最も裕福な庶民の一人となり、(YMCA)運動に絶大な影響力を持つ人(ゴッドファーザー)としてシャフツベリー卿に次ぐ人となったが、1836年来の教会員であった。1844年1月、エドワード・ヴァレンタインは、大変な精神的動揺と求道の末、教会員となった。後年YMCAおよびウィリアムズ一家と深い関わりを持つようになる、未だ16にもならない、いつも青いコートと真ちゅうのボタンを身につけていた、ウィンザーの若者が、1845年12月、(教会員に)推薦され受け入れられた。この人物こそ、ポスターン・ロウの出版人である、ウィルキンス氏の店員、マシュー・ヘンリー・ホダー(Matthew Henry Hodder)であった。
ウィリアムズとヴァレンタインにとって、ウェイ・ハウスは生活の中心そのものであった。日曜日には2回、ビニーの膝下に座した。彼らは日曜学校で教えた。いつもウィリアムズが先頭に立ち、ヴァレンタインがあとに従った。1843年からウィリアムズは日曜学校の書記であった。彼らはダービー街伝道所(the Darby Street mission)で教えた。次第に彼らの活動は広がったが、それらはクレイブン・キリスト教教育協会の仕事で外回りすることであろうと、サーレイ教会付属の、ジャーストン街貧民学校で教えることであろうと、なお教会の世界(the chapel world)の中に含まれるものであった。こういう形で、彼らは急速に1840年代の休みない慈善の世界に足を踏み入れた。すなわち、ロンドンのおぞましい生活状態の中で働き、ロンドン市伝道会、貧民学校運動、ロンドン伝道協会を筆頭とする諸伝道協会といった、その当時の諸団体の活動を経験した。この互いに結びついている世界では、一つのことが他のことへと導いた。いつも彼らの敬愛する牧師たちの誰かがさらに有益なことを提案するのであった。その世界は大層狭かったので、すべての人に有り余る機会を供する、実践的な世界なのであった。それ以上に良い年季奉公などありえなかったであろう。ウィリアムズにとって、それこそまさに年季奉公なのであった。
以上が二人の日記の世界である。それは牧師たちの世界である。その牧師たちというのは多分、最も見事な説教をし、講壇で黒い絹の手袋をはめているサーレイ教会の、声も滑らかなジェイムズ・シャーマン(James Sherman)のことであろうし、また多分、宮廷付き牧師、スコットランド長老教会のカミング博士(Dr Cumming)のことであったろう。その説教は「青年たちへのサタンの智恵による説教…大いに楽しまれた」と書かれている。それは親しい世界であった。「魂の幸福についてブラウン兄弟と素敵な語らいのときを持った」。それは青年の世界であった。「私はこの朝、夢から来る低俗な考えを抱いて起きた」(1)。それはどうしようもなく単調な世界であった。「お金の形で一時支給を受けた」。「無料で手術する医療を受けるために、(ジャーストン街に行かずに)留まらざるをえなかった」(2)。それは頭痛と、熱風邪と、そしてまた長時間(労働)、劣悪な下水設備、風通しの悪い宿舎、不十分な医療の手当から来る、全くの疲労困憊に満ちた世界であった。要するに、色々とごちゃ混ぜになった世界であった。仕事はあらゆるこの世的な考えを引き込んだ。ヴァレンタインにとって、ヒッチコック商会の寝室は家であった。ウィリアムズにとって、それは「ヒッチコック商会」のものにとどまった。しかしウィリアムズの店についての言及の方が、より確かで、その数も多い。
注(1)ヴァレンタインの日記
1843―44。
注(2)ヴァレンタインの日記
1843―44。
時々レクリエーションが付け加わった。エグゼター・ホールでは歌と発声法のクラスがあった。いつも、訪問してくる田舎のねずみに悩まされる、観光の小旅行があった。1843年のクリスマスのときには、兄弟のチャールズ・ウィリアムズは、中央郵便局、英国銀行、ロンドン塔、上院、ウェイストミンスター寺院、「マダム・タショウズ(Madam Tushawes)」、それに中国展示会を引き回された。時には国の式典があった。女王は、1844年10月、王室の交流を公開するために、特別に楽しい機会を提供した。というのもその日1日祝日となったからである。そこでヴァレンタインは、フィアロン氏(Mr Fearon)とその娘たちと一緒にグリニッチ公園に出かけた。全体としてその日は「大変霊的でかつ楽しい日であった」。しばしばホルボーン浴場のゆったりしたくつろぎの時があった。「そこでの語らいは人間に対して神がいかに恵み深く、良い方であるかということに関するものであった」(2)。テンペランス・コーヒー・ハウスでの愉快なひとときもあったし、喜びの最高潮として、ヴィクトリア人が芸術にまで発展させた類いの社交的な会合もあった。というのもその会合には相当程度の有益性が含まれていたからである。1843年の聖金曜日には、5人の若者たちが南の地方タルス・ヒルとノーウッド墓地を旅した。ウィリアムズは「景色の雄大さ」について感想を述べている。帰ってきて、彼らはペントンヴィルで開かれた、毎年行われる、聖金曜日の絶対禁酒の茶会に出席した。茶会のスピーカーたちは中身のある人たちで…ウィリアムズが見逃さなかったポイント…、彼らの話は、ヴァレンタインが感じたことだが、直ぐに禁酒の誓いをした程に、見事で説得力があるものであった。ウィリアムズは喜びをもって、それは「常に思い出される時」であると書いた。そして彼が多くを学んだスピーチの一つについて筋道の立たない覚え書きを書き留めている。いわく、「古代のブリトン人」はピューリタンであり、飲酒は費用のかかる更正施設、費用のかかる精神病者収容施設、費用のかかる刑務所(および警察署)、そして費用のかかる受刑者の輸送の原因である、と。
注(2)ヴァレンタインの日記 1843―44。
その他それがどんなものであろうと、その世界は個人的信仰の世界であった。この段階では二人の青年の信仰には否定的な面があった。個人的宗教にはかなり自己本位なところがあるが、二人ともそれを免れてはいなかった。彼らは自分たちの家族から霊的にかけ離れていると鋭く感じていたが、彼らの懸念は直ぐに家族に同情するという形を取った。「私の親族は、一人の叔父を除いて、すべて地獄に行くというのに、彼らを救うために私は何とわずかな努力しかして来なかったことだろう」と、ウィリアムズは悩んだ。同様にヴァレンタインも耐え難いほど悩んだ。1844年8月、彼の父が死んだ。病床を看取ることには長時間の辛抱が必要であるが、それが彼を憂うつにした。父親の気風が彼をぞっとさせた。彼は、自分はこの人の子であると感じようと努めた。聖書を読んだが、そこから何の霊感も得られなかった。彼は大声で祈り、父親がそれを制止した。「父の心は、仕事と娯楽の光景の只中を常に徘徊していて、地上にくぎづけになっているように思われた。」ヴァレンタインは父に幸せかどうか尋ねた。
「なぜ私が幸せでないと言えるのかね。」私は父に自分は死ぬと考えないのかと尋ねたら、いや、自分は死ぬとは思わないと言った。父は救い主の血の価を知っているようには見えなかった。
一番悪いことに、大勢が出席した葬儀で、彼の父は天国にはいない、いられない、という恐れ、その確かさが、すべての他の考えを彼から追い払ってしまった。母親が自分の息子に腹を立てたのも不思議ではない。
ウィリアムズもヴァレンタインも、二人とも、もっと広い世界を必要としていた。この時点では、そのような広い世界を見ても、彼らはそれによって心動かされることはなかった。セント・ポールズ寺院について、どちらの日記にも1回だけ言及されているが、敬意を表した言い方ではない。その影はヒッチコック商会の若者たちの誰もがとても無視し得ないものであったが。たまたま「聖職者の息子たちの祭」に二人一緒に出かけたが、「歌は良かったが、他の部分は見せびらかしの中身のないショー」だった。
1842年と1844年の間は、ヒッチコック・ロジャーズでの会合はほとんど増えなかった。短い講演のシリーズは、1844年11月までに、相互改善協会(Mutual Improvement Society)へと発展していた。家庭伝道会があり、祈祷会があった。そういう会合は、同じ青年たちがそれらを開拓したのでない限り、互いに結び付いてはいなかった。皆の中でも、ジョージ・ウィリアムズには温かさと誠実さとがあった。そうでなければ、雰囲気は耐えられないものになっていたであろう。会った人すべてがそういう彼の優れた点に印象づけられたし、それが最初の「青年たち(青年会メンバー)」の宗教的な熱情を全く自然なものとしたのである。その上、彼には成熟した知性のみが持ち堪えることのできる粘り強さがあった。仕事は誰の目にもよく出来たし、自分の知的武器庫の中のすべての欠陥に対しても賢く対処した。そもそもの初めから、彼には世界のより良きオーガナイザー、より偉大な人物たちに約束された、立派な地位を獲得するための目立った資質というものがあった。部分的には、この彼の資質は、責任を放棄しないで、権限を委任する優れたビジネスマンの能力であった。また部分的には、彼の仲間を判断し、彼らに衣服を着せることを可能にさせた呉服商の第6感の延長であった。それはヒッチコック商会での多方面の目立たない諸活動をキリスト教青年会へと変えるのに十分な資質であった。
商会において激しさを伴った霊的な覚醒が成長してきて、1844年の夏にピークに達した。当時青年たちが書き付けた、多くの日記に特徴的な憂うつの只中に、有益さを求める努力が実を結びつつあるという、増大しつつある、そして感動的な自覚が生じてきた。より成熟した(分別のある)クリスチャンたちがしばしば捨てて顧みないようなことを、彼らは実際に行ってきていた。彼らの信仰の正しさと、その究極的な勝利の確かさについて、それ以上の強い徴しは持ち得なかったことであろう。
1843年の早春までに、このキリスト教事業が設立された。営業所という大変めまぐるしい場所にあっては、霊的な充足の機会はほとんどなかった。彼らの生活はつねに研ぎ澄まされていた。この時点で二つの外側の、しかし関連のある力が介入してきた。最初のものはヒッチコック氏の回心であった。2番目のものは、「都市伝道者」、ジョン・ブランチ(John Branch)、「大変愉快な人」で、バプテストであったが、その人に青年たちのチャプレンとなるよう、ヒッチコック氏が約束したことである。ジョン・ブランチは、(YMCA)運動のすべての名親(養育者)たちの中で一番記憶されていない人物であるが、最も称賛に値する人の一人である。
そのようにして事業は1844年まで続いた。2月、その季節によくある喉の傷みと風邪の最中に、もっと深刻な病気が現われて、彼らの生まれ変わった生活にも不安をもたらした。一人の青年、「可哀相なモース」、が突然死んだ。リューマチの熱が彼の心臓を冒していた。「可哀相なやつ、(あの世に)呼び出されてしまった。私はまだその準備が出来ていないのではないかと恐れる。(3)」この恐ろしい境遇を大いに気遣って、祈祷会が開かれた。ウィリアムズが祈り、他の者たちは歌い、聖書を読んだ。可哀相な兄弟スミスは座ってしまい、そして「礼拝が始まる前に棺が部屋に運び込まれたばかりだったので、ほとんどすべての者が涙が出るほど胸を打たれた。(3)」可哀相なモースは物質的な成功に達する前に、そして霊的な豊かさという希望も持たずに逝ってしまった。彼はキリスト者の青年たちが集う家で死んだ。プライバシーが知られていないという雰囲気で、彼の死の結果を過大評価するのは難しいと思われる。
注(3)ヴァレンタインの日記 1843―44。
この時以来、ウィリアムズの日記は混乱していて、かつ断片的である。しかし興奮と期待が引き続き日記に影響を及ぼしている。5月、エドワード・ビューモント(Edward Beaumont)が回心した。フレデリック・ロジャーズ(Frederick Rogers)も回心した。幾人かの中でこの二人が最も注目に値する。ロジャーズは特に祈りに応えたように見えた。こういうことの只中で、5月26日、日曜日、ウィリアムズは、青年たちの集まり(アソシエーション)をつくりたいという彼の願いを、ビューモントに打ち明けた。彼らはサーレイ教会への行き帰りにこれについて話し合った。次の日曜日、6月2日、ヴァレンタインは、友人の幾人かと、リーフチャイルド博士(Dr Leifchild)が青年たちに説教するのを聞くために、クレイヴン教会にいた。博士が取り上げたテキストは、「私は智恵を知るために私の魂を差し出した」であった。そして博士が言ったことは、「最も印象的」であった。
ここで幾つかのかたまりが一緒になる。幾人かのロンドンの聖職者たちの関心が入り交じり、同時に幾つもの出来事が重なり、非国教徒の商業世界と慈善事業とが結び付いて、YMCAを生み出すことを、人は容易に感じ取ることができるであろう。祈祷会は他の事業所でも発生していたが、それらのうちの一つが、コーラム街のオーエン氏の祈祷会で、ヒッチコック商会の注目するところとなった。その二つのグループが接触した。その結果が、1844年6月6日木曜日の、ヒッチコック商会での集まりとなった。
この集会は矛盾とミステリーに包まれていて、ウィリアムズは日記にそれについての何の言及も行っていない。ヴァレンタインは苛立たしいほど不明確である。しかし、彼はその会の記録を取っていて、その写しが現存している。首都の織物販売業界で働く青年たちのキリスト教的責任を喚起することが決議されている。13人が出席した。しかし伝説が割って入る。人によって6人いたという者もいれば、8人だといい、14人だったという者もいる。どの名簿も他のものと一致しない。使徒的な先例を持つ(12使徒に由来する)、12という数字は、大変注目すべきものなので、無視するわけにはいかない。若きオーエンはまだ回心していなかったので、彼を含めて13人という数字を考えるのが妥当なところかも知れない。その12人が4人づつ主要な教派に属していたというのは、後代の伝承である。気持ちよくきちんと整った話で、全くありそうにないというわけでもない。そのうちの3人は確かに組合派であった。少なくとも一人はウェイスレアンで、一人はバプテストで、一人は「頑固な若き教会人(訳注:Churchman、国教会の熱心な教会員のことと思われる)」であった。
大切なのは、この混乱は事柄全体が実際に精神の運動であったという、その度合いを際立たせるという点である。その集会はヒッチコック商会でしばしば開かれた他の集会とほとんど変わらなかった。大変多くの青年たちがそれらの集会のすべてに関わっていたので、創立時からのメンバーであると主張する者たちが、あの14番の寝室はもう一つのエグゼター・ホールであったということを示唆するだけの数にのぼるのも当然である。(訳注:エグゼター・ホールでの集会のあと、あるいはそれ以外のときに、青年たちがナンバー14の寝室に集まったということ。)ただ回想だけが6月6日の集会を神聖化しうるのだから、ある人の記憶が次の人のそれよりも間違っているとは言えない。
翌週末、ジョージ・ウィリアムズは短い休暇でエセックスに行った。出かける前に、彼は次のように書き留めていた。「神はオーエン二世を私に与え給うたと信ずる。間もなく彼は召しを受けるであろう…。」
あの青年たちのなかの13番目の者は無事だった。そしてナンバー14(の寝室)における集会が一つの重要な運動の始まりを印づけたということは既に明らかであった。
4.
続く50年間というもの、その人物は彼が造り上げたものの中に溶け込む。彼の微笑みだけはそのままである。わずかな覚書と個人的な記憶の手掛かりが彼の1844年の日記と1894年の手帳との間のギャップを埋めるものとして残存している。会議と集会への彼のいつも陽気で人づきあいのよい、しかし大抵は重要ではない貢献についての、印刷された諸報告がそのギャップを埋めるものである。最もよい状態のとき、彼は一心不乱の、かつ単刀直入のパブリック・スピーカーであった。しばしば彼の発言は筋が通らなかったし、話を終わらせるのに困難を覚えた。50年間で彼の青年運動は国際的になっていた。彼はその会計となり、それから会長になった。事業では成功していた。1853年、ヒッチコック氏の娘と結婚した。彼は義父と共同経営の関係に入り、1863年、ジョージ・ヒッチコック氏が亡くなってから、シティーでも先導的な、小売りと卸しの織物販売会社の一つである、商会の社長になった。その経営ぶりは、小商人であることをやめて、商業界のプリンスになったようなものであった。ブルームズベリーという快適で世間体のよい地に住んだ。初めはウォバーン・スクェアに、それからラッセル・スクェア13に移った。生活で見栄を張るようなことは皆無であった。端的に秩序正しく、快適で、多忙な暮らしぶりであった。
彼は改宗していた。1850年代の後半までには、彼は、ベーカー街の英国国教会ポートマン・チャペルの出席者となっていた。それは堅実に福音的で、大きく、かつ豊かな教会で、奥深く座席のしつらえられた上階席(ギャラリー)と、良いオルガンとがあり、儀式ばったことを示唆するようなものは、最も無害と思われるものでも、その配置において一つも見当たらなかった。なおも明白に英国国教会に留まり続けている教会としてありうる限り、非国教徒の教会に近かった。そこの牧師たち…キャノン・リーヴ(Canon Reeve)、マーマデューク・ワシントン(Marmaduke Washington)、スチュアート・ホールデン(Stuart Holden)…は、まじめな人たちで、YMCAのことを真剣に受けとめた。会衆は地味ではあるが流行の先端をいっていた。ケアンズ伯、ディズレリーの領主チャンセラー卿、シャフツベリー伯、パーマストンの義理の継子といる中に、YMCAの有力な後援者も二人含まれていて、人がそこに生まれることはあっても、めったに成り上がれない、上流社会の魅惑的な世界とのつながりができたのであった。
それ以来ウィリアムズは献身的な「教会人」となった。彼は高度な教会論的な事柄に向いた人ではなかった。また非国教徒が益々政治的になりつつある時代に(ということは「リベラル」を意味した)、本能的に非政治的(ということは「保守的」を意味した)な人物にとって、ポートマン教会の雰囲気はぴったりだった。その上、その教会はYMCAの継続的な発展に今こそ必要なより広い、影響力をもつ世界への道を開いた。(YMCA)運動は、もし非国教徒の店員たちによって始められたのでなければ、全く違ったものになっていたであろう。YMCAが成熟することによって、国教会に対する偏見が取り去られるということは、極めて重大なことであった。大変分裂した時代にあって、福音的な運動が本当にインターデノミネーショナル(超教派的)なものであり続けるためには、それはただ一つの道であった。
もう一つの観点では、ポートマン教会はジョージ・ウィリアムズに対して有益な霊的家庭を与えた。それはヒッチコック家が出席していた教会であった。ヘレン・ヒッチコックと結婚したとき、彼自身がヒッチコックの一員となった。ウィリアムズとその義理の父との間には親密なきずながあった。二人とも西国人であり、二人ともほとんど独力でやり遂げた人たちだった。16才離れているに過ぎなかった。ヒッチコックの方がもっと言葉が明瞭であったが、二人ともせっかちで、非内省的であった。有能であったが、その有能さは偉大な霊的単純性をもち、かなり控えめな人たちに見られるそれであった。ジョージ・ヒッチコックは早死にした。映像のゆがんだ写真が1枚だけ残っているが、その写真は、たまたま回心した押しの強い商人であるというよりも、何かそれ以上の人であったことを示している。
全く日用のレッツ(Letts)・ポケット・ダイアリーによる、1894年の日記は、多忙で、注意深く、相当せわしない人物の走り書きで満たされている。風采は、快活でいきな小男といったところだった。ハンサムだった。豊かな白いあごひげは彼をヴィクトリア時代の長老に変えていた。背が小さかったので、まるで小妖精のように輝いて見えた。魂を幸福にする、彼のだっこと陽気なしつこさに平気でいられる子供は、ひとりもいなかった。大変誠意のある人だったので、子供は必ず彼に反応を示した。彼は、その語のあらゆる意味において、まっとう(respectable)だった。ほおひげが魅力的な口もとを隠していた。ウィリアムズがにっこりと笑うときの笑い方には特徴があり、それに早口の言い回しが伴った。早かったが、洗練されてはいなかった。以上が、せっかちで、温かなこの人物の特徴だった。常に思いやりがあり、職業的に詮索好きだったが、それが彼の神経を消耗させることはなく、むしろ彼に適度な緊張を与えていた。彼のひたむきさは退屈させるものでありえたが、彼自身は決してそうはならなかった。
声の調子は、単調、正確で、感じがよかった。発声法の教室と呉服商に期待れた礼儀正しさは、サマセットの跡形をすっかり消し去っていた。話が長く続く傾向と、帯気音(破裂音のあと[h]を発音する)での口ごもりだけが、正確に読むことが引き続きできないでいたことと、彼の一定していない教育を物語っていた。声量があり、なおかつ軽快な、大変ヴィクトリア風の声だった。
このような人物にとってポケット・ダイアリーは申し分のない付随品だった。内側の表紙には聖書からの引用句と抜粋があった。「また会う日まで」、「Peace Perfect Peace」、「Jesus bids us Shine」、「My Father is rich in silver」、「Pray Brethren Pray」、「Some-one will enter the pearly...」といった愛唱讃美歌がメモしてあった。「聖書博物館、説教と逸話の1200の梗概(博物館MuseumはMeusieumと綴られている)」からの便利な抜粋が書き留められていた。70才に達した牧師の、医者と比較した数(前者42パーセントに対して後者24パーセント)、アメリカにおける(増加しつつある)、あるいはアイルランドにおける(減少しつつある)、あるいは上院における(40名いる)ローマ・カトリックの信徒数、のような風変わりな若干の統計もある。「neuralgia(神経痛)」、「souvenir(思い出の品)」、「resterant(ママ、レストラン)」、妙なことだが、「repentance(悔い改め)」のような、正しく綴ることを学ばなくてはならない単語のリストもある。家族と、テック(Teck)公爵夫人、多くのバークレイ(Barclay)姓、ウェイミス城(Wemyss Castle)のジョン・バーンズ卿(Sir John Burns)などの知人の、大勢の住所録もある。
それは、風邪で絶えず悩まされる老人の日記である。ロンドンの霧を思い出させる。彼は治療法を書き付ける。「夜と昼にこすりつけられる湿疹(eczema、これがExemaと綴られている)のためのグリセリンと水」、あるいは彼は「毎朝、朝食の15分前に2分の1グラス飲まれる」、「コントレグゼヴィーユ水(Contrexeville Water)」について聞いたことがある。2月、ひどい風邪と咳に悩まされる。3月にもまた。10月、「ひどい病気で、具合が悪い」、頭が痛み、鼻血が出る。11月と12月、咳が舞い戻る。すっかりふさぎ込んでしまった。1894年12月6日、「署名された遺言−神よ、我が息子たちを導き、彼らの未来のすべてに聖なる叡智を与えたまえ」。
彼の家族は殆どの家族と同様に結ばれていた。妻のヘレンは優しい女性で、見た目は質素だった。その生活は、少なくとも娘のネリーが死ぬまでは、ヴィクトリア時代の中産階級の女性に共通する神経症にならずに済んでいた。5人の息子のいずれも父親似だった。父の持っているすべてを達成した者はいなかった。長男フレッド(Fred)は、勤勉な、余り面白味のないビジネスマンで、長生きし、豊かになって死んだ。善良で、やさしい人だった。ハワード(Howard)には冒険心があった。彼は父のビジネスの能力と博愛精神を受け継いだ。チャーリー(Charley)は牧師だった。かなり立派な結婚式をしてから、エグゼターの難しい地域で教区を創り上げるまで、その生涯をささげた。末っ子アルフレッド(Alfred)…「トミー(Tommy)」…は、ビジネスに従事した。1894年に結婚した。アルフレッドのローズ(婚約者)が全く似つかわしかったわけではないという様子が垣間見える。彼は、忙しい最中の、6月8日に婚約を発表し、9月13日に結婚した。その2日前に父は書いている。「アルフレッドは300ポンドを得た。祈りを行った(engaged)が父親としての忠告を与えた(4)」。アルフレッドは政治的野心を持った息子だった。ステップニー(Stepney、訳注:今はタワー・ハムレッツの一部である、東ロンドンの、テムズ川北岸、旧メトロポリタン自治区)のトーリー党議員として、少しの間、ロンドン市議会におり、また少しの間ノフォーク(Norfolk)選挙区の保守党候補であった。しかし健康がすぐれず、その大志は生命の短さに潰え去った。彼は、狩猟の好きな、地方の紳士として死んだ。
注(4)「Engaged」は「engaged in prayer」を意味する。ウィリアムズは彼の息子たち一人一人に公衆の面前での祈りで、よどみなく祈ることを期待していた(引用された日記の原文:‘Alfred £300 had prayer He engaged gave him Fatherly advice’)。
トミーと彼の兄バーティー(Berty)は自分たちへのしつけに反抗した。彼らは劇場に対する情熱を持った元気のよい若者たちだった。彼らの父は、青年たちへのそのすべての洞察力のゆえに、組しやすい親ではなかった。チャーリーは別として、男の子たちの誰一人として大学教育を受けなかった。大学は危険な場所であった。年下の男の子たちだけがパブリック・スクールに通った。レプトン(Repton)かハロー(Harrow)だったが、そこはシャフツベリー卿の息子たちが通っていたところだった。ハワードは陸軍への入隊を切望していたことがある。バーティーは海軍にあこがれていたが、その次には大学に入りたがった。彼らの父は、ハワードは(ヒッチコック・ウィリアムズ)商会に入らなくてはならない(彼は14才にすぎなかった)、バーティーは事務弁護士にならなくてはならないと命じた。しかしどちらの男の子も、父親を心痛から解放してやろうとはしなかったし、彼らの生活は父の願望という影響によってねじ曲げられはしなかった。それは多分、有限な人間の完全さというものの一番強力な証拠なのであろう。彼の息子たちは、ヴィクトリア後期、およびエドワード(Z世)期の中上流階級の流儀に従って、快適な生活を送った。彼らの父はブルームズベリーが気に入っていたが、息子たちはブラムリー(Bromley)を好んだ。
日記では家族とビジネスが周年記念の年の宗教的関心と競り合う。初めは記念祭や公けの諸集会のこと、8月はサマセットとデボンへの旅行のこと、秋にはノフォークと内陸への旅行、日記全体を通してラッセル・スクエア(Russell Square)での日曜トラクトのお決まりの配布、そして義母とその娘、「おばーさんとエディットおば」を規則的に訪問すること。12月にはウィリアムズ一家は南フランスに引き下がった。マントン(地中海沿岸のフランス南東の都市)で、1840年代を回想する記載事項の中で、彼は「スコットランド教会に行った。楽しい日を過ごした」と書いた。1894年12月31日、「素晴らしい年の最後の日。愛する母と墓地(Cemetaryと綴っている)まで歩いた。…風邪…ひどい晩だった…この年に感謝」と書いた。
5.
1905年11月6日の晩、トルキー(Torquay、今はトルベイTorbayの一部であるイングランド南西の、以前自治区であったところ)の、ヴィクトリア・アンド・アルバート・ホテルで、なお青年たちに話し掛けていることを想像しながら、彼は死んだ。息子たちの誰よりも多く、250,000ポンドに少し足りない(遺産を)残した。11月14日、セントポールズ寺院の地下納骨室に葬られた。彼の葬儀は、その時代の葬儀の中でも最後で最大のものに属した。死の時だけは、慈善家と牧師は政治家や軍人と等しい栄誉を与えられるものである。賞賛には驚くべきものがあった。一同はウェイストン・スーパー・メア(Weston-super-Mare)の体育館に会した。プレストンでは、YMCAフットボール・チームは黒い腕章をつけた。シェフィールドでは、YMCAオーケストラが「最も印象的なやり方」で「サウルの死の行進曲」を演奏した。サンダーランドでは、同じく印象的に「クロッシング・ザ・バー(死線を越えて)」が演奏された。ダービーでは、独唱が巧みになされ、市長の弔辞が拍手で迎えられた。
ロンドンではどうであったか。11月12日、ロンドンの国教会大執事(Archdeacon)はセントポールズ寺院で記念の説教を行ない、「宗教改革タイプに属する英国教会の献身的で熱心な会員」として、ジョージ・ウィリアムズに栄誉を帰した。1ヶ月以内に大蔵大臣になることになっていた、しかし初めのうちはYMCAに共鳴してはいなかった、アスキス氏(Mr Asquith)も、葬儀に参列していた。11月13日、「タイムズ」は、市長ならびに州長官たちが、エグゼター・ホールで、午前10時30分に始まる国葬に出席することになっていると報じた。200台以上の馬車が予想されていた。棺に付き添って行く人たちは、サミュエル・モーリー(Samuel Morley)の息子の一人とキナード卿(Lord Kinnaird)を含んでいた。アバディーン伯爵は残念ながらその名誉を辞退していた。葬儀では12人の棺に付き添う人たちがいた。マシュウ・ホダー(Matthew Hodder)はその一人であり、ベルンシュトルフ伯爵(Count Bernstorff)もそうだったが、その甥は当時ドイツ大使館の一等書記官であった。
11月14日は曇りで、雨模様だった。「静かな雨―涙が落ちるように静かな」。国葬については準備万端整っていた。セントポール寺院の前には柵が張り巡らされた。河岸(Strand)、フリート街(Fleet Street)、ラドゲート・ヒル(Ludgate Hill)に沿って、店舗は暗くシャッターが閉められ、半旗が掲げられていた。聖クレメント・デインズ(St Clement Danes)の鐘が鳴った。群集は多くはなかったが、彼らには結束があった。男の数の方が女より多かった。家族の行列はラッセル・スクェアから出発した。棺は、「重い青銅の台座の付いた、鮮やかな色調の羽目板で飾られたオーク材」で、ハートの形をしたすみれの花のリースで蓋われていた。「皆から愛された」という言葉は白で書かれていた。それは(ウィリアムズ・アンド・ヒッチコック)商会からのものだった。ウィリアムズならびにヒッチコック家の男たちのために6台の家族用の馬車がしつらえられた。女性たちは出なかった。古風な家族では、女性たちが葬儀に出席するのはふさわしいことではなかった。
行列の本隊はエグゼター・ホールを出発した。そしてエグゼター・ホールからセントポールズ寺院まで、約2時間ほとんど絶えることなく、馬車の行列が続いた。行列は河岸でやや苦労して進んだが、大寺院では「結束していて、強い印象を与えた」。これはロンドン葬儀会社(the London Necropolis Company)への賛辞である。
セントポールズ寺院は人で一杯だった。チケットは2600枚発行されていた。女性よりも圧倒的に男性の多い、感動的に普通の人たちの集まりであった。明らかに教会に行っている人たちの集まりだった。もちろん大勢の著名な弔問者たちがいた。ロンドン市長ならびに州長官たちに加えて、ホルボーン(Holborn)の市長と市当局が参列した。聖歌隊では、50人の英国教会の司祭たちが…そのうち3人は司教で、その人たちのすべてが同教会の福音派の指導者であったが…、40人の非国教派の兄弟たちと一緒になった。それはすべて深い意味で示唆に富んでいた。セントポールズ寺院は一番薄暗い状態にあり、11月の季節に似つかわしかった。丸天井と聖歌隊席を照らす電灯だけが薄暗がりを和らげていた。礼拝は状況が許す範囲でシンプルだった。聖書日課が80才代のグレゴリー主任司祭によって読まれ、スタンフォードの「私は天からの声を聞いた」、ヴィクトリア女王の愛唱讃美歌の一つで、その葬儀でも歌われた、「神の聖徒ら」が歌われた。聖歌隊が無伴奏の国歌を歌った。音楽には適切さとその場にふさわしい感情があった。ジョージ・マーチン卿が指揮し、そしてロンドン・トロンボーン・カルテットが、万聖節のために作曲された、ベートーベンの「エクアリ」を演奏した。「トランペットの嘆き悲しむコーラスが、しかしキリスト者の勝利の調べをもって、嘆き悲しむオルガンの後に続いた」。ある者たちにとってはそれは少し不釣り合いであった。ジョージ卿は60年前何と書いたであろうか。「歌は良かったが、他の部分は見せびらかしの中身のないショーだった」。会衆によって歌われたのはただ一つの讃美歌だったことに皆が全く幸福だったわけではなく、司教と聖歌隊の行列が、大寺院(カテドラル)の行列用の十字架を掲げもつ十字架運びによって先導されている間、プロテスタント連盟(the Protestant Alliance)とプロテスタント婦人連合(the Women’s Protestant Union)の人々が彼らの忠実な仲間の一人の死を悲しむというのは、妙なことであった。しかし葬儀の荘厳さについては疑問の余地がなかった。
彼は偉人だったのであろうか。疑いもなく彼の運動は偉大な運動であった。しかしそれは彼の運動だったのであろうか。もっと政治家的な人たちによる創造物ではなかったのか。ヴィクトリア時代にはもっと冒険的なビジネスマンたちがいた。彼は雄弁家でもオーガナイザーでもなかった。その知性に卓越したものは何もなかった。もし偉大さというものが心の広さを意味するのだとしたら…それは確かに偉大なヴィクトリア人の性質であったが…、彼は偉人ではなかった。彼は一途な(single-minded)人であって、心の広い(open-minded)人ではなかった。1905年の英国は英雄を待望していた。そしてウィリアムズと共にゴードン将軍とブース将軍の時代、バーナード博士(Dr Barnardo)とシャフツベリー卿の時代を通過しようとしていた。人々は感じたのだが、彼は商人の慈善家の中の最後の人だった。ヴィクトリア女王御自身のように、彼は、資質において最も人をうらやましがらせるもの、長命、堅実さ、そして完全な…多分非凡な…平凡さを所有していた。それらは最早平凡な世界の中で評価されるようなものではない。
しかしそれだけでは未だ十分ではない。彼の運動は彼が全面的に是認できるというわけではない形で発展した。不一致の時代にYMCAは生き残り、分裂なしに繁栄した。彼は疑いもなく不一致を作り出すこともできたであろう。彼は青年会にとって大変重要であったし、誰も彼がその創立者であることを疑わなかった。彼の厳格に保持された信条を傷つけることなく、彼はずっとYMCAに留まった。多分これは政治的な見識の徴だったのであろう。しかしもっとありうべきことは、それは偶然だった。また多分それは彼の回心の結果であったし、運動の核には常に回心を経験した人たちがいるべきであるという、彼の強いこだわりの結果でもあった。だから、彼にはその人たちのクリスチャンとしての誠実さを疑う理由がなかったし、たとえ彼らがそれぞれ異なる道を選んだとしても、彼らの出発点と彼らの目的地は同じであった。それはシオン教会あるいはウェイ・ハウスだけが教えることが出来たであろうような教訓であった。それは心の広さというものではない。それは実にキリスト教信仰の変革する力だったのである。
1907年、「ザ・ガイド」は以下のように彼のことを要約した。
人は彼が幸運な男だったと言いたくなるであろう。運命は彼に味方したし、生まれつきの利発さと人を引き付ける親切な態度とは彼を事業での成功に導かずにはいなかった。彼は、主要なチャンスへの継続的な注意を怠らない…そういう種類の男だった。彼の人生の活気あふれる力であったキリスト教信仰を早くから受け入れたことが、単に一つではなくそれ以上の意味で、真実に彼の救いであった。
「ザ・ガイド」が書いたことをもっと親切に言い直すことができよう。人々の魂を救うという彼の限定された目的は、事実として、永遠によってのみ限定されていた、彼はそういう人物だった。彼にとって真理はただ一つの最も賢明な便法だった。彼は本当に、シャフツベリー卿が、「あの親愛なる人、ジョージ・ウィリアムズ」と呼んだような人だった。
その環境の中のひとりの人、ジョージ・ウィリアムズを取り巻く現実
1900年代の大きなビルディングが1970年代のもっと大きなビルディングに取り替えられなければならなかったとき、最悪のことが心配された。新しいロンドン・セントラルYMCAについても、その規則の目覚しい例外であることを示そうと意図されたというわけではなかった。少なくとも、古い建物の読書室にかかっていた、ジョン・コゥリアのジョージ・ウィリアムズの絵のための壁面はあった。確立した組織というものはどれであろうと金の額縁の中の、あごひげをはやし、慈悲深い顔をした、その組織の正式の肖像画(複数)を持っており、その絵はそれらを描いた芸術家たちの流儀で、正しい姿勢をし、暗い色彩で彩られているものである。コゥリアのウィリアムズの肖像画は画家とモデルとのめったにない幸せな結びつきを示唆する。一方は、昔イートンを卒業した、一流の肖像画家で、法曹界の特権階級に生まれ(彼の父はグラッドストーンの最も論議を呼んだ裁判官への任命が行われたときの、その裁判官の一人であった)、知識人の特権階級と結婚した(彼の妻たちはハックスレイ家の出だった)。他方は、成功した社会事業家で、独力でやり遂げた人、商業界の帝王であり、また帝国のクリスチャン・エリートとしての地歩を固めた人であった。
ヴィクトリア期の芸術家はしばしば職業人にふさわしい、誠実さと品行方正との模範であったが、コゥリアは彼の亡き妻の妹と結婚したとき、ヴィクトリア時代の法律の条文に違反した。英国ではそのような結婚は違法であったので、法律的には、ノルウェイで彼女と結婚したが、1907年までそのままの状態が続いた。コゥリアの結婚に関する自由奔放さの形跡は彼の美術に混ぜ合わされていた。なぜなら、肖像画は別として、彼は問題絵画によって最もよく知られていたからである。それらはドラマティックな情景を描写していて、その絵を説明するように思えるタイトルが与えられていた。しかしどんな説明も見かけだけのもので、ドラマの中身は鑑賞者の発明の才にゆだねられていた。コゥリアの絵の問題は、一言でいえば、解決不可能であった。1905年、ジョージ・ウィリアムズの死の年、コゥリアは彼の最も有名な問題絵画を展示した。そのタイトル…「いかさま師」…は簡潔である。その主題…4人のエドワードZ世期の上流社会の人たちがカードをしている…は人目を引く。その寓意…時間の無駄遣い、道具立ての贅沢さ…は豊かである。そして問題は残る。我々は4人のうちの誰がいかさま師であるか知りようがない。
絵とその画家、それをこのように見れば、コゥリアのウィリアムズの肖像画もやはり問題となる。初め見たところでは、すべては明瞭である。柱の傍でのポーズ、あごひげ、慈悲深さ、よく磨かれた靴とあつらえの、柔らかなオーバー、華やかさのかすかなしるし、やや威儀を正した感じ。それから疑いが始まる。その眼差しはふざけ半分なのか、困惑しているのか。その笑みは何なのか。その手は与えるために差し伸べられているのか、それとも受けるためか。ジョージ卿は歓迎の準備ができているのか、それともスピーチの用意が整っているところか。その前なのか後なのか。その立派な表玄関はエグゼター・ホールのものか、昔ながらの福音的教会か、市役所の建物か、商会の建物か、トーキーのホテルか、それともラッセル・スクエア13番地の客間なのか。あたかもそれがユニフォームであるかのように衣服を着ているが、その感じは年配の、制服を着たサービス係のようにも見える。彼が大変背が低い人物だったというヒントは理解できるようにはどこにも与えられていない。
その肖像画は、鑑賞者がその中に見つけたいものは何でも伝達するように見える。そしてそのことは、ロンドン・セントラル(YMCA)の壁にその絵がいつまでも残るであろうという希望に対しては、悪いことではない。どんな人でも彼がそう見える通りのものではない。それは我々が敬服する人たちについて述べようとするときには、つい忘れてしまいがちだが、あるいは多分ゆがめてしまいがちだが、明白な真理である。我々は人々に説明しなくてはならないと自覚するものであるが、我々の説明はきちんと整っているべきだということにも等しく気を配っている。我々自身にとって未解決のものを人々は互いに押しつけ合うことを神はご存知なのであるが…そこに我々がいつも誤解される人生を経験する理由がある…、他の人たちには複雑なものを押しつけるくせに、(偉い人たちを説明するときには、そのように)単純なものを見させられるのにはうんざりする。人々のそのようなメロドラマ風のやり方について、ジョン・コゥリアの絵は公開される美術館でこのことを銘記させようとしていたのだが、それを見る大衆というものは説教で育てられてきたので、そしてコゥリアの絵は油で描かれた説教であったので、人々はそれをうのみにし、無頓着に我が道を行くまでのことだった。
我々についてもジョージ・ウィリアムズについても、そのことは当てはまるであろう。彼の名前も、彼の仕事も、彼の富もそれほど目立たないのに、もし彼が選び出されるに値するのであれば、それは過去の時代の父祖たちと建設者たちとをほとんど超人的に代表しているからである。これもまた人を誤解させるものだが、彼はウェイルス人ではなかったので、既に存在していた事業を基に事を進めたのだし、彼がロンドンYMCAの創立者であったということすら、疑いない証拠は、私は疑わしく思うが、決して見つからないであろう。しかしまさにそのすべてが彼を注目に値するものとしているのである。
彼はその生涯にわたって幸運だった。彼は1821年10月に生まれた。そして1905年11月に亡くなった。彼の世代、ということは結局、ヴィクトリア女王の世代であるが、その世代の健康な英国人は誰でも、単に進歩が起るのを見届けるというだけでなく、それを起させることが可能であった。あるいは少なくとも、それを起させるに当って、ある役割を果たしていると感じることが出来た。ヴィクトリア時代の英国人は発展しつつある未来を見た(1)。ジョージ・ウィリアムズは地方の中流階級に生まれ、都会の、商業界の中流上層階級の一員として死んだ。彼の人生行路においては、イギリスの中流階級ということは…「イギリスの(English)」という言葉はそれと全く切り離された対応語であるアイルランド、ウェイルズ、スコットランドとは区別して使われている…合わせて数百万にもなる、そして英国の政治と社会の最も重要な新事実と見なされる、一大階級となることであった。実際、彼らは評論家たちが信じたがるようには決して同質ではなかったが、そして彼らの影響力はしばしばほかの人たちによって誤解されてきたのだが、彼らは自分たち自身をそのようなものと見なしたのである。
注(1)G.ワトソン(G. Watson)「イギリスのイデオロギー(The English Ideology)」(London: Allen Lane, 1973), p.30。
ウィリアムズの形成期を取り巻いた環境は政治的、宗教的、社会的および経済的領域における緊張であった。当然のこと、それらの緊張は同時代人たちが比較しようのないものと信じた、一つの状況を生み出すべく融合した。ウィリアムズが生まれた頃は、彼の収入の重要部分であった地代は、なお国の利益と見なされ得たが、国家は既に工業化の衝撃によって動揺していた。この動揺は、フランス革命、アメリカ革命、そしてメソディストの革命が混ざり合った残存物によって思想的な形を与えられていた。イギリス人の生活はなおも、かろうじて隠されていた無政府状態によって特徴づけられていたが、それは大きな土地と立派な邸宅という秩序だった前工業社会の反対面であった。パンを求める暴徒と、公開の処刑と、低開発国に特有の貧困が、コリント式の柱頭と、日陰をつくるオークの木と、洗練された社会に伴った。依然としてこれがジョージ・ウィリアムズの子供のときの環境であった。
完璧に貴族的な内閣が、続く30年間の議会政治を限定し、その後50年間影響を与えた「改革条例(Reform Act)」つくったのは、ジョージ・ウィリアムズが12才の時であった。その同じ政府と直後の後継者たちが、政府が時のニーズに一層適応すべきであるのならば、極めて重大な法律をつくったのは、彼がティーンエージャーの時であった。その法律の多くの部分は有効で、かつ血が通ったものだった。少なくともそれは必要なものだった。それは、政治には新参の中産階級によってよりは、むしろその地位と財産と共に政治をも相続した貴族たちによって開拓されたものであった。そしてそれは個人の自由を取り消し難く侵害した。ウィリアムズが青年であったとき、ロバート・ピール卿(Sir Robert Peel)が率いる新政府は、旧体制(アンシャン・レジーム)の政党でさえが、ほかの誰よりも堅固に、そして多分一層効果的にこれを受け入れていたということを証明した。そこにはまた、古い政治秩序の底にある無政府状態が変えられつつあったこと、そして明確に表現できるものとされつつあったことを、最も強力に示す標しがあった。無政府状態は飼いならされ、しつけられ、うまくまとめられつつあった。世論は古い政治階級の見解よりもっと多くのことを反映すべきものとなった。
これが、ジョージ・ウィリアムズと幾人かの友人たち、彼ら全員が管理者に昇進する第1段階にある青年たちであったが、1844年6月6日、ロンドンYMCAとなったところのものを組織した。ウィリアムズは地代に依存する者であることをやめていた。その地代に代わる工業生活の直接の経験は決して持たなかったが、仲買人、配給人の商業的な世界に参加していた。その世界は工業社会なしには存在しえなかった。彼は、ロンドン、都会として今や独自のものとなった国の最大の都市で、その世界に入った。そこでは既により多くの人々が、その郊外ではなくて、都心部で生活していた。YMCAはその世界への応答であった。少なくともイングランドでは、YMCAはその世界にいる方が常により快適であった。しかしまたYMCAはその世界の増大しつつある痛苦の所産でもあった。
61才の人物が、すべての本質的な要素において、彼が21才にそうであったところのものであることが真実であるとすれば、YMCAが1840年代初頭の所産であったことは幸運である。様々な意見が人を興奮させ、かつ移り変わっていく時に、固く基礎を据えられて、YMCAは、責任のある、安定した、しかし建設的な緊張や時宜にかなった改革を許容するに足る堅苦しさと曖昧さを伴って、ヴィクトリア朝国家と同様堅実に成長するように見えた。ヴィクトリア期の社会は偉大な人間、偉大な活動舞台、偉大な感動への余地を与えた。その全時代がそのような機会に対してグラッドストーン的な調子を帯びていた。YMCAの忠実な会員に関しては、ジョージ・ウィリアムズをそのような時代に適した人物と見なすことは、成功したセールスマンにとって必要な想像力だけを必要とした。
ほとんどの政治家たちとは違って、彼はその真価が知られる前に死んだ。その時代のある者たちにとっては、そしてその後に続く我々全員にとっては、YMCAをつくった彼の青年時代の緊張をはるかに越えて、緊張が高まりつつあるように思われるであろう。ウィリアムズはこのことを、全く見ていなかったとは言わないまでも、明確には認識していなかったと思われる。彼は長生きした。彼の私生活は大体において平穏だった。彼のビジネス・ライフは大英帝国同様に広大であった。そして彼のキリスト者青年たちは地球を取り囲んだ。それこそが人がつくった緊張を確実に和らげ、彼の晩年を標しづけたところの周年記念祭を正当化した事実であった。
これらのキリスト者青年たちが地球を取り囲んでいるからこそ、ジョージ・ウィリアムズは記念するに値するのである。真実彼の時代に属する一人の人が、その時代を超えることとなった。
これを裏書きする、彼の時代についての1つの特別の局面と、彼の人生についての4つの局面を取り上げてみよう。
特に注意をひく彼の時代の局面とは、その可動性(モビリティー)である。G.M.ヤングが別の文脈で述べたように、生活が馬のペースで動き、支配階級がなお馬に乗る階級であったときに、ウィリアムズは生まれた(2)。商業国イングランドが鉄道熱によって完全に掌握されたとき、YMCAが創立され、ウィリアムズは彼の人生の最初の盛りに達していた。馬は鉄の馬に道をゆずりつつあった。ウィリアムズが死んだとき、彼のような人たちの邸宅は既に自動車の車庫が付設されて建てられていたし、飛行機は夢物語ではなくなっていた。帆船は海の訓練生のトレーニングのためのものとなっていた。世界は今や数ヶ月離れたところでなく、数週間離れたところであり、また舵の数を増やすという希望は果てしなく生まれてきたが、レジャーは客船の1等サロンで完成の域に達した。この可動性、この休みのなさの蓄積は、ウィリアムズの事業と、彼の(YMCA)運動の発展にとって基本的な筋道であった。
注(2)G.M.ヤング(G.M. Young)「キャサリン・スタンレイとジョン・ラッセル(Katharine Stanley and John Russell)」、W.D.ハンドコック(W. D. Handcock)(編)「ヴィクトリア期のエッセイ集(Victorian Essays)」(オックスフォード、オックスフォード大学出版、1962年)、p.172。
ジョージ・ウィリアムズは旅行の負担と機会とに左右される新興階級に属していた。彼の家族のようなものたちにとっては、国を出ることは生活の現実であった。それは、島国的な英国人の視野を、合衆国の開拓地まで拡大した安全弁であった。成功した者たちにとっては、さらに休暇が生活の現実となった。それは別種の安全弁を供して、彼らの視野をアルプスあるいはハイカラなヨーロッパの温泉場まで拡大した。1906年までにウィリアムズ一家の人的つながりの網はオーストラリア人、カナダ人、アメリカ人、ならびにフランス人と旅行業の開拓者、トマス・クックの家族を包含していた。
ウィリアムズの事業も同様に旅行と可動性に依存していた。婦人服業界は原料をアメリカとインドとエジプトに依存し、フランスにファッションを、植民地住民には顧客となることを求めた。世界で一流の商業国の、帝国の圏域は、こっけいなパラドックスを生み出した。それがYMCAの正真正銘のインターナショナリズムと、その形成期にイギリス人によって演じられた役割との両方を説明してくれる。イギリス人以外のキリスト者はそれほどうまく(世界中に)ばらまかれてはいなかった。
まさにここでこそキリスト教的な次元が介入し、ある特定のキリスト者英国人の生活における4つの局面が注意をひくこととなる。単に興味深いだけでなく、大切なことは、ジョージ・ウィリアムズが呉服商となった農民の子であり、またYMCAが創立されたときに彼は自由教会人であったが、YMCAが根を張り、強固になったときには、国教会人になったということである。
ジョージ・ウィリアムズは、20才のときまでにはロンドンとビジネスに向かって邁進していた、農民の子であったので、彼のことを独力でやり遂げた人であると思い描き、ぼろ服(rags)から豊かさへの発展を想像して見たくなろうというものだ。その字面の意味から言えば、彼の富は婦人服業(the rag trade)に依存していたが、彼は農民の子であって、農場の使用人ではなかった。農民は、特にフランスの戦争の影響で、地方の中産階級の主力を形作った。ジョージの父親はその教区における3番目に大きな小作人であった。ジョージの兄弟のうち4人は、農民になった。そして彼らが結婚したのは農場を経営する家族とであったが、そのヴィッカリー家とテイズウェイル家とは、同じような身分で、庭園と温室のための場所をもち、暮らしぶりで同じようなゆとりの部分をもった、堅実な人々であった。このことは強調する必要がある。ウィリアムズ家は、イングランドの政治的な家族の一つ…セナボンの伯爵、ハーバート家…の身分を確立した小作人であり、彼らは自分たちの地位において、さまざまな利益、前工業国の伝統的な利益である土地から生ずる利益を自分のものとした。イングランドは世界の先進的な工業国であったが、大抵の英国人は国の祖先とほとんど変わるところがなかったし、ほとんどのイギリスの町はなお田園地帯の人口稠密な場所と変わらなかったということを思い起こすのも、見通しを得る助けとなろう。これに次の事実が付け加えられなくてはならない。すなわち農場経営は他のどんなビジネスとも同じにやっかいなことが多く、農民の末息子は、金物商や食料雑貨商の他の年下の息子たちと同様に、自分たち自身の道を切り開かなくてはならなかったのである。しかし他の堅実な小売商人となった息子たちと同様、末息子たちも経済的な支援がないままで、そうはしなかったのである。ジョージ・ウィリアムズは農場を経営する親戚の男たちとのつながりを楽しんだ。それには遠く離れてしまって、成功した、金持ちのおじさんという単なる感傷以上のものがあった。
もし彼が適切な経済的支援を受けていなかったのであれば、呉服商への年季奉公に出ることもこともなかったであろうし、織物販売業でその後成功することもなかったであろう。なかんずく織物販売業は時勢に依存していた。それよりも競争的な職業はほとんどなかったし、またそれよりも前途有望な職業は一つもなかった。それに従事する者には即座にきちんとした身なりを授けた。その職業は、多くの者に自分の店をもつという望みを与えた。少数の者には相当の財産を与え、ある者たちには小売業から卸売業への道を提供した。店番を商人に、そしてほとんど紳士に変えることができた。人々は衣服を必要としていた。新しい都市社会にいる人たちは流行の衣服を必要としていた。だから、呉服商は、その動きについて絶えず俊敏で、柔軟で、敏感であることを要した。彼らはまた社会がどこにあるかについて正確な知識をもちことを必要とした。ビジネスマンとして成功するには、彼らは過激であることを要した。呉服商として成功するには、彼らは保守的でなければならなかった。呉服商は板ガラスとガス灯を試みたし、百貨店を開拓した。呉服商の若い衆は言葉が明瞭で、十分に教育されていなければならなかった。しかし何事も社会的に適正で(au fait)なければなければならなかったし、進歩は永続的でなければならなかった。とはいうものの決してその時代の限界を超えてはならなかった。呉服商の世界は広く、かつ魅惑的であった。堅実な人物にとって、その堅実さに見合うだけ安全な世界であった。その職業はジョージ・ウィリアムズに妻と妻の家族とを与え、広い範囲の知人を与え、農場を経営するウィリアムズ家に加えて、第2の人脈を与えた。
彼はキリスト者の呉服商であった。彼の時代は注意深くかつ熱心なセクト的キリスト教の時代であったので、彼が組合派(コングリゲーショナリスト)として始めたことは重要であった。彼は1837年、冬のある日曜日の晩に活気のある宗教へと回心した。そして1838年2月4日、ブリッジウォーターのシオン組合教会に転会した。2つのありふれた事実であるが、彼はそこに当然のことながら永遠の意味を見出していたのである。非国教徒の世界は彼にもっと広い範囲の知人と、新たな経験の広がりとを与えた。そしてほとんど20年間というもの、それは彼の行動力に燃料を補給したのである。
非国教徒の世界は他とは別の世界であった。外部の人間にとっては、それは狭量で、劣っており、余り魅力的ではなかった。しかし献身した非国教徒にとっては、その機会は無限にあり、その多様性にも限りがなかった。型にはまった基準によれば知的とは言えない男たちと女たちに対して、しかし決してそうとは言えないのだが、その世界は独自の雰囲気と文学と知的訓練とを与えた。それは霊的なものの範囲を越えた枠組みを与えた。来るべき世界についての非国教徒の確信とこの世界についての彼の呉服商らしい評価とは、彼の人生を築くための稀な基盤を彼に与えた。ウィリアムズはこの世界の一翼を担う構成員であった。単に通り過がりの味方ではなかった。コミュニティーがその成員のすべての者に与える、あのコミュニティーの感覚に全面的に共鳴した。
彼のロンドン時代の初めには、彼は、あの侮り難いクリスチャン・フェローシップである、キングズ・ウェイ・ハウス組合教会の一員であった。400人ばかりの店員、未亡人、家事手伝いの女性たち、専門職業人や商業の君主たち、学生、小売商人は、単なる説教鑑賞者以上の者たちであった。ヴィクトリア期の説教者中の偉大な人格者の一人、トマス・ビニー(Thomas Binney)によって元気づけられて、彼らは団結して事にあたり、ロンドンの、教会に属さない大勢の人たちの間に、相当効果的で創造性のある侵出を促進した。ウェイ・ハウスの交わりはウィリアムズに、単に教会の役員であったシティーの人たちへの近づきを与えただけではなく、教会のミッションであった市中のスラム居住者たちへの近づきをも与えたのであった。彼はシティーの人たちやスラムの居住者たちといずれにしても出会ったことであろう。しかしウェイ・ハウスは彼に、商業的なこと、あるいは単に詮索好きであることを越えて、彼らを見るようにさせた。そして彼らにどう処したら良いか彼に訓練を授けた。ウェイ・ハウスはまたかつては活力に溢れていたが、今は忘れられた社会的分配者たち、すなわち非国教徒の牧師たちを、彼に紹介したのであった。組合派の、ジョン・リーフチャイルド(John Leifchild)、ジェイムズ・シャーマン(James Sherman)およびトマス・ビニー、バプテスト派のバプティスト・ノール(Baptist Noel)とジェイムズ・スミス(James Smith)、長老派のジョン・カミング(John Cumming)とジェイムズ・ハミルトン(James Hamilton)は、いずれも人格者であると同時に、有名人でもあった。彼らは自分たちの一風変わっていて、共通点の見出せない会衆をまとめ上げ、その実行組織を元気づけた。彼らは外の世界に対して自分たちを代表した。彼らはある特別の意味で自分たちの代表であった。彼らはすべて、牧師も会員も同じように、独力でやり遂げた人たちであった。
どんな種類の教会であろうと人をそこに縛りつける圧力というものがあるということは、これまであまり問題にされずにきた。しかしたとえそうであっても、キリスト者の交わりに入るという行為は、他の誰も代わってやることのできない意識的な決断であるという事実は残る。その人の人生で多分それは最初の重大な決断であったろうし、決断こそが彼をつくったのである。決断は、神の恵みによってのみなされたのである。すべての非国教徒は神の前で、従ってお互いに対して、個々人ではあったが、福音的非国教徒にとっては純粋な個人主義のようなものは存在しなかった。
決断は行動に導く。織物販売業は活動的な職業であったし、ウェイ・ハウスは活動的な教会であった。そのミッションへの確信は、ロンドンのスラムを越えて、カリブ海へ、南太平洋へ、インド、アフリカ、中国へ、そしてまたシベリアへと広がった。かくて冒険的福音的な次元が、移民の成功の見込み、休暇の誘い、そのヴィジョンが店頭には縛られていない青年たちをせきたてるビジネスの招きに、付け加えられた。帝国主義は、中流下層階級の間にこれらのものが生まれた結果、自然に到来したし、組合派、バプテスト、ウェイスレアン・メソディストに特有のものであったが、偉大な伝道諸団体も同じく自然にこれ(帝国主義)をキリスト教帝国主義へと変質させた。
これが、YMCAをその初期の段階で育てた、若きジョージ・ウィリアムズの世界である。この世界は与えるべき更なる贈り物をもった。エキュメニカルな時代となる前には、独力でやり遂げ、同時に神がつくり上げたところの非国教徒が、英国教会の強みを評価することは、その逆の場合よりも多分容易であった。英国YMCAの真正の超教派主義は、その初期の時代の非国教徒の問題提起に多くを負っているが、その後のアングリカン(英国教会)の注入がなければ、それは生き残らなかったであろう。
ジョージ・ウィリアムズは、次第に卸しの部門に力を入れるようになった、小売りの呉服商であった。彼は、その全盛期にはアングリカンとなった、組合派であった。神学的な調整という点では変わったことはほとんどなかった。実際に彼は、そのどちらの教会の世論形成者たちともちがって、神学的には余り変わらなかった。転会のタイミングとその理由とは、それらが単にソーシャルであるというのでなければ、不明のままである。非国教派のウェイ・ハウスはシティーの中にあり、彼が最後に転会したアングリカンのポートマン・チャペルはウェイスト・エンドであった。その教会の現職牧師の誰一人としてスタイルと人柄においてトマス・ビニーに迫るほどの者はいなかったが、その会衆(信徒)はより世俗的な類いの流儀と声望を、他に決して引けを取らない福音的真理に結びつけていた。その中に、当時の、他に替えがたい偉大なる人物たちの一人、シャフツベリー卿が含まれていた。どんなボランタリーな運動もヴィクトリア時代の英国では思慮深い保護がなければ繁栄することはできなかったであろう。熱意と人事とにおいて非国教徒の貢献がどんなものであったとしても、英国教会のみがその保護を提供し、必要な社会的、政治的、知的な信頼性を支持することができた。ナショナルな運動は、国教会(ナショナルな教会)がなければ、意味をなさなかった。
後に続く世代はこのような説明は不愉快であると思うかもしれないが、それは不面目なことではないし、キリスト者の織物業者たちの使命は、彼らが大きく変化させようと切望した生活の現実を無視することではなかった。
アングリカンの卸売商に変わったこの組合派の小売商の、彼が奮い立たせた運動への貢献について、いくつかの結論を引き出すことがまだ残されている。そしてまた、歴史家はこの人物への先入観について明確な認識に達すべきであるので、20世紀後半のキリスト者たちにとっての彼の現実適合性に関する注釈を加えることもなされなくてはならない。
もしジョージ・ウィリアムズが1844年6月の青年たちの集会でグループの原動力とならなかったとしたら、誰かほかの人が、たとえ同じ年ではないとしても、その同じ10年のうちに、同様のことをしていたであろうということは、ほとんど疑う余地がない。ロンドンYMCAは英国においてさえ実際のところその種のものの最初ではなかった。ロンドンYMCAが海外の相互間系にある運動を成功のうちに引き起こし、受け入れたのは、全く単純に機が熟していたということを示唆する。ロンドンの青年たちが彼らの組織をつくったとき、彼らはその国際的、あるいは社会的な発展を予想し得なかったが、もし都会の青年たちが必要とするところではどこであろうとそれは発展すべきものであったとしたら、1840年代という環境においては、そのすばらしい思いつきは福音的プロテスタントのものである必要があったであろうし、その扇動者はブリテン人、しかもおそらくはイングランド人である必要があったであろうということは、明らかである。まさにこの点においてこそ、ジョージ・ウィリアムズの社会的背景、商業上の立場、そして宗教的発展が第一に重要なこととなる。たとえウィリアムズが彼の堅実な個人的性格のすべてを持ち合わせていたとしても、それでもなお、彼がウェイックスフォード(アイルランド南東、レインスターにある州)から出てきたカトリックの靴屋であったとしたら、あるいはまたコーンウォール(イングランド南東、大西洋に突き出た半島にある州、ケルト人の土地)の聖書的キリスト教(Bible-Christian)の靴屋であったとしても、我々は今日彼のことを記念してはいないであろう。
ということは、彼は彼の運動の将来に測りがたい重要性をもつ3つの特性を与えたことを意味する。第一は彼の個人的な性格に福音的な宗教が与えた結果のうちにある。教会史はパラドックスに満ちている。プロテスタント福音主義のようにもとから抑圧的な形の信仰をもつ大変多くの男性と女性を解放し活動的にする効果もその一つである。このパラドックスは、我々のうちのその伝統に忠実に留まっている者たちを慰めるにちがいない。ジョージ・ウィリアムズは、たとえば、彼の親しい同労者エドワード・ヴァレンタインとはちがって、鋭敏でかつ楽天的な、積極的な人物であった。彼のこの世的な成功は、進んで受け入れられた、永続的な義務の感覚を強めた。それは彼の信仰が彼に教えたものであった。事細かな議論によって洗練されていない福音主義、それはその職業に就く人たちの仕事に伴う危険であったが、それがウィリアムズの、そして彼の運動の原動力であった。彼らの手中では、その福音主義は精神の弛緩と言ってよいほどの空理空論的なものを退けることとなった。そしてそれは、頭脳的で、内的に男性的なものを犠牲にして、活動的で、(外的に)男性的なものを称賛した。しかしこれは多分持たざるを得ない偏向であった。ヴィクトリア時代の福音主義は、周知の通り、活力に満ちたリーダーシップに欠けていた。そしてYMCAはジョージ・ウィリアムズがそのギャップを埋めるようなタイプの人ではなかったことを感謝すべきである。
第二に、ウィリアムズ…と彼の運動…は、彼の同労者たちのキリスト者としての誠実さ(the Christian integrity)を尊重した。そうしてのみその事業は教派的な、あるいは党派的な路線を越える。このような尊重は稀である。そしてそれは精神的に怠惰であることからいつもたやすく区別できるわけではない。疑いもなくこれに関わる何かが、ウィリアムズは明らかに考えたり、読書したりする人間ではなかったという事実のうちに存する。しかし、すべての呉服商と同様に、彼は人と場所柄との鑑定家でなければならなかったし、すべての呉服商に関して言われることであるが、彼の判断は、それが少しも押し付けがましくないときに、最も効果的なのであった。というのは顧客は正しいと思われなくてはならないからである。ウィリアムズは彼の運動に参加する人たちとその境遇とを知っていたし、運動はそれに応じることによって、しかし押し付けがましくないことによって利益を得てきたのである。
第三に、多分最も重要なこととして、運動の国際的な次元についての彼の次第に増大する評価がある。英国人は島国の民族であるが、島国的(狭量)ではない。たとえそうであったとしても、彼らが、インターナショナルであるとは、ヨーロッパ的であることのみならず、大西洋横断的であること、また言うまでもなくアジア的、アフリカ的であることを意味するのだということを受け入れるのは、困難である。ウィリアムズの伝道的、商業的関心は、彼の移民への理解と同様、非常に貴重であった。英国の主要なキリスト教運動の中で、真にインターナショナルであるという点で、YMCAは、独自とは言えないにしても、稀である。YMCAがこのことの持つ含みをすべて把握してきたかどうか、私は確信をもてない。
ところでキリスト教後の時代(a post-Christian age)に対しての彼の現実適合性はどうであろうか。ジョージ・ウィリアムズを彼の時代の人として描き、彼の時代が彼を生み出したことを感謝して、それ以上は言わないでおきたいという誘惑に駆られる。しかしそのような評価は非歴史的であるばかりか、無駄なことである。同様にエキュメニカル・ムーブメントへのYMCAの貢献という観点から彼を解釈し、彼を開拓的なエキュメニストと見なしたくなる。しかしこれも誤解を招くであろう。というのも、エキュメニカルな指導者を標しづける政治的な識見と知的な厳密さという資質を、彼は持ちあわせてはいなかったからである。エキュメニストは普通の人たちではない。しかしジョージ・ウィリアムズには普通であるという性質がある。このことは20世紀のキリスト者にとって特別の魅力をもつ。なぜなら普通であることは、リーダーシップについてキリスト者がその言葉を理解する通りのことを語るからである。
リーダーとは、何か与えるものをもつ人のことである。この意味ですべての献身的なキリスト者はリーダーである。スタイルや環境とは関係がない。ジョージ・ウィリアムズの経歴から彼の時代の感触が取り去られても、彼が全く普通の青年たちの小さなグループの一員であったという事実、国際的な反響をもった一つの団体をつくったが、我々が息子や義理の息子にしたいと思うようなタイプの人であったという事実は残る。その運動を思いついたということは彼らのものであるが、そこから現われ出たものは彼らを遠く追い越してしまった。YMCAとは、要するに、キリスト教信仰の変革する力の証しである。その創始者たちも変革を遂行したキリスト者たちであったし、ジョージ・ウィリアムズはその中の一人であった。変革されたキリスト者は普通の人であることをやめはしない。もしそのことをもって始めたのだとしたら。しかし彼はリーダーとなる。我々すべてが今やリーダーなのであるということを思い出させる限り、ジョージ・ウィリアムズは、ロンドン・セントラル(YMCA)にあるジョン・コゥリアによるその肖像画にふさわしい。
展望と危機、YMCAとその環境
4つの質問をもって始めよう。どんな心の状態がYMCAをつくり出したのか。どんな身体の状態がYMCAをつくり出したのか。魂のどんなぬくもりがYMCAをつくり出したのか。誰の才能がそれを最もよく映し出すのか。
それらの質問は互いに結び付く。だから答えも同じである。それらは全く気楽な質問というわけではない。それはもちろんさらに3つの質問を後に残す。この問いは今日我々をどこに着陸させるのか。それでそれがどうしたというのか。そしてここから我々はどこへ行くのか。
YMCAは青年たちによって生み出された。彼らの心の状態は、お前は費やされたすべてのペニー、また同様に費やされたすべての瞬間に対して申し開きをするため呼び出されるであろうということを知って生まれついたという、その責任感によってやわらげられた自助のそれ(心の状態)として、最もよく記述される。スチュワードシップを形づくる、従って自己本位から守られた、自助の精神が彼らの心の状態であった。彼らの身体の状態は不安定の一歩寸前であった。彼らは政治的国家の前途有望な縁(ふち)の上に立っていた。その縁に(鳥が止まるように)止まっているというよりは、バランスをとって(かろうじて)立っているという具合だった。彼らは英国社会の刃先(へり)にいた。魂のぬくもりに関しては、それは福音的であった。彼らは、魂が冷えている青年たちに福音を差し出すべく召されていた。彼らは従ってこの世界と次の世界とのへりにいた。彼らにとっては、(両世界の)どの接触点も精神的危機でありえた。しかしそこでは危機は「破局」というよりも、「決断のとき」であった。そして彼らは危機の時には若かった。20代であったし、全盛期に近づこうとしている男たちであった。商売に携わって数年が経過していたが、今や独力でやっていけるという見込みがあった。もし彼らの精神的生活が、自由に提供されている天国もしくは地獄を選択することに伴う、危機によって特色づけられるとしたら、彼らの物質的生活は強制的に選択を迫るものであった。その選択は破局と破局との間にあるように思われたのだが…。
増大する支出と低下する歳入、大衆の間のパンを求める飢え、暴動の瀬戸際にあるアイルランドと錯乱した外政、蔓延する不満、商業的な財政困難、内政的な政党間の不一致、履行されることが決して本気では考えられなかった反貧困法の約束、服従へとなだめられない荒れ狂うプロテスタンティズム、威圧的な法廷、不満をもつ民衆…問題はもはや政党のそれではなかった。我々の半数以上の住民に関して、それは死活の問題であった。(1)
注(1)A.ミアル(A.Miall)、「エドワード・ミアルの生涯」(ロンドン:マクミラン、1884)、pp.52-53の中のエドワード・ミアルの言葉。
この言葉はほとんどそのまま1990年代にも書かれえたであろう。実際はそれは1840年代に書かれたが、好戦的なジャーナリズムと福音の強調点の変化のゆえに英国の非国教派の牧師をやめたばかりの、やや若い人物の見解である。2〜3年後には10年毎の国勢調査が、イングランドはついに都市国家となったこと、ブリテンはこれまで以上に分割された王国となったことを証明するであろう。そして我々はここに我々の国民生活の本来備わった両義性…イングランドとブリテンとの区別に達する。それはもはや単に4つの異なる国民文化、イングランドの、アイルランドの、スコットランドの、そしてウェイルズの国民文化の問題ではない。それはまたそれぞれの教会への反対派(非国教徒)に取り囲まれた4つの国教会の問題でもある。それは、4つの異なった国々における単に町対田舎の問題ではなく、資本主義が社会構造の主因となり、人間の非人間性を人間に対して刻印する不平等の調節器として階級が占拠したように、田舎にしみ出てくる町の問題であった。1840年代には英雄的な規模の鋳型(範型)が破壊されてしまったのも不思議ではない。政治の鋳型も破壊された。ロバート・ピール卿が、その下でトーリー党はコンサーバティブに転じ、英国の全国的な党として花開いたのだが、1840年代中頃まで明らかに世紀の最も力強い、成功した首相であった。1840年代後半までには、彼は、ステーツマンとしては尊敬されが、ポリティシャンとしては信用を落として、野に下っていた(すべての政治的経歴というものは、ばたんと閉じるか、すすり泣きの中での終わりを宿命づけられているが、決して歓呼のうちには終わらないという事実に、我々は今なお甘んじなくてはならない)。そして彼の党は分裂し、彼の未来への影響力は、ウェイストミンスターに一貫して反対するという、その政治的リベラリズムを通して拡散した。
教会政治の鋳型もまた壊れつつあった。スコットランドでは、the Kirk(スコットランドの国教会で、スコットランドにおけるthe Church of Englandあるいはthe Episcopal Churchから区別される)は分裂していた。イングランドでは、(国)教会はみずから、不信仰者や、ローマカトリックへの改宗者や、非国教徒に包囲されていると信じていた。ローマカトリックへの改宗者は、酔っ払いのうろつき者アイルランド人で、霊的には素晴らしい回心者たちであった。非国教徒は攻撃的で、事実攻勢に出ていた。不信仰者は、合理主義者および社会主義者として何となく退けられた。なおその上、「不可知論的(アグノスティック)」という言葉が作り出されなくてはならなかった。次の10年間(1850年代)の曲がり角で、この信仰の力は悪名高い宗教的国勢調査によって証明された…それは公式の国勢調査に添付される、単なる教会出席についての調査であった。そしてロンドンはクロスビー・ホールで、当時はビショップスゲート・ストリートにあったのだが、1848年5月9日、火曜日の朝、イングランド・ウェイルズ組合教会同盟議長にして、今やロンドン・キングズ・ウェイ・ハウス・チャペルの牧師として最盛期にあったトマス・ビニーは、同盟の春季総会で彼の開会演説を読み上げた。彼の言葉はその時と場にぴったり適うものであった。
革命が世界を震撼させている。そして人々は我々によって奉献され(清められ)た思想という手段を通して大変部分的にそれを行っている。キリスト者およびキリスト教の牧師として…我々の目的は、同じ名前をもち、同じ任務をもつ他のすべての者たちと我々に共通の、ある一つのものである。すなわち、「生命の言葉を述べ伝え」、人々の魂を救うことである。しかし、非国教徒として、我々は特別の召命と特別の仕事とをもっている。すなわち、ある種の誤りとしきたりに逆らって真実を語ることである。そして告白されなくてはならないが、もし我々の思想が正しいのであれば、あるいはたとえ正しかろうと間違っていようと、もしその思想が支配力をもつべきであるならば、我々の使命は革命的である。あるいは革命的であるように思われる。すなわち、我々が反対している事物が教会と世界とを余りにも支配し過ぎてきた…それらが人々の意見と関心という織物全体に大変強力に織り合わされてしまった…だから、もしそれらが取り除かれるなら、その結果は社会の改造に等しいであろう。それでは、いかにして、このことが最も適切に引き起こされるであろうか。地震としてではなく、一つの誕生として、単に約束の履行としてではなく、一つの到来として…引き起こされるであろうか…。
…我々の特別の使命は、大変富んでいる者たちに対してでも、大変貧しい者たちに対してでもない。我々には、物を考え、活動的で、影響力のある諸階級に働きかけるという仕事がある。宮廷にいる諸階級でもなければ、いなか家にいる諸階級でもない。都会に集まっていて、そこでいくつかの階層をなしている、世界の現代的な移住者であり、離散者であるところの諸階級である…。もし我々が我々の側で心(mind)をもたなければ、もし我々が心を、その明るさ、活発さ、知識、力を備えたものとして守らなければ、我々は何者でもない。(2)
注(2)「組合教会年報」Congregational Year Book, 1848-49, pp.8-9.
さてこのすべては、それは感動させ、扇動的なものであるが、12人かそこらの青年たちの関心からは隔たっているように見えるかも知れない。その青年たちのほとんどは店員で、ある者は既に経営陣に移っていたが、ロンドンのセント・ポールズ・チャーチヤードの事務室で、ある6月の晩、そのうちの一人が記録しているように、次のような目的で集うこととなる。「首都における様々な織物販売業者の中に、祈祷会を通してであろうとあるいは彼らが適切と考える他の集会を通してであろうと、キリスト者として彼らのまわりにいる人たちに宗教的知識を広めるときの義務と責任の感覚へと回心した人たちを起こすことを、その目的として持つべき一つの団体をつくり上げる」(3)。しかしそれは、ビニーが彼のクロスビー・ホールの聴衆に語りかけたように、夜の幻のように消えていく、地を揺り動かす出来事、玉座、王権を、初期のYMCAに持ち来らせ、彼らの視野を目に入らないほどに拡大したのである。トマス・ビニーの演説は、ロンドンの福音的な季節における教派的な焦点となり、1週間以上にわたる神にささげられた5月の諸集会の、組合派(会衆主義者)にとっての頂点をなすものであった。翌年、福音派はその前年の努力に近づくべく、彼らの参集を期待して、ストランド(通り)のエグゼター・ホールに向って前進した。5月9日のビニーのクロスビー・ホール開会演説に備えて、積極的な組合派であれば、5月1日、キリスト教教育教会(the Christian Instruction Society)の年次集会のため、フィンズベリー・チャペルに行くこともできたであろうし、エグゼター・ホールで、ほとんど毎日次々と行われる以下の団体の年次集会に行くこともできたであろう。5月2日、聖書協会、5月3日、日曜学校同盟とロンドン市伝道会、5月5日、宗教トラクト協会、5月7日、ブリティッシュ・スクールズ(the British Schools)。ロンドン伝道協会だけが、その総会は5月10日だったので取り残されたが、その前日のサーリー・チャペルでの説教はめったにない機会であった。
注(3)E.ヴァレンタインによる記録のコピー、ビンフィールド「ジョージ・ウィリアムズとYMCA」p.120に引用されたもの、YMCA同盟保管の草稿。
ビニーの演説は、比較的選ばれた会衆を前にしての、公式の機会であったが、そのときは名誉を与えられた牧師がその教派を代表して演説するよう選ばれることになっていた。それでもなおそれは日曜日から日曜日へともっと大勢の聴衆に対してなされる彼のメッセージのエッセンスなのであった。というのもビニーのウェイ・ハウスは、あの真面目な「ロンドン人の良い説教ガイド」でたっぷり星じるしがつけられていたからである。この強烈な説教こそがあの福音的な努力という熱狂のバックボーンとなり、エグゼター・ホールでの毎年の(集会)シーズンによってその限界にまで引き伸ばされ、そしてそれが1844年6月初めのロンドンYMCAにまで流れ込む。なぜなら、ロンドン(Y)の創立者たちのなかでも最も名高いジョージ・ウィリアムズは、1842年以来ウェイ・ハウスの会員であったし、彼の友人、役立たずの連中(lame ducks)の中でも最も愛すべき、エドワード・ヴァレンタインは1844年以来そうであった。創立時の12名の一人ではなかったが、急速に長老政治家となり、大変長生きした青年であった(ウィリアムズの甥の義理の父でもあった)マシュー・ヘンリー・ホダーは、1845年に転入し、一方サミュエル・モーリーは再三再四、導き手であり友人であることを証明した(彼は思索するタイプの人間ではなかった)が、1836年に転入していた(4)。
注(4)ビンフィールド、「ジョージ・ウィリアムズとYMCA」pp.23-24
これがロンドンYMCAの直接の状況であった。福音の真理をめぐって定まらない意見が渦を巻き、商業と外交では諸帝国がぶつかり合い、これまでの範型が崩れ、革命が雨あられと降り、事実それは地震としてではなく、誕生として、約束の履行としてではなく、到来としてとらえられた。
この渦巻きと衝突に加えて、文字どおりそうなのだが、もう一つ別の革命がある。鉄道革命である。「もし我々が我々の側で心(mind)をもたなければ…我々は何者でもない」と、トマス・ビニーは彼の父たちや兄弟たちに語ったが、その後でこう付け加えた。
たとえ若い人たちが時折我々をびっくりさせたとしても、いぶかってはならない。彼らに優しく接することを学ぼう。我々は教育において彼らを前にまた上に押しやる…彼らを親切に遇しよう。彼らは遠回りしてやって来るが、ちゃんと正しいところに納まるであろう。そして我々は結局は彼らの文化と彼らの人間関係という利益を持つことになる。(5)
注(5)「組合教会年報」Congregational Year Book, 1848-49, pp.12.
鉄道はこの知的な相互干渉における主たる要因であった。1851年、新しいHMI(女王陛下の視察官、Her Majesty’s Inspector)が、全く初めてというわけではないが、最初のものの一人として、任命された。その名はマシュー・アーノルド(Matthew Arnold)といい、詩人にして、批評家、神学者、そして預言者であった。10年前にはこのようなそもそも所の定まらない地位は到底考えられなかったことであろう。それをなしたのが鉄道であった。アーノルドの伝記作者、パーク・ホーナン(Park Honan)は、これを完全に引用する必要があるほど生き生きと説明している。
旅行は彼にイングランドの地図を研究させた。彼の足で地図にされた国土は、10年間で変わってしまった。全く突然、その巨大な国土は、内陸のハブのように(車輪の「こしき」のように放射線状に)工業地帯の四角形を連結する鉄路の配列によって縫い合わされてしまった…そしてその四角形とハブとは「世界の工場」であった。線路は、プレストン、リバプール、リーヅ、シェフィールドの間を…そしてバーミンガムとウォーバーハンプトンの大きなハブの南方へと、蛇行した。線路はまた、沿岸の諸州と農業の諸州とにアーチを渡し、北と西の産出量の豊かな鉄鉱と炭鉱の地域を渦巻き形に進み、10の方角からロンドンの広大な旋風の中に大忙しで突入した。そのロンドンは、1851年には10の鉄道の終着駅に加えて7つの優雅な旅客駅舎を持つこととなった。
この地図の上に線を引いたリリパット人たち(ガリバー旅行記の小人国人)とは誰であったか。「鉄道王たち」は運行する軌道のネットワークを10年間で4倍にしていた。鉄道会社は…平行する軌道のセットを貪欲に建設した。間もなく英国諸島には476の別個の競合する鉄道会社が存在することになった。移動の速さは1時間に20マイルから、50、60、そして67マイルへと増大した。従って、8月の1週間で9つの脱線があったにもかかわらず、旅行は魔法のように速く、かつほとんど安全であった。ロンドンからバーミントンに行く旅行者は、5.5フィートの厚みを持ち、70フィートの高さの円柱に囲まれた、ユーストン駅の壮麗な、高いドリア式(ギリシャ風)の玄関を入った。凝ったつくりの出札所で切符を買い、飾り立てた、ばかでかい売店で新聞や詩の本…を買った。旅人は、蒸気がシューという音を出し、ベルがガランガランと音を立てる大混乱の中のユーストンで、頭のところにカバーのついた座席に凭れた。ポーターの高い調子の叫び声と、機関士の大声と、金属と金属とがぶつかる音を聞いた。2両か3両の真鍮の骨組の怪物が縦に並び、速まりながら、リズムをもって爆発し、轟音を立て、今や戸外に出て、ゴシック調の信号塔と城のように胸壁をもった機関車庫の近くで汽笛を鳴らし、煤と火の粉で空を満たし、踏切で悪魔のように金切り声を上げ、なだらかな平坦地で激しく動き回り、スピードを増した。渦を巻いた雨が窓に煤を叩き付けたが、続けざまに打つ一定のリズムは続いていた…。3時間と100マイルの旅のあと、旅人は、50年間に4倍の規模になっていた、そして地上で最大の蒸気機関車工場をもっていた都会に降り立った。赤い煉瓦の宮殿(工場のこと)で、メッキされた製品、銃器、鉄製の被覆用材、用具、鋼鉄性の(牧場の)囲いを製造することによって、1日に377トンの石炭を消費するバーミントンは、世界の驚異であった…。
[マシュー・アーノルド]は、彼以前の他の英国の文人たちよりも、もっと迅速に移動していた。鉄道のおかげで、彼は、1週間のうちにイングランドとウェールズの多くの町々を比較することのできた最初の人物の一人となった…。(6)
注(6)P.ホーナン、「マシュー・アーノルドの生涯」、Matthew Arnold: A Life (London: Weidenfeld and Nicolson, 1981), pp.248-49.
もし鉄道が文人気質の視学官たちを想像できない世界へと駆り立てたとすれば、大志を抱く若いビジネスマンや宣教師たちすべてにとっては、なおのことであったし、もっと有益にそうだったのではなかろうか。商用の旅行者の後を、敏速に旅行業者が追ったが(そしてジョージ・ウィリアムズの息子はトマス・クックの孫と結婚したのだが)、その商用旅行者とは、機会のしるしであり新しい社会の接着剤である、鉄道文明の所産であった。少なくとも彼の休みなさは、歩合によって保証された、良い注文に依存していた。ここにYMCAのコンテキストの異なる局面があらわになる。今まで私はYMCAを不安定で、革命的な時代の所産として、また精神と、鉄道、宮殿のような工場、寺院のような終着駅、ラディカリズムで燃え上がった教会、天上へと吸い込まれた魂の、行進の一部として描写してきた。しかしそれは、世紀の預言者たち、マシュー・アーノルドや、ジョン・スチュアート・ミルや、トマス・カーライルのような人たちに見えていたであろうものとは、もし彼らがいやしくもそれ(YMCA)について考えたというのであれば、異なっている。マシュー・アーノルドの眼からは、YMCAは、1867年に「文化と無秩序Culture and anarchy」で自ら表明したことに反して、中産階級の(非知性的非芸術的な)実利主義を正確に表現していたにちがいない。ジョン・スチュアート・ミルの眼からは、YMCAは、1859年に「自由論On Liberty」で自ら表明したことに反して、あの気の抜けた、やつれ顔の、片目をつぶる、臭いものにふたの、凡庸さの一部であったにちがいない。トマス・カーライルの観点からすれば、YMCAはあらゆるものの中でも最もおんぼろの状態にあったにちがいない。彼のSartor Resarutus(「衣装哲学(仕立て直し屋)」)は、そのひどく突拍子もない常識によって、1850年代の青年男女をなおうっとりさせ、解放しつつあったが、ロンドンYMCAの最初期の運動家たちは婦人服業界(the rag trade、rag = ぼろの)にあったからであり、しかしSartor(仕立て屋)の深い喜びは、「外面の全宇宙とそれが衣装だけを(衣装だけであるかのように)持つこと」(7)の暴露だったからである。
注(7)例えば、C.ビンフィールド「ベルモントのポーシャたち:ヴィクトリア期の非国教徒および中産階級の少女教育」、Belmont’s Portias: Victorian Nonconformists and Middle-Class Education for Girls (London: Dr Williams’s Trust, 1981), p.18に引用された、1856年、14才であった、Ella Sophia Bulleyの文。
それなら私は仕立て屋たちと靴直し屋たちの端切れの、ぶざまに繕われた塊なのであろうか。それとも、自動的で、それでも生きている、しっかりと関節でつながれた、均質の小さな「彫像」なのであろうか。…人が最初に偶然の包装を脱ぎ捨て、そして実のところは自分が裸であることを見、そしてスイフトが言ったように、自分が「がにまたの、二股に枝分かれした動物」であり、しかし精神、そしていわくいいがたい神秘の中の神秘(を持ち合わせた動物であること)を見る、その瞬間には何か偉大なものがある。(8)
注(8)T.カーライル、「衣装哲学」、T. Carlyle, Sartor Resarutus (London, 1834, corrected copyright edn, n.d.), pp.33,34.
我々が心に留める必要があるのは、YMCAが、その時代の興奮と便宜主義とを同時に表現するものであるという、この矛盾に関してである。トマス・ビニーはクロスビー・ホールにおける「革命の年」に革命を宣言した。実際彼はそれを自分自身に結び付けた。しかし彼が奉仕した教会は、崇拝者には、「財産家の、そして中産階級の…人生の豊かさの側に立つ偉大な貴族階級の、非国教徒のカテドラル」(9)であるように見えた。YMCAという織物に特に織り合わされることになった、ビニーの教会のあの4人の会員の中でも、精神と鉄道の行進から直接利益を得る人たちがいた。マシュー・ホダー(Matthew Hodder)は出版者および職業的な情報伝達者として、モーリー(Morley)とウィリアムズは、彼らの事業が、彼らの社会事業と共に、鉄道に沿って進展した人たちとして。モーリーは実際、運動の仲間に加わった政治家として、その発言は新聞の注意を引き付けた。彼の生涯は、その後マシュー・ホダーの兄弟、エドウィンによって巧みに描かれた。ちょうどウィリアムズの生涯が後でマシュー・ホダーの孫、アーネストによって巧みに描かれたように。4人のうちの3人は、1990年代の価値で言えば、百万長者として亡くなった。可哀相なヴァレンタインだけがその時代の別の運命に見舞われた。彼の事業は失敗した。
注(9)E・パクストン・フッド、「トマス・ビニー、その精神、生活および思想」E.. Paxton Hood, Thomas Binney: His mind, Life and Opinions (London, 1874), p.306.
ほかの矛盾もある。これらの男たちは、やむにやまれぬ伝道者、その語り口は、その讃美歌のように、永遠によってのみ制限され、その想像力は天によって燃え立たせられ、あるいは地獄によって焼き焦がされる、福音的キリスト者であった。しかし外側の者たちにとっては、これらの燃え立つヴィジョンは、彼らの生活の商業的な雰囲気が知れるシステムのうちに閉じ込められ、口達者に表現されていた。彼らは、その敬虔な専門用語が元帳と複式簿記のそれで、その神学が金銭取引に変わるような、霊的な商人であった。中でも一番ひどいのが織物販売業で、彼らの物質的な成功は、打ち立てられた価値への順応、文字どおりにも、また比喩的にも、社会の織物(組織)への感受性に依存していた。彼らは、彼らの社会の弱みに対して、その実現可能性に対してと同様、敏感でなければならなかった(ファッションが発達するにはそれ以外にどうしたらよいだろうか)。しかし明確に受け入れることのできる社会、その等級によって高まる実現可能性が存在するということを、いつも理解していなければならなかった。資本主義的精神が過激で、ほとんど革命的な、精神であった時代に、すべての商売の中でも、織物販売業は、急進主義と保守主義との最もきびきびした並置を提供した。
ジョージ・ウィリアムズの世代に霊的に対応するトマス・ビニーのような人々の重要性は、従って、簡単には過大評価されない。しかしこの点においてこそ、スコットランドの重要性が考慮されなくてはならない。
1840年代のロンドンの福音派が熱心な説教鑑賞者ではないということは難しかった。時折ジョージ・ウィリアムズは二人の有力なロンドンのスコットランド人のもとに座した。二人とも大使館付チャプレン(embassy chaplains)という形であったが、クラウン・コートのジョン・カミング(Crown Court’s John Cumming)とリージェント・スクエアのジェイムズ・ハミルトン(Regent Square’s James Hamilton)である。ハミルトンはカミングよりも長生きする。ロンドンYMCAの最初のブランチはピカデリー、スワロー・ストリート(Swallow Street, Piccadilly)の3番目の長老教会の教室に作られた。スコットランド人の仕立て屋はビジネス社会の、簡単に移動できる、特色のある階層で、長老主義の前哨基地、鉄道時代によって広がった、商取引のネットワークの外れにあるものであったし、福音的な若い商人たちはこれを頼みとしたのであるから、そのことは少しも不思議ではない。YMCAは、福音的な諸連合の緩やかにつながった連合体として継続的に成功するために、1840年代の特別な力とまじりあった4つの要因に依存していた。第1のものは、既に見たように、思想の渦巻きであった。第2は鉄道時代であった。鉄道は、馬車も運河もなしえなかったことを、したのである。第3はビジネス・ネットワークであった。駅の商店街(Station Parade)に沿った、新しい板ガラスの、ガス灯の、織物販売業の店々。第4はチャペルのネットワークであった。チャペルは、その当時、教区教会(parish church)がなしえなかったことをした。なぜならビニーによって燃え立たされた青年たちは、汽車であちらこちらへ運ばれて、駅の商店街の角々に新しく聳え立ったチャペルでの歓迎を期待できたからである。かくて福音的で、かつ商業的な急迫(的ニーズ)が、コミュニティーの中で、主張をもつ青年たちのための場所と融合した。
このようにしてイングランドとスコットランドとがつながった。しかしこれらの要因は既にスコットランドで適用されており、そこでもまた決定的な要因は教会論的(ecclesiastical)であった。
スコットランド教会(the Church of Scotland)は1840年代まで緊張で爆発しそうであった。長老派は英国国教会派がうらやむであろう徹底さでスコットランド人の生活の威厳のある高みを保った。それでもなおスコットランドは、成長しつつある非国教派、バプテスト派と組合派、困惑して弱いメソディスト派とをもち、また長老主義反体制派間の(適切な集合名詞であると思われるのだが)複雑な罪のなすり合いをもった。1843年、爆発が来た。スコットランド教会はスコットランド自由教会(the Free Church of Scotland)に直面させられた。数え切れない町々で、セントアンドルー(スコットランドの守護聖者)派は自由セントアンドルー派に直面した。その雷鳴は国境の南に轟いた。イングランドにおける多くの長老派の教会は既に反体制的で、残りのほとんどは自由教会に同調して揺れ動いた。ロンドンではカミング博士はクラウン・コートをKirk(スコットランド国教会)側に保った。しかしハミルトン博士はリージェント・スクエアの「Ecclesia Scotica(スコットランド教会)」(10)を残りの教会と共に外へと導き出した。事実、1840年代には、すべてのスコットランドの教会は緊張状態にあった。緊張は合同分離教会(the United Secession Church)を揺り動かした。それは1820年にBurghers(スコットランドにおける、地域の司法権とある種の公的サービスをもつ、一つにまとまった町burghの住民)と、Anti-Burghersと、前世紀の連合した分離派との再統合によって形成されたのだが、間もなく合同長老教会(the United Presbyterian Church)の一部となった。合同分離主義者たちは、一見したほどには風変わりでなかったが、自由な組織と教理的な厳格さとをともかくも結合した。しかし1841年、彼らは、キルマールノック(Kilmarnock、スコットランド南西、Ayshireにある町)の彼らの牧師、ジェームズ・モリソン(James Morison)を、彼は熱烈で、魅力的な人物であったが、非正統的であるとの理由で停職処分にした。2年後モリソンは福音同盟(the Evangelical Union)を創立した。最初これは、教派に関係なく牧師と民衆に開かれた、福音宣教の促進のための団体である筈であった。不可避的に「モリソニアン」たちは教派へと固まった。なおも「栄光ある単純で、魂を救い、こころを聖化する、神の恵みの福音を支持し、教えることにおける相互の励まし、助言、および協力」(11)目指してはいたが。分離して50年経つと、それが1896年にスコットランド組合派と合同する前は、福音同盟は、その規模にはつり合わないほどに、学術研究、絶対禁酒主義、福音主義および宗教的ジャーナリズムの特色のある混合物を発達させ、国境の南にさざ波を立てた。これがケア・ハーディー(Keir Hardie)を養った宗教的混合物であったということだけでも、それはスコットランドの、教会への過剰な執着(ecclesiasticism)という急流における、つかの間の渦巻き以上のものであった。
注(10)リージェント・スクエアは、キングズ・ウエイ・ハウスの建築家、ウィリアム・タイト卿(Sir William Tite)によってブルームズベリーに合うように縮小された、ヨーク・ミンスター(York Minster)寺院の複製であったけれども、その正面を横切って「Ecclesia Scotica」という銘が刻んであった。
注(11)W.B.セルビー「アンドリュー・マーチン・フェアバーンの生涯」W. B. Selbie, The Life of Andrew Martin Fairbairn (London: Hodder and Stoughton, 1914), pp.7-8.
このように、古めかしい論争という薄氷の上をスケートすることは、必要なことであった。なぜならこれらの緊張はスコットランドのキリスト教の生命力を示すからである。福音同盟は青年の教会であった。ほとんどのスコットランドYMCAの、創立者たちの教会籍を調べるならば、大抵は「自由長老派」か「合同長老派」の中に見出されるであろうと思う。そうでないとすれば、福音同盟か、スコットランド・バプテストか、組合派であろう。
1840年代までにスコットランドは既に広範囲の、緩やかに組織された青年運動をもっていたが、それはスコットランド組合派によって油を注がれ、そして現在のスコットランドYMCAに油を注いだ当のものであった。最初、グラスゴーが1824年に創立され、ペイズリー(Paisley)は1832年であった。ここで我々はデリケートな領域に入る。ジョージ・ウィリアムズとロンドン青年会に集中するYMCAの歴史家は、目的、組織、および社会的支持基盤において著しく似ていて、後援と善意の同じ源泉に頼る、多様な青年会が先行して存在したということを無視することはできない。私は、ロンドン青年会が意識的に彼らの事例に学んだという証拠には出くわさなかった。実際、ロンドンの忠実な支持者たちはこのような考えに強く反対した。しかしもしその当時の福音的な世界の相互関係を仮定すれば、確実に他花受精(cross-fertilization、いわば互恵的異国間交流)が存在した筈である。これらの青年会のほとんどはスコットランドに起源をもっている。それらは今まで以上に注目されるに値する。
それらの創設者はデイヴィッド・ネイスミス(David Nasmith)と呼ばれる、しゃくにさわるほどヴィジョンをもったグラスゴー人で、40才のときまでには精力を使い切ってしまった、心の広い、現実離れした人物だった(12)。ネイスミスは生まれつきの創業家(initiator)の部類に属しているが、委員会はいつも彼のような人のための場所を見つけるべきである。しかしできれば役員の立場に置くべきではない。今時の言い方をすれば、彼はその「カリスマ」のゆえに愛されるであろう。そして「物事を可能にする人(enabler)」として広く賞賛されるであろう。彼は品物をあげると約束した。しかしその配達にはうんざりしていた。彼は自分のことを、壮大な筆法で、地形におかまいなくキリスト教的な種をまく、「一般的道徳行為者(a General Moral Agent)」と見なしていた。実際の耕作は、彼の無頓着によってはなはだしく困難にされたのだが、ほかの人たちに任された。ジョージ・ウィリアムズのように、彼は力強い説教者のもとに座した。彼の場合は、グラスゴーのナイル・ストリート組合教会のグリーヴィル・イーウィング(Greville Ewing)であった。ウィリアムズとは違って、彼は組合派のうちに留まった。彼の時代の前途有望な新しい運動、プリマス・ブレズレンに力強く引き付けられたのではあるが。ネイスミスの生涯は、内省的で、しかし休みない、社会事業を夢見るこころをもった、ジョージ・ウィリアムズのそれの、短い、訓練の行き届かないリハーサルであった。彼はロンドンに落ち着く前に、スコットランド、アイルランド、アメリカを放浪した。そしてそのロンドンで1839年に死んだ。その頃、ジョージ・ウィリアムズはまだサマセットで呉服商の年季奉公人であった。
注(12)ネイスミスと彼の(つくった)諸団体については、ビンフィールド、「ジョージ・ウィリアムズとYMCA」参照のこと。Binfield, George Williams and the YMCA, pp. 134-54.
ネイスミスの永く続く、記念すべき業績はロンドン市伝道会(the London City Mission)である。しかし他の都市にいくつもの伝道会を残した。そして、特にスコットランドで、しかしまた実際のところイングランドと北アメリカで、彼は青年たちの諸団体を残した。英国のYMCA指導者たちは、ネイスミスの諸団体とロンドン青年会の起源と目的とは有意的に異なっていると、心の中で確信している。しかし少し離れたところにいる観察者にとっては、それほど自信をもつのは難しい。たとえウィリアムズあるいはネイスミスがいなかったとしても、YMCAのようなものがなお存在したであろうと考えられるが、そのような発展のための準備が整っていたことを指し示す、類似点の方が相違点よりも一層印象的である。
しかしこのことは、少なくとも暗黙裡に、この章の初めで提起された答えられない問題を後に残す。なぜ我々は、(デイヴィッド・ネイスミスではなくて)、ジョージ・ウィリアムズを記憶しているのか。なぜ(1824年ではなくて)、1844年なのか。なぜ(グラスゴーでなくて)、ロンドンなのか。私は信じるのだが、ウィリアムズの方がネイスミスよりも長生きしたから、彼の方が精神的資本と物質的資本とをうまく結合することができたから、彼はあらゆる点でより信用できる人物だったから、我々はジョージ・ウィリアムズを記憶しているのである。あの精神と鉄道の行進のゆえに、我々は1824年よりも1844年を記憶しているのである。ヨーロッパは渦を巻いていた。しかし自信をもった人たちは、英国がそのシステムのうちに既に「改革」を取入れていたこと、そして未来が単に形成途上にあるのではなく、その型は彼らがつくるべきものだということを、考えていたであろう。グラスゴーというよりも、ロンドンに関しては、二重の答えがある。「アングリカニズム(英国国教会)」と「帝国主義」である。
1850年代にジョージ・ウィリアムズは組合派を離れて英国国教徒になっていた。YMCAはその起りからして、自然に非国教徒の方へと引き寄せられてきた。しかし英国国教会の支持がなければ、どんな包括的なボランティア運動も、生き残る希望をもつことはできなかったであろう。それは、ヴィクトリア期の生活の、社会的事実であった。デイヴィッド・ネイスミスのロンドン市伝道会はその創設者にもかかわらず生き残った。なぜならそれは、英国国教会の感情を満足させるように再組織されたからである。YMCAは、全般的に英国国教会的であるが、しかし決して排他的に英国国教的でない雰囲気へと、着実に発展した。これはその信頼性の一部である。それは単に英国においてのことではない。(YMCA)運動の、長老派からバプテストまでの、他のプロテスタントとの継続したつながりは、北アメリカ、オーストラリア、あるいは南アフリカで、常にその信頼性を保証するものであったろう。しかしそれだけが理由のすべてではない。必要なもう一つの領域は、今日あまり好ましくないあの言葉、「帝国主義」によって与えられた。
この言葉で私は、一つの理論とか、一つの雰囲気とか、国際的な圧力という正確に確証できる一方的に優勢な働きかけのことを考えているのではなくて、むしろ海外への、広大な教育的、宗教的、社会的、そして財政的な投資を必ず伴うところの、知的社会に行き渡る視野の拡大のことを思い描いている。その投資は、商人、植民者、宣教師たちを通してなされた。投資はまた軍人と植民地の総督たちを通してもなされた。そして教育者を通してもなされた。どの場合も、投資は機構を、支配体制をもたらした。それぞれの関心は様々で、しばしば相互に排他的であった。総督、植民者、宣教師、軍人、商人、教師は、異なる認識と方法をもち、異なる社会的背景からやってくる。しかしそれらが、総督府、植民地裁判官、植民地主教(国教会監督)の世界へと融合させられるところでは、ロンドンが指揮をした。YMCAはこれらの世界のそれぞれの隙間を埋めた。YMCAは狭く考えられた福音宣教機関として始まった。しかし1840年代に考えられたどんな機関も、狭いままでありがちであったし、織物販売業者によってロンドンに創設されたどんな機関も、国際的でないことなどありえなかった。ロンドンは世界最初の工業国家最大の都市であったし、帝国の首都であった。織物販売業は国際的な商業であった。織物販売業者は植民者や宣教師を生み出した階級から来た。もし織物販売業者が繁盛すれば、彼らは総督を生み出した階級に移行し、下から這い上がった者たちとなり、支配階級にまたがって立った。その織物販売業者たちのように、YMCAはいつも何とか支配階級に属するものとして、あるいはまだそれに属さないものとして、やり遂げてきた。ロンドンは他に抜きん出ていたが、グラスゴーは下にあった。摂理の両義性である。
そこでジョージ・ウィリアムズに戻ることにしよう。彼の家族は完全にこれらの傾向を表現していた。なぜならその家族は、オーストラリアからカナダまでの宣教師、織物販売業者、旅行代理業者、婦人服業、書籍業という一般的に見事なコレクションを包含していたからである。彼の子孫は農民の妻から公爵夫人に及んでいる。それは素晴らしい出来栄えである。1981年3月、私はトロントのエンジニアリングの教授と手紙を交わした。彼の名前はブザコット(Buzacott)で、彼の家系はジョージ・ウィリアムズが婚姻関係を結んだヒッチコック家の、宣教師の一翼を占めている(13)。彼の曾祖父ブザコットはデボンで、その祖母ヒッチコックによって、宗教的な古典を日常の食物として育てられた。たとえばロー(Law)の「霊の招き(Spiritual Call)」、ドッドリッジ(Doddridge)の「向上と進歩(Rise and Progress)」、バニヤン(Bunyan)の「天路歴程(Pilgrim’s Progress)」、バクスター(Baxter)の「聖徒の終わりなき憩い(Saint’s Everlasting Rest)」、そして著名度で見劣りするが、ハーヴィー(Harvey)の「墓中の瞑想(Meditations among Tombs)」などであった。このように準備して、また彼の祖母の聖書によって強められて、その聖書はまだ彼のカナダ人の子孫の手にあるのだが、若きブザコットはロンドンに行き、彼の叔父ヒッチコックによって、セント・ポール・チャチヤードのヒッチコックス商会の仕事につかせられたのであった。それは1853年8月のことであった。その2ヶ月後、従姉妹のヘレン・ヒッチコックがジョージ・ウィリアムズと結婚したのである。1850年代のブザコットの記憶は、10年前にジョージ・ウィリアムズの日夜をあれほどに満たしていた、説教と相互改善のあの同じ繰返しを証明する。しかしブザコットの胸は、彼の未来が既にオーストラリアにいる他のブザコットたちと共にあるのだということを命じた。110年後、そのブザコットの曾孫はロンドンとバーミンガムでエンジニアリングの学生で、キングズウェイ・ハウスの会衆と共に、建物はちがっていたが、礼拝した。彼らの先輩たちは、ジョージ・ウィリアムズやブザコット家のように、トマス・ビニーの膝下に座していたのである。
注(13)この情報について、ジョン・ブザコット教授のご助力に感謝する。
このような家族に関する脱線は、YMCAの起源についての最良の視野を得るために、私が別のところでやったことだが(14)、1844年、ロンドンにいたジョージ・ウィリアムズのような代表的な青年の当座の日記に、なお赴くべき理由を説明するであろう。なぜなら、あたかも推理小説におけるように、出来事の網の目と感情のもつれが、どんな形で危機の瞬間へと発展させられるかがわかるからである。
すべては大変遠く、すべては大変アカデミックである。しかし全くその通りというわけでもない。YMCAは(社会の)鋳型が壊れるときに創立された。その目的は理想を伝達することであった。その働き手は、最も効果的な仕事は相互の信頼と理解に基づく友情によるものであることを知っていた、コアとなる青年たちであった。友人たちのグループによって理想を伝達するということは、必然的に、態度(考え方)についての挑戦であった。そして態度についての挑戦は、どれであってもうまくいくなら、実践的な帰結を伴った。それがどうしたというのか。1840年代のそのメッセージは、1990年代のためのメッセージでもある。もっとも、コアとなる青年たちはコアとなる男性や女性たちに変わったし、青年への奉仕を誓った団体から、YMCAはすべての人への奉仕へと青年をコミットさせることを誓う団体として立ち現われてきた。なぜならそれは神に奉仕することだから。それでどこへ向おうとしているのか。それは、もちろん、あなたが答えるべきものである。
注(14)ビンフィールド、「ジョージ・ウィリアムズとYMCA」の各所、特に83-130ページ参照。
完全な書名目録については、読者はC. Binfield, George williams and the YMCA (London: Heinemann, 1973)の目録の方を参照されたい。以下に引用された、出版された著作は、YMCA創立期の、そしてその創立者の生涯の、直接的なコンテキストを提供する点で、最も有益である。
未公刊の資料
ジョージ・ウィリアムズの個人的な手紙と日記の大部分は彼の死後散逸した。ヒッチコック・ウィリアムズ商会(Hitchcock, Williams & Co)の記録は、1940年に消滅した。切り抜きのスクラップブック、当座の手紙、回想録、個人的な雑物以外に、残っているものは、YMCA同盟(住所: the National Council of YMCAs, 640 Forest Road, Waltham Forest, London E17 3DZ)に保管されている。キングズ・ウェイ・ハウス組合教会の記録は、ゴードン・スクエア(Gordon Square)のドクター・ウィリアムズ・ライブラリー(Dr Williams’s Library)にある。
出版されたもの
Adburgham, A., Shops and Shopping
1800-1914 (London: George Allen and Unwin, 1964).
Begbie, H., The Ordinary Man and
the Extraordinary Thing (London: Hodder and Stoughton, n.d.).
Binfield, C., George Williams and
the YMCA: A Study in Victorian Social Attitudes
(London: Heinemann, 1973).
Dictionary of National Biography
Hitchcock, Williams & Co., A
New View of an Old House (souvenir brochure, n.d., c. 1929).
Hodder, E., The Life of Samuel
Morley (London: Hodder and Stoughton, 1887)
− The Life and Work of the
Seventh Earl of Shaftesbury (London: Cassell, 3
vols. 1886).
Hodder-Williams, J.E., The Life
of George Williams (London: Hodder and Stoughton, 1906)
Kaye, E., The History of the King’s Weigh House Church (London: George Allen and Unwin, 1968).
Paxton Hood, E., Thomas Binney:
His Mind, Life and Opinions (London, 1874).
Shedd, C.P. (ed.), History of the
World’s
Alliance of Young Men’s
Christian Associations (London: SPCK,
1955)
Shipton, W.E., ‘The History of the Young Men’s Christian
Association of London’, in Lectures delivered before the Young Men’s Christian Association 1845-46, T (1864).
Walden, H.A., Operation Textiles:
A City Warehouse in Wartime (n.d., c. 1946).
Whitaker’s Red Book of Commerce or Who’s Who in Britain (1908).
Who Was Who.